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業務時間外も“即レスしなきゃ”になりがち エンドレスワークを避けるための4つのコツ
古田真梨子 古田真梨子
業務時間外も“即レスしなきゃ”になりがち エンドレスワークを避けるための4つのコツ
AERA 2022年5月16日号より  通勤や出張の時間がなくなり、家族との時間も持てる。導入時はメリットに感じる声が多かったテレワーク。「自宅=いつでも仕事ができる」ことで、仕事が生活に浸食しエンドレスワークに陥る人も。AERA2022年5月16日号の記事を紹介する。 *  *  *  エンドレスワークに陥る、もうひとつの大きな要因はメールやメッセンジャー、SNSといったありとあらゆるITツールが、仕事上の連絡手段として定着したことだろう。 「大事なことは電話もしくは、社のアドレスからのメールにしなければ、相手に失礼にあたるという感覚がなくなりつつある。コロナ禍になったこの2年間で一気に加速したと感じています」  と話すのは、広報関連のコンサルタント会社を経営する栗田朋一さん(50)。自身も、仕事にメッセンジャーを多用している。 「アポイント時間の変更や契約内容に関わることなど重要なやりとりもメッセンジャーが基本です。電話が鳴ると本当にびっくりするようになりました」  栗田さんは、大小さまざまな企業の広報担当者の広報スキル向上や、マスコミ人脈の構築をサポートしている。欠かせないのが記者たちとの付き合いだ。以前は、アポや会食を気楽に設けていたが、コロナでできなくなった。だから、記者から連絡が来ると、「会えなくなった分、今を逃してはいけない!」と、深夜であっても瞬間的に反応するようになったという。 「もともと時間や曜日に関係なく、何かあれば対応するという広報気質があることもあり、余計にエンドレスワークになるのでしょうね」(栗田さん)  一方で、自分も相手に無理をさせている、と反省も口にする。 「深夜や休日であっても、メールをしている自分がいる。それはつまり即レスを期待し、場合によっては強制していることになり、良くないなとは思います」  大阪府の自宅で完全テレワーク生活を続ける女性(31)の勤務先の所在地は東京。人材採用に関連するカスタマーサポートが主な業務だ。 「全てがオンラインだからこそ、届くメールの時間帯などから、相手が朝型か夜型か、など生活パターンなどを読んで『今なら仕事の話が進む!』と思えば、どんな時間でも連絡しがちです」 在宅勤務が広がり、家事や育児との両立がしやすくなった面もあるが、定時以降もメールに即レスなど延々と仕事をしてしまう人も少なくない(撮影/写真映像部・馬場岳人) ■自動応答の設定も有効 “働いてますアピール”をするような時代ではなく、互いに配慮しあうことが大切だと思うようになり、最近は「忘れないように」という理由で時間問わずにメールを送ることをやめた。メールやビジネスチャット「Slack(スラック)」の送信予約機能も使っているという。  働き方評論家で千葉商科大准教授の常見陽平さんはこう話す。 「24時間いつでも連絡がつく状態は良くないとは思うが、悩ましいのは、完全に『悪』だとも言い切れないこと。隙間時間で仕事の下準備ができたり、即レスすることで、相手が次の仕事に進むことができたりといったメリットも大きい。だからこそ、個人と管理職によるマネジメントがとても大切になってくる」  常見さんは、「つながらない宣言」を提唱し、私生活の時間を明確に確保するために、普段から自分の予定を周囲に伝えておくことや、「休暇をいただいております」「いま電話に出られません」などといった自動応答の設定が有効だとする。  インターネット環境から意識的に離れる時間をつくることも、休むことにつながる。 「僕は、ニュースやトレンドは新聞や雑誌など紙媒体から得るようにしている。意識的にウェブメディアから離れる習慣をつくっている」(常見さん)  コロナによるテレワークや、SNSの広がりによる常時接続社会がもたらしているエンドレスワーク。常見さんは、 「自分自身や周囲は長時間労働になっていないか、誰かにしわ寄せがいっていないか。思いやりを忘れず、自分の感覚は『普通』なのかを疑い続けることが大切です」 (編集部・古田真梨子)※AERA 2022年5月16日号より抜粋
仕事
AERA 2022/05/12 10:00
正社員を捨てた43歳女性「給料が半分以下になっても」 お金より時間は「正解」なのか
松岡かすみ 松岡かすみ
正社員を捨てた43歳女性「給料が半分以下になっても」 お金より時間は「正解」なのか
写真はイメージ(GettyImages) 「コロナ禍で人々の価値観が変化している」とは、よく聞かれること。テレワークの普及し、本社を首都圏から地方に移転する脱首都圏の動きも進み、多拠点生活など、ここ数年で働き方の選択肢が大きく広がった。  これからの「働く」をAERAdot.と一緒に考える短期集中連載「30代、40代の#転職活動」。第3回は「お金より時間」を選んだ40代夫婦の話から。人々の仕事への意識はどう変わり、動いた人はいかに行動したかを追った。 【連載第1回を読む】43歳アパレル店長→ITへ転職 中途採用35歳限界説を超え「この歳で未経験はアリか」異業種に挑んだ結末は *  *  * 「給料は半分以下になったけど、今の方が幸せな気がする」  四国在住のAさん(43)。3年前に結婚し、6歳年上の自営業の夫と二人暮らし。半年前まで旅館に勤務し、シフト制で受付などの業務を担っていた。従業員は女性が多く、子育て中の人も多い。子どもがいないAさんは、特に人手不足になる夜間のシフトも、積極的に買って出ていた。職場の人間関係は良好で、長年勤めている環境なだけあって居心地も良い。まさか自分がこの職場を辞めるなんて、思ってもみなかった。コロナ禍で、今後のことを真剣に考える機会が訪れるまでは――。  最初のきっかけは、夫が毎晩、仕事から帰宅後に、一人でご飯を食べていることだった。普段はAさんが仕事に行く前に料理し、ラップをかけたものを冷蔵庫に入れておく。仕事から帰宅した夫は、冷蔵庫からそれを出し、電子レンジで温めて食べるのが常だった。  Aさんが久しぶりに早番で早く帰ったある日、夫と向かい合って一緒に晩御飯を食べていると、夫がポツリとつぶやいた。 「一日の終わりに、一緒にご飯を食べられるのはええなあ。いつもテレビに向かって食べよるから」  ハッとした。それまで夫に寂しい思いをさせていると考えたことはなかった。夫はあまり感情を表に出さないし、愚痴も言わない。帰宅すると、いつも「お疲れさん」と笑顔で出迎えてくれていた。だが言わないだけで、本当は寂しかったのかもしれない。暗い部屋に帰宅し、レンジで一人分の食事を温め、ポツンと一人、テレビに向かって晩御飯を食べる夫の姿を想像した。チクリと胸が痛み、「この生活を続けて良いのだろうか」という気持ちがムクムクと湧き上がってきた。 写真はイメージ(GettyImages)  些細なことといえば、些細なことだ。人によっては、取るに足らないことかもしれない。だが時を同じくしてコロナが蔓延し始め、Aさんが働く旅館も客足がぱたっと止まった。多くの人がそうであったように、いろんなことを考える時間ができた。仕事、働き方、お金、時間、家族、自分——。これから自分はどう生きたいのか、考える日々が続いた。 ■賃金は旅館の半分以下でも「ペースを落とし、その時間を好きなことに」  転機は、友人からの紹介だった。自宅近くにある某飲食チェーン店が、アルバイト従業員を募集しているという。賃金を考えると、旅館の半分以下だ。だがシフト申請は自分次第で調整できることから、まとめて働くこともできれば、月によっては少なめに働くこともできる。自分に合った働き方を試せるかもしれないし、「休みたい時に休める環境」というのも大きい。周囲からは収入の面で心配する声が多かったが、幸いなことに住まいは結婚前に格安で手にいれた中古の持ち家で、すでにローン返済は終わっている。  夫の収入は、月に20万円程度。自営業であるがゆえに、一定の収入が確実に保たれるわけではない。だがAさんの収入と合わせたら、日々の暮らしを営む生活費に、少しだけ貯金ができるぐらいの余裕もある。「贅沢しなければやっていける、十分だ」と思えた。  夫は49歳。仮に体が元気に動くのが70歳までとすると、自由な生活を謳歌できるのは残り20年ほどという計算になる。世間一般の物差しで見ると、舵を着るには早すぎるのかもしれないが、そろそろ仕事中心という生活の軸を変えても良いのではと思った。 「少しペースを落として、その分できた時間で、好きなことをやって暮らそう」  夫もそう言って背中を押し、Aさんは慣れ親しんだ旅館の仕事を後にした。  Aさんは現在、その飲食チェーン店で朝7時~13時まで、週に4日、アルバイトとして働いている。旅館に勤務していたときは、週に5~6日、15時~24時の間で働くことが多かったから、随分と楽になった。仕事がある日も、午後は丸ごと自分の時間だ。時間のゆとりが、こんなにも充実感と幸福感をもたらせてくれるとは思わなかった。  同じ店で働く全国勤務の社員は、休日や休憩時間も返上で働くことが珍しくない。Bさんが心配すると、「この仕事をやっている限り、仕方がないことだから」と言う。その社員は、他店で急に辞めた人の代わりとして、本部から2週間前に店舗異動の辞令が下り、引っ越し準備もままならない中で他県の店舗へと移っていった。そんな働き方が当たり前のようにまかり通っている会社は、まだまだ少なくはない。「自分はもう、選ばない選択肢だな」とAさんは思った。 ■「本当にこれで良いのか」見直すことができた  収入が大きく減った分、以前にも増して家計のやりくりを工夫するようになった。「使えるお金はここまで」と設定すると、なんとかその中でやりくりするようになる。そうやって算段を続ける中で、お金の大切さをしみじみと感じる一方、「以前はお金に踊らされていたな」とも感じるという。  無論、老後まで先を見据えて考えると、今後のお金に対する不安がないわけではない。子どもがいないからできる選択肢とも言われるかもしれない。だが、それだけではない。 「振り返ると、以前は労働と時間とのバランスが取れてなかったことを、見て見ぬ振りしていた自分がいました。本当にこれで良いのかなと見直せたことは、コロナで一度、世間がストップしたおかげとも言える。これからは時間を大切に、家族と好きなことをして生きていきたい」(Aさん)  コロナ禍の影響から、働き方や会社の選び方に大きな変化が起きている。リクルートが昨年転職者を対象に行った調査によれば、「新型コロナウイルスが転職活動のきっかけになった」と答えた人は、全体の63.5%。仕事選びにおける重要項目も変わってきており、「やりたいことを仕事にできる」が56.3%で、「年収が上がる見込みがある」(49.3%)を上回った。  転職を検討する理由としては、「会社の戦略や方向性に不安を感じたため」(35.1%)、「よりやりがいのある仕事をしたいと思ったため」(26.7%)と、会社の目的や仕事の意味を問い直す人が増えている。転職者数の推移について調べたマイナビの調査によれば、正社員の転職率は直近6年間の中で昨年が最多となっている現状もある。 「コロナ禍で将来のキャリアを見つめ直す人が増えています。中でも、“働く場所や時間の自由度”や“プライベートの時間を確保できること”や“中長期のキャリアデザイン”を重視する人が多い。自分のありたい生活を中心に考えながら、やりがいのある仕事をもう一度選び直すという動きが出てきています」(リクルートHR統括編集長、藤井薫さん)  こうした時代に選ばれる会社の大きな要素の一つが、「変化に柔軟に対応する姿勢があること」だ。「残業の有無」や「長期間の雇用が保証されている」といったことより、「時代に合わせて変化する会社かどうか」「やりがいがある仕事か」ということが重視される傾向にある。 「例えば、リモートワークが導入されない、アナログなやり方が変わらないなどが、転職の検討理由に入ってくるようになりました。広く言えば、求職者の会社選びにおける重点事項が、“この会社は私の人生にきちんと向き合ってくれる会社なのかどうか”という視点に変わってきています」(同) ■育休明けの復職前に転職がよぎる37歳Bさんの気持ちの変化とは?  今の会社は、私の人生にきちんと向き合ってくれないのではないか――。こうした考えのもと、現在転職活動をしているのが、神奈川県在住の会社員Bさん(37・広告関連業)だ。 写真はイメージ(GettyImages)  3年前に出産し、産休育休を経て、昨年仕事に復帰した。時短制度もあり、子育て中の女性社員もいるが、仕事の状況によってはどうしても遅くなる日が出てくる。「この仕事と子育ては両立できない」と職場を去った先輩社員の姿も、数多く目にしてきた。だからBさんも、産休に入る前は、「育休が明けたら、復帰前に退職することになるかもしれない」と考えていた。  しかし、コロナの影響で、勤務先の会社もテレワークを取り入れるように。「テレワークが認められるなら、子育てしながらも仕事を続けられそうだ」と考えていたBさんだったが、復帰した昨年には、「原則、出社するように」との方針に戻っていた。  仕事内容としては、パソコンと通信環境さえ整っていれば、自宅であっても会社と大差なく業務を進めることができる。「週に1~2日でも良いから、テレワークを認めてもらえないか」と上司に話すと、「特例は作れない」と却下された。同じ業種で働く友人の会社では、テレワークも出社も、個人の裁量で選べるという。Bさんは言う。 「会社が変わらないことに対する、納得できる理由がない。世の中が大きく変わる中でも、これまでのやり方や前例を良しとする会社にいることは、自分や家族の人生にとってデメリットが大きいと考えるようになりました」 写真はイメージ(GettyImages)  こうした従業員のリクエストにどこまで応えるべきか、企業側にとっても難しい判断が迫られている。マイナビキャリアリサーチラボの早川朋さんは言う。 「テレワークなど新たな働き方に対応できる企業を見ると、どうしても企業規模や業種に偏りが出てくる現状があります。求職者の志向変化を受けて、どこまで対応していくか、今まさに企業側も過渡期にある段階では」  誰にとっても合う会社や働き方というのは存在せず、その人それぞれに合った会社や働き方がある。「お金より時間」という人がいれば、「時間よりお金」という志向があっていい。何が正しいということはなく、働く上での価値観は人それぞれだ。まずは、自分はどうありたいか。何を重視して今後の人生を送りたいか。それをとことん掘り下げると、次の展開につながるヒントが見えてくるかもしれない。(松岡かすみ) 【連載第1回を読む】中途採用35歳限界説は崩れた? 40代アパレル店長からIT業界へ“越境転職”のリアル 【連載第2回を読む】「フルリモート求人」の落とし穴 「チャットで公開処刑」された38歳男性の場合
30代、40代の#転職活動正社員転職
dot. 2022/05/12 08:00
“頭ほぐし”で薄毛防止に視力回復も? 頭のコリを解消する方法
鮎川哲也 鮎川哲也
“頭ほぐし”で薄毛防止に視力回復も? 頭のコリを解消する方法
※写真はイメージ(Getty Image)  連休中にゆっくり休んだはずが、なんだかスッキリしない。もしかしたらそれは頭のコリが原因かも。ならば「頭ほぐし」で気分をスッキリさせよう。気持ちも上がるし、見た目も変わって、より元気に過ごせること間違いなし。 *  *  * 「頭がスッキリするだけでなく、よく眠れるようになりました」(60代男性) 「顔のたるみが小さくなったようで、なんだか若返ったみたい」(50代女性)  記者(男性、50代)のまわりで健康や美容のために頭をほぐすシニアが増えている。本当に効果があるのだろうか。ゴールデンウィークも終わった。膨大な仕事に悩まされる日常に戻り、なんだか心と体をスッキリさせたい気分だが……。  そこで『10秒で顔が引き上がる 奇跡の頭ほぐし』の著者で村木式頭ほぐしを開発した村木宏衣さんに、誰でも効果的にできる方法を聞いた。 「エステティシャンとして美容の仕事をしていましたが、乳がんの治療をして髪にダメージを受けて、それを改善するために試行錯誤して、メソッドを確立しました」  村木さん自身が頭ほぐしに救われ、今日があるという。現在も時間があれば頭ほぐしをし、精神的に肉体的に健康を保っているそうだ。  頭ほぐしをすると、顔がリフトアップしてシワが減る。目がスッキリする。個人の感想だが、視力が改善された例もあるようだ。髪質も改善され、夜よく眠れるようになったという声もあるという。 「精神的に明るくなったという人もいます。最近は中高年の男性のお客さんも増えました。集中力が上がり、仕事がさらに頑張れるようになったという人もいましたね」  いつでも、どこでも簡単にできるのもポイントだ。器具も必要ない。  しかしなぜシワやたるみが改善するのだろう。  頭は緊張してコリが発生すると前方に皮膚が引っ張られ、顔の部分に寄り集まることで顔にシワやたるみができる。そのコリをほぐすと頭頂部を覆う帽状腱膜や、額を覆う前頭筋がほぐれ、後ろに引っ張られる力が戻り、シワやたるみが改善するのだ。  では村木さん指導のもと、頭ほぐしを実践してみよう。まずは頭ほぐしの基本だ。 効かせる手技(イラスト さとうこう※週刊朝日2022年5月20号より) (1)指の先端ではなく、指の腹を使うこと。圧力が伝わり頭皮を傷つけることもないからだ。 (2)頭の骨をつかむイメージで指を垂直に入れ圧力をかける。 (3)指に圧力をかけつつ、細かくゆっくり動かす。このとき頭皮に指をすべらせながら圧力をかけるのはNG。 「リラックスするためにやっているので、力まないことです。息を吸ったり吐いたりしながら、気楽にやりましょう」  気になるポイント別にも教えてもらった。 ▼頬のたるみ  ほうれい線は、頬のたるみによってできる。耳の上あたりにある側頭筋のコリをほぐし、弾力を取り戻せば、顔を引き上げ、たるみが解消される。 <手順> (1)親指の腹をこめかみのへこんだ部分に置き、手首を返して残りの指で後頭部をつかむ。 (2)「あむあむ」と言いながら、親指で頭を押さえて斜め後ろに持ち上げ、両手で頭の下部をはさみ、持ち上げるようにする。 ○ポイント あごを下げない。声を発するとき口を大きく開けること。 ▼下まぶたのたるみ  側頭筋がこると目のまわりの筋肉も縮み、血流が悪くなり眼輪筋が下がり下まぶたがたるむ。縮んだ側頭筋をほぐし、目のまわりの血流をアップさせ、たるみを解消する。 <手順> (1)こぶしを握り、こめかみの上あたりをはさみ込むように10杪押さえる。 (2)正面を向いたまま、生え際から耳の後ろまで、上下に細かくグリグリするように10杪動かす。 ○ポイント こぶしを握ると力が入るが、奥歯を食いしばらないように。 (イラスト さとうこう※週刊朝日2022年5月20号より) ■呼吸を止めずにリラックスして ▼眉間のシワ  側頭部から耳のまわりがこると、目のまわりの血流が悪くなり、眉間の筋肉も緊張する。耳の周囲の筋肉のコリをほぐし、血流を促進して眉間のシワをなくす。 <手順> (1)人さし指の腹を耳の付け根の上に置き、前後にさするように10杪動かす。 (2)次に人さし指の腹で耳の付け根の前を上下にさするように10杪。 (2)人さし指の腹を耳の付け根後ろで上下にさするように10杪動かす。 ○ポイント 人さし指を動かすときに力を入れすぎないように。 (イラスト さとうこう※週刊朝日2022年5月20号より) ▼白髪・薄毛を防ぐ  頭のコリをほぐすことで血流がよくなり、健康的な頭皮が戻ることが期待できるという。 <手順> (1)耳を手のひらで覆い、前から後ろへ引き上げるように10杪回す。 (2)指の腹を頭皮にあて、生え際から後頭部へジグザグに細かく10杪動かす。 (3)こぶしを握り、こめかみの上あたりをはさみ、小さく円を描くように後方に10杪動かす。 (4)耳の後ろの後頭部にこぶしの第一関節と第二関節の間の平らな面をあて、後頭部から首へと細かく押し動かす。  記者も実際にやってみた。短い時間ではあったが、頭のモヤモヤした感覚が軽減し、スッキリした。頭をほぐしただけなのに、頭だけでなく、身体が軽くなった。  ただ、あまりに簡単すぎるので、これでいいのだろうかと少し不安になるくらいだ。  頭ほぐしで注意すべきことはあるのだろうか。 「頭皮に傷があったり、頭痛や熱があったりするときは避けてください。実施するのは朝昼夜いつでもいいです。リラックスして行ってください」  頭がこっていては何もいいことはないという。 「頭ほぐしを毎日のルーティンにして、より爽やかで健やかな生活を手に入れてください。心もほぐせて、幸せな日々が待っていますよ」  これからもガッチリ仕事ができそうだ。(本誌・鮎川哲也)※AERA 2022年5月20日号
週刊朝日 2022/05/11 16:00
「フルリモート求人」の落とし穴 「チャットで公開処刑」された38歳男性の場合
松岡かすみ 松岡かすみ
「フルリモート求人」の落とし穴 「チャットで公開処刑」された38歳男性の場合
写真はイメージ(GettyImages) 「日本全国どこに住んでもOK!」をアピールするフルリモートの求人。少し前までなら考えられなかったような“転職なき移住”も一部企業では認められつつあり、テレワークの普及などから、“出社しない働き方”は浸透し始めている。これからの「働く」をAERAdot.と一緒に考える短期集中連載「30代、40代の#転職活動」。第2回目のテーマは、テレワークのリアル。その前編では、「フルリモート可」の求人に飛びつき転職した、ある男性の話から、隠れた実態が見えてきた。 【後編はこちら】憧れの「フルリモート職場」のシビアな現実 「安易に応募すると痛い目に」専門家が指摘 *  *  *  九州地方在住のAさん(38)。昨年、東京から地元である九州に、同郷の妻と子どもを連れてUターンした。「いずれは地元に帰りたい」と考えていたが、東京での仕事や生活も充実していたことから、Uターンは遠い未来のつもりだった。  そんな中、2年前に2人目の子どもが産まれた。妻も共働きで、2人目の出産後も「仕事を続けたい」という希望があったが、東京には頼れる身内もいない。子育て環境も踏まえて考えると、九州に引っ越す選択肢もありかもしれないと考えるようになった。時を同じくしてコロナが広がり始め、時間や場所にとらわれない新たな働き方が広がり始めたことも、決断の後押しになった。  問題は、仕事をどうするかだ。都市部から移住を考えるときに、多くの人にとって目下の課題となるのが、地方でどんな仕事をするかという点だ。当時、Aさんが勤めていたのはIT企業の営業職。リモート勤務は認められていたが、週に1~2日は出社が必要で、地元に引っ越すなら今の会社で働き続けることは難しい。「できれば地元に帰っても、IT分野でこれまで培った経験を生かしたい」と考えたAさんだが、地元企業には「これ」と思えるところがない。そこで目をつけたのが、出社を求められない“フルリモート求人”だった。  テレワークが広がる中、居住地を「国内であればどこでもOK」とする企業は少しずつ増えている。「基本的に出社しなくて可」という求人は、IT系の業種に多く見られる。背景には、IT人材の不足が指摘される中、柔軟な働き方ができることを求職者にアピールし、人材の獲得競争で優位に立ちたいという企業側の狙いもある。  Aさんは、そうしたIT企業数社のフルリモート求人に応募。結果的に、二度のオンライン面接とリアルの場での最終面接を経て、東京に本社があるIT企業で、フルリモート勤務可の職に就くことができた。入社して最初の2週間は、研修や手続きを兼ねて本社に出社。入社3週間目には九州にある自宅で、リモートワークをスタートさせた。  晴れて手に入れたフルリモート環境。だが入社してほどなく、オンラインでのコミュニケーションの難しさにぶち当たることになる。例えば、リモート環境では、同僚などに“ちょっとしたこと”が意外と聞きづらい。「電話で聞いた方が早いだろう」と思い、先輩社員や同僚の電話を鳴らすと、「電話だと作業が中断してしまうので、質問はなるべくチャットでお願いします!」と返ってくる。9割方の社員がリモートワークというAさんの勤務先では、会議以外のコミュニケーションは、基本的にチャットなのだ。 写真はイメージ(GettyImages)  仕事の案件ごとに、それぞれの担当者で構成されるチャットルームが開かれており、定期的に上司が各ルームで繰り広げられている会話を“徘徊”し、チェックしてまわるのも常だ。時折、上司から「ルーム全体の熱量が低い」「質問するときはポイントを分かりやすく」「即レスで対応すること」などと指摘の声が飛んでくる。各チャットルームは、通知機能はないものの、全社員が見られる状態のため、そこで叱責されると“公開処刑”とも言える事態になる。  テキストでのコミュニケーションは、簡単な内容であっても意外と時間がかかるものだ。特に入社して間もないときは、ごく簡単な内容であっても、言葉のニュアンスに気を遣うことが多く、返信を書くにも時間がかかった。Aさんが返信を書く前に、チャットルームはどんどん次の話題に移っていき、ネット空間で置いてけぼりにされている感覚が生まれた。 写真はイメージ(GettyImages)  オンラインでのコミュニケーションでは、とかく「要件のみで終わらせる」ことが重視されがちで、雑談がしづらいということも、フルリモートで働き始めてから分かったことだ。オンライン会議も、予定時間内に会議を終えることが前提でスタートされるため、タイムキーパー役が一人一人の発言時間を管理する。まどろっこしい説明を始めてしまうと、「要点を整理してからチャットで連絡して」と言われてしまう。よく言えば効率的、悪く言えばあまりにドライなコミュニケーション。Aさんは次第に、こうした“リモート流儀”に辟易する場面が増えていった。  これまでの環境であれば、こうした時にはガス抜きに、同僚と飲みに行って愚痴を発散させたいところだ。しかしフルリモート環境ゆえに、同僚はオンライン上にしかいない。入社1年が経った今も、気軽に愚痴を言えるような相手は会社にいないという。  無論、マイナス面ばかりではない。通勤に時間を取られることもなく、自宅で仕事ができる快適さもある。家族と一緒に自宅で朝昼晩と食事を共にすることができるし、自然豊かな環境で過ごせるメリットも大きい。都会に比べて物価の安い地方で、東京の給料水準の年収を稼ぐことができるのも大きな魅力だ。  ただ入社から1年経ち、入社前は良いことばかりに見えたフルリモート職にも、向き不向きがあるということが分かってきた。Aさんはすぐに仕事を変えるつもりはないが、並行して地元企業の求人もチェックするようになった。2人目の子どもが保育園に通い始めたら、地元企業に転職することも選択肢の一つだという。 「フルリモートで働いてみて、人と直接やり取りできるメリットは、やはり大きいと感じます。それにせっかく地元に戻ったのに、日々コミュニケーションを取る相手は他県の人ばかりというのも……と思うようになりました。金曜の夜に、同僚と気軽に飲みに行く楽しみも、僕にとってはかえがたい日常かもしれないとも感じます。転職はまだ検討段階ですが、結局はフルリモートを辞めるかもしれません」(Aさん)  フルリモート求人の誘い文句にある「基本出社ナシ」は、もちろんいいことばかりではない――。(松岡かすみ) 【続きを読む/後編】憧れの「フルリモート職場」のシビアな現実 「安易に応募すると痛い目に」専門家が指摘
30代、40代の#転職活動テレワークフルリモート求人転職
dot. 2022/05/11 08:00
サーフィンで全国大会出場の麻酔科医 工学系大学院→メーカー勤務から27歳で医師を目指した「覚悟」
サーフィンで全国大会出場の麻酔科医 工学系大学院→メーカー勤務から27歳で医師を目指した「覚悟」
竹原医師(撮影/張 溢文) 激務や多忙で知られる医師の仕事だが、近年は医師の「働き方改革」も推進され、ワーク・ライフ・バランスが重視されつつある。日の出とともに海へ行き、サーフィンで「心身をリセット」して日々の仕事に新たな気持ちで向き合う。そんな生活を実践している亀田総合病院(千葉県)麻酔科医長の竹原由佳医師に、発売中の週刊朝日ムック『医者と医学部がわかる2022』で話を聞いた(内容は取材時のものです)。 *     *   *  千葉県鴨川市の東条海岸は、太平洋に面した同県のなかでも有数のサーフスポットとして知られる。そんな場所で出勤前後にサーフィンをして楽しんでいるのが、東条海岸沿いに立つ千葉県南部の基幹病院、亀田総合病院麻酔科の竹原由佳医師だ。 「年間を通して日の出とともに起床します。夏は4時過ぎには海に行って1、2時間サーフィンをしてから仕事へ。仕事が終わった後も、暗くなるまでサーフィン。冬は、出勤前後は暗いので、休日に楽しんでいます」 ■元々は工学系、ケガをきっかけに27歳で医師を目指す  亀田総合病院に勤務する医師や看護師にはサーファーが多く、プロサーファーも輩出している。同院では年に1度、医療従事者のためのサーフィン大会「カメダカップ」を開催するなど、サーフィンを通じた職員の健康増進や地域振興に積極的に取り組んでいる。 亀田メディカルセンターが主催する医療従事者のためのサーフィン大会「Kameda Cup in Kamogawa」の2019年大会の1コマ(本人提供) 「夜勤もあるのでみんなで集まってということはないのですが、海に行くとだいたい亀田のスタッフに会います(笑)」  趣味のサーフィンを楽しみつつ、麻酔科医長として後輩の育成にも携わる竹原医師。その経歴を振り返ると、サーフィンを始めたのも、医師を志したのも20代後半だった。 「サーフィンに出合ったのは25歳のとき。工学系の大学院を卒業後、メーカーに就職してから、新しいことを始めたいとチャレンジしました」  平日は仕事、週末はサーフィンという生活を送っていた時に、転機となるできごとが起こる。腕をケガし、入院や手術、リハビリを経験したことから、医療に興味をもち、医師になりたいと考えたのだ。 「当時27歳だったので、人生のギアチェンジの最後のチャンスと考え、医学部への編入試験を目指しました。編入後は、それまで遠回りした分、4年間しっかり勉強しました」 ■研修先の病院で震災を経験、覚悟を決める  初期研修医として赴任した石巻赤十字病院(宮城県)では、東日本大震災を経験した。 「地震発生直後から災害対応が始まり、研修医はトリアージの時、救急車の受け入れを担当しました。当時はあれほどの津波が来たとは実感できず、1週間後に自転車で石巻の街に行ったときに、道路がなくなり家や車が津波で流された様子を自分の目で見て、初めて状況が理解できました」 インドネシア・バリ島のサーフポイント、マデウィで波に乗る竹原由佳医師(本人提供)  震災後は市内全域でライフラインが停止していたことから、スタッフは数週間にわたり病院で寝泊まりし、救護や医療の対応を行った。 「担当していた患者さんと震災後に再会したときに『先生に助けてもらった命だから無駄にできないと思って、津波から逃げたんだよ。この先も助けてもらった命を大切にするから、先生も頑張ってね』と言われたんです。私は研修医だけれど、患者さんから見れば医師なんだと自覚しました。震災前は、自分は医師としてやっていけるか迷いがあったのですが、このときに覚悟が決まりました」  後期研修からは「全身を診られる科がいい」と麻酔科を中心に経験を積み、浦添総合病院(沖縄県)などを経て、2016年から亀田総合病院の麻酔科に所属している。 「手術中に切迫した状況になると、手術室にいる全員が患者さんの命を救おうと団結します。チームワークがうまく働きいい結果が得られたとき、やりがいを感じますね」  趣味のサーフィンは、仕事を続けるうえでも大きなモチベーションになっている。 「サーフィンの醍醐味は、自然と一体化できること。サーフィンによって心身をリセットできるので、日々新たな気持ちで仕事に向き合えるんです。医師とサーフィンには定年がないので、これからもずっと続けていきたいですね」 竹原由佳(たけはら・ゆか)医師 2010年群馬大学医学部卒。石巻赤十字病院、浦添総合病院、亀田総合病院、中頭病院を経て、16年亀田総合病院に麻酔科医師として着任。17年麻酔科医員、19年から麻酔科医長。日本麻酔科学会専門医、日本区域麻酔学会認定医。 (文/上野裕子) ※週刊朝日ムック『医者と医学部がわかる2022』から抜粋
サーフィン亀田総合病院医者と医学部がわかる 2022病気病院竹原由佳医師麻酔科医
dot. 2022/05/10 11:30
50代“意識低い系”ライターが「yPad」に出会ったことで起きた小さな奇跡
50代“意識低い系”ライターが「yPad」に出会ったことで起きた小さな奇跡
人生を変えた一冊とは?  元々「いかんなあ」とは思っていた。  コロナ禍で取材も打ち合わせもリモートで行うことが増えた。すると、朝はギリギリまで寝ていられる。メイクもろくにしない。誰も来ないから家の中も放置→荒れる。夫婦ふたりとも「ホコリじゃ死なない」と思っているのでなおさらである。自慢ではないが“意識低い系”の自覚だけは充分にある。自己管理が下手。自己啓発とか自分磨きというキーワードは本能が脳にシャッターを下ろす。  だが、そんなダラけた暮らしぶりに喝を入れるアイテムが登場した。それも一冊の手帳である。 ■時間を整理するための手帳  自己管理の弱さはプライベートだけではない。自営業なので複数案件の同時進行は大変ありがたいが、歳のせいか記憶頼みで管理するのもしんどくなってきた。一応Googleカレンダーで予定管理はしているが、どの仕事がどこまで進んでいて、今の最優先は何なのか、業務の組み立てがますますへたくそになってきている。  そんな私がyPadというスケジュール帳の存在を知ったのは今年に入ってから。恥ずかしながら、2010年からあったなんてまったく存じ上げず。しかも一度は廃版にしようとしたのを、好評につき復活させたというではないか。あぶないあぶない。知らないまま一生を終えるところだった。 寄藤文平『yPad moss』※Amazonで詳細を見る  yPadは横長のiPadサイズの冊子である。帯に「パッと開けばバーッとわかる」とあるが、確かにその通り。  左ページはいわゆるスケジュール帳で、縦軸が日付・横軸が時間。◯月×日、▲時から打ち合わせ、というやつだ。  右ページは案件ごとに進捗を書き込めるようになっている。左ページの日付と照らし合わせながら、この日までにこれをやる、という仕事の進み具合が「バーッとわかる」のである。  この手帳の生みの親、アートディレクターの寄藤文平さんによれば 「仕事の予定ばっかりじゃなくていい。趣味でも遊びでも、好きなことをして生きていくために、時間を整理するお手伝いになればいいと思っている」  とのこと。  これを、どうにも洗練されていない私の仕事管理に使ったらどうなるのか。まずはそこからやってみた。 ■可視化された「時間の使い方」 かつて使っていた「管理用バインダー」。ただ白い紙に適当に書き込むだけで罫線すらない。自分だけわかってりゃいいので問題ないが、正直、モレも多かった  それまでは複数の仕事を紙に書き出して管理していた。再利用紙を何枚かバインダーに束ね、1枚=1案件とする。作業の進捗やするべきことを上から下へと順々に書き足していく。終わったことは線を引いて消す。納品、校了が済んだらその紙を捨てる。  実に原始的だが、余白を利用して備忘録にしたり、とっさに連絡したい相手の電話番号やアドレスをメモしておくなど、まあそれなりに便利ではあった。  紙が何枚にもなるとわけがわからなくなるので、付箋をタブにして、すぐめくれるようにしていた。  それをまずyPadに移行させることにしたのだ。  1センチ×1センチのマスなので、スタンプがあると便利かもと思いシャチハタで次の4つのハンコを作った。 ・打ち合わせ・取材・〆切・校了  インクの色も変えて、なるべく楽しく、笑えるデザインで。 これを使いたくてyPadが続けられているといっても過言ではないハンコたち。打ち合わせはFBIに連行されるグレイ、取材はカメラを持った猫、〆切はムンクの叫び、校了は泥酔する猫である※ちなみにこのハンコを作ったのはこちら邪悪なハンコ屋 しにものぐるいhttps://www.ito51.com/ (もちろん、Googleカレンダーも並行して使っている。どこにいてもスケジュールが確認できるのは助かるし、スケジュール寸前にアラートが鳴るのが助かるからだ)  それで、仕事はどう変わったか?  正直なところ「劇的にはかどるようになった」ということはない。倍のスピードで原稿が書けるようになったとか「能力が飛躍的に伸びた」ことは残念ながらなかった(当たり前だ)。  だが、どの時間帯が空いているか、どの日に作業が集中しているかが一目瞭然になった。結果、自分の「腹積もり」がしやすくなったのだ。  例えば少しでも余裕のあるタイミングが見つかれば、どれを前倒しで進めようか考えることもできる。 「この日までは手がふさがっているので、できれば締め切りはそれ以降にしていただけると確実です」  なんていうヘタレな交渉も堂々とできるようになった。 ■「時間の整理」に目覚める  こうして可視化された自分の時間を見つめてみると、仕事以外の時間に何をしているのかが気になりだした。 だんだん、やること(主に運動)の時間が決まってきた。逆に、「やらないこと」も決まってきたし、毎日することが固まってきたころ  まず気づくのは、以前はいかに「移動」に時間をとられていたかということだ。東京郊外に暮らしているので、都心で用があれば最低でも2時間は移動に費やすことになる。では今、その浮いた2時間を有意義に使えているか? カオス状態のパントリーや食器棚の整理は進んだのか。答えはハッキリ『No』である。時間はできたかもしれないが、今度は「やる気」が、どこを探してもみつからない。やれやれ困ったものだ。そこで、仕事以外の時間もyPadで考えてみることにした。  問題に感じているのは大きく2つ。 ・倉庫状態になっている自室やクローゼット、パントリーの整理・運動不足と歯止めの利かない体重の増加  どれもこれも、大きなストレスになっている問題たちである。  特に運動は3日と続いたためしがない。深夜の通販番組で買った腹筋マシーンもホコリをかぶっている。だいたい、運動できない理由ならいくらでも思いつく。  汗だくになる→じゃあお風呂に入る前にすればいい?→大抵お風呂の前は食事だから、食後に運動するのは苦しそう→じゃあ昼間やる?→着替えるヒマなんてない……  だが、yPadを眺めれば眺めるほど、隙間時間が可視化されてしまっている。そうか。ここに当てはめればいいんだ。 ■タイマーとyPadで「コマを埋める」  まずリモート会議ギリギリまで寝て過ごすのを辞め、歩くことにした。  捨てるつもりだったスウェットの上下を発掘。日焼けがイヤだからサンバイザーを買った。身に着けてみたら、近所でよく見かけるウォーキングおばさんが完成した。 ウォーキング用に買った服たち。汗だく前提なので心おきなく着れるものを、UVカットで探した。ワークマンで1アイテム平均1500円である  日々、歩く時間はまちまちだが、一週間やってみたら思いのほか爽快だった。汗だくになったらシャワーを浴びればいい。洗濯物は増えたが大変なのは洗濯機で私じゃない。 「この私が運動を?それも続いてる?」  まるで電車の車内広告である。  クローゼットとパントリーは隙間時間に1時間、スマホでタイマーをかけて着手することにした。ルールは簡単。 yPadを使い始めたころ。蛍光ペンを案件ごとに色分けして、モザイクっぽくなるのが楽しくなった ・その1時間は何も考えず作業をする。雑念は意識して頭から追い出すこと。・タイマーが鳴ったら、強制終了。汗をかいていたらまたシャワーを浴びる。  まだまだ終わりは見えないが、果てしなさすぎてとても無理だと思われた「片付け」問題に着手できていると思うだけでも、ココロの暗雲が少しは薄れるというものだ。  若いころは想像もできなかったことだが、体力はもちろん気力、集中力、興味、関心、すべてが続かなくなっている。だが、1時間なら維持できる。  夏休みの宿題は最後の数日で泣きながら追い上げるタイプだったが、yPadに落とし込んでコマで見せられると、ひとコマずつ塗りつぶす楽しみがあっていい。それが何より「続いている」要因だ。  時間の使い方が変わって、無為に過ごしては自己嫌悪に陥ることが減ったように思う。  いや、相変わらずダラダラは好きだ。隙あらばダラけたいと思っている。だが、時間をコマ割りにしたことで「今はダラダラしていい時間」と、自分にお墨付きを与えられるようになった。これで胸を張ってダラダラできる(?)。  将来、仕事をしなくなってからも、このコマ割りがあると嬉しい。yPadには末永く、お世話になりたい所存である。 (文/浅野裕見子)
書籍朝日新聞出版の本読書
dot. 2022/05/09 08:00
沢田研二とも一番人気を争った ザ・リンド&リンダース加賀テツヤを偲ぶ
沢田研二とも一番人気を争った ザ・リンド&リンダース加賀テツヤを偲ぶ
1968年11月のビラ守口プールでのライブ(撮影・水谷紀久雄)  1960年代後半に若者たちが巻き起こしたグループサウンズ(GS)ブーム。彼らはいかに時代の寵児となり、ブーム後をどう生きたのか。不定期連載第1弾の主役はザ・リンド&リンダースのボーカリスト、加賀テツヤ(2007年没)。 *  *  *  暗く重苦しい第2次大戦が終わり20年。新しい文化や思想が百花繚乱するなかでGSブームは巻き起こった。加賀テツヤは関西の雄として知られたザ・リンド&リンダースで圧倒的な人気を誇ったボーカリストだ。  1946年生まれ。京都市の裕福な家庭の次男として育ち10代で音楽の道へ。生来の人当たりの良さと、オリエンタルな浅黒い肌に端正な面立ち。加賀は当時の若者の屈指のプレイスポットだったダンス喫茶「田園」に出入りするようになると、早くから注目を集めた。  66年にリンドを率いて大阪に進出した加賀は芸能プロダクション「ターゲットプロ」に所属した。当時人気絶頂だった坂本スミ子の音楽番組「スミ子と歌おう」(MBS)にレギュラー出演するや、一躍関西中の少女たちのあこがれの的に。「今でいうジャニーズみたいな感じですかね。私も一目見るなり好きになって、多くのコンサート会場に足を運んで『テッちゃん! テッちゃん!』と声がかれるほど叫んだもんです。夜8時を過ぎると追っかけをするファンたちに『危ないから早く帰りな』と声をかけてくれる優しい人でした」と、ファンクラブ「リンド友の会」3代目会長の有子さん。ファンクラブで写真撮影のアルバイトをしていた水谷紀久雄さんも「スターでしたが、気取ることのない人でした。屋台のおでんをごちそうになったり愛車のロータスでドライブに連れていってもらったりしたのを思い出します」と、加賀の人柄を偲ぶ。  リンドと言えば同じく京都出身でデビュー前、ファニーズと名乗っていた頃のザ・タイガースとの交流が有名だ。それぞれ加賀、沢田研二という個性的なフロントマンを持ち、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」では一番人気を争う良きライバルだった。リンドで加賀と共にツインボーカルを務めた榊テルオは「みんな京都時代からの仲間内。ファニーズが大阪進出してきた時、うちのベースの宇野山(和夫)さんが住んでいた岸里(大阪市西成区)のアパートを紹介したんです。彼らが内田裕也さんを通して渡辺プロにスカウトされた時も相談を受けました。かれこれ知り合って60年近いですが、今も交流は続いています」。ザ・タイガースの瞳みのるも、「ファニーズもターゲット(プロ)から仕事をもらって活動していました。初舞台はリンドの前座だったし、いろんな場所で共演しましたね。僕たちも関西を拠点に活動しようかという話もあったんですが、ターゲットにはもうリンドがいる。松竹芸能からも引きがあったけどお笑いみたいなことをさせられたらどうしようと。それでやはり東京を目指そうとなったんです」と当時を振り返る。 69年夏、丹後半島で事務所のレクリエーション中に(撮影・水谷紀久雄)  リンドのレコードデビューは67年2月15日。寺山修司が作詞を手がけ、加賀の繊細なボーカルを前面に押し出した「ギター子守唄」は大ヒット。翌年の「銀の鎖」「夕陽よいそげ」とスマッシュヒットを飛ばし、雑誌のGS人気投票でもたびたびトップ10入りした。関西に拠点を置きながらも全国的な支持を得て、一時は映画やドラマ出演の計画もあったという。しかし69年以降のブームの退潮と共に徐々に人気に翳りが見え、70年には解散状態に。  その後も加賀は、新グループ「加賀テツヤとマッシュルーム」で2枚のシングルを発表。74年には「ユグドラジル」名義で桑名正博らと共に名盤と言われるロック・コンピレーションアルバム「INTRODUCTION 1」をリリースした。ターゲットプロの後輩でギタリストの岡田幸夫は当時の加賀について「イギリスのジェスロ・タルの影響で、フルートを持って歌っている時期もありました。腰下までの長髪、火消しの法被、フルート入れをサーベルのように腰に吊るして格好良かった。元GSということで一部のロック勢からは敬遠されていましたが、よくモテてグルーピーみたいな人が大勢いました」。  しかし作品はいずれも商業的成功にはつながらなかった。生活も乱れ、大麻所持で逮捕される。79年には追われるように渡米した。  ロサンゼルスに8年、ニューヨークに7年。失意の加賀は米国でアルコールに薬物と、日本以上の破天荒な日々を過ごす。ライブハウスに通う中でできた友人たちからは「BAKUDAN」と呼ばれていたそうだ。  一方で当時の加賀については、こんな話もある。「ロスで83年ごろに知り合ったという人によると、当時の加賀さんは日本車の修理工場で修理工をしていたそうで『加賀さんのことは知らなかったが、僕の車を親身に修理してくれてとてもお世話になった。人生の中で出会ったことのないような素敵な人だった』と聞かされ『そうでしょう!』と胸が熱くなりました」(前出の水谷さん) 2005年、筆者と  94年に帰国した加賀は大阪を拠点に音楽活動を再開。リンドとしてもライブを開催してファンを喜ばせた。「再結成にはファンで声をかけ合って駆けつけました。20年以上経つのにちっとも雰囲気が変わらなくて驚きました。私にとってテッちゃんは永遠の青春のシンボルです」(ファンの女性)  2000年代以降はテレビや大型イベントへの出演も増え、活動は順調だった。しかし長年の不摂生は確実に身体をむしばんでいた。肺気腫の症状が徐々に悪化する中、ぎりぎりまでステージに立っていたが07年末に入院し、12月30日早朝、ついに帰らぬ人となった。  亡くなる10日ほど前に、筆者は加賀から「来年はアルバムを作りたいと思ってます。手伝ってください」というメールを受け取っていた。余命を察していたのか、自分の生きた証しになるような作品を遺したいと思っていたのだろうが、時間はそんな願いを許してはくれなかった。今となってはどんな作品を思い浮かべていたのか知るすべもないが、40歳近く年下の筆者にまるで友人のように接し、ミュージシャンとして数々のチャンスをくれた加賀に、せめて愛をこめて本稿を捧げられればと思う。(中将タカノリ)(文中一部敬称略) 瞳みのる(ひとみ・みのる)/1946年9月22日、京都生まれ。1967から1971年までザ・タイガースのドラマーとして在籍。グループ解散後、芸能界から引退。解散直後に高校(京都府立山城高等学校)に復学し、1年間の猛勉強で慶応義塾大学文学部に合格。文学部中国文学科を卒業後、同大文学部の修士課程を経て慶応高校で教壇に立つ。2011年に芸能界へ復帰し、ザ・タイガースのメンバーとも積極的に競演する。2022年5月11日には宮城県石巻市のマルホンまきあーとテラスで「瞳みのる石巻応援コンサート」を予定※週刊朝日  2022年5月6・13日合併号
週刊朝日 2022/05/08 10:00
「孤独が人間の皮膚なら、苦しみは人間の肉」瀬戸内寂聴が出家して楽になった理由
「孤独が人間の皮膚なら、苦しみは人間の肉」瀬戸内寂聴が出家して楽になった理由
瀬戸内寂聴さん  2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんが、97歳の時に上梓した『寂聴 九十七歳の遺言』(朝日新書)。そこには自身の人生における出会いや別れ、喜びや悲しみのすべてが記されており、ベストセラーとなっている。本書より、寂聴さんにとっての「孤独」についての一文を一部抜粋してお届けする。 *  *  * 私たちは幸福な時、あるいは自分は幸福だと思っている時には、皮膚のように自分にくっついている孤独に気がつきません。  私たちが自分の孤独に気づくのは、自分が不幸だと思った時でしょう。  お金がない時、病気になった時、試験に落ちた時、何かの競争に負けた時、自分の意見が通らない時、仲間外れにされた時、誰かに裏切られた時、愛する人の不幸を自分の力で慰められないと気づいた時、そして愛する人との生き別れ、あるいは死に別れ……。  私たちが不幸だと思う時を数えあげたらきりがありません。  自分は今苦しんでいると思い知った時に、人間はその身に張りついている孤独と出逢い、はっきり顔を合わせるのです。  孤独が人間の皮膚なら、苦しみは人間の肉でしょう。二つは決して離れることが出来ない関係です。  お釈迦さまは「この世は、はじめから苦しみの世の中だ」と教えています。みなさんよくご存知の「四苦八苦」ですね。  四苦とは、生、老、病、死の四つ。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみです。  さらに四つの苦しみ、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)があります。愛する者と別れる苦しみ、怨み憎む者とも会わなければならない苦しみ、欲しいものが求めても手に入らない苦しみ。  そして五蘊盛苦は、人間の存在を構成する五つの要素(体、感覚、知覚、意覚、認識)に執着することによって受ける苦しみ。これは、前にあげた七つの苦しみを集約するものといえます。 瀬戸内寂聴著『寂聴 九十七歳の遺言』(朝日新書)※Amazonで本の詳細を見る  生きていくうえで、私たちはこの四苦八苦からどうしても逃れることが出来ないというのがお釈迦さまの教えなのです。  愛する人を亡くした時、人は否応なく孤独を感じます。ただ、それだけじゃない。私たちは、四苦八苦の世の中を生きているのだから、孤独と出逢うチャンスには事欠かないのです。  だから、いくら自分のそばに人が集まってきても結局、人間は孤独、「ひとり」です。ただ、それが心に深くわかるのは、90歳を過ぎてから。80代だとまだわからないと思います。  私は51歳で出家して尼僧になってからずっと一人暮らしです。97歳になった今も、日中は寂庵の3人のスタッフがそばにいて、仕事の手伝いや食事の世話などをしてくれますが、夜はひとり。だから「ひとりで淋しくないですか」と聞かれることが度々あります。  たしかに出家するまでは、人生に疲れて孤独で死んでしまいたい時も、虚しくて気が狂うのではないかと怖れる気持ちも味わっています。でも出家して、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になってからは、次第にそういう孤独感が薄くなりました。  いつでも仏さまが私のそばにいらっしゃると信じているから、もう耐え難いほどの孤独は、感じなくなっているのでしょう。  ただ、ひとりの夜が全く淋しくないかといえば、嘘になります。何だか心細くなって、用もないのに急にお友だちに電話をかけることもある。そんなことは滅多にないから、「あら、珍しい。もうすぐお迎えが来るのかしら」なんて、余計な心配をさせているかもしれません。  もちろん、みなさん一人ひとりの孤独と、97歳の老尼、そして作家の孤独とでは、質も量も違うでしょう。でも、人間は孤独という同じ宿命を持っているからこそ、お互いに理解しあえるし、愛しあえるのだと思います。  やはり人間は弱いから、いくつになっても自分にやさしくしてくれる他者を求めている。求めるけれど、ほんとはそんな存在なんかないのね、なぜならひとりだから。  ほんとは他者によって慰められる孤独はありません。要するに人間はどこまでも孤独で淋しい存在なのです。それゆえに宗教があるのでしょう。  そうそう、「なぜ出家したのか」というのも昔からよく聞かれます。「わからない、どうしてかしら」というのが私の正直な答えです。いわく言い難い微妙なもので、全体はどうしても一言でいえない。  男との関係を断ち切るためとか、流行作家としての暮らしが虚しくなったからとか、自分の文学を高めるためとか、またある時は親しくしていた三島由紀夫と川端康成が相次いで自殺した影響、戦争末期に防空壕で自殺のようにして51歳で焼死した母の供養のため――いろいろと私もいったり、まわりからいわれたりしますが、やはりそれらだけじゃありません。  ほんとに「仏縁」としか言いようがないんです。最近では「更年期のヒステリーだった」と話しています。更年期もひどくなると非常に苦しい。結果的に、私は出家したおかげで、人生の難局をうまく乗り切ったと思います。  お釈迦さまもたくさんの弟子たちを愛し、共に暮らしました。その弟子たちがどんどん死んでいく。それはやはり淋しかったでしょう。ただ、お釈迦さまは「人間はひとり」と身に染みてわかっていました。  ひとりになったら強くならないと生きていけない。誰にも甘えられないのだから。そばに相手がいたら、何か慰めがあったりしますが、ひとりの時は自分で考えて自分で動くしかない。それがお釈迦さまの生き方だったともいえるでしょう。  だからほんとは、ひとりは淋しいものであると同時に、力強いものでもあるんです。「一人」と書くと情けなくなるから、漢字を思い浮かべるなら「独り」がいいですね。
書籍朝日新聞出版の本瀬戸内寂聴読書
dot. 2022/05/07 16:00
時をかけ、僕らのすべてをめぐる旅 「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」ライブレポート
大谷百合絵 大谷百合絵
時をかけ、僕らのすべてをめぐる旅 「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」ライブレポート
「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」で。ジャニーズJr.時代からの人気曲「Bounce To Night」では、白シャツのボタンを大胆にオープン。六つに割れた腹筋が覗く。左から、高橋海人、永瀬廉、神宮寺勇太(奥)、平野紫耀、岸優太(写真=写真映像部・松永卓也)  いつか、ドームで。デビュー以来の夢を叶えた5人は、5万5千人のファンと絆を確かめあった。King & Princeの過去・今・未来が詰まった、大切な一日の記録。 *  *  *  宮殿を模したステージに現れた5人は、いつにも増してまばゆい光を放っていた。ファーがあしらわれた白タキシードに身を包み、ハッピーオーラ全開のラブソング「恋降る月夜に君想ふ」を歌い上げると、オープニングからティアラ(“キンプリ”のファンの呼称)のハートを撃ち抜いた。  そんな彼らを乗せゆっくりと回転するのは、巨大な時計型の観覧車。頭上には、ジャニーズJr.時代のグループ名「Mr.King vs Mr.Prince」にちなんだ「Mr.」の文字。今回のライブには、「King & Princeの原点そして歴史を丸ごと感じてほしい」というメッセージが込められている。  セットリストには、デビュー以降の全シングル曲や人気曲のほか、「OH! サマーKING」「Prince Princess」などJr.時代の楽曲も盛り込まれ、当時の衣装も再現。長年のファンは感涙にむせんだ。  ライブならではのサプライズの数々を仕掛けたのは、平野。「koi-wazurai」の歌詞「これは運命的な恋煩い」を「俺はティアラに恋煩い」に言い換え、「OH! サマーKING」では冒頭の“名台詞”を「海人行け!」とバトンタッチ。  慌てた高橋は、「キミと僕との絆をなぞったらどんな形に……なるんだろ!……よろしくお願いします!」と不完全燃焼な結果に。岸から「あんなおいしいとこ任されて」と追及され、「たぶん俺このまま引きずってると思う」と凹んだ。  前半ラスト曲の「Amazing Romance」では、メンバーのテンションがMAXに。それぞれ裏声で「愛してる」を連呼し、平野にいたっては歌詞の通りに岸と「見つめ合っちゃ」うと、耐えきれずに吹き出す始末。さらに平野は、近くにいた小学生のフレッシュJr.に突然マイクを渡すという再びの無茶ぶりも決行したが、今度はきちんとバトンが繋がり、あどけない「愛してる」が会場中を笑顔にした。  MCに入ると、まずは先ほどのJr.の子の話に。「愛してる」の後、恥ずかしさのあまり「頭を狂ったかのように押さえてた」(永瀬)と明かされ、メンバーは「かわいー!」と悶絶した。  岸出演のバラエティ番組「VS魂 グラデーション」に話題が移ると、番組内容にちなんで、「岸がメンバーをイケメン順に並べる」ゲームが行われることに。自らの好みで仲間をランク付けすることに「マジで叩かないでください」と腰が引ける岸だが、「ガチで決めさせて頂きます」と宣言。  まず4位にランクインしたのは、永瀬。意外にも「いぇーい!ビリじゃない!」と喜んだが、3位が岸だと判明すると、「おい! 俺、岸さんより下?」と不満を爆発させた。  そして、2位に平野の名前が呼ばれると、残された高橋と神宮寺は、「マジかよー」。ここで、1位発表の前に二人から岸へのアピールタイムが設けられた。  神宮寺は「仕事終わりとかいつも一緒に帰ったよね」と、二人でぎゅうぎゅう詰めの山手線に揺られた思い出を紹介。高橋は「岸くんとは不仲どうこうみたいなのありますけど、俺が入所して一番最初に尊敬した先輩、岸さんなんですよ。行きたい高校を悩んでたときは、『まあ俺のとこくれば?』みたいに言ってくれて、すごいかっこよかった」と、二人とも“過去形”のエピソードでアピール。  結果、1位は神宮寺に。最下位となった高橋が「これはもう不服です」と拗ねると、岸は「いやちょっと、対象外っていうか。俺からしたら子どもなの」と弁解。しかし、「なんで? 俺からしたら岸くんだって子どもだから。精神年齢でいうと、俺のほうが上だもん」と機嫌を直さない高橋。本気で心配しはじめる岸の様子に、メンバーは「優しいからー(笑)」とほほえんだ。  6月29日にニューアルバム「Made in」をリリースすることが発表され、会場のボルテージがグッと高まったところで、ライブは後半戦へ。  最高潮の盛り上がりを見せたのは、岸がプロデュースしたおふざけ企画「Mr.キュンキュン劇場」。「みなさんをキュンキュンさせたくてたまらないキュンプリさん」たちが、思い思いの甘い台詞を披露するコーナーだ。お題は、「引っ越したての彼氏の家に、彼女がお茶をこぼしちゃったときの彼氏の一言」。 「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」で。キンプリならぬ、〝キュンプリ〟の5人が登場。〝ジグザワルイ〟姿で衝撃の美脚を披露する神宮寺勇太(左)は、生足ではなく、きちんとストッキングを着用。岸優太(右から2人目)が「聞いてください、僕たちのデビューソング、『フィジャディバ グラビボ ブラジポテト!』」と言うと、永瀬廉(中央)がボソッと「ちがいます」(写真=写真映像部・松永卓也) 「あーこぼしちゃった?全然大丈夫だよ、こんなの。逆に俺もいつもこぼしちゃってごめんね!……君への……愛」(平野) 「大丈夫? 濡れてない? 平気? そっか。でも、よかった。引っ越してきて……早速、思い出できたね」(永瀬)  会場は大喜びだったが、次に、ジャケット・短パン・ハイソックス姿の「キュンキュン界のラスボス」(神宮寺)が姿を現すと、この日一番の拍手が巻き起こる。  伝説のラブコメ「花より男子」に登場する花沢類になりきった“ジグザワルイ”こと神宮寺は、名言「まーきのっ」を披露。お題に対し、「おい牧野、ちょっとこぼしちゃったか? ふっ、大丈夫。これもいい思い出になったし……俺からの愛が、こぼれたってことだな」と応じると、メンバーからは「盗作だよね? キャラも盗作だし」「ドヤ顔でバグってたねえ」と非難が殺到した。  最後に登場したのは、ハンバーガーの衣装をまとったバガハシカイトこと、高橋。キュンプリに入部したい応募生の設定で、「ママに、これ着てけば入部できるって聞きました。インパクトが大事ってママが言ってました」と説明した。  高橋へのお題は、「彼女が思わずプッとおならをしちゃったときのフォローの一言」。すると、「おっと! 今の音色は、ドレミファ……ファのシャープだね。いい音色を奏でてるねえ。あ、ちょっと待って僕も。プププ~♪(シンデレラガールのメロディを口ずさむ)……伝わった?」(高橋)  会場はあたたかい拍手に包まれ、永瀬は「5万人の牧野がOK言ってるで」と入部を承諾。めでたくキュンプリが5人となったところで、愉快なムードそのままに、次の曲「フィジャディバ グラビボ ブラジポテト!」がスタートした。  巨大な東京ドームでも、メンバーは終始、“今ここにいるすべてのティアラ”への心配りを忘れなかった。  平野は、「ちゃんと上のほうのみなさんまで見えてますからね、ご安心くださいね。そっちから見ると遠く見えると思うんだけど、意外とこっちからのほうが近く見えんの。トリックアートみたいな感じなのかなあ」と独特な解釈を交えてファンに寄り添う。 「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」で。「Mr.King vs Mr.Prince」として活動したジャニーズJr.時代の衣装。元Mr.Kingはゴールド、元 Mr.Princeは〝ルマンド衣装〟の愛称をもつパープル。左から、平野紫耀、永瀬廉、高橋海人(手前)、岸優太、神宮寺勇太(写真=写真映像部・松永卓也)  終盤では、前回のアリーナツア―から導入された巨大クレーン“メカアーム”が登場。スタンド席上方のファンのすぐ近くへとメンバーを連れて行った。近年のKing & Princeのライブ演出は、松本潤に教えを受けた神宮寺が手がけている。さすが、「どこの席にいても平等に楽しんで頂く」というジャニーズイズムあふれる計らいだ。  アンコールでは場内がパッと明るくなり、観客の姿がしっかり見えるように。5人はアリーナを縦横無尽に動きまわり、ティアラ一人ひとりの顔を見ながらピースをし、指を差し、ときにはその場にしゃがみこんでステージ近くの席に手を振った。  最後の挨拶で、平野はこんな言葉を口にした。「僕たちももっともっとかっこよくなって、みなさんが胸を張ってKing & Princeのファンって言えるようにがんばります」  デビューしたころ、リーダーの岸は「いつかドームでのコンサートをしたい」と語った。夢見た「いつか」の景色を前にした5人は、早くも次の「いつか」に向かって歩き出している。 写真=松永卓也(写真映像部) 文=大谷百合絵(本誌) *東京公演初日の4月16日に取材。「King & Prince First DOME TOUR 2022 ~Mr.~」の写真17点を含む記事は、5月10日発売の「週刊朝日」5月20日号にも掲載している
週刊朝日 2022/05/07 13:00
吉野家「生娘をシャブ漬け」発言 北原みのり「女性を貶めて笑いにする」感覚に絶望
北原みのり 北原みのり
吉野家「生娘をシャブ漬け」発言 北原みのり「女性を貶めて笑いにする」感覚に絶望
吉野家の牛丼  作家の北原みのりさんが緊急寄稿した。 *  *  * 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」代表。性暴力の根絶を訴える「フラワーデモ」の呼びかけ人となった。著書に『奥さまは愛国』『性と国家』(共著)など。AERA dot.で「おんなの話はありがたい」連載中 (撮影/大嶋千尋) 「失言」とか「炎上」というレベルを超えた「事件」だと私は思う。そう話すのは作家の北原みのりさん。牛丼の吉野家の49歳男性常務取締役(既に解任)による、早稲田大学の社会人向けビジネス講座での発言だ。なぜ差別発言は繰り返されるのか。問題の根深さに絶望が重なる。  吉野家元常務取締役の男性は、18~25歳の女性たちを吉野家にどう集客するかという話題のなかで、こういう発言をした。 「田舎から出てきた右も左もわからない女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえれば、(牛丼は)絶対食べない」  そしてその“集客戦略”(←本気?)を、「生娘をシャブ漬け戦略」と名付け、笑いながら繰り返したという。「ウケる」「ウケた」という確信があってこその繰り返しだろう。  この「事件」が公になったのは、受講生の女性がSNSで告発したことがきっかけだったが、報道によれば40人の受講生の中には笑っていた人もいるという。受講生の年齢やジェンダーはわからないが、この講師が呼ばれた「デジタル時代のマーケティング総合講座」という連続講座の受講料は38万5千円である。大学のホームページによれば支払い方法は一括のみなので、40万近い金額を一括で支払える程度の年齢、資金力がある人々のための講座なのだろう。その事実が、この問題の根深さを表している。  改めて何が問題かを具体的にあげていこう……とした途端に、なんでいつも「やられる側」が説明してあげなきゃわかんないわけ?と投げ出したい思いにもなる。1年前の「わきまえない女」発言(by森喜朗)のとき、学ばなかったのか?と怒りも深まる。  今回の「生娘をシャブ漬け」も、女性蔑視という意味では基本的に「わきまえない女」と同じである。でも、今回のは街中でいきなり刃物を向けられるような暴力性が際立っている。森喜朗発言にも「笑い」が起きたことに衝撃を受けたが、「生娘をシャブ漬け」で笑う感覚には、怒りの感情に、絶望が幾重にも重なるのだ。その恐怖は、大きくわければ三つある。 吉野家の店舗  恐怖その1:「生娘・無垢」は「男とのセックスを知らない女性」という意味を含む。若い女性=処女という、ご都合主義な男根中心思想(←言葉がこれしか思い浮かびません)が怖い。  恐怖その2:女性を精神的・肉体的に支配できるという認知の歪みが怖い。  恐怖その3:女性が自分の金で美味しいものを食べるという視点がゼロ。想像力がなさすぎて怖い。  私は数年前から、性産業に巻き込まれた女性たちの支援をしている。元役員の発言を知り、私がまっさきに思い浮かべたのは、新宿・歌舞伎町で風俗やAVのスカウトをしている男性の話だった。 「どういう女性に声をかけるのか」と聞いたとき、彼はこう答えたのだ。「田舎から出てきたばっかりの感じで、バッグやリュックのチャックが中途半端に開いている無防備な女の子に声をかけてます。的中率高いですね」と。  そういう女性を言葉巧みに性産業に引き入れ、文字通り「借金漬け」にし、夜の仕事から抜け出せないようにするのがスカウトの仕事でもある。女性が稼いだお金を永遠に中抜きするために、あの手この手で女性を支配し管理するのだ。そのような現実は女性たちのリアルな声からも浮かびあがっている。  女性を性的な商品として扱い、その人生を徹底的にしゃぶりつくす性産業が構造的に生み出している性被害と、「生娘をシャブ漬け」発言が私には重なった。女性に食事を与え、金を与え、価値観を与え、支配するのは男、という壮大な認知の歪みが商売になる世界と、日本中どこにでもある飲食店の「集客方法」が重なるなんて、女にとって地獄でしかないじゃないか。  さらに、この問題の根深さは、発言の主が「森喜朗」ではないということでもある。80代でも、保守系の政治家でもない、70年代生まれの高学歴男性で、外資系企業でキャリアを積み、早稲田大学の社会人講座の講師として求められる程度に「今のビジネス」に精通している立場である。  差別意識は一朝一夕でつくられるものでも、一人で掘り下げていけるものでもない。この発言が事件なのは、この手の会話が笑い話になる空気が今の日本にある、ということを突きつけられるからである。この発言が、特別な個人の特別な認知の歪みではなく、女性を性的にからかっても許されてきた日本のリアルだからである。だからこそ、発言者はこれを「ジョーク」として語り、受講者たちは笑ったのだろう。何の痛みもないまま。  吉野家はこの問題発言がネットで「炎上」してすぐに謝罪を公表し、男性を解任している。早稲田大学も即日に謝罪をHPに載せ、この「デジタル時代のマーケティング総合講座」から男性の名前は消した。こういった対応の迅速さは、こういったことがある度に声をあげてきたことの成果なのかもしれないが、いい加減、「再発を防ぐ」ということを、もっと考えるべきではないだろうか。そもそも何が性差別なのかがわかっていない人が多いから、再発防止対策のしようがないのかもしれない。デジタルを語る前に、組織の上の人にこそ、人権を学んでほしい。  ちなみに、早稲田大学のビジネス講座の講師陣を見て衝撃を受けている。講師陣25人中、女性はたった一人だった。日本が女性を育ててこなかった結果かもしれないが、いくらなんでも少なすぎる。女性講師が多いと、受講生が減るというデータでもあるのだろうか? 男性ばかりでデジタル時代のマーケティングを語り、女性を貶める笑いに興じる。多様性が軽視された環境で起きた事実も、重く捉えるべきだろう。  今回の発言に関して、この手の問題が起きると必ずある、「フェミニストの言葉狩りだ」という類の発言は少なかった。その一方で、「女性差別だけじゃない。吉野家ファンの男性も差別している」「牛丼に失礼だ」という声は大きかった。それはそれで、フェミニストとしてはモヤモヤしている。  確かに牛丼にもお客様にも失礼な発言ではあるが、これが許してはいけない「女性差別である」ことを、社会が共通認識として持たない限り、また問題は繰り返されるだろう。なぜなら、差別は突然生まれるのではなく、私たちが日々、育てあげてきているものだからだ。その深刻さを私たちは考えるべきなのだ。※週刊朝日  2022年5月6・13日合併号
北原みのり
週刊朝日 2022/04/28 11:30
ローソン社長・竹増貞信「仕事のモチベーションが下がったら、自分の時間を作ろう」
竹増貞信 竹増貞信
ローソン社長・竹増貞信「仕事のモチベーションが下がったら、自分の時間を作ろう」
竹増貞信/2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長 「コンビニ百里の道をゆく」は、52歳のローソン社長、竹増貞信さんの連載です。経営者のあり方やコンビニの今後について模索する日々をつづります。 *  *  *  新年度に入ってまもなく1カ月。なかには仕事に対するモチベーションが下がってきたという人もいるのではないでしょうか。理由は人それぞれですが、急にはモチベーションを上げられませんね。  そんなとき、仕事以外に自分の時間をつくってみてください。趣味でもいいし、勉強に充ててもいい。あくせくせずに自分の好きな分野を磨く。そうすると自分は本当は何がしたいのかが、見えてくるかもしれません。いまは一つの仕事にしがみつく時代ではありませんから、フラットに自分を見つめ直す機会を持つのもよいでしょう。  かくいう私も前職の商社時代、モチベーションが上がらず苦労したことがありました。商社では長く食肉を担当し、3年間米国駐在もしました。帰国命令が下り、「日本のお客様が俺を待っているぞ」と意気揚々としていたら、広報部への異動を告げられました。「自分はもう営業から必要とされていないのだろうか」「人の仕事をPRする役目か」と、がっくりしましたね。 モチベーションが下がった時は、自分を見つめ直す時間をつくってみてはいかがでしょうか(写真:gettyimages)  ちょうど釣りを始めた時で、休みには手こぎボートを借りて海に出て、葉っぱのように浮かんでいなければ自分を維持できなかった。それでもメディアの人たちと昼夜つきあううちに、社会の動きを学び、そのなかで私たちの会社がどう受け取られているのかを考えるようになりました。  そうした「広聴活動」に目覚めてからは、以前なら「この契約は自分が取りたかったな」と思うような発表も、前向きに捉えられるようになりました。広報部には5年いて、その後も営業以外の畑を歩みましたが、モチベーションが自然にわき上がるようになりました。もう、海に出る必要はなくなったのです。  コロナ禍のピンチも必ずチャンスに変えることができる。このようにポジティブな捉え方も、この経験から生まれています。 竹増貞信(たけます・さだのぶ)/1969年、大阪府生まれ。大阪大学経済学部卒業後、三菱商事に入社。2014年にローソン副社長に就任。16年6月から代表取締役社長
竹増貞信
AERA 2022/04/25 16:00
片づけたら「どうせ、二日坊主やろ」と言う息子と夫を見返せた
西崎彩智 西崎彩智
片づけたら「どうせ、二日坊主やろ」と言う息子と夫を見返せた
本来ダイニングの場所にあった黒くて大きいソファ。通りにくい/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.22  手は動かさないけど口は出す家族への対処法 夫+子ども2人/事務 「とにかく家族の仲が悪かったです。上の子はお父さんを嫌いだと言うし、父親も息子にきつく言うことが多くて。私も嫌だと思って、離婚が頭をよぎることもあったんです」  片づけ前を振り返るこずえさんは、夫の実家の会社に勤め、息子2人と夫の4人暮らし。もともと片づけは好きではなく、性格はおおざっぱで男っぽい、と言います。整理収納やインテリアのプロを頼ってきれいにするけど、すぐリバウンド。そんなことが20年近く続きました。  小さい頃は、友達を家に呼んでいた上の子も、ほかと比べ自分の家は汚いと気づいてからは「こんな家に友達を呼べない」と言うように。  大学進学を控えた受験生になると、勉強がうまくいかないのは環境のせいだと言って、けんかになることもしばしば。リビングには出てこず、部屋にこもりがちに。こずえさんは自分を責めました。  こんなに汚い家から息子を送り出していいのだろうか?  ふと思ったのは、上の子が高校3年生の夏でした。家族関係も本当は修復したい。上の子が県外への進学を志望し、離れていく現実が近づいた年明け、プロジェクトに参加したのです。  結果的に上の子は、家を出る直前の2月ごろからリビングにくるようになりました。  こずえさんが十数年ぶりにキッチンから見たのは、息子と夫がリビングで取っ組み合いをするさまでした。男子たちが仲良くじゃれあっている。離婚を考えるほど追い詰められていたこずえさんが、本当は一番見たかった風景があったのです。 ダイニングテーブルがキッチンのそばに。あと片づけもラク/アフター  あれだけ悪化していた家族関係、いったい何があったのでしょうか。  実は、片づけ中にゴタゴタはたくさんあったのです。  一番のストレスは家族でした。オンライン受講だったこずえさんは、リビングでPCの音量を出して講座を聞いていました。  すると、出かける前の夫がなかなか出発せず、そばで聞くだけ聞いて、 「この片づけられへん人のこと、全部お前のことやな」と言って出て行ったとか。  さらに、朝の6時からオンラインでつながって片づける母親を見ていた息子にいたっては、「どうせ母さん、二日坊主やろ」と塩対応。  絶対に見返してやる。  手は動かさないのに口は出す人たち。こずえさんに火がつきました。これまでだって、さんざん悔しい思いをして心が折れていた。  でも今回は違います。なぜなのか? 「片づけない夫のせい、息子のせい、夜まで働いて忙しいとか、これまでは人や仕事のせいにしていました。確かに家族も片づけないけど、自分の問題まで棚に上げていたわけで」  変えられるのは自分しかいない。プロジェクトのテーマでもある主体性を信じて、不用品をどんどん出していきました。  あとでわかったのですが、夫は言わないけど共通の友人に「妻が、リモート片づけやっていて、すごいきれいにするらしいよ。また遊びに来てよ」と言っていたとか。内心は期待していたんですね。  ただ、自分だけじゃ越えられない難関が一つ。  リビング兼ダイニングには、黒い大きなソファが中央に陣取っていました。夫のお気に入りの場所だけど、間取りからするとリビングにあるべきものがダイニングにあったのです。こずえさんは料理を運ぶ時、じゃまだじゃまだと思っていました。  だけど夫は動かしてくれない。この位置が一番だと言う。強行するにも女性ひとりで動かせる大きさじゃない。  こずえさんは、ちょっと大げさに言い続けました。 「さちさんが、ソファが家族の動きのじゃまになって、黒いから見た目も重たい。商売の運気も下げるよ!って言っているよ」  夫はしぶしぶ「うん、わかった」と言うけど、動く気配がない。いつやってくれるかわからなくてヤキモキするけど、催促しすぎて機嫌を損ねられると困る。  考えた末に「寝ている夫の耳元でささやく作戦」に出たこずえさん。「ソファ動かせー」と、毎日ささやき続けました。  待つこと数日、息子とこずえさんと夫がそろった日に「よしやろう」と夫が動き出します。ソファは部屋のサイドに、ローテーブルは夫の足置きにしかなっていないから処分。大空間が生まれ、息子たちはサッカーのリフティングをしたり、マッサージしあったりしはじめたそうです。  家族の雰囲気は、あきらかに変わっていきました。 「これはいる?あれはいる?って物をとおして話し、家具を一緒に動かすなかで会話が増えました。朝は未確認の息子のプリントを発見したりして、焦ってイライラしていたけど、片づくとそういったことも無く関係も良好です」  機能的な家になると、気持ちだけじゃなく生活も変わっていきました。 「パッとご飯が作れて、ダイニングテーブルにサッと出せる。こんな世界があったんだと。前は『リフォームしたい』が口癖で。キッチンもまだピカピカだし、収納が少ないと思っていたけど物が減ったら十分だとわかり、必要性がなくなりました」  もう一つ大きなことがありました。こずえさんはみんなに言わなかったけど、同時期に義理の母が病気で入院し、そのあと他界されたそうです。その時も片づけが味方になってくれたとか。 「あの乱れたキッチンで知らせを聞いていたら、かなり混乱していただろうと思います。突然のことだったけど冷静でいられました。お葬式では家に人を呼ぶこともできました」 足元にまで物があふれてしまっていたキッチンは輝きを取り戻した  そのほかにも、地震でお皿が落下し、片づけの大切さが染みる出来事がありました。  この春、上の子は無事に大学に進学して県外で一人暮らしをはじめたそうです。 「子どもには本当に申し訳ないことをしました。同じ失敗は繰り返さないようにと、一人暮らしのキッチンや収納はぜんぶ、使いやすいようにしてきました」  自分にこんなことができるんだと、びっくりしたとか。「二日坊主」と言われた過去がうそみたいです。片づけは何歳になってからでも遅くない、気づいた時がはじめどき。人生で片づけてこなかった、罪悪感でいっぱいであきらめてしまいそうな受講生さんに、私はいつも伝えています。 ◯西崎彩智(にしざき・さち)1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2022/04/25 07:00
キンプリ・神宮寺勇太「真っ白でいて、すぐに染まれる俳優になりたい」
キンプリ・神宮寺勇太「真っ白でいて、すぐに染まれる俳優になりたい」
俳優・アイドル 神宮寺勇太 (c)NTV・JStorm  深夜ドラマ「受付のジョー」が4月25日からスタートする。単独初主演のKing&Princeの神宮寺勇太さんが、現場への臨み方をさわやかに語った。俳優としてアイドルとして「論理」を持って、常に“完璧”を目指しているという。AERA2022年4月25日号から。 *  *  * ——単独初主演するドラマは「受付のジョー」。誰の耳にも残る、インパクトのあるタイトルだ。演じるのは受付嬢たちのリストラを任された営業マン、城拓海(じょうたくみ)。彼は彼女たちの仕事を理解するべく、自ら受付業務に飛び込む。 神宮寺:「単独初主演」と聞いたときは、うれしかったですね。でも、「受付のジョーって何? どんなドラマだろう?」と、僕自身、最初は「ん?」と、不思議に感じたことは覚えています。  脚本は面白く読みました。クランクインするまでに、3話分しか読めていなかったので、それ以降はストーリーもわかっていなかった。だからこそ、続きが気になりましたし、結末を知らずにいたので、その分、リアルに演じることができたと思います。  僕が演じる城拓海は、広告代理店の営業マンという役柄です。自分の父も会社員ですし、身近に、長く一緒に仕事をしてきた広告代理店の方もいたので、「こういう人だろうな」というイメージはしやすかったです。城の方がおバカなところがありますけれどね(笑)。  現場では、「神宮寺勇太」と「城拓海」は完全に切り離して考えていました。現場に入り、メイクが終わったあたりから、ずっと「城」としてその場に存在していたと思います。 ■どんな動機があるのか ——「King&Prince」の活動と並行して、俳優として演技に挑む。忙しい日々のなかで、せりふの覚え方に自分なりのコツがあるという。 神宮寺:今回は家に帰る道中で、どうせりふを覚えていくか、タイムスケジュールを組んでいました。お風呂に入ってから、「ここまでの時間でせりふを覚える」と時間を区切り、家の中を歩いて、声に出して、ときに座って、また声に出して、歩いて……を繰り返していましたね。実際のシーンでは歩かないにもかかわらず、歩きながらせりふを覚えてしまうと、本番でも歩かないとせりふが出てこなくなってしまうので、動かない芝居の時のせりふは、歩き回らずに覚えるようにしています。 AERA4月25日号※アマゾンで予約受付中>AERA4月25日号※アマゾンで予約受付中  文字や文章として覚えようとすると、思うようにはせりふは覚えられない。「気持ち」として覚えていかないと入ってこないんですね。何を思ってこう話すのか、どんな動機があるのか、という気持ちの部分を頭の中に入れておくと、「次はこの言葉だ」と自然と出てくるようになるんです。  2、3時間かけて覚えたら、少し寝て、「レッツゴー!」という感じで、現場に向かっていました。ちゃんと寝ないと、ろれつが回らないですからね。  現場には、明るく元気いっぱいのキャスト、スタッフの皆さんがいて、自分の性格も明るい方だと思うので、相乗効果でどんどん楽しくなっていったことを覚えています。受付に立つ役なので、想像以上に足は痛かったですけれど(笑)、「疲れたな」「早く撮影が終わらないかな」と思うことはありませんでした。 ——昨年は初の単独主演舞台『葵上』『弱法師』-「近代能楽集」より-やドラマ「准教授・高槻彰良の推察」への出演など、俳優としての仕事が増えてきた。演技についての本を意識的に読むようにしているという。 神宮寺:1年ほど前から、演技について書かれた本を何度となく読み返しています。そこに書かれていることが常に正解ではないのかもしれないですけど、一つの「手法」としてとらえて、一度頭に入れてから取り入れるかどうかの判断をしたいんです。自分の演技において、ここは取り入れるべきかどうか、と考えていくのも好きなのだと思います。 ■すぐに染まれるように ——普段から、物事は論理的に考えるタイプだ。 神宮寺:たとえわからなくても、論理は知りたいし、きちんと耳を傾けたい。その分、時間はかかりますけれどね。ドラマの場合、たとえば8話目にあるシーンを撮影してから、3話目のシーンを撮影して、と細切れの撮影になるので、監督と一緒に「いまのこの気持ちはこういうことですよね」と、確認しながら撮影に臨みました。  お芝居をするときは、僕自身は真っ白でいたい、といつも思っています。自分の中で考えてきたことを現場で試してみるのはもちろん大切だと思いますが、監督に言われたら、すぐにその色に染まれるようになりたい。理解できなければ、「どういうことですか?」と何度も確認はしても、「そういうことか」と納得できれば、すぐにその色に染まれるようになりたい、と思っています。 ——「人の話はきちんと聞いて、取り入れたい」。その気持ちの背景には、「King&Prince」のメンバーとして、CDジャケットのイメージを作り上げるなど、“作り手”としての経験がある。  僕たちも自分たちでコンサートの演出をしているので、監督の気持ちがわかるんです。  監督には、自分の思い描いているビジョンがあり、そのビジョンをもとに監督は撮ると思うので、それに反する行動をするのは、自分だったらイヤかもしれないな、とも思います。  どうしても理解できない場合は、「ごめんなさい、もう一度言ってください」と聞きますけれど、基本的には「なるほど、わかりました。ちょっとやってみるので、違ったら言ってください」というスタンスでいるようにしています。監督もしっかりと向き合ってくださるので、絶対的に信頼しているんです。 ■キンプリは「すごい」 ——アイドルとしての活動にも妥協はない。 神宮寺:アイドルグループとしても、「そこまでやるんだ」というところまでやっていると思います。それが正解かどうかは本当に難しいところではありますが、皆さんが手に触れるものは、自分たちが納得するまで話し合っています。皆さんに手にとっていただくものを、僕らが納得していない形で世に出すのは違うと思うので。すべてで完璧を実現するのは難しいかもしれませんが、限りなく完璧に近いものを皆さんにお届けしたいんです。「King&Prince」はそういうことができているグループですし、自分で言うのもなんですが、そういうことができるグループというのはすごいな、と思っています。 (構成/ライター・古谷ゆう子)※AERA 2022年4月25日号
AERA 2022/04/24 11:30
浅野ゆう子「演じる人だけが視聴率で評価されるのはけっこうつらい」
浅野ゆう子「演じる人だけが視聴率で評価されるのはけっこうつらい」
浅野ゆう子 (撮影/写真映像部・加藤夏子)  13歳のデビューからおよそ半世紀に渡って活躍する浅野ゆう子さん。「トレンディードラマの女王」当時のこと、プライベートの話まで、作家・林真理子さんが迫ります。 【浅野ゆう子が三宅裕司の楽屋強襲 舞台出演を熱望した意外な理由】より続く *  *  * 林:浅野さん、13歳でデビューしたんでしょう? ということは50年? 半世紀? 浅野:来年50周年なんです。 林:ついこのあいだヘアバンドした脚の長い女の子がデビューしたと思ったら、あれから半世紀。 浅野:アハハハ。 林:昔、人気があった女優さんが「あの人はいま」みたいな感じで週刊誌なんかに出てるとすごく悲しいけど、浅野さんはずっと第一線で活躍なさってて、すごいですよ。自分でもここまでやるとは思わなかったですか。 浅野:ありがとうございます。こんなに長くお仕事させていただけるって、望んでもできないことですから、うれしいことは確かです。 林:浅野さん、最初は歌手として売れてましたよね。 浅野:いえいえ、歌は上手な方が毎年どんどん出てらっしゃったので。芝居一本でやっていきたいと思ったのが20代中盤でした。それから3、4年でいいお仕事を頂戴できて、人生がとても楽しくなったんです。それからは、もう生き急いでるのではないかと言われるぐらい仕事をさせていただいていましたね。 林:W浅野(浅野ゆう子・浅野温子)主演の「抱きしめたい!」(1988年)は、トレンディードラマの代名詞になりましたもんね。でも、そのあとちょっと疲れちゃったなと思うことありました? あの役が大きすぎて、その反動がきたりとか。 浅野:それはありませんでした。あのときまでそんなに大きな仕事をしてきたタイプではなかったので、うれしくてありがたくて。私にとっては、むしろあそこから青春も人生も動きだしたような気がしています。 林:そうなんですか。お母さん役もやられたりしてましたっけ。 浅野:やりました。 林:でも、難しいですね。お母さんにしては妖艶だし、普通の気さくなお母さんっていうイメージ、まるでないですよ。 浅野ゆう子さん(左)と林真理子さん(撮影/写真映像部・加藤夏子) 浅野:ほんとですか? 「抱きしめたい!」ではお母さんが野際陽子さんで、野際さんはそのとき52歳だったんです。あのときはまだ、「すてきなお母さん」という役があった時代なんですけど、いまはそういう時代じゃなくなってるなあと感じます。私も母親を演じたいと思ってはいるんですけど、なかなかそこにつながっていかないですね。まず、髪を切れないというのがあるんですよ。 林:舞台も多いし、ロングヘアのイメージがありますもんね。 浅野:いや、髪質の問題なんです。私、そうじゃなかったらどれだけ人生変わっただろうと思うぐらいクセがひどいんですよ。ロングヘアにして、その髪の重みでなんとかヘアスタイルがまとまっているんですけど、短くすると、その重みがなくなってしまうので、強いクセが出てくるんです。 林:そうだったんですか。 浅野:だから、サロンの方たちからも「決して切らないでほしい」って言われてるんです。髪質の関係で短い髪はうまくいかないので、イメージが決められてしまうところがあるかもしれませんね。 林:でも、これだけ艶を持たせるの大変でしょう。このあいだテレビを見てたら、あるタレントさん、ブローしてアイロンして、また何かやってみたいな感じで、毎日3時間ぐらいかけてやってましたよ。 浅野:シャンプーすると、私も2時間はかかりますね。ほぼ毎日。 林:えっ、2時間!? でも、女優さんですもんね。手を抜いたり、ババっちくなったりなんて、とても許されないですよね。ところで浅野さん、前はテレビでお見かけすることが多かったですけど、いまは舞台のほうが多いですか。 浅野:そうですね。 林:テレビ局が制作するドラマ自体が減ってるんじゃないですか。 浅野:そうみたいですね。地上波だけじゃなくて、BSとかケーブルとか、そういうところがどんどん制作するじゃないですか。ケータイでドラマを撮るとかいうこともできるようになっているみたいですし。 林:そういう話聞きますけど、私なんか信じられないですよ。 浅野:そういう時代に乗り切れない、と思っているわけではないんですが、そもそものニーズが減っていることはたしかですね。ただ、ドラマもすてきですが、舞台というのは時間をかけて一つの芝居をつくっていくものでしょう。それが私に向いてるかもしれない、という気がしてきたのが50代半ばぐらいでしょうか。ですから、少なくとも年に一度は舞台に立たせていただきたいという気持ちはあるんです。 林:ドラマって、数字(視聴率)があんまりよくないと、その矛先が主演の女優さんに向かっていくじゃないですか。それで、人気がなくなった、みたいなことを週刊誌が書きますよね。それに、いま若い人ドラマ見ないし。 浅野:そうなんですよ。最近、テレビ離れって言われますよね。おっしゃるとおり、制作してるのは演技者じゃなくて、プロデューサーであり脚本家であり演出家であり……、ドラマもたくさんの人がかかわって作っているのに、その中で演じる人たちだけが数字で「ダメだったね」「よかったね」って言われる。そういうことを何度も経験してきました。それって、けっこうつらいものがあります。 林:そうですよね。そこにいくとお芝居は……。 浅野:芝居を観たいと思った人が、自らチケットを買ってくださって、足を運んでくださるというのは、ほんとにありがたいことですね。 林:浅野さん、正統派女優として「細雪」(2019年)もおやりになりましたよね。あのときは鶴子さんでしたっけ。 浅野:はい、長女の鶴子でした。 林:ムードとしては雪子さん(三女)なんかがぴったりする感じがするけど。 浅野:長女の役、おもしろいですよ。いけずで(笑)。 林:あれは代々、名女優さんがなさいますよね。 浅野:高橋惠子さんの鶴子さんもステキでした。 林:そのとき私、見ましたよ。次女(幸子)が賀来千香子さんでしたね。長女は確かにいけずですけど、貫禄がないとダメだし、家のことが第一で、「あんたらはどうだってええんよ」みたいな感じですよね。浅野さんは神戸のご出身だから、ああいう感じはわかるでしょう? 浅野:言葉が神戸と船場言葉とは違うので、そこは少し難儀しましたけどね。私が以前演じた「大奥」の瀧山も、徳川家のために生きてきた人物だし、「細雪」の鶴子さんも、老舗のおうちのために、という考え方があると思うんですよね。 林:「大奥」の瀧山も当たり役でした。浅野さんは一人っ子なんですよね。お母さまはまだご健在なんですか。 浅野:はい、おかげさまで。今年の10月に90歳になります。コロナ禍で、外に出ることがままならなかったのもあって、健康面で少し心配してはいますが、基本的にはたくさん食べるので安心しています。 林:一緒に暮らしてらっしゃるんですか? 浅野:いえ、神戸におりますので、別ですね。 林:お母さまもお喜びでしょう。一人っ子のゆう子さんがご結婚なさって。ふだんご自分でお料理もおつくりになる? 浅野:私ですか? やってます。でも、簡単なものしかしません。 林:ご主人がおうちに帰ってくると、お二人でワインを抜いてゆっくりおしゃべりしながら……。 浅野:私、お酒いただけないんですよ、体質的に。 林:あ、そうでした。トレンディードラマを見てた人は、ワインなんかすごく好きそうなイメージがありますけど、お酒は飲まれないんですよね。 浅野:夕飯は7時まで待ちますけど、7時過ぎたら一人で先に食べます。そして先にお風呂入って寝ちゃいます。 林:なんかストイックな生活をしてらっしゃるんですね。 浅野:出無精です、わりと。 林:それもびっくり。浅野ゆう子さんって、青山とか表参道に行ってトレンディーなものをキャッチしてお買い物したり、はやりのバーに寄ったり、そういうイメージがありますけど。 浅野:40代に入ってからは物欲もあんまりありませんし、地味に普通に生きてます。 林:私、浅野ゆう子さんと初めて会ったのが、バブル真っ最中の豪華客船の中でした。船上パーティーに招待されて。 浅野:そうでしたね。シンガポールからご一緒させていただきました。すごく楽しい旅でした。豪華で。 林:私、夜、デッキを歩いてたら、ショートパンツはいた浅野ゆう子さんが向こうから歩いてきて、「林さん、はじめまして」とお声かけくださって、「わっ、ホンモノだ!」と思って緊張しちゃいましたよ。だから浅野ゆう子さんというと、船の上の夜のショートパンツを思い出すんです。 浅野:アハハハ。 林:いつまでも若くきれいなままでいらしてくださいね。私たち世代の憧れの的ですから。 浅野:はい、ありがとうございます! (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 浅野ゆう子(あさの・ゆうこ)/1960年、兵庫県生まれ。74年、「とびだせ初恋」で歌手デビュー。80年代後半から女優として活動、「抱きしめたい!」「ハートに火をつけて!」などで大ブレーク、トレンディードラマの女王と呼ばれた。映画「藏」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。近年は「ハムレット」「細雪」など、舞台にも多数出演。来月、「熱海五郎一座」の舞台「任侠サーカス~キズナたちの挽歌~」(新橋演舞場 5月29日~6月26日)への出演が控える。※週刊朝日  2022年4月29日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/04/24 11:00
「彼らはしょっちゅう“終わって”いた。でも復活するんだ」 伝説の兄弟デュオ・スパークスを追う
中村千晶 中村千晶
「彼らはしょっちゅう“終わって”いた。でも復活するんだ」 伝説の兄弟デュオ・スパークスを追う
エドガー・ライト監督(Edgar Wright)/1974年、イングランド出身。「ショーン・オブ・ザ・デッド」(04年)で注目され代表作に「ベイビー・ドライバー」(17年)「ラストナイト・イン・ソーホー」(21年)。本作は全国公開中 (C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED  兄ロン&弟ラッセルによるアート・ポップ・デュオ「スパークス」。1972年のデビュー以来、幾多のアーティストに影響を与えてきた。レオス・カラックス監督とコラボした映画「アネット」でも再び注目が集まる彼らを、ファンを公言するエドガー・ライト監督が3年かけて追った。新連載「シネマ×SDGs」の2回目は、監督のロングインタビュー。 ――「スパークス・ブラザーズ」は、監督にとって初めてのドキュメンタリー映画ですね。製作のきっかけはツイッターだと聞きました。  そうなんだ。僕は5歳で彼らの曲に出会って以来のファン。2015年に「ベイビー・ドライバー」の脚本を書きながらアルバムを聴いて、再び「スパークス、いいなあ!」と盛り上がった。「そういえばスパークスって、ツイッターやっているのかな?」と思って調べたらやっていて、しかも僕をフォローしてくれていたんだ! すぐにDM(ダイレクトメッセージ)を送って「本当に本物だよね?」と聞いたら、ラッセルからすぐ「本物だよ」と返信がきた。ツイッターアカウントを自分で管理しているバンドなんてほとんどいないよ?(笑)。それで「いまどこにいるの?」と聞いたら「ロサンゼルスだよ」と。40年来のファンだった彼らが実はすぐ近くに住んでいることがわかったんだ。2日後には一緒に朝食を食べながら、コーヒーを飲んでいたよ。 ――大好きなバンドを取材対象にすることで、緊張しませんでしたか?   よく「自分のヒーローには会わないほうがいい。幻滅させられるから」と言うよね。でも彼らの場合それは一切なかった。実は2015年に初めて会ってから映画の撮影が始まるまで3年くらいあったんだ。その間に何度も会って食事をしたりして、人間としての彼らに触れことができた。彼らがいかにおかしくてチャーミングで、謙虚で、ユーモアのセンスがあるか、を知ってそんな彼らを映画にできたらおもしろいと思ってはじめたんだ。 映画の場面 (C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED  付き合うなかで初めて知ったことは「彼らがいかにして彼らになったか」ということだ。彼らの生い立ちや彼らが触れてきた文化など、僕がいままで知らなかったことがたくさんあった。最初、彼らに「スパークスになる前、2人に影響を与えた曲のプレイリストを作ってくれないだろうか」と頼んでみた。そうしたら彼らから100曲くらいが入ったリストが来たんだ。ポップミュージックからジャズ、クラシックにオペラ……「なるほど!」と思うものもあったし、なかには「え?これに?」と思うものもあった。 ――50年以上にわたってクリエーティブを続ける彼らの凄さが、映画からよく伝わります。取材を通じて、彼らの「創造性の秘密」を垣間見ましたか?   仕事をする上での彼らの倫理観というと大げさだけれど、そうしたものを強く感じた。彼らは週5か6日、朝10時から夜6時まで音楽に向き合って仕事をしている。僕だってそんなに毎日は働けないよ(笑)。彼らは自分たちのやっていることに対して常に真剣で、パッションを忘れない。彼らには不遇な時代もあった。でもそのときも前に進むことを忘れず、自分たちを信じてきた。「いまは気づいてもらえないけれど、自分たちのよさは絶対にあるんだ!」と自分自身に言い聞かせているようなところもあるのかもしれない。 ――ベックやデュラン・デュラン、ビョークなど、総勢80名もの関係者やアーティストたちがインタビューに答えています。決して世界的にメジャーとはいえない彼らが、これだけ多くのクリエーターに影響を与えてきたとは驚きでした。  彼らは常に「新たな自分」を自分たち自身で作ってきたんだよね。物づくりをしているとある時代やあるシーンにすごくウケて、ものすごいヒットが出ることがある。人間は一度ヒット作が出るとまた同じことをしてヒットを繰り返そうとするものだけれど、彼らは一度ヒットが出ても、そこからスッとに次へ向かい、気づくと先へ行っている。それはときにレコード会社やファンを驚かせ、がっかりさせたりもした。それゆえにファンが離れたり、不遇な時代もあった。でも彼らは後ろを見ないで、常に前に進み続けた。そして50年経ったいま、それはものすごく未来を見据えた、持続性のある懸命なあり方だったと思う。 映画の場面 (C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED  彼らの音楽カタログはめちゃくちゃ幅広くて、いまだにファンは「え? こんなものもあるんだ?!」と過去を知ることになる。今回、この映画を観た人に「いままでスパークスを知らなかったけど、25枚のアルバム全部買う!」と言ってもらってうれしかった(笑) ――彼らは後進にこれだけ影響を与えていることを、どう考えているでしょう?  彼らは過去にはそれについて、あまり意識していなかったみたいだ。例えば1976年ごろにイギリスでパンクムーブメントが起きたとき、それ以前のピンク・フロイドやジェネシス、イエスすら「恐竜のような存在」と若者たちから煙たがられた。そんななかでもなぜかスパークスは若いミュージシャンにも好かれていたんだ。セックス・ピストルズやスージー・アンド・ザ・バンシーズもスパークスが好きだった。でもいまのようにSNSがあったわけじゃないから、ロンやラッセルはそのことを当時は意識していなかった。彼らは最近、そのことを知ったんだ。この映画でインタビューに応えてくれた作家のニール・ゲイマンやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、俳優・コメディアンのマイク・マイヤーズが自分たちのファンだとは知らなかった、と本人たちも言っていたよ。 ――ロンとラッセル兄弟の関係性はとても良好に感じます。  2人がうまくいっている理由は、お互いを認め合い、高め合っているからだと思う。2人に接してみて、彼らはそれぞれができることを、それぞれにしているのだと感じた。ロック界の兄弟はオアシスのノエル&リアム・ギャラガー兄弟しかり、キンクスのレイ&デイヴ・デイヴィス兄弟しかり「どちらがリードシンガーか」「どちらがスターか」で大抵もめる。でもロンは昔から「自分はフロントマンにはなりたくない」と言っていて、弟に対して変なライバル心がなかった。それも2人がよい関係を保てた理由かもしれない。 ――監督もまた自分の「好き!」を追求し、それを作品に昇華してきたと思います。あらためて彼らとの共通点を感じましたか?  この映画をつくる前はそれほど思わなかったけれど、作り終えてみて、やっぱり自分と彼らには似ている部分があるのかな、と感じた。アートにおいて、何より必要なものはパッションだ。それがないと間違った理由(お金や名声、成功など)でアートを追求することになってしまう。僕にとっても一番大切なのは「これが好き!」というパッションで、ロンとラッセルを突き動かしたものも同じだと思う。 映画の場面 (C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED  それに彼らがこんなに映画好きだとは、会うまでは知らなかったんだ。レオス・カラックス監督とコラボした映画「アネット」の製作が進行していたこともあるけれど、話していてもすぐに映画の話になる。彼らは子どものころから映画にどっぷりつかってきて、自分たちで映画を作りたいと何十年も思い描いてきた。実際にジャック・タチやティム・バートンと映画を撮る話があったことも始めて知った。音楽と同様にこんなにも映画への愛があると知って、すごくうれしかった。彼らは自分たちのドキュメンタリーを「いつか誰かが作ってくれる!」とずっと思い続けていて、僕にOKを出してくれたのかも、と思うよ。 映画の場面 (C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED <こんなところにSDGs>76歳の兄ロンと73歳の弟ラッセル。スパークスの二人の好奇心と創作意欲に衰えなどみじんもない。商業主義に背を向け、やりたいことを貫くその姿は人生100年時代の「働きがいとは何か」を示している気がする。 (ライター・中村千晶)
AERA 2022/04/24 07:00
忙しい新生活を応援!一人暮らし×料理初心者も簡単に作れる時短メニュー
忙しい新生活を応援!一人暮らし×料理初心者も簡単に作れる時短メニュー
4月を迎え、就職や進学をきっかけに一人暮らしを始めたという方もいらっしゃるのではないでしょうか?一人暮らしをするとなると自由な時間が増える一方で洗濯にお掃除など何かと自己管理が大変になるものですよね。 中でもお料理は忙しければ忙しい程どうしても億劫になりがち...。 しかし、毎日のようにコンビニ弁当に頼ってばかりいると栄養バランスが乱れたり、出費も何かと増えてしまうため出来る限り自炊にも積極的に挑戦していきたい! そんな方の為に今回こちらではお料理初心者でも簡単に作れる時短メニューを3種類ご紹介します。時短で作れる手作り料理で英気を養おう! さっぱり食べやすい♪『タラとエリンギのマリネ』 『魚を身体の為に食べたい』と思っても焼き魚になると部屋に臭いが充満したり、後片付け等も非常に大変ですよね。しかし、こちらのタラとエリンギのマリネであれば電子レンジ1つで簡単に調理出来て、尚且つ部屋や衣類へのニオイ移りを防ぐと共に洗い物が少なく済みます★ ~タラとエリンギのマリネの作り方~ <材料> ・タラの切り身 一切れ ・玉ねぎ 1/4個 ・エリンギ(小) 1本 ・オリーブオイル、酢 各大さじ1 ・塩胡椒、ハーブソルト、乾燥パセリ 各適量 ・醤油 小さじ1/3 <作り方> (1)タラの切り身は塩胡椒で下味をつけておきます。 (2)玉ねぎは薄切りに、エリンギは長さが半分になるように切り、5mm幅程度に切ります。 (3)オリーブオイル・酢・ハーブソルト・醤油は小皿に混ぜ合わせておきます。 (4)耐熱容器に2の玉ねぎとエリンギを並べ入れ、1のタラの切り身をのせます。 (5)4に3を振りかけたらふんわりとラップをし、電子レンジで4~5分程度加熱します。 (6)5を電子レンジから取り出し、5分程度寝かせて味を馴染ませたら乾燥パセリを振りかけて完成です。電子レンジで調理中は洗濯物を畳むなどして時間を有効活用しましょう。 思わずご飯が進む!『鶏もも肉のごま味噌焼き』 続いてご紹介するのは火を使わずにトースターで作る『鶏もも肉のごま味噌焼き』のレシピです。ごまには疲労回復に役立つと言われている『セサミン』が含まれている為、仕事や勉強を頑張った一日の終わりに最適な一品です。 ~鶏もも肉のごま味噌焼きの作り方~ <材料> ・鶏もも肉 150g ・味噌、みりん 各大さじ1 ・醤油、料理酒 各小さじ2 ・おろしにんにく 小さじ1/2 ・ごま油、炒りごま 各小さじ1 ・塩胡椒 適量 <作り方> (1)鶏もも肉はひと口大に切り、塩胡椒で下味をつけます。 (2)ポリ袋に1の鶏もも肉・味噌・みりん・醤油・料理酒・おろしにんにく・炒りごまを加えたら外側からよく揉み込みます。 (3)トースターの天板にアルミホイルを敷き、アルミホイルの表面にごま油を塗ります。 (4)3のアルミホイルの上に2の鶏もも肉を重ならないように並べ、中に火が通るまで15分程度加熱したら完成です。 【参照】みつばち健康科学研究所NEWSごまの香ばしい香りがたまらない。 栄養満点でお財布に優しい。『豆苗と油揚げの山椒炒め』 一人暮らしをしていると野菜不足が気になりませんか?特に価格の高騰が続いている時期は節約しようと購入するのをためらってしまうものですよね。 野菜類の中でも豆苗であれば年間を通じて価格が安定しており、再収穫もできるので出費を抑えたい方に大変おすすめの食材です。また、包丁を使わなくてもハサミでパパっと切り分けやすい点も魅力的♪ ~豆苗と油揚げの山椒炒めの作り方~ <材料> ・豆苗 1/2袋 ・油揚げ 1枚 ・ちりめんじゃこ、かつお節 各大さじ1 ・料理酒、ごま油 各小さじ2 ・和風顆粒出汁 小さじ1/2 ・塩、醤油、山椒パウダー 少々 <作り方> (1)豆苗はキッチンバサミで根元を刈り取り、3等分に切り分けます。 (2)油揚げはキッチンバサミで細切りにします。 (3)フライパンにごま油を熱し、2の油揚げを炒めていきます。 (4)油揚げの表面に焼き色がついたら豆苗とちりめんじゃこを加えます。 (5)豆苗がしんなりしてきたら料理酒・和風顆粒出汁・塩・山椒パウダーを加えて味を整えます。 (6)5をお皿に盛り付け、かつお節をトッピングしてお好みで醤油をまわしかけたら完成です。豆苗はお部屋のインテリア代わりにもなる万能野菜! いかがでしたか?時短料理を日々の食生活に取り入れることで時間だけでなく、あなた自身の心に余裕を持たせることができますよ。一人暮らしを始めたばかりの方、これまであまりお料理をする機会がなかった方は是非参考にしてみて下さいね。今夜の時短料理は何にしようかな?
tenki.jp 2022/04/24 00:00
「ママ見つけた!」福島からやってきた“被災猫” 新たな家族と暮らした4年間
水野マルコ 水野マルコ
「ママ見つけた!」福島からやってきた“被災猫” 新たな家族と暮らした4年間
2017年4月の通院時、帽子を借りて動物病院のスタッフと(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回は、東京都在住の高山美千代さん(74歳)に愛猫のお話を伺いました。親子の猫を20年ほど飼ったあと、かかりつけの動物病院の紹介で、福島で被災した雄の黒猫を家に迎えました。放浪して身も心もボロボロ、年齢もはっきりわからない黒猫でしたが、高山さんにとても甘えてハッピーに過ごし、高山さんの家族にもうれしい出来事が起きたといいます。 * * *  福島県出身のひじきちゃんが我が家に来たのは、2014年の年の瀬が迫る、12月30日のことでした。   実はその2カ月前の10月に、先代の愛猫マギーを21歳で看取りました。前年にはマギーの母猫の、まぁ坊を20歳で見送っています。その2匹の親子猫をずっと診てもらっていた都内の動物病院から、思いがけない“ご縁”を頂いたのです。   マギーが旅立った後、近くに住む40歳の娘が、動物病院に「今までありがとうございました」とごあいさつにいきました。そして、「母も年だし、もう猫を飼うこともないと思うのですが」と言うと、先生にこう勧められたのです。  「若い猫ちゃんは無理でも、おとなの猫ちゃんなら(お年寄りが飼うのに)いいと思いますよ。今ちょうど、3歳から5歳くらいの年齢の黒猫がいます」と。   それがひじきちゃんでした。 2015年1月、家に来て1カ月のとき(提供)   もともと飼い猫だったようですが、福島で東日本大震災と原発事故が起き、旧警戒区域内に取り残されてしまった。その後保護され、福島県動物救護本部が運営していた「三春シェルター」に被災ペットとしてお世話されたと聞きました。   ひじきちゃんはそこから動物病院の「預かり猫」になったのですが、うちに来る2カ月前、シェルターのスタッフから病院の先生に受け渡された時、「ここどこ?」とキョロキョロしたらしいです、都会に驚いたのかもしれませんね。   もちろん、病院からお話を頂いた時に悩みましたよ。私は高齢だし、娘も体が弱いからです。でも、ひじきちゃんはクリスマスを過ぎてももらい手が見つかっていなかったし、院長先生が、「この先、万が一(私たちに)何かあった場合は病院で責任を持つ」と背中を押して下さったので、決心しました。 お気に入りの猫クッションの前でご満悦の表情(提供)  私はその時、「心をかける、言葉をかける、手塩にかける」その三つの「かける」をひじきちゃんとの生活で実践しようと誓いました。  ひじきちゃんは、私が病院に迎えに行くと、おとなしく抱かれました。正直、ボロボロな感じで、フケもたくさん。抱いたら私の服が真っ白になってしまい、看護師の方が「粉雪みたい」とおっしゃったほど。できる限り治療をしたということでしたが、口内炎がひどく、よだれも出ていました。甲状腺の数値も悪いと聞きました。  三春シェルターに保護されるまで1年半くらいあったようなので、苦労したのでしょうね。福島の冬は寒いし、がれきの上を歩くのもさぞかしつらかったことでしょう。  心も傷ついていたからでしょうか。自分の毛をむしる癖もあり、洋服を4枚くらいシェルターから持参していました。おしゃれとしてでなく、よだれやフケや脱毛を防ぐために、ひじきちゃんはお洋服をふだんから着ていて、それがトレードマークでした。   我が家に来た初日は、キャリーバッグにじっと隠れていました。やはり震災経験があるせいか、慎重な様子がみてとれました。   来た翌日、私は仕事が休みだったのですが、ひじきちゃんは前日とうってかわり、急に若返ったみたいに、すごい勢いで私の後を追いました(笑)。娘は、「『僕のママを見つけた!』と思ってるんじゃない?」と言いましたが、前の飼い主さんと間違えたのかもしれません。それほどまでに“べったり”になったのです……。 2016年11月、自宅で高山さん(母)に抱かれるひじきちゃん(提供)  あまりにべったりなので、仕事に行けるか心配になり、「お仕事の間、お留守番をしてね」と言ってきかせました。  私は当時、ダブルワークをしていて、午前3時半に起きて4時に家を出て、高齢者施設で食事作りをしていました。家を出る時、ひじきちゃんは玄関まで送り出してくれました。昼前に帰ってきて、ひじきちゃんにごはんをあげて、午後から二つ目の職場に出かける時も見送ってくれて、帰ると出迎えて。夜は一緒に寝る、という毎日が始まりました。 2016年2月、娘さんが「100均」で買ったユニフォームでキメて(提供)  先代の猫を亡くした時、(猫のいない生活が久しぶりで)私はよく眠れなくなっていたのですが、ひじきちゃんが来てから、ぐっすり眠れるようになりました。相思相愛でした。  そんなひじきちゃんにとって、娘はライバル。たまに家に来ては生意気そうな口をきくので、「何様?」と怪訝(けげん)そうな顔をして娘を見ていました。  ある日、娘がふだんひじきちゃんの寝ている部屋に布団を敷いて寝ていたら、おしっこをかけたんです。「なんでそこにいる。なんで僕のママに威張る」という抗議のように。  だから私はひじきちゃんにこう言ってみたんです。 「あなたが私の長男で、あの子は“ペット”よ(笑)。こわくないよ」と。  するとひじきちゃんは「ペットなら優しくするか」というように、娘を受け入れました。その後、二度と娘の布団におしっこをかけることはなくなりましたよ。  言葉を理解しているんだなと思える、こんなエピソードもあります。  娘が体調を崩した時、「(薬を飲むのはいやだけど)ひじきが一緒に寝てくれるなら、薬を飲んでもいい」と言うと、それまで一度も娘とは一緒に寝なかったひじきが、真夏の暑い時に、寄り添って寝てあげたのです。それには娘も感動していました。 豪快なおねんね(提供)  私たち親子のことについて少しお話します。  娘は中学時代に友人をかばったことからいじめに遭い、登校拒否気味となり、家のことなども重なって心の病となりました。  心配なあまり私がかまいすぎて共依存のようになり、お医者さんからは少し距離を置くようアドバイスをいただきました。それで住まいも別にしたのです。  当時、娘は週に何度か私の家に来ましたが、不調な時は、私に強くあたることもありました。大声で暴言を吐くようなこともありました。そんな時も、ひじきちゃんは毅然(きぜん)としていました。   娘が調子を崩して倒れ、救急車を呼んだことがあったんです。そのとき救急隊員がどかどかと家に入ってきたのですが、ひじきちゃんはなんら動じることなく座っていました。 2018年7月、食欲がなくお顔をもやせてきて……(提供) 「ママは付き添って病院にいくけど、戻ってくるから留守番していてね」と言ってきかせると、しっかりとよい子で待っていてくれました。   そんなふうに物おじしないひじきちゃんでしたが、風だけは怖かったみたい。   すごく風がびゅうびゅうと吹いたある日、仕事から戻ってきたら、ひじきちゃんが着ていたお洋服がありません。探したら、押し入れの布団の間にちょこんと挟まっていました。風の音が怖くて、布団の中にじっと隠れていたのでしょう。   ああ、福島にいる時も一匹でいろんなことに立ち向かったり、耐えたりしていたんだなと思うと、切なさがこみあげました。同時に、ずっと元気でいてほしいと思ったものです。   けれどそんな私の願いとは裏腹に、ひじきちゃんはだんだんと、体が衰えていきました。   家に来た時は5キログラムくらいありました。病院から終末までの治療プランももらっていましたが、家にきて2カ月くらいは病院に行くこともなく順調でした。でもよだれをたらし、湿疹ができたりしたのでちょこちょこ通院をはじめ、点滴も受けるようになりました。   もともと食が細い子でしたけど、食べる量が減り、点滴の間隔が狭まっていきました。2~3カ月に1回が1カ月に1回、数週間に1、2回となり……。2018年の夏以降にがくっと調子を崩し、体重も2キログラム台になってからは頻繁に通院し、手厚いケアを受けました。 湿疹のため病院で買った特別服を着て食事中(提供)   それでもどんどん衰えていき。なのに私が仕事から帰ると玄関に座って待っているので、「寝てなさいね」と声をかけると、翌日から寝ているようになりました。   死に場所を探すように、ふらふらと部屋のいろいろなところを探そうとするので、「だいじょうぶよ、一緒にいましょう」と声をかけました。   だからひじきちゃんは、最期の時を私のふとんで迎えました。   家に来て4年めの2018年、10月21日、私が寝ている間に、眠るように旅立ちました。娘は、「お母さんを心配させまいとして、隠れない代わりにその瞬間を見せなかったんだよ」と言ってくれました。病院からは(原因は)「老化です」と言われました。 なぜか「I am a Dog」(提供)   先代のマギーもまぁ坊も、亡き後に病院できれいにしてもらっていたので、ひじきちゃんも病院できれいに拭いてもらいました。   そして、家に連れて帰り、凍ったペットボトルの水を体に当てて、それから2晩、一緒に寝て、ずっと話しかけました。  「今まで、よくがんばったねえ」  「家に来てくれてありがとうね」   すると夜中に、洋服を着ていないひじきちゃんが現れて、ぐるぐると布団のまわりを周りました。思わず「あなた死んだんじゃないの?」と声をかけましたが、あれは夢か幻か……。   早いもので、あのお別れから3年半が経ちました。   でも、娘とは、今でも生きているようにひじきちゃんの話をするんです。作家や伝統工芸士の方に描いてもらったひじきちゃんの絵もあります。   ひじきちゃんが残してくれた温かなものが、部屋にも心にもいっぱい。ボロボロになりながらも、諦めず、歩いて歩いて……その道が東京の我が家へと続いていたんですね。   ひじきちゃんが保護されていた三春シェルターは2015年に閉鎖し、今は福島県動物愛護センター「ハピまるふくしま」になったと、福島県の方にお聞きしました。三春シェルターのスタッフだった方が、ひじきちゃんが我が家に来ることが決まった後に、動物病院にこんなはがきをくださったと、先生が教えてくださいました。  <ひじきちゃんへ。やっと家猫としての生活に戻れたネ。誰も住んでいない町で頑張って生きてきたんだから、幸せにならなくては……飼い主さんにうんと甘えて可愛がってもらってね>   ひじきちゃんは、その言葉通りうんと甘えてくれましたよ。そして、私たちをこの上なく、幸せにしてくれました。   ひじきちゃんを中心に生活するうちに母子の関係も良好になり、娘の薬も減り、病気もよくなっていったんです。ひじきちゃんが原動力となり、私は今も仕事を続けています。ささやかながら、動物愛護センターなどに寄付を続けているんです。自分の命があることで、ひじきちゃんのようにひとつでも命が救われればと思っています。   今日も娘とひじきちゃんの話をしましょう。部屋に差す陽光を追いかけるのが好きだったひじきちゃん。今日もいい天気だよ。 被災を乗り越えた強さを持つ、ひじきの顔を模したお守り(イラストレーターのまきたとらのすけさん作)  (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
dot. 2022/04/23 14:00
出版・報道を支える職人集団「校閲者」 締め切り5分前に記事が飛び込んでくることも
川口穣 川口穣
出版・報道を支える職人集団「校閲者」 締め切り5分前に記事が飛び込んでくることも
新潮社校閲部の高崎祐一さんのデスクには広辞苑のほか、様々な資料が並ぶ。ゲラを読む際は、体裁のズレなども確認する(photo 張溢文)  芥川賞作品や事件記事などを支えているのが、脚光を浴びることがほとんどない校閲者たちだ。すさまじい量のファクトチェックを黙々とこなす職人たちの姿に迫った。AERA 2022年4月18日号の記事を紹介する。 *  *  * 「O」がキリル文字になっています──。  昨年末、書籍の原稿で校閲者からこんな指摘を受けた。アルファベット「O」とキリル文字「О」は同じに見えた。フォントや閲覧環境で徴妙な違いが出るケースもあるが、そのときは視認できる違いはなかった。  こんな誤りが起きたのは、私が全角のアルファベットを打つときに「おー」と入力して変換する癖が原因だった。改めて過去の原稿を見ると、これまでに何度もキリル文字を使っていたことがわかった。  各社のニュースサイトなどでキリル文字「О」が含まれる記事を検索すると、それなりの数がヒットする。文中にロシア語が登場するなど意図して使っている記事もあるが、私と同じようなミスと見られるケースも少なくない。 多様な経験を生かす  このミスを指摘してくれたのは大西美紀さん(59)。平凡社の出版物を手掛けるフリーランスの校閲者で、執筆者が書き、編集者がチェックした原稿に誤りがないかをさらに精査するのが仕事だ。  通常、書籍や雑誌の校閲者は原稿をページの体裁に印刷したゲラを用いるが、大西さんはあわせてPDF化されたゲラも確認する。私のときは文中の「iOS」という語をPDFの検索機能で一覧表示させたところ、ヒットする数が少なかったことから違和感を持ったという。 「なぜ同じiOSなのにヒットするものとしないものがあるんだろうと、しばらく悩みました。キリル文字になっているからだとわかったときは、自宅で『これだ!』と叫びました」  校閲者の役割は多岐にわたる。誤字・脱字を見つけたり、不自然な文を正したりすることはもちろん、事実関係に誤りがないか、原稿内に矛盾がないか、差別表現が使われていないか、さらにはゲラに体裁のズレがないかなどもチェックする。  明らかな誤り以外は執筆者らに確認を促す形だが、指摘の鋭さにはいつも驚かされる。私が過去に指摘された例を挙げると、 「この季節・この場所なら日の出はもう少し遅い」 「(20年以上前の野球の試合の記述で)リリーフ投手がマウンドに上がったイニングが違うのでは」 「(アニメに登場する用語について)この言葉は第5話ではなく第6話に出てくるのでは」  などがある。平凡社出版部長の今村一人さんはこう話す。 「校閲者は深い日本語の知識はもちろん、これまでの多様な経験を生かして疑問を出してくれます。出版物のクオリティーを高めるために欠かせない存在です」  冒頭に紹介したキリル文字は、仮にそのまま出版されても気づく読者はいなかっただろう。それでも、大西さんは言う。 「いまは書籍の電子化やウェブでの一部転載などが一般的になっています。別の体裁で見たとき、もしかしたら表示がおかしくなるかもしれない。また、電子書籍を読むときに検索機能を使う人もいるでしょう。そのとき正しくヒットしなければ書籍の、ひいては出版社全体の評価を落としかねません。最高の状態で読者にお届けするためのお手伝いだと思っています」  校閲者は出版を支える職人集団なのだ。出版物制作の「ゴールキーパー」と言われることもある。 大西美紀さんが確認したゲラ。キリル文字の指摘以外にアニメの話数、20年以上前のパソコンのスペックなど様々な疑問が書かれている。集中しても読めるのは1日50~60ページだという(photo 張溢文) 校閲した作品が芥川賞  しかし、校閲は出版社にとっては直接的な売り上げにならない間接部門とも言える。出版不況もあって、校閲にコストをかけにくくなっているのが現状だ。ある出版社の編集者は吐露する。 「5年ほど前に、プロの校閲者への発注を原則やめました。編集部員の回し読みで対応していますが、重版の際に修正する誤字の数や読者から指摘される誤りは確実に増えたと思います」  そんななかで、新潮社の校閲部は出版業界有数の規模を誇る。350人ほどの社員のうち、約50人が校閲部に所属している。ほかに、フリーランスの校閲者にも仕事を発注するという。  同社の月刊文芸誌「新潮」の校閲を統括する高崎祐一さん(61)は、前職の新聞社時代と合わせて校閲歴約40年の大ベテランだ。新潮社に入ってからは、「週刊新潮」を経て文芸の校閲を中心に担当してきた。 「作家の方ももちろん完璧を期して書かれているけれど、どうしても事実関係の誤りや矛盾が出てきてしまう。それを見つけて疑問として指摘し、確認してもらうことが私たちの仕事です。自分なりに、出版文化に少しは貢献できていると感じられるところがやりがいですね」  2011年には、高崎さんが校閲した『苦役列車』(西村賢太)と『きことわ』(朝吹真理子)がそろって芥川賞に輝いた。校閲者人生で最もうれしかった瞬間だと振り返る。 十人十色で正解はなし  一方で、40年のキャリアを積んでも「道半ば」だという。 「昔は『誤植のほうから俺の目に飛び込んでくるんだ』と豪語していたこともあったけれど、それは大いなる勘違いで、申し開きのできない誤字を見逃してしまうことがあります。また、文芸は同じ単語に別の漢字が使われていてもそれが作家さんの意図だったりする。十人十色で、正解がありません。40年経っても、校閲者として完成していないと思っています」  それでも、「新潮」編集長の矢野優(ゆたか)さんは言う。 「新潮社の出版物は、これまでも編集者と校閲者が分業しながら内容を研ぎ澄ませてきました。新潮社の出版部に原稿を預けてくださるということは新潮社の編集と校閲に預けてくれているということですし、作家さんからも新潮社の校閲だから任せられるという声も聞きます」  その信頼を担保しているのが膨大な作業量だ。 「校閲者がチェックして編集部に戻ってくるゲラを見ても驚きますが、彼らが作業中のゲラを見ると、すさまじい量のファクトチェックが行われています。調べ倒して、間違いないものをどんどん消していく。鳥肌が立つほどの量です」(矢野さん) 新聞はスピード勝負  新聞社でも校閲者が活躍している。朝日新聞校閲センターの加藤正朗さん(32)は入社8年目の校閲記者だ。ローテーション制で各面を担当。ある日はスポーツ面、翌日は国際面などと多様なジャンルへの対応が必要となる。そして、新聞校閲はスピード勝負になることも多い。夜に大きな事件や事故が起こり、翌日の朝刊記事を差し替えるようなケースもザラだ。 「大きな事件が起きると、1時間のうちに何度も原稿が更新されて内容が全く変わってくることもあるし、締め切り5分前に新たな記事が飛んでくることもあります。まず全体を読んで大きな誤りがないか確認し、あとは時間の許す限り1カ所ずつ気になるところをつぶしていきます」  時間に余裕がある記事の場合は、読者目線で「こういった内容を付け加えては」「構成をこう変えたらわかりやすいと思う」との提案をすることもある。 「それが採用されて記事がよくなったなと思えると、仕事をしている実感が湧く。校閲は取材記者と違って記事に名前は入りませんが、自分も紙面をつくる一人だと確かに感じられます」  加藤さんは中堅の息に差し掛かり、記事を読むスピードも速くなってきた。 「ただ、慣れ過ぎもよくない。凡事徹底を忘れずにいたいです」  書籍や報道の陰には、優れた校閲者がいる。もちろん、小誌もプロの校閲者が確認している。この原稿中に2カ所誤字を含めてみた。校閲者にはしっかり指摘されたが、そのまま残しておいた。お気づきになりましたか?(答えは、本文の最後に) (編集部・川口穣)※AERA 2022年4月18日号 【答え】本文の冒頭の「徴妙」は「微妙」、最後のほうの「息」は「域」が正しい
AERA 2022/04/18 11:00
マキタスポーツが役者で成功した理由は「古着化」した顔?
マキタスポーツが役者で成功した理由は「古着化」した顔?
マキタスポーツさん(左)と林真理子さん (撮影/写真映像部・高野楓菜)  芸人、俳優、ミュージシャンとマルチな才能で知られるマキタスポーツさんが、初の小説『雌伏三十年』を出版。高校の同窓生でもある作家・林真理子さんとの対談では、マリコさんの実家の話や役者の話で盛り上がりました。 【又吉直樹より先だった? “初小説”のマキタスポーツがガッカリしたワケ】より続く *  *  * 林:私、15(歳)ぐらい上だから、マキタさんのころはもうみんな東京の大学に行ってたでしょう? マキタ:どのぐらいの比率だったんだろう。東京の大学に行ったけど、就職は山梨でしたり、何年か東京で働いたら山梨に戻ってくるという人、けっこう多かったみたいですけどね。 林:でも、マキタさんは東京で配達のバイトをしながら音楽を聴いてライブにも行ったりして、「絶対何者かになるぞ」と思って充実してたんですよね。 マキタ:林先輩は家が本屋さんをやってらしたから、幼いころから本に触れる機会があって、リテラシーがすごく高い人だったと思うんですけど、僕の場合は高校を卒業するまでに読んだ本が「一休さん」ぐらいしかなかったんです。 林:ちょっとォ(笑)。それがなんで本に興味を持つようになったんですか。 マキタ:古本屋ですね。東京の大学に入って引きこもりになって、友達もいないし、「5月病」になっちゃって、「東京、キライ」ってなったときに、古本屋に行くしかなかったんですね。難しい本は読まずに、林先輩とか泉麻人さんのコラムとかエッセーとかを手に取って読み始めたら、これはおもしろいと思えたんです。そのあとサブカルチャーの雑誌とかに興味を持って、ナンシー関さんのコラムもおもしろいなと思いながら読み始めたという感じですね。 林:「俺だってチャンスがあればこれぐらいのもの書ける」って当然思った? マキタ:思いました。どこかで俺を発見してくれないかなって思って、誰も読むあてがないのに文章を書いてましたね。 林:それは素晴らしいですね。 マキタ:何か接点を持つべく行動を起こせばよかったんですけど、僕はその当時、おもに新宿歌舞伎町の夜のバイトをして、ズブズブの水商売の生活をしてたんです。それで、そっちの生活になじみすぎちゃって。 林:すごくモテたんですね。この本にもいっぱい女性が出てきますけど。 マキタスポーツ (撮影/写真映像部・高野楓菜) マキタ:熱心な時期もありました(笑)。モテたい一心でいろいろアプローチをかけてましたね。 林:さっきスタッフと「マキタさん、田中小実昌さんそっくり」って話してたんですけど、その風貌、だんだん得難いものになってきましたね。 マキタ:役者の仕事をし始めたとき、「なんだ、この原石は」と思っていただいたようなんですけど、僕自身、荒くれ者系の人間だと思ってたので、まさか小実昌系になるとは思ってなかったんです。僕、顔自体が古着化してるから、そのデッドストック感がいいと言っていただいてましたね(笑)。 林:この本、帯に「異能の人」ってキャッチフレーズがついてますけど、いいキャッチフレーズですね。“異能の人”の系譜っていうのがあって、田中小実昌さんとか殿山泰司さんとか……。 マキタ:あと金子信雄さんとか、みんなある種の雰囲気を持ってますよね。小さくてはげてるおじさんばっかりですけど(笑)。 林:田中さんは直木賞作家ですから、文章がうまいのは当然ですけど、金子さんも殿山さんも、文章を書くとすごくうまかったんですよ。「どうせすぐこの世からおさらばするんだからよう」みたいな雰囲気で。 マキタ:おもしろいですよね、世の中を斜めに見ている目線がね。個性派俳優というか、コミさんみたいな独特のスタンス、存在感、いいなと思っていたんですけど、まさか自分がその系譜に置いていただけるなんて、思ってもいませんでした。 林:あの方たちみたいに、マキタさんも、役者の世界から書くほうの世界にも入ってきたわけなんですね。 マキタ:でも、今回の作品は人生で一回こっきりしか書けないものを書いたので、これにとどまらず書いてみたいことはあるんです。ただ、自分がいいなと思える文章の形はこの本とぜんぜん違うところに意識があって、もっと省略された文章を書きたいなと思ってます。この本はスーパーマックスで書いた感じなので。 (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) マキタスポーツ/1970年、山梨県生まれ。28歳のときに芸能界デビューし、音楽と笑いを融合させた「オトネタ」を提唱。各地でライブ活動を行うほか、ドラマ、映画、バラエティー、ラジオなどで幅広く活躍。2012年の映画「苦役列車」で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞を受賞。著書に『越境芸人 増補版』『決定版 一億総ツッコミ時代』『すべてのJ−POPはパクリである』など。3月、自身初の小説『雌伏三十年』を出版した。※週刊朝日  2022年4月22日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/04/16 08:30
佐々木朗希の「完全試合中継なし」批判報道 地元局は「困惑」し地元ファンからは疑問の声も
國府田英之 國府田英之
佐々木朗希の「完全試合中継なし」批判報道 地元局は「困惑」し地元ファンからは疑問の声も
千葉ロッテの佐々木朗希投手(画像は2021年10月14日)  千葉ロッテの佐々木朗希投手(20)が完全試合を達成した歴史的一戦について、生中継しなかった地元の千葉テレビに批判が寄せられているとの一部報道があった。だが、そもそもテレビ局のプロ野球中継予定は開幕前に決まっており、また、千葉テレビのロッテ戦中継は以前からほぼ平日のナイターに限られている。局の担当者は「困惑」の心境を明かし、地元のロッテファンからも批判に疑問の声が出ている。 *  *  *  佐々木朗は、10日の午後2時から千葉市のZOZOマリンスタジアムで行われたオリックスとのデーゲームで、プロ野球で28年ぶりとなる偉業を達成した。  一部報道では、この試合を生中継しなかった地元の千葉テレビに対し、「こんな試合を一秒も放映しなかった千葉テレビは反省してください」「こういう日に、なんで放送しないのかね、千葉テレビよ」「今日に限って千葉テレビで放送してない…」などと批判する声がネット上にあふれたとした。さらに同じメディアが後日、局にはこの件に関し多くの問い合わせが来たとも報じた。  ただ、こうした報道に疑問を挟むロッテファンもいる。千葉県松戸市に住む40代男性はこう話す。 「土日に千葉テレビがロッテ戦をやらないことは、地元ファンはそれなりに知っていると思います。県外のロッテファンも多いけど、千葉テレビが映らない地域の人には関係ない話だし。事情を知らない千葉県民が試合経過を何かで知って、急いでチャンネルを回してがっかりしたのか……。どこからそんなに批判が出ているのかと不思議な気持ちです」  千葉テレビは以前から、主に本拠地でのロッテ戦を、ほぼ平日のナイターに限って放映してきた。番組名も「マリーンズナイター」で、その名のとおりである。 同局の担当者は、 「土日と違い、平日の夜はファンの方もお仕事などでなかなか球場に行けないと思います。帰宅された後にテレビで試合を楽しんでいただきたいと、マリーンズナイターを放映してきました」  と趣旨を説明する。  担当者によると、1月ごろにロッテ球団に中継したい試合の希望を出し、球団と調整。開幕前の2月中には放映予定が固まるという。  仮にNHKやキー局などと希望の試合が重なった場合、放送エリアの広いNHKやキー局が優先されるのが通例だ。  また、シーズン開幕後、選手の記録達成などを理由に、番組編成を急きょ組み替えて中継することは、そう簡単ではない事情がある。 「例えばクライマックスシーズン(CS)であれば、出場を決めてから本拠地での試合までの日にちが開いているケースがあります。その場合、ロッテ球団に申請して再調整し、中継ができる可能性はあります。ただ、あくまで日にちが開いているから物理的にできるかもしれないという話に過ぎません。もともと放送予定だった番組のスポンサー様にご理解いただく必要があるなど、簡単には実現できません」(担当者)  セ・パ両リーグとも、試合の先発投手を事前に発表する「予告先発制」を採用しているが、発表は試合前日で、局側に時間はない。そもそも、CSやスター選手の引退試合など、あらかじめ予定が決まっている「特別な一戦」と、注目選手が出場するが何が起きるかは分からない「シーズン中の一試合」では、状況がまったく違う。  ネットでは「(中継について)後から言うのは誰でもできるよね。誰が予想した?この素晴らしい試合展開を」といった、局への批判をお門違いと受け取る意見も目立った。  同局に直接寄せられた意見は5件ほどだといい、担当者も「より良い中継をこれからも心がけたいと考えていますが、(批判報道には)困惑しています」と心境を漏らす。  都内に住む熱狂的巨人ファンの40代男性はこう話す。 「巨人戦にしたって、地上波で生中継が当たり前だった時代はとっくに過ぎていて、何で日テレは!なんていまさら文句は言いませんよ。どうしても見たい試合はCSチャンネルやネットの有料放送を利用すればいい。ネットなら外出先でも見られますからね」  今やプロ野球中継を有料で楽しむサービスは多数あり、定額パックから、見たい試合だけにお金を払う形などさまざまな形態がある。  この試合で何かが起きるかもしれない――そうピンと来たなら、自力で視聴する方法を探しておけば、佐々木朗の完全試合のような興奮を見逃すこともないだろう。(AERA dot.編集部・國府田英之)
佐々木朗希千葉テレビ完全試合
dot. 2022/04/12 15:38
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