検索結果2074件中 681 700 件を表示中

汚玄関に汚風呂に汚部屋。片づけたら自分に自信が持てた
西崎彩智 西崎彩智
汚玄関に汚風呂に汚部屋。片づけたら自分に自信が持てた
靴箱のないかつての玄関。雑多なものが積み上がって、まるで物置のようになっていました/Before  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.19 片づいた部屋は社会とつながっている夫+子ども2人/経理事務 「普通のお母さんができることが、できるようになりたかった」と、その女性は片づけ前を振り返ります。自営業の夫と子ども2人の4人家族。子どもが小さいころにアパート2軒分を1軒に改装した家に引っ越し、近くに住む義父をサポートしながら暮らしています。  娘のアレルギー治療のため遠方まで通い、おやつは素材にこだわって手作り。不登校の息子を気にかけながら義父の家と行き来するなど、ここ数年は家族のケアに集中してきました。結果、収納の少ない家は少しずつ、物であふれていったと女性は言います。彼女自身もアレルギー体質でホコリに弱く、片づけはますますあきらめがちに。 「娘のために片づけたい、明日はやろう、と思うのにできなくて。自分が嫌で仕方なかった」  散らかった物を箱に入れてみるものの、その箱をどこに置けばいいのか、と迷う。作業台のないキッチンで作った料理をこぼしてしまう。洗濯済みの服をまた洗う。うまくいかないイライラが彼女を悩ませました。娘も不安定になりやすく、いら立ちは母に向かいます。家族仲はいいはずなのに、みんなの疲労が限界でした。  あるとき、夫の会社が事務員を採用する話を耳にします。彼女は夫の仕事をずっと手伝いたかった。だけど、この状態で家を空けていいものかと自分にストップをかけてきたのでした。 「夫の会社に自分の場所はないんだ……」  会社どころか家族の役にも立てていない。自己嫌悪でいっぱいだったとき、前から気になっていた家庭力アッププロジェクトへの参加を決めました。 夫と靴を置く棚を作ったら、ドアを開けるだけで感じていたストレスがなくなりました/After  家の問題は大きく2つ。要らない物が多すぎることと、そもそも収納が少ないこと。最初は徹底して不用品を処分します。独身時代の物から育児用品まで。タンスに入り切らず帰る場所もない靴下は、片方だけのものもたくさんありました。処分に困る10年前の液体洗剤も、一つひとつ処分しました。  収納問題の改善には夫が大活躍。もともと、毎日のように深夜帰宅という生活の中でも、できる家事は率先してやる人でした。プロジェクトへの参加を伝えると、彼は快く応援してくれて、彼女に尋ねました。「ママは今、一番どうなりたいの?」と。  彼女の答えは、「理想は人の役にたてる人になりたい。でも私はそんなレベルじゃないから、家族の役にたてるようになりたい」。夫は、「それでいいんだよ。たくさんやりたい事を考えるんじゃなくて、1つのやりたいことをやり続けた結果、いろんなものがついてくる。余裕ができたら次のステップに移れるから、がんばれ」と言ってくれました。  夫の気持ちと力を借りて、収納は手作りすることにしました。休日にホームセンターやインテリアショップを周り、収納ケースやDIY用の木材を購入。見ていた息子も率先して手伝ってくれて、今まで「何もしてくれない」と思っていたけれど、本当は役に立ちたかったんだ、と実感したそうです。  脱衣所がなかったお風呂場には、ツーバイ材で突っ張りタイプの棚を設置。あらかじめサイズを計測した収納ケースはぴったりフィットして、下着やタオルを置く場所ができました。靴が積み上がっていた玄関にも、壁一面に家族の靴を置ける棚を作りました。  夫がひとり事務所で夜なべして、洋服掛けと引き出し入れが一体になった収納を作ってくれたこともありました。娘の部屋には迷子になりがちなプリント類をしまう棚を。家全体が整っていくと、見ていた娘も「片づけたい」と言いはじめ、母と協力して自分の部屋を片づけました。ホコリまみれになってはシャワーを浴びることを繰り返し、体調と家中の物と向き合って、家族みんなで片づけをやり切りました。 ごちゃごちゃしていた収納周り(左)は、夫が夜なべして作った収納のおかげですっきり(右)  彼女は今、朝の用事を済ませると夫の事務所に行って仕事を手伝っています。キッチンに作業台ができたことで料理も効率よくできるようになり、なかなか続かなかった夫のお弁当も毎日ちゃんと作っています。出かける前には、ごみ捨て、排水溝の掃除、洗濯、お弁当作り、洗い物……。ある日の投稿では「普通のお母さんができてる。自分に花丸」と自分に自信が持てた様子でした。 「以前は『中が見えるから玄関をあまり開けないで』と子どもたちに言っていました。本当にかわいそうなことをしたと思います。いまはドアを開けるストレスがありません」  家事がラクになったのはもちろん、開けっ放しにしても大丈夫、という軽い心が彼女を外へ向かわせたのだと思います。  うれしいことはまだありました。最終日は夫からサプライズ。「ママが頑張ったから、今日は焼き肉にしたよ」と、肉と野菜を買って駅まで迎えに来てくれたんです。家を片づけてから、夫は夜中に自分の食器を洗い、最後に入ったお風呂も洗う。以前よりやってくれることが増えました。  息子は自分の部屋を片づけるのはもちろん、お昼に使った食器を洗うようになりました。娘はイライラが減ったせいか、片づけが進むとともに勉強に集中するようになり、高校受験を控えた最後の期末テストで先生に太鼓判をもらいました。プリントや片割れの靴下を探す必要も、なくなりました。  彼女自身は、なりたかった自分になれたことで外ともっとつながれるようになりました。お呼ばれしてばかりだったママ友を家に招いたときは、急な日程の前倒しにも慌てず、娘の部屋のドアが少し開いていても気にせず楽しめました。娘の部屋がちゃんと片づいていたからです。 「あの時、一歩踏み出したことで、私の世界は変わりました。洗濯物が各部屋にきれいに帰っていくのが楽しい。キッチンにいても階段を登っているときも、玄関を開けた瞬間も楽しい。うまく表現できないけどいい感じです」  心に余裕ができたからでしょう。彼女は当たり前の幸せを感じ、周りと気持ちの交換が素直にできるようになりました。表情も以前より軽く、柔らかくなったように感じています。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2022/03/15 07:00
新幹線「のぞみ」デビューから30年 命名秘話、名古屋飛ばし…波瀾万丈の歴史
新幹線「のぞみ」デビューから30年 命名秘話、名古屋飛ばし…波瀾万丈の歴史
N700S:7号車を「S Work車両」に設定することで、客室内でも携帯電話などの通話ができるほか、ビジネスサポートツールを無料で貸し出すサービスもある(提供:東海旅客鉄道)  2022年3月14日、JR東海が満を持して新幹線<のぞみ>を世に送り出してから30周年を迎える。今や東海道新幹線の大動脈として定着し、リニア中央新幹線品川―名古屋間が2027年に開業する(予定)までは“王者”として君臨し続けてゆくだろう。本稿では<のぞみ>と車両の歴史を振り返りたい。 *  *  * ■<スーパーひかり>構想と300系登場  東海道新幹線は1964年10月1日に開業し、速達型の<ひかり>と、全駅に停車する<こだま>が設定された。国鉄が1987年4月1日に分割民営化されると、東海道新幹線はJR東海の管轄となった。発足後、車両は、先頭の丸い0系新幹線から、国鉄時代の1985年に登場した100系に置き換わっていった。  その一方で、1988年1月に「新幹線速度向上プロジェクト委員会」を立ち上げ、東京―新大阪間を2時間30分で結ぶ<スーパーひかり>構想が始まった。当時、同区間の最速<ひかり>(名古屋・京都停車)は2時間49分で結んでいた。  新幹線の車両はただ速ければいいというものではない。騒音の抑制、乗り心地の向上など、クリアしなければならない問題が山ほどある。加えて東海道新幹線は、ほかの新幹線に比べるとカーブが多く、ATC(自動列車制御装置)などを含め、地上設備の改修も必要不可欠だ。  1990年、最高時速270kmの300系が登場した。100系の1両60トン程度(定員乗車時)から45トン程度に軽量化するため、東海道・山陽新幹線用の車両では初めて軽量化に優れたアルミ車体を採用したほか、座席も軽量化。さらに100系に比べ重心を低くし、車体の高さも低くすることで車体断面積を縮小し、空力音の低減に努めた。地上設備や架線の修正などもあわせて行われ、車両開発費も含めると、約1000億円が投じられた。 ■命名は阿川佐和子さんの提案から  東海道新幹線最速列車の愛称については、「お客様に親しみを持っていただけるような、聞きやすく、分かりやすい名称を前提」(JR東海)として、学識経験者や社内関係者をメンバーとする選考委員会を開いた。 300系:新幹線初のフルモデルチェンジ車として登場。JR東海・西日本所属車とも、2012年3月16日に引退した(提供:東海旅客鉄道)  最終的に<きぼう><たいよう><つばめ>などが残ると、学識経験者として招かれた作家の阿川佐和子さんが、父で同じく作家の阿川弘之さんの言葉を披露した。 「昔から日本の列車名には大和言葉が使われている、と父が申しておりました。<きぼう>を大和言葉にすると、<のぞみ>ですね」(読売新聞朝刊、2010年6月17日)  これを受け、「300系が未来にかける当社の夢と大きな期待を担ってデビューする列車であり、お客様にとっても夢と希望に満ちた列車となるよう」(JR東海)という願いを込め、阿川佐和子さんが提案した<のぞみ>を受け入れる形で決定した。  1991年12月6日、JR東海が<のぞみ>の愛称を発表すると、『鉄道ジャーナル』誌(当時、鉄道ジャーナル社刊。現在は成美堂出版刊)の編集長を務めていた竹島紀元(としもと)さんは目を細めた。感慨深げな様子が1992年3月号の編集後記に綴られている。 「かつて朝鮮半島の山野を驀進していた標準軌のSL急行<のぞみ>の愛称が半世紀ののち日本でよみがえり、同じく東海道新幹線の愛称に返り咲いてすでに30年近く親しまれてきた往時の兄弟列車──日満連絡急行<ひかり>と新しいペアを組んで21世紀へと“鉄道復権”のレールをひた走ることになったのは奇跡的な出来事であり、運命のめぐりあわせの不思議さに驚きつつ万感胸に迫るものがありました」  同誌によると、<のぞみ>は1934年12月、釜山―奉天間(1225.6キロ。所要時間は下り列車が23時間10分、上り列車が23時間50分)を結ぶ急行列車が始まりだという。当時、朝鮮半島は日本の植民地で、竹島さんは父親の仕事の転勤で京城(現在のソウル)に在住していた。  さらに同じ線路上で急行<ひかり>も運転されていた。当時、下関から関釜航路で釜山へ渡り、満州へ向かう「日満連絡ルート」が確立され、急行<ひかり><のぞみ>はその重責を担う存在だったのだ。  急行<のぞみ>は1938年10月から、奉天から先、新京まで延長されたが、戦局の悪化、軍需品輸送の貨物列車運転による優等列車の削減に伴い、1944年1月末に廃止された。急行<のぞみ>の晩年、竹島さんは親許から離れ福岡県に住まいを移しており、京城に帰省や受験をする際は急行<のぞみ>に乗車したという。 700系:“<のぞみ>の成長”に大きく貢献した車両といっても過言ではない(提供:東海旅客鉄道) ■1992年3月14日デビューも「名古屋飛ばし」が話題に  東海道新幹線最速列車<のぞみ>は、東京―新大阪間2往復の運転、全車指定席、<ひかり><こだま>より高い「<のぞみ>料金」の新設など概要がまとまってゆく。  ほどなく、山陽新幹線を管轄するJR西日本は<のぞみ>の乗り入れをJR東海に申し入れた。当時、JR西日本は最高時速350kmの500系試作車の開発を進めていたが、実用化に時間を要することから、同社も300系を導入することで話がまとまった。1993年春の東京―博多間毎時1往復運転の実現に向けて、地上設備の改良など準備を進めてゆく。  1992年3月14日のダイヤ改正で、ついに<のぞみ>がデビュー。下り東京6時00分発の301号新大阪行きに限り、東京よりも集客が見込める新横浜に停車する代わりに、名古屋と京都を通過し、終点新大阪8時30分着のダイヤとした。  これには名古屋の政財界が異議を唱え、「名古屋飛ばし」と話題になるほどの騒ぎとなってしまう。当時、深夜の保線作業終了後、線路を支えるバラストを安定させるため、数本の営業列車を対象に当該エリアの速度を時速170kmに制限していた。これに、早朝運転の<のぞみ301号>新大阪行きも該当しており、名古屋、京都に停車すると、2時間30分で新大阪に到着することができなかったのだ。  その後、新型の保線車両を開発、導入したことで、1997年11月29日より速度制限も解消。<のぞみ>全列車の名古屋、京都停車が実現した。 ■<のぞみ>毎時1往復に大増発  1993年3月18日のダイヤ改正で、<のぞみ>の運転区間は東京―博多間に拡大。同区間の毎時1往復運転により大増発され、5時間04分で結ばれた。  さらにJR西日本は時速300km運転が可能な500系の実用化に成功し、1997年3月22日にデビュー。当初は新大阪―博多間の運転だったが、11月29日より東海道新幹線に直通し、東京―博多間を最速4時間49分で結んだ(現在は4時間46分)。※500系の詳細は、拙著『波瀾万丈の車両』、アルファベータブックス刊を参照 N700系:「東海道新幹線の曲線通過速度向上」と「山陽新幹線の時速300km運転」を両立させた(提供:東海旅客鉄道)  これまで<のぞみ>の車両はJR東海・西日本の独自開発だったが、初の共同開発となる700系が1999年3月13日にデビュー。山陽新幹線内は最高時速285kmながら、300系に代わる主力車両として大躍進してゆく。  特に東海道新幹線では2001年10月1日から、<のぞみ>の定期列車(東京―新大阪・博多間)が30分間隔の運転となったほか、2003年9月17日以降は<ひかり><こだま>を含む全列車で時速270km運転が可能な車両に統一された。さらに速度向上および輸送力増強に伴う線路の改良、電源設備の増強、騒音や振動対策の強化など、地上設備の整備が完了したことで、2003年10月1日の品川駅開業を機に、<のぞみ>主体のダイヤへ大きく移行した。  <のぞみ>のさらなる大増発を機に、全車指定席から1~3号車を自由席に変更し、料金も<ひかり><こだま>と同額にした。JR東海によると、 <ひかり><こだま>の各自由席との乗り継ぎ、乗り換えにより、東海道新幹線各駅と主要駅相互間の利便性を向上させるため、<のぞみ>に自由席を設定したという。 ■N700A全盛の時代に  2007年7月1日、N700系がデビュー。半径2500メートルのカーブでも時速270kmで通過できるよう、車体傾斜システムを採用した。詳細は割愛するが、車体をたった1度傾けるだけで、さらなるスピードアップが実現し、東京―新大阪間は最速2時間25分の運転となった。さらに山陽新幹線内は時速300km運転も可能になった。  2013年2月8日、N700A(Aは「Advanced」の頭文字)がデビュー。2015年3月14日のダイヤ改正で、N700A<のぞみ>の一部列車を対象に最高速度を時速285kmに引き上げた。その後、2017年3月4日のダイヤ改正で、すべての<のぞみ><ひかり>の定期列車をN700Aに統一、2020年3月14日のダイヤ改正で、東海道新幹線の全列車N700A統一により、時速285km運転が可能になり、1時間あたり最大12本が設定できるようになった。7月1日には、N700S(Sは「Supreme」の頭文字)がデビューした。 N700A:車体ロゴのAが大きいのが新製車、小さいのがN700系からの改造車なので、ひと目で見分けがつく(提供:東海旅客鉄道) ■「ゆとり」とビジネスに対応  JR東海は<のぞみ>のデビュー以降、16両編成の定員を1323人に統一、ビジネス客向けに利用しやすい環境を整備していく。国鉄末期の最高傑作といってよい100系の目玉であった2階建て車両の食堂車、グリーン個室といった“ゆとり”がそがれてしまう展開となった。  現在、東海道新幹線における“最大のゆとり設備”といえるのは、コンセントだろう。700系の増備途中から一部の席に設置し、N700系ではグリーン車全席と普通車の窓側席、最前部と最後部の全座席に拡大、N700Sでは全席装備となった。  コンセント設置当初はノートパソコンの充電に重宝していたが、現在はスマートフォンの充電で使う乗客が多く、東京から京都に着くころにはフル充電も容易である。  “もうひとつのゆとり”として、<のぞみ>に「ファミリー車両」が登場した。2010年の夏休みに貸し切りのファミリー列車を運行したところ好評を博したことから、<のぞみ>に導入される運びとなった。家族連れ専用席にすることで、気兼ねなく、くつろげるのがウリだ。多客が見込まれる時期に設定されている。  ビジネス客向けの“ゆとり設備”では、2021年10月1日よりN700Sの7号車を「S Work車両」という“車内特化型オフィス”に設定。2022年春以降には打ち合わせなどができるビジネスブースを試験的に導入する。  <のぞみ>が登場して30年。これからも大都市同士を結ぶ大動脈、人々の夢と希望と未来への架け橋、旅の思い出を作る列車として、光り輝き続ける。(文・岸田法眼<取材協力:東海旅客鉄道>) 〇岸田法眼(きしだ・ほうがん)/『Yahoo! セカンドライフ』(ヤフー刊)の選抜サポーターに抜擢され、2007年にライターデビュー。以降、フリーのレイルウェイ・ライターとして、『鉄道まるわかり』シリーズ(天夢人刊)、『論座』(朝日新聞社刊)、『bizSPA! フレッシュ』(扶桑社刊)などに執筆。著書に『波瀾万丈の車両』『東武鉄道大追跡』(アルファベータブックス刊)がある。また、好角家でもある。引き続き旅や鉄道などを中心に著作を続ける。
のぞみ東海道新幹線
dot. 2022/03/13 10:00
EXIT兼近大樹「芸人は小説家になるための手段」 それでも芥川賞に興味がない理由
EXIT兼近大樹「芸人は小説家になるための手段」 それでも芥川賞に興味がない理由
兼近大樹さん(右)と林真理子さん[撮影/小山幸佑、ヘアメイク/高丸瑞加、富樫真綾(Ari・gate)、スタイリング/矢羽々さゆり]  今を時めくお笑いコンビ「EXIT」の兼近大樹さん。昨年10月、初の小説『むき出し』を出版しました。芸風は「チャラい」ことで有名ですが、「小説を書くために芸人になった」という意外なエピソードも。作家・林真理子さんとの対談で語ってくださいました。 【EXIT兼近大樹、小説執筆は「ケータイで全部ひらがな」 又吉直樹からの助言も】より続く *  *  * 林:主人公の「石山」って、女の先生をいじめて追い出しちゃうとか、すごく悪い少年だけど、そういうことをする理由は、すべて彼の中にあるんですよね。読むうちに、彼の内面がわかってくると、読者も「こんな理由があるのに、なんで大人はもっとわかってあげないの」って思いに変わる。それもこの小説の手柄だと思いますよ。 兼近:ああ、うれしいです。この主人公は、嫌われるようなことをしているけど擁護したくなるというか、ズルさと純粋さをあわせもっている。そんな側面があるのかな、と思っていますね。 林:「石山」は家が貧乏だし、親も仲が悪いんだけど、家族思いだし、「世の中バカヤロー」とは思わないんですよね。友達に対してもやさしいし、決して孤独じゃないところに救いがあって、いい読後感を生んでますよ。すごくやさしい子だと思います。 兼近:うれしいですね。「石山」は自分を正当化しようとするし、被害者意識も強くて、イヤな部分もあるんですが、そこも含めて「やさしい」って読んでくださる方がいるなんて、この世の中、やさしいなって僕は思います。 林:お仕事すごく忙しいのに、書く時間、じゃなくて、打つ時間はあったんですか。 兼近:日々のテレビなどの仕事が終わったあと、家に帰って打つんですけど、「あれを書きたい」と思ったことがあっても、夜になると何書きたいか忘れちゃったりしてて。それで、なんとか思い出して打つんですけど、読み返したりしたらもう朝になってて、そのまま仕事に行くこともありましたね。 林:兼近さんは知らないだろうけど、昔は私もテレビにすごく出てたときがあって。テレビって外に向かって自分をワーッと広げていくんだけど、書くって内に集中させるから、うちに帰ってクールダウンして、精神的に全く正反対なことをしなくちゃいけない。当時はそれってけっこう難しいな、と思ってましたよ。 兼近大樹 [撮影/小山幸佑、ヘアメイク/高丸瑞加、富樫真綾(Ari・gate)、スタイリング/矢羽々さゆり] 兼近:僕なんか一緒にしたらおこがましいんですけど、テレビでは僕、それこそチャラ男のキャラクターで、「イェイ! イェイ!」って言ってるんで、家に帰っても、元に戻るまで時間がかかるんですね。だから、小説を書いている時期は、テレビに出てるときまで暗くなっちゃってました(笑)。 林:私、テレビでEXITを見て、おもしろいなと思ったんです。見ている人に嫌悪感を与えず、現代における「チャラい」を具現化してるから。ところが、二人がコメンテーターをやるとすごくまじめで、落差にびっくり。テレビに出ながらものを書くって、たぶんああいう落差だと思うんです。 兼近:ああ、なるほど。お笑いって難しくて、コア層に向けるとコア層は喜ぶけど、ついてこられない人たちがいっぱいいて、バランスを気にしながらやるんですよ。でも、コメンテーターのときはあまり気にしなくていいというか、自分が感じたことをただ言うだけなので、わりとスッとできる感じはありますね。 林:ふつうは反対で、社会的なコメントって、おじいさんおばあさんに反感を与えないようにって思うんじゃないですか。 兼近:個人としての考えは変えられないので、言いたいことを言って、それを認めてもらうしかないな、みたいな感じでしょうか。ただ、お笑いの仕事となると、それは別で。やりたいことをやっていればいいというものではなく、芸としてきちんと認めてほしいので、上の世代にも伝わりやすく、子どもにもわかるように、みたいなことを考えていますね。 林:兼近さんのファンって、若い女性がほとんどですか。 兼近:意外と10代、20代のファンの割合、そんなに多くないんです。ファン層でいちばん多いのは30代で、次に多いのが40代50代。10代より60代70代のほうが多いんですよ。僕も意外なんですけど。 林:私の世代だと「チャラい」って受けつけないはずなのに、お二人は受け入れられるんですね。たぶん息子とか孫に重ねてるところがあると思いますよ。 兼近:こんな髪の毛の息子とか孫、いますかね(笑)。 林:髪の色はともかく、「うちの息子とか孫にも、こういうところあるな」と思いながら見てるんじゃないですかね。 兼近:確かに10代や20代には嫌悪感があるかもしれないですね。「こういう人、苦手なんだよ」っていう。逆に年上の層だとかわいがってくださるというか。 林:インタビュー記事を読むと、子どものころ、つらいこともあったみたいだけど、野球をやってたし、背が高くてカッコいいから、女の子にはチヤホヤされて、それが救いになったんじゃないですか。 兼近:女の子にチヤホヤなんて、まったくないですよ。小学校のときなんて嫌われ者でしたよ。 林:中学校になったら女の子に騒がれ始めた? 兼近:いや、中学になってもぜんぜん。学校でキャーキャー言われたこともなく、むしろ避けられてたと思いますよ。ほかのやつらがふつうに女子としゃべってるところを見てうらやましくて、それに嫉妬して意地悪しちゃったりしてましたね。 林:兼近さんも、「石山」と同じように妹さんの学費を稼ぐために定時制高校に行って働いてたそうですね。 兼近:はい、そうなんです。 林:兼近さんは北海道出身ですけど、北海道出身の芸人さんは珍しいんじゃないですか。 兼近:やっぱり関西というか、西のほうがお笑いに触れてる感じがありますよね。新喜劇とかも、芸人になってから初めて見ました。それまでぜんぜんお笑いに触れてこなかったんで。 林:それなら、なんでお笑い芸人になろうと思ったんですか。 兼近:僕、まともに読んだ最初の本が又吉さんの『第2図書係補佐』で。芸人でありつつ小説を書いてる方に憧れたんですよ。 林:えっ、兼近さんって、小説を書くことに憧れて、その手段として芸人になったんですか? 兼近:そうですね。手段がわかんなくて、何をしたら書けるようになるんだろうって思って、とりあえずおもしろい人になればおもしろい小説が書けるのかな、みたいなイメージでしたね。 林:なるほど、それで吉本の養成所に入ったんですね。 兼近:そうです。どうしたら書けるんだろうと思いながら入ったんですけど、お笑いが楽しすぎて没頭しちゃって、気づいたら2年、3年たってたんです。忙しくなってきて、書くタイミングがなく過ごしていたあるとき、ふと「俺、そもそも書きたくてお笑いやってるのに、何してるんだろう」って気づいて。それからちゃんと書き始めた感じです。 林:学生時代もあまり本を読まなかったんですか。 兼近:まったく。 林:江國香織さんの小説が好きってどこかで読みましたけど。 兼近:それはだいぶ大人になってからというか、東京に出てきてから本屋さんとか古本屋さんに顔を出して、よくわかんないけど適当に取った本がたまたま江國さんの本だったんです。でも、読んでみたらすごくいいなと思いましたね。 林:江國さんは文章が研ぎ澄まされたように美しくて、比喩も多い方ですけど、ほかにも好きな作家を見つけられました? 兼近:穂村弘さんという……。 林:歌人の方ですね。 兼近:あの方のエッセーを読ませていただいたときに、ちょっと似てる部分があるなと思って。生きてきた環境も違うし、読んだ当時は社会に出たこともなかった僕とは、似てるわけないんですけど、考えてることとか、自分の中で思う気持ちが重なって見えたときにすごくうれしかったですね。こんな年上の人と俺が同じようなことを考えて生きてるんだと思って。 林:江國さんといい、穂村さんといい、文章が非常に洗練されている方ですけど、それを読んでも、兼近さんの文体はほとばしるような感じになるんですね。 兼近:ああ、確かに。寄れないというか、寄らないかもしれないですね。まねっ子してそれっぽい感じにするのは違うなって思ったんです。 林:まねはしないまでも、いろんな作家の本を読んで、その経験がだんだん堆積されていって、その中から腐臭みたいなものが出てきて、それがやがて自分のオリジナルになっていくんですよね。いずれは又吉さんみたいに賞(芥川賞)をとりたいって思ってます? 兼近:僕なんかが賞をとるより、もっと頑張ってる人たちに賞をとってもらったほうが、文学界としてはうれしいのかなと思っちゃいますね。 林:このご成功、家族の皆さんは喜んでます? 兼近:そうですね。息子が奇跡の成功をしたから、どうしていいかわかんなくなっちゃってるみたいです(笑)。で、親にマンション買いました。 林:エライ! 北海道にですか。 兼近:北海道に。「墓」って言ってプレゼントしました(笑)。 (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 兼近大樹(かねちか・だいき)/1991年、北海道生まれ。2013年、吉本興業の養成所NSC東京に入学。17年、りんたろー。とともに「EXIT」を結成。18年、ヨシモト∞ホール、ルミネtheよしもとで単独ライブを開催、YouTubeに「EXIT Charannel」を開設。19年、「よしもと男前ブサイクランキング」男前ランキング1位。20年、公式ファンクラブを開設。複数のテレビ番組にレギュラー出演するほか、音楽活動やブランドのプロデュースなど、活動の幅は広い。昨年、自身初の小説『むき出し』(文藝春秋)を出版した。※週刊朝日  2022年3月18日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/03/12 11:30
田代まさしら芸能人もサポート 薬物依存者支援の「日本ダルク」代表・近藤恒夫さん死去
田代まさしら芸能人もサポート 薬物依存者支援の「日本ダルク」代表・近藤恒夫さん死去
日本ダルク代表の近藤恒夫さん/2006年3月撮影  日本初の薬物依存者の社会復帰を支援する民間施設「ダルク」の創設者で、日本ダルクの代表・近藤恒夫さんが、大腸がんのため2月27日、都内の自宅で死去した。享年80。葬儀は近親者で執り行われた。  筆者は6年前、東京都新宿区内の日本ダルクの事務所で、職員として働いていた元タレントの田代まさし受刑者にインタビューしたことがあり、立ち会った近藤さんからも話を聞いた。当時を振り返りながら近藤さんの人柄と「ダルク」の足跡を紹介したい。   近藤さんが「ダルク」(現・東京ダルク)を都内荒川区に立ち上げたのは1985年7月。日本にはアルコール依存者救済の自助グループや施設はあったものの、薬物については初の試みだった。 「その頃、アルコール依存者は社会復帰できるけど、薬物異存者は無理、というのが専門家も含めて一般的な意見でした。それを聞かされるたびに、『じゃあ、元薬物依存者の俺はどうなんだ』と怒りを覚えたものです。薬物依存は一種の病気。本人次第で回復することは可能です。それで自分で作ることにしたわけです」  近藤さんは働き盛りの30代に覚醒剤に溺れたことがあった。 「フェリー会社の調理部門責任者をしており、50年前ですが年収は1千万円を超えていました。自宅は札幌。結婚し、子供もいました」  だが歯痛を押さえるために覚醒剤を使用したことをきっかけに常用し、気がつけば仕事や家庭はそっちのけ。生活はすさみ、解雇、家庭崩壊、ついには39歳だった80年に逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。  この時の裁判官の奥田保さん(故人)は、退官後に弁護士登録し、日本ダルクの理事長として近藤さんを支えた。 釈放後、以前から親交のあったメリノール宣教会のロイ・アッセンハイマー神父が主宰する、アルコール依存者の自立支援施設「マック」の職員になり、ロイ神父の右腕として活動した。  そんな経験から薬物依存者向け施設の必要性を感じ、ドラッグ(Drug=薬物)、アディクション(Addiction=嗜癖(しへき)、病的依存)、リハビリテーション(Rehabilitation=社会復帰、 回復)、センター(Center=施設)の頭文字を組み合わせた造語の「DARC/ダルク」設立に至った。  設立前年の84年は、覚醒剤取締法違反による検挙者は戦後第2のピークを迎え、2万4372人を記録(2021年版 犯罪白書)。「ダルク」の存在は一躍注目を浴びた。  名古屋市、横浜市の順に各地に拠点が誕生し、91年には都内北区に女性限定の「ダルク女性ハウス」もできた。 「全国各地のダルクは独立採算、独自のルールで運営されており、現在、国内に63団体89施設、韓国に3施設あります」(日本ダルク・広報担当の三浦陽二さん)。  入所者数は約500人。1日数回のミーティングを中心に、各地のダルクがオリジナルプログラムを実施し、最終的に就労、自立生活を目指している。  近藤さんは全国のダルクをサポートしながら行政、法律家、医療関係者、薬物研究者らと連携し、国内だけでなく海外の薬物問題にも取り組んできた。また、学校や刑務所などでの講演も精力的に行ってきた。  その功績により、94年に東京弁護士会人権賞、2013年には犯罪・非行防止に貢献した人に送られる作田明賞最優秀賞を受賞。01年には自伝的ルポ『薬物依存を超えて』(海拓舎)で吉川英治文化賞も受賞している。  その一方、「ダルク」は著名人の薬物依存者の救済も積極的に行ってきた。  田代受刑者や歌手のASKAさん、そしてNHKの子供番組「おかあさんといっしょ」の9代目「歌のお兄さん」で、16年4月に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕された杉田あきひろさんらだ。  田代受刑者は日本ダルク本部の職員だったことがあり、ASKAさんは一時、ダルクの回復プログラムを受けていた。杉田さんは、長野県上田市にある「長野ダルク」に執行猶予が明けるまでの3年間入所し、社会復帰を果たしている。  杉田さんは自身のSNSで近藤さんの訃報を伝え、「僕の裁判にも来てくださり『一緒に回復していこうな』と言ってくださった近藤さん。いつも優しい笑顔でした。近藤恒夫さんのご冥福を心からお祈りいたします」とつづった。  6年前、近藤さんはダルクの大きな特徴をこう話してくれた。 「薬物依存に苦しんでいる人が、他の薬物依存者のサポートをする互助スタイルであることです。私だけでなく、ダルクのスタッフも全員が薬物依存経験者なので、克服するのがいかに大変かわかっています。依存者の気持ちに寄り添えるんです」  これは、近藤さんが札幌時代にアルコール依存者の自助グループに入っていた時のミーティングプログラムがベースになっている。 「回復のために12のステップがあり、最後のステップは『他の依存者にも自分の経験を伝えるように』。自分だけ回復するのではなく、他の依存者にも回復の手順を順々に伝えていこうというわけです」  田代受刑者が一時、ダルクの職員になったのも、そんな理由だからだ。  ダルクの合言葉は「Just for today(今日1日だけを考えて生きる)」。  田代受刑者は以前、この言葉をこう説明した。 「01年に覚醒剤取締法違反容疑で最初に逮捕されて以来、僕だって何十回、何百回と止めようと思いました。それでも完全に縁を切れないのが覚醒剤の怖さなんです。今でも正直言って、明日はわからない。だから、『今日一日使わない。止めよう』だけを考える。それを365回繰り返して1年。1日1日の積み重ねが大切なんです」  ダルクは、今でこそ95カ所に施設があるが、開設にあたり地元の反対運動にさらされたところは少なくない。  例えば、前出の「長野ダルク」。01年4月に長野県東部町(現東御市)に第一歩をしるしたが、すぐに移設を余儀なくされた。 「オウム真理教の一派ではないか?と警戒されたのです。反対の声が想定以上に大きいので、半年ほどかけて現在地に移転しました」(「長野ダルク」創設時から施設長を務める竹内剛さん)。  暴力団元組員の竹内さんは、99年に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕後、ダルクに入所。「俺を救ってくれた“オヤジ”」と公言するほど心酔した。近藤さんの人柄についてこう話す。 「豪放磊落(らいらく)、包み込むような優しいオーラがある。それでいて身だしなみに無頓着。覚醒剤で服役し、出所してきたばかりの人に『腹減ってないか? しゃぶしゃぶでも食いに行くか?』と冗談を言うような明るさが魅力でした」  近藤さんの大腸がんが発覚したのは2年前の1月。すでに78歳。完治の見込みは薄かった。 「それでも各地のダルクの動向が気になるものですから活動をやめませんでした。この2月中旬も、佐賀県で行われた研修会にリモートで参加したんです。常に仲間の皆のことを考えていました」(日本ダルク・インフォメーションセンターの篠原義裕さん)  茨城ダルク・今日一日ハウス(茨城県結城市)の岩井喜代仁(きよひろ)寮長(74)は、23歳にして暴力団組長にのし上がり、覚醒剤の売人と顧客として50年ほど前に近藤さんと知り合った。その後、自らも覚醒剤にのめり込み、全てを失った過去がある。 「『やりたいようにやれ。間違ったら修正すればいい』。それが近藤さんの口癖でした」  岩井さんは、近藤さん逝去の前夜、自宅に伏せる近藤さんを見舞った。 「痩せ細ってしまい、本人はかなりの激痛だったと思います。それでも最後の最後まで、モルヒネのような麻薬性鎮痛剤に頼らなかった。生涯かけて薬物の魔の手から逃れよう、依存者を助けようとした近藤さんらしい。別れ際、私の手を握りしめて『頼むよな』と言われたのは一生忘れません」  前述のように、田代受刑者は、ダルク職員として近藤さんの薫陶を受け、また講演会の講師として同じステージに立ったのは10回、20回ではない。6年前、こんな夢も話していた。 「近藤代表の日常を追い、活動をリポートするドキュメンタリー映画を作りたい。それが薬物依存について正しく知ってもらうきっかけになればいいし、薬物依存に悩んでる人やその家族、友人に手を差し伸べられると思います」  残念ながら、それはもうかなわない。近藤さん逝去の報に接してどのように思うのだろうか。(高鍬真之) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2022/03/11 15:50
サウナで「ととのう」の健康効果は? 医学的根拠を医師が解説 心筋梗塞や認知症の予防効果も
サウナで「ととのう」の健康効果は? 医学的根拠を医師が解説 心筋梗塞や認知症の予防効果も
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  サウナブームで「サ活」にいそしむ“サウナー”が増えている。サウナには健康増進効果に加え、心筋梗塞(こうそく)や認知症などの病気予防効果もあるという。予防医療としてサウナの健康効果を研究する現役医師に、その医学的効能や根拠について解説してもらった。 *  *  *  美肌効果、冷え性の改善、自律神経の調整、睡眠の質の向上、集中力アップ……。サウナの効能として知られているものは数多い。日本サウナ学会代表理事を務める加藤容崇医師は、サウナを人々の健康増進に役立てることを目標に、医学的見地から研究している日本のサウナ研究の第一人者だ。  ちなみに「サウナ」とは、単にサウナ室で体を温めて汗をかくだけではなく、サウナ、水風呂、休憩(外気浴)を1セットとする一連の「サウナ浴」を指す。加藤医師によると、サウナに健康増進効果が高いのは明らかだが、メカニズムの多くは未解明であり、研究を進めているところだという。 「サウナに入って、深部体温が38度以上になると、ヒートショックプロテインという物質が出て、組織修復作用が働くほか、隅々の毛細血管にまで血流が循環します。サウナ後の水風呂には、体の熱を逃さない魔法瓶のような効果がある。休憩を挟みながら、それらを繰り返すことで、血流がアップし、自律神経も調整され、冷え性の改善や美肌などもかなうわけです」  なかでも、サウナの最大の医学的効能は「脳疲労の回復」と加藤医師は解説する。サウナに入ると、脳波や脳回路自体にも変化がみられるという。 「サウナに入ると体の深部体温は上がるのですが、脳の血流量は逆に低下します。さらに、外界の情報からも遮断され、暑さのなかで呼吸などに意識を集中しているうちに、通常の脳の状態である『DMN(デフォルト・モード・ネットワーク)』から、何かに集中している時の脳の状態『CEN(セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク)』に自動的に切り替わるのです」 加藤容崇(かとう・やすたか)/ 日本サウナ学会代表理事・慶應義塾大学医学部特任助教。  集中モードの脳の状態CENは、雑念のない瞑想(めいそう)状態と同じで、脳のエネルギー消費も5%程度。いわばCENは脳の省エネ運転状態で、負荷が少なく脳が休まる。脳の疲労がとれるのだという。それに対して、DMNは通常モードの雑念の多い脳の状態だ。脳は常にごちゃごちゃと思考し続けており、体を休めているときでも脳は疲れたままになりやすい。DMN状態では脳のエネルギー消費も70~80%におよぶ。 「自動的に脳の状態がCENに切り替わるサウナは、手軽なウェルビーイング装置。実際に瞑想をするとなると難しいテクニックの習熟が必要だったりしますが、サウナはそうしたテクニックも不要でマインドフルネスに近い体験ができてしまう特殊な空間といえます」  サウナでは、高温のサウナから低温の水風呂、外気浴と、体は温度差の大きい環境にさらされる。強い負荷をかけられ、自動的に副交感神経、交感神経に交互にスイッチングされるという。 「サウナから水風呂に入ると、交感神経が優位になり、アドレナリンやノルアドレナリンなどのホルモン(興奮物質)が出ます。水風呂を出ると速やかに副交感神経優位となり、体はリラックスへと向かいますが、2分間ぐらいはまだ興奮物質が残っている状態。高揚感があり、頭がスッキリ覚醒したまま、体はリラックス状態になる。これがいわゆる『ととのう』という状態です」  ととのった状態の脳波をMEGという超高精度の脳波計を使って解析すると、アルファ波やベータ波に顕著な変化が見られ、とくにデルタ波は下がって覚醒度が上がっているという。 「サウナ後のととのった状態では脳は深くリラックスしていますが、眠気はなくスッキリしていて、かつクリエーティブな発想が生まれやすい状態といえます」  サウナによって脳疲労がとれ、仕事や勉強などの集中力も増し、効率もアップする。また、サウナ後しばらくは、「深部体温が高く皮膚表面の温度が低い」状態にあるため、眠りに最適な身体状態となっており、夜の睡眠の質も上がる。  血圧が高めな場合にも、サウナは有効だ。加藤医師によると、サウナは主に心臓血管系に大きな健康効果をもたらし、血圧を下げる効果もあるという。 「ただし、高血圧の持病のある人の場合、ある程度コントロールができている状態であることが大切です。事前に医師に相談してから入りましょう」  サウナ大国であるフィンランドでは、すでに50年にわたり、サウナの調査研究が進んでいる。サウナの病気予防効果の明確な医学的根拠(エビデンス)も出そろっているという。 「フィンランドの疫学調査(6万人を対象)で、サウナに週1回入る群と週4~7回入る群を比較した結果、週4~7回入る群では心筋梗塞の発症リスクが50%強低減しており、認知症の発症リスクも60%強、統合失調症などの精神科疾患の発症リスクも70%強低減したというエビデンスが出ています」  ちなみに、フィンランド式のサウナはウェットサウナで、低い温度でも湿度が高いので体感温度は高く感じる。日本のサウナ施設の主流はドライサウナだが、ウェットサウナは深部まで温まりやすく、ととのいやすい。加藤医師のおすすめはフィンランド式サウナだという。  このように、いま現在の心身の不調に効くだけでなく、将来的な病気予防効果にも優れているサウナ。ぜひ、これらメリットや注意点も参考にしながら健康習慣に採り入れていただきたい。 (文/石川美香子) ○加藤容崇(かとう・やすたか)/ 日本サウナ学会代表理事・慶應義塾大学医学部特任助教。1983年、群馬県生まれ。北海道大学医学部卒。専門はがんの遺伝子検査とがん(主に膵臓がん)研究。第二の専門は予防医療としてのサウナの研究で、日本サウナ学会を2019年に設立。株式会社100plusも設立し、サウナ室内混雑リアルタイム表示システム&アプリ「サの国」(22年5月公開予定)や「ととのう」を数値化するデバイス・アプリを開発している。著書に『医者が教えるサウナの教科書』(ダイヤモンド社)などがある。
ととのうサウナ
dot. 2022/03/10 09:00
MISIAやレディー・ガガも着用 カラフルで美しい“ラッフルドレス”で希望を届けたい ドレスデザイナー・小泉智貴
MISIAやレディー・ガガも着用 カラフルで美しい“ラッフルドレス”で希望を届けたい ドレスデザイナー・小泉智貴
昨年末の紅白歌合戦でMISIAの衣装を手掛けた。桜色のドレスにはMISIAが歌う「明日へ」の希望が込められている(写真=小山幸佑)  ドレスデザイナー、小泉智貴。子どもの頃からファッションが好きで、自分で洋服を作っていた。ジョン・ガリアーノを雑誌で見て、その世界観にあこがれた。自分らしいデザインを模索していく中、ラッフルドレスにたどり着く。世界的なスタイリストの目に留まり、NYで初のコレクション。一夜にして世界で注目されるようになった小泉智貴。希望をくれたドレスで、世界に希望を届けたいと願いを込める。 *  *  *  晴れやかな顔でリンクに立つ、北京五輪フィギュアスケート男子銀メダリストの鍵山優真。エキシビションでは、MISIAの「明日へ」の調べに乗って優美に銀盤を舞う。その衣装をデザインしたのは、ドレスデザイナーの小泉智貴(こいずみともたか)(33)だ。  スポーツの衣装は極限のパフォーマンスを求められるものなので、ドレスとは違う難しさがあり、制限が多い中での作業は勉強になったと振り返る。 「楽曲の『明日へ』には雪解けを待つ春への思いがあり、自然の芽が力強く生まれる瞬間をイメージして、空と草木を白と水色と緑のフリルで表現しました。鍵山さんはすごく若いし、黒のカッコいい衣装が多いので変化をつけたくて。ちょっと可愛い感じで舞台映えする衣装になったかなと」  気どりない笑顔で話す小泉は、物腰も柔らかだ。  小泉が作るフリルをたくさん使ったカラフルなラッフルドレスは国内外で人気が高い。YUKIや加藤ミリヤ、ドリカムの吉田美和などがステージで着ており、海外ではレディー・ガガやビョークなどのアーティストから支持される。ニューヨーク・メトロポリタン美術館のパーマネントコレクションに選ばれたり、マーク ジェイコブスやエミリオ・プッチとコラボしたり、小泉はむしろ海外での知名度の方が高い。  小泉のドレスが世界中の目にとまったのは、2021年7月23日、東京オリンピックの開会式だ。淡雪のようにフリルをちりばめた白いラッフルドレスをまとい、MISIAは国歌を朗々と歌いあげた。ふわりと広がるラインは多彩なグラデーションをなし、虹のように舞台で浮かびあがる。 「ひと目見て、純粋に美しいと思えるもの。世界中の人たちの目にふれるので、優しさと強さをもつピュアで美しいドレスを作りたかったんです」 仕事場は学生街の早稲田界隈にあるアパートのひと間。「大学時代は洋服のお直しをやっていたんです。スーツやジーパンの裾上げやボタン付けとか」と小泉。一人、ミシンに向かって楽しげに制作に励む(写真=小山幸佑) 批判覚悟で作ったドレス反響大きく新聞に投稿も  小泉のもとへオファーがあったのは開幕2カ月ほど前。コロナ禍で賛否渦巻く最中である。正直、引き受けるかどうか、心は揺れた。 「でも五輪の大舞台で依頼されたのはチャンスと思い、『やりたいです!』と。もし断って誰かがやるのはちょっと嫌かなと。だったら自分が責任をもって、世界中に希望を届けたいと思ったので」  ほぼ1カ月の強行スケジュールで縫製を任せたのが、兵庫県西宮市でウェディングドレスを手がけるアトリエのスタッフだ。気心も知れているチーフの林美亜は、格別の思いを受けとめていた。 「あの状況では批判を受ける可能性もあることを覚悟され、使命を背負う緊張感もありました。それでも美しいものは必ず伝わる、こういう時こそ希望になるドレスを届けたいと言われたのです」  デザインしたのは光のプリズムのようなドレスで、30色ほどのマルチカラーで表現する。使ったオーガンジーは100メートルほどで、ペットボトルをリサイクルした生地だ。フリルを一つひとつ縫い、大輪の花のようなドレスに仕上げる作業は大変だが、「時間をかけるほど可愛くなるから」と手間を惜しまない。最後は皆で手縫いをしながら追い込むが、いつも和やかだったと林はいう。 「最後のゴールを思い描き、ポジティブな気持ちでやればきっと上手くいく。良いものを作れば絶対認めてもらえるということも教えられました」  MISIAが舞台に登場すると小泉のスマホは鳴り続け、反響は大きかった。生地の産地である石川県の女子高校生からは、コロナ禍で沈みがちな気持ちが明るくなったと地元紙へ投稿があった。 <私は、前を向いて進んでいきたい。この苦しみを抜けた先には希望に満ちた未来が待っているはずだから。あのドレスのように虹色に輝く、美しい未来が待っているはずだから>と。  華やかなファッションは、小泉にとっても未来への希望を与えてくれたものだった。 木更津の実家で猫を2匹飼っていて、毎月妹と2人で爪を切りに行く。幼い頃から優しいお兄ちゃんが大好きで仕事場や海外へも一緒に出かける妹は、今では小泉の仕事を支えるパートナーになった(写真=小山幸佑)  少年時代を千葉の木更津で過ごした。4歳の頃に父母が離婚。シングルマザーになった母の一恵は姉夫婦の葬儀会社で働き、3人の子を育てた。 「智貴は小学生のとき、私の誕生日にお好み焼きを作ってくれたんです。わざわざ電車に乗ってデパートへ行き、ホタテとか海産物まで買ってきて。もう泣けちゃいましたね。優しくて反抗期もなかったので、逆に大丈夫かなと心配もしましたが」  お洒落な母は、自分が好きなブランドの子ども服を雑誌で見て注文し、子どもたちに着せていた。次男の智貴は手芸も得意だったと母はいう。 幼少の頃を過ごした袖ケ浦の神社へ。ファッションに憧れた少年時代の夢が実を結んだ今、「これからは自分が才能ある若い人たちを応援したい」と小泉は考えている(写真=小山幸佑) 「小さい頃は折り紙が好きで『折り紙の本が欲しい』というので買ってあげると楽しそうに折っている。女の子がドレスを着た絵も描いていました。家庭科で裁縫を習うと、針と糸を持って何か作っていて。普通のお母さんは『危ないからやめなさい』と言うのでしょうが、私も放ったらかしで」 (文中敬称略) (文・歌代幸子)※記事の続きはAERA 2022年3月7日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2022/03/05 11:00
共感VR、オンラインバスツアー、混雑予報AI コロナをチャンスに変えた人たち
渡辺豪 渡辺豪
共感VR、オンラインバスツアー、混雑予報AI コロナをチャンスに変えた人たち
クロスフィールズがコロナ禍に立ち上げた「共感VR」のワークショップ。教育現場での活用も広がる(photo 提供)  コロナ禍はとりわけ、中小・零細企業や商店を苦境に陥れた。そんな逆境をバネにチャンスに変えた人もいる。多くの分断を生んだコロナ禍の出口は、ポジティブにつながる社会の入り口であってほしいと願う人たちだ。AERA 2022年3月7日号から。 *  *  *  国際協力と企業のリーダー育成を手がけるNPO法人クロスフィールズ(東京都品川区)。小沼大地代表理事(39)は「この2年間でより打たれ強くなった気がします」と話す。  コロナ禍の前の主力事業は、企業の若手社員を新興国のNGOなどに派遣する「留職」と、企業の幹部社員が国内外の社会課題の現場を体感する「フィールドスタディ」の二本柱。この事業モデルは、新型コロナウイルスの感染拡大とともに壊滅的なダメージを受けた。  2020年2月には留職が中止に追い込まれ、人との密な接触が前提のフィールドスタディも継続が困難になった。両事業で見込んでいた約2億円の収入がすべて失われたうえ、返金も必要になった。 「経験したことのない絶望の谷に突き落とされたのが、私たちにとってのコロナ危機でした」(小沼さん) 「撤退戦」の日々。プレッシャーと先行きへの不安が相まって、小沼さんは精神的に追い込まれていく。 ■日記に「悪夢と動悸」  3月後半には胃薬がないと夜眠れなくなった。不調を自覚した小沼さんは、自分の心情と向き合うため日記を書き始めた。3月23日の日記には「娘の卒園式の後に昼寝をしたら悪夢を見て、その後は動悸(どうき)が治まらず、精神的にまずい状況にいると思う」と書かれている。見かねた妻から、経営者向けのコーチに相談するよう勧められた。  コーチに「何が不安で何が恐怖なのか」と問われたが、冷静に考えると判然としなかった。11年の創業以来、赤字に陥ったことはなく、相当の内部留保もあった。同時に、職員に対する感謝の念が湧き上がった。 「去っていった職員も含め、これまでのスタッフの努力や、ステークホルダーの皆さんとの信頼関係があったからこそ、積み上げてこられたものだと気づいたんです」(同)  小沼さんは危機の中でこそ、自分とチームを大切にする教訓を得たという。これが転換点になり、メンタルを整えて現実と向き合うことができた。  4月以降、コロナ禍でも実施可能な事業を模索。新たに始めた「国内留職」「オンライン型フィールドスタディ」「共感VR」の3事業は今、予想もしなかった広がりを見せている。 クロスフィールズ 国内で社会課題解決に向けて活動するNPOや社会的企業に社員を派遣する国内留職。多国籍なメンバーと課題解決に挑む(photo 提供)  グローバルな社会課題に取り組む国内の団体に派遣するプログラムへ切り替えた「国内留職」は、コロナ禍でもグローバル人材を育てたい企業のニーズをつかんだ。海外派遣を再開できるようになれば、「留職プログラム」の中に国内版と新興国版を並立させるつもりだ。  社会課題を体感する「フィールドスタディ」は「オンライン対話型」にシフトした結果、テーマも参加者もグローバルに拡大した。社会課題の現場を疑似体験する「共感VR」は国の事業に採択され、自前のコンテンツが全国の中学・高校に提供されている。ビジネスパーソン向けに立ち上げた事業が、子どもの教材になるのは予想もしなかった展開だ。 「危機に陥るとどうしても視野が狭くなり、内にこもって自分の力で何とかしようと考えがちですが、窮地のときに手を差し伸べてくれる周囲の人たちに感謝し、思い切り頼ってみる。そうした中で突破口が見えてくるのだと思い知りました」(同)  20年度の事業規模は前年度を上回る約2億3千万円。長期戦略を練り直し、職員もコロナ前の20人に加え、5人以上を増員予定だ。小沼さんは言う。 「人と人がつながるソーシャルキャピタルはお金よりも価値があると思っています。社会の分断に『共感』の力で立ち向かい、社会課題の解決を加速していきたい」 ■オンラインでも実体験  パソコン画面に映し出されたバスの車内で、ワクワク感と親しみやすさを醸しながら道中を案内するのは、琴平バス(香川県琴平町)執行役員の山本紗希さん(32)。オンラインバスツアーの仕掛け人だ。 山本紗希さんが「プランナー・さきちゃん」と称し、没入感にこだわったツアーを盛り上げる(photo 提供)  新型コロナの感染拡大でバスツアーの全面中止を余儀なくされた20年4月。社内会議で山本さんはこう提案した。 「お客様にリアルで会えないのなら、とりあえずオンラインでやってみるしかありません」  とはいえ、前例はない。反対意見も出たが、社長が背中を押してくれた。  提案から3日後。同業他社の経営者らを招き、トライアルツアーを開催。定番の観光地の画像を並べただけの案内は不評だったが、いろんなアドバイスをもらった。 「事前にお土産を送ったほうがいい」「食べ物も食べたい」「ライブ中継もしてほしい」  これらをすべて取り入れたのが、業界初のオンラインバスツアーの原型になった。  参加を申し込むと、特産品が宅配便で届く。旅先の動画の景色を眺めながら飲食する趣向だ。現地ガイドや他の参加者とも会話でき、ライブ感満載で旅気分を味わえる。 参加者には旅のしおりとオリジナルドリップコーヒー、手作りのシートベルトなどが届く(photo 提供) ■あえて人数を抑える  参加費は1人5千円前後。オンラインに「満席」はない。参加人数が多いほど利益は上がるが、あえて定員は15~20人に抑えている。  理由は「参加者とインタラクティブにコミュニケーションが取れなくなるから」(山本さん)だ。旅にでる最大の魅力は「人との出会い」だと考える山本さんは、オンラインでも双方向のコミュニケーションを大事にしている。  一方、参加者どうしの人間関係が既に構築されている職場や学校単位の貸し切りツアーは百人規模で受け付けており、収益確保の要になっている。最先端の観光を学ぶゼミ学生や留学生の需要も多い。全国の自治体や民間の観光施設、国内外の旅行会社とタイアップし、これまでに手掛けたツアーは約100本。意外だったのは、リアルのツアーには参加しづらい人たちのニーズに応えられたことだ。 「『後ろで、寝たきりの母も見ています』というお客様がいて驚きました。あーそういう利用の仕方もあるんだと。新型コロナが終息しても継続する意義の一つと考えています」(同)  今年1月から始めたのは、全員がアバターに扮して参加するツアー。ご当地ブイチューバーのオファーに応じ、実現した。斬新なアイデアにも果敢に挑む柔軟さが琴平バスの真骨頂だ。 「オンラインツアーを始めたことで、いろんなところから声がかかり、新しい仕事の開拓につながりました。できないじゃなくて、常にやってみる、という構えでいます」(同) ■AIで「3密回避」  3密回避の「混雑予報AI(人工知能)」をいち早く開発した会社が三重県伊勢市にある。さまざまなデータを取り込んで人の流れを可視化するシステムの特許を今年1月に取得した「EBILAB」だ。  同社の小田島春樹社長(36)は「生産効率や商品の付加価値を高める取り組みはこれからますます求められます。そのベースになるのはデータの活用です」と意気込む。 EBILAB テーブルの空き具合や1日の混雑予報を掲示するスクリーン(photo 提供)  小田島さんはソフトバンクの元社員。12年に退社し、妻の実家が営む伊勢神宮から徒歩1分の老舗食堂「ゑびや」の経営再建に取り組んだ。天気予報や曜日、近隣の宿泊者数などのオープンデータに、グルメサイトからのアクセス数や、従業員が来店客を目で確認して端末に入力して集めた自社データを組み合わせた「来客予測AI」などのITを駆使し、業績アップに導いた。他社にもサービス提供しようと、18年に設立したのが「EBILAB」だ。  20年春の新型コロナの感染拡大は「ゑびや」も直撃した。  この時期、窓越しに店内をのぞくお客さんが普段より多いことに気づいた小田島さんは「店内の混雑状況を『見える化』すれば、混雑を避け、かつ入店してもらいやすくなるのでは」と考えた。来客予測AIのノウハウを応用すれば、短期間で「混雑予報AI」を開発できる自信もあった。  1回目の緊急事態宣言が明けて間もなく、店内のテーブルの空き具合や1日の混雑予報が一目でわかるスクリーンを店頭に設置。スマホやパソコンの画面からも確認できるサービスを始めた。同時に来店客のデータ分析も進め、コロナ禍の前後で40代以上と30代以下の来店客数が逆転し、若い層にシフトしていることをつかんだ。間髪を入れず、インスタ映えする若い人向きのメニューをアピールする戦略に切り替えたところ、店舗前の通行量が2割減るなか、過去最高の売り上げを更新した。 来客予測AIはシフト作成や食品ロス削減にも活用できる(photo 提供) ■大切なのは自由な風土 「EBILAB」はコロナ禍で飛躍的な成長を続けている。19年が3600万円だった売り上げが、21年に1億円を突破、22年は2億円を予想している。顧客は海外を含む180社、200店舗。混雑予報AIなどのデータ分析システムは、個人営業の店舗から空港や商業施設まで引っ張りだこだ。  コロナ禍をチャンスに変えた秘訣(ひけつ)について「迅速、的確に情報を集めて何が必要かを判断し、誰よりも早く行動すること」と話す小田島さん。「時代に求められるものを常に追求し、地方にいても起業家として成功できることを証明したい」  パンデミックの有無にかかわらず、変革の時代は到来している。ウェブサイト「J‐Net21」で先進的な企業情報を発信している独立行政法人中小企業基盤整備機構の増田武史広報課長は「世の中はもう変わってしまった、と捉えるべきです。緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が明けたら、お客さんは本当に戻ってくるのか。そこに思いが至るかどうかが分かれ道です」と指摘する。  デジタル化や脱炭素化への対応は待ったなしだ。小回りの利く中小企業のほうが変化に対応しやすい、と増田さんは言う。 「大事なのは自社の強みを認識すること。その上で、強みを生かして新しいモノやサービスに転用していく柔軟性が必要です。若い従業員のやる気や感性をうまく引き出し、自由にアイデアを出せる企業風土が求められています」 (編集部・渡辺豪)※AERA 2022年3月7日号
新型コロナウイルス
AERA 2022/03/04 11:00
引っ張りだこの名バイプレーヤー・気になる女優「市川実日子」の正体
高梨歩 高梨歩
引っ張りだこの名バイプレーヤー・気になる女優「市川実日子」の正体
市川実日子  2月からに三代目のヒロイン・ひなた役で川栄李奈が登場し、クライマックスに向けますます盛り上がりをみせるNHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」。本作では3人のヒロイン以外の個性的な登場人物たちにも注目が集まっている。  特に視聴者から人気が高いのが、市川実日子(43)扮する「ベリー」こと野田一子だろう。深津絵里が演じる二代目ヒロイン・るいの親友であり、彼女の本名が明かされた回は「野田一子」がTwitterのトレンド入りを果たすほどだった。大阪編から京都編に移った現在も、ひなたの親友の母親役として、物語の脇を固める重要なキャラクターとなっている。  一方、市川は日曜夜放送中のドラマ「DCU」(TBS系)にも出演中。主人公の阿部寛の婚約者で、水中で起こった事件や事故の捜査に特化した(架空の)組織「DCU(Deep Crime Unit)」の科学捜査ラボ班長という役どころ。白黒つけないと気が済まないサバサバとした性格ながら、家に帰るとほんわかキュートモードになる市川の演技に対し、ネット上では「仕事時とは違うおうちタイムのふわっとした話し方がかわいい」「おうちシーンがかわいすぎる」と、その魅力に引き込まれる視聴者も多いようだ。  姉の市川実和子(45)が先にモデルデビューしていたこともあって、1994年からファッション誌「オリーブ」の専属モデルとなり、その後は数々のファッション雑誌に登場する売れっ子モデルとなった市川。2002年に初の主演映画「blue」で、同級生の少女に強いあこがれを抱く主人公を好演し、第24回モスクワ国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。2016年公開の「シン・ゴジラ」では環境省の若手官僚・尾頭ヒロミを演じ、仏頂面で誰とも目を合わすことなく、早口でゴジラの分析をするインパクトある演技を披露。これが話題となり、有名漫画家が描いた似顔絵がSNSに投稿されるなど「ヒロミ祭り」となった。 「『シン・ゴジラ』の役で毎日映画コンクール女優助演賞と第40回日本アカデミー賞優秀助演女優賞の2つの賞を取ったことで、ドラマ出演が増えましたね。主人公の理解者や親友役に抜擢されることが多く、『アンナチュラル』では石原さとみさんを支える役を、『大豆田とわ子と三人の元夫』では、松たか子さんの親友役などを好演しています。個性的だったり、ひょうひょうとしていたり、そのキャラクターはさまざまながら、親しみを感じ、見ている人たちが『こんな友達がいたらいいのになあ』と思ってしまうところが、市川さんの演技の真骨頂だと思います」(テレビ情報誌の編集者) ■私生活は謎に包まれている  視聴者以上に彼女のとりこになっているのは現場スタッフかもしれない。演技力はもちろんだが、撮影現場の市川は明るく朗らかでよく笑うという。「シン・ゴジラ」で共演した塚本晋也は「難解なセリフが一杯あるので、俳優はみんな必死。でも市川さんは本番直前までスタッフとゲッラゲラ笑っているんで、びっくりしましたね。僕はそんな余裕はなかった」と明かしている(「週刊文春」2月10日号)。また彼女の初主演映画「blue」のメガホンを取った安藤尋監督は、市川について「鉄棒をする場面では、炎天下で手の皮がめくれるほど練習してくれました。本心は内に秘めている、(高倉)健さんみたいな人なのかも」と同誌で賛辞を贈っていた。 「WEBメディアの取材でも、『建前が苦手で本音を言ってほしい、ものづくりにおいては気遣いはいらないと思っている』という趣旨の発言をしています。みんながのびのびできる雰囲気が大切で、『どんな撮影でも、みんなに楽しい気持ちで存在してほしいし、その状況が私にとっては幸せ』とも話しており、演者というよりクリエイターに近いイメージですね。彼女がいる現場は明るい雰囲気に包まれているんだろうなということが想像できます」(前出の記者)  一方で、プライベートな情報があまり知られていないところも、彼女の人気の秘訣かもしれない。女性週刊誌の芸能担当記者は言う。 「インスタグラムなどSNSもやっておらず、私生活も謎に包まれています。2012年に『フライデー』が俳優の加瀬亮とのツーショットを掲載し、『5年同棲している』と報じました。同誌は『夫婦のような関係』と書いていましたが、翌年に加瀬さんと韓国人女優とのお泊まりデートが報じられ、2人は破局したと言われています。それ以降は、ほとんど市川さんに関する熱愛などのうわさはなく、プライベートに関する情報もほとんど聞かないですね」  ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、市川の魅力についてこう分析する。 「常にナチュラルで落ち着いた雰囲気を醸し出し、登場するだけで作品の空気を引き締めてくれる貴重な存在です。主人公の言動や、ストーリーの中で起こる出来事を客観的に見つめる、視聴者に近い視点を持つキャラクターを演じたらピカイチではないでしょうか。それでいて時折みせるチャーミングで人間味あふれる表情も魅力的。そのギャップが多くの人の心を惹きつけるのだと思います。将来的には『山のトムさん』で共演した小林聡美のような女優になるのではないでしょうか。現在はバイプレーヤー的なポジションとして評価されていますが、実力は間違いなく持っているので、今後はぜひ主演を務める作品を見たいです」  これからも「どこか気になる女優」として魅力的な役を演じてくれそうだ。(高梨歩)
カムカムエヴリバディ市川実日子
dot. 2022/03/02 11:30
見よう見まねで作ったラーメンがまさかの大ヒット! 「食べ物はバランスが命」の極意
井手隊長 井手隊長
見よう見まねで作ったラーメンがまさかの大ヒット! 「食べ物はバランスが命」の極意
「The Noodles & Saloon Kiriya」のkiri_Soba(潮)は一杯850円。2種のチャーシューがおいしい(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。車屋から開業資金70万円でラーメン屋に転身し大行列店を作った店主が愛する名店は、ハンバーガー店出身の店主が生姜(しょうが)醤油ラーメンで勝負をかけた名店だった。 ■引き算から足し算、そしてかけ算へ 変化し続けるラーメン  千葉県流山市。全国792市で5年連続1位の人口増加率を誇り、ここ15年で人口は5万人も増加している「住みたい街」として人気だ。そんな流山市にある「The Noodles & Saloon Kiriya」。東武アーバンパークライン(東武野田線)の初石駅から徒歩4分。住宅街の一角にありながら、連日驚くほどの行列を作る人気店である。 The Noodles & Saloon Kiriya/〒270-0121 千葉県流山市西初石4-475-1/水曜~金曜11~15時、土曜~日曜日9~15時、月曜、火曜日定休。営業情報は店のツイッター(@ns_kiriya)にて/筆者撮影  実家の車屋を営んでいた店主の青木成憲(よしのり)さんが一念発起して地元で2016年12月にオープン。43歳で修業歴なしという異例の転身だった。ラーメン作りが独学であるだけでなく、店の外装、内装もDIYで作った。開業資金はわずか70万円。前に入っていたテナントである和菓子屋の店名がデカデカと書かれたテントを残したままオープンしてしまった。オープンに合わせて準備したのは冷蔵庫とコンロのみ。ゆで麺機も買えず、コンロの上に鍋を置いて麺をゆでている。看板メニューは「kiri_Soba(潮)」。鶏と魚介のうまみを複合的に感じさせる見事な一杯だ。  今でこそ人気の「kiri_Soba」だが、提供当時は青木さんが考えるおいしさがなかなか客に理解されなかった。 「はじめはもっと味が薄かったと思います。無添加で無化調(化学調味料不使用)ではなかなかうまみが出ないものなんですね。もっとうまみを増すためにどんどん食材を足していくことで完成したのが『kiri_Soba』です。カエシ(タレ)には貝柱を使ってコハク酸を、スープには動物系を使ってイノシン酸を補い、複合的な味わいを作っていきました。いわばダシ感の爆発するような“足し算で作ったラーメン”なんです」(青木さん) 「The Noodles & Saloon Kiriya」店主の青木成憲さん。40歳でラーメン店主に転身した(筆者撮影)  今後の青木さんの目標は、この「kiri_Soba」をさらにパワーアップさせることだ。現在は、寸胴(ずんどう)はシングル(1個)でそこにすべての食材を入れてスープを炊いている。今後はこれを動物系と魚介系で別々に炊いていきたいという。カエシの味の構成もシンプルにしていくつもりだ。 看板メニューの「kiri_Soba(潮)」(筆者撮影) 「今のスープはある程度完成していて、頭打ちになっていきます。ここからは作りをシンプルに“引き算”しながら、別々の寸胴で炊いたスープを合わせる(Wスープ)ことで“かけ算”していきたい。原価の関係もありますが、スープの量もたっぷりにしていきたいですね」(青木さん)  43歳で開業と“遅れてきたルーキー”だった青木さんだが、まだ快進撃は止まらない。理想のラーメンに向かって今一層味を磨いていく。そんな青木さんの愛する一杯は、さいたま市・岩槻で毎日行列を作るパンチの効いた生姜醤油ラーメンだった。 ■見よう見まねで作ったラーメンがまさかの大ヒット! 「食べ物はバランスが命」の極意 「Kiriya」と同じ東武アーバンパークライン沿いの東岩槻駅から徒歩5分。新潟のご当地ラーメンである生姜醤油ラーメンをベースとした一杯で連日行列を作る人気店がある。「オランダ軒」だ。 オランダ軒/〒339-0005 埼玉県さいたま市岩槻区東岩槻6-5-3 イケダ第一コーポ1F2号室/11:00~14:00、17:30~19:00[日・祝]11:00~15:00※材料がなくなり次第閉店。営業情報は店主のツイッター(@punpui93)にて/筆者撮影  客の多くが注文する「しょうゆチャーシューメン」は丼を覆いつくすチャーシューに、濃いめの生姜醤油スープをたっぷり持ち上げる特製麺を合わせている。見た目からも食欲をそそる一杯に、おなかをすかせた常連客で毎日行列を成す。  店主の山本靖さんは岩槻生まれの岩槻育ち。スノーボードが趣味で、20歳ぐらいからは毎年冬は新潟に籠り、スノボの日々だった。昼はスノボに明け暮れ、夜は焼き肉店でアルバイトをしていた。アルバイト代が入ると必ずラーメンを食べに行っていた。  この頃よく行っていたのが南魚沼市にあった「ヒグマ」という生姜醤油ラーメンの店だった。生姜醤油ラーメンは新潟のご当地ラーメンの一つで、新潟県長岡市発祥の生姜の効いた濃口醤油ラーメンのことだ。 「東京ではまったく食べたことのないラーメンで、カルチャーショックでした。しょっぱいんだけど後を引く不思議な魅力のラーメンですね。まさか後に自分が生姜醤油ラーメンを作る側に回るとは思いませんでしたけど」(山本さん) オランダ軒の「しおチャーシューメン」は一杯1200円。生姜の香りと旨味が絶妙だ(筆者撮影)  30歳でついには新潟に移住し、以前アルバイトしていた焼き肉店で3年間働く。その後、「ヒグマ」塩沢店の店長と仲良くなり、その店長の独立に合わせてラーメン店を手伝うことになった。とはいえ、この時の山本さんの仕事はチャーシューを切る役で、ラーメンの作り方を知るには至らなかった。 「オランダ軒」店主の山本靖さん。ハンバーガー店での経験を存分に詰め込んだラーメンを提供している(筆者撮影)  その後、埼玉に帰り、今度は知人の紹介でハンバーガーの有名店で働くことになった。36歳の頃だった。牛肉を塊で仕入れ、店で解体して成形し、パテはすべて直前に仕込むなど、こだわりの強い店。この頃の経験が今に生きているという。 「ハンバーガーを作っていて、『食べ物はバランスが命である』ということを知りました。ハンバーガーは上から下までを一口で食べた時の味、食感などのバランスがとにかく大事です。肉だけがうまくてもダメなんですね」(山本さん)  ハンバーガー店での経験を生かし、再びラーメンの世界に。知人の紹介で、春日部のラーメン店の立ち上げに参画し、2016年4月オープンの新店「オランダ亭」の店長となる。  新潟で働いていたラーメン店の見よう見まねで作った生姜醤油ラーメンを提供したが、これが驚くほどの大反響。開店1週目には1日20食ペースだったが、すぐに3倍の60食ペースになり、口コミがどんどん広がっていった。その年には業界最高権威ともいわれる「TRYラーメン大賞」の新人大賞総合4位・醤油部門2位に選ばれ、一躍大人気店となる。 「オランダ軒」店内(筆者撮影) 「今でこそお店は増えましたが、当時は生姜醤油ラーメンをやっているお店自体が珍しかったので、ラーメン店主やラーメンフリークの口コミがすごかったです。経験のないままいきなりオープンしてしまったので、毎日の味のブレは半端じゃなかったですが、それでもたくさんのファンがついてくれました。パンチのある味だったというのが大きいのではないでしょうか」(山本さん)  評価もされ、これからという時期に山本さんは独立し、自分ひとりで店を作ることを決意。こうして16年11月「オランダ軒」として、地元・岩槻で店をオープンした。新潟の生姜醤油ラーメンをベースに、都心でも勝負できるパンチの効いた味わいに仕上げ、ハンバーガー店で培った肉の技術でチャーシューも大人気の店になった。 「『ヒグマ』をはじめ新潟のお店もそうですが、肉のうまみを移した醤油ダレがラーメンの味の芯を決めています。スープを炊く時には大量の生姜を寸胴の中に入れています。丼の中には生姜の姿は見えないのにこんなに生姜の味がする一杯はなかなかないと思いますよ」(山本さん) チャーシューは注文後に切るのがこだわり(筆者撮影)  仕込みと調理はほとんど山本さん一人で行っている。自分でやらないと味が変わってしまうからだ。すべてを感覚で作っているので、レシピ化できないのだという。労働時間としても限界のところにきているが、中途半端を許すことなく、毎日1杯1杯を丁寧に仕上げている。 生姜のキレたっぷり(筆者撮影) 「オランダ軒」のブレーク後、生姜醤油ラーメンが首都圏でも少しずつ増え始め、身近になっている。「オランダ軒」は温故知新でオリジナリティーを磨きながら、その先頭をこれからも走っていくことだろう。 「Kiriya」青木さんは、「オランダ軒」の「しおラーメン」が特にお気に入りだ。 「山本店主は天才です。おいしくするコツも知っているし、一杯をまとめ上げるセンスが抜群です。食欲をかき立てる一杯で、『食』というものをすごくよく理解されているんだと思います。私もかなり働いている方だと思いますが、山本さんも本当によく働いていて、天才の裏側に努力ありだなといつも感心しております」(青木さん) 「オランダ軒」山本さんも青木さんのセンスに脱帽する。 「数少ないラーメン屋仲間の一人です。コラボイベントをさせていただくなど、情報交換させていただいています。大変丁寧な仕事で、無化調でここまでの味わいに持ってくるのはさすがです。食べると毎度刺激を受けますね」(山本さん)  作るラーメンは違えど、修業を経ずにラーメン界に飛び込んだ2人。ブレずに自分の理想の味を追求してきたからこそ今がある。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2022/02/27 12:00
小室圭さんNY州司法試験に再挑戦 合格でもビザは狭き門「抽選にハズれ、2、3年待った人も」
上田耕司 上田耕司
小室圭さんNY州司法試験に再挑戦 合格でもビザは狭き門「抽選にハズれ、2、3年待った人も」
小室圭さん  秋篠宮家の長女、小室眞子さん(30)と昨年11月からニューヨークで新婚生活を始めた夫・小室圭さん(30)は2月22日、23日、ニューヨーク州司法試験に再挑戦したとみられる。英デイリーメールが、試験会場を去る小室圭さんの姿を報じた。 小室さんは赤いスマホを右手に持ち、Uber(ウーバー)タクシーを待つ。眉間にシワを寄せて歩いている。小室さんはウーバータクシーに乗り込み、眞子さんと暮らすヘルズキッチンの自宅へと向かったという。 再び試験に失敗した場合、小室氏は7月まで年2回しかない再受験を待たなければならない。今回の結果が、気になるところだ。 現地の日本人も関心を寄せており、ニューヨークに30年以上住んでいる50代の男性は司法試験初日の22日、会場へ向かう姿をひと目見たいと、朝早くから電車で小室さんが受けたと思われる会場へ向かった。試験が始まるのは午前9時半からだったが、午前7時前には数10人の受験生の行列ができたという。 「試験会場の案内には、午前7時から開場し、先着順に荷物を預かることなどが書かれていました。座る席も決まっているわけではなく、早いもの順だそうです」 試験初日はエッセイなど論点を掘り下げる問題が6問。2日目は200問の選択式の問題で、解答のスピードが求められる。計400点中266点を取れば合格となる。 「200人くらいの受験生が建物の中に入っていきました」 小室さんは昨年5月、ニューヨーク市にあるフォーダム大を卒業し、7月に現地の司法試験を受験した。10月26日に眞子さんと結婚したが、その3日後に発表された試験の結果は不合格。11月14日、小室夫妻は渡米し、夫の圭さんは現地の法律事務所のロークラークとして勤務しながら、再挑戦に備えていた。 FNNプライムオンラインによれば、昨年のニューヨーク州司法試験では初めて受験した人の合格率は76%と高いが、2回目以降は23%に下がるという。 小室さんが司法試験に合格した場合、どういう展開が待っているのだろうか。まずはビザの問題だ。現地在住の日本人経営者の男性は、ビザについて次のように説明する。 小室眞子さん(30)と夫の小室圭さん(30)は2021年11月14日午前、羽田空港から米ニューヨーク州に旅立った(撮影/写真部・松永卓也) 「雇用主の企業にバックアップしてもらい、H-1Bという専門技術者として一時的に就労する場合のビザを申請します。基本的に日本人でこっち(NY)で働いている人たちはみんなH-1Bビザで働き始め、3年間の期限を1回延長して6年間のうちに、会社にグリーンカードの申請をしてもらうか、アメリカ人と結婚してステータス(社会的地位)を換える。6年間でステータスを換えないと、ビザが切れたら日本に帰らないといけなくなります」 ところが、H-1Bビザは申請しても抽選になることが多い。倍率は、実際どのくらいなのか。参考情報として男性は自身の会社の状況を明かした。 「うちの会社は昨年、3人申請して抽選をパスしたのは1人でした。抽選をくぐり抜けて、ようやく権利を得ます」 小室さんの場合も、司法試験に合格したからすぐにH-1Bビザが取得できるわけではなさそうだ。 前出の50代の日本人男性はこう話す。 「本人が申請する条件を満たしても、受からない場合というのは多々ありますよ。たとえば、私の知人はUSCPAという米国公認会計士の試験に合格しましたが、H-1Bビザを申請して抽選にはずれ、日本で2~3年待ってようやく抽選をパスしました」 雇用主の企業にはメリットがなかなか生まれないという。 「スポンサーになる企業は、外国から来た人たちでもこれだけ高額納税者になりますからということを補償するという意味では給料を高く払わなくちゃいけなくなる。申請するのにもお金がかかるし、労力もかかる。それくらいならアメリカ人を雇った方がいいわけで、そうまでしてH-1ビザを申請してくれるというのは相当、優秀な人材でコネも持っているということだと思いますよ。普通はビザの申請をしてもらえない。ビザをいつ取れるかわからない人に投資をして、失敗したら損失だけですからね」(同) 一方、現地では共和党のトランプ政権から民主党のバイデン政権に変わり、ビザはとりやすくはなったと感じているという。 「おそらく、トランプ政権の時は、外国人がたくさんアメリカに入ってくると、アメリカ人の雇用を奪うので制限していたんですね。だから、日系企業はどこもH-1Bビザがとりにくくなっていたんです。それがバイデン政権になって、うちも取れましたし、よその会社でもけっこう取れているという話を聞きます」(前出・ニューヨーク在住の日本人経営者の男性) 結婚の会見に臨む小室眞子さんと小室圭さん  ところで、小室さんはいま、どのようなビザで滞在しているのだろうか。この男性は「小室さんはフォーダム大を卒業した時に、OPT(オプショナル・プラクティカル・トレーニング)をとっているのでは」と推測する。 「OPTとは学生ビザ(F-1)の延長みたいなもので、専攻した分野を活かしてアメリカの企業でトレーニングを受けながら働くこと。通常は1年間の期限があります」(同) さて、小室さんが司法試験に合格したら、どんな仕事に就けるのだろうか。 「独立して自分の事務所を持つ人はまずいないです。ニューヨークには日本人の弁護士さんはたくさんいますけれど、たいていは日系の銀行や証券の法務、コンプライアンスなどで働いていますね。小室さんの場合は、まず今働いている法律事務所と相談することになるでしょうね」(同) もし、小室さんの再挑戦が不合格の場合はどうなるのか。 「OPTが切れると、一度、アメリカを出ないといけなくなりますが、OPTを延長できる場合もあります。私の知っているケースでは、どうしてもアメリカにいたいと、大学に舞い戻った人もいますよ。その場合は、また学生ビザとなります」(同) そうすると推定で月額約50万円とされる家賃のほかに、大学の学費までかかり負担が大きくなってくる。ただ、逆に言えば、お金があれば方法があるというもの。 「何の仕事のない人でも、おカネさえあればニューヨークには住めますよ。家賃は1年分前払いすればいいんですから」(同)  ビザと仕事とお金が何とかなったとしても、ついて回るのは安全面での心配だ。2月10日には、小室夫妻が住む、マンハッタンのヘルズキッチンのマンションの近くで銃撃事件が起きた。 市の衛生局に務める男性職員の15歳の娘が元カレとその兄弟に声をかけられたのがきっかけ。娘に呼ばれた父親と兄弟が口論となり、父親は太ももに銃弾3発を撃たれ、病院に搬送されたという。現地のテレビや新聞でも一斉に報じられた。 「小室夫妻が住んでいる場所というのはもともと治安が悪いところなんです。マンションの近くは川で、川沿いは倉庫が並んでいて、夜は人通りが少ない。ニューヨークはどこで何があってもおかしくない。発砲事件なんて普通にありますからね」(同) 眞子さんも仕事を探しているという。小室夫妻は幾多の試練を乗り切れるのか。圭さんの司法試験の結果は4月末ごろ発表される。(AERAdot.編集部 上田耕司)
ニューヨークビザ司法試験小室圭さん皇室眞子さん
dot. 2022/02/25 10:14
50代ニートの弟に母の遺産1億3千万円が渡りそうで 対策は?
50代ニートの弟に母の遺産1億3千万円が渡りそうで 対策は?
※イラストはイメージです  相続のトラブルは、家族の数だけあると言われる。身内ならではの思いも絡むだけに、なかなか厄介だ。そこで、とりわけワケありの人の相続事例を取り上げ、専門家からアドバイスをもらった。“争族”から学ぶ防御法とは──。  今回は「ニートの弟を溺愛する母親」のケース。 *  *  *  首都圏在住の主婦Aさん(60代)は、ある日、信託銀行から連絡をもらい、80代の母親が遺言書の作成を希望しているので協力してほしいと頼まれた。  見せられた遺産分割の提案書によると、母親の保有する財産は自宅(評価額5千万円)を含めて約1億3千万円。そのうちAさんを受取人に指定したのは500万円の国債だけで、他はすべて50代の弟が引き継ぐことになっていた。  弟はいわゆる中年ニートだ。親のコネで就職しても長続きせず、40歳ごろからは「もう仕事はいい」と実家に居座り、親のお金で“夜のお店”通いを続けてきた。父親は何度も「自立しろ」と苦言を呈したようだが、馬の耳に念仏。しかし、母親はそんな弟を溺愛してきた。 「お母さまはご自分に万一のことがあったら、弟さんがどうやって暮らしていかれるのか、大変心配なさっている」という話を銀行員から聞き、Aさんは「さもありなん」と思ったという。しかし、もしこの先、母親が要介護状態になるようなことがあったら、世話をするのは自分だ。なのに受け取る遺産が弟の25分の1とは到底承服できない。 『ぶっちゃけ相続』(ダイヤモンド社)などの著書で知られる、円満相続税理士法人統括代表社員・税理士の橘慶太さんは、Aさんに対して次のように助言する。 「遺言の内容は母親が決めることで、誰も妨げることはできない。しかし、この弟には、1億を超える遺産を相続しても、だまし取られたり、浪費してしまったりするリスクがある。Aさんは母親に『多額の財産でなく、財産を守る力を与えるのが本当の優しさじゃないの?』と意見してあげてもいい」  それでも、弟かわいさに母親がこの遺言をゴリ押しした場合、Aさんは弟に対して遺留分(母親の遺産の4分の1まで)を請求できる。Aさんには1億3千万円のうち、3250万円を受け取る権利があるわけだ。  ただし、「こうしたケースでは、弟がAさんの遺留分を減らすために母親の財産を隠匿することがあるので注意が必要です」(橘さん)。  仮に今後、母親が認知症や要介護状態になったとしたら、「これだけの財産があるのだから、介護費用は当然、母親の預貯金で賄うべき。さらに、弟に“財産隠し”をされないように、多少コストはかかっても母親に対して成年後見制度を利用したほうがいいかもしれません」(同)。 (ライター・森田聡子)※週刊朝日  2022年3月4日号より抜粋
遺産相続
週刊朝日 2022/02/25 08:00
<ライブレポート>Little Black Dress、全曲名曲のシティポップ・カバーライブ第2弾開催
<ライブレポート>Little Black Dress、全曲名曲のシティポップ・カバーライブ第2弾開催
<ライブレポート>Little Black Dress、全曲名曲のシティポップ・カバーライブ第2弾開催  昨年ポニーキャニオンからメジャーデビューしたシンガーソングライター、Little Black Dressがシティポップの名曲をカバーするライブ【CITY POP NIGHT】の第2弾を昨年10月と同じブルーノート東京で開催した。2公演が行われたが、本稿では1st Showの模様をレポートする。Little Black Dressの愛称は「LBD」と「リト黒」の二つがあるようだが、本人はリト黒推しのようなので、そちらに合わせることにしよう。  18時ちょうど、MUROによるオープニングDJとクロスフェードするようにメンバーがステージに上がる。左からデビン木下(Key.)、山木秀夫(Dr.)、鈴木明男(Sax.)、休日課長(Ba.)、吉田サトシ(Gt.)、佐々木久美(Org.&Cho.)という世代の広い面々。ギターを手にした主役のリト黒は、レースのパターン入りのシックなジャケットにキュロットっぽいショートパンツ、ニーハイブーツまで黒で固めて、インナーのカットソー、ベルトのバックル、そしてイヤリングのキラキラ感で鮮やかなアクセントをつけていた。  「みなさんこんばんは。ようこそCITY POP NIGHTヘ! どうぞ最後までお楽しみください。さっそく音楽の扉を開けて、ご案内します。『真夜中のドア~Stay with me』」と曲紹介をして、吉田のギターのストロークから演奏がスタート。今や世界的に愛される松原みきのデビュー曲である。オリジナルを基調に少しアレンジを効かせ、ブルーノート東京を「2022年かつ1979年」という不思議な空間に染め上げる。ギターをタンバリンに持ち替えて「DOWN TOWN」(シュガーベイブ~EPO)、スツールに座ってちょっとテンポを落とした「プラスティック・ラヴ」(竹内まりや)と「あまく危険な香り」(山下達郎)をそのままMCなしで演奏した。伸びやかな歌声と丹念な歌唱が心地よい。  MCタイムで歌謡曲とシティポップへの愛を語り、ラジオやインスタライブに寄せられるファンの意見をもとに当夜の曲選びをしたことを明かして、座ったり立ち上がったりしながら「ルビーの指環」(寺尾聡)と「ドラマティック・レイン」(稲垣潤一)。いわゆる男唄のせいか、キー低めの婀娜なボーカルが出色だ。歌い終えると「ルビーの指環」を編曲した井上鑑への敬愛を語り始めた。  「洋楽へのオマージュだけじゃなくて、うまく歌謡曲の要素を織り込んでいらっしゃるのが天才的で。なんといってもイントロ!」と井上の編曲作品をいくつか挙げ、昨年11月に開催された松本隆50周年記念イベント【風街オデッセイ2021】で彼がバンマスを務めていたこと、バンドメンバーに山木と佐々木が参加していたことを明かす。「明日WOWOWで放送されるから、みなさんも見てください。WOWOWの人みたいになっちゃった」と照れ笑いしていたが、自分のワンマンライブで尊敬するレジェンドたちと共演できる喜びと思い入れのほどがうかがえた。  「テレビで歌謡曲を歌いたい、という夢が叶ったのがこの曲でした」と、次はNHKの『うたコン』で昨年10月に歌った「みずいろの雨」(八神純子)。リト黒のカラオケの十八番だそうだが、吉田のアコギをフィーチャーしたボサノヴァ調で、アタマのサビをカットしてAメロから始まるアレンジが新鮮だった。再びギターを手にして「シティポップの重鎮、角松敏生さんの曲でバンドセッションをお届けします」と前置きし、鈴木のごきげんなサックスから始まる「AFTER 5 CLASH」。ベース→ギター→キーボード→オルガン→ドラムス→サックスの順でソロ回しをして、メンバー各人の卓越したスキルを見せつけた。  「ラストスパートです! City pop ladies' medley!」とシャウトして、「CAT'S EYE」(杏里)、「フライディ・チャイナタウン」(泰葉)、「シンプル・ラブ」(大橋純子と美乃家セントラル・ステイション)を短尺で連打していく。ミラーボールが回り、光の粒が80年代のスキー場のディスコ感を醸し出すなか「BLIZZARD」(松任谷由実)を歌って、リト黒とバンドはいったんステージを降りた。  アンコールを求める手拍子に応えて再登場すると、バンマスのデビン木下から順番にメンバーをひとりひとり紹介。ベテラン組はリト黒のラジオ番組(Inter FM『TOKYO MUSIC SHOW』)にもゲストで呼ばれたことがあるそうで、そのエピソードもまじえていた。山木が少年隊「君だけに」のフィンガースナッピングも担当していたとか、西城秀樹「Y.M.C.A.」のドラムをマイク3本で録ったという話はとりわけウケていたが、彼の「シティポップは日本の文化の象徴」との発言に示唆されたリト黒のシティポップ論は興味深いものだった。  その後に「令和のシティポップ、お届けいたします」とオリジナルの「雨と恋心」を披露したが、なぜ歌謡曲に惹かれるのか、そのエッセンスをどう自分の音楽に反映させていくか、まわりの人たちと話し合いながらいつも考えているのだろう。詳しく聞いてみたいものだ。  最後は「君は1000%」(1986オメガトライブ)と「恋のブギ・ウギ・トレイン」(アン・ルイス)のメドレーで華やかかつ賑やかに締めた。長い手足を思い切り動かし、後者ではスキャットで鈴木のサックスとアツい掛け合いを聴かせるなど、リラックスして楽しんでいるように見えた。  セットリストはもらっていなかったが、とりたててシティポップ通だったわけではない僕でも全曲知っている超有名曲ばかり。それだけに歌と演奏を問われるともいえるが、いたって快適に楽しめた。親子ほど世代の違うミュージシャンたちが上下関係なくプロ同士でセッションを楽しむ様子もとてもいいものだ。  もっとも印象に残ったのは、とにかく楽しそうな歌い方。そして、これはいかにも歌謡曲好きらしいところだが、歌詞にしっかり感情移入して演じるように歌うので、曲ごとに発声も節回しもよく変わって見ていて飽きなかった。特に「ルビーの指環」は、オリジネイター寺尾聡の物静かでぶっきらぼうな風情を踏まえつつリト黒自身の人なつっこさや元気さが混ざって新しい味わいを作り上げていたと思う。  そう、彼女の人なつっこくておきゃんな雰囲気は、強めにキメたアーティスト写真しか見たことがなかった僕には新鮮だった。特に鈴木や山木とはリラックスした様子で話していて、まるで娘のよう。年の離れた世代にもかわいがられそうなので、そのキャラを生かしてレジェンドたちとガンガン仕事をして学びまくり、オリジナル、カバーを問わず、昭和と令和をつなぐ歌を聴かせてもらいたい。 Text:高岡洋詞 ◎公演情報 【CITY POP NIGHT @Blue Note Tokyo】 2022年2月18日(金) 東京・ブルーノート東京
billboardnews 2022/02/24 00:00
「わっかるかなあ、わっかんねぇだろうな」は逆転の発想から生まれた 最後まで浅草芸人だった漫談家の松鶴家千とせさん
「わっかるかなあ、わっかんねぇだろうな」は逆転の発想から生まれた 最後まで浅草芸人だった漫談家の松鶴家千とせさん
  街は変わっても下町人情が残っているのが北千住」と千とせさん。学生街に変貌したJR北千住駅東口で  2月17日に心不全のため東京都足立区の病院で亡くなった漫談家の松鶴家千とせ(しょかくや・ちとせ、本名小谷津英雄=こやつ・ひでお)さん。1970年代半ば、「わっかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ」のギャグで一世を風靡(ふうび)し、ツービート(ビートたけし、ビートきよし)の師匠としても知られていた。1月9日に84歳の誕生日を迎えた年男だった。  筆者は、生前の千とせさんに複数回インタビューしている。生い立ちから晩年の活動までをたどり、その人柄を紹介したい。  松鶴家さんは中国東北部・黒竜江省チチハル生まれ。父は満州鉄道の技師で社宅に住んでいた。 「裏手に大きな沼がありました。チチハルの真冬は気温がマイナス10度以下なんてザラで、水面が凍ってテカテカになるんです。日没前には夕日が反射し、家も周囲の林も真っ赤っ赤。これがまぶたに焼き付いてて、あのヒット曲『夕やけこやけ』<わっかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ>のギャグでの元ネタになったんです」  敗戦直前、鉄路を守る父を残して家族7人で脱出。帰国後は父の故郷である福島県原町市(現、南相馬市)に身を寄せた。 「父は敗戦の前後に侵入してきた旧ソ連軍の捕虜になり、帰国できたのは6年後。それまでは8畳ほどの狭い部屋に7人で寝るような極貧生活でした。夏なんて、天井のネズミを食べに来た蛇の青大将が梁(はり)からポタンと落ちてくる。夜中に大騒ぎですよ」  そんな中、楽しみの一つが隣家のラジオから流れてくるジャズやゴスペルのメロディーだった。講談や童謡しか知らなかっただけにとても新鮮で、いつしかジャズシンガーになることを夢見た。  思いは募り、高校1年の15歳の時、宿泊先も頼る当てもなく、家出して上京。 「まず上野駅で知り合ったホームレスに教えられた新橋のジャズ教室へ行ったんです。事情を話したら、そばにいた女の生徒さんが『ウチの2階が空いてる』って。その子が当時の人気夫婦漫才コンビの松鶴家千代若・千代菊師匠の娘さん。しかも師匠のかばん持ちをさせてもらうことになりました。人のご縁というのは、本当に不思議なものです」  そして20歳になる頃には浅草の松竹演芸場などで前座をつとめるようになっていた。  すると千代若師匠から「そろそろ一本立ちしてはどうか? ちゃんと食べていけるよう腕を磨きなさい」と諭された。  言葉通りに「もっと芸を磨きなさい」と解釈すればよかったのに、これを「手に職をつけなさい」と勘違い。実家のつてで青森県の理容学校に入学し、1年後に理容師の免許を取得し意気揚々と帰京した。 「当然、師匠からは『バカ野郎ー!!』って大目玉。周囲からもあぜんとされました。でもね、この時身につけたパーマの技術で、僕はショートカットから誰もしていなかったアフロヘアに変え、レイバンのサングラスをかけてイメージチェンジに成功しました。パーマをかけるロッドを買う金がないから、三つ折りにした割り箸で代用したのが懐かしいですよ」  転んでもタダでは起きないのは浅草芸人の真骨頂。両手でピースサインをしながら「イエーイ。わっかるかなあ、わっかんねぇだろうな」とポーズを決めるネタの原点も逆転の発想から生まれた。 「浅草の木馬亭さんのレギュラーになった時です。お客さんのお目当ては、その頃大人気だった安来節のお姉さんたち。腰を振りながらドジョウすくいをするのがエッチっぽくてね。ところが僕が出ていくと皆さんトイレ休憩。誰もいなくなっちゃう。それをどうやって引き留めるか、を考えた末、お客イジリのギャグができた」  当初はひんしゅくを買ったものの、次第に話題となり、ジャズのスキャットを取り入れた歌謡漫談で一躍人気芸人に。全国の演芸場から依頼が殺到した。  そんなある日、出演中の名古屋の大須演芸場に、いきなり2人の前座芸人が弟子入りに来たという。 「ツービートを名乗る前のビートきよしとビートたけしです。なんとなく暗い感じでしたが熱意を感じたので弟子入りを認め、松鶴家二郎・次郎というコンビ名をつけました。でもまったく売れない。で、さらに改名を繰り返し、最後に落ち着いたのが『ツービート』。当初、きよしがツッコミだったのですが、それだときよしの東北なまりでノリが悪くなるので、下町丸出しのたけしと交代させたらドンピシャ!でした」 東映映画「トラック野郎・望郷一番星」のロケ現場で、宮崎靖男さんとツーショットの千とせさん(宮崎靖男さん提供)  その頃、<俺が昔、夕焼けだった頃、弟は小焼けだった。父さんは胸焼けで、母さんはしもやけけだった>というギャグも注目を浴びた。童謡「夕焼け小焼け」のリズムに乗せたナンセンス歌謡漫談の1フレーズだった。 「戦後の貧乏生活の主食は、さつまいもでした。芋ばかり食べてると胸焼けするんですよ。そして母親は手が痺れるような冷水で炊事洗濯するからしもやけだらけ。そんな思い出を歌詞にしました。そんな経験は僕だけじゃない。それが共感を得たんじゃないでしょうか?」 レコード会社数社から同時期にオファーがあり、ビクターから76年5月、『わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)』のタイトルでリリースした。 「何と160万枚のセールスを記録する大ヒット。NHK紅白歌合戦にこそ選ばれませんでしたが、東映からご指名が来ました」  それが75年から菅原文太・愛川欽也のコンビで、東映のドル箱になっていた「トラック野郎」シリーズ。松竹の「男はつらいよ」シリーズの対抗馬として当時は「トラトラ対決」と話題になっていた。 「梅宮辰夫さんが文太さんのライバルになる第三作『望郷一番星』(76年7月公開)のオープニングシーン。ロケ現場は埼玉県の荒川沿い、さいたま市の秋ケ瀬公園でした」  映画では、広島県西条の国道2号での検問。千とせ師匠扮するトラック野郎が過積載で検挙されるも、<俺が昔、夕焼けだった頃~>と歌い出して警官をけむに巻く……。  その時の貴重なオフショット写真がある。千とせ師匠の右隣に写っているのは、ダンプ運転手ながら同シリーズ全10作のエキストラ運転手をキャスティングした宮崎靖男さんだ。 「売れっ子なのに腰が低くてね。写真をお願いしたら、二つ返事で撮らせてくれました」(宮崎さん)  だが映画公開後、同じ浅草芸人出身の渥美清さんに会うや「この大馬鹿野郎!」と怒鳴られた。 「よりによって『トラック野郎』に出やがって!とブンむくれでした。松竹も出演依頼をしようと考えていたらしい。はい、同じく76年7月公開の第17作『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』です。もし、こっちに出てたら……。まあ、“タラレバ”ですけどね」 関東み組主催のチャリティイベントでファンに囲まれご満悦(関東み組 来栖靖裕さん提供)  その後、多忙を極めた千とせ師匠は体調を崩して、そのあげく対人恐怖症に。仕事は急減し、「元祖一発屋」と自嘲するほど出番がなくなった。 「心配してくれたんでしょうね。僕がカニ好きなのを知ってるたけしが、自宅に立派なタラバガニを贈ってくれたり、きよしが仕事を回してくれたりすることもありました」  テレビ出演こそ減ったが、木馬亭で月一回の歌謡ショーをプロデュースし、演芸場やホールでの漫談、イベント司会の他、インターネット放送、YouTube、さらには若手育成にも力を入れていた。  11年からは前出の宮崎さんが終身名誉会長を務めるデコトラ愛好団体「関東み組」が毎年開催するチャリティーイベントの司会を任せられていた。 「うれしいよね。僕が『トラック野郎』に出たのは40年以上前ですよ。でも『トラック野郎』ファンは、昨日のことのように覚えててくれてサインをねだられる。タレント冥利に尽きますね」  その一方、72年に芸人や歌手仲間と立ち上げたボランティア団体「全国さつまいもの会」では会長として活動を支えた。 「恒例のチャリティ歌謡ショーは、新型コロナで休演するまで足立区内で毎年開催していました。今年は4月15日に足立区の竹の塚地域学習センターで予定しており、急きょ、師匠の追悼を兼ねたイベントになる予定です」(マネジャーだった「夢企画」角川清子代表)  またこの1月26日、歌手・恵中瞳とのユニット「千とせ&ひとみん」で新曲「CH列車で行こう!/キャンユーアンダースタンド?」をリリースしたばかり。 「もちろん配信もするけど、CDが売れない、って皆が言うからあえて発売するの。僕がデビューした頃だって、駆け出しの歌手は手売りで頑張ったものですよ」  こんな会話をしたのは1月20日。毎朝ボイストレーニングを欠かさないだけに、年齢を感じさせない張りのある明るい声だった。 「1月28日に風邪をひき、その際、心筋梗塞を起こして救急搬送されました。その時はことなきを得たのですが、バイパス手術のため検査入院していたところ17日の未明、急変したのです」(前出の角川代表)  なお、葬儀は19日、親近者だけで執り行われた。  ご冥福を心からお祈りいたします。(高鍬真之) ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2022/02/20 12:58
「アグネス論争」がきっかけでスタンフォード大留学 アグネス・チャンのピンチを救った亡き父の言葉とは
江口祐子 江口祐子
「アグネス論争」がきっかけでスタンフォード大留学 アグネス・チャンのピンチを救った亡き父の言葉とは
長男・和平さんの誕生記念に描かれた、母子の肖像の前に立つアグネス・チャンさん(撮影/張溢文)  今年、日本デビュー50周年を迎えたアグネス・チャンさん。1月26日に中野サンプラザで行われた50周年記念コンサートは約1600人のファンを集め、大盛況のうちに終了した。子どもの頃のこと、仕事や子育て、教育観――アグネスさんに半生を振り返ってもらった。 *   *  *  私は6人きょうだいの4番目として生まれました。いちばん上が兄、そして姉二人、弟二人です。家の中では、きょうだいで遊んで、笑って、喧嘩して、母が怒っていたり。静かな時は一瞬たりとてない。そのかわり、毎日刺激はたくさんありました。その面ではきょうだいが多かったのは恵まれていたと思います。  母は中国の貴州生まれ。結婚して香港に移り住みました。父は香港生まれ。6人も子どもがいるし、親戚の面倒も見ていたので、とにかくいろいろな仕事をやっていたイメージがあります。独立して会社も作っていました。  きょうだいの中で、私は存在感が薄かったと思います。6人きょうだいの4番目で、3姉妹のいちばん下。立場が弱いので、何かあると私がいじめられる。子どもの頃はよく「泣き虫」と言われていました。  そんな私を、父は一生懸命庇ってくれたんですね。それがすごく嬉しくて、私は父が大好きでした。私は完全なファザコンです(笑)。  3姉妹のうち、上の姉とは5歳、下の姉とは2歳違い。上の姉は美人で有名で、ミスコンみたいな大会に出て、芸能界デビューもしたんです。二番目の姉は本当に頭が良くて。リーダーシップもあったので先生たちにも可愛がられ、学校ではすごく目立つ存在でした。そんな二人の姉がいたので、よく親戚に言われたのが、「なんでアグネスはお姉ちゃんたちに似ていないんだろう」って。上の姉が可愛くて、二人目の姉が頭が良くて、アグネスはどうしたんだろう?って。そうすると母は「この子を妊娠した時は一番家計が苦しかったから食べ物が足りなかったんです」って謝るんですよ。 子どものころのアグネスさん一家。写真左前がアグネスさん(アグネスさん提供) 「え?私は欠陥商品なの?」ってすごくコンプレックスを持っていました。そんなこともあり、子どもの頃は自己肯定感が低かったですね。「自分一人世の中から消えても誰も気づかないんじゃないかな」と思っていたりしていました。  それが変わったのが、中学生の時に始めたボランティア活動でした。いろいろな施設に行って、子どもたちと話をしたり、一緒に遊んだり。この活動ですごく性格が変わりました。みんなの前で話をすることすらできなかったのに、フォークソングクラブで覚えたギターを弾いて、子どもたちに歌を歌ってあげたりしていたんですから。募金を集めようとチャリティーコンサートで歌っているうちに、だんだん話題になり、スカウトマンがうちに何人も来るようになったんです。自分でもびっくりでした。  でも父は大反対。最初にスカウトマンが来た時、父は包丁持って追い返していました(笑)。その頃、すでに長姉はデビューをしていたのですが、姉はデビュー後あまり勉強をしなくなってしまったんですね。それが許せなかったんだと思います。ですから、もう一人芸能界?嘘でしょ?という気持ちだったのかと。だから私は絶対きちんと勉強すること、テストの点数は平均で80点以上取ることを条件に許してもらったんです。  香港でデビューしたのが15歳。想像していた以上に売れてしまい、「アグネス・チャン・ショー」というテレビの冠番組も持つようになるんです。まだ中学生なのに。その番組に作曲家の故・平尾昌晃先生がゲスト出演してくださったのを機に日本でのデビューも決まったのです。  日本でのデビュー曲「ひなげしの花」も思いがけず大ヒットしました。ただ、それからはとにかく忙しくて。日本で半年仕事をしたら2ヶ月香港に帰る、という生活をしていたんですが、日本でも相当忙しいのに、香港に帰ると母がその期間にめちゃくちゃスケジュールを詰め込むんです。レコーディング、ドラマ、映画。夜中の2時からでも取材を入れる。ほとんど寝ていなかったです。父はそんな私を見て心を痛めていたようでした。 アグネスさん(撮影/張溢文)  確かにお金もたくさん入って、引っ越しもし、家族の生活は変わりました。二番目の姉は香港大学の医学部に入ったので、周りから見れば、成功者の一家です。でもそのころ、家の中では喧嘩が絶えなかったんです。「もっと寝かせたほうがいいんじゃない?」「その映画はやらなくていいんじゃない?」など、喧嘩の原因はいつも私。父は口数が多い方ではなかったのですが、姉と母はよく喧嘩をしていました。  それが本当につらくて、よく私は泣いていました。父はそんな私を見て、「もうやめたほうがいい」とカナダに留学することを提案してくれたのです。カナダは長兄が留学した場所でもあったので、自然な選択でした。  ただ母は猛反対。何度も家族会議をしました。最終的に私自身がカナダに留学することを決意したのですが、それは父の 「名声やお金は流れていくけれど、知識は一生の宝になる」  という言葉があったからです。  当時私は21歳。そこから約2年間、カナダのトロント大に留学します。初めて自由な生活を謳歌することができたのですが、カナダに行ってから半年後、父が病気で亡くなってしまうのです。ですから、最初の半年は楽しく過ごせたのですが、それ以降は悲しみが深すぎて、よく泣いていました。心の支えがなくなり、今度どうしていくべきかも悩みました。  父は無条件に私を愛してくれたんですね。周りは「どこまでこの子は売れるか」という商品価値を見る目で私のことを見ていた面もあったのですが、父は全くそれがなかったのです。  その後、日本の芸能界に復帰して活動を再開します。1985年、30歳の節目の年は仕事でもプライベートでも転機がありました。「24時間テレビ」でエチオピアに訪れたり、マネージャーをしてくれていた夫との結婚。その翌年に長男が誕生し「アグネス論争」(※第一子を出産したアグネスさんが赤ちゃんを連れてテレビ局に行ったことがマスコミに取り上げられ、その是非をめぐりあらゆるメディアで起こった論争のこと)が起こります。あの当時は、母親になっても、もっと働きやすい状況があれば良いのに……とつらく感じていました。  ところが、この「アグネス論争」がスタンフォード大への留学のきっかけになるので、人生わからないものです。 「Time」というアメリカの雑誌にアグネス論争が掲載され、その記事を、後に私の恩師となるスタンフォード大の教授が目にしたのです。彼女はフェミニストなので、この記事に興味を持ったのでしょう。たまたま共通の知り合いがいたので、その人を通じて、私に「スタンフォードの博士課程に留学してみないか」と声をかけてくださったのです。  夫は「なかなかこんなチャンスはない」と背中を押してくれ、決心をしたものの、留学を前に第二子の妊娠が判明。断ろうと思い教授に電話をしたところ、「大丈夫。入学しても産めますよ」と。そこで、3歳の長男、お腹には二人目の子どもがいた時にアメリカへ渡ったのです。  今振り返ってもよく決断をしたと思いますが、やはり、「知識は財産になる」という父の言葉も大きかったような気がします。  スタンフォードではとにかく勉強についていくのが大変でした。インターネットもない時代でしたので、資料も図書館に行って、コピーしなければならない。生まれたばかりの赤ちゃんと活発盛りの子どもを抱えて、育児も大変で。いつも子どもたちが寝てから勉強をしていましたが、かなり無理をしていたと思います。ただ、周りに助けてくれる人が多くいたのも心強かったです。  2年ちょっと留学して日本に戻ってきてから論文を書きました。何回も書き直して、やっと1994年に博士号をとることができました。  振り返ってみると、ボランティアも活動のときもそうですが、私は子どもが大好きだったんですね。子どもと一緒にいる時がいちばん自然な自分でいられる。ですから、トロントで児童心理学を学び、スタンフォードは教育学を学びました。  ここで学んだことを自分の子育てにも使ってみよう、と興味を持ちながら子育てをしていました。「あ、そろそろこの時期が来るぞ」と思うと、本当にその通りになったりして。やはり知識があると子育ては楽しくできます。  今回、「0歳児」をテーマにした本を書きましたが、これは長年書きたかったものなのです。周りから見ると寝てばかりいるから、この大切な時期を逃しがちなんですね。私は、0歳の時に一生懸命赤ちゃんに働きかけをすると後の子育ては楽になると思っていて、長男にはそのように実行しました。スタンフォード大で学んで、自分が信じていたものが正しいということがわかり、二人目も三人目も同じように育てました。  3兄弟は皆スタンフォード大を卒業し、成人しています。3人とも全然違う性格をしていますし、皆、全然違う分野で働いています。  子育てに正解、不正解はありません。ですが、振り返ってみると、彼らの可能性を伸ばす子育てはできたんじゃないかな、と思っています。父が亡くなって、もう45年。子どもたちには一度でいいので会わせたかったですね。天国のどこかできっと見てくれていると思いますが。 (構成/江口祐子) 〇アグネス・チャン1955年、香港生まれ。アグネス50周年記念クラウンコンプリートコレクション『しあわせの花束をあなたに』、新曲『寂しい羊は眠らない』(以上日本クラウン)が好評発売中。新刊『スタンフォード大学に3人の息子を入れた 賢い頭としなやかな心が育つ 0歳教育』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も話題。
アグネス・チャン
dot. 2022/02/20 10:00
医療ひっ迫の大阪市が高齢者施設に「救急車より相談窓口へ」と促した文書入手「電話つながらない」と困惑 
今西憲之 今西憲之
医療ひっ迫の大阪市が高齢者施設に「救急車より相談窓口へ」と促した文書入手「電話つながらない」と困惑 
救急車で運ばれる新型コロナウイルス感染症の患者  2月20日で期限を迎えるまん延防止等重点措置の期限が3月6日まで延長されることが決まった大阪府。府内の自宅療養者は6万8500人、入院・療養等調整中の陽性者は6万2600人以上(18日現在)にも上る。  救急車の出動要請が急増する中、大阪市消防局と大阪市福祉局が高齢者福祉施設に対し、「(119番通報より)保健所などの相談窓口に連絡を」と促すメールを2月4日に一斉送信していたことがわかった。AERAdot.が入手した文書には次のように記されていた。 <新型コロナウイルス感染症陽性者の症状悪化に伴う問い合わせ等については、保健所が受付け、必要に応じて入院・宿泊調整等を行うこととなっております。高齢者施設からの救急要請の中には、施設の医師、看護師等による観察や酸素投与等必要な処置が施されている状況であっても、保健所を介さずに、直接119番通報されている事案が見受けられます。(救急隊が対応した場合であっても、保健所に連絡し、入院の要否、搬送先の選定等の指示を仰ぐことになります)>  このように指摘した上で、<相談窓口に連絡して頂きますよう何卒宜しくお願いいたします>と保健福祉センターや自宅療養者専用ダイヤルの電話番号を記載していた。  大阪市内の高齢者施設で介護の仕事をしているスタッフはこの文書を知り、愕然としたという。 「確か2月7日に事務方からメールの件は知らされました。このようなメールが届いたら、大阪市内の高齢者施設は119番通報をためらいますね。うちの施設に入所している高齢者の平均年齢は70歳代後半になります。新型コロナウイルス感染がなくとも、体調の急変で119番通報をすることはよくあった。今はさらにコロナ感染もあり、病院ですぐ手当てしてもらわないと命にかかわるケースもある。コロナ患者が多く、大変だから高齢者施設は119番通報を控えてほしいと解釈できるこのメールは、ちょっと信じがたい」 大阪市消防局と大阪市福祉局が高齢者福祉施設に出した要請文  このスタッフによれば、大阪市保健所に連絡してはいるものの、つながらない状況が続いているという。 「20~30回かけてもつながらないことが大半です。たまにつながると『番号間違いしていないか』と驚くくらいの頻度でしかつながりません」(前出のスタッフ)  メールを配信した大阪市福祉局に取材をすると、こう回答した。 「消防局から高齢者施設に一斉メールのシステムで送信してほしいと依頼があり送った。中身は関知していない」  119番通報が激増し、搬送先の病院が見つからないケースが2月に入り、増えているという事情もあるようだ。  吉村洋文大阪府知事は「入院している人の8割は70代以上の高齢者で、高齢者を守るための対策に力を入れたい」と高齢者の外出自粛などを訴えている。  一時期は緊急事態宣言も検討された大阪府だが、「新規感染者数はピークアウト、頭打ち」(吉村知事)と見送られたが、医療ひっ迫は続いている。  吉村知事が新型コロナウイルス対策本部会議を18日に開催したところ、専門家の間で「オーバーベッド」(病床数より患者が多い)というフレーズが繰り返された。出席者の一人から「17日には1日54人もの死亡が確認された。緊急事態宣言を要請するレベル」という意見も出された。  18日には1万1505人の新型コロナウイルス感染が確認され、60~90代の男女39人が死亡、うち基礎疾患のない60代男性1人が自宅で亡くなった。医療現場は混乱を極めており、医療ひっ迫は続いている。 「ある高齢者が新型コロナウイルスに感染し、地元の病院に連絡したところ、入院できることになった。だが、しばらくして大阪府のフォローアップセンターと調整できていないという理由で病院からペンディンツの連絡があった。結局、高齢者は入院できないまま、自宅で亡くなったと聞いた」(元市議)  大阪市住之江区にある日本最大級の国際展示場「インテック大阪」に吉村知事が84億円をかけて開設した、大阪コロナ大規模医療・療養センターは、中等症患者用の200床を確保し、15日から運用が開始されたが、実際はガラガラの状態だ。 「中等症向け200床を用意しましたが、現在は稼働しているのは約30床です。感染状況に応じて数は調整しますが、準備が整っていない。200床はあくまで最大です」(大阪府健康医療部)  無症状・軽症患者用は1月31日から運用しているが、こちらの利用者は1日あたり、10人前後という。センターを訪れたことがある、大阪市保健所関係者が内情をこう明かす。 「震災などで体育館に住民が避難している光景をテレビでよく見ますが、それと似た感じです。仮設のパーテーションで区切って部屋を作っている。展示場ですから天井が高く吹き抜けで、吉村知事が野戦病院と呼んでいますが、その通りです。新型コロナウイルス感染者は咳の症状がひどい。現場の医療スタッフに聞くと、夜になると咳の音がすごく響くそうです。(AERAdot.で既報のように)出される食事の内容も低予算でひどく、病人にはきつい。保健所でも無症状・軽症患者にはあまりお勧めしていないようです」  大阪の医療クライシスはいつ収束するのだろうか。 (AERAdot.編集部 今西憲之) 
吉村知事新型コロナウイルス
dot. 2022/02/20 09:00
さよなら晴海客船ターミナル 東京港のシンボルが30年あまりの歴史にひっそりと幕
米倉昭仁 米倉昭仁
さよなら晴海客船ターミナル 東京港のシンボルが30年あまりの歴史にひっそりと幕
1991年5月23日、オープン当日の晴海客船ターミナル。建築家・竹山実氏のデザインで、建物の外側を覆う白いメッシュ状の鉄骨が特徴だった  今月20日、長年、東京港のシンボルとして親しまれてきた白い三角屋根の「晴海客船ターミナル」(東京都中央区)が閉館する。これまで国内外のクルーズ船を数多く受け入れてきたほか、海の向こうに都心のビル群が望めるデートスポットとしても親しまれてきた。ゆかりのある方々に話を聞いた。 *   *   * 晴海客船ターミナルがオープンしたのは1991年。バブル経済が熱を帯びていた80年代、東京湾岸、いわゆる「ウォーターフロント」の開発が盛んに推し進められた。その目玉の一つが晴海ふ頭の再開発だった。 「晴海に国内外の豪華客船を受け入れるシンボリックな施設ができたことで、東京港が華やかになると思うと、とてもうれしかったですね」  そう語るのは宮永泰博さん。晴海客船ターミナルの開業当時、東京都港湾局港湾経営部の職員を務め、オープニング式典の準備を含めて、ターミナルの管理運営のすべてに携わった。 演習航海のため晴海ふ頭を出港する海王丸。1992年 ■多目的な海の玄関に生まれ変わった  バブル最盛期の89年、日本の客船文化は新たな時代が始まった。「ふじ丸」(商船三井客船)「おせあにっく・ぐれいす」(昭和海運)が建造されたのをはじめ、翌年までに計9隻のクルーズ船が新造された。  晴海客船ターミナルの開業は、そんな時期とも重なり、晴海の客船バース(係留施設)には大小さまざまな外航船、内航船が来航し、年間のべ約140隻が停泊したという。 「いまは10万トン級の大型客船にお客様をたくさん乗せて、クルーズを楽しんでいただく、というカジュアル路線が主流になっていますが、当時の客船はもっと高級路線でした。商船三井客船の『にっぽん丸』『ふじ丸』、日本クルーズ客船の『ぱしふぃっくびいなす』などがよく来ていましたね」と、宮永さんは振り返る。  ちなみに、現在のターミナルの前身である「晴海船客待合所」は、検疫や税関など、入管業務が主体の2階建ての小さな建物で、乗船客以外はほとんど訪れることのない地味な施設だったという。 総合防災訓練のため晴海客船ターミナルに接岸した米海軍のフリーゲート艦(手前)。奥は海上自衛隊の護衛艦。2006年  それとは対照的に、晴海客船ターミナルは、「SHIBUYA109」を手がけた建築家・故竹山実氏が設計したもの。白いメッシュの三角屋根が目を引く地上6階建て、鉄筋コンクリート造で、のべ面積約1万7600平方メートル。 「従来とは大きく違って、乗船客だけでなく、東京港のにぎわいを一般のお客様が楽しめる施設として整備されました。CIQ(税関、出入国管理、検疫所)のほか、広い送迎デッキやターミナルホール、レストラン、最上階には東京港を見渡せる展望室も設けるなど、多目的な海の玄関に生まれ変わりました」 晴海客船ターミナルからは海越しに都心の風景が楽しめる。2020年(写真:吉田公一さん提供) ■繰り返し訪れても息を飲むほど美しい  それから30年。現在の晴海地区は再開発がさらに進み、「HARUIMI FLAG」(晴海フラッグ)など、真新しいマンションや商業施設が立ち並ぶ。そんななか、晴海客船ターミナルは地元の住民にとっても憩いの場となってきた。 「ここは日本橋や銀座とまったく違う、別世界なんですよ。喧騒から離れた爽やかさがある。停泊した船を眺めながらのんびりするのは気持ちいいものですよ」  こう語る吉田公一さんは晴海客船ターミナルを訪れるのが日々の散歩コースという。吉田さんは中央区観光協会の特派員を務め、晴海ふ頭にやってくる客船のリポートなど、10年以上、同協会のホームページに執筆してきた。 「コロナの前は、外国から来るお客さんも多かったんです。客船が到着すると、税関を通って、みなさんが出てくる。そんな様子を間近で見られるんですね。お客さんが降り終わると、今度は水や食料を積み、廃棄物を降ろし、ブリッジを清掃する。大勢の作業員の方が1日中、仕事をする姿が見える。船は泊まっていても、寝ているわけじゃないんだな、と思ったりしてね。そんな光景を見るのがいちばんの楽しみ」(吉田さん)  さらに、ここから眺める夜景も素晴らしいという。 「都心のビル群が海面に反射して、ぼくみたいに繰り返し訪れる人でも息を飲むほど美しいと感じるときがある。夜空に三日月があるときは、特にきれいですね」(吉田さん) 晴海埠頭と高層マンション群。2007年  ライトアップされた東京タワーやレインボーブリッジも望めるほか、4年前に開業した豊洲市場の夜景も見逃せないという。 「観光用ではなく、仕事をしている明かりが煌々(こうこう)とついていて、これがまたきれいなんですよ。さらに市場の手前に見える晴海運河と豊洲大橋の照明が花を添えている」(吉田さん) ■新ターミナルは2023年度供用開始予定だったが  しかし、ターミナル自体は開業から30年あまりが経過し、多目的につくられた施設の老朽化が進み、それにともなう維持管理コストがかなりかさむようになってきた。 「修繕を繰り返しながら使い続けるのではなく、ターミナルを解体して、新たにコンパクトで簡易な施設に整備し直すことになりました」  東京都港湾局港湾経営部で客船誘致を担当する大塚昌俊課長は、今回の閉鎖の理由を、こう説明する。  その背景には東京港全体でのクルーズ客船受け入れ体制という、大きな枠組みがある。 「近年、客船の大型化が進み、レインボーブリッジを通過する船舶の高さ制限(52メートル)で晴海ふ頭に入れない客船が増えてきました。そこで、レインボーブリッジの外側の江東区青海に2020年9月、大きなクルーズ船を受け入れる施設『東京国際クルーズターミナル』をオープンしました」(大塚さん) 南極へ向けて晴海ふ頭を出港した南極観測船「しらせ」。奥は東京五輪に向けて建設が進む選手村。2019年  現在、東京国際クルーズターミナルには客船バースが1つしかないが、将来的には第2バースを整備するという。 「それまでの間、晴海ふ頭も使用することで、東京港全体として客船の2バース体制を維持していく。ただ、現在の晴海客船ターミナルをそのまま使い続けていくには無理があるので、解体してつくり直す、という計画です」(大塚さん)  本来であれば、ターミナル内で2月20日まで、施設の歴史を振り返る展示が予定されていたが、新型コロナの影響で全館が閉鎖。ひっそりと約30年の歴史を終えることになった。  当初の都の計画では、新しいターミナルは2023年度から供用開始予定だったが、現在、新たなスケジュールを調整中という。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
晴海ふ頭晴海客船ターミナル
dot. 2022/02/19 16:00
「電気代ゼロ」の時代がやってくる? 再生エネに魅せられた若者たちが描く未来
「電気代ゼロ」の時代がやってくる? 再生エネに魅せられた若者たちが描く未来
オフィスが面する通りは、大企業の本社やブランドショップが軒を連ねる。東京駅や皇居も近い(撮影/写真部・加藤夏子)  短期集中連載「起業は巡る」。第3シーズンに登場するのは、新たな技術で日本の改革を目指す若者たち。第1回はAIで電力の需要と供給を予測する「デジタルグリッド」社長の豊田祐介氏だ。AERA 2022年2月21日号の記事の2回目。 *  *  *  豊田が最後の望みを託したのが、投資ファンドのWiLと三菱商事。どちらもビジネスプランに理解を示してくれていた。ただ、すでにかなりの借金を抱えており、ネットベンチャーに投資するのとはわけが違う。WiL代表の伊佐山元は、この案件を聞いた時をこう振り返る。 「随分でかい不良債権が転がり込んできたなと。ただ、事業そのものの社会的な意義は小さくない」  19年は台風の被害が相次いだ。10月に関東から東北にかけて甚大な被害をもたらした19号が代表的だが、9月にも15号が関東を襲った。その15号が千葉市付近に上陸した9日はWiLとの最終交渉の日。首都圏の鉄道は朝から計画運休に入った。 「リスケ(リスケジュール=延期)しようか」  担当者からの電話に豊田は青ざめた。 「それだけは勘弁してください」  その土壇場を救ったのが、豊田が社長になる半年前に入社した高橋航だった。東大の大学院で核融合を研究。データ分析に関心があったため17年にソフトバンクに入った。だが上司に「今度はこれをやってくれ」と言われると「あなたがやれば」と思ってしまう高橋は、まるで大企業に向いていなかった。 東京・丸の内にある本社オフィス。昭和の雰囲気を残すビルに入るが、きちんとリフォームが施され、仕事がしやすい空間だ(撮影/写真部・加藤夏子) 「これくらい作れます」  転職サイトでデジタルグリッドの求人を見つけた高橋は、丸の内のオフィスで阿部の話を聞いた。面白いと思ったが、一方でソフトもハードも開発がまるで進んでいないことに驚いた。 「大丈夫なのか」と尋ねると「もうすぐ20億円くらい調達するらしいから資金はある」と言われた。職場体験のつもりで開発部門に顔を出すと、全員が夜の10時過ぎまで設計に没頭していた。 「ここなら自由にやれそうだ」。 オフィスの一角には大きなホワイトボードがある。社員やパートナーと侃々諤々の議論になることも(撮影/写真部・加藤夏子)  豊田とスマホで「ポケモンGO」をやりながら帰る道すがら、高橋はデジタルグリッドの開発メンバーに加わることを決めた。  デジタルグリッドに入社して2カ月。20億円どころか、会社は資金ショートの危機に陥る。だが不思議なことに高橋の口座にはきちんと給料が振り込まれた。近清が事情を説明する。 「エンジニアは会社の生命線。彼らには業務委託への転換も頼まず、正社員としてそれなりの給料を払い続けました」  高橋は給料分以上の仕事をした。社長が豊田に代わった時点で、会社はいったん開発の手を止めた。これまでの開発計画を見た高橋がこう言い出した。 「こんなものに、何でこんなに高いお金を払ってるんですか?」  開発の陣頭指揮を執ってきた豊田が説明する。 「自分で作れないんだから、外の会社に作ってもらわなきゃしょうがないだろ」 「これくらい作れますよ」 「作れるの? どのくらいで?」 「1カ月もあれば」  高橋はAIで電力の需要を精緻に予測するシステムのかなりの部分を内製化することに成功した。これでコストと工期がかなり削減できた。 いずれは「電気代ゼロ」  21年4月、ソニーが愛知県東海市にある牛舎の屋根に設置した太陽光パネルで作った電気を、中部電力の送配電網を介して、約30キロメートル離れたグループ会社のデジタルカメラ製造所に送る試みが始まった。ソニーが使うのはデジタルグリッドの電力取引プラットフォームだ。  ソニーにとっては電力料金が安くなり、確実に再生エネを使えるメリットがある。牛舎の所有者には屋根の賃料が入り、夏場は遮熱効果も期待できる。このケースではソニーが自分で電気を作って自分で使うが、多くの場合はデジタルグリッドが再エネ生産者と需要家を結ぶ。  ソニーのように自力で発電事業を始めるには、官庁や大手電力との気の遠くなるような手続きが必要だ。再生エネなら電力が足りなくなったら別のところから調達できる道筋もつけなくてはならないが、いつ、どれだけ足りなくなるか事前に知るのは難しい。豊田は言う。 豊田祐介(とよだ・ゆうすけ)/1987年生まれ、東京都出身。34歳(撮影/写真部・加藤夏子) 「そういう面倒なことは全部、僕らがやりますから、どうぞ気軽に再生エネを使ってください、というのがウチのビジネスモデルなんです」  世界各国が「カーボンニュートラル」へ舵(かじ)を切るなか、米アップルのように取引先にも再生エネの利用を求める動きがある。安く確実に再生エネが使えるデジタルグリッドの仕組みは、大企業にとっても魅力的だ。ソニーのほか、三菱商事や日立製作所、京セラなどが次々と株主となり、九州電力、東京ガス、ENEOSなどのエネルギー関連企業も出資している。  いま、年40億~50億円の電力がデジタルグリッドのプラットフォームで取引されている。安価でクリーンなエネルギーへの需要は間違いなく増えてゆく。だが天才エンジニアの高橋は、インタビューの途中でとんでもないことをサラリと言った。 「僕は『電気代ゼロ』を信じる派ですから」  太陽光も風力もエネルギーの原価はタダである。究極の効率でそれが取引されれば、電子メールがタダで届くように、電気もタダになるかもしれない。「気軽に再エネを」の先に、彼らはとてつもない未来を思い描いている。(敬称略)(文/ジャーナリスト・大西康之)※AERA 2022年2月21日号より抜粋
起業は巡る
AERA 2022/02/19 08:00
ホスト史上最高額5億2000万を稼ぎ出した「降矢まさき」が語る“痛い客ほどかわいい”の真意
作田裕史 作田裕史
ホスト史上最高額5億2000万を稼ぎ出した「降矢まさき」が語る“痛い客ほどかわいい”の真意
「FUYUTSUKI -PARTY-」の降矢まさき氏(撮影/写真部・張溢文)  今、ホスト業界は過去に例をみない「バブル」状態にある。2000年頃のいわゆる“ホストブーム”の頃でさえ、1億プレーヤーはごく一握りだったが、現在は年間数億を売り上げるホストが数多くいる。そんな中で昨年、史上最高の年間売り上げをたたき出したホストがいる。その額5億2000万。なぜそんなケタ違いの額を稼ぎ出せるのか。日本一のホストとなった「FUYUTSUKI -PARTY-/-KARMA-」の降矢まさき氏(32)に、ホストになった理由から1日数千万を稼ぐ接客術まで、赤裸々に語ってもらった。 *  *  * これまでのホストの年間最高売上額は3億3000万。2019年に降矢氏と同じ「冬月グループ」の先輩・渋谷奈槻氏が樹立したものだ。昨年、降矢氏はこれを1億9000万も更新して、歴代NO.1ホストとなった。  冬月グループは23店舗のホストクラブを経営する巨大組織。降矢氏はそのうちの「PARTY(パーティー)」と「KARMA(カルマ)」に在籍するホストで、その2店舗合計の個人売り上げで記録を更新した。  手の甲までタトゥーが入り、写真からは一見コワモテな雰囲気も伝わってくるが、取材で目の前に現れた降矢氏は腰が低く、語り口調も丁寧な好青年だった。時折見せる笑顔は「かわいい」という形容がしっくりくるほど。こうした見た目としぐさのギャップも客の心をとらえているのだろう。  一方で、性格は「負けず嫌い」だといい、ずっとトップを取りたいという思いは強かったという。 「ホストの世界はNO.1がすごく細分化されているんです。店舗、グループごとにそれぞれトップがいて、指名数や売り上げも日ごと、月ごとに分かれて数字を競い合っている。そうした“小さいNO.1”がたくさんある中で、誰からもケチをつけられないのは、年間売り上げの過去最高額を塗り替えることだろうと思っていました。毎年11~12月くらいに次年度の目標を立てるのですが、おととしの時点で社長(渋谷氏)の記録を超えたいというイメージは持っていました」  昨年の1日の最高売り上げは、バースデーイベントでの6300万だという。記録更新がかかった昨年12月に、1人の女性が支払った額だというから驚きだ。ホストクラブで客が支払う金のほとんどが酒代だ。高級ブランデーの中にはボトル1本で数百万するものもある。そのほか、グラスをピラミッドのように重ねてシャンパンを注ぎこむ「シャンパンタワー」も、高い酒を注文すれば、1000万を超えることもあるという。  降矢氏にどういう方法でそんな大金を払ってもらったのか聞くと「もう、ひたすら頼み込んだだけです」と笑顔で話すが、年間5億も稼ぎ出すための努力は並大抵のものではないだろう。 降矢まさき氏(撮影/写真部・張溢文)  しかも降矢氏の場合は、毎年、客の9割が入れ替わるという。つまり、年が変わる度に新規の指名客を何百人もつかみ、売り上げにつなげていく必要がある。昔からなじみの太客(金払いがいい客)に頼って売り上げを作るスタイルではないため、常に新規客を開拓する努力をすることになる。そうした客の心をつかむ上で、他のホストには「絶対に負けない」と自負するところを聞いてみた。 「う~ん……強いて挙げるなら『第三者の目で物事を見られる』ところかもしれない。僕は昔からコンプレックスが強くて、外からの見られ方をずっと気にしてきました。ルックスだけでなく、こんなことを言っちゃったとか、人の機嫌をうかがってしまう、過剰に空気を読んでしまう傾向がありました。だから、例えばお客さんが怒っている時でも、結構冷静に見ていて、八つ当たりなのか、ただ聞いてほしいのか、マジギレしているのかなどを察した上でフォローができたり。もし間違っていても、相手の反応からそれもすぐに感づけるので0・5秒くらいで切り替えて成功っぽい感じにするとか(笑)。そういう能力にはたけているかもしれません」  コンプレックスが強かったと語る降矢氏だが、ホスト業界に入ったのも26歳と決して早くはない。地方都市で10代後半からトビ職などとして働き、23歳のときに建設業で独立して起業。従業員を抱えながら自らも職人として現場で働き続け、月収が100万円を超える月もあったという。だが、がむしゃらに働くほど体力的にはきつくなり、体力が落ちる年齢になれば給料が下がる仕組みなどに疑問を感じ、まったく違う世界に飛び込むことを決意。26歳で上京して初めてホストクラブの門をたたいたとき、出会ったのが現社長の渋谷奈槻氏だったいう。  スタートが遅かったぶん、それからは最短距離で人気ホストへ駆け上がるために“逆算”して経験を積んでいった。最初の5カ月は無駄にしてもいい覚悟で、ひたすら接客のスキルアップにあてた。最初は見た目を磨くよりも、どんな客にも対応できる「人間力」を鍛えた方が得策だと考えたからだ。昔からコンプレックスが強く、初対面の人と話すことも得意ではなかったが、「そんなことを気にする余裕はなかった」と降矢氏は振り返る。 降矢まさき氏(撮影/写真部・張溢文) 「モテないとか初対面の人が苦手とか、そんなことはこの業界ではどうでもいいんです。気にもされません。仕事をするためにここにいるのだから、必要なスキルを身に付けるだけです。レジが打てないからスーパーでは働けません、という人はいませんよね? いくら会話に自信があったところで、お客さんは一人一人違う。ある人に対応できても、他の人には通じませんでは仕事にならない。だから得意なことなんて考えずにゼロからスタートして、毎日お客さんについて、怒られたり、喜ばれたりしながら、経験値を積んでいくしかないんです」  まったく違うタイプの客を相手にその人が本当に望むサービスをその時々で提供する――言うは易しだが、会社員でもこれを実践できている人は少数だろう。ましてや相手は時に一回で数百万も自分に“投資”してくれるお得意様。機嫌を損ねればすべてが飛ぶ可能性もある。何に気を付けながら接客しているのか。 「感情が出ないように、喜怒哀楽を意識的にコントロールしています。いわば『無』の状態です。ホストは感情に訴えかけろと言う人もいますが、その感情は『使える』ようになるのがプロだと思っています。普通の人が怒るところを笑いに変える、本来は流してもいいところを今後のことを考えて怒ってみせる……でもそれは“フリ”とは違います。怒ると決めたら本気で怒る。意識をコントロールしながらその感情に“入り込む”感じです。だからお客さんに対して気持ちは入っているんです」  そして、客に対して先入観を持たないことも大切にしているという。ホストクラブには「痛客」といわれる、ホストに過剰に酒を飲ませたり暴言をはいたりする客が一定数いる。当然、ホストたちには面倒がられる存在となるが、降矢氏はそうした客を遠ざけたりはしないという。 「若い頃は苦手意識もありましたが、そういう子も『お店でお金を払って飲んでくれる女性』という意味では変わらないのだから、お店に来てくれた時点で嫌いじゃないという意識に変わったんです。『苦手だけど楽しませなきゃ』だと苦しいけど、すべて受け入られる気持ちになると、逆に『俺じゃなきゃキミは無理だよね』という余裕さえ生まれます(笑)。だからちゃんと話せば全然『痛い子』じゃなくて、むしろいい子が多い。そもそも、お客さんだってお金を使ってわざわざ面倒なことなんてしたくない。行き場ないストレスをただホストにぶつけているだけ。でもそのストレスの原因を作っているのがホストである場合も多い。『痛く』させているのはホストの側なんだという自覚も必要だと思います」 降矢氏が在籍する「FUYUTSUKI -PARTY-」の店内(撮影/写真部・張溢文)  ただ、降矢氏が客の要望をすべて受け入れるホストかといえば、そうではない。プロのホストとして『できないこと』の境界線はきちんと決めているという。 「僕の場合は、支払いと引き換えに無理な要求をしてくる子には『無理だから』とはっきり断ります。それは下積み時代から一貫しています。一度その要求をのんだらずっと振り回されるし、逆に『もっと無理をきいてくれるホスト』がいればそっちに移っていくわけです。だから、どんなに売り上げが欲しくてもそこは崩しません。それで離れていくお客さんもいるし、失っているものもあると思います。でも長い目でみれば、ホストはその方が伸びると思っています。売り上げ欲しさに何でもやります、みたいなホストは無理がたたって、やはり後で下がっていくような気がします」  苦手な取引先にどう接するべきか、得意先から無理難題をふっかけられたときにどう対処すべきか――これらはビジネスパーソンが直面する課題でもあり、ヒントになるかもしれない。  最後に、今のホスト業界の「バブル」についても聞いた。歌舞伎町には数億を売り上げるホストが何人も現れ、まるでバブル時代のように夜な夜な札束が飛び交っている。その頂点にいる降矢氏はこの状況をどう感じているのだろうか。 「昭和の時代のホストクラブは、今よりもっと『娯楽』であり、大人の社交場だった気がします。お客さんからマンションや車を買ってもらうことはあっても、店が違うホストと年間売り上げを競うような文化はなかったはずです。でも娯楽であったはずのホストクラブが、今は数字で勝ち負けを競うゲームのようになってしまった。ホストもお客さんもそのゲームに必死で、本来の『娯楽』からは離れてしまっているような気がします。だから、お客さんにも無理が生じるし、ホストも疲弊する。幸い、僕はそういう苦労はせずにホストをさせてもらっているので、自分の店だけでも後輩たちには、お客さんと自分たちが幸福になるような働き方をしてほしい。売り上げが上がっても幸せにならないようなホスト業界の仕組みは変えていくべきです。まずは自分の店から、少しずつでも変える努力したいと思っています」   NO.1ホストの肩には、業界の行く末もかかっている。(AERAdot.編集部・作田裕史)
ホストクラブ降矢まさき
dot. 2022/02/18 17:00
男性の性機能低下は更年期障害のサイン? テストステロン減少で起こる症状
男性の性機能低下は更年期障害のサイン? テストステロン減少で起こる症状
※写真はイメージです  最近、気力、体力が落ちてきて、勃起力も……。それ、更年期障害かも。男性ホルモンのテストステロンが減っているのかもしれない。ライターの亀山早苗さんが、その実態と改善法を取材した。 *  *  * 「50の声を聞いてから、どうもやる気が失せてきたんですよね」  力ない声でそうつぶやくのは53歳のユウイチさん(仮名)。コロナ禍で在宅ワークが増えたのもあり、生活にメリハリがなく、集中力も続かないという。同世代の妻は更年期をものともせず、パートに趣味にと出かける。 「あなたもしっかりしてよね」。そんな妻の声を聞くと、ますます気力がなえていくと彼は苦笑した。 「そういえばと思い返したら“朝勃(だ)ち”とか、ほとんどしなくなっている。セックスレスになってからも長いなあと考えると、鬱々(うつうつ)としてしまって」  女性特有と思われがちだが、男性にも更年期障害は起こりうる。男性ホルモンであるテストステロンの減少によるもので、正式には加齢男性性腺機能低下症候群(LOH症候群)という。  テストステロンは30代から少しずつ減っていく上、個人差が大きいので自覚しづらい。気づいたら、ユウイチさんのように「気力のない自分」になっているというわけだ。そもそもテストステロンとはどういうホルモンなのか。獨協医科大学埼玉医療センター・泌尿器科の井手久満教授に聞いた。 「男性における主要な性ホルモンといっていいでしょう。脳の視床下部からの指令で、主に精巣で作られます。量は少ないものの、副腎や筋肉、脂肪、脳の記憶をつかさどる海馬でも作られています。テストステロンの98%がたんぱくと結びつき、実際には残り2%のフリーテストステロンと呼ばれるものが体の中で働いているんです」  テストステロンは、精巣を成長させて精子形成を促進し、勃起、性欲、造血、筋肉や骨の強化、認知など、さまざまな機能に作用する。体中のほぼすべての臓器で働いているといってもいい。 (週刊朝日2022年2月25日号より) 「肉体面だけでなく、メンタル面にも影響を与えます。テストステロンにはドーパミンの分泌を高める働きがあるので、テストステロンの値が高い人は活動意欲が強くなる。また、社会貢献をするようになる、嘘をつかなくなるなどの実験結果もあります」(井手教授)  興味深いのは、テストステロンは、恋をしたり結婚したり、あるいは子どもと添い寝をしたりすると低くなる。これはテストステロンが「社会参画・積極性」と緊密なホルモンだから。ドメスティックな感情が濃くなると一時的に下がるのだ。  井手教授によると、ストレスに弱いのもテストステロンの特徴だという。50代は仕事でも家庭でもストレスを抱えることが多い年代。そのため、「加齢以上にテストステロンが落ちてしまう人もいるわけです」。  LOH症候群でも気力の低下が認められるため、「うつ状態」になりがちだ。ところが抗うつ剤を飲むと、さらにテストステロンは減少するという。井手教授が続ける。 「だからうつ病と診断されて薬を服用してもよくならない場合は、一度、LOH症候群を疑ったほうがいいかもしれません」  精神疾患なのか、LOH症候群なのかで、受診先も精神科、泌尿器科などと変わってくる。  さまざまな機能に作用するテストステロンだが、その減少が前出のユウイチさんのように性欲低下や、「朝勃ちしない」原因ともなり得る。そして、朝勃ちがないのは、実はもっと大きな病気が潜んでいる危険性がある。 「いわゆる朝勃ちというのは生活習慣病のバロメーターです」  そう指摘するのはアンチエイジングに特化した治療をするDクリニック東京の安田吉宏院長だ。  男性の性器にあたる陰茎海綿体は、刺激を受けると血流が増し、体積が増大する。これが勃起である。夜間の睡眠には、「ノンレム睡眠(深い眠り)」と「レム睡眠(浅い眠り)」があり、交互に繰り返しながら朝を迎える。レム睡眠は、「体は休んでいるが、頭は働いている」状態。自律神経の働きも活発になるので勃起という生理現象が起こる。つまりレム睡眠中に目覚めれば「朝勃ち」が起こっているのだ。  ところが動脈硬化が進行すると、その生理現象が起こりづらくなる。陰茎は心臓や脳などと比べて体表近くに存在しているので、好不調の自覚を得やすい臓器。もしも朝勃ちがないなら、他の部位でも進んでいることが疑われる。1週間のうちに1日も朝勃ちがない場合は要注意といえよう。  こうした動脈硬化を予防する上でもテストステロンを増やすのは効果的だ。肥満を防ぎ、運動で筋肉量を増やす。動物性たんぱく質や牡蠣(かき)など亜鉛を含む食材をとる(サプリもOK)。また、スポーツ観戦などで競争意欲を高めるのも上昇につながる。使わない器官は衰えるので勃起・射精もしたほうがいいという。  Dクリニックでは「男性力ドック」を行っている。男性更年期を疑うべき症状と、それを引き起こす要因を「身体」「精神」「性」の三つのカテゴリーに分け数値化。中年期からの男性のQOL(生活の質)をあげるための取り組みである。男性更年期が確認された場合は、ホルモン補充療法もする。 「注射と塗るクリームがあります。ホルモン値は個人差もあるし、1日のうちで変化もありますが、通常は月に1回程度、筋肉注射をします。そうするとテストステロン減少によるさまざまな症状が軽くなっていく。3回くらい打つと明らかに効果があったという患者さんが多いです」(安田院長)  クリームは皮膚が薄くて吸収が早いという理由で陰嚢に塗る。注射ほど高い効果があるわけではないが、「そこそこの量の男性ホルモンを持続的に補充できるのがメリット」という。 「普段はクリームを使っていて、調子が悪いなと思ったら注射をすることもできます。ホルモン補充療法というと怖がる人が多いのですが、抗加齢治療の一つとして検討してみてもいいと思います」(同)  ただしホルモン補充により前立腺がんのマーカーに影響が表れることがあるので、まずは健康診断が必須だ。また、外からホルモンを補充しすぎると、体内で作る必要がないと脳が判断し、作らなくなることもある。医師と相談の上、量の調整が重要だ。  テストステロンの重要性や増やし方についてはおわかりいただけただろうか。次に、朝勃ちに関連し、勃起不全(ED)についても対処法など触れておきたい。  まず、EDの具体的な症状としては次のようなことが挙げられる。 ・性欲や興奮はあっても、なかなか勃起しない・最初は勃起するけれど持続できない・自慰行為では問題なく勃起するがセックスだとなえてしまう・挿入できても途中でなえてしまう・勃起はしているのに明らかに硬さが不十分  浜松町第一クリニックの2019年の調査によれば、40代の中等度型ED、完全EDは2割弱なのに、50代になると3割以上、60代では4割以上になる。竹越昭彦院長は「EDの要因は、大きく分けて四つ」と話す。 (1)器質性 神経の障害や、動脈硬化の進行など(2)心因性 ストレスやプレッシャー、うつ病など(3)薬剤性 薬の副作用(4)複合型 原因が特定できない、あるいは前記三つの複合型  50代以上の男性であれば、どれもが当てはまる可能性は高い。そしてEDは男性の尊厳に関わる。実際、「妻とできなくなってしまった」と嘆き、日常生活に張りも活力もなくなってしまった男性が、EDが治ったとたん、生き生きとして仕事にも精力的に取り組むようになった話はよく耳にする。竹越院長が話す。 「力がつくものは年齢を重ねると衰えます。勃起力、運動能力、基礎体力、免疫力。生物としてやむをえないことです。ただ、50代以上の男性を見ていると、加齢にともなって友だちも減って内にこもるタイプと、加齢を気にせず、生活を楽しみながらパワーアップするタイプに二極化していくような気がしますね」  ではEDにはどんな対処法があるのだろうか。ホルモン補充療法もその一つだが、竹越院長はバイアグラやシアリスなどの薬を推奨する。ED治療薬は、併用禁忌薬を使用している人は服用できないが、多くの人が使えて手軽だ。ただし重度の糖尿病だと効果が得られにくい可能性がある。 ED治療薬のバイアグラ (GettyImages) 「必要なときだけ服用すればいいんです。バイアグラは投与後4~5時間、シアリスは36時間まで有効性が認められています。平日の必要時はバイアグラ、週末はシアリスと使い分けている方もいます。薬は相性もあるので、まずは試してみることが大事です」(竹越院長)  ただ、気をつけたいのは、非正規品のED薬を処方するクリニックがあること。実際に体調を崩す人もいるという。それを避けるためには、国内のED治療薬、医薬品メーカーの病院検索サイトで確認することが重要だ。  一方、ED薬が飲めない人、根本的な治療を望む人に人気の治療法もある。陰茎に特殊な衝撃波を与える医療機器を使う。陰茎幹や海綿体の全範囲で血管が揺すられるなどして、新しい血管が生まれ、そこに血液が流れ込むことで勃起能力を高めるものだ。 「新しい血管が成熟するまでに2、3カ月はかかりますが、施術3回目くらいから以前と違うという人もいますね。一度終了して、数年後にまた希望する人もいます。副作用報告もありませんし、高血圧や既往症のある方でも使えます」(安田院長) ED治療機器「レノーヴァ」(写真は治療する際のイメージです/Dクリニックで)  Dクリニックでは、治療は1回20分程度。週1回を4回で終了という。  実際、衝撃波を手の甲に当ててもらった。トントンとかすかに打たれている感覚はあるが痛みはまったくない。40代から70、80代も多いという。  高齢化が進み、定年後も仕事を始め社会参画が必須の時代である。いつまでも溌剌(はつらつ)とした男でありたい、女性にモテたいという気持ちは大事だ。そのためのQOLを考えていく時代になっている。※週刊朝日  2022年2月25日号
週刊朝日 2022/02/18 16:00
映画「ドライブ・マイ・カー」で179分後に鈴木おさむが得た充実感
鈴木おさむ 鈴木おさむ
映画「ドライブ・マイ・カー」で179分後に鈴木おさむが得た充実感
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、話題の映画「ドライブ・マイ・カー」について。 *    *  * 濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」を見に行きました。村上春樹さん原作。カンヌ映画祭では、日本映画初となる脚本賞ほか、計4冠。そして、日本アカデミー賞ではなく、アメリカの第94回アカデミー賞で、「ドライブ・マイ・カー」は、なんと日本映画として初めて作品賞の候補に入った。これは驚いた。スティーブン・スピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」などと競うわけだ。そして、監督賞の候補にも入る。これは、「砂の女」の勅使河原宏監督、「乱」の黒澤明監督に続き3人目の快挙。こちら、計4部門の候補に入る。いや、すごい。  最近は、韓国エンタメが世界で活躍する情報ばかりが耳に入るので、このニュースを聞いて、僕はまったく関係ないが、すごく嬉しく思った。  で、やはり、「見なきゃ!」と思った。正直、言うと「見たい」ではなく「見なきゃ」という思いが先。アカデミー賞の候補に入ったとなると、これから話題になることもかなり増えるだろう。ラジオなども含めて、僕も発信することが多い立場なので、「見なきゃ」と思う。  なぜ「見たい」ではなく「見なきゃ」だったかというと、上映時間が179分あるからだ。3時間です。これが2時間だったら「見たい!」となるのだが、どれだけおもしろいと言われていても3時間と聞くと、躊躇してしまう自分がいる。  しかも、「良質」な作品であることはビンビンと感じる。だからこそ、この179分が腰を重くさせる。だけど、さすがに「見なきゃ」と思い、先週の日曜日、お台場の映画館に一人で見に行く。  お台場の映画館は空いてることが多いので、好きだ。そして映画終わりにアクアシティーで買い物も行けるのでよく行く。  昼3時45分から予告が始まる回を見た。そして上映終了して映画館を出てきた時には、夜7時。夜になっていた。  映画館を出てきて、近くにいた20代の女性が、まず一言、言った「難解……」と。正直、この「難解」という言葉があってるかどうかはわからないが、ただ「難しい」と思う人は少なくないだろう。  この映画を「いや~、素晴らしかった~」と言い切るには、チェーホフの戯曲に詳しかったり、色々と知識が必要だと思う。僕もそういう知識があったら、きっと「いや~、めちゃくちゃ良かった」と心から言えるだろう。だから「難解」とつぶやいた女性の気持ちも分からなくはない。  物語の中では結構な事件が起きるのだが、それをなるべく、淡々と描く。音楽も最小限。  事件って自分が巻き込まれない限り、人から聞くことが多いわけで、そう考えると、この表現はかなりリアリティーがあって、だからこそ、生々しい。  西島秀俊さん、三浦透子さん、岡田将生さん、出演者の演技がとてもとても素晴らしいことは僕にもわかる。特に個人的には岡田将生さんの演技。  で、見終わった僕個人の感想としては「僕にはわからない」5割、「すごくすごくいい映画を見た」5割の半々で、それが混ざり合ってなんか不思議な感覚になる。  僕が20代だったら、「わからない」の割合がもっと多かったと思うが、僕も今年50歳。 いろいろな経験をしている。3年前に亡くなった父とはいろいろなことがあった。  僕はこの仕事をしていて、なんでも「おもしろい」とすることが正義だと思っていた。自分の身に起きた不幸なことも「これはおもしろいんだ」と人に話すことで浄化していた。  それって、見方を変えれば「逃げ」である。  自分はそうやって、向き合わずに逃げていたんだってことが、この映画を見て気づけた。  父とのことも、もっと向き合えたかもしれないと。  人生、生きていれば何か起きる。突然起きたりする。つらいこともけっこう起きる。その「つらい事」に正面から向き合うことってなかなか出来ないんですよね。  この映画は「わからない」ことも多かったけど、自分の、胸の奥にしまってあった部分を引きずり出されたような、一番、人に見せたくない部分が、ドロっと出てきた感覚になった。  なかなかない経験だった。  179分。とても長いドライブだったが、日曜日の夜、車に乗りながら帰る自分は大きな充実感に満たされていた。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)は発売中。「お化けと風鈴」はLINE漫画でも連載スタート。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が発売中。作演出を手掛ける舞台「怖い絵」が2022年3月に東京・大阪にて上演。
ドライブ・マイ・カー放送作家映画村上春樹
dot. 2022/02/17 16:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
佳子さま
dot. 7時間前
教育
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
AERA 2時間前
エンタメ
春風亭一之輔、スズムシは心地いいけど、蚊やゴマダラカミキリムシはちょっと……「ぷーん」と「ギジギジ」なんで
春風亭一之輔、スズムシは心地いいけど、蚊やゴマダラカミキリムシはちょっと……「ぷーん」と「ギジギジ」なんで
春風亭一之輔
dot. 1時間前
スポーツ
巨人がかつて敢行した“抜け道補強” ルール違反で制裁金、大学生を中退で引く抜く“裏技”も
巨人がかつて敢行した“抜け道補強” ルール違反で制裁金、大学生を中退で引く抜く“裏技”も
プロ野球
dot. 1時間前
ヘルス
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子
dot. 8時間前
ビジネス
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
田内学の経済のミカタ
AERA 10/5