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「J復帰」ありそうなのは? “冷遇”される元日本代表も「日本で見たい」海外組は
「J復帰」ありそうなのは? “冷遇”される元日本代表も「日本で見たい」海外組は 日本代表でも活躍した原口元気  今冬、Jリーグのストーブリーグは例年以上に選手の出入りが激しく活性化している。特に主力級の選手たちの移籍が目立つが、その中で注目したいのがMF遠藤渓太(ウニオン・ベルリン→FC東京)、MF鈴木冬一(ローザンヌ・スポルト→京都サンガ)といった海外リーグからの国内復帰組だ。GK谷晃生(デンデル)の町田ゼルビア、DF小林友希(セルティック)の横浜FM入りも一部で報道(1月10日時点)されているが、彼ら以外にも現在置かれている状況を考慮した上で「Jリーグ復帰」を求めたい選手は多くいる。  まず、サポーターから古巣復帰を“熱望”されているのが、現在32歳の原口元気(シュツットガルト)だ。浦和レッズユース黄金世代の一人で、2009年のトップ昇格1年目から主力として活躍し、日本代表として2018年ロシアW杯のベルギー戦で鮮烈なゴールを決めたアタッカー。2014年6月からドイツでの生活を続け、今年1月に自身ブンデス5クラブ目となるシュツットガルトに移籍するも、監督交代後に出番を減らし、今季はリーグ戦16試合を終えて出場時間は1試合で20分間のみ。現契約は2024年6月30日まで。海外で多くの経験を積んで万能性も高めた男は、レッズ復権計画の“最終兵器”になれるはずだ。  今年3月に41歳となる元日本代表GK川島永嗣(無所属)の去就も注目される一人だ。国内3クラブでプレーした後、2010年7月にベルギーに渡ると、スコットランドを挟んで2018年8月からフランスでの生活を続けている。日本代表としてW杯4大会でメンバー入りした経験は随一。現在、半年間にわたって無所属状態が続いているが、まだ働ける力はあるはずだ。コロンビア人ハーフの愛妻と渡欧後に誕生した3人の子どもたちの存在が川島本人にとって今後の大きな判断材料になるが、すでにジュビロ磐田が獲得に動いているとの一部報道があったように、この元日本代表GKを欲する国内クラブはある。「無所属」であるならば、Jリーグでの勇姿を見たい。  元日本代表選手としては、現在37歳のFW岡崎慎司(シントトロイデン)のJリーグ復帰も求めたい。滝川第二高校から入団した清水エスバルスで6年間プレーした後、ドイツ、イングランド、スペイン、ベルギーと渡り歩き、今季で欧州14シーズン目。2015-16シーズンの“ミラクルレスター”の一員であり、日本代表通算119試合出場でマークした50得点は歴代3位の数字を誇る。その中でシントトロイデン1年目の昨季はリーグ戦30試合に出場したが、今季は故障離脱の時期も多く、リーグ戦出場5試合で計54分間の出場のみ。年齢を考えるとJリーグに復帰してもレギュラーとしてフル稼働するのは難しいかもしれないが、途中出場で試合の流れを変える力は依然として持っているはずだ。  岡崎の現在の同僚の一人であるDF小川諒也(シントトロイデン)はどうか。流通経済大柏高校から入団したFC東京で7年半プレーした後、2022年7月にポルトガルのヴィトーリア、そして今季はベルギーのシントトロイデンに期限付き移籍で加入。高い身体能力と左足の高精度のクロスを武器に日本代表に招集された経験もある大型左サイドバックだが、ヴィトーリアではリーグ戦出場6試合のみに終わり、シントトロイデンでも途中出場1試合のみで出場時間3分のみ。現在27歳。レンタル期間は2024年6月まで。このまま欧州内でステップアップするのは難しく、レンタル延長よりは再びJリーグで“再挑戦”すべきだ。  左右は逆だが同じサイドバックの室屋成(ハノーファー)もJリーグ復帰を求めたい選手だ。青森山田高校、明治大学を経て入団したFC東京で抱負な運動量を武器に4年半プレーして日本代表にも選出された後、2020年8月にハノーファーに加入した。初の海外リーグも苦にせず、すぐにレギュラーとして活躍を続けてきたが、ハノーファーはブンデス2部で日本での注目度は低い。さらに今季はベンチスタートが増え、チームも現在18チーム中8位で1部昇格は難しい状況だ。今年4月に30歳となる中、このままドイツでキャリアを続けるよりもJリーグの舞台でサイドを疾走する姿を見たい。  32歳のゲームメーカー、森岡亮太(シャルルロワ)も再びJリーグでプレーしてもらいたい選手だ。ヴィッセル神戸で6年間プレーした後、2016年1月に欧州に渡り、ポーランド、ベルギーでプレーして今季で9年目を迎える。長くシャルルロワの攻撃の中心として活躍したが、昨季は徐々に出番を減らし、今季もここまでリーグ戦20試合中16試合に出場しているが、スタメンは8試合のみ。現契約は2024年6月までで、その後の移籍先が取り沙汰されている。本人の欧州滞在の意欲は強いようだが、高い技術とインテリジェンスを持つ男を欲するJクラブは多くあるはずで、活躍できるはずだ。  23歳のドリブラー、本間至恩(クラブ・ブルージュ)も自身のキャリアを考え直した方が良い。アルビレックス新潟の下部組織育ちで2019年にトップ昇格。小柄ながら切れ味鋭いドリブルでチャンスを作り出し、10番を背負ってサポーターから愛された。そして2022年7月にベルギーのクラブ・ブルージュに移籍。1年目は主にセカンドチームでプレーした中、プレーオフで1得点1アシストの活躍を披露して2年目の飛躍が期待されたが、迎えた今季もセカンドチームでのプレーが続き、クラブ・ブルージュではリーグ戦全試合ベンチ外と冷遇されている。まずは欧州他クラブへの移籍を目指すだろうが、昨季J1舞台で存在感を見せた古巣へ復帰しても良いはずだ。  近年、日本人選手の海外移籍がさらに活発化する中、昨季リーグ優勝を果たしたヴィッセル神戸で大迫勇也、武藤嘉紀、酒井高徳、山口蛍の海外経験者たちが輝きを放った。その他にも家長昭博、香川真司、柴崎岳、長友佑都らの30歳オーバーのベテランだけでなく、鈴木優磨、西村拓真、植田直通、井手口陽介、原大智ら20歳代の“元海外組”も存在感を見せた。今後、Jリーグが秋春制になればさらに日本と海外の境目はなくなり、海外に“行ったきり”ではなく“行ったり来たり”ができるはず。短い現役生活、冷遇されているならば他クラブへの移籍は真っ当な解決方法。その移籍先が日本であれば、Jリーグはさらに盛り上がるはずだ。(文・三和直樹)
劇場版「SPY×FAMILY」を見て鈴木おさむが感じたこと 大ヒットさせようというスタッフの気持ち
劇場版「SPY×FAMILY」を見て鈴木おさむが感じたこと 大ヒットさせようというスタッフの気持ち 放送作家の鈴木おさむさん    鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、映画「SPY×FAMILY」について。 * * *  超人気漫画「SPY×FAMILY」の劇場版「 SPY×FAMILY CODE: White」を見に行きました。昨年末に公開して大ヒットしています。僕と同世代の人で名前は聞いたことあるけど知ったかぶりしている人たちも多いと思うので、改めて説明すると、集英社の漫画アプリ「少年ジャンプ+」で連載している人気漫画がアニメになり大ヒットしています。スパイの父ロイド、殺し屋の母ヨル、超能力者の娘アーニャ、未来予知犬ボンドの疑似家族の物語。  この娘・アーニャが特に人気で、色んなお店にこのアーニャグッズが溢れています。  僕はアニメを数回見て、おもしろいなとは思ったのですが、途中離脱。で、今回、映画になり、現在、興行収入が50億円に届く勢いの大ヒットをしているのですが……。うちの8歳の息子が見たいというので、僕と息子と妻で行きました。妻は一回も見たことありません。 家族全員が「おもしろい!」  とにかくスパイの父と殺し屋の母と超能力者の娘の疑似家族の物語だから!とだけ妻には言いました。「おもしろいかな~」と不安がっていましたが、結論から言うと、見終わって全員が満場一致で「おもしろい!」となりました!  今回は、映画のオリジナルストーリー。この家族が初めての家族旅行に出かけるという物語。  しかも、原作者の遠藤達哉先生が監修・キャラクターデザイン原案を手がけているというから安心感あります。  まず、何が親切って最初の10分で、そもそもの設定を丁寧に説明してくれているのです。  それぞれの能力とか家族の設定とか、まあ、わかりやすい。だから見たことない人にもわかりやすーく作っている。  こういうわかりやすくする部分って、作りたがる人と作りたがらない人がいます。わかりやすくすることを「格好悪い」と考える人もいるし、その人の気持ちもわかる。だけど、やっぱりヒットしたらステージが一気に上がるんです。 妻の大島美幸さんの「半すっぴん」(本人のインスタグラムから)    僕が以前、「ONEPIECE FILM Z」という映画を作るときに、尾田栄一郎さんに「尾田さんはこの映画に何を求めますか?」と聞いたら、「前作より大ヒットさせることです」と言ってくれました。それって超わかりやすい。「 SPY×FAMILY」の初心者にとっても見やすい感じがあるので、そこを狙っているのでしょう。  この映画には、今回、「 SPY×FAMILY」を映画で大ヒットさせて、ステージを変えようというスタッフの気持ちを感じました。 意外とありそうでない  ネットで見ると、子供ウケと書いてる人もいるし、その感はありますが、子供ウケだとしても大人も楽しめます。一緒に笑えます。ドキドキします。家族同時に体験できるってなかなかない。  かなりツウの人からしたら厳しい意見もあるかもしれませんが、やはり最初の映画になりますから、ここは作り手からしたら絶対ヒットさせたい。  映画だけ見に行く映画……というよりも、ショッピングモールに行き、映画見て買い物してご飯食べて、という映画としてもとてもよい。これって意外とありそうでないんだよな。  そして最後にかかる曲。星野源さんの曲です。そこまで見ると、この映画を見ている自分ってセンスいいよなと思わせてくれる星野マジック。  この映画は、そう「気持ちよい」。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」はLINE漫画で連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中
“悟る前”のブッダの人生にこそ老いを楽に生きるヒントが 老病死が近づく「林住期」の重要性
“悟る前”のブッダの人生にこそ老いを楽に生きるヒントが 老病死が近づく「林住期」の重要性 ※写真はイメージです。本文とは関係がありません(๋J88DESIGN / iStock / Getty Images Plus)  超高齢社会を迎えた日本。そんな現代だからこそ、ブッダの人生、特に古代インドの四住期で考えた「林住期」の生き方から、老いのヒントを学ぶべきと教えてくれるのは、宗教学者の山折哲雄氏。国際日本文化研究センターの所長なども歴任してきた山折氏の新著『ブッダに学ぶ 老いと死』から一部を抜粋、再編集して解説する。 * * * 「悟る以前の釈迦」と「悟った釈迦」の二分法では見えてこないもの  私たちの生き方のヒントは、悟る前の釈迦、俗人釈迦の生き方にこそあるというのが私の主張です。  仏教は今から約2500年前に釈迦によって説かれるようになりました。その頃、インドのいわゆる知識人の間ではバラモン教(ヒンドゥー教)が主流を占めていました。つまりインドでは、仏教以前から出家者によって重要な人生観が説かれていたわけです。  その代表的な人生観は「四住期」です。これは人生を四段階のライフステージに分ける考え方です。 ・第一段階「学生期」 ・第二段階「家住期」 ・第三段階「林住期」 ・第四段階「遊行期」  このように分ける考え方で、釈迦の人生観、つまり生老病死観と表裏の関係にあります。  もっと端的に言うと、釈迦はこの四住期を意識して生きた知識人でした。だから釈迦の人生、あるいは釈迦の教え、釈迦の言葉を本当に理解するには、まず四住期というインド古来の人生観を知ることが不可欠なわけです。  ただ一方で、釈迦の教え、釈迦の言葉は悟りを開いたのちに唱えられたものが中心になっています。つまり釈迦は、悟った結果、つまり賢者になってから自分自身の体験などを語ったということになっています。それが仏教として受け取られてきたわけです。  もちろん悟りを開く以前のことも、神話のようなかたちで悪魔の誘惑や遊女の誘惑、あるいは赤子の釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったという話、14歳の時に老人、病人、死者、出家者を見て人生に迷い、悩むようになったという「四門出遊」の話などが伝えられています。  ただしそれは、さまざまな苦しみから離れて、悟りを得て、釈迦の本当の人生が始まったという二分的なかたちになっています。つまり、悟る以前の釈迦の人生は神話的な物語として、克服されるものとして語られているわけです。  要するに仏教者にとって、悟り以前の釈迦の人生、あるいはその人生観は仏教以前という位置付けでしかありません。  近代的仏教学も、釈迦は仏教以前のバラモン教、つまりインド古来の知識人たちの人生観を否定して、出家をして悟りを開いたという前提に立っています。釈迦は悟ることによって、それ以前にインド社会の一般的な知的な人々が考えていた人生観を抜け出たと。  しかし釈迦の人生は、仏教以前からある当時の知識人たち、あるいは一般のバラモン教徒たちの人生観と対比しながら考えないと、悟ったあとの釈迦、賢者の釈迦の姿しか見えてきません。そこに至るまでに苦しんだ釈迦のライフステージが隠されてしまうからです。  つまり、近代的仏教学のように悟り以前と悟ったあとの釈迦を真っ二つに分けて考えると、釈迦の80年の生涯を全体として捉えることができないんですね。  だから仏教以前からインド社会の中にある知識人から文字の読めない庶民までを含んだ広範な人々の人生観、死生観を明らかにする必要があります。そして、そこに生まれ育った釈迦が徐々に苦しみから抜け出ていくプロセスを捉える必要があるわけです。  インドの歴史やインドの哲学者、賢人たちが説いた教えなどを総合的に見渡すと、そこには共通して流れている人生観があります。それが初めに述べた四住期なんですね。人間というものは四つのライフステージを経て最期を迎える。それが非常に理想的であるという人生観です。  四住期という考え方が釈迦のはるか以前から説かれていたことは、たとえば、バラモン教の教えをまとめた『マヌ法典』を読むとよくわかります。 『マヌ法典』は紀元後に知識人によって文字化されたものですが、その内容は古来、口頭で伝承されてきた事柄であって、仏教以前から広範な人々に受け入れられてきた教えです。つまり四住期は、インドの普通の庶民が自然に受け入れていた人生観なんですね。 山折哲雄『ブッダに学ぶ 老いと死』(朝日新書)>>本の詳細をAmazonで見る 林住期とは「家出」をして自由になる時代  さて、四住期の中身は何か。  第一期の学生期は日々学び、親や教師に従う生活を送る、文字通り「学生の時代」です。  第二期が家住期、家に住むです。仕事に就いて結婚して子どもを作り、「経済人・家庭人として活動する時代」です。  そして第三期の林住期。当時のインドは家父長制の社会です。家庭を持ち、子どもを社会的人間に成長させたあと、父親は息子に家長を譲ります。そして家を一時的に出て旅をしたりしながら本当にしたかったことをする。つまり、「自由を享受する時代」です。  旅に出て音楽の世界に入ったり、森に入って瞑想にふけったり、いろいろな人々と交流したりと、それまでの世俗的な生活を抜け出て自由気ままに生きる。場合によっては女に狂ったり、酒に溺れたりもする。とにかく一時的に家や家族の縛りから逃れ出て、自由な生活を送る時代が林住期です。  これは要するに「家出」なんです。家を出るといろいろな発見があります。世俗的な心の疲れもリフレッシュされる。場合によっては自由に溺れて失敗して、のたうち回るような思いもする。林住期には人それぞれ、さまざまな人生的な経験をするわけです。今でもインドに行くと、そんなふうに生きている人たちがたくさんいます。  林住期は中途半端と言えば中途半端ですが、自然の中での生活と旅暮らしの時代、あるいは瞑想と遊びの時代です。  ただし、ほとんどの人間はやがてお金が尽きます。年も取るし、病気にもなります。家を出ているから、このまま死んだらどうしようと不安になります。つまり林住期は、だんだん老病死が近づき、その苦悩が深まる時代でもあるわけです。  そういうプロセスの中で、さて、どうするかと考える。その意味では、林住期は自分の晩年に思いを巡らす自由な時間でもあるんですね。  こういう時期をライフステージに組み入れたインドの賢人たちの人生観はなかなかのものです。私が知る限り、林住期のようなカテゴリーを人生観の中に取り入れた民族、文化はインド以外にあまりありません。  林住期の中で死が近づいてきた人間はどうするか。ほとんどが世俗に、自分の妻のもと、家族のもとに戻ってきます。  ただ、世俗に戻って元の木阿弥かというとそうじゃない。林住期で別の世界をさまよい歩いた、その結果、さまざまな人に出会って、さまざまなことを学んできた。そのいわばリフレッシュの蓄積が、再び始まる家族、あるいは共同体の暮らしの中で活かされます。つまり林住期は、ある種の成熟の時間でもあるわけです。 遊行期に進んだほんのわずかな人が釈迦でありガンディー  林住期の次が最終のライフステージ、第四期の遊行期です。日本のいわゆる生き方本には「それまで得た経験や知識を、世間に伝える時期」といった説明も見られますが、本来の遊行期は違います。生き方本にある説明は先ほど言った林住期を経て世俗に戻ったあと、つまり林住期のいわば延長の話でしかありません。  実は最終ライフステージの遊行期に進めるのは、ほんのわずかの人間です。遊行期に進んだ人間は、もはや家族、共同体のもとには帰りません。帰らずにどうするか。現世を放棄して、一人の遁世者、聖者として全く別個の人生を歩み始めます。  要するに現世放棄者、遁世者、聖者になった最も代表的な人物が釈迦なんです。現代においてはガンディーが遊行期を生きた一人と言えます。  私は俗と聖を行き来する林住期にこそ、「人生100年時代」を生きる今日の私たちが、老病死に対する不安にどう立ち向かうかという問題を考えるヒントがあると思っています。  ともすると私たちは、老病死から遠い人生の前半を明るい50年、老病死に近づく人生の後半を日陰の50年と二元的な対照に考えがちです。  しかし、人生の後半の50年を林住期と捉え、俗と聖を行き来するような生き方ができれば、決して日陰にはなりません。現に92歳の私は林住期を生きていて、極めて明るく老病死に立ち向かっているつもりです。
【能登半島地震ルポ】20歳の自衛官に彼女から「生きてる?」LINEが届いた 被災者も支える人も必死で前を向く
【能登半島地震ルポ】20歳の自衛官に彼女から「生きてる?」LINEが届いた 被災者も支える人も必死で前を向く 輪島市の「朝市通り」があった火災現場。空襲にでもあったかのような惨状が広がる。鼻の奥を刺すような刺激臭が漂ってくる    2024年元日に起きた能登半島地震の被災地取材のため、記者は2日に羽田空港から石川県に飛び、レンタカーで金沢市内から約100キロ離れた輪島市を目指した。北上するにつれ、道路には亀裂や隆起が目立ち、山間部では崖崩れの土砂が流れ込んでいた。大渋滞のなか、3日午後3時、輪島市中心部に到着した。金沢市を出てから実に8時間半が経っていた。最初の地震発生直後の輪島市で何が起きていたのかリポートする。 【金沢から輪島に向かう道中をリポートした「前編」はこちら】 *  *  *  輪島市の中心部に入ると、消防車や救急車のサイレンや、低空飛行で旋回しているヘリコプターの音が大音量で鳴り響いていた。  輪島市役所の横に車を止めた。そこから、海側に向かって歩くと、かつて街があったと想像するのも困難なくらい、完膚(かんぷ)なきまでに破壊された景色が広がっていた。輪島市に来るまでに通ってきたどの場所より、被害が大きいのは一目瞭然だった。  家という家は、1階部分がぺしゃんこにつぶれ、2階部分が地面にめり込んだように見える。その上に電柱が倒れかかり、頭上には切れた電線が垂れ下がっている。道路の表面はあちこちがひび割れ、せり上がったコンクリートの上には、腹を持ち上げられた格好でタイヤが宙に浮いた車が置き去りにされている。 朝市通りは黒こげに  とりわけ、火災によって約4千平方メートルが焼失した「輪島朝市通り」周辺は、目を覆いたくなるほどの惨状だった。  輪島朝市は、約360メートルの通りに八百屋や魚屋、土産物屋など200以上の店がならぶ「日本三大朝市」の一つだ。千年の歴史をもつ観光名所だが、今や、見渡す限りのすべてが、黒焦げになって朽ちていた。小雨が降っていたが、まだくすぶった状態が続いているのか、あちこちから白い煙があがり、空に昇っていく。  地面には、瓦やガラス、金属片などのがれきが厚く敷き詰められ、歩くたびにパキパキと何かが割れる音がする。木造の建物はほぼ炭と化し、鉄筋コンクリートのビルは骨組みだけになってかろうじて立っている。自動車は、ドアが吹き飛びシートが溶け、中の部品がむき出しになっている。 【あわせて読みたい】 能登半島地震でPayPay寄付詐欺「引っ越してきたばかりで娘が震えて…」被害男性が信じたSNS https://dot.asahi.com/articles/-/210703?page=1 火災現場では、何台もの車が焼け焦げていた。いたるところで白い煙があがり、消防隊員が残火処理にあたっていた    木材、金属、プラスチックと、あらゆるものが燃えたことで、数歩歩くごとに違うにおいが漂ってくる。線香花火のようなツンとする刺激臭や、ポップコーンのような香ばしい臭い、そして何が燃えたのか、甘い香りもあった。  ぽつりぽつりと人影が見えた。  傘を差し、同級生と立ち話をしていた男性(62)は、火災現場から離れた市内に住んでいるが、友人や知り合いの家が心配で様子を見に来たのだという。 「LINEしとるんですけど、返事が返ってこん友達がいっぱいおるんで。家は跡形もなかったです。ほんと、涙出ます。なんでこんなことなるのかな」  そうつぶやいて遠くを見つめた。  父親(89)と一緒に歩いていた男性(59)は、父が約90年暮らしてきた実家の焼け跡を訪れた帰りだという。 「おやじが大事にしていた焼き物が一つだけ残ってたもんで、掘り出してきました。でも、最近生まれたひ孫の写真も、僕が子どものときの写真も全部なくなっちゃって。もう焼け野原で、ひどいもんですね。戦時中のことは知らないけど、こんなんだったのかな」  日が落ちてあたりが暗くなってからは、避難所になっている市役所の取材に切り替えた。 エントランスの地面が大きくゆがんだ、輪島市役所庁舎。「ビスケット」と書かれた段ボールを持ってきた男性たちに、女性が笑顔で駆け寄る   トイレもほしいです  市役所は、本館で避難者を受け入れ、新館で職員が業務にあたっていた。4階建ての本館は、エントランス、会議室、廊下など所狭しと毛布や布団が敷かれ、その上で約400人が身を寄せあっていた。  高齢者の姿が多いが、赤ちゃんのいる家族連れや、犬と一緒に避難している人もいた。避難者たちによると、まだ救援物資は受け取れておらず、水も食料も毛布も持参のものでやりくりしているという。  娘を真ん中に、妻と3人横並びで壁際に座っていた中口英明さん(59)は、「ぜいたくですみません」と前置きしつつ、「あったかいものが食べたい」と話した。 「食パンやドーナツはあるんですけど、具がなくてもいいからみそ汁とか……。あとは、口に入れたものは外に出るのだから、トイレもほしいです」 市役所庁舎で、ご近所さんたちと身を寄せ合う女性たち。「お願いだから持って行って。気持ちだから」と、記者の手にバウムクーヘンやパンを握らせてくれた   【こちらもおすすめ】 能登半島地震・志賀原発 避難ルート「のと里山海道」は一時全面通行止め 避難計画は“絵空事”だった https://dot.asahi.com/articles/-/210705?page=1 1階部分から折れた輪島塗の「五島屋」本社ビル。3日夜、下敷きになっていた女性が救出されたが、死亡が確認された    庁舎のトイレは、断水によって水が流れないため、便器がことごとく排泄(はいせつ)物であふれ、使用済みのトイレットペーパーでパンパンになったゴミ袋がいくつも置いてあった。  衛生的にも精神的にもかなり厳しい環境だが、会社の同僚と避難してきた30代の女性は、家に帰れるめどはまったく立っておらず、当面は避難所で過ごすという。 「今家に入るのは危ないし、余震も怖いし、ここにいるしかない」  そう話しているそばから、突然ガタガタと音をたてて庁舎が大きく揺れ始めた。緊急地震速報のアラームが一斉に鳴り、女性はとっさに記者の腕にしがみついた。震度4だった。 震度4~5クラスが毎晩  この3日間は毎晩、震度4~5クラスの揺れに見舞われているといい、先ほど口にしていた「余震の恐怖」の深刻さを痛感する。女性は「寝られないし全身が痛いです」と疲労をにじませていた。  隣に座っていた同僚の40代女性は、インターネットが思うように使えず、市役所のテレビもBSしか映らない状況を受け、「とにかく正確な情報がほしい」と訴える。 「いつまでこの避難所にいられるのか、なんで物資が届かないのか、道路はどうなっているのか、何も分からなくて困っています」  市の広報担当者に話を聞くと、行政側もあらゆる情報の集約が追いつかず、混乱しているようだ。救援物資も、何がどれだけの量、どの避難所に配られているのか把握できておらず、「まったく足りていないことだけは確か」だという。  年末年始で市外から大勢帰省していたため、市民用に備蓄していた物資ではとうてい足りず、しかも震災の日から2日間は市内へ通じる道路が完全に遮断されていた。3日になってようやく県道が一部開通したものの、「まずは物資の配布よりも、生き埋めになっている方々の救助活動を最優先に動いています」(市担当者)。  市役所での取材を終え、車に戻った。今晩は車中泊だ。道路の側溝を洗面所代わりに、夜空の下で歯を磨いていると、スマホに視線を落とした自衛官が近くに立っていた。休憩時間なのかと思い、話しかけてみると、同僚たちの帰りを待っているところだという。 ぺしゃんこにつぶれた民家。近隣住民によると、この家に一人で住んでいた65歳くらいの女性と連絡がとれないという 【あわせて読みたい】 地震保険はやはり必要か 都道府県別の世帯加入率トップは宮城県、最下位は?【能登半島地震で見直す備え】 https://dot.asahi.com/articles/-/210700?page=1 火災現場近くの墓地。火の手はまぬがれたものの揺れによる損傷が激しく、墓石が倒れて中が見えていたり、地蔵の頭がとれて転がったりしていた    関西地方から派遣されたという彼は20歳。元日に親戚で集まり、すしを食べようとした瞬間に震災が起き、そのまま招集された。初めての災害派遣の現場では、輪島市と外部をつなぐ交通路を確保する業務にあたっているという。  午前4時起床で2時間しか眠れない日々が続き、彼女からは「生きてる?」と不安でたまらない様子のLINEが頻繁に届く。保存食の米は、「古いと消しゴムを食べているよう」だというが、「誰かを助ける仕事がしたくて自衛官になったので、つらくはないです」。  そして午後10時ごろ、同僚と合流すると、再び仕事へと戻っていった。  危険と隣り合わせの被災地で、記者も神経が高ぶっていたせいだろうか。なかなか寝つけず、こま切れの睡眠をかろうじて3時間ほどとった翌朝7時。車の外に出ると、焦げくさいにおいが混じった南風が、頬に吹きつけた。  街の様子を見に、再び朝市通りのほうへと歩く。重苦しい雲が立ち込めていた前日とは打って変わった青空は、その下の壊滅的な光景とあまりにも不釣り合いに感じた。 「もうダメです」  朝市通り周辺の焼失エリアからわずか数百メートル手前で、ヘルメットをかぶって自宅前にたたずむ男性と出会った。 「家の片付けをしとる」と話してくれたのは池高精一さん(75)。前日は、壁がはがれ落ちた1階部分に木の板を打ちつけたので、この日は散らかった室内を少しでも片付けようと、避難所からやって来たという。  池高さんは、仏壇や仏具などを手がける漆塗り職人。1階が住居、2階が工房だった自宅は、周囲の家の大半が倒壊しているのにもかかわらず、しっかり原形をとどめている。 「この家は俺が小学生のころにできたから65年くらい経ってるけど、おやじがいい材料を使ってくれたんだろうね。でも、中にあるもんは全部落ちて、2階は壁も落ちて、もうダメです」  家の中を見せてもらうと、障子やタンスが倒れ、押し入れの中のものが飛び出し、足の踏み場もなかった。2階では崩れ落ちた壁が床の上で粉々になっており、塗られる前の「経机(きょうづくえ)」と呼ばれる仏具も壊れて散乱していた。 池高精一さんの自宅。2階の工房は損傷が激しく、漆器を乾かすための収納庫「塗師風呂(ぬしぶろ)」がある部屋の戸は開かなくなっていた   【こちらも読まれています】 「被災者自身でのブルーシート張りは極力避けて」 被災地域にいる人に災害支援の専門家が伝えたいこと https://dot.asahi.com/articles/-/210667?page=1 「中ではとても暮らせないけど、避難所生活もいつまで続くか。避難所のトイレ、小は少しできるけど大のほうができないから、なるべくものを食べないように飲まないようにしていて。水は1日にコップ1杯。金沢に住んでる娘が『家においでよ』って言ってくれとるけど、厄介になるのもね……」  だからこそ家の修理や片づけを進めているのかと思いきや、池高さんは「どんなもんやろ」と吐き捨てるようにつぶやいた。 「余震もでかいやつが続いとるし、直す価値があるか……。家がまっすぐ建っとるからこそ、直すかつぶすか悩んでしまう。これからじっくり考えようと思う」 伝統工芸である輪島塗の店も、数多く被災した。朝市通りにある「涛華堂 八井浄漆器本店」は、営業再開の目途は立っていないという    池高さんの家の隣にある仕出し料理店「作治」も、同じように倒壊をまぬがれていた。中で片づけをしていた店主の田腰弘治さん(80)は、1階部分の太い梁(はり)を指さし、「これが支えてくれるから、畳の上で柔道してもつぶれんようになっとる」と胸を張る。 「こんな天災、苦にならん」 「今は、奥の部屋をきれいに片付けて、中で寝泊まりしとる。水道はきてないけど、顔を洗ったり飲み水にしたりできるよう、きれいな雪をもってきて溶かしとるし。生活の知恵ね」  田腰さんは元々、フランス料理のシェフとして兵庫県のホテルなどで腕を振るい、40年ほど前にこの店を建てた。しかし、震災を機に店をたたむという。 「予約はいっぱい入っとったし、震災がなかったらまだ続けるつもりやったけど、もうせん。でも、どこも行かんよ。わしが建てた家に住み続ける。今まで宝塚とか姫路とか転々としたけど、やっぱりここが一番やね」  そして田腰さんはおもむろに、「俺は幸せや!」と口にした。 「今のロシアとかウクライナなんて、食べるもんも住むところもない人がいっぱいおりますわ。そう思ったら悲しんではおられん。ほうでしょう? こんな天災なんて苦にならん。全っ然苦にならん!」  にらみつけるようなまなざしと、突然強くなった語気。必死に自分に言い聞かせ、奮い立たせているように見えた。 仕出し料理店「作治」の前に立つ、店主の田腰弘治さん。「天災は何十年かにいっぺん起こるし、作った物はいつか壊れる。当然や。壊れたら、また一から作ればいい!」   【こちらもおすすめ】 「地滑りが発生しやすい」「海岸線ギリギリの家屋」 地震被害が大きくなりやすい能登半島ならではの特徴とは https://dot.asahi.com/articles/-/210678?page=1 アスファルトの道路がまるで海のように波打ち、いたるところで車が乗り捨てられていた 倒れた電柱によって電線が大きくたわんでいる。街を歩いていると、ちぎれた電線の切れ端が頭に触れそうになり、恐怖を感じた    破壊の限りが尽くされた光景を前にすると、はたして輪島が復興する日はやって来るのか、正直不安をおぼえる。前出の火災現場で出会った男性(62)は、「以前から人口がどんどん減り、高齢化も進んでいたのに、もう一度輪島に家を建てようと思う人はどれくらいいるのだろう」と嘆いていた。 日常の姿も  だが、街の様子に目をこらすと、日常を取り戻そうとする人々の“営み”もあった。  大きな段差ができて徐行運転でしか進めなかった道路は、作業員が夜通し工事したのか、翌日には砂利でならされ、スムーズに走れるようになっていた。  朝、川沿いの亀裂だらけの土手には、非常時でもいつもどおり犬の散歩をして、フンを片付けている市民の姿があった。  市役所の庁舎では、近くの避難者に「よかったら食べますか?」とおせんべいを差し出したり、カップ麺にむせた高齢女性の背中をトントンとさすったり、みなで助けあう様子が印象的だった(市役所庁舎の避難所機能は5日までで終了し、避難していた人々は既に別の避難所に移っている)。  震災直後から、自分にできることをやり、少しでも前を向こうとする人々がいた。その「人間の強さ」が、今後被害の全貌が明らかになり、厳しい現実に向き合うことになるかもしれない輪島市の希望になることを、信じたいと思った。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【あわせて読みたい】 能登半島地震発生からの2日間 余震続きで270人の避難所は満杯 津波で避難も火災に涙 https://dot.asahi.com/articles/-/210499?page=1
【大河ドラマ「光る君へ」スタート】平安装束でドアを開け妙な勧誘も撃退 私はこうして平安沼に落ちました
【大河ドラマ「光る君へ」スタート】平安装束でドアを開け妙な勧誘も撃退 私はこうして平安沼に落ちました 砂崎良(さざき・りょう) 東京大学文学部卒、社会人から2009年フリーライターに転職。著書に『リアルな今がわかる日本と世界の地理』(朝日新聞出版)など(右)/承香院(じょうこういん) 子どものころから平安時代の装束や文化などを実践しながら独自に研究。著書『あたらしい平安文化の教科書』(翔泳社)が2月に発売予定  吉高由里子演じる紫式部が主人公となる今年の大河ドラマ「光る君へ」。波瀾(はらん)万丈の戦国時代から、舞台は一気にスローな平安時代に移ったが、その平安時代にドはまりしている人がいる。このドラマ「光る君へ」や、源氏物語、枕草子などの平安文学で出合う「会ふ」から「をし」まで、1576の用語を解説した『平安 もの こと ひと事典』の著者の砂崎良(さざき・りょう)さんと、監修者の承香院(じょうこういん)さんだ。  ふたりはいつ、何をきっかけに「平安沼」にハマったのか。  ――承香院さんは平安のリアルを実践しながら研究していると聞いていましたが、本当に平安の装束で来てくださるとは! 承香院 はい。今日はかなり略装で、時代も少し下ったものなのですが、できるだけ、このような装束で過ごすようにしています。時にはこれで宅配便も受け取ります。妙な勧誘もドアを開けたとたん、パタンと閉めて帰っていきます(笑)。もちろん今日も自宅からこれで電車に乗ってここまで参りました。  ――まずお二人が、平安沼にハマったきっかけから。 砂崎 これは承香院さまの話がおもしろいですよ。そういえば詳しく聞いたことはなかったですが、中学生ぐらいからこうした装束を着ていらっしゃるんですよね? まあ、普通の中学生は、装束なんて着ませんけど(笑)。 承香院 いま思えばですけれども、もともと城下町で育っておりまして、神社の祭礼みたいなものが割と身近にあった。そこには平安を題材にした人形があったり、ほかにもいろいろな要素が複合的に絡み合いまして……例えば私、志村けんさんが大好きだったんですよ。  ――まさか“バカ殿様”でしょうか? 承香院 そうです、そうです。コントなどでもよく着られている昔の衣装などに引かれていました。極め付きは、映画の「竹取物語」だったと記憶しています。男性が後ろに長い装束を引きずる場面があるんですが、そのときの「シューッ」という衣擦れの音に子ども心に感動して、あの装束を着てみたいと思うようになった。でもまだ小学生ですから、家のカーテンをおもむろに外して切り刻み、まとうくらいのことしかできず……するとこれがまた感動的で(笑)。ここからですね。平安の、とくに装束にのめり込んだのは。親ですか? カーテンがなくなったので、もちろんひどく怒られました。 顔を隠すときは、袖を使うことも。不仲の相手など、顔を合わせたくないという意思表示にもなった。 砂崎 時代ごとにいろんな衣装がありますけれど、なぜ平安だったんです? 承香院 うーん、たっぷりの布の量がポイントでしょうか。 砂崎 なるほど。やっぱりたくさんの美しい生地を使った衣装というのは、どこの国のものでも心引かれるものですよね。 承香院 カーテンのあとは友人の剣道着のお古を改造して長袴(ながばかま)にしたり。学芸会の衣装以下のレベルでしたけど、平安時代の装束のようなものを手作りするようになりました。やがて大河ドラマや古典を原作にしたコミック、古典文学などにも興味を広げていき、こうなるともう、どんどんのめり込んで、気がついたら足を取られて身動きできなくなっている状態でした(笑)。 砂崎 平安オタクというと、承香院さまのように衣装から入る人も多いですね。学校の授業で使う便覧に載っていた平安時代の衣装のページで興味を持って、平安の沼にやってきたという人もけっこう聞きます。  ――ありましたね、便覧!砂崎さんも便覧派ですか? 砂崎 それが正反対というか……。承香院さまがカーテンを切り刻んでいらしたのと同じくらいの年の頃(笑)、私は源氏物語に出合ったんです。名場面だけを抜き出して、原文と現代語訳を並べた子ども向けの参考書が家にあったので、それを見比べながら原文を読み上げて暗唱するのが大好きでした。 承香院 いきなり原文ですか! 砂崎 そうですね。ひたすら音で読み始め、そのままズルズルと……。源氏物語を理解しようと思ったら、平安のことを知らなきゃいけない。仕方ない、平安の歴史を学ぶかと。つぎに仕方ない、装束について学ぶか、建築について学ぶかとなっていった。で、知識が増えるとそのたびに物語のおもしろさも増しますよね。気がついたら、事典を作れるほどになってしまったという(笑)。  ――ちょっと待ってください。その源氏物語を声を出して読み上げる楽しさとは? 砂崎 日本語であるような、ないような。意味がわかるような、わからないような。例えば「この世にののしり給ふ光る源氏」という一節があるんですが、「ののしる」の意味は今の「罵倒する」ではなくて、「評判がわ~っと立つ」ということなのかとか。あと、光源氏は「光ってる源氏、輝ける人」なんだとか。直感でわかるところがおもしろい。 扇は平安貴族にとってなくてはならないもの。とくに女性はこんなふうに顔を隠すための必需品だった 承香院 そうしてわかった断片的なイメージを補いながら、見えてくるものってあるんでしょうか? 砂崎 ええ。私のようにビジュアル的なセンスがない人間は、逆に脳内の妄想力だけはすごくて、文章からしか脳内に入っていかないんです。だから繰り返し読む。でないと、この一節は人物がこう動いて、こんなしぐさをしてるんだなという、脳内のイメージができてこないので。 承香院 えー。私はもう完全に視覚から入ってきましたので、まったく反対ですね。 砂崎 こうして承香院さまと私は、完全に別の道を来たんですけど、こうやって話していると意見が一致することが多いんですよね。例えば私が文章から妄想して頭の中に作り上げた平安時代の部屋と、承香院さまがビジュアル面から作り上げた部屋が、とても似ていたりする。承香院さまと話していると、文章だけだとモヤモヤッとしていたものの輪郭がはっきりしてきます。  ――そもそもお二人はSNSで出会われたとか。それ以前は、研究成果をどうアウトプットしていたのですか? 承香院 私の場合、学生時代は平安にまったく興味のない友人たちをこの趣味に巻き込むことに、力を注いでおりました。例えば小学校のときですが、ベビーカーを牛車風に改造して、友人と行列を作って遊んだり。カーテンですか? はい。みんな私のお願いを聞いて、まとってくれていました(笑)。砂崎さんは? 砂崎 いや、私はひたすら孤独に、原文を繰り返し音読していただけです。大学に入ってからは一般教養の古文の授業に出て、先生の記憶違いがあったりすると、あとで「中務卿宮は明石の尼君の父ではなく祖父です」みたいな指摘をしに行ったり。そのうち「きみは藤井貞和先生のところに行きなさい」と言われ、源氏物語の権威である先生の研究室に毎週お邪魔してましたね。  ――最後に「平安沼」初心者へ楽しみ方のアドバイスを! 承香院 平安時代というと現代とまったく別の世界と思い込んでいる方も多い。たしかに違うところはまったく違うものの、根源的には現代と同じ文化を共有している部分もありますよね。同じものを美しいと感じたり、悲しいと感じたり。私はそこがおもしろい。 砂崎 私はずっと、自分だけの孤独な楽しみでいいと思っていたんですけど、研究や仕事で海外に目を向けるようになってから、源氏物語に助けられた。例えば人種差別されて見下されても、そういうあなたたちの祖先はあんなすごい文学が書けた?と心の中で思うと落ち着くんですよ。源氏物語に救われたんですよね。 承香院 現代とは倫理観とかまったく違うので、いまの物差しで読んではいけないのですが、それだけに平安にハマってから、多様性の意識が身についたというのもあるかもしれません。 砂崎さんが収集している平安柄の帯のひとつ。平安時代には、帯の呪術的なパワーが信じられていた。恋人と解いた帯に他人が触れると仲が絶えてしまうとされたり。 砂崎 あと平安の楽しみ方は、源氏物語を開けばそこにあります。私は今も机の横に文庫版を積んでいて、日々音読しています。何度読んでも発見があって、自分のそのときの気持ちによっても感じ方が違う。見落としていたことが見えたりしますよね。 承香院 そうそう、先ほどもそんな話をしていたんですよ。衾(ふすま)の話です。海が荒れたときの描写に、「まるで衾を張ったようだった」というのがありまして。  ――「ふすま」って、いまもある建具の襖のことですか? 砂崎 いや建具の襖は平安時代には障子と呼んでいて……衾という布団があったんです。つまり「海が荒れて、布団を張ったようだった」という意味ですね。で、ある日、ふと思って承光院さまにどういう光景なのかうかがったんですよ。そうしたら、平安の暗い部屋の中では絹の布団の光沢がツヤツヤ光る。稲妻に照らされた海面はそれに似て見えたのでは、と。それが腑に落ちて、紫式部の表現力のすごさを、あらためて感じました。 承香院 そもそも衾の話はマニアの間の一大テーマの一つですからね。 砂崎 衾は長方形の布団じゃなくて、服なんじゃないかという説もありますよね。寝る前に服を着替えたりとか、平安貴族はしていないので……。 ……と再び、背中が見えない遠くに行ってしまったお二人。1月6日発売のAERA 1月15日号にも、対談を掲載しています。 (構成 ライター 福光 恵/出版写真部 東川哲也/生活・文化編集部)
反乱勢力だった鎌倉幕府 朝廷から委譲された権力と「神話」で求めた「正当性」と「正統性」
反乱勢力だった鎌倉幕府 朝廷から委譲された権力と「神話」で求めた「正当性」と「正統性」 源頼朝(akg-images/アフロ)    鎌倉幕府の成立を皮切りに、天皇制から武家政権に移り変わった中世の日本。これまでの武家政権が求めた「正当」と「正統」を求めてきたという。日本中世史の歴史学者、関幸彦氏の著書『武家か天皇か 中世の選択』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集して解説する。 *  *  * 至尊と至強の分離――「正統」なるものへの志向  江戸期に新井白石が記した『読史余論』(注1)では、清和天皇即位から徳川幕府に至る歴史を「九変五変」と区分して論じている。徳川以前の武家を考えるにあたり、『読史余論』での中軸は「一変」から「四変」が該当する。鎌倉と室町の二つの武権の段階だ。武家は朝廷と半ば対立し、半ば協調する関係を維持しつつ、近世を迎えた。十二世紀末の内乱――源平の争乱(治承・寿永の内乱)は、武家政権の第一ステージともいうべき鎌倉開府を実現させた。さらに十四世紀半ばの内乱(元弘・建武の乱、南北朝の動乱)は、室町幕府の成立に繋がった。天皇と内乱との関係でいえば、ともどもが不即不離の関係にあったことになろう。  権力なり権威の存在価値を語る表現に、「正当」あるいは「正統」の語がある。それぞれ「セイトウ」・「ショウトウ」と読むが、両者は混用されることが少なくない。概して、前者が即物的な妥当性(力による支配)を強調するのに用いられるのに対し、後者は血脈的な継承性に力点がおかれる。「源氏嫡流の正統」とか、書名としての『神皇正統記』などの使用例からもこのことは了解される。その点では「セイトウ」の読み方には「正当」の字が、「ショウトウ」の場合は「正統」が親和性を有するものと、解することも可能だ。  こうした理解を前提に、あえて朱子学的尺度で再定義した場合、「正当」には“力が正義”という結果主義の観念が強く、現実の武力的覇権が含意されている。対して「正統」は覇権的要素を非とし、血脈に立脚した理想主義への傾きが強い。武家と天皇の問題を考えるさいに、前者を権力、後者を権威という側面から説明する仕方も可能だろう。「尊王斥覇」という朱子学での理念もこれに該当する。 「九変五変」観(図版作成:上泉隆)   注1 『読史余論』は新井白石が六代将軍・徳川家宣に行った講義案で、摂関政治から徳川政権までを論じ、武家政権への推移を論じた歴史書。古くは『新井白石全集』(第三、国書刊行会、一九〇六)、『読史余論』(村岡典嗣校訂、岩波文庫、一九六七)がある。その成立事情および伝本についての系譜的研究についても、益田宗「解題(読史余論)」(『日本思想大系35 新井白石』岩波書店、一九七五)がある。また『日本の名著15 新井白石』(中央公論社、一九六九)では『読史余論』の現代語訳が掲載され、さらにこれをベースに『新井白石「読史余論」 現代語訳』(横井清訳、講談社学術文庫、二〇一二)にも収録されている。  なお、拙著『武士団研究の歩みI戦前編・史学史的展開』(新人物往来社、一九八八/のち『戦前・武士団研究史』〈教育評論社〉と改題)においても、紹介・検討したので参照されたい。(本文に戻る) 「至尊」「至強」なる語句もそうだ。「至尊」を天子に、そして「至強」を実力・権力者たる覇者に見立てるものだ。福沢諭吉が『文明論之概略』(一八七五)で「至尊ノ位ト至強ノ力トヲ合シテ、人間ノ交際ヲ支配シテ」などと、表現するのがそれであった。丸山眞男はこの福沢の「至尊」「至強」論を敷衍しつつ、わが国の天皇と武家との権力の相互の関係を論じた(注2)(『丸山眞男講義録[第四冊] 日本政治思想史 1964』東京大学出版会、一九九八)。  丸山は中国皇帝がもつ「至尊」と「至強」の両要素の併有性との対比を通じ、両者の分裂、すなわち「至尊」たる天皇と、「至強」たる武家(将軍)の分離こそに、わが国の権力構成の特質を見いだそうとした。  丸山の念頭には近世における徳川権力があったはずだが、この考え方は中世に広げることも可能だろう。  いずれにしても政治権力は「正当」を獲得して以降、常に「正統」なるものへの志向を内包することになる。それは「至強」を前提とした武家にあっても、自己の正統性を血脈的な時間に落とし込み、それをある種の“神話”的要素で、加工するという流れがある。「正統」化への志向である。 「征伐」という「故実」 『読史余論』からは離れるが、前述の「正当」なり「正統」の観念について、もう少し続ける。武家政権におけるその両者の投影のされ方をさぐりたい。この点について武家政権の第一ステージともいうべき鎌倉政権に例をとると、以下のような見取り図を描くことが可能だ。鎌倉の権力はその当初は謀反の政権として出発した。この反乱により、地域権力を正当化し、それを認知させたのが、朝廷から源頼朝に下された寿永二(一一八三)年の十月宣旨(注3)である。これにより朝権の部分委譲が可能となる。それを通じて反乱政権の立場を脱却した頼朝の権力は、「朝敵」からの脱皮を実現する。かくして東国での実効支配を王朝に追認・認知させることで、その権力の正当性が確保された。その後に奥州合戦へと進む内乱は、頼朝の権力において自己の「正当」性を純化させた。 注2 なお、福沢の至尊・至強論が脱亜入欧思考への方向を有したことは、否定できないとされる。けれども、前近代の権力構成の特質を考えるさいは、参考にされるべき視点だと思われる。なお、「正統」及び「正当」の概念については幾種もの議論があるはずで、「幕府」の定義についても昨今、あらためて耕しがなされている。(本文に戻る) 注3 寿永二年の「十月宣旨」の内容は、『吾妻鏡』に欠落があり、正確な本文は伝わっていないが、そのおおよそは以下の通りとされる。(一)東海・東山諸国の年貢、神社、仏寺や王臣家領の荘園は、もとのように領家に従うこと(『百練抄』) (二)不服で従わない者がいれば、頼朝を通じ処置するように(『玉葉』)。こうした権限は一般に「東国沙汰権」と呼称されているが、その背景には、同年七月の平家一門の西走と義仲の入京があり、反乱政権として出奔した頼朝の東国政権は、同家(朝廷)内部での認知が与えられたことになる。(本文に戻る)  平泉藤原氏討滅に向けての奥州合戦(文治五〈一一八九〉年)は、反乱政権から出発した鎌倉の権力が「正当」性のみならず、「正統」性に向けた動きを顕在化させた。指摘されているように、かつての頼義、義家の前九年・後三年合戦での「源家の故実」(注4)を利用した演出も、そうした側面があった。そこでは「源氏神話」の創出に繋げる頼朝なりの算段も構想されていた。謀反性を前提とした頼朝の反乱権力は、内乱の前半では「正当」性の確保に力点がおかれ、後半にはそれを磨き、「正統」性への志向を強める方向に動いたことになる。  その仕上げが建久年間(一一九〇~一一九九)だった。内乱終息後での頼朝の官職的秩序への参入が一つ(権大納言・右近衛大将・あるいは征夷大将軍)。そして二つには、二代頼家への権力委譲への準備(建久年間の富士の巻狩でのパフォーマンス。建久六〈一一九五〉年の上洛にさいしての頼家随伴等々〈注5〉)に加えて、最大の眼目は、天皇との血脈の形成だった。  頼朝の娘・大姫の後鳥羽天皇(在位:一一八三~一一九八)への入内は、結果は別にしても、正統性に向けての意向が示唆されていた。  頼朝の権勢はその建久の間で、終焉をむかえることになるが、遺産は北条氏へと継承される。頼朝に象徴される貴種性をもたない執権・得宗北条氏は、土着の在地勢力の伸長のなかで、自己の政権への足取りを強固にした。 『太平記』(巻五)の語る時政と江島明神の約諾が伝える「三ツ鱗」説話(注6)は、北条氏の権力相承を神話化させる中身であった。得宗嫡流による権力委譲の「正当」性と時政以降の血脈に頼る、京都王権からの相対的自立を表している。  承久合戦にあって勝ちを得た関東が、後鳥羽院以下の「至尊」を配流し得た後も、北条氏は関東にあって原則「朝廷不介入」の立場を採り続け、かつ官職世界の人事においても距離を保持した。   注4 具体的にいえば頼朝が奥州合戦において源家にかかわる過去の故実を利用したことだ。一つは、前九年合戦(一〇五一~一〇六二)で、先祖・頼義による安倍貞任討滅の故実を再現させたことを意味する「陣ケ岡の故実」。敗死した藤原泰衡の首級を陣ケ岡に置き、多数の鎌倉御家人の眼前で「長八寸ノ鉄釘ヲ以ツテコレニ打チ付ク」とあり「祖父将軍朝敵ヲ追討スルノ比、十二ケ年ノ間、所々ノ合戦勝負ヲ決セズ、年ヲ送ルノトコロ、ツヒニ件ノ厨河ノ柵ニオイテ、貞任等ガ首ヲ獲タリ。曩時ノ佳例にヨツテ、当所ニ到リテ泰衡ヲ討チ、ソノ頸ヲ獲ベキノ由、内々思案セシメタマフ」(『吾妻鏡』文治五年九月二日条)とみえるのがそれである。  二つ目は後三年合戦(一〇八三~一〇八七)の故実の再現である。頼朝は奥州追討に向けての宣旨や院宣の公的命令を要請し続けたが、後白河院は「時宜ヨロシカラズ」として、奥州進攻を認めなかった。頼朝はそれに対し、後三年合戦における源義家の出羽での故実(清衡と家衡の内紛にさいし、清衡に加担して、奥州藤原氏の誕生に貢献したとの部分的史実)を前面に出し、平泉藤原氏の源家家人化を主張する。いわば「家人成敗」の論理を持ち出し、奥州討ち入り正当の根拠とした。『源平闘諍録』にも伝えられるこの論理は、鎌倉側が奥州進攻を正当化する一方的口実だった。けれども、前九年なり後三年なりの戦いの記憶は、その後の関東の新政権にとって、多くの関東武士がこの東北の征夷戦に参陣したことが、源家の家人たることの「証し」として作用した。  奥州との戦争は鎌倉政権に参じた武士たちにとっても“共同幻想”の神話草創の舞台を提供したことになる(この点、拙著『東北の争乱と奥州合戦』〈前掲〉参照)。前九年・後三年という東北を舞台にした二つの戦いは、古代以来の“征夷”の観念の再生に繋がった。併せてその“征夷”の内実は、過去の戦いが育んだ因縁に、家人化という論法での“成敗”の行使により、実現されたものだった。(本文に戻る) 注5 建久年間は、内乱が終息し、戦争から平和への転換期にあたる。頼朝の嫡男・頼家に後継するためには当該期、血脈上の「正統」性を内外に示すことが求められた。対御家人には、建久四(一一九三)年の富士の巻狩という東国武士たちが集う、武威高揚というデモンストレーションの場で、頼家の弓箭の力量を披露させるという演出がはかられた。そして建久六(一一九五)年の頼朝の上洛においても、頼家をともなうことで、自己の後継となるべき存在を王朝の権門に認知させることがなされた。(本文に戻る) 注6 時政が江島明神に参詣のおり、明神の加護により「日本ノ主」との託宣が与えられ、夢から覚めると鱗が三つ残されており、それを北条氏の家紋としたとの説話。(本文に戻る)   ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
ドラマ「きのう何食べた?」の現場は「ケンジとのセッションのよう」マキタスポーツが語る現場秘話
ドラマ「きのう何食べた?」の現場は「ケンジとのセッションのよう」マキタスポーツが語る現場秘話 ドラマ「きのう何食べた?」で三宅祐を演じたマキタスポーツさん  昨年末、最終回を迎えたドラマ「きのう何食べた? season2」(テレビ東京)には、早くも「season3」を望む声が多い。なぜかくも「何食べ」は私たちを魅了するのか。season1から出演するマキタスポーツさんが、「何食べ」の現場の魅力を前編に続き語った。 【前編:「きのう何食べた?」マキタスポーツが語る撮影秘話 自分以上の“適役”とアフロなしで受け入れられた理由】から続く *  *  * 「きのう何食べた?」の現場は、作品の世界観を大切にする俳優とスタッフたちが集結していた。演じるキャラクター、三宅祐として、作品に溶け込むべく、マキタスポーツさんが撮影現場に入るときに心がけていたことがあるそうだ。 「これまでいろんなアプローチで俳優の仕事をしてきていますが、『きのう何食べた?』では、役の三宅祐をあまり深掘りしないようにしました。そのほうが、たぶん、作品の世界に貢献できそうな気がした。  脚本もシロさんやケンジのセリフは話の筋だけ理解して、『こういう話なんだ』程度。完成されたドラマとしての作品を見ると、フツーにいいドラマじゃないですか。僕自身も『今回もいい話だったな』って、上がりを楽しみに見るようにしていた」 【こちらも話題】 「きのう何食べた?」は配役も秀逸 「シロさん」西島秀俊と「ケンジ」内野聖陽の食卓で幸せな気持ちになれる理由 https://dot.asahi.com/articles/-/206709    その話しぶりから、マキタさんがさまざまな努力をしていたことが伝わってくる。実際、マキタさん演じる美容室の店長・三宅は、よくも悪くも「近所にこんな店長いそう」と誰もが思うだろう人物だ。 「そうなんですよ。登場人物がみんな真っ当な人間でしたが、僕の役だけ真っ当ではない、ダメな面もある象徴ではあった。そういう人もいないと息が詰まるじゃないですか。  お亡くなりになった立川談志師匠が『落語は人間の業の肯定である』と言いましたが、僕もそんな人間の業がなくなったほうがいいとはあんまり思わないタイプ。  例えば、目の前に美味しい食べ物があったらダイエット中でも食べちゃうとか、だらしないよね、ダメだよね、というのを笑いにしていくようなスタンス。人間の不器用さを面白いよねと思っている人生なんで、三宅祐は、それをそのまんまやればいいんじゃない、その雰囲気を出せたらと思っていました」 撮影現場での「ケンジ」は?  マキタさん演じる店長と一緒に働くケンジ役、内野聖陽さんの現場での雰囲気はどんな感じだったのだろうか。内野聖陽さんとマキタさんは、「何食べ」が初共演だったという。 「内野さんには、すごく役を作り上げていたり、しっかり演じている印象があった。だから、とても緊張していました。だけど、現場入ってみたら、作り込んでくるというより現場で提示していく方法をとっていました。  役柄とか、作品全体でのシーンにおける意味合いとかを踏まえて、そういう取り組み方にしたんじゃないかな。完璧すぎるケンジよりも、揺れ動く雰囲気を出す方が役としても、現場としても合ってますからね」 【こちらも話題】 「きのう何食べた?」最終回ロスで「season3」待望論も噴出 なぜ日常の物語に心打たれるのか https://dot.asahi.com/articles/-/209745    ケンジと店長の掛け合いをこう振り返る。 「内野さんは、美容室での僕との掛け合いの中では、ユルい感じ。まるでセッションするようで、僕がこう出たら、ケンジがこうする、ケンジがやってきたことに対して、僕はこうしようとか。昔からの友人って感じですよね。  店長とケンジ以外にも美容室の中には役者さんがいるから、美容室の空気感を内野さんは大切にされていた気がします。そこまでは内野さんと語り合わなかったですが。美容室の中では、内野さんを中心とする一座として一瞬一瞬を演じていた感じです」 ドラマ「きのう何食べた?」でケンジを演じた俳優・内野聖陽  セッションとは、ミュージシャンの顔を持つマキタさんらしい表現だ。さらに、内野さんはゲイの美容師のケンジという役をうまい具合に「調律」していたと話す。 「ケンジ」を注意深く演じる姿 「season2に限った話ではなく最初の頃からですが、内野さんは、例えば大げさなしなをつくったりするような、過剰な女性っぽいしぐさに対してはものすごく注意深くやっていました。  これ以上やってしまうと下品に見えるとか、滑稽になってしまうとか、そういうことに関しては注意してやっていたと思う。   もっと大げさでもいいんじゃないかな? と思うこともあった。美容室では、大げさに振る舞ったほうが面白いのかもしれないし、店長とケンジが二人っきりのときは気心も知れた仲なので、例えばの話、『どんだけぇ~』みたいな典型的と言われるおネエ言葉になってもいいのかもしれないけれども、内野さんは、そこにはいかなかった。  それは内野さんの調律の仕方ですよね。僕として『どんだけぇ~』のような雰囲気でケンジがきてもいいかなと思う瞬間もあったのですが、ドラマの上がりを見てみるとやっぱり丁度いいんですよ。美容室の世界観の中では、そこまでの演技は必要ないんですよね」   【こちらも話題】 内野聖陽「きのう何食べた?」続編で再注目 “オスなるもの”から解放され次の高みへ https://dot.asahi.com/articles/-/195407 シロさん演じる西島秀俊(写真左)とケンジ演じる内野聖陽    マキタさんの話からは俳優はもちろん、関わる全員がそれぞれまっすぐに、作品の世界観を大切にしてきたことが伝わってくる。ドラマの魅力を再確認するとともに、「season3」の期待も高まってしまう。  ちなみに、マキタさん演じる三宅は、season2で妻から離婚届が自宅に置いてあり、家はもぬけの殻という状況に。傷心の三宅は夫婦で行くはずだったベトナムにひとり旅立ってしまった。 「season3があったとして、僕を呼んでくれるかどうかわかりませんが、なにしろ三宅祐はベトナムに行ってしまっているので。でも、黒々と日焼けして、ベトナムで知り合ったいい感じの女性と日本に帰ってきて『ケンジ、どうしてた、元気でやってる?』みたいな憎めない登場はあるタイプ。あるのかないのかわからないですが」  2024年ははじまったばかり。ベトナム帰りの三宅祐にも期待しつつ、「きのう何食べた?」season3を待つことにしよう。(AERAdot.編集部・太田裕子) 【前編はこちらから→】「きのう何食べた?」マキタスポーツが語る撮影秘話 自分以上の“適役”とアフロなしで受け入れられた理由 〇マキタスポーツ/ 1970年生まれ。山梨県出身。音楽と笑いを融合させた〝オトネタ〟を提唱し、精力的にライブ活動を行う。俳優としては、山下敦弘監督「苦役列車」で第55回ブルーリボン賞新人賞を受賞。近年の映画出演作に、「劇場版 きのう何食べた?」(2021年)、「前科者」(22年)など。著作に、『一億総ツッコミ時代』『すべてのJ-POPはパクリである』、自伝的小説『雌伏三十年』などがある。
飾りのない「シャープ」なラインの美しさ 愛子さまの淡い水色の帽子とドレスが魅せる大人の女性への成長
飾りのない「シャープ」なラインの美しさ 愛子さまの淡い水色の帽子とドレスが魅せる大人の女性への成長 上皇さまの誕生日のお祝いのため、仙洞御所に入る愛子さま。シャープなデザインの帽子で大人の女性らしい雰囲気=2023年12月23日、東京都港区    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、帽子をかぶった姿を目にする機会が増えてきた。愛子さまが皇族方に祝賀のあいさつを伝える際には、訪問をする側が正装とともに帽子を着用するのが礼儀でもあるからだ。新型コロナが落ち着き、皇室にも「日常」が戻ってきたことがうかがえる。上皇さまの誕生日の昨年12月23日も、愛子さまは淡い水色の装いを披露。今後もその姿に注目が集まりそうだ。 *   *   *  上皇さまの誕生日である昨年12月23日の午前10時半過ぎ。皇居・半蔵門から、愛子さまを乗せた車が出てきた。これから、上皇ご夫妻のお住まいである仙洞御所を訪ねるのだ。 「愛子さま」 「敬宮さま」  寒風の中にもかかわらず、愛子さまと両陛下をひと目見ようと門の前に集まっていた人から、歓声が上がった。  淡い水色のローブモンタントと帽子をかぶった愛子さまは、まだ離れたところから車の窓を開け、沿道の人たち向かってにっこりと笑い、会釈をして歓声に応えた。表情や手を振る様子にも余裕が感じられた。   2023年の新年一般参賀で、宮殿のベランダから手を振るご一家。12月に上皇さまの仙洞御所を訪問した際は、この水色のローブモンタントに帽子を合わせた正装だった=2023年1月2日、皇居    愛子さまを待つ人たちの楽しみのひとつが、「今日はどんな衣装をお召しなのか」ということだ。この日の愛子さまが着ていたローブモンタントは、2023年の新年一般参賀の際に着ていたドレスだった。  愛子さまは今回、帽子を着用していた。ローブモンタントと共布の淡い水色のシルクの布地。花飾りなどはなく、つばのついたシンプルなデザインだった。   雅子さまは「シンプル」がお好み  ご一家の事情を知る人物は、こう話す。 「モンタントの襟がスタンドカラーのような作りでしたので、帽子も飾りをつけずシャープなデザインで調和させたと聞いています」  帽子のトップの部分は、ふわりとふくらむような曲線に仕上げてある。逆に、サイド(横)はつばに向かって絞るような弧を描き、帽子の土台にシャープな印象をつけている。  つばの形ひとつとっても、作り手による細やかな配慮が施されている。     【こちらも話題】 愛子さま、花の飾りに「あ、よいですね」とにっこり 女性皇族が帽子をかぶるときとそうでないときの違いとは? https://dot.asahi.com/articles/-/13350     鹿児島県を訪問した両陛下。雅子さまはシンプルなラインが美しい「ブルトン帽」を深めにかぶるのがお好みという=2023年10月、鹿児島県霧島市    一方、皇后雅子さまは、どちらかといえばシャープなデザインがお好みだという。  たとえば、つば全体が上がる「ブルトン帽」。正面はやや深めで、耳から後ろにかけてなだらかにラインが上がる作りに仕上がっている。このつばのラインを好まれるのは、皇太子妃時代から変わらない。    帽子のフォルムやかぶり方が違えば、顔の表情も大きく変わる。  雅子さまは、つばのある帽子をやや目深にかぶる。愛子さまは、淡い水色の帽子を浅めにかぶって額を見せる。顔の表情がよく見えると、若々しさが伝わってくるのだという。   愛子さまのほおに赤みがさして  これまでの愛子さまといえば、お印のゴヨウツツジの花飾りや、ふんわりリボンがかわいらしいサーモンピンクの帽子が印象的だった。 秋篠宮家の紀子さまの誕生日のあいさつに向かう愛子さま。ふんわりとしたリボンの帽子が可愛らしい=2023年9月、東京都内   「愛子さまの色白のお肌にうっすら赤みがさして、よくお似合いでした」(前出の人物)  秋篠宮さまの誕生日の際に着用していた帽子は、カメリア(椿)をモチーフにした水色のヘッドドレスが美しかった。  今回のように、飾りのないシンプルな帽子は初めてだ。成年に合わせて事前に準備した帽子のひとつだ。 「どのようなデザインがお似合いになるのか、お好みなのか。いまは、愛子さまも忙しいため仮縫いも難しい。職人も、いろいろなデザインをご提案して試行錯誤している段階だと聞いています」(事情に詳しい関係者)   秋篠宮さまのお誕生日に際し、お祝いのあいさつのために赤坂御用地に向かう愛子さま。水色のカメリア(椿)をモチーフにした花飾りが美しい=2023年11月、東京都内    天皇や皇后、そして皇族方の装いは、単なるファッションで終わるものではない。国内外の要人を接遇し、厳粛な式典にも出席する。場にふさわしい装いは、接遇の相手やそこに集まる人々に敬意を示す手段でもある。帽子も、洋服やドレスと一体感をもたせ、皇族にふさわしいものでなくてはならない。  愛子さまも22歳となり、これからますます公の場に出席する場面が増えてくる。その装いの変化にも注目が集まりそうだ。(AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さまの帽子に添えられた「ゴヨウツツジ」の意味は…特別な「お印」の花飾りで美智子さまの元へ https://dot.asahi.com/articles/-/204443  
宮市亮が3度目の膝の大ケガで「エゴイスト」にならずに済んだ理由 横浜F・マリノスの仲間たちの教え
宮市亮が3度目の膝の大ケガで「エゴイスト」にならずに済んだ理由 横浜F・マリノスの仲間たちの教え 度重なる大ケガから見事に復帰を遂げた、横浜F・マリノスの宮市亮選手(撮影/工藤隆太郎)  ヴィッセル神戸の優勝で幕を閉じたサッカー・J1の2023年シーズン。このシーズンは、2022年7月の日本代表戦で右膝の前十字靭帯を断裂し、一度は「引退」を決めたものの、シーズン中に見事「復活」を遂げた宮市亮選手(横浜F・マリノス)にとっても、特別なシーズンとなった。宮市選手はなぜ、5度もの大ケガを経験してなお、前を向き続けられたのか。初の自著『それでも前を向く』で明かし、3度目の前十字靭帯断裂直後に冷静で居られた理由と、数々の苦難の果てにたどり着いた「前へ進むための思考法」の一端を、一部抜粋・加筆して紹介する。 *  *  * 横浜F・マリノスで教えてもらったこと  吹っ切れていたとでもいうのだろうか。3度目の前十字靱帯断裂という大ケガを確信し、ピッチを退いたあと、ロッカールームに戻った僕は、状況をどこか冷静に考えることができていた。  試合に勝ち、優勝を勝ち取った日本代表チームのロッカールームには喜びがあふれていた。その雰囲気を壊したくなかった。自分の身に起きた出来事を泣いている場合ではないと思った。  優勝のために活躍した選手を、勝ったチームを祝福したかった。だから僕は、努めて平静を装った。「とにかくチームのため」。そんな思いだった。  過去に大ケガをした時には、まったくできなかった振る舞いだった。特に初めての大ケガ、ウィガンで右足首をケガした時はひどかった。他のチームメイトが全員で勝利を喜ぶロッカールームで、僕はずっと泣いていた。その時考えていたのは自分のことだけだった。  この時は違った。ロッカールームで、優勝を記念してみんなで写真撮影をした。笑顔を心掛けて、写真におさまった。作り笑いといわれればそうかもしれない。でも、本当に優勝がうれしかった。無理をしたつもりはない。日本のために、このチームでわずか3試合だったが戦うことができてよかったと、心から思っていた。  そう思えたのは、F・マリノスの一員になって、チームメイトに教えてもらったことが大きかった。  F・マリノスでは、チーム全員が仲間のゴールを心の底から喜んでいた。試合に出ていない選手も、本気で、素直に喜ぶ。勝利した時もそうだった。  ヨーロッパでは、ゴールは自分自身がのし上がるためのものだった。自分のキャリアアップが第一だった。他の選手たちも、どこまでも上を目指す“個人戦”を戦っていた。  日本に戻って、このチームで見てきた一つひとつのゴールは違った。それは、すべてがチームを勝たせるためのものだった。  そんな光景に、「どうしてここまでチームのために素直に喜びを表現することができるんだろう?」と思いながら、毎日を過ごしていた。  そして、あることに気がついた。僕よりも年上で経験もある3人の選手(水沼宏太選手、實藤友紀選手、中林洋次選手)の振る舞いがチームのムードを作り上げていた。  もともとチームといっても、僕たちはプロのサッカー選手で、それぞれがチームと契約した個人事業主の集まりだ。それぞれの生活もかかっていて、家族もいる。チームメイトであってもポジションを争うライバルになる。  高校生の頃なら、年末年始の全国選手権や夏のインターハイなど、ひとつの大きな目標に向かってみんなが自然と一致団結できた。だがプロになってからは、勝利が目標であることは間違いないが、なかなかひとつになることが難しい面もあった。  F・マリノスには、自分を犠牲にしてでもチームのために行動できる選手が多くいた。特に経験のある選手たちの態度が、チームの特別な雰囲気を作り上げていた。  彼らはみな、チーム内の成功については誰のものであろうと素直に喜んで祝福し、その一方で、出番に恵まれなくても、自分が今できることをやり切っていた。そんな姿勢がお手本となり、チーム全体に広がっていた。  それは、このチームが誇る強さの理由のひとつでもあった。  もちろん、自分がゴールやアシストを決められたほうがうれしい。出番も、ないより、あったほうがいい。当たり前だ。より多くのゴールやアシストを決めるために、「エゴイストになれ」と言われたこともある。 宮市亮著『それでも前を向く』(朝日新聞出版)  ただ、それがすべてではない。たとえ今はそのような機会に恵まれていなくても、チャンスが巡ってきた時に力を発揮できるように、普段から準備を怠ってはいけない。そんな選手がたくさんいるチームは間違いなく強くなる。勝てるようになる。  そして、チームの勝利がさらに選手たちを奮い立たせ、日々の努力を後押しする。F・マリノスにはそんな好循環が存在していた。だから強いのだ。  F・マリノスに加入してから「チームのために戦うこと」の意味や、チームプレーの本質がわかるようになってきたと言ってもいいかもしれない。自分自身のためではなく、チームのために力を尽くすことが何より大事だと思うようになった。  チームのために、今自分にできることをやり切る。それを続けていれば、最終的には、必ず自分自身に返ってくる。そう思えるようになった。 「自分のケガでふさぎ込むより、まずはチームの優勝の喜びを優先しよう」  そんな今までにない心境になれた背景には、そんな経験の積み重ねもあった。 冷静に受け入れることができた診断結果  ただし、日本代表の仲間とともに優勝の喜びに浸ったあとは、あらためて右膝の大ケガという現実と向き合う必要があった。  試合後、すでに遅い時間帯だったが、ホテルに戻るチームメイトと別れ、日本代表の医療スタッフに付き添ってもらい、そのまま精密検査のために病院へ移動した。院内は真っ暗だった。  MRI検査のためにベッドに寝かされ、半円形のドームの中に20分ほど入った。何度も経験していたが、これまでは寝てしまうことが多かった。  ただ、この時だけは、いろいろなことを考えた。プロになった時からの思い出が、まるで写真や映像となって頭の中に次々と浮かんでは消えいった。 「次やったら、やめよう」  そうぼんやりと考え始めたのは、2018年夏ごろ。きっかけは前十字靭帯断裂の3度目未遂だった。  もちろん、周囲にはっきりとした意思表示をしたことはなく、妻にも、それとなく話したことがあった程度だったが、何となく心の中で決めていた。  サッカー選手としてこれだけ長い間ピッチに立てない時期がある。にもかかわらず、期待してくれる人もいる。その中で、結果も出せないもどかしさ、リハビリばかりで選手としての時間が削られていくような感覚があった。  いろんなシーンが浮かんできた。同時に、いろんな人に対する申し訳なさで、胸がいっぱいになった。  ずっと期待して支えてくれた家族、これまでのチームメイト、指導者や先輩、後輩。何よりファンやサポーターのみなさん。一人ひとりに「申し訳ありません」と詫びて、「いつかこの人たちに顔向けできるよう、また前を向いてやっていこう、ほかの道で」。  検査を終え、部屋を出ると、ドクターのパソコンの画面上には、右膝の画像が映し出されていた。 「切れてます」と、申し訳なさそうに告げられた。言いづらそうだった。僕の反応は淡々としたものだった。たぶん「はい、そうですね。ありがとうございます」と答えた。「そんなに気を落とさないでください。逆に僕のほうこそ、こんなことになって申し訳ありません」と、僕のほうから伝えた気がする。  絶望的な診断結果をすんなりと冷静に受け入れる僕に、お医者さんは、逆に驚いているようだった。きっと、「なぜ落ち込んでいないんだろう?」と思ったはずだ。
元阪神・横田慎太郎選手「阪神の優勝が見たい」 家族が明かす今際まで語っていた意志と生きることへの執念
元阪神・横田慎太郎選手「阪神の優勝が見たい」 家族が明かす今際まで語っていた意志と生きることへの執念 横田慎太郎さん。28年の人生を全力で生き抜いた。2021年7月、鹿児島県の平和リース球場で  今年7月18日、元阪神タイガースの選手・横田慎太郎が脳腫瘍で亡くなった。その2カ月後、阪神はセ・リーグ優勝。横田のユニホームも胴上げされた。常に全力でプレーする姿は、仲間だけでなく、多くのファンも魅了した。短くも、人一倍濃密に生き抜いた28年の人生を両親が語った。 *  *  *  阪神タイガースのリーグ優勝が懸かった2023年9月14日の対巨人戦。18年間待ちわびた悲願とあって、甲子園球場をぎっしり埋めた観客は、歓喜の瞬間に心逸らせていた。  4-2で迎えた9回表。絶対的守護神・岩崎優が登板。登場曲はいつもの「アイキャントライ」ではなく、ゆずの「栄光の架橋」だった。思いがけない曲に、涙を浮かべるファンもいれば、背番号「24」のユニホームを高々と掲げる観客もいた。「栄光の架橋」は、今年7月18日に28歳の若さで逝去した横田慎太郎の登場曲で、背番号24は彼のユニホームだった。 仲間と宙を舞った24番のユニホーム  横田慎太郎の父・真之(60)と母・まなみ(62)は、鹿児島県日置市の自宅でテレビ中継を見ながら阪神の優勝の瞬間を待ちわびていた。不意に聞き慣れた曲が耳に飛び込み、感情が壊れた。まなみが言う。 「思いがけないことだったので、涙があふれて止まらなかった。慎太郎も一緒にグラウンドに立っているような気がして……」 「横田の思いを背負って投げた」と語った岩崎は1点差で抑え、リーグ優勝を引き寄せる。  勝利の喜びを爆発させた選手らは、監督の岡田彰布を胴上げすると、次に24番のユニホームを持った岩崎を宙に舞わせた。その光景を見たまなみは、再び両手で顔を覆った。 「息子が胴上げされている。そんな錯覚に陥りました」  ロッテや中日などで活躍した元プロ野球選手だった真之は、阪神と息子の幸せな関係をこれまでにも幾度となく見てきたが、また改めて思い知った。 「僕も野球界のことは知っているつもりですが、息子と阪神の関係は、単なる球団と選手の結びつきじゃないと思います。息子は本当にいい球団に入団した、って」 ドラフトで指名され、仲間から胴上げで祝福される横田さん  横田と阪神の幸せな関係がスタートしたのは13年のドラフト会議。甲子園に出場経験のない横田が阪神からドラフト2位で指名を受けた。 トレーニングのため毎朝5時に起床  鹿児島県日置市で育った横田は、子どものころからプロ野球選手になると決めていた。父は、大学卒業後1年目からロッテでスタメンを張り、走攻守そろった選手として活躍。横田は父のプロ時代は知らないが、引退後にマスターズリーグでプレーする姿をバックネット裏にかじりつきながら見ていた。  小学3年でソフトボールを始めると、保護者から「あれが横田の息子」とささやかれ、家に遊びに来た友人らが父のトロフィーに感嘆する姿を目にし、自分も同じ道に進みたいと考えた。そのころから朝5時に起床し、学校に行く前にランニングやストレッチを欠かしたことがなかったと母は言う。 「毎日です。雨が降っても台風でも関係ない。でもある時、雷が鳴っていたので、雷に打たれたら死ぬんだよ、と言ったら尻込みしていましたけど、小降りになると走りに行った。いったん決めたことは絶対にやり遂げていましたね」 「脳腫瘍だなんて…」父と母は絶句した  高校は鹿児島の強豪・鹿児島実業に進学。だが、2年、3年と県大会決勝で敗退。実は父も高知県の明徳高校時代、県大会決勝で2度敗退している。 「僕ら親子は、つくづく甲子園に縁がないと思っていたけど、阪神から2位指名され、うれしさのあまり僕のほうが男泣き。実は僕、大の阪神ファンでしたから」  阪神と横田父子には、浅からぬ縁がある。阪神ファンだった真之は中学時代に安芸キャンプに来た藤田平に指導を受けてプロを志し、阪神の炎のストッパー・藤川球児は中学時代に真之にグローブをもらって発奮、さらに慎太郎は藤川に影響を受けた。阪神愛はループし、時代を超え連鎖している。  横田は入団直後から“ミスタータイガース”の掛布雅之に指導を受けた。身長187センチ、体重94キロと体躯に恵まれ、俊足で守備範囲も広い。球団は、走攻守そろった横田をチームの主軸に育てようと考えていたのだ。事実、掛布は当時のインタビューで「松井秀喜を超える」と断言している。 掛布雅之2軍監督(当時)と横田選手  期待の星は超が付くほど真面目で素直。掛布のアドバイスをスポンジのように吸収した。左利きの横田は右手首が弱かったため「箸やペンは右手で持つように」と言われると、ずっと右手で箸を動かした。遠征先のホテルでは掛布からマンツーマンの指導も受けている。  横田は常に誰よりも早く練習を始め、誰よりも遅くバットを置いた。そんな横田を高く評価していたのが、16年から阪神の監督に就任した金本知憲だった。  16年の開幕戦で、3年目の横田を2番センターとしてデビューさせた。だが、1軍の水は甘くはなく、30試合に出場したが5月にファームに逆戻り。父は、これからが息子のプロ野球人生の本番と考えていた。 「1軍の投手の厳しさを知ったのは大きい。実戦を踏んだ上で、ファームで再び鍛え直せば光が見えてくると」  横田も来年こそと胸に秘め、人一倍汗を流していたが、秋口から頭痛に襲われるようになった。症状が顕著に出始めたのは、17年の春のキャンプ。打球が見えなくなってしまったのだ。  病院に行くと医師にこう告げられた。 「脳腫瘍です。野球のことはいったん、忘れてください」  横田はすぐに母に電話した。病院に勤務していた母は、病名を2度聞き返した。 「脳腫瘍だなんて……。頭が真っ白になってしまい、たまたま休みで家にいた主人に迎えに来てもらったのですが、車中ではずっと無言でした」  母は、息子が子どものころからプロ選手になるためにどれだけ努力してきたか目の当たりにしている。一時も妥協しない真摯な練習はもちろん、ゴミを拾えばいいことがあるかもしれないと、ポケットいっぱいにして帰宅することもあった。日常生活のすべてをプロになることに捧げ、やっと道が開けたばかりだった。  自宅に着くと、母は声を上げて泣いた。「どうした!」とせかす夫に震える声でやっと告げた。「慎太郎が脳腫瘍だって……」  父も言葉を失った。  2月、大阪大学付属病院に入院。16日に内視鏡手術を行い、3月30日に18時間に及ぶ開頭手術が行われた。視界が失われてしまったが、2カ月後に少しずつ回復。6月からは抗がん剤投与と放射線治療が始まった。付き添った母は、副作用で苦しむ息子を笑顔で励ましながら、「寮の虎風荘に帰すまでは一緒に闘う」と決めた。 引退セレモニーで矢野監督から花束を贈られる横田さん 諦めなければ何かが起こると、伝えたい  土日に鹿児島から通っていた父は、ある日、髪の毛が抜けた息子と同じような丸刈りで現れる。父も一緒に闘っていると知った息子は、静かに涙した。  球団の関係者の見舞いも横田を元気づけた。掛布は「お前は野球をしたいという目をしている」と励まし、金本は妻と娘が折った千羽鶴を渡し、多額の見舞金で入院費の援助もした。  多くの人の支えを受け、育成選手としてグラウンドに戻った。だが右目が回復せず、2年後の19年9月に引退を決意。クライマックスシリーズ進出をかけた大事な時期だったが、引退試合には、監督の矢野燿大を始め、福留孝介、鳥谷敬、糸井嘉男ら1軍の主力も駆けつけた。横田の真っすぐな性格と愚直なまでに懸命な姿が、選手全員の心を捉えていたのだ。  そもそも、1軍で38試合しか出場しなかった選手に球団が引退試合を用意するなどありえない。だが横田は、結果以上の恩恵を球団にもたらしていた。野球を愛し命を懸ける姿が、選手らのモチベーションを呼び起こしていたのだ。  9月26日、ウエスタン・リーグの対ソフトバンク戦。8回表に横田の名前がコールされた。全速力で守備位置のセンターに向かった。1096日ぶりの公式試合である。  グラウンドを振り返ると、芝生がまぶしいほどに輝いて見えた。すると、ライナー性のボールが横田を目掛けて飛んできた。ワンバウンドで捕球し、そのままバックホーム。キャッチャーのミットにすっぽり収まり、ランナーはアウト。横田はボールが見えなかったため感覚で捕球し、これまで投げたこともない遠投も成功させた。ベンチに戻ると、鳥谷が横田に言った。 「横田、野球の神様って、本当にいるんだな」  この引退試合は「奇跡のバックホーム」と言われ、テレビドラマ化やドキュメンタリー番組、あるいは書籍化された。  引退後、講演やYouTubeで活動し始めた20年9月、今度は脊髄に腫瘍が見つかった。再び大阪大学付属病院へ入院。1度目は再びユニホームを着るという強い目標があったが、2度目は苦しい抗がん剤治療を乗り越えるための目標が見いだせないでいた。だが、入院生活で他の患者の苦しみを目の当たりにし、彼らを励ます活動をすることを目標に定め、懸命に病魔を追いやった。  しかし、退院から1年後の22年春、腫瘍は再び脳に発症。横田はこれ以上の抗がん剤治療は避けたいと母に告げた。 「自分の体が可哀想だと……。限りある命を、苦しんでいる人を助ける時間に充てたかったのだと思います。私たちは、息子の意思を尊重しました」  横田は両親にこう語っていたという。 インタビューに応じてくれた横田慎太郎さんの両親(撮影 写真映像部・松永卓也) 「苦しんでいる人の力になりたい。諦めなければ何かが起こることを伝えたい。何か小さな目標でも、それを一つひとつクリアしていけば希望が見えることを語っていきたい」  処方薬を飲みながら、講演活動を続けた。講演先は病院や療養施設、あるいは学校だった。講演先には母が必ず付き添い、近県会場には父が車で送迎。家族で息子の夢を支えた。しかし秋口から、体が思うように動かせなくなり、会場の体育館の階段を這って上がった。母はそんな姿に耐えられなくなったこともある。 「もうやめようと言っても、今の自分の姿を見せることで、病気の人に“自分はまだましだから頑張ろう”と思ってもらえればいい、って。そして講演の最後には必ず“一緒に頑張りましょう”と声を振り絞っていました」  講演依頼はすべて受けた。九州から北陸まで70カ所ほどこなしたが、年末になると息が上がるようになった。父は「もう厳しい」と判断し講演会をやめさせようとしたが、息子は引き受けたものは全うしたいと、以降はリモートに切り替えた。  年明けに神戸の病院に入院。ベッドに横たわりながら、たどたどしい言葉で講演を全うした。  鹿児島商業高校の野球部監督だった父は、3月末に辞職。息子と一緒に過ごす時間を選んだ。まなみは、夫は苦渋の決断をしたはずと語る。 「夫は無口な人なので逡巡している様子は見せませんでしたが、夫の夢は生徒を甲子園に連れていくことで、息子に負けないほど情熱を懸けていました。でも夫は、自分の人生より息子を選んだのだと思います」 「メソメソしていたら息子に叱られます」  3月から横田の病室に一家4人がそろった。2歳上の姉は勤務先である東京のテレビ局から週3日、神戸に来た。そして4月、医師の勧めで入院先の近くにある緩和ケア施設に移った。家族全員が寝泊まりできる別荘のような環境だった。医師から「目は見えないが耳は聞こえている」と言われ、両親や姉は日々、阪神の試合を話題にし、些細なことで笑いあった。すると時々、低下した白血球が正常値を示すこともあったという。医師には「生きたいという魂がそうさせている」と告げられた。  意識が混濁してくると、阪神の仲間の名前をポツリポツリ口にしていたという。夢の中で、彼らと野球を楽しんでいたのかもしれないと両親は語る。  5月中旬、父は鹿児島で会議があり、日帰りするつもりで息子に「じゃあ、行ってくるね」と告げると、見えないはずの目を見開き、子どものような声で「苦しい」と訴えた。しかしモニターはそんな数値ではない。父に自分の傍から離れて欲しくなかったのだ、と母が言う。 「夫はすぐに出張を取りやめ、息子の顔をさすったり、手を握ったりし、そんな優しい声を出せるんだと私がびっくりするほどの声で息子に接していました。息子も安心したのか、穏やかな表情をしていました」  5月16日、医師から「長くて2週間、短くて1週間」という余命を宣告された。意識は薄れていたが、大事な知人たちが駆けつけると、しっかりと目を開け「ありがとう」とでもいうように首をわずかに上下させた。  部屋には「栄光の架橋」が常に流れていた。ゆずからも「慎太郎、頑張れ!」のメッセージが届く。呼吸が苦しそうになると、父や母は一緒に息を吸いながら呼吸を整えてみせた。  余命宣告から2カ月後の7月18日、横田は音がすーっと消えるように息を引き取った。その時、魂が去った息子から赤ちゃんの匂いがしたと母が言う。 「夫も娘も赤ちゃんの匂いがするって。生きるため魂の最後の一滴まで使い切ったからこそ無垢な赤子に戻り、あの世に帰って行ったのかもしれません」  息子が人生を全うできたのは阪神に入団できたからこそ、と両親は口をそろえる。  7月22日に行われた葬儀には、球団社長を始めOBやファンなど2千人が参列した。父は参列者の多さに驚いた。 「在籍6年で、しかもほとんどファーム暮らしだった息子のために、あんな大勢の方に参列していただけるとは」  葬儀に参列したのは野球関係者ばかりではない。中学時代に横田から「頑張ろう!」と毎日声をかけられたという障害を持つ同級生の女性は、おかげで不登校にならずに済んだと頭を下げた。また、脳腫瘍の子どもを持つ女性は、横田に親子共に励まされてきたため、心の支えを失ったと涙にくれた。  母は言う。 「親より先に死ぬのは親不孝だ、と言う人もいますが、私たちは慎太郎が闘病中、一言の泣き言も言わず最後まで闘った姿を見ていますから、親不孝だなんて思っていません。むしろ褒めてあげたい。いなくなったのは寂しいですけど、メソメソしていたら息子に叱られます。僕の生き方を見てなかったのか、って」  横田は赤ちゃんの匂いを残し、目を閉じた。  だが、姿は消えても横田と阪神の関係は終わらなかった。今際まで「阪神の優勝が見たい」と語っていた横田の意志は、選手らに宿った。阪神と横田の幸せな関係は、これからも続く。(文中敬称略)(スポーツジャーナリスト・吉井妙子) ※AERA増刊 「アっぱレ日本一!阪神タイガース2023全軌跡」から  
佳子さま29歳 気品のプリンセスは「大きな目でのぞきこみ、ほほ笑む」 車内でイヤリングをつけ、極寒の大晦日に祈りを捧げた1年
佳子さま29歳 気品のプリンセスは「大きな目でのぞきこみ、ほほ笑む」 車内でイヤリングをつけ、極寒の大晦日に祈りを捧げた1年 大正天皇の命日の12月25日、「大正天皇例祭の儀」に向かう佳子さま=2023年12月、東京・半蔵門、読者の阿部満幹さん提供    宮邸の改修問題をはじめ、世間の関心が集まる秋篠宮家だが、皇室における公務の重要な担い手になっているのが、秋篠宮ご夫妻と次女佳子さまだ。特に若い世代である佳子さまは、「お出まし」の機会が昨年より倍増。皇室の行事や大型公務が続く秋以降、その日程がほぼ毎日、公務や祭祀など予定でびっしりと埋め尽くされていた。その「存在感」はさらに来年以降も高まっていきそうだ。 *   *   *  東京・赤坂御用地から皇居へ続く道を、黒塗りの車が走っている。その後部座席で、イヤリングをつけるような仕草をしているのは、佳子さまだった。  12月25日、大正天皇の命日に行われる「大正天皇例祭の儀」に参列するため、皇居に向かうところを撮影したと見られる動画が、ネット上に投稿されていた。  佳子さまのファンによる投稿と思われるが、多忙のために車のなかで身支度を整える、そんな佳子さまの日常の一端をうかがわせるものだった。    特に秋以降、佳子さまの日程はほぼ連日、外出を伴う公務から宮邸で「ご接見」や「ご会釈」、そして宮中祭祀などで埋まっている。  新型コロナが5類に移行した今年、佳子さまは祭祀で皇族代表を務めることもあり、「覚悟」を決めて公務にまい進する気迫が伝わってくる。   ペルーに出発する佳子さま=2023年11月、羽田空港    そんな佳子さまの今年の公務のハイライトは11月、外交関係樹立150周年の節目に合わせた南米ペルーの訪問だろう。  受け答えの一部をメディアに切り取られて批判されたこともあったが、事前に深く学び、誠実に相手と向き合って大役を果たした。  首都リマにある支援学校では、聴覚に障害がある子どもたちと、ペルーで使われる手話で交流した。これも1か月半前に送られてきたビデオで練習を重ねた努力の成果だった。  ペルーの日系人の歴史についても熱心に勉強し、9月に新型コロナに感染して訪問先の鳥取県内で療養していたときも、時間を惜しんで資料を読み込んでいたという。     【こちらも話題】 佳子さまの“パーフェクトスマイル”は現地で絶賛 「ほほ笑みのプリンセス」のペルー訪問 https://dot.asahi.com/articles/-/206155   浅葱⾊(あさぎいろ)に松や菊、紅葉などの植物と流水文様が描かれた振袖をお召しの佳子さま=2023年12月、赤坂御用地、宮内庁提供    ペルー訪問に同行したTBSの記事では、佳子さまは車いすの日系人たちに腰をかがめて話しかけ、「足が痛いでしょう」と言われても笑顔で会話を続ける様子がつづられていた。  そんな相手の心情を汲み取り、気遣いを見せる佳子さまのやさしさは、さまざまな公務の現場で伝わってくる。  たとえば、佳子さまが担い続けている公務のひとつ、ガールスカウト連盟主催の「ガールズメッセ」で、よりよい社会を目指す取り組みで表彰された女の子たちが佳子さまに説明をする場面があった。   「ガールズメッセ2023」の表彰式に出席し、小中学生の女の子たちに身振り手振りを交えて、明るい表情で話しかける佳子さま=2023年10月、東京・渋谷区    佳子さまを前にして、緊張している様子の女の子たち。くるりと顔をかたむけ、大きな目で女の子たちの顔をのぞき込むと、ほほえみながら話しかけた。 「緊張した?」 「制作で工夫したところは?」  大きな身振り手振りと明るいトーンで話しかけているのは、女の子たちの緊張をほぐそうとしているのだろう。  イベントの後、佳子さまと対面した女の子たちは「すごく優しかった」「緊張して声が出なかったけれど、いろいろな聞き方をしてくれた」と、嬉しそうに話していた。   極寒の中、祈りを捧げる佳子さま  華やかさが注目される佳子さまだが、最近は宮中祭祀や慰霊の行事へ参加する機会も増えており、国民の平和を祈る若い皇族としての存在感が高まってきている。 石巻南浜津波復興祈念公園の祈りの場で供花する佳子さま=2023年5月23日、宮城県石巻市    5月には全国都市緑化祭のため、宮城県を訪れた。式典の前日には、沿岸部の石巻市を訪れ、東日本大震災の犠牲者を追悼する石巻南浜津波復興記念公園や、津波に襲われた後に火災で焼けた門脇小学校を視察。犠牲者に花を手向けた。  同じ月には東京・千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で、第2次世界大戦での戦没者を慰霊する拝礼式で祈りを捧げた。これまでは秋篠宮ご夫妻が担ってきたが、平成の終わりからは長女の小室眞子さんが務め、そして今回は初めて佳子さまが参列した。     【こちらも話題】 佳子さまが「エネルギッシュな笑顔」でペルーへ出発 なぜ秋篠宮家が南米の訪問を担うのか https://dot.asahi.com/articles/-/205363     皇居での宮中祭祀である賢所御神楽の儀に向かう佳子さま=2023年12月15日、読者の阿部満幹さん提供    宮中祭祀を担当する掌典職を経験した人物は、秋篠宮家は祭祀に熱心だと話す。 「自分が知る限り、秋篠宮さまが公務以外で祭祀を欠席されたことは、ほとんどなかったと思う」  佳子さまは、1月の「孝明天皇例祭」、6月の「香淳皇后例祭」、7月の「明治天皇例祭」、12月の「大正天皇例祭」などの祭祀については、2019年6月に留学先の英国から帰国して以降、公務が重ならない限り出席しているという。  6月と12月の「大祓の儀」は、皇族と国民のためのおはらいの儀式。今年の大晦日の「大祓」では昨年と同じように、皇居内の宮中三殿に附属する神嘉殿(しんかでん)の前庭で、戸外の凍えるような寒さのなか、佳子さまは国民のために祈りを捧げるだろう。   「ほんとうにお忙しい」と職員 「佳子さまは公務で、ほんとうにお忙しい」  秋篠宮家の職員がため息をつくほど、佳子さまは全国を飛び回っている。  3月には水戸市の偕楽園の式典で、ヤマザクラ「左近の桜」を植樹した。  左近の桜は、平安時代から京都御所に植えられてきた桜。仁孝天皇から苗木が贈られ、藩校「弘道館」に植えられたが枯れてしまい、昭和の時代に再び京都御所から苗木が贈られたものの、台風で倒れた。 「復活」を望む県民の声を受けて21年に再び苗木が提供されるという、長い物語がある植樹だった。   「第22回東京都障害者ダンス大会ドレミファダンスコンサート」で、曲に合わせてタオルを振る佳子さま=2023年7月、東京都渋谷区    全日本ろうあ連盟で非常勤の嘱託職員でもある佳子さまは、福祉の分野の公務も担っている。秋篠宮妃の紀子さまが担ってきた手話や福祉分野の公務も、姉の眞子さんを経て、いまは佳子さまが受け継いだものも多い。  1月には「聴覚障害児を育てるお母さんをたたえる会」に出席。7月の「東京都障害者ダンス大会ドレミファダンスコンサート」では、ダンスに合わせて黄色いタオルを振る佳子さまの姿が話題になった。  8月には「全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」、9月はコロナ感染で欠席したものの、「全国高校生手話パフォーマンス甲子園」のために鳥取を訪問した。     【こちらも話題】 佳子さまの「なめらかで美しい」手話は努力のたまもの  会場をなごませた「やさしさ」 https://dot.asahi.com/articles/-/200007     「第45回聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」で、手話を用いてお言葉を述べる佳子さま=2023年1月、東京都渋谷区   「偏った思い込み」への提言  また、佳子さまといえば、ジェンダーに言及したスピーチが多いことでも知られる。  前述の「ガールズメッセ」では、「大人から子どもへ、無意識なものも含め、偏った思い込みが伝わっていることが多々あると感じます」と、強い意志を込めた発言をしている。  ジェンダーレスの考えはもともと、父である秋篠宮さまの考えだった。宮家では、「侍従」「女官」といった男女別の名称を廃止し、性別にとらわれない働き方を実践している。    秋篠宮さまも佳子さまも互いに記者会見などで、激しいケンカをしたというエピソードに言及していることから不仲説も流れるが、秋篠宮家と交流がある人物は、 「公務への向き合い方や勉強の方法など、ご両親がアドバイスされる部分は多いはずで、不仲というよりも、佳子さまも30歳に近いご年齢なので、距離をとるのは自然なことではないでしょうか」  と話す。 春の園遊会で、未婚の女性の第一礼装である本振り袖に三つ紋を入れた格式の高い着物をお召しの佳子さま=2023年5月、赤坂御用地、代表撮影/JMPA    訪問したペルー現地のメディアに、「パーフェクト・スマイル」「ほほえみのプリンセス」「和製キャサリン妃」と評された佳子さま。  佳子さまを学生時代から知る人物は、こう話す。 「昔から芯の強いご性格だった。いまは国民とのすれ違いも多く、あれだけ叩かれているなかで、内心では辛い思いもあるでしょう。しかし、笑顔を絶やさず『完璧』に仕事をやり遂げる意思の強さは、彼女の宝でもある。ご結婚でも幸せになっていただきたいとは思うが、頑張り過ぎず、元気で過ごしてほしい」  佳子さまへの期待は、高まるばかりだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま「かっちり」佳子さま「ふんわり」 プリンセス・ファッションの違いの意味 https://dot.asahi.com/articles/-/203257  
【2023年8月に読まれた記事②】秋篠宮家はなぜ学習院を避けるのか 「道徳観が見えない」OGが抱き続ける世間とのずれ
【2023年8月に読まれた記事②】秋篠宮家はなぜ学習院を避けるのか 「道徳観が見えない」OGが抱き続ける世間とのずれ 英国戴冠式へ出発する秋篠宮ご夫妻を見送ったときの次女の佳子さまと長男の悠仁さま    まもなく暮れる2023年を、AERA dot.で読まれた記事で振り返ります。8月は、夏の甲子園で慶応が107年ぶりに全国制覇。日大アメフト部では、大麻などを隠し持っていたとして部員が逮捕され、その後問題が拡大していきました。また、東京電力福島第一原発で、処理水の海洋放出が始まりました。AERA dot.では、秋篠宮家の長男、悠仁さまの進路が注目されるなか、学習院大を選ばない秋篠宮家についての記事「秋篠宮家はなぜ学習院を避けるのか 『道徳観が見えない』OGが抱き続ける世間とのずれ」が読まれました(肩書や年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  秋篠宮家の長男、悠仁さまの進路について注目が集まっている。高校2年の夏ならば、具体的な進学先を視野に入れて将来を検討し始める時期。長女の小室眞子さんと佳子さまは、最終的に学習院大学を選ばなかった。こうした秋篠宮家の教育方針について疑問を抱く人も少なからずいる。『学習院女子と皇室』(新潮新書)を最近刊行した著者で、親子4代に渡り学習院出身の藤澤志穂子さんに話を聞いた。   「曾祖父は学習院中等科から士官学校などを経て軍人になり、祖母は戦前の学習院女子、そして、母、私、その他の親戚にも学習院出身が多いのですが、そのためか私の元に秋篠宮家の様々な問題に関して、特に『眞子さまの結婚はなんなの!?』という批判の言葉が多く飛び込んできました」  と話すのは、曾祖父、祖母、母と4代に渡り学習院出身で『学習院女子と皇室』の著者の藤澤志穂子氏だ。「直接、秋篠宮家にお話しくださればいいのに……」と思いながら、批判が集中してしまう理由を掘り下げたときにたどり着いたのは「ノブレス・オブリージュ」だ。   「ノブレス・オブリージュ」とは、フランス語でnoblesse oblige。財産や権力、地位など恵まれた境遇を持つ、あるいは身分の高い者が果たす責任と義務を示す言葉で、主に欧米社会で浸透する道徳観を示す。 「学習院で得ることのできる学びの素晴らしさについては、著書に書きつくしましたが、ただのお嬢様学校ではなく、卒業生には学業を終えた後、社会に貢献していきたいと思っている方が大勢います。たとえ、家庭に入ったとしても何かしら社会につながっていようとされる方もいる。それに対して、眞子さんはどうですか? 何をしようとされているのか全く見えてこない」    学習院OGとして藤澤氏が秋篠宮家に対して抱く印象は「権利ばかりを主張して、求められる義務を果たしていない」ように見えることだ。 「私の2歳上に秋篠宮さま(当時、礼宮さま)、1歳上に紀子さま(当時、川嶋紀子さん)、2歳下に紀宮さま(現在、黒田清子さん)が学習院に在学していました。そんな世代の学習院の同級生は眞子さんと同じくらいの年齢の子どもがいる場合もあるので、よく話題になるのは『もし、眞子さんが学習院大学に行っていれば……』ということ。眞子さんの結婚のお相手が学習院の中で見つかっていたら、学習院OGOBネットワークで『あの人はこんな感じ』という情報も入ってきます」   【こちらも話題】 なぜ秋篠宮さまの発言は「波紋」を広げるのか 天皇陛下を支える弟宮の役割と狙いとは〈58歳の誕生日〉 https://dot.asahi.com/articles/-/207630   2010年、眞子さま(当時)佳子さま、そろって学習院女子高等科・中等科卒業式  また、秋篠宮家がなぜここまで学習院を避けるのかも疑問に感じているという。 「最近はAO入試も盛んなため学習院女子高等科を卒業しても学習院大学への進学率は半分くらいという現実もあります。だから、眞子さんが国際基督教大学(ICU)に挑戦して、進学したのは、わからなくもない。しかし、佳子さまは、学習院大学に進学しておきながら、2年でICUに入り直しました。仮面浪人で学習院大学に籍を置いていたということ。一般のご家庭でしたら『浪人してICUに行けば!?』ですよね。さらに、佳子さまが入られたのは当時、学習院大学の新設学科(文学部教育学科)で一期生として期待をかけられていたと思います。それをICUに入り直すって、そもそも学費はどこから支出されているのかという点からも、ちょっと違うのではと思ってしまいます」    秋篠宮家でいえば、長男の悠仁さまは現在、筑波大付属高校に通われている。 「悠仁さまは東京大学への進学を希望しているなどの報道はありますが、一般のご家庭のお子さんたちだって東大に行きたい人はたくさんいます。もし、皇族だからといって、特別なルートで東大に入れることができたとしたら、ノブレス・オブリージュの価値観とは全く逆。少なくともそういう世論があるのに、周囲の皆さまは秋篠宮家に伝えていないのか、伝えていたとしたらなぜ理解しないのか」               藤澤氏は秋篠宮家が学習院を避けているのを肌で感じることがあるという。 「学習院には幼稚園から大学院まで全ての卒業生が入る『桜友会』、学習院女子大学には『草上会』、学習院女子高等科は『常磐会』があります。明治時代の1895(明治28)年に創設された『常磐会』は会報誌『ふかみどり』を5年に1回発行していて、創刊は1910(明治43)年です。皇族の方々もこの会報誌に自身の動向や御歌、寄稿をされます。最近の寄稿では、三笠宮彬子さま、高円宮承子さまの職場での近況報告がありました。しかし、秋篠宮家からは眞子さん、佳子さまからの寄稿はこれまで一切ありません」   【こちらも話題】 悠仁さま17歳に 紀子さまの優しい母の眼差しから父子で初の地方公務まで【写真で振り返る】 https://dot.asahi.com/articles/-/200617    藤澤氏の著書の中には、会報誌「ふかみどり」に寄稿された内容がたくさん紹介されているが、「例えば眞子さんの『ニューヨークだより』などという寄稿は読んでみたいですね」と話す。その理由をこう説明する。 「なにがしかの社会貢献をされておられ、その様子を自ら寄稿されるのであれば、国民からみるイメージもぐっと変わってくるはずです。秋篠宮家の皆さまは、そうしたことにすら、お気づきになられていないのかもしれませんね。もちろん、こうした皇族方・元皇族方の寄稿があるのならば、宮内庁はもっと積極的に発信すべきだとも思います」  2021年10月26日に婚姻届けを出してから、あと少しで丸2年となる眞子さん。ここ最近、理由はよくわからないが、「小室眞子さん」は、AERAdot.の中で際立つほど検索されている。聞こえてこない「小室眞子さん」の動向は、やはり検索されるだけのことはあるのだろう。 (AERA dot.編集部・太田裕子) 藤澤志穂子(ふじさわ・しほこ)昭和女子大学現代ビジネス研究所研究員。学習院大学法学部卒、早稲田大学大学院文学研究科演劇専攻修士課程中退。1992年産経新聞社入社、経済本部、米コロンビア・ビジネススクール客員研究員を経て2019年退社。著書に『出世と肩書』(新潮新書)、『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』(世界文化社)、『学習院女子と皇室』(新潮新書)。
【2023年6月に読まれた記事③】弾ける笑顔の雅子さま、インドネシア訪問で別格の所作 マナーのプロが見逃さなかった瞬間とは?
【2023年6月に読まれた記事③】弾ける笑顔の雅子さま、インドネシア訪問で別格の所作 マナーのプロが見逃さなかった瞬間とは? インドネシアの首都ジャカルタにある宿泊先のホテルに到着し、子どもたちから歓迎を受ける天皇、皇后両陛下  まもなく暮れる2023年を、AERA dot.で読まれた記事で振り返ります。6月は、岐阜市で自衛官候補生が小銃を発砲して3人が死亡したほか、ガーシー元参院議員が帰国して逮捕。ロシアでは民間軍事組織「ワグネル」の武装反乱が起きました。AERA dot.では、インドネシアを親善訪問した天皇陛下と皇后雅子さまの様子を伝えた記事「弾ける笑顔の雅子さま、インドネシア訪問で別格の所作 マナーのプロが見逃さなかった瞬間とは?」が読まれました(肩書や年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  天皇、皇后両陛下は6月17日から即位後初となる公式の国際親善として、インドネシアを訪問され、全日程を終えて23日に帰国された。雅子さまにとっては、国際親善訪問は2002年にオーストラリア、ニュージーランド以来の約21年ぶり。何より笑顔の雅子さまが印象的だったが、マナーの専門家は滞在中の「所作」と「振る舞い」を称賛する。    雅子さまにとって21年ぶりの国際親善としての海外訪問で、笑顔が輝いていた。例えば、インドネシア・ジョコ大統領夫人の案内で、宮殿内でインドネシアの様々な伝統文化の実演を見て回られたとき。雅子さまはインドネシアの伝統的な衣装「バティック」の生地を羽織られ、少しはにかみながら弾ける笑顔を見せられた。  大手企業のマナーコンサルティングやNHK大河ドラマ、映画などのマナー指導を務めるマナーコンサルタントの西出ひろ子さんは、インドネシア滞在中の雅子さまの笑顔は「格別のものだった」と振り返る。 「報道を通して拝見する雅子さまは、とても、にこやかでいらっしゃいました。また伸び伸びとされていました。雅子さまの笑顔には私たちに安心感を与えてくださり、何より喜ばしく思います」(西出さん)  西出さんは、今回の雅子さまの表情は身についているものがあるからこその「余裕」があるのではないかと推察する。 「雅子さまは、幼少のころお父様のお仕事で海外で暮らしていたことや、外交官として海外でお仕事をなさっていたご経験もおありになるため、海外にご訪問されると、いい意味で伸び伸びとなさっていらっしゃいますよね。自分らしさを出せるというか、雅子さまらしさというのを改めて感じました。インドネシアの公用語はインドネシア語ですが、雅子さまは英語がご堪能なので、安心して見ていられます。お立場はもとより、海外での振る舞い方やコミュニケーションをきちんと、かつ、自然にとることができていらっしゃいますね。海外に慣れていたり、語学に心配ないということなどの余裕があると、自然に振る舞うことができ、いい表情にもつながります。その余裕が、内面からあふれ出ていたと感じました」(西出さん)   【こちらも話題】 天皇陛下のダジャレに雅子さまも大笑いのインドネシア訪問 東宮時代から「だよね」と自然体 https://dot.asahi.com/articles/-/195066   ボゴール宮殿で植樹式に臨む天皇、皇后両陛下とジョコ大統領ご夫妻  今回の訪問に様々な準備をされてきたことからも、余裕が自然と表情にも表れたのだろう。 「雅子さまに限らず、一般的にも余裕のある状態に自分を整えておくということは大事ですよね。初めてだったり、久しぶりだったりする訪問先というのは誰でも緊張しますし、どのように振舞ったらいいかわからないものです。どうしたらいいかわからないときの振る舞いは見様見真似になるもので、そこには相手に対する気持ちが入らないものです。雅子さまはそういった意味でも、準備だったり、所作だったりが備わっていたからこそ、心を込めた対応ができたのではないかと思います」(西出さん)  マナーのプロである西出さんは、雅子さまの「ある所作」を見逃さなかったという。 「マナーの観点から素晴らしい所作と感じたのが、インドネシアの首都・ジャカルタ近郊のスカルノハッタ空港で車に乗り込むときです。握手をする場合、立場が上だったり、女性の方から手を差し伸べるのですが、雅子さまはそれを自然とおこなっていらっしゃいました。お立場上、当然の所作だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本の挨拶は握手よりもお辞儀がほとんどです。日本の場合、奥ゆかしさが先行し、海外に行ったときに、頭では分かっていても自分から手を出し握手するというのがなかなか自然にやりづらいところがあります。雅子さまは、このようなことを熟知されていることに加えて海外での生活や外交官というご経験も相まって、自然に堂々と先に手を差し出されて握手をなさっていらっしゃいました。その握手はとてもスムーズで、所作も姿勢も別格の美しさでした」(西出さん)  日本の挨拶はおじぎだったりするため、握手や、ましてやハグなどはなかなか自然にというのは難しい。握手のとき以外の手の所作も西出さんは見逃さなかった。 「工業高校で雅子さまが天皇陛下と共に学生の方にご質問なさっていたとき、ロボットを手で示された場面がありました。手で何かものや方向などを示すときに、相手側から離れた手で指し示します。例えば、お話している相手が自分の左側に立っていたら右手で示すことになります。雅子さまはこのときも、自然にお優しい表情で作品を指し示され、心のこもった所作でした。見ている側が自然だと感じる所作はそれを型として覚えるだけではなく、なぜそうするのかなどの理由を理解し、相手への配慮から心を込めた所作となります。雅子さまはカリバタ英雄墓地ご訪問の前日に、天皇陛下と共に元残留日本兵の子孫の方たちと懇談なさった際に『明日は心を込めて供花させていただきたいと思います』とおっしゃいました。改めて雅子さまは心、気持ちを大切になさり、それを所作、形として表してくださることに感動いたしました」(西出さん)  そうした所作が自然に出てくることから、生き生きとした雅子さまの笑顔も弾ける。その笑顔はまさに国際親善の交流に欠かせないものだと感じた。(AERA dot.編集部・太田裕子) ◯西出ひろ子/マナーコンサルタント、マナー評論家、マナー解説者。大学卒業後、参議院議員秘書職を経て、マナー講師として独立。31歳で渡英。オックスフォード大学大学院遺伝子学研究者(当時)と英国にて起業。帰国後、企業のコンサルティングをはじめ、大河ドラマや映画、CMなどのマナー指導など多方面で活躍中。
【2023年6月に読まれた記事①】ジュン氏が「謝罪がない」と激怒した鳥羽氏の振る舞い レストラン周辺住民からも上がっていた「本当の評判」
【2023年6月に読まれた記事①】ジュン氏が「謝罪がない」と激怒した鳥羽氏の振る舞い レストラン周辺住民からも上がっていた「本当の評判」 鳥羽周作氏(写真:REX/アフロ)  まもなく暮れる2023年を、AERA dot.で読まれた記事で振り返ります。6月は、岐阜市で自衛官候補生が小銃を発砲して3人が死亡したほか、ガーシー元参院議員が帰国して逮捕。ロシアでは民間軍事組織「ワグネル」の武装反乱が起きました。AERA dot.では、俳優・広末涼子さんの「ダブル不倫」の相手に関する記事「ジュン氏が『謝罪がない』と激怒した鳥羽氏の振る舞い レストラン周辺住民からも上がっていた『本当の評判』」が読まれました(肩書や年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  18日に緊急記者会見を開いたキャンドル・ジュン氏(49)は、妻で女優の広末涼子(42)について謝罪するとともに、これまで夫婦にあった出来事を赤裸々に語った。さらに、広末の不倫相手である有名フレンチレストラン「sio」のオーナーシェフ・鳥羽周作氏(45)について怒りをあらわにする場面もあった。ジュン氏が経営するショップ「ELDNACS」と鳥羽氏の「sio」は、ともに小田急線の代々木上原駅が最寄りで、両店はわずか100メートルほどしか離れていない。地元商店街などを取材すると、鳥羽氏が日常で見せる“素”の顔がみえてきた。   「彼の謝罪文を見た時に怒りしか浮かんでこなかったです」  記者会見の中で、ジュン氏は鳥羽氏に対して、こう怒りを表現した。 広末の不倫報道後、ジュン氏は鳥羽氏と直接話をしようと、アポイントを取ることを試みたという。しかし、ジュン氏の電話に対して鳥羽氏の事務所スタッフは「どういったご用件ですか? 代表(鳥羽氏)はリモートですから」と取り付く島もなく、連絡をくれるように言付けをしても、鳥羽氏から折り返しはなかった。こうしたやりとりが2回続いた後、最終的には、鳥羽氏から「このたびは申し訳ありませんでした」というメールが届いたが、アポについて「今日は他に用事があるので」と断られたという。  そんな状況のなかで、14日、広末と鳥羽氏は同時に謝罪文を発表。鳥羽氏の謝罪文に「今後は、改めてゼロから料理に向き合いたいと思います」と書かれていたことについて、「なんとも言えない気持ちになりました」と胸中を語ったうえで、冒頭のように怒りをあらわにしたのだ。  ジュン氏は記者会見のなかで、鳥羽氏に対して、「文書1枚」で済ませるのではなく、大人として責任ある対応をすべきだということを強調していた。  記者会見前、AERA dot.は鳥羽氏のレストラン「sio」がある代々木上原駅周辺を取材していた。「sio」はミシュラン一つ星の有名レストランだけあって、地元の人たちにも広く知られていた。地元商店街で話を聞くと、鳥羽夫妻を知る女性店主がこう話した。   【こちらも話題】 不徳も徳の内。広末涼子の穢れに夢見てきた男どもの腰抜けっぷり ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/191399   会見前、直接取材を申し込んだときのジュン氏。「ノーコメントです」とのことだった(撮影/上田耕司) 「鳥羽さんの奥さんはキレイで、すごくいい人ですよ。奥さんは会計みたいなことをしているのかな、商店街の会費をもらいに行くと、『はい、はーい』と言って払ってくれて、すごく感じよく接してくれます。だから今回の広末さんとのことでは、みんな『奥さんがかわいそうだよね』って言っています。だって、ジュンさんの店とこんなに近いのに不倫だなんて、もう(商店街の人からは)総スカンですよ」 「sio」へ行ってみると、店には看板がかかっていなかったが、営業はしていた。地元店の店主はこう話す。 「店の看板がないのは“今どき”なのかもしれませんね。ただ、こちらとしては『sioはどこですか』と道をたずねられることが多いので、ちょっと時間が取られますね」  鳥羽氏の知らないところで、商店街からは助けられているのだ。  そうしたことに鳥羽氏は意識が向かないのか、かんばしくない評判も少なくない。  別の店の商店主は「鳥羽シェフはすごく感じ悪い」と顔をしかめ、その理由をこう明かす。 「店の前を通りかかると、店先で鳥羽シェフがお客さんと、『マジですか』『そうっすね』『いいっすか』などと、大声で話しているのをよく見かけます。お客さんやファンにはとても愛想がいい、面白い人なんでしょうけど、地元の私たちには無愛想で、あいさつひとつしない。『こんにちは』と言っても、ブスッとして、ナマ返事しかしない。オレに話しかけるな、みたいなオーラを発しているんです」  鳥羽氏が「sio」をオープンしたのは2018年7月だが、それ以前には同じ場所にフレンチレストラン「Gris(グリ)」があり、16年から鳥羽氏はそこでシェフとして働いていた。18年にオーナーから「Gris」を引き継ぎ、今度はオーナーシェフとして「sio」をオープンさせた。  オープンしたてのころは、商店街の人たちと付き合いもあったという。地元の「上原銀座商店街」の理事長がこう話す。   【こちらも話題】 広末涼子はなぜ今になって不倫を認めたのか 夫の苦言、事務所の対応…発覚から7日間で起こっていたこと https://dot.asahi.com/articles/-/194982   「『sio』がオープンしたころは、毎年9月にある地元のお祭りにも積極的に関わってくれました。その後は、『sio』とご自身の他のビジネスに忙しくなったのか、あまり商店街の会合や催しには参加してくれなくなりました。でも、現在も会費を収めていただいているので、会員ではあります。『sio』はミシュランの一つ星ですし、いつも繁盛している店なので、やり手の経営者なのだと思います」  ただ、商店街の中には鳥羽氏に不満を持つ会員もいるようだ。 「『sio』が開店した当時、地元のお祭りの打ち上げに、(商店街の費用から)1万円を出して料理を提供してもらいました。でも、出てきたのは空揚げが2皿くらい……それも『これで1万円もするの?』というくらい分量が少なかった。一流のシェフはいい値段を取るんだなと感じました」  ある居酒屋の店主は「地元商店街で仲のいい人は少ないだろう」と話す。 「鳥羽さんは、定期的に開かれている商店街の会合にも出てきませんからね。その会合では、店のオーナーがみんなに近況を報告するんですが、そういう場にもいないから、そもそもどんな人だかわからない。地元では孤立していますよ」  一方で、やはりお客さん相手には愛想がいいようだ。かつて「sio」の店先で行われたケーキの無料配布に並んだ地元の主婦はこう話す。 「たしかチョコレートケーキだったかな、1人1個限定で配布していて、ウチも子どもと並んだんです。ファンの方たちが鳥羽さんに『一緒に写真を撮っていいですか』と言っていて、鳥羽さんはニコニコして応じていました」  では、ジュン氏についてはどうか。「ELDNACS」の近くの居酒屋へ行くと、店の客はこう話した。 「以前は、広末さんとジュンさんが店の前を仲良さそうに一緒に歩いているのをよくお見かけしましたよ。代々木上原のそんなに高級ではない店でも、広末さんが食事をしているのを見かけました。このへんは有名人が多いのでそんなに驚かなかったですが、夫婦ともに人柄はよさそうな人でしたよ」  地元では仲のよい夫妻の姿が目撃された時期もあったようだ。  だが、ジュン氏が会見で語ったところによると、現在、広末は子ども3人と家を出て、ジュン氏も自宅とは別の場所で寝泊まりしているという。  これからは弁護士を入れて今後の話し合いを進めるというジュン氏。家族の未来は、まだまだ先が見えそうにない。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
「今年最大の負け組」の烙印まで押されたメーガンさんとヘンリー王子 その「焦り」と「いらだち」
「今年最大の負け組」の烙印まで押されたメーガンさんとヘンリー王子 その「焦り」と「いらだち」 ヘンリー王子(左)とメーガンさん(写真/アフロ)    2023年も残すところわずかになった。今年はヘンリー王子(39)とメーガンさん(42)にとって激動の1年だったが、まず物議をかもしたのは、1月発売の王子の回顧録『スペア』だった。ギネス世界記録に認定されるほど爆発的な売れ行きを見せたものの、本文中の虚偽や誇張などが次々に指摘され、二人の好感度は急降下した。Spotify(スポティファイ)から契約を打ち切られ、風刺アニメ「サウスパーク」では、「プライバシーが欲しい」と大騒ぎして注目を集める二人の姿が矛盾すると揶揄の対象になった。  そして11月末に発売された暴露本『エンドゲーム』のオランダ語版では、王室内の人種差別者としてチャールズ国王(75)とキャサリン皇太子妃(41)の名前が記載された。作者で王室担当記者のオミド・スコビー氏が繰り返し弁明しようとも、背景にメーガンさんの指示があったことは明白だとされる。さらに、夫妻が立ち上げたアーチウェル財団は、年次報告書によると赤字転落が明らかになった。寄付者が大幅に減少したのが影響したのだ。  20年、英王室離脱当初は親しかったアメリカの元大統領夫妻、司会者、俳優などから次々に距離をおかれ、英王室からは誕生日のお祝いメッセージが初めて家族4人ともに届かなかった。ハリウッドの動向を扱う雑誌「ハリウッド・リポーター」からは、23年最大のルーザー(負け組)と烙印を押された。“サセックス・バブル”がはじけたとも言われている。 メーガンさん「焦り」と「いらだち」  メーガンさんが俳優ケビン・コスナー主催のチャリティーイベントで司会者のマイクを取り上げて話そうとしたのも、雑誌のイベントでのサプライズ出演でレッドカーペットから立ち去らずにスタッフから背中をタッチされて退場を促されたのも、すべてメーガンさんの焦りの気持ちからではないか。  特にメーガンさんをいらだたせたのが、フランスの高級ブランド、ディオールのアンバサダー就任失敗だった。 ヘンリー王子(左)とメーガンさん    夫妻はしばしばディオールを着用してアピールをしたが、ディオールは否定した。一方、その後フランスを公式訪問したチャールズ国王夫妻がベルサイユ宮殿での晩餐会に臨んだ際にディオールのドレスをまとったカミラ王妃(76)は、貫禄と華やかさとを併せ持つと称賛された。ディオールの選択は訪問国へのリスペクトだろうが、メーガンさんは「王室が私に復讐している」と捉えた。また、ネットフリックス「ザ・クラウン」シーズン6ではウィリアム皇太子(41)と出会った頃のキャサリン皇太子妃が登場するが、演じた若手新人俳優メグ・ベラミー(21)がディオールのアンバサダーに抜擢されている。  12月、イギリスのデイリー・エクスプレス(オンライン)には、メーガンさんの「美の秘訣」を明かす記事が掲載された。彼女のナチュラルな美しさにはファンが多いが、それは彼女が体の内と外の双方からケアしているからとする。ヨガを欠かさず、一日にコップ8杯の水を飲み、ココナッツオイルをヘアに使用するなどのほかに、イブ・サンローランのコンシーラーを愛用するという。「午前3時の撮影時には目を明るく開く必要がありますが、その時にはこのコンシーラーが手放せません」と熱く語っている。イブ・サンローランは今のところ何の反応も見せていない。 なぜ“転落”が止まらない  ヘンリー王子夫妻は王室離脱した当時はアメリカでの成功を確信していたのに、なぜ転落が止まらないのか。夫妻仲も険悪になり、来年2人は公の場で口喧嘩をするとの予想を立てる向きもあるそうだ。  メーガンさんは来年、イギリスに行き、ロイヤルの一員であることをアピールしたい。先日、アーチー王子(4)とリリベット王女(2)がバースデーソングを歌ったビデオを国王に送るなどして準備を進めてきた。ウィリアム皇太子など他のロイヤルはともかく、国王は「和解」を否定していないのだ。  チャールズ国王の時代に、「称号を剝奪しないこと」「イギリスでの警察警備の保証」「二人の孫への生涯続く経済的援助」を取り付けたい。そして、メーガンさんはパートタイムロイヤルとして英米間を自由に行き来したい。  王室内では、ヘンリー王子の王室復帰には「離婚が条件」との声が出ている。来年は、二人にとって、今年よりさらに変化の激しい一年になるのだろうか。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事
【2023年5月に読まれた記事②】「さすが」の雅子さま 令和初の園遊会でマナーのプロが感嘆した別格のコミュニケーション力
【2023年5月に読まれた記事②】「さすが」の雅子さま 令和初の園遊会でマナーのプロが感嘆した別格のコミュニケーション力 東京・元赤坂の赤坂御苑で行われた「春の園遊会」での天皇、皇后両陛下(代表撮影/JMPA)  まもなく暮れる2023年を、AERA dot.で読まれた記事で振り返ります。5月は、新型コロナが5類に移行。広島県でG7サミットがあり、英国で70年ぶりに国王の戴冠式がありました。AERA dot.では、4年ぶりに開催された「春の園遊会」での皇后雅子さまの様子を伝えた記事「『さすが』の雅子さま 令和初の園遊会でマナーのプロが感嘆した別格のコミュニケーション力」が読まれました(肩書や年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  5月11日、東京・元赤坂の赤坂御苑で天皇、皇后両陛下主催の「春の園遊会」が開かれた。園遊会が開かれるのは2018年秋以来およそ4年半ぶり、令和になってからは初。車いすテニスの第一人者で国民栄誉賞を受賞した国枝慎吾さんや、ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さん、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さん、東京五輪卓球金メダリストの伊藤美誠選手ら各界の功労者1000人余りが出席した。あいにくの雨の中だったが、天皇、皇后両陛下は大幅に時間を超えて懇談された。そんな中で、マナーの専門家は雅子さまのとっさのひとことに感嘆したという。    令和初ということもあり、注目を集めていた園遊会であったが、あいにくの雨となってしまった。 「例年なら14時10分ごろには両陛下はじめ皇族方々が中池の丘の上にお出ましになりますが、時間になってもなかなか出てこられなかった。次第に雨が強くなったのに、14時21分、雨が一旦ぴたりと止みました。それからしばらくして14時27分ごろ、普段より15分程遅れての両陛下のお出ましになりました」(皇室記者)  天皇陛下、雅子さまに続き秋篠宮ご夫妻と初めて参加される秋篠宮の次女・佳子さまと皇族の方々が順に出てこられ、丘の上に横一列に並ばれた。雅子さまは、落ち着いた水色にアヤメかショウブと思われる文様がほどこされた着物をお召しになっていた。大手企業のマナーコンサルティングやNHK大河ドラマ、映画などのマナー指導も務めるマナーコンサルタントの西出ひろ子さんは、園遊会での雅子さまの着物の色味に着目する。 令和初の園遊会での雅子さまの着物(代表撮影/JMPA) 「女性皇族のほとんどがイエロー系の暖色の着物をお召しになっていた中、雅子さまは寒色の薄いブルー系でいらっしゃいました。落ち着きのある品格がにじみ出て、まさに皇后さまらしいともいえる本当に素敵な色合いでした。いままで以上にといいますか、ますます皇后さまらしさに磨きがかかっていらっしゃると感じました」(西出氏)  令和初の園遊会での雅子さまでマナーの専門家が「さすが」と感嘆したのはコミュニケーション能力の高さだという。まずは、その表情。   【こちらも話題】 【2023年1月に読まれた記事③】愛子さま、淡い水色のドレスでフレッシュな品格 雅子さまとの「シンクロコーデ」に感じた母娘の絆 https://dot.asahi.com/articles/-/209554   園遊会での雅子さまの微笑み(代表撮影/JMPA) 「ここ最近、お出ましになるとき雅子さまの表情はとてもにこやかでいらっしゃいます。今回も園遊会に招待された方々との会話を心から楽しまれ、ほほ笑まれている表情が瞳の輝きから伝わってきました。マスクで顔の半分が隠れているにもかかわらず、お優しい表情が見て取れました」(西出氏)  そんな表情とともに雅子さまのコミュニケーション能力の高さを感じたのは、片岡仁左衛門さんとの会話の瞬間だという。 「雅子さまが『後進の育成は』という質問を発したときに、土砂降りになってきた雨音のせいかマスク越しの会話のためか片岡仁左衛門さんが聞き取れなかったようでした。とっさに、雅子さまは『若い方の~』と言い換えられました。この言い換えには、さすがでいらっしゃると感嘆しました。現在、私は新入社員に対してビジネスマナーの講習をしている時期でもありますが、そういった研修で伝えているのは、相手が分かりやすい言葉に言い換えること。雅子さまが、状況に応じて『後進の育成』を瞬時に『若い方の~』と言い換えられたのは、雅子さまが相手の様子をしっかり受け止め、臨機応変に振る舞われることができるコミュニケーション力、マナー力、人間力が備わっていらっしゃると感じた瞬間でした。雅子さまならば、それくらいのことはできて当たり前だと思われるかもしれませんが、とっさのひとことは、なかなか簡単に対応できるものではありません。1000人以上もの招待客に対して、セリフがきちんと書かれた台本があるわけではないと思いますので、本当に素晴らしいなと感じました」(西出氏)  雅子さまのコミュニケーション能力が発揮される理由を西出氏は指摘する。 「園遊会は、明治13年に国際親善のために外国の方々を招いたことから始まった秋の観菊会が前身です。現在、招待客は国内の方々が主ですが、雅子さまはご結婚前は外交官でいらしたので、園遊会はまさに雅子さまがご活躍される場所のおひとつであることを今回のお姿を拝見して改めて思いました。自然に色々な話題を振り、会話をつないでいき、気さくな雰囲気の中にも堂々とされていて、世界のどこにお出ましになっても素晴らしい、本当に私たちが誇れる皇后さまだと思いましたね」(西出氏)   【こちらも話題】 【2023年下半期ランキング皇室編3位】雅子さまの姿勢はなぜ美しいのか 雨の中の佇まいが「感動するほど」マナーのプロ https://dot.asahi.com/articles/-/208203   赤坂御苑の中池の丘の上にお出ましになられた天皇、皇后両陛下(代表撮影/JMPA)  招待客との会話が途切れなかったためか、例年よりも時間が大幅に超えた園遊会となった。お付きの人から時間を告げるお声がけもあったそうだが、丁寧に会話を続けられたという。 「雅子さまは、卓球の伊藤美誠選手とお母さまが作られたおにぎりの話をなさっていらっしゃいましたが、そのあと、伊藤選手の前に既に話を終えている高木美帆選手にもお話を振られ一緒に会話をなさいました。一度、目の前を通り過ぎた人との会話は終わりではなく、共通の話題であれば『一緒にお話しいたしましょう』という思いやりの場をその場で作られました。コミュニケーションをみんなで取りましょうという心配りと優しさ、その思いやりに強く感動いたしました。一般的にもたくさんの方が集まる会合などでは特にですが、誰とも会話せずにポツンと立っている瞬間は寂しいものですよね。私の職業柄からそういう視点から拝見していましたが、雅子さまのコミュニケーション能力、思いやりの真心からのマナーは本当に素晴らしかったです」(西出氏)  今回の園遊会の時間が大幅に超えたのも、さすが雅子さまと思える瞬間がたくさん詰まっていたからかもしれない。(AERA dot. 編集部・太田裕子) ◯西出ひろ子/マナーコンサルタント、マナー評論家、マナー解説者。大学卒業後、参議院議員秘書職を経て、マナー講師として独立。31歳で渡英。オックスフォード大学大学院遺伝子学研究者(当時)と英国にて起業。帰国後、企業のコンサルティングをはじめ、大河ドラマや映画、CMなどのマナー指導など多方面で活躍中。
【2023年4月に読まれた記事③】どうして秋篠宮ご夫妻なのか 新英国王の戴冠式への出席が両陛下ではない「理由」
【2023年4月に読まれた記事③】どうして秋篠宮ご夫妻なのか 新英国王の戴冠式への出席が両陛下ではない「理由」 2013年、アムステルダムで開かれたオランダ国王の即位式にのぞむ東宮時代の両陛下  まもなく暮れる2023年を、AERA dot.で読まれた記事で振り返ります。4月は、和歌山県で岸田首相を狙った爆発物事件が起きたほか、沖縄・石垣島沖で陸自の師団長ら10人が乗ったヘリが墜落しました。また、音楽家の坂本龍一さんや「ムツゴロウ」こと畑正憲さんが亡くなりました。AERA dot.では、翌5月にあった英国王の戴冠式に秋篠宮ご夫妻が出席する理由を取材した記事「どうして秋篠宮ご夫妻なのか 新英国王の戴冠式への出席が両陛下ではない『理由』」が読まれました(肩書や年齢等は配信時のまま)。 *   *   *  5月6日のチャールズ新英国王の戴冠式が約3週間後に迫った。チャールズ3世はカミラ王妃とともにロンドンのウェストミンスター寺院で、正式に王冠を授けられることになる。英王室から皇室に届いた戴冠式の「招待状」に対し、秋篠宮ご夫妻の参列が今月11日の閣議で正式に決まった。しかし、ネット上では、「どうして秋篠宮ご夫妻なのか」「天皇、皇后両陛下が参列すべきでは」という声がいまだにおさまらない。    そもそも、なぜ戴冠式に出席するのが天皇陛下や雅子さまではなく、秋篠宮ご夫妻なのか。  英国から届く「招待状」には、宛名の記載はないと言われている。だが、これまでの各国の戴冠式では、皇太子クラスの出席が慣例であった。どうなっているのか。  このような疑問に対して、英国政治外交史を専門とする関東学院大学国際文化学部の君塚直隆教授は、こう解説する。 「主人公は、戴冠式で王冠を授かる時の王と王妃です。しかし、各国の王や女王の序列は、在位歴によって決定されます。主役の新王や新女王らよりも、祝福する側に、格付が上となる、他国の王や女王、先代の王や女王が出席しては具合が悪いわけです」 1937年の英国王ジョージ6世の戴冠式当日。昭和天皇の名代で弟宮である秩父宮雍仁親王と勢津子妃が参列した 元首の参列は控える戴冠式  その慣習をつくったのは、欧州王室のトップに位置していた英王室であり、その線引きを明確にしたのは、1937年に行われたジョージ6世の戴冠式だった。 「ジョージ6世の戴冠式に、生母であるメアリー皇太后が出席したいと希望したのです。ジョージ6世の父・ジョージ5世の戴冠式に、生母であるアレクサンドラ王太后は、夫の喪は明けていたが出席していません。生母が息子の戴冠式をこの目で見たいとする思いはもっともです。しかし、それにはすこし問題がありました」  というのも、新国王の兄である前王のエドワード8世は、離婚歴のある米国人のシンプソン夫人との結婚を望み、議会と対立して王を退位した「王冠をかけた恋」で知られた人物だった。     【こちらも話題】 なぜ秋篠宮さまの発言は「波紋」を広げるのか 天皇陛下を支える弟宮の役割と狙いとは〈58歳の誕生日〉 https://dot.asahi.com/articles/-/207630   ブータンを訪問し国立博物館を見学した秋篠宮ご夫妻と悠仁さま 「王位を投げ出したエドワード8世(退位後は、ウィンザー公爵)に戴冠式に参列してもらっては困る、と英政府や王室は考えたのです。一方で、新王や新女王の母である王太后が出席を望むのも理解できる。そこで、線引きを明確にするために、他国を含み、引退した王や女王は式に参列できないとした経緯があります」  それは現役の国王や女王の参列にも影響した。  エリザベス女王の戴冠式を控えた1952年。ウィンザー公爵は「イギリスの国王もしくは女王の戴冠式にはいかなる国の元首もしくは前元首も出席しないという慣習に反するため、1953年6月2日にウェストミンスター修道院(寺院)での戴冠式には出席するつもりはない」という声明を出したという。 戴冠式も人脈を培う場  さらにいえば、新王や新女王が親交を深めるべきは、各王室の次世代の王や女王となる王子や王女たちだ。戴冠式で参列するのも、将来パートナーとなる王室メンバーのほうが、互いにメリットがある。  日本でもこの慣習に従い、エリザベス英女王の戴冠式には、当時皇太子であった上皇さまが出席した。 2015年、トンガ国王の戴冠式の後、王宮で催された昼食会の会場で、ピロレブ王女(右)と話す東宮時代の両陛下  平成の時代も、皇太子であった天皇陛下は2008年、トンガ王国のツポウ5世国王の戴冠式に参列。13年にあったオランダのウィレム・アレクサンダー国王の即位式と15年のツポウ6世国王の戴冠式には、皇太子ご夫妻であったお二人がそろって参列している。   しかし、今回の戴冠式で王冠を授けられる新英国王チャールズ3世の場合は、やや事情が異なるのだという。 「74歳であるチャールズ3世は、20代から母のエリザベス女王を助け、外交歴は50年以上になる。つまり、各王室にお友達が非常に多い新国王です。しかし、即位が遅かったため、親交をはぐくんできた同世代の王子や王女たちは、すでに各国の王や女王に即位しています。そもそも英王室から届く戴冠式の招待状は、招待する相手を指名していないはずです。英王室が取り決めた慣習は存在するものの、双方でより理にかなった事情があれば、誰が出席してもよい性質のものだと理解しています」   【こちらも話題】 王位継承第1位スペイン王女が17歳で軍隊へ 佳子さまは「ジェンダー平等」に言及、皇室の次世代は https://dot.asahi.com/articles/-/12423    実際、モナコでは、アルベール公とシャルレーヌ公妃は、真っ先に出席を表明した。  君塚教授は、英国の報道機関は「新国王のチャールズ3世も各国の王と交流を深めたいと考えている」といった内容の記事を報じていると話す。 「日本政府は、これまでの慣例に従って、皇嗣である秋篠宮さまを名代としました。とはいえ、昨今の王室を取り巻く状況を踏まえて参列者を決定する柔軟さもこれからは必要だと感じます」  君塚教授は、「戴冠式の参列者が両陛下でも問題はなかった」と考えていた。新国王のチャールズ3世と天皇陛下の関係がポイントだという。 「チャールズ新国王は皇太子時代に、平成と令和の即位の礼という重要な節目に2度も出席してもらっている。天皇、皇后両陛下は、エリザベス前女王の国葬に参列しています。そうなると、今回の戴冠式にチャールズ新国王への返礼の意を含む訪英を実現させてもよかったのではないかと感じます」 秋篠宮家と各王室のパイプ  一方で秋篠宮家も、各王室と親善において実績を積んできた。  平成の皇室は、メンバーの高齢化や皇太子妃であった雅子さまの体調がすぐれないといった問題に直面していた。外国の王室の葬儀や結婚式への出席も、機動力のある秋篠宮ご夫妻が出ることが多かった。いずれも2泊4日、往復は機中泊といった強行軍をこなしてきた。  葬儀への参列は国際親善の側面もある。両国の関係性や皇室とのゆかりの深さなども考慮される。04年に、オランダのユリアナ前女王(当時)の葬儀に参列し、ベアトリックス女王(同)主催の昼食会に出席し、親交を温めたのは秋篠宮ご夫妻だった。その2年前には、ベアトリックス女王の夫のクラウス殿下の葬儀にもご夫妻で参列している。秋篠宮さまは英国留学中に4回オランダを訪問するなど、王室一家と親交が深く、日蘭協会名誉総裁を務めている。 笑顔のオランダ・マルグリート王女(手前)と紀子さま。2018年にオランダ・ハーグで開催された肺の健康国際会議にて  アジア王室との交流も深い。13年には秋篠宮さまが、カンボジアのシアヌーク前国王の葬儀に参列。17年のタイのプミポン前国王の葬儀には、ご夫妻で参列している。   【こちらも話題】 天皇陛下のダジャレに雅子さまも大笑いのインドネシア訪問 東宮時代から「だよね」と自然体 https://dot.asahi.com/articles/-/195066    秋篠宮ご夫妻が、チャールズ新英国王の戴冠式に出席しても、十分に培った人脈で親善が期待できる。  君塚教授は、「秋篠宮ご夫妻に人脈がない」という批判は適切ではないと話す。一方で、戴冠式に出席することにすら批判が湧き起こる背景には、宮家自身が努力をおこたった結果である、と指摘する。 「宮家が築き上げた親善の実績と人脈を、もっと国民へアピールすべきであったと思います。いくらよい公務をしても、それが伝わらなければ評価はされません。その意味では、皇室のSNSを活用した発信に期待しています」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
【下山進=2050年のメディア第15回】車内誌『トランヴェール』最長連載は沢木耕太郎 人によって態度を変えない
【下山進=2050年のメディア第15回】車内誌『トランヴェール』最長連載は沢木耕太郎 人によって態度を変えない 『トランヴェール』の沢木耕太郎の連載は、2016年4月号から始まり6年の長きにわたって続いた。(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    JR東日本の新幹線に乗る楽しみのひとつは車内誌『トランヴェール』を読めることだ。JR東海の『Wedge』はグリーン車でしか読めないが、『トランヴェール』は普通車の座席ポケットにも入っている。 『トランヴェール』のファンになったのは、なんと言っても巻頭の見開きの旅のエッセイを沢木耕太郎が書いていたからだった。  今回JR東日本で広報を担当する渡辺友佳子さんに調べてもらったところ、『トランヴェール』の巻頭に旅についての連載のエッセイの掲載が始まったのは2001年4月から。最初の筆者は元中央公論の編集者で『時代屋の女房』で1982年の直木賞を受賞した村松友視。以来、28人の筆者たちが、巻頭で旅と人生について綴ってきた。  主な筆者を並べてみると、高橋克彦、嵐山光三郎、西木正明、田中優子、藤原正彦、浅田次郎、池内紀、泉麻人、伊集院静、角田光代、荻原浩、そして現在は柚月裕子とそうそうたる書き手が巻頭を飾ってきた。  しかし、この中でも圧倒的に連載期間が長かったのが沢木さんだった。この巻頭エッセイはどんなに長くても2年、短ければ3カ月で筆者が交替をしている。  そうした中で沢木さんは、2016年4月から2022年3月までの6年間にもわたって連載をしている。  なぜだろう? 6年にわたる最長連載の秘密 『トランヴェール』の最終ページには読者プレゼントが毎号掲載されている。いまどき葉書で応募をしなくてはならない。その葉書の余白に、沢木さんのエッセイの感想を書いてくる読者が圧倒的に多かったのだそうだ。それだけ心動かされるエッセイだったのだ。  これは自分もそうだった。  正月に妻の実家に挨拶に行った帰り、東北新幹線に乗った。2019年1月。あと3カ月で会社員生活ともおさらばすることの不安と、とりかかっている本が受け入れられるだろうか、という不安。その二つの不安でいっぱいだった。  しかし、普通席のラックに入っていた『トランヴェール』で沢木さんのエッセイを読んだらば、すーっとその不安が消えていくような気がした。 沢木耕太郎のトランヴェールの連載はこの二冊に収録されている。『旅のつばくろ』と『飛び立つ季節』。ともに新潮社刊    沢木さんも横浜国大を卒業したあと、就職をしている。が、丸の内に出勤をして一日で辞めてしまった。ゼミの教授はそんな沢木さんに「君は書くことが向いているかもしれない」とTBSがかつて出していた『調査情報』という雑誌の編集者を紹介した。  そしてエッセイには、イラストレーターの黒田征太郎に名刺をつくってもらった話が出てくる。「ルポライター」という肩書の名刺をつくってもらうが、黒田は沢木さんにこう言うのだ。 「どんな者にでもなることはできる。肩書をつけた名刺を一枚持てばいいのだから。しかし、難しいのはなりつづけることだよ」  そうか、でもとりあえず「なる」ことはできるんだ。そう思うと気が楽になった。  こんなふうに読者は旅の途中に読んだ沢木さんのエッセイに自分の人生を重ね合わせていたのだろう。 『トランヴェール』編集に存在する厳しさ 『トランヴェール』で沢木さんを担当していたのは、牧一彦という超ベテランの編集者だ。  連載の依頼をしに、牧が最初に会った時、沢木さんは自分が16歳の時に東北地方を一人旅で回った話をしたそうだ。  高校二年生になる前の春休みに東北を回った。  旧国鉄の学割の「均一周遊券」を使い、11泊の旅路のうちに、車内泊が7泊、駅のベンチで寝たのが2泊。  秋田から青森に行き、龍飛崎にいこうとしたが、怖じ気づいて青森に戻ってきてしまった。  それらの話は、実際に連載で何回かにわけて書かれることになる。  最初に会ったときから、沢木さんはタイトルも用意していたそうだ。 「旅のつばくろ」 「つばくろは、つばめの意味なんだけど、一般の人にはわかりにくいので、エッセイの最後に広辞苑からの説明をつけることにしましょう」  そう沢木が言うので、牧は嬉しくなった。  もう、コラムの完成形が見えているのだ、と。  牧のほうからはこんな提案をした。 「写真も沢木さんが撮影してくれませんか?」  旅費や宿泊費など気になる経費については「ご自由にお使いください」と牧は沢木に言っている。沢木さんのことだからそんなに高い宿には泊まらないし、お金はかからないと思っていたそうだ(実際にかからなかった)。  こうして、沢木が旅した東日本のさまざまな写真が、カラーで大きく掲載される2ページのエッセイ、「旅のつばくろ」が始まった。  この『トランヴェール』という車内誌には、編集にある厳しさが存在するように思う。  たとえば他の車内誌だと、書き手の中に明らかに、自分のクライアントにむけて書いているエッセイがあったりする。しかし『トランヴェール』は巻頭の旅のエッセイにしても、中の特集にしても、あくまで読者を向いている。  JR東日本によれば、この雑誌は閲読可能者数という数字をだしているそうだ。これはJR東日本の新幹線に乗り降りする年間の乗客を12でわった数で、月間、このくらいの人が新幹線でこの雑誌を手にとる可能性がある、というものだ。その数、900万人。  それだけの人が手にとる雑誌だから、なおさら読者のほうを向かなければならないのだろう。 「旅のつばくろ」の最終回は、2022年3月。  沢木さんが学生時代百貨店のアルバイトをしていた話が綴られている。買い上げた品物を客に届ける役目を任され、多くの政治家や経営者の家に届け物をするようになった。  中にはアルバイト学生に対する扱いが露骨に横柄な態度をとる家もあった。そんな中で三田にある高級アパートに届け物をしたときに、初老の紳士が応対した。その態度が自然で「普通でいて、優しかった」。その人はソニーの創業者のひとり井深大(まさる)だった。  私も週刊誌の記者をやっていたときに、三田のそのアパートに井深さんを訪ねたことがあるがまったく同じ印象を持っていた。  この最終回を沢木さんはこんな言葉で終えている。 〈私が人に会い、人から話を聞いたり、話をしたりするということを中心にした仕事を続けてきた中で、もしひとつだけ心がけてきたことがあったとしたら、それは誰に対しても同じ態度で接するということだったような気がする。人によって態度を変えない〉  JR東日本の車内誌『トランヴェール』のよさもそこにあるのかな、と思った。普通車の自由席でもグランクラスでも読むことができる。人によって態度を変えないいさぎよさ。それが編集のクオリティーにもつながっているように感じる。   ○下山進(しもやま・すすむ)/ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※AERA 2024年1月1-8日合併号
元財務省・佐川氏をかばい続ける絶望的な司法 「上級国民」なら故意の犯罪も許されるのか 古賀茂明
元財務省・佐川氏をかばい続ける絶望的な司法 「上級国民」なら故意の犯罪も許されるのか 古賀茂明 古賀茂明氏    また日本の司法に絶望する人が増えそうだ。 「森友学園」への国有地売却に関連し、安倍晋三元首相の夫人・昭恵氏の名前などが書かれた決裁文書が財務省の官僚によって改ざんされた。国有地の管理を所管する財務省理財局の当時の局長だった佐川宣寿氏が、その立場を利用して改ざんを指示した疑いが濃厚だ。この指示を受けて、現場でその実行を強制された近畿財務局職員の赤木俊夫さんは、それが原因で2018年3月に自殺に追い込まれた。この事件は、当時、多くの国民に衝撃を与えた。  何しろ、財務省という最強の役所の局長(改ざん発覚時はさらに出世して国税庁長官)という高い地位にある者が、時の首相を守るために、よりによって、国有地売却の決裁文書という非常に重要な公文書を「故意」に改ざんするよう部下に指示し、それが組織ぐるみで実行されたというのだから、普通の人が驚くのは当たり前だ。しかも、その結果、改ざんに涙ながらに反対した赤木氏を死に追いやるという重大な結果をもたらした。これほどまでの悪質な犯罪行為に対して、国民が強い憤りを感じたのは極めて自然なことだ。安倍内閣の支持率は急落し、政権は危機を迎えたと報じられた。  だが、国民の驚きと憤りとは裏腹に、佐川氏らへのペナルティは非常に軽いもので終わった。明らかな公文書改ざんだから、佐川氏を含めこれに深く関わった財務省関係者は、公文書改ざんの罪で罰せられると思ったが、結局誰一人起訴されないまま闇の中に葬られてしまった。  また、これほどの犯罪行為を故意に行った場合、人事院の懲戒のルールでは懲戒免職になるはずだが、財務省は佐川氏に普通に辞職を認めた後、「停職3カ月相当」という「なんちゃって処分」で終わらせた。懲戒免職であれば、退職金はゼロになるが、この軽い処分のおかげで、退職金はわずか513万円減額されただけで、4500万円近くの大金が佐川氏に支払われた。  こんなことで終わりにして良いのか。国民の誰もがそう思ったが、赤木氏の妻・雅子さんの思いは、その何万倍も強かったのではないか。  赤木氏が死に追いやられたのは、どう考えても佐川氏始め財務官僚らの責任だが、それがどういう経緯で行われたのかという事実関係は全くわからないままだ。財務省の説明では、赤木氏は、反対はしたものの、結局改ざんの中心的役割を果たし、それを苦にして精神を病み、それが原因で自殺したというようなストーリーになっている。まるで、赤木氏が精神的に弱い人間だったのが悪かったかのような説明だ。  しかし、普通に考えれば、鉄の規律を誇る財務省に対して、赤木氏がたった一人で上司に直訴して間違いを正そうとした行為は、非常に勇気を必要とする賞賛すべきことだった。  赤木氏は「強い人間」で、公務員の鑑と呼ぶべき人物である。  その赤木氏がどのような経緯で改ざんを強制されたのかは依然として闇の中というのでは、赤木氏があまりにもかわいそうだ。「真相の解明は、本来は国の責任だが、それが果たされないなら、私がやるしかない」。そういう気持ちで雅子さんは、止むに止まれず、国と佐川氏の双方を相手取って損害賠償責任を問う訴訟を起こした。  その後、この訴訟において、佐川氏の尋問が行われる段階になると、国は突然争う姿勢を翻し、全面的に負けを認めて事件の真相究明に入らないまま敗訴(1億700万円の支払い)という道を選んだ。卑怯なやり方ではないか。  そこで残ったのが本件佐川氏への損害賠償請求訴訟である。  だが、佐川氏への損害賠償請求には、国への請求とは違って高いハードルがある。  それは、公務員が職務上他人に損害を与えた場合は、その賠償責任は国または公共団体が負うこととされており(国家賠償法第1条第1項)、公務員個人は故意・重過失の場合に国または公共団体から求償されることはあっても(同法同条第2項)、直接被害者に対して責任を負うことはない(最高裁の判例)というルールがあるからだ。  このルールを何も考えず単純に当てはめると、国が1億円余りの求償権を行使して佐川氏に支払いを求めることはあり得ても、雅子さんの佐川氏への直接の請求は認められないということになってしまう。   【こちらも話題】 支持率17%しかない岸田政権に法律・予算をつくらせる危険 すぐに解散総選挙をすべきだ 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/209225 佐川宣寿氏    果たして、1審の大阪地裁の判決は、雅子さん敗訴だった。しかも、真相を闇に葬りたいという国の意向を汲んで、その審理の過程で佐川氏への尋問などは全く行わないまま判決を出した。  もちろん、雅子さんは控訴した。ここで諦めては夫の俊夫さんに申し訳ないという気持ちがその背中を押したのだろう。  その判決が維持されれば、佐川氏は、公文書改ざんという罪を犯して一人の善良かつ優秀な公務員を死に追いやっておきながら、公務員法上はほんのかすり傷程度の処分で退職金もほとんど満額受け取り、刑法上もお咎めなし、民事責任も問われないということになる。しかも、国は、1億円余の損害を受けているのに、佐川氏にこれを一円たりとも求償請求していない。その負担を国民に押し付けているのだ。  そして、佐川氏は、これまで一度も公の場で、公文書改ざんを主導し赤木さんを死に追いやったことについて謝罪もせず、説明もしていない。  こんなことが許されて良いはずがない。  だが、今回の控訴審では、大阪高裁が1審の判決をそのまま維持し、雅子さん側の敗訴となった。なんと残酷な判決だろう。  私は、今月19日にあった判決の翌日の午後、雅子さんに電話した。雅子さんの声はいつもながら明るい。それは、周囲を心配させないようにという気遣いとともに、自分を鼓舞しなければ生きていけないという雅子さんの差し迫った心情から出たものだ。  酷い判決でしたねと問いかけると、 「本当に酷いです」と答えながらも、 「それでも、私、生きていかなくちゃいけないんです。まだ諦めるわけにいかないですから」と健気に語ってくれた。  さらに、雅子さんはこう付け加えた。 「今回、裁判長が、佐川氏に謝罪や説明の法的責任はないと言いながら、『一人の人間として誠意を尽くした説明や謝罪があってしかるべきだ』と言ってくれたことを、一つの救いとして、年末年始を乗り越えていきたい」  裁判所が、佐川氏がとんでもなく酷い人間だという宣告をしてくれたと雅子さんは受け取ったのだ。雅子さんの思いと同じなんだと思いたい、とも言った。   【こちらも話題】 自民党パーティー券裏金問題の捜査で「安倍の呪縛」から逃れられるか 私たち国民がバカなのか問われている 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/208642  雅子さんは、この判決で大きなショックを受けたが、すぐに、それでも頑張ろうと思い直した。判決後、関係者と食事をして慰められ、また励まされている間は、自分を奮い立たせることができたという。  だが、一人で家に帰り、トイレに入った途端、張り詰めた気持ちが解け、悲しさと悔しさで涙が溢れて止まらなくなったと、その時を思い返しながら涙声で教えてくれた。私もその光景を思い浮かべて、言葉に詰まった。  今回の判決は、違法行為をした公務員個人には、直接の損害賠償請求はできなくても、「懲戒処分や刑事処分などで」制裁が加えられるはずだと述べたが、それが全く実現していないことへの言及はなかった。  また、国から佐川氏への求償権の行使もなされていない。  つまり、本来法律が想定した公務員への制裁は空振りになっているのだ。  ここでよく考えてみよう。  仮に、会社に雇われた運転手が職務中に事故を起こして人を死なせてしまった場合、その遺族は、会社に対して損害賠償を請求することもできるが、運転手個人にも同様の請求ができる。それは運転手に故意や重大な過失がなくても認められる。  ところが、今回の判決をそのまま放置すれば、完全な故意によって犯罪行為を指示し、公文書改ざんをさせた上に、それによって一人の人間を死に追いやった公務員は、なんのお咎めもなしで、謝罪すらしなくても良いということになる。 「公務員」だから、罪を犯しても特別に法律によって守られているのだ。  繰り返して言おう。 「一般市民は、悪意なく単なる過失で損害を与えたら、被害者側に直接損害賠償責任を負うのに対して、公務員だけは、悪意を持って罪を犯しても損害賠償しなくて良い」というのが裁判所の考えなのだ。  どう考えてもおかしいだろう。法律もそんなことを想定したとは到底思えない。故意に損害を与え、特に悪質な場合で、しかも十分な懲戒処分も刑事処分もまた国による求償権の行使もなされない場合に限っては、例外的に、被害者が公務員個人に直接損害賠償を求めることを認めるべきではないのか。   【こちらも話題】 「トリガー条項」凍結解除が解散の“口実”に 岸田首相がたくらむ起死回生のシナリオとは 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/207981  高裁の判決は、公務員個人への損害賠償を認めれば、公務員が萎縮してしまうと言ったが、判決により、犯罪行為を行うことについて公務員が萎縮することになるのなら、むしろ望ましいことだ。  裁判長は、この判決が「公務員は、罪を犯しても法律で守られているので心配ないですよ」というメッセージを出して犯罪を助長していることを全く理解していない。極めて愚かな判断だ。  法律や最高裁の判例を形式的に当てはめると結論が著しく不公正なものになる場合には、そのような結論に至らない解釈論を考えるのが「国民に寄り添う」裁判官である。  今回の裁判長は残念ながら、そこまでの知恵と勇気を持っていなかった。  雅子さんが最初に訴訟を提起してから来年3月で丸4年になる。その間、裁判ではがっかりすることが続いたが、 「もし、その結果を4年前に予測できたとしても、私は裁判を起こしたと思う」と雅子さんは話してくれた。  なぜなら、「自分には夫のためにできることはそれしかないし、自分が生きていく上でも、真実を知ることがどうしても必要なことだから」というのだ。  そして、こうも付け加えた。 「自民党以外の人が財務大臣になったら、全てを調査し直して、本当のことを明らかにしてもらえるのではないかと考えることもあります」と。  私は、その言葉を聞いて、そのとおりだと思った。裏金疑惑で絶体絶命のピンチにある自民党政権が倒れて政権交代が起きれば、雅子さんの夢が叶うかもしれない。  私は、心の底からそうなることを祈っている。   【こちらも話題】 支持率21%「ポスト岸田」でうごめく6人 大穴の上川陽子氏の弱点は「タカ派」と「経済」 古賀茂明 https://dot.asahi.com/articles/-/207411
「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた
「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた 日本中小企業大賞2023に出席したときの小雪(写真:Pasya/アフロ)    現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の第12週から出演している女優の小雪(47)。主人公・スズ子が思いをはせる愛助の母親かつ、日本有数の興行会社である村山興業の社長という役どころで、12月15日に放送された次週予告で初登場。これに対してSNSでは「小雪のラスボス感に震える」「これは怖い!」と反響を呼んだ。  1998年に放送されたドラマ「恋はあせらず」(フジテレビ系)で女優デビューし、パリ・コレクションにも参加するなど、モデルとしても活躍した小雪。かつては洗練されたクールビューティという印象が強かったが、ときを経て、朝ドラの予告での一瞬の出演でも話題になるほどの“貫禄っぷり”を見せつけた。 「小雪さんは2011年に俳優の松山ケンイチと結婚し、3児をもうけました。女優業に本格復帰したのは最近ですが、他の作品でも母親役を演じています。例えば、昨年11月に公開された12年ぶりの主演映画『桜色の風が咲く』では、9歳で失明し18歳で聴力を失った息子を支え続け自立させていく、たくましい母親役を好演しました。また、5月に配信され、相撲界を描いたNetflixシリーズ『サンクチュアリ -聖域-』では、相撲部屋の女将役で出演。しっかり者で美貌や柔らかさだけでなく、したたかさも兼ね備えたキャラを上手に演じていました」(テレビ情報誌の編集者)   【こちらも話題】 「ブギウギ」傑作朝ドラへの道の命運を握る?  “小夜劇場”が心配すぎる https://dot.asahi.com/articles/-/209132   小雪(写真:アフロ)   「子育てをして体格がよくなった」  最近はこうした人間的な重みを感じさせる役がハマっている印象だが、現在の私生活も影響しているのかもしれない。小雪は19年春ごろから自然環境の厳しい北の地にも住居を構えて、家族で2拠点生活を送っている。彼女が語ったエピソードからはたくましさがうかがえる。 「Precious.jp」(22年12月8日配信)では、田舎暮らしについて、自分たちが知らない生きる基本を自然はたくさん教えてくれると語っており、スーパーへの買い物は週に一度ぐらいで、畑で無農薬の野菜を作り、みそや漬物といった発酵食品なども作っているという。さらに、「もはや長靴しか履いてない。気付くと爪の中にも土が詰まっている暮らし」とも明かしていた。  また、「徹子の部屋」(テレビ朝日系、22年11月1日放送)では、「子育てをして体格が良くなったかな」と笑顔で話していた。田舎暮らしでの生活力が、力強い演技を生み出し、結果的にそれが貫禄につながっているのかもしれない。前出の編集者はこう語る。 「子育てへの向き合い方にも信念を感じます。強い体を作ってくれた自身の母の食事にならい、子どもたちの食事に日本の伝統的な食品を取り入れていると以前にインタビューで明かしていました。子どもたちには朝晩とみそ汁を出し、砂糖の代わりに甘酒を使った煮物や納豆など、発酵食品も毎食1品は入れているとか。また、子どもたちの体にお母さんの常在菌を入れて免疫力を高めてあげたいので、素手で5種類のみそも作っているそうです。一方、夫の松山は、小雪が自分の偏食を心配し、バランスのよい食事を作ってくれているとインタビューで語っていたことも。子どもだけではなく、8歳年下の夫の生活管理もしっかりやっている。小雪は一家にとって家長的な存在で、その雰囲気が貫禄も感じさせるようになったのでは」(同)   【こちらも話題】 松山ケンイチを覚醒させた妻「小雪」と「2拠点生活」 https://dot.asahi.com/articles/-/42478   独身時代の小雪(写真:Splash/AFLO、2008年)   私生活でもあまり怒らない  心境の変化も見逃せない。女性誌のインタビューでは、昔は女優や妻、母としてあるべき姿にとらわれていた時期があったが、自然に触れ、夜はスマホを見ない時間をつくる中で「幸せの価値観は自分で決めればいい」と思えたと明かしている(「美的GRAND」2021秋号)。自然の恵みを享受する生活の中で、生き方も働き方も自由でいいと思えるようになったという。 「3月に放送されたバラエティー番組に夫の松山が出演した際は、小雪について『あまり怒らないんです』と話していたこともあります。慌てず騒がない姿にも威厳というのは表れるもの。さらに小雪の場合、田舎でしっかりとたくましく生活を送っていることや、不自然に若作りをしないビジュアルも相まって、演じる役にも同世代女優にはない風格が出てきているのだと思います。まさに、『ブギウギ』の役どころはそうした一面が発揮され、ハマり役となる可能性は高いでしょう」(同)   【こちらも話題】 柳葉敏郎「ブギウギ」ダメ父親役で再注目 若い世代が知らない“武勇伝”だらけの過去 https://dot.asahi.com/articles/-/208532   スラっとした美脚は健在(写真:アフロ)   母になってから柔らかな雰囲気に  芸能評論家の三杉武氏は小雪についてこう述べる。。 「独身時代の小雪さんはクールで物静かな凛としたイメージもあり、そのカッコ良さやライフスタイルに憧れる同性ファンも多くいました。一方で、プロ意識の高さや裏表がない性格だったこともあり、取っつきにくい印象を持つ人もいたようです。夫の松山さんは結婚会見で、交際を申し込んだ際、『あなたみたいなひよっこに大丈夫なの? と言われた』と明かしていましたが、いかにもな発言だなと思ったものです。ただ、母になってからは取材現場でも、以前よりも柔らかな雰囲気を感じさせるようになった印象があります。もともと、独身時代から演技に対する評価は高く、海外や大きな舞台でも結果を出してきた方ですし、私生活や育児経験なども女優業にプラスに働いているのでしょう」  年を重ね、独自の存在感を放つようになった小雪が「ブギウギ」でどんな演技を見せてくれるのか楽しみだ。 (丸山ひろし)   【こちらも話題】 伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ https://dot.asahi.com/articles/-/205994  

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