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人工肛門の大学生、死を自宅で看取る家族…医師である著者の頭の中に浮かぶ映像とは
人工肛門の大学生、死を自宅で看取る家族…医師である著者の頭の中に浮かぶ映像とは
あさひな・あき/1981年、京都府生まれ。作家、医師。2021年、「塩の道」で第7回林芙美子文学賞を受賞。受賞作も収録した『私の盲端』で作家デビューを果たす(photo 写真部・高橋奈緒)  AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。 『私の盲端』は、朝比奈秋さんの著書。医師でもある著者の2編の小説を収録したデビュー作。「私の盲端」はがんの治療のために人工肛門(こうもん)を造設した大学生の涼子の身体感覚と意識の変化、同じ境遇の男性との穴をめぐる交流を描く。「塩の道」では青森の海辺の村に赴任した医師の不思議な体験が語られる。朝比奈さんに、同書にかける思いを聞いた。 *  *  *  大学の友人やアルバイト先の飲食店には隠しているが、涼子のヘソの横には人工肛門の穴がある。腹に貼り付けたパウチに便がたまるとバリアフリートイレを探す。そこで同じ境遇の男性に出会い、穴をめぐる奇妙な交流が始まる。「私の盲端」は涼子の内臓と気持ちの変化をつぶさに描いた小説だ。 「心臓があるから人はドキドキできて恋愛を体感できるし、副腎がアドレナリンを出すから興奮することができます。人間は感情や欲望を感じたとき、たいていは内臓を介して自己表現しています」  と医師でもある朝比奈秋さん(40)は語る。本書は、普段は意識していない内臓の存在感に圧倒される物語でもある。  もう一編、第7回林芙美子文学賞受賞作の「塩の道」は青森県の海沿いの村に赴任した医師の体験を情趣豊かに描く。朝比奈さんは20代の終わりに西津軽郡の診療所に1カ月勤務したことがある。近くに大きな病院はなく、家族を自宅で看取る家庭が多かった。 「死を病院に外注しないで、自分の人生を自分の中で完結させる凄みを感じました。衰弱して亡くなっていく姿を受け止め、見届ける家族もすごい。どの家にも温かみがありました。廊下の真ん中がすり減っていて、みんなここを踏みしめて生きてきたんだなと」  どちらの小説も医師ならではの視点が光るが、朝比奈さんは小説家志望だったわけではない。頭の中に物語の映像が浮かんでくるようになり、書き始めたという。  思い浮かぶようになったのは5年ほど前のこと。病院に勤務し、人工肛門の手術にも参加していた。 「生きている人間の腹をさいて内臓に触れる。本人ですら触れられない、すごくプライベートなものを他者が触って切り貼りするんです。救命のためですが、必要なことなのに人の何かを侵害しているような気持ちになりました。その衝撃をオペ室で叫べていたら小説を思いつかないで済んだのかもしれません」  医療現場や今までの生活でたまったものを、物語という形で発散させるしかなかったのではないかと自己分析する。頭の中の映像では人の顔もくっきり見える。  次々に浮かんできて医師の仕事にも差し障るようになり、3年前に勤めていた病院を退職。小説に専念するようになった。 「なんでこんなことになったのか、と思いました。物語は自動的に浮かんでくるけど文章化するのは自力です。小説を読んでこなかったので文章化するのに苦労しています」  暗くなってから、10キロほどの散歩をする。 「あまりにも浮かんでくるときは地に足をつけている感覚がなくなってきて、夜も眠れなくなる。歩いてバランスをとっています」  浮かんでくる物語の展開にショックを受け、「私の盲端」の執筆中に腹痛と下痢に見舞われた。並外れた感受性を持つ書き手の誕生だ。(ライター・仲宇佐ゆり) 『私の盲端』 (1760円〈税込み〉/朝日新聞出版) 2編の小説を収録した著者のデビュー作。「私の盲端」はがんの治療のために人工肛門を造設した大学生の涼子の身体感覚と意識の変化、同じ境遇の男性との穴をめぐる交流を描く。「塩の道」では青森の海辺の村に赴任した医師の不思議な体験が語られる(photo 写真部・高橋奈緒) ※AERA 2022年4月11日号
AERA 2022/04/11 17:00
「目の疲れ」で頭痛や肩こり、実はこじらせるとやっかい うつ病症状が出て仕事をやめた患者も
「目の疲れ」で頭痛や肩こり、実はこじらせるとやっかい うつ病症状が出て仕事をやめた患者も
※写真はイメージです(写真/Getty Images) 幅広い年代が悩む眼精疲労。目の病気や目の使いすぎまで、さまざまな原因により起こる。今回はこうした中から、眼精疲労の主な原因となる屈折異常とドライアイを中心に、その対策と治療法を紹介する。 *  *  *  眼精疲労とは目を休めても、睡眠をとっても回復しにくい目の疲れのことを言う。悪化すると頭痛や肩こり、吐き気などの自律神経症状もあらわれる。梶田眼科院長の梶田雅義医師は言う。 「自律神経症状を更年期症状と勘違いして、我慢していた患者さんや、うつ病のような症状があらわれ、仕事をやめてしまった患者さんがいます。眼精疲労はこじらせるとやっかいですので、早めの治療をおすすめします」  眼精疲労の原因は大きく3つに分けられる。目の病気、環境(パソコンの使用頻度が高いなど)、精神的な要因(ストレスなど)だ。  最も多いのは目の病気で、「水晶体を支える毛様体筋の疲労によるもの」が多いという。 「近視や遠視、老眼などの屈折異常により、見えにくいものを無理に見ようと目が頻繁にピントを調節すると、毛様体筋がつねに緊張し、疲労が蓄積されて眼精疲労が起こります」(梶田医師) ■必ず見直したい度が合わないレンズ  度の合わない眼鏡やコンタクトレンズでも、同じことが起こる。治療は、なによりも適切な視力矯正をすることが優先だ。近くが見えにくくなる老眼やどの距離も見えにくくなるスマホ老眼では、累進屈折力レンズを使った眼鏡を使用するのがいいという。  累進屈折力レンズはレンズ面の位置によって屈折力(度数)が変化する。レンズの上部に遠くを見る「遠用部」、下部に手元を見る「近用部」があり、上下の間はゆるやかに度が変化するようになっている。視線を動かすことで「遠・中・近」のさまざまな距離を見ることができるわけだ。 「近くだけに焦点を合わせる老眼鏡は、かけたり外したりするので毛様体筋に負担がかかります。累進屈折力レンズはこうしたことがなく、目の疲れが大きく軽減されます」(同) 外斜位とプリズムレンズ  最近は「外斜位」という眼位の異常で眼精疲労を引き起こしているケースも増えている。このような人にはプリズムレンズが有効だ。 「外斜位の人は目が外を向いていて、スマホなど近くを見る場合、寄り目になるために、目が疲れるのです。近視のある外斜位の人が通常のレンズで視力矯正をすると、度が強くなりやすく、眼精疲労を悪化させていることもあります」(同)  プリズムレンズは鼻側と耳側でレンズの厚みが異なり、三角になっているレンズだ。レンズを通る光は厚いほうに曲がるため、外斜位の人は鼻側を厚くすると、目を寄せる力が少なくなる。  加齢によって眼球を支える組織が弱ることで起こる「サギングアイ症候群」という眼位の異常にも、このレンズが有効だ。物が二重に見える症状が改善される。なお、よりよい視力矯正のためには屈折異常に詳しい眼科医を受診すること、目が元気な午前中に目の検査をしてもらうことがポイントだという。  目を守る涙は内側から涙を目の表面に均一に広げる「ムチン層」、角膜や結膜に栄養を送る「液層」、水分の蒸発を防ぐ「油層」の三層構造になっている。ドライアイは涙の分泌量が減るなどでこの層が薄くなり、発症する。目のゴロゴロ感など不快な症状が続くと、眼精疲労の原因になる。  小沢眼科内科病院理事長の小沢忠彦医師によれば、シェーグレン症候群(免疫の異常によって自分自身を攻撃してしまう、自己免疫疾患の一種。主に涙腺、唾液腺が壊される)など病的なものもあるが、多くは生活習慣が引き金で発症している。 ■ドライアイにはセルフケアが有効  日中に症状が重くなる人はパソコン作業が影響していることが多く、セルフケアで改善を試みてほしいという。 「パソコンのモニター画面を見上げる姿勢になっていると、まばたきの回数が減ってドライアイが悪化します。画面を見下ろす姿勢になるよう調整しましょう。まぶたがかぶるようになり、目にうるおいが戻ってきます」(小沢医師) 目のかすみ、目の疲れデータ  意識的にまばたきを増やすのもいい。このとき、目の表面に涙をいきわたらせるために、ゆっくりと深いまばたきを入れることがポイントだという。不足する涙を補う方法には目薬が有効だ。保湿成分のヒアルロン酸が入ったドライアイ用の目薬が市販されている。 「夜は生理的に涙が出にくくなるので、夜間に症状が強くなる人は、より積極的に目薬を使ったほうがいいでしょう」(同)  ただし、市販の目薬に含まれる防腐剤の成分でアレルギー症状を起こす人もいる。まぶたが赤くなったり、かゆくなったりした場合は薬をストップし、眼科で防腐剤抜きの目薬を処方してもらうといい。一方、ドライアイの目を水道水や市販の洗浄液で洗うのは禁物。 「目の油分が流され、症状が悪化してしまいます」(同)  なお、小沢医師によれば、高齢になるにつれ、複数の眼病、症状を訴える患者が多くなる傾向にある。このため、いち早く診断をつけるためには、最も気になる症状を中心に、詳しく伝えることが大切だ。 (文・狩生聖子) ※週刊朝日2022年4月15日号より
ドライアイ屈折異常病気病院眼精疲労
dot. 2022/04/11 16:00
侵攻当日に私は従軍した 20代ウクライナ人医師が語る“武士道”と祖国への思い
井上有紀子 井上有紀子
侵攻当日に私は従軍した 20代ウクライナ人医師が語る“武士道”と祖国への思い
医師として従軍したオレクサンドル・ソコレンコさん(左)。日夜、住民や兵士の診療にあたっている(写真:ソコレンコさん提供)  ロシアによる侵攻が続くウクライナで、避難した人々が辿り着いた場所で、医療に従事する人々がいる。医師たちの立場や選択はさまざまだ。AERA 2022年4月11日号から。 *  *  * 「兵士や前線付近に住む住民を診療しています。機密保持のため正確な場所は言えませんが、前線から数キロの場所にいます」  ウクライナの外科医、オレクサンドル・ソコレンコさん(26)は、3月下旬、小屋のような場所で、そうオンラインインタビューに答えた。 「このエリアには避難する場所がない人、この地域に残っている人たち、兵士たちがいますが、前線付近では医師も避難して不在の状態が続いています。このあたりにいる医師は私だけです。仲間の医療従事者数人と活動しています」  ソコレンコさんの脇には緑色のリュックサックがあった。医療物資が詰まっている。 「銃創を負った兵士3人を同時に治療したこともありました。さまざまな症状を抱える住民を診察しています。でも、包帯などほぼすべての医療物資が不足しています。いま、ここでは必要な医療行為の50%しかできていません」 ■日本に留学したい  医学部を卒業してまだ数年。侵攻が始まった2月24日、それまで勤務していた病院を離れ、従軍した。 「勤務していた病院には医師が十分いるし、設備も整っている。この非常事態を前に何もしないのは嫌でした。祖国で起きていることに対して積極的に行動したかった。これは私にとっての武士道です。私たちは他に行くところもないし、行きたくもない。ここは私たちの土地で故郷なのです」  そう言って、ヘルメットと防弾チョッキを見せた。日本から支援を受けたものだという。 「日本人の精神性や侍魂は、私たちの祖先であるコサックの精神と同じように強いことを知っています。私は日本が好きで日本語を少し勉強しています。いつか日本に留学したい」  ロシアの侵攻が始まって、およそ4週間たった。たった一人で専門外の診断もこなす。 ソコレンコさんのリュックの中身。「包帯などほぼすべての医療物資が不足しています。必要な医療行為の50%しかできていない」(写真:ソコレンコさん提供) 「昨日は3件の小さな手術をしました。今日は朝起きて、医療物資を準備してから、数人の兵士に処方箋を書きました。その後、前線近くに住む83歳の高齢女性と4歳半の子どもを診察しました」  スケジュールはまちまちで、睡眠時間は不規則だ。気温の低下もこたえる。夜間は氷点下まで冷え込むなか、兵士たちは屋外で寝ることさえあるという。ソコレンコさんも時折せき込む。風邪を引いているのか、と尋ねると「大丈夫です」と答えた。 「ネット環境の問題はありますが、両親や友人とは数日に一度、連絡を取っています。両親も医師で、私を心配していますが、応援してくれています」  20分ほどのインタビューに丁寧に答えたあと、慌ただしく仕事に戻っていった。 ソコレンコさんと医療チーム。「祖国で起きていることに対して積極的に行動したかった。これは私にとって武士道です」(写真:ソコレンコさん提供) ■避難先で医療支援  医師免許を持つタラス・クラフチュクさん(28)は、侵攻後、首都キーウ(キエフ)から西に300キロ離れたヴォリン地域に両親と兄弟、恋人と車で避難した。現在は両親の実家で生活している。クラフチュクさんは医学部を卒業したが、3年前から製薬会社のMRとなり、避難先で医療に携わっている。 「前線に送る医薬品を仕分けて袋詰めするボランティアをしています。困っている人たちを助けたいし、ウクライナに貢献したいからです」  当初はキーウに比べて安全といわれていた西部だが、危険は近づいてきている。クラフチュクさんは言う。 「2、3月に軍用飛行場がミサイル攻撃を受けて、軍人4人が亡くなり、6人が負傷しました。日中は警報が鳴ることがありますが、もう慣れてしまいました」  3月20日には、ウクライナの大統領府が「ヴォリンへのベラルーシからの攻撃リスクが高いと見ている」と発表した。 「避難する人たちをポーランドの国境まで車で運ぶ手伝いもしています」  アパートで寝ることができるし、食料は足りている。キーウからの避難者が責められるという報道もあるが、「あり得るが、見たことはない」。心配なのは、「戦争が長く続き、戦闘地域にいる家族や友人を失うこと」だ。(編集部・井上有紀子)※AERA 2022年4月11日号より抜粋
ウクライナ
AERA 2022/04/07 08:00
分身のようだった友人を亡くした悲しみを昇華させた作品「よだか」を出版した写真家・深沢次郎
米倉昭仁 米倉昭仁
分身のようだった友人を亡くした悲しみを昇華させた作品「よだか」を出版した写真家・深沢次郎
撮影:深沢次郎 *   *   *  深沢さんにインタビューを申し込むと「食事でもしませんか」と、誘われた。  当日、待ち合わせたJR藤野駅(相模原市)から深沢さんの車で山道を走った。10年ほど前、「田舎暮らしに憧れて」、東京からここへ引っ越してきたという。  木のにおいがするようなレストランに到着し、車を降りると、眼下に早春の山々が広がった。レストランには小さなギャラリーが併設され、2年前、ここで写真展を開いたという。  テーブルにつくと、当時の写真展案内を手渡された。そこは雪に半分埋もれたようなシカの頭が写っていた。 「何か悲しい顔をしているじゃないですか。うちのかみさんから『あのころ、ずっとこんな目をしてたよ』って、言われました」  2019年、深沢さんは多感な大学時代をいっしょにすごした友人、鶴岡一生さんを失った。写真展はその気持ちの整理をつけるためだった。  深沢さんはここに飾った写真を元に、新たに構成した作品「よだか」を4月7日から東京・目黒のコミュニケーションギャラリーふげん社に展示する。 「この2年間は、悲しみを昇華する作業だったと思うんです。前回の写真展は、もう悲しみで、ずぶずぶだった。今回はそれをちょっと昇華できたかな」 撮影:深沢次郎 ■「奇麗だから、撮りに来いよ」  かつて鶴岡さんが暮していたのは美ケ原高原に近い長野県上田市武石地区。 「それこそ、水道がないような山奥です。彼は集落のいちばん外れに一軒家を借りて、畑と炭焼きをしていた」  炭を作るには、適当な長さ切った広葉樹の原木を炭焼き窯で蒸し焼きにする。鶴岡さんは頃合いを見て、「奇麗だから、撮りに来いよ」と、深沢さんを誘った。 「炭焼きを撮ったのは2010年です」 と、深沢さんは言い、今回の作品を取り出した。  闇夜に光るオレンジ色の小さな釜の入り口。その周囲には石を積み上げた釜の壁がぼんやりと写っている。 「釜の中は1000度もあるんですよ。撮ったら、すぐ逃げないと。もう、溶ける、みたいな感じで」と言い、深沢さんは釜の入り口でカメラを構え、シャッターを切った瞬間、身をよける動作を実演して見せてくれる。 撮影:深沢次郎  炭焼きをするのは農閑期の冬が多い。標高約1000メートルの武石地区の冬の寒さは厳しく、家のすぐ近くを流れる武石川の岸辺は凍りついた。写真には朝日を浴びた氷の粒が輝いている。 「夜、渓流の水のしぶきが地面に落ちてどんどん凍りつくんです。でも、朝日が当たると30分くらいで溶けちゃう。これが撮れるのは、ほんと一瞬です」 ■凍った滝を目指した2人  白っぽい滑らかな大理石のオブジェのような氷の写真もある。 「高さ5メートルくらいの岩肌に滴った水が凍りついた氷柱です。これを撮りに行ったときのことを彼は本に書いている」  そう言うと、深沢さんは鶴岡さんの著書『まほろば夢譚(むたん)』(コスモの本)をかばんから取り出した。  そこに収められた短編小説「黙雷」には、氷結した滝を目指して雪深い山のなかを歩く2人の男の会話が、こう描写されている。 <「どうです、まだ着きませんか?」「まだのようだ」「早く着いてくれないことには、そろそろ体力が保(も)たないです」> 「ははは。フィクション、フィクション。実際は車で行って、ちょろっと歩いたところ」と、打ち明ける。 撮影:深沢次郎  さらに、こんな描写もある。 <男はなんとしても滝を掴まえようと、懸命に撮影した。だが、凍った滝は、その美を捉えようとすればするほど、足早に逃げた。(中略)男はついにあきらめて、カメラを置いた> 「でも実際は、こんなにたくさん撮ってないですよ」と言い、深沢さんはまた笑った。 「この短編を書いたときは、朝4時ごろ起きて、一編書いて、飯食って、畑をやったりしていた。彼はいろんな文学新人賞の最終選考に結構何回も残ったんです」 ■巻き戻せない時間  鶴岡さんは10年、「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」で農民文学賞を受賞。翌年、深沢さんが撮影した炭焼きの写真を表紙に、同名の本を出版した。 「それを出したころは、『よーし、これからだ』みたいな感じだった」  ところが、その約1年後、鶴岡さんは山仕事の事故で左目を失明してしまう。耳鳴りにも悩まされるようになった。それでも小説を諦めることなく、『まほろば夢譚』を書き上げた。 撮影:深沢次郎  しかし、さらなる病が襲った。 「その2、3年後、脳梗塞をやってしまったんです。半身まひ、言語障害になってしまった。小説も書けなくなってしまった」  深沢さんはしばらく、そのことを知らなかったという。 「『深沢には言うな』、みたいなことを家族に言っていたみたいです。でも、1年くらいして彼の妻から『実はいま、こんな状況です』って、メールがあった。その後、本人とも電話でしゃべった。『治ったら遊び行くわ』みたいな、結構明るい感じだった。でも、姿はあまり見られたくないだろうから、そのままにしておいたんです」  鶴岡さんが亡くなったのは19年の初夏だった。 <彼の妻から久方ぶりに報を受け、翌朝車で彼の住む信州の山の中に向かう。昼過ぎに到着した。時間は巻き戻せない>(『よだか』ふげん社) 撮影:深沢次郎 ■「じゃあ、わかりました、とは行けなかった」  鶴岡さんが亡くなった翌年、深沢さんは上田で写した写真と鶴岡さんの文章を組み合わせ、作品にまとめた。 「それは悲しみしか写っていないものだった。彼の顔写真が結構入っていた。死を思わせるような写真もあった。彼は俳句を何百首も残して死んだんですけれど、死にちかい句をぼんぼん載せた」  それをふげん社に持ち込むと、「ちょっと重いよね。見てよかったって思えるものがいい、という話になったんです。それで、『もう一つ、世界をつくってみたら』って、言われた。なるほどな、と思った」。  しかし、深沢さんは気持ちを吐き出さずにはいられなかった。 「もう一回、構築してみたらいかがですか、とは言ってくれたけれど、じゃあ、わかりました、とは行けなかった。自分の気持ちに落とし前をつけたかった」  そして開いたのが、冒頭に書いた写真展「山の阿房(あほう)」だった。 「写真展の案内は1枚も送らなかった。自分と鶴岡のためだけの、ごく私的な展示だったんです。それで区切りをつけた」  深沢さんは沈黙し、口を開くと、こう続けた。 「彼とは18から20歳くらいまで濃密な時間を過ごしたんです。新宿界隈で8ミリ映画をつくったりした。彼が亡くなって、ああ、彼とぼくはお互いに分身だったな、と思った。なんか、目はかすむし、見るものがぼやけるような感じだった。ピントもぜんぜん、合わなくなってしまった。それがだんだんまともになってきた。星とかを撮っているときに直していったんでしょうね。2年くらいかかったかなあ」と、振り返る。 撮影:深沢次郎 ■星を撮るタイミングだった  深沢さんは子どものころから宇宙が好きだった。 「でも、星の写真は撮ってこなかった。いまがそのタイミングだな、と思った」  都会から遠く離れ、美しい星空が望める長野県の木曽地方に通った。 「昔、親が別荘みたいなのを木曽に建てたんですが、使わなくなっていた。そこをもう1回、使えるようにしようと思って、リフォームに通いながら星を写した」  冬枯れの森の中から夜空を見上げるように写した写真。木々の合間を星が埋め尽くし、画面中央にはアンドロメダ星雲が輝いている。「写ったのはまったくの偶然で、びっくりしました」。  月の光跡が飛び跳ねるように写った不思議な写真もある。 「これは自宅で撮ったんです。満月って、とても明るいんですよ。その光がすごいな、と思って、デッキで月光を浴びながら音楽を聴き、お酒を飲んでいるうちに妖艶な気分になってきて、カメラを持って踊ったりしながら撮影した。そうしたら、こう写った」  氷柱を写した写真もある。 「さっきの小説は、結局、凍った滝をとらえられなかった、という終わり方をしているじゃないですか。じゃあ、それをとらえてやろうと思った」 撮影:深沢次郎 ■楽園への歩み  鶴岡さんを写した写真はほぼすべて外したが、1枚だけ残された写真は不鮮明なモノトーンで、なぜか細い縦筋が入っている。 「昔、彼がテレビに出たときの場面を撮ったんです。NHKのドキュメンタリー番組で『ネットオークションで暮らす人々』みたいな特集があった。彼は上田でレコードのネットオークションで糊口(ここう)をしのいでいたんです」  しかし、なぜ、この写真を作品のなかに残したのか? 「あれみたいじゃないですか。ユージン・スミスの『楽園への歩み』」。  それを聞いて、ああ、なるほど、と思った。太平洋戦争の沖縄戦で重傷を負ったユージンが、再びカメラを持つきっかけとなった有名な作品で、光に向けて歩き出す2人の子どもの背中を写している。  作業着と長靴姿で山道を歩く鶴岡さんは、少しけげんそうな表情でこちらを振り返ると、光のなかに消えて行こうとしていた。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】深沢次郎写真展「よだか」コミュニケーションギャラリー ふげん社 4月7日~4月28日
ふげん社よだかアサヒカメラ写真家写真展写真集深沢次郎
dot. 2022/04/06 17:00
久本雅美 結婚は諦めない!「理想の相手条件は51項目」63歳おひとりさまの本音
久本雅美 結婚は諦めない!「理想の相手条件は51項目」63歳おひとりさまの本音
久本雅美、63歳(撮影/写真部・門間新弥、メイク/梅原麻衣子、スタイリスト/前田みのる)  テレビから聞こえてくる軽妙な大阪弁のトークといえば、舞台、バラエティー番組にフル回転の久本雅美さん。60代となった今の正直な気持ちを書きつづった『みんな、本当はおひとりさま』(幻冬舎)が話題になっています。今回は、60代の今とこれからを幅広く伺いました。 * * *  不思議なもので、60歳を過ぎるとそれまで気にしていなかった、「終活」とか「エンディングノート」という言葉が自然と耳に入ってくるようになるんですよ。そんな「人生のゴール」が少し見えてきた今の自分を素直に書いたのが、今回出版した『みんな、本当はおひとりさま』です。終活については、意識していたわけではないし、今でも何か準備しているということでもないですけど。 ■舞台のために健康第一の日々   ただ、50代後半から健康にはずいぶん気を使うようになりました。テレビも舞台も声を使う仕事なので、ボイストレーニングに通うようになりましたし、パーソナルトレーニングにも週1回通っています。トレーニングといっても、ムキムキになるためではなく、ケガをしない体作りのため。ほとんどトレーナーにマッサージしてもらっているみたいなものですけどね(笑い)。  あとは体を冷やさないように注意しています。朝起きたら白湯を飲んで、軽くストレッチをしてからお風呂に漬かるんです。体を温めて全身の血行を良くしてから一日の活動が本格的に始まります。  栄養補給にビタミンなどのサプリやプロテインもけっこうガッツリ飲んでますね。健康のため、舞台で最高のパフォーマンスを発揮するためではあるんですが、トレーニング、ストレッチ、サプリなどいろいろやりすぎて何が効いて、今健康なのかもわかんなくなっちゃって(笑い)。でも、やめて何かあったら怖いのでルーティン化している感じです。  お酒も飲む機会と量は減りましたね。公演の後なんかも、早くに帰宅。寝る前のルーティンになっているストレッチをして夜は早めには寝てました。翌日の舞台に影響してはいけないので、とにかく今は健康第一を心掛けています。 1958(昭和33)年生まれ、大阪府出身。劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、1984(昭和59)年に柴田理恵らと劇団「WAHAHA本舗」を結成した。    20代、30代のころとは大違いです。あのころはみんなエネルギーがあり余っていましたから、舞台が終わったら毎回大宴会。翌日の仕事が9時からだったら「なんだ8時55分まで飲めるじゃないか!」って、朝まで平気で飲んでました。皆で楽しくお酒を飲むために舞台をやってるんだという勢いでしたからね。 ■大阪の実家を家出同然で飛び出して劇団入り  劇団を旗揚げしたのは1984年。設立からのメンバーの柴田理恵や佐藤正宏などとは、その前の劇団「東京ヴォードヴィルショー」から一緒ですから、もう40年くらいの付き合いになります。  東京ヴォードヴィルショーは佐藤B作さん主宰なんですが、初めて舞台を見てめちゃめちゃ面白くて、私も舞台に立ちたいと思ったのが、この世界に入ったきっかけです。  大阪の実家から家出同然で飛び出して、“押しかけ入団”したんです。劇団員は応募してませんし、私自身も演劇の経験はなし。やる気だけは人一倍ありましたけど、稽古では怒られてばかり。給料もなかったので、食うや食わずの貧乏生活でした。それでも、つらいとはあまり思いませんでしたね。劇団の中にいられるだけで楽しかったんです。当時の貧乏暮らしも今となってはいい話のネタになってます。  両親は最初のときこそ心配してましたけど、その後はすごく応援してくれていました。テレビにも少しずつ出るようになったんですが、ほら、私のギャグって少し下ネタが多いでしょう?(笑い)。 「女なのによくそこまでやるな」とか「下品で好きになれない」なんて引かれてしまうこともありました。私は面白いと思ってやってたし、注目されてナンボだという気持ちでやってたんですけど、あまりに批判されて悩むこともありました。  そんなとき母が「10人に嫌われても、1人わかってくれる人がいればいい」というようなことを言ってくれたのが、すごく励みになりました。  この言葉はいまでも私を支えてくれる大切な言葉の一つです。 「まだまだ仕事もやりたいことがいっぱいだし、結婚だって全然諦めてません!」と語る。 ■理想の結婚相手の条件は51項目あるんです  東京ヴォードヴィルショーを離れたのは、すごい先輩方が敷いたレールを走っていくのではなく、自分たちで自分たちの笑いを作っていこうと思ったから。WAHAHA本舗を一緒に立ち上げて苦労をともにし、一緒に年齡を重ねてきた仲間たちは、私にとって大切な宝です。  昨年末のWAHAHA本舗の全体公演は、そんな仲間たちとの久しぶりの舞台でしたけど、創立メンバーはもう皆60代。体にガタはきているけど、お互いに最後まで倒れることなく舞台をやりきってよかったとしみじみ感じましたね。  仲間と話す内容も「最近、足の痛みがある」と誰かが言えば、「あそこの整体師がいいよ」とか、サプリがどうとか、血圧がどうだとか、なんかもう普通に年寄りの会話になってきましたよ(笑い)。  柴田理恵が、“おひとりさま”の私の老後を心配して「雅美の部屋を用意してあるからいつでも引っ越してきて」って言うから、遊びに行って見てみたら、なんと窓なしの四畳半。こんな部屋で暮らせるか!って(笑い)。  もちろん、“おひとりさま”の不安がないわけじゃありません。私だって、まだまだ結婚を諦めたわけじゃないんですよ。でも、「そばにいてもらったら安心」という理由だけでは、結婚はできません。理想の結婚相手の条件は、誠実で、思いやりがあって、経済力があって、それから……、と全部挙げると51項目くらい。すべて当てはまる理想の人がいたら、すぐ結婚しますよ!  3月からは藤原紀香さんとの初共演舞台の「毒薬と老嬢」が始まります。まだまだやりたい舞台もたくさんあるし、終活のことなんて考えている場合じゃないんです。健康には気をつけつつも生涯現役のつもりで、まだまだやりますよ! (構成・文/山下 隆) ※「朝日脳活マガジン ハレやか」(2022年 4月号)より抜粋 ひさもと・まさみ/1958(昭和33)年生まれ、大阪府出身。劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、1984(昭和59)年に柴田理恵らと劇団「WAHAHA本舗」を結成。場を盛り上げる話術で人気を博し、「秘密のケンミンSHOW」「ヒルナンデス! 」(ともに日本テレビ系)など数多くのテレビ番組に出演。「笑っていいとも!」(フジテレビ系)では17年以上にわたりレギュラーをつとめた。人はひとりでは絶対に生きていけない、周りの人たちのおかげと考える久本さんが読者に送る、明るく生きるヒントがいっぱい詰まった一冊『みんな、本当はおひとりさま』(幻冬舎)発売中。
おひとりさま久本雅美
dot. 2022/04/06 11:30
「猥談も差別語も満載で困っちゃう」シェイクスピアの魅力を翻訳家が語る
「猥談も差別語も満載で困っちゃう」シェイクスピアの魅力を翻訳家が語る
松岡和子 (撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  昨年、28年にわたるライフワーク、シェイクスピアの37戯曲完訳を達成した翻訳家の松岡和子さん。そんな松岡さん、意外にもシェイクスピアを「学生時代は避けてた」んだとか。作家・林真理子さんとの対談では、長年向き合ってきた人ならではの視点を、明るくやさしい口調で語ってくれました。 *  *  * 林:菊池寛賞受賞、おめでとうございます。 松岡:ありがとうございます。 林:贈呈式のときごあいさつに行ったら、「あっ、ホンモノの林真理子だ!」とおっしゃって。 松岡:そう、ミーハー全開になっちゃって(笑)。 林:シェイクスピアの全戯曲37作の翻訳、ついに完成したんですね。何年かかったんですか。 松岡:結局28年。50(歳)過ぎてから始めたんです。 林:しかも、ほかのお仕事をされながらですよね。 松岡:はい。大学の教職も子育ても全部やりました。主婦ですし、子どもも2人いるし、「あとは離婚すればフルコースだ」なんてウソぶいてたんだけど(笑)。 林:ご主人はどんな方ですか。 松岡:エンジニアです。 林:もう亡くなられたんですね。こういうお仕事なら、独りでもよかったとは思われなかった? 松岡:夫は、ここまでやるとは思わなかったでしょうね。だまされたと思ってたかも。だって、結婚した段階では、私、まだ大学院の学生でしたから。 林:「物書きの女性と結婚したわけじゃない」みたいなことはおっしゃらなかったですか。 松岡:そういうこともありました。最初の夫婦ゲンカの原因はシェイクスピアでしたし(笑)。たぶん「女房は芝居にとられた」と思ってたと思う。 林:松岡さんが翻訳者になろうと思ったのは高校時代ですか。 松岡:中学のころ『赤毛のアン』にはまって、外国の物語を日本語にする仕事っていいなと思った記憶があります。それに劇は好きでした。東京女子大に入って、シェイクスピア研究会で「夏の夜の夢」をやったり、英米演劇の講義に出たりして、演出家になりたいと思っちゃったの。芝居のこと何もわからないのに、頭の中に自分の空想の劇場が出てきて、どんどん妄想が膨らんで。それで、卒業後、旗揚げしたばかりの劇団「雲」の研究生に。 松岡和子さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・戸嶋日菜乃) 林:劇団「雲」って、芥川比呂志さんとか仲谷昇さんとか岸田今日子さんとか、文学座から分かれた人たちがいらした劇団ですね。 松岡:そう。折あらば現代劇を訳して演出できたらいいな、細々とでもいいから道をつけておきたいなと思ってたんです。 林:卒論はテネシー・ウィリアムズだったんですよね。それがどうしてシェイクスピアに? 松岡:シェイクスピアは難しすぎて常に逃げてたんです。「英文科に入ったんだから、卒業までにシェイクスピアを一冊は読まなきゃ」ぐらいの気持ちでシェイクスピア研究会に出てみたの。ちょうど先輩たちが集まって、原文で「ハムレット」を読んでいるところでした。ハムレットの父親の亡霊が「復讐しろ」と出てきて、弟がどうやって自分を殺したかを延々と語るくだりです。「自分が昼寝をしているときに、弟が自分の耳に毒を流し込んだのだ」って。その「耳」が複数になってるのに気づいた。 林:「ears」ですね。 松岡:それを読んで私、「複数になってるってことは、片耳に毒を流し込んで、頭をひっくり返して、もう片方の耳にも毒を入れたのかしら」と言ったんです。そしたら「あら、本当ね」とも言ってもらえず、完全に無視されて、すっごく恥ずかしかったの。それがイヤな記憶になっちゃって、しばらくシェイクスピアを避けてた。「雲」に入っても自分には何の強みもないし、このままじゃダメだ、シェイクスピアを勉強し直そうと思って、東大の大学院に入ったんです。 林:素人の質問ですけど、シェイクスピアの時代の英語といまの英語は、ずいぶん違うんですか。 松岡:違いますね。「ハムレット」が書かれたのは関ケ原の合戦のころ、1600年ごろですから、日本人があのころの古文を読むみたいなものですよね。同じ単語でも意味が違ったりして。 林:一つの単語のために一晩中考えたこともあるとか。 松岡:何度もありますよ。それで私、林さんに伺いたいんですけど、林さんの『小説8050』を読んでほんとに感動しちゃって、素晴らしい!と思ったの。 林:まあ、うれしいです。 松岡:あの小説に出てくる「おおさわ」さんって、「大沢」じゃなくて「大澤」じゃないですか。原稿は手書きでしょ。お書きになるときは「沢」じゃなくて……。 林:「澤」って書いてます。 松岡:やっぱり。あれを読んだとき、私はそこに注目したの。つまりあの家族は、夫も奥さんも翔太君も、自分の名前を書くときは「大澤」って書くわけでしょ。「大沢」と書かないのは、自分は「こういう家の出なんだ」という気持ちが、みんなどこかにあるんじゃないかと思うんです。たとえば「中島」さんと書いて、「なかしま」さんと読む名字の人は、「なかじま」って呼ばれるとイヤだったり、「島」と「嶋」を間違えるとイヤだと言ったりするじゃないですか。漢字ひとつに、そういう自意識みたいなものが垣間見える。そんなところまで林さんが考えて登場人物の名前を選んだってことに、感動しちゃったんです。 林:そんなふうに言っていただくなんて……。 松岡:というのはね、シェイクスピアを読んだときに、どうしてこういう倒置法になってるのかとか、この単語はどのフレーズの目的語なのかとか、わからないときがあるわけ。それで私、ある時期から原文を手書きし始めたんです。 林:ほぉ~、原文を手書きに。 松岡:反故紙をたくさん集めておいて、原文が倒置法になっていたら、それを主語、述語の順序に直して書いて、修飾のフレーズがあったらそれをはずして書いて。シェイクスピアよりもたくさん原文を書いてるんじゃないかと思うぐらい書くんです。 林:まあ……。 松岡:シェイクスピアが羽根ペンにインクをつけて手で書いたときに、おそらく頭で考えたことが手に流れていったんだろうと思ったのよ。林さんもそう? 林:私、機械を介在できないんですよ。頭で考えたことを手で動かしていくという作業じゃないとダメなんです。 松岡:やっぱり。じゃ、私が原文を書いてシェイクスピアに少しでも近づこうと思ってたのは、間違いじゃないわけね。 林:私が言うとおこがましいですけど、すごく正しいことだと思いますよ。ところで、シェイクスピアって何人かいるという説がありますが、本当なんですか。 松岡:誰かと共作はしてたんじゃないかと思うけど、シェイクスピア別人説には私は与(くみ)しませんね。彼はすごく舞台を知り尽くしている人だというのが、文章から伝わってくるのよ。 林:そうなんですか。 松岡:じつはシェイクスピア作品ってだいたいネタ本があるんですよ。有名な「ロミオとジュリエット」も、内容そのまんまのようなネタ本があるんです。ただ、9カ月ぐらいかかる話を5日間に縮めちゃったり、ネタ本のジュリエットは16歳なんだけど、あと2週間で14歳にしちゃったり、舞台にすることを考えて、圧縮してスピード感を増した話にしてるんです。さらにね、ネタ本では、ジュリエットが飲む薬は水で溶いて飲む粉薬なの。だけど、シェイクスピアのは小瓶に入った水薬でしょ? なぜかというと、舞台のクライマックスに近づくところで、粉薬を水に溶いていたら間抜けだし、小道具もたくさん必要になって負担でしょ? だから、舞台の流れを止めない水薬にしたんだと思うのよ。シェイクスピアは、現場を知っている人ですね。 林:おもしろいですね。松岡さん訳の「ハムレット」の解説によると、有名な「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ(To be, or not to be, that is the question)」というセリフは、主語がないとか。 松岡:そうなんです。構文上は「To be, or not to be」が主語で、「それが問題だ(that is the question)」で「that」で言い直している。でもto beとnot t‌o beの意味上の主語は不明です。 林:そうすると、あのセリフは「自分がどう生きるか」よりも広いことを言ってるんですね。 松岡:そうなんですよ。「存在か無か」みたいなことをしゃべっているうちに自分の生死の問題に入っていくという、ややこしくて困ったセリフなんです。 林:そういうことなんですね。私、戯曲って読んでおもしろいと思ったことないんですが、シェイクスピアはおもしろいです。 松岡:ほんと? うれしい! 日本人には戯曲を読むっていう習慣がないですからね。でも、大庭みな子さんあたりまでは戯曲を書いてらっしゃいましたよね。有吉佐和子さんも戯曲を書いてらっしゃるし、明治から大正期、昭和の初期ぐらいまでの作家は、皆さん戯曲をお書きになっていたと思うんですよ。遠藤周作さんだって「黄金の国」で「転びバテレン」のことを書いてらっしゃるし、私、林さんの本を拝読して、戯曲をお書きになったらいいのにと思った。 林:オペラの台本を一つだけ書きましたけど、戯曲って、井上ひさしさんも神経すり減らしてお体壊したって聞きますから、見る専門にしようと。 松岡:あら~、残念だわ。 林:俳優さんって、どんなにテレビや映画で活躍しても舞台をやりたがりますよね。それも「一度はシェイクスピアを」って。 松岡:横田栄司さんという役者さん、いま「鎌倉殿の13人」(NHK大河ドラマ)で和田義盛をやっているんですけど、彼は“シェイクスピア・オタク”。それで、「シェイクスピア・ハイ」があるんだって言うの。 林:ええ。 松岡:たとえば10行のセリフを覚えるときは、1日目に1行、2日目に1行と2行というように、だんだんに覚えていくんですって。そして全部覚えて、いざそれを言う段になると快感になるらしいの。ほかの戯曲では感じられなくて、「味わっちゃうとやめられないんだよね」って。 林:オペラでは、ワグナーをやると“ワグナー・オタク”になっちゃうようなものですかね。 松岡:たぶんそうでしょうね。自分の細胞まで染められちゃうんじゃないかしら。 林:現代の翻訳小説で、皮肉とか比喩を言うとき、注釈に「これはシェイクスピアの何々のセリフ」とか書いてありますよね。海外の人ってほんとにシェイクスピアの一節を言ったりするんですか。 松岡:しょっちゅう言います。私いま、ネットフリックスの「ザ・クラウン」にハマってるんですけど、シェイクスピアのセリフがしょっちゅう出てきます。 林:向こうではそういうことが理解できないと、「教養がない人」になっちゃうんですね。 松岡:そうそう。 林:翻訳って日本語が豊かじゃないとできませんが、蜷川(幸雄)さんは松岡さんの訳を非常に評価されてたんでしょう? 松岡:「なんで選んでくれたの?」なんて聞けないですよ、コワくて(笑)。でも、「僕が翻訳者に求めるのは、まずは豊富な語彙」っておっしゃってましたね。 林:蜷川さんは、埼玉の劇場に力を入れてましたよね。 松岡:彩の国さいたま芸術劇場で芸術監督をなさってました。 林:遠いから行ったことないんですが、お年寄りの劇団をつくったり、実験的なことをされてましたよね。いまは吉田鋼太郎さんがシェイクスピア・シリーズの芸術監督なんでしょう? 松岡:そう。このあいだの「終わりよければすべてよし」(シェイクスピア)なんて素晴らしかったですよ。今度「ヘンリー八世」を阿部寛さん主演でやるんです。 林:えっ、阿部寛さんが。 松岡:2020年に同じ劇場でやったんですけど、コロナが蔓延し始めて、最後のほうは中止になって、リベンジで今年の9月に鋼太郎演出でまたやるんです。すてきよ、阿部さんの「ヘンリー八世」。遠いなんておっしゃらないで、ごらんになってくださいよ。彼じゃなきゃできない「ヘンリー八世」だから、絶対見て見て見て! 林:はい、楽しみです。 松岡:ほんとにカッコいいの。「ヘンリー八世」の中に「ha」というセリフがあるんです。この「ha」って何なのか。小田島雄志さんの訳だと、「ええい」だったか、日本人が言いそうな間投詞に変えてあるんですね。文脈から考えてこれがどういうニュアンスで言っているのか、私、すごく悩んで、結局「はっ」ってそのまま書いたの。この阿部ちゃんの「はっ」が実にいいのよ(笑)。 林:シェイクスピアの戯曲の中で、松岡さんにとっていちばん魅力的な人物って誰ですか。 松岡:戯曲として好きなのは「リチャード二世」。 林:ああ、悪い王様。 松岡:ダメな王様なんだけど、言葉がすごい。結局それが蜷川さんの最後の傑作になりました。さいたまネクスト・シアターという若者だけの専属劇団と、ゴールド・シアターという高齢者の劇団のジョイントでやったの。亡くなる1年前かな。15年初演で、評判がよくて、翌16年にはルーマニアのクライオーヴァというところでもやったんです。 林:はい、有名な演劇祭ですね。 松岡:私、蜷川さんに翻訳をほめられたこと一度もないんだけど、「リチャード二世」のときだけは、パンフレットに「ぼくの演出が松岡さんの翻訳をきずつけないことを祈るばかりです」と言ってくださってるんです(涙声)。 林:それは最大の賛辞ですね。 松岡:家に帰って読んで、「最後になってそんなこと言わないでよ」って、私、泣いちゃったの。 林:私、昔、シェイクスピアの戯曲を若い女性向けのエッセーに直して女性誌に連載したことがあって、ずいぶんシェイクスピアの本を読んだんですが、本当の意味がわかってないからすごく大変でした。しかも、猥談がいっぱい出てきたりするでしょう。 松岡:しょっちゅう出てきます。差別語満載だし、今そのままやるのは困っちゃいますよね。だから上演のときはカットするなり、配慮しないといけない。 林:なるほどね。 松岡:ただ反対に、シェイクスピア・シリーズの最後の「終わりよければすべてよし」なんかはほんとに現代的というか、シェイクスピアは16~17世紀にこんなに女性に肩入れして、現代でも通用する戯曲を書いたんだと思って、私、びっくりしちゃった。それで私、考えたんですよ。 林:はい、何でしょう。 松岡:シェイクスピアは「普遍性がある」と言われるけど、なんでだろうかと考えて、私なりに結論を出したんです。さっきも言ったように、シェイクスピアは材料にしてるネタ本がある。王様を主人公にしたお芝居の場合は、当時書かれた年代記がネタ本なんですよね。「ハムレット」だって、ネタは12世紀のデンマークの年代記。それを16~17世紀のロンドンのお客に見せるわけでしょう。だからシェイクスピアはその時代に通用するものを取捨選択してると思うの。さらにその延長線上に21世紀の私たちがいる。「普遍的」と言われるのは、彼がテーマを取捨選択してくれてるからだと思う。 林:ああ、歌舞伎と同じですね。 松岡:シェイクスピアから見たって、地域はデンマークだし、何世紀も昔の話でしょ。遠い物語を、16~17世紀のロンドンに持ってくる水路をつけ、その水路がさらに21世紀の今につながるんだと思う。それが私が出した結論なの。間違ってるかもしれないんだけど。 林:すごい。前に高村薫さんが『新リア王』という小説を書かれましたが、現代に通じる水路がちゃんとあったんですね。 松岡:だと思う。「リア王」は相続問題とか、ボケちゃった親父を子どもたちがどう扱うかという問題もあるしね。古代ブリテンの話だけど、16~17世紀当時のイギリス人の問題が満載なんです。その堰をはずせば現代に流れてくる。 林:なるほど。『シェイクスピア全集』の33巻、ちゃんと読み直します。そして私も「水路」がつくれるような作家になれるよう頑張りたいと思います。今日はすごくいいお話を伺いました。 (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 松岡和子(まつおか・かずこ)/1942年、旧満州・新京(現在の中国・長春)生まれ。東京女子大学英文科卒業、東京大学大学院修士課程修了。翻訳家・演劇評論家として活動する傍ら、東京医科歯科大学教養部の英語教授を務める。97年、シェイクスピアの翻訳に専念するため退任。2021年、シェイクスピア戯曲全作の翻訳を完成させ、日本翻訳文化賞、菊池寛賞、毎日出版文化賞(企画部門)、朝日賞を受賞。著書に『深読みシェイクスピア』。訳書は『クラウド9』『ガラスの動物園』など。 ※週刊朝日  2022年4月8日号
林真理子
週刊朝日 2022/04/02 17:00
【「本屋大賞2022」候補作紹介】『夜が明ける』――貧困、虐待、過重労働......「俺」と「アキ」の友情を通して描く、現代日本の「闇」
【「本屋大賞2022」候補作紹介】『夜が明ける』――貧困、虐待、過重労働......「俺」と「アキ」の友情を通して描く、現代日本の「闇」
『夜が明ける』西加奈子 新潮社  BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2022」ノミネート全10作の紹介。今回取り上げるのは、西加奈子(にし・かなこ)著『夜が明ける』です。 ******  西加奈子さんの5年ぶりとなる長編は、思春期から33歳になるまでの男同士の友情とその軌跡を描いた物語です。  1998年、15歳の「俺」が高校で出会ったのは、身長191センチの巨体とひどい吃音を持つ同級生「深沢 暁」(ふかざわ・あきら)。「俺」は彼がフィンランドのマイナーな俳優にそっくりだと気づき、「お前は、アキ・マケライネンだよ!」と声をかけたことから、ふたりの交流が始まります。  いつも天然で面白くて、"いいヤツ"だった「暁」こと「アキ」。しかし当時の「俺」は、彼が貧困の母子家庭に育ち、実母から虐待を受けていたことを、ちっとも知りませんでした。  高校2年生のときに父親が亡くなった「俺」は、バイトに精を出しながら大学を卒業し、テレビ制作会社に就職します。いっぽう、マケライネンと同じ俳優になりたいと願ったアキは、小さな劇団に所属することに。  憧れて入った世界のはずなのに、「俺」は職場に蔓延するパワハラと激務、アキは信奉していた劇団から捨てられたことで、ふたりは次第に心身が壊れていきます。  苦しいときに連絡をくれなかったアキに対して、「俺」はあとからこう回想します。 「人生の岐路に立ったとき、そしてそれがどうしようもなく苦しいものであるとき、助けを求められるのが親友なのではないだろうか。俺は親友ではなかったのか」(同書より)  同書には、人に助けを求められない、助けの求め方がわからない人が登場します。自分が助けてもらう側であることを悔しいと感じ、ひとりですべてを抱え込む「俺」。自分の育った環境に疑問すら持てず、ただ目の前の現実を受け入れるしかないアキ。貧困家庭に育った自分を負けだと思いたくないから、人を恨むことをやめたと話す遠峰。男性優位な業界で負けたくないため、出産まで絶対安静が必要でも仕事を続ける田沢。  彼らの抱える状況を、「自己責任だ」と言う人もいるかもしれません。しかし同書では、「自己責任」という言葉が「最近は、大切な現実を見ないようにするための盾になってる」とし、「だから、そんな盾はいらない、みんなもっと堂々と救いを求めて」と呼びかけます。なぜなら、「助けてもらうことは、もちろん負けじゃなくて、得でも損でもなくて、当然のことだから」。  同書について西さんは、「日本に確実にある貧困や虐待や過重労働や、生きることそれ自体がつらい人に対して自己責任という名のもとに断罪する状況や、マチズモやミソジニーや、あらゆることを書きました」と述べています。  「俺」と「アキ」が友情をはぐくみ、懸命に生きてきた18年は、日本の経済が徐々に傾き、その影響が私たちの生活に重くのしかかるようになった年月でもあります。「俺」や「アキ」に自分の姿を重ねる人もいるでしょう。そして、いつ誰が「俺」や「アキ」になってもおかしくない現実を、私たちは心に留めるべきでしょう。  夜が明けることを信じて進む彼らの姿にやりきれなさを感じるか、それともそこにひと筋の光を見出すか――。ご自身で読んで考えてみることをおすすめします。 [文・鷺ノ宮やよい]
BOOKSTAND 2022/03/31 20:00
「ぼくの写真家人生はパンク」 NO MUSIC, NO LIFE.の平間至が写してきた“音楽を奏でる写真”
米倉昭仁 米倉昭仁
「ぼくの写真家人生はパンク」 NO MUSIC, NO LIFE.の平間至が写してきた“音楽を奏でる写真”
「MOTOR DRIVE」より 1992年 (C)Itaru Hirama *   *   * 平間さん初の大規模な回顧展が4月2日から京都駅に隣接する「美術館『えき』KYOTO」で開催される。テーマは「音楽」。写真展案内にはこうある。 <タワーレコードのキャンペーン「NO MUSIC, NO LIFE.」をはじめ数多くのアーティスト写真を撮影し、“音楽が聴こえてくるような躍動感あるポートレート”で写真界に新しいスタイルを打ち出したと評価される写真家、平間至>  展示作品は約250点。手渡された図録にはそうそうたるミュージシャンの写真がずらりと並ぶ。AI、あいみょん、石川さゆり、井上陽水、忌野清志郎、オダギリジョー、Mr.Children、YMO、和田アキ子……。 Mr.Children 2017年 (C)Itaru Hirama ■カメラは楽器  筆者が図録を見終わると、「第1印象はどうですか?」と、平間さんにたずねられた。 「意外でした。単に有名ミュージシャンの写真がたくさん並ぶものと思っていました」  こう答えると、「そんな面白くない写真展を想像していたんですか?」「はい」「正直ですねえ」。平間さんはあきれ顔だ。 「それじゃあ、『ああ、誰々が写っている』って、『証拠写真』で終わっちゃうじゃないですか。ミュージシャンを知らない、例えば、外国の人が見ても楽しめるようなものにしないと、展覧会を開く意味がない」  展示作品のセレクトはキュレーターの佐藤正子さんにほぼ任せたという。 「ぼくがミュージシャンをいちばん撮っていた1990年代から2000年代初頭は、佐藤さんがちょうどパリにいた時期なんです。彼女はそのころのミュージシャンをぜんぜん知らなかった。だから、純粋に面白い写真を選んでもらえた」  作品の半数以上はミュージシャンを写したものだが、ダンサー・田中泯の「場踊り」を追ったシリーズや、東日本大震災前後に撮影した「光景」、現在の活動の中心である「平間写真館」で写した作品もある。 「つまり、『音楽』がテーマって、ミュージシャンが写っている、という意味ではないんです。ぼくは、写真自体が音楽を奏でるようでありたいと、いつも思っています」  平間さんは撮影の際、カメラを楽器のようにとらえているという。 「シャッターの音だけでなく、ストロボの発光や充電のサウンドも含めて、撮影のリズムを奏でていく。そのリズムによって、お祭りやダンスをするみたいに相手の気持ちをどんどん解放していく」 「NO MUSIC, NO LIFE.」より 忌野清志郎 2008年 (C)Itaru Hirama ■「ぼろぼろな状態なんで、すみません」  平間さんは1990年、写真家・伊島薫さんの助手をへて独立すると、試みとしてモデルといっしょに動きながらシャッターを切りまくった。それによって、いつもとは違うモデルの表情を引き出そうとした。  そんな作品をまとめた写真集『MOTOR DRIVE』(95年、光琳社出版)は注目を浴び、一躍、超人気の写真家となっていく。  筆者が平間さんと初めて出会ったのはそのころで、強烈な印象が脳裏に焼きついた。  東京・原宿の事務所に現れた平間さんは無言だった。しばらくして、口をわずかに開くと「いまはぼろぼろな状態なんで、すみません」と、無表情に言った。疲れ切って、抜け殻のような姿だった。  この日は朝から6時間かけてタワーレコードのポスター用にGLAYのベーシスト、JIROを撮影し、事務所に戻ってきたばかりだった。だが、この後も渋谷でカタログの表紙撮影が待っている。帰りは夜中になるが、それが普段の生活という。 「ぼくの仕事はタレントさんの予定に合わせ分刻みで進みます。だから限られた時間内にどれだけクオリティーの高い写真が撮れるか、いつも試されている」 サンボマスター 2005年 (C)Itaru Hirama ■「ぼくにはアマチュア時代がない」  このとき、平間さんが持ち帰った撮影機材のなかに見慣れない細長いアルミケースがあった。 「ああ、これですか、CDJです」  CDミキサーとでもいえばよいか。これに音楽CDを入れ、自分でリズムなどをアレンジし、スタジオで流しながら撮るのだという。 「スタジオにCDJを持っていくなんて、世界中探してもぼくぐらいじゃないかな。みんなで楽しみながら撮るんですよ。写真というのは撮るのも見るのもエンターテインメントだと思うから」  しかし、平間さんが語る生き生きした撮影現場の風景と、目の前に座る本人の表情との落差は激しかった。 「撮影は決して簡単ではないし、失敗は許されない」  ストレスがたまり、肝臓を壊したという。それ以上に深刻だったのは、「撮影現場で入ったスイッチが切れなくなった」こと。ハイな状態が続いて眠れなくなった。鍼やマッサージに通い、緊張を解きほぐす日々が続いた。  それでもなお、「現場では相手を楽しませ、満足して帰ってもらおう」と気を使う。それは当時、宮城県塩竈市で営業写真館を営んでいた父、平間新さんの影響ではないか、という。 「ぼくにはアマチュア時代がないんです。中学生のときに仕事を任されて、いやいや幼稚園の運動会を撮りに行った」  そんな昔話を口にすると、「もういいですか?」と立ち上がり、青いポルシェに乗って、次の撮影現場へ消えていった。 「NO MUSIC, NO LIFE.」より 細野晴臣 2011年 (C)Itaru Hirama ■「ぼくの30年間の行動はパンク」  あれから20年以上がたった。  平間さんは08年、故郷の町を写真で盛り上げようと、「塩竃フォトフェスティバル」を立ち上げた。  しかし、東日本大震災の津波は町を押し流した。平間さんは復興支援に奔走するうちに「PTSD、ひどいパニック障害になってしまった」。1年ほど自宅療養を余儀なくされた。  それを乗り越え、東京世田谷区三宿に平間写真館をオープンしたのは15年。  今回、平間さんと音楽とのつながりを改めて聞くと、中学3年のとき、同級生と「ディープパープル」のコピーバンド、「チープパープル」を結成し、なんと、いまも活動を続けているという。「もう、結成40何年です」。 「ただ、ディープパープルが大好きだったのは一瞬で、すぐにパンクの世界に入った。それをずっと追い求めてきた感じです」  パンクロックは単に好き、というだけにとどまらない。 「ぼくに人生とって、パンクの存在は大きい。既成のものを壊して、新しい価値観をつくる。そういう意味では、ぼくの写真の作風の変遷や、30年間の行動は、まさに、パンク的だと思っています。自分がやってきたことを否定して、次に移行する。その流れがこの図録のなかにはっきりと表れています」  そのいちばんの原動力となったのは、「町を捨てたこと」と漏らす。 「塩竃を出たかった。こんな町にいたら、自分は腐ってしまうと思った。東京はパラダイス、地元は最悪って、よくあるパターンです(笑)」 田中泯「場踊り」より 2007年 (C)Itaru Hirama ■有名になりたい、外車に乗りたい  しかし、82年に上京し、日大芸術学部写真学科に入学したのは、「ここに行っておけば、誰も文句は言わないだろう、くらいの気持ち」でしかなかった。卒業に必要な最低限の授業だけ出て、映画研究会に没入した。 「真面目にやる気はまったくなかったですね。とにかく、写真学科とは関わりたくなかった」  大学卒業後は地元に戻らず、メディアで活躍する道を選んだ。 「実家が写真館だったこともあると思うんですが、ぼくは若いころ、『写真をやっている人』に対して、あまり好意を持っていなかった。なんか真面目で暗い感じで……。自分はそういう人たちとは違うんだ、みたいな意識があった。それで、派手なかっこうをしたり、ふざけたりしていた」  大手写真制作プロダクションに就職したものの、製品撮影の毎日。「自分が思い描いていたものとはだいぶ違った」。3カ月で辞めた。 「あのころ思っていたのは、広告や雑誌の世界でカッコいい写真が撮りたいとか、有名になりたいとか、外車に乗りたいとか。ほんとうに雑なイメージですね。そんな気持ちで通用するわけがない」 「NO MUSIC, NO LIFE.」より のん 2017年 (C)Itaru Hirama  86年、ニューヨークに留学していた友人を頼って、逃げるようにアメリカに渡った。 「ところが、友だちはすぐボストンに転校してしまい、ニューヨークにたった1人みたいな状況になっちゃった。そこで生まれて初めて、積極的に写真に取り組んだ」  帰国後、ニューヨークで撮影した写真を手に伊島さんの元を訪ね、アシスタントとなる。 「斬新なポートレートを撮っていた伊島さんは写真の処理に徹底的にこだわる人で、24時間、写真と格闘している感じでした。逆にぼくは現像や引伸しに凝るんじゃなくて、現場で何とかしようと思った。それが、『MOTOR DRIVE』につながった。特に現場のハードさとモノクロ表現が一致した」 「MOTOR DRIVE」より 1992年 (C)Itaru Hirama ■スナップ写真を撮るのをやめた理由  ポートレート写真には人物と対峙する難しさがある。 「こうしてくださいって指示を出すと、その人らしさが消えてしまう。相手の自発性が発揮される環境をどうつくるか。言葉をかけることもあるけれど、それはあくまでもきっかけ。話さなくてすむなら話さなくていいんです。撮影は、みんなでつくり上げる音楽のセッションみたいなもの。即興の演奏中に、次に弾くキーを言葉で叫ぶなんて、やっちゃいけないでしょ(笑)。アイコンタクト程度で、いかに次にボーンといけるか。やっぱり、そこが面白いわけです」  シャッターの音、リズム、撮影者の動き。すべてが、相手の気持ちをアップさせ、表情を引き出す要因になる。  そんな挑戦の場を、平間写真館に移してから7年になる。 「写真館は自分にとって、まさに現在進行形の活動の場なんです」  実は20数年前、能面のような表情だった平間さんが笑顔を見せた瞬間があった。「趣味で」撮り始めたスナップ写真について、「仕事を離れて素直な気持ちでシャッターが切れるのがいい」と、ほほえんだ。  ところが、「写真館を始めた途端、スナップ写真とか、日常をいっさい撮らなくなった」と言う。 「写真へのすべてのエネルギーを写真館に集中するようになった。だから、撮れなくなった。それでいいのか、という気持ちもちょっとはあったんですけれど、いまは、自分のテーマと写真館が完全に一致している。もう迷いはないです」  いつから、そう思えるようになったのか? 「この図録の色校正が出て、見た瞬間です」。つい、最近のことである。 「平間写真館TOKYO」より 2019年 (C)Itaru Hirama ■「命をちゃんと燃やして死んでいけそう」  写真館で人と向き合うのは「格闘」と、平間さんは言う。 「毎日でヘトヘトです。人はここまで疲れられるんだ、って思うくらい疲れる」  しかし、そう語る平間さんの表情は、出会ったころとは別人のように明るい。 「写真館で、ほんとうにいろいろな方と向き合い、撮影している。濃厚で激しい日々。そうしないと、この表情は引き出せないです。でも、すごくやりがいがある。命をちゃんと燃やして死んでいけそうな気がします」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】平間至写真展「すべては、音楽のおかげ Thank you for the photographs!」美術館「えき」KYOTO(京都) 4月2日~5月8日 「写真家・平間至の両A面」フジフイルム スクエア(東京・六本木) 6月10日~6月30日
すべては、音楽のおかげアサヒカメラフジフイルム スクエア写真家写真家・平間至の両A面写真展平間至美術館「えき」KYOTO
dot. 2022/03/31 17:00
「銀河鉄道999」タケカワユキヒデ語る誕生秘話「12時間で作曲」
「銀河鉄道999」タケカワユキヒデ語る誕生秘話「12時間で作曲」
大泉学園駅構内を見守る「車掌さん」(松本零士/零時社・東映アニメーション) 「銀河鉄道999」は1979年に公開され、ゴダイゴによる同名の主題歌とともに大ヒットしたアニメ映画です。謎の美女メーテルと少年・星野鉄郎が永遠の命を求めて宇宙を鉄道でめぐる物語で、主題歌は2008年、EXILEがカバーしたことで人気が再燃しました。  4月8日からは東京でミュージカル公演が予定され、鉄郎を中川晃教さん、メーテルを花總まりさんが演じ、ゴダイゴのリーダー、ミッキー吉野さんが音楽監督を務めます。もちろんこの曲も印象的な場面で使われる予定です。駅の発車メロディーとしては西武池袋線の大泉学園駅、山陽新幹線の新神戸~博多間の5駅で流れています。誕生のきっかけは1979年の映画化の際、制作元の東映動画(現東映アニメーション)のプロデューサーが当時、大人気だったゴダイゴに惚れ込み、主題歌に起用したことでした。  ■1970年代の「宇宙映画ブーム」、“日本版アニメ”の制作を  「銀河鉄道999」は、松本零士さんによる原作が1977年から1981年まで週刊漫画誌「少年キング」に連載されました。「999」とは「1000になると完成した大人、だから999は青春の終わりだ」と松本さんは著書「松本零士 創作ノート」(KKベストセラーズ、2013)で書いています。機械伯爵に母を殺された鉄郎が、永遠の命を求め、機械の体を得ようと、母そっくりの謎の美女メーテルと一緒に宇宙へ旅立つ物語で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の「星めぐり」をも思わせます。すぐ人気に火が付き、1978年から1981年までは、フジテレビで東映動画(現東映アニメーション)が制作したアニメ版が放送されました。  続いて東映動画による映画版の企画が持ち上がります。当時は「未知との遭遇」「スターウォーズ」など米国の実写版のSF大作映画が続々と公開されていました。こうした「宇宙ブーム」を受け、東映動画には「まだアニメの地位が映画界では低い時代で、社内は『新しい作品を作ろう』という高揚感に溢れていました」と、当時を知る東映アニメーション顧問の清水慎治さんは振り返ります。 タケカワユキヒデさん(事務所提供) ■作曲時間は12時間~タケカワユキヒデさん  映画化に当たり、プロデューサーの高見義雄さん(故人)は鉄郎の年齢を原作より上の15歳に引き上げました。「アニメーションが子供のものだけではない、本格的な映画を作りたいという事が僕らの願いでした。だから主題歌を含め、すべてテレビとは一新した取り組みをしたんです」と後に語っています。(「そして音楽が始まるー名曲に隠された感動のドキュメント」2003、マーブルトロン)  高見さんが主題歌を打診したのがゴダイゴでした。当時「ガンダーラ」「モンキーマジック」などのヒットを飛ばした人気絶頂のロックバンド。コンサートに足を運んだ高見さんは、子供から大人まで集まる熱気を感じ、英語で歌う様子に「彼らには新しい音楽への期待がある」と依頼を決めました(同書)  当時のゴダイゴは超多忙でした。打診は1979年4月から始まる全国ツアーの直前。映画の公開は同年8月に決まっており、逆算すると3月中に仕上げねばなりません。それでも「僕らにしかできないポップソングを作ろう」と仕事を引き受けます。コンビを組んでいた作詞家、奈良橋陽子さんの詞が、作曲とボーカル担当のタケカワユキヒデさんに届いたのは深夜12時、締め切りは翌日の正午と、作曲時間は12時間しかなかったのです。  奈良橋さんは、鉄郎が、空に昇っていく「999」を見上げるラストシーンの絵コンテをもとに、飛び立つイメージの英語詞を書いていました。キーワードは「Journey」。この詞をもとにタケカワさんは最初のメロディーを思いつきます。出来た途端「勝った。これはいい曲になる」と直感したとか。「最初に分かりやすいメロディーがあるのがゴダイゴ流。それまでのヒットに匹敵する曲を提供しないと、苦労が水の泡になる。プレッシャーはありましたが、時間がなかったので感じなくて済みました」。タケカワさんは12時間で曲を仕上げます。ややスローなテンポだった原曲をミッキー吉野さんが引き取り、躍動感のあふれたイントロをつけ、テンポを速めて完成しました。 大泉学園駅のロータリーにあるメーテルと鉄郎の銅像(松本零士/零時社・東映アニメーション)  主題歌は映画のラストシーンで「さらば銀河鉄道999、さらばメーテル、さらば少年の日よ」という、松本零士さんが書いたモノローグと重なり流れます。漫画家を夢見て、18歳で故郷の小倉から夜行列車で上京した松本さんの、旅立ちの記憶が刻まれたフレーズでもありました。  映画は大ヒット。公開初日には東京都心の映画館を早朝から長蛇の列が取り囲み、初回を繰り上げて上映したほどの人気を集めました。アニメやSF映画のファンに加え、鉄道マニアも惹きつけたことがヒットの要因とも言われました。  大ヒットにも関わらず、なぜか続編は制作されていません。清水顧問は「この作品を超える映画は作れないと考えたから」と話します。「映画も主題歌も大傑作。当時CG(コンピューター・グラフィックス)を使わずにあの映像を作ったのは我々の誇りなんです」。  でも関係者の間には、何かのきっかけがあれば続編を作りたいという思いは今もあるようです。「ネットフリックスやアマゾンプライムが1クール分作ってくれるという条件なら挑戦できるかな。作品は時代が作るもの。地球温暖化や米中対立など現代の課題を、宇宙のファンタジーに組み込むような新作を松本零士さんが書いてくれれば」と清水さんはニッコリ。 ■EXILEカバーでスタンダード化、日本の「Hey Jude」に  主題歌はEXILEが2008年にカバー、テレビCMで使われたことで人気が再燃し、スタンダード曲の仲間入りを果たしました。「一気に『ガンダーラ』を抜いて僕らの最大のヒット曲となりました。今やコンサートではアンコールの定番です。日本の『ヘイ・ジュード』(ビ―トルズ)ですか?そんな風に言われるようになったら嬉しいなあ」とタケカワさんは顔をほころばせます。  駅の発車メロディーとしては2009年から西武池袋線・大泉学園駅で、2016年からJR山陽新幹線の新神戸、岡山、広島、小倉、博多の5つの駅で流れています。いずれもこの曲が鉄道にゆかりがあり、広く知られる「旅立ちのメロディー」であるということが採用の理由ですが、大泉学園駅は、実は東映アニメーション、大泉スタジオの最寄り駅、そして同駅のメロディーは何とタケカワさん制作のオリジナルです。 大泉学園駅の高架下の大型イラスト(松本零士/零時社) 「お話があった当時は、まだポップスを駅のメロディーに使っている例が少なくて。参考に出来る音源がなく、長さとかどうしたらいいのかわからなくて。試行錯誤しながら作りました。何種類か出したうちから選んでもらったはずです。新幹線もそうなんですが、やはり駅で流れているのを聞くのは嬉しいですね」とタケカワさん。  今ではポップスのヒット曲が駅のメロディーで使われることも増えましたが、アーチストが実際に音源を手掛けているのは、GReeeNによるJR郡山駅の「キセキ」「扉」など、極めて少ないのです。  その大泉学園駅は、まるで「銀河鉄道999」の聖地のよう。駅ロータリーにはメーテルと鉄郎の銅像と、線路下を埋め尽くす大きなイラストがあり、駅構内には「999」の垂れ幕に、「車掌さん」のオブジェ。西武鉄道のイベントの際には「出張」もするのだとか。映画ではメーテルと鉄郎を見守っている車掌さんは、私たちをも静かに見守ってくれている存在なのかもしれません。 ■メーテル役の神田沙也加さん急逝、花總まりさん代役に ミュージカル「銀河鉄道999」イメージ画像  いっぽう4月8日に東京・日本青年館で開幕するミュージカル「銀河鉄道999」は、実は開幕が危ぶまれていました。メーテル役を務めるはずだった女優の神田沙也加さんが昨年12月に急逝したためです。神田さんは生前「メーテルは永遠の存在だなと感じていましたので光栄です」とコメントしていました。  代役を打診された花總まりさんは、神田さんが憧れ、目標にしていた女優でした。悩んだ末、出演を決めた花總さんは「公演が中止になってしまったら、さーや(神田さん)の舞台への思いも一緒に消えてしまいそうな気がしました。さーやと一緒に、心をこめて精一杯メーテルを生きたい」とコメントしています。  中川晃教さんは、ティーンエイジャーの鉄郎役に挑みます「鉄郎はひたむきに生きる人間の強さを秘めた少年で、生きる目的とは何か、みんなが幸せになりたい未来とは何かを考えています。その姿勢にメーテルは心を動かされていきます。この宇宙で『沙也加』という名の星が輝いてくれている限り、私たちの目的地を照らし、見守ってくれていると思います」と話しています。  いろんな人の思いをのせて「銀河鉄道999」は走り続けます。 (ジャーナリスト・藤澤志穂子)  ふじさわ・しほこ ジャーナリスト 元全国紙経済記者。早稲田大学大学院文学研究科演劇専攻中退。米コロンビア大学ビジネススクール客員研究員、放送大学非常勤講師(メディア論)、秋田テレビ(フジテレビ系)コメンテーターなどを歴任。著書に『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社、2019)、『出世と肩書』(新潮新書、2017)
銀座鉄道999
dot. 2022/03/31 12:52
カンニング竹山が参院出馬よりやってみたいなと思うこととは? キレ芸は封印も
カンニング竹山 カンニング竹山
カンニング竹山が参院出馬よりやってみたいなと思うこととは? キレ芸は封印も
カンニング竹山さん(撮影/今村拓馬)  新年度のスタート。お笑い芸人・カンニング竹山さんが新しく始めたいこととは。政界進出? 大学進学? そんな話題も浮上する中、難しい仕事に手を出して、ライフワークとして続けたくなったことがあるという。 *  *  *  新しく始めたいことはいっぱいあったんですけど、なかなかうまくいかないものですよね(笑)。うまくいっているものもあるけど、ほとんどがうまくいっていないのも現状です。 「いかにうまく生きるか」をすごく考えていますよね。正直、忙しいのは忙しいですけど、30代とか40代前半みたいに訳の分からないようにただこなしているのとは違います。余裕を持って生きる、それが大人だなって思うんですよね。程よく遊び、程よく仕事をしていく。芸能界にいると程よく仕事をするってことがなかなかできなくて難しい。周りを見ても「程よく仕事をしましょうよ」って言いながらみんなあくせくしているのが実情です。  新しいことをやろうとはしていますが、番組スタッフとも「あれをやってみよう」「これをやろう」とか話しているけど、なかなかうまくいかない。新しいことといっても、起業するとか何か他のビジネスを始めるということではなくて、そういったことには興味がないんでしょうね。  例えば参議院選挙に出馬とか、政治関係の仕事の話は色々言われてきたんですけど、結局、興味がないんですよね。極端な話、政治家って、他人の生活を預かるわけじゃないですか。そうなると片手間なんかで立候補とかはありえないですよね。どんな仕事でもそうですが、真剣にやらないとダメ。人生賭けてやるくらいじゃないといけないと思う。それよりも、今やっている仕事の方が楽しい。  新年度ですが、社会人になって大学に行く人がいますよね!? 番組でそのことを振られた時に「僕も大学に行きたいという気持ちはあります」と答えたことがあります。どうしてかと言うと、僕は予備校中退というか、予備校を途中で辞めて芸人になっているから。  わかりやすく説明すると僕にとってはキャンプと同じ。キャンプは、小さい時は子ども会などの集まりで参加したり、家族で行ったりしていた。でも、いつか大人になったら自分で車を運転してキャンプをしてみたいなという思いがあった。でも、大人になって手を付けていなかったところ、ここ数年、自分でキャンプをやってみたら楽しかった。バイクもそうで、いつか自分もでっかいバイクに乗ってみたいなと思っていた。番組の企画の流れでバイクの免許を取って、乗るようになった。  子どもの頃に「やってみたいな」と思ったことで、やり残していることってなんだろうって考えたときに、大学に行きたかったのに行ってないなと思った。社会人でも行かれるのであれば、挑戦してみてもいいかなという感覚ですね。  結構、芸能人でも大学に通っている人もいるので、「あぁ大学に行かれるんだな」とは思います。でも、まだ自信がないというか、大学での勉強にそこまで夢中になれるのかなというのもある。  だんだん大人になると学びたいという気持ちが出てくるけれども、直近、やらなければならない仕事を積み残している状態だから、それを投げ出して大学で学ぶのは無理だろうなと思っている。  大学に行くことに興味が再び湧いたのは『今君電話』という番組のをやるにあたって、半年間、講義を受けたのが面白かったというのもありますね。最初は、面倒くさいというか、運転免許教習所の学科と同じで「めんどくせーな」って感じで、講義を受けてみたら、知らないことを学べて意外と楽しかった。  今君電話とは『今君電話/カンニング竹山が、あなたの話を電話で聞きます』(Eテレ)という番組で、SNSに公開された電話番号に連絡すると僕と話ができる電話相談番組です。  今君電話を制作するにあたり、2021年春から夏にかけて大学の先生から90分の講義を10コマ受けていました。福島で知り合ったディレクターと何か番組をやろうと話していて、「電話相談をやってみません?」と言われたのがきっかけ。そもそも電話相談ってどうしたらいいのか? 相談を受けるとは? などから始まって、本当に電話相談を受けるならば、大学で資格を取らないとダメだということがわかった。 写真はイメージ(GettyImages)  どういう悩みがくるかわからないし、もしも「死にたい」という悩みがきたらどうするのか? それを一個人の考えで「死んじゃダメだよ」って言えるの? という話。「それなら学校に通います」って言ったら、資格取得には2~3年かかるのだそう。2~3年はさすがに無理だな……って思っていたら、資格は取れないけど、個人で講義を受けることは可能ということで、色々な心の病気のことや人間の心理、電話相談とはということも学びました。  電話相談というと、今までのテレビやラジオの番組では、タレントなどが悩みに対して発した言葉を「名言!」とか「お悩み解決!」とか「その回答にみんな共感!」などと、番組を引き立たせるために演出してきた。  そんな演出は、相談者を苦しめることになるのでやってはいけないことだというのも講義を受けて学んだ。ズバリ回答したほうが、番組としても面白くなるし、相談者にとってもいいと思っていたけど、決してやってはいけないことだった。他人の悩みを電話で聞くというのは「大変なことなんだ!」と怖くもなった。、  講義で学んだ一番大切なことは、話をずっと聞くことなんですよね。相談者は誰にも言えなくて、ストレスを抱えてしまっている。それを聞いてあげるのが電話相談。相談者は匿名で身元がバレないし、僕の顔を知っているから、全部話してくれるんですよ。話したことで、みんなスッキリしている。誰かに話したかったという人が多く、答えを求めているのではなかったりする。  準備にはものすごい時間がかかりましたね。だからと言って視聴率がいいというわけでもなく(笑)。でも、相談者が喜んでくれて、いい番組に携わることができてよかったなというのはありますよね。再放送(4月5日14:30~)があるので見てもらいたいですが、見てもらいたいって言い方もヘンかな(笑)。  NHKさんが許してくれるのであれば、準備期間にたくさんの時間をかけてきたし、相談してくれた人も喜んでくれたし、こっちも勉強になったので、まだまだ続けていきたい番組です。電話の収録だけで、2~3時間かかり、それを6~7本撮るんですよ。30分間の番組に10日間くらいかかるんです。だから、もっともっと見てもらいたいというのはあります。  タレントにとってメリットはなく(笑)、僕はメンタルは強いと思っていますが、精神がすり減って疲れてしまうだけという……。夜中12時過ぎ電話収録が終わって、家に帰って、「あぁ、あの人、大丈夫だったかな……」なんて思ってしまったり、逆にハッピーな時もありますよ。いい人としゃべれたなとか。  一番難しいことに手を出してしまったなとは思うものの、講義は受けてよかった。また、ライフワークになったらいいなとまで思っている。そこまで思えたのは、自分には今まで見えなかった性格とも芸風とも全然違うことに挑戦してみたから。今までは「うるせぇな!」「しゃべんな!」とか言う生き方をしてきたんだけれども(笑)、それを全否定され、人と向き合って話をじっくり聞いてみたわけです。もちろん、これからも「うるせぇな!」ってキレる仕事もやりますけどね(笑)。 ■カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。オンラインサロン「竹山報道局」は、昨年4月1日から手作り配信局「TAKEFLIX」にリニューアル。ネットでCAMPFIRE を検索→CAMPFIREページ内でカンニング竹山を検索→カンニング竹山オンラインサロン限定番組竹山報道局から会員登録
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dot. 2022/03/30 11:30
すでに十数回の大統領暗殺を阻止…プーチンをイラつかせるイギリス特殊部隊「SAS」の仕事ぶり
すでに十数回の大統領暗殺を阻止…プーチンをイラつかせるイギリス特殊部隊「SAS」の仕事ぶり
※写真はイメージです(GettyImages)  なぜロシア軍はウクライナの掌握に苦戦しているのか。在英ジャーナリストの木村正人さんは「情報戦を支える英米の存在は大きい。イギリスの英特殊空挺部隊(SAS)も陰でウクライナ軍を支えており、すでにゼレンスキー大統領の暗殺は十数回阻止されている。その役割は大きいとみられるが、決して表には出てこない」という――。 ウクライナを救い続けるイギリスの特殊部隊「SAS」とは  ロシアによるウクライナ侵攻がいまだ終息の兆しを見せない中、英大衆紙によると、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は強力な防諜網により十数回の暗殺計画を生き延び、複数の工作員を殺害した(同大統領顧問)という。  既に報じられているように、数だけで見ればウクライナ軍に対してロシア軍の規模は圧倒的だ。にもかかわらず首都キエフはいまだ陥落せず、むしろロシア軍の侵攻をはねのけている。  そのウクライナ軍を支えているとされるのが、英特殊空挺部隊(SAS)だ。  SASは、要請さえあればすぐにゼレンスキー大統領を救出できるよう、70人が米海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)150人と共に、バルト三国の一つ、リトアニアの僻地にある軍事基地で夜間訓練を重ね、スタンバイしているという。  そのSASとは何者なのか。ゼレンスキー氏と連日のように電話で連絡を取るボリス・ジョンソン英首相のマックス・ブレイン報道官は16日、筆者の質問に「SASについてはお答えできない」とだけ語った。 特殊任務の実態については「藪の中」  SASはただ訓練を重ねているだけではない。  ロシア軍侵攻前に100人以上のSAS隊員などがウクライナに送り込まれ、軍事顧問として同国の特殊部隊に対空・戦車ミサイルの使い方や狙撃、破壊工作などの訓練を施していると報じられた。暗殺防止策も含まれているのは想像に難くない。  関与しているのは現役部隊だけにとどまらない。イラクやアフガニスタンで戦ったSASの退役軍人による精鋭チーム十数人も欧州諸国の資金で民間軍事会社に雇われ、ウクライナ入りしたとされる。さらに十数人が現地に向かったという。  13日にはウクライナ軍が外国人義勇兵の訓練に使用としているポーランド国境近くのヤーヴォリウ軍事基地がロシア軍の攻撃を受け、少なくとも35人が死亡、うち3人は元英軍兵士だと英紙デーリー・テレグラフは伝えた。これについてもブレイン報道官は「英政府は確認していない」と口を固く閉ざした。  SASの特殊任務については情報公開が求められる時代になっても、依然として厚いベールに覆われている。表沙汰になると外交問題や自国を巻き込んだ戦争に発展する恐れがあるからだ。すべてが「藪の中」だ。 キエフに潜伏する400人の傭兵暗殺部隊  アメリカのバイデン政権はロシア軍の侵攻前、「ロシア軍は殺害または収容所送りにするウクライナ人のリストを作成しているとの信頼できる情報がある」とミシェル・バチェレ国連人権高等弁務官に伝えた。ゼレンスキー氏は「私はロシアの一番のターゲットで、家族は二番目だ」と公言する。  ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は大軍でウクライナに攻め入ればゼレンスキー政権は瓦解し、キエフ市民に歓喜の声で迎えられると信じていた。しかし元コメディアンのゼレンスキー氏はオンラインで感動的な演説を繰り返して世界中を味方につけ、「悪役」プーチン氏を孤立させた。ゼレンスキー氏はプーチン氏にとって今や不倶戴天の敵である。  プーチン氏最大の目標はゼレンスキー氏を取り除き、親露派の傀儡政権をキエフに樹立することだ。英紙タイムズによると、ロシア民間軍事会社ワグナーグループの傭兵やチェチェン共和国の特殊部隊がウクライナに送り込まれたが、ロシア情報機関の連邦保安局(FSB)内の反戦グループがウクライナ側に通報し、暗殺計画はいずれも未遂に終わったとされる。  ワグナーグループの傭兵は2カ月近く、ゼレンスキー氏暗殺と政権転覆を企て、ウクライナに潜伏している。彼らはキエフだけで400人が潜伏しているとされ、24人の重要人物を追跡しているという。ウクライナ侵攻のスキをついて暗殺を実行、特務終了後は露特殊部隊スペツナズと合流し、キエフから脱出する手はずだった。 ゼレンスキー大統領の生死が戦争の行方を左右する  また、英紙タイムズによると、ロシア連邦を構成するチェチェン共和国のラムザン・カディロフ大統領の特殊部隊も、ゼレンスキー氏に近づく前に排除されたと報じられている。ロシア軍はウクライナ軍の後方を取るため主要都市にヘリで空挺部隊を展開させるが、ヘリが撃墜されるなど死傷者が多数出ている模様だ。ロシア連邦国家親衛隊もキエフ西郊に送り込まれ、市街戦に備えている。  ロシア軍にとって最大の目標はゼレンスキー氏を生け捕りにするか、殺害してしまうかだ。祖国防衛の先頭に立つ指導者を失えばウクライナ軍や義勇兵の士気は落ちる。アメリカから「キエフを離れて安全な場所に移動した方がいい」とアドバイスされたゼレンスキー氏は「必要なのは逃げるための乗り物ではなく弾薬だ」と一蹴したとされる。  ロシア軍の侵攻が始まったばかりの2月25、26日には大統領府などキエフ中心部からSNSに投稿していたゼレンスキー氏だが、その後は場所が特定されないよう注意を払っている。米政府はゼレンスキー氏に安全な衛星電話を提供し、連絡を取り合う。ゼレンスキー氏の生死が戦争の行方を左右すると言っても過言ではない。 体力、決断力、知性が求められるエリート部隊  ゼレンスキー氏から要請があれば、すぐ救出に動けるよう訓練を始めたのが、第2次世界大戦中、北アフリカ戦線を後方から撹乱するために創設された英SASと、国際テロ組織アルカイダ最高指導者ウサマ・ビンラディン容疑者を潜伏先のパキスタンで殺害した「ネイビーシールズ」だ。両者とも軍の精鋭を集めたエリート中のエリート部隊である。   特殊部隊の元祖とも言える英SASの選抜試験は極めて厳しい。主に陸軍と海兵隊からの応募者は極限の肉体的・心理的試験に合格しなければならない。合格するのはごく一握りだ。  英ウェールズのブレコン・ビーコンズ連山における5回の時間制限付き行軍、装備を身につけたままの水泳、ジャングルでのサバイバルコース、捕獲回避や尋問への抵抗に関する試験が含まれる。決断力、持久力、適応力、知性など求められる資質は多岐にわたる。SASに配属された隊員は現場で直面する困難に対応するため継続的に過酷な訓練を繰り返す。 第2次世界大戦中に結成された「一匹狼」軍団  SASの歴史を振り返っておこう。  第2次世界大戦中の1941年、英軍は北アフリア戦線で「砂漠の狐」と恐れられていたエルビン・ロンメル将軍率いるドイツアフリカ軍団に苦しめられていた。英陸軍士官だったデービッド・スターリング(1915~90年)はドイツ軍の空挺部隊を見て、敵の後方に高度な訓練を受けた少数の精鋭部隊を落下させれば、ドイツ軍の航空戦力を破壊できると思いついた。  スターリングは優等生タイプではなく、長身で怠惰だったことから「巨大なナマケモノ」と呼ばれていた。エベレストへの初登頂や芸術家になることを夢見る夢想家だった。  第2次世界大戦で戦闘機や爆撃機、戦車など工業力が勝敗を分ける傾向が一層強まる中、スターリングは鍛え抜いた強靭な肉体と不屈の魂を兼ね備えた少数部隊による後方撹乱こそが戦況を変えると信じて疑わなかった。  スターリングは試しに自ら輸送機からパラシュートで落下した際、傘のセルが破れ、着地の衝撃で両足を痛めた。療養中にドイツアフリカ軍団の後方の砂漠が無防備になっていることに気づき、後方からドイツ軍の航空戦力を破壊する作戦を立案した。カイロの中東総司令部首脳に直訴してSASの結成を許される。  後方撹乱を遂行するため自分の判断で動ける「一匹狼」の兵士が集められた。短期間で過酷な訓練が行われ、負傷者が続出した。初出撃となった同年11月、最大級の暴風雨に襲われ、55人のうち生還できたのは21人。作戦は大失敗に終わった。しかし迎えのトラックが合流地点まで無事往復できたことから、地上から相手の後方に回る作戦に切り替える。 スローガンは「挑戦する者だけが勝利する」  SASは米製小型四輪駆動車ジープで砂漠を駆け巡り、ドイツ軍の航空機を次々と爆破する。ドイツ軍は砂漠から敵が現れるとは想像していなかったのだ。大胆不敵に出没したスターリングは43年1月、敵に捕らえられるが、それまでに地上で250機以上の敵機、数百台の車両、大量の貯蔵物資を破壊した。  英軍の指揮官バーナード・モントゴメリー陸軍元帥はスターリングを「この野郎はかなり、かなり、かなりイカれている。しかし戦争はしばしば、そんなイカれた野郎を必要とするのだ」と荒っぽい言葉で称賛した。スターリングの独創的な発想と不屈の行動力は大戦の流れを変えたのだ。  SASのスローガンは「挑戦する者だけが勝利する」だ。大戦が終わるといったん解散されたが、冷戦が始まるとすぐに復活した。マラヤ(現マレーシア)危機、オマーンでの反乱、ボルネオ作戦に従軍したほか、北アイルランド紛争ではアイルランド共和軍(IRA)のテロリスト壊滅作戦を展開する。しかし秘密任務のためSASの存在が表に出ることはなかった。 SASの名を世界にとどろかせた「イラン大使館占拠事件」  SASの名を世界中にとどろかせたのは1980年にロンドンで起きた駐英イラン大使館占拠事件である。イランの囚人解放と自分たちの出国を求める6人のイラン人武装グループが26人を人質に取って大使館に立て籠もった。武装グループは人質5人を解放したものの、6日目に1人を殺害した。  このためSASが屋上から降下して窓から突入、武装集団6人のうち5人を殺害した。作戦で人質1人が犠牲になったが、残り全員が無事解放された。この様子は世界中にテレビ中継された。  82年のフォークランド紛争など、SASはイギリスが関与したほとんどの戦争や紛争に派遣されている。96~97年の在ペルー日本大使公邸占拠事件でも英SASの6人がペルー当局にアドバイスするため現地に飛んでいる。  SASは空挺部隊だけでなく舟艇部隊、偵察部隊、信号部隊の4チームからなる。一騎当千の精鋭が集められ、どんな状況でも隠密裡の監視、偵察、人質救出、潜入捜査、テロ・反乱対策の特殊任務を遂行できるよう想像を絶する厳しい訓練が課される。 常に5歳児並みの装備を担ぎ、排泄物すら残さない  SASの下級隊員は他部隊の上級隊員に匹敵するほど高い能力を有する。4週間、補給なしで行動できるよう3~5歳児と同じ重量の装備を担いで行動する。  敵に見つからないよう砂漠やジャングルなど状況に合わせて身体をカムフラージュし、排泄物も回収して現場に残さない。フォークランド紛争では砂糖とミルクを混ぜた粉末を水で溶かして最後の7日間、飢えをしのいだ。語学や射撃、サバイバル能力に長けている。  駐英イラン大使館占拠事件当時、SAS司令官だったピーター・ドゥ・ラ・ビリエール氏(87)は「ジャングルや砂漠、ロンドンでの対テロ作戦は体力的にもタフであることが求められる。全員が非常に厳しい試験に合格した強者だ。決然として自分の意思を持った人物でなければならない。何か魔法があると考えられるが、そんなことはない。非常に苦しい訓練のたまものだ」と語っている。 戦闘に長けた「人情味あふれる鬼軍曹」  一見すると、米アクション映画『ランボー』そのままの「戦闘マシーン」のイメージだ。最近では英メディアに登場する元SAS隊員も増えてきた。過酷な訓練と任務に耐えてきただけに、人情味にあふれる鬼軍曹のイメージを漂わせる元隊員もいる。  シエラレオネで人質救出作戦に加わったフィル・キャンピオン氏(53)は著書『Born Fearless』がベストセラーになり、退役軍人のための慈善活動に取り組んでいる。  ウクライナへ支援物資を送る作業を手伝ったキャンピオン氏はSNSで「前線の兵士に渡す食料であろうと、道端の老人に渡す毛布であろうと、どんな小さなものでも助けになる。あなた1人じゃない、イギリスの私たちもあなたのことを心配しているとメッセージを送ることができる」とより多くの人に寄付するよう呼びかけている。  しかしイギリスの若者がウクライナでの戦闘に参加することについては「戦場は地雷原のようなもので、さまざまな問題を引き起こす恐れがある。だからウクライナに行って戦うことは勧めない」と警告を発している。それでも現地に行くなら間違ってもフォロワーを増やそうとSNSで発信するようなバカな真似はしないよう釘を刺した。  ロシア軍に居場所を教えることになるからだ。キャンピオン氏は「恐怖の捕虜収容所に放り込まれたり、人質としてビデオカメラの前に立たされたりする恐れがある。なぜウクライナに行きたいのか、その主な理由を明確にすることだ。本当に重要な理由がない限りウクライナに行って戦わない方がいい」とアドバイスしている。 木村 正人(きむら・まさと)在ロンドン国際ジャーナリスト京都大学法学部卒。元産経新聞ロンドン支局長。元慶應大学法科大学院非常勤講師。大阪府警担当キャップ、東京の政治部・外信部デスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。Facebook /Twitter 
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プレジデントオンライン 2022/03/29 18:00
地上波で見ないのに年収2億円「ジャルジャル」の稼ぎ方
藤原三星 藤原三星
地上波で見ないのに年収2億円「ジャルジャル」の稼ぎ方
お笑いコンビ・ジャルジャル。左から福徳秀介、後藤淳平  石橋貴明や宮迫博之、江頭2:50など、YouTubeを主戦場にするお笑い芸人が多くなってきた中、はるか前より動画配信によるマネタイズを模索し、成功しているのがお笑いコンビのジャルジャルだ。  ジャルジャルは、高校時代の同級生だった後藤淳平(38)と福徳秀介(38)が2003年に結成。デビュー直後から賞レースで結果を出し続け、2009年には「爆笑レッドシアター」(フジテレビ系)にレギュラー出演を果たし、翌年からは「めちゃ×2イケてるっ!」(同)のレギュラーメンバーに合格。その後、破竹の勢いで全国ネットの番組にまで勢力を伸ばしてきた。 「実は、ジャルジャルはNSC時代からトップクラスのスーパーエリートだったんです。関西ローカルでは彼らの冠番組が深夜帯で何本も生まれ、吉本興業としては“第二のダウンタウン”として売ろうとしていた。しかし、ナインティナインや千鳥などに比べ、うまくバラエティー対応ができなかった。その理由として語られているのが、ジャルジャルの2人が学生時代に部活に打ち込みすぎてテレビを見ていなかったからという逸話です」(在阪テレビ局ディレクター)  結局、その時はテレビの流れに乗れず、大きくブレークすることはなかった。2020年に念願だった「キングオブコント」で優勝を果たしたが、ジャルジャルの地上波の露出は依然として少ないままだ。知名度も実績も申し分ない今なら、もっとテレビ出演が増えてもいいはずだが、一体なぜなのか。民放バラエティー班プロデューサーはこう語る。 「彼らは漫才もやりますが、あくまでもコント師。テレビに出ないことに対して、さまざまなインタビューで『仕事を選んでいるわけではない』と言っていますが、そうやってけむに巻くのが彼らのスタイルで、実際は相当仕事を選んでいると思います。2人とも芸人としてのスキルが相当高いので、ひな壇でフリオチを構築し、みんなで笑いを取るという今のバラエティーができないわけではないのですが、得意ではないのでやらないのでしょう。非凡なセンスで笑いを生み出してきた彼らにとって、今のバラエティーでは埋没しやすい。それに、一期後輩のかまいたちがここまでブレークした以上、自分たちは違った方法で、という思いもあるのでしょう」 第34回ABCお笑いグランプリで優勝したジャルジャル=2013年1月27日、大阪市北区の朝日放送    ジャルジャルがテレビよりも力を入れているのがYouTubeだ。メインのチャンネルである「JARU JARU TOWER」は登録者数131万人。2018年2月からジャルジャルのコントを毎日1本ずつ配信し、今では2000本を超える動画がある。将来的には合計8000本のネタを投稿する予定で、「2039年11月8日にネタのタワーを完成させる」というコンセプトを掲げている。 「年2回の単独ライブのために300本のネタを作ると言われている彼らだから毎日更新できるのであって、ほかの芸人ならまず無理でしょう。今はYouTubeで十分収益があるため、あえてテレビを遠ざけることでコント師としてのブランディングをしていると思いますよ。実際、テレビ離れが加速している今、ジャルジャルのようなテレビサイズではない作り込まれた笑いに魅了される人は非常に増えています。YouTubeではネタが毎日配信されるので、サブスク的な楽しみ方もできます。テレビを見ない若い層からの支持率は絶大です」(前出のプロデューサー) ■サロン会員をコントに出演させる  加えて、彼らはただYouTubeでネタをやっているわけではない。チャンネルにはさまざまな斬新な仕掛けがあり、視聴者を飽きさせない。放送作家はこう語る。 「2020年に『JARU JARU ISLAND』という別のチャンネルも立ち上げたのですが、こちらはコントで演じたキャラクターにスポットを当てた内容。彼らがやっている有料オンラインサロンの会員と一緒にリモートコントを作ったり、会員自らが出演してジャルジャルとコントするという斬新なチャンネルです。女優ののんやアーティストのYOASOBIら豪華なメンバーとのコラボも話題で、論破王・ひろゆきが出演したコントは神回として伝説になっています。先日、関西のローカル番組でジャルジャルの年収を試算するという企画がありましたが、YouTubeやオンラインサロン、単独ライブなどの合計で約2億円というリアルな数字が紹介されていました。テレビのレギュラー番組がゼロにもかかわらずミリオネアになれたのはお笑い界では異例でしょう」 第34回ABCお笑いグランプリで優勝したジャルジャル=2013年1月27日、大阪市北区の朝日放送    売れれば売れるほど高額になるテレビのギャラには依存せず、自らのフィールドのみで大成功を収めているジャルジャル。これはやはり、彼らがコント師としてのスキルを究めてきたこそなせる業だろう。 「やはりネタを作る力が飛び抜けて高い。彼らがネタを作る際、作家もマネージャーも入れず、ふたりだけで作り上げていくのは有名な話。“余計な意見”が一切介在しないからこそ、年間300本も量産できるわけです。また、テレビのバラエティーどころかダウンタウンのコントにも触れてきてないため、笑いの作り方がほかの芸人とはまったく違うという側面もあります。彼らは、ダウンタウンの流れをくまないコンビとして有名ですが、松本人志さんは過去M-1で『(ジャルジャルが)一番おもろかった』と褒めたほどです」(前出の放送作家)  お笑い評論家のラリー遠田氏はジャルジャルについてこう述べる。 「ジャルジャルというコンビを一言でたとえると“コントを量産する工場”です。彼らはデビュー以来、黙々と質の高いコントを作り続けてきました。良質なコントを大量に作るだけでもすごいことですが、面白く演じる演技力も備わっているので、非の打ちどころがありません。もともと周囲の状況に関係なく、自分たちのペースでネタ作りを進めてきたタイプなので、コロナ禍で営業やテレビ出演の機会が減っている今の状況は、むしろ彼らにとって好都合なのかもしれません。圧倒的なネタの質と量を誇る彼らは、もともとYouTube向きの芸人だったので、これからも時代の流れに関係なく、ずっと面白いコントを作り続けていくはずです」  新しい形でお笑いをマネタイズするジャルジャルには、まだまだ注目が集まりそうだ。(藤原三星)
ジャルジャル
dot. 2022/03/27 11:30
「猫をNYまで運んでくれませんか」 海を渡った埼玉出身キジトラみーちゃんの命のバトン
水野マルコ 水野マルコ
「猫をNYまで運んでくれませんか」 海を渡った埼玉出身キジトラみーちゃんの命のバトン
いたずらした後、トボけた表情をするみーちゃん(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回、話を聞かせてくれたのはニューヨーク在住の日米の 公認会計士、須能玲奈さん。在米12年の 須能さんが一緒に暮らしているのは、2年前にコロナで急逝した友人が飼っていた猫です。悲しみのなか引き継いだ愛しい命と、不思議なご縁について話をうかがいました。 *     *  * 現在、私はマンハッタンのマンションで2歳11カ月のキジ猫と暮らしています。名前はMii Mii、愛称は「みーちゃん」。2020年4月、ニューヨークがロックダウンになった直後に迎え入れました。 須能さん宅に来て6日後、大胆にくつろいで……(提供)  みーちゃんは小柄だし名前もメスのようだけれど、オス。そして生まれはアメリカでなく、埼玉県なのです。  みーちゃんがどうしてアメリカに来て、どのように私と出会って生活を共にするようになったか。  その前に、私の話を少し…。  私は幼少のころから英語が好きで、大学では国際交流のサークルに入り、卒業後は日本の監査法人の国際部に勤めていました。海外で暮らすことが長年の夢で、大学時代にニューヨークを旅した時に「あ、この街 だ」と直感。それから10年後の2009年の夏に学生ビザで渡米しました。 初めは語学学校に通い、その後、就職してこの街で暮らし始めたんです。  昔から動物、とくに猫が好きで、こちらでも「いつの日か」と思ってはいました。しかし、出張が多く 、すぐに飼う余裕はなかったのです。 埼玉で保護された赤ちゃん時代のみーちゃん(提供) ◆渡米もドラマチックだった  みーちゃんは元々、ニューヨークに住むマリさんという日本人の友人の飼い猫でした。  ファッションコンサルタントのマリさんは、気さくで、背が高く おしゃれで恰好よい方。生き方もすてきで、20代で日本のトップデザイナーのもとでデザインを学び、その後ニューヨークに渡って、ファッション業界で長くキャリアを築いてこられたのです。  共通の友人を通じて、2019年2月にファッションコンサルをお願いしたのが、私とマリさんとの出会いです。  マリさんは歯に衣着せぬストレートな物言いが特徴で、着ている服がその人に似合っていないと「あなたの良さを引き出していない。早くその服は捨てなさい!」とはっきり言うこともしばしば。でも、マリさんは、それぞれの人に似合った洋服選びが得意で、マリさんが選んでくれた洋服を着ると、皆に「いいね」と褒められるんです。家も近く、その後、マリさんとお茶を飲むような仲になりました。  マリさんは、 私と知り合った半年後に、みーちゃんを飼い始めました。みーちゃんは、埼玉県に暮らすマリさんのご家族が生後1ヵ月の時に保護した“野良の子”。その埼玉のおうちでは飼えなかったので、ご家族が 引き取り手を探していた時に、「こんなにかわいい子なら私が引き取る!」と言って、アメリカまでやって来ることになったのです。 アメリカに発つ前に緊張するみーちゃん。飛行機で鳴いたそう(提供)  みーちゃんの渡米がまたドラマチックでした。マリさんが「近々日本からNYに来る方で、このかわいい猫を運んでくれる方はいませんか」とFacebookに投稿すると、東京在住の三味線奏者の方が「いいですよ(仕事時に連れていきます)」と名乗り出てくれたのです。しかも、動物を貨物室ではなく座席における飛行機にわざわざ乗り、空港でマリさんに渡したそうです。  振り返れば、さまざまな人がかかわり、みーちゃんを守ってきたんですよね。  もちろん、マリさんはみーちゃんを溺愛し、Facebookもみーちゃんの写真で溢れていました。  2020年2月上旬、ふいにマリさんから「5月に2週間旅行するので、その時はみーちゃんの世話を頼みたい」と連絡がありました。30年来の親友にお願いするはずが、その方が ご病気になったため“信頼できる友人”として、私を指名してくれたそうです。出会ってまだ1年でしたが、猫好きということで信頼し、慕ってくれたのかもしれません。  そういえば以前、マリさんに「私もいつか猫を飼うつもり」と話すと「じゃあいつか互いの猫を連れて公園でデートしましょう」なんて言われたこともあったけな。 マリさんの家にあった猫ベッドに入るみーちゃん。仕草や表情が人間みたい(提供) ◆マリさんの急変とみーちゃんの救出  そんなマリさんが高熱を出したのは、(みーちゃんの預かりの件で)私が連絡 をもらった1か月後、2020年3月のことです。コロナが世界中で猛威を振るい始めていました。マリさんはすごく気を付けていたのに、コロナに感染してしまったのです。  マリさんは病院に電話をしてもなかなか対応してもらえず、近所の友人たちが届けた解熱剤を飲んで家で闘病し、10日後にやっと入院……。みーちゃんはぽつんとマリさん宅に残されていたのです。入院翌日、マリさんは薬を届けてくれた友人の一人に「餌をあげてほしい」と連絡し、その方がみーちゃんを一時的に引き取りました。  しかし、その方も長期に世話をするのは難しかったようで、数週間して「どなたかみーちゃんの面倒をみてくれたら」とFacebookに記されていました。その言葉に私は即座に反応しました。マリさんは「旅行時には世話を頼みたい」と言ってくれていたので、今度は私が預かろう、と 思ったのです。  そうして4月17日、私はみーちゃんを迎えに行きました。なにしろ当時のマンハッタンはゴーストダウン。不要不急で外に出にくい時期でしたが、みーちゃんの引き取りは必要火急と思い、ガラガラの電車に乗って行きました。  みーちゃんは保護猫で、 すごく人見知り。迎えに行ったらトイレの奥に隠れてしまった。それで4時間くらいその友人宅でお喋りをしながら待ち、そろそろ平気かな?と思ったころに、ケージにいれて自宅に連れて帰りました。 窓辺に置いたマリさんの家から持ち帰ったキャットタワー(提供) 新調したキャットタワー、夜はここで「おやすみ~」(提供) ◆大好きなマリさんを思い出していたのでしょう  みーちゃんがわが家に来た晩のことは今でもはっきり覚えています。  みーちゃんは自宅につくと、緊張のあまり玄関にうずくまってしまいました。そのまま2時間ほど経過。私がリビングでストレッチをしていたら、ふわ~っとした感覚が足にあり、見るとみーちゃんが傍らに。「あ、初めての挨拶をしてくれんだ」と感動しました 。寝る時にも、ベッドの足元に来てくれました。  翌日にはふつうにごはんを食べて、トイレにも行きました。  来たころは、まだ遊びたい盛りで、1メートルくらい離れたところからばっとじゃれつくことも多かったです。こんなふうに遊びながら、「マリさんの帰りを待てれば」と思いました。  共通の友人たちと共にマリさんの回復を願い続けた日々。マリさんの友人たちとお見舞いの動画を撮って病院に届けることになった時、私はみーちゃんを膝に乗せ、「みーちゃんを大切にお預かりしているので、早く元気になってね」とメッセージを送りました。  残念ながら、マリさんは家に戻ることなく、4月29日に旅立ちました。みーちゃんに再び会うこともなく、どんなにか無念だったことでしょう……。  みーちゃんが少しでも快適に暮らせるようにと、友人の協力でマリさんの家からキャットタワーと猫ベッドを我が家に持ってきていました。みーちゃんはキャットタワーには乗るのにどういうわけか猫ベッドには全く興味を示さなかったので、「なんでこれ使わないの?」とずっと話しかけていたんです。  マリさんの訃報が届いたのは、みーちゃんが初めてその猫ベッドで朝を迎えた日のことでした。 みーちゃんも、大好きなマリさんを思い出していたのでしょうか。 須能さんの作業イスが大好き、時にはみーちゃんと 仲良く半分ずつ使う(提供) オンライン書道教室に乱入(提供) ◆みーちゃんとの不思議な繋がり  ママをなくしたみーちゃんは、気づけば私にべったりになっていました。   トイレにもついてくるし、シャワーを浴びる時も待っている。狭い部屋なのですが、とにかく私のいくところに合わせて移動している感じです。  今は夜に一緒には寝てくれない けれど、ベッドの上で遊ぶのが“お決まり”で、家での仕事中に席を立つと、みーちゃんがベッドに乗って「一緒に遊ぼう!」と待機するんです。  出先から帰った時、手を洗ったりしてもたもたしていると「はやくー」というようにベッドで鳴いて。朝は目覚ましが鳴るとどこからかすっとんできて、私が起きるとベッドに飛び乗って「にゃあ(おはよう)」と挨拶をします。起きる時間が普段とずれてもごはんの催促で起こされたことは一度もないですし、「空気を読む」んですよね。  みーちゃんにとってマリさんはママだったと思うけど、私のことは恋人と思っているのかもしれません。先日、家で仕事中、ズームで男性と話していたら、膝に乗って静かにしていたみーちゃんが急に暴れて、私の腕を激しくひっかいたのです。普段は穏やかなみーちゃんが「妬いてる!」とびっくりしました。 みーちゃんを抱いて、ズームで話をしてくれた須能さん  私、みーちゃんとは深い縁があり、会うべくしてあったのかなとも思うんですよね。  マリさんが亡くなり、自分がみーちゃんの正式な保護者になる時に、埼玉のマリさんのご家族からの獣医さんの記録や資料をいただきました 。それをめくっていたら、保護された場所は(埼玉県)和光市白子と書いてあって、地図を見たら、都内の私の生家 から車でわずか20分程度のところ。さらには、私にマリさんを紹介してくれた友人に「白子という町を知ってる?」と聞いたら「私、白子出身だよ」というので、2度びっくりでした。  友人を介してマリさんと出会い、リレーのようにバトンが渡されて、みーちゃんの命が繋がって、今こうしてかけがえのない存在として目の前にいる奇跡を日々感じています。みーちゃんとは最初から自然な感じで気がぴたりと合っているし、やっぱりもともと繋がっていたソウルメイトなのかもしれません。  実は、「猫を訪ねて三千里」を教えてくれたのは、東京の母でした。みーちゃんのことを 皆さんに読んでいただけたら、天国のマリさんも喜んでくれるかもしれない、と思って応募しました。  マリさん……みーちゃんはとても元気ですよ。「みーちゃんが最大限幸せに」ということをモットーに、マリさんの愛したニューヨークでずっと暮らしていきます。だからどうか、安心してくださいね。 (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
ねこみーちゃんネコ三千里
dot. 2022/03/26 14:00
コロナ禍の“無名の人々”描く『東京ルポルタージュ』「弱きものはしたたかでもある」
コロナ禍の“無名の人々”描く『東京ルポルタージュ』「弱きものはしたたかでもある」
 ノンフィクション作家の後藤正治さんが選んだ「今週の一冊」。今回は『東京ルポルタージュ 疫病とオリンピックの街で』(石戸諭、毎日新聞出版/1760円・税込み)。 *  *  *  世がコロナ禍におおわれた2020年春から21年秋にかけて、主に『サンデー毎日』に連載されたルポルタージュが一冊にまとめられたものである。  さまざまな場でさまざまに生きる人々が登場する。フォトグラファー、書店主、居酒屋、アメ横、新宿二丁目、下北沢のライブハウス、赤坂のカフェ、パンケーキ店、もつ屋、新橋の靴磨き……などなど。彼ら彼女たちに通り過ぎた日々をたどりつつ、<東京のいま>をまさぐっている。  気鋭のフォトグラファーは「月に50本程度の撮影をこなす」売れっ子で、休日もなく、撮影しては次々に納品する日々を送ってきたが、コロナが広まり、仕事量はガクンと減った。  ただ一方で、「危機は、人に生き方の見直しを迫る」ものでもあった。商業写真を撮り続けることにどこか空しさを感じていた。自分が本当に撮りたいものはなんなのか。「報道写真であり、抽象写真でもある一枚」。静まり返った東京の街々。その中に潜むもの……。自由な時間を手にし、フォトグラファーは自身の写真集を刊行したとある。  コロナ第2波がたけりはじめた時期、「夜の街」は悪役となり、歌舞伎町はその代名詞ともなった。この街に棲むホストたちが感染を広げている……。  元カリスマホストから転じて経営者となり、ボランティアにも取り組む人物は、区や保健所の要請に応え、検査協力の輪を広げていった。不明だった感染経路に、ホストたちが住む「寮」があった。対策が講じられるとともに陽性者も減っていった。  歌舞伎町は「漂流した末に辿り着く街」であり、「共生はしないが共存はする」場所である。夜の街は悪評もまた飲み込んでいったようである。  荻窪駅前のもつ屋は、小さなコの字型のカウンター店である。焼き台に立つ年配の婦人はキャリア20年以上、創業した父から数えると3代目だ。  コロナ以降、開店時間を30分はやめ、閉店は8時や9時に縮めた。1度目の緊急事態宣言時には完全に閉めた。常連客は高齢者が多く、感染すれば重症化する割合が高いと耳にしたからである。ただ、転んでもただでは起きない。休業中は「レバ燻製(くんせい)」「もつ煮」といった、テイクアウト限定メニューをつくったりもした。  再開した店は、入り口は全開にして換気よし。寒さは我慢してもらう。店は「堅牢(けんろう)な日常」を支える、「軽く一杯」の駅前店であり続けている。  2021年夏。すったもんだしたオリンピック、無観客として開かれたが、あまり意気上がらぬ五輪として終わった。本書には、パラリンピックにかかわった人々が登場し、趣深き話も伝えている。  総体として、「国家の物語」としてのオリンピックは終わったという一文が見えるが、評者も同感である。  国ごとのメダル数に一喜一憂する人などもうおるまい。詰まるところオリンピックとは国際運動会なのであって、それ以上のものではない。近年、過度の商業主義が、大会の空虚さを増幅させているが、2度目の東京もその流れの中にあったのだろう。コロナがあろうとなかろうと。  本書では著名なミュージシャンも登場はするが、多くは無名の、拠るべなき存在としての人々である。この先も確かなものは多分ない。そのことをコロナは念を押すように教えてくれたが、ふと立ち止まり、新たな人生を歩きはじめた人もいる。禍(わざわい)もまた契機となり得る。弱きものはしたたかでもある。著者のやわらかい感性が、多様多彩な東京のいまを十全にすくい取っている。※週刊朝日  2022年4月1日号
読書
週刊朝日 2022/03/25 16:00
タモリの沈黙への称賛に思う「もうコメンテーターは終わり」カンニング竹山
カンニング竹山 カンニング竹山
タモリの沈黙への称賛に思う「もうコメンテーターは終わり」カンニング竹山
カンニング竹山さん(撮影/今村拓馬) 「タモリステーション 緊急生放送~欧州とロシアの狭間で ウクライナ戦争の真実~」(テレビ朝日系)でのタモリの沈黙が話題に。平均世帯視聴率が13・5%(ビデオリサーチ調べ、関東地方)と高視聴率だったことが22日分かった。そんな黙して語らずとは真逆なお笑い芸人・カンニング竹山さんはどう思う? *  *  * 【話題になったのは次の通り/18日夜、ロシアのウクライナ軍事侵攻を伝えたテレビ朝日系の報道番組「タモリステーション」で、番組冒頭のあいさつから1時間以上“沈黙”を貫き、終了間際に「一日も早く平和な日々がウクライナに来ることを祈るだけですね」とコメントしたタレントのタモリ(76)。一夜明けた19日もSNSでは「タモリさん」などの関連ワードがトレンド入り。「一流と言われる人は何か信念を感じる」「沈黙は金なり」「沈黙することで意見を言った」などの賛辞が止まらなかった/中日スポーツより抜粋】  タモリさんの沈黙が話題になった番組はまだ見ていないのですが、純粋に素晴らしいと思いますよね。特に、今起きている戦争を扱った番組だったし、外国の隣り合う国同士のことはわからないから。タモリさんと僕は格も違い過ぎるから一緒にはできない話ですが、僕が番組に呼ばれて沈黙を貫いていたら、次はないですよね(笑)。  僕は番組に呼ばれると、「斬ってください」「キレてください」と言われてそれをやると、ネットで「オマエの真意はなんだ!」と賛否が巻き起こりますからね。  タモリさんの沈黙の話題を聞いて思ったのではなく、その前から、番組でコメントを求められるコメンテーターというのも、ぶっちゃけ、もう終わった感じがしている。  僕らみたいなコメンテーターは、10年位前から起用され出しましたが、僕なんかは先駆けだった。僕たちがコメンテーターとして使われ始めた頃は、テレビがどんどん視聴率が落ちて衰退し始めた時期。それで、どうにかしなければならないと、色々な年齢層に見てもらえるように、タレントや芸人をスタジオに呼んだ作り方の情報番組がトレンドになっていった。 沈黙を貫いたタモリ。写真は2014年NHK紅白歌合戦のゲスト審査員のひとコマ  その頃、ネットの普及と同時期で、視聴者の方々もネットで色々な意見を言えるようになった。その意見の多くは「オマエに何がわかるんだ!」。そこから、最近の意見は、「何も知らない専門家でもないヤツがしゃべったことを放送で流していいのか?」ということになってきているわけですよね。流していいのかではなく、本来は、それを見る、見ないのチョイスするのは視聴者にあるわけです。そういう風な流れからしても、コメンテーターに話をさせる番組の作り方にもそろそろ限界がきているのかなとも思ったりはしている。  ネットでは僕も批判されたりはするんだけど、一方で街を歩くと「竹山君、あんたの意見、好きなのよ!」とか「『バイキングMORE』終わっちゃうの残念よ~」とか声を掛けられるんです。最近、故郷の福岡に行く機会があったり、ロケで福島に訪問していて、街で声を掛けていただけているのもあるんですが、コメンテーターの必要性に関して、本当のところはどうなんだかわからない。  コメンテーターという仕事は終わった感を抱きつつも、コロナのことだったら、医師以外はコメントしないのか? ウクライナ侵攻だったら、国際政治学者や軍事評論家しかコメントできないのか? そうなった時に、意見を何も言えない社会になるという懸念がある。テレビで専門家しか発言できなくなったら、ネットに意見を書き込むしかなくなって、今度はそこに書き込んだ人に対して「オマエが何言ってんだ!」となるのでは。言論という視点で見ると、どうなんだろうという思いはある。  また、どこの局が、専門家だけを呼んだ番組を制作するのか? ですよね。4月の番組改編でもそんな変化は感じられない。特にコロナ禍になって専門家以外の人の発言に賛否色々出たのもあるし、視聴者も疲れているし、番組制作する側も疲れているのもあるけど、尖ったことや角の立つことはもうやめようとなっている。もっと優しい、誰も傷つけない情報番組にしていこうとするのは、時代の流れだと思いますよね。  個人的に言うと、商売あがったりで俺は困りますけどね(笑)。キレ芸も「ガヤガヤうるさい」「コロナなのに何大きな声出しているんだ」とか、「子どもに大きな声を聞かせたくありません」とか、キレ芸でも排除され、さらにはワイドショーでもその流れと共にコメンテーターを排除していくような動きがあったら、ホント、商売あがったりですよ!(笑)。 ■カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。オンラインサロン「竹山報道局」は、昨年4月1日から手作り配信局「TAKEFLIX」にリニューアル。ネットでCAMPFIRE を検索→CAMPFIREページ内でカンニング竹山を検索→カンニング竹山オンラインサロン限定番組竹山報道局から会員登録
ウクライナカンニング竹山タモリタモリステーションロシア
dot. 2022/03/23 11:30
現役証券マンは波乱の日本株をどう見る? 「岸田首相が最大の株安要因」
現役証券マンは波乱の日本株をどう見る? 「岸田首相が最大の株安要因」
投資家の評価が高くない「新しい資本主義」を掲げる岸田首相  3月上旬、日経平均株価は1年4カ月ぶりに2万5千円を割った。その後は一気に2万6500円台を回復するなど、波乱の展開だ。ウクライナ侵攻で世界経済の先行き不透明感が高まるなか、日本株はどうなるのか? 国内証券プロップトレーダー・A氏、国内運用会社アナリスト・B氏、サラリーマン投資家・C氏、外資系証券セールストレーダー・D氏に聞いた。 *  *  * (週刊朝日2022年4月1日号より) ──2月24日にロシアがウクライナに侵攻して以降、原油・天然ガス価格が急騰するなどマーケットが荒れています。 A:私は株、為替、債券、オプションまで扱うプロップ(自己勘定取引部門)ですが、調べ物が増えましたね。ロシアの銀行がSWIFT(国際銀行間通信協会)から排除されたら、どんな影響があるか?などといったものです。プロップでは直接、ロシアの債券や株に投資してなくても、会社が扱っている投信がロシア株を組み込んでいたり、デリバティブ部門のカウンターパーティー(相手先の金融機関)がロシアの銀行と取引があったりするので、SWIFT排除によって、どれだけの損失リスクが発生する可能性があるかを分析するのに時間をとられました。 B:私はアナリストなのでマーケット分析のレポートを書くのが主な仕事ですが、情勢がコロコロ変わるので、夜寝れなくなりましたね。夜中までニュースを見てないと落ち着かなくて……。 C:レポートを書かないといけない方は、戦争が絡むと非常に気疲れするようですね。私は個人投資家なので、著名なトレーダーが買い推奨銘柄をこっそり教えてくれる有料メルマガをいくつも購読していますが、なかには「戦争をネタに稼ぐのは心苦しいので、しばらく買い推奨の配信を自粛します」という人もいた。 B:間違っても「今が買いのチャンス」なんて表現は、レポートに盛り込めませんね。「銃声が鳴ったら買え」という相場格言もあるけど、そんなことを書いたら会社に所属するアナリストとしてはコンプライアンスに引っかかる。 ロシアによるウクライナ侵攻で日経平均は急落した D:私は外資系証券の日本株のセールストレーダー(機関投資家からの売買注文を執行するトレーダー)ですが、ヒマしてます……。ウクライナ侵攻をきっかけに、日本市場に対する海外機関投資家の関心が薄れたためです。昨年後半から外国人は4カ月連続で日本株を売り越していますが、売りも買いも細っています。 C:私なんか、日本株がメインなのでやられっぱなしです。米国株も保有していますが、米国株が2%下げたら日経平均が5%下がるということが多々あって、ジワジワ含み損が増えている。 B:レポートには書きにくいんですけど、現状、日本株を買える材料がまったくない。理由の一つは、日本企業の判断の遅さです。ユニクロを展開するファーストリテイリングがその典型例でしたね。当初は「衣服は生活の必需品。ロシアの人々も同様に生活する権利がある」(3月7日付「日本経済新聞」)と柳井正会長はロシア事業を継続すると表明してたけど、不買運動を呼びかける人が現れるほどバッシングを浴びて、あっという間に全店営業停止へと方向転換を迫られることになった。 D:機関投資家の声に耳を傾けていたら、絶対に事業継続を堂々と表明できなかったはず。海外の機関投資家は日本株の注文はくれませんが、連絡を取るたびにロシアに対する怒りを爆発させています。侵略国家に与(くみ)するような事業を展開する企業も許せない!とばかりに。だから欧米のグローバル企業はいち早くロシア事業から撤退した。 A:ロシア主要7行のSWIFT排除よりも早く、欧米企業のロシア撤退が進みましたね。ロシアのウクライナ侵攻は時間の問題だと思っていたので驚かなかったけど、あっさり企業が脱ロシアを進めたのは私にとってサプライズでした。記憶する限り、最初に撤退を表明したのは英石油大手のBPだったはずで、BPは保有するロシアの石油大手ロスネフチの株売却で最大250億ドルもの減損処理を行うと発表しています。でも、2年分の利益が吹き飛ぶほどの巨額減損処理なのに、株価は4%ほどしか下げなかった。ESG投資(財務内容だけでなく、環境配慮や社会的責任、ガバナンス要素も考慮した投資)が浸透して、どれだけ企業が社会的責任をまっとうしているかという点も重要な投資指標になった。その影響で英断を下したBPを評価する投資家が増えたんだと考えています。 世界各国で反戦デモが広がる(GettyImages) B:ウクライナ危機で投資行動は明らかに変わりましたね。3月1日にロシアでの販売停止を発表したアップルは、むしろ値上がりしていましたし。逆に、撤退が遅れたマクドナルドはNY州年金基金から「早くロシア事業を停止するように」とプレッシャーを浴びて、下げっぱなしでした。スターバックスもしかり。直近では、長期金利の上昇で米国株は総じて調整モードですが、長期的に見るといち早くロシア撤退を決めた企業は買われるだろうと見ています。 C:日本企業は欧米企業の出方を見てから判断している感じですね。ブリヂストンは、ユニクロよりも遅れて3月14日にロシア向けのタイヤ輸出の停止などを発表しました。問題は商社ですよね。米石油大手エクソンモービルや英シェルが撤退するなか、丸紅と伊藤忠は資源開発事業の「サハリン1」、三菱商事と三井物産は「サハリン2」に出資している。 B:日本株が買えない、もう一つの理由は岸田文雄首相ですね。あんなに経済オンチな首相は久々。米国株が下げているというのもあるけど、岸田政権が誕生して以降、奇麗に日経平均は下降線をたどっている。 A:岸田さんは最大の株安要因ですね……。金融所得課税の強化は、海外でも議論されていることではあるのでわかるのですが、決算の四半期開示の見直しや自社株買い規制を検討するなんてバカげてます。「株主配当ではなく、給与を引き上げたほうが社員の士気が上がる」と言ってることからもわかるように、岸田さんは「新しい資本主義」を掲げながら、資本家を排除しようとしている。どちらかというと社会主義に移行しそう。 C:金融審議会作業部会では、四半期開示の見直しが全員に反対されましたね。首相肝いりの政策だったのに賛成ゼロ(苦笑)。新興国投資をやっている投資家仲間は、四半期開示見直しについて「年1回の決算発表って、発展途上国みたいだな」と言ってました。 D:外国人投資家は、みんな岸田政権を嫌がってますね。あんなに“マーケット・アンフレンドリー”な首相いたか?って。ただ、それ以上にタチが悪いのは、岸田政権の支持率がいまだに50%超えの高水準にあること。日本人の大半は経済オンチの首相を支持している。支持率が低ければ、首相交代からの経済刺激策を期待した買い需要も生まれるけど、高支持率だから岸田政権が長期化するリスクがあって日本株を買う気になれない。岸田政権が続く限り、外国人は本格的に日本株を買ってこないでしょうね。 C:私の知り合いに首相動静から投資銘柄を選別するという変わった投資家がいるんですけど、その人が「岸田は身内としか会わなくて、本当につまらない人間」と評してました。菅義偉前首相は、就任当初からとにかくいろんな経済人に会っていたようです。ITコンサルティング大手フューチャーの金丸恭文社長やサントリーホールディングスの新浪剛史社長はなかでも会う頻度が高いらしく、その人はフューチャーやサントリー食品インターナショナルは首相のお墨付きを得た銘柄だと判断して買っていたようです。そのほかにも、首相動静で目にしたニトリやオイシックスでも稼いだと言ってました。ところが、岸田首相はほぼ政治家や海外の要人、業界団体のトップ、霞が関の役人としか会っていないらしいです。まれに財界人とも会うけど、トヨタ自動車の豊田章男社長などの一流企業の社長のみ。岸田首相は「聞く力」があるとアピールしてますが、ごくわずかな人間の話しか聞いていない。経済オンチになるのも仕方ないなと感じました。 ──では、ウクライナ情勢を踏まえて、どのような投資行動を選択していくべきでしょうか? D:日本株は避けて、米国株を買っていく戦略でいいんじゃないですかね。もはやウクライナ危機やロシアのデフォルト(債務不履行)はマーケットに織り込まれています。だから、直近ではNYダウもナスダック指数も調整局面にあるけど、ウクライナ侵攻が始まった2月24日、25日とダウは値上がりした。ウクライナ危機が勃発する可能性を考慮して、海外機関投資家などはポジションを減らしていたので、侵攻開始で“悪材料出尽くし”となって買いが入った格好。まさに先ほど出た「銃声が鳴ったら買え」となったわけです。 A:2003年のイラク戦争のときも、それまで株価は下げ続けていたのに、いざ戦闘が始まったらNYダウは上昇に転じました。イラク侵攻前から短期決戦に終わると予想されていたから、戦闘開始で急激に投資家のマインドが改善した。 アメリカにはあり余るほど“待機資金”がある!?(GettyImages) B:アメリカの家計資産はコロナ前の93兆ドルから118兆ドルへと25兆ドルも増えているんです。だから、アメリカの消費は堅調で、個人の“待機資金”に相当するMMF(マネー・マーケット・ファンド)の残高はコロナ前とほぼ同水準の1.4兆ドルもある。アメリカの機関投資家のMMFも3兆ドル以上あるし、企業の流動性資産も7兆ドル近くあって、アメリカにはあり余るほどの待機資金がある。だから、ダウやナスダックが下げても買いが入りやすく、大きく下げることはないんです。直近ではアメリカの長期金利が急上昇しているので、株は調整局面が続きそうですが、その待機資金を考えると米国株は買い。 C:でも、「iFreeレバレッジNASDAQ100」(大和アセットマネジメント)や「楽天レバレッジNASDAQ‐100」(楽天投信投資顧問)といった、いわゆるレバナス(ナスダック指数の2倍の値動きがあるレバレッジを利かせた指数連動型上場投信)に投資している人たちは青息吐息です……。1千万円単位の含み損を抱えている知り合いもいます。 A:“レバナス民”は今、最もホットな投資家ですね。確かに昨年後半からレバナスの積み立て投資を始めた人は含み損を抱えているでしょうが、私の周りには絶好の買い増しチャンスとばかりに安値のレバナスを買っている証券マンが多いです。レバナスはナスダック100の1日の値上がり率に対して2倍のパフォーマンスを実現する商品のため、上下動を繰り返すほど目減りします。けど、急落局面で買い増すことができれば、この逓減リスクを解消して大きなリターンが狙えます。 B:ナスダック100は指数としてのクオリティーが高い。世界で最も成長力のあるトップエリート100社を集めた指数ですからね。日本のマザーズ指数などとは比べ物にならない。指数の予想ROE(自己資本利益率)は30%にもなりますからね。8%台の日経平均とも比較にならない。このROEは言ってみれば、テストの点数です。低ければ評価されない。逆にいえば、日本企業には伸びしろがあるので、ROEが二桁台に乗せてくるようなら、割安感が出てきて買いやすくなる。 高止まりが続く原油価格の影響は?(GettyImages) D:それでも日本株に投資したいなら、ENEOSなどのエネルギー関連は底堅く推移するでしょうね。当面、原油・天然ガス価格が急落することはなさそうだし。個人的には、KADOKAWAに注目しています。子会社のフロム・ソフトウェアが「ELDEN RING」というゲームの歴史を塗り替えそうな大ヒット作をリリースしたのに、あんまり株価に反映されていない。 C:私は手堅くREIT(不動産投資信託)をコツコツと買い増しています。3~5%の利回りが着実に得られるので。 B:不動産価格はいまだに高止まりしていますね。いつピークアウトするのか気になるところです。 C:そうなんですよ。だから、賃貸マンションやビルを何棟も保有している不動産投資家も「高くて買えない」といって、今になって株やFXを始めています。そういう投資家がいるのなら、多少下げてもすぐに持ち直すだろうと思って、私は昨年ワンルームマンションを2戸買いました。 A:岸田首相は株をまったく持っていないけど、東京都渋谷区、静岡県伊東市、地元・広島市に計1億8千万円相当の土地・建物を保有してますからね。不動産価格の暴落は避けてくれるでしょう(苦笑)。 (構成/ジャーナリスト・田茂井治)※週刊朝日  2022年4月1日号
週刊朝日 2022/03/23 07:00
向井康二さんがAERAの表紙に登場!カラーグラビア&インタビューに加え、連載「白熱カメラレッスン」「特別編」も一挙掲載/3月19日発売
向井康二さんがAERAの表紙に登場!カラーグラビア&インタビューに加え、連載「白熱カメラレッスン」「特別編」も一挙掲載/3月19日発売
 3月19日土曜日発売のAERA 3月28日増大号の表紙を、Snow Manの向井康二さんが飾ります。3月25日公開のSnow Man主演映画「おそ松さん」で長男・おそ松役を演じ、4月からは連続ドラマへのレギュラー出演も決まっています。インタビューでは、演じることについて、そして、興味の幅が広く多才な向井さんが目指しているものについて、明かしてくれました。この号には、月2回連載「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」とその「特別編」も収録。平間至さんとの“新婚コント”も楽しい、料理シーンを題材にしたレッスン後編に加え、向井さんが撮影した映画「おそ松さん」のオフショット15点を本誌独占で掲載します。巻頭では再び、ロシアによるウクライナ侵攻を総力特集。リーダー不在の世界を「Gゼロ」と名付けたアメリカの国際政治学者イアン・ブレマー氏が「Gゼロ後の戦争」を読み解いているほか、いままさに「核のボタン」を握っているロシア・プーチン大統領の論理や彼を支えるKGB人脈について、詳細にリポートしています。 AERA3月28日号※アマゾンで予約受付中  3月25日から公開されているSnow Manの主演映画「おそ松さん」で、おそ松役を演じる向井康二さん。「表紙デー。気合い入れてきた」と言いながら撮影スタジオに登場しました。自身の状態を整えるには、「睡眠ですね。いちばん。12時前に寝るのがいちばん、やっぱり」ときっぱり。その状態の良さが、存分に表れた表紙になりました。  インタビューでは、映画「おそ松さん」を軸に、向井さん自身について質問しています。配役を聞いたとき「まず、おれが長男でええの?」と思ったという向井さんですが、実際に演じてみると「自分と似てるところもある」と感じたそう。おそ松は長男ながら「心は小学生」という設定に重ねて、「ご自身は何歳だと思っているんですか」と尋ねると、「24歳」、そして、Snow Manのなかで“八男”だと思っているという発言が飛び出しました。その理由とは――。映画では、6つ子にとっての「転機」が描かれますが、向井さんにとっての「転機」は3つ。「やっぱりジャニー(喜多川)さんに見つけてもらえたのが一回目」。3つめはSnow Man加入のきっかけとなった「滝沢くんじゃない?」と向井さん。「仕事との向き合い方が変わった」という2つめの転機については、誌面を楽しみにごらんください。  月2回連載「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」は、前号に続き、平間至さんと料理シーンの撮影に挑戦しています。自然光を生かしつつもストロボ光で補うライティングのため、色温度を変えることを提案された向井さん。「ホワイトバランス、あんまいじらんな」と言いながら、「こういうときはこれくらいって決まりはないんですか」と質問を投げかけ、「たしかに色温度の数値上げたらオレンジっぽくなる!」と新しい技術を身につけていきます。撮り・撮られながらの、平間さんとの抱腹絶倒 “新婚コント”も続いています。コーヒーを淹れる場面では、「どんな匂い?」と尋ねて返ってきた向井さんからの甘いセリフに、咄嗟にリアクションできなかった平間さんが悔しがる場面も。「どこの雑誌よりもアイドルカットやね!」に仕上がった写真も必見です。  さらに今回は、「向井康二が撮る 特別編」も3ページにわたって掲載。映画「おそ松さん」の撮影中に、Photo Boyこと向井さんが撮影したオフショット15点を、コメントを添えてお届けします。学生みたいにノリノリだったり、お気に入りの場所にずっといたり、あくびをしていたり。自撮りのツーショットも含め、いつもよりカジュアルに、カメラやスマホで「パシャパシャ撮った」というオフショットの数々は、向井さんだからこそ捉えられたものばかりです。もちろん本誌独占です。  この号でも、ロシアによるウクライナ侵攻を総力取材。AERAはリーダー不在の世界を「Gゼロ」と名付けたアメリカの国際政治学者イアン・ブレマー氏にインタビューを敢行しました。ブレマー氏は、プーチン大統領が、G7国家の誰も「警察国家」にならない「Gゼロ」の環境では、ウクライナを攻撃しても何の罰も受けないと知っていた、1989年のドイツ・ベルリンの壁崩壊で私たちが得た「平和の配当金」はもう消えてしまった、と指摘。冷戦時代のソ連より、サイバー攻撃に長け、核兵器を手にしたロシアのほうが危険度が高い、と世界に警告しています。  核兵器使用をちらつかせるプーチン大統領が、実際に「核のボタン」を押す可能性について考える記事も掲載。2018年のドキュメンタリー番組で「もしロシアの防空システムが敵のミサイル発射を察知すれば核兵器で報復する」と話したプーチン大統領は、核攻撃をすれば世界を巻き込む大惨事になることを認めた上で、「ロシアが存在しない世界など、そもそも無用じゃないか」と明言しています。いま私たちが直面しているのは、「核のボタン」を握るリーダーの一存で世界が存亡の危機にさらされる事態だということが、はっきりと示されています。  プーチン大統領を支えるKGB人脈についての分析や、元外務省欧亜局長の東郷和彦さんと外交ジャーナリストの手嶋龍一さんが「ウクライナ侵攻の本質」「この戦争を止める方法」を議論する対談、経済制裁の「反作用」が及ぼす世界への影響についての記事も掲載しています。  King Gnu井口理さんがホストを務める人気の対談連載「なんでもソーダ割り」はこの号から、ナインティナインの岡村隆史さんをゲストにお迎えします。井口さんが深夜ラジオのパーソナリティーを務めていた当時、本番前にいつも岡村さんの楽屋を訪ねていたというエピソードが明かされ、二人は意外な共通点も発見します。その共通点とはいったい――。  注目の起業家を取り上げる短期連載「起業は巡る」の第3シーズンは、AIを使って企業法務の現場を「紙と鉛筆」の世界から解放した「LegalForce」のCEO角田望さんが登場します。  ほかにも、・震度6強が東北を襲った 前震、本震、停電……・波乱の株式市場には「辛抱」こそ有効・新型コロナ感染が認知症のリスクを高める「データ」・保育士の7割が「辞めたい」「そろそろ限界」・坂本花織インタビュー「やりきりたい。世界選手権の優勝、狙います」・藤井聡太 A級昇級決定で「最年少名人」への挑戦が始まった・大リーグの労使交渉妥結は選手側の大幅妥協・高木ブーと関口和之が明かす1933ウクレレオールスターズ誕生秘話 などの記事を掲載しています。AERA(アエラ)2022年3月28日増大号特別定価:470円(本体427円+税10%)発売日:2022年3月19日(土曜日)https://www.amazon.co.jp/dp/B09RQ65Y6S
dot. 2022/03/18 17:15
40代突入の中村ゆり「自分の未来が楽しみ」 年齢重ねて味わう充実感
40代突入の中村ゆり「自分の未来が楽しみ」 年齢重ねて味わう充実感
中村ゆりさん  アイドルから女優へ。苦しかった10代を過ぎ、芝居に出会うことで、自分の正義感を目覚めさせることができた俳優・中村ゆりさん。40歳を迎えようとする今、心の充実を求め、新たな作品と格闘を続ける。 【前編/中村ゆり“アイドル時代”に自問自答 「この先何ができる?」苦悩した過去も】より続く  今やメジャー作品で引っ張りだこの中村倫也さんが、まだ映像で注目される前に、1950年代のイギリスを舞台にした「怒りをこめてふり返れ」という舞台で主演をしていたことがある。登場人物が5人だけの会話劇で、彼女もまた、大きな闇を抱えた難役をとてもナチュラルに、リアリティーを持って演じていた。洗濯物にアイロンをかけたり畳んだりするその日常的な作業の中にも、きちんとキャラクターを映し出していたのが印象的だった。名優・樹木希林さんは「芝居でいちばん難しいのは、怒ったり泣いたりすることじゃなく、日常の何気ないしぐさを当たり前のようにしながらセリフを言うこと」と話していたことがあるが、中村さんの佇まいはまさに、役が今そこに生きているという存在感があった。 「『怒りをこめて~』のとき、私の役は客席に背中を向けることが多かったと思うんです。常に観客に正面を向いてセリフを話さなくても、あえて見せないことで、『今どんな顔をしているんだろう?』と想像してもらう面白さもあると思います。ありふれた生活がそのまま切り取られたように見えるほうが好きで。演出の千葉(哲也)さんも同じ考えでした」  今取り組んでいる舞台は「広島ジャンゴ2022」。広島の牡蠣工場に勤める人々が、ある日突然ワンマン町長が牛耳る西部の町「ヒロシマ」で、町の騒動に巻き込まれていくという、蓬莱竜太さんによるエンターテインメント活劇だ。 「現代が突然、西部劇に変わってしまうというファンタジーですが、そこに、さまざまな社会問題が映し出されます。世の中を支配する社会の構造や、家族の形など、メッセージがたくさん含まれている。蓬莱竜太さんの作品は、心をえぐられるような感覚になることも多くて、毎回ヒリヒリしますが、ただそれぞれの人間に対する視線はいつもとても優しいんです。エンタメとしても楽しめる作品ですが、実はすごく切実な人々の生活を描いているので、繊細に、ディテールを積み上げていきたいです」  俳優としての面白さを聞くと、「作品ごとに、自分の中の正義を見つけられるところかもしれないです」と答えた。 「お芝居には正解がないので、一生勉強だろうなという覚悟をしています。子供の頃は勉強が大嫌いだった私が、お芝居の勉強は、楽しくて仕方がないんです。歴史とか時代背景を勉強するときも、『もっと深く知りたい!』って思う。映画や舞台、ドラマでも、せっかくやるからには、どこかで社会的な弱者に寄り添っていたい気持ちもあります。表に出る仕事は、見えない何かをつなげる可能性があるので、私の出た作品を見て、ちょっとでも気持ちに変化が起きるようなことがあれば、と……。それが、演じる上でのいちばんのモチベーションになっています」  3月15日で40歳になる。 「若い頃は、自分の中に埋まっていない部分が多すぎました。知識も経験もなくて、拙い想像力では、補えない部分もたくさんあった。人の気持ちにも寄り添ってあげられなかったし、そんなことを思う余裕すらなかったと思います。とにかく、10代とか20代の前半の私は、すごく不安で、苦しかった。それが、年齢を重ねて、経験が増えることで、心の隙間が段々と埋まっていって、人の気持ちに寄り添えた経験を経て、自分の武器が増えていく感覚を味わえたんです。肉体的な衰えは怖いけれど、それは誰もが通る道。人間的な成熟はこれからだと思うと、自分の未来が楽しみです」 (菊地陽子、構成/長沢明) 中村ゆり(なかむら・ゆり)/大阪府出身。2003年から女優として活動を始め「パッチギ! LOVE&PEACE」(07/井筒和幸監督)で全国映連賞女優賞、おおさかシネマフェスティバル新人賞を受賞。舞台の出演は「焼肉ドラゴン」「怒りをこめてふり返れ」「常陸坊海尊」「MISHIMA2020『真夏の死』(『summer remind』)」、主演を務めるドラマ「今夜はコの字で Season2」(BSテレ東・テレビ大阪)が4月9日から放送。※週刊朝日  2022年3月25日号より抜粋
週刊朝日 2022/03/18 11:30
「君のおかげで僕の生活は変わりました」 鈴木おさむを嫌な夢から救ったモノとは?
鈴木おさむ 鈴木おさむ
「君のおかげで僕の生活は変わりました」 鈴木おさむを嫌な夢から救ったモノとは?
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、睡眠の質を変えたあるモノについて。 * * * 僕は気づくと、寝る時にいい夢を見たことがなかった。夢を見ないならまだしも、嫌な夢を見ることが多く、いつもうなされていた。しかもその嫌な夢はリアルで、締め切りが間に合わないとか仕事でミスしたとか、そんな夢を20年間寝る時に見てきた。だから僕は寝ると逆に疲れてしまうことが多かった。おそらく歯ぎしりも多いし、うなされているような声を出すことも多い。そんな僕の睡眠を変えてくれたものがある。  ちょうど一年ほど前だろうか、とある芸人さんに、コロナ対策としてお勧めしてもらったものがある。かなり熱いお勧めだった。それが「ヤクルト1000」だ。  ヤクルトと言えば子供のころ家で取って毎日飲んでいた。大人になり、いろんなところでヤクルトのいい噂は色々聞いていたが、飲もうとまで思わなかった。が、僕にお勧めしてくれたその芸人さんの熱弁を聞き、取るようになった。  週に一度一週間分を届けてくれるヤクルト。このヤクルト1000は乳酸菌シロタ株が1000億個入っているという。1000億個と聞いても全然ピンとこない。怪しいと思ってしまう自分がいる。確かに凄いのだろうが、逆にピンとこない。  とにかく、免疫力を下げないためのコロナ対策として飲み始めたのだが、正直、一日一本飲むって意外と大変で。忘れてしまったりして、すぐにたまってしまう。まだ飲み切ってないうちに翌週分が届く。なので、一日二本飲んだり、人にあげたりして、毎週クリアしていく。  正直、免疫力が上がってるのかどうかもわからないですが、僕はコロナになってないので、それだけを信じて飲み続けていた。  そんで、二カ月ほど前だろうか。「ヤクルト1000を飲むと睡眠の質が良くなる」と聞いた。ネットで調べてみると、ヤクルト1000の大きな売りの一つに「睡眠の質向上」と書いてある。「継続的に飲んでいただくことにより、一時的な精神的ストレスがかかる状況での、ストレス緩和や睡眠の質向上といった機能が確認されています」と。  そしてふと思う。「あれ?最近、寝る時に嫌な夢を見る回数が減ったな」と。  ヤクルトを飲むタイミング。紹介してくれた芸人さんには「なるべく寝る前に飲む方がいいらしいんだけど」と言われていたが、なかなか毎日夜は飲めない。だが、夜飲む回数もそれなりにあった。  で、嫌な夢を見る回数が減ったと意識してから、夜、寝る前に飲む回数をこの数カ月、増やしてみた。というかほぼ毎日寝る前に飲む。  そして今思う。睡眠の質が上がるって、本当だな!!と。  嫌な夢もほぼ見なくなったし、深く眠れている気がする。変わった。睡眠が変わった。  こんなことあるのだと。  僕はヤクルトの回し者でもなんでもない。普通にお金を払って取っている。ステマでもない。  今年50になる僕の中の睡眠の悩みが解決されたことに、僕が一番驚いている。  乳酸菌シロタ株1000億個と聞いて、怪しいと思ってしまった自分に説教してやりたいし、シロタ君に謝りたい!  君のおかげで、僕の生活は変わりました。ありがとう。いや、すげーっす。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が発売中。作演出を手掛ける舞台「怖い絵」が2022年3月に東京・大阪にて上演。
ヤクルト放送作家鈴木おさむ
dot. 2022/03/17 16:00
2児の母が酒浸りでやせ細って食事が取れない例も…長引く自粛生活で「飲み過ぎ」と感じたらまずすること
國府田英之 國府田英之
2児の母が酒浸りでやせ細って食事が取れない例も…長引く自粛生活で「飲み過ぎ」と感じたらまずすること
キッチンドランカーから依存症気味になってしまう女性もいる。写真はイメージ(PIXTA)  新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、人との交流が減って孤独感にさいなまれ、酒量が急増してしまう人が後を絶たない。また、アルコール依存症患者の中には、断酒するための自助グループの仲間に会えなくなり、さみしくなって酒に手を出してしまった人もいるという。専門医らは「依存症は『孤独の病』。依存行動は『孤独の自己治療』と言われるほど、孤独と密接に関係している。飲み方が気になったら、まずは気軽に相談を」と呼びかける。 *  *  *「自分の飲み方が怖くなってきました」と話すのは、最近、アルコール依存症の治療を行っている医療機関に、受診すべきかを相談した千葉県の40代主婦・Aさんだ。  Aさんは2児の母で、夜は料理を作りながら缶チューハイを飲むいわゆる「キッチンドリンカー」だが、ここ数カ月で極端に量が増えた。  Aさんはコロナ禍が続く状況でも、年の近いママ友と感染に気を付けながら公園で話をしたり、お茶をするなどして交流を保ってきた。だが、オミクロン株の感染拡大で、そのママ友と子どもが感染したため、今年に入り対面を自粛したという。 「もともと地元ではないので、話せる人がほとんどいません。世間話や育児のことなど、同性の友達に聞いてもらいたいこともあって、話すことでなんだかんだ気が晴れていたんだと思います。それがなくなってから、何かさみしくなったり、ちょっとしたことでイライラしたり、気づいたらお酒の量が増えていました」  安く手軽に酔えるからと、500ミリリットルでアルコール度数9パーセントのストロング系を好んでいたが、日に1缶だったのが、今では料理中だけでなく風呂上がりにも飲むようになり計4~5缶になった。  生活習慣病のリスクを高める「純アルコール量」(お酒の量×アルコール度数/100×0・8)の基準は、女性は20グラム以上とされているが、9パーセントのストロング系500ミリリットルなら1缶で純アルコールは36グラムと、その水準を超している。二日酔いで後悔しても、夕方になるとまだ飲みたくなる日々が続く。 「欲求が止まらないんですよね。こういう飲み方をしてしまうようになるとは自分でも思ったことがなくて。夫から病院に行くようにすすめられて、まずは相談をしてみました。自分と同じような事情での相談もあるそうなので、受診を考えています」(女性)  コロナ禍で自粛ムードが続く中、友人たちとの交流が減った人は少なくないだろう。孤独やさみしさを感じるのも無理はない。 「アルコールなどの依存症は、『孤独の病』と呼ばれるほど、孤独と密接につながっています。コロナ禍で、人とのつながりが制限されている状況は良くありません」  そう指摘するのはアルコールなど様々な依存症の専門治療を行っている「国立病院機構 久里浜医療センター」の樋口進院長だ。依存症は「孤独の自己治療」とも言われるという。  同院の患者の中には、アルコール依存症から回復するための自助グループに参加し断酒を続けていたが、コロナ禍でリアルで集まることができなくなり、さみしくて再飲酒してしまった人がいる。  同病院で患者らの相談を受ける前園真毅・主任ソーシャルワーカーは、 「アディクション(依存症)の反対語はコネクション(つながり)とも言われています。お酒をたくさん飲んでしまう人にはさまざまな事情や背景があって、思いを話せる相手がいることはとても大切なのですが、コロナ禍で安心して本音を話せる相手に会いづらくなったことが、再飲酒につながってしまっている面はあると感じています」  コロナの影響で仕事が減って、酒量が増えた人も目立つという。頑張れる場がなくなることのつらさやさみしさはあるだろう。 「小さなお子さんが2人いる女性ですが、仕事が減ったストレスからお酒の量が極端に増えてしまい、食事もとれないほどになって、やせ細った状態で来院されました。また、同じように仕事が減って、夜だけではなく朝も奥さまに隠れて迎え酒をするようになり、罪悪感から相談に来られた男性もいました」(前園氏)  樋口院長によると、コロナ禍でアルコール依存症が増えているというデータはない。一方で、2020年度のドメスティック・バイオレンス(DV)相談件数が前年度の1・6倍に増え過去最多になったなど、DV件数の増加が報告されている。「アルコールが要因のDVが増えている可能性はあると考えられます」と樋口院長は推察する。  アルコール依存症は、当事者が「自分は違う」と、事実を認めたがらない「否認の疾患」と言われ、医療機関の受診に二の足を踏みがちだ。最近は酒を断つのではなく、摂取量を減らす「減酒」の治療法もできたため、敷居は以前より低くなった。とはいえ、アルコール依存症を扱う医療機関がどんな場所なのか、まだあまり知られていないことが受診をためらう一因かもしれない。  樋口院長は、 「依存症と診断されてすぐに入院させられたり、あれをやめなさい、これをやめなさいなどと強く指示されるようなイメージを持たれがちですが、実際は全く違います。患者さんは、お酒をやめたくないと話す一方で、このままではまずい、変わりたいという思いも持っています。私たちは後者の思いに寄り添ってお話をうかがい、その患者さんごとに、どうしたらいいかを一緒に考えていくのです」と話す。  前園氏も続ける。 「患者さんは、お酒をやめるよう周囲から耳にタコができるほど言われているはず。依存は『わかっちゃいるけど、やめられない』病気です。それでも飲み続けているのですから、仮に医療者側が強く指示したとしても意味をなさないんです。飲んでしまう背景にはさまざまな事情がありますから、安心して話せる環境をつくるのが私たちの役目。まずは気軽に相談してほしいと思います」  18都道府県へのまん延防止等重点措置が21日の期限で全面解除される方向だが、コロナ禍以前の生活に戻るにはまだ時間がかかるだろう。「酒好き」とアルコール依存症の距離は実は近いそうで、酒を飲む人なら誰もが、何かをきっかけに依存症に陥る可能性がある。自分や家族、友達の飲み方が気になったら、まずは相談窓口の扉をたたいてみてもいいかもしれない。(AERAdot.編集部・國府田英之)
アルコール依存症久里浜医療センター
dot. 2022/03/17 10:00
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