検索結果1729件中 141 160 件を表示中

川田裕美が語る子育て「仕事量のセーブを決断するまで、1年かかりました」
川田裕美が語る子育て「仕事量のセーブを決断するまで、1年かかりました」
川田裕美さん    テレビで見かけると、なんだかほっとしたり、元気をもらったり……。そんな笑顔の持ち主、フリーアナウンサーの川田裕美さんに自身の子育てについて聞きました。3歳男子、1歳半女子の「最強コンビ」に向かいながら、日々大切にしていることは……? ※後編〈川田裕美が語る夫婦の協力体制「夫は『ありがとう』を言葉にしてくれるタイプ。大いに見習っています」〉に続く  思い描いていたものとは「まったく違った」子育て ――報道からバラエティーまで、幅広く活躍中の川田さん。忙しい日々、どのように時間をやりくりされていますか?  私も夫も、休日は子どもたちと思いきり遊ぶようにしています。ですから、今はできるだけ土日に仕事を入れないようにしています。この業界は土日も関係なく仕事をするのが当たり前だったのですが、長男が生まれてから気づいたんです。「これは、想像していたよりずっと大変だぞ……」と。 ――どんなことを想像されていたのですか?  出産前は、「出産後は何カ月か休んで、そこからまた復帰して産前と同じくらいの仕事量をこなして……」なんて思い描いていました。子どもは保育園に預けて、私も夫も以前と同じように働ける、と。  ところが実際は、そんな甘い考えはあっという間に打ち砕かれました(笑)。保育園に登園しても、はじめのうちはすぐに風邪をひいたり熱を出したり。先輩ママたちから聞いてはいましたが、本当に「毎月のように休む」んですね。 仕事量のセーブを決断するまで、1年かかりました ――そこで、仕事のスタイルを見直されたのですか? 「こちらの予定どおりには、まず運ばない」ということがわかったので、「じゃあどうしよう」と夫とふたりでずいぶん話したんです。  子どもが小さい間は、交代で休む日をつくる、おばあちゃんやシッターさんに手伝いをお願いする、保育園で呼び出しがあった場合にどちらかが動けるようにしておく……そんなことも、時間をかけて話し合いました。 お子さんとの時間を楽しむ川田裕美さん(川田さん提供)    でも、結局は優先順位を決めることが大切なんですよね。そこで、私は仕事の量をセーブすることに決めたんです。そうはいっても仕事は大好きなので、自分で納得できるまでに、1年くらいかかりました。  今は仕事でまわりの方々に助けていただくことも多いので、子育てが落ち着いたら、今度は私が「いつでも行きます!」という気持ちでいます。これで、仕事をセーブすることに申し訳なさを少し感じにくくなりました。 子どもたちが大きくなっても「ハグ」できる家族が憧れです ――子育てでは、どんなことを大切にされていますか?  余すことなく「愛情を伝える」ことでしょうか。子どもたちをギューッと抱きしめて「大好き」「愛してるよ!」と一日に何度も伝えています。  知人のご家庭は、成人した娘さんとお父さんがナチュラルにハグしていますし、息子さんとお母さんが仲よく肩を並べて歩いていたり。そんな姿を見ると「ああ、いいな」と思うんです。  私たちは両親が昭和世代ですし、自分が大きくなってからは親と手をつなぐことはもちろん、ハグなんてありえませんでした。でも、そういうことが自然にできる家族でありたいな、そういう家族って素敵だなと憧れています。 ――川田さんのインスタグラムを見ると、お子さんたちといろいろな体験をされています。  子どもたちといられる時間ってとても貴重なので、土日はしっかり遊んでいます。遠出することもありますが、近所の公園の日も多いです。正直、体力的にきついと感じることはありますが(笑)。 ――兄と妹、接し方で気をつけていることはありますか?  3歳の息子は、生まれてすぐに助産師さんから「泣き声が穏やかですね」と言われましたが、確かに今もどちらかといえば穏やかかもしれません。1歳半の娘はかなり活発になってきて、兄と同じことをしようと頑張ってついていっています。たまに兄を泣かせてしまうこともありますね。  同じように育てているのに、なぜこんなに違うんだろうとおもしろく感じますし、これからどんどん変わっていくのかなと楽しみでもあるんです。ですから、「この子はこういうタイプ」と今から決めつけないようにしていますね。 迷いや揺らぎも日々感じています ――これからの子育てで、意識したいことはどんなことでしょう。  これからの時代、子どもたちが自分で生きていくためには「学力」だけではない、ということは感じています。  そのためにいろいろなことを体験したり、考えたりしてほしいとは思いますが、今の時期はとにかくのびのびと育てたいですね。あまり先のことを考えてもどうなるかわからない。とりあえず今を精いっぱい、という日々です。  とはいえ、書店やインターネットで「幼児教育」などの言葉を目にすると、気になってしまう自分もいたりして……。ゆったり子育てがモットーですが、迷いや揺らぎのようなものは、つねにありますよね。 ※後編〈川田裕美が語る夫婦の協力体制「夫は『ありがとう』を言葉にしてくれるタイプ。大いに見習っています」〉に続く (取材・文/三宅智佳) ○川田裕美/1983年生まれ、大阪府出身。フリーアナウンサー。2006年読売テレビ入社後、報道やバラエティーとさまざまな番組で人気に。2015年フリーに。安定感のある存在でますます活躍の場を広げている。
川田裕美子育て
AERA with Kids+ 2024/03/17 11:00
「また倉庫が足りなくなる」の予想「売り抜く」で当たる ブラザー工業・小池利和会長
「また倉庫が足りなくなる」の予想「売り抜く」で当たる ブラザー工業・小池利和会長
「のこぎり屋根」は一宮市に約2千棟残る。いまや織物史を知る貴重な場。保存されていて本当にうれしい(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年3月11日号では、前号に引き続きブラザー工業・小池利和会長が登場し、「源流」である故郷の愛知県一宮市を訪れた。 *  *  *  子どものころ、愛知県一宮市郊外の自宅にいると、機織りの音が聞こえた。  一宮市は「尾張の繊維の街」と言われた国内有数の織物の産地だった。市内を巡ると「のこぎり屋根」と呼ばれる織物工場の名残を、各所で目にする。 「のこぎり屋根」は、織子と呼ばれた女性たちが織物の出来具合を目で確認していくのに必要な光を、より多く採り入れるため、屋根をノコギリの歯のようにジグザグにした工夫だ。最盛期、市内の「のこぎり屋根」は8千棟を超えた。  実家も、祖父母が設立した小池毛織という織物会社で、父も小池毛織に勤めていた。自宅は会社と工場に隣接し、両親と姉妹の5人家族だった。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  昨年12月、故郷の一宮市を、連載の企画で一緒に訪ねた。母は戦後、女学校を出たばかりの二十歳前後で結婚した。多くの女性がその年代で結婚する時代で、母は思うような教育を受けられなかった残念さを、子どもたちの教育へ向けた。 バイオリンを6年ボーイスカウト5年母に通わせられた  市立赤見小学校時代、母に毎週金曜日の下校後、バイオリン教室へ通わされた。JRの尾張一宮駅の近くで、自宅近くからバスで通う。市立西成中学校へ進んでも続け、計6年。小学校5年生から、ボーイスカウト活動もした。自宅から歩いて約20分の公園に集まり、飯盒炊飯などを覚える。こちらは計5年。自分がやれなかったことを子どもたちにやらせたい、との母の思いを感じ取り、子ども心に決めていた。 「やると決めたら、やり抜く」  不器用で、運動は苦手。母に期待されたほど、格好よくできない。期待を、よく裏切った。ただ、人前で話すのは得意で、小学校は級長、中学校は生徒会の役員。どちらかと言うと「何でも先頭に立ってやりたい」という気持ちが、強かった。母に背中を押され、そうなった部分もある。小池さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったと思う、母との世界だ。  父は男4人女2人のきょうだいの末っ子で、社長にはなれない。最後は採用を担当する常務を務め、春の卒業期が近づくと九州などの高校を訪れ、仕事の内容や女子寮の受け入れ態勢を説明し、織子を集めた。引き受けた任務を、黙々とこなす。その父からも「やると決めたら、やり抜く」という強い意志を、受け継いだのかもしれない。  こうした日々から、就職へ向かって「大きな企業で下部組織の一員であるよりも、小さな企業でもいいからリーダーシップを発揮したい」との思いが、強まっていく。 『源流Again』で、一宮市大赤見の実家へ向かった。1500坪の土地に本社と工場、女子寮があった。いま、敷地の一部は宅地になっている。10年余り前、工場と本家の屋敷がブルドーザーで壊されるのをみたとき、切ない思いがした。自宅は横へずらし、父が使っている。1955年10月に生まれたころは、周囲一面が田んぼで、自宅から遮るものもなく赤見小学校の全景がみえた。いまは学校の周りにも住宅ができて、校舎の一部しかみえない。  同市篭屋に残る「のこぎり屋根」も、訪ねた。資料館へ入ると、織物の歴史が分かる。一宮市でも明治になって洋服を着るようになると、生地が絹から木綿へ、さらに毛織物へ変わる。豪州から羊毛を輸入し、糸を揃える製織と色を染める染色、生地にする機織りが繁栄した。  中学生になると、労賃の安いアジアの国々が織物業に力を入れ、日本勢は競争力がなくなって、地域から姿が減っていく。それでも「のこぎり屋根」は、まだ2千棟くらい残っている。改装や改築するにも費用がかかり、所有者たちも手を付けられないようだ、と聞いた。 市立赤見小学校は当時、1学年に1学級だけ。思い浮かぶのは運動会で、徒競走でいつもビリ。伯父に「半周遅れで走っていたぞ」と笑われた。うつむいて聞いたが、いまでは笑い話にできる(撮影/狩野喜彦)   運動部の誘いは断り選んだ速記研究会面白くて4年続ける  75年春に早稲田大学政治経済学部の経済学科へ進み、校内を歩いていると、いくつかの運動部から誘いがかかった。身長が180センチ近くあり、身体もがっしりしていたためだろう。でも、運動は苦手。邦文速記研究会へ入った。邦文速記は、日本語の会話を線や符号で書きとめ、後で文章に直す。国会の議事録などで、活用されてきた。練習すると上達し、面白くなって卒業まで4年続けた。やはり「やると決めたら、やり抜く」で、速記はいまでも使える。  79年4月に入社。本社が故郷から近い名古屋市にあり、新卒を百人単位で採る企業が多くあるなか、同期入社は技術系も含めて14人。自分の思いに合った規模だった。入社3年目、米ロサンゼルスへ赴任した。売上高の3分の1を占めるミシンの訪問販売が、大型スーパーが安い品を扱い始めたことで、陰りが出てきたころだ。新しく開発された電子プリンターを、米国で売る先兵に選ばれた。「海外にいきたくない」が本音だったが、20代半ばで早くもリーダーシップを発揮するチャンス。つかむしかない、と受けた。  開発されたプリンターは、簡単に言えば、主力製品の一つだった電子タイプライターのキーボードを外し、接続端子を付けてパソコンへつなぐ形。米国でパソコンの新機種が次々に登場し、プリンター需要が増えることに着目した。 本社の「広過ぎる」の反対を押し切り6年で拡張を実現へ  着任すると、オフィススーパーストア(OSS)と呼ぶ事務用品量販店の上位3社に、徹底的に食い込む。3社は、どこも全米に千店を超す店を持つから、成果は大きい。『源流』から続く「やると決めたら、やり抜く」の流れは、米国へも広がっていく。4年たって、東海岸のニュージャージー州にあったブラザーの米国販売会社BICへ異動し、次々に新商品を考案する。  90年代半ば、売り上げが伸びるに従い、製品を置き、修理をする場所が足りなくなる。テネシー州メンフィス郊外にあった自社の倉庫に入り切らず、外部の倉庫を5カ所借りたが、新製品とともに予備の部品も増えていき、すぐに満杯となった。  名古屋市の本社へ何度かいって、巨大な倉庫の建設を提案した。先々に備え、敷地も広めに求めた。本社の面々は「そんなに広い土地を買って、倉庫業でも始める気か」と反対したが、「でっかい成長を目指すなら、それに見合った規模にしなければいけない」と押し切る。言葉通り売りに売り抜いて、新しい巨大な倉庫もまもなく満杯となり、6年後、BIC社長時代に空き地を使って拡張した。  米国にいた23年余りで、BICの売上高を25倍に増やし、05年に帰国する。社内の誰もが認める実績で、2年後の07年6月に本社の社長となる。『源流』からの流れは、大きく幅を広げた。2018年6月、会長に就任。今度は会社の経営を高い視点から見守る役で、流域はさらに広がった。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年3月11日号
トップの源流
AERA 2024/03/11 06:30
風俗嬢の海外出稼ぎはもう止まらない 「男性が女性を安く買い叩く」日本特有の問題点
松岡かすみ 松岡かすみ
風俗嬢の海外出稼ぎはもう止まらない 「男性が女性を安く買い叩く」日本特有の問題点
※写真はイメージです(Getty Images)    日本経済の停滞が長引く今、「海外のほうが稼げる」と多くの性風俗業の女性が海を渡っている。識者によると、この流れは今後も加速していくという。背景には、日本の性風俗業界の問題点やAV新法の影響がある。朝日新書『ルポ 出稼ぎ日本人風俗嬢』(著:松岡かすみ)から一部を抜粋、再編集して紹介する。  本書では、違法である性風俗業での海外出稼ぎの実体験のみならず、出稼ぎがはらむリスクやそこに至る社会的要因などを多方面から取材。個人の責任如何でなく、現代日本社会全体で考えるべき問題を提起している。 * * * 「いずれこういう日が来るとは思っていましたが、ついに来たかという感じです」  性風俗業界で働く当事者を支援する団体「SWASH」の元には、最近、オーストラリアのセックスワーカー支援団体から、「日本語で書かれた性感染症予防についての啓発資料を送ってほしい」という依頼があった。オーストラリアで日本人セックスワーカーが増えていることを背景に、「日本人セックスワーカーに配布したいから」というのが理由だという。 「海外で働く日本人セックスワーカー向けの情報が必要になる時代が来るなんて、10年前には思ってもみませんでした。これまで海外では、移民セックスワーカー向けに、困った時の相談先などが書かれたパンフレットが英語、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語などで用意されていましたが、そこに日本語が加わる時代が来たのです」 【こちらも話題】 性風俗の女性が海外に“出稼ぎ”のワケ 数こなすしかない日本に違和感 https://dot.asahi.com/articles/-/75 「SWASH」メンバーの要友紀子さんは、「出稼ぎの動きは、もう止められないと思う」とも口にする。 「日本があまりに貧しく、稼げない国になってしまった。日本で1年で稼ぐ額が、下手すると1カ月で稼げるとなれば、行く人が出てくるのは当然だと思います。海外に出稼ぎに行く動きは、今後ますます広がっていくと見ています」(要さん)  性風俗業の女性が海外に出稼ぎに行く動きは、日本特有の業界的な問題をはらんでいると見る向きもある。「日本の性風俗業界が今のままである限り、海外に出稼ぎに行こうとする動きは加速するでしょう」と話すのは、性風俗業界の動きについて詳しい中村淳彦さんだ。中村さんいわく、AV業界では10年ほど前から、中国の富裕層を相手に、プロダクションが女優を売春させる動きが出てきているという。 「日本人女性の“市場評価”は世界的に見ても高い一方で、日本の性風俗業界では、男性が女性を安く買い叩いている現状がある。これまで日本では、男性が作った売買春のシステムの中で働く女性が多かったのが、SNSなどの普及によって、従来のシステムに則らずとも仕事ができる時代になった。となれば、個人でしがらみがなく働きたいと考えたり、より稼げる相手に目が向くのは、ある種必然とも言える流れではないでしょうか」(中村さん) 【こちらも話題】 海外出稼ぎ風俗嬢「ツアー」で約725万円稼ぐ 固定客は海外富裕層、相場は日本の3倍 https://dot.asahi.com/articles/-/215527  性風俗産業全体を通して、雇用関係がないにもかかわらず、実態としては従業員並みの規則や枠組みが設けられているケースも少なくない。実際、出稼ぎをする女性たちの中には、「決められた枠内で、決められたサービスを、決められた価格で提供する日本の風俗店に嫌気がさした」という人や、「海外のほうが嫌なことは嫌と言えるし、自由に働かせてくれる」という人もいた。歌舞伎町など歓楽街の研究を続ける武岡暢准教授(立命館大学)はいう。 「女性たちは個人事業主で、店は場所を貸しているだけといったとしても、それはあくまで表向きの建前。店と女性との間に雇用関係がなくても、実際は就業に関する厳しい規則があったり、出勤についての細かい指示があったりと、結局は女性に裁量がそこまでないというケースは多く見られます。セックスワーカーの全体像をつかむのは難しいものの、働き方の実態は、ほとんど従業員というケースも少なくないのでは」 AV業界の先例  2022年、警視庁では、生活に困窮した女性が都内の繁華街で売春を行うケースが増えたことなどを受け、検挙された女性を対象に自治体の相談窓口に同行するなどの支援を専門に行う担当者の配置を始めた。またDV(家庭内暴力)や性被害、貧困などさまざまな困難を抱える女性への支援を強化する新法「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」が成立し、2024年4月から施行される動きもある。 【こちらも話題】 「セックスが正直しんどい」変わる共働き時代の妊活 専用器具でストレス軽減 https://dot.asahi.com/articles/-/214183  新法では、「売春を行うおそれのある女子」を要保護女子とした婦人保護事業も盛り込まれるが、「性風俗業に従事する人への差別を助長させるのでは」と懸念するのが、前出の要さんだ。  要さんは、新法によって、性風俗業界で働く人への風当たりが強くなり、法規制が強化されるなど、職を失う人が増えることを心配している。なぜなら日本国内で職を失うことで、海外に出稼ぎに行く流れが加速する可能性が拭えないためだ。 「実際に、AV業界ではすでに、懸念している現象が起こり始めています」(要さん)  書面での出演契約から1カ月間の撮影禁止や、全ての撮影終了後4カ月間の公表禁止、公表後1年間(施行後2年間は経過措置として2年間)は無条件で全ての出演契約を解除可能であることなどを定めた「AV新法」の影響もあり、今後AV女優の仕事はコロナ禍以上に減ると見られている。一方、日本のAV作品は世界的にも人気で、たとえ国内で稼げなくなってきていたり、また有名でなくても、「日本のセクシー女優」の肩書きがあれば、売買春の需要は跳ね上がる傾向がある。  2023年9月、香港で逮捕された売春グループの中に日本人女性が4人おり、うち1人がAV女優だったと現地メディアで報道された。日本国籍の女性の1回の料金は6千~7千香港ドル(約11万~13万円〈1香港ドル=18円換算〉)だったという。同グループは外国の女性たちや未成年の少女を香港に連れてきて売春させた疑いがあり、匿名性の高い通信アプリを通じて、「時給2千~2500香港ドル」と称して女性を集めていた。逮捕されたAV女優は、26歳と偽って売春をしていたが、実際は39歳だったという。 【こちらも話題】 "売春疑い"で「膣の中まで検査された」 日本人女性の入国拒否が急増する裏に審査官の情報網 https://dot.asahi.com/articles/-/205264  また2022年10月にも、同じく香港で、日本人のAV女優が売春摘発の捜査で逮捕される事件があった。現地メディアの報道によれば、女優は複数の外国人売春婦の一人として逮捕された。法律の網の目をかいくぐる際どいビジネスは、反社会的勢力が入り込む余地を与えやすい。売買春に絡むマネーは、反社会的勢力の資金につながりやすいのも事実だ。税務当局が把握できない資金を放置しておけば、闇経済がどんどん膨らみ、社会不安の温床が広がってしまう。 「日本の風俗の仕事が規制されて、海外でしか稼ぐ手段がなくなると、出稼ぎを考える人がもっと増えてしまうかもしれない。出稼ぎはリスクが高く、逮捕されると人生のチャンスを棒に振ることにもつながる。危険な綱渡りをしなくても日本で十分稼げる環境が守られるよう願っています」(要さん) www.amazon.co.jp/dp/4022952571 【こちらも話題】 「1カ月300万円稼げる」 35歳女性が入国審査をくぐり“海外出稼ぎ”を繰り返す理由 https://dot.asahi.com/articles/-/205268
日本人風俗嬢風俗国際女性デー
dot. 2024/03/10 16:00
〈受験シーズン〉東大理三合格者数トップの高校は? 「学校教材のみで合格」に「入学辞退者」“ハンパない”天才列伝
〈受験シーズン〉東大理三合格者数トップの高校は? 「学校教材のみで合格」に「入学辞退者」“ハンパない”天才列伝
東大本郷キャンパスの赤門  受験シーズンが最終盤を迎えた。過去に話題となった記事を再配信する。(この記事は、2023年3月4日に配信した内容の再配信です。肩書、情報等は当時) *   *   *  日本でもっとも優秀な高校生が入学するといわれる東京大学理科三類。過去60年間で、合格者数トップになった回数が最も多かった高校はどこか。また2022年、初めて1位になった女子校は――。教育ジャーナリストの小林哲夫さんが、理三に合格した「天才」たちのエピソードとともに、過去の合格高校のデータを振り返る。※『改訂版 東大高校合格盛衰史』(光文社新書)から一部抜粋  2022年、東大理三合格者1位は桜蔭だった。同校初、そして初めての女子校トップである。  温故知新。  いまから60年前の1963年はどうだったのだろうか。ランキングを作ってみた。  1位日比谷、2位灘である。同年の東大全体のトップは日比谷で168人、翌年の1964年には193人の合格者を出している。日比谷の全盛期だった。  63年理三合格者92人の出身校は、公立63人、国立10人 私立19人となっている。地方の公立高校が勢いがあった時代である。なお、このとき、いまの理三合格上位常連校の開成、桜蔭が登場していなかった。  2022年、東大理科の合格最低点は理一303点、理二287点、理三348点だった。東大入試では1点のあいだだけで優秀な受験生がひしめいている。同じ東大でも、理三との差が理一で45点、理二で61点だから、これは天文学的な数字のように見えるようだ。東大で他の科類からすれば理三は別世界であり、天才、秀才的な地頭をさらにハンパない努力で鍛えないと受からない、と言われている。実際、駿台予備学校、河合塾の東大模試上位成績者は理三志望者で埋め尽くされる。上位60人ぐらいはそのまま理三合格者となってしまう。  理三に日本でもっとも成績が良い高校生が入る。最先端研究に取り組む、医療現場で命と健康を守るという強い志を持って受験するのが大半だろうが、灘高校の元教員によれば、自分の頭の良さを証明するために理三を受けた。入学後も駿台の東大模試を受けて頭の良さを確かめる者もいたという。   理三は62年から募集を開始した(それ以前は理一、理二から受験して医学部へ進学)。理三合格史60年からエピソードをいくつか紹介しよう。  70年代半ば、宇都宮高校の「進学資料」に理三合格者に記録が残っている。「一年から群を抜いた実力を発揮し、校外模試においても全国の中で常に最上位にあった。一年時から毎日五時間の勉強を確保し、(略)休み中は各教科あわせて十二時間の勉強をした」(『宇都宮高校百年誌』、79年)。87年、大学入試センターは、「共通一次試験のトップは地方の現役の女子高生で792点(800点満点)」と発表した。該当者が1人いた。富山県立富山中部高校の女子生徒Yさんである。彼女は東大理三、京大医学部に合格した(当時はダブル受験が可能)。  02年、山形東から理三合格のKさんは浪人生活が長かった。「僕ほどふざけた人間もいないでしょう。なんせ、7浪ですから。なかなかできることじゃありません」(『天才たちのメッセージ 東大理III 2002』 エール出版)。  04 年、土佐塾高校出身のHさんは現役で理三合格したが入学を辞退。後期試験で京大理学部を受けて合格し入学した。Hさんは中学受験で灘、愛光に受かったが土佐塾へ進む。高校2年、3年の時、数学オリンピックに出場。3年で銀賞(上位4分の1)を獲得する。Hさんはこう話す。「申し訳ないんですが記念受験というやつです。(略)これからは存分に数学の研究をやっていくつもりです。理IIIに合格された人たちも頑張って医学の道を進んでください」(『天才たちのメッセージ 東大理III 2004』)。  08年、盛岡第一から現役で2人が合格した。うち1人、Eさんが語る。「学校がすごく力を入れて指導してくれましたから、ほとんど学校の教材を使って勉強していました」(『天才たちのメッセージ 東大理III 2008』)。東大合格校御用達の鉄緑会もENAもない地方公立高校の理三受験生にとってこれほど勇気づけられることはない。  理三女子二題。13年、豊島岡学園女子出身のAさんが15年に準ミスユニバースに、18年、岡崎高校から入学したWさんがミス日本準グランプリに選ばれた。2000年代以降、理三の女子比率は文一を凌ぐようになる。 改訂版 東大合格高校盛衰史(小林哲夫著)  そして、22年理三合格者高校1位は桜蔭高校だった。13人を数え桜蔭初、女子校で初のトップとなる。同校出身のIさんは鉄緑会で桜蔭OGの教えを受けていた。そのOGも桜蔭に在学中は鉄緑会に通い桜蔭OGに面倒をみてもらったという。こう話す。「桜蔭と鉄緑会、そして理IIIというバトンがそうやって受け継がれているような気がするので、私もそうやって誰かの目標になれれば嬉しいな、と思っています」(『天才たちのメッセージ 東大理III 合格の秘訣◯37』)。桜蔭、鉄緑会、理IIIという黄金のトライアングルは長く続きそうである。中学受験を含めれば、これにSAPIXが加わるはずだ。  62年から22年までの理三合格者の出身校、合格者数の累計は、設置別に国立大附属13校680人、公立284校1325人、私立152校3352人。合格者数累計の上位校は (1)灘798人(13・1人)、(2)開成396人(6.5人)、(3)筑波大附属駒場362人(5.9人)、(4)ラ・サール329人(5.4人)、(5)桜蔭181人(3.0人)だった(カッコ内は1年平均に換算)。公立高校は、(1)日比谷41人、(2)戸山36人、(3)湘南34人、(4)西33人、(5)旭丘33人。  理三合格トップになった回数がもっとも多いのは、灘43回、開成7回、筑駒4回、ラ・サールと麻布3回、日比谷2回。そして、1つの高校から理三に多く合格者を出したのは、13年の灘だった。27人を数える。灘は81、87年にも24人が合格している。一方、地方の公立高校でふだんは東大に多くの合格者を出していないが、理三合格者を出した学校がある(以下、カッコ内は所在地・合格者を出した年)。倶知安(北海道・64年)、熊毛南(山口・71年)、三島(愛媛・94年)、天草と八代(熊本・66年)、臼杵(大分・88年)、錦江湾(鹿児島・84年)などだ。  少子化は理三に人材を送りだした学校も容赦しなかった。自治体の方針で隣接高校との再編で廃校となった理三合格校がある。千歳(東京・63年)と明正(同・66年)は統合して芦花、長後(神奈川・98年)は藤沢北と統合して藤沢総合、日和佐(徳島・97年)は海南と宍喰商業の2校と統合し海部となった。  東大医学部には推薦で入学できる。ただ、当然その要件は厳しい。「高い基礎学力」「自然科学の領域においてきわめて高い能力」あるいは「非常に優れた語学力」が求められる。そのため、国際科学オリンピック(数学、物理学、化学、生物学など)で「顕著な成績を挙げ」たこと、または「きわめて高い英語の語学力(TOEFL iBT100点以上あるいはIELTS 7点以上に相当する英語力)及び豊富な国際経験」を証明する資料を提出しなければならない。  推薦入試に合格した西大和学園高校の生徒は、選考に挑む際の準備について、次にようにふり返る。「志願書は英語力をアピールするために英語で書き、私は理科系オリンピックの受賞歴がないので、英語力と国際経験の方面で出願。英語力はTOEFL iBTで114点を取った証明書、国際経験を示す資料として、シンガポールの生活やワールド・スカラーズ・カップでの経験をまとめました」(『天才たちのメッセージ 東大理III 合格の秘訣35』)。理三(東大医学部)には日本でもっとも優秀な頭脳が揃う。だが、ノーベル賞受賞者は出していない。それゆえ、しばしば記憶力抜群だが創造性に欠ける頭でっかちと冷ややかな評価がなされ、理三の選抜方法、合格者の資質、大学教育のあり方が問われる。そんな批判をはね返す活躍をしてほしい。 (教育ジャーナリスト・小林哲夫) ※『改訂版 東大合格高校盛衰史~1949年~最新ランキング徹底解剖』(光文社新書)から抜粋
東大
AERA with Kids+ 2024/03/10 12:00
伊藤健太郎と復縁報道「山本舞香」 逆境でも“一途なヤンキー”気質を貫く姿に業界人も称賛
丸山ひろし 丸山ひろし
伊藤健太郎と復縁報道「山本舞香」 逆境でも“一途なヤンキー”気質を貫く姿に業界人も称賛
山本舞香(写真:2018 TIFF/アフロ)    現在放送中の鈴鹿央士主演ドラマ「闇バイト家族」(テレビ東京系)に出演している女優の山本舞香(26)。闇バイトをテーマにした本作は、5人の男女がニセ家族を演じながら人生の再起を図る姿を描き、山本はヒロインとして一家の長女役を演じている。昨年10月期に放送された相葉雅紀主演ドラマ「今日からヒットマン」(テレビ朝日系)でも、山本は主人公の相棒となるヒロイン役を演じ、このところ立て続けにメインキャストとして連続ドラマに出演している。  出身地の鳥取県で美少女として注目され、「リハウスガール」のCMでブレーク。2011年放送のドラマ「それでも、生きてゆく」(フジテレビ系)で、女優デビューを果たした山本。現在もコンスタントにドラマや映画に出演し、女優業は順風満帆のようだ。一方、プライベートでは交際中だった俳優の伊藤健太郎が起こしたひき逃げ事件(のちに不起訴)の後、一部で破局説も伝えられたが、昨年7月に「文春オンライン」が復縁したと報じた。  さらに今年1月には「FRIDAY」が東京・渋谷で2人がデートを楽しんでいる様子をキャッチ。一連の報道を見ると、たとえ恋人が不祥事を起こしても見捨てることなく、側で支えていたと捉えることができる。 「山本は気が強そうなイメージが強いため、一部で苦手意識を持つ人もいるかもしれませんが、一本筋が通った性格です。例えば、10代前半から面倒を見てくれている事務所の社長について、以前は気に入らないことを言われると反発し、何回もやめたいと言って不安にさせたが、そのたびにいろいろな言葉で支えてくれたと感謝しています。当時は『どうせ私のことを全部わかっているわけじゃない』と信じ切れないでいたようですが、今になってみれば社長は必死に育てようとしてくれ、守ってくれていたことも分かると、以前にインタビューで語っていました。20歳になってからは社長とお互いに本音で話せるようになり、我慢強く今の環境をつくってくれた社長のことは大切にしないといけないと思っているとか。恩に対して報いたいと思いが強いようです」(テレビ雑誌の編集者) 黒髪パッツン時代の山本舞香   彼氏の前では甘えるタイプ  恩を忘れない人はいつか相手に恩返しをしたいと考えるもの。山本は義理堅い性格なのだろう。「Numero TOKYO」(2022年8月22日配信)では自身について、昔から後輩をめちゃくちゃかわいがるタイプで、必要以上に心配してしまうと明かしていた。さらに、デビュー当時は反発していて、それがあったから今、同じように悩んでいる後輩の気持ちも「きっとこういうふうに思ってるんだろうな」と分かると告白。一方、自分の経験を伝えても後輩は「何言ってんの? 私はあなたと同じじゃないから」と思うはずなので、後輩たちがなるべく嫌な思いをしないように伝えたいと話していた。ただ優しいだけではなく、しっかり気持ちもくみ取り、相手の身になって気遣いできる一面もあるようだ。 「伊藤との関係を見ても分かる通り、恋愛に関しても一途で真面目な考えのようです。最近、バラエティー番組で占い師から『尽くし屋さん。一途な方ですね』と指摘され、『私、一途なんです』と自分でも認めていました。料理をしたことがなくても、恋人ができたら料理をするようになったそうです。さらに、別のバラエティー番組では、彼氏の前ではめちゃくちゃ甘え、『あまり表で見せない顔を彼にだけは見せたい』と話していたことも。一途な人は相手を大切にする気持ちも強いですし、そんな人柄もあって伊藤と復縁したのでしょう」(同)  一見ヤンキーっぽく見える外見も、中身は一途で尽くすタイプだという気質が知られるようになり、好感度も上がっているのかもしれない。 山本舞香(写真:2018 TIFF/アフロ)   表裏がなくて気持ちの良い子 「オリエンタルラジオの藤森慎吾が山本について、『好みに合わないとき露骨にテンションが下がる。(だけど)裏表がなくて気持ちの良い子』と、以前にバラエティー番組で称賛していたこともあります。こうした性格は、夫の不倫騒動があったものの離婚をせず、2児の子育てに励む佐々木希と通ずるものも感じます。2人とも同じヤンキー気質ですし、肝が据わったところなども似ていると思います」(放送作家)  芸能評論家の三杉武氏は女優としての山本についてこう評価する。 「山本さんといえば、2018年の映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』でのギャルっぽい女子高生役や『今日から俺は!! 劇場版』での正義感の強い女番長役、ドラマ『チア☆ダン』での路上でダンスに励む不登校気味の女子高生役などクールな役が多い一方、ドラマ『南くんの恋人~my little lover』ではキュートな女性も好演しています。印象に残っている出演作はドラマ『死にたい夜にかぎって』。女性に対してトラウマを抱える不器用な主人公とネットで知り合い恋に落ち、6年もの同棲生活をおくりながら、変態に唾液を売って生活していたヒロインという難役を熱演しています。私生活も注目を集めていますが、恋愛や結婚が仕事面でマイナスに作用するタイプの女優ではありませんし、ビジュアルだけでなく演技に関しても業界内での評価は高く、今後もさらに活躍の場を広げていきそうです」  気の強さから“生意気そう”と先入観で見られることはあるが、人間的な魅力にあふれている山本。その一本気な性格は、幅広い層から支持されそうだ。 (丸山ひろし)
山本舞香伊藤健太郎
dot. 2024/03/09 11:00
〈きょう国際女性デー〉スザンヌ「34歳の高校生」で思ったこと 17歳下の同級生から“無視”されるも「すごくかわいい」 
唐澤俊介 唐澤俊介
〈きょう国際女性デー〉スザンヌ「34歳の高校生」で思ったこと 17歳下の同級生から“無視”されるも「すごくかわいい」 
高校の制服姿のスザンヌさん(画像=インスタグラムより)    3月8日は国際女性デー。女性の働き方や生き方は多様になった。著名人に、それぞれの人生の選択をたずねた過去のインタビューを再掲する。(この記事は2023年12月23日に配信した内容の再配信です。年齢、肩書等は当時) *  *  *  2007年ごろに「おバカタレント」として大ブレークしたスザンヌさん(37)。現在は故郷の熊本で小学4年生の息子と2人で暮らしている。21年には中退していた母校の高校に再入学し、昨年無事に卒業。さらに大学に進学し、今年は会社を起業した。タレント活動以外に、シングルマザーをしながら学び直し、起業までするバイタリティーは一体どこからくるのか。その刺激的な日々の暮らしぶりを話してくれた。 「コロナ禍で家に閉じこもっていたとき、息子にどうやって勉強の仕方を教えていいかわからなかったんです」  スザンヌさんは、中退していた母校、第一薬科大学付属高校(福岡市。当時は第一経済大学付属高校)に一昨年再入学をしたきっかけをそう語る。  2020年、小学校に入学した長男は新型コロナウイルスの感染拡大による臨時休校が続き、自宅にいる時間が長くなっていた。 「休校になったときに宿題がたくさん出されて、息子から『どうやって勉強すればいいの?』と聞かれたんです。でも、私自身これまで真剣に勉強をしたことがなくて、息子の疑問に答えることができませんでした。それで、『じゃあ息子と一緒に勉強してみるか』と思ったのが再入学の大きな理由ですね」 息子との食事風景(画像=インスタグラムより)    これまでにも何度か、高校に再入学しようと考えたこともあったという。しかし、週1回の登校が壁になっていた。 「通信制の高校だったんですけど、毎週日曜日には学校に行って授業に出る必要があったんです。仕事もあるし、週末は子どもと過ごせる貴重な時間だったので、日曜日の登校を2年続けるのは難しいと感じ、断念していました。でも、コロナを機に授業をオンラインで受けることができるようになったんです」 高校の体育の授業の様子(画像=インスタグラムより)   朝4時半に起きる生活  そんな折、母校の先生から、再入学を勧める連絡があったのだという。きっかけは、スザンヌさんがゲスト出演した「地元検証バラエティ 福岡くん。」(福岡放送)の「福岡女子高生カワイイ制服ランキング」という企画だった。 「番組内で『私、この高校(第一薬科大学付属高校)に行ってたんです。卒業してないんですけどね』っていう話をしたら、それを見た高校時代の学年主任の先生から『卒業してみないか』って連絡が来たんです。実は、それまでも同じ先生から何度かお話をいただいていました。その先生は、過去の私の学業に関する資料を引き継いでくださっていたり、中退するまでに取得していた単位を残してくださっていたりして、いつかは行きたいなという気持ちがずっとありました」  すでに退職してしまったというその教員との思い出を聞くと、「怖い先生でしたね」と懐かしみ、笑みを浮かべた。 「結構バイオレンスな先生だったけど、高校を辞めて芸能の仕事を始めてからも、『頑張ってるな』って時々連絡をくれたりして、ずっと気にかけてくれていました。厳しいけれど愛のある先生でしたね」  再入学を果たした母校では、どのような高校生活を送っていたのだろうか。 「朝は4時半~5時くらいに起きて、勉強したり、レポート書いたりしていました。そのあとは、7時くらいに子どもが起きてくるので、朝ごはんを食べさせて、学校に行かせて、また勉強に戻るという感じで過ごしてました。定期的に、学校に行って体育の授業とかもあったり、ホームルームに参加したりもしていました。私は入学当時34歳だったんですが、自分の半分の年齢の17歳とか18歳の子どもたちは、もうなんかキラキラしていて。思春期だからか話しかけても無視されたりとか(笑)。でも、それもすごいかわいいなって。小学生の息子もこうなっていくのかあって想像がふくらみましたね」 母・キャサリンさんと(画像=インスタグラムより)   母親に言われた「一言」  2度目の高校生活を経験したことで、人生で初めて、勉強の楽しさを味わったという。 「マーケティングの授業が印象に残っています。例えば、コンビニの陳列棚の配列をどのようにすれば購買意欲がかきたてられるとか。確かに、自分もレジ横に置いてある商品を思わず買ってしまうなと思ったり。身近なものをテーマに学ぶことができてすごく楽しかったですね」  22年、無事高校を卒業したスザンヌさん。なんと成績優秀者として表彰されている。その際、母・キャサリンさんからはこんな言葉をもらったという。 「母には実際の高校生のときに途中で辞めてしまった過去があるので、すごく嫌みっぽく、『高すぎる授業料だったわ』って言われて(笑)。ホントすみませんって感じでした。でも、そんな私が自分で高校への再入学を決めて、卒業したことは『誇りだわ』って言ってくれました。それだけでも入り直してよかったなって思いましたね」  同年、スザンヌさんは、大学に進学する。だが進学するかどうかは相当悩んだという。 「高校は1年間だったから耐えられたんですけど、大学は4年間あるじゃないですか。それを乗り越えることができるのかなって」  進学の決め手になったのが、息子の小学校卒業のタイミングだったという。 「このタイミングで大学に入ると、卒業の時期が小学生の息子と一緒になるんです。それで、息子と一緒に卒業することを一つの目標にしようと思いました」 大学の入学式での一枚(画像=インスタグラムより)   経営学を学んで起業を決意  もう一つ、スザンヌさんには考えていることがあった。それは「起業」だ。 「5~6年前くらいから漠然とですが考えていて。というのも、これまで、私と子どもの2人暮らしで過ごしてきて、息子もだんだん大きくなって、思春期を迎えてっていうなかで、やっぱり私も子離れをしないといけないし、むこうも離れていっちゃうしって思ったんです。なので、私も何か新しいことにチャレンジして、今まで子どもに使っていた時間やエネルギーを向ける先をつくる必要があるなって思ったんです。それって何なんだろう、と考えたときに思い至ったのが起業でした。でも、大学進学にあたっては、起業に限らず、エネルギーの発散先をつくるための4年間にしたいなと思っていました」  現在、大学2年生のスザンヌさん。起業は卒業後にする予定だったが、予定を早め、今年11月に株式会社yamaの設立と、ファッションブランド「Style Reborn」の立ち上げを発表した。 「経営学や経済学を勉強して、先生方の話を聞くうちに、今やれるのにやらないのはもったいないなって思うようになったんです。どうせいつやっても大変なことには変わりはないから、だったら体力的にもこのままやったほうがいいかなと思って起業しました」  早速、第1弾の古着をリメイクしたニットを販売し、先日開始した第2弾もすぐさま完売した。 「みなさんに大事にされるようなブランドにしていきたいです。『yama』に関しては、今やっているのはアパレルだけですけど、せっかく熊本にいるので、熊本在住の方とのコラボや、熊本の果物など、おいしい食べ物をみなさんに知ってもらえるような事業をしていきたいと思っています」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ※【後編】<熊本でシングルマザー「スザンヌ」が明かす理想の再婚相手 「3年に1回しか会えない距離感の人がいい」>に続く ●スザンヌ/1986年、熊本県生まれ。2008年、同県宣伝部長に就任。テレビ番組「クイズ!ヘキサゴンII」(フジテレビ系)で「おバカタレント」としてブレーク。14年、第1子を出産。翌年、故郷である熊本県に息子とともに移住する。21年、中退していた母校・第一薬科大学付属高校(元・第一経済大学付属高校)の通信課程に入学、翌22年、卒業した。同年、日本経済大学に進学。今年、株式会社yamaを設立し、ファッションブランド「Style Reborn」を立ち上げた。
スザンヌ女子高生国際女性デー
dot. 2024/03/08 16:50
異色の経歴で人気博したランナーは? “五輪未出場”も日本女子マラソン界を彩ったスター選手たち
dot.sports dot.sports
異色の経歴で人気博したランナーは? “五輪未出場”も日本女子マラソン界を彩ったスター選手たち
“普通のOL”から日本を代表するランナーとなった谷川真理  今夏に控えるパリ五輪へ向けて、日本マラソン界は選考レースが続いている。現時点で男子代表が小山直城、赤﨑暁、大迫傑の3人、女子代表が鈴木優花、一山麻緒の2人が決定し、残りは「女子1枠」のみとなった。特にこれまで金2個(高橋尚子、野口みずき)、銀1個(有森裕子)、銅1個(有森裕子)の五輪メダルを獲得している女子マラソン界の中で、五輪不出場も大きな存在感と足跡を残したランナーを振り返りたい。  数々の名ランナーが誕生してきた日本女子マラソン界だが、異色の経歴を持つランナーとして人気を博したのが、谷川真理だろう。1962年生まれ。普通のOLだった24歳から“皇居ラン”で練習を始めて、市民ランナーとして注目を集めて1990年に資生堂に入社。そして1991年東京国際女子マラソン、1994年のパリマラソンでの優勝など、数々の大会で好結果を残した。だが、選考レースに出走したバルセロナ五輪、アトランタ五輪は、ともに出場切符は掴めなかった。それでも、第一線を退いて以降もランナーとして走り続け、タレント活動や社会貢献活動も通して「走る喜び」を広めている。  谷川も候補となっていた1992年バルセロナ五輪の代表選考で“無念の落選”として記憶されているのが、松野明美だ。1968年生まれ。高校卒業後に入社したニコニコドーでの猛練習で力を伸ばし、身長147cmと小柄ながら軽快な走りで、実業団駅伝や都道府県駅伝などで“ごぼう抜き”を連発。「駅伝女王」としてスターランナーとなった。そして1988年のソウル五輪に10000mで出場した後にマラソンに転向すると、1991年の大阪国際女子マラソンで好タイム(2位)を出した。これによって一時は1992年のバルセロナ五輪代表入り確実と言われたが、最終的に有森裕子が3人目の代表選手に選ばれ、松野の涙の会見とともに“騒動”として当時は大きなニュースとなった。  安部友恵の名前も懐かしい。1971年生まれ。高校卒業後に旭化成に入社。そして21歳で初出走した1993年の大阪国際女子マラソンで、浅利純子とデッドヒートを繰り広げながら最後の競技場に入る直前にテレビ中継車につられて進入路を間違えるミスで2位となり、直後のインタビューで「私ってマヌケだなぁ~と思いました」と明るく笑い飛ばして人気者になった。そして翌年の同大会でリベンジ優勝を果たすと、1993年の世界選手権で銅メダルを獲得した。だが、年齢的にベストのタイミングだったアトランタ五輪では、選考レースでスタート直後に転倒するアクシデントに見舞われて補欠止まり。100kmウルトラマラソンの世界記録を樹立したが、五輪の舞台に立つことはなかった。  同じように愛くるしいキャラクターで人気だった千葉真子も、マラソンでの五輪出場は叶わなかった。1976年生まれ。元々はトラック種目で実績を残し、10000mで1996年アトランタ五輪5位入賞、1997年世界選手権で銅メダル(日本女子トラック長距離種目初)を獲得するなど活躍した。その後、マラソンに転向し、故障を乗り越えて出場した2003年のパリ世界選手権では、2位の野口みずきに次ぐ3位でゴールした。しかし、シドニー五輪は怪我で選考レース欠場などもあり選ばれず、アテネ五輪も補欠止まり。それでも北海道マラソンで3度の優勝を飾るなど、「ちばちゃん」と呼ばれながら、レース後の笑顔とともに多くのファンに親しまれた。  千葉と同じく人気ランナーだった渋井陽子も、マラソン代表として世界陸上には出場したが、五輪には出場していない。1979年生まれ。高校卒業後に三井(現・三井住友)海上に入社。そして2001年1月の大阪国際女子マラソンでいきなり2時間23分11秒の当時初マラソン世界最高記録で優勝を飾り、一躍スターダムにのし上がった。さらに同年夏の世界陸上選手権に出場(4位)した後、2004年のベルリンマラソンで当時の日本記録を樹立した。しかし、出場が期待されたアテネ五輪、北京五輪の選考レースでは、ともに終盤に失速して惨敗。明るくお茶目な性格と物怖じしないレース運びで人気を集めたが、五輪は10000mで出場(北京)したのみだった。  女子マラソン界も高速レース化が顕著となっている中で、日本人選手が結果を残せない時代が長く続いている。再び、日本が世界を相手にメダルを争える時代が来るのか。今回、五輪不出場のランナーたちの顔ぶれに“豪華さ”を感じながら、日本女子マラソン界の復権を期待したい。
女子マラソン人気ランナー
dot. 2024/03/07 17:30
【女性社長の出身大学ランキング】1位日本大、2位慶應義塾大。3位以降は? 企業のトップで働く女性について考える
【女性社長の出身大学ランキング】1位日本大、2位慶應義塾大。3位以降は? 企業のトップで働く女性について考える
「社長の出身大学ランキング」(2023年。東京商工リサーチ調べ)  3月8日は国際女性デーとされ、毎年この時期には世界中で女性の地位向上、女性の生き方について考えられ、論じられる。  最近では2024年4月、日本航空社長に同社初の女性社長として鳥取三津子氏が就任することが話題になった。彼女は1985年(男女雇用機会均等法施行前年)、活水女子短期大を卒業し東亜国内航空(のちの日本エアシステム)にキャビンアテンダントとして入社した。やがて日本エアシステムは日本航空に統合され、20年に彼女は同社の執行役員となる。女性、短大出身、キャビンアテンダント出身、統合した会社出身など「初」づくしだ。 「社長の出身大学ランキング」から女性トップの状況を見ると…  日本では、1986年の男女雇用機会均等法(以下、均等法)施行から40年近くたった。 均等法1期生(大卒で86年入社組 1963~64年生まれ)は60歳となり、定年もしくは定年間近の年齢を迎える。均等法によって、男女の雇用機会は均等になったのだろうか。  「社長の出身大学ランキング」(2023年/東京商工リサーチ調べ)から女性の数字をみると、残念なことに均等とはおよそほど遠い状況であることがわかる。 *日本大2万248人、うち女性480人(2.4%) *慶應義塾大1万617人、うち女性393人(3.7%) *早稲田大1万420人、うち女性334人(3.2%) 「社長の出身大学ランキング」(2023年。東京商工リサーチ調べ) 「社長の出身大学ランキング」(2023年。東京商工リサーチ調べ)    均等法施行以降、女性が企業のトップに就くケースは少なかった。  1980年代以降、総合職で採用される女性は増えつつあった。だが、その数は男性に比べれば十分ではない。また、入社後もその企業に染み渡った男社会ゆえ昇進では男性が優先され女性がキャリア形成面で後れをとってしまう、などの現実が待ち構えていた。  こうした女性にとって厳しい企業風土のなか、トップに就いた女性がいる。何人か紹介しよう。   1986年(均等法1期生)、丸山千種氏は成蹊大法学部を卒業しキリンビールに入社した。同社初の女性営業職として活躍する。2016年キリンエコー(キリンホールディングス100%子会社)の社長に就いた。現在はキリンビール人事総務部人事担当主幹をつとめる。  1988年(均等法3期生)、江田麻季子氏は早稲田大第一文学部を卒業し、90年に米アーカンソー州立大大学院を修了。2000年にインテルに入社した。同社でアジアパシフィック地域のマーケティングディレクターとしてキャリアを積み上げる。13年から18年までインテルの社長をつとめた。その後、富士フイルムホールディングス社外取締役、東京エレクトロン社外取締役、住友商事常務執行役員となり現在に至る。この間、内閣府規制改革推進会議委員(16年就任)、世界経済フォーラム日本代表(18年就任)を歴任している。日本より男女の隔てがないアメリカの企業文化によって、江田氏はキャリアを積み重ねることができ、社長になったという側面もあろう。  1989年(均等法4期生)、鳥海智絵氏は早稲田大法学部から野村証券へ女性総合職2期生として入社した。同期の総合職300人中、女性は彼女を含め7人だった。トレーディング、エクイティ、投資銀行などの部門で経験を積み、2014年野村信託銀行執行役社長に、2023年には、野村証券副社長に就任した。早稲田大の広報誌で後輩にこうエールを送っている。「女性の方が結婚や出産など、人生の選択を迫られるタイミングが多いのは間違いありません。生涯設計が大事だといいますが、予期せぬことが起きるのが人生。事前にプランを決め過ぎずに“たわみ”を持ちながら人生を柔軟に切り開いていってほしいと思います。学生時代は、その選択肢を広げる貴重な時間です」(「早稲田ウィークリー」2015年4月20日)  1991年(均等法6期生)、及川美紀氏は東京女子大文理学部を経てポーラに入社した。教育、マーケティング、商品企画、営業など化粧品事業をすべて経験し、2020年社長に就任した。母校についてこう話している。「女子大のように、女性というジェンダーをしっかり見つめて、「女性にはもっと可能性がある」ということを声高に言ってくれる場所はあまりないと思っています。これからの社会をリードしていく女性たちがどうあるべきかを真剣に考えてくれている環境は女子大ならではだと思います」(東京女子大ウェブサイト)。 2010年代以降は企業のトップに立つ女性が増えてきた  彼女たちばかりではない。均等法から約四半世紀たった2010年代、企業トップとして活躍する女性は増えてきた。一部上場企業、ベンチャー企業などを中心に女性社長を紹介しよう。   ユーシン精機社長の小谷高代氏は大阪大大学院修了後、日立製作所生産技術研究所に入ったが、その後、外資系コンサルティング会社KPMGに転職する。マサチューセッツ工科大ビジネススクールを経て、ユーシン精機に入社し、2021年社長になった。  ビザスクCEOの端羽英子氏は東京大経済学部を卒業後、ゴールドマン・サックス証券に入社。その後、マサチューセッツ工科大ビジネススクールを修了し、日本ロレアルなどを経て、12年株式会社walkntalk(現・ビザスク)を設立した。事業内容はリサーチ、コンサルタントなど。  coly社長の中島瑞木氏は東京大教養学部を卒業後、モルガン・スタンレーMUFG証券を経て、14年に、オンラインゲームの企画・開発・運営をするcolyを双子の妹と設立した。18年社長に就任、現在は副社長。  ウォンテッドリー社長の仲暁子氏は京都大経済学部出身。ゴールドマン・サックス証券を経て、2010年フューエル(現・ウォンテッドリー)を設立した。企業の早期離職対策、人材育成を支援している。  はごろもフーズ社長の後藤佐恵子氏は慶應義塾大経済学部出身。味の素、スタンフォード大経営大学院修士課程、マッキンゼーを経て、04年にはごろもフーズに入社した。常務取締役サービス本部長などを歴任する。19年、社長となった。同社は「シーチキン」で広く知られており、1931年創業以来初の女性社長となる。はごろもフーズの将来について、こう話している。「まず当社で取り組んでいきたいのは、女性の積極的な登用です。もちろん、産休、育休といった制度を整え、仕事に復帰してからもできるだけ仕事が続けやすいような環境づくりを常に考えています。私自身、自分の経験から切実に感じた時間単位での有給休暇の取得制度を今年から始めたいと思っています」(「三田評論ONLINE」2020年4月15日)  難関大学、アメリカのビジネススクール、外資系証券会社またはコンサルタント会社など共通項が多い。企業トップになるためのロールモデルの一つとして確立しつつある。 老舗企業で頭角を現す女性たち  伝統的な企業でも女性がかじ取りする姿は、若い人たちの励みになる。  JR九州取締役常務の赤木由美氏は早稲田大第一文学部出身。JR九州に入社後、広報、営業、経営企画部門を担当し、12年にJR九州ファーストフーズの社長になった。JR九州グループで初の女性社長である。その後、JR九州人事部長、熊本支社長、上席執行役員などを経て、23年に取締役常務となった。社内での評価は高い。「その実績、能力とともに、人格、見識とも優れており、ESG経営、JRの強化やグループ全体の経営戦略の推進、DXの推進等を通じて当社グループの企業価値の向上及び持続的なモビリティサービスの構築に中心的に力を発揮するとともに、取締役会における議論にその知見を反映することを期待し、取締役候補者といたしました」(JR九州第36回定時株主総会の案内)   ホッピービバレッジ社長の石渡美奈さんは立教大文学部を卒業後、日清製粉に入社したのち、広告会社でのアルバイトを経て祖父が創業したホッピービバレッジに移った。広報宣伝担当、副社長などを経て、2010年社長に就任。石渡氏はこう記している。「私が大学生の頃は、まだ『女性が経営者なんて』という時代。卒業後は別の会社に就職したものの、27歳のとき、やはり家業を継ごうと覚悟を決めました。父に嘆願したら『お前には無理だ』と一蹴されたのですが、1年かけて説得して入社。以来、自ら広告塔『ホッピーミーナ』と名乗って積極的に広報活動を行うなど、業界の異端児と言われながら歩んできました」(季刊「立教」254号〈20年11月〉) 新ビジネス、起業にも女性の躍進がみられる  一方、新しいビジネスに挑戦し、起業する女性たちがいる。  コスメ商品を販売するDINETTEを経営する尾崎美紀氏は、中央大総合政策学部在学中、芸能界で活動していた。ヘアメークをしてもらった経験がきっかけとなり、美容にのめりこんでしまい、美容関連の会社を作った。  香りのブランド「whitte」を立ち上げた白石小百合氏は法政大国際文化学部卒業後、テレビ東京アナウンサーとして活躍した。その後、起業する。その理由についてこう記している。「香りの力に目覚めたのはアナウンサーとして局に勤め1~2年後、声が出なくなり味覚がなくなってしまった際に、香りを学んだことで感覚が戻った経験から。心と体、感性と感覚は繋がっていると確信。その後、フランスと日本でそれぞれ調香師に師事し、さらに独学で学び、ブランドを立ち上げる」(Whitteウェブサイト)   COTOCOTO代表者の山賀琴子氏は青山学院大法学部在学中、「2015年ミス青山グランプリ」に選ばれ、大手芸能プロダクション、研音に入社、俳優として活動し、TBS系のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」にも出演していた。19年COTOCOTOを設立し、ジュエリーブランド ENELSIA(エネルシア)のクリエイティブディレクターをつとめる。  Mederi代表取締役の坂梨亜里咲氏は明治大文学部を卒業後、コンサルティング会社勤務などを経て、2019年にmederiを創業。同社は医師など専門家による監修のもと妊娠や出産に関わるサービスを行っており、「自宅でできるもっとも身近な妊娠準備」を掲げている。坂梨氏は妊産婦食アドバイザーの資格を生かして、新しいビジネスに挑んでいる。こう話す。「mederiは私の長年の不妊治療経験がきっかけではじまりました。多くの女性に早くからご自身の体に興味を持っていただき、納得できる人生を歩むためのサポートをしたいと強い想いを持っています」(mederiウェブサイト)    テーブルクロス最高経営責任者CEOの城宝薫氏は立教大経済学部在学中の起業である。2014年設立。レストラン予約のアプリの開発・運営などを事業としている。会社を立ち上げた当初、学生ゆえに大変な苦労をしたという。「当時は親の扶養に入っていたこともあり、収入証明書もないので、オフィスを借りることも複合機をリースすることさえも大変でした。経験も浅く、商談も思うように進まないことも多かったです。もし、社会経験を積んでから起業していたら、もう少し早く成果を得られていたと感じることもありますが、若かったからこそ吸収も早く、早い時期に多くの経験を積み幅広い世界感を身につけることができたのは良かったと思っています」(東京都産業労働局東京都創業NET)  さまざまな分野で元気な女性が現れたことはとてもうれしい。  2024年3月、日経平均株価が史上最高値を更新し4万円台を付けた。だが、国民の多くは豊かさを感じていない。日々の暮らしが大変だからだ。企業の多くは景気の良さを感じていない。グローバル化のなかで経営のかじ取りが難しい。こうしたなか、女性社長の登場はたくさんの期待を抱かせてくれる。斬新かつ柔軟な発想で日本の社会を引っ張ってくれるのではないか。  悲しいかな、ジェンダーギャップ指数で日本は世界125位(2023年)という情けないポジションにある。まだまだ男社会全開の古い企業体質を改善させなければならない。そのためにも、優秀な女性を経営陣にどんどん登用してほしい。  日本航空社長に女性が就任という報に、女子学生は夢と希望を持てた。野村証券副社長の鳥海智絵氏、JR九州取締役常務の赤木由美氏は十分にトップを狙える。   日本の企業、日本の社会を良くするために、女性社長の誕生、活躍を期待したい。 (教育ジャーナリスト・小林哲夫)
国際女性デー大学ランキング
dot. 2024/03/07 16:00
10代に急速に広がる市販薬の過剰摂取 依存症患者の約7割は女子、その背景にあるもの
野村昌二 野村昌二
10代に急速に広がる市販薬の過剰摂取 依存症患者の約7割は女子、その背景にあるもの
ドラッグストアで手に入れやすい市販薬の乱用が、若者のODの広がりの背景にあるという。市販薬でも、決められた用量を超えて過剰に服用すれば、重い依存症に陥る(写真:Getty Images)   「市販薬」を乱用するオーバードーズ(OD)が、10代に急速に蔓延している。10代で薬物依存症の治療を受けた患者の市販薬使用の割合は、覚醒剤を大きく上回る。ODが10代に広がった背景には何があるのか。AERA 2024年3月11日号より。 *  *  *  オーバードーズ(OD)を始めたのは、中学1年の秋だった。 「しんどいな、苦しいな。そんな気持ちをごまかすために飲んだ感じです」  富山大学に通う、儚(はかない)さん(22、ハンドルネーム)はそう話す。  3歳の時に両親が離婚。母親(50代)と一緒に暮らし始めたが、じきに母からの虐待が始まった。殴る、蹴る、ネグレクト(育児放棄)……。児童相談所に保護されたことがあり、学校ではいじめられた。生きづらさから逃れるため、小学4年生の時にリストカットを始めた。中学に入ると、家にも学校にも居場所がなくなった。  そんなしんどさをごまかすため、母親が病院で処方されていた抗うつ剤や向精神薬に手を出した。  20錠くらいを水で一気に飲み下した。体調が悪くなり、貧血の時のような、ふらふらする感覚を得られODをやめられなくなった。  薬局でせき止めや風邪薬など市販薬を、小遣いで買って飲むようになった。店員にとめられることはなかった。学校では常に「体調が悪い人」と思われ、救急車で4度、病院に搬送され胃を洗浄されたこともあった。 「死にたい気持ちを、薬を飲んで体調を悪化させることで相殺させ、生き延びていた感じです」  中学3年生の時、この環境から抜け出すには大学に進学して家を出るしかないと決めた。勉強に集中するため、高校1年生でODをやめた。儚さんは振り返る。 「母親に心配してもらいたかった、という気持ちもありました」  一時的な高揚感や陶酔感などを得ることを目的に、せき止めや風邪薬など市販薬を乱用するODが、10代に蔓延している。  東京・歌舞伎町の通称「トー横」と呼ばれるエリアでは、「トー横キッズ」と呼ばれる若者らの間でODは「パキる」と呼ばれ流行(はや)った。昨年12月には東京都内の小学校で、高学年の女子児童2人がODをして救急搬送された。市販薬を校内に持ち込み、過剰に摂取していた。 AERA 2024年3月11日号より   コロナ禍で加速した子どもの「生きづらさ」  10代のODの広がりは、データにも表れている。「全国の精神科医療施設における薬物関連精神疾患の実態調査」によれば、10代で薬物依存症の治療を受けた患者の、「市販薬」が主な原因となった割合は、2014年は0%だったのが、22年には約65%を占め、覚醒剤(約4%)や大麻(約11%)を大きく上回る。  急速に、ODが10代に広がった背景には何があるのか。  依存症治療に携わる国立精神・神経医療研究センター(NCNP)薬物依存研究部長の松本俊彦医師は、「生きづらさ」があり、それが「コロナ禍で加速した」と指摘する。 「コロナ禍でステイホームになり学校に行けず外出も制限され、それまで家庭がしんどくてもなんとか生き延びていた子たちの逃げ場がなくなりました。子どもは『SOS』を出すのが苦手なため、誰かに助けを求めるのではなく、しんどい気持ちを市販薬で紛らわせるようになっていきました」  しかも今は、どの街にもドラッグストアはあり身近な場所になっているので、市販薬への抵抗感は低い。特に女子は、生理痛の問題もあり市販薬との距離が近く、男子よりも医療や医薬品へアクセスする傾向が強いこともあってか、患者の約7割を占めるという。  市販薬は、医師が処方する薬に比べ効果は弱いが副作用も少ないと思われている。だが、松本医師によれば、市販のせき止めや風邪薬には、覚醒剤や麻薬に準ずる成分が入っていて安全性を保証できない薬も往々にしてあるという。過剰に飲めば、肝機能や腎機能が低下したり、不整脈を起こす可能性もある。さらに、市販薬には様々な成分が入っているので、相互作用で体にどのような影響を与えるか予想がつかない怖さもある、と。 「しかも、つらい気持ちに『蓋』をするためにODを繰り返していると、感情を表す語彙がどんどん減っていきます。その結果、コミュニケーション能力も落ちていきます。ODをしていても、一見すると何ともないので、本人が苦しんでいることに周りが気づけなくもなります」(松本医師) (編集部・野村昌二) ※AERA 2024年3月11日号より抜粋
AERA 2024/03/07 07:30
小1からボクシングを始めて2年連続小学生女子日本一! 「体育はそんなに得意じゃない」と語る少女の素顔とは
十枝慶二 十枝慶二
小1からボクシングを始めて2年連続小学生女子日本一! 「体育はそんなに得意じゃない」と語る少女の素顔とは
奈良県天理市のSEIWA GYMで。小1から通って腕を磨いている(写真/ジュニアエラ編集部)  山岡乙葉さん(小学6年生・奈良県在住)は小1からボクシングを始め、負けた悔しさを胸に地道な基礎トレーニングを積み重ね、見事に2年連続小学生日本一に輝きました。憧れの入江聖奈さんの背中を追い、オリンピックでの金メダルを目指す姿を、小中学生向けのニュース月刊誌『ジュニアエラ2024年1月号』(朝日新聞出版)からお届けします。   小1からジムに通い始め、ボクシングの魅力にはまる 「体育はそんなに得意じゃありません。跳び箱とか苦手です」  恥ずかしそうに語る小6の女の子が、グローブを着けてリングに上がると別人になる。軽快にステップを踏んで相手の攻撃をかわし、鋭いパンチを突き刺す。山岡乙葉さんは、小5、小6と2年連続小学生日本一に輝いた、将来有望なボクシング選手だ。  ジムに通っていた父・剛さんが、乙葉さんが小1のとき、ダイエットのために一緒に通わせ始めた。最初はいやいやだったが、次第にその魅力にはまっていく。小4のとき、東京五輪で金メダルを取った入江聖奈さんに憧れ、「自分も金メダルを」と思った。 男子とのスパーリングでもまったく引けをとらない(写真/ジュニアエラ編集部) 2032年、ブリスベン五輪での金メダルを目標に  だが小4のとき、初めての対外試合で負けた。その悔しさから、「もう負けたくない」と心に誓った。どうすれば強くなるか、お父さんと話し合って出した答えが、強靭な体をつくること。自宅でできる基礎トレーニングのメニューを一緒に考えた。つらくて単調な動きの繰り返しだけれど、決して音を上げず、毎日取り組み続ける粘り強さが乙葉さんにはあった。技術も磨いて、2年連続小学生日本一に輝いた。  乙葉さんが憧れのオリンピックの出場資格を得られるのは、9年後の2032年、20歳で迎えるオーストラリア・ブリスベン大会だ。金メダルを首にかける日を夢見て、乙葉さんは今日もトレーニングに励む。 地道な基礎トレーニングにしっかり取り組み続けられるのが強さの秘密(写真/ジュニアエラ編集部) (取材・文/ジュニアエラ編集部) ○やまおか・おとは/2011年11月22日、奈良県生まれ。小1から「SEIWA GYM」でボクシングを始め、「全日本UJ王座決定戦」で小5(小学校女子37㎏級)、小6(同40㎏級)と連覇を果たした。得意は右ストレート。将来の夢は五輪での金メダル。好きな教科は図工。
スポーツジュニアエラ
AERA with Kids+ 2024/03/06 07:00
結婚して仕事に力が入らない30代女性に、「仕事に生きる道を選んだ覚えはない」鈴木涼美がおくる“祝福”
鈴木涼美 鈴木涼美
結婚して仕事に力が入らない30代女性に、「仕事に生きる道を選んだ覚えはない」鈴木涼美がおくる“祝福”
鈴木涼美さん  作家・鈴木涼美さんの連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」。本日お越しいただいた、悩めるオンナは……。 Q. 【vol.9】結婚後、仕事に力が入らない自分が不安なワタシ(30代女性/ハンドルネーム「フラ子」)  私の悩みは、結婚してからより仕事に無気力になったことです。結婚する前は仕事が大好きだった、という訳ではまったくありません。しかし、休みの日に仕事絡みのことをしていてもあまり苦にはなりませんでした。結婚してからというもの、もともと嫌いだった家事が今までよりできるようになり、楽しくなってきました。すると、仕事に注いでいた力が家事にも分散されたからか、仕事に力が入らなくなってきて無気力になった気がします。  結婚を機に地方から東京へ越して来たのですが、その頃は今までの仕事のスキルを活かしてキャリアアップも考えていました。しかしもうそこまでしなくてもいいやと思うし、正直しんどいです。結婚、引っ越しをして半年、慣れない環境での疲れもあるかと思います。ただ、今は一生懸命働かなくても自分だけの稼ぎじゃないから、という甘えもあります。  このまま旦那の稼ぎに甘んじて、なんとなく仕事を続けていってもいいのか。軸がブレすぎていて、時の流れにただ身をまかせてフラフラしている自分が不安でもあります。人生の先輩でもある涼美さんから、ぜひアドバイスをいただきたいです。 A. キラキラ仕事女子になる必要なんてない。  20年間勤労意欲が低い女として生き続けている鈴木です。私は正直、仕事に関して一貫してとても運がよく、恵まれていると思います。水商売の才能なんて大してないのに時代や若さが手伝ってそこそこ稼いでいたし、ポルノ業界なんていう危うい世界に浅はかに足を踏み入れた割にはあまり嫌な思いをすることもなく平和に引退し、たまたまそれなりに給料の良いマスコミの就職試験に引っかかって、運よく修士論文を本にしてもらえたおかげでフリーになるきっかけができ、その後もかなりいい加減な向き合い方をしながらも編集者さんたちに恵まれてなんとか食いつないでいます。 【こちらも話題】 デートもセックスも女性から誘うべし? 迷える40代女性に鈴木涼美が示す“カギ”は「お節介な友人」 https://dot.asahi.com/articles/-/210712 キャバドレスでトーク番組に出ていた32歳の鈴木さん  ので、少なくとも自分の希望の仕事を自分のペースでできる環境にいるわけで、どう考えても贅沢なのですが、それでも机に向かうことすら面倒な日も多いし、締め切りの前の日にはとにかく書きあげることしか考えていないし、もっと遊んで暮らしたいし、書きたいことしか書きたくないし、できれば誰か二億円くらいくれないかなといつも思っています。書かなくてはいけない原稿を前に、漫画を一巻から読み返してしまって二日間かかりっきりで読んでしまうこともあれば、絶対に遅刻してはならない日の前日に深酒して地獄から出てきたみたいな顔で自己嫌悪を抱えて現場に行くこともあります。  私だって、CLASSY.のコピーみたいな、充実した仕事とプライベートを両立をさせつつ、オシャレやビューティーなライフを楽しめるタイプの人間になりたい気がしないでもないけれど、多分血液型とか星座とか成育環境とか色々あって、そういうキラキラしたキャリア女子になるのに必要な成分が不足しているのだと思います。家で着すぎてやや透けてきたスウェットを着て昔のドラマを1から見ているほうが、プレゼンを成功させたりプロジェクトの打ち上げで恋に落ちたり社内留学制度でMBAを取ったりするより幸福に思えるよう、脳がプリセットされているので仕方ありません。  そんな私でも、時々仕事のやる気がみなぎるときもあります。大抵は純粋な四月病か、仕事絡みで好きな人がいるか、誰かにすごく嬉しい感じで褒められて調子に乗っているか。それで瞳孔が開いた感じで机に向かってみるのですが、やはりもともとが仕事に救われようとか思っていない人間性だからか、そんなに長く続くことはなく、しばらくするとやる気はおさまり、いつもの低空飛行に戻ります。 【こちらも話題】 こんばん「わ」が許せない! 狭量さに悩む男性に、鈴木涼美が明かす「死んでもいい」と思わせてくれた男 https://dot.asahi.com/articles/-/211899  時折、すごくやる気とやりがいを持って仕事していそうに見られるのは、そういうごくごく一時的なやる気をここぞとばかりに人から見えるようにしているからに過ぎません。それと、結婚や子育てをしていないと、なんとなく仕事に生きがいを見出した仕事に生きる女っぽく見えるというだけです。別に恋や子育てよりも仕事を選んだ気はさらさらないんですが、特にそういった出会いがないまま手元に仕事が残ったわけです。  その代わり、ものすごくメンタルが弱って一切書けなくなるとか、プレッシャーでご飯が食べられなくなるとか、他のことが何も手に付かないとか、寝不足で身体を壊すという嵐のようなことはほとんどなく、ぶつぶつ言いながら低空で安定して仕事を続けてきました。それは会社員時代もAV女優時代もキャバクラ時代も割とそうで、もっとちゃんとやればきっとできるのにもったいないとか周囲に言われて、自分もなんとなくそんな気がしていたけど、結局やらないというのはできないというのと同義で、自分のやった量と質が自分のできる量と質だったのだと思います。あんまり自分のキャラを固定してしまうのもどうかと思うけど、私は「仕事大好き! 恋も仕事も全力!」という生きざまは似合わないのだと思っている次第です。  さて、いただいたお悩みを読む限り、私よりはずっと真摯に仕事に向き合ってきた方のように見えますが、今は自分にとって仕事より優先したいもの、大切なものができて、仕事が億劫、あまりやりがいを見出せなくなったというとてもシンプルな構図に思えます。以前、それほど仕事命というわけではなくとも、休日に仕事関係の作業をするのが苦痛じゃなかったのは、一つには責任感のある仕事人だったからでしょうが、もう一つにはその時間を惜しいと思うほど夢中になっているものがなかったからとも考えられます。もちろん好きな趣味や遊びはあったかもしれませんが、元来、単に漫画を読んだり一日中寝たりするよりは、人の役に立つことやキャリアアップにつながるようなことが好きなのかもしれません。 【こちらも話題】 二股を隠していた夫と、嫌がらせをしてきた夫の元カノが許せない! 鈴木涼美がそれでも“元カノ”に同情する理由 https://dot.asahi.com/articles/-/213047  はたして今は、家庭をより豊かにすることや、自分で選び取った大切な家族の幸福を守ることが優先事項となり、それに比べれば他人で代替可能な仕事というものの優先順位が下がった。これは私から見ると何一つ不自然なことではありません。私はよく、結構出世した同世代の友人と、「別に仕事に生きる道を選んだ覚えはひとつもないよね」という話をします。そういうとき我々は暗に、仕事をおろそかにできるほど大切なものや人に出会っていない自分らを憐れんでいることもあります。  世の中を見てみると、仕事にやりがいを持って取り組んでいる人の半分くらいは、別にそれを選んだのではなく、それ以上に大切なものがないが故に消極的に出世した人だと気付くかもしれません。キラキラと仕事に邁進している人もいるのでしょうが、別にそれに対して劣等感を持つ必要はない気がします。誰かと比べて楽になるのであれば、特に仕事より優先するものなど見つかっていないのに一生やる気がない私のことでも思い出してください。  この先、家事などに飽きたらまた仕事が楽しくなるかもしれません。家事を極めていったらマーサ・スチュワートみたいなカリスマ主婦になるかもしれないし、五十歳で起業して大成功するかもしれません。いくら高級寿司を出されたって、満腹時には美味しいとか食べたいとか思えないわけで、そのとき自分にとって大切で欲望を刺激されるものが自分にとって価値のあるものなのだと私は思っています。いま、あなたの直感が仕事じゃなくて家族、と言うのであればそれは圧倒的に正しくて、あなたにとって大切なのだと思うし、仕事なんかより優先したいと思えるようなものに出会えたことを素直に祝福したい気分です。 【鈴木涼美さんへのお悩みを募集中!】 連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」では、恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性を中心に、お悩みを募集しています。ご応募はこちらのフォーム(https://forms.gle/vH3KMGRGBPJb2TE5A)から! ●鈴木さんからのメッセージ 私は結婚もしていないし子供もいないし仕事も不安定で、地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。 【鈴木涼美さんがライブ配信イベントに登場!】 3月8日の「国際女性デー」に合わせて、朝日新聞出版の3メディア(AERA/AERA dot./AERA with Kids)は、3月5日から4日間連続のライブ配信イベントを行います。初日の5日は「オンナの自己肯定感は何で決まる?」をテーマに、AERA dot.編集長と鈴木涼美さんの対談が実現。テーマにちなんだご意見や質問、鈴木さんに伝えたいことなどがある方は、aeradot.info@asahi.comまで是非メールをお寄せください! 配信日時:3月5日(火)20時~ ※約30分間の予定 配信先:Youtubeの「AERA dot.チャンネル」などで公開されます 【こちらも話題】 芸人への片思いに悩む女性に、鈴木涼美が明かす“作家デビューの原動力”となった「バンドマン」 https://dot.asahi.com/articles/-/214569
鈴木涼美
dot. 2024/03/05 16:00
この人と一緒だったら何とでもなる 福島で起業した夫婦「大切なものを大切にして生きていく」
この人と一緒だったら何とでもなる 福島で起業した夫婦「大切なものを大切にして生きていく」
佐久間香織さん(右)と小笠原隼人さん(撮影/楠本涼)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年3月4日号では、エフライフのデザイナーの佐久間香織さんとエフライフ代表の小笠原隼人さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫32歳、妻30歳で結婚。福島県郡山市で2人暮らし。 【出会いは?】夫が東北の被災地を旅し、郡山のコミュニティースペース「ぴーなっつ」を訪れた時に妻と出会う。2カ月後、夫が東京から移住。インタビューサイトを立ち上げ、運営に妻も参加。 【結婚までの道のりは?】様々な事業をともにするうちに信頼関係が深まる。夫が運営するシェアハウスの集いで妻が料理を担い、更に仲良くなる。3年ほどして交際、その約3年後に夫からプロポーズ。 【家事や家計の分担は?】料理はほぼ妻で、家事の7~8割を妻が負担。個人の財布は別だが、会社を一緒に経営しており、それぞれの役員報酬を相談して決めている。 妻 佐久間香織[37]エフライフ デザイナー さくま・かおり◆1986年、福島県生まれ。郡山女子大学短期大学部卒業。デザイン事務所勤務などを経て2015年からフリーランスに。夫が立ち上げた会社を一緒に営み、デザイン制作をはじめ、福島のお酒とおつまみの定期購入サービス「fukunomo」の制作や顧客対応などを担う  郡山は震災時、避難した人たちを受け入れる場所でした。 「ぴーなっつ」を拠点に避難先としてできる活動をする中で、隼人さんは地元の目線だけでは考えつかない発想をどんどん出して実行し、エネルギーがめちゃくちゃある人だなと。新しく生み出すのを一緒にやれる相手だと感じて、自ら巻き込まれにいくように。  最初に火種をくれるので私も燃えられる。そうできるのがありがたいと常に感じます。  起業も一緒に働くのも抵抗はなかったです。どの働き方でも企画と制作のユニットでできると思ったし、不安がないからまあいっかと(笑)。  私たちのベースには人とご飯を食べるのが好きなのがあって、運営している福島の地酒の定期便「fukunomo」を通した交流もそうです。  大切にしたいものを大切にしていく。生き方でもあるところを経済活動につなげるのは難しいですが、仕事も生活も一緒の私たちだからこそできると思っています。  隼人さんには来てくれてありがとうという気持ちです。 佐久間香織さん(右)と小笠原隼人さん(撮影/楠本涼)   夫 小笠原隼人[39]エフライフ 代表取締役社長 おがさわら・はやと◆1984年生まれ、埼玉県出身。一橋大学商学部卒業後、葬儀サポートの仕事に就く。チャイルドラインこおりやま、ふくしまチャレンジはじめっぺの立ち上げ・事務局長を経て、17年に現在の会社を設立。食を中心に福島の魅力発信に関わる事業を幅広く行う 2012年に福島に移住し、人の思いや地域の魅力を伝える取り組みを続けて、今の会社を作りました。結婚が決まって起業したのは、この人と一緒だったら何とでもなるという安心感が生まれたのもあります。妻はアイデア拡散型の僕を面白がって受け入れ、一緒に形にしてくれる人。香織でなかったら私の考え方や生き方はなかなか理解されなかったのではと思います。  福島は僕が仕事をする上でも大事な場所です。僕自身、母の突然の死で自分にとって大切なものは何かをすごく考えた時期があります。大切なものっていつなくなるかわからない。震災でそれを経験した地であり、だからこそ大切なものを大切にして生きていく思いを、ここから発信する意味があると思います。  食卓を囲む豊かさもその一つ。うまくいかないことがある日も一緒にご飯を食べる時は楽しいし、ベースに感謝があればこれからも何とかなるだろうと、香織との日々で感じます。出会ってもらえてほんっとにありがたいです。 (構成・桝郷春美) ※AERA 2024年3月4日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2024/03/01 18:00
「透明なゆりかご」漫画家がふりかえるADHDの子ども時代 先生や親に「言ってほしかったひと言」は?
「透明なゆりかご」漫画家がふりかえるADHDの子ども時代 先生や親に「言ってほしかったひと言」は?
写真はイメージです(iStock)    発達障害(※1)の子どもは学校生活のなかで、どのような思いや生きづらさを抱えているのでしょうか? 『透明なゆりかごー産婦人科医院 看護師見習い日記』(講談社)、『毎日やらかしてます。』シリーズ(ぶんか社)などで知られる人気漫画家、沖田×華(おきた・ばっか)さんは、小中学生のころ、学習障害(*2)、ADHD(注意欠如多動症*3)、アスペルガー症候群(*4)と診断されました。小学生時代、あり得ない忘れものの多さなどから先生によく怒られ、級友からも「変な生き物を見る」ような扱いを受けていたという沖田さん。当時のことを振り返って「先生にしてほしかったこと」「親にしてほしかったこと」を、教えてもらいました。発売中の書籍〈黒坂真由子著『発達障害大全 「脳の個性」について知りたいことすべて』(日経BP社)より一部抜粋・再編集〉のインタビューより、当時のエピソードを紹介します。【前編】〈「透明なゆりかご」の漫画家が語る子ども時代 「発達障害の私はタヌキの子。人間になりたかった」〉はこちら。 先生から見たら「怠けているだけの生徒」 ーー振り返って、小学生のときに「先生がこうしてくれたらよかったのに」と思うことはありますか? 沖田:言うことを聞かせようと、思わないでほしかったですね。その子にはその子のペースのようなものがあって、同調圧力で「みんなに倣え」みたいなのは難しい。みんなと一緒に教室にいるのがきつくて、図書室や保健室のような「ちょっと落ち着いた場所」に「リヤカーで運んで置いていってほしい」と思っていました。 ーー構われるよりは、放っておかれたほうがいい感じでしょうか? 沖田:そうです、そうです。構われてる理由が分からないので。ちょっとクールダウンしたいときは、よく自主的に図書室に行っていたんですけど、傍からは、どう見ても遊んでいるようにしか見えないんですよね。そのころは先生たちに発達障害に関する知識もありませんでしたし。  だからどの先生が見ても、私は「ただ怠けているだけの生徒」なんですね。授業ではぼーっとしてるし、ノートも取らないし、話も聞いてないし、頭も悪い。そのくせ、口答えばっかりする。「何でノートを取らないんだ!」と言われて、「いや、鳥の声がうるさいんです」とか言って。でも、本当にうるさかったんです。 ーー実際にそう聞こえるってことですよね。聴覚過敏もあったんですね。 沖田:そうなんです。「2階の生徒の声がうるさいです」とか言って。集中できない理由はたくさん言うことができるんですけど、先生はそういうことを求めていないじゃないですか。 ーーそっか、そうですよね。先生から「ノートが取れない理由」を問われたときに、沖田さんはちゃんと「理由」を答えているのに、先生には口答えに聞こえてしまうんですね。 沖田:「そんなことを気にするからダメなんだ。ちゃんと目の前のことに集中しろ!」と言われるんですけど、私、シャープペンの芯や鉛筆が紙にこすれる音ですら気になって仕方がなくて。みんな、こんなやかましいなかでどうして真面目に勉強できるんだろうって。 ーー小さいころは、みんな自分と同じだと思っているものですよね、きっと。 沖田:だから、こんなうるさいなかで集中できる周りの子たちが、信じられませんでした。 「普通の子ども」は「ロボット」っぽい   ーーそんなクラスメイトたちのことを、どんなふうに見ていましたか? 沖田:私以外の子どもたちはみんな、ロボットっぽいなって。先生の言われたことが的確にできるから。「この子たちは優秀なロボットだから先生の言う通りにできるけど、私は人間だからしょうがないんだ」と思うようになりました。 ーー小学校生活のなかで、自分と周りの子たちの捉え方が、「自分=タヌキの子:周り=人間の子」から、「自分=人間:周り=ロボット」に変わっていったということですね。 沖田:「人間だから、ミスもするよね」って。あとは、血液型のせいにしていましたね。私、B型なんですけど、「B型は、いい加減で楽天的」ということを耳にしてから、「そうか、これは血液型のせいか」と考えるようになったんです。血だから、仕方ないって。そんなふうに、学生時代は乗り切れたんですよね。本当の地獄を見たのは社会に出てからで。このころは、先生や親から手を出されて、鼻血なんか何回も出していましたけど、まだ余裕があった感じです。 耳の聞こえが悪いと疑われ・・・ ーー最初に診断がついたのは、いつですか? 沖田:小学校4年生のときにLDだと言われました。でも、「LDって何? 学習障害って何? それ頭が悪いってこと?」と。親もそんな認識でした。確かに、成績にものすごく凹凸はあったんです。まあ、得意なものがあるといっても70点ぐらいなんですけど。そのときはまだ、文字の読み書きや計算能力に問題があるというふうには考えてなくて、頭が悪いから「覚えられない」んだと思っていました。 ーーLDと言われても、それがどういうものかという認識はなかった、ということですね。30年以上も前の話ですから、当時、そんなに情報があったわけではないですよね。 沖田:そうなんです。私、富山県出身なんですけど、発達障害を扱う施設は、一番近くても福井県にしかなかったんです。少なくとも私の小学校の中では、女子で発達障害の子は1人もいなかった。頭の悪い子といったら不良っぽい子で、私のように真面目なのに頭が悪い子はいない。どうもわざとやってる感じではなさそうだけど、なぜだろうと。 ーー周りも理由が分からない。 沖田:理由が分からないので、「怠けてる、だらしない」というのが、最初の評価になるんですが、そのうち「もしかしたら耳の聞こえ方がよくないんじゃないか」という話が出てきて、何度も何度も聴力の検査をさせられました。 ーー「耳の聞こえが悪いから指示が伝わらないんじゃないか」ということですね。でも、聴力が悪いっていう結果は出ないわけですよね。 沖田:出ないんです。結局、「わざと聞かないんだね」という結論になる。 ーーそうか。そうなっちゃうんですね。 沖田:私としたら「えーっ」て感じです。でも、そうなっちゃうんですよね。 「天才」の時期があったから、諦められなかった母   ーーご両親や家族に「こうしてほしかった」と思うことはありますか? 沖田:諦めてほしかったです。苦手なことを何時間やっても何日やっても、成果につながらないということを、分かってほしかった。  私、4歳ぐらいのときは天才って言われていたんですよ。小学校に入る前に「檸檬」とか「醤油」とか、難しい漢字を読むことができたんです。九九もできていたんですね。でも丸暗記で理屈が分かっていなかったので、小1のテストではいきなり0点。母はすごくショックだったようです。 ーー天才の時期があったから、お母さんも諦めきれなかったのかもしれませんね。 沖田:あと、これは学校の先生もなんですけど、「今日はうまくいかなかったね」って言ってほしかったです。 ーー「今日はうまくいかなかったね」ですか? 沖田:「ダメ」っていう言葉を「うまくいかなかった」って言ってほしかった。毎日できないことだらけですけど、たまに「できる日」があるんです。でも、誰にも評価してもらえない。私にとっては、「今日は何も忘れ物しなかった」というのが、すごい「奇跡の日」なんですけど、周りのみんなにとってはそれが当たり前なので。 ーーすごく頑張った「奇跡の日」でも、誰にも褒めてもらえないと。 沖田:すると、すごくやる気がなくなっちゃうんですよね。これだけ頑張っても褒めてもらえないんだったら、いつもの自分でもいいじゃん、みたいな感じに。 ーーそうか。そうですよね。それが何年間も続けば、諦めたくもなりますね。そんなところから、「二次障害(*5)」が生まれてしまうんですね。 沖田:すごく努力していることが全然成果につながらず、評価もされないので、「どれだけ頑張ったらいいのか」ということが、小学生のころはまったく分からなかったんです。  ただ、うちの母親もすごくかわいそうだったと思います。私を含めて3人子どもがいるんですけど、弟の1人も発達障害なんです。母もそうなんじゃないかと思うところがあります。母は子育てで苦しんでいましたが、話を聞いてくれる人が誰もいなかった。父親でさえ、「母親なんだから、おまえが何とかせえ」って感じで。ママ友だって、理解できないじゃないですか。  そんなときに、占い師だけは話を聞いてくれたらしいんです。だから、いまだに占い師のところに通っています。大人になってから「もう占いはいい加減にして!」って怒ったら、発端は私のことだったと。それはかなりショックでした。ただ母親自身は結構ポジティブな人なので、「壺(つぼ)を買わないだけ、ましだと思ってよ」なんて言っています。 ※『発達障害大全 「脳の個性」について知りたいことすべて』(日経BP)より一部抜粋 ※【前編】〈「透明なゆりかご」の漫画家が語る子ども時代 「発達障害の私はタヌキの子。人間になりたかった」〉はこちら。 *1.専門家の間では「神経発達症」という名称が使われるようになってきているが、ここでは一般的に使われている「発達障害」という言葉を使用する。 *2.「読む」「書く」「計算する」など、学習に関連する特定の能力に困難がある障害。限局性学習症/限局性学習障害、LD (Specific Learning Disorder) *3.注意欠如多動症、ADHD(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder) *4.知的発達や言語発達に遅れがないタイプの自閉スペクトラム症、ASD(Autism Spectrum Disorder)。現在は、共通の特徴を持つひとつのスペクトラムとして、ASDという概念にまとめられている。 *5.ADHDやASD、LDから派生して生じる、うつ病、不安障害、ひきこもりなどの障害。  
子育て発達障害発達障がい
AERA with Kids+ 2024/02/29 07:00
川端康成、夏目漱石、樋口一葉…かつて文人たちが暮していた「谷根千」界隈を撮り続ける写真家・熊谷正
米倉昭仁 米倉昭仁
川端康成、夏目漱石、樋口一葉…かつて文人たちが暮していた「谷根千」界隈を撮り続ける写真家・熊谷正
写真と文:熊谷正   明治から昭和にかけて東京大学(文京区)を中心に多くの文人たちが暮し、数々の名作の舞台ともなってきた本郷、谷中、根津、千駄木界隈。 石川啄木、江戸川乱歩、川端康成、夏目漱石、樋口一葉、正岡子規、宮沢賢治、森鴎外――そんな「文人たちが暮らしていた街を歩いてみよう」と、熊谷正さんが写真を撮り始めたのは10年ほど前だった。 「カメラを持って、ブラブラしていると、ノスタルジックな思い出がよみがえってくるんですよ」 作品に写る酒屋には今では目にすることがほとんどない「塩」の看板がぶら下がっている。 「昔、塩を専売公社が扱っていたときの名残です。ぼくの田舎にもありそうな素朴な風景がここにはある」 写真と文:熊谷正   新宿や渋谷とは全然違う 実家が写真館を営んでいた熊谷さんは1951(昭和26)年、長野県千曲市で生まれた。18歳のときに上京し、高田馬場で暮らし始めた。 「そのころは早稲田大学の学生運動が激しくて、高田馬場の駅前で警察の機動隊が都バスを盾にして催涙弾をバンバン撃っていた」 大学はロックアウトされ、授業は行われていなかった。 「予備校に通っていたんですが、大学にいってもしょうがないなと思って、東京綜合写真専門学校(横浜市・日吉)に入学した」 写真学校へ通う際、渋谷駅で電車を乗り換えた。 「友人と飲みに行ったりして、渋谷駅の周辺はよく歩きました。だけど今はもう本当に当時の面影はないね。道玄坂を上がった恋文横丁のあたりが多少残っているくらい。同じ東京でも、どんどん変わっていく新宿や渋谷を撮ることと、本郷や谷根千(谷中・根津・千駄木)を撮る行為とはまったく違うんですよ」 本郷・谷根千界隈は戦時中、空襲の被害を免れた数少ない地域でもある。 「周囲は高層ビルだらけですけれど、このあたりは昔の面影が残っている。昭和が残っているというか。住宅が新しくなっても街の全体の雰囲気は変わらない」 雰囲気のある「大学前」 これまで熊谷さんはファッションや人物を中心に撮影するかたわら、30年以上、インドネシアに通い、伝統芸能や人々の暮らしを撮り続けてきた。 「ぼくが撮影してきたインドネシアは、王宮があったりする古い町並みがあるところなんです。なので、本郷・谷根千界隈には興味があった」 写真と文:熊谷正   特にお気に入りの場所は、東大の西側、本郷通りに面した細い路地の広がる旧森川町。このあたりは「大学前」と呼ばれた地区で、明治時代から下宿街として発展し、雰囲気のある建物がそこかしこにあった。 「東大の赤門の近くには『洋食屋さん』っていう感じの安いレストランがあって、店に入ると学生たちでにぎわっていた」 そんな本郷通りから路地に入ると、小さな広場のような五差路に出る。ここが旧森川町の中心で、半世紀以上前、昭和を代表する写真家・木村伊兵衛が洋館のある街かどを撮影した場所として知られている。 一方、熊谷さんは古い建物を背景に五差路にあるカーブミラーにカメラを向けた。 「ミラーが何となく、迷宮の入り口のように感じられてね。そこに入り込むと、どこかに行っちゃうみたいな虚構の世界。そういう雰囲気があった」 さらに五差路から北へ少し歩いたところで、大きな木造3階建ての下宿「本郷館」をカメラに収めた。1905(明治38)年に建てられたもので、大正時代は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の寄宿舎として使われていたという。 「この下宿屋はもう取り壊されてしまいましたが、周囲には旅館がいくつもあって、ぼくが中学生のときに修学旅行で東京に行った際に泊まりました。なので、このあたりを歩くと懐かしい」 旧森川町の西隣にある「菊坂」は、かつて樋口一葉が暮していた場所で、細い路地の奥で撮影した写真には古いコンクリートの階段や手押しポンプの井戸が写り、当時の面影を残している。   江戸川乱歩と団子坂 一方、荒川区、台東区、文京区にまたがる「谷根千」は、神社仏閣が並ぶ静寂な雰囲気と下町情緒あふれる観光地のにぎわいが混在している。 そこで写した作品の一つが喫茶店「乱歩。」。店の外には曲がりくねった煙突のようなパイプが伸び、そこに看板がぶら下がっている。そんな「外観が面白くて、店に入った」。熊谷さんはカウンター越しにコーヒーカップを配して店内を撮影した。 店名の由来である江戸川乱歩は、喫茶店の近くにある「団子坂」で古書店を営んでいた。団子坂は出世作『D坂の殺人事件』の舞台であり、夏目漱石や森鴎外の作品にも団子坂が登場する。 一方、レトロな理容室や住宅の庭に植えられた柿の木を写した作品もある。 「こういう写真は、学生時代に久しぶりに実家に帰ったときの雰囲気とか、子どものころ、柿の実をとった記憶とかを思い浮かべて写したと思うんです。つまり、ぼくは何か特定の場所を追いかけて撮影したのではなくて、懐かしさとか、郷愁を感じる風景に向けてシャッターを切った」 写真と文:熊谷正   写真は記録であり記憶 熊谷さんは撮りためた写真に文章をつけた。それは写真の説明ではなく、子どものころの思い出や、東京に出てきて感じたことを核にして創作したものだという。 「この場所に住んでいた川端康成や夏目漱石、樋口一葉の作品を読むにつれて、写真に文章をつけたら面白いんじゃないか、と思った。要するに、写真と文章のコラボです」 柿の木を写した写真にはこんな文章がついている。 <秋ともなると、学校帰りの寄り道は、いつもこの道。たわわに実った柿が誘惑する。友達の克ちゃんと辺りを伺っては、竹竿を、振り回す。「こらッ、待て!」。カキーンと落ちてくる柿をポケットにねじ込めて必死に走る。走る。いたずらっ子の幼い思い出> 「住宅街を歩いていて、柿の木に出合ったとき、頭の中にこういう文章はなかったけれど、子どものころの思い出がなんとなくあったんじゃないかな。だから写真っていうのは、記録であり、記憶だと思う」 熊谷さんは、この「文芸寫記」シリーズと平行して、「ふるさと回帰」というテーマで、長野の実家周辺で「スケッチふうの写真」を写している。 「ぼくは近くを流れる千曲川と一緒に暮らしていた時代があった。そういう子どものころの記憶が頭のどこかにあって、それが何かのきっかけでよみがえってくる。だんだん当時に帰っていく、みたいに」 写真と文:熊谷正   心の中でつながる千曲川の風景 バリバリ仕事に打ち込んでいた30~40代は、ふるさとに郷愁を覚えたことはなかった。 「でも、やっぱり50歳を過ぎてからだね。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』っていう作品があるんですけど、これを読んでいくと、ぼくと共通項がたくさんあることに気がついた。それで、昔の思い出を核に、長野の実家に帰ったときに千曲川の川べりを歩いたりして写真を撮っているんです」 幹線道路沿いは大手チェーンのコンビニや飲食店などが立ち並ぶようになったが、実家周辺の風景は昔のままだという。 「実家の前にランドマークのような山がそびえているんですが、千曲川の橋を渡るとその山が見えて、ああ帰ってきたな、と思う。だから、田舎を撮るのも、本郷や谷根千を撮るのも、懐かしいという思いでつながっている感じがすごくする。最近は特にそう思うね」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】熊谷正写真展「文芸寫記・文人が愛した界隈-僕の若き頃と重なる風景-」 ケンコー・トキナーギャラリー(東京・中野) 2月28日~3月11日
アサヒカメラ熊谷正
dot. 2024/02/27 17:00
ラッパー・TaiTanが告白した“罪”と、「あれ、これ、私のことじゃね?」と言わしめる武田砂鉄の凄みと怖さ
ラッパー・TaiTanが告白した“罪”と、「あれ、これ、私のことじゃね?」と言わしめる武田砂鉄の凄みと怖さ
※写真はイメージです。本文とは関係ありません(Chainarong Prasertthai / iStock / Getty Images Plus)  “わかりやすさ"の妄信、あるいは猛進は、社会にどのような影響を及ぼしているのか。「すぐにわかる! 」に頼り続けるメディア、ノウハウを一瞬で伝えたがるビジネス書、「4回泣ける映画」で4回泣く人たち……。「どっち」?との問いに「どっちでもねーよ!」と答えたくなる機会があまりにも多い。武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』から、ラッパーのTaiTanさんによる文庫解説を特別に公開する。 *  *  *  罪の告白からはじめたい。  かつて、「わかりやすさ」で稼いでいたことがある。  高校3年生の頃だ。私は巷で知られたYahoo!知恵袋の回答マスターだった。  突然何の話だ、と思うだろう。私とてこんなことをカミングアウトするのは苦々しい。ラッパーのブランディング的にも厳しいものがある。だが、この話をしないことには本書の解説など務まらないので、説明を続ける。  当時の私は、ひとりで勉学に励む模範的受験生だった。同級生たちは皆、予備校に通っていたりしたらしいが、私の実家の家計にそんな余裕はなかった。それに、今まで放課後につるんでいた悪友達をも次々と吞みこんでゆく予備校という存在自体をやっかむ気持ちもあり、あんなものに関わるくらいなら独学を貫いてやらあと息巻いていたようにも思う。あるいは、「今でしょ!」だなんてこちらに指差してくる男が台頭してきたのもこの時期で、その手の誘導を学生なりに過剰に警戒していたのもあったかもしれない。  そんな私が、独学のお供にしていたのがYahoo!知恵袋なのである。今はどうか知らないが、当時の知恵袋の学問カテゴリーにはたくさんのプロフェッショナルが滞在していて、大学受験勉強程度の質問なら割とまともな回答をよこしてくれた。それに参考書とちがってピンポイントで痒かゆいところに手が届く回答が期待できるのだから、使わない手はなかった。  だが、回答者はChatGPTではない。生身の人間である。つまり、無償では済まない。回答をお願いするには知恵コインと呼ばれる知恵袋内でのみ流通する独自通貨を払わなければいけなかった。特にカテゴリーマスターと呼ばれる、品質保証済みのアカウントからの回答を得るにはより高額の知恵コインを必要とした。  サービス利用当初は、はじめに無条件で付与される知恵コインを切り崩して、カテゴリーマスターに質問を投げかけていたのだが、無論その度に貯金は目減りしてゆく。ところが、その頃にはすっかり質問狂と化していた私を止められる者はもはや誰もいなかった。ほとんど物欲中毒者のそれと同じである。 そして、とうとう。とうとうその時はやってくる。初夏、受験の天王山を前に、私の知恵コインは底を突いた。知恵袋資本主義社会とてユートピアではない。原資を持たない者には容赦ない。私はその日限りで、質問の権利を失った。あれほど親しかったカテゴリーマスターたちが自分以外の誰かに優しくしている。それを遠くで眺めるしかなかった私の額に伝う汗を、夏の陽はよく照りつけた。私は、恋より先に嫉妬の感情をYahoo!知恵袋から教わっていた。  原資を集めるしかない。今までは使うばかりだった知恵コインを稼ぐにはどうしたらいいか。答えは明白だ。自分が回答者側にまわれば良いのだった。そうと決まれば話は早い。私は自分が答え得るカルチャージャンルや俗っぽいジャンルの質問を見つけては片っ端から回答していった。「次売れるバンドは?」「なぜプロ野球選手は女子アナと結婚するの?」「2ちゃんをみてる人についてどう思いますか?」。知恵袋内で量産される、玉石混淆のクソほどにくだらない質問を、資金のためと言い聞かせながら、感情を殺して次々と倒していった。 どう考えても、その時間で勉学に励んだほうがいいのだが、私の愚かさは底抜けだった。なんせ、そんなゲーム感覚の討伐を繰り返すうちに、件のカテゴリーマスターになってしまっていたのだから。愚か、というかその空虚さがむしろいじらしい。  そして、私はその回答行脚の過程で、ある傾向をつかんでいた。  断定は売れる。  とりわけ、論理を明示した断定はよく売れる。論理の妥当性如何を問わず、とにかくこの世界では強い言い切りに値段がつく。私はそれを理解しながら、知恵コインを稼ぎ続けていた。つまり、私は「わかりやすさ」の価値を齡17歳にして肌で覚えた人間なのである。 武田砂鉄著『わかりやすさの罪』(朝日文庫)>>書籍の詳細はこちら  ここまで書けばもうお分かりだろう。  なぜ私がこんなに長々と罪の告白をしなければいけなかったのか。そう、私は本書『わかりやすさの罪』の解説の大役など務めるにふさわしくない人間なのである。「わかりやすさ」を糾弾するどころか、供給していたわけなのだから。もちろん、(自分の名誉のために付記するが)先述の知恵袋内討伐RPGは受験期限りですっかり飽きて辞めてるわけだが、そういう「わかりやすい」断定言葉だったりを無闇に放流していたことの記憶は消えないから、いずれにしても腹が据わらない。 「わかりやすさ」そのものに罪はない。だが、その効果を自覚しながら他人の感情の誘導灯として使ったり、物事の複雑さを無効化させるまやかしとして使うなら、罪とまでいわずとも邪(よこしま)だよねくらいの言葉は与えられてしかるべきだろう。いやはや、青春の愚行に時効はあるのだろうか。  その意味で、私にとって本書を読む時間は、すなわち自らの痛みと向き合わざるを得ない時間でもあった。そして、勝手に巻き込むわけではないが、多かれ少なかれそう感じている読者は多いのではないかとも推察する。なぜか。  本書の論旨は、「わかりやすさ」偏重社会に対する長い長い違和感の表明に尽きるだろう。今日のメディアのスタンスから、政治家の発言、タレントの胡散臭さにいたるまで私たちが無意識に感じている「なんかいやな感じ」を武田氏は見事な嗅覚でとらえ、曖昧になかったことにされてきた霊的なものの存在に、言葉によって輪郭を与えてしまう。我々読者は、その瞬間に、いずれもの違和感に心当たりを覚える。あたかも「それ私も言おうと思ってた」だなんて訳知り顔をしながら。  ところが、武田氏の真の凄み、と同時に恐ろしさはその先に待っている。本書を読み進めるうち、我々は社会に潜む違和感に対する解像度を加速度的にあげてゆく。それまではいい。楽しく知的な読書体験だ。自分を抑圧してきた不可視なものへの強気な姿勢も整ってくるだろう。NewsPicksにだって小粋なコメントを寄せてみたくなるかもしれない。が、ある閾値(いきち)を超えた時、その威勢の良さに暗い影が差す。  あれ、これ、私のことじゃね?  そう、武田氏が様々な角度から指摘する様々な欺瞞を、今度は自分自身のなかに感じ始めるのだ。これが先ほど私が述べた、自らの痛みと向き合わざるを得ない時間、の本意である。  例えば、本書の概要説明にはこんな一文が登場する。 「『どっち』?との問いに『どっちでもねーよ!』と答えたくなる機会があまりにも多い日々」  わかる。とてもよくわかる。私の場合はその活動柄、「ラッパーなの? ポッドキャスターなの?」との問いにやたら遭遇するわけだが、「いや、どっちもだろ」としか言いようがなくて回答に窮す。なぜ人はわざわざ区分したがるのだろうか。その度に不思議でならない。が、不思議だと毎回思っているくせに、別のシチュエーションになれば、今度は私が音楽活動をしている友人に「で、結局来年は何をやりたいの?」だなんて無邪気に問いただしていたりもするわけだから、ひとりの人間の倫理意識などまったく信用ならない。  あるいは、こんな一文も。 「注目され始めた物事に対して、すぐに意味を過剰に投与して現象化させようとする人への警戒心が足りないように思う」(19章 「偶然は自分のもの」より)  その通りだ。かつて、私の生き方に興味をもったという編集者から“スラッシャー”特集への出演をオファーされた時のこと。興味を持っていただけるうちが華とは思うが、その妙に浮わついた新概念で十把一絡(ひとからげ)にされるのは耐え難く、丁重にお断りをしたのを思い出す。生き方を見せるだけで持ち上げてもらえるなら、肩書を増やせば増やした者勝ちになる、そんな風潮にも賛同し難かった。余談だが、その特集で私と並んで出る予定だった“スラッシャー”著名人は、現在“パラレルキャリアワーカー”を名乗るインフルエンサーとなっているようである。嗚呼、スラッシャーよ、どこへ。  ことほど左様に、新しい現象をすぐにでっちあげようとする人への警戒心は強めた方がいい。それは自分の経験上疑いようがない。だが、では今度は、そんな私の、最新のTBSラジオ出演時の発言を引用してみる。  以下、2023年を賑わせたYouTuberによる私人逮捕問題をうけての私自身の発言。「いやあ、でもこれはさ、“ジャスティスポルノ”っていう現象だと思うんだよね。フードポルノ、感動ポルノ、エモポルノとかと並ぶ新しい概念“ジャスティスポルノ”だよ!」。よほど気に入った語呂なのだろう、執拗に新概念の提示を試みている。さらに、氏はこう続ける。「この“ジャスティスポルノ”ってのはさ、極めて今日的な問題だと思うんだよね、だからさ、これを流行語大賞にしちゃえばいいんですよ!」。これ、マジですよ? どう考えても、武田氏の指摘する警戒すべき人間は私自身なのである。  納得と懺悔(ざんげ)の交互浴。本書は、我々にそんな読書態度を要求する。いや正確には、武田氏は要求などしていないのだろうが、我々の心が勝手に応答してしまう。だから、本書を通して「わかりやすさ」偏重社会に対する憤りの溜飲を下げているだけだとしたら、その従順さこそが最も危うい。「4回泣けます」の誘導に対して「4回泣」いてしまう観賞者よろしく、武田語録に「わかるわかる」と納得するだけの読者は歓迎されていない。  社会はわかりやすさ支持派とわかりにくさ支持派に二分されているわけではなく、状況や気分でそんなものはすぐに混ざり合う。池上彰のわかりやすい解説は好きだが、林修のソレはしたり顔で鼻につく、なんて感想はいくらでもあり得るのだ。重要なのは、そのこじれた心の内訳を自分の頭で考え続けることだろう。「私たちは複雑な状態に耐えなければならない」(「おわりに」より)と武田氏は結んでいるが、私はそこに、以上のような含意をみる。  本稿執筆にあたり、コロナ禍以来の再読となった。当時と比べても、「わかりやすさ」は今、ものすごいスピードで社会の隅々に侵食してきているという所感をもった。論破が遊びの道具に変わり、わかりやすい喧嘩の構図が定番フォーマットになり、映画はネタバレを読んでから観る若者が4割を超えたという。  これだけ切羽詰まった時代だ。ぬるい道徳や美意識よりも実利や即効性が優先されることを、私は他人事とは思わないし、正面から批判もできない。私だってBreaking Downは熱心に観ている。だが、同時にそうした巨大な「わかりやすさ」の磁石のようなものに自動的に群がってしまう自分や他人にがっかりしているのも事実だ。  私たちの頭の中はかくも、ややこしい。だが、そのややこしさから逃げるな、本書はそう繰り返す。長い長い紙幅を使って、無数の角度から自力の思考を促してくる。当然気持ちのいいだけの読書では済まない。ところが、本書は増刷を繰り返し文庫本にまでなったという。それを、ややこしさに耐えたい民意の現れと読むのは楽観的すぎるだろうか。いや、そのくらいは信じてみたい。「わかりやすさ」の磁力は強い。多分、これからもっと強くなる。だからこそ、そんな磁力から遠く離れた場所で踏ん張りたい。巨大な磁力に抗う、最後の砂鉄になりたい。そのささやかなたくましさを諦めないでいたい。そんな風に思う。
朝日新聞出版の本読書書籍武田砂鉄わかりやすさの罪Tai Tan朝日文庫文庫解説
dot. 2024/02/27 16:30
新興宗教にハマった経験のある22歳の女性漫画編集者が宗教2世の苦しみを映画で描いたわけ
國府田英之 國府田英之
新興宗教にハマった経験のある22歳の女性漫画編集者が宗教2世の苦しみを映画で描いたわけ
監督を務めた平田うららさん    いわゆるカルトと呼ばれる宗教2世の苦悩を描いた映画「ゆるし」が3月に公開される。監督は大学時代に新興宗教にハマった経験をもつ22歳の平田うららさん。「なぜ宗教虐待が起きるのかを描きたかった」。映画制作を決意した背景には、入信後にできた、たったひとりの友人の自死と、宗教2世としての苦しみに気づけなかった“悔い”があった。 ひらた・うらら  2001年3月生まれ。立教大学現代心理学部映像身体学科2年生の時に、キリスト教系の新興宗教に入信し11カ月で脱会する。映画監督の三池崇史氏の下でインターンとして働き、映画製作を学ぶ。現在は漫画編集者として働きながら、映画作りの道も目指している。  映画は、平田さん自らが演じる新興宗教2世の女子高生「すず」の現実を描いた。宗教上の制約で自由な学生生活を送ることができず、クラスで孤立し、いじめを受けるすず。  母・恵は、あらゆる局面で、すずへの愛より「神」を優先させてしまう。神というフィルターを通してしか娘と向き合えない母と、母を愛そうとしつつも、自分自身をまっすぐに見てもらえずに苦しむ娘の姿は、宗教2世のありのままの姿を映し出している。 神様のおかげで奇跡が起きて治った  現在は漫画編集者の仕事をしている平田さんが、とある新興宗教に入信したのは2020年、立教大学2年生の時だ。映像身体学を専攻し映画についても学んでいた。  キリスト教に基づいた教育を行う中高一貫の私立女子校に通い、「神様」は近い存在ではあった。ただ、その学校はアルバイトが禁じられるなど校則が厳しく、ありがたいことではあったが、守られ過ぎた環境で育った。  大学に入学後、活動的な同級生たちと「温室育ち」の自分とを比べてしまうようになり、コンプレックスを強く感じていたという。  そんな気持ちを抱えつつ、就職活動に熱を入れた平田さんだが、不採用が続いた。 「社会に、お前はいらないって言われている気がして、不安がどんどん大きくなっていきました」  そんな時に出会ったのが、ある大手企業の女性社員で、キリスト教系の新興宗教の信者であるZさんだった。打ちひしがれる平田さんを、優しく肯定してくれた。  人として心から信頼するようになったという。 「就職の筆記試験の直前に手をケガしたんだけど、神様のおかげで奇跡が起きて治った。神様のおかげでこの会社に入れたんだよ」 【あわせて読みたい】 エホバ元2世の女性が大人になって苦しむゆがんだ性とは 「交際相手はみんな“モラ男”」 https://dot.asahi.com/articles/-/211598?page=1 「すず」を演じる平田うららさん(左)    そんなZさんの話も素直に受け入れ、礼拝に誘われて参加するようになった。宗教団体だとは気づいていたが、集会に行く前はその名前も知らなかった。 「聖書を学ぶ場に参加したのですが、びっくりするくらい内容が分かりやすかったんです。聖書って簡単に理解できるものではなく、(聖書を学ぶ場が)明らかにおかしかったと今でこそ分かります。でも、当時はその内容が自分の中に、すっと入ってきてしまったんです」  入信したあと、信者の集会で出会い、友達になったのが、1歳下の女性Aさんだ。宗教2世の彼女は人見知りだが、仲良くなると笑顔の絶えない優しい人だった。 同じ神様なのに何かがおかしい  平田さんの「味方」だった教団の人たちは、徐々に態度が変わる。教団以外の人との関係を断つようにと促され、平田さんは実際に友人との交流を控えた。だが、恋人と別れるようにと遠回しに言われた際に、初めて疑念が沸いた。 「キリスト教の人は、教団以外の人も『隣人』として大切にします。私が入信した宗教は、教団以外の人を『サタン』として明確に区別する。同じ神様なのに、何かがおかしいと感じました」  Aさんは、そんな平田さんの疑問を否定せず、「そういうこと、あるよね」と耳を傾け、自分の話をしてきたという。  幼いころからずっと自由がないこと。学校でも孤立していたこと。孤立していることを親に話しても、「教団以外の子どもはみんなサタンだから、試練として耐えるように」としか答えてくれなかったこと……。熱心な信者ではなかったAさんは、さらっと話した。  恋人と別れることを拒否した平田さん。すると、集会に参加させてもらえなくなるなど「クラス内のいじめ状態」にあった。そんな時に心配して声をかけてくれたのもAさんだった。  入信から11カ月ほどで脱会。もとの日常を取り戻しつつあったころ、衝撃的な話を耳にする。  Aさんが自死したのだ。  Zさんに事実を聞くと、遺書の存在を聞かされた。 【こちらもおすすめ】 「ハルマゲドンが来たら意味がないでしょ!」エホバの証人の元2世信者が母に言われた最後の言葉 https://dot.asahi.com/articles/-/207591?page=1 平田うららさん   「ただ、私を愛してほしかった。神様ではなく私を見てほしかった」  遺書には親への思いと、苦悩がつづられていたという。 「でも、あくまでAさんの解釈だからね」  Zさんが付け加えた言葉は今でも忘れていない。  自死に追いやった宗教虐待への怒りと、自分への悔い。 「Aちゃんがさらっと話してくれたことは、よく考えたら、ものすごく重いことだった。もしかしたら私に『一緒に逃げよう』って伝えようとしていたのかもしれない。そのことになにも気がつけなかった」  SNSを通して、宗教2世たちに取材を始めた。話を聞いてほしいという2世がどんどんと増え、最終的には300人に達した。映画化を決意すると、平田さんの熱意に共感した映画関係者や宗教2世たちが協力してくれた。クラウドファンディングなどで寄付を募って、完成にこぎつけた。  平田さんは、 「なぜ宗教虐待が起きるのかを、多角的に描きたかった」  と話す。 『宗教1世』になった私だからこそ  映画には、「悪人」がひとりも登場しない。すずの苦悩だけではなく、すずを苦しめる母にも、新興宗教にハマるに至った心の傷と地獄があった。そしてその原因を作った人物も、また苦しみを抱えていた。   宗教1世はだまされて入信した、かわいそうで、おかしくなってしまった人。2世は、ただのかわいそうな人。そんな単純な話ではない。 「一時期とはいえ、新興宗教にハマり『宗教1世』になった私だからこそ、2世の現実だけではなく1世の目線にも立って、ありのままを伝えなくてはならないと考えたんです」  安倍晋三元首相の銃撃事件をきっかけに光が当たった宗教2世の問題。 「宗教虐待がなくなることは絶対にないと思います」と平田さんは断言する。なくならないからこそ、宗教虐待がどのようなものか、社会の理解を得ることがAさんのような悲劇を減らす唯一の道ではないか。社会の理解があれば、2世を孤立させず、居場所を作ることができるかもしれない。 【こちらも話題】 「エホバの証人」元2世信者が公表した実態とは 母たちの前で「射精は?」「手か口か」と聞かれ https://dot.asahi.com/articles/-/207590?page=1 インタビューに答える平田うららさん   「人は、自分が見たい姿でしか人を見ない」  作中で、ある人物がそんな言葉を口にする。   その言葉には、Aさんの告白を「さらっと話した」と解釈した自分への悔いが含まれている。 まだ自分を許せていない  入信後にできた、たった一人の友人の自死を知り、怒り、泣き、寝込んだ平田さん。まだ、自分を完全には許せていない。   それでもAさんを思い、映画というひとつの形にした。  「Aちゃんの思いをちゃんと伝え続けるよ。そして、Aちゃんが生まれ変わった時、もしまた同じ宗教2世だったとしても、前よりは苦しまなくていい社会。同じような苦しみを味わわなくていい社会を作るために、これからも理解が得られる社会づくりをがんばるよ」   映画は「アップリンク吉祥寺」で3月22日から公開される。 (AERA dot.編集部・國府田英之) 【あわせて読みたい】 旧統一教会から政治家への“裏金” 元信者「幹部は指で3とか5とか示し」と裁判で証言 https://dot.asahi.com/articles/-/203690?page=1
平田うらら宗教2世
dot. 2024/02/27 11:00
「ブギウギ」“夜の女性”役が高評価 なっちゃんから妖艶系に「田中麗奈」の現在地
高梨歩 高梨歩
「ブギウギ」“夜の女性”役が高評価 なっちゃんから妖艶系に「田中麗奈」の現在地
大人の雰囲気をまとった田中麗奈    NHK連続テレビ小説「ブギウギ」の物語が佳境に入るなか、2月12日放送回で初登場となった女優の田中麗奈(43)が注目された。有楽町周辺を取り仕切る夜の女性「ラクチョウのおミネ」を演じ、スズ子の楽屋に乗り込んで「しらばっくれるんじゃないよ!」「バカにしやがって!」など、怒号を飛ばす迫真の演技を披露した。田中の登場にSNSでは「鬼気迫る演技で終盤の数秒だけでも見入ってしまった」など絶賛の声が相次ぎ、Xでは彼女の名前がトレンド入りするほどだった。  田中の名前を聞くと、思わず「なっちゃん」と脳内で自動変換してしまう人も多いだろう。18歳で清涼飲料水「なっちゃん」のCMヒロインに抜擢されると、その知名度は一躍全国区に。その勢いのまま初主演した映画「がんばっていきまっしょい」(1998年)では、ボート競技に青春をかけた女子高生を好演。そのフレッシュな演技は数々の新人賞に輝き、作品も異例のロングランヒットを記録した。 健康美がまぶしい田中麗奈(2011年)    その後も多くの人気ドラマや映画に出演し、第一線で活躍していたが2016年に5歳年上の医師と結婚し、19年には第一子を出産。以降は露出が減り、マイペースで女優業を続けているが、近年は特に“脱清純派”の役柄にも果敢に挑戦している。 「2017年に主演した“オトナの土ドラ”枠の『真昼の悪魔』では、『人の苦しむ表情を見るとワクワクする』というサイコパスの外科女医・大河内葉子役に抜擢。無表情の冷たい目で、狂気の沙汰をこなしていく田中の演技が『美しくて本当に怖い』と話題になり、ドラマ終了時は『葉子ロス』を訴える視聴者も多かった。昨年は、関東大震災直後にデマによって引き起こされた虐殺事件をテーマにした映画『福田村事件』に出演し、なまめかしい濡れ場を披露しています。たくましい船頭を相手に、小さな船の上で『私のこと欲しい?』とほほ笑みかけ、スカートをまくしあげるシーンが話題になりました。船頭役が東出昌大ということもあり、なんともいえぬ背徳感が増した感もあります」(映画ライター) ドレス姿も様になる田中麗奈(写真:アフロ)   「ブギウギ」での生足シーン 「ブギウギ」でも、思わず視聴者の目をくぎ付けにしたシーンがある。 第94回で、記事の誤解を解こうとスズ子が単身で有楽町のガード下へ出向いたときのことだ。夜の女性たちの棲家で、片膝を立てて爪の手入れをしながらスズ子の話を聞くおミネ(田中)は、ふくらはぎと太ももの一部がチラ見えするポーズを取っていた。SNSでは「おみ足がまぶしい!」「思わず目が行ってしまう」とシリアスなシーンながら、その色気にひかれてしまうというコメントが目立った。 「このシーンについてNHKのプロデューサーが取材で語っていたのですが、朝ドラなので生足シーンを心配するスタッフもいたといいます。しかし、どういう姿で座るかは田中と演出担当者が話し合って決めたそうです。彼女は本や映画で研究したり、衣装合わせにも長い時間をかけたりして、おミネというキャラクターを作りあげたともプロデューサーは話していました。結果的に視聴者にも理想のおミネ像がしっかり伝わっており、女優としての貫禄を感じました。若いころの清純なイメージとは打って変わり、最近では人間の抱える闇をミステリアスに演じられる演者として評価されています。田中の場合、そこに独特のなまめかしさも加わって、独特の存在感になっているのだと思います」(同) はじけるような笑顔(写真:鈴木 幸一郎/アフロ)   目ヂカラは健在 「ブギウギ」のほか、今年は2本の映画作品にも出演予定の田中。孤独な少年少女の喪失から再生までの姿を描いた『愛のゆくえ』(3月1日公開予定)では、主人公ふたりを女手一つで育てる母を。映画に魅せられた若者たちの青春群像劇『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(3月15日公開予定)では、青年たちの背中を押すバーのママを演じる。  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、彼女の魅力をこう分析する。 「話題になった『ブギウギ』での出演シーンでは、スズ子相手にたんかを切る姿と表情の迫力に思わず圧倒されました。10代のころを知っている人にとっては、『あの“なっちゃん”がすっかりたくましくなって……』と不思議な感慨深さがあったのではないでしょうか。戦後の混乱期を生き抜いていかなければならなかった女性の強さと切なさが、彼女の目ヂカラとともに見事に表現されていたと思います。2013年にインタビューをしたことがあるのですが、人と人のつながりについて『“縁”って信じたほうが楽しいと思います。そう考えるだけでも、人生が豊かになるんじゃないかなって私は思うんです』と語っていたのが印象に残っています。その後、ほどなくして結婚し、出産。きっと公私ともに良い縁に恵まれてきたのでしょう。今後も俳優として息の長い活躍に期待したいです」  清純派から大人女優へと成長し、確固たる地位を築いた田中。年を重ねてますます輝きを放つ彼女の演技には、今後も注目が集まりそうだ。 (高梨歩)
ブギウギ田中麗奈
dot. 2024/02/27 11:00
令和版「東大卒女子」のリアルな結婚事情 30~40代の未婚率は7%以下でも「相手も東大生」は60%以上
大谷百合絵 大谷百合絵
令和版「東大卒女子」のリアルな結婚事情 30~40代の未婚率は7%以下でも「相手も東大生」は60%以上
東京大学駒場キャンパス    東大の入試が先週末からスタートした。例年、合格者のうち女子は2割程度。だが、全国からえりすぐられた秀才女子たちはときに、「東大卒は結婚に不利」というバイアスがかけられる。果たして、彼女たちは本当に結婚に苦労しているのか? 東大卒業/在学中の女性約1200人が所属し、婚活サポートも行う同窓会組織「さつき会」に、東大OGのリアルな結婚事情について聞いた。 *  *  *  1月14日、さつき会は「東大卒業生交流会」というオンライン婚活イベントを開いた。参加資格は、「25~60歳の、東京大学・大学院卒業生、及び在籍したことがある男女」。当日は男性14人・女性12人がバーチャル空間に集い、10分ごとに話し相手を代えて会話を楽しんだ。  今回で15回目となるこの婚活イベントは、2015年に、同窓生たちの要望を受けてスタートした。当初は着席のランチ会の形をとっていたが、「近くの席の人以外とも話したい」というニーズから立食形式に、次は「参加者全員と話したい」というニーズから、代わる代わる1対1で懇談する形に、そしてコロナ禍を機にオンライン形式へと変化していった。  さつき会の会員は50~60代が多いが、近年はネット検索やFacebook広告をきっかけに申し込んだ20代の参加者も増えており、「まずは東大卒同士のフランクな会で、婚活がどんなものなのか体験してみたい」という、“はじめの一歩”の場として活用する人も少なくないという。 さつき会が2021年に行ったアンケート調査によると、回答した東大のOGや女子学生の未婚率は18.8%(「東大女性の実態調査〜キャリア・生活・意識〜」から抜粋)   全国平均よりも未婚率は低い  だが、さつき会渉外担当の大里真理子さん(60)は、「東大OG全体にとって、結婚相手探しが深刻な問題だとは捉えていません」と話す。  というのも、実は東大卒女性の未婚率は、全国平均と比べて十分低いのだ。  さつき会は2021年、「東大女性の実態調査〜キャリア・生活・意識〜」としてオンラインアンケートを行い、東大のOGや女子学生361人の回答を集めた。その調査結果を見ると、回答者全体の未婚率は18.8%で、2020年の国勢調査で報告されている15歳以上の女性の未婚率・24.8%を下回っている。  年代別に見ると、30代後半〜40代半ばとみられる回答者(1999~2006年卒)にいたっては未婚率が6.7%であり、上記国勢調査が示す35~39歳女性の未婚率・26.2%、40~44歳女性の未婚率・21.3%と比べてかなり低い。  この結果を見れば、少なくとも今の日本において、「東大卒女性は結婚できない」という言説が根拠のないうわさにすぎないことは明らかだ。だがさつき会には最近でも、「地元では東大に行ったらお嫁に行けないと言われた」「女の子は上京させずに手元に残したいと家族に言われた」といった女子学生の嘆きの声が届くという。  なぜ、東大卒女性への“レッテル”は社会に深く根を下ろしているのか。その理由について、さつき会で婚活イベントを担当している小島有理さん(48)はこう分析する。 「少しずつ世の中の意識が変化しているとはいえ、自分よりも学歴や年収、社会的なポジションが高い女性に対して苦手意識を持つ男性は一定数いらっしゃると思います。実際、私の友人も婚活中、東大卒であることを相手の男性から『怖い』と言われて、ショックを受けていました。そういう体験談がある限り、『やっぱり東大を出ると結婚できないんだ』と、うわさの信ぴょう性が増して、それがなかなか消えないんでしょうね」 1月14日に開かれたオンライン婚活イベント「東大卒業生交流会」の様子 ※画像の一部を加工しています(さつき会Webサイトから抜粋)   相手に過度なスペックは求めない  東大卒女性の未婚率の低さは、そのような“うわさ”に影響されて「早く結婚相手を見つけなければ!」と焦る気持ちが働いた結果、という面もあるのかもしれない。  小島さんは、笑いながらこう続ける。 「まあ東大は男子が8割で、数の優位という意味で女子はめちゃくちゃモテるので、在学中は相手探しにあまり苦労しないと思います。あとはやっぱり、目的を遂行するための計画力と行動力に秀でた人が多いですね。卒業後、婚活イベントに参加するOGたちも、イベントで感覚をつかんだ後は自分の同級生に次々アプローチしたり、毎週末独身男性に会うようにしたり、まるで就活のように粛々と婚活に取り組んでいます(笑)」  その他にも、東大卒女性の結婚事情には興味深い特徴がある。 前出のさつき会の実態調査の結果を見ると、大学・大学院卒の夫を持つOGのうち、61.5%が東大同士で結婚しているのだ。  この実態について、前出のさつき会渉外担当・大里さんは次のように受け止める。 「単純に、就職して高学歴な人が集まる組織に属すると、東大出身者に出会う確率が高くなるからだと思います。意外とみんな、狭い世界で生きているのかもしれませんね。世間では、『東大卒女性は自分より学歴の低い男性を選ばないのでは?』と思われているかもしれませんが、そういう雰囲気はあまりないです。さつき会の会員たちを見ていても自己肯定感の高い方が多いので、相手に対して過度にスペックを求めることはしないのかもしれません」 東大大学の安田講堂   東大卒の男性の方が「気楽」な面も  一方で小島さんは、「東大卒男性と一緒にいるのは気楽な面もある」と、OGの本音をのぞかせる。 「私、前の夫は東大卒じゃなかったんですけど、自分のほうがTOEICの点数が高いこととかがちょっと気まずかったりして。でも東大卒の今の夫の前だと、何も気をつかわずに政治や歴史の話をしたり、難しい本を読んだりできて、楽なことは確かです」  東大卒女性には、「私がこう言ったら嫌みに聞こえるんじゃないか」「こういう行動をしたら偉ぶってると思われるんじゃないか」と気にする人も、少なからずいるようだ。  だからこそ小島さんは、婚活に取り組む東大OGたちへのエールも込めて、こう口にする。 「『東大卒ってバレたら相手から嫌がられるかも』と不安な人もいるかもしれませんが、今は男性側の価値観も多様化している。たとえば、『自分は起業に挑戦するから妻には安定的に稼いでほしい』『休みの日も仕事に打ち込むことを理解してほしい』と考えている人だっています。高学歴男性とお嬢様学校出身の女性という夫婦像がマジョリティーだったのは、ずっと昔の話です」 令和を生きる東大卒女性は、そろそろ、お見合い結婚時代の亡霊のような価値観から解放されてもいいはずだ。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
東京大学東大女子婚活未婚率
dot. 2024/02/26 11:00
「勝つためだけだったスポーツが人生を豊かにするものに」 女子100mハードル・寺田明日香の強さ
「勝つためだけだったスポーツが人生を豊かにするものに」 女子100mハードル・寺田明日香の強さ
星野源のファン。音楽、芝居など複数の活動を行う姿に刺激を受ける。寺田の人生とも重なる(撮影/今祥雄)    女子100メートルハードルで日本選手権3連覇、元日本記録保持者でもあり、東京五輪出場も果たした寺田明日香。小学生のころから陸上選手として成績を残したが、心身のバランスを崩し、摂食障害、無月経、骨粗しょう症に。勝つためだけだったスポーツが、今は人生を豊かにするものへと変わった。寺田の真の強さはここにある。 *  *  *  横浜市にある慶應義塾大学日吉キャンパス。その一角にあるゆるやかな上り坂で、體育會(たいいくかい)競走部員たちが練習していた。その中を風のように走り抜けていく女性スプリンターがいた。道行く人は「速っ!」と驚いて振り向く。  100メートルハードルの選手、寺田明日香(てらだあすか・34)である。所属はジャパンクリエイトグループだが、コーチングする高野大樹(35)が同部ヘッドコーチを務める関係で、ここを練習拠点にしているのだ。  寺田のキャリアはかなり珍しい。19歳で世界ジュニアランキング世界一の13秒05を記録し、“陸上日本一”を決める日本陸上競技選手権大会(以下、日本選手権)で3連覇するなど活躍したが、摂食障害やケガにより23歳で引退。結婚・出産、大学進学をへて7人制ラグビーに挑戦するも、28歳で陸上に復帰。翌年、日本人女性で初めて12秒台を記録、東京オリンピックに出場した。  ラグビーに挑戦した理由や5年のブランクがありながら日本新記録をだせた秘密を聞いていくと、回り道も悪くはないことがみえてきた。  1990年、寺田は札幌市に生まれた。幼い頃は気管支が弱く、体力をつけるために体操や水泳など複数のスポーツをした。小学4年生から陸上を始めると、陸上選手だった両親のDNAを引き継いだのか、小学5、6年と100メートル全国2位に、インターハイではハードルで3連覇を達成した。興味深いのは、そんな絶好調の時でさえ、陸上をやめてからの人生を考えていたことだ。 「両親が離婚して、専業主婦だった母が働きに出た時、資格などを持ってなくて大変そうな姿をみていたからでしょうね。陸上をやめて次の人生を切り開く手札がないというのが怖かったんです。大学の教育学部に進学したいと考えたり、とにかく自立した女性に憧れがありました」 2023年7月1日、「実業団・学生対抗陸上競技大会」で12秒92、2位。レース前は一緒に走る選手と大声で話し笑っていた。これは緊張をほぐす方法。緊張は頑張ろうとしている証拠と認めることが大切とも(撮影/今祥雄)   体重の増加が怖く 拒食と過食を繰り返す  それでも高校卒業後は、福島千里、北風沙織といったトップスプリンターが所属していたクラブチーム、北海道ハイテクACに入る。北海道恵庭北高校陸上部に在籍中、寺田にハードラーとしての適性を見いだした名伯楽・中村宏之が、当時ハイテクAC監督を務めていたからだ。寺田は「オリンピックに行きたい」という思いが強く、その選択に後悔はなかった。  初年度から結果をだした。日本選手権3連覇、翌年は世界ジュニアランキング1位。ロンドンオリンピックはほぼ射程に入ったと思われた。  ところが2011年3月の沖縄・石垣島合宿で暗転する。トレーニングの一環でサッカーを楽しんでいた時、踏み切る右足を捻挫したのだ。回復が思わしくなく練習もままならない。結果、ロンドンオリンピックの出場を逃してしまう。そのショックなのか心身のアンバランスを招く。成長期の影響でふっくらし始めていたが、体重増の恐怖から摂食障害になる。少し太ると吐いたり下剤を飲んだり。すると身長168センチで約51キロだった体重が45キロ前後に。反動で過食になり2週間で58キロに。体重の乱高下を繰り返した。 「肌はボロボロで、生理もこなくなりました。栄養状態も悪いので骨折してしまって。摂食障害、無月経、骨粗しょう症。女性アスリートが注意するべき三主徴を不名誉にもコンプリートしてしまいました。もう練習どころではなかったですね」  クラブの同僚に相談しようにも、みな自分のことで精一杯の様子。立て直せないまま13年の日本選手権を迎える。結果は屈辱の予選落ち。直後、母親に電話をしている。「もう無理だわ」。泣いていた。「今まで頑張ったね、ご苦労さま」という母親の声を聞いた後、監督の中村を訪ね、「責任をとってやめます」と言い残しクラブを去った。 「あの頃は、スポーツは勝たなければ意味がないものという認識でした。自分にとってのスポーツの意味ってその程度でした。勝てなくなって、気持ちが折れちゃったんですね」  23歳といえば陸上選手としてはもっとも脂がのる時期。が、陸上に未練はなかった。 「23歳ならば、これから大学に入っても新卒とあまり変わらず社会にでられるかもしれない」  引退から3カ月後の10月に上京。簿記の資格も取得していたので、スポーツマネジメント会社で経理などの仕事をしつつ、大学入学の準備をしていた。そうこうするうちにおなかに新しい命を宿す。その父親で、当時日本陸上競技連盟の職員だった佐藤峻一(40)と、翌14年3月に結婚した。 レース後の取材。自分が口にした言葉で自分を縛ることがあるので、自分の中で温めておきたい未完成な感覚は記者会見では話さないようにしている(撮影/今祥雄)    4月、早稲田大学人間科学部人間情報科学科eスクールに入学するが、間もなく一人4役の毎日が始まった。8月に出産し、経理を在宅で数時間こなし、さらに家事も。幸い通信課程なので、子どもを寝かしつけてから講義を視聴できたが、1週間に10教科のレポートを書いたり、ゼミの研究発表の準備をしたりした。 ラグビーで五輪を目指す プロテイン飲みながら卒論  大学は3年課程。北海道ハイテクノロジー専門学校において2年間情報科で学んだのでその単位が認められたからなのだが、その最終年にさしかかった16年、大学院への進学も考えていた寺田に複数の知り合いからある提案が舞い込む。 「ラグビーで東京オリンピックを目指さない?」  実は同じ話は引退する13年にもあった。ラグビーには15人制と7人制があるが、誘われたのは後者。使用するグラウンドの広さは同じなので、7人制では“鬼ごっこ状態”。速く走ってトライできる選手が重宝され、当時は東京オリンピックを見すえて、陸上選手を積極的にスカウトする動きがあったのだ。ただ、引退当時は、「人に見られたり評価されたりするのは絶対嫌」と泣いて断ったのだが、今回は違う考えが浮かんできた。 「オリンピックを目指すチャンスを手にできるのは限られた人間なんですね。引退してからそのことに気がつきました。ましてラグビー未経験の自分にオリンピックを目指そうと言ってくれる人がいる。私はすごく恵まれていると思ったんです」  競技から離れてオリンピアンの価値にも気づかされた。陸上教室や講演会に呼ばれるのはオリンピアンが多い。自分の経験などを伝える時にもオリンピアンであった方がよいと思ったのだ。  ただラグビーに挑戦するとなると、練習や合宿、試合で家をあけることが多くなる。夫に相談すると、「応援するよ」と快諾してくれた。  16年8月、「東京フェニックス」に入団した。 「ボールより速く走る選手を初めて見た」  チームメートの村上愛梨(34)は、練習する寺田の姿をみて衝撃を受けた。もちろん課題はあった。その一つは体重が軽いこと。90キロ前後の選手にタックルされると、当時47キロの寺田の体は2メートルほど飛ばされた。「交通事故のレベル」と振り返るが、ケガ予防のためにも体を大きくする必要があった。村上に「ご飯を噛(か)まないで食べると太る」と教えられ、お代わりしては飲み込んだ。努力の結果か約3カ月で61キロまで増えた。 2023年10月9日、小学生向けの「調布市ジュニア陸上体験教室」で講師を務める。最初は表情が硬かった参加者だが、次第に活発に。「私が子どもなので一緒に遊んでもらう感じ」と寺田(撮影/今祥雄)    当時は大学最終学年。練習で疲れた体にむち打って、合宿所で夜遅くまで卒論を書いている姿を村上は覚えている。心配になった村上は「もう寝なよ」と言っても、プロテイン飲料を流し込みながらキーボードをうっていたという。  12月には日本代表練習生になり、翌年からは月の8割を合宿に費やす日々が始まる。選手としては充実していたが、母親としてはつらい思いもした。村上によると、「タックルの痛みより、子どもと一緒にいる時間が短い方がキツい」と泣いていたという。当時2歳半の娘・果緒(9)には「ママの仕事はラグビー。私の仕事は保育園。泣かないで」と言われていたが、厳しかったのだ。  それでも猛練習を積みトライを何度も奪えるようになっていた。だがその矢先、17年5月、公式戦で相手選手と交錯し右足腓骨(ひこつ)を骨折。治癒はしたが、半年のブランクは大きく、練習に戻ってもついていけず、オリンピックは無理だと悟る。 ハードルはタックルしない ラグビーで恐怖がなくなる  しかし、寺田はある手応えを掴(つか)んでいた。 「走るのがすごく楽しく好きになっていたんです。しかも速くなっている。今やらずに後悔することは何かと考えた時、それは陸上に戻ることだと」  その直感は正しいのか。寺田は複数の人に確かめた。ラグビーのトレーナーは「ありじゃないですか」。恩師の中村にも聞こうと北海道に飛んだ。18年10月のことだ。中村と一緒に寺田の走りをみた、元チームメートの北風(38、前出)は、「一歩一歩が地面に伝わる力、推進力がすごく強くなったな」という印象を受けた。肝心の中村は……。 「30歳前だったらいけるかもな。ただ、オリンピックは無理だぞ。そんな甘いもんじゃない」  陸上復帰の意思を固めた寺田は夫に報告。すると「自信あるの?」と尋ねてきた。「なければやらない」と寺田。夫は「自信家でない彼女がそこまでいうのは根拠があるのだ」と思った。  そこから寺田は「チームあすか」結成に動きだす。コーチやトレーナー、栄養管理などの専門家を集めアドバイスをうける体制をとったのだ。 「当時はそれらを監督やコーチ一人がやりくりするのが一般的でした。それではキャパオーバーになってクオリティーが下がる気がしていました」  こうしたチーム制は陸上選手としては当時かなり新しかったが、これはラグビーから学んだ。寺田自身、集団で取り組むのが好きだし合理的だということにラグビーを通して気づいたのだ。  練習も過去にこだわらない方針が立てられた。昔の寺田に戻すのではなく、「新しいハードラー・寺田明日香をつくる」という方向性を寺田自身が示した。また、東京オリンピックを視野には入れていたが、コーチの高野は試合日程から逆算して練習内容を決めないようにした。徹底的に技術的な課題を洗い出し、関連する筋肉、関節の柔軟性を最適な状態にするなど土台を積み上げた。地味な練習のようだが、寺田は楽しかった。 「23歳までの自分とは違って純粋に陸上が好きで好奇心が強くなっていたので、この練習をしたら自分がどうなるかとか、1本走ってどう感じたか、それをコーチに伝えて、次はどう走るか……みたいにアイデアがぐるぐる頭の中にわいてきて、わくわくしていた。練習の質も高くなりました」  練習をする中で発見があった。引退前はあったハードルへの恐怖感がないのだ。ハードルはタックルしてこない。タックルで吹っ飛ばされた経験がハードルの怖さを蹴散らしてくれたのだ。  19年4月、復帰レースに出場。緊張ぎみで13秒43だったが、レースのたびにタイムはよくなった。高野は「できる時はとんとんと全部うまく運ぶからそれを待っていた」というが、その時が訪れたのは8月。金沢イボンヌの日本記録13秒00に並び、翌9月には12秒97と日本人初の12秒台をマークした。(西所正道)
現代の肖像
AERA 2024/02/23 18:00
「不適切にもほどがある!」話題さらう8つの要因 コンプラでがんじがらめの世の中に風穴開ける
「不適切にもほどがある!」話題さらう8つの要因 コンプラでがんじがらめの世の中に風穴開ける
※写真はイメージ(gettyimages)    こんなドラマを待っていた。金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」(TBS金曜よる10時~脚本:宮藤官九郎)が面白すぎるにもほどがある!?  1986年(昭和)と2024年(令和)の時をかけるおじさん・小川市郎(阿部サダヲ)の言動が、コンプライアンスでがんじがらめの世の中に風穴を開ける。いま、我々の言いたいことだらけの内容に、SNSは毎週、喝采を送っている。 コア視聴者層以外にもリーチ  直近の第3話では、セクシャルハラスメントのガイドラインを!と歌い上げる八嶋智人(本人役)と山本耕史(2024年のEBSテレビ・プロデューサー役)の叫びに共感が集まった。  コンプライアンス問題批判に溜飲を下げ、80年代カルチャーやちょっとセクシーなサービスシーンにテンションを上げる。コア視聴者層(14歳~49歳)から外れた世代にも優しく、コア視聴者層にも80年代カルチャーって面白いと思わせ、あらゆる人たちを楽しくつなげるドラマの魅力をあげたらキリがない。それを8つに絞り解説してみよう。 1:不適切で何が悪い 令和のコンプライアンスに物申す 2:80年代カルチャーがなつかしい 3:主人公の阿部サダヲの圧倒的魅力とかわいすぎる河合優実 4:宮藤官九郎節が冴える 5:みんな大好き、タイムスリップもの 6:ミュージカルコーナーが賛否両論 7:どこに転がっていくかわからないオリジナルストーリー 8:意外と真面目 1:不適切で何が悪い 令和のコンプライアンスに物申す 「テレビでおっぱいが見たいんだ」と2024年から1986年にタイムスリップしてきた中学2年生のキヨシ(坂元愛登)が主張したことをはじめとして(第1話)、毎回、テロップで丁寧なお断りを入れながら、2024年では使用不可能な不適切な言動をこれでもかというくらい登場させている。  ハラスメントに気遣いしすぎて、なんだかおかしなことになっていると、誰もが思っているけれど、はっきり言えずにSNSにぼそぼそぶつけているようなことを、このドラマはズバズバ痛快なまでに指摘する。  秀逸だったのは、第3話の、セクハラのガイドラインを決めてくれという魂の叫びに対して、主人公の小川が、娘にしたくないことはしないというガイドラインを提示したことだ。  みんな、誰かの娘であると。セクハラに限ったことではなく、娘に限ったことでもなく、自分の子どもにできないことはしない、というわかりやすいコンプライアンスの落とし所を提示していた。 80年代はなつかしいが、古すぎない 2:80年代カルチャーがなつかしい  1986年といえばバブルの夜明け(86年の12月からとされている)、日本がノリに乗っていた時代である。経済的な豊かさによって、音楽、映画、アイドル、ファッション、ヤンキー、ドラマ等々、文化やサブカルチャーも花盛り。  この時代を描いたヒットドラマといえば、宮藤官九郎の、朝ドラこと連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年)、そして、西森博之の漫画が原作でドラマや映画となった「今日から俺は!!」(脚本、監督:福田雄一)などがある。  この時代はほどよくなつかしく、が、ほどよく古すぎず、まだ記憶や記録がたくさん残っているので、うんちく語りや自分語りにはぴったり。ドラマを見て、SNSであれこれと自分の知識や思い出を披露できる。  これは、役所広司主演、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』にも通じるものだ。あの映画も主人公の青春時代を彩ったであろう音楽が同時代を過ごした観客の心をつかんで離さない。同時代性はヒットの重要ポイントである。 「不適切にも~」では時代考証がややズレているのではないか、と指摘する声もあるが、それも作り手のミスではなく、話題づくり、あるいは、何かの伏線ではないかという見方もある。 宮藤の世界観を的確に体現する阿部サダヲ 3:主人公の阿部サダヲの圧倒的魅力とかわいすぎる河合優実  阿部は、脚本家の宮藤官九郎とは同じ劇団大人計画の劇団員同士。グループ魂というバンドもやっている。宮藤の書いた大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」(2019年 NHK)でも主役を務め(中村勘九郎とW主演)、激しい熱量と速度のある演技によって、宮藤の世界観を最も的確に体現する。超人的なパワーと表現力と同時にかわいげがあるのも人気の所以だ。  小川の娘役の河合優実は、主として映画で注目され、映画の新人賞をたくさん獲っている、演技派若手俳優。今回、まさかこれほど、80年代のヤンキー女子高生が似合うとは。80年代の女の子の純情可憐な雰囲気を見事に再現している。 4:宮藤官九郎節が冴える  本人役で出た八嶋智人が、ビジネスクラスではなくエコノミーが似合う俳優という表現が、本人には悪いが、なんとなくわかる気がする。そういう独特の視点が随所にある。  また、その八嶋が劇中で告知する公演が、実際に公演中の演劇であるという遊び心。それも、どこにでも「しれっと潜り込む」俳優というセリフと、しれっとほんとの告知を潜り込ませているという状況と重なる巧さ。こんな感じで全編、密度が濃い。 5:みんな大好き、タイムスリップもの  かつては、SFはドラマでは受けないと言われていた。が、最近はSFを自然に受け入れる時代。とりわけタイムスリップものは愛される。  小川が2024年で出会ったテレビ局のアシスタントプロデューサー犬島渚(仲里依紗)といい感じになりかかる(80年代風にいうと「ちょめちょめ」)というラッキーな流れになったと思いきや、ふたりが接近するとビリビリっと衝撃が起こる。タイムスリップものに欠かせない、未来や過去を変えてはいけない、タイムパラドックスである。  また、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)に影響されてバス型タイムマシーンを作ったのは小川の教え子・井上(三宅弘城)で、その妻で社会学者の向坂サカエ(吉田羊)と息子キヨシが1986年にやってきて、純子とキヨシがいい感じになってきた。  1986年の、純子の憧れ・ムッチ先輩(磯村勇斗)と、2024年のゆとり世代の会社員・秋津くんが名字も顔も同じであることで、秋津くんはムッチ先輩となんらかの関係があるはず。  純子はキヨシとムッチ先輩、どちらと結ばれるのか。また、キヨシと中学生の井上が仲良くなっているのもタイムパラドックスに引っかからないのか気になる展開。 ハマる人が増えているミュージカルの場面 6:ミュージカルコーナーが賛否両論  昨今の社会問題を、過去と比較して客観的に物語るというよくできた話で、そのテーマ的なところを毎回、ミュージカル風に本格的に歌って踊って(振り付けは宮藤官九郎の妻でベテラン振付家・八反田リコ)、大げさ、いや、大胆に見せる。  SFは受け入れられるようになったが、ミュージカルはまだ受け入れられない層もいて、ミュージカルコーナーは不自然という声もあるが、続けることによって回を追うごとにハマっていく人も増えているらしい。  なにより、毎回、オリジナル楽曲が準備され、それを実際にミュージカルに出演しているプロフェッショナルの俳優たちが歌い踊るという手間ひまをかけたものには見応えがある。 7:どこに転がっていくかわからないオリジナルストーリー  史実に基づいたものでも、原作ものでもないので、ネタバレの心配がない。単なる現代批評でも回顧ものでも、タイプスリップコメディでもなく、どこに向かうのか続きがとても気になる。 8:意外と真面目  真面目だなあと思ったのは、1986年に放送されているちょいエロな番組の観覧に参加したサカエが、露出の派手なタレントを見ながら、「なぜ自分がここに呼ばれどう振る舞うべきかちゃんと心得ている。求められる役目を誇りをもって果たしている」とつぶやく第3話。さらにその番組にMCとして出演しているエッチな医者ズッキー(ロバート秋山)がカメラの回っていないところでは医者として適切な処置をする。  80年代のテレビドラマは、ガワだけ見たら、エロバカの不適切極まりないものに見えて、演者たちは「求められる役目を誇りをもって果たして」いたのではないか。エロや毒をきちんと芸に昇華していたのが、いまや、芸と素を見極めるものさしがなくなり、なんでもかんでもNGになってしまう。これでいいのか。 これからどんな「新展開」があるか  ただ、2024年にも希望がある。飛行機だったらビジネスではなくエコノミークラスランクとされている俳優・八嶋智人がふいに1時間の情報番組のMCを任されたとき、しっかりやり切る。大河や歌舞伎にしれっと潜り込むと自虐的なことを言うが、1時間番組を仕切る能力は並大抵のことではない。  そんな彼が仕事を受ける理由は、自分の所属する劇団カムカムミニキーナの公演の告知なのだ。たった30秒、公演の告知をするために、すべてを懸ける。そういう俳優も令和にまだいるのである。  このまま、過去と未来の行き来、なつかしいアイテムや不適切言動あるある、ミュージカルなどをパターン化しただけではなく、きっと新展開があるはず。なにしろ、1986年から2024年までの間にはいろんな未曾有な出来事が待ち構えているからだ。それをどう描くのか、描かないのか。もしかしたら、震災も含めて昭和から平成における日本を描ききった「あまちゃん」を超える名作が誕生する可能性もある。 (木俣冬 : コラムニスト)
東洋経済オンライン 2024/02/23 15:00
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
ロシアから見える世界

ロシアから見える世界

プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

ロシアから見える世界
カテゴリから探す
ニュース
石破茂氏が頭を悩ますのは高市早苗氏と茂木敏充氏の処遇 あまり受け入れたくないが、敵にも回したくない
石破茂氏が頭を悩ますのは高市早苗氏と茂木敏充氏の処遇 あまり受け入れたくないが、敵にも回したくない
石破茂
dot. 12時間前
教育
茶トラ猫は景色に同化中「まさか誰もここにボクがいるとは思うまい」【沖昌之】
茶トラ猫は景色に同化中「まさか誰もここにボクがいるとは思うまい」【沖昌之】
沖昌之
AERA 13時間前
エンタメ
奇跡のアラフィフ・石田ゆり子の秘めたる“性格イケメン”ぶり〈きょう放送「ANOTHER SKY」でパリへ〉
奇跡のアラフィフ・石田ゆり子の秘めたる“性格イケメン”ぶり〈きょう放送「ANOTHER SKY」でパリへ〉
石田ゆり子
dot. 8時間前
スポーツ
ヤクルト村上宗隆はメジャーで活躍できるか 終盤に打棒爆発も「苦労しそう」の声がある理由
ヤクルト村上宗隆はメジャーで活躍できるか 終盤に打棒爆発も「苦労しそう」の声がある理由
プロ野球
dot. 12時間前
ヘルス
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
医学部に入る2024
dot. 9/26
ビジネス
金融所得課税の強化は格差是正の意味合いが強い 「富の再分配」自民党総裁選でも議論を
金融所得課税の強化は格差是正の意味合いが強い 「富の再分配」自民党総裁選でも議論を
田内学の経済のミカタ
AERA 14時間前