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4歳娘の友達に「おじいちゃん」に間違えられた50歳父親 「若い親に交じるのが嫌」に論語パパが答える
4歳娘の友達に「おじいちゃん」に間違えられた50歳父親 「若い親に交じるのが嫌」に論語パパが答える 40代後半で第一子が生まれ、父親になった相談者。娘の保育園の送迎時に、「おじいちゃん」に間違えられてしまい落ち込んでいます。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *     *  * 【相談者:4歳の娘を持つ50代の父親】  保育園年少の娘を持つ50歳の父親(妻は42歳)です。先日、保育園の送迎時に娘の友達が私を見て「〇〇(娘の名前)ちゃん、おじいちゃんが(迎えに)きているよ!」とみんなの前で言い、それを聞いた娘が「私のパパよ」と伝えましたが、そばにいた友達の母親は、その子をたしなめることもしませんでした。私は白髪も多いですし、中年のおじさん体形、孫がいる同級生もいる年なので「おじいちゃん」に間違えられても仕方ないのですが、正直不快で落ち込みました。この先娘が小学校にあがって、父親が高齢であることで恥ずかしい思いをしたり、いじめられたりしないかも、今更ですが心配になりました。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images)  この日から自分より若い年齢の親たちに交じるのが嫌になり、迎えにも行きたくなくなってしまいました。情けないのですが、父親としてどのような心持ちでいるべきかご指南ください。 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「子曰(い)わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是(こ)れに反す」(顔淵第十二) ・「子曰わく、甚(はなはだ)しいかな、吾(わ)が衰えたるや。久しいかな、吾(わ)れ復(ま)た夢に周公を見ず」(述而第七) 【現代語訳】 ・孔子がおっしゃった。「立派な人は、他の人の美点や長所を褒めて伸ばしてやり、悪いところは見ないようにして悪徳が完成しないように努めるが、小人は反対に、美点や長所を妨げ、悪いところだけを指摘し騒ぎ立てる」 ・孔子がおっしゃった。「私もずいぶん年をとって肉体が衰えてしまったなぁ。以前は最も理想とする人物である周公をよく夢に見た。しかし今は久しく夢にみなくなってしまった」 【解説】  相談者さん、自信を持ってください!  「子曰(い)わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是(こ)れに反す」(顔淵第十二)  と、『論語』にあるように、孔子の生きた春秋時代(紀元前6世紀~同5世紀)から、世の中には、人の欠点ばかりをあげつらう人が多かったのです。他人のいいところだけを見て伸ばしてやり、人の欠点は見ないようにすることこそが「君子(立派な人)」だと、孔子は教えていますが、現実にはそうでない「小人」があふれていたのです。  娘さんの友達から「おじいちゃん」と言われても、そんなこと決して気にすることなどありません。無視してください。そして、若い年齢層の他の親と交わるのが嫌になるなんて思わないで下さい。人はそれぞれ違います。年齢がちょっと上であるくらいの親がいてもおかしいことでは決してありません。昔は、10人ほどの子どもがいる人もたくさんいました。一番上の子どもと一番下の子どもの差が10歳以上ということも珍しくなく、一番下の子どもからすれば「父親」は「おじいちゃん」のように見られるということも少なくなかったのです。気にすることなどありません。年齢が上ということは、別の言い方をすれば経験を積んでいるということです。若い親の人たちに教えてあげられることも少なくないのではないでしょうか。  ところで、もし「白髪」「中年のおじさん体形」を気にしていらっしゃるのなら、今こそそういう外見的なことも、内面と一緒に若返りましょう。「人生100年」という時代。相談者さんが、あと50年生きると考えれば、ちょうどUターン地点です。娘さんの将来を考えれば、まだまだ自分から、「人と比べて年をとっている」なんて考える年齢ではありません。髪の毛やお肌の手入れ、飲食を含めた生活態度、仕事への意欲、家族との将来、後世に残すべきものなど、総合的に自分の生き方、生活の仕方を考える節目に立っているのだと考えてみてはいかがでしょうか。 「子曰わく、甚(はなはだ)しいかな、吾(わ)が衰えたるや。久しいかな、吾(わ)れ復(ま)た夢に周公を見ず」(述而第七)  孔子も、晩年「私も、ずいぶん年をとって衰えてしまったなぁ」と嘆いています。孔子が嘆くのは、「周公旦」という、理想とし、仰ぎ慕っていた聖人の夢を見なくなったからなのですが、相談者にとって理想の人は誰かいらっしゃいますか?もしあれば、「その理想の人だったら、今、どう考えるか、どう行動するか」と考えてみませんか。 「父親としてどのような心持ちでいるべきか」ということは、自分がどのように生きるかということと無関係ではありません。  第三者的に自分を見つめ、また、そうした訓練を積むことで、娘さんを「迎えに行きたくなくなってしまう」などという否定的な気持ちは容易に消してしまうことができるようになるのではないでしょうか。  われわれは今、時代の転換点にいます。「今」だけを考える「インスタント式の思考」から、後世に何を残すか、遺せるかという深い思考が必要な時代に生きているのです。自分を磨くこと、そして深くて広く、常に若々しく柔軟な思考ができるようにすること、そのためには何をすべきか、ということを考えてみられるといいのではないかと思います。内面の「若さ」は、外見にも表れるのです。 【まとめ】 昔から人は他人の欠点ばかりに目がいきがち。指摘は気にせずに、「自分が理想の人ならどう生きるか」、第三者的に自分を見つめよう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
年収500万超でも可処分所得「月8千円」で散髪にも行けず “中間層”を襲う3重の所得低下
年収500万超でも可処分所得「月8千円」で散髪にも行けず “中間層”を襲う3重の所得低下 実質GDPは伸びず、人口減が続く。「中間層」だったはずなのに、生活苦や将来の不安に悩む人は少なくない(撮影/写真映像部・松永卓也)  1億総中流ははるか昔の話だ。気づけば、「失われた20年」は「30年」になり、賃金は増えず、物価は上がり、人は格差に疲弊している。もはや「1億総五里霧中」。多くの人が将来への不安を抱えている。AERA 2022年9月19日号の記事から。 *  *  * 「生活、苦しいです。ずっと『中の下の暮らしかな』と思ってきたけど、わからなくなりました。どうしておれは散髪に行く金もないんだ?と」  こう話す会社員男性(58)は妻(60)と都内マンションで二人暮らし、子どもはいない。正社員として年収は約520万円、日本の平均年収以上だ。介護士の妻も扶養範囲内で約100万円の収入があるが、「出ていくお金ばかり」と嘆く。 「会社の経営が悪化、給料が月8万減ったのが2018年、以来ボーナスもゼロ。14年にマンションを3700万で購入したのが痛かった。ローンは2400万残っていて、月10万の支払いが78歳まで続きます。半額に優遇されていた固定資産税が今年から正規の額になったのも大きな負担です」 ■可処分所得は月8千円  さらに、体に障害のある妹(51)の治療費が月に2万円。ドル建て生命保険の保険料が円安で上がり、月3万円超え。春に亡くなった仙台に住む義母の介護にも交通費がかかり、新興宗教の熱心な信者だったため葬儀代に100万円を請求された。 「妻に毎月5万円渡しているので、私の可処分所得は月8千円。生命保険の契約者貸付100万円に、銀行のキャッシング11万。昔は毎日飲み歩いていたのに、一切行けなくなりました」  将来への不安も強い。 「年金は私で18万はありそうですが、ローンは払えず、マンションは手放すと思う。最も悩むのは妹の将来です。最低限の経済的な保証がないと、幸せではありませんよ。このところは(出ていく)お金への執着が出てきた自分に驚いています」  日本は縮んでいる。今年4~6月期の実質GDP(国内総生産)は年換算で542.1兆円とコロナ禍前の水準を上回ったが、バブル崩壊以降の「失われた30年」でほとんど伸びていない。10年には中国に抜かれ、世界3位に落ちた。人口も前年から約64万人減と、08年をピークに11年連続で減少した。  そして、富裕層と福祉受給層との間、つまり、安定的に働き社会保険にも入っている相対的「中間層」の中に、将来への不安を抱える人たちが多くいる。  一体何が起きているのか。 AERA 2022年9月19日号より  中央大学法学部の宮本太郎教授はこう指摘する。 「背景に『3重の所得低下』と『3重の不安増大』があります」  所得低下の一つ目は給料の減少だ。企業が創出した付加価値のうち、人件費の占める割合を指す労働分配率が下がっている。 「00年と19年を比較すると、労働分配率は中堅企業で3.4%、大企業で6%低下しています。また、55歳で役職定年を迎え、給与がカットされる状況も広がっています」 ■生活の安定が揺らぐ  二つ目は社会保険料負担や税負担の増加による可処分所得の低下だ。今年は1947年に生まれた団塊世代が75歳を迎え、医療費の負担が激増する「2022年危機」とも言われる。 「組合健保で見た場合、10年には7.7%だった保険料率が今年は10%を超えると言われています。厚生年金の保険料率も10年は16.058%だったのが17年には18.3%に。介護保険も同様で、明らかに可処分所得が食われている」  三つ目は物価上昇に伴う実質賃金の低下だ。これが購買力の低下にもつながっている。 「ネット社会には『余裕がありモノが買える人たち』の姿も見えてしまう残酷さがある。いわゆる『中間層』はそもそも生活の安定を夢見てきた層。その根本が揺らぐ現状のつらさはひとしおだと思います」 「3重の不安増大」の1点目は、「教育費等がかかる年代になれば、賃金は年功で上がる」という暗黙の社会契約の揺らぎだ。 「頑張っても『生活の保障』はもはやなく、逆に頑張らないと不安定就労等の『孤立圏』に追い出されかねない。防衛的になり、忖度ばかりしながら仕事せざるを得ず、やりがいがない。そのつらさからくる不安です」  残る二つは、「家族に関わる不安」「自身の老後不安」だ。老後の蓄えは足りるのか。自分は55歳で賃金が下がっても65歳定年までたどり着くかもしれない。だが、子どもたちはどうか。 「子どもは人並みに育ててやりたい。でも、子どもに結果的に『親ガチャ外れた』と言われるのではというつらさもある」 (編集部・小長光哲郎)※AERA 2022年9月19日号より抜粋
「ストーカー保険」は地下アイドルに人気、「お天気保険」は旅行用 ミニ保険が急成長の理由
「ストーカー保険」は地下アイドルに人気、「お天気保険」は旅行用 ミニ保険が急成長の理由 もしストーカーの被害に遭ったら...(gettyimages)  手頃な値段で必要な期間だけ入れるミニ保険(少額短期保険)が人気を集めている。新型コロナウイルスに感染したときに保険金が出る「コロナ保険」は加入が殺到し、日本中が猛暑にあえいだ今夏は「熱中症保険」が話題を呼んだ。なかには「ストーカー保険」や「お天気保険」なるものも。斬新な商品が次々現れる、ミニ保険の世界に迫る!  日々の平穏を脅かすトラブルは、突然やってくる。まずは二つのケースを見てみよう。 【ケース(1)】5年ほど付き合っている彼氏から何度も結婚の話をされ、私もその気でいた。ところが彼には妻と子どもがいることが発覚。既に別れたが、慰謝料などを請求したい。 【ケース(2)】上司から「こんな仕事もできないなら辞めろ」と他の社員の前で言われ、突き飛ばされた。以来、同僚からも冷たい態度をとられ、会社に行きたくなくなった。とても悔しいので会社を訴えたい。  これらは、トラブルの際にかかった弁護士費用を補償するミニ保険「弁護士のミカタ」で、実際に保険料が支払われた事例だ。どちらも弁護士費用の約9割がまかなわれた。  この保険を生み出した「ミカタ少額短期保険」によると、個人向けの保険料は月2980円から。ケース(1)の場合、弁護士費用の自己負担分は3万5200円で、損害賠償金100万円を、ケース(2)の場合は自己負担分1万6280円で、損害賠償金30万円を勝ち取ることができたという。  同社によると、トラブル件数のツートップは労働問題と交通事故。次が男女や親族間の問題だ。最近はネット通販やSNSでの誹謗中傷などの被害も増えているという。ただし、保険に入る前に、トラブルやその原因が発生していた場合は補償されないので、注意が必要だ。  保険ができた背景には、10万円以下の損害や精神的なダメージを受けても、費用がネックとなり弁護士に頼めず、泣き寝入りする人が多い実態がある。執行役員の香月裕也さんが言う。 「あおり運転や痴漢の冤罪、雇い止めなどの様々な社会問題を受けて、『自分の身は自分で守らなきゃ』という意識が広がっているのでしょう。具合が悪ければ医療保険を使って病院に行くように、日常生活でトラブルに遭ったら保険の力を借りて、気軽に弁護士に相談できるようになればいいなと思います」 社会生活を送っていたら、労働問題に巻き込まれることもある(gettyimages)  ミニ保険は2006年の保険業法の改正によって生まれた新しい業態だ。「保険金の上限額1千万円以内、保険期間2年以内」と規定され、当初は52社が扱っていたが、今や116社に倍増している。  急成長を後押ししているのは、参入ハードルの低さだ。通常の保険会社を設立する場合、最低10億円の資本金を集めなければならず、金融庁長官の認可が必要だ。一方、ミニ保険を扱う「少額短期保険業者」も関係当局の審査はあるが、資本金は1千万円あればよい。  異業種からの参入も多い。有線放送のUSENは16年にミニ保険を扱うグループ会社を設立。取引先の店舗に向けて、設備の損害や食中毒を起こした場合の損失などを補償する保険を売り出した。家電量販最大手のヤマダホールディングスも専業の会社を立ち上げ、家財保険などを販売している。いずれも”本業”との相乗効果を狙ったものだ。  日本少額短期保険協会によると、ミニ保険には大きく分けて「家財」「生命・医療」「ペット」「その他費用」の4分野がある。最もメジャーなのは家財保険で、全体の契約件数の大半を占める。例年はペットが2位だったが、コロナ保険の人気で、今年は生命・医療が上回った。  なんと言ってもミニ保険の特性が色濃く出るのは、「その他費用」だ。  スマートフォンの修理や盗難紛失を補償する「スマホ保険」、入院や通院の際に家事・育児の代行費用をまかなう「家事代行費用保険」、旅行先が雨だったときの旅費を補償する「お天気保険」など、ユニークな商品がずらり。月々の保険料が数百円のものも多く、ネットで手軽に申し込める。  なかには、ストーカー対策の保険まである。  あそしあ少額短期保険は20年、「and ME」という商品を発売した。きっかけは一人の女子学生の声だった。同社が都内の大学で講義をしたときのこと。「若者が抱えるリスク」のテーマで意見を募ると、「今、彼氏ともめていて、ストーカー被害を心配している」という悩みが挙がった。  警察庁の調べでは、日本では年間約2万件のストーカー事案が起きている。そこで月500円で加入できる保険を開発。被害を受けた場合、防犯カメラや補助錠の購入費や、ホテル宿泊費、引っ越し費用などを補償する。警備会社とも提携し、ガードマンの駆けつけサービスや、GPS搭載の防犯端末の利用料も対象だ。  被保険者は10~60代で、男性も1割程度いる。最近では、ストーカーの被害に遭いやすい地下アイドルやユーチューバーの間でも口コミで人気が広がっているという。 結婚式をキャンセルする事態になっても保険があれば安心かも(gettyimages)  同社が販売する、結婚式のキャンセル費用を補償する保険「佳き日のために」も加入者を増やしている。式の相場は300万~400万円。保険料3万6千円で上限500万円まで補償するプランが好評だ。開発のきっかけは、東日本大震災で多くの挙式が中止になったこと。コロナの感染者が増えている時期や、台風シーズンに問い合わせが多くなるという。また、晩婚化によるニーズも。健康問題を抱える高齢の親をもつ新郎新婦の場合、保険があれば挙式にチャレンジしやすくなる。  ミニ保険は「かゆいところに手が届く」商品が多い。同社の小市大輔さんは「損害保険会社と比べて売り上げ規模が小さいため、ニッチなニーズに応える商品に挑戦しやすいんです」と説明する。  一方、保険商品である以上、「保険金が下りると思っていたら下りなかった」というトラブルはつきものだ。業者の対応に納得いかない場合は、日本少額短期保険協会の相談室にSOSを求めることができる。ただ、協会の杉本茂也さんは、「どんな場合にどんな補償をしてほしいのかを整理し、確認してから加入するのが鉄則。詳細な説明は約款に書いていますが、難解なことも多い。腹落ちしなければ、面倒くさくても問い合わせましょう」と釘をさす。  またミニ保険にはセーフティーネットがないことにも注意が必要だ。通常の保険会社は国とお金を出しあい、倒産しても契約者に一定の補償ができる金額を積み立てている。一方ミニ保険を扱う業者は、毎年売り上げの5%を自社で積み立てることなどが定められているものの、たまっている額はまちまち。万一の際にほとんど補償されない可能性もある。  信頼性の高い業者を選ぶうえでヒントになるのが、各社のホームページに掲載されていることも多い「ディスクロージャー誌」だ。これは経営内容が開示されている冊子で、予想外のリスクに対する支払い能力である「ソルベンシー・マージン比率」が高いほど、財政が健全だと考えてよい。  リスクを理解し、賢く使えば、身近な不安を解消してくれるミニ保険。前出の杉本さんは、「インターネットで、興味のあるもの、たとえば『サーフィン 保険』などと検索してみると、自分に合った商品が見つかるかもしれません」とアドバイスする。親知らずの抜歯を控えている記者も試しに「歯 ミニ保険」と調べてみると、歯周病の患者向けの医療保険を見つけた。ミニ保険の世界、実に奥深い……。 (本誌・大谷百合絵) ※週刊朝日オリジナル記事
【下山進=2050年のメディア第10回】手塚、石森は進化のその先へ 寺田は過去に生きる
【下山進=2050年のメディア第10回】手塚、石森は進化のその先へ 寺田は過去に生きる 寺田の引退後も新漫画党の例会は時々開かれていた。珍しく寺田が顔を見せた回。前列左から藤子・F・不二雄、寺田、藤子不二雄A、赤塚不二夫、後列左から鈴木伸一、園山俊二、石ノ森章太郎、つのだじろう。  トキワ荘の中の紅一点、水野英子(ひでこ)は、石森章太郎や赤塚不二夫と合作マンガにとりくむ。そこで、石森が見せた独創的な技法に水野は驚嘆する。紙面を斜めにつらぬくコマわり、ハゲタカが舞うその影が恋人たちの運命を暗喩するラスト。トキワ荘マンガミュージアムで流れるインタビュー映像で水野はこう語っている。 「あそこで生まれた表現方法が(中略)マンガというスタイルになった」  藤子不二雄A(安孫子素雄)の描く『まんが道』では、手塚治虫が、安孫子と藤本に、熱くこう語りかけている。 「現代の漫画はどんどん進化している。その進化の先へ、僕たちは行かなければならない」  ところが、寺田は違った。トキワ荘に下宿した若いマンガ家の中で、寺田ヒロオは唯一、手塚治虫の影響をうけていなかった。寺田は、戦前『少年倶楽部』の編集長をつとめ、戦後公職追放で講談社を追われた加藤謙一が1947年に創刊した『漫画少年』の考える漫画こそが本当の漫画だと考えていた。  私は当初、寺田が、石森や赤塚らの圧倒的な才能に気押されて、筆を折ったのかと考えていた。というのも、萩尾望都と同居した竹宮恵子が萩尾の圧倒的な才能に抱いた絶望感を、前のサンデー毎日の連載で一度書いたことがあるからだった。  しかし、トキワ荘最後の生き証人である鈴木伸一は、それは違うと言う。 「石森は確かに凄い才能でしたが、テラさんにとっては、手塚以降のマンガというのは別物なんです。テラさんにとっての理想の漫画は、『漫画少年』であり、そこに掲載されていた井上一雄の『バット君』なんです。だから石森たちのマンガを見て気押されてということはなかった」  学校の先生になりたいと考えていた寺田にとっては、子どもは「清く明るく正しく」伸びなければならないもの(『漫画少年』創刊の辞)、漫画はそのためにあるのだった。 「テラさんの『スポーツマン金太郎』は、それこそ金太郎や桃太郎が野球をして活躍するおとぎ話のような漫画で、こんな漫画が現代に成立するのか、と思っていた。でも人気はあったんです」 現在の鈴木伸一氏。ラーメンの小池さんのモデル。トキワ荘を出てからは、アニメーターに転身し成功した  後に『ゴルゴ13』で一世を風靡することになる「さいとう・たかを」は、手塚の否定から始まっているが、これも「進化のその先」へ行くためだった。手塚を目標にするかぎり、手塚マンガの世界観を超えることはない。だから、さいとうは、金やセックス、暴力そうしたものをリアルに描く「劇画」という新しい表現方法を生み出していった。  さいとうは寺田と一面識もなかったが、突然寺田から手紙をもらう。 <そういう低俗なものを描くなって。もう延々と説教が書いてありました。5枚くらいの便箋で>(ムック『まんが道大解剖』のインタビューより)  トキワ荘に暮らしていた20代のマンガ家の卵たちやさいとう・たかをは、未来に生きていた。だが、寺田は、過去に生きる漫画家だった。  漫画家を30代で廃業したのち、『「漫画少年」史』という本を地元の出版社で出したのが50歳の時、翌年にこの本は日本漫画家協会賞の選考委員特別賞を受賞するが、以降は、トキワ荘のかつての仲間たちとはほとんどつきあおうとしなかった。鈴木によれば、たまに連絡があったと思ったら、借金の申し込みだったりした。 「つのだじろうは怒って出しませんでしたが、他のみんなは、黙って100万円といった金を出していました。私も50万円。もちろん借金といっても返ってこないことをみんなわかってました。テラさんも本当にその金が必要だったかはわかりません。むしろみんなの気持ちを確かめるようにして、借金を申し込んでいたのだと思います」  茅ケ崎の自宅に寺田が突然招いたくだんの宴会の翌月、赤塚不二夫が返礼の宴会をやろうと企画したりもしたが、寺田はがんとして応じなかった。  こうして、かつての仲間たちとは絶縁状態になった寺田だが、寺田の妻は、鈴木のところにだけは時々電話をかけてきていたという。  妻が鈴木に話したところによれば、寺田は離れにこもりっきりで、三度の食事も離れの前に出しておく。朝から酒を飲みながら、繰り返し、鈴木の撮った「新漫画党最後の宴会」のホームビデオを見ているのだという。「立派になった皆さんが、忙しいにもかかわらず、自分のために集まってくれたのが本当に嬉しかったんです」と妻は鈴木に言った。 「その話を聞いて、切なくて、切なくてねえ」(鈴木)  その妻から、「出しておいた朝食に手をつけていないから、部屋をのぞいてみたら絶命していた」という報せが入ったのが、1992年9月24日のことだった。  鈴木は安孫子と一緒にすぐに茅ケ崎の自宅に行った。最後の宴会から2年と少ししかたっていなかったが、その死に顔の無精髭と髪は真っ白だった。  寺田は、死の5年前にこんな一文をある雑誌に寄せている。 <世間にはごくありふれた小さな親切が、著名人になった友達により、繰り返し書かれているうちに美談のように思われ、ボクが立派な人のように受け取られたのでしょうが、本当に偉いのは、些細な恩を大きな感謝で、人々に伝えてきた友人たちのほうです>  享年61。トキワ荘に集った手塚以外のマンガ家の中でもっとも早く逝ったマンガ家だった。  東京都豊島区椎名町、ミュージアム近くの関連施設には、その寺田が若き日、情熱と希望に燃えてペンを握った四畳半の部屋が再現してある。 下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年9月23・30日合併号
「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店“麺作り”の秘密
「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店“麺作り”の秘密 鈴ノ木の「特製ラーメン」は一杯1200円。3種のチャーシューや手作りのワンタンもおいしい(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。大好きな西武ライオンズの球場近くで自家製の手もみ麺で勝負した、埼玉でも指折りの人気店の店主の愛するラーメンは、修業先の店主がアナログすぎる方法で作る手打ち麺が光る一杯だった。 ■「3軍や育成の選手まで顔を覚える」 西武ライオンズが大好きなラーメン店主  西武池袋線・狭山ケ丘駅の西口から徒歩1分。「自家製手もみ麺 鈴ノ木」はある。2018年10月オープンで、開店4年目ながら埼玉でもトップレベルの人気を誇る有名店。「食べログ」では3.88点を誇り、埼玉のラーメン店では堂々の2位につく(2022年8月21日現在)。埼玉県幸手市出身の店主の鈴木一成さんが一玉ずつ手もみするモチモチの自家製麺が自慢で、ダシ感たっぷりのスープとの相性は抜群だ。西武ライオンズの大ファンの鈴木さんが、西武ドーム(現・ベルーナドーム)の近くで物件を探してオープンした。 自家製手もみ麺 鈴ノ木/埼玉県所沢市埼玉県所沢市狭山ケ丘1-3003-83/11:30-15:00 火曜・水曜定休日 不定期で夜営業有り。詳細はお店のTwitter(@suzunoki0802)にて/筆者撮影  鈴木さんは「六厘舎」「金町製麺」などの有名店を渡り歩き、独立にあたっては幼い頃から好きだった多加水の太麺で勝負をかけることにした。麺は自分で打ちたいと自家製麺にトライすることになり、製粉会社を調べ始めた鈴木さん。「六厘舎」で修業時代から通っていた「くじら食堂」の店主・下村浩介さんに前田食品という製粉会社を紹介してもらう。鈴木さんはここで運命を感じる。前田食品が地元・幸手市の会社だったからだ。 「自分の出身地である幸手の製粉会社の小麦粉を使わせてもらい、ラーメンで地元に恩返しができるならこんなに素晴らしいことはないと思ったんです。これこそご縁ですよね。幸手には今も母方の兄弟や両親が住んでいます」(鈴木さん) 鈴ノ木の「特製ラーメン」。麺は目の前で一玉ずつ手もみしてくれる(筆者撮影)  まずは「くじら食堂」で使っている前田食品の小麦粉を使わせてもらい、2年半が経過。今年からは「鈴ノ木」専用粉を作ってもらえるようになった。  静かなところでゆったりやろうと狭山ケ丘を選んだが、雑誌での受賞をきっかけに口コミがどんどん増え「鈴ノ木」の人気はうなぎ登りに。店の前には行列が絶えなくなった。 前田食品の小麦粉を使った「鈴ノ木」専用粉(筆者撮影) 「地元の人がふらっと寄ってくれる店を目指していましたが、行列が長くなりすぎてご迷惑をおかけしてしまうようになってきて、それが悩みでした。そこで今年から“記帳制”を採用し、紙に名前を書いていただいて、後でお呼びして入れるシステムにしました」(鈴木さん)  午前11時から記帳開始なので、名前を書いた後、一度帰宅してから戻ってくることもできる。この取り組みは地元の常連客からも好評で、夫婦2人でスムーズに営業をこなすためにはどうしたらいいのかを考えての選択だった。 「鈴ノ木」店主の鈴木一成さん。27歳の頃に「六厘舎」に飛び込んだ(筆者撮影) 「体力が続く限り厨房(ちゅうぼう)に立ち続けたいですね。妻と2人でやれるだけ続けたいです。ご夫婦で切り盛りされている(埼玉県)入間市の『Miya De La Soul』みたいなお店が目標です」(鈴木さん)  大好きな西武ライオンズの選手がいつ来ても大丈夫なように、選手名鑑を読んで3軍や育成の選手まで顔を覚えているという。 店主の鈴木さんは、西武ライオンズの大ファン(筆者撮影)  そんな鈴木さんの愛するラーメン店は、自身の修業先のひとつである「金町製麺」(東京都葛飾区)。「鈴ノ木」の自家製手もみ麺のルーツはここにある。 ラーメンにこだわった居酒屋スタイルが人気の金町製麺は、今年で営業12年目になる(筆者撮影) ■「ここまで昭和な作り方をしている店はない」 都内の人気ラーメン店「麺作り」の秘密  JR常磐線・金町駅から徒歩2分、京成線・京成金町駅から徒歩1分のところに、人気の“呑める”ラーメン店がある。「立ち呑み居酒屋 金町製麺」だ。市場から毎日仕入れる日替わりのおつまみとお酒に、〆のラーメンが超本格的と人気の店である。店名には「立ち呑み」とあるが、店にはなぜか椅子がたくさんある。  店主の長尾優介さんは埼玉県三郷市出身。幼い頃からラーメンが大好きで、小学校時代から夢はラーメン屋さんになることだった。父が居酒屋で働いていて、夜ヘトヘトで帰ってきたところに長尾さんがサッポロ一番塩ラーメンを作ってあげていた。 「金町製麺」店主の長尾優介さん。「うどん屋さんのように手ごねして打つ昭和な作り方」と鈴木店主(筆者撮影)  高校卒業後は、武蔵野調理師専門学校へ。当時は「LA BETTOLA da Ochiai」の人気から料理人の中でもイタリアンがブームになっていて、長尾さんも卒業後はイタリアンの世界へ飛び込んだ。19歳から1年半修業をし、その後は友人の紹介で新宿の居酒屋で働いた。一緒に働いていた先輩が桜新町に居酒屋をオープンするということで、長尾さんも誘われる。しっかりとした和食の店で、4年間和食のイロハを教えてもらう。  いよいよラーメンの世界に入ろうと思った長尾さんは、バイク便の配達の仕事をしながら、各地のラーメン店を食べ歩き始める。有名店を回っている中で西武新宿線・都立家政駅近くにある「麺や 七彩」に出会った。自家製麺で無化調(化学調味料不使用)の店だが、当時はまだ製麺機やゆで麺機がなく、ボウルで麺をゆでていた。  その味と独創性に引かれた長尾さんは、渋谷の居酒屋のアルバイトで半年間食いつないだ後、独立前提で「七彩」に入社する。2008年、26歳の頃だった。 「『七彩』がオープン2年目だったんですが、何でもかんでも手間をかける作り方で、とても効率が悪かったんですね(笑)。 お店の人気が一気に伸びている時期で、忙しいのが当たり前だったんです。朝の6時に入って、夜中の1時とか2時まで働いていました。今思えば全て手作りなのが大きかった。忙しかったですが、どっしり腰を据えて作れたのも良かったです。麺は特に勉強になりましたね」(長尾さん)  店が忙しすぎて、長尾さんは朝から晩までほとんど仕込みをやっていたが、充実した日々が続いた。そんな頃、「金町製麺」オープンの話が持ち上がる。 立ち呑み居酒屋 金町製麺/東京都葛飾区金町6-2-1 ヴィナシス金町104/18:00-23:00。詳細はお店のTwitter(@kanamachiseimen)にて/筆者撮影 「ここ(金町)の物件が空いているけどやってみないか?と誘われたんです。当時、結婚して実家の三郷に戻っていたこともあり、近いしお前やってみろというノリですね。ラーメンだけでなく他の料理もできたので、立ち呑みで〆にラーメンが食べられる居酒屋のコンセプトでいこうと決めました」(長尾さん)  独立志望だった長尾さんだが、ひょんなことから「七彩」に籍を残しながら自分の店を開けることになった。こうして10年9月、「立ち呑み居酒屋 金町製麺」はオープンした。  昔から金町にはよく遊びに来ていて土地勘もあったし、過去に店の立ち上げに関わった経験もあったので、長尾さんは前向きだった。だが、オープン直後から店には閑古鳥が鳴いていた。営業時間は夜のみで、夜中2時まで開けていたが、一向にお客さんが来ない。  オープンから半年経った11年3月11日には、東日本大震災が起こった。 「東日本大震災で考えがガラッと変わりました。毎日みんな疲れて帰ってきているのに、一杯飲むのに椅子がないのはつらいだろうなと。そう考えて、12日から椅子を置き始めました」(長尾さん)  すると客入りが変わり始めた。地元の人が気軽に寄ってくれるようになったのだ。ブログを始めて限定ラーメンの情報を発信するとリピーターも現れ始めた。さらに、ラーメンフリークの中でも話題になり、そのうち他の店のラーメン店主が通う店にもなった。 金町製麺の「雉の中華そば」は一杯800円。仕入れのたびにメニューを作るため、グランドメニューはほぼなし。ラーメンの種類もさまざまなのが魅力的だ(筆者撮影)  小麦粉を丸めて足で踏んでこね、パスタマシンで伸ばして麺帯にし、注文直前に切ってゆでるという実にアナログな手打ち麺は大変魅力的で、ここでしか食べられないと話題だ。 「お酒が飲めて本格的なラーメンが食べられるお店があまりなかったですからね。いろんなラーメンを出しているのも新鮮だったようです。町中華とも違う、ラーメンにこだわった居酒屋スタイルで何とか12年続けてきています」(長尾さん) 「鈴ノ木」の鈴木店主は、長尾さんの麺打ちがルーツになっている。 「うどん屋さんのように手ごねして打つ昭和な作り方をしているお店はなかなか少ないと思います。『鈴ノ木』の自家製麺はこれがベースになっています。グルテンの出し方や理論、麺に仕上がるメカニズムなど全て長尾さんから学ばせていただきました」(鈴木さん)  長尾さんは「鈴ノ木」がオープンしてからの鈴木さんの飛躍ぶりに驚くばかりだ。 「1年間ほど、毎週土曜日に働いてくれましたが、とにかく真面目で熱心に学んでくれたと思います。お店には何度か行かせてもらいましたが、本当に成長したなと感じます。うちで手打ちで作っていた麺がああいった形で生きていてうれしく思います。埼玉でも指折りの名店に成長しましたね」(長尾さん) 「金町製麺」店主の長尾優介さん。イタリアンや和食の敬遠もある長尾さんだからこそできる、金町製麺のスタイルがある(筆者撮影)  とにかく麺がおいしい両店。職人の麺作りの極意は伝承することによって広がり、また各店でさらに発展し、おいしい麺が生まれる。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
「盾となり」皇室を守ったエリザベス女王 平成の天皇の手紙の書き出しは「親愛なるお姉さま」
「盾となり」皇室を守ったエリザベス女王 平成の天皇の手紙の書き出しは「親愛なるお姉さま」 写真:Press Association/アフロ  英国のエリザベス女王の国葬に、天皇陛下が参列されることで政府が調整している。天皇陛下が葬儀に参列したのは戦後一度だけ。特別な措置に、両国の交流の深さがにじむ対応だ。  * * *「Dear Sister」  上皇さまがかつてエリザベス女王につづった手紙。書き出しにはそうつづられていた、と皇室に仕えた人物は振り返る。エリザベス女王を「親愛なるシスター」と呼ぶほど、ふたつのロイヤルファミリーは、温かな交流を育んでいた。  政府は、エリザベス女王の国葬に天皇陛下が参列する方向で調整している。過去一度の例外を除いては、天皇陛下が葬儀に参列することはない。それだけ、日本の天皇ご一家と女王は、親密な交流を育んできた証だ。  平成の天皇皇后両陛下が英国を訪問した98年当時、多賀敏行・中京大学客員教授は在英国日本大使館公使としてロンドンにいた。  国民がエリザベス女王に手紙を書くときは、「madam」を使う。多賀さんは、英王室の侍従長に「エリザベス女王に朝、お会いする際に何と呼ぶのか」とたずねた。  返ってきた答えは、「Good Morning, ma‘am」だった。 「ma‘amは、マダムの省略形で英国では女王への呼びかけとして用いられますが、madamより親しみが表現される。上皇さまがエリザベス女王に『Dear Sister』と呼びかけたとすれば、女王から上皇さまには『Dear Brother』であったと思います。親戚同士でつながる欧州王室と同じように、皇室も家族の一員として親しい交流をなさっていた証だと思います」 1975年 来日したエリザベス英女王と東宮御所の庭を散策する当時の皇太子ご一家。左から紀宮さま、皇太子さま、礼宮さま、美智子さま、浩宮さま  天皇陛下がエリザベス女王に初めて会ったのは、1975年の女王が来日したときだ。   女王は、元赤坂の東宮御所に明仁皇太子ご一家を訪ねた。浩宮さま(現・天皇陛下)と礼宮さま(秋篠宮さま)、と紀宮さま(黒田清子さん)が、ご両親と一緒に女王を囲むように温かく出迎えた。御所の庭を笑顔で散策する女王と皇太子ご一家。当時の写真を見ると、列を離れて歩き回る幼い紀宮さまの愛らしさに目がとまる。   女王と将来の天皇となる浩宮さまの縁は深い。   浩宮さまが誕生した時、女王は、祝電を寄せて浩宮さまの誕生を祝っている。  実は、女王も4日前に第二王子のアンドリューを産んだばかり。体調が万全でない身にもかかわらず、見せる気遣いに人柄がにじむエピソードだ。  数日違いで生まれたアンドリュー王子との交流は続き、英国での王子の結婚式にも参列している。  浩宮さまと女王が再会したのは8年後の83年。  オックスフォード大学に留学するためにロンドンに到着した浩宮さまを、安心させる心遣いだったのだろう。女王はバッキンガム宮殿に招き、自ら紅茶を入れた。  翌年の夏には、王室ご一家が休暇を過ごすスコットランドのバルモラル城に招かれた。エリザベス女王が台所に入り、エジンバラ公がバーベキューの肉を焼く。家族団らんのなかで数日間、一緒に過ごした。 1985年9月、留学先の英オックスフォード大周辺で自転車に乗る浩宮さま時代の天皇陛下  令和に代替わりをして、新天皇、皇后両陛下が初の外国訪問地として招待されていたのも英国だった。  天皇陛下は、女王の死去を受けて公表したお気持ちで招待してくれた女王への感謝を述べている。 「女王陛下から、私の即位後初めての外国訪問として、私と皇后を英国に御招待いただいた」  こうした天皇陛下と女王との親密な交流は、上皇ご夫妻の代からの地道な交流の上に築かれたものだ。 ■競馬場でのいたずら  上皇さまが、初めて女王と対面したのは69年前、1953年の戴冠式だ。明仁皇太子(上皇さま)が19歳、エリザベス女王は26歳だった。  還暦の誕生日会見で、女王との対面をこう振り返っている。 「英国の女王陛下の戴冠式への参列と欧米諸国への訪問は、私に世界の中における日本を考えさせる契機となりました」  53年という年は、第2次世界大戦に敗れた日本が国際社会に復帰した翌年。敗戦国である日本や日本人を見る世界の目は厳しかった。  19歳の青年だった明仁皇太子(上皇さま)にとっては、大切な友人となる各国の王族との出会いの場であると同時に、英国民の冷たい視線にさらされた場でもあった。第二次世界大戦後の両国の関係は、今からは想像がつかないほど溝が深かったのだ。  明仁皇太子が英国に到着した日、英大衆紙デイリー・エクスプレスは、「68%の読者が日本の皇太子を戴冠式に出席させることに反対した」と報じた。  宿泊先だったケンブリッジは、ビルマ(ミャンマー)で日本軍の捕虜となった人が多く暮らす街だ。日本の皇太子の訪問に、「アンチ・アキヒト」という不穏な空気が高まった。そのため、急きょ訪問した大学の学長宅に滞在したほどであった。また、イングランド北部のニューカッスルでは、元捕虜団体の抗議で明仁皇太子の訪問は中止に追い込まれた。  しかし、26歳の若き女王と英王室は明仁皇太子を温かく歓待した。ダービー競馬を明仁皇太子が観戦していることを知った女王は、自身のスタンドに招いたという。   明仁皇太子が美智子さまと結婚したときには、女王からお祝いに銀製の茶器一式が贈られた。  ロンドン五輪などでユーモアを見せた女王。「おてんば」な素顔は、昔からであったようだ。  76年に明仁皇太子と美智子さまが訪英したときのことだ。  英国のロイヤル・アスコット競馬を観戦中に、女王が明仁皇太子のひざの上に置かれたレースカードに突然、手を伸ばした。 1976年の英国訪問 大勢の観客が出迎えるなか、英女王の馬車で競馬場のコースを走る美智子さまたち  びっくり仰天する明仁皇太子を尻目に、女王は自分の競馬予想を書き込みだした。母の皇太后が、女王のいたずらをたしなめるというオマケもついた。  他方、英国やオランダでは元捕虜団体が日本に対して補償と謝罪を求めており、戦争が残した溝は埋まらないままだった。   イギリス政治外交史に詳しい君塚直隆・関東学院大学国際文化学部教授は、こう当時を振り返る。 「89年の昭和天皇の大喪の礼で、オランダのベアトリックス女王は、国内世論を鑑みて王族を列席させなかった。英国も国内世論の厳しさは同じでしたが、夫のエディンバラ公フィリップ殿下を列席させる配慮を見せました。この『恩』があるわけです。本来ならば、上皇ご夫妻が自らお別れをなさりたいと思います。しかし、ご年齢を考えると難しい。エリザベス女王の国葬には、異例であっても天皇陛下が列席なさるのが相応しいと思います」 ■大衆紙は「ジャップ」と批判するなか…  平成の代替わりを経て明仁天皇となっても英国の日本への批判は止まなかった。むしろ戦後50年の節目である95年ごろから、その声はさらに強まった。  明仁天皇が「天皇」として訪英への訪問が実現したのは、平成が始まって10年目のことだった。  この時式部官長だった苅田吉夫さんは、かつて記者の取材にこう振り返っている。 「英国との親密度を考えれば、訪問はもう少し早く実現してもよかったかもしれない。しかし、下地を整えるのに時間が必要だった」  アジア各地の劣悪な環境の下で長期にわたり強制労働をさせられた元捕虜のほかに、収容所には女性や子供も含む民間人もいた。心の傷は簡単に癒えるものではなかった。  両陛下の訪英直前まで、両国トップは、不測の事態を招かないよう、手を尽くした。当時の林貞行駐英大使も、前任者の時期から日本の民間団体とも協力して、和解への努力を続けてきた。英大衆紙「サン」に捕虜の扱いを謝罪する橋本龍太郎首相の寄稿文が掲載され、両国首相の会談で協力を確認。 だが、多くの英国紙には捕虜問題を訴える記事が並び、一部大衆紙は「ジャップ」と批判した。  そうしたなか実現した98年の英国訪問。 98年、平成の天皇皇后両陛下の英国訪問。パレードの沿道で馬車列に背を向けブーイングをして抗議する元日本軍捕虜の英国人たち  ロンドンの大通りザ・マル。バッキンガム宮殿に続く800メートルの沿道は、天皇、皇后両陛下のパレードを待つ日英市民らで埋め尽くされた。さらに、旧日本軍の元捕虜団体も沿道に並んだ。両陛下の馬車に背を向け、シュプレヒコールを浴びせた。   不穏な状況にもかかわらずテロや両陛下に危害を加える事件は起こらなかった。  エリザベス女王と王室が盾となって平成の天皇と皇后を守ったからだ。  馬車のパレードの先頭はエリザベス女王と明仁天皇、2台目の馬車には夫のフィリップ殿下と皇后美智子さまが乗る形を取った。馬車の周囲には、大勢の近衛騎馬隊が整然と隊列を組んだ。  元英国兵らの抗議を受け、戦争の傷痕を確認する旅となった。そんな中でも女王との友情は揺らぐことはなく、出国の際は女王が最後まで名残を惜しんだ。 皇室も英王室も長い歳月をかけて相手と交流を重ねることで、国と国の信頼へとつないでゆく。政治家による外交と比べるともどかしいかもしれない。しかし、静かな交流が大きな力へと変化することもある  上皇さまが手紙で、「Dear Sister」と呼び敬愛したエリザベス女王。偉大な英国女王の国葬は、19日に執り行われる。(AERAdot.編集部 永井貴子)
天龍さんが語る“怒られたこと・怒ったこと” ジャイアント馬場を激怒させたガウン忘れ事件!
天龍さんが語る“怒られたこと・怒ったこと” ジャイアント馬場を激怒させたガウン忘れ事件! 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「怒られたこと・怒ったこと」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。 *  *  *  相撲時代は「いつ怒られるか?」という不安と常に向き合っていたよ。朝起きてまず「今日はいかに怒られないように過ごすか?」を考えるのが日課だった(笑)。それだけなにかにつけて怒られていたね。というのも、俺がいた当時の相撲部屋は「深呼吸したのが気に食わない!」「箸の上げ下げが気に入らない!」というだけで兄弟子たちから怒られて、平気でケツバットやら、腕立て伏せの姿勢のまま30分とか、1時間正座をさせられたりと散々だった。まさに「無理偏にげんこつと書いて“兄弟子”と読む」だったよ。面倒くさい兄弟子に目をつけられたら毎日大変だ。  かくいう俺も、自分の財布が無くなったことがあって頭に来て、下っ端のヤツ全員に腕立て伏せをさせたこともある。相撲部屋は稽古中は開けっ放しで、力士はみんな稽古場にいるから、外部の人間も入り放題なんだよ。だから、下っ端の誰かが犯人と決まった訳ではないんだが、まあ、腹いせだ(苦笑)。 そんな理不尽なことをされても、兄弟子に歯向かうには“髷(まげ)を切る”くらいの覚悟が必要だ。俺も兄弟子に爆発寸前までいくものの抑えられたのは、2年、3年と相撲の世界にいると誰でもその仕組みに組み込まれて、反発できなくなってしまったからなんだ。当時の相撲取りなんて、田舎で暴れていて喧嘩ばかりしていたような連中だ。そんな連中が大人しくまとまるためには、相撲界の理不尽な仕組みが必要だったんだろうね。まあ、俺はその中にあってかわいいもんで、ペルシャ猫みたいにしていたよ。 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『Osaka Crush Night 2022』/2022年9月19日(月・祝)12:00開場/13:00GONG/大阪・176BOX (大阪府豊中市庄内東町5丁目7-25)【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP/指定席A…5,000円指定席B…4,000円/天龍project…https://www.tenryuproject.jp/product/531  それに、兄弟子と仲良くしていたらしていたで、周りからその兄弟子が「下っ端にナメられている」「下に見られている」と受け止められてしまうからね。それでも俺がいた二所ノ関部屋はまともな方で、ほかの部屋はもっとひどかったんじゃないかな?  二所ノ関部屋の大横綱の大鵬さんが下っ端に怒ったり、理不尽なことを言っているのを見たことがないし、当時の親方の佐賀ノ花さんは関取衆に「いいか、お前たちがいい恰好できるのは、付け人が『関取、関取』と言って立ててくれるからだ。だから周りの人も特別視してくれるんだぞ。それを忘れるな!」と厳しく言う方で、そう言われたことを俺もずっと覚えているよ。それほど先進的な考え方をする人だった。今の親方衆やお偉方でも佐賀ノ花さんのような考え方をしている人はほとんどいないだろう。俺は本当にいい勉強をさせてもらった。  そんな先進的な当時の二所ノ関部屋でいつも怒っている人と言えば、俺がこの連載でよく話題にする大文字関だ。あの人はとにかく口やかましかったね。そうめんの茹で加減が気に入らなくてよく怒られていたよ……。この大文字さんと坤龍 さん、黒鷲の東さんの三人が怒っている人トップ3だ。このトップ3は、部屋の空気を乱したり、躾がなっていない若い衆には本当にうるさかったね。ただ、怒る理由もまっとうだから俺たちも納得していたし、普段はフランクな人たちなんだよ。ただ、フランクだと思ってこっちがその気になって接すると「ガツン!」とやられるから、そのさじ加減や距離感が難しかったけどね(笑)。  そんな相撲時代を過ごしてきたお陰か、プロレスに転向してからは上の人に怒られた記憶はほとんどないね。唯一、ジャイアント馬場さんに怒られたのが、俺がアメリカ修行に行っていたアマリロでデビューしたときのことだ。全日本プロレスで海外でデビューする若手の決まりなのか分からないが、俺のデビュー時に、馬場さんがかつてアメリカで着ていた着物生地のガウンを着ることになっていたんだ。ジャンボ鶴田も着ていたそうだよ。  そのガウン、そんなにたいそうなものだと知らずに俺はモーテルに置きっぱなしにしてきたんだ。そうしたら馬場さんが「おい、天龍、ガウンはどうした!?」って怒ってね。初めて「ああ、この人はこんなに怒る人なんだ」って思ったよ(笑)。それ以来、馬場さんに怒られた記憶がないから、よっぽどだったんだね。そのガウンもそれ以来見ていないけど……。  当時の俺は、プロレスで失敗しちゃいけないという思いが強くて、一生懸命やっているつもりになっていた。だから、試合でジャンボなんかに余裕で相手にされると癪(しゃく)に触って「おい、こっちはガンガンやっているんだから、お前もちゃんと受けろよ!」と怒ったりしてたね。 ジャンボは運動能力が高くて、どんなことでも簡単にできちゃうから、それが泥臭い俺には一生懸命やっているように見えなかったんだ。当時は自分のことで精一杯で、ジャンボのそういうところがちゃんと分かってなかったね……。今思えば、華麗なジャンボの動きに、俺だけ下駄をはいてぎこちない動きで戦っていたようなもんだ。三沢(光晴)やジャンボは才能があって華やかだけど、川田(利明)や小橋(建太)は俺と一緒のタイプだから好感度が上がったんじゃないか(笑)。  試合中にブチギレられて印象的なのはやっぱり、1988年のスタン・ハンセン失神事件だ。俺と阿修羅・原で延髄斬りを仕掛けたら、俺の足がちょうどハンセンのアゴに入っちゃって、ハンセンが脳震盪(しんとう)を起こしちゃった。目が覚めたハンセンがブチギレて、暴れる、暴れる! あれはさすがにビビったね! 試合後も控室に俺を探しに来て「特捜最前線」顔負けの大捜索をしていてね。 そこは何とか逃げられたんだけど、そのすぐ後の横浜の試合で俺とハンセンを平気でマッチメークするんだから、馬場さんも人が悪いよ。予想通り、その試合でも俺はボコボコのけちょんけちょんにやられて。今度は俺がブチギレてハンセンの控室まで行ってやりあったっけ。最後は殴り合って、水ぶっかけられて「F〇〇k You!」と罵られて、でもそれでハンセンもすっきりしたみたい。  それからは段々とハンセンも俺のことを気にかけて、お互い「あいつはやるなぁ」という雰囲気になっていったんだよね。そもそもハンセンはスポットで参戦していたレスラーで、俺は全日本プロレスから給料をもらっているレスラーという立場。それまでは交わることがなかったんだけど、あの事件がきっかけで打ち解けたような気がする。 トップレスラーのハンセンがファンの前で“たかが天龍”に恥をかかされて怒って、俺をボコボコにして、馬場さんにチクることなく試合を受けてさらに仕返しに耐え、それでやり合った俺を認めてくれたんじゃないかな。9月25日にハンセンとトークバトルをする予定だから、その話しも出るかな? 楽しみにしているよ。  外国人レスラーでいえば、タイガー・ジェット・シンはいつも狂ったように怒って、前にも話したように、飛行機内でも馬場さんに向かってサーベルを振り回したりして、プロ意識なのか、本当に怒っているのかわからないヤツだったね。  プロ意識でいえば、上田馬之助さんは相手が外国人であろうが日本人であろうが、ヒールとして戦っているという意識が強くて、居酒屋で飲んでいてもレスラーを見かけては喧嘩を吹っ掛けて、ガラスのコップをガリガリかじってみせたり、そんなことばかりやっていたね。それを見て俺も「馬之助さんにできて、俺にできないはずがない」とコップをかじってみたけど、意外とイケたんだ! 翌日に便に交じってチャリンチャリンって出てきて音がしたよ(笑)。  そうやって馬之助さんはリングを降りてもそのスタンスを崩さず、職業としてヒールをまっとうしたんだから立派だよね。たしか秋田だったはずだけど、馬之助さんと一騎打ちの試合で、俺の攻撃で向こうがヘトヘトになったとき「やった!」と思ったもんだ。 馬場さんやアントニオ猪木さんたちトップレスラーと戦っている馬之助さんとそういう試合ができたことで、俺は大きな自信を持つことができたんだ。ん!? そういえばハンセンがブチギレたのも、俺の引退試合の両国国技館の前、最後の地方での試合も秋田のボロい体育館だったな。何か秋田には縁があるのかな?(笑)  現役時代も今も、俺の原動力となっているのは怒りだ。いつも怒って、何かにイライラして、腹を立てて、それをエネルギーにして前進している俺がいる。現役時代はいろいろと怒りの対象があったけど、いまはもっぱら、思うに任せられない自分のからだに対しての怒りだね。最近の俺を見て周りは「なんだ、天龍、元気ねえなぁ」なんて言われているんだろうなという思いが、俺に「チクショー!」という気持ちを奮い立たせてくれる。俺はいつでも怒りを点火剤にして燃えているんだぞ! 分かったか! チクショー! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
赤井英和の“嫁”佳子、ツイッター投稿は「最大のラブレター」 夫婦が明かす舞台裏
赤井英和の“嫁”佳子、ツイッター投稿は「最大のラブレター」 夫婦が明かす舞台裏 赤井英和(あかい・ひでかず)写真左/ 1959年8月17日生まれ。大阪市出身。浪速高校入学とともにボクシングを始める。高校時代30勝9敗。近畿大学在学中の80年にプロデビュー。85年引退。89年に映画「どついたるねん」で俳優デビュー。94年の映画「119」で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。赤井佳子(あかい・よしこ)/ 1966年2月24日生まれ。青森県八戸市出身。東京の音楽大学を卒業後、26歳のころに英和さんと出会う。事務所「赤井組」の社長も務めている。2020年からツイッターで夫の生態を赤裸々につぶやき、フォロワー数41万人を超す。21年には初のエッセー『赤井図鑑』を刊行。  俳優・赤井英和さん(63)のボクサー時代を息子・赤井英五郎監督(27)が綴(つづ)ったドキュメンタリー映画「AKAI」が9日から公開される。「浪速のロッキー」と呼ばれた壮絶な生きざまとともに、いま家でチャーハンを作り、皿を洗う父としての素顔も映し出される。最近、赤井さんの日常は妻・佳子さん(56)のツイッターでも話題だ。そんな二人に、映画「AKAI」とツイッターについて語ってもらった。 *  *  * ──大阪市西成区出身の赤井さんは高校時代からボクシングで頭角を現し、近畿大学在学中にプロデビューした。ひたすら前に出て、相手をどつき倒すスタイルで12戦連続KOの日本タイ記録(当時)を樹立し、日本中を熱狂の渦に巻き込んでいく。しかし1985年の試合中に意識不明の重傷を負い引退。89年に自伝をもとにした映画「どついたるねん」(阪本順治監督)に主演して、数々の新人賞を受賞。その後、俳優になった。 英和:しかし、いま自分で見直すとメチャクチャですね。あんなボクサー、ほかにいないですもん(笑)。(今回の映画は)もともと英五郎が「ちょっと話、してくれないかな」みたいな感じで始まったけど、見ながら「ああ、ちゃんとオレのいままでを記録してくれたなあ」と思いました。 佳子:私と結婚する前の話だし、私も改めていろいろわかったなという気がしています。師匠のエディ・タウンゼントさんが「人生には天気がいいときも、悪いときもある。これからあなたの本当の友達がわかるよ」っていうシーン。あれはケガでボクシングがダメになったときを言っているんですよね。いまの赤井にはボクサー時代と変わらず友達も先輩も後輩も周りにいる。本当に人に恵まれているんだなあ、と思いました。 英和:これまで息子に自分の人生を話す、みたいなこともあんまりなかったですから。 ──英五郎さんは大学まで米国で過ごし、20歳でボクシングを始めた。2018年に全日本社会人選手権ミドル級で優勝。東京オリンピック出場を目指していたが、19年の全日本ボクシング選手権2回戦で敗退。21年にプロデビューしている。 映画「AKAI」のワンシーン (c)映画『AKAI』製作委員会 佳子:英五郎はずっとおとなしかったけど、ボクシングを始めたころから「アマチュアからプロに行ったときって、どんなこと考えていたの?」とか赤井に聞くようになった。「何かに悩んでいるんだな」と思って見ていたけれど、赤井はいつも「いや別に、なんとも思えへんかった」って。 英和:そうやったっけ? 佳子:さっき「まともに話を聞けたの初めてだった」って言ってた。 英和:あちゃ(笑)。 佳子:映画を観て「ああ、やっぱり息子は赤井を尊敬しているんだな」って思った。私の場合は尊敬というよりも「ちょっと変わった生き物の愛護協会・会長」みたいな感じなので。 ──「ちょっと変わった生き物」である赤井さんの生態は、佳子さんが20年から始めたツイッター「赤井英和の嫁 佳子」で明かされている。ソファでツタンカーメンのように毛布にくるまって寝ていたり、素っ裸でキッチンで茶わんを洗っていたり。写真とつぶやきのユーモラスさで人気となり、投稿をまとめた『赤井図鑑』も出版された。 佳子:ツイッターを始めたきっかけは、隣の家から聞こえる鳥の声を「なんだろう」と思ったことです。誰かが教えてくれるかも、と声を録音してツイッターにのせたら、「キツツキの仲間のアオゲラです!」と返事がきておもしろい!って。もともと写真は好きで、花や虫や赤井をパシャパシャ撮っていたんです。でも「知らない人が写り込んでいるとダメ」とか、気を使わないといけないと知って。じゃあ赤井だったら大丈夫か!と。 英和:佳子ちゃんはしょっちゅう携帯で写真を撮ってるから、僕も別に気にはしてなかったです。ある日パチンコ屋に行ったら、隣のおばちゃんが「見てますよ!」って。「え? 何を?」って思いました。僕そもそもツイッターの見方がわからんもんですから。やっとメールができるようになったぐらいで。 佳子:何をアップしても気にしてないもんね。この間、ご近所の俳優さんに会ったら、「フォローしてますよ。いつもおもしろくて。でも僕は嫌だなあ」って言ってた。 英和:ははは。 佳子:私としてはこれ、最大のラブレターだと思ってるんですが、本人は何がおもしろいかわかってないみたいです。やっていることも普段のままだし、しかも結婚当初から変わらない。でも私も最初から「この人、おもしろい」と思っていたわけじゃない。最初は好きで一緒にいることがただ楽しかったんです。 (構成/フリーランス記者・中村千晶)※週刊朝日  2022年9月16日号より抜粋
高橋克実、61歳で初主演 映画「向田理髪店」は「懐かしい感情が蘇った」
高橋克実、61歳で初主演 映画「向田理髪店」は「懐かしい感情が蘇った」 高橋克実(たかはし・かつみ)/ 1961年生まれ。新潟県出身。小劇場で活躍し、ドラマ「ショムニ」シリーズで人気を獲得。その後バラエティー番組「トリビアの泉~素晴らしきムダ知識~」、報道番組「直撃LIVE グッディ!」などのMCとしても活躍。舞台、映画、テレビなどに出演多数。10月スタートのドラマ「帰らないおじさん」(BS-TBS)に出演。10月18日から新橋演舞場で上演の舞台「女の一生」にも出演する。(撮影/写真映像部・高野楓菜)  俳優・高橋克実さんの61歳にして初の主演映画が、この秋公開される。地方都市で「夢」と「現実」に思いを馳せる父子。夢を諦めた大人は負け犬なのか? そんな青臭いテーマが幅広い世代の心に刺さる。  この秋、名バイプレーヤーの印象の強い克実さんの初主演映画「向田理髪店」が、ついに公開になる。かつて夢を追いかけたことがある父親が地元で営む理髪店に、夢を諦めた息子が帰ってくるところから、物語は始まる。原作は奥田英朗さん。監督は、克実さんと共に熱い青春を過ごした森岡利行さんだ。 「僕が演じた父親は、かつては夢を追いかけ、夢破れて地元に戻ってきた。東京から帰ってきた息子も『家業を継ぐ』って宣言して、町おこしを始めるんです。でも息子は、地元が映画のロケ地として誘致されて、映画制作のお手伝いをする中で、また自分の夢を取り戻していく。試写を観たとき、自分の立ち位置も、息子の立ち位置も、どっちにも気持ちがいって、今の自分と、若いときの自分と両方に共感できた。僕も父親に、こういうふうな口のききかたしたなとか、いろんなことを思い出しました」  映画の中で、克実さんは、テレビで観ていた人たちが来て、興奮する役を演じていた。 「自分が地元に帰っていたら、きっとこんな感じなんだろうなと思いました。出演者やスタッフは、2週間なり1カ月なり宿に泊まって、地元の食材を使った料理なんかに舌鼓を打って、いいロケ場所を教えてもらったりできる。地元の人たちは、映画づくりに参加できて、自分たちや地元の風景がスクリーンに映ることで、いい思い出になる。今回は、コロナもあったので、自分たちは、あまり地元のお店に貢献したりはできなかった気がしますが、大牟田(福岡県)の皆さんには120%ぐらいの協力態勢でやっていただきました。本当に感謝しかないです。この映画を撮って、映画が、もっとサッカーのJリーグみたいに、地元の誘致でガンガン盛り上がっていったらいいのにな、なんて思いました」 映画「向田理髪店」は、10月7日から福岡・熊本先行公開。14日から全国公開(c)2022「向田理髪店」製作委員会  劇中には、体育館で映画を上映するシーンがある。出演者以外はすべて大牟田在住の人たちにエキストラとして参加してもらった。 「それこそ森岡さんと演劇をやっていた頃の、手作り感100%みたいな雰囲気もあったし、子供の頃に、夏休みに体育館で観た映画の記憶や、父と子がそれぞれに追いかけた夢、変わらない田舎の風景とか、人づきあいとか、いろんな懐かしい感情が蘇りました」  35年前に芝居で共演していた相手に、演出をつけられることについて聞くと、「初めてだったので、最初に『監督も十分僕のことわかっていると思いますけれども、本当に、キャラクターだけでここまできていますから。僕に、何かややこしい芝居とか、高度な感情表現とかは、求めないでね』って、ちゃんと断っておきました」とちゃめっ気たっぷりに答えた。実際は、ちょっとした佇まいにも、中年のやるせなさや悲哀といった、リアルをにじませつつ、華もある。いかにも主役、といった存在感だ。 「妻役の富田靖子さんには、ずいぶん助けられました。僕たちの世代でいったら本当にもう“映画スター”ですからね。僕が22歳ぐらいのときに、富田さんのデビュー作になった『アイコ十六歳』っていう映画のオーディションがあって、僕は行ってないですが、周りの知り合いはみんな行きましたからね。冴えない中年の妻というヒロインを、魅力的に演じてくださった。本当にこの映画は、僕の懐かしいツボにグサグサ刺さって……。早くもう一回観たいです(笑)」 (菊地陽子、構成/長沢明)※週刊朝日  2022年9月16日号より抜粋
ニューヨークで増える「駐妻」ならぬ「駐夫」 50歳で「子連れ」留学 主夫の悩みは主婦そっくり
ニューヨークで増える「駐妻」ならぬ「駐夫」 50歳で「子連れ」留学 主夫の悩みは主婦そっくり 引っ張って使えるタイプのスーパーのカゴは、重くなくて便利(写真/筆者提供)  ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さんが10歳の息子と年上の夫を連れ、今年1月からニューヨークで留学生活を送っている。日本との違いに戸惑いながら、50歳になっても挑戦し続ける日々を海南さんが報告する。 *  *  *  留学に息子を連れていくことは決めていた。だけど、夫の仕事については課題だった。初めは渡米に難色を示したが、長い話し合いの末、仕事を休止して同行してくれることになった。 「君の挑戦に協力して、子供のことを俺がやる」  と言われたときは本当にうれしかった。そして夫は突然、家族の海外駐在に同行する駐在妻ならぬ「駐在夫」となった。  渡米する前は、 「私も家事はやるよ!」  と言っていたが、現実はシビアでとてもできなかった。一日中、コロンビア大学の授業を受け、図書館で文献を調べ、ときには誰かのインタビューに行く。フルブライトから研究資金をもらっているので、仕事と同じ責任感でやらねばならない。疲れすぎてくたくただ。みかねた夫が、いまでは食事、掃除、洗濯、子どもの送迎などの家事を担ってくれている。  人生で初めて家事をメインの仕事として担当する夫。英語が得意ではないため、買い物ひとつでも大変だ。初めてスーパーに行った日、レジの女性から怒鳴られて帰ってきた。 「早く、ベルトコンベヤーに乗せろ! 何やっている!」  と彼には聞こえたらしい。本当にそう言ったかはわからないけど……。日本ではレジに買い物カゴを置いて会計するが、アメリカのレジはベルトコンベヤーに自分で品物を置かねばならない。意外に難しくて、前の人の品物と混ざらないよう、タイミングを見はからわねばならない。夫はカゴごと置いて怒られたのだ。50歳を過ぎて、スーパーのレジで怒られるという、ある意味貴重な経験となった。  夫はもともと洗濯や掃除は得意。でも、料理はあまりしない。 「カレーぐらいはできるさ」  と言っていたが、初めてカレーを一人で作ろうとしたとき、肉が解凍できずに悪戦苦闘。電子レンジで解凍する方法がわからなかったらしい。包丁の刃はボロボロになり、肉に金属が紛れてしまった。 子どもが学校に行っている間に、夫とブルックリンへ(写真/筆者提供)  途方に暮れた彼は料理をやめ、仏頂面で座っていた。幸い、炒める前だったので、私が別の肉で「修正」したが、たかがカレーでも海外のキッチンでやるのは大変なのだ。  正直、毎日いろんなことが起きる。でも、文句は一切言わないと決めている。私も家事の大変さは身に染みている。だから、 「毎日同じメニューでも問題ありません」  と宣言した。とにかく感謝だ。「50歳で子連れ留学したい」と言う私に、同行して家事までしてくれているのだから。  そんな夫に友だちができた。息子の同級生のパパKさん。実はKさんも、奥さんの転勤に同行している“駐在夫”だ。1年前、奥さんに転勤命令が出た。Kさんは家族のため、熟慮の末に退職し、今はリモートで働いている。古い日本の価値観で言えば、働き盛りの男性が、妻の海外転勤に同行する決断は並大抵のことではない。  私の夫もKさんも、駐在夫という同じ境遇だからか意気投合し、大リーグ・ヤンキースの試合を見にいくなど仲良くさせてもらっている。友人って大切だ。Kさんと飲みにいく夜の、夫の楽しそうな後ろ姿がそれを物語っている。  身近に駐在夫が2人もいたことに、 「時代が変わりつつある?」  と驚いていたら、実はニューヨークには駐在夫がけっこういることに気がついた。  大学の友人の日本人女性は、企業派遣で留学中。夫は休職し、駐在夫として小さな娘さんの面倒をみている。フルブライトの会合で知り合ったトルコ人夫婦も、妻の留学に夫が同行したカップルだった。トルコ人の夫は、私の夫を指して「同じ境遇!」とほほ笑んだ。  さらに、最近知り合ったチリ人のベンジャミンは自己紹介で、 「妻の転勤で仕事を退職し渡米しました。1歳の息子の世話が僕の仕事です」  と言った。  まだ1年も経たないニューヨーク生活で、次々と現れる駐在夫。日本人、トルコ人、チリ人――。大陸をまたいで女性が活躍している証拠だ。もし、100年前の女性たちに、駐在夫のことを伝えたら驚愕(きょうがく)するだろう。家族の幸せのために新しい選択をした夫たちは、多様な世界を実現する先駆者だ。  ちなみに、ベンジャミンの悩みは、帰宅した妻が服を脱ぎ捨てることだそうだ。 「仕事で疲れるのはわかるけど、僕も家事と育児で大変だ。自分の服ぐらいしまえ」  と妻に毎日言っているという。あれ? これって主婦の悩みにそっくりだ。どんなに仕事が忙しくても、自分たちがされて嫌なことは家庭でしないように心がけねばと、自分を戒めた。 かな・ともこ/1971年、東京生まれ。ドキュメンタリー映画監督。19歳で是枝裕和のドキュメンタリーに出演し映像の世界へ。NHKを経て独立。2007年、『川べりのふたり』がサンダンスNHK国際映像作家賞。ライフワークは環境問題。趣味はダイビングと歌舞伎鑑賞。フルブライト奨学金を得て、22年1月からニューヨークのコロンビア大学の客員研究員として留学中。1児の母(写真/筆者提供) ※AERAオンライン限定記事
【下山進=2050年のメディア第9回】寺田ヒロオを探して トキワ荘 悲劇の漫画家
【下山進=2050年のメディア第9回】寺田ヒロオを探して トキワ荘 悲劇の漫画家 『まんが道』藤子不二雄Aより。(C)藤子スタジオ  西武池袋線の椎名町駅をおりると、おおきな絵看板が私たちを迎えてくれる。 「ようこそ! トキワ荘のあった街 椎名町へ」という文字の下に、「サイボーグ009」「ドラえもん」「天才バカボン」などのキャラクターたちが、ふるぼけたアパートの屋根の上で躍っているイラスト。  そう、東長崎駅と椎名町駅の間にかつてあったトキワ荘というアパートには、1950年代に、若き日の手塚治虫、安孫子素雄(後の藤子不二雄A)、藤本弘(後の藤子・F・不二雄)、石森章太郎(後の石ノ森章太郎)、赤塚不二夫らが下宿していた。  トキワ荘自体は、1982年12月に解体されているのだが、そのトキワ荘があった場所からすぐ近くの南長崎花咲公園に、トキワ荘をそっくり模したアパート状のミュージアム「トキワ荘マンガミュージアム」が開館したのが、2020年7月。しかし、コロナ禍とぶつかってしまったため、閉館している時も多く、ようやく先日、かつての商店街通りをとおってこのミュージアムに行ってきた。  このトキワ荘につどったマンガ家たちの中に、今はもうほとんど忘れ去られてしまったが、寺田ヒロオというマンガ家がいる。  私にとっては、藤子不二雄Aの描いた『まんが道』を、中央公論社の愛蔵版(1986年刊)で買ってくりかえし読んでいたころの、「テラさん」のたのもしいイメージがくっきり残っているマンガ家だ。  富山から上京してきた安孫子と藤本は、マンガ家としてデビューするが、連載をうけすぎ、正月郷里に帰って遊んでしまい、すべての原稿を落としてしまう。 「スグゲンコウオクレ」「マダマニアウ」と矢の催促だった電報が、「モウマテヌ」「オクルニオヨバズ ヨソヘタノンダ」と変わり、なんの連絡もなくなり、「まんが道」を断たれたかに見えた二人に、手紙を送って上京を促し、もういちどやりなおすことを勧め励ましたのが、「テラさん」こと寺田ヒロオだった。 「君たちは出版社の人々を裏切った以上に、君たちの連載を待っていた少年たちも裏切ったんだ」と叱られた二人は死に物狂いで再起をはたす。  マンガを描くことは孤独な作業だが、みんなが集まればそんなことはない、と、安孫子や藤本の他にも、石森章太郎や赤塚不二夫などもトキワ荘への入居をさそって、新漫画党を結党、宝焼酎をサイダーでわった「チューダー」で月に一度の例会をトキワ荘でひらいたのもテラさんだ。近くの中華料理店「松葉」でとったラーメンとともにチューダーで乾杯して「ンマーイ」と叫ぶシーンを覚えている読者も多いだろう。  寺田自身は、安孫子や藤本、赤塚、石森よりも2歳から7歳年上なだけだったが、投稿マンガを主軸にしていた雑誌『漫画少年』の選者になっていたことから、兄貴分として慕われていた。少年サンデーは、1959年3月に創刊されるが、創刊時、手塚治虫とともに、柱となるマンガ家として「スポーツマン金太郎」を連載したりもしている。  が、そのテラさんは、30代で自ら筆を折ってマンガ家を廃業してしまう。  今回と次回続けて書くのは、テラさんの「早すぎる晩年」についての話だ。 「テラさんは、マンガが、どんどん変わっていくのに我慢がならなかった。テラさんにとってマンガは、少年のためにあるもので、お金とかセックスとかが描かれているマンガと自分のマンガが同載されることが許せなかったんです」  そう語るのは、ラーメンの小池さんのモデルにもなった鈴木伸一だ。テラさんも含め当時トキワ荘に住んでいたマンガ家は、ほとんどが鬼籍に入り、最後の生き証人と言えるかもしれない。  鈴木自身も、寺田にトキワ荘の敷金3万円を借りて入居している。寺田夫人は鈴木の縁で寺田と知り合った。  今年、89歳となる鈴木は、マンガ家廃業以降の寺田のことを考えると、今でも切なくなる。  鈴木によれば、寺田は少年サンデーの編集者に、寺田が「堕落」と考えるあるマンガの連載をやめるよう直談判したのだという。 「いくらテラさんが子どもたちにとってよくないと言ったって、編集部としては、そのマンガの連載をやめることなどできない。だったらば、自分がやめる、と筆を折ってしまったんです」  マンガ家廃業以降、トキワ荘時代の仲間との交流も疎遠になっていた寺田だったが、亡くなる2年前の1990年6月に、鈴木や赤塚、安孫子、石森などに声をかけ、寺田の茅ケ崎の自宅で宴会を催したことがあった。  そのとき、ホームビデオを撮影したのも鈴木だった。そのホームビデオを見ると、赤塚、安孫子、藤本、石森らが勢ぞろいし、「次は還暦の祝いだよ。テラさん」と囃すかつての仲間の酔談にニコニコと笑いながら寺田は耳を傾けている。この時、寺田58歳。 「でもねえ。私は笑顔のテラさんを撮影しながら、こう思っていたんですよ。ああ、これが最後になるのかな、と」  楽しかった宴会の翌日、安孫子が、寺田の家に、前の夜のお礼をしようと電話をかけた。 「あっ、奥さんですか、昨晩は本当にご馳走になりました。テラさんいます?」  寺田の妻は少しためらった後に、こう安孫子に返したのだという。 「寺田は、昨晩かぎりをもってトキワ荘の皆さんとのおつきあいは最後にしたいと申しております。電話にもでないそうです」  以下次号。 下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年9月16日号
祝開業100年「中央線三駅物語」(3) 角田光代が語る“西荻窪”
祝開業100年「中央線三駅物語」(3) 角田光代が語る“西荻窪” 駅南口前の通りに立つやきとり戎で疲れを癒やす(写真=倉田貴志)  東京西部を一直線に走る中央線に1922年、高円寺・阿佐ケ谷・西荻窪の3駅が誕生した。それから100年。駅周辺には“中央線文化”と呼ばれる独特の雰囲気が醸成されてきた。その魅力を探る三駅物語最終回。作家の角田光代さんが、西荻窪の好きな店について寄稿した。 *  *  *  西荻は、町の規模がそう大きくなく、商店街が充実しているところが私には魅力です。フランチャイズの店よりも個人店が多く、対応がマニュアル化しておらず、人間的なのもほっとします。飲食店、雑貨屋さん、古本屋さん、アンティークショップ等々、ちいさなお店が多いけれど、一軒ずつに個性と表情があります。 ・とらやさん(コロッケ、ポテトサラダ)お総菜の種類が多く、どれもおいしいので、三十年近く通っています。オーソドックスでクリーミーなポテトサラダ、こしょうのきいたコロッケはとくに好きです。 ・千鳥縄のれんに赤提灯、コの字のカウンターの風情がとても好きです。味のしみこんだおでんを選ぶのもたのしいです。混んでいても不思議としずかなので、本を読みながら飲むのにとてもいいです。 ・戎旅行をしたあとに、西荻のホームに降り立つと戎さんの焼き鳥の匂いがして、ああ帰ってきたなと思います。メニュウの品数が豊富で、小皿が多いのでひとり飲みに最適。安いし早いしおいしい。 ・コノコネコノコ旬の食材を使った創作料理は何を食べても本当においしい。猫のポスターやインテリアが多いのですが、お皿に醤油を入れて、猫が浮かび上がったときは感動で震えました。 ■静かに飲むならおでんの美味い居酒屋で 千鳥東京都杉並区西荻南3-10-2/営業時間:17:00~21:30L.O./定休日:日、第1土、祝(営業する日もあり)/入店は1組3人まで 南口の喧騒から逃れるように店に入ると、心地よい静けさに包まれる。この雰囲気が好きで毎日通う客も多い(写真=倉田貴志) おでん7品で1210円(税込み。以下同)。種は30種ほど。夏場はダイコンは出さない(写真=倉田貴志) 名物のおでん以外にも、酒好き向けの料理がそろう。1955年に創業。初代店主は84歳まで働き続けて、2005年に従業員に店を譲った。2代目は初代の味を守りつつも、少しずつ料理や酒を加えてきた。燗銅壺でつけた白鶴を飲むもよし、ピルスナーウルケルを飲むもよし ■昭和の風情と焼き鳥の香りが漂う やきとり戎西荻南口店東京都杉並区西荻南3-11-5/営業時間:12:00~21:30L.O.(金土は~22:00L.O.)/不定休 スペインからの直輸入品。チョリソー300円、マンチェゴチーズ480円、ワイングラス380円、ボトル1000円(写真=倉田貴志) イワシコロッケ490円はイワシを開いてポテトを詰めて揚げたもの。ボリュームたっぷり(写真=倉田貴志) 1串95円(!)のやきとんなど備長炭で焼く串ものが自慢で、30種類ほどそろっている。加えてイワシコロッケ、水餃子、煮込みなど名物料理が多数あり、常連客それぞれの推しが微妙に異なる。開店は1973年で、9月7日に創業49年になる。85年には北口店も開業し、すっかり西荻の“顔” ■83歳の創業者が半世紀以上作り続ける総菜 とらや本店東京都杉並区西荻北2-11-4/営業時間:9:00~19:00/定休日:日祝 一番暇だという14:00から15:00の間にも、総菜を求めて地元の常連客がひっきりなしに訪れてくる(写真=倉田貴志) 塩崎さんが右手に掲げるポテトコロッケ150円も大人気。左手に持つのは、ロースカツ(大)写真=倉田貴志 83歳になる塩崎靖男さんは八百屋の三男坊だったが、肉屋のほうが将来性があると思い、1970年に創業。その頃から手づくり総菜が人気で、今も列ができる。特に自家製マヨネーズを使って作るポテトサラダ350円は、毎日10kgも売れる。「イモを見る目は確かだからね」 ■日本酒もワインも楽しめる多国籍ビストロ 西荻窪コノコネコノコ東京都杉並区西荻北3-32-10豊和ビル1F/営業時間:18:00~22:00L.O./不定休 看板猫はいないが、常連客が持ってきた猫の置物やグッズがあちこちに飾られている(写真=倉田貴志) 前菜おまかせ3品盛り1200円。角田さんも好きな、凍らせレモンまるごとレモンサワー780円(写真=倉田貴志) 大通りから1本入ったところにある隠れ家風レストラン。フレンチと中華料理店で修業をしたうえでインドとラオスに遊学した野田駿太郎さん、和の家庭料理店とバーで働いた美生さんの夫妻が、2017年に開いた。夫妻のキャリアに裏打ちされた料理も酒も多国籍。なんでも美味い (文/角田光代 取材・構成/本誌・菊地武顕)※週刊朝日  2022年9月9日号
音声配信で鬱憤晴らすメーガン妃 ダイアナ元妃没後25年でも兄弟の怨恨は晴れず
音声配信で鬱憤晴らすメーガン妃 ダイアナ元妃没後25年でも兄弟の怨恨は晴れず 7月18日に米ニューヨークの国連本部で開かれた「ネルソン・マンデラ国際デー」の会合に出席したハリー王子夫妻(Abaca/アフロ)  英王室から受けたストレスが相当たまっているのだろうか。ハリー王子(37)の妻、メーガンさん(41)が始めた音声配信番組で愚痴が止まらない。8月31日はダイアナ元妃の25回目の命日だったというのに、ハリー王子は兄のウィリアム王子(40)とのわだかまりは消えぬまま。相変わらずお騒がせのメーガンさんとハリー王子が目指すのは……?  メーガンさんは8月23日、音楽配信大手のスポティファイで新番組「アーキタイプス」をスタートさせた。およそ1時間の中身はというと、英王室に対する鬱憤を思う存分はき出すものだった。  初回のゲストに招いたのは、友人のセリーナ・ウィリアムズ(40)。”史上最強の女子テニス選手”とも称された彼女を前に、メーガンさんは冒頭の10分間を喋り続け、ほとんど発言の機会を与えなかった。番組でメーガンさんは「I(私は)」という単語を200回以上も口にしたほどだ。  その内容を要約すると……。  ハリー王子と交際を始めた際、「野心家」とのレッテルを貼られた。ネガティブな意味あいを感じ、傷つき苦しんだ。学校教育などで女性が野心的であることは重要だと教えられ、自分も信じて疑わなかった。しかし、ある人たちにとっては、女性が野心を抱くのはひどく恐ろしいことなのだと訴えた。  また、王子と南アフリカに外遊した時のことを「私の人生で最も勇気がいることだった」と述べたが、それに現地の人が激しく反発。ツイッターには「#VoetsekMeghan(消え失せろメーガン)」というハッシュタグが現れ、「二度と南アフリカに来てほしくない」「メーガンさんこそ人種差別者」という言葉が並んだという。  メーガンさんはこの番組で、女性をひるませるレッテルや比喩について、その内側を探り解体したいと意気込む。実際に注目度は抜群で、初回は米国や英国、カナダなどで配信ランキング1位を獲得。「スポティファイの女王」と呼ばれるようになり、ツイッターなどでは「女性は野望を持つべき」「共鳴した」という意見もあった。 ダイアナ元妃生誕60周年にあたりケンジントン宮殿であった銅像の除幕式に出席した王子2人(2021年7月1日、ロイター/アフロ)  しかし、英国メディアは厳しい評価のオンパレード。タイムズ紙は星一つで、「陳腐でバカバカしい。ナルシストのくだらない自慢話」と切って捨てた。リスナーからは「ビクテムカード(被害者という切り札)をまた使用した」「退屈で途中で聞くのをやめた」などの声が上がり、米国からも「今は物価高、教育費の捻出などで頭がいっぱい。大金持ちで大邸宅に住み、称号を持つ女性が同情を求めても、不愉快なだけ」といった意見が寄せられたという。  共感のほかに怒りの声が湧き出てくるのも無理はない。番組を始めるにあたり、スポティファイは2020年12月、メーガンさんと2500万ドル(約34億円)の複数年契約を結んだとされる。番組は12回シリーズで、毎週配信されるが、超高額なのは明らかだ。  ちなみに2回目のゲストは歌手のマライア・キャリー(53)。「デュアリティー・オブ・ディーバ(歌姫の二重性)」というテーマで、二人が共にミックスルーツ(複数の国や文化にルーツを持つ人)であることから話が進み、マライア・キャリーがメーガンさんを「あなたこそディーバ」と話す場面もあった。今後は、インド系俳優のミンディ・カリングや韓国系コメディアンで俳優のマーガレット・チョーらの名前が上がっている。  ほかのメディアでもメーガンさんは積極的に発信する。奔放な発言が物議を醸すことも多い。  米国の雑誌「ザ・カット」の独占インタビューでは、19年にロンドンで開かれた映画「ライオン・キング」のプレミアに出席した時のエピソードを紹介。南アフリカ出身の男性キャストが自分を光を見るように見つめ、「あなたがロイヤルファミリーと結婚した時は、私たちはまるでネルソン・マンデラ(元大統領)が釈放された時と同じように喜び、通りで踊りました」と話したという。  だが、このエピソードそのものがウソだった可能性が出てきた。当のキャストは「プレミアには行っていないし、メーガンさんと会ってもいない」と言い出したのだ。プレミアに出席した南アフリカ出身の作曲家はハリー夫妻と立ち話をしたが、1分足らずで内容も覚えていないという。  そもそもマンデラ氏の名前を出したことにも批判が集まる。マンデラ氏といえば、27年の獄中生活を耐え抜き、釈放後はアパルトヘイト撤廃に力を尽くしてノーベル平和賞を受賞した偉人だ。さっそく彼の孫で国会議員のマンドラ・マンデラ氏は「祖父の釈放と結婚式は比べ物にならない」と不快感を示した。  そんなお騒がせのメーガンさんだが、王室に入るときにやめたブログも再開して発言を続けるという。その言動はさらに過激化、先鋭化しそうだ。彼女の暴走を止められる人はいない。 ダイアナ元妃と王子2人(1987年8月9日、AP/アフロ)  しかも王室を離脱したとはいえ、称号を返上しないばかりか、その地位をビジネスに生かす。まるで古巣への当てつけのようだ。もちろん王室側も黙ってはいない。2人への冷遇ぶりが端的に現れたのは、なんといっても今年6月の「プラチナ・ジュビリー」だろう。  エリザベス女王(96)の即位70年を記念したイベントで、王子とメーガンさんも2人の子どもと共に渡英した。だがバッキンガム宮殿のバルコニーには立たせてもらえず、セントポール大寺院の記念礼拝では、ほとんど末席をあてがわれた。  国民からのブーイングを浴びた一家は、早々に米国に帰った。8月4日のメーガンさん誕生日には、女王からの祝福カードが届かなかった。  ハリー王子と兄のウィリアム王子との関係もぎくしゃくしている。8月31日にはダイアナ元妃の没後25年を迎えたが、兄弟がそろって追悼の気持ちを分かち合う機会は、公私ともに持たなかった。  そのウィリアム王子一家はまもなく、女王の住まいであるウィンザー城の敷地内にあるアデレード・コテージに移る。3人の子どもたちは、英国でもトップクラスの私立プレップスクール、ランブルック校(3~13歳)に通わせる。両親が交代で送り迎えをするという。  ハリー王子夫妻は9月5日から、チャリティーイベントに参加するため渡英し、同じ敷地内のフログモア・コテージに宿泊する。すでにウィリアム王子一家は引っ越しているはずで、互いに徒歩で行き来できる距離で過ごす。それでも、2人に会う予定はない。  母を亡くした後、互いに助け合い支えあってきた2人は「理想の兄弟」と言われてきた。だが今では「ハリー王子の横にメーガンさんがいる限り、関係修復は無理だろう」と言われている。  ハリー王子がメーガンさんと付き合い始めたころ、兄は「もう少し時間をかけてから決めたほうが良い」と忠告した。メーガンさんのスタッフに対するいじめの報告を受けて、ハリー王子に問いただしたこともあった。  そうした兄の思いをハリー王子は理解せず、むしろ許せないでいる。「キャサリン妃は、メーガンさんにもっと親切に接するべきだ」とも言った。ハリー王子は結婚前から「兄は僕のやりたかったチャリティーのパトロンを取った」と愚痴っていたと言われている。  兄と弟の確執は思ったより根が深い。メーガンさんの出現で決定的になったともいえるだろう。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※週刊朝日オリジナル記事
「後遺症を防ぐためにできることは?」「抗原検査キット買うべき?」 新型コロナQ&A
「後遺症を防ぐためにできることは?」「抗原検査キット買うべき?」 新型コロナQ&A 8月2日、日本記者クラブで第7波対策などについて発表する尾身茂・政府分科会長(中央)ら  国内では依然として第7波が猛威をふるっている。発症時の対応や療養解除後の体調などさまざまな疑問に対し、医師が回答した。AERA2022年9月5日号から。 *  *  * Q:療養解除後も咳が続いています。息苦しく、夜も熟睡できません。 A:症状続く場合は医療機関へ  東京都在住の50代女性は新型コロナウイルスに罹患し、軽症だった。だが、療養解除から1カ月近く経った今も咳がひどく、熟睡できないという。 「気管支が過敏になり、少しの刺激に反応して狭くなる咳喘息(せきぜんそく)に移行している可能性もあります。医療機関の受診をおすすめします。数日程度なら市販の咳止めでいいですが、長く続くなら咳喘息の治療に使う吸入ステロイドを処方します」(大谷院長)  新型コロナを周囲にうつす心配はない。 Q:抗原検査キットは購入しておくべき? A:買うなら医療用。過信は禁物  まず、抗原検査キットには、「体外診断用医薬品」と「研究用」の2種類がある。前者は国が臨床的有効性を認めたもので、後者はそうではない。従来から、ネットなどで簡単に手に入れられるものが後者だ。両者には精度の基準に差があると考えたほうがよく、症状が出たり濃厚接触者になったりしたときに備えて購入するなら一定の基準をクリアした体外診断用が望ましい。  体外診断用医薬品は厚労省のホームページにある「取扱薬局リスト」に掲載の薬局で購入可能だったが、近くネットでも購入できるようになる見通しだ。  ただし、前述のとおり、抗原検査の過信は禁物。疑わしいときに抗原検査で調べ、「陽性」が出れば感染したとみなしてそれに準じた行動。陰性の場合はPCR検査を受けるのが望ましい。 Q:家族が発症、隔離生活をしていました。自宅療養が解除される前日に自分が発症。今度は家族が濃厚接触者になるのですか? A:症状が軽快していれば予定通り療養解除  50代男性は3人家族で、8月14日に妻と娘が発症。居住スペースを分けて生活した。妻と娘の症状は軽快、だが、療養最終日(24日)の前日、男性が発症した。 「コロナに感染していた妻と娘は、しばらく再感染はほぼないと考えていい。通常、濃厚接触者となると決められた待機期間がありますが、妻と娘はそれに該当せず、予定通り25日から療養解除となります」(米山院長) Q:経口治療薬の開発はどうなっているの? A:承認された薬は2種類 ゾコーバは継続審議  塩野義製薬の経口薬「ゾコーバ」の緊急承認が見送られ、継続審議となった。  軽症から中等症対象の経口薬はすでに2種類、メルクの「ラゲブリオ」とファイザーの「パキロビッドパック(以下パキロビッド)」が承認されている。いずれも抗ウイルス薬で、重症化リスクのある患者が対象だ。 「これら二つの薬はワクチン未接種者を対象に臨床試験が行われており、ラゲブリオは重症化が約30%、パキロビッドは約90%低下するとの結果が出ています。日本では8月23日時点で約64%の人が3回目ワクチン接種を終えており、未接種者対象で重症化30%低下のラゲブリオは、現状に即していないと考えられます。パキロビッドは併用禁忌薬が多く、特にネックなのは最近の腎機能データがないと使えない点。腎機能の数値は採血後すぐに出ないため、発熱外来では、かかりつけ患者以外は使いづらい」(大谷院長)  ゾコーバは催奇形性リスク(ラゲブリオと同様)、併用禁忌薬の多さ(パキロビッドと同様)があるが、腎機能の検査は不要だ。ワクチン接種者対象の臨床試験で、オミクロン株で深刻な呼吸器症状や発熱に対して有意な改善が見られ、ウイルス減少効果も確認されているという。 「使いやすさ、効果の点からコロナの治療を行っている臨床医のゾコーバへの期待は大きい。今後の展開に注目しています」(同) Q:後遺症になりたくありません。できることはありますか? A:無理はしない、鼻うがい、胃酸の逆流を防ぐ  倦怠感が抜けない、脱毛がある、など、新型コロナウイルスの後遺症(罹患後症状)について、さまざまに報じられている。自分でできることはあるのか。  国内で先駆けてコロナ後遺症の専門外来を開いたヒラハタクリニック・平畑光一院長は言う。 「後遺症にならない、なっても重症化させないために三つのことを守ってほしい」  三つとは、「少しでも体がだるくなることは徹底してしない」「鼻うがいをする」「胃酸逆流を防ぐ」。コロナ発症から2カ月間は注意すべきだという。 「ごく軽い労作やストレスが、非常に強い倦怠感へと変わることがある。繰り返すと寝たきりになる恐れもあります。また、コロナ後遺症には慢性上咽頭炎が関係しており、胃酸逆流で悪化する。その対策に鼻うがいや、胃酸逆流を起こさない食生活が有効なのです」(平畑院長) (ライター・羽根田真智) ※AERA 2022年9月5日号より抜粋
芥川龍之介と川端康成は吉原を見に行った 文豪たちの「関東大震災」
芥川龍之介と川端康成は吉原を見に行った 文豪たちの「関東大震災」 芥川龍之介  いまから99年前の1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、10万人を超える死者・不明者を出し、被災者も340万人を数える甚大な被害をもたらした。震災当時の様子は、被災した多くの文豪が記録に残している。 *  *  *  そのころ文壇の寵児だった芥川龍之介は田端の自宅で被災した。パンと牛乳の昼飯を食べ終え、茶を飲もうとした瞬間にぐらりと来た。真っ先に庭に飛び出した芥川だったが、妻らは子供たちを抱いて出てきた。 <この間家大いに動き、歩行はなはだ自由ならず。屋瓦の乱墜するもの十余。(中略)土臭ほとんど噎(むせ)ばんと欲す。父と屋の内外を見れば、被害は屋瓦の墜ちたると石燈籠の倒れたるとのみ>(「大震前後」)  芥川の妻、文は『追想芥川龍之介』でこの時のことを<私はその時主人に、「赤ん坊が寝ているのを知っていて、自分ばかり先に逃げるとは、どんな考えですか」とひどく怒りました。すると主人は、「人間最後になると自分のことしか考えないものだ」とひっそりと言いました>と書いている。 横光利一  この時の“揺れ”の壮絶さについては、当時ブレーク直前の新進作家だった横光利一が後の講演で臨場感たっぷりに伝えている。横光はその瞬間、神田の東京堂書店で雑誌を立ち読みしていた。 <狭い道路で家が建て込んで居て、その家がバタバタと倒れて行く。それと同時に壁土やなんかがもうもうと上って、其の辺は真黒になる。だが上から何が落こって来るか解らないので、眼を閉じる訳にいかない。眼を開いていると土ほこりが入って痛いが、我慢している。其処らに居た人は互いに獅噛附(しがみつ)いて固っている。私はその時これが地震だとは思わなかった。これは天地が裂けたと思った。絶対にこれは駄目だ、地球が破滅したと思った>  揺れや建物の崩壊の後に襲ってきたのが“火事”だった。多くの被災者は延焼を避けるため着の身着のまま、最低限のものを持ち出して脱出、避難した。 川端康成  震災の翌日、一家で避難する際、芥川は夏目漱石からもらった一軸の書を風呂敷に包んで持ち出しただけだった。好奇心旺盛な芥川はこの後、吉原に被害状況を見学に出かけている。同行した川端康成は「芥川龍之介氏と吉原」でこう書いた。 <芥川氏と今(東光)君と私とは、多分芥川氏が言い出されたように思うが、吉原の池へ死骸を見に行った。(中略)荒れ果てた焼跡、電線の焼け落ちた道路、亡命者のように汚く疲れた罹災者の群(中略)吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい『地獄絵』であった。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思えばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いているのは、遊女達の死骸が多いからであった>  そう書いた川端自身は大した被害を受けていない。千駄木の下宿の2階で被災し、瓦が落ちる音が激しくなったので、階下に降りたと書き残しているだけだ。 泉鏡花  千代田区六番町で被災した泉鏡花はその体験をルポ作品「露宿」に残している。火事を避けるため裸足で家を飛び出し、黒煙と轟音の中で避難民が集まる四谷見附の公園にたどり着き、野宿をした。水は止まり、マッチもろうそくもないなか一睡もせずに3日の午前3時を迎えた。 <四谷見附そと、新公園の内外、幾千萬の群集は、皆苦き睡眠に落ちた。……残らず眠ったと言っても可い。荷と荷を合はせ、ござ、筵(むしろ)を鄰して、外濠を隔てた空の凄じい炎の影に、目の及ぶあたりの人々は、老も若きも(中略)萎えたやうに皆倒れて居た。  ──言ふまでの事ではあるまい。昨日……大正十二年九月一日午前十一時五十八分に起こった大地震このかた、誰も一睡もしたものはないのであるから>  ばい菌を恐れ、アルコール綿の入った消毒器を持ち歩いていた鏡花は、どんな思いでこの夜を迎えていただろう。  そんな鏡花の近くに住んでいた直木三十五はまったく別の反応を見せていた。市ケ谷駅前で冬物の帽子を二つかぶり、ステッキを振り回しながら火の手が上がる麹町方向を見つめている姿を広津和郎が目撃している。 井伏鱒二  広津の「三番町時代の彼」によると、直木はニヤニヤしながら「もうじき東郷さんの家に火がつきそうだ。早く火が回り俺の家が焼ければしめたものだ」と我が家が焼けるのを心待ちにしていたという。その理由が抜け目のない直木らしい。家財道具はすべて差し押さえられていた直木は、震災直後にめぼしい家財道具を避難させていた。家が焼ければ差し押さえ品も焼けたとみなされるからというのだ。震災後、直木は大阪に移住した。  震災後の帝都の様子については多くの作家が文章を残している。当時、大学を中退したばかりで文士の卵だった井伏鱒二は「震災避難民」で文壇の大御所・菊池寛が取った行動を面白おかしく書いている。 <「文藝春秋」を発行している菊池寛は、愛弟子横光利一の安否を気づかって(中略)「横光利一、無事であるか、無事なら出て来い」という意味のことを書いた旗を立てて歩いた。(中略)文壇の元締菊池寛が血相変えて、横光ヤーイの幟を立て東京の焼け残りの街を歩く>  当の井伏は倒壊しかけた下宿から財布とカンカン帽と洗面具だけを手に、中野近くの芋畑で悠然と野宿をしたという。 志賀直哉  最後に、震災後に起こったデマ「不逞朝鮮人」騒ぎに文豪たちはどう対応したか。各地で自警団が結成され、芥川も菊池も永井荷風も、多くの文豪がむしろ楽しみながら夜警活動についていた。しかし、震災当時は京都にいて難を逃れたが、被災した家族を心配して東京に戻ってきた志賀直哉はそうした自警団を目にして「震災見舞」で痛烈に批判した。 <東京では朝鮮人が暴れ廻っているといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかった。松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追ひかけるのを見た。「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、余りに簡単すぎた。今もそれは半信半疑だ>  震災以降、文壇の勢力図は大きく変化する。横光・川端らが掲げる“新感覚派”と、プロレタリア文学の勃興である。(本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2022年9月9日号
【朝日ジャーナル #6】統一教会「霊感商法」水子が畳を這い回る「悪霊」恐喝の背後捜査書(1987年1月30日号)
【朝日ジャーナル #6】統一教会「霊感商法」水子が畳を這い回る「悪霊」恐喝の背後捜査書(1987年1月30日号) 朝日ジャーナル1987年1月30日号  安倍晋三元首相銃撃事件を機に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政界の癒着が次々と明るみに出ている。そもそも旧統一教会が話題に上ったのは1980年代。印鑑や壺(つぼ)などを高額な値段で売りつける「霊感商法」が社会問題となった。そのきっかけとなったのが1986年に「朝日ジャーナル」が始めた霊感商法追及キャンペーンだった。当時、問題視された旧統一教会による霊感商法とは、どのようなものだったのか――。ここでは、朝日ジャーナル1987年1月30日号に掲載された記事を紹介する。 ※以下に記載された年齢、所属、肩書きなどは、すべて当時のまま *  *  *  1983年、青森県でおどろおどろしい事件が起こった。ある主婦を「亡夫の霊」「水子の霊」が出たと脅した霊感商法の一味が逮捕された。85年、米カリフォルニア州で、日本人の女宣教師が殺された。被害者は名古屋で霊感商法にたずさわっていた。両事件に共通しているのは、統一教会とのかかわりである。同教会はこれまで霊感商法とは関係なしと主張してきた。けれども青森の事件で警察は「犯人の会社は統一教会の思想教育を受けた者の集り」と断定した。恋も知らないまま、22歳で生命を絶たれた女宣教師の遺品のなかには、「天のお父さま」への熱い信仰告白と、文鮮明師夫妻の写真があった。善良な信徒たちを、組織的悪行へ駆り立てている「見えざる手」は、どの神さまの意思で動いているのか。 *  *  *  全国に巧妙な触手を伸ばす「霊感商法」が捜査当局により補捉され、裁判で解明された事例がある。1984年1月12日、青森地裁弘前支部で3人の被告全員が有罪となった恐喝事件だ。  被告は福島県出身のA(36)、山形県出身のB子(31)、岩手県出身のC(31)。事件は二つの面で注目に値する。一つは手口のひどさだ。目的のために手段を選ばぬ霊感商法の行き着く先を示す。もう一つは、意欲的な捜査陣の手により、背後関係について相当の証拠が集積されたことだ。この商法の裏面にうごめく手が暗示されている。 朝日ジャーナル1987年1月30日号  青森地検弘前支部で確定裁判記録のページを繰った。窓外の冬空は毎朝の陽光が昼を待たずに消えて、鈍色の空間からおともなく雪片が舞い落ちる。それにも増して寒々とした気持ちにさせられたのは、分厚な記録が物語る事件像だ。  被害者は青森県内に住む主婦P子さん(50)。検察官に対する供述調書によれば。  ――82年秋、自宅に印鑑販売員がやってきた。青森市にあるという「グリーンヘルス」社の名刺を出したその女性販売員は、P子さん方の印鑑を見て「名前の書き方が間違っている」などといった。「私の会社の印を使えば運が開ける」。心の揺れがP子さんに生じた。  P子さんの半生は恵まれたものとはいえない。農家に嫁いだが夫婦で出稼ぎの生計は苦しく、二児をもうけた後は、妊娠するつど中絶を繰り返さざるをえなかった。この夫はがんで死んだ。6年後に再婚した現在の夫も交通事故で脳挫傷を負い、言語障害で仕事のできない状態になっている。  結局、印鑑3本セットと実印を買った。販売員は2時間ほどいて、P子さんの身の上話を聞き終えると、帰って行った。  間もなく、その人が男女を伴い2種類の壺を持って再訪した。「これをなでれば幸福になれる」と今度は壺を買うように勧めた。安いほうで60万円と聞き、断った。  このころP子さん方の収入は、3カ月に1回入る約30万円の夫の障害年金のほかには、内職で稼ぐ毎月約2万円だけ。夫の兄弟から米や野菜を分けてもらうギリギリの生活だ。印鑑も月賦払いにした。  83年7月26日ごろ、男の声の電話が入った。「前に印鑑を買ってもらったグリーンヘルスの者だ。先生(霊能者)があなたの先祖を拝んだら、悪い霊がいっぱいついていた。先生から手紙を預かったので持って行く」。翌日、その男Aがやってきた。Aは、「先祖の霊が成仏できずにいる。悪い霊を取り除かなくてはならない」と、持参の手紙を読み上げ、「先生」に会うよう執拗に勧めた――  Aはのちに検察官にこう自白した。「手紙の内容は自分で考え出し、他の販売員に毛筆で書いてもらったもの。P子さんを誘ったのは、グリーンヘルス社の顧客カードから選んだのです」。霊能者のお告げではなかったわけだ。  そうとは知らぬP子さんは83年7月28日朝、車で迎えに来たAに伴われて、脅迫の現場へ向かった。障害のある夫も同行した。連れ込まれたのは浅虫温泉のホテルの一室だった。P子さんに対する陰惨な脅しは、この一室でこの日午前10時半ごろから午後8時ごろまでの間、行われた。判決と、P子さんらの検察官調書から状況を再現する。 「皆殺しにするぞ」主婦の連れ込まれた戦慄の密室  ――和室の壁際に細長いテーブルが祭壇のように置かれ、壺が飾られていた。P子さん夫婦は壺から火の出る様子を映すビデオを見せられた。Aが30歳ぐらいの先生を請じ入れた。B子である。先生はP子さんの先祖の「罪」についてあれこれと説き始めた。途中で夫は外に出された。  2人きりになると、先生はいった。「あなたが堕した子供や病死した前夫が成仏できずに苦しんでいる」。ひるむP子さんにたたみかけた。「全財産を投げ出して成仏させないと不幸が続く」「正直にいいなさい」。何度も促され、P子さんは財産を打ち明けた。  夫の交通障害保険として1200万円が入った。それをそのまま銀行預金してある。ほかに少しずつためた郵便貯金。  聞き出した先生は、「全部出しなさい。そうすれば霊を成仏させてやる」といった。「霊が苦しんでいるのにお金を出さないのか」とどなったりもした。執拗な要求に、連れて来られる際の話と違うことに気づいたP子さんは帰ろうとした。  だが入り口には人が立っており、ドアを開けさせないようにしていた。仕方なく先生に「うちの人の事故で得たお金。自分では処分できない」と説明したが、先生はきつい口調でこういった。「霊がどういうふうになっているか見せてやる」。  先生は祭壇を拝み始めた。夫も連れてこられた。「おやじにも見せてやる」と、先生はP子さんに向かっていった。いつ入室したのか、1人の男がいて、どなり声をあげて暴れ始めた。「前夫の霊が乗り移った」と。この男がCである。  Cは室内を走り回り、「みな殺しにするぞ。成仏させてくれるのか、くれないのか」とわめきながらP子さんに何度もまとわりついた。押し倒し、殴りかかる。Aがそのたびに引き離す役回りをした。夫もまとわりつかれたが抵抗できなかった。P子さんは気味悪さと恐ろしさで体がふるえた。CはさらにP子さんを抱きかかえて窓のほうへ連れて行き、外へ投げ出す素振りを見せた。部屋は四階。小柄なP子さんは「突き落とされて死ぬのでは、と思った」と述べている。Aがとめに入った。そのくせAは、P子さんらを部屋から解放してやろうという素振りはまったく見せなかった。 「堕胎児の霊が乗り移った」と称する女性ら数人も登場した。赤ん坊のように床に丸まり、少しずつ這ってP子さんに近づいて来る。「寒いよ、寒いよ」、「どうして生んでくれなかったの」などといいながら、P子さんのひざにまでにじり寄って来た――  Aの「とめ役」が、実際は共謀の上だったのは、判決などでも明らかだ。水子のしぐさをした1人、グリーンヘルス社の女性販売員(36)=起訴猶予=は検察官にこう語っている。 「控室に、B子もAもCも出入りしていた。Cは『これから霊を出す』といって控室から出て行き、P子さん夫婦のいる部屋に入って行った。Cの声で『うっうっ』という声や、赤ちゃんや動物の泣き声みたいな声、男の酔ったような怒ったような声がし、また暴れ回っているような物音も聞こえてきた。P子さんと思われる女の『キャー』という叫び声や、逃げ回っているような物音も聞こえました」  ――悪霊の場面が終わり、再び2人きりになると、先生はP子さんに「霊が苦しんでいるのがわかったでしょう。財産を全部出しなさい」といった。お盆前に子供に大変なことが起こる、などと脅したあげく、「神様は1200万円でいいといっている。神様はこれ以上は許してくれない」と迫った。 「長時間にわたって、部屋の中で責められ、疲れきっていた」P子さんは、とうとううなずいてしまった。翌日、Aらに銀行へ連れて行かれ、定期預金を解約して1200万円を渡した。なぜかそれから2、3日うちに、Aが頼みもしない「一和高麗人参濃縮液」三ダースを自宅に置いて行った。  P子さんは、8月2日、警察へ届け出た――  Aらの行為には多くの仲間が加わっていたが、特に悪質なAら3人が起訴された。83年12月の第1回公判で3人は罪状を認めた。検察側は論告で「本件は組織的な犯行であり、被告人3名の責任も重大だ」と述べた。  興味深いのは弁護人による弁論の中身である。犯行の動機はAの販売成績をあげたい一念だけでなく、被害者を何とか救ってやろうと考えたからだとし、裏付けとして「被害者から受け取った金を一銭も取らないで、全額グリーンヘルスに納め」た、と述べている。弁護士の意図は別として、通常の委託販売員の行為にしては不自然な感をいなめない。  判決は、「被告人らはP子の家庭が不幸続きであることを知るや、これを利用して金員を喝取しようと企て……」と、ほぼ起訴状通りの犯罪事実を認定。三被告にそれぞれ懲役2年6月、執行猶予5年を言い渡した。 宗教・壺セールス・韓国・原理洗われて行く背後  被告たちの背後関係に関する資料を、確定裁判記録(事件記録)から拾った。おのずと浮かんで来る一つの集団があった。 《宗教とセールス》  主謀者格とされるAの経歴に関し、Aの父はこう供述した。  ――急に息子が会社を辞めるといい出したので理由を聞いた。息子は、 「キリスト教みたいな宗教に入ったので、セールスをやらなければならないので仕事を辞めないとだめなんだ」と話した。家族の反対を押し切り81年末に退社し、家には帰って来なくなった。82年秋、健康食品や印鑑を積んだ車で一度立ち寄った。83年正月にも来て「結婚して韓国に行って来た」と話した――  《クレーム対策委》  Aらと共謀し先生役をしたB子も実際は販売員である。B子の供述。  ――私は81年から委託を受けて印鑑や壺の訪問販売をしている。現在は仙台市に住んでいる。Cは、私が山形にいたころ属していた印鑑、壺などの販売会社の社長だった人。私は、山形市内で壺を買うよう勧めたことが恐喝未遂、詐欺になるということで警察の取り調べを受けたことがあるが、処分はされなかった――  一方、警察がAの勤務先である青森市のグリーンヘルス社を捜索した際、事務室から「クレーム対策委員会」という表題のあるメモが発見された。こんな内容である。 「会社 ホーム 委託員の住民票のある所――証拠なし。日頃気をつけておく」「メンパーの教育……東京の問題のように、突然(教育なしに)逮捕されずに済んだこと」「突然の場合……氏名のみ、あとは黙秘」「対警察応対策、法律の勉強」「山形事件 盛岡事件――等、今後、警察との問題交渉に当たる際、揚げ足を取られないように、訓練を要する」「消ヒ者センター渉外」……  明らかに警察対策、苦情対策の手引だ。「対策委員会」の名称や、何より文面は、極めて広い活動範囲の組織があり、法に触れる危険を自認しており、グリーンヘルスもその末端であることを示唆している。  《韓国・結婚》  Aに関してと同様、B子の供述にも「韓国」が登場する。  ――現在私は韓国人の夫と結婚している。ただ入籍はしたが別居生活で、夫は韓国にいます――  B子宅を捜索した際の写真撮影報告書に、「洋服タンスの中には衣類が下がっており、すみのほうに、文鮮明の写真1枚があった」との記述がある。文鮮明師とは、韓国で「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)を創立した教祖。同協会が展開してきたのが世に知られている原理運動だ。  《押さえられた原理講論》  警察官によるA宅の捜索などで、多くの証拠が押さえられた。この中には、奇妙なメモ書きのある封筒=後述=や『原理講論』『原理講義案』の本、雑誌『世界思想』などがあった。A宅捜索時、窓からバックを捨てる証拠隠滅の一幕もあった。『原理講論』は、統一教会の教理解説書、『世界思想』は、やはり統一教会の文鮮明教祖を創始者とする「国際勝共連合」の機関誌である。 「被告は統一教会の信者だ」断定した捜査報告書  《被告と統一教会》  確定裁判記録の中に、「被疑者と統一協会とのつながりについて」と題する、起訴前の83年11月27日付警察捜査報告書がある。抜粋すれば次の通りだ。  ――被疑者Aに係わる恐喝事件については、初め印鑑の販売から始まり、次に壺の販売、その間における客からの経済状態及び財産関係の聞き出し、更には悪霊祓い名下に、現金の喝取と一連の行為は、これまで押収、領置した「クレーム対策委員会の資料、販売契約時の心構を記入した姿料、担当者の心構えと姿勢についての資料」などのなかから、会社ぐるみの犯行であることは、10分認められるが、このAが所属するグリーンヘルスという会社は、世界基督教統一神霊協会(統一教会)および主義思想を同じくする、異名同体の国際勝共連合の思想教育を受けた者の集りであることは本年11月15日に被疑者宅を捜索した際、同所で事情聴取したH(31)、M(37)、N(31)らの申し立てから、明らかであり、また当署巡査部長Kが領置した国際勝共連合発『世界思想』11月号(A様とうらに記入あり)からもAが勝共連合と同じ思想の統一教会の信者であることは明白である――  《「答えたくありません」》  取調検事とAとの間でかわされた、背後関係をめぐる問答で、Aはすべての回答を拒否している。検察官調書から抜粋しよう(表記は調書の記載通り)。 問 あなたは宗教を勉強していたということも言ってますが、あなた自身は宗教に入っているのですか。 答 個人的なことですので答えなくてもよいと思います。 問 11月30日7時20分から私の取調べを受けたときに、「世界キリスト教統一神霊協会」に入っていると言っていますが、その協会に入っているのではありませんか。 答 答えたくありません。    (中略) 問 Mという人を知っていますか? 答 知りません。 問 あなたのところを捜索したときに、いた人ですが、それでも知りませんか。 答 知りません。 問 Mから聞いた結果の捜査報告書によればMは、宗教団体統一原理宣教師であるが、あなたとは、信仰が同じという糸で結ばれていると話しているということになっているがどうですか。 答 答えたくありません。 問 今回の事件は、神がかり的で宗教的色彩を帯びているので、あなたがどういう宗教を信じているかどうか、関係してくるわけですが、自分の信じている宗教を明らかにして今回の事件との関係をはっきりさせるべきではありませんか。 答 自分の宗教については言いたくありません。    (中略) <Aに対し、すでに領置した領収書や「青森第1へM展費用70.0 勝共負担金32.5」と書かれた封筒を示したうえ>    (中略) 問 M展費用70.0 勝共負担金32.5というのは何ですか。 答 いずれもわかりません。 問 これは、青森第1M展の費用として70万円、勝共連合の負担金として325000円渡したという意味ではありませんか。 答 わかりません。     ◇  さきの「クレーム対策委員会」メモには、「揚げ足を取られないように、訓練を要する」のあとに、こんな教えが続いていた。「条件の奪い合い。答えていいこと。答える必要のないこと」。社会的な罪は場合によりスンナリ認めてもよいが、組織には迷惑をかけないように、との趣旨なのだろうか。  事件の卑劣さはおそらく誰の目にも明らかなはずだ。検事とのやりとりの際、せめてAの内心には葛藤があったことを信じて、被告は仮名にした。 ※朝日ジャーナル1987年1月30日号から
【朝日ジャーナル #5】統一教会「霊感商法」のあくなき食欲(1986年12月26日号)
【朝日ジャーナル #5】統一教会「霊感商法」のあくなき食欲(1986年12月26日号) 朝日ジャーナル1986年12月26日号  安倍晋三元首相銃撃事件を機に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政界の癒着が次々と明るみに出ている。そもそも旧統一教会が話題に上ったのは1980年代。印鑑や壺(つぼ)などを高額な値段で売りつける「霊感商法」が社会問題となった。そのきっかけとなったのが1986年に「朝日ジャーナル」が始めた霊感商法追及キャンペーンだった。当時、問題視された旧統一教会による霊感商法とは、どのようなものだったのか――。ここでは、朝日ジャーナル1986年12月26日号に掲載された記事を紹介する。 ※以下に記載された年齢、所属、肩書きなどは、すべて当時のまま *  *  *  吸血鬼に取りつかれた犠牲者がバンパイヤーとなり他人の血を吸うようになる――西洋の伝説にすぎないが、霊感商法にはそんな不気味さがある。宗教者と称する小鬼たちは、他人の預金を吸い尽くしたあと、いま住んでいる家と土地とを狙い始める。資産家につきまとうその執念をみると、良心から遠くへだたった集団の姿が浮かびあがる。  ●事例資産数十億円の老人と同居する若い女は何者か  東京都大田区の住宅街に、名物のおばあさんK子さん(80)がいた。うっそうと樹木の茂る家に20匹近い猫と、1匹の犬とともに住んでいた。皇居の歌会始めに応募し、当選したことのある教養人として町内会で尊敬されていた。「奥さま」と呼ばなければ返事をしないような、気位の高いところがあった。  昨年1月、K子さんが肺炎にかかり、入院した。その前後から身辺にL子という女性が出没し始めた。30代前半だった。L子をK子さんに紹介したのはかつてのK子さんのお手伝い(70)だが、この人の話によると「L子から印鑑と壺を売りつけられ、もっと買えといわれて困った。独り暮らしのかわいそうな老人がいるとK子さんのことを紹介したら、そちらに移って行った」という。  K子さんも印鑑を買った。病状が回復に向かった4月、K子さんは「猫屋敷」と呼ばれていた1000平方メートル近い自宅を売った。一説によると売値は3億6000万円だったという。5月、K子さんは退院し、二階建ての家の二階部分の四部屋を借りて住んだ。 朝日ジャーナル1986年12月26日号  それから、近所の人の目をひくようなことが起き始めた。L子が姪というふれ込みでよく泊まるようになった。そのL子が30代半ばのM子を連れてきた。M子はお手伝いさんとして完全に住み込んだ。  6月末、K子さんは品川区の1軒家を5600万円で買うことにし、手付金約400万円を支払った。ところが7月5日、契約破棄を言い出し、遠約金としてさらに540万円を払うことになった。このとき作成した契約破棄同意書には、「親戚立会人」としてL子が署名し、「川崎市麻生区王禅寺」の住所を残している。  この直後、K子さんは高さ約70センチの多宝塔と弥勒菩薩像を購入した。値段はだれにもいっていないが、同じころ横浜ナンバーの車に乗った銀行の支店長が、ジュラルミン製の箱を運んできたのを、近くの主婦が目撃している。  その主婦によると、K子さんの部屋に男女数人が集まって、賛美歌めいたものを歌うようになった。新聞は『世界日報』が入り始めた。統一教会とつながりの深い日刊紙である。川崎ナンパーの車がしょっちゅうきて、大量の水を下ろしていった。プラスチックのビンに入った「生水」である。「洗い物にまで生水を使っているようだった」と主婦はいう。統一教会の創始者、文鮮明氏夫妻の写真、集団結婚のスナップなども部屋に飾られた。 ■私の寿命はあと2年  K子さんが屋敷を売って手にした3億余円の現金も莫大なものだが、実はこの金額は、K子さんが相続すべき財産に比べると、ものの数ではなかった。彼女はいまは亡き不動産会社社長の養女であり、社長の実子と遺産分割をめぐって裁判で争っていた。遺産の主なものは、東京・八丁堀の約500平方メートルの土地とビル、名古屋駅前の約260平方メートルの土地とビル、合わせて時価100億円は下らないという。  訴訟関係者たちがL子の存在を不気味に思い始めたのは今年10月になってからである。K子さんは関係者たちに「私はあと2年の寿命しかないとお告げがあった。一刻も早く遺産を分割してほしい」と要求した。その席にはL子も姿をみせ、K子さんにぴったり付き添っていた。  K子さんの訴訟相手である社長の実子はいう。「K子には父名義の会社の株式が、正当な相続分だけ行くでしょう。それが第三者に流れたりすると、わが社の資産に影響してきます」。別の近親者はK子さんがL子を指して、「この人に財産をあげます」といったと話す。  K子さんはさる8月、二階の間借りから、一戸建ちの借家へ引っ越した。家賃は25万円だという。ところが最近変な事態が起きた。K子さん宅の玄関に不動産屋が立ちはだかり、大声で家賃の滞納を責めているのをかなりの人が耳にしている。ではK子さんは自宅を売った金を失ったのだろうか。  K子さんを直接訪ねた。若々しい、上品なおばあさんだった。彼女は「そのお金は銀行の通帳とハンコを親戚にまかせていたら、うんと引き出された。あと税金を払ったらパーでした」といった。L子については「親戚ではなくて、宗救関係の人です。私が動けないから、銀行やら税金やら、回ってくださるだけ」と答えた。宗教については、統一教会とは関係ないといい、何を信じているかという質問には口を閉ざした。  不動産契約破棄同意書にL子が残した住所をたどって川崎市に行った。丘の斜面の高級住宅街に、番地の該当する1軒があった。灯火の暗い家だった。青年が1人出てきて、L子については「私はその人を知らない。しかし帰ってくるかもしれないので、あなたの連絡先を」と戸惑いがちにしゃべった。靴箱の上には大理石の壺、玄関口には男物の靴四足、女物の靴二足が脱ぎすてられていた。原理運動の「ホーム」と呼ばれる家とそっくりの雰囲気だった。 ●事例「神に捧げよ」と父祖の田畑を売るよう迫られて  N子さん(23)は小さいうちに父母を相次いで亡くした。残された父名義の田畑を人に貸して、広い農家にきょうだいと寄り添って暮らしてきた。東日本の山に囲まれた一地方である。  N子さんの体験談によると、「霊感商法」の淵に落ちたのは今年の早春。きっかけは、学生当時の友人からの電話である。 「人生などを学ぶ場」と誘われて、どんな組織かわからぬままにビデオセンターというところへ通い出した。宗教的なビデオを見たあと、先輩たちが真顔で話してくれる霊界の話に、次第に興味をひかれた。「気楽に書いてね」と、アンケートの記入を求められることもあった。趣味などに混じって、さりげなく貯金の額を問う1項目があった。  先輩の中にOさんという素敵な女性がいた。「自分もあんな人のようになりたい」と、あこがれに似た気持ちを抱いた。そのOさんがある日いった。「私の知っている偉い先生が近くに来られるの。すどく忙しい方なんだけど、ぜひ会ってみて」。  連れて行かれた旅館には壺や多宝塔が飾られていた。壺から火の出る、異様な内容のビデオを見せられている間にOさんは一度、奥へ消えた。  N子さんの前に、黒いロングドレス姿の先生が現れた。Oさんが、深くおじぎをするように、とN子さんを促した。いかにも霊能者らしく、きりっとした感じのその先生は、家系図を見てこう告げた。「先祖の因縁のために、あなたは夫に恵まれず、子孫も苦しむことになります」。 「亡くなったお母さんは今、地獄の底で苦しんでいます」。さとすような一言、一言が奇妙に的確にN子さんの心の痛点を射当てた。 「あとで私も壺展などの接待係をやらされるようになって裏側を知りました。最初客にビデオを見せるのは、その間に勧誘者が先生役と相談するためなんです。あの時、消えたOさんは私の性格や家系上の問題、悩みなどについて、『トーカー』と呼ばれる先生役の人に事前説明をしに行っていたんです」  もちろん当時は知る由もない。「因縁を切るには命がけじゃないとできません」という先生の言葉に動揺し、「いいえ、命がけといっても出家をすればいいの。そのために持っている物を全部捨てなさい」という見透かしたような二の句にホッとした。「貯金は?」「全部神に捧げられるわね」。たたみかけて来る迫力に、ついうなずいてしまっていた。結局250万円で大理石の壺2個を買った。金はOさんに渡した。 「この時の『先生』と、何カ月かあとに偶然再会したんです。やはり同じ集団がやっている展示会場で。そこでは彼女は霊能者ではなく、単なる売り子をしていました。あれ? とは思ったけれど、もうその時は私にも裏表があることが大体わかっていたので、特にショックは感じなかったけれど……」と、N子さんは振り返る。  壺展の経験のあともN子さんはビデオセンターに通い続けていた。壺を授かったことをわがことのように喜んでくれたOさんは、相変わらず親切だった。ビデオ課程が一段落すると2泊3日の修練会へと進む。「この段階になって初めて、この宗教が統一教会で、文鮮明師が再臨のメシヤ(救世主)なのだ、聞かされました」。N子さんはそのまま信じ、のめり込む。やがて勤め先に辞表を出し、「ホーム」と呼ばれる信者たちの合宿所に入居した。  Oさんが、この集団内では実は「チャーチマザー」と呼ばれる幹部的立場にあること、印鑑や壺、多宝塔などの販売が仲間内では「経済」とか「TV」という総称で呼びならわされていること、ビデオセンターも含め、すべてが関連し合った大きな網の中に自分がいたことも知った。やがて壺展や高麗人参展の接待係をするように指示されるようになった。  自分が壺を買わされた時は、先生が「ご先祖様に祈って聞いてきます」とおごそかにいい、何度か中座するのを真に受けた。だが、実はタワー室と呼ばれる別室の中で、「先生」は祈るどころかタワー長と呼ばれる上司に客の状況を報告し、説得のための言葉や出させる金額について、お茶を飲みながら相談しているのを目のあたりにした。タワー室には、文鮮明氏夫妻の写真が額に入れて飾ってあった。「神の側へお金を復帰することが緊要だ」との教えを受け入れていたから、経済活動の実態を見ても、もう良心は痛まなかった。Oさんら先輩が、「TV勝利を日本の食口(シック/信者)が果たせなかったから、日航ジャンボ機事故が起きて、乗客が供えものになったのだ」などと真顔で話すのを聞いた。その言葉にさえ抵抗感をあまり覚えない心理になっていた。 ■「土地に悪霊がつく」 「ちょっと話があるの」。ある日、Oさんに呼ばれた。「いまあなたが住んでいる家と土地はどのくらいの広さ? それを神に捧げてほしい。そう神の啓示があったのよ」とOさんはいった。きょうだいは家を出て、N子さんは独り住まいだった。田畑だけでも1ヘクタール以上。家は延べ200平方メートル近くある。迷いが渦巻いたが、「売ることが先祖を喜ばせることでもあり、正しいこと。いつかは皆にもわかってもらえる。ここで自分ががんばらなくては」と自らに言い聞かせた。  しかし、きょうだいたちは父名義の遺産の分割に強く反対した。N子さんは、説得のため何度も電話をかけた。横にはOさんがつきっきり。電話口の向こうの親族の言葉をN子さんが卓上でメモする。それを見て、Oさんが黒衣のように返答を助言するメモをよこした。  N子さんは終始Oさんに親族の状況を報告していた。Oさんはまたそれを「店長」と呼ばれる、グループ内の経済活動の責任者に報告していた。親族の強硬な反対にN子の気持ちがくじけそうになると、「店長」からOさんを介して「勝利しろ」との叱咤が下った。  きょうだいたちを何度か直接訪れもした。一度はトーカーを連れて行ったこともある。トーカーは「土地には因緑が、ひいては悪霊がつく場合もある」などと得意の“霊能”ぶりを発揮したが、そんな理屈が、きょうだいたちに簡単に通用するはずもなかった。  そうこうするうち、きょうだいら親族側が巻き返しに出た。N子さんは逆に説得され、統一教会こそが誤りだ、と考えるに至った。N子さんは晩秋、ホームを抜けた。巨額の献金計画はすんでのところで幻に終わった。 ※朝日ジャーナル1986年12月26日から
【朝日ジャーナル #2】統一教会「霊感商法」の巨大な被害(1986年12月5日号)
【朝日ジャーナル #2】統一教会「霊感商法」の巨大な被害(1986年12月5日号) 朝日ジャーナル1986年12月5日号  安倍晋三元首相銃撃事件を機に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政界の癒着が次々と明るみに出ている。そもそも旧統一教会が話題に上ったのは1980年代。印鑑や壺(つぼ)などを高額な値段で売りつける「霊感商法」が社会問題となった。そのきっかけとなったのが1986年に「朝日ジャーナル」が始めた霊感商法追及キャンペーンだった。「因緑」や「霊能」を説いて印鑑や壺、多宝塔を売っていた体験を持つ人を取材したが、どの人も世界基督教統一神霊協会(統一教会)のかつての会員や信者だった、と自らを語った。当時、問題視された旧統一教会による霊感商法とは、どのようなものだったのか――。ここでは、朝日ジャーナル1986年12月5日号に掲載された記事を紹介する。 ※以下に記載された年齢、所属、肩書きなどは、すべて当時のまま *  *  *  悪運を払ってやると称して壺、多宝塔を売りつける霊感商法の被害がふえている。朝日ジャーナルの調べでは、ここ2年半に1万件、40億円の被害が出た。この数字は82年に国民生活センターが、6年間の被害としてまとめた2600件、17億円をはるかに上回っている。とくに神奈川県の被害額11億円には驚くほかない。被害者たちは「原理運動系の販売員に騙された」と訴えている。県や市による苦情処理にも同一グループと思われる会社が次々引っぱり出されている。 【事例】殉職の夫はああ地獄で30倍の苦しみといわれ  北九州市の未亡人B子さん(60)が3700万円を支払った経緯も、A子さん(前回配信の記事参照)そっくりである。この金額は今回の全国調査であがってきた個人の被害金額としては最高だった。  B子さんにとってこたえたのは、「お宅は絶家の家系です」といわれたことだった。息子の命が危ないといわれた。それは本当かもしれないと、彼女は思った。1977年3月、同市の公務員5人が火事で殉職した。B子さんの夫もその1人だった。夫の非業の最期が、息子の姿に重なってみえた。もうひとつ、彼女が震えあがったことがある。「焼け死んだ人は、霊界で痛みが30倍になる」と聞かされたことだ。 朝日ジャーナル1986年12月5日号  84年7月下旬、B子さん宅を増田都子という女性が訪れ、手相をみた。このとき印鑑を3万円で買った。翌日はA子さんを苦しめた舞台である小倉北区下到津5丁目の霊場に連れて行かれ、「なにかよくわからないうちに」600万円の多宝塔をおしつけられていた。後日、高麗人参一ダース(96万円)も契約した。  84年9月9日、B子さんは4泊5日の韓国旅行に招かれた。連れて行かれたのが多宝塔のある仏国寺である。帰国後、実に荒っぽいことが始まった。電話で霊場に呼び出され、スエマツという中年女性から質問書を渡された。過去に水子がいたかどうか、預金の金額、自宅の名義などを記入して出せというのである。B子さんは「定期4000万円」と書いた。殉職した夫が得た退職金や弔慰金の総額である。 ■お宅は絶家の相です  10月下旬、霊場から迎えがきた。以下B子さんが話すやりとりを記そう。 女の先生:全部出して、裸になって私といっしょに修行しませんか。 B子:それは……。 先生:もう一度お尋ねしてきます。(別室へ退き、やがて戻ってきて)それじゃ3000万円神に捧げてください。 B子:はい。 スエマツ:奥さん、夜泊まりに行ってあげます。それだけの金を出すのは、心身の動揺があるでしょうから。   3000万円を受領した後、先生は「霊薬と壺をあげましょう」といって、「高麗人参343個」「高麗大理石3個」預かりという保管書を発行してくれた。つまりB子さんに3000万円を献金させたあと、人参、壺の正常な売買があったように偽装したのである。  夫の退職金をほとんどはたいたことを息子に知られはしないかとひやひやしながらも、B子さんは相手に勧められるまま、小倉北区三萩野のマンションにある原理関係者出入りのビデオセンターで、キリスト教らしい教えを授けられた。月に一度は教義集会に出た。  息子に知られては困るという心の重圧に負けて、B子さんが北九州市立消費生活センターに現れたのは11月13日である。解約のための苦情申し立てを受けた相談員は、即座に相手に解約を申し入れた。  しかし翌14日、逆転が起きた。B子さんは同センターに電話で苦情取り下げを通告してきたのである。相手方から説得があったことを彼女は認めた。16日から彼女の姿が消えた。20日になって帰宅したのを友人が確認した。B子さんは「京都旅行だった」と釈明している。  【事例】女工哀史の悲運払って元気印になろうとしたが 「ほしくて買ったわけじゃないけど、私も悪かったと思う」とC子さん(65)は、いう。東京都内でひとり暮らし。住み込み管理人をしている。管理する集会所内はよく整頓され、きちょうめんな性格をうかがわせる。慢性肝炎で通院中というが、体験を語る口ぶりの歯切れはよい。壺などの展示場へ連れて行かれたのは83年1月であった。  きっかけは印鑑の訪問販売。姓名判断に興味をひかれて契約をした数日後、女性販売員の再訪を受けた。「印鑑をつくるために、先生に姓名を見てもらう必要がある。先生がそうおっしゃっています」  当日、案内されたのは横浜駅近くのビルの2階だった。入り口で男性が、いんぎんに礼をした。フロアの中央にいくつもの壺、奥には石の塔の置物が飾ってある。つい立てで仕切った四畳半ほどの小部屋が10近くもしつらえてあり、その一部屋に招き入れられた。  奥にC子さん、入り口に近い席に同行した女性販売員が座る。テーブルをはさんだ向かい側に、藤色のラッパ袖のドレスを着た中年女性と、終始宴黙な男性が1人。ラッパ袖の「先生」が質問を始めた。「あなたの親はどういう亡くなり方をしたの?」「お子さんは?」。問われるままに答えた。  東北生まれのC子さんは「口べらし」のため尋常小3年の途中から6年間子守にやられ、製糸女工を経て上京。商家にとつぎ男女の二児をもうけたが、娘は生後25日で病死した。C子さん自身も結核に侵され、まもなく婚家を追い出された。前夫はその後死んだ。古典的な女工哀史の世界を生きた人である。  聞いていた先生は、因縁や霊などの言葉をしきりに使い、「仏様があなたを頼りにしている」と説き始めた。補佐役の男性が白とピンクの壺を運び込んだ。「赤ん坊があの世で随分難儀している。このお壺を受けて毎日赤ちゃんだと思って磨けば供養になります」。これは100万円、こっちのピンク壺が150万円だ、と説明した。 ■孫まで苦しみますよ  途中、先生は席を立った。隣の販売員も中座することがあった。先生は10分ほどで戻って来た。「今拝んできましたが、あなたの別れた亡夫の霊が出て『悪かった。愛していたのだが。許してくれ』と言っています」などと供養を迫った。夕方までには帰れるだろうと思って出て来たが、夜に入った。集会所の留守が心配になってくるが、「何か悪いことをして警察で調べられているような、そんな感じ」にさせられ、電話をかけたいと言い出すきっかけすらつかめない。  子や孫の話も出された。婚家を追われた後すぐ、後妻が入ったが、長男と会いたい一心で校門で待ったこともある。成長した長男にできた孫娘に「よそのおばさん」として会う辛い時期も長かった半生だ。 「先生」は言い放った。「あなたのお孫さんまで、あなたと同じような苦しみを持ってこの世を生きていかねばならなくなりますよ」。C子さんは、100万円の壺を買った。  3カ月後、今度は五反田の展示場に呼び出され、別の「先生」に高麗人参濃縮液を勧められた。C子さんは結核で肋骨が5本ない。「どのくらい飲んだら」と聞くと「80本」との答え。1本が8万円だから、大金だ。「とても」と言うと「半分でどうか」とセリのように本数を下げた。結局25本を買うことになった。午後2時ごろに家を出て、今度も帰宅したのは夜9時ごろになっていた。 「私は豊田商事から金500グラムを139万円で買わされたことがある。でも豊田商事の人は『買っとくとトクですよ』って言うだけで、あんなに強引な感じはしなかった。金もとにかく残ったしね」。とうてい飲みきれない人参液と、無用の壺をもてあました末、最近、「ねらわれる消費者」特集を組んだ区報を見て、区の生活センターを初めて訪れた。  C子さんの買い物は印鑑を別にして、壺と人参液で計300万円。他の人のケースに比べれば多額とはいえない。しかし、住み込み管理人としてC子さんが毎月受け取る給与は、6万円だ。 ※朝日ジャーナル1986年12月5日号から
90歳で「元気ハツラツ!」大村崑に学ぶ“キレるカラダ”筋トレ法
90歳で「元気ハツラツ!」大村崑に学ぶ“キレるカラダ”筋トレ法 全国で筋トレの効能を説く大村崑さん  テレビをつければ肉体自慢のアイドルやタレントがずらり。いま空前の筋トレブームがきています。私なんて関係ないと思っているあなた、実は中高年こそ筋トレが必要なんです。筋肉は裏切りません。さあ、いまから始めよう! *  *  * 「ジムでは毎週2回、2時間ずつトレーナーについて運動。それでももっと筋トレがしたくてしたくて(笑)。家でもできるメニューを作って、毎日決まった時間に1~2時間はこなしています」  そう話すのは、「うれしいとメガネが落ちるんです」や「元気ハツラツ!オロナミンC」などのCMで、昭和の子どもたちのアイドルだったあの人。はたまたサスペンスドラマ「赤い霊柩車」で、良恵(山村紅葉)と繰り広げる「一級葬祭ディレクター」役のコントが冴えているあの人。そう、芸人の大村崑さんだ。  一度始めた運動がやみつきになってしまう中高年は意外に多いが、大村さんの場合、御年90。今では、自身が通っているトレーニングジム「ライザップ」の広告に登場するなど、“シニア筋トレアイドル”としての地位を固めつつある。  著書『崑ちゃん90歳 今が一番、健康です!』などに紹介されているトレーニング風景を見てみると、そうして2年以上鍛え上げたその肉体は、まさしく筋骨隆々。いったいどんな筋トレメニューをこなしてきたのか。  レクチャーをお願いする前に、まずは大村さんが86歳だった4年前、筋トレを始めるようになった経緯を聞いてみた。 「実はその前から妻に、とある隠し事をしていまして……」  芸能人の“隠し事”といえば、すわ色恋沙汰か?と思いきや、何と「ぽっこりおなか」だった。 「ある日妻とジーンズを買いに行ったら、ウエストが1メートルを超えているのがバレまして……。それまではスタッフに、妻が買ってきたジーンズのウエストにこっそり切り込みを入れてもらってはいてたんです」  真のウエストサイズに驚いた妻はジーンズも買わずに夫を家に連れて帰り、「パソコンをたたいて近所のライザップを見つけ、はい、じゃあここに行きましょうって(笑)」。 週刊朝日 2022年9月2日号より  若いときに病気で片肺を切除している大村さんは、キャッチフレーズの「元気ハツラツ!」とは対照的に、実は虚弱体質。もちろん筋トレとも無縁の人生を送ってきた。 「行きたくないと抵抗したものの、半ば強制的に『一緒にやりましょう』と妻に連れていかれたのが、僕の筋トレ人生の始まりでした、はい」  万が一、思ったようにおなかがヘコまなかったら「全額返します」というセールストークも財布のひもがカタい関西人の心に刺さり、半信半疑で筋トレを始めたという。  それから4年半、今も週2回のライザップ通いを続け、トレーナーと2時間近く体を動かす。筋トレの沼にどっぷりつかった大村さんはこれだけでは物足りず、ほかの5日間も(1)スクワット(2)ドローイン(3)肩甲骨引き寄せ(4)もも上げの4種目を毎日1時間15分かけておこなっているそうだ。  なかでも一番重要視しているのがスクワットだ。どこへ行ってもスクワットを薦めるので、“スクワットの崑ちゃん”と呼ばれることも。 「テレビを見てて、CMの時間になったら、筋トレをやりなさいと言うんですよ。短時間で10回でもスクワットをやったら全然違いますから。まず大事なことは、僕の中には、ああしんど!と諦めようとする自分と、もうちょっとできるかも?と励ます自分の2人がいるということです。諦める自分の言うことばかり聞いててはダメ。もう一人の自分に励まされて、プラス1回、2回と追加すると、その分が筋肉になっていく感覚ですね」  こうして筋トレを始めてからの肉体の変化は、枚挙にいとまがない。以前は背中は丸まり、歩幅10センチのザ・老人だった身体は、まるで別人に。健康年齢は55歳だという。 「何がいいって、年寄りの日常茶飯事である、コケることがないんです。大股でかかとから歩くようになったから、ひっくり返ったりしない。僕の場合、長年冷え性だったのに、代謝がよくなったのか暑がりに変身したというのもありますね」 谷本道哉さん  筆者にも心当たりがあるが、中高年になると人の名前は覚えられなくなるわ、離して本を読むのに自分の腕の長さだけでは足りないわ、食べ放題で元は取れないわと、身体機能は低下だらけ。一方、筋肉だけはちょっと違う。何歳になっても鍛えれば鍛えるほど、ちゃんと増える。「筋肉は裏切らない」は、いくつになっても真なのだ。  老化の速度は緩められても元には戻せないという言葉を聞くが、「筋肉は鍛え方次第では、70代、80代、90代……本当に何歳からでも巻き戻せる。適切なトレーニングで、何歳からでも筋肉量を増やし、筋力をアップさせることは可能です」と、順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授で、筋肉ブームの立役者でもある谷本道哉さんが言う。 「筋肉などの運動器は、環境的変化の幅が広いですよね。例えば療養中で寝たきりの方など、ほとんど運動器に力は加わりません。反対に運動をすればすごく強い力が加わることもある。そうした幅広い刺激にさらされる運動器は、とても適応能力が高い。だから年齢にかかわらず、鍛えれば増やすことができるのではないでしょうか」  筋肉は普通にしていたら年齢とともに減ることがわかっている。例えば落ちやすい太もも前の筋肉では80代で20代の半分程度になってしまうことも。若い人から火が付いた筋トレブームだが、中高年こそ必要なのだ。  そこで中高年にとっての筋トレの注意点を、改めて大村さんに聞いた。 「何かの弾みでケガをしては筋トレが楽しめなくなってしまう。コケないよう注意が必要ですね。あと筋トレは、スケジュールなしで、むやみやたらにやるもんと違います。毎日時間を決めて、生活の一部にすれば、逃げるに逃げられなくなって、続くと思いますよ」  大村さんの場合、朝決まった時間に風呂に入って頭を洗い、ヒゲも剃(そ)ったところで、着替えて筋トレを開始。用事でできない日もあるが、そういうときは「本当に身体が気持ち悪い」そうだ。  谷本さんは「筋トレをしていると、どこかのポイントで痛みを感じることがあると思います。そういうときは無理して痛いことはしない。ただ、痛いからやめるのではなくて、痛くない範囲で動けばいい。筋トレそのものは続けてほしいですね」とアドバイス。  なお大村さんの場合は、自分の体調によって、苦しさの波があると感じている。 「身体の調子が悪いと筋トレは苦しい。無理してやらず、睡眠が足りないとか食事が偏っているとか、原因が何かを見つけて元を絶つ。そうすればすぐに元のレベルに戻れますよ」(大村さん)  ところで大村さんとともに4年前、ジム通いを始めたという妻はどうなったのだろう。 「僕よりハマってますよ。妻の場合は週4回通ってますから」  やればやるほどご褒美をくれる裏切らない筋肉に、託してみますか?(ライター・福光恵)※週刊朝日  2022年9月2日号
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと 里英さんは「ただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」と話す。写真はイメージ(PIXTA) ひとつ屋根の下に同居していても、夫と妻で「見えている景色」が違うことは少なくない。大阪府に住む小柴さん夫婦も、さまざまな「すれ違い」が重なって離婚危機にまで至った過去がある。「前編」では、夫の孝雄さんが妻の親に「DV」だと言われ子どもを連れ去られそうになったが、それがいかに誤解だったかという夫側の主張を聞いた。「後編」では、妻の側からなぜ夫への不満がふくらんでいったのか、どのような行為が「DV騒動」へとつながっていったのかをインタビューした。 *  *  *「夫は天才肌で、考え方がちょっと独特なんです。世間一般の常識とは違うけれども、話を聞けば筋が一本通っている。私は自分の意志が弱く優柔不断なほうなので、私にはないものを持っているところに惹かれて一緒になりました」  小柴里英さん(仮名・25歳)は、保育士として働きながら1歳半の子どもを育てる母親だ。「前編」で紹介した孝雄さん(仮名・41歳)の妻で、夫とは離婚危機がありながらも今も一緒に暮らしている。  里英さんは新潟県で生まれ育ち、進学を機に上京。卒業後はそのまま東京で、保育士として働いていた。後の夫となる孝雄さんとはオンラインゲームを通して知り合った。その当時、里英さんは東京で知り合った彼氏と同棲中だったがあまり関係がうまくいっておらず、その寂しさを埋めるようにゲームに逃げ込んでいたという。 「チャット機能で夫と話すようになり、年上で頼りになるなと思っていろいろ相談していました。当時、仕事も恋愛も親との関係もうまくいっていなくて、精神的に行き詰まっていたんです」  里英さんの両親は、里英さんが高校3年生のときに母親が家を出る形で離婚していた。けんかばかりの姿を見ていたので、破綻したこと自体に驚きはなかった。だが、親に甘えられない子ども時代を過ごしてきたことで、離婚後はよりいっそう親と心の距離ができてしまっていた。 「一度上京したからには、もう親には頼れないと思い込んでいたんです。彼氏とうまくいかなくなってからは、本当はいったん実家に戻りたかったんですけど、そのころ父親は新しい女性と一緒に暮らし始めていたので、遠慮していました」  そんな里英さんの話を聞いて、孝雄さんは的確なアドバイスをくれた。「体調を崩しているなら彼氏とは今すぐ別れた方がいい」、「お父さんは大丈夫、受け入れてくれるから頼ればいい」。里英さんが行動するための具体的なプランも示してくれた。 「夫の言うとおりに行動してみたら、いろいろなことがうまくいったんです。すごいなあ、って一気に信頼が高まりました。でも当時はまだ恋愛感情はなくて、恩人みたいに感じていました」  里英さんはいったん新潟に戻り、父親とその彼女の助けを得ながら、しばらく祖母宅で過ごした。親との関係が取り戻せたことはよかったが、居候の身としては居心地がよくなかった。自分自身の力で、人生をやり直したいと思った。新潟ではない、別の場所で。 「そのとき、思い浮かんだのが夫の住む大阪だったんです。私は保育士なので、そこそこの規模の都市であれば、どこでも就職先は見つかる。夫に相談したら『いいんじゃない?』と言ってくれました。大阪には土地勘がないので、いろいろアドバイスしてくれて、引っ越しの際にはお金まで出してくれました。そうですね、その頃にははっきりと恋愛感情が生まれていました」  孝雄さんには、同居する元妻と子どもがいることも知っていた。 「うちの家庭も複雑だし、そのことはそれほど気になりませんでした。夫の年齢からしても、過去がいろいろあるのは当然だろうな、と」  とはいえ、彼女という立場になってからは、やはりおもしろくはない。里英さん自身、気づかないうちに不満がたまっていった。それが態度や言葉の端々に出た、ような気がする。けんかや言い合いが増え、里英さんは「大阪なんか、来るんじゃなかった」と言った。その言葉に、孝雄さんはひどく腹を立て里英さんを叱った。里英さんは、謝らなかった。我慢しているのは自分の方なのに、という思いもあった。  そんな時、孝雄さんが元妻との同居を解消し、里英さんの部屋に転がり込んできた。もともと孝雄さんが借りてくれた部屋だから、もちろん異論はない。そうこうしているうちに、妊娠していることがわかった。 「私は保育士だし、子どもは大好き。まだ籍は入れていなかったけれど、素直にうれしかったです」  生まれてみたら、子どもはかわいかったが、新生児の子育ては想像以上に大変だった。とにかく寝ない、泣きやまない。新米ママなら、誰もが経験する壁に里英さんもぶち当たっていた。  悔しかったのは、孝雄さんのほうが子どもの世話に慣れていたこと。里英さんが抱っこしても泣きやまないのに、孝雄さんが抱くとすんなり泣きやむことが続いた。母親なのに! 保育士なのに! 里英さんのプライドはズタズタになった。だから、孝雄さんのアドバイスは無視した。 「こんなときはこうしろとか、うるさくて。子育てを手伝ってくれるのはありがたいことだし、内心、夫の言うことが正しいとわかっていても、それを認めたくなかった。『私は私のやり方でやる!』と言い張ってしまいました」  筆者も里英さんの気持ちはよくわかる。女性として、母親として花をもたせてほしいのだ。でも、その気持ちは、正論で押してくる孝雄さんには伝わらない。 「実家に電話をかけて、つい愚痴ってしまいました。こんなこと言われた、あんなこと言われたと洗いざらい話したら、父親と彼女が『それ、モラハラだよ、DVだよ』と。味方になってくれたのがうれしくて、どんどん夫を悪く言うようになってしまったんです」  内心では「DVではない」とわかっていた。でも、DVということにしておけば、父親と彼女は自分の味方をしてくれる。何なら、子どもを連れて新潟に帰ってこいとまで言ってくれる。その話に乗るのも悪くない、と思った。 「そのときは夫と別れてもいいや、と思っていました」  里英さんの思惑以上に父親と彼女がヒートアップして、予定していた日より早く実力行使に出たのは想定外だった。父親と彼女が「今夜行く!」と言い出し上京してきて、里英さんと子どもを連れ帰ろうとしたことが、警察を呼ぶ騒ぎになった。 「バタバタと警察がやってきて、すごく怖かった。警察が帰った後、夫に『里英がやろうとしていたことは有害だ、犯罪だ』と言われたのはショックでした。私はただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」  里英さんは、子どものためにも、家族3人でやっていこうと思い直した。そして、夫に促されるがまま「DVをでっちあげようとしていたこと」を謝罪した。  里英さんが「初めて」謝ったことで、孝雄さんは里英さんを許した。家族3人で再出発。いま、里英さんは二人目を妊娠中である。  もちろん、孝雄さんの主張がすべて正しいわけでもないだろうし、里英さんがすべて間違っていたということもないはずだ。それでも、夫婦は「これでいい」とお互いに落としどころを見つけて前に進んだ。「正しさ」ばかりを追求しないことも、夫婦関係を続ける上では大切なのかもしれない。(上條まゆみ)

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