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ついにGPドラマ単独主演「めるる」 ギャル時代から培っていた「演技派女優」たちとの華麗なる人脈
丸山ひろし 丸山ひろし
ついにGPドラマ単独主演「めるる」 ギャル時代から培っていた「演技派女優」たちとの華麗なる人脈
ドラマ主演に抜擢された生見愛瑠    4月9日からTBS系火曜ドラマ枠で放送される「くるり~誰が私と恋をした?~」で、主演を務めるタレントで女優の生見愛瑠(ぬくみ める=22)。本作は事故で記憶喪失になってしまった主人公が、手元に残された男性用の指輪を手掛かりに“恋の相手”と“本当の自分”を探していくラブコメミステリーで、生見はゴールデン・プライム帯連続ドラマ単独初主演を果たす。  生見といえばモデルとしてデビュー後、“めるる”の愛称でバラエティー番組に引っ張りだことなり、その名がお茶の間に浸透。一方、最近はドラマや映画にも出演し、その演技力が注目を集めることも多かった。特に昨年はドラマ「風間公親-教場0-」(フジテレビ系)の第4話にゲスト出演し、孤立出産をした19歳の妊婦で殺人犯という役どころをシリアスに演じて話題に。また、メインキャストとして「日曜の夜ぐらいは…」(テレビ朝日系)、「セクシー田中さん」(日本テレビ系)と、2本の連続ドラマにも出演。「セクシー田中さん」では主人公に憧れる派遣OL役でコメディーを好演するなど、こちらも演技が高く評価された。  そして今期、ゴールデン・プライム帯連続ドラマ単独初主演を飾った生見。SNS上では「めるる、ついに主役!」「あれよあれよと主役やるようになっててすごい」など、出世ぶりを称賛する声も多い。 メガネ姿の生見愛瑠(写真:ZUMA Press/アフロ)   「演技はやりたけど、自信がない」 「生見といえば、ギャルタレントなのに演技がうまい、そんな意外性を評価している人も多いでしょう。その先にある、本格的な女優としての資質があるのか気になるところですが、意外と役作りはしっかりやっているようです。例えば、自身は原作漫画がある作品では忠実に演じたいタイプで、原作を読み込み、『絶対にここはやりたい』というシーンは原作を切り取って台本に貼るなどしているとインタビューで明かしていました。さらに、原作には描かれてなくても『こういう香りが好きなんだろうな』『こんな食べ物が好きなんだろうな』と想像し、自身の生活に取り入れて役作りしているそうです」(テレビ情報誌の編集者)  一方、「モデルプレス」(1月1日配信)では、「演技はやりたいけど、いちばん自信がない部分」とも告白。ゆえに、演技を評価されるとすごく自信になるという。まだ現場に慣れてなくて立ち回りも分からないので、毎回勉強しているそうだ。  実際、「日曜の夜~」で生見とともに女友達3人組を演じた清野菜名と岸井ゆきのについて、女優としてすごいと感じたところを明かしていたこともある(「マイナビニュース」、23年7月2日配信)。清野については泣くシーンの際、リハーサルから全部泣けるところに驚かされたと告白。その後のテストや本番と、何回そのシーンを繰り返してもすべて同じタイミングで泣き、すごいと思ったという。岸井については、いかにもセリフを言っているように見えてしまいそうな難しいセリフでも本当に自然で、芝居の細やかさに感動したそうだ。 生見愛瑠   名だたる演技派女優と友達  この2人と生見は仲良しで、一緒にランチに行ったときには、最近はやっている美容法やコスメについて話したりと、女子トークで盛り上がっていたという。 「他にも、21年放送のドラマ『恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~』(日本テレビ系)で共演した杉咲花と仲良くしているとインタビューで明かしてました。『あの作品見たよ』『良かったね』などと褒めてくれたりと、見守ってくれているのは自身の力になっていて、人としても尊敬しているそうです。また、昨年8月に放送されたバラエティー番組では、杉咲とベトナム料理を食べに行ったというエピソードを話していたことも。杉咲のような実力のある女優から目を掛けられているところは、モチベーションにもつながっているでしょう」(同)  さらに、「メンタルが強そうなところも女優向き」と言うのは民放ドラマ制作スタッフだ。 「あまり過去を振り返らないと語っていたのが印象的ですね。仕事について考えることはあるそうですが、『どうしよう』『大丈夫だったかな』などと悩むことはなく、『もう終わったからよくない?』と思うタイプで、常に先のことしか見てないのだとか。そんなところから、さまざまな批判にも動じない精神力も持ち合わせてそうですし、バラエティー番組でニコニコしている姿とは裏腹に、演技においては役作りもしっかりしている。今後さらに場数を踏むことで、演技に関するスキルを先輩たちから吸収しながら、女優としてますます飛躍していくと思います」 中学生時代の生見愛瑠   演技の潜在能力が高い  エンターテイメントジャーナリストの中村裕一氏は、生見の魅力についてこのように分析する。 「毒親との確執を抱える役どころで出演した『日曜の夜~』では、チャームポイントの笑顔を抑え、複雑な心情をにじませた、とても良い演技を見せていました。また、2月に放送された『THE突破ファイル』の実録ドラマでも、乗客の生命がかかったピンチに直面したCAとして、気丈かつりりしい姿を披露。その迫真の表情にバラエティーであることを忘れ、思わず見入ってしまいました。バラエティーなどで見せるチャーミングさと、シリアスな演技のギャップが多くの人を惹きつけるのだと思います。これだけ幅の広い芝居に対応できるということは、もともと演技の潜在能力が高かったのかもしれません。今回の単独主演ではこれまでと比べハードルが上がっているかもしれませんが、これからたくさんのチャンスをつかみ、活躍の場を広げて欲しいですね」  女優として高いポテンシャルを秘める生見が、主演ドラマでどんな演技を見せてくれるのか楽しみだ。 (丸山ひろし)
めるる生見愛瑠
dot. 2024/04/10 11:00
「制度があってもうまく活用できていない」 医療的ケア児支援法施行から2年半の実情
「制度があってもうまく活用できていない」 医療的ケア児支援法施行から2年半の実情
左の親子が友岡さんと娘の壽音(じゅの)ちゃん。新生児室でお友達と(写真:Ohana kids提供)    人工呼吸器や胃ろうなどを使用し、たんの吸引や経管栄養などの医療的ケアが日常的に必要な児童「医療的ケア児」。2021年9月に「医療的ケア児支援法」が施行され、各自治体による医療的ケア児への支援が「努力義務」から「責務」となった。それから2年半、新たな課題が浮かび上がってきた。医療的ケア児を取り巻く実態を調査した専門家らに聞いた。AERA 2024年4月8日号より。 *  *  *  世田谷区で児童発達支援・放課後等デイサービスを運営するNPO法人オハナキッズ代表の友岡宏江さんは、放課後等デイサービスを運営する事業者の立場として、支援法施行で行政の理解や制度によるバックアップは進んだものの、当事者家族の実感との間には乖離があると見る。 「制度があっても実情と合っていないため、サービスが知られていない、満足に利用されていないままだ、と私は受け止めました」  一例が、放課後等デイサービスのサービス提供時間について。サービス提供時間を午後5時から午後7時に延長することで支払われる報酬に都から加算がつくようになった。歓迎すべきことのようだが、現実的には、働き手の集まりにくい夕方の時間帯に保育士、看護師、訓練士など昼間と同じように人員を配置するには難しさがある。 「人材が確保できなかったり、確保できたとしても、人件費で赤字になることもあります。制度があってもうまく活用できていない、次の一歩が踏み出せないのが実情なんです」(友岡さん)  さらに、地域格差の課題も指摘されている。障害福祉サービスは公費で助成されるが、その支給決定を行うのは各自治体だ。当事者が困っていると声をあげた時に、どれだけその子に合わせてカスタマイズできるか、自治体の裁量によるところが大きいのだ。  例えば訪問看護師が自宅に来て家族に代わってケアをする医療的ケア児在宅レスパイト事業。家族以外がケアや見守りをすることで家族の負担軽減につながるものだが、東京都の中でも区によって自宅のみでしか使えない場合と、学校でも使える場合がある。 AERA 2024年4月8日号より   「柔軟に解釈して、支給量や支給するシーンを広げてほしいなと思います。それは自治体の役割です」(同) 子どもとしての発達・成長、普通の子と等しくある  実は友岡さん自身、13トリソミーという染色体異常による障害がある娘の母親でもある。生まれてずっと入院していた娘が退院したのは生後10カ月だったが、1歳半の時には通信制大学に入学して、保育士の資格を取得した。重度の病気のある子どもたちにも遊びや保育の必要性を感じたからだ。 「医療的なケアがあると、やっぱり“医療の子”になりがちです。親は一生懸命ケアを覚えて、家でも病院と同じようなことをやって。命と向き合っているから、“育児”の感覚がどうしても薄れます。でも子どもとしての発達・成長は、普通の子と等しくあるんです。ただ、ちょっと気づきにくいだけ」  子どもが子どもらしくいられて、安心してケアを任せられる人がいる、そんな場所を作りたいという思いが、オハナキッズの立ち上げにつながった。  子どもたちの生活には医療・教育・福祉の三つの領域でサポートが必要だ、と友岡さんは強調する。 「飛び抜けて進歩した医療に続いて、福祉と教育がどれだけ追いついていけるか。追いついていけないと、いつまでも受け皿がないということになってしまいます」  調査に携わった世田谷区に拠点のある昭和女子大学助教の八木良広さん(社会学)は、今後の動き次第でこの調査が持つ意義がより生かされていく、と期待を込める。 「支援法の成立はゴールではなく、法の理念を実現するための土壌が作られたのだと考えられます。医療的ケア児と家族それぞれが求める適切なサービスを受けられるよう、あらゆる主体が手を尽くしていく必要があります」  どんなスペシャルな子であっても、その一人一人を「こどもまんなか」に置いて、適切な支援を。 「行政や、保健・医療、福祉、教育、産業、研究等に携わる私たちは、それぞれの持ち場でできることがたくさんあるはずです」(上別府圭子さん、国際医療福祉大学大学院教授=家族看護学) (ライター・高橋有紀) ※AERA 2024年4月8日号より抜粋
AERA 2024/04/07 10:30
「給食で主食とデザート混ぜないで」 医療的ケア児支援法2年半、当事者や家族の実感は
「給食で主食とデザート混ぜないで」 医療的ケア児支援法2年半、当事者や家族の実感は
子どもたちの生活には医療、教育、福祉の三つの領域でのサポートが欠かせない(写真:Ohana kids提供)    2021年9月に「医療的ケア児支援法」が施行されてから、2年半が経った。医療的ケアが必要な子どもとその家族の生活に、変化はあったのか。AERA 2024年4月8日号より。 *  *  * 「区内には医療的ケア児を預かる保育園は5園(1枠ずつ)しかありません。しかもどれも家から遠いんです」  そう話すのは東京都世田谷区に住む30代の保護者。息子は現在1歳だが、生まれてすぐ心臓の手術を行った後、ミルクの飲みが良くなかったことから、鼻からチューブを通し経管栄養を行っている。  医療的ケア児とは、人工呼吸器や胃ろうなどを使用し、たんの吸引や経管栄養などの医療的ケアが日常的に必要な児童のことをいう。医学の進歩を背景に、在宅の医療的ケア児(0~19歳)の数は年々増加傾向にあり、2019年には2万人を超えた(推計値)。  冒頭の1歳の子の場合、保育園で必要なケアは日中に1回、その管からの注入を行うだけ。在宅勤務である両親が保育園に出向いてケアをするから、通常の保育園に通わせてもらえないかと交渉をしている。 「医ケア児と一括りにされますが、子どもによって千差万別です。人工呼吸器が必要な子や、高頻度の処置が必要な子もいる中で、うちの子は経管栄養の管だけ。こういう軽い医ケア児が5枠のひとつを使ってしまうのは心苦しい、と思ってしまうんです」 「医療的ケア児」という言葉が初めて法律に明記されたのは、16年に成立した改正児童福祉法においてだった。21年には「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」が成立・施行され、児童福祉法で「努力義務」とされていた各自治体による医療的ケア児への支援が、「責務」となった。 「法律ができた後の生活の変化、お子さんやご家族が思い描いている状況に少しでも近づいたかどうかという点に興味があり、医療的ケア児の保護者の方に実態調査を行いました」  と話すのはNPO法人オハナキッズ代表の友岡宏江さん。同法人は世田谷区で児童発達支援・放課後等デイサービスを運営している。 昨年5周年を迎えたオハナキッズ通所事業。多くの医療的ケアが必要な子どもたちと家族の日々を支えている(画像の一部を加工しています)(撮影/安田一貴)    調査は友岡さんが発案し、同事業所で看護師として働く吉備智史さんを中心に、吉備さんの大学院(東京大学大学院)時代の指導教授である上別府圭子さん(国際医療福祉大学大学院教授=家族看護学)、世田谷区に拠点のある昭和女子大学助教の八木良広さん(社会学)らが研究チームに加わった。 「家族以外の大人と過ごす機会増えた」が7割超  アンケートの項目は、子の医療的ケアの種類や受給者証の有無と支給量、社会資源の利用状況や、主介護者の生活の質(QOL)、家族機能など多岐にわたった。世田谷区を中心とした首都圏に住む医療的ケア児の保護者60人からの回答を分析し、インタビューなどとともにまとめたのが「医療的ケア児を取り巻く実態調査と課題検証 報告書」(23年度世田谷区子ども基金助成事業)だ。  さて、アンケートの結果から見て、医療的ケア児と家族の健康状態や生活は改善したのか。その答えを端的にいうと「一部はイエス、一部はノー」(上別府教授)ということになる。  例えば「ケアに携わる人が増えた」「家族以外の大人と過ごす機会が増えた」の項目で「そう思う」と答えた割合が高かった一方で、「地域の人と関わる機会」や「回答者が他の家族員と過ごす時間の量」などは割合が低い結果だ。また、通所支援の利用率は高くても、頻度を見れば多くはないのが実態だった。オハナキッズでも1日の定員5人に対し契約数は40人と、需要に供給が追いついていない現状があるという。医療的ケア児を育てる家族の健康については、これまでの調査でも、睡眠時間が短いことや睡眠の質が良くないことが指摘されていた。今回の調査では連続して取れる睡眠の時間が「8時間」の人もいれば、「ゼロ」と回答した人もいた。  看護師の吉備さんは、家族機能が充実していたり、利用できる医療・福祉サービスが多かったりするほど親のQOLが高い結果だったと分析する。 「今回の調査だけでは確定はできませんが、生活の負担が減ることや、子ども自身の社会参加が、親の健康に大きくかかわっているということが今後言えるかもしれません」  アンケート回答者への聞き取り調査では「変わるスピードが遅すぎる」と訴える声もあった。 AERA 2024年4月8日号より   給食で主食とデザート、混ぜないでと交渉重ね  都内在住の女子児童は特別支援学校に通う4年生(調査実施当時)だ。疾患が未診断で、嚥下障害や上肢・体幹機能障害、知的障害がある。吸引や経管栄養などの医療的ケアがあり、学校で行われるケアの詳細に関して、母親は粘り強く交渉を続けてきた。「支援法が追い風になった部分もあるが、まだまだ変わるスピードが遅すぎる」と感じている。  例えば給食は、女子児童の場合、食事をペースト状にしたものを、胃ろうからシリンジで注入する。医療的ケア児支援法ができて可能になったことの一つだ。ただ、メインもデザートも全部混ぜて注入する、というルールのため、デザートは一緒にしないでほしいと母親は学校に伝えていた。 「だって、しょうゆラーメンと果物ゼリーを混ぜて入れられるのは嫌じゃないですか? 私は嫌です。本人が嫌だと言えない子の場合、親が自分を基準に判断するしかないんです」(母親)  口から食べられる子の場合は一皿ずつ一口ずつサポートしてもらえるのに、なぜ注入の場合だけ一皿ずつはダメなのか、それで食育と言えるのか、など交渉を続けた結果、やっとデザートだけは分けてもらえるようになった。 「でも、同時に見直してほしかったことは他にも様々あります。少しずつやりましょう、と言われますが、なぜ少しずつにする必要があるんでしょうか。少しずつやっていたら、この子、卒業しちゃいます」(同)  どんな分野でもスピード感をもって取り組むのに越したことはないが、特に子どもにかかわる分野では「少しでも早くサービスが充実すること、利用するための壁が取り払われることが大事」と指摘するのは、調査メンバーである国際医療福祉大学大学院講師の村山志保さん。 「子どもにとっては、今この時にサービスが受けられる、体験ができる、学習ができる、ということが大切です。そのタイミングを逃してしまうことが、成長や発達にかかわる大事な時期を逃してしまうことになるからです」 (ライター・高橋有紀) ※AERA 2024年4月8日号より抜粋
AERA 2024/04/06 10:30
社会課題の解決に挑む若者を応援する 20代の社会起業家・taliki中村多伽の挑戦とは
社会課題の解決に挑む若者を応援する 20代の社会起業家・taliki中村多伽の挑戦とは
「My Favorite Things」を練習中。実家で弾くとジャズ好きの父が喜ぶ(撮影/楠本涼)    taliki代表取締役CEO、中村多伽。2017年に京都で誕生したタリキは、社会のためになにが必要かを考えてきた。“夢物語”を実現するために、正しく構造を分析する。人々があきらめたりバカにしたりする新しいことに価値を見いだし、「どうすればおもしろくできるか」を追求する──。創業者でZ世代の中村多伽は、社会課題の解決に対する世間の無理解への怒りを、正のエネルギーに換えてきた。 *  *  * 京都大学卒業。人目を引く容姿。29歳にして経営者であり投資家──。そう聞くと、中村多伽(なかむらたか)の印象は「そつのない人」だろう。  だが彼女をよく知る人は一様に、自分からあえて困難な世界に飛び込んで「もがいている」「戦っている」と、その姿を形容する。「燃費の悪い生き方をしている」とまで言う友人もいる。  中村が京都に根をおろして心血を注いできたのは社会課題の解決だ。社会課題とは「みんなにとって都合のよいこと」を推し進めた結果として生じた歪(ゆが)みだと彼女は強調する。効率的な人間活動のために化石燃料を使い続けた結果、温室効果ガスを大量に排出して環境破壊を招いたように。  一見すると、社会性と経済合理性は相反する。だから、なにかで困っている少数の人々に手を差し伸べるような商売は儲(もう)からないと思いがちだ。  だが、中村はきっぱりと言う。 「工夫次第で儲かるように変えられるものもあるし、たとえ収益化が困難な領域でも事業を推進する方法はある。それを考えるのがタリキなんです」  タリキとは、中村が大学4年生だった2017年に京都で設立した株式会社talikiである。社会にインパクトを与えるビジネスを起こすという志を持ちながらも資金や人脈や経営の知識を持たない、あるいは起業したけれど問題を抱えているという同世代の若者に寄り添う。  タリキは社会起業家創出のための伴走支援プログラムを独自に開発し、それを全国各地の自治体からの受託運営や民間企業との共同運営、社内起業家育成サポートなど、さまざまな形態で提供している。同社の屋台骨を支える事業のひとつだ。 社会課題の解決を志す若者を支援するプログラムやイベントの根本的なスタイルは、中村がひとりで運営していた時代から大きくは変わらない。それが今、社員の手によって日々進化している(撮影/楠本涼)   「儲からない」と言われると 激しい怒りがこみあげた  プログラムの実施期間は通常3カ月で、対象者は社会課題の解決を志す起業前または起業したばかりの人。専門の講師による講義、ワークショップ、コーチングセッションなどで構成されている。選考された参加者は漠然としたアイデアを具体化してプロトタイプに落とし込み、潜在的な顧客に意見を聞き、事業としての有効性を検証する。この間、メンターがともに課題に向き合い、事業を立ち上げる道筋を考えていく。こうして手間ひまをかけて伴走した社会起業家は300人を超えた。 「儲からないよ」  この言葉をぶつけられるたびに、かつての中村は「殺意がわく」ような怒りを覚えたという(言うまでもなく「殺意がわく」は比喩である)。  その悔しさを成長の糧にしてきた。貧困、マイノリティーの人々の生きづらさ、子育てにまつわる困難、農業の担い手不足など、この国には問題が山積している。理想とする「誰もが生まれてきてよかったと思う世界」を実現するために、社会課題の解決に挑む人を少しでも増やしたい。  怒りは「創業時に比べたら薄れてきた」と中村は言う。「怒っていると疲れるし」と笑うが、それだけではない。 クラシックピアノを習い始めたのは4歳のとき。だがジャズは勝手が違う。「ちょっと堅いかな。きちんとしすぎ」(講師)。全国を飛び回るため、レッスンは休みがち。「もっと練習したいんですけど」(撮影/楠本涼)   「頭ごなしに否定するんじゃなくて、ちゃんと理解しようとする人が時流的にも増えましたね」  ようやく、追い風が吹いてきた。岸田政権は「骨太の方針2023」のなかで、インパクトスタートアップ(社会起業家)を生み育てるエコシステムの形成や、社会課題の解決に挑戦する企業への投資とNPOへの支援の拡大を打ち出した。  2月16日、京都信用金庫が運営する共創施設「クエスチョン」(京都市中京区)で、「京都インパクトスタートアップ起業家支援プログラム」の参加者がタリキの伴走支援を受けながら事業アイデアを練り上げた成果を発表するイベントが開催された。これは経済産業省から補助金を受けて実施したプログラムである。  9人の発表者の顔ぶれと事業の構想は多種多様だ。ヴィーガンなど食の制約がある訪日外国人旅行者が安心できる和食の店を検索できるグルメサイトを考えた大学生、自身の闘病体験をもとに、がん患者と医療の専門家や闘病経験者を結ぶマッチングアプリを開発した元看護師など。  講評者のひとりだった中村はすべての発表を聞き終えると開口一番、声を弾ませてこう言った。 「こんな素敵な人たちがタリキと出会ってくれて、めっちゃ嬉しい!」 「学びのシェアというカルチャーがあるのがタリキ」(宇都宮)。学生のインターンも含めて全員が参加する定例会が毎週開かれ、「今週の学びや気づき」を報告し合う。話題は仕事に限らず、自由だ(撮影/楠本涼)    京都弁のアクセントで話すが、中村は東京出身。阪神・淡路大震災が発生して間もない1995年1月末に生まれた娘を、両親は多伽と名づけた。伽には「慰めたり楽しませたりするために、人に寄り添う」「看病する」などの意味がある。 「本当だったら被災地に駆けつけるのに、おなかが大きくて行けなかった。自分の願いをこめたのかもしれません」  看護師である母の蕗子は、そう振り返る。  中村は、都内の中高一貫の進学校である吉祥女子に通った。中2で出合った演劇にのめりこみ、高校生になると声優や舞台俳優を夢見てオーディションを受け続けた。高3の夏、「どうしてもやりたかった」という、ある映画のヒロイン役の一般公募に挑んだが、あえなく書類審査で落ちた。 「こんなに美しいところに住めるなんてありがたいと毎日思う」ほど京都が好き。速さと規模の大きさが重視される東京の価値観は自分には合わないという(撮影/楠本涼)   起業する人を応援する 他力本願だからタリキ  失意のなか、関西へひとり旅に出る。そのときに京都大学総合人間学部のオープンキャンパスに参加し、舞台芸術学の講義を見学した。ユニークな学生が多い校風に憧れて猛勉強し、半年後の2013年、同大同学部に入学する。  ところが、1年生は舞台芸術学を履修することができず、芸能オーディションの機会も東京のように多くはなかった。完全に、目標を見失う。  そんなある日、大きな転機が偶然訪れる。同級生に誘われ、彼の先輩が学内で立ち上げた活動に参加することになった。カンボジアに小学校を建てるのだという。しかもNPOに依存せず、建設地の選定から資金調達、れんがの仕入れ、建設作業の手伝いまで、全部自分たちの手でやる。  代表だった岩崎洸樹(31)は、クラウドファンディングで100万円調達するミッションを中村に託した。当時はこの方式の認知度が低く、個人的な声かけによる募金への誘導が必須だった。自他ともに認める大の負けず嫌いで、どんなことにも全力を注ぐ中村は、目標金額をきっちりと達成したあとで初めて、「二度とやりたくない」と不満を口にしたという。 「彼女らしいな、と思いました。普通の人は心地よい妥協点を見いだせるけど、彼女にはそれができない」  岩崎のあとを引き継いで代表になり、16年3月に2校目の小学校を建てた。地域住民から感謝されて嬉しい半面、「社会課題は構造的なものである」という気づきを深め、自分たちの無力さを痛感した。近くに学校ができて通えるようになった子もいれば、家計を支えるために学校へ行けず、働く子もいる。教員は薄給で仕事を掛け持ちし、良い授業ができない。一方で、教育を司(つかさど)る役所の長は高級車に乗り、大粒の宝石が燦然(さんぜん)と輝く指輪を左右の手にいくつもつけていた。 「私たちのような活動は資金を使い切ったらそこで終わり。持続させるのが難しく、食べていけない。お金儲けの仕組み、政府や国連の意思決定など、自分が知らないことを勉強したいと思った」  大学を1年間休学し、ニューヨークにあるビジネスの専門学校で学んだ。同時に、日本テレビのニューヨーク支局でインターンとして報道に携わった。折しも大統領選の真っただ中。ドナルド・トランプとヒラリー・クリントンが激しく争い、メキシコ国境の「壁」や銃規制などをめぐって社会が分断されていた。これを目の当たりにして、中村はある大きな学びを得る。 「二項対立で前進しても、誰も幸せにならない」  帰国後、友人の清光陽介(32)が主宰する活動を手伝い、カンボジアへ派遣する学生インターンにメンターとして同行した。清光もそうだが、その周囲も皆、学生起業家だった。中村も「社会課題の解決に向き合う事業を自分もちゃんと考えよう」という気持ちが芽生えた。  清光は出会った頃の中村について、こう語る。 「『どうしたら社会は理不尽じゃなくなるか、今よりも生きやすくなるか』と、いつも言っていた。社会を構造的にとらえる姿勢がすごいと思った」  大学4年生のとき、中村は「社会課題にアクセスする若者を応援する」というコンセプトで、学生団体を立ち上げることにした。 「自分が直接アプローチするんじゃなくて解決してくれる人を増やすんだから、他力本願だよね」  そう言うと、居酒屋で中村の話を聞いていた友人たちは「じゃあ、タリキでいいじゃん」。 (文中敬称略)(文・原賀真紀子) ※記事の続きはAERA 2024年4月8日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/04/05 18:00
故エイミー・ワインハウス、学校でいじめられていたと幼馴染のビリー・パイパーが明かす
故エイミー・ワインハウス、学校でいじめられていたと幼馴染のビリー・パイパーが明かす
故エイミー・ワインハウス、学校でいじめられていたと幼馴染のビリー・パイパーが明かす  歌手で女優のビリー・パイパーが、幼馴染の故エイミー・ワインハウスが学生時代にどんな子だったのかについて語った。ドラマ『シークレット・ダイアリー・オブ・ア・コールガール』の女優である彼女は、ジェシー・ウェアのポッドキャスト『テーブル・マナーズ』に出演した際、英ロンドンのシルヴィア・ヤング・シアター・スクールに通っていた頃、エイミーが“いじめられていた”と明かした。 ビリーは、「彼女はいつも生意気でした。いつもあんな感じで、わかりますよね。難解なことをやったりして、私はそれがすごく好きでした」と振り返り、「彼女は何でもできました。すごく賢くて、すごく聡明で、あの学校の他のどの女子とも違っていました」と述べている。 しかし、エイミーの学生時代は“楽なものではなかった”とビリーは語っており、「彼女は自分のやりたいようにやっていて、人を怒らせたり変なことをするのが好きだったから、学校ではかなりいじめられていました」と明かしている。 2011年に27歳で亡くなったエイミー・ワインハウスの人生は、現地時間2024年5月17日に全米公開予定の伝記映画『バック・トゥ・ブラック』で描かれ、一躍名声を得た英国のアイコン的シンガー・ソングライター役はマリサ・アベラが演じている。2024年2月に公開された公式予告編では、数々のライブ・パフォーマンスの映像のほか、娘の成功が嬉しくてたまらない父親のミッチ・ワインハウス役のエディ・マーサン(『レイ・ドノヴァン ザ・フィクサー』)や、問題を抱えた夫のブレイク・フィールダー=シビル役のジャック・オコンネル(『ゴッドレス -神の消えた町-』)がちらりと登場している。全米で大ブレイクしたエイミーの高揚感、いつかママになりたいという夢も含めたフィールダー=シビルとの結婚、そして夫婦の波乱に満ちた、歩み寄ったり離れたりの関係を描いている。 エイミーの伝記映画は、映画『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』の監督サム・テイラー=ジョンソンと脚本のマット・グリーンハルシュが再びタッグを組んでいる。エイミーの遺産管理団体、ユニバーサル・ミュージック・グループ、ソニー・ミュージック・パブリッシングの支援を受けてスタジオ・カナルによって製作され、彼女の最も愛されていたヒット曲の数々が登場する。
billboardnews 2024/04/04 19:16
ダンシング愛子さま「ひげじいさん」が可愛い! 周囲を明るくした笑顔【成長と門出を祝う】
永井貴子 永井貴子
ダンシング愛子さま「ひげじいさん」が可愛い! 周囲を明るくした笑顔【成長と門出を祝う】
3歳の誕生日を前に、手遊び歌に合わせてダンスを披露する愛子さま。愛らしさに、見ている方も思わず笑顔になってしまう=2004年11月、東宮御所の内庭、宮内庁代表    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが今月、学習院大学を卒業。4月からは公務に日本赤十字社での勤務と、多忙な日常が始まることになりそうだ。振袖と袴姿で卒業式に臨み、白いロングドレスで伊勢神宮に参拝した愛子さまのご成長に、感慨を抱いた人も少なくないだろう。「愛子さまが笑うと、周囲が明るくなる」と、天皇ご一家を知る人たちはそう話す。ご両親からの愛情を受け、小さな頃から見せてきた愛子さまのとびきりの笑顔をふり返ってみた。 *   *   *  カメラに向かって、小さな指をチョキチョキ。腕をリズムに合わせて前後に振り、両手でグー、チョキ―、パーを作ると、両手を交差して胸に当てながら、おかっぱの頭を楽しげに左右に動かす愛子さま。  音声はないものの、指遊び歌「グーチョキパーでなにつくろう」を歌いながら踊っているのだ。   3歳の誕生日を前に、「パパ」と「ママ」に手遊び歌を披露しながら踊る愛子さま。皇太子(当時)の「パパ」も満面の笑み=2004年11月、東宮御所の内庭、宮内庁代表    これは愛子さまの3歳の誕生日にあわせて、2004年12月に公開された映像だ。  横では、東宮時代の陛下と雅子さまが、とろけそうな笑顔で愛子さまの横にしゃがみ込んで、一緒に指をチョキチョキとさせて遊び歌を楽しんでいる。愛子さまが「ママ」に甘えて体をくっつけながら、ほっぺを雅子さまの顔にぎゅっとくっつける場面もあった。  さらに愛子さまは、手遊び歌をもう一つ披露。「とんとんとんとん、こぶじいさん」と、ほっぺに両手でつくった「こぶ」をくっつけて、最後は「キラッキラッキラッキラッ、手はおひざ」の振りに合わせて、手をひらひらさせた。 雅子さまと一緒に、ボールを用いた親子リトミックで体を動かす愛子さま=2004年9月、元赤坂東宮御所、宮内庁提供  愛子さまは2歳のころから、音楽にあわせて身体を動かして様々な能力を育てるリトミックに、親子で取り組んでいた。愛子さまが得意そうに踊っているのは、日ごろの成果なのかもしれない。   【こちらも話題】 すっかり「パパ」と「ママ」の陛下と雅子さま 運動会で望遠レンズの先には成長した愛子さま https://dot.asahi.com/articles/-/198782     手遊び歌に合わせて「とんとんとんとん ひげじいさん」の「おひげ」を両手で作って踊る愛子さま。思わず気持ちが和む愛らしさ=2004年11月、東宮御所の内庭、宮内庁代表    05年春からは、東京・渋谷区にあった児童施設「こどもの城」で開催される幼児教室に週に2回、通い始めた。お迎えは雅子さまの役目だった。  4歳の誕生日には、ボール遊びやお絵描きを楽しむ写真とともに、他の子どもたちと神経衰弱などのカードゲームを楽しむ様子が伝えられた。  この時期の愛子さまがお得意だったのは「替え歌」だったという。  たとえば、「森のくまさん」のメロディーに乗せて、「ある日 愛ちゃんの お弁当は おにぎりとトマトよ これ全部食べちゃいたいなあ」と口ずさんでは、周りを笑わせていたという。     3歳の誕生日を前に、「パパ」と「ママ」と一緒に手遊び歌に合わせて踊る愛子さま=2004年11月、東宮御所の内庭、宮内庁代表 高校では、愛子さまたちのダンスが大盛況  身体を動かす愛子さまの映像からは、愛子さまが柔軟性に恵まれ、運動も得意だったように思われる。  愛子さまは学習院初等科の5年生になると、課外活動でバスケットボール部に入部した。  コーチを務めた天皇陛下の同級生によれば、休日は東宮御所の職員とお住まいでバスケの練習に熱中したり、他校との試合ではバスケットボール型のお弁当の容器と布製のお弁当袋を持参するほど、バスケットを楽しんでいたという。  さらにお住まいでは、ご一家でテニスで汗を流すなど、体を動かす機会が多かったようだ。     【こちらも話題】 愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴  https://dot.asahi.com/articles/-/218140   音楽に合わせて体を動かす親子リトミックで、雅子さまと楽しそうに笑う愛子さま。雅子さまも楽しそうな表情=2004年9月、元赤坂東宮御所、宮内庁提供    小さなころに「とんとんとんとん ひげじいさん」と、全身を使って手遊び歌を踊っていた様子が懐かしく思い出されるのは、学習院女子高等科3年のときの文化祭。  愛子さまは、有志のグループでダンス公演に参加。メンバーはおそろいの衣装を着て、洋楽やポップソングに合わせてダンスを披露した。会場に入れない人が出るほどの大盛況ぶりだったという。    大学を卒業し、春からは社会人としての生活がスタートする。成年皇族としての公務も本格化する。忙しい日々になりそうだが、穏やかなほほ笑みを絶やさない愛子さまのご成長と新しい門出を、多くの人たちが祝福していることだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 【祝ご卒業】「古典の才女」愛子さまの知性を育んだアナログ玩具とは? 弾けんばかりに笑う天皇家の家族タイムがポイント https://dot.asahi.com/articles/-/217417  
愛子さま天皇陛下雅子さま皇室
dot. 2024/03/30 09:00
ものは試しに走ってみたら世界記録超えた! 95歳女性ランナーが語る健康法と新たな目標
井上有紀子 井上有紀子
ものは試しに走ってみたら世界記録超えた! 95歳女性ランナーが語る健康法と新たな目標
手先も器用で、今も折り紙のくす玉(写真)を作れるし、最近まで布団も縫っていた(撮影/編集部・井上有紀子)    新連載「会いたい人に会いに行く」は、その名の通り、AERA編集部員が「会いたい人に会いに行く」企画。今週は95〜99歳クラス100メートル走世界記録を超えた女性に、長生きの秘訣を探求するアラサー記者が会いに行きました。 *  *  *  昨年、95歳にして陸上競技の世界記録を超えた。  広島県の川本静子さん(96)は、2023年の広島マスターズ陸上競技選手権大会で女子95〜99歳クラスの100メートル走で世界記録(30秒16)を抜く28秒85のタイムをたたき出した。  レースの映像を見ると、体の軸がぶれない走りだった。同時に出走した年下クラスの選手を追い越してゴールした。  なのに、95歳で初出場するまで、運動経験はほとんどなし。  川本さんは、瀬戸内海の大崎上島(おおさきかみじま)で暮らす。レモンやミカンが育つ温暖な島だ。  玄関先で出迎えてくれた川本さんを一目見た瞬間、記者の思考が停止した。90歳代の立ち姿とは思えないのだ。  まっすぐに記者を見る川本さんの目には力があり、背筋も曲がっていない。「よくいらっしゃいました」と言うと、「中へどうぞ」とヒョイと体を翻し、家の中に入っていった。  座布団に正座して「耳が遠い」と大きな声で言って笑った。今も自宅の畑でタマネギなどを育て、時に山へミカンの収穫に行く。食べ物の好き嫌いはない。 「病気をしたことがないです」  だが、若い頃は違ったそう。 「元気だったが、風邪をよく引いとった」  でも、運動は好きだった。 「学校の休み時間はドッジボールをしていた。バレーボール、走り幅跳びも何でもした」  学校の陸上大会の選手に選ばれたこともあったが、唯一のスポーツ経験といえば、海運業を引退して60代で始めたゲートボール。そこで、仲間から教えてもらった「寝る前にうがいをして、起きたら夜に沸かした水を1杯飲む」という健康法を実践すると、それが理由か風邪を引かなくなったという。 川本静子(かわもと・しずこ)/1927年、フィリピン生まれ。広島県大崎上島町の尋常高等小学校卒業後、家業の農業を手伝い、結婚後は夫と機帆船で石炭を運んだ元船長。63歳で引退後は畑で野菜を作る。身長144センチ(撮影/編集部・井上有紀子)   「それから人から聞いた健康法は何でも真似した。(あらゆる健康法を試した結果)体操のおかげで元気なんじゃ思いますね」  1時間のウォーキングと体操は同じ効果があると聞き、テレビ番組を参考に20分の体操を始めた。30年間一日も欠かさない。 「長生き体操を見せてもらえませんか」と頼むと、川本さんはごろりと畳に転がった。 「起きたら、そのまま布団で体操します」  ダイジェストで伝えると、背中の筋肉を緩めた後、寝たまま片足を90度真上に上げて、ピタッと停止。足をゆっくりと下ろして、太ももの筋肉を伸ばした後は、腰を浮かせて、宙で自転車を漕ぐように両足を動かした。  立ってからは、かかとを浮かせて背伸び、スロースクワット。襖を支えにして片足を上げて、つま先を片手でキャッチした。  それにしても、なぜレースに出たのか。長年、次女・圭子さん(65)が町内運動会で走る姿を見て「私の方が速い」と言っていた。そして、親戚が集まった一昨年のある日、そんなに言うなら「マスターズで走ったら」と甥に提案された。 「ものは試しに」と、自宅前の道路100メートルを走り、長男の英雄さん(74)にキッチンタイマーで計ってもらったら、日本記録を3秒ほど上回っていた。親族一同、衝撃を受けて、大会に申し込み、レース当日は、ひ孫らも応援に駆け付けた。  200メートル走では、転んだものの完走して、日本記録を上回った。幸い骨折しなかったが、「足がもつれたけど、急に止められんのです」と悔しそうだった。骨年齢は65歳らしい。 「これからもチャレンジしたいけど、こけて動けんくなったら迷惑かけるけんね。走りたいのは山々じゃけどね」  弱気だった川本さんに、圭子さんは「100歳になってから走って、新しい記録を作って」と応援すると、川本さんは「生きとったらね」と笑った。 (編集部・井上有紀子) ※AERA 2024年4月1日号
会いたい人に会いに行く
AERA 2024/03/30 06:30
「東急歌舞伎町タワー」も手掛けた建築家・永山祐子が素材と表現にこだわり抜くための交渉術とは
「東急歌舞伎町タワー」も手掛けた建築家・永山祐子が素材と表現にこだわり抜くための交渉術とは
ポジティブでマイペース、ギスギスしたところがない。明るいオーラで周囲をやる気にさせていく(撮影/篠塚ようこ)    建築家、永山祐子。東京・新宿に立つ「東急歌舞伎町タワー」が昨年、話題となった。永山祐子は今、大阪・関西万博のパビリオンも手がける。素材やデザインにこだわると、予算がかかる。そこを「こうすればできる」と粘り強く交渉していき、理想に近づける。出産をしたことで、仕事の仕方も変わった。心強い味方を得て、どうしたら建築が人と場所を幸せにできるかを追求する。 *  *  *  海風が四方から吹き付ける人工島は、「寒い」を超えて「痛い」ほどの冷気だった。クレーンが林立する広大な現場では、大型の作業車がひっきりなしに行き交い、車輪から巻き起こる砂埃(すなぼこり)が容赦なく頬を打つ。そんなハードボイルドな景色の中で、建築家の永山祐子(ながやまゆうこ・48)が、建設途上の建物のディテールを一つひとつ、関係者とともに丹念に確認している。  永山は2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)で、「パナソニックパビリオン『ノモの国』」と「ウーマンズパビリオンin collaboration with Cartier」2館のファサード(正面部)デザインを手がけている。ノモの国では、8の字に曲げた金属フレームにオーガンディの布を張ったモチーフを連続させ、そこに風の揺らぎを誘導することで、軽やかさ、自由さを表現する。  ウーマンズパビリオンでは、日本の伝統である麻の葉文様を鋼材で組み立て、それを壁や天井に作り上げていく。ここで使う鋼材は、21年のドバイ国際博覧会日本館のファサードで使用したもののリユースで、SDGs時代ならではのインパクトも同時に発信する。  文章にすると簡単に終わってしまうが、華やかで軽快なデザインの裏には、綿密な構造計算とともに、人の心を動かす「美」へのあくなき探求、すなわち建築家にとってのレゾンデートル(存在意義)が横たわっている。  昨年に建築界の話題をさらった東京・新宿の「東急歌舞伎町タワー」の外装デザインも、永山の強い思いの賜物(たまもの)だ。噴水から噴き上がる水しぶきが天を衝(つ)くような超高層ビルは、その斬新、繊細な意匠で、日本一雑多であやしい町、歌舞伎町のイメージを塗り替えるランドマークとなった。 「JINS PARK 前橋」は2層の吹き抜けに配した大階段が特徴。手がけた仕事は機会がある度に立ち寄って、様子を確認している(撮影/篠塚ようこ)   「素材と表現には、いつもこだわっています。最近は人件費、資材の高騰もあり、なかなか当初の計算通りには行かないのですが、そこを乗り越えてイメージした形に近づいていく過程が、楽しくてやめられないですね」(永山) バッシングは仕方がない 建築は建ててこその世界  日本は世界に冠たる建築家の輩出国である。戦後の丹下健三から始まり、磯崎新、黒川紀章、安藤忠雄、隈研吾、妹島和世……と、時代を象徴するスターが次々と生まれてきた。永山はその後続世代で、藤本壮介、中村拓志らとともに前線に連なる一人だ。  だが建築家を取り巻く状況は、昔と今ではまったく変わってきている。永山がかかわる大阪・関西万博は費用の膨張に批判が続出。東急歌舞伎町タワーは、永山がまったく関与していない「ジェンダーレストイレ」が炎上を呼び込んだ。そうでなくとも、超高層プロジェクトは、投資リターンを最大化する事業スキームが最重要で、建築が持つ創造性はその下位に押し込められがちだ。キャンセル・カルチャー、リスクヘッジの世の中にあって、建築家はもはやスターではなく、世間から放たれる矢をかわすスケープゴートとして扱われかねない。  しかし、その現実を背負いながら、永山に悲壮感はまったくない。 「いろいろな意見があるのは当たり前で、バッシングが起こるのも、ある意味仕方ない。でも、建築は建ててこその世界。誰かがやらねばならないのだったら、私がその役を引き受けて行動する。その姿を次の世代に見てもらいたいのです」  と、直球の言葉を返してくる。  永山が率いる「有限会社 永山祐子建築設計」は現在、所員16人。超高層ビルから眼鏡、小箱のような手の上に乗るプロダクトまで、中身もオフィス、商業、美術館、住宅など、多様なプロジェクトを手がけている。男性優位、筋力優位のこの世界にあって、会社は永山も含めて女性が7人。本人を筆頭に子育て中のメンバーも多く、事務所の雰囲気はさらっとなごやか、昭和時代の大家族のような趣がある。 事務所での打ち合わせ。決断は素早い(撮影/篠塚ようこ)    所員の一人、小森陽子(38)が語る。 「ものすごく集中力のある、頼もしい指揮官です。でも出張に行った時は、ミカンを箱で買ってきたりして、お母さんみたいなところもあります」  永山自身、東京・杉並で両親、祖母、弟妹と、同じ敷地に叔母夫妻が暮らす大家族の長女として育った。父は生物物理の研究者、母は元・化学技官というアカデミックな家庭で、子どものころは漠然と生物の世界に進むことを思い描いていた。  それが建築という「大きな」ものに振れたのは、高校3年の時。通学時のバス停で友人から「建築家を目指す」と聞いた瞬間に、「私もこれだ!」と直感が天から降りてきた。小さな時から物語を想像することが好きで、部屋の片隅にマットレスで作った「ハウス」にこもる時間が至福。理系の教科も得意で、数学が表す数のロマンにも惹(ひ)かれる。早世した父方の祖父は、モダニズムの泰斗(たいと)、谷口吉郎門下で建築家を志していた。自分の中にあるさまざまな要素が一つにハマった時だった。  建築コースがあった昭和女子大学生活科学部に進学し、卒業後はアトリエ派の青木淳建築計画事務所での修業を選んだ。青木の事務所ではメンバーが4年で独立することが不文律で、永山もそのルール通り26歳で独立。青木から振られた東京・北青山の大型美容室の内装が初仕事となる。 「今から思えば20代で独立なんて無謀でしたが、その時は何も知らないから逆にできちゃったんだと思います。あ、仕事が来た!ということで一所懸命に応えたら、次も来た! その次も来た! と、今もその延長でやっている感じで」  語り口は明るく軽快だが、その言葉の後には「すべての仕事に100%以上の力で応える」という、永山の姿勢が続く。  100%以上を表す一例が04年に手がけた「LOUIS VUITTON大丸京都店」のファサードである。この時は京都の中心、四条通りに面した店舗の前面に、液晶ディスプレーに使われる偏光板を使って、シックな黒い縦格子を出現させた。本物の格子ではなく、角度によってガラスに映し出されるバーチャルな格子模様は、エッジを効かせながら、ハイブランドの店舗と古都の街並みをつなぐ仕掛けだった。 大阪・関西万博の現場を確認したこの日は、次に博多に移動だった(撮影/篠塚ようこ)   建築界で異端の素材 実験を重ね問題をクリア  永山と組んだファサードエンジニアの小野田一之(現・三和ファサード・ラボ社長)は、このアイデアを最初に聞いた時、それまでにない衝撃を受けたと言う。 「永山さんが自分で作った模型を持ってきたんです。それを見て、あっと驚きましたね。ツルッとした偏光板の奥をのぞくと、そこにないはずのものが立体的に見える。光学の世界で偏光板は普通の素材ですが、建築で使うなんて聞いたことがなかった。名だたる建築家でも、そうそう出てこないアイデアです」  偏光板は電子顕微鏡の専門家でもあった父との会話の中で知り、自分の中にストックしていた独自のものだった。異端の素材ゆえ、建設会社が最初に行った耐久性能試験ではあえなく却下。しかし、納得できなかった永山は諦めず、試験場の片隅を借り、ひと月をかけて実験をやり直した。 「最初の試験は紫外線や熱などの条件が非現実的で厳し過ぎたのです。私は現実的な条件を設定し直して、データとともに問題点がクリアできることを証明しました。フランスのクライアントを説得することも大事で、英語が得意でなかったけれど、必死で伝えました。なぜなら、自分が手がける証しとして、この素材だけは絶対に譲れないと決めていましたから」  この作品で才能ひしめく建築界の一角に喰(く)い込んだ永山は、アパレル店舗、個人住宅、カフェ「カヤバ珈琲(コーヒー)」(東京・谷中)や老舗旅館「木屋旅館」(愛媛県)のリニューアルで手腕を発揮していった。12年にはアーティストの藤元明(48)と結婚。公私ともに順調だった道のりの中で、初めて立ち止まったのは、長男の妊娠中に「豊島横尾館」(香川県)の話が来た時だ。  瀬戸内海に浮かぶ豊島の古民家を改装して、横尾忠則の美術館をつくるプロジェクトでは、地元の協力を得るためにも、現場通いが必須だった。この件に限らず、建築の仕事は現場なしでは成り立たず、その現場は東京から遠く離れていることが多い。仕事と結婚は両立できるが、出産を控え、さらに子どもを育てながらでは、仕事は完遂できないのではないか。いったんキャリアを中断し、事務所も縮小すべきではないか。そう考えた時に、母から「育児は全面的に協力するから、その話は受けなさい」という強力なプッシュを受けた。 ビンテージマンションの最上階2フロアをみずからリノベートした自宅で、夫の藤元明と小学生の長男、長女と。ガーデンテラスがある家は子どもたちと友達との格好の遊び場。「私は必死の形相でご飯を作っています(笑)」(撮影/篠塚ようこ)    母の永山幸子(75)は結婚に際して躊躇(ちゅうちょ)なく家庭を選んだ人だったが、「子育てがある場合、女性は男性と同じ時間を仕事に使えない。それは不公平なことだ」と、常々考えていたという。 「家庭と仕事、どちらが大事というのではなく、自分が力を発揮できる場所でがんばればいい。娘がチャンスを与えられ、仕事に打ち込みたいのなら、足りない部分を私が支えよう、と」(幸子) メンバーに仕事を任せると 事務所がさらにパワフルに  折しも美術館で横尾が設定したテーマは、子どもの誕生ともつながる「生と死」。受験生にはおなじみ、参考書の文字を隠す赤いシートをヒントに、真っ赤なガラス壁で向こう側の眺めをモノクロ世界に変異させた美術館は、彼岸此岸(しがん)を行き来する幻想的な空間に仕上がった。この作品で建築界のメジャーな賞であるJIA新人賞を受賞。長男に続き、翌年には長女も誕生して、いよいよ多忙は極まっていく。  もともと、人にまかせることができない性分で、特に建築については完璧主義。しかし、建築家としての創造、事務所の経営、家庭の運営、子育てと、何重もの役目が重なる中で、従来のやり方は通せない。立て込む仕事を前に「もうダメかも!」と震えながら、その局面をマネジメントの切り替えで乗り越えていった。  大きな変化は「人にまかすこと」だった。それまで所内全体で関わってきたやり方を変えて、プロジェクトごとに担当を割り振り、その上に永山が立って総合的なディレクションを行う。事務所は机に向かう場ではなく、ディスカッションと意思決定を行う場ととらえる。決断のスピードを速め、判断を過たないように、常に思考を整理しておく。そう決めてメンバーに仕事をまかせると、人は育ち、事務所自体がさらにパワフルな仕事集団になっていくことを実感した。 「3食がお弁当だったりする」というほど移動が多い日常。iPadは欠かせない道具。週に3回、母が自宅に来て家事と子育てをサポートしてくれている(撮影/篠塚ようこ)    この経験は建築家として次のステージに行く上でも大きな基盤になった。永山は言う。 「建築は大きなお金が動くものですので、表面的な意匠だけではなく、予算、スケジュール、人間関係、時代の文脈とすべてへの目配りが求められます。困難や変更はイヤというほど発生して、その度に心折れる気分になりますが、でも、やるしかない。いかにデザインするかと同時に、いかに実現まで持っていくかが、建築家のスキルだと思っていますので」 (文中敬称略)(文・清野由美) ※記事の続きはAERA 2024年4月1日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/03/29 18:00
小島よしおが「芸能活動への夢をバカにされそうでつらい」と悩む中3女子に伝える、“行動”の大切さとは
小島よしお 小島よしお
小島よしおが「芸能活動への夢をバカにされそうでつらい」と悩む中3女子に伝える、“行動”の大切さとは
小島よしおさん(撮影/松永卓也=写真映像部)   「芸能オーディションを受けたいけど夢をバカにされそうでつらい」と悩む中学3年生の女子。数多くの子ども向けライブを開催し、昨年9月に子どものお悩み相談本『小島よしおのボクといっしょに考えよう』(朝日新聞出版)も出版した小島よしおさんが、さまざまな悩みや疑問に答えるAERA with Kids+の本連載。小島さんは「自分も夢はたくさん笑われてきた」と話し、行動することの大切さを伝えます。   【相談58】  私は高校生になったら受けてみたい芸能オーディションがあります。だけど、高校受験は推薦なので、入学後は責任を持って行動しなければいけません。芸能オーディションを受けたり、活動したりするとなれば、学校を欠席したり早退したりしなければいけないですが、高校では一切配慮されないことは覚悟しています。  そのために、オーディションまでは勉強などを頑張るつもりです。本当は夢との両立をしやすくするために通信制に行きたかったのですが、親が反対したので全日制の高校にしました。  芸能活動のために高校を辞めるとしても、中学校の後輩に迷惑がかかるし、親が猛反対します。最初は受かる確率が高い推薦入試を希望していたのですが、もしそういうことを高校でやりたいならやめたほうがいいのかなと思っています。  ですが、責任を持って行動し、周りに良い影響を与えることができるようになることは、夢をかなえるために必要だと思っています。知っている誰かに言ったとしても、夢をバカにされそうでつらいです……。(ジュギョン・中学3年生・女子)   【よしおの答え】  ジュギョンピーヤ、もう受験は終わってしまっているかもしれないけど、自分の推薦入試で後輩のことまで考えられていることにびっくり! 「推薦入試で受かった自分が辞めてしまったら、母校の評価が下がって後輩が推薦入試を受けられなくなるかも」っていうところまで、普通だったら考えられないよ。ジュギョンちゃんはいろんなことを考えられるんだね。夢をかなえるにはどうしたらいいのかも、よしおと一緒に考えていこう。  よしおは高校卒業後、浪人しようと決める前、オーディションを受けたことがあるよ。「芸能人になろう!」って思ってよくわからないまま3つくらいのオーディションを受けたんだ。  でも芸能界のこともオーディションのこともよくわかっていなかったから、受けたオーディションがドラマや映画のエキストラに登録するためのものだったり、タレントを育成する塾みたいなところだったり……。「登録料7万円です」とか「授業料40万円かかりますよ」とか言われちゃって。お母さんに「ここ行きたい!」って言ったら「そんなお金あるわけないでしょ、行きたいなら自分でお金を用意しなさい!」って反対されてやめたけど(苦笑)。  だけどオーディションを受けたことで「芸能界といってもいろんなジャンルがあるんだなあ」って知った。それまではテレビに出ている人はみんな漠然と“芸能人”ということしかわかっていなかったけど、芸人もいれば歌手もいれば俳優もいればタレントもいる、ってやっと理解したんだ。「エキストラも登録制なんだなー」とか「タレントも塾みたいなところがあるんだ」とかも知れたよ。  だからジュギョンちゃんも、まずはオーディションを受けるところから始めてみたら? きっと土日や学校が終わったあとに受けることができるオーディションもあるはず。今はSNSとかも発達していろんな情報がオープンになっていると思うけど、それでも行って体験してみないとわからないことってたくさんある。 「夢をバカにされそう」と心配しているけど、オーディション会場にはジュギョンちゃんと同じことを夢見ている子が集まる可能性が高いよね。全く同じ悩みを抱えている人がいるかもしれないし、もしかしたら事務所に所属しながらオーディションを受けているって人にも出会えるかも。そこで出会えた人たちに「どう?」っていろんな話を聞くこともできるかもね。そんなこと全てが夢をかなえるヒントになるんじゃないかな。 夢を追いかけていたころの小島さん(本人提供) 「やらない理由」より「やりたい気持ち」    夢をかなえるために必要なのって、やっぱり気持ちが一番大事なんじゃないかな、ってよしおは思う。なんでもそうだけど、ちょっと考えすぎてしまうと前に進めないことって多いよね。よしおが芸人になるときもそうだった。お母さんから冷静に「あなたで笑ったこと一回もない」って言われたし(苦笑)。そんな状況を冷静に分析してしまったら、家族を笑わせたことのない人が芸人になるって難しい、って思ってしまう。  お笑いコンビの錦鯉さんもいい例だよね。これまでの芸能界の傾向を考えたら「40歳過ぎて売れるなんて無理」って言われて当たり前。それを「ああ、そうだよなあ」って冷静に受け止めて辞めていたら、きっとM-1グランプリで優勝できていなかった。 「経営の神様」と言われている松下幸之助って知っている? 松下幸之助がとある講演会である人に「どうやったらそんなふうに経営できるんですか?」と聞かれて、「まずはできると思うことです」って答えたんだ。会場はポカンとした空気だったらしいんだけど、そこで「なるほど!そういうことか!」と実践したのがこれまた経営の神様の稲盛和夫さん。それだけ「強く思う」ということは大事なんだ。  芸能の世界なんて、特に「気持ち」のウエートが大きいとよしおは実感しているよ。その時点で考えられる状況よりも、強い気持ちを優先した人が夢をかなえる側に行けると思うんだ。だからまずはやってみることから始めてみてほしいな。  両立が心配だと言うけれど、それもやってみて試行錯誤していけばいいと思う。いま世界を舞台に卓球で活躍している張本兄妹の通っていた卓球場に取材に行ったことがあるんだけど、親御さんが「卓球だけじゃだめ、絶対に勉強・宿題をさせる」と言っていたんだ。勉強をしながら卓球でも素晴らしい成績を収めている人たちもいるから、やりようはあるはず。  それに、難しそうなことってちょっと燃えない? 難しそうなことは、挑戦する人が少ないってことでもあると思うけど、よしおはそういう状況に燃えるんだよね。「あんまり人がやったことないことなんだ。やってやろう!」ってね。やらない理由を数えるより、やりたいわくわくを優先してほしいな! 「ジュギョンピーヤ、芸能界で待っているよ!」(撮影/和仁貢介=写真映像部) 行動車輪を回そう!   「知行合一」って言葉を知っているかな? 知識と行為は一体であるということを言っていて、本当の知は実践を伴ってこそという意味だよ。今のジュギョンちゃんは、どちらかというと知識のほうが大きくなっているのかな、って気になった。  前に進むのに車輪がふたつあるとして、ひとつが知識でもうひとつが行動だとしたら、知識の車輪が大きくなっているイメージ。片方の車輪ばかり大きくなると、どうなると思う? きっとくるくると同じところを回ってしまうと思うんだ。だから、ぜひ行動車輪を大きくしてほしいんだよね。きっとたくさん考えられるジュギョンちゃんは、あとは行動するだけで前に進めるんじゃないかな!  よしおのお母さんはかなりの行動派で、「行動車輪だけで動いているのか⁉」って思っていたんだけど、そういえば本を読む姿もたくさん見ていたんだ。それに、行動すると経験したことが知識にもなっていく。どちらの車輪もどんどん大きくなっていって、さらに前に進める仕組みになっていると思うんだよね。 「夢をバカにされそうでつらい」ってところだけど、夢は笑われるくらいがちょうどいいと思っている。よしおはずっと笑われてきたから。早稲田大学に行くって言ったときも、「無理だよ」って笑われたし、芸人になるって言ったときもそう。芸人になってからも、「すぐ消えるよ」「一発屋」「セミ芸人」ってさんざん言われて笑われてきた。  2011年くらいから子ども向けライブを始めて、「子どものカリスマになる!」って言ったときももちろん笑われた。でもそれくらいがちょうどいいな、って思っているよ。かなえたときにみんなを驚かせられるからね! まあ、肝心のネタではあんまり笑わせられないんだけど……(苦笑)。  人に笑われても、夢をかなえるためには行動するのが一番の近道だと思うよ! ぜひ勇気を出して一歩踏み出してみてね。ジュギョンちゃんが芸能界に来るのを、よしおは待っているよ。  ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな?   (構成/濱田ももこ)   ●小島よしお(こじま・よしお)/1980年、沖縄生まれ千葉育ちのお笑い芸人。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。「そんなの関係ねぇ!」でブレーク。2020年4月からYouTubeチャンネル「小島よしおのおっぱっぴー小学校」で子どもの学習を支援する動画を公開。キッズコーディネーショントレーナーの資格を持ち、子ども向けのイベントを多数開催している。この連載をまとめた『小島よしおのボクといっしょに考えよう』(朝日新聞出版)が発売中!   【質問募集中!】 小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しています。 こちらからお気軽にお寄せください! https://dot.asahi.com/aerakids/articles/-/37692  
小島よしおAERAwithKids
AERA with Kids+ 2024/03/29 16:00
小学生で拒食症を発症するケースも 医師が指摘する、低年齢の「摂食障害」がもたらす将来のリスクとは
小学生で拒食症を発症するケースも 医師が指摘する、低年齢の「摂食障害」がもたらす将来のリスクとは
写真はイメージ(iStock)  拒食症や過食症といった「摂食障害」は、やせた体形に強いこだわりを持ち、極端な食事制限や過食嘔吐(おうと)などの食行動異常を中心にさまざまな問題を引き起こす病気です。10~20代の若い女性に多く、発症のピークは10代半ばですが、小学生で発症するケースもあります。摂食障害に詳しい医師に聞きました。 小学生の摂食障害の大半は拒食症  国立国際医療研究センター国府台病院(千葉県市川市)は2022年1月に「摂食障害全国支援センター・相談ほっとライン」を開設し、摂食障害の人や家族、学校関係者などからの電話相談に応じています。同院心療内科診療科長の河合啓介医師はこう話します。 「開設から2年間に寄せられた相談のうち、当事者が小学生以下のケースは62件。高学年が多いですが、6歳や7歳といった低学年や未就学児の相談もありました。小児専門病院でも低年齢化しているという報告があります」 「摂食障害全国支援センター・相談ほっとライン」に2022年1月~24年1月に寄せられた小学生の相談件数(河合啓介医師提供)   摂食障害は、大きく「神経性やせ症(拒食症)」と「神経性過食症(過食症)」に分けられます。  拒食症は、ほんの少しでも体重が増えることに恐怖を感じ、極端な食事制限や過度な運動でやせようとします。すでにガリガリにやせているのに「まだ太っている」と思い込み、低体重に執着します。そのため極度の栄養不足で低血糖や腎不全といったさまざまな合併症を起こしやすく、合併症の悪化や衰弱、自殺などで患者の約5%が死亡しています。  一方、過食症は食欲をコントロールできず、尋常ではない量の食べ物や飲み物を無茶食いします。食後は過食をなかったことにしようと吐き出したり、下剤を乱用したりといった「代償行為」をおこなうのが特徴です。家じゅうの食べ物を食べてしまって家族から非難されたり、食料を確保するために万引きに手を染めたりするなど、拒食症とは違う苦しみを抱えています。 「小学生では多くが拒食症や、強いやせ願望はないものの食べようとしない回避制限性食物摂取症(ARFID)です。ほっとラインに寄せられた小学生の相談も、偶然かもしれませんが、全員この二つのどちらかでした。中学以降は食欲が我慢できなくなって過食症に移行する人が増えてきます」(河合医師) 家庭や学校のトラブルなどストレスも発症の一因に  摂食障害の根底にあるのは、強いやせ願望です。近年は女の子が憧れる同性のアイドルやモデルはほとんどが細身で、テレビやSNSなどを通して「スリムな体形が理想」という意識が小学生にも浸透し、ダイエットの情報もあふれています。  ただ、摂食障害はやせ願望だけでなく、もともとの性格や環境、対人関係などさまざまな要因がかかわって発症する心の病気です。河合医師は「特に家族内のストレス(親子間やきょうだい間の葛藤、親の離婚、家庭内暴力、虐待など)や、学校のストレス(友人間のトラブル、いじめ、受験、部活など)が大きく影響しています」と話します。 「中学生や高校生になれば嫌なことがあってもある程度受け流したり、よそで相談したり、遊びに行って発散したりもできます。しかし小学生だとまだ家庭内や学校内のもめ事を外に持っていく力がないので、ストレスをもろに受け止めてしまいます。やせ願望よりもこれらの要因が発症因子になることも少なくありません。ストレスの手っ取り早い対処手段として、拒食や過食嘔吐に走ってしまいやすい。『やせたね』と褒められれば、達成感や自信が得られます」 発達障害がある子は摂食障害になりやすい  また、発達障害があると、摂食障害になりやすいこともわかっています。  強いこだわりやコミュニケーションが苦手といったASD(自閉症スペクトラム障害)の特性や、注意力が散漫でじっとしていられないなどADHD(注意欠如・多動症)の特性は、小学校に入学し本格的に集団行動が始まると目立つようになります。本人にしてみれば学校が面白くないし、周りから落ち着きのない変な子だと誤解され、孤立してしまうことも少なくありません。 「発達障害の子は生きづらさを抱えストレスフルですから、ストレスがかかわる摂食障害を発症するリスクは当然大きくなる。こだわりが強いために特定の食べ物を口にしないなど、ダイエットをエスカレートさせてしまう側面もあります」  と河合医師。摂食障害の症状で来院した子を診察した結果、発達障害がわかることもあると言います。「摂食障害の診断を受けた人の約5%は発達障害を持っていた」という研究結果も報告されています。 将来、低身長や不妊になるリスクも  小学生の6年間はからだも心も大きく成長します。摂食障害になると成長の遅れ、栄養不足、骨密度の低下など、健康に深刻な影響を及ぼす可能性があります。そして現在の健康はもちろんのこと、「将来への影響」も無視できません。  その一つが、低身長です。通常、身長が急激に伸びる「成長スパート」と呼ばれる時期は、男子が13歳前後なのに対し、女子は11歳前後。伸びが止まるのも早く、16歳ごろには骨端線(骨の端にある成長点)が閉じます。10代前半までは伸び盛りで、この大事な時期に低栄養状態が続くと本来伸びるはずだった分が伸びなくなってしまうのです。  また、女の子は、8歳くらいから体の成長の変化が始まります。女性ホルモンの分泌量が増え、乳房の発達など第2次性徴が出現し、初潮を迎え、妊娠や出産が可能な体へと変わっていきます。この時期の栄養不足は無月経や無排卵などを引き起こし、将来妊娠しにくくなることもあります。適切な時期に十分な量のホルモンが分泌されないことで、骨粗鬆(こつそしょう)症になったり、更年期障害の症状がひどくなったり、生涯にわたって影響を及ぼすことも少なくありません。  河合医師はこう話します。 「子どもたちの多くは『今、やせたい』『足が細くなりたい』ということだけで、将来、背が伸びなくなるとか、赤ちゃんができにくくなることまでは考えが及んでいません。どんな人生を選ぶかはもちろん本人の自由なのですが、自分が望む人生の可能性を狭めてしまうリスクがあることを、本人にも親にも知っておいてほしいと僕は思っています」 (取材・文/熊谷わこ) 摂食障害のサイン チェックリスト 摂食障害全国支援センター:相談ほっとライン 電話番号:047-710-8869 受付時間:火~金の9~15時(休日、年末年始、お盆休みを除く) センターのホームページには「よくある質問」も掲載しているので、相談前に確認を。 摂食障害支援拠点病院がある6県に住んでいる人は、 宮城(022-717-7328) 千葉(047-375-4792) 石川(076-265-2827) 福井(0776-61-8759) 静岡(053-435-2635) 福岡(092-642-4869) の各病院へ。 〇河合啓介(かわい・けいすけ)医師/国立国際医療研究センター国府台病院心療内科診療科長。愛媛大学医学部を卒業後、九州大学心療内科に入局。カナダ・トロント大学留学、九州大学病院心療内科講師を経て現職。専門は心身医学(心療内科)で、思春期の心身症に詳しい。摂食障害(拒食症・過食症)の専門医・研究者であり、「摂食障害全国支援センター:相談ほっとライン」の代表を務めている。
摂食障害子どもの健康
AERA with Kids+ 2024/03/29 07:00
愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴 
永井貴子 永井貴子
愛子さま 伊勢神宮参拝でお召しの白のロングドレスは、神聖さと清らかさの象徴 
伊勢神宮を参拝する愛子さま。聖域でお召しの白いロングドレスの参拝服が美しい=3月26日、三重県伊勢市、朝日新聞社    白い参拝服に身を包んだ天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが26日、皇室の祖先とされる天照大御神を祭る伊勢神宮(三重県伊勢市)を参拝した。大学の卒業と就職を報告をするためで、おひとりで地方を訪問するのは初めてのことだ。愛子さまが着用していたのは白い絹地のロングドレス。この色にも意味があるという。 *   *   *  小雨の降るなか、白い参拝服で扇子を手にした愛子さまは、伊勢神宮の参道をゆっくりと進み、正宮で玉串を捧げて参拝した。  天皇家では、成年や卒業など人生の節目に、皇祖神である天照大御神が祀られる伊勢神宮に参拝することが慣例となっている。  愛子さまは2014年に続いて2度目。このときは、前年の秋に執り行われた式年遷宮「遷御の儀」を受けて、ご一家での参拝だった。  12歳だった愛子さまは、正装として学習院女子中等科の制服で臨んだ。健康的に日焼けした愛子さまに、夏用のセーラー服がよくお似合いだった。  このときの伊勢神宮の周辺の沿道には、愛子さまの姿をひと目見ようと大勢の人たちが集まり、帰路に着くご一家を乗せた車は速度を落としてゆっくりと走った。  後部座席には、明るい笑みを浮かべて手を振る、当時の皇太子さまと雅子さま。おふたりの間に愛子さまが座り、恥ずかしそうに少しだけお手振りをしていた。そんな可愛らしい様子を、集まった地元の人たちも顔をほころばせて見守っていた。     【こちらも話題】 【祝ご卒業】愛子さま 卒業式の着物には堂々たる天皇家の「菊紋」 格式高い三つ紋の本振袖と凛とした紺袴で花のような美しさ https://dot.asahi.com/articles/-/217714     伊勢神宮を参拝する愛子さま。聖域でお召しの白いロングドレスの参拝服が美しい=3月26日、三重県伊勢市、朝日新聞社   愛子さまのご成長に地元も感慨深く  通例であれば、内親王は20歳の成年を迎えた年に、伊勢神宮へ参拝してきた。しかし、愛子さまは21年12月に20歳の成年を迎え、翌3月に成年の記者会見を開いたものの、コロナ禍がまだ落ち着いていない時期でもあった。 「愛子内親王殿下が参拝すれば、大勢の人が集まることは容易に予想できることでした」(当時の宮内庁関係者)  そうしたことも背景にあったのか、伊勢神宮への参拝は行われず、皇室の祖先などをまつる皇居・宮中三殿を参拝して、成年皇族となったことを報告した。    あれから10年を経て、愛子さま成年皇族として白い絹地の参拝服であるロングドレスを着用して神事に臨んだ。 「前に愛子さまがいらしたときは制服で、まだ幼さの残るご様子でしたが、今回いらした愛子さまは穏やかで、落ち着いた雰囲気をまとっていらした。立派な女性皇族にご成長なさったお姿を拝見できて、感慨深いことです」(地元飲食店の店主)   前年12月に成年を迎えたことを報告するため、伊勢神宮外宮に参拝した秋篠宮家の次女佳子さま=2015年3月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA   伊勢神宮では白、天皇陵ではグレーのドレス  参拝では人間の俗世と神の住まう聖なる世界の境を出入りするため、古式にのっとって参拝の前後にお手水で身を清める。  そして男性皇族はモーニングだが、愛子さまのように女性皇族はみな、絹の生地で仕立てられた白いロングドレスの参拝服を着用することになっている。  たとえば2014年に参拝した際の雅子さま、成年の報告をした秋篠宮家の長女、眞子さんや次女の佳子さま、ご一家で訪れた紀子さま、平成の皇后だった美智子さまも、白いロングドレスをお召しだった。     【こちらも話題】 愛子さま就職先の「日赤」では一般の事務作業も担当? 語学力を生かした海外連携が主な仕事に https://dot.asahi.com/articles/-/218078     20歳の成年を迎えた報告のため、伊勢神宮を参拝した秋篠宮家の長女、眞子さま(当時)=2011年11月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA    ロングドレスの白という色にも、意味があるという。宮内庁の関係者だった人物は、こう話す。 「祭祀の際、神域では神職も白色の装束を用います。神宮への参拝の際は、女性皇族も白い参拝服をお召しになります。白は神聖なものや清らかさを表す色であるから、と聞いています」  この白い絹地のロングドレスと帽子の素材に、純日本産の蚕である「小石丸」の繭で紡がれた絹織物が用いられたこともあったという。   秋篠宮ご夫妻と佳子さま、悠仁さまが伊勢神宮へ参拝。佳子さまは学習院女子高等学校の卒業式を終え、6歳の悠仁さまは翌4月からお茶の水女子大学附属小学校への入学を控える=2013年3月、三重県伊勢市、代表撮影/JMPA    愛子さまは翌日、伊勢神宮の参拝後の通例どおり、奈良県橿原市で皇室が初代天皇としている神武天皇陵を訪れた。この日は薄いグレーのロングドレスに黒の帽子、手に扇子を持って参拝し、大学卒業と就職を報告した。  神武天皇陵の参拝服は、伊勢神宮とは異なり、濃淡はあるがグレーに変わる。大正天皇陵と貞明皇后陵、昭和天皇陵と香淳皇后陵がある武蔵陵に参拝する際と同じだ。  この参拝服の色は「にび色」といい、喪や慎みの色だという。    この春、人生の節目を迎えた22歳の愛子さま。これからご両親と離れ、おひとりでの歩みが始まる。(AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま「節目の年」に伊勢神宮参拝 華のある品格と振舞いに「教養がどんどん身についている」と皇室ジャーナリスト  https://dot.asahi.com/articles/-/218082  
愛子さま佳子さま雅子さま皇室
dot. 2024/03/28 10:00
“現役選手”で入った3人は?  なでしこジャパン「歴代ベストイレブン」選んでみた
三和直樹 三和直樹
“現役選手”で入った3人は? なでしこジャパン「歴代ベストイレブン」選んでみた
日本女子サッカー界の“レジェンド”澤穂希  女子サッカー日本代表は今夏、パリ五輪に挑む。果たして池田太監督率いるチームは、どのような戦いを演じるのか。その“熱戦”を前に、過去にW杯9回出場(優勝1回、準優勝1回)、五輪6回出場(準優勝1回)のなでしこジャパンの歴代ベストイレブンを、起用法も含めて“空想しながら本気で”選んでみたい。  まずはゴールマウスを守るGKには、現役代表の山下杏也加(代表通算67試合出場:2015年~)を選ぶ。身長170センチの高さと俊敏性を持ち合わせ、安定感にも目を見張るものがある。他には山郷のぞみや海堀あゆみの名前も挙がるが、先日のパリ五輪アジア最終予選・北朝鮮戦でのゴールライン上のボールをかき出した“山下の1ミリ”のビッグセーブは後世まで残すべきもの。ベストイレブンの守護神に指名したい。  そしてシステムは4-3-3を採用。リーダーシップが求められるCBの1人目は、熊谷紗希(代表通算149試合出場:2008年~)を間違いなく選ぶ。外国人選手にも負けない高さと速さを持ち、対人能力はピカイチ。弱冠20歳でW杯優勝メンバー、さらにPKキッカーとなって以降、現在まで守備のリーダーとして働き続け、代表通算出場数はすでに歴代3位の数字となっている。  その相棒となる2人目のCBには、池田(磯﨑)浩美(代表通算119試合出場:1997~2008年)を選びたい。インテリジェンス溢れるプレーでDFラインを統率し、美しくボールを奪い取る姿は今でも記憶に残っている。前に強い熊谷とカバーリング能力に優れた池田の相性も良いはずだ。  続いて、左SBは鮫島彩(代表通算114試合出場:2008~2021年)だ。スピードあふれるドリブル突破と両足での正確なロングキックが武器で、経験を積むごとに守備面も向上。W杯優勝にも貢献し、今でも現役を続ける。一方の右SBには、安藤梢(代表通算126試合出場:1999~2015年)を選びたい。元々は攻撃的な選手だが、優れたスタミナと戦術理解度で、これまでのキャリアの中でFWからDFまで様々なポジションでプレーしてきた。この歴代最強のオールラウンダーがいれば可変システムが可能。偽サイドバックとして“梢ロール”を発動して、持てる能力を全解放させたい。  次に中盤、アンカーの位置には長谷川唯(代表通算80試合出場:2017年~)を選ぶ。高い技術と傑出したパスセンスで人気と実力を兼ね備えた司令塔。攻撃力が最大の魅力だが、現在所属しているマンチェスター・シティではアンカーの位置でプレーし、ボールを回収しながら長短織り交ぜたパスで存在感を発揮している。そして2枚のインサイドハーフには、文句なしで澤穂希(代表通算205試合出場:1993~2015年)、そして宮間あや(代表通算162試合出場:2003~2016年)を配置する。澤に関しては今さら語る必要のない日本女子サッカー界最高のレジェンドであり、攻守において絶大な存在感を示してもらう。一方、性格無比な両足キックで相手の急所を突くパスが魅力の宮間も、代表通算出場では澤に次ぐ歴代2位の数字を誇る不世出の天才ゲームメーカー。歴代ベストイレブンからは外せない。  続いて3トップの左には、川澄奈穂美(代表通算90試合出場:2008~2018年)を置きたい。スピード、テクニック、スタミナに優れ、国内外で長く活躍して38歳となった今も現役を続けるエネルギッシュな万能アタッカーに、左サイドからのチャンスメイクを託す。そして3トップの右は、岩渕真奈(代表通算89試合出場:2010~2023年)だ。切れ味鋭いドリブルを最大の武器に16歳でA代表に選出されて以降、なでしこの未来を背負い続けた。俊敏性を生かし、セカンドストライカー的な動きからゴールを決めてもらいたい。  最後の一人、1トップのFWは永里優季(代表通算132試合出場:2004~2016年)だ。フィジカル能力に優れ、相手DFを背負ってのプレーが可能で、自ら前を向いて個の力で突破し、決め切ることもできるストライカー。なでしこジャパンでの通算58得点は、澤(83得点)に次ぐ歴代2位の数字であることでも証明されているように、実に頼れる点取り屋であり、歴代ベストイレブンに相応しい名選手だ。  もちろん選考する人間が違えば選出メンバーも異なることが、今回の“なでしこベストイレブン”には2011年の世界一メンバーが8人(熊谷紗希、鮫島彩、安藤梢、澤穂希、宮間あや、川澄穂奈美、岩渕真奈、永里優季)選ばれ、彼女たち以外にも近賀ゆかり、岩清水梓、阪口夢穂、大野忍といった面々が候補に挙がる。これは、ある意味ではなでしこジャパンの“停滞”とも取れる。今後、長野風花や清水梨紗、南萌華、遠藤純、宮澤ひなた、さらには古賀塔子、谷川萌々子、松窪真心といった新たな面々が、どれだけベストイレブン候補に入り込むことができるか。5年後、10年後、今回選んだ11人の面子が大きく様変わりすることを、期待したい。(文・三和直樹)
なでしこジャパン
dot. 2024/03/25 17:30
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子
空爆下のガザ、退避までの26日間に地獄をくぐった。戦争はむごく、非道だ。即時停戦を(撮影/横関一浩)    白根麻衣子が、国境なき医師団のスタッフとして、ガザで人道支援に携わっていた昨年10月、その地が、空爆にさらされた。日常が一瞬にして地獄となった。命がおびやかされる中、白根たちは避難の日々を送る。安全な場所はなかった。白根は無事に帰国できた。だがガザでの戦争は終わっていない。ガザに戻りたい気持ちをこらえ、今は伝えることが使命と考える。 *  *  *  2023年10月7日早朝、パレスチナ自治区ガザ北部──「国境なき医師団(MSF)」の8階建ての宿舎は週末の静けさに包まれていた。  その6階に医療プロジェクトの財務や人事を担う白根麻衣子(しらねまいこ・37)の部屋があった。  前の日は休みで、白根は他のNGO(非政府組織)の仲間とビーチバレーに汗を流し、海辺のレストランでシーフード料理を味わった。心地よく眠り、青い唐草模様の掛け布にくるまっていた。 「ドーン ドン ヒューン」  と花火を打ち上げるような音がして目が覚めた。出窓を開けると、薄暗い空に無数の火の玉が尾を引いて飛んでいる。ガザを統べるイスラム組織ハマスが、イスラエルへミサイルを撃ち込んでいた。眠気はいっぺんに吹き飛んだ。 「退避しなくちゃ、と思い、手順に従って携帯電話だけ持って、地下1階の広い部屋に下りました。MSFは宿舎のビルを1棟まるごと借りていて、住んでいる外国人スタッフ11人全員が避難所の地下室に集まりました。そのうち、いつもどおり近くのエレズの検問所が開いて、外国人はイスラエル側に出られるだろうと、誰もが楽観的でした。ところが、すぐにイスラエルの報復の空爆が始まり、全然、収まらない。不安が募りました」  と白根はふり返る。携帯電話はまだ繋(つな)がっていた。サマータイムで日本との時差は6時間。東京の実家で、母・洋子(70)が娘の電話を受けた。 「麻衣子の第一声は、ママ、まるで真珠湾攻撃よ、でした。その後は、毎日、通信の都合で向こうの朝一番に1分間だけ、安否確認の電話がかかるのですが、こちらからはかけられません。電話のない日もあり、何度もうダメかと。怖かったです」  白根たちが望みを託したエレズ検問所は、ハマスが襲撃し、閉ざされた。 拠点からの移動を前に電話で遺書を預ける  イスラエルの空爆は激しくなり、目の前のビルが地響きをたてて崩れ落ちる。爆風で、宿舎の窓という窓のガラスが砕け散った。  白根は、4日間、地下室で過ごし、とうとう「その時」を迎えた。イスラエル軍の指示で宿舎を出て、国連の施設に移るよう促されたのだ。 「とにかく明るい」白根とミーティングをするMSF日本事務局のスタッフたち。赴任地は自分の希望では決められない。世界約500カ所の活動地から適切な場所が提示される(撮影/横関一浩)    MSFは、世界中すべての活動地を申告し、非暴力の中立を保ち、どの政治勢力からも保護されている。だが、拠点を出れば、いつ「標的」になるかわからない。拠点を軍隊に教えていても、15年には、アフガニスタンでMSFの病院が米軍の誤爆を受け、患者や医師42人が亡くなっている。  白根は覚悟を決めた。  東京のMSF側のサポート役で、紛争地で経験を積んだ看護師の白川優子(50)は、こう語る。 「電話で麻衣子さんから、万が一のことがあったら、と遺書を預かりました。長い文章を、母と姉と妹と甥(おい)っ子にって、恐怖で泣きながら伝えてくれました。大丈夫だよ、大好きだよ、愛してるよって言いながら、受け取ったんです。そのぐらい場所を移るのは危険でした」  母の洋子や白川は何としても麻衣子を助け出したい。しかし、白根と医師、看護師の3人の日本人スタッフがガザにいることが日本ではまったく報じられていなかった。メディアは気づいていない。MSFは情報を統制していた。  その理由を、MSF日本のメディア担当マネジャー・舘俊平は、次のように述べる。 「外国人スタッフがガザに閉じ込められている事実が公になれば、状況しだいでハマスに狙われる可能性もあった。現に彼らはイスラエルに越境して外国人を人質に取った。そこが問題でした」  情報をめぐる当事者と本部のせめぎ合いが続くなか、宿舎を出た白根たちはガザ北部から南部への移動を強いられ、国連施設を転々とする。  白根はひそかに知人の国際ジャーナリストにボイスメッセージを託した。 「ガザはいま地獄です。逃げる場所もないのに、逃げろといわれて。逃げろといわれても空爆はとまらなくて。一般市民はどこにもいく場所がありません」  と名を伏せた白根の悲痛な声が、23年10月13日、TBSのニュース番組で流れた。15日、白根ら外国人の一団は国連施設の露天の駐車場に送られる。  白根は日本の友人にLINEで窮状を訴えた。  洋子に「お母さん、もうがまんできません。麻衣子さんのメッセージをX(旧ツイッター)に流します」と意外な人物から連絡が入った。相手は夫の元総理・安倍晋三を凶行で亡くした妻の昭恵であった。  白根と昭恵は立教大学の社会人大学院、21世紀社会デザイン研究科の同期生だった。16日に昭恵は「避難民で溢(あふ)れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます」という白根の伝言を投稿。世間に白根の存在が知られ、ガザの惨状が直(じか)に伝わってくるようになった。  空爆下の苦しい生活を、白根はこう回顧する。 母・洋子(中央)と姉の長男、左は1歳下の妹。家族の団欒(だんらん)が一番の楽しみ。昨年ガザから帰国直後、真っ先に母にリクエストしたのは「卵かけご飯」。海外の生卵は食中毒の危険があり、食べられない(撮影/横関一浩)   「パレスチナ人の現地スタッフの命懸けの助けがなければ、私たちは絶対に生きて帰れなかった。彼らは、爆弾を落とされ、銃撃を受けながら水や食料を探して私たちに運んでくれました。移動中、一緒に連れて行ってくれ、と群がるガザの市民たちを説得し、押しとどめて、クルマを運転してくれたのです。ほんとうに感謝しかありません」  ガザ南部の駐車場での避難生活は2週間以上続く。運命に弄(もてあそ)ばれる白根は眠れぬ夜を過ごした。 大手銀行に入行したが昭和の風習になじめず  白根は、1986年、建設関係の会社を営む父と、ピアノ教師の母との間に3人姉妹の次女として生まれた。のびのびと育てられ、両親に勉強しなさいと言われた記憶はない。  ただ、疑問や変だと感じることがあれば納得できるまで聞きなさいと教えられる。高校を卒業する前、父が長い闘病生活の末にがんで逝った。  国際貢献や人道支援に関心はなかった。「子どもにかかわる仕事をしたい」と京都女子大学の発達教育学部に進む。中学・高校の家庭科の教員免許を取ろうと教育実習に臨んで、理想とかけ離れた現実にぶち当たった。  授業は学習指導要領に縛られていて、教科書を読むだけで終わってしまう。自由な発想で何かをつくる授業をしたかったが、諦めた。自分には教育は向かないと感じ、方向をあらためる。 「大企業に入れば何とかなるだろう」と三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職した。  東京都下の支店に配属され、富裕層が相手の個人営業に携わる。保険や投資信託、不動産関連の金融商品などを売った。仕事はともかく、銀行の「ザ・昭和」の奇妙な風習になじめなかった。 「まず、ホテルで開かれた新人歓迎会で、芸を、と求められ、新入の女子全員で、韓国のアイドルグループ『少女時代』の真似(まね)をして歌って踊りました。男の子は漫才やモノマネ。いったい誰の歓迎会だろうって感じです。年末にも、また芸をやらされた。飲み会が週4回、お得意さんが相手だと女子が駆り出される。将来は寿退社か敷かれたレールを進むかのどちらか。げんなりしました」  白根は、入行3年目に仕事をしながら夜は立教大の社会人大学院に通った。  じつは、立教に入ったのは母の洋子のほうが先だった。洋子は、夫を亡くした後、音楽を使って地域を活性化したいと社会デザイン研究科の門を叩(たた)いた。年長の洋子は若い大学院生たちから「おかん」と親しまれ、院生の2組を結婚させている。 空爆下のガザでの26日間の避難生活。水道も電気も通っておらず、露天の駐車場で数少ない缶詰を分け合い、ペットボトルの水で身体を拭く。電話は朝7時、何度もかけ直し、やっと通じた(写真は国境なき医師団提供)(撮影/横関一浩)   アルジェリアの少年に会い国境なき医師団へ入る  洋子が立教での学びを楽しそうに家で話すのを聞き、麻衣子もあとに続いた。  ここが人生の分かれ目だった。社会人大学院にはさまざまな人が通っていた。会社を辞めて東日本大震災の被災地に寄り添う仕事を始めた人、危機管理の会社を起こした人、妻がキャリアを積んだのでパートタイムで働きながら勉強をしている人……多様な生き方を知り、白根は「やっぱり教育にかかわろう」と原点に返った。  イギリスに渡り、語学学校を経て、ウォーリック大学の大学院で教育マネジメントを学んだ。英国流のクリティカルシンキング(批判的思考)を徹底的に叩き込まれる。 「自分自身でなぜ、どうしてと問いをどんどんつくり、問題に向き合う手法を英国で教わったんです。たとえば、人事が遅刻を重ねる社員に警告を出すのは簡単です。だけど、その前に、なぜと問いを重ねれば、背景の深刻な理由があぶりだせるかもしれない。根本的な問題がわかれば、また別の対処法が考えられます」と白根は言う。  帰国後、軽井沢の全寮制国際高校、ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパンに転職した。サマーキャンプの運営を担当し、途上国の子どもにも奨学金を出して軽井沢に招く。そこで、13歳の少年と出会い、人生を見つめ直した。  少年は、アルジェリアの難民キャンプの出身だった。来日したときは英語を喋(しゃべ)れなかったが、寝る間も惜しんで勉強し、2週間後にはたどたどしいけれど、人前で武力紛争や、キャンプの過酷な暮らしについて話した。そして、「僕には夢がある。プロのサッカー選手になって、家族に楽をさせたい。がんばります」とスピーチを締めくくる。  白根は目頭が熱くなった。懸命に思いを伝えようとする姿に打たれ、世界の人道危機への目が開かれる。危機的な現場に飛び込んで働きたいと熱望し、国境なき医師団の日本事務局の総務部に入った。事務職を1年ほど務めた後、非医療の現地派遣スタッフの試験を受けて合格する。  初任地は、ウクライナの南部、ミコライウだった。17年、地域にまん延するC型肝炎の治療薬を普及させる事業の予算案を作り、経費を管理する。銀行時代に培った財務のスキルが役に立った。宴会芸に悩んだ日々も無駄ではなかったのだ。  18年の暮れ、次の任地のガザに入った。「帰還の大行進」という抗議デモの最中だった。  パレスチナの人びとは、70年前のイスラエル建国で父祖の地を追われた。その2世、3世の若者がパレスチナの旗を掲げ、帰還を求めて境界付近を行進する。  イスラエルの狙撃兵は、彼らの足を狙い撃った。特殊な弾丸で骨を砕き、痛みや感染症のリスクを身体に刻みつける。  そうした負傷者を治療する診療所の予算を白根は管理し、手術器具も購入した。ガザ滞在中に空爆に遭ったが、北部のエレズ検問所が開いて外国人は脱出でき、ことなきを得ている。  19年12月には戦乱と飢餓の地、アフガニスタンに赴いた。首都カブールに着いたものの治安が悪く、数週間足止めされる。西部のヘラートへ行き、国内難民キャンプの診療所の運営に加わった。そこにコロナ禍が襲いかかる。国境が閉まる寸前に出国し、這(ほ)う這(ほ)うの体で日本に帰り着いた。  その後、白根は、韓国事務局の人事部門で働き、23年5月、半年間の契約で、またガザに着任する。派遣終了までひと月を切り、もうすぐ母の手料理が食べられると期待を膨らませたところで、先の見えない戦争に巻き込まれたのである。  23年10月下旬、白根らMSFの外国人スタッフ二十数人は、まだガザ南部の国連施設の駐車場で野宿生活を送っていた。目と鼻の先に隣国エジプトに通じるラファ検問所があるが、事実上封鎖されていた。  国際政治の舞台では、米大統領ジョー・バイデンがイスラエルを訪問し、首相のベンヤミン・ネタニヤフとガザへの人道支援を再開する交渉をしていた。両者の意見が一致し、10月21日よりラファ検問所が少しばかり開く。  エジプト側から支援物資を積んだトラックが入り始めたが、ガザ側の外国人の出国は認められなかった。  一方、駐車場の避難所は、治安が悪化した。パレスチナ人の避難民が押し寄せ、駐車場の塀をよじ登って侵入を試みる。投石が後を絶たない。外国人と一緒にいれば、生命を守れる、食べ物にありつけると皆、必死だった。  10月31日、突然、白根たちは駐車場から海岸へ移動させられる。塀に囲まれた貸別荘のような建物を宛(あて)がわれた。井戸があり、ソーラーパネルが設置されている。水と電気が手に入って、16日ぶりに屋根の下で眠った。 人であふれたラファ検問所 現地スタッフが命の恩人に  翌11月1日の早朝、「7時にラファの検問所が開く。エジプトに出られる」と噂が流れ、白根たちは車列を組んで国境に向かった。  午前10時、やっと国境が開いた。だが、エジプトやヨルダンなどとの二重国籍を持つパレスチナ人が殺到し、検問所は大混乱に陥った。  ふだんラファ国境は一般のパレスチナ人しか通らず、英語が話せる職員もいない。しかし、10月7日以降、エジプトは難民の流入を恐れて国境を閉ざした。再開後も、外国籍の者しか通過を認めなかったのだが、その数が半端ではなかった。  群衆を前に外国人は途方に暮れた。  するとMSFのパレスチナ人スタッフが白根らのパスポートを集め、人波をかき分けて出国管理事務所に突き進んだ。職員とねばり強く交渉する。  しばらくして、出国審査官がアラビア語で人名リストを読み上げた。MSFの現地スタッフは、マイクを握って、一人ずつ英語に言い換える。 「マイコ・シラネ」と呼ばれたとき、これは現実だろうかと白根は頬をつねる。現地スタッフに精一杯の感謝を伝え、こう聞かずにいられなかった。 「どうして、ここまでしてくれるの。いいんだよ、こんな状況なんだから、仕事のことなんか忘れてあなたの大切な人のそばにいていいんだよ」  男性の現地スタッフは、髭面に(ひげづら)笑みを浮かべて、 「だって、マイコ、君たちは僕らの家族じゃないか。MSFの家族が戦乱を避けて、安全な場所に行くのは誰だって助けるだろ。じゃあ元気でね」  と言い、ふたたび地獄のガザへと戻って行った。  白根は、はらはらと涙をこぼしながら、国境の長い通路をエジプトに向かって歩いた。解放された喜びと心苦しさが胸中で入り交じる。  白根の英国留学時代からの友人で菓子研究家のSAWAKO(37)は、帰国後の親友のひと言が耳に残っている。 「麻衣子さんと再会できて、ゆっくりランチを食べて話をした際、彼女、できることならもう一度、ガザに戻りたい、と言ったんです。びっくりしました。まだ何週間も経っていないのにですよ」  白根になぜ、厳しいフィールドに行こうとするのか、と問うと、こんな答えが返ってきた。 「現場は物事が動いていて、すごく躍動感があるんです。機動力を駆使して、一斉に医療プロジェクトにとりかかって、現実を変えられる。あれは現場にしかありません」  すでにガザではイスラエルの空爆と地上戦で3万人以上が亡くなっている。ハマスが取った人質の解放も進んでいない。国際社会はガザを見殺しにしながら互いの顔色ばかりをうかがう。  白根は、「26日間とはいえ戦争の惨状を目の当たりにした私には、それを伝える責任がある。即時停戦を願うばかりです」と言い残し、今年2月28日、次の赴任地、オーストリアへと旅立った。 (文中敬称略)(文・山岡淳一郎) ※AERA 2024年3月25日号
AERA 2024/03/22 18:00
川崎鷹也、全国ツアー開催&ファンクラブ「カワサキホークス」開設を発表
川崎鷹也、全国ツアー開催&ファンクラブ「カワサキホークス」開設を発表
川崎鷹也、全国ツアー開催&ファンクラブ「カワサキホークス」開設を発表  川崎鷹也が、2024年7月より全国ツアー【川崎鷹也2024-2025 Hall Tour “愛心 -MANAGOKORO-”】を開催する。 15都市を巡る今回のツアー。開催決定と同時に、オフィシャルファンクラブ「カワサキホークス」も開設された。4月1日18時から、ツアーのFCチケット先行受付がスタートする。なお、オフィシャル一次先行は4月19日18時から。◎公演情報 【川崎鷹也2024-2025 Hall Tour “愛心 -MANAGOKORO-”】 2024年07月12日(金)栃木・栃木県総合文化センター メインホール 2024年07月15日(月・祝)兵庫・神戸国際会館 こくさいホール 2024年07月23日(火)東京・昭和女子大学 人見記念講堂 2024年08月04日(日)北海道・千歳市民文化センター 北ガス文化ホール 2024年08月18日(日)新潟・長岡市立劇場 大ホール 2024年09月14日(土)広島・広島文化学園HBGホール (広島市文化交流会館) 2024年09月27日(金)埼玉・さいたま市文化センター 大ホール 2024年10月06日(日)香川・サンポートホール高松 大ホール 2024年10月14日(月・祝)宮城・東京エレクトロンホール宮城 2024年11月03日(日)熊本・市民会館シアーズホーム夢ホール(熊本市民会館) 2024年12月01日(日)大阪・グランキューブ大阪 メインホール 2024年12月07日(土)愛知・Niterra日本特殊陶業市民会館 フォレストホール 2024年12月15日(日)福岡・福岡市民会館 2024年12月20日(金)岩手・盛岡市民文化ホール 大ホール 2025年01月12日(日)神奈川・パシフィコ横浜 国立大ホール https://kawasaki-takaya.com/info/tour_managokoro/
billboardnews 2024/03/22 15:06
【祝ご卒業】愛子さま「カレーもペロリ」 お友だちと顔をくっつけてパシャリと自撮り 宝石箱のような18年間の学習院キャンパスの青春
永井貴子 永井貴子
【祝ご卒業】愛子さま「カレーもペロリ」 お友だちと顔をくっつけてパシャリと自撮り 宝石箱のような18年間の学習院キャンパスの青春
学習院大の卒業式に桜色の本振袖と紺色の袴姿で臨む愛子さま。お祝いの言葉をかけられると、嬉しそうにほほ笑んだ=3月20日、東京都豊島区、代表撮影/JMPA    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまは20日、学習院大学文学部の日本語日本文学科を卒業した。愛子さまは卒業式に、春らしい桜色の本振袖に紺色のはかま姿で出席。友達とおなかをよじって笑い合い、新型コロナの困難を経験し、「青春」の思い出を刻んだ目白キャンパスに別れを告げた。 *   *   *  愛子さまは、20日に目白キャンパスであった卒業式に参加する前に報道各社の取材を受けた。記者から「卒業おめでとうございます」と声をかけられると、 「充実した4年間を過ごすことができました」  とほほ笑んだ。  記者からの質問に、宮内庁を通じて回答した文書には、新型コロナ禍とともに始まった大学生活での戸惑いが素直に書かれていた。 「経験したことのないオンライン授業、インターネット上での課題の授受など、最初は操作も分からず、不慣れな手つきで恐る恐る画面を開き、授業を受講していたことを懐かしく思い出します」  感染流行が落ち着いた4年生からは大学で授業を受け、友人と交流できるようになったこと。  当たり前のことが尊いものであると実感したこと。  高校までの友人たちとの再会や大学でできた新しい友人たちとの交流、一緒に授業を受け、話し、笑い合ったことが「私にとって忘れることのできない一生の思い出」となったとつづった。   四季の花が描かれた桜色の本振袖と紺色の袴、わずかにのぞく赤い帯がアクセントになっている=3月20日、東京都豊島区、代表撮影/JMPA   「うわーっ」と歓声  愛子さまは2006年に学習院幼稚園に入園してから大学を卒業するまで、18年の歳月を学習院で過ごした。幼稚園と大学がある目白キャンパスも、友人たちとおしゃべりを楽しみ、笑いあい、さまざまな思い出を作った場所になったようだ。  学習院女子高等科に進学した年の春、愛子さまは学習院大の目白キャンパスで催された「オール学習院の集い」に参加していた。  高等科への進学とともに制服のスカーフは紺から黒に変わり、愛子さまの雰囲気は、すこしお姉さんらしいものになっていた。     【こちらも話題】 【祝ご卒業】意外にもパワフルな愛子さま 体力は「まさに無尽蔵!」と元プロテニス選手 「そろそろ水分補給を」と気遣う天皇陛下 https://dot.asahi.com/articles/-/217360     四季の花が描かれた桜色の本振袖が風になびくさまが美しく、紺色の袴がすっきりとした若々しさを引きたてる=3月20日、東京都豊島区、代表撮影/JMPA    しかし、やはり愛子さまも「年ごろの女の子」だ。  昼食には食堂で食券を購入してカレーの列に並び、食堂のテーブルに一緒に座った仲良しの友達とにぎやかな女子トークを展開。身体をよじるようにしながら、どっと弾けるような笑い声を何度もあげていた。カレーもペロリと召し上がったようだ。    公益財団法人アイメイト協会のコーナーで、募金箱を持つ視覚障害者の前でピンクの財布から千円札を出し、すこしだけ恥ずかしそうにしながら募金箱に入れていた愛子さま。  そのあと、愛子さまたちのところに駆け寄ってきた女の子が何かささやき、「うわーっ」と歓声が上がった。どうやら知り合いの男子生徒がいる運動部が活動しているようで、愛子さまたちは全速力で目的地の方向へ走っていった。  学習院の中・高等科は、女子生徒は戸山キャンパス、男子生徒は目白キャンパスにそれぞれの校舎があるため、日常的に顔を合わせることがないのだという。  しばらくすると、愛子さまたちが走りながら戻ってきた。女の子たちは、にっこり笑ってピースサイン。愛子さまたちは顔をくっつけて、ひとりがカメラを持った手を伸ばして4人一緒に自撮りをしていた。  この日の愛子さまと友人たちは、キャッキャと笑い声をあげながら、キャンパス内を隅から隅まで走り回っていた。   つまみ細工の花があしらわれた髪飾りも、まるで春風のような愛子さまによくお似合い=3月20日、東京都豊島区、代表撮影/JMPA    大学生として過ごした目白キャンパスでの4年間も、愛子さまにとって大切な時間になったようだ。「私にとって忘れることのできない一生の思い出」とつづった言葉には、宝石箱のような青春の日々が凝縮されているのだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 【祝ご卒業】「古典の才女」愛子さまの知性を育んだアナログ玩具とは? 弾けんばかりに笑う天皇家の家族タイムがポイント https://dot.asahi.com/articles/-/217417  
愛子さま皇室
dot. 2024/03/22 11:00
「皇族が羽根を伸ばせる場所」 愛子さまが卒業した学習院大目白キャンパス周辺を歩く
上田耕司 上田耕司
「皇族が羽根を伸ばせる場所」 愛子さまが卒業した学習院大目白キャンパス周辺を歩く
学習院大を卒業した天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=3月20日、東京・豊島区の学習院大目白キャンパス、代表撮影/JMPA    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが通う学習院大(東京・豊島区)で20日、卒業式があった。近隣の大学もふくめて、「ハレ」の日を迎えた振り袖姿の女子学生らであふれ、カメラを構えた皇室ファンも集まった目白キャンパス。皇族方との「距離感」を感じながら、記者が歩いた。 *   *   *  愛子さまが所属する文学部の卒業式は、20日午前に開催される予定となっていた。  午前9時ごろ、学習院大の目白キャンパスの正門前に行くと、愛子さまを一目見たい、その姿を写真に収めたいという人たち10人ほどが、カメラやスマホを手に、すでに待ち構えていた。皇族関係者の「追っかけ」やYouTuber、皇室ファンらしい。  愛子さまは、卒業式が始まる前の午前9時すぎ、大学内で報道陣の前に姿を見せ、 「最初の3年間はオンライン授業で、最後の1年はこのキャンパスに通い、たくさんの新しい学びを得て充実した4年間を過ごすことができました。素晴らしい先生方や友人たちと出会えたこともうれしく、またありがたく思っております」  と、卒業にあたっての感想を述べた。   学習院大の卒業式に臨む天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=3月20日、東京都の学習院大目白キャンパス、代表撮影/JMPA    この日は、天候が悪化する予報になっていたが、うららかな日差しがさしていた。  まだ式典が続いていたと思われる午前10時ごろ、カメラを構えた人たちのところに警備関係者がやってきて、こう伝えた。 「ここで待っていても、これから1時間、2時間では終わりません。卒業式以外にもいろいろと催しがあり、夕方頃まではかかる。愛子さまが正門前に出てきて、ニッコリ笑って撮影? それはありません。車で出ます。長時間待たせてガッカリさせてもと思い、お知らせしておきます」  それを聞いて、記者は正門前から移動。2時間ほど後に正門を通りかかると、カメラを構えていた人たちの姿もいなくなっていた。     学習院大の門柱。多くの卒業生が記念写真を撮っていた=3月20日、東京都豊島区、上田写す   皇族を「特別扱い」しない  この日は学習院大だけでなく、近くにある日本女子大や川村学園女子大などでも卒業式があり、最寄りのJR目白駅の周辺は、振り袖に袴姿のあでやかな女性たちでいっぱいだった。  愛子さまと同い年で、別の女子大の卒業式だったという振り袖、はかま姿の女性は、 「愛子さま、おめでとうございます。というか、私も今日はおめでとうなので」  と、笑顔で話した。  愛子さまと同様、新型コロナのために2年生の途中までは大学で講義を受けられなかったが、それ以降は楽しく過ごすことができたという。 「愛子さまが立派になっていて、驚いた。同い歳なのに歳上に見えちゃいますね」    この目白で、愛子さまはどんな学生生活を送っていたのだろうか。  愛子さまは卒業についての感想を文書で公表し、 「学年の枠を越え、友人たちと一緒に授業を受けたり、じかに話をして笑い合ったり、学内のさまざまな場所を訪れたりしたことは、私にとって忘れることのできない一生の思い出となりました」  とつづった。  学習院大ではない女子大の卒業式に臨んだという女子学生たちによると、愛子さまにはいつも一緒にいるような仲のいい友達がいるようだという。 「学習院大の友達が『同じ大学キャンパスにいても、愛子さまと気軽に話せない』とボヤいていました」    目白駅前にある商店街の「目白商業協同組合」理事長の鈴木謙一さんは、学習院に通う皇族方と商店街にはつながりがあると語る。 「秋篠宮と紀子さまがご結婚する前、この商店街の喫茶店で、ケーキを食べながらデートしていたと大騒ぎになったことがあったんですよ。今の天皇陛下は音楽をなさっていたから、音楽仲間と飲みに来たりね。今はもう閉店したけど、この先のお寿司屋さんには常連で、よく来ていたんですよ。陛下はお寿司が好きだから」  この周辺の住民にとって、皇族方は見慣れた存在だという。 「他の地域だと大騒ぎになるけど、目白の人は皇族を見ても、『あ、また来てるわ』くらいで特別扱いはしない。だから目白は皇族が気兼ねなく、羽根を伸ばせる場所だったのでは」     キャンパス沿いに多く咲いていたツバキ=3月20日、東京都豊島区・上田写す   愛子さまの思い出となったキャンパスは  そんな大学生活の雰囲気を見てみたいと、目白キャンパスの周囲を歩いてみた。  目白駅からすぐの「西門」の近くでは、ツバキの花が咲き、スマホで写真を撮っている卒業生らがいた。  さらに歩くと、「学習院輔仁会馬術部」の門があった。1879年創部の伝統のある乗馬サークルだ。   学習院大の正門で記念撮影しようという卒業生らの行列=3月20日、東京都豊島区、上田写す    目白通り沿いには「正門」があり、門柱にはレトロな篆書体文字で「学習院」「学習院大学」とあって歴史を感じさせる。その門柱の前で写真を撮ろうと、生徒と家族が長蛇の列をつくっており、この日の夕方まで列は切れ目なく続いた。  正門には桜の木があり、まだ開花してなかったが、近くの商店主は「きれいな桜で、この辺でも見どころの一つ。学習院の校章も桜の形なんですよ」と教えてくれた。  愛子さまがつづったように、キャンパス内のさまざまな「名所」があった。    しかし、今回の卒業式にあたっては、宮内庁から報道各社に対し、大学内やその周辺で学習院の学生や保護者、学校関係者などへの取材を控えるよう要請があり、かなり気を使っての取材となった。  皇族の「追っかけ」の一人は、こう話した。 「私たち『追っかけ』に対しても、上皇、上皇后陛下が天皇だった時代の方が開かれていました。今の天皇、皇后両陛下は『開かれた皇室』を標榜なさっていますが、もしかしたら宮内庁が厳しくしているのかもしれませんが、以前より閉ざされています。愛子さまのプライベートなことを話してほしくなかったのかもしれませんが、卒業式は一生に一度の記念日なんだから、もっと開かれた皇室を見せてほしかった」  愛子さまの卒業を祝いたいと心から思うものの、その「遠さ」が感じられた日だった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)   【こちらも話題】 【祝ご卒業】「古典の才女」愛子さまの知性を育んだアナログ玩具とは? 弾けんばかりに笑う天皇家の家族タイムがポイント https://dot.asahi.com/articles/-/217417    
愛子さま皇室
dot. 2024/03/22 07:00
〈新学期に読みたい〉小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ
〈新学期に読みたい〉小学4年で英検準1級に合格した「ギフテッド」少年の生きづらさ 「正直、学校は好きじゃない」と適応に苦しみ
小林都央(とお)さん 新学期を前に、昨年話題になった「ギフテッド」の記事を再配信する。ギフテッドという言葉を聞いたことがあるだろうか。「飛び級で進学」「教科書は一度読めばほとんど理解」など、天才少年少女というイメージをもつ人も多いだろう。しかし本人は、「授業が全く面白くない」「同級生と話が合わない」「学校に行くのが辛い」といった負の側面を感じていることも少なくない。表からは見えづらい「心のうち」はいかなるものなのか。今回は、IQ154、小学4年生で英検準1級に合格したという小林都央さん(11)のケースを紹介する。<阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・再編集>(この記事は「AERA dot.」2023年5月24日に配信したものの再配信です。年齢は2023年3月時点、その他肩書などは配信時のまま) *  *  * ■小2で高IQ集団「MENSA」に認定  パソコンの画面に映る少年は、大きく口を開けて笑顔を見せてくれるとてもあどけない小学生だった。東京都に住む小林都央さん(11)とオンラインツールの「Zoom」で初めて会ったのは2021年12月のことだった。ヘアドネーション(髪の毛の寄付)のために伸ばした長い髪を束ね、くるくると変わる表情で語ってくれたのは、学校に通うことのつらさだった。 「学校に行かないといけない必要性や義務は理解しています。でもぼくにとって学校は、ありのままでいられない場所で、本音を言うと好きじゃない」  都央さんのIQ(知能指数)は154。平均とされる100を大きく上回る。特別な才能を持つとされる「ギフテッド」だ。  小学4年で英検準1級(大学中級程度)、小学5年で漢字検定2級(高校卒業程度)に合格し、英語と日本語を操るバイリンガル。人口の上位2%のIQを持つ人たちが参加する「JAPAN MENSA」に小学2年生で認定された。複数のプログラミング大会で、特別賞などを受賞。住んでいる地元の教育委員会からは、映像コンテストやギフテッド向けのプログラムで優秀な成績を収めたとして、2年連続で表彰を受けた。世界屈指の医学部を有し、最難関大のひとつであるアメリカのジョンズ・ホプキンス大学のギフテッド向けプログラムでは最優秀の成績を収めた。  都央さんの経歴には、こうした数々のきらびやかなものが並ぶ。一方で、幼いころから集団での生活にストレスを感じ、適応に苦しんできた。現在は週に2日ほど学校に行く「選択的登校」をとっている。  都央さんとの出会いのきっかけとなったのは、コロナ禍の一斉休校を機に不登校になった子どもたちを紹介した連載だった。連載が朝日新聞に掲載された21年11月、一通のメールが届いた。 都央さんは3歳の時には機械式時計の仕組みを本で読んでいた(写真=家族提供) 「『不登校は問題』『学校には行かなくてはならない』という考えに疑問を持ちます。 僕は、勉強は好きです。友達と遊ぶのも好きです。でも、ずっと学校に行くのは好きではありません。今日は、午前中は勉強をして、午後から美術館に行く予定です。こんなスケジュールを考えるとワクワクしてきます」  大人びた文面に書かれた自己紹介には、小学4年生と書いてあった。学校に行かないといけない現状を憂う文章と書かれた学年が一致しなかった。  メールの差出人が都央さんだった。ちょうどメールをもらう前からギフテッドに関する取材を始めていた折。もしかして、都央さんはギフテッドではないだろうか。母親の純子さんとすぐに連絡を取り、やりとりをするうちに、都央さんが生まれつき飛び抜けた才能を持っていることが判明した。  Zoom取材での第一印象は、多彩な語彙(ごい)を操り、目を輝かせながらはきはきと答えてくれる小学生だった。だが学校生活に話題が及ぶと、次第に表情は硬くなっていった。都央さんの口から紡ぎ出される言葉は、学校という場がいかにつらいのかを物語っていた。 ■「行っても何も学ばない」  取材の前に都央さんがまとめてくれた「なぜ学校に行きたくないか」というチャート図がある。 「時間の無駄→行っても何も学ばない→つらいだけ」 「知っている→楽しくない→つまらない→つらいだけ」  だから、やりたいことを家でやりたい、そのほうが有意義と書かれている。都央さんにとって学校は「ありのままでいられない場所」となった。毎日登校することが負担になり、泣いて帰宅する日もあった。  どんな時に学校がつらいと思うのか。  授業で、海の生き物を描いて色を塗りましょうと先生が言った時、都央さんは、白いチンアナゴを描いて提出した。すると、先生からは「色を塗っていない」と言われてしまった。「白という色ですよ」と言ってもなかなか理解してもらえず、そこで諦めた。「自由に描いていいよ、と言われても理不尽な枠を決められているようだった」と感じた。  算数の時間に、指定された解き方以外のやり方を見つけても、言われた解き方の通りにしないといけない。  黒板は先生が書いた通りに書き写さないといけない。 「それが当たり前なんだから」。「言われたこと以外はしてはいけない」。そんなことを言われ、自分のアイデアを諦めることもある。がやがやと様々な音がする教室にいるだけで疲れてしまう。好奇心を抱くものを学びたいと思っても、それが叶わない。  ヘアドネーションのために髪を伸ばしていると、「なんで女子が入ってくるんだよ」と言われた。左右違う色の靴下をはいていくと「おかしい」と揶揄(やゆ)される。都央さんは「じゃあなんで左右同じ色をはいているのか、逆に聞き返したりします。たいてい答えられないです」と振り返る。 ■学校に行くことが解決法ではない  登校する時も、下校した時もつらそうな表情をしていた。「普通」の枠に押し込められ、そこから外れると指摘される。そんな学校生活を過ごす都央さんを見て、純子さんは「『自分らしさ』や『自分が好きなこと』を見つける機会が少なくなってしまうのは悲しいこと」と感じるようになった。  そうして、毎日登校するのではなく、疲れた時には「リフレッシュ休み」をとる。週に何日か学校に行く「選択的登校」という方法をとった。純子さんは悩みながら都央さんの思いを尊重したという。 「学校に行くのが当たり前で、なんとかして学校へ行かせようという風潮がある中で、息子にとって学校があんまり勉強できる場所じゃないようで。息子はすごく勉強したいのに、教室はザワザワしていたり、自分の学びたいことができなかったり。息子を見ていると、学校に行くことが解決法ではないと気づきました。自分の思い込みや世間体を気にして学校になんとしても行かせようと思わないようにしました」  二人でどうしたらいいのかと対話を重ねながら、選択的登校というスタイルにたどり着いたという。 (年齢は2023年3月時点のものです) 【後編】小学1年で息子が「IQ154」と発覚したときに母親は何を思ったのか 「ギフテッド」の子ども持つ親の“本音”に続く
ギフテッド書籍朝日新聞出版の本
dot. 2024/03/22 07:00
祝・愛子さま学習院大学ご卒業 小1で二重跳び、中2で遠泳とスーパーアクティブな学校生活を振り返る
太田裕子 太田裕子
祝・愛子さま学習院大学ご卒業 小1で二重跳び、中2で遠泳とスーパーアクティブな学校生活を振り返る
成年になられたときの愛子さま 代表撮影    20日、天皇、皇后両陛下の長女・愛子さまは学習院大学の卒業式に出席される。2006年(平成18年)4月11日、幼稚園入園から小、中、高、そして大学と18年を学習院で過ごされた。天皇陛下の言葉から振り返ると、学業にもスポーツにも邁進するスーパーアクティブな愛子さまの様子がうかがえる。   *   *   *  今日、愛子さまは学習院大学を卒業される。卒業が正式に決まったとき、愛子さまは「うれしい気持ちをお持ち」で、「両陛下も喜ばれている」と側近が明らかにした。    愛子さまの学習院ライフは、06年4月の学習院幼稚園の入園からスタートした。幼稚園は2年保育で、当時の愛子さまの様子を、お誕生日に際しての記者会見で天皇陛下(当時は皇太子殿下)はこう話している。 6歳の愛子さま 代表撮影   「愛子には幼稚園の外にあっても,入園以前からのお友達とも音楽や体操の教室などを楽しんでおり,そのようなときにも成長振りが感じられます」(平成20年皇太子殿下お誕生日に際してのコメント)   しっかり者の愛子さま    また、このときすでにしっかり者だった愛子さまの様子も明かしている。   「愛子と一緒に手を洗っているときに,私が手に石鹸を付けている間に,水を出しっぱなしにしてしまい,愛子に水を止めるように注意されたことがあります」    卒園後、08年(平成20年)4月に学習院初等科に入学。学習院初等科1年生の愛子さまは二重跳びが得意だったようだ。   「学校の体育の授業で教わった縄跳びは,仮御所に帰ってからも愛子の楽しみの一つとなっており,ほとんど毎日練習しているようです。    時々私も一緒に練習しますが,最近では二重跳びもできるようになったとうれしそうに報告に来ました」(平成21年の皇太子殿下お誕生日に際してのコメント) 学習院初等科の入学式=2009年4月 代表撮影    学習院初等科4年生になると、愛子さまは管弦楽部に入部された。   「愛子は4年生になり,学校の特別クラブ活動として管弦楽部に6月に入部したことが大きな励みになったように思います。    授業が始まる前や,放課後にお友達と一緒にチェロの練習をしたり,演奏会でみんなと一緒に演奏したり,楽しそうに参加しており,また,音楽以外でも,興味や関心もいろいろな分野に広がってきています」(平成23年の皇太子殿下お誕生日に際してのコメント)    天皇陛下は40年以上もビオラ演奏を続けてこられているので、愛子さまとの共通の話題がひとつ増え、ご一家の会話も盛り上がったことだろう。   アクティブな愛子さま    愛子さまはすでに小学校1年生で二重跳びができたように、運動も得意だった。   「5年生から始めたバスケットボールクラブでは,初めての対外試合で他校を訪れ,他校の皆さんと試合を行ったり,初等科での試合の場合には,試合後は交流も行ったり,非常によい経験になっているように思います。    また,この冬休みには,親元を離れて,初めてお友達とスキー合宿に参加するなど,お友達との活動の場も増えてきました。今回のスキーは愛子にとっては,3年近く前の春休み以来の久しぶりのスキーとなりましたが,たくさん練習し,少し上達したようで,本人にとっても,自信が付いたことと思います」(平成25年の皇太子殿下お誕生日に際してのコメント)    天皇陛下はテニスやスキーが得意。雅子さまもスキー、そして中学生時代はソフトボールに打ち込まれた。そんなお二人の愛娘も初等科5年生でスキーはなかなかの腕前までに上達したようだ。 学習院中等科の入学式での愛子さま 代表撮影  14年(平成26年)3月に学習院初等科を卒業、4月に学習院女子中等科へ。中等科2年生の様子をこう話されている。   「戦後70年に関しての様々な企画には,自ら大きな関心を持ち,関連の展示などを一緒に見学した後には,新聞記事やテレビの特集番組などを色々調べるなどして学校の課題にも熱心に取り組む姿を見て,中学生としての自覚がいっそう高まってきたように思います。    また,沼津の臨海学校では,約3kmの遠泳を泳ぎ切るなど,水泳は目覚ましく上達したようです」(平成27年の皇太子殿下お誕生日に際してのコメント)     初等科6年生のときは500メートルの遠泳ができたそうだが、中等科2年生の夏には3キロメートルを泳ぎ切っていた。バスケ、スキー、水泳とさまざまなスポーツをこなす愛子さまは、実はスーパーアクティブだったのだ。(AERA dot.編集部・太田裕子)
愛子さま皇室天皇陛下雅子さま学習院卒業
dot. 2024/03/20 06:30
【祝ご卒業】意外にもパワフルな愛子さま 体力は「まさに無尽蔵!」と元プロテニス選手 「そろそろ水分補給を」と気遣う天皇陛下
永井貴子 永井貴子
【祝ご卒業】意外にもパワフルな愛子さま 体力は「まさに無尽蔵!」と元プロテニス選手 「そろそろ水分補給を」と気遣う天皇陛下
上皇さまの90歳の誕生日に、仙洞御所でのあいさつを終えて皇居に戻る愛子さま。まぶしいほどの笑顔が印象的=2023年12月23日、読者の阿部満幹さん提供    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが20日、学習院大学を卒業した。4月からは、公務と日本赤十字社での勤務の両立をめざし、多忙な日常が始まることになりそうだ。しかし、40年近くにわたり、天皇ご一家と親交を深めてきた元プロテニス選手の佐藤直子さんが知る、テニスコートの上の愛子さまは意外なほど「パワフル」なのだという。 *   *   * 「愛子さまの体力は、まさに無尽蔵でした」  愛子さまの「若さ」に圧倒されたときの様子を、佐藤さんは笑いながら思い出す。  愛子さまが高校生のころ、佐藤さんが雅子さまとテニスコートでワンバウンドしたボールを打ち合う「ストローク」の練習をしていると勉強を終えた愛子さまが加わった。  ご公務を終えた陛下も合流し、ご一家は一緒に練習を始めた。  ところが、陽が落ちても、まだまだ終了する気配がない。周囲が暗くなってきて、ボールもだんだん見えにくくなってきた。ボールが見えるだろうかと声をかけたが、愛子さまはニコニコしながら元気な声を返してきた。 「まだボールは見えます」  陛下と雅子さまも、 「大丈夫です」  と、運動の時間を楽しんでいるご様子だ。  コートはさらに暗くなったが、愛子さまの声は明るい。 「もっとサーブを練習したいです」  佐藤さんがボールを2球ずつ渡しては、愛子さまはパワフルにサーブを打ち続ける。愛子さまの“特訓”は、なかなか終わらなかった。  品が良く、穏やかな印象がある愛子さまだが、佐藤さんはこう付け加える。 「愛子さまは体力がおありです。若さがまぶしい」   愛子さまの成長を見守ってきた  運動好きで知られるご一家。忙しい日常のなかで貴重なプライベートの時間を、全力で楽しんで、疲れを癒やす場になっているのがテニスコートだ。  そのお相手を務めてきたのが、佐藤さんだ。     【こちらも話題】 「いやぁ、無理」天皇陛下のストレッチ姿に、雅子さまと愛子さまも思わずクスリ https://dot.asahi.com/articles/-/194949     滞在中の軽井沢で、プロテニスの佐藤直子さんらとテニスを楽しむ皇太子さま(当時)=1990年8月、長野・軽井沢    佐藤さんが天皇陛下に初めてお会いしたのは、陛下がまだ20代の青年のころ。英オックスフォード大に留学中だった陛下が、ロンドンで開かれたウィンブルドン選手権の観戦に訪れ、選手として出場していた佐藤さんに声をかけたことで交流が始まった。  日本プロテニス協会の第1号女子会員である佐藤さんは、日本の女子テニス界を先導してきた存在。世界のプロトーナメントで活躍する日本の女子テニス選手がほとんどいない1976年に全豪オープンダブルス準優勝、翌77年に同オープンシングルスでベスト8入り。ウィンブルドンでも長く戦い、引退後は日本プロテニス協会理事長などを務め、後進の育成に力を注いでいる。  そして陛下と佐藤さんの交流は、40年近く続いている。その間に陛下と雅子さまのご結婚、そして長女愛子さまの誕生と成長という家族の風景を見守ってきた。   心配した陛下が「そろそろ休憩を」  佐藤さんが見続けてきた愛子さまは運動、テニスが好きで、そして真面目にテニスに向き合ってきた。  小さな頃から、テニスラケットを握り続けてきた愛子さま。それでも高校生ともなると、学校の課題や予定で忙しくなってくる。ご家族でテニスの約束をしていても、 「勉強が忙しく、やはり参加できない」  と、愛子さまから伝言が来ることもあった。  しかし、陛下と雅子さま、そして佐藤さんがテニスコートで汗を流していると、学校から帰宅した愛子さまが合流してくることもあった。  あるときは愛子さまが、佐藤さんにこう質問してきた。 「フォアハンドが、しっくりいきません」  佐藤さんが少しだけアドバイスをしてみると、勘がよく、飲み込みも早い。そしてパワフルなフォアハンドは、愛子さまの武器になったという。     【こちらも話題】 天皇陛下64歳 愛子さまは春風のような初々しいお手振り 雅子さまは娘にそっと声をかけた https://dot.asahi.com/articles/-/215192     天皇陛下の64歳の誕生日の一般参賀で、お手振りをするご一家。意外にも「パワフル」な愛子さまと明るい雅子さま、天皇陛下は細やかにおふたりを気遣う=2024月2月23日、宮殿・長和殿、代表撮影/JMPA    佐藤さんによると、テニスに熱中している愛子さまや雅子さまに、 「そろそろ水分補給を」  と、心配して声をかけるのが陛下だという。  何であっても夢中になってしまうのが愛子さま。陛下がご家族の健康に気遣って、適度に休憩をいれるのがいつもの光景だ。 「ご家族に優しく、そして周囲にも自然と気配りをなさるのが天皇陛下です」(佐藤さん)  そして愛子さまも、水分を補給しなくともまだまだ元気に動ける様子であっても、いつも素直に水を口にされる。そして雅子さまや佐藤さんも練習を中止して、休憩タイムが始まるのだという。    これまで学業とスポーツの両方に、熱心に取り組んできた愛子さま。佐藤さんはこうエールを送る。 「4月からは仕事と公務でお忙しくなると思いますが、テニスや運動で汗をかいて、息抜きをなさっていただけたらと思います」 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま卒業正式発表 “新しい春”に期待するところ 名古屋大 河西准教授 https://dot.asahi.com/articles/-/217178  
愛子さま天皇陛下雅子さま皇室
dot. 2024/03/20 06:30
川田裕美が語る夫婦の協力体制「夫は『ありがとう』を言葉にしてくれるタイプ。大いに見習っています」
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川田裕美さん    報道からバラエティーまで幅広く活躍中のフリーアナウンサー、川田裕美さん。3歳男子、1歳半女子のママでもあり、子育てにも奮闘中です。そんな忙しい日々でもイライラしないのは、なんといっても夫婦の協力体制がしっかり確立されているから。そこで、後編ではご夫婦のお話を聞きました。※前編〈川田裕美が語る子育て「仕事量のセーブを決断するまで、1年かかりました」〉から続く たとえ夫婦でも「話さないとわからない」 ――子育てや家事に関して、ご夫婦で役割の分担などはありますか?  役割分担はあまりありません。でも、なんでもかんでも「自分ひとりでやらない」ということは、結婚当初から決めていました。「家事や子育ては夫にもやってもらわないと、ずっとできないままだよ!」と、先輩ママたちから聞いていましたし。  そこで「あなたはこれをやって。私はこれをやる」といった役割を決めるよりも、自分がどんな状態にあるかをちゃんと理解してもらおうと思いました。  妊娠中も「今、おなかが大きくなってきて、胃が圧迫されて食べられない」といった「今、どんな苦しさがあるか」を逐一伝えましたし、出産後も「昨夜は夜中に何回も起きて、全然眠れなかった」と、どれだけしんどかったかを詳しく説明しました。  女性は自分自身のからだのことですから詳しくなりますが、そういうことは話さないと本人以外はわかりませんよね。  でも、こうして話すとおのずと動いてくれるんです(笑)。夫はあまり料理をしなかったのですが、今では、私がつらそうだと感じると一緒にメニューを考えて作ってくれます。  今も、自分が「できない、苦手!」と思ったことは全部伝えています。「アイロンが大変だから、できるだけしわにならない服にして」とか(笑)。 川田裕美さんとお子さん   「ありがとう」を当たり前にしない ――察してもらうより、状況を共有することが大切なのですね。  それから、お互い「ありがとう」を言葉にするように心がけています。夫は、普段から「ありがとう」とか「それ、いいね!」と自然に言葉にしてくれるタイプ。記念日だけでなく、日常のちょっとした感謝の言葉を花などといっしょにプレゼントしてくれることもあるんです。  ここは私も大いに見習っています。ですから、子どもたちも同じように日々のちょっとした「ありがとう」が当たり前にならないようにしてほしくて……。「ごはん作ってくれてありがとう」なんて言ってくれたらうれしいですよね。  自分が親になるまではまったく気がつきませんでしたが、日常、家族やまわりの人から受ける「ありがとう」がどんなにたくさんあることか。ちょっと照れくさいかもしれませんが、そういう言葉を大切にして、きちんと口に出せる人になってほしいですね。  そのうえで、自然に手をつないだり、ハグができたりといった触れ合いができる家庭になるといいなと思います。 なにかに没頭する時間をもつことで心を整える ――忙しい日々、「気持ちの保ち方」などがあれば教えてください。  夫とは普段から二人でよく話します。夫もフリーランスの仕事なので、時間を合わせて平日にちょっとランチをすることもあります。そんなにゆっくりはできませんが、そういう時間はやっぱり楽しいなと思います。結局、話題は子どものことになってしまうのですが(笑)。  そして、私の場合「自分」に戻れるのが仕事の時間です。仕事中も子どものことは頭から離れませんが、それでもやっぱり、なにかに集中する時間というのは、自分の心を整えるうえでもとても大切なことだと感じます。そこで没頭することで、帰宅したときに子どもたちの顔を見てより一層愛情が湧き上がるというか……。そういう気持ちのメリハリがつけられています。  一日の中で一番ホッとできるのは、寝かしつけの後のスイーツタイム。一人で夜な夜な楽しんでいます。 川田裕美さん作、愛情いっぱいの手作り弁当(川田さんインスタグラムより) 夫がデリバリーを提案 ――スイーツコンシェルジュの資格をお持ちの川田さん。料理を作るのも得意と聞きました。  お料理は食べるのも作るのも好きなのですが、今は頑張る頻度がかなり減っています。まだ子ども二人が同じものを食べないときもあるので、「息子の分」「娘の分」「大人の分」と3パターン用意しないといけないことも……。そうなると、優先されるのは「子どもの分」ですよね。  でも、そんなときも夫が「大人の分は買ってこよう」「デリバリーにしよう」などと提案してくれるので、平和に解決することが多いんです。たとえ子どもたちの残り物のおかずでも、喜んで食べてくれますね。  SNSも、今は無理なく更新している感じです。コンスタントに更新できなくても、仕事と育児をしていたらそうであって当然ですから。  自分の趣味に関しては、以前に比べて、できることがかなり減りました。今は、コーヒーを淹れることや、週1回の運動など、残ったものだけ続けて楽しんでいます。  今はまだ子どもたちに手がかかりますが、そんなときは「こうやってごはんを食べさせたり抱っこしたりできるのはいつまでだろう」と考えるんです。きっとあと数年。そう思うと、今は大変だけど、このかけがえのない時間を大切にしようと思えるのかもしれません。 (取材・文/三宅智佳) ○川田裕美/1983年生まれ、大阪府出身。フリーアナウンサー。2006年読売テレビ入社後、報道やバラエティーとさまざまな番組で人気に。2015年フリーに。安定感のある存在でますます活躍の場を広げている。
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