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天龍さんが語る“稽古・トレーニング” 泥酔のアニマル浜口を怒鳴りつけた人物とは?
天龍さんが語る“稽古・トレーニング” 泥酔のアニマル浜口を怒鳴りつけた人物とは? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「稽古・トレーニング」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。 * * *  相撲時代の稽古といえば四股と鉄砲だ。俺が二所ノ関部屋に入ったときは13歳で、親方が「子どもでまだ骨格ができていないから」と、入門してから半年は四股と鉄砲ばかりやらされていたね。その頃の兄弟子はみんな17~18歳だったから、13歳の俺が一緒に稽古したら、ケガをしてしまう可能性が高いと踏んだんだろうな。  入門前の夏休みに二所ノ関部屋に稽古見学に行ったとき、序二段くらいの先輩を見て「こんなのには負けないだろう」と思っていてね。そうしたら「あんちゃん、ちょっとやってみるか?」と言われて、まわしをつけて土俵に上がったら、0コンマ数秒でバーンと羽目板まで投げられちゃった。  俺は地元の村相撲じゃあ負けなしだったけど、ここでは部屋で一番下の力士より弱いんだからまいったよ。俺を投げたその人だって、番付は結局序二段止まりだったからね。こりゃあ大変だと思ったよ。親方は当時としては先進的な考え方をする人で、今思えば先にからだをしっかり作らせようというその判断は俺にとってよかったと思う。  半年間、みっちり四股と鉄砲でからだを作ってから、兄弟子たちに混ざって、土俵で相撲をとる“申し合い”をするようになったけど、そのときは調子よかったよ。まあ、部屋の中でも強い部類に入っていたんじゃないか。朝の4時から6時まで、当時は部屋に60人くらいいたから、みんなで入れ替わり立ち代わりで相撲を取るんだ。その頃に親方が言っていたのは「強いやつと数を切ってやれ」ということ。  弱いやつと20~30番やるよりも、強いやつと15番なら15番と決めて、しっかり稽古した方が強くなるということだね。親方はことさら俺と金剛に目をかけてくれていて、大鵬さんたちの稽古が終わると「よし、嶋田(俺)と吉沢(金剛)は三番稽古だ」と言われてね。これがキツイ。当時の俺は14歳で金剛は17歳かな。その年だと体格差があるうえに、俺の方が入門は早いもんだから、負けようものならほかの兄弟子から「この野郎、新弟子なんかに負けやがって!」って、ケツを叩かれたりね。それが嫌で全体の稽古が終わると裸足で浜町のあたりまで逃げていったもんだ(笑)。 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)■新シリーズ『WRESTLE AND ROMANCE』vol.6 /2022年9月4日(日)GONG12:00/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/前売りチケット※当日券は500円UP▽特別リングサイド6,500円・指定席5,500円/天龍project…https://www.tenryuproject.jp/product/531 配信はhttps://tenryuproject.zaiko.io/item/3472  この同じ力士と延々1時間とか1時間半やる三番稽古がキツかったけど、一番キツイのはやっぱり“かわいがり”だね。これは稽古じゃないか(笑)。周りで見ている関取衆から「この野郎!」「負けやがって!」「のぼせるな!」と怒声がひっきりなしに飛び交う。コーチ役で部屋についている親方も「この野郎、力抜きやがって!」と言っては、バット、竹刀、ほうきとか、棒状のものでとにかく殴る。たぶん、フランスパンがあったらそれでも殴っていたと思うよ(笑)。さすがに相撲部屋にフランスパンは無かったけど。  そんな二所ノ関部屋の中でも特に稽古熱心だったのは、関脇までいった麒麟児だ。彼は俺の弟弟子でからだも小さくてね。いつもコツコツ稽古をしていた。そんな一生懸命な彼を見て俺たちは「なに無駄なことを頑張っているんだ」なんてからかっていたけど、あれよあれよと番付が上がって関脇になったからね。いやあ、稽古は嘘をつかいないよ。  これはよく思うんだが、相撲に入ったとき俺は周りから「横綱、大関になれる」と言われ、俺を相撲に誘った後援者の親戚縁者に東京でステーキをおごってもらったりとちやほやされていて、13歳にして有頂天になっていたんだ。だから大鵬さんのいる二所ノ関部屋に「入ってやった」という思いがあったんだよね。相撲からプロレスに転向したときのように一生懸命練習をしていたら、俺の相撲人生ももっと変わったものになっていたんだろうなと、今になってつくづく思うよ……。  プロレスに転向してからは、それまでしていなかったウエイトトレーニングもするようになった。ショックだったのは、チャック・ウィルソンがコーチをしている「クラーク・ハッチ」というジムで初めてベンチプレスをやったとき、60キロが上がらなかったことだ! チャックはいいからだをしているし、相撲も好きで俺のことも知っていたから余計に悔しかったね。相撲とは筋肉のつけ方が違うんだとつくづく実感したよ。  それからアメリカを行ったり来たりして、ジムの器具でのトレーニングを見よう見まねで覚えてからだを作るようになったんだ。ただ、当時の全日本プロレスは、マシーントレーニングは邪道とは言わないけど、好ましくないものとされていた。ジャイアント馬場さんもジャンボ鶴田も、走ったり、野球やバスケットボールでナチュラルに使える筋肉をよしとするような風潮があったからね。だから全日本の道場にトレーニング器具は多少はあったけど、どれも使った形跡がなくてほとんど錆びついていたよ。  それから俺がマシーントレーニングをするようになって、ようやく他のレスラーも始めるようになった。俺の下の世代の小橋(健太)とか川田(利明)は、いいからだをしているだろう。全日本がウエイトトレーニングをするようになったのは俺がきっかけなんだ。とはいえ、馬場さんが亡くなってから知ったんだけど、自宅マンションの地下にはトレーニングマシーンがあって、ホテルのジムでもトレーニングしていたんだって! そりゃそうだよね。じゃなきゃあのからだとコンディションは保てないもんね。  プロレスラーのトレーニングと言えばスクワットだって? たしかにスクワットは心身の鍛錬になる。同じ動作を延々と繰り返しながら、頭ではいろいろなことを考え、自分の気持ちや今後のことなどを整理するのに大切なトレーニングだ。ところが俺は「相撲で13年間四股を踏んでいたからスクワットなんてちゃんちゃらおかしい」とやらなかった(苦笑)。もう少し、やっておくべきだったかな……。  プロレスはテレビで見たことしか知らなかったから、スクワットもそうだけど、腹筋やブリッジ、首の運動など、あんなに練習しているとは思ってもみなかった。テレビで見たような試合の動きをなんとなくやればいいんだろうって思っていたからね。特にブリッジは壁から30センチくらいの場所に背を向けて立って、そこから後ろ向きに壁に手をはわせて徐々にブリッジをして、壁に鼻がつくまでやらないといけない。これが大変だったね。アメリカに行ったときに数カ月かけてようやくできるようになった。アメリカ時代はそれだけ暇だったと言えるが(笑)。  アメリカでは、プロレスが下手だと試合を組んでもらえないし、下手なヤツを出すとサーキットで稼ぎに来ているレスラーの食い扶持が減るからね。そこはシビアだし、トレーニングしてくれたドリー・ファンクもそこまでは面倒を見てくれない。プロレスは練習で技を何度も食らって、自分のからだで会得するしかないから、とにかく数をこなすことだ。ボディスラムもバックドロップもなんでも受けながら覚える。  だから、プロレスラーは歳を取るとからだにガタがくるんだよね……。特に頸椎、腰椎、足首。若いころはゆるんだ関節を筋肉でカバーできていたけど、筋肉が落ちてくるとどうしようもない。今、俺も自由がきかないからだになって、ハードなプロレスをやってきたんだなとつくづく思うよ。若いころは試合が終わってすぐに「さあ、飲みに行くぞ」と街に繰り出していたけど、あのとき少しでもアイシングしたり、なにかしらケアをしておけば……と思わなくもないなぁ。  プロレスラーで練習熱心だったのは小橋や大仁田厚が思い浮かぶが、一番はなんといってもアニマル浜口さんだ。しかも変わったトレーニングをするよね。朝起きたら太陽に向かって大声を出して気を吐いて、大声で笑うのは健康にいいって。「わっはっは!」とあの笑い方だろう。自分にとっていいと思ったものは積極的に取り入れるし、自分に正直に、まっすぐ生きている人だね。 “面白い元気なおじさん”という印象が強い一方で、浜さんは実はとてもシビアで厳しい人でもある。プロレス界では浜さんの怖さは有名で、特に物事に対して短絡的な考え方をしているとすぐに雷が落ちる。自分の「アニマル浜口ジム」でも若い人たちに生き方を間違わないように厳しく指導して、礼儀作法をしっかり身に着けさせている。プロレス界では「アニマル浜口ジム出身」というだけで一目置かれるんだ。浜さんからやかましくしつけられているからね。そんな厳しい浜さんも、奥さんの初枝さんは怖いらしい(笑)。  俺と浜さんが一緒に飲んでベロベロになってタクシーで浜さんの家まで送ったら、浜さんがまだ「源ちゃん、もう一軒行くぞ~」なんて言っているんだ。そこへ初枝さんが来て「浜口! しっかりしないさい!」と言うと、「はい!」って急にシャッキリしだすんだよ。浜さんも奥さんがちゃんと見守ってくれているという安心感があるからベロベロになるまで飲めたんだろうね。俺も女房がそうだったから、気持ちはよく分かるよ(笑)。いやぁ、プロレスラーにはしっかり者の女房が必要だね。プロレスラーだけじゃなく、奥さんがいる人は、たとえ尻に敷かれても怖くても、俺と浜さんのように奥さんを大切にするんだぞ! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
ベトナムで起業する夫に「私もベトナムに行く」 正反対でも公私ともに最高のパートナー
ベトナムで起業する夫に「私もベトナムに行く」 正反対でも公私ともに最高のパートナー 夫・安倉宏明さんと妻・安倉みぎわさん(撮影/谷本結利)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年8月29号では、ICONIC取締役の安倉みぎわさん、ICONIC代表取締役の安倉宏明さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫27歳、妻26歳で結婚。長男(11)、長女(9)、次男(6)とホーチミンで5人暮らし。 【出会いは?】新卒で入社した会社の同期として。内定時から気が合って連絡を取り合い、入社後は同じ事業部に配属された。 【結婚までの道のりは?】起業を志していた夫が事業を起こす場所をベトナムと決め、ウガンダで勤務していた妻にそれを告げると、その場で「私もベトナムに行く」と答えた。 【家事や家計の分担は?】平日の家事はお手伝いさんが担い、週末の家事は妻がタスクを指示し夫がサポート。家計は夫が管理。 妻 安倉みぎわ[41]ICONIC取締役 やすくら・みぎわ◆1981年、北海道生まれ。横浜国立大学卒業後、ベンチャー・リンクを経て、2006年に青年海外協力隊としてウガンダに渡り人材需要調査に従事。07年から三井住友銀行ホーチミン支店で法人営業を担当し、10年から現職  子どものころからずっとあこがれていたアフリカ、念願かなってウガンダで働き始めたころに、突然彼から「ベトナムで起業する」と言われて、契約期間が終わったら一緒に行くと、迷うことなく答えました。急成長を遂げている国で、パートナーと一緒に暮らし、働くことで、新しい人生が始まりそうでとてもワクワクしたんです。  夫はいつも自信に満ちていて、常に前進しようとする人です。彼の会社の一員になってからは、いきなり新事業の立ち上げを命じられるなど無理難題を押し付けられてばかり。それでも、「絶対にできるよ」という彼のペースに巻き込まれ、その期待に必死に応えようとしてきたことで、新しいキャリアを築くことができました。  今は東南アジアでのニーズに応えていくことで精いっぱいですが、いつか私の手で事業をアフリカに拡大したい。もう一度、大好きなアフリカに渡って、私たちのビジネスで現地に貢献する日を夢見ています。 夫・安倉宏明さんと妻・安倉みぎわさん(撮影/谷本結利) 夫 安倉宏明[42]ICONIC代表取締役 やすくら・ひろあき◆1980年、新潟県生まれ。関西学院大学を卒業後、ベンチャー・リンクで中堅中小企業コンサルティングに従事、2007年にベトナムに渡り現地企業に勤務。08年にホーチミンで人材紹介サービスを手がけるICONICを創業 「家庭を持ったら自由がなくなって、人生をコントロールするのも難しくなるんだろう」と思っていたので、結婚や子どもを持つことにまったく興味を持てませんでした。でも彼女のように自立した女性であれば、ずっと対等な立場で支え合えると思って結婚を決めました。思った通り、夫婦になってからも、3人の子どもたちをもうけてからも一度も窮屈さを感じたことはなく、年齢を重ねるほどに人生が豊かに彩られていくのを感じています。  ベトナムでの事業が軌道に乗り始めて、右腕となる優秀な幹部候補を採用したいと思ったとき、真っ先に思い浮かんだのは妻でした。分析や洞察力にすぐれ、合理的に物事を判断でき、他者の役に立つことに純粋に喜びを感じられる彼女は、どんなに時間と費用をかけて探してもなかなか出会えないハイレベル人材です。僕とはまったく正反対のタイプだけれど、いつも同じ方向を向いて同じビジョンを共有できる。公私ともに最高のパートナーです。 (構成・森田悦子) ※AERA 2022年8月29日号
不幸が人気の秘密になる? お金で替えない経験が役に立つYouTubeの世界
不幸が人気の秘密になる? お金で替えない経験が役に立つYouTubeの世界  半年以上前に放送されたテレビ番組での、ある発言が話題になっています。格差を解決する案として起業家の平原依文氏が提案した「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」というアイデアです。  彼女は幼いころから複数の国に留学し、早稲田大学国際教養学部を卒業後、外資系企業に入社したのちに起業しています。彼女の語る「経験」は、親の財力が成せたことであり、「格差を拡大させてしまうのではないか」と今になってTwitterで炎上しました。番組内でも、イェール大学助教授の成田悠輔氏が、経験重視の入学試験を実施しているアメリカでは、高校生のときに大学入試で有利になる経験をするために2週間で100万円ほどのパッケージツアーに参加したり、NPOや会社をつくるなどの事態が起こっていると指摘しました。  デジタル庁統括官の楠正憲氏は、学歴はその世代で勉強を頑張れば誰しもチャンスがあって公平だが、どんな経験を積めるかは時代によって不均衡であると述べています。AO入試や新卒採用で評価される「経験」の中には、札束で手に入るものもあるが、虚心坦懐に世界を眺めれば実家が太くなくてものし上がる機会はある、とも発信しました。Twitter内でも、実家がお金持ちの子たちしか有益な経験はできないという論調です。「有益な経験はお金で買うもの」という風潮に対して、一線を画す意見を述べられる存在は、YouTuberだと考えます。なぜなら、YouTubeでウケる経験は、お金で買えない類のものだからです。楠正憲氏の述べるところの「実家が太くなくてものし上がる機会」の一つは、YouTubeだと思います。  YouTuberのバックボーンや経歴は、普通の企業の採用の履歴書では「映えない経験」であることが少なくありません。不登校やいじめの経験、親との確執や貧困など、何かしらの問題を抱えている人が成功する場所でもあります。恵まれた人や、現状に満足している人は、YouTubeを必死に頑張れなこともあります。  私も、結婚してすぐに主人の事業がうまくいかなくなり、友達もいない福岡で生後半年の子供を抱えながら、何かしらお金を稼がなければならなかったためにYouTubeを本格的に頑張りました。主人の事業がうまくいっていたら、YouTubeを始めることはありませんでした。「旦那の事業がコケる」「収入が10分の1になる」という経験は、お金で買ったものではありませんが、人生に大きく影響を与えました。  他のYouTuberやインスタグラマーなどのインフルエンサーも、「子供に障害がある」「複数の子供を育てるシングルマザーである」「ブラック企業に勤めている」などのお金で買えない経験がきっかけとなって事業をスタートしている人が少なくありません。現状を改善しなければならない状況があるからこそ、成功した部分もあるのでしょう。  さらに短絡的な話をすると、YouTubeには「不幸系」というジャンルがあります。父子家庭の女子高生やブラック企業に勤めるOLなどの「少し不幸な人」がお弁当を作ったり日常をアップしたりするジャンルです。配偶者に浮気されたというジャンルは、ブログやTwitterでも「サレ夫」「サレ妻」などのワードでアクセス数が多いジャンルです。義理の実家の人にいじめられている、などの属性もアクセスを集めています。これは、「人がひどい目にあっているところを見たい」という本能的なインサイトに起因するものなのかもしれません。  エンタメは、「演者がひどい目にあっている」方がウケます。バラエティー番組でも、路線バスを乗り継ぐ旅や、辛いものを食べきれるかの挑戦など、人がつらい目にあっている番組は人気です。YouTubeも同じ原理で、「実家が太くて高学歴で、多くの国に留学した経験のある起業家の日常」よりも、「実家が貧しくてお金がないから段ボールの家を自作する」ような企画の方がウケます。成功した話よりも失敗した話の方が良く、騙された経験やうまくいかなかった経験の方が再生されます。低収入や低学歴や過酷な環境という一般的にはマイナスな性質が、YouTubeではプラスに転じるのです。  以上のことを鑑みると、YouTuberになるのに必要な経験は、お金で買える類のものではないと言えます。「履歴書に映える経験」はお金で買えるものもありますが、「YouTubeで映える経験」はお金では買えない(お金を払っても買いたくない)類のものと言えます。人生で起こる経験は、いつどのように役に立つのかはわかりません。あまりにも不幸な経験を持っているのなら、それをブログやYouTubeやTwitterで発信して「ネタ化」すると、多くの人を惹きつけたり元気づける可能性もあります。経験は、人それぞれですが、インフルエンサーの意見としては、本当に必要なのは、経験自体よりも経験を生かす能力だと考えます。
二人の娘を持つシングルファーザーの台湾人出稼ぎ労働者に写る「家父長制」の名残 写真家・馬場さおり
二人の娘を持つシングルファーザーの台湾人出稼ぎ労働者に写る「家父長制」の名残 写真家・馬場さおり 撮影:馬場さおり *   *   * 台湾に拠点を活動する写真家・馬場さおりさんはある出稼ぎ労働者の生活に密着した。男の名は彭志維(ポン・ツー・ウェイ)。バツイチで、2人の娘を実家に預けて働いていた。  馬場さんはよく彭さんが「面子」という言葉を口にするのを耳にした。 「台湾にも『面子(メンズウ)』という言葉があるんです。男としてのプライド。それが彼のアイデンティティーの大きな部分を占めていた。それが消えてしまうと、彼自身がなくなってしまうんじゃないかって、本当に思いました」  父親は一家の中心であり、家庭を支えなければならない。そんな家父長制的な考えがいまも台湾では根強いという。 「彭志維は『ぼくは家の大黒柱。だから頑張る』と言って、本当に無理をして働いていた。体のことを考えると、そんな状態をずっと続けられるとは思えないんですが、先のことなんか、全然考えていないんです。娘たちのためにいっぱい働いて、1円でも多く稼ぎたい。そんな気持ちでギリギリの生活をしていた」  稼いで家族を養わなければならないというプレッシャー。彭さんはそのイライラをたびたび周囲にまき散らした。  戦後、日本では家父長制がほころび、さまざまなライフスタイルが尊重される世の中になった。 「でも、本当に多様性が尊重されるならば、彼のような生き方は否定できないと思う。いまの日本ではお父さんが『自分は家長で、家の大黒柱』と思っていたとしても、なかなか口に出しづらい雰囲気がある。でも、彼はそれをはっきりと言うんです。それが台湾の男性の一般的な考え方だと思います」 撮影:馬場さおり ■出合いはエビ釣りでビール  馬場さんは昨年1月から助理教授(博士の学位を持つ講師)として台南應用科技大学で写真やジェンダー学を教えている。  彭さんと出会いを尋ねると、なぜか「私、台湾でエビ釣りにはまっているんです」と返ってきた。  あまりにも脈絡のない返事に「エビ釣りって、あのエビを釣るんですか?」と聞き返した。だが、馬場さんは、こう続けた。 「私はお酒がすごく好きなんですけど、台湾の人って、飲まないんですよ……」  台南で酒を楽しめる場所は少なく、特に馬場さんが住む大学の周辺ではバーなどは皆無だった。 「唯一、お酒が飲める場所、それがたまたま見つけたエビの釣り堀だったんです」  釣るのは30センチほどの手長エビ。プールのような釣り堀には日本の居酒屋で使われるような本格的な焼き機も置かれ、釣ったエビをその場で焼いて食べられる。 「釣り堀には全然観光客がいなくて、来るのは地元の人だけ。そこでビールを飲みながらエビを釣るんです。そんな日本人いないですよね。しかも女の人で。ははは。彭さんとはそこで会いました。たまたま隣で釣っていた」 撮影:馬場さおり  釣りをしていると、周囲の人から声をかけられるという。要するに「教え魔」だ。 「えさのつけ方がなってないとか、こっちに糸を垂らせとか、いろいろ言われる。特に彭さんはエビを焼き方も丁寧に教えてくれた。もちろん焼き方は知っていたんですけど。それで友だちになりました」  すると、「ご飯を作るから食べにこない?」と、家に誘われた。彭さんはビルなどの建設現場で生コンクリートを流し込む仕事をしていた。業務は24時間シフト制で、会社が借りた部屋で同僚と暮していた。  馬場さんはすぐに彼らと親しくなり、「マーちゃん」と呼ばれるようになった。 ■休みがとれると娘に会いに 「台湾では日本語が少し通じるんですよ。例えば、『石頭』のことを『アタマ(頭)コンクリ』という。『コッキ(国旗)』『タマゴヤキ(卵焼き)』とか。『これは日本語だよね』って、彼らから話しかけられたりする。自分のおじいちゃんは日本語教育で育ったから日本語がペラペラで中国語は下手だったんだよ、とか。日本人を見るとなんか懐かしいっていうか、親しみがあるみたいでした」  馬場さんは彭さん自然にカメラを向けた。 「私はいつもカメラを持っているので、それでカシャカシャと撮り出した」  台南から車で3時間ほどのところにある彭さんの実家にも足を運んだ。 「ちょっとでも休みがあると娘に会いに実家に帰るんです。泊まれなくても、ご飯だけ作って帰るとかしていた」 撮影:馬場さおり  台湾は大家族が多く、彭さんの実家も両親と長男夫婦、姉が住んでいた。かつて彭さん夫婦もここで暮らしていたが、離婚すると妻は出ていった。その後、彭さんは2人の娘を実家に預け、台南、高雄、桃園などの建設現場を転々とするようになった。 「仕事は不安定なので、単身赴任というより出稼ぎという言葉がしっくりときますね。給料はいいので、働けるだけ働いているという感じでした。いつ実家に帰れるかは、わからない」  実家に戻った彭さんを写した写真には娘がかわいくて仕方がないという表情が写っている。娘たちもお父さんが大好きで、久しぶりに実家で過ごす間、3人はべったりだ。 ■昭和のおじさんみたい  台湾では離婚すると男性が親権を持ち、父子家庭となることが普通という。 「台湾の男の人って、実家に住んでいる場合が多いので、離婚しても子どもの面倒を実家がみてくれるからだと思います。ただ、ご飯は食べさせてくれるんですけれど、養育費の補助はしてくれない。そのへんはシビアです。だから、彭さんは『ぼくが2人を育てなければならない』『俺は負けないぞ』という感じで、すごく意気込んでいた」 撮影:馬場さおり  実家は美容院を営み、かつて彭さんも美容師になるつもりで美容学校に通った。しかし、働く親の姿を見て美容師として生活する厳しさを実感した。そして美容師よりも稼げるコンクリート工として働く道を選んだ。 「彭さんも、もともとはおしゃれで、ファッション好きの人なんですけれど、出稼ぎにいくときに髪の毛を短く刈ったんです。チャラチャラした生活を捨てて、気合を入れるぞ、という意思表示でした」  前のめりになってがむしゃらに働く彭さん。その姿が馬場さんの祖父の世代と重なった。 「なかなかデリケートな話なんですが、もう、昭和のおじさんみたいなんですよ。すべてが大げさで、俺はがんばる、みたいな。家のなかに序列がある家父長制で、男は家の大黒柱というと、時代遅れに感じるかもしれないですけれど、それが台湾ではふつうなんです」  馬場さんは以前、男尊女卑にも通じる家父長制に対して疑問を抱いていた。 「私の田舎は熊本なんですが、おじいちゃんは『九州男児』というか、本当に化石のような人なんです。おじいちゃんやお父さんは家のまん中の柱。そんな生き方に対して私は否定的に見ていた。でも、彭さんの姿を見ていると、こういう生き方を否定することはできないなあ、と思うようになりました」 撮影:馬場さおり ■古くさいけど理解できる  日本の若い世代にはジェンダー平等の考えが浸透している。そのため、父親が「男として家族を守っている」とSNSで書くと「絶対に炎上しますね」と馬場さんは言う。 「いまの若い子はそういうことに本当に敏感です。だから彭さんのような生き方は批判されることが多いと思う。もう本当に古くさい考えみたいに思われるでしょう。でも多様性の一つとして、こういう生き方もあっていいと思う」  さらに馬場さんは、彭さんのような生き方は日本人にも理解できるのではないか、と言う。  作品には撮影者である馬場さんの存在はほとんど感じられない。それだけに理想の父親像と現実とのギャップに悩む彭さんの姿が自然に伝わってくる。 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】馬場さおり写真展「その男、彭志維(ポン・ツー・ウェイ)」ソニーイメージングギャラリー(東京・銀座) 8月26日~9月8日
「ふみの日」に森鴎外に学ぶ、今こそ見直したい手紙の「魅力」
「ふみの日」に森鴎外に学ぶ、今こそ見直したい手紙の「魅力」 1922年7月9日、60歳でその生涯を終えた鴎外。親友の賀古鶴所に口述し、書き取らせた遺言書が現存している(photo/文京区立森鴎外記念館提供)  毎月23日は「ふみの日」──。そう聞いても、今ではピンとこない人も多いかもしれない。没後100年を迎えた文豪・森鴎外にならって、手紙の良さを見直してみた。AERA 2022年8月29日号の記事を紹介する。 *  *  *  メールやチャット、LINEなどで連絡を取るのが当たり前の今。直筆の手紙やメッセージをしばらく書いていない人も少なくないだろう。でも、ふとしたときにもらう手紙はとてもうれしいもの。毎月23日はそうした手書きや手紙の良さを見つめ直すのにぴったりな「ふみの日」だ。そこで、この7月に没後100年を迎えた文豪、森鴎外がどんな手紙を書いていたのか見てみよう。  森鴎外(本名:森林太郎)は1862年、石見国(現在の島根県西部)で代々、藩主の医者を務めてきた森家の長男として生まれた。5歳で教師について『論語』を学びはじめるなど、神童ぶりを発揮し、その後、東京大学医学部を卒業。陸軍軍医となって、ドイツ留学を経験するなどエリート街道を歩むと同時に、「舞姫」「高瀬舟」「雁」など、数々の優れた小説を発表した。そんな明治を代表する知識人であり、文豪である鴎外がしたためた手紙は、現在、見つかっているものだけでも約1600通。実際にはもっと多くの手紙を書いたと推測される。鴎外を40年以上研究してきた大妻女子大学名誉教授の須田喜代次さんはいう。 ■筆まめだった鴎外 「当時は東京市内間であれば、午前中に投函すると、その日のうちに届いていたようです。その頃の人々の手紙には、今日の夕方、何時にどこで待ちあわせしようと書いているものもあり、現代のメールのような感覚で書いていたと思われます。鴎外が和歌や俳句などについて、歌人の佐佐木信綱や高浜虚子などに意見を求めていたものも残っています」  鴎外が書いた手紙の送り先は学生時代からの親友、賀古鶴所(かこつるど)や勤務先の上司、文学仲間など多岐にわたるが、とくに多いのが家族宛。母や妻、親きょうだいなどに送ったものが700通以上見つかっており、そこからは軍医総監にまで上りつめた近寄りがたい男のイメージとは違った素顔が見えてくる。 妻の志げと次女の杏奴宛に送られた絵はがき。子ども思いの父親だった鴎外の素顔が垣間見える(photo/文京区立森鴎外記念館提供)  例えば妻の志げ宛の手紙には、娘で随筆家としても知られた小堀杏奴(こぼりあんぬ)のために押し花を同封しており、子ども思いの父親だったことがうかがえる。また、日露戦争出征当時に書いた手紙には、浮気を否定するような記述がある。 「妻の志げから『遠くにいるからといって遊んでいるんじゃないの?』というような手紙が届いたのでしょう。  その返事として書いたと思われるものには、『わが跡をふみもとめても来んといふ遠妻あるを誰とかは寝ん』と歌を詠み、自分を追いかけていくという妻がいるのに、浮気などするわけないと伝えています。男尊女卑の考えが当然の明治時代にあって、鴎外は女性への気遣いもできる男だったことがわかります」(須田さん)  私生活では多くの手紙を書いた鴎外だが、一方で自身の小説に登場する頻度は多くない。しかし、いくつかの作品では、さすが鴎外とうなるような手紙の描写があると須田さんはいう。 押し花つきのメッセージは出張先の正倉院から妻の志げ宛に送った手紙に同封されていた(photo/文京区立森鴎外記念館提供) ■作家としての手紙 「例えば鴎外が翻訳したアンデルセンの小説『即興詩人』では、『文して恋しく懐かしきアントニオの君に申し上げ参らせ候』と独自に訳したり、『舞姫』では、『否、君を思ふ心の深き……』と、極めて印象的な書き出しの手紙がでてきます。どちらも、鴎外がふだん書いていたものとはまったく違う印象を与えます。日常生活の書簡とは異なり、小説や翻訳のなかの手紙では、文学上の効果を強く意識していたことがわかります」  家族や友人宛に、多くの手紙を送っていた鴎外。文才は遠く及ばなくとも、たまには自分も誰かに書いてみたいと思うことがある。重い腰を上げて、手紙を書くにはどうすればいいのだろうか。手紙の書き方研修講師の青木多香子さんは、忙しい現代だからこそ、お礼やおわびなど、とくに気持ちを伝えたいときに効果的だという。 「例えばビジネスシーンのメールは、気持ちを伝えるというよりも情報を共有するのが目的です。一方で、手紙は受け取る機会が少なくなっているからこそ、自分の思いが伝わりやすいもの。家族や友人はもちろん、仕事でお世話になっている方などにでも気持ちを伝えたいときにおすすめです」 手紙の書き方研修講師が教える三つのポイント!(AERA2022年8月29日号より) ■上手下手は気にしない  手紙を書くとなると、どうしても便箋(びんせん)と封筒を連想して自らハードルを上げてしまいがち。だが青木さんは、一筆箋やはがき、職場や家庭内であれば、付箋やメモ用紙に一言添えるだけでもいいという。さらに直筆の際の最大の悩みについてもアドバイスを送る。 「いざ書こうと思ったとき、多くの方が字が汚いことを気にされています。でも、大事なのは丁寧に書くこと。手紙は字の上手下手より、自分のために時間をかけてくれたことに心が動きます」  文章量も、字の上手下手も気にしなくてOK。ようやくハードルが少し下がってきた。あとは書き方だ。メールなら、「お世話になっております」からはじめて、「引き続きよろしくお願いします」がテンプレ化しているが、さすがに手紙では違和感がある。いったい、何から書き出せばいいのだろうか。こんな疑問に、青木さんは挨拶(あいさつ)・本文・結びの3部構成で文章を考えるといいという。 「挨拶は『こんにちは』や『毎日、暑い日が続きますね』など、ふだんの挨拶で構いません。季節感のある挨拶や相手を気遣う言葉もいいでしょう。続く本文はいちばん伝えたいことですが、『なぜ手紙を書こうと思ったのか』を自分自身に問いかけると書きやすくなります。形式やマナーにとらわれすぎて、結局、何が言いたかったのかわからなくなってしまうことがあるので、素直に自分の思いを書きましょう。結びは先方への気遣いや感謝の言葉のほか、『またお会いできる日を楽しみにしています』など、未来につながる言葉や、相手との関係をどうしていきたいかを伝えるといいですね。ほかには『健康をお祈りしております』『穏やかな日々を過ごせますように』などお祈りの言葉も気持ちが伝わります。結びの一言があると、より手紙らしくなって、受け取った相手にも心地よい“読後感”が残ります」  手書きから遠ざかっている今の時代。たまには誰かを思って筆をとるのもいいかもしれない。(ライター・奥田高大)※AERA 2022年8月29日号
旧統一教会との癒着ぶりが群を抜く自民党 「国際勝共連合」の改憲案に共通点あり
旧統一教会との癒着ぶりが群を抜く自民党 「国際勝共連合」の改憲案に共通点あり 岸田改造内閣では旧統一教会やその友好団体との接点を認めていた閣僚7人は起用されなかったものの、入閣した7人に接点が確認された  安倍晋三元首相銃撃事件を機に、旧統一教会側と自民党の関係が次々と表に出ている。選挙支援だけでなく、政策面やデモ活動などあらゆるところで結びついていた。AERA 2022年8月29日号の記事から紹介する。 *  *  *  選挙期間中に安倍晋三元首相が銃撃された参院選で初当選した自民党の生稲晃子氏が公示前の6月、萩生田光一・現政調会長と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連施設を訪問していたことが明らかになった。 「旧統一教会が動くのは『参院選の全国区』と『自民党が複数立候補している選挙区で負けているほう』。今回の生稲さんはまさに後者でしょう。その票があれば、勝てるわけだから」  そう語るのは、元衆院議員の50代女性だ。  生稲氏が立候補した東京選挙区(改選数6)では改選前、自民党は2議席。再選を目指す元バレーボール選手の朝日健太郎氏と、引退する中川雅治・元環境相の後継で「元おニャン子クラブ」の生稲氏の「2人当選」が至上命令だった。  トップ当選が確実視されていた朝日氏に対し、新人の生稲氏のほうは厳しい戦いを強いられた。生稲氏は朝日新聞など報道各社に対して訪問は事実と認めた上で、 「新人の立場ですのでより多くの方に政策を聞いていただきたいという思いで、スタッフが判断しました」  と釈明。8月18日の記者団の取材に対しては、教団だとは認識していなかったと強調した。 ■あえて触れなかった  萩生田氏にいたっては同日、記者団の取材に対して、 「(訪問した)団体と統一教会の名称は非常に似ていますが、あえて触れなかったというのが正直なところだ」  などとあいまいな受け答えに終始した。前出の元衆院議員は、 「相手が旧統一教会か否かがわからないなんてことは100%ない。一般の会社員が知らないのは仕方がないけれど、政治の世界では常識。わからないのは逆に恥ずかしい」  自身は20代の頃、将来の政界入りを目指し、「保守系無所属」として関東で活動を始めた。あるとき、先輩議員に旧統一教会の友好団体である政治組織「国際勝共連合」のトップを紹介され、都内の本部まで会いに行ったという。元衆院議員は、 「まとまった票がある、と言われた。なんの支持母体も持たない自分にとっては、その票がキープできれば心の支えになる。それを逃す手はないと考える候補者は、多いと思います。それくらい『当選』は重いのです」  その後、活動拠点を関西に移し、自民党以外の政党から出馬。いつの間にか教団との付き合いはなくなったが、多くの宗教団体が政治家の周囲にうごめいていることを感じてきたという。 「当選したら『お礼参り』をするのも常。その宗教のしきたりに従って見よう見まねで礼拝するんです。議員本人が顔を出すのはまずいと判断し、実の親や妻を出席させているケースも多々あります」(元衆院議員) ■閣僚が7人も関わり  選挙支援を頼んだり会合に出席したりするなど、旧統一教会と政治家の付き合いが次々とあらわになっているなか、自民党との癒着ぶりは群を抜いている。10日に発足した第2次岸田改造内閣でも、閣僚7人と、副大臣、政務官計23人が教団と関わりがあったことが朝日新聞の取材で判明した。  加えて、国際勝共連合の改憲案と自民党の改憲案に共通点が多く見られる。例えば、同連合の2021年の運動方針は「憲法改正を実現。防衛力を強化し、我が国の安全保障体制を確立する」とある。また、「正しい結婚観・家族観を追求する」として夫婦別姓や同性婚に反対の立場だ。 自民党と国際勝共連合の改憲案共通点(AERA2022年8月29日号)  編著に『徹底検証 日本の右傾化』がある上越教育大学大学院の塚田穂高准教授(宗教社会学)は、こう指摘する。 「旧統一教会は右傾化の先兵隊。『反左翼』の切り込み隊長の役割を担いながら、存在感を示そうとしてきた。自民党のなかでも、安倍派(清和会)への食い込みが著しい」  象徴的だったのは安保法制をめぐる議論が盛り上がりを見せた後の16年1月、勝共連合の大学生遊説隊「UNITE=ユナイト」(現・勝共UNITE)が結成されたことだという。東京・渋谷などで多い時は数百人規模のデモを展開し、「憲法改正、賛成!」と声を上げた。塚田准教授は、 「メンバーのほとんどは、いわゆる『宗教2世』。当時注目を集めていた学生団体SEALDs(シールズ)に対抗的な組織です。自民党政権にとって非常にありがたい存在で、同じ若者でも改憲・政権支持派もいるんだというアピールをすることができた」 ■大きな構図の中の一つ  選挙だけでなく、政策の支持、デモ活動、署名集めでも──。旧統一教会はじわじわと自民党に食い込んでいった。ただ、カルト宗教を取り上げるニュースサイト「やや日刊カルト新聞」総裁の藤倉善郎氏は言う。 「単独で自民党の政策を左右するような存在ではない。日本会議や神道政治連盟なども含めた保守運動の大きな構図の中の一つにすぎないというのが、正確なところでしょう」  ある自民党の現職国会議員も、 「反共産主義から出発している旧統一教会と自民党は主義主張が一致する部分が多い。だから、あらゆるところで関係が続いてきた」  と認めつつも、こう話す。 「政策を決めるとき、内容によっては関係する業界団体や関係機関の意見を聞いたうえで決めなきゃいけないことがある。でも、旧統一教会が『意見を聞く対象』になった事例は聞いたことがない」  つまり、その程度の関係性なのだろう。塚田准教授も、 「旧統一教会に、自民党の政策立案のブレーンとなるような人物は思い当たらない」  と同様の認識を示す。 安倍晋三元首相は2021年9月、旧統一教会の友好団体が主催した韓国でのイベントにビデオメッセージを寄せていた ■徹底的に検証すべき  この現職国会議員は過去に一度だけ、教団関連団体にメッセージを送ったことがあるという。会合への誘いを断り続けた末、参加しない代わりにと考えた。 「認識が浅かったのは間違いないし、反省している。ただ、教団が私に面会するときに、断れない相手を立ててくるとつらい」  教団との最初の接点は、地元の県議が「会ってほしい人がいる」と連絡してきたことだったと明かす。その県議は、同議員が政治の世界に入って以降、ずっと応援してきてくれた。 「ちょっと支持基盤が緩い人で、ああ、そういうことかと思った。教団の人手がなくとも選挙で勝てるならば、必要ないからね」(同議員)  日本の旧統一教会の信者数は公称56万人(15年、宗教情報リサーチセンター)だ。創価学会の会員世帯数827万と比べて規模はとても小さい。旧統一教会を長年取材してきたジャーナリストの鈴木エイト氏は言う。 「政策立案に関与しているわけでもなく、信者数も少なく、大した団体ではない。にもかかわらず、全国各地あらゆるところで政治家と接点を持ち、根を張っている。これが、旧統一教会のおそろしさです」  政治家たちが「大した団体ではないから、少々付き合っても問題ない」と考えてきたツケが、いま噴出しているのだ。鈴木氏は、 「旧統一教会から金銭的な援助を受けているとすれば、それは(霊感商法などの)被害者のお金。各政治家と教団のこれまでの関係を徹底的に検証すべきです」  うやむやな幕引きは許されない。(編集部・古田真梨子)※AERA 2022年8月29日号
スパゲッティ・ナポリタンは罪? アメリカ人夫はケチャップで味付けに“ノー”
スパゲッティ・ナポリタンは罪? アメリカ人夫はケチャップで味付けに“ノー” ケチャップの風味がたまらないスパゲッティ・ナポリタン(写真/gettyimages)  スパゲッティ・ナポリタンはお好きですか。喫茶店や惣菜店になくてはならないこの料理を、私の夫は「許せない」と言います。ナポリタン味の要であるケチャップは、アメリカ人である夫にとってはフライドポテト(アメリカ人は「フレンチフライ」と呼びますが)に添えるディップソース。それくらい特徴の際立ったソースを味つけに使うのは、ケチャップとスパゲッティ麺に対する冒涜だというのです。たとえるなら、お好み焼きソースでお蕎麦を和えるようなものとでもいえばいいでしょうか。お好み焼きソースはお好み焼きのためだけに調合されたものであり、蕎麦にも蕎麦つゆという完璧なお供がいる。にもかかわらず出合ってはいけない二者を混ぜ合わせるなんて、幸福な結末を呼ぶわけがないだろうと。 「苦手」でも「キライ」でもなく「許せない」というカテゴリーに入れられてしまったスパゲッティ・ナポリタンが、わがやの食卓にのぼることは一度たりともありませんでした。ナポリタンという料理が存在することすら、私はずっと忘れていました。思い出したのは、この夏のこと。夏休み中に自分の父親と一緒に食事へ出かけたとき、父がナポリタンを注文したのです。父が店員さんに「ナポリタン」と頼むまで、私はメニュー表にナポリタンの文字があることすら気づいていませんでした。視野には入っていたのかもしれませんが、ナポリタンの存在は目から脳に到達するまでの間に抹消されていたのです。  まもなく父の前に出されたのは、鉄板に載ったあつあつのナポリタン。思わず「おいしそう」という言葉が口をついて出ました。ほんわか上がる白い湯気の下で、黒い鉄板に映える鮮やかな赤は、紛れもないケチャップ色。鼻孔をくすぐる甘酸っぱさも、ケチャップ香。この日初めて私は、自分がスパゲッティ・ナポリタンをとても好きだったことに気づいたのです。  結婚した当初は、夫の食習慣になじむのが楽しくて仕方ありませんでした。チョコレートチップクッキーは牛乳に浸して食べるとおいしいとか、タバスコソースは赤色と緑色で用途が違うとか、夫が小さい頃から蓄えてきた知識を吸収するのは、まるで他人の人生をひとっ飛びになぞるような面白さがありました。加えて私の場合、それが「配偶者の人生を追体験する」以上に「アメリカの食文化を知る」という意味を持ち、気づけばどんどん夫の食習慣に染まっていきました。  誰かと共同生活を送っていれば、誰しも多かれ少なかれ似たような経験をしているのではないでしょうか。「揚げ物をすると家中に臭いがつくと妻が言うから、家でフライや天ぷらは作らない」とか、「高齢の親が和食を好むので、家で洋食や中華は食べない」とか、「赤ん坊がいると熱いものを熱いうちに食べられないので、スープは作らなくなった」とか。みんな少しずつ譲り合い、相手に合わせて生活を送っていると信じているのですが、どうでしょう。  それは決して我慢とか、自己犠牲ではないと思いたい。ましてや愛情でもない。先に述べたように、他人の人生を追体験する、異文化交流する、もっといえば新しい冒険に出るようなものだというほうが、私にはしっくり来ます。他人の目を通して見れば、自分が当たり前だと思っていた食習慣が実は奇妙なものかもしれないという事実に気づく。だって夫に指摘されるまで、私はケチャップを味つけに使う可否を問うたことなど一度もありませんでした。ケチャップを入れれば大抵のものはおいしくなると信じて疑わなかった。でも今では、パスタソースやチリビーンズを作るときはケチャップではなくトマトペーストを使うほうが味に奥行きが出ると思います。トマトペーストが手に入りにくかった時代、日本で手軽に西洋風の料理を作ろうと思ったらケチャップに頼るしかなかったのかもしれません。でも今はありがたいことにそこらじゅうで売っているのだから、使ったほうが断然いいと。  新しい食文化に出会い、自分の味覚が変わっていく。それは喜びです。ただ、かつての食習慣を否定してしまってもつまらない。夫に出会って10年、そろそろ昔好きだった食べ物を思い出す頃合いかもしれない──。父が食べるおいしそうなナポリタンを見て、ちょっと考えてしまったのでした。ちなみにスパゲッティ・ナポリタン、多くのレシピはケチャップを使うように書いてありますが、横浜のホテルニューグランドで考案された元祖ナポリタンには、ケチャップは使われていないのだとか。ナポリタンの名誉のため(?)、念のため付け加えておきます。 〇大井美紗子(おおい・みさこ)/ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi ※AERAオンライン限定記事
「夏休みの宿題は“親の宿題”ではない!」 手伝って当たり前の風潮に物申す父親に、論語パパが回答
「夏休みの宿題は“親の宿題”ではない!」 手伝って当たり前の風潮に物申す父親に、論語パパが回答  小学生の姉妹を持つ40代の父親。娘たちの夏休みの宿題に手出ししすぎる妻に対して、「宿題は子ども自身ですべきだ」と辟易しています。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。「子どものためにならない今の風潮を止めたい」という父親へのアドバイスはいかに。 *    *  * 【相談者:10歳と12歳の娘を持つ40代の父親】 小4と小6の娘を持つ40代の父親です。姉妹2人は同じ公立小学校に通っていますが、夏休みの宿題に手出ししすぎる妻に、辟易しています。「どこの家も親が手伝っているので、うちの子だけ低い評価になったらかわいそう」「親が理系大学院卒の子は、理科実験のレベルが格段に高度。負けていられない」などと言って、作文を構成の段階から添削したり、自分の手芸用品で複雑なペンスタンドを作ったり、絵の見本を描いて娘に模写させたりして、できた作品は明らかに「親の作品」になってしまっています。 私は、宿題は子ども自身がすべきで、親が手伝ったら子どもの自主性や考える力を奪い、かえって子どものためにならないという考えです。「どこの家もやっているから」という理由で、本来の宿題の意義が失われている風潮は止められないものでしょうか。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直(なお)きこと其(そ)の中(うち)に在(あ)り」(子路第十三) ・「学びて思わざれば、則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」(為政第二) 【現代語訳】 ・「父親は子どもをかばってやろうとするし、子どもは父親をかばおうとする。真の正義は、おのずから、そのかばい合う中に存在する」 ・「人や本から学ぶだけで、自分で考え悩むことがなければ、混乱をきたすばかりである。限られた自分の知識で思索するばかりでは、考えが偏って独断に陥り、確固たるものはつかむことができない」 【解説】  お答えします! 小学生の子どもの夏休みの宿題を手伝う親は今、6割に上るともいわれているそうですね。でも、学校の先生は宿題を親がどれくらい手伝っているか、見ただけで分かるものです。当然、どれくらい子どもがその宿題を、本気で親と一緒にやったのかも、一目で分かってしまいます。  宿題に限らず、教育、あるいは「学び」とは、できる人ができない人を補って、互いが助け合って、それぞれが知識や技能を広げ、深め合うことだと私は思います。  多くの人の心をつかむ思想家として、現代にも通じる考えを説き続けた孔子の言葉に、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直(なお)きこと其(そ)の中(うち)に在(あ)り」(子路第十三)があります。 「父親は子どもをかばってやろうとするし、子どもは父親をかばおうとする。真の正義は、おのずから、そのかばい合う中に存在する」という意味です。  中国でも古くから賛否両論あるところですが、孔子の教えに始まる儒家の倫理観では、国家の利益よりも家族間の愛情が、より重んじられています。  ここに書かれた「父」は、紀元前500年ごろの文献ではほとんど「母」など女性について書かれていなかったというだけで、現代であればこの部分を、「母」とも言い換えることができそうです。父、母、いずれにしても、親は子どものためを考えて、一緒に宿題をしたりするのが家族の絆を深める大切な時間だと、私も思います。  小学校の6年間は親子にとって、もっとも貴重な期間です。中学生以降になると、親と子どもの関係がそれまでとはまったく異なった大人同士の関係になることだって少なくありません。勉強だって、中学、高校になるとだんだんと難しくなって、親が教えてあげられなくなるレベルになります。  相談者さんが言う「宿題は子ども自身がすべきで、親が手伝ったら子どものためにならない」という考えは、もちろん原則としては間違っていませんが、親は子どもに宿題を教えながら、子どもは親に宿題を教えてもらいながら、宿題以上に貴重な「感性」や「情」をお互いに交換しあっているのです。原則を気にして、こうした大切な親子の間のやり取りを奪うのは残念な気がします。  ただ、もし、相談者さんの妻が「低い評価になったらかわいそう」と思って手出ししているとしたら、「評価はあまり気にせずに」と言いたいです。他人と比べることほど、娘さんたちを苦しめる結果になることはありませんから。人との「競争」よりもっと「学ぶ」ことの楽しさ、「考える」ことの大切さを教えてみてください。 「学びて思わざれば、則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」(為政第二)という『論語』の言葉はあまりにも有名ですが、この言葉を実践している人は非常に少ないのではないかと思います。勉強は、「競争」に勝つためにするものではありません。自分が知らない世界が無限に広がっていることを知ること。世界の歴史の発展の中のどの辺りに自分がいるのかを知ること。自分の中にある問題を、自分で納得できるように解決する方法を見つけ出すこと。  勉強は、こんなことのためにあるのではないでしょうか。「学ぶ」ことは、人と交わることでもあります。人と交わりながら、考える力を養うことこそ、本当の夏休みの課題なのではないかと思うのです。 【まとめ】親子で一緒に宿題をすることは、家族の絆を深める大切な時間。ただし、人との「競争」に勝つためでなく、「学ぶ」楽しさを家族で共有しよう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
JR山手線が走る秋葉原「高架下」でキャンプ? 都心で楽しめる非日常空間は電車の轟音も“魅力”
JR山手線が走る秋葉原「高架下」でキャンプ? 都心で楽しめる非日常空間は電車の轟音も“魅力” 東京・秋葉原で催されている「高架下」キャンプ(撮影/米倉昭仁)  大都会のど真ん中でキャンプを楽しみたい。そんなニーズを探ろうとジェイアール東日本都市開発が東京・秋葉原に8月13日から24日までの期間限定でキャンプ場をオープンした。場所はJR山手線など線路がある高架下。その名も「高架下キャンプ練習場」。はたしてそんな場所でキャンプを楽しめるのか――記者がテントを背負って、現地を訪ねた。 *   *   *  ゴッ、ゴー、ダダッタンタン。  テントの中で寝転んでいると、ひっきりなしに電車が通過する真上から音が響いてくる。「高架下」と聞いて想像はしていたが、やはり、結構な音量だ。  ところが、ここでは電車の音を気にする人は誰もいない。というか、むしろそれを楽しんでいる雰囲気なのだ。 「この非日常的な空間は、ある意味すごいと思います」と、足立区から訪れた50代の男性は語った。 「ふだんは奥多摩とか神奈川県道志川沿いのキャンプ場に出かけますが、都心からだと結構遠くて、片道2、3時間はかかります。これだけ家の近くの街なかで思いっきりキャンプが楽しめる場所は珍しい。食料はキャンプ場を出て30秒のスーパーマーケットで購入できます。キャンプの常識を覆しますね」 東京・秋葉原で催されている「高架下」キャンプ(撮影/米倉昭仁) 初キャンプに「楽しい!」  他にも来場者に話を聞くと、大半はキャンプ未経験者だった。別の区画では小学3年生の男の子がハンマーを振り上げ、真剣な表情でテントの四隅に小さな杭を打っていた。電車の騒音など、まるで耳に入らない様子で、「いっちゃんが打った!」と、声を上げる。  テントの設営が終わると、今度は食事づくり。もちろん、炊事場も完備している。 「今日の献立はカレーライスです。息子が『キャンプはカレーだよ』というので」  いっちゃんの母親はそう言って、料理に熱中する息子をうれしそうに見守る。 「『友だちが旅行に行くから、ぼくもどこか行きたいな』って言われて、調べて、ここに来ました。以前からキャンプはしてみたいと思っていたんですけれど、道具にも触ったことなくて、まったくわからない。寝袋だけ持ってくれば、ほかの道具は貸してくれるというので、手ぶらで来ました」(母親)  いっちゃんは初めてのキャンプに、「楽しい!」と声を張り上げる。 東京・秋葉原で催されている「高架下」キャンプ(撮影/米倉昭仁) 雨も全然気にならない  父親と息子の2人で来ているキャンパーもいた。父親に話を聞くと、 「このキャンプ場は妻がネットで見つけました。家は千代田区なので、近いから行ってみようと思いました」  と、ご近所キャンプを楽しんでいる様子。その足元では息子の小学生が懸命にテントの杭を打っている。 「すごく楽しそうにしているので、来てよかったな、と思いますね。ほかのお客さんも結構いるのでいい雰囲気ですし。あと、雨が降っていても全然気にならない。ちなみに夜、妻が子どもを連れて帰って、ぼくだけ泊ってみようかな、と思っています」(父親)  缶酎ハイを片手に立派なツインバーナーのコンロでステーキを焼く30代の夫婦にも聞いてみた。 「この肉はとなりのスーパーで買ってきました。店が近くにあるので身軽に来られますね。山に行くのはちょっとハードルが高いと思っていました。こういう本格的なキャンプは初めてです」  自然から遠く離れたキャンプ場とはいえ、みな、思い思いのキャンプを楽しんでいる様子だった。 キャンプ用品が使い放題  このキャンプ場ができたきっかけは、高架下の不動産開発などを手がけるジェイアール東日本都市開発の新規事業創出を目的とした社内コンペだった。  開発企画課の北田綾係長は言う。 「高架下にキャンプ場があれば、家や駅から近い。雨にも濡れない。いいことがたくさんあるんじゃないか、と思って、軽い気持ちでコンペに応募しました」  北田さんの企画は、2回目の応募で通った。 「今年5月、ゴールデンウィークにJR西荻窪駅近くの高架下でキャンプ場を設けました。そのときは一般の方ではなくJRグループ内の人に声をかけて、参加者を募りました」  今回は場所を都心の秋葉原に設定し、一般の人を対象とした。  料金は「宿泊プラン(13時から翌朝10時まで)」が大人3000円、小学生1500円。キャンプ愛好家の心をくすぐるのは、有名ブランド「コールマン」のテントやコンロなど、さまざまなキャンプ用品が追加料金なしで利用できる点だ。使い方はスタッフが丁寧に教えてくれる。新型コロナ対策として寝袋と食器類の持参は必須だが、その他の自分のキャンプギアを持ち込むこともできる。ただし、近隣へのにおいなどの影響を考慮して、たき火や炭を燃やすことは禁止されている。 東京・秋葉原で催されている「高架下」キャンプ(撮影/米倉昭仁) 「西荻窪のときはファミリーが多かったんですが、今回は友人同士やソロの人が増えました。ほとんどは手ぶらでいらっしゃいます」(北田さん)  この日は天気が不安定で、ときおり雨脚が強まった。 「雨が降ってくると、特に私みたいな小さい子どもがいると、その面倒をみながら、道具が雨に濡れないようにしなければならないので、慌ただしくなってしまうと思うんですが、ここならのんびりと過ごせます。これはすごく高架下のいいところだと思います」(同) 高架下から「郊外」へ  来場者は東京区部の住民のほか、JR京浜東北線沿いの川崎市やさいたま市方面からやってくる人もいるという。北田さんは、こう続ける。 「一番遠いところだと、千葉県成田市からいらっしゃった人もいました。成田にはキャンプ場がいくつもある。つまり、普段からあちこちでキャンプをやってきたけれど、都心でもできるからと、キャンプ好きが高じてここへいらしたそうです」  この場所は、基本的に「キャンプの練習場」という位置づけだ。 「もちろん今後、同様な企画を立てたときに、リピートしていただけるのもありがたいんですけれど、将来的には地方のキャンプ場とか、電車で行けるようなキャンプ場さんと組んで、そちらへも足を運んでいただけるといいなと思います」(北田さん)  今年12月に社内審査会があり、高架下キャンプ場の需要や採算性が見込まれれば、来年度に向けて事業化が検討されるいう。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
ロシアを「内と外」から多角的に知ることができる 歴史研究者が選ぶ「映画・小説」7選
ロシアを「内と外」から多角的に知ることができる 歴史研究者が選ぶ「映画・小説」7選 ※写真はイメージ(gettyimages)  ウクライナ侵攻以降、暗いイメージで捉えられがちなロシア。だがロシアにも、普通の人々の暮らしがある。本当のロシアとはどのような国なのか。AERA 2022年8月15-22日合併号は、近くて遠い国、ロシアを知ることができる映画、小説の7作品を紹介する。 *  *  *  映画でロシアを知るには何がいいか。歴史研究者で『ロシア史 キエフ大公国からウクライナ侵攻まで』(朝日新聞出版)監修者の祝田秀全(いわたしゅうぜん)さんは言う。 「ロシアの内と外、それぞれの角度から様々な事象を描いた映画を見ることで、ロシアを多面的に見ることができます」 【アレクサンドル・ネフスキー】セルゲイ・エイゼンシュテイン監督 1938年公開/ロシアのノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーを描いた国策映画。DVD価格:1980円(税込み)/発売・販売元:アイ・ヴィー・シー  内からの映画としてまず挙げるのが「アレクサンドル・ネフスキー」。13世紀のロシアに実在した名将の名前だ。  ネフスキーは東進してくるドイツ軍を打ち破るなど、ロシアの英雄として名を馳せる。だがロシアの権力者になるため、モンゴル人のキプチャク・ハン国に臣従し、ハン国のキエフ公国への侵攻が始まるとハン国と一緒になってキエフ公国を滅ぼす。 「そこからロシアという国が始まりますが、今のロシアの源流をたどると、このアレクサンドル・ネフスキーという一人の人物にいきつきます」(祝田さん)  ロシアにおける血なまぐさい権力抗争をコメディーでグイグイと押してくる映画というのが「スターリンの葬送狂騒曲」。 【スターリンの葬送狂騒曲】アーマンド・イアヌッチ監督 2017年公開 DVD価格:1257円(税込み)/発売・販売元:ギャガ (c)2017 MITICO ・ MAIN JOURNEY ・ GAUMONT ・ FRANCE3 CINEMA・AFPI・PANACHE・PRODUCTIONS・LACIECINEMATOGRAPHIQUE・ DEATH OF STALIN THE FILM LTD 「スターリンの死に始まるマレンコフ、ベリヤ、フルシチョフ、ブルガーニンら側近4人の権力争奪劇です」(同)  ロシアの国情があぶり出される作品がアニメ映画「ジョバンニの島」だ。舞台は、第2次世界大戦後まもなくの色丹島。平和な日常は、大戦終結後の1945年9月1日に始まるソ連軍の島への侵攻によって一変する。 【ジョバンニの島】西久保瑞穂監督 2014年公開/北方領土のひとつ色丹島に暮らすある一家が終戦後に体験した過酷な運命を描いた長編アニメーション。日本では数少ない国境と民族を意識させる映画だ。DVD価格:5170円(税込み) (c)JAME 「兵士は民家に押し入り、金品を奪い、学校に入っては子どもたちに銃を向けます。こうしたロシアのやり口は、遠い過去の歴史ではなく、今のウクライナ侵攻につながる現在です」(同) 【存在の耐えられない軽さ】フィリップ・カウフマン監督 1988年公開/発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント 販売元:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン (c)2006 The Saul Zaentz Company. All rights reserved.  対して、外からロシアを描いた映画というのが、「存在の耐えられない軽さ」。冷戦時代のチェコスロバキアを舞台に、1968年に起きた民主化運動「プラハの春」を題材にした恋愛映画。愛と性が重要な要素だが、体制とイデオロギーに人間性が削られる時代の痛みを描く。 「主人公と妻は、ソ連の支配と共産独裁に抗いながら自国で土にまみれる農夫になりますが、二人は交通事故で亡くなります。映画はフィクションを超えた、東欧共有の現実であることを示しています」(同) ■「ほとんど幸せ」の正体  小説でロシアを知るのにオススメの作品はどれか。まず祝田さんが挙げるのが、『イワン・デニーソヴィチの一日』。イワン・デニーソヴィチという男の、3653日に及ぶ強制収容所での生活を描いた作品だ。 【イワン・デニーソヴィチの一日】ソルジェニーツィン著/新潮社/ソ連時代の強制収容所の実情を告発した問題作。「ほとんど幸せな一日」とは何か。作者は、後にノーベル文学賞を受賞する 「300ページ近いこの小説に章立てはありません。零下40度の強制収容所に収容された、イワン・デニーソヴィチの午前5時の起床に始まる一日が、一つの章です」  強制収容所では失業もない。食べ物はあり、たばこも買える。イワンは、まるでカメレオンのように環境に順応する。イワンは言う。「毎日がほとんど幸せな一日」。しかし、と祝田さん。 「イワン・デニーソヴィチの一日とは何か。それは命令と順応にかしずく、思考停止の生き物になること。それが『ほとんど幸せ』の正体。作者の時代への痛烈な皮肉です」  祝田さんはロシアの中には普遍的なものがあり、それが国民にとって何なのかということが小説を読むことでわかるという。 【トルストイの生涯】ロマン・ロラン著/岩波書店/ノーベル賞作家の作者が、若い頃、文豪トルストイに励まされたことへの「返礼」ともいうべき作品。最も人間的なトルストイが描かれている 『トルストイの生涯』もそんな一冊。ロシアの文豪トルストイが自分自身を、またロシアという国をどのように見つめていたのかの確認作業を、若いころトルストイに励まされた作者が記す。祝田さんは言う。 「トルストイはクリミア戦争(1853~56年)に将校として従軍しますが、ロシアが惨敗します。その悲惨さから彼は、戦争だけでなく革命であれ何であれ、暴力を伴うものには頑として反対する『非暴力』を唱えるようになります。本作は、トルストイ論を超えた、国家とは何か、人間とは何かを思索する良書。古典ではありません」 (編集部・野村昌二) 【おろしや国 酔夢譚】井上靖著/文藝春秋/ロシア女帝エカテリーナ2世に謁見した日本人・大黒屋光太夫の半生を描いた小説。明治国家以前の日露関係が分かる有効な一冊 ■祝田さんオススメ映画 「アレクサンドル・ネフスキー」セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(1938年公開) ロシアのノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーを描いた国策映画。DVD価格:1980円(税込み)/発売・販売元:アイ・ヴィー・シー 「ジョバンニの島」西久保瑞穂監督(2014年公開) 北方領土のひとつ色丹島に暮らすある一家が終戦後に体験した過酷な運命を描いた長編アニメーション。日本では数少ない国境と民族を意識させる映画だ。DVD価格:5170円(税込み) 「スターリンの葬送狂騒曲」アーマンド・イアヌッチ監督(2017年公開) DVD価格:1257円(税込み)/発売・販売元:ギャガ 「存在の耐えられない軽さ」フィリップ・カウフマン監督(1988年公開)  DVD価格:1572円(税込み)/発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント 販売元:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン ■祝田さんオススメ小説 『おろしや国酔夢譚』/井上靖著/文藝春秋 ロシア女帝エカテリーナ2世に謁見した日本人・大黒屋光太夫の半生を描いた小説。明治国家以前の日露関係が分かる有効な一冊。 『イワン・デニーソヴィチの一日』/ソルジェニーツィン著/新潮社 ソ連時代の強制収容所の実情を告発した問題作。「ほとんど幸せな一日」とは何か。作者は、後にノーベル文学賞を受賞する。 『トルストイの生涯』/ロマン・ロラン著/岩波書店 ノーベル賞作家の作者が、若い頃、文豪トルストイに励まされたことへの「返礼」ともいうべき作品。最も人間的なトルストイが描かれている。※AERA 2022年8月15-22日合併号より抜粋
雅子さまは現場の看護師に気遣い 愛子さまは災害ボランティアに関心 皇室の人道支援の歴史をひもとく
雅子さまは現場の看護師に気遣い 愛子さまは災害ボランティアに関心 皇室の人道支援の歴史をひもとく フローレンス・ナイチンゲール記章の授与式での雅子さま 「ダイヤモンド・プリンセス号の場合はいかがだったのでしょうか」  皇后雅子さまは、苫米地則子さん(58)にそう声をかけた。苫米地さんは、世界の注目を集めた2020年2月のクルーズ船「ダイアモンドプリンセス号」で新型コロナが拡大した際に、船内で活動した救護班の総括を務めた看護師だ。  8月10日、優れた功績のあった世界各国の看護師らに贈られるフローレンス・ナイチンゲール記章の授与式が都内のホテルで行われた。コロナ禍で延期になっていたため3年ぶりの開催だった。  日本人では、苫米地さんとパキスタンなどで保健活動を行ってきた藤田千代子さん(63)が選ばれた。  雅子さまは、イスラム文化圏での看護活動や女性スタッフの育成に尽力したペシャワール会の藤田さんの活動に熱心に質問を重ねた。  アフガニスタンで活動中に銃撃で命を落とした医師・中村哲さんの活動を支えてきた藤田さんは、その意思を継いで活動を続けている。過酷な現場活動に、身体を気遣ったのだろう。  皇后雅子さまは、藤田さんにこう声をかけた。 「健康に気を付けて頑張ってください」 授与式には、日本赤十字社(日赤)の名誉総裁を務める雅子さまと、副総裁を務める秋篠宮家の紀子さまと寛仁親王妃信子さま、高円宮妃久子さまも出席した。  授与式のあとに行なわれた懇談の場で苫米地さんは、「妃殿下の方々もやはりダイヤモンド・プリンセス号に興味を示してくださいまして、質問をいただきました」  と話し、コロナ対応の現場に対する皇室の関心の高さをうかがわせた。 ◇  日赤と皇室の関係は深い。戦後より日赤の名誉総裁は代々の皇后が、名誉副総裁は皇族妃が務めてきた。  日赤の始まりは、1877年の西南戦争にさかのぼる。この時に創設された負傷者の救護団体が「博愛社」だった。  時の美子(はるこ)皇后(昭憲皇后)は、博愛社に定期的に現金を下賜する形で支援を続けている。  まもなく博愛社は、日本赤十字社に改称。戦時に敵味方に関係なく医療活動を展開する赤十字・赤新月社連盟傘下に入った。  皇室との関係が深まったのは、1888(明治21)年。福島県の磐梯山噴火の際、昭憲皇后が医師の派遣を命じる。それをきっかけに、世界の赤十字に先駆け、戦時以外の災害救護活動を行うようになる。さらに献血事業や医療・福祉事業を手がけ、皇室の支援を受けてきた。  1908(明治41)年に昭憲皇后が日赤社長に贈った和歌がある。赤十字を通じて外国にも慈しみが及ぶ喜びが詠み込まれている。   ひのもと(日本)のうちにあまりていつくしみとつくに(外国)までもおよぶみよ(御世)かな  ◇  日赤との関係に限らず、人道支援に対する活動は、代々の皇后に受け継がれてきた。  1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きたとき、病気療養中だった大正天皇と妻の貞明皇后は日光の田母沢御用邸にいた。  9月29日に東京に戻った貞明皇后は、上野駅に着くと、その足で上野公園内にいた被災者を見舞った。  避難所となった博物館内で貞明皇后は脚気衝心(急性心不全)をわずらう男の子に出会う。薄暗く冷たい床に身を横たえ、姉に看護されながら病に耐える姿に心を痛め、歌を残した。             石つくり小(お)くらきいへのつめたさも姉のみとりにしはししのかん            翌日以降も、貞明皇后は慶応病院や伝染病研究所、日赤の病院などを訪ねて被災者を見舞った。いったんは田母沢御用邸に戻ったものの、10月15日には大正天皇と帰京して視察を続け、3万8千人が焼死した本所区(現・墨田区)の被服廠(ひふくしょう)では、長い黙祷を捧げた。  昭和に入ると香淳皇后、そして皇太子妃となった美智子(上皇后)さまに、医療・人道支援の活動が受け継がれる。ご成婚の10日後には、美智子さまは日赤の名誉副総裁となった。  1964年の東京パラリンピックで結成された、日赤のボランティア「通訳奉仕団」は、美智子さまがその結成を後押している。  地道な奉仕作業も大切にしてきた。かつては月曜日、日赤本社に宮妃が集まり、乳児院で使う衣類や高齢者施設に寝間着を贈るためにミシンを踏む裁縫奉仕が盛んであった。  故・高松宮妃喜久子さまや常陸宮妃華子さまも熱心に足を運んでいた。 ◇ 愛子さまは、成年皇族として初めての記者会見に臨んだ  2011年の東日本大震災で皇室は、栃木県の那須御用邸のふろを近隣の避難者に開放。秋篠宮家の紀子さまと当時内親王だった眞子さん、佳子さまは被災者が使うタオルの袋詰め作業をした。同年夏に眞子さんは名前を伏せ、学生ボランティアとして岩手県と宮城県へ足を運んだ。子どもらの心のケアにあたり、「まこしー」と呼ばれていた。  コロナ禍が始まった20年には、秋篠宮ご一家と職員が市販のビニル袋を加工した手作りのガウン500着を医療現場に贈った。医療現場で防護服が不足し、職員がごみ袋を加工してしのいでいるとの説明を受けたことから、この作業が始まったという。  愛子さまも今年3月に行なわれた成年皇族の記者会見で、東日本大震災の復興支援に携わる友人を通じて「災害ボランティアにも関心を持っております」と話している。  地道に医療・人道活動を支える精神は、若い皇族方にも受け継がれている。 (AERAdot.編集部 永井貴子)
「不妊治療の弱音を吐けない」男性の孤独 親や親友、妻にすら本音で相談できない
「不妊治療の弱音を吐けない」男性の孤独 親や親友、妻にすら本音で相談できない 写真はイメージ(GettyImages) 不妊治療は、妊娠出産の当事者である女性が主体となるものの、その陰でパートナーである男性が悩みや葛藤を抱えるケースが少なくない。妻にも本音が言えぬ中、プレッシャーで追い詰められてしまう例もある。そうした中、妊活の大きなハードルにもなっているのが、ここ10年で増えている男性特有の“ある症状”。不妊治療の今を探る短期集中連載「不妊治療の孤独」第2回目は、誰にも悩みを打ち明けられない男性側の本音に迫る。 *  *  *  東京都在住の会社員、Aさん(41)。2歳年下の妻と不妊治療に奮闘し始めて、5年になる。8年前、Aさんが33歳、妻が31歳の時に結婚。結婚して3年ほどが経ち、「そろそろ」と考えてタイミング法を試みるも、1年半経ってもなかなか妊娠しない。そこで夫婦ともに一通りの検査を受けたが、互いに「異常はない」と言われた。 「このままタイミング法をもう少し続けるか、次のステップである人工授精に進むか、どうしますか?」  医師からこう投げかけられ、夫婦はしばらく悩んだ。ともに「なるべく自然に授かりたい」という思いが強く、できることならタイミング法で授かりたい。だがその頃、タイミング法を試みても、Aさん側の問題から、性交渉がうまくいかないことが増えてきていた。  平日にAさんが仕事を終えて帰宅するのは、夜10時を過ぎることが多い。多忙な業務を抱え、終電で帰る日も月に4~5日はある。妻も仕事を持ち、フルタイムで働いているが、排卵日近辺の“タイミング”の日には、互いに「早めに帰ろう」と努める。  しかし、Aさんは仕事の都合で、どうしても遅くなる日が続いた。仕事から疲れて帰宅し、お酒を飲んでしばし休息したいところだが、妊活中の妻も禁酒を続けている手前、自分だけは飲みづらい。 「体調を整えるためにも、ちゃんと睡眠時間を取りたいから、早めにお願い」  と、妻に急かされて臨むも、もはや事務的な“作業”のように感じてしまう自分がいる。加えて「今日は外せない日」ということや「最後まで成功させなければ」という思いがプレッシャーになり、途中でうまくいかなくなることが続いた。  タイミング法のプレッシャーを緩和させる目的で、シリンジ法も何度か試した。「ここは感情抜きにして、割り切ろう」と二人で話したが、妻と別の部屋でマスターベーションをし、精液をカップに入れて届ける時、妻の表情はどこか複雑そうにも見えた。  妻のことは愛しているが、どうしても同じ屋根の下で日々を過ごす中で、家族という感覚が強まってくることは致し方ない事実だ。交際時や新婚当初の頃とは、性的な欲求も薄まっていることは夫婦ともに感じていた。だが、子どもを持ちたいなら、そしてなるべく“自然に”授かりたいなら、そんなことは言っていられない……。 「自分のせいで妻を傷つけているかも」「どうしたら良いのか」と悩む日々が続いた。プライベートも職場も含め、自分の周りにいる男性から、不妊治療に臨んでいるという声は聞いたことがなかった。   自分の中で、不妊治療はどこか、女性側に何らかの問題があるものと感じていた。男性側に問題があって治療をするという話は、耳にしたことがなかったのだ。「途中でできなくなる」なんていうことが、治療の対象になるのかも分からないし、何より恥ずかしくて情けなくて、口が裂けても言えないと思った。  それだけに、友人や親はおろか、妻にも本音では相談できず、一人で悶々と悩む日々。子を持つ男友達と会うと、「こいつは、奥さんを“お母さん”にさせてあげられたのに、俺は……」と、ブルーな気持ちに拍車がかかる。自分の父親に対してすら、自分にできないことを達成しているように見え、“男”として自分より優位に立っているように感じた。 「何か頼りになる情報を」とネットを見るも、溢れかえる“セックスレス”というワードの一言で片付けられる問題でもなければ、不妊治療という言葉もどこか遠い存在に思えた。その狭間で揺れる思いを、どこに持っていけば良いのか分からなかった。  だから妻が医師の言葉に対して「人工授精に進みたい」と言った時、どこか救われたのも事実だ。ところが人工授精を6回繰り返しても妊娠しない。病院にはなるべく付き添って行きたい思いはあるが、仕事を考えるとなかなか難しく、妻一人で病院に通う日々が続いた。 写真はイメージ(GettyImages)  排卵のタイミングはあらかじめ予定が立てられないことから、医師から指示のあった日に頻繁に病院に行かなければならず、急に仕事を休まざるを得ないことも妻のストレスになっていた。加えて排卵誘発剤を打つ注射の痛さ、内診を重ねる辛さ、頑張っても全く結果が出ない苦しみ――次第に憔悴していく妻を前に、「自分は何もできない」と思えてもどかしかった。治療の主体はあくまで妻であり、自分は妻が抱える葛藤や苦しさの半分も分からないと思った。  Aさん夫妻は今、体外受精に臨んでいる。体外受精が4月から保険適用になったことも後押しになった。だが体外受精は人工授精より体への負担が大きいこともあり、妻は病院から帰るとぐったりして横になることが続いている。 「不妊治療について、妻が弱音をこぼすことはあっても、自分が弱音を吐くことは許されないと思っています。妻がこれだけ頑張っているのに、とても弱音なんて言えない。そりゃ男である自分なりの辛さは、もちろんあります。でもそれを口に出して話せる相手はいません」(Aさん)  不妊治療の主体は、妊娠、出産をする女性であるのは揺るぎない事実だ。だがその陰で、パートナーである男性の心が置き去りにされがちな実態がある。 「不妊治療において、パートナーである男性が葛藤を抱えてしまうことはある。非常にデリケートな問題だからこそ、周囲に悩みを言えず、頑張っている奥さんにも本音を言えないというのが実情だと思います」  不妊外来で多くの患者と接している千村友香里医師(さくら・はるねクリニック銀座)はこう話す。不妊治療中の女性は、ホルモン剤の影響などもあり、イライラしたり落ち込んだりを繰り返すなど、精神的に不安定になってしまうことも少なくない。そうした妻を前に、「どう接したら良いのかが分からない」という戸惑いの声も聞かれる。不妊体験者を支援するNPO法人Fineを立ち上げ、不妊体験者をサポートする活動を行う松本亜樹子さんも、治療中の男性の孤独についてこう指摘する。 「不妊についての悩みは、女性以上に男性の方が周囲に話せないというストレスを抱えがち。治療中に妻とのコミュニケーションがうまくいかなくなって悩む人も多い。男性が葛藤を抱えても、それを話す先がなく、追い詰められてしまう人もいます」  性機能障害による男性不妊も増加傾向にある。 「子どもを持ちたいのに、性交がうまくいかないという悩みを持った男性が多くいらっしゃいます」  とは、男性不妊外来で、日頃から多くの男性患者と接している辻村晃医師(順天堂大学医学部附属浦安病院)だ。男性不妊外来には、冒頭のAさんのように妻との性交渉がうまくいかないことや、タイミング法のプレッシャーに悩む男性の声が多く聞かれるという。  いわゆる“年齢の壁”が、女性だけではなく男性にも存在すると知られるようになったことも、男性の妊活への焦りを助長させているかもしれない。卵子の老化によって妊娠率が低下することは広く知られているが、最近、男性も加齢とともに元気な精子数が減少することが知られるようになった。晩婚化の影響により、結婚前にすでに精液所見が悪化している男性も増えているそうだ。辻村医師は言う。 「これから子どもを作ろうとしている人が受けるブライダルチェックを受診した男性の調査からも、精液量や精子数の減少、精子運動性の低下がそれぞれ約10%認められただけでなく、驚くべきことに1.8%で無精子症が認められました。さらに、妊活前の時点ですでに精液所見に何らかの問題が見られる男性が約25%認められました」  辻村医師の男性不妊外来で特に目立つのが「膣内射精障害」だ。その名の通り、マスターベーションでは射精に至るが、性交渉の際に膣内では射精ができない症状だ。冒頭のAさんも同様の症状にあたる。辻村医師は言う。 「ここ10年で、男性の膣内射精障害がかなり増えていることを実感します。妊活中の男性からは、“妻に対してできない”という声や、タイミング法で性行為を義務付けられること、膣内で射精しないといけないということが大きなプレッシャーになり、追い詰められた状態になって不妊外来に駆け込んでくる人が少なくない」  膣内射精障害による男性不妊の悩みを持って辻村医師の元を訪れるのは、20代後半~40代前半の男性。1年ほどタイミング法を試したものの妊娠しないことから、医療機関を受診する流れに至るケースが多いという。  膣内射精障害の背景には大きく二つの要因があり、一つはネット動画など、性的に刺激の強いコンテンツが氾濫し、過激な刺激に慣れ過ぎてしまっている傾向があること。そして思春期からの誤ったマスターベーションの方法に慣れてしまい、膣内の刺激に反応しないことも要因の一つと言われる。  恋愛観や性欲の低下も、現代人の特徴の一つと挙げられて久しい。2020年にリクルートブライダル総研が行った調査によれば、20代から40代の未婚者において、恋人がいない人の割合は約7割。さらに20代男性に絞ると、一度も交際経験がない人の割合は約4割に上る。辻村医師は言う。 「現状では射精に対する特効薬は存在しないことから、治療法は地道なトレーニングが主。具体的にはマスターベーション方法を修正し、適切な刺激で射精できるよう専用の器具などを用いて膣内射精のトレーニングをします」  行動療法によって少しずつ慣らしていくという意味では、この短期集中連載の第一回目の記事で紹介した実例の女性の挿入障害と同じだ。 「ただ、これだけ生殖医療が発達している今、“何が何でも膣内射精ができるように”とこだわる人は少なくなってきている印象もあります」(辻村医師)  いわば性交をせずとも、他の方法で妊娠を目指すことが可能な時代。自然妊娠にとらわれず、効率的に目標に向けて動こうと考えるカップルも少なくない。 「子どもを望むなら、自然妊娠へのこだわりが思わぬハードルになることもある」  産婦人科医の宋美玄医師(丸の内の森レディースクリニック)はこう指摘する。妊娠出産はカップルで臨むことから、どちらかの自然妊娠への志向が強いあまりに、不妊治療に足踏みする例も少なくない。 「普段から性交しているわけではないけれど、子どもは欲しい。でも“不妊治療までして授かりたくない”という人は多い。しかし、それではなかなか妊娠しないままに時ばかりが過ぎてしまいます。もちろん、子どもを持たない選択もあるというのが大前提の上で、それでも妊娠を望むなら、自然妊娠へのこだわりから離れてみることも大切では」 「子どもは自然に授かるべきもの」と思い込み過ぎると、時に自分たちを追い詰めてしまうことにもなるかもしれない。  ところが、この“自然派信仰”に、当事者を取り巻く人々がとらわれていることで、思わぬ事態に追い込まれる場合もあるという――。(次の記事に続く) 【短期集中連載第1回はこちら】 前編:「妊活したいけど1回も性交していない……」結婚6年目夫婦の他人に言えない深い悩み 後編:年々増加する「セックスレス妊活」 性外来の医師が指摘する深刻な課題とは
天龍さんが語る“都会と地方” 地方会場の過酷なトイレ事情!外国人レスラーは野原に消えた
天龍さんが語る“都会と地方” 地方会場の過酷なトイレ事情!外国人レスラーは野原に消えた 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「都会と地方」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。 *  *  *  いろいろなコンサートやショービズが行われる都会と、年に何回かのイベントしかない地方を比べると、プロレスの試合ではやっぱり温度差があるね。都会での試合だと、パッパッパと技の応酬があって、それがビタっと決まると「おー!」と歓声が上がるけど、地方はイスでぶん殴ると「おー!」だ。都会の会場では蹴りがバチーンと入ると「おー!」だけど、地方では、いくらいい蹴りが決まっても「牛がぶつかる音とか、雪崩の方が迫力あるよ」と言われると太刀打ちできないよ。  ただ、不思議なことに地方の会場でも時間が経つと、お客さんも試合に引き込まれて、阿吽(あうん)の呼吸で応えてくれるようになるんだ。俺がプロレスで一番大切にしていたことは、力いっぱい相手とぶつかり合うこと。それをやっていれば5分、10分経つと必ず客に伝わる。最初は付き合いでチケット買わされて「プロレスなんて面白くねぇよ」という態度でふんぞり返っているような人が、そのうちに前のめりになって見入っていたりね。そんな姿をリングの上から確認しては「よしよし。しめしめ」と思ったもんだ。  昔は地方に行くと、いつもは2時間の大会が、1時間半で終わったなんて話しはよく聞いていたけど、俺はことさら頑張って、2時間きっちり持たせるようにする。そのおかげでレスラーからはひんしゅくを買っていたよ(苦笑)。その代表格がジャンボ鶴田だ。俺が意地になって、必死こいて向かっていっても「はいはい、源ちゃん、わかったから。もういいよ~」だもんね。 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)■新シリーズ『WRESTLE AND ROMANCE』vol.5 /2022年8月17日(水)OPEN18:30/GONG19:00/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/前売りチケット※当日券は500円UP▽特別リングサイド6,500円・指定席5,500円/天龍project…https://www.tenryuproject.jp/product/531 配信はhttps://tenryuproject.zaiko.io/item/347261  ジャンボはからだが大きいぶん、なんでもしのげちゃう。逆に俺が本気になって行かないとなかなか真正面から戦ってくれなかったからね。俺が意地になって向かっていったのは、地方の人にジャンボの強さや凄さをもっと見てもらいたいという気持ちもあったからだ。  そんなジャンボも、テキサスでの修行が長かったもんで、すっかりカウボーイスタイルに染まってしまってね。あるとき、ニューヨークで試合があるから、先に団体のオフィスにあいさつに行ったんだ。普通ならスーツで行くもんだけど、カウボーイブーツでベルトに大きなバックルつけて「ハーイ!」なんて入っていっちゃったんだって。「あのときはひんしゅくを買ったよ(笑)」って言ってたっけ。俺もそうだったけど、テキサスにいるとカウボーイスタイルがカッコいいと思っちゃうんだよね。  テキサスは田舎だけど、そんな土地を地元の人は愛していてね。ドリー・ファンクとテリー・ファンク、彼らのお父さんのファンク・シニアは自分たちが生粋のテキサス人=テクサン(Texan)であることを誇りに思っているんだ。牛を飼ってカウボーイとして生き、牛や馬の糞が転がっているような場所でレスリングをして、泥まみれになって戦って雌雄を決するのがカッコいい。なんでも競争して男を決めるのがテクサンだ。  一方でニューヨークやサンフランシスコをテリトリーにしているレスラーは身なりも都会的だ。特にレイ・スティーブンスは、俺が会ったときはおっさんだったけど、本当にセンスがよくて試合もすごく上手くてカッコよかったよ。中でも一番いいかっこうをしているのがニューヨークをテリトリーにしているレスラーで、ハルク・ホーガンはその代表格だ。  1992年か93年頃、ホーガンがプロスポーツの長者番付に載って、みんなのプロレスラーを見る目が変わっていったよね。俺もニューヨークでホーガンが飛行機のファーストクラスから降りてくるところを見て、やっぱり本物だって思ったよ。飛行場にも迎えの車がきてさ、格が違うね。プロレスはキツイわりに稼げないってイメージをホーガンがガラリと変えた。それまでプロレスで何億円も稼ぐヤツはいなかったもんな。俺もいっときSWSにいたときはそうだったよ。非難轟々だったけど(笑)。俺もみんなに“プロレスは稼げる”という夢を与えたんだよ!  日本だと小川良成も三沢光晴も川田利明もデビューしたてはみんな田舎臭いけど、2~3年経つと色気づいてカッコよくなっていくんだよ。最初からカッコよかったのは、中邑真輔くらいじゃないか。彼は初めて見たときからセンスがよくてスタイリッシュだった。青山学院でアマレスをやっていて、それからプロレスに入って、WWEで活躍するんだから大したもんだよ。アメリカはチャンスをくれるし、スターになれる可能性があるね。新日本プロレスも若手を抜擢するけど、全日本プロレスは段階を踏んでステップアップするしかないから、なんか泥臭いんだ(笑)。いい悪いは別にしてね。全日本の方が、長年見ているファンからしたら安心感もあるだろう。  新日本では武藤敬司もプロレス自体は昭和のスタイルを引きずっているけど、フレッシュ感があって、一気にスターになったね。上にいた長州力たちが抜けて、武藤、橋本真也、蝶野正洋がスポットを浴びて、生き抜いて、大きな新日本を引っ張ってきたんだからすごいよ。蝶野もちょっと変わっているよね。帰国子女だからか、考え方がスマートというか、プロレスも新日本もビジネスとして割り切っている。それは中邑や武藤にも共通しているかな。俺たち相撲上がりはどうしても泥臭いんだよね。もともと力道山関が作ったものだから、俺たちには色濃く受け継がれたけど、逆にそれが無くなった時代に入ってきた人は、はつらつと見えるんだろうなぁ。これからは武藤と蝶野にゴマすっていくか。  話しは地方に戻るけど、地方のよさは人間がフレンドリーなところだね。人と人との距離が近いし、自分のこととまでいかないけど、親類縁者のようにこちらのことを考えてくれる。都会だと「天龍源一郎」と言ってもシレっとしているけど、田舎だと「おお! 天龍だ! 頑張れよ!」とか「天龍さん、昔どこそこの会場に試合を見に行ったんですよ!」って、すぐ声をかけてくれる。それが励みにもなるし、俺も頑張らなきゃなって思ったもんだ。最近では都会でちょっと有名より、田舎で有名な方がいんじゃないかって思うようになって、代表(娘の紋奈さん)には「地方のテレビ番組の仕事をとってきて」とお願いしているんだ。これからは地方に活路を見出すかな(笑)。  地方でプロレスの試合をすると、切実な問題がある。それがトレイ問題だ。地方の体育館で試合をすると、そもそもトイレの数が少なくて、選手と会場に来ているファンが同じトイレを使うことがザラだ。ジャイアント馬場さんがトイレに行こうものならファンがついて来ちゃって落ち着いてできない。だから馬場さんはいつも便秘になっていたんだ。ホテルで大きいのが出ると「一週間ぶりに出た。ああ、スッキリした」とよく言っていたよ。  一度、地方の会場のトイレで大熊元司さんが入ってくるなり「臭えな! 誰だよ、クソしてんのは!?」って言ってね。そしたら個室から馬場さんに「俺だよ、クマ。この野郎」って言われて、大熊さんは大慌てで「すみません!!」って謝って、用も足さずに出て行っちゃった(笑)。  地方では体育館だけでなく野球場でも試合をすることがあって、こっちのトイレ問題も大変だ。特に外国人レスラーはトイレがどこにあるかわからず、ジプシー・ジョーが「トイレが無い」といって野グソしたことがある。野球場の外の原っぱで済ませて立ち上がったジプシー・ジョーの姿を見つけたファンの子どもたちが「なにしてるの~?」と着いて行ってね。ジプシー・ジョーは怒って子どもを追いかけまわしていたよ。今でも野球場の外をウロウロしている彼の姿を思い出す(笑)。  俺も2015年の引退試合の前の試合が、地方の古い体育館でね。選手も客もトイレに入り乱れて大変だったよ。まあ「これが地方巡業だよな」って、最後の最後に初心に返ったことを覚えている。レスラーにとってトイレ事情はとても重要な問題だと分かってくれたかな? って、こんな話、日曜の朝から見たら、みんなに顰蹙買うだろ!?(笑) (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
安倍晋三氏は「神輿」に乗った右派のプリンス ジャーナリスト・青木理が迫る実像
安倍晋三氏は「神輿」に乗った右派のプリンス ジャーナリスト・青木理が迫る実像 左から安倍晋三元首相、晋三氏の父で元外相の安倍晋太郎氏、晋三氏の祖父で政治家の安倍寛(かん)氏  安倍晋三元首相の銃撃事件は多くの人に衝撃を与えた。晋三氏の父方の系譜をたどった『安倍三代』の著者でジャーナリストの青木理さんとともに、「三代目世襲政治家・安倍晋三」の実像に迫った。AERA 2022年8月15-22日合併号の記事から紹介する。 *  *  * ──安倍晋三氏の国葬に反対する意見の一つに、政治家としての評価が定まっていない、との指摘があります。晋三氏をどう評価していますか。  私は政治記者ではありませんから、晋三氏が政界をどう遊泳し、自らの政治姿勢をどう固めたかは知りません。ただ、政界入りするまでを知る何十人もの同級生、友人、恩師、上司、同僚らに会って話を聞くとひどく凡庸で飛び抜けたところのない「いい子」。たまたま名門世襲政治一家に生まれたお坊ちゃまにすぎず、そうでなければ政治家になることもなかったでしょう。実際、小学校から大学、そして“政略入社”した会社員時代を含め、彼が政治家を志すに至ったと捉え得るようなエピソードは皆無でした。『安倍三代』で描いた通り、祖父寛氏や父晋太郎氏にはエピソードが詰まっていましたが、取材を尽くしても晋三氏には一切ない。それどころか政界入りするまでの段階で、右とか左とかの以前の話として、彼の口から政治的な話を聞いた人自体が一人もいないのです。ある意味、ゾッとするほど空っぽでした。 ■右傾化する時代の気配、風をとらえ巧みに乗った ──晋三氏は小中高、大学まで東京の成蹊学園でエスカレーター式に進学。就職も「政略入社」。政治家になった後も、右派政治家や宗教右派の神輿に乗ってきた人という印象があります。  彼自身がどう考えていたかはともかく、右派にとっては恰好(かっこう)の神輿(みこし)だったでしょう。私の取材に応じた妻昭恵氏は、夫が首相に上り詰めたことを「天のはかり」「天命」といった独特の表現で評してましたが、戦後日本の右派政治に大きな足跡を残した岸信介の孫という圧倒的ブランドをまとって名門政治一家に生を受けた彼を、政界内外の右派はプリンスとして育てた。ひょっとすれば彼自身、右傾化する時代の気配を読んでそれをあおり、巧みに乗った面もあったのかもしれません。 静養中、旅館の庭園で孫の安倍寛信(安倍晋太郎の長男)、晋三(次男)両氏とコイにえさをやる岸信介首相(当時)=1957年7月 ──晋三氏が日本を右傾化させたのか、右傾化した日本社会の神輿に晋三氏が乗ったのか。  双方でしょう。僕の取材体験を重ねあわせれば、2002年に史上初めて行われた日朝首脳会談は、政治家としての彼と戦後日本の大きな転機になりました。故金正日(キムジョンイル)総書記が日本人拉致の事実を認め、謝罪した。このときソウルで取材していた私に先輩記者が漏らした台詞(せりふ)は印象的でした。「中国や朝鮮半島との関係の中で、日本が戦後初めて“被害者”になったな」と。つまり、戦後一貫して加害者として謝罪や反省を求められた日本の立ち位置が変わった。もちろん拉致は断じて許されざる国家犯罪とはいえ、それに手を染めた北朝鮮はいくら罵(ののし)っても構わない対象となり、同時に戦後も一貫して燻(くすぶ)っていた朝鮮半島への差別心なども噴き出した。「いつまで謝罪を求められるんだ」という鬱屈(うっくつ)に歴史修正主義的な風潮までが一挙に噴出するバックラッシュ現象が起きたのです。  その対象は直ちに韓国や在日コリアンにも広がり、マンガ『嫌韓流』の発刊が05年、在特会(在日特権を許さない市民の会)の出現が06年。その契機になった会談と以後のムードに乗って晋三氏が政界の階段を一気に駆け上ったのは象徴的でした。彼が右傾化をあおった面は間違いなくあるけれど、彼自身が時代の風を捉え、それに巧みに乗ったともいえるというゆえんです。 ■戦後の歴代内閣の約束事、片っ端から破壊した ──『安倍三代』を取材、執筆されたのは安保法制の議論がピークのときでしたが、その後、晋三氏に対する評価で変わった部分はありますか。  変わりません。今回のような形で亡くなったのは痛ましくても、それと政治家としての評価は別です。特に僕が問題視しているのは、戦後の歴代政権がかろうじて堅持してきた大切な約束事を片っ端から破壊した点です。  いわゆる安保法制でいえば、公権力の行使者を縛る憲法の解釈を一内閣の閣議決定でひっくり返した。その過程では、内閣法制局長官を自らに都合のいい人物にすげ替えた。政府からの独立性が求められる日銀総裁やNHK会長などもそう。そして国権の最高機関たる国会では百何十回も嘘(うそ)をつき、少数派でも一定の有権者の支持を得て議席を占める野党を「悪夢」などと罵り、権力監視が役割のメディアを露骨に選別し、敵とみなしたメディアには陰に陽に圧力をかける。挙げればキリはありませんが、歴代の政権がかろうじて堅持してきた民主主義の矜持(きょうじ)を次々なぎ倒して平然としていた。その罪はあまりに重い。 ──『安倍三代』でインタビューに応じた、成蹊大学の宇野重昭・元学長が同様の指摘をしていますね。教え子の一人だった晋三氏について「はっきり言って彼は、首相として、ここ2、3年ほどの間に大変なことをしてしまった」と語り、安保法制に関しては「憲法解釈の変更などによって平和国家としての日本のありようを変え、危険な道に引っ張り込んでしまった。国民も、いつかそう感じる時がくるでしょう」と述べています。台湾有事が話題になっていますが、安保法制に基づく「存立危機事態」が適用されるようなことがあれば、そのとき国民は晋三氏の負の遺産を思い知ることになるのでしょうか。  ええ、アベノミクスなる経済政策なども同様でしょう。これは安倍政権だけの責任ではないものの、長期の経済低迷から抜け出せず、産業構造改革もイノベーションも起きないまま、ひたすら金融緩和に突き進んで日銀は国債を膨大に抱え込んだ。各国の中央銀行が利上げに舵(かじ)を切り、円安が急進展しても日銀が動かないのは、もはや手足を縛られて動けないのが実態でしょう。やってる感だけは振りまいて何の成果もなかった対ロ、対北外交などを含め、安倍政権には誰もが認める政治的遺産などないというのが実情です。 (構成/編集部・渡辺豪)※AERA 2022年8月15-22日合併号より抜粋
元自衛官・五ノ井里奈さんが議員からのヒアリングで性被害を告白 長妻昭議員「一気に膿を出して真っ当な自衛隊へ」
元自衛官・五ノ井里奈さんが議員からのヒアリングで性被害を告白 長妻昭議員「一気に膿を出して真っ当な自衛隊へ」 8月10日、立憲民主党議員らによるヒアリングで性被害の状況を告白した五ノ井里奈さん(撮影/岩下明日香)  立憲民主党は8月10日、自衛隊内で受けた性被害について第三者委員会による公正な調査を求めている元自衛官の五ノ井里奈さん(22)からヒアリングを行い、防衛省人事教育局服務管理官等と非公開の意見交換を実施した。議員からは「軽い懲戒処分でお茶を濁すことはあってはならない」と、防衛省に厳正な対応を求める声が上がった。 ※AERAdot.はその被害について、7月14日に配信した記事<<22歳元女性自衛官が実名・顔出しで自衛隊内での「性被害」を告発 テント内で男性隊員に囲まれて受けた屈辱的な行為とは>>で詳報している。 *  *  * 「複数の男性隊員が見ていて恥ずかしくて、嫌だったので抵抗したのですが、男性隊員の力にはかないませんでした。もう逃げられないと思ったので、諦めて、ただ終わるのを待っていました。その時、横にいた上司2人は(その様子を見て)確実に笑っていました……」  五ノ井さんは、集まった多くの議員やメディアの前で、2021年8月3日の訓練中に受けた性被害の状況を、そう告白した。  今回のヒアリングでは被害後の自衛隊側の対応について話した。まず、被害後、自衛隊の総務・人事課にあたる「一課」に報告。一課長が部隊に対して取り調べをしたところ、「(21年)8月の件については証言が出てこなかった」とされたものの、「今までのセクハラの件については証言があった」と、日常的なセクハラを認めたことを五ノ井さんは明かした。その後、五ノ井さんは、警務隊に強制わいせつ事件として被害届を提出し、9月18日に人形を使った現場検証を行った。 セクハラの最中に五ノ井さんが女性隊員に助けを求めたLINE。画像の一部を加工しています(本人提供)  五ノ井さんはこう話す。 「この時、『訓練があるので、すぐには該当の人物には取り調べができない』と警務隊に言われ、(捜査が)1カ月ほど長引いていました。その1カ月だけでも、記憶が段々薄れていくと思いました」  検察庁から結果の知らせが来るのを待っていたが、連絡は来なかった。時間の経過だけでなく、事件として立件されているのか不安が募った五ノ井さんは、22年4月に検察庁に連絡した。 「いつ書類送検されたのかを聞くと、『今年(2022年)に入ってから』と言われました。検察官からは、『五ノ井さんの証言は正しいと思うけど、もし(部隊の)20人が見ていない、やっていないと言ったら、難しくなってくる』とも言われました」(五ノ井さん) 先輩女性隊員の「嘘をついている」との発言に不信感を抱く五ノ井さんのLINE。画像の一部を加工しています(本人提供)  そして5月31日、嫌疑不十分で関係者は不起訴処分になった。五ノ井さんは追加の証拠を伴い、6月7日付で検察審査会に再審査を申し立て、現在その結果を待っている。  ヒアリングのあとの質疑応答では、ハラスメントの相談窓口が自衛隊にあるかを問われた。  五ノ井さんによると、入隊してすぐに受ける前期教育では専門家によるセクハラ・パワハラに関する教育があり、相談窓口もあることを知っていたという。  だが、五ノ井さんは、被害を相談しなかった。 「理由は、(相談しても)動きが遅いから機能しないということを、周囲から聞いていたので、被害にあった時に相談しようとは思いませんでした。自衛隊は上下関係の社会なので、下の階級は順序通りに、一つずつ上の階級に報告しなければなりません。階級を飛び越えて、上に相談すると、後から問い詰められます。結局、部隊の中で、一つ上の階級の人に言ったところで、揉み消されて終わってしまいます」(五ノ井さん) 立憲民主党の長妻昭議員と岡本あき子議員(撮影/岩下明日香)  ヒアリングを行った立憲民主党・長妻昭議員は、7月に2回、防衛省に対して厳正な調査を文書で要請していた。防衛省人事教育局服務管理官からの回答には、「本件につきましては、部隊において揉み消しを行っているなどの疑いも指摘されていることから、客観性・公正性を確保するため、当該部隊ではなく、その上級部隊において調査を行っています」とあった。  この回答について、長妻議員は言う。 「防衛省の文書に『揉み消し』と書いてある。これは非常に深刻だと思います。危惧されるのは、懲戒処分にもいろいろな段階があり、軽い懲戒処分を年明けくらいに出して、それでお茶を濁すこと。これは絶対にあってはならないと思います」  五ノ井さんの告白後、同様に被害にあっている自衛隊員からも声が上がってきていることを受け、長妻議員は「ここで、一気に全部の膿を出し、まっとうな組織に変える思いで取り組んでいきたい」と語気を強めた。弁護士を含めた第三者委員会による調査を行い、自衛隊内に蔓延るハラスメント被害の全容を明らかにしていくべきだと、訴えた。  外交防衛委員会の小西洋之議員は、防衛省に「性暴力委員会」を設置するなど、再発防止策について検討したいと話した。 10日に開かれたヒアリングの様子(撮影/岩下明日香)  最後に、五ノ井さんは「自衛隊を批判したいわけではない」として、ヒアリングの場にいた防衛省の担当者にこう投げかけた。 「私は東日本大震災に遭い、陸上自衛隊の方に助けていただいたことを本当に感謝しています。だからこそ、こういう被害を経験して、本当に残念でした。このままでは、また同じ被害者が出ると思います。かつて同じ中隊で働いていた女性隊員が、今でも私と同じように被害にあっているという証言が出ています。第三者委員会による徹底的な調査と、厳正な処分、謝罪を望みます。もっと女性隊員が安心して勤務できる環境を作って欲しいと思います」  第三者委員会による公正な調査を求めるオンライン署名(Change.org)は、67903人(8月10日時点)集まり、賛同の輪が広がっている。署名は8月末まで集め、防衛大臣に提出する予定だ。署名と同時に「自衛隊内におけるハラスメントの経験に関するアンケート」も実施している。9日までの中間結果では、自衛隊に所属した経験がある人がハラスメントを受けた件数は99件だった。そのうち59人は女性で、8割以上がセクハラおよびマタハラを受けたと回答した。  Change.orgによると、ハラスメントの具体例は60人以上から自由記述による回答があった。一部を抜粋する。 「2019年頃、2年間だけ陸上自衛隊でした。入隊してすぐの訓練で日本酒を一気飲みさせられました。『上司からもらったお酒を残すな』と言われました。その時、私は18歳でした」(20代、陸上自衛隊、女性) 「妊娠初期の頃、当直勤務をしていたのですが、上司から『妊娠しても5カ月までは当直についてもらわないとね』と言われました。4日間の当直勤務明けに体調が悪くなりました。その影響でメニエール病を発症し、今でも治療を続けています」(20代、陸上自衛隊、女性) 「防大の指導官に、任官の不安を相談した際に『自衛隊は男ばっかりだから、より取り見取りだぞ。たくさんやって、いい男を見つけて子どもを産めばいいぞ。女は使えないけど、チヤホヤされるからとりあえず任官してみろ』と言われた。また、寝室に侵入され、下着を盗まれた際には、盗まれるような思わせぶりな態度をとるのが悪いと言われた」(20代、防衛大学校、女性) ヒアリングで性被害の状況を告白した五ノ井里奈さん(撮影/岩下明日香) 「2014年頃着隊して、初めての泊りがけの宴会で、男性先輩方が盛り上がり、浴衣を脱がせ合う流れになり、『お前も脱げよ』と腕を引かれて、やり玉にあげられそうになった。私が持参していたカメラで、いつの間にか男性隊員たちがお互いを取り合っていた。データは絶対に見たくなかったので、当時の先任に渡して消去してもらった」(20代、航空自衛隊、女性) 「PKOの参加希望について先輩と話した時、『お前みたい(背が低くて力が無い)のは、性処理要員にしか使えないから無理(笑)』と言われ、フォローのつもりか『PKOに連れて行くのは、間違いがないようにブスしか連れていけない(笑)』などと言われたことがある」(40代、航空自衛隊、女性) 「私は男性ですが、隊内浴場で同性愛者の男性に身体の関係を持ち出されました。他にも、浴場で身体を洗っている時に同じ小隊の男性自衛官に陰部を身体に押し当てられました。その時は、嫌とは言えず、笑って誤魔化しましたが、いま考えるとありえないことだし、自衛隊はチームワークが大切なので、こんなことあってはならないです」(20代、陸上自衛隊、男性) 「後期教育隊で、清掃の時間に班長に清掃終了の確認をお願いしたところ、『指摘事項が見つかったら、1枚ずつ服を脱げ。脱ぐ服が無くなったら、下の毛を班員に抜かせる』と言われました。指摘事項が服の枚数を超えたため、それが実行されました」(20代、陸上自衛隊、男性)  五ノ井さんの勇気ある告発は、多くの被害体験者に声をあげることを促しただけにとどまらない。この先、高い志を持つ有能な隊員や、将来のなり手を守ることに、大きく貢献するはずだ。(AERA dot.編集部・岩下明日香)
安倍元首相の国葬をしている場合ではない 祖父・岸信介から継ぐ家業としての政治の膿を出し切るべき
安倍元首相の国葬をしている場合ではない 祖父・岸信介から継ぐ家業としての政治の膿を出し切るべき 安倍元首相が銃撃されて1カ月が経った現場付近 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、旧統一教会と政治のつながりについて。 *   *  * 「あの統一教会系合同結婚式に祝電 安倍晋三とのただならぬ関係 次期首相にふさわしいのか!」週刊朝日2006年6月30日号の記事。この3カ月後に首相になる51歳のまだ若い安倍さんの顔写真が、統一教会の合同結婚式の写真(イメージ)と重なって写っている。記事の本文はこんなふうにはじまる。 「会場には8千人余りが詰めかけ、盛大な拍手が鳴り響いた。司会者らしき男性がステージに立ち、誇らしげに名前を読み上げた。『祝電がいっぱい届いておりますが、その中から数個ご紹介を申し上げます。岸信介元総理大臣のお孫さんでいらっしゃり……』と紹介されたのは、ポスト小泉の最有力候補で、いまをときめく安倍晋三内閣官房長官(51)である」  記事は、旧統一教会を母体とした天宙平和連合(UPF)の会合を取材したもので、自民党のなかには選挙で統一教会の支援を受けたり、秘書を派遣されたりしている議員がいることにも触れている。影響力のある政治家が、被害者の多い宗教団体の広告塔の役割を果たすことを疑問視する記事で、当然、統一教会と岸信介氏との関係についても言及されている。 「統一教会」と、新聞雑誌記事データベースを検索すれば、数千もの記事がヒットする。そのほとんどが信者や信者の家族の被害を訴えるものだが、なかには、この週刊朝日の記事のように、自民党議員とのつながりを指摘する記事もいくつも出てくる。1992年には金丸信氏が、文鮮明教主の入国のために法務省に圧力をかけた疑いが報じられ、元信者が自民党議員の選挙応援にかりだされたことを証言している。1986年には、岸信介氏ら、自民党議員が中心となった「国家秘密法」の制定運動に、統一教会が母体の国際勝共連合が莫大な資金援助をしていたことも、大きく報じられていた。 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表  みんな、うすうす気が付いていた。本当はどこかでわかっていた。それでも決定的に追いつめ、膿(うみ)を出し切ることまでできなかった。今、大変な勢いで、旧統一教会と自民党議員らとの長い蜜月が明らかになりつつあるが、本来ならばもっと早く、強く、深く、メディアが追いつめるべきことだったのではないかと悔やまれる。膿を出し切っていれば日本の民主主義がこれほど危うくなることもなかったかもしれず、そもそも安倍さんも死ぬことなどなかっただろう。  安倍さんの死からちょうど1カ月が経った。2年前に静岡・御殿場の虎屋のカフェに行ったことを思い出す。もともとは1969年に岸信介氏の自邸として建築されたものだ。5700平米の敷地に、当時、岸家が暮らしていた屋敷がそのまま残されている。水面がきらめく池、様々な樹木が完璧に配置された美しい庭園の豊かさに圧倒されたものだ。私は友人たちと、「この庭で安倍さんは遊んでたんだね」と話しながら庭を散策していたのだが、一人がボソリと言ったことが忘れられない。 「なんで、あの人たち、こんなにお金を持ってるの?」  なんででしょうね……、なんてことを私たちは日本史をひもときながら勝手なことを言い合って話し合ったものだ。でも、本当になぜ、と今改めて思わずにはいられない。なぜ、安倍さんの家はあれほどの財産を持っているのだろう。政治家というのは、そこまで「もうかる」仕事なのだろうか。そして財産も、人脈も全て、「家業」のように親から子に継いでいくものなのか。  冒頭の週刊朝日の記事で、安倍さんはUPFの会合で「岸信介元総理大臣のお孫さん」と紹介されている。50代にもなって公の場で「誰かの孫」と紹介される人生があるのか、と庶民の私などは違和感しかないが、それでもそういう世界を、安倍さんは生きてこられたのだろう。岸信介の孫として、岸洋子の息子として、安倍晋太郎の息子として、戦前から脈々と継がれてきた家業を背負うことが宿命であるかのように、生きてこられた。岸信介氏らが切望した「国家秘密法」も、安倍さんが総理の時代に「特定秘密保護法」として成立させたが、これも安倍さんにとっては家業としての仕事だったのかもしれない。  安倍さんの死後、母親の洋子氏が後継者について語っていることが報道されている。私の書棚には1992年に洋子氏が書かれた『わたしの安倍晋太郎』という本がある。夫の名前がタイトルにはなっているが、割かれているのはほぼ父、岸信介氏のことであり、岸家、佐藤家、安倍家という長州派閥のファミリーストーリーである。安倍さんが総理になったときに古本屋で買ったものだが、一読した率直な感想は、「洋子さん、毒母?」であった。戦犯の父を持つ娘として戦前と戦後を体験し、総理大臣を目指す夫に“仕え”、その夫が道半ばで急死した無念さがつづられている本から伝わってくるのは、総理の娘が総理の妻になれなかった悔しさであった。男尊女卑の激しいこの国で女は総理大臣にはなれない。なれるのは総理の娘、総理の妻、総理の母である。安倍さんの幼いころの夢は「プロ野球選手」だったというが、はなから「総理大臣になる」道以外は閉ざされた人生だったということが、洋子氏の手記からは伝わってくるのだった。  安倍さんは国会で不誠実な答弁をくり返す横暴な政治家であったが、どこか“お坊ちゃま感”が抜けない人だった。また、一昔前の愛人がいて当たり前、みたいな黒い政治家のイメージはなく、むしろ性的なものに奥手で、セックススキャンダルからは程遠い人という感じでもあった。私の勝手なイメージだが、強い母親に組み敷かれた人の弱さを感じずにはいられなかった。“奔放で自由な妻”を選んだのは、もしかしたら安倍さんの母親への人生最大の反抗だったのではないかと思うほど、安倍さんの“女性観”がよくわからなかった。    安倍さんの人生に母親の影響がどれだけあったかは、わからない。それでも、祖父が日本での普及に力を添えた旧統一教会の被害者に殺された事実は、この国をリアルに生きる人々の声よりも、“ご先祖様”を仰ぎ見るようなファミリービジネスとしての政治に邁進した結果でもある。そういう意味で、安倍さんは、山上容疑者と同じように、“家族の被害者”であったのかもしれないと思う。  公衆の面前でマイクを握ったまま背後から撃たれた安倍さんは、最後、山上容疑者のほうを振り返っている。1発目の煙がまだ立ちこめる数秒の時間のなか、最後に見たものは山上容疑者の姿だっただろうか。財産を奪われ、未来を奪われ、家族を壊された40代の男と、使い切れないほどの財産を先祖から引き継ぎ、未来が約束されてきた60代の男はあの瞬間、個として対峙した。それは2人の人生が同時に終わる瞬間だった。個としての安倍さんを考える時、その人生の歪(いびつ)さと不幸を哀れに思わずにはいられない。だからこそ安倍さんの死を悼むというのならば、やはりその不幸の根源を洗い出し、膿を出し切るべきなのだろう。安倍さんの政治家としての人生と、この国の民主主義の歪(ゆが)みを徹底的に洗い出すべきだ。国葬をしている場合じゃない。
エリザベス女王がメーガンさんについて漏らした衝撃的な一言 ヘンリー王子夫妻は“対抗本”準備?
エリザベス女王がメーガンさんについて漏らした衝撃的な一言 ヘンリー王子夫妻は“対抗本”準備? プラチナ・ジュビリーに登場したエリザベス女王(右/写真・代表撮影/ロイター/アフロ)  イギリスの伝記作家、トム・バウワーさん(75)の暴露本『Revenge:Meghan,Harry,and the war between the Windsors(復讐:メーガン、ハリー、そしてウィンザー家の戦争)』の中では、新証言によるいくつもの事実が明かされた。その中でも、エリザベス女王(96)の衝撃の一言を捉えた箇所に注目が集まる。それは、夫エディンバラ公フィリップ殿下の葬儀の際に思わず出た言葉だった。  殿下は、2021年4月9日に99歳で、ウィンザー城で亡くなった。ロンドンの病院では、入院を続けるよう勧められたが、妻のもとに帰りたいとの意志を貫いてウィンザー城に戻った。治癒や回復からの退院ではなく、残された日々を慣れ親しんだ場所で過ごしたいとしたのだ。  殿下の葬儀は4月17日にウィンザー城聖ジョージ教会で執り行われた。参列者はコロナ禍のためにごく少数に限られたが、棺の後ろを子どもや孫たちが歩く姿があった。米カリフォルニア州に住むヘンリー王子(37)とメーガンさん(41)の参列に注目が集まった。王子は祖父の葬儀に出席するが、メーガンさんは当時リリベットちゃんの妊娠7カ月だったので、医者から長時間のフライトを控えるようにアドバイスされたとして、参列は見送った。  それを知った女王が、なんと、「ああよかった。メーガンは来ないのね」と側近らに漏らしたという。ほぼ1カ月前の3月7日に2人のオプラ・ウィンフリーさんのインタビュー番組が流れた。そこでメーガンさんは王室内で人種差別にあったとほのめかし、王室が守ってくれないので自死を考えたと衝撃的な暴露をした。女王はやんわり反論して諭したが、かなりのショックを受けたに違いない。 ■「趣味が悪い」の声も  思い返せば女王はいつもヘンリー王子夫妻にやさしく接した。離脱を言い出した時も、「私たちは家族ですから」と温かい言葉をかけた。しかしさすがの女王も夫の葬儀にメーガンさんが渡英して、注目を独り占めしてしまうことは絶対に避けたかったのだろう。初めて女王のメーガンさんに対するホンネが聞けたとして、早速、英国国旗の上に「Thank goodness. Meghan is not coming」と大書したTシャツが登場した。IS とNOTが強調されている。「趣味が悪い」との声も上がったが、女王の「名言」はそのままオンライン販売された。  女王は、この夏、避暑先のスコットランドのバルモラル城にヘンリー一家4人で遊びに来るように招待した。自然豊かな場所で、釣りや乗馬など野外での活動が楽しめる。プラチナ・ジュビリーの際には15分ほどしか会えなかったことも女王の頭にはあったかもしれない。しかし王子夫妻は断った。  バウワーさんの本について、王子夫妻はコメントをいっさい出さないとした。しかしその声明後すぐに「ハーパーズ バザー」誌の王室担当編集者で夫妻と親しい、オミド・スコービーさん(41)が続編を出版すると発表した。彼は暴露本『自由を求めて』を2020年にキャロリン・ドゥランドさんと出し、終始メーガンさんに同情的な話を並べた。当初王子夫妻は関わりがないと主張したが、メーガンさんが情報提供をしたことはその後判明している。バウワーさんに直接の抗議や反論はしない代わりに、スコービーさんに対抗本を出版させる。発売は来年だ。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事
地下鉄はドーンと1本「なんてシンプルなんだ」 フィンランドの合理性と生きやすさとは
地下鉄はドーンと1本「なんてシンプルなんだ」 フィンランドの合理性と生きやすさとは ヘルシンキ市内にレストランをオープンさせた吉田さん(左)。「それぞれの生き方が肯定されていて生きやすい国」だという(photo 吉田さん提供)  人口551万の国家だが、世界幸福度ランキングは1位。フィンランドとはどんな国なのか。「機会の平等」と「国家への信頼」から読み解く。AERA2022年8月8日号から。 *  *  * 「森に行って、さらさらのとても上質な水のきれいな湖で泳ぎ、美味しいきのこを見つけて、そのきのこで作ったリゾットを食べた。自然がそばにあって、日々がとても優しい」  自身のツイッターにそう書きこんだのは、東京都出身の吉田みのりさん(38)。2014年3月からヘルシンキで暮らし、18年3月、フィンランド人の夫(29)と結婚。昨夏、ヘルシンキ市内にレストラン「Sake Bar & Izakaya」をオープンさせた。  移住したのは、フィンランド航空などで働くうちに、現地の暮らしに魅了されたためだ。誰もが英語をはじめいくつかの外国語を話し、文化や映画に精通する教養の高さに惹かれた。移住後は、何より「生きやすさ」を感じているという。 「結婚や出産が絶対に踏むべき人生の通過儀礼ではないので、結婚はまだか、子どもはまだか、と言われることが一切ない」 ■個性を尊重する文化  最近、夫の姉が彼女と結婚した。ダブルワイフ、ダブルマザーも珍しい存在ではないという。吉田さんはこう話す。 「人口が少ない分、ひとりひとりの個性を尊重し、大切にしている。相手の価値観に立ち入らない文化がこの国にはある」  国連の関連団体による世界幸福度ランキングで1位(22年)になっていることもうなずけるという。  いま、首相として国の先頭に立つのは、19年12月に選出されたサンナ・マリン氏(36)だ。両親が離婚後、母親と同性パートナーに育てられ、4歳の女の子の子育て中。ロックフェスにショートパンツ姿で現れるなど、経歴に加えて、その立ち居振る舞いも身近な存在であり、支持率は圧倒的だ。  だが、フィンランドでは1990年代初めのソ連崩壊以降、失業率は現在も非常に高い。最近では高齢化も進み、高齢者の孤独死もよくニュースになる。明るい話題ばかりではないのが現状だ。 (AERA2022年8月8日号より)  約20年前から、フィンランド南西部でフィールドワークを続ける千葉大学の高橋絵里香准教授(文化人類学)は、 「最近、北欧的平等主義が難しくなりつつある」  と指摘する。特に福祉の面で顕著だという。 「理由のひとつは、介護ビジネスの国際的な企業が進出していること。その結果、所得の差や地域によって受けられるサービスの質に違いが出ている」(高橋准教授)  昨年、社会医療制度改革が議会を通過した。社会福祉と医療制度を統一し、自治体よりも大きな枠組みでサービスを提供し、標準化するねらいだ。 ■税金は暮らしに還元  国全体で施設ケアから在宅ケアに重心を移す計画も進む。すでに多くの施設が閉鎖されてきたが、代替先であるはずの訪問介護サービスは、人手不足が深刻で、加速する高齢化に追い付いていないという。在宅ケアを行う介護者への保障制度も整備されつつあるが、まだ十分とはいえないのが現状だ。  増大する社会保障費を支えているのは、高い税金だ。日本の消費税にあたる税金は24%。書籍にも10%の税金がかかり、所得税も高い。油田などの天然資源がない国なので、ガソリンなどの燃料も軒並み高額だ。 「でも、高速代は無料だし、税金は暮らしに還元されているという実感がある。給与水準も高く、生活が守られている。不満はないです」  そう話すのは、関西出身の山田雄人さん(仮名)。大阪に留学中だったフィンランド人の妻と出会い、結婚した。別居婚を経て16年1月、ヘルシンキに移り住んだ。同居する場所としてフィンランドを選んだ理由は、日本での山田さんの長時間労働を目の当たりにした妻の希望だ。  山田さんは、移住前に遊びに来た時、地下鉄の路線図を見て驚いたという。 「ドーンと1本だけ。なんてシンプルなんだと思いました(笑)。すべてにおいて合理的でわかりやすい国。余暇もきちんと取れる。ここなら暮らせる、と感じた」 (編集部・古田真梨子)※AERA 2022年8月8日号より抜粋
アッキー「不出馬」で安倍派分裂がささやかれる後継争い 岸田首相は内閣改造で主導権握れるか
アッキー「不出馬」で安倍派分裂がささやかれる後継争い 岸田首相は内閣改造で主導権握れるか 自民党県議にあいさつするため、県議会を訪れた安倍昭恵氏=2022年8月3日  安倍晋三元首相が7月8日に奈良市で銃撃され死亡してから1カ月が経つ。政治家と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との接点が次々と明るみに出ており、派閥の後継問題にも影を落としそうだ。8月1日には安倍元首相の妻、昭恵さんが地元の山口県に行き、関係者へのあいさつにまわった。衆院補欠選挙も控えており、発言に注目が集まった。 「山口県で10月に安倍元首相の県民葬を検討しており、その話し合いもあって昭恵さんは地元を訪問されました。『まだ信じられなくて』と話されていましたが、気丈にあいさつし、お礼をされていました」  自民党の山口県議がそう打ち明けた。気になるのは、安倍元首相の後の議席を争う衆院山口4区の補欠選挙だが。 「安倍元首相の支援者、ファンとしては昭恵さんに、補選に出てほしいと期待していましたが、そんな話は一切ありませんでした。県議たちには『昭恵さんが出馬することはない』という情報だけは伝えられています」(前述の山口県議)  昭恵さんは、7月21日に自民党安倍派(清和政策研究会)の会合に出席した際にも「不出馬宣言」をしており、安倍派のある衆院議員は、 「昭恵さんが出馬しないことが確定的となり、安倍派は風雲急を告げていますよね」  と話した。 「桜を見る会」で、芸能人らに囲まれる安倍晋三首相と昭恵夫人=2017年  そこを、容赦なくリポートしたのが、安倍元首相、麻生太郎党副総裁とあわせて「3A」と呼ばれた、甘利明前幹事長だ。  自身のホームページにある7月20日の「国会リポート」で、安倍派についてこう記した。 「最大派閥の安倍派は『当面』というより『当分』集団指導制をとらざるを得ません。塩谷(立)、下村(博文)両会長代行に加え、西村(康稔)事務総長と世耕(弘成)参議院幹事長、閣内には要の官房長官たる松野(博一)さんと萩生田(光一)経産大臣が主要メンバーと言われますが、誰一人現状では全体を仕切るだけの力もカリスマ性もなく、今後どう『化けて行く』のかが注視されます」  名指しで、「仕切る力もカリスマ性もない」とはっきり断じたのだ。 安倍派の会合で、発言する会長代理の塩谷立元総務会長(右)=7月21日  たしかに、これまで首相経験者の森喜朗、小泉純一郎、福田康夫の各氏が自民党をリードし、最大派閥へとのし上がった安倍派だが、安倍元首相の「次の総理」として誰の名前もあがってこなかったのは事実だ。結局、「安倍派」という名称も変えない方針になった。  甘利氏が指摘した通り、誰も派閥を率いるだけのカリスマ性がないことを証明してしまったのだ。  甘利氏の「国会リポート」が表に出たタイミングで、安倍派は派閥の会合を開いていた。 「甘利氏の件はすぐ、派閥の会合でも取り上げられた。ベテラン議員の中には『とんでもない』『上から目線で何を書いているんだ』と声を荒らげる人もいた。しかし、安倍派の当選4回以下はみんな、安倍元首相のパワーとカリスマ性、安倍一強の中で選挙に勝ってきた。若い議員ほど甘利氏のリポートにうなずいていた」  安倍派の衆院議員はそう話し、見通しを語った。 「安倍元首相の存在があまりに大きすぎて、『跡取り』になれそうな人はいない。それに、安倍元首相が3度目の登板をしそうな、積極的な動きをしているところもあったから、誰もナンバー2になれなかった。昨年10月の総裁選で、派閥外の高市早苗政調会長を推したのは、そういう面もあった。昭恵さんが出馬されないとなれば、有力者が、我も我も、とでしゃばって派閥はまとまらず、分裂していくんじゃないかと危惧する声も出ている」  そして、この議員があげたもう一つの懸案材料は、旧統一教会だ。  下村氏や清和研の前会長の細田博之衆院議長ら安倍元首相に近い議員が、旧統一教会と深い関係にあったことが指摘されており、安倍元首相の元秘書官だった井上義行参院議員は、7月の参院選で旧統一教会側からの組織的な応援があったことを認めている。 「安倍派のトップに立とうとする人は、旧統一教会の支援を受けていない、関係がない、というのが一番大事ではないか。トップが何らかの関係があれば、派閥全体がそう見られてしまう。これ以上、安倍派と旧統一教会で騒がれると次の選挙が危なくなる」  と安倍派の議員がそう危惧する。選挙が絡んでくるとなれば、岸田文雄首相も他派閥のこととはいえ、無関心を決め込むことはできない。岸田首相は先手を打つように8月10日にも、党人事と内閣改造を行う見込みであることがわかった。  自民党で政務調査会の調査役を長く務めた政治評論家の田村重信さんは、 「安倍元首相は首相退任後もあまりに元気で、安倍派の有力者も遠慮していたので、次の総理総裁候補がなかなか決まらなかった。それが急に安倍元首相がこの世を去ってしまい、右往左往ということでしょう。岸田首相も、これまで安倍元首相にさえ話がつけば、安倍派は抑え込めたが、今後はそうもいかない。そこに、旧統一教会の問題も出ている」  と分析し、さらにこう指摘した。 「岸田首相も安倍元首相の国葬を決断したが、非常に難しい党内運営を迫られる。安倍派は、集団指導体制のような形になるが、ある意味、無責任体制。派閥内の有力者が旧統一教会と関係があるとしてはじかれるようだと、派閥を割って出る可能性は十分ある。岸田首相は党人事と内閣改造でどう安倍派を処遇するのか注目だ」 (AERAdot.編集部・今西憲之)
片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた
片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた 家族の思い出の品があふれ雑然とする空間/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.28 物を手放すと物への思いがなくなって心が軽くなる 夫+子ども2人/専業主婦  物が捨てられないと悩む人は、あまりその物自体に目が向いていません。「苦労して入手した」「記念にもらった」など、手に入れたときの気持ちや思い出に執着してしまい、手放せないのです。  誰でもそんな経験はあると思いますが、亜紀さんは人一倍その気持ちが強かったと話してくれました。  「今思えば、子どもの頃から物をため込む性格。シングルマザーで育ててくれた母から与えられた物はすべて母の努力の結晶に思えて、壊れても捨てられなかった。結果、大人になっても物に囲まれる生活になってしまいました」   もっとも、自分が物を手放せないことについて原因を考えたことはありませんでした。気づいたきっかけは、家庭力アッププロジェクト®に参加したこと。  現在、娘2人と夫の4人暮らしの亜紀さんは、夫の海外赴任を含めて結婚してから7回の引っ越しを経験。物を片づけるよりも移動した方が時間も手間も省けると、新居にはすべての荷物を運んでいました。   ヨーロッパで住んでいた家は広かったので問題なかった物の量も、日本の住居事情ではそうはいきません。押し入れなどの収納場所はもとより、部屋のあちこちに段ボール箱が積まれたまま生活していました。  次女が習っているヴァイオリンを弾こうと思っても、そのスペースを作るために一苦労。子どもたちは物が散乱している家に慣れてしまい、「こんなに散らかっていたら友だちは呼べないね」と残念そうに言ったこともあります。  新調したソファでゆっくりできる家族の憩いの場に/アフター  夫は仕事が忙しく、家のことに口出ししないタイプ。家族みんなであきらめていたし、私がいつも家事に追われてピリピリしていたので、文句を言わせない雰囲気を作っていましたね」  亜紀さんは当時を振り返り、そう話してくれました。専業主婦とはいえ、家事に育児に忙しい毎日です。娘たちの習い事の送迎は週5日あり、お昼休みも取りにくい夫のために毎日お弁当作り。その上、常に探し物をしたり、家事を始める前に物をどかす作業が入ったりと、ムダな動きが多い生活でした。よけいな時間が取られるばかりで、リビングのソファに座る暇もありません。  そんな中、美大を目指す長女の新たなチャレンジを機に、自分も家を片づけようとプロジェクトに参加しました。  「私は片づけについて、『4人家族の物の量はこれくらい』という物理的な基準やノウハウを学ぶつもりでした。でも、『どんな自分になりたいの?』『その自分になれない理由は?』と、一見片づけには関係ないことを掘り下げていくことに驚きました」  プロジェクト参加中に、物に執着する理由がわかった亜紀さん。理由がわかっても、物を手放すことはとても大変でした。  特に海外赴任先から持って帰ってきたものは、慣れない土地で苦労して生きてきた証のように感じられて、使い古した日用品も捨てられません。一度手放すと、日本では手に入れることが難しいことも亜紀さんの心にブレーキをかけてしまいます。  「段ボール箱の中身を全部出して広げることを繰り返して、改めて物の量に唖然としました。一つ一つに思い出があるので、選別して一度捨てても、やっぱり考え直してゴミ袋から取り出してみたり……」   物への思いが強い亜紀さんにとって、物と向き合うことは過去の自分と向き合うこと。とてもパワーが必要でした。物を捨てたり手放したりする作業に疲れ果て、大量の物に囲まれながら「なんでこんな自分を自分で作ってしまったんだろう」と泣いた夜も一度ではありません。 大型の家具や収納に占拠されていた子ども部屋/ビフォー  それでも実際に手放してみると、残しておけばよかったと後悔する物はそれほどありませんでした。物を通して自分と向き合い、対話をしながら「いる・いらない」の選別を繰り返すことによって、決断力と判断力が上がってきます。さらに、物に占領されていたスペースが空くと、そこでいろいろなことができる可能性があると気づきました。物を手放すという作業が、ネガティブなものからポジティブに変わった瞬間です。  「これがなくなると、新しい未来が作れるんだと思うようになりましたね。そう思うと、無心で物を手放せるようになりました」  どんどん物を捨てるようになった妻の様子に、夫は驚きを隠せません。でも、家の中がスッキリしていくことは気持ちよく、片づけに協力してくれました。ゴミ出し担当の夫は「今日は3往復もしちゃったよ」と笑い、もともと仲のよい家族のコミュニケーションはさらに増えました。   家の中が片づいたら、夫の帰宅時間が早くなり、次女はいつでもすぐにヴァイオリンの練習ができるようになりました。きれいに整頓されたキッチンで料理の腕をふるい、月に1回ほど帰ってくる長女と4人で明るい食卓を囲みます。夫と娘たちは「ママのレストランみたいなおいしい料理が1番だから、外食なんてしなくていいよ」と言ってくれるそうです。 「使いたいアイテムがすぐに取り出せるようになり、もともと好きな料理がさらに楽しくなりました。娘が手伝いたいと言ってくれたときも、今まではスペースを作る手間がありましたがそれもなし。『私も料理を覚えられる!』と喜んでくれます」 ピアノを入れてすぐにヴァイオリンを弾けるスペースができました/アフター  片づけを通して、自分を知り、自分の未来を見て、自分の可能性を信じられるようになった亜紀さんは、これからも自分の未来のために挑戦し続けます。 「今までは小説とか美術とか、想像の世界に入り込むような本ばかり読んでいました。でも最近では、自分と向き合って分析するような本を読んで勉強しています。今の自分が何をすることに喜びを感じて、今から何をしていこうか、いろいろと考えるのが楽しくなってきています」  物への執着から解放された亜紀さんの目線は、過去から未来へと変わりました。自信を持って突き進む先には、きっとワクワクすることが待っていることでしょう。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。 ※AERAオンライン限定記事

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