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「国造り」の力に思いを馳せた飛鳥の里の丘の上 SCREENホールディングス・垣内永次会長
「国造り」の力に思いを馳せた飛鳥の里の丘の上 SCREENホールディングス・垣内永次会長 『源流』にはいくつかの水源から合流がある。母校を再訪した日、『源流』の水源に妻との年月を加えた。学生時代に知り合い、海外へも一緒だった(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年12月11日号では、前号に引き続きSCREENホールディングス・垣内永次会長が登場し、「源流」である甘樫丘や母校を訪れた。 *  *  *  眼下に、飛鳥寺がみえる。奈良県明日香村の飛鳥の都があった地域で、高校時代にオートバイで初めてきてから、何度か訪ねた。甘樫丘からの景色は、大きく変わっていない。くるたびに、初めてきた日を思い出す。  いま、自分は現代の飛鳥の里にいるが、万葉人たちも丘の麓に家があり、その周りを歩いていた。あの山の形とか神社の位置を、万葉人もみたのだと思うと、不思議な気がした。万葉の時代から現代に至るまでいろいろなことが起きたが、その時空を挟んで、そこに立って風を同じように感じている。「自分は万葉人から血を受け継いでいるのだ」と、ゾクゾクした。  併せて「昔の人は何で、どうやって、こんなところに国の形をつくったのか」と思いを馳せる。やがて「自分も他の人がやらないこと、やれないことをやろう」との思いを強めていく。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  ことし10月、甘樫丘を、連載の企画で一緒に訪ねた。甘樫丘は、いま国営飛鳥歴史公園内にあり、中を舗装した道が通っている。当時は公園の北側から未舗装の道に入って、階段を上った。再訪では初めて舗装道路を歩き、展望台へ出た。標高148メートル。目前に右から天香久山、耳成山、畝傍山と、大和三山が並ぶ。畝傍山の先に、二上山もみえる。あの向こうが、大阪だ。住んでいる京都は、北側になる。胸に、初めてきたときのゾクゾク感が甦る。 情報過疎の実家の郷 テレビが家々へ入り好奇心が生まれた  通った和歌山県湯浅町の県立耐久高校は、進学校で、級友は勉学に励んでいた。でも、「みんなと同じことをやりたくない」という気持ちが強まり、勉強はそれなりで済ます。代わりに「相棒」と楽しいときを過ごす。父から借りたオートバイだ。 人と違うことをやる、の基に好奇心がある。飛鳥の里の訪問も米国でのソフト開発も、好奇心が生んだ。好奇心を実行へ移す、その挑戦こそが自分の信条だ(撮影/狩野喜彦)    高校に入ってまもなく二輪車の免許を取り、行動範囲が広がった。自宅があった同県金屋町(現・有田川町)は、ミカン畑が広がり、山や川で遊べるいい郷だ。ただ、外部との交流は細く、小中学校時代は世間の「情報」と縁遠かった。でも、小学校高学年のときにテレビが家々へ入り、徐々に外の世界への好奇心が生まれ、その気持ちを「相棒」が満たしてくれる。  ツーリングは、独りでいく。近隣の山へいけば、西に紀伊水道がみえて「あの向こうは、どこへいくのか」と思い、いつか外国へいこう、と決めていた。 授業を抜け出た日 「いってこい」と言ってくれた先生  ある日、初めて授業を抜け出て、奈良県へオートバイで向かう。いく前に担任の先生に話すと、「そういう青春をするのだったら、いってこい」と言ってくれた。あちこちを回り、最後にこの丘へきた。夕景は幻想的で、二上山は夕日に染まっている。その光景を独占し、「万葉の里に立った」と思う。  自宅へ帰り、万葉集を開く。約1300年前に詠まれた作品には恋の歌も多く、胸がときめく。すべて、夢の中のようだ。1300年前と簡単に言うが、人々が繰り返し繰り返しいろいろな生活を重ね、文化を築き、国をつくった。その大きな時間を、丘の上で感じた。  社会人になって外国へいき、古い町で遺跡などを観て、人々がつくってきた長い歴史に敬意を抱く。遺跡は、1人ではつくれない。会社の経営も、社員、客、取引先と一緒になってよくしていくわけで、結局は人がつくり、そこに歴史を重ねる。それがサステイナブルな経営だ。  そんな思いを抱かせてくれた耐久高校時代の日々が、垣内永次さんのビジネスパーソン人生の『源流』だ。会社に入って、おかしなことにはっきり意見を言い、新しいことに挑戦する提案をし、米国駐在時に新しい潮流をみて本社に直言した。やらなければいけないことは、素直にやっていけばいい。その感覚も、耐久高校から流れ始めた。 『源流Again』で、飛鳥の里を再訪する前に、耐久高校へいった。きたのは、卒業してから1、2度。でも、様々なことは、忘れない。模擬試験も受けずにオートバイで走り回っていたのは、大学受験からの逃避だった、のだろう。  それでも、野球部、相撲部、男子バレー部、陸上競技部の主将たちと剣道部の2人と7人で「学校をよくしていこう」という会をつくり、「ますらお会」と名付けた。卒業しても毎年、集まっている。もう50年。耐久高校は、豊かな人脈を築いていく『源流』でもあった。  1954年4月、金屋町で生まれた。父は郵便局で働きながら、母とミカン畑も手がける兼業農家で、兄と妹の5人家族。家の周囲のミカン畑はいま、住んでいる兄が趣味の範囲でやっている。再訪したとき、ミカンが色づいていた。秋らしさを感じたが、初夏に花が咲くときが好きだ。白い五弁の花で、いい匂いが広がる。次は、そんな季節に帰ってきたい、と思った。 いつも追いかけた3学年上だった兄 「超えた」出来事も  兄は3学年上で、やんちゃで父に叱られるのをみて、自分はおとなしく振る舞うようになる。その兄の後を、いつも追いかけていた。山へメジロやヒヨドリを捕りにいくのについていき、鳥屋城中学校での部活も昼は野球部、夕方から天文部と、兄と同じ道を歩む。でも、3年生で天文部の部長だったとき、「兄を超えた」出来事があった。  再訪の日の朝、実家から兄の邦夫さんと一緒に、旧・鳥屋城中学校へ向かった。母校は統合で移り、いま小学校になっている。天文部は、伝統的に流星を観測した。近くに世界的に知られたアマチュア天文家がいて、その教え子の理科の教諭の指導を受けた。日が暮れると、10人ほどの部員がグラウンドに教室から運んだ机を並べて、空を眺める。山間だから空気がきれいで、観測しやすかった。  流れ星が空のどこを通り、どのくらい流れたかを記録し、まとめたものを発表する。それが3年生のときの新聞社主催の学生科学賞で、全国1位となる。兄のときは3位。意識はしていなかったが、兄を追うのが終わったときかもしれない。  78年に天理大学外国語学部(現・国際学部)のロシア語学科を卒業し、木材商社を経て、81年4月に大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)へ入社。主に海外営業畑を歩み、オランダと米国の子会社で社長や副社長を歴任。2014年に本社の社長、2019年に会長となった。  昨年、中堅社員向けに「経営力伝承塾」を始めた。若いときからの経験を、率直に「こういうことをやってきた」「自分はこう考えた」と話す。飛鳥の里もそうだが、会社にも歴史があり、社員、客、取引先が一緒になって歩んできた。それを学んぶことは、将来につながる。先輩たちは中途採用で入った自分にもチャンスをくれ、いろいろと教えてくれた。それに対する感謝も、つないでいきたい。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年12月11日号
雅子さま還暦60歳 マスク越しでもわかる微笑みの気品と魅力の理由 写真で振り返る
雅子さま還暦60歳 マスク越しでもわかる微笑みの気品と魅力の理由 写真で振り返る 春の園遊会ではあいにくの雨だったのを感じさせない笑顔の雅子さま。マスク越しだが微笑みがあふれているのがわかる=23年5月11日  12月9日、皇后雅子さまは60歳のお誕生日を迎えられた。ご成婚から30年、令和になって5年。還暦を迎えた笑顔あふれる雅子さまを写真で振り返る。   *  *  *    2023年1月2日、コロナ禍のため3年ぶりの「新年一般参賀」が実施された。何より注目を集めたのは成年皇族になられてから初めて参加される天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまだろう。    天皇陛下、雅子さまに続き、皇族の方々が宮殿・長和殿のベランダにお出ましになり、愛子さまは雅子さまの隣に並ばれた。おふたりのドレスは色もデザインも異なるものの、何となくフォルムが似ているのが話題になった。 新年一般参賀で、手を振る天皇、皇后両陛下と愛子さま=23年1月2日    お手振りのときに、雅子さまと愛子さまの袖口が見えたが、どちらも包みボタンが「6つ」。さらに、お手振りのときの腕の角度が一緒! さりげないシンクロコーデからは雅子さまと愛子さまの母と娘の絆が感じられた。 【こちらも話題】 愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? https://dot.asahi.com/articles/-/207282 皇室での半生を歌に  新春恒例の「歌会始の儀」は1月18日、皇居・宮殿「松の間」で開かれた。今年のお題は「友」。雅子さまは皇室に入られてからの半生を振り返り、友への思いを歌われた。 「歌会始の儀」に臨む天皇、皇后両陛下/皇居・宮殿「松の間」=23年1月18日   【皇室に 君と歩みし 半生を 見守りくれし 親しき友ら】    雅子さまは、59歳の誕生日に「人生のちょうど半分ほどを皇室で過ごしてきたことに感慨を覚えております」というお言葉を寄せられたが、歌会始で披講された歌は、その感慨がにじみ出るものだった。    2月23日には、天皇陛下の63歳の誕生日を祝う一般参賀が皇居・宮殿「長和殿」で行われた。コロナ禍で天皇誕生日の一般参賀は即位後初、つまり、雅子さまにとっても皇后陛下として初めてだ。 天皇誕生日の一般参賀で、おことばを述べる天皇陛下と皇后さま、愛子さま=23年2月23日  このときも雅子さまと愛子さまは、腕の角度が一緒だった。お言葉を発せられる天皇陛下の方にからだを向け、左手のひらに白い手袋と扇をのせ、そこに右手を添えられているが、その佇まいはほぼ同じ。 【こちらも話題】 園遊会の雅子さまの「ご家族さまですか?」にぐっときた 皇室の「これから」を考えるヒント https://dot.asahi.com/articles/-/194780 園遊会ではとびきりの笑顔の雅子さま  5月11日、東京・元赤坂の赤坂御苑で、令和発の春の「春の園遊会」が開かれた。18年秋以来およそ4年半ぶり、令和になってからは初めて。 春の園遊会の天皇、皇后両陛下=23年5月11日 あいにくの雨だった春の園遊会での雅子さま=23年5月11日     車いすテニスの第一人者で国民栄誉賞を受賞した国枝慎吾さんや、ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さん、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さん、東京五輪卓球金メダリストの伊藤美誠選手ら各界の功労者1000人余りが出席した。あいにくの雨だったが、マスク越しでもわかる、雅子さまの輝く瞳と笑顔は印象的だった。    秋の園遊会は快晴の空のもと11月2日に開催された。コロナ禍や代替わりの儀式のため、秋の開催は5年ぶり。シンガー・ソングライターの松任谷由実さんや将棋棋士九段の加藤一二三さん、漫才師の西川きよしさんら約1000人が招待された。 秋の園遊会でユーミンと談笑される天皇、皇后両陛下=23年11月2日    招待者のひとり、ユーミンは園遊会後の囲み取材で雅子さまの感想を求められ「理知的なオーラが伝わってきて、同じ日本女性として誇りに思います」と話していた。 【こちらも話題】 雅子さまは「猫ちゃん!」と声を弾ませた 園遊会でひふみんの暴走も包み込んだ両陛下の真心 https://dot.asahi.com/articles/-/205518 鹿児島、石川、インドネシアへ  今年は宿泊を伴う地方公務もあった。6月3日に「第73回全国植樹祭」で岩手県、9月16日に「第42回全国豊かな海づくり大会」で北海道、10月7日に「特別国民体育大会」の開会式に出席のために鹿児島県へ、10月15日には「いしかわ百万石文化祭2023」で石川県などに行かれている。 国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に出席した天皇、皇后両陛下=23年10月15日    6月17日から23日にはインドネシアを訪問。天皇、皇后両陛下にとって即位後初となる公式の国際親善だった。雅子さまにとっては、2002年にオーストラリア、ニュージーランド以来の約21年ぶりの国際親善訪問だった。 ボゴール宮殿のバルコニーで歓談する天皇、皇后両陛下とジョコ大統領夫妻=23年6月19日    インドネシアでも雅子さまの笑顔は明るかった。例えば、インドネシア・ジョコ大統領夫人の案内で、宮殿内でインドネシアの様々な伝統文化の実演を見て回られたとき。雅子さまはインドネシアの伝統的な衣装「バティック」の生地を羽織られ、少しはにかみながら弾ける笑顔を見せられた。    インドネシアを訪問される少し前、6月9日は天皇陛下と雅子の30回目の結婚記念日にあたる。それに先立ち、5月30日には、特別展「新しい時代とともに―天皇皇后両陛下の歩みー」も天皇ご一家で鑑賞されている。 特別展「新しい時代とともに―天皇皇后両陛下の歩みー」を天皇ご一家で鑑賞=23年5月30日    雅子さまのご婚約内定会見のワンピース、ご成婚パレードのドレスなども展示されているこの特別展では、鑑賞中の愛子さまが天皇陛下に「プロポーズを再現して!」とリクエストされたことも話題になった。天皇ご一家の仲の良さが感じられるエピソードだ。 【こちらも話題】 「はい、チーズ」と聞こえてきそう! 雅子さまが天皇陛下をパチリと撮影した瞬間 https://dot.asahi.com/articles/-/199014 微笑ましい「ごっつんこ」  天皇ご一家のご静養先の写真はいつも仲が良さそうで微笑ましい。なかでも、雅子さまの笑顔が弾ける2023年ベストといえば、4月5日、春の御料牧場での「ごっつんこ」ではないだろうか。天皇陛下が「あそこにちょっと桜が……」と指し示され、振り返ると雅子さまのおでこが! 天皇陛下と雅子さまはごっつんしてしまった。 笑い声が聞こえてきそうな春の御料牧場での天皇ご一家=23年4月5日  雅子さまのとっさのひとことが素晴らしかった。「ごっつんこ」と優しくつぶやき、声を出して笑い合った。それにつられて愛子さまも笑顔になった。何度映像で見返しても微笑んでしまう、心が温かくなるシーンだ。    この一年を通じて笑顔の雅子さまに、大手企業のマナーコンサルティングやNHK大河ドラマ、映画などのマナー指導も務めるマナーコンサルタントの西出ひろ子さんはこう話す。   「この一年間、雅子さまがマスク越しでもわかるほど微笑まれているのが印象的でした。目が微笑んでいらっしゃいます。笑顔をマニュアル的にいうのであれば“口角をあげて、歯を何本見せる”などと言われていますが、それは単なる作り笑顔で、気持ちは伝わりません。    こうして一年間を振り返ってみますと、雅子さまの笑顔は気持ちの伝わってくる、気負いを感じさせない、本当に心から自然な微笑みでした。その微笑みは私たちをも微笑ませてくださるものでしたし、雅子さまの微笑みから、幸せな気持ちにさせていただいた感じがいたします」 マスク越しでもわかる笑顔が印象的だった春の園遊会での雅子さま=23年5月11日    西出さんは、「天皇陛下の存在も大きいのでは」と続けてこう話す。   「ご成婚から30年、天皇陛下と雅子さまは信頼し合い、支え合っていらっしゃることが映像を通じて感じられます。雅子さまは天皇陛下が支え守ってくださる安心感もあり、皇后陛下としての自信といったものに、この一年間、一層磨きがかかってきたのではないでしょうか」    天皇陛下とともに支え合いながら、還暦を迎えた雅子さま。西出さんはこう言う。   「還暦を迎える50代の最後の一年間をさまざま色々な意味でまとめの年とし、いい意味で、とても前向きな新たな人生のスタートを歩まれるのではないかと思います。これまでできなかったこともあるかもしれないのですが、そうしたこともきっとこれから達成されていかれるくお姿が目に浮かびますね。    今年、21年ぶりに国際親善でインドネシアを公式訪問されたように、グローバルな活動も増えていかれるのではないでしょうか。仲が良いといわれるご夫婦ですから、天皇陛下もさらに雅子さまを応援なさると思います」    還暦を迎えられた雅子さま。その温かい微笑みは、さらに輝きを増していくことだろう。(AERA dot.編集部・太田裕子)
ゴキブリ飼育が静かなブーム?ペットショップで8万円、ヤフオク出品も 嫌われ者の「魅力」とは
ゴキブリ飼育が静かなブーム?ペットショップで8万円、ヤフオク出品も 嫌われ者の「魅力」とは 透けた羽根とエメラルドグリーンの体色が美しい昆虫だが、実は…=柳澤静磨さん提供    床の上をすばやく走る影。うねる触角、平べったい褐色の体。発見イコール抹殺と、激しく嫌われがちなゴキブリに、熱い視線を向ける人たちがいる。「ペット」として、飼育が静かなブームにもなっているという。なにが「魅力」なのか。 *   *   *  多い時で19種類のゴキブリを飼育していた――。そう話すのは、北海道大の水波誠・名誉教授だ。研究室ではほかに学生が、大きさが7センチ以上にもなる世界最大級のマダガスカルゴキブリも飼われていたという。 北海道大の水波誠名誉教授=本人提供    水波さんの研究テーマは、昆虫のコミュニケーション。夜行性のゴキブリは、性フェロモンを使って仲間を見つけ出している。脳の大きさが1ミリもないのに、景色を記憶する能力を持つゴキブリもいる。小さな昆虫が持っている、高い能力の秘密を解き明かすことが目標だ。 ゴキブリ研究の出発点となったワモンゴキブリ(メス)=水波誠さん提供    実験でよく使われるのが、比較的大型で扱いやすいワモンゴキブリ。しかし、水波さんたちは、フェロモンを感じ取るメカニズムが近縁種ではどう違うのか調べるため、国内外のゴキブリを集め始めた。幼いころには昆虫やクモ、キノコなどを集めることが好きで、ゴキブリにも特に苦手意識はなかったという。   ペアで8万円のGも  ゴキブリを入手する方法の一つが、ペットショップだ。   東京・板橋にある「フィッシュジャパン」は、主な商品は熱帯魚だが、爬虫類や昆虫なども販売している。そして国内外のゴキブリも扱っている。 「人気なのは、ニジイロゴキブリ、ルリゴキブリといった、姿がきれいなものですね」  と担当者は説明する。 体表が緑色に光るベトナム原産のニジイロゴキブリ。ペットとして人気が高い=柳澤静磨さん提供   体全体が金属光沢のある瑠璃(るり)色をしているルリゴキブリ=柳澤静磨さん提供    ニジイロゴキブリはベトナムに分布する種で、深緑色の金属光沢がある。1匹2000円ほどだ。ルリゴキブリは日本で最も美しいゴキブリと言われており、オスは見る角度によって青色に輝く。「1匹1000円を切る価格なので、よく売れます」と担当者。     カブトムシやクワガタムシと同じような重量感のある、豪州原産のヨロイモグラゴキブリ=柳澤静磨さん提供    また、大きくて「かっこいい」ゴキブリとして人気の代表格が、オーストラリアの草地で生息するヨロイモグラゴキブリだ。巨大化した茶色いダンゴムシのような姿で、8センチほどにもなる。人気だけに値段は高く、成虫のペアで約8万円、子どもなら2匹で3万円くらいになるという。  一方で、1匹500円前後のブラベルスギガンテウス(中南米原産)が、リーズナブルな価格で人気だという。    客層の中心は、30代の男性。爬虫類を飼育してきた人が、ゴキブリに興味を持つことが多いのだという。 「飼育が楽で、種類も多いので、それなりに人気があります。ただ、爬虫類マニアには好評ですが、ウサギなどの小動物を飼っている人には、かなり受けが悪いです」  と担当者は苦笑する。   ヤフオクは断然安い  さらに水波さんは、ペットショップのほかに「ヤフー・オークション」などのネットオークションで、ゴキブリを手に入れてきたという。その理由は価格だ。 「断然安いんですよ。私たちは研究用にオスとメスを4匹ずつ買うので、それなりにお金がかかります。なので、国内産はもちろん、輸入が許可された外国産のゴキブリについても、基本的にネットオークションで買っています」  農林水産省植物検疫所のウェブサイトで検索すれば、輸入が禁止されているゴキブリかどうかはすぐにわかる。  実際にヤフオクで「ゴキブリ」を検索すると、おびただしい数がヒットする。さらに価格も安く、ペットショップで一番人気だというニジイロゴキブリが1000円程度で売られていた。 ヤフオクにはたくさんのゴキブリが出品されている    扱っているのが生き物だけに、届いた時点で弱っていたり、死んでいたりというトラブルが心配になるが、「死着のようなトラブルは一度もありません」と水波さん。 「アイスクリームカップのような直径10センチほどのプラスチック製の容器に入れられて届くんですが、みなさんゴキブリを送る方法をよく勉強されていますよ」     ゴキブリの展示で知られる磐田市竜洋昆虫自然観察公園の「こんちゅう館」=柳澤静磨さん提供   「ゴキブリハンター」の語る魅力  ゴキブリへの愛情があふれて「ゴキブリスト」を自称しているのが、静岡県の「磐田市竜洋昆虫自然観察公園」の職員、柳澤静磨さんだ。同館はゴキブリの展示が充実し、「業界」では有名なのだという。  柳澤さんにとってゴキブリの魅力とは、「嫌われている」ことだと言う。 「嫌われているがゆえに誰でもその名前を知っていて、人間との関係が深く、つい気になってしまう。これは他の虫にはない魅力だと思います」  ちなみに、「家のリビングでもたくさん飼っています。妻からも特に何も言われません」。  ゴキブリはほかの昆虫に比べ、飼いやすいという。 「まず、えさが用意しやすい。雑食性なので、モルモットのえさなど基本的に人工飼料はどれでも食べます。サツマイモやキャベツなどの野菜類も食べる」  ゴキブリ同士で共食いもほとんどしないので、えさを十分に与えていれば、「勝手に増えていってくれます」。  飼育にあたって最も注意すべきなのが「脱走」だ。柳澤さんは、 「壁をよじ登れる種類のゴキブリだと、入れ物のふたを開けた瞬間に逃げ出してしまう。初めて飼うときは、脱走しにくい種類のゴキブリを飼ったほうがいい」  とアドバイスする。   海岸沿いの林から森林まで広く分布するサツマゴキブリ。うろこのような体表が特徴=柳澤静磨さん提供 主に南西諸島に生息するイエゴキブリ。独特な乳白色の模様が特徴だ=柳澤静磨さん提供    一般に飼育されるゴキブリとしては外国産が多いが、「日本のゴキブリを飼ってみたい」と、自分で捕まえる人もいるそうだ。国内には約60種のゴキブリがおり、その多くが森林や草原などに生息しているという。 「ゴキブリハンター」としても知られる柳澤さんは、 「ほとんどが夜行性なので、夜に捕りに行くことが多いです。虫捕り網を使うことはほとんどありません。手でつかんだり、小さなケースを上からかぶせたりして捕まえます」  と話す。  しかし、動きに慣れないと、捕まえるのはなかなか難しいという。 「ゴキブリは体が軟らかいので、手に力を入れすぎないようにしないと、せっかく捕まえても潰してしまうんです」   「ゴキブリ展-part6-」も 「流行っている」と言えるかどうかは不明だが、最近、ゴキブリを飼う人は増えているという。  そんなゴキブリ愛を持つ人たちが集まるのが、同園が毎年2~4月に開催する人気イベント「ゴキブリ展」だ。昨年は国内外の50種以上のゴキブリを生きたまま展示する「part6」展を開いた。 磐田市竜洋昆虫自然観察公園では毎年春に「ゴキブリ展」を開催している=柳澤静磨さん提供   「興味本位で、面白そうだからと来場する人が多いですが、ゴキブリが好きでわざわざ遠方から来てくださる方もいらっしゃいます。あとは、嫌いだけど、改めて見てみたいという人とか」  毎年実施されるのが、ゴキブリの人気者を決める「GKB総選挙」だ。  来場者に「投票権」があり、見事1位を獲得したゴキブリは「卒業」していく。これまでに6回の総選挙があり、第1回の優勝を果たしたのがオーストラリア原産のヨロイモグラゴキブリ。そのほか、白黒模様のドミノゴキブリ(インド原産)、透き通った羽根が美しいミドリバナナゴキブリ(中南米原産)などが「殿堂入り」している。 おしゃれな黒白模様のドミノゴキブリ。主にインドに生息している=柳澤静磨さん提供   透けた羽根とエメラルドグリーンの体色が美しい中南米原産のミドリバナナゴキブリ=柳澤静磨さん提供    通常、冬の企画展は入場者が少ないが、初めてのゴキブリ展は前年の約2倍。普段は家族連れが多いが、ゴキブリ展には友人やカップルなど、大人だけの来場者が多いという。来年は2月3日から、7回目のゴキブリ展を開催する予定だ。 「嫌われ者」のゴキブリだが、世界中に5000種ほどいるゴキブリのうち、屋内に住み着く種はごくわずか。人気があるというヨロイモグラゴキブリなどは、よく見ると愛嬌があり、癒されそうだ。 「ゴキブリ」といって、すべて毛嫌いするのは、早計なのかもしれない 。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)   【こちらも話題】 北海道でゴキブリが「木にびっしり」…なぜ札幌の高級住宅街の隣が“聖域”となったのか https://dot.asahi.com/articles/-/204922
「隠れブラック上司」がやりがちなNG行為の共通項
「隠れブラック上司」がやりがちなNG行為の共通項 無意識なブラック行動の典型が、「部下の時間を奪うこと」。たとえばメール処理ができない上司もブラックです(写真:gettyimages)    優れたリーダーとは「気くばりができる人」です。これまで、ビジネスは上意下達。上司が決めたことを部下が実行していれば成果は出ていました。  ところが、いまは顧客ニーズが複雑化した影響で、顧客の接点に近い、現場のメンバーが細かいニーズを吸い上げなければ成果が出なくなったのです。つまり、リーダーは、現場のメンバーが最高の環境で働くことができるように「気くばり」するのが仕事なのです。  本稿では、カルチュア・コンビニエンス・ クラブをはじめ、数々の会社で代表取締役を務めた柴田励司氏が、新刊『リーダーの気くばり』より部下に対してリーダーが考えるべき「気くばり」について解説します。  以前に『もしかしてブラック上司?』(ぱる出版)という書籍を上梓しました。  この本は、暴言罵倒する、残業を強いるなどの人格否定的な「ブラック行動」について書いたものではありません。むしろより深刻な「当人にまったく自覚がない」ブラック行動がテーマです。 よかれと思ってやっていることが…  自分の常識からすると当たり前の行動で、むしろよかれと思ってやっているのに、部下にはブラックと思われてしまう……。そのような言動をしていないかを読者にチェックしてもらうため、まとめたものです。  無意識なブラック行動の典型が、部下の時間を奪うことです。  たとえば、メール処理ができない上司もブラックです。メールの処理が遅い上司はブラック資質保有者、部下の仕事のタイミングも遅延させます。  深夜や休日にまとめて返信するのは、ブラック確定。隙間の時間を利用して、携帯端末からどんどん処理すべきでしょう。深夜、休日に返信を書いた場合には、下書きフォルダに入れておき、翌朝に送信するといいでしょう。  また、返信が遅れそうな場合には「〇日までに返事する」ととりあえず返します。長いメールが来たら、メールで返さずに電話をします。  特に長いメールを書いてくるということは、困っているか、いま何とかしてほしいと部下は思っているはずですから、その意を汲む意味からも、その場で解決できたほうがいいと思います。長いメールが来たときには極力会って話をするということを意識するようにしてください。  部下のスケジュールが公開されているにもかかわらず、それを確認せず呼びつけたり、仕事の依頼をするのもブラックです。そこには、部下の行動や負荷を把握していないうえに、部下の時間は自分のものという意識が、当たり前のように根底にあるように思います。  さらに、自分のスケジュールを公開しない上司もブラックです。部下からすると、いつどこで上司に相談したらよいかわからないからです。  みなさんが思う以上に、自分の行動がブラックであることに気づいていない管理職が多過ぎます。  こうしたブラック上司の存在率は業界ごとに異なるように思います。特に、人的流動性が低い業界で存在率が高いようです。  理由は簡単。他業界からの人材の流入がないため、世の中の変化を自分ごととして受け入れていない経営層、管理職層が多いからです。上司のやり方が変わらないので、そういう業界からはどんどん若手の有望人材が流出し、人が集まらない企業は事業継続ができなくなります。  経営層はこの悪循環を深刻な問題として捉えるべきです。 周囲とうまくいかない部下の対処  とても優秀な部下がいたとします。その部下は、自分の期待に120%応えてくれます。  その部下と話していると議論が弾み、気持ちもいい。つい、いろいろな仕事にアサインします。ところが周囲はその部下について総スカン。なんであの人ばかり重用されるのか……と陰口が飛ぶほどです。  あれだけやってくれているのに、なんでそんなにネガティブ評価なんだろう、と思い、その人の評価を修正しようとするのですが、うまくいきません。むしろ、なぜ、その人をそこまで守るのか??と周囲の感情を逆なでする結果となってしまいます。  その後も、その人を要所、要所で登用するにつれ、周囲の気持ちはリーダーから離れ、リーダーとその部下は孤立することになります。一方で、その人の行動についての意見(クレーム)も耳に入るようになり、その意見を当人に伝えて、なんとか周囲との関係性を改善してもらおうとします。ところが、本人からこう説明されます。  実は〇〇ということがあって、その行動になった。自分が動かなかったら事態(周囲との関係)は悪化しただろう。  これに「なるほど、周囲がわかっていない」と思います。この部下は自分と同じ目線でよくわかっていると思い、誰がどんなことを言っているのかを伝えてしまいます。ときにはメールを転送してしまったりします。  これが事態をさらに悪化させます。その部下と注進してくれた部下との関係性は最悪になります。 自分と周囲の評価が逆だったら  自分の評価は極上。ただ周囲の評価は真逆。こんなときは、自分の目が曇っているのではないかと疑いましょう。  これまで私は多くの人のアセスメントに関わってきました。5000人は優に超えているでしょう。この点からすると「人を見る目」についてはプロとしてそれなりの実績があるといえると思います。  しかしながら、こと自分が絡むことになると一気に目が曇ります。そういうものです。私情は判断を誤らせます。過去に数回、ここで書いたような失敗をしたので、自分の評価と周囲の評価にギャップがある場合にはこう捉えています。 ・その部下が自分にとって優秀なことは事実(ただし、それは自分に対してのみ) ・その部下が周囲とうまくやれていない(よくない影響をもたらしている)ことも事実  このため、こう心がけています。 ・その部下の周囲への影響を最小にするアサインとすべし ・それができない場合にはその部下を自分から離すべし  周囲のレベルとその部下のレベルに差があり、その部下の言っていること、やっていることのほうが自分の期待に応えているという場合であっても、その組織にそのレベルで動く準備がない場合に、無理にその部下に合わせようとすると、組織が機能不全になります。  何を食べるか、何の映画を観るか、どこに遊びに行くか……。物事をスパッと決められない人が多いようです。それがプライベートであれば笑い話で済むかもしれませんが、ビジネスとなると笑えません。 先日あるところでこんな話を聞きました。意思決定者がなかなか「決めない」ので困っているというのです。  彼は周囲からの提案に対して「NO」とは言わないそうです。しかし、ダメ出しだけはどんどんする。そこで再度検討して別の案を持って行くと、またNOとは言わず、ダメ出しをする。こんな感じで一向に決まらず部下たちが 困っているというわけです。  私は提案自体が悪いのではないかと思い、内容を吟味してみました。が、そんなことはないのです。 「いま決めなくてもいい」はない  上司の仕事は「わからないことを決めること」です。成功するかしないかは誰にもわかりません。部下からある程度の説明を聞いたら、自分の判断軸に照らして、「えいっ!」とひと思いに決めないといけません。  勤勉な上司の場合、自分の判断軸がないのに、下手に知識があるぶん、いろいろなオプションの検討を指示します。結果、ますます決められなくなるのです。  あなたが決められないのであれば、打開策は1つしかありません。  信頼を寄せる人に決めてもらうのです。その人に「これがいい」と言ってもらいましょう。あなたの上司でもいいでしょうし、外部のアドバイザーでもいいでしょう。 「最後は、子どもや妻が賛成するから決めた」なんていう経営者も少なくありません。どんな決め方であろうと、タイムリーに決めることが部下に対する「気くばり」となります。  ある企業に自分を高める努力を怠らない人がいました。誰よりも長く働き、熱心に課題に取り組む。その努力が認められ、30代にして役員に登用されました。  ところが彼をリーダーにした企画は、これまですべて頓挫しました。なぜなら、周りの人が動かないのです。「どうしたものか」と社長から相談を受け、この彼を分析してみました。  たとえば、会議の場で彼が意気揚々と発言していても、周囲はなぜか白けています。それでも彼は場を盛り上げようと一生懸命やっています。アイスブレーク、議論の可視化、KJ法……等々。多くのマネジメント本を読み、社外の研修に自費で出掛け、習得したスキルを実践していました。 「双方向のコミュニケーションを意識しています」。私とのインタビューでも、彼は優等生の回答をします。しかし、彼の周りに人は集まりません。いろいろ検討した結果導き出された、その原因は、彼が周囲の批判をすることにありました。 周囲を批判する人の問題点  彼の発言には、つねに他人へのネガティブな要素が含まれていました。そこに、「自分のほうが優れている」という意識が見え隠れするのです。こうしたタイプは、他人を蹴落としてでも上へ行こうとします。少なくとも、周囲の目にはそう映ってしまいます。  彼のように、何事も自分中心で、野心のある人と一緒に仕事をすると、周りの人はそのための「駒」にされてしまいます。  彼の自分を高めたいという意識は大いに結構です。伸び盛りの企業にとっては、むしろこういう人材は必要です。しかし、彼には周囲あっての自分、という意識が欠落しています。他者への気くばりがまったくありません。自分の利ばかり追求してはいけないのです。  私は彼を呼び出し、試しに、社内のほかの管理職の評価をしてもらいました。するとすべての人に対して良い点はわずかに5%、残りは問題点の指摘に終始しました。しかも大半は、「自分と比較して」の話。聞いていて気持ちがいいものではありませんでした。  一方で、彼自身のキャリアビジョンを聞くと、より大きな仕事をして社会を豊かにしたいと答え、その志はなかなか立派なものでした。  彼のなかには何かを成し遂げたいという思いが強過ぎて、足元が見えなくなっていたのです。周囲を動かすには、自分を捨てて奉仕する姿勢も必要です。  そこで彼にこうアドバイスしました。 「まずはあなたの志をみんなに感じてもらえるような存在になりましょう。いまは個人的な野心のほうが目立っています。この意味を考えておいてください」と。  志ある人には人が集まる。野心ある人からは人が離れる。リーダーとなるべき人は肝に銘じてほしいことです。(柴田 励司 : 株式会社IndigoBlue代表取締役)
ダイヤのペンギン100万円でも「貧しさ」は底なし 政治より「ナンノ離婚」を選ぶ国民の病 北原みのり
ダイヤのペンギン100万円でも「貧しさ」は底なし 政治より「ナンノ離婚」を選ぶ国民の病 北原みのり 23年1月、南野陽子さん(右)に「日・カンボジア友好70周年」親善大使の委嘱状を手渡す林芳正外相  2023年もあとわずか。紛争、虐殺、戦争のニュースに重たい気分になりながらも、東京の街を歩けば、クリスマス商戦真っ盛りで街はきらめき、ショッピングバッグを持ち歩く人々の笑顔と多くすれ違う。この国は今、平和なのだろうか。豊かなのだろうか。  先日、ジュエリーショップに行ったら、ダイヤモンドのペンギンの小さな置物が100万円ちょっとで売られていた。こんなもの誰が買うのか……と見入っていたら、30代前半くらいの若い女性が「わぁかわいい!」と言ってから数分でクレジットカードを出したので、本当に本当に本当にショックを受けた。1万円を使うくらいの感覚で100万円をポンとすぐに使える層というのを目の当たりにすると、「格差」という言葉がドンッと脳内に響く。ダイヤのペンギンなんて、何に使うのか? という平凡な疑問など、庶民が背負っておけ! という感じだろうか。ああ、なんてこと、日本社会の格差はかくも広がりつつ……と、ぼんやり歩いていると、別の店で中型犬ほどの大きさの金色のゴリラが売られていた。思わずふらふらと中に入って、「その金のゴリラは、おいくらですか?」と聞いてみた。「10万数千円(←はっきり覚えてない)です」と、黒いスーツをビシッと着た店員がにこやかに答えてくれた。へーと、ゴリラを見つめる。隣には銀色のゴリラもいた。狭い店内にはお客さんが何人もいて賑わっているので、きっと金のゴリラも遠くない未来に売られていくのだろう。  日本は今、どのくらい、豊かで、どのくらい、貧しいのだろうか。  お金持ちは天井知らずだが、貧しさには底がない。ホームセンターなどに行けば、いかに暖房を使わずに部屋の中で暖かく過ごせるかというグッズが競うように売られている。中流層がごっそり消えてしまった日本で、今、極寒を生き抜くための電気代や灯油代が死活問題になっている。ガスも電気も水道も止められ、行き場を失う人々のニュースが珍しくなくなっている。親の世話に追われる子どもたちがいる。餓死者も、給食代を払えずに学校に行かなくなる子どもたちもいる。貧しさが人々の生存を脅かしている。  自民党の政治家の人たちが何億円も集めて一部を報告しなかったなどのニュースが流れていても、これが政治への信頼を根本から覆す大事件である! という勢いにはならない(ですよね……今のところ)。この事件が1980年代に起きていたとしたら、恐らく政治生命を絶たれ、逮捕をまぬがれない政治家が一人や二人では済まないレベルで問題になるのではないかとも想像する。  私は当時子どもだったが、それでも社会から感じる政治への怒り、政治への希望があり、政治がらみの事件で社会はその都度揺れていた。  今の日本では政治家の不祥事があっても、どこかで「またか」という気分と、「どうせ何も変わらない」という諦めと、何より「そんなことより、日々の生活に追われすぎてる」という焦燥と、「自分と自分の家族の幸福が守られていれば問題ない」という無関心で、うやむやになってしまうのを感じる。社会全体を底上げして、みんなで豊かになろう、みんなで幸福になっていこう、という希望が政治になくなってしまったのかもしれない。豊かになるのも、貧しくなるのも、全て自己責任だ。 ……書いているうちに暗くなってしまった。こういう現実に向き合うのが嫌すぎて、全く自分の人生とは一ミリも関係ない南野陽子さんの離婚のニュースを追いかけて、彼女の男運の悪さの根源にあるものとは何か……なんてことを考えているほうが気が楽……という気持ちに私はなってしまいがちなのだが、もしかしたらそれ、この国の病に私もかかっているのかもしれない。  考えてみれば、今年一番日本中のメディアを盛り上げた事件といえば、木原誠二・前内閣官房副長官の妻の元夫の不審な死についてのことでもなく、オリンピックをめぐる政治家の汚職疑惑でもなく、今真っ最中の政治献金問題ですらなく、ヒロスエの不倫、だったのではないか(それすらももう、過去の感じですが)。自分の人生に全く関係のない他人の結婚や不倫や離婚のニュースには関心を持てるが、自分の人生に確実に深く関わってくる政治には無痛気分を選択してしまう。そんな私たちの社会は、平和なのか、混乱状態なのか、豊かなのか、貧しいのか……わからない先行き不透明な2023年も、もうすぐ終わる。本当の平和、本当の豊かさを……やはり願わずにはいられない。
松嶋菜々子も後押し!? 夫婦共演CMきっかけに「反町隆史」が50歳から再ブレークの予感
松嶋菜々子も後押し!? 夫婦共演CMきっかけに「反町隆史」が50歳から再ブレークの予感 反町隆史    まもなく50歳を迎える俳優の反町隆史だが、来年1月スタートのドラマ「グレイトギフト」(テレビ朝日系)で、“うだつの上がらない病理医”という役で主演を務めることが決まっている。来春はさらにカンテレ・フジテレビ開局65周年特別ドラマ「GTOリバイバル」で、26年ぶりに鬼塚英吉を演じることも決まっており、反町にとって飛躍の年となりそうだ。 「『ビーチボーイズ』や『GTO』など、数々のヒット作で主演を務めてきた反町さんですが、近年は人気ドラマ『相棒』シリーズでの、杉下右京の相棒役が幅広い年齢層から支持されて当たり役となりました。年を重ねるにつれ、渋みや貫禄が増しており、昨年の綾野剛さん主演『オールドルーキー』では、スポーツマネジメント会社の社長役を演じ、落ち着いたトーンと時折見せるちゃめっ気ぶりでファンを増やしました。来春主演の『グレイトギフト』では、いつもシュッとしているイメージの反町さんが、ぱっとしない医師役に挑戦するので、新境地といえるでしょう。しかし本人は、冷蔵庫にスマホを入れていたことがあったり、ラーメン屋さんで隣の人のギョーザをうっかり食べてしまったことがあると明かしているので、こうした役も意外とハマるのではと思います」(テレビ情報誌の編集者)  反町といえば、最近は妻である松嶋菜々子との夫婦共演CMでも話題だ。反町が資生堂のメンズスキンケア商品のアンバサダーに就任したことを受け、11月22日の「いい夫婦の日」から20年ぶりの共演となるCMの放映がスタート。同製品発表会では反町は、「CMに妻と出られてうれしい」としつつ、撮影時に監督から「素のままで」とのリクエストがあったそうで、「今までは役者として常に役を背負うのが当たり前だったので、逆に自然体に素になることがすごく難しかった」と本音も明かしていた。 新婚時代の反町隆史と松嶋菜々子(2001年)   7年間、目覚まし時計をかけたことがない  50歳となる反町だが、雑誌のインタビューで「若い世代へ伝えたい、大事にしているルール」を聞かれると「あまり頑張りすぎるなということ」と答えている(「GetNavi Web」22年4月8日配信)。100点を取るのも大切だが、「どんな状況でも確実に60点や70点を取り続けることのほうが大切」との考えを持っているという。頑張りすぎず、バランスよく生きることを信条にしているようだが、「30歳、40歳と年を重ねていくなかで、少しずつ余裕を持って人生や時間を楽しめるようになっていった」と語り、娘2人の子育てを通じて自身も成長したと話していた。 「マイペースに見えますが、反町さんの私生活は相当ストイックなようです。ルーティンは『早寝早起き』だと各所で話していますが、なんと『相棒』の撮影をしていた約7年間、一度も目覚ましをかけたことがないそうです。目覚ましで起きると頭に響くので、爽やかに起きたいからと理由を話していましたが、起床後に読書をしたり、台本を読むことで脳が活性化し、テンションが上がると語っていました。またアスリート並みのトレーニングを欠かさないことでも有名ですが、その美脚ぶりがニュースになったこともありました。裏では相当な努力をしているんだと思います」(女性週刊誌の編集者)  反町を語るにあたり、ドラマ「相棒」は欠かせない存在。共演していた水谷豊とは、プライベートでも仲良がいいことで有名だ。ゴルフが共通の趣味で、一緒にゴルフ道具を買いに行くほど親交が深い。反町は水谷と約7年間仕事をするなかで、「人としても、俳優としても、いろいろなことを学ばせていただきました」と対談で語っている(「GOETHE」22年5月号)。「徹子の部屋」(テレビ朝日/22年3月22日放送)に反町が出演した際は、水谷は自分の10歩先、時に20歩先を歩いているといい、「その差が縮むことは半分不可能に近い」と表現していた。また水谷の背中を見続け、「大先輩というか、僕にないすべてのものを持っている方」と尊敬の意を表していた。 大先輩だという水谷豊(左)と反町隆史   水谷豊が言い当てた50歳の再ブレーク 「反町さんが『徹子の部屋』に出演した際、水谷さんがサプライズでメッセージを送ったのですが、そこには『人生、仕事、これまで積み重ねてきたことが役者として発揮できるのは50歳からだと思います』『この先、相棒の冠城亘とも違う、魅力的な役者、反町隆史を見られることをとても楽しみにしています』と書かれていました。熱いエールに、反町は男泣きし、ハンカチで涙を拭っていた場面が印象的でした。水谷が言い当てたように、主演ドラマが50歳で決まったことには驚きましたが、アラフィフになった反町が、どんな演技を見せてくれるか楽しみですね」(前出のテレビ誌編集者)  芸能評論家の三杉武氏は反町についてこう述べる。 「反町さんは90年代を代表する人気俳優ですが、当時はそのビジュアルに近いワイルドな二枚目役が多かった印象です。年を重ねてからは渋みを漂わせる“イケおじ”俳優として昔の活躍を知らない若い世代からも支持を集めています。また、近年の活躍においては、松嶋菜々子さんの存在抜きには語れません。芸能界屈指の大物カップルであると同時におしどり夫婦としても知られており、過去には夫婦仲良く娘さんの学校行事に参加する姿や、今年に入ってからも肩組みデート姿を女性誌にキャッチされています。ともにトップ俳優同士、長年にわたって芸能界の最前線で活躍されていますが、そうした状況を実現できているのもパートナーの理解や協力があってのことでしょう」  2024年は反町にとって“グレイト”な年となりそうだ。 (高梨歩)
「ブギウギ」の六郎は炭鉱のカナリア 戦時下も、ヒリヒリ度が上がった現代も
「ブギウギ」の六郎は炭鉱のカナリア 戦時下も、ヒリヒリ度が上がった現代も   (C)NHK  スズ子(趣里)の弟・六郎(黒崎煌代)は、赤紙が来てからずっとはしゃいでいた。  まずは「すごいやろ、なあ、すごいやろ」と病床の母・ツヤ(水川あさみ)に見せにいった。出征用に髪を丸めると短い箒を機関銃に見立て、「はな湯」の常連客相手に戦っていた。ドドドドドド、ドドドドドド。そう言いながら撃ったかと思うと倒れる。そして「花田六郎は敵の弾に当たりましたが、死んでも機関銃を放しませんでした」と言う。  機関銃でなく「ラッパ」だったな、戦前の教科書に「立派な兵隊さん」として載ってたんだっけ。そんなことを思いながら、カメの帽子をかぶって戦争ごっこに興じる六郎を見る。そこに父・梅吉(柳葉敏郎)が来る。ツヤの死が近いことが、はっきりしたばかりだった。そうとも知らない六郎は、「あ、敵や、ドドドドドド」と近づいて来た。「六郎、静かにせい」と梅吉。が、六郎は「ドドドドド」をやめない。次の瞬間、梅吉がものすごい声で怒鳴った。「うるさいわい!」。六郎は後ろに倒れ込み、そのまま固まっていた。  その夜、「すまなんだな」と謝る梅吉に、六郎は「大きい声、好かんねん」と言っていた。大きい声が嫌いな人に、兵隊が務まるはずもない。見ていた全員が思ったはずだ。同時に死の予感でいっぱいになり、すでに心が苦しかった。  勘助(尾上寛之)を思い出した。朝ドラ「カーネーション」のヒロイン糸子(尾野真千子)の幼なじみで、2度目の出征で戦死する。最初の出征から4年で帰って来た時、腑抜けのようになっていた。また赤紙が来た時は、「やっとしまいや」と言う。  マイ・ナンバーワン朝ドラ「カーネーション」。勘助はそこで、戦争における「加害」を表す役割を持たされていた。勘助の母が戦後20年経ち、勘助は「された」のでない、「した」のだ。そう悟る。加害とは、加えた方も害するもの。それが勘助だった。 【こちらも話題】 菊池凛子「じゃがいも」の毒舌が痛快すぎた! 「ブギウギ」は年末どこまで盛り上がるのか https://dot.asahi.com/articles/-/206755   (C)NHK  六郎と勘助は、戦争に対応できない男子同士だ。だけど、その果たす役割は、かなり違うと思う。中学を出て大きな工場に就職したが、性に合わないからと和菓子屋に転職する勘助は、競争を嫌う、優しい男子だった。六郎はもっと直感的というか、本能的に生きているように思える。カメが好き、学校は苦手、はな湯は好き、大きな声は苦手。    きっと学校などで言われていたからだろう、六郎はツヤにこう言っていた。「甲種合格しても、どんくさいおまえには赤紙来いへんと言うヤツおったけど、ちゃんと来たわ」。ツヤはこう返していた。「あんたはどんくさいことなんかないで。みんな、ほんまは、あんたみたいな素直で正直な人間になりたいと思うてんねんで」。飾らない六郎を見ていて、心が洗われたような気持ちになったことは私もあった。だが、それだけではない。 (C)NHK  招集日の直前、六郎が東京のスズ子を訪ねて来た。下宿のご飯が「ものごっついおいしい」とお代わりし、2階に上がると「きれいな部屋やなー」とクロールみたいに手足をバタバタさせていた。六郎の明るさが、スズ子を明るくしている。が、布団を並べて寝たところで、六郎は本当の気持ちを語りだす。「死への恐怖」を語るのだ。  死ぬ直前はすごく痛いだろう、目の前が真っ暗になり、それからどうなるのか、と言う六郎に、スズ子は「あんたは死なん」と言う。「だけど人間、みんな死ぬ」と返し、「怖いの好かんねん」と言った。六郎にも、隠さなくてはならない本音がある。そのことが胸に迫る。六郎のような人間を、死なせてはいけないと思う。  六郎は、炭鉱のカナリアなのだ。そんなふうに思った。戦争の冷酷さを本能的に察知するという意味もある。が、むしろ、今を生きる私たちのカナリアではないかと思った。 【こちらも話題】 「蒼井優」が朝ドラで“モンスター俳優”の本領発揮 ママになっても変わらない「孤高」の演技力 https://dot.asahi.com/articles/-/203836   (C)NHK  大きな声が嫌いな六郎はパワハラ、モラハラが横行する時代に、大いなるカナリアだ。それが一つ。二つ目は、もうちょっと複雑だ。今って、誰かが誰かを無意識に傷つける時代だなー。六郎って、そのカナリアでもあるなー。そんなふうに思ったのだ。「○○活躍社会」と、まるで全員が活躍できるような言い回しを、しょっちゅう耳にする。でも、そんなのありえない。だって、それぞれ立場が違う。それが当然なのに昨今のやっかいなのは、それでお互いが傷つけ合ってしまうところだ。自分と誰かの立場の違いを、意識させられすぎる毎日なのだ。  六郎が出征したのち、スズ子が怒鳴るシーンがあった。相手は、弟子にしてくれと押しかけてきた小夜(富田望生)だ。妻を亡くし、酒浸りの梅吉と同居するスズ子。小夜に梅吉の面倒をみてもらうはずが、2人で飲んでいた。スズ子はスズ子で時局から、三尺四方の中で歌わされている。父と娘の事情が交錯し、スズ子は怒鳴った。部屋から出て行く小夜は、裸足だった。スズ子にそのつもりはない。だけど、人は誰かを傷つけているのだと思う。 「ブギウギ」NHK総合の初回放送は毎週月曜~土曜の8:00から。(C)NHK  梅丸楽劇団の解散が発表された場面で、羽鳥(草彅剛)が「いつかまたみんな集まって、存分に楽器をならそうじゃないか」と言った。そこに聞こえたのが、「羽鳥さんにヒラの楽団員の気持ちなんか、わかりませんよ」という声。羽鳥の言葉に他意がないことはわかっていても、カチンと来る人がいる。作曲家とヒラ。立場の違いが人を傷つける。  六郎の「大きい声、好かん」があったから、スズ子や羽鳥、小夜に楽団員、全員が自分に重なった。誰かに傷つけられ、誰かを傷つける。そのヒリヒリ度が上がっている今。六郎は、現代のカナリアだと思う。
貧困家庭を救う「無料塾」をつくった37歳会社員がまさかの“貧困”に…立ち上げ1年の壮絶なバイト生活
貧困家庭を救う「無料塾」をつくった37歳会社員がまさかの“貧困”に…立ち上げ1年の壮絶なバイト生活 「八王子つばめ塾」をスタートさせて半年後の小宮位之氏    2012年に生徒1人から始めた無料塾「八王子つばめ塾」は、半年後には生徒が6人に増えた。このとき、創始者の小宮位之氏は、正社員の仕事を辞めて塾の運営に専念すると決意を固めた。それからは妻と3人の幼子を養うために、複数のアルバイトと塾運営を掛け持ちする日々が始まる。貧困に苦しむ子どもを救うために無料塾を立ち上げた本人が貧困に陥ってしまうというパラドックス――だが、この苦しい生活の先にあったのは、1年後に大きく成長した「八王子つばめ塾」の姿だった。『「無料塾」という生き方』(ソシム)より一部を抜粋、編集して掲載する。 *  *  * 育った場所へ戻ってくる「つばめ」  なぜ「つばめ」なのかと、よく質問されます。実は小さな頃から住んでいた都営団地のすぐ近くにツバメの巣があって、親鳥が子育てをしていたのです。その様子を毎年観察し、幼心にツバメはかわいいな、と思いながら私は育ちました。  ツバメはご存じのとおり渡り鳥で、春に生まれた雛が大きくなり、夏になると巣立って海を越えて南の国々へと旅立ちます。そこで成長したツバメは、また翌年の春に日本へ戻ってくるといいます。その習性と無料塾で実現したいこととが、パッと重なり、これはピッタリだと思ったのです。  八王子つばめ塾は、100%ボランティアで構成されている組織です。その原動力の1つは、ボランティアによる学習支援を受けた子どもたちが大きくなって、またボランティアというフィールドに戻ってきてもらいたいという思いです。  同じ巣や同じ地域でなくても、教育ボランティアでなくてもかまいません。それぞれが成長した先でそれぞれが行えるボランティアをしてもらうこと。自分から人のために行動しようと思ってもらうこと。これこそが私たちの理念であり、それを実現してもらいたいという願いを込めて、「八王子つばめ塾」と名付けたのです。 長男の入学式で撮った家族写真。小宮氏はこのとき完全な無職だった   本人が貧困に陥る  2012年9月、八王子つばめ塾は、講師は私1人、生徒1人から始まりました。  半年後には、1人だった生徒は6人に増えました。ボランティア講師のなり手はそれ以上に増え、10人を超えていました。生徒よりも講師のほうが多い教室で、私も一緒に教える日もありました。  教育畑出身だった私には、八王子つばめ塾はまさに天職でした。働きながらボランティアをやってみたいと、ある意味で気軽に立ち上げた無料塾の活動に、やればやるほどのめり込んでいきました。  八王子つばめ塾を作って約半年後の2013年3月末で勤め先を退職。4月には長男の小学校入学式を、その数日後には次男の幼稚園入園式を控えています。その父は、再就職先はおろかアルバイト1つ決まらない完全な無職です。そして三男はまだ1歳半。  その1週間後に、ようやく月収数万円のアルバイトが決まりましたが、とても生活費には足りません。どうしようもない状態です。妻は「私も働けるから」と、早朝からパートに出てくれました。  その後も家族を養う手だてを探し、家庭教師、予備校の講師、弁当屋の皿洗いに配達、コンビニの夜勤……無料塾の運営や生徒に教える時間を確保できる仕事ならば何でもやりました。何足ものわらじを履きながら、八王子つばめ塾で教え続けました。しかし、八王子つばめ塾の運営は本当に楽しくて、つらいと思ったことは一度もありません。一番の苦労は、自分と家族の生活を守ることでした。  妻と3人の子どもを抱えながら自分のやりたいことへと突き進むのですから、家族に苦労をかけてはいけないと思い必死に働きました。37歳にもなってアルバイト先で「いい加減に仕事を覚えろ! お前!」なんて頭ごなしにどなられながら、厳しい生活を送る毎日でした。  貧困をなんとかしたい! と無料塾を立ち上げた本人が貧困に陥るブラックジョークのような状況です。ここまで没頭して打ち込まなければいいのでしょうが、無料塾を全国に広げたいと思ってしまったものだから、こればっかりは致し方ありません。 最初に参加したボランティア講師が担当した授業風景   設立から1年で生徒は50人に  アルバイトを掛け持ちしながら、2013年5月にNPO法人化を目指すための準備を始めました。これまでは全くもって個人の活動でしたが、生徒やボランティア講師が集まるようになり、活動を個人で対応できる範囲にとどめるべきではなく、オープンな形で進めていくべきだと思うようになりました。  その根っこにあったのは、私的な活動から公的な活動へ、さらに八王子から全国へ無料塾を広めたいという思いでした。  この当時は、八王子つばめ塾どころか無料塾自体が全く知られていませんでした。私が無料塾の活動を広めるべく「無料塾を作りませんか」と話をしても、どこの馬の骨とも分からない男が、聞いたこともない塾を作ろうと言っているだけです。そこで、しっかりとした団体が運営しているという裏付けを得るためにNPO法人化が必要だと考えました。  すべては「現在の収入格差を、子どもたちの教育格差にしない。そして現在の教育格差を、次世代の収入格差につなげない」という大きな目標のためです。  東京都の認証を受け、2013年10月28日付けで「特定非営利活動法人八王子つばめ塾」になりました。  苦しい生活が続く一方、八王子つばめ塾には、次から次へと関わる人が増えていきました。設立当初は、「2〜3年後に生徒が10人いて、5教科のうち1教科でも上手に教えられる講師が各教科で1人ずつ、合計5人も集まれば、立派な教育ボランティアだと胸を張れる」とイメージしていました。ところが1年後には生徒が50人にまで増え、ボランティア講師も約60人と大所帯になります。  たった1年でここまで大きくなるとは、予想だにしていませんでした。 ※【後編】<子どもを救う「無料塾」という生き方の原点となった貧困体験 大学受験直前「家の全財産は800円」>に続く(12月5日公開) ●小宮位之(こみや・たかゆき)/認定NPO法人八王子つばめ塾理事長。1977年東京都生まれ。貧困家庭に育つ。都立南多摩高校、國學院大學文学部史学科卒業。私立高校の非常勤講師や映像制作の仕事を経て、2012年に無料塾である「八王子つばめ塾」を設立。翌年、NPO法人化。塾創設以来11年間で、300名を超える卒業生を高校や大学に送り出す。無料塾を立ち上げたいという個人への助言活動も精力的に行い、全国で50か所以上の無料塾の立ち上げをサポート。現在は、NPO法人東京つばめ無料塾の理事長を兼任し、東京薬科大学と私立高校で非常勤講師を務める。
愛子さま22歳「笑顔の連鎖」と気になる進路 「天皇陛下と同じ道を歩まれるのでは」と識者
愛子さま22歳「笑顔の連鎖」と気になる進路 「天皇陛下と同じ道を歩まれるのでは」と識者   上皇ご夫妻に誕生日のあいさつをするため、仙洞御所に入る愛子さま=23年12月1日 代表撮影    天皇、皇后両陛下の長女・愛子さまは12月1日で22歳に。次世代の皇室を担う愛子さまのこれからに期待することとは? 愛子さまが誕生されたころから皇室番組の放送作家をするつげのり子さんに話を聞いた。   *  *  *   「愛子さまへの国民からの期待が高まっていますよね」と話すのは、愛子さまが誕生された2001年から皇室番組の放送作家をするつげのり子氏。    22歳になり、来年3月には学習院大学を卒業予定の愛子さまだが、成年皇族となっての初めての記者会見以降、世の中の愛子さまへの期待感は確かに膨らんでいる。現在、追い込み中と思われる卒業論文のテーマも気になるところだ。   「愛子さまはいま卒論を書かれている真っ最中だと思います。卒論のテーマは発表されてはいないのですが、おそらく『源氏物語』などの平安時代の古典文学など、まさに日本文学の原点に関心があり、そのあたりをテーマに挑んでいらっしゃるのではないかと思われます。    最近も、11月21日に東京国立博物館で特別展「やまと絵ー受け継がれる王朝の美ー」を天皇陛下と雅子さまとご一緒に鑑賞されました。その時に、源氏物語絵巻の夕霧をご覧になって、愛子さまが物語の登場人物の関係性について“親近感がある”と話されていたと報道されていました。    この言葉から拝察するに、愛子さまは『源氏物語』を何回も何回も読み込んでいらっしゃる。それぞれの登場人物を反芻するように思い出されているからこそ、“親近感がある”とおっしゃったのではないかと思いました」 【こちらも話題】 愛子さま22歳に「ますます雅子さまにそっくり」の理由 写真で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/207770   特別展「やまと絵―受け継がれる王朝の美―」を鑑賞する天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=23年11月21日 代表撮影    卒業論文の提出を終えると、来年3月には学習院大学を卒業予定だ。卒業後の進路に関して、国民の生活を鑑みて「留学をしないのではないか」とも一部では報じられているが、つげ氏はこう推察する。   「天皇陛下もそうであったように、学習院大学卒業後は大学院に進学する可能性は高いと思います」    天皇陛下は、1982年3月に学習院大学文学部史学科を卒業後、学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進み、83年からイギリスのオックスフォード大学マートン・カレッジに留学している。   「特に愛子さまの場合、コロナ禍で3年間はオンライン授業で、大学に通うことができませんでした。実際に大学に登校され、キャンパスライフを経験できたのは今年の春からでしたね。卒業後、大学院に通うことで、学生時代にしかできない経験を積み重ねられるのではないかと思います」    さらに、つげ氏は愛子さまの大学卒業後の進路は天皇陛下と同じ道を歩むのではないかと話す。   「大学院での生活を経て、海外に留学されるのではないかと思います。時期に関しては、何年先になるかはわかりませんが、天皇陛下も雅子さまもお二人とも留学経験があり、留学で得た経験をそれぞれ大切にされています。そのことから、我が子にも留学を経験してほしいと考えていらっしゃるのではないかと思います。    天皇陛下ご自身も学習院大学大学院在学中にオックスフォード大学に留学されていますので、愛子さまも陛下と同じステップを踏まれるのではないかと思います。    陛下はオックスフォード大学時代、自分のことを日本のプリンスだと知っている人がいない中で自由な時間を味わうことができたという経験がおありなので、我が子、愛子さまにもそんな経験を、というのは、親心としては自然に湧いてくるものではないかと思います」 【こちらも話題】 愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加! https://dot.asahi.com/articles/-/207875   23年8月、髪を肩までの長さにバッサリ切ってイメチェン。那須御用邸附属邸ご滞在の愛子さま 代表撮影    留学経験はこれからの皇室を担う愛子さまにとって「大切な経験」とつげ氏は考える。   「愛子さまが皇族の一員として務めを果たされるようになれば、国際親善が重要視される公務を担う場合も多くなるはずです。留学経験は外から日本を見るという観点からも大切だと感じます。語学を習得する以上に、海外で暮らすと、その国の文化や習俗に対して理解が深まり、海外の方たちとの接し方を習得できるので、留学はこれからの愛子さまにとって有意義で貴重なプラスの経験になると思います」    愛子さまには、天皇陛下と雅子さまという、海外生活の「経験者」が身近にいる。進路の相談をするにも心強いことだろう。    また、卒業後の進路とともに、注目が集まるのが初の単独公務だ。   「一般参賀や佳子さまと雅楽鑑賞、天皇ご一家で展覧会鑑賞などへのお出ましはありますが、単独公務というのがまだ実現しておらず、いつになるのかと期待されています。おそらく、卒論を終えて、大学を卒業されるといよいよ単独初公務に臨まれるでしょう。近郊から始めて、徐々に地方へと行かれることになると思います。    公務では、皇室の方は、初めて訪れる場所で、初めて会う方たちとお話しをされます。愛子さまはご自身の性格を“人見知りのところがある”と話されていますが、成年の記者会見では、笑顔を絶やさず堂々と話されていたので、いざ単独公務となっても完璧にできてしまうのではないでしょうか。    そう期待してしまうほど、愛子さまは成年の記者会見で見事な力量を見せてくださいました。人見知りという性格から公務は緊張されるかもしれませんが、かえって自然な感じでやりとりできるのではないかと思います。    愛子さまは自然な笑顔をされるので、ご自身のペースでやっていかれたらいいのではないかと思います。愛子さまの自然な笑顔を見ている側も自然と笑顔になり、『笑顔の連鎖』になると思います。22歳になられ、これからの活躍が本当に楽しみです」    愛子さまの笑顔は、確かに見ているこちらも微笑んでしまう、温かい引力がある。笑顔あふれる22歳の愛子さまに期待はますます高まる。 〇つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。担当する番組「皇室の窓スペシャル」(BSテレ東)が12月24日(日)14時〜16時に放送予定。
愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加!
愛子さまを「抱きしめ」続けた天皇陛下の温かいまなざし 離乳食とお風呂の育児にも参加! ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を、雅子さまと一緒に出迎える愛子さま=2011年、東宮御所(代表撮影/JMPA)    12月1日に22歳の誕生日を迎えた愛子さま。学習院大学の4年生の今、卒業論文の執筆にはげみつつも、キャンパス生活を楽しんでいる。宮殿での一般参賀や「皇室会議」の手続きへの参加など、成年皇族としての経験も積んでいる。来春には大学を卒業し、新たな一歩を踏み出す愛子さま。22年の歳月をふりかえると、愛子さまのそばにはいつも、温かなまなざしの「父」がいた。 *   *   * 「愛子の名前のとおり、人を愛し、そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには、私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です」  2005年2月、皇太子だった天皇陛下は自身の誕生日会見でそう述べると、米国の学者ドロシー・ロー・ノルトの「こども」という詩を、ゆっくりと読み上げた。    批判ばかりされた 子どもは  非難することを おぼえる  殴られて大きくなった 子どもは  力にたよることを おぼえる (中略)  しかし、激励をうけた 子どもは  自信を おぼえる  寛容にであった 子どもは  忍耐を おぼえる (中略)  可愛がられ 抱きしめられた 子どもは  世界中の愛情を 感じとることを おぼえる    愛子さまの子育てに、雅子さまとまっすぐに向き合おうとする陛下の思いが伝わってくる。   満1歳をむかえた愛子さまを抱き上げる、皇太子さま(当時)。両陛下(現・上皇ご夫妻)へのあいさつのため皇居に向かう=2002年12月1日、東宮御所(代表撮影/JMPA)   愛子さまのお風呂と離乳食も経験した陛下  東宮家は、公より私を優先している――そう言われることがあっても、家族との時間を大切にしてきた陛下。 「子供をお風呂に入れたり、散歩に連れて行ったり、離乳食をあげることなどを通じて子供との一体感を強く感じます」  2003年2月、43歳の誕生日会見で、皇太子さまは父親の育児への参加が母親の負担を軽くし、子供との触れ合いを深めると述べた。  元宮内庁職員は、 「保守的な皇室で、ましてや皇太子がそう口にすることに、『東宮家は公務よりも家庭が優先』と反発もあった」  と振り返る。今から約20年前。父親の積極的な育児参加が周囲に十分に理解され、許容される時代ではなかった。   3歳の誕生日を前に、東宮御所の庭でご両親と一緒に遊ぶ愛子さま=2004年11月、東宮御所、宮内庁提供   【こちらも話題】 「愛子は、お化け屋敷が好きなんですよ」と雅子さま 天皇陛下の同級生が語る温かなご一家〈愛子さま22歳〉 https://dot.asahi.com/articles/-/207711     学習院幼稚園での父親参観のため、愛子さまと手をつないで登園する皇太子さま(当時)=2006年6月、東京・目白(代表撮影/JMPA)    06年6月。シトシトと雨が降り続けるなか、雨がっぱを着て、身体より大きな傘を差す幼い愛子さまと、その小さな手をしっかりと握りながら歩く皇太子さまの姿があった。  この日は、学習院幼稚園での父親参観の日。愛子さまを見つめながら幸せそうに歩く姿は、ごく普通の父親と変わらないものだった。   愛子さまの相撲好きは有名。大相撲秋場所の初日に東京・国技館で観戦。大きな口を開けて応援する愛子さまの表情をのぞく皇太子さま(当時) =2006年9月、東京・国技館(代表撮影/JMPA)    この頃の愛子さまが熱中していたのが、相撲だ。  4歳のときには、住まいで「パパ」や東宮職の職員と技を再現しながら相撲を取り、力士の四股名や出身地を暗記する様子を、皇太子さまが明かしている。  同年9月、東京・両国であった大相撲秋場所をご一家で観戦。大きな口を開けて応援し、星取表に勝敗を書き込む様子が見られた。テレビで観戦しながら、「だれだれに 星がついたよ うれしいな」と七五調で文を作るほど熱中していると、皇太子さまも会見で明かしている。     ドイツから帰国した皇太子さま(当時)を、雅子さまと一緒に出迎えた愛子さま。愛子さまの背に優しく触れる皇太子さまの愛情深い仕草=2011年、東宮御所(代表撮影/JMPA)    11年、愛子さまは学習院初等科の4年生になった。長い髪を一つに結い、仕草もお姉さんらしくなった。しかし、学校生活への悩みを抱えていた時期でもあった。  ドイツから帰国した「パパ」を、東宮御所の玄関で雅子さまと出迎えた愛子さま。  安心した表情の娘を、目尻にしわを寄せて見つめ、そして背中に手を添えて東宮御所に入っていく皇太子さまの仕草から、家族の愛情が伝わってきた。   父親ゆずりのユーモアのセンス 「敬宮愛子」  17年3月。学習院女子中等科の卒業式で、名前を呼ばれた愛子さまが起立した。その様子を、娘を見守る、穏やかな表情でご夫妻が見守っていた。   愛子さまの学習院女子中等科の卒業式に向かうご一家=2017年3月、東京・新宿区(代表撮影/JMPA)    愛子さまは卒業の記念文集のために、「世界の平和を願って」という核兵器のない平和な世界を願う作文を書いている。冒頭部分には、「家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること……なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう」と家族や周囲への感謝がつづられている。     【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535     栃木県の御料牧場を散策中、「ごっつんこ」して笑い合う天皇陛下と雅子さまと、ご両親を見つめる愛子さま=2023年4月、栃木県(代表撮影/JMPA)    愛子さまは20年、学習院大学へ進学した。おばの黒田清子さんの頃と名称は変わったが、同じ文学部日本語日本文学科を専攻。古典に興味を持ち、学びを深めている。  21年には成年を迎え、翌3月に臨んだ成年の記者会見では、父譲りのユーモアのセンスを発揮した。  自身の長所について、「どこでも寝られるところでしょうか」と話し、栃木県の那須御用邸のソファで翌朝まで寝てしまったエピソードなどを明かして記者を笑わせた。  約30分間、原稿に目を落とすことなく記者の質問に答えた愛子さま。陛下が昨年の誕生日会見で、 「会見に向けて一生懸命準備をする様子を目にしていましたので、無事に会見を終えることができ、安堵いたしました」  と、娘を見守る父親としての心境を明かした。そして「今後とも愛子を温かく見守っていただければ幸いです」と加えた。   御料牧場に到着し、栃木県知事や関係者の出迎えを受けてあいさつをする雅子さまと愛子さま=2023年4月、栃木県(代表撮影/JMPA)   「運動が得意で活発でいらしたところは雅子さま、そして優しい笑顔や穏やかな性格はお父さまである陛下によく似ていらっしゃる」  天皇ご一家と長年交流のある人物は話す。  ご両親の愛情に包まれながら成長した愛子さまは来春、大学を卒業する。海外留学などが期待されているが、新しい一歩が愛子さまに、さらに広い世界をもたらしてくれるだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま22歳に「ますます雅子さまにそっくり」の理由 写真で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/207770  
「愛子は、お化け屋敷が好きなんですよ」と雅子さま 天皇陛下の同級生が語る温かなご一家〈愛子さま22歳〉
「愛子は、お化け屋敷が好きなんですよ」と雅子さま 天皇陛下の同級生が語る温かなご一家〈愛子さま22歳〉 幼い愛子さまを抱っこする皇太子さま(当時)と、寄り添う雅子さま。両隣に立つのが、天皇陛下の同級生の今井明彦さん夫妻=今井さん提供    天皇陛下と皇后雅子さまの長女・愛子さまが12月1日、22歳の誕生日を迎えた。天皇ご一家と、家族ぐるみの付き合いをしてきた陛下の同級生が見続けてきたのは、家族の愛情を受けながら成長する愛子さまと、そんな我が子を温かく見守る父親と母親の姿だった。 *   *   *  2001年12月1日午後2時43分。当時皇太子だった天皇陛下と皇太子妃雅子さまの間に、愛子さまが生まれた。 「(だっこは)難しいですねえ」  その日の夜、都内の宮内庁病院から笑顔で出てきた皇太子さまは、両手で赤ちゃんを抱くようなしぐさをしてみせた。  身長は49.6センチ、体重3102グラム。おふたりにとって初めてのお子さまは、天皇が名前と称号を伝える「命名の儀」で「敬宮愛子」と命名された。持ち物の目印として用いられる「お印(しるし)」は、ゴヨウツツジに決まった。  国内は祝賀ムードにあふれ、お祝いの記帳は2日間で12万人にのぼった。   22歳の誕生日を迎えた愛子さま=2023年11月、宮内庁提供   愛子さまに贈ったピンクの蘭  皇太子さまの学習院時代の「ご学友」である今井明彦さん(64)は、同窓会の幹事を務めていたこともあり、皇太子さまとよく連絡を取っていたひとりだ。お祝いの品を届けるために同級生と東宮御所をたずね、愛子さまにやさしいピンク色の蘭の花を贈った。  今井さんが初めて愛子さまにお会いしたのは、それから1年後の正月。今井さんや同級生仲間は毎年の正月、家族と一緒に東宮御所をたずねていた。 「殿下(当時)と雅子さまもご一緒に、おせち料理をいただき、年始のお祝いをいたします。愛子さまにお会いしたのは、殿下によるサプライズの機会でした。われわれが歓談する部屋に、お出ましになった殿下の腕には、まだ赤ちゃんの愛子さまが抱っこされていました」  今井さんが持っている写真には、今井さん夫妻に囲まれて、陛下に抱っこされた愛子さまと雅子さまが並ぶ。雅子さまと愛子さまは、おそろいの白い服。家族と一緒にいる陛下の表情はとてもやわらかだ。     【こちらも話題】 愛子さまの帽子に添えられた「ゴヨウツツジ」の意味は…特別な「お印」の花飾りで美智子さまの元へ https://dot.asahi.com/articles/-/204443     中学生の愛子さまと皇太子ご夫妻(当時)。両脇に立つのは今井さんと妻、長男=2016年1月3日、東宮御所、今井さん提供    それからも今井さんは、愛子さまの成長を感慨深く見守ってきた。  バスケットボールに熱中した小学生の愛子さまと、学習院初等科でバスケ部の指導役も務めた今井さん。顔を合わせる機会は少なくなかった。正月に東宮御所を訪れた今井さんの長男も学習院でバスケ部の経験があり、愛子さまと共通の話題で楽しんだという。  また、動物好きの愛子さまは、今井さん家族がスマートフォンの待ち受け画面にしている愛猫「チイ」の写真を「かわいいですね」と嬉しそうに眺めていたという。   お友達とあちこちの遊園地に  その後も、天皇ご一家と今井さん家族との交流は続いた。  東宮御所で撮影された写真の中の愛子さまは、制服のスカーフが学習院中等科の青色から高等科の紺色になった。陛下のネクタイは、そのスカーフと合わせた色になったり、雅子さまのワインレッドのスーツとそろえたり。ご一家の絆が、さりげなく見て取れる。  そんな陛下と雅子さまは、ごくごく普通の「父親」と「母親」だ。   22歳の誕生日を迎えた愛子さま=2023年11月、宮内庁提供    雅子さまが今井さんに、愛子さまの「素顔」をニコニコしながら話したことがあった。 「愛子はね、遊園地のお化け屋敷が好きなんですよ」  初等科から中等科にかけてのころ、あちこちの遊園地のお化け屋敷をお友だちと一緒に体験して回ったのだという。 「(愛子さまを見て)むしろ、お化けのほうがびっくりしたのでは」  誰かの声に、笑い声が上がった。     【こちらも話題】 愛子さまの手にトンボがとまった瞬間、愛犬の由莉ものぞき込んだ 静養先の天皇ご一家 https://dot.asahi.com/articles/-/199535     高校生の愛子さまと、皇太子ご夫妻。両脇には今井さんと妻、長男。愛子さまはすこし大人びた表情で、ワインカラーでリンクコーデをする皇太子ご夫妻もほほえましい=2018年1月3日、東宮御所、今井さん提供    とりとめもない会話が交わされる温かい空間。正月の東宮御所は、アットホームな空気に包まれていた。  今井さんは話す。 「わたしは『浩宮殿下』であった陛下と少年時代を過ごし、お互いに歳月を重ねてきました。ふだんは、天皇として背負う覚悟と責任のためか、厳しい表情をされていると感じることもあります。しかし、雅子さま、そして愛子さまと過ごす陛下は幸せそうなお顔をされています。ご家族とのなにげない会話やひとときは、陛下にとって大切な時間なのでしょう」   22歳の誕生日を迎えた愛子さま=2023年11月、宮内庁提供    しかし、コロナ禍もあり、令和に入ってからは陛下と旧友たちの家族ぐるみの集いはまだ実現していないという。  愛子さまは来春で学習院大学を卒業する。海外留学など、その後の進路はまだ耳に入ってこないが、今井さんは広い世界で経験を積んでほしいと願っている。 「愛子さまは、高等科のときの英国での短期留学をとても楽しまれたようです。ご両親のように海外に留学するなどして、広い視野や国際感覚を養っていただきたい」 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? https://dot.asahi.com/articles/-/207282    
なぜ秋篠宮さまの発言は「波紋」を広げるのか 天皇陛下を支える弟宮の役割と狙いとは〈58歳の誕生日〉
なぜ秋篠宮さまの発言は「波紋」を広げるのか 天皇陛下を支える弟宮の役割と狙いとは〈58歳の誕生日〉 「即位後朝見の儀」に臨む天皇陛下と、皇后さま、秋篠宮ご夫妻=2019年5月1日、皇居・宮殿「松の間」    秋篠宮さまは11月30日、58歳の誕生日を迎えた。皇室からの情報発信や「天皇の定年制」など、従来の慣習にとらわれない発言で、たびたび注目されてきた秋篠宮さま。その問題提起は皇室の「変化」にもつながっている。秋篠宮さまが投じる一石には、秋篠宮家としての「役割」と「狙い」があると、秋篠宮さまと長年親交のあるジャーナリストは指摘する。 *   *   * 「皇族のSNSの利用」「事実誤認がある記事への反論」「天皇の定年制」「大嘗祭は私費で」――。これまで秋篠宮さまが、記者会見の場で発信してきたキーワードだ。  秋篠宮さまが発信してきた言葉は、皇族としてはすこし「過激」なものと受け止められた。世間から注目され、ときに波紋を広げることもあった。  秋篠宮家と長年親交があり、『秋篠宮』の著者でもあるジャーナリストの江森敬治さんは、こう話す。 「国民と苦楽を共にする皇室が基本ですが、秋篠宮さまは時代に即した皇室の在り方というものも常に模索されていらっしゃいます。こうした思いもあり、記者会見などで積極的にご自分の意見を発信しているのではないでしょうか」  秋篠宮さまのこれまでの発言を、振り返ってみよう。   誕生日にあたって会見する秋篠宮さま=2023年11月、赤坂東邸、宮内庁提供   「国民のニーズに応えるべき」と秋篠宮さま 「一定の基準を超えたときには、例えば反論を出すなど、そういう基準作りをしていく必要があると思います」  2021年、56歳の誕生日にあたっての会見で秋篠宮さまは、このように述べた。長女の小室眞子さんの結婚をめぐり、事実とは異なる報道やSNSでの書き込みなどを受けての発言だった。  それまで個別の報道などへの対応をしてこなかった秋篠宮さまだったが、 「雑誌であれネットであれ、誹謗中傷、深く人を傷つける言葉は許容できるものではない」  と指摘。反論するための「一定の基準」の必要性について言及した。     【こちらも話題】 紀子さま 戴冠式での着物姿、なぜ「たるみ」と「よれ」が気になったのか https://dot.asahi.com/articles/-/194740     水産功績者表彰式であいさつする秋篠宮さま=11月22日、東京都港区、代表撮影    しかし、翌年の57歳の誕生日にあたっての会見では、その「難しさ」にも触れた。  秋篠宮さま自身が、実際にある記事をもとに、事実と異なることがどれぐらいあるか確認したところ、「かなりの労力を費やさないといけないことがよく分かりました」。 「基準を作って意見を言うことは、なかなか難しいなと思っておりますし、引き続き検討していく課題と思っております」  と、率直に心情を明かしたのだった。    この会見で、「(宮内庁を通さない)間接的でないほうがストレートに伝わる」「皇室の情報発信を正確に、タイムリーに出していくことが必要」とも述べた秋篠宮さまだったが、インターネット上での宮内庁による情報発信の重要さを、早くから認識していたのが秋篠宮さまだったと、江森さんは言う。  四半世紀以上前、秋篠宮さまは江森さんに、 「宮内庁は国民のニーズに応え、情報発信をすべきです。宮内庁にホームページを作ってもらいたい」  という内容のことを語っていたという。  それからまもなくの1999年、宮内庁はホームページを開設した。   江森さんに吐露した発言の真意  皇室の大きな変化につながる発言となったのが、天皇の「定年制」だ。  2011年、46歳の誕生日会見で秋篠宮さまは、「天皇陛下の公務に定年制を設けるという意見もある」との記者の質問に答える形で、こう述べている。 「私は、今おっしゃった定年制というのは、やはり必要になってくると思います」  直後に「人によって老いていくスピードは変わる」として、一律に年齢で区切れるものではないと補足をしたものの、「終身天皇制」以外の選択肢について投げかけた。  高齢の天皇陛下(現在の上皇さま)には当時、心臓の冠動脈に硬化や狭窄が見つかり、気管支炎の症状で入院もした。天皇陛下を支える皇后さま(現在の上皇后さま)にも、足に痛みや腫れの症状が出ていた。  5年後の16年8月、天皇陛下は高齢のために象徴としての務めを果たせなくなるとして、国民へ向けたビデオメッセージで退位への「お気持ち」を表明。翌17年には今回の一代に限り退位を認める退位特例法が成立し、19年4月30日には憲政史上初となる天皇の退位が行われ、翌5月1日に改元された。     【こちらも話題】 「雅子さまはお疲れでは?」天皇陛下も髪型がやや乱れ… 続く大型公務で「いつもと異なる」ご様子 https://dot.asahi.com/articles/-/204972   「祝賀御列の儀」に臨む天皇、皇后両陛下=2019年11月10日、皇居・宮殿    平成から令和への代替わりに伴う「大嘗祭発言」も、波紋を広げた。  18年、秋篠宮さまは53歳の誕生日会見で、天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭」について、 「宗教色が強いものについて、国費で賄うことが適当かどうか」  と懸念を示したのだ。 「大嘗祭は絶対にすべきもの」としながらも、必要以上にお金のかかる儀式とせず、「身の丈にあった儀式」にすることが「本来の姿」だと指摘した。  後日、秋篠宮さまは江森さんに、この発言の真意というべき内容を吐露している。 「このようにすることで、令和の大嘗祭が『将来的に後ろ指をさされることにならない』とも考えました」   「死以外に譲位の道がないのは『奴隷』」  天皇の定年制や大嘗祭についてなど、皇室の根幹に踏み込む秋篠宮さまの言動は、故・三笠宮崇仁さまや長男の故・寛仁さまを思い起こさせる。世間が皇室に対して、「こうあるべきだ」とする固定観念や慣習を超えて、皇室の中から新しいメッセージを発信し、問題提起を続けた皇族だ。  皇族将校として中国・南京へ赴いた三笠宮さまは、戦時中にもかかわらず、「聖戦」へ疑問を投げかけた。  終戦翌年の1946年、政府は天皇の生前退位を規定しないという皇室典範の方針を打ち出した。三笠宮さまは、それに異を唱えた。 〈「死」以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八條の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」といふ精神に反しはしないか?〉 「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」と題する意見書を作り、天皇の地位について、 「必要最小限の基本的人権としての譲位を考えたほうがよいと思っている」  と疑問も投げかけた。  また、50年代に2月11日が「神武天皇即位の日」であるとして、戦前の「紀元節」を祝日として復活させる運動が起きた際には、三笠宮さまは「歴史的根拠がない」と批判。  反発した右翼が三笠宮邸や旅行先のホテルに押しかける騒ぎに発展したが、三笠宮さまは「神話と歴史は違う」と周囲に話し、これを撤回することはなかったという。     【こちらも話題】 「ねぇ、今日の夕食はなあに?」眞子さんと佳子さまもペロリと食べた 秋篠宮家元料理番の特製カレーレシピ https://dot.asahi.com/articles/-/202365     「皇族は、ある意味での外交官」 「国民あっての皇室。皇室のあり方も、社会の変遷に即応しなくてはいけない」  皇室と国民とをつなぐべく、メッセージを発信し続けた三笠宮さま。そして長男の寛仁さまも、皇室のスポークスマンとしての姿勢を受け継いだ。皇室メンバーの人権を訴える一方で、まだ保守的な空気が残る70年代にラジオのDJを務めるなどして、皇室の外に向かって発信を続けた。   自由に発言しやすい弟宮  江森さんは秋篠宮さまと、三笠宮さまや寛仁さまとの共通点についてこう分析した。 「やはり天皇陛下は立場上、思い切った発言は難しいように思います。その点、弟の秋篠宮さまや宮家の皇族の方は、まだ、自由に発言しやすいのでしょう」    平成の当時、天皇陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは、宮内庁長官の立ち合いのもとで定期的に「3者会談」の機会を設けていた。令和になってから、天皇陛下と秋篠宮さまの「2者会談」が行われたという話は聞こえてこない。  しかし、江森さんは、いまこそおふたりの定期的な話し合いの場が大切になる、と話す。 「皇嗣である秋篠宮さまは兄天皇陛下をしっかりとお支えし、助けてゆかれるでしょう。コロナ禍が落ち着いて、皇室活動が本格化するいまこそ、ぜひ兄と弟の交流を活発にしていただきたい」  意思疎通がうまくいけば皇室の諸課題の解決などもよりスムーズに進む。そして、兄弟が力を合わせることで令和皇室はより活性化されるだろうと考える。  秋篠宮さまの担う「役割」は、今後も大きなものであり続けることだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇陛下は「佳子ちゃん」 愛子さまは、秋篠宮家でなんと呼ばれているの? https://dot.asahi.com/articles/-/202891      
意味が分かると青ざめる…「中国」の公園で運動する高齢者が多い理由
意味が分かると青ざめる…「中国」の公園で運動する高齢者が多い理由 (写真はイメージ/GettyImages)  中国で高齢者問題が深刻だ。住宅市況の悪化で高齢者の介護は後回し、息子や娘との関わりが薄れ、自殺を選択する高齢者もいる。都市部の中間層の中には、家族の介護で金も気力も使い果たした人もいる。中国では近年、介護保険制度の導入とともに民間企業が市場参入し、中間層向けサービスが始まったが、果たして「介護の負担」が軽くなる日が来るのだろうか。(「China Report」著者 ジャーナリスト 姫田小夏) 金欠で親の面倒を見る資金がない、農村部で増える高齢者の自殺  10月16日放送の『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)で中国・四川省の高齢者が取り上げられた。公園にいるのは子どもではなく高齢者ばかりで、誰もが健康の維持に必死だ。同番組はおしゃれに夢中のゆとりある高齢者や、社会から取り残された孤独な高齢者を映し出していた。  取材を受けた老婆の一人がこう言った。「生きてるってより、死んでないだけだ」――。この“名言”がほのめかすのは、中国の高齢者に潜在する壮絶な老いとの闘いだ。  今、中国である論文が一部の人々の関心を集めている。2008年に行った湖北省の6つの村の調査を基に高齢者の自殺と世代間関係を扱ったものだ。論文は、「1980年以来これら地域で高齢者の自殺が増加し続けている」と指摘している。  しかし、2000年代に執筆されたこの論文が今再び注目されているのはなぜなのだろう。「それは近年この問題がさらに深刻化しているからです」と湖北省武漢市に住む会社員の魏さん(仮名)は言う。 「農村部の高齢者の自殺は、息子や娘の労働環境に左右されます。彼らは経済が落ち込む中国で、給与が下がり、リストラされるなど大変苦しい思いをしています。とてもじゃないが、親の医療費や介護費用まで面倒見られない。私自身も、思い余った老人の自殺の話題を聞いたことがあります」(同)  さらに、都市部の労働者として出稼ぎに行った息子や娘に追い打ちをかけるのは、住宅市況の悪化だ。彼らは、親戚からかき集めた頭金の返済や銀行への住宅ローン返済という借金を負っており、親の面倒からはますます遠ざかる。  中国では世代間ギャップも進み、「親孝行」という美徳も薄れつつある。親の危篤の知らせを受けて故郷に駆け付けた若者は、目の前の病気の母親に治療を与えないどころか、なかなか死に至らないことにしびれを切らし「まだ死なないのか」と漏らす。それを聞いた母親は殺虫剤を飲んで自殺した――そんな悲劇を伝える中国語メディアもある。  さらに取材すると、悲惨な中国の実態が浮かび上がってきた。 「ヘルパーさんは高くて雇えない」、家族にのしかかる介護  今回取り上げるのは、一級都市と言われる中国・上海での話だ。介護保険制度が緒に就いたばかりの上海で、中間層の人々が直面する在宅での介護の実情である。  2021年春、上海在住の汪さん(仮名)は70歳で他界した。病名はパーキンソン病で、2000年代終盤から悪化し始めた。全身の筋肉が硬直する病気で、徐々に動作が緩慢になり、便秘や頻尿になるともいう。難しい病に苦しむ夫を介護したのは妻の黄さん(仮名、中国では夫婦別姓)で、いわゆる「老老介護」である。  汪さんが亡くなる3年前から、黄さんは壮絶な介護の日々を送っていた。2018年、パーキンソン病の症状改善を期待して「脳深部刺激療法」を選択。医者の勧めで30万元(約600万円)する米国製の機器を購入し、皮下に埋め込む手術を行った。  中国の医療保険制度では、30万元のうち5万元が保険適用になり、黄さんの息子が残り25万元(約500万円)を自費で負担した。ところが後になって機器はうまく取り付けられていなかったことが判明する。しかし医者は「体は人それぞれ違う」とけんもほろろだった。これだけ発展した中国でも、中間層にとっての安心できる医療は程遠い状況だ。  2019年、汪さんの症状はさらに悪化し、食事は鼻から管を入れて栄養を送り込む「経管栄養」に切り替わった。服薬の錠剤をつぶし、注射器を使って管に注入するのも黄さんの仕事で、黄さんは「とても面倒だ」と音を上げた。中国では看護師の仕事の範囲は限定的なのだ。  また、中国は日本と異なり完全看護ではなく、家族が付き添い、身の回りの世話を行うのが通例だ。家族ができない場合は、ヘルパーを雇い、体の洗浄、寝返り、排便などの対応をしてくれるが、問題は人件費の高さだ。 中国の介護従事者は高収入、高齢者が必死に公園へ行く理由 「ヘルパーさんは費用が高く自己負担なので、家族が行うしかありませんでした」と黄さんは振り返る。  だが、裏を返せば、ヘルパーは比較的いい収入を得ているということになる。中国の大手介護サービス企業の担当者に尋ねると、「中国では介護従事者は、販売などの一般の職業に比べて倍近い収入を得ることができるので、少なくとも弊社は深刻な人材不足にはなっていません」という。  闘病中、汪さんは何度か入退院を繰り返し、ICU病棟に2回、合計20日以上入院した。ICU病棟は非常に高額で、1日当たりの自己負担額は平均して1万元(約20万円)だ。 ちなみに中国の医療保険制度は、1人当たりの割当金額(黄さんの場合は年間2000元=約4万円)が決まっており、それを超えた分が自己負担となる。 「医療費が高額すぎる中国ではがん治療を諦める人もいます。だから高齢者は病気にならないように必死に運動するんです」と黄さんは言う。中国の公園に高齢者が多い理由はここにある。  なお、パーキンソン病との闘いは排便との闘いでもあった。下剤は全く効かず、1週間も排便がないのはざらだった。そういうときは、黄さんの手でなんとかするしかなかった。2週間も便秘が続いたときは、さすがに救急車を呼んだが、帰路は通勤ラッシュにぶつかり、同じ区内の病院から4時間かけて帰宅した。 人材不足に備え、家族が「有償で家族を面倒見る制度」も  汪さんが他界した翌年の2022年に、第20回共産党大会が開催された。ここで習近平総書記の第3期続投が正式に決まり、習氏は報告の中で、介護保険制度を含む社会保障制度を充実させることを掲げた。  既に上海は、2016年に国内の介護保険制度(長期介護保険)の最初の試験都市になっていた。また、上海以外の15都市でも介護保険制度が始まり、高齢者を介護度によって分け、介護度の違いに応じて補助金が支給される仕組みが導入された。在宅介護でも訪問での診療やケアを享受できるようになり、黄さんも在宅介護中に、始まったばかりのこの制度を使い週3回の訪問ケアを受けた。  中国には、高齢者の90%を在宅で、7%を社区(居住エリア)で、残りの3%を施設で介護するという「9073」モデルがある。中国の介護サービスの初期段階は富裕層向けに普及し、高齢者向けにリノベーションし介護体制を備えたマンション市場が広がったが、現在ようやく中間・低所得者層に光が当たり、保険を利用した非営利かつ包括的なサービスの提供が強化されるようになった。  こうした動きに呼応するように、一部の都市では、「ベッド周りの世話を引き受ける」という民間のビジネスが地元政府の補助金制度の下で普及し始めている。  雲南省昆明市にある医護通科技は、長期介護保険に規定された看護基準に基づいて介護サービスを45種類に分類し、おむつの取り換え、入浴、理容、爪切りなどの身の回りの世話を訪問で行う人材派遣事業に取り組んでいる。  同社の曹天宇総経理によると、「中国には家族や親戚が介護ヘルパーの資格を取得できる制度もあります」という。有資格の家族が親を介護すれば、政府から手当が与えられるという制度だ。今後ますます深刻化する介護現場の人手不足に備えたものだともいえる。  一方、テクノロジーを駆使して在宅介護を支援する仕組みを構築する民間企業もあり、一級都市の一部では在宅の高齢者を集中的に見守るサービスが進行している。在宅高齢者からの電話を管理センターにつなげ、そこから必要なサービスを届けるというものだ。  そうした介護と医療向けのハイテクサービスを展開する北京信泰慧智医療科技の李玲総経理によると、「ベッドは多機能型に進化しており、モニター装置を備え付け、血圧、心拍数、呼吸数、体温を常時把握し、また在床・離床のデータから睡眠状態を分析することもできます」という。中国ではこうした「ハイテクベッド」が徐々に普及している。  2010年代を前後して、日本企業は中国の介護分野に市場を見いだそうとした時期があった。  しかし、日本の事業モデルは介護保険制度を前提としており、当時まだ制度がなかった中国の実情には合わなかった。一方で、介護保険制度が確立してからは、中国はAI、IoT、ビッグデータなどを取り込みながら、独自の事業モデルを発展させようとしている。  中国では2022年末で、65歳以上の人口はほぼ3億人に近い規模にまで達した。社会のあらゆる問題を新たな発想やテクノロジーで解決しようとする中国だが、果たして「介護の負担」が軽くなる日は来るだろうか。
「エホバの証人」元2世信者が公表した実態とは 母たちの前で「射精は?」「手か口か」と聞かれ
「エホバの証人」元2世信者が公表した実態とは 母たちの前で「射精は?」「手か口か」と聞かれ 会見した元2世信者の綿和孝さん(仮名=右)と道子さん(仮名)    宗教団体「エホバの証人」の元2世信者らで作る団体が28日、東京都内で会見を開き、教団内での児童に対する性的虐待についての調査結果を公表した。幹部や年上の信者から幼少期に性暴力を受けたり、未成年の時に幹部から性行為の経験の有無を問いただされたりしたなど、性的虐待を受けたとの回答が多数あったことを明かした。一般社会とはかけ離れた教団内の実態が垣間見えた。  アンケートを実施したのは元2世信者らでつくる「JW児童虐待被害アーカイブ」。今年7月、インターネット上で元2世信者らに対して行った。  同団体は28日午前、こども家庭庁に調査結果と、公的な調査などを求める要望書を提出した。  アンケートの質問は、 (1)信者による性暴力や性的虐待を受けたことはあるか (2)集会での大人たちの言葉や教団内の出版物に書かれていた文言について、性的虐待だと感じたことはあったか (3)信者が、教団の禁止事項を破った疑いを持たれた際に開かれる審判「審理委員会」で、性経験を話すよう強制され、それを性的虐待だと感じたことはあったか  3項目に分類して回答を求め、計159人から有効回答を得た。 「長老」からの被害も  さらに、「性的被害を受けた」と回答した人の中から、面接が可能だった女性10人、男性1人の計11人に、公認心理士の立ち会いのもと、被害について証言してもらった。 (1)について、「受けた」と回答したのは37人。うち35人(女性30、男性5)が被害当時、未成年だった。  主な被害の内容(複数回答可)は「性交渉をさせられた」=4件、「衣服の上から、または直接、体を触られた」=24件、「下着姿や裸を見られた、撮影された」=11件、「加害者の体などを触らされた」=8件、だった。  加害者との関係(複数回答可)で最も多かったのは「顔見知り」で23件。「長老」と呼ばれる地域の幹部からの被害も12件あった。場所は信者の自宅が最も多く、身近な場所での被害が多いことが明らかになった。 (2)について「性的虐待だと感じた」と答えたのは139人。このうち、6歳までに被害を受けた人が49人と最も多く、全体の8割以上が12歳までの幼少期に被害を受けていた。  地域の信者らの集会では、教団内で性的に禁止されている行為について、大人と小さな子どもが一緒に学ばされる。また、エホバの証人の出版物には、性的に禁止されている行為が明確に示されている。 【あわせて読みたい】 「ジュニアアイドル」経験者が語る 性的な不快感を言いづらい構造と性搾取を容認する空気感 https://dot.asahi.com/articles/-/204641  回答では、 「幼稚園のころからマスターベーション、セックスという単語を頻回に耳にしてきた。年齢にそぐわぬ性的知識を問答無用で与えられた」  「年端もいかない子供が(出版物に書かれていた)『オーラルセックス』『ペッティング』などの言葉を音読させられる辱めを受けた。今思えば完全な性的虐待」  「『マスターベーションがなぜだめか』を、場面を設定して説明させられた。大変苦痛だった」 「エホバの証人に参加していなければ、段階を踏んで性の知識を得ることができ、現在までに至る性的倒錯と自己嫌悪に悩むことはなかっただろう」  など、その行為がどのようなものかを知らないうちに、“学び”を強制されていたケースが大半をしめた。 (3)の「審理委員会での性的虐待があった」と回答したのは42人。うち未成年は15人だった。 教団の出版物。性について書かれている   親の前で「避妊具の使用は? 射精は?」  エホバの証人は婚前交渉を禁じているが、性行為をしたなど「罪」に当たる行為をした信者には、「審理委員会」と呼ばれる宗教裁判のような場が設けられ、地域の幹部たちに詰問される。反省が見られない場合、親や信者らとの関係を断つ最も重い「排斥」処分が下されることもある。  数々の回答は、未成年を根掘り葉掘り詰問する、社会常識からかけ離れた実態を表していた。 「性行為を行った回数、何月何日、何時に始めたか、何分に挿入したか。エクスタシーを感じたか。50代と70代の長老から、親の前で聞かれた」 「長老と母の前で、事細かく性行為の流れを話すよう強要された。キスの有無。避妊具の使用は。射精はどうしたのかなど」 「具体的に相手の性器に触れたか。それは手か口かを聞かれた」 「どのような性行為を行ったか。どんな気持ちだったか(興奮したかとか)。密室で長老3人を前に、話さざるを得ない圧力を感じた」  調査にかかわった元2世信者の道子さん(仮名)は、 「エホバの証人の子供たちは、たとえばパン屋さんになりたいだとか、将来の夢を語ることすら許されない。その状況で性被害を受けてきています。被害を訴えようという力がない人もいるはずで、もっとたくさんの被害者がいると思っています」  と氷山の一角である可能性を指摘する。 教団の出版物   【こちらもおすすめ】 「教団は『信者の感情が傷つく』という言葉を盾に使うな」 荻上チキ(評論家)×菊池真理子(漫画家)が語る「宗教2世」問題とは https://dot.asahi.com/articles/-/13233  聞き取り調査をした公認心理士によると、大人になってからも精神的な被害が回復していない被害者も多かったという。 「(ルールによって)抑圧された大人の性欲が、子どもに向けられている。教団の子供たちを救ってほしいと聞き取りをした全員から聞くことができました」  JW児童虐待被害アーカイブはあくまで任意団体で、活動には限界があり、当事者たちもそれを認める。  代表の綿和孝さんは、「公的調査をしていただき、被害者たちを救済する制度を作っていただきたい」と、国に期待を寄せた。 身近な相手から性被害  エホバの証人の児童に対する性的虐待の実態調査が公表されたが、定期的に集まるグループ内での被害が最も多く、行為の場所も「信者の自宅」が最多だった。  なぜ身近で被害に巻き込まれ、誰もそれに気づかないのか。調査にかかわった元2世信者は、 「エホバの証人には性暴力や性被害が起きやすい、特有の環境がある」  と口にする。  綿和さんらによると、エホバの証人の信者たちは「交わり」と呼ばれる、信者同士や信者の家族同士の親密な交流を大切にするという。  子どもたちの「お泊まり会」。「食事招待」と呼ばれる信者の家に招かれて食事をするイベントや、レクリエーションを催したりして親しく付き合うのだ。  良い関係づくりにも映るが、綿和さんら元2世が問題視するのは、家族同士の「距離感の異常さ」だという。  例えば、男性や思春期の少年がいる家庭に、幼い娘を一人で泊まりに行かせてしまう。 「今思えば不思議なほど、毎年のように他人の家に一人で泊まりに行っていました」と元2世の女性は振り返る。  家族で遊びに行った際、相手の家の男性や思春期の少年が、自分の娘を膝の上に乗せたり、身体接触を伴う遊びをしたりしていても、誰かがとがめることはない。  遊びに行った家で、男性や少年の部屋に、自分の娘が一人で入り、いわば閉鎖された状態で遊んでいても、親たちは不安を抱かずおしゃべりに夢中になっている。 【あわせて読みたい】 この世はサタンに毒されている、ハルマゲドンが来れば楽園に行ける…「カルト2世」が明かす生きづらさと解けない呪縛 https://dot.asahi.com/articles/-/15111 「小学生の娘を、他人の家の男性が膝に乗せてじゃれあっていたら、普通に考えたら『キモイ』と思いますよね。誰かの家に行っても、小さな子供は親の目が届くところで遊ばせるはずで、ましてや男性や少年の部屋で、娘を1人で遊ばせるなんてことはさせないでしょう。ところが、エホバの証人の親たちは、どこも我が家かのように安心しきってしまい、娘が膝に乗せられていても『きょうもかわいがってもらってよかったね』などと言ってしまうのです」(前出の女性)  事実、アンケートでも、 「食事招待で被害にあった。大人は大人同士のおしゃべりに夢中でまったく子供の様子を見ていなかった。加害者は信用ある年の若い2世で、加害者がいるなら安心と大人たちは思っていたのではないか」 「親とともに加害者宅に訪問。加害者の個室に呼ばれて被害にあった」 「我が家での『交わり』の際、私の部屋に入ってきて2人になりベッドに倒され、性交渉させられそうになった」 「若い夫婦の信者宅に泊まりに行き、定期的に被害にあった」  などの回答があった。 王国が第一、子どもは二の次  信者の家族同士の、根拠のない安心感に基づいた交流の場。加害者の立場から見れば、「疑いを持たない」心理を利用し、加害行為をする環境を容易に作ることが可能だ。「楽園ができてしまう」と元2世信者らも危機感をあらわにする。  さらに、性被害を訴えても2人か3人の目撃者がいないと、教団内の宗教裁判である「審理委員会」は開催されない。逆に訴えた側が処罰されたケースもあるなど、被害者の立場が圧倒的に弱い。 「仮に加害者が長老などの地域の幹部だった場合、『あの人がそんなことするはずがない』と親が聞く耳を持とうとしないケースもあるのです」(綿和さん)。  エホバの証人は婚前交渉を禁じるなど性的行為のルールが厳しく、性的にゆがみやすい環境にある。  綿和さんは、「エホバの証人の親たちは王国が第一で、子どもは二の次。人の扱い方にゆがみがある」と指摘し、こう続けた。 「子どもたちが性被害に遭いやすい構造的な問題は今も続いています。現役信者の大人たちにこそ知って欲しい事実で、信者だからと安易に信用せず、自分の子どもを守って欲しいと思います」 (AERA dot.編集部・國府田英之) ※記事の続きはこちら<<「ハルマゲドンが来たら意味がないでしょ!」エホバの証人の元2世信者が母に言われた最後の言葉>>へ続く 【こちらも読まれています】 ​妻の名前から職場までネット上に…ジャニーズ性被害「当事者の会」メンバーが語る二次被害 https://dot.asahi.com/articles/-/206882
南野陽子の「男運の悪さ」はどこからくるのか “我が強い”ゆえ優しくされると“弱い”一面も
南野陽子の「男運の悪さ」はどこからくるのか “我が強い”ゆえ優しくされると“弱い”一面も 離婚を発表した南野陽子    南野陽子が「セレブ婚」に終止符を打った。2011年に、病院経営などに関わる男性と結婚。会見では高級ブランドの婚約指輪を見せ、喜びを語ったが、その直後からこの男性にはさまざまなトラブルが報じられてきた。投資話で億単位の金をだまし取ったとか、銀座のクラブママと不倫をして隠し子をめぐってモメたとか、そういうトラブルだ。それでも4年前、彼女は週刊誌の取材に対し、 「トラブルなどでこれ以上病みたくはないんです。でも、家族としては支えていきたいですし、仲良くしていきたい」  と、発言。  しかし、今年の11月21日、この男性がついに逮捕されてしまった。特別養護老人ホームなどを運営する社会福祉法人の資金1500万円を横領した疑いだ。  その翌日、 「ショックです。何故…悲しさ、怒り、情けなさ…いろんな感情が湧いています」  と、コメント。そして、27日には、 「私事ですが、離婚いたしました。お互いに今向き合うべきことから目を背けることなく、今後の人生を歩んでいきたいと思います」  という発表をした。  1984年にデビューした彼女は翌年、ドラマ「スケバン刑事」シリーズ(フジテレビ系)の二代目麻宮サキ役に起用され「ナンノ」の愛称で人気者に。歌手としても「話しかけたかった」や「はいからさんが通る」などをヒットさせ、90年代以降は女優業を中心に活躍してきた。   【こちらも話題】 ミッツ・マングローブ「南野陽子が露呈させた斉藤由貴の立ち位置」 https://dot.asahi.com/articles/-/113060 南野陽子   体育会系やヤンキー系に好かれる傾向  恋愛については、アイドル時代から「23歳までには結婚したい」と公言。ただ、熱愛と破局を繰り返し「恋多き女」だが「男運はない」などといわれるようになる。  その相手はプロ野球選手やジャニーズアイドル、さらにTUBEの前田亘輝とは結婚目前ともいわれたが、成就しなかった。その失恋を慰めたのが、米米CLUBのカールスモーキー石井(石井竜也)。94年には交際宣言までする関係となった。  が、彼女が石井のマンションを合鍵で訪れた際、彼の浮気相手と遭遇してしまい、大喧嘩になったことから破局。その後、2007年から4年ほど、クリエイティブディレクターの男性と交際したものの、結婚にはいたらなかった。年齢的にも子づくりを急ぎたかった彼女と相手とのあいだにズレが生じていたとされる。  ただ、別れた直後に知り合った男性とスピード婚。その相手が今回、離婚した男性だったわけだ。  では実際に、彼女は「男運が悪い」のか。  そもそも、男が寄ってこなければ、恋は始まらない。問題は、その男たちのタイプだったり、彼女がそれによってどうなりやすいかというパターンだろう。  アイドル時代から、彼女は男性ファンが多かった。それも体育会系とかヤンキー系とかに好かれる傾向があり、たとえば、同学年のプロ野球選手・清原和博も新人時代「好きな女性芸能人」に彼女を挙げていた。   【こちらも話題】 小泉今日子が離婚した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/94374 南野陽子   求められる「いい女」的なもの  そういう男性はルックス優先というか「いい女」的なものをまず求めて、そこから絆を強めていくような恋愛をしがちだ。そのぶん、女性ならではのロマンチックな内面に気づきにくく、それよりは家事などの生活能力を重視したりする。  したがって、彼女と同じ年に歌手デビューした斉藤由貴のようなタイプにはあまり向かわない。その点、南野は美貌が売りで、お嬢さま育ちでもあり「いい女」的なイメージが先行しがちだ。が、その一方で、かなりロマンチックな内面も持ち合わせていた。  女子校時代、同じ電車を使う他校の男子に憧れ「ギザギザ君」というあだ名をひそかにつけてみたり。子どもの頃に書いたという童話(マンガだったかも?)のあらすじも、ホコリ(埃)を擬人化したかわいくてユニークなものだった。そんなところもちゃんと理解してくれる相手じゃないと、物足らないのではないか。  そして何より、彼女は我が強い。デビューにあたっては、事務所が弱小だったため、自分で仕事を取りにいった。彼女の存在を知らしめた「デラックスマガジン」(講談社)のグラビアも自ら交渉して増ページに成功。前出の「スケバン刑事」にせよ「フジカラー」のCMにせよ、自ら調べてオーディションを受けたという。  そんな性格は事務所とのトラブルでさらにエスカレートした。彼女のマネジメントは作曲家・都倉俊一が経営するエスワン・カンパニーと劇団青年座が分担して行っていたが、そのせいで、ダブルブッキングが続出。89年には、東京ドームで開催された富士通の新作パソコン発表イベントをドタキャンする騒動も起きた。   【こちらも話題】 セレブ妻・吉瀬美智子が離婚 3年前に明かしていた「寝室」での出来事 https://dot.asahi.com/articles/-/74639 南野陽子   国生さゆりと似たタイプ  また、エスワン・カンパニーはいわゆるブラック体質で、トップアイドルかつ屋台骨でもある彼女にさえ、数万円の月給しか払っていなかった。そのため、彼女は独立して個人事務所を作るが、そのしっぺ返しとして仕事を干され「生意気」うんぬんというバッシングも受けることに。負けじと雑誌で猛反論したりもした。  それでも同情した勢力が彼女を映画界に引っ張り出し、映画女優として盛り返すわけだ。この経験が自分の力でやっていけるという自信にも、ともすれば過信にもつながったのだろう。  ただ、恋愛については芸能活動以上に、自力だけではどうにもならないところが大きい。頑張った結果、破局に終わると、気持ちが弱まり、優しくされると頼ってしまうというところもあるのではないか。前田亘輝の直後の石井竜也、クリエイティブディレクターの直後のこの男性、というのはまさにそのパターンに思われる。  じつは彼女と似たタイプに、国生さゆりがいる。年齢は南野が1歳下だが、世に出たのはほぼ同時期。盗撮したカメラ小僧からフィルムを取り上げた、などの我の強い武勇伝にも事欠かない。と同時に、最近は小説を書いたりもしている。  ともにアイドルから女優へという転身をしたが、南野が石井と破局した頃、こちらも長渕剛との不倫で注目された。長渕がクスリで逮捕されたことから、自らの無実と不倫の清算を記者会見でアピール。その後は地元愛の強いヤンキー系らしく(?)中学時代の同級生と結婚したが、離婚して、そこからヨリを戻したりまた別れたりした。さらに、コンサルタント会社社長との再婚も約1年半で終了。こちらも「男運が悪い」といわれる元アイドルのひとりだ。   【こちらも話題】 国生さゆり「バレンタイン・キッス」が34年の大定番になったのには理由がある https://dot.asahi.com/articles/-/103116 一日警察署長を務めた南野陽子   夫の逮捕までは想定外だった?  話を南野に戻すと、99年から大手事務所に所属。これが安定した活動につながったが、昨年末にまた独立した。  一説によれば、トラブルメーカーの夫を持つ彼女に大手事務所が仕事を入れることをためらい、もっと仕事をしたい彼女が不満を持ったという。大手事務所にすれば、いつ逮捕されるかもしれないという不安を抱えていたのだろう。  一方、彼女にとって逮捕はあくまで想定外で、むしろ、トラブルが報じられても我が道を貫く夫に自分の生き方と似たものを感じていたのかもしれない。  そういえば、2014年のインタビュー(「語れ!80年代アイドル」KKベストセラーズ)で、彼女は夫婦関係について興味深い話をしている。「私が若くてAKBに入ったら、絶対に1位になれると思う」「テレビ観ながら『ほら!この人、整形してる!』とか(言っているときが)いちばん楽しい」などという流れのあと、 「自慢話と人の悪口を、主人は聞き流してくれるんだもん。言葉は悪いけど、ゴミ箱みたいな存在(笑)」  と、毒舌をまじえつつ、ノロケていたのだ。  こういう仲だったからこそ、12年以上も夫婦でいられたのだろうが、彼女は現在「仮面ライダーガッチャード」(テレビ朝日系)に主人公の母親役で出演中。12月22日には、その映画版も公開される。青少年がターゲットの作品とあって、そのあたりも離婚やむなしという判断につながったのではないか。  それにしても、これが20代~30代での挫折なら若気の至りで乗り越えられそうという見方も可能だ。しかし、彼女は56歳。アイドル時代に人気を博したラジオ番組のタイトル「ナンノこれしきっ!」とはちょっと行かないかもしれない。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
家康はなぜ「律儀で実直」なだけの三男・秀忠を後継者にしたのか
家康はなぜ「律儀で実直」なだけの三男・秀忠を後継者にしたのか 徳川家康が入封したときは簡素な城だったという江戸城。写真は三の丸の桜田巽櫓。左奥は富士見櫓  11月26日放送の大河ドラマ「どうする家康」第45回が描くのは「二人のプリンス」。豊臣秀吉が残した豊臣秀頼と、後に徳川幕府2代将軍となる徳川秀忠の物語だ。ドラマで森崎ウィンが演じる秀忠は、家康の三男で、律義で実直なだけがとりえだったとされる。徳川家康はなぜ、この三男を後継者に指名したのか。「だからわかる」シリーズの1冊『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ編集部)は、2代将軍誕生の背景と実際の手腕を詳細に解説している。 ***  徳川秀忠は、「どうする家康」では「於愛の方」として登場し広瀬アリスが演じた西郷局を母に持ち、正室は浅井長政の三女で茶々の妹・江。長女の千姫はライバルとして描かれる豊臣秀頼に嫁いでいる。  早くから嫡子に定められたのは、豊臣秀吉の養子となって羽柴秀康を名乗った兄と父・家康が疎遠だったためとも、秀忠の温和な性格を、父・家康が「守成の時代」にふさわしいと考えたためとも言われる。  家康が将軍職を秀忠に譲ったのが1605(慶長10)年。1615(元和元)年の大坂の役を経て元号は「元和」と改暦され、「元和偃武(えんぶ)」と呼ばれる平和の時代が到来した。ここから幕府は厳しい大名統制に乗り出す。大名の勢力をそぐため、居城を一つに限る一国一城令を発し、支城をすべて破却させた。  また、武家の基本法である武家諸法度も発布。武家諸法度は将軍の代替わりのたびに発布されたが、元和令は「文武弓馬の道にひたすら励め」「酒におぼれるな」「幕府の許可を受けない結婚はするな」などと定めた。幕府と大名の主従関係が公的に定められるとともに、諸大名が公権力として領国と領民を支配する正当性が認められた。 さらに、禁中並公家諸法度を制定し、天皇や公家の役割も定めた。  1616(元和2)年に家康が死去し、大御所と呼ばれた家康と将軍との二元政治が解消されると、秀忠は改めて大名・公家・寺社に領地の支配を認める領知宛行状を発給。統治者としての自身の権力を世に知らしめた。 【こちらも話題】 徳川家臣団「忠臣」ランキング! 秀吉からの恩恵を“拒絶”してまで徳川家への奉公を貫いた武将 https://dot.asahi.com/articles/-/12877  温厚とされる秀忠だが、大名を容赦なく改易し将軍権力の強化を図った点は家康と同じだった。福島正則ら外様大名だけでなく、弟の松平忠輝やおいの松平忠直、本多正純など、一門や譜代大名も処分している。妻の江が生んだ娘・和子を後水尾天皇の皇后とし、家康の悲願であった天皇との縁戚関係も実現した。外孫の興子は後年、明正天皇として即位し、幕府の権威を高める役割を果たした。  僧侶に紫衣の着用を認める勅許を幕府が取り消した紫衣事件は、朝廷に対する幕府の優位を決定付けたといわれる。秀忠は嫡子・家光に将軍職を譲ったのちも、家康同様、大御所として実権を握った。父の地盤を受け継ぎ、より強固にした手腕は、地味ながら徳川15代の礎となったのである。 徳川将軍15代と御三家・御三卿系図(図版作成 ウエイド)    しかし、秀忠にとって「生涯の禍根」となった出来事がある。「関ヶ原遅参事件」だ。「どうする家康」でも松本潤演じる徳川家康が、関ヶ原の戦いでの遅参を叱責する場面があった。上方で西軍が決起した時、秀忠は徳川の主力を率いて中山道を下った。だが、途中の上田城攻略で手間どり本戦に間に合わず、本戦で活躍したのは外様の大名や武将が多かった。信濃平定は家康の命だったため嫡子の座は保ったが、論功行賞で多くの領地が外様大名のものになり、戦後の勢力図に大きな影響を与えたといわれる。 (構成 生活・文化編集部 塩澤 巧) 【こちらも話題】 坂本龍馬ブームがもう少し早ければ… 嫌われた妻・おりょう https://dot.asahi.com/articles/-/81657
「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今
「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今 ヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂(Getty Images)  イエス・キリストの弟子ペトロは、イエスがローマの兵士たちに捕らえられた途端、他の使徒たちといっしょに全速力で逃亡した。のちに死から復活したイエスから後進の指導を託され、別人のように毅然としたリーダーとなった。皇帝ネロが彼を処刑しようとした際、イエス・キリストと遭遇。自分が殉教する時期が来たことを確信し、ローマへ戻りマニアックな磔刑によって殉教した。清涼院流水氏の新著『どろどろの聖人伝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、マニアックな磔刑を望んだカリスマ聖人を紹介する。 *  *  *  【関連記事を一気に読む】 #1 “サンタクロース”はキレて投獄されていた 隣人にこっそりお金を配っていた「聖人」 #2 十字架で処刑中に“人生大逆転” キリストの言葉で天国行きが確定した「善良な強盗」 #3 毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」 #4 「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今 #5 「猛獣に噛み殺されたい」大観衆の前での処刑を喜んだ司教 直後に起きた大地震に皇帝は #6 乳房を斬り落とされても元通り、喉に剣を突き刺しても平然 男の「憎」を奇跡で跳ね返した二人の聖女 #7 柱の上に立って37年暮らした“ストイック”な聖人 「静かな生活」を求めたのに観光地化 #8 天使の言葉を信じたジャンヌ・ダルク “魔女”として受けた「究極」の罰 #9 14カ所も刺して自分を殺した男の「回心」を、“死後”も願った11歳の聖女  兄弟アンデレに続いてイエスの弟子となったペトロは、同時期に弟子入りした大ヤコブとヨハネの兄弟とともに、常に師の活動につき従いました。ペトロが使徒たちのリーダーとなり、のちに、初代ローマ教皇と見なされるようになったのは、十字架に磔にされる前のイエスから直接、キリスト教会を託されたのが彼だったからです。  ペトロの本名はシモンですが、彼が弟子入りしてすぐに、イエスは彼に「岩」を意味する「ペトロ」という名前を与えました。ある時、イエスは弟子たちに「あなたは、わたしをだれだと思う?」と尋ねました。それにペトロが「イエス様、あなたは生ける神の子、救世主です」と答えると、イエスは彼にうなずきました。 「ペトロよ、あなたにそれを語らせたのは、天の『父なる神』である。わたしは、この岩(=ペトロ)の上に教会を立て、あなたに天国の鍵を与える。あなたが地上で結ぶ関係は天国でも結ばれ、解いた関係は天国でも解かれる」  全幅の信頼を寄せられたペトロは、イエスに「あなたが死なれる時は、われわれも運命をともにします」と誓っていました。ですが、イエスがローマ帝国の兵士たちに捕らえられると、ペトロは他の使徒たちといっしょに全速力で逃げました。しかも、近くにいた人から「お前はイエスの弟子だろう?」と見咎められた際には、「そんな男を知っていたら呪われても良いが、知らないものは知らん!」と3回も師を否定しました。  死から復活したイエスは、ペトロと再会した時、「あなたは、わたしを愛するか?」と3回尋ねました。ペトロが「愛します」と3回答えたことが3度の否認の埋め合わせとなり、彼は師から「わたしの羊たちを導きなさい」と後進の指導を託されます。  そんなペトロは「聖霊降臨」のあとは、別人のように毅然としたリーダーとなり、初代教会を率いるようになりました。それまで彼が恐れていたユダヤ教の既得権益層に対しても、怯まず立ち向かいました。記録が書かれる時に美化されたのだろう、という印象を持たれる方がいても当然ですが、初代教会の記録「使徒言行録」を書き遺したルカの手による「ルカの福音書」では、ペトロの情けなさや頼りなさをきちんと描いています。師を頼れない環境に置かれたことで、ペトロは実際に変わったのでしょう。  そんなペトロは、絶対的に君臨していたリーダーというわけではなく、エルサレム教会の初代司教となった義人ヤコブ(「主の兄弟ヤコブ」とも呼ばれ、12使徒の大ヤコブや小ヤコブとは別人)や、異邦人(=ユダヤ教ではない人々)にキリスト教を広めたパウロに対しては配慮して歩み寄っていた様子も「使徒言行録」からは窺えます。  現在、カトリック教会の聖職者は妻帯が禁じられていますが、ゆるされていた時代も長く、ペトロはイエスの弟子となる以前に結婚していたこと(ペトロの姑をイエスが癒す話)が、新約聖書にも記されています。ペトロの娘としてペトロネラも聖人に認定されていますが、ペトロネラは名前が似ているだけでペトロと関係ないとする説もあります。ペトロの妻については、名前さえわからず、ほとんど情報がないのですが、カイサリアの司教エウセビオスが書き遺した初代教会の重要資料「教会史」によれば、妻が逮捕されて処刑されることになった際、ペトロは「わが妻は、これで天国に行ける!」と大喜びしたそうです。ペトロは処刑場に向かう妻に、こう叫んだと言います。 「わが妻よ、処刑されるあいだ、主イエス様のことを片時も忘れてはならんぞ!」  ペトロ自身も殉教を望んでいましたが、皇帝ネロが彼を処刑しようとした際、弟子たちに懇願され、最初はローマを脱出しようとします。ところが、街を出ようとしたところ、イエス・キリストが彼の前から歩いてきました。呆然とする自分の横を通り過ぎる師に、ペトロは「イエス様、どちらへ行かれるのですか?」と問いかけました。 「わたしは、ローマへ行くのだ。もう一度、十字架につけられるために―」  ペトロが「では、わたしもあなたといっしょに戻り、十字架につけられます」と告げると、イエスはふり向いてやさしくうなずき、ふたたび天に昇って消えました。  自分が殉教する時期が来たことを確信したペトロはローマに戻って逮捕され、「わが師と同じ方法で殺されるのは不遜である」と語り、上下を逆さまにした十字架に磔にされて殉教しました。ペトロが処刑された場所に墓がつくられ、のちに、その上に建てられたのが、現在のヴァチカン市国のサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂です。 【関連記事を一気に読む】 #1 “サンタクロース”はキレて投獄されていた 隣人にこっそりお金を配っていた「聖人」 #2 十字架で処刑中に“人生大逆転” キリストの言葉で天国行きが確定した「善良な強盗」 #3 毒入りの盃はまっぷたつ 裸の女性で誘惑させたライバルは圧死 厳格な修道士の起こした「奇跡」 #4 「知らないものは知らん」キリストを置いて全速力で逃げた弟子 逆さまで処刑された場所は今 #5 「猛獣に噛み殺されたい」大観衆の前での処刑を喜んだ司教 直後に起きた大地震に皇帝は #6 乳房を斬り落とされても元通り、喉に剣を突き刺しても平然 男の「憎」を奇跡で跳ね返した二人の聖女 #7 柱の上に立って37年暮らした“ストイック”な聖人 「静かな生活」を求めたのに観光地化 #8 天使の言葉を信じたジャンヌ・ダルク “魔女”として受けた「究極」の罰 #9 14カ所も刺して自分を殺した男の「回心」を、“死後”も願った11歳の聖女 ●清涼院流水(せいりょういん・りゅうすい) 1974年、兵庫県生まれ。作家。英訳者。「The BBB(作家の英語圏進出プロジェクト)」編集長。京都大学在学中、『コズミック』(講談社)で第2回メフィスト賞を受賞。以後、著作多数。TOEICテストで満点を5回獲得。2020年7月20日に受洗し、カトリック信徒となる。近著に『どろどろの聖書』『どろどろのキリスト教』(ともに朝日新書)など。
愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ?
愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? 東京・恵比寿ガーデンプレイスでクリスマスのイルミネーションを訪れた皇太子さま(当時)と雅子さま、愛子さま。クリスマスカラーの愛子さまの赤いコートが愛らしい=2007年12月、代表撮影/JMPA    イルミネーションが、街を幻想的に照らす季節になった。コロナ禍以前、天皇陛下と雅子さま、そして長女の愛子さまが、都内にあるクリスマスのイルミネーションなどを「お忍び」で見学するのは、ご一家の昔からの恒例行事だった。街に賑わいと華やぎが戻ってきた今冬、ご一家の姿を見ることができるだろうか。 *  *   *  日が落ちた東京・恵比寿ガーデンプレイス。赤いコートを着た愛子さまが、当時皇太子だった天皇陛下と雅子さまと手をにぎって歩いてきた。  2007年12月21日の午後6時過ぎ。3人が「お忍び」で訪れたのは、クリスマスのイルミネーション。皇太子さまと雅子さまはそれぞれ愛用のカメラを取り出し、フランスの高級クリスタルガラスブランド「バカラ」のシャンデリアを写真に収めていた。  愛子さまは前日、学習院幼稚園の終業式を終えて冬休みに入ったばかり。道行く人たちからの視線が恥ずかしかったのか、「パパ」のコートの裾をつかみ、そっと後ろに隠れる場面もあった。  数日前には雅子さまが、青山でクリスマスの飾りやキャンドル、シャンパングラスなどの買い物を笑顔で楽しむ姿も見られた。自宅では愛子さまも一緒に、クリスマスの飾りつけをしたのだという。    翌年は愛子さまが発熱したこともあり、「お忍び」は中止に。しかし、クリスマスや年末の季節のイルミネーションの見学は、ご一家の恒例イベントとなった。     【こちらも話題】 すっかり「パパ」と「ママ」の陛下と雅子さま 運動会で望遠レンズの先には成長した愛子さま https://dot.asahi.com/articles/-/198782     「お忍び」で訪れた恵比寿ガーデンプレイスで、愛子さまは皇太子さま(当時)と雅子さまと手をつなぎ、イルミネーションを楽しんだ=2007年12月、代表撮影/JMPA   「カゴの鳥」と報じられた雅子さま  イルミネーションの見学は、愛子さまが生まれる前からのおふたりの特別な行事だった。  ご結婚から4年ほどたった1997年12月24日のクリスマスイブ。おふたりは車で表参道に出向き、ケヤキ並木のイルミネーションを楽しんだ。おふたりが車から降りることはなかった。  この時期、海外王室と比べて制限の多い東宮御所での雅子さまの暮らしぶりを、海外のメディアは「カゴの鳥」と報じていた。車窓から幻想的な光を眺める時間も、雅子さまにとっては貴重なひとときであったにちがいない。   恵比寿ガーデンプレイスで、フランスの高級クリスタルガラスブランド「バカラ」による世界最大級のシャンデリアを楽しむ皇太子ご一家(当時)=2007年12月、代表撮影/JMPA    1991年から続いていた表参道のイルミネーションは、交通渋滞や街路樹への影響などのため、98年を最後に中止になった。  そして2009年の冬、イルミネーションは11年ぶりに復活。照明は豆電球から、樹木への負担が軽減されるLEDへ変わった。そして63万個球の光が美しく照らすケヤキの並木道を、皇太子さまと雅子さま、そして愛子さまがお忍びで訪れ、楽しんだ。   ハーバード大学時代、恩師のオールドマン夫妻とクリスマスを過ごす雅子さま=1981年12月、宮内庁提供   都内のイルミネーション名所を巡り  ご一家の仲むつまじさはその後も変わらず、家族そろっての「イルミネーションお忍び見学」は愛子さまが高校生になっても続いた。  2018年12月28日、17歳の誕生日を迎えたばかりの愛子さまたちが訪れたのは、東京・六本木のけやき坂のイルミネーションだった。70万個のLEDが約400メートルの冬の散歩道を、青と白の幻想的な光で彩った。   ご結婚前の雅子さまが、感謝の心を込めて両親に贈ったクリスマスカード=1992年12月撮影、宮内庁提供    皇太子さまと雅子さま、愛子さまの3人を乗せた車は、並木道をゆっくりと走った。ご一家はこの後も、都内にあるイルミネーションの名所を巡り、皇居のライトアップも楽しんだという。    コロナ禍に入り、ご一家がイルミネーションを見学する光景は見られなくなった。愛子さまが大学生として最後のクリスマスを過ごす今年。ご一家で街のきらめきを一緒に楽しむ姿が見られるのだろうか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)    【こちらも話題】 「ああ!」と顔を見合わせた天皇陛下と雅子さま 「この~木なんの木」おなじみのCMソングに大笑い https://dot.asahi.com/articles/-/203747  
奥田瑛二が正岡子規の「艶俳句」を読み解く いやらしさを感じさせないバランス感覚とは
奥田瑛二が正岡子規の「艶俳句」を読み解く いやらしさを感じさせないバランス感覚とは 奥田瑛二(おくだ・えいじ)/1950年生まれ。俳優、映画監督。94年に映画「棒の哀しみ」で多くの主演男優賞を受賞した後、2001年に監督デビュー。瀬戸内寂聴さんから授かった俳号は「寂明」(撮影/門間新弥)    AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。  俳優、映画監督でもある奥田瑛二さんの著書『よもだ俳人子規の艶』は、俳人の夏井いつきさんと正岡子規について語り尽くす。子規は、34年の生涯で約2万5千もの俳句を残したが、意外にも傾城(城も傾くほどの美しい遊女)や遊里を詠んだ句を多く残している。子規の人間臭さ、そしてシビアな世界に身を置く女性たちへの優しい眼差しが浮かび上がる。自らを“女性至上主義者”と表現する奥田さんの感性が光る。奥田さんに同書にかける思いを聞いた。 *  *  * 「あなた、俳句をお詠みになったことってある?」 『よもだ俳人子規の艶』を上梓した奥田瑛二さん(73)の俳人としての第一歩は、故・瀬戸内寂聴さんのそんな一言から始まった。  40年近く前のこと。雑誌の対談企画で、京都の瀬戸内さんの自宅を訪れたときだった。俳句に触れたのは、おそらく小学5年生が最後。内心慌てふためく奥田さんをよそに、瀬戸内さんは茶目っ気たっぷりに「一句お詠みなさい」。途方に暮れ耳を澄ませば、庭からウグイスの鳴き声が聴こえてきた。不思議と、気持ちが落ち着いていく。 「鶯の鳴けるやさしさ我に無し」 「あら、いいじゃない」という瀬戸内さんの言葉に安堵したこの日から、奥田さんの人生に「俳句」が色濃く取り込まれていく。 「俳句を詠む時間は、自分に正直になる時間」と奥田さんは言う。一日一句詠むことを課していた時期もある。取り繕うことも着飾ることもできない自分が17音のなかに宿る。  書名にある「艶俳句」というカテゴリーを生み出したのも、奥田さんだ。 「言ってしまえば“エロ俳句”ですが、いくらなんでも、と思い“艶”と書いたら『これだ』としっくりきたんです」  艶俳句というジャンルに足を踏み入れたのは、選者としての仕事が増え、他者が懸命に詠んだ句を選ぶことの楽しさと苦しさを味わったことがきっかけだった。 「もう一度、主観からの想像で、過去の日記のようなものを想起しながら俳句に向き合ってみようと。瀟酒なバーでお酒を飲みながら詠んだものは『芸術か猥褻か』の論争に近いようなもので、妻には見せられないものだった。でも、むちゃくちゃ楽しかった」  だからこそ「子規をテーマに対談を」と本の企画が届いた時、艶俳句に目が留まった。 〈傾城の罪をつくるや紅の花〉〈出女が風邪引聲の夜寒かな〉  遊里や遊女についての句を多く詠んでいたのは、意外だった。「印象に残ったのは、いやらしさを感じさせない、絶妙なバランス感覚」と言う。 「子規の想像力、そして体験をくみながらの“品の良さ”がなんとも言えない。子規の艶俳句に触れてから他の句を読むと、他の句も動き出すような感覚があるんです」  遊郭で働く女性たちにたくましさを見いだし、ときに尊敬の眼差しを向ける。 「せつなさや束の間の喜びを含めた、女性としての喜怒哀楽。そこにかりそめの幸せが加われば、一本の映画になりそうだよね」と奥田さん。  子規の艶俳句だけをまとめた、スマートでかっこいい句集がいまの時代に出版されることも密かに期待している。 「実際にこれだけ多くの艶俳句を残しているわけだから。時代を超えて人々の目に触れてほしい、と子規自身も望んでいたはず。彼の艶俳句を読んだとき、そう感じたんだ」 (ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2023年11月27日号
サリン事件被害者の支援NPOが活動終了 手探りで組み立てた「支援モデル」将来世代へ
サリン事件被害者の支援NPOが活動終了 手探りで組み立てた「支援モデル」将来世代へ 築地駅(後方)から地上に運び出されて手当てを受ける乗客=1995年3月20日午前9時7分、東京・築地で    28年前の地下鉄サリン事件で「被害者への支援」を手探りで続けてきたNPOが活動を終える。スタッフは、今後もいつ起きるか分からない事件への対応を「風化にあらがって語り継ぐ」。AERA 2023年11月27日号より。 *  *  *  埼玉県から東京の職場に通勤していた男性(69)が、28年前の春の朝、息苦しさと後頭部の激痛でうずくまったのは、地下鉄人形町駅の階段を下り始めた時だった。  ひとつ前の小伝馬町で日比谷線が停まった。築地駅で大きな事故が起きている、と車内放送があったので、ホームに降りた。後からわかったことだが、前の電車で見つかったポリ袋を乗客が蹴りだしたホームには、猛毒の液体から気化した無臭のサリンが充満していた。  その時点では「事件」にほとんど気づいていない乗客の波の中で、都営線への乗り換えを急ぐ男性は、地上に出て人形町駅へ、ひと駅歩いたのだ。  その朝は天気が良かったのに「いやに暗いな」と感じた。瞳が縮む「縮瞳」が始まっていた。当時、40歳を超えたばかりの働き盛りの体力で、何とか会社までたどり着いた。 「完治」のはずが  あちこちの地下鉄でたいへんな事件が起きた、と会社のテレビが騒いでいた。「自分の症状もこれが原因か」と会社近くの病院に急いだ。「瞳孔が縮んでいます」と診断され、入院することに。瞳孔検査をする人が他にもいた。祝日だった翌日は休み、水曜日から出勤した。  数カ月間病院に通って「完治した」と言われた。労災保険を扱う労働基準監督署にも「完治」を報告した。目が熱を持ち、疲れが残りやすかったが、「いつまでも回復しないと言ってたら、会社からはじき出される。住宅ローンもいっぱい残っていた」。  病院から遠ざかった。  NPO法人「リカバリー・サポート・センター」(RSC)から連絡があったのは7年後だった。「神経眼科」を紹介された。 「その眼科で救っていただいた。サリンの後遺症だと診断を受けた。自分の気のせいではなかった」。男性は、今も症状が残り、年2回通院している。  当時、診療にあたった若倉雅登医師は言う。「RSCの皆さんが来られて、被害者の方は普通の病院では異常なしと言われるけれど、こんなに多いのだから何かあるはずだ、と」。若倉医師は、一般の眼科とは異なり、「脳と目の関係」を調べる神経眼科が専門だった。以後、2010年までに295人のサリンの症状を確認した。       NPO法人「リカバリー・サポート・センター」は、毎年3~5日、被害者に無料検診を続けてきた。写真はセルフケア講習会の様子(写真:RSC提供)   「人類の歴史上経験のない化学テロによる健康被害に対し、国、医療、メディアは鈍感過ぎた。簡単に『異常なし』という医療の姿勢はとくに問題だ」。若倉氏は昨年の講演会で、改めて訴えた。  事故の対応に当たった医者や弁護士、ジャーナリストらは、取り急ぎ、事故の翌年から公共施設を借りて検診を始めた。当初66人だった検診者は、5年で300人を超えた。NPOの設立総会にこぎつけたのが2001年。翌年、認証された。 鈍かった国の動き  そのRSCが今月18、19日の無料検診を最後に、活動を終える。「登録する被害者が100人を切ったのをめどに、スタッフが高齢化したこともあって、休止を決めた」と理事長の木村晋介弁護士は言う。  犯罪被害者に対する国家支援の立ち上がりは、日本では欧米に比べかなり遅く、通り魔殺人等の被害軽減に支給される「犯罪被害者給付制度」(1981年施行)があるだけだった。  地下鉄サリン事件などの無差別殺傷事件を契機に、被害者に対する支援を求める社会的な機運が急速に高まった。2001年に給付制度を拡充した「改正犯罪被害者等給付金支給法」が成立。給付金と同時に待ったなしとされたのが、PTSDをはじめ被害者への精神的なケアだ。  山城洋子さん(現事務局長)は、設立総会の少し前から、RSCの運営を手伝い始めたが、何より「被害者同士が互いに話をできる場づくり」を急ぐ必要があると痛感していた。  10年目事業として「メモリアル・ウォーキング・ケア」を05年に実現。駅に近づけなかった被害者が少なからず、地下鉄駅まで下りて、献花をできるようになった。「お互いの会話が生まれ、交流が始まるまではなお、積み重ねが必要だった」と山城さんは言う。国家の混乱を狙った犯罪だったが、被害者支援にあたる国の動きは鈍かった。代わって、民間団体が動いた。  厚労相の経験がある立憲民主党の長妻昭政調会長は「現場を一番よく知る支援団体の皆さんが、意見やデータをぶつけて、国会議員や政府を突き上げた。自分たちにも反省がある。そうしたご指摘で支援団体を支援する法整備にもつながった」。RSCのインタビューに答えた。  木村理事長は二十余年の経験で、「被害者に寄り添う対応ができるのは民間」と感じていた。 「オウム真理教犯罪被害者等給付金」の給付が08年に始まった。警察庁が、申請した被害者に対して「本当に被害を受けたのか、犯人調べをするかのように」(木村理事長)当時の状況を事情聴取した。申請者らは、一斉にRSCのスタッフに警察庁の「乱暴な調べ」を訴えた。 AERA 2023年11月27日号より    医師らは、これまでの検診のデータも踏まえ、警察庁らに説明。警察側も、事件発生以来の検診実績を認め、RSCに給付金裁定を依頼した。そのうえで77人の被害者が集団申請した。 「治療が無料となるサリン手帳(健康管理手帳)が発行された04年も、政府は広報が十分でなく、当初は3人しか申請がなかった。私たちが被害者に伝え、64人が集団申請した」  手探りで組み立ててきた「被害者支援モデル」は、JR福知山線脱線事故(05年、乗客106人が死亡、562人が負傷)にも共有された。両団体の会合では、RSCから毎年の集団検診の経験について「カルテなどの被害の証拠散逸を防いでいる」(山城さん)と伝えられた。 「終わっていない」  地下鉄サリン事件の「14人目」の被害者が亡くなったのは、3年前のことだ。重い後遺症と闘ってきた浅川幸子さん(享年56)が20年3月に、サリン中毒による低酸素脳症で亡くなった。 「サリン事件は終わっていない」。RSCの下村健一理事は痛感する。30年近く経っても、検診には時々初診の被害者が訪れた。  RSCは昨年、「事件後に生まれた若者」たち二十余人と5人の被害者を招き、「事件といま」をリモートで語り合ってもらった。 「(地下鉄の)ホームにできた(サリンの)水たまりを、ビチャビチャ歩いた」「胸に鉛が入ったように、急に呼吸ができなくなった」。語り部たちの言葉に、「自分もいつでも被害者に、との思いに背中がひんやりした」(20歳)、「どんな言葉で語り部さんたちは傷ついてしまうのか」。さまざまな語りの中で、「風化にあらがう語り継ぎ」(下村理事)を将来世代に託した。 (ジャーナリスト・菅沼栄一郎) ※AERA 2023年11月27日号

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