米倉昭仁
「ぼくの写真家人生はパンク」 NO MUSIC, NO LIFE.の平間至が写してきた“音楽を奏でる写真”
「MOTOR DRIVE」より 1992年 (C)Itaru Hirama
* * * 平間さん初の大規模な回顧展が4月2日から京都駅に隣接する「美術館『えき』KYOTO」で開催される。テーマは「音楽」。写真展案内にはこうある。
<タワーレコードのキャンペーン「NO MUSIC, NO LIFE.」をはじめ数多くのアーティスト写真を撮影し、“音楽が聴こえてくるような躍動感あるポートレート”で写真界に新しいスタイルを打ち出したと評価される写真家、平間至>
展示作品は約250点。手渡された図録にはそうそうたるミュージシャンの写真がずらりと並ぶ。AI、あいみょん、石川さゆり、井上陽水、忌野清志郎、オダギリジョー、Mr.Children、YMO、和田アキ子……。
Mr.Children 2017年 (C)Itaru Hirama
■カメラは楽器
筆者が図録を見終わると、「第1印象はどうですか?」と、平間さんにたずねられた。
「意外でした。単に有名ミュージシャンの写真がたくさん並ぶものと思っていました」
こう答えると、「そんな面白くない写真展を想像していたんですか?」「はい」「正直ですねえ」。平間さんはあきれ顔だ。
「それじゃあ、『ああ、誰々が写っている』って、『証拠写真』で終わっちゃうじゃないですか。ミュージシャンを知らない、例えば、外国の人が見ても楽しめるようなものにしないと、展覧会を開く意味がない」
展示作品のセレクトはキュレーターの佐藤正子さんにほぼ任せたという。
「ぼくがミュージシャンをいちばん撮っていた1990年代から2000年代初頭は、佐藤さんがちょうどパリにいた時期なんです。彼女はそのころのミュージシャンをぜんぜん知らなかった。だから、純粋に面白い写真を選んでもらえた」
作品の半数以上はミュージシャンを写したものだが、ダンサー・田中泯の「場踊り」を追ったシリーズや、東日本大震災前後に撮影した「光景」、現在の活動の中心である「平間写真館」で写した作品もある。
「つまり、『音楽』がテーマって、ミュージシャンが写っている、という意味ではないんです。ぼくは、写真自体が音楽を奏でるようでありたいと、いつも思っています」
平間さんは撮影の際、カメラを楽器のようにとらえているという。
「シャッターの音だけでなく、ストロボの発光や充電のサウンドも含めて、撮影のリズムを奏でていく。そのリズムによって、お祭りやダンスをするみたいに相手の気持ちをどんどん解放していく」
「NO MUSIC, NO LIFE.」より 忌野清志郎 2008年 (C)Itaru Hirama
■「ぼろぼろな状態なんで、すみません」
平間さんは1990年、写真家・伊島薫さんの助手をへて独立すると、試みとしてモデルといっしょに動きながらシャッターを切りまくった。それによって、いつもとは違うモデルの表情を引き出そうとした。
そんな作品をまとめた写真集『MOTOR DRIVE』(95年、光琳社出版)は注目を浴び、一躍、超人気の写真家となっていく。
筆者が平間さんと初めて出会ったのはそのころで、強烈な印象が脳裏に焼きついた。
東京・原宿の事務所に現れた平間さんは無言だった。しばらくして、口をわずかに開くと「いまはぼろぼろな状態なんで、すみません」と、無表情に言った。疲れ切って、抜け殻のような姿だった。
この日は朝から6時間かけてタワーレコードのポスター用にGLAYのベーシスト、JIROを撮影し、事務所に戻ってきたばかりだった。だが、この後も渋谷でカタログの表紙撮影が待っている。帰りは夜中になるが、それが普段の生活という。
「ぼくの仕事はタレントさんの予定に合わせ分刻みで進みます。だから限られた時間内にどれだけクオリティーの高い写真が撮れるか、いつも試されている」
サンボマスター 2005年 (C)Itaru Hirama
■「ぼくにはアマチュア時代がない」
このとき、平間さんが持ち帰った撮影機材のなかに見慣れない細長いアルミケースがあった。
「ああ、これですか、CDJです」
CDミキサーとでもいえばよいか。これに音楽CDを入れ、自分でリズムなどをアレンジし、スタジオで流しながら撮るのだという。
「スタジオにCDJを持っていくなんて、世界中探してもぼくぐらいじゃないかな。みんなで楽しみながら撮るんですよ。写真というのは撮るのも見るのもエンターテインメントだと思うから」
しかし、平間さんが語る生き生きした撮影現場の風景と、目の前に座る本人の表情との落差は激しかった。
「撮影は決して簡単ではないし、失敗は許されない」
ストレスがたまり、肝臓を壊したという。それ以上に深刻だったのは、「撮影現場で入ったスイッチが切れなくなった」こと。ハイな状態が続いて眠れなくなった。鍼やマッサージに通い、緊張を解きほぐす日々が続いた。
それでもなお、「現場では相手を楽しませ、満足して帰ってもらおう」と気を使う。それは当時、宮城県塩竈市で営業写真館を営んでいた父、平間新さんの影響ではないか、という。
「ぼくにはアマチュア時代がないんです。中学生のときに仕事を任されて、いやいや幼稚園の運動会を撮りに行った」
そんな昔話を口にすると、「もういいですか?」と立ち上がり、青いポルシェに乗って、次の撮影現場へ消えていった。
「NO MUSIC, NO LIFE.」より 細野晴臣 2011年 (C)Itaru Hirama
■「ぼくの30年間の行動はパンク」
あれから20年以上がたった。
平間さんは08年、故郷の町を写真で盛り上げようと、「塩竃フォトフェスティバル」を立ち上げた。
しかし、東日本大震災の津波は町を押し流した。平間さんは復興支援に奔走するうちに「PTSD、ひどいパニック障害になってしまった」。1年ほど自宅療養を余儀なくされた。
それを乗り越え、東京世田谷区三宿に平間写真館をオープンしたのは15年。
今回、平間さんと音楽とのつながりを改めて聞くと、中学3年のとき、同級生と「ディープパープル」のコピーバンド、「チープパープル」を結成し、なんと、いまも活動を続けているという。「もう、結成40何年です」。
「ただ、ディープパープルが大好きだったのは一瞬で、すぐにパンクの世界に入った。それをずっと追い求めてきた感じです」
パンクロックは単に好き、というだけにとどまらない。
「ぼくに人生とって、パンクの存在は大きい。既成のものを壊して、新しい価値観をつくる。そういう意味では、ぼくの写真の作風の変遷や、30年間の行動は、まさに、パンク的だと思っています。自分がやってきたことを否定して、次に移行する。その流れがこの図録のなかにはっきりと表れています」
そのいちばんの原動力となったのは、「町を捨てたこと」と漏らす。
「塩竃を出たかった。こんな町にいたら、自分は腐ってしまうと思った。東京はパラダイス、地元は最悪って、よくあるパターンです(笑)」
田中泯「場踊り」より 2007年 (C)Itaru Hirama
■有名になりたい、外車に乗りたい
しかし、82年に上京し、日大芸術学部写真学科に入学したのは、「ここに行っておけば、誰も文句は言わないだろう、くらいの気持ち」でしかなかった。卒業に必要な最低限の授業だけ出て、映画研究会に没入した。
「真面目にやる気はまったくなかったですね。とにかく、写真学科とは関わりたくなかった」
大学卒業後は地元に戻らず、メディアで活躍する道を選んだ。
「実家が写真館だったこともあると思うんですが、ぼくは若いころ、『写真をやっている人』に対して、あまり好意を持っていなかった。なんか真面目で暗い感じで……。自分はそういう人たちとは違うんだ、みたいな意識があった。それで、派手なかっこうをしたり、ふざけたりしていた」
大手写真制作プロダクションに就職したものの、製品撮影の毎日。「自分が思い描いていたものとはだいぶ違った」。3カ月で辞めた。
「あのころ思っていたのは、広告や雑誌の世界でカッコいい写真が撮りたいとか、有名になりたいとか、外車に乗りたいとか。ほんとうに雑なイメージですね。そんな気持ちで通用するわけがない」
「NO MUSIC, NO LIFE.」より のん 2017年 (C)Itaru Hirama
86年、ニューヨークに留学していた友人を頼って、逃げるようにアメリカに渡った。
「ところが、友だちはすぐボストンに転校してしまい、ニューヨークにたった1人みたいな状況になっちゃった。そこで生まれて初めて、積極的に写真に取り組んだ」
帰国後、ニューヨークで撮影した写真を手に伊島さんの元を訪ね、アシスタントとなる。
「斬新なポートレートを撮っていた伊島さんは写真の処理に徹底的にこだわる人で、24時間、写真と格闘している感じでした。逆にぼくは現像や引伸しに凝るんじゃなくて、現場で何とかしようと思った。それが、『MOTOR DRIVE』につながった。特に現場のハードさとモノクロ表現が一致した」
「MOTOR DRIVE」より 1992年 (C)Itaru Hirama
■スナップ写真を撮るのをやめた理由
ポートレート写真には人物と対峙する難しさがある。
「こうしてくださいって指示を出すと、その人らしさが消えてしまう。相手の自発性が発揮される環境をどうつくるか。言葉をかけることもあるけれど、それはあくまでもきっかけ。話さなくてすむなら話さなくていいんです。撮影は、みんなでつくり上げる音楽のセッションみたいなもの。即興の演奏中に、次に弾くキーを言葉で叫ぶなんて、やっちゃいけないでしょ(笑)。アイコンタクト程度で、いかに次にボーンといけるか。やっぱり、そこが面白いわけです」
シャッターの音、リズム、撮影者の動き。すべてが、相手の気持ちをアップさせ、表情を引き出す要因になる。
そんな挑戦の場を、平間写真館に移してから7年になる。
「写真館は自分にとって、まさに現在進行形の活動の場なんです」
実は20数年前、能面のような表情だった平間さんが笑顔を見せた瞬間があった。「趣味で」撮り始めたスナップ写真について、「仕事を離れて素直な気持ちでシャッターが切れるのがいい」と、ほほえんだ。
ところが、「写真館を始めた途端、スナップ写真とか、日常をいっさい撮らなくなった」と言う。
「写真へのすべてのエネルギーを写真館に集中するようになった。だから、撮れなくなった。それでいいのか、という気持ちもちょっとはあったんですけれど、いまは、自分のテーマと写真館が完全に一致している。もう迷いはないです」
いつから、そう思えるようになったのか?
「この図録の色校正が出て、見た瞬間です」。つい、最近のことである。
「平間写真館TOKYO」より 2019年 (C)Itaru Hirama
■「命をちゃんと燃やして死んでいけそう」
写真館で人と向き合うのは「格闘」と、平間さんは言う。
「毎日でヘトヘトです。人はここまで疲れられるんだ、って思うくらい疲れる」
しかし、そう語る平間さんの表情は、出会ったころとは別人のように明るい。
「写真館で、ほんとうにいろいろな方と向き合い、撮影している。濃厚で激しい日々。そうしないと、この表情は引き出せないです。でも、すごくやりがいがある。命をちゃんと燃やして死んでいけそうな気がします」
(アサヒカメラ・米倉昭仁)
【MEMO】平間至写真展「すべては、音楽のおかげ Thank you for the photographs!」美術館「えき」KYOTO(京都) 4月2日~5月8日
「写真家・平間至の両A面」フジフイルム スクエア(東京・六本木) 6月10日~6月30日
dot.
2022/03/31 17:00