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大谷翔平は“電撃婚”からさらに飛躍? 給料20倍の男も「結婚→成績急上昇」となったプロ野球選手たち
大谷翔平は“電撃婚”からさらに飛躍? 給料20倍の男も「結婚→成績急上昇」となったプロ野球選手たち “電撃婚”を発表したドジャースの大谷翔平  うるう年の2024年2月29日、日米を驚かすビッグニュースが飛び込んできた。ドジャースの大谷翔平が自身のインスタグラムを更新。英語と日本語の文章で結婚を報告したのだ。この“電撃婚”に各方面から多くの祝福の声が寄せられているが、その“お相手”とともに気になるのが、結婚によって大谷のパフォーマンスがどれだけ上昇し、どのように成績に反映されるのか、である。過去、結婚を機に成績を大きく飛躍させた選手は少なくない。 「結婚→成績アップ」の代表的な選手といえば、落合博満である。プロ2年目の1980年オフにした1度目の結婚の際は3カ月のスピード離婚となったが、それでも落合自身は翌1981年からレギュラーに定着。そして信子夫人と1984年12月に結婚すると、叱咤激励された中で翌1985年に打率.367、52本塁打、146打点という圧倒的な成績で三冠王に輝き、さらに1986年も打率.360、50本塁打、116打点をマークして2年連続の三冠王に輝いた。ここから大打者への道が始まり、中日移籍で日本球界初の1億円プレイヤーとなり、監督としても手腕を発揮。その功績に影には、常に9歳上の姉さん女房、信子夫人の優れた“夫操縦術”があった。  日米通算200勝まで残り3勝としている楽天の田中将大は、2010年11月にタレントの里田まいとの交際を自身のブログで公表し、直後の2011年シーズンに19勝5敗、防御率1.27の好成績で沢村賞を受賞した。そして2012年3月に結婚。そのシーズンは腰痛での一時離脱もあって10勝4敗、防御率1.87と成績を落としたが、翌2013年には、まい夫人が何度もスタンドに駆けつけて声援を送った中、24勝0敗の伝説のシーズンを過ごしてチームの日本一に大きく貢献した。そして2014年からはMLBのヤンキースで6年連続2ケタ勝利をマーク。その活躍を陰で支えるまい夫人の“内助の功”は、誰もが認めるところになった。  マー君と同じく楽天とMLBで活躍した岩隈久志は、結婚後にスターダムにのし上がった投手だ。2002年12月にまどか夫人と結婚。翌2003年に自身初の2ケタ勝利となる15勝(10敗、防御率3.45)をマークすると、さらに2004年も15勝(2敗、防御率3.01)を挙げて一躍、球界を代表する投手となった。その後、楽天、そしてマリナーズで活躍を続けた後、巨人に加入して2020年シーズンを最後に引退。その間、公私ともに順調な暮らしぶり。2023年7月に第4子が産まれると、同年12月には結婚21周年を報告する“ラブラブ”な肩抱きショットを公開して話題となった。  最近の野手では、ソフトバンクの柳田悠岐だ。2015年の7月に交際2年で3歳年下の一般女性と入籍。するとそのシーズンの8月、9月に連続で月間MVPに輝く大爆発を見せ、最終的にシーズン打率.363、34本塁打、32盗塁でトリプルスリーを達成。チームを日本一に導き、自身はリーグMVPに輝いた。その後も球界を代表するスラッガーとして豪快なアーチを放ち続ける中、3人の子宝にも恵まれており、公私ともに充実した生活を送っていると言える。  昨季日本一となった阪神の右腕・青柳晃洋も、結婚後に“妻の力”が飛躍のキッカケになった。大卒3年目のシーズンが終わった2018年12月に小学生時代の同級生と結婚。それまでプロ3年間で計9勝(10敗)、2018年は1勝止まりで殻を破れずに苦しんでいたが、結婚後の2019年に自身初の開幕ローテ入りから計9勝を挙げて地位を確立。そして2021年、2022年と2年連続で13勝をマークしてエースへと成長を遂げた。年俸も結婚前の1200万円(推定)から結婚5年が経過して2億4000万円(推定)と20倍までアップすることになった。  今季から楽天の監督を40歳で務めることになった今江敏晃も、妻・幸子さんの存在が大きかった。今江の一目惚れで始まったという出会いから、交際1年半後の2004年に結婚。すると、当時はまだ2軍暮らしだった今江が、翌2005年にレギュラーに定着し、チームの主力に。  10歳年上の姉さん女房の支えを得て、ベストナイン、ゴールでグラブ賞、さらに日本シリーズMVPを受賞してブレイクを果たした。その後も活躍を続けて、結婚当初の年俸730万円(推定)は2億円(推定)まで上昇。引退後もコーチ、そして監督と、実に恵まれた野球人生を歩んでいる。  ここに挙げた面々と同じく、あるいはそれ以上に、大谷は「結婚→成績アップ」を成し遂げられるか。ちなみに元祖二刀流ベーブ・ルースは、プロ2年目のシーズンを終えた後の1914年10月に結婚すると、翌1915年に投手として18勝を挙げ、打者として打率.315、4本塁打を放って大きな飛躍を遂げた。その後の伝説的な活躍は言わずものがな。「ショウヘイ・オオタニ」の“電撃婚”が、新たな伝説の始まりになりそうな予感は、タップリある。
3月8日の「国際女性デー」とは 始まりは?海外では?
3月8日の「国際女性デー」とは 始まりは?海外では? (gettyimages)    3月8日は「国際女性デー」という記念日です。ジェンダー平等や女性特有の課題に向き合う日として、世界で広がり続けています。日本では国際女性デーにあたってお祝いをする習慣はありませんが、昨今のSDGsの普及に伴い、国際女性デーの存在を知る方も増えたのではないでしょうか。  この記事では、国際女性デーとはどんな日なのか、世界でどう祝われているのか、紹介します。  *   *   * 国際女性デーとはどんな日? (gettyimages)   「国際女性の日(International Women's Day)」は『女性の政治的自由と平等のために行動する記念日』として、1975年3月8日に国連で提唱され、77年の国連総会で議決されました。「ミモザの日」とも呼ばれ、欧米では、黄色いミモザの花をシンボルとして、男性が女性に感謝と敬意を込めて贈る風習があります。  国連では毎年テーマを定めており、2024年は「女性に投資を。さらに進展させよう。」だそうです。 (参考:内閣府男女共同参画局、unicef、国連広報センター、国連女性機関)   国際女性デーはどのように始まった?  1908年3月8日、米ニューヨークで女性たちが労働条件の改善と婦人参政権を求め、大規模な抗議活動をしたことに由来すると言われています。1910年にあったデンマーク・コペンハーゲンでの国際会議で、この日を国際的な女性の日とする提唱があり、1911年に欧州各地で初めて記念行事が行われました。  それから2度の世界大戦を経て、女性の権利は徐々に認められるようになっていったのです。   日本でも広がる国際女性デー  日本でも国際女性デーを盛り上げる、セミナーや講演会、表彰式など、さまざまなイベントが行われるようになっています。実施するのは、女性団体のほかに民間企業、自治体、大学など。3月8日の当日や、その前後の期間に実施されます。  国連女性機関(UN Women)は3月8日、東京・文京区と共催でシンポジウムを予定しています。  国際女性デーにあわせ、大阪市では大阪市役所や大阪城の天守閣、熊本市では熊本城の天守閣が、ミモザカラーにライトアップされます。  また、2023年の国際女性デーにあたっては、岸田文雄首相や東京都の小池百合子都知事らがメッセージを出しています。 (参考:首相官邸、東京都、大阪市、熊本市)   世界各国の国際女性デーの過ごし方  世界的に見ると、3月8日の「国際女性デー」を公式な祝日としている国もあり、広く浸透しています。また、ミモザなどの花やプレゼントを女性に贈る風習が世界各国にあります。 (以下、参考:国際NGO「ジョイセフ」、国連広報センターなど) イタリア (gettyimages)    イタリアでは3月8日を「FESTA DELLA DONNA」(フェスタ・デッラ・ドンナ=女性の日)とし、母親や妻、恋人に限らず、お世話になっている女性に敬意を込めてミモザを贈る風習があります。ミモザの花に見立てた黄色いケーキやパスタを作る習慣もあります。   ルーマニア (gettyimages)    ルーマニアでは、3月8日は祝日ではないものの、記念日として広く認識されています。この日は母の日とされていて、パートナーや子どもなどから花やプレゼントが贈られるそうです。   アメリカ (gettyimages)    アメリカでは3月を歴史における女性の貢献を振り返る「女性史月間」と定め、この期間はアメリカ議会図書館や国立公文書館で、その年のテーマに沿った展示など、さまざまなイベントがあるそうです。   ロシア (gettyimages)    ロシアでは、1917年3月8日の国際婦人デーのデモがロシア革命のきっかけとなった歴史があります。現在では恋人や妻に花束を贈ったり、男性が家事を肩代わりしたりと、バレンタインデーのような日になっているそうです。   中国 (gettyimages)    中国では3月8日の国際女性デーを「婦女節」と呼び、女性は半日休暇を取ることができるそうです。国際女性デーは広く浸透しており、化粧品などのお店やネットショップではセールを実施。なお、若者の間では「婦女という表現がダサい」とされ、「女王節」「女神節」と呼ぶこともあるそうです。   まとめ  3月8日の「国際女性デー」は、ジェンダー平等の実現など、女性の社会的な活躍を応援するイベントが、各地で行われます。また、「ミモザの日」とも呼ばれ、世界では女性に花やプレゼントを贈る風習もあります。  日本でも年々、浸透してきています。ミモザの花を買ってみるなど、気軽にできることから始めて、イベント気分を楽しむのもおすすめです。 (AERA dot.編集部)   【こちらも話題】 【国際女性デー・オンライン配信】女性の働き方、子育て、そして生き方…AERAの3媒体の編集長がゲストと語る「女性」 3月5~8日にトークライブ! https://dot.asahi.com/articles/-/215687  
天皇陛下は「悠仁さまを見守っている」 誕生日会見に込めた令和の天皇のメッセージ
天皇陛下は「悠仁さまを見守っている」 誕生日会見に込めた令和の天皇のメッセージ 悠仁さま初の地方公務となった全国高校総合文化祭「2023かごしま総文」で、実習を観察する悠仁さま=2023年7月、鹿児島県    天皇陛下の64歳の誕生日を前に、皇居・宮殿の長和殿「石橋の間」で記者会見があった。陛下は能登半島地震での犠牲者に対する追悼の意と被災者への見舞い、そして被災地訪問への意思を示した。一方で丁寧に言及したのが、秋篠宮家の長男悠仁さまについてだった。天皇や皇族が発信する言葉は時間をかけて、ご本人によって丁寧に練られるものだ。陛下の会見に込められたメッセージを、象徴天皇制を研究する名古屋大の河西秀哉准教授が読み解いた。 *   *   *  能登半島地震や社会の情勢、皇后雅子さまの体調や長女愛子さまの進路など、今年の記者会見は印象に残る話題が多かった。そのひとつが、秋篠宮家の長男悠仁さまについてだろう。  宮内庁記者会からの3つ目の質問は、皇位継承順位2位で、今年成年を迎える悠仁さまの成長や期待についてたずねるものだった。  陛下は、小さい時から甥として成長を見守ってきた悠仁さまが、各地への訪問で人びとと交流し、少しずつ皇室の一員としての務めを果たしていることを頼もしいと感じた、と話した。    象徴天皇制に詳しい名古屋大の河西秀哉准教授は、陛下のこうした言葉にある種のメッセージを感じたと話す。 「確かに、悠仁さまの話題に触れたきっかけは、記者会からの質問でした。陛下はご自身が日ごろ感じる思いを込めたはずです。陛下は最初に、悠仁さまが公務に参加し出した様子について言及しています。悠仁さまは、これまでの近現代の天皇のように父親の背中を見て皇位継承者として学ぶ環境にはありません。しかし、天皇陛下の言葉は、悠仁さまが公務に携わり成長している様子を天皇も見守っていますよ、ということでしょう」     【こちらも話題】 天皇陛下64歳に 雅子さまと「おそろい」だった「恋の歌」と琵琶湖の思い出 https://dot.asahi.com/articles/-/215079     63歳の誕生日を前に記者会見する天皇陛下=2023年2月21日、皇居・宮殿「石橋の間」    悠仁さまが高校に入学した2年前にも、「皇位継承者である悠仁さまへの期待」をたずねる質問が出た。しかし、事前に予定されていなかった関連質問だったためか、陛下の答えは「ぜひ実り多い高校生活を送ってほしい」といった程度にとどまった。  一方で今回の会見では、悠仁さまの私生活についても触れた。トンボや野菜の栽培、学校のバドミントン部の活動などについて「生き生きと話してくれます」と、現天皇が将来の継承者と交流をしている様子をさりげなく伝えている。  注目されている大学への進路については、「将来をしっかりと見つめながら実りの多い高校生活を」と言葉を締めた。 「天皇陛下は、質問の内容以上に皇族としての準備や私生活など細かいところまで答えています。世間では秋篠宮家への批判が集中しています。また『紀子さまは、皇后雅子さまや愛子さまを意識している』といったトーンを匂わせ、天皇家と秋篠宮家の分断をおもしろおかしくあおる記事も少なくない。両家は分断していませんよ、と柔らかに伝えているように感じました」   秋篠宮家との交流を発信  天皇陛下は以前も、天皇家と秋篠宮家とのやり取りについて言及している。たとえば、即位し、天皇として初めての誕生日を迎えた2020年の会見だ。  皇室の少子高齢化や継承問題についての質問に対し陛下は、皇室制度や会話の内容についての言及は控えるとしながらも、 「秋篠宮とは、折に触れ、いろいろな話をいたします」  と、皇室の将来に向けて意見を交わしていることを明らかにしている。  また昨年9月、ご一家は都内で開催された「日本伝統工芸展」を訪ねた。案内役を務めた秋篠宮家の次女の佳子さまを、天皇陛下が「佳子ちゃん」と呼んだことが話題になった。     【こちらも話題】 天皇陛下64歳 愛子さまは春風のような初々しいお手振り 雅子さまは娘にそっと声をかけた https://dot.asahi.com/articles/-/215192     天皇誕生日での一般参賀。最後の回は、天皇ご一家と秋篠宮ご夫妻、佳子さまが中央に集まる「サービス」がある=2024月2月23日、皇居・宮殿の東庭(写真映像部・松永卓也)    陛下は秋篠宮家との交流について、折に触れて世間にさりげなく発信しているものの、問題は世間の秋篠宮家に対する批判が一向におさまらないこの状況だ。  河西准教授は、秋篠宮家が悠仁さまを「秘密のベール」に包み過ぎている、と指摘する。 「高校生といえば繊細な年ごろですから、ご両親としてはそっとしておきたいというお気持ちもあるでしょう。一方で、いまの天皇陛下については、昭和の時代の上皇ご夫妻は記者会見などで、ユーモアを交えて浩宮さま(当時)のエピソードを話しています。秋篠宮家の広報戦略の領域ではありますが、もうすこし悠仁さまの情報をオープンにすることも、共感につながるのではないでしょうか」    悠仁さまは今春から高校3年生となり、進学先も注目される。同時に今年9月には18歳の成年を迎える。悠仁さまが担うものも、また大きくなりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)   【こちらも話題】 天皇陛下64歳 愛子さまは春風のような初々しいお手振り 雅子さまは娘にそっと声をかけた https://dot.asahi.com/articles/-/215192
令和版「東大卒女子」のリアルな結婚事情 30~40代の未婚率は7%以下でも「相手も東大生」は60%以上
令和版「東大卒女子」のリアルな結婚事情 30~40代の未婚率は7%以下でも「相手も東大生」は60%以上 東京大学駒場キャンパス    東大の入試が先週末からスタートした。例年、合格者のうち女子は2割程度。だが、全国からえりすぐられた秀才女子たちはときに、「東大卒は結婚に不利」というバイアスがかけられる。果たして、彼女たちは本当に結婚に苦労しているのか? 東大卒業/在学中の女性約1200人が所属し、婚活サポートも行う同窓会組織「さつき会」に、東大OGのリアルな結婚事情について聞いた。 *  *  *  1月14日、さつき会は「東大卒業生交流会」というオンライン婚活イベントを開いた。参加資格は、「25~60歳の、東京大学・大学院卒業生、及び在籍したことがある男女」。当日は男性14人・女性12人がバーチャル空間に集い、10分ごとに話し相手を代えて会話を楽しんだ。  今回で15回目となるこの婚活イベントは、2015年に、同窓生たちの要望を受けてスタートした。当初は着席のランチ会の形をとっていたが、「近くの席の人以外とも話したい」というニーズから立食形式に、次は「参加者全員と話したい」というニーズから、代わる代わる1対1で懇談する形に、そしてコロナ禍を機にオンライン形式へと変化していった。  さつき会の会員は50~60代が多いが、近年はネット検索やFacebook広告をきっかけに申し込んだ20代の参加者も増えており、「まずは東大卒同士のフランクな会で、婚活がどんなものなのか体験してみたい」という、“はじめの一歩”の場として活用する人も少なくないという。 さつき会が2021年に行ったアンケート調査によると、回答した東大のOGや女子学生の未婚率は18.8%(「東大女性の実態調査〜キャリア・生活・意識〜」から抜粋)   全国平均よりも未婚率は低い  だが、さつき会渉外担当の大里真理子さん(60)は、「東大OG全体にとって、結婚相手探しが深刻な問題だとは捉えていません」と話す。  というのも、実は東大卒女性の未婚率は、全国平均と比べて十分低いのだ。  さつき会は2021年、「東大女性の実態調査〜キャリア・生活・意識〜」としてオンラインアンケートを行い、東大のOGや女子学生361人の回答を集めた。その調査結果を見ると、回答者全体の未婚率は18.8%で、2020年の国勢調査で報告されている15歳以上の女性の未婚率・24.8%を下回っている。  年代別に見ると、30代後半〜40代半ばとみられる回答者(1999~2006年卒)にいたっては未婚率が6.7%であり、上記国勢調査が示す35~39歳女性の未婚率・26.2%、40~44歳女性の未婚率・21.3%と比べてかなり低い。  この結果を見れば、少なくとも今の日本において、「東大卒女性は結婚できない」という言説が根拠のないうわさにすぎないことは明らかだ。だがさつき会には最近でも、「地元では東大に行ったらお嫁に行けないと言われた」「女の子は上京させずに手元に残したいと家族に言われた」といった女子学生の嘆きの声が届くという。  なぜ、東大卒女性への“レッテル”は社会に深く根を下ろしているのか。その理由について、さつき会で婚活イベントを担当している小島有理さん(48)はこう分析する。 「少しずつ世の中の意識が変化しているとはいえ、自分よりも学歴や年収、社会的なポジションが高い女性に対して苦手意識を持つ男性は一定数いらっしゃると思います。実際、私の友人も婚活中、東大卒であることを相手の男性から『怖い』と言われて、ショックを受けていました。そういう体験談がある限り、『やっぱり東大を出ると結婚できないんだ』と、うわさの信ぴょう性が増して、それがなかなか消えないんでしょうね」 1月14日に開かれたオンライン婚活イベント「東大卒業生交流会」の様子 ※画像の一部を加工しています(さつき会Webサイトから抜粋)   相手に過度なスペックは求めない  東大卒女性の未婚率の低さは、そのような“うわさ”に影響されて「早く結婚相手を見つけなければ!」と焦る気持ちが働いた結果、という面もあるのかもしれない。  小島さんは、笑いながらこう続ける。 「まあ東大は男子が8割で、数の優位という意味で女子はめちゃくちゃモテるので、在学中は相手探しにあまり苦労しないと思います。あとはやっぱり、目的を遂行するための計画力と行動力に秀でた人が多いですね。卒業後、婚活イベントに参加するOGたちも、イベントで感覚をつかんだ後は自分の同級生に次々アプローチしたり、毎週末独身男性に会うようにしたり、まるで就活のように粛々と婚活に取り組んでいます(笑)」  その他にも、東大卒女性の結婚事情には興味深い特徴がある。 前出のさつき会の実態調査の結果を見ると、大学・大学院卒の夫を持つOGのうち、61.5%が東大同士で結婚しているのだ。  この実態について、前出のさつき会渉外担当・大里さんは次のように受け止める。 「単純に、就職して高学歴な人が集まる組織に属すると、東大出身者に出会う確率が高くなるからだと思います。意外とみんな、狭い世界で生きているのかもしれませんね。世間では、『東大卒女性は自分より学歴の低い男性を選ばないのでは?』と思われているかもしれませんが、そういう雰囲気はあまりないです。さつき会の会員たちを見ていても自己肯定感の高い方が多いので、相手に対して過度にスペックを求めることはしないのかもしれません」 東大大学の安田講堂   東大卒の男性の方が「気楽」な面も  一方で小島さんは、「東大卒男性と一緒にいるのは気楽な面もある」と、OGの本音をのぞかせる。 「私、前の夫は東大卒じゃなかったんですけど、自分のほうがTOEICの点数が高いこととかがちょっと気まずかったりして。でも東大卒の今の夫の前だと、何も気をつかわずに政治や歴史の話をしたり、難しい本を読んだりできて、楽なことは確かです」  東大卒女性には、「私がこう言ったら嫌みに聞こえるんじゃないか」「こういう行動をしたら偉ぶってると思われるんじゃないか」と気にする人も、少なからずいるようだ。  だからこそ小島さんは、婚活に取り組む東大OGたちへのエールも込めて、こう口にする。 「『東大卒ってバレたら相手から嫌がられるかも』と不安な人もいるかもしれませんが、今は男性側の価値観も多様化している。たとえば、『自分は起業に挑戦するから妻には安定的に稼いでほしい』『休みの日も仕事に打ち込むことを理解してほしい』と考えている人だっています。高学歴男性とお嬢様学校出身の女性という夫婦像がマジョリティーだったのは、ずっと昔の話です」 令和を生きる東大卒女性は、そろそろ、お見合い結婚時代の亡霊のような価値観から解放されてもいいはずだ。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
【大河ドラマ「光る君へ」本日第8話】平安貴族たちがハマって「禁止令」がでたゲームとは?
【大河ドラマ「光る君へ」本日第8話】平安貴族たちがハマって「禁止令」がでたゲームとは? 蹴鞠は、約1400年前に中国から伝わったとされる球戯の一種。現在も各地の神社などで奉納蹴鞠が行われている  2月18日に放送された「光る君へ」第7話では、藤原道長(柄本佑)らが、ポロに似た球技の打きゅうに興じ、まひろ(吉高由里子)や、後に道長の嫡妻となる源倫子(黒木華)らがそれを見物する、という場面が描かれた。2月25日に放送予定の第8話は、その打きゅうの後日談が展開されるようだ。  実際、平安貴族たちは雅なスポーツやゲームを通じて、交流を深めていた。『出来事と文化が同時にわかる 平安時代』(監修 伊藤賀一/編集 かみゆ歴史編集部)は1章を割いて、平安貴族たちの暮らしについて解説している。今回は彼らの「遊び」について、この本を引用する形でリポートしたい。 *** 碁は平安時代には貴族のたしなみとされた。『源氏物語』だけではなく『枕草子』にも、碁についての記述がある  双六はサイコロを使って二人で遊ぶボードゲームで、出たサイコロの目の数だけ駒を進め、先に敵陣に送り終えたほうが勝ちだった。あまりのブームに一時期は禁止令が出たほどだったという。ただゲームをするだけでなく、物を賭けたり、負けたほうに罰ゲームを課したりと、賭博要素を加えてスリルも楽しんでいた。テーマを決めて歌を詠み合う「歌合(うたあわせ)」といった文化的なゲームも盛んだった。   管弦や舞楽は遊びではあったが、重要な儀式でも行われることから、平安貴族の教養としてもてはやされた  また、当時は単に「遊び」というと管弦(楽器)のことを指した。横笛や太鼓、琵琶など、現代でも演奏されている和楽器が愛好された。和琴(わごん)や笙(しょう)などを披露する楽器の演奏のほか、音に合わせて舞を舞う「舞楽(ぶがく)」も行われた。  サッカーのリフティングのように、ボールを地面に落とさないようパスし合う球技「蹴鞠(けまり)」をはじめ、体を動かす遊びも好まれた。蹴鞠は男性貴族の間で大流行。リフティングをしながら寺院の欄干を渡る名人もいたそうだ。その他に、いまでいう射撃のような「競射(きょうしゃ)」や「鷹(たか)狩り」など、武芸も発展した。 女性が外で顔を見せるのはタブー。物詣で神社を参拝する際は、女性たちは市女笠(いちめがさ)をかぶった  大きい雪玉をつくる「雪遊び」も好まれ、『源氏物語』には、雪が降ったあとに雪玉を転がす貴族の姿が描かれている。とはいえ、彼らは宮仕えの身なので、遊ぶといってもほとんど遠出はできず、自分や友人の邸宅内や庭などで楽しんだという。  一方、邸宅の中で過ごすことの多い貴族女性も、ただぼんやりと過ごしていたわけではない。床に広げた貝殻の美しさを競ったり、歌を詠み合ったりする「貝合(かいあわせ)」、好きな物語を読む「読書」など、屋内遊戯を友人や女房と楽しんでいた。  女性にとっては、家を離れて寺院に参拝する「物詣(ものもうで)」も遊びの一つ。貴族女性にとって、遠出して寺院に向かうのは、参拝をかねた楽しい行楽だった。特に清水寺、石山寺、長谷寺などが人気があり、泊まり込みで、経文を声に出して読む「誦経(じゅきょう)」を行ったという。  1000年前の平安貴族たちも、余暇を見つけて遊び、交流を深めていたのは現代と同じだった。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希/イラスト 夏江まみ)
天皇誕生日 雅子さまの心からの笑顔の理由と、陛下の祈りを「直に」感じたSS席9670分の1
天皇誕生日 雅子さまの心からの笑顔の理由と、陛下の祈りを「直に」感じたSS席9670分の1 手を振る天皇、皇后両陛下と愛子さま。笑顔がまぶしい(撮影/写真映像部・松永卓也)  天皇陛下が64歳の誕生日を迎えた2024年2月23日、生まれて初めて一般参賀に行ってきた。午前中に3回ある参賀の初回、陛下に向かって正面やや左寄り、前から3列目という場所から祝った。不謹慎な例えと承知しつつ説明するなら、間違いなくSS席だった。そこから陛下、皇后雅子さまと長女愛子さま、秋篠宮ご夫妻と次女佳子さまを見た。あれこれと思ったことを書いていく。 *   *   *  まずSS席にたどり着くまでの道のりだ。宮内庁ホームページ(HP)で「参賀者は午前9時半から皇居正門(二重橋)から入る、お出ましは午前10時20分頃から3回」と把握、1回目に参賀するにはとにかく早く行こうと決意した。23年の「落選」があったからだ。  新型コロナウイルスの5類移行前だった昨年の天皇誕生日、参賀は事前申し込み制だった。申し込んだ。2月1日に宮内庁から<【抽選結果】令和5年の天皇誕生日一般参賀の宮殿東庭における参賀について>という長い件名のメールが来て、開けたら「落選」だった。6万1031人が応募、4826人が当選、倍率は12・6倍だったそうだ。  24年1月2日の新年一般参賀は、前日に起きた能登半島地震に鑑み中止になっている。その分の参賀希望者増も予想される。宮内庁HPには「午前中に来ても大勢だったら午後の記帳に回ってもらう」旨が書かれていた。それは避けたい。というわけで、午前7時45分に到着したが、すでに長い列ができていた。 周囲の人が自然に傘を閉じていた  雨が降る寒い日だったが、どんどん人が並ぶ。30分ほどすると、「昨日からお待ちの方から、荷物を確認していきます」というアナウンス。昨日? 私、出遅れている? 不安を覚えつつ荷物&身体検査を経て、二重橋前へ。私が並んだ列の先頭には「早朝者②」と書かれたプラカードを持った警官がいた。早朝組の2番目。早く来た甲斐があったとほっとする。  9時を過ぎ、列が動き出す。一般人が渡れるのは参賀の時だけという二重橋を渡ったのが9時半過ぎ、そこからは自由に歩く感じになり、宮殿東庭に到着したのは9時45分。流れのままに進んだところ、前から3列目に。そんな感じだった。  到着してすぐ、不思議なことに気づいた。周囲の人がみな、自然に傘を閉じていたのだ。ここに来るまでに何カ所か「DJポリス」がいたし、東庭では宮内庁から注意事項がアナウンスされた。が、傘を閉じるようにとは全く言われていない。気づいたらみなが傘を閉じていた。フードなどを被っている人も多かったが、何も被らず雨に濡れている人もいた。前後左右を見渡し、傘をさしていたのは最前列に1人、10列目あたりに1人だけだった。   お手振りをはじめた天皇、皇后両陛下を前に、自然と傘を閉じた参賀者たち(撮影/写真映像部・松永卓也)  なぜ、みなが傘を閉じたのだろう。私が思ったのは「SS席だからだろうか」ということだった。有り体に書くなら、せっかく近くなのだから傘などに遮られることなく見たい。お互いのそういう気持ちがまとまった、そんな感じかと思ったのだ。  だが、SS席だけではなかった。お出ましが近づき、参賀者の傘が閉じられた様子をフジテレビ皇室担当解説委員の橋本寿史さんがFNNプライムオンラインに書いていた。東庭後方から撮った写真もあり、見ると確かにほとんどの傘が閉じられている。2回目も3回目も同様だったそうだ。 女性皇族方が笑顔でうれしそう  10時20分過ぎに陛下が姿を表す。雅子さま、秋篠宮さま、紀子さま、愛子さま、佳子さまが続く。「愛子さまー」などと叫ぶ人々が多数いるかと予測していたが、ほぼいない。静かな中で陛下がお一人で手を振る。ややあって、雅子さま、それから秋篠宮さま……と続く。  陛下の言葉の前後のお手振りが意外と長く、SS席からいろいろなことが見えた。雅子さまと愛子さまは何か話しているなー、とか、佳子さまは好奇心たっぷりな表情だなー、とか。そして何よりうれしかったのが、雅子さまをはじめとした女性皇族方が笑顔でうれしそうだったということだ。  話がずいぶんさかのぼるが、令和になる前と後、2度にわたって精神科医の斎藤環さんにインタビューした。斎藤さんは平成の時代、雅子さまの適応障害について「実存のうつ」、つまり皇室の中で生きる意味を見失ってしまったのではと見立てていた。令和前、斎藤さんは「実存は中身であり、地位では埋められない」と語っていた。が、令和になり、雅子さまは体調が好転したようだった。トランプ大統領の来日で自信を得て、人前に立つことに意味があると感じられるようになったのではないか、と斎藤さんは言っていた。 笑顔でお手振りをする天皇、皇后両陛下と愛子さま(撮影/写真映像部・松永卓也)    その時の斎藤さんの言葉を一部引用するとこうだ。「自分たちは被災者を励ます存在で、つまりいるだけで価値がある。そういう存在だから、自分を見せる、見てもらうことに意味がある。そのことに気づかれたのではないでしょうか」(アエラ19年10月28日号) 存在意義の「現場」にいる  一般参賀のSS席で私は、斎藤さんのこの言葉を思い出した。雅子さまをはじめ紀子さま、愛子さま、佳子さまのうれしそうな様子に思い出したのだ。見せる、見てもらうことに意味がある、その「現場」にいると思った。雨の中、傘もささずに東庭に立つ国民。その理由を私はしかと言葉にできないが、少なくとも熱気のようなものはそれぞれのもとに届いたのではないだろうか。  秋篠宮家の長女の小室眞子さんは、「皇室を出たい」と切望していたと思う。「男系男子」の皇室にあって女性皇族が理不尽な立場に置かれていることを、私は何度も書いてきた。皇室を働く組織とみなせば、女性皇族にとってそこは「やりがい搾取」の職場だと思うからだ。だが、当たり前だが皇室は職場ではない。外務省という職場を辞して皇室に入った雅子さま。バッシングの最前線に立たされている紀子さま。皇室に生まれた愛子さまと佳子さま。全員の笑顔が心からのもので、それは「存在意義の現場」にいるから。そう思えた。  陛下の話が遅くなってしまった。23日朝、列に並びながら、陛下の誕生日にあたっての記者会見の内容を読んだ。参賀を終え自宅に戻り、もう一度じっくりと読んだ。参賀を経て改めて読み直し、発見した言葉があった。「直に」だ。陛下は4カ所で、この言葉を使っていた。1カ所は愛子さまの大学生活のことだったので、ご自身と雅子さまのことを述べた3カ所を引用する。 天皇陛下の「直に」のお言葉 <今回訪れた、陸前高田市、大船渡市や釜石市では、被災地の皆さんから直にお話を聞くことができ、幾多の困難を抱えながら弛みない努力を続けてこられた姿に心を打たれました> <今年の歌会始の歌でも詠みましたが、各地を訪れた際に皆さんと直に接することができたことは、大変嬉しいことでした> <新型コロナウイルス感染症の感染拡大の落ち着きを受けて、都内においても様々な行事が再開され、そして、地方への訪問も行うことができるようになり、皆さんと直に会って人と人との絆を深めることができるようになったことを、雅子と共に、とても嬉しく思っています> 秋篠宮ご夫妻、佳子さまも笑顔でお手振り(撮影/写真映像部・松永卓也)   参賀で「直に」を体感した  私は参賀で「直に」を体感した。だから目がいったのだ。陛下は参賀で、まずはこう述べた。「冷たい雨が降る厳しい寒さの中、誕生日にこのように来ていただき、みなさんから祝っていただくことを誠にありがたく思います」。途中、能登半島地震へのお見舞いをはさみ、「みなさん一人一人にとって、穏やかな春となるよう祈っております。みなさんの健康と幸せを祈ります」と結んだ。最高気温が4度という東京の真ん中で、雨に降られながら聞いた「穏やかな春」に、心が温かくなった。  実は陛下は昨年の誕生日にも、「皆さん一人一人にとって、穏やかな春となるよう願っています」とほぼ同じことを述べている。だが、東庭で聞いた陛下の「祈っております」は宮内庁HPで読む「願っています」とはまるで違った。「祈っている」対象に私も含まれる。そんなふうに感じたのだ。 皇室の存在意義と「国民との心の交流」  皇室の存在意義が問われていると思う。SNS上で国民が皇室をバッシングすることが普通になっていて、象徴天皇制の“揺れ”のようなものを感じる。誕生日にあたっての会見では、陛下に「皇室へのバッシングと受け取れる一部の報道やインターネット上の書き込み」について記者が尋ねている。情報発信のあり方や誤った情報への対処の仕方を聞いたのだが、陛下はこう答えている。 <国民と心の交流を重ね、国民と皇室の信頼関係を築くに当たっては、皇室に関する情報を、国民の皆さんに、適切なタイミングで、分かりやすく発信していくことは大事なことであると考えています>  「国民と心の交流を重ねる」は、とても良い表現だと思った。象徴天皇制とは何かということは、昭和天皇も上皇さまも考えに考えただろう。陛下も当然のことだが同様で、その一端が「国民との心の交流」という言葉になったと感じた。心が交流するための手段は、さまざまある。その一つが「直に」だろう。  一般参賀には記帳と合わせ、1万5900人が訪れたという。初回は9670人だったそうだ。9670分の1として「直に」はとても大切だと、実感した。 雨が降るなか、早朝から列をつくった参賀者たち(撮影/写真映像部・松永卓也)  
天皇陛下64歳に ユーモアある名言に映る「どんな人とも分け隔てなく」の人間性
天皇陛下64歳に ユーモアある名言に映る「どんな人とも分け隔てなく」の人間性 天皇誕生日の一般参賀で、集まった人たちに手を振る天皇、皇后両陛下=2024年2月23日、皇居・宮殿 写真映像部・松永卓也    23日、64歳のお誕生日を迎えられた天皇陛下。本格的なコロナ禍明けとなり、昨年はそれまで制限が緩和され、園遊会やインドネシア訪問などに際して、天皇陛下の声を聞く機会も増えた。天皇陛下のふとしたひと言はユーモアにあふれ、アドリブ力に長けていて、私たちを和ませてくれる。そんな天皇陛下のユーモアのある言葉を振り返る。   *   *   *    天皇、皇后両陛下は2023年6月17日から23日まで、インドネシアを訪問された。お二人にとって、初めて国賓待遇で外国訪問だ。 2023年6月、ダルマ・プルサダ大学を訪問し、日本語を学んでいる学生と日本語で話す天皇、皇后両陛下 代表撮影  そのインドネシア訪問で注力したい項目に掲げられていたのが、インドネシアの若い世代の人たちとの交流だった。    日本に留学経験のある人たちで設立されたインドネシアの私立大学「ダルマ・プルサダ大学」で日本語を学ぶ学生らと交流したときのこと。日本のアニメが好きだという学生に、好きなアニメのタイトルを天皇陛下は質問された。   「『NARUTO』が好き」と答えると、すかさず天皇陛下は   「私は『NARUHITO』(徳仁)です」と答えられた。   笑いが起きてさらにひと言    雅子さまはもちろんのこと、その場にいた人たちからどっと笑いが起きたという。その笑いの盛り上がりを受けて、すかさず天皇陛下は、   「特に関係はないのですけど」    と、今度はご自身で会話をサラリと回収された。    インドネシア訪問時のユーモアセンスとアドリブは際立っていたが、実は天皇陛下は若い頃から、数々のダジャレを披露していることでもよく知られる。 【こちらも話題】 愛子さま昼食会デビューの圧倒的オーラの背景に「雅子さまにそっくり!」な所作と心 https://dot.asahi.com/articles/-/214759    学生時代には食事の場で、胡椒が出ないときに「故障(こしょう)かな!?」とつぶやかれたり、夏のご静養に向かう那須塩原駅でハンカチで汗をぬぐわれ、「ハンカチ王子」といわれたこともある。    インドネシア訪問に話を戻すと、ジャワ島中部の仏教遺跡「ボロブドゥール寺院」を訪れたときのことだ。寺院を熱心に見て回られたあと、全日程を終えられ囲み取材に応じられた。   サンダルの質問に笑顔    そのときの天皇陛下のいでたちは、インドネシアの伝統的な布地・バティックのシャツにサンダル履き。サンダルは遺跡を傷つけないためのものだった。    インドネシア訪問を振り返る質問に真摯に答えられる天皇陛下に、記者から「サンダルはいかがでしたか?」と、変化球の質問が飛んだ。   「サンダルは……思っていたよりも履き心地が良かったです」    と、笑い声を出しながら、優しい表情で答えられた。天皇陛下の珍しいサンダル姿とその答えで場が和み、そして、「ひと言付け加えさせていただければ……」と、サンダルを履くことが遺跡保存につながる大切さを語られた。 世界遺産のボロブドゥール遺跡を見学し、報道陣に手を振る天皇陛下=2023年6月22日、インドネシア・ジョクジャカルタ郊外    天皇陛下のフラットな会話が聞ける場といえば、園遊会だろう。春の園遊会は2018年以来4年半ぶり、令和になって初めて開催された。秋の園遊会もコロナ禍や代替わり行事のために5年ぶりだった。 園遊会に出席し、将棋棋士の加藤一二三さん夫妻(右手前)ら招待者と話す天皇、皇后両陛下=2023年11月2日    秋の園遊会の招待者のひとり、加藤一二三氏が猫を飼っている話を聞きながら、天皇陛下は、   「ここにも猫がいるんですよ」    と、園遊会が開催された赤坂御苑の敷地を手で指し示された。 【こちらも話題】 天皇陛下64歳 愛子さまに願う「感謝と思いやりの心を持って」愛情あふれるお言葉で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/215156    こうした場を和ませる、ユーモアセンスと対応力、そしてアドリブ力に皇室番組放送作家のつげのり子氏は天皇陛下の「豊かな人間性を強く感じる」と話す。   「天皇陛下について思うのは、どんな人にも分け隔てなく接し、気さくなユーモアにあふれていらっしゃることです。私が取材した人たちは口をそろえて、“あんなにいい人はいらっしゃらない”というほど。誠実で真面目な深い人間性を誰もが話してくれました」    つげ氏が天皇陛下のユーモアセンスで思い出すのは、中学生時代のエピソードだ。   「天皇陛下は学習院中等科の頃から盆栽がお好きで、ご学友から“じい”というニックネームで呼ばれていました。転校してきた外国人に“My name is G”(マイ ネーム イズ ジィ)とニコニコして語りかけたという話があります。当時から、こうしたユーモアが相手の心を開くきっかけになるのをわかっていらしたのだと思います」    確かに、「私の名前はじいです」と自己紹介されたら、「じい!?」と聞き返し、ニックネームの由来から盆栽の話まで会話は続くだろう。 「第98回国風盆栽展」を鑑賞する天皇、皇后両陛下と長女愛子さま。天皇ご一家の楽しそうな会話が聞こえてきそうなショット=2024年2月16日、東京都台東区の東京都美術館 代表撮影  ユーモアだけでなく言葉選びのセンスも感じるとつげ氏はいう。   「言葉選びのセンスという点では、独身時代の皇太子殿下(当時)は記者会見で結婚について記者から“富士山に例えると、いま何合目?”と質問され、“山頂は見えていてもなかなかそこにたどりつけないという感じ”と説明し、記者たちの笑いを誘って、センシティブな話題を明るくかわしていらっしゃいました」    触れづらい、答えづらいテーマにも関わらず、質問される結婚について、富士山の山登りをイメージさせる言葉で答えられたのはさすがである。   チーズケーキをポロリ    さらに、印象的なあるエピソードをつげ氏は明かしてくれた。   「2015年に東日本大震災からの復興支援活動を行う岩手、福島、宮城の高校生5人と東宮御所で懇談されました。テーブルには紅茶とチーズケーキが並んでいたそうで、陛下が“どうぞ、どうぞ”とすすめられましたが、緊張からか高校生たちは誰も手を付けられませんでした。    そこで、陛下は率先して“では、私から食べましょうか”とケーキのお皿を手に持ち、フォークで切り取ったところ、うっかり落としてしまいました。    わざとだったのか、偶然だったのか……結果的にみんなに笑いが広がり、心が和み、高校生のみなさんも遠慮なくチーズケーキを食べることができたそうです。    そういうユーモアに包まれた気遣いからは、天皇陛下の明るく、誠実な人間性が伝わってきますよね」    お誕生日の一般参賀はコロナ禍以降4年ぶりに事前応募の人数制限がなくなった。64歳の天皇陛下のユーモアあふれる明るく楽しい言葉に触れる機会も、ますます増えることだろう。(AERA dot.編集部・太田裕子) ◎つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
“朝ドラ成分”多めの大河ドラマ「光る君へ」 視聴率は苦戦も「女子わかるわかる成分」で応援したくなる理由
“朝ドラ成分”多めの大河ドラマ「光る君へ」 視聴率は苦戦も「女子わかるわかる成分」で応援したくなる理由 まひろが仕事をしていたのは、絵師(三遊亭小遊三)が営む代筆屋。楽しそうなまひろだが、父に働くことを禁じられてしまう(写真:NHK提供)    2024年の大河ドラマの主人公は、『源氏物語』を書いた紫式部。幕末や戦国時代を描くことの多い大河では珍しく、視聴率も苦戦中という。だからこそ、女子の出番。朝ドラスピリッツで応援だ!という話です。AERA2024年2月26日号より。 *  *  *  いろいろなことが苦手だが、歴史は特に苦手だ。四十七士は大石内蔵助で、新選組は近藤勇。それくらいをうっすら知っている感じの人生を送ってきたから、「大河ドラマ」とも縁遠い。全話制覇したのは「いだてん〜東京オリムピック噺〜」(2019年)だけだ。そんな私が「光る君へ」について書く。図々しい。が、思ったのだ。これは女子が引き受けるべき大河でしょう、と。  見始めたのは、贔屓にしている俳優・柄本佑が藤原道長役だと聞いたからだ。見て驚いたのが、「朝ドラ成分」が多かったことだ。私は「朝ドラ」を偏愛していて、『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』という本まで出してしまった。女子の何者かになろうとあがく姿が自分と重なり、心引かれるのだ。 「光る君へ」のヒロインは、後の紫式部・まひろ(吉高由里子)だ。平安時代を生きる下級貴族の娘だが、その視線は今どきで「わかる、わかる」と朝ドラを見ているような気分になる。そこから「引き受けるべき」とまで思うに至ったのは、視聴率が芳しくないと聞いたからだ。 イラスト/小迎裕美子(AERA 2月26日号から)   女子がひと肌脱ぐしか  初回の平均世帯視聴率が関東地区で12.7%、関西地区で10.1%(ビデオリサーチ調べ)。関東地区は89年放送の「春日局」の14.3%を下回り、過去最低と報道されていた。  うーむ、これ、わかるかも。そう思った。素人の分析で恐縮だが、大河ドラマを支えているのは「御意っ」とか「合戦じゃー」とか、そういう台詞に萌える男性たちだろう。ところが「光る君へ」は貴族社会、しかも「源氏物語」だ。ラブ成分多めが予想され、敬遠した男性たちが少なからずいたと思う。  もちろんそんなことは制作陣だってとっくに計算に入れているわけで、道長の父で右大臣の藤原兼家(段田安則)などは「歩く権謀術数」とでも名づけたい人物だ。安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)も陰陽師というよりは「陰気な政商」といった趣で、彼らが平安京をうごめき、権力の陣取り合戦を進めていくであろうことはよくわかる。  が、朝ドラ好きの贔屓目(?)かもしれないが、そういう「従来型大河成分」よりも「朝ドラ成分」、すなわち「女子心わかるわかる成分」が目立つ。であればここはもう、女子がひと肌脱ぐしかないではないか。私の中の義侠心が、心でそう叫んだ。 道長とまひろ。まひろは道長を幼名で「三郎」と呼んでいたが、因縁ありまくりの藤原家の三男「道長」だと知ってしまう(写真:NHK提供)   女であることの悲しみ  ということで、ここから朝ドラ成分について解説していきたい。「光る君へ」で感じたのは、「女であることの悲しみ」に自覚的なドラマだということだ。初回、子役が演じたまひろの話から始める。  まひろの父・藤原為時(岸谷五朗)は博識だが無官、生活は苦しい。だが、しっかり外泊する。ナレーションで「この時代、男が嫡妻のほかに妻を持つことは珍しくなかった」と解説が入ったが、見ているこちらは令和の住人、「就職が先では?」と思う。その思いを代弁するかのように、まひろが母(国仲涼子)に不満をぶつける。「母上が毎日願掛けをして、父上のことをお祈りしているのに、なぜ父上は今宵も家をあけて平気なの?」  平安貴族の夫婦の形は今と違う。「光る君へ」は違う形を前提に、男女のありようを主題の一つとするのだろう。だが、あえてヒロインに父親の外泊を抗議させる。男性と女性の力の不均衡への違和感、それがテーマになるのだな。もう一つの場面と合わせ、勝手に確信した。  それはまたしても無官で終わった為時が、たそがれて読書するシーンだった。まひろが近づき、何を読んでいるのかと尋ねる。『史記』の本紀だ、と為時。まひろは読んでくれとねだる。為時がまひろの弟も呼ぶが、遊んでいて見向きもしない。為時はこう言う。「おまえがおのこであったらよかったのにな」  朝ドラ「カーネーション」(11年度放送)を思い出した。コシノ3姉妹を育てた小篠綾子がヒロイン糸子のモデルだが、その子役時代に、これとそっくりな場面があった。糸子は気の弱い父に代わり、呉服屋の掛け金を回収する。度胸と機転でどんどん回収する。父が言う。「おまえが男の子やったら、どんだけおもろかったやろうのう」  私は「一番好きな朝ドラ」を聞かれるたびに、「カーネーション」と答える。「女であることの悲しみ」を通奏低音に、切ないけれど胸がすく、そんな朝ドラだったからだ。「光る君へ」に同じ匂いを感じたし、それは2話以降も変わらなかった。 朝廷のトップ3。左から右大臣・藤原兼家、左大臣・源雅信(益岡徹)、関白・藤原頼忠(橋爪淳)。頼忠は声がすごく小さい(写真:NHK提供)   「娘が働く」は顔に泥  2話の冒頭、まひろは成人の儀式を終える。代筆という仕事をする「働く女子」になっていた。恋に悩む男性に、和歌などをさらさらと書いて渡す仕事だ。ただし姿は見せず、低い声で客とやりとりをしている。男性を装っての仕事なのだ。  ところが、この仕事を父から禁じられる。正式な職を得られそうな父親が、〈娘が働く=自分の顔に泥を塗る〉と認定する。「代筆仕事などにうつつを抜かすようなこと、あってはならぬ」という父に、まひろが叫んだ。「代筆仕事は、私が私でいられる場所なのです」  朝ドラ成分の叫びだった。朝ドラヒロインに引かれるのは、「自分が自分でいられる」場所を探しているからだ。それを女だからと奪われるまひろの無念、「女である悲しみ」がしんしんと鳴っている。  この感覚は、まひろだけのものでない。道長の姉・詮子(吉田羊)は円融天皇(坂東巳之助)との間に男子をもうけるが、天皇の心は別の女性に移り、今は全く相手にされていない。詮子は兄弟3人の中で唯一心を許している道長にこう語る。 「この世の中に心から幸せな女なんているのかしら。みーんな男の心に翻弄されて泣いている」  と、ここで少し、道長とまひろのラブの話。2人は幼年期に出会い、互いに引かれ合う。道長が引かれたのは、漢文に長け、率直なまひろ。だが、この2人、結ばれないとわかっている。 自分が自分でいたい  道長は父のライバルである左大臣の娘倫子(黒木華)と結婚するのだ。この記事は5話まで見たところで書いているが、まひろと倫子はすでに友人のような関係になっている。ただし令和の目には倫子が「腹の読めない女」に映り、気がかりだ。道長&まひろ&倫子の関係はどうなるだろう。と、これも従来型大河ファンより朝ドラファン向きの話では、と思いつつ。  まひろと道長が再会した時、まひろは代筆について、「それは楽しい仕事なのよ」と語る。道長は「へー、この世には楽しいおなごもいるのか」と意外そうに返す。そして、こう続ける。「俺のまわりのおなごは皆、寂しがっている。男は皆、偉くなりたがっておる」  この台詞こそ、我が朝ドラ心だと思った。そう、偉くなりたいんじゃない、自分が自分でいたいんだ。大石さん、すごい。  最後になったが、脚本はあの大石静さんだ。大河は「功名が辻」(06年)に続いて2度目、朝ドラも2本(96年度「ふたりっ子」、00年度「オードリー」)書いている。朝ドラ心がわかり過ぎている大石さんの描く大河だから、私はただただついていこうと誓うのだった。(コラムニスト・矢部万紀子) ※AERA 2024年2月26日号より抜粋
天皇陛下64歳 雅子さまと「ひとりひとりの穏やかな春を願う」陛下 目の回る忙しさでもにっこりの気遣い
天皇陛下64歳 雅子さまと「ひとりひとりの穏やかな春を願う」陛下 目の回る忙しさでもにっこりの気遣い 午前11時40分から3回目の一般参賀でにこやかにお手振りをする天皇ご一家。天皇陛下は朝から祭祀に臨み、両陛下はすでに3回の祝賀行事に出席している=2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA)  2月23日の天皇誕生日は、みぞれが降る厳しい寒さにもかかわらず、皇居・宮殿の東庭は熱気に包まれた。一般参賀で行われる天皇陛下と皇族方によるお手振りは、皇室と参加者との一体感を感じる場面だ。一回のお手振りはわずか4分ほどの時間。だが、ベランダから退出後は宮殿内を移動して祝賀を受けるなど、両陛下にとってこの日は目の回るような忙しさなのだ。参賀者の目に見えないところも含めて、天皇誕生日の両陛下の一日のスケジュールを辿ってみよう。 * * *  9時、天皇陛下と皇嗣である秋篠宮さまは、皇居の宮中三殿で、天皇の誕生日を祝う祭祀の「天長祭の儀」に臨んだ。陛下と秋篠宮さまは、三殿にそれぞれ拝礼する。  明治に始まった祭祀で、昭和の時代は当時の天皇が高齢になったこともあり代理による拝礼だったが、平成に入ってからは天皇と皇太子が拝礼する形に戻った。  かつて天皇家に仕えた人物は、こう話す。 「天長祭の祭祀は、長くても15分ほどです。というのもこの日は行事が詰まっており、すぐに次の予定に向かう必要があるためです」  天皇陛下は、宮中三殿から急ぎ宮殿に向かう。10時から天皇陛下と皇后雅子さまは、宮殿の「鳳凰の間」で宮内庁長官や皇宮警察本部長など宮内庁幹部らからの祝賀を受けるからだ。 お手振りの場面でも表情豊かな愛子さま。パールで統一したアクセサリーがよくお似合い=2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA)  10時20分、天皇陛下は国民から祝賀を受けるため、長和殿のベランダにお出ましになった。1回目の一般参賀だ。天皇陛下と皇后雅子さま、長女の愛子さまと秋篠宮ご夫妻、次女の佳子さまの6方が一列に並ぶ。能登半島地震へのお見舞いの気持ちを表すためか、ドレスの色は、皇后雅子さまは紺色、愛子さまはブルーグレーのような淡い色と控えめだった。  天皇陛下がお言葉を述べ、皇后雅子さまや愛子さま、秋篠宮ご夫妻と佳子さまらのお手振りが始まった。参賀者は、肩や頭を濡らしながらも一斉にスッと傘を下げ、旗を高く振って、お祝いを口にする。雨はみぞれに変わり厳しい寒さであったが宮殿の東庭は集まった人びとの熱気であふれている。参賀者と皇室がまさに一体となる瞬間だ。  ベランダに姿を見せてから、退出するまでわずか4分ほど。しかし、参賀者の目に見えないところで、主役である天皇陛下や皇后雅子さまは夜まで分刻みのスケジュールが続くのだ。  ベランダから退出して5分ほどで陛下と皇族方はベランダのある長和殿から中庭をはさんだ正殿にすぐさま移動。   10時30分、天皇陛下は「松の間」、皇后雅子さまは「梅の間」に入り、それぞれ秋篠宮ご夫妻や皇族方からお祝いを受ける行事が始まる。皇族方からの祝賀を受けたのちは、天皇陛下も皇族方も中庭をはさんだ長和殿に再び戻る。  11時から、2回目の一般参賀が始まった。  天皇陛下は一回目と同じように、能登半島地震の犠牲者に改めて哀悼の意を示し、被災者にお見舞いを伝えた。天皇陛下に続いて皇后雅子さまや愛子さま、秋篠宮ご夫妻と佳子さまらが、ほほ笑みながらお手振りをはじめると、東庭はまたもや歓喜に包まれた。   退出後、両陛下は長和殿から正殿の「竹の間」へ素早く移動する。そこで11時20分から、元皇族や親族からの祝賀を受けた。息をつく暇もなく、両陛下はベランダのある長和殿へ戻る。このように一般参賀の間に正殿と長和殿の行き来を繰り返しているのだ。  11時40分からは、最終となる3回目の一般参賀が始まった。   今年の冬の厳しい寒さや大雪にも触れて、 「皆さん一人一人にとって、穏やかな春となるよう祈っております」  とメッセージを伝えた。  最後の回は、天皇陛下と皇族方が全員、ベランダの中央に寄る「サービス」がある。出席する皇室メンバーがぎゅっと集まる光景を楽しみに、最終回に足を運ぶ常連の参賀者もいるほどだ。 最後の回の一般参賀は陛下と皇族方が中央に集まる「サービス」がある。この光景を楽しみに最終回に合わせる参賀者もすくなくない=2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA)  参賀者の目に触れる正式なお出ましはここまで。しかし、午後も天皇、皇后両陛下が出席する行事がびっしりと詰まっている。  13時過ぎからは、再び正殿「松の間」で、岸田首相をはじめ三権の長からのお祝いをうける「祝賀の儀」が行われた。 「皆さんからの丁重な祝意に深く感謝いたします」  天皇陛下はそう、お礼を伝え、国の発展と国民の幸せを願うと述べた。  続いて隣の「竹の間」で、元宮内庁長官など元幹部や元職員といった旧奉仕者からのお祝いを受ける祝賀が始まる。そちらが終わるとすぐに、宮殿内で最も広い「豊明殿」へ移動する。外国の大使らが出席する「祝賀の儀」に臨むためだ。次は、「鳳凰の間」である。ここで旧公家による組織の堂上会によるあいさつと祝意を受けた。  一連の行事を終えたのち、今度は車で皇居を出発。64歳の誕生日を迎えたあいさつのために、皇后雅子さまとともに上皇ご夫妻のお住まいである仙洞御所を訪ねるためだ。赤坂御用地に向かう途中、沿道からはお祝いの声が飛び交った。天皇陛下と皇后雅子さまは、車の窓を開けて沿道に向けて、柔らかにほほ笑み会釈をした。 天皇陛下と皇后雅子さまは、上皇ご夫妻へのあいさつのため仙洞御所を訪問し40分ほど滞在=2024年2月23日 (読者の阿部満幹さん提供)  16時、仙洞御所のある赤坂御用地に車が到着。40分ほど上皇ご夫妻のお住まいに滞在した。  皇居内の御所へ戻ると、ようやく誕生日の行事も終わりが見えてくる。お住まいの御所では、愛子さまも出席し、ご一家の私的な生活を支える侍従長や侍従職員らからのお祝いを受けた。  天皇、皇后両陛下が予定された日程を滞りなく終えたのは、とうに日も暮れた時刻。宮殿内を分刻みで移動しながらも、陛下も皇族方も、疲れを表情に出すことはないという。 「天皇家の方々や皇族方をおそばで拝見していた時代も、強い精神力を持っておられると感心しておりました」(元侍従) ◇  同じ方向にお手振りをする姿も息がぴったりの天皇ご一家=2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA)  両陛下の日程をたどるだけでも目が回りそうだが、これでもコロナ禍前より、出席者の数も規模も縮小されているのだ。以前は行われていた茶会や飲食を伴う行事は、まだ再開されていない。  天皇陛下や皇后陛下の誕生日や新年行事の細かな日程が公表されるようになったのは平成の後半からだ。高齢でも膨大な量の公務を続ける当時の天皇陛下や皇族方の状況を少しでも知ってほしい。公務の軽減につながればという、当時の幹部らの判断であった。  前出の天皇家に仕えていた人物はこう話す。 「コロナ禍をきっかけに、行事や公務の削減や効率化がはかられたのは、よい流れでした。私自身はコロナ禍以降の規模の縮小により、昔のようにお会いできないのは残念です。しかし、両陛下のタイトな日程がすこしでも緩和されるのであれば、よいことだと思います」  目に見えない努力と気遣いが表にでることで、人びとと皇室との絆もより深まりそうだ。(AERA dot.編集部・永井貴子) 2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA) 2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA) 2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA) 2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA) 2024月2月23日、宮殿東庭(写真映像部・松永卓也/JMPA) 2024月2月23日、(写真映像部・松永卓也/JMPA)
「再会」した銅鉱山の壮大さ 甦った先人の決断力 住友金属鉱山・中里佳明会長
「再会」した銅鉱山の壮大さ 甦った先人の決断力 住友金属鉱山・中里佳明会長 別子銅山記念館の横のグラウンドは、かつて大相撲を呼んで社員家族で楽しんだ。ここに立つと、息子や娘とサッカーをやった日を思い出す(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年2月26日号では、前号に引き続き住友金属鉱山・中里佳明会長が登場し、「源流」であるモレンシー銅鉱山や別子事業所を訪れた。 *  *  *  創業の地・新居浜市の別子事業所で、働いているだけで、心が弾んだ。  1983年10月に着任した。銅やニッケルの製錬を担う工場群があり、入社して7年半、ずっと望んでいた勤務地だ。ここで、30代のほとんどを過ごす。現場の人たちから直に話を聴く楽しみ、妻子と過ごす豊かな時間、そして別子銅山の歴史から多くを得た。  何よりも先人の先見性に、感嘆した。太古の時代、海底の火山活動で銅を含んだ鉱床がつくられ、新居浜市の南にある山系の別子山村(現・新居浜市)の地表に顔を出し、江戸時代前半の元禄3年(1690年)に発見された。優良な鉱脈と確認した住友家は、翌年に採掘を開始する。それが、別子銅山だ。 283年の歴史持つ別子の銅鉱脈は円高の打撃で閉山に  鉱床は長さ約1800メートル、厚さ2メートル50センチ。標高1200メートルから海面下約1千メートルまで、斜めに続く、国内最大規模の鉱脈だ。地中深くまで掘った結果、採掘者の出入りに時間がかかり、地中の温度も高くなって、作業効率が落ちていく。コストは海外の安い銅鉱石を上回り、円相場の変動制移行による円高で国際競争力は打撃を受け、入社3年前の1973年に283年の歴史に幕を下ろしていた。  ただ、住友金属鉱山ができただけでなく、ここから化学、機械、林業など様々な住友グループの事業も生まれた。その先見性は、次の勤務地カナダのバンクーバーで管轄した米アリゾナ州のモレンシー銅鉱山を目にしたとき、衝撃にまでなる。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 モレンシー銅鉱山周辺の子どもの教育に、住友商事とともに奨学金基金をつくってある。現地の中学生と高校生を選抜して日本へ招き、鹿児島県の金鉱山などを紹介している(撮影/狩野喜彦)    昨年11月と12月にモレンシー銅鉱山と別子事業所を、連載の企画で一緒に訪ねた。中里佳明さんは、ビジネスパーソンとしての『源流』はモレンシー銅鉱山を初めて観たときの衝撃だ、と言い切る。その『源流』をもたらした伏流水は、別子事業所で溜まっていた。  92年7月下旬、バンクーバー事務所へ黒字化しそうなモレンシー銅鉱山の経理や税務の処理に、赴任した。モレンシーの採掘権は86年、住友金属鉱山が12%、住友商事が3%を100%持っていた米フェルプス・ドッジ(現・フリーポート・マクモラン)から買い受けた。品位を高めた銅精鉱を、船で別子事業所などへ送っている。  着任すると、日本の運転免許証をカナダと米国で使えるものに書き換え、1週間後に前任者とモレンシー銅鉱山を訪ねた。グランドキャニオン国立公園があるアリゾナ州の東端。州都フェニックスの空港でレンタカーを借りて、運転していく。 まずはスーパーで砂漠を行く備えに1ガロンの水を買う  驚いたのは、前任者がまずスーパーマーケットへいけ、と言う。買ったのは、1ガロン(約3.8リットル)の水が入ったポリ容器二つ。途中、砂漠のなかを4時間半いくので、車が故障した場合は救援がくるまで1時間は待たなければならない。アリゾナの砂漠は夏は地表の温度が45度を超え、車外へ出られない。  道路へ降りてはいけない理由は、ほかにもある。車が止まって車体の下に日陰ができると、ガラガラ蛇が出てくる。ドアを開けて足を降ろした途端、やられることが多い。車の中で1人1ガロンの水を飲みながら我慢して待てば、パトカーが1時間に1度は回ってくるか、運がよければヘリコプターがみつけてくれる。そう聞かされた。 『源流Again』での再訪は陸路でなく、プライベートジェット機でいった。モレンシー近くの上空で旋回すると、中里さんが「あれが、たぶんモレンシーだ」と指をさす。地元の郡空港に着陸し、マイクロバスに乗り換えて、山へ向かう。道路の両側は土漠が続き、這うような草木のほかに何もない。事務所は標高約1500メートルで、働いているのは約3900人。「子どもは入山禁止、ペットは車の中に」がルールだ。  久しぶりに、露天掘りをした谷底を見下ろす崖の上に立つ。 「こんな銅鉱山の権益を、財務に余裕がない時代に、よく獲得したな」  31年前と同じ感慨が、口を出る。鉱脈は、まだみつかっている。いまの産出量で、あと20年は続く。目先のことに追われがちな日々でも、事業の先々を見据え、グローバル化の進展や権益の奪い合いも予感し、思い切った投資へ踏み出した。先人の決断力を、再確認する。  別子を再訪したのは、それから1カ月後。JR新居浜駅前から山へ向かって、車で上っていく。山麓に着くと、別子銅山記念館だ。入ると、坑道が張り巡らされた銅山の模型がある。最深部は海面下1千メートルを超える、とあった。 懐かしいグラウンド息子とも娘とも親子でサッカー対決  記念館に隣接するグラウンドは、銅山が稼働していたころ、社員が家族と運動会などで楽しんだ場だ。ここで、親子でサッカー対決をした。息子が小学校5年生のときサッカーチームへ入り、コーチに「お父さんもやりませんか」と誘われ、父親チームへ入って子どもチームの相手をした。土日の大半はサッカーで、その後に娘も始めたので、その相手もした。そのグラウンドは、ほぼ当時のままだった。  1953年5月、神奈川県相模湖町(現・相模原市)で生まれた。父は神奈川県庁に勤める地方公務員で、母と妹と4人家族。地元の小学校から国立市にある桐朋学園の中学校へ進み、部活は剣道部。桐朋高校でも続ける。76年春に慶大法学部法律学科を卒業し、入社した。  今回の再訪で、別子事業所で最初に予算管理を担当した精銅工場(現・東予工場精銅課)へ寄ると、会議室のような小部屋に、自分が置いた丸いテーブルが残っていた。誰もが自由にやってきて、テーブルを囲んで、工場の改善案を話し合う。技術者から「何でこんな業績が悪いのか?」と、率直な質問も受けた。別子事業所で鍛えた物の考え方や課題解決の原点は、この小さな丸テーブルだ。  別子には、製錬で鉱石に入っている硫黄が亜硫酸ガスとして発生し、煙害問題が起きた歴史がある。そこで陸から遠くすれば煙害はなくなると考え、製錬所を沖合の四阪島へ移した。  だが、煙害はむしろ広まった。創業家の住友家が心配して、当時の家長が煙害を監視できるようにと、四阪島に別邸を建てた。その「日暮別邸」の名を持つ建物を、社長時代に住友グループの社長会の賛同と協力を得て、陸地へ移築した。  煙害の克服には年月がかかってしまったが、絶対に克服するという強い意志のもと、技術革新を重ね、乗り越えた。その歩みを、別邸の屋内に展示している。単に「施設を残しました」ではなく、負の事例でも、常に技術革新を追求する姿勢と住友の事業精神のメッセージに、と考えた。とくに若い世代に、伝えたい。同じことは、もう繰り返さない。そんな先見性を、引き継いでほしいからだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年2月26日号
「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜
「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜   多くの後輩芸人に慕われている(撮影/写真部・佐藤創紀)   ピン芸人・TAIGA(48)を慕う芸人は多い。オードリー、ぺこぱ、カズレーザー、ヒコロヒー、モグライダー……下積み時代に面倒を見ていた後輩たちが次々にブレークしていく一方、TAIGAはなかなかチャンスをつかみきれない。芸能活動だけでは生計を立てられないため、ウーバーイーツのアルバイトをしながら妻と2人の子どもを養っている。【前編】では愛する家族についての思いなどを語ってもらった。【後編】では芸人を何度も辞めようと思ったが踏みとどまった理由、イジメから救ってくれた父親とのエピソードを明かしてくれた。 ※【前編】<「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは>より続く ――TAIGAさんは多くの後輩芸人に慕われていることで有名ですが。  あいつらは売れているのに、気に掛けてオレの名前を出してくれる。感謝の思いでいっぱいです。後輩たちが売れていく瞬間を見るときは素直にうれしいですよ。ぺこぱは辞めそうな時期を知っていたので、M-1で決勝の舞台に立ったときは泣きました。ただ、こいつらが売れると思って付き合っていたわけではないです。純粋に一緒にいると楽しいなというだけで。だから先見の明があるわけではない(笑)。 人を惹きつける独特の魅力 ――売れている後輩たちの共通点はありますか。  人(ニン)が面白いですよね。自分が言うのもなんだけど、漫才や台本がみんな最初から面白かったわけじゃない。でも人を惹きつける独特の魅力がある。(オードリーの)春日(俊彰)も変わっているけど面白い。(ショーパブの)キサラで芸人をしながら、バイトで一緒に働いていたけど遅刻が多くて。あいつの立場が悪くなるから本気で説教したら、何度も謝って下を向いていた。反省しているんだなと思ったら、その後に賄いの食事へすぐに向かって、てんこ盛りのカレーを食べていて。仕事で取り返そうと思っていない(笑)。 2014年R-1で初めて決勝に進出したが……(撮影/写真部・佐藤創紀)   下積み時代に面倒を見ていた後輩たちが次々にブレーク   ――サラリーマン生活を経て、お笑いの世界に入って今年が24年目になります。  今まで大きなチャンスを4回逃しているんです。「爆笑レッドカーペット」「エンタの神様」「あらびき団」「R-1ぐらんぷり」……。R-1は2014年に初めて決勝に進出して「これで人生が変わる」と思ったけど、仕事が増えない。自分の力不足だけど、40歳前後が一番きつかった。 ――売れる芸人はごく一握り。厳しい世界ですね。  そうですね。本当に何度も失敗して……。ただ、「アメトーーク!」の21年1月に放送された「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」に出演して以降は仕事が少しずつもらえるようになりました。同じ番組に2、3回呼ばれると本当にうれしい。40歳を過ぎてアルバイトしながら2人の子どもを育てる芸人が求められることは何かなって考えます。自分のダメな部分を笑いにできるようにしないと。一個一個がチャンスだと思ってフルスイングしています。「一番きつい仕事は何ですか?」ってよく聞かれるんですけど、どんなに頑張っても仕事がないときが一番つらい。番組スタッフに「過酷な現場ですみません」って謝られるときがあるんですが、全然きつくない。仕事がないほうがはるかにきついですから。 「TAIGAさんは売れてほしい」って ――芸人を辞めようと思った時期はありましたか。  35歳から40歳にかけて何度も辞めようと思いました。「新ネタを3本作ってライブに出てダメだったら辞めよう」とか考えたりしたけど、辞められない。単独ライブで300人の小屋に8枚しかチケットが売れなかったのに満席にしてくれた友人に恩返ししたいし、オードリー、ぺこぱとか「TAIGAさんは売れてほしい」って名前を出してくれる後輩の期待に応えたいとか……。地元の友達と飲みに行ってもオレだけ一回もお金を払ったことがないんです。申し訳ない気持ちはずっと持っているし、「今日はごちそうするよ」と言えるようになりたいです。 「TAIGAさんは売れてほしい」と名前を出してくれる後輩の期待に応えたいという   TAIGAを慕う芸人は多い   ――お父さんも特別な存在だと聞きました。  小1のときにイジメられた時期があって。小6の男子2人にターゲットにされました。オレのランドセルを蹴飛ばして、前のめりに倒れているのを見てケタケタ笑っていた。1年生だから6年生は怖くて何も言えないじゃないですか。春にピカピカだったランドセルが秋にはボロボロになって。誰にも言えなかったんですが、親父が気づいて2人を呼び出して注意したら、「ごめん」と謝ってきてイジメが終わった。オレを守ってくれた正義のヒーローです。 ――カッコいいですね。  ただすごく厳しかった。オレは勉強ができないのでよく怒られました。親戚がみんな頭良かったので、自分の子どもだけ勉強ができないのが恥ずかしかったんでしょう。本人は覚えていないと思うけど酔っ払ったとき、「親戚中の恥だ」って言って。傷つきましたよ。でも芸人を続けていることには理解がありました。親父は実家の材木屋を継いでいたので、「おまえは好きなことをやれ」と。子どもに後悔させたくないという気持ちがあったのかもしれません。 父親は正義のヒーローだった 病院のカレンダーに ――お父さんは09年に逝去されました。  「親戚中の恥だ」と言った親父を見返したいという思いが、芸人を続ける大きなモチベーションの一つでした。親父が「うちの息子がテレビに出るから見てやってくれ」って病院のカレンダーに印をつけていたと亡くなった後に聞いたときは、ラジオ番組の本番前だったのに号泣しました。芸人としていいところを見せられなかったし、親孝行が何もできなかった。目標を失って胸にぽっかり穴が開いた感じになりましたね。 父親は「おまえは好きなことをやれ」と言ってくれた   勉強ができないので父親によく怒られたという ――生き方に変化はありましたか。  その後に芸人を辞めるか本気で考えた時期があって。続けると決めてから、お金持ちの人たちが集まる飲み会の前でネタをやる「ギャラ飲み」をやめました。「つまらねえよ」「一生売れねぇな」と罵声を浴び続けるんですが、愛想笑いを浮かべてその場をやりすごせば、2~3万円のタクシー代がもらえる。ネタから人格まで全部否定されて、こんな汚い金はいらないなって。笑いに真剣に向き合って、少ないかもしれないけどアルバイトで働いたお金で飯を食ったほうが幸せだと考え直しました。 座右の銘は「人生楽しんだもの勝ち」 ――芸人として大事にしているポリシーはありますか  ウケる、スベる関係なく、スベってもオレしかできないことをやろうとは思っています。自分に何を求められるかと言ったらその部分だと。ピン芸人は全員リスペクトしています。ハリウッドザコシショウさん、永野さんとか「芸人の間では面白いけど売れるのはどうかな」って言われていた人がちゃんと売れている。自分の生き方を貫いている人はカッコいい。古坂(大魔王)さんもすごい。若手のときから頭が良くて面白い人ですけど、ピコ太郎で世界を席巻して。あんな売れ方は想像できなかった。「PPAP」が大ブームになる前にライブで一緒になったとき、ネタを見たんですよ。これはすごいなって。ああいう発想ができない自分が悔しかった。 映画化されたら最高 ――今後の展望や夢を教えてください。  オードリーの番組に出演すると、お互いに売れていなかったころを思い出しますけど、今はゲストで呼んでもらっている身です。一緒に冠番組をやりたいですし、ラジオが好きなので自分の番組を持って後輩たちをゲストに呼びたい。あと、自伝『お前、誰だよ! -TAIGA晩成 史上初!売れてない芸人自伝-』(ワニブックス)がドラマ化、映画化されたら最高です。主演を一流の俳優さんにやってもらって、オレは「面白くないよ、やめちまえ!」っておしぼりを投げる「ギャラ飲み」のタニマチ役で出たい(笑)。座右の銘が「人生楽しんだもの勝ち」なんです。貧乏人も金持ちも与えられる時間は一緒。つらいことはたくさんあるけど、人生を楽しむ気持ちはこれからも大切にしたいです。 (平尾類) ●TAIGA/1975年11月20日生まれ。神奈川県出身。短大卒業後、サラリーマン生活を経て役者事務所へ。芸人に転向し、ピン芸人として活動する。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」「爆笑レッドカーペット」「あらびき団」などに出演するが、大ブレークを果たせず。2014年の「R-1ぐらんぷり」で決勝進出後も下積み生活が続く。21年に出演した「アメトーーク!」から仕事が増え、23年は「午前0時の森」で「TAIGAのウーバー人生相談」が話題に。特技は躰道で3段の実力者。全国高校生躰道優勝大会や全日本躰道選手権大会の法形競技、展開競技で準優勝・優勝した経験がある。家族は妻、2人の息子。
「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは
「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは テレビのバラエティー番組などに出演する傍ら、ウーバーイーツのアルバイトで生計を立てる  お笑いの世界に飛び込んで24年目。ピン芸人・TAIGA(48)はテレビのバラエティー番組、イベント、営業に出演する傍ら、ウーバーイーツのアルバイトで生計を立てている。芸人として人気が爆発する壁は高い。何度も挫折を味わっているが、心の支えになっているのは大好きな家族だ。妻の知永(ともえ)さん、長男(5)、次男(2)と4人で暮らす自宅に戻ると、幸せな気持ちになる。友人に馬鹿にされた出来事に涙を流して悔しがってくれた知永さん、2人の子育ての楽しさと難しさ、TAIGAの働く姿を見て抱いた長男の意外な夢とは。愛情あふれる言葉で語ってもらった。 「おもろないもん。こんなダメな男」 ――出演していたショーパブでアルバイトとして働いていた知永さんと知り合い、結婚したときが41歳でした。  一つの転機になったのは、短大時代の女友達Aの結婚式でした。大阪で式を挙げるので、東京からの往復の新幹線代、ご祝儀代、2次会への参加費を含めると8万円かかってしまう。売れない芸人が8万円を使ったら生活できなくなります。断るつもりでしたが、Aから「お金は全部出すから余興をやって」と言われて結婚式に参加しました。余興が終わって友人たちと話しているとき、別の友人が「この先、TAIGAは売れるかな?」って言ったら、Aに「売れるわけないやろ、おもろないもん。こんなダメな男」って吐き捨てられて。 大好きな家族が心の支えだ(撮影/写真部・佐藤創紀)   早く売れて「パパはお金持ちだよ」と息子に伝えたいという ――精神的にきついですね。  金を払わなかったオレが悪いんです。腹が立ってブチぎれそうになったけど、我慢して。東京に戻ってすぐにアルバイトを詰め込んで、Aに郵送で全額返金して携帯の連絡先を消しました。謝ってほしいとかではないんです。「面白くない」とかの罵声は飲み屋の営業で散々浴びせられてきましたから。ただ、大阪から戻った夜に妻にこの話を漏らしたら泣いていて。そのときに「オレは何をやっているんだろう。オレのことを一番面白いと信じて涙を流している人を幸せにできていない」って思って。それまでは売れない芸人が結婚しても彼女を幸せにできないとか、ショーパブをクビになった演者が元店員(アルバイト)と結婚したら、ショーパブを引きずっていると思われるんじゃないかとか、いろいろ考えてウジウジしていたんです。小さなプライドを捨てて、絶対に売れて幸せにしてやると覚悟が決まりました。 世界で一番大好きな存在 ――2021年1月に放送された「アメトーーク!」の「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」で、番組出演が決まったことをTAIGAさんが報告したら、知永さんが大泣きしていた姿が印象的でした。  あの姿は忘れられないですね。妻は一番の味方ですし、世界で一番大好きな存在です。こんな大切な人だと気づくのに何年もかかっちゃって。気づいてよかったと心の底から思います。 ――家族を持つことで仕事に取り組む意識に変化はありましたか。  バラエティー番組で「ここは前に出たほうがいいかな」と思ったときでも、独身時代は迷ってしまってやめることが多かった。だけど、今は子どものことを考えたら前に出ようと思える。守りに入らないのは子どもや妻がくれるパワー。家族を食わせるために何でもやると思えば怖いものはありません。 「アメトーーク!」の「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」にも出演   お笑いの世界に飛び込んで24年目になる ――子育てを経験していかがでしょうか。  わが子を初めて抱いたとき、ピカピカ光っていて。自分で言うのもなんだけど、若いときは遊んできたんです。クラブ、海外旅行、ダイビング、カジノ……世の中の楽しいことを知り尽くしてきたつもりだったけど、42歳で子育てを知って、「こんな楽しいイベントを知らなかったのか。一番楽しいイベントだろ」ってビックリした(笑)。もちろん、大変なこともたくさんあります。お母さんたちはすごいです。赤ん坊のときは夜泣きでイラっとすることもある。でも、子どもの笑った顔を見たら疲れが吹き飛ぶ。「パパが仕事行くの嫌だ」ってしがみついてくれたりする姿を見ると普段イラっとしている自分が情けなくなる。もっと大きな器を持たないといけないと思わされる。子育てで育つのは親のほうだなとつくづく感じます。 「パパが僕の気持ちを分かってくれたのがうれしかった」 ――「子育てで育つのは親のほう」は、深い言葉ですね。  後で振り返って失敗したなと反省することもあります。長男は優しくて慎重な性格なのですが、保育園で友達に顔をたたかれることが続いて。親からすればイジメられてないか不安になるじゃないですか。「やられたらやり返せよ」と伝えたら、ある日、保育園から呼び出されて。たたいてきた友達の頬を長男がたたき返したら傷ができてしまった。先生が「ダメだよ」って息子を注意したら、「〇〇くんにはやり返していいってパパに言われた」と答えたんです。息子からしてみれば親の言うことを素直に聞いた行動です。「やられたらやり返せ」って簡単に言うものじゃないし、言葉のチョイスに気をつけなければいけなかった。一緒に風呂に入ったときに、「たたかれたら痛いでしょ。だからこれから、友達をたたくのはやめようか。パパがそう言ったのが悪かった。おまえは悪くないよ」って伝えたんです。後で妻に聞いたら、長男が「パパが僕の気持ちを分かってくれたのがうれしかった」と言っていたと。どう伝えるのが正解か難しいのですが、それを考えることも親子で成長するために大事な経験だと思います」  バラエティー番組で「前に出たほうがいいかな」と思ったときでも、独身時代は迷いもあったという   世の中の楽しいことを知り尽くしてきたつもりだったが…… ――子どもは親が思っている以上に繊細かもしれませんね。  そうなんです。長男が3歳のときかな。コンビニでお菓子を2個買っていいよと伝えたら、「1個でいいよ、ウチはお金がないから」って。お金がないから買わないと言ったことは一度もないんですけど、いろいろ察知しているんでしょうね。小さい子にそんな思いをさせちゃって。気を使わせて申し訳ない。早く売れて、「そんなことないよ、パパはお金持ちだよ」って伝えたいです。 ――2歳の弟さんの性格は?  それが長男と全然違うんです!(笑)。暴れ者でメチャクチャする。長男はベビーカーに座らせるとおとなしくしていたけど、次男はベビーカーからすぐに抜け出す。食事中もじっとしない。ただ知り合いの親御さんに聞いたら、「長男がおとなしすぎるぐらいで、次男が普通だよ」って。これも経験することで子どもたちの性格が違うことを学べる。 「パパと一緒にやろうな」 ――TAIGAさんがテレビ番組に出演するとお子さんはどのような反応ですか。  長男はテレビに出ているオレより、ウーバーイーツで重いリュックを背負って自転車で颯爽と坂を下るオレがカッコいいと思っています(笑)。「将来はパパと一緒にウーバーやる」って。子どもの夢は変わるので、「そうか、パパと一緒にやろうな」って言いましたけど、その夢がかなったら怖い!(笑)。保育園の夏祭りで先生にお願いされて、ネタを披露したことがあったんです。R-1の決勝でもやったツイストを踊りながら、「お前、誰だよ!ロックンロール」をやって。「面白かったです!」って保護者の方に声を掛けてもらったけど、長男は「パパが踊るの恥ずかしかった」って(笑)。確かに、自分の親が「フゥ――!!」って踊りだしたら嫌だなと。笑われたんじゃなく、笑わせたんだよと伝えてもまだ分からないですしね。 クラブ、海外旅行、ダイビング、カジノ……若い時は遊んできたという   「マイホームが欲しいですね」(撮影/写真部・佐藤創紀) ――息子さんたちが芸人・TAIGAさんのカッコよさに気づくのは、もう少し先かもしれませんね。これからどんな家庭を築きたいですか。  難しいことは分かっていますが、マイホームが欲しいですね。年齢的にも職種を考えてもローンは通らない。一括払いをできるようにとにかく売れたい。今も共働きですが、妻には苦労を掛けたので楽をさせてあげたい。健康で長生きして、息子2人の結婚式に出られたらこんな幸せなことはないです。 (平尾類) ※【後編】<「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜>に続く ●TAIGA/1975年11月20日生まれ。神奈川県出身。短大卒業後、サラリーマン生活を経て役者事務所へ。芸人に転向し、ピン芸人として活動する。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」「爆笑レッドカーペット」「あらびき団」などに出演するが、大ブレークを果たせず。2014年の「R-1ぐらんぷり」で決勝進出後も下積み生活が続く。21年に出演した「アメトーーク!」から仕事が増え、23年は「午前0時の森」で「TAIGAのウーバー人生相談」が話題に。特技は躰道で3段の実力者。全国高校生躰道優勝大会や全日本躰道選手権大会の法形競技、展開競技で準優勝・優勝した経験がある。家族は妻、2人の息子。
ルポ「天皇誕生日」 最前列ど真ん中で見た「龍顔」と愛子さまの人気 アンカーでお手振りの初々しさ
ルポ「天皇誕生日」 最前列ど真ん中で見た「龍顔」と愛子さまの人気 アンカーでお手振りの初々しさ 一般参賀での天皇ご一家。愛子さまはアンカーでお手振り(撮影/写真映像部・松永卓也)  霧雨のような細かい雨が降りしきった23日、皇居で行われた天皇誕生日の一般参賀に参加した。記者は一般参賀に行くのは初めてだ。 *   *   *  はりきって午前6時に起床、午前7時20分に二重橋に到着した。だが、既に200~300人が並んでいるという混みよう。それから3時間、ただひたすら立ったまま、寒さと雨に震えながら、宮殿に入れるのを待ち続けた。 雨に濡れて待つ男性  ふと見ると、記者の近くに傘も差さず、レインコートも着ないで、雨に濡れて立っている男性がいた。耳たぶから水滴がしたたり落ちる。男性に話しかけた。 「秋田県から来ました。昨日、飛行機で羽田に到着し、板橋のホテルに1泊しました。参賀が終わったら、きょう夕方の便で秋田に帰ります」  男性は36歳、独身だという。一般参賀に参加するためだけにやって来た。どうして、秋田県から遠路やってきたのか。 「ナマで玉音を聞き、龍顔を拝みたかった。私は自営業なので、家族に『ごめん、どうしも行かせてくれ』と頼み込みました。明日から仕事がありますので、きょう帰るんです」 手荷物検査で「ひと口飲んでください」  午前9時頃、手荷物検査があり、女性担当官からカバンを開けるように言われた。カバンの中に入っていたペットボトルのほうじ茶。「ひと口飲んでください」と言われて、飲んだ。厳重にチェックしているようだ。  その後、宮内庁の職員を先頭に、警察官約10人が横並びし、人々はその後について宮殿に進んだ。警察官がマイクで「きょうはご覧のように大勢の方で混み合っています。危ないですので、お互いに譲り合ってゆっくりとお進みください」「この辺りは水で滑りやすくなっておりますのでご注意ください」などと注意を呼びかけるなか、歩いていった。 天皇皇后、両陛下のお手振りを見守る愛子さま(撮影/上田耕司)  到着したところにあったのは、マスコミ報道でよく見る宮殿・長和殿のベランダ。運良く、最前列のド真ん中の位置になった。すぐ目の前にベランダがある。  10時を少し過ぎたころ、アナウンスが入った。 「参賀のみなさまにご案内します。天皇皇后両陛下、秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下、および佳子内親王殿下は10時20分頃、宮殿中央にお出ましの予定です。なお、大声を発することはお控え願います」  会場の興奮は最高潮に達する。 いよいよ天皇、皇后両陛下がお出まし  そしてついに時は来た。ベランダに現れた天皇陛下、皇后陛下、愛子さま、秋篠宮ご夫妻、佳子さまの6人。  愛子さまは白い服装で白い帽子をかぶり、イアリングもネックレスも白。青い服装に青い帽子と、ブルーでまとめてきた佳子さまとは対照的だった。 タイミングを待ってお手振りをする愛子さま(撮影/上田耕司)  陛下や雅子さまは先にお手振りを始めたが、愛子さまはその様子をじっと見つめている。お手振りには、まず天皇が始めてから他の皇族が続くという順序があるが、愛子さまはタイミングを上手にうかがいながら、アンカーとしてお手振りを始めた。初々しさと同時に、会場との一体感を感じた瞬間だった。  天皇陛下はお言葉をこう述べられた。 「冷たい雨や厳しい寒さの中、誕生日にこのように来ていただき、みなさんから祝ってもらえることをありがたく思います。先月、発生した能登半島地震によって亡くなられた方々に改めて哀悼の意を評するとともに、ご遺族と被災された方々に心からお見舞いをお伝えします。この冬も、大雪や厳しい寒さで苦労された方も多いことと思います。みなさん一人一人にとって穏やかな春となるよう祈っております。みなさんの健康と幸せを祈ります」 思う気持ちと思われる気持ち   お言葉が終わると、周囲からは「天皇陛下バンザーイ」という声が何度も沸き起こった。  冒頭の秋田から来た男性は、こう話した。 「うれしかったですね。陛下のお言葉の時には、涙がこぼれそうになりました。陛下のお言葉は短い中にもその時の情勢とか国民を思う気持ちが込められている。思う気持ちと思われる気持ちというのが、短い瞬間でしたけれど感じ取れました。テレビで見るよりも、ここに来て、より近くでお言葉を聞いたほうが、ナマの玉音が伝わってきた」 秋田から来た男性。雨に濡れて待っていた(撮影/上田耕司) 愛子さまに「パワーをいただきました」  帰り道、赤いレインコートを着た40代の女性に話を聞いた。 「愛子さまが見えました。大人だなと思いました。これから頑張ってくれる人だから。成人になって、赤十字社で働くし、次の天皇になるというのもまだ全然、ダメになったわけではないと思いたいです。きょうは愛子さまから気のパワーをいただきました。女性天皇になってほしい気持ちはあります」  ベビーカーに3歳の男児と2歳の女児を連れてきた30代の夫婦は、千葉県から来たという。 「せっかく休日でお休みいただいたので、子供も連れて来て、一緒に見せてやりたいと思いました」と夫が言えば、妻は「間近で見れてホントに良かった。陛下のお言葉で『みなさん一人一人穏やかな春となるよう』というところが良かったです。これから家族で買い物に行ってきまーす」 譲り合って傘を下ろした  日の丸の国旗を手に持っていた女性は、都内から来た。 「私の位置からはギリギリしかベランダが見えなかったんですが、皇族の方々が現れると、ほとんどのみなさんが傘を下ろし、他の人にも見えるようにしていた。お互いに譲り合って、陛下の前に立った。陛下のお言葉には震災のご心配をされたりして、ご配慮がありましたね。皇族みなさんの姿を見たら、何だかすがすがしい気持ちになりました。雅子さまは優雅でしたし、愛子さまには成年皇族としてご活躍が期待できますね」  フィリピンからやって来た28歳と30歳の女性2人組は、3歳の子どものベビーカーを押していた。 「フィリピンにはエンペラーがいないから一度見たかったし、子どもにも見せたかった。フィリピンではバースデーをすごく盛大にお祝いするんです。きょうは幸せな気持ちになりました」 「エンペラーが見たい」と一般参賀したフィリピン人の女性たち(撮影/上田耕司)  皇室ジャーナリストの神田秀一氏は、愛子さま人気の高まりも感じたという。  愛子さまは3月に学習院大学を卒業し、4月から日本赤十字社の嘱託職員となる。 「愛子さまなら」が国民に浸透 「記者会見などさまざまな場のご発言などを見ても、愛子さまは極めて優れた見識をお示しになっています。もし女性天皇が誕生したとしても、『愛子さまなら務められる』という考えが、国民に浸透しはじめている現れじゃないですかね」(神田氏)    雅子さまと愛子さまの、母娘仲のよさを感じさせる光景はよく見る。2月9日には、外国(ケニア)から要人を招いた昼食会に初めて出席した。愛子さまは隣に座ったケニアの女性大臣にスワヒリ語で「こんにちは」と話しかけ、英語でも談笑なさったという。 「雅子さまは困った時や体調が悪い時、愛子さまはずいぶん、サポートされたように思います。雅子さまとしては愛子さまによって助けられたという気持ちがあると思います。外国から賓客が来た時とかも、愛子さまは陰になり日向になって、いろいろと力を尽くしているようです」(神田氏)  愛子さまは日本赤十字社に就職後も、皇室行事はこなされる予定だ。これまではイギリス、オランダを訪れたことがあるが、ルト大統領は「3カ国目はケニアに」と招待したという。愛子さまは海外での皇室にも人気が出始めているようだ。(AERAdot.編集部 上田耕司) 雨の中、早朝から一般参賀に並んだ人々(撮影/上田耕司) 最前列ど真ん中から。ベランダに勢ぞろいした天皇陛下、皇后陛下、愛子さま、秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま(撮影/上田耕司) お手振りのタイミングを待つ愛子さま(撮影/上田耕司)   ベランダに姿を見せた秋篠宮さま、紀子さま、佳子さま(撮影/上田耕司) 佳子さまの表情は明るい(撮影/上田耕司) 愛子さまに続き、最後にベランダを去る佳子さま(撮影/上田耕司) 1回目の一般参賀で宮殿ベランダ前に集まった人々(撮影/上田耕司)  
一途な恋を「あきらめなくてよかった」 お互い自立して、やりたいことに没頭できる夫婦
一途な恋を「あきらめなくてよかった」 お互い自立して、やりたいことに没頭できる夫婦 渡邉貴子さん(右)と園田真之介さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年2月26日号では、キューブアンドカンパニーで管理部執行役員を務める渡邉貴子さん、Rally Growthの代表取締役社長・園田真之介さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫27歳、妻32歳で結婚。長男(10)、次男(7)の4人暮らし。 【出会いは?】それぞれが新卒で入社した会社で、同じプロジェクトに所属、中学が同じで実家も近所とわかり意気投合した。 【結婚までの道のりは?】夫が両足ねんざで歩けなくなって妻に世話をしてもらったので、そのお礼にと高級ホテルのディナーに誘いプロポーズ。客室はホテル都合で最上級のスイートにアップグレードされ最高の思い出に。 【家事や家計の分担は?】主に家計は夫、家事育児は妻が担う。「パパがいないときは3人力を合わせて」が妻と息子の合言葉。 妻 渡邉貴子[44]キューブアンドカンパニー 管理部執行役員 わたなべ・たかこ◆1979年、東京都生まれ。大学卒業後フレームワークスでSEを務め、2011年にキューブアンドカンパニーでITコンサルタント。2度の産休を経て、17年から現職。コーポレート責任者として管理部門を率いる  いい子だとわかってはいたけれど、5歳も年下。しかも仕事に常に全力で、恋愛や結婚は二の次にするタイプの男性に思えて、しばらくは恋愛対象として考えることはできませんでした。  それでも、彼は雑草みたいな人。どこにでも根を張って、どんな環境でもぐんぐん伸びていく人です。この先世の中が激変したとしても耐えていけるような強い人で、いつの間にか人生を共にしたいと思うようになりました。  夫が率いる会社は創業まもないベンチャーだけれど、彼を信じてついてきてくれる従業員が大勢いて、彼らにも家族がいます。そう思うと本当にありがたくて、夫には週末にしっかりリフレッシュしてもらって、万全な状態で月曜を迎えてほしいなと思わされます。  この先年をとっても、きっと今のようにお互い自立して、自分のやりたいことに没頭するのだろうなと思います。それでも互いが互いの帰る場所になっていることが、私たちの大切な絆なのです。 渡邉貴子さんと園田真之介さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   夫 園田真之介[39]Rally Growth 代表取締役社長 そのだ・しんのすけ◆1984年、東京都生まれ。大学卒業後フレームワークスでSEを務め、ベイカレント・コンサルティング在職中にグロービス経営大学院でMBAを取得。2021年に起業し現職。顧客の経営課題の解決やプロジェクトマネジメントを支援  新卒で入社した会社で彼女はリーダー、僕はメンバーでしたが、まるで中学生みたいに一途に恋してしまいました。  気持ちを伝えても相手にされず、2回目も玉砕してさすがに本気で落ち込んだけれど、あきらめきれずにまた、気持ちを伝えました。「次に付き合う人とは結婚したいから、あまり若い人とは付き合えない」と言われたとき、迷うことなく結婚したいと答えました。とにかく本気だということを、わかってほしかったんです。  結婚して、子どもが生まれて、改めて自分が生きる意味や志を問い直しました。子どもたちが生きる未来には人が価値の高い仕事に集中できる社会を実現したい、そのために自分のビジネスがあるんだと強く思うようになりました。  趣味のトライアスロンでも、妻と子どもたちが応援に来てくれると、声援が大きな力になって切れかけたエネルギーが一気に回復できます。家族はいつだって、僕に力をくれる。あのときあきらめなくて、本当によかったです。 (構成・森田悦子) ※AERA 2024年2月26日号
5歳までの乳幼児に習い事は必要ない…小児科医が「最初の5年間はこれだけでいい」と断言する親の唯一の仕事
5歳までの乳幼児に習い事は必要ない…小児科医が「最初の5年間はこれだけでいい」と断言する親の唯一の仕事 ※写真はイメージ(gettyimages)    脳を育てるには5歳までに何をすべきなのか。小児科医である成田奈緒子さんは「いい教育を受けさせるのが子育てではない。最初の5年間はひたすら、早く寝て早く起きられる脳をつくることに専念すべきである」という――。 ※本稿は、成田奈緒子『子育てを変えれば脳が変わる こうすれば脳は健康に発達する』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。 脳が育たない子育ての典型  子供のためと思いきや、実は逆効果になっていることがあります。  たとえば、共働きのご夫婦は「子供に十分に手をかけられていない」という罪悪感から、休日にたくさんの「おけいこ事」をさせてしまうことがあります。 「専業主婦なら、私がもっと色々教えてあげられるのに」 「これでは小学校に入ったあと、勉強が遅れてしまうかもしれない」  と焦って、外注で脳育てをしようとするわけです。  しかし、これは「脳が育たない子育て」の典型例です。 子供はただ寝かせる、起こすだけでいい  からだの脳を育てるには五感を繰り返し刺激することが重要です。  朝の光を浴びる、夜は真っ暗にして早く寝る。  同じ時間に3度のごはんを食べる。  子供の顔を見て表情豊かに、明瞭な声で語り掛ける、など。  これらの刺激はすべて、日々の「生活」を通して行われます。  平日は保育園に任せるしかないとしても、週末や休日はお父さん・お母さんがそれを行えるチャンスです。その貴重な時間をおけいこ事に費やしてしまうのは、子供を疲れさせるだけで、何のメリットもありません。お金も時間も、非常にもったいないです。  我が家の場合、お金を払うのは塾や教室ではなく、ベビーシッターさんでした。  娘の幼少期は夫が単身赴任中で、私も仕事で多忙とあって、夜、なかなか早くは帰れない日がありました。そんなときはベビーシッターさんに面倒をみていただきました。  そのときももちろん、「夜8時就寝」は厳守。でもそれ以外に、娘に何かを学ばせたり、習わせたりしたことはありません。  5歳までの子供は、ただ寝かせる、起こす。これだけでいいのです。  わざわざ新しく用事を増やさずとも、むしろ増やさないほうが、からだの脳の成長が促されます。 教育熱心なお父さんたちの誤解  近年、育児に参画する男性が増えているのはとても喜ばしいことです。母親の負担が減ること、子供が父母双方と密なコミュニケーションをとれることなど、その効用は計り知れません。  しかし一方で、育児に積極的な「意識高め」の男性にはときどき、子育てを誤解している方がいます。  子育てを、「学習」「教育」とイコールだと思っているのです。  たとえば、先ほどお話しした「習い事のハシゴ」も、お母さんではなく、お父さんの方針で行っているケースをよく目にします。 「お受験」に熱心なお父さんも増えています。母親は「子供はのびのび育てればいい」と思いつつも、夫の熱量に押されてしぶしぶ従う、という構図もよく目にします。  教育熱心なお父さんたちは、子供が小さいうちから「知的なこと」に触れさせなくてはならない、と思いがちです。  1970年代の「早期教育ブーム」以来、日本では教育の開始を過剰に早く始めたがる親が、どの世代にも一定数います。「最初の5年で才能が決まる」といったフレーズに急かされ、子供を勉強やスポーツなどに駆り立てるのです。  そこにはしばしば、親が、自分が叶えられなかった夢を子供に託す「リベンジ」の心理が働いています。自分より良い大学に行かせるためにせっせと塾に通わせたり、自分が習いたくてもできなかったピアノをやらせたり。  ちなみに、高学歴な親でも「リベンジ」に走ることは珍しくありません。 一流商社で働いているお父さんのリベンジ  一流大学を出て一流商社で働いているお父さんが、「自分は、本当は医者になりたかったのになれなかった」「だから子供はぜひ医学部に入れたい」と、毎日会社から帰った後、子供の横に張り付いて猛勉強させていた例もあります。  これが、子供を無視した子育てであることは明らかです。子供に自分の希望を叶えてもらおうとするのは、子供に依存し、かつ子供を支配することです。  この手の「早すぎる教育」を強いられた子供は、幼児期~学童期ごろまではおおむね成績優秀で従順ですが、その後かなりの高確率で、うまくいかなくなります。思春期を迎えるころ、成績の伸び悩みや人間関係トラブルに見舞われ、引きこもりや非行に走ることが多いのです。親に対しても、通常の反抗期のレベルを超えた、「断絶」に近いほどの拒否反応を示す子もいます。 「教育」は、そのようなリスクをおかしてまで行うべきことでしょうか? 「いい教育を受けさせるのが『子育て』だ」という誤解から、一人でも多くの親御さんが抜け出すことを願うばかりです。 何代もの親子を振り回す「愛情」というワード  間違ったアプローチをする親に、もちろん悪気はありません。みな、子供のためを思ってしていることです。 「子供のために自分の時間を削るのが愛情だ」 「お父さんの帰りを待って、コミュニケーションを持たせるのが愛情だ」 「早くから教育を受けさせるのが愛情だ」  と、皆さん思っているのです。  この「愛情」というワードは厄介です。愛情自体は素晴らしいことですが、何をもって愛情とするかの解釈は、ひとりひとり違います。日本における子育て論は、かれこれ50年以上も、客観的な指標なしに「愛情を注ぐべし」と世の親に言い続けてきました。  その端緒は、1960年代にあります。イギリスの精神科医・ボウルビィの「愛着理論」を下敷きとした「三歳児神話」というものが、日本の親たちの間で熱く支持されました。3歳までは母親がつきっきりでスキンシップをとるべし、という「掟」を守って生きたお母さんたちが、「愛情」にとらわれた第一世代です。  彼女たちは、高度経済成長期における「モーレツ社員」の妻たちです。サラリーマンとして働く父親と、家事育児に専念する母親という組み合わせが、当時はもっともポピュラーな家族のかたちでした。  その子供たちは、現在40代~50代を迎えています。興味深いのは、2000年代以降にさかんになった、いわゆる「毒親本」の著者が、だいたいこの世代に該当することです。母親の愛情が重かった、何かにつけて束縛された、過保護にされて苦しかった、といった恨みつらみが、大人になってから噴出した形です。 子供たちがひずみを見せ始めている  一方でこの世代も、自分たちが思うところの「愛情」を子供たちにかけています。  彼らが親になった平成期は、お受験ブームに象徴されるように、教育と愛情が分けがたく結びついた時代です。しかし、教育熱心な親に育てられた子供たちが道を踏み外しやすいのはすでに述べた通りです。10代後半~20代となった子供たちがそのひずみを見せ始めたことで、教育偏重の育て方の弊害も顕在化しています。  では、これからの世代はどうすべきか。現在子育て進行中のお父さん・お母さんが注ぐべき「愛情」とは何か――ここまで読み進めてこられた皆さんなら、もうお分かりでしょう。 最初の5年間に必要なのは、大人の我慢と根性  私はよく、乳幼児の親御さんたちに「とにかく、我慢して待とう」と言います。  早くから「お勉強」の類を身に付けさせたいという思いをぐっと我慢して、最初の5年間はひたすら、早く寝て早く起きられる脳をつくることに専念しよう、という意味です。  最初の5年は、この本でお伝えするシンプルな子育ての中で唯一、「根性」が必要な時期です。「早く寝かせよう」と口で言うのはたやすいですが、実際に子供が生活リズムを身に付けるまでは、それなりに労力がかかります。  それは、生まれたての赤ちゃんという無力な存在を、「原始人」レベルに育て上げるプロセスとも言えます。 「原始人に育てる」とは、日の出とともに活動を開始し、日没とともに休息するという「昼行性動物」の基礎を備えさせることです。文字通り原始的ではありますが、これこそが生きる力の源。「人間未満」の状態からそれを備えさせるのは、かなりの大仕事です。  しかしこの時期さえ乗り切れば、もう根性は要りません。 「子育ては、後になるほどラクで、楽しくなる」。これも、よく親御さんに語っていることです。  こう言うと「逆では?」と感じられる方がいるかもしれません。  私は2014年より親子支援事業「子育て科学アクシス」を主宰し、子育てに悩む方々の「脳育て」をサポートしていますが、こちらに来られる親御さんからも、「昔はかわいかったのに、どんどん生意気になって」「5歳のころに戻ってほしい」と嘆く声をよく聞きます。  しかしそれは――厳しい言い方になりますが、子供を「ペット」のように見ているせいかもしれません。大人の思うがままに動いてくれることを「かわいさ」だと思っている親は、本人に自我が芽生えてくるに従い、落胆や苛立ちを覚えがちです。それは子供を別個の人格として尊重していない、ということではないでしょうか。 5歳までは別段かわいくはない  私に言わせれば、5歳までの子供は、別段かわいくはありません。原始人ならではの「面白さ」は始終感じますが、文明人たる大人と通じ合う部分はわずかです。  そんな子供が、近代人、現代人へと「進化」をとげていくのです。そのさまは一種感動的とさえ言えます。  ですからまずは我慢と根性で、子供を「立派な原始人」に育て上げましょう。  からだの脳という、「生きる力」の基盤を堅固に備えさせ、その後の目覚ましい変化を待ちましょう。我慢と根性の後には、「楽しい子育て」が待っています。 (成田奈緒子/文教大学教育学部 教授、「子育て科学アクシス」代表)
天皇陛下64歳に 「陛下のアドリブに雅子さまのツッコミ!」 令和皇室の現場にユーモアと笑いが絶えない理由
天皇陛下64歳に 「陛下のアドリブに雅子さまのツッコミ!」 令和皇室の現場にユーモアと笑いが絶えない理由 車でのパレード「祝賀御列の儀」に出発する天皇陛下と皇后雅子さま。おふたりの楽しそうな笑顔が印象的=2019年11月、皇居、宮殿=代表撮影/JMPA    天皇陛下が2月23日、64歳の誕生日を迎えられた。陛下は2019年、59歳で即位して、令和の時代が始まった。天皇、皇后として歩み出したおふたりは、その「1年目」から様々な場面で笑い、互いを見つめ合い、豊かな表情で私たち国民の目をひきつけてきた。 *   *   *  天皇陛下と皇后雅子さまは、公務の場でも感情表現が豊かだ。令和皇室の特徴のひとつは、公務の現場でさえ、ユーモアと笑顔が絶えないことだろう。  そうしたシーンは、令和皇室がスタートした2019年秋に執り行われた「即位の礼」の一連の儀式でも見てとれる。  パレードである「祝賀御列の儀」に臨んだおふたりは、笑顔で言葉を交わしている様子。豊かな表情の写真からは、まるでその声が実際に聞こえてくるようだ。   米トランプ大統領夫妻の歓迎行事と会見、見送りを終えた両陛下は、リラックスした笑顔を見せた=2019年5月、皇居・宮殿、代表撮影/JMPA    5月、令和皇室が迎えた初の国賓が、米国のトランプ大統領とメラニア夫人だ。  皇居・宮殿の東庭での歓迎行事と宮殿での会見は、終始リラックスした雰囲気だった。雅子さまとメラニア夫人は、互いの子どもの教育やスポーツ、メラニア夫人が取り組む青少年育成活動について、話が弾んだという。  大統領夫妻の見送りを終えたおふたりは、はじけるような笑顔を見せたが、その笑顔は手ごたえと安どの表れかもしれない。     【こちらも話題】 雅子さま「喜びも悲しみも分かち合い」強くなった夫婦の絆 ご成婚30年写真で振り返る https://dot.asahi.com/articles/-/194959     「全国豊かな海づくり大会」の歓迎レセプションで、笑顔の陛下と雅子さま。目線の先にいたのはーー=2019年9月、秋田県、代表撮影/JMPA    9月、天皇と皇后の三大行幸啓のひとつである「全国豊かな海づくり大会」のため、おふたりは秋田県を訪れた。その開会式前日にあった歓迎レセプションで、おふたりは健康的な笑顔を見せた。 「さかなクン」  そう声をかけたのは、会場を後にしようとしていた天皇陛下だった。 「全国豊かな海づくり大会」の歓迎レセプションに出席した、さかなクン。雅子さまからツッコミを受けることに=2019年9月、秋田県、代表撮影/JMPA    天皇陛下から声をかけられた時の衝撃を、魚類学者のさかなクンは「ギョギョっとしました」と振り返っている。  陛下は皇太子時代から、さらりとアドリブを効かせつつ、人びとと交流してきた。そしてこの時、さらにユーモアのセンスを発揮してツッコミを入れたのが、雅子さまだった。 「やはり今日も頭に召していらっしゃるんですね」  いつもさかなクンがかぶっている、ハコフグの帽子のことだ。 「皮膚の一部です」  さかなクンの気の利いた返しに、雅子さまも思わずにっこり。     【こちらも話題】 【2023年6月に読まれた記事③】弾ける笑顔の雅子さま、インドネシア訪問で別格の所作 マナーのプロが見逃さなかった瞬間とは? https://dot.asahi.com/articles/-/209884     秋田県動物愛護センターで、子どもたちといっしょに犬に触れる天皇、皇后両陛下=2019年9月、秋田県、代表撮影/JMPA    6月に天皇、皇后両陛下が訪れたのが、秋田県の動物愛護センター「ワンニャピアあきた」。おふたりは子どもたちと一緒に犬や猫に触れたり、散歩の方法を学んだりした。  雅子さまの膝の上に秋田犬が乗ってきて、「かわいい」と笑顔の雅子さまがキスをするひと幕もあった。     ゴヨウツツジの花飾りの帽子をかぶり、美智子さまへのお祝いのあいさつに向かう愛子さま。春から愛子さまも公務する機会が増え、令和皇室も本格始動しそうだ=2023年10月20日、東京・半蔵門、読者の阿部満幹さん提供    令和も6年目に入った。  コロナ禍で人びととの触れ合いが難しい時期もあったが、現場に戻ってきた陛下と雅子さまは、ユーモアと笑いで、そこにいる人びとを心和ませる。そして、春風のような長女の愛子さまも加わり、いよいよ令和流の色は鮮やかになりそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子) 車でのパレード、「祝賀御列の儀」に出発する天皇陛下と皇后雅子さま。おふたりで何か話しているのか、楽しそうな笑顔が印象的=2019年11月、皇居、宮殿=代表撮影/JMPA 【こちらも話題】 皇后雅子さまの美しいお着物姿 お召し機会が増えたのは「体力の証」? https://dot.asahi.com/articles/-/209133
天皇陛下64歳に 雅子さまと「おそろい」だった「恋の歌」と琵琶湖の思い出
天皇陛下64歳に 雅子さまと「おそろい」だった「恋の歌」と琵琶湖の思い出 神武天皇陵への結婚報告の参拝を終え、帰京する当時の皇太子ご夫妻=1993年6月、JR京都駅    天皇陛下は23日、64歳の誕生日を迎えられた。皇后雅子さまとのご結婚生活も30年を過ぎ、人生の半分の歳月をご一緒に過ごしたことになる。思い出されるのが、ご結婚してまもなく訪れた琵琶湖畔のホテル。おふたりで眺めた景色を、お互いを大切に思い合う恋の和歌「相聞歌」として、和歌に詠みこんだのだ。 *   *   *  琵琶湖のほとりにたたずむ、彦根プリンスホテル(現・ビワフロント彦根)。8階のスイート・ルームからは、青い湖と対岸の山稜が一望できる。  当時皇太子だった天皇陛下と雅子さまは、1993年6月のご成婚からまもなく地方公務で滋賀県を訪れ、このホテルに宿泊。おふたりの部屋から見える琵琶湖は、朝や夕には茜色に染まり、夜には月が湖面を照らした。  そして翌94年1月、初めてご夫婦で歌会始の儀に臨んだ。    歌会始に向けて、天皇陛下や皇族方は前年の12月上旬までに、ご相談役の歌人に和歌を提出する。このとき相談役を務めていたのは、国学院大学名誉教授の岡野弘彦さんだった。  岡野さんによると、初めての歌会始で雅子さまは10首ほどの原案を示した。そのなかに、岡野さんの目に止まった一首があった。   〈君と見る波しづかなる琵琶の湖(うみ)さやけき月は水面(みのも)おし照る〉    ホテルの部屋から望む、琵琶湖の風景を詠んだ和歌。  雅子さまが用いた「おし照る」という言葉に、岡野さんはご結婚の雅子さまとの「お妃教育」でのやり取りを思い出したという。   お妃教育の初日。元掌典長の永積寅彦氏から「宮中祭祀」の講義を受けるご結婚前の雅子さま=1993年3月、宮内庁   「英語と仏語の代わりに和歌を」  語学が堪能な雅子さまは、英語や仏語の時間の代わりに和歌の講義を長めにと希望し、岡野さんから10時間ほどの講義を受けた。  岡野さんの印象に残ったのは、雅子さまの言語感覚の鋭さだった。     【こちらも話題】 「天皇陛下は、雅子さまによろこんでお譲りになった」 思わずにっこりした歌会始のご相談役 https://dot.asahi.com/articles/-/213109     中東へ向かう政府専用機内で、資料を手に皇太子さま(当時)に目線を向ける雅子さま=1994年11月、代表撮影/JMPA    ある日、岡野さんは、仁徳天皇が詠んだとされる古事記の古い歌謡を解釈していた。   〈おしてるや難波の崎よ出で立ちて我が国見れば淡島(あはしま)おのごろ島檳榔(あぢまさ)の島も見ゆさけつ島見ゆ〉    大和と難波の国境の山の上から遠く海を見渡し、天皇が力ある歌で祝福する内容だった。  枕詞の「おしてる(=照る)」は、海上に太陽の光がさんさんと照り、水面を圧して光が輝く情景を表している。  雅子さまは岡野さんに、こう尋ねた。 「この『おしてる』は、今の和歌に詠み込んで使ってよいものなのでしょうか」  岡野さんは、思わぬ質問にハッとした。 「お使いいただいて結構ですよ。ただし大変な古語ですから、現代和歌に使ってそこだけ違和感があったら、それは失敗です」  こう答え、参考のために「おしてる」を上手に詠んだ和歌を2首、暗誦したという。 「よく分かりました」  雅子さまはそう答えたものの、岡野さんは内心、本当にお分かりになったのだろうかと感じていたという。  しかし、その半年後、岡野さんの不安は喜びへと変わった。  歌会始のために雅子さまが詠んだ10首のなかで、雅子さまは、「おしてる」を見事な形で和歌に調和させていたからだ。   北海道の羅臼岳を登り、さわやかな表情を見せる皇太子さま(当時)と雅子さま=1994年9月、北海道、代表撮影/JMPA   陛下と「おそろい」となった恋の歌  天皇陛下もこの時の歌会始で、雅子さまと過ごした同じ夜の情景を詠んでいた。   〈我が妻と旅の宿より眺むればさざなみはたつ近江の湖(うみ)に〉    皇室の和歌の御用掛を務めた故・岡井隆さんも、このときのおふたりの和歌について、記者にこう語っていた 「天皇家でも、恋人同士で詠み交わされる恋の歌である相聞歌は数多く詠まれてきました。皇族方も皆さんも、気構えずに恋の和歌をどんどん詠んでいただきたい」 「お妃教育」が終了した後も、雅子さまの希望で、月に一度ほどの岡野さんの講義は続いた。雅子さまはそのたびに、両手いっぱいに資料の本を抱えてきたという。     【こちらも話題】 雅子さまの歌会始 7年ぶりの「吾子」に込めた深い愛と愛子さま圧巻の“スケール” https://dot.asahi.com/articles/-/211915     宮内庁書陵部所蔵の古典籍「百人一首」の現存最古の写本を鑑賞する愛子さま=2023年11月、皇居内の同庁書陵部庁舎、宮内庁提供   愛子さまに受け継がれ  陛下と雅子さまが、おふたりで見た琵琶湖の風景を和歌に詠んだ日から、30年あまりの歳月が過ぎた。  長女の愛子さまは、大学で日本の古典文学を学び、卒業論文の題材に「中世の和歌」を選んでいる。  そして今年の歌会始で愛子さまは、千年の時を経て現代に受け継がれる、和歌に対する感銘を詠みこんだ。   〈幾年(いくとせ)の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ〉    ご両親が大切にしてきた、古典への学びの姿勢は、愛子さまにも着実に受け継がれているようだ。(AERA dot.編集部・永井貴子)     【こちらも話題】 愛子さま大統領との午餐デビューで待ち遠しい宮中晩餐会 雅子さまや佳子さまらの美しいドレスとティアラ姿 https://dot.asahi.com/articles/-/213758
天皇陛下64歳 愛子さまに願う「感謝と思いやりの心を持って」愛情あふれるお言葉で振り返る
天皇陛下64歳 愛子さまに願う「感謝と思いやりの心を持って」愛情あふれるお言葉で振り返る 第213回国会の開会式でおことばを述べたときの天皇陛下=2024年1月26日 代表撮影    23日、天皇陛下が64歳のお誕生日を迎えられた。誕生日に先がけ記者会見を行うが、毎年必ずお話しされるのは、妻である雅子さま、愛娘の愛子さまのことだ。愛子さまはこの春、学習院大学を卒業するが、そんな節目の年に、愛子さまについて語られた言葉を振り返ると天皇陛下の深い愛情と大切にしてきたものが見えてくる。   *  *  *    天皇陛下の誕生日の記者会見は、お誕生日の2月23日の前に行われる。天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまがお生まれになった2001(平成13)年12月1日の翌年のお誕生日には、命名に当たり、その思いを語られている。    漢文学や国文学の専門の方々から複数の候補があがり「敬宮」「愛子」さまと命名された。   「敬と愛の二文字が入っているのも良いと思いました」と天皇陛下(当時、皇太子殿下)は記者会見で語り、命名への思いを明かされた。   「孟子の言葉にあるように,人を敬い,人からも敬われ,人を愛し,人からも愛される,そのように育ってほしいという私たちの願いが,この名前には込められております」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成14年より)    その翌年2003(平成15)年の記者会見では、イクメンぶりも明かしている。 1歳の愛子さまを抱いた皇太子さま(当時)と雅子さま。那須御用邸へ向かうため、JR那須塩原駅に到着し、歓迎する人たちに応える=2002年5月8日 代表撮影 「私自身子供をお風呂に入れたり,散歩に連れて行ったり,あるいは,離乳食をあげることなどを通じて子供との一体感を強く感じます。    国内でも広く母親の育児の負担の軽減についての議論がなされているようですけれども,父親もできるだけ育児に参加することは,母親の育児の負担を軽くすることのみならず,子供との触れ合いを深める上でもとても良いことだと思います」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成15年より)    最近では男性の育児休暇の取得など子育ての環境は少しずつ変化していっているが、天皇陛下も母親の育児負担軽減を社会の課題と掲げられ、この頃から自ら実践されていた様子がうかがえる。 【こちらも話題】 愛子さま昼食会デビューの圧倒的オーラの背景に「雅子さまにそっくり!」な所作と心 https://dot.asahi.com/articles/-/214759 栃木県の沼原湿原を散策し、休憩。雅子さまに抱かれた愛子さまが、手を伸ばして皇太子さま(当時)の顔に触れる。皇太子さまが手にしているのは愛子さまを背負うためのベビーキャリー。ご一家の笑顔が弾ける=2002年8月16日 代表撮影  また、「3、4メートル歩けるようになった」ばかりの愛子さまへの感動も明かされた。   「もうその日の夕方には,その3倍ぐらい歩くようになっておりまして,私自身も今お話したように,子供の成長が非常に速いということに改めて驚いております」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成15年より)   “その3倍”という表現に、驚きと深い感動が込められている。また、よちよち歩きの愛子さまをずっと見守る天皇陛下の深い愛情が伝わってくる。   「愛子の養育方針」として語ったのは平成17年だった。このとき、愛子さまは3歳。   「3歳という年齢は今後の成長過程でも大切な時期に差し掛かってきていると思います。愛子の名前のとおり,人を愛し,そして人からも愛される人間に育ってほしいと思います。それには,私たちが愛情を込めて育ててあげることが大切です。つい最近,ある詩に出会いました」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成17年より) 葉山御用邸近くの海岸・小磯の鼻を散策するご一家。葉山御用邸(後方)近くの海岸・小磯の鼻へ散策に出て、砂遊びの道具を手に、迎えた地元の人たちを見つめる愛子さまと、笑顔で手を振る皇太子さま(当時)と雅子さま=2003年4月13日 代表撮影  天皇陛下がいう詩とは、ドロシー・ロー・ノルトというアメリカの家庭教育学者の作った「子ども」という詩で,スウェーデンの中学校の社会科の教科書に収録されているという。記者会見では「子ども」を朗読している。   『批判ばかりされた 子どもは 非難することを おぼえる   殴られて大きくなった 子どもは 力にたよることを おぼえる   笑いものにされた 子どもは ものを言わずにいることを おぼえる   皮肉にさらされた 子どもは 鈍い良心の もちぬしとなる   しかし,激励をうけた 子どもは 自信を おぼえる   寛容にであった 子どもは 忍耐を おぼえる   賞賛をうけた 子どもは 評価することを おぼえる   フェアプレーを経験した 子どもは 公正を おぼえる   友情を知る 子どもは 親切を おぼえる   安心を経験した 子どもは 信頼を おぼえる   可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる』 【こちらも話題】 雅子さま還暦「愛子にはいちばん美しいものを見せたい」一緒に笑い、悩み、「娘」を守り続けた https://dot.asahi.com/articles/-/208531    この詩を読み終え、「家族というコミュニティーの最小の単位の中にあって,このようなことを自然に学んでいけると良いと思っております」としたうえで、まだ3歳の愛子さまの「将来」について語られた。   「愛子が公務を始めるというのではなく,私たちがやっている姿を見せることも大切と考えます。3歳になりましたので,いろいろな意味で社会性を身に付けていくことも大切と思っています。    言葉もかなり自由に出ますので,日常生活でのあいさつや,これはもう前からしておりますが,食事のときの「いただきます」,「ごちそうさま」など,また,何かしてもらったときの「ありがとう」という言葉などは大切と思っています」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成17年より)    詩「子ども」を引用しながら天皇陛下が語る愛子さまへの思いは、改めて私たちにも大切なことを示してくれている。    天皇陛下、そして雅子さまからの愛情を注がれて育った愛子さまだが、天皇陛下の記者会見で語られる様子ではなかなかのアクティブな女の子だ。   「5年生から始めたバスケットボールクラブでは,初めての対外試合で他校を訪れ,他校の皆さんと試合を行ったり,初等科での試合の場合には,試合後は交流も行ったり,非常によい経験になっているように思います。    また,この冬休みには,親元を離れて,初めてお友達とスキー合宿に参加するなど,お友達との活動の場も増えてきました。今回のスキーは愛子にとっては,3年近く前の春休み以来の久しぶりのスキーとなりましたが,たくさん練習し,少し上達したようで,本人にとっても,自信が付いたことと思います」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成25年) 皇太子(当時)ご夫妻と卒業式に向かう、愛子さまと皇太子ご夫妻=2017年3月22日、東京都新宿区 代表撮影    バスケにスキーの他、学習院女子中等科2年生の愛子さまは水泳も上達された。   「沼津の臨海学校では,約3kmの遠泳を泳ぎ切るなど,水泳は目覚ましく上達したようです」(皇太子殿下お誕生日に際し/平成28年)    この頃から、天皇陛下の愛子さまへの接し方の変化が、記者会見の言葉から垣間見えてくる。 【こちらも話題】 愛子さまは赤いコートのクリスマスカラー 天皇陛下と雅子さまと「お忍び」でたずねたイルミネーションスポットはどこ? https://dot.asahi.com/articles/-/207282   「健やかに成長していくよう,雅子と共に見守っていきたいと思います」(平成25年)から、「将来については,愛子も高校生になり,自分の将来についても思いを巡らす時期になっていると思いますので,雅子も私も,愛子本人の希望をよく聴き,相談に乗っていきたいと思っています」(平成30年)というように、見守るから本人の希望に寄り添うものに移行する。    進路を考える時期に差し掛かり、天皇陛下は「本人の希望を聴き」「相談に乗っていきたい」という言葉を繰り返されている。この気持ちは雅子さまももちろん一緒だ。改めて仲が良いといわれる天皇ご一家の様子が目に浮かぶ、愛子さまを見守る、思いのある言葉だ。    学習院大学への進学が決まった以降、天皇陛下の愛子さまへの言葉の中には、「感謝と思いやりの気持ちを大切にしながら」(令和2年)というフレーズが必ず入ってくる。   「感謝と思いやりの気持ちを持って,一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたいと思います」(天皇陛下お誕生日に際し/令和3年より)    そして、愛子さまが成年皇族の記者会見を行った翌年には天皇陛下はこう語られた。   「愛子が記者会見でも述べたように、自身のこれまでの経験は周りの多くの方の支えや協力があったからであり、これまで様々な形で支えていただいた皆さんに感謝する気持ちを持ってくれていることを、私たちとしてもうれしく思いました」(天皇陛下お誕生日に際し/令和5年) 天皇、皇后両陛下の長女愛子さまは、成年皇族として初めての記者会見に臨んだ=2022年3月17日午後、皇居・御所「大広間」 代表撮影    愛子さまが立派に果たされた成年皇族としての初めての記者会見は、天皇陛下が願い続けてきたことに、愛子さまも応えた瞬間だったのだろう。    愛子さまが生まれた2001年から皇室番組の放送作家を務めるつげのり子氏は、お誕生日の記者会見で天皇陛下が愛子さまに向けて述べられた言葉について感慨深げにこう話す。   「そもそも敬宮愛子さまのお名前には天皇皇后両陛下の思いが本当に込められていますよね。    毎年、お誕生日には愛子さまの成長ぶりをお話しされていますが、印象深いのは平成17年に愛子さまの養育方針について一遍の詩を引用されたときです。    その詩の中に〈可愛がられ 抱きしめられた 子どもは 世界中の愛情を 感じとることを おぼえる〉という一節があります。その言葉は陛下にとって、子育てにおける大きな指針になられたのではないかと思います。    だからこそ、愛子さまが誰に対しても愛する心を持ち、また愛される人になって、感謝と思いやりの気持ちを持つように成長を見守ってこられたのだと思います。   “感謝と思いやりの気持ちを持って”という言葉は、令和になってから毎年語られています。詩を引用された当時から、その一節を念頭に置かれて愛子さまに接してこられたのだと思います」    記憶に新しい愛子さまの昼食会デビューの素晴らしい姿は、天皇陛下と雅子さまの愛情の結晶だったように思えた。(AERA dot.編集部・太田裕子) ◎つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
クドカン「不適切にもほどがある!」で疼く古傷 キモい時代を生き抜いた女の歴史はまだ語られていない 北原みのり
クドカン「不適切にもほどがある!」で疼く古傷 キモい時代を生き抜いた女の歴史はまだ語られていない 北原みのり   話題のドラマ「不適切にもほどがある!」に主演する阿部サダヲさん。80年代から現代にタイムスリップした主人公を演じている  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回はドラマ「不適切にもほどがある!」で考えた80年代と、80年代を代表するテレビ人・久米宏さんの著書から見える80年代の仕事ぶりについて。 *    *  *  話題のドラマ、宮藤官九郎脚本「不適切にもほどがある!」を観ている。パワハラやセクハラという概念がそもそもない昭和の中学教師が、セクハラやパワハラという概念に振り回されている現代(として描かれている)にタイムスリップし、昭和ならではの “不適切な振る舞い”でポリコレにがんじがらめの現代人(として描かれている)を魅了していく物語である(少なくとも第4回までは)。主人公を演じる阿部サダヲさんはじめ出演する役者たちが芸達者で、ついつい見入り、大笑いしちゃったりもする。でも……なぜだろう、見終わった後に、1980年代を生きてきた者としての古傷が疼くのである。それがとても痛かったりするのである。  宮藤官九郎さんと私は同じ年である。1980年代、日本が世界で一番のお金持ちの国にかけあがっていく、「ルンルン」で、「ギンギラギン」で、「毎度おさわがせします」な賑やかで軽薄な時代に“私たち”(=今の50代前半世代)は10代を過ごした。  ドラマは1986年の設定だ。職員室で教師同士がセクハラ会話で盛り上がり、テレビでは女性たちがおっぱいを出し、エッチな情報番組にティーンが出演している1986年である。ドラマを観ている人にしかわからない話で申し訳ないが、1986年の東京であんなスカート丈のスケバンはいなかったでしょ……とか、1986年にマッチのポスターを部屋に貼っていた女子高生なんていないでしょ……など細かい描写が気になるくらいに、あの時代を生きていた人たちには細部が楽しめるつくりになっている。  そして改めて思うのだ。ああ、あんなキモい時代を、よくまぁ、あの時代の女の子たち(私も含め!)は生き抜いてきたなぁ~、と。  ちょうど、1980年代を代表するテレビ人、久米宏さんがご自身の仕事を回顧する『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日文庫)で、ザ・ベストテンの司会者時代、山口百恵さんの素を引き出すために百恵さんのお尻を触ったくだりを読んでいた。1979年のことである。 「今では考えられないようなおふざけもした。百恵さんの胸元をわざと覗き込み、お尻をむんずとつかんだ。セクハラという言葉がまだ広まっていない時代。誰も百恵さんのお尻を触ったことがない。ならば僕がそのさきがけとならん」  本を読む限り、久米宏さんは相当に自己プロデュースをしながら目標に向かってステップアップしていく努力家である。お茶の間で万人受けするアナウンサーではなく、「あ、久米宏だ」と声を聞いてすぐにわかるようなアナウンサーを目指すために、久米さんは「誰もしたことがない」ことで果敢に放送業界に挑んでいく。例えば、1970年にスタートしたラジオ番組「永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO」で、日活ロマンポルノの現場に行き中継したりとか。1978年に久米さん自身がメインになったラジオ番組「土曜ワイド」では、“くだらない”“ばかばかしい”素朴な疑問を集めたこととか。それは例えば、「おねえさんからおばさんに変わる基準は?」「処女膜は人間以外のメスにもあるのか?」「魚にも美人とブスはいるのか?」というような“素朴な疑問”だったりとか。または情報番組「久米宏のTVスクランブル」で「日本全国美人妻」という人気コーナーをつくった話だとか……。  読み進めていくうちに、だんだんと久米宏さんが、「不適切にもほどがある!」の主人公、阿部サダヲに見えてくるのであった。  久米宏さんがラジオで才能を発揮しはじめた1970年といえば、まだ戦後25年である。そういうなかで、意欲のある放送人(男性)たちが実験的に、いかにくだらないことを、いかに放送にたえられるギリギリのラインで、いかにエンタメにしていくのかに切磋琢磨していた。エロは反権力だった。エロは笑いだった。エロは日本の戦後感を完全に払拭する起爆剤だった。正しいことなんてくだらなかった。間違っているかもしれないが面白いことが、正義だった。権威を軽薄で塗りかえていくことで新しい時代の空気が生まれていく……そんな実感を、当時の大人たちは味わっていたことが久米さんの著書からは伝わる。そしてその空気はまさしく、今の50代が生まれたときから空気として触れてきたものなのである。  ところで久米さんは1985年にはじまった「ニュースステーション」で後悔していることの一つに、沖縄の基地問題についてとりあげる際、フリップに描かれた沖縄の地図を上下逆にして紹介したことをあげている。沖縄に何度も行っていたにもかかわらずにやってしまったこのミスについて、久米さんは「今も忘れることのできない痛恨のミス」「今思い出しても身の縮む思いがする」と記している。……というくだりを読んで不思議なのは、百恵さんのお尻を触ったことは「今思い出しても身の縮む思いがする」経験ではないのか、と。ほんと、沖縄には謝るけど、女には謝らないのね……と。  そしてやはり、この国を生きている男の人たちにとって、女の子の古傷なんて知ったことではないという事実を突きつけられる。「あの時代」を「おおらかだった」と懐かしめる感性を抱きしめ続けている同世代の男性や、セクハラをした過去を「セクハラという言葉がまだ広まっていない時代」だったと、おだやかに振り返られる“のびやかな感性”を見せつけられる2024年に改めて。 「セクシャル・ハラスメント」が新語・流行語大賞になったのは1989年のことである。セクハラという言葉はなくても、日常的に、職場でも、学校でも、職員室でも、テレビでも、ラジオでも、性的嫌がらせは日常的にあった。「魚にも美人とブスはいるのか?」とかいう“素朴な疑問”を男と一緒に笑える感性のある女の子じゃなければ、そりゃフツーに苦しいのである。昭和が終わった1989年に「セクハラ」が流行語大賞になったのは、決して偶然ではない。1970年代あたりから激化していく男たちのはしゃいだ感じや性的嫌がらせに対し、女たちがようやく言葉を見つけたのが、あの年だったのだと思う。  ……と書くと、1980年代が女にとっては地獄だった……みたいな話になってしまうが、1980年代に10代の女の子だった身としては、「だからこそ、女の子たちは、越境しようとしていた」のだと実感を込めて思う。女の子が女の子の言葉で小説を書く「コバルト文庫」……新井素子や氷室冴子の本にどれだけ当時の女の子たちが夢中になったか。女の子が女の子と激しく闘う女子プロレス……クラッシュギャルズの真剣にどれだけの女の子が涙したか。私たちは抵抗してきたのだ。その抵抗がどのように実を結んだのか、あの抵抗をしていた女の子たちは今どんな50代を生きているのだろう。 “エロにおおらかだった1980年代”が定着していくことに、半分その通りですよ……と思いながら、それがキモくて、それがつらくて、それにむかついて抵抗してきた女の子たちの歴史もある。クドカンさんのドラマが今後どうなっていくのか、観たいような観たくないような……複雑な思いで古傷を触る。女の子の歴史はまだまだ語られていないことを噛みしめながら。
愛子さま昼食会デビューの圧倒的オーラの背景に「雅子さまにそっくり!」な所作と心
愛子さま昼食会デビューの圧倒的オーラの背景に「雅子さまにそっくり!」な所作と心 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影    2月9日、愛子さまが、ケニアのルト大統領夫妻を招いての昼食会(午餐)で「デビュー」された様子はメディアでたくさん報じられた。外国要人を招いた国際親善の昼食会に参加するのは初めてだったが、その立ち振る舞いは圧巻で、コメント欄やSNSは絶賛の声であふれた。愛子さまは、なぜこれほどまでに素晴らしかったのか? マナーのプロに聞いた。   *   *   *    愛子さまの昼食会デビューの姿は、報道の映像では2分間少々。    天皇陛下がエスコートし、ルト大統領夫妻を招き入れた。大統領夫人の後方に雅子さま、秋篠宮さま、愛子さまと続き、それぞれの席の前へ。    愛子さまは、左隣のルト大統領、右隣の投資貿易産業長官に会釈をして席に座った。    愛子さまは、まずはスワヒリ語で、   「ハバリ(ごきげんよう)」    と、投資貿易産業長官に話しかけ、その後は英語で微笑みながら会話を楽しんでいた。    この愛子さまの昼食会デビューの映像を、思わず何回も見返した。柔らかい雰囲気をまといながらも、品格のある堂々としたお姿だった。    ニュースのコメント欄やSNSは、大いに沸いた。初々しいお姿は誰もが想像していたかもしれないが、実際の愛子さまはそんな想像をはるかに超えていたからだ。 【こちらも話題】 愛子さま昼食会デビューの堂々たる品格 天皇陛下が明かしていた高校一年生からの研鑽 https://dot.asahi.com/articles/-/213857 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影   〈圧倒的なオーラでしたね。 表情が豊かで映像を見ていて音声もないのに楽しんでいるのであろう、和やかな雰囲気が伝わってくる。〉   〈敬宮様がいらっしゃることでとても明るく華やかになり、皆が自然と敬宮様を目で追ってしまう…そんな存在感がありました。〉   〈敬宮様が、部屋に入られ、お席に着かれるまでのご様子を拝見し、ハットしました、何て、堂々と、でも、偉そうでなく自然にされている。 この自然さは、急にできる事ではありません。〉   〈愛子さまは本当に大物ですね。 まだ若い女性なのに、カメラや相手を意識することもなく、気取りも作り笑いもない。 常に自然な表情で、それがまた素敵なお顔で周囲は癒される。〉    愛子さまの立ち振る舞いを絶賛するコメントが並び、さらにはコメントに対する“共感”のクリック数が2.2万というものもあった。    愛子さまの昼食会デビューは、紀子さまの胃腸の不調による欠席のためのピンチヒッターだった。にも関わらず、想像を超える立ち振る舞いだったのはどうしてなのか?     大手企業のマナーコンサルティングやNHK大河ドラマ、映画などのマナー指導も務めるマナーコンサルタントの西出ひろ子氏も「本当に素晴らしかったですね」と愛子さまを絶賛する。    まず、西出氏が注目するのは愛子さまの「表情」だ。   「“笑顔を作る”という表現がありますが、愛子さまは作り笑顔ではなかったですよね。いい表情とは作るものではなく、大切なのは“心”です。    ルト大統領夫妻に対しての敬意であったり、隣に座られた投資貿易産業長官などと会話を楽しみながら有意義に過ごしたいという気持ちが自然に表れていたと思います」 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影   愛子さまの笑顔には心が    愛子さまの笑顔に心がこもっていたから、それが伝わったのではと西出氏は言う。   「とにかく形だけを整えようとするものであったなら、称賛の声はここまでは集まらないと思います。根幹にあるものは、やはり思いやりのある心の美しさでしょう。品格というものは心から表れるものですから、愛子さまの日頃の意識が、品格としても表れたと存じます。    天皇、皇后両陛下やその他の方からのアドバイスなどの学びもあるかとは存じますが、マナーの本質である相手中心とする思いやりの心が行動や言葉に表れることをご存知でいらっしゃるのだと感じました。日頃からそれらを意識し、実践なさっているからこそあそこまでの自然な振る舞いになったと思われます」 【こちらも話題】 愛子さまは「別格」!鳳凰が羽ばたくお正月の着物 内親王だけに許された優美な「御地赤」 https://dot.asahi.com/articles/-/210149 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影 愛子さまの優美な歩き方の真髄  西出氏が表情の次にあげるのは「歩き方」だ。   「愛子さまの堂々とした歩き方を拝見して、明治時代に刊行された書物、『國民日常大鑑』の中の〈新時代の礼儀〉の項にある“無用の遠慮”という言葉を思い出しました。    例えば、今回のような昼食会の席に着くときに、遠慮や謙遜から、つい前かがみになって歩いてしまったり、ペコペコしながら歩いてしまうことはあると思います。   “無用の遠慮”とは、新しい時代となり海外との交流もあるのだから、それまで国内では良しとされていることも相手によっては失礼にあたることを示しています。そして、それは新しい礼儀として、相手によってはいらない遠慮があることを教えてくれています」    まさに、愛子さまの立ち振る舞いには“無用の遠慮”の視点があったことがポイントだと西出氏は指摘する。   「“無用の遠慮”の視点は現代にも通じるところがあると感じました。私もインバウンドや異文化コミュニケーションなど国際的な舞台におけるマナーの研修などでお伝えしているのですが、海外の人に対してはペコペコしたお辞儀は好まれず、逆にマイナスになってしまうケースが多くあります。 愛子さまはこれらを踏まえたうえで、自然に堂々と歩かれていたのだと思われます」    西出氏は愛子さまの歩き方も、常日頃の意識の賜物だったと指摘する。さらに、着席された愛子さまのある動きも、見逃さなかった。 【こちらも話題】 雅子さま優美な金箔の着物と愛子さま「ふんわり」リボンのおもてなし 振袖ではなく洋装が選ばれた理由とは https://dot.asahi.com/articles/-/214506 愛子さまは自然に姿勢を   「愛子さまは、椅子の座面に軽く手をつけて腰を少し浮かせて、右隣の投資貿易産業長官の方に身体全体の向きを変えられたんです。     基本的に招く側はその右隣に座られた方と主に会話をし、もてなします。愛子さまはその方と向き合う姿勢を自然に取られていらしたのです。    これは私が講演などでも話している、『3つの“こ”』がそこには備わっていました。『3つの“こ”』とは、心の“こ”、言葉の“こ”、行動の“こ”。心は形として見たり聞いたりすることができません。だからそれを言葉と行動で表現するわけです。    相手に対して心があるから、相手の方に向き、そして相手の国の言葉を話す。愛子さまの振る舞いには、この三位一体が完璧に揃っていらっしゃいました」 ケニアのルト大統領夫妻との午餐(ごさん)に臨む皇后さまと天皇、皇后両陛下の長女愛子さま。ルト大統領の隣に座る雅子さまと愛子さまの佇まいが本当にそっくりだ=24年2月9日 皇居・宮殿「連翠」 代表撮影    少し腰を浮かして、話している相手の方を向いた愛子さま。その様子を見て、西出氏は思わずつぶやいてしまった言葉がある。   「雅子さまに、ホント、そっくり!」    親子であるから姿かたちが似ておられるというのももちろんあるだろう。だが、姿かたちだけでなく、物腰や佇まいも、お二人はよく似ている。愛子さまの左隣のルト大統領と会話される雅子さまは、愛子さまの雰囲気と重なって輝いて見えた。天皇陛下もそうだが、雅子さまはきらめく笑顔で、本当によく話しかけられているように見える。    西出氏は言う。   「愛子さまが日本赤十字社の嘱託職員に内定に寄せたコメントに、社会に貢献しながら、国民に寄り添う皇室としての役割をっていかれようとする強い気持ちを感じました。    そうした常の意識が、今回の昼食会デビューの圧巻の立ち振る舞いにもつながっていたと存じます」    この春から、愛子さまのさまざまな「デビュー」を拝見する機会が増える。そこからどんなお心が伝わってくるのか。愛子さまのご活躍が楽しみでならない。(AERA dot.編集部・太田裕子) ◎西出ひろ子/マナーコンサルタント、マナー評論家、マナー解説者。大学卒業後、参議院議員秘書職を経て、マナー講師として独立。31歳で渡英。オックスフォード大学大学院遺伝子学研究者(当時)と英国にて起業。帰国後、企業のコンサルティングをはじめ、大河ドラマや映画、CMなどのマナー指導など多方面で活躍中。近著に「マナーのカリスマが大切にする 私スタイルの暮らし方」(主婦と生活社)など著書多数。

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