
「国造り」の力に思いを馳せた飛鳥の里の丘の上 SCREENホールディングス・垣内永次会長
『源流』にはいくつかの水源から合流がある。母校を再訪した日、『源流』の水源に妻との年月を加えた。学生時代に知り合い、海外へも一緒だった(撮影/狩野喜彦)
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年12月11日号では、前号に引き続きSCREENホールディングス・垣内永次会長が登場し、「源流」である甘樫丘や母校を訪れた。
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眼下に、飛鳥寺がみえる。奈良県明日香村の飛鳥の都があった地域で、高校時代にオートバイで初めてきてから、何度か訪ねた。甘樫丘からの景色は、大きく変わっていない。くるたびに、初めてきた日を思い出す。
いま、自分は現代の飛鳥の里にいるが、万葉人たちも丘の麓に家があり、その周りを歩いていた。あの山の形とか神社の位置を、万葉人もみたのだと思うと、不思議な気がした。万葉の時代から現代に至るまでいろいろなことが起きたが、その時空を挟んで、そこに立って風を同じように感じている。「自分は万葉人から血を受け継いでいるのだ」と、ゾクゾクした。
併せて「昔の人は何で、どうやって、こんなところに国の形をつくったのか」と思いを馳せる。やがて「自分も他の人がやらないこと、やれないことをやろう」との思いを強めていく。
企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。
ことし10月、甘樫丘を、連載の企画で一緒に訪ねた。甘樫丘は、いま国営飛鳥歴史公園内にあり、中を舗装した道が通っている。当時は公園の北側から未舗装の道に入って、階段を上った。再訪では初めて舗装道路を歩き、展望台へ出た。標高148メートル。目前に右から天香久山、耳成山、畝傍山と、大和三山が並ぶ。畝傍山の先に、二上山もみえる。あの向こうが、大阪だ。住んでいる京都は、北側になる。胸に、初めてきたときのゾクゾク感が甦る。
情報過疎の実家の郷 テレビが家々へ入り好奇心が生まれた
通った和歌山県湯浅町の県立耐久高校は、進学校で、級友は勉学に励んでいた。でも、「みんなと同じことをやりたくない」という気持ちが強まり、勉強はそれなりで済ます。代わりに「相棒」と楽しいときを過ごす。父から借りたオートバイだ。
人と違うことをやる、の基に好奇心がある。飛鳥の里の訪問も米国でのソフト開発も、好奇心が生んだ。好奇心を実行へ移す、その挑戦こそが自分の信条だ(撮影/狩野喜彦)
高校に入ってまもなく二輪車の免許を取り、行動範囲が広がった。自宅があった同県金屋町(現・有田川町)は、ミカン畑が広がり、山や川で遊べるいい郷だ。ただ、外部との交流は細く、小中学校時代は世間の「情報」と縁遠かった。でも、小学校高学年のときにテレビが家々へ入り、徐々に外の世界への好奇心が生まれ、その気持ちを「相棒」が満たしてくれる。
ツーリングは、独りでいく。近隣の山へいけば、西に紀伊水道がみえて「あの向こうは、どこへいくのか」と思い、いつか外国へいこう、と決めていた。
授業を抜け出た日 「いってこい」と言ってくれた先生
ある日、初めて授業を抜け出て、奈良県へオートバイで向かう。いく前に担任の先生に話すと、「そういう青春をするのだったら、いってこい」と言ってくれた。あちこちを回り、最後にこの丘へきた。夕景は幻想的で、二上山は夕日に染まっている。その光景を独占し、「万葉の里に立った」と思う。
自宅へ帰り、万葉集を開く。約1300年前に詠まれた作品には恋の歌も多く、胸がときめく。すべて、夢の中のようだ。1300年前と簡単に言うが、人々が繰り返し繰り返しいろいろな生活を重ね、文化を築き、国をつくった。その大きな時間を、丘の上で感じた。
社会人になって外国へいき、古い町で遺跡などを観て、人々がつくってきた長い歴史に敬意を抱く。遺跡は、1人ではつくれない。会社の経営も、社員、客、取引先と一緒になってよくしていくわけで、結局は人がつくり、そこに歴史を重ねる。それがサステイナブルな経営だ。
そんな思いを抱かせてくれた耐久高校時代の日々が、垣内永次さんのビジネスパーソン人生の『源流』だ。会社に入って、おかしなことにはっきり意見を言い、新しいことに挑戦する提案をし、米国駐在時に新しい潮流をみて本社に直言した。やらなければいけないことは、素直にやっていけばいい。その感覚も、耐久高校から流れ始めた。
『源流Again』で、飛鳥の里を再訪する前に、耐久高校へいった。きたのは、卒業してから1、2度。でも、様々なことは、忘れない。模擬試験も受けずにオートバイで走り回っていたのは、大学受験からの逃避だった、のだろう。
それでも、野球部、相撲部、男子バレー部、陸上競技部の主将たちと剣道部の2人と7人で「学校をよくしていこう」という会をつくり、「ますらお会」と名付けた。卒業しても毎年、集まっている。もう50年。耐久高校は、豊かな人脈を築いていく『源流』でもあった。
1954年4月、金屋町で生まれた。父は郵便局で働きながら、母とミカン畑も手がける兼業農家で、兄と妹の5人家族。家の周囲のミカン畑はいま、住んでいる兄が趣味の範囲でやっている。再訪したとき、ミカンが色づいていた。秋らしさを感じたが、初夏に花が咲くときが好きだ。白い五弁の花で、いい匂いが広がる。次は、そんな季節に帰ってきたい、と思った。
いつも追いかけた3学年上だった兄 「超えた」出来事も
兄は3学年上で、やんちゃで父に叱られるのをみて、自分はおとなしく振る舞うようになる。その兄の後を、いつも追いかけていた。山へメジロやヒヨドリを捕りにいくのについていき、鳥屋城中学校での部活も昼は野球部、夕方から天文部と、兄と同じ道を歩む。でも、3年生で天文部の部長だったとき、「兄を超えた」出来事があった。
再訪の日の朝、実家から兄の邦夫さんと一緒に、旧・鳥屋城中学校へ向かった。母校は統合で移り、いま小学校になっている。天文部は、伝統的に流星を観測した。近くに世界的に知られたアマチュア天文家がいて、その教え子の理科の教諭の指導を受けた。日が暮れると、10人ほどの部員がグラウンドに教室から運んだ机を並べて、空を眺める。山間だから空気がきれいで、観測しやすかった。
流れ星が空のどこを通り、どのくらい流れたかを記録し、まとめたものを発表する。それが3年生のときの新聞社主催の学生科学賞で、全国1位となる。兄のときは3位。意識はしていなかったが、兄を追うのが終わったときかもしれない。
78年に天理大学外国語学部(現・国際学部)のロシア語学科を卒業し、木材商社を経て、81年4月に大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)へ入社。主に海外営業畑を歩み、オランダと米国の子会社で社長や副社長を歴任。2014年に本社の社長、2019年に会長となった。
昨年、中堅社員向けに「経営力伝承塾」を始めた。若いときからの経験を、率直に「こういうことをやってきた」「自分はこう考えた」と話す。飛鳥の里もそうだが、会社にも歴史があり、社員、客、取引先が一緒になって歩んできた。それを学んぶことは、将来につながる。先輩たちは中途採用で入った自分にもチャンスをくれ、いろいろと教えてくれた。それに対する感謝も、つないでいきたい。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2023年12月11日号