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片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた
片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた 家族の思い出の品があふれ雑然とする空間/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.28 物を手放すと物への思いがなくなって心が軽くなる 夫+子ども2人/専業主婦  物が捨てられないと悩む人は、あまりその物自体に目が向いていません。「苦労して入手した」「記念にもらった」など、手に入れたときの気持ちや思い出に執着してしまい、手放せないのです。  誰でもそんな経験はあると思いますが、亜紀さんは人一倍その気持ちが強かったと話してくれました。  「今思えば、子どもの頃から物をため込む性格。シングルマザーで育ててくれた母から与えられた物はすべて母の努力の結晶に思えて、壊れても捨てられなかった。結果、大人になっても物に囲まれる生活になってしまいました」   もっとも、自分が物を手放せないことについて原因を考えたことはありませんでした。気づいたきっかけは、家庭力アッププロジェクト®に参加したこと。  現在、娘2人と夫の4人暮らしの亜紀さんは、夫の海外赴任を含めて結婚してから7回の引っ越しを経験。物を片づけるよりも移動した方が時間も手間も省けると、新居にはすべての荷物を運んでいました。   ヨーロッパで住んでいた家は広かったので問題なかった物の量も、日本の住居事情ではそうはいきません。押し入れなどの収納場所はもとより、部屋のあちこちに段ボール箱が積まれたまま生活していました。  次女が習っているヴァイオリンを弾こうと思っても、そのスペースを作るために一苦労。子どもたちは物が散乱している家に慣れてしまい、「こんなに散らかっていたら友だちは呼べないね」と残念そうに言ったこともあります。  新調したソファでゆっくりできる家族の憩いの場に/アフター  夫は仕事が忙しく、家のことに口出ししないタイプ。家族みんなであきらめていたし、私がいつも家事に追われてピリピリしていたので、文句を言わせない雰囲気を作っていましたね」  亜紀さんは当時を振り返り、そう話してくれました。専業主婦とはいえ、家事に育児に忙しい毎日です。娘たちの習い事の送迎は週5日あり、お昼休みも取りにくい夫のために毎日お弁当作り。その上、常に探し物をしたり、家事を始める前に物をどかす作業が入ったりと、ムダな動きが多い生活でした。よけいな時間が取られるばかりで、リビングのソファに座る暇もありません。  そんな中、美大を目指す長女の新たなチャレンジを機に、自分も家を片づけようとプロジェクトに参加しました。  「私は片づけについて、『4人家族の物の量はこれくらい』という物理的な基準やノウハウを学ぶつもりでした。でも、『どんな自分になりたいの?』『その自分になれない理由は?』と、一見片づけには関係ないことを掘り下げていくことに驚きました」  プロジェクト参加中に、物に執着する理由がわかった亜紀さん。理由がわかっても、物を手放すことはとても大変でした。  特に海外赴任先から持って帰ってきたものは、慣れない土地で苦労して生きてきた証のように感じられて、使い古した日用品も捨てられません。一度手放すと、日本では手に入れることが難しいことも亜紀さんの心にブレーキをかけてしまいます。  「段ボール箱の中身を全部出して広げることを繰り返して、改めて物の量に唖然としました。一つ一つに思い出があるので、選別して一度捨てても、やっぱり考え直してゴミ袋から取り出してみたり……」   物への思いが強い亜紀さんにとって、物と向き合うことは過去の自分と向き合うこと。とてもパワーが必要でした。物を捨てたり手放したりする作業に疲れ果て、大量の物に囲まれながら「なんでこんな自分を自分で作ってしまったんだろう」と泣いた夜も一度ではありません。 大型の家具や収納に占拠されていた子ども部屋/ビフォー  それでも実際に手放してみると、残しておけばよかったと後悔する物はそれほどありませんでした。物を通して自分と向き合い、対話をしながら「いる・いらない」の選別を繰り返すことによって、決断力と判断力が上がってきます。さらに、物に占領されていたスペースが空くと、そこでいろいろなことができる可能性があると気づきました。物を手放すという作業が、ネガティブなものからポジティブに変わった瞬間です。  「これがなくなると、新しい未来が作れるんだと思うようになりましたね。そう思うと、無心で物を手放せるようになりました」  どんどん物を捨てるようになった妻の様子に、夫は驚きを隠せません。でも、家の中がスッキリしていくことは気持ちよく、片づけに協力してくれました。ゴミ出し担当の夫は「今日は3往復もしちゃったよ」と笑い、もともと仲のよい家族のコミュニケーションはさらに増えました。   家の中が片づいたら、夫の帰宅時間が早くなり、次女はいつでもすぐにヴァイオリンの練習ができるようになりました。きれいに整頓されたキッチンで料理の腕をふるい、月に1回ほど帰ってくる長女と4人で明るい食卓を囲みます。夫と娘たちは「ママのレストランみたいなおいしい料理が1番だから、外食なんてしなくていいよ」と言ってくれるそうです。 「使いたいアイテムがすぐに取り出せるようになり、もともと好きな料理がさらに楽しくなりました。娘が手伝いたいと言ってくれたときも、今まではスペースを作る手間がありましたがそれもなし。『私も料理を覚えられる!』と喜んでくれます」 ピアノを入れてすぐにヴァイオリンを弾けるスペースができました/アフター  片づけを通して、自分を知り、自分の未来を見て、自分の可能性を信じられるようになった亜紀さんは、これからも自分の未来のために挑戦し続けます。 「今までは小説とか美術とか、想像の世界に入り込むような本ばかり読んでいました。でも最近では、自分と向き合って分析するような本を読んで勉強しています。今の自分が何をすることに喜びを感じて、今から何をしていこうか、いろいろと考えるのが楽しくなってきています」  物への執着から解放された亜紀さんの目線は、過去から未来へと変わりました。自信を持って突き進む先には、きっとワクワクすることが待っていることでしょう。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。 ※AERAオンライン限定記事
ミャンマーで拘束された久保田徹さんの友人たちが会見 赤木雅子さんも「尊敬できる人です」と話す
ミャンマーで拘束された久保田徹さんの友人たちが会見 赤木雅子さんも「尊敬できる人です」と話す 日本記者クラブで会見をする北角裕樹さん(撮影/編集部・野村昌二) 「一刻も早い解放を望みたいと思います」  8月3日、フリージャーナリストの北角裕樹(きたずみゆうき)さんは、日本記者クラブ(東京都千代田区)での会見で話した。  国軍が実権を握るミャンマーの最大都市ヤンゴンで7月30日、日本人のドキュメンタリー作家・久保田徹さん(26)が現地警察に拘束された。国軍の支配に抗議するデモの近くで撮影しているところだった。  この日の会見は、久保田さんの仲間や友人が、彼の人柄やどのような思いで取材をしていたかを伝えるために急きょ開いた。  北角さんは昨年2月と4月、ミャンマーで抗議デモを取材していて治安当局に拘束された経験を持つ。北角さんは、久保田さんがこの時期にミャンマーに行ったのは、いまこの国で起きていることを伝えたいという思いが強かったのではないかと言う。 「いまウクライナで戦争があって、国際的な関心がミャンマーから遠ざかっています。長くミャンマーを見てきた彼にとって、国軍の弾圧がひどくなっている中、実態が伝えられていないのはおかしいではないかという思いがあったように聞いています」  ミャンマーでは7月下旬、民主活動家や元議員ら4人の死刑が執行されるなど、民主派への弾圧が強まっている。  久保田さんは、慶応大学在学中からロヒンギャ難民の取材を開始し、ドキュメンタリー制作を始めた。社会の辺境に生きる人々、自由を奪われた人々に寄り添いながらカメラを向けていた。  同じく会見した、ロヒンギャ出身で在日ミャンマー人のミョーチョーチョーさんは、久保田さんとは6年近い友人でもあり、いつも励まされてきたと話す。 「日本の政府、外務省、岸田総理にお願いしたいです。日本の力はミャンマーにとってすごく大きいです。久保田さんと一緒に捕まっている何の罪もない若者たちを早く解放するように求めてほしいです」  久保田さんは、「刑法505条のA」の容疑で捕まっているとみられている。  2021年2月のクーデター後に新設された法律で、デモやメディアの取り締まりに使われるようになった。フェイスブックなどのSNS上で国軍を批判するミャンマーの著名人たちも、この条項で指名手配され拘束されている。 拘束されている久保田徹さん(撮影/編集部・野村昌二)  国際的な人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」などによれば、特に標的になっているのが独立系メディア「ミャンマー民主の声(DVB)」で、軍による記者の逮捕、訴追、実刑判決が相次いでいるという。  久保田さんは、学校法人「森友学園」の公有地をめぐる「森友問題」にも関心を持っていた。自死した赤木俊夫さんの妻・赤木雅子さん(51)を応援し、取材もしていた。この日、会見場には雅子さんも来ていて、会場の後ろから見守った。 「(久保田さんは)声を出せない人の代わりに声を出してくれる人。間違っているところは間違っているとはっきり言う人。正義感が強く、夫に通じるところもあり、若いけれど尊敬できる人です」  久保田さんはヤンゴンの警察署に拘束され取り調べが続き、今後、裁判を受ける見通しであることが分かった。  中学からの友人で俳優でもある、今野誠二郎さん(25)は、言葉をつまらせ言った。 「怪我なく、帰ってきてほしい」 (編集部・野村昌二) ※AERAオンライン限定記事
まさに“ジャズ天国”ニューオーリンズで外山喜雄・恵子が写したジャズのパイオニアたち
まさに“ジャズ天国”ニューオーリンズで外山喜雄・恵子が写したジャズのパイオニアたち 撮影:外山喜雄・恵子 *   *   * 1975年にジャズバンド「外山喜雄とデキシー・セインツ」を結成し、ライブコンサートなどで活躍してきた外山喜雄・恵子夫妻。  巨匠ルイ・アームストロング(愛称サッチモ)に憧れた2人は68年から73年までの約5年間、ニューオーリンズでジャズ修行に励んだ。音楽だけでなく、写真でも優れた作品を残した。その数は1万カット以上にもなる。  夫妻が目にしたのはまさに“ジャズ天国”だった。街なかにあふれるジャズパレード。伝統豊かなブラスバンドが行進し、強烈なリズムにのって腰を振る人々に圧倒された。  裏通りの住宅街にもジャズがあった。誕生日、洗礼式、お別れ会など、機会があれば“裏庭パーティー”が開かれ、トランペットやドラム、シンバルが鳴り響いた。 「パーティーにはもう誰でも入れちゃう。テーブルの上にはバーボン、コーク、ニューオーリンズ料理が並んだ。そしてジャズだった」と、喜雄さんは振り返る。  なかでも感激したのは「ジャズフューネラル(ジャズ葬式)」だった。 「お墓までの行進ではブラスバンドがターラーララ、ララーラって、悲しい賛美歌を演奏して行くんです。でも帰りは、これでもう世の中の苦しみは終わったんだ、天に召されることは悲しいことじゃなくて祝福することなんだって。大太鼓がダーンダーン。ララッタタ、ララッタタ。みんな踊りながらお葬式から帰ってくる」(喜雄さん) 撮影:外山喜雄・恵子 ■至近距離でバシャバシャ  ニューオーリンズにはサッチモが少年時代を過ごしたころと変わらない独特の風習や社会がそっくりそのまま残っていた。 「それをジャズ武者修行の合間に夢中で撮りまくったんです」と、喜雄さんが言うと、すかさず恵子さんが撮影に使ったカメラ「コダック レチナIIIc」を見せてくれた。 「たまたま父親が写真が好きで、もう使わなくなったこのカメラをもらったんです。古いからファインダーをのぞいても暗くて、何を撮っているのか、よく分からない(笑)。でも、レンズがすごくよくてね」と、喜雄さんは表情を崩す。  撮影を始めたきっかけは、ジャズ専門誌「スイングジャーナル」に記事を書いたことだった。 「ニューオーリンズで暮らし始めて1年ほどたったころ、有名なジャズミュージシャンが亡くなったんです。それで追悼記事を書いて『スイングジャーナル』に送ったら、『写真はないか?』と言われた。それで撮り始めた」(喜雄さん)  多くの音楽家を撮影したのはジャズの殿堂「プリザベーションホール」だった。 「カメラにフラッシュをつけてバシャッと写した。うまく撮れたので、こりゃいいや、と」(喜雄さん)  フラッシュは使い捨ての小さなものだったので光が届く距離はたかが知れている。撮影は必然的に至近距離からとなった。 撮影:外山喜雄・恵子 「私はもう、うれしくて。演奏している真ん前でバシャバシャ。ははは。フラッシュがなければ暗いプリザベーションホールで黒人の音楽家は撮れませんよ。もう、至近距離もいいところ。こんなになって」と、恵子さんは筆者の目の前に身を乗り出し、撮影の様子を再現して見せてくれる。 「でも、ふつう、そんなことをしたら大変。スタッフからつまみ出されちゃう。でも、私たちは怒られなかったんです。毎日行って、好き勝手に動き回っていた」(恵子さん) 「ぼくらはね、運がよかったんです。それだけ彼らと仲がよかった」と、喜雄さんも言う。 ■写真に気持ちが出た  それもそのはず、外山夫妻は昼間、このホールで練習し、夜は彼らといっしょにジャムセッションをしていたのだ。 「うわっ、すごい、すごいって、興奮でシャッターを切っていたから、その気持ちが写真に出ちゃって」と、喜雄さんは言う。ストレートなジャズ愛にあふれた写真は「スイングジャーナル」にも気に入られた。  2人は大阪万博のころに一時帰国した際、本格的に写真を習った。教えたのは文藝春秋社にいた早稲田大学の同級生、飯窪敏彦だった。後に写真部長となる飯窪はジャズが好きでコルネット奏者でもあった。 「ニコンFをひとそろい買って、フィルム現像も教わった。引き伸ばし機も手に入れた。暗室がないから、暗くなってからベッドルームでプリントした。部屋中に酢酸のにおいが立ち込めていた(笑)。バスルームには現像したフィルムがばーっとぶら下がり、バスタブには水洗中のプリントが浮かんでいた」(喜雄さん) 撮影:外山喜雄・恵子  喜雄さんは「こういうタッチが好きだった」と言い、グラフ誌「LIFE」に掲載されていたドキュメンタリー写真を見せてくれる。 「あちらは暑いでしょう。現像液の温度管理ができないから、あっという間にフィルムが黒く仕上がっちゃったりした。プリントするときにも、うまく覆い焼きをしないと黒人の顔が真っ黒になっちゃう」(喜雄さん)  現像したフィルムを保管するケースは恵子さんが自作した。 「白い紙を切って、折って、作った。それがいまもそのまま残っています。あれからもう50年ですよ」(恵子さん) ■案内された荒れ果てた部屋  最初、2人は早稲田大学のニューオリンズジャズクラブで知り合った。 「当時、ニューオーリンズの伝説的なジャズマンが次々と来日していたんです。特にルイ・アームストロングに憧れた。楽屋に忍び込んでドアをノックしたら『OK』と返事があった。それで彼のトランペットを吹かせてもらったこともあります。とにかく夢中でした」(喜雄さん)  ジョージ・ルイス楽団が来日した際、親しくなったチューバ奏者のアラン・ジャッフェから「ぼくを訪ねてこい」と誘われた。アランはプリザベーションホールのマネージャーをしていた。 撮影:外山喜雄・恵子  喜雄さんは大学を卒業後、保険会社に就職して恵子さんと結婚。 「2人になって度胸がついちゃった。というか、彼女に背中を押されたんです」(喜雄さん)  アランの誘いから3年後、夫妻はトランペットとバンジョーを手に移民船「ぶらじる丸」で米国へ旅立った。67年の暮れだった。  ニューオリンズに到着すると、アランは演奏ツアーで不在だった。手配されていた部屋は繁華街「フレンチクオーター」にあるアパートの2階だった。 「この部屋がすごかった。10年は人が住んでいなかったような感じで、窓は破れているし、ベッドにはかびが生えていた。日が暮れても電気はつかない。それで、妻は泣き出してしまった」(喜雄さん)  そのとき、破れた窓を震わせてジャズのサウンドが部屋に響いた。 「そこはプリザベーションホールの真裏だったんです。ぼくらの憧れのホール。アパートの部屋にいるだけで今日は誰が演奏しているか、わかった」(喜雄さん)  ホールのマネージャーは外山さんに鍵を渡してくれた。「昼間はそこで自由に練習していいよ」ということだった。 撮影:外山喜雄・恵子 ■サッチモが亡くなった日  プリザベーションホールは外山夫妻にとって “ジャズの学校”となった。 「当時、ジャズをつくったパイオニアたちがまだ現役だったんです。毎晩、彼らの演奏を聴いて、見た。それが私たちの勉強だった。ときどき『やりたいわ』って言うと、『やっていいよ』と、最後の2~3セット、演奏させてもらえた。親切というか、なんて、ありがたい。それもすごく勉強になりました」(恵子さん)  ニューオーリンズに憧れてやってきたのは外山夫妻だけではなかった。 「ぼくらみたいなのがヨーロッパからも来ていたんですよ。彼らと組んで場末のダンスホールで演奏した。そしたらね、なんと、週55ドルにもなっちゃった。1ドル360円の時代だから、円に換算すると、部長の給料くらい。もうびっくり」(喜雄さん)  恵子さんは「お金に困らないどころか、お金がたまっちゃったんです。私、ためるの上手だから」と笑った。  71年7月6日。ルイ・アームストロングがニューヨークで亡くなった。  ニューオーリンズの黒人街では彼をジャズ葬式で天国に送った。膨れ上がった群集のなかに2人もいた。そのとき写した写真には「サッチモの精神は永遠に」と書かれた大きなプラカードの近くにカメラを下げた恵子さんの姿が見える。 「この写真をほかの人に見せると『怖くなかったんですか?』と聞かれるんですけれど――ぜんぜん。あの当時、私たちはニューオーリンズの人になりきっていたみたいです」(恵子さん)  ジャズの故郷で暮らす感激が伝わってくる写真はまさに活写というにふさわしい。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】外山喜雄・恵子写真展「ニューオリンズ行進曲-ルイ・アームストロングを生んだ街-」冬青社ギャラリー 8月4日~8月27日
【下山進=2050年のメディア第5回】編集者は書き手の人生に影響を与え続ける
【下山進=2050年のメディア第5回】編集者は書き手の人生に影響を与え続ける ティム・ワイナー。「もともと私の母は、歴史学の教授で、ナチスドイツから米国に逃れてきた。そして私の妻は、国立公文書館に勤める司書なんだ。だから歴史を書くようになるのは必然」  白い清潔そうな壁と本棚を背景に赤いソファーに座る『米露諜報秘録』の著者ティム・ワイナーは、14年前とほとんど変わっていなかった。 「ハイ、シム(私の愛称)。久しぶり」  前号で、93年のコロンビア大学留学時代、紹介されたにもかかわらず忙しさにかまけて連絡せずに帰国し、94年にCIAから自民党への秘密献金報道がティムの手でなされたのを見てつくづく後悔したことを書いた。が、そのティムと2008年に私はニューヨークで会うことになるのだ。  当時私は文藝春秋の編集者で、ティム・ワイナーの最初の著作『CIA秘録』の版権を取得していた。日本語版に、CIAの日本への工作を特別に書き下ろしてくれないか、という交渉をするためティムに会ったのだった。  私のコロンビア留学時代にティムを紹介してくれたのが、フィラデルフィア・インクワイアラー紙の伝説的な編集者ジーン・ロバーツだということがわかると「なんて世界は狭いんだ」と言いながら胸襟を開いてくれた。  そしてその『CIA秘録』が日本で出版されると、来日し各社のインタビューに答えてくれた。当時ティムはまだニューヨーク・タイムズの記者だったが、タイムズはリーマン・ショック後、経営状態が急速に悪化、「Newspaper is dead!」こう吐き捨てるようにティムが言ったことをよく覚えている。  今は二人ともに組織に属さない書き手である。 ──なぜこの本を書いたの? 「実はまったく別の本を準備していたんだけど、2018年7月にトランプとプーチンが並んで記者会見に応じたことがあって、そのあるシーンをテレビで見たことがきっかけなんだ」  その会見でアメリカの記者が、トランプの当選に、ロシアが秘密工作で影響力を及ぼしたのか、と聞いたのだった。するとトランプは、「我々のぼんくら情報機関は、そういう情報をあげているが」と言うとプーチンを見て、「しかし、彼に聞いたら、そんなことはしてない、と。私はプーチンを信じる」。この瞬間、別の本の作業を全てストップして、1年9カ月かけて『米露諜報秘録』を書き上げたのだという。  ティムは来日した翌年の2009年にニューヨーク・タイムズをやめている。それは経営が悪化したタイムズでいろいろ不愉快なことがあったこともきっかけだったが、「何よりも本を書いて生計をたてたい」と思ったのが理由だそうだ。  ニューヨーク・タイムズ時代の年収は、辞めた時点で9万9000ドル。当時の円ドルレートで計算すると、約925万円だ。14年で4冊の本を書いているが、「ニューヨーク・タイムズ時代よりは年収は多い」。3.5年に一冊で生活がまわる理由は、海外版権だ。たとえば『CIA秘録』は、米国以外にも24カ国で出版されている。その全ての国の出版社からアドバンスという形で前渡し金が出る。一カ国100万円としても2400万円。なんともうらやましい。  ティムは、フィラデルフィア・インクワイアラー時代、編集長だったジーン・ロバーツに書き手として何が必要なのかを学んだ。 「ジーンはああしろ、こうしろと言うわけではない。禅の師匠のように、語らずして記者に何が必要なのかを教えてくれる」  ティムは、ジーン・ロバーツに「パスポートを持っているか」と言われて、1986年のマルコス政権の崩壊を現地で取材することになるが、「今考えれば、あれが冷戦の終わりの始まりだったんだ」。日々の報道だけではなく俯瞰して歴史を見ることの大切さをジーン・ロバーツから学んだのだという。  重要な変化が起こる地域をジーン・ロバーツはわかっていた。後に、ティムがアフガニスタンに取材にいくことになったのも、ジーンの提案によるものだった。このアフガニスタンでCIAがまったく活動をしていないことを知ったティムは、帰国後、CIAをテーマにすることを思いつく。ティムはタイムズに移るが、その翌年の1994年、今度はジーン・ロバーツがニューヨーク・タイムズの編集長に就任した。  この惑星配列のなか、1994年のティムの、CIAの自民党への秘密献金報道があった。そしてその取材のなかで、「機密解除文書で歴史を書くことに開眼した」のだという。 ジーン・ロバーツ。1994年11月にマンハッタンの自宅を訪ねた時の写真。ジーンは現在もこのアパートに住み、「90歳になったが、頭脳は明晰」(ティム) 『米露諜報秘録』のあとがきは、ジーン・ロバーツの話から始まっている。ジーンは、『ゴールズボロ・ニューズ=アーガス』というノースカロライナ州東部の発行部数わずか8000部の新聞で『ウエインぶらぶら歩き』というコラムをもっていた。  このあとがきを読んで私はとても温かい気持ちになった。ジーンはその小さな新聞社で目の見えない老編集長に、原稿を読んで聞かせている。他の記者で、かきぶりがまだるっこしかったりするとその老編集長は机を叩いてこう言うのだ。 「わしにはそいつが見えんぞ。見えるようにしてくれ!」  ジーン・ロバーツは1993年に『第四の権力賞』を受賞した時のスピーチでこの小さな新聞のことと、私のコロンビア時代に書いた論文のことに言及してくれていた。  盲目の老編集長からジーン・ロバーツへ。ジーン・ロバーツからティム・ワイナーや私へ。  編集者は、書き手の人生に影響を与え続ける。 下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年8月12日号
小室圭さん、眞子さん夫婦は「叩いてもいい人」? 時代のキーワードでもある「じゃない」とは
小室圭さん、眞子さん夫婦は「叩いてもいい人」? 時代のキーワードでもある「じゃない」とは ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に到着し、ターミナル内を歩く小室眞子さん(中央)と圭さん=2021年11月14日  小室圭さんが3度目の司法試験に臨んだ。圭さん、眞子さん夫妻は、なぜ必要以上に注目されるのか。その訳を独自の視点で読み解いた。AERA 2022年8月8日号の記事を紹介する。 *  *  *  7月26日、小室圭さんが受けるとみられるニューヨーク州の司法試験が始まった。圭さんにとって3度目となる。こんなことも含め、眞子さんと圭さんの暮らしを、何となく知っている。そういう日本人はたくさんいるはずで、私もその一人だ。  2人の情報を積極的に追いかけてはいない。が、新聞は購読している。掲載されている雑誌広告を見ると、2人のことが書いてある。試験日が近づき、見出しも派手になった。それを引用しつつまとめると、圭さんは「汚スーツ」で出勤、「厚顔の勝算」を持ち、眞子さんには「皇族ビジネス」の野望があり、「セレブ妊活」中──だ。  漂う悪意。実際の記事は、見出しより悪意は抑えめだ。が、眞子さんが民間人になって9カ月、2人は相変わらず「あれこれ書いていい人」だ。  始まりは圭さんの母と元婚約者との金銭トラブルだった。だがこれは解決済みと報じられている。結婚の翌月に元婚約者と圭さんが面会、解決金を受け取るということで合意したという。それでも状況は変わらない。 ■女性皇族の結婚相手  過去、結婚により皇族の身分を離れた内親王及び女王は、小室眞子さんを含め8人いる。その内、昭和天皇第4皇女子 池田厚子(あつこ)さんの夫・隆政(たかまさ)さん、昭和天皇第5皇女子 島津貴子(たかこ)さんの夫・久永(ひさなが)さん、崇仁親王第1女子 近衞やす子(「やす」はうかんむりに心と用)さんの夫・忠輝(ただてる)さんは旧華族の人だ。憲仁親王第2女子 千容子(まさこ)さんの夫・宗室(そうしつ)さんは茶道裏千家の家元、憲仁親王第2女子 千家典子(せんげのりこ)さんの夫・国麿(くにまろ)さんは出雲大社宮司の長男。以上5人はバックグラウンドのわかりやすい人々、と言っていいだろう。  上皇第1皇女子 黒田清子(さやこ)さんの夫・慶樹(よしき)さんは都庁職員で、初等科から大学まで学習院。秋篠宮さまの親しい友人だったことは広く知られている。憲仁親王第3女子 守谷絢子(もりやあやこ)さんの夫・慧(けい)さんは日本郵船社員。彼のことは、作家の林真理子さんの言葉で紹介したい。 (AERA2022年8月8日号より) 「圭くんといえば、もう一人のケイくんがいるじゃないですか。(略)彼なんかは家柄も学歴も勤め先も申し分なく、理想的なお相手ですよね。昔はああいう方たちが皇族の周りにはたくさんいたんでしょうけど」(「文藝春秋」2021年4月号)  歴史学者・小田部雄次さんとの対談での言葉だ。「李王家の縁談」という小説の連載終了に合わせたもので、皇族の結婚がメインテーマ。眞子さんと圭さんにも話が及んでの言葉だ。  守谷さんの父は元通産官僚、母は元NPO法人の理事。慶應大学を卒業し、祖父が役員をしていた日本郵船へ。確かに立派な家柄、学歴、勤め先だ。  圭さんは国際基督教大学(ICU)を卒業している。偏差値の高い有名大学だ。都市銀行を経て法律事務所のパラリーガルとなり、ニューヨークでも同じ職を得た。が、評価されない。  金銭トラブル+結婚一時金=反発。その構図ができてしまった。圭さん(と眞子さん)のトラブルへの対処法が共感をよべず「400万円を返さないのに1億円以上を手に入れる人」が圭さんのデフォルトとなった。  こうなると、「ICU=学習院じゃない」で、「パラリーガル=弁護士じゃない」となる。もろもろ合わせて「皇室にふさわしくない」が常識となった。眞子さんが一時金を辞退した今も、圭さんの「じゃない人」は残ったまま。だから2人はいつまでも「書いていい人」、つまり「叩いてよし」の枠に入っている。  そして、この「じゃない」は圭さんに限った概念ではなく、時代のキーワードだと思う。そう確信したのは今年1月、あるサイトで岡田晴恵さんの著書『秘闘』を書評したのがきっかけだった。記事へのコメントに「この人は医師じゃないですよね」とあった。  確かに岡田さんは医学博士号は取得しているが、医師ではない。国立感染症研究所にいたが、今はいない(白鴎大学教授だ)。ある時から彼女が受けたバッシングは「じゃない」から。「じゃない人」は叩いてよし。圭さんと同じ構図と理解した。(コラムニスト・矢部万紀子)※AERA 2022年8月8日号より抜粋 >>【後編を読む】「じゃない」とバッシングされる皇族 小室さん夫妻はバッシングのループから抜けるため海外を拠点に
エリートでも陥りやすい「アルコール依存」の現実 家庭崩壊の寸前で“減酒”治療にたどり着いた大手金融社員の告白
エリートでも陥りやすい「アルコール依存」の現実 家庭崩壊の寸前で“減酒”治療にたどり着いた大手金融社員の告白 有名企業の社員や企業経営者など「エリート層」にもアルコール依存症は多いという。写真はイメージ(PIXTA) 「酒好きとアルコール依存症の距離はみなさんが思っているよりずっと近い」。これは依存症の治療に携わる専門医の言葉である。国内の依存症患者とその疑いがある人は約300万人と推計されているが、アルコール依存は自分はそうだと認めたがらない「否認の疾患」とも言われる。有名企業でバリバリ仕事をこなしていた「酒好き」のエリート男性は、まさにそんな一人で、ある出来事をきっかけに依存状態に陥り、家庭が崩壊しかけた。単なる「酒好き」はどうやって依存症に陥っていくのか、男性が取り組んでいる「減酒治療」の現状と共に話を聞いた。 *  *  * 東京都内に住む大竹雅也さん(仮名=50代)。有名国立大学を卒業し、大手金融機関で管理職の立場についている。物腰が柔らかく、いかにも知的で落ち着いた雰囲気の男性だ。だが、実は2年前からアルコール依存症の専門医療機関に通院し、「減酒」治療に取り組んでいる。 「職場の仲間が酒好きばかりで、若いころは毎日のように同僚たちとはしご酒をして、『午前さま』もよくありましたね。とにかく楽しくて。酒を飲めば仲間も増えるし、ワイワイ話す中で新たなアイデアが浮かんだり、仕事にいい影響が出ると本気で思っていました」(大竹さん)  周囲より少し遅い年齢で結婚して子どもができると、飲みに繰り出す回数はさすがに減った。それでも仲間に誘われた日は、店をはしごしてとことん飲んだ。  どこにでもいそうな陽気な酒好きで、酒を通じた社交が好き。なにより「酒が強い」という自負があり仕事も順調だった。  だが、転落の時は突然訪れた。  10年ほど前、会社の別の部署に異動を命じられた。 「なぜ自分をここに? と疑問に思うような、それまで経験したことがない、得意ではない分野の仕事を扱う部署でした」(大竹さん)  新しい部署の上司はいわゆる昭和世代の「モーレツサラリーマン」タイプで、不慣れな仕事に戸惑う大竹さんを怒鳴るわ罵倒するわ。仕事がうまくいかないうえに、毎日のように続く上司の叱責により心身が疲弊していった。前の部署の仲間とも交流が減り、ストレスを紛らわせるために頼ったのは酒だった。「酒好き」が初めて味わった、暗い酒である。  同時期に、プライベートでの変化も重なった。子どもが小学校に入り、学年が上がるにつれ少しずつ自分の手を離れていった。 「子どもがかわいくてしょうがなかったんですよ。保育園の送り迎えだったり、子どものためにいろいろなことを頑張ってきたつもりでしたが、やることが減っていく現実がとてもさみしくて……。生活のモチベーションがなくなったような感覚に襲われました」(大竹さん)  酒量が増え、飲み方が一気におかしくなった。酔っぱらっては財布を無くしたり、転んでけがをしたり…。妻からも飲み方を強くとがめられるようになった。怒られるのが分かっていて酒を飲むのは後ろめたく感じたし、後悔も襲った。だが、やめようと思ってもどうしてもやめられなかった。  居酒屋に寄ると量を飲んでしまうので、駅から歩いて帰る間の缶ビールだけにしよう、と駅近くのコンビニで2缶買う。だが、その2缶で制御が効かなくなる。途中にある別のコンビニで酒をまた買い足して、結局はたくさん飲んでしまう。  その後、心療内科を受診し休職を選択した大竹さん。だが飲酒を休むことはできなかった。  妻と娘が仕事と通学で家を出たあと、朝から家で酒を飲む。昼寝を挟んで再び飲み直すという日々が続いた。妻にばれないようにごみはマンションのごみ捨て場に持って行ったが、飲んだことが分からないはずはなかった。  すでに会話らしい会話をしなくなっていた妻から切り出されたのは「離婚」の二文字。かわいくてしかたなかった子どもとも、気づけば話をしなくなっていた。  心療内科で、酒を一切断つようにすすめられた。だが、「断酒は逃げ場がない、無理だ」と感じた大竹さんが別の方法はないかと調べてたどり着いたのが、アルコール依存症専門の心療内科で断酒だけではなく減酒の治療も行っている「さくらの木クリニック秋葉原」だった。同クリニックの倉持穣院長は、「今日から減酒! お酒を減らすと人生がみえてくる」(主婦の友社)などの著作もあるアルコール依存症治療の専門家だ。  倉持院長によると、大竹さんのような仕事ができる酒好きが、依存症やそれに近い状態になってしまうケースは珍しくないという。事実、都心に立地する同クリニックの患者は、有名企業の社員や企業経営者など、いわゆるエリート層が大半だ。  倉持院長によると、アルコールは大麻より強力な依存性薬物で、飲み続けると脳に不可逆的な変化が起こり、次第に飲酒をコントロールすることができなくなっていく。単なる「酒好き」だったはずが、その自覚がないまま、依存症へと針が静かに進むのだという。 「酒好きと依存症の距離は、みなさんが思っているよりずっと近いです。アリ地獄を想像してみてください。自分は酒が強いと思っている人は実はアリ地獄の入り口にいます。そして自覚がないままアリ地獄の中を少しずつ落ちていき、気がついたら依存症というどん底から抜けられなくなっているというイメージです」(倉持院長)  「酒好き」が依存症に陥るのは2つのパターンがある。  一つは大竹さんのように、職場内異動や上司からのパワハラ、子どもの親離れなど、外的要因をきっかけにして、一気に酒量が増えてしまうケース。 「例えば単身赴任になり、家族や友人と離れてしまったことで酒量が増えてしまう例があります。これにより依存症の針が進んでしまうので、単身赴任が終わっても飲み方は元には戻りません。パートナーとの不和、子どもの親離れによるさみしさ、親の介護の負担などから酒量が増えてしまう人もいて、これらは女性にも目立ちます」(同)  もう一つは、これというきっかけはなく、年齢とともに飲み方に問題が出てくるケースである。 「30~40代の時はたくさん飲んでも生活のバランスを保てていた人が、50歳くらいで一気に悪化する例が多くあります。生活の中で、家族や趣味などとともに酒が存在していたのに、いつの間にか酒だけに執着するようになってしまうのです」(同)  大竹さんはこのクリニックに通って2年になる。近年では、セリンクロという減酒薬(飲酒量低減薬)も発売されているが、大竹さんは減酒薬の処方は受けずに治療を続けている。  節度のある純アルコールの摂取量は男性で1日20グラム、女性はその3分の2から2分の1とされる。大竹さんは、飲んだお酒を書くと摂取した純アルコールの量が分かる日記式のアプリを活用し、月に一回くらい、通院して状況を報告している。  たかがアプリと月1回の通院だけと思うかもしれないが、わが身を顧みてこなかった酒好きには効果を発揮する。 「先生と話したり、アプリを使うことによって自分の姿が初めて見えたんです。純アルコールを日々どれだけ摂取していたのか。また、無意識のうちに、酒を飲むことに勝手な『大義』をつけたり、あらゆる生活習慣に勝手な解釈で酒を介在させていた自分に気が付きました」(大竹さん)  大竹さんが作りだしていた「大義」や「解釈」は、 ▽仕事後は酒を飲んでリセットするものだ▽飲むなら一杯目はとりあえず生ビール。飲みの本番は2杯目の強い酒から▽酒を飲むと頭の回転も速くなりアイデアが湧く▽酒によって人とのコミュニケーションが進む▽酒を飲むとご飯がよりおいしい  などである。 「缶ビール(350ml アルコール度数5%)1本で純アルコールが14グラムもあるんですよね。居酒屋に行けば『とりあえず生』などと、一杯目のビールは飲んだうちに入らないと思い込んでいましたが、これだけで相当な量のアルコールを摂取していることがクリニックに行ったことで理解できました。『大義』にしても、実際に減酒を試してみると、お酒はあってもなくてもご飯はおいしいですし、長年の思い込みの数々が間違っていたと気づかされました」  初めての受診から、飲む量が減ったり仕事のストレスで元に戻りかけたりの「波」は経験したものの、全体的には改善した。ここ最近は月に3日ほど、缶ビールを1缶飲む程度で酒席の誘いも断れるようになったという。 「今後、飲み方がぶれてしまう可能性も否定はできません。減酒は、いきなりうまくいくものではなく、好不調を繰り返しながら良くなっていくのだろうと感じています。だめかなあと思ってもあきらめず、じっくり続けていくことが大事です」と話す大竹さん。今は飲んでいた時間を使い資格試験の勉強をしている。頭も飲んでいた時よりさえているし、何かに取り組もうという意欲がわくようになった。  妻と子どもとの関係は元には戻っていない。「許してくれたとは思っていません」。ただ、単なる同居人と化していた状況からは抜け出せたと感じている。  食卓を囲みながら「牛乳飲む?」などと、子どもから声をかけられることがうれしい。自室で勉強していると、リビングでテレビを見ている妻の笑い声が聞こえてくる。飲み続けていた時に、妻の笑い声を聞いたことはなかったはずだ、と今は思う。  大竹さんは、飲み方が悪化していた時、妻から「自分自身を変えて」と何度も怒られたという。減酒に取り組み、以前より頭がさえた今、何を思うのか。 「飲酒欲求が止まらなくなっているときに自分を変えることは難しい。家族に後ろめたくても、いくら後悔が襲っても、飲むという行動をやめられませんでした。自分で自分を変えた、ということではなく、専門の医療機関にかかって今の自分の姿や飲んでいる量を客観的に見たり、お酒に対する自分の考え方が間違っていたことに気が付くと、勝手に自分の行動が変わっていくのではないかと感じています」  倉持院長いわく「減酒治療は細く長く続けていくものです。まずは飲み方に問題があることを自覚して減酒を始めてみる。お酒が減ってくると、頭がすっきりしたり、やる気が出たりと、生活のさまざまなことが良い方に向かう。なんだ、しらふの方が全然いいじゃないか、ということが分かれば、量は飲まなくなる。その状態を保っていくことが大切なのです。依存症患者とその疑いがある人は300万人もいると推計されていますが、アルコール依存は『自分は違う』といいたがる人が大半です。自分の飲み方にちょっとした不安を感じたら、まずは気軽に受診して欲しいと思います」  毎日、アプリにお酒を飲んだかどうか。飲んだならその量を記録して自分を見つめ、元に戻らぬように月に一回クリニックを訪れて主治医に状態を話す。減酒に取り組む大竹さんの日常はこれからも続いていく。(AERA dot.編集部・國府田英之)
下半身不随の猫の介護は「私の生きる希望だった」 子どもを抱くことを諦めた女性と猫の13年間
下半身不随の猫の介護は「私の生きる希望だった」 子どもを抱くことを諦めた女性と猫の13年間 優しいカイ(左)に甘える後輩コウ  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回、話を聞かせてくれたのは千葉県在住のペットシッター、河原時枝さん(57)です。結婚以来、複数の猫や犬と出会って暮らしてきましたが、13年前に保護したカイくんは、ケガで生涯にわたり介護が必要な子でした。カイくんとの生活を通して感じた、動物との縁や出会いの意味について、語ってもらいました。 * * *  私の家には今、3匹の猫と1匹の犬がいます。3月まではカイという猫もいました。まだまだ一緒にと思っていたのに突然のお別れが来てしまい、何をしても落ち着かないなか、このコーナーに応募しました。カイのこと、聞いてもらえるでしょうか。  カイは下半身に障害がある「介護猫」でした。 前足だけで力強く移動していたカイ  出会ったのは13年前の初夏。場所は、以前勤めていた職場の敷地内です。野良猫をよく見かける場所で、私は不幸な子が増えないように同僚と雌猫たちの避妊手術をしていたのですが、同僚に呼ばれて見に行くと、どこかの母猫が「このコを頼む」と連れてきたのか、地面に生後2カ月ほどの子猫(カイ)が横たわっていました。  もうダメかなと思ったのですが、口がかすかに動いたので、私は「早退します!」といい、カイを箱に入れてかかりつけの動物病院に急ぎました。といっても、当時5匹の猫を飼っていたので、助かったら里親を探そうという気持ちでいたのですが。  カイの状態は思ったより深刻でした。  カイの背骨には、傘のようなものでつつかれた“穴”が開いていたんです。  その穴に虫が湧いていて洗浄してもらったのですが、脊髄(せきずい)の神経が損傷していて、獣医師の先生に「治療しても、後ろ足が伸びたまま歩けないかもしれない」と言われれました。そういう状態だと里親を見つけにくいし、自分で面倒を見なければ、と覚悟が決まりました。  その後、カイは歩けないだけでなく“自力で排尿できない”こともわかりました。生涯に渡って介護が必要なのです。「圧迫排尿のやり方を教えましょうか?」と先生にいわれ、私は「はい」と即答しました。 退院してもしばらく家で体の固定をしていました  圧迫排尿とは、腹壁の中の膀胱(ぼうこう)を外から手でぎゅうっと押して、尿を外に絞り出してあげることです。片方の手で体を押さえ、もう片方の手で水風船のように膨らんだ膀胱を探し、ちょうどよい力加減で押すにはコツが必要です。入院の間、練習に通いました。  1週間ほどでカイは退院できましたが、骨がつくまでしばらく安静が必要で、わが家でも首と体をギプスのように固定して寝かせました。固定は生きるためにするケアですが、そのころのカイは「僕なんていつ死んでもいいんだ」というような力のない目をしていて、切なく思ったものです。でも食欲はあり、少しずつ、体が大きくなりました。  家に来て2、3カ月して固定が外れると、目に力が出て表情が明るくなりました。 固定が外れてキラキラの目力が出たカイ  後ろ足はだらんと伸びたままでしたが、上半身と肩の力で「匍匐(ほふく)前進」します。キャットタワーにもぶら下がったりして、前脚にムキムキ筋肉がついてきました。たくましく生きようとするカイのため、私は、圧迫排尿をがんばりました。  ■誰にも優しく甘え上手の人気者  カイには、ほかの猫と少し違うところがありました。  まず、自分が知っているどの猫よりもフレンドリーで穏やかでした。猫と暮らすと「生傷が絶えない」といいますよね。私も気の強い先代猫にひっかかれることがありましたが、カイは怒ったことが一度もなくて、私の気を引く時は、“ちょんちょん”と前脚で静かにこちらの体に触れるのです。  神様はカイに、体が不自由な分、誰にでも愛される性格を与えたのかな?  素直で優しいカイは、他の猫との関係も良好でした。先代の猫たちは、最初こそ「なんか動き方がへんかな」というように見ていましたが、すぐに打ち解けました。カイがずるずると足をひきずって進む後をついていったり、くっついて寝たり。 後輩のコウ(右)と遊ぶ(遊ばせてあげる)カイ  病院に預けた時も、カイはケージの中から「遊ぼう」と手を伸ばすので、看護師さんたちは「誘いにのってしまう」といって可愛がってくださいました。 甘えるの大好き。看護師さんに撫でてもらっています  また、たいていの猫は乗り物に乗るのが苦手だと思いますが、カイは車が好きで、騒ぐこともなくバッグの中でぐうぐう寝るのです。犬のふじ丸と一緒に、ペットと泊まれる宿をとって旅行にもいきました。毎年、石川県の夫の実家にも連れていったんですよ。かかりつけの病院が24時間体制ではないので、圧迫排尿のためには一緒に帰省した方が安心でした。  私たち夫妻に子どもがいないこともあり、両親もカイを孫のように思ってくれました。 昨秋、山中湖に一緒にでかけた時のショット  私たちには子どもがいないと言いましたが、欲しいとずっと思っていました。約10年間、不妊治療をして、その間に婦人科系の病気になり、カイと出会う数年前の40歳の時に子宮全摘出となり、子どもを抱くことを諦めたのです。  そういう時にホルモンのバランスを崩し、喪失感からうつになることも多いそうです。でも私はそのさなかに、たまたま2匹の先代猫を目も開かぬ状態で保護し、3時間起きのミルクやりのお世話をして、うつになることがありませんでした。猫に助けられたんです。  カイとの出会いも、偶然でなく必然だった気がします。  どんな時でも圧迫排尿をしないと生きていけないカイの命をつなぐことは、私にはまさに子育てと同じ。自分の体調が悪い時でもケアをしないとならない。でもそれは成長を見る楽しみと、自分の生きる希望になりました。 どんな時も穏やかだったカイ  カイの食欲は旺盛で、体重は6キログラムくらいになりました。  体は不自由ながらすくすくと育ってくれたのですが、10歳になる前くらいから少し体調に変化がでました。糖尿病を発症してインスリンを打ちはじめたのですが、運動が思うようにできないのでコントロールが難しく、何度か低血糖になりました。また、年齢とともに膀胱が固くなり、尿漏れしやすくなり、おむつやマナーパンツをつけるようになりました。  圧迫排尿を続けるとどうしても膀胱に菌も入りやすいのですが、だんだんと膀胱に炎症が起きて熱を出すことも増えました。そのため、今年に入ってからは一日おきに通院して、膀胱に管をいれて洗浄してもらっていました。下半身を冷やすとよくないので、居間にはカイ専用のコタツを置いて体を温めて。 下半身を温めるための専用のコタツにすっぽり. カイ(左)に寄り添う先輩のコジロウ  そうしたケアをしながらも、まだまだ私たちの側にいてくれるだろうと思っていたのです。しかし、カイはとつぜん旅立ってしまいました。  ■耳を疑った「カイくんが急変」の連絡  3月21日、動物病院に膀胱洗浄の予約を入れていました。元気だけど食欲が落ちて、少し熱がある。病院にいって事情を話すと、「点滴しましょう」ということになりました。  それで、普段は洗浄を終えるとすぐにカイと帰るのですが、預けることにしたのです。祝日でいつもの先生ではありませんでしたが、慣れた病院だし、お任せすることにしました。  夕方5時ごろ、病院から電話がかかってきたので、お迎えの知らせかなと思って携帯に出ると、「カイくんが急変しました、すぐ来てください!」と先生から思いもよらない言葉が。  なんで? 慌てて夫と病院に駆け付けると、診察台でカイが心臓マッサージを受けていました。朝に見た元気な姿が頭に焼き付いていて、実感できません。でも目の前の光景は夢ではなく現実でした。意識がない状態ですでにマッサージが30分も続いたので、「もう……いいです」と、先生にその手を止めてもらいました。  少し前まで何ともなかったので、(糖尿による血栓症など)突発的な症状が起きたとしか考えられないとの説明を受け、放心したまま家に連れ帰りました。この先どのくらい生きるかわからなかったけど、先代の猫たちは、がんなどである程度の時間と覚悟を持って家で看取っていたので、カイとの別れはあまりにもショックでした。  翌日、いつも担当してくださった先生に会いにいくと、こういってくださいました。 「どのコも分け隔てなく診ているけれど、カイちゃんには特別な思いがありました。今までよくがんばりましたね」  救われた思いでしたが、また涙があふれてしまうのでした。 ■これからは自由に走りまわって  あれから4カ月。まださみしくて写真をじっくり見ることもできませんが、カイと過ごした時間は本当に貴重だったと、日が経つにつれ強く感じています。 カイのことが大好きなコウ  亡くなってからわかったこともあります。荼毘(だび)に付した時に、火葬場の人から「この子の骨は子猫くらいの大きさだよ」といわれたんです。カイは体も大きいし筋力もあると思っていたけれど、他の猫のようには動けなかったので、骨はきゃしゃだった。それでもがんばって13年生きてきたんだなと、生命力を感じました。  そして、私にとってカイとの出会いは「大きな意味があった」とあらためて思うのです。  私は22年前に初めて猫を飼い、その後に愛玩動物飼養管理士の資格を取り、保護活動を始めました。そして、カイを迎えた数年後に、ペットシッターを始めました。  屋号は<ハウオリ・ハナ>。ハワイ語で「幸せな仕事」という意味なのですが、ほんの少しのペットシッターのお手伝いで、一人暮らしのお年寄りが犬や猫を手放さずに飼ったり、忙しい方が犬や猫を家族に迎えることができたりして、「少しでも、不幸にも処分されるような動物が減るように」と願いながら、お世話をさせていただいています。ちなみに、カイという名前も、ハワイ語の「海」から取りました。  カイとの暮らしを通し、下肢に障害のある猫とのつきあい方、圧迫排尿のやり方を覚えました。毎日の介護は多少の負担もあったけれど、今後のシッターにいきていくことでしょう。いかしていきたい、と思います。  だからカイには、貴重な経験をさせてくれて「ありがとう」といいたいです。 おとなになっても目が大きく美しかったカイ  5月に予約していた犬や猫と泊まれる温泉宿には行けなかったけど、カイとはおでかけをたくさんしたね。外に行く時はキャリーバッグに入っていたけど、虹の橋を渡った今、生まれて初めて“走って”いるのかな?  カイの走る姿は見ることができなかったので、目を閉じて想像してみます……。先にいった仲間と会えたら、一緒に思う存分ジャンプして、走り回ってね。  私はいつの日かまた、カイのような猫と会いたいです。 永遠に愛しているよ (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
小室圭さん3回目の司法試験終了で会場を出るときには笑みも? 重くのしかかる秋篠宮さまの言葉
小室圭さん3回目の司法試験終了で会場を出るときには笑みも? 重くのしかかる秋篠宮さまの言葉 米国のニューヨークに向けて出発する小室圭さん、眞子さん夫妻=2021年11月14日、羽田空港  秋篠宮家の長女、眞子さんの夫の小室圭さんが、3回目の米ニューヨーク州司法試験を終えた。わずかにほほ笑んでいるような表情で会場を後にした小室さんの姿をユーチューバーやパパラッチが動画におさめている。結果は、10月下旬に判明する予定だ。小室さんのようなリピーターと呼ばれる再受験者の合格率はわずか18%と楽観視はできない。義父にあたる秋篠宮さまは、どう見るのか。秋篠宮さまと長年の親交があり、書籍『秋篠宮』の著者でジャーナリストの江森敬治さんは、小室さんの3回目の挑戦について語った。 *  *  * 「どうするのだろうと思って……」  秋篠宮さまは当時毎日新聞記者だった江森敬治さんに、こう漏らした。2018年5月のことだった。江森さんは、秋篠宮さまと三十年以にも及ぶ親交を持ち、秋篠宮さまの信頼の厚いジャーナリストだ。  婚約は延期となり、小室さんが米国の弁護士資格を得るためにロースクールへ留学を希望しているという意向が秋篠宮さまの耳に入った時期だ。  江森さんは、思わず秋篠宮さまにこう漏らした。 「レットイットビーですね」 重くのしかかる秋篠宮さまの言葉  秋篠宮さまと江森さんがそんな言葉を交わしてから、4年の月日が過ぎた。眞子さんと小室さんは結婚し、ニューヨークのアパートメントで新婚生活を送っている。  だが、小室さんの状況は、4年前と変わっていない。秋篠宮さまが漏らした「どうするのだろう」 という言葉が、小室さん夫婦に重くのしかかる。  この7月26・27日、2日間にかけて行なわれた米ニューヨーク州司法試験が終了した。小室さんは今回、再々受験となる3回目の受験だ。会場を後にする小室さんの姿をパパラッチやユーチューバーが囲んだ。動画に写った小室さんの表情は、わずかながらほほ笑んでいる。暗い表情で会場をあとにした2回目とは、対照的だった。  例年、7月試験の合格発表は10月下旬に公表される。  ニューヨーク州弁護士の試験は、絶対評価での採点で落とすための試験様式ではない。400点満点で、266点以上とれば合格できる。  小室さんは、米フォーダム大学の法科大学院でLLM(法学修士)コースで1年学び、さらにJD(法務博士)に編入して、合計3年間はしっかり学んでいる。同大学のJD修了生の同試験合格率は92%。昨年7月の1回目と今年2月の2回目の試験で小室さんも合格確実とみられていたが、残念な結果に終わっている。  米ニューヨーク州司法試験委員会(The New York State Board of Law Examiners)の昨年7月試験のデータを見ると、「リピーター」と呼ばれる小室さんのような再受験者の合格率は、18%にまで激減する。 「法務助手でもよいとお考えでは」  小室さんは、現在勤務する法律事務所で、「Law Clerk」(法務助手)として働いている。3回目の挑戦が成就しなければ、法務助手のまま勤務し続けることになるのだが――。  江森さんは、こう話す。 「秋篠宮さまは、小室さんが日本の法律事務所でパラリーガルとして働いていた時も、『パラリーガルのままでも良いですよ』と、私に答えています。たとえ弁護士の試験合格を逃して法務助手のままであったとしても、二人が身の丈にあった生活を送るのならば、それで良いと考えていらっしゃるのではと思います」 記者会見した小室圭さんと眞子さん=2021年10月26日、代表撮影  秋篠宮ご夫妻がこの1月に、ニューヨークに赴任する森美樹夫総領事と接見したこともあり、週刊誌などでは、森氏が中心となり眞子さんと小室さんの世話を焼いているといった記事がさかんに報じされている。それも秋篠宮夫妻の意向といったニュアンスだ。 外務省が生活をサポートは本当か  現地に暮らす邦人保護は外務省の仕事のひとつだ。元駐在大使を務めた人物は、こう話す。 「総領事館が、元皇族である眞子さんと夫の小室さんをお茶などに招いて、困ったことはないかと相談に乗るくらいの世話は焼いてもおかしくはない」  秋篠宮ご夫妻が、外務省に娘夫婦の生活をサポートするよう望んだといったようなことは起こり得るのだろうか。先の江森さんは、首を横にふる。 「ご夫妻が経済的な援助をなさっているとか、連絡を取っているといったことは、私は知りません」  ニューヨーク総領事との接見も大使ならば天皇との接見だが、総領事であれば皇嗣である秋篠宮ご夫妻と接見が順当であり、不思議なことではない。 「公的な仕事の一つとして総領事に会われたのだと思います。娘夫婦の支援などをお願したということではないでしょう」と、江森さんは言う。 記者会見に臨む小室圭さんと眞子さん=2021年10月26日、代表撮影 公私の「けじめ」に厳しい秋篠宮さま  特に、秋篠宮さまは、税金の使い道と公私のけじめに厳しい性格だ。 「秋篠宮さまは、婚約内定者であった小室さんに、警備のありようについても検討するように伝えています。つまり、納采の儀を終えておらず、まだ眞子さんの正式な婚約者でもない小室さんが警備対象者なのかということだと思います。警備には、税金がかかります。そのあたりの『けじめ』を付けるようにと注意をされたのでしょう」  しかし、小室さんの反応は鈍かった。  また、小室さんが留学して間もない頃、米フォーダム大学が公式サイトで小室さんを「fiance of Princess Mako(眞子さまのフィアンセ)」と記載した。この件について、秋篠宮ご夫妻はひどく困惑し、すぐに宮内庁が「現時点で婚約者ではない」と、大学側に説明している。 記者会見で二人の薬指に光った結婚指輪(JMPA) 「外務省が眞子さんと小室さんに対して、ニューヨーク生活への特別な便宜を図っているのかは、分かりません。しかし、こうしたこれまでの経緯をみても、秋篠宮ご夫妻がそれを望まれているとは考えづらい。二人の経済力や実力にふさわしい、身の丈にあった生活を望まれているのだと思います」  また週刊誌では、眞子さんの姿がニューヨークの病院でも目撃されたとの記事や、妊娠と帰国の可能性についても触れている。  このあたりは、江森さんはどう見ているのか。 「まずは、安定した生活基盤を作ることが大切だと思います。また、海外に拠点を置くことを望んでいる眞子さんのためにも、是非、小室さんは弁護士試験に合格してもらいたい。私は、眞子さんが生まれた頃から、彼女の成長を見守ってきました。眞子さんと小室さんには、笑顔の絶えない明るい家庭を築いてほしい。二人の幸せを心から願っています」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
しめやかに、でも楽しく 瀬戸内寂聴さん「お別れの会」開催
しめやかに、でも楽しく 瀬戸内寂聴さん「お別れの会」開催 瀬戸内寂聴さんが大好きだった黄色いバラなどが飾られた「お別れの会」の祭壇=(C)「瀬戸内寂聴さん お別れの会」実行委員会  昨年11月9日に心不全のため99歳で亡くなった作家・瀬戸内寂聴さんのお別れの会が7月26日、東京・内幸町の帝国ホテルで行われ、287人が参列した。  瀬戸内寂聴さんは亡くなる直前まで、横尾忠則さんとの往復書簡「老親友のナイショ文」(週刊朝日)をはじめ5本の連載を持ち、最後までペンを持ち続けた。  この日の祭壇は昨年12月9日、京都・嵯峨野の寂庵での偲ぶ会でも使われた4色のアナスタシアを主体に、遺影を囲むように、大好きだった黄色のバラとコチョウランを配し、遺影は、19年10月に篠山紀信さんが撮影したものである。  まず、作家の林真理子さんが献杯の際、こうスピーチした。 「先生があちらに行って早いもので8カ月。今でも京都に行くと、先生のことを思い出します。お話しするのが本当に楽しかったです。中にはかなりのホラもありました。私が『本当ですか?』と申し上げると、『本当に本当よ』って甲高い声でおっしゃいましたが、ある作家と女優さんのことをおっしゃった時は、その女優さんが怒って、寂聴さんご本人に注意したと聞いています」  さらに、こう続けた。 「先生は『真理子さん、作家というのは死んだら、次の年には本棚から消えて忘れられるものなの。作家ってそんなものなの』と何度もお話しされました」  でも、それはでたらめで、今、寂聴さんの本が売れて、ドキュメンタリー映画が作られ、そして先生の展覧会にはたくさんの人が足を運び、また寂聴ブームが起こっている。 「私は、あの世でお目にかかることがあったなら、『先生、あの先生の言ったあの言葉はホラでした。違いました』と申し上げたいと思っています」 献杯のあいさつをする林真理子さん=(C)「瀬戸内寂聴さん お別れの会」実行委員会  寂聴さんに手料理を振る舞うこともあったという島田雅彦さん。 「寂聴さんとは40歳ほどの年齢差がありましたが、親しみを込めてひそかに『ジャッキー』と呼ばせていただいておりました」  寂庵で鍋をつくるため、京都の錦市場であんこうを仕入れたとき、寂聴さんと腕を組んでまるでデートのように歩いていたが、遠くから合掌している人がいて、そのときに、活仏とデートしている気になった。活仏なので、ある種、生死を超越したところがあったと思い、寂聴さんの言動を思い出すと、清少納言や紫式部とほぼ同時代のようにお話をしているかのようなところもあったそうだ。 寂聴さんとの「デート」の思い出を語る島田雅彦さん=(C)「瀬戸内寂聴さん お別れの会」実行委員会  続いて2016年に寂庵で瀬戸内寂聴さんと会った歌手・加藤登紀子さんは「ここ(お別れの会)でお会いできてうれしい気持ちでいっぱい。それに会場で寂聴さんの映像や声が流れているとなんだかわくわくします。そして、懐かしく思います」と話し始めた。 「『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』は自分の生涯のバイブルです。文庫本で読んでいますとお話ししたら、じゃあね、差し上げるわと、初版の単行本にサインを入れてくださいました。今、私の宝物です」  そして最後の最後までわくわくする気持ちを持ち続けた寂聴さんのように生きたいと言い、こう結んだ。 「今日、寂聴さんに巡り合えたことを大きな力にして、この日からまた歩いて生きたいと思います。ずっと見守ってください」  寂聴さんにいつも悩みを聞いてもらい相談してきたという南果歩さんは「訃報を聞いても海外にいたこともあったし、先生は死ぬはずないと思っていました」と話した。  昨年の寂聴さんの99歳の誕生日に電話で話したのが、最後の会話になった。「100歳でアイドルになれるのは先生だけ」と話を振ると、ケラケラ笑って、「そうね。それも悪くないわね。100歳でアイドルになるわ」と答えたという。寂聴さんを平塚らいてうの「原始、女性は太陽であった」を地で行く人だと感じていたという南さん。「私にとって永遠のアイドルです」と寂しそうに話した。  会には当日、出席がかなわなかった梅沢富美男さん、市川海老蔵さん、池上彰さん、EXILE ATSUSHIさん、AKIRAさん、美輪明宏さんからは動画のコメントが寄せられた。  梅沢富美男さんは「『あなたと一緒にフランスに行きたい』と話されたことが思い出され、いつか、次の世界で一緒にフランスに行きましょう」と話した。市川海老蔵さんは「源氏物語」の思い出を話し、ジャーナリストの池上彰さんは瀬戸内寂聴さんから質問攻めにあった思い出を語った。EXILE ATSUSHIさん、AKIRAさんは、「ここ過ぎて 白秋と三人の妻」の映画化の際の楽しい思い出を語り、そして、美輪明宏さんは50年ほど前、雑誌のインタビューで初めて出会った当時を振り返り、「そちらの世界で懐かしい人たちと会っていることと思う」と寂聴さんに話しかけた。  司会の有働由美子アナウンサーからの指名で、多くの著名人が思い出を語った。  寺島しのぶさんは、今年11月公開予定の映画「あちらにいる鬼」で寂聴さんをモデルにした長内みはる役を演じた。「『寺島しのぶが瀬戸内寂聴になる』と言われていますが、そこは間違っています。でないと、(寂聴さんが)怒ってしまうシーンもあると思います」  瀬戸内晴美の時代からお付き合いがあるノンフィクション作家・澤地久枝さんは「サービス精神旺盛で、何が必要なのか、分かっている人。行動の人でした」。  作家・阿川佐和子さんは「父(阿川弘之)から寂聴さんは男にもてて大変だった、とは聞いていた。でも、あのまんまるのお顔の方がそんなにモテるのか分からなかった(笑)」。  続けて家族ぐるみで瀬戸内さんと懇意にしていた作家2人が、お別れの挨拶をした。平野啓一郎さんは「瀬戸内さんからは『弔事を読んでね』と言われ、『もちろんです』と答えた。お酒の席でもあったので、まだ遠い先のことのようで、あまり具体的に考えたことはなかった」と話した。平野さんは「誰もが瀬戸内さんをどこか不死身の人のように思っていて、110歳ぐらいまで生きられるのではないと思っていて、本人にもそう伝えた」と語った。そのとき、寂聴さんは「そんなには生きたくない」と笑って、首を横に振ったという。  平野さんは「99歳で亡くなったという事実に、ことさら意味付けをする必要はないでしょうが、私は一遍の短編小説を読んだような印象を受けました。年齢を考えれば、いつどうなってもおかしくはない。そのうそ偽りのない感じは、瀬戸内さんの人生そのものだったと感じています」と懐かしそうに話した。「本人には面と向かっては言えなかったが、私はとにかく瀬戸内さんという人が非常に好きでした。話をして、あんなに楽しい人はいませんでした」と天に語りかけた。  作家の江國香織さんは「父(演芸評論家・エッセイストの江國滋さん)からのお付き合いで、ベビーベッドやドレスなどを贈ってもらいました」。  2013年から晩年の10年間、秘書を務め、一番近くで瀬戸内寂聴さんを見た瀬尾まなほさんは、新型コロナウイルスの濃厚接触者となったため会を欠席。司会の有働アナがメッセージを代読した。 「生前、『来年の5月15日の誕生日には100歳のお祝いしようを盛大にしようね』と話しておりました。今日のこの会が瀬戸内の生誕100年をお祝いする会であればどんなにうれしいことだったろうか、そんな風に思ってしまいます。  瀬戸内が亡くなった後、たくさんの方々が瀬戸内を偲ぶ言葉を寄せてくださいました。その心のこもった言葉すべてを、瀬戸内に読んでもらいたかったです。きっと喜んだと思いますし、今日のこの日も、このたくさんの方々に集まっていただいた様子を見たら、ここ数年の口癖であった『しんどい、早く死にたい』が、『やっぱり死ぬんじゃなかった』にかわって、ひょっこり舞台袖から笑顔で現れてくるんじゃないかと、そんな気がします」  最後は、「私の葬式で踊ってね」と託された寂聴連の6人が祭壇の前で阿波おどりを披露。会場からは手拍子が起こる中、寂聴さんらしく、明るく、そして楽しくにぎやかに会の幕は閉じた。  みんなの思いは天に届いたに違いない。 (本誌・鮎川哲也) ※週刊朝日オンライン限定記事
杉野遥亮「あのときの記憶がない」ほどがむしゃらに演じた作品とは
杉野遥亮「あのときの記憶がない」ほどがむしゃらに演じた作品とは 杉野 遥亮(すぎの・ようすけ)/1995年、千葉県生まれ。2015年、大学在学中にFINEBOYS専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界デビュー。俳優として、ドラマ「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21年)、「妻、小学生になる。」(22年)など出演多数。若きCEOを支えるビジネスパートナー役で出演しているドラマ「ユニコーンに乗って」(TBS系、火曜22時~)が放送中。23年NHK大河ドラマ「どうする家康」に出演予定。撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  ドラマや映画へ途切れることなく出演し、人気俳優への階段を駆け上がった杉野遥亮さん。2015年、大学在学中にモデルデビューし、その後は話題作に次々と登場した。7月からは、ドラマ「ユニコーンに乗って」に出演中と、オファーが絶えない役者の一人だ。杉野さんが、いま思う「演じること」とは。 *  *  *  1995年、千葉県生まれ。185センチの長身で、学生時代はバスケットボールに打ち込んだ。2015年、大学在学中に「FINEBOYS」専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界デビュー。以降、映画、ドラマと話題の作品に出続けている。今年に入ってからもすでにドラマ「妻、小学生になる。」に出演し、映画「やがて海へと届く」が公開された。現在はドラマ「ユニコーンに乗って」(TBS系、火曜22時~)が放送中だ。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  役者として多忙を極める杉野さんだが、俳優としての意識が大きく変わったのは、21年6~7月に出演した舞台「夜への長い旅路」だという。“アメリカ近代劇の父”としても知られる劇作家ユージン・オニールの遺作で、モルヒネ中毒の母、お金に異常な執着を見せる父、アルコールに溺れる長男を家族にもつ次男・エドマンド役を演じた。  舞台はこのときが初めてで、お客さんを目の前にして演じるっていうのが、カメラの前とは全然違いました。自分のとらえ方だったり、自分の身をどこに置くかだったり、意識の仕方だったり……。初めての舞台で、怖さはむちゃくちゃありました。でももう、途中から怖いと感じている余裕もなかったですね。「早く30公演が終わらないかな」ってそればっかり考えていました。追い詰められる感じ? そうです。もう、自分がどこにいるのかわからない!みたいな(笑)。  せりふを覚えるのも大変でした。あのときの記憶はあんまりなくて、どうやって過ごしていたんだろう……。というのも、実はあのとき、舞台と、「僕の姉ちゃん」というドラマと、「やがて海へと届く」という映画の撮影をいっぺんにやっていたんです。半年間ギュギュッといろいろな作品をやって、当時は夢中で、というか単純に追いついていなくて、詳しいことは思い出せないけれど、振り返ったときに、「ああ、頑張ったな」って思えるものになっていました。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  21年は、舞台以外に10もの作品が公開・放送された。さまざまな役をこなす杉野さんだが、舞台をきっかけに、「演じ方」に変化が生まれたという。  年を追うごとに俳優としてのスタンスみたいなものが変化しているんです。自分がそう気づけたのは、舞台が終わってからです。舞台後は少しゆっくりと作品に取り組めたので、芝居の向き合い方を模索するようになりました。  例えば、台本のせりふに寄り添って演じるっていうやり方もあるし、自分のなかにその役の核みたいなものを作って、自分なりに言葉を紡いでせりふに入れていく作業をするときもある。一概にどれがいい、というのは言えないですが、ただ、その役に何か強烈なバックボーンがあると、演じやすいと感じます。その人の痛みとか心の傷が一つあると、気持ちを入れる作業がしやすい。  あと、役柄と自分自身とが、かけ離れていて、その人を想像しながら役に入っていくほうが、プライベートとの切り替えがしやすいです。今回のドラマ「ユニコーンに乗って」の須崎功は、両面あります。仕自分の心に素直で、何事も一生懸命なところは自分と似ていると思います。 「ユニコーンに乗って」第4話のワンシーン(C)TBS/撮影:加藤春日  須崎は、誰かの夢を応援するために人生を懸けることのできる役どころだ。  僕もそういうことができるか? 自分が信頼している人、好きだなと思う人にはできると思います。そこは須崎に共感できます。須崎は毎日懸命に生きて、親友の夢をサポートする。作品を見てくださる皆さんが、夢を追う姿に自分自身を重ねたりして、このドラマが何かに挑戦するエールになったらいいなと思っています。  ところで、役の演じ方だけでなく、現場に入るスタイルにも最近変化があったとか――。  今までは、すぐに着替えてしまうからと、撮影現場にはサンダルに、どこかの現場でもらったTシャツみたいな格好で行っていましたが、今はおしゃれをするようにしています。理由? 単にそっちのほうがかっこいいからです(笑)。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) 衣装協力 ジャケット¥42,900・パンツ¥53,900/ともにダイリク、シャツ¥27,500/セブン バイ セブン(サカス ピーアール)  今日の私服は、白いTシャツにベスト、それにジーパン。靴はローファーかな。想像できますか? 現場に必ず持っていくのは台本くらい。だいぶ身軽です。あとスマホとペンと財布。だいたいそのくらいです。  あとは、実際そんなにやれてないですが、自分で料理することを心がけるようになりました。自分で何か作ったりして体に火をともしたほうが、自分が元気になる。でもそれをやる体力がなかったりするんですが……。  休みの日は、だいたい家で休んでいます。「ワンピース」のアニメを見たりとか。外はあんまり出ないです。家は、家具などこだわりのものを置いて落ち着く空間をつくれたらなって思っているけれど、最近全然ものを買っていなくて。買う時間や、そこに意識をはせる時間がない、という感じです。  今後は、ドラマ「僕の姉ちゃん」(テレビ東京系)が7月27日深夜 1 時~放送予定で、8月19日には映画「バイオレンスアクション」の公開も控える。さらに、23年にはNHKの「どうする家康」で大河ドラマに初出演する。今後やってみたい仕事はあるのだろうか。  今後やってみたい仕事というのは、特に考えていません。自分がこうなりたいとかって今はあんまりないんです。行く先に何かがあるというスタンスでいます。でももし今後、何か自分でつかみ取りたいと思うことがあったら、迷わず行くと思いますね。 〇ドラマ「ユニコーンに乗って」/成川佐奈(永野芽郁)は23歳で教育系アプリを手掛けるスタートアップ企業「ドリームポニー」を、親友の須崎功(杉野遥亮)らと起業。設立から3年を迎え、売り上げが行き詰まるなか、中年おじさん・小鳥智志(西島秀俊)が入社し、会社の環境が大きく変わっていく。仕事と恋に葛藤する大人の青春ドラマ。火曜22時~、TBS系で放送中。 【杉野遥亮さんのチェキ、サイン色紙が当たる!プレゼント企画実施中です】詳細はこちら (構成/AERA dot.編集部・平井啓子)
杉野遥亮が“素敵だ”と思った共演俳優「緊張して話せなくなったり…」
杉野遥亮が“素敵だ”と思った共演俳優「緊張して話せなくなったり…」 杉野遥亮(すぎの・ようすけ)/1995年、千葉県生まれ。2015年、大学在学中にFINEBOYS専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界デビュー。俳優として、ドラマ「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21年)、「妻、小学生になる。」(22年)など出演多数。若きCEOを支えるビジネスパートナー役で出演しているドラマ「ユニコーンに乗って」(TBS系、火曜22時~)が放送中。23年NHK大河ドラマ「どうする家康」に出演予定。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)、衣装協力 ジャケット¥42,900・パンツ¥53,900/ともにダイリク、シャツ¥27,500/セブン バイ セブン(サカス ピーアール)  185センチの長身に、すらりと伸びる手足、透明感のある素肌。思わず見入ってしまうほどの端正な顔立ち。ひとたび俳優・杉野遥亮になれば、ヤンキーにも、“小学3年生”にもなってしまうから不思議だ。現在挑戦しているのは、スタートアップ企業の若き女性CEOを支えるビジネスパートナー・須崎功。「ちゃんと感情が動き、一生懸命生きるところが自分と似ている」という、その役どころとは──。 *  *  * ──ドラマ「ユニコーンに乗って」では、永野芽郁さん演じる親友のCEO・成川佐奈とともに起業する役を演じています。もし杉野さんが起業するなら? 杉野遥亮(以下、杉野):農業をしてみたいです。昔から興味があります。自然の中で生活するのは、人間にとって大事だなって思う瞬間がたくさんあって。地方と東京との橋渡しができたらいいなとも。最近、撮影で地方に行く機会が結構あるので、地方と都心の人をつなぐことができたらいいなと思いました。 ──もし、今回の役のようにビジネスマンになっていたら? 杉野:ええ、どうだっただろう? あまり想像できないですね。「9時から5時まで仕事」みたいな規則的な生活が苦手で。この道(俳優)を選んでいなくても、何か時間が自由な仕事をしていたんじゃないかな、って思います。 ──俳優以外で、憧れの職業はありますか。 杉野:その道を追求している、職人っぽい仕事はかっこいいなって思います。撮影現場でいうと、音声さんも照明さんも、技術を仕事にしている。人にどう思われるかを気にするのでなく、自分がやるべきことを常に追求している人はすごく素敵です。 ──役では、親友であり仕事仲間である佐奈への恋心が抑えられなくなります。ご自身がそうなったら? 杉野:うーん、自分の気持ちは伝えると思いますけど。でも僕、根本的にそんなに人を好きになることはないので(笑)。だから須崎にはちょっと共感できないところもあったりして。僕はやっぱり、「仕事は仕事」っていう感覚があります。  でももし仕事相手を好きになったら……、それは大変だと思います。仕事と自分の好きという気持ちがぶつかったときは気持ちの切り替えが難しい、というのは理解できます。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) ──あまり人を好きにならないということですが、どんな人に惹かれますか。 杉野:他の人を軸にして考えず、自分自身に集中している人がいいです。僕は、好きな人に振り回されて、自分の軸で生きていない人っていうのが、どうしても疑問に感じてしまうんです。  あとは、愛がある温かい人。それはもう、言葉で表すのでなく、自分が感じるものなんですけれど。それと、誠実な人がいいです。繊細でピュアな部分がある人かな。 ──いいなと思う相手に、ご自身からアピールはされますか。 杉野:うーん、そういうことはあまりしないです。自分がその人としゃべりたいと思う、でも恥ずかしくてしゃべれない、みたいなことはあります。素敵な人と話すのは、やっぱり難しいです。それは男女問わずに。素敵な人とは、距離の詰め方が難しい! ■素敵な人の前は緊張してしまう 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) ──素敵というのは、やはり自分の道を追求している人ですか。 杉野:それもありますし、人のことをきちんと考えて思いやれる温かい人です。最近は、機械的に言葉を発したりだとか、「ありがとう」っていう言葉に心がこもっていないだとか、そんな人が多いと感じていて。人を思いやれる方に出会ったときには、「ああ、本当に素敵だな」と思って、緊張して話せなくなったりします。前に作品でご一緒した堤真一さんや、このドラマで共演している西島秀俊さんは、そうです。西島さんとは、撮影を通して少しずつ話していけたらいいなと思っています。 ──逆に、ご自身がこんな姿を見せたいというのはありますか。 杉野:そうですね。自分ももっと大人になって現場を引っ張りたいという気持ちもあるけれど、まだ自分自身のことで精いっぱいなんです。輪を作りたいけど、まずは自分が楽しめる環境を作ることからかな。もっと役者として大きくなったときに、自然とそれができるようになればいいなと思っています。  以前ドラマで共演した木村拓哉さんは、正直で、人にこう見せようというのではなく、自分本来の姿でいらしてすごくかっこよかったです。自分がどうしたいかを考え、周りに目を配る。そういう人は現場でもヒーローです。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) ──須崎に共感できる部分はありますか。 杉野:わかるなってところはあります。ちゃんと感情が動いていて、一生懸命生きている。あとは、自分を大人っぽく見せたいってところかな。僕にも昔、そういうときがあったなと。 ──そういう時期がありました? 杉野:あります。子どものころですけれど。責任感がすごく強かったので、自分が頑張らなきゃって思ったり、親にいい顔を見せなきゃと思ったり。  でも、役と自分に共通点がないほうが演じやすいです。自分と全く違って、その人を想像しながら役を自分のなかに入れていくってほうが切り替えがしやすい。共感しすぎると、うまく切り替えられないときがあって。それは自分のなかでも課題だと思っています。 ──2023年には「どうする家康」で、NHK大河ドラマに初出演されます。意気込みは? 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) 杉野:大河ドラマは、ある意味、挑戦です。今と時代背景が全然違うので、役柄だけでなく、その環境から自分に取り込んでいかないといけない。それは自分にとってなかなかハード。かつ、ほかの作品(現代劇)も撮りながらやっていくとなると、「挑戦」になるところが多いです。作品に関われる期間も長く、一つひとつの作品にどれだけ熱中できるかと役作りに集中しながら臨みたいです。 【杉野遥亮さんのチェキ、サイン色紙が当たる!プレゼント企画実施中です】詳細はこちら (取材・構成=平井啓子[朝日新聞出版])※週刊朝日  2022年7月29日号
中高年夫婦の「卒婚」に落とし穴 “お試し”のつもりが離婚になるケースも
中高年夫婦の「卒婚」に落とし穴 “お試し”のつもりが離婚になるケースも ※写真はイメージです (GettyImages) 「病めるときも健やかなるときも……」と永遠の愛を誓ったはずなのに、昨今は「早く卒婚したい」という中高年カップルが増加中だ。婚姻関係は続けたまま、互いの自由を尊重するという卒婚のメリットとデメリットを調べてみた。 *  *  *  コロナ禍の昨今、SNS上には「卒婚」願望を語るつぶやきがあふれる。 「コロナで在宅勤務中の夫に嫌気がさした。家にいるんだから少しくらい自分のことは自分でやれと言っても“俺は仕事してるんだ!”と拒否。あ~、子供が手を離れたら速攻で卒婚したい」 「離婚する勇気はないけど、卒婚なら一刻も早くしたい」 「いまや『卒婚』という夢だけが生きる支え」  そもそも卒婚とは、夫婦が離婚はせず婚姻関係を維持しつつも、互いに縛られることなく自由に生活することを指す言葉だ。2004年に出版された『卒婚のススメ』で、著者の杉山由美子さんが使い注目された。  婚活や「街コン」を中心とする男女の出会いメディア「イベンツ」を運営するノマドマーケティング社が昨秋、全国1千人の既婚男女を対象に卒婚に関する調査をしたところ、男性の24%、女性の32%が「卒婚をしたい」と答えた。年代別では30代が22%、40代が36%、50代が41%と、年代が上がるにつれて希望者も増えている。なぜ卒婚なのか。SNSで卒婚願望を強く訴えていた40代女性が取材に応じてくれた。 「リモート生活で夫が家にいると、心の底で邪魔くさいと思っている自分を発見したんです。近くにいると夫の世話で私の自由がなくなり、すごくストレスを感じる。コロナ前は帰りも遅いから食事の用意もしないし、もう長いことセックスレスだし。とっくに『卒妻』はしてるんだけど(笑)。むしろ離婚したいぐらい。でも、娘が高校生になって、パートで働き始めたとはいえ、ずっと専業主婦だったから生活力がない。離婚するほどの勇気はないのよね」  同じくSNSで「卒婚するぞ」と宣言していた50代女性は現在、夫と卒婚の話し合いをしているという。 「夫はアウトドア派で私は圧倒的インドア派。子供が小さいうちは、嫌でもキャンプやドライブ、ハイキングと付き合ってきたけど、独立した今はもう付き合いきれない。私は私の好きなことをしていたい。去年ごろから田舎で農業をしたいと言いだした夫に、この春、思い切って卒婚しましょうと提案したばかり。卒婚後のお金のことで夫はあまりいい顔をしていなかったけど、私は譲るつもりはないです」  卒婚してハッピーライフを送る共働きカップルの話も聞けた。Sさん(42)と13歳年上の夫(55)は3年前、卒婚に踏み切った。母親の介護のため、夫が千葉の外れにある実家に住みたいと言いだしたが、Sさんは今の生活と仕事を変えたくなかった。Sさんは以前、義父を介護するため夫の実家で2年暮らしたことがあった。 「義父の介護で懲りました。通勤時間は倍以上になるし、介護も大変。何よりお義母さんと性格が合わず、ケンカばかりで夫との仲も悪くなってしまったほど。お義父さんが亡くなってすぐ、また夫婦で都内に引っ越し、ようやく以前の暮らしに戻ったのですが、今度はお義母さんの足腰が立たなくなってしまった。夫はまた帰りたいと言うので、卒婚を選ばせてもらった。夫も納得して、一人で実家に戻りました」  義母は昨年亡くなったが、2人は今も離れて暮らしているという。 「自営業の夫は実家近くでの仕事も増え、都内に戻りづらくなったんです。時々、時間を合わせて一緒に食事をしたり、家で映画を見たりしていますが、久しぶりに会うと、新婚時代みたいな気持ちになれてちょっといい感じなのもうれしい。夫も実家を空き家にするのは困ると言っているので、しばらく卒婚状態を続けたいと思ってます」  最近、夫だけが自分の実家に戻って暮らす卒婚のパターンをよく聞く。Tさん(64)もそのひとり。2歳年下の妻と結婚して35年、35歳と30歳になるふたりの息子がいる。長男は独立して家庭を持っているが、次男は自宅から職場に通っている。 「定年になったら、妻と一緒に自分の実家で暮らしたいと思っていました。東海地方にある実家はすでに空き家になっていたし、広い庭で家庭菜園でもしながらのんびり過ごしたい、と。妻にもそれとなく伝えていたつもりです」  だが実際に60歳で定年になり、妻に相談すると、妻の答えは「私はやっぱり嫌だわ」だった。 「妻いわく、パートをやめたくない、友達と離れたくない、不便な生活は嫌ということで……。それならしかたがないと週に数日、実家に通って、まずは家の補修をすることにしました。半年後にはほぼ定住し、近所の農家さんに教わって野菜作りをしたり、自宅で旧友と飲み明かしたり。高校時代の旧友と組んでいたバンド活動を再開するために、再びサックスを吹き始めました」  たまに都内の自宅に収穫した野菜を持って戻ることもある。あるとき妻がしみじみと言った。 「あなたは会社員時代、自分のことなどあまり話さなかったけど、今はいい顔をしてる」  Tさんから見る妻もまた、家庭という枠がなくなったせいか、生き生きとしていた。 「それから妻は“いい友達”になりました。最近、聞いたところによると、僕が本気で田舎暮らしに付き合わせようとしたら離婚すら視野に入れていた、と。うちは自然と別居になり、なんとなくいい距離感がつかめるようになったんですが、これはラッキーだったんだと思います」  家事事件を多く担当してきたフェリーチェ法律事務所の後藤千絵弁護士は、離婚の相談で訪れる依頼者には、離婚前の“お試し期間”として卒婚を勧めることがあるという。後戻りできない離婚と違い、婚姻関係を維持したまま別々に暮らし、面倒な手続きはいらない。親権でもめる必要もなければ、周囲の人に伝える必要もない。 「急に切り出された望まない離婚を回避でき、距離を置くことで夫婦関係を見直すきっかけにもなる。離婚に発展する場合でも、別居の実績ができるので離婚裁判でもめにくくなります」 週刊朝日 2022年7月29日号より  ただし、後藤弁護士は「卒婚には意外な落とし穴もある」と注意を促す。 「ひとつは別々に暮らした場合に増えてしまう生活費の問題。また、婚姻関係は続くので、新しいパートナーができた場合には、仮に夫婦間で“恋愛自由”の覚書を交わしていても不貞行為とみなされる可能性があることにも注意が必要です。お試しで卒婚したつもりが、望まなかった離婚に発展してしまう場合もあります」  卒婚は妻側から提案することが少なくない。結婚生活で束縛されてきたと感じているのは、女性のほうが多いということかもしれない。老後を見据えて「自分の人生を取り戻したかった」というのはKさん(53)だ。  33歳のとき、10歳年上の上司と結婚した。彼は再婚で、当時11歳、8歳の子をひとりで育てていた。彼女は初婚だったため親に反対されたが、付き合っているうちに子供たちに情が移ったKさんは、意を決して結婚した。 「上の男の子は変わらずに懐いてくれたんですが、下の娘が反発しましたね。お父さんをとられるような気持ちだったのかもしれません」  仕事を辞め、必死で子供たちと向き合う日々。いつしか娘も「お母さん」と呼んでくれるようになり、誰よりも味方となってくれた。 「夫は子育ても家事も私に丸投げでした。前妻と死に別れて、幼い子を一人で育ててきて私と結婚したから、ホッとしてしまったのかもしれません。私自身も結婚して3年後には就職し、子育てと仕事に全力で突っ走ってきた気がします」  子供が小さいうちは、夫とも意思の疎通はできていた。だが彼女が40代のころには、夫の浮気に泣かされたことも何度かある。「おまえは女としてつまらないんだよな」と暴言を吐かれたことが、今も傷となって残っている。いつかはひとりになりたいと思うきっかけだった。  仕事と子育てに邁進(まいしん)した17年間を経て50歳になったころ、卒婚を提案。子供たちも大賛成で、「そろそろお母さんを解放してあげたら」と進言してくれた。夫はどこか彼女を見下しているようで、「ひとりでやれるものならやってみろ」という感じで賛成したという。 ※写真はイメージです 「思い切って家を出ました。少しずつ貯金もしてきたし、まだまだ働けるから、贅沢しなければひとりで暮らしていけるだろうと」  すると、すでに社会人になっていた娘が一緒に家を出ると言いだした。「私はお母さんと暮らしたい」と。 「そのとき、すべてが報われた。私の人生は無駄じゃなかったと泣きました。娘が私に寄り添ってくれるのがうれしかった」  当初は別居しながら婚姻関係を継続させる卒婚のつもりだったが、だんだん気持ちが変わっていった。ひとりになった夫は家政婦を雇ったが、セクハラが過ぎたようで訴えられたと聞き、腹は決まった。 「離婚を申し出たとき、夫に『卒婚なんてきれいな言葉を使って、もともと離婚するつもりだったんだろう』と言われました。でもそうじゃない。一度、距離をとって改めてまた一緒に生活できればいいと思っていた。精神的に夫に自立してほしかったんです。今になって考えれば、私は子供たちとどうやってつながりを強くするかは考えてきたけど、夫とはもともと夫婦としての固い基盤ができていなかったのかもしれません」  2年前に離婚。弁護士を立てて財産分与をし、彼女は今、娘との「ほどよい距離感のある生活」を楽しんでいる。  もうひとり、自ら夫に卒婚を提案したのはMさん(58)だ。 「ひとり娘が大学を卒業して就職し、遠方に勤務となったのが3年前です。そのとき、夫に卒婚を提案しました。このまま夫とふたりきりで老いていくのが耐えられない、自由になりたいという思いが強かった」  30歳で結婚、32歳で出産したが、仕事は続けてきた。3歳年下のサラリーマンの夫は出張が多く、「ひとりで子育てをした」と感じていた。娘が独立したら、ひとりになりたいと漠然と考えていたという。 「卒婚を提案したとき、私は別居を想定していました。ただ、当時、夫は早期退職をして起業したばかり。『このタイミングで卒婚は酷だ』と言われたけど、私はもう家庭より自分の人生を優先させたかった」  話し合いを重ね、ふたりが行き着いたのは「同居人として相手を尊重する」こと。具体的には、「自分のことは自分でやる」。それがすべてだとMさんは笑う。 「食事も洗濯も、自分のことは自分でやる。私は基本的に自分で作って食べますから、料理が余れば冷蔵庫に入れておきます。それを夫が食べようが食べまいがかまわない。ひとり暮らしのふたりが同居している感覚ですね。夫の面倒を見なければならないという束縛感を私が覚えなければいいという、緩やかな卒婚です」  夫も起業したばかりで時間が不規則。しかも突然のコロナ禍で事業が伸び悩み、事務所近くのカプセルホテルに泊まることもあった。卒婚はお互いにとって「ひとりでがんばる」原動力にもなっていた。 「自由っていいなと夫も言いだして。これならうまくやっていけると思った矢先、ハプニングがありまして」  半年ほど前、夫が脳梗塞(こうそく)で倒れた。軽い半身まひが残り、リハビリを続けている。この間、Mさんも仕事をしながら看護に明け暮れた。3カ月前、夫はようやく仕事に復帰したが、食事や洗濯などはMさんが面倒を見ざるをえない状態だ。 「年下の夫のほうが病気になるなんて……。丈夫なのを自慢するような人でしたから、ちょっと想定外でしたね」  夫も「きみにばかり迷惑をかけて申し訳ない」と言ったそうだ。自由になりたい、ひとりで人生をやり直したいという彼女の思いは、夫に届いていたのだろう。 「夫が精神的に少し自立して、私を思いやる言葉を聞けたのは思わぬ収穫でした。卒婚、まだあきらめてはいません」  互いが精神的に自立し、相手の自由を心から認めることができるなら、「卒婚」は必要ないのかもしれない。(フリーライター・亀山早苗、本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2022年7月26日号
悲惨な事件や戦争ばかりでも「人類は平和な生き物」 根拠は、犬歯が小さく進化したこと
悲惨な事件や戦争ばかりでも「人類は平和な生き物」 根拠は、犬歯が小さく進化したこと  残酷な事件や戦争を目の当たりにすると、「人間って争ってばかりの残酷な生き物だよね……」と感じてしまう人も多いと思います。『ざっくりわかる8コマ人類史』(監修/更科功 まんが/木下晋也)では、そんな人類にまつわる謎や疑問や迷信を、8コマまんがでざっくりゆる~く解説。今回は、人類は本当に残酷な生き物なのか?についてみていきましょう。 *  *  *  前回の「浮気は人間の本能」 そんな言い訳を人類「進化」の観点で論破するでは、「人類は一途な生き物である」と解説しました。実は、「人類の一途さ=一夫一妻制」は人類に、直立二足歩行以外の「進化」ももたらしたことがわかっています。  それは4本ある牙、つまり「犬歯」の縮小です。チンパンジーやゴリラ、ボノボといった類人猿は、いずれも氷柱(つらら)のように鋭く大きな牙を持っています。実際にチンパンジーは、オス同士で争ったときにかみついて相手を殺してしまうことも珍しくありません。  一方で、ヒトの犬歯は、ほかの歯と同じくらいの長さで、形状もひし形に近く、殺傷能力はほぼありません。このように人類の犬歯が小さくなったのは、ほかの類人猿に比べて争う場面が減少し、牙の有用性がなくなったためだと考えられます。  牙の大小はそれぞれの「夫婦(群れ)の形態」が大きくかかわってきます。チンパンジーやゴリラの主食は果物なので、狩りのために牙は使いません。使うのは、ほかのオスと争うときです。  チンパンジーは乱婚、ゴリラは一夫多妻制のため、メスを奪い合ってほかのオスと戦うことが多くなります。このとき相手を戦闘不能にするための武器として、大きな牙が必要です。  一方、人類の祖先は一夫一妻制を選択し、メスをめぐってほかのオスと争う機会が減少しました。それに伴い牙も不要となり、自然と小さくなったと考えられます。  使わなくても一応残しておけば?と思うかもしれませんが、大きな犬歯を作るためには、そのぶん余計にエサを食べなくてはならないなど、余計なエネルギーがかかります。進化には、「とりあえず取っておこう」ではなく、断捨離の精神が宿っているのです。  結果、犬歯の縮小は、時代が進むごとに顕著になり、新しい人類ほど小さくなっていきます。そのため直立二足歩行と並び、犬歯が小さいかどうかが、人類とそのほかの類人猿の化石を見分けるときの大きなポイントにもなっています。 「ヒトは殺し合いもする、残酷な生き物」と言われることもありますが、「できれば争いたくない」という人が大半ではないでしょうか。平和な生き物としては「ボノボ」が知られています。争いが起きそうになるとお互いの性器をこすり合わせて緊張を解いたりするのです。でも、その犬歯はけっこう立派です。  ヒトは、ボノボより体は大きいが、犬歯は小さい。人類は本来、争いを好まない平和な生き物なのです。 (構成/ライター 澤田憲、生活・文化編集部 野村美絵)
コロナ禍の夏を乗り切るポイントは「投手力」 東尾修が解説
コロナ禍の夏を乗り切るポイントは「投手力」 東尾修が解説 東尾修  西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏は、新型コロナウイルスの急拡大で先行きが見えにくい中で、求められる力を解説する。 *  *  *  オールスター前までに勝率5割、もしくは首位から5ゲーム差というのは、リーグ優勝、プレーオフ進出を狙う上で一つの目安ともいえる数字だった。今のパ・リーグはなんと日本ハムをのぞく5チームがその状況下にある。7月12日の終了時点の数字だが、首位ソフトバンクから5位のオリックスまで、わずか4.5ゲーム差しかない。  しかも、その混戦に加えて先行きを予想できないのが、新型コロナウイルスの感染急拡大である。7月12日のロッテ戦では西武の源田壮亮らが、試合途中で交代した。今後、各チームが検査を頻繁に行うことになるだろう。そうなると、次々と陽性者が出てくることが予想される。  チームというものは、シーズンを戦っていく中で、選手個々のコンディションを見極め、その年の適正配置をし、投打の歯車をうまく回せるようにしていく。しっかりと歯車がかみ合うようになったチームが、終盤の優勝争いをリードしていくことになる。だが、「新型コロナウイルス」といういかんともしがたい要因がある今夏は、歯車がかみ合ったチームでも、すぐにおかしくなる可能性がある。  感染力の強いウイルスが蔓延(まんえん)してきている。妻子を持つ選手、コーチはどれだけ感染対策をしようとも、どこから入るかわからないし、それをもって批判することなどできやしない。各球団ともに中止、試合延期が増えるのは致し方ない。今年ばかりは、チームの勢いが出てきた時に「急停止」せざるを得ないような事態が起きることが予想される。ファン、選手ともに、どこか歯がゆい戦いとなるのだが、こういった中だと「勝てる試合を絶対に勝ち切る力」が必要になる。その上で投手力というものは大きな指標となり得るだろう。注視していきたい。  メジャーリーグに目を向けると、大谷翔平が投打にハイレベルな活躍を見せている。特に投手に関しては、エースと言える働きぶりである。上から投げたり、少しスリークオーター気味に投げたり、見ていてすぐにわかるようなリリースポイントの変化をつけている。 ヤクルトのクラブハウス。高津監督ら1軍で23人(10日時点)のコロナ陽性が発表された  投げ方を変えるということは、相手打者の幻惑もあるが自分の球がどうすれば納得の行く曲がりをするのか、という部分も突き詰めた結果であろう。同じ球種であっても、人さし指と中指の間隔を変えたりすることで曲がり方を変えたりもする。ただ、そういった芸当をやってのけるには、「同じフォームでしっかり投げられる」再現性の高さがあった上でのこと。例えば1球目に上から、2球目に横から投げたとして、3球目に上から投げた球に力が伝わっていなければ意味がない。変幻自在に投げられるということは、よほど自身の状態、再現性に自信があるからこそといえる。  大谷のトレード話も注目の的となっているが、近年のエンゼルスを見ると、頂点を狙えるチームになっていない。大谷というスーパースターとチームの未来をどう考えるか。その点も夏の注目ポイントとなる。 東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝※週刊朝日  2022年7月29日号
「都会から逃げたい」で故郷・岩手にUターンを決めた男性 「移住は前向きでなくてもいい」
「都会から逃げたい」で故郷・岩手にUターンを決めた男性 「移住は前向きでなくてもいい」 松田道弘さんは2019年にUターン移住。地元の人の協力で、家庭菜園では1年目から立派な大根が取れた 「理想の移住」を実現させた3組のケースの2番目は、JRの駅員として働いていた時に「地元のために何がしたい?」と問われてUターンを決意、陸前高田市の移住定住の窓口で人を呼び込むコンシェルジュになった男性だ。 ※記事<<モデル女性と営農男性カップルの「捨てない」生き方 千葉・内房エリアに移住した理由>>より続く *  *  *  岩手県東南端、三陸海岸の玄関口であり、宮城県との県境に位置する陸前高田市。松田道弘さんは、生まれ育った町に隣接するこの町に、2019年、地域おこし協力隊として着任した。陸前高田の北側にあたる遠野市で生まれ、高校卒業までを過ごす。盛岡市内の医療福祉専門学校を卒業し、介護福祉士として働いたあと、義兄の勧めでJR東日本の駅員になった。  5年間務めた職場で、当時、公私ともに仲のよかった上司に「やりたいことは何?」と聞かれ「岩手のために働きたい」と答えた松田さん。その背景には、2011年の東日本大震災の経験がある。松田さんは震災時、地元・遠野市の施設で勤務していた。遠野市は三陸と内陸の中間に位置していたため、支援拠点などが設置された。市内のNPOや町づくり団体が活動したり、それを市民がバックアップしたりしている姿を間近で見ていたこと、大船渡や陸前高田にボランティアに行っていたことが関係しているだろう。  上司は、「岩手のために働きたいという思いは、JRの仕事をしていて達成できるのかと問われました。岩手の人のためになりたいなら、町づくりをするために働け、そのためにはまず情報収集から始めろ」と猛プッシュ。  情報収集をしていると、東京・有楽町にあるNPO法人ふるさと回帰支援センターにたどり着く。ここは、46都道府県の移住情報が集まるサポート施設。岩手県のコーナーでもらったチラシに陸前高田市の地域おこし協力隊があった。  その後、陸前高田に絞って調べていくなかで見つけた市内の一般社団法人の求人に応募したが、採用には至らなかった。JRに退職する意向を伝えるのは次の勤め先が決まってからにしようと思っていたという松田さん。2月時点で4月以降に働く場所が決まらず、かなり焦ったという。 夕日がオレンジ色に染めた陸前高田の海。この絶景も、家庭菜園で取れた野菜のおすそ分けも、街の日常だ 「不採用になった一般社団法人で面接を担当してくれた人に、恥をかく前提で電話をしました。その人が別団体の副理事長もされているとのことで、そちらを受けさせてもらったんです。それが、いま自分が地域おこし協力隊として働く、移住定住の支援団体『高田暮舎』です」  東日本大震災のあと、ぐっと人口が減った陸前高田市。移住定住のための統括窓口が用意されておらず、情報の集約や移住者数の把握もできていなかった。こうした情報を一本化して移住定住に取り組もうと、「特定非営利活動法人高田暮舎」が設立されたのが2017年。移住定住促進のための相談窓口を設け、移住定住ポータルサイト「高田暮らし」や空き家バンクの運営、移住者コミュニティの形成など、さまざまな活動をしている。  また、陸前高田市から地域おこし協力隊の活動支援業務を受託しており、松田さんと同じく、地域おこし協力隊として着任した人が複数在籍している。松田さんは「移住定住コンシェルジュ」として、移住を考えている人たちの相談や、実際に現地にきた移住希望者の案内を担当している。 「2020年は70~80件くらい問い合わせがありました。新型コロナウイルスの影響もあり、現地での案内が気軽にできないので、オンラインで町のさまざまな場所を映しながら案内をしました。思いのほか好評でしたね」  問い合わせが多くなった理由は、リモートワークになり会社に出社しなくてよくなったことと、地域からスカウトが届く移住スカウトサービス「SMOUT(スマウト)」からの流入だという。  ほとんどは、陸前高田や岩手と関係のない人。なかには、震災のときにボランティアで関わっていたことがある人や、震災直後にできなかったことを震災後10年のタイミングでやりたいと考えている人もいるという。  松田さん自身のケースでは、Uターンだったこともあり、陸前高田での暮らしについてはおおよそ想像がついていた。移動のために車の購入が必須だとか、家賃は相場より高いといったことを想定できたぶん、岩手に戻るハードルは低かった。 高田市のシンボル的存在の「奇跡の一本松」。震災後、一度伐採され、保存処理が施されている  陸前高田市は津波によって大きな被害を受けているため、平地に家は建てられない。結果、高台の土地代が高くなり、1Kのアパートの家賃も5万5000円から6万円と、東京近郊のベッドタウンと大差ない価格になっているのだ。  高田暮舎が運営する陸前高田市の空き家バンクは、物件の間取り紹介だけでなく、この家だからこそ楽しめる過ごし方や、家主さんのおすすめポイントなどが書かれている。それは、「空き家の所有者」と「空き家の利用を希望する人」のマッチングを大切にし、不一致をなくすためでもある。  たとえば、家主(所有者)が陸前高田から離れて生活していて家だけが残っていることもある。周りから見たら空き家でも、家主にとっては空き家ではなく自分の家なのだ。この人だったら貸し出しても大丈夫だと家主に思ってもらい、借りる人にも家のストーリーを知ったうえで、大切にしてもらえるようにマッチングしているそうだ。 「僕も今、家を借りているんです。最初は仮設住宅に住んでいたんですが、取り壊されることになって。お酒の席で、知り合いのおじさんに、仮設住宅を出なくちゃいけないので家はないかと聞いたら、ここを紹介してくれました」 松田家ので育ったレタス。スーパーで買う必要がないほどの大豊作で、自然の恵みに感謝する日々  紹介で借りることとなった立派な一軒家には、松田さんと妻の二人で住んでいる。  この家は震災前、地域でも面倒見のよさで有名だった女性が住んでいた。震災時は、ボランティアたちの宿泊場所にもなった。「春夏秋冬、家の周りに花が咲くんです。亡くなったお母さんが庭を大事にされる方だったそうで、それが今でも残っているんです。雑草だと思って刈ろうとしたら花だったようで、花が好きな奥さんに怒られたこともあります(笑)」  地域おこし協力隊として着任する前は、町のために何かしなきゃ、仕事としてしっかり関わらなくちゃといった気持ちが強かった。「この町の人が幸せかという漠然としたことより、隣のお父さんが楽しく暮らしているかとか、あの家のお母さんが困っていたら寄り添うとか、そういう身近にあることが一番大事なんじゃないかなって考えに変わってきました」。 妻がもらってきた野イチゴの苗も、立派な実をつけた。家の庭でいちごができるなんて、素敵すぎる  仕事をしたり地域で交流をしたりして、町をつくっているのは地元の人たち。みんなの思いをすべて拾うのは大変だが、広くアンテナを張れるようになった。この人と一緒に何かやりたい、自分ができなくてもこの人ならできるという意識で、町全体でやればいいという発想になれたのは、大きく成長できた部分だという。 「この町は廃れていく一方だという言葉の裏側で、地元の人たちは来てくれる人たちに期待しているんです。地元の人と、移住したいと考えている人との間でミスマッチが起こらないように、移住コンシェルジュとして等身大の陸前高田を、背伸びせず正直に伝えて町に人を迎えたいと思って活動しています」  移住は、何かを成し遂げたいとか前向きな理由だけじゃなくていいと話すのは、彼自身がUターンを決めた理由のひとつに「都会から逃げたい」という思いがあったからだ。 「普通に暮らすことは、大切だと思うんです。都会のよさもあれば、地方のよさもある。移住すれば何かを失うリスクだってあると思います。でも、その変化を、こんなもんだよねって気楽に考えてもらえたらいいなと思います」  人口1万8000人ほどの陸前高田市。最初は“どこどこのお兄ちゃんだよね”と言われ、話しかけられるのにためらいがあったが今ではそれにも慣れた。彼が移住してから経過した時間の分、着実に“高田人”になってきているということだろう。 (構成/生活・文化編集部 清永 愛)
俳優とシェフを経験した監督が、レストランを舞台に業界の問題の核心に迫る
俳優とシェフを経験した監督が、レストランを舞台に業界の問題の核心に迫る 映画「ボイリング・ポイント/沸騰」(c)MMXX Ascendant Films Limited  ロンドンの高級レストラン。シェフのアンディは多忙と妻子との別居で精神的にギリギリ。そんななかグルメ評論家が来店することになり……。スリリングな展開で、人種やジェンダー差別、低賃金労働などの問題も描く。──。連載「シネマ×SDGs」の13回目は、シェフ経験を持つフィリップ・バランティーニ監督が、レストランの舞台裏をワンショットで撮影した『ボイリング・ポイント/沸騰』について話を聞いた。 *  *  *  俳優をしながらレストラン業界で15年働いてきました。ヘッドシェフも任されていたんです。自分がよく知っているこの世界を舞台に、リアルで生々しく、スリリングで真実に満ちた映画を作りたいと考えました。 映画「ボイリング・ポイント/沸騰」(c)MMXX Ascendant Films Limited  クリスマス前の金曜日の一夜のレストランが舞台です。予約がぎっしりの多忙さのなか、厨房(ちゅうぼう)やフロアでは次々に問題が起こります。脚本はワークショップでの俳優たちの言葉から作り上げました。彼らが普段感じていることや経験したことが映画に反映されています。ワンショット撮影のために、リハーサルを何度も繰り返しました。相当なプレッシャーでした。しかもロックダウンで予定の半分の4テイクしか撮れなかったんです。運良く3テイク目がうまくいっていたのでホッとしました。 映画「ボイリング・ポイント/沸騰」(c)MMXX Ascendant Films Limited  映画には低賃金労働や人種差別など様々な問題が含まれています。主人公のシェフは重圧からアルコール依存になっています。これらは世界中のあらゆる業界で起こっていて、しかし表に出にくいものです。それらに光を当て、実際に現場で何が起こっているかを知ってほしかったのです。 映画「ボイリング・ポイント/沸騰」(c)MMXX Ascendant Films Limited  現代人は常に二つの仮面をつけていると思います。SNS上では誰も問題など抱えていないようにみえます。友人に「元気」と答えても実際は違うかもしれません。 フィリップ・バランティーニ監督(Philip Barantini)/1980年、英国出身。96年に俳優としてキャリアをスタート。2010年代後半から監督業を手がける。本作は15日から新宿武蔵野館ほか全国公開(photo Barnaby Boulton)  英国ではコロナ禍でレストランやホスピタリティー業界で働く人々が大きな打撃を受けました。支援も不十分で独立系の店の多くが閉店し、なかなか元に戻りません。本作がなにか人々の目を開き、他者の別の顔や、内に抱えているものを理解する助けになればとも思います。そしてレストランに行ったときは、ぜひその素敵な一皿の裏で一生懸命がんばっている人たちを想像してみてください。(取材/文・中村千晶) ※AERA 2022年7月18-25日合併号
「夏休みなのに旅行も行けず、学童に通うのは嫌!」と言う小2息子 共働き夫婦の悩みにアドバイス
「夏休みなのに旅行も行けず、学童に通うのは嫌!」と言う小2息子 共働き夫婦の悩みにアドバイス ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  小学2年生の息子と保育園年長の娘を持つ40代の父親。学童保育にいきたがらない息子の夏休みの過ごし方について悩んでいます。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *   *  * 【相談者:8歳の息子と5歳の娘を持つ40代の父親】 小2の息子と保育園年長の娘を持つ40代の父親です。下の娘は7月、8月フル通園予定ですが、息子の通う小学校はまもなく終業式で、そこから8月末まで休みとなります。我が家は都内在住で、夫婦共働き。両親の実家もすぐ近くです。この40日以上もの夏休みの間、息子は自治体の運営する学童保育に通う予定ですが、ただ時間をつぶしているようで、「里帰り(家族旅行)する友達の家族がうらやましい」と言って嫌がります。  私は有休を3日ほどしか取れませんし、妻は、毎日学童に持っていくお弁当作りが待っているので、すでに憂鬱な様子。息子をどうなだめればよいでしょうか? サマーキャンプなどに参加してくれれば、一気に日にちが稼げますが息子は内弁慶なため、親がいないと行きたがりません。 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「君子は博(ひろ)く文に学びて、之(こ)れを約するに礼を以(も)ってす。亦(ま)た以って畔(そむ)かざる可(べ)し」(雍也第六) ・「楽しみ亦た其(そ)の中(うち)に在り」(述而第七) 【現代語訳】 ・立派な人は広い教養を持たなければならない。幅広く勉強したことを集約するのに、礼すなわち正しい生活様式に基づいて実行していくならば、道にそむくことはないだろう。 ・楽しみは、おのずとその中にある。 【解説】  暑い日が続きます。年々、暑さは増し、気象庁と環境省が外出を控えるようにと警報を出すまで危険な状態になってしまいました。それは、都内も地方も同じです。息子さんのように「里帰り(家族旅行)する友達の家族がうらやましい」と思う人も多いかもしれませんが、この暑さが続くなら、かえって出歩かないほうがいいのではないかとさえ思ってしまいます。 山口謠司先生  さて、暑さを理由に、息子さんの気持ちをなだめるということはできませんが、相談者さんは、この夏休みに「楽しい学びを40日間続けさせてあげる」というプレゼントをしてはいかがでしょう。 「君子は博(ひろ)く文に学びて、之(こ)れを約するに礼を以(も)ってす。亦(ま)た以って畔(そむ)かざる可(べ)し」(雍也第六)  広い教養を必須とし、ただ学ぶだけでなく学んだことを、礼に基づいて行うことが必要だと説いた孔子の言葉です。「博文約礼」という四字熟語の元になった言葉であり、孔子の学問論に一貫する考え方です。  孔子が生きた2500年前の「文」とは、学問だけではなく、文化的なことすべてに精通した広い教養のことを意味しました。相談者さんは、音楽、図工、料理、ダンス、囲碁・将棋など、息子さんが、ふだんの学校生活ではできない体験ができるような40日にしてあげてはいかがでしょうか。近くに住んでいるご両親が、習い事の送り迎えをしてくれるなら、孫が学ぶ姿を楽しめるのではないでしょうか。もし、習い事にお金がかかるようであれば、野菜や植物を育てるのも一案です。  子どもの時の体験というのは、とても大切なものです。子どもの可能性は無限です。子どもは、自分がやっていて本当に楽しいと思うものを見つけると、それまでとはまったく違う人格を身につけ、どんどん成長していくことができるものなのです。ぜひ夏休みをフルに使って、「学校では教わることができない学び」ができるプランを練ってみてはいかがですか? 「博く文に学びて」という言葉は、単に教養を身につけるということをいうものではありません。息子さんが、自分が行うことに心から喜びや楽しみを見いだせれば「内弁慶」という気性も変化するかもしれません。  また、『論語』には「楽しみ亦た其(そ)の中(うち)に在り」(述而第七)という言葉もあります。「今」という瞬間に没入して「生きていること」を喜びと感じていることを表した言葉です。  大人は、往々にして過去に対する後悔、将来に対する不安を抱え、「今」に没頭することができなくなってしまいます。でも、覚えていませんか? 自分が子どもの頃に、何かに一心不乱に一所懸命であった瞬間があったことを。息子さんに、ぜひ、そういう時間を持たせてあげてください。 【まとめ】 夏休みをフルに使って、学校では学べない幅広い教養を身につけさせてあげよう。楽しみを見つければ「内弁慶」な性格も変わるかも 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
「こだわりはお客さんにわからなければ意味がない」 ミシュラン獲得ラーメン店主の“取捨選択”
「こだわりはお客さんにわからなければ意味がない」 ミシュラン獲得ラーメン店主の“取捨選択” カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。鶏清湯で3年連続の『ミシュランガイド』掲載を果たした店主の愛するラーメンは、同じ店で修行した店主が紡ぐ、手もみの自家製麺が光る珠玉の一杯だった。 ■「あえて自家製麺にしない」 ミシュラン獲得店のこだわり  西武池袋線・東長崎駅南口から徒歩2分。小さなビルの2階に「カネキッチン ヌードル(KaneKitchen Noodles)」はある。つけ麺の名店「六厘舎」出身の店主・金田広伸さんが、「六厘舎」とは真逆の清湯系のラーメンで勝負した店。「ミシュランガイド東京」で3年連続のビブグルマンを獲得し、頂点を極めた。 カネキッチン ヌードル/東京都豊島区南長崎5-26-15 マチテラス南長崎 2F/[木~火] 11:30~15:00、18:00~21:00、水曜定休※麺、スープなくなり次第閉店/筆者撮影 「カネキッチンヌードル」のラーメンは、“鶏清湯”と分類される。地鶏の丸鶏をぜいたくに使ったダシ感の分厚いスープ。ここに黄金の鶏油を合わせ、うまみを倍増させる。ここに柔らかくゆで切った麺をくぐらせ、至高の一杯が完成する。  2019年5月まで鶏清湯を提供していた「飯田商店」(神奈川・湯河原)の大ブームや、「トイボックス」(東京・三ノ輪)や「カネキッチンヌードル」などの名店がミシュランガイドに掲載されたことをきっかけに関東を中心に鶏清湯の店が増え、空前の鶏清湯ブームが到来した。 「いきなりの大ブームで、自分の実力以上に後ろから背中を押されている感覚でした。お店がたくさん増えて鶏清湯が一般化してからは差が生まれにくくなっていると思います。私はラーメンがおいしいのは当たり前として、差別化できる他の目線をはじめから探していました」(金田さん) カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。名店「六厘舎」で修行した(筆者撮影)  金田さんが他店との差別化のために注力したのは、とびきりおいしいチャーシューの開発だった。レアチャーシューとくんせいチャーシューをいち早く取り入れ、“チャーシューのうまい店”としてメディアで引っ張りだこになった。 「スープをこれ以上頑張ってもマニアックになるだけだなと思いました。“こだわり”というのはお客さんにわからなければ意味がないと思っています。もっとお客さんがおいしいと思うポイントは他にあるはずと思って、チャーシューに行きつきました」(金田さん) カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」は醤油の配合を間違ったことから生まれたという(筆者撮影)  金田さんは、繁盛店は長く続けられるようにすることこそが大事だという。こだわり続けることも大切だが、原価や工数との戦いも待っている。「六厘舎」出身の金田さんは、続けることの大変さとその術を知っているのだ。あえて自家製麺にしないなど、こだわりの中にも取捨選択が必要だという。  今後、店舗を増やしたい思いはあるが、路面店の展開は考えていない。今のラーメンをしっかりレシピ化し、フードコートなどに展開できるようにしていきたいという。「六厘舎」での商品開発経験を役立て、次なる挑戦をしていくという。 カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。名店「六厘舎」で修行した(筆者撮影)  そんな金田さんの愛するお店は、「六厘舎」時代の後輩が埼玉でオープンした店。西武ライオンズを愛する夫婦が所沢で開いた名店だ。 ■テレビで同級生の活躍を見て… ラーメンの世界に飛び込んだ男の挑戦  西武池袋線・狭山ヶ丘駅の西口から徒歩1分のところに、連日大人気のラーメン店がある。「自家製手もみ麺 鈴ノ木」だ。開店4年目ながら埼玉でもトップレベルの人気を誇る有名店。店主の鈴木一成さんが一玉ずつ手もみするモチモチの自家製麺が自慢で、ダシ感たっぷりのスープとの相性は抜群だ。 自家製手もみ麺 鈴ノ木/埼玉県所沢市埼玉県所沢市狭山ケ丘1-3003-83/11:30-15:00 火曜・水曜定休日 不定期で夜営業有り。詳細はお店のTwitter(@suzunoki0802)にて/筆者撮影  鈴木さんは埼玉県幸手市に生まれた。小中高と野球をやっていて、西武ライオンズの大ファン。西武は当時常勝時代で秋山・清原・デストラーデが大活躍していた頃だ。幼い頃から、家族旅行で訪れた栃木県佐野市や福島県喜多方市のラーメンが大好きだったという。  高校を卒業し、ヤマト運輸のドライバーとして働いた後は、お菓子の工場で働いていた。ある日、テレビで東京都品川区大崎にある「六厘舎」の行列がすごすぎて、移転を余儀なくされているというニュースを見た。そのとき、店長としてインタビューに答えていたのが、中学の同級生・瀬戸口亮さんだった。仲の良かった同級生が繁盛店で店長をしていることに衝撃を受けた鈴木さん。久しぶりに瀬戸口さんに連絡をすると、「今、人がいないので良かったら来ない?」と誘われた。そこからが鈴木さんのラーメン人生のスタートである。27歳の頃だった。 鈴ノ木の製麺機。モチモチの自家製麺が自慢だ(筆者撮影) 「六厘舎」では東京ソラマチ店(東京都墨田区)で働いた。そのうち2年間は店長に抜擢(ばってき)された。店舗展開がスタートし、会社が変わっていく時期で、40~50人の従業員のマネジメントをやるという役割だった。ラーメン作りというよりは、店作りをしっかり学べた時期だった。その頃、瀬戸口さんが先に独立し、「つけめん さなだ」を埼玉県の三郷でオープンした。この瀬戸口さんの独立が、鈴木さんの独立を考えるきっかけになった。 「会社の中でのステップアップもあり得ましたが、多忙なのと精神的にもつらいかなと思いました。店長として1店舗を見るだけでも大変なのに、多店舗は難しいだろうと判断したんです。自分は経営者ではなくラーメン職人になろうと決意しましたが、独立するにはラーメン作りを知らなさ過ぎたことに気づきました」(鈴木さん)  そこで、独立するにはどうしたらいいかを東京・東小金井のラーメン店「くじら食堂」の店主・下村浩介さんに相談した。もともと多加水でピロピロとした手打ち麺が好きで、「くじら食堂」の常連になって顔を覚えてもらっていた鈴木さん。下村さんに紹介してもらった店で修業することになる。 「器、醤油、地鶏など使うものはもちろん、1日のムダのない使い方など、今やっていることの9割はここで教わったことです」(鈴木さん) 「鈴ノ木」店主の鈴木一成さん。27歳の頃に「六厘舎」に飛び込んだ(筆者撮影)  この修業に合わせて、東京都葛飾区の「金町製麺」でもバイトという形で製麺などを教わった。鈴木さんは独立に向けて、大好きな“多加水の手打ち麺”を極めたかったのだ。幼い頃から好きだった佐野や喜多方のラーメンの麺を職人になっても追い求めた。  この頃は、結婚して埼玉県吉川市に住んでいた。独立に向けて開業資金を貯めていて、いよいよ独立をと考えた時に、所沢市にある西武ドーム(現・ベルーナドーム)の近くに店を出す案が浮かび上がる。夫婦そろっての西武ライオンズファンだからだ。 西武ライオンズの大ファンだという鈴木さん。店内にもその思いがあふれている(筆者撮影) 「静かな場所でゆったりとラーメンを作りたいという思いがあり、そうなると西武ドームの近くはいいのではないかという話になったんです。妻も09年からの西武ファンだったので。もしかしたら選手が食べに来てくれるかもという淡い期待をしながら、16年に小手指に引っ越し、狭山ヶ丘駅前に店をオープンしました」(鈴木さん) 鈴ノ木の「特製ラーメン」は一杯1200円。3種のチャーシューや手作りのワンタンもおいしい(筆者撮影)  こうして18年10月、「鈴ノ木」はオープンした。年内はオープン景気で繁盛したが、年明けから3月までは客足が悪く不安な日々が続いた。だが、鈴木さんは限定メニューには逃げず、グランドメニューをひたすら磨き続けた。すると徐々に評判が広がり、口コミサイトでも高得点が付くようになった。そして、秋の「TRYラーメン大賞」や「ラーメンWALKER」での受賞がきっかけとなり、大人気店の仲間入りとなった。今やエリアを代表する名店として、多くのファンが訪れている。 「カネキッチンヌードル」の金田店主は、鈴木さんのラーメンを高く評価する。 「『六厘舎』時代に最後の2年間を一緒に過ごしました。温厚で優しい性格で、どんなラーメンで独立するのかずっと楽しみにしていました。自宅で試作していた時代から食べさせてもらいましたが、最初からかなり完成度が高かったですね。うどん屋でも小麦の使い方を学んだそうで、いい麺を作っていると思います。地域に根付く理想のお店ですね」(金田さん) 手打ち麺を極めた(筆者撮影)  鈴木さんも金田さんのセンスには驚くばかりだ。 「『六厘舎』の先輩ということで、いろいろと教えていただいています。修行先と真逆のラーメンを作って、さらに高く評価されるというのは本当にすごいことだと思います。センスがとにかく抜群で、うまいものを作らせたらその腕はピカイチです」(鈴木さん) 麺は目の前で一玉ずつ手もみしてくれる(筆者撮影)  同じ「六厘舎」出身でも、これほどまでに違うラーメンで人気を勝ち得ているのはすごい。別のラーメンを作っていても、大事にしている部分は同じなのだと思う。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho
安倍元首相の襲撃事件で宮内庁長官も皇室警備の苦悩明かす「日本人は人との触れ合いを大切にする」
安倍元首相の襲撃事件で宮内庁長官も皇室警備の苦悩明かす「日本人は人との触れ合いを大切にする」 一般参賀でおことばを述べる天皇陛下と皇后さま(2020年1月)  安倍晋三元首相が銃撃で殺害された事件を受けて、警察の警備・警護の「穴」に注目が集まっている。この件を受けて宮内庁の西村泰彦長官は14日の会見で、「国民との親和を妨げない形で、いかにご身辺のご安全を確保するかは、警察の永遠といってもいい課題」と悩ましい胸の内を吐露した。国民とのふれ合いと安全の確保の両立は、政治も皇室も長年の課題である。   安倍元首相の後方の警護を担当した警察官が、「道路を走る自転車などに気を取られ、容疑者に気づかなかった」と説明していることから、警備能力そのものの問題も大きい。  一方で、日本で警備対象となる要人の警護が苦労の連続であるのも事実だ。警備対象者の理想と、警備・警護側の思惑がかみ合わないからだ。  政治ジャーナリストの角谷浩一さんは、政治家はのぼり旗と一緒に商店街を練り歩く「モモタロウ」やミカン箱に乗っての演説など、庶民性をアピールしてできるだけ人との距離を縮めてきた、と話す。 「しかし、それなりの地位にいる政治家の場合、警備をする警察は何かあったときに守れないので、人と距離が近いのを嫌がります」  危険で守れないから有権者の中に入るのはやめてほしいと警察側が選挙事務所に説明したとたん、「落選させる気か」とスタッフが警察側にくってかかる――。角谷さんはそんな光景を何度も目にしている。 令和では悠仁さまが標的に  警察の警備・警護担当者と要人側のせめぎ合いは、長年の課題だった。  むろん皇室もそうだ。  反皇室闘争によるゲリラ事件が多発した昭和から平成の時代、皇室は、重要な警備・警護対象になっていた。昭和天皇の発病から大喪の礼まで、新左翼過激派の反皇室ゲリラは22件に及んだ。 1992年山形で開かれた国体。発煙筒が投げられた瞬間天皇陛下をかばおうと手を出す皇后さま(当時)  平成に入ってからも反皇室による事件は、しばらく続いた。さらに、1992年に山形で開かれた国体では、開会式で天皇陛下が「お言葉」を述べている最中に、ロイヤルボックスに向けて発煙筒が投げられる事件が起きた。このとき、美智子さまはとっさに天皇陛下の胸の前に手を出して、陛下をかばう姿勢を見せた。  平成の終わりから令和に入ると、左翼ゲリラによる事件も影をひそめた。しかし、反天皇思想による過激な事件はいまだに起きている。  令和元年となる直前の2019年4月には、秋篠宮家の長男で皇位継承順位第2位となる悠仁さまが標的にされる事件が起きた。  悠仁さまが通っていたお茶の水女子大学付属中学(東京都文京区)に男が忍び込み、悠仁さまの机に刃物2本を置いたのだ。逮捕された男は、「刺すつもりだった」と供述している。  先月25日にも、包丁とともに皇族を批判する内容が書かれた手紙が宮内庁に送りつけられた。その手紙には、複数の皇族の名前とともに皇族への批判が書かれていた。宮内庁の事情に詳しい人物によれば、 「その中には、秋篠宮家の皇族方の名前があったそうです」  悠仁さまが現在通う、筑波大学付属高校(東京都文京区)にも入学に合わせて学校の敷地を囲むように有刺鉄線や不審者の侵入を防ぐための「忍び返し」が新たに設置された。また、正門には24時間体制で民間の警備員を常駐させるなど警備体制は強化された。 「日本の警備は過剰」の真意  一方で、宮内庁サイドとすれば歯がゆい思いもある。 「日本の皇室は、国民との触れ合いで信頼関係を築いてきた。令和に入っても皇室を標的にした事件が起きていますが、それでも移動の際に車の窓を開けるのは、国民への信頼の表れでもあります」  そう話すのは、元駐ラトビア大使で宮内庁では侍従として平成の両陛下に仕えた多賀敏行・中京大学客員教授だ。   多賀さんが侍従として仕えたのは、1993(平成5)~96年。国内ではまだ反皇室闘争の影がチラつき、海外では反日感情が渦巻いていた時期だった。  一方で、皇室側は、ソフトな警備を望んでいた部分もある。 「国民と触れ合いと交流を続けたいという天皇や皇族方のお気持ちを誰よりも理解しているだけに、警備当局としても悩ましい問題であったと思います」(多賀さん) 90年即位の礼を終え報告で関西訪問の両陛下に中核派などの反対集会  上皇ご夫妻はともに戦時下での疎開を経験している。特に、上皇さまは学習院初等科時代に3度の疎開を経験し、空襲で焼けた宮殿を目の当たりにした。敗戦によって皇室の存続が危ぶまれたことも、身をもって知っている。  そのなかで、「人間宣言」を行った昭和天皇は、神話と伝説に基づく神であることを否定し、全国各地を巡幸した。人々と触れ合う中で、「象徴」という新たな天皇像の模索を始めた。  そうした昭和天皇の姿に学んできた平成の明仁天皇と皇后美智子さまは、集まった人たちの目を見て手を握り、言葉を交わし、信頼を築きあげてきた。    そして学生時代に英国留学から帰国した浩宮さまは、記者会見で「日本の警察は英国に比べて警備が過剰」と話し、警備の緩和への期待をのぞかせた。  令和の天皇陛下と皇后雅子さまも、被災地では床にひざをつき、被災者と目を合わせて耳を傾け、静養先では出迎えた人たちと顔を寄せて会話を続けてきた。   そうした天皇や皇族方の希望をかなえようと、憎まれ役になったのが、そばに仕える側近たちだ。触れ合いの妨げにならないよう目立たない警備を、と口出しをしてくる側近は、警備当局から常に睨まれていた。 「警備側からすると、万が一の場合、人との距離が近いほど護衛対象である天皇や皇族方を十分にお守りすることが難しくなる。当然といえば当然です」  国内はまだいい。頭を悩ませたのが海外訪問時だった――。(AERA dot.編集部・永井貴子)  ※記事の続きは後編<<「女王自ら天皇の「盾」となった欧州王室と、「手榴弾は投げ返せ」の米国 日本皇室への警備の差>>に続く
小田嶋隆が亡くなる前日に語った“最初で最後の小説集”への思い
小田嶋隆が亡くなる前日に語った“最初で最後の小説集”への思い 小田嶋隆(おだじま・たかし)/ 1956年、東京都北区赤羽生まれ。コラムニスト。2022年6月24日、病気のため死去。享年65。著書に『ア・ピース・オブ・警句』『場末の文体論』『上を向いてアルコール』など、共著に『人生の諸問題 五十路越え』など。  鋭い批評で有名なコラムニスト小田嶋隆さんに、短編小説集『東京四次元紀行』(イースト・プレス 、1650円・税込み)に関するインタビューを申し込んだのは、亡くなる2日前。その時、担当編集者の説明では、痛み止めの薬で眠っていることが多いということだった。 「これが最後の仕事になるかもしれない」と思ったという妻のミッカさんに、本書の感想と、聞きたいことを綴った手紙を送り、それを枕元で読み上げてもらった。それが亡くなる前日のこと。そのやりとりを記したメモが、訃報の後に届いた。  ミッカさんは「なかには意味不明なところもありましたが、行きつ戻りつしながら答えようとしていました」という。 「(長年)小説は、果たせなかった願望でした」  本書は、小田嶋さんにとって最初にして最後の小説集となった。あとがきに<登場人物のキャラクターを変更してみたり、風景や街の描写に工夫を凝らしたり、時代設定を考え直したりする作業は、実際にやってみると、子どもが積み木で遊ぶような、楽しい仕事だった>と記している。  初めてとは思えない完成度で、特に冒頭の「残骸──新宿区」は、<私>を起点に記憶の底にある人たちとのことを綴った実話のようにも読める。  構成も手練れだ。20代後半に<私>が繁華街で出会ったチンピラから、その内縁の妻、その娘へと、数珠つなぎのように主人公の姿を切り取っていく。1980年代によく読まれた米国の著名コラムニスト、ボブ・グリーンを思い起こさせるところもある。視点は客観的ながら、情感のある文体が独特だ。 「(東京23区をそれぞれの舞台にしたのは)そこしか知らないから」  悪たれたちが夏休みに浅草の花やしきを目指す「ギャングエイジ──台東区」では、仲間からはぐれてしまった少年が、<爺さん>に呼び止められバス賃を拝借する。二十数年して、その場所を訪ねてみる話だが、台詞のやりとりから街の風景が浮かびあがる。 「何度も下書きしましたが、台詞は工夫なし。自分の中から出てきたもの。どの作品も、体験の断片が関わっています」 「対人関係」がうまくいかず、誤解されやすい人たちが登場人物というのも、小田嶋さんらしい。「猫殺し」を犯した少年のその後を描いた一連の短編も印象深い。橋の欄干を歩く危うげな少年に、失業中の<私>がかけた言葉は、人生への助言のように響く。 「(猫殺しはフィクションですけど)欄干の上は昔、自分も歩いたことがありました。細かいところまで読み込んでいただき、ほんとうに感謝感激、雨霰(あめあられ)です」。この後半部分は、ちょっとおどけたように口にしていたという。  葬儀はしないでという本人の意思を尊重しつつ、熟慮の末「問い合わせのあった人たちにはお伝え」して先日、送別会が開かれた。還暦を機に習い始めた小田嶋さんのギターの先生が、会場で奏でるボブ・ディランの曲が良かった。(朝山実)※週刊朝日  2022年7月22日号

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