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20代独身男性「4割がデート経験なし」だけ切り取られた調査の大事な内容
20代独身男性「4割がデート経験なし」だけ切り取られた調査の大事な内容 ※写真はイメージです (GettyImages) 「20代独身男性の4割がデート経験なし」という部分ばかり、切り取られて報じられた「2022年版男女共同参画白書」。しかし、そんなメディアの切り取りに悪ノリしている場合なのだろうか。(フリーライター 鎌田和歌) テレ朝のタイトルがツイッターで大ウケ 「4割がデート経験なし」、こんな刺激的な言葉が今週初めにツイッターでトレンド入りした。これは政府が6月14日に「2022年版男女共同参画白書」を閣議決定したことを報じるニュースによるものだ。  共同通信の「30代4人に1人が結婚願望なし 婚姻は戦後最少、共同参画白書」がYahoo!のトップニュースとなり、テレ朝ニュースの「20代独身男性『4割がデート経験なし』内閣府の調査」も大いに話題になった。  共同通信記事はともかく、テレ朝ニュースのタイトルは若干あおりが入っていないだろうかと感じる。当然ではあるが、これは「男女共同参画」に関する網羅的な調査結果であり、デートや恋愛経験の有無に絞った調査ではない。  テレ朝がこの部分を特にピックアップした意図は、この部分がもっともウケが良いと判断したからだろう。そしてその意図通りにネットユーザーたちが反応し、拡散した。  記事タイトルをネットのノリで受け止めると、「【悲報】内閣府さん、20代独身男性の4割が非モテと気づいてしまう」などとなってしまう。昨今のネット上では「非モテ」や「恋愛弱者男性」に関するトピックに注目が集まりやすく、これに関して自虐、悲哀、憤り、ネタ化、大喜利が繰り返されている。  知ってか知らずか、この状況にテレ朝記事のタイトルはピタッとハマった。  とはいえ、繰り返すが、「2022年版男女共同参画白書」は若者のデートや恋愛経験に的を絞った調査ではないし、ましてや非モテ若年男性に眉をひそめるような分析もなされていない。  ここはひとつ、この調査を基にまとめられた「特集 人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~」から気になる部分をピックアップして、この調査で見るべきポイントを挙げたい。 夫婦同姓は日本の伝統ではないという指摘 「特集 人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~」は、全部で106ページからなる長文のリポートだ。  これは前述の男女共同参画白書や、関連する厚労省などの調査を横断的に引用し、現在の状況や今後を分析している。  個人的に興味深かったのは、「コラム2」の「歴史考察~昭和より前の時代の、我が国の家族を取り巻く状況~」だ。  要約すると、ここでは「我が国」で「伝統的」と思われているものの中に、実はそうではない慣習も含まれているという指摘がなされている。人々がなんとなく「日本は昔からこうだよね」「昔は良かった」などと思い込んでいるものについての指摘である。  たとえば、平成・令和の時代は、昭和より離婚件数が多い。しかし明治時代までさかのぼると、人口比での離婚率は今の2倍だという。また、現代では婚外子の割合が諸外国と比べて低いが、明治時代の婚外子の割合は現在の4倍(9.4%)。さらに明治時代は家制度を維持するために養子縁組が非常に多かったことが紹介されている。  そして、こんな一文がある。 「関連して、我が国における氏の制度の変遷を見ると、平民に氏の使用が許されるようになったのは、明治3(1870)年以降である。さらに、明治9(1876)年の太政官指令では妻の氏は「所生の氏」(=実家の氏)を用いることとされており、夫婦同氏制が導入されたのは、今から124年前、明治31(1898)年の民法成立時である」  夫婦同姓は、日本の伝統ではないという事実が明言されている。  これは選択的夫婦別姓を求める人たちからすると、もう聞き飽きたほどの当然の史実であるだろう。しかしいまだに、夫婦同姓は日本古来の文化であり、それに背くことは伝統の破壊であるかのように言い募る人がいる。議員の中にでさえいるのが現状だ。  このコラムは、そのような言説にやんわりとクギを刺しているように思えてならない。 日本の「男女平等」は近代社会になって崩れた  続けて女性の労働についても、「男性は外で働き、女性は家庭を守るべきである」という考え方は、産業構造が転換した近代社会のものであるとも指摘されている。 「女性の労働参加率(15歳以上)の長期推移を見ると、明治43(1910)年以降、昭和50(1975)年に底を迎えるまで、長期的に低下傾向をたどっているが、この要因には、明治初年に始まる工業化への努力により、以前は家族従業者として就業していた層が非労働力化したことが寄与していると考えられる」 「以前は農業や自営業が多かったため、家業に従事している女性が多く、現在の女性とは働き方こそ異なるものの、女性は無償労働だけではなく、有償労働にも従事していた。『男性は外で働き、女性は家庭を守るべきである』という考え方も、産業構造が転換し、それまでの農家や自営業者を中心とする社会から、雇用者を中心とする社会に変わった際に生まれたものであることが分かる」  ツイッター上で度々話題になる動画がある。自民党の杉田水脈衆議院議員が衆議院本会議(2014年10月31日)でこんなことを演説する動画である。 「本来日本は男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは冷戦後、男女共同参画の名のもと伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指して来たことに起因します。男女平等は絶対に実現し得ない反道徳の妄想です」  このような演説の背景にある価値観に対する、「男女共同参画」からのアンサーだと捉えるのは、あながち間違いでもないだろう。 メディアに悪ノリせず、調査の重要なところを知ろう 「特集 人生100年時代における結婚と家族~家族の姿の変化と課題にどう向き合うか~」のまとめとして掲げられている「優先的に対応すべき事項」はたとえば、「女性の経済的自立を可能とする環境の整備」や「男性の人生も多様化していることを念頭においた政策」である。  また、「柔軟な働き方を浸透させ、働き方をコロナ前に戻さない」点にも触れられている。  これらから受け取るメッセージは何か。高度経済成長期に「普通」「当たり前」とされていた働き方やライフスタイルはもはや過去のものとなり、男女ともに生きやすく暮らしやすい社会を求めていくためには、考え方の転換や柔軟さが求められているということではないだろうか。  調査結果では、男性が自身の経済力を気にして結婚に前向きになれない側面があることが浮かび上がる。実際に女性は配偶者に経済力を求める傾向がいまだにあるが、一方でその背景には男女の賃金格差が今なお大きく、大卒女性の平均賃金が高卒男性と同じ水準といった事実がある。  もはや男性の稼ぎに頼って女性が家事・育児に専念するライフスタイルは過去のものになりつつあるのだが、その一方で日本の女性の社会進出は諸外国と比べ絶望的とも言える水準だ。  男女共同参画白書を出した内閣府が何のために調査を行っているかといえば、このような現状の打破のためであるはずである。  なのに、マスコミが「20代独身男性“4割がデート経験なし”」という側面だけを切り取り、面白おかしく消費され、一部では既存の価値観の上塗りに使われていく状況が、2022年の日本である。そろそろ悪ノリや冷やかしよりも良識を求めたい。 ※ちなみに、この報道についてはすでに窪田順生氏による『「若者の恋愛離れ」というインチキ話を政府・マスコミが蒸し返し続けるワケ』(6月16日)という論考があるので、そちらもご参照いただきたい。
「親を捨てたのではないか」要介護になった親を老人ホームに入れるときにぬぐえない罪悪感
「親を捨てたのではないか」要介護になった親を老人ホームに入れるときにぬぐえない罪悪感 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 自分の親が高齢になり、脳卒中などの後遺症でからだが不自由になったら、有料老人ホームなどの高齢者ホームに入居してもらいますか? 親の高齢者ホームへの入居を決めるのは、ほとんどが子ども世代という現状があり、家族ならではの決定の難しさがあるようです。介護コンサルタントで、『介護施設で死ぬということ』などの著書がある高口光子氏にお話をうかがいました。 *  *  * ■介護の日々は突然やってくる  親が脳卒中で突然倒れた。急いで病院に駆けつけると、幸い、命はとりとめたが、後遺症で左半身が不随に。急性期病院、リハビリ病院を経て、退院して自宅に戻ってくる。そのとき、ようやく気づきます。退院しても“もとの親”で戻ってくるわけではない。自立した立派な親ではなく、自分たちが守ってあげないといけない存在になっている。あるいは認知症を発症した場合には、進行してさまざまな症状が表れ、言動がまるで別人になっていってしまう……。 元気がでる介護研究所代表・高口光子氏  それまで介護とは縁がなく、介護についてほとんど知らない子ども世代にとって、まさしく青天の霹靂(へきれき)。介護って、自宅でするの? 誰がするの? 高齢者ホームに預けられるの?といった疑問に直面することでしょう。  高齢の親がいれば、いずれはそのような事態に陥るとは頭ではわかっていても、そうなったときの対策を具体的に考える人はあまり多くないようです。多忙な生活に取り紛れて、前向きに考える余裕がないというのが本当のところでしょう。 ■在宅介護は無理と判断はするが……  いまでは親と別居することはごく普通のこと。子どもをもつ高齢者世帯の約半数が、子どもと別居しているといいます。子どもには子どもの生活があります。40代50代は仕事で責任ある職務を任され、まだ家のローンも残り、子どもも教育途中、気持ちも経済的にも余裕がありません。60代ではようやく一息つけて第二の人生設計の真っ最中ですが、まだまだ働かないと経済的に安心できず、さらに自分たちの老後の心配が頭をもたげて、やはり余裕がありません。いきなり在宅で介護しろといわれても、対応できない場合が大多数ではないでしょうか。  また、介護について知識がないことから、自分たちではじゅうぶんな世話ができないことが原因で治るものも治らない、機能が戻らない、維持できるはずの力を失う、精神的な負担が生じるなどの事態に陥るのではないかと、不安でいっぱいになってしまいます。友人知人に聞いてみると、「在宅介護は本当に大変」というような話ばかり。  でも、本当に高齢者ホームに入居してもらうのでいいのでしょうか。  介護現場で多くの要介護者とその家族に接してきた介護コンサルタントの高口光子氏は次のように話します。 「ほとんどの家族は、仕方がない状況にある場合でも、親を老人ホームに入れることに罪悪感をもっています。たとえ、プロの介護職の手で、じゅうぶんな療養をさせたいと考えての入居でも、やはり『親を捨てたのではないか』という感覚はゼロにはならないようです」 ■親は「家族のためのホーム入居」だと、納得できる  親のほうはというと、子どもに迷惑をかけたくないことが先に立ち、高齢者ホームへの入居を強く拒絶する人はそれほど多くはないようです。 「ホームに入居してくるおじいちゃんおばあちゃんで、自分のためだけに入居する人はまずいないといっていいでしょう。内心では住み慣れた自宅で最期を迎えたいと思っていても、最終的に家族の負担になりたくないという気持ちが勝って、いわば“自己断念”して明るく入居してきます。家族のために入った、というのが入居の動機なら、納得できる、我慢して受け入れられるんです。特におばあちゃんにその傾向が強いようです」(高口氏)  入居を決めた親世代は、経済成長期やバブル期を忙しく生きた世代で、自分の親たち(子どもにとっては祖父母の世代)を高齢者ホームに入れた人も多く、もしかしたらそのことにいまだぬぐえない罪悪感を抱いていて、一種の罪滅ぼしのように「今度は自分が子どもたちに迷惑をかけない番だ」と考えているのかもしれません。 「1990年代に当時の“老人ホーム”に入居してきた明治生まれのおじいちゃんは、自分の家・田畑・財産を身を挺(てい)して守ってきたという自負がある。また、自分の時代になるまでは上の者に仕えて逆らわずにやってきた、ようやく自分の時代になった、という気持ちもある。そのために、ホームに入れられることを強く拒否して、入居してきてもずっと怒っているという人も多かったです。でも時が流れて終戦(1945年)前後生まれの昭和のおじいちゃんになると柔軟になって、家族のことを考える人が増えました。育った時代によってもホームについての考え方は異なるものです」(高口氏) ■ホームでの“今”の幸せを実現してあげる  子どもは、親が最期まで平穏で快適に過ごせることを第一に願う。親はできるだけ子どもの負担にならないように、でも子どもたちが満足できるように静かに最期を迎えたいと思う。どちらの気持ちにもウソはないとしても、家族であるが故の難しさがあるようです。  子ども側は、お父さんは「わかった」と言ったけれど本心ではないと思う、お母さんは「ホームに入るよ」と言うけれど、以前は「この家で死にたい」と言っていたはずなどと、親の言葉の裏を読み取ろうとします。一方、親の側は、息子は「兄弟と妻とでこの家で面倒をみる」と言ってくれるが、無理しているのではないか、「ちょうど早期退職しようとしていたの」という娘の言葉はウソではないか、などと、子どもの言葉を疑ってかかります。もちろん、善意からではありますが、互いの気持ちを忖度(そんたく)し始めたらきりがありません。さらに親族やケアマネジャーなどの第三者が加わると、それぞれの気持ちが揺れ動き、そうこうしているうちに、おじいちゃんもおばあちゃんも、本当に自分が望むところがどこなのか、わからなくなってしまいます。 「極論すると、家族がいなければ、ホームに入るにしろ自宅で最期を迎えるにしろ、すんなりと自分の意思を通せるかもしれません。しかし家族だからこそ、言葉の真意を読み取ってよりよい選択をしてあげようとするわけですから、忖度するなというほうが無理な話です。そういうときは、スタート地点に立ち返り、選択の理由を見直すことをおすすめします。そして、100%の満足はないことを思い出し、あきらめる点はあきらめて、そのなかでの最善を見つける努力をしてほしいです」(高口氏)  多くの高齢者ホームには、それでも強く明るく毎日を送るおじいちゃんおばあちゃんの姿があります。これまでの人生において仕事や人間関係でいやなこと、つらいことがあっても生き延びてきたしたたかさは健在で、環境に慣れる力は若い世代以上、“自己断念”した記憶すら塗り替えられているかもしれません。 「やむにやまれぬ現実のなかで、自分に折り合いをつけてホームに入ってきたお年寄りが、今、居心地がいい、おいしい、楽しい、今はこのホームにいて幸せ。そう思ってもらえるのがベストではないでしょうか」(高口氏)  自宅でもホームでも、離れていても常に気にかけて“今”を居心地よくしてあげること、それが家族にできる精いっぱいのことかもしれません。 (文/別所文) 高口光子(たかぐち・みつこ) 元気がでる介護研究所代表 高知医療学院卒業。理学療法士として病院勤務ののち、特別養護老人ホームに介護職として勤務。2002年から医療法人財団百葉の会で法人事務局企画教育推進室室長、生活リハビリ推進室室長を務めるとともに、介護アドバイザーとして活動。老健・鶴舞乃城、星のしずくの立ち上げに参加。22年、理想の介護の追求と実現を考える「高口光子の元気がでる介護研究所」を設立。介護アドバイザー、理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員。『介護施設で死ぬということ』『認知症介護びっくり日記』『リーダーのためのケア技術論』『介護の「毒(ドク)」はコドク(孤独)です』など著書多数。
娘に「父の日」をスルーされて寂しい父親 どうしたら家族に感謝されるのか“論語パパ”がズバリ!
娘に「父の日」をスルーされて寂しい父親 どうしたら家族に感謝されるのか“論語パパ”がズバリ! 「論語パパ」こと、山口謠司先生 小学5年生と3年生の娘を持つ父親は、毎年、「父の日」を家族にスルーされ、切ない気持ちになっています。父親だって感謝されたいのが本音。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *  *  * 【相談者:11歳と9歳の娘を持つ40代の父親】  小学5年生と3年生の2人の娘を持つ40代の父親です。毎年、「母の日」には娘たちが夕食を作ったり、妻にプレゼントを渡したりしていますが、「父の日」には何ももらえず、感謝の言葉もありません。今年の「父の日」も何もなさそうです。我が家に限らず、最近は「父の日」が見過ごされがちですが、なぜでしょうか。  自分は休日にゴロゴロしないし、酒もギャンブルもやらずに、毎日遅くまで妻と娘たちを養うために働いているのですが、全く報われません。見返りを期待するのはよくないとは思いますが、妻と娘たちの態度に疑問を感じますし、寂しいものです。心の持ちようを教えてほしいです。 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「人の己を知らざるを患(うれ)えず、其(そ)の不能をを患(うりょ)うるなり」(憲問第十四) ・「朽ちたる木は雕(ほ)るべからざるなり。糞土の牆(かき)は、ぬるべからざるなり」(公冶長第五) 【現代語訳】 ・「自分が人から分かってもらえないといって悩むのではなく、自分がまだうまくできていないということを悩むようにする」 ・「ぼろぼろになった木に彫刻はできない。悪い壁土で作った垣根は、どう塗りなおしても手に負えない」 【解説】  お答えします! 相談者さん、つい腐ってしまいそうなときは孔子のこの言葉を思い出してください。 「人の己を知らざるを患(うれ)えず、其(そ)の不能を患うるなり」(憲問第十四)  訳すと、「自分が人から認められないというのは悩みではない。自分がうまくできていないことこそが悩みである」という意味です。これは、2500年前の思想家・孔子がとても大切にしていた倫理で、弟子たちとの言行録である『論語』には、これと同じ趣旨の言葉が4度も繰り返されています。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  もし、妻と娘たちが「父の日」を祝ってくれない、「何ももらえず、感謝の言葉もない」のなら、それは、相談者さん自身がそうしてもらえない状況を作り出しているのです。  そもそも「休日にゴロゴロしないし、酒もギャンブルもやらずに、毎日遅くまで妻と娘たちを養うために働いている」なんて言って、自分を自分で慰めるなんて、恥ずかしいと思いませんか?  もしかして会社でも、自分の仕事を「報われない」「(だれも自分のことを構ってくれなくて)寂しい」と思っているのではありませんか? 暗い心を持っている相談者さんのような人のところには、誰も集まりはしません。 「報われない」「寂しい」「心の持ちようを教えてほしい」と、孔子に相談したら、きっと孔子は、相談者さんのことを「朽ちたる木は雕(ほ)るべからざるなり。糞土の牆(かき)は、ぬるべからざるなり」(公冶長第五)と言ってあざ笑うでしょう。「ぼろぼろになった木に彫刻はできない。悪い壁土で作った垣根は、どう塗りなおしても手に負えない」という意味で、厳しい言い方ですが、要するに「素質の悪い人間には叱ってもしょうがない」ということです。 「朽ちたる木、糞土の牆」と、孔子からなじられたのは、宰予(さいよ)という弟子でした。弁が立つ宰予は、立派なことばかり言うくせに、実際の行いがなっていないと、孔子に叱られたのです。孔子は、言葉と行いと思いが一致していることを「信」という言葉で表現し、弟子たちに教えていました。  翻って相談者さんはどうでしょうか? 家族を養うために働くことは立派ですが、その行いと自分の思いが食い違っていて、「自分は一生懸命がんばっているのに、評価してもらえない」などと嘆いていては、充実した幸せなど、いつになっても実現させることはできないでしょう。  では、どうすれば、「寂しい」などと思わずに、家族のみんなに、「父の日」を祝ってもらい、感謝の言葉をみんなからもらえるようになるのでしょうか。それには、毎日の積み重ねが必要です。  「お酒も飲まない」「ギャンブルもしない」「ゴロゴロしない」、こんなことをしないというだけで、誰も感謝はしてくれません。感謝されるのは、「こんなことをやってくれるなんて、ありがたい」とみんなが思ったときだけなのです。相談者さんは、まず「行動」を変えてみてください。妻や娘たちから感謝されることをやる、つまり、「やってもらったら人がうれしいと思うだろうなぁ」と思うことを根気よく、毎日続けることです。  そうすれば、相談者さんの心は、「糞土」からキラキラ輝くようになるでしょうし、みんなから喜ばれ感謝されて、「寂しい」なんていう言葉を忘れるくらい、多くの人が周りに集まってくるに違いありません。  一日一日、「自分にはまだ足りない」と思って、「何を言えば、何をすれば、人は喜んでくれるだろうか」と、そのことだけを考えて、行動を起こすようにしてください。 【まとめ】 家族に感謝されないのは、自分自身が作り出した状況。寂しいと嘆く前に、まずは日々の行動を変えてみよう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
【独自】河井案里氏、前回参院選直前に幹事長らと“サシ”面談 公認決定から夫妻への1億5千万円への起点に 面談記録を入手
【独自】河井案里氏、前回参院選直前に幹事長らと“サシ”面談 公認決定から夫妻への1億5千万円への起点に 面談記録を入手 前回の参院選で広島選挙区に立候補した河井案里氏と街頭演説する安倍晋三首相=2019年7月14日  参院選が6月22日に公示される。前回2019年では、「政治とカネ」の問題が大きなニュースとなった。広島選挙区で当選した河井案里氏と、夫で元法相の河井克行元法相の公職選挙法違反(買収)事件だ。選挙直前に党から河井氏側に1億5千万円が提供されていたことも判明したが、その経緯や使途についてはうやむやなままで、間もなく選挙に突入する。  AERAdot.編集部は、前回の選挙前に案里氏が一人で、二階俊博幹事長、甘利明選対委員長、林幹雄幹事長代理=いずれも当時=と面談し、広島選挙区からの出馬に向け、話し合っている様子を記録した資料を入手した。党内関係者は、そこが1億5千万円の始まりだったと話す。  20年7月に東京地検特捜部は河井夫妻を逮捕。その後裁判で、案里氏は執行猶予判決、克行元法相は懲役3年の実刑判決を受け、現在は服役中だ。案里氏の当選は無効となり、再選挙が実施され、自民党候補は惨敗した。  この事件、自民党本部が、19年4月から6月、参院選直前に1億5千万円を提供していたことが判明した。それが買収資金に充てられたのではないのかとの疑惑が浮上した。 「この会談が1億5千万円につながったのでしょうね」  自民党の閣僚経験者がそう語りながら見せてくれた書面には、こう書かれていた。 <2019年3月12日(火)10:50~11:10 衆議院三階・自民党幹事長会議室(第23控室) 二階俊博・党幹事長、甘利明・党選挙対策委員長、林幹雄・党幹事長代理 県議面談>  県議とは、当時は広島県議だった案里氏のことを指す。  このとき自民党は、現職で元防災担当相、5期連続当選の溝手顕正氏の擁立を決定。広島選挙区は定数2で、これまで自民党と野党が1議席ずつ分け合う展開が続いていた。そこに、案里氏が割って入り、溝手氏とともに自民党で2議席独占を狙ったのだ。  記録によると、4人のやりとりは以下のような内容だ。  冒頭、案里氏が、 「この度、先生方に大変お世話を頂きまして、ありがとうございます」  と礼を述べ、経歴書を渡したとある。  案里氏は自身の参院選出馬への意欲を、 「国政に主人と二人で出ることへの反発よりも、自民党が無風選挙であることに対してのアレルギーが強い」 「(2議席独占を狙うことで)反応としては、自民党の選択肢が広がるので歓迎する声が非常に強い」  と述べ、自己アピールした。  二階氏も、広島県連の内情など事前に把握した上で、 「いままで広島は、ぼやんとした選挙をしてきた。今回は選挙をやる。チャンスだと思って頑張ってほしい。なかなかチャンスはめぐってこない。地方議員から国会議員への道はそうめぐってこない」  と案里氏を激励。すると案里氏は、 「県連が二人目を立てた経験がないので、党本部より常駐職員を派遣して頂きたい」 「(これまで良好な関係の広島県連の幹事長は)二人目を出す、そして、それが私という事は、おそらく歓迎されていると思いますので、幹事長のお時間が許しましたら、幹事長からお口添えを賜りたい」  と二階氏に頼んでいる。  二階氏は、 「総理との写真は」 と尋ね、 「まだです」  と答える案里氏や、甘利氏らに、 「今日中に公認決定をやってあげたらどうか、持ち回り幹事会で、できるだけ早く。河井さんは準備をしっかりやっておくように」  とこの瞬間に広島選挙区の2人目に「お墨付き」を与えたのだ。そして、 「県連会長は誰だ」  と迫った。甘利氏が、 「県連と調整をやってきましたが(県連会長は)宮沢洋一さん(参院議員、元経産相)です」  と宮沢氏が2人目反対の中心にいると説明した。すると二階氏は、 「宮沢さんも党幹部だろ。将来もある」  と一喝。すると案里氏は、 「(宮沢氏は)三年後がご自分の選挙ですから、今回は二人目の候補者という事になれば、三年後も二人目の候補者ということをご懸念されている」  と話し、盤石とみられている宮沢氏の地盤も揺らぎかねないことが2人目反対の理由だと指摘。 「宮沢県連会長、岸田政調会長(当時)に是非とも、幹事長からお口添えを賜りたい」  と二階氏らの協力を求めた。最後に二階氏は、 「(面談の後)ぶら下がり取材を河井さんは受けるのだが、決意を述べてきたと、そして、党としては歓迎するし、しっかり応援すると言って頂いたと答えればよい」 「これから忙しくなるけれども、遠慮しないで、何でも相談にきなさい。公認が決まった際は、(安倍)総裁から公認証の交付がありますので、同席頂ける国会議員は同席していただくように」  と案里氏を後押しし、その場で広島選挙区の公認が“決まった”のだった。 河井案里氏と二階俊博氏らとの面談記録 「この会議のポイントは、克行元法相が出席せず、案里氏一人だけで二階氏ら自民党の大幹部3人を相手に、ここまで言ってのけるという点だ。県議が二階氏はじめこれだけの大物に囲まれると、はいと返事するだけで精いっぱいだよ。私もそういう場面を何度もみてきた。二階氏も案里氏の度胸にほれ、その場で公認となったんでしょう」(前出・自民党閣僚経験者)  案里氏の政党支部「自民党広島県参議院選挙区第七支部」の2019年の政治資金収支報告書には、4月15日に自民党本部から1500万円が支出されたのを皮切りに、5月と6月に計6千万円が出された。  そして、克行元法相の自民党広島県第三選挙区支部にも、自民党本部からも同年6月に4500万円と3千万円が振り込まれ、直後、案里氏の政党支部に寄付された。その合計は1億5千万円となる。  克行元法相は、買収資金について裁判では、「自民党本部からのカネはない」と否定。その一方で、検察側の立証で参院選前にすでに、河井夫妻には数千万円の借金があり、案里氏も、「資産と言えるものは、自家用車1台くらい」と資金が十分でなかったと語っている。  河井夫妻の裁判を何度も傍聴したが、買収資金2900万円を、「自前で賄った」という主張は整合性が取れないものだった。  今回の参院選で選挙区から出馬する自民党候補は、「参院選の選挙区は衆院の小選挙区よりはるかに広いので、お金はいくらあっても足りません。それは自民党のどの陣営も同じ。河井夫妻のせいで党本部の財布のひもが固いという声が多い」  と話す。前出の自民党閣僚経験者は、 「二階氏が『なんでも相談にきなさい』というフレーズはよく使います。たいていは、そう言われても相談になんか行けませんよ。それを、河井夫妻が二階氏の言葉を信じ、本当に相談した結果が1億5千万円じゃないのかと党内では言われているし、それで間違いないと私は思う。今回の参院選は基本的にみんな一律の1500万円になるでしょう。選挙直前になり、自民党が、一部の選挙区で苦戦するとの世論調査の数字が出ている。河井夫妻の大失敗の影響が一つの要因だと思います」  自民党で長く政務調査役として手腕を振るった政治評論家、田村重信氏は、 「私も党幹部と立候補予定者との面談、面接に接したこともあるが、案里氏の対応は大物。幹事長から、なんでも相談しろと言われると、心強いです。だが、今回の参院選は『河井事件』の影響で、自民党はとても慎重です。基本的にすべての候補者、決まっている1500万円になるでしょう。選挙直前になり、自民党が、一部の選挙区で苦戦が伝えられる世論調査の数字が出ている。候補者からは、さらなる支援をという話も出るだろうけど、もう無理はできないでしょう」  と話す。  「河井事件」のショックは今も続く。 (AERA dot.編集部・今西憲之)
役所広司×松たか子 「峠 最後のサムライ」長岡藩士・河井継之助の魅力とは?
役所広司×松たか子 「峠 最後のサムライ」長岡藩士・河井継之助の魅力とは? 役所広司(やくしょ・こうじ)1956年、長崎県生まれ。近年の主な出演作に「三度目の殺人」(2017年)など。「孤狼の血」(18年)で3度目となる日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。「すばらしき世界」(21年)で、シカゴ国際映画祭で最優秀演技賞を受賞。日本を代表する俳優として多方面で活躍/松たか子(まつ・たかこ)1977年、東京都生まれ。93年歌舞伎座「人情噺文七元結」で初舞台。94年NHK大河ドラマ「花の乱」でドラマ初出演。最近の出演作に、「来る」(2018年)、「マスカレード・ホテル」(19年)、「ラストレター」(20年)、ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」(フジ系、21年4~6月)など(撮影・今村拓馬/衣装協力:ブルネロ クチネリ ジャパン=役所、ブラウス、スカート:support surface、靴:JIMMY CHOO=松/ヘアメイク:勇見勝彦(THYMON Inc.)=役所、稲垣亮弐(maroonbrand)=松/スタイリスト:安野ともこ=役所、梅山弘子(KiKi inc.)=松)  コロナ禍で3度の公開延期に見舞われた司馬遼太郎原作の映画「峠 最後のサムライ」が6月17日、公開される。武装中立を目指した、長岡藩士・河井継之助の魅力とは。継之助と妻・おすがを演じた役所広司、松たか子の対談をお送りする。 *  *  * 役所:撮影はもう4年弱前で、最初の公開予定から1年9カ月くらい経ちました。今回ほとんどの取材で、ウクライナとロシア情勢に結びつけて聞かれましたが、この映画の持つメッセージをすごくリアルに考えさせられる時期の上映になったような気がします。 松:小泉(堯史監督)組に初めて参加しました。勉強になりましたし、幸せな現場で、すごく楽しい撮影だっただけに、この作品を、お客さまにお渡しできる日を心待ちにしていました。何度も公開が延期され、じっと待つしかないと思っていましたが、自分が関われたこの感動はやはり公開されないと伝えられませんから(笑)。 ──時は幕末。徳川幕府は終焉(しゅうえん)を迎え、諸藩は東軍と西軍に二分していく。慶応4(1868)年、戊辰戦争が勃発。越後の小藩、長岡藩の家老・河井継之助(役所)は、戦争を避けようと武装中立を目指す。だが、交渉は土佐藩士・岩村精一郎(吉岡秀隆)との間で決裂。継之助は徳川譜代の大名としての義を貫き、西軍5万人にたった690人で挑むことになる。 役所:小泉監督は黒澤明監督に教わった映画作りをしっかり継承されています。準備が丁寧で、時間をかける。衣装合わせを何回も行い、監督に違和感があるたびに話し合って調整する。それが僕たち出演者にとってすごく大事なことではないかと思います。カツラやメイクも含めてですが、そんなことを繰り返すうちに、継之助がなんとなくしっくりきて。そこからですね。現場へ行き、国宝級の建物の中に入った時にはもうタイムスリップしやすくなっています。 松:これだけ大掛かりな時代劇でありながら、それぞれのシーンで「すべての準備が完璧に整っている」と感じました。しかも、完璧なのに窮屈ではない。役所さんをはじめ、香川京子さんや田中泯さん……、みなさんとお芝居をしながら、「なんて幸せなんだろう」と思っていました。  完成した映画を見た時はまず、(長岡藩を戦へ向かわせることになるきっかけを作った岩村役の)吉岡さんに「ひどいっ!」って言ってしまいました。「役だから」って冷静に返されてしまいましたけど(笑)。そして、継之助さんは、「こんなかっこいい人いる!?」って思ってしまったほどかっこよかったです。 (c)2020「峠 最後のサムライ」製作委員会 役所:かっこいいですよ。立派な人です(笑)。僕は以前、同じ長岡出身の山本五十六を演じたことがありますが、幕末は坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟など本当にスターぞろい。そんな彼らが河井継之助に一目置いていたのですから、本当にすごい人だったんだと思います。 ──映画は、類いまれなリーダーとして指揮を執る継之助の姿を描く。一方、妻・おすがとの情愛も丁寧に描かれ、内なる顔をも浮かび上がらせる。 役所:戦争間際の緊迫した中で、おすがとのシーンが一番、河井継之助らしいところです。この人はほとんど家にいませんでした。帰ってきて家にいるだけでおすがは楽しかったらしいから、きっとイイ男だったんだろうと思うわけです(笑)。 松:継之助さんのひげをあたるシーンは緊張しました。小泉監督はすごく穏やかで、でも厳しくて。「できますよね」という優しい目で見てくださる。「できないですよ」と思いつつも「できない」とは言えず……。「集中!集中!」と思いながらやっていくうちに、「(シナリオに書かれている以上のことを)何か思ってくれよ、自分!」と言い聞かせて演じていました(笑)。二人のシーンが限られている分、すごくいとおしい時間でした。 ──戦を前に死を覚悟する継之助は、おすがと芸者遊びをする。その帰り道、おすがの手を取る。時代が時代だけにドキッとさせられる場面だ。 役所:シナリオにはなかったんです。「手をつないでいいですか?」と監督に提案したら承知してくださいました。継之助は侍を通した人ですが、侍の世の中が終わるということもわかっている。そういう人ですから、おすがとの最後のデートになるかもしれないと手をつなぎたいと思ったのではないでしょうか。おすがは一緒に並んで歩くのも嫌だと言ってるのに「いいから」と。そのくらいかっこいい男だったのではないですかね(笑)。 松:私は手を取っていただいた時、「おすがはいま、多分、世界一幸せだな」と思いました。手を取るというただ一つの行為で、私は継之助さんという人がとても軽快な方だと感じました。あのシーンで私はおすがに飛び込めたような気がします。映画でその後のすさまじい戦のシーンを見ると、一歩家を出た継之助さんはこんな大変な思いをされていたのかと、すごく切ない気持ちになりました。 「峠 最後のサムライ」 原作:司馬遼太郎『峠』 監督・脚本:小泉堯史 出演:役所広司、松たか子、香川京子、田中泯、永山絢斗、仲代達矢ほか。6月17日から全国公開 役所:おすがと一緒にいる時の継之助は軽妙で洒脱(しゃだつ)。でも、外に出たら人を気力で圧倒して説得していかねばならない。演じるにあたっては、このギャップがあればあるほど、継之助らしくなるのではないかと思いました。 ただ、今回セリフが長くて膨大。ほとんどスピーチみたいでしたからこれは本当に苦労しました。名言集みたいなセリフなので、言葉を丁寧に伝えなければと懸命でした。 ──俳優にとって時代劇の魅力とは何だろうか。 役所:扮装をはじめ日常生活からして今の自分とは全然違うので、役に近づきやすい。椅子の生活でもないし動きも違う。その分、時代劇の所作は難しいのでしょうが、その時代に生きていた人はもういません。ある意味、想像力を駆使して自由に役を作れる面白さがあるのではないでしょうか。 松:私もその時代に生きている人はいないということが面白さの一つだと思います。所作や決まり事があるようでも、みんなが知らないから想像できる。ありえないかもしれないけれど勇気さえ出せば挑戦できる。そういう楽しみ方ができます。役所さんと共演させていただいて光栄でした。 役所:僕は松さんのデビューの時以来のファンですからね、共演はうれしかったです。今度はもっと長く一緒にキャメラに収まりたいです(笑)。 (聞き手/坂口さゆり)※週刊朝日  2022年6月24日号
デビュー50周年 ユーミン18歳の衝撃「時代の先を少し行き過ぎていた」
デビュー50周年 ユーミン18歳の衝撃「時代の先を少し行き過ぎていた」 リリースするアルバムは常に話題になり、ミリオンセラーを獲得するものも多かった “ユーミン”こと松任谷由実さん(68)が、1972年7月に「返事はいらない/空と海の輝きに向けて」でデビューして以来、ことしで50周年。ミュージックシーンの第一線で輝き続け、音楽界だけでなく、社会や文化にも大きな影響を与えてきた。 「初めて会ったときは本当に驚きましたね。そのころのシンガー・ソングライターは、Tシャツにジーンズというスタイルでしたから、そういう人とは全く違ういでたちでした。当時創刊されたファッション雑誌『an・an』(70年創刊)から飛び出してきたようで、とってもファッショナブルなんです。時代の先端というより、少し行き過ぎている感じもしましたけどね。でも、話をしておもしろい人だなと思いました」  荒井由実さん(当時)との初めての出会いについてそう話すのは、音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠さんである。72年のことで、ユーミンは当時18歳。多摩美術大学で日本画を専攻している大学生であった。  富澤さんは東京大学を中退して、あちこちの音楽雑誌や週刊誌に音楽評論を執筆していた。とくに吉田拓郎をはじめとし音楽業界を席巻していたフォークの神々について、音楽論だけでなく、歌を作り出す人間を描き出し、ミュージックシーンに影響を与えていた。  そんな富澤さんに、アルファミュージックという音楽出版社の社長である村井邦彦さんが「荒井由実」を売り出したいが、何かいい方法はないかと相談を持ちかけ、キャッチコピーを考えてくれとお願いした。  デモテープを渡された富澤さんは、その場でさっそく聴いて、衝撃を受けた。「いいですね。この子は」と思わず感想が口から出てしまった。 「当時、シンガー・ソングライターといえば五輪真弓さんでした。その前が加藤登紀子さん、森山良子さんで、自分のことを歌っていて、自己表現でした。ユーミンはぜんぜん違って、イメージの世界で物語を紡ぎ出して歌うのです。別の言い方をすれば印象派のモネやシスレーのように絵画的です。歌を聴くと風景が浮かんでくるんですね」  と当時のフォークソングの中にはまらない大きな可能性を感じたという。  こんな音楽を作る人はどんな人だろう。とにかく会ってみたいとすぐに富澤さんは村井さんにお願いし、先述の出会いとなった。  キャッチコピーといってもこれまでにないセンスを持った歌手なので思案した。何かヒントはないかとなんとなく日本文学史のページを繰っていたところ、「新感覚派」という言葉を見つけた。「新感覚派」とは、横光利一、川端康成ら言語感覚の新しい作家を指した言葉。ユーミンも既成の音楽を打ち破る可能性があったので、「新感覚派ミュージック」とした。  富澤さんによると、 「それまでの音楽が『好きです』と何十回と繰り返し言っていたのが、たった一回の『キス』でその気持ちを伝えるようなものなのです」  富澤さんが生み出した新感覚派ミュージックという言葉が後にニューミュージックに変化していく。  キャッチコピーも決まり、アルバム「ひこうき雲」で“再デビュー”となるはずであったが、大きな壁が待っていた。  当時は、レコード会社がサンプル盤を全国のレコード店に送り、それを聴いたレコード店から注文を受けていたが、その反応がよくなかった。発売が延期になってしまった。 「あまりに新しすぎてお店の人もついてこられなかったんじゃないでしょうかね」  と富澤さんは振り返る。 「ひこうき雲」は73年11月に発売されたが当時は3千枚ほどしか売れなかったと言われている。 主な楽曲の発売時期など(週刊朝日 2022年6月24日号より) ■ムーブメントを起こすユーミン 「『ひこうき雲』が出た翌年の74年は叙情派フォーク大盛況でした。『精霊流し』『岬めぐり』『夕暮れ時はさびしそう』などが音楽シーンを賑わしていました。ユーミンの音楽はそれらとは全く別物だったのです」  セールスは今ひとつだったが、音楽業界に大きな話題を巻き起こした。 「なにしろ物の見方、表現する世界が違った。小さな石鹸をカタカタ鳴らしながら、横丁の風呂屋に行っていたのが、バスルームにルージュの伝言を書いて、あなたのママに会いに行くのですからね。いわば四畳半からワンルームマンションに変わっていくような感じですね。トレンディードラマが世に出る前からユーミンは、こういう世界を描きだしていたのです」  フォークシンガーは、生き様を歌うのに対して、ユーミンはライフスタイルを提唱する。ちょっと手を伸ばせば届くかもしれないと思わせる、一歩先行くおしゃれな生活を提唱し、そのため聴く側は常にユーミンを追いかけていくのだ。 「私が目指しているのはね、人とはちょっと違うカッコいい生き方をしていると思っている人たちの一歩先を行くことかな。音楽だけじゃなくって、生き方すべてをひっくるめてね」  ユーミンは富澤さんのインタビューで、かつてこう答えていた。 「だからユーミンは時代をつかむ、まさにトレンドゲッターと言われるようになりました」  当初は苦戦したものの、75年になると状況は一変する。「あの日にかえりたい」をリリースするとオリコンチャートで1位を獲得した。その後の活躍は言うまでもない。常に最前線を走り、社会のムーブメントを生み出してきたのだ。 「ユーミンが長く支持されるのは、“荒井由実時代”で楽曲を極め、“松任谷由実時代”になると楽曲だけでなく、コンサートで大掛かりなセットを組みエンターテイナーとして存在感を高めたことでしょうね。僕も何度もコンサートに行きましたが、象が出たり、龍が出たり、さらにアーティスティックスイミングとコラボと、驚かされてばかりでした。社会に衝撃を与えたのもユーミンがずっと注目される理由です」(富澤さん)  ユーミンの楽曲に魅せられて、長年ファンを続ける人も少なくない。インターネットでユーミンのファンサイト「ヒデの遊民なダイアリー」を運営しているヒデさんもその一人だ。リリースされたレコード、CDはすべて入手し、87年の武道館以来ほぼすべてのコンサートにも足を運んでいる熱狂的なファンである。ヒデさんにとって宝物になっている出来事がある。 「苗場のコンサートでは観客からリクエストを募るのですが、僕が手を挙げたら指名されたんです。ステージに上げてもらってユーミンが歌うのを聴くんです。演奏後、少し話もしました。2002年2月22日、『SURF&SNOW in Naeba Vol.22』のことでした」と、ヒデさんは興奮気味に話す。 「おこがましいのですが、同世代の私にとって、ともに人生を歩いてきた感じです。ユーミンには感謝しかないです」  ゆかりの地に出かけるファンも多い。なかでも聖地と言われるのが74年に発表された「海を見ていた午後」に出てくる「山手のドルフィン」だ。 「今も学生時代にユーミンを聴いていた世代の方々が多くいらっしゃいます。久しぶりに来たという方や、いつか行きたいと思って、やっと来ることができたという方もいます」 「カフェ&レストラン ドルフィン」の外観 ■愛され続ける時代のカリスマ  開店50年を超える「カフェ&レストラン ドルフィン」のスタッフの吉澤好久さんはそう話す。現在は3代目のオーナーに引き継がれ、木造平屋の店舗は98年に海側が大きなガラス窓の2階建てコンクリートの建物になった。 「歌詞に出てくるソーダ水は、メニューになかったのですが、『ソーダ水ありますか?』とよく聞かれるので、今のオーナーになって、『ドルフィンソーダ』をメニューに加えました」と吉澤さん。  平屋だったころの記憶が残る人は、その変化に驚くが、今は大きな窓から海と貨物船が行き交う景色も見える。 ソーダ水の中をゆく船 「ユーミンが横浜でコンサートをするときは多くのファンがいらっしゃいます。ファンにお話を聞くと、『海を見ていた午後』は横浜のコンサートでしか聴けないとも話していました」  そう吉澤さんは嬉しそうに話す。 「山手のドルフィン」からは行き交う船と、夜はコンビナートの瞬く光が見える 「ユーミンファンでなくても、この景色、夜景はとくに奇麗なので、きっと楽しめるはずです。自分もユーミンファンなので、ここで働けることを誇りに思います」  ミュージックシーンで常にトップを走るユーミンは、駒澤大学陸上部を応援しているのを公言している。21年に駒澤大学が箱根駅伝で優勝した際、「駒澤ー! ヤッターッ!!」とツイッターで喜びを表した。 「元々は松任谷正隆さんが、うちの学生が練習で走る姿を見て、ひそかに応援してくださっていたようです。うちの大学が箱根駅伝で優勝したとき、正隆さんのラジオ番組に出演したことがきっかけで親しくさせていただくようになりました」  と駒澤大学陸上部監督の大八木弘明さんは話す。正隆さんの応援の影響もあり、ユーミンも駒澤大学を応援するようになったそうだ。  今では毎年12月に、シュークリーム100個を持って激励に来てくれるそうだ。 「陸上部の寮がユーミンの家により近くになったので、夫婦で歩いていらっしゃいます。12月になるとユーミンが来るって、部員たちはみんなドキドキですよ」と大八木さん。  大八木さんも選手時代に落ち込んだり、スランプになったりしたときユーミンの音楽を聴き、勇気づけられたことがあった。妻がユーミンの大ファンで先日もコンサートに足を運んだそうだ。 「今はご本人からも勇気をもらえ、こんなに心強い味方はいないですね。いつもトップを走ってきたユーミンに力をもらって、今度の箱根ではトップを走りたいと思います」  ユーミンはデビュー以来、ファンに夢と希望を与え続けてきた。前出の富澤さんは、ユーミンに取って代わるミュージシャンはいなかったし、これからも出てこないだろうと強調する。そしてこう話した。 「昔の力道山、石原裕次郎、吉田拓郎、そしてユーミンと時代のヒーローでありつつ、それを飛び抜けた存在でもありますね。時代を超えて音楽もその人そのものも、愛されていますから。これからも“エージフリーミュージック”のスーパースターであり、時代のカリスマであり続けるでしょうね」 (本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年6月24日号
世界の「アイコン」エリザベス女王のユーモアな素顔 「お勉強」ではないドキュメンタリー映画公開
世界の「アイコン」エリザベス女王のユーモアな素顔 「お勉強」ではないドキュメンタリー映画公開 鮮やかな色合いのファッションと帽子がトレードマーク/2011年4月1日(写真:PA Images/Alamy Stock Photo)  英国史上最長となる在位70周年を迎えたエリザベス女王。祝賀ムードに沸く英国からユニークなドキュメンタリーが届いた。AERA 2022年6月20日号より紹介する。 *  *  * 「一番驚いたのは、若き日のエリザベス女王が実にグラマラスだったことでしょうか。あのポール・マッカートニーに『10代の僕らにとって、彼女がどれほどイケてるアイドル的な存在だったか!』と言わせるほどに」  と笑いながら語るのは、プロデューサーのケヴィン・ローダー氏(66)。本作の始まりは故ロジャー・ミッシェル監督のアイデアだった。ロックダウンで様々な映画の撮影がストップするなか、「アーカイブ映像を使ったドキュメンタリーなら作れる!」とひらめいたという。 「女王をテーマにすることが決まったとき、ロジャーは『ありきたりな王室ドキュメンタリーではなく、機知に富んでいてサプライズがある作品にしよう』と言いました」(ローダー氏)  たしかに本作は一般的なドキュメンタリーとは趣が異なる。女王の歴史を時系列で紹介するといった手法はとらず、「自宅にて」「馬上で」「ラブ・ストーリー」などのチャプターごとに、膨大なアーカイブ映像がテンポよくつながれていくのだ。  実際の映像に加え、王室メンバーそっくりのキャストが話題になったネットフリックスのドラマ「ザ・クラウン」や、映画「英国王のスピーチ」、コメディー番組などのシーンが数多く盛り込まれ、いかに女王が「アイコン」であるかがうかがえる。 戴冠式の日のエリザベス女王とエディンバラ公フィリップ殿下/1953年6月2日、バッキンガム宮殿(写真:The Print Collector/Alamy Stock Photo) ■ユーモアセンスが抜群  ここで女王の生涯を振り返ろう。1926年4月21日、ヨーク公夫妻の長女として生まれ、4歳違いの妹マーガレットと育つ。英国では毎年6月の第2土曜日に女王の「公的な誕生日」を祝う習慣があり、今年は「プラチナ・ジュビリー(70年の祝祭)」として盛大なイベントが開かれた。  女王が生涯の伴侶となるフィリップ殿下と出会ったのは13歳のとき。第2次世界大戦では女子補助地方義勇軍に入隊し、戦後は南アフリカへの外遊など海外を飛び回る。47年に結婚、52年に父ジョージ6世の崩御に伴い、25歳で女王に即位した。 婚約中のエリザベス女王とフィリップ殿下。おしどり夫婦として有名だった/1947年、バッキンガム宮殿 (c)Elizabeth Productions Limited 2021  長男チャールズをはじめ4人の子の母として、そして英国君主として人生の大半を過ごし、96歳の現在も現役。昨年亡くなったフィリップ殿下とのおしどり夫婦ぶりもよく知られている。  映画には公務室での雑談やインタビューに答えるおちゃめな姿、競馬場で「あの馬に賭けたのよ! 賞金がもらえる!」とはしゃぐ様子など、人となりがうかがえる映像が満載。そこから見えるのは、幼少期からスッと姿勢よく、ユーモアを忘れず、妹や周囲に気を配る「姉キャラ」な一面だ。ローダー氏も話す。 「とにかく印象的だったのは、彼女のユーモアセンスです。あまり面白みのなさそうな公務のときにも、自身のユーモアを使ってどこかに面白さを見つけようとしている様子が映像からも見てとれるのです」  特に貴重な映像は王室関係者が自ら撮ったホームムービー。BBC(英国放送協会)が撮影した宮殿内部の映像なども許可を得るのに苦労したそうだ。 ■ダイアナ妃事故の教訓  英国民にとって、女王とはどんな存在なのだろうか。 「世代による違いはもちろんありますが、基本的にイギリス国民は女王に対して愛情とリスペクトを持っています。彼女は在任中に間違った行動を一度もしていない。家族に対しても公務に対しても、全く非難する余地のない生き方をしてきたからだと思います。唯一、例外があるとすると、97年にダイアナ元妃が亡くなったときです。あのときだけは女王と王室は、国民のムードを適切に把握できていなかったように感じます」  ダイアナ元妃が交通事故で死亡した際、英国ばかりか世界中に衝撃が走った。だが、王室はコメントを出さず、宮殿に弔旗も掲げなかった。この対応に英国民の怒りが沸騰した。映画には多くの人たちの献花であふれるバッキンガム宮殿の前で女王が車を降り、人々と対話するシーンが映し出される。 エリザベス女王とフィリップ殿下、子どもたち/1960年9月9日、スコットランド東部バルモラル城(写真:World History Archive/Alamy Stock Photo) ■活躍する女性の象徴 「あれはまったく計画されていなかった行動で、先例のないことだったそうです。さらに、この後すぐに女王は映像を通じて国民に話しかける場を持った。ロイヤルファミリーは、国民がそこまで怒りを感じていることに対してショックを受けたのではないでしょうか。そして状況を見誤ったことを自覚し、すぐに対処したのだと思います」 Roger Michell(左):1956年生まれ。映画監督。「ノッティングヒルの恋人」(99年)などで知られる。2021年9月22日、本作完成後に65歳で急逝/Kevin Loader(右):1956年生まれ。プロデューサー。「ウィークエンドはパリで」(2013年)ほか10本以上のミッシェル監督作品を製作  この出来事から英王室は国民との関係を見直すようになった、とローダー氏は推察する。 「ウィリアム王子をはじめ、若いロイヤルファミリーは国民のムードを敏感に察知し、常に国民と同じ水の中で泳いでいなければいけないと考えています。国民と同じ感覚を失わないように努力していると感じます」  およそ100年におよぶ女王の人生を振り返ることは、そのまま世界の近代史を振り返ることでもある。英連邦王国の長として、さまざまな国や人とコミュニケートしてきた彼女は、女性活躍の先駆者でもある。 「イギリス人の誰一人として『彼女がもし男性だったら、より良い仕事ができた』と思う人はいないでしょう。使い古された言い方ではありますが、彼女は『フェミニスト・アイコン』です。女性であることが、その成功に重要な意味を持っていると私は思っています。母親的な存在や視点で、さらに人間味のある人柄で、国を率いることができたのでしょう」  残念ながらミッシェル監督は、この映画の公開を待たずに昨年9月に急逝した。女王の人柄を身近に感じられる本作はまさに監督自身のようだ、とローダー氏は話す。 「機知に富んでいて温かく、人間味がある。そしてちょっとしたいたずら心やユーモアがあるところもロジャーそのものです。この映画は『お勉強映画』ではありません。エンターテインメントとして楽しみながら、女王について考えたり、『もしも自分が女王だったらどんな感じだろう?』と感じたりしてもらえればうれしいですね」  映画「エリザベス 女王陛下の微笑み」は17日から全国公開。(フリーランス記者/中村千晶) ※AERA 2022年6月20日号
「夫は神様からのギフト」「大好きなさっちゃんへ」 実年齢を知って驚き合った夫婦
「夫は神様からのギフト」「大好きなさっちゃんへ」 実年齢を知って驚き合った夫婦 (左から)妻の西崎彩智さんと夫の野下智央さん(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年6月20日号では、Homeport代表取締役の野下智央さん、同じく代表取締役でお片づけ習慣化コンサルタントの西崎彩智さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  2016年、夫38歳、妻49歳で、ともに再婚する。 【出会いは?】同じ起業塾に通う受講生同士として出会う。 【結婚までの道のりは?】出会って間もないころ、塾の受講生のみんなで飲みに行ったとき、妻が夫の発言に反論。次の日言い過ぎたことを反省して連絡したところ、夫も反省していて和解。以降、本音を話せる仲になり、交際に発展。1年1カ月後、結婚。 【家事や家計の分担は?】妻が活動拠点を福岡から東京に移し、平日は別々に過ごすため、家事はそれぞれ行う。一緒に過ごす週末は共同で行うことが多い。夫婦の財布は一緒。 夫 野下智央[43]Homeport代表取締役 のげ・ともひろ◆1978年、福岡県出身。中学卒業後、建設会社に就職し現場作業と営業にあたりながら約15年勤務。30代半ばで人材教育の会社に転職し、数年後COOに就任。現職に就くほか、健康系企業の取締役も務めている  僕と結婚したらさっちゃんが輝く、と直感したのが結婚の決め手でした。もっとも、そう思ったのは付き合う前のこと。過去に女性に抱いたことはない感情かつ、僕は離婚して以降、再婚するつもりはなかったので、自分でも俺が結婚?と意外でした。  なぜそう直感したのかは直感だけに理由はなく、でも思った以上伝えるほかはなく、以来彼女へのメールの宛名は「大好きなさっちゃんへ」に。年齢差はまったく気になりませんでした。僕は妻をもう少し下だと思い、妻は僕を上だと思ったから、実年齢を知って驚き合っただけ。僕が気持ちを伝えたときも妻は一瞬目を丸くしただけで、すぐにOKしてくれました。  人には、自分のために動くのが得意な人と、人のために動くのが得意な人がいると思いますが、僕は後者。だから彼女がやりたいことのサポートをできるのが何よりもの喜びです。  彼女のポテンシャルは未知数。今後、会社は数百倍に成長していくと信じています。 (左から)夫の野下智央さんと妻の西崎彩智さん(撮影/写真映像部・高橋奈緒) 妻 西崎彩智[55]Homeport代表取締役 お片づけ習慣化コンサルタント にしざき・さち◆1967年、岡山県出身。甲南女子大学卒業後、住宅メーカーに就職。専業主婦を20年した後仕事を再開。2015年に独立し、19年から現職。セミナー講師やラジオパーソナリティーのほか「AERA dot.」で執筆  ひろちゃん、私の人生に登場してくれてありがとう!  いの一番に夫に伝えたいのは、この感謝の気持ちです。  20年専業主婦で自分に自信がなく、お金を稼げないことがコンプレックスだった私が起業して、5千件に及ぶコンサルティングを手掛けながら会社を大きくしてこられたのは、夫がいつもやさしく背中を押してくれるおかげです。  夫はまず、仕事は楽しいものだと教えてくれました。彼はいつも自分が掲げた目標に向かって楽しく働いているんですね。前夫が「お前たちを食わせるために仕方なく働いてんだ」というのが口癖で、私も嫌々するものだと思い込んでいたので、それはそれは大きな価値観の変化でした。  仕事で行き詰まったり予想外のオファーに躊躇(ちゅうちょ)したりしていると「さっちゃんなら大丈夫、なんでもサポートするからね」と言ってくれるのも心強い限り。ふわっと安心感に包まれて、できそうな気に。不思議と力がわくんです。  つくづく、夫は神様からのギフトだと思います。 (構成・茅島奈緒深) ※AERA 2022年6月20日号
あなたがもらえる「年金額」は? 完全シミュレーション初公開
あなたがもらえる「年金額」は? 完全シミュレーション初公開 ※写真はイメージです  今年は年金大改正の年。改正点を生かして「老後資金を増やそう」と思っている方も多いだろうが、そんな期待が水の泡になりかねない「事実」がここにきて浮上してきた。何とこの先30年以上、現役世代は豊かになるのに「年金額」はちっとも増えないというのだ。 *  *  *  ズバリ言おう。  現在の現役の平均月収は約45万円。一方、例えば生涯の平均年収500万円の会社員同い年夫婦が65歳でもらい始める世帯年金月額は約21万8千円だ。これが32年後の2054年度、現役の平均月収は約73万円まで上がるのに対して、年金月額はそのままもらい続けても23万5千円にしかならない──。  こんなショッキングな未来が高い可能性でやってきそうだ。週刊朝日編集部がニッセイ基礎研究所の中嶋邦夫上席研究員と共同して行ったシミュレーションで判明した。原因は年金の支給抑制策として実施されている「マクロ経済スライド」という制度にある。後で詳しく述べるが年金額を「目減り」させる仕組みで、それが長期間続くとこんな結果になるのだ。  それにしても現役の収入が6割以上上がるのに、年金額は1割弱しか上がらないというのは驚きである。なぜ、こうなるのか、順を追って見ていこう。  発端は「本当の老後マネーを知りたい」という素朴な興味だった。記者はファイナンシャルプランナー(FP)、日本FP協会の上級資格「CFP」を保有している。FPが将来の家計診断をする場合、毎年の収入や支出を予想して書き込み、収支や資産残高の推移をみる「家計の長期予想表」(「キャッシュフロー表」と呼んでいる)を作る。  要は、その「年金版」ができないのかと考えたのだ。年金受給者の家計の長期予想表を作るさい、今は収入欄には受給開始時の年金額をそのままずっと記入し続けることが多い。しかし今年度は0.4%下がったように、実際の年金額は毎年、改定されている。年金額の変化を推定し、人生100年時代に合わせて100歳までその動きを追えれば、老後のマネープランをより正確なものにできる。  従って、今回明らかにする「本当の年金額」は実際にもらえる金額に近いと思っていただいていい。それは後でじっくりご覧いただくとして、まずは全体の理解に欠かせない年金額が決まるルールとその意味をおさらいしておこう。  公的年金のメリットの一つに、経済変動が起きても実質価値が変わらないことがある。制度の発達に合わせて、長期間かけて作られてきた仕組みだ。年金実務に詳しい社会保険労務士の三宅明彦氏が言う。 「昭和48(1973)年に初めて物価に連動する仕組みが導入されました。最初は消費者物価が5%動いた場合に改定されるものでしたが、その後、数段階の進化を経て、平成元(89)年に完全自動物価スライド制が導入されました」  毎年の物価の動きを年金額に自動的に反映させるもので、これで「インフレに負けない年金」の仕組みができあがった。 「年金額についてはその後、2004年に物価に加えて賃金も基準にする現在の改定ルールが導入され、近年、賃金に連動させる仕組みが強まっています」(三宅氏)  一方、並行して高齢化がどんどん進んだため、給付抑制の必要性も強まり、同じく04年に「マクロ経済スライド」が導入された。完全自動物価スライド制の実施から15年で、実質価値が変わらなかった公的年金のメリットに「風穴」が開いたのだ。  もっともデフレが続いたことで「マクロ経済スライド」の発動は遅れ、初めて適用されたのは15年度だった。以来、毎年の年金額は2段階のスクリーニングで改定されている。  第1段階は賃金や物価の変動度合いで判断される「本来の改定」だ。両者の上がり度合いや下がり度合いの関係で年金額が決まる。受給者の場合は基本的に、物価が上がれば年金も上がり、物価が下がれば年金も下がる仕組み。ただし、物価が賃金を上回る場合に一部、例外規定が設けられていたが、21年度から低い賃金に合わせるルールに変わった。  これもまた賃金連動に基づいて給付抑制を狙ったものだが、抑制の本命は第2段階で行われる「マクロ経済スライド」を使った措置にこそある。 週刊朝日 2022年6月17日号より  冒頭で触れたように、「マクロ経済スライド」は年金を「目減り」させる仕組みだ。具体的には賃金や物価の伸びほどには年金額を上げないことで実質価値を下げる。賃金や物価が伸びた分から、長寿化の進展や現役の数から計算される一定率(「スライド調整率」という)を差し引くのが典型例だ。  ニッセイ基礎研の中嶋上席研究員が言う。 「保険料の引き上げなど、これまで現役に対して行われてきた負担増は受給者には何の関係もありませんでした。でも『マクロ経済スライド』は違います。一人の例外もなく受給者全員に負担を求めるものです。その意味で私は『勝ち逃げを許さない制度』と言っています」  もっとも、ここにも例外措置が設けられている。スライド調整率を差し引くとマイナスになってしまう場合は「据え置き」にとどめる(マイナス改定はしないという意味で「名目下限措置」と呼ばれている)。また、第1段階が最初からマイナスの場合は、そこからさらに差し引くことはしない。しかし、引き切れなかった部分はこれまでは消えていたが、18年度からは翌年以降に持ち越される「キャリーオーバー制」が導入された。これまた抑制策の強化である。  いずれにせよ第1段階でプラスになった場合に自動的にスライド調整率を差し引いていく、まさに機械的に年金額を低くするのが「マクロ経済スライド」なのだ。そして、それは年金財政が健全になるまで続く。  さて、いよいよ「本当の年金額」を表すシミュレーションである。  シミュレーションには経済前提が欠かせない。使ったのは国が5年に1回、公的年金制度の「健康診断」として100年先までを見通して行う「財政検証」の数字だ。  財政検証ではさまざまなケースを想定して将来の年金財政を試算し、制度の健全性を見る。直近の19年検証では「I」から「VI」まで6通りのケースが想定された。「I~III」が経済が順調に進む「経済成長と労働参加が進むケース」で、「IV・V」がまずまずの「(両者が)一定程度進むケース」、そして「VI」が「(二つとも)進まないケース」だ。  できるだけ日本の現状に合ったケースを選びたい。先の社労士の三宅氏が、 「19年検証の結果が発表された当時、IVかVが妥当なところだろうと解説していました」  と言えば、中嶋上席研究員も、 「今回のIII~Vは、8ケースに分けていた14年検証のEかその下あたりの経済前提と同じで、真ん中よりやや下ぐらいにあたります」  元気とは言えない日本経済の実力を考えると、控えめに選んだほうがいいので、「ケースV」を採用した。「V」の主な経済前提は次のとおりである。 ・物価上昇率0.8% ・経済成長率(実質)0.0% ・「マクロ経済スライド」が続く期間 厚生年金=32年度まで、基礎年金=58年度まで  年金受給者としては、財政検証が行われた19年度に65歳になる会社員夫婦(同い年の専業主婦の妻との2人世帯)を想定、「生涯(20~59歳)の平均年収500万円」と「同700万円」の2通りを試算した。「500万円世帯」は国のモデル世帯に近く、「700万円」は標準よりもやや高給取りをイメージしている。  年金額は月額で、夫婦2人分の老齢基礎年金(以下、基礎年金)と夫の老齢厚生年金(同、厚生年金)の合算額。また、これら年金額の社会的水準がイメージできるように、現役の平均月収(額面)も試算した。期間は会社員が100歳になる54年度までである。 週刊朝日 2022年6月17日号より  これらの結果を一覧表にした。  ご覧いただけば一目でわかるように、年金額はほとんど増えていかない。冒頭で述べたように、年収500万円世帯では最初の「21.57万円」が35年後には「23.55万円」と約2万円増えるだけ。同700万円世帯では「25万円」が同じく「27.71万円」にしかならない。この間、現役の平均月収は「43.89万円」が「73.34万円」まで上がるのに、である。  年金額のうち24年度から31年度までの網掛けしている部分では、500万円世帯も700万円世帯も同じ数字が並んでいる。それぞれ「21.83万円」「25.3万円」だ。 「マクロ経済スライドが終わるまでの間に、スライド調整率が物価上昇率を上回ると、名目下限措置が働いて年金額が『据え置き』になってしまうんです。これは、それが起きる結果です」(中嶋上席研究員)  さらに驚くのは、基礎年金は同じ「6.57万円」で網掛けがずっと続いていることだ。何と基礎年金は24年度から54年度まで30年以上にもわたって同じ理由で据え置かれてしまうのだ。マクロ経済スライドが58年度まで続くためだ。 週刊朝日 2022年6月17日号より  この結果、現役との差は広がるばかりになる。1年ごとは微々たるものでも、それが数十年続くと「ちりも積もれば……」で大幅に差が膨らむ。これが「マクロ経済スライド」の本当の威力である。「目減り」が続くと、「世の中の水準」に比べて年金受給者は相対的に「貧乏」になってしまうのだ。  しかし、これでもまだ救われているといえるかもしれない。「名目下限措置」に守られて年金額が「据え置き」にとどめられているからだ。スライド調整率の数字を見てほしい。最初のころは比較的低い数字が並んでいるが、その後はどんどん高くなっていく。26年度には「1%」を超え、最高は「1.7%」台まで上がる。 「現在の数字が低いのは、60歳代前半の人たちが定年を過ぎても働き続けているためです。この動きが一巡すると少子高齢化が進む元の姿に戻るため、スライド調整率が高くなっていきます」(同)  受給世代が恐れるべきは、デフレ経済で「マクロ経済スライド」による調整が予定より遅れているため、「例外はやめるべきだ」とする意見が経済界などを中心に強まっていることだ。すなわち、「名目下限措置」などを撤廃し、毎年どんな状況でもスライド調整率を差し引くとするものだ。いわゆる、マクロ経済スライドの「フル適用」といわれるものである。  ちなみに「フル適用」が行われた場合に年金額がどうなるのかも中嶋上席研究員にシミュレーションしてもらった。  例外措置がある場合は、わずかとはいえ年金額が上がっていたが、今度は23年度をピークに逆に年金額が下がっていく。28年度には当初の受給額を下回り、40年代まで微減状態が続く。  結局、年収500万円世帯は開始時の「21.57万円」が35年後には「20.86万円」に、同700万円世帯では「25万円」が「24.91万円」になってしまう。もちろん、現役の平均収入が35年間で6割以上上がるのは同じである。 「フル適用」は将来世代の年金財源を確保するための策だが、これでは足元の受給世代の生活が危ういものになってしまう。 「本当の年金額」は、ずいぶんと寂しいものになりそうだ。しかし、これはまだほんの「序の口」だった。この年金額を実際の生活レベルに落とし込むと、さらに衝撃的な「事実」が浮かび上がってくるのだ。(以下次号)(本誌・首藤由之) *ニッセイ基礎研究所の中嶋邦夫上席研究員が試算。経済前提は2019年財政検証の「ケースV」【物価上昇率0.8%、賃金上昇率(実質<対物価>)0.8%、経済成長率(実質)0.0%。ただし28年度までは内閣府「中長期の経済財政に関する試算」による】、マクロ経済スライドは厚生年金が32年度まで、基礎年金は58年度まで。対象世帯は19年度に65歳になる同い年の専業主婦世帯。「年収500万円」と「年収700万円」は生涯(20~59歳)の平均年収。「現役の平均月収」は額面。マクロ経済スライドを「フル適用」した場合の年金額は、マクロ経済スライドの停止年度は再計算せずに、毎年の受給者の年金額に機械的にフル適用させた金額※週刊朝日  2022年6月17日号
戦後77年皇室と祈り 祈りは、過去の大戦を学び続ける愛子さまと悠仁さまに引き継がれ
戦後77年皇室と祈り 祈りは、過去の大戦を学び続ける愛子さまと悠仁さまに引き継がれ 22年5月30日に千鳥ケ淵戦没者墓苑で遺骨を納める拝礼式に参列した秋篠宮ご夫妻(撮影/写真映像部 松永卓也) 「戦争の責任の一端は、昭和天皇にもあると感じています。その子どもや孫である皇室の人たちが祈りを捧げることに意味はあると思います」  練馬区遺族会会長を務める真田立穂(さなだ・たつほ)さん(82)は、そう思いを吐露する。5月30日、第2次世界大戦の戦没者の遺骨を納める拝礼式が、東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われ、秋篠宮ご夫妻が出席した。  収集されたものの身元がわからず、遺族に引き渡すことのできない遺骨が納められるのが、ここ千鳥ケ淵の戦没者墓苑だ。この日は、ロシアやマーシャル諸島などで収集したものの、身元が判明しなかった217人分の遺骨が新たに納められた。これで墓苑に納骨されたのは37万269柱となる。  秋篠宮ご夫妻は遺族に頭を垂れ、祈りを捧げた。  この日、真田さんは遺族席に座り、秋篠宮ご夫妻の祈りを見守った。真田さんの父親は、激戦地となったフィリピンのマニラ湾口のコレヒドール島で戦死した。 「所属は海軍で佐世保(長崎)からフィリピンに向かいました。海軍でしたが現地で飛行機に乗せられた。残っている遺影は、プロペラ機の前に立つ姿です。最後どうだったのかはわからない。人間魚雷のように敵艦に特攻させられたのかもしれません」 ■遺族と皇室への複雑な思い  真田さんの父親の遺骨の行方ははっきりしていない。 「陸ならば命を落としても誰かが拾ってくれる。しかし、海で戦死した場合は捜すことが難しい。だから、政府が行っている遺骨収集の活動についても、本音を言えばピンとこない部分はあります。天皇のために-、と死んでいった犠牲者を思うと慰霊に参列する皇室に対して、感謝だけではない思いもあります。それでも、皇室が犠牲者の魂に祈り続けることが大切であると思う」  今年、日本は戦後77年の夏を迎える。   上皇ご夫妻をはじめ皇族方は、昭和の皇室が残した負の遺産に向き合い、犠牲者に祈りを捧げてきた。  2005年6月28日。当時、天皇陛下と皇后美智子さまは、平成の慰霊の旅のなかで、サイパンを訪れた。  北マリアナ諸島サイパン島の北部、マッピ山。  低木林が両脇に密集する細道を標高200メートルほどの高さまで登ると、スーサイドクリフと呼ばれる断崖の先端に出る。のぞき込むと目がくらむような垂直の崖。眼下に広がるのは、米軍に追い詰められた日本人が身を投げた岩地だ。その先には、バンザイクリフと紺青の海が広がる。   2005年6月平成の両陛下 戦後60年の慰霊の旅。多くの日本人が身を投げたサイパン島のスーサイドクリフの崖に向かって黙とうし、海を見つめた  その日は、午前中から南国の太陽がじりじりと照りつけていた。両陛下は切り立った崖の先端で歩を止め、丁重に黙祷を捧げ、海を見つめた。そのとき、シロアジサシに似た鳥が3羽ほど、静かに、ゆっくりと飛んでいった。  のちに美智子さまはこのときの様子を、皇室医務主管を務めた故・金沢一郎氏に、こう振り返った。 「この場所で命を落とした人びとの魂が、思いを残しているように感じました」  1942年にミッドウェー海戦で敗れた日本軍は、翌43年にガダルカナル島から撤退。44年6月15日にサイパン島南部から米軍が上陸すると、日本兵や民間の日本人は島の北部に追い詰められ、断崖絶壁へと向かった。赤ん坊を抱いて海に飛び込む母親や、手投げ弾で自決する家族ら、遺体が崖の下で重なりあった。7月7日に玉砕するまでの約3週間、日本兵と軍属約4万3千人、民間人約1万2千人、そして3500人を超す米兵が命を落とした。戦後、日本政府は島の北部にあるスーサイドクリフの下にサイパン、グアムや周辺の海域で戦没したすべての犠牲者を慰霊する「中部太平洋戦没者の碑」を建立した。 ■身を投じる女性の足裏思う  当時、悲劇のサイパン戦から61年の歳月を経ていた。旧日本兵や民間人の遺族らが見守るなか、両陛下は碑の前に進んだ。日本から持参した白菊の花束を献花台に捧げ、深く礼をした。シロアジサシに似た鳥が舞ったのは、そのすぐ後のことである。  美智子さまは帰国後、絶望的な戦況の中で島の果ての断崖から身を投じた女性たちのことを思い、和歌に詠んでいる。 <いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし>  侍従長として平成の両陛下に仕えた故・渡辺允氏は、両陛下が頭を垂れたその背中を、一歩下がって見守っていた。  生前の渡辺氏に、皇室の慰霊について取材をしたことがある。渡辺氏は、美智子さまが和歌に詠み込んだ「足裏(あうら)」という表現に、はっとした。 身を投げる場面が目に映っているかのような力を持っていたからだ。 「人びとが命を絶ったその地に自らの足で立ち、彼らの悲しみと苦しみに心を寄せたからこそ、生みだされた表現ではないでしょうか」  令和の皇室と未来を担う若い皇族方も、戦争と向き合い続けている。 2015年8月に都内で千開かれた特別展「伝えたい あの日、あの時の記憶」を鑑賞した両陛下と愛子さま  昨年の8月15日、天皇皇后両陛下は、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に出席した。天皇陛下は、 「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い――」  とおことばを述べた。  天皇家の長女・愛子さまも戦後70年を迎えた2015年、ご両親と戦争体験者らから直に話を聞き、また戦後70年の特別企画展を訪れている。  学習院女子中等科の卒業記念文集では、「世界の平和を願って」と題した作文を掲載し、平和への願いをつづった。 <原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた(略)>  秋篠宮家も戦争の記憶と向き合い続ける。  13年、秋篠宮ご夫妻は、7歳の悠仁さまを連れて沖縄本島南部の糸満市摩文仁にある「平和の礎」を訪れた。悠仁さまは紺のスーツとネクタイ姿。ご夫妻は、24万人の名前が刻まれた石碑を見ながら、犠牲者について説明している。 秋篠宮家は、夏には学童疎開船・対馬丸の犠牲者を慰霊するつどいや沖縄戦を考えるつどいに何度も参加している。 ■「なぜ戦争に」と悠仁さま  17年には、紀子さまと悠仁さまは小笠原諸島で戦争の塹壕や軍道などを巡り、翌18年には広島県で被爆者の体験を聞いている。  戦史研究家の故・半藤一利さんをたびたび宮邸に招き、話に耳をかたむけた。当時、小学生であった長男・悠仁さまも第2次世界大戦などに過去の戦争への学びを深めていた。 「どうして日本に原爆が落ちたのか」「どうして戦争になったのか」  悠仁さまが質問を重ねるたびに、半藤さんはその経緯を易しく説明した。  冒頭の千鳥ケ淵戦没者墓苑での拝礼式に参加した「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」の副会長、平川明雄さん(71)の叔父は、中国で病戦死した。まだ20歳だった。 「第二次世界大戦という凄惨な戦争を経験しても、いまのロシアのウクライナ侵攻のように、人びとは戦いという愚を繰り返す。こうした世の中だからこそ、慰霊の場に遺族がどんな悲しみを抱えて集まっているのかを、若い世代にも知って欲しい」 (AERAdot.編集部・永井貴子)  2013年に沖縄県の「平和の礎」を訪れた秋篠宮ご夫妻と長男・悠仁さま 2018年、紀子さまと悠仁さまは広島市の平和記念公園を初めて訪れ、原爆死没者慰霊碑に拝礼した
ウィル・スミス平手打ち騒動、米国では「いじり程度は普通」 日米の解釈の違い
ウィル・スミス平手打ち騒動、米国では「いじり程度は普通」 日米の解釈の違い クリス・ロックさん(左)を平手打ちしたウィル・スミスさん(右)は、アカデミー賞授賞式など関連イベントへの参加が10年間禁止となった(photo/Getty Images)  俳優のウィル・スミスが、妻の容姿をジョークに使われて激怒した「平手打ち」騒動。日本とは違う、米国の「いじり」事情が垣間見える。AERA 2022年6月13日号の記事から紹介する。 *  *  * 「外見をからかって、人格を傷つけるなんて。日本では、公の場でいじることはなくなってきた印象がありますから」  薄毛の人を取り巻く状況を長年研究してきた社会学者の須長史生・昭和大学准教授(55)は、そう憤ったという。「事件」が起きたのは今年3月、米アカデミー賞の授賞式だった。  俳優のウィル・スミスさん(53)が、プレゼンターを務めたコメディアンのクリス・ロックさん(57)を平手打ちにした。ロックさんがスミスさんの妻ジェイダ・ピンケット・スミスさん(50)の髪形をジョークにして、「『G.I.ジェーン2』が待ちきれない」と言ったからだ。「G.I.ジェーン」は、短髪の女優が米海軍特殊部隊兵を演じた1997年の映画。ジェイダさんは2018年に脱毛症を公表し、髪を短く刈り込んでいた。 ■弱い者が強い者と闘う  須長さんは言う。 「私の調査では、男性の友人同士なら、いつかハゲるかもというお互い様の気持ちで『薄くなってない?』と冗談を言い合います。でも、女性や仕事関係の人の前では『髪が薄くなりましたね』とはいじられたくありません。かっこ悪い姿を見せたくないでしょう。笑われないように、男らしく動揺をしていないふりをするのもつらいのです」  一方、米国ではスミスさんの暴力のほうが問題視された。オーストラリア出身で日本のお笑い芸人、チャド・マレーンさん(42)はこう話す。 「ロックさんのいじりの程度は普通だと思いました。アカデミー賞の授賞式ではコメディアンがブルジョアである俳優たちをこき下ろすというお決まりの流れがあるし、欧米では弱い者が強い者にお笑いで闘う歴史があるからです。ロックさんはスタンダップコメディアンとして、人が言いたくても言えないこと、ちょっと踏み込みづらいことでも言うべき存在。政治、宗教、人種差別を笑いというオブラートに包んで取り上げることを使命とするコメディアンは何を言っても許される存在のはず」  ただ、こうも指摘する。 「容姿をいじったわりには、イマイチ面白くなかったのがダメでした。日本の芸人風に解説すれば、『ツカミが滑って、オチもなかった』といったところ。ちょっとの間の違い、言葉の工夫でウケが変わってくるものです」 ■欧米では一大ジャンル  欧米のお笑いでは、いじりが一大ジャンル。著名人はいじられることで視聴者に認められていく。だが、その流れが変わりつつあることも確かだという。 「コンプライアンスの問題で、世界中でいじりが厳しくなっています」(マレーンさん)  お笑いの世界ではないが、英国では5月、職場で男性の薄毛を侮辱したのはセクハラに当たると認めた雇用審判所の判断が出て話題になった。  自ら髪の毛を抜く「抜毛症」に30年以上悩んできた土屋光子さん(42)は6年前、ウィッグ(かつら)の使用を夫にカミングアウトした。 「『もうウィッグを使いたくないから(残っている)髪をそりたいんだ』と。そのとき、夫が『君は結婚しているけど、尼さんになるんだね』と返しました。驚きでも否定でもなく、ユーモアで返してくれました。(深刻さが)中和されました」  土屋さんは、髪に症状を持つ当事者のコミュニティー「ASPJ(Alopecia Style Project Japan)」の代表理事でもある。今回の騒動についてこう思う。 「ジェイダさんは公表して年数を重ねていて、脱毛への認識は発症した頃とは変わっていたでしょう。でも、スミスさんは悲しむジェイダさんという過去の記憶で止まっていたから、怒ったのかもしれません。スミスさんには『私の妻はすてきだろう』とジェイダさんの頭にキスをするくらいのユーモアで返してもらえたら周囲の捉え方も違ったのではないかと思います」 (編集部・井上有紀子)※AERA 2022年6月13日号
「Bクラス」に格下げされたヘンリー王子とメーガン妃 エリザベス女王即位70年の祝祭で辛酸なめる
「Bクラス」に格下げされたヘンリー王子とメーガン妃 エリザベス女王即位70年の祝祭で辛酸なめる イベント会場を出るヘンリー王子夫妻。2人は手をしっかり握りしめていた/6月3日(gettyimages)  エリザベス女王(96)の即位70年を記念する祝賀行事が6月2~5日の4日間、華やかに繰り広げられた。  英王室初の「プラチナ・ジュビリー(70年の祝祭)」とあって、「歴史的イベントに参加できてうれしい」「女王に感謝の気持ちを表したい」「一生で一度きりの経験だと思う」と興奮気味の人たちが多く参加した。コロナが落ち着いてきた実感もあるのだろう。明るい表情の人が圧倒的だ。ちなみに今回のイベント関連の経済効果は約1兆円とされている。  開幕初日は、女王の公式誕生日を祝う「トゥルーピング・ザ・カラー(軍旗分列行進式)」で始まった。1748年のジョージ2世時代から300年近く続くというパレードで、1200人ほどの兵士が200頭以上の馬と共に一糸乱れぬフォーメーションを見せたり、楽隊が見事な演奏を披露したりした。 ■参加の「お墨付き」もらった  女王はかつてのように軍服姿で騎乗して閲兵することはないが、バッキンガム宮殿のバルコニーから見守った。杖をついても背筋を伸ばし、いとこのケント公(86)と並んで立った。その時、ふと手袋のまま涙をぬぐう様子が見られている。  しかし翌3日には、「体調に違和感」を覚えたとして、セントポール大聖堂での感謝の礼拝を欠席した。4日のエプソム競馬場にも足を運ばなかった。  今回、注目された出来事のひとつに、ヘンリー王子(37)とメーガンさん(40)の渡英があった。 イベントに出席するヘンリー王子夫妻。射るような視線のなか、通されたのは「ほぼ末席」だった/6月3日(gettyimages)  夫妻はオランダで4月後半にあった国際スポーツ大会「インビクタス・ゲーム」の前に英国で女王に会い、プラチナ・ジュビリーに参加する「お墨付き」をもらった。そして今回、長男のアーチー君(3)と、長女のリリベットちゃん(1)を連れてやってきた。  ヘンリー王子は祖父のフィリップ殿下の葬儀と、母ダイアナ妃の銅像除幕式には出席しているが、メーガンさんは夫妻が王室を離脱して以降、「公式イベント」の参加は約2年ぶりだ。  夫妻の姿が最初に見られたのは、ウィンザー城に向かう車中だった。メーガンさんはわざわざ車の窓をおろし、路上の人たちに笑顔で手を振った。夫妻はかつて、英国滞在中は警察が警備するよう求めて英政府と揉めたことがある。そのため「英国は危険だとして、警備に細心の注意を払っているのではなかったのか」といぶかしがられた。 「プラチナ・ジュビリー」のイベントでバッキンガム宮殿のバルコニーに勢揃いした英王室一家/6月5日(gettyimages)  次は、トゥルーピング・ザ・カラーの時だった。米国に暮らしながら英王室批判を繰り広げる夫妻に対し、女王はバルコニーに出ることを許さなかった。  そんな夫妻の姿が捉えられたのは、バッキンガム宮殿にある少将執務室の窓際だった。女王の長女アン王女(71)の長男ピーター・フィリップス氏(44)の子ども2人と、王女の長女ザラ・ティンダル氏(41)の2人の子どもに指を唇に当てて「シー」とする姿が見られた。  英メディアは「ヘンリー王子は、10年前のダイヤモンド・ジュビリーでは軍服に身を包み、父と兄と共に馬にまたがって凛々しい姿を見せていた。今回はバルコニーにも出られず、はるか年下の親戚の子と遊ぶしかないとは」と嘆いた。 ■歓声とブーイング  3日のセントポール大聖堂での礼拝には、ヘンリー王子夫妻も出席した。そこで注目が集まったのは座席の位置だ。チャールズ皇太子夫妻とウィリアム王子夫妻が座った席とは、通路をはさんではるか離れた反対側に案内された。しかも最前列ではなく、前から2番目だった。  ヘンリー王子の隣に座ったブルックスバンク氏(36)は、女王の次男アンドルー王子の次女ユージェニー王女(32)の夫だ。ヘンリー王子とは顔なじみだが、彼に王位継承権はない。メーガンさんの隣は女王の妹、故マーガレット王女の長女サラ・チャット夫人(58)で、人柄の良さから女王の大好きなめいと言われる。ただし、王位継承順位は28位だ。  国民には、記念すべき祝いの場であり、またとないチャンスとして家族の和解を期待する声もあったが、そうした兆候はほぼ見られず、ウィリアム王子との間に立ち話もなかった。  ヘンリー王子夫妻がセントポール大聖堂から帰る階段の途中では、歓声もあがったものの、ブーイングが起きた。メーガンさんは手も振らず、そそくさと車に乗り込むと、滞在先のフログモア・コテージに戻った。礼拝後のレセプションに夫妻は招待されていなかったのだ。  夫妻が祝賀イベントに参加したいのであれば、許可はする。しかし、英国に居住せず、公務も行わない元ロイヤルに対しての見事な一線の引き方に、多くの国民は納得した。  すでに王室は、夫妻不在のまま前に進もうとしている。女王が次第に重要公務をチャールズ皇太子(73)に任せるようになり、王室は大きな節目にさしかかっている。  ヘンリー王子はいつも以上にメーガンさんの手を強く握りしめ、自分がロイヤルの「Bクラス」に格下げされたことに耐えたのだった。(文/多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事
「おなかの子どもをさわりたい」と背後から不倫相手の首を絞め殺害 男に懲役20年の判決
「おなかの子どもをさわりたい」と背後から不倫相手の首を絞め殺害 男に懲役20年の判決 神戸地裁姫路支部  妻子がいることを隠して交際した女性を殺害し、遺体を畑に埋めたなどとして、殺人などの罪に問われた男に、懲役20年の判決が言い渡された。「おなかの子どもをさわりたい」。そう言って女性の後ろにまわり、首を絞めて殺害……。裁判長は「男女関係を動機とする殺人事件の中でも非常に重い部類」と厳しく指摘した。関係者への取材やこれまでの裁判などから明らかとなった、被告の身勝手な動機や犯行手口などを説明する。  神戸地裁姫路支部で6月6日にあった裁判員裁判の判決。殺人、死体遺棄、窃盗の罪に問われ、懲役20年(求刑懲役22年)を言い渡された兵庫県姫路市の無職関口羊佑被告(36)。  昨年6月ごろ、独身者が前提であるマッチングアプリを利用し、姫路市のAさん(当時34)と知り合った。Aさんは真剣に結婚相手との出会いを求めていたため、当初から関口被告に「結婚を前提に」と告げていた。  関口被告は、妻子がいることを隠し、自分も同じ考えであることを伝え、翌月ごろには肉体関係を持つようになった。  9月ごろ、Aさんは妊娠していることがわかった。しかし、その直前に、関口被告は一方的に連絡を絶っていた。Aさんは探偵を雇い、関口被告を調べ、探偵は関口被告にAさんの妊娠を知らせた。  そこで、関口被告は、Aさんと連絡をとり、 「(子どもを)おろしてほしい。結婚もしない」  と言い放った。それでもAさんは母親に相談して、子どもを出産して一人で育てようと決意し、関口被告に認知するよう求めた。  しかし、関口被告は、 「認知などしない。認知するなら、子どもを奪い取って捨ててやる」  などと言って断ったため、Aさんは弁護士に相談し、関口被告に強制認知など法的手段もあると告げた。  すると、関口被告は同年10月23日午後2時ごろ、Aさんに、認知などについて「話し合う」と伝えた。Aさんと落ち合い、車で人気のない姫路市内の墓地の駐車場に連れ出した。 2021年10月、女性の遺体が見つかった現場付近を捜索する兵庫県警の警察官ら  その時の状況について関口被告は、論告求刑の裁判で、 「Aさんのいる後部座席に移って『おなかの子どもをさわらせてほしい』と背後から、Aさんを抱きかかえ、おなかに手をあてました。自分には妻子がいたので、養育費は支払うから認知はやめてもらえないかとお願いしたが、Aさんは『もう話し合うことはしません。すべて弁護士に任せます』と言いました」  と説明した。  そして、関口被告は、 「このままでは妻子にばれてしまう」  とAさんの背後から首を絞め、殺害した。  検察はその時の様子を、 「関口被告は、怒ったAさんに、再度、おなかの子どもをさわると背後にまわり、油断した隙に、プロレス技、チョークスリーパーをかけるように右腕を首にまわして、5分以上、絞め付けた。関口被告自身も『もう力が入らない限界まで絞めた』と認めている」  と説明。関口被告も、 「途中でAさんがやめてと手でたたくのを無視して絞め続けた」  と犯行の様子を語った。  判決で「殺害後の経緯も悪質」と指摘された関口被告の犯行がその後も続いた。  実はこの日の朝、関口被告は、Aさんを殺害することも考え、あらかじめ死体を遺棄する場所をスマートフォンなどで検索し、物色していた。途中、民家に置いてあるスコップも盗んでいた。  Aさんを殺害後、遺棄場所まで遺体を車で運ぶと、足をつかんで農道を引きずり、盗んだスコップで穴を掘り、遺体を埋めた。そして、車に残されていたAさんのスマートフォンを別の場所に捨てるなど証拠を隠蔽(いんぺい)した。  この日の夜、別の女性と食事の約束をしていた関口被告は、Aさんの遺体を遺棄したことで服が泥だらけになったため、キャンセルしたという。  Aさんの代理人として法廷に立った弁護士は、Aさんの母親の胸中を、 「お母さんはなぜ娘を一人で行かせたのか、後悔の念でいっぱいだ。『元通り、元気な娘を返してほしい』と話している」  と代弁した。  関口被告は当初、警察の調べにも「知らない」と言っていた。警察の目の前で、スマートフォンを取り出し、LINEの通話機能を使って、Aさんに電話するなど偽装工作も繰り返した。  犯行動機については、 「妻や子どもにAさんのことを知られたくなかった。生活のストレスがあった」  と話すばかりだったという。  関口被告は裁判官から、陳述の機会を与えられ、 「このたびは私の事件によりAさん、ご家族、Aさんを愛していた人すべての人々を悲しませることをしてしまった。改めて罪の重さを痛感している。これから反省と償いをしていきたい。出所したら地域のボランティア活動をして社会貢献したい」  と肩を震わせながら語った。だが、Aさんの弁護士は、関口被告から、謝罪の手紙や補償などがまったくなされていないとも明かしており、「ただの自己弁護としか思えない言葉ばかりだった」と話した。  判決で佐藤洋幸裁判長は、 「動機は極めて自己本位で身勝手。首に腕を巻き付けて数分間絞め付け続けた行為は、非常に危険性が高く、強固な殺意をうかがわせる」などと厳しく指摘し、 「宿った命とともにこれから人生を歩むはずであったAさんの生命が奪われたという結果は重大であり、Aさんの無念さは察するに余りある」  などと述べた。  法廷に来ていた、Aさんの知人は、 「今もAさんのお母さんやおばあちゃんは悲しみに暮れています。何の罪もない、Aさんとおなかの中の子どもまで殺し、平然としていた関口被告。今さら、どんなに謝っても信じられない」  と怒りをにじませた。 (AERAdot.編集部・今西憲之)
7月以降も4504品目の値上げを予定 下がったのは「交通・通信」と「保健医療」だけ
7月以降も4504品目の値上げを予定 下がったのは「交通・通信」と「保健医療」だけ AERA2022年6月13日号より  電気代にガソリン代、お菓子もカップ麺もコーヒーも値上げラッシュ。いまのペースで物価上昇が続くと、家計を大幅に圧迫してしまう。AERA 2022年6月13日号の記事から紹介する。 *  *  *  物価上昇が止まらない。総務省が発表した4月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比2.5%上昇。天候の影響が大きい生鮮食品を除いた値(コアCPI)でも2.1%上昇し、8カ月連続でプラスだった。特にコアCPIが2%以上アップするのは、消費増税の影響を除けば約13年半ぶりのことだ。  横浜市で家族4人で暮らす会社員の男性(42)は、こう言ってため息をつく。 「今年に入って、あらゆるものの値段が上がっているように感じます。食品はパンも油も麺類も、外食代まで上がっているし、電気代は見たことがないような額になっていました。リフォームを考えていたけれど住宅関連品も値上がり、さらに品薄と聞いて手が出ません。ニュースでは『7月から〇〇が値上げする』という話題が多く、いつまで続くんだろうと不安です」  特に値上がり幅が大きいのが、エネルギーと食料だ。原油価格の国際的な指標であるブレント原油の先物価格は、コロナ禍の需要急減で2020年4月21日に1バレル19.33ドルの安値を付けたが、その後じりじりと値を上げ、今年3月8日には127.98ドルに上昇。現在も100ドルを上回る高値で推移している。コロナ禍から主要国経済が持ち直して需要が急増したことに加え、対ロシア制裁によるロシア産原油の供給不安が影響しているとされる。  またウクライナ戦争は食糧価格にも大きく影響している。ウクライナは世界の小麦輸出の約9%、トウモロコシの12%、ヒマワリ油の53%を占める農業大国だ。すでに出荷に影響が出ているほか、今年の生産量も大きな落ち込みが予想される。  これらは足元の生活にも如実に表れている。再び4月のCPIを見ると、電気代が前年同月比21.0%、都市ガスが23.7%上がった。加工食品や飲料の値上げも相次ぎ、天候不順などでタマネギやジャガイモの値段も急上昇。帝国データバンクが食品主要105社を対象に実施した調査では、今年1月以降、6月末までに6285品目が値上げされ、7月以降も4504品目の値上げが予定されている。 AERA2022年6月13日号より  冒頭の男性は、日常生活で大きな問題が出るほどではないとしつつ、買い物では「妻の目が厳しくなった」という。 「菓子パンやスナックをカゴに入れても、そっと棚に戻される。買い物にかかる総額が増えないように、必須ではないものが買いにくくなりました」  消費経済ジャーナリストの松崎のり子さんは、売り上げが期待できるものから値上げされる傾向にあると指摘する。 「消費者が手を出しやすいものほど値上がりしています。10円の値上げでも生活防衛的に安く買っていたものだとダメージ感は大きい。夏以降には菓子類、ビールや酎ハイなどの値上げも予定され、影響は嗜好(しこう)品にも及びつつあります。テレワークで在宅時間が延びている中でのエネルギー高騰も打撃でしょう」  値上げはこれだけにとどまらない。4月のCPIによると、住居の設備修繕・維持費が2.5%、家具や家電などの家庭用耐久財が5.0%、自動車等関係費が3.5%アップ。支出を主要な項目ごとにまとめた「10大費目」で下がったのは「交通・通信」(マイナス0.2%)と「保健医療」(同0.7%)だけだ。(編集部・川口穣)※AERA 2022年6月13日号より抜粋
【左利きと発達障害の意外すぎる関係】 脳内科医・加藤俊徳×書道家・武田双雲
【左利きと発達障害の意外すぎる関係】 脳内科医・加藤俊徳×書道家・武田双雲  10人に1人という左利き。自身も左利きで、『1万人の脳を見た名医が教えるすごい左利き』著者の加藤俊徳医師によると、左利きには「ひらめき」や「独創性」など、右利きにない様々な才能があるそうです。実際、左利きとして知られる有名人の中には、他にはない天才性を見せている人も多くいます。  そこで、加藤先生が各界で活躍する「すごい左利き」の才能を深掘りする新企画【すごい左利きファイル】をスタート。第三回に登場するのは、書道家として有名な武田双雲さんです。  全2回でお届けするこのインタビュー。左利きかつADHDでもあるという武田双雲さんがどのようにしてその才能を開花させたのか、先生との対談から明らかになっています。(構成:山本奈緒子) ※こちらはダイヤモンド・オンラインの連載からの転載記事です 「日本のダ・ヴィンチ」左利きの書道家・武田双雲 加藤俊徳医師(以下、加藤):僕は子ども時代、家族の中で一人だけ左利きで、それが嫌で4歳のとき自ら鉛筆、習字だけは右利きに直したんです。双雲先生は家族に左利きは? 武田双雲(以下、武田):僕も親きょうだいは全員右利きで、僕だけが左利きですね。何で僕だけなんだろう? 不思議だな。もしかしたらおばあちゃんとかが左利きだったのかも。 加藤:書道は右手で書かれていますが、他にも右利きに変えたものはありますか? 武田:字を書くときだけです。あとは全部左手。お箸も、野球もハンドボールも。字だけは、母親が書道の先生だったので2歳で初めて筆を持ったときから右手でした。だから書道以外の字も気づくと右手で書いていたので、とくに右に変えられたという意識もないんです。 加藤:絵は左手のほうが描きやすくないですか? 武田:そうですね。でも線を引くなど細かいものは右で描きます。左手は、ザーッと色を塗るとかアバウトな作業のときに使いますね。だから一応、字は両方で書けます。鏡文字も書けますよ。 加藤:レオナルド・ダ・ヴィンチも両利きで、鏡文字を書くのが得だったらしいですよ。 武田:ダ・ヴィンチ研究家の方に会ったことがあるんですけど、「日本のダ・ヴィンチは武田双雲だ」と言われました(笑)。僕の行動とか発言がダ・ヴィンチとよく似ているらしいです。「何がそんなに似ているんですか?」と聞いたら、「ジャンルレスなところだ」と言っていたんですけど。 加藤:僕は脳の研究者であると同時に小児科医でもあって。子どものADHD(注意欠陥多動性障害:発達障害の一つにカテゴライズされている)など発達障害も専門なんですが、発達障害の子は言葉の発達が遅いことが多く、さらに鏡文字を書くことも多いんですよ。 武田:実は僕もADHDと診断されているんです。僕の両親もどう見てもADHDだろうなと感じるので、僕もど真ん中だと思うのですが。両親は今も落ち着きがあまりないし、何より時間の感覚というものがないんですよ。だから友達から他の親の育て方を聞いてびっくりしたんですけど。 加藤:たとえばどんなことに? 武田:「勉強しなさい」と言うお母さんが、世の中たくさんいるということも知りませんでした。僕は両親から、ただ「天才」と目の前で感動されるだけだったんですよ。「勉強しないと〇〇になれないよ」というような、未来の話が一切なかったんですよね。 “天才”の所以は「左利き×ADHD」? 加藤:ところで、双雲先生は何になりたかったんですか? 武田:僕自身なりたいものというのが一切なかったんです。やはり未来の感覚がなかったので。笑い話なんですけど、「就職」という言葉は聞いたことはあったけれど、自分が就職するという感覚がなかったんですね。で、大学に4年間通って終える段になったとき、「武田くん、就活してないの?」って言われて。何のことかと思ってまわりに聞いたら、みんな就職先が決まっていて「え? なになに?」と。それくらい、未来感覚がなかったんです。 加藤:時間感覚だけではなく、自分のことも分からないんじゃないですか? 僕から見ると、そういう顔をしています。 武田:えっ、分かるんですか!? その通りで、今の自分が武田双雲だとか書道家だとかいうのは分かっているんですけど、それも瞬間的に消えます。それで赤ちゃんのような脳に戻るといいますか。だから、「みんなそんなにいろいろ先のことを考えて生きていたんだ、へえ~」という感じだったんですけど。 加藤:左利きの人は発達障害も併せ持っていることがすくなくないという印象です。実は僕自身も左利きのADHDなんです。もっと本当に自覚したのは40歳を過ぎてからですが。おそらく双雲先生も同じだと思うのですが、ADHDの人って自己感情が弱いんですよ。自分の気持ちを認知しにくい。だからいろいろな人に囲まれると、その場その場で違う感情や気づきが出てくるわけです。それが、双雲先生が天才と言われる所以かもしれませんね。 武田:天才かどうかは見方だと思いますが、圧倒的に人と違う何かはあるんでしょうね。凹か凸かは分からないですけど、激しく歪な何かは持っているのかな、と。 ADHDの人が“まずやるべきこと” 加藤:双雲先生が幸運だったのは、書道家のお母さんのもとに生まれて、自身も書道という専門性を持つことができたことだと思います。専門性が一つでもあると、ADHDの人は自己認知をしやすくなるんですよ。別な言い方をすると、自己肯定感が育ちやすいですね。 武田:たしかに書道がなかったら、何をやっているんだろう……。 加藤:ADHDなど発達障害の人がまずやるべきことは、専門性を打ち立てることなんです。発達障害の人は自分のことを認知するのが難しいのですが、何か専門性があるとそれが軸となって、「私はこれができるな」と自分を認知できる。双雲さんというキャラクターは、その後から立ってくるんです。そしてそれがだんだん逆転していって、「双雲さんって面白い人だよね」とキャラが先だってくるようになるんです。 武田:たしかに書道がなかったら、単なる変なヤツだと思います。全て書道を通しておこなうから、軸があって、まわりもそこに集まってきてくれる。たまたま両親が書道を伝えてくれたことと、とにかく絶賛して育ててくれたのは、あらためて思うと奇跡的ですね。 脳科学的に素晴らしい「無条件で絶賛する」武田家の子育て 加藤:お父さんお母さんは何をもって「天才」と言っていたんですか? 武田:それを聞くんですけど、特にないんですよ。ただ僕を尊敬のまなざしで見てくる、という感じ(笑)。全肯定ですね。 加藤:字も、どんなに下手でも絶賛してくれていた、と。すごいご両親ですね。 武田:いや、何かを絶賛するわけではないんですよ。頑張ったから褒めるとか、成績がいいから褒めるとか、そういうのは全くなくて。無条件なんです。これが他の親とめちゃくちゃ違うところで。「親にとにかく絶賛された」と言うと、よく「じゃあ子どもは褒めなきゃいけないんですか?」と聞かれるんですけど、できたことを褒められると“心が闇る”気がして。だってそれって頑張らないと褒められないということだから、ニンジンをぶら下げられている馬と一緒。だんだん疲れてきますよね。 加藤:なるほど、ご両親の育て方は素晴らしかったと思います。決してネガティブなことを言わなかったわけですね。僕も母に怒られたことがなかったんですけど、それってすごく大事。とくにADHDにとっては、ネガティブなことを言われたり攻撃されたりすることが、一番集中力を乱されることですから。マイナス点を言われれば言われるほど、不注意が増大しやすくなるんですね。 武田:もし右利きに直しなさいっていう親だったらどうなってたんでしょうね。 加藤:非常に反発したでしょうし、グレたかもしれません(笑)。双雲さんは拝見している限りでは、左利きの度合いがかなり強そうなので、本来なら字だけ右利きにするのは難しかったはず。それをお母さんが文字を書くことだけを自然な形で右利きにした。非情に珍しいケースだと思います。だから僕が思うに、双雲さんは右脳も左脳も発達していますよ。「天才的幸運」が重なったと思いますね。 左利きは「言語の発達」が遅くなる 武田:でも、左利きと発達障害に関連性があるということは初めて聞きました。興味深いですね。 加藤:ここで少し、左利きと発達障害と脳の関係性のお話をしますと、僕はずっと左利きコンプレックスを抱えていました。というのも、左利きの人は、それだけで言語の発達が遅い傾向にあります。一般に、女の子より男の子の方が言語発達は遅れやすいです。ですから、男の子で左利きは、かなり言語に苦労します。そこで、ずっと脳の秘密を調べてきたわけなのですが、脳にはなぜ右脳と左脳があるんだと思いますか? 武田:たしかに、左右に分かれていなくても良さそうなのに、なぜかと言われると分からないですね。 加藤:一説には、様々な働きを脳のあちこちで分担をするためではないかと言われています。生後すぐには、右脳と左脳は発達自体は比較的均等に進んでいくんです。だけど、もし右脳がなくなっても、ほとんどの人は喋ることはできるんですよ。なぜなら言語の処理は左脳でおこなわれているから。そして右手の動きは左脳が司っているので、右利きの人のほうが左脳が発達しやすくなり言語力も発達するわけなのです。 武田:言語と左利きって関係があるんですね。 加藤:脳には海馬といって記憶を司る部分があるのですが、この海馬は右脳と左脳のどちらにもあるんですね。で、左脳の海馬の発達が遅れるほど言語発達も遅れるんですが、女性のほうが左右の発達差が小さく、男性のほうが左脳の海馬が右脳の海馬よりも遅れが大きいんです。 「左利きと発達障害」の関係 武田:左利きや発達障害の人だとどうなんですか? 加藤:まさにそれをお伝えしたかったのですが、発達障害の人の約95%は左右どちらかの海馬の発達が遅れているんです。よく調べると、約98%が右の海馬より左の海馬の発達が遅れています。この左脳側の海馬の発達の遅れが、幼少期の発語の遅れなど、言葉の習得の遅れと関係していることが分かってきました。  たとえば、アインシュタインも幼少期、言葉の発達が遅かったと言われていますが、発達障害の幼少期の代表的な症状は、言葉の発達の遅れなんです。ですから、左利きの人は、右脳を成長させやすい脳のしくみですが、逆に左脳の成長には、右利きの人より時間がかかるわけです。  で、何が言いたいかと言いますと、左右の海馬の発達に差があればあるほど、左脳と右脳の発達時期にずれが生まれやすく、脳はいわゆる定型発達をしないんですね。言い方を変えると、そもそも、左利きは発達障害の症状が起りやすく、実際に、左利きでさらに発達障害が加わると、その脳は非定型な発達を示すので、ランダム脳発達と言えるのです。 武田:少し発達の規則性がランダムになるだけ、と。 加藤:そうです、そして双雲先生もそうですが、左利きやADHDの人はその不規則性に従って生きたほうが能力が伸びやすいと感じています。脳が成長していく仕組みが、左利きは右利きと違うので、それに海馬の左右の発達差が加わると、もはや、特別な脳のしくみで発達すると考えた方が良いと思っています。 右利きへの矯正は「3歳前後から10歳まで」避ける 加藤:双雲先生は左利きコンプレックスはありましたか? 僕はまさに左利きゆえの脳の発達をしたようで、言葉が上手く出ないというのがコンプレックスだったんですけど。 武田:今はおしゃべりですけど(笑)、小さいときはもしかしたら遅かったのかもしれません。 加藤:運動野っていうのは右脳と左脳の両方にあって、その中で脚、手、口などとそれぞれを司る部位がヘアバンド状に連なっているんですね。で、左手って右脳で動かすんですけど、脳の言語野は9割方、左脳にあるんです。だから右利きの人が字を書くと、手を動かす運動野も左脳、言語野も左脳、ということで連動が早いんです。でも左利きの人が字を書くと、手を動かす運動野は右脳、言語野は左脳となる。両方の脳を使わないと字が書けないんです。 武田:両方を使っているほうが良さそうに聞こえますけど。 加藤:右脳と左脳をつなぐ脳梁や神経線維が十分に発達した大人なら、いいんです。でもまだ脳梁ができ上っていない小さいときにそれをやると、スムーズにいかないんですよ。だから脳梁や神経線維が活発に成長している3歳前後から10歳近くまでで右利きに直そうとするのはやめてください、と言っているんですけど。その頃に言葉がどんどん出てくるようになるのに、右脳と左脳の動きが入れ替わるとすごく混乱しますから。 武田:僕はもっと早く、2歳頃から右手で筆を持ち始めたわけですけど、それはどうなんでしょう? 加藤:2歳だとあまり影響がないかもしれません。そもそも2歳くらいまでは私たちは右手も左手も両方使っていて、そこからだんだんとラクなほうの手を選択していきますから。双雲先生は2歳で筆を持っているので、字を書くのは右手のほうがラクになっていて、自然と右利きを選択したのでしょう。だから脳の混乱も起こらなかったんだと思います。 武田双雲の“失敗がない書道”は左利き、ADHDならでは? 武田:先生は4歳で、自分で右利きに変えたんですよね? 加藤:そう、だから今も話すのは苦手です。とくに僕の場合はADHDも絡んでいて、どんどん違う発想が出てくるので話が飛びやすいというのもあるんですけど。 武田:僕も話がめちゃくちゃ飛びます。それが面白いと言われて、講演会のオファーをたくさんいただくんですけど(笑)。僕の場合、講演中も突然パッと違うところに話が飛んでいくから、みんなハラハラしながら聞いている。でも全体的には何となくまとまっていて、最後はみんな泣いている、みたいな(笑)。書道やアートの作品作りでも、そんな感じです。だから失敗はない。 加藤:ちょっと線がズレても、最終的にはうまくまとまる、と。 武田:そうですそうです。なぜなら出てきたものに反応して書いていくから。僕にとって書道って、一画目が決まって初めて二画目が決まり、二画目が決まって三画目が決まり……というふうに、その都度バランスを合わせて出来上がっていくもの。だから余程のことがない限り、失敗がないんです。ところが40年、50年の経歴を持つ方でも、この微調整ができないらしいんです。僕がすんなりできたのは、左利きとかADHDが関係しているのかもしれないですね。 加藤:ADHDゆえ未来をイメージしにくいところはありますけど、“今”の空間的な最終形はイメージしやすい、というのはあるかもしれませんね。 武田:バランスがどうやったら崩れるか、というのが分かっているから、その違和感に異常に敏感なんだと思うんですよね。だから僕、コロナ禍になってから毎日インスタライブとかLINEライブで歌を歌っているんですけど、それも音が外れたら外れたで、それに合わせて違う歌を歌っていったりする。結局、聴いてくれている人が心地いいと思えばいいわけですから。一曲の音程ではなく、聴く人全体の感情のバランス、というバランスのとり方もありますよね。 加藤:それも空間認識能力の高さからくるものでしょうね。それにしても双雲先生は歌も得意なんですね。視覚と聴覚の両方が優れているというのは、本当に恵まれていると思います。大抵はどっちかに偏って発達していくもの。僕なんかは聴覚が非常に弱いので、それが音読障害ともつながっているんですけど。でも音を評価するということはできる。そんなふうにちょっとした脳の回路のズレで、いろんな障害が出てくるわけです。 脳の得意不得意はだれにでもある 武田:障害というか、たしかにあるところから見れば何かが凹んでいるかもしれないけれど、違うところから見たら、その分また違う何かがすごく突出している可能性があるってことですよね。 加藤:その通りです。ただ双雲先生は視覚と聴覚、さらには運動もできたとおっしゃっていたので、脳的にはどこを犠牲にしているのか。それは先生の脳を見てみないことには分からないですけど。 武田:分かりやすいのが、僕は何でもすぐになくすんですよ。物忘れがひどいというか。たとえばホテルにジャケットを忘れたまま会場に行って、「あ、忘れた!」と取りに帰ろうとするんだけど、その途中で美味しそうなそば屋さんを見つけて食べたら、今度はそこにマスクやスマホを忘れて。再びホテルに戻ろうとしたら「あれ、マスクがない」となって、また取りに戻って、全然ホテルにたどり着かないんですよ。今は秘書と妻がフォローしてくれているので社会不適合ではないですけど、これが一人暮らしだったら危ないと思います。 加藤:僕も学生時代、洗濯中に他ことに夢中になり、洗濯機の水をあふれさせたことがあります。どうしても他のことに意識が向いてしまうんですよね。 武田:僕も先生も、それこそ書道家と医師っていう専門性があるから、こんなポンコツだって誰も分からないですよね(笑)。 加藤:本当に、ポンコツコンプレックスの塊ですよ。とくに僕の場合は左利きコンプレックスも強かったから。でもそれがなければ脳研究をここまで継続していなかったと思います。いつか脳の世界で圧倒的な存在になって、左利きコンプレックスをひっくり返してやろうと思っていいましたから。ADHDで興味がいろんなところに飛ぶのに、左利きだけは変わらないので、右利きだけの世界から、左利き優位の世界への気持ちは50年以上続いていますね。 武田:分かります、その気持ち。ADHDって圧倒的なナンバーワンかオンリーワンしかないんですよね。競争は自分のペースじゃないからめちゃくちゃ苦手。 加藤:いや、それにしても双雲先生は面白いケースですね。左利きとADHDが天才的な調和を見せたという……。左利きでADHDという子を持つ親は、もしかしたら「天才だ」と言っていればいいのかもしれない(笑)。ここまでADHDをネガティブなことにしなかったなんて、双雲先生のご両親は本当にすごいと思います。 (構成:山本奈緒子) 武田双雲(たけだ・そううん) 1975年熊本生まれ。東京理科大学卒業後、NTTに就職。約3年後に書道家として独立。NHK大河ドラマ「天地人」や世界遺産「平泉」など、数々の題字を手掛ける。講演活動やメディア出演のオファーも多数。ベストセラーの「ポジティブの教科書」のほか、著書は60冊を超える。2013年度文化庁から文化交流使に任命され、ベトナム・インドネシアにて、書道ワークショップを開催、2017年にはワルシャワ大学にて講演など、世界各国で活動する。近年、現代アーティストとして創作活動を開始し、2015年カリフォルニアにて、アメリカ初個展、2019年アートチューリッヒ、2021年ボルタ・バーゼルに出展。2020~21年には、ドイツ・スイス・三越伊勢丹各店舗・大丸松坂屋各店舗などにて個展を開催し、盛況を博す。 ■公式ホームページ https://www.souun.net/ ■公式ブログ【書の力】 https://ameblo.jp/souun/ ■LINEブログ https://lineblog.me/takeda_souun/ ■Facebook https://www.facebook.com/souun.calligraphy ■Twitter https://twitter.com/souuntakeda ■Instagram https://www.instagram.com/souun.takeda/ 『1万人の脳を見た名医が教えるすごい左利き』[著者]加藤俊徳(かとう・としのり) 左利きの脳内科医、医学博士。加藤プラチナクリニック院長 株式会社脳の学校代表。昭和大学客員教授。発達脳科学・MRI脳画像診断の専門家。脳番地トレーニングの提唱者 14歳のときに「脳を鍛える方法」を求めて医学部への進学を決意。1991年、現在、世界700ヵ所以上の施設で使われる脳活動計測fNIRS(エフニルス)法を発見。1995年から2001年まで米ミネソタ大学放射線科でアルツハイマー病やMRI脳画像の研究に従事。ADHD(注意欠陥多動性障害)、コミュニケーション障害など発達障害と関係する「海馬回旋遅滞症」を発見。帰国後は、独自開発した加藤式MRI脳画像診断法を用いて、子どもから超高齢者まで1万人以上を診断、治療を行う。「脳番地」「脳習慣」「脳貯金」など多数の造語を生み出す。InterFM 897「脳活性ラジオ Dr.加藤 脳の学校」のパーソナリティーを務め、著書には、『脳の強化書』(あさ出版)、『部屋も頭もスッキリする!片づけ脳』(自由国民社)、『脳とココロのしくみ入門』(朝日新聞出版)、『ADHDコンプレックスのための“脳番地トレーニング”』(大和出版)、『大人の発達障害』(白秋社)など多数。 ・加藤プラチナクリニック公式サイト https://www.nobanchi.com ・脳の学校公式サイト https://www.nonogakko.com
「マンション住み替え」でシニアが注意すべき9ポイントとは?
「マンション住み替え」でシニアが注意すべき9ポイントとは? ※写真はイメージです (GettyImages)  定年退職までに住宅ローンを払い終え、終のすみかとして住み続ける。そんな“住宅すごろく”の価値観が主流だった時代も今は昔。定年前後に、シニアライフを意識して住み替えを選択する人が増えている。主流は、利便性の高いマンションへの住み替えだ。しかし選び方には戦略が必要だ。 *  *  *  神奈川県在住のAさん(67)。2年前、長年住んだ郊外の戸建てから、駅近の中古マンションに住み替えた。きっかけは、妻(66)の膝が痛むようになり、日々の階段の昇降がつらくなってきたことだった。  30年前にローンを組んで購入した戸建ては、1階にリビングやキッチン、風呂などがあり、2階が寝室という一般的な作り。寝室を1階に移動し、ワンフロアで生活が完結するようなリフォームも考えたが、大掛かりになるため、相当な費用がかかる。子ども2人は結婚して家庭を持ち、夫婦二人暮らしになって10年ほど。気づけば普段過ごす空間は、リビングと寝室が主で、使わない部屋には物がたまっていた。  家を建てた当時、周りには子育て中の同世代が多く、新築の戸建てが立ち並ぶ街は活気があふれていた。だが年月が経ち、住人は高齢化し、ここ数年で、売りに出される家も増えた。 「あの奇麗な駅近のマンションが、最近売りに出たらしいよ」  そんな知らせが舞い込んできたのは、マンションのチラシを夫婦で丹念に見るようになって1年ほど経ったころ。内見に行くと、築5年と新しいだけあり、建物も部屋も奇麗だ。駅から徒歩5分という立地ながら、騒がしくなく落ち着いた環境であることも気に入った。4階建ての低層マンションの最上階で、戸建てにはない見晴らしも大きな魅力だ。居住面積65平方メートルという空間も戸建てと比べると約半分の広さだが、二人暮らしにはちょうど良いサイズに思えた。何より段差が少なく、4階まではエレベーターがある。徒歩圏内にスーパーや病院もあり、老後の暮らしを考えると「住み替えたほうが快適そうだ」と意見が一致した。  内見から1カ月後に購入契約。戸建ての売却は、マンションへの住み替えを考え始めたころに、査定を依頼した不動産屋にお願いすることにした。Aさん宅は郊外ではあるものの、最寄り駅から徒歩10分程度。隣駅に人気の学校があり、子育て世帯の需要がそれなりにあるエリアであったことも幸いだった。半年ほどで買い手がつき、戸建てを売却した資金に現金を追加する形で、住み替えることができた。追加費用は1千万円ほどかかったが、不動産屋いわく、「駅近の築浅物件で、資産価値を維持しやすいだろう」という。 「戸建てを手放すことは寂しくもあったけれど、年をとって住むには不便さも大きかった。あのとき思い切って決断してよかった」(Aさん)  今、Aさんのように高齢期に住み替えを選択する人が増えている。三井不動産リアルティが昨年、首都園で住み替えた人を対象に行った調査によると、65歳以上の住み替え理由の1位は「自身の高齢化による将来に対しての不安」(24.4%)。住環境は、病院や商業施設から近い利便性の高い立地を選ぶ人が多い傾向だ。  さらに、住み替え時に物件の資産価値を意識したかという問いには、全体のおよそ3分の2(65.9%)が「意識した」と回答。住まいを資産と捉え、価値を維持できる物件を選ぶ傾向が高まっているのだ。首都圏を中心に、不動産の購入、売却など、これまで6千件を超える取引を行ってきた不動産コンサルタントの後藤一仁さんは言う。 「これまで住んだ家の売却費用を元手に、利便性の高いマンションへ住み替えるシニア世代が増えています。60代はもちろんのこと、70代前半で住み替える人も少なくありません」 週刊朝日 2022年6月10日号より  後藤さんによれば、「今は売却が有利な時期」。不動産価格が高騰傾向にある今、新築マンションの平均価格はバブル期を超え、過去最高を更新。こうした価格高騰の影響もあり、現在首都圏においてもっとも取引が活発なのは中古マンションだ。ここ最近は築浅物件のみならず、築30~40年の古い物件もよく動いているそうだ。加えて低金利も追い風となり、今は不動産が高く売れやすいタイミングだという。 「言い換えれば、マンションであっても戸建てであっても、今住んでいる場所が、これから先にこれ以上高く売れることは考えにくい。少し時間が経てば下落に転じるところも多くなると思われます。高止まりしている今が、売り時だと考えます」(後藤さん)  家選びには、それぞれの価値観があらわれる。どの視点から見るかによって、その家の価値は変わってくるものだ。将来的に高齢者施設や子どもと同居という道を選ぶケースもありうるシニア世代の住み替えは、いずれ人に「売る」「貸す」ことを選択肢に入れて物件を選ぶに越したことはないはずだ。ここでは主に「資産価値を保ちやすい物件」という視点から、マンションへの住み替えを検討する際の注意点を考えたい。専門家らに話を聞くと、九つのポイントが浮かび上がってきた。順を追って解説しよう。 週刊朝日 2022年6月10日号より 【売却時の注意点】 (1)「売り」と「買い」を無理に同時進行しない  買い替える際には、これまで住んだ不動産を売却した資金を元手に、新たな不動産を購入するケースが多い。しかし現実的には「売る」タイミングと「買う」タイミングを合わせるのは難しく、「売り買い」を無理に同時進行させようとすると失敗を招きかねない。それは、売却を焦るあまり割安な価格で売却せざるを得なかったり、新居をじっくり探せなかったりする恐れがあるからだ。そのため、現実的には「売り」か「買い」どちらかを優先して進めるとよい。 「売り先行」の場合には、売却した代金を、住宅ローンの残債があれば返済にあて、余裕があれば新居の購入資金にあてられる。売却代金が確定してから新居を購入するため、資金繰りの計画が立てやすいのもメリットだ。「買い先行」は、今住んでいる不動産のローンが完済済みで、資金計画に余裕がある人に向く。新刊『60歳からのマンション学』などで知られるマンショントレンド評論家の日下部理絵さんは言う。 「築年数が古かったり、駅から遠いなどの場合には、売り先行で焦らず売却活動をするのがおすすめ。売り急いで不本意な値下げに応じたら、老後の資金計画に大きなリスクが生じることにもなりかねないので、しっかりとした計画を立てて」 (2)売却相場を把握してから仲介会社を訪れる  一般的に不動産を売却する際には、不動産仲介会社が間に入るケースが多い。しかし何の知識もない状態で目についた不動産仲介会社を訪ねてしまうと、悪条件の商談を持ちかけられることもあるため、要注意だ。 「不動産仲介会社は、取引が成立した際の成功報酬で動いているところが多い。そのため本来重要である諸条件を鑑みず、『今すぐ売るべき。今なら相当高く売れる』などと畳み掛けられることがあります」(後藤さん)  こうしたことを防ぐには、自分なりに周辺物件を比較して売却目安の価格を把握し、「これ以上は値下げしない」などの希望額のラインを明確にしておくこと。目安の金額は、戸建てであってもマンションであっても、近隣の中古物件の販売価格が参考になる。築年数や広さなども、なるべく自分が住んでいる家と同じ程度の条件の物件が比較対象にしやすい。 【物件選びの注意点】 (1)広さは60平方メートル前後が価値を保ちやすい  生涯未婚率や離婚率の上昇、さらに今後加速していく高齢化の影響により、一人暮らし世帯が急増し、ファミリー世帯が減っている。この状況を踏まえると、これまでファミリー用マンションとして考えられていた80平方メートル前後の広めの間取りは、今後の需要が見込みづらいという。 「これから価値を維持しやすいのは、狭すぎず広すぎない、60平方メートル前後のマンション。一人暮らし世帯、夫婦のみ世帯を中心に、夫婦と子ども1人、夫婦と小さな子ども2人、シニアと幅広い層が住みやすく、価格も手頃な60平方メートル前後が最も売れやすく、貸しやすい」(同) (2)修繕計画に注意  中古マンションを選ぶ場合に要注意なのが、修繕計画だ。大規模修繕は、10~15年周期で行われる建物全体に関わる修繕工事で、多額の費用がかかる。そのため、多くのマンションでは向こう20~30年先の修繕計画を立て、修繕積立金としてコツコツと工事費用をためている。だが中には管理組合がうまく機能していない物件もあり、適切な長期修繕計画の見直しが行われていないことがある。日下部さんが言う。 「対応策としては、購入前に修繕計画について事前に確認しておくこと。『修繕計画について教えてください』と尋ね、前回の工事から15年以上経っているのに“予定がない”とのことであれば、理由を聞くこと」 (3)2001年以降に完成した物件を選ぶ 「住宅の品質確保の促進等に関する法律(品確法)」が00年に施行された。これにより、01年ごろからの完成物件は、耐震や省エネルギー、遮音性などといった住宅の基本性能を向上させた物件が多い傾向にあるという。前出の後藤さんが言う。 「今は新築マンションでもチープな作りにする物件が増えているため、むしろ10年ほど前に完成した物件の設備のほうが優れている場合も少なくありません。中古物件を選ぶ際は、01年以降に完成した物件をひとつの目安にするとよいと思います」 (4)掲示板、エントランス、バルコニーは要チェック  中古マンションの場合、その物件の実態は意外なところにあらわれるという。日下部さんによれば、チェックすべきポイントは【1】掲示板、【2】エントランス付近、【3】バルコニーの三つ。まず【1】掲示板は、その物件が抱えているトラブルが見えやすい場所。例えば騒音、共用部分の使用法やゴミ収集に関する注意喚起がされていたりすると、マナー意識が低い住人に悩まされている可能性もある。【2】エントランス付近は、建物の管理状態が最もあらわれやすい場所。例えば電灯が切れたままになっている、掃除がされていないなどは管理不全である可能性がある。  またゴミ収集スペースも要チェック。ゴミの分別がされていなかったり、スペースそのものが荒れていたりしないかを確認しておく。【3】バルコニーを外から眺めると、年齢層や暮らしぶりが想像できるほか、鳥よけの網などがかけられていれば、鳥のフン害や鳴き声などの問題を抱えている可能性もある。 「すでに住人がいる中古マンションは、不動産屋が案内しないところにこそ、本音が潜んでいることが多い。他人と共存する住まいだからこそ、この3点は事前に確認することをお勧めします」(日下部さん) 【場所選びの注意点】 (1)駅近、周辺の道が平らであること 「駅から徒歩何分以内か」という点は、資産価値を維持する上で特に重要なポイントだ。駅からの近さは、どの世代にも共通して求められる。高齢化率の上昇や、後述する国のコンパクトシティ構想を踏まえても、駅から近い物件は今後ますます有利に働く可能性が高いという。 「エリアにもよりますが、原則、駅から徒歩7分以内の立地で選ぶと、いざというときに売りやすいし、貸しやすい。また車で案内されると見落としがちですが、シニア世代は特に、周辺の道が平らかどうかも確認すべき」(後藤さん) (2)スーパーや病院が近い  日常生活に欠かせないスーパーが近くにあること、そして年を重ねるにつれ通う頻度が高まる病院も近くにあると安心だ。車や電車に乗らずとも、近隣で必要なものがそろう環境だと暮らしやすい。周辺に活気がある商店街があることや、人気の学校があること、図書館や公的施設などがあることも資産価値を維持しやすい要素になる。『50代、家のことで困ってます。』などの著書で知られる長谷川高さん(長谷川不動産経済社代表)は言う。 「“子どもや孫の近くに住みたい”“自然豊かな場所がいい”など、個々の住む価値を優先させると、いざというときに売りにくい、貸しにくいことがあります。場所を選ぶときには、資産価値という観点も忘れずに」 (3)立地適正化計画区域に指定されていないか  国土交通省の「集約都市(コンパクトシティ)形成支援事業」により、中心部から離れた人口密度の低い都市などを「立地適正化計画区域」に指定し、住宅や公共施設、医療・福祉施設などを街の中心部である「居住誘導区域」に誘導する計画が進められている。こうしたことから、立地適正化計画区域内の「居住誘導区域外」に指定された場所は、資産価値が下落する可能性が高いという。 「居住誘導区域から外れた場所は、ゆくゆくは価値が下がりやすいエリアであると言えます。住み替え検討時には、事前に確認することをお勧めします」(後藤さん)  人生100年時代、老後の新たな住まいを考えることもまた人生の楽しみだ。戦略的に物件を選べば、資産として活用することもできる。何より引っ越しを伴う住み替えは、気力も体力も伴うもの。「いずれ住み替えよう」と思うなら、早いに越したことはない。(フリーランス記者・松岡かすみ) ※週刊朝日  2022年6月10日号
【追悼】“鬼神”と呼ばれたレスラー・ターザン後藤さん 「他団体にない過激さが必要だった」
【追悼】“鬼神”と呼ばれたレスラー・ターザン後藤さん 「他団体にない過激さが必要だった」 1990年代後半のターザン後藤さん(本人提供)  5月30日夕方、いきなり舞い込んだ訃報(ふほう)。1990年代から2000年代にかけて、プロレス界で一世を風靡(ふうび)したデスマッチファイター・ターザン後藤(本名・後藤政二)さんが、29日午後6時50分に都内の病院で死去した。関係者によると、死因は肝臓がん。今年判明し、闘病中だったという。享年58。還暦を目前にした旅立ちだった。  後藤さんの元付き人で現在は熊本市で介護職員をしている元FMWのプロレスラー・ミスター雁之助さんが、自身のSNSで発信した。 「後藤さんが働いていた都内・押上の町中華『太楼ラーメン』の常連客の方からご連絡をいただきました。最初は半信半疑だったのですが、その後、通夜・告別式の案内状も送られてきたので公表することにしたのです」(雁之助さん)  筆者は昨年12月、後藤さんにインタビューしている。当時の後藤さんの話から、それまでの後藤さんの足跡とプロレス観、そして人柄などを紹介したい。  後藤さんといえば、何といっても大仁田厚さんとの度重なる有刺鉄線デスマッチだろう。  日本初の有刺鉄線デスマッチが開催されたのは、1989年12月10日のFMW・後楽園ホール大会。大仁田さんとタッグを組み、松永光弘&ジェリー・ブレネマン組とのプロレス対空手の異種格闘技マッチだった。 「FMWはこの年の10月に旗揚げしたばかりで、当時アメリカに住んでいた俺は、大仁田から電話をもらって帰国し、参戦することにしたんです。でも団体の知名度が低いから、フロントは営業にとても苦労してた。それで、他団体がやってない、過激なデスマッチやストリートファイトを看板にせざるを得なかったわけです」(後藤さん)  当時を知るプロレス雑誌の元編集者がこう振り返る。 「デスマッチ自体は、旧国際プロレス(1966~81年)が金網デスマッチを看板にしていたので珍しくはなかった。それだけに、さらにセンセーショナルな形式が求められ、有刺鉄線をリングロープの代わりにする『ノーロープ有刺鉄線デスマッチ』が考案されたのです」 コーナーポストからダイビングするターザン後藤さん  有刺鉄線に触れるや、いとも簡単に皮膚が裂け、手足はもちろん、リングは流血で赤く染まった。インパクトは大きかった。 「お客さんの反応は想像以上に大きかったですよ。プロレス専門の雑誌や新聞だけじゃなく、スポーツ新聞も大々的に取り上げてくれたから、チケットは黙ってても売れるようになりましたね」(後藤さん)  さらにバージョンアップしたのが、有刺鉄線に電流を流して爆薬を仕掛けた「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」。90年8月4日、後藤さんが大仁田さんと対戦した都内・レールシティ汐留(旧汐留駅跡地)大会で初お披露目した。 「怖くなかった、というとうそになります。誰もやったことがなかったから、下手すると爆死するかもしれない。そんな恐怖がありました」(後藤さん)  両者血だるまになる激闘の末、後藤さんは力尽きて敗れたが、その年のプロレス大賞MVPと同ベストバウト(年間最高試合)の両方を受賞。その勢いを買って翌91年9月には、川崎球場で大仁田さんを相手に「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」を挙行し、3万3千人もの観客を動員。FMWは全日本プロレス、新日本プロレスに次ぐ団体にのし上がり、インディーズブームを牽引(けんいん)した。  気になったのは爆破の瞬間だ。体にはどのような痛みが生じるのかを聞くと、 「肉が内側からバシッと弾けるような感じです。試合中はアドレナリンが出てるせいかあまり痛みは感じないんですが、リングを降りてから2、3日間は、全身がやけどでほてってジワジワと気持ちの悪い痛みが続きます。でも他団体と違う目立つことをしないと、お客さんに来てもらえません。痛いだのつらいだのと言ってる場合じゃなかったですよ」と後藤さん。  当時は年間250試合超。デスマッチではなくても、ほぼ毎試合、流血・乱闘が続き、額は縦にいく筋もの深い傷が刻まれ、丸太のような太い腕も生傷が絶えなかった。 プロレスには厳しかったターザン後藤さん 「プロレスにはすごく真剣に取り組み、いつもピリピリしていました。練習も厳しくて、ニックネームの『鬼神』そのもの」と後藤さんの印象を語るのは、前出のミスター雁之助さんだ。  その一方、こんな一面も。 「92年の1月ごろ、四国・高松市での大会前夜でした。タニマチさんの酒席に後藤さんとご一緒させてもらい、テンションが上がった僕は、後藤さんが引き揚げてからも延々と飲んでいたんです。翌日午後3時ごろ、気がついたのは病院のベッド。僕は急性アルコール中毒で担ぎ込まれていました。大仁田さんは、お酒の失敗を許さないタイプだし、ましてや新人の大失態。青くなりました。そうしたら、後藤さんが大仁田さんに『本田(雁之助さんの本名)は焼き肉屋で食べた生レバーにあたったので入院した』とうそを言ってかばってくれたんです。厳しいだけじゃなく、人情味もお持ちでしたね」(雁之助さん)  そんな後藤さんは、95年5月、大仁田さんの2回目の引退試合の対戦相手に選ばれた。ところがその1週間前に退団して大騒動となった。 「離脱の理由? これまで100回を超えるくらい同じ質問をされてますけど、ノーコメント。誰にも話してないんです。真相は墓場まで持っていくつもりです」  インタビュー時にこう話した後藤さんは、その言葉通り真相を語らないまま鬼籍に入った。  前出のプロレス雑誌の元編集者もこう話す。 「私ももちろん聞いていないです。でも、一度決めたらてこでも動かない、いかにも後藤さんらしいエピソードですね」  FMW離脱後は、真FMWを結成してIWA・JAPANやWAR、全日本プロレスなどに参戦した。2002年には、後進育成のために道場兼プロレス会場のインディーズアリーナを埼玉県春日部市に設立し、その後都内の浅草に移転してレストラン「浅草ファイト倶楽部」を併設してファンを喜ばせた。  その後、墨田区内にプロレス団体「スーパーFMW」を旗揚げ。3年前まで自主興行を開催していた。 太楼ラーメンの厨房で調理中のターザン後藤さん  プライベートでは、16年12月17日に、都内・押上の中華「太楼ラーメン」のママさん、好江さんと再婚。米国遠征時代に身につけた調理技術を生かし、自ら厨房(ちゅうぼう)に立ち、鍋を振っていた。 「もともと、お客だったんですよ。ワンタンスープがおいしいってうわさを聞いて、13年の夏くらいにブラッと立ち寄ったのが最初」(後藤さん)  しかし、最初に訪れたときの後藤さんは、サングラスに甚平、雪駄ばき、しかも額も腕も傷だらけという姿。  3歳年下の好江さんが「反社系の乱暴者?」と早とちりしたのも無理はない。 「ひと目見て、『他のお客さんとのトラブルを避け、早く帰ってもらおう』と思いました。それでカウンターは空いていたのですが、誰もいない奥の座敷に通してワンタンスープを頼まれたのに、ワンタン抜きのスープをお出ししました」(好江さん)  だが、後藤さんはそんな思惑もつゆ知らず、「ワンタン抜きなのは、出汁(だし)にワンタンを使っているに違いない」とこれまた早とちり。週を空けずに通うようになった。 「それが嫌で、いつだったか、レバニラ炒めを注文されたときにレバー抜きのニラ炒めを出したこともありました。ひどい塩対応でしょ(笑)」(好江さん)  関係が好転したのは、常連客が後藤さんは現役のプロレスラーであることを好江さんに伝えてから。 「驚いたのは、誕生日が同じで、小学校は学年違いの同窓生だったってこと。僕は静岡県島田市出身ですが、一時、妻の家族が島田市に住んでいたんです」(後藤さん)  後藤さんは一見こわもてだが、口調は「です、ます」で丁寧。「リングと違い普段は温厚で、ファンサービスも熱心」(前出のプロレス雑誌の元編集者)。「赤い糸が見えた」の言葉通り再婚に踏み切った。  そんな後藤さん。老後についてもこんな話をしていた。 「妻と一緒に、のんびりと南の島とかに旅行したいですね。新型コロナでここ2年は店の経営が大変でしたが、落ち着いてきたらお金をためてぜひ実現したいと思っています」  心からご冥福をお祈りいたします。 (高鍬真之) ※週刊朝日6月17日号のワイドに短縮版
【追悼】生涯現役を貫いた写真家・田沼武能 アサヒカメラ編集者に語っていた「戦争」と「子ども」
【追悼】生涯現役を貫いた写真家・田沼武能 アサヒカメラ編集者に語っていた「戦争」と「子ども」 写真家の田沼武能さん  世界の子どもたちや武蔵野の面影を写すことをライフワークとし、写真界の地位向上にも尽くしてきた写真家・田沼武能さんが1日、東京都中野区の自宅で亡くなった。93歳だった。生前、田沼さんがアサヒカメラ編集者だった著者に語っていた「戦争と平和」「師匠・木村伊兵衛からの言葉」などを改めて振り返る。 *   *   *「命あるかぎり、世界の子どもたちを撮り続けたい」  生前、筆者にそう語っていた田沼さんは少年時代、東京大空襲を体験した。忘れられないのは全焼した家の前にあった防火用水槽の中で直立不動のまま焼け焦げていた小さな子どもの姿だ。それが近所の寺で目にしていた地蔵の姿と重なった。 「炎にあぶられたお母さんが子どもを熱さから逃すために水槽に入れたのではないでしょうか。なんともいえない切なさ、無常さを感じました」  それが原点となり、田沼さんはとりわけ恵まれない環境にいる子どもたち写すことに熱心だった。  ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんとともに紛争地域に暮らす子どもたちの取材を重ね、「国が平和でなければ、家族の幸せも子どもの幸福もありえない」と訴えてきた。  しかし、田沼さんが本格的に子どもの写真を撮り始めたころ、周囲の目は冷たかった。 「そんなものを撮ってどうするんだ、写真集を作っても売れないからやめろ、って言われましたよ。子どもなんか、プロの写真家が撮るものじゃないと、みんなばかにしていたんですね」  しかし、田沼さんは諦めなかった。「何を撮ろうと、ぼくの勝手でしょう」と、周囲の視線をはね返した。いつも脳裏にあったのは、師匠である木村伊兵衛氏から浴びせられた痛烈な言葉だった。 「いまみたいな仕事をしていたら、必ずつぶされる。自分の写真を撮らないとチューインガムのように捨てられるよ、って」 ■売れっ子の写真家になったが  29年、田沼さんは東京・浅草の写真館に生まれた。47年に東京写真工業専門学校(現東京工芸大学)に入学。アルバイトをして手に入れた二眼レフで街角の風景を撮り始めた。  当時、街には子どもがあふれていた。チャンバラをする子ども。赤ん坊を背負い子守をする子ども。駅には戦災孤児が住んでいた。 「そんな子どもたちに自然にレンズを向けていましたね。振り返ってみれば、それが私のいちばん大きなライフワークの始まりですよ」  写真学校を卒業後、49年にサンニュース・フォトスに入社。上司であった木村氏の助手を務めるようになる。 「ただ、助手といっても撮影中は手伝うことは何もなかった。かばん持ちをしようにも木村はカメラバッグなんて使っていませんでしたから」  木村氏は休日になるとライカ1台を持って出かけ、街角で軽快にスナップ写真を撮影した。  そんなライカの軽快さにほれ込んだ田沼さんは酒も飲まず、喫茶店にも行かず、金をためた。師匠には「趣味が倹約貯蓄の田沼」と笑われた。ようやく進駐軍から横流しされたライカを手に入れた田沼さんは変貌する東京を撮影した。でも、足が向くのは決まって下町。そして気づいてみれば、子どもたちの写真を撮っていた。  53年、サンニュース・フォトスはあっけなく倒産してしまったが、田沼さんは「芸術新潮」などで活躍し、売れっ子の写真家になっていく。ところが、ある日、先に書いたように、木村氏に手厳しく忠告され、ショックを受けるのだ。 「なんとかしなければ、と思いましたね。でも豊かな暮らしは捨てがたいし……、悩みました」 ■ドル建ての給料をすべて子どもたちの写真に  ちょうどそのとき、願ってもない話が舞い込んできた。アメリカの「ライフ」誌で働かないか、という誘いだった。 「社員になると自由がきかないし、撮影した写真の著作権も自分のものにならない。それで契約写真家になることにしたんです」  ライフの仕事を始めた66年当時、ドル建ての給料は大きかった。1年のうち、3分の1だけライフの仕事をこなせばそれまでの生活を維持できた、と打ち明ける。  しかし、田沼さんは給料のすべてをつぎ込み、「世界の子どもたち」を撮り始めた。 「あのころ写真集『ザ・ファミリー・オブ・マン』を見てものすごく感動しましてね。『ファミリー・オブ・チルドレン』を撮ろうと思ったんです」  フランスをはじめとして、アメリカ、インドネシア、ドイツ、タイなどを訪ね、子どもたちの姿をカメラに収めた。  しかし、師匠にその写真を見せても、いつも無反応だった。 「でも、木村が亡くなった後、人づてに『田沼はいい仕事をしているよ』と言っていたと聞き、ほんとうにうれしかったですね」  84年、田沼さんは「黒柳徹子さん、ユニセフ親善大使に任命される」という新聞記事を目にすると、すぐに彼女に連絡をとった。 「ずっと子どもの写真を撮り続けてきましたから黒柳さんにお会いして、すぐに意気投合しました。いっしょに行こうということになりました」 ■終活も明るく、前向きだった  ユニセフで訪れたのは干ばつや貧困、内戦に苦しむ国々だった。第1回目のタンザニアは20世紀最悪といわれる飢餓に見舞われていた。田沼さんは干上がった川底に穴を掘り、底にたまった水をすくい上げる小さな子どもたちにレンズを向けた。  黒柳さんとともに訪れた国はアフガニスタン、コンゴ(旧ザイール)、シエラレオネ、ジンバブエ、ニジェール、モザンビークなど約40カ国にのぼる。2週間ほどの取材費用はすべて自費で、国連機にも料金を払って搭乗した。 「宿泊場所は小さな村の宿であればましなほうでテントに泊まることもありました。冬のアフガニスタンでマイナス20度、夏のニジェールは50度近くになりました」  95年、田沼さんはより多忙を極めていく。プロの写真家約1700名が在籍する日本写真家協会の会長に就任したからだ。昼は理事会、委員会、他団体との会議、その他もろもろの仕事をこなし、夜は会員の写真展や出版パーティーに顔を出す。さらには東京工芸大学の教授を務め、フォトジャーナリズムを講義した。  それでも、なんとか日程をやりくりして海外取材に出かけた。1年間で3回もアフガニスタンを訪れ、難民キャンプや学校を回ったこともある。  15年、会長職を退き、昨年秋には妻・敦子さんと共著で『棺桶出せるか~田沼家の快適リフォーム顛末記』(小学館)という風変わりなタイトルの本を出版した。 <トーチャンの唯一の希望は「この部屋から棺は出せるのか? ベランダからつるして下ろすなんて、ごめんだぞ!」>  最初、タイトルにぎょっとしたのだが、ページをめくると、田沼さんが明るく、前向きに終活をしていたことが伝わってくる。会うたびにべらんめえ口調で話してくれた、田沼さんの気さくな人柄が思い浮かんでくる。(アサヒカメラ・米倉昭仁)
玉木宏がくっきー!の演技に注目?「どう出てくるか楽しみにしてた」
玉木宏がくっきー!の演技に注目?「どう出てくるか楽しみにしてた」 玉木 宏(たまき・ひろし)/ 1980年、愛知県生まれ。映画「ウォーターボーイズ」(2001年)で注目を集め、ドラマ「のだめカンタービレ」(06年)で人気を不動のものに。NHK連続テレビ小説「あさが来た」(15年)、大河ドラマ「青天を衝け」(21年)、映画「空母いぶき」(19年)、「HOKUSAI」(21年)など出演作多数。ドラマ「マイファミリー」(TBS系)に出演中。22年夏公開の映画「キングダム2 遥かなる大地へ」や、映画「この子は邪悪」にも出演予定 (撮影:写真映像部・東川哲也 編集協力:一木俊雄 ヘアメイク:渡部幸也(riLLa) スタイリスト:上野健太郎)  シリアスな役からコミカルな役まで幅広くこなす演技派俳優・玉木宏さん。6月に公開される映画「極主夫道 ザ・シネマ」について、作家・林真理子さんが詳しく伺いました。 *  *  * 林:玉木さん、お久しぶりです。 玉木:ご無沙汰しております。 林:15年前と6年前と、今回で3度目のご登場ですけど、会うたびにどんどんビッグになられてますね。 玉木:いえいえ、そんなことはないです。 林:この何年かのご活躍、ほんとにすごいなと思って拝見してました。最初にお目にかかった15年前はイケメンの代表という感じでしたけど、そのあとどんどん演技派の道を歩まれて。どんな役でもこなしていらっしゃるし、今度の映画(「極主夫道 ザ・シネマ」6月3日公開)もそうですよね。「どうだ。何だってできちゃうぞ!」っていう感じで。 玉木:いやいや……。そんなに器用なほうではないので、準備にそれなりの時間を費やします……。でも、こうやって今までのパブリックイメージをこわすような役をいただけるのは、すごくありがたいです。似かよった役ばかりではなくて。 林:これはすごく人気があったテレビドラマの映画版なんですよね。 玉木:もともと原作は漫画(おおのこうすけ作)で、それが2年前テレビドラマになって、今回さらに映画化されたんです。 林:私、ドラマは通して見てないんですけど、今回は映画の分、テレビよりもスケールが大きくなってるんですね。 玉木:そうですね。アクションがわりと多めです。 林:主人公の龍(玉木さん)は元極道なんだけど、いまは妻と娘を愛する専業主夫ですよね。殺気は見せなきゃいけないし、優しさも見せなきゃいけないし、そのあたり演じていて難しくはなかったですか。 玉木:とらえ方によっては難しいと思いますけど、僕はシンプルに演じました。元極道で、見てくれだけはそのままだけど、内面は家族に愛情を持って真っ直ぐに生きている。でも周りが見た目からどんどん勘違いしていくという構造なので。 林:冒頭のシーン、床にうつぶせになって、上半身の入れ墨をカメラがなめるように撮って、観てるほうは「ひぇ~っ」と思いました。だけど、起き上がってお弁当をつくったりする様が、何とも言えず可愛らしかったです。野菜を刻むシーンなんか、堂に入ってましたよ。 玉木:(笑)。ありがとうございます。 林:極道の様式美っていうか、タンカ切ったりするじゃないですか。そういうのもちゃんと“専門家”に習ったんですか(笑)。 玉木:いやいや、原作があるので、そちらの指導はないです、さすがに(笑)。 林:サングラスもカッコいいし、ヒゲも素敵でした。ところでどうしてあんなに関西弁がお上手なんですか。 玉木:方言として役でたくさん触れているのが関西弁だと思うんです。朝ドラ(「あさが来た」2015年度下半期)のときも関西弁でしたし、そういう慣れもありますね。あと、現場に先生がいてくださるので、アドリブとかも含めて「もうちょっとこんな感じで」というニュアンスを現場ですぐ教えてくださるんです。それにも非常に助けられました。 林:それにしても、よくまあこんな濃い人たちばっかりをそろえたな、という感じですよね。竹中(直人)さんは出てくるだけでおかしいし、稲森いずみさんも「極道の妻」のパロディーをやるから笑っちゃいました。龍の奥さんの川口春奈さんもコミカルで可愛くて、この二人、すごく愛し合って、ラブラブな夫婦という感じがすごく出てますよね。 玉木:主夫の話なので、そこの軸はブレてはいけないなと思っていました。 林:そして娘の向日葵ちゃん(白鳥玉季)もすごくかわいい。あの子、映画「流浪の月」で広瀬すずちゃんの子ども時代をやってましたよね。 玉木:そうですね。彼女は大人っぽい芝居をする子で、すごく上手なんですよ。これからもいろいろな作品に出てくると思います。テレビドラマが終わって1年たって、身長も大きくなっていて、より大人っぽくなっていました。 玉木宏さん(右)と林真理子さん(撮影:写真映像部・東川哲也 編集協力:一木俊雄 ヘアメイク:渡部幸也(riLLa) スタイリスト:上野健太郎) 林:松本まりかさんが、意表を突く元レディース(女性の暴走族)役で初参加したり。あとは、くっきー!さんのシーンが……。 玉木:アハハハ。 林:一人芝居みたいなわりと長いシーンでしたが、よくわからないやら、おかしいやら(笑)。くっきー!さんがいろんなネタを披露するという形ですけど、台本はあったんですか。 玉木:大喜利に近い形だと思います。台本自体はすごく短くて。監督も僕らも、くっきー!さんがどんなふうに出てくるのかを楽しみにしてたところがあって、あれは100%アドリブじゃないかと思います。 林:ああいうとき、ふつう、一緒にいる人たちは素に戻って笑っちゃいけないんでしょう? 最初は苦虫をかみつぶしたような顔をしていたのが、我慢できずにだんだん自然な笑顔になっちゃってましたよね(笑)。 玉木:この作品はそれでもオッケーとされていました(笑)。 >>【中編】玉木宏、路線バスの旅に憧れ?「外で撮るバラエティーに出たい」 >>【後編】「マイファミリー」出演の玉木宏「オリジナルで戦うドラマは挑戦的」 (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2022年6月10日号より抜粋
「家事ハイ」を味わえる皿洗いのゾーンとは? 脳の容量を空けるコツで瞑想効果と達成感
「家事ハイ」を味わえる皿洗いのゾーンとは? 脳の容量を空けるコツで瞑想効果と達成感 脳を休める究極の皿洗いをマスターしよう ※写真はイメージです(GettyImages)  夫や妻にイライラしながら食器を洗うなんて、もったいない! コロナ禍で家にいる時間が増えてから、家事は誰もが生活していく上で必要なスキルと見られるようになった。社会が正常化していってもそれは変わらない。せっかくやるなら、脳を癒す究極の家事を身に付けよう。 「今日の夜ご飯は何を作ろうかな」「あー時間がない、また寝る時間が遅くなる(泣)」「ていうか、なんで私一人がやらなきゃいけないわけ!?(怒)」「家事を自動で全部できる時代が早く来ないかな……」「あ、明日の会議の資料どうしよう。ニュースもチェックしなきゃ」「子どもが少し元気なさそうに見えたけど、どうしたのかな」  いつもの食器洗いの間、頭の中はこんな感じではないだろうか。仕事のTo do整理、家事分担にイライラ、現実逃避、妄想、今日の振り返り、気づき、そしてまたイライラ……。せわしなく移り変わっては元に戻り、気づけばまた動き続けている。そうやってキレイにしたシンクも、またすぐに洗い物が積まれていく。日々この不毛な時間の繰り返しだ。  だが、家事をメリットのあるものに変えている強者もいる。なんと、煩わしいはずの皿洗いで「瞑想」効果が得られるのだという。 「家事は時間と手間がかかり、ずっと続いていく作業でマイナスのことと捉えられがちですが、ビジネスの考え方で徹底的に効率化してみたら、実はメディテーション(瞑想)効果が得られることに気が付いたんです」  そう話すのは広告クリエイターで『家事こそ、最強のビジネストレーニングである』の著書がある堀宏史さんだ。ランナーズハイのような「家事ハイ」という名のゾーンを味わうためには「段取り8割」だという。 「大事なのは手を動かす前のワークデザインです。食器洗いなら、洗う順番や洗い終わったものをどこに置くかを先に決めましょう。  そして基本的な作業の順番は、集める→仕分けする→洗う。まず洗い物を一か所に集め、種類ごとに分けておきます。我が家の場合は手洗いなので、水切りかごと同じ配置になるようにシンク内に皿、お茶碗、お箸、そのほかと分けながら水で軽く汚れを落とします。あとは機械的に洗っていくだけ。無になれる時間です」(堀さん)  ここで一つ、大事なことがある。せっかく空けた脳の容量に、イライラやTo doを入れないことだ。使いすぎて熱を持ったパソコンを切るように、意図的に思考を止めるといいという。 「コロナ禍で在宅ワークが増えた人は、以前に比べて仕事とプライベートの境目が曖昧になっているでしょうし、徐々に社会が“正常化”に向かっているとはいえ、以前ほど自由にスポーツや旅行を満喫できない今、それらに代わるリラックス法を脳が求めています。汚れていたものがきれいに片付いて達成感を味わう、さらに瞑想効果も得られるという意味では、家事もその一助になるかもしれません」  あのビル・ゲイツもジェフ・ベゾスも、毎日皿洗いをすると言われている。瞑想の一種を活用した皿洗いでストレスが減り、インスピレーションなどポジティブな要素が増えたとする米・フロリダ州立大の研究成果もある。家事には想像以上の効能が隠れているのかもしれない。(AERA dot.編集部・金城珠代)

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