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【大河ドラマ「光る君へ」本日第5話】権力の階段を駆け上った藤原道長が苦しんだ「持病」とは?
【大河ドラマ「光る君へ」本日第5話】権力の階段を駆け上った藤原道長が苦しんだ「持病」とは? 藤原道長が望月の歌を詠んでちょうど1千年後の満月。2018年11月23日に東京都内で撮影された  2月4日の放送で5回目を迎える大河ドラマ「光る君へ」。第4話は、藤原道長(柄本佑)が、母を殺害した人物の弟だと知ってしまったまひろ(吉高由里子)がその場で倒れる場面で終わった。道長とまひろの関係は、第5話ではどう描かれるのか。 「光る君へ」の主人公はいうまでもなくまひろ(紫式部)だが、もう一人の主人公ともいうべき存在が藤原道長。栄華を極め、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだことで知られる道長は、実際はどんな人物だったのか。『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)からリポートしたい。 ***  摂関政治の全盛期を築いた藤原道長は、一条天皇の外戚として摂政太政大臣まで上り詰めた藤原兼家の五男。兼家は、先に関白となった兄・兼通と対立し長らく出世を阻まれたが、兼通の死後、娘の詮子(せんし)が生んだ一条天皇を即位させ、天皇の外祖父および摂政として実権を握った。  兼家の後を継いだ長男・道隆も関白となり、娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮(妃)とし、嫡男・伊周(これちか)を21歳で内大臣に就けるなど栄華を誇った。しかし、道隆は深酒が原因で早世し、関白を継いだ弟・道兼も、大流行した天然痘により就任10日ほどで亡くなった。  兄たちの早世によって後継候補に挙げられたのが、内大臣・伊周と権大納言・道長である。官位は伊周が上だが、道長の姉で一条天皇の母后にあたる詮子の強い推薦により、道長が内覧(天皇の文書を事前に見る職)かつ左大臣となり、一躍、政権のトップに躍り出た。  道長の権勢を支える大きな力となったのが、婚姻政策である。一条天皇の中宮となった長女・彰子(しょうし)は、敦成(あつひら)親王・敦良(あつなが)親王という皇子を生み、後年、二人が後一条天皇・後朱雀天皇として即位し、摂関家にかつてない栄華をもたらすこととなる。 敦成親王の生誕50日を祝う藤原道長(手前中央)。左奥に敦成親王を抱く道長の妻、右奥に道長の娘で敦成親王の母・彰子、右手前に紫式部が描かれているとされる(東京国立博物館蔵/ColBase)  一条天皇に代わって即位した三条天皇の中宮も、道長の娘・姸子(けんし)だったが、三条天皇は道長を敵視したびたび対立した。そこで道長は、三条天皇の病につけこんで退位を迫り、孫の後一条天皇を即位させて摂政に就任。皇太子には敦良親王が立てられ、道長は天皇と皇太子の外祖父となった。  1018(寛仁2)年には、三女・威子(いし)が後一条天皇の中宮に、次女・姸子が皇太后となり、太皇太后となっていた彰子とあわせて、未曽有の一家三后を実現。道長の栄華は頂点に達した。道長が有名な「望月の歌」を詠んだのはこの時である。  性格的にはどうだったのか。摂関家の栄華を描いた『大鏡(おおかがみ)』にこんな逸話がある。雨が降る不気味な夜、清涼殿にいた花山天皇が肝試しを提案した。道隆・道兼・道長の兄弟が、それぞれ決められた場所へ向かったが、兄たちが恐れて引き返したのに対し、道長だけが最も遠い大極殿にたどりつき、柱の一部を切り取り証拠として持ち帰ったという。道長の剛毅な性格がうかがえる。  一方で道長は、高い教養と公事作法を身につけた一流の政治家でもあった。祖父・師輔(もろすけ)や源高明の儀式書から学び、2000余巻の漢籍を収集していた。道長が執り行う公事は、内容も時間も正確そのものであったという。つまり道長は、単なる権勢欲の権化ではなく、為政者としての責任感も備えていたのである。  文化面でも、大きな足跡を残している。仏教を信仰し、1007(寛弘4)年、自筆の経文を吉野の金峯山(きんぷせん/奈良県)に埋納した。出家後は荘厳な法成寺を造営したほか、盛んに法会を主催した。一連の宗教政策は、のちの院政期の仏教興隆の先がけになったといわれる。紫式部ら一流の文人を娘・彰子の女房として仕えさせたことで、『源氏物語』などの傑作が生まれた。平安文学の最盛期を築いたのも道長の功績だと言っていい。  権勢を極めた道長だが、病気には終生悩まされた。持病の腰痛に加え気管支ぜんそくや胃腸病もあった。54歳で出家した時、すでに老僧のようだったという。仏教の信仰も病気平癒のためだったが、最後は悪性の腫れ物に苦しみ61歳で世を去った。 (構成 上原千穂・永井優希/生活・文化編集部)
取り残されたくない…「篠田麻里子」があえて不倫妻役で“地上波ギリギリ“の濡れ場に挑むワケ
取り残されたくない…「篠田麻里子」があえて不倫妻役で“地上波ギリギリ“の濡れ場に挑むワケ 篠田麻里子(撮影/写真映像部・東川哲也)    昨年勃発した不倫疑惑をきっかけに泥沼の離婚劇を繰り広げて以来、表舞台から遠ざかっていた元AKB48の篠田麻里子(37)。その復帰作が、深夜ドラマ「離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―」(テレビ朝日系)で、不倫に溺れる妻役を演じていることから、世間が騒然となっている。 「このドラマは、30年あまりの放送作家・脚本業に今春で終止符を打つことを発表した鈴木おさむ氏による地上波連ドラ最後の脚本。鈴木氏は『最後にバズるドラマを作りたい』と気合を入れて臨んでいるようです。鈴木氏がスキャンダルで炎上した篠田に私生活を彷彿とさせる不倫妻役をキャスティング。地上波としては放送コードギリギリの攻めた表現が満載のハイテンションドラマになっています。篠田も自分のために新たな設定を加えて当て書きされた脚本に心打たれたようで、番組スタート数分で不倫相手との濃厚な濡れ場を披露するなど、熱の入った体当たりの演技を繰り広げています」(テレビ情報誌の編集者)  ひたすらバズらせることを目指した鈴木氏の脚本に、篠田をはじめとする役者人の熱演も相まってドラマは好評。見逃し配信では、テレ朝の全番組歴代トップの350万再生を突破する記録を打ち立てた。 篠田麻里子   不倫妻役に「共感できた」  原作となったマンガ「離婚しない男」は、男親には困難とされる娘の親権獲得を目指す男性を主人公とするブラックコメディー。ドラマでは伊藤淳史が主人公を演じ、妻の不倫に気づかないふりをしながら証拠集めに奔走する様が描かれる。 「実はこの原作は、篠田の不倫騒動の際にSNSなどで共通点を指摘する声もあった作品です。篠田の不倫騒動は真相がわからぬまま離婚へと至りましたが、その彼女が私生活でのトラブルをなぞるような役で復帰したのだから、話題にならないわけがない。篠田も最近、インタビューでシングルマザーとして1人で育児をすると『社会に取り残されたような気持ちになる』と語っており、自分が演じる役の女性について共感を寄せていました」(女性週刊誌の芸能担当記者)  今回の不倫妻役に、篠田はよほど共感しているらしく、ドラマ公式サイトでも「母として共感できた、出産後の不安や寂しさ、社会から取り残されたような感覚、綾香としてはまっすぐに生きること、そして、とことん振り切ることを意識して演じました」とのコメントを発表している。 篠田麻里子   鈴木氏は「女優再生」の請負人 「鈴木氏は、プロデューサーに今までにないキャスティングと豊富なベッドシーンを求められ、思いついたのが不倫騒動で活動自粛中の篠田だったとラジオ番組で話しています。鈴木氏としては、昨今のキャンセルカルチャーに対するアンチテーゼという意味もあったようです。ドラマ初回放送を控えた座談会では、AKB48の篠田しか知らない人に、彼女の芝居もいいかもと思ってほしい、女優として大ブレークしてほしいという思いがあると語っています」(前出のテレビ情報誌編集者)  鈴木氏には、これまでも、東出昌大との不倫騒動で干されていた唐田えりかをNetflixドラマ「極悪女王」に起用し、新境地を開拓させた実績もある。スキャンダルからの復活を目指す篠田にとっても、今回の登板は願ったりかなったりだっただろう。 「鈴木氏は『奪い合い』シリーズ(テレビ朝日系)でも水野美紀を怪演女優として再ブレークさせ、『M 愛すべき人がいて』に出演した田中みな実を“イロモノ女優”として印象付けることに成功しています。特に田中は女優としては駆け出しでしたが、ケレン味たっぷりの鈴木脚本のおかげで演者として大きな爪痕を残しました。その後、彼女は本人の努力もあり細やかな演技もできる女優へと成長しましたが、きっかけを作った鈴木氏の功績は小さくない。篠田は以前、吹き替えを担当したハリウッド映画で、演技のひどさが話題になりましたが、自らも演技が苦手だと語っています。最近、女性誌が行った『演技がイマイチだと思う“アイドル出身女優”ランキング』でも元同僚の前田敦子を抑えて1位になってしまいました。そんな篠田がどう化けるのか、非常に楽しみですね」(前出の女性週刊誌記者) CAに扮した篠田麻里子   吹っ切れたような演技  芸能ジャーナリストの平田昇二氏は篠田についてこう述べる。 「篠田さんはAKB48卒業後にベストマザー賞を受賞するなど、結婚と出産を経て人気ママタレントとして活躍していました。それだけに離婚に至る一連の騒動や疑惑の影響は大きく、ママタレとしての活動に逆風が吹いていたわけですが、今回のドラマではある種吹っ切れたような迫真の演技を見せています。女優業に関してはAKB48在籍時から月9ドラマ『大切なことはすべて君が教えてくれた』などに出演し、卒業後も映画『ビジランテ』で濡れ場にも挑戦しましたが、大きな話題にはなりませんでした。しかし今作では、そのセンセーショナルな作品の内容も含めて、女優として新境地を開いたと言ってもよいのでは。シンママとして懸命に育児や仕事に励む姿を見せ続けることで世間の“風向き”が変わることもあるでしょうし、今後の女優活動も注目されるでしょう」  篠田にとって、新境地となった今回のドラマを機に、再ブレークのきっかけをつかめるか。 (雛里美和)
2割が外国籍の群馬県大泉町の町長・村山俊明 票にならなくても外国籍の住民のために奔走する理由
2割が外国籍の群馬県大泉町の町長・村山俊明 票にならなくても外国籍の住民のために奔走する理由 町で毎月開催される多国籍屋台のイベント「活きな世界のグルメ横丁」の会場で(撮影/今村拓馬)  群馬県大泉町。群馬県でもっとも小さい自治体が注目を集めている。人口の2割、5人にひとりが外国籍で、51カ国の人が暮らす。そんな町を「俺の町」と呼び、票にならない人のために走り回る町長がいる。村山俊明だ。一筋縄ではいかない多文化共生と地場産業の活性。賛否両論ありながらも、自らの信念で刺激的な政策を進めている。 【この記事の全文はこちらからお読みいただけます】 「外国人ばかり優遇」批判には理屈で説明 群馬県大泉町の町長・村山俊明が選挙権を持たない外国籍住民のために奔走する理由【全文】 https://dot.asahi.com/articles/-/259373 *  *  * 「初めて町議選に出た動機ですか? 34歳のときでした。私、実は2回離婚していて、前々妻との間に息子がいるんです。離婚の際に面会する約束をして養育費も払っていたんですが、会わせてもらえなかった。せめて顔だけでもと思って幼稚園に行っても追い返された。前々妻に三行半叩(たた)きつけられて、世間様からも相手にされず、『これじゃいけない』と自分が情けなくなったんですよ。それでせめて世間様から認められるようになろうと考えて、町議選に出ることにしました。父親に『俺はこのままじゃ生きていけない。子どもの親として立派な姿を見せたい』というと、『へんな薬でもやってるのか』と疑われましたよ。本当なら地域のためとかなんとか言えばいいんでしょうが、そういうことは言いません。半分やけくそみたいなもんですよ」  群馬県大泉町(おおいずみまち)の町長の村山俊明(むらやまとしあき・61)は笑いながら、自らの政治人生のスタートをそう説明した。  新聞・テレビなどとにかくメディアの注目を集める人である。人口4万人少し、群馬県でもっとも小さい自治体だ。だが人口の2割、5人にひとりが外国籍の住民という、日本有数の外国人率という町の特殊性がある。「共生社会」「外国人労働者」といった社会的論点がクローズアップされるなか、この小さな町はこういっては悪いが、日本の先行きを占う「実験室」のように見つめられている。  そしてそこで行われる村山の政策が刺激的なのである。  町長になったあとの2017年に「あらゆる差別の撤廃をめざす人権擁護条例」を施行。19年には、性的少数者のカップルを婚姻とみなす「パートナーシップ宣誓制度」を全国の町村で初めて導入した。さらに昨年の12月には、町職員の採用試験で国籍条項を撤廃し、永住者・特別永住者の外国籍住民に門戸を開くと発表した。 とにかくどこでも人気。町内のブラジルレストランで、他県に住む日系ペルー人たちから「町長さん?」と声をかけられた。口コミで評判が広がっているらしい(撮影/今村拓馬)   自由奔放な青年時代を送り 高校も大学も中退した  もちろん賛否両論ある。だが政策の是非の前に不思議なのが、本人のキャラクターとやっていることのギャップである。冒頭の発言のように相当にフランクで、その人生も順風満帆とは言い難い。彼はいったい、どのような経緯で現在の政治姿勢に至ったのだろうか。  村山は1962年に大泉町で鉄工所を営む家に生まれた。父親は特攻隊帰りで、終戦は特攻隊の出撃基地があった鹿児島県・知覧で迎えたという。 「父親は非常に厳格な人で、愛情を受けたという記憶がありません」  と、村山はいう。一方、母親は地元で長く民生委員を務めており、世話好きで優しい人だったらしい。  ちなみに大泉町は戦前・戦時中と「ゼロ戦」で有名な中島飛行機の工場があった。現在も大泉町に味の素、スバル、パナソニック(旧・三洋電機)などの大規模工場があるのは、そのなごりである。  そうとう自由奔放な青年期だった。地元高校に進学し、2年生のときに「学校内の代表取締役に就任しました」。しかし修学旅行の2日前に「旅先でトラブルを起こしかねないから」と校長らに頼まれて退学。そのまま町内で住み込みのアルバイトをして暮らしていたが、当時付き合っていた彼女の父親から「高校も出てない奴と娘を付き合いさせられない」と言い放たれて、私立高校の2年生に編入。そこは無事卒業して北海道の大学に進学するが、大都会・札幌の街は村山青年には刺激が強すぎた。勉学に身を入れることができず、ここも2年生で中退。さすがにすぐ地元に帰れず、成田空港内にある貨物の管理会社で2年間働いた。  23歳のときにようやく地元に戻り、実家の鉄工所を手伝い始める。このころ、村山は自分には冷たい父親のもうひとつの顔を知る。 「家にどこの国出身かわからない人がしょっちゅう来て、飯を食っていくんですよ。父も嬉しそうに相手してね。なぜ父がそういう人たちに親切にしていたのかわからないですけれどね」 町内のイベントでは2ショット大会に(撮影/今村拓馬)   在日韓国人の「兄貴」との付き合いでわいた疑問  知人の連帯保証人になって大借金を負ってしまったのもこのころだ。家業の手伝いだけでは間に合わず、自動車運転代行業も始めた。昼は鉄工所で汗をかき、夜は酔漢を乗せて車を走らせる。先行きの見えない苦しい時代だった。  ふとある日、近所に高級車が止まっている家を見つけた。「あれは誰の家?」と訊(たず)ねると、両親は答えずに「村山の息子だといえばわかるよ」という。夜に居酒屋でその家の人に「村山の息子です」と挨拶すると、ひどく驚かれた。  その人物は在日韓国人で、すでに亡くなっていた村山の12歳年上の兄の友人だった。よく村山の家にも遊びにきていたという。 「自分たち在日の子どもが遊びに行っても、他の友だちの家は中にも入れてもらえなかった。でもお前の家だけは上がらせてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、よくしてもらったよ」  彼はそう言って懐かしんだ。それは恐らくさまざまな国の人間の出入りを許していた父親、民生委員だった母親の気質だったのだろう。彼はそれから以降、「飲みに行こうよ。トシちゃんは煙草(たばこ)とライターだけ持ってくればいいよ」としばしば誘ってくれた。村山も彼のことを「兄貴」と慕うようになる。80年代後半、外国人登録証明書に指紋を押捺させる制度が、「まるで犯罪者扱いではないか」と反対運動が全国に広がっていた。村山もその抗議運動で東京・霞が関でのデモに参加している(現在この制度は廃止)。 「同じ町内で暮らしているのに、日本人とそれ以外って区別するのはおかしいんじゃないか。みんな助け合って暮らしていけばいいのに」 「兄貴」との付き合いの中で、そんな極めて素朴な疑問が村山の中にわき起こる。「外国籍の住民でも等しく町で暮らしていくべき」。本や教室で学んだ理念ではなく、過去の体験からくる信念である。信念だから叩かれてもへこたれない。  1997年、34歳のときに大泉町議会議員に初当選。以後、町議選を重ねるごとに当選順位を上げていき、議長就任。そのころには支援者も増えて、13年に町長になった。17年に施行した「人権擁護条例」についてこう説明する。 村山は子どもにも名刺を渡す(撮影/今村拓馬)   「いわゆる『デカセギ』の外国人労働者が多かったころは飲酒運転などのトラブルも多かった。でも彼らの中から永住・定住する人も増えてきて、そういうトラブルが少なくなり、逆に仕事や住まいの悩みや相談が増えてきたんですね。そういう『住民』への配慮として考えました」  22年には、導入していた「パートナーシップ宣誓制度」を申請した日系ブラジル人女性カップルのために、議場で「結婚式」を行った。式場のような飾り付けは職員たちが行ったという。 「申請者に私が証書を『ハイ』って渡せば済むことなんだけれど……なんかそれだけだと可哀想じゃない。親とか反対された経験もある人だろうし。議場を式場代わりに使う制度は以前からあるので、それで結婚式をやったまでですよ」  村山が通うスポーツジムを営む宮城ユジ(27)は、両親はブラジル国籍の日系3世だが、自身は日本生まれの日本育ち。 「町長が来てくれるようになって、今は会員の半数が日本人になり、経営が助かりました。彼はそういうチャンスをくれる人」  律儀(りちぎ)な性格とたくましさもあってか、宮城は大泉警察署の一日署長にも選ばれている。ジムに飾られた制服姿の写真が誇らしげだ。  そんな町の姿勢に憧れて、違う自治体出身なのに大泉町に就職した町職員がいる。  湯浅帆乃花(24)は高校時代に短期留学したアメリカで日系人の歴史に興味を持ち、上智大学外国語学部ポルトガル語学科に進学。商社か外交官かといった華やかな就活をせず、「現場で日系ブラジル人たちと関わる仕事がしたい」と、大泉町に就職し、現在は企画部多文化協働課に勤める。 「就職面接でフランクな口調でポンポン質問してくるおじさんがいたので誰だろう?って思ってたら、町長でした」  と、笑う。入職して2日目、村山から呼ばれた。 「君はたしかブラジルの担当をしたかったんだよな。これからブラジル関係の会合にはどんどん同行してもらうから」  そして実際、領事館での重要なミーティングにも参加させてもらえるようになった。湯浅は町で作成しているポルトガル語の広報誌をレストランなどに手配りしている。 「災害時にボランティアをお願いすることもあるので、郵送するだけでなく顔と顔の関係をつくっておくのが大事なんです。希望していた草の根の細かい仕事ができて、やり甲斐を感じています」 町内にあるジムで汗を流す村山。早いときは朝5時から来てトレーニングをしているそうで、たしかに筋肉質な体形をしていた。村山が通うようになってジムに日本人会員も増えた(撮影/今村拓馬)   「外国人ばかり優遇」 批判には理屈で説明する  町では現在51カ国の外国籍の住民が暮らしている。もっとも数が多いのがブラジル国籍だが、最近急増しているのが、技能実習制度で来日しているベトナム人だ。大泉国際交流協会の副会長、月橋章(71)は元家電メーカーのエンジニアとしてベトナムに駐在した経験を持つ。その縁で、協会内でベトナムの国と人を紹介する講座を開催してきた。20年の秋ごろ、突然村山から町内に住むベトナム人たちに町長室への招集がかかった。不思議に思いながら同席した月橋は、村山の発言に驚かされた。 「いま日本国内のあちこちで、罪を犯したベトナム人が逮捕されるニュースが相次いでいます。その影響でみんながいじめられたり、差別されたりしていることはないか? なにか困ったことがあれば町が協力するから、なんでも言ってくれ」  当時、農作物の窃盗などベトナム人がかかわる犯罪報道が続いていて、月橋も胸を痛めていたときだった。 「集まったベトナム人は20人くらいだったと思います。わざわざそんなことをいってくれて、びっくりしたし、感心もしました」  外国籍住民に対しての融和的な政策に、町の内外から批判も当然ある。 「外国人ばかり優遇しているのでは」 「これ以上外国人を町に入れるな」  メールもあれば、直接面と向かって言われたことも多い。そのたびに村山は、 「優遇しているのでなく、日本人と同じ税金を納めている住民として、公平な行政サービスを提供しているだけです」 「群馬県一小さな町で民族も宗教も違う51カ国の人が大きなトラブルもなく暮らしている。平和に住んだ方がみんな得だと知ってるからだよ」(撮影/今村拓馬)   「転入届を正しく記入して持ってこられたら、町に引っ越しを拒否する権限なんてないんですよ」  と理屈で説明するが、どこまでわかってもらえたかわからない。  トラブルも相変わらずなくならない。夜中まで大音量で音楽をかけていた外国レストランに警官が駆けつけたときは、スタッフとの間に割って入り、「飲んだら騒がない。騒ぐなら飲まない」とお説教をした。  外国籍の住民から「会社の寮から追い出されそう」とSOSが来た。住民と会社の双方によくよく事情を聴いてみると、その住民が転職したのに前の会社の寮に居座っているだけ、ということだった。「なんだそりゃ、ですよ」と村山は笑う。 「反発をもっている住民は多いですよ。アンケートを採ると、外国籍の住民で『もっと日本人と仲良くなりたい』というのは七十数%あるのに、日本人住民で『もっと外国籍住民と仲良くなりたい』という人は十数%です。このギャップをいかに埋めるのかが課題です。防災活動訓練などで一緒に地域のために働いている姿を見せるとか、時間はかかるけれどやるしかない。多文化共生と簡単にいいますが、それが一筋縄ではいかないことは、大泉町を見てもらえればわかると思う」 (文中敬称略)(文・神田憲行) ※記事の続きはAERA 2024年2月5日号でご覧いただけます   【こちらも話題】 外国人が「スーパーの弁当売り場」に殺到のなぜ? YOUは何しに弁当売り場にきたか聞いてみた https://dot.asahi.com/articles/-/251556
同じ職業の平井夫婦「仕事が忙しくても一緒にいると気持ちが安らぐ、穏やかで温かい日々に感謝」
同じ職業の平井夫婦「仕事が忙しくても一緒にいると気持ちが安らぐ、穏やかで温かい日々に感謝」 平井萌優さん(右)と平井辰典さん(撮影/篠塚ようこ)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年2月5日号では、夫婦共に製薬会社の開発職に携わる平井萌優さん、平井辰典さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 2022年、夫32歳、妻28歳のときに結婚。2人暮らし。 【出会いは?】夫が働いていた会社に、妻が後から入社し、同じプロジェクトを担当して知り合った。 【結婚までの道のりは?】もともと仲が良い先輩と後輩の関係だったが、夫が転職した際の壮行会をきっかけに2人で遊ぶように。出会いから4年ほどで交際をはじめ、約1年半後に結婚。 【家事や家計の分担は?】料理は妻、掃除は夫など、役割が決まっているものもあるが、そのほかの家事全般はお互いに協力している。家計は一緒。 妻 平井萌優[30]製薬会社 開発職 ひらい・もゆ◆1994年、静岡県生まれ。静岡県立大学薬学部薬学科を2018年に卒業後、製薬会社に入社。医療用医薬品の臨床開発に携わる。社内のグローバルチームや医師らとやり取りしながら新しい薬の開発に従事  新人の頃、辰典さんと同じプロジェクトチームに配属されました。どんなことも優しく教えてくれて、頼れるかっこいい先輩でした。  辰典さんが転職することになり、それを機にしばしば会うようになりました。初めて会った時から結婚した今も変わらず、頼りがいがある優しい人です。  私はどんなことも「なんとかなる」と思うタイプですが、辰典さんはまずゴールを定めて、それに対するステップを細分化して、一つ一つクリアしていきます。私が語った夢を実現するための道筋を描いてくれるので、ものすごく助かっています。  とは言え、抜けた面もあるんです。おっちょこちょいで忘れ物が多い! 旅行先に財布を持っていくのを忘れたこともありました。そういう自分を客観視して、改善しようと頑張っているところもすてきだと思います。  お互いに仕事は忙しいですが、辰典さんとの日々は穏やかで温かいです。いつも感謝しています。 平井萌優さん(右)と平井辰典さん(撮影/篠塚ようこ)   夫 平井辰典[34]製薬会社 開発職 ひらい・たつのり◆1989年生まれ、福井県出身。東京大学大学院工学系研究科を2014年に修了後、製薬会社の開発職に就職。20年、同職種の別の会社に転職  製薬会社で薬の治験の計画を立て、実行する仕事をしています。前の職場では海外の治験に関する業務が多かったのですが、国内の治験も経験したいと思い同業他社に転職しました。開発職のリーダーを目指しスキル向上に努めています。  ここ最近は経験したことのない業務に取り組むことが多く、ストレスを感じることもあります。妻は同じ職種ですが本当にいつも明るくて、一緒にいると気持ちが安らぎます。同じ職場で見ていた時と全く変わらず、前向きで努力家です。仕事の話をすることも多く、普段の会話からヒントを得ることもあります。  付き合っている時に妻は「20代で結婚したい」「海の見えるところでプロポーズされたい」と言っていました。それで28歳の誕生日に旅行先の海が見える旅館でプロポーズ。要望が具体的だったので、準備がしやすく、喜んでもらえました。これから先いろいろなライフイベントがあると思いますが、妻にはずっと笑顔でいてほしいです。 (構成・浴野朝香) ※AERA 2024年2月5日号
男性の更年期障害、女性よりも高い治療ハードル 人間ドック検査項目に追加を望む声も
男性の更年期障害、女性よりも高い治療ハードル 人間ドック検査項目に追加を望む声も 男性の更年期障害に対する社会の理解や認知はあまり進んでいない(撮影/写真映像部・上田泰世)    更年期障害は男性にもあるが、理解や認知は進んでいない。40代を過ぎれば誰にも起こり得る男性更年期。その症状と対策を専門家に聞いた。AERA 2024年2月5日号より。 *  *  *  更年期障害といえば、女性特有の症状と思っている人もまだまだ少なくないだろう。しかし、実際は男性にも同じような症状が出る。アエラが昨年12月に募集した男性更年期の当事者アンケートでも、50代を中心に「不眠」や「不安」「意欲の低下」といった自覚症状が続々寄せられた。  埼玉県の自営業の男性(63)は50代前半から続く「ホットフラッシュ」(のぼせやほてり)に悩まされている。症状が出るのはなぜか外食時の「ランチ限定」。食事中に首から上の汗が止まらなくなるという。 「辛いものを食べているならともかく、焼き魚定食や寿司といった本来なら汗をかくような食事でもないのに汗がタラタラ出てくるので、どうしても周囲の目が気になります」  会社員だった数年前までがピークで、多い時は週5日の出勤日のうち2日発症した。予兆は朝に訪れる。「上半身がほてるような感覚」で察知するという。男性はポケットのハンカチ以外に、かばんにフェイスタオルを常備している。今も思い出すのは、うっかりハンカチを忘れた日に陥った窮地のシーンだ。その日は朝に「予兆」がなく、出勤後に体調の異変を感じた。ランチでざるそばを食べていると、案の定、汗が止まらなくなった。仕方なく、テーブルに置かれていた紙ナプキンで汗をぬぐう。その数はみるみる10枚、20枚と積み重なっていく。冷たいそばをすすりながら汗みどろの男性は店内でも異様に映ったに違いない。見かねた店員から「お水、お持ちしましょうか」と声がかかった。 ホットフラッシュ  難儀なのは、どうしても外せないビジネスの会食。「予兆」がある時もランチに臨まざるを得ない。ハンカチがびしょびしょになるほど大量の汗をかいているのに気づいた会食の相手から、「体調悪いんですか」と困惑気味に問われることも。昼どきに仕事が一段落し、本来なら「このあと食事でも」と誘うべき場面でも、初対面の相手とは次第に会食を避けるようになったという。 「ホットフラッシュは女性だけでなく、男性の更年期にも多くみられます。この男性は活発に動く日中の時間帯に自律神経が乱れやすく、食事の雰囲気や食べる行為が刺激になって更年期の症状が出やすくなっている可能性があります」  こう指摘するのは男性更年期に詳しい「東京はなクリニック」(東京都渋谷区)の興梠真紀院長だ。 AERA 2024年2月5日号より   おおむね40代以降  男女の更年期は症状に共通点もある一方、メカニズムや期間は異なる。女性は卵巣から分泌されるホルモン「エストロゲン」の不安定なアップダウンが更年期障害の要因。一方、男性更年期の症状はほとんどが精巣でつくられる「テストステロン」というホルモンの急激な減少によって起きる。女性更年期は「閉経前後の10年間」と定義されているのに対し、男性更年期の期間は「おおむね40代以降」とファジーな面も否めない。興梠院長は言う。 「40代以降はその先の人生が見えてくる年代でもあります。それがリアルに感じられるほど憂鬱(ゆううつ)になる人が増えるのと同時に、社会的役割が大きくなるにしたがって弱みを見せたくないという意識も男性には強く働く傾向があります。こうしたストレスが加齢に伴うテストステロンの減少と相まって様々な症状を引き起こしていると考えられます」  男性更年期に特徴的な症状は筋力低下や筋肉痛、頻尿。他にも、不安やイライラ、不眠、性欲の減退などがある。興梠院長のクリニックでは、パートナーに更年期障害の疑いを指摘されて来院する男性が半数近くに上るという。中には「抗うつ薬で治療していたけど良くならないので来た」と告げる人も。実際、うつと更年期の症状は混同されがちで、抗うつ剤の処方を続けながらテストステロンを補充して症状が改善した人もいるという。 「男性更年期のセルフチェック(AMSスコア)はメンタルと身体の不調の両方を確認しています。チェック項目に広く該当する人はうつではなく、更年期の可能性も考えたほうがいいでしょう」(興梠院長) 高い治療のハードル  男性更年期はテストステロンの減少が激しくなる局面で症状が顕在化しやすくなる。このため、血液検査で減少が確認できれば補充するのが最もシンプルな治療法だという。 「テストステロンはもともと自分の体内にあるものですから、過度に怖がらずにホルモン補充を治療の選択肢の一つに加えることをおすすめしています」(同)  とはいえ、近年は男性更年期の診療をHPなどに掲げるクリニックも増えているが、女性に比べて男性の治療のハードルは高いのが実情という。 「女性の更年期障害に対しては検査も治療も保険適用されますが、男性の場合、治療の入り口にあたるテストステロンの血液検査は保険適用外のため1万~1万5千円かかります。男性更年期の治療薬の種類の少なさや入手ルートが限定されることもネックといえます」(同)  ホルモン補充療法以外にも、有酸素運動でテストステロンの低下を防ぐことが可能だ。30~40分のジョギングやウォーキングといった有酸素運動を週3回程度行うことでテストステロンの分泌量が上がる、との研究結果もあるという。タンパク質の摂取や筋力アップがテストステロンの増加につながることも分かっている。興梠院長は食事と運動、睡眠のバランスが大事と唱え、「まずは日常生活の中でできることから始めてほしい」と呼びかける。 「動脈硬化の原因とされるコレステロールは悪者扱いされがちですが、女性ホルモンも男性ホルモンも、そして人体の活力に不可欠な細胞膜もコレステロールで構成されているため過度な不足は禁物です。食生活に肉や魚、卵といった食材を取り込むのと同時に、それらが体内にたまり過ぎないよう適度な運動をするのが最もいい循環だと思います。疲れが蓄積すると、テストステロン低下の原因になるため、しっかり休んで回復することも大事です」  アエラのアンケートでは、「夫は穏やかな性格ですが、最近イライラしやすくなっていると感じます」と更年期症状の疑いのある夫に代わって回答を寄せた東京都の50代の女性もいた。この女性は、人間ドックの検査項目に男性更年期も加える必要性を記事に盛り込んでほしいと要望し、こんな意見を添えていた。 「会社でも(男性更年期の)症状に合わせて働き方なども考えていくことが必要ではないかと思っています」 症状の認知、理解を  勤務先の人間ドックでも、女性に比べると男性の更年期障害はほぼノーチェックというケースが多いという。前出のホットフラッシュに悩む男性も「人間ドックの際に更年期について相談した、と妻から聞いたことがありましたが、自分の身に置き換えることはありませんでした」とこれまで受診してこなかった経緯を振り返った。その上で、人間ドックの問診票に「男性更年期の自覚症状」に関するチェック項目があれば受診や治療につながったと思う、と話した。  男性更年期の症状に対する認知や理解がもっと広がれば、国や民間の対策を後押しする流れにもつながるはずだ。興梠院長は言う。 「男性更年期は『年のせい』と放置されることも多いですが、今後は治療可能な領域として認知されるようになってほしいと思います」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年2月5日号
愛子さま「社会人としてのお手本は、ティアラをお借りしているサーヤ」 日本赤十字社勤務と研究者への道しるべ
愛子さま「社会人としてのお手本は、ティアラをお借りしているサーヤ」 日本赤十字社勤務と研究者への道しるべ 新年のあいさつのため、ティアラとローブデコルテの正礼装で仙洞御所に入る愛子さま=1月1日、東京都内    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、学習院大卒業後の4月から、日本赤十字社(東京・港区)に嘱託職員として勤務することが内定したと、宮内庁が発表した。大学院や留学で専門分野を学び続ける皇族が多いなか、古典への学びを深めている愛子さまの「研究」はどうなるのか。しかし、公務とともに学びを続ける皇族方は、これまでも数多くいる。 *   *   * 「当面は、4月からの日赤での勤務に慣れることや、出席される公務の準備等でお忙しいでしょうから、他のことをおやりになる時間はほぼないのではないかと思います」  そう話すのは、元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんだ。  愛子さまは今春に学習院大を卒業し、4月からは嘱託職員として日赤で勤務する。勤務日について日赤本社広報室は、 「ご公務等の状況をみながら対応していくことになろうかと思います」  と答えており、日赤での仕事とあわせ、公務への準備も進んでいるようだ。    一方で、大学院や海外留学などで専門分野の研究を深める女性皇族も増えたことから、愛子さまも留学か大学院への進学を選択するだろうとみられていた。それだけに日赤への就職内定を、世間は驚きをもって見つめた。  そもそも昭和の時代の内親王や女王は、留学はもちろん大学などを卒業して皇族として働くことはほぼなかった。卒業してまもなく結婚していたからだ。  労働の対価として給与を得た初の女性皇族は、「サーヤ」と呼ばれて慕われた、上皇ご夫妻の長女、黒田清子さん(54)だ。  そして女性皇族の海外留学が増えたのは、平成の半ばあたりからだ。     【こちらも話題】 愛子さま「内からにじむ品の良さ」はサーヤと共通 2人の内親王が国民から慕われる理由 https://dot.asahi.com/articles/-/205156     京都産業大で講演し、「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがいい」と若者たちに語りかけた故・寛仁親王の長女彬子さま=2017年7月、京都市の京都産業大   初の博士号を取得した女性皇族は彬子さま  海外の大学で本格的な研究に打ち込み、博士号まで取得したのが、三笠宮家の故・寛仁さまの長女の彬子さま(42)だ。  学習院大在学中の2002年に英オックスフォード大に短期留学し、さらに04年から同大で日本美術などを6年間にわたって研究、10年に哲学の博士号を取得した。  論文審査を経て博士号を取得した皇族は、秋篠宮さまに続き2人目で、女性皇族としては初めてのことだった。  帰国後は、関西にも拠点を確保し、日本の伝統文化を伝える一般社団法人「心游舎」の総裁として全国で活動。京都産業大や京都市立芸術大、立命館大、国士館大や国学院大などで客員教授や特別招聘教授、研究員などを務める活躍ぶりだ。     全国高校生手話パフォーマンス甲子園で、手話を交えてあいさつする佳子さま。佳子さまも手話という専門分野を熱心に学んでいる=2022年9月、鳥取県倉吉市    次女の瑶子さま(40)は、学習院女子大を卒業したのち、日赤に嘱託職員として勤務。 「嘱託職員ながら、週5日の常勤と、腰を据えて働いておられたそうです。勉強に熱心なご姉妹であったと聞いています」(元宮内庁職員)  高円宮家の承子さま(37)は、英エディンバラ大での約4年間の留学などを経て、13年から日本ユニセフ協会に就職。いまも勤務を続けており、東ティモールやスイスなどへの出張もこなすベテラン職員だ。  高円宮家の三女の守谷絢子さん(33)も、カナダの大学で留学を経験。城西国際大学大学院で、子どもや高齢者の福祉を学び、同大福祉総合学部研究員として、学生の部活動なども指導してきた。  秋篠宮家の長女小室眞子さん(32)は、英中部レスター大学大学院の博物館学研究科で1年学び、結婚するまでは東京大学総合研究博物館の特任研究員として週3回ほど勤務を続けた。  次女の佳子さま(29)も、英中部のリーズ大で舞台美術などを1年間学んだ。いまは、全日本ろうあ連盟で非常勤嘱託職員として勤務をしながら、多忙な公務をこなす日々だ。     【こちらも話題】 「雅子と訪れたい」と天皇陛下が願う英オックスフォード ランドリールームを泡だらけにした若き日 https://dot.asahi.com/articles/-/194984     「百人一首」の現存する最古の写本を閲覧する愛子さま。宮内庁の書陵部は、こうした貴重な文献を持つ=2023年12月、宮内庁書陵部庁舎、宮内庁提供   参考になるのは、「皇女」であったサーヤ  愛子さまは、新型コロナへの対応や災害救護活動に関心を深めるなかで、「少しでも人々や社会のお役に立つことが出来れば」と日赤で働くことを選択したという。  愛子さまといえば、古典への造詣が深いことで知られている。  大学では平安時代から明治時代の古典や文学、和歌などを学び、愛子さまが昨年12月に提出した卒業論文は、「中世の和歌」についてのものだった。   22歳の誕生日には、「むし双六の和歌」や「百人一首」などに熱心に見入る愛子さまの映像が公開されている。現存する最古の写本である古典籍は、宮内庁書陵部の資料だ。  1月の新年の宮中行事「歌会始の儀」では、中世の和歌が千年の時を経て現代に受け継がれていることへの感銘を和歌に詠んでいる。    幾年(いくとせ)の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ     「ユニセフ・キャラバン・キャンペーン」で、子どもにやさしい空間づくりを目指す研修で進行役を務める高円宮家の長女、承子さま(左から2人目)=2015年5月、和歌山市    就職の後、愛子さまの研究はどうなるのか。  参考になるのは、同じ天皇と皇后の「皇女」であった黒田清子さんのキャリアだろう。愛子さまが清子さんのティアラを借りているのも、ご身位の格が相応しかったためとみられる。  学習院大では、愛子さまと同じ国文学科(現・日本語日本文学科)で古典を学んだ。和歌に高い素養を持ち、大学の卒業論文は「八代集四季の歌における感覚表現について」だった。  ボランティアや自然保護にも取り組み、盲導犬育成など福祉への関心も高かった。しかし、非常勤研究員として就職したのは千葉県にある山階鳥類研究所。結婚後も客員研究員などとして鳥類の研究を続け、17年には、『山階鳥類学雑誌』に「皇居の鳥類相」について足かけ5年分の報告書が掲載された。  玉川大学教育博物館の外来研究員としても研究を続け、19年には、清子さんが企画した鳥類図譜の特別展が東京芸術劇場(豊島区)で開催された際には、上皇ご夫妻を案内するというほほえましい場面もあった。     【こちらも話題】 愛子さま21歳 宮中祭祀と古典文学に関心をお持ちの内親王 期待される黒田清子さん以上の活躍 https://dot.asahi.com/articles/-/13950     黒田慶樹さんとの結婚にあたり、「朝見の儀」に臨む黒田清子さん。このティアラは現在、愛子さまが着用している=2005年11月、皇居・宮殿「松の間」   皇居の内外で研究を続ける皇室メンバー  清子さんのキャリアを見ても、大学院への進学や留学を選択しないからといって、愛子さまの学びや研究が止まるわけではない。  22歳の誕生日映像で、愛子さまが現存する最古の写本である古典籍を読んでいた通り、宮内庁には貴重な文献を持つ書陵部や国宝・重要文化財に指定された美術工芸品を所蔵する三の丸尚蔵館もある。  上皇さまは、皇居内にある生物学研究所に現在も週に2回通ってハゼの研究に取り組み、愛子さまの父である天皇陛下は水問題の研究者として、海外や大学などでも講演をしている。  ニワトリなど家禽(かきん)類の研究に取り組む秋篠宮さまも、山階鳥類研究所をはじめとするさまざまな団体や学者と交流を続けながら、研究を重ねている。  秋篠宮家の長男で、筑波大学附属高校2年生の悠仁さまも、11年間のトンボ類を他の研究者らと共同でまとめた論文、「赤坂御用地のトンボ相」が、国立科学博物館が発行する研究報告誌に掲載されて話題を集めたばかりだ。    先の山下さんはこう話す。 「4月からは日赤の仕事と公務の両立となり、軌道に乗るまでは大変だと思います。関心を持ってこられた古典文学の研究を続けられるのかどうかはわかりませんが、宮内庁には書陵部もありますし環境としては問題ないでしょう。無理は禁物ですが、古典文学の研究も続けていただきたいですね」  また、宮内庁OBのひとりは、清子さんが企画の段階からたずさわった特別展を上皇ご夫妻に案内したように、日赤で働く愛子さまが福祉や災害救助、感染予防といった分野での専門性を高めて、両陛下にご説明や案内をする光景を目にする機会があるかもしれない、とも期待を寄せる。 「いずれにせよ、社会人としてのご経験は、公務や今後のご本人の人生に役に立つでしょう」(山下さん)  愛子さまが、ご自身の意思で踏み出した新たな一歩は、愛子さまにとって実り豊かな人生をもたらしてくれるに違いない。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 「愛子さまがご両親を支える」と宮内庁OB 日本赤十字社勤務と公務の両立がいよいよスタート! https://dot.asahi.com/articles/-/212197  
アマゾンCM女優「瀧内公美」が海外撮影で受けた衝撃 「すごく自由になっていく感覚があった」
アマゾンCM女優「瀧内公美」が海外撮影で受けた衝撃 「すごく自由になっていく感覚があった」 瀧内公美さん(撮影/写真映像部・東川哲也)    昨年、「大奥 Season2 幕末編」(NHK)の阿部正弘役や、アマゾンプライムのCMで話題になった瀧内公美さん(34)。今年は1月からスタートしたNHK大河ドラマ「光る君へ」の出演も控えており、人気女優への階段を着実に上がっている。【前編】では、女優になるきっかけとなった地元での出来事や下積み時代の苦労などを語ってくれた。【後編】では「活動の幅が広がった」という昨年の仕事や、「光る君へ」で夫婦役を演じる柄本佑さんとの関係、次なる目標などについて聞いた。 ※【前編】<アマゾンCMで話題の女優「瀧内公美」 デビュー半年で初主演も「食べていけなかった」下積み時代に考えていたこと>より続く *  *  * 「高倉健さんじゃないですけど、私、本当に不器用なんです(笑)。とにかく一作品一作品、全力で挑んでいます」  これまで数多くの映画やドラマに出演してきた瀧内さんだが、一つ一つの作品に全身全霊で向き合うことでキャリアを重ねてきた。2017年公開の映画「彼女の人生は間違いじゃない」で、日本映画プロフェッショナル大賞新人女優賞、全国映連賞女優賞を受賞。さらに、19年の映画「火口のふたり」では、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞した。その演技力の高さは誰もが認めるところだ。  一方、ドラマでも、「凪のお暇」(19年、TBS系)や「大豆田とわ子と三人の元夫」(21年、フジテレビ系)など、数々の話題作に出演し、本格派女優としてお茶の間にも認知されていく。  そして昨年、「大奥 Season2 幕末編」で大きな注目を浴びた。 「私が演じた阿部正弘は、制作陣の皆さんから人気がある人物で、すごく話し合ったうえでオファーをくださったそうです。初めてお仕事をしたスタッフさんたちだったのですが、私を信頼してくださったことに感謝しています。作品にとって大切な役を任せてもらえたのはとても光栄なことです」 ドラマ「大奥 Season2 幕末編」の楽屋での一枚(事務所提供)   ■大河ドラマ出演に地元は大騒ぎに  瀧内さんは23年を「活動の幅が広がった一年だった」と振り返る。 「今までは自主映画や、ミニシアターで公開されているような映画に参加することが多かったんです。でも、昨年は、NHKや民放のドラマ、アマゾンのCMなど、全国の皆さんに見ていただく作品が多くありました。活動の幅が広がったと思いました」  そして今年は大河ドラマ「光る君へ」に出演予定だ。出演が決まったときの心境をこう話す。 「本当にうれしかったです。お母さんもすっごく喜んでました。お父さんは『誰が出るんだ』ってとぼけてました。いやだから私だって、みたいな(笑)。そのくらい信じられなかったようです。近所の人たちから、お母さんにLINEがたくさん来たみたいで、『公美ちゃん帰って来るときにお祝いの横断幕作っとかないとね』って(笑)。本当に田舎なんですよ。『恥ずかしいからやめて』って伝えました(笑)。実際は、ありがたいですし、うれしいですけど。でも、帰ったとき『大河女優おめでとう』とかって本当に横断幕があったら面白いですよね」  大河では藤原道長の妻、源明子を演じる。道長役の柄本佑さんとは、映画「火口のふたり」以来の共演だ。実は、「光る君へ」の脚本を務める大石静さんは「火口のふたり」を評価してくれていたのだという。 「大石さんとは『恋する母たち』(20年、TBS系)でご一緒させていただいたことがあって、そのときに『火口のふたり』がお好きというのを人づてに聞きました。恥ずかしいので直接はお伺いしてないですけど、それもあって起用に繋がったのかなと思ってます」 ドラマ「大奥 Season2 幕末編」でのオフショット(事務所提供)   柄本佑さんとの再会  久しぶりの共演となる柄本さんの印象をこう話す。 「独特の空気感をまとっている方ですね。作品を作っているときに、たとえば、『この二人って会うの何回目なんだっけ』とか、何げない言葉で役に奥行きを持たせてくれるんです。いつもものすごく考えている人ですね。だから、彼が発する言葉一つ一つを聞き逃さないようにしていました」 「火口のふたり」は過激な濡れ場があることも話題となったが、抵抗はなかったのだろうか。瀧内さんは「そういうことは考えなかったです」とあっけらかんと話す。 「この作品のように、二人芝居の映画ってそうそうないと思うんです。男女っていうものが色濃く描かれていたので、単純に面白そうだなと思ってやらせてもらいました。その都度いろいろなことを相談して、どこまで表現するかとか話し合いながら、みんなで作っていった作品だったので、不安みたいなのはなかったです」  話題作への出演が続き、順調にキャリアを重ねる瀧内さんだが、次の目標はどこにあるのか。 「海外作品です。昨年、イギリス人の監督の作品に参加させてもらったんですけど、今までにない刺激がありました」  強く感じたのは、映像の捉え方の違いだったという。「彼らは『映る画そのものが大事』という意識が強いと感じました」と話す。 「たとえば、日本の撮影現場だと役者は、自分の芝居がこうだから、カメラをこう回してほしいとオーダーを出すこともありますが、彼らは、映像手法のことを中心に考えていました。ここに照明が当たっているから、このときここを見てって指示をするんです。役者の気持ち的にはそうではなかったとしても、でもこっちのほうがきれいでしょ?って。極端に言えば、そこに立っているだけでいい画が撮れる技術を持っている。私が経験してきた日本の映像業界の考え方とは全然違うなと思いましたね」 瀧内公美さん(撮影/写真映像部・東川哲也)   忘れられない「屋久島」での流れ星  一方で振り回されることもあったという。 「台本通りにやってみて、面白くないと思ったら、パッとやめるんです。こちらとしては『え? じゃあどうするの?』って思うんですけど、『ま、とりあえず撮ってみよう』って撮影を再開したり。あとはOKを出した後でも、『待って、いいこと思いついた!』って言って、最初から撮り始めたりとかもありました(笑)。彼らと仕事をすると、すごく自由になっていく感覚がありました。だからかはわからないですけど、撮影が終わると大きな喪失感があって、それはいまだに埋まっていません」  最後に、瀧内さんにとって「人生で一番忘れられない一日」を聞いた。 「5年くらい前、7月7日に屋久島に行って、海中温泉に入ったんです。海の中に真っ裸で入るんですが、自然の中で裸になるってなかなかないですよね。そこに少し戸惑いを覚えているときに、流れ星がバーッて流れたんです。それもたくさん。織り姫と彦星が出会う日に流れ星を見ることができて感動しましたね。願い事ですか? してないです。なぜか『ありがとう』って言ってました(笑)」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●瀧内公美(たきうち・くみ)/1989年、富山県生まれ。2014年、「グレイトフルデッド」で映画初主演。そのほかに、映画「彼女の人生は間違いじゃない」(17年、日本映画プロフェッショナル大賞新人女優賞ほか)、同「火口のふたり」(19年、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞ほか)、同「由宇子の天秤」(21年、ラス・パルマス国際映画祭最優秀女優賞ほか)、ドラマ「大奥 Season2 幕末編」(NHK、23年)など出演作多数。アマゾンプライムのCMでも話題を集めた。24年は、日本テレビ1月期「新空港占拠」に出演中。また、NHK大河ドラマ「光る君へ」の出演も控えている。
息子を人質に取られたイスラエルの大学教授が手記 「人質は巨大な国家的失敗の犠牲者」
息子を人質に取られたイスラエルの大学教授が手記 「人質は巨大な国家的失敗の犠牲者」 ハマスに誘拐されたイスラエル系アメリカ人のサギさん(左から2人目)。人質に取られている間に3人目の娘も生まれた(写真:ジョナサン・デケル・ヘンさん提供)    10月7日にハマスがイスラエル人を殺害し、人質に取ってから100日が過ぎた。息子を誘拐されたヘブライ大学の教授が本誌に手記を寄せ、一日も早い解放を訴えた。AERA 2024年1月29日号より。 *  *  *  136人のイスラエル人人質が生命を脅かす状態に置かれたまま100日が過ぎました。人質の中には、私の息子、サギ(35)がいます。  息子は英国とイスラエル関係のNPOに勤務し、妻のアヴィタル(33)は農業のマーケティング会社で働いています。二人には、3人の娘、バール(6)、ガーリ(2)、そして息子が人質に取られている間に生まれたシャハル(生後1カ月)がいます。  8週間前に約100人の人質が解放されたことは私たちを興奮させましたが、残りのグループ(主に男性)の人質のことを心配しています。時間が経つにつれて、彼らの運命が優先されなくなるのではないか、と。 息子の目撃情報も  解放された人質の何人かは、1カ月以上前に私の息子が生きているのを目撃しました。いまや、イスラエルとその友人たちは、他のすべての人質とともに、息子の安全な帰還を確保しなければならない。ガザ地区における将来の平和の可能性は、人質全員が生きて帰国できるかどうかにかかっています。  10月7日は、イスラエル史上最悪の治安上の失敗となりました。ハマスは1200人以上を虐殺し、ほとんどが民間人でした。人口比で考えると、アメリカでは約4万4500人の命に相当し、2001年に起きた9.11のアメリカ同時多発テロによる死者の約15倍に相当します。  息子家族がいたイスラエル南部の集団農場キブツ「ニル・オズ」は、1950年代半ばにイスラエルの国境を示すために設立されました。2005年にはイスラエルがガザ地区から撤退し、暴力は減少するはずでしたが、07年にハマスがクーデターを起こし、イスラエル人の殺害が懸念されました。14年にはイスラエルがガザの周囲に突破不可能なフェンスを建設しました。 長女のバールちゃん(6歳)が父親であるサギさんの解放を涙目で訴えている様子(写真:ジョナサン・デケル・ヘンさん提供)    昨年10月7日まで、私たちはイスラエル軍がキブツに数分以内に駆けつけてくれると信じていましたが、システムは崩壊しました。その日の朝、約200人の重武装したハマスのテロリストが「ニル・オズ」に侵入し、少なくとも40人のメンバーを殺害し、さらに12人のタイ人労働者を残酷に殺害。同時に、彼らは私の息子を含む80人の人質を誘拐しました。 息子のサギさんを誘拐されたイスラエル国立ヘブライ大学の歴史学(東欧史)教授のジョナサン・デケル・ヘンさん(写真:ジョナサン・デケル・ヘンさん提供)   国家的失敗の犠牲者  ガザの国境付近の多くのキブツは、息子がいたニル・オズと同じような運命をたどりました。あの悲惨な日を迎える前は、キブツにいるほとんどの人が平和の支持者だったという恐ろしい皮肉に、衝撃を受けずにはいられません。  すべての人質は、巨大な国家的失敗の犠牲者です。イスラエル政府が自国民を守り、誰一人取り残さないという約束を果たすかどうか。イスラエルがガザで軍事作戦を継続していることを考えると、人質の救出はこれまで以上に急務です。  先日、ホワイトハウスでバイデン米大統領とブリンケン米国務長官と面会した際、人質全員の解放に向けて全力を尽くすと誓ってくれました。バイデン大統領は、自らの政治的な危機というリスクのなかでも、イスラエルにとって素晴らしい友人でした。分裂したアメリカ議会は、イスラエルの人質を帰国させることに関しては稀(まれ)に見る連帯を示しています。  日本は北朝鮮に民間人が拉致された経験があり、家族がどれほどの苦しみを味わったかを知っています。私は、ガザから誘拐されたイスラエル人が早く帰ってくることを願っています。  この戦争は数週間から数カ月続くかもしれない。この先、人質が生きて帰ってきて、いつの日か隣人との和平が再び可能になるために、人質たちは生きて帰ってこなければなりません。Bring them home!(人質となった人たちを連れて帰ろう) (ヘブライ大学教授 ジョナサン・デケル・ヘン、イスラエル在住) ※AERA 2024年1月29日号
台湾総統選4人に1人が「第三極」あえて選択 民衆党が若い世代から支持を集めた背景
台湾総統選4人に1人が「第三極」あえて選択 民衆党が若い世代から支持を集めた背景 国民党支持者の集会の様子(写真:安田峰俊)    台湾総統選は与党・民進党が勝利したが、注目すべきは第三勢力である柯文哲率いる民衆党の躍進だ。台湾の政治体制は、中国と距離を置く民進党(緑色陣営)と、中国大陸との融和姿勢を重視する国民党(藍色陣営)の二大政党制として語られてきたが、いま何が起きているのか。AERA 2024年1月29日号より。 *  *  * 「過去8年間の民進党政権はムダ遣いが多かった。柯文哲は台北市長時代にしっかり仕事をしていて、信頼できると思う」  地方都市の新竹市から家族4人で応援にやってきたという、ハイテク企業に勤務する40歳の王氏(仮名)はそう話した。今回の民進党の伸び悩みは、蔡英文政権下で経済停滞や住宅難・労働問題といった社会問題の解決が不十分だったとみなされたことも大きいのだ。 侯友宜が投票したことを伝える現地報道(写真:安田峰俊)   二大政党の対立に食傷  王氏と妻は前回の選挙では“緑色”(民進党)に投票したが、今回は柯文哲の民衆党を熱心に支持している。王氏は言う。 「両岸関係(中国との関係)は、個人的には重要度が低い。ただ、柯文哲はアメリカにも中国にも寄り過ぎないからいい」  いっぽう、“藍色”(国民党)支持者の外省人(戦後に中国大陸から渡ってきた中国人)家庭出身の23歳の男性はこう言う。 「古い政党である国民党は、若者のことを考えてくれない。でも、民進党の頼清徳は中国を挑発しすぎて危険だから支持できない。周囲の友達も、みんな柯文哲と民衆党支持だ」  各種世論調査では、20~39歳の台湾人の間で民衆党の支持率は5割を超えている。  その一因は、中台関係ばかりを争点とする二大政党の対立にうんざりする感覚が、世代が下がるほど広がっていることにある。  民衆党は国家観や対中政策については、台湾アイデンティティーをほどほどに主張しつつも、経済発展につながる中国との交流拡大にも積極的という玉虫色の立場だ。このことがかえって、若い世代の支持を得た。 AERA 2024年1月29日号より   寄せ集め政党の側面も  もっとも、民衆党を率いる柯文哲は批判も多い政治家だ。  彼はもともと民進党の元総統・陳水扁や蔡英文の支援者で、同党の支援を受けた無所属候補として2014年に台北市長に当選。だが、やがてYouTubeなどで与党を辛辣に批判しはじめるようになった。 1月10日、台北市内で開かれた集会に登壇した柯文哲(写真:安田峰俊)    舌禍も多く、2017年には自身が過去に医師として診察した陳水扁(総統退任後に汚職容疑で収監され、体調を崩していた)について「最初は詐病だったが、やがて本当になった」と発言、医師のコンプライアンス違反として罰金を科されている。  2019年に彼が立ち上げた民衆党は、柯文哲の台北市長時代の業績を強調しつつ、出産手当・こども手当の拡大や、公共住宅の申請負担の軽減など若い世代向けの政策を打ち出して支持を伸ばした。だが、目先のバラマキを打ち出すポピュリズム政党だとする指摘も根強い。  事実、党のスタンスの危うさは、民衆党の立法院選候補者の過去の経歴からも感じ取れる。  すなわち、比例1位の黄珊珊と6位の林国成は親民党(国民党の分派)出身、比例2位の黄国昌は台湾独立派政党の時代力量の創始者、比例3位の陳昭姿は一辺一国行動党(民進党の分派)出身だ。  さらに落選した候補者や党役員には、国民党の分派で中台統一派の新党や、逆に古い台独派の台湾団結連盟の出身者もいる。  大同団結できるとは思えないほど、本来の政治的思想がかけ離れた人たちばかりである。  これは、あらゆる支持者が自分が望む国家のイメージを投影しやすい半面、党としての軸が不透明なことを意味する。だが、既存政治に飽きた台湾の有権者の4人に1人は、そんな曖昧な「第三極」をあえて選んだ。  今後4年間、台湾の既存の二大政党は、キャスティングボートを握る民衆党の機嫌を取りながら議会戦略を組み立てることを余儀なくされる。  今回の選挙は、民主化から約30年を経た台湾が、民主主義がもたらす試練に直面した出来事として後世に記憶されるのではないか。(ルポライター・安田峰俊) ※AERA 2024年1月29日号より抜粋
「老いを身軽に生きる知恵」は西行法師に学べ 釈迦から受け継がれた“人生観”とは
「老いを身軽に生きる知恵」は西行法師に学べ 釈迦から受け継がれた“人生観”とは ※写真はイメージです。本文とは関係がありません(TakIwayoshi / iStock / Getty Images Plus)  超高齢社会を迎えた日本。そんな今こそ、ブッダの人生、さらにブッダの教えを引き継いだ西行の生き方から、老いを身軽に生きるヒントを学ぶときだと教えてくれるのは、宗教学者の山折哲雄氏。国際日本文化研究センターの所長なども歴任してきた山折氏の新著『ブッダに学ぶ 老いと死』から一部を抜粋、再編集して解説する。 * * * 釈迦は「出家」したのではなく「家出」した  今から約2500年前、釈迦が生きていたころのインドで説かれていた代表的な人生観が「四住期」です。これは人生を四段階のライフステージに分ける考え方です。  さて、釈尊の人生に四住期を当てはめてみましょう。ご承知のように釈迦は王族の生まれです。  釈迦族の小国の王子として生まれる。  結婚したのは16歳。妻と産まれたばかりの1人息子を捨てて家を出たのが29歳です。家を出た後、35歳の時に悟りを開き、80歳で入滅します。 この釈迦の人生を四住期に当てはめると次のようになります。  16歳で結婚するまでが「学生期」  16歳で結婚して、29歳で家を出るまでが「家住期」  家を出た29歳から悟りを開く35歳までが「林住期」  35歳から入滅した80歳までが「遊行期」  仏教界では、釈迦が29歳で家を出て35歳で悟りを開くまでは釈迦の修行の時代とされています。修行ですから、まさに「出家生活」に入ったという捉え方です。釈迦が29歳で家を出たのは「出家」だ、釈迦は29歳で「僧」になったんだと。そして僧になってからも苦しみながらいろいろな修行をして、ついに35歳で悟りを開いたと。釈迦は出家して6年間の苦行を経て悟りを開いた。これが仏教界の常識的な考え方です。  しかし、バラモン教の四住期の人生観、先ほど説明したインド古来の四段階のライフステージから見ると、それは第三段階の林住期に入ったということです。つまり、29歳の釈迦の行動は出家ではなく、林住期ならではの「家出」と捉えなければいけない。これが私の解釈です。  そうすると、釈迦も一時的に家を出ただけで、やがて家に帰ってくることを前提にしていたのではないかと考えられます。家出をして自由に旅をする。いろいろな人と出会いながら瞑想をしたり、楽しみにふけったりする。場合によっては遊女と戯れるということも、悪魔と積極的に対話をすることもあっただろう。そういう自由気ままな旅暮らしの中、35歳で悟りの時を得るわけです。  先ほど述べたように、ほとんどの家出をした人間は老病死の不安にさいなまれて家に帰ります。ごくわずかな人間だけが林住期の次の段階、最終第四段階の遊行期、現世放棄者、遁世者、聖者の生活に入っていけます。  要するに35歳の釈迦は悟りを開いたからこそ、その一人になれたのです。これが私の釈迦の人生の捉え方です。  それは何も釈迦が初めてではありません。それまでのバラモン教の社会においては仙人のように世俗には戻らない行者たち、賢者たちがいたわけです。  このように釈迦の人生を釈迦以前のバラモン教の人生観、インド古来の人生観である四住期という四段階のライフステージで読み替える、あるいはそれをベースにして解釈すると、その人生のみならず、その教え、その言葉をも含めた釈迦の全体像の見え方、ひいては仏教の人生観の捉え方ががらりと変わります。 半僧半俗として林住期を自由に生きた西行  釈迦の80年の人生をどう理解したらいいか。林住期という観点を取り入れることで、私の考え方、見方は大転換しました。そして、林住期的な人生観はインド固有のものなのか、世界のどこにでもある人生観なのかと考え始め、いろいろと調べているうちに、興味あるかたちで継承されているのは日本だと気がつきました。  林住期的生き方は、ヨーロッパにはほとんどありません。中国には若干あって、たとえば「仙人」や「不老不死」という考え方は林住期的生き方に近い。つまり、聖的な領域と俗的な領域が入り混じっているところが仙人思想の中にはあります。 山折哲雄『ブッダに学ぶ 老いと死』(朝日新書)>>Amazonで本の詳細を見る  先ほど述べたように、林住期という人生観の特徴は、世俗的な生き方と聖的な生き方が入り混じっているところがあることです。欲望の世俗的世界に徹底するわけでもなく、禁欲の聖的世界に徹底するわけでもない。中途半端に俗と聖を出たり入ったり行ったり、来たりする。その意味では、自由気ままで遊戯的な生き方です。  この点、日本には古来、「半僧半俗」「非僧非俗」という仏教者たちの生き方があります。それは平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』に「遊びをせんとや生まれけむ」とあるような人生観です。  これが日本に継承されている林住期的生き方です。  林住期的生き方を代表する日本人を1人挙げておきましょう。西行(1118~1190年)です。『新古今和歌集』の第一等の歌人としてよく知られる僧侶です。武士を辞め、妻子と別れて出家生活を送ったと言われていますが、単なる「家出」であるというのが私の認識です。  西行の人生の中心は旅でした。つまり一所不住、あるいは遍歴、まさに林住期的生き方をした人間です。  ただ西行は旅暮らしの中で、家族のところにしばしば帰っています。また旅の目的も東大寺の勧進、寄付金募集のために奥州まで行ったり源頼朝に会って兵法を教えてみたりと、世俗的な仕事、つき合いが少なくない。武士時代につき合った貴族たちと一緒の旅というのもあります。  しかし、一度も歌を捨てたことはありません。歌人の仕事は世間とのつながりがなければ続けられない。だから積極的に世俗的世界とかかわったんですね。  僧侶としての修行は主に高野山で重ねましたが、比叡山に登ったり伊勢神宮に行ってお社の前で拝んだりもしています。  つまり西行は、単に一流の歌人で収まるような生き方をした人間ではないわけです。  西行はいったい何を求めてそういう生き方をしたのか。それは「自由の境涯」だったと思います。西行が日本的自由、フリーダムを生きた人間だからこそ、西行的生き方は後世の多くの人々に恋い慕われるようになったのでしょう。もちろん、私も西行の生き方に憧れを持つ一人です。  西行は同時代の歌人たち、たとえば、公卿・九条兼実の歌の師範になった藤原俊成のような生活もできたはずです。しかし、彼らと同じような生き方をしようとはしなかった。聖でもあり俗でもある、あるいは聖でもない俗でもない。いわば半僧半俗というかたちで、旅暮らしの中で歌を詠み続ける。そんな林住期的生き方を貫きました。  西行の生き方は『万葉集』『古今和歌集』の歌人たちとも基本的に違います。しかし、彼らをも凌ぐ才能豊かな歌人だったわけです。西行は俊成の子・藤原定家が憧れを隠さなかったほど、非常に魅力的な人間なんですね。  願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ  辞世の歌とも言われ、その願い通り、旧暦2月16日、新暦だと3月23日、まさに桜の季節に亡くなったと言われています。釈迦の命日、旧暦の2月15日の翌日です。  聖でもなく、俗でもなく、自由にさまざまな世間とつき合い、歌と戯れたい。そして自分の死にたいかたち、きれいな月を見ながら桜の花の下で死んでいきたい。西行はその通りに生き、そしてこの世を去っているわけです。  こんなにも自由に、死ぬまで遊び続けることのできた人生は、誰にとっても理想ではないでしょうか。西行は林住期的生き方の日本モデル、いや、世界モデルにもなり得る人間だと思います。
チャールズ英国王の生前退位はあるのか? 欧州「世代交代ドミノ」の可能性と来たる「女王の時代」
チャールズ英国王の生前退位はあるのか? 欧州「世代交代ドミノ」の可能性と来たる「女王の時代」 デンマーク王室のマルグレーテ2世が皇太子に王位を継承。新国王フレデリック10世が誕生した=1月14日、コペンハーゲン(写真/アフロ)    圧倒的な人気を誇っていたデンマーク王室の女王が、この度、皇太子に譲位した。偉大な女王の生前退位は、欧州各国の王室の「これから」を映し出した。 *  *  *  5カ国語を話し、舞台衣装をデザインする芸術的才能の持ち主。おおらかで気さくな人柄が国民に慕われてきたデンマーク王室の女王マルグレーテ2世(83)が、1月14日に退位した。これにより長男フレデリック皇太子(55)が即位。国王フレデリック10世となった。  英王室のような大掛かりな戴冠式は行われなかったが、国王は集まった数万人の観衆に宮殿のバルコニーから手を振って、国民の祝福に応えた。 生前退位900年ぶり  女王が退位をすると発表したのは昨年12月31日のこと。テレビを通じてのライブ演説の際、時折、穏やかな笑顔を見せながら、今年1月14日に皇太子に譲位すると、突然明かしたのだ。  生前退位はオランダやベルギーの王室などでは例があるが、デンマーク王室では1146年のエーリク3世以来、約900年ぶり。国民からの支持率が75%を超える女王は、圧倒的人気のまま退位することになった。 女王を退位したマルグレーテ2世(写真/アフロ)  この生前退位の影響を少なからず受けているのが、英王室だ。  チャールズ英国王(75)は昨年戴冠してから、公務や国賓の接待を行い家族イベントも主催するなど多忙を極める。支持率も60%前後で、まずまずの滑り出しだ。ただ、国王夫妻は外国訪問が少ない。故エリザベス女王の精力的な外遊と比べると物足りない印象だ。一因に、75歳という年齢が関係しているのではないかとの声も上がる。  チャールズ国王は戴冠時から、年齢を理由にあと5年から10年で引退するとの臆測が流れていた。そもそも以前から「スキップ・ア・ジェネレーション(1世代飛ばし)」として、ウィリアム皇太子(41)に王位を譲るべきとの声さえ出ていた。  しかし、チャールズ国王が漏らしたとされるのは、「まだ何も成し遂げていない」という本人の認識だ。実際、「ダイアナ妃との結婚に失敗した」とのマイナスイメージが付きまとう。妃がパリで交通事故死してから今年で27 年が経つが、国王は妻を裏切って不倫に走り、結果的に妃を36歳の若さで死に追いやったとの印象をいまだに払拭できない。  だからこそ、環境や青少年問題に取り組む献身的な国王という前向きな評価を得る必要があり、独自のレガシーを打ち立てなければいけないのだ。今回のデンマーク王室の生前退位にプレッシャーを感じているはずだが、今のところ国王の視野に生前退位は入っていないようだ。 欧州は「女王の時代」に  一方、デンマーク王室に50代の国王夫妻が誕生したことで、ヨーロッパの王室の世代交代が加速するともいわれている。デンマーク王室に続いて、スウェーデン王室で生前退位となれば、長女ヴィクトリア皇太子(46)が君主に就く。さらにノルウェー王室の場合はホーコン皇太子(50)が国王だ。  22年のエリザベス女王の逝去と今回のマルグレーテ女王の退位で、世界の王室に女王は一人もいなくなった。しかし、今後ヨーロッパでは一気に「女王の時代」が到来する。  ノルウェー王室では、ホーコン皇太子の長女アレクサンドラ王女(24年1月21日に20歳)が、将来、女王に。またスウェーデン王室はヴィクトリア皇太子の第1子がエステル王女(11)で、女王が2代続くことになる。他にも、ベルギー王室はエリザベート王女(22)が次の女王に、スペイン王室はレオノール王女(18)が次期女王だ。  ヨーロッパの王室では、次々に男子優先から長子優先制度に法改正した(スペインを除く)ことで、女王が並び立つ時代に入る。王女らは現在、20歳前後と年齢が近いこともあって、誕生パーティーで互いに行き来するなど、交流はすでに始まっている。日本の皇室の愛子さま(22)が彼女たちに仲間入りする日はくるだろうか。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERA1月29日号から
能登半島地震、SNSで虚偽の「#救助要請」 専門家「これまでにないタイプのデマです」
能登半島地震、SNSで虚偽の「#救助要請」 専門家「これまでにないタイプのデマです」 東日本大震災の映像を北陸のものとして投稿したり、架空の住所で救助要請するアカウントも。インプレッション稼ぎの海外在住者と思われるものも多かった    能登半島地震の発生後、SNS上にはさまざまな虚偽情報が氾濫した。なぜこうした投稿が繰り返されるのか、その背景を探った。AERA 2024年1月22日号より。 *  *  *  自宅アパートが倒壊し、生き埋めになった男性が頼ったのはSNSだった。 〈生き埋め助けて〉 〈妻だけでも〉  アパートの住所とともに、X(旧Twitter)にそう投稿した。電波状況が悪く、何度も送信を繰り返したという。  男性が住む石川県輪島市は、震度6強を記録。119番もつながらず、被災状況を伝えられるのはSNSだけだった。  悲痛なつぶやきは瞬時に拡散され、Xには安否を心配する声があふれた。男性の居場所を知らせる電話を消防署にかけたという人もいた。  地震発生から約2時間後、男性は消防署員によって救出される。だが、SNSを見た人の通報ではなく、同じアパートに住む同僚が消防署員を呼びに行ったことがきっかけだった。 「消防は大規模火災を優先していたので、救助は後回しでした。ですが、同僚がいなければ、SNSの通報で翌日くらいには助かったかと思います」  と男性は振り返る。  ただ、後から現場でガスが漏れていたことが判明。一刻を争う事態だった。何より、死と隣り合わせの状況でSOSの声が届いたことは、希望にもなった。   虚偽の「#救助要請」  1日に発生した能登半島地震では、Xを中心に救助要請の投稿が相次いだ。男性のようにわらにもすがる思いで助けを求める被災者がいた一方、「#助けて」「#救助要請」などのハッシュタグを用いて、架空の住所を含む投稿をするアカウントもあった。岸田文雄首相が「被害状況などについての悪質な虚偽情報の流布は決して許されない」と述べるなど、デマ情報が救助活動に支障をきたしていた。 「被災していない人が虚偽の救助要請をするのは、これまでにないタイプのデマです」  そう話すのは、防災・危機管理サービスを提供する「Spectee(スペクティ)」代表の村上建治郎さんだ。今まさに助けを求めている人がいると知れば、投稿を見かけた人は誰かに届けなければという思いに駆られ、拡散してしまう。能登半島地震では、その心理をついたデマが流布していった。 AERA 2024年1月22日号より   「非常時に飛び交いやすいデマにはさまざまなパターンがあります。たとえば、2016年の熊本地震では動物園からライオンが逃げ出したとするツイートが拡散しました」  無論、ライオンが逃げ出したという事実はなく、投稿した当時20歳の会社員男性は偽計業務妨害の疑いで逮捕された。それでもなおデマ情報の投稿は後を絶たず、18年の大阪北部地震や22年の台風15号の大雨被害などでも流言が飛び交った。  一分一秒を争うなか、なぜこうした投稿が繰り返されるのか。東京大学大学院の関谷直也教授はこう話す。 「デマ情報を発信する背景には、自分の投稿を見てみんなが騒いでいる状況に面白さを感じるといった心理的報酬を得られることがあります。金銭的報酬はなくとも、承認欲求が満たされるんです」  こうして投稿されたデマは、受け取った人によって拡散されていく。関谷教授は、SNSは正確な情報をやりとりする場所ではないと認識することが重要だと指摘する。 「知り合いが被災した方の発信や公的な情報は判断の根拠になると思います。ですが、そもそもSNSはその時々の感情を共有するツールです。正確な情報もあれば、間違っている情報もあるのだと知っておくことが大事です」 (編集部・福井しほ) ※AERA 2024年1月22日号より抜粋
「堂本&百田結婚」祝福ムード一色にファンの複雑な心理 「ツラさ感じることに罪悪感を覚えてしまう」
「堂本&百田結婚」祝福ムード一色にファンの複雑な心理 「ツラさ感じることに罪悪感を覚えてしまう」 堂本剛(右)と百田夏菜子    「KinKi Kids」の堂本剛(44)と「ももいろクローバーZ」の百田夏菜子(29)の電撃的な結婚発表から6日。久しぶりのビッグカップル誕生とあって、世間は祝福ムード一色だ。芸能界からも、双方のファンからも「お似合い」「本当によかった」という声ばかりが聞こえてくる。  本サイトも<ファンも業界人も総祝福 「堂本剛&百田夏菜子」の結婚はなぜ“アンチ”が全くいないのか>(1月13日配信)の記事でこうした状況を報じたが、その裏では、「祝福しなければならない」という圧力のようなものに苦しむファンがいるのも事実だ。  長年の「剛ファン」だという都内の40代女性のは複雑な心境をこう吐露する。 「剛クンが独身のうちは、心の片隅で0.01%の確率でも、私が結婚するかもしれない希望があったけど……なんだか、泣けてきて。独身でいてくれるなら、自分もチャンスはゼロじゃないという気持ちが心のどこかにあったんだろうなって。でも、剛クンも44歳だから、気の迷いじゃなくて、腰を落ち着かせるんだろうね。だから『おめでとう、お幸せに』と言いつつ、どこかに寂しさ、ツラさを抱いてしまうことに罪悪感を覚えてしまう自分もいます」  また、京都府出身の30代の女性は「推しというだけなのに、大好きな彼氏に浮気されたような気持ちになっている」と言う。 堂本剛   「まだ自分の気持ちと闘っている」  2人の出合いは、12年前に「新堂本兄弟」(フジテレビ系)で初共演したときだったとされる。その後、2016年には剛が作詞作曲と編曲を担当した「桃色(ピンク)空」をももクロに楽曲提供。18年には「KinKi Kidsのブンブブーン」(フジテレビ系)でも共演したが、この時、ほほえましいシーンがあった。  百田が「結婚したら朝とかちゃんと(奥さんに)お弁当とか作ってほしいですか?」と剛に聞くと、彼は「作ってほしい。愛妻弁当食べたい。だから、たとえばこういうロケとかでも、みんなパン食べますとか言ってる時に、オレだけ愛妻弁当だよ(笑)」と答えていた。  さらに、剛は「(結婚しても)ラブラブでいたい」と言い、出演者から「結婚したら毎日チューするタイプですか?」と聞かれると、「チューしたい、チューは毎日するでしょう」と答えた。これに対し、百田は「毎日チューする必要あります? うーん、部屋とかも別々でいいんですよ」と答え、出演者からは「冷たーい」とからかわれていた。  2人の結婚観の違いが表れているとも取れるが、結婚した今になって振り返ってみれば、壮大な“のろけ話”のように見えなくもない。  前出の女性ファンだけでなく、ネット上には、剛推しのファンたちの寂しさを抱えたつぶやきもある。 「少しずつ、気持ちの整理をしながらおめでとうと言っています」 「まだ自分の気持ちと闘っている」 「けっこうダメージきてます。剛クンの選んだ人なら大丈夫って自信を持って言えますがやっぱり寂しい。心に穴が開いた感じがしてる」 百田夏菜子   結婚生活は見せないでほしい  一方、ももクロファンからは「モモノフ(モモクロファン)としてもありがたかった」というXへの書き込みに象徴されるように、あまり落胆しているファンは見受けられない。  前述の40代の剛ファンはこう話す。 「剛クンはかつてライブで『僕に依存しないでください。僕も皆さんに依存しないです』と名言を言ったことがあるんです。それくらい、剛クンに依存症気味になっているファンが多かったということです」  ながく旧ジャニーズを推してきたという女性ファンは、アイドル同士の結婚の難しさをこう語る。 「私は(旧)ジャニーズ全体のファンで、みなさんを応援していますが、結婚後は、私生活を私たちの前では見せないようにしてくれた方がいいのかなと思います。今まで通り、独身のように振る舞ってほしい。というのも、アイドル同士の結婚は、容易に結婚生活が想像ができてしまうんです。それが寂しさにつながる。この女性と生活して、この女性と朝起きて……と想像すると現実味がぐっと増してしまう。私の周りのファンは『これからはKinKi Kids派として推していきたい』と言っています」  ファンとしてささげた時間の長さ、思いの強さがあればこそ、そのぶん寂しさやツラさも感じてしまう。それはある意味で仕方がないことだろう。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
「ブギウギ」絶好調の趣里 親の七光りとは無縁「まだまだこんなもんじゃない!」のド根性
「ブギウギ」絶好調の趣里 親の七光りとは無縁「まだまだこんなもんじゃない!」のド根性 「ブギウギ」でヒロインを務める趣里    大ヒットとなっているNHK朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロインを務めている趣里(33)は今最も注目されている俳優だろう。「東京ブギウギ」などの名曲で知られる戦後の大スター・笠置シヅ子をモデルにした本作。趣里は歌手・福来スズ子役を演じているが、表情豊かな演技や心に響く歌声に、SNS上では「本当に歌もうまいし、演技も関西弁も完璧やし、愛嬌あるし、大好きになりました」「スズ子は趣里ちゃん以外考えられない」など、称賛の声が集まっている。    2471人が応募したヒロインオーディションによって、朝ドラの主役の座をつかんだ趣里。父親は俳優の水谷豊、母親は元キャンディーズの伊藤蘭という有名人を両親に持つサラブレッドだが、親の七光りなどはみじんも感じさせない実力を持っていることが証明された。33歳にして本格ブレークを果たしたと言って良いだろう。 「2011年に俳優デビューを果たした趣里ですが、数年前からはバイプレーヤーとして注目されていました。2017年に放送された『リバース』では、不倫を続ける夫に激怒し携帯に電話をかけ続ける妻役を演じ、ゾッとする狂気的な演技が話題を集めました。18年放送の『ブラックペアン』では、主人公の傲慢(ごうまん)な天才外科医が信頼を寄せるクールで有能な看護師役を好演。ほとんどセリフがないにもかかわらず、強い存在感を放っていました。最近では22年放送の『石子と羽男-そんなコトで訴えます?』で、わずか1話だけの出演ながら、誤認逮捕された妹を思う盲目の姉という難役を演じ、反響を呼びました」(テレビ情報誌の編集者) 【こちらも話題】 「蒼井優」が朝ドラで“モンスター俳優”の本領発揮 ママになっても変わらない「孤高」の演技力 https://dot.asahi.com/articles/-/203836 「ブギウギ」NHK総合の初回放送は毎週月曜~土曜の8:00から。(C)NHK   水谷豊は芸能界入りに反対  これまで数々の作品で脇役を好演してきた経験が、「ブギウギ」での演技に安定感を与えているのかもしれない。  そもそも、趣里は演技に対してかなりストイックなようだ。「ボクらの時代」(フジテレビ系、22年10月16日放送)に親交が深い劇作家の根本宗子、俳優の前田敦子と出演した際は、2人から「ずっと仕事のことを考えている」と明かされていました。趣里いわく「まだまだこんなもんじゃない!」と思ってしまい、少し肩の力を抜いても良いとはわかっているが、とりあえず台本をそばに置き、頭のどこかでずっと考えているという。  そうした素養は父である水谷豊の影響もあるのだろうか。前出の編集者はこんなエピソードを明かす。 「水谷豊さんは娘の芸能界入りには反対だったそうです。芸能界は天国と地獄を味わうことになるため、子どものころから『こっちに来ちゃダメだ』と言い聞かせていたと過去にインタビューで話していました。しかし趣里は大学時代に母の舞台を見に行き、俳優に興味を抱くようになったようです。それを言えば反対されると思っていたからか、水谷さんには言わず、母にだけその思いを明かしていたとか。一方、今は自分の世界を持っている趣里に対して、水谷さんは一切何も言わないそうです。趣里が主演映画『生きてるだけで、愛。』でヌードシーンに挑んだ際、水谷が激怒したという報道もありましたが、水谷は昨年『週刊文春』のインタビューで、それを否定しています」(同) 趣里   金八先生の脇役を勝ち取った  朝ドラという大舞台に立つまでになった趣里だが、これまで決して順風満帆だったわけではない。民放ドラマ制作スタッフはこう述べる。 「10代のころはバレリーナを目指して海外留学をしていたのですが、大ケガをして断念。医師から昔のようには踊れないかもしれないと言われ、『全てを失った気持ちになり絶望感でいっぱいでした』と、以前インタビューで振り返っていました。バレエを辞めてから、自分が何者なのか分からなくなっていた時期があり、コンプレックスを抱えていたと別のインタビューで明かしていたことも。こうした挫折に加え、周囲からは親の七光りと勘違いされたこともあり、若いころは自分に自信が持てなかったようです。大学に進学し、アルバイトや就職活動をしながら演技学校に通い、ハードなレッスンを続けた結果、2011年に初めて『3年B組金八先生ファイナル』のオーディションで役を勝ち取ったのです」 「ブギウギ」で相手役を演じている水上恒司は趣里について「俺も頑張ろう!この人にエネルギーを注ぎ込むぞ!」と、ポジティブな気持ちにさせてくれるとインタビューで話している(「ホミニス」23年12月2日配信)。苦しい時期も乗り越え、強いメンタルと自信が身についたからこそ、30歳を超えて大きく開花したのだろう。 趣里   デビュー後も小劇場に出演  芸能評論家の三杉武氏は、趣里についてこう述べる 「『ブギウギ』では豊かな表情や独特の目力、自然な演技でヒロインを好演していますが、過去にもさまざまな作品で存在感を放ってきました。中でも、躁鬱病により感情のコントロールに苦しむ主人公を熱演した18年公開の映画『生きてるだけで、愛。』は日本アカデミー賞の新人俳優賞をはじめ、数多くの映画賞を受賞するなど高い評価を受けました。4歳から始め、英国に留学までしたクラシックバレエの道を断念した後、女優を目指すわけですが、『3年B組金八先生ファイナル』でデビュー後も小劇場の舞台公演に出演したり、海外の短期のワークショップに参加したりするなど、演技力を向上させるためには努力を惜しまない。大物を両親に持つ2世とは思えないこうした地道な努力やクラシックバレエでの経験が今の活躍を支えているのでしょう」  演技力だけでなく人を惹きつける華や明るさも持ち合わせる趣里。今後、俳優としてどこまで伸びるか楽しみだ。 (丸山ひろし)
小沢一郎氏「陸山会事件」で逮捕の元秘書が語る 手段を選ばない東京地検特捜部の取り調べとは
小沢一郎氏「陸山会事件」で逮捕の元秘書が語る 手段を選ばない東京地検特捜部の取り調べとは 2019年に北海道知事選に立候補した際の石川知裕・元衆院議員    自民党の「清和政策研究会」(安倍派)が政治資金パーティー収入の一部を裏金化したとされる事件で、東京地検特捜部が衆院議員の池田佳隆容疑者と、その政策秘書を政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で逮捕した。ただ、注目の安倍派幹部の立件については、「断念」との報道が出始めている一方で、捜査関係者からは「断念したわけではない」との声もある。小沢一郎衆院議員の秘書を長く務め、「陸山会事件」で特捜部に逮捕された経験がある元民主党衆院議員の石川知裕さんは「私のときと同じような事件に思えてならないですね」と話す。「検察は弱いところを突いてくる」という石川さんに、特捜部の取り調べについて聞いた。  石川さんは、小沢氏の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件で、政治資金収支報告書に4億円を記載していなかったとして、2010年1月に政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で特捜部に逮捕された。    特捜部は、中堅ゼネコンの水谷建設(本社・三重県)がダム建設工事へ参入した時期に、同社から小沢氏側が5千万円の裏金を受け取ったのではないかとみて捜査を広げた。    小沢氏については、検察が不起訴と判断したが、検察審査会で強制起訴となり、裁判で無罪に。しかし衆院議員だった石川さんや大久保隆規氏(現・岩手県議)ら計3人の元秘書は執行猶予付きの有罪判決が下された。   「4億円の不記載は本当に書いていなかったから仕方がなかったが、水谷建設からの賄賂はあり得ないこと。徹底的に特捜部とやりあいました」    と石川さんは言う。 5~6時間ぶっ続けでフラフラ  今回の安倍派の“裏金”問題では、池田容疑者と、会計責任者である政策秘書も一緒に逮捕された。特捜部は家宅捜索や、会計責任者、秘書の事情聴取をして証拠をおさえてから議員へと攻めあがる捜査をしている様子だ。   「会計責任者や秘書の捜査を特捜部が先行させているのは、弱いところからやっているのでしょう。カギになる会計責任者、秘書のなかには、『もう逃げられないぞ』『立件や逮捕でニュースにも名前が出る』などと言われ、きつい取り調べをされている人もいると思います。私も取り調べの際には『弁当持ってこい』と検事から脅しまがいのことを言われ、5時間、6時間、ぶっ続けで受けてフラフラでした」    石川さんは自らの経験からそう語る。 【あわせて読みたい】 強制捜査の夜もパーティー開催…絶対に「政治資金パーティーをやめない」自民党議員たちの“言い分”とは https://dot.asahi.com/articles/-/209960?page=1 2011年10月、「陸山会事件」の公判でSPと一緒に東京地裁に入る小沢一郎氏(当時の敬称は民主党元代表)   「特捜部は最初から、(政治資金収支報告書への不記載は)小沢先生に了承を得ていたはずだろう、と決めつけるような取り調べでした。政治資金収支報告書の作成で、小沢先生がこと細かく指示することなんてまったくないです。他の報告、連絡事項の合間に『今年はざっとこんな感じです』と説明して、小沢先生は内容が書かれた報告書もほとんど見ずに『そうか』で終わり。私の供述調書でもそう記されました」    そうすると、特捜部は別の方面から揺さぶりをかけてきたという。   「取り調べの検事も困り果てていました。すると特捜部はマスコミの1社に、『小沢氏、了承』と4億円の不記載を小沢先生が主導、了承したと、曲解した内容をリークしたんです。こちらは外の様子がわからないのでびっくりするばかりでした。議員を捕まえるときは、マスコミを使って悪者に仕立てるのだと思いました」(石川さん) 「小沢の妻を取り調べる」と検察に言われ  特捜部に対して弱みなどなかった石川さんだが、最大のピンチが訪れた。検事から「小沢の妻を取り調べるつもりだ」とささやかれたときだという。   「面食らいました。当時、小沢先生は奥さんとうまくいっておらず、もし呼ばれたらえらいことだなと。そこだけは必死で守りました。特捜部は、筋書きに合った供述を取るためには、弱みをつかんで交換条件のようにしてくるなど手段を選びません。別の国会議員の事件では、その秘書が、自分の妻ではない女性とのあられもない姿の写真を家宅捜索で押収され、それを取り調べのときに突き付けられて供述を求められたのは有名な話です」    現在、捜査が続いている安倍派の“裏金”事件で、すでに特捜部の取り調べを受けたというある議員秘書は、   「次は議員本人に来てもらうので、誰の言っていることが本当なのかこれでハッキリするよ、と検事から言われました。自分のしゃべったことで議員のバッジが飛ぶのではと怖くてなりません。そうなれば私も秘書でなくなり、失業です」    とプレッシャーを感じていると吐露した。 【こちらもおすすめ】 安倍派はなぜ「裏金作り」に全力を注いだのか 安倍一強政治の“おごり”が生んだ不幸な結末 https://dot.asahi.com/articles/-/209065?page=1 自民党安倍派の事務所に家宅捜索に入る東京地検特捜部の係官ら=2023年12月19日    通常国会の開会が1月26日との見通しが強まるなか、安倍派「5人衆」ら幹部の立件は難しいという報道が多くなってきた。  だが、5人とも派閥からキックバックを受けていたり、パーティー券を売りながら派閥に収めなかったりしていたとみられており、ある捜査関係者は、 「報道されることで、世論的には『幹部の立件はできない』との見方をされてますが、そうではありません。5人衆の立件を断念というのは、安倍派という組織、清和政策研究会の事件についてです。個々の政治資金収支報告書の内容についてはまだ捜査しています。国会の日程が出ており、捜査は大詰めです」  と打ち明け、5人衆ら幹部それぞれについては、まだ調べが続いているとのことだった。 「立件断念」報道は“観測気球”? ゆさぶり?  また、「立件断念」の報道は、「特捜部が世論の動向を見極めるためにリークした」「安倍派へのゆさぶり」との見方もある。    元検事の落合洋司弁護士は、   「安倍派のキックバック事件はこれだけ大きくなっている。金額が大きかった議員数人のバッジが飛ぶ程度では特捜部のメンツが立たない。そこで5人衆ら幹部の個人の政治資金規正法違反を問えないか特捜部は狙っているのではないか」    と指摘する。  今回の政治資金収支報告書への不記載については、指示や了承があったのか、共謀が成り立つのか、が焦点となっており、石川さんが小沢氏との「共謀」を認めるかどうかが最大のポイントだった陸山会事件のときと同じだ。  石川さんがこう話す。 「私のときは特捜部の検事から、小沢先生の了承=(イコール)共謀を認めろ、と言われ続けました。会計責任者や秘書には、『議員や事務総長から指示や決裁があったはず。共謀を認めよ、その供述調書にサインしろ』とやってきます。サインしないと弱い部分を突いて、逮捕をちらつかせもします。そりゃびびりますよ。でも、もし違うならそれには屈せず、本当のことを話す、を貫くべきですね」 (AERA dot.編集部・今西憲之) 【合わせて読みたい】 裏金問題、岸田首相の無責任ぶりに「自民党支持者も呆れた」 さらに絶望的な党内の事情とは https://dot.asahi.com/articles/-/209710?page=1
道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」
道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」 栄花物語図屏風(国立博物館所蔵品統合検索システム(https://post.dot.asahi.com/sys/articles/new?copy=211209)    永延元年(九八七)、藤原道長は二十二歳で宇多天皇の孫にあたる源雅信の娘倫子と結婚をしたが、この婚姻の成立には倫子の母の強い後押しがあった。またその翌年には、源高明の娘明子を第二夫人として迎え入れる。この仲立ちを積極的になしたのは道長の姉詮子だった。姉詮子は道長の関白(内覧)就任にも大きく関わっている。関幸彦の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、年上女性に応援される道長の人間性を紹介する。 *  *  *    一般に道長以後の家系は「御堂流」と呼ばれる。その御堂流・道長以前、長子たる立場で家督を相続したケースは少なかった。「三平」の一人、忠平は基経の長子ではなかった。続く、師輔・兼家いずれも長子ではない。そして道長も同様だった。道長以前、その母たちの出自を見るとわかるのは、受領の娘が目立つことだ。当の道長の母、すなわち兼家の妻は時姫と通称された女子で、摂津守藤原中正の娘だった。  また、道長には同母兄の道隆・道兼とは別の異母兄道義・道綱もいた。道綱の母は有名な『蜻蛉日記』の作者であり、同様に受領の娘だった。道長以前でいえばルーツの冬嗣─良房─基経と伊尹・兼通・兼家三兄弟─道隆・道兼・道長の三兄弟と五代にわたって受領の娘を母とした(例外は時平・忠平兄弟及び実頼・師輔兄弟で、王女や大臣の娘などが母)。 【こちらも話題】 優雅で、女性にはマメで…光源氏は貴族の「あるべき姿」 虚構の『源氏物語』が伝える真実 https://dot.asahi.com/articles/-/210655  その点からすれば、受領の娘には摂関に繋がる上層公卿との婚姻をなす、機会が用意されたともいい得る。だが、道長以後、天皇との外戚関係の固定化にともない、婚姻圏は限定される傾向が見られる。  そのあたりは道長が迎えた二人の妻と、その両人に誕生した子女たちからも了解されるはずだ。 高松殿倫子の子女たち  嫡妻の源倫子から見ておこう。倫子との結婚は、永延元年(九八七)、道長二十二歳の頃だ。倫子の父雅信は当時左大臣で、宇多天皇の孫にあたる(宇多源氏)、プライドも高かった。道長は当時従三位左少将の駆け出し公卿の地位に過ぎなかった。そのため道長との結婚にさほど積極的ではなかったという。このあたりは『栄花物語』〈さまざまのよろこび〉にもくわしい。  倫子の母は「コノ君、タダナラズ見ユル君ナリ」(なかなかの人物です)と確信し、「ワレニ任セタマヘレカシ」(この話は私にお任せ下さい)と断言し、婚儀がなされたという。つまりは道長は倫子の母に強く信頼され、将来性を見込まれての結婚だった。父雅信の官歴へのこだわりに比べ、母の人物本位の立場が優先されたのだった。道長は兼家の五男の立場であり、強い出世欲にかられる性格でもなかったようで、そうした無欲さがある意味、好ましく映じたのかもしれない。 【こちらも話題】 紫式部が地獄に堕ちた?異色の能の内容とは 貴族の心をつかんだ『源氏物語』 https://dot.asahi.com/articles/-/210132  宇多源氏との血脈上の結合は、道長にとってもアドバンテージとなった。道長は女性を信頼させる気質があったのかもしれない。姉の詮子(東三条院)にも道長は好かれた。道長の第二夫人明子との婚姻の仲立ち役を積極的になしたのも、詮子だった。明子は安和の変で左遷された源高明の娘である。明子との結婚は、嫡妻・倫子を迎えた翌年のことだった。  詮子が、明子との縁を求める道長の兄たちを差し置き、道長へと嫁がせたのも、詮子なりの判断があったからだ。このあたりは永井路子氏の小説『この世をば』の描写の妙はなかなかだ。ともかく道長は女性、それも年上の立場からは、まさしく「貴族道」の風味を多分に有した、好男子と映じる魅力があったようだ。詮子による助力は明子との結婚ばかりではない。関白職の帰趨をめぐる伊周との争いにおいて、母の立場から一条天皇に強く迫り、道長の「内覧」への就任にもかかわった。  倫子・明子の二人の妻の縁のいずれもが、年上の女性たちの“お眼鏡”に適ったことが大きい。それほどに道長への信頼度が群を抜いていた。  話を第二夫人明子にもどすと、その父は醍醐源氏のエース源高明だった。高明は醍醐天皇の第十皇子で、故実書『西宮記』はその著として知られる。村上天皇皇子である為平親王を女婿とした。 【こちらも話題】 貴族政治の頂点に立った道長の対人スキルと、優雅さだけではない時代の風の“つかみ方” https://dot.asahi.com/articles/-/210659  この為平を冷泉の後継としようとしていたとの密告で、高明は大宰府へと配流される。娘の明子が父の不幸に遭遇したのは幼少の五・六歳の時期とされる。叔父の盛明親王に育てられたが、その後、東三条院詮子に迎えられた。  詮子は彼女を厚遇、結婚相手については、相応の人物を考えていたに相違ない。二十歳代前半の道長の二人の妻女(宇多源氏の倫子・醍醐源氏の明子)との出会いは、道長の血筋に異なる世界での婚姻圏を用意した。  嫡妻倫子との間に彰子・頼通・教通・妍子・威子・嬉子が、そして明子との間には頼宗・顕信・能信・長家・寛子・尊子が誕生する。 【こちらも話題】 紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは https://dot.asahi.com/articles/-/210585 ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
「悲しみも包みこむ」天皇陛下と雅子さま 災害に苦しむ人びとに向き合い続けた「希望」の祈り
「悲しみも包みこむ」天皇陛下と雅子さま 災害に苦しむ人びとに向き合い続けた「希望」の祈り 九州北部豪雨で被災した女性の手を握り、声をかける皇太子ご夫妻(当時)=2018年9月、福岡県朝倉市    元日に能登半島地震が発生し、皇居では年初の一般参賀が中止された。宮内庁によると、天皇、皇后両陛下は甚大な被害が出たことに心を痛め、犠牲者に対するお悔やみや、被害者へのお見舞いの気持ちを石川県知事に伝えたという。大きな災害が起きると、皇室は犠牲者に祈りを捧げ、和歌を詠んで世の安寧を祈ってきた。1月19日には、新春の宮中行事である「歌会始の儀」が宮殿で執り行われる。国民の苦しみに、和歌を通して向き合う皇室の姿を振り返る。 *   *   * <悲しみも包みこむごと釜石の海は静かに水たたへたり>  2014年の歌会始に向けて、当時皇太子妃だった雅子さまが詠んだ和歌だ。  11年3月の東日本大震災のお見舞いのために、当時皇太子だった天皇陛下と岩手県釜石市を訪れた。静かに凪ぐ湾を目にして、海と歩んできた地域の人々の悲しみが癒やされ、海が穏やかに人々の暮らしを守るよう願いを込めたという。  宮城県の名取市には、17年におふたりが復興住宅を訪れたときの思いを詠んだ歌碑が建てられた。翌18年1月の歌会始で披露された和歌だ。 <復興の住宅に移りし人々の語るを聞きつつ幸を祈れり>(天皇陛下) <あたらしき住まひに入りて閖上の人ら語れる希望のうれし>(雅子さま)  そのほか、宮城県の東松島市や女川町にも、雅子さまの歌を刻んだ歌碑ができている。  即位後の天皇陛下は、コロナ禍が収束する日への希望を何度も詠み、皇后となった雅子さまも、台風や豪雨災害から立ち上がる人びとの姿を詠んでいる。   岩手県釜石市の仮設団地で、被災者に声をかける皇太子さま(当時)と雅子さま=2013年11月、釜石市   勅使による災害地の情報収集 「天皇、皇后両陛下、そして皇族方は歌を詠み、平和への祈りを捧げながら、死者の魂の鎮めをひたすらに心がけておられる存在」  昭和から平成にかけて、宮内庁御用掛として昭和天皇や平成の天皇、皇后両陛下、皇族方の和歌の御相談役を長年務めてきた歌人の岡野弘彦さんは、かつて筆者にそう話していた。     天皇陛下と皇后雅子さま、皇族方が出席して行われた「歌会始の儀」=2023年1月、皇居・宮殿「松の間」    江戸時代、天皇は儀式を司る「儀王」だった。天皇は御所のなかで、国と国民の平和を神に祈る儀式中心の生活をしていた。 「天皇が祈れば日本は安泰であり続けると信じられていた」  かつて宮中祭祀を担当する掌典職を経験した人物は、そう語る。  明治憲法が発布されると、祈りと儀式に加え、憲法上も天皇は国を統治する役割を担うようになる。  災害が起こると、明治天皇は勅使を派遣して情報収集に努めた。1891年(明治24年)に中部地方を襲った濃尾地震では、天皇は皇族の小松宮を被災地に派遣。1896年(明治29年)の明治三陸地震でも勅使を送り、御手許(おてもと)金を下賜している。国民のことを考え、見守るという意味だった。     米国救護班寄贈の特設病院に、関東大震災の被災者を見舞う貞明皇后(最前列の女性)=1923年11月、東京    天皇や皇族が被災地を初めて視察したのは、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災だ。大正天皇に代わり摂政宮となっていた皇太子の裕仁親王と秩父宮が市中を視察した。  震災が起きた時、日光の田母沢御用邸にいた大正天皇と貞明皇后だが、貞明皇后は9月末には東京に戻る。上野駅に着いたその足で、上野公園内にいた被災者を見舞った。  避難所となった博物館内で貞明皇后は、姉に看護されながら薄暗く冷たい床に身を横たえる男の子に心を痛め、歌を残している。 <石つくり小(お)くらきいへのつめたさも姉のみとりにしはししのかん>  貞明皇后は翌日以降も慶応病院や伝染病研究所などを訪ねた。3万8千人が焼死した本所区(現・墨田区)の被服廠では、長い黙祷を捧げたという。 <川池等に身を投けて、よわきはそのまゝとなりてうせたるよしきゝて> <みのひゆることも忘れて池川にとひ入るひとのうへそかなしき>  貞明皇后がこのとき詠んだ和歌は、150を超えたという。   熊本県南阿蘇村の避難所を訪れ、被災者に声をかける天皇陛下(当時)=2016年5月   幕末以前に戻った皇室  敗戦後、天皇は政治から離れて国の象徴となった。 「このときから『国と国民を見守り祈る』という幕末以前の姿に戻ります」  前出の元掌典職の人物は、こう話す。国民との触れ合いを重視し、災害に遭った人たちに思いをはせる和歌も目立つようになる。  1959年に伊勢湾台風が紀伊半島から東海地方を襲い、5千人を超える死者・行方不明者と4万人近い負傷者を出した。昭和天皇は、この甚大な被害も詠んでいる。 <皇太子をさし遣はして水のまがになやむ人らをなぐさめむとす> 「昭和天皇は、災害や天変地異をダイレクトに和歌にお詠みになった」  と岡野さんは話していた。天皇の和歌は本来、ハレのものだったが、「悲惨な現実もあるがままに表現するという近代リアリズムの潮流が、宮中の伝統文化である和歌にまで反映し変化を起こしたのです」。    そして平成に入り、皇室と国民の距離はさらに近くなる。  昭和の最後、1985年から3年間、宮内庁で総務課長を務めた齊藤正治さんは、平成の皇室をこう振り返っていた。 「両陛下は避難所で靴を脱ぎ、膝をついて被災者と同じ目線で会話をなさった。今でこそ平成の天皇、皇后の象徴的なスタイルと認識されていますが、当時はそこまでなさるのかと私も驚きました」   阪神・淡路大震災で避難所となった体育館の床に座り、住民に話しかける雅子さま=1995年2月、神戸市   社会の良心を背負い被災地へ  令和の天皇陛下と皇后雅子さまも、平成の時代から被災地や戦争の傷の残る土地を頻繁に訪れ、人びとの悲しみや復興に立ち上がる姿を歌に詠み込んできた。   97年の歌会始では、皇太子妃だった雅子さまは、阪神淡路大震災の被災地で強く生きる人びとの姿を詠んだ。 <大地震のかなしみ耐へて立ちなほりはげむ人らの姿あかるし>  令和に入り、皇后となった雅子さまは2020年の歌会始で、台風や豪雨の被害を受けた東北や九州の被災地でボランティアにはげむ若い世代の希望を和歌にした。 <災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす>  天皇陛下が21年の歌会始で詠んだ歌は、新型コロナによる困難を乗り越えようとする人たちの努力と願いが実現することを願ったものだった。 <人々の願ひと努力が実を結び平らけき世の到るを祈る> 「皇室は社会の良心や善意、国の意思を背負って被災地を訪ね続ける存在」  元宮内庁の幹部は、皇室をそう表現した。  歌人の岡野さんは、天皇の和歌とは「世の中が、こうありますように」との願いを神に伝え、国民と心を通わせる特別な言葉なのだとも話していた。  これからも両陛下は、災害で傷ついた人びとのもとを訪ね、犠牲になった人たちに祈りを捧げ続ける。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
Xのフォロワー数26万超え、駐日ジョージア大使ティムラズ・レジャバはどのようにして大使になったのか
Xのフォロワー数26万超え、駐日ジョージア大使ティムラズ・レジャバはどのようにして大使になったのか X(旧Twitter)のフォロワー数26.6万人。何度も壁にぶつかり、日本とジョージアの「架け橋」になった(撮影/門間新弥)    今、最も日本で有名な「駐日大使」といえば、ジョージア駐日大使のティムラズ・レジャバの名前が挙がるのではないか。X(旧Twitter)のフォロワー数は26万超え。ジョージアだけでなく、妻が作ったお弁当や親戚の子どもたちまで登場する。レジャバが父の仕事で来日したのは4歳のとき。日本には思い入れも強い。まさにジョージアと日本の架け橋となっている。 *  *  *  戸をあけ放った広間に日が差している。  2023年10月6日、北陸視察中の駐日ジョージア大使、ティムラズ・レジャバ(35)は、福井の名勝、養浩館の茶席に招かれた。正座に慣れない外国人向けの椅子と机が宛(あて)がわれる。和菓子が机に載せられ、畳に座った婦人が、「きんとんです。紅葉で色づく山を表しています。お召し上がりください」と勧めた。  レジャバは深く一礼し、菓子皿を持って腰を浮かすと、そろりと畳に端座して正面に置いた。 「まぁ、座ってくださるんですか。うわー素晴らしいわぁ」と婦人は感激し、空気がなごんだ。 「ジョージアはワイン発祥の地で、『スプラ』という儀式があります。出席者がそれぞれワインで乾杯しながら自分の経験や思い、教訓を語り、詩や音楽、ダンスを披露します。茶道と形は違っても、場を楽しむことでは相通じると思います」  と、レジャバは日本語で語りかけた。相手の心のひだに触れ、フラットな目線で接する。日を置かず、茶席のようすをX(旧Twitter)にあげて礼を述べた。いまや彼のフォロワーは26.6万人。絶大な人気を誇る。  レジャバは、祖国の期待を背負い、「文化」を軸に外交活動を展開している。「文化を通じた交流は末永い。人と人の心をつなぐからです。まずはジョージアの名前を多くの方に知ってもらい、身近に感じてほしいんです」と言う。  大使在任中に47都道府県をすべて回ろうと考えている。10月の富山、石川、福井の3県訪問で、折り返し点に近づいた。  一方で、国際情勢は激しく動いている。  茶会の翌日、中東のパレスチナでイスラム組織ハマスが、イスラエルに奇襲をかけ、多くの人質を取った。イスラエルは「戦争状態」と宣言して、大規模な空爆による報復を始めた。ジョージア政府はテロ行為に断じて反対する。 4歳で両親とともに来日 ハンドボールに夢中になる  それから数日後、レジャバは作家の村上春樹が09年2月にイスラエルで行った「壁と卵」のスピーチの一部をXに引用した。 〈もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます〉と。作家は「壁」を軍事力、それにつぶされる非武装市民を「卵」に喩(たと)えた。レジャバは〈当時はよく意味が理解できませんでしたが、今はなんとなくその言葉がより身の回りのものとして聞こえてくる気がします〉と投稿した。  富山県庁に知事の新田八朗を表敬訪問。3千メートル級の山々がたたえる水による発電に話題が及ぶと、「ジョージアは国内電力の80パーセントが再生可能エネルギーでございます」と説明した(撮影/門間新弥)    文面から繊細な気遣いが伝わってきた。  北陸視察から50日後、東京でレジャバと再会した私は、「壁と卵」を引いた心情について訊(たず)ねた。村上春樹は壁に「システム」の意味も託していましたね、と言うとレジャバの目の光が強まった。 「そうです。システムです。自分は就職活動なんかも苦手で、決められたシステムへの抵抗感があって、空回りしました。卵の話じゃないけど、自分自身の個性や、考えを大切にしてきました。もちろん社会では、システムを通じて表現しなくてはならないことがあります。バランスをとらなくちゃいけない。そこはとても重要です。でも、完全にシステムに取り込まれたら空(むな)しいですよ」  システムという壁は、もの心ついたころから周りにそびえていた。4歳で生物学研究者の両親とともに来日し、広島に住んだ。広島の小学校に入学したが、間もなく、ジョージアに戻る。米国に移って数年過ごし、ふたたび日本に来て、小学校5年に転入した。一家は目まぐるしく転宅した後、茨城県つくば市に腰を落ちつけたのだった。  モダンなビルが並ぶつくば駅前から西へ、幹線道路を2キロほど下ると、畑とロードサイドのラーメン店が目にとまる。その先の狭い脇道を南に折れ、遊歩道に入る。アカマツやクス、銀杏(いちょう)の巨木が連なり、芝生地に日が降り注ぐ。池には水鳥が浮かんでいる。別世界に迷い込んだようだ。高名な建築家がデザインした戸建て住宅と道一つ隔てて古い県営アパートが立っている。ここがレジャバのホームタウン、つくば市松代地区である。  遊歩道の左に転入した市立手代木(てしろぎ)南小学校の校庭が広がる。友だちはレジャバをファーストネームの短縮形で「テムカ」と呼んだ。家族もそう呼ぶので、テムカのほうが本名らしく聞こえる。  中学に上がる春休み、テムカは友人とハンドボールに夢中になった。運動神経はよく、サッカーやバスケットボールも得意だったが、ハンドボールの虜(とりこ)になる。市立手代木中学に入り、仲間とハンドボール部を新設した。「サッカー部に入ってそれなりに終わるより、新しく何かに挑戦したかった」と本人は言う。公立中学で部活を設けるのは、指導体制の問題もあってかなり難しい。PTAに支援されてシステムの壁を一つ乗りこえた。  とはいえ、1年生だけのチームは弱かった。ユニフォームがなく、体操着で試合をする。コテンパンにやられたが、筑波大学のハンドボール部員のコーチングを受け、腕を上げた。他校の上級生が卒業すると、手代木中は強豪にのし上がる。  中3の夏、手代木中は茨城県大会に駒を進めた。県大会の上位2校が関東大会に出場できる。そこで勝てば全国大会への道が開ける。 知らない人でも仲良しに 異端児ともつき合う  関東大会への出場を懸けた大一番、前半を終わって手代木中はライバル校にリードされていた。  後半が始まる前、コーチが不意に訊ねた。 富山の路面電車を楽しむ(撮影/門間新弥)   「テムカ、ジョージアでは挨拶で勝利を誓い合うって、教えてくれたよな。何て言うんだっけ?」 「ガウマルジョス」と答えた。選手とコーチ、顧問の教師、全員が肩に腕を回して円陣を組んだ。 「手代木にガウマル……」とテムカが叫ぶ。 「ジョス、ガウマル……ジョス、ガウマル……ジョス!」と皆が応じる。士気は最高潮に達した。  惜しくも関東大会には出場できなかったが、松代の住民は手代木中の選手を温かく迎えた。テムカの父アレキサンダーは、自著『手中のハンドボール ガウマル……ジョオオオス!』(牧歌舎)に〈そこ(松代)では誰もが私たちの顔なじみで、私たちの周りにはいつも日本人ならではの密やかな優しさと無言の声援があった〉と記している。  テムカはコミュニティーに溶け込んで成長した。  大学時代からの友人、吉川(きっかわ)龍一(35)は、テムカの案内でつくばの夏祭りを楽しんだときの一場面を鮮やかに覚えている。吉川が語る。 「広場や公園に夜店が出て、ふつうの夏祭りでしたが、ショッピングモールの横に階段があって、地元のヤンキーが大勢たむろしていました。テムカは、そこにずかずか入っていって、おまえたちー何してんだよーって延々と話しかけるんです。知らない人でも声をかけて仲良くなる。ああいうノリでやってきたのか、と驚きました」  テムカが誰とでも接したのは、単に外交的な性格だったからでもない。 「小さいころから、どこに行っても僕はよそ者、変わり者でした。そこで内気になるより、自分の特徴を武器にアピールしていろんな人とつながったほうがいい。それに相手を知ることで自分にない視点や経験、感情に触れられます。だからクラスで誰とも喋(しゃべ)らない人や、異端児といわれた人ともつき合ったんです」と当人は述べる。  茨城県立牛久栄進高校に進学し、身長は180センチを優に超え、体重も増えた。コーカソイドらしい、彫りの深い風貌になるにつれ、テムカの胸にもやもやがたまる。友だちも多いし、何不自由なく暮らしているようだったが、自分が何者か、何をしたいのかわからなくなったのだ。疎外感が募った。どこかで背伸びしすぎていたのかもしれない。「アイデンティティーの危機」に直面した。 福井の老舗味噌蔵「米五」で永平寺御用達の秘伝に触れる(撮影/門間新弥)   追いつめられ何とか就職 先が見えジョージアに帰国  高校2年の夏休み、自らの根っこを確かめようと、ジョージアの首都で、生まれ故郷のトビリシに帰った。すると……あまりにも居心地がよかった。人びとのメンタリティーも顔かたちも似ていてバリアーがない。心のなかの欠けていた部分をとり戻したようだった。 和菓子のなかでは「クルミ柚餅子(ゆべし)」が大好物。東北が発祥の地だと聞くが、いまだに「総本山」にたどりつけていない。梅干しも毎日の弁当に欠かせない(撮影/門間新弥)    たとえば、民族衣装の「チョハ」を身につけると、「これは自分の服だ。長い歴史のなかで継承されてきたものだ」と実感できた。チョハは上半身にピタリと張りつき、裾が長い。のちに今上天皇の即位礼正殿の儀に着用して参列し、映画「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士や「風の谷のナウシカ」の衣装に似ていると話題に上る。  テムカは「ここに残りたい」と親を説得し、トビリシのアメリカンスクールに入った。そのまま欧米の大学に進む選択肢もあったが、1年で牛久の高校に復学する。日本への愛着も断ち難かった。  沖縄出身の辻太一(34)がカナダ留学中にテムカと出会ったのは、09年の夏だった。早稲田大学国際教養学部に籍を置くテムカも、1年間の予定でバンクーバーの大学に留学していた。学校は違ったが、故郷が背負う歴史が似ていてウマが合う。  沖縄は戦後27年間、米国に占領統治された。ジョージアも、長くソビエト連邦に組み込まれ、グルジアと呼ばれた。ソ連崩壊後の1991年に独立し、政治や経済が不安定な時代が続いた。ふたりは「平和」や「文学」の話をした。辻は語る。 「彼はよく胸のポケットに芥川龍之介や太宰治の文庫本を入れていました。ジョージア語はもちろん、英語もペラペラですし、言語能力は高い。そんな彼が、日本語には他の言語にはない美しさがあるって言っていました。外国語ならストレートに言うところも日本語は婉曲(えんきょく)に表現する。そこがとってもいいんだよって強調していました」  テムカにとって文学は心の糧だった。 『高野ヤマト バレンタイン号』という冊子のPDFが私の手もとにある。表紙は背中にタトゥーが入った女性の後ろ姿だ。大学時代にテムカがプロデュースした電子書籍版の同人誌である。執筆者は4人。父と息子がカジノで財産を失(な)くす小説をテムカも載せている。制作担当の吉川は語る。 「表紙をデザインしたのはメキシコ人の学生で、執筆者やカバー写真の撮影者もテムカが集めました。誌名は仲のいい『高野君』と『ヤマト君』という友だちの名前をくっつけたんです(笑)。おちゃらけてますが、テムカの実行力は抜群です。常に何か面白いことをやりたがっていましたね」  こうして思う存分個性を発揮したテムカだが、ついに社会のシステムという厚い壁にぶつかる。就職活動だ。これがまったく肌に合わなかった。2、3社トライしたものの、面接で落とされる。先が決まらず、「やばいな、やばいな」と追いつめられたところで、キッコーマンが海外市場の要員を募集しているのを見つけ、入社試験に受かった。テムカは社会人・レジャバの顔を持った。  ところが、会社に入っても「何も分からない、発言できない、つらい」状態が続く。首都圏営業部に配属され、問屋や小売店を回った。  ある日、自宅にいた吉川は「おお、龍一。おまえんちの近所の根岸商店(1924年創業)に来てるぞ」と電話を受けた。出かけていくと酒店の親父さんとレジャバは仲良く話し込んでいた。が、商談を終え、帰っていく後ろ姿は寂しそうだった。 「海外支社に行かせてほしい」とレジャバは上に直訴した。海外営業部に配属されたが、現地駐在員の生活を垣間見て、限界を感じる。先が見え、2015年に会社を辞めた。そのころ、ジョージアは政治が安定し、経済が上向いていた。 「一か八か、ジョージアに帰ろうと決めました。まったくコネクションはないし、ゼロからの再出発です。仕事は定まってなくて、両親はシンガポールに移っていました」とレジャバはふり返る。 起業後に外務省から連絡 臨時代理大使として来日  トビリシに戻って、旅行会社を立ち上げようとしたが、スタッフがそろわず、断念した。収入もなく、途方に暮れていると貿易業者から日本の自動車部品を輸入するのを手伝ってほしい、とオファーが入る。主にタイヤの買い付けに奔走した。  17年、少し余裕ができて「LLC Delivery」を起こす。スーパーの商品をウーバーイーツ方式で宅配する会社だ。ジョージアではEコマースが浸透しておらず、ライバル会社は数百品目を2、3日かけて顧客に届けていた。レジャバは、3千商品を「45分」で届けるしくみを構築する。消費者ニーズをとらえ、業績はぐんぐん伸びた。  このまま青年実業家への道をまっしぐら、と思いきや、予想外の方向から話が舞い込む。相手はジョージア外務省だった。東アジア、とくに日本との外交戦略を強化したい、興味はないかと打診された。こんなチャンスはめったにない。レジャバは、会社を譲渡して国家公務員試験を受け、採用される。本国で参事官に任命された。日本と韓国の担当デスクを務めて制度を頭に叩(たた)き込んだ。  そして、19年8月、臨時代理大使として来日したのである。吉川や辻は「大使」の肩書がついたレジャバを眺めて「天職だ」と喝采を送った。  各国の大使は、キャリアを積んだ外交官と、民間企業やアカデミアから登用された人材に分かれる。レジャバは後者だ。責任の重さに緊張しつつも「日本もジョージアも固有の文化があって共感できるところは多い。でもまだ距離がある。両国の間に立って距離を縮めよう」と心に期した。  外交は、経済などと違って成果が見えにくい。そのなかでXのフォロワーは数字に表れる。レジャバが身の回りの出来事をユーモアを交えて投稿すると、たちまちバズった。娘が通う保育園のスタッフが、日本語を話せない妻のためにイラストと簡単な英文を添えたメモを送ってくれた。それをアップし、「おもいやり」に感謝すると、4.5万の「いいね」がつく。「親戚の少年」シリーズもフォロワーを集めた。ジョージアから来た甥(おい)っ子がドン・キホーテで買ったお菓子を食べ比べ、梅干しを前に渋い顔をする姿は何とも微笑(ほほえ)ましい。ジョージアの知名度は上がった。  ジョージアは古くて新しい国だ。北にロシア、南はトルコとアルメニア、アゼルバイジャンと接し、西に黒海を望む。北海道の8割強の面積に約370万人が暮らす。1人当たりのGDPは6671ドル(22年:国際通貨基金推計値)と日本の約5分の1にとどまる。08年にはロシア軍の爆撃を受け、いまも2カ所の「占領地域」を抱える。  この国は数千年のワイン造りやキリスト教の伝統を保ちながら新しい活力を求めている。レジャバの奮闘で、素顔のジョージアと向き合う人も増えた。共通の友人の紹介で知り合った和菓子メーカー「虎屋」の社長、黒川光晴(38)は、23年9月、ジョージアを訪ねた。その印象をこう語る。 「大きなワイナリーの収穫祭に参加させていただいたのですが、ジョージアの『食』のポテンシャルの高さをひしひしと感じました。家庭でブドウを育て、自家製のグラッパをつくったりしています。食料自給率の低い日本にとっては、今後、大切なパートナーになるのではないでしょうか」  不易流行という言葉がある。不易は変わらない本質、流行は変化する新しさを指す。両方はつながっている。レジャバは不易流行を噛(か)みしめて、今日も妻がこしらえた弁当の写真をXにあげる。 (文中敬称略)(文・山岡淳一郎) ※AERA 2024年1月15日号
「板谷由夏」がデビュー24年で花開いた理由 業界人が称賛する「ねっとりとした情念」
「板谷由夏」がデビュー24年で花開いた理由 業界人が称賛する「ねっとりとした情念」 板谷由夏(写真:2017 TIFF/アフロ)    1月からスタートした大河ドラマ「光る君へ」で藤原道隆の嫡妻を演じる板谷由夏(48歳)。昨年秋、初主演となったドラマも話題となり、50歳を前ににわかに注目が集まっている。バイプレーヤーとして高い評価を得ていたものの代表作はなかった板谷だが、最近は新たな道を切り開いている。 「板谷さんは俳優業のかたわら、モデルやニュース番組のキャスターなどもこなしてきました。それに加えて、アパレルブランドを経営する実業家の顔、そして二児の母としての顔もあります。俳優としては、アネゴ肌で知性的な年上女性を演じさせたらピカイチ。本人もキャラクターを意識してか、長らくショートカットをトレードマークにしており、女性たちの支持を得ています。スタッフ受けも良く、ドラマの現場では共演者たちとざっくばらんなトークで盛り上げ、ムードメーカーのような存在です。そんな板谷さんのことを以前“女版ムロツヨシ”と呼んでいた関係者もいます」(テレビ情報誌の編集者)  一方で、ここぞというタイミングでの思い切りの良さもある。デビュー作で6度のヌードシーンを演じ切ったことも語り草となっているが、こうした俳優としての胆力は節目節目で彼女の人生を新しい方向に導いてきた。  過去のインタビューでは、40歳という節目を目前に「私は何もゼロから発信することをしたことがない」「自分の人生について考えたとき、女優だけでいいのかと疑問に思った」と、依頼を受けて成立する俳優という仕事に限界を感じ、ファッションブランドを立ち上げたことを明かしている(「ハルメク365」2019年11月7日配信)。 【こちらも話題】 「蒼井優」が朝ドラで“モンスター俳優”の本領発揮 ママになっても変わらない「孤高」の演技力 https://dot.asahi.com/articles/-/203836 吉瀬美智子(左)とは「ママ友」としても交流があるという   超豪華な「ママ友」人脈  そして50代を目前にした板谷は、また大きな一歩を踏み出した。これまでにない泥臭い役に挑戦することが増え、東京・渋谷のホームレス女性殺害事件を題材にした映画「夜明けまでバス停で」では被害に遭ったホームレス女性を熱演。そして、初主演ドラマ「ブラックファミリア」では、娘を殺害されて復讐に燃える母親役に挑戦。家政婦に成りすまして疑惑の家庭に入り込む被害者の母という難役を演じ切った。 「『ブラックファミリア』では、家政婦を演じつつも、復讐相手を陥れるための別人格も演じることが求められました。それについて、板谷さんは『“なりすまし”の上の“なりすまし”という二重構造』に挑戦したとインタビューで語っていました。この作品で、彼女は俳優として別のステージに進んだように思います」(同)  同ドラマは全10話の1週間見逃し配信再生数が、平均100万回を突破という深夜ドラマとしては異例のヒットを記録した。バイプレーヤーとして器用に役をこなすだけでなく、ねっとりとした情念が絡む主演もこなせる俳優であることを証明した。  また、板谷は芸能人の“ママ友”からも一目置かれる存在のようだ。 「芸能界にはいくつものママ友派閥がありますが、板谷が参加していたのは『渋谷会』というサークルで、篠原涼子を中心に、長谷川京子、吉瀬美智子、井川遥などそうそうたるメンバーがそろっています。2023年1月に吉瀬が新年会の様子をインスタにアップして“豪華すぎるメンバー”として話題になったこともありました。バツイチの篠原と長谷川が、アネゴ肌の板谷に公私にわたってさまざまなことを相談しているそうです」(週刊誌の芸能担当編集者) 板谷由夏(写真:CATARINA-VANDEVILLE POOL/Gamma/アフロ)   テレビ・映画の出演本数は120本超  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は板谷の魅力についてこう分析する。 「1999年の俳優デビュー以来、テレビ・映画を合わせた出演本数は120本を超えます。近年の活躍ぶりを見ていると、決して単なる“キレイどころ”ではなく、実力も兼ね備えた俳優として着実にキャリアを重ね、確固たるポジションを築き上げています。特に昨年は『ブラックファミリア』で復讐のために生きる母親として狂気を帯びた鬼気迫る表情を見せ、日本映画批評家大賞の主演女優賞を受賞した映画『夜明けまでバス停で』では実際に起きた事件をモチーフにした作品の主人公として繊細さが要求される中、見る人の心に刺さる深みのある演技を披露しました。語学番組の生徒やニュースキャスターの経験も、彼女の中では結果的に演技や表現のプラスになっているはずです。アラフィフの希望の星として今後も大いに期待したいですね」  50代を前にして、主演としても実績を残し、さらなる成長をみせた板谷。今後はどんな難役に挑戦するのか楽しみだ。 (雛里美和)
女性管理職、男性が作り上げた常識や慣習に悩み 働きやすい環境のために重要なこと
女性管理職、男性が作り上げた常識や慣習に悩み 働きやすい環境のために重要なこと (撮影/戸嶋日菜乃)    徐々に増えている女性管理職の割合だが、まだまだ大多数が男性。そんな中、AERAでは11年ぶりに「女性管理職100人アンケート」を実施。アンケートや現場の声、専門家の意見から、女性管理職の働きやすい環境を考える。AERA 2024年1月15日号より。 *  *  *  どうすれば、女性がより働きやすくなるのか。アンケートでは、女性管理職の「数」がまず必要だとする意見が目立った。  家事代行のマッチングサイトを運営する「タスカジ」(東京都港区)は、和田幸子社長を含めて管理職の8割が女性だ。同社でマーケティング・コミュニティマネージャーを務める袴田里美さん(43)はかつて、管理職の9割が男性という企業で10年間働いていた。女性社員が自らキャリアを伸ばすという風潮が育ちにくく、「このままだと塩漬けになってしまう」と転職を決意したという。 「最初は形だけでも女性管理職の数が増えることによって、私にもできるのではないか、という意識が育ち、全体の雰囲気も変わると思います」(袴田さん)  確かに、男性の管理職を見渡せば、非常に優秀な人から個性のある人、子育てに比重を置いている人までバラエティー豊か。女性管理職も数が増えることによって、いろいろなロールモデルが「見える化」されるだろう。  データ活用コンサルティング会社、ギックス(東京都港区)の管理本部長、渡辺真理さん(41)は長年、人事に関わってきた経験から、こう話す。 「数合わせのために女性を優遇することは良いとは思わないけれど、管理職を打診すると、男性に比べて女性は、能力があっても『私には無理かも』と尻込みしがち。背中を押してあげて、自発的に挑戦させてみることは大切だと感じています」 AERA 2024年1月15日号より   企業体質を変えていく 『「家族の幸せ」の経済学』などの著書がある東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)は、女性管理職が働きやすい環境のために重要なことについて、こう説明する。 「経営陣の意識改革が何より大切です。日本では長い間、24時間働き続けることができる人がリーダーになってきた。まずは、長時間労働に依存した企業体質を変えていく。ある程度強い外的圧力も必要でしょう。そうすれば、男性の意識が変わり、結果として、すべての人にとって良い職場環境になるはずです」 AERA 2024年1月15日号より    つまり男性の意識改革が欠かせないということだ。前出の女性管理職たちもみな、男性が作り上げた常識や慣習に直面し、悩んでいる。また、アンケートでは家庭の中で、家事・育児が女性側に偏っている現状も明らかになっている。  最近、注目されているのは「オールド・ボーイズ・ネットワーク(OBN)」という観点だ。組織の多数派である男性同士で作り上げてきた暗黙の了解や慣習、人間関係のことで、その多くが明文化されていない。 AERA 2024年1月15日号より   男性が変わらなければ  このOBNについて男性自身が学ぶことで、組織を変えていこうと動きだしているのはデロイト トーマツ グループ(東京都千代田区)だ。22年、社内で「男性ネットワーク」と名付けた勉強会が始まった。パートナーの栗原健輔さん(41)が呼びかけ、メンバーは現在80人だ。栗原さんは、 「フルタイムで働く妻とは、高校時代に出会い、ずっと一緒に歩んできたのに、出産後にキャリアの上で差がついてしまうのは申し訳ないと感じていました。保育園のお迎えなどは分担していましたが、定時に仕事を切り上げる働き方を経験してみて、私自身もこれでキャリアアップしていけるのか、と考えたことがきっかけです」  と話す。女性が活躍するためには、 「マジョリティーである男性が変わらなければと思った。OBNは意思決定を早めるためのあうんの呼吸でもあります。完全に否定するわけではなく、理解した上で互いを尊重する。それが本当の意味で組織の多様性につながる」(栗原さん)  働き方改革、女性管理職の増員、男性の意識改革。加えて、女性管理職に特化した採用を始めている企業も増えている。女性にとって、追い風、チャンスであることは間違いない。  11年前のAERAの「女性管理職100人のホンネ」の記事は、こう結ばれている。 「女性管理職たちが願うのは、自分たちが『特殊』ではなく『普通』の存在になることだ」  2024年も、変わらぬテーマとなりそうだ。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2024年1月15日号より抜粋

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