検索結果1730件中 361 380 件を表示中

松任谷由実「東京ど真ん中生まれじゃないことが、自分の音楽を形成してる」
松任谷由実「東京ど真ん中生まれじゃないことが、自分の音楽を形成してる」
松任谷由実(まつとうやゆみ)/ 1954年、東京都出身。72年、荒井由実として「返事はいらない」でデビュー。翌年、ファーストアルバム「ひこうき雲」をリリースし、注目を集める。以降も、「やさしさに包まれたなら」(74年)、「ルージュの伝言」(75年)、「春よ、来い」(94年)などのヒット曲を次々生み出す。そのほか、本名や呉田軽穂名義で他のアーティストへ作品提供も行っている。2022年、50周年記念ベストアルバム「ユーミン万歳!」をリリースした。(撮影/写真映像部・加藤夏子) 「いつの時代も、私たちにはユーミンがいた」デビュー50周年を迎えたいまなお聴く人の心をとらえて離さない唯一無二の存在、松任谷由実さん。愛しの人を前に作家・林真理子さんの気持ちも弾みます。 *  *  * 林:文化功労者受賞、そしてデビュー50周年おめでとうございます。皇后さま、すごく喜ばれたそうですね。 松任谷:なんか私の曲をお聴きくださっているようで。天皇陛下も「たくさん曲がおありですね。『卒業写真』とか」と言ってくださったので、たぶん「卒業写真」だけじゃなくて、いろいろ聴いてくださってるのかなという感じがしました。 林:実は私、去年デビュー40周年で、ちょうど10年違うの。 松任谷:えっ、そんなに違うと思わなかった。 林:私が日大の芸術学部に行ってたころ、ユーミンはもう女の子たちが騒いでた。今回はデビュー50周年ということですごいブームというか。ずっと第一線にいるから、ブームという言葉は違うかも。 松任谷:でもね、数えると第6次ブームぐらい。 林:私はブームっていうより、「ユーミン祭り」という感じがする。雑誌は特集を組むし……。 松任谷:もうありがたいやら何やら。雑誌はマガジンハウスの二つだけ。「an・an」と「BRUTUS」にしぼったの。 林:テレビもラジオも特集を組むし、集大成のCD(「ユーミン万歳!」)も出るし、広告もすごいし、本(『すべてのことはメッセージ小説ユーミン』山内マリコ)も出るし、さすがって感じ。ユーミンっていうと、飯倉の「キャンティ」とかキラキラしたイメージだったのに、あの本を読むと、お手伝いさんの故郷のド田舎に連れてってもらったところから始まって……。 松任谷:山形にね。 林:そして八王子の歴史とか、八王子の老舗「荒井呉服店」のお嬢さまと比較するような感じでそこに働きに来てる女性たちが出てきて、こんなふうにユーミンをあぶり出したのは、初めての試みじゃないかと思った。 松任谷由実さん(左)と林真理子さん(撮影/写真映像部・加藤夏子) 松任谷:私が東京ど真ん中生まれじゃないことが、自分の音楽を形成してると思ってる。少し外から見た東京の華やかさに憧れて、今でもその気持ちのまま生息してるという感じかな。 林:私、この本を読んですごいことがわかったんですよ。ユーミンのお母さんと私の母は、同じ学校を出てるんです。 松任谷:えっ、ほんとに? 林:いま私が勤務してる日大の本部(市ケ谷)の裏に東京家政学院(現・東京家政学院大学)があるんだけど、お母さま、あそこを卒業してるんですよね。うちの母もなんです。私の母は6年前に101歳で亡くなりましたけど。 松任谷:林さんにしろ私にしろ、母親の代がどう生きたかということが、色濃く反映されてるね。リベラルでしょ。 林:リベラル。あそこは贅沢な学校で、『源氏物語』の研究で第一人者だった池田亀鑑先生が教えてたし、創立者の大江スミ先生は、留学先のイギリスから帰ってきた後、理想的な女子専門学校をつくろうとして、山梨の女学校に先生のスカウトに行ったみたい。それであの辺のお金持ちのおばあさんたちに家政学院を出てた人が多いんです。ユーミンは八王子だから、中央本線で山梨とつながるんですよ。 松任谷:そうそう、中央本線で3駅違いだけ。林さんのところと。 林:その3駅が50分ぐらいかかるんだけどね(笑)。女学校に行く人も少なかったときに、卒業した後、東京の3年のそういう学校に行かせようと思った中央本線のリベラルなうちがあって、そこにうちの母親も通い、数年後にユーミンのお母さまも通ったということがこの本を読んでわかったんです。私、すごく感動しちゃった。 松任谷:すごいね。家政学院の物語ができるね。(津田塾大創始者の)津田梅子ばっかりじゃないよ(笑)。 林:前に一緒に八王子の家の前を通ったときに、「あれが私が夜中に抜け出して遊びに行った外階段」って教えてくれましたよね。 松任谷:あそこは、林さんと通ったときのまま廃屋になってるんですよ。今回、「YUMING MUSEUM」というのをやるので、あの廃屋にガサ入れに行ったら、昔のものがそのまま出てきた。 林:私はその展覧会まだ行ってないんですけど、“夜抜け”用のカツラも展示してあるんでしょう? 松任谷:そう。昔、“夜抜け”して遊びに行くときに、枕の上に置いて偽装してたカツラね。あれはいまだに使っていて、ゴーフルの缶に入れてとってある。「荒井呉服店」でそういうウィッグとかも扱ってたの。 林:へぇ~、そうなんだ。絶対見に行かなきゃ。 (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2023年1月27日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2023/01/19 11:30
オコエ、松井裕、佐藤輝…ドラフト選手が輩出する「学童野球」の実力とは
オコエ、松井裕、佐藤輝…ドラフト選手が輩出する「学童野球」の実力とは
佐藤輝明(左)、松井裕樹  昨年末に行われた第18回NPBジュニアトーナメントは、阪神Jr.が12チームの頂点に立った。この大会からは、過去に松井裕樹(楽天)や佐藤輝明(阪神)ら13人のドラフト1位選手が輩出している。「学童野球」の実力度を追跡してみた。  横浜スタジアムでロッテJr.の三浦大我投手のストレートが電光掲示板で「129」を表示したときには観客席からどよめきが起こった。しかし、神宮球場からは日本ハムJr.の左腕・竹内樹生投手が最速130キロで大会初のノーヒットノーランを達成したとの情報が入った。1人の投手が1日に投球できる球数は70球以内。優勝した阪神Jr.で113キロ前後のストレートを投げ込んでMVPに輝いたのは、リリーバー・浅居煌星投手だった。  全国から選ばれし「スーパー学童」のプレーは、野球関係者の耳目を集める。なぜなら、過去12回の大会出場選手の中から、育成選手を含めプロ77人(1大会あたり約6.4人)が誕生、うちドラフト1位は13人(1大会あたり約1.1人)を数えるからだ。  各チームで、NPBジュニアトーナメントに向けて、セレクションが行われる。つまり、もともとの所属チームは同じでも、NPBジュニアではヤクルトとDeNA、阪神とオリックスなどに分かれることもある。これだけ精鋭が集結すると、現プロ野球選手の中には、NPBジュニア時代のチームメートやライバルだった例も多数ある。  第1回大会の2005年、ロッテJr.で高山俊(15年阪神1位)は、近藤健介(11年日本ハム4位)、佐藤優(15年中日2位)、船越涼太(15年広島4位)とチームメートだった。つまり1チームから4人もプロ入りを果たしたのである。このロッテJr.は予選リーグでソフトバンクJr.をくだしているのだが、ここには高城俊人(11年DeNA2位~22年で引退)がいた。実績を残した選手に、すでに引退者が出るほど、大会は歴史を重ねてきた。  第6回大会の10年、ロッテJr.では木沢尚文(20年ヤクルト1位)と藤平尚真(16年楽天1位)がチームメートだった。予選リーグで九鬼隆平(16年ソフトバンク3位)がいたオリックスJr.や浜地真澄(16年阪神4位)がいたソフトバンクJr.と対戦。決勝で五十幡亮汰(20年日本ハム2位)や佐藤奨真(20年ロッテ育成)がいたヤクルトJr.を破って日本一。未来のドライチ投手を2人も有すれば「当然か」というところだが、この2人は高校時代に神奈川県で木沢が慶応高、藤平が横浜高で甲子園を目指すライバルとなった。  第8回大会の12年、西武Jr.の蛭間拓哉(22年西武1位)が予選リーグで石橋康太(18年中日4位)と田宮裕涼(18年日本ハム6位)がいたロッテJr.に敗れた。この2人は準決勝に進み、藤原恭大(18年ロッテ1位)がいたオリックスJr.と対戦している。蛭間と藤原は11年後の23年、パ・リーグで同じ左の好打者としてあいまみえることになる。蛭間は2歳上の前出の木沢から東京六大学の早慶戦で本塁打を放っている。 「Jr.在籍チーム」が「プロ在籍チーム」と同じなのが、今回FA移籍した07年オリックスJr.の森友哉(13年西武1位)、また現役ドラフトで移籍した09年読売Jr.のオコエ瑠偉(15年楽天1位)だ。さらに中日Jr.は、12年根尾昂(18年中日1位)・13年石川昂弥(19年中日1位)・14年高橋宏斗(20年中日1位)と3年連続してドラフト1位が輩出した。子供の頃、好きだったチームにプロで入れるのは幸せなことだが、高橋は「Jr.チーム時代、高いレベルの選手の中で、自分の実力を把握できて役立った」旨のことを語っている。ちなみにプロ77選手の内訳は、ロッテJr.出身が断トツの16人、2位は中日Jr.とオリックスJr.とソフトバンクJr.が9人で並ぶ。  選考基準に各チーム差異はあるが、「遠投50メートル以上、球速90キロ以上、50メートル走8.5秒以下、特筆すべき技能を持っている」など。各チームの投手のストレートの平均球速は110キロ前後だった。広島Jr.の小柄な左腕・井上宙投手(142センチ36キロ)はストレート93キロながら小気味のいい投球を披露した。全192人のうち、5年生は2人だけ。現役や元プロ野球選手(元木大介、井端弘和、松田宣浩)を父に持つ選手や女子選手も10人いた。  各チームのプレーを見ていて感じたのは、まずボークがない。セットポジションは「ボールを両手で身体の前方に保持して、完全に動作を静止」(公認野球規則)するのが正しい。静止しないまま投球したり、牽制球を投げたりしてボークを取られるのは中学野球でも多い。  また、投手はクイックモーションによって走者対策ばかりか、打者が打つタイミングも外す。捕手も意図的にワンバウンドで、低く速い二塁送球をする。守りの要の遊撃手は、どのチームの選手もゴロ捕球、スローイングが秀逸であった。試合は6回1時間30分制。6回、または1時間30分が経過した後のイニング終了時で同点の場合は無死一・二塁からのタイブレーク。各チーム、バントで送ってからの勝負を念頭に置き、犠打も無難にこなした。  以前、「ジャイアンツ女子チーム」の高校生・大学生トライアウトを見学した。日本女子野球で前人未到の130キロを狙う、最速127キロ・吉安清投手(167センチ)が「プロ入り」を決めた。女子硬式と学童軟式の違いはある。学童は身長があってもまだ筋力がついていない。とはいえ、軟式で130キロ程度のスピードを出すのだから末恐ろしい。今後、中学・高校・大学とどんな野球人生を歩んでいくのか、また興味は尽きない。(新條雅紀)
NPBジュニアトーナメントオコエ
dot. 2023/01/18 11:30
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
高橋真理子 高橋真理子
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
数学者の石井志保子さん 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *    *  *――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
女性科学者数学者
dot. 2023/01/17 17:00
元日本ミドル級王者、人気俳優から覚醒剤で転落した大和武士 料理人で“敗者復活”奮戦中
元日本ミドル級王者、人気俳優から覚醒剤で転落した大和武士 料理人で“敗者復活”奮戦中
ボクシングからは遠ざかっているが、今は空手に取り組んでいるという大和武士さん  プロボクシングの日本ミドル級王者から俳優に転身し、日本アカデミー賞・新人俳優賞受賞、任きょう映画、Vシネマで人気を博し……。多くの栄光と華やかな暮らしが一転、2度の逮捕で転落の人生を歩んだ大和武士さん(57)。表舞台からは姿を消したが、その後はい上がり、現在、「今が一番幸せかも」と思えるようになった。今に至る人生に何があったのか。  小田急線・代々木八幡駅前から原宿方向へ抜ける商店街の途中にある、しゃぶしゃぶ料理屋の「花咲じいさんHACHIMAN」。  記者が訪ねると、濃紺の作務衣を着た大和さんが、厨房(ちゅうぼう)で仕込みの真っ最中だった。オーナー兼料理人。それが今の肩書だ。 「ウチのしゃぶしゃぶは、上質のかつお節と昆布をたっぷり使った特製出汁(だし)に牛肉を潜らせて味わう“出汁しゃぶ”スタイルが特徴です。牛肉のうまみに出汁の風味が加わり、すっごくうまい」  看板メニューの「しゃぶしゃぶセット」は、ご飯と茶わん蒸しが付いてランチタイムが1500円、夜はこれがボリュームアップしてコースで4千円(いずれも税別)。  なぜ、しゃぶしゃぶ店なのか聞くと、 「シャブ(覚醒剤)で捕まったから、しゃぶしゃぶでリベンジしようと思ったんですよ」。  大和さんはそう言ってニヤリ。  もちろんジョークだが、ルーツは義兄が渋谷駅の近くで経営していた創作和食料理店にある。再開発で2018年10月に閉店したが、大和さんは直前の1年間、そこでみっちりと修業し、独立したのだ。  19年の11月4日にオープンした。 「おかげ様でオープン当初は、俺のファンとかボクシング、Vシネマ関係の友達、それに渋谷時代のおなじみさんがよく来てくれました。想定以上でしたよ」  だが20年1月末、新型コロナの感染拡大でいきなり逆風にさらされた。 「営業自粛に始まり、緊急事態宣言とまん防(まん延防止等重点措置)の繰り返し。雇用調整金や(感染拡大防止)協力金で一時的にしのいだものの、この3年近くは散々な状態でした。ようやく昨年10月くらいから少しずつ客数が上向いてきた感じですね」  冗談抜きでなぜしゃぶしゃぶ店なのか。 「修業する前に中目黒でスナック、その前は広尾のラウンジのマスターをやってました。でも深夜営業の店って、アフターとか色んなお誘いが多いじゃないですか。振り返ると、これまで家族と一緒の時間ってあまりなかった。シャブの件で家族や親戚にもたくさん迷惑かけちゃったしさ。それで、日付が変わる前に帰宅できる業態にしたってわけ」 ■特別少年院で読んだ沢木耕太郎の本が人生を変えた  生まれは岡山県北部に位置する鏡野町。中国山地に抱かれ、林業や酪農が盛んな地域だ。 「住むには良い所ですよ。でも物心ついたころからヤンチャ坊主で、中学生で『大和会』っていう暴走族を立ち上げて“頭”(あたま)をしてた俺は浮きまくってた。中学に行かなくなり、家出して向かったのが大阪。餃子店とかでアルバイトしながら、意気がって毎日けんかばかり。で、何度かパクられ、結局、岡山市内の少年院に収容されたんです」  親からも見放されるくらい生活も心もすさんでいた。しかし、院内で読んだ1冊の小説が人生を大きく変えた。 『一瞬の夏』(新潮社)。一度リングを降りた元東洋太平洋ミドル級チャンピオンのカシアス内藤さん(現E&Jカシアス・ボクシングジム会長)が、4年余りのブランクを経て、再び世界王座を目指すさまを描いた沢木耕太郎氏のルポルタージュだ。1982年のベストセラーで、第1回新田次郎文学賞を受賞した名著である。 「カシアスさんと、トレーナーのエディ・タウンゼントさん(故人)の泥臭いけど大きな夢を追う姿がカッコよく思えてさ。大阪時代に見た映画『トラック野郎』の主人公・菅原文太さんに憧れて、俳優になりたいって夢も持ってたから、『まずボクシングでチャンピオンになったら近道じゃないか』って。単純だよね(笑)」  退院後、迷わず上京。世界チャンプを輩出したワタナベボクシングジムの門をたたいた。 “岡山のけんか屋”はすぐに頭角を現し、デビュー後、引き分けを挟んで4連勝。86年の全日本ミドル級新人王に輝いた。そして88年3月、日本ミドル級王座を奪取。翌89年に、赤井英和さん主演の映画「どついたるねん」(阪本順治監督)で念願の俳優デビューを果たした。 1988年3月、日本ミドル級王座獲得(本人提供)  90年には、憧れの菅原文太さんと阪本監督の作品「鉄拳」で共演。91年の日本アカデミー賞新人俳優賞に選ばれた。 憧れの菅原文太さんと共演した映画「鉄拳」(1990年10月公開)で、大和さんはアカデミー賞・新人賞を受賞した 「文太さんとご一緒できるなんて本当に夢みたいでした。ロケ地は高知県大正町(現、四万十町)で、7月中旬から2週間ほどの予定だったんですが、台風が5回も来ちゃったから延びに延びて1カ月くらい泊まり込み。毎晩、宴会でしたよ」  付き人がうらやむほど菅原文太さんと親しくなり、クランクアップ後、所有していた愛車コレクションの中から「アメ車」のシボレー・ブレイザーをプレゼントされた。 「すごくうれしかったんですが、日本車に比べ、ふた回りほど大きいから駐車場代が高い高い。当時、住んでた世田谷区内のアパートは家賃6万円なのに駐車場代が5万円かかった。ボクシングの稼ぎが少ない新人俳優の俺にとっちゃ、毎月の支払いが大変でした(笑)」  ボクシング界から引退したのは92年。その後は、映画「トカレフ」「修羅がゆく」、Vシネマでは「ボディガード牙」「牙直人闘龍伝」の各シリーズに主演するなど、こわもての個性派俳優として引っ張りだこに。一方で飲食店経営にも進出。広尾でラウンジを経営したのもその一つだった。  だが、「てんぐになって周りが見えなくなっていた」(大和さん)。2度の結婚、離婚。そして3度目の結婚から7年後の2008年には、飲食店で酔っ払い、店主を殴るなどして傷害容疑で、13年には覚醒剤取締法違反容疑で逮捕され、家族以外、全てを失った。 「自暴自棄になったこともありました。いくら後悔しても後戻りできないもどかしさ。心底、反省したね」  薬物事犯の怖さは常習性、依存性にある。芸能人や元芸能人で何度も逮捕されているニュースはよく見る。  しかし、大和さんは更生した。彼らとの違いはどこにあるのか? 「家族の支え、でしょうね。それと俺の場合は子どもの存在です。シャブでパクられた時は、今は社会人の長男と高2の長女がまだ小さくてさ。『2人が学校でいじめられたり、将来、不利益を被るんじゃないか?』って思ったら、居ても立ってもいられなくて……」  明るくて人付き合いのいい妻のサポートも見逃せない。 「困ったことや、でかいトラブルが起きても動じない。肝っ玉は俺より大きいんじゃないかな。ほんと頭が上がらないですよ」  と大和さんは照れ笑いした。  昨年9月には、9年ぶりに芸能活動に復帰し、演劇と女子プロレスを融合させたエンターテインメントを目指す「アクトレスガールズ」主催の舞台『カウント2・9』に出演した。  アイドルを目指して上京したものの、所属事務所の都合で女子プロレスラーに路線変更した女の子の物語。大和さんは、ヒロインの父親でシングルファザーの居酒屋店主役だった。 「舞台は初めての経験でした。映画とかVシネと違って、ミスってもやり直しができないじゃないですか。だから30ちょいあるセリフのパートをトチらないように、公演の1週間前から店を閉めて、一生懸命稽古に取り組みました」  ここでも家族が助けてくれた。 「娘が、学校へ行く前と帰宅後の朝晩、セリフ合わせに付き合ってくれたんです。でなきゃ、全部覚えられなかったんじゃないかな」  昼・夜の2回公演。いずれも満席に近く客席が埋まり、大和さんお目当ての観客も少なくなかった。 アクトレスガールズの舞台「カウント2・9」に出演した大和さん。都内新木場・ファーストリングにて、22年9月18日撮影  終演後、アクトレスガールズの坂口敬二代表に感想を聞くと、 「不器用で実直な父親役。思っていた以上に良い芝居をしてくれました」  と言って目を細めた。 「元々、力のある俳優なんですから、『そろそろ復帰してもいいんじゃないか』と思ってオファーを出しました。これをきっかけに、映像作品にも出演できれば、ウチの団体としてもうれしいです」  もう一つ、10月に思わぬ出会いがあった。 「俺、35年ほど前に最初の結婚をして、1年ちょいで離婚してるんです。生後8カ月の娘を残してね。そしたら9月末にいきなり、その子から店に『母とお邪魔してもいいですか?』って電話があって、本当に来てくれたんですよ」  最後に娘に会ったのは5歳のとき。幼かった娘は保育士の道を選び、2児のママになっていた。 「俺のわがままで離婚することになっただけに、来てくれたうれしさと申し訳なさで言葉に詰まってさ。ネットで調べて電話くれたそうだけど、あの時ほど『閉店しないで頑張ってきて良かった』って思ったことはなかった。料理作りながら涙出ちゃったよ」  先日迎えた開店3周年。大和さんは記念イベントとしてランチタイムに500円カレーを提供していた。 「人生は失敗しても本人次第でやり直しがききます。生きてたら、良い時も悪い時もあるもんです。どんな時でも諦めない。お客さん、周囲の人たち、家族に感謝する。気がつくのが遅かったかもしれないけど、もしかしたら今が一番幸せかもね」  大和さんの“敗者復活戦”。今日も愛する家族のため厨房に立つ。 すっかり板についた包丁さばき。調理中の大和さん (高鍬真之)
週刊朝日 2023/01/17 11:30
“憧れの君”との同居を叶えた野良猫チャトラン 恋と友情と絆「三角関係」から穏やかな時間へ【後編】
水野マルコ 水野マルコ
“憧れの君”との同居を叶えた野良猫チャトラン 恋と友情と絆「三角関係」から穏やかな時間へ【後編】
チャトラン(左)とウイスキー(提供) 飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。埼玉県在住のゆかりさん(64歳)は3匹の猫と暮らしています。うち1匹は元野良のオスの茶トラ猫で、庭に訪れてはゆかりさん宅の美猫に熱い視線を送っていたのですが、あることを機に家猫となります。“憧れの相手”と同居を果たした茶トラですが、意外な事実が待ち受けて……。後編は、猫の恋と友情のお話です。 【前編:「私の不注意で……」大けがを乗り越えたわが家のイケメン猫 変わらず甘えてくれる姿に救われた】より続く *  *  *  うちには「ウイスキー」と「シャンパン」と「チャトラン」という猫がいます。ウイスキーとシャンパンは保護猫カフェから迎えた兄妹で、チャトランはウイスキーを気に入って、わが家の庭に頻繁に通うようになった元野良猫です。  ウイスキーは親バカながら超美猫なので、一目惚れされても不思議ではありません。とはいえ(去勢はしていますが)男の子です。でもあれは、どう考えても “恋”でした(笑)。 外からじーっと覗いていたチャトラン(提供)  チャトランが庭に初めて来たのは、2018年10月。年は1歳未満くらい。当時、ご近所の中には飼い猫を表に自由に出す方もいたので、「どこかの家の子かな」と思いました。首輪はないけど、とても人懐こい。外猫用に置いていたごはんをよく食べる。  チャトランという愛称をつけて、行動を見ていたら、視線の先にウイスキーがいることに気づきました。ウイスキーが居間にいれば庭先からじーっ、ウイスキーが隣の和室に移れば自分も移動して縁台からじーっ。 「チャトラン、恋煩いだよね」と、娘も言っていました。ウイスキーのほうは、「また来たんだね」とのんびり窓から外を見ていましたが。チャトランのまなざしは熱くなる一方です。 ウイスキーに恋煩いのチャトラン(提供)  そこまで焦がれているなら中に入れてあげたい気もしましたが、飼い猫かもという迷いもあったので様子を見ました。でも2カ月後くらいに、チャトランに異変が起きたのです。  寒くなってきた12月。庭の掃き出しのところに血の跡が見えたので、あら?と思って少し窓を開けたら、チャトランが姿勢を低くして室内に入ってきたんです。そして、ピアノの下に置いてあったキャリーバッグにスッと入りこみました。 自らキャリーバッグに入ったチャトラン(提供)  床にも血がついたので、キャリーの蓋をすぐに閉めて、そのまま動物病院に連れていきました。すると、左右とも肉球4カ所が切れていて、先生は「猫よけの突起物を踏んだのかも」と。念のため血液検査をしてもらうと、猫エイズが擬陽性でした。  痩せていて去勢手術もされていないし、「飼われていた猫が、迷ったか捨てられたかで野良になったのだろう……どうしますか?(飼いますか?)」と先生に聞かれました。  頼るように家に入ってきた、だから迎えたい……。そこで、肉球の治療をし、免疫を上げる注射を打ち、通院しながら室内のケージで過ごしてもらうことにしたのです。肝臓の数値が悪くて麻酔は打てなかったので、去勢手術は肝臓の治療後にすることにしました。  ウイスキーとシャンパンは、チャトランを窓から見ていたせいか、家(のケージ)に入れても驚きませんでした。チャトランはしばらく免疫アップの注射を続け、猫エイズが陰性となった後、ついに、直接のご対面となりました。 ■ウイスキーを「女の子」と思い続けていた?  ケージから出たチャトランは、こたつで寝ていたウイスキーに寄り添いました。ぐいぐい行くわけでなく静かに。ウイスキーも自然に受け入れ、日に日に仲の良さが増します。 憧れのウイスキーにそっと寄り添って(提供)  あまりに仲良しなので、「兄弟でないオス同士がべったりするものですか?」と獣医の先生に聞いたら「お互いの性格が優しく、年齢が近く、相性があったからでしょう」とのこと。  でも私の中には、その時に“ある疑い”が残っていました。チャトランがウイスキーを異性(女の子)と勘違いして好きなのではないか、と。  チャトランの去勢は、肝臓の数値がよくなった翌2月に終えたのですが、じつは未去勢の時に、ウイスキーに一度マウンティングをしかけたのです。リアル女子のシャンパンに対しては一度もしなかったので、狙ってますよね。 ウイスキーへの思いがますます募るチャトラン(提供)  このことも先生に聞いてみると、「ウイスキーを女の子として見初め、部屋でもしばらくそう思っていたかもしれない」と頷きました。やっぱり!という感じです。  それでもどこかのタイミングで、チャトランは「違うな」と気づいたのか、さらに自分も去勢を施された身となってからは、恋が友情へと変わったよう。 妹シャンパンはウイスキーが大好き(提供)  しかしその後、シャンパンに変化が起きました。兄と新たな仲間の仲が良くなるにつれ、ご機嫌が悪くなっていったのです。  シャンパンはイケメンのウイスキーお兄ちゃんが大好き。おとなになっても兄妹の絆が強く、夜は必ず一緒に寝ます。(その時はチャトランは一人寝)。  もともと友好的で物怖じしないキャラでもあるシャンパンは、チャトランが庭に来ていた時も威嚇せず、すんなりと受け入れていました。  ところがチャトランがウイスキーにくっついてばかりいると、「私のお兄ちゃんよ」といわんばかりに焼きもちを妬いて。拗ねるだけでなく、行動を起こすようになりました。自分の目の前を通るチャトランの頭を前足で押さえたり、威嚇してみたり……。 妹シャンパンが妬くほど仲良しのウイスキーとチャトラン(提供)  特に機嫌悪いのは朝。シャンパンはいつも真っ先に起きて居間にきて「ごはんごはーん」と食事係のパパに可愛い声で甘えます。その後、ウイスキー、チャトランが起きてくるのですが、ある時チャトランがごはんを食べにきたら、「てめぇはくるんじゃねえよ」とでもいうように、シャンパンが目をつり上げ、肩をいからせ、チャトランの耳を噛んだのです。 「わっ、女番長。シャンパンにこんな面が」と驚きました。爪研ぎをしようとしたシャンパンとチャトランが“鉢合わせ”した時は、小さな体でチャトランを押し出したことも。  優しいチャトランはシャンパンに爪とぎを譲り、すごすごと隣の部屋に移動。その姿はなんともいじましく、でも家族としてはチャトランへの愛しさが募ったものです。 輪に入れず、いじけるチャトラン(提供)  このまま三角の関係性が尖り、シャンパンの女番長ヅラが激しくなるなら、先生に相談しようとも思ったのですが、大げんかするわけでもなくて。チャトランと並んでごはんを食べたり、くっついたりすることもあるので、「なんだかんだいって仲はいいのよ」と娘も話していました。実際にだんだんと落ち着き、シャンパンはチャトランを仲間として認めていったようです。 並んで食事するチャトランとシャンパン(提供)  ウイスキーを中心に3匹が結束して猫団子になったり、廊下で猫会議したり。猫の社会や関係はとても面白く、チャトランはわが家に新たな楽しみと癒しをもたらしてくれました。そして、家猫になったチャトランは、すっかり毛並みもよくなり、ウイスキーに負けず劣らずのモフモフぶりです。 ライバル同士、朝日をチャージ中(提供) どうすればみんな仲良くなる?猫会議中(提供) ■チャトランを再び受け入れた兄妹  そんなチャトランが、家に迎えて3年目の4月、とつぜん家を出たことがありました。  その日、庭に1匹の猫が来ていました。前にも来たことのあるオスの野良くんです。  足元にいたチャトランに気づかず、私が何気なく窓を開けたところ、チャトランが庭に出て、勢いよく野良くんを追いかけました。家猫になってから外に出たことがなかったので、慌てて主人と後を追うと、2軒先の家の裏でチャトランが野良くんを威嚇しています。帰ろう、と近づくと逃げて、捕まえることができず……そのまま見失ってしまったのです。  いつもチャトランが食べていたごはんをうちの庭先に置くと空になり、近くにはいるようでしたが、保健所や警察に連絡をいれて、家族で探しながら無事を祈りました。  ウイスキーとシャンパンは、チャトランがいなくなると、なぜか先住のシニア猫がいた時にそうしていたように、夜11時になると2匹揃って自分たちからケージに入って眠りました。チャトランを探す素振りは見せませんでしたが、静かないい子、になった感じでした。 「チャトランが戻ってきた!」と主人が声をあげたのは、脱走から2週間目でした。  庭の石の上にたたずみ、こちらを見ています。娘がガラス戸を開けて好物のおやつを見せると部屋に入ってきたので、戸を閉めて一件落着です。病院に連れていきましたが、けがもなく無事でした。  ウイスキーとシャンパンは、くんくんと匂いをかぎ、そのまますんなりチャトランを受け入れ、日常が戻りました。チャトランはお外が懲りたのか、それ以来、もう二度と庭に出ようとはしません。もしかしたら野良君を執拗に追ったのも「僕のうちだぞ」とアピールしたかったのかな。いずれにしても、脱走を経て、真に“うちの猫”になったように思うのです。 こたつ布団で幸せの猫団子(提供)  今日も3匹は一緒にこたつで寝ています。仲のいい兄妹とその兄を慕う男子猫と、穏やかにまあるくなって。これからもみんな仲良く、ハッピーな関係でありますように。  (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
猫をたずねて三千里野良猫
dot. 2023/01/14 14:00
母に見せられなかったM-1優勝の姿 「これからが本当の勝負」 お笑いコンビ・錦鯉
母に見せられなかったM-1優勝の姿 「これからが本当の勝負」 お笑いコンビ・錦鯉
錦鯉は後輩からも支持される。モグライダーのともしげは「兄貴、戦友でもある。今は大きな目標」と慕う(撮影/加藤夏子)  お笑いコンビ、錦鯉。20年間売れなかった。それが2021年の「M-1グランプリ優勝」を機に、一気に売れっ子芸人の仲間入りを果たす。ひとたび笑いの最高峰に立てば、人々から50にして掴んだ「ジャパニーズ・ドリーム」「中年の星」と夢を託される。それでも錦鯉は、「これからが勝負」と目の前の仕事に集中する。「ただひたすらにお笑いが好き」という気持ちが原動力だ。 *  *  *  昨年12月18日に開催された「M-1グランプリ2022」で、優勝したウエストランドが漫才中、こう毒づいた。 「アナザーストーリー(M-1のドキュメンタリーを報じた番組)がウザい! いらないんだよ。泣きながらお母さんに電話するな! 『優勝したよー』なんて」  まさに「泣きながらお母さんに電話」したのが、1年前に優勝した錦鯉(にしきごい)のボケ役、長谷川雅紀(はせがわまさのり)(51)だ。実は錦鯉は、ウエストランドの井口浩之(39)と、今回の決勝戦の前日に、同じ仕事現場で顔を合わせている。井口は「ネタを変えようか悩んでいる」と錦鯉のツッコミ役、渡辺隆(わたなべたかし)(44)に打ち明けた。渡辺は、 「おまえは全員をバカにしないと意味ないんだから、思い切ってやれ」  とハッパをかけ、決勝へと送り出したという。  渡辺は、しのぎを削る仲間同士として、ウエストランドの快挙に自らの経験を重ねてこう話した。 「彼らは、昔からあのスタイルを貫き通してM-1王者になったんですよね。我々もまた然りです。自分が面白いと思うものを貫き通すことができた者が、なし得ることなのかなと思います」  21年のM-1グランプリで王座を掴(つか)んだ錦鯉が歓喜の涙を流した時、審査員も、もらい泣きした。歴代最年長コンビの<おじさん版シンデレラストーリー>に会場は沸いた。  私が錦鯉に興味を抱いたのは、優勝の瞬間、長谷川が数秒間みせた、キョトンとした「無の表情」に心が動いたからだ。狙っていたものを本当に手にした時、人はこんな表情をするんだ!という新鮮な驚きがあった。長谷川に号泣のスイッチが入ったのは、渡辺が長谷川に抱きついて、「ありがとう」と耳元でささやいた後だ。  その夜から、錦鯉のマネージャーの電話は鳴りっぱなしに。数カ月先まで予定が埋まった。 ラジオ「錦鯉の人生五十年」の打ち合わせ風景。この日はスーツの衣装ではなく、普段着。「打ち合わせしなくても、黒Tシャツでお揃いだ」と長谷川が照れて言うと、「たまたまだから」と渡辺が冷静にツッコむ(撮影/加藤夏子) ■スキンヘッドのおじさんに 「きゃー」「カワイイー」  今や錦鯉は、「売れ続けて快走中のおじさん」のオーラを放つ。昨年出演したテレビの番組数は、403本にも上る(22年1~11月。ニホンモニター調べ)。1年間、売れっ子として駆け抜けた感想を問うと、渡辺はこう答えた。 「まるで異世界に転生したようでした。自分たちより、周りが変わった感じ。『転生したらM-1チャンピオンになっていた件』というライトノベルの主人公のおっさんになった感じです」  長谷川は20年末に、長年続けた夜勤バイト生活に終止符を打ち、芸人の仕事一本に絞っていた。M-1で優勝した後、6畳一間、家賃5万円の暮らしを返上。都心の高級マンションに引っ越した。2人とも、22年9月時点の月収は「1千万円超え」と番組で公言している。長谷川は「貧乏すぎて虫歯のケアができず」に、奥歯から8本の歯を失ったが、歯の治療もできるようになった。  20年前に長谷川がレギュラー出演していたHTB北海道テレビの情報番組で共演し、今は錦鯉のレギュラー番組のチーフプロデューサーを務める戸島龍太郎(55)は、錦鯉を取り巻く聴衆の反応の変化に驚きを隠せないという。 「雅紀なんて、20年前と言ってることもやってることも、基本は変わってない。しかも今は、見た目はスキンヘッドのおじさん。なのに、子どもに人気があり、若い女性に『きゃー』『カワイイー』って声をかけられていますからねえ。雅紀の出身校でロケした時、感激のあまり、女子高生が泣いていたんですよ。すかさず隆さんが、『亡くなったおじいちゃんに似てるの?』と突っ込んで、笑いをとってました」  何かと年齢を話題にされることは多く、彼ら自身も年齢を笑いのネタにしているが、2人とも、人が思うほど年齢を気にしていないのだという。  長谷川は言う。 「僕らはただ、お笑いが好きでたまらなくて、やめ時がわからなくて芸人を続けてきただけ。僕なんかは、二回り年齢が違う若手とも、一緒にライブをさせてもらってきた。『鈍感力』の賜物(たまもの)です(笑)。若い人たちが、オジサンたちを腫れ物に触るような感じじゃなく、普通に付き合ってくれたのが有難(ありがた)いですね」  錦鯉とともにM-1の決勝で戦ったモグライダーは、錦鯉が客数の少ない小劇場でのライブをこなす「地下芸人」時代から付き合いがある。ともしげ(40)は、リスペクトを込めていう。 「芸人って、20年ぐらい売れないと、『俺なんてどうせ』みたいな心の闇が出てくる。でも錦鯉は、そういうことがなかった。それはすごいこと」  相方の芝大輔(39)は、「いるだけで愛される力」が錦鯉にはあるという。 錦鯉が所属するSMAの先輩、バイきんぐの小峠英二は、「雅紀は人間そのものが面白い。渡辺はオールマイティー。トークもプロデュースもうまいし、作るネタが面白いから、我々も作家として入ってもらってる」(撮影/加藤夏子) 「売れなかった時代もうじうじせず、機嫌良く粛々とお笑いやってて。哀愁を通り越して、一番バカなことやってる、みたいな。それは、みんなに愛されるよなって。失礼な言い方かもしれないですけど、2人とも、やっぱカワイイですから」  錦鯉のコンビ結成は2012年。2人とも別の相手とコンビを組んだり、ピン芸人として活動したりしていた時期がある。それぞれ平坦(へいたん)ではない人生を歩んできた。  長谷川は、北海道の商家の出身。祖父が札幌市内の市場で珍味と乾物の土産物屋を営み、父が後を継いだ。幼少期は商売も順調で、姉はきれいなワンピースに身を包み、日本舞踊、お茶、エレクトーンと習い事三昧。長谷川も、姉と英語教室に通っていた。  劇的に生活が変わったのは、長谷川が小学1年生の時。父が事業の取引相手に騙(だま)され、店を乗っ取られたのだ。長谷川は「一家で奈落の底に落ちた」という。以来、父は外に働きに出ても長続きしなくなった。父が、それまで姉の私立高校進学のために母・幸子が貯(た)めておいたお金をパチンコで使い込んだとき、両親が口論になった。結局は幸子が、女手一つで姉、長谷川、弟の3人を育て上げた。長谷川が高校を卒業する前に両親は離婚。父は20年に他界した。 ■お笑いの道を反対した母 M-1優勝を見せられず  幸子は、忸怩(じくじ)たる思いがあるのだという。 「大きな家に住んでいたのに、雅紀は小1でお風呂もないアパート暮らしに。私が朝から晩まで働きに出ていたから、すっかりおじいちゃん子になったわね。心残りは、高校を出た後に入ったデザインの専門学校のこと。学費が払いきれなくてね」  長谷川はデザインの専門学校に入学後、半年で辞めた。ホストクラブをはじめ、バイトを転々とするうち、バイトの先輩が主宰する劇団に誘われた。顔立ちがはっきりしていて、上背もある長谷川は、初演でいきなり主役に抜擢された。芝居の中で、人を笑わせる場面があり、長谷川は、「お笑いは、客の反応が直に伝わるのが面白い!」とのめり込む。そこで高校の同級生だった久保田昌樹と、94年に新設された吉本興業札幌事務所(現・札幌支社)の門を叩く。オーディションに合格し、1期生に。23歳にして、お笑い人生が始まった。  一方の渡辺は、下町情緒あふれる東京都江戸川区葛西の出身。根っからの「テレビっ子」だった渡辺は、小5でダウンタウンの番組を見て、お笑いにハマった。中央学院大学に進学後、大学3年生の時に高校の同級生だった江波戸邦昌とともに、東京NSC(吉本総合芸能学院)に入った。「憧れのダウンタウンさんのようになりたい」一心からだった。  だが母は、お笑いの道を目指すことに猛反対した。渡辺がNSCに入って大学を辞めると、母は言った。 「大学は卒業してほしかった」  そんな矢先、2000年1月に、母を交通事故で亡くす。渡辺の胸中は複雑だろうと、今も実家で渡辺と暮らす父・政夫(72)は言う。 「娘(渡辺の姉)に言わせれば、隆はお母さんっ子だったらしい。生前、女房はお笑いの道に入るのを受け入れていなかったから、隆も息子としての思いってのは、あると思う。M-1の優勝は、母親に一番見せたかったんじゃないかな」  長谷川と渡辺が出会うのは、現在所属するソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)でのこと。2人は吉本をやめていた。SMAにお笑い部門が立ち上がったのが、2004年12月。噂を聞きつけた渡辺が小田祐一郎(現・だーりんず)とともに「桜前線」というコンビで、翌年3月にエントリーした。長谷川は、その1週間後に入った。久保田と上京して「マッサジル」というコンビを組んでいた。  だがその3年後、渡辺は30歳目前で桜前線を解散。ピン芸人となった。一方の長谷川も、40歳の夏、久保田が体調を崩したため2011年に解散。その翌年、渡辺が「コンビを組まないか」と声をかけた。渡辺は、こう述懐する。 「もう舞台に立ってるだけでバカだし、『めちゃくちゃ面白いなーこの人』と思った。雅紀さんがいるだけで、どのライブ会場も明るくなっていたんですよ」  12年に錦鯉を結成。コンビを組んで最初の2年間はパッとしなかったが、2人と付き合いが深いSMAの先輩、ハリウッドザコシショウ(48)から、「決定打」となる助言をもらう。「長谷川は、バカを前に出せ」と。ザコシショウは、こう振り返る。 「錦鯉の漫才って、初期はスマートな、くりぃむしちゅーさんみたいな『引き芸』を目指していたんですよ。ボケをかます側が一歩引いて相手の面白さを引き出す、みたいなね。今思えば、『雅紀、何カッコつけてんだ!』って感じだよね(笑)。バカで笑いとるんだったら、最初からそれを出してきゃいいじゃん、みたいなことは言いましたね」 ■芸人の間で人気の錦鯉 「絶対ブレイクしますよ」  この助言もあって、「パズルのピースのように、真逆の2人がコンビとしてがっちりハマった」と長谷川は言う。 「僕は前に出てわーっと動いてしゃべる。隆はどーんと構えているタイプ。隆は普段から僕にとっての『東京のお母さん』的存在なんですよ。僕の方が年上なんですけど(笑)。芸人を辞めようと思ったことは何度かあったけれど、錦鯉を組んでから辞めようと思ったことは、一度もないですね」  渡辺には、長谷川が「原石」だと映った。 「雅紀さんは存在そのものが面白いから、へんに細工をしなくても、いるだけでいいんだよと。フロントマンとしては最高の人ですよね。優勝する何年か前から、この人(長谷川)にどんなネタをやってもらおうかということが、四六時中、僕の頭の中にあったと思う」(渡辺) 「とことんバカ」を張れる長谷川と、冷静にコンビのプロデュースができる渡辺とがマッチした。漫画みたいな動きでボケを炸裂させる長谷川のアツさと、半歩後ろに立って沈着なツッコミをする渡辺の対比が笑いを誘う。長谷川が不思議ワールドへぶっ飛んでも、渡辺は緩急をつけて小気味よくツッコミの手綱を捌(さば)く。正反対な2人による「ギャップの妙」で笑わせる古典的なスタイルの漫才を作り上げた。  それに加えて、「プロの芸人からの口コミ力」という強力な援護もあった。  年間1千本を超えるお笑いライブを仕掛けるK-PRO代表の児島気奈(40)は、錦鯉はブレイク前から、芸人の間で人気があったという。 「コワモテのおじさんで、錦鯉さんにキャーと喜ぶ若いファンはつかなかった。でも、まわりの若い芸人さんたちが『絶対ブレイクしますよ、このおじさんたち』と口コミで広げていて。それで錦鯉さんに出演を頼んだら、舞台上の芸人さんたちがすごく楽しそうだったんです。トークコーナーも、いつも以上に盛り上がって。こんなに盛り上がるんだったら、また次も呼びたいなって、錦鯉さんに次々にオファーするようになったんです」 ■芸が刺さっている感覚ない これからが本当の勝負  錦鯉を組んでからの10年は、ライブ会場での客の反応もそこそこによく、「チャレンジの階段を上がる感覚がずっとあった。続けられた理由はそこにあると思う」と長谷川はいう。  2015年からM-1にも挑戦し、毎年、準々決勝か準決勝までは勝ち進んでいた。18年に病気で北海道に帰っていた久保田の訃報が届く。渡辺は「雅紀さんは売れなきゃいけない」という思いを強くした。長谷川は、志半ばで逝った元相方へのオマージュのつもりで、お笑いに打ち込んだ。2人は2カ月に一度、新ネタを5本つくることを課し、毎回ライブで10本のネタを披露し続けた。  テレビ番組への出演機会がポツポツ増え、徐々に注目度が上がった20年には、M-1で決勝まで駒を進めた。翌年、満を持して優勝を勝ち取った。  予選・本選とも持ち時間が限られているM-1は、いかに客の心をつかんだまま突っ走れるかが勝負になる。例年、M-1の予選で審査に携わる放送作家の田中直人(58)は、多くのコンビが時間内にネタを隙間なく詰めた結果、「話術の短編小説」のようなお笑いが並ぶようになったと語る。 「凝った短編小説のようなお笑いは、目まぐるしい展開になりがちなんですが、錦鯉の笑いはテンポがゆるやか。余計な言葉を削(そ)いでいった結果、『でっかい太字で書かれた絵本』のような野太い面白さが生まれた。錦鯉は、『お笑い第7世代』とくくられる若い世代が見過ごしていたポイントを突いたともいえますね」  昨年8月、ラジオ番組の収録に立ち会った。視聴者からのお便りコーナーで、長谷川は大ぶりのアクションをつけ、寄せられた一発ギャグを読み上げる。リスナーには見えないラジオなのに、両腕を振り上げ、エネルギーを全開にする。長谷川は根が真面目で、サービス精神が旺盛なのだ。  一方の渡辺は、メジャーとサブカルの間を往復しながら、媒体や場に応じて軽妙に、ネタやトークに奥行きをつくる。「趣味がAV鑑賞」と公言し、テレビのバラエティー番組で、マツコ・デラックスから「下ネタで議席を失う市議会議員顔」と形容された。テレビに加え、ネット界からの支持も熱い。渡辺がバーチャルユーチューバー(VTuber)の「兎田ぺこら推し」なのは、オタク界隈(かいわい)では有名だ。ライブ配信で、ぺこらと共演したことも話題になった。また、キャバクラ嬢を演じるタレントとのトークで「ドM」なキャラを怪演したYouTubeの番組で、200万回以上の再生回数をたたき出した。  売れっ子芸人の仲間入りをしても、渡辺はどこまでも謙虚だ。 「自分らの芸が世の中に刺さっている感覚はあまりないですね。今はとりあえず、M-1チャンピオンが(テレビ番組に)呼ばれているという認識。錦鯉が呼ばれているとは思っていない。これからが本当の勝負だと思います」   そんな渡辺に今後の野望を聞いた。 「ただただ面白くありたい。面白ければ仕事も来るだろうし。だから、何かやりたいこととか野望とかは、全くないんですよ」 「ただ面白くあること」に集中する。無我の境地そのものだ。そんな彼らの姿は、実に清々(すがすが)しい。  錦鯉は、エイジズムとは無縁で「カワイイ」と言われ続ける、時代のアイコンだ。あらゆる世代と応答しながらピチピチ泳ぐ様を、まだまだ見ていたい。(文中敬称略) (文・古川雅子) ※AERA 2023年1月16日号
AERA 2023/01/13 18:00
Colabo仁藤夢乃さんの「キモイ」は女性を守るセンサー 少しでもマシな世界になりますように
北原みのり 北原みのり
Colabo仁藤夢乃さんの「キモイ」は女性を守るセンサー 少しでもマシな世界になりますように
Colabo代表・仁藤夢乃さん  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は攻撃を受けているColaboと代表・仁藤夢乃さんについて。 *   *  *  若年女性支援団体Colaboに対する攻撃が続いている。ネット上で始まった攻撃は、シェルターや代表の住所を明かすような加害にも広がっている。今後、刑事告訴などもしていくとのことだが、Colaboが受けた被害は計り知れない。  先日、Colaboを批判する中心に立ってきた男性が東京都に対して出した住民監査請求に対する結果が公表された。結論をいえば、21年の事業費について請求人の訴えが認められたものはほとんどなく、妥当性が疑われる内容については2月までに再調査を東京都に勧告し、内容によってはColaboに返金を求めるというものだった。とはいえ、女性たちを「タコ部屋」に押し込めている、生活保護のお金を取り上げているといったデマの影響はいまだに尾を引き、監査請求の結果が出た後でも、Colaboが税金を使った不正があったかのような声はSNS上に根深い。  若年女性支援に関わる福祉団体が、ここまで激しい批判にさらされたことは前代未聞だろう。私自身、女性支援団体に取材したり、また実際に関わったりすることもあるが、現場は誰もがみな人生を削るように仕事をしている。凄絶な暴力の末に命からがら逃げてくるような女性たちを、文字通り命がけで守る現場に、「彼女たちは地獄を見ている」と思うこともある。そういう現場で働くソーシャルワーカーたちの声は、ほとんど聞かれることはない。プライバシー保護の観点もあるが、そもそも「声をあげる」余力すらないのが実態だろう。そういうなかでColaboという被害当事者が中心となってつくられた団体は、支援者の声を通した当事者の声ではなく、当事者そのものの声を社会に伝える重要な役割を担っている。  6年前に代表の仁藤夢乃さんを長期にわたって取材したことがある。当時の取材ノートを振り返り、改めてColaboの存在意義の重さを感じている。 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表  仁藤さんのそもそもの原点は、東日本大震災後のボランティア活動だ。大学生だった仁藤さんは、宮城県石巻市の避難所で長期滞在し、避難所で出会った高校生たちの声を聞いてきた。高校生たちの「何かしたい」という思いを支援しようと、地元の製菓会社にかけあい、女川高校の生徒たちと「たまげ大福だっちゃ」という和菓子のプロデュースに奔走した。「たまげ大福だっちゃ」は、2011年の9月に発売されたが、被災地の高校生が自ら復興支援にたちあがったこの活動を、多くのメディアが希望として報道したものだった。Colaboは、このプロジェクトをきっかけにつくられた。  仁藤さん自身が、街をサバイブしてきた女の子だった。「15歳でも働けるよ」と街で男に誘われ、はやり始めていたメイドカフェでアルバイトをしたこともある。「ずっと、身を守ることばかり考えていました」と取材中に話してくれたことが、私の心には残っている。そういう仁藤さんの人生を変えたのが、フィリピン旅行をしたときに見た日本人の買春男性たちだった。彼らは、かつて渋谷で女子高校生だった自分に声をかけてきた男たちと同じ顔をしていたという。なぜ渋谷で起きていることと、フィリピンで起きていることが同じなのだろう。社会の仕組みを知りたい。そういう思いで必死に学び、大学卒業間際の3ケ月間で書き上げたのが『難民高校生』(英治出版)だ。手にした印税75万円を頼りに、大学卒業後も就職ではなくColaboの活動を続けてきたのだ。  仁藤さんが大学を卒業した翌年、2014年にアメリカ国務省は、日本のJKビジネスが人身取引の温床になっているとの調査報告を発表している。当時、秋葉原を中心にJKを売りにした散歩や、添い寝、マッサージなどの店が次々にオープンしていた。「観光の仕事」というアルバイトかと思って応募したら、男性客に「性器触ったらいくら?」「キスはいくら?」などと聞かれる、男たちが交渉できる店だったりすることは、よくある話、だった。そういうなか、仁藤さんは夜の街に出かけては、「帰るとこある?」「ご飯食べてる?」と女の子たちに声をかけ始めた。時には自宅に泊め、食事を作り話を聞き、必要な支援につなげることもあった。警察に保護された女の子を迎えに行ったことは数え切れない。  私が仁藤さんの名前を知ったのは、2016年に女性たち自らが企画した、「私たちは『買われた』展」だ。女性たちが自らの体験を文章にし、思いを写真にして展示したもので、今も各地で行われている。ブランドものほしさ、遊ぶ金ほしさに「売っている」と考えられていた女性たちが必死に出した声。「売った」のではなく「買われた」と言いかえることで見えてきたことはあまりに大きかった。 「買う男の人は率直にキモイです。あの人たちは女の人を下に見ているから」  仁藤さんを通して、そんな話をしてくれる女性たちに会ってきた。「ご飯をごちそうする」と言われコンビニでおにぎりを1個もらい、そのまま男の家に連れて行かれた女の子の話は強烈だった。中学生にしか見えない彼女の手をにぎり、堂々と交番の前を歩いたという。そういう男たちのずるさ、傲慢さ、暴力性を「キモイ」と力強く表現することが、彼女たちの唯一の抵抗でもあった。  仁藤さんに話を聞くなかで、彼女が差別的なものを感じると瞬時に、「キモイ」と言ってスッと心を閉ざす瞬間を何度か見てきた。それはまるでサバイブするための本能のように、仁藤さんのなかにあるセンサーなのだと思う。そのセンサーがあるからこそ、仁藤さんは女性たちを守れ、そして女性自身にあるそのセンサーを、鈍らせなくていいんだよ、と言い続けているのだ。女の子が「キモイ」と感じられる感性は、自分を守るための大切な直感だから。もう身を守るために緊張しなくていい、ご飯を食べて、話をして、安心してぐっすり眠れる場。食い物にする大人ではなく、対等に話せる優しい関係があるのだと信じられる場をつくってきたのが、Colaboだ。そういう仁藤さんが、政治問題に率直に発信し、買春する男性をまっすぐに批判するのは当然だろう。  Colaboへの攻撃は、それだけColaboの活動が世に影響を与えてきたことの証しでもあろう。もの言う女性への攻撃、フェミニズムへのバックラッシュはくり返され続けているが、それでも、Colaboの活動を支援する声も決して小さくはない。仁藤さんへの攻撃に対し、桐野夏生さんら文化人をはじめ、多くの人が支援の声をあげ始めてもいる。  2023年が始まった。Colaboをはじめ、若年女性支援団体関係者にとってはつらい年明けになってしまったが、このことによって現場が萎縮しないことを望みたい。それにしても、このバックラッシュの正体については、丁寧に考えていきたいと思う。いわゆる“ネトウヨ”と呼ばれる人々を増産し、ヘイトスピーチを助長するような空気をつくってきた安倍さんという“大きなリーダー”が亡くなったことと、今のこの空気はどのようにつながっているのかなど、安倍さん不在後のネットの世界、女性をめぐるリアリティーについても、考察すべきことなのかもしれない。  少しでもマシな世界になりますように。祈るようなそんな気持ちだ。
北原みのり性被害
dot. 2023/01/11 16:00
「巨人のエース」になり切れなかった男たち 名門で“太く短く”輝いた投手の記憶
久保田龍雄 久保田龍雄
「巨人のエース」になり切れなかった男たち 名門で“太く短く”輝いた投手の記憶
巨人時代の東野峻  巨人時代にエースと呼ばれた西武・内海哲也が、昨季限りでの現役引退を発表した。内海のように他球団に移籍したあとでも“巨人のエース”の名がついて回る投手もいれば、エース級の活躍を見せたシーズンがありながら、安定した成績を続けられず、巨人のエースになり切れなかった男たちも少なくない。  1980年代前半、江川卓、西本聖とともに先発三本柱を構成しながら、真のエースになることができなかったのが、定岡正二だ。  鹿児島実時代に74年夏の甲子園で4強入りをはたし、甘いマスクから一躍女子中高生のアイドルになった定岡は、80年6月5日の中日戦で待望のプロ初勝利を挙げると、同年は9勝8敗、防御率2.54で江川、西本に次ぐエース格に成長。翌81年も、4月11日の阪神戦で準完全を達成するなど、11勝を挙げ、82年には自己最多の15勝を記録した。特に広島戦は抜群に相性が良く、“広島キラー”の名をほしいままにした。  翌83年も、5月26日の広島戦でハーラー単独トップの7勝目を挙げ、チームの首位独走に貢献したが、6月に腰を痛めてから急失速。登板するたびにKOされる定岡に、投手コーチは「ブルペンではいいんだ。コントロールもきちっとしている」としながらも、「不思議なんだよね。(マウンドに上がると)球が真ん中に集まっちゃう」と首を捻った。  ミニキャンプや2軍での再調整も効果が上がらず、7勝1敗から6連敗の7勝7敗でシーズンを終えた。  不振は翌年以降も続き、84年秋からリリーフに配置転換。そして、85年オフに近鉄へのトレードが決まると、肘痛が慢性化し、現役を続けるかどうか悩んでいた定岡は「知らない球団に行って、1からやり直すだけの気力も体力もない」と巨人ひと筋を貫き、29歳でユニホームを脱いだ。  一時は引退も覚悟したどん底から一躍エース候補に名乗りを挙げたのが、宮本和知だ。  84年にドラフト3位で入団した宮本は、1年目は貴重な左の中継ぎとして38試合に登板したが、2年目以降は出番が減少。そんな矢先の88年秋に肘を痛め、手術を受けた。  当時は手術から復活した例が少なく、「もうダメかも」と絶望的な気持ちになったが、翌89年、半年間のリハビリを経て復帰すると、8月以降5勝を挙げ、10月6日の大洋戦では胴上げ投手に。さらに近鉄との日本シリーズ第7戦でも日本一の胴上げ投手と一気に運気が上昇した。  そして、翌90年も桑田真澄と並ぶ14勝をマーク。2年連続20勝の斎藤雅樹とともに先発三本柱になり、9月8日のヤクルト戦では、延長10回を投げ抜いて通算3度目の胴上げ投手に。まさに野球人生の絶頂期だった。  だが、その後は谷間の先発やリリーフなど、便利屋的起用が多くなり、97年を最後に33歳で引退。  エースになれなかった理由について、宮本は自著「プロ野球超プレイ笑プレイ」(ワニブックス)の中で、同時期に斎藤、桑田、槙原寛己がいたことを挙げ、「3人のうち、1人がいなければ、宮本もエースになっていたはずだ」と悔しさをのぞかせながらも、「3人は技術的にも体力的にも素晴らしいし、僕には到底敵わない天性のスーパースターたち」と最大の敬意を表している。  00年代では、01年に13勝4敗で最高勝率に輝いた入来祐作の名が挙がる。  96年にドラフト1位で入団後、4年間で通算9勝16敗2セーブと伸び悩んだが、01年にチェンジアップを習得し、緩急自在の投球で、一気にブレイクした。  だが、好調は持続せず、登板ゼロに終わった03年オフに井出竜也との交換トレードで日本ハムに移籍した。  入来の亜大の後輩にあたる木佐貫洋も、03年に豪速球を武器に10勝を挙げ、新人王獲得。07年には自己最多の12勝を記録したが、翌年以降は低迷し、高木康成との交換トレードでオリックスへ。  07年に内海、木佐貫とともにローテーションを守り、14勝を挙げた左腕・高橋尚成も09年オフ、前年メジャー入りした上原浩治に触発され、日本一を手土産にメッツにFA移籍した。  ドラフト7巡目入団からエースに手が届くところまでのし上がったのが、東野峻だ。  プロ5年目の09年、「お前は巨人の将来を引っ張っていく男だ」と原辰徳監督から背番号17を貰った東野は、負けん気を前面に出した投球で8勝を挙げ、見事期待に応える。  翌10年も、内海とともに先発の柱となり、前半戦だけで11勝(2敗)。前田健太(広島)と最多勝争いを繰り広げるなど、この時期に限定すれば、堂々たるエースだった。  8月以降は1勝6敗と失速したものの、10月7日の広島戦で前田と先発対決した東野は「いつも以上に気合が入った」と8回を無失点に抑え、2カ月ぶりの13勝目。3位でのCS進出を確定させた。  翌11年には自身初の開幕投手で白星を挙げ、前年以上の活躍が期待されたが、好不調の波が激しく、8勝11敗と負け越し。ここから歯車が狂いはじめる。  12年は登板1試合に終わり、オフに2対2のトレードでオリックスへ。その後も復活のきっかけをつかめず、15年のDeNAを最後に29歳で引退。当時の東野は、結果を出せなくなった理由を「がむしゃらさが出なかった。完全に天狗になっていました」と振り返っている。  開幕投手も務めたプライドが、捕手のミット目がけてがむしゃらに投げていたころのひたむきな気持ちを取り戻す妨げになり、現役晩年は首痛の影響で力を発揮できなかった。  常勝を義務づけられたチームで、長年にわたって結果を出しつづけることの難しさを痛感させられる。(文・久保田龍雄) ●プロフィール久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。
プロ野球巨人
dot. 2023/01/09 18:00
「私はかわいそうですか?」 里子への先入観を変えたい高校1年の女子生徒が取った行動とは
「私はかわいそうですか?」 里子への先入観を変えたい高校1年の女子生徒が取った行動とは
小賀坂小春さん  さまざまな理由から実の親と離れて暮らす子どもが日本には約4万2千人いる。そのうち約6千人は里親の家庭で生活している。東京都在住の高校1年、小賀坂小春さん(16)もそのひとりだ。里子であることに負い目を感じていなくても、周囲から「かわいそう」と先入観を持たれることに疑問を抱いてきた。当事者として、「里親家庭が特別視されない日本になってほしい」と話している。  小春さんは、生まれてすぐに乳児院に預けられ、3歳の時に里親に迎え入れられた。生みの親が別にいることを知らされる「真実告知」を幼少期に受けている。 「私は、肌の色など見た目からして、ハーフです。一人でいる時はそう思われるだけで終わるのですが、里親家庭と一緒にいると見た目の違いで『あれ?』という目で見られます。さらに名前を明かすと、もっと『あれ!?』と驚かれてしまいます(笑)」(小春さん) “純”日本名に小麦色の肌。学校で自己紹介すると「なんで?」と聞かれた。小春さんは「里子だよ」とふつうに答えた。すると、申し訳なさそうに言われた。 「なんか、ごめんね。聞いちゃって」  悲しい気持ちになった。里子であることに何の恥じらいも持っていなかったからだ。どうして謝るのか。「里子=かわいそう」と思われている気がした。  また、里親家庭にいる実子と同じように暮らしていても、実子には認められている権利が、里子は当たり前ではない事実に直面した。  例えば、学校の行事にメディアが取材に入ると先生に呼ばれ、映像や写真に撮られないように保健室など別の部屋で撮影が終わるのを待つ。里子は、社会的養護の立場を守る観点から児童相談所(児相)を介して実親に出演の許可を取らなければならなかった。  小春さんは、小学校6年生の時、制服の自由化を求めて中野区長に、 「男女関係なく制服を選べるようにして欲しい」  と要望書を提出した。すると、制服は自分に合わせて選択できるようになった。その件について様々なメディアから取材の依頼があった。だが、児相は「実親の許可が必要」という理由で、小春さんの実名・顔出しについては認めなかった。   小春さんが話す。 「制服自由化と、社会的養護の子どもであることとは、何の関連性もありません。なのに、里子だから、という理由だけで世の中に堂々と顔を出すことができませんでした。道端で困っているお年寄りを助けたり、賞をとったりした子どもが、ふつうにテレビや新聞に出ているのに、里子には制限があります。まるで社会から自分の存在を否定されたかのような気持ちになりました」  そして、小春さんは昨年10月、実親と対面して、実名で活動することの許可を得ることにした。 「児相には小さい頃からずっと、何度も実親に会いたいと要望してきました。それが、やっと実現しました。実の母は病気があって、前よりも進行している状態でした。だから、なるべく早く会いたかったんです。生きているうちに会えてよかったです」(小春さん)  実に14年ぶりの再会した実親は、とても温かい人だった。メディアに出ることを快諾してくれた。実親はこう言って背中を押してくれたという。 「小春の好きなように生きてほしい」  だが、3カ月後の今年1月、朝の情報番組から取材を受けた小春さんは、初めて里子としての自分の思いを、公の場で語った。その番組の放送直前に児相から、「児相の権限で実親に連絡する」と言われた。許可を得たはずなのに……。  小春さんはこう話す。 「まだ母とは1度しか会っていませんでした。テレビという間接的な情報から私の里子としての気持ちを聞いて傷ついてしまうかもしれないし、間違った伝わり方をしてしまうかもしれない。これから関係を作っていく上で自分の口から直接伝えたかったです。実親との関係を再構築したくても、児相が間に入ることで、自分のペースで進めることが難しくなってしまうのではないかと不安になりました。  児相は、里子の自由を制限するのではなく、一人ひとりの思いや願いを聞いて、子どものペースに合わせてサポートしてくれたらいいなと思います。措置の内容や実親との関係の進め方の希望は一人一人違うと思います。まずは子どもの声に耳を傾けてほしいです」  小春さんは現在、里親家庭で暮らす里子や実子を支援する一般社団法人グローハッピー主催の「子ども会議」のファシリテーターを行っている。子ども会議では、テーマや会議の進め方を子どもたちが決める。専門家からのアドバイスをもらいながら、それぞれの願いをかなえるアイデアを対話によって生み出していく取り組みをしている。第1回の会議では、子どもたちの抑え込んでいた本音が飛び交った。 「『里親』を知っている人が少ない」 「顔を見せるのを解放してほしい」 「実親に会わせてほしい」  児相の対応についても、厳しい意見や不満も出ていた。  一方、実子からは、 「(里子は)家で楽しくしているけど、可哀想と言われることについてどう感じるのだろう?」  といった意見もあった。小春さんは会議を通じて、自分だけじゃなく、他の里子も同じような気持ちを抱いていたことがわかった。  会議では、そうして集まった本音を検討し、どう社会にポジティブに投げかけていく方法を考えた。  まず、里親家庭が特別視されないためには、 「里親と里子の姓が違うことに対して色んな家族の形があることを知ってもらう」 「学校の授業で里親家庭について紹介する」  といった意見が出た。いずれ子ども家庭庁の大臣に要望書として提出する予定だ。  ■乳児院から里親家庭へ たこ焼き、たい焼きに困惑   小春さんには乳児院のころの記憶が残っている。夜中、こっそり布団から抜け出し、職員の部屋に行った。昼間は、他の子どもたちの世話に手を焼いている職員をひとり占めできないからだ。 「みっつー(職員)は、カギを開けておいてくれました。カギを閉める人もいましたけど(笑)」(小春さん)  昼間は「眠り姫」と呼ばれていた。一人の職員が5人ほどの子どもを見ていた。誰かが泣き出すと、職員は泣いている子の対応に追われる。だから、小春さんは「自分も泣きたかったけどみっつーが困っているかなと思って我慢した」。親指をくわえながら職員の手が空くのを待っていたら、そのまま眠りに落ちていた。  3歳の時、里親家庭との交流が始まった。家族全員を紹介されて「うちの仲間になってくれたらうれしいな」と言われた。何度も交流するうちに仲間になってもいいかなと思うようになっていたという。 養育里親の里親研修と登録の流れ(厚生労働省 里親制度資料集から)  「乳児院にいた時、私はさみしかったです。家族というものを知りたかったし、家族が欲しかったから、里親家庭のところに行きたいと思い、自分で決めて『仲間になる!』と言ってみました」  小春さんは、里親家庭と暮らしだしたころ、夜中に里親の部屋に行って枕元に立つようになった。驚いた里親に「どうしたの?」と聞かれると、小春さんは「いるかなと思って」と答え、確認して自分の部屋に戻った。これを2週間ほど続けていたという。  小春さんは言う。 「乳児院では、職員が時間ごとに代わるからさみしかった。里親は、本当にずっといるのか不安でした」  食べ物についてはいくつも“事件”が起きた。  初めてのお泊まりの時に里親から何が食べたいかと聞かれて、「たこ焼き」と答えた。しかし、クルクル回して作ってもらった丸い食べ物に困惑した。その様子を見た里親は「もしかして、たい焼きだった?」と聞き返した。翌日、たい焼きを買ってきてくれた。中身が黒くて、さらに困惑した。 「乳児院で、親と面会して戻ってきた子から『たこ焼き』という単語を聞いたことがありました。でも、一度も食べたことがなかったから、たこ焼きもたい焼きもわかりませんでした。しかもタコもあんこも嫌いでした(笑)」(小春さん)  乳児院の献立には出てこない食べ物。一般家庭ではじめて遭遇した。  こんなこともあった。里親家庭での朝食はそれぞれ好きなものを食べていた。実子の姉たちの好物は納豆ご飯。2人ともおいしそうに食べていたが、小春さんは納豆嫌いだった。「苦手なものは食べなくていいよ」と言われていたが、1年半も「好き」と言い続けて食べていた。 「お姉ちゃんたちは納豆が好きだから、仲間になりたくて、好きと言い続けていました」(同)  実子の次女は小春さんの1歳上で、一番の理解者だった。次女に「実は納豆嫌いなんだ」と打ち明けた。次女はそれを里母に話そうとしたが、小春さんはバレたくなかったので「え?!言っちゃうの?!!」と止めようとした。  しかし、そのことが里母の耳に入ると里母は、「嫌いなら食べる必要ないよ」と言ってくれた。1年半も嫌いなものを食べ続けていた事実を知り、驚いている里母に、「でも納豆巻きは大丈夫」と言い訳をした。  ここでも運悪く、それを知らない里父は、子どもたちの昼食のために納豆巻きを3パックも買ってきた。 「小春、本当に好きならいいけど、今言わないと、父ちゃんずっと納豆巻き喜ぶかなぁと思って買ってきちゃうぞ。どうする?」と里母に言われ、勇気を振り絞ってとうとう、「納豆巻きも嫌い」と言えた。今では家族の笑い話だ。  こうして、乳児院にいた時には言い出せなかった自分の意思を、里親家庭のもとで少しずつ言えるようになっていった。  いま、こうして里子として実名と顔を出して発信することができるようになった小春さんだが、まだ十分ではないという。 「フランス革命では、声を上げた市民が選挙権を獲得しました。でも獲得できたのは男性たちだけ。女性や子どもの権利は認められませんでした。それに例えると、私は権利を獲得した男性たちの立場になるかなと思いました。他の里子たちは自分の願いを聞いてもらえているのだろうか。自分の育ちたい場所を選べているのだろうか。一度社会的養護に入ると、子どもの願いは後回しになっている現状があります。だから、その子たちのためにも、かつての自分を救う気持ちで自分にできることをしたいと思っています」  他の里子が発言する権利も求めて、声を上げ続けるつもりだ。 (AERA dot.編集部 岩下明日香)
dot. 2023/01/06 17:00
波紋を呼んだ「外国籍の住民投票」の狙い 武蔵野市長に聞いた!
波紋を呼んだ「外国籍の住民投票」の狙い 武蔵野市長に聞いた!
条例案に関する報道陣からの質問とインタビューに応じる松下市長(21年12月)  18歳以上で、住民基本台帳に3カ月以上登録されていれば、国籍を問わず投票できる。こんな住民投票条例案が2021年12月、東京都武蔵野市議会で否決された。全国的に注目された条例案は何を目指したのか。松下玲子市長(52)に聞いた。 *  *  *  武蔵野市では、20年4月に武蔵野市自治基本条例を施行しています。市民を自治の主体、主権者と位置づけ、市民のためのまちづくりのルールを定めたのが自治基本条例です。  その19条に、新しい市民参加の手段として住民投票を行うと明記しています。この投票は住民提案のみで、市長や議会は提案ができない。あくまで民主主義の担い手たる市民が、例えばごみ処理施設の場所をどうするかなどで意見が分かれたとき、住民の意思を示そうよということで行います。  地方自治法にも住民投票は明記されていて、投票資格者の50分の1の署名を集めればできる。ただし、それには議会の議決が必要です。一方、21年に廃案となった条例案では議決が必要ありませんでした。そのかわり、投票資格者の4分の1の署名を2カ月という短期間に集めなければいけない。先の19条で「必要な事項は、別に条例で定める」と書いてあるので住民投票条例案を議会に提出しましたが、否決されたため、この19条は未施行のままです。 ◆  条例案は、市議会本会議で反対多数(反対14、賛成11)で否決された。自民と公明などが反対し、立憲と共産は賛成した。松下市長は22年11月29日の記者会見で、新しい条例案への具体的な道筋は定まっていないと前置きしたうえで「いちから議論して、ゼロから作り上げる」との認識を示し、提案の時期や中身が注目されている。 ◆  私たちは、日本人と同等の権利を外国籍の住民に付与する考えでやっているわけではありません。住民投票ですので、「住民」の定義は何かということから始まっています。住民の定義は何だと思われます? 武蔵野市役所(21年12月) ──居住ですか。  居住ですよね。武蔵野市自治基本条例の場合、市民の定義は住んでいる人、勤めている人、学んでいる人、つまり「在住、在勤、在学」と定めています。でも「住民」と言ったときは「住んでいる人」です。以前は住民登録と外国人登録は別でしたが、外国人登録法が廃止されて住民登録と一緒になり、現在は日本人も外国人も同じ住民票です。「住んでいる人」に国籍の要件は一切ないんです。  その「住んでいる人」の中から住民投票を行う場合に国籍をどう考えるか。5年ほど前に西尾勝先生(東京大学名誉教授、行政学者)を座長とした自治基本条例に関する懇談会で議論された中で、「住民」は国籍を問われず、投票資格者を国籍で区別する合理性はないということでまとまり、その後、3カ月以上住んだ住民であれば国籍を問わず対象として、議会に提案したのが条例案でした。 ──どんな問題意識から外国人に投票権を?  逆にどうしたら住んでいるのに意見を言わせない、という論理になりますか。市長や議員を選ぶ選挙権と住民投票権は異なると私たちは考えています。住民投票の結果に法的拘束力はありません。そこを混同して、「外国人に参政権を与えようとしている」と抗議してくる人がいたのはとても残念です。  議会に対する陳情もありますが、陳情書に国籍を書く欄はないので、どの国籍の人でも出せます。陳情と住民投票権は近いものと考えています。 ◆  条例案をめぐっては、市議会で「外国人への投票権付与には一定の基準、区別が必要」「議論が拙速」といった声が上がったほかに、街頭やネット上で反対運動が過熱。市役所周辺で街宣車による抗議も連日のようにあった。 ◆ ──反対意見には「外国政府の影響力が強まる」との懸念もありました。  人口約15万人の武蔵野市の外国人比率は2%、3千人です。21年の条例案では、住民投票を行うには投票資格者の4分の1の事前署名が必要で、2%では全然足りない。約11平方キロメートルしか面積がない小さな自治体で、大量の外国人が市外から住民票を移すことも考えにくく、外国政府の影響力が強まることはありえません。 松下玲子(まつしたれいこ)/ 愛知県生まれ。1993年に実践女子大を卒業後、大手飲料会社勤務や東京都議などを経て2017年の武蔵野市長選で当選、市政初の女性市長に。21年に再選。 ■市民参加の手段としての選択肢 ◆  外国人が参加できる住民投票制度を持つ自治体は全国で40以上。ただし大半は「永住者」や「在住3年以上」などの条件がある。在住3カ月以上で日本人とほぼ同じように投票できる自治体には神奈川県逗子市と大阪府豊中市の例がある。 ◆  逗子や豊中では議決の際に騒ぎになったり、何か問題が起きたりはなかったと聞いています。市が無作為で市民に行ったアンケートでは、7割が国籍を問わないことに賛成していました。抗議の声は主に市外の人から来ました。自分たちのまちのことは自分たちで決めることが自治なのに、よそのまちの人たちから抗議を受けたのは残念ですね。 ──条例案が成立すれば、市民の暮らしはどう変わるのでしょう。  市民参加の手段の一つとして選択肢が増えます。市長と議会による代議制民主主義が機能していれば住民投票が起こることは基本的にないと考えていますが、仮に私が武蔵野市だけ税金を上げようとした場合、それはおかしいと住民が声を上げることができます。 ──そうした考えに市長が至った経緯は?  私だけじゃなく、みんなで決めたことです。武蔵野市では、私が選挙公約で掲げたことも、当選後に長期計画に位置づけ実現していく。住民投票条例案も前の市長から引き継いで進めてきました。私個人が勝手にやっていると思われるのは心外ですね。 ◆  働き手不足が年々深刻になり、政府主導で移民の活用が提唱される一方、入国管理施設での外国人に対する扱いやヘイトスピーチの問題など、「多文化共生」に向けて課題は多い。 ◆  人権をどう守っていくかですよね。海外で暮らす日本人も多くいて、同じ目に遭っていたらどう思われますか。日本では人口が減り、22年に生まれてくる子供も80万人を切ると言われています。働き手や介護人材が不足するなか、国も多文化共生を推進しようとしているにもかかわらず、国籍にこだわることにどんな意味があるのか。一人ひとりが真剣に考える時期に来ていると思います。 (構成/本誌・佐賀旭)※週刊朝日  2023年1月6-13日合併号
週刊朝日 2023/01/06 11:30
日本人初「国際子ども平和賞」受賞、17歳の女子高生 「話を聞いてくれる大人がいる」政治と対話していきたい
中島晶子 中島晶子 大西洋平 大西洋平
日本人初「国際子ども平和賞」受賞、17歳の女子高生 「話を聞いてくれる大人がいる」政治と対話していきたい
かわさき・れな(17)/大阪府在住、インターナショナルスクールに通う高校生。2020年にアース・ガーディアンズ・ジャパン創設。バイオテクノロジー企業、ユーグレナ社の2代目CFO(最高未来責任者)も務めた(写真:キッズライツ財団提供) 「国際子ども平和賞」を受賞したアース・ガーディアンズ・ジャパン代表・川崎レナさん。環境保護活動や子どもの意見を政治家に届ける仕組み作りに取り組んでいる。川崎さんが社会問題に関する活動を始めた原点とは。AERA 2023年1月2-9日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  2022年11月14日、17歳の高校生・川崎レナさんはオランダで「第18回国際子ども平和賞」を授与された。日本人では初の受賞ということで話題に。国際子ども平和賞は児童権利擁護組織「キッズライツ財団」の主催で、46カ国175人以上の候補者から川崎さんが選ばれた。過去にパキスタンのマララ・ユスフザイさん(人権運動家、2014年にノーベル平和賞)やスウェーデンのグレタ・トゥーンベリさん(環境活動家)などが授与された栄えある賞だ。  Zoomの画面に現れた川崎さんのウェブ背景には背の高い本棚がたくさん並んでいた。川崎さんが通うインターナショナルスクールでは大学のように受講希望の授業を選択・履修する。その空きコマに、学内の図書室からリモート取材に応じてくれたのだ。 「私の両親が『インターナショナルスクールはどう?』と勧めてくれました。自分の子どもには海外で自己表現できる人間になってほしいと思ったみたい」  教育熱心な家庭との印象を受けたが、かなり自由なようだ。 「私が何か習いたいと言ったらお膳立てをしてくれるけど、その後は何も言いません。私がやってきた活動も今回の受賞で初めて知り、『なんだかすごい賞なのね』って(笑)」  笑顔が愛らしい。まっすぐで正直な目をしている。“雑誌の取材だから”と変に背伸びしようとする雰囲気もない。 ■文化祭売り上げを寄付  川崎さんが社会問題に関する活動を始めたのは、8歳のときに出合った本がきっかけだった。『ランドセルは海を越えて』(ポプラ社)というタイトルの写真が多く入った絵本。戦禍で疲弊したアフガニスタンにランドセルや文具を贈る活動を紹介したものだ。 オランダのハーグで開催された授賞式では、ノーベル平和賞の受賞者である中東イエメンのタワックル・カルマンさんから賞が贈呈された(写真:キッズライツ財団提供) 「私と同じような年の子どもたちが満足な教室もない環境で、目を輝かせて黒板に向かう姿を見てハッとしました。『今日はだるいから学校に行きたくないな』と思ったりすることもある自分との違いにびっくりして。社会問題が初めて“自分ごと”になりました」  アフガニスタンの子どもたちと比べ、自分は特権のようなものを得ていると感じた。 「特権を持っているなら、それをいいことに使わないと」と考えた川崎さんは、寄付するお金を稼ぐことにした。友人と小学校の文化祭に出店し、自分たちで手作りした絵ハガキや粘土細工などを販売したそうだ。 「売り上げは5万円もいかなかったですが、それをスーダンの難民キャンプの子どもたちの教育費のために寄付しました。これが私の、社会貢献のファーストアクションです」  その後、14歳のときにアース・ガーディアンズ・ジャパン(以下、EGJ)という組織を立ち上げた。大阪・十三での河川清掃といった環境保護活動、子どもの意見を政治の場に届ける仕組み作りに取り組んでいる。EGJの成果の一つが、10代の若者と地域の政治家をつなぐオンライン会議だ。 「自分が学生ということもあり、教育の問題が気になって組織を立ち上げたのですが、政治に働きかけていくことが大事だと考えるようになりました。子どもの意見も政治家に届くようになればいいな、と」  私たちは日頃、自分の暮らしを回すことにせいいっぱいで、何か環境のため、世の中のためにいいことを……と思っても実際に行動することは少ない。エコバッグを使うのがせいぜいという人も多いはずだ。「だから23年は河川や公園など公共の場を掃除することから始めましょう」とまでは言わないが、日本のために前向きなことをしたいという気持ちは明確に持っておきたい。何かの折に動き方が変わるはずだから──。  川崎さんは15歳から、ヘルスケアやバイオ燃料事業を行うユーグレナ社の2代目CFO(最高未来責任者)を務めた。“年齢は18歳以下。業務は、会社と未来を変えるためのすべて”という条件の募集を見つけて自ら申し込み、任命されたのだ。ユーグレナで印象に残っている活動は「新入社員が早く会社に慣れ、自分らしく活躍してもらうために、彼らのサポート役2人(ペアレンツと呼ぶ)を年齢・役職を問わず選定する人事制度」の提言だった。 「いろんな仲間の声が上に届きやすい仕組みを作れば、会社のベネフィットになるんじゃないかな……と考えました」  ユーグレナでの活動を通じ、「話を聞いてくれる大人がいる」と感じた。“どうせわかってくれない”と対立するのではなく、こちらから歩み寄り、連携して世の中を変えていきたい。  ここで「自身が政治家になるという道もあるのでは?」と質問した。答えはこうだ。 「私の周りに『政治家になればいいのに』と思う人がたくさんいます。そんな人たちの意見が政治へ届くシステムを作ることに、今の私は惹かれています。政治家のみなさんの本当の気持ちは、報道だけではわかりません。だからこそ実際に政治家の方々と話す機会を設けることが大切だと信じています」 ■川崎レナさんの2023’s My Trend Person:オータム・ペルティエさん カナダの先住民アニシナベ族の環境活動家、18歳。「自分のアイデンティティーに誇りを持っている方。こういう人が輝ける仕組みづくりを2023年もしていきたい」 Book:『おいしいごはんが食べられますように』 作家、高瀬隼子(じゅんこ)さんの第167回芥川賞受賞作。「ディープな描写が秀逸。さまざまなマイノリティー、人間関係で苦しんでいる人は特に読んでほしい」 Company:株式会社PoliPoli 環境省などの官公庁等にデジタルプラットフォームで政策提言する会社。「政治・行政と国民が政策を共に創るという方向性に共感する人は増えると思う」 (ジャーナリスト・大西洋平、編集部・中島晶子) ※AERA 2023年1月2日号-9日合併号
AERA 2023/01/05 08:00
松岡修造が注目するスポーツ選手10人 「それぞれの持つ力と日本の底力が原動力」
松岡修造が注目するスポーツ選手10人 「それぞれの持つ力と日本の底力が原動力」
スポーツキャスター 松岡修造(まつおか・しゅうぞう)/元プロテニスプレーヤー。1995年ウィンブルドン選手権8強。現在はスポーツキャスターとして各競技を取材(写真:ヒーローズマネジメント提供)  2023年にさらなる進化を遂げ、世界に新たな価値や感動を生み出すのは誰なのか。10ジャンルにおいて、その人自身も注目を浴びる専門家が、目が離せないという各10人の名前を挙げた。スポーツではスポーツキャスターとして各競技を取材する松岡修造さんが注目する10人をピックアップ。AERA2023年1月2-9日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  応援を生きがいとしている自分にとって2022年は気づきの年でもあった。コロナ禍で行われた北京冬季五輪はほとんど観客がいない中、声は届かなくとも思いは選手にしっかりと届き、共有できた。中東初開催のW杯カタール大会。日本代表の大活躍を通じて、改めて日本の底力とともに、日本の文化、考え方のすばらしさにも気づくことができた。23年、僕が注目している選手は大勢いますが、僕なりに感じたそれぞれの選手の力と共に伝えていきたい。  フィギュアスケートの羽生結弦さんの「進化力」。プロ転向は現役引退ではなく、進化の過程。22年11月に初のソロアイスショーを観戦。羽生さんはいつもと同じように自分自身と戦っていた。23年2月には東京ドームで単独公演。まさに結弦チャレンジ、僕たちの想像を超える表現、羽生進化を体験したい。  サッカー日本代表の森保一監督の「信芯力」。選手を信じ抜く芯。世界で通用する日本サッカーとは何かを考え抜き、批判を受けながらもぶれずに戦う姿は日本人だからこそできる真のリーダー像に僕の目には映った。“信じ抜く力”を教えてくれた。  スピードスケートの小平奈緒さんの「人間力」。22年10月で現役を退いた。「周りの支えがあるから私がいる」という感謝が原点にある。台風被害を受けた地元・長野でボランティア活動に取り組み、「人の力を感じたからこそ、オリンピック以上にもっとやりたいことがある」。奈緒さんの人間力を通じた新たな人生を応援したい。  サーフィンの五十嵐カノアさんの「郷に入る力」。カノアさんにとってタヒチの波は怖いという思いがあった。だからこそ何度も訪れタヒチの波と向き合った。タヒチの人たち、自然と関わっていくうちにタヒチの波と共有することができたという。24年パリ五輪のサーフィンはタヒチで行われる。誰よりもタヒチの波と仲良くなったカノアさんのサーフィンを目撃したい。 2023年1月2ー9日合併号より  車いすテニスの小田凱人(ときと)さんの「自分常識力」。22年年間王者に輝いた16歳の新鋭。国枝慎吾さんに憧れ競技を始めた彼のテニスは特別だ。打点、打ち方、考え方、全てにおいて今までの常識を超えている。それは誰も成し遂げたことのないことに挑もうとしているから。目指すは憧れを超すパラリンピック3連覇。凱人さんならできる!  フィギュアスケートの宇野昌磨さんの「右左脳力」。勝ち負けよりも感じたままに滑ることを大事にしていた昌磨さんを僕は「右脳昌磨さん」と呼んでいた。そんな彼が現在は世界一の座に。かつて「誰かを引っ張るタイプではない」と言っていた彼がトップの責任と期待を受け入れ、世界一に居続けるために練習も私生活もより具体的に行動するようになったという。まさに右左脳昌磨さんにしかできないフィギュアを目指している。  りくりゅうペア(三浦璃来さん、木原龍一さん)の「ぴったり力」。初の「世界一」にたどり着いた。フィギュアを長い間応援してきた自分にとって日本人ペアの表彰台は想像すらできないことだった。偉業はまさに奇跡の出会いから始まった。初めてペアを組んだ時、全てがピッタリ! 一体感を感じたという。世界一のぴったりペアの思いは一つ、楽しく滑ること。一つの出会いが世界を変える、これほどすてきな出会いはない。  競泳の本多灯(ともる)さんの「シャチ灯力」。揺るぎない自信が灯さんの魅力。バタフライはパワーも重要だが、上背がないなかでも「自分の泳ぎができたら勝てる」という自信が灯っている。彼が目指しているのは「シャチ」。シャチと同じ泳ぎができたとき、23年の世界水泳を経てシャチ灯としてパリ五輪の金メダルを胸に掲げているはずだ。  体操の橋本大輝さんの「大きく輝く力」。21年東京五輪で個人総合・種目別鉄棒の2冠に輝いたエース。その後けがもあり苦しむ姿を見てきた。個人総合を制した22年の世界体操もけがを押しての戦いだった。団体は五輪に続いて2位。大輝さんが本当の意味で心から大きく輝けるのは団体の金メダルを獲得したときではないだろうか。パリ五輪では体操日本のリーダーとして、憧れでもある内村航平さんの思いと共に日の丸をセンターポールに掲げてほしい。  バスケットボールの渡邊雄太さんの「我武者羅(がむしゃら)力」。日本人2人目のNBA選手。彼の魅力は揺るがない我武者羅さだ。誰もが嫌がるディフェンスの仕事に徹することができる。その情熱が買われチームから大きな信頼を勝ち取った。23年W杯日本開催。我武者羅バスケが日本中を夢中にさせるだろう。 ■松岡修造さんが選ぶスポーツ選手10人 羽生結弦(28) フィギュアスケート男子 2014年ソチ、18年平昌五輪金メダル 森保 一(54) サッカー男子 22年W杯カタール大会日本代表監督 小平奈緒(36) スピードスケート女子 18年平昌五輪500メートル金メダル 五十嵐カノア(25) サーフィン男子 21年東京五輪銀メダル 小田凱人(16) 車いすテニス男子 22年、史上最年少で年間王者 宇野昌磨(25) フィギュアスケート男子 五輪2大会連続メダル、22年世界選手権金メダル りくりゅうペア 三浦璃来(21)、木原龍一(30) 22年世界選手権銀メダル、22年GPファイナル優勝 本多 灯(20) 競泳男子 21年東京五輪200メートルバタフライ銀メダル 橋本大輝(21) 体操男子 21年東京五輪個人総合、種目別鉄棒2冠 渡邉雄太(28) バスケットボール男子 NBAネッツ所属のフォワード。今季1試合平均8.1得点(12月22日現在) (構成/編集部・川口穣) ※AERA 2023年1月2-9日合併号
AERA 2023/01/03 18:00
弱者に寄り添って6年余り 名古屋の「50円食堂」最後の日
弱者に寄り添って6年余り 名古屋の「50円食堂」最後の日
「50円おにぎり食堂」  JR名古屋駅から西へ約800メートル。中村区役所の一角に激安で知られる食堂があった。 「ふれあいキッチン べるえぽっく」は、手作りのおにぎりをはじめ20種類ほどの総菜がほぼ全品50円(税込み)。なので、ついた愛称は「50円おにぎり食堂」。地元だけでなく、遠方から自転車でやってくるリピーターもいた。それが2022年12月2日、区役所の建て替え移転に伴い、閉店した。最後の1日を追った。     ◇  朝9時。営業開始2時間前の厨房は、「ヒデさん」こと店長の佐藤秀一さん(54)ら、スタッフ3人が仕込みの真っ最中だった。 「今朝はいつもより30分ほど早い6時ごろに出勤しました。ここ2週間ほど、日に日にお客さんが増え、以前に比べると5割ほど多く作っているのですが、それでも営業終了前にはほとんど完売してしまいす。本当、うれしい悲鳴です」  佐藤さんはこう話しながら、一番人気の「だし巻き卵」を作る手を休めようとしなかった。前日は、だし巻き卵だけで500人前が売れ、おにぎり用に炊いたお米は12升(約18キロ)にもなった。「ここ1週間くらい、3台ある炊飯器はずっと休みなし」という。 1個50円のおにぎりとみそ汁  だが、この日も炊飯器のスイッチを入れたのは9時すぎ。炊き立てのアツアツを提供したいというこだわりである。 「最終日の気持ち? んー……、まだ実感が湧かないというか、最後のお客さんがお帰りになるまで何事もなく、ずっと笑顔でいたいと思っています」     ◇ 「50円おにぎり食堂」が産声を上げたのは2016年8月。もともと交番だった場所をNPO法人「ベルフェア」が借りて格安レストランを運営していた。一時的な休業を経て、リニューアルオープンした。  「当初は、生活困窮家庭やシングル家庭の子供を対象にした《こども食堂》をイメージしました。『家庭のご負担をなるべく減らしたい』と各種おにぎりを50円で提供したのです。すると、区役所へ来た独居老人や障害をお持ちの方ものぞいていくようになり、『総菜があったらいいのに』『煮物はないの?』『カボチャも食べたい』と。そんな声に応えていくうちに今のスタイルになりました」  おにぎり2個に総菜一品、みそ汁の計4品でも200円。家賃は月2万円だが、当初は知名度の低さから来客も少なく、2年ほどは赤字になる月も珍しくなかった。 「赤字分は僕の貯金を取り崩して(店を)回していました。それは店長としての責任感もあったけど、当時、話題になった『貧困たたき』に対する怒りが背中を押したんです」  「貧困たたき」とは、16年8月、NHKのニュースで、神奈川県主催の「かながわ子どもの貧困対策会議」に出席した母子家庭の女子高生が紹介されたのに端を発する。番組では彼女がパソコンを買う余裕がなく、キーボードだけでタイピングの練習をしていること、進学を断念せざるを得ないことなどが報じられた。 「映像の背景に映り込んだアニメグッズや画材が高額ではないかと指摘されました。彼女が過去にSNSにアップした映画や舞台鑑賞、ランチの写真をみて、『貧困はNHKの捏造』と決めつけられて大炎上しました。通学先や自宅などの個人情報がさらされ、ネットに中傷の嵐が吹き荒れたのです」(大手ニュースサイト編集者)。  それに加担したのが自民党の国会議員だった。  片山さつき氏はツイッターで《拝見した限り自宅の暮らし向きはつましい御様子ではありましたが、チケットやグッズ、ランチ節約すれば中古のパソコンは十分買えるでしょうからあれっと思い方も当然いらっしゃるでしょう。経済的理由で進学できないなら奨学金等各種政策で支援可能!》(原文ママ)と綴った。杉田水脈氏も産経新聞のコラムで女子高生を揶揄するような話題を書いた。 最終日は行列ができた  佐藤さんは、そんな風潮が許せなかったのだ。 「生まれ育った環境による貧困は、子供にとっては避けられないじゃないですか。僕の信条は、弱者からの視線を忘れない、差別は許さない。それで、どんなに大変でもこの店を続けなくては、と決心したわけです」。   こう考えるに至ったのは、30代の時に経験した約5年間の路上生活によるところが大きい。 「大学を卒業後、28歳まで食品販売に携わっていたのですが、待遇に問題のある会社で、繁忙期は1カ月無休の時もありました。やむなく退職したものの、思うように転職できなかった。それで社会に対して疎外感を持ち、10年ほどの引きこもり生活を送った揚げ句、ホームレスになったのです」  人目を避け、日中は図書館で過ごして閉館後に公園のテントに戻る日々。家族と決別し、人知れずあがいていた。  自立のきっかけは、生活困窮者の生活再建を応援する情報誌『ビッグイシュー』の販売員を始めたことだった。 「金山駅の入り口で足掛け3年半ほど続けてお金を貯め、ようやくアパートを借りられました」  アルバイトで始めた障害児童たちのデイサービスを通じて「ベルフェア」を知り、同店の立ち上げに参画したのだ。     ◇  開店後、2年も続いた売り上げ低迷。風向きが変わったのは、地元情報誌に紹介されてからだ。  NPO法人ベルフェア・伊藤啓子代表理事が言う。 「『激安食堂』をテーマにした記事で客足が伸び、3年目くらいから、ようやく黒字が常態化するようになりました。地域の子供たちや家庭を応援する、コミュニティースペースでありたい、といった本来の趣旨が紹介されていなかったのが残念でしたけどね」  だが、それもつかの間、18年に区役所の建て替え移転が決まった。閉店を視野に入れざるを得なくなり、20年1月末からはコロナ禍で大きな逆風にも見舞われた。 「客数は大幅に伸びたのですが、子育て中のスタッフは子供たちの休校で家事が増えて来られなくなり、高齢スタッフは感染を恐れて出勤できない。運営に支障をきたすようになったのです。追い打ちをかける事件も起きました」(佐藤さん)  20年3月中旬の夜、有志が「運営の役に立てれば」と寄付してくれた善意が入った募金箱が盗まれたのだ。 「5万円ほどあったと思います。『よりによって、なぜウチなの?』と、本当にガックリしました」  こう話しながら、「でもね」と佐藤さんは続けた。 「手口が荒く、素人っぽかったんです。犯人はよほど切羽詰まっていたのかもしれないし……」 手作りのおにぎり  緊急事態宣言が出た4月から1カ月休業。収入は途絶え、持ち出しばかり増えた。ただ、悪いことばかりではなかった。6月1日には店の郵便受けに宛名のない茶封筒が入っていた。丁寧な文字で「お役に立てたら 嬉しく思います」とあった。なんと、中に10万円が入っており、同封された手紙にはこう記されていた。 「このような時こそ貴店の存在が必要です。特別定額給付金は、貴店に寄付します。そうすれば、私自身が貴店を通して、多くの方々の役に立てる気がします。お体に気を付けて頑張ってください」  誰が贈ってくれたのか、今でもわからない。しかし、同店の存在意義は確かに伝わっていた。  とはいえ、22年になると、2月のロシアによるウクライナ侵攻や急激な円安に伴う物価高が、経営に大きなダメージを与え始めた。 「食材は1割から2割、調味料が2割強、揚げ物用のサラダ油に至っては3倍も値上がりしてしまい、光熱費も急増。わずかな利益を吹き飛ばしてしまいました」  自転車操業ですよ、と自嘲気味に佐藤さん。それでも同店のサポーターが食材を提供し、運営資金を集めるドネーションパーティーに大勢の人たちが参加。「50円おにぎり食堂」は歩みを止めることがなかった。  そんな苦労の末に迎えた営業最終日だった。     ◇  この日の最初のお客さんは、杖をついた70代後半のおじいちゃんだった。ドアを開けたのは午前10時2分。開店の1時間も前だ。それでも佐藤さんは「どうぞどうぞ」と笑顔で招き入れた。  オーダーしたのは、おにぎり二つとだし巻き卵、肉じゃが、そして赤だしみそ汁の計250円。店内でサクッと食べ、名残惜しそうに帰っていった。  その後もパラパラとお客さんがやってくる。どうやら、開店時間はあってないようなもので、準備さえできていれば利用できるのが定着しているようだ。  11時。公式の開店時間だ。どっとお客さんが来店し、密を避けるため店頭に行列ができ始めた。この時点でスタッフは7人に増えており、それぞれの持ち場で大忙し。おにぎりを作る手さばきも速くなる。総菜コーナーに積み上げられただし巻きは補充しても補充してもすぐになくなり、肉じゃが、おから、大学芋、カウンターのおでんもどんどん売れていく。  店頭の行列は最長十人ほどで、小1時間続いた。 「4年ほど前から週に2、3回は利用しています。総菜が特においしいんでね。今日が最後なのはとても残念です」 「50円おにぎり食堂」のメンバーたち  こう話すのは、70代のおばあちゃん。4歳年上の「連れ合い」の分を含めて、この日はおにぎり6個と総菜を8個買っていった。  3歳ぐらいの女児を抱いた母親も、こう言って惜しんだ 「でき立て、手作りのご飯や総菜を50円で提供してくれる店がなくなるのは本当に困ります。区役所の建て替えでしょうがないとはいえ、これまでウチの家計をたくさん助けてくれました」  他にも「昨日も来たけど、やっぱり最後の挨拶がしたくて」と、佐藤さんに感謝の気持ちを伝えるお客さんは少なくなかった。 「あの方は母子家庭で……」「さっきのおじいちゃんは一人暮らし」「最近持病が良くなったのは……」。  手が空いた時に佐藤さんに、親しげに会話をしていたお客さんのことを尋ねると、言葉を選びながら、それぞれの環境や状況を説明してくれた。  困りごと、悩み、相談、そして愚痴……。佐藤さんが話し相手になり、時にはアドバイスを送った人たちがいかに多かったことか。食堂とお客さんの枠を超えた、地域コミュニティーの場所としての役割を果たしてきたことがよくわかった。     ◇  そして午後2時。閉店時間が来た。厨房で後片付けを始めた佐藤さんに今の心境を尋ねようとしたら、マリンブルーのダウンジャケットを着た男性が開けっ放しの入り口ドアから顔をのぞかせ、すぐに引っ込めた。  目ざとくそれを見つけた佐藤さんがあとを追い、一緒に戻ってきた。 「『ビッグイシュー』の現役販売員なんです。遠慮しなくていいのにね」  それからも、常連の女性2人連れがやってきた。最後のお客さんは2時25分。やはりなじみの男性客で、「ちりめん山椒」「梅」の二つのおにぎりをかみ締めるように食べていった。 「ありがとうございました」  佐藤さんは意外とサバサバした表情で見送り、「50円おにぎり食堂」は幕を閉じた。 閉店を知らせる貼り紙 「6年4カ月、長いようで短かったですね。特に新型コロナが蔓延しだしてからは、良いことも悪いことも次から次へと押し寄せるようにやってきて、あっという間だったように思います。これまで支えてくださった人たちには『感謝』の言葉しかありません」  誰もが気になるのは、「50円おにぎり食堂」が再開するのか否か? だ。 「んー……」。少し考えて佐藤さん。 「お客さんからの要望は痛いほどわかるのですが、まだ白紙なんです。しばらく閉店の後始末に追われ、年が明けたら知人の飲食店を手伝う予定です」。  その姿を消しても、「50円おにぎり食堂」で6年4カ月の間に培われた人と人との結びつきは、永遠に残るだろう。 (高鍬真之) ※週刊朝日オリジナル記事
週刊朝日 2022/12/24 10:00
ある日突然「インド」に放り込まれた「女子高生」が思い知らされた“日本の現実”【2022年 反響の大きかった記事22選】
ある日突然「インド」に放り込まれた「女子高生」が思い知らされた“日本の現実”【2022年 反響の大きかった記事22選】
巨大広告が並ぶ都市的な空間と雑多な街並みが混在するデリー(写真:著者提供) 2022年も残すところあとわずか。ここでは、2022年にAERAdot.で配信された記事の中から「反響の大きかった記事」を22本選別して紹介します。(5月10日配信/※肩書年齢等は配信時のまま) タピオカとプリクラと部活と放課後のおしゃべり……日本でキラキラの女子高生ライフを送るはずだった未来は、突然のインド行きでもろくも崩れ去った。父親の転勤でいきなりインドに放り込まれたJKは、これまで何の興味もなかったインドでの暮らしに、ことごとく常識をくつがえされていく。日本のJKによる、おかしくて真面目なインド滞在記『JK、インドで常識ぶっ壊される』より一部を抜粋する。(表記は書籍と異なる部分があります) *  *  * ■期待と不安を胸の中に秘めて  寝返りを打とうとして、身体が窮屈に固定されていることに気づく。そうだ、飛行機に乗ってるんだった。  泣き枯らして重たいまぶたを開けてみると、きわめて人工的な照明がこれまた人工的な白い壁や天井に広がってできあがった、無機質な空間にいた。  あーあ、せっかくタダなんだからもう一本映画見ようと思ってたのに。  暗い機内、自分の頭上だけを照らすライト。そんなMVのワンシーンのような雰囲気に酔って、友だちからの手紙読んでたら泣けてきちゃって、そんでそのまま寝ちゃったんだ……。いつの間にかまわりの乗客ももう起きてるし。もったいないことをしたとひとり嘆いていると、着陸体勢に入るというアナウンスが響いた。 「まもなく、インディラ・ガンディー・国際空港に到着いたします」  濁点が多くゴツゴツとしたその名前が、固い重しのごとく胸に乗っかる。それによってぎゅっと凝縮された、不安と、緊張と、ほんのわずかな期待。さまざまなものが混ざり合った感情は、もうポジティブなのかネガティブなのかわからないほどに渦を巻いていた。  人生の節目。門出。呼び方は幾通りもあれど、ひとには誰にも環境ががらっと変わる時期がある。子どもや学生なら入学・卒業、年齢を重ねていけば結婚や出産、そして就職、転職、昇進、退職などがそれに当てはまる「イベント」だろう。そういうとき、大抵おめでとう、とまわりに言われる。節目や門出はおめでたいものだ。 搭乗した飛行機の車窓から見えた景色(写真:著者提供)  飛行機に乗って国をまたいでいるまさにこの瞬間が、自分にとってのその「節目」なんだろうな、とぼんやり感じた。海外に引っ越すんだから、新生活が始まるんだから、門出にちがいない。十四歳で迎える人生の区切り、のはず。そのはずなのに、おめでたい気持ちがいまいちしない。  あと一年でつかめる「JK」という輝かしい称号を捨てて。居心地の良い友だちや部活動の輪を抜けて。  自分は一体、どこへ向かっているんだろう。  この無機質な空間に閉じ込められた八時間が終わる。そうしたら、自分がいるのは生まれ育った日本でも、どこの土地や海の上かわからない雲の合間でもない。  そこはもう、インドだ。 ■不意に浮かんできた「カースト」  飛行機の振動がおさまり、シートベルト着用サインが消えると、それを合図にまわりが一斉に立ち上がって荷物棚からかばんを下ろし始めた。自分も置いていかれないようにと必死におとなたちのまねをしながら頭の上に手を伸ばすものの、なかなかスーツケースをつかめそうにない。  見かねたCAさんが、代わりに取ってくれた。ドスンと音を立てて床に置かれたスーツケースを見ると、わたしの荷物だけHEAVYと書かれたラベルがついている。まるで、日本への未練をパンパンに詰め込んできたみたいだ。CAさんも一瞬、その重さにひるんだようだった。  ターミナルビル内に入っても目につくのはインド人(と思われる)空港スタッフばかりだ。  ここでは、乗客に比べてスタッフの割合が日本の空港よりも圧倒的に高く、日本の十倍もある人口の差は、この国に足を一歩踏み入れた瞬間から明らかだった。おそろいの制服を身にまとったスタッフが数人で群れて清掃をしていたり、電動カートにまたがっていたり、はたまた床に座り込んだりしている。  なんで座ってるの? と突っ込みたくなる気持ちを抑えながらよく見てみると、むらさきの制服を着た彼らとは別に、ワイシャツを着て首からIDを下げたスタッフもいる。制服のスタッフたちは、みなうつむきがちで床のあたりばかりに視線があるのに対して、ワイシャツのスタッフたちは、胸を張り英語で外国人の客と会話をしている。 インドの街にいる野良犬たち(写真:著者提供)  その明らかな差に、「カースト」ということばが不意に浮かんだ。自分が住むことになる前から、インドといえばと言われて浮かべていた、数少ないもののひとつだ。「インドのカースト制度は……」と社会科の授業で先生たちはいつも否定的なトーンで話していた。いや、ちがう、と危ない響きをまとったそのことばをかき消そうとする。  日本だって、「空港職員」と「清掃員」は別じゃん。そんなすぐに目に見えるものじゃないはず。だけど、制服を着た彼らが、ワイシャツの彼らと比べてみな肌の色が暗いように感じるのは、気のせいだろうか……。  異なる国、異なる文化。一面に真っ白いLEDが広がる日本の空港の近未来的な雰囲気とはちがう、鈍い鉄さび色のカーペットの上を進んでいく。国の玄関である空港の様子がちがうのも当然だよね、と自分に言い聞かせながら。  空港から一歩踏み出すと、むわっと熱い肌触りと砂っぽく乾いたにおいに包まれた。あたりの喧騒が、山吹色の空に響く。十時間ぶりに吸う外気は、五感のどれをとっても知らないものだった。  ほっと息つく間もなく車に乗り込んで、仮住まいの家へと向かう。空港からしばらくの道のりは整備されており、格段におどろく光景もなかった。な~んだ、思ったよりインドも荒れてないんじゃん。  ただ、沿道の青い芝生には、空から降ってきたかのような野良犬たちが横たわっていた。首輪やリードにつながれず、ただ自由に転がっている犬たちの、安らいだ様子にほほえましくなる。この程度なら、インドも全然いけそうかも。  ほかに目を引いたのは、ところどころに立つ電光掲示板に映る広告の、モデルの目力くらいだ。いまや日本だったら「古すぎ~」と揶揄されてしまいそうな、目の上下を漆黒のラインで縁取ったアイメーク。それによって、瞳よりそのまわりの白目が際立っているため、ギョロッとした目つきの印象を受ける。  眉毛は、細くつり上がっていて、ピンと気を張り詰めているような迫力と貫禄を漂わせる。自信ありげに口角を上げた唇には、ビビッドピンクの口紅が光っていた。これがインドでの「理想の女性像」なのだとしたら、どうやらここでは生気に満ちた力強い女性が好まれるみたいだ。俗に言う“清純派”とは真逆の分類。ここでは、日本の「かわいい」は「弱い」になってしまいそうだ。 日本では見たこともない乗り物もあった(写真:著者提供)  わたしの、毎朝こだわって巻いていた前髪も、薄づきになるように研究したナチュラルメークも、ここでは通用しないのだろうか。そんな戸惑いを抱えながら、ハイウエー沿いのホテル群を眺めていた。  だが、ある地点から急に、視界が馴染みのない景色に覆われていった。すいすいと広い道路を走っていたはずの車たちがぎゅっと集まり、もう車線はないに等しい。どこからともなくごちゃごちゃとしはじめた道路の様子は、まさに混沌(こんとん)ということばを体現していた。  大勢の労働者が乗り込んだトラック。ヘルメットもなしに家族四人がまたがったバイク。緑と黄色のおもちゃのような見た目をした三輪の乗り物。ときどき見かける真っ黒の外車。それらの間を器用に泳いでいくさびた自転車。ほんの一瞬、道路の脇に、足のない老人が地面をはっていくのが目に映った。  その混沌のなか、家族三人分のスーツケースが山積みになったバンの後部座席に座るわたし。もう「この程度」なんて言っていられない。やっぱり、すごいところに来てしまった。 ■車窓をノックする貧しい少年  未知の土地への不安と緊張でピンと張りつめたわたしの心臓に、突然電流が走る。車窓をたたく音がした。反射的にそちらに目を向けて、すぐ、また反射的に目をそらした。心臓に流れた電流は一気にボルト数を上げた。  砂ぼこりにまみれた前髪の束の向こうに一瞬のぞいた、ふたつの瞳。視線をグレーの座席シートに移しても、いましがた目を合わせた少年の姿が脳裏に焼け付くように浮かんだ。色あせたボロボロの洋服。そこから生える枝のように細くやせこけた腕で、窓をたたいている。  こんな姿の子どもはいままで見たことがないはずなのに、彼がどんな境遇にいるのか察することができた。そして、彼と自分とのあいだには、窓一枚よりもずっと大きな隔たりがあるのだろうということも。  車はまだ動きださない。彼はまだそこにいる。わたしはまだ目を伏せている。ガラス一枚の向こうに感じる気配と、伸びた爪が鳴らす悲壮な音に、心に走った電流は痛みに変わる。  やがて信号が変わった。車は、クラクションと排ガスの渦にまたのみ込まれる。少年を置いて。  折れそうな腕を伸ばす彼も、空港のあのギラギラした免税品売り場も、おなじこの国の一部だなんて。  そうだ、自分はここで生きていくんだ。  十四歳の夏、こうしてわたしはインドに放り込まれた。 ◎熊谷はるか(くまがい・はるか)2003年生まれ。高校入学を目前に控えた中学3年生で、父親の転勤によりインドに引っ越す。インドで暮らした日々を書籍化すべく「第16回出版甲子園」に応募、大会史上初となる高校生でのグランプリ受賞。2021年6月、高校3年生で帰国。『JK、インドで常識ぶっ壊される』でデビュー。
AERAdotベスト【2022】JKインド書籍熊谷はるか
dot. 2022/12/23 17:00
小島よしおが「親友に仲間外れにされている」と悩む小3女子に伝えたい「心の握手」とは【2022年 反響の大きかった記事22選】
小島よしお 小島よしお
小島よしおが「親友に仲間外れにされている」と悩む小3女子に伝えたい「心の握手」とは【2022年 反響の大きかった記事22選】
小島よしおさん「ボクといっしょに考えよう」(撮影/松永卓也=写真部) 2022年も残すところあとわずか。ここでは、2022年にAERAdot.で配信された記事の中から「反響の大きかった記事」を22本選別して紹介します。(2月4日配信/※肩書年齢等は配信時のまま)  仲良しだった友だちに仲間外れにされて悲しいと相談を送ってくれたのは小学3年生の女の子。数多くの子ども向けライブを開催し、YouTubeチャンネル「おっぱっぴー小学校」も大人気の小島よしおさんが子どもの悩みや疑問に答えるAERA dot.の本連載。小島さんが考える友だちとの適切な距離とは? *  *  * 【相談9】仲良しだった友だちが、他の子と仲良くなって私を仲間外れにします。悲しいです。ベストフレンドだと思っていたのに。どうしたらいいですか?(みーみ・小学3年生・女子) 【よしおの答え】 みーみちゃん、よしおに相談してくれてありがとう。なかなか人に言いにくいことを口に出すのはすごくしんどいよね。でも勇気を出してSOSを送ってくれてうれしいよ。  仲間外れってつらいよね。よしおもその気持ち、わかるよ。仲良しの先輩が他の人と遊んでいてさみしくて、すねたことがある。よしおが35歳くらいのころの話なんだけど……(笑)。大人でもすねちゃうぐらい悲しいことだから、小学3年生のみーみちゃんは、もっとずっと悲しいよね。  よしおも小学5年生のころ、仲良しの友だちが他の友だちと仲良くなって、しばらく疎遠(親しくなくなる、という意味だよ)になったことがあるんだ。ただ、そのとき僕は気にすることもなく、別に友だちを作って過ごしていた。そうしたら、中学2年生くらいになったころ、その疎遠だった友だちとまた仲のいい関係に戻ったんだ。  大人になってからもおなじようなことがあったよ。芸人になってから、ほぼ毎日会うような仲のいい先輩がいたんだけど、僕が引っ越しをするタイミングであまり遊ばなくなった。だけど、その4年後にはひょんなことから一緒に暮らすようになった。仲良しだった人と一度関係が遠くなったとしても、何年もたってからまた仲良くなることもあるんだ。  人との関わり合いのなかで僕が大切にしているのは「執着(しゅうちゃく、と読むよ)しすぎない」ってこと。執着しすぎる、っていうのは、言い換えれば「心の握手」が強すぎるってことだよ。心の握手が強すぎるとどうなると思う? 友だちが手を離そうとしているときにこっちが強くにぎってしまうと、友だちの手が痛くなってしまう。それでも友だちが無理やり離そうとしたら、こちらの手はもっと痛くなってしまうよね。 「仲間外れにされて悲しい」という女の子に伝えたいこととは?(※写真はイメージです/GettyImages)  お互いに痛くなった手では、もう一度握手するのは難しいかもしれない。でも、ゆるく握っていれば、一度離れてもまた手を握ることができると思うんだ。いま、みーみちゃんは仲間外れにされてとても悲しいと思うんだけど、今は自分の手を痛めないためにも、握手している手をゆるめてしまっていいと思うんだよね。もしかしたら仲間外れは勘違いだったっていうパターンもあるかもしれないし。よしおは以前そういう事が実際にあったよ……(笑) ■ベストよりグッドな関係を  ところで、みーみちゃんの言う「ベストフレンド」ってどんな存在かな? ベストには「最上級」っていう意味があるね。つまり、「一番」ってこと。きっとみーみちゃんにとってその友だちが一番の友だちなんだろうね。「一番の仲良し」って思える友だちがいるのって素晴らしいことだ! でも、「一番」っていうのは一人しかいないから、数が限られてしまうことになる。それに、今みたいな状況になったときに息苦しくなってしまわないかな?  そこでよしおがおすすめするのは、「ベスト」よりも「グッド」な関係。つまり「グッドフレンド」だね。みーみちゃんは、これからたくさんの人に出会っていく。今ベストを決めてしまうとこれから先出会う人がベストになるのは難しいかもしれない。それに、お互いにベストだと思っているか、相手の心の内面はわからないから、不安になってしまうこともある。お互いに本当は「ベスト」だと思っていたとしても、お互いに不安になって「私たち、ベストフレンドだよね!」っていう確認作業がたびたび必要になってしまうかもしれない。  でも、グッドな関係なら数に限りはないし、お互い確認しなくてもいい。とっても気楽なんだ。みーみちゃんの友だちを思う気持ちはとっても素敵。でもその「ベストフレンド」っていう気持ちがあるからこそ、悲しい気持ちになってしまうのかな、とよしおは思ったよ。  友だちとの関係って、ずーーーっと同じ距離でいるほうが難しいんだ。頭のなかに、広くて大きな海をイメージしてみて。その海で、一人ひとりが別々のたらいに乗っているとするでしょ。潮の流れや風の向き、波の立ち方でたらいが流されていく。そのとき、友だちが乗ったたらいが近くに寄ることもあれば離れることもある。そこで離れないように相手のたらいを自分のたらいの近くに無理やり寄せようとしたり、相手のたらいに近づこうとしたりすると、自分も相手も落ちたり溺れたりする危険があるんだ。潮の流れや風の向きは自分で操作できない部分。それぞれの家庭環境や興味を持つものなんかが、潮や風ということだね。 「『心の握手』の強さに気をつけてみよう!」(撮影/松永卓也=写真部)  人との関係も、目に見えない流れに左右されることがあると思うんだ。だから、無理に引き寄せようとせず、流れに身を任せて、今はみーみちゃんの近くにいる人を大切にしてみるのはどうだろう? みーみちゃんはみーみちゃんで新しく別の友だちを作ってみるんだ。それも、ベストな関係じゃなくていい。グッドなくらいの気軽な距離感の友だちを。 ■友だちの輪を広げるチャンス!?  よしおのお母さんは、グッドフレンドを作るのがすごく上手な人で、いつもとっても楽しそうなんだ。誰とでも友だちになれちゃうから、国境や世代を超えていろんな友だちがいる。ある時は海外の友だちと話せるようになりたいと語学留学で台湾にいってたこともある。習得してたかは謎だけど(笑) 、インターネットの使い方も全くわからない人だったのに、世代を超えたグッドフレンドに教えてもらってLINEまでできるようになったんだ。お母さんがきっかけで結婚したカップルなんかもいるくらい!  誰か数人だけに限定して友だちとの関係を築いていたら、こんなに人との関係は広がらないだろうし、新しい発見もなかっただろうな、と思う。生涯で本当に大切な友だちっていうのは、数人でいいかもしれない。けれど、それを小学生の今のうちに決めてしまわなくてもいいと思うんだ。悲しい気持ちになっているならなおさら。それに、今は難しくても何年後かにまた仲良しに戻れるかもしれないしね。だから、今は友だちの輪を広げるチャンスくらいに考えて、グッドフレンドを作ることに目を向けるのはどうだろう?  最後に、みーみちゃんにぴったりのギャグを贈ります。「ズイズイズイ~!!」。片方の手を前に出して、手のひらを前に向けて指先を下に向ける。何かをつかむように指を握ったり開いたりしながら、さらに腕を前後させて「ズイズイズイ~」と元気よく叫ぶんだ!ずいって、漢字では「随」と書くよ。この漢字には、「成り行きに任せる」という意味があるんだ。今は無理せずに流れに身を任せてみてほしいな! ……って、僕は思うんだけど、君はどう思うかな? 【質問募集中!】小島よしおさんに答えてほしい悩みや疑問を募集しております。お気軽にお寄せください!https://dot.asahi.com/info/2021100800087.html
AERAdotベスト【2022】小島よしお
AERA with Kids+ 2022/12/21 17:00
渋野らの“黄金世代”もうかうかできない?  女子ゴルフ界に今年も「新世代の波」
dot.sports dot.sports
渋野らの“黄金世代”もうかうかできない? 女子ゴルフ界に今年も「新世代の波」
今季2勝を挙げた二十歳の岩井千怜  今シーズンの国内女子ツアーは、11月27日まで開催された最終戦のJLPGAツアー選手権リコーカップで全日程が終了した。伊藤園レディス(11月11~13日)が終了した時点で、史上最年少21歳103日での年間女王を決めていた山下美夢有が制して、有終の美を飾った。  同大会で勝みなみとのプレーオフを1ホール目で制した山下はこれが今季5勝目だった。シーズン前半こそ3試合連続予選落ちなど調子が上がらなかったが、5月のメジャー、ワールドレディスチャンピオンシップで今季初Vを挙げると、後半戦はツアーの中心として活躍。年間獲得賞金2億3,502万967円は2015年のイ・ボミ(韓)を超える歴代最高となる額で、平均ストローク、パーオン率、パーセーブ率でも1位を獲得。最終戦も勝利で締め括ったことで、これ以上ないシーズンとなっただろう。  2001年生まれ21歳の山下は“新世紀世代”に当たるが、今年も女子ツアーは、「~世代」とつく各年代のプロたちの活躍が目立った。これに富士フイルム・スタジオアリス女子オープンを制すなどメルセデスランキング12位となった上田桃子、樋口久子・三菱電機レディースでツアー制度施行後最長ブランクとなる11年189日ぶりに優勝した金田久美子、そしてその金田に続き、大王製紙エリエールレディースで歴代2位の最長ブランクとなる11年35日ぶりのツアー制覇を果たした藤田さいきなどベテラン勢も輝きを見せ、まさに群雄割拠のシーズンとなった。  とはいえ、「~世代」の隆盛ぶりに衰えは全く見られない。なにせ全38試合中、「~世代」とされる女子プロの優勝は21試合あり半数を超えている。“新世紀世代”は山下と5月までに5勝し前半戦のツアーを盛り上げた西郷真央が2人だけで10勝を記録。これに勝や小祝さくらの“黄金世代”が6勝すると、“はざま世代”の稲見萌寧が2勝し、西村優菜と古江彩佳の“プラチナ世代”が3勝した。  また、「~世代」というキャッチこそないが、2002年生まれで二十歳の岩井千怜がNEC軽井沢72ゴルフトーナメントとCAT Ladies 2022で連勝すると、2003年生まれの川崎春花が日本女子プロゴルフ選手権でツアー初優勝をメジャーで達成。その翌週には住友生命Vitalityレディスで川崎と同じ2003年生まれの尾関彩美悠がツアー初勝利を挙げており、「~世代」の“次世代”が早くもその存在感を高めつつあるのだ(川崎はマスターズGCレディースで2勝目も獲得)。  つまりこうして今季の女子ツアーを見てみると、38試合中26大会は24歳以下の日本人選手が制したということになる。しかもこれは、各世代の代表格と言える渋野日向子(黄金世代)、古江(プラチナ世代)、笹生優花(新世紀世代)が米女子ツアーを主戦場としている中でのデータだ。26勝の中には富士通レディースで優勝した古江の1勝も含まれるが、全体の7割近くを24歳以下が制していることは、いかに「~世代」の層が厚いかが垣間見れる。  例えば、渋野が優勝した昨年のスタンレーレディスで2位タイとなった19歳の佐藤心結や、2021年日本女子オープンで7位タイとなりローアマを獲得した同じく19歳の竹田麗央は、その層の厚さを象徴するプロたちだろう。  佐藤は、7試合連続予選落ちなどまだまだ荒削りだが、川崎が優勝したマスターズGCレディースで優勝争いを展開し2位タイ。メルセデスランキングでも29位となり堂々と来季のシード入りを決めた。一方の竹田もメルセデスランキングでは58位だったが、QTファイナルステージでは22位となり来シーズン前半戦のフル参戦を確定させている。  彼女たちだけではない。そのQTファイナルステージで4位となった11月のプロテストに合格したばかりの女子大生プロ、荒川怜郁も来シーズンは注目だ。中部学院大3年に在学中の荒川は、2001年生まれで山下、西郷と同じ“新世紀世代”。地元沖縄が舞台の今季開幕戦ダイキンオーキッドレディスで10位タイとなった他、身長170センチと体格にも恵まれており、平均飛距離は250ヤード。シーズン10勝した“新世紀世代”にこの荒川が加わることで、ますます混戦となりそうだ。  現在、勝と西村、そして識西諭里が来シーズンの米女子ツアー参戦をかけてQシリーズ(2週間にわたって計8ラウンドを行う)でプレーしている。3人は前週の1週目を突破し、現地時間8日にスタートした2週目に出場中。上位で終えれば来シーズンは米国を主戦場とすることになり、「~世代」がまた世界の舞台に旅立つことになる。  通常、こうなるとツアーの空洞化が囁かれるようになるはずだ。しかし、今季の国内ツアーでも、川崎や尾崎など「~世代」の次世代を担うプレーヤーが既に生まれており、“黄金”、“プラチナ”、さらには“新世紀”の各世代もうかうかしていられない状況にある。  来シーズンもまた新たなスターが誕生するのか? 間違いないのは、この混戦模様は当面続くということだろう。
ゴルフ
dot. 2022/12/10 18:00
太田光も注目の20歳、アンジェリーナ1/3の素顔 中1で父を亡くし不登校を経て発信者に
森朋之 森朋之
太田光も注目の20歳、アンジェリーナ1/3の素顔 中1で父を亡くし不登校を経て発信者に
アンジェリーナ1/3さん。ラジオで講談師・神田伯山さんの代打パーソナリティーを務めた際も各方面から称賛された(撮影/写真映像部・高橋奈緒) 「爆笑問題」の太田光さんが“これからのラジオをしょって立つと思う人物”として名を挙げたことでも話題になったアンジェリーナ1/3。突如現れた20歳のアーティストの素顔に迫る。 *  * *  2019年、高校2年生のときに6人組バンドGacharic Spinに加入。マイクパフォーマーとして活動する一方、情報番組「サンデージャポン」のゲストコメンテーター、ラジオパーソナリティなど活躍の場を広げているアンジェリーナ1/3。ユニークな芸名は、彼女自身が日本、フィリピン、スペインの3つのルーツを持っていることに由来する(父方は日本、母方はフィリピンとスペインをルーツに持つ)。  東京の下町で生まれ育った彼女は、中学1年で父親を亡くし、不登校を経験。その後、奨学金を利用して芸術系の高校に進学、文化祭の弾き語りライブがGacharic Spinのリーダーの目に止まったことをきっかけに、高い演奏技術で知られるロックバンドに加入した。若くして様々な経験を重ねてきた彼女が、新世代の発信者として注目を集めている理由とは? ■中学時代は不登校の時期も  Gacharic Spinのライブステージでは自由に動き回り、歌とシャウトで観客を魅了。パーソナリティをつとめる「A世代!ラジオ」(文化放送)では、元気いっぱいの語り口と等身大の思いを込めたメッセージで広い世代の支持を集めているアンジェリーナ1/3。「与えてもらったチャンスには全力で応えたい」と笑顔で話す姿はポジティブそのものだが、中学時代には周囲から心を閉ざし、学校に行けない日々が続いていたという。 「中学1年のときに父親を病気で亡くした後、“いちばんつらいのは自分。この気持ちは誰にもわからない”と周囲をシャットアウトしてしまい、学校にも行かなくなって。そのときに支えてくれたのは、幼なじみの親友と音楽。SUPER BEAVER、UVERworld、ONE OK ROCKの曲に背中を押してもらってました。中3から少しずつ学校に行きはじめたんですけど、とにかく人と関わりたくなくて、登下校時も授業中もずっと音楽を聴いてましたね」  音楽に救われた彼女は、「自分も音楽を発信する人になりたい」という夢を抱くようになる。その根底にあるのは、父親との思い出だ。 「バンドでステージに立つときはありのままの自分を見せることができる」と語る、アンジェリーナ1/3さん(撮影/写真映像部・高橋奈緒) 「小さい頃からユニコーンやプリンセスプリンセスのCDを聴かせてくれて。亡くなって肉体はなくなったけど、曲を聴くと“あんなこと話してたな”って思い出すんです。音楽には思い出を蘇らせたり、日常に彩りを与えてくれる。私も音楽を通して、誰かの人生に寄り添いたいと思うようになりました」 ■就学支援金とアルバイトで高校へ  音楽の道を志した彼女が選んだ進学先は、芸術系の高校。就学支援金を利用し、バイトに明け暮れる高校生活だったという。 「夢を叶えるために芸術系の私立高校に行きたかったんですけど、実家が裕福ではないので、就学支援金を利用しました。母親は海外の人で、日本語がわからないところもあるので、学校とのやりとりも全部自分でやったんですよ。高校に入学してすぐ、飲食店でバイトをはじめて、朝に仕込みをやって、学校行って、放課後はまたバイトという生活でしたね」 「バイトで忙しかったし、好きなバンドのライブにも行ってたので、そんなに勉強してないかも(笑)」というアンジェリーナ1/3さん。自分で学費を払う大変な高校生活を送ったわけだが、「他の人をうらやましいと思ったことはないですね」という。 「誰かと比べてお金が増えるわけでもないし(笑)、小さい頃から“ウチは裕福じゃないから、しょうがない”って受け入れてました。父、母、祖母にすごく大切に育ててもらったし、不登校だったときも“家でやれることを探せばいい”と言ってくれて。お金はなかったし、ドラマみたいな理想の家族の形ではないけど、私にとってはすごくいい家庭環境でした」 ■デビューのきっかけは文化祭  ロックバンド“Gacharic Spin”にマイクパフォーマーとして加入したきっかけは、文化祭の弾き語りライブをリーダーのF チョッパー KOGAがたまたま見て、オーディションに誘ったこと。初ライブは都内の有名ライブハウスLIQUIDROOMだった。 「オーディションで“LIQUIDROOMのステージに立つのが夢です”と言ったくらい、憧れの会場。最初のライブでいきなり叶っちゃいました(笑)。ステージの上で、号泣しちゃったんですよ、私。それまでは自分の感情をあまり出さなくて、イヤなことがあっても何となく笑って、“しょうがないよね”っていうタイプだったんです。でも、全力で表現しているメンバーを見て、“全部出さないと、何も伝えられない”と思って。生まれて初めて、自分に正直になれた瞬間かもしれないですね。親友にも“あんなに泣いているアンジーは初めて見た”と言われました」 下町文化が好きで、講談を聞きにいくこともあるという渋い一面も(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  “アンジェリーナ1/3”という名前は、日本人の父、フィリピンとスペインのハーフの母を持つ彼女自身のルーツに由来する。“アンジェリーナ”は海外ネームの本名で、“1/3”は日本、フィリピン、スペインの血が1/3ずつ入ってるという意味だ。 「この名前を付けてくれたのはメンバーなんですけど、みなさんに興味を持ってもらえるし、よかったなって思ってます(笑)。小学生の頃はハーフであることをからかわれたりしたけど、当時から“そんなこと言うなんて、しょうもないヤツだな”と思ってました。誰かを否定する言葉って、その人の世界の狭さ、想像力のなさが原因じゃないかなって。それは今も変わらないですね」 ■ラジオやTVでも話題に “サンジャポ”への出演、そして、9月末からパーソナリティをつとめる「A世代!ラジオ」(文化放送)がスタートするなど、活動の場を広げている彼女。20歳女子の日常から人種差別の問題まで幅広い話題を網羅する抜群のトーク力は、人気講談師の神田伯山からも一目置かれるほど。 「大した才能もないし、まだまだ未熟なんですけど、人の縁には本当に恵まれていて。バンドもラジオもそうですけど、“これをやりたい”と強く思っていると、必ず叶えてくれる人と出会えるんですよ。どうして皆さんが気にかけてくれるのか自分ではまったくわからないんですけど、もしかしたら人徳があるのかも(笑)。もちろん、メンバーの存在も大きいです。“声で表現できることは全部やれ”と言われてるし、私の活動は全部、Gacharic Spinのおかげなので」  彼女が作詞したGacharic Spinの楽曲「I wish I」には、<こうやって辛くたって僕ら/生きていくんだ 信じてこの時代を/世界はとても美しい>というフレーズがある。中1で父を亡くし、経済的なハンディを負いながらも、持ち前の前向きさで夢や目標に突き進むアンジェリーナ1/3。彼女が新世代の発信者として注目を集めているのは、マイナスな環境を突破し、運命を引き寄せる強さがあるからだろう。 「まだ20年しか生きてないので偉そうなことは言えないですけど、いろんな経験をしているからこそ発信できることもあるのかなって。ただ、“自分の思いがそのまま伝わることなんて、絶対にない”とも思っていて。誤解されることもあるし、心のない言葉が目に入ることもあるけど、“なにくそ!”と思ってやってます。これから何ができるかわからないけど、私の活動を見たり聞いたりしてくれた方が、“自分もやってみよう”と思ってくれたらうれしいですね」 (森朋之) アンジェリーナ1/3(あんじぇりーなさんぶんのいち)/ミュージシャン。6人組バンド、Gacharic Spin(ガチャリックスピン)のマイクパフォーマーを担当。ラジオ『アンジェリーナ1/3のA世代!ラジオ』(文化放送)のパーソナリティをつとめるなど多方面で活躍中。 2023年2月23日(木祝)には、LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)でワンマンライブを開催。 【Gacharic SpinのHP】https://www.gacharicspin.com/ Gacharic Spin
dot. 2022/12/10 11:30
生産者や職人までも報われる料理界を作るために 「エテ」オーナーシェフ・庄司夏子
生産者や職人までも報われる料理界を作るために 「エテ」オーナーシェフ・庄司夏子
コックコートは着ない。ファッションブランド「アツシ ナカシマ」のエプロンがトレードマークだ(撮影/岡田晃奈)  「エテ」オーナーシェフ、庄司夏子。今年、「アジアのベストレストラン50」での最優秀女性シェフ賞をはじめ、国際的な賞を次々と受賞した庄司夏子。料理の世界でこういった賞に、日本人の女性シェフがノミネートされることすらほとんどない。その扉を庄司は、こじ開けてきた。店と料理がすべて。自分の名前を世界で高めることで、生産者や職人までも報われる料理界を作りたい。 *  *  *  東京・代々木上原の住宅街の一角。秘密めいた入り口でインターホンを押すと、静かに扉が開かれる。小径を通った先のレセプションで村上隆のシルクスクリーンに迎えられ、そこからインゴ・マウラーのライトが照らすシックなダイニングルームへ。窓の向こうの庭園には、先鋭的なオブジェが光の中に浮き上がる。  わずか70平方メートル、最大客席6人というレストラン「エテ」が今、世界中の美食家たちから熱い視線を浴びている。美食の館といえば、有名シェフを頂点とするピラミッド体制で大人数のスタッフを回す、本場フランスの「グランメゾン」が料理界の標準だが、その対極にあるミニマムな空間で、それらに挑んでいるのがオーナーシェフの庄司夏子(しょうじなつこ)(33)である。  メニューを追っていこう。前菜は塩とスパイスをきかせた雲丹(うに)のタルト。次にメイヤーレモンをくりぬいたカップに、エシャロットソースであえた甘鯛(あまだい)のタルタル。カップにはグレープフルーツの果肉を一つひとつ張りつけて、マーガレットのようにこしらえた蓋(ふた)が、色鮮やかな花々に埋もれてのっている。  タコスの皮で巻いた秋刀魚(さんま)のフィンガーフードと和梨のソース、甘鯛のうろこ揚げを目の前で松茸(まつたけ)のスープにジュッと落とし込む香ばしい一品……とコースは進み、圧巻は庄司の代名詞であるデザート「フルール・ド・エテ」。鮮やかなマンゴーのタルトが漆黒のテーブルに置かれ、その周囲に大輪のバラが、庄司の手によってちりばめられると、ストイックな空間がパリ・オペラ座のようなゴージャスな世界に一瞬で変化した。 ■男性シェフは認められても 女性は通過できない  庄司は今年3月、料理界のワールドカップと称される「アジアのベストレストラン50」で「最優秀女性シェフ賞」を、9月にはシェフに焦点をあてた国際賞「ザ・ベスト・シェフ・アワーズ」で特別賞の「フードアート賞」を獲得。2020年に「アジアのベストレストラン50」で受賞した「ベストパティシエ賞」と合わせて三冠を達成した。いずれも日本人女性初という輝かしい形容詞付きだ。 厨房のスタッフは女性3人。庄司は料理、接客、掃除すべてを担当し、表と裏双方に立つ。海外出張時は店を閉めてスタッフも連れていく。「お客さんのためにも、お金のためにも、高いモチベーションを持ってもらいたいし、将来のために勉強してもらいたいから」(撮影/岡田晃奈) 「どの賞でも特別か、いちばんいい賞を狙っていました。そうやって名前を覚えてもらうことが、今の私にはとても大事だから」  170センチの長身に、均整の取れたスタイル。授賞式では、脇腹が大胆に開いたロングドレスや、全身に深紅のバラを散らしたスパッツドレスという装いでレッドカーペットを歩く。愛想笑いをしない口元から出る言葉は不敵だが、その真意は、料理界に次の一ページを開きたい、というひたすらな思いにある。 「日本人に限らず男性シェフは世界で認められていますが、こういう場でノミネートされる日本人女性はいません。差別というよりも、料理界における“ふるい”の目が細かすぎて、それを通過できるのが男性だけだからなんです。私は、その目を少しでも粗くしたい。私のような小さなロールモデルでも、そして女性でも、ランクインできるって、みんなに知ってもらいたいんです」  料理の世界は経済と同期しながら、グローバル化、ボーダーレス化が激しく進んでいる。それとともに、お金に糸目をつけず美食体験に邁進(まいしん)するガストロノミスト、フーディーと称される人たちの、独特な市場が世界規模で形成されている。前述の料理アワードや、ミシュランのようなガイドブックがランク付けをすることで、レストランとシェフ間の競争は激化する一方、頂に至る道は年々、狭く、険しく、時に迷路のようにもなっている。  今年、ザ・ベスト・シェフ・アワーズで特別賞を受けたシェフ11人のうち、女性は庄司を入れた4人だった。アンヌ=ソフィー・ピックはフランスの著名な三ツ星レストランの後継、アナ・ロスはスロベニアというフーディー未踏地からの新星、ジェシカ・ロスバルは移民女性に料理を教えるNPOの共同創設者と、料理以外にそれぞれの強いアピールポイントを持つ。「世界のベストレストラン50」で5回、世界一に輝いたコペンハーゲンの「ノーマ」は、蟻(あり)や苔(こけ)を食材に加えるという衝撃的な創意で注目を集め、そこにマケドニア系移民というオーナーシェフ、レネ・レゼピの物語が重なっていた。  世界に打って出るには「日本人」「女性」というキーワードは、もはや何ほどのインパクトでもない。言葉を換えれば、庄司はほとんど徒手空拳で世界に挑んでいる。今年は7月から11月までロンドン、ドバイ、マドリード、メキシコ、LA、モルディブと、息もつかずに世界中を渡り歩き、美食イベントに登壇しながら顔を売った。 「今年と来年前半がマジ勝負だと思っているんです。世界的なアワードをとれば、スタッフと食材の生産者さん、店を支えてくれる人たちに報いることができる。私のような人間が注目されることで、未来も開けていくはずだ、って」 素の自分と、仕事モードの「エテ子」の二つの人格を使い分けているという。「今は、ほぼ『エテ子』で占められています。公私の『私』の時間ができても、すべて店のことに使いたい。店と関係ないことをしたくない」(撮影/岡田晃奈) ■出勤途中も栗の皮むき 満員電車で束の間の睡眠  燃える野心の原点は、中学生の時に家庭科の授業で作ったシュークリームだった。オーブンの中でシュー生地が膨れる様子に感動し、家で作ったものを友人に配ったら、みなから「おいしい」と喜ばれた。  それをきっかけに、食物調理科がある駒場学園高校に進学。菓子作りの腕を磨くとともに、料理の綿密さを身につけられるフレンチのシェフを目指すことにした。同校は「フロリレージュ」(東京・青山)の川手寛康らモダンフレンチの旗手が輩出していた。庄司を教えた副校長の戸塚哲夫は、庄司の中に「個性的で、負けん気が強くて、貪欲」というシェフの条件を見る一方で、気持ちは少し複雑だった。 「シェフになるなら雇われでなく、独立を目指せ、と生徒たちを鼓舞していましたが、レストランは過酷な割に儲(もう)けにならない世界。効率を考えると質が落ちるし、質が低ければ評価もされない。大半の女子生徒が選ぶ栄養士の道を勧めるべきか、と迷っていました」  高校時代の後半は、都内のブライダルレストランで、就職を前提にしたインターンを務めた。それが出発点となるはずだったが、研修期間中に経営が破綻し、調理人は全員解雇に。何が起こったかも分からないまま、「1時間以内に退去してください」という非情な通告を聞いた。  その後、戸塚のつてで代官山の「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」(現レクテ)を経て、フロリレージュに入店。パティシエとシェフの右腕であるスーシェフを務めることになる。  現場は聞きしにまさる厳しさだった。前夜の仕事が深夜を回っても、朝は7時台に店に入り、ガラス磨きや掃除などの立ち上げ準備と、仕込みを行う。デザート補助だった当初は、栗の皮むきのような単純作業が割り当てられる。時間が足りなくて、出勤途中の信号待ちでも、手を休めずに皮むきを続けていた。 「1日14時間以上働いて、それが週6日。いつもヘトヘトで、満員電車で通勤する朝は、人に挟まれて、立ったまま、ちょっとだけ眠れる。それがうれしかった」  人が次々と辞める中、庄司が続けられたのには、料理への理想とともに、もう一つの理由があった。 「妹と暮らしていた時の方がずっと大変だった。その経験があったからですね」  2歳年下の妹には重度の知的障害があり、少しでも不安なことが起きると、パニックに陥り暴れ出すので、24時間の見守りが必要だった。 「電車に乗っている時なんかにパニックが起こると、みんなが私たちを見る。その視線におびえながら、私は思春期を過ごしました。そのことは今も自分の中に残っていますし、母も私もずっと緊張の中にいました」  庄司が高校に入学した時に、妹の介護施設入居が決まり、緊張は一時緩んだが、他方で父のアルコール依存が進んでいた。忙し過ぎた庄司は、それに気付くこともできなかった。父の余命が1週間と告げられた時でも仕事は休めず、最期を看取(みと)ることはできなかった。その現実に心が折れ、川手への恩義もそこそこに、3年半でフロリレージュを飛び出した。  先が見えないまま、シティーホテルのレストランでホール担当のアルバイトをする中、一通のメールが庄司の進む道を開いていく。 「なっちゃんのお菓子が忘れられない。私の結婚式で、ウェディングケーキを作ってもらえませんか」  メールの送り主は、フリーエディターの山本久美。庄司とはフロリレージュ時代に、女性誌の人気シェフレシピの連載記事を通して親しくなり、街場の名店を一緒に食べ歩いてもいた。 ■美しいフルーツのケーキが 話題になり予約殺到 「撮影用のお菓子を現場で作っていたのがなっちゃん。それがとてもおいしかった。おいしいだけではなく、見せ方までを納得するまで作り込む。彼女自身、スター性を秘めていて、お父さんのことで弱って、現場を離れてしまうのは、あまりにもったいなかった」(山本)  ウェディングケーキは大好評だった。「自分が作ったもので人が喜ぶ」という原点を目の当たりにして、料理への闘志が再び湧きあがってきた。しかし、不義理をした川手の店にはもう戻れない。独立するしかない、と心を決めた。23歳の時だ。  通常、レストランを開店するには、小規模でも4千万円の初期資金が必要といわれている。だが、若く、女性である庄司に、そんな資金を貸してくれるところはどこもない。母からの援助を元手に、日本政策金融公庫でようやく1千万円の融資を得て、代々木公園の裏手にあるマンションの一室を借り、たった一人で店づくりを始めた。 (文中敬称略) (文・清野由美) ※記事の続きはAERA 2022年12月12日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/12/09 18:00
そんな親からは離れていい…江戸で暮らす“訳ありのふたり”の物語
そんな親からは離れていい…江戸で暮らす“訳ありのふたり”の物語
 文芸評論家・大矢博子さんが評する『今週の一冊』。今回は『吉原と外』(中島要、祥伝社 1760円・税込み)です。 *  *  *  中島要のデビュー2作目、2011年の『ひやかし』は出色の出来だった。吉原の遊女を描いた短編集で、泥の中で咲く蓮の花のような遊女たちの誇りと、けれどそれを決してきれいごとにはしない造形が圧巻だったのに加え、流れるような台詞使いに一気に魅せられたものだ。  以降、さまざまなジャンルの時代小説を手がけてその引き出しの多さを見せつけてきた中島が、久しぶりに遊女ものを手がけたと聞いては放っておけない。  ただし今回の舞台は吉原ではない。18歳の若さで身請けされた元花魁(おいらん)・美晴と、彼女の妾宅で働く23歳のお照の物語である。  呉服屋の主人・砧屋喜三郎が吉原の花魁・美晴を身請けした。喜三郎は婿養子で妻のお涼に頭が上がらないため、通い番頭の卯平と相談し、吉原に通い詰めるよりは安いからと、妻には内緒で美晴を囲うことにしたのだ。  そして卯平は義理の娘であるお照に、美晴の世話をするよう命じる。だがそれは表向き。実際は美晴が他の男を連れ込んだらすぐに知らせろという、いわば監視係として送り込まれたのだった。  23歳にして独り者のお照は、吉原あがりの美晴がどうしても好きになれない。しかしともに暮らすうちに、いつの間にかふたりの間には絆が生まれ……。  全6話が連作の形で収録されており、各編にちょっとしたミステリの趣向があるのが楽しい。  第1話ではお照が前の奉公先で体験したゴタゴタを、美晴がある策を弄して解決する。第2話では板塀の修理に来た大工が美晴に執着して悶着が起きるが、その陰にあった事実を美晴が見抜く。  各話の顛末は実に爽快で、人情ものとしてとてもレベルが高い。そうして美晴の意外な一面を知ったお照が次第に彼女を見直すようになるのだが、各話で綴られる事件がいずれも家族の物語であることがポイント。  事件だけではない。お照が母親とも義理の父親ともうまくいっていないことが繰り返し綴られる。親に捨てられて吉原で育った美晴の過去も語られる。途中から登場する小間物屋の手代の野乃吉は、親の期待に沿えない自分を責め、成長を待ってくれない親を嘆く。物語を通じて浮かび上がるのは、親が我が子を自分の思い通りに動かそうとし、それに逆らうすべを持たない、あるいは逆らおうとして懸命に足掻く子の姿だ。  近年「毒親」「親ガチャ」という言葉をよく目にする。大半の親は我が子を愛しんでいると思いたいが、悲しいことにそうではない親も時には存在する。本書は、不運にもそんな親のもとに生まれてしまった者たちが、そんな親からは離れていい、自分の足で立てばいい、血より心でつながる相手と家族になればいいと、そう思えるようになるまでの物語なのだ。  それがはっきりとわかるのが、最終話で明かされる衝撃の事実である。そうだったのか、これが描きたかったのかとため息が出た。  また、美晴とお照の対比も実に効果的だ。吉原(なか)しか知らない美晴と外しか知らないお照。男に慣れた美晴と、男を知らないお照。戦略的に使われる美晴のありんす言葉と、腹の中を隠せないお照の江戸言葉。幼い頃に親に捨てられた美晴と、親がいることで辛い思いをするお照。何もかも捨てたように見える美晴と、親の愛をあきらめきれないお照。対照的なふたりを配することで問題に違う視点から光が当たる。  もちろん著者お得意の江戸の粋が詰まった台詞回しも健在。重いテーマを孕みながらも、市井小説ならではの生きの良さと温かみが全編に満ちている。江戸の女子バディものの佳作だ。※週刊朝日  2022年12月9日号
読書
週刊朝日 2022/12/06 17:00
歯周病は「口の中で常に炎症が続いていること」 歯磨きだけじゃない正しいケアを医師が解説
歯周病は「口の中で常に炎症が続いていること」 歯磨きだけじゃない正しいケアを医師が解説
歯磨き以外にも重要なケアはたくさんあります ※写真はイメージです 「体の健康は口から始まる」などといわれるように、口の健康は全身の健康を手に入れる第一歩になります。特に歯周病については近年、世界中で研究が進み、いろいろな病気とのかかわりが分かってきました。歯周病ケアの大切さについて理解を深め、将来の快適な生活にもつなげていきましょう。今回は、全身の健康維持に重要な歯周病ケアのポイントを、いりたに内科クリニック院長の入谷栄一先生に聞きました 。本記事は、日本メディカルハーブ協会HPの記事を一部改変してお届けします。 *  *  * ■歯茎が炎症を起こす歯周病は成人が歯を失う最大の原因  歯周病は、プラーク(歯垢)内の細菌の感染によって起こる炎症性疾患です。プラークは食べ物の残りかすや糖分と口の中の細菌によってつくられる物質で、その中の歯周病菌が歯と歯肉(歯茎)のすき間に侵入して炎症を引き起こします。  歯茎の縁の部分が炎症を起こす「歯肉炎」から始まり、歯と歯茎の間に歯周ポケットというすき間ができ、プラークがたまって炎症がさらに広まる「歯周炎」へと進行していきます。この段階になると、腫れ、出血、膿、口臭などが現れ、やがて歯を支える歯槽骨が溶けて歯がぐらつき、最終的には歯を抜かなければならなくなってしまいます。  歯周病は成人が歯を失う最大の原因ですが、多くの場合、初めのうちは自覚症状が乏しく、気づかないうちに進行してしまうため注意が必要です。 歯周病進行度のチェックリスト ■全身の健康を維持するために歯周病ケアが大切なわけ  歯周病があることは、口の中で常に炎症が続いていることを意味します。近年の研究で、その際につくり出される毒性物質や歯周病菌が歯肉の毛細血管を介して全身に運ばれ、様々な病気を引き起こすリスクを高めることが分かってきました。現在、歯周病との関連が指摘されている病気には、次のようなものがあります。 ●糖尿病 歯周病の病巣から放出される物質が血糖値を下げるインスリンの働きを悪くし、糖尿病が悪化しやすいことが分かっています。また、糖尿病があると歯周組織の抵抗力や口腔内の自浄作用が低下するため歯周病が重症化しやすく、歯周病と糖尿病は相互に影響し合う関係にあります。 ●心臓・脳・血管の病気 血管内に歯周病菌を含むプラーク(粥状の沈着物)ができて血液の流れが悪くなり、動脈硬化を悪化させます。プラークがはがれると血管を詰まらせ、狭心症、心筋梗塞、脳梗塞などの発症リスクが高まります。歯周病をもつ人は、脳梗塞のリスクが2.8倍になるといわれます。 ●早産(低出生体重児) 妊娠している女性が歯周病に罹患していると、低出生体重児や早産のリスクが高くなることが分かっています。歯周病菌が血中に入り、胎盤を通して胎児に感染するのではないかと考えられており、低出生体重児や早産のリスクは7倍にものぼるといわれています。 ●誤嚥性肺炎 細菌が食べ物や唾液と一緒に気管や肺に入ると、肺炎を起こすリスクが高まります。高齢者に多い誤嚥性肺炎は、死亡の原因ともなります。  これらの他にも、呼吸器疾患、関節リウマチ、骨粗鬆症、がん、認知症など様々な病気と歯周病との関連が報告されています。こうした病気を予防するためにも、歯周病ケアはとても大切な要素なのです。 歯周病の人の割合  中等度以上の歯周病の人の割合は、45歳を超えると過半数を占めるようになります。初期の歯周病の人を含めると、成人の3人に2人は歯周病といわれています。 ■プラークだけが原因ではない。歯周病のリスクファクターとは  ほとんどの人の口の中には、歯周病の原因となる菌が存在するといわれています。これらは体が健康な時はあまり悪さをしませんが、体の抵抗力が落ちると細菌に感染しやすい状態になり、容易に歯肉の炎症を引き起こします。過労やストレスが続いた時などに、一気に歯周病が悪化してしまうことがあるのはこのためです。  また、喫煙、口呼吸、歯ぎしり、間食といった生活習慣や、糖尿病などの基礎疾患、感染症なども歯周病を進行させる原因となります。女性の場合、妊娠中や出産後、更年期などホルモンバランスがいつもと違う状態の時には歯周病が悪化しやすいので注意が必要です。  歯周病は初期であればブラッシングで炎症を抑え、再発を防ぐことができます。少しでも気になる症状があれば早めに歯科を受診し、その後も定期的なチェックを怠らないようにしましょう。 歯周病の原因 ■今日からさっそく実践!歯周病ケアのポイント <POINT1> 正しい歯磨き 丁寧なブラッシングで、しっかりと汚れを落とすことが最も大切です。毎日歯を磨いているのに虫歯や歯周病になる人は、正しく磨けていない可能性があるので、歯科でブラッシングの指導を受けましょう。歯間ブラシやデンタルフロスもプラークの除去に有効です。 <POINT2>禁煙 喫煙は免疫力を低下させて歯周組織の抵抗力を弱め、歯周病菌の増殖を助長します。また、喫煙していると出血しにくいため、歯周病に気づくのが遅れることもあります。喫煙者は吸わない人に比べ、歯周病リスクが2~8倍といわれます。 <POINT3> 定期的な歯科検診 かかりつけ歯科医をもち、特に症状が出ていなくても少なくとも年に1度、可能なら半年に1度はチェックとクリーニングなどプロのメンテナンスを受けましょう。歯垢が固まって歯石になるとブラッシングでは落とすことができません。ブラッシング法も定期的に指導してもらうと安心です。 <POINT4>食生活の見直し だらだら食いや間食が多いと口腔内が酸性に傾き、虫歯や歯周病ができやすくなります。甘いもの、やわらかいものは歯に付着しやすく、プラークの原因に。噛み応えのある食べ物をよく噛んで食べることは、歯と歯茎の健康に役立ちます。 <POINT5>体の抵抗力を落とさない ストレス、過労、睡眠不足などは歯周組織の抵抗力を弱め、歯周病菌の増殖を助長します。また、自律神経の乱れを引き起こして唾液の分泌が悪くなり、口腔内の自浄作用が低下する原因ともなります。 <POINT6>口呼吸をしない 口呼吸で口の中が乾くと、唾液による自浄能力が下がり歯周病菌や虫歯菌などが繁殖しやすい環境になります。また、細菌やウイルスが侵入しやすくなり、全身の免疫力も低下するといわれます。意識的に口を閉じるよう心がけましょう。 監修/入谷栄一先生 監修/入谷栄一(いりたに・えいいち)先生 いりたに内科クリニック院長。総合内科専門医、呼吸器専門医、アレルギー専門医。日本メディカルハーブ協会顧問。東京女子医科大学呼吸器内科非常勤講師。在宅診療や地域医療に力を入れる他、補完代替医療やハーブ、アロマに造詣が深く、全国各地で積極的に講演活動も行う。著書に『病気が消える習慣』、『キレイをつくるハーブ習慣』(経済界)など。 日本メディカルハーブ協会HP
歯みがき歯周病
dot. 2022/12/05 06:00
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
ロシアから見える世界

ロシアから見える世界

プーチン大統領の出現は世界の様相を一変させた。 ウクライナ侵攻、子どもの拉致と洗脳、核攻撃による脅し…世界の常識を覆し、蛮行を働くロシアの背景には何があるのか。 ロシア国民、ロシア社会はなぜそれを許しているのか。その驚きの内情を解き明かす。

ロシアから見える世界
カテゴリから探す
ニュース
〈外国とつながる皇族方〉「Queen」と名乗る電話やエリザベス女王お気に入り料理の店探し 十人十色の皇室と王室の交流
〈外国とつながる皇族方〉「Queen」と名乗る電話やエリザベス女王お気に入り料理の店探し 十人十色の皇室と王室の交流
エリザベス女王
dot. 5時間前
教育
瀬戸内海の離島の国際バカロレア認定校に全国から視察殺到 広島の教育改革は「現場の足腰の強さ」から
瀬戸内海の離島の国際バカロレア認定校に全国から視察殺到 広島の教育改革は「現場の足腰の強さ」から
学校の大問題
AERA 1時間前
エンタメ
peco関西弁で息子にブチギレることもある! 子どもにカチンときたときの心の落ち着かせ方は?
peco関西弁で息子にブチギレることもある! 子どもにカチンときたときの心の落ち着かせ方は?
peco
dot. 4時間前
スポーツ
広島が大失速でスタンドに空席目立つも… 低迷の中日が「平日も大観衆」の理由とは
広島が大失速でスタンドに空席目立つも… 低迷の中日が「平日も大観衆」の理由とは
プロ野球
dot. 5時間前
ヘルス
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
〈あのときの話題を「再生」〉サラリーマン家庭で医学部に息子2人進学 親子で目指した合格 父「決意を確かめる意味で違う道も提案」
医学部に入る2024
dot. 9/26
ビジネス
S&P500だけではダメ? オルカン一択の盲点は?なぜ日本株にも投資? 初心者の疑問に答えます 桶井道【投資歴25年おけいどん】
S&P500だけではダメ? オルカン一択の盲点は?なぜ日本株にも投資? 初心者の疑問に答えます 桶井道【投資歴25年おけいどん】
オルカン
dot. 6時間前