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原田泰造が「おっパン」で感じた原作者の深い愛情 「演じさせていただいてるという気持ち」「本当にありがたかった」
原田泰造が「おっパン」で感じた原作者の深い愛情 「演じさせていただいてるという気持ち」「本当にありがたかった」 「俳優」を語る原田泰造/撮影・写真映像部・松永卓也    放送中の土曜ドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(東海テレビ・フジテレビ系/毎週土曜午後11時40分)が好調だ。主演を務める原田泰造は、トリオ「ネプチューン」のひとりとしておなじみだが、俳優としてのキャリアも着実に積んでいる。   *  *  *    主演ドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」が、好調だ。家族からも嫌がられる古い価値観を持った堅物の「おっさん」の沖田誠(原田泰造)が、ゲイの青年・五十嵐大地(中島颯太・FANTASTICS)との出会いによって、これまでの「自分の常識」をアップデートしていくホームコメディー。    練馬ジム氏によるLINEマンガの実写化で、原作は国内累計閲覧数7,500万回(2024年2月時点)という話題作だ。幅広い読者から共感を呼び、「おっパン」の略称で親しまれている。   原作者がドラマの現場に「ありがたい」   「練馬ジム先生もドラマを本当に応援してくれていて、第4話では先生自身のX(旧Twitter)で、ご本人が、ドラマを見ながら“ここいいよね”とか語っている音声がアップされていたの。    原作者ご本人がドラマについて語ってくれるなんて、作品に対するものすごい愛情だなと思った!     もちろん、この作品のオファーをいただいたときに原作はすぐに読ませていただきました。     練馬ジム先生の作品に対する愛情を感じて、改めて 演じさせていただいているという気持ちになった。現場にも何回か応援しに来てくださって、本当にありがたかった」    現場には、原作漫画家の練馬ジム氏も何度か来てくれたという。     原作の人気もあり、ドラマの第1話の見逃し配信の再生回数は、東海テレビ制作のドラマ初回放送としては歴代1位を記録した。 時折真剣な眼差しで「俳優」について話す原田泰造/撮影・写真映像部・松永卓也    俳優としての話が聞きたい。そう伝えると、開口一番こう答えた。   「“役者さん”って言われても、おそれおおいやら恥ずかしいやらで仕方なく、“はい、はい”って顔してる(笑)。俳優って言われても、うーんなんかしっくりこないというか……」    俳優としてはNHK大河ドラマの出演歴も、主演作もある。かなり活躍していると思うのだが……。   職業欄に「ネプチューン」!?   「“芸人”って、肩書に書くのもおこがましい感じ。結構、職業欄に書くときって難しい。”ネプチューン”って書ければいいんだけどね! 自分で何をやっているかイマイチわかっていないんだよね」    インタビューを行った1月29日時点で、「おっパン」の撮影は全て終了しているという。撮影中に大変だったことを聞いてみた。   「結構、なかったかな……セリフを覚えるのだけが大変。一番大変」 撮影・写真映像部・松永卓也  謙遜しているのか、はたまた、はぐらかしているのか。撮影当時を回想するように微笑みながらこう答えた。   「セリフは僕に付いてくれている人と、ひたすら掛け合いで覚えていく。セリフを覚えているときは、不思議と睡眠時間が長く取れなくなっちゃう。セリフが頭に入っていると、夜中にトイレで起きちゃう感じに近いかも」    夜中にトイレ!? 強烈なたとえに現場にいたスタッフたちは大爆笑。自身も楽しげに笑い、こう続けた。   「よくわかんないでしょ!? 僕もよくわかんないんだけど(笑)、睡眠中に途中で起きる時間が多くなるの。寝ててもパッと目が覚めちゃう。    逆にドラマの撮影が終わると、だんだん睡眠時間が長くなるの。撮影中は“セリフを忘れてはいけない”って、緊張感があるのかもしれない。うん、たぶん、そうだと思います(笑)」 スタイリスト/上井大輔(demdem inc.)衣裳提供/株式会社エクスプローラーズトーキョー プレスルーム(03-6851-4604)撮影・写真映像部/松永卓也  個別のインタビューに答える機会はほとんどないという。だが、とにかく気さくで、会話のテンポが軽快で、人との距離の縮め方が絶妙だ。    底抜けに明るい印象だが、10代の頃から本人を突き動かしていたものがある。それは、「なんでもいいから、テレビに出たい」。この一心でオーディションに応募したり、自分自身でチャンスを引き寄せたりして、芸人になった。   「昔から本当にテレビに出たかった。そして、いまもこうしてテレビに出られているでしょ!? 本当にずっと楽しいのが続いている感じ。芸人を始めて、売れなくて食べれていないときでも、なんだかんだ楽しかった。苦労だと感じたことが無いと思う。本当にあっという間の芸能生活で、今、ここにいるみたいな感じだから」   松下由樹や富田靖子との共演に感激!    芸人であること、俳優であること以上に、とにかくテレビに出ることが楽しいのだという。   「ドラマでは五十嵐美穂子役の松下由樹さん、僕の妻・沖田美香役の富田靖子さんと共演していますが、松下由樹さんと富田靖子さんは『アイコ十六歳』に出ていたふたりでしょ!     僕は同世代だからそれをリアルタイムで見てきて知っているわけで、そんな人たちと共演できているなんてうれしいよね!    俳優として、お二人はとても柔軟なんだよね。“私が準備してきたのはこれだから、これ以上できません”というのは全くない。頑固じゃない。   “どんな感じでもやってみましょう”という人たちだから、もう~楽しくて! 撮影現場では、もちろん台本に沿って、監督さんと話し合って進めていくんだけど、その“枠”みたいなものの中でもとっても柔軟なの」    その口ぶりからは、ドラマを見ている視聴者サイドのような、ピュアな好奇心と感激が伝わってくる。いまが楽しくてたまらない、という感じだ。共演したい人はたくさんいる。 撮影・写真映像部・松永卓也   「小さいころからテレビっ子だったから、尊敬している俳優さんや共演したい俳優さんはいっぱいいますよ! 西田敏行さんとか武田鉄矢さんとかのドラマをずっと見ていたからね。その人たちにいま会えているのがすごいことだよね! 会えるだけじゃなくて共演できる機会もあるわけでしょ! なんていうのかな……夢の中にいる感じだよ」    テレビを見ていた子どものころ、憧れていた人たちに会えるだけでなく、肩を並べて仕事ができる。「夢の中にいる」と表現した。   素敵な俳優との新たな出会いも    自分以外の俳優の話になると、ひときわ熱っぽく語った。   「“こうやって演技するんだ!”とか、“これ、どうやって撮影したんだろう?”って、普段からドラマや映画を見ちゃう。沖田誠の会社の先輩役の俳優・渡辺哲さんも本当に素晴らしい役者さんでした! かっこよかったですよ! 立ち振る舞いはとても良い勉強をさせていただきました。    とにかく柔軟で、監督さんから指示が出ると“はい”って言って、まず演技してみるの。指示された演技は、渡辺さんの頭の中でその姿をイメージするのは難しいと思っていても、やってみようっていうスタンス。   指示されたことに、“やりますよ!”それが素敵だなと。60代になっても70代になっても自分もこういう気持ちの役者さんになれたらいいなと思いました」   「おっぱん」の沖田家で飼っている犬・カルロスの話も飛び出した。 撮影・写真映像部・松永卓也 「自分で自分のドラマを見ていて、カルロスとの撮影のときの雰囲気とか思い出すんだけど、かわいいよね~」と、突如メロメロに。   「僕が“ボールを捕ってきな”っていっても、捕りに行かないシーンでの、カルロスのあの演技! 見ていて本当にいじらしくなってしまう。“カット”の声がかかるまで、カルロスは僕の言うことを聞かないでツーンとして、じっと我慢しているわけでしょ。    よし、動かなかった! って、カルロスの名演技には、頑張ったな、かわいい~って、お菓子あげたくなるね!」   ドラマはまだまだ山が何個も    ドラマもそろそろ終盤だ。だが、「新キャラがいっぱい出てくる」という。何より、原田演じる“誠”だ。誠はどんな運命をたどるのか。原田本人は、誠に優しいまなざしを送る。   「僕が演じる“誠さん、頑張ってるな!”って、本当に思う。誠さんはまだまだ失敗するし、山が何個もある。もうこれで大丈夫だと思ったところにまた落とし穴がある感じです」    令和の堅物おやじ誠が、引きこもりの息子・翔(城桧吏)が好きそうなかわいいパスケースを見つけ、“翔に買って帰れば喜ぶのでは?”と考えるシーンがあった。しかし、店員に声を掛けられて逃げ出してしまう。    あの瞬間の誠は頑張っていましたね、と語りかけると「あ、第3話だ! まだまだ大変なの」と笑う。   “楽しい”は、人に伝わる。現場を、仕事を、とことん楽しむ原田泰造の情熱が、画面を通じて視聴者にも伝播しているのかもしれない。(AERAdot.編集部・太田裕子)   ◎原田泰造(はらだ・たいぞう)1970年3月24日生まれ。「ネプチューン」のメンバーとして活躍する一方、俳優として多数のドラマ・映画・舞台に出演。『編集王』(フジテレビ)でテレビドラマ初主演、2004年『ジャンプ』(竹下昌男監督)で映画初主演。主な出演作にドラマでは、NHK大河ドラマ『篤姫』『龍馬伝』『花燃ゆ』、NHK 連続テレビ小説『ごちそうさん』、NHK特集ドラマ『生理のおじさんとその娘』、『サ道』(テレビ東京)、『祈りのカルテ』(日本テレビ)、『はぐれ刑事三世』(テレビ朝日)、映画では『ミッドナイト・バス』(竹下昌男監督)、『スマホを落としただけなのに』(中田秀夫監督)など。1月スタートの主演ドラマ『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』が好調。
小児がんケアする親は“透明人間” 24時間の付き添い必要でも「疲れた」言えない事情
小児がんケアする親は“透明人間” 24時間の付き添い必要でも「疲れた」言えない事情 小児病棟では、隣のベッドの子が亡くなることもある。付き添い入院を経験した女性は「胸が締め付けられるような日々でした」(写真:gettyimages)    24時間の付き添い、オムツ交換、食事の世話──。小児がんの子どもを持つ親の生活は過酷極まりない。病院の人手不足により重要な戦力とみなされているからだ。親の負担はきょうだい児にも影響する。サポート体制の整備が急務だ。AERA 2024年2月19日号より。 *  *  *  大阪府で暮らすパート勤務の女性(48)の長男(12)は1歳半の時、小児がんと診断された。腫瘍を摘出するため、すぐに手術が必要と言われ、自宅から車で約1時間半のところにある病院に入院することになった。手続きの時、最初に言われたのは「24時間の付き添いが必要です」という言葉だったという。女性は、 「まだ幼いから一緒にいたいと思う一方で、付き添う以外の選択肢がない状況に『どうして?』と疑問に思う気持ちがありました。でも、病院は保育園ではないから、仕方ないのかな、とも思っていました」  と打ち明ける。会社員の夫(49)は出張が多く激務だったため、当時まだ3歳だった長女は、九州から呼び寄せた実母に預けた。 子ども用ベッドで眠る  そこからの日々は過酷を極めたという。病院では、長男の検査や点滴の見守り、オムツ交換、食事の世話などに追われ、気が休まる時間はほぼゼロ。自分の食事は、わずかな空き時間に院内のコンビニのおにぎりや持ち込んだカップラーメンを大急ぎで食べた。  簡易シャワーは一つしかなく、病院職員と兼用の予約制。他の保護者らも利用するため、なかなか空きがなく、ようやく取れた予約時間に長男の治療が入ってしまい、数日間シャワーを浴びないことも度々あったという。夜は、長男が眠る子ども用ベッドで丸くなって一緒に眠った。帰宅できるのは、夫と交代できる週末のわずかな時間だけだったという。女性は、 「長男の病状が心配だったことはもちろんですが、長女に思うように会えないことや、すでに70代だった母の負担も気になりました。私自身もよく眠れていないので、疲れきっていました」  と振り返る。 子どものベッドで一緒に寝る人は多い。こども家庭庁と厚生労働省は今年度、小児の入院医療機関を対象に実態調査に取り組み、対策を検討する予定だ(写真:NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」提供)    ちょうど長女の3年保育の幼稚園の入園試験の時期だったが、準備をする余裕が全くなく、希望していなかった2年保育の幼稚園に通わざるを得なくなったことも心にずしりとのしかかった。長男は1年半の入院を経て退院。現在は再発の不安を抱えながらも元気に学校に通っているが、女性はこう話す。 「当時を思い出すと今も涙が出ます。苦しくて悲しくて、誰も助けてくれないような孤独感が強かったですね」  国立がん研究センターの「がん統計」によると、15歳未満のがんである「小児がん」と診断される子どもは年間2千~2500人。「子ども約7500人に1人の割合」と聞くとピンとこないが、15歳未満人口が約105万人の神奈川県の場合、年間約140人という計算になる。決して、他人事でも珍しい病気でもなく、内訳は白血病が3割強で最も多く、次に脳腫瘍が約2割。リンパ腫、胚細胞腫瘍、神経芽腫と続く。現在は、医療技術の進歩により、7~8割が治癒できるようになっているという。 「疲れた」と言えない  だが、治癒のためには、半年から1年程度の非常に長い入院治療が必要になる。退院後も度々検査などでの通院と入院が必要だ。院内学級や病棟保育など、子どもに特化した療養支援体制が整っていたり、近くに家族向けの宿泊施設を完備している病院は全国を見渡しても、ごくわずか。多くの病院が、付き添う時間帯にバラつきはあるものの、親の付き添いを必須としていて、親の全面的なサポートが必要になるのが現状だ。 NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」では飲食店のお弁当を届ける事業も展開。この日は東京・銀座の「天ぷら やす田」が調理指導した(写真:NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」提供)    病児を育てる家族を支援するNPO法人「キープ・ママ・スマイリング」理事長の光原ゆきさん(50)は、 「医療が進み、小児がんは治る病気になる一方で、ケアをする親は“透明人間”のまま。子どもが第一なのはもちろんなので、親自身も『疲れた』と声をあげづらく、ましてやその余裕もない状況が何十年も続いています」  と指摘する。 「親は重要な戦力」  光原さんは14年、先天性疾患のあった次女を生後11カ月で亡くした経験がある。長女も出産直後から入院が必要だったため、2人の看病で計六つの病院を渡り歩き、ずっと付き添ってきた。 「どの病院でも、親は重要な戦力とみなされていました。看護師1人で10人近くの子どもたちをケアしているケースが多く、泣いていても放置されていたり、脱水症状が見逃されていたり。病院に対する怒りというよりは、スタッフがあまりに大変そうなので、親がサポートするのもやむなし、という感覚でした。その状況は今も、ほとんど変わっていません」(光原さん)  けれど、それでは子どもが治る前に家族が倒れてしまう。光原さんは「せめて美味しい食事を」と、14年に同NPOの前身となる団体を立ち上げると、国立成育医療研究センターに隣接する家族滞在施設で食事作りを始めたほか、聖路加国際病院などに手作りのお弁当を届けるサービスをスタートさせた。ある病院から「衛生面の不安があり、受け入れが難しい」と言われ、野菜不足を補う缶詰も独自開発した。付き添い生活に必要なレトルト食品やマスクなどの日用品の無償提供も続けている。  入院中は、きょうだいへのサポートも悩みの種だ。  神奈川県立こども医療センターで小児がん診療に携わる医療スタッフが運営する支援チームの「ちあふぁみ!」が、入院する子どもの家族にアンケートをしたところ、目立ったのは「病院の近くできょうだいを預かってくれる施設がほしい」「きょうだいと大学生ボランティアらが一緒に遊んでくれるとうれしい」といった意見だった。医師の栁町昌克さんは、 「小児がんは重篤な疾患であり、その入院生活は長期にわたり大変です。疲れ切ってベッドに突っ伏すお母さんやお父さんをたくさん見てきました。きょうだいのサポートまで手が回らないと悩む家族の皆さんに、何かできないかとずっと考えてきた」  と話す。 出費が家計を圧迫  20年8月、同じ想いを抱える同僚で医師の横須賀とも子さん、看護師の岡部卓也さんとともに「ちあふぁみ!」を立ち上げた。寄付を募り、きょうだい児への絵本のプレゼントを続けているほか、長期宿泊を余儀なくされている家族への補助金や検査の自費部分を援助したり。その活動は地元企業にも少しずつ伝わり、昨年は家具メーカー「オカムラ」(横浜市)から病室で使える勉強机とイスの提供を受けた。 「『家族の支援』という観点が広まっていくことで、長期入院する子どももその家族も笑顔になる。今後も現状を知ってもらうことが重要だと感じています」(横須賀さん)  子どもが小児がんをはじめとする長期入院が必要な病気になった時、親が直面する問題で無視できないのが、経済的な負担だ。  前出の「キープ・ママ・スマイリング」が22年11~12月に実施した「入院中の子ども(0~17歳)に付き添う家族の生活実態調査2022」(有効回答数3643人)によると、付き添い中に経済的な不安を感じている人は全体の7割にのぼった。「冷蔵庫や簡易ベッド、洗濯機。全て使うたびにそれぞれ数百円かかる」「病院への交通費だけで毎月5万円の負担」「親の食費がかさむ」──。積み重なっていく出費が家計をじわじわと圧迫していくのだ。  また、短期の入院であれば有休や看護休暇で対応できても、長期化した場合に仕事をやめざるをえなかった人は318人(8.7%)にのぼり、転職した人は43人(1.2%)いた。中には、生活保護を申請する人もいるという。子どもの入院により、家族全員の生活と描いていた未来が大きく変わってしまうのだ。 「仕事をやめるしかないのか、と思った時、不安はマックスに達し、絶望に追いやられるような感覚がありました。怖かったです」  と話すのは、大手広告会社・電通で働く田中浩章さん(47)だ。21年2月、当時4歳だった長男(7)が39度の高熱を出した後、鼻血が止まらなくなった。かかりつけ医で血液検査をしたところ、血小板が異常に少なくなっていて、2カ月過ぎても改善しない。総合病院での検査を経て、同年6月、大学病院で原因不明の再生不良性貧血と診断された。 病院を就業場所に  当時、田中さんは大阪勤務で家族とともに大阪で暮らしていたが、長男の入院先は小児の専門医がいる名古屋市内の病院に決めた。妻が付き添い、田中さんは病院の近くに家賃3万2千円のアパートを借りて、食事を届けたり、洗濯物を受け取ったりしながら、1年半に及んだ入院治療生活を支えたという。  コロナ禍でもあり、リモートワークが可能だったことに救われていたが、家族の入院を理由にした有給休暇は年間最大20日間。貯蓄もどんどん減っていく。意を決して、五十嵐博社長(当時)のメールアドレスに制度改革を訴える70秒の動画メッセージを送った。返信はすぐに届き、その日のうちに社内で制度改革の検討が始まったという。  今年1月、電通は配偶者・パートナーの3親等内相当の親族の介護や介助をするにあたり、就業場所に「病院やホスピス等」を指定できる画期的な制度を新設した。田中さんは言う。 「本当にありがたいことです。働く場所があるということは、親の心を支えている」  前出の光原さんは、電通の取り組みを、 「収入の多い少ないに関係なく、誰もが収入が『減る』ことに恐怖を感じます。働くことは、個人の重要なアイデンティティーでもあり、それが保障されることはとても重要なことです」  と評価し、こう話す。 「子どもが病気になった時、親が安心して向き合える社会になってほしい」  子どもが小児がんなどの長期入院が必要な病気になったら──。  誰もが当事者になる問題として、親を取り巻く現状を知り、サポート体制を整えていく時にきていることは間違いない。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2024年2月19日号
メーガンさんが執拗にキャサリン妃を攻撃をする理由 王室伝記作家が指摘した「ヘンリー王子の恋心」の行方
メーガンさんが執拗にキャサリン妃を攻撃をする理由 王室伝記作家が指摘した「ヘンリー王子の恋心」の行方 2月14日、カナダでのイベントに出席したメーガンさん(写真/アフロ)    王室伝記作家で、王室専門誌「マジェスティ」編集長を務めたイングリッド・スワード氏(76)が、このほど『私の母と私』を出版した。故エリザベス女王とチャールズ国王(75)の複雑な親子関係を描いて評判だ。この本の発売時、メディアからインタビューを受けたスワード氏が、「メーガンは、キャサリン妃に嫉妬している」と発言したことが注目を浴びている。  メーガンさん(42)は、キャサリン妃(42)を様々な場面で激しく批判した。メーガンさんの著書ではないが、単行本『自由を求めて』『スペア』『エンドゲーム』などに記された批判は、メーガンさんが情報提供したといわれている。  たとえば「妃は臆病者で王室のルールを外れることを怖がる。結局、カメラに向かって笑うしかできない」「私はヘンリー王子と出会ってすぐにプロポ―ズされたのに、妃は申し込まれるまで7、8年かかり、“ウェイティ・ケイティ(待ちぼうけのケイト)”とあだ名をつけられた」などの批判だ。  また、メーガンさんの代弁者といわれる作家オミド・スコビ―氏の『エンドゲーム』オランダ語版では、人種差別をしたとして、チャールズ国王とキャサリン妃の名前を明確な裏付けなしに挙げている。 「今日の晩ごはんは何?」  先のスワード氏によると、メーガンさんが執拗に妃への攻撃を続けるのは、強烈なジェラシーを覚えるから。それはヘンリー王子(39)が妃に恋心を抱いていると感じるためだという。  確かに義理の姉と義理の弟は仲が良い。妃が王子のジョークに大笑いする場面もたびたびみられた。王子は妃のそばを離れず、兄夫婦にくっついて行動した。王子が独身の時は兄夫婦の当時の住まいであるケンジントン宮殿内のアパートに行き、勝手に冷蔵庫を開けて「今日の晩ごはんは何?」と妃に尋ねるのが常だった。ウィリアム皇太子(41)も特に弟を拒否することもなく、ともに妃手作りの夕食を取ったこともあった。  さらに、メーガンさんが不満だったのは立場の軽さだった。 2020年3月、英連邦記念日 ウェストミンスターでの式典にて(写真/アフロ)    婚約中の2018年2月、王立財団のフォーラムで兄夫妻とヘンリ―王子とメーガンさんが今後の慈善活動について話した。この時、メーガンさんは“無名の”キャサリン妃よりもはるかに経験があると自信を持っていた。テレビ番組「SUITS/スーツ」の撮影でカナダに住んだ時、慈善団体から派遣されてルワンダやインドを訪れたからだ。チャリティーについて「(妃に)1つや2つ、教えてあげよう」と意気込んでさえいた。  しかし、メーガンさんの出番はなかった。培ってきた経験を披露できなかったのだ。  彼女はヘンリー王子を促して歴史ある王立財団から離れ、自分たちだけのチャリティーを立ち上げた。  当時、住まいはキャサリン妃の暮らすケンジントン宮殿のアパートの隣を提供されたが「狭い」と断り、ウィンザー城敷地内のフロッグモア・コテージに移った。キャサリン妃と協働するチャリティーから離れ、住まいも距離を取り、まもなく王室から離脱した。 結婚前と後での「違い」  一方、繰り返しメーガンさんが攻撃しても、キャサリン妃の人気は落ちなかった。「メーガンは、キャサリン妃のスタイル、実家などすべてにライバル意識を持っているようだ」「信じられないほどの対抗心」などの声が上がっている。  キャサリン妃は、2021年のフィリップ殿下の葬儀にヘンリー王子が渡英した際、兄弟の仲を取り持とうと試みた。また「いとこ同士は、将来を思えば仲が良い方がよい」として、アーチー王子(4)とリリベット王女(2)に誕生日プレゼントを贈った。しかし、何も実らなかった。  かつて妃は、ヘンリー王子に「なぜ私たちを裏切ったの」と尋ねた。けれど王子から何の返事もなかったという。ヘンリー王子の結婚前と後とのあまりの違いに、妃は戸惑いと悲しみを隠せない。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※AERAオンライン限定記事
雅子さま優美な金箔の着物と愛子さま「ふんわり」リボンのおもてなし 振袖ではなく洋装が選ばれた理由とは
雅子さま優美な金箔の着物と愛子さま「ふんわり」リボンのおもてなし 振袖ではなく洋装が選ばれた理由とは ケニア大統領夫妻との午餐に臨む愛子さま。後ろにつけられた「ふんわり」リボンのお帽子がよくお似合い=2月9日、皇居・宮殿    皇后雅子さまが、着物をお召しになる機会が増えてきた。9日にあったケニア大統領夫妻との会見と午餐では、お召しになっていた優美な友禅染の訪問着が、大統領夫人の淡いレースのドレスと優しく調和していた。愛子さまも淡い色の装いだったが、こちらは洋装だった。海外の賓客らを接遇する場面では、どんな「ドレスコード」があるのだろうか。 *   *   *  ケニア大統領夫妻との会見と午餐に際して雅子さまがお召しだったのは、柔らかな雰囲気の友禅染。末広がりで繁栄を表す扇の文様、扇面(せんめん)には吉祥文様の桐や笹、そして神の使いとも言われる鷺が優美に描かれていた。  令和に入り両陛下は、海外からの賓客を接遇する場で、「和」のおもてなしをする機会を増やしている。これまでフランス料理のコースであった午餐(昼食会)にも、和食や日本酒、グラスも江戸切子を用いるなど、令和流の色が見えてきた。  雅子さまが和装をお召しの機会が増えているのも、そのひとつだろう。   会見と午餐を終え、ケニア大統領夫妻を見送る両陛下。雅子さまは、淡い色の訪問着に吉祥柄を金箔であしらった友禅染の訪問着をお召し=2月、皇居・宮殿    昭和の時代から皇室に着物をつくり、納めてきた「染の聚楽」代表の高橋泰三さんは、天皇陛下とともに主催者である雅子さまは指輪などのアクセサリーをつけず、着物が引き立つような着こなしをされていると話す。 「訪問着には、金箔が華美過ぎず上品にあしらわれています。松に吉祥柄を金箔でかさね、有職文様の菱格子の柄に用いた金箔が、柔らかな印象を与えています」  雅子さまは、帯にも松の文様をお選びだ。白地に松菱を縦に織り上げた袋帯だという。  極寒の雪のなかでも瑞々しい緑をみせる松は、生命力や長寿の象徴。寒い季節に、アフリカから来日した大統領夫妻への祝福のメッセージでもあり、本格始動する令和皇室を表すような印象だ。     お客さまとの話題に花が咲く着物  皇室ではこれまでも、海外からの賓客やゲストを女性皇族が和服でもてなしてきた。  春と秋に開催される園遊会は、国内の著名人らのほかに、日本に駐在する大使などを接遇する意味もあり、女性皇族は洋装と和装を交互に取り入れている。  晩餐会も、正礼装のティアラとドレスではなく、着物で出席することもある。午餐でも和服の機会が増えている。 ウズベキスタンの大統領(中央左)との午餐では、雅子さまや紀子さま、眞子さんと佳子さまら女性皇族は華やかな着物で臨んだ=2019年12月、宮殿    2019年に来日したウズベキスタン大統領夫妻を招いた午餐では、皇后雅子さまと秋篠宮妃の紀子さま、長女の小室眞子さん、次女の佳子さまが着物姿で出席している。  宮中で侍従として務めた人物は、こう話す。 「女性皇族方が着物をお召しですと、お客さまとの話題に花も咲きますし、なによりゲストが喜ばれます」   ドレスコードは皇后が調整  先日のケニア大統領夫妻との午餐では、愛子さまの振袖姿での出席が期待されたが、淡い色のセットアップと後ろにふんわりとデザインされたリボン飾りが愛らしい帽子を着用していた。  なぜ愛子さまは、振袖ではなかったのだろうか。 「体調を崩していた秋篠宮妃殿下が出席を控え、急遽、愛子内親王殿下が出席というあわただしい午餐デビューとなったため、ひとつには準備をする時間がなかったと思われます」(前出の元侍従を務めた人物)  公式の場で女性皇族が集まる場合、ドレスコードは皇后が調整する。令和の時代から皇室を良く知る人物によれば、平成の時代は皇后であった美智子さまが和装か洋装か、もしくはドレスの色などを調整して各宮家に伝えていたという。 「令和に入ってからは、皇后雅子さまのご体調もありますし、また両陛下主催の行事が多く、雅子さまが決定なさることも増えたため、ドレスコードも以前よりは緩やかになっているようです。今回も皇后さまは着物、愛子さまは洋装でしたが、皇后さまがよろしければ特に問題はありません」   【こちらも話題】 愛子さま昼食会デビューの堂々たる品格 天皇陛下が明かしていた高校一年生からの研鑽 https://dot.asahi.com/articles/-/213857     ケニア大統領夫妻を招いての午餐。愛子さまの淡い洋装は、大統領夫人のレースのドレスとも柔らかに調和している=2月、皇居・宮殿    前出の元侍従も、急遽の出席のために準備の時間がほぼないなか、愛子さまが着物をお召しになるのは負担が大きかったのでは、と見る。  先の泰三さんは、和装での食事についてこう話す。 「愛子さまはまだ大学生でいらっしゃるため、着物をお召しの機会はそうありません。慣れない着物で、ゲストに会話などで気を配りながら、ご自身でもお食事をなさるのは、すこしばかり大変かもしれません。洋服の感覚で召し上がると袖を汚しやすいものです。特に、振袖で椅子にお座りになるときは汚れが付かないようお袖を膝の上に置くなど、扱いが大切になります」   雅子さまが接遇の場で着物を品よくお召しなのも、晩餐会や午餐、園遊会や公務での和服の経験があってこそだろう。  愛子さまが公式の場に姿を見せる機会は、これから増えてきそうだ。和服の正礼装となる愛子さまの振袖姿は、ゲストの心をあたたかく和ませてくれるにちがいない。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/213758
事務所独立「広末涼子」恩人への“不義理”で批判殺到 海外志向強く“パートナー”と移住の現実味
事務所独立「広末涼子」恩人への“不義理”で批判殺到 海外志向強く“パートナー”と移住の現実味 広末涼子    女優・広末涼子(43)の事務所独立が大きな話題となっている。  昨年6月に人気シェフの鳥羽周作氏(45)とのW不倫を報じられ、無期限活動休止処分を受けて謹慎していた広末。この処分をめぐって事務所サイドと対立しているとも報じられていたが、16日、約26年間所属していた所属事務所「フラーム」を退社し、自身が代表を務める個人事務所「株式会社R.H」を設立し芸能活動を再開することを発表した。  広末は同日に開設した「株式会社R.H」の公式サイトで「昨年の私事の問題では多くのご心配及びご迷惑をおかけしたことを改めて心よりお詫び申し上げます」と謝罪。そのうえで、「今後も引き続き俳優業に邁進(まいしん)し、お芝居と真摯(しんし)に向き合っていきたいと考えております」とコメントした。  同社の公式インスタグラムではスタジオで撮影する写真とともに「よろしくお願いします」と投稿するなど復帰に向けて意欲をみせている。  この動きについて、さる芸能事務所のマネジャーはこう話す。 「かねて広末さんと『フラーム』との間での不協和音があるとは漏れ伝わっていました。それでも、『フラーム』の社長は広末さんが10代のころから二人三脚でともに歩んできた勝手知ったる仲で、若いころから自由奔放な広末さんをずっと支え続けて来た恩人でもあります。以前、広末さんはイケメン俳優との不倫岩盤浴デート疑惑を週刊誌に報じられましたが、その後もドラマやCMなどで変わらぬ活躍が続けられたのは所属事務所の強力なバックアップがあってのこと。今回の件では広末さんも一度は無期限活動休止処分を受け入れていましたし、さすがに独立はないだろうという見方も多かっただけに驚きました」 広末涼子   弁護士がコメントを出した理由  実際、世間の反応もお世辞にも芳しいものとは言えない。SNSでは「謹慎処分中の独立というのはあまりにもイメージが悪すぎる」「本当に反省しているならこういう行動には出ないよなあ」「若い頃からずっと事務所がスキャンダルの尻拭いしていたみたいだし、仕事のオファーは来るのかな」など厳しい意見も目立つ。  その背景には、幾度もの不倫騒動や古巣に対する不義理ともとれる独立に加えて、出演CMの放送取り止めなどの損害賠償金の支払い負担を拒否しているといった一部報道の影響もあるようだ。  そうした中、広末の代理人弁護士は同日夜にコメントを発表。 「本日、広末涼子氏から別途ご報告させていただいた通り、同氏は、芸能事務所フラームと話し合いを行った結果、双方合意の上、同事務所を退所いたしました。この点に関して、一部週刊誌においては、広末涼子氏が芸能事務所フラームに対し損害賠償の分担を拒否している、芸能事務所フラームが広末涼子氏に対してカウンセリングの受診を勧めている等の報道がなされていますが、このような事実は一切ございません」と報道を否定した。  独立に際して、広末側も世間が抱くネガティブなイメージの払拭に務めているようだが、前出の芸能事務所のマネジャーは極めて懐疑的だ。 「損害賠償の分担に関する言い分は世間に伝わったとしても、『お騒がせ女優』というう印象は払拭されるどころか、かえって強まっていると思います。トラブルメーカーのイメージからギャラの良いCMの仕事はもちろん、民放キー局のテレビドラマなどのオファーも当分は期待できません」 金髪になった鳥羽周作氏(撮影/上田耕司)   もともと海外への関心が高い  となると、気になるのは“パートナー”との未来だろう。  鳥羽氏は、昨年11月に長年連れ添った妻との離婚が成立したとされ、今年元旦には年内に広末と再婚する予定との報道も出た。さらに、その鳥羽氏が以前から海外を拠点にした活動にも意欲をみせていたことから、2人は再婚後に家族とともに海外に移住するのではないかといった見方もある。 「可能性は低くはないと思います。鳥羽さんだけでなく、広末さんも海外への関心はもともと強いようで、2015年に日本人女優として初めて『ハワイ国際映画祭キャリア功労賞』を受賞した際には、現地で行われた授賞式に駆けつけて喜びをあらわにしていました。長男は海外に留学していますが、それも広末さんの提案だったそうです。正直、日本での現状を考えると、海外の方が女優活動はうまくいくかもしれません」(前出のマネジャー)  荒波の中で新たな船出を迎えた広末。かつての国民的アイドルの帆先はどこに向かっているのだろうか。 (立花茂)
ウィーログは「世界一温かい地図」 車いすユーザーの世界を広げる織田友理子
ウィーログは「世界一温かい地図」 車いすユーザーの世界を広げる織田友理子 難病が進行し首より下は動かせなくなったが、今も全国各地を飛び回り海外渡航もこなす(撮影/篠塚ようこ)    一般社団法人「WheeLog」代表理事、織田友理子。難病の遠位型ミオパチーを患う織田友理子。22歳で診断され、現在は首から下が自分の意思では動かせない。その織田は、バリアフリーマップアプリ「ウィーログ」を立ち上げ、講演も、海外での活動もこなす。驚くほど行動的だ。それは、自分と同じような障害者が少しでも幸せに暮らせる世界にしたいから。常に行動に移し、制度に風穴を開ける。 *  *  *  リビングのテーブルには化粧用パレットがズラリと並べられている。夫は陶器のような肌をした妻の顔にファンデーションをのせると、慣れた手つきでアイシャドーを塗り、眉を描いた。夫に手鏡を見せられた妻は満足げな笑みを浮かべるも「やっぱりマスカラも塗ってほしい」とリクエスト。だが夫は「いやだよ、塗るのが怖い」と嫌がった。  遠位型ミオパチー患者の織田友理子(おだゆりこ・43)が仕事に向かう前、夫・洋一(43)と毎日こんなやりとりを繰り返している。洋一は妻の化粧が終わると、髪をブラッシングし、へアスタイルを整えた。そして何げなく顔に付いた一本の髪の毛を払う。  難病の遠位型ミオパチーは、体幹から遠い部位の手足から全身の筋肉が低下していく進行性の筋疾患。22歳で診断された織田は病状が進み、現在は首から下が自分の意思では動かせない。そのため、化粧や着替えは洋一がこなすが、化粧の仕方は動画を見ながら覚えたという。  織田の車いすの正面にあるテーブルには重装備されたパソコンが設置されている。画面のキーボードに目をやりながら織田が言う。 「視線入力ができるようになってから、また社会と強くつながれた気がします。以前は夫に打ってもらっていましたが、自分の意思でインターネットを利用しメールをやりとりできるのは、やはり行動範囲が広がると思います」  視線入力が必要な身になったとはいえ、驚くほど行動的だ。バリアフリーマップアプリ「WheeLog!」(ウィーログ)や遠位型ミオパチー患者会(PADM)の代表を務めるだけでなく、国内外のイベントや講演も数多くこなす。また新たな活動計画を次々に発案し、それを実践しようとする。 織田のそばに夫・洋一がぴたりと寄り添う。洋一は友理子のケアは自分が完璧にやると考えていたが、最近はテクノロジーやヘルパーの力を借りた方が友理子の行動が広がることが分かった(撮影/篠塚ようこ)   大学時代に転びやすくなる 検査で難病と診断される  そんな織田の行動にストップをかけるのが洋一だ。何でもやりたがる妻に「それはやる意味があるの?」とただす。無理は仕方がないが、無理し過ぎないように注意を払う必要があるからだ。だが織田は、それが腹立たしいと洋一を睨(にら)む。 「私は何でもすぐやりたいタイプなので、洋一さんが頭を冷やせと。でも冷静になって再考すると頷(うなず)いてくれる。結果的に思考がアップデートされることにもなり、それがなんか悔しい」  織田が情熱を注ぐウィーログは昨年末、外務省が主催する「ジャパンSDGsアワード」の内閣総理大臣賞に選ばれた。この賞はSDGs事業関連で、最も実績を残した組織・個人に与えられるもので、「コミュニティ活動を通じて情報収集・発信を行い、世界中でリアルタイムにバリアフリー情報を共有できるシステムは、国際社会でのロールモデルとなり得る」と評価された。  ウィーログは、車いすで「行けた」という情報を発信することで、誰かの「行きたい」を手助けするアプリ。車いすユーザーの外出はハードルが高いが、それでも車いすで行けたレストラン、観光地、あるいは駅のエレベーターの場所などそれぞれ気が付いた情報を地図に投稿。2017年5月にスタートさせたこのアプリは今や10万以上ダウンロードされ、10言語に対応していることから、62カ国の人が利用している。  当初は各地の車いすユーザーが街歩きイベントを行いながら、道路の段差や凸凹のある箇所、バリアフリートイレの箇所などを投稿していたが、現在は車いすユーザーの視線に立って施設をチェックする健常者の投稿が7割を超える。多様性を重んじる自治体や企業が、社員研修の一環でこの地図アプリを使い始めたことも一因だ。織田は、ウィーログは「世界一温かい地図」とほほ笑む。 「車いすユーザーも健常者も関係なく、それぞれが誰かの便利を想像し投稿している。アプリの中には人の優しさ、思いやりがぎっしり詰まっているんです」  1980年、大学教授の父・大内宏友、母・広美の3人姉妹の長女として生まれた。子どものころからリーダーシップに優れ、中学時代は管弦楽部で日本一、高校時代は筝曲部で全国2位。興味のあることにはトコトン熱中したが、運動が少し苦手だった。 (撮影/篠塚ようこ)    大学の頃から、ふとしたはずみに転ぶようになる。だが自分がそそっかしいからだと考えていた。4年になったころ、動きがおかしいと気づいた父が病院に行くように勧めた。大学病院で検査入院すると「遠位型ミオパチー空胞型(GNEミオパチー)」と診断された。潜性遺伝によるもので、日本には患者が400人ほどのウルトラオーファン(超希少性疾病)だった。 「治療法がないこの病気は、やがて寝たきりになると言われていましたが、徐々に進行するので診断当時はまだ体が自由に動いた。だから、気力で治してやるぐらいに考えていました」  公認会計士を目指し大学と並行して専門学校に通う織田に、周りは「そんなに頑張らなくても」と心配した。そのたびに唇を噛(か)む。頑張ることに喜びを感じる織田にとって、頑張るなは自己否定されたも同然だった。  だが2年後の24歳の時、医師に子どもを産むなら少しでも早くと告げられた。大学入学当時から付き合い始めた洋一とは常に一緒だった。学部は違うものの、織田の授業が終われば洋一が教室の出口で待ち、階段の昇降をサポート。専門学校にも一緒に通った。友人の牧野和子(43)は、二人に入り込む隙が無かったと笑う。 「私たちは女性7人の仲良しグループで、行動は常に一緒でした。でも友理子の隣にはなぜかいつも洋一がいた」 新薬の開発を求めて 製薬会社を回り打診  医師に子どもの話をされたとき、洋一と別れる決心をした。希少疾病に侵されている以上、洋一の未来を奪ってはいけないと考えたからだ。病気について微細に報告したにもかかわらず、洋一からの返事は「じゃあ、結婚するなら今だね」。  洋一は、病気は別れる理由にはならないと語る。むしろ病気が判明した頃から、友理子の手足になるのは自分と決めていた。法科大学院に学びながらも、妻の行動を支えることで自分の人生が豊かになると考えた。 「妻は僕にないものをたくさん持っている。新たなことを考え、それらを有機的に組み立て、最高のものを生み出そうとする。一緒にいるだけでワクワクしますね」  二人はすぐに結婚。1年後に男の子が誕生した。出産前に切迫流産の危険があり、4カ月入院。その間に筋力が衰え、出産後は車いすを使用せざるを得なくなった。 (撮影/篠塚ようこ)    車いすユーザーになると、途端に行動範囲が狭められる現実を知り、社会から取り残されている焦燥感に駆られた。しかも自分の病気はどのように進行するのか、福祉機器はどんなものがあるのか、福祉制度を利用するにはどのような手続きが必要なのか。そんな疑問を解消するため、同じ病気の人たちと情報交換したいと患者の会・PADMの発足に関わった。診断時、医師には「生きている間に同じ病気の人に会うことはない」と言われたが、ネットで発信すると数十人が集まった。  その直後、医学雑誌で遠位型ミオパチーに対するシアル酸補充療法の有効性がマウス実験で示されたという記事を目にした。未来に光が射した気がした。  発表したのは国立精神・神経医療研究センターの医師・西野一三(60)らのグループ。西野は「治験に持ち込むには患者の協力が必要」と告げた。  患者の会は、即座に行動に移す。遠位型ミオパチーを国の指定難病にしてもらうことと新薬の開発を求め、全国で署名活動を開始。織田らは治療費も助成されていなかった。  各地の街角に立ち、ビラを配り賛同者を募った。徐々に協力者が増え、6年間で204万人を超える署名を集め厚生労働省に提出。織田はその間、関係官庁に幾度となく陳情に出向いた。そしてついに2015年1月、指定難病に指定され、新薬が開発されれば、医療費助成を受けることが可能になった。  一方、新薬の開発にこぎつけるまでにはさらに困難を極めた。製薬会社を回り新薬の開発を打診するもののことごとく拒否された。製薬会社にすれば創薬には莫大(ばくだい)なコストと時間がかかり、400人未満の患者が対象では採算が取れないからだ。 そんな時、経済誌で希少疾病薬品を得意とするノーベルファーマの記事を目にした。一縷(いちる)の望みを懸け訪問。当時対応した同社社長の塩村仁(69)が述懐する。 「話し方は穏やかですが、何か迫力のようなものがあった。ただ、医薬品の実用化には莫大な資金が必要なので、助成金があればできると言ったところ、彼女は本当に国の助成金を取り付けてきたんです。そこまでされたら開発しないわけにはいきません」 東京都主催のファッションコンクールの審査員を務め、渋谷でのトークセッションに篠原ともえと登壇。身体障害者になってもおしゃれは諦めない。日々の小さな諦めは、人生の大きな諦めにつながるとの思いからだ。華奢な指先にはネイルアートも(撮影/篠塚ようこ)   デンマーク留学を経験し 福祉の援助を獲得する人に  織田は関係者らと関係省庁を訪ね、助成を取り付けることに成功、東北大学による治験が開始された。織田は症状が進んでいるため治験には参加できなかったが、10年以上の歳月をかけ新薬の開発に成功。23年7月、厚労省に申請し今は審査中だ。 「人間が作った制度は人間が変えられる」と信じ、国の制度に風穴を開けてきたが、その間、様々な批判が織田に届いた。 「希少疾患患者に薬は贅沢(ぜいたく)品」「税金の無駄遣い」。  それでも怯(ひる)まなかった。自分の後ろには何千人、何万人の障害者や難病患者が控えていると考えると、後ずさりするわけにはいかなかった。 「まだ、国の指定を受けていない難病は7千以上あると言われています。薬を待ち望んでいるすべての患者の手元に一日でも早く届くよう、私たちの活動がモデルケースになればいいな、と」  織田が、活動的な理由はもう一つあった。30歳の時にダスキン愛の輪基金でデンマークに留学し、現地の障害者の活動を知り触発されたことだ。3歳の息子と夫を日本に残すのは忍びなかったが、家族が背中を押した。ヘルパーとして同行した妹の金井節子(40)は、デンマーク留学で姉は変わったと証言する。 「姉は福祉の援助を受ける人から、獲得する人になった。当事者意識が強く芽生えたと思います」  福祉先進国のデンマークでは車いすユーザーが当たり前のように街に出て活動し、障害者一人一人に福祉車が国から貸与されていた。特に影響を受けたのが、当時の筋ジストロフィー協会会長の言動だった。彼は織田にこう告げた。 「要望を出したり交渉をするときに、ユーモアを交えること。面白い団体だと思ってもらうと、耳を傾けてくれる人が増える」  同情で支援を受けるのではなく、いかに健常者を巻き込みながら「面白そう」と思ってもらえる活動が出来るか。今もこの考えが心根にある。 食事の支援が必要な人のために開発された「とろみ食」の試食会兼クリスマスパーティー。多くの親子連れが参加し、摂食・嚥下障害などの学びを深めた。サンタ姿の伊藤史人や吉藤オリィも参加(撮影/篠塚ようこ)    14年、バリアフリー情報のYouTubeチャンネル「車椅子ウォーカー」を立ち上げる。だが自分の体験だけの情報発信は、課題解決のインパクトに欠けた。双方向で情報を共有できるようなプラットフォームはないか。考え付いたのが「ウィーログ」の構想だった。  15年、この着想を米グーグル主催の社会貢献アイデアコンテストに応募するとグランプリを受賞、賞金5千万円を手にした。賞金をアプリ開発資金に投入。島根大学助教の伊藤史人(48)やロボット研究者の吉藤オリィ(36)らの手を借り、17年にウィーログをリリース。今や車いすユーザーの必携アプリになっている。  ウィーログは織田の人生も広げた。15年にケニアで開催された米国大統領(当時)のバラク・オバマが主宰する国際会議に招待されプレゼン。19年には国連が後援する世界最大のICTイベント「ワールドサミットアワード」でグローバルチャンピオンを受賞。21年のドバイ万博にはグローバルイノベーターとして招聘(しょうへい)された。  また、神経筋疾患分野の国際的組織「TREAT-NMD」(本部・イギリス)のアジア代表委員を務めたこともあり、マサチューセッツ工科大学からは社会課題を解決するメンバーに選ばれるなど、活動分野は世界にも広がった。訪問した国は20カ国以上。バリアフリーの大切さやSDGsの推進を訴えている。 社会の弱者のために 命がけでも社会を変えたい  織田は頭で考えたものを次々に実行し、自分の体験を通し社会に見過ごされていることを発信、国や企業、あるいは研究者らを動かし課題をクリアしてきた。 「人間が作った制度は、人間が変えられる。さまざまな制度はその時代の最適解として作られますが、社会や環境が変化すると必ずずれが起きる。そのずれを感知し、是正していくことは人間の叡智(えいち)だし、社会の進化だと思います」  とはいえ、社会の制度や仕組みを変えることは一筋縄ではいかない。おかしいと考えても、制度となれば引き下がってしまうのが人情だ。だが織田は、にこやかに、軽やかに、一歩前に出る。 日々の会議はオンラインで。高2の息子に「お母さんたちの活動以外で人の役に立つにはどんな活動があるの?」と聞かれたと、頬が緩む。学校行事には進んで参加(撮影/篠塚ようこ)    体こそ不自由だが、頭の回転が速く、魂ははちきれんばかりに元気。織田に関わった人たちはいつしか協力者になり、サポート側に回っている。視線入力ソフトを開発し、ウィーログの基盤も作った伊藤もそんな一人だ。 「障害者ができないことは、テクノロジーでカバーできることもある。織田さんは身を挺(てい)し次々と課題を突き付けてくるので、答えを出すのに必死です。しかも提出期限が短い」  それでもサポートするのは、織田には身体障害者や社会の弱者のために命を削ってでも社会を変えたいという信念があるからだ、と伊藤はいう。  そんな織田の綽名(あだな)は「篤姫」ならぬ「圧姫」。姫のような可愛らしい表情をしつつ、無言で人を動かす力があるからだ。元ホテルマンの松下雄一(41)と理学療法士の杉山葵(31)は、織田の「障害者に対する社会の壁を壊す」という強い信念に心を動かされ、ウィーログの事務局スタッフに転職。二人が口を揃(そろ)える。 「計画を実現しようとする力は半端ない。ただ即断即決なので、僕らは付いていくのがやっと」  一方でアプリの保守・運営、進化には年間1千万円以上のランニングコストが必要とされる。これまでクラウドファンディングや寄付で賄ってきたが、企業との協働を探り自ら営業。持続可能なアプリに成長させなければ、バリアフリーな社会の実現は難しいという危機感があるからだ。 「寝たきりになってもおかしくない」身体状況ながら身を粉にして働く織田だが、代表を務めるウィーログや患者の会は無給だ。 「仕事をしている間はヘルパーを利用できない現行の福祉制度があるからです。障害が重くなればなるほど、仕事が出来なくなっていく仕組み。手助けがなければ何もできない今の私にはヘルパーさんは命綱。だからどんなに仕事をしてもお金をいただくことはできない。障害者から仕事を奪いかねないこの制度も、いつか変えたいですね」  日本の車いす利用者は現在200万人と言われる。人はいずれ老いる。障害者に無関心でいることは、自分の将来に無関心でいるのと同じこと。  織田は私たちの未来の水先案内人でもある。 (文中敬称略)(文・吉井妙子) ※AERA 2024年2月19日号
愛子さまの美しかった午餐デビューは努力と気配りの賜物 「料理は優美に素早く」召し上がり、食事のペース配分も
愛子さまの美しかった午餐デビューは努力と気配りの賜物 「料理は優美に素早く」召し上がり、食事のペース配分も ケニアのルト大統領夫妻との午餐で、投資貿易産業大臣らを笑顔で接遇する愛子さま=2月9日、皇居・宮殿「連翠」    天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが、9日に「デビュー」した、皇居・宮殿での昼食会(午餐)。愛子さまが食事を伴う公式行事に出席されるのは初めてで、招かれたケニアの大統領夫妻らにスワヒリ語であいさつし、ケニアの大臣とはほぼ通訳を交えずに英語で会話した。あたたかな雰囲気に包まれた昼食会となったが、あくまでおもてなしの場。宮中に長く勤めた人物によれば、宮中での食事会は皇室の方々にとって、気配りと努力の連続であるという。 *   *   * 「ハバリ(ごきげんよう)」  午餐の席上、両陛下から紹介された愛子さまは、隣に座ったケニアの投資貿易産業大臣らに向かって笑顔を向け、スワヒリ語であいさつ。その後は英語で会話を続けたという。  初々しい愛子さまのデビューは、両陛下と愛子さまがご一家そろってのアットホームな場となった。   ケニアの大統領夫妻との午餐で、笑顔で接遇する皇后雅子さまと愛子さま方。通訳者の姿は目立たず、両陛下や愛子さまは直に英語で「おもてなし」=2月9日、皇居・宮殿「連翠」    今回は、愛子さまが通訳を交えずに接遇したことにも注目が集まった。  宮内庁で儀式を統括する式部職を長く経験した人物は、こう話す。 「もちろん晩餐会や午餐といった接遇の前に天皇、皇后両陛下や陪席される皇族方は、大使などを通じて相手国に関する知識や社会情勢について学ばれます。賓客に気持ちよく過ごしていただけるように、話題を準備なさることも接遇では大切です」  晩餐会や午餐といった場で、通訳者は出席者のうしろに椅子を置いて待機する。天皇陛下と元首や賓客との会見では、公式の面談ということもあって通訳を交えることも多い。一方で、晩餐会や午餐に陪席する皇族方は、英語の場合は通訳がいないことも珍しくないという。 「通訳を交えると時間がかかる分、会話を交わせる時間が半分になってしまいます。そのため通訳を交えず接遇なさることもあり、お客様も喜ばれています」    愛子さまの席は、ケニアの大統領と投資貿易産業大臣の間。ルト大統領からは「ぜひケニアに来てください」と言葉をかけられるなど、心和む空気が続いたようだ。 「いまの両陛下は留学を経験なさって英語が堪能でおられますし、愛子さまも熱心に語学を学ばれているとのことですから、素晴らしいおもてなしになったのではないでしょうか」     【こちらも話題】 愛子さま昼食会デビューの堂々たる品格 天皇陛下が明かしていた高校一年生からの研鑽 https://dot.asahi.com/articles/-/213857     ウズベキスタンの大統領夫妻との午餐に臨む両陛下と皇族方。出席者の後ろには、通訳者が控えている=2019年12月20日、皇居・宮殿「連翠」   料理を素早く召し上がる理由  晩餐会や午餐に出席する天皇陛下や皇族方は、会話以外にも注意を向けるべきものがあるという。たとえば食事もそのひとつ。  元外交官のひとりは、晩餐会に出席した皇太子時代の陛下についてこう振り返る。 「優雅でありながらも、料理を素早く召し上がる皇太子さまのご様子が印象的でした。というのもこうした場では、料理を口に運び、つぎに会話――といった風に食事と会話を目まぐるしく繰り返します。皇太子さまのお食事が手早かったのは、両隣の席の方とどのタイミングでも会話ができるように気を配っておられるのだと感じました」   上皇ご夫妻への新年のあいさつのため、仙洞御所に入る愛子さま。愛子さまの頭上でティアラが輝く晩餐会の日が待ち遠しい=1月1日、東京都内    ケニアの大統領夫妻を招いた今回の午餐では、西洋料理のコースが提供された。テーブルには江戸切子のグラスが用意され、アルコールが飲めない大統領に配慮して、りんごジュースで乾杯が行われた。両陛下や愛子さまには、日本酒やワインが用意された。   ゲストより早すぎず遅すぎず  こうした場では、食事のペースも重要だ。特に両陛下が主催する食事会では、メインゲストとその配偶者の食事のペースが大切になる。接遇する皇室側は、ゲストより早過ぎないよう、また遅くならないよう気を配る必要があるという。 宮中晩餐会で、オランダ外相と歓談する雅子さま。ゲストに楽しいと感じてもらえる会話に加え、食事のペース配分にも注意を払うという=2014年10月、皇居・宮殿「豊明殿」    前出の式部職を経験した人物も、賓客を接遇する天皇陛下や皇族方についてこう話す。 「お客さまに楽しんでいただけるような会話をなさると同時に、お客さまのペースに合わせて召し上がる。さらに、日本側の陪席者の様子にも気を配られる必要がありますから、大変なことだと思います」  愛子さまの午餐デビューは、通訳なしでの英語での会話や、天皇ご一家での「おもてなし」に注目が集まった。しかし、ゲストやスタッフの様子に気を配りながらの接遇など、外からは見えない努力がそこにはあるようだ。春からは就職と公務の両立に忙しくなる愛子さま。どうか負担のない形で、春風のような愛子さまの笑顔を見せてほしい。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/213758  
難病ALS患者の武藤将胤さんが父親に 「僕らならではの育児スタイルを生み出していきたい」
難病ALS患者の武藤将胤さんが父親に 「僕らならではの育児スタイルを生み出していきたい」 娘のゆあちゃんは、昨年11月に3150グラムで誕生。パパの膝の上がお気に入り。「娘は世界でいちばんの僕ら夫婦の宝物」(武藤さん)(撮影/写真映像部・和仁貢介)    難病のALS患者の武藤将胤さんと木綿子さん夫妻に待望の娘が誕生した。長年かけて武藤さんの訪問介護の24時間体制を整え、ようやく我が子を迎えた。AERA 2024年2月19日号より。 *  *  * 〈生まれてきた瞬間の産声は一生忘れない感動の音でした!〉  昨年11月、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の啓発団体「WITH ALS」代表理事でクリエイターの武藤将胤(まさたね)さん(37)は、父親になった喜びをXでこう発信した。  ALSの診断を受けて10年目。武藤夫妻は2015年に結婚した当初から「子どもを持ちたい!」と願い、周囲にも公言していた。武藤さんは、徐々に全身の筋肉が動かせなくなる難病を患っていようとも、諦めることはなかった。時間をかけて訪問介護の24時間体制を整えるなどして、妊活をスタート。不妊治療を始めて約半年で、待望の赤ちゃんを授かった。  昨年12月、記者が出産祝いで新居を訪ねると、妻の木綿子さん(40)は生後1カ月(現在3カ月)の娘のほわほわのほっぺを触りながら、感慨深げに言った。 「オギャーって出てきた瞬間にかわいすぎて、ちっちゃくてはかなくて、『あ、もうこれは私たちが守らなきゃ』って思ったんですよ」 話す内容は視線入力で  名前は「ゆあ」。武藤さんが掲げるメッセージ「NO LIMIT,YOUR LIFE」(あなたの人生に限界はない)の「YOUR」から着想した名前だという。 「『あなたならではの、オリジナリティーあふれる生き方を作ってほしい』という願いを込めています」(武藤さん)  武藤さんは病気のために声を失ったが、過去に録音した自身の声から作った音声での会話が可能だ。現在は、目の筋肉がわずかに動くのを利用して、視線入力システムでパソコンを操作し、話す内容を選択する。スピーカーから流れる声のトーンは「嬉しいモード」に設定。娘へのメロメロ度合いまで細やかに表現していた。隣に座る木綿子さんはこう話す。 「言葉の内容はまだわからないだろうけれど、パパの声はちゃんとわかっていると思う」  自分の声を基にした「合成音声」で発話ができる仕組みは、東芝デジタルソリューションズと共同開発して実現。それをオリィ研究所代表でロボットコミュニケーターの吉藤オリィさん(36)らが開発した、「視線」で入力できるソフトと連携させ実現した。 武藤さんの出演作、メディアパフォーマンスの「縛られたプロメテウス」(文化庁メディア芸術祭アート部門大賞受賞)は今年4月にスペインで公演予定(撮影/写真映像部・和仁貢介)    オリィさんとは、「盟友」と呼び合う仲。ゆあちゃん誕生のニュースを知るや、オリィさんは武藤さんにサプライズのプレゼントを贈った。それは、腕が動かない武藤さんの腕代わりになるロボットアーム。遠隔で操作する。武藤さんはゆあちゃんとアイコンタクトを取りながらこの「手」をゆっくり振ってあやしてみた。すると、ゆあちゃんもしっかり目を見ながら、武藤さんに手を振りかえしたという。 切れ目ない介護の体制  このロボットアーム、まだ開発途上で、武藤さんが指先スイッチで選択して、あらかじめ設定したモーションを操作。今後は視線入力や、頭の中の「脳波」で即時に操れる仕組みも作ってみたいと武藤さんは期待している。  振り返れば、ALSと診断されたときは、子どもがいる未来を思い描く余裕は全くなかったという。そもそも、頭の中を大きく占めていたのは、「自分はどれだけ生きられるのか」という不安と、「なぜ、若くして自分がこの病気に?」という理不尽さだった。当時すでに付き合っていた木綿子さんと、将来についてとことん話し合った。病気をどう受け止めるか。ともに悩みぬき、結婚を決めた。  病は進行し、武藤さんは徐々に腕が上がらず、歩けなくなった。当初、武藤さんは役所からの認可が下りる介護の支援時間が限られ、働きながら介助を担っていた木綿子さんに負荷がかかりすぎ、木綿子さんが家を飛び出したこともあったという。  その後、切れ目のない介護の提供体制を整えるため、行政と粘り強く交渉を続け、19年には訪問介護の会社も立ち上げた。 「何よりも妻が子どもを見守るだけで済むように、長い年月をかけて24時間の介護体制を確立してきましたよ」(武藤さん) 1年半かけて家探し  以前、住んでいた自宅では、子育てするには部屋が足りなかった。妊活の条件として、木綿子さんは「引っ越し」を挙げた。いずれエステティシャンの仕事に復帰することも見越して、保育園や学校への通いやすさ、勤務先へのアクセスなども考慮に入れた。1年半かけて家を探し、子育てに集中できる環境を整えられたことで、妊活にも踏み切れたという。 「おなかにいる時から、まーくん(武藤さん)は、ゆあちゃんの曲を作っていた。自分でデザインしたTシャツを、楽曲ジャケットにも使うみたいですよ。それに、私がつわりの時から我慢していた大好物のお寿司を注文してくれたこともあった。自分ができることを通じて、子育てに関わろうとしてくれているのが、何より嬉しい」  とはいえ、木綿子さんは、子どもを持つことに、不安がないわけではなかったという。 娘をイメージしてTシャツの柄をデザインした武藤さん。「視線入力で一本一本の線を描く作業は、めちゃくちゃ細かい作業でしたね」(撮影/写真映像部・和仁貢介)   「生まれてくるまでは、元気に生まれてくるかな?とか、子育て大丈夫かなとか、心配になりますよね。でも、夫が整えてくれた万全な介護体制があるし、生まれてきたら心配はなくなりました」  武藤さん自身も、子育てへの参画は、意識的に行っている。 「僕の場合は、体の制約もあり一般的なやり方を真似することができない。娘の直接のお世話は妻にお願いすることになる。だから買い物など僕にできることは率先してやるようにしていますよ」 限界つくらない生き方  制約をポジティブに生かす試みとしては、「テクノロジーをフル活用して、僕らならではの育児スタイルを生み出していきたい」と抱負を語った。 「世間的にはALSは、ネガティブなイメージが多い。自分にも不安はある。でも、未来を信じて、夢を言葉にすることからだと思っています。信じられるようになるまで、なんとか一つひとつ行動していくんですよね」(武藤さん)  娘の誕生以来、武藤さんが発信するSNSには、お祝いのメッセージが続々と届いている。「勇気をもらいました」などのメッセージに、木綿子さんはただただ恐縮してしまうと話す。 「生まれてきただけなのにね。祝福されてありがたい。娘はまあ、優しい子にはなるんじゃないですか。それか、思いっきり自分の道を行くか。だって、こんなに好きなことをやってるお父さんが脇にいるんだから(笑)」 「ゆあ」の名に込めたオリジナリティーという意味では、武藤さんこそ、独創性のある人生を歩んできた代表格と言えるだろう。「限界をつくらない生き方」を地でいく挑戦を続けてきた。目の動きで音楽や映像を操るDJツールも開発。DJのライブ活動にも精を出す。そのパフォーマンスで東京2020パラリンピック開会式にも出演。武藤さん夫婦の人生はドキュメンタリー映画「NO LIMIT,YOUR LIFE ノー リミット,ユア ライフ」に。現在、全国各地の上映館に挨拶回りをしている。 「『へえー、そんなにもポジティブに考えていたんだ!』ってこちらが驚くぐらい、まーくんはいつもポジティブなことしか言わないし、どんどん行動していくんです。私も引きずられています(笑)。こういう生き方もあるんだよっていうのを、みなさんに見せていけたらいいと思いますね」(木綿子さん) (ジャーナリスト・古川雅子) ※AERA 2024年2月19日号
〈朝ドラいよいよ20週〉「ブギウギ」絶好調の趣里 親の七光りとは無縁「まだまだこんなもんじゃない!」のド根性
〈朝ドラいよいよ20週〉「ブギウギ」絶好調の趣里 親の七光りとは無縁「まだまだこんなもんじゃない!」のド根性 「ブギウギ」でヒロインを務める趣里  朝ドラ「ブギウギ」もいよいよ20週を迎える。ヒロインを演じる趣里さんとはどんな人なのか。(この記事は「AERA dot.」が1月16日に配信した記事を再編集したものです。肩書年齢等は当時) *  *  *  大ヒットとなっているNHK朝ドラ「ブギウギ」で、ヒロインを務めている趣里(33)は今最も注目されている俳優だろう。「東京ブギウギ」などの名曲で知られる戦後の大スター・笠置シヅ子をモデルにした本作。趣里は歌手・福来スズ子役を演じているが、表情豊かな演技や心に響く歌声に、SNS上では「本当に歌もうまいし、演技も関西弁も完璧やし、愛嬌あるし、大好きになりました」「スズ子は趣里ちゃん以外考えられない」など、称賛の声が集まっている。    2471人が応募したヒロインオーディションによって、朝ドラの主役の座をつかんだ趣里。父親は俳優の水谷豊、母親は元キャンディーズの伊藤蘭という有名人を両親に持つサラブレッドだが、親の七光りなどはみじんも感じさせない実力を持っていることが証明された。33歳にして本格ブレークを果たしたと言って良いだろう。 「2011年に俳優デビューを果たした趣里ですが、数年前からはバイプレーヤーとして注目されていました。2017年に放送された『リバース』では、不倫を続ける夫に激怒し携帯に電話をかけ続ける妻役を演じ、ゾッとする狂気的な演技が話題を集めました。18年放送の『ブラックペアン』では、主人公の傲慢(ごうまん)な天才外科医が信頼を寄せるクールで有能な看護師役を好演。ほとんどセリフがないにもかかわらず、強い存在感を放っていました。最近では22年放送の『石子と羽男-そんなコトで訴えます?』で、わずか1話だけの出演ながら、誤認逮捕された妹を思う盲目の姉という難役を演じ、反響を呼びました」(テレビ情報誌の編集者) 【こちらも話題】 「蒼井優」が朝ドラで“モンスター俳優”の本領発揮 ママになっても変わらない「孤高」の演技力 https://dot.asahi.com/articles/-/203836 「ブギウギ」NHK総合の初回放送は毎週月曜~土曜の8:00から。(C)NHK   水谷豊は芸能界入りに反対  これまで数々の作品で脇役を好演してきた経験が、「ブギウギ」での演技に安定感を与えているのかもしれない。  そもそも、趣里は演技に対してかなりストイックなようだ。「ボクらの時代」(フジテレビ系、22年10月16日放送)に親交が深い劇作家の根本宗子、俳優の前田敦子と出演した際は、2人から「ずっと仕事のことを考えている」と明かされていました。趣里いわく「まだまだこんなもんじゃない!」と思ってしまい、少し肩の力を抜いても良いとはわかっているが、とりあえず台本をそばに置き、頭のどこかでずっと考えているという。  そうした素養は父である水谷豊の影響もあるのだろうか。前出の編集者はこんなエピソードを明かす。 「水谷豊さんは娘の芸能界入りには反対だったそうです。芸能界は天国と地獄を味わうことになるため、子どものころから『こっちに来ちゃダメだ』と言い聞かせていたと過去にインタビューで話していました。しかし趣里は大学時代に母の舞台を見に行き、俳優に興味を抱くようになったようです。それを言えば反対されると思っていたからか、水谷さんには言わず、母にだけその思いを明かしていたとか。一方、今は自分の世界を持っている趣里に対して、水谷さんは一切何も言わないそうです。趣里が主演映画『生きてるだけで、愛。』でヌードシーンに挑んだ際、水谷が激怒したという報道もありましたが、水谷は昨年『週刊文春』のインタビューで、それを否定しています」(同) 趣里   金八先生の脇役を勝ち取った  朝ドラという大舞台に立つまでになった趣里だが、これまで決して順風満帆だったわけではない。民放ドラマ制作スタッフはこう述べる。 「10代のころはバレリーナを目指して海外留学をしていたのですが、大ケガをして断念。医師から昔のようには踊れないかもしれないと言われ、『全てを失った気持ちになり絶望感でいっぱいでした』と、以前インタビューで振り返っていました。バレエを辞めてから、自分が何者なのか分からなくなっていた時期があり、コンプレックスを抱えていたと別のインタビューで明かしていたことも。こうした挫折に加え、周囲からは親の七光りと勘違いされたこともあり、若いころは自分に自信が持てなかったようです。大学に進学し、アルバイトや就職活動をしながら演技学校に通い、ハードなレッスンを続けた結果、2011年に初めて『3年B組金八先生ファイナル』のオーディションで役を勝ち取ったのです」 「ブギウギ」で相手役を演じている水上恒司は趣里について「俺も頑張ろう!この人にエネルギーを注ぎ込むぞ!」と、ポジティブな気持ちにさせてくれるとインタビューで話している(「ホミニス」23年12月2日配信)。苦しい時期も乗り越え、強いメンタルと自信が身についたからこそ、30歳を超えて大きく開花したのだろう。 趣里   デビュー後も小劇場に出演  芸能評論家の三杉武氏は、趣里についてこう述べる 「『ブギウギ』では豊かな表情や独特の目力、自然な演技でヒロインを好演していますが、過去にもさまざまな作品で存在感を放ってきました。中でも、躁鬱病により感情のコントロールに苦しむ主人公を熱演した18年公開の映画『生きてるだけで、愛。』は日本アカデミー賞の新人俳優賞をはじめ、数多くの映画賞を受賞するなど高い評価を受けました。4歳から始め、英国に留学までしたクラシックバレエの道を断念した後、女優を目指すわけですが、『3年B組金八先生ファイナル』でデビュー後も小劇場の舞台公演に出演したり、海外の短期のワークショップに参加したりするなど、演技力を向上させるためには努力を惜しまない。大物を両親に持つ2世とは思えないこうした地道な努力やクラシックバレエでの経験が今の活躍を支えているのでしょう」  演技力だけでなく人を惹きつける華や明るさも持ち合わせる趣里。今後、俳優としてどこまで伸びるか楽しみだ。 (丸山ひろし)
〈朝ドラいよいよ20週〉「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた
〈朝ドラいよいよ20週〉「ブギウギ」のラスボス? いつの間にか「小雪」が圧倒的な“貫禄”女優になっていた 日本中小企業大賞2023に出席したときの小雪(写真:Pasya/アフロ)  朝ドラ「ブギウギ」もいよいよ20週を迎える。さまざまな俳優たちが出演、ドラマを盛り上げてきた。(この記事は「AERA dot.」が2023年12月25日に配信した記事を再編集したものです。肩書年齢等は当時) *  *  *  現在放送中のNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の第12週から出演している女優の小雪(47)。主人公・スズ子が思いをはせる愛助の母親かつ、日本有数の興行会社である村山興業の社長という役どころで、12月15日に放送された次週予告で初登場。これに対してSNSでは「小雪のラスボス感に震える」「これは怖い!」と反響を呼んだ。  1998年に放送されたドラマ「恋はあせらず」(フジテレビ系)で女優デビューし、パリ・コレクションにも参加するなど、モデルとしても活躍した小雪。かつては洗練されたクールビューティという印象が強かったが、ときを経て、朝ドラの予告での一瞬の出演でも話題になるほどの“貫禄っぷり”を見せつけた。 「小雪さんは2011年に俳優の松山ケンイチと結婚し、3児をもうけました。女優業に本格復帰したのは最近ですが、他の作品でも母親役を演じています。例えば、昨年11月に公開された12年ぶりの主演映画『桜色の風が咲く』では、9歳で失明し18歳で聴力を失った息子を支え続け自立させていく、たくましい母親役を好演しました。また、5月に配信され、相撲界を描いたNetflixシリーズ『サンクチュアリ -聖域-』では、相撲部屋の女将役で出演。しっかり者で美貌や柔らかさだけでなく、したたかさも兼ね備えたキャラを上手に演じていました」(テレビ情報誌の編集者)   【こちらも話題】 「ブギウギ」傑作朝ドラへの道の命運を握る?  “小夜劇場”が心配すぎる https://dot.asahi.com/articles/-/209132   小雪(写真:アフロ)   「子育てをして体格がよくなった」  最近はこうした人間的な重みを感じさせる役がハマっている印象だが、現在の私生活も影響しているのかもしれない。小雪は19年春ごろから自然環境の厳しい北の地にも住居を構えて、家族で2拠点生活を送っている。彼女が語ったエピソードからはたくましさがうかがえる。 「Precious.jp」(22年12月8日配信)では、田舎暮らしについて、自分たちが知らない生きる基本を自然はたくさん教えてくれると語っており、スーパーへの買い物は週に一度ぐらいで、畑で無農薬の野菜を作り、みそや漬物といった発酵食品なども作っているという。さらに、「もはや長靴しか履いてない。気付くと爪の中にも土が詰まっている暮らし」とも明かしていた。  また、「徹子の部屋」(テレビ朝日系、22年11月1日放送)では、「子育てをして体格が良くなったかな」と笑顔で話していた。田舎暮らしでの生活力が、力強い演技を生み出し、結果的にそれが貫禄につながっているのかもしれない。前出の編集者はこう語る。 「子育てへの向き合い方にも信念を感じます。強い体を作ってくれた自身の母の食事にならい、子どもたちの食事に日本の伝統的な食品を取り入れていると以前にインタビューで明かしていました。子どもたちには朝晩とみそ汁を出し、砂糖の代わりに甘酒を使った煮物や納豆など、発酵食品も毎食1品は入れているとか。また、子どもたちの体にお母さんの常在菌を入れて免疫力を高めてあげたいので、素手で5種類のみそも作っているそうです。一方、夫の松山は、小雪が自分の偏食を心配し、バランスのよい食事を作ってくれているとインタビューで語っていたことも。子どもだけではなく、8歳年下の夫の生活管理もしっかりやっている。小雪は一家にとって家長的な存在で、その雰囲気が貫禄も感じさせるようになったのでは」(同)   【こちらも話題】 松山ケンイチを覚醒させた妻「小雪」と「2拠点生活」 https://dot.asahi.com/articles/-/42478   独身時代の小雪(写真:Splash/AFLO、2008年)   私生活でもあまり怒らない  心境の変化も見逃せない。女性誌のインタビューでは、昔は女優や妻、母としてあるべき姿にとらわれていた時期があったが、自然に触れ、夜はスマホを見ない時間をつくる中で「幸せの価値観は自分で決めればいい」と思えたと明かしている(「美的GRAND」2021秋号)。自然の恵みを享受する生活の中で、生き方も働き方も自由でいいと思えるようになったという。 「3月に放送されたバラエティー番組に夫の松山が出演した際は、小雪について『あまり怒らないんです』と話していたこともあります。慌てず騒がない姿にも威厳というのは表れるもの。さらに小雪の場合、田舎でしっかりとたくましく生活を送っていることや、不自然に若作りをしないビジュアルも相まって、演じる役にも同世代女優にはない風格が出てきているのだと思います。まさに、『ブギウギ』の役どころはそうした一面が発揮され、ハマり役となる可能性は高いでしょう」(同)   【こちらも話題】 柳葉敏郎「ブギウギ」ダメ父親役で再注目 若い世代が知らない“武勇伝”だらけの過去 https://dot.asahi.com/articles/-/208532   スラっとした美脚は健在(写真:アフロ)   母になってから柔らかな雰囲気に  芸能評論家の三杉武氏は小雪についてこう述べる。。 「独身時代の小雪さんはクールで物静かな凛としたイメージもあり、そのカッコ良さやライフスタイルに憧れる同性ファンも多くいました。一方で、プロ意識の高さや裏表がない性格だったこともあり、取っつきにくい印象を持つ人もいたようです。夫の松山さんは結婚会見で、交際を申し込んだ際、『あなたみたいなひよっこに大丈夫なの? と言われた』と明かしていましたが、いかにもな発言だなと思ったものです。ただ、母になってからは取材現場でも、以前よりも柔らかな雰囲気を感じさせるようになった印象があります。もともと、独身時代から演技に対する評価は高く、海外や大きな舞台でも結果を出してきた方ですし、私生活や育児経験なども女優業にプラスに働いているのでしょう」  年を重ね、独自の存在感を放つようになった小雪が「ブギウギ」でどんな演技を見せてくれるのか楽しみだ。 (丸山ひろし)   【こちらも話題】 伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ https://dot.asahi.com/articles/-/205994  
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」
〈NHK大河「光る君へ」第6話二人の才女〉道長は年上女子の“お眼鏡にかなった”好男子 女性たちのサポートで押し上げられた「運命」 栄花物語図屏風(国立博物館所蔵品統合検索システム(https://post.dot.asahi.com/sys/articles/new?copy=211209)    永延元年(九八七)、藤原道長は二十二歳で宇多天皇の孫にあたる源雅信の娘倫子と結婚をしたが、この婚姻の成立には倫子の母の強い後押しがあった。またその翌年には、源高明の娘明子を第二夫人として迎え入れる。この仲立ちを積極的になしたのは道長の姉詮子だった。姉詮子は道長の関白(内覧)就任にも大きく関わっている。関幸彦の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、年上女性に応援される道長の人間性を紹介する(「AERA dot.」2024年1月15日に配信された記事の再掲載です)。 *  *  *    一般に道長以後の家系は「御堂流」と呼ばれる。その御堂流・道長以前、長子たる立場で家督を相続したケースは少なかった。「三平」の一人、忠平は基経の長子ではなかった。続く、師輔・兼家いずれも長子ではない。そして道長も同様だった。道長以前、その母たちの出自を見るとわかるのは、受領の娘が目立つことだ。当の道長の母、すなわち兼家の妻は時姫と通称された女子で、摂津守藤原中正の娘だった。  また、道長には同母兄の道隆・道兼とは別の異母兄道義・道綱もいた。道綱の母は有名な『蜻蛉日記』の作者であり、同様に受領の娘だった。道長以前でいえばルーツの冬嗣─良房─基経と伊尹・兼通・兼家三兄弟─道隆・道兼・道長の三兄弟と五代にわたって受領の娘を母とした(例外は時平・忠平兄弟及び実頼・師輔兄弟で、王女や大臣の娘などが母)。 【こちらも話題】 優雅で、女性にはマメで…光源氏は貴族の「あるべき姿」 虚構の『源氏物語』が伝える真実 https://dot.asahi.com/articles/-/210655  その点からすれば、受領の娘には摂関に繋がる上層公卿との婚姻をなす、機会が用意されたともいい得る。だが、道長以後、天皇との外戚関係の固定化にともない、婚姻圏は限定される傾向が見られる。  そのあたりは道長が迎えた二人の妻と、その両人に誕生した子女たちからも了解されるはずだ。 高松殿倫子の子女たち  嫡妻の源倫子から見ておこう。倫子との結婚は、永延元年(九八七)、道長二十二歳の頃だ。倫子の父雅信は当時左大臣で、宇多天皇の孫にあたる(宇多源氏)、プライドも高かった。道長は当時従三位左少将の駆け出し公卿の地位に過ぎなかった。そのため道長との結婚にさほど積極的ではなかったという。このあたりは『栄花物語』〈さまざまのよろこび〉にもくわしい。  倫子の母は「コノ君、タダナラズ見ユル君ナリ」(なかなかの人物です)と確信し、「ワレニ任セタマヘレカシ」(この話は私にお任せ下さい)と断言し、婚儀がなされたという。つまりは道長は倫子の母に強く信頼され、将来性を見込まれての結婚だった。父雅信の官歴へのこだわりに比べ、母の人物本位の立場が優先されたのだった。道長は兼家の五男の立場であり、強い出世欲にかられる性格でもなかったようで、そうした無欲さがある意味、好ましく映じたのかもしれない。 【こちらも話題】 紫式部が地獄に堕ちた?異色の能の内容とは 貴族の心をつかんだ『源氏物語』 https://dot.asahi.com/articles/-/210132  宇多源氏との血脈上の結合は、道長にとってもアドバンテージとなった。道長は女性を信頼させる気質があったのかもしれない。姉の詮子(東三条院)にも道長は好かれた。道長の第二夫人明子との婚姻の仲立ち役を積極的になしたのも、詮子だった。明子は安和の変で左遷された源高明の娘である。明子との結婚は、嫡妻・倫子を迎えた翌年のことだった。  詮子が、明子との縁を求める道長の兄たちを差し置き、道長へと嫁がせたのも、詮子なりの判断があったからだ。このあたりは永井路子氏の小説『この世をば』の描写の妙はなかなかだ。ともかく道長は女性、それも年上の立場からは、まさしく「貴族道」の風味を多分に有した、好男子と映じる魅力があったようだ。詮子による助力は明子との結婚ばかりではない。関白職の帰趨をめぐる伊周との争いにおいて、母の立場から一条天皇に強く迫り、道長の「内覧」への就任にもかかわった。  倫子・明子の二人の妻の縁のいずれもが、年上の女性たちの“お眼鏡”に適ったことが大きい。それほどに道長への信頼度が群を抜いていた。  話を第二夫人明子にもどすと、その父は醍醐源氏のエース源高明だった。高明は醍醐天皇の第十皇子で、故実書『西宮記』はその著として知られる。村上天皇皇子である為平親王を女婿とした。 【こちらも話題】 貴族政治の頂点に立った道長の対人スキルと、優雅さだけではない時代の風の“つかみ方” https://dot.asahi.com/articles/-/210659  この為平を冷泉の後継としようとしていたとの密告で、高明は大宰府へと配流される。娘の明子が父の不幸に遭遇したのは幼少の五・六歳の時期とされる。叔父の盛明親王に育てられたが、その後、東三条院詮子に迎えられた。  詮子は彼女を厚遇、結婚相手については、相応の人物を考えていたに相違ない。二十歳代前半の道長の二人の妻女(宇多源氏の倫子・醍醐源氏の明子)との出会いは、道長の血筋に異なる世界での婚姻圏を用意した。  嫡妻倫子との間に彰子・頼通・教通・妍子・威子・嬉子が、そして明子との間には頼宗・顕信・能信・長家・寛子・尊子が誕生する。 【こちらも話題】 紫式部の部屋を訪れたのは藤原道長? 『紫式部日記』に描かれた「やり取り」とは https://dot.asahi.com/articles/-/210585 ●関幸彦(せき・ゆきひこ) 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。近著に『その後の鎌倉 抗心の記憶』(山川出版社、2018年)、『敗者たちの中世争乱 年号から読み解く』(吉川弘文館、2020年)、『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』(中公新書、2021年)、『奥羽武士団』(吉川弘文館、2022年)などがある。
ソフィア・コッポラの美学を惜しげもなく反映 ロックスターの不安と絶望を浮き彫りにした「プリシラ」
ソフィア・コッポラの美学を惜しげもなく反映 ロックスターの不安と絶望を浮き彫りにした「プリシラ」  TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、連載「RADIO PAPA」。今回は映画監督、ソフィア・コッポラの新作「プリシラ」について。 結婚式のシーン 「プリシラ」©The Apartment S.r.l All Rights Reserved 2023 *  *  *  青春映画「リアリティ・バイツ」ではラジオ局志望の女子大生が「君は優秀だがセンスがない」と撥ねられる。感情のメディアのラジオはセンスがモノを言う。僕はそれを磨くため音楽を聴き、小説を読む。映画ならソフィア・コッポラ作品をおいて他はない。とにかくセンスが群を抜いている。「ロスト・イン・トランスレーション」公開で来日の折、表参道にあったラウンジ、モントークで一緒になった彼女のガーリーぶりと言ったら! 浴衣にコンバースという粋に舌を巻いた。  ソフィアの最新作「プリシラ」は、ケイリー・スピーニー演じる14歳の少女が時のスーパースター、エルビス・プレスリーと恋に落ちる。フィル・スペクターがプロデュースしたラモーンズ「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」で幕を開け、毛足の長い絨毯を色鮮やかなペディキュアの両足が歩くシーンに目がくらんだ。 行きつけのカフェで 「プリシラ」©The Apartment S.r.l All Rights Reserved 2023  主人公プリシラは何から何までエルビス色に染まっていく。陸軍の兵士で西ドイツに赴任していたエルビスは礼儀正しく彼女の両親に挨拶し、父は戸惑いながらも娘との交際を認める。  パンナムのファーストクラスでアメリカに渡り、メンフィスに身を寄せるプリシラ。エルビスの邸宅「グレースランド」は夢の国だった。クルマ、家具、アクセサリーは当時のアメリカの富を象徴し、取り巻きとのパーティはプールサイド、音楽はジュークボックスから。  ノスタルジックな意匠にはソフィア・コッポラの美学が惜しげもなく反映されているが、彼女の視線はそこだけにとどまらない。いつの間にかレンズは幼妻プリシラの冷静な視線と同化し、刹那を生きるロックスターの不安と絶望を浮き彫りにしていた。  プリシラは「不思議の国」に迷い込んだ「アリス」になり、菓子のような家に住むが、菓子はしょせん菓子。主食ではない。鼻にかかったエルビスの甘い声はケーキにまぶされた白砂糖のようで、その白さは次第にエルビスを破滅に導くドラッグの色を象徴しているかのように思えた。 エルビスの邸宅グレースランドのプールサイドにて 「プリシラ」©The Apartment S.r.l All Rights Reserved 2023  映画監督のジェーン・カンピオンは、プリシラが邸宅で味わった日々をこう評している。 「ソフィアはここで私たちに、それは夢であり、そしてとんでもなく悪夢なのだと教えてくれる」(「ヴァラエティ」2023年12月13日付)  60年代、70年代のゴージャスなファッションと風俗をこの映画は琥珀となり永遠の都市伝説として閉じこめるかのようだった。だが、琥珀からひとり抜け出し、滑稽なジャンプスーツを着てホテルのショーに出演し続ける夫に決別を告げる主人公の自立と新しい時代の到来こそソフィアが描きたかったところと見た。 (ベネチア国際映画祭最優秀女優賞受賞) (文・延江 浩) 「プリシラ」 4月12日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー 配給:ギャガ ©The Apartment S.r.l All Rights Reserved 2023 ※AERAオンライン限定記事
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで 数学者の石井志保子さん  科学ジャーナリストの高橋真理子さんが、女性科学者の仕事へのこだわりと熱意を引き出しながら人生に迫った人気連載「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」。その道を切り開いた人たちの言葉は多くの読者をひきつけた。中でも反響の大きかった回を大学受験シーズンで学問への関心が高まるいま、ベストセレクションとしてお届けする。今回は数学者の石井志保子さん。(この記事は、2023年1月17日に配信した内容の再掲です。年齢、肩書等は当時) *    *  * 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) ――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
愛子さま昼食会デビューの堂々たる品格 天皇陛下が明かしていた高校一年生からの研鑽
愛子さま昼食会デビューの堂々たる品格 天皇陛下が明かしていた高校一年生からの研鑽 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影  天皇、皇后両陛下は9日、来日したケニアのルト大統領夫妻と皇居・宮殿で会見し、昼食を共にされた。昼食会(午餐)には天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまが同席した。愛子さまが皇居で催された外国賓客との昼食会に出席したのは初めて。愛子さまが生まれた2001年から皇室番組の放送作家をするつげのり子氏は、「愛子さまの昼食会デビューは計り知れない存在意義があった」と話す。   *  *  *    会見を終えたお昼過ぎ、天皇陛下がエスコートし、ルト大統領夫妻を招き入れた。大統領夫人の後方に雅子さま、秋篠宮さま、愛子さまと続き、それぞれの席の前へ。    愛子さまは、席まで颯爽と歩かれ、左隣のルト大統領、右隣の投資貿易産業長官に会釈をして席に座った。さっそく投資貿易産業長官に英語で話しかけられると、微笑みながら会話を楽しんでいた。    昼食会デビューは、柔らかい雰囲気をまといながらも、品格のある堂々としたものだった。 ケニアのルト大統領夫妻との午餐に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま。柔らかな微笑みで堂々とした品格が=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影  愛子さまが生まれた2001年から皇室番組の放送作家をするつげのり子氏は、愛子さまが昼食会デビューの一報を聞いたときに、天皇陛下の言葉を思い出したという。   「平成30年、天皇陛下(当時、皇太子殿下)はお誕生日の記者会見で、東宮御所にいらした外国からの来賓の方と愛子さまが、英語でお話しになっていることを明かされています。その当時、愛子さまは学習院女子高等科一年生でした」    その時、天皇陛下(当時、皇太子殿下)は、愛子さまの近況を質問され、こんな話をしている。 【こちらも話題】 愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/213758   「愛子は,昨年4月に学習院女子高等科生として新たな一歩を踏み出しましたが、引き続き多くの友達と先生方に囲まれ、充実した高校生活を送っているようです。    そうした中で、関心もいろいろな方向に広がってきているようで、勉強面でもスポーツの面でも、また、社会に対しても,幅広く関心を示しています。    また、外国からのお客様が東宮御所にいらした時には、愛子も少しずつ英語でのお話に加わる機会が増えており、海外に対する関心も膨らませています」(皇太子殿下お誕生日に際し・平成30年より抜粋) 学習院女子高等科に入学した愛子さま。報道陣からの質問に笑顔を見せた。このころから外国からの来賓との交流をされていたようだ=東京都新宿区 2017年4月8日 代表撮影  つげ氏はこの言葉を聞いたとき「英語でお話しに加わっているとは、“さすが、天皇陛下と雅子さまのお子さまだな”と思いました」と振り返り、だからこそ、今回の昼食会デビューが堂々としたものだったのかと感心する。   「ご両親が外国からの来賓と交流なさるときには愛子さまも同席され、高校一年生のころから少しずつ経験を重ねてこられていたんだと思います。もちろん、今回のような公式の昼食会は初めてですが、高校時代にはイギリスに短期留学をされていたこともあるので、外国の方との交流は全く初めてではないわけです」    高校一年生からの積み重ねがあって、今回昼食会デビューとなったわけだ。まさに、研鑽の積み重ねの賜物。愛子さまが昼食会に出席した意図を、つげ氏はこう話す。   「愛子さまは、3月に学習院大学をご卒業後は日本赤十字社で嘱託職員として働きながら、公務もしていきます。    卒業後の進路が明確になったいま、天皇陛下も雅子さまも、国際親善というのは重要なテーマのひとつであると考えていらっしゃるので、各国の要人たちとお話をすることに慣れていってほしいとお考えなのではないでしょうか」 【こちらも話題】 やはり美しい愛子さまと佳子さまのティアラ 紀子さまの宝冠がひときわ大きくなった理由 https://dot.asahi.com/articles/-/211900 ケニアのルト大統領夫妻との午餐に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影  天皇陛下、雅子さま、そして愛子さまが揃うことで、公的な昼食会もプライベートな集まりに招かれたように感じ、リラックス効果を生む。しかも、天皇ご一家は、普段から3人お揃いでのお出ましも多く、仲もいいので自然と温かな気持ちにさせてくれるはずだ。    愛子さまがこうした場に同席するのには、「大いに意義がある」とつげ氏は話す。   「愛子さまが出席されることで、家族的なムードの中でおもてなしができると思います。愛子さまは天皇陛下と雅子さまの愛娘。そういう愛情に包まれたにこやかな方がいらっしゃると、おもてなしの場も和むと思います。    また、愛子さまが出席されることで、天皇陛下の父としての顔、雅子さまの母としての顔が見える瞬間もあるので、話題の幅が広がり、自然と会話が弾みます。    今回昼食会に来られたケニアのルト大統領は、7人のお子さんがいるそうですが、愛子さまがいらっしゃることで、自分の子どもたちのお話しをする機会もあったかもしれません。プライベートにまで話が広がって、まさに胸襟を開いて会話ができ、交流が深まるのではないかと想像できます。    家族的なおもてなしは、両国の友好関係が一層深まるきっかけになると思います。そういった理由から、今回のような国際親善という場において、愛子さまの存在は計り知れない意義があると思います」    大いに意義のあった今回の愛子さまの昼食会デビューだが、つげ氏は準備も家族で仲良く進めたのではないかと推察する。   「平成22年に天皇陛下(当時、皇太子さま)はガーナとケニアを訪問されています。そのときのお話を愛子さまにもされていると思います。    また、かつて雅子さまは国連大学のアフリカ関連のシンポジウムに参加されています。アフリカに関心がおありでした。    会話が多いご家族ですので、ケニアの話題だけでなくアフリカ全体の話などを愛子さまと3人でたくさんされて、準備を進められたのではないかと拝察されます」    今春から社会人として、さまざまな“デビュー”を経験されていくであろう愛子さま。その姿が楽しみでならない。(AERA dot.編集部・太田裕子) ◎つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
天龍さんが語る“女傑” ジャイアント馬場夫人VS.ジャンボ鶴田夫人の壮絶バトル!?
天龍さんが語る“女傑” ジャイアント馬場夫人VS.ジャンボ鶴田夫人の壮絶バトル!? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)   「環軸椎亜脱臼(かんじくつい・あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」と「敗血症性ショック」で長らく入院生活を続けていた天龍源一郎さん。今回は自宅療養中のところ、これまでに出会った印象的な女性たちについて語ってもらいました。   * * *    俺のお袋は18か19歳で嶋田家へ嫁に来たんだけど、もとは大きな農家の長女で、いいところのお嬢さんだった。嫁いできてからは畑仕事に一生懸命だった。うちの親父は専売公社で葉タバコの栽培の指導をしていて、福井県内だけでなく、石川県まで出向いて仕事をしていたんで、お袋は大切な労働力だったんだよ。    ちなみに、馳浩の実家も葉タバコ農家でうちの親父も指導に行っていたんだ。お袋は親父とそりゃまぁ壮絶なケンカをしていたね。お袋も長女で気が強いから言いたいことを言うし、親父は力任せに投げ飛ばしたり、ちゃぶ台をひっくり返したりして、お袋が耐えかねて裸足で外に逃げていくと、俺もよく一緒に探しに行ったもんだ。    夜空の星を見ながら「俺は絶対この家の子どもじゃない。こんな気性が荒い親から俺が生まれる訳がない」と思っていた。とにかく激しいケンカが絶えなかった二人だが、俺の後に二人の子どもが出来ているのは不思議だね(笑)。まあ、二人とも若かったってことだ。   お袋はよく働く人    お袋はよく働く人で、家の田畑の仕事はもちろん、俺が相撲に入ってからは町工場で働いてずいぶん稼いでいたようだ。福井は織物が盛んで、その工場も景気がよかったのかな。   「あんちゃん(俺のこと)の手が離れて自立できたし、妹と弟が大学に行くまでのお金が稼げてよかった」と言われたことがあるんだけど、親父の稼ぎはどこに行ったんだろう? その辺の真相はよく分からないけど、とにかくよく働いていた。    その一方で、料理はまずかった(笑)。味噌汁なんてお湯が沸いたら味噌を入れておしまい。俺も相撲に行って料理を覚えたから「お袋、味噌汁はちゃんとダシをとって、こうやって作るんだ」って教えても「そうかい」なんて言って、ちっともうまくならない。    実家から離れてみて「これじゃあ、親父も怒るなぁ」って同情したもんだ。カレーだって、俺はちゃんと肉が入っていたもんだと思い込んでいたけど、60歳過ぎてからその話を妹としたら「なに言ってるのよ! ちくわしか入ってなかったわよ!」だって(笑)。 【前回の記事はこちら】 天龍さんが語る“へそ曲がり” 相撲界のへそ曲がり、北尾光司に手を焼いた理由 https://dot.asahi.com/articles/-/212570 2023年2月の誕生日ショットはこちら!(天龍源一郎オフィシャルInstagramより)/■2024年2月19日 『STILL REVOLUTION』Vol.10■天龍源一郎&スタン・ハンセン『龍艦砲』が集う、スペシャルイベント開催決定!/日時:2024年3月11日(月)開場18:30/開始19:00◆大会情報、チケットのお求めは天龍プロジェクト各種SNS、HPなどでご確認いただけます。◆天龍プロジェクト公式Webショップhttps://www.tenryuproject.jp/    そんなお袋は子どもたちには優しくて、親父が付き合いで飲みに行ってるときは、母子で和やかに過ごしたことを覚えている。親父のバイクの音が聞こえると、それまで見ていた民放の番組をパッとNHKに替えてね。親父は民放を見ていると「くだらないものを見やがって!」と怒るんだ。    お袋の料理がまずいと言ったけど、お袋は朝起きたらご飯だけ炊いてすぐに畑に行って、昼はお茶づけで済ませて、すぐに畑に戻って、朝から晩まで働いていたんだからしょうがない。まだお袋のおっぱいを吸っていた頃、乳がうっすら葉タバコの匂いがしたのを覚えている。その記憶があるから、俺はタバコを吸わなかったのかもしれないな。お袋のことは聞くも涙、語るも涙だよ。    俺が田舎から出てきて、最初に出会った女性は二所ノ関部屋の女将さんだ。相撲の世界に来たら、どの部屋の女将さんも女優みたいにきれいだから、相撲取りはいい女房をもらうんだと思った。   女将さんに世話になったのは前借    その女将さんに一番世話になったことといえば、端紙(はがみ)だ。いわゆる、給料の前借で、下っ端の力士は十両に上がるまで給金も少ないし、住む場所と食事は用意されてるとはいえ、「いいわ、いいわ」で使っちゃうから、いつも金欠だ。相撲取りは、先輩から使う金ばかり教えられて余計なことばっかり覚える。錦糸町のクラブに行ったりね。あの頃は錦糸町が大繁華街で、その先の平井や小岩はちょっと田舎だったね。    金が無くなると女将さんのところに行って「端紙お願いします」って3~5万円くらい金を借りるんだよ。その借金は次の給金からしっかり引かれるし、女将さんがそれを忘れたことは一度たりともなかった。しっかりしてるよ(笑)。    給金から引いておかないと返せないだろうし、いついなくなるかもわからないからね。それに、当時は若い衆がたくさんいたから、毎月の端紙の額もバカにならなかっただろう。女将さんはお目付け役として、俺らの生活を見ているから、端紙して「ごっちゃんです」って言うと、なにげなく「使い過ぎてるんじゃない?」ってよく聞かれたもんだよ。    俺は女将さんの女学生時代の友達の伝手で入門したもんだから、女将さんにもずいぶんよくしてもらっていた。雑用をしていると親方と女将さんが食事している部屋に呼ばれて「嶋田君、これ食べなさい」っていろいろ食わせてくれたり。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“モテる”大横綱が口説いていた女性を落としたイケメン力士は? https://dot.asahi.com/articles/-/208567  ほかの力士にはしないようなことで、すごく目をかけてくれていたのがわかったよ。親方も俺に期待をしていろいろと稽古をつけてくれたし、親方から俺のことをいろいろ聞いていて、余計によくしてくれたんだと思う。    でも、そんな女将さんとの関係は、大麒麟が謀反を起こした「押尾川騒動」で一気に切れちゃった。女将さんに恨みはないし、本来なら俺を育ててくれた二所ノ関部屋に恩義があるはずなのに、部屋を継ぐときの金剛の言動で義憤に駆られてね。    最後に女将さんに部屋に残ってくれと言われたときも「女将さん、話はそれだけですか」ってずいぶんテンパったことを言ってしまったよ。今になってやっぱりお世話になった女将さんのもとに残るべきだったと思う。あの頃は自惚れて、意固地になって、正義感を出しちゃって、新選組みたいな気持ちだったなあ。    そうやって女将さんとの関係もぷっつり切れてしまったけど、プロレスに転向してなかなか芽が出ない時期に、シンガポールに遠征した帰りの飛行機でばったり女将さんに会ったんだ。「お久しぶりです」って声をかけたら「嶋田君、久しぶりね」って、なんのわだかまりもなく話をしてくれた。    どっちからどうということもなく3時間くらい話し込んだよ。「あのときは生意気なことを言ってすみませんでした」って謝ったら、女将さんも女将さんで「最後に偉そうなこと言って、あの頃はテンパっていたわよね」って(笑)。プロレスに転向して一年くらいの頃で、全然上手くいかなくて、身の程を知ったときだったから、以前と変わらず接してくれた女将さんにはずいぶん救われた思いがしたよ。   ジャイアント馬場さんの妻・元子さん    プロレスに転向してから出会ったすごい女性といえば、やっぱりジャイアント馬場さんの奥さん、元子さんだ。元子さんはいい評判も悪い評判もあるけど、ジャイアント馬場をジャイアント馬場たらしめんとするために、自分が矢面に立って守っていた人だ。    馬場さんを守るために最前線に立って憎まれ役をやっていた。俺も全日本プロレス時代は、元子さんに何か聞いたり、意見したりしても「そんなことはいいの。あなたたちは知らなくても」って感じで。天龍革命のときに本体のバスとは別で移動していたから「レンタカー代を会社で出してくれ」って頼んだら「レンタカーを借りるのに、チケットを何枚売らなきゃいけないと思ってるよ!」って突っぱねられて、頭に来たこともあった。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“入院生活” 突然死の宣告で重篤の中「三途の川」を見た体験とは? https://dot.asahi.com/articles/-/203249    でも、それを馬場さんが言うと馬場さんの格が落ちるから、いつもそういう憎まれ役になるのは元子さんだったんだよね。元子さんに言われる分には「この野郎」で終わるけど、馬場さんに言われたら、馬場さんの威厳も無くなってしまうからね。    どこでも「元子の野郎!」っていう文句は聞いていたけど、それも全部全日本プロレスの質を落とさず、馬場さんを高みに持っていくためにやっていたことで、社員でも生意気だと「あなた嫌いよ、明日から来なくていいわ」っていう調子だったからね。    だから、元子さんのことはハッキリして付き合いやすいという人も多かったよ。元子さんは嘘はつかないからね。元子さんはたったひとり、馬場さんにぴったり寄り添って、最後まで馬場さんだけの味方で、ほかの選手に近づいて、美味しいことや調子のいいことを言ったりはしなかった。   馬場さんにとっていい右腕    普通だったら、馬場さんや会社や選手の間に入って、裏で選手の根回しとかするもんだけど、絶対に馬場サイドからしか物を言わないし、根回しもしない人だった。馬場さんにとってはいい右腕だったわけだ。    かといって、ビジネスパートナーというわけでなく、周りに人がいないときは「馬場さん、馬場さん」と甘えるのが上手くて、見ている俺の脇から冷や汗が出るくらいの甘えぶりだったよ。馬場さんにしても信頼しているし、可愛くてしょうがない女性だったからね。    二人は大恋愛で結婚したし、元子さんは50歳になっても可愛らしさを持っていたし、少女みたいな一面があったからね。それが男社会のど真ん中にいて大変だったと思うし、誰に対しても平気で物を言う性格だったけど、うちの女房とはフラットに接してくれていたから馬が合ったのかな。一方で、ジャンボ鶴田の奥さんとはイマイチ合わなかった(笑)。    全日本の選手とその家族で海外に行ったとき、現地の空港スタッフに元子さんが英語で話しかけたら聞き返されて、そこで元スチュワーデスのジャンボの奥さんがペラペラの英語で話したら、元子さんの機嫌が悪くなったこともあったね。    それから、元子さんとうちの女房とジャンボの奥さんの3人でテレビに出るときに、元子さんとジャンボの奥さんの衣装の色がかぶって、俺の女房が間に挟まって大変だったこともあったよ。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“ファン” 馬場さんが「うるさい!」とジャンボ鶴田のファンにやきもち!?  https://dot.asahi.com/articles/-/41091    元子さんも負けん気が強いから、よくぶつかっていたよ。エネルギーがあるなって思っていたけど、それで腹が減ってキャピタルホテルでいい飯を食べていたんだろうね(笑)。馬場さんにとっては、アントニオ猪木さんの次に、いいパートナー、コンビだったんじゃないかな。    女子プロレスラーでいえば、長与千種が思い浮かぶね。クラッシュギャルズで一世を風靡していたとき、あるパーティーで俺とジャンボが彼女らを抱っこさせられたりもしたが、当時は「男のプロレスの真似しやがって」という感じで見ていたのが正直なところだ。    それが俺の引退前に6人タッグで一緒に試合をしたときに、タイミングとか間とか、プロレスというものをよく知っているなという印象を受けたんだ。プロレスは妙に節回しとかテンポが合うレスラーがいて、それは練習である程度まではいくけど、それ以上は教えてもできない。持って生まれたセンスであり、ムーブメントが時代とマッチするかしないかという要素もある。    長与のそのセンス、プロレス脳に唸って、試合後も娘相手に長与のことをずっと褒めたことを覚えている。   神取忍もがんばっていると思えた    その長与とタッグを組んだときに、対戦相手にいたのが神取忍だ。彼女は柔道日本一を背負って、よくあそこまでプロレスに同化できたなって感心するよ。そういう看板を背負ってるとプロレスというショービジネスに溶け込めないものだけど、長与の後でがんばっていると思えるのは神取だ。    なんてたって、参議院議員だからね。それでしっかり金を貯めて残したのも偉いね。秘書なんかは次の選挙のために金を使った方がいいとアドバイスしていたらしいけど、次の選挙に出るつもりもなく、しっかり金を残して、堅実で人生設計もしっかりしている。そういえばプロレスも堅実なスタイルだもんね。    女子プロレスラーで印象深いのがもう一人、アメリカのファビュラス・ムーラだ。俺が30歳くらいのときに、アメリカで50代の女子プロレスのチャンピオンだったのが彼女だ。    いまでこそ50歳の女子プロレスラーはいるけど、当時は珍しかったんだ。彼女をトップに20人くらいの女子選手を抱えていて、ムーラはプロモーター兼選手で、試合に女子選手を出したいときは彼女が一手に引き受けていたからね。    なかなかのやり手で、男のレスラーも気を遣っていたりするのを見て、この人は本物なんだと思ったよ。試合も見たけど、もう50代ということもあって、まあ、晩年の天龍みたいなもんだったけど。 【こちらも話題】 日本女子プロレスラー、本場アメリカのWWEで大人気なワケ https://dot.asahi.com/articles/-/102267    そして、最後はやっぱり、俺の人生に一番影響を与えたのは間違いなく女房のまき代だね。俺の三角だった性格を楕円形にしてくれた。人生を教えてくれた人だ。関西人だから話をうまく丸くまとめるのが上手だったよ。    その女房の血を受け継いだ娘も年々似てきて、まだちょっと角があるけど、もう少しすれば女房にそっくりになるよ。こんなジジイの面倒なんかみなくてもいいのに、ちゃんとやってくれているし、たまに衝突することもあるけど、俺のことを理解してくれているという意味でも、本当に感謝している。これもまき代の育て方の賜物だろうと思うよ。これが娘だからうまくやれるのかな? 息子だったらぶつかっていただろうなあ。   最後にあげる女性はやはり女房    振り返ると、今回挙げた人以外に、付き合ってきたおネエちゃんもふくめて、俺は女性でババを引いたことはないなあ。プロレスで名が売れてくるといろいろな女性も寄ってきたけど、そこはちゃんとしていたよ。うまく料理してこその一流だ!    男がちゃんと思いやりを持って付き合っていたら相手も理解してくれるし、結婚してんだったらその先、壁があるのは分かっているだろう。そこはお互い妥協をしなけりゃいけない。ねんごろになって、そこから二進も三進もいかなっくなりそうなとき、ちょうどプロレスのシリーズが始まったり、アメリカ遠征が始まったりで、連絡とれなくなったりして、うまい具合に収支がついたことも大きかったね(笑)。    まあ、女房よりもほかの誰かを選ぶことは絶対になかったよ。最近になって特に思うよ、あんないい女性をうまいこと引き当てたもんだってね。なんで結婚してくれたのか真相はわからないけど、女房はよく「初めてのデートで行ったふぐ屋で、ふぐの毒に当たって惚れちゃったのよ」と言っていたけどね(笑)。 (構成・高橋ダイスケ)
CMキング「ダンディ坂野」の意外な子育て 小学生の息子は全国模試3位の“秀才”
CMキング「ダンディ坂野」の意外な子育て 小学生の息子は全国模試3位の“秀才” ダンディ坂野さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    2000年代、「ゲッツ!」のフレーズで一世を風靡したお笑い芸人のダンディ坂野さん(57)。【前編】では、ブレーク当時の裏話やテレビから“消えた”時代、今は“氷河期”の真っただ中だという「一発屋芸人」の特殊事情などについて語ってもらった。【後編】では、CMが途切れない理由、あまり知られていない家庭生活や子育てについて聞いた。 ※【前編】<一発屋の星だった「ダンディ坂野」が“今は氷河期”と話す理由 「ブームはここ10年で終わりました」>より続く *  *  *  バラエティー番組で見る機会は減り、世間では「消えた」とまで言われていたダンディさんだが、その間もCMのオファーは絶えることがなかった。現在でも十数本のCMに出演しており、クライアント受けはすこぶる良いようだ。ブレークのきっかけを作ったのも、CMだった。 「初めて出演したCMが、マツモトキヨシさんのものだったんです。マツモトキヨシさんの色だから、それまでと違った黄色のスーツを着ました。それがトレードマークになったので、何が起きるかわからないですよね。広告からブレークするっていう珍しいお笑い芸人だなって思います」  なぜこんなにもCMオファーが途絶えないのか。その理由を尋ねると、「正直、わからないです」と笑いながらこう話す。 「記事のコメントとか見てると、『人柄がいいから』とか『真面目だから』とかって書いてあるんですけど、そんなことはなくて……。人柄も性格も普通なんですよ(笑)。ただ、『ゲッツ!』って短くてキャッチーだし、何かをゲットするとか前向きな感じですよね。そこが良かったのかもなって思います。ネガティブなフレーズだとCMでは使いづらいですよね。『春の〇〇キャンペーン実施中! チクショー!!』とか(笑)」 営業で大人気のダンディ坂野さん(事務所提供)   時間ができて幼稚園の送り迎えも  一方でテレビの露出は減り、週末は地方営業に飛び回る日々となった。本人のなかでは、ブレーク時と今はどちらが充実しているのだろうか。 「僕のなかでは、全盛とまではいかないですけど、今、結構いいなって思ってるんです。営業もがっつりやって、CMも頑張って。殺人的なスケジュールをこなしていたときって、『自分って何もできないな』って思うことが多かったんです。それまでお笑いライブに出て、『ゲッツ!』しかやってなかった30過ぎのおじさんがテレビに出てもやっぱり対応できないんですよ。それで、『うわぁ……』って頭抱えてましたね。今のほうがモチベーションを保って仕事に取り組めている気がします」  ブレークから数年すると仕事も落ち着き、余裕ができたことで、夫婦で過ごす時間も出てきたという。 「忙しかったときは、妻とどこにも行けなかったんです。当時、子どもはまだいなかったんですけど、せっかく一緒に暮らしていたのに、妻との時間がとれなくて寂しかったですね。ずっと仕事で家を空けてて、夜中に帰宅して、少し寝て、翌日、すぐに仕事に向かう生活でした。でも、ブレークから数年経つと休みも増えて、予定が立てやすくなりました。お正月にはハワイに1週間行ったりできたので、妻もとても喜んでいました。子どもが生まれてからは、幼稚園の送り迎えや育児もできてますし、妻も今の僕のスケジュールが一番いいみたいです」 営業の風景(事務所提供)   息子は塾で成績がトップクラス  ダンディさんは今後について、「とりあえず65歳になったときに、経済的に困ってなければいいかなと思っています」と話す。 「僕としては、好きで始めたお笑いで、ブレークもできて、もう既に目標を達成できたなって感覚があるんです。競争の激しい芸能界で、あるときからずっと食べてこられて、家族も養えて、都内にも住んで。もう望むものはないかなって思います。理想の人生を歩めているなって」  いま長女は中学生、長男は小学生。子どもたちは、将来、ダンディさんのようにお笑い芸人を目指す、とは言わないのだろうか。 「絶対に言わないです(笑)。上の娘は、絵とかソフト開発に興味があるみたいです。なので、将来はコンピューター系とか美術系の学校に行くとか考えるかもしれませんね。パソコンでイラスト描いているのをよく見ます。で、下の息子は、『僕はちょっと面白いYouTuberになりたい!』ってよくわからないこと言ってます(笑)。まあ、小学生なので。僕も同じくらいのときはピンク・レディーになりたい、とかって言ってましたから(笑)」  しかし、そんな長男は「もしかしたら秀才かもしれない」のだとか。 「全国模試で、1教科だけではあるんですけど、全国3位をとったことがあるんです。塾内でも成績がトップクラスみたいで。そんな感じに見えないんですけどね。帰ってきたら、帽子脱いで、ランドセル、バーンって置いて、すぐテレビ見ようとするから、いつも『勉強しなさい!』って妻に怒られて。そんな姿を見て、『こいつ、これで塾で1位か2位の成績なのか』って不思議に思ってます(笑)」 ダンディ坂野さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   マクドナルドのCMに出演できたワケ  これまで芸能界の浮沈を経験してきたダンディさんに、最後に「人生で一番記憶に残っている一日」を聞いた。 「忘れられない仕事はたくさんありますけど、マクドナルドのCMが決まったときですね。LINEで連絡が来たんですけど、めちゃくちゃうれしくて。実は僕、売れてなかった時代に10年間くらいマックでアルバイトしていたんです。妻ともそこで出会っていて。広報誌にも出たことがあります(笑)。バイト初日にもらう手帳に、『ファーストイン』っていって、初出勤の日付が書いてあるんですけど、その日が娘の誕生日と同じなんですよ。そんなことは忘れていたんですが、あるとき引き出しの整理をしていて偶然、それを目にして。マクドナルドとはものすごい縁があるんですよね」  1時間に及ぶ取材を終えたあと、一つ聞き忘れたことがあったと思い出した。席を立ち上がり、帰ろうとしていたダンディさんを呼び止め、聞いた。  マックのCMに起用された理由はなんだったんですか? ダンディさんは、振り向きこう答えた。 「キャッチコピーが、『チキンマックナゲッツ』だったんです」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●ダンディ坂野(だんでぃ・さかの)/1967年、石川県生まれ。田原俊彦に憧れて、93年に上京するが、お笑い芸人の道を志す。2002年、マツモトキヨシのCMに出演したことで、翌年から「ゲッツ!」のフレーズで大ブレーク。「新語・流行語大賞」にもノミネートされた。その後も、テレビやCM、営業などで活躍を続ける。また、昨年公開の映画「ミステリと言う勿れ」での演技が話題を集めた。
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感 屋外用の「インスタントハウス」。一人でも1時間で組み立てられる    能登半島地震で段ボール製の簡易住宅「インスタントハウス」が大活躍している。組み立ては15分、原価は約1万円で、屋根と扉、窓もついた小さな「家」だ。被災地の子供は「体育館におうちができた」と話しているという。インスタントハウスはどうやって生まれたのか。開発した名古屋工業大学の北川啓介教授に、フリーライターの川内イオさんが取材した――。 絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感  元日に起きた大地震の影響で、およそ600人の被災者が身を寄せる石川県輪島市の市立輪島中学校。雪が積もるその中庭に、不思議な形の建物がたたずんでいた。モンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居「ゲル」のようにも見えるし、卵の卵白を泡立てたメレンゲのようにも見える。 この建物は、「インスタントハウス」という。考案したのは、名古屋工業大で教授を務める建築家、北川啓介さん。1月2日から被災地で被災者支援にあたっている彼が建てたものだ。  インスタントハウスは、空気を送り込むと風船のように膨らむよう設計されたテントシートの内部に、断熱材として一般的に使用されている発泡ウレタンを直接吹き付けている。直径は5メートルあり、床面積は20平米、高さは4.3メートル。原価は15万円、北川さんひとりで施工しても、わずか1時間で完成する。  インスタントハウスに足を踏み入れた時、思わず「あっ」と声をあげてしまった。外はダウンジャケットが欠かせない気温なのに、内部は小型のファンヒーター一台で、上着を着ていると汗ばむほどに暖かい。発泡ウレタンのなかにある無数の気泡が空気のバリアを作って、冷気を遮り、ヒーターの熱を留めているのだ。壁から天井まで全体が白くモコモコしているせいか、絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感もある。 屋内用は15分で組み立てられる  輪島中学校のアリーナには、屋根と扉、窓がついたダンボール製の小さな家が置かれていた。これは、北川さんが編み出した室内用インスタントハウス。大人と一緒なら子どもでも組み立て可能で所要時間15分、要望に合わせて形状を変えられて、ハウスとハウスの連結も可能というすぐれもので、原価は約1万円。 「屋根がついている避難所のブースって、ほぼないんですよ。でも壁だけより、天井とか屋根があった方が保温性も高いし、心も休まるし、家に帰ってきたという感じになりますよね。子どもでも作れるようにしたのは、避難所に身を寄せられてる皆さんが、みんなで手を動かしてインスタントハウスを作れるようにしたかったから。形も変えられるので、自分がほしい家の形にして、未来に向かっていく気持ちが少しでも湧いてきたらいいなと思ったんです」  明るい話題が少ない被災地で屋内用、屋外用のインスタントハウスは脚光を浴び、さまざまなメディアで報じられた。その存在が知れ渡るにつれてニーズも拡がり、今、被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いているそうだ。  寝る間も惜しんで被災地を駆け巡る男は、「建築家になるつもりはなかった」と苦笑する。彼が目指したのは、和菓子職人だった。 学生時代に振る舞った「和菓子の家」  北川さんは1974年、名古屋市で3人兄弟の末っ子として生まれた。父は和菓子の職人で、母と一緒に「尾張菓子きた川」を営んでいた。瑞宝単光章を受章した父の腕は確かで、2022年には『マツコの知らない世界』でも紹介されている。  幼い頃から店頭に立って売り子をしていた少年は、いつの頃からか、和菓子職人を志すようになった。修行先を探すため、高校時代は全国の和菓子店を訪ね歩いた。その際、堺市の和菓子屋に惚れ込み、高校を卒業したらそこで働くつもりだった。  ところが、「友だちが受けるから」と気まぐれで受けたセンター試験で、名古屋工業大学の工学部に合格。両親の希望もあって入学した。もともと建築に思い入れはなかったから、大学の外で学生生活を謳歌した。  唯一、「めっちゃ楽しかった」のは設計の課題。北川さんはいつも、曲面が多く、ぐにゃぐにゃと柔らかな「和菓子のような建築物」を構想し、「自分の頭のなかをアウトプットしやすいし、一番慣れている」という理由で、和菓子の素材で模型を作った。講評会の後の打ち上げでは、同級生や教授に「和菓子の家」を振る舞った。  最終学年になっても、卒業したら和菓子職人に、という思いは変わらない。しかし、父親に「そろそろ、和菓子職人に……」と相談すると、毎回「まだ早い」と説得された。 「建築を深めれば、もっと人に求められる和菓子ができるようになる」 「洋菓子を学んだら、もっと面白い建築のような和菓子ができるかもしれないぞ」 暗中模索の教員生活  そのたびに、「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じて大学院の修士課程、博士課程と進んだ。博士号を取得して「これでようやく……」と思っていたところ、親身に指導してくれた名古屋工業大名誉教授、若山滋氏に声をかけられて、2001年、助手として名工大で働き始める。  ここで自分でも意外に感じるほど学生に教えることにやりがいを感じるようになり、2007年には准教授に。傍から見れば順調すぎる教員生活ながら、「ずっと暗中模索でした」と語る。 「若山先生は、とても高尚に背筋が伸びるようなハイカルチャーのことを語られるんですよ。狂言の話をしたり、源氏物語や徒然草から引用したり。僕は29歳の時(2003年)から自分の研究室を持たせてもらったけど、若山先生のようにはなれないし、どうしようかなと悩んでいました」 「サブカルに詳しい建築の人」を揺さぶった言葉  霧のなかを抜け出すきっかけをくれたのは、元AKB48の篠田麻里子だった。2005年に秋葉原を訪ねた際、当時まだAKB48劇場内のカフェ「48's Cafe」のスタッフだった篠田麻里子が路上でチラシを配っていた。それを受け取った北川さんは、吸い込まれるように劇場に足を運んだ。そこには、熱狂的に声援を送る男たちがいた。 「なんだ、これは……」初めて見る光景に圧倒されながらも、北川さんは「秋葉原って面白い」と感じたそうだ。ちなみに、2005年は秋葉原のメイド喫茶が話題を呼んだ年で、新語・流行語大賞には「萌え~」がトップ10入りしている。秋葉原独特の熱気に触れた北川さんは、マンガ喫茶の研究を皮切りに、サブカル路線に舵を切った。研究対象は、出会いカフェ、ラブホテル、パチンコなどに広がっていった。そのうちに、「サブカルに詳しい建築の人」として知られるようになっていった。  北川さんが着目していたのは、「家以外のスペースで、人はどういう生活をしているのか」。それが、意外な依頼を引き寄せる。2011年4月15日、北川さんは宮城県の石巻中学校にいた。前月に起きた東日本大震災により、石巻中学校は被災者の避難所になっていた。「家以外のところでの生活」に詳しい北川さんの意見が聞きたいと、朝日新聞から同行取材の申し入れがあったのだ。  現地に到着したのは夜で、冷え冷えとした体育館のなかを1時間ほど案内してもらった。その間、ずっと北川さんについてまわるふたりの男の子がいた。小学校3年生と4年生のふたりは、視察を終えた北川さんが「それでは失礼します」というと、近づいてきてギュッと人差し指を握り、「ちょっといい?」と引っ張り始めた。ふたりは北川さんを校庭が見える場所まで連れていくと、校庭を指さした。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  北川さんは、黙り込んだ。数秒経ってから出てきた言葉は、「ちょっと待っててね」。それしか言えない自分が、歯がゆかった。 「ホイポイカプセル」のアイデア  翌日、岩手の花巻空港から名古屋に向かう飛行機の機内でも、前日のやりとりが頭から離れなかった北川さんは、そもそもなぜ仮設住宅の建設に何カ月もかかるのか、思いつく限りの要因をノートに記した。「(部材が)重い」「部品数が多い」「いろいろな職能の人が必要」など、数えてみると、ちょうど40個になった。  今度は、「重い」なら「軽い」という具合いに、40個すべてに対義語を書き出した。そのすべてを実現すれば、もっと早く仮設住宅を建てることができるという仮説が成り立つ。どうすればいい? と考え込んでいるうちに、名古屋空港に着いた。外はまだ肌寒く、カバンにしまっていたダウンジャケットを取り出して羽織った瞬間、脳内に電流が走った。 「カバンの中に小さく収まって、着た瞬間にもう暖かい。これってなんかあるなと思ったんです。『ドラゴンボール』のなかで小さなものがポンっと大きくなるアイテムが『ホイポイカプセル』として出てくるんですけど、そのメカニズムって誰もやっていなかったんですよね。そのメカニズムを建築に応用して、なにかできるんじゃないかと思いました」  名古屋での日常に戻ってからも、40個の対義語をどうクリアするかを考え続けた。そうして、最も重要なポイントは「空気」だと気づく。 「普通の建築って硬い、重い、(価格が)高いでしょう。硬くて重いものを使えば手間がかかって値段が上がるし、時間をかければそれだけ価値のあるものだと思って、お客さんもお金を払う。でも、被災者が使う仮設住宅もそれでいいのか。だから僕は、基本的に人が生きる際にどこにでもあって無料で使える空気を使おうと思ったんです」  空気は、トップレベルの断熱材として知られる。軽くて薄いダウンジャケットが温かいのは、羽毛や化学繊維が空気の層を形成するからだ。 閃きをもたらしたフランスパン  北川さんは、サブカルから急ハンドルを切って「空気をまとう住宅」の開発に乗り出した。風船、布団、食器洗い用のスポンジ、シャボン玉など「空気」に関わるいろいろな素材で実験を繰り返した。失敗続きだったが、それを重視した。 「多くの人は、失敗するとわかっていることはやらないと思います。でも、失敗して初めてわかることもあるんですよ。失敗しないと現場的な感覚も改善のポイントもわからない。失敗の先に、なにかあるはずなんです」  5年間、たくさんの失敗を重ねた北川さんは、2016年10月のある日、地元のイオンモールのパン屋さんでフランスパンを目にして、閃いた。 「フランスパンって外側は硬いのに、中身はフワフワで芳醇ほうじゅんだ。しかも、オーブンに入れたら自然に膨らむ。この構造を使えないか?」  にわかに頭が高速回転を始める。パズルのピースがカチカチとはまっていくように、テントシートに空気を送り込んで、内部に断熱材を吹き付けるというアイデアが思い浮かんだ。  数日後、北川さんは大学の運動場にそれまで協力してくれていた建築学の先生、断熱材メーカーの担当者、大工、学生など関係者を集めて実験を行った。そこにいる全員が「できないだろう」と考えていたし、北川さんも大きな失敗でいいと思っていた。  ところが実験開始から15分、そこにはインスタントハウスの原型ともいえる2畳ほどの空間ができあがっていた。予想外の展開に、周囲から「うわーっ!」と歓声が上がる。近くにいた4人がそれをヒョイッと持ち上げるのを見た時、北川さんは鳥肌が立った。 「ついに40項目をクリアした!」 安心できる住まいを提供したい  そこからは、改良を重ねていく日々。安くて、快適で、早く簡単に建てる技術が確立されてくるにつれ、仮設住宅に限らず、土地さえあればどこにでも置けて、簡易な住まいとして使えることがわかってきた。それは、世界の経済格差や貧困問題にも貢献できる可能性を示す。 「2000年の段階で、世界の10人に1人が壁のある家に住めていないと国連の統計で出ています。建築の専門家として、そういった人たちに、ひとつでも安心できる住まいを提供してからこの世を去りたいと思うようになりました」  2018年、名工大の大学院工学研究科教授に就いた北川さんは翌年、産学連携していた株式会社LIFULLと共同で、名工大発ベンチャーの「株式会社LIFULL ArchiTech」(ライフル アーキテック)を設立。インスタントハウスを世界に広めるために、本格始動した。  Sサイズ(5平米)110万円、Mサイズ(15平米)187万円、Lサイズ(20平米)258万円で、施工に要するのは3~4時間。断熱性が高く、夏は小型の冷風機、冬は小型のファンヒーターひとつで快適に過ごせる画期的な「家」だ。太陽光発電を活用すればオフグリッドで生活可能で、例えば学校の校舎などにも応用できるという。  多様な環境で利用できるように設計されており、屋根には雪が滑り落ちやすい45度の傾斜をつけている。また、風速80メートルの台風にも耐える強度を誇る。  発売から間もなくして新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、アウトドアブームが来た。その風に乗ってインスタントハウスは主に全国のキャンプ場で導入され、北海道から沖縄まで100棟以上販売してきた。これは図らずも、酷寒でも酷暑でも使用に耐えるという証明になった。 大地震が起きたトルコへ  2023年2月6日、ついに研究成果を見せる時が来た。トルコ南東部のシリアとの国境付近で、大地震が発生。日本赤十字の発表によると、倒壊した建物の数は数十万棟、トルコ、シリア両国で約6万人が犠牲となった。 「町がゴーストタウンに」というニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった北川さんは、以前から知り合いだったJICA職員の田中優子さんに連絡。トルコ事務所長の田中さんが被災したトルコ南部ガジアンテプ県アンタキヤ、ハタイ県ヌルダーの県知事や市長とつないでくれることになり、すぐ現地に飛んだ。  最初にヌルダーの町を訪ねてインスタントハウスの話をすると、すぐに具体的な話になった。担当者に100棟建てるのにどれぐらいの土地が必要かと尋ねられ、目安を示すと、「100棟分の土地を用意する」と確約してくれた。次に訪れたアンタキヤでも、歓迎された。  問題は資金。現地で断熱材の発泡ウレタンを入手するとしても、Lサイズのものを100棟建てるには1億円以上必要になる。それだけの資金調達は難しく、最終的に現地で支援活動をしていた国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンが購入するという形で、アンタキヤに3棟寄贈された。  北川さんは4月、アンタキヤに飛び、その3棟を自ら完成させた。政府職員や被災者の住居、倉庫として使われ、「涼しい」「快適」と絶賛された。しかし、100棟建てたいと言ってくれたヌルダーのことを思うと、すぐにすべてを届けられないことがもどかしかった。 「東日本大震災以来、安くて、快適で、早く建てられる住宅を目指していたのに、インスタントハウスはトルコの仮設住宅より高価で、お金が理由で建てらなかった。自分はなんのためにやってきたんだろうと思うと、悔しかったですね」 被災した子供たちを見て発した妻の一言  同年8月下旬、北川さんは妻と一緒にインドネシアのチカランにいた。トルコでの反響から、海外でもニーズがあると確信。いざというときに自分が現場に行かなくても住民が自力でインスタントハウスを建てられるように、ノウハウの伝え方や住民による作業の検証に行ったのだ。  その際に燃焼実験や耐久性の実験も行い、想像以上に構造物としての強度があることがわかり、新たな手応えを得たその帰り道。名古屋へ向かう飛行機のなかで夫婦の話題にのぼったのは、現地で目にした、手を差し出し、お金や食べ物を求めてくる子どもたちだった。同じような貧しい子どもたちの姿は、発展途上国だけでなく先進国でも見てきた。  建築学科の後輩で、北川さんの試行錯誤を一番そばで見守ってきた妻から「本当は、ああいう子たちのためにインスタントハウスを使いたいんでしょう」と聞かれた北川さんは、「そうなんだよね」と頷いた。そして、「じゃあ、やってみようか」とふたりで話し合ってから間もない翌月8日、モロッコ中部の山間部で大地震が起きる。  調べてみると、モロッコでは仮設住宅1棟が100万円弱することがわかった。トルコの時と同じ思いはしたくない。北川さんは思い切って10分の1の価格を目指した。  市販しているインスタントハウスは10年程度の利用を想定し、その間、不具合が起きないようハイスペックになっているが、仮設住宅はそこまで必要ない。テントシートの素材を変え、発泡ウレタンも高度な吹付技術が必要で価格も高いもの(独立気泡の発泡ウレタン)から、海外でも簡単に入手できるもっと安いもの(連続気泡の発泡ウレタン)に変えた。  これで、施工1時間、原価15万円の人道支援用インスタントハウスが完成。大学で実験して十分な強度があるとわかると、北川さんはモロッコにいる知り合いに連絡。「夜はとても寒い。お願いしたい」という声を聞き、スーツケースにテントシートだけを入れて現地に飛んだ。  現地で連続気泡の発泡ウレタンを調達し、ひとりで施工したところ、想定通り1時間で完成した。その様子がモロッコのテレビ、ラジオで放送されたこともあり、後日、モロッコ政府から接触があった。現在、インスタントハウスの導入について、政府関係者とやり取りを重ねているそうだ。 二度目のトルコで悔しさを噛みしめる  その2カ月後、北川さんは再びトルコにいた。防災を担当する省庁から、災害時の仮設住宅としてインスタントハウスを導入したいと招かれたのだ。その際、副大臣との話に上がったのは、ヌルダー。そう、地震直後に「インスタントハウス100棟分の土地を用意する」と言ってくれた町だ。震災から9カ月が経ち、まだ復旧作業が続く町なかには無数の仮設住宅が立ち並んでいた。そこを副大統領と視察した北川さんは、目を疑った。 「町のメインストリートに面した一角に、100棟分の土地がきれいに整地されたまま残っていたんです。いい場所だし、もうなにかに使われているだろうと思っていたのに……」 脳裏に蘇ったのは、東日本大震災の記憶。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  トルコ政府は北川さんを歓待し、この訪問以降、人道支援用インスタントハウスの正式採用に向けて本格的に動き出した。しかし、北川さんは悔しさを噛みしめながら帰国した。  その後悔が、新たなアイデアをもたらしたのかもしれない。北川さんはコロナ禍に、感染症対策として使えるのでは、と屋内用のインスタントハウスを作り始めた。当初は屋外用のインスタントハウスを小型化したものを想定していたのだが、用途を考えると手間と時間がかかり過ぎているように感じて、開発が止まっていた。  トルコから帰った後、北川さんは「原点に返ろう」と、「宝物」というノートを開いた。それは、石巻中学校に行った翌日、飛行機のなかで「40項目」を書き記したノートだ。そのノートを見返しているうちに、閃いた。 「ダンボールで作ろう!」  思いついたら、一直線。1カ月もたたないうちにダンボール製のインスタントハウスが完成し、12月6日、7日に名古屋で開催された防災展で展示した。そして2024年1月1日、能登半島地震が発生した。名古屋の自宅にいた北川さんは展示の際に用意していた10棟分の屋内用インスタントハウスをレンタカーに積み込み、翌日には卒業生の山田さんとともに石川県に入った。 子どもたちと建てたインスタントハウス  いくつかの避難所を巡ったなかで、最も過酷な環境だったのが輪島中学校だった。  特にアリーナは2階のガラスが割れ、凍えるような冷たい風がアリーナのなかに吹き込み、冷蔵庫のようだった。避難所の職員にインスタントハウスの話をすると、「ありがたい」ということだったので、着替えやオムツ交換、授乳スペースとして屋内用インスタントハウスを建てることにした。  1月4日、ダンボールをアリーナに運び入れて作業を始めると、物珍しそうに被災者が近寄ってきた。最初の1棟に屋根を上げた瞬間、アリーナ全体から少しずつ拍手が起きた。「これなに?」と聞く子どもたちに、「みんなのお家だよ」と答える。 「一緒に作っていい?」 「いいよ」  その場にいた数人の子どもたちが、手伝ってくれた。2棟目が完成した瞬間、3歳の女の子が大きな声で「お家ができた!」と叫んだ。隣りにいた母親から、今回の地震で自宅が全壊してしまったと話を聞いた北川さんは、アリーナの外に出た。そこで堪えきれず、涙を流した。  その後、子どもたちは屋内用インスタントハウスに絵を描いて遊ぶようになった。そこには、「ちょっとせまいけど いえかんせえ」と書かれていた。この絵と文字は、3歳の女の子と小学校1年生のお兄ちゃんが描いたものだ。取材の日、その子たちのお母さんに話を聞いた。 「初めて見るデザインで最初はなんなのかなと思ったのですけど、メルヘンチックな感じですごくいいと思います。子どもたちも一緒に作ったりして、楽しそうでした。かわいい家が完成した後も出たり入ったりして遊んでいましたよ」  その後、校舎の1階と2階、屋内型広場などに計10棟を建てた北川さんは、翌日、名古屋に戻った。その際、ダンボール業者やテント屋、断熱材メーカー、運送会社と協議し、屋内用インスタントハウス110棟分の資材を調達。屋外用インスタントハウス3棟の資材と合わせて、再び輪島中学校に向かった――。 「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた  この記事を書いている1月22日時点で、北川さんが拠点をおく輪島中学校ではアリーナに屋内用インスタントハウス250棟を建てる準備が進められており、2棟の人道支援用は、被災直後から狭い職員室での雑魚寝を強いられていた教員が寝泊まりするようになった。  今現在も支援の輪は広がっており、インスタントハウスの実費調達のために開かれた名古屋工業大学基金に寄せられた寄付は1650万円。屋内用インスタントハウス440棟分と人道支援用インスタントハウス13棟分が、主に輪島市各町の避難所に届けられる準備が整った(1月22日時点)。  冒頭に記したように、すでに被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いており、これから能登半島にたくさんのインスタントハウスが建てられる。それはまさに、東日本大震災以来、「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた男が思い描いてきた光景だ。  しかし、まだ足を止めるつもりはない。北川さんの頭のなかには、さらに進化した人道支援用インスタントハウスの構想がある。世の中には、廃棄される農作物も多い。それらを使って、100%生分解性の断熱材とテントシートを作ろうとしているのだ。  北川さんが思い描くのは人間、動物、昆虫が食べられるエディブル・インスタントハウス。この話を聞いて、北川さんが学生時代に和菓子の素材で模型を作っていたことを思い出し、「お菓子の家と同じ発想ですね」というと、北川さんはいたずらをたくらむ子どものような顔で笑った。 「お菓子の家っていう人もいれば、おかしな家っていう人もいるんですけどね」  誰も想像しなかった膨らませる家を生み出した北川さんは、「おかしなお菓子の家」の実現も信じて疑わない。詳しいことは書けないが、アメリカの政府機関も、この男の創造力に注目している。北川さんはこれからも、世界の被災地を飛び回るのだろう。しかし、終着駅は決まっている。 ――まだ、和菓子職人になりたいんですか? 「はい! あんな楽しい仕事、ないですから」 (川内イオ フリーライター)
政界のゴッドマザー「安倍洋子さん」死去 旧知の新聞記者が語る「晋三さんよりも気にかけていた息子」の存在
政界のゴッドマザー「安倍洋子さん」死去 旧知の新聞記者が語る「晋三さんよりも気にかけていた息子」の存在 安倍洋子さん(画像=濱岡さん提供)    安倍晋三元首相の母・安倍洋子さんが4日、死去した。95歳だった。岸信介元首相を父に持ち、夫は安倍晋太郎元外相、そして晋三氏の母として「安倍家三代」をずっと側で見続けてきた。政界のゴッドマザーとも称された洋子さんはどのような人物だったのか。長年交流のあった元山口新聞東京支局長の濱岡博司さんに在りし日の思い出を聞いた。 *  *  * 「洋子さんの思い出は言い尽くせないほどあります」  そう語るのは、かつて山口新聞で東京支局長を務めた濱岡博司さん。濱岡さんは約40年前、洋子さんから晋三氏についてこんな相談を受けたという。 「うちの息子には交際相手とか浮いた話もない。あなた誰か連れてきてくれない?」  そのころ、濱岡さんは地元の山口県から上京し、電通などの大企業を取材で回っていた。電通社内で知り合いの社員に相談していたところ、思いもよらない「奇跡」が起きた。 「たまたま、目の前で(晋三氏の妻となる)昭恵さんが書類のコピーを取っていたんですよ。知り合いの電通社員が、『じゃあ、あの女性どうですか』と言ったことで縁談が決まったんです」  人生とは偶然と必然が交錯するもの。当時、昭恵さんが電通の社員として働いており、その時たまたま濱岡さんが電通を訪れていたことが、2人を結びつけたのだ。  2人を東京・原宿のカフェバーで引き合わせた濱岡さん。昭恵さんは50分ほど遅れてやってきたが、晋三氏は待ち続け、遅れてきた昭恵さんを笑顔で迎えたという。それがきっかけで交際が始まった。  晋三氏のキューピッド役となった濱岡さんと洋子さんの付き合いはその後もずっと続いていく。 【こちらも話題】 岸田首相の防災服「新年会ハシゴでは無意味なコスプレ」 約7割が「着る意味なし」【1000人アンケート】 https://dot.asahi.com/articles/-/213483 安倍晋太郎氏(左)と洋子さん。晋太郎氏が抱いているのは晋三氏、洋子さんの前は長男の寛信氏(朝日新聞社)   刑務所に入った父を待ち続けた  洋子さんは1928年、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介元首相の長女として生まれた。 「太平洋戦争後、信介さんはA級戦犯として巣鴨プリズンに3年半ほど投獄されていました。洋子さんは山口銀行の田布施支店で銀行員として働き、家族を支えながら父親が帰って来るのを待っていました」(濱岡さん)  そして51年、洋子さんは新聞記者だった安倍晋太郎氏と結婚。濱岡さんが初めて洋子さんを見たのは、晋太郎氏が衆院選に初出馬した58年ごろだったという。 「下関漁港の魚市場で、魚を入れるためのトロ箱の上に晋太郎さんが立って演説をしていました。洋子さんはそばにいて、いつもニコニコしていましたよ。ウチの父親が魚市場の仲買をやっていた関係で、そういう光景を見かけたのが、私が洋子さんを見た最初でした」  その後、濱岡さんが新聞社に入社し、晋太郎氏とも付き合うようになったことで、洋子さんとも話をするようになったという。 「私が上京したころ、妻と子どもを連れて、都内の安倍家の家にあいさつに行きました。洋子さんから『ウチは3人とも男の子だけど、あなたのところも3人で女の子もいるんじゃないの』とうらやましそうに言われたのを覚えています。それからだんだんと信頼されるようになりました。二男の結婚式には安倍晋三夫妻も来てくれました」 安倍洋子さん(撮影/上田耕司)   選挙情報を細かく収集  長く付き合っていくなかで、濱岡さんは洋子さんからある“ミッション”を受けていたという。 「洋子さんから『選挙区の情報を私に何でも教えて』と言われていたんです。それで『この人は要注意人物』とか『この会長には問題がある』とかいろいろな情報を細かく伝えていました。選挙というのは表だけではないので、田舎の裏の情報を逐一伝えた。その情報をセレクトするのは洋子さんで、選んだ情報を晋太郎さんに伝えていたみたいだね」  晋太郎氏が多忙で選挙区になかなか帰って来られないぶん、洋子さんが地元の後援者回りを引き受けていたという。 「洋子さんは秘書なんか使わないで、ダイレクトに各地区の後援会長と話していましたね。ご自分の井戸端会議の話し相手の女性も各地区に置いていたから、そりゃあ、選挙は強いよ。洋子さんはもともと銀行員だから、都内の家には晋太郎さんの金庫とは別に、洋子さんの金庫があった」  東京・渋谷にある安倍邸ではこんな光景も目にした。 「仕出屋や天ぷら屋、すし屋の職人を自宅に呼んで、政治家も集めて、庭で安倍派の会合をやっていたこともありました」  晋三氏は、父が果たせなかった夢をかなえて首相になった。洋子さんは晋太郎氏、晋三氏の親子二代の選挙でも重要な役割を担っていたという。 三男の岸信夫元防衛相   ずっと気にかけていた「三男」のこと 「洋子さんは気が強くて厳しい人。普段はニコニコしているけれど、怒ったらものすごい形相になってもう大変。方言丸出しで怒っていた。しんちゃん(晋三氏)に連絡が取れない時でも、洋子さんに電話して『しんちゃんから電話がほしい』と伝えれば、1分後にはしんちゃんから電話がかかってきた。しんちゃんは自分の考えを変えない、なかなかの頑固者だったから、しんちゃんを動かすには洋子さんに電話するしかなかった」  政界のゴッドマザーと言われるだけあり、洋子さんは政局にも一定の影響力を持っていたようだ。 「洋子さんは自分のおなかを痛めた三男の信夫さんを岸家に養子に出したこともあり、3人いる息子の中で信夫さんのことを最も気にかけていた。だから、信夫さんのことはいつも相談されていましたよ。信夫さんを参院から衆院に鞍替えさせたのも、入閣させたのも、洋子さんの意向があったからと聞いています。『閣内に身内がいないと、こぼれる話も聞こえてこない』と言っていましたね」  昭恵さんとは嫁姑の仲がうまくいっていないと週刊誌などで報じられていたが、実際はどうだったのか。 「自分の息子を取られたような気分はあったんでしょう。両方とも意地っ張りだからうまくいくはずがない。洋子さんも昭恵さんもお嬢さんだからわがままですしね」 岸信介元首相の墓参りをした晋三氏と洋子さん(2015年)   安倍家3代を支えた  晋三氏が銃撃事件で亡くなったのは2022年7月。あれから1年半がたち、母である洋子さんも亡くなった。濱岡さんは言う。 「ひとつの時代が終わったと思います。洋子さんと田舎の話をしたり、ああでもないこうでもないと語り合ったりした日々が懐かしい。洋子さんが『夫を絶対に落とさないで』と、父親の岸信介さんに頼みこんで、晋太郎さんが当選した。晋三さんが出馬する時には、夫の晋太郎さんの後援会を洋子さんが全部動かして、選挙に勝った。彼女は信介さんの弟の佐藤栄作元首相の家にもよく通っていたんです。だから栄作氏の奥さんの佐藤寛子さんがよく『晋太郎さんはいい嫁をもらったよ』と洋子さんのことを褒めて、かわいがっていました。洋子さんの強い思いがなかったら、安倍晋三も岸信夫もあんなふうになれなかった。安倍家3代を支えたのは洋子さんだったと思います」  安倍家を背負い、激動の時代を生きたゴッドマザーがひとつの時代をつくったことは間違いないだろう。合掌。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
「インフレに負ける年金」の正体…増えているようで実際は「目減り」 年齢別の受給額を解説
「インフレに負ける年金」の正体…増えているようで実際は「目減り」 年齢別の受給額を解説 一見、上がっているように見えて、実際は目減りしている──。インフレに「負ける」構図を理解すれば、次の一手が自ずと見えてくる(撮影/写真映像部・馬場岳人)    名目の年金額は上がるが、物価上昇率には届かず「目減り」していく。「年金抑制策」は20年以上続く見込み。いったい、どこまで下がるのか。AERA 2024年2月5日号より。 *  *  * 「エッ、こんなに増えるのか!」  6月初旬、日本年金機構から来る「年金額改定通知書」を見て、今年は思わずニヤリとする高齢者が続出するかもしれない。  通知書には2024年度にもらえる年金額(年額)が老齢基礎年金(以下、基礎年金)と老齢厚生年金(同、厚生年金)、別々に記載され、一番下には二つの合計額も印字されている。それぞれの右側には前年度(23年度)の年金額が印字されているから、どれぐらい増えるかが一目でわかる仕掛けだ。  仮に、両方合わせて「200万円」受給できる人がいるとすると、今回の合計額は約5万4千円増えているはずで、月額だと約4500円もの増額になる。  しかし、である。年金受給者は、決してこの増額を喜んではいけない。名目は派手に上がっているように見えても、実は物価上昇率に届かない、購買価値が小さくなって前年度より「目減り」した年金額であるからだ。 「ちりも積もれば…」  いわば、「インフレに負ける年金」。しかも、この「目減り」、1回だけでは終わらない。今のところ、この先20年以上も続く見込みなのだ。1、2年なら影響は軽微でも、「ちりも積もれば~」で年数が長くなるほど影響は大きくなる。  年金はどのような仕組みで「目減り」し、いったい将来の年金はどうなるのか。このさい、「インフレに負ける年金」の正体を知っておこう。  スタートは19日に厚生労働省が発表した「年金額改定のお知らせ」。24年度の年金額は今年度より2.7%の引き上げとなったことを伝えるリリースだ。 AERA 2024年2月5日号より    表を見てほしい。全員共通の基礎年金の満額は「月額6万8千円」で、今年度より1750円増える。年額だと2万1千円増の「81万6千円」だ。「モデル世帯」といわれる標準的な夫婦2人の世帯年金額(2人分の基礎年金と1人分の厚生年金)は「月額23万483円」。今年度より月6001円、年間約7万2千円も増える(これらはすべて、67歳以下の人の金額。68歳以降は、同じ条件だと若干低い)。  なぜ「2.7%増」なのか。  年金額は、賃金や物価の動きに応じて毎年改定される。高齢者の主要な収入である年金額を世の中の動きに合わせるためだ。  具体的には過去3年の賃金を中心とした変動率と前年の物価上昇率の二つを比べ、両者の上がり度合いや下がり度合いの関係で、どちらの数字で改定するかが定められている。今回の場合、物価上昇率は3.2%、賃金上昇率は3.1%だった。このように、物価が賃金を上回っていると、賃金上昇率で改定額が決まる。現役の稼ぎ具合に年金も合わせるためだ。 「目減り」が生じる構造  ここまでが第一段階で平時なら年金額は「3.1%増」で決まりとなる。しかし、ここで止まらないのが現在の改定だ。年金財政を立て直すため、年金額を抑制する第二段階の仕組みがあるからだ。ややこしい名称で恐縮だが、その名も「マクロ経済スライド」という。  第一段階で決まった上昇率から、高齢化の進展や人口の減少度合いを勘案した数値(「スライド調整率」という)を引く。スライド調整率は毎年変わり、今回は「0.4%」。3.1%から0.4%を引くと、今回の増加率「2.7%増」となる。  大幅引き上げに見えるが、物価上昇率3.2%からすると0.5%目減りしている。今回は第一・第二段階の両方で目減りを強いられた格好だ。  マクロ経済スライドは04年に導入されたが、デフレ経済のあおりをくって長らく発動できないでいた。一律に年金額を下げる措置などを取った結果、ようやく15年度に初めて発動された。しかしその後もデフレに阻まれたため、マクロ経済スライドを発動しやすくするような仕組みの改正が続いている。 ●ニッセイ基礎研究所の中嶋邦夫上席研究員が作成。使った資料は、厚生労働省「2019年財政検証結果 財政検証詳細結果等1(zipファイル)」、厚生労働省「令和6年度の年金額改定についてお知らせします」/●年金額は、将来の目減りを現在の生活感覚で理解できるよう、現在の価値に換算した値(年金制度に合わせて、67歳までは賃金上昇率で、68歳からは物価上昇率で割り引いた値)/●マクロ経済スライドが停止すると、年金額の目減りはなくなる/●受給中の年金額が、同条件で新規に受給を開始する場合の年金額の8割を下回らない措置(いわゆる8割ルール)により、年齢が上がると試算した年金額が上昇する場合がある/●基本的には経済前提が悪いほど試算した年金額は低くなるが、経済前提が悪いほど実質賃金上昇率が低く、かつマクロ経済スライドの特例に該当しやすいため、経済前提が悪い方で試算した年金額が、経済前提がいい場合より高くなる場合がある   マイナス分は持ち越し  そのかいあって今回は2年連続5回目の発動となった。現在のマクロ経済スライドの仕組みを図式化したのが図だ。第一段階の数字がプラスになると必ず発動される仕組み(上・中)は以前と同じ。しかし、以前ならマイナスになる部分はチャラになっていたが、今では翌年度以降に持ち越し(キャリーオーバー)となる(中)。また、第一段階の数字がマイナスの場合はマクロ経済スライドは発動されないが、スライド調整率はその全部がキャリーオーバーとなる(下)。  厄介なのが、このマクロ経済スライドを使った第二段階の年金抑制策は、年金財政が健全化するまで終わらないことだ。5年に一度の年金制度の健康診断、財政検証(19年)によると、今後の経済状況で違いはあるが、経済が好調な場合でも46年度まで続く。経済がよくないと、機械的な計算では50年代半ばまで続く見通しになっている。  今のところ単年度ならそれほど目立たない目減りだが、これが累積するとどうなるのか。その姿をしっかり見て自分の年金額の推移をイメージできるようになれば、老後のライフプランを立てやすくなる。そこで年金制度に精通するニッセイ基礎研究所の中嶋邦夫上席研究員に、財政検証の数字を使って未来の年金額を年齢別に試算してもらった(表)。  標準的な共働き夫婦(年収500万円の夫[妻]と同300万円の妻[夫])を想定、65歳受給開始で100歳までもらえる年金額を、24年度に65歳になる受給開始世代から25歳の若者まで10歳きざみでシミュレーションした(もとになるのは今回発表された24年度の年金額、空白欄は財政検証の範囲外)。  ここまで見てきたように、将来の年金は経済状況で大きく変わる。そこで「経済がいい場合」(財政検証のケースI)、「まずまずの場合」(同ケースIII)、「イマイチの場合」(同ケースV)の3パターンに分けた。 「将来の年金額はこのぐらい幅があるもの、とイメージしてほしい」(中嶋上席研究員)  さて、一覧表を見てほしい。  金額が減っているのがマクロ経済スライドの影響だ(表の注参照)。タテに見れば、世代間でどのように年金額が小さくなっていくかがわかる。ヨコに見れば、各世代がもらい始めた年金が年をとるにつれてどのくらい減ってしまうかがわかる。 AERA 2024年2月5日号より   「全員の年金が下がる」  ご覧のように、タテもヨコも基本的に見事な右肩下がりである。世代間で10~20%台、世代内では10%台半ばの減少だ。  中嶋上席研究員が言う。 「気分が暗くなるかもしれませんが、年金は基本的に『泥船』なんです。少子高齢化が続く限り、致し方ありません。それでも、全員の年金額が下がることをこの表で理解してほしい。受給世代は、年金が下がるのはイヤだろうが、将来世代はもっと下がることに思いをいたしてほしい。一方、若い世代は『こんなに減るのか』と思うでしょうが、高齢者の年金もこの先目減りしていくことを知るべきです」  表現は良くないかもしれないが、「泥船」に乗りながら老若男女が傷を舐めあう──こんな構図だろうか。  しかし、何事もポジティブにとらえたい。傷を舐めあいながらも、一覧表で年金額が目減りしていくイメージがつかめた今、各世代は将来に備えた対策を考えることができる。  若い世代は、現在に比べると最初の年金額は小さくなってしまうが、高齢者になるころにはマクロ経済スライドが終わっているため、それ以降は大きく下がらずほぼ横ばい状態となる。今からなら準備期間は長くとれる。一気に制度が拡充されたNISA(少額投資非課税制度)やiDeCo(個人型確定拠出年金)を使って、着実な資産形成に励むべきだろう。 「繰り下げ」で防衛せよ  受給世代など高年齢層は「待ったなし」である。準備期間は残されていないのに、確実に「目減り」はやってくるからだ。しかし、まだやれることはある。  受給前の人は、「防衛」のための「年金繰り下げ」を真剣に検討してほしい。年金受給を遅らせて年金額を増やす手法だ(1カ月遅らせるごとに0.7%増)。紙幅の関係で詳しく説明できないが、目安として2~3年繰り下げすれば、マクロ経済スライドでインフレに負ける分を取り戻せるとみられている。  問題は、その間の生活費をどうするか、だ。60歳代後半もフルタイムで働いたり、準備していた老後資金を取り崩したりする手法が考えられるが、これらは体力があり貯蓄額も多い一部の人に限られるだろう。  ファイナンシャルプランナーの澤木明さんは、その中間の道があるとする。 「フルタイムではなく、週20時間ぐらいアルバイト的に働けば月に10万円程度のお金が稼げます。年間の生活費を300万円とすると、これなら500万円強の貯蓄取り崩しで3年程度年金繰り下げができます」  アルバイト的な「チョイ働き」なら、選り好みしなければ仕事はある。多くの人にとって現実的な策になるかもしれない。  ともあれ、目減りの全体像をつかんで対策を考えておけば、乗り切れる可能性が高くなる。過度に恐れないことが大切だ。(編集部・首藤由之) ※AERA 2024年2月5日号
紫式部が「夫の死」を契機に書き始めた『源氏物語』 道長との間にロマンスはあったのか
紫式部が「夫の死」を契機に書き始めた『源氏物語』 道長との間にロマンスはあったのか 源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B216-50?locale=ja    藤原道長と紫式部は“権門”と“寒門”と身分は異なれど、四歳ほどの年齢差で同じ世代を生きた。道長は、光源氏のモデルとも目されているほど「貴族道」を体現した人物だ。そして光源氏を生み出した紫式部も、宮廷という小宇宙にあって「女房」世界を象徴した。彼らの接点は「貴族道」と「女房」という王朝時代に特化されるべき局面での出会いにあった。紫式部が道長の娘彰子のもとに出仕したのは、寛弘二年(一〇〇五)の三十代も半ばの頃とされている。「かりに道長と式部に色恋沙汰があったとすれば、権門と寒門の化学変化の表れともいえなくもない。」と歴史学者の関幸彦氏は言う。同氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、関氏の考える藤原道長と紫式部の関係性について紹介する。 *  *  *   「長保」の年号は、式部の三十代前半に重なる。越前から単身都に戻った式部は、ほどなく当時山城守に任ぜられた宣孝と結ばれる。「長徳の大疫癘」もこの時期には下火になりつつも、不安は続いた。そうしたなかで長保二年(一〇〇〇)十二月、一条天皇の皇后定子が没した。一方、その前年には道長の娘彰子が入内しており、道長の順風と式部の幸福な一時期とが重なるようでもある。ただし、宣孝との結婚は二年ほどで終わりをむかえる。文字通り、死が二人を分かつことになる。  宣孝は再婚でもあり、式部との年齢差はそれなりにあったという。その出自は藤原北家高藤流に属した。両人は血縁的には無関係ではなく、式部の祖父雅正の妻方の流れに宣孝は属した。いわば遠い「いとこ」になる。『尊卑分脈』その他によれば、備後・周防・山城・筑前の国守を歴任、その家系も典型的な受領クラスに位置した。 『石清水文書』には、大宰少弐時代の正暦三年九月に宣孝本人の署名が見えている。宣孝は二年前に筑前守に任ぜられていたが、その字面は必ずしも端正ではない。何とも遍と旁が整わない、アンバランスな感じだ。“字は体を現わす”の喩でいえば、器用なタイプではなさそうだ。 【こちらも話題】 紫式部「女としてのうぬぼれ」が描かせた源氏物語の空蝉 https://dot.asahi.com/articles/-/13654  彼は多くの辞典類を参ずると、賀茂祭での舞人を務めるなどの経験も豊かで、中級官人の典型でもあった。その点では和歌を詠じ、道長以下の権門とのチャンネルを有する中級貴族なりの“貴族道”の体現者だった。そんな文人にして芸術家肌の気質に、彼女は反応したのかもしれない。型にとらわれない自由な字面も、そうした気質が垣間見られそうだ。受領任官にともなう都鄙往還の経験も共通する。年長者ならではの信頼感が、彼女の“雪融け”をうながした可能性は否定できない。  結婚後、両人には娘賢子が誕生する。式部にとって、妻として母として最良の時節が訪れた。宣孝も「宇佐使」や「平野使」の勅使を勤めるなど、多忙を極めた。権門の道長にも信頼されたようで、“使える貴族“として活躍した。けれども幸せは長くは続かなかった。所労も重なったためか、長徳三年(一〇〇一)四月、宣孝は死去する。式部三十二歳の頃だった。 宮中への出仕─三十代後半  夫宣孝死去の数年後、彼女は宮中へと出仕する。寛弘二年(一〇〇五)、三十六歳の頃だ。出仕する直前に内裏が焼失、一条天皇及び彰子は道長の東三条殿に遷っており、式部はここに出仕した。その後、一条内裏へと皇居が移り、式部の生活もここが拠点となる。彼女が仕えた中宮彰子が一条天皇に中宮として入内したのは、六年前のことだ。  彰子は式部出仕の二年後に皇子敦成親王(後一条天皇)が誕生。すでに皇后定子は没しており、彰子は天皇との間に第一皇子敦成、続いて翌年にも敦良親王(後朱雀天皇)が誕生し、道長の外戚の立場は盤石さを加えていた。  ちなみに『源氏物語』の起筆は式部の出仕以前のこととされる。諸説あるなかでも、宣孝の死去後程ない時期とされている。彼女にとって、宣孝の死が筆を執る契機となったようだ。多感な彼女が多様な経験をした三十歳前半は、『源氏物語』執筆の契機も潜んでいたのかもしれない。その辺りは定かではない。実名を香子との指摘もあるが、詳細は不明だ。出仕の当初は「藤式部」を名乗った。女房名は一般的に父祖や夫の官職を付すことが慣わしとされる。「式部」はいうまでもなく、父為時の「式部丞」に因む。 【こちらも話題】 紫式部が「源氏物語」を書いたきっかけは 夫に先立たれて3年で終わった結婚生活 https://dot.asahi.com/articles/-/206951  越前国守就任に至る十年間は、寒門の悲哀を実感したはずで、そうしたなかにあって、和歌に長じた式部丞の官職は、為時の名誉とするところだったのだろう。出仕後、彼女もそれを通称とした。「紫」については、諸説あるものの、当時宮中でも話題とされた以下の話が一般的とされる。  道長のブレーンの一人、公任が「あなかしこ、この辺に若紫やさぶらふ」といって、式部の局を訪れたとの話があり、それに由来するらしい。「若紫」は「源氏」の作者たる式部の別称の観もあったようで、それに因むという。他に「日本紀の御局」とも評され、中級ランクの女房ながら、好評を博していたらしい。  式部の出仕については、道長からの要請の結果だったとしても、彼の当該期の“文”への傾斜は注目に値する。「寛弘」段階の道長の文道への執着は強く、詩歌の作詠会のみでも、二十回前後に及んだという。『文選』『白氏文集』などのへの関心も強かったことが『御堂関白記』からもうかがえる。そうした権門のサロンに、式部の父為時は中級貴族として顔もだすこともあり、それが機縁となったらしい。  寛弘年間(一〇〇四〜一〇一一)は、後宮世界で式部が彰子に仕えた期間に重なる。そして、道長もまた四十歳代の絶頂期であり、両者の間で時間の共有がなされた段階だった。式部一家にとっても、末弟の惟規が蔵人に任ぜられたり(寛弘四年)、前年には父為時が東三条第の花見の宴に列席したり、さらに式部自身についても『源氏物語』が話題となるなどの時期だった。彼女の三十代後半の頃のことだ。前述の公任が式部の局を訪れたのも、寛弘五年(一〇〇八)の、この時期のことだった。 【こちらも話題】 好みは草食系より肉食系 「男女の仲」を知っている必要があった平安時代の「女房」たち https://dot.asahi.com/articles/-/212407  道長自身は女郎花を折って式部に与えたこともあった。その道長が寛弘六年の夏の夜に、式部の局の戸を叩く出来事もあった。この件に関しては『紫式部日記』によれば、以下のように記されている。中宮彰子が敦良親王懐妊中の道長の土御門殿での出来事とされる。「すきものと名にし立てれば……」(貴女は浮気者という噂が高いから誰もが口説くことでしょうね)との道長側からの式部への歌に、彼女は「人にはまだ折られぬものを……」(私はまだ誰からも口説かれたことはありません。誰が浮気者と言いふれているのでしょうか)と返歌したことが見える。そしてその夜のこと渡殿局の戸を叩く人がいて、その音を聞いたが、恐ろしいので応答せずに夜を明かした。その翌朝に道長から「夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ……」(私は一晩中水鶏のように泣きながら、戸口を叩き続けても閉じたまま夜を明かしました)。これに対し式部は「ただならじとばかりたたく……」(ただごとではない様子の戸の叩き方に水鶏と同じくさほどの気持ちではないのに戸を開けたなら、煩わしい思いをしたことでしょう)。こんな歌の応酬があった。  この件は想像をかきたてられはするが、真偽は不明。『尊卑分脈』には「道長の妾」との表記があり、右に見た『紫式部日記』の記事などが下敷きになった推測なのかもしれない。それとは別に想像を逞しくすれば、土御門殿での道長からの式部への「すきもの……」云々の投げかけに、浮気者ではないことを返歌で示した彼女に、その真意を確かめるための“男心”が道長の夜の訪れに繋がったのかもしれない。それが両人の関係への関心を倍加させることとなった。当時、道長は分別盛りの四十四歳、男盛りでもあることからすれば、不惑前夜の式部とのロマンスも考えられなくはない。同年の冬には敦良親王(のちの後朱雀天皇)も誕生、順風の時期でもあった。  この時期、道長は『源氏物語』の草稿にもかなりの興味を持っていたようで、中宮彰子出産後の祝のためとされるが、清書用の『源氏物語』の草稿本が未完成のまま、道長に持ち去られるという珍事もあった。それだけ彼女は注目され始めていた。 【こちらも話題】 紫式部と藤原道長に「禁断の恋」はあったのか 晩年の『紫式部集』で明かされた「真実」 https://dot.asahi.com/articles/-/210586

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