
【大河ドラマ「光る君へ」本日第5話】権力の階段を駆け上った藤原道長が苦しんだ「持病」とは?
藤原道長が望月の歌を詠んでちょうど1千年後の満月。2018年11月23日に東京都内で撮影された
2月4日の放送で5回目を迎える大河ドラマ「光る君へ」。第4話は、藤原道長(柄本佑)が、母を殺害した人物の弟だと知ってしまったまひろ(吉高由里子)がその場で倒れる場面で終わった。道長とまひろの関係は、第5話ではどう描かれるのか。
「光る君へ」の主人公はいうまでもなくまひろ(紫式部)だが、もう一人の主人公ともいうべき存在が藤原道長。栄華を極め、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだことで知られる道長は、実際はどんな人物だったのか。『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)からリポートしたい。
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摂関政治の全盛期を築いた藤原道長は、一条天皇の外戚として摂政太政大臣まで上り詰めた藤原兼家の五男。兼家は、先に関白となった兄・兼通と対立し長らく出世を阻まれたが、兼通の死後、娘の詮子(せんし)が生んだ一条天皇を即位させ、天皇の外祖父および摂政として実権を握った。
兼家の後を継いだ長男・道隆も関白となり、娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮(妃)とし、嫡男・伊周(これちか)を21歳で内大臣に就けるなど栄華を誇った。しかし、道隆は深酒が原因で早世し、関白を継いだ弟・道兼も、大流行した天然痘により就任10日ほどで亡くなった。
兄たちの早世によって後継候補に挙げられたのが、内大臣・伊周と権大納言・道長である。官位は伊周が上だが、道長の姉で一条天皇の母后にあたる詮子の強い推薦により、道長が内覧(天皇の文書を事前に見る職)かつ左大臣となり、一躍、政権のトップに躍り出た。
道長の権勢を支える大きな力となったのが、婚姻政策である。一条天皇の中宮となった長女・彰子(しょうし)は、敦成(あつひら)親王・敦良(あつなが)親王という皇子を生み、後年、二人が後一条天皇・後朱雀天皇として即位し、摂関家にかつてない栄華をもたらすこととなる。
敦成親王の生誕50日を祝う藤原道長(手前中央)。左奥に敦成親王を抱く道長の妻、右奥に道長の娘で敦成親王の母・彰子、右手前に紫式部が描かれているとされる(東京国立博物館蔵/ColBase)
一条天皇に代わって即位した三条天皇の中宮も、道長の娘・姸子(けんし)だったが、三条天皇は道長を敵視したびたび対立した。そこで道長は、三条天皇の病につけこんで退位を迫り、孫の後一条天皇を即位させて摂政に就任。皇太子には敦良親王が立てられ、道長は天皇と皇太子の外祖父となった。
1018(寛仁2)年には、三女・威子(いし)が後一条天皇の中宮に、次女・姸子が皇太后となり、太皇太后となっていた彰子とあわせて、未曽有の一家三后を実現。道長の栄華は頂点に達した。道長が有名な「望月の歌」を詠んだのはこの時である。
性格的にはどうだったのか。摂関家の栄華を描いた『大鏡(おおかがみ)』にこんな逸話がある。雨が降る不気味な夜、清涼殿にいた花山天皇が肝試しを提案した。道隆・道兼・道長の兄弟が、それぞれ決められた場所へ向かったが、兄たちが恐れて引き返したのに対し、道長だけが最も遠い大極殿にたどりつき、柱の一部を切り取り証拠として持ち帰ったという。道長の剛毅な性格がうかがえる。
一方で道長は、高い教養と公事作法を身につけた一流の政治家でもあった。祖父・師輔(もろすけ)や源高明の儀式書から学び、2000余巻の漢籍を収集していた。道長が執り行う公事は、内容も時間も正確そのものであったという。つまり道長は、単なる権勢欲の権化ではなく、為政者としての責任感も備えていたのである。
文化面でも、大きな足跡を残している。仏教を信仰し、1007(寛弘4)年、自筆の経文を吉野の金峯山(きんぷせん/奈良県)に埋納した。出家後は荘厳な法成寺を造営したほか、盛んに法会を主催した。一連の宗教政策は、のちの院政期の仏教興隆の先がけになったといわれる。紫式部ら一流の文人を娘・彰子の女房として仕えさせたことで、『源氏物語』などの傑作が生まれた。平安文学の最盛期を築いたのも道長の功績だと言っていい。
権勢を極めた道長だが、病気には終生悩まされた。持病の腰痛に加え気管支ぜんそくや胃腸病もあった。54歳で出家した時、すでに老僧のようだったという。仏教の信仰も病気平癒のためだったが、最後は悪性の腫れ物に苦しみ61歳で世を去った。
(構成 上原千穂・永井優希/生活・文化編集部)