31歳の早稲田大4年生 コンプレックスに翻弄された「地獄の仮面浪人生活」を経て得られたものとは
「9浪」で早稲田大に合格した教育学部4年の濱井正吾さん(Twitter:@hamaishogo1111) (撮影/写真部・高橋奈緒)
早稲田大学教育学部4年、31歳。「9浪はまい」としてYouTube等で活動している濱井正吾さんだ。編入して入った大学を卒業後もコンプレックスを抱え「職場仮面浪人」で受験費用を稼ぎ、高校卒業から数えて9年後、早稲田大に合格した。なぜ彼は挑戦し続けたのか。9年間の道のりを聞いた。
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「私は偏差値40の商業高校から『9浪』して早稲田大学に合格しました」
濱井さんは自身のYouTube動画の冒頭でこう自己紹介する。兵庫県の出身。両親と自分、弟、妹の5人家族だが、父親は濱井さんが10歳のときに脳出血で倒れ、重度の障害を負い介護施設にいたため、高校卒業後は家計のために働くつもりでいた。
「勉強していると馬鹿にされるような学校で、野球部ではいじめを受けていました。ボロボロのスパイクを無理やり買わされたり、グローブを勝手に捨てられたり……プロレスごっこと称して暴力を振るわれることも日常的でした」
2年次には野球部を辞め、逃げるようにして深夜までオンラインゲームにのめり込んだ。そこには同じコミュニティーを通じて大学生と交流する場があり、初めて大学という環境に興味をもった。
「大学って楽しそうだな、自分がいるのとは違う世界だなと思いました」
■「いじめていた同級生を見返したい」受験を決意
3年次の説明会で、自分の高校から大学に進学するのは全体の1割に満たないことを知った。だが自分をいじめていた同級生を見返したい、こことは違う環境に行きたいとの思いで受験を決意。1日1回、学校の先生からもらったお題に沿って小論文を書き続けた結果、学校推薦型選抜で大阪の私立大学に合格した。
「しかしその大学は、自分の高校とあまり環境が変わらないのです。みんな授業中に騒いだり、寝ていたり……自分は大丈夫でしたが、周りにはいじめられている人もいたようでした」
大学では、国内のユースホステルを巡るサークルに入った。そこで京都大や同志社大の学生と交流したことが、濱井さんの人生を方向付けることになった。
早稲田合格までの9年間で複数の単語帳を使いつぶした(撮影/写真部・高橋奈緒)
「みんな大学に入ったばかりなので受験が共通の話題だったのですが、京大の人は人を見下したりすることなく、『大変だったよね』と気遣いながら受験の苦労話を聞いていたのです。同い年なのになぜこんなにも違うのかと、自分に失望しました。悔しかったです。努力したからこそ落ち着いた優しい人になれるのではないかと、その姿にあこがれました」
それを機に、より入試難易度が高いとされる大学への編入をめざした。編入に必要なのは、授業の単位と成績、英語の試験、小論文、面接。授業に真面目に取り組み、英語の勉強を続け、3年次編入で龍谷大経済学部に入った。
「学生がみんな静かに授業を受けていたことに感動しました。中学卒業以来、5年ぶりのちゃんとした授業でしたね」
龍谷大時代は、甲子園球場でソフトドリンクやアイスクリームを売るアルバイトに精を出した。趣味が高じて競馬研究会も立ち上げた。ゼミでは所得が生活に及ぼす影響、学歴と年収の関係などについて調査した。やっと自分も充実した大学生活を送れるようになった――ところが3年次の後半で、ある負の感情が沸き上がるのを感じた。
「同級生のプレゼンを聞いていると、みんな自信をもって論理的に話すのです。自分とは違い、高校で真面目に勉強して、学力と教養があり、努力して一般入試で入ってきたからこのような理知的な話し方になるのではないかと思ったのです。“一般入試コンプレックス”でした」
■「学がない自分が本当に悔しかった」
その日から英単語帳を開き、受験勉強の日々が始まった。東大、京大、早稲田大……日本人なら誰でも知っている大学に行けばこのコンプレックスは解消されるのではないか。とはいえ、今の学力では無理だ。親族からも、「そんな馬鹿なことを言うな」と怒られた。
4年次には、誰もが知る大手企業に就職すればコンプレックスは消えるかもしれないと考え、テレビ局など80社以上の入社試験を受けた。しかしどこにも縁がなかった。あるキー局の面接で一緒になった慶應義塾大の大学院生は、自身が学会の冊子に寄稿した記事のことを堂々とアピールしていた。「学がなく、そうした経験のない自分が本当に悔しかったです」と濱井さんは当時を振り返る。
最終的には中堅の証券会社から内定をもらった。だがその会社は入社10日で辞めた。大学受験のためだ。
受験勉強をしながら働いていた会社では、全社1位の営業成績を残した(撮影/写真部・高橋奈緒)
「営業に出るために資格を取らなければならないのですが、その勉強が想像以上に大変そうだったのです。そのせいで受験勉強ができないのは困りました。とはいえ収入がないのも困るので、辞めて10日後に配置薬の営業の会社に再就職しました」
濱井さんの計画はこうだ。3年間、働きながら塾に通い、300万円を貯金する。新卒4年目は会社を辞めて受験に専念し、大学に合格する。そうすれば26歳で大学に入学し、20代のうちに新しい大学4年間を過ごすことができる。
「朝6時に起きて、数学の参考書を読み、朝7時半から夜7時半ぐらいまで働いて、8時15分から予備校の授業を受けていました。会社は親族経営で、給料の未払いが多発していました。若手にはなるべく給料を出していたようなのですが、周りには月に4万、5万円しか払われなかった人もいるような会社でした」
仕事では、営業所内の成績1位を取った。周りの社員と違い、顧客一人ひとりとコミュニケーションの時間を多く取り、信頼関係を築くことを重視した結果だった。続いて全社1位の成績も取った。しかしそれによってコンプレックスが消えることはなかった。
「仕事の成績は社内の人でなければその努力のすごさが分かりません。でも出身大学は、誰でもすごさが分かる。その名前のブランド力は大きいと思います」
■「受験に向いてない」言われてもあきらめなかった
受験費用の節約のため、会社を辞めて受験に専念するまでは大学に出願しないことにした。新卒2年目、濱井さんにとっての「6浪目」には初めてセンター試験を受けたが、5教科7科目の得点率は39%。予備校のチューターから「詰められた」ときの言葉が今でも忘れられないという。
「これじゃお前がいた龍谷大にも入れないぞ」「お前は受験に向いてないよ」
それでも濱井さんはあきらめなかった。
「高校で自分をいじめてきた同級生を見返したいという反骨心が大きな理由です。それに日本史は中学生のころから成績もよかったですし、自分は暗記ならできなくはないと思っていました。小さな成功体験を思い出すことで、自分はできると言い聞かせていました」
予定よりも早く300万円がたまり、新卒3年目の10月に会社を辞めた。その年のセンター試験は前年より10ポイント上がり、49%。努力は少しずつ点数に表れていた。
地獄の9年間を経たことで「コンプレックスはなくなった」という(撮影/写真部・高橋奈緒)
新卒4年目、26歳で満を持して大学に願書を出した。国立の大阪大に加え、早稲田、慶應、同志社、上智、明治などの私立大も受験した。マスメディアの勉強ができればと、人文系学部を受けた。センター試験の得点率は58%。結果は「全落ち」だった。
「早稲田大を4学部受けたのですが、全然だめでした。商学部の試験では6割ほど取れていたのですが、ほかの学部は5割にも届いていませんでした」
貯金はほとんど底をつきかけている。しかし受験で初めて訪れた早稲田キャンパスの荘厳な雰囲気が忘れられない。兵庫の実家を出て、京都で4畳1万2000円の部屋を借りた。新しく入りなおした塾では、自分ができていなかった高校の基礎を丁寧に教わった。前の塾と違い、静かな自習室で受験生たちが黙々と勉強している様子に刺激を受けた。英語、国語、日本史の3科目に絞り、新しい環境で勉強に打ち込んだ。
「金銭的にも最後のチャンスでした。これでだめならあきらめようと思っていました」
受験したのは早稲田大の5学部をはじめ、計14日程。関西で立命館大と同志社大を受験した後、夜行バスで上京し、ネットカフェに宿泊しながら6日間連続受験という過酷なスケジュールを走り抜けた。関西の2大学に合格していたことが心の支えだったという。
■「9浪」して得られた人生の教訓
受験を終えて帰った4畳の下宿で、早稲田大教育学部国語国文学科の合格発表を確認した。27歳のことだった。
「うれしいというよりは、やっと終わったという安堵の気持ちでした。なぜか家から2時間、清水寺まで歩いて何もせずに帰りました」
入学後、同級生に経歴を話すと最初は怪訝(けげん)な反応をされたが、次第に友人にも恵まれた。この稀有(けう)な経験を知ってほしいと思い、学内でYouTube活動をしている学生のアルバイト先に出向き、「動画に出してほしい」と売り込んだ。コラボを重ねて知名度を上げ、「苦労しました、9浪だけに!」のフレーズとともに学内の有名人として知られるようになった。
この3月に大学を卒業し、長きにわたる浪人経験を生かすため、教育関連のベンチャー企業に就職する。そんな濱井さんが「9浪」したからこそ得られた人生の教訓は。
「この地獄の9浪の経験よりもつらいことはなかなかありません。だから大抵のことは無理だと思わなくなりました。これまでコンプレックスが嫌で人を見返すことばかり考えていたのですが、この経験を生かして、多くの人に勇気を与えられたらと思っています」
(白石圭)
dot.
2022/02/17 10:00