検索結果1729件中 181 200 件を表示中

女子アナ⇒女優⇒亀梨の妻!? 「田中みな実」勝ち組人生の裏にあった“計算”と“行動力”
丸山ひろし 丸山ひろし
女子アナ⇒女優⇒亀梨の妻!? 「田中みな実」勝ち組人生の裏にあった“計算”と“行動力”
田中みな実    元日にKAT-TUNの亀梨和也との熱愛がスポーツ紙で報じられた、元TBSアナウンサーで女優の田中みな実(37)。記事によると、2人は昨秋に美容雑誌での対談をキッカケに意気投合し急接近。交際期間は数カ月で、結婚も視野に入れた交際だという。これに対してSNSでは「お似合いカップル」という祝福の声が上がるなか、「田中みな実のスーパー勝ち組感、純粋にすごいと思う」と彼女の“成り上がり”っぷりを感心する声もあった。  田中は青山学院大卒業後の2009年、TBSにアナウンサーとして入社。14年に退社してフリーアナウンサーとなり、さまざまなテレビ番組に出演する他、「グータンヌーボー2」(カンテレ)や「あざとくて何が悪いの?」(テレビ朝日系)ではMCを担当。そんな中、19年に「絶対正義」(フジテレビ系)で女優デビューし、現在は女優として確固たる地位を築いている。そして、今回の超人気アイドルとの交際報道。まさに、そのキャリアの変遷は“勝ち組”そのものだろう。 「TBS時代に“ぶりっ子アナ”としてその名がお茶の間に浸透しましたが、彼女は自分のポジションをうまく変化させてきました。21年放送のラジオ番組では当時のぶりっ子キャラについて、『20代半ばすぎまでしか有効ではない』と話し、ぶりっ子を卒業して歳を重ねてからは、少し怖い感じを出すのもエンタメの一部で、あえて怖い女性キャラを演じることがあったと語っています。一方、自分の身を切り売りするような仕事の仕方がいつまでも続くことはないと分かっており、『手に職をつけて何者かになりたい』とインタビューで明かしています」(テレビ情報誌の編集者) TBSアナウンサー時代の田中みな実   SNSを一切やらない理由  最近は女優業が中心となりつつあり、バラエティーに出演する機会は減った印象があるが、そこにも彼女の考えがあるようだ。 「昨年2月のインタビューでは、芝居ができない自分のふがいなさが悔しく、小手先ではないスキルを身につけるには準備が大事で、『他の仕事を諦めないと、お芝居に真剣に取り組めない』と、女優業に邁進していることを告白していました。このように、常に先を読んでキャラを変えてきており、その抜け目のなさが成功につながっているのでしょう」(同)  局アナから女優に転身し、一気に才能を開花させた田中。仕事に対する行動力はさすがといったところだが、プライベートでも“抜かりなさ”がうかがえる。  メーキャップアーティストの小田切ヒロ氏のYouTubeチャンネル(23年3月27日配信)に出演した際は、愛犬を飼い始めてからは一緒にいたいので、食事会にほとんど行かなくなったと告白。すると、変な人間関係やトラブルに巻き込まれることもなく、インスタグラムに写真があげられて、田中は誰々と仲がいいなどと言われることもなくなった、とメリットを挙げていた。 「田中は、現在もSNSは一切やってないところも注目です。その理由について、幸せアピールや寂しいアピール、リア充アピールなど何をしてもたたかれるだろうなと思っているからと、過去に放送されたバラエティー番組で明かしています。芸能人、特に女優はイメージが大切ですが、誹謗(ひぼう)中傷による風評被害や炎上のリスクをしっかり回避しているのは賢いと思います」(同) 亀梨和也   亀梨も「目」でオトされた?  緻密な計算をしながら芸能界を渡ってきた田中だが、恋愛テクニックにおいても抜け目がない。週刊誌の芸能担当記者は言う。 「恋愛指南アプリに月3万円も課金しているとテレビで告白していたこともありましたが、恋への投資も惜しまないのでしょう。『私は決めたら絶対落とします』と以前バラエティー番組で断言していたのも印象的。相手を落とす決めゼリフもあり、甘えた口調で『好きになったらどうする? 好きになったら困る? 嫌だ?』と聞くのだとか。また、一昨年に女性誌で行われた指原莉乃との対談でも、『落としたい人がいたら目で落とす』と言い、相手はジーっと目を見られると興味があろうがなかろうが誰でもドキドキするはずと説明。その後は相手の話を聞くことに集中するそうで、聞き上手になれば、また会いたいなと思ってくれる気がするとか。そんなテクニックは意外と亀梨にも実践していたのかもしれません」  芸能評論家の三杉武氏は田中が成功した要因についてこう述べる。 「TBSの局アナ時代は“みんなのみな実”を自称し、ぶりっ子キャラで主に男性視聴者から支持を集めていました。しかしフリー転身後、女性誌の美乳特集の際に披露した『肘ブラ』ポーズが話題となり、その美容意識の高さやストイックさが高く評価され、一気に同性からの支持を高めた印象です。女優、フリーアナウンサーとしてテレビを主戦場に活動していくうえで、男性以上に厳しい視線を持つ女性を味方につけることは成功への不可欠な要素ですし、見事な“路線変更”と言えます。昨今では田中さんがプロデュースしたり、イメージキャラクターを務めたりした美容関連アイテムが好調なセールスを記録する“みな実売れ”がメディアで話題になっています。こうした現象も同性からの高い支持の表れでしょう」  仕事も恋も抜け目ない田中が、どこまでの高みに到達するか楽しみだ。 (丸山ひろし)
田中みな実亀梨和也
dot. 2024/01/23 11:00
紫式部が活躍した道長の最盛期 藤原家の時代の到来を支えた「姉」の活躍
関幸彦 関幸彦
紫式部が活躍した道長の最盛期 藤原家の時代の到来を支えた「姉」の活躍
紫式部日記絵巻(模本) 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja)    道長の姉である詮子は十七歳で円融天皇に入内、女御となり懐仁親王(一条天皇)を生み、「三道」(道隆・道家・道長)時代の到来に力を与えた女性だった。彼女は、道長の第二夫人明子を結びつける媒介役にもなり、何より、関白(内覧)の行方をめぐり、一条天皇が、伊周か道長かの選択を迫られたおり、道長の内覧就任の道筋を作った立役者だ。道長にとっては、最大の恩人といえる。歴史学者・関幸彦氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、道長を支えた姉詮子を一条朝の流れとともに紹介する。 *  *  *   『百人一首』に登場する女房歌人の圧倒的多くがこの一条天皇の時代に集中する。女流歌人のオンパレードといってもよい。それほどまでに王朝という語感に当てはまる時代が一条朝だった。二十五年という長期にわたる在位の影響もあるが、それを補翼した道長の存在はさらに大きい。  寛和・永延・永祚・正暦・長徳・長保・寛弘と続く一条天皇の年号は、道長の二十一歳から四十六歳に対応する。道長の政権担当者としての最盛期がその一条朝ということができそうだ。生母は詮子(東三条院・道長の姉)である。天皇は天元三年(九八〇)年に誕生、立太子は四年後の永観二年(九八四)のことだ。道長とは十四歳ほどの年の差だった。 【こちらも話題】 娘3人は天皇の后に 「引退」した直後に異国船襲来 勝ち抜けた藤原道長に残った「不安」 https://dot.asahi.com/articles/-/211911  女房文学の隆盛期にあたる一条朝は、他方では「長徳の変」に見られる摂関家内部の暗闘の時期と重なっていた。中関白家の人々(道隆と定子・伊周・隆家)との対立である。併せて、この長徳は疫病(「長徳の大疫癘」)が発生、社会が死の恐怖に慄いた時代でもあった。  花山天皇の出家事件(寛和の変)を受けて、一条天皇が即位する。その母詮子は一条天皇のみならず、当の道長の運命にも影響を与えた。道長についていえば二つあった。一つは源高明の娘明子との結婚の世話役だ。明子の兄俊賢は道長政権上の四納言の一人とされた人物で、陰に陽に道長を支えたことでも知られる。高明の失脚で孤独となった明子に詮子は保護を与え自邸(東三条院)にすまわせるなどの世話をした。  そして、二つ目は一条天皇の政権補佐役(内覧)への後押しである。天皇が関白に準ずる立場を伊周か道長で迷いあぐねたおり、道長寄りの進言をしたことだった。  当の一条天皇は最愛の后定子の肉親たる伊周を推挙したかった。しかし詮子は道長の推挙を勝ち取り、ついに弟道長に内覧への道を拓いたのだった。 「ワレ人ヲ得タルコトハ延喜・天暦ニマサレリ」とは、北畠親房『神皇正統記』に伝える一条天皇の発言だ。『十訓抄』(第一)にも同様の話が載せられており、世評での一般的解釈といえそうだ。その『神皇正統記』には、道長についての興味深い指摘もある。例によって要約しておく。 【こちらも話題】 道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」 https://dot.asahi.com/articles/-/211213 「道長は当時は大納言だったが、内覧の宣旨で左大臣にまでなった。けれど、延喜・天暦の昔を想起されたのだろうか、関白にはならなかった。……兄弟は多くいたが、この道長大臣の流れを摂政・関白というのであった。以前にあっても、どのようなわけか、昭宣公(基経)の三男の貞信公(忠平)が継承し、またその貞信公の二男の右大臣師輔の流れが後継となり、さらにその師輔の三男であった東三条の大臣(兼家)が家を継ぐこととなった。兼家の後継となった道長もまた庶子だった。このように彼らはみな父が立てた嫡子ではなく、自然と家を継承することとなった。祖神(天児屋命)のはからいによる筋道だったのだ」  そして親房は右に語った道長登場に到る流れをのべつつ、その一条天皇の時代は、「サルベキ上達部、諸道ノ家々・顕密ノ僧マデモ、スグレタル人オホカリキ」(そういうことだから、上達部〈公卿〉や諸道の家々、さらには顕密の僧侶たちに至るまで、秀れた人々が輩出した)との指摘をしている。  毒瓜説話での「術道ヲ得タル人々」を彷彿とさせる場面とも符合することになろうか。まさしく一条朝は道長そして紫式部の時代に対応した王朝の盛期だった。 【こちらも話題】 紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは https://dot.asahi.com/articles/-/210585 ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
藤原道長と紫式部関幸彦源氏物語光る君へ大河ドラマ
dot. 2024/01/22 07:00
娘3人は天皇の后に 「引退」した直後に異国船襲来 勝ち抜けた藤原道長に残った「不安」
関幸彦 関幸彦
娘3人は天皇の后に 「引退」した直後に異国船襲来 勝ち抜けた藤原道長に残った「不安」
紫式部日記絵巻(模本)、出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-8375?locale=ja)  康保三年(九六六)、藤原道長は兼家の五男として誕生した。十五歳で「従五位下」、二十二歳で左大臣源雅信の娘倫子と結婚、翌年には源高明の娘明子を第二夫人として迎えた。倫子との間に二男四女、明子との間には四男二女を設け、そのうち彰子はのちに一条天皇、妍子は三条天皇、そして威子は後一条天皇の后となった。関白の地位で全盛を迎えつつあった長兄道隆と次兄道兼が疫病にて没し、「内覧」(関白に準じる職掌で、天皇に奏上する文書に前もって目を通す地位)の宣旨が出されたのが、道長が三十代に差し掛かった頃だ。順調な一方で、中関白家との確執もあり、人間関係に悩む日々が続いていた。関幸彦氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)では、政治家としての最盛期を迎えた藤原道長の二十五年間が描かれている。同著から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 *  *  *  不惑の年齢を迎えた道長にとって、四十代半ばに至るこの時期は、自身の権勢がより強固になった段階だ。紫式部の宮中への出仕は、この寛弘三年前後、式部三十六歳の頃とされる。そして道長にとっての最大の懸案ともいうべき一条天皇と彰子との間に待望の敦成親王(後一条天皇)が誕生したのもこの時期のことだ(寛弘五年〈一〇〇八〉)。ついで翌年に彰子は敦良親王(後朱雀天皇)を生み、外戚関係の確立に大きく前進がなされた。 【こちらも話題】 道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」 https://dot.asahi.com/articles/-/211213  一条天皇は寛弘八年(一〇一一)六月に居貞親王(三条天皇)へと譲位、没する。天皇は寛和二年(九八六)年の即位以来、二十五年の長期にわたる在位だった。この間、道隆・道兼そして道長の「三道」が関白あるいは内覧という立場で、一条朝を支えた。道隆の娘定子、そして道長の娘彰子が入内、二后並立がなされ、当該天皇のもとでコアな王朝世界が演出された。一条天皇との間は、中関白家との因縁もあり、円滑を欠いた面もあったとされる。一条天皇が定子に想いを懸けていたことは、『枕草子』その他からも知られている。当然ながら、天皇との愛の育み方が関心となったはずで、当時にあっては、年齢的にも定子に分があったことは明らかだった。  したがって道長にとって、彰子が寛弘五年(一〇〇八)とその翌年に相ついで、二人の皇子を誕生させたことは、大きな展望となった。この寛弘期は次女の妍子が東宮居貞(三条天皇)の妃となり、これに先立ち、倫子との間に四女嬉子も誕生する。道長一家にとっては、嫡妻倫子との間にこの嬉子もふくめ、彰子(一条中宮)・妍子(三条中宮)・威子(後一条中宮)の四人の娘を得たことになる。  当該期、花山院が四十一歳で没(寛弘五年)。その父冷泉上皇も六十二歳の長命で亡くなった。ちなみにその花山院と女性問題でもめた伊周もまた、三十七歳で亡くなった(寛弘七年〈一〇一〇〉)。道長にとって寛弘年間はその周囲の新旧勢力交替の潮目となったことになる。 【こちらも話題】 天皇が挑発した「女性が鬼に食われた」場所での肝試し 「いとさりげなく」こなした藤原道長の豪胆 https://dot.asahi.com/articles/-/211209 長和年間(一〇一二〜一〇一六)─四十代後半  この時期は、道長は政治的に最盛期を迎える。ただし、中関白家とは別にもう一つ“はばかる”べき案件も浮上した。当該の長和の年号は三条天皇のそれだったが、親王時代からこの天皇とはソリが合わなかったという。道長の長姉超子を母とした三条は、東宮時代が長く、即位は三十六歳だった。成人した天皇の即位は、摂関システムでの政権運営にとって、必ずしも歓迎されなかったのかもしれない。道長は妍子を三条天皇に入内させたが、三条には東宮時代の先妻せい子(せいは女へんに成)との間に、敦明親王がいた。長和元年(一〇一三)四月、妍子が入内(中宮)し、せい子立后(皇后)という二后冊立がなされた。翌年の長和二年、中宮妍子は皇女禎子内親王(陽明門院)を生む。 「心にも あらで憂世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」―と三条天皇自らが詠じた『百人一首』でもおなじみの歌は、その妍子に向けてのものとされる。ここには眼病を患った天皇自身の憂鬱が、「夜半の月」に託されて、詠み込まれていた。長和三年二月には内裏が焼失、天皇の眼の病も重篤化する。  ちなみに三条天皇はその幼少期、道長の父兼家の愛を受け育ったという(『大鏡』〈兼家伝〉)。冷泉天皇の皇子で、兼家の娘超子を母としたこの天皇に、兼家も大いに期待したようだ。けれども皇統が円融に移り、ついで一条天皇の長期におよぶ在位のなかで、三条の即位は遅れることになった。一条天皇治世下にあって、それを補佐する道長との“二人三脚体制”は結果として、道長と三条天皇との間に微妙な関係を作り出した。  眼病の件、さらに内裏焼失の件も重なり、三条天皇は東宮時代にもうけた敦明親王(母せい子)への後継を道長に託すかたちで、後一条天皇に譲位する。四十代後半の道長にとっても、三条天皇との関係はいささか心痛だったことは疑いない。妍子との間に皇子の誕生があれば、あるいは流れが変わったかもしれないが、そうはならなかった。当時、道長に靡かず対立していた二人の公卿、右大臣実資と中納言隆家の存在も、また気になるところだった。 【こちらも話題】 紫式部と藤原道長に「禁断の恋」はあったのか 晩年の『紫式部集』で明かされた「真実」 https://dot.asahi.com/articles/-/210586 寛仁年間(一〇一七〜一〇二〇)─五十代前半  当該年号は道長体制の完成期にあたる。「此世をば~」で知られる望月の歌が披露されたのが、寛仁二年(一〇一八)のことだった。「寛仁」は三条天皇にかわり即位した後一条天皇の年号だ。その後一条天皇に三女威子が入内、中宮となる。「望月の歌」についていえば、彰子(太皇太后〈一条天皇〉)、妍子(皇太后〈三条天皇〉)、そして威子と一家に三人の后が並び立つ栄誉を詠み込んだものだ。この歌を詠じた翌年の寛仁三年三月道長は出家する(法名行観)。道長自身の体調もさることながら、権勢の独占がもたらす運の傾きを思慮した結果だった。道長の第一線からの引退と、あたかも軌を一にするかのように、大きな出来事が道長の出家の年に勃発した。鎮西での異賊侵攻である。  数年前から異国船の九州来着はあったものの、刀伊(女真)の来襲は、道長以下の朝堂貴族たちに衝撃を与えるものだった。ここでは異賊侵攻が、道長の晩年の時期に当たったことをおさえておきたい。出家以前、幼帝後一条の摂政の立場にあった道長は、その地位を嫡子頼通に譲り、道長以後の権力体制に道筋をつけた。  対外的には、刀伊の入寇による海防問題はあったものの、道長体制は寛仁の段階で国内的には安定する。かつての抵抗勢力だった三条天皇はすでに寛仁元年の五月に没し、さらにその数か月後、敦明親王(母せい子)が東宮を辞することで、三条天皇系の血脈の皇位継承の芽が消えた。さらに、皇太子候補として一条天皇と定子との間に誕生した敦康親王も、寛仁二年に亡くなった。道長にとっての潜在的抵抗勢力が、政治の舞台から次々に退場していった。道長の寛仁段階は、まさにそうした時期ということができる。  残る不安、それは来世という未知なる世界へのものだった。念願の出家に先立ち道長の信仰心は、すでに四十代半ば以降、顕著さを増しつつあった。寛弘八年(一〇一一)の金峯参詣と写経、同年の土御門第での阿弥陀仏供養、その後の寛仁元年(一〇一七)の浄妙寺詣、あるいは同三年の興福寺・春日社参詣と翌年の無量寿院落慶供養など、その信仰心を伝える事例は少なくない。 「寛仁」以降、「治安」「万寿」の二つの年号を体験した道長は、六十二歳で死去する。晩年の道長にとっての願望は、法成寺建立に向けて力を尽くすことだった。「治安」(一〇一二〜二三)の段階は、倫子所生の頼通・教通が左大臣・内大臣に、そして明子所生の頼宗・能信も権大納言へと就任、“御堂流”の血脈への布石がほどこされた。  以上、道長を軸に約二十五年間にわたる足跡に「年号」を絡め、整理をほどこした。 【こちらも話題】 紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは https://dot.asahi.com/articles/-/210585 ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
藤原道長と紫式部関幸彦源氏物語光る君へ大河ドラマ
dot. 2024/01/21 20:30
強い月経痛を伴うことが多い「子宮内膜症」は卵巣がんにも注意 「子宮筋腫」は40代女性の3~4人に1人が持つ
強い月経痛を伴うことが多い「子宮内膜症」は卵巣がんにも注意 「子宮筋腫」は40代女性の3~4人に1人が持つ
 40代女性の3~4人に1人が持っているといわれる「子宮筋腫」。そして月経がある人の10人に1人がかかるといわれる「子宮内膜症」。どちらも女性ホルモンの影響で進行する病気ですが、子宮筋腫はすべての人に治療が必要なわけではありません。一方、子宮内膜症は痛みなどの月経困難症を伴うことが多く、つらい症状があれば少しでも早く婦人科を受診し治療することがすすめられます。妊娠・出産とも関わりが深い病気のため、年齢や症状、妊娠・出産の希望などにより、十分に医師と相談して治療法を選ぶことが大切です。  本記事は、2024年2月下旬に発売予定の『手術数でわかる いい病院2024』で取材した医師の協力のもと作成し、先行してお届けします。 *   *  *  子宮筋腫は、子宮にできる良性の腫瘍(こぶ)です。30~40代に多くみられ、40代では3~4人に1人が持っているといわれます。  筋腫は女性ホルモンのひとつであるエストロゲンの影響を受けて大きくなります。エストロゲンは月経周期とともに放出され、女性らしさを保つなど大切な役割を果たしますが、その働きが過剰になると、子宮筋腫や子宮内膜症など女性特有の病気を起こします。  そのため、一度できた筋腫は閉経するまで自然に治ることはありませんが、進行の速さは人それぞれで、閉経後は少しずつ小さくなっていきます。東京女子医科大学病院産婦人科主任教授の田畑務医師は、子宮筋腫になりやすい人について、こう話します。 「家族歴があるとやや起こりやすく、お母さんに筋腫があると娘さんが筋腫を持つ確率が、そうでない人より2倍に高まるといわれます。初潮が早い人はなりやすいという報告もありますが、反対の意見もあるため定かではありません」 筋腫があっても症状がないことも多い  子宮の壁は内側から子宮内膜、子宮筋層、漿膜(しょうまく)という3層構造になっています。子宮筋腫には、子宮の外側(漿膜)にできる「漿膜下筋腫」、子宮筋層にできる「筋層内筋腫」、子宮の内側(子宮内膜)にできる「粘膜下筋腫」という三つのタイプがあり、それぞれ異なる特徴があります。  筋腫があっても症状がないことも多いため、検診や不妊治療の際に偶然に発見されるケースがほとんどです。ただし、粘膜下筋腫は過多月経などの症状が起こりやすいため注意が必要です。 「漿膜下筋腫では、5cmを超える大きなものでも全く症状がないことも珍しくありませんが、粘膜下筋腫は1、2cmの小さなものでも月経のときの出血量が非常に多くなるなど女性にとってつらい症状が出やすく、いちばんやっかいなタイプといえるでしょう」(田畑医師、以下同)  粘膜下筋腫では、出血量が多くなる過多月経や、月経が長引く過長月経、月経痛などの症状がみられます。また漿膜下筋腫は、大きくなると膀胱を圧迫して頻尿になることもあります。筋腫による症状だとは気づかずに受診し、検査をして筋腫が発見されることも珍しくありません。  症状があって受診した患者に対して、まずは問診で月経の状態や症状、子宮がんの家族歴などを確認し、超音波検査や内診などの検査で子宮の大きさや筋腫の有無を確認します。悪性の病気が疑われる場合には、MRIや血液検査をおこなうこともあります。  子宮筋腫は良性の腫瘍のため、大きくなることはあっても「それが悪性に変わることはほとんどない」と田畑医師は話します。 「ただ、筋腫だと思っていたら悪性の肉腫だったということもあるので、診断時にしっかり確認することが必要です。また、筋腫を小さくするための薬物療法をしても、あるいは閉経してからも、大きくなるものは肉腫を疑います」 症状や筋腫の大きさ、場所、妊娠や出産への希望などにより治療を考える  筋腫があっても、「すべての人にすぐ治療が必要なわけではない」と田畑医師は話します。 「症状がなければ経過観察を続け、治療をしないまま閉経を迎える人もいます。過多月経などの重い症状があって日常生活に支障をきたす場合や、筋腫が大きくなる場合などは治療を考えます」  子宮筋腫の治療法には、薬物療法と手術があります。薬物療法では、鎮痛剤や低用量ピル、筋腫を成長させるエストロゲンがつくられるのを抑えるGnRH(ゴナドトロピン放出ホルモン)アナログ製剤などが使用されます。ほかに、黄体ホルモンを放出する器具を子宮内に挿入することで過多月経を改善する「子宮内黄体ホルモン放出システム」という治療もあります。  薬物療法で症状が改善しない人、大きい筋腫がある人、筋腫により妊娠しにくいことが考えられる人などは手術を検討します。  子宮筋腫の手術には、筋腫だけを切除する「子宮筋腫核出術」と、子宮をすべて切除する「子宮全摘術」があり、近年では腹腔鏡による手術が増えています。 「核出術はほとんどが腹腔鏡でおこなわれるようになっています。ただし、筋腫が大きい場合や、悪性の肉腫の疑いがある場合は開腹手術になります」 子宮内膜症では月経困難症の症状が起こりやすい  子宮内膜症とは、本来は子宮の内側にある子宮内膜が子宮以外の場所にでき、増殖する病気です。多くできるのは、卵巣や卵管、子宮と腸の間のくぼみ(ダグラス窩)などで、まれに肺や腸にできることもあります。卵巣にできることが最も多く、月経のたびに内膜組織から出血するため、血液がたまって卵巣に嚢胞(のうほう)という袋状の病巣(子宮内膜症性卵巣嚢胞)ができます。中にたまった古い血液がチョコレートのように見えることから「チョコレート嚢胞」ともいわれます。  20~30代に多く、月経がある人の10人に1人がかかる病気といわれています。子宮筋腫と同じくこの病気もエストロゲンの影響を受けて進行しますが、近年、子宮内膜症は増えています。1人の人が出産する回数が減っていること、出産する時期が遅くなっていることなどからエストロゲンにさらされる期間が長くなっていることが理由と考えられます。  子宮内膜症は、強い月経痛など月経困難症を伴うことが多く「かなりつらい症状に悩まされて受診する人も多い」と田畑医師は話します。進行すると、月経痛のほかに性交痛、排尿痛、排便痛、慢性的な下腹部痛などがみられることもあります。子宮内膜症の症状とは気づかずに消化器科などを受診し、婦人科を紹介されるケースもあるといいます。  診断は、問診や超音波検査、内診などによりおこないます。 「超音波検査で卵巣に腫れやチョコレート嚢胞があるか、ダグラス窩に癒着があるか、内診で子宮の後ろ側に圧痛があるかなどをみて診断します。比較的診断しやすい病気といえるでしょう」 不妊や卵巣がんのリスクを高めることも  子宮内膜症は、不妊の原因のひとつになります。卵巣や卵管で増殖した子宮内膜組織がまわりの臓器とくっついてしまう「癒着」が起こると、排卵しにくくなる、卵管が詰まって卵子や精子、受精卵が通れなくなる、着床しにくくなる、ということが起こり、不妊になると考えられます。不妊症の人の約3割は子宮内膜症というデータもあります。  また、子宮内膜症は将来、卵巣がんになるリスクを高めることがわかっています。頻度は0.74%とそれほど高くはありませんが、40歳以上で6㎝以上のチョコレート嚢胞がある人は注意が必要です。 「子宮内膜症は再発しやすいため、薬などの治療で一度は治っても、その後再発してがん化する人もいます。『閉経したから安心』ではなく、閉経以降も経過観察が必要です」 治療薬は進歩し、種類も増えている  子宮内膜症の治療も薬物療法と手術があり、月経痛に対してはまず鎮痛剤を使用します。それで改善しないときは、低用量ピルや黄体ホルモン製剤、GnRHアナログ製剤、子宮内黄体ホルモン放出システムなどの使用を検討します。  大きなチョコレート嚢胞で破裂のリスクがある人や、悪性の可能性がある人、薬物療法をしても症状が改善せず生活や妊娠に支障をきたしている人などは手術を検討します。  手術には、病巣部分だけを切除する方法と、子宮や卵巣、卵管も含めて切除する方法があります。腹腔鏡手術が増えていますが、悪性の可能性がある場合はおなかの中でがんが飛び散るのを防ぐため、開腹手術でおこないます。  子宮内膜症や、一部の子宮筋腫では、月経痛や過多月経などの症状でつらい思いをする女性がたくさんいます。でも「みんなそうだから」「仕方ないことだから」と我慢して婦人科を受診していない人もまた多いのが現状です。例えば、月経痛がつらくて市販の鎮痛剤を何度も飲まなければ耐えられない。出血量が多くて何度もナプキンを交換しなければならず、いつもトイレに行くタイミングを考えている。そのような症状があったら、それは仕方ないことでも耐えるべきことでもなく、すぐに婦人科に行くべき事態と考えましょう。  10代の若い女性でも、学校を休まなければならないほど重い月経困難症の人は多くいます。そういう人は子宮内膜症になるリスクが高く、「早めに低用量ピルなどによる治療をすることが、子宮内膜症の予防や進行を遅らせる有効な手段になる」と田畑医師は話します。  高校生やその保護者には、婦人科への受診やピルの服用に抵抗感をもつ人もいるようですが、治療に使用されるピルは低用量のため、吐き気などの副作用はほとんどなくなっているといいます。また、薬の種類も増えているため、最初の薬が合わないときには別の薬に替えることも可能です。 「婦人科への受診をためらう理由として内診への不安があるときは、はっきり『内診はしたくない』と医師に伝えましょう。娘さんが言えなければお母さんが言ってあげてほしいですし、問診票に記入してもいいです。性交渉の経験がない若い女性や、内診に抵抗がある女性には内診をしない診察の方法もあります。重い月経痛などの症状がある人には問診で詳しく話を聞いた上で薬を処方することもできます。安心して、まずは最寄りの婦人科クリニックを受診してみてください」 (文・出村真理子) 【取材した医師】 東京女子医科大学病院産婦人科主任教授 田畑 務 医師 東京女子医科大学病院産婦人科主任教授 田畑 務 医師  
いい病院子宮筋腫子宮内膜症
dot. 2024/01/21 08:00
性差の基礎研究に挑む薬学者(53)「自分のコアが固まっていった」のは米国から帰国後だった
高橋真理子 高橋真理子
性差の基礎研究に挑む薬学者(53)「自分のコアが固まっていった」のは米国から帰国後だった
  性差薬学者として活躍する黒川洵子さん(53)  男と女は病気になったときに違いがはっきり出ることがあるので、薬は男女の差を理解したうえで処方する必要がある――この考え方を「性差薬学」として日本に広めているのが、静岡県立大学教授の黒川洵子さんだ。  6年間滞在した米国で不整脈にかかわる心臓の分子機構を研究し、それが評価されて東京医科歯科大学の助手になった。そこで長男を出産、大学の女性研究者支援室の活動に受動的に参加するなかで「女性の健康を守る医療を支える基礎研究が足りていない」という課題に気づく。そこから「性差薬学」という新しい分野への挑戦が始まった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) 性差は基礎研究でも注目 ――「性差薬学」への注目が高まっているそうですね。  ええ、新薬が市場に出てから撤退するケースについて理由を調べたら、8割が「女性での有害事象の多さ」だったことが大きなきっかけになりました。  新薬の開発には長い年月と多大なマンパワーがかかり、撤退は開発した会社の損害にとどまらず、基礎研究を重ねた科学者や開発を支援した公的機関、そして何より、新しい薬を待ちかねていた患者にとって大きな損失です。思いがけない有害作用を受けてしまった女性たちにも申し訳ないことで、それで開発段階から性差に注目すべきだという考えが広まってきました。さらに、もう一つの背景として個別化医療が注目されてきたことがあります。 ――個別化医療というのは、患者一人一人の体質や病態にあった治療法のことですね。昔はオーダーメイド医療とかテーラーメイド医療とも呼ばれていた。政府も大きな予算をつけて推進してきました。  まず行われたのは、患者や健康な人の遺伝子を調べて、その個人差を医療や予防につなげようという取り組みです。ところが、個人差はたくさんあって、それを調べて病気の診断や予防が前より良くなるかっていうと、劇的には良くならなかった。どうしてか。個人差はお互いに関係していないものがたくさんあって、そういう情報をいくら合わせてもばらつきが増えてしまうんですよ。  そこで、男女で真っ二つに分けて解析すると、性別によるばらつきを減らせて、意味のある情報をとりだしやすくなるのではないか、そして、予測率の高い個別化医療が可能になるのではないか、と考えられ始めたんですね。 ――なるほど。  生殖器以外の臓器について性差を考慮する研究が欧米で本格的に始まったのは1980年代後半です。日本では、1990年代に天野恵子先生が性差医学を紹介され、臨床の現場で「女性外来」をつくるなどの取り組みがなされるようになったんですが、基礎研究の領域では変化があまり起こらなかった。  それが2015年ぐらいから、ようやく基礎研究でも性別を考慮する動きが広まってきて、最近は性差を論じた基礎的な医学論文もたくさん出ています。 ――2015年というと、黒川さんが静岡県立大の教授になるころですね。 心臓の細胞の電気活動を計測する装置に向かう黒川洵子さん=2014年1月、静岡県立大学、黒川洵子さん提供  私は男女差の研究を薬や医療にも生かしたいと教授選で言って、静岡県立大に行きました。心電図には男女差があるということは心電図が生まれたころからわかっていたんです。でも、その原因は説明がつかなかった。そこに一石を投じる発見をしていたので、これを発展させて循環器系の性差を理解したいと熱く語りました。 研究の方向性が決まった  そんなふうに自分のやりたいことがはっきりしてきたのは、東京医科歯科大学で准教授になってからです。それまでは薬学研究者として「言われたことは何でもやります」みたいな感じでした。  当時、出産・育児と研究の両立を支援しようという国の政策があって、医科歯科大が対象校に採択され、女性研究者支援室ができました。子育て中だった私は最初から委員に呼んでいただけた。支援室長に就任されたのが、内科医で特任教授の荒木葉子先生で、学内に保育園も、派遣型病児保育の利用制度も立ち上がって、みるみるうちに環境が良くなりました。うちの息子も学内の保育園に何度かお世話になり、本当に助かった。病児保育制度は使わずじまいでしたが、いざというときに使えるというのは大きな安心感でしたね。  荒木先生は性差医学にご興味をお持ちで、「医学研究にも関連させたいわね」って最初からおっしゃっていて、それで内外の性差医学の専門家をお招きして講演していただくシリーズをやったんです。私は委員として事務局をやりました。はじめは、すごく受動的だったんですが、国際的に著名なベルリン大学の女性教授や、先ほどの話に出た天野恵子先生らをお招きし、直接お話を聞くなかで徐々に自分のコアが固まっていき、研究の方向性が決まりました。 当初は「うさんくさく」感じていた ――そう決意したころ、薬学の世界では性差は注目されていなかった。  そうなんですよ。あのころは、少ない回数の実験の結果を都合良く解釈して、男の人はこう、女の人はこうと決めつけるような話も横行していて、むしろ性差研究は科学的な見方をする人から反発を受けていました。  そもそも、男女の差を科学的に調べるには大人数を集めた研究が必要なんです。人は個人差が大きいので。ましてや薬の効果を調べるとなれば、病気の状態だって個人で全然違うわけじゃないですか。国レベルどころか国際レベルの大型研究が必要なんですよ。でも、その時代、そういうのは行われていなかった。にもかかわらず、話題性があるからと、男女差を決めつけたような情報が拡散していることに対し、私も一科学者として、うさんくさく感じていました。 ――それなのに、なぜ? 道端の草木の葉を見るとどんな虫がいるかわかると説明する、虫好きの黒川洵子さん  自分の研究結果では、明らかに性差があったんですよ。実験には自信があった。そして、臨床の話ともよく合っていました。  実は、私が研究している不整脈領域では、細胞レベルで病気をかなり正確に再現できるんです。化合物をふりかけたり、異常な電気刺激を与えたりして、細胞に不整脈を起こさせる。ノーベル賞の受賞対象になったパッチクランプという方法を使うんですけどね。私、その実験が大好きなんです。やめられない止まらない(笑)状態になって、若いころはよく徹夜しました。  最初に私が使っていたのはマウスの細胞ですが、山中伸弥先生が発見したiPS細胞の技術を使えば、ヒトの心臓での証明もできるかもしれない、これはいけるかもしれないと思いました。  最近は「いいところに目をつけたね」なんて言ってくれる人もいるし、「女の人ならではの研究だね」とも言われます。別にそれでいいと思う。自分が女であることは事実なわけだから。私は授業でも妊娠・出産の体験談をよくするんです。薬学部では体のことを教えるんだから、妊娠・出産の話は経験者の私に任せてって言っています。 草むしりも虫も好き ――生い立ちを聞かせてください。  東京の郊外で生まれました。父は会社員で母は専業主婦、私は一人っ子です。幼いころ、岡山の祖父母の家によく行きました。大きな農家で、私は草むしりが大好きだった。毎日やっていると、違うのが生えてくるのが楽しかった。飽きもせず、隅から隅までむしっていました。虫も好きでした。今も好きです。  小学校は楽しかった。勉強も好きだし、先生も友達も大好きで、学校の先生になりたいと思ったことはあったけれど、運動が苦手だったので小学校の先生は無理だろうと思ってた(笑)。  塾に行くようになって算数の楽しさを知ったのと同時に「上には上がいる」とわかって努力の大切さを知りましたね。それ以来、座右の銘は「勤勉」です。「己を知る」ということも自分に常に言い聞かせています。幸い、中高一貫の私立女子校に受かりました。 ――進路はどんなふうに考えていたんですか?  私はなかなか絞れなくて。中学に入ってからは国語が一番得意になったんです。本もたくさん読んでいたので、周りから見たら私は文系だったんですよ。でも、得意を生かすっていうより、職業をどうするかだからねって思って。 珍しい昆虫を観察するために息子と一緒に行った北海道・利尻島。暇さえあれば、東京・高尾山などの近場から沖縄・石垣島などの離島まで、各地を回って自然観察にいそしんでいる=2020年8月、黒川洵子さん提供 ――職業に就くという意識ははっきりあったんですか?  ありました。将来、結婚して家庭を持つようなことはないだろうと、なぜか思っていて。1人で生きていくためには一生働けるような仕事を持たないといけない。自分の強みって、アイデアをポンポン出したり、周りを巻き込んでそれを一緒にやったりすること。そういうのを生かしていけたらいいなって考えていました。 「あるがままを見る」が原点  そのころ、テレビに何かを開発した若い女の人が出たんですよ。ちょっと記憶が定かでないんですが、キティちゃんだったかなあ。会社員として出した自分のアイデアで世の中の人が喜ぶって、なんて素敵なんだろうって感動したんです。それで、会社に入って自分のアイデアを世の中に出したいと漠然と思うようになった。  東京大学理科Ⅱ類に入って、はじめは有機化学が面白いと思い、薬学部は有機化学が強いと聞いて、理学部とどちらにするか迷ったすえ、薬学部に進学したんですが、入ってみて迷いだした。自分はそれほど有機化学を好きじゃないと気がついたというか。  そんなとき学生実習で心臓の薬理をやったら、心底、面白かったんです。動いている心臓を見ながら、何かぐっとくるものがあった。今思うと、原点は、幼少時の草むしりかもしれない。自然のあるがままを見るということが私の興味の原点だと思います。 ――修士課程はその研究室に?  はい、循環器薬理の研究室です。教授は製薬会社で新薬を開発してから東大に移った長尾拓先生で、「これからは女性の時代だよ」「日本は人口が減っていくんだから、優秀な女性が認められる社会じゃなかったらダメだよ」というようなことをよくおっしゃっていた。それですごく勇気づけられましたね。  修士を出たら就職したいと伝えると、長尾先生は「いや、行かないほうがいいよ」とおっしゃった。「会社の研究所に入ってから女性が博士号を取ると言っても大変だから、博士号は大学で取っちゃったほうがいい」って。それで博士課程に進んだら、その研究室では私が博士に進んだ初めての女性だった。 ――へえ。  博士課程を終えたときも会社に行きたいという思いを捨てられなかったんですが、先生は「何言ってんの。海外に留学して、もっと外の世界を見たほうがいいよ」って。まあ、そのころは半分、アカデミア(学術界)に残って個人研究を進めるのもいいかなと思っていました。後輩に教えるのもすごい楽しかったし、研究も楽しかったので。このときはもう結婚していたんですけど、1人で海外留学することにしました。 ――いつ、どういう方と結婚したんですか?   家族そろっての七五三参り。右端は黒川洵子さんの母=2010年11月、文京区の根津神社、黒川洵子さん提供  博士2年のときに大学の同期と。彼は修士を出て会社に入りました。周りを気にせず、自分がやりたいことをやるというあたりが、気が合ったんですね。私の留学を夫はすごく後押ししてくれた。  留学先は基本的に自分で探しました。私がすごく感動した論文があって、それを書いた米国コロンビア大学の先生に長い手紙を書いたんです。それが正しいやり方なのかよくわからなかったのですが、ポスドク(博士号取得後研究員)として仕事をしたいと伝えました。そうしたら、なぜかコロンビア大の別の先生から「来てほしい」という手紙が来た。  長尾先生に相談したら「それも何かのチャンスだから行ってみたら」と言われ、行くなら日本で奨学金を取っていったほうが自由に研究できるとアドバイスももらった。それで民間財団から取りました。アメリカは実力次第なのですが、私の場合は英語が苦手というハンデがあったから、この奨学金にとても助けられました。  奨学金の申請時期の関係で、コロンビア大に行く前に米国ジョージタウン大学に行って実験技術を学び、その技術をベースにして研究を進めました。ボスはすごく忙しい方で、基本的には自分で自由にやって、運動して心臓の拍動が速くなるときに出るホルモンが心筋に作用して心筋の電気的なリズムも速めるという仕組みを細胞レベルで再現することに成功しました。その論文はサイエンスに載ったし、今も引用されているので、すごく良かった。 ――米国ではずっと一人暮らしですか?  いえ、夫は、私が行ってから4年目に米国勤務の希望が通ってやってきました。日本では子どもがいる女性研究者をほとんど見たことがなかったのに、アメリカには普通にいる。産むならアメリカだよねって言っていたけど、残念ながら、そうはいかなかった。  そのころ、医科歯科大の古川哲史先生から突然メールが来て、最後に「もし日本の方じゃなかったら日本語でメールを書いてごめんなさい」って書いてあった(笑)。サイエンスに出た論文を見て連絡をくれたんですね。最初は笑ってしまったけれど、日本人の名前であっても日本語を話せない方もいらっしゃるから、気遣いですよね。優しい先生だなと思いました。  9.11の同時多発テロが起きてから、米国も住みにくくなったと感じていたところで、お誘いを喜んで受けました。調べてみたら古川先生は重要な論文をたくさん出していて、循環器内科の臨床もされていて、基礎研究もされているすごく立派な先生だった。  日本に帰り、助手に着任してまもなく妊娠がわかったんです。すぐに教授室に飛んで行って「先生どうしよう!」って言ったら、先生もびっくりしながら「いや、おめでとう」っておっしゃってくれた。  古川先生は必要以上にフォローせず、淡々と研究のことについて話す感じで、すごくやりやすく感じました。子どもが0歳のときも米国で学会発表したし、実験をやりに遠くの大学まで出張することもありました。自由にできた一方で、できないときにはいつでも断れる感じでした。こういう雰囲気づくりは、自分が上司になったときにも気をつけようと思っているポイントで、古川先生から多くを学びました。 ――日本には彼も一緒に帰ってきたんですか?  はい、ずっと一緒に住んでいます。帰国したとき、私の父は亡くなっていて、母は東京郊外で一人で暮らしていた。長男が生まれてから、大学から数駅離れたうちまで2時間近くかけてときどき手伝いにきてくれましたけど、やがてそれでは回らなくなり、もっと大学に近いところに母ともども引っ越しました。  母とは同居ではなく近居ですが、子どもの晩ごはんを作ってもらえたりして、本当に助かった。自分たちで何とかしようと頑張りましたが、母の協力なくしてはやりきれなかったと思います。静岡県立大に就職してから、母も一緒に新横浜駅の近くに引っ越しました。 家事はできるほうがやれば良い  母が近くに来る前に、私は切迫早産をやっているんですよ。これは早産しそうという状態で、絶対に安静にしていなければいけない。でも、入院しませんでした。先生に「女の人は家にいるとご主人の朝ごはんとか作らないといけないでしょ」って言われましたが、「あ、私は何もしません。ご心配なく」って。 ――(笑)。それは結婚当初からそうだったんですか?  そうですね。家事は、できるほうがやれば良いというか。ただ私、料理をするのが好きなんですよ。好きだからやっていました。女だからやっているっていう感覚は1ミリもなかったですね。他の人に手作りケーキを振る舞ったりするのも大好きで。その代わり掃除は大嫌い。だから、ルンバです。夫婦そろって嫌いだったので、機械で解決しようって。ルンバはどんどんバージョンアップして、外出先から携帯でピピッてやると勝手に掃除をしてくれます。 性差薬学のこれからについて語る黒川洵子さん(53)   ――ルンバが活躍するには片づけが必要ですよね。  最初からルンバのために家具を買い、ルンバが通れるようにするんです。床に物を置くなんて絶対許されません。うちはルンバファーストです。 ――素晴らしい。  静岡県立大は、キャンパスが広々として綺麗だし、美術館も近くにあって、文化的にも見るべきものが多い。自然もいっぱい、食べ物やお酒もおいしい。自宅から1時間半で着きます。もっと新幹線の便が多ければ最高ですが(笑)。 学生の成長を見られる幸せ  大学からは富士山がどーんと見えます。実験室の面積は医科歯科大のときの2倍ぐらいかな、ラボにいる人数も多いけど。学生も真面目で熱心で、教えがいがある。学生が成長するのを間近で見られるこの環境は、本当に幸せ。彼ら彼女らと良い研究がしたいと、心から思います。個人で研究をするより、ずっと楽しい。 ――これからやりたいことは?  世界に向けて「こんなメカニズムがあるんだったら、男の人と女の人で薬物治療を別々に考えないとまずいよね」っていう説得力のある基礎データを研究室員と一緒に出したいですね。  いま注目してるのは、感染症になったときの症状の出方が男女で違うことです。感染によって体中で炎症反応が起こると、臓器障害が起きて重症化する。性ホルモンが全身の臓器で性別による違いをもたらすことはよく知られていますが、最近は他のメカニズムも複雑に絡みあっていることがわかってきて、私はX染色体の遺伝子に目をつけています。炎症反応をつかさどる遺伝子がとくにX染色体にたくさんあるんですよ。  性差薬学研究は、これまでの平均値でとらえていたライフサイエンスからの脱却とも考えられます。そういう意味では、ライフサイエンスの変革を牽引する分野なんです。 黒川洵子(くろかわ・じゅんこ)/1971年東京生まれ。1993年東京大学薬学部卒、1998年同大学院薬学系研究科生命薬学専攻修了、博士(薬学)。米国ジョージタウン大学、米国コロンビア大学での研究を経て2004年9月~2006年6月東京医科歯科大学難治疾患研究所助手、2006~2016年同助教授・准教授、2016年11月~静岡県立大学薬学部教授。
dot. 2024/01/16 17:00
本田真凜が引退 一番憧れの人、浅田真央がかけた言葉は「すごい偉いことなんだよ」
本田真凜が引退 一番憧れの人、浅田真央がかけた言葉は「すごい偉いことなんだよ」
  2023年12月22日、全日本選手権の女子シングルSPに出場した本田真凜。これが現役最後の演技となった  家族、コーチ、そしてファンへの感謝――。支えてくれた人たちへの思いが、とめどなく溢れた。  本田真凜(22)は1月11日、都内で記者会見を開き、競技からの引退を報告した。およそ25分間の質疑応答のなかで伝わってきたのは、周りの人々との心のつながりの強さ。彼女の魅力の源は、愛と友情の力から湧き出ていることを、改めて感じるひとときだった。 スケートは特別なもの  21年間の競技生活で、一番の思い出を問われると、迷わず、きょうだいの話を挙げた。 「私は2歳の時に、お兄ちゃんが先にフィギュアスケートをやっていたのをきっかけに始めて、きょうだい4人でスケートを一緒に切磋琢磨して頑張ってきました。ある京都の大会で4人で優勝できたことがあって、それがすごく、一番うれしかったことじゃないかなと思います」  数々の世界大会に出場してきた本田にとって、一番大切なのはきょうだい4人で過ごした時間。その言葉が、彼女のスケート人生をよく象徴していた。  3歳ずつ年の離れた兄・太一、妹・望結、紗来の4人は、いつもお互いを励まし合う仲。スケートに夢中になったきっかけも、家族への思いだったという。 「私は小さい時に、本当にたくさんの習い事をさせてもらっていました。アイスホッケー、体操、水泳、テニス、ピアノとか、フィギュアスケートはその中の一つでした。でも地元のスケートリンクが夏にプールに変わることや、(2005年に)醍醐(スケート)リンクが潰れてしまったのをきっかけに、(親に送迎してもらう)スケートだけが移動の距離が長くなりました。小さいながらに『頑張って送ってきてもらったからには、何か爪痕を残す練習をしないと』と思うようになっていきました。徐々に、きょうだいの中でスケートが『特別なもの』というふうに変わっていって、皆で頑張ってこれました」  親への感謝から練習を頑張るうちに、多くの公式戦へ出場する選手へと成長。 「たくさんの皆さんの前で、一人だけで演技できて見てもらえるというのが、自分のなかで特別なものに変わっていきました」 【こちらも話題】 浅田真央「リンクを笑顔あふれる場所にしたい」 限界を超えて挑戦する意味 https://dot.asahi.com/articles/-/6418 運命の曲「The Giving」との出合い  きょうだいで競い合い、早くから頭角をあらわした。10歳で、初の海外公式戦であるチャレンジカップのデブスクラスで優勝。12年の全日本ノービス選手権ノービスBでは歴代最高点で優勝。ジュニアに上がった15-16年シーズンは、バルセロナで開催されたジュニアグランプリファイナルで銅メダル、シニアの全日本選手権にも推薦出場した。そして16年の世界ジュニア選手権で優勝し、世界で戦うトップスケーターへの扉を開いた。 引退会見で「幸せな競技生活でした」と話す本田  ただ、その世界タイトルは重荷にもなった。 「ずっと、お兄ちゃんにだけは負けたくない、追いつきたい、という気持ちでスケートをやってきていましたが、世界ジュニアで優勝したあたりからたくさん注目していただくようになって。どんなときもカメラの方が一緒で、『良かったな、幸せだったな』と思うこともたくさんありましたけど、小さいころの私は『つらいな』と思うことももちろんありました」  シニアに上がった17-18年シーズンからは、重圧と自分への期待で苦しんだ。しかも平昌五輪のシーズンで、まだ16歳だった本田もその候補の一角と言われ、戸惑いもあった。その時期、本田を支えたのはショートのプログラム「The Giving」だった。  すでに別のプログラムでシーズンをスタートする予定だったが、17年8月のある日、濱田美栄コーチが運転する車内でかけていた曲を聴き「今まで出合ったことのない、運命の曲に出合った」と感じた本田。美しい旋律のピアノ曲で、気持ちがやわらぎ、心が洗われるような一曲だ。葛藤と向きあう日々、この曲を心の支えにした。  引退会見でも、一番の思い出の曲を問われ「The Giving」を挙げた。 「好きなプログラムは、たくさん、たくさんあるけれど、『The Giving』という曲が私の中では本当に特別です。家族への思いを、振り付けの方と相談して作っていただいたプログラム。何かつらいなと思う時にひとりで練習したり、今でも練習するような、特別なプログラムです」  このシーズンの試合だけでなく、昨季のアイスショーなどでも何度も披露。たおやかな滑りとメロディーが絡み合い、優しさで包まれていくようなプログラム。家族への思いをこめて滑っていると聞き、納得がいった。 【こちらも話題】 宇野昌磨、厳しすぎる判定に「競技から退くことも」 スタオベ演技でも点が伸びない理由 https://dot.asahi.com/articles/-/208103 大学4年までやりきりたい  大学4年生での引退を決めたのも、兄・太一がきっかけだったという。 「大学4年のタイミングで競技の場から離れるということはずっと決めていました」  兄は大学4年のシーズン、自分にとってラストイヤーであることを公表して試合に臨んでいた。 「兄の太一が、引退の年、今の私と同じ年になったとき、最後の試合で最高の笑顔で、やりきった表情で終わっているのを見て、『私もここまでやりきりたいな』と思いました。それで、『大学4年まで、全日本選手権に絶対に出続けるんだ』というのをその時に決めていました」  そう語る、兄のラストシーズン。今でもよく覚えているのは、20年10月の近畿選手権と東京選手権だ。近畿選手権で太一は「僕が引退することで妹たちが崩れてしまうことなく頑張れるよう、今シーズンは集大成としてしっかりした姿を見せたい」と宣言。当時13歳だった紗来は、同大会で力を発揮できなかったものの、涙をぬぐい「自分で壁を破ります」と語った。その翌週の東京選手権では望結が「お姉ちゃん(真凜)の背中に少しでも近づきたい」と、好演技を見せた。  その時、真凜自身は、試合の2週間前に肩を脱臼し不安な状態。しかし演技直前に望結から「お姉ちゃんがこの衣装で滑る姿を早く見たいな」と声をかけられ、気持ちを切り替えた。本番は「紗来、太一、望結の頑張る姿に勇気をもらって頑張れました」と真凜。きょうだい愛のパワーを感じさせる一戦だった。 浅田真央からもメッセージ  4人で支え合ってきたきょうだいも、3年前に太一は社会人になり、妹たちは芸能活動にも力を入れるようになった。それでも真凜は、しっかりと兄の背中を思い出し、今季、大学4年生の全日本選手権へとたどり着いた。 「やはり全日本の舞台は自分の中でも特別で、ジュニアではじめて出場資格が満たされた年から9年間ずっと舞台にたどり着けていました。そこは自分を褒めてあげたい、誇らしく思えることです。たくさんのお客さんの前で演技できるあの舞台がすごく好きでした」  最後の演技後は、そっと右手で氷に触れた。 「これで最後なんだなと噛み締めた瞬間。すごく幸せな瞬間だったなと思います」 全日本選手権の女子シングルSPで演技を終えた本田。そっと右手で氷に触れた  右骨盤に痛みを抱え、得点は伸びなかった。それでも、その日、できる限りの力と気持ちを観客へ届けた。 「数日経つと『もっとこういう演技で終わりたかったな』という思いもありましたが、心を込めて演技できたので、思い残したことはないかなと思いました。先生方や友達、家族からも、『他にも完ぺきな演技や点数の良い演技はたくさんあったけれど、本当に感動する良い演技だったよ』と伝えていただいて、すごくうれしかったです」  また、本田の一番の憧れの人、浅田真央からもメッセージがあったという。 「いつも私がつらいなとか思っているときに、何かを察して、こちらから連絡しない時でも、私の心に響く本当にすてきな言葉をかけてくださるのが浅田真央さん。全日本が終わったときにもメッセージをくださって。『最後まで、小さいときから逃げずにここまで頑張ってこれたのは、すごい偉いことなんだよ』という言葉をかけていただきました」 引退会見で「スケートが大好きなまま競技を終えることができた」と話す本田 スケートを滑り続けたい  会見では、妹2人と同様に芸能活動の方向に進むのかと聞かれると、自らの道を語った。 「私はまずフィギュアスケートが本当に大好きで、妹たちもそうだと思うんですけど、滑り続けられる限り、皆さんが観たいなと思ってくださっている限り、今後もスケートを滑り続けていきたいです。他にも好きなことはたくさんあるんですが、何だかんだで、スケートを滑っている時の自分が一番輝けているなと感じていて(笑)。本当にスケートが大好きなまま競技を終えることができて幸せです」  会見の最後、両手を胸に当てて会場を振り返る。21年間の競技生活と出会いと支えへ、ありがとうの心を込めて、一礼した。 (ライター・野口美恵) ※AERAオンライン限定記事
フィギュアスケート本田真凜
AERA 2024/01/15 17:48
吉高由里子「光る君へ」視聴率最低スタートでも“余裕”のメッセージを出したワケ
丸山ひろし 丸山ひろし
吉高由里子「光る君へ」視聴率最低スタートでも“余裕”のメッセージを出したワケ
吉高由里子    1月7日よりスタートしたNHK大河ドラマ「光る君へ」で主演を務める俳優の吉高由里子(35)。本作は平安時代中期を舞台に、「源氏物語」を書いた紫式部の人生を描いていくが、初回の平均世帯視聴率は12.7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)と、大河ドラマの初回視聴率としては過去最低となった。  これ対して吉高はは9日、自身のXで即座に反応。「ワースト1位と書かれていたけどワーストだってベストだって1位を取るのは狙っても難しいことだと思うの」とつづり、「面白い番組が沢山ある中、下剋上大河として最後には沢山の人に愛される作品になっていたらいいなと思う今日でした」と“余裕”も感じさせるコメントを出した。  ポジティブな吉高らしいコメントだが、“下剋上大河”という言葉からは、次回以降への自信もうかがえる。実際、SNS上では「光る君へ面白かったけどね」「吉高さんが主演ということで初めて大河の1話目観ました」など、これからに期待する声も少なくない。また、初回は吉高の出演シーンがなかったため、吉高が登場すると視聴率も伸びていくのではという見立てもある。 朝ドラでブレイクする前の吉高由里子。まだ少しギャルっぽい雰囲気も残っている(2012年)   オフの日も役作りに没頭 「吉高は2014年放送の朝ドラ『花子とアン』でもヒロイン役を務めるなど、若いころから主演級の女優として活躍してきました。一方、無邪気さや気さくなイメージもあってか、実力派という印象は薄かったのですが、最近は多彩な演技力が評価されています。昨年放送された『星降る夜に』では、35歳の産婦人科医という役どころで、彼氏と一緒のときはかわいらしく、女医としてはしっかりしていたりと、表情豊かに10歳年下の彼とのラブストーリーを好演。また、21年放送の『最愛』では、殺人事件の重要参考人となった実業家役でしたが、女子高生時代のシーンも本人が違和感なく演じました。天真らんまんな少女からキリっとした大人の女性、また陰のあるミステリアスな雰囲気の女性を演じ分けるその表現力は高く評価されました」(テレビ情報誌の編集者)  吉高はほんわかとした笑顔とは裏腹に、役作りにはストイックに取り組むタイプだ。  例えば、20年公開の主演映画「きみの瞳が問いかけている」では、視力を失ったヒロインという難役に挑戦。その役作りのために、監督と盲学校や視覚障がい者生活支援センターへ取材に行ったり、普段から相手と目を合わせずに会話をする練習を積んでいたとインタビューで明かしていた。さらに、オフの日には白杖をついて歩いたり、目隠しをして料理もしたという(「映画.com」20年10月23日配信)。 ジュエリードレッサー賞の20代部門で受賞した吉高由里子(2014年)   30代になって私生活が落ち着いた  また、今回の大河ドラマ「光る君へ」でも、今まで自身が触れてこなかった書道や琵琶、乗馬、舞などを役作りのために習っていると告白(12月11日の初回試写会)。普段は左利きだが劇中では文字を書くのが右手ということで、筆のシーンの撮影前には30分ぐらい時間をとって、書く練習をしてから本番に入っているとも明かしていた(「ORICON NEWS」1月5日配信)。  プライベートも含めて「30代になって吉高は変わった」と言うのは民放ドラマ制作スタッフだ。 「吉高さんは20代のころは恋多き女性で、ミュージシャンや人気俳優と多くの浮き名を流してきました。酒豪としても有名で、この頃は『お酒を飲むと“二重人格”になる』と共演者から言われていたほど。しかし、近年は昨年6月に一般男性との熱愛が報じられたくらいで、浮いた話やヤンチャ話はほとんどありません。30代になって、かなり落ち着いてきたと思います。その一因として、『花子とアン』が終わった後の26~7歳のころに、約2年間休養したこともあると思います。これをきっかけに仕事のペースをゆるやかにしたことで、公私ともに慌ただしさから解放されたのではないでしょうか。今は一つの作品に集中するというスタンスだからこそ、近年は出演作に外れがないのかもしれません。今は俳優として心技体が充実しており、確かな演技力が発揮できる状態なのだと思います」 「花子とアン」でのロケシーン(2013年)   紫式部はこれまでにない新境地  芸能評論家の三杉武氏は吉高についてこう述べる。 「吉高さんといえば、出演CMなどで見せる明るく人懐っこいイメージが広く浸透していますが、近年は主演ドラマ『最愛』をはじめ、シリアスな演技に注目が集まる機会が増えています。もともと、20代前半の時から主演作以外でもドラマ『ラブシャッフル』や映画『横道世之介』など数多くの作品で存在感を放っていましたし、中でも複雑な内面を抱える殺人者を演じた映画『ユリゴコロ』の熱演は印象深いですね。視力を失ったヒロインに扮した『きみの瞳が問いかけている』でもリアリティーのある演技で作品に厚みを持たせていました。今回の『光る君へ』の紫式部役もこれまでにない新境地となるでしょうし、視聴率はこれからどうなるかまだまだわかりません」  視聴率に対して吉高が“余裕”のメッセージを発したのも、積み上げてきた実績と自信の表れなのかもしれない。 (丸山ひろし)
吉高由里子光る君へ
dot. 2024/01/15 11:00
道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」
関幸彦 関幸彦
道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」
栄花物語図屏風(国立博物館所蔵品統合検索システム(https://post.dot.asahi.com/sys/articles/new?copy=211209)    永延元年(九八七)、藤原道長は二十二歳で宇多天皇の孫にあたる源雅信の娘倫子と結婚をしたが、この婚姻の成立には倫子の母の強い後押しがあった。またその翌年には、源高明の娘明子を第二夫人として迎え入れる。この仲立ちを積極的になしたのは道長の姉詮子だった。姉詮子は道長の関白(内覧)就任にも大きく関わっている。関幸彦の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、年上女性に応援される道長の人間性を紹介する。 *  *  *    一般に道長以後の家系は「御堂流」と呼ばれる。その御堂流・道長以前、長子たる立場で家督を相続したケースは少なかった。「三平」の一人、忠平は基経の長子ではなかった。続く、師輔・兼家いずれも長子ではない。そして道長も同様だった。道長以前、その母たちの出自を見るとわかるのは、受領の娘が目立つことだ。当の道長の母、すなわち兼家の妻は時姫と通称された女子で、摂津守藤原中正の娘だった。  また、道長には同母兄の道隆・道兼とは別の異母兄道義・道綱もいた。道綱の母は有名な『蜻蛉日記』の作者であり、同様に受領の娘だった。道長以前でいえばルーツの冬嗣─良房─基経と伊尹・兼通・兼家三兄弟─道隆・道兼・道長の三兄弟と五代にわたって受領の娘を母とした(例外は時平・忠平兄弟及び実頼・師輔兄弟で、王女や大臣の娘などが母)。 【こちらも話題】 優雅で、女性にはマメで…光源氏は貴族の「あるべき姿」 虚構の『源氏物語』が伝える真実 https://dot.asahi.com/articles/-/210655  その点からすれば、受領の娘には摂関に繋がる上層公卿との婚姻をなす、機会が用意されたともいい得る。だが、道長以後、天皇との外戚関係の固定化にともない、婚姻圏は限定される傾向が見られる。  そのあたりは道長が迎えた二人の妻と、その両人に誕生した子女たちからも了解されるはずだ。 高松殿倫子の子女たち  嫡妻の源倫子から見ておこう。倫子との結婚は、永延元年(九八七)、道長二十二歳の頃だ。倫子の父雅信は当時左大臣で、宇多天皇の孫にあたる(宇多源氏)、プライドも高かった。道長は当時従三位左少将の駆け出し公卿の地位に過ぎなかった。そのため道長との結婚にさほど積極的ではなかったという。このあたりは『栄花物語』〈さまざまのよろこび〉にもくわしい。  倫子の母は「コノ君、タダナラズ見ユル君ナリ」(なかなかの人物です)と確信し、「ワレニ任セタマヘレカシ」(この話は私にお任せ下さい)と断言し、婚儀がなされたという。つまりは道長は倫子の母に強く信頼され、将来性を見込まれての結婚だった。父雅信の官歴へのこだわりに比べ、母の人物本位の立場が優先されたのだった。道長は兼家の五男の立場であり、強い出世欲にかられる性格でもなかったようで、そうした無欲さがある意味、好ましく映じたのかもしれない。 【こちらも話題】 紫式部が地獄に堕ちた?異色の能の内容とは 貴族の心をつかんだ『源氏物語』 https://dot.asahi.com/articles/-/210132  宇多源氏との血脈上の結合は、道長にとってもアドバンテージとなった。道長は女性を信頼させる気質があったのかもしれない。姉の詮子(東三条院)にも道長は好かれた。道長の第二夫人明子との婚姻の仲立ち役を積極的になしたのも、詮子だった。明子は安和の変で左遷された源高明の娘である。明子との結婚は、嫡妻・倫子を迎えた翌年のことだった。  詮子が、明子との縁を求める道長の兄たちを差し置き、道長へと嫁がせたのも、詮子なりの判断があったからだ。このあたりは永井路子氏の小説『この世をば』の描写の妙はなかなかだ。ともかく道長は女性、それも年上の立場からは、まさしく「貴族道」の風味を多分に有した、好男子と映じる魅力があったようだ。詮子による助力は明子との結婚ばかりではない。関白職の帰趨をめぐる伊周との争いにおいて、母の立場から一条天皇に強く迫り、道長の「内覧」への就任にもかかわった。  倫子・明子の二人の妻の縁のいずれもが、年上の女性たちの“お眼鏡”に適ったことが大きい。それほどに道長への信頼度が群を抜いていた。  話を第二夫人明子にもどすと、その父は醍醐源氏のエース源高明だった。高明は醍醐天皇の第十皇子で、故実書『西宮記』はその著として知られる。村上天皇皇子である為平親王を女婿とした。 【こちらも話題】 貴族政治の頂点に立った道長の対人スキルと、優雅さだけではない時代の風の“つかみ方” https://dot.asahi.com/articles/-/210659  この為平を冷泉の後継としようとしていたとの密告で、高明は大宰府へと配流される。娘の明子が父の不幸に遭遇したのは幼少の五・六歳の時期とされる。叔父の盛明親王に育てられたが、その後、東三条院詮子に迎えられた。  詮子は彼女を厚遇、結婚相手については、相応の人物を考えていたに相違ない。二十歳代前半の道長の二人の妻女(宇多源氏の倫子・醍醐源氏の明子)との出会いは、道長の血筋に異なる世界での婚姻圏を用意した。  嫡妻倫子との間に彰子・頼通・教通・妍子・威子・嬉子が、そして明子との間には頼宗・顕信・能信・長家・寛子・尊子が誕生する。 【こちらも話題】 紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは https://dot.asahi.com/articles/-/210585 ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
藤原道長と紫式部関幸彦源氏物語光る君へ大河ドラマ
dot. 2024/01/15 07:00
“チェリまほ”ファン「観葉植物のように見守りたい」 制作陣はレジェンド揃いのアニメに期待がつのる理由
“チェリまほ”ファン「観葉植物のように見守りたい」 制作陣はレジェンド揃いのアニメに期待がつのる理由
人気漫画「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」のアニメ化作品が1月10日、放送開始された  人気漫画「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」(通称「チェリまほ」)のアニメ化作品が、1月10日からテレビ放送されている。「あの世界観がささくれだった心を癒してくれる」とファンは語る。アニメ版「チェリまほ」はどんな話題を巻き起こすのか。 *    *  * ささくれだった心の癒し 「あの世界線には、悪い人が誰もいない。お互いがお互いを思い合う世界観が尊い。ささくれだった心を癒してくれる。ドラマ編が映画で完結した以上、あの平和な世界観が拝めるのはアニメだけ。ドラマでは描かれていないエピソードにも期待してます! ドラマ版はオリジナル要素も強かったときいているので、アニメでは思いっきり2人のイチャイチャエピソードが見たいです」  1月10日から始まるアニメ「チェリまほ」について、そう興奮気味に話すのは、神奈川県在住の女性(39)だ。女性はドラマやアニメはよく見る方で、特にBL作品は「大好物」だという。 「チェリまほ」とは、豊田悠による漫画「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(チェリまほ)」のこと。童貞のまま30歳を迎えた主人公・安達清が、「触れた人の心が読める」という魔法を手に入れてしまったことから始まる、会社の同僚・黒沢優一との「愛」を描いた物語だ。  当初、漫画はTwitter(現X)で公開されて話題を集め、2018年9月からスクウェア・エニックスの『ガンガンpixiv』で連載が続いている。24年1月時点で既巻は13巻、累計発行部数は280万部を突破した人気作品で、19年には「全国書店員が選んだおすすめBLコミック2019」1位に輝いた。 ドラマは大ヒット、アジアを席巻 「チェリまほ」といえば、冒頭の女性も言及した通り、赤楚衛二と町田啓太が出演した実写ドラマを思い起こす人も多いだろう。  2020年10月から12月にかけてテレビ東京系で放送され、安達を赤楚衛二、黒沢を町田啓太が演じ、大ヒットした。オリコンが集計する「ドラマ満足度ランキング」ではドラマ満足度も5週連続で1位を獲得。特に20年11月20日放送の第7話は、Twitter(現X)のトレンドで国内1位、世界でも5位の勢いを見せた。  日本だけでなく、台湾や韓国、タイなどアジア地域でも同時展開された。特に台湾の動画配信サービス「KKTV」では、最高視聴率41.6%を記録するほどの人気を博した。  22年4月には映画「チェリまほ THE MOVIE ~30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい~」が劇場公開されている。 ドラマ版では赤楚衛二、町田啓太が出演し話題に。劇場版も公開された。(C)豊田悠/SQUARE ENIX・「チェリまほ THE MOVIE」製作委員会 「赤楚くんは本当に子犬っぽかった。町田君はホント、王子様みたいでした」と語るのは、BLに特に関心はないという30代女性。お試しのつもりが、「ファンタジー感のあるラブストーリーを、楽しく最後まで観てしまった」という。 制作陣は「レジェンド」  数々の旋風を巻き起こしてきた「チェリまほ」、満を持してのアニメ化とあって、制作陣も“本気”だ。  脚本は金春智子氏。「Dr.スランプ アラレちゃん」や「うる星やつら」、「それいけ!アンパンマン」、「のだめカンタービレ」や「うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVE2000%」など、アニメ脚本を中心に半世紀近いキャリアがある、レジェンド級のベテランだ。  キャラクターデザインは岸田隆宏氏で、「魔法少女まどか☆マギカ」や「ハイキュー!!」、「ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風」などを手がけてきた。  そして、なんと音響監督は、「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズのアスカ役などで知られる声優・宮村優子氏が務めている。  この顔ぶれからも、期待は否が応にも高まってしまうのだ。 「チェリまほ」には、ファン目線を体現したような人物として、藤崎という女性キャラクターが登場する。この藤崎は原作ではいわゆる「腐女子」という設定で、安達と黒沢の恋愛を応援する人物として描かれている。  冒頭の女性はしみじみとこう語る。 「藤崎さんのようなポジションは全腐女子の憧れです。2人のラブを、観葉植物のようにただただこっそり見守りたい」  果たしてテレビアニメ版「チェリまほ」は、どんな旋風を巻き起こすのか――。毎週水曜の深夜を楽しく見守りたい。 (ライター 河嶌太郎) 漫画「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」は24年1月時点で既巻13巻、累計発行部数は280万部を突破している 2022年には劇場版も公開された。(C)豊田悠/SQUARE ENIX・「チェリまほ THE MOVIE」製作委員会  
チェリまほ町田啓太赤楚衛二
dot. 2024/01/11 11:00
東京五輪銅・都筑有夢路「兄がしていたサーフィン」がきっかけで世界のアスリートへ
東京五輪銅・都筑有夢路「兄がしていたサーフィン」がきっかけで世界のアスリートへ
都筑有夢路(つづき・あむろ)/2001年4月5日生まれ。神奈川県藤沢市出身。21年、東京五輪サーフィン女子で銅メダルを獲得。22年から木下グループ所属(撮影/写真映像部・上田泰世)    東京オリンピックから採用されたサーフィン競技で、20歳にして銅メダルを獲得した都筑有夢路(22)。アスリートとしての精神を語った。AERA 2024年1月15日号より。 *  *  *  彼女に出会う誰もが、その穏やかな空気感とあどけない声に戸惑うことだろう。この人が五輪のメダリスト、まして海という大自然を相手に戦うアスリートなのだろうか、と。 運に左右される競技 「皆さんに、普段の雰囲気と、試合に向かっていく時と、ギャップがあるって言われます。普段はゆったりしたイメージで、犬とかコアラみたいって。コアラって、意外と獰猛(どうもう)なんですか? だったら私はコアラかもしれませんね(笑)」  そんな風に自分のことを話す。 「小さいころからやんちゃで、木登りが大好き。小学6年生のときに50メートル走を7秒4で走り、神奈川県藤沢市の小学生記録を塗り替えたこともありました。でもサーフィンを始めたのは11歳と遅くて、それまではクラシックバレエを習っていたんです」  トップアスリートを目指すには遅いスタート。胸に刻んでいたのは、母の一言だった。 「小学生の頃、モデルのローラさんが大好きで『ローラみたいになりたい』と言ってたんです。そしたら母が『頑張っている人はそういうオーラが出るんだよ』と。バレエをやめる時も『何か一つ頑張ってみたら』と言われて。兄がサーフィンをしていたので、じゃあ私もサーフィンを一生懸命やってカッコ良い人になろう、と心に決めました」  2歳上の兄とともに練習に明け暮れる毎日。選手としての開花を焦りはしなかった。 「中学から試合に出始めましたが、兄のおまけという感じ。母は『有夢ちゃんが楽しんでやれることが一番。それを応援するよ』と言ってくれて、勝たないと、みたいな感覚を持たないで育ちました。その考え方は、自然相手のスポーツという点では、良かったと思います。やはり良い波が来ないと実力が出せませんし、こんなに運に左右されるスポーツも珍しいと思います」  運に左右される──。そう言った後、でも運任せではない、と続ける。 2021年の東京五輪サーフィン女子の3位決定戦でアメリカのキャロライン・マークスを破り、銅メダルを獲得した都筑有夢路   「競技に出て最初のころは、負けて波のせいにしたこともありました。でも、母に怒られました。『波のせいにしていたら、いつまでもうまくならないわよ』って。それからは、波ではなく自分が悪い、と思って原因を探るようになりました」  考え方を変えたことが、成長のきっかけになった。 「波のパターンを見れば、ミスの原因はいくらでも考えられます。『波がこう変化したなら、こういう技に切り替えるのもありだったよね』とか。あらゆる対応を作り出していけば、波のせいでできないことはなくなるんです。いつまでも学びがあるスポーツですね。でも他のスポーツでも、進化していける人は、他のことのせいにしない考え方をしていると思います」 (撮影/写真映像部・上田泰世)   メダルのプレッシャー  15歳で国内プロ、そして20歳で世界最高峰のチャンピオンシップツアーに日本女子初の参戦。そこで世界トップのサーファーたちと出会った。 「何より驚いたのは、トップの人たちは人間性が素晴らしいということ。世界女王のカリッサ・ムーア(ハワイ出身)は、私を妹みたいにかわいがってくれて、試合のたびに『何かあったらすぐに言ってね』と声をかけてくれました。初めて経験する大きな波の会場では、練習の時に一緒に海に入って『こういう波はこうやって乗ると良いよ』と教えてくれる選手もいました」  そして21年夏、東京五輪を迎える。準決勝では、尊敬するムーアと対戦した。 「カリッサと試合することが小さな頃からの夢だったので、それが五輪の舞台で叶(かな)ったんです。負けた試合だけど、一番の経験になったヒート(試合)でした」  3位決定戦に回ると、ここ一番の集中力をみせた。 「ここまで来たらメダルを絶対に取る、という気持ちでした。五輪初のサーフィンが日本で開催されて、たくさん応援してもらっていることに恩返しもしたい。どうやったら自分の演技を出せるかを冷静に考え、どの波に乗るかをイメージし、波に乗ったら決めていた演技を出す。積み重ねてきた技術と精神がうまく合った試合でした」 (構成/ライター・野口美恵) ※AERA 2024年1月15日号より抜粋
都筑有夢路サーフィン
AERA 2024/01/10 16:00
宮崎美子から始まった表紙の“魔力” 篠山紀信さんを偲ぶ「出会いが無ければ今の私はありません」
唐澤俊介 唐澤俊介
宮崎美子から始まった表紙の“魔力” 篠山紀信さんを偲ぶ「出会いが無ければ今の私はありません」
「女子大生」シリーズの記念すべき第一号を飾った宮崎美子さん  写真家の篠山紀信さんが4日、亡くなった。83歳だった。人物、建築、美術など被写体のジャンルは多様で、作品の数々は世界で知られる。1978年から97年の約20年間、「週刊朝日」の表紙も撮り続けた。  週刊朝日といえば、「女子大生シリーズ」を思い浮かべる人も多いだろう。実は、篠山さんが表紙を担当していた80年代に始まった企画だ。芸能人ではなく、公募で選ばれた“素人の女性たち”が表紙を飾るという当時では「新しい」試みだった。同シリーズについて、篠山さんは週刊朝日(2022年2月25日号)でこう話していた。 大塚寧々さん(1988年6月3日号) 当時は”女子大生の時代”だった 髙田万由子さん(1991年7月26日号) 〈女子大生の表紙も、週刊朝日の一時代を築きましたね。女子大生を表紙に、と思いついたのは、当時は“女子大生の時代”だったんです。美しさと知性を兼ね備えていて、週刊朝日の表紙にぴったりだと思ったんです。芸能人とは違う初々しさがある、そう思いました〉  記念すべき第一号は、当時、熊本大学の3年生だったタレントの宮崎美子さん(65)。宮崎さんはこれを機に、ミノルタカメラのテレビCMに起用され、一躍話題の人となった。  宮崎さんは、自身が表紙になった当時を振り返って、こう話していた(週刊朝日2021年1月15日号)。 「脱がせないだろうという安心感があって(笑)」 小島奈津子さん(1990年8月10日号) 〈応募は新聞広告がきっかけ。「篠山紀信があなたを撮ります」っていう文言が広告に載っていて、「素人の女子大生を、あの篠山さんが撮って表紙にしちゃうの?」っていう驚きでした。当時、篠山さんは男性誌「GORO」のイメージが強くて、何となく脱がせちゃうイメージの方だったけど、「週刊朝日」なら脱がせないだろうという安心感があって(笑)。  応募写真を撮影してくれたのは、当時のボーイフレンド。でも応募用に撮ったんじゃなくて、たまたまスナップ写真を撮ってくれたのが手元にあって、それを送ったんです。大学の購買部に自分が表紙の「週刊朝日」が並んだ時は、自分なんだけど自分じゃないような不思議な感じでした。  実は私、大学の時、写真部にいたんです。学生にはフィルム代は高かったけど、現像の作業は楽しくて好きでした。持っていた二眼レフはミノルタ。CMに登場することを考えると運命みたいですよね(笑)。そのカメラは、今も大事に持ってます〉 膳場貴子さん(1994年7月29日号) 「一瞬しかない魅力、野心、緊張を凝縮した一枚」を表紙に 河野景子さん(1985年8月23日号)  この「大成功」から女子大生シリーズは、週刊朝日の名物企画となった。大塚寧々さん、小島奈津子さん、髙田万由子さん、膳場貴子さんなど、俳優やタレント、アナウンサーなどが多数輩出。当時の表紙は今みても色あせない魅力がつまっている。ダイヤの原石をどのように活かしたのか。その秘訣を、篠山さんは週刊朝日(2022年2月25日号)で次のように明かしていた。 〈女子大生表紙は撮られるほうはドキドキするでしょうし、その一方で有名になれるかもしれないという野心もある。そういう思いが凝縮された、そのときにしか持っていない魔力を撮りました。その人の一瞬しかない魅力、野心、緊張を凝縮した一枚ですね〉 篠山さんが撮影した自身の表紙を持つ宮崎美子さん(週刊朝日2021年1月15日号)  シリーズの記念すべき第一号の表紙を飾った宮崎さんは5日、コメントを発表した。 〈篠山さんとの出会いが無ければ今の私はありません。  あのくりくりした茶目っ気あふれる瞳と、笑顔で周りを明るく照らす方でした。  4年前のカレンダー撮影の後、「10年後のデビュー50周年の時もお願いします」という私の申し出に、「それは無理でしょ」と大笑いされていたのが楽しい思い出です。  感謝の気持ちともうお目にかかれない寂しさでいっぱいです。 宮崎美子〉 (AERA dot.編集部・唐澤俊介)
篠山紀信宮崎美子
dot. 2024/01/05 13:56
【追悼】篠山紀信さん 宮崎美子“還暦ビキニ”「冗談だと笑われてた…」裏話を語る
【追悼】篠山紀信さん 宮崎美子“還暦ビキニ”「冗談だと笑われてた…」裏話を語る
篠山紀信さんが撮影した自身の表紙を持つ宮崎美子さん    写真家の篠山紀信さんが4日、亡くなった。83歳だった。人物、建築、美術など被写体のジャンルは多様で、作品の数々は世界で知られる。1978年から97年の約20年間、雑誌文化が盛り上がっていた時代の週刊朝日の表紙も撮り続けた。篠山さんを偲び、週刊朝日 2021年1月15日号に掲載された宮崎美子さんへのインタビュー記事を再配信する。(年齢、肩書等は当時) *  *  *  本誌表紙にカムバックした、元祖・女子大生モデルの宮崎美子さん。撮影の裏話、話題になった昨年のビキニ秘話、60代になって思うこととは──。   ──今回の表紙撮影を終えての感想は?  すごく楽しかったです。全幅の信頼を置いている篠山(紀信)さんに撮っていただけて光栄でした。何と言っても篠山さんは、私がこの世界に入るきっかけになった方で、篠山さんとの出会いがなければ人生が違うものになっていたというほど大事な方ですから。 ──手に持った1980年の「週刊朝日」は、宮崎さんご本人のものです。  はい、実家の本棚で大切に保管していました。デビューの雑誌ですからね。日光には当たってないはずだけど、何せ40年前だから、どうしたってシミができちゃう。 ──当時を振り返って思い出すことは?  応募は新聞広告がきっかけ。「篠山紀信があなたを撮ります」っていう文言が広告に載っていて、「素人の女子大生を、あの篠山さんが撮って表紙にしちゃうの?」っていう驚きでした。当時、篠山さんは男性誌「GORO」のイメージが強くて、何となく脱がせちゃうイメージの方だったけど、「週刊朝日」なら脱がせないだろうという安心感があって(笑)。  応募写真を撮影してくれたのは、当時のボーイフレンド。でも応募用に撮ったんじゃなくて、たまたまスナップ写真を撮ってくれたのが手元にあって、それを送ったんです。大学の購買部に自分が表紙の「週刊朝日」が並んだ時は、自分なんだけど自分じゃないような不思議な感じでした。  実は私、大学の時、写真部にいたんです。学生にはフィルム代は高かったけど、現像の作業は楽しくて好きでした。持っていた二眼レフはミノルタ。CMに登場することを考えると運命みたいですよね(笑)。そのカメラは、今も大事に持ってます。 ──あれから40年。どんな40年でしたか?  こんな仕事をするとも思ってなかったし、続けてこられるとも思ってなかったです。諦めるタイミングはいっぱいあったと思うんですけど、続けてこられたことは本当によかった。この世界に入ったばかりの時、私は親元を離れるのも初めてだし、芸能の仕事をするにあたっての訓練も全く受けてなくて。そんな中で仕事がいきなり始まって、自分を見失いそうになることもありました。少しずつ仕事がわかってくるようになると、今度は逆に迷いが生じたり。40代ぐらいでようやく居場所も少しできてきて、自分の立ち位置が見えてきました。最近は年齢とともに自分のことがわかってきて、いろんなことに折り合いをつけられるようになりました。 ──続けてこられた理由は何だと思いますか?  実は私、大学生の頃は、地元の放送局の試験を受けようと思ってたんです。自分の目と耳で見聞きする仕事に憧れがあって、そういう仕事ができたら最高だなと。芸能の仕事も、自分の目と耳をフル活用する仕事だったから、楽しんでこられたのかもしれません。  この仕事の醍醐味は、仕事を通じて、いろんな人に出会えて、いろんなところに行けること。そして、自分とは違う何人もの人生を、時代を超えて演じることができること。諦めそうになることもあったけれど、なかなか他にこんな経験ができる仕事ってない。だったら続けない手はないと思って続けてきました。もしあの時、「週刊朝日」の表紙になってなかったら、熊本で普通のお母さんをやってたでしょうし、今頃は孫もいるかもしれない。今思うと、人生には何度か「えいや」ってジャンプする時期があるのかなって。そんなジャンプを繰り返してきたのかもしれません。 ──昨年“還暦ビキニ”が話題をさらいました。  アハハハ。本当はそんな意図じゃなくて、最初は気取った感じのファッションでいこうと思ってたんですよ。それがまさかのビキニに……。もともとカレンダーは、楽屋での雑談から生まれた思い付きなんです。カレンダーはこれまで出したことがなかったから、やってみようかって。撮っていただくのは、篠山さん以外には考えられなくて、オファーしたら快諾してくださって。ただ、撮影日が2週間後に決まっちゃって、ロケ地は九十九里というんです。カレンダーは、四季を表さないといけないでしょう? だから「海に行くような格好もあるよ」と言われたんです。その時「どんな格好?」とは思ったけど、深くは考えてなくて。そしたら撮影1週間前の衣装合わせで、水着が何点も出てきて……。いろんな意味で、ちょっと無理でした(笑)。綺麗と言っていただけるなら、篠山さんの魔法のレンズの力です。撮影後は、とにかく「痛い感じのおばさんの写真になっていませんように」という思いだけでした。 ──反響を受けていかがでしたか?  この反響は誰も予想してなかったと思います。事務所でも「水着」というと、冗談だと思われて、プッと笑われてましたから。私、ミノルタのCMの時に着た水着をまだ持ってるんです。だからと言って、それを着られるかどうかは別の問題なんだけど、「あの水着をまだ持ってる」って言ってもみんな相手にしてくれなかった(笑)。そりゃあそうですよね。  撮影前は、少しだけ食べ物は気にしたけど、そんなに変わったことはしてなくて。運動も、自粛期間中から始めたラジオ体操と、スクワットやストレッチをやる程度。もうちょっと頑張っておいてもよかったかな(笑)。良い意味で、あまり頑張りすぎずに向き合ったことが、ふんわりと受け入れられたのはすごく嬉しかった。もうそんなに年齢を重ねることに抵抗しなくてもいいのかもって思います。あと、カレンダーがきっかけで、地元の友達や昔の仲間からの近況報告がたくさん届いたのが嬉しかった。「私も頑張る!」とか言ってくれたり。この年代は、親のこともあるし、いろいろと大変なんです。だけどみんな自分の好きなことを持って、イキイキと生きていて、私も勇気をもらいました。 ──今年の抱負は?  声の仕事が好きなので、もっとやっていきたい。去年、自粛期間中に「これから何をしていこう」っていろんなことを考えたんですが、やっぱり私はナレーションの仕事が好きだなって。もちろん演技も好きなので、ドラマの仕事も積極的にやっていきたい。  それとここ数年、何か新しいことを始めようという気持ちが強いんです。去年はそれがカレンダーとSNS。60代が無理せず、好きなことを楽しんでる様子を見て和んでもらえたらという思いです。思い切って始めてみると、反応をいただけるのが励みになるし、ちょっとだけ世界が広がった気がする。今年も新しいことを計画中です。あ、水着ではないですよ。次の水着は10年後、50周年の時かな(笑)。 宮崎美子(みやざき・よしこ)/1958年、熊本県生まれ。週刊朝日「篠山紀信があなたを撮ります・キャンパスの春」に応募し、80年1月25日号に掲載となる。これを機に、ミノルタカメラのテレビCMに出演、話題の人に。同年、TBS系のテレビ小説「元気です!」主演で、本格女優デビュー。以降、数多くの映画やドラマに出演。 (構成/本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2021年1月15日号
篠山紀信宮崎美子
週刊朝日 2024/01/05 08:22
【追悼】篠山紀信さん 宮崎美子×篠山紀信“運命の一冊”から41年 「週刊朝日」表紙にカムバック!
松岡かすみ 松岡かすみ
【追悼】篠山紀信さん 宮崎美子×篠山紀信“運命の一冊”から41年 「週刊朝日」表紙にカムバック!
篠山紀信さんが撮影した自身の表紙を持つ宮崎美子さん    写真家の篠山紀信さんが4日、亡くなった。83歳だった。人物、建築、美術など被写体のジャンルは多様で、作品の数々は世界で知られる。1978年から97年の約20年間、雑誌文化が盛り上がっていた時代の週刊朝日の表紙も撮り続けた。篠山さんを偲び、週刊朝日2021年1月15日号の記事を再配信する。(年齢、肩書等は当時) *  *  * 「もっとはにかんだ顔してよ」 「うふふふ……」  本誌の歴史を語る上で欠かせない2人が帰ってきた! 昨年“還暦ビキニ”を披露し注目を集めた女優の宮崎美子さん(62)と、24年ぶりに本誌表紙にカムバックした巨匠、篠山紀信さん(80)。宮崎さんが熊本大学3年生の1980年、篠山さんが本誌「女子大生シリーズ」表紙で撮影し、大きな話題を呼んだ“運命の一冊”を持ってのご帰還だ。宮崎さんはこの表紙をきっかけに、瞬く間に芸能界のスターダムを駆け上った。  ご覧の通り、微笑ましくも真剣勝負の2人のやり取りから生まれた今回の表紙。「“あの時”と同じ気持ちを撮りたかった」(篠山さん)の言葉通り、レンズの向こうには、嬉し恥ずかしい気持ちがにじみ出た、“女の子”の姿があった。(本誌・松岡かすみ) ※週刊朝日  2021年1月15日号
篠山紀信宮崎美子
週刊朝日 2024/01/05 08:20
【追悼】篠山紀信さん 女子大生表紙を振り返る「第1回が宮崎美子さんで、いきなり大成功」
【追悼】篠山紀信さん 女子大生表紙を振り返る「第1回が宮崎美子さんで、いきなり大成功」
     写真家の篠山紀信さんが4日、亡くなった。83歳だった。人物、建築、美術など被写体のジャンルは多様で、作品の数々は世界で知られる。1978年から97年の約20年間、雑誌文化が盛り上がっていた時代の週刊朝日の表紙も撮り続けた。篠山さんを偲び、週刊朝日2022年2月25日号の記事を再配信する。(年齢、肩書等は当時) *  *  *  創刊100周年を迎えた週刊朝日にゆかりのある、時代を築いた人たちに、“その時代”と“これから”を思う存分に語ってもらいました。今回は写真家の篠山紀信さん。◆表紙撮影(1978年4月~97年10月)  僕が表紙を撮っていた1978年から97年の約20年はまさに雑誌の時代でしたね。  週刊朝日があって、文春、新潮、それからポスト、現代、パンチ、プレイボーイと、週刊誌が時代を作り、文化を彩りました。週刊誌は常に新しいことにチャレンジをする。写真家として時代にコミットするのは一番魅力的でチャーミングな仕事でしたね。日本のカルチャーのど真ん中ですから。  その中心的存在だった週刊朝日、その表紙を撮る際、まず、どういう雑誌かを考えました。  週刊誌といえば駅の売店で買って、電車で読んでそのまま網棚に置いて帰って家には持って帰らない。でも週刊朝日はそういう雑誌とまったく違って、新聞と一緒に宅配され、家庭で読まれる。お父さんもお母さんも子どもも読む。家庭の中に置いてあってもおかしくない写真を目指しました。  ただ表紙の被写体は、テレビや雑誌など、いろいろなメディアに出てくる人たちなので、読者は毎日のように見ている。だから見たことのない表情、そこを狙って撮りました。「こんなの初めて見た!」という驚きがないといけないんです。  女子大生の表紙も、週刊朝日の一時代を築きましたね。女子大生を表紙に、と思いついたのは、当時は“女子大生の時代”だったんです。美しさと知性を兼ね備えていて、週刊朝日の表紙にぴったりだと思ったんです。芸能人とは違う初々しさがある、そう思いました。  第1回が宮崎美子さんで、いきなり大成功でした。表紙になった写真は、じつは応募してきた写真そっくりなんですよ。当時の彼氏に撮ってもらったそうで、とても自然で魅力的だった。他の応募者の写真は、スタジオでしっかりライティングされたプロが撮ったようなものばかり。僕は今のスマホで撮ったように時代を先取りした自然な表情を目指しました。  女子大生表紙は撮られるほうはドキドキするでしょうし、その一方で有名になれるかもしれないという野心もある。そういう思いが凝縮された、そのときにしか持っていない魔力を撮りました。その人の一瞬しかない魅力、野心、緊張を凝縮した一枚ですね。  僕の表紙は半世紀は続くと思った。でも僕が最後に撮影してから年月が経ち、紙媒体がこんなに変わるとは思ってもみなかった。もし、もう一度、週刊朝日の表紙を撮るなら、何か新しい方法を生み出して臨むでしょうね。  写真は時代の映し鏡で、週刊誌も時代を映した媒体です。常に新しいものを生み出さないといけない。表現とは実験性を受け手に突きつけないといけない。そういう戦略を立てていつも臨んでいます。その戦略が見事に結実したのが週刊朝日でした。 篠山紀信(しのやま・きしん)/写真家。1940年生まれ。日本大学芸術学部在学中に広告写真家協会展APA賞を受賞。76年にはベネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選出されるなど、キャリアの初期から高い評価を得る ※週刊朝日  2022年2月25日号
篠山紀信週刊朝日100周年
週刊朝日 2024/01/05 08:17
フィラリア制圧を目指す女性科学者(72)の“命の約束” 「私は人類の側に立つ」 
高橋真理子 高橋真理子
フィラリア制圧を目指す女性科学者(72)の“命の約束” 「私は人類の側に立つ」 
熱帯病対策専門家として、フィラリア撲滅に尽力する一盛和世さん(72)  西郷隆盛もかかったといわれる「リンパ系フィラリア症」という熱帯病がある。「その撲滅に命をかけてきた」と言い切るのが一盛和世さん(72)だ。学生時代に「蚊が媒介する病気」に興味を持ち、青年海外協力隊員として25歳でサモアに赴任。それからロンドン大学衛生熱帯医学校に学んで博士号(PhD)を取得し、世界各地をめぐって熱帯病とたたかってきた。海外生活は30年を超す。「プライベートなしにやってきた」という一盛さんは、どんな道を歩んできたのだろう。世界保健機関(WHO)の最新報告によると、蔓延国72のうち19カ国が制圧を達成した。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) フィラリアは人生を変えてしまう ――初めてお話を聞いたのは2018年、私がまだ朝日新聞で働いていたときで、「ひと」欄の取材でした。2022年に読売国際協力賞を受賞されたこと、誠におめでとうございます。  ありがとうございます。副賞が結構大きな金額だったので、これをどうするか考えたんですね。私はフィラリア症をなくすことに命をかけてきた。フィラリアというのは細長い糸のような寄生虫で、人のリンパ節に入り込むと手足がグローブのようになってしまう「象皮病」を起こしたり、陰嚢や乳房をとてつもなく腫らしたりする。人はこれで死ぬことはないけれど、外見がひどく変わってしまう。人生が変わってしまうんです。  フィラリアが産んだ仔虫は血液の中を泳ぎ回り、その血を蚊が吸って別の人を刺すことで病気が広がる。だから、蚊の駆除やボウフラが発生しそうな環境をなくすことが予防法の一つですが、フィラリアの仔虫を殺す薬がある。残念ながら親虫を殺す薬はない。でも、蚊に刺される可能性のある人、つまり住民全員が毎年1回、5年続けて薬を飲むと、新たな病気の発生はなくなる。こうなれば、この地区ではフィラリア症の感染がなくなり制圧されたことになります。  それを世界中の蔓延地域で展開するのが私のライフワークですが、いろいろ考えたら本当はやっちゃいけないことかもしれないんですよ。だって多様性が大事といわれている時代に一つの生物を地上からなくそうとしているわけだから。でも、私は人類側に立つ。人類の立場からしたら、こういう病気を起こすものは敵じゃないですか。だからたたかうと、腹をくくりました。誰に何と言われようが私は同胞を助ける。その代わり、私の命をあげるって思ったんです。 ――誰にあげるんですか?   盟友のパトリシア・グレイブス豪ジェームズクック大学教授と。一盛さんが持っているのが読売国際協力賞受賞を記念して作った本=2023年8月、オーストラリア・シドニー、一盛和世さん提供  虫に。フィラリアに。だから、あなたたちがいたことはどこかに残します。そう約束を、虫とは約束できないから自分で約束した。ちょっと青臭いですけど、私は本気でそう思っていました。で、その約束をいただいた副賞を使って果たした。 ――それがこの立派な英語の本ですね。日本語タイトルは『太平洋リンパ系フィラリア症制圧計画(PacELF=パックエルフ)論文集および一盛和世業績集―第29回読売国際協力賞受賞を記念して―』です。  はい、300冊作って、世界中の関係者にほぼ配り終えました。2023年8月下旬から9月初めにはオーストラリアに行きました。あそこのジェームズクック大学には、ロンドン大学衛生熱帯医学校に留学したときからの友人パトリシア(・グレイブス)が教授としているんです。私もそこの客員フェローですが、この大学とクイーンズランド大学が主催して、アジア太平洋地区のフィラリア関係の人たちが何百人も来る、WHOも関わる結構大きな会議をシドニーで開いたんです。  その中で私の本の出版を記念するセレモニーを開いてくれた。初日の開会挨拶のときから「スペシャルゲスト、ドクターイチモリ」っていう感じで紹介してくれて。それでブースに本を置いて配ったらみんな喜んでくれて、本当にありがたかった。 宮古島にある「フィラリア防圧記念碑」  日本ではこの病気のことも、制圧が進んでいることもほとんど知られていないんですけど、今回、読売新聞が光を当ててくれて良かったなと思っています。本のほかに、フィラリア症制圧を伝える金色の記念プレートも作って、12月に太平洋の島国バヌアツに行ってプレゼントしてきました。私自身、バヌアツに6年間いましたし、私が始めたPacELFのプログラムで最初に制圧に成功した国の一つがバヌアツなんです。もうこの国にはフィラリア症はなくなっているので、若い人は知らないわけですよ。だから、若い人たちに知ってもらうためのプレートです。  実は沖縄県の宮古島には大きな「フィラリア防圧記念碑」がある。1988年に沖縄県での「根絶宣言」が出されたのを記念して建てられたもので、本当はああいう立派な石碑を贈りたいと思ったんですが、いろいろ調べてみると石碑を太平洋の島に建てるのは難しいとわかり、プレートにしました。 ――沖縄の石碑が1988年に建てられたとなると、日本でもこの病気が1980年代までは存在していたわけですね。  実際には沖縄県では1980年に対策が終わり、その後、再発生がないか慎重に見極めてから根絶宣言を出した。宮古島で対策が始まったのは1965年で、そのころには四国や九州にも患者がいて、対策が進められていました。 象皮病の患者さんの足を洗う50歳のころの一盛和世さん=サモア、一盛和世さん提供  私が卒論のために東京大学医科学研究所に通うようになったのは大学3年(1972年)からですが、当時の医科研にはフィラリア症の第一人者の佐々学先生がいらして、まさに日本からフィラリア症をなくそうと、それこそ「プロジェクトX」をやっていた時期だったんですよ。その佐々先生のお部屋に、フィラリア症で陰嚢水腫を起こした患者さんの写真が飾ってあった。自分の巨大な陰嚢に腰をおろしたような姿の写真で、私は衝撃を受けた。これがフィラリアとの出会いでした。 ――大学は玉川大学を卒業されたんですよね?  そうです。なんというか、私は、皆さんが目指すような「いい大学を出て、いい人と出会って、お子さんもいて、仕事も着々とステップアップして」という路線から外れている。そういう路線を高校生のころに自分の中ですっかり外したんですね、振り返ってみると。  子ども時代は恵まれた環境にいたと思います。東京の開業医の娘で、小学校のときは勉強が好きな、いい子だった。中学から女子学院に入って、ちょっと横を向くようになったかな。当時はそんな意識はしていなかったけれど、その、いい大学を出ていい人に出会ってという路線は私は違うと思ったんです。 ――何があったのですか?  いや、学校自体はいいし、家族も仲がいいし、友達と別にケンカしたわけでもない(笑)。私の家は下町にあって、あのころは結構公害がひどかったんですよ。中3から高1にかけて、ぜん息と蕁麻疹がひどかった。苦しくて、学校に一日いられない感じ。そこで「生きる」ということをすごく考えたんだと思うんです。「いのち」ということを。もともと小学校のときから生き物が好きでしたし。 大学に行ったら、空が青かった  それから「ほかの人とは違う、自分は自分」というのも認識した。友達は勉強しているけれど、私は勉強しないし、できない。疲れちゃうから。で、どんどん成績は落ちるんだけど、その成績すらどうでもよくなる感じ。「大した病気ではない」と言われるんだけど、自分としては大した病気で。一番多感な時期に、中途半端な病気だったのが影響したのかな。  高校生になって受験勉強が必要になっても、熱心でなかった。その路線に乗っかるのは、自分で嫌だっていうのもあったし、乗っかれないっていうのもあった。私が受験した年は、東大が入試をしなかった翌年で、1年待って東大を受験した人もいっぱいいて、最悪の年だった。私はそんな状況の中でいろいろあって、玉川大農学部に入ったんです。  でも、それが良かった。大学に行ったら、空が青かったんですよ。 ――玉川大は東京都下の町田市にありますからね。排ガス規制が甘かった時代の東京の下町とは空気が違ったでしょうね。  あのころは東京中が曇っていたと思います。気分的にも。学生運動の余波で、何だかギスギスしていたし。 総勢26人が執筆して作った『きっと誰かに教えたくなる蚊学入門』を手にする一盛和世さん  玉川大のキャンパスは広くて、あそこで穏やかな人たちと接して。最近、「ウェルビーイング」という言葉をよく聞くようになりましたよね。私もWHOに行ってから、これを目指すようになったんですけど、もしかしたら、あのとき玉川大で出合った、あの穏やかさっていうのが、ウェルビーイングなのかもしれないなあとちょっと思う。農学部なので、田植えとか、牛や豚の世話もするし、命を育てる仕事は純粋に楽しかったですね。  そこでミツバチに興味を持ち、3年生で昆虫学研究室に入りました。社会性昆虫というのはすごく面白いなと思ったんです。昆虫ですら社会を持っている。私は社会をミツバチから学んだ。でも、卒論のテーマは蚊にした。 ――どうして、急に蚊に?  蚊は身近過ぎて、昆虫としてあまり捉えられていないなと。そのへんがひねくれているというか、まともなチョウチョやトンボに行かずに蚊に行った(笑)。  というか、研究室の先生が東大医科研の先生と知り合いで、医科研の先生から「蚊をテーマに卒論を書こうという学生はいませんか」と声がかかったんですよ。私の自宅からは東大のほうが近いということも考慮してもらえたのか、私を推薦してくれたんです。  医科研では来る日も来る日もボウフラを数えて、無事に卒業論文を仕上げました。それで玉川大を卒業し、そのまま就職もせずに医科研の研究生になっちゃった。当時は就職っていう発想が全然なかったですね。 親は大反対  佐々先生は熱帯病の研究を国際的なスケールで進めておられて、私は熱帯病の研修を受けたりして、勉強させてもらっていた。ある日、ゼミにサモアに行っていた研究者が来て、サモアの話をしたんですよ。それが運命の分かれ目というか、私はぜひともサモアに行きたいと思ったんです。  佐々先生に言っても「困ったなあ」という感じだったんですけど、青年海外協力隊というのがあると教えてくれました。で、あ、それで行こう、と思ったんです。そこから、親が……。 ――親がどうだったんですか?  大反対。大反対どころか、ほぼ勘当ですよ。私だって親だったらそう言っちゃう(笑)。サモアってどこ?っていう感じですよね。そこで蚊を捕りに行く? はあ? ですよ。結果としては許してくれたんですけど、よく許してくれた。  ともかくサモアに丸2年行って、WHOのフィラリアプロジェクトに青年海外協力隊のボランティアとして参加した。行ってみたら、熱帯というところは素晴らしく、あちこち採集に行って調べた蚊の生態もすごく面白かった。それに、サモアでは患者さんにも会うわけじゃないですか。その姿を見て、日本でこの病気をなくせたんだからここでもなくせるはずだと思った。そして、そういう仕事をしてみたい、と思うようになった。 読売国際協力賞の贈賞式で=2022年11月28日、東京、一盛和世さん提供  それには本気で勉強しようと思ったんです。帰ってから。高校のときにはしなかった勉強をね(笑)。熱帯病を勉強するのに世界で一番のところというと、ロンドン大学衛生熱帯医学校です。奨学金を片っ端から調べて、親には意地でも頼らないぞと思って、奨学金をもらって行っちゃった。さすがに厳しく、試験も何回もあって、鍛えられました。 ――修士課程から入ったんですか?  いや、私はサモアから帰って玉川大の修士課程に籍を置いて、そこの課程を終えていたので、修士号は持っていたんです。修士号を取ってから、佐々先生のお手伝いをしてユスリカの研究をちょっとした。先生は東大を定年退官して帝京大学に移っていたので、私は帝京大に1年間いました。ユスリカも学問として面白かったんですけど、すぐロンドンに行ってしまった。  博士(PhD)のコースは、1年目の試験に落ちると先に進めないんですよ。そこでがんばって試験に通って、実験もして、PhDを取った。そこで自信がつきました。帰ってきてすぐ、離婚しました。 夫婦は同じ山を登るものなんだと思う ――え、いつ結婚されたんですか?  この話はあんまりしていないんですけど、ロンドンに行く半年ぐらい前です。生物好きが集まるサークルで出会った人でした。私はフィラリア対策っていう山に登りたいと思っている。彼は彼で別の山に登りたいと思っている。でも、クライマーとしては同じなんですよ。そこのところは意気投合していたわけ。話も合ったんです。だけど、登る山は決定的に違っていた。  夫婦っていうのは、同じ山を登るものなんだと思う。それは手を取り合って登るケースもあれば、1人がベースキャンプで頑張っているケースもある。だけど、ここを登りたいと思って見ている山は同じなんだなって思う。私みたいに前人未踏の山を登ろうとすると、どっちかが山を諦めないといけない。まあ、そこまで筋道立てて考えていたかは自分でもわからないけれど、向こうも同じようなことを感じていたようで、すんなり別れました。  PhDを取ってからは、修業の日々です。国際協力事業団(JICA、現・国際協力機構)の専門家としてグアテマラに行き、タンザニアでは都市マラリア対策に取り組み、日本学術振興会研究員としてケニアでツェツェバエの生態研究をしました。いろんな熱帯病の現場を見て経験を重ねていったら、1992年にWHOによばれた。赴任地はサモアです。さあ、来たぞ、っていう感じ。  同じサモアに今度はWHOというモノが言える立場で行けたのは大きくて、私も修業してきたから知識も経験もあるし、ちょうど人生として脂の乗っている時期だったのも幸いだった。それは運というのもありますよね。 PacELF 制圧記念プレート贈呈式でバヌアツ政府保健省代表と=2023年12月、バヌアツ保健省提供  サモアに最初に行ったときからうすうす考えていたことを「太平洋リンパ系フィラリア症制圧計画(PacELF)」という形にして企画し、バヌアツで6年勤務したあと2000年にフィジーを拠点としてプログラムをスタートさせた。私がチームリーダーです。まさに「満を持して」っていう感じでしたね。 ――2006年には本部ジュネーブ(スイス)に異動になったんですね。  はい、そこでは「顧みられない熱帯病(NTD)部」に入り、2010年には「世界リンパ系フィラリア症制圧計画(GPELF)」の責任統括官になった。地球からフィラリアをなくすという頂上を目指し、作戦指針を策定し、計画を指揮する責任者です。  2013年に定年を迎えて、日本に帰ってきました。もう体力的にも第一線でやる力はないから、記録を残すのが仕事だと考えていた。長崎大学熱帯医学研究所で客員教授になり、「日本顧みられない熱帯病アライアンス(JAGntd)」を長崎大につくり、2019年には蚊への理解を深めるイベント「ぶ~ん蚊祭」を開催しました。さまざまな専門家から原稿を集めて『きっと誰かに教えたくなる蚊学入門』という本も作った。  本当は、私が持って帰った資料や文献を保管できる資料室みたいなものも長崎大につくりたいなと思ったんだけど、難しくて。ジェームズクック大に話を持っていったらすごく喜んでくれて、「うちで預かります」って、私のライブラリーを一部屋つくってくれた。一盛コレクションもその中に入って、全部デジタル化して、世界中からフィラリアに関する情報はそこに集めるみたいな形にして。 ――お~、それは大事なことですね。  そうなんですよ。人類の財産じゃないですか。ロンドン大で一緒に学んだパトリシアがいたからできたことですけど、なんで日本じゃないのかなとちょっと残念な気持ちはあります。  でも、太平洋の蔓延国16カ国中、8カ国でフィラリアはなくなりましたから。すごいでしょ? 世界でだってもう19カ国でなくなった。アフリカのトーゴ、マラウイだってなくなった。バングラデシュだってなくなるんだから。対策が終わってから制圧という認定が出るまでちょっと時間差があるんですけど、とにかくやればできるんですよ。世界中でみんなすごく一生懸命やっているのが本当に嬉しく、すばらしいことだと誇りに思います。 一盛和世(いちもり・かずよ)/1951年東京生まれ。玉川大学農学部卒。東京大学医科学研究所研究生を経て1977~1979年青年海外協力隊員。1987年ロンドン大学衛生熱帯医学校修了、博士号(PhD)取得。グアテマラ、ケニア、タンザニアで熱帯病対策の経験を重ね、1992年に世界保健機関(WHO)に入る。2000年にフィジーを拠点に「太平洋リンパ系フィラリア症制圧計画(PacELF)」開始。2006年WHO本部(スイス・ジュネーブ)、2010~13年「世界リンパ系フィラリア症制圧計画(GPELF)」責任統括官。2013年定年退職。2014年から長崎大学熱帯医学研究所客員教授。オーストラリアのジェームズクック大学客員フェローも務める。
dot. 2024/01/02 17:00
佳子さま29歳の装い 「フェミニンとカジュアルな“自分らしさ”」と眞子さんを継ぐ意思
太田裕子 太田裕子
佳子さま29歳の装い 「フェミニンとカジュアルな“自分らしさ”」と眞子さんを継ぐ意思
「ガールズメッセ2023」の表彰式に出席した秋篠宮家の次女佳子さま=2023年10月22日  秋篠宮家の次女、佳子さまは先月の2023年12月29日に29歳になられた。この1年、公務を精力的になさる姿が報じられるとともに、装いも注目を集めた。皇室の装いに詳しい歴史文化学研究者の青木淳子氏は「皇室の伝統を守りながらも、自分自身で考え工夫なさっている」と話す。装いの変遷から「佳子さまらしさ」を紐解く。   *  *  *   「佳子さまらしさ」が色濃く出るのは、お誕生日に際して宮内庁から出されるご近影でのファッションだろう。22年、28歳のお誕生日の佳子さまのファッションを、青木淳子氏はこう解説する。 佳子さま28歳のお誕生日に公開された写真はビッグシルエットのニット姿=22年12月 宮内庁提供 「22年、お誕生日に際しての佳子さまのファッションにも『自分らしさ』が出ていると感じました。    ビッグシルエットのオフホワイトのセーターに合わせて、ベージュのたっぷりとしたボリュームのスカートと、フードの付いたジャケット。髪は短く、肩までカットされています」    かっちりしたスーツやワンピースではないが、清潔感やきちんとした感じは残しつつ、トレンド感があった。まさに、そこに「佳子さまらしさ」があると青木氏は話す。   「佳子さまらしさは3点ありますね。第一に若い人のトレンドを抑えたビッグシルエット。第二にフードの付いたジャケットや髪型のカジュアル感。そして第三に背景の紅葉に映えるオフホワイトの選択です。    流行を上手に取り入れるファッション感覚、皇族だからといって気取っていない、自然体を感じさせるカジュアル感、そして『自分がどう見えるか?』を意識し、自分を客観的に見ていらっしゃるように感じられます」 【こちらも話題】 “ほほ笑みのプリンセス”佳子さま29歳に 「公務にまい進、存在感あふれる一年」写真で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/210337 お揃いから徐々に変化が  29歳になられた佳子さまだが、年を重ねてこうした「自分らしさ」を磨いてきたと青木氏は指摘する。幼少の頃のお出ましのときは、姉の眞子さんと「お揃い」だった。 1999年 34歳の誕生日を迎える秋篠宮さまと赤坂御用地西門内の広場を散策する長女の眞子さま、次女の佳子さま、紀子さま。姉妹「お揃い」の1枚 宮内庁提供 「当たり前のことですが、佳子さまはお誕生以来、常に眞子さんとご一緒でした。幼少の頃は、“お揃い”で、チェックのワンピースに白い襟に紺のボレロ、水色地に白い襟のワンピースなど、似たような装いが多くみられました。    これはお母さまである紀子さまの選択を、ご姉妹で受け入れられていたとお察しします」    佳子さまの装いに大きな変化が表れたのは、13歳の夏だ。佳子さまはネオンカラーのTシャツで、ご一家の写真におさまっている。「グッと大人っぽいファッションになった」と青木氏は話す。 2009年悠仁さま2才のころ、那須御用邸をを散策する秋篠宮ご一家、(左から)悠仁さまを抱く紀子さま、秋篠宮さま、眞子さま、佳子さま 宮内庁提供   「2008年8月、悠仁さまが2歳のお誕生日を前にご静養先でのご一家での写真では、秋篠宮さま、紀子さま、眞子さんが水色系のお召し物であるところに、佳子さまは蛍光色の黄色を着用されており、目を引きました。    13歳の夏休みは、多くの人にとって自我が目覚めるときでもありますよね。翌09年11月、赤坂御用地をご一家で散策される写真では、膝上丈のチェックのプリーツスカートにブーツ、白いシンプルなセーターを合わせられていた。中学3年生になられた佳子さまは、すっかり大人っぽいファッションでした」 【こちらも話題】 佳子さま“4790円ブルゾン” 2度再販も即完売! マチュピチュで見せたファッション感度 https://dot.asahi.com/articles/-/206776    姉妹お揃いから、蛍光カラーや膝上丈プリーツスカートへ。こうした装いは、「“自分らしさとは何か?” を模索されていた時代」だったのではと青木氏は推測する。 サイズの合っていないスーツはナゼ?   そのような時期を経て、ここ最近の佳子さまの装いに対して青木氏が感じるのは「意思」や「考え」だという。   「成年皇族となられてから公務において、しばらくは他の女性皇族と合わせた定番の装いという印象でした。しかし、ある時期からその装いの中に、佳子さまの『意思』というか、『考え』を感じるようになりました」    佳子さまの「意思」や「考え」を青木氏がはっきり感じたのは、“サイズが合っていないスーツ”でのことだと話す。 第4回「みどりの『わ』交流のつどい」にオンラインで出席する佳子さま。姉の小室眞子さんがかつて着用したグリーンの洋服を身につけて臨んだ=21年11月22日東京・元赤坂の赤坂東邸、宮内庁提供 「21年11月23日、『みどりの「わ」交流の集い』の式典で、オンラインでお言葉を述べられた時、佳子さまはブルーグリーンのアンサンブルスーツで臨まれました。    パールのネックレス、イヤリング、ブローチと、アクセサリーも女性皇族の定番でしたが、このお姿を見た時に少し違和感がありました。スーツのサイズが合っておらず、やや大き目な印象だったのです。実はこの行事は、19年までは眞子さんが出席されていました。    そして、佳子さまがお召しになっていたのは、19年11月25日『みどりの「わ」交流の集い』の時に眞子さんが着用されたスーツと同じ色・デザインでした。これは佳子さまが眞子さんから譲り受けられたのものなのでしょう。    皇族の役目を立派に果たして来た姉に対する尊敬の気持ちと、姉の公務を引き継いでゆく、という佳子さまの意思を見た思いがしました」 【こちらも話題】 佳子さまの堂々たるロイヤルスマイルと節約をイメージさせる「着回し術」は、英キャサリン妃に重なると専門家 https://dot.asahi.com/articles/-/209127    最近も、“眞子さんから譲り受けた”と思われる服が話題になった。まだ記憶に新しい、23年11月、南米ペルーに佳子さまが公式訪問されたときだ。青木氏はこう話す。   「23年11月6日ペルーのクスコで教会をご訪問の時にお召しになっていた、身ごろがターコイズブルー、スカートが花柄のワンピースも、17年6月2日に眞子さんがブータン訪問で着用されていたものと同じものとお見受けしました。こちらは、丈や身幅など少し調整なさっているようです」    佳子さまは、眞子さんから受け継いだものを大切にしながら、「自分らしさも追求している」と青木氏は指摘する。   「佳子さまがお一人で公務に臨まれることが多くなってきた時期から、ある時はよりフェミニンに、ある時はよりカジュアルな服装になられたように感じています」     フェミニンさが印象的だったのは、22年の「いちご色」だろう。 第77回国民体育大会の閉会式に出席した秋篠宮家の次女佳子さまは「いちご」カラー=2022年10月11日 代表撮影 「22年10月11日栃木県『いちご一会とちぎ国体』の閉会式に、佳子さまは赤いレースのワンピースでご出席されました。白い帽子には同じ赤いテープ、そしてイヤリングは紅い花のモチーフです。    この時のワンピースは、栃木の名産のいちごの色だと話題になりました。    訪れる国や地方の文化や名産品等に関連したファッションを選択するのは、美智子さまから続く伝統ともいえるものですが、改めて佳子さまがこのような気遣いをされたことで、佳子さまの皇族女性としての存在感が高まったと思います。    またレースというフェミニンな素材や、イヤリングにパールではなく花のモチーフを選ばれたことで、堅苦しくなく、会場の方々や、メディアで拝見する私達は、より身近な存在という印象を受けたのではないでしょうか」 【こちらも話題】 佳子さま29歳 気品のプリンセスは「大きな目でのぞきこみ、ほほ笑む」 車内でイヤリングをつけ、極寒の大晦日に祈りを捧げた1年 https://dot.asahi.com/articles/-/210335 佳子さまが身近に感じるカジュアル  一方、カジュアルな佳子さまはスポーツ観戦のとき。 全国高校女子硬式野球選手権大会の決勝を観戦する佳子さま=2023年8月1日 代表撮影 「23年8月1日『全国女子高校野球決勝戦』観戦の時には、白地に紺の水玉のワンピースでした。ウエストのサッシュがアクセントでしたが、フレアースリーブが動きに合わせて揺れ、柔らかな印象でした。カジュアルともいえるこのファッション、女子高生達にとっても、より身近に感じられたことでしょう」    フェミニンとカジュアルの中にも、「絶妙なさじ加減」があると青木氏はいう。   「これまでの女性皇族の定番ファッションと比較すると、よりフェミニンであったり、よりカジュアルであったりという装いの場面もみられます。    しかしながらその中にも、行事の意味や訪問した場所との関連性を考えての選択をなさっているように見えます。    佳子さまは成年会見で、『祖父母としての両陛下(上皇ご夫妻)についてですが、お若かったころのご自身の経験などをよくお話して下さいます。日本を始め海外についての歴史や自然、文化などについてお話して下さることもあり、学ぶことが多いと感じております』と述べられています。    皇室の伝統を守りながらも、自分自身で考え工夫なさっているのではないでしょうか」 29歳になられた佳子さま。お誕生日に公開された写真は前年までのカジュアル路線から一転、振り袖姿だった=2023年12月 宮内庁提供  29歳になられた佳子さまからは、装いの中にも強い意思や考えが見え隠れする。公務にまい進される中で、花開いていく“佳子さま”らしさから、目が離せない。(AERA dot.編集部・太田裕子) 〇青木淳子/歴史文化学研究者、学際情報学博士(東京大学)。元大東文化大学特任准教授(2020年3月任期満了にて退職)、現在、大東文化大学・フェリス女学院大学・実践女子大学・学習院女子大学非常勤講師。日本フォーマル協会特別講師。著書に『パリの皇族モダニズム』(KADOKAWA)、『近代皇族妃のファション』(中央公論新社)など。大学卒業後婦人画報社(当時)にて、『美しいキモノ』特集号、『結婚の事典』の編集を担当。
佳子さま皇室秋篠宮家小室眞子さん
dot. 2024/01/02 11:00
「いまだにハンシン半疑」「NO OHTANI, NO LIFE.」「おひさジブリ」 2023年アエラ「一行コピー」総振り返り49連発
「いまだにハンシン半疑」「NO OHTANI, NO LIFE.」「おひさジブリ」 2023年アエラ「一行コピー」総振り返り49連発
(写真/アフロ)    今年もやってまいりました、アエラ「一行コピー」の総決算。「ひと言」を振り返るだけで、2023年の出来事が(きっと)思い出せます。いろいろありましたが世間を騒がせたのはやっぱり、あの人でショウ♪ *  *  * 「一行コピー」は最下段に潜んでいる 訪米はトツゼレンスキー。 ●1月2-9日合併号/ウクライナのゼレンスキー大統領が2022年末に突然の訪米。ロシアに侵攻されて300日後のタイミングだった。 イッサイ太りません。 ●1月16日号/正月太り解消にうってつけの「一汁一菜」を本誌で提案。つらさをともなわない"ラクやせみそ汁"は試す価値あり。 千がいっぱいの契約。 ●1月23日号/ソフトバンクから海外フリーエージェント権を行使して米大リーグ・メッツと契約した千賀滉大投手に注目が集まった。 コロナに疲れマスク。 ●1月30日号/過去3年間で新型コロナウイルスの感染者が1億人、死亡者が110万人を超えた米国の"コロナ疲れ"を取材。 ついに中国へ、シャンシャン。 ●2月6日号/東京・上野動物園で生まれ育ったジャイアントパンダ「シャンシャン」が、所有権のある中国に帰った。最後の姿に涙するファンも。 イーゾン・マスク。 ●2月13日号/コロナ禍になって3年。マスクに依存する生活を続けた一方で、周囲を気にして"外す"タイミングに悩んだころだった。 ネを上げる。 ●2月20日号/電気代、ガス代、食費、ガソリン代……値上げラッシュが続いた年初。"異次元の物価高"を経験した1年だった。 (写真/アフロ)   STOP WAR ●2月27日号/ロシアがウクライナに侵攻して1年。歴史人口学者のエマニュエル・トッドとジャーナリストの池上彰が対談し、振り返った。 迷惑行為は訴えまスシ。 ●3月6日号/回転ずしチェーン店で客が撮影した動画が発端となり、世間を騒がせた。その後もSNSでの迷惑動画が社会問題化した。 世界一になっダル。 ●3月13日号/大谷翔平やダルビッシュ有などの選手の参加で盛り上がったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が3月8日に開幕。 花よりダンゴー。 ●3月20日号/2021年夏の東京五輪・パラリンピックをめぐる談合事件で、広告会社・電通など運営側企業のコンプライアンス欠如が明らかになった。 花粉がおおスギ。 ●3月27日号/過去10年で最多ともいわれた花粉の飛散量。花粉症デビューした人も少なくないはずだが、2024年はどうなる……? MVPでショー。 ●4月3日号/投打にわたる二刀流の活躍でWBCのMVPに選出された大谷翔平。圧巻のプレーの連続で、まさにショータイムだった。 研究者に姿をカエル。 ●4月10日号/東京五輪ボクシング女子金メダリストの入江聖奈が、東京農工大大学院で大好きな"カエル研究"の道を選んだ。 (撮影/写真映像部・佐藤創紀) ハルキました。 ●4月17日号/新作『街とその不確かな壁』を発売した作家の村上春樹。6年ぶりの長編小説に、どっぷり浸かれる春となった。 都市部はアキヤすい。 ●4月24日号/出生数80万人割れ。人口減少社会が問題になるなか、都市部の15年後は街の3割が空き家になるとのデータも。 GWに見るのもエ~ガ。 ●5月1-8日合併号/新型コロナ5類移行で、久しぶりに行動制限のないゴールデンウィーク(GW)。アエラでは休みに満喫したい本と映画121タイトルを特集した。 ゴールイウィーク。 ●5月15日号/新型コロナが感染症法上の「5類」に移行したのが5月8日。3年余り続いた生活がGW明けからどう変わるのか、注目した。 相続でゼイゼイ。 ●5月22日号/税制改正により、2024年1月から相続の生前贈与のルールが変わる。揉めてしまいがちな相続でのやり取りで息切れしないための準備を。   35年後もアエラ。 ●5月29日号/「ライバルは朝日新聞」と銘打って、35年前の1988年5月に産声を上げたアエラ。創刊に関わった写真家やデザイナーが当時を振り返った。 核軍縮の成果はおサミット。 ●6月5日号/岸田首相は「歴史的だ」と強調したG7広島サミットだが、核軍縮の観点で、被爆者などからは怒りや落胆の声が聞かれた。 マンション高騰は江東区? ●6月12日号/首都圏を中心に新築マンションの販売価格が高止まりの様相を見せた2023年。江東区に限らず、高騰する理由を取材した。 そうか、自公亀裂か。 ●6月19日号/衆院選の区割り変更に伴う公認調整が、自民党と公明党の関係に影を落とした。24年間続いてきた自公連立のほころびとは──。 ジシン過剰。 ●6月26日号/震度5弱以上の地震が5月だけで6回も発生。地震列島に住む私たちが、どう備えておくべきかを専門家に聞いた。 古代妄想。 ●7月3日号/吉野ケ里遺跡で見つかった石棺墓。邪馬台国があったとされる弥生時代後期の墓とされ、「卑弥呼の墓か?」と古代史ファンも沸いた。 武装放棄。 ●7月10日号/プーチン大統領に反旗を翻したものの、その後進軍を中止した民間軍事会社ワグネル。その創設者プリゴジン氏は8月、搭乗していたジェット機が墜落し、亡くなった。 (撮影/小黒冴夏)   転売イヤ~。 ●7月17日号/空前の人気となった「ポケモンカード」。レアなカードは値段が"億超え"も。転売ヤーも話題に。 NO OHTANI, NO LIFE. ●7月24日号/メジャー初の日本人本塁打王が見えてきたタイミングで、アエラは「大谷翔平の向上心」を特集した。 おひさジブリ。 ●7月31日号/宮崎駿監督の10年ぶりとなる映画「君たちはどう生きるか」が公開。少ない宣伝にもかかわらずヒットした。 ナンなんだ! インド。 ●8月7日号/中国を抜いて人口世界一の大国となったインドを特集。巨大成長市場で日本企業のビジネスチャンスを取材。 スゲ~トうなる進化。 ●8月14-21日合併号/2022年夏にプロのフィギュアスケーターとしてスタートを切った羽生結弦の独占インタビューを掲載。 予知なおヨチヨチ。 ●8月28日号/関東大震災から100年を迎えた9月1日。東京を大地震が襲うとどうなるのか──地震予知の技術革新などを分析。 見たかい? 世紀のKO劇。 ●9月4日号/夏の高校野球で107年ぶりの優勝という快挙を成し遂げた慶応。ドラマチックな試合の連続だった。 あまりに酷っしょ! ●9月11日号/東京では7月6日から64日間連続で最高気温30度以上の「真夏日」を記録。とにかくアツーい夏だった。 バスケに続く歓喜ト~ライ。 ●9月18日号/2024年のパリ五輪出場権を獲得したバスケットボール男子日本代表の感動に続き、ラグビーW杯が開幕。   いまだにハンシン半疑。 ●9月25日号/18年ぶりのリーグ制覇を決めた阪神。優勝を「アレ」に言い換えた岡田彰布監督の独特な口調も話題を集めた。 どっちのシゴトも興味わ~く。 ●10月2日号/「副業OK」という企業が8割を超える調査結果もあるなかで、これからの「ワーク」を独自に見いだした。 ジェンダー「観」違い。 ●10月9日号/第2次岸田内閣で女性5人が入閣し、岸田首相は「女性ならではの感性や共感力で」と発言。その言葉にモヤモヤ? シーズン終わり、大谷「ロス」? ●10月16日号/大谷翔平のシーズンが終了、寂しがる人が続出。移籍先はロサンゼルス・ドジャースが最有力との見方を紹介した。 Oh! ザ・独占。 ●10月23日号/王座戦を制し、"八冠独占"という前人未到の偉業を成し遂げた藤井聡太八冠。21歳の底知れない強さを考察した。 韓流好きは、ソナタ? ●10月30日号/「冬ソナ」から20年。ペ・ヨンジュン来日の際には空港に3500人以上が集まったとか。韓流の歴史を振り返った。 となりのレトロ。 ●11月6日号/ファッションや音楽など様々な分野でレトロが人気。それら魅力の"沼"にハマる人は、あなたの周りにも? いい加減税。 ●11月13日号/ついたあだ名は"増税メガネ"。政権浮揚策として打ち出した所得減税も支持率回復には機能せず。 アレよアレよと日本一。 ●11月20日号/38年ぶりの日本一となった阪神。日本シリーズでも日替わりでヒーローが登場するなど、強さを見せつけた。 すみれの花泣く。 ●11月27日号/宝塚歌劇団で女性が亡くなった問題を受け、歌劇団が調査報告書を発表。その内容に批判が高まった。 関西熱狂”アレ”ード。 ●12月4日号/59年ぶりの"関西ダービー"が実現した日本シリーズ。優勝パレードの沿道のファンは総勢100万人に達した。 若手の思いもわかって。 ●12月11日号/長時間労働をいとわずに会社に人生を捧げてきたベテラン世代。8時間労働に疑問を持つZ世代の働き方に理解を! ユーキューブざんまい。 ●12月18日号/有給休暇取得率は高まっているというが、まだまだ"休み下手"。有休とってYouTubeを見続けるもヨシ。 史上最高額でショウヘイ。 ●12月25日号/10年総額1015億円の超大型契約でドジャース移籍を発表した大谷翔平。アエラ一行コピーにも最多出場でした! ※AERA 2024年1月1-8日合併号
AERA一行コピー
AERA 2023/12/30 10:30
若者のオーバードーズに元依存症の支援者「やめろとは言えないし、意味がない」 その真意とは
國府田英之 國府田英之
若者のオーバードーズに元依存症の支援者「やめろとは言えないし、意味がない」 その真意とは
「碧の森」代表の湯浅静香さん    医薬品を過剰に摂取するオーバードーズ(OD)の、若者へのまん延が深刻化している。12月13日には東京都の小学校で女子児童2人が市販薬を過剰に摂取し、救急搬送された。だが、過去にODの沼にハマり身を滅ぼした経験を持つ女性は、ODの危険性に警鐘を鳴らしつつも「やめろとは言えないし、やめろと言うことに意味はない」と意外な本音を口にする。その真意とは。  埼玉県在住で、受刑者や、薬物などの依存症者の家族を支援する活動をしている「碧の森」代表の湯浅静香さん(43)。彼女自身が元受刑者で、窃盗容疑で逮捕された際の精神鑑定で、万引きや薬物、ギャンブルなどあらゆる依存症と診断された。  幼少期に大人の男性から性被害を受け、母親による虐待とネグレクト(育児放棄)を経験した湯浅さんは、「クソみたいな人生だった」とその過去を一切隠さない。言葉通りに破天荒でもあり、自分で自分を痛めつけるような生活を送ってきた。 10代で違法薬物、18歳でODに  10代で援助交際や違法薬物に走り、キャバクラで働いていた18歳のころからODに徐々に染まった。とはいえ、ODという言葉がまったく浸透していなかった時代。今思えばのODである。  きっかけは、ただのノリだった。  仕事が二部制で、深夜にいったん勤務を終え、別店舗に移って朝まで働くのだが、「疲れを飛ばすため」に何となく、二部に移る前に、とある薬に手を出した。 ギャル時代の湯浅さん(いずれも本人提供)    酒を飲む仕事。いつの間にか意識が飛び、気がつくと、家の布団で寝ていた。 「めっちゃ怖いんだけど…」  何も覚えていない湯浅さん。だが、その夜に出勤すると、同僚たちの反応は意外なものだった。 「昨日のノリ、最高だったよ! 楽しそうだったし、しゃべりも超良かった。いい仕事したよ!」  予想外の“評価”に、恐怖心は消し飛び、“成功体験”に変わってしまった。 「仕事に活かせるって、本気で思ってしまったんです。バカだったなって今は思いますけどね」(湯浅さん)  今よりルールの緩い時代。夜の世界で築いた人脈で、処方薬ですら簡単に入手できた。 【あわせて読みたい】 万引き、薬物…あらゆる「依存症」だった元受刑者の43歳女性が名前・顔出しで“当事者”を支援する理由 https://dot.asahi.com/articles/-/14272?page=1   「最初に手を出した薬の量がどんどん増えて、今度は別の薬にも手を出すようになって。いつの間にか、量も思い出せないほど、薬をぼりぼりと『食う』ような状態になっていきました」  一時は店のナンバーワンまで昇りつめたが、成功体験は長続きしなかった。  客相手に、言動が支離滅裂になり、時には記憶が飛んで約束を破ることが増えた。  記憶が飛んだ時はキャラも変わった。明るいトークが売りだった湯浅さんだが、客にしなだれかかって甘えたりと、「女」を出すようになったという。 「お前、俺と付き合うって言っただろ?」(客) 「言ってないけど…」(湯浅さん)  自分ではない自分になっていることに、湯浅さんは気づくことができない。愛想をつかした客がどんどん離れ、別の同僚を指名する。その様子に悔しさを感じるのだが、薬の量はどんどん増える。まさしく転落である。   懲役2年7カ月の実刑判決 「普通ならここで立ち止まるはずなのに、できなかった。なぜかって、今の若い子たちにも通じるかもしれませんが、薬局で売っていたりお医者さんが出す薬なんだから、体に悪いはずがないって思い込みがあったんです。当時は依存症の『依』の字も知らなかったし、ODなんて言葉もなかったはずで、知る術はありませんでした」  26歳。落ちに落ちた湯浅さんは自殺未遂を起こし、病院に搬送された。そこで薬の大量服用の問題にやっと気づくのだが、行為をやめることはできなかった。  いつしかODの影響で意識朦朧のまま万引きを繰り返すようになり、9年前、懲役2年7月の実刑判決を受け服役した。  36歳で出所後、「依存症子」の名前で自らの半生を発信するとともに、「碧の森」を立ち上げ、受刑者や依存症者の家族の支援活動を続けている。ネイリストやキャリアコンサルタントの資格を取り、この秋からは通信制の大学に通い始めた。  最近はODに関する相談が増えているという湯浅さん。若者たちにまん延している現状に何を思うのか。 【こちらもおすすめ】 「自分の子どもは依存症じゃないか…」 不安を抱く家族の“早すぎる相談”が増えている事情 https://dot.asahi.com/articles/-/806?page=1 「自分の体を痛めつける行為、でも、それだけじゃないですよね。記憶がないまま他人を傷つけたり、私みたいに犯罪を繰り返して刑務所に入ることだってある。やってしまったことは消せないよって。ODによって、死より苦しいかもしれない『生き地獄』を味わうかもよって。それこそがODの怖さなんだと知って欲しい」と話しつつ、こう本音を漏らす。 「それでも、今、ODをしている子たちにやめろって言っても、絶対に聞かないと思います」  若者たちも、おそらくはそれぞれが何らかの事情や苦しみを抱え、生きる手段としてODに走っている。彼らを突き放したら、誰にも相談もできなくなるし、隠れてODを続けるだけだろう。 「クソみたいな人生」を自認する湯浅さんも、幼少期に母からの虐待を受けた当事者だ。暴力を振るわれたり、柱に長時間縛り付けられ、おしっこを漏らしたりが日常だった。それでも、夜の店で稼いだ給料の半分はその母に渡していた。母はギャンブル依存でもあり、そのお金はすべてギャンブルに消えることを知っていてである。 強く否定するのは支援にならない  自らの内面に生じた「ゆがみ」は、湯浅さん自身も認めている。  湯浅さんは、 「私はODをしてしまっているその子を、まずは認めてあげる必要があると思います。『やめろ』などと強く否定したら隠れてしまうだけで、支援にならない。誰にも言えなくなることが一番怖いことなんです。次から減らせたらいいね、生きててよかったね、と、その子の居場所をちゃんと作りながら、見守っていくことが大切ではないかと思います」  として、こう続ける。 「オーバードーズという名称も、一時の快感を味わえるような軽いイメージを与える気がしていて、良くないですよね。立派な依存症で、自分ではやめられなくなる危険な行為なんだということを、早いうちにしっかり教える必要があると思います」  かつてボロボロになった自分を振り返りつつ、そんな思いを口にした。 (AERA dot.編集部・國府田英之) 【あわせて読みたい】 盗んで心の穴を埋める「クレプトマニア」 医師「真面目で融通の利かない人こそ注意」 https://dot.asahi.com/articles/-/200880?page=1
オーバードーズ
dot. 2023/12/29 17:15
“ほほ笑みのプリンセス”佳子さま29歳に 「公務にまい進、存在感あふれる一年」写真で振り返る
太田裕子 太田裕子
“ほほ笑みのプリンセス”佳子さま29歳に 「公務にまい進、存在感あふれる一年」写真で振り返る
まさにほほ笑みのプリンセス、ペルーへ出発のため羽田空港で見送りを受ける秋篠宮家の次女佳子さま=23年11月1日 代表撮影  秋篠宮家の次女、佳子さまは12月29日に29歳になられた。この1年、佳子さまは忙しい日々を送られた。地方公務は3月の茨城県をはじめ、宮城県、静岡県、兵庫県、鳥取県、鹿児島県、大阪府など、そして、11月にはペルーを公式訪問された。写真とともに1年を振り返る。   *  *  *    2023年1月2日、コロナ禍のため3年ぶりの「新年一般参賀」が実施された。宮殿・長和殿のベランダに佳子さまは真紅のドレスでお出ましになった。佳子さまが新年一般参賀に初めて参列されたのは2015年。そのときは淡いピンクのドレスだった。あれから8年、グッと大人っぽい印象だった。 23年1月2日、新年の一般参賀に出席した秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま、三笠宮妃百合子さま    新春は恒例の行事も多い。そのひとつ「歌会始の儀」は、1月18日に皇居・宮殿「松の間」で開かれた。今年のお題は「友」。佳子さまが披講された歌は、友との写真の思い出だ。   【卒業式に 友と撮りたる記念写真 裏に書かれし 想ひは今に】    宮内庁によるこの歌の解説はこうだ。 〈佳子内親王殿下には、高校の卒業式の日にご友人お二人とお写真を撮られました。後日、ご友人が印刷したお写真の裏にメッセージを書いて渡してくださり、その想いが三人の中で今も続いていると感じられたことを歌にお詠みになりました。〉    佳子さまの歌は、20代らしくみずみずしい、親近感のわくものだった。 【こちらも話題】 なぜ佳子さまに激しいバッシング? 「生まれながらの特権と、不満のはけ口に」名大河西准教授 https://dot.asahi.com/articles/-/206601  佳子さまというと、フィギュアスケートを習っていたり、大学時代にはダンスサークルに所属されていたりと活動的な印象がある。 東京ドームで行われた「第24回全国高等学校女子硬式野球選抜大会」神戸弘陵―花巻東の試合を観戦に訪れた秋篠宮家の次女佳子さま=23年4月2日  代表撮影  公務でも、姉の小室眞子さんから引き継いだ日本テニス協会の名誉総裁としてテニスの試合、4月2日には東京ドームで「第24回全国高等学校女子硬式野球選抜大会」などを観戦されている。 「第22回東京都障害者ダンス大会ドレミファダンスコンサート」に出席し、B’zの楽曲「ultra soul」に合わせてタオルを振る佳子さま=23年7月17日 代表撮影  地方へは、3月に茨城県、5月に宮城県石巻市、7月に静岡県、9月に鳥取県、10月に鹿児島県などを訪問されている。訪問先を並べただけでも、コロナ禍がいよいよ明けたことを感じさせる。 水戸・偕楽園で植樹のためのスコップを持つ佳子さま=23年3月16日  コロナ禍明けといえば、春の園遊会も4年半ぶりの開催で、令和初だった。佳子さまは初めて参加する園遊会。紀子さまと色合わせされたような淡いオレンジ色の振り袖は、あいにくの雨の中でもとびきり艶やかだった。 23年5月、春の園遊会に出席した秋篠宮家の次女佳子さま=東京・元赤坂の赤坂御苑 23年5月、春の園遊会に出席された秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま   【こちらも話題】 佳子さま“ニッコリ笑顔”がTikTokで全世界に届くインパクト 「もう時代は変わった」と識者 https://dot.asahi.com/articles/-/206982  この1年でも印象的だった公務といえば、ペルー訪問ではないだろうか。23年は日本とペルーの外交関係樹立から150年にあたる。11月1日、羽田空港を出発し、10日間の日程で南米・ペルーを公式訪問された。 ペルー公式訪問を終え、羽田空港に到着した秋篠宮家の次女佳子さま=23年11月10日 代表撮影    度重なる航空機トラブルのため、経由地で足止めされたり、現地での超過密スケジュールなどハードな局面もあったが、終始弾けるような笑顔だった。ペルーのメディアからは、「ほほ笑みのプリンセス」と称賛された。    そんな1年を、皇室番組の放送作家のつげのり子さんは「佳子さまの存在感がこの1年ほど感じられた年はなかった」とし、こう話す。 29歳になられた佳子さまのお写真は浅葱色の地に草花の文様の着物に帯は金色で、正倉院文様の一つである華文で品格のある振袖姿=23年12月2日 宮内庁提供 「ペルーで『ほほ笑みのプリンセス』と呼ばれたことは、日本ではもちろん現地でも報道されていました。佳子さまは華やかでかわいらしいだけでなく、ペルーではかなりハードなスケジュールをこなされながらも、拝見する映像ではいつもニコニコされていました。     秋篠宮邸の改修工事の件で、1人暮らしへの批判もありました。それを跳ね返すかのように公務にまい進されていた様子から、とても健気な印象を受けました。    特にペルー訪問では毎日報道され、メディアへの露出が非常に多かった1年だったと思います」    20代最後の年を迎えられた佳子さま。ほほ笑みのプリンセスは、次の1年、さらに活躍されるに違いない。(AERA dot.・太田裕子) 【こちらも話題】 なぜ佳子さまの一人暮らしの理由が「税金節約」なのか 女性皇族が住む昭和な世界 https://dot.asahi.com/articles/-/196053
佳子さま皇室秋篠宮家小室眞子さん
dot. 2023/12/29 10:00
「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた
丸山ひろし 丸山ひろし
「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた
日本中小企業大賞2023に出席したときの小雪(写真:Pasya/アフロ)    現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の第12週から出演している女優の小雪(47)。主人公・スズ子が思いをはせる愛助の母親かつ、日本有数の興行会社である村山興業の社長という役どころで、12月15日に放送された次週予告で初登場。これに対してSNSでは「小雪のラスボス感に震える」「これは怖い!」と反響を呼んだ。  1998年に放送されたドラマ「恋はあせらず」(フジテレビ系)で女優デビューし、パリ・コレクションにも参加するなど、モデルとしても活躍した小雪。かつては洗練されたクールビューティという印象が強かったが、ときを経て、朝ドラの予告での一瞬の出演でも話題になるほどの“貫禄っぷり”を見せつけた。 「小雪さんは2011年に俳優の松山ケンイチと結婚し、3児をもうけました。女優業に本格復帰したのは最近ですが、他の作品でも母親役を演じています。例えば、昨年11月に公開された12年ぶりの主演映画『桜色の風が咲く』では、9歳で失明し18歳で聴力を失った息子を支え続け自立させていく、たくましい母親役を好演しました。また、5月に配信され、相撲界を描いたNetflixシリーズ『サンクチュアリ -聖域-』では、相撲部屋の女将役で出演。しっかり者で美貌や柔らかさだけでなく、したたかさも兼ね備えたキャラを上手に演じていました」(テレビ情報誌の編集者)   【こちらも話題】 「ブギウギ」傑作朝ドラへの道の命運を握る?  “小夜劇場”が心配すぎる https://dot.asahi.com/articles/-/209132   小雪(写真:アフロ)   「子育てをして体格がよくなった」  最近はこうした人間的な重みを感じさせる役がハマっている印象だが、現在の私生活も影響しているのかもしれない。小雪は19年春ごろから自然環境の厳しい北の地にも住居を構えて、家族で2拠点生活を送っている。彼女が語ったエピソードからはたくましさがうかがえる。 「Precious.jp」(22年12月8日配信)では、田舎暮らしについて、自分たちが知らない生きる基本を自然はたくさん教えてくれると語っており、スーパーへの買い物は週に一度ぐらいで、畑で無農薬の野菜を作り、みそや漬物といった発酵食品なども作っているという。さらに、「もはや長靴しか履いてない。気付くと爪の中にも土が詰まっている暮らし」とも明かしていた。  また、「徹子の部屋」(テレビ朝日系、22年11月1日放送)では、「子育てをして体格が良くなったかな」と笑顔で話していた。田舎暮らしでの生活力が、力強い演技を生み出し、結果的にそれが貫禄につながっているのかもしれない。前出の編集者はこう語る。 「子育てへの向き合い方にも信念を感じます。強い体を作ってくれた自身の母の食事にならい、子どもたちの食事に日本の伝統的な食品を取り入れていると以前にインタビューで明かしていました。子どもたちには朝晩とみそ汁を出し、砂糖の代わりに甘酒を使った煮物や納豆など、発酵食品も毎食1品は入れているとか。また、子どもたちの体にお母さんの常在菌を入れて免疫力を高めてあげたいので、素手で5種類のみそも作っているそうです。一方、夫の松山は、小雪が自分の偏食を心配し、バランスのよい食事を作ってくれているとインタビューで語っていたことも。子どもだけではなく、8歳年下の夫の生活管理もしっかりやっている。小雪は一家にとって家長的な存在で、その雰囲気が貫禄も感じさせるようになったのでは」(同)   【こちらも話題】 松山ケンイチを覚醒させた妻「小雪」と「2拠点生活」 https://dot.asahi.com/articles/-/42478   独身時代の小雪(写真:Splash/AFLO、2008年)   私生活でもあまり怒らない  心境の変化も見逃せない。女性誌のインタビューでは、昔は女優や妻、母としてあるべき姿にとらわれていた時期があったが、自然に触れ、夜はスマホを見ない時間をつくる中で「幸せの価値観は自分で決めればいい」と思えたと明かしている(「美的GRAND」2021秋号)。自然の恵みを享受する生活の中で、生き方も働き方も自由でいいと思えるようになったという。 「3月に放送されたバラエティー番組に夫の松山が出演した際は、小雪について『あまり怒らないんです』と話していたこともあります。慌てず騒がない姿にも威厳というのは表れるもの。さらに小雪の場合、田舎でしっかりとたくましく生活を送っていることや、不自然に若作りをしないビジュアルも相まって、演じる役にも同世代女優にはない風格が出てきているのだと思います。まさに、『ブギウギ』の役どころはそうした一面が発揮され、ハマり役となる可能性は高いでしょう」(同)   【こちらも話題】 柳葉敏郎「ブギウギ」ダメ父親役で再注目 若い世代が知らない“武勇伝”だらけの過去 https://dot.asahi.com/articles/-/208532   スラっとした美脚は健在(写真:アフロ)   母になってから柔らかな雰囲気に  芸能評論家の三杉武氏は小雪についてこう述べる。。 「独身時代の小雪さんはクールで物静かな凛としたイメージもあり、そのカッコ良さやライフスタイルに憧れる同性ファンも多くいました。一方で、プロ意識の高さや裏表がない性格だったこともあり、取っつきにくい印象を持つ人もいたようです。夫の松山さんは結婚会見で、交際を申し込んだ際、『あなたみたいなひよっこに大丈夫なの? と言われた』と明かしていましたが、いかにもな発言だなと思ったものです。ただ、母になってからは取材現場でも、以前よりも柔らかな雰囲気を感じさせるようになった印象があります。もともと、独身時代から演技に対する評価は高く、海外や大きな舞台でも結果を出してきた方ですし、私生活や育児経験なども女優業にプラスに働いているのでしょう」  年を重ね、独自の存在感を放つようになった小雪が「ブギウギ」でどんな演技を見せてくれるのか楽しみだ。 (丸山ひろし)   【こちらも話題】 伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ https://dot.asahi.com/articles/-/205994  
小雪ブギウギ
dot. 2023/12/25 11:00
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
ロシアから見える世界

ロシアから見える世界

プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

ロシアから見える世界
カテゴリから探す
ニュース
石破茂氏が頭を悩ますのは高市早苗氏と茂木敏充氏の処遇 あまり受け入れたくないが、敵にも回したくない
石破茂氏が頭を悩ますのは高市早苗氏と茂木敏充氏の処遇 あまり受け入れたくないが、敵にも回したくない
石破茂
dot. 14時間前
教育
就学前に「知りたい」気持ちを伸ばすきっかけを作りたい!モンテッソーリ教育が導いた答えとは
就学前に「知りたい」気持ちを伸ばすきっかけを作りたい!モンテッソーリ教育が導いた答えとは
すなもじ
dot. 1時間前
エンタメ
「女がマエストロになれるかよ」 実在する姉妹が差別や偏見を乗り越え、自らの夢に挑む
「女がマエストロになれるかよ」 実在する姉妹が差別や偏見を乗り越え、自らの夢に挑む
シネマ×SDGs
AERA 1時間前
スポーツ
ヤクルト村上宗隆はメジャーで活躍できるか 終盤に打棒爆発も「苦労しそう」の声がある理由
ヤクルト村上宗隆はメジャーで活躍できるか 終盤に打棒爆発も「苦労しそう」の声がある理由
プロ野球
dot. 14時間前
ヘルス
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
医学部に入る2024
dot. 9/26
ビジネス
金融所得課税の強化は格差是正の意味合いが強い 「富の再分配」自民党総裁選でも議論を
金融所得課税の強化は格差是正の意味合いが強い 「富の再分配」自民党総裁選でも議論を
田内学の経済のミカタ
AERA 16時間前