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「睡眠負債」が日本人の生産性を下げている? 1日1時間を取り戻すのに「4日」という現実
「睡眠負債」が日本人の生産性を下げている? 1日1時間を取り戻すのに「4日」という現実
勤務時間中なのにどうにも眠くて仕事にならない。日本では「よくあること」かもしれないが、世界的にみると異常な状態だ  世界的に見ても「睡眠時間が短い国」とされる日本。世界協力開発機構の2021年の調査では、加盟する33カ国の平均睡眠時間が8時間28分なのに対して、日本人の平均は7時間22分と1時間以上短い。日本人は、いつから「眠らない国民」になったのか。シリーズ累計145万部の「超基本」シリーズ最新刊で、睡眠研究の第一人者・柳沢正史氏が監修した『今さら聞けない 睡眠の超基本』が、日本人の睡眠の現状について詳しく解説している。本から引用する形で紹介したい。 睡眠不足は「重篤な健康問題」が世界の常識  1960年当時、日本人の平均睡眠時間は8時間13分と理想に近いものだった。しかし、そこから2015年までの55年間、つまり、高度経済成長期、バブル期、バブル崩壊後のいわゆる「失われた30年」の間ずっと、日本人の睡眠時間は短くなり続けた。  これを、「日本人の勤勉さを示す数字だ」と喜んではいられない。   日本人の働く世代には睡眠不足は一般的で、仕事中や通勤途中の電車でウトウトしている光景は珍しくない。しかし、昼間に眠いという場合、睡眠が不足している可能性が高い。睡眠不足は日本では軽く見られがちだが、海外では「身体の調子が悪い」とみなされ、とても心配される。「行動誘発性睡眠不足症候群」という名前がつく病気の一種で、脳のパフォーマンスが下がるうえ、うつや糖尿病、高血圧、認知症、がんといった疾患リスクが高まり、心身が深刻なダメージを受けてしまう。睡眠不足は「重篤な健康問題」というのが世界の常識なのだ。 睡眠時間が長い企業ほど利益率が高い  世界経済フォーラムが、世界各国の平均睡眠時間と国民一人当たりのGDP(国内総生産)を比較したところ、「睡眠が十分に取れている国は生産性が高く、睡眠不足の国は生産性が低い」という傾向が見られたという。日本人の睡眠不足による経済損失は年間約15兆円という試算もある。  慶應義塾大学の調査では、従業員の睡眠時間が長い企業ほど利益率が高いことがわかっている。経済産業省の報告によると、社員1人あたりの休養・睡眠不足による年間の損失は約33万円。肥満による損失が約3万円、運動習慣による損失が約3万5000円なのに対し、突出している。アメリカのランド研究所による2016年の調査では、日本全体で、先進カ国の中で最も大きい、年間最大1380億ドルもの損失があると推測されている。しかし、多くの人はこれに気づかない。自身の睡眠不足に慣れてしまっているのだ。  さらに深刻なのは、1日1時間の睡眠負債を「完済」するには約4日かかるという現実だ。 睡眠不足がたまると「睡眠負債」になる  国立精神・神経医療研究センターがこんな研究結果を公表している。普段から7時間半ほど眠っており、十分に眠れていると自覚がある学生に好きなだけ眠ってもらったところ、初日の睡眠時間は約10時間半。その後4日間の睡眠時間は長かったものの、徐々に落ち着き、8日目以降は約8時間半になった。この結果から、普段は睡眠時間が約1時間足りないこと、その分を補うのに約4日間かかったと推定される。 睡眠負債は慢性的な睡眠不足がたまっている状態。平日と休日の睡眠時間や睡眠中央時刻に2 時間以上の差がある場合は、睡眠負債がたまっていると考えられる。    平日と休日の睡眠時間や睡眠中央時刻(就寝時刻と起床時刻の中間の時刻)に2時間以上の差がある場合も、慢性的な睡眠不足で「睡眠負債」がたまっている可能性が高い。身体は規則正しいリズムを好むため、不規則な睡眠パターンが生じると体内時計が乱れ、さらに睡眠の質が低下し、健康リスクが高まりまってしまう。  どうすれば、睡眠負債をためずに済むのか。  睡眠負債は一過性のものではなく、継続的な睡眠不足や睡眠の質の低下によって形成されるので、単に休日に多く眠るだけでは解消できない。起床時間を遅らせることができないなら、30分でいいから眠る時間を早める。休日に長く寝るならその分就寝時間も早くすると、睡眠中央時刻のズレによって生じる「社会的時差ぼけ」を防ぐことができる。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂) 【PR by 暮らしとモノ班】 夏の夜は不眠になりがち!睡眠の質を高めるための方法と実際に使ってよかったグッズを紹介 https://dot.asahi.com/articles/-/229200    
超基本睡眠の超基本柳沢正史
dot. 2024/08/16 17:00
天皇、皇后両陛下と対面した「英国在住の女性寿司シェフ」 孤独の日々を経て“トップ”に上り詰めた半生
大谷百合絵 大谷百合絵
天皇、皇后両陛下と対面した「英国在住の女性寿司シェフ」 孤独の日々を経て“トップ”に上り詰めた半生
佐藤さん(「マンダリン オリエンタル ハイド パーク ロンドン」提供)  今年6月の天皇、皇后両陛下英国ご訪問の際、現地在住の“寿司シェフ”佐藤美穂さん(53)は、英国王王妃が主催する国家晩さん会に招待された。【前編】では、両陛下との対面を「人生の金メダルを頂いたような感覚」と表現した佐藤さん。女性の寿司職人としてチャンスをつかむため、約30年前に海を渡った自身の半生を振り返ってもらった。 【前編】〈バッキンガム宮殿で天皇、皇后両陛下と国王ご夫妻に……女性“寿司シェフ”が経験した非現実な一夜とは〉から続く  日本で調理師学校を卒業したのち、ドイツやイギリスの和食レストランの厨房を渡り歩いてきた佐藤さんは、現在、英国の5つ星ホテル「マンダリン オリエンタル ハイド パーク ロンドン」内にある高級居酒屋「The Aubrey(オーブリー)」で“ヘッド寿司シェフ(寿司部門の料理長)”を務めている。  調理師学校時代は、和食、洋食、中華とさまざまなジャンルの基本技術を一通り学び、得意料理は洋食だった。だが、「わびさび」が根底に流れる日本文化の造形美に魅かれていたこともあり、「自分の五感を大切に料理を作りたい」と、あえて女性がほとんどいない和食料理人の道を歩むことに決めたのだという。 日本でシェフを続けるのは難しかっただろうと…  そして学校を卒業するころになると、講師から「日本を出て働いてみてはどうか?」とアドバイスされ、鉄板焼きや寿司を提供するドイツの日本食レストランからのオファーを受けることにした。  自身の決断について、佐藤さんはこう振り返る。 「正直、海外なんてまったく興味はありませんでした。でも講師の先生は、男性中心の料理人の世界で女性はあまり活躍できないんじゃないかという懸念があったんでしょうね。約30年前の日本の飲食店は、着替えられる場所がなかったり、従業員トイレがすべて男性用だったり、まかないは立って食べなければいけなかったり、女性にとって劣悪な職場環境のお店もたくさんありました。私は忍耐強いほうですが、日本でシェフを続けていけたかと考えると、難しかっただろうと思います」 厨房で腕を振るう佐藤さん(「マンダリン オリエンタル ハイド パーク ロンドン」提供)  海外に渡ると、レストランの厨房ではたくさんの女性シェフが働いており、職場環境に大きな問題は感じなかった。女性が寿司を握っていても、現地の人は日本人客ほど驚かない。それでも、料理長クラスの「トップシェフ」に就く女性はほんの一握りだった。 先進国でも立ちはだかる“男女の壁”  寿司職人に限らず、料理人の世界はどうしても夜遅くまで働くことが常態化している。女性の場合、体力のある20代、30代のうちは乗り切れても、40代以降は身体的な負荷を痛感することが増えるという。特に、家庭を持って子どもを育てながら働くとなると、ハードルはさらに高くなる。 「一生をかけて寿司シェフの道を極める覚悟で働いている女性は、ほとんどいないと思います。実際、ドイツのレストランで一緒に働いていた同僚で、まだシェフを続けている女性は一人もいません。ロボットがお寿司を握っていても、『はいはいOK』って受け入れられるくらいの柔軟な社会にならない限り、この状況は変わらない気がします」(佐藤さん)  女性が働きやすい社会を目指し、いち早く改革が進められてきたヨーロッパの先進国でさえ、歴然と立ちはだかる男女の壁。佐藤さんは、周りから次々に女性シェフがいなくなっていく寂しさを思い返す。 「ずっと孤独でしたよ。男の子たちは『ビール飲みに行こうよ』とか『サッカーのスペインチームがさー』なんて盛り上がっているけれど、そんな話、一緒にできないじゃない? どうやって孤独と闘い、モチベーションを作っていくかが課題でした。私の場合は、自分のおもてなしに対してお客さんから『ありがとう』と言ってもらえたり、『美穂の味が好き』と認めてもらえたりすることに何よりの喜びを感じられたから、今まで続けてこられたのかなと思います」 佐藤さんが手がけた寿司(「マンダリン オリエンタル ハイド パーク ロンドン」提供)  現在の職場「The Aubrey」は、オープンした2022年1月から働いている。店の立ち上げに伴い、厨房を取り仕切るシェフを決めるコンペに出てほしいと声がかかった。審査では、日本人だからといって有利になるわけではなく、腕前の確かさや知識の豊富さ、そして店のオーナーのイメージにマッチした料理を作れるかが問われた。結果、見事 “ヘッド寿司シェフ”の座を射止めた。 カリフォルニアロールは邪道なのか  Aubreyを訪れる客たちは、国籍も食の好み、こだわりも多種多様で、日々“難易度”の高い要望の数々と格闘しているという。 「グルテンフリーで作ってほしい」「私は大豆アレルギーなんだ」「イスラム教徒なのでハラルフードしか食べられない」、さらには「魚は嫌い」などと言ってくる客もいた。佐藤さんは、グルテンフリーの醬油麹を作ったり、魚を使わずに出汁をとったり、工夫をこらしている。 「日本人は、シェフが作った料理を黙って食べて、気に入らなかったら二度と行かないという人が多いけれど、外国の人はサービスや雰囲気が気に入ったお店があれば、『自分はこういうものが食べられないけど、この店には来たいんだ』と申し出て下さる方が多い。そういうリクエストには応えてあげたいですよね。日本では、『寿司としてカリフォルニアロールを出すのは邪道だ』といった見方もあると思いますが、私は、そのお客さんが満足してくれて、お店のコンセプトにも合うものを作ることしか考えていません。ただ、自分の味は信じているので、日本人が食べても日本食としておいしいと思える味、というのはすべての料理のベースにあります」  プライベートの充実はさておいて、仕事一筋で人生を歩んできたという佐藤さんは、「子どもはキッチンに100人いますから」とあっけらかんと笑う。今後も一人でも多くの若いシェフたちに日本食を教えることが自分の使命だと思ってきたが、最近は、現場で“ジェネレーションギャップ”を感じるようになったという。 英国王妃主催の晩さん会に夫婦で参加した佐藤さん(本人提供) コロナ禍で「自由な生き方」へシフト 「みんながみんな、シェフになりたくて働いているわけじゃないんですよ。グラフィックデザイナーになりたいけどそれだけでは食べていけないからという人や、もはや目指しているものがない人もいる。コロナ禍を機に『休日も充実させつつ、興味のある仕事をしたい』『もっと楽しんで生きなくちゃ』と、自由な生き方を求める方向にシフトしていったのだと思います。だから私も、日本食の技術は教えてほしい人に教えられればいいかと、考え方が変わりました」  今の佐藤さんが目指しているのは、寿司だけでなく、お茶や着物といった幅広い和の文化を一緒に楽しんでもらえる場を作ること。お酒のペアリングなども考慮した“omakase”メニューでゲストをもてなしたり、筆ペンでメッセージを書いて喜んでもらえたり、といった経験からインスピレーションが湧いたという。 「人から必要とされて、今私はたまたまここにいる。これからも自分を求めてくれる場所で、その期待に応えたいです。先のことなんかね、わかんないですよ」  女性であるが故のハードルをものともせず、一流レストランの“ヘッドシェフ”に上り詰めた佐藤さんは、何の気負いもなく「うふふ」と笑った。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
天皇皇后両陛下天皇陛下雅子さま皇室
dot. 2024/08/16 11:00
暴れる、ものを壊す、家のお金を盗んで課金…増える小学生の「ゲーム依存」とは 専門医に聞く
暴れる、ものを壊す、家のお金を盗んで課金…増える小学生の「ゲーム依存」とは 専門医に聞く
(写真はイメージ/GettyImages)  スマートフォン(スマホ)やタブレット端末、ゲーム機が普及して、デジタルゲームは身近なものになりました。小学生もゲームに触れる機会が増えていますが、夢中になりすぎて日常生活に支障を来すケースも出てきています。ゲーム依存に詳しい、久里浜医療センター名誉院長で精神科医の樋口進さんに話を聞きました。 WHOがゲーム依存を「病気」と認定 ――「子どもがずっとゲームばかりしているが、大丈夫だろうか」「ゲームをするときの約束を決めたはずなのに、最近、守れなくなってきた」などと心配する親御さんは少なくありません。  ゲームには、やめたくてもやめられなくなる「依存性」があることがわかっています。依存にまでに至らなくとも、長時間のゲームによって学業など日常生活に悪影響が出ている人もたくさんいます。  世界保健機関(WHO)は2019年、新しい国際疾病分類(ICD-11)に「gaming disorder」を収載しました。gaming disorderは「ゲーム行動症」と和訳され日本語の正式な病名となっていますが、いわゆるゲーム依存やゲーム障害と同じと考えて差し支えありません。つまりWHOが、「ゲーム依存は病気であると正式に認めた」ということです。(※記事では一般の人にわかりやすいように「ゲーム依存」と表記します) ――ゲームに夢中になってやめられないことは誰にでもあると思いますが、どこからが病気なのでしょうか?  次の四つの症状が当てはまる場合に、「ゲーム依存」と診断されます。 ・ゲームのコントロールができない(たとえば、ゲーム時間を減らそうと思っても実行できないなど)。 ・生活の中でゲームを最も優先させ、ゲーム中心に生活が回っている。 ・ゲームによって学業や仕事、家庭生活、健康などに著しい影響が出ていて、不登校などの社会的な問題が起きている。 ・こうした問題が起きていても、ゲームをやり続ける。  WHOの診断基準は、「上記の4項目のすべてが当てはまり、12カ月以上続く場合」としていますが、重症化している場合などは継続時間が12カ月より短くてもゲーム依存と診断されることがあります。特に小中学生では短期間で重症化しやすい傾向があります。 「ゲーム依存」は男子に多い傾向 ――ゲーム依存の人は増えていますか?  正確なデータはありませんが、ゲーム産業のマーケットは年々広がっているので、ゲーム依存の患者数も増えていることは間違いありません。  久里浜医療センターでは2011年に「インターネット依存専門外来」を設置して以来、受診者数は年々増加し、ここ数年は年間延べ約2500人を超えています。動画やSNSへの依存もありますが、受診者の約9割はゲーム依存です。 ――小学生以下はどのくらいいるのでしょうか?  ゲーム依存の患者は10代から20代が中心ですが、年々低年齢化しています。2016年までは12歳以下はゼロだったのに、その後毎年増え続け、現在は新規受診者の2割近くを12歳以下が占めています。  これまでの受診者の最年少は、小学1年生でした。 ――男女どちらが多いといった特徴はありますか?  男の子のほうが圧倒的に多いですね。これまで私が診察した12歳以下の患者さんは女の子は1人だけで、あとは全員男の子でした。  もともとゲームは男の子に好まれる傾向があって、どの年代でも男性のほうが女性よりも割合が高くなっています。女の子はゲームよりもSNSや動画配信にハマりやすいですね。  男の子はシューティングゲームや格闘系のような順位を競ったり、勝ち負けがはっきりしたりするゲームを好むことが多く、こういったタイプのゲームは依存性が高いことが知られています。女の子はあまり依存性が高くない育成系やパズル系のゲームを好む傾向があります。 小学生でも暴言や暴力、不登校、高額課金も ――ゲーム依存になるとどのような問題が起きるのでしょうか?  健康面では、睡眠障害はほぼ全員に見られます。運動不足やきちんと食事を取らないことによる体力の低下ややせ、目の使い過ぎで近視が進む子も少なくありません。またゲーム依存は脳のさまざまな部位の萎縮を引き起こし、脳の機能に影響を及ぼしていることも示唆されています。  生活・社会面の問題では、朝起きられない、昼夜逆転、欠席が増える、ものを壊す・ものに当たる、暴言・暴力、食事を取らない、勉強に集中できない、成績が落ちる、友だちとの関係が悪化、不登校・ひきこもりなどの深刻な問題が起きています。 ――小学生では、どのような症状が見られますか?  当院を受診する小学生では、暴言や暴力が目立ちます。暴れる、大声を出す、ものを壊すといった類の割合が、中学生以上に比べてとても高いです。  ゲームをなかなかやめない子どもに対して、親が「まだ小学生だから親の言うことを聞くだろう」と、スマホを取り上げたり、インターネットの接続を強制的に切ったりしてゲームを物理的にできなくすると、子どもは尋常でないほど大暴れをする――そういうことを繰り返しているうちに親ではどうにもならなくなって我々のところを受診してくるケースが非常に多いですね。  不登校も多いです。受診前6カ月のうち3カ月以上不登校が続いているお子さんがだいたい6割から7割ぐらいいます。  また小学生でもほぼ全員がゲーム課金をしています。少額の課金は自分の小遣いから出している場合が多いですが、課金額が増えてくると、家に置いてあるお金を盗んで電子マネーに変えるとか、祖父母の財布から盗むとか、親のクレジットカードで勝手に番号を入れる場合も少なくありません。月に何十万円も課金している子もいます。  国民生活センターのインターネット関連の消費相談で最も多いのは小学生に関する相談で、その相談内容の多くを「多額のゲーム課金」が占めています。 ――「たかがゲーム」では済まないですね。  ゲーム依存を放置すれば、直近の学業や社会生活に支障が出るだけでなく、将来にも影響します。インターネットやゲームは依存の危険を孕(はら)んでいることを、親御さんにはぜひ認識しておいていただきたいと思います。 (取材・文/熊谷わこ) 樋口進医師のお話をもとに編集部で作成 樋口進医師 ○樋口 進(ひぐち・すすむ)医師/精神科医。独立行政法人国立病院機構久里浜医療センター名誉院長。1979年東北大学医学部卒。米国立保健研究所留学、国立久里浜病院臨床研究部長、同病院副院長、2011年に同病院院長となり、わが国初のインターネット依存専門外来を開設し、診療を開始した。2022年から現職。WHO物質使用・嗜癖行動研究研修協力センター長、慶應義塾大学医学部客員教授を兼務。
子どもの健康ゲーム
AERA with Kids+ 2024/08/15 09:00
レイザーラモンRGに聞く子どもとの接し方 「息子がやりたいことを一緒にやって、好きなことを一緒に好きになってきただけ」
レイザーラモンRGに聞く子どもとの接し方 「息子がやりたいことを一緒にやって、好きなことを一緒に好きになってきただけ」
細川たかしさんの弟子である、こぶしたかしさんに扮したレイザーラモンRGさん(提供) “あるあるネタ”や話題の人物をいち早くとり入れたモノマネで人気のお笑い芸人・レイザーラモンRGさん。息子の武丸くんは難関大への進学者も多い偏差値70超の都立西高校の出身です。息子が夢中になったことはとことんやらせて、受験も家族で一致団結。RGさんに、趣味や勉強をどのようにサポートしたのか、お話をうかがいました。※前編<レイザーラモンRGが語る、“偏差値70超”の都立高校に進学した息子の子育て 「ちやほやした結果、まっすぐな子に」>から続く ディズニー・チャンネルが第三の親 ――武丸くんは都立最難関の1つ、東京都立西高等学校(西高)の出身です。小学生のときから勉強はするタイプでしたか?  勉強はする子でしたね。作文とか標語をつくるのが好きで、コンテストのようなものには、進んで応募していました。 ――「勉強しなさい」と言わなくても? 「勉強しなさい」とは、言ったことがないかもしれないですね。中学受験をするというので、塾に通っていたんですけど、先生が「絶対受かるから」とちやほやしてくれたので、勉強することは褒められることなんだって感じたんじゃないかな。 ――なぜ中学受験することになったんですか?  周りの友だちが中学受験をするので、自分もしたいということで塾に通い出して。息子は学級委員とかをすすんでやるタイプだったので、そういう子は中高一貫校を受験するような雰囲気があったみたいですね。 ――委員会活動を積極的にやるのは、RGさんや奥さまの影響があるのですか?  ディズニーの影響です(笑)。小さいころはディズニー・チャンネルばっかり見ていて。息子にとって第三の親だと思っているんですけど。すすんでみんなと仲良くなろうみたいなディズニーの教えが、息子の積極性に影響していると本当に思っているんです。特に『フィニアスとファーブ』というアニメが好きで。夏休みが永遠に続くっていうストーリーで完全に子ども向けではないというか、遊び心があるアニメでした。 中学受験では悔し泣き ――中学受験についてはRGさんも賛成だったのですか?  そうですね。実は僕自身はスポーツを頑張ってほしいなというのがうっすらあって。体操、バスケ、水泳、いろいろ習わせたんですけど、あまりいい成績を残している感じではなくて。でも何かを覚えたり、勉強したりすることに関しては積極的だったので、途中でもうイヤなことはさせんとこう、って諦めました。 RGさんと息子の武丸くん(提供) ――受験はどのようにサポートされましたか?  家ではいわゆるリビング学習です。僕がスニーカーを集めていたので、それで1部屋埋まっちゃって、当時は子ども部屋を作れなかったんです。だからリビングの端に学習机を置いて。僕らは息子が集中できるように、勉強しているときはなるべく物音を立てないようにしていました。勉強していないときでも息子がリビングにいるときはテレビはつけず、録画して深夜に見るようにしていましたね。子ども部屋を持たせなかったのは、今となってはよかったなと思います。  ただ中学受験は失敗したんです。公立の中高一貫校志望だったので、小学校の成績も全科目よくないといけなくて。すごく悔しかったらしくて、寝室に閉じこもってしばらく出てこなかったですね。泣いていたと思います。僕はあまり声はかけませんでした。 ――私立ではなく公立志望だったんですね。  僕らが私立という選択肢を消していました(笑)。息子は車が好きだったので、私立に行ったらトミカが買えなくなるよとか、サーキットに連れて行けなくなるよとか、軽くプレッシャーをかけていたんです。 車にハマったきっかけはくっきー!さんの奥さん ――武丸くんは中学生のころにテレビ番組『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』(テレビ朝日系)に「スーパーカー博士ちゃん」として出演されていましたね。  小さいころにくっきー!さん(野性爆弾)の奥様に、トミカのミニカーをいただいたら、すごく気に入って。トミカは毎週新作が出るのですが、毎回買い与えて、一度モーターショーに連れて行ったらドハマりして。家ではミニカーをずっと眺めてたんです。僕らが車のテールランプやホイールの写真を見せて「何の車かわかる?」ってクイズを出すと全部わかるから、すげーなって。 ――くっきー!さんの奥様がきっかけだったんですね。  くっきー!さんは武丸の名づけ親でもあるんです。息子の名前で迷っていたときに、ずっとお世話になってきたくっきー!さんとバッファロー吾郎の竹若さんが「好きなマンガからつけたらいいやん」って。『特攻(ぶっこみ)の拓』が好きだと言ったら、「じゃあ武丸しかねぇな」って言ってもらって。最強のキャラなんですけど、とにかくかっこよくて。妻も息子も気に入ってくれています。 ドイツで開催されたWRC(世界ラリー選手権)の番組で武丸くんがレポーターに!(提供) ――車好きはずっと変わらなかったんですね。  小学校に入ってからも本当に車が好きで、モーターショーは開催期間中毎日行くようになって、妻は富士スピードウェイや鈴鹿サーキットにも連れて行ったりしていましたね。僕は芸人になる前にトヨタに就職していたことがあって、もともと車は好きだったのですが、あっという間に僕を越えていきました。  息子が喜ぶかなと思ってSNSでモータースポーツのことを発信していたら、その関係の仕事が来ましたし、息子も中学生のときにドイツで開催されたWRC(世界ラリー選手権)の番組でレポーターをやることになって。僕も息子のバーターでついていって、すごくいい経験をさせてもらいました。世界を駆け巡っているモータージャーナリストやカメラマンに会って、いつか車関係の仕事に就きたいと言うようになりました。 妻も努力した高校受験 ――中学は地元の公立中学に進学したのですか?  そうです。体がでかかったので柔道部にスカウトされたんですよ。それまでスポーツにハマってこなかったのに、柔道はハマって都大会でベスト4までいったこともありました。それから生徒会とか学級委員とか、委員会の活動のようなものは全部やっていましたね。  高校受験は志望校を西高と決めてからは、家族一丸となりました。妻は内申点を上げるために、音楽や図工の点数を上げるにはどうしたらいいのか、先生に相談に行ったりしていました。それで本当に合格したから、二人のことを心から尊敬しています。 ――相方のHGさんや周りの芸人さんたちと子育てについて話すことはありますか?  HGさんやトータルテンボスの2人とか、同世代の子がいる芸人とは、たまに話しますね。「どうして西高に行けたんですか」って聞かれることも多いので「甘やかしてるだけやで」って。どれだけ親が言っても、自分自身がやりたいと思ったことには、かなわないですよね。僕らは息子がやりたいことを一緒にやって、息子が好きなことを一緒に好きになってきただけですから。 ――ただやりたいことをやらせるのではなく「一緒に」というのが、いいのでしょうね。最後に「子育てあるある」をお願いできますでしょうか。  誕生日、入学式、卒業式、運動会の動画、たくさん撮ってもあんまり見返さなくないですか? 「思い出、スマホに残したと思って安心しがち」……ですね。写真はプリントしておくことをおすすめします! (構成/中寺暁子) ※前編<レイザーラモンRGが語る、“偏差値70超”の都立高校に進学した息子の子育て 「ちやほやした結果、まっすぐな子に」>から続く 〇レイザーラモン RG/1974年生まれ。熊本県出身、愛媛県育ち。立命館大学のプロレス同好会に所属していたときに、交流戦で同志社大学のプロレス同好会に所属していたHGに出会い、1997年にコンビ「レイザーラモン」を結成。その後吉本興業に所属し、2000年に「第20回ABCお笑い新人グランプリ」で審査員特別賞を受賞。2005年にはHGが「フォーー!」という掛け声でブレイク。RGもあるあるネタや「シルバーウルフ」「市川AB蔵」といったキャラクターで注目されるようになる。2013年「THE MANZAI」決勝進出。個人では2014年と2017年に「R-1グランプリ」の決勝に出場。
レイザーラモンRG子育て
AERA with Kids+ 2024/08/14 11:00
東京都心で「日傘男子」が急増中 直撃ルポでわかった「帽子じゃダメな理由」と「女性からの評判」
東京都心で「日傘男子」が急増中 直撃ルポでわかった「帽子じゃダメな理由」と「女性からの評判」
神奈川県から来た29歳の「日傘男子」。「サンバリア100」の完全遮光の日傘を約1万円で買って猛暑に備えたという(撮影/上田耕司)    日本全域で記録的な猛暑がつづくなか、日傘を差す男性の姿を多くみかけるようになった。かつては少数派だった「男の日傘」は、ここ最近は完全に市民権を得たようにみえる。そこで、AERA dot.が東京・銀座で日傘を愛用している男性たちを取材すると、「日傘でないとダメな理由」がうっすらと見えてきた。また、街の女性たちにも「日傘男子」の印象を聞いてみた。ルポでわかった「男の日傘」の最前線。 *  *  *  休日の買い物客でにぎわう東京・銀座のアーケード街。最高気温が36.7度を記録した8月4日、記者が取材で街中に出ると、汗が一瞬で吹き出し、日差しで肌がチクチクと痛むほどだった。  当然、日傘をさしている人も多くいるのだが、そのうち、男性の日傘姿も多く目につく。記者は日傘をさす習慣はなく、どこかまだ気恥ずかしさも感じてしまうのだが、「日傘男子」たちに抵抗感はないのだろうか。  母親と食事をするために神奈川県から銀座に来たという、黒色の日傘をさす男性(29)はこう話す。 「もう、暑いとかじゃなくて、痛いじゃないですか。日傘は陰を作れるので、日陰の中を移動している感じになるのがいいですね。日傘の表面を触ると熱くなっているし、ささなかったらだいぶ紫外線(UV)を食らっていると思います」 ユニクロで買ったという日傘をさしていた男性。画像を一部加工しています(撮影/上田耕司)   他の男性もさしているので「恥ずかしくない」  この男性がさしている傘はブランド物で、価格は1万円弱とそれなりのお値段。男性はIT系の会社に勤めているが、出勤時も使っているという。 「昨年は、もっと大きくて雨傘っぽい日傘を使っていました。でも大きいのはやはり目立つので、このくらいのサイズ(約55センチ)がいいですね」  銀座を歩いていると、3~4分に1人くらいは日傘を持った男性と出くわす。ビアホールで知られる「ライオン銀座七丁目店」では、入店待ちの客が長蛇の列を作り、道の角を曲がってもまだ行列が続いていた。行列の中に、ベージュの日傘を持っている男性がいた。話しかけてみると、足立区から来た50代の会社員だという。 「この日傘は1週間くらい前に北千住(東京・足立区)のマルイで買いました。きょうは直射日光を浴びながら行列に並びたくなかったので、日傘を持ってきました。恥ずかしくはないですよ。他の男性も日傘をさし始めてますから」  また、銀座のショッピングビルに勤務している男性(24)もこう話す。 「紫外線を浴びると、日焼けするだけじゃなくて、顔とか腕にシミもできますよね。男が(日傘を)することに全然抵抗はないです。この日傘はサイズが50センチくらいなのでちょっと小さいけど、折りたためるので、持ち運びに便利。手に長い傘を持ちたくないので重宝しています」 【PR by 暮らしとモノ班】 日傘男子も必見!シンプルでおしゃれな男女兼用日傘で熱中症を防ごう! https://dot.asahi.com/articles/-/227245 夫婦で日傘をさしている人も多い。夫が持つ日傘は藍染、麻素材で2~3万円する高級品(撮影/上田耕司)   女性からも「男性の日傘はいいと思う」  取材に応じてくれた人は一様に「恥ずかしさはない」と話す。やはり、他の男性も日傘をさすようになったことが大きいと思われる。  女性からみても日傘をさす男性に抵抗はないようだ。  夫婦そろって黒の日傘を差して歩いていたカップルの妻(33)はこう語る。 「熱中症対策と美肌のためにも、(夫には)さしてもらったほうがいいですね。老化の対策にもなりますし。ただ、私が勧めたわけじゃないんですよ、夫が勝手にさし始めました(笑)」  夫(30)もこう続ける。 「日傘は女性が使うものだろうと思っていたんですが、さしてみたらとにかく涼しい。Amazonで、3000円くらいで購入しました。UVカット機能と遮光がついているのでお得だと思います」  夫婦で日傘をさしている人は意外と多い。建設業だという男性(42)と妻(42)にも話を聞いてみた。 「日傘をさすようになったのは今年の夏からです。帽子は持っていますが、私は仕事現場ではいつもヘルメットをかぶっていますから、休みの日くらいは帽子はかぶりたくないなと」  隣で話を聞いていた妻は「男性の日傘はいいなと思います。たまたま、百貨店で傘職人のイベントがあったので、その時に買いました」と続けた。確かに夫婦が持っているのは高級そうな日傘だ。麻糸で作られていて「2~3万円くらいした」(妻)という。 【PR by 暮らしとモノ班】 日傘男子も必見!シンプルでおしゃれな男女兼用日傘で熱中症を防ごう! https://dot.asahi.com/articles/-/227245 今年で創業94年になる東京・東日本橋の洋傘専門店「小宮商店」で売られている日傘(撮影/上田耕司)   帽子ではなく日傘をさす理由  若い「日傘男子」もいる。男女で仲良く1本ずつの日傘を差して歩いていた大学3年生の男性(21)は、帽子をかぶったうえに日傘もさしていた。 「帽子は頭に熱がたまってしまうので、日傘をすれば少し温度が下がるし、日焼け対策にもなります。それに、汗っかきなので、少しでも熱量を下げたい。大学へ行く時も日傘で行っています」  横にいた女性は「私は日傘大好きです。男性もしたほうがいいと思います」と、日傘男子を歓迎しているようだった。  日傘を「売る側」も変化を感じ取っているようだ。創業94年の東京・東日本橋の洋傘専門店「小宮商店」の広報・加藤順子さんはこう話す。 「昨日も今日も、朝、男性が一人で来られて日傘を買っていかれました。男性客が毎日、何十人といらっしゃいますね。『朝の通勤時、いつも電車で一緒になる男性が日傘を持っていたから、僕も我慢していたけど、日傘がほしくなった』とおっしゃった男性客もいました。『他の人がさしているから、もうさしてもいいかな』とおっしゃるお客さんも多いですね」 【PR by 暮らしとモノ班】 日傘男子も必見!シンプルでおしゃれな男女兼用日傘で熱中症を防ごう! https://dot.asahi.com/articles/-/227245 今年はカラフルな日傘も売れているという(撮影/上田耕司)   ビジネスシーンになじんできた日傘  特に今夏は、スーツや白シャツ姿のビジネスマンが、日傘をさしながらカバンを手に持っているスタイルを見かける機会が増えた。 「今までは、男が日傘なんてというネガティブなイメージがあったのかもしれませんが、逆に今は健康に気を使っている、熱中症対策をしているというポジティブなメッセージになっているように思います。汗だくになって、取引先へ行くのはちょっと恥ずかしいですよね。スーツで帽子をかぶるわけにもいかないですし、日傘はビジネスシーンにもなじんできたと思います。男性用の日傘は、昨年までは黒や紺色が主流でしたが、今年は色の薄いカラーも売れるようになりました。夜になると折りたたんでカバンにしまえるくらいの、55センチくらいが主流ですね」(同)  まだまだ猛暑が続くなか、「日傘男子」はますます増えていきそうだ。 (AERA dot.編集部・上田耕司) 【PR by 暮らしとモノ班】 日傘男子も必見!シンプルでおしゃれな男女兼用日傘で熱中症を防ごう! https://dot.asahi.com/articles/-/227245
日傘男子日傘猛暑
dot. 2024/08/08 07:00
5人男児の母・竹田こもちこんぶが語る育児家事「4人目が生まれて『無理ゲー』に。洗濯、掃除、整理整頓を捨てました」
5人男児の母・竹田こもちこんぶが語る育児家事「4人目が生まれて『無理ゲー』に。洗濯、掃除、整理整頓を捨てました」
竹田こもちこんぶさん  0歳から10歳まで5人の男の子を育てる芸人の竹田こもちこんぶさん。育児の日常に光を当てたネタが人気となり、TikTokのフォロワーは36万人以上に。昨年45歳で五男を出産し、ますますてんてこ舞いの竹田家。家事はどうやって回しているのでしょうか。洗濯や掃除は手抜きしつつ、子どもたちの遊びや食事にはこだわるという竹田流子育てを教えてもらいました。※後編<男児5人のママ芸人が教える、“効率化を極めた”夏休みの「乗り切り方」とは? 竹田こもちこんぶに聞く>に続く 洗濯物は洗って乾けば上等! ――男の子5人分の家事育児をどうやって回していますか。手抜き術があれば教えてください!  実用的な手抜き術はさまざまな書籍やSNSで紹介されていると思うので、私からは“参考にならないであろう”竹田流手抜き術をお伝えしますね。  まず洗濯物は洗って乾けばよし! 「畳む」「衣類をきれいに保つ」という家事は排除しました。洗濯機で落ちないシミや汚れは気にしません。何度も洗ううちに薄くなりますし(笑)。 ――「畳む」を排除したということは、洗濯物は畳まない、ということですよね!?  はい、洗濯物は畳みません(笑)。洗濯物を取り込んだあとは、そのまま引き出しに直行です。乾燥機がないので時には生乾きでもOK! 取り込んだら窓のそばに置いてある引き出しにどんどん突っ込みます。年の近い兄弟の服は共用にしているので、引き出しを分けて入れる手間もありません。その日のお風呂上がりに使うタオルや履くパンツも、洗濯物を取り込むと同時に人数分重ねてまとめて風呂場へ直行です。どうせすぐ使うものなので効率的ですよ。 洗濯物は畳まずに引き出しに直行 「無理ゲーだ!」 毎日お風呂掃除をしていた時代から一転 ――いつ頃から超手抜き術を極めていったのですか。  子どもがまだ1人の頃、実は毎日お風呂を掃除していました。衣類のシミや汚れも落とそうと努力していました。あの頃は夫のワイシャツのアイロンがけも何もかも、「奥さんになったんだから私がちゃんとやらないと」という思い込みがありました。母の姿を重ねていたんでしょうね。  ところがだんだん手が回らなくなったんです。2021年に4人目が生まれていよいよ「物理的に無理ゲーだ!」と確信しました。そこから私は自分の中の家事ハードルを劇的に下げることにしました。つまり、それまでがんばっていた洗濯や掃除、整理整頓、家をおしゃれに保つことを捨てたんです。 ――竹田さんのSNSでは、自宅の壁紙やテーブルの落書きも“お馴染みの光景”になっていますね。  未就学児が3人もいると、部屋をきれいにしてもすぐに汚されて振り出しに戻るイタチごっこです。そこに労力や時間をかけるくらいなら、子どもたちがストレスフリーな空間にしてあげた方がいい。自分に余裕がなくなると叱ったりイライラしたりしてしまうので。それより子どもの声を聞いたり、子どもと遊んだりすることに時間を使った方がよっぽどいいです。私の性格にはそのスタイルが合っていました。たとえ壁やテーブルに落書きOKな環境で育っても、いつまでもやるわけではありません。かつて落書きをしていた小学5年の長男は今、うちのテーブルに落書きをする弟を見てびっくりしています。成長ですね。 家族の命に関わる家事育児は、できるだけ手を抜かない ――掃除や洗濯は大胆に手抜きしても、食事は大切にしているそうですね。  家事ハードルを下げようと決めたとき、手抜きしてもいい家事と手抜きしてはいけない家事とを自分の中で振り分けたんです。家族が生活していくうえで一番大事なものは何かと考えたとき、「命だ!」と思いました。命を脅かすような家事育児は避けられない。ということで、優先順位が高いものとして選んだのが、ごはんと睡眠、遊び、学びでした。ここは手を抜かないようにがんばるぞ、というルールを決めました。 ――冷凍庫には手作りストックがきれいに並んでいますが、食事に関して普段から工夫していることはありますか。  まず茹でたブロッコリーとニンジンを常備野菜にしています。栄養と彩りのためです。地味なおかずでもこれさえ添えれば華やかになるのであると気が楽です。離乳食にも使えますしね。 茹でたブロッコリーとニンジンを常備野菜としてストック  焼きおにぎりも一度にたくさん作って冷凍ストックしています。味の付いたごはんでおにぎりを握ってトースターで焼いて、冷凍しておくんです。お兄ちゃんのはでっかくして、弟のはちっさくして。 焼きおにぎりも冷凍ストックしておくと便利  あとはチキンライスですね。オムライスの中身のようなケチャップライスを1食分ずつ小分けにして冷凍します。食べる時はレンジでチンして、スクランブルエッグのようなものをちゃちゃっと上にのせればオムライス風になります。「今日は作る時間がない!」という時に便利です。  もちろん冷凍食品やお惣菜もがんがん活用します。時々作るお弁当なんて毎回同じメニューですよ。小さいウインナーにキャラクターのかまぼこ、それから冷凍食品の串に刺さった肉団子は鉄板です。キャラ弁なんてものは作りません。 ――洗濯のほかに省エネ化している家事はありますか。  掃除ですね。基本的に床の拭き掃除、風呂掃除はしません。トイレは汚れが目立ったらという程度。年末の大掃除もしません。普段の掃除は掃除機をかける程度です。床の拭き掃除は何かこぼして拭かざるを得なくなったとき、明らかにベタベタしているときくらいですね。まさに昨日、鉛筆削りをばぁっとダイニングにこぼして黒い粉が床に散ったんです。そういうときは拭き掃除のチャンス(笑)。だからダイニングの床だけは比較的きれいです。お掃除ロボットがあるといいのですが。  お風呂掃除は湯船にお湯を溜める前に、ぬめりを取るくらい。日本の妖怪にお風呂の垢を舐める「あかなめ」っていうのがいるんですけど、「うちに欲しいね」って子どもと言ってます(笑)。でも最近は夫が劇的に変わってくれて、私以上に凝ってお風呂を掃除してくれています。 五男が誕生後、妻の大爆発で劇的に変わった夫 ――夫婦の役割分担は?  実はこの1年で夫は激変したんです。5人目が生まれてから唯一できなかった料理にも参入してくれるようになって。今では土曜日の食事を担当してもらっています。  ここまで激変したのは理由があるんです。五男がまだ生後2カ月の頃、仕事で夫が夜も不在にすることが度々あって……。これまで「そういうものかな」と思ってひとりでがんばってきたんですが、「ん?おかしいぞ」と夫の立ち位置について考えるようになりました。夫自身、自分は育児の補助要員だと思い込んでいるのではないか。私と同じように関わるべきではないかって。それでついに私が爆発したんです。 思い出が詰まった家族のアルバム 「幸せだけど、幸せじゃない!」 って。「独身時代は自分が女性であることを不利だと感じたことはなかったのに、お母さんになってから女性であることを不利だと感じることが多い」という本音を、感情の赴くままにぶつけました。ちょっと言い過ぎたかなってくらいに。  これがね、かなり効いたんです。無口な夫は何も言い返しませんでした。でもこの日を境に家事育児を自分の仕事として本気で向き合ってくれるようになりました。 ――竹田さん自身の心境の変化はありましたか。  夫とは25年の付き合いになりますけど、一生懸命努力する姿を見せてくれて改めて見直しました。人間としていいヤツだなって。この爆発を機にさらに夫婦の信頼関係が深まりました。おかげで土曜日に少し自分の時間ができて、ゆっくり新聞が読めるようになりました。 (取材・文・撮影/大楽眞衣子) ※後編<男児5人のママ芸人が教える、“効率化を極めた”夏休みの「乗り切り方」とは? 竹田こもちこんぶに聞く>へ続く 〇竹田こもちこんぶ/1978年生まれ。千葉県柏市出身。大学在学中から演劇を始め、闘病を機に舞台俳優・芸人に。2014年に第1子出産後、夫の故郷である静岡県富士市へ移住。産後も子どもを抱き『R‐1グランプリ』に挑戦し続ける。TikTokの投稿は、子育て世代の大きな反響を呼びフォロワーは約36万人。2022年、2023年『女芸人No.1決定戦 THE W』(日本テレビ系)で準決勝進出。著書に『皆様、本日も家事育児お疲れ様です。』(KADOKAWA)。10歳、7歳、5歳、3歳、0歳の5人の男児の母。
竹田こもちこんぶ子育て家事
AERA with Kids+ 2024/08/07 11:00
「震えるほど泣ける」「励まされること幾度も」とTHE ALFEEファン 「この一曲」アンケートはランク外の名曲にも熱いコメント
「震えるほど泣ける」「励まされること幾度も」とTHE ALFEEファン 「この一曲」アンケートはランク外の名曲にも熱いコメント
一夜限りのバンド「MACHIKO BAND with THE ALFEE」のステージでのTHE ALFEE=2013年2月11日  まもなく1974年のデビューから50周年を迎えるTHE ALFEE。これまでに世に送り出してきた名曲のなかで、代表曲である「メリーアン」「星空のディスタンス」のほかに、ファンはどの曲を推すのか。AERA dot.編集部が実施したアンケートには、「これを聴いてほしい」という一曲とともに、熱量の高いコメントが集まった。それは、惜しくもランク外となった曲でも変わらない。名曲として挙げられた曲と、ファンの熱い声を紹介する(アンケートは7月9~20日、AERA dot.の記事や公式SNSアカウントで実施し、3559人から回答があった)。 前編も読む〉〉〉THE ALFEE「高見沢俊彦の声は衝撃的! 聴くほどにクセになる」 ファンの「一曲」アンケートはランク外の名曲にも熱いコメント *   *   * 至上の愛  「至上の愛」はアルバム「THE BEST SONGS」(1985年12月5日リリース)のB面の1曲目。ファンのみならずとも曲名からわかる通り「最強のラブソング」(50代・女性)であり、「心にしみます」(50代・女性)「とにかく素敵」(60代・女性)の声がたくさん上がる。 「この曲は甘く切ない歌詞にのせる高見沢さんの優しい歌声とMelodyが重なると、言葉では言い表せない感情が湧いてきます、いくつになっても女心を思い出し心に刺さる曲です」(50代・女性) 「高1の時に『THE BEST SONGS』というアルバムでこの曲を初めて聴いた時自然に涙が溢れてきてびっくりした思い出があります。好きな曲は沢山あるのですがこの曲は別格です」(50代・女性)    高校生の心を揺さぶり、自然に涙がこぼれるとは! その他「とにかく震えるほど泣ける」(50代・女性)「ライブで聴くたびに号泣してしまう」(50代・女性)と、珠玉のラブソングなのだ。   希望の橋           52枚目シングル「希望の橋」(2004年2月18日リリース/作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE)は、ドラマ「サラリーマン金太郎 4」(TBS)の主題歌。  ドラマとしては初代「サラリーマン金太郎」の主題歌の「希望の鐘が鳴る朝に」同様、応援ソングのため「落ち込んだときに聞くと元気になる」(50代・女性)など、この曲からパワーをもらっている声は多い。 「この曲に励まされること幾たびもあり、THE ALFEEの元気ソングとしてイチ押しです」(60代・男性) THE ALFEEの坂崎幸之助   「仕事と育児で離脱中にテレビから流れてきた曲です。当時はちゃんと聴けてないのですがテレビから流れる度に頑張ろうと思える曲でした。仕事も軌道に乗り育児も一段落した今、アル中に復帰し改めて聴くと「いつでも本気で立ち向かうのさ」「ありのままの自分でいればいい」「誰にも真似できない生き方でどこまでやれるか頑張ろう」と当時の自分にドンピシャの大人の応援歌だったことに気が付き、思春期に大好きになったS & Tと合わせて私の人生の応援歌になりました」(50代・女性) 「毎日この曲に励まされています。あきらめててもあきらめたくない夢に縛られていて、心が折れそうな時もあって。でもこの曲を聴くと不安は吹っ飛んで行きます。同世代の夢に向かって頑張っている方に聞いて欲しい曲です」(10代・女性)    10代からのコメントもあり、幅広い世代をTHE ALFEEが応援してくれている!     GATE OF HEAVEN       8枚目のアルバム「THE RENAISSANCE」(1984年7月5日にリリース)の6曲目「GATE OF HEAVEN」(作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:ALFEE with 井上鑑)は、THE ALFEE最長の8分間を超える組曲。とにかく長いのだが、だからこそ魅力が凝縮されているという。 「この曲は3人のボーカルがあり、ロック・メタル・フォーク・コーラス・組曲という全ての要素が入った楽曲です! また、この春(2024年)に初めて知った曲ですが現時点で1番です。長い曲ですが、300〜400曲分のALFEEを1曲で堪能できると思えば短すぎる曲です。まだ2年半程度の新米で全て把握してないですが、出会った中でぎゅっとALFEE感がある(曲調が特に)楽曲です!」(10代・男性) 「色々な顔を持つTHE ALFEEの魅力がこの1曲にギッシリ詰まっていると思います」(50代・男性) 「私が大好きな曲であるということはもちろんなのですがこの曲は組曲、プログレ。1984年発表の曲とは思えないぐらいです。THE ALFEEならではの曲の幅の広さと魅力が一曲で味わえて実は複雑な曲なのにさらっとものすごいことをやってしまう音楽性の高さが分かると思います。CD音源とライブ音源が遜色ないTHE ALFEEの演奏力、技術力が分かると思います。…いや、とりあえず選びましたが一曲なんて無茶ですよ」(50代・女性)   【THE ALFEEファンが選んだ「この1曲」TOP5はこちら!】 50周年迎える「THE ALFEE」のファンが選んだ「この1曲」TOP5 1位は「どんなことがあってもついていく」と思わせるライブの定番 https://dot.asahi.com/articles/-/229297 THE ALFEEの桜井賢 「組曲であり、THE ALFEEの音楽的魅力が詰まっていると思うのです。お3人がスイッチするヴォーカル曲でもありますし、それぞれの担当楽器の素晴らしいプレイと曲調の変化に富んだ楽曲。まず聴いてもらうには”THE ALFEE詰め合わせ”で、よろしいかなと…単純に私が大好きであるからなんですけど」(50代・女性)    聴いてもらうなら「THE ALFEE詰め合わせ」からとは、うまい! まずは、この8分からいかがでしょうか!?     シュプレヒコールに耳を塞いで 「シュプレヒコールに耳を塞いで」は、15枚目アルバム「JOURNEY」(1992年4月29日リリース)に収録されている一曲で、「とにかくカッコいい!」(40代・女性)と手放しで絶賛するコメントをするほど、THE ALFEEにしか出せない一曲だという。 「ボーカリストであり、ギターのみの演奏で聞かせるこの曲はTHE ALFEEじゃないと奏でられないと思うから」(50代・女性) 「生ギターとハモリの迫力が一番わかりやすい、アルフィーの真骨頂とも言える歌だと思います」(50代・女性) 「ドロップチューニングとのツインギターの響き、アコギバトル。今のアーティストでは見れないプロフェッショナル演奏。そして三声ハーモニー、驚くと思います」(50代・男性) 「選んだ理由としては坂崎さんの歌声がとても良い事。坂崎さんとタカミーのアコギバトルが秀逸。ライブ毎にギターのフレーズが毎回アドリブやから違っている。坂崎さんがタカミーのギターを弾いているのに合わせて弾いている眼差しが母か兄か位の温かく優しく愉しげなのがとても素敵。かのオリコンフェスの時にALFEEファン以外の方々の度肝を抜いたALFEEの一面を垣間見える1曲やと思います」(50代・女性) 「『星空のディスタンス』や『メリーアン』しか知らない人にこそ聴いてほしい名曲です。THE ALFEEの曲をほとんど知らない友人に聴かせるといつも“こんなにかっこいいの!?”と驚かれます。アルバム版も良いですが、ライブでは高見沢さんと坂崎さんのアコースティックギターでの掛け合いが熱い!ノスタルジックな雰囲気とサビの疾走感がたまりません」(20代・女性)    カッコいいから1回聴いてというファンの声が、この夏の酷暑よりとにかくアツいのだった!   【こちらも話題】 THE ALFEE 桜井賢「人生のほとんどがアルフィー」 2900本のライブ経た3人の50年間 https://dot.asahi.com/articles/-/227168   今日のつづきが未来になる  紹介する最後の曲は「今日のつづきが未来になる」(2016年5月25日リリース/作詞・作曲:高見沢俊彦  編曲:高見沢俊彦 with 鎌田雅人)で、65枚目のシングル。  THE ALFEEの曲には真正面からの応援ソングも多いが、一転、頑張らなくてもいいと語りかけてくれる背中を押してくれる応援歌だ。 「80年代の歌番組でアルフィーを知っている方に、ちょっとイメージと違うこの曲をおすすめしたいです。頑張れ!ソングのイメージが多いアルフィーの曲の中“毎日頑張らなくていい”と言う歌詞は意外だと思いますし、当たり前の日々の尊さをうたう歌詞は響くと思います。」(50代・女性) 「“毎日頑張らなくていい”“当たり前の素晴らしい一日”ライブで聴く度、うるっとくるほど心に響くやさしい曲です。アルフィーファンだけでなく、日々一生懸命生きている多くの方に届くといいと思います」(50代・女性) 「子育てが終わりやっとTHE ALFEEのコンサートに行けた日に初演奏された曲。大好きな桜井さんの歌声を聴きたくて勇気を出して行ったあの日のつづきが今日になった大切な曲」(50代・女性)    まさに曲のタイトル通り、コンサートに行った若いころのあの日のつづきが未来へとつながっている。  そして、THE ALFEEも50周年! こんなにもたくさんの素晴らしい曲が聴けるさらなる未来を期待したい! (AERA dot.編集部) 前編も読む〉〉〉THE ALFEE「高見沢俊彦の声は衝撃的! 聴くほどにクセになる」 ファンの「一曲」アンケートはランク外の名曲にも熱いコメント      
THEALFEE50周年ランキング
dot. 2024/08/04 09:00
4年間、説き続けた営業改革「全員に、直に」で浸透 J.フロントリテイリング・山本良一顧問
4年間、説き続けた営業改革「全員に、直に」で浸透 J.フロントリテイリング・山本良一顧問
スポーツに必要なのはスピード、スキル、サイエンスの「3S」。科学的な分析は必須。さらにスピリッツで、勝つには「4S」だ。経営でも同じ、と思う(写真/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 8月5日号より。 *  *  *  1998年2月、大丸(現・大丸松坂屋)の奥田務社長に呼ばれ、百貨店業務本部の営業改革推進室部長への異動を告げられた。前年3月に「営業の企画の仕事が長くなったな。一度、商品の営業現場をやってこい」と言われ、JR大阪駅に隣接する大丸梅田店で婦人雑貨子供服部長を務めてきた。それを1年で終えるのか、と怪訝に思ったが、続く言葉を聞いて、頷く。 「営業改革をやれ。最大の顧客満足を最少のコストで実現するため、すべての業務を見直せ。3カ月で計画をつくり、5月中旬に店長会議があるから、そこへ出せ。後はお前に任せる」  まさに自分が感じてきた「百貨店の課題」だ。消費者ニーズの多様化と百貨店離れの兆候、数年後に始まる人口減少。「このままでは百貨店は生き残れない」との危機感も、同じだ。  すぐに「営業改革」に着手する。売り場には難しい職務もあるが、単純業務もたくさんあるのに、両方を一緒にして「従業員は何人要る」とはじかれて、大きな無駄があった。しかも、すべての客が店員との対面売買を求めている時代ではない。みれば、専門的な接客が大事な売り場と、接客をしなくても客が欲しい品を手に真っ直ぐレジへいく売り場がある。これらの要素から売り場と仕入れを18の類型にまとめ、それぞれ必要な人数を出した。 勘と経験と度胸古い「KKD」をABC調査で一新  ただ、長い間、勘と経験と度胸、そのローマ字表記の頭文字を取って「KKD」と呼ぶものに依存してきた店員らは、人を減らすことに「KKDが失われる」と抵抗する。そこで納得させるデータを集めるため、部課長、売り場リーダー、販売員らの全員に、1日に使っている時間をアンケート調査した。 「あなたは何時に出勤し、最初にやることは何ですか?」「それを何分やりましたか?」「接客は何時間しましたか?」「会議は何分ありましたか?」という具合に1日の接客、食事、会議などの時間を1カ月分、出してもらう。部課長など職務ごとに集計し、人数と時間に職務の時間当たり賃金を掛けて、収益とコストを比較した。ABC調査と呼ぶ手法で、ABCは「Activity Based Costing」の略だ。  当然、最も利益を生むのは販売だ。ところが、販売にかけている総時間は、1日の半分しかない。やらなくてもいい仕事をしているからで、会議や伝票書きなどが多い。その総コストを計算したら、70億円にもなる。当時の利益が40億円だったので、仕事のやり方を変えれば最大で110億円になる計算だ。  そこで「販売に時間を割き、客が自分に関係ないと思う仕事はアルバイトでいい」「アルバイトでいい仕事はどの売り場も似ているから、集めてしまおう」という案をつくり、全国店長会議へ出す。  さらに、奥田社長の次の指令で婦人用品雑貨の売り場をモデルに1年間、やってみた。すると接客時間が9割も改善した人も出て、半年で業績が上がる。  説得力が出て、翌99年に改革を全店・全売り場へ導入した。ここで、明治大学の体育会バスケットボール部時代に流れ始めた山本良一さんの『源流』が、成功への推進力となる。  全員に、直に、話す。  山本さんが、何かを組織に浸透させるときのやり方だ。数人の幹部に話し、職場の部下に伝えさせ、売り場の人たちへ広げていく。そんな「伝言ゲーム」では、徹底させたいことがきちんと伝わらないし、ときに違った内容になってしまう。  全国から店長、部課長、売り場リーダーらを次々に大阪府高槻市の研修所へ集め、営業改革が必要な理由と要点を説く。パートタイマーの代表も呼ぶ。朝は大阪市の本社へ出て、昼過ぎまで仕事をこなし、大阪駅から電車で高槻駅へいき、午後3時か4時に研修所に着く。 研修所に泊まり込み食堂で一杯やって覚えた顔1200人  1日の研修の最後に立ち、夕食後もグループ議論へ参加して疑問に答える。食堂で一杯やりながらの夜もあり、週に3度は泊まり込む。これを4年間、続けた。すべて、自分でやった。4年たつと、約1200人の顔と名前を覚えていた。  明大バスケットボール部で、2年生のときから全日本大学選手権を3連覇する。4年生のときは主将を務め、合宿所で毎日のように小ぶりのミーティングを重ねた。あれこれいろいろ話しても、みんなの心に留まらない。大事な点だけを「全員に、直に」と話す始まりだ。 (写真/本人提供)    営業改革の結果、希望退職で人は減ったが、売上高は落ちない。むしろ、1%くらいずつ増えていく。1%増えてコストが下がると、営業利益は大きく伸びる。奥田社長は賞与を上げ、成果を配分した。また頷いた。  1951年3月、横浜市保土ケ谷区に生まれ、父は市内の会社の経理マンで、母と姉2人の5人家族。小学校のときから背が高く、足も速かった。市立岩崎中学校へ入ると、小学校の同級生がバスケットボールをしているのをみて「格好いいな」と思い入部。大学まで続けた。  市立桜丘高校3年生のとき、国体の県選抜チームに選ばれて「団体・高校」の部で優勝したが、明大には運動で入学が可能な「セレクション」ではなく、受験勉強をして商学部へ合格する。3年続けて大学日本一になり、主将も務めたから、望めば有力チームを持つ大企業へ入社できた。だが、興味があった小売業数社の入社試験を、一般枠で受ける。4年間、できるだけ授業へ出たし、マーケティングの本なども読んでいた。 毎日一つ、週に1点単品管理でみつけた和洋食器の売れ方  73年4月に入社し、神戸店の家庭用品部へ配属された。和洋食器の売り場を8年2カ月、担当する。当時は商品をすべて買い取り、返品はできず、勝手に安売りにも出せない。先輩たちも当然のように思い、KKDで「これが売れる」「これはあかん」という具合に補充し、見込みが外れた品が残っていく。  それでは売れ方の法則や売れる品の特性がつかめないので、売り場にある約500種の商品の表をつくり、一人で1週間ごとに在庫の変化を記入した。単品管理を徹底すると、法則性がみえる。ほぼ毎日一つ売れる商品があれば、1週間に1点だけ売れる品もある。全く売れなかった品は、ある日突然、売れるようにはならない。そんなことをつかみ、仕入れに活かす。  2003年3月、誕生日に、奥田社長に呼ばれた。「プレゼントかな」といくと、大丸の社長就任の打診だ。役員もしていないので、驚いた。10分ほど考えて「一生にこんなチャンスはないな」と思い、「命がけでやります」と答える。2カ月後に、トップに立った。  大丸は07年9月に松坂屋と経営統合し、持ち株会社のJ.フロントリテイリングが誕生。合併した大丸松坂屋百貨店の社長からJ.フロント社長、取締役会議長を経て、この5月に顧問に退いた。小売業ひと筋に、半世紀を超えた山本さん。次のボールは、どんなゴールリングへ投げられるのか。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年8月5日号
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AERA 2024/08/04 06:30
ジンズCEO田中仁は、なぜ故郷・前橋のまちづくりに夢中になるのか
ジンズCEO田中仁は、なぜ故郷・前橋のまちづくりに夢中になるのか
ムダな動きはしないが、物腰はリラックス。「本気」と「誠実さ」が経営者としての核にある(写真/高野楓菜)    ジンズホールディングス代表取締役CEO、田中仁。低価格だが機能的でかっこいい。日本のメガネ業界に大きなインパクトを与えたのが、JINSのメガネだった。創業者の田中仁は、信用金庫を経て、自分が納得した仕事をしたいとベンチャーの道を選んだ。今、田中が情熱を注ぐのは、故郷でもある群馬県前橋市のまちづくり。安寧の道を選ぶのではなく、常に挑戦を忘れない。 *  *  *  東京のビジネス中心地、大手町に隣接しながら、江戸庶民の匂いが残る神田錦町。今年1月、その地にジンズホールディングス(以下JINS)の新しい東京オフィスが完成した。  9階建ての中古ビルを丸ごとリノベートした社屋は、むき出しのコンクリート躯体の中に、現代美術の展示ギャラリーや、それ自体がアートのような4層の吹き抜けが設置されている。1階は誰でも使えるコーヒースタンド。従業員用の9階には、サウナや外気浴スペースが備わっている。  移転前は、眼下に皇居を望む超高層タワー最上階に入居していた。成功の象徴のような場所から、あえて町場へ。代わりにここでは「壊しながら、つくる」をコンセプトに、クリエイティブなあり方を徹底的に追求した。  それなのに、このビルは将来的に取り壊しが予定されている。 「好きにいじっていいと言われたので、好きにいじっちゃいました」  いたずらっ子のように笑いながら、CEOの田中仁(たなかひとし・61)は、鋭い言葉をさらっと続けた。 「僕たちはチャレンジャーとして、小売業界で革新を行ってきました。でも、一つのビジネスモデルがうまくいくと、すぐに模倣、追随されて、自分たちの持ち味が薄れていく。会社が大きくなると、社内に大企業病もはびこっていく。そうやって、だんだんと普通の会社になっていくことに、すごく危機感を持っているのです」  JINSは2000年代初めに、SPA(製造小売り)業態でメガネ業界にイノベーションを起こし、大きな成長を遂げてきた。国内市場の上場企業としては、売上高732億円超の第1位。海外を合わせた総店舗数は741(うち国内は492)店と強さを見せる。しかし、コロナ禍での業績停滞に加え、積極出店を行ってきた中国では景気減衰のリスクに直面するなど、ビジネスの環境は安寧なものではない。 「だから常に初心に戻って、ベンチャー魂を持ち続けなければならない。コロナを超えて今、JINSは『第二の創業』にあると考えています。東京オフィスは、そのシンボルの一つなのです」 今年6月「前橋ブックフェス2024」の記者発表会で、(左から)糸井重里、みうらじゅん、前橋市長の小川晶とともにイベントをアピール。まちづくりでは、みずから協力事業者を回って、頭を下げる(写真/高野楓菜)   25歳で起業し30歳で4億 虚しさが常にあった 「第二の創業」では成長のドライブとして「新たなカスタマージャーニー(購入体験)の構築」と「グローバル展開の加速」を掲げている。昨年6月には、米アップルのクリエイティブ・ディレクターだったポール・ニクソンをグローバルのクリエイティブ責任者に迎えた。JINSの海外の売り上げに大きく貢献している台湾では、台湾出身の邱明キ(キュウメイキ=キは王に其)(47)が現地法人の社長として辣腕(らつわん)を振るう。そのような人材が田中のもとには着々と集まっている。  ここで時間を巻き戻そう。「第二の創業」の前には、当然のごとく「第一の創業」があった。JINSは1988年に田中が群馬県前橋市で始めたファッション雑貨業が出発点だ。  63年、前橋市でガソリンスタンドを経営する両親のもと、3人兄弟の三男として生まれた。本人いわく「大した期待もかけられず、努力はいや、失敗もいや、挑戦もしないような子」だったという。県内の高校を卒業した後は、地元の前橋信用金庫(現・しののめ信用金庫)に就職した。  信金マン4年目、22歳の大晦日(おおみそか)の夜に、人生を変える出来事に遭遇した。当月の目標預金額が未達成ということで、上司から号令がかかり、夜9時過ぎに地元の名士の家を訪ねたら、「大晦日にまで金をせびりに来るのか」と、罵倒を浴びた。恥ずかしさと、仕事を否定された悔しさ。帰り道では涙が止まらなかった。この時、胸の底に抱いていた思いが、くっきりと形を取った。起業して、自分が納得する仕事をしていこう。  時代はバブル期。知人が営む雑貨会社で働いた後、88年に25歳でファッション雑貨の会社を設立。エプロンと化粧ポーチが当たって、30歳で年商4億円の社長に成りあがった。会社ではワンマン体制で、高級車を乗り回し、クラブに通っては朝帰り。しかし、虚(むな)しかった。虚しさと呼応するように、会社は翌年からどんどん傾いていった。  赤字に転落した時に、初めて社員の声に耳を傾けた。すると売れ筋はバッグだという。コネも何もない中国に渡り、交渉を繰り返しながらオリジナルのバッグを作ったら、それが大当たりした。もう飲み歩くことはしなかった。頭の中を占めていたのは、バッグが売れているうちに、次のヒットを開拓しなければならない、という商売の教訓だけ。そんな時、友人と出かけた韓国で1本3千円、15分で受け渡し、という格安メガネを知る。 5月に東京・日本橋の三越劇場で開催された「東京建築祭」のキックオフイベントに登壇。建築家の藤本壮介(中央)、同祭実行委員長の倉方俊輔とともに、建築のパトロネージュについて語った(写真/高野楓菜)   活気を失った地元の前橋 白井屋ホテルをシンボルに  当時、日本のメガネの値段は1本4万~5万円が“常識”だった。韓国の格安メガネとどこが違うのか。調べてみたら、日本ではフレーム、レンズ、取り次ぎ、販売店と各段階でさまざまな業者が関与して、マージンが積み重なることで、高価格になっていた。だったらSPAとして社内で企画から製造、販売までを一気通貫させれば、価格も受け渡し時間も大幅に引き下げられる。これはチャンスだ。商売人のスイッチが入った。  バッグの時と同じように、コネも知り合いもない韓国に渡り、一から取引業者を開拓して、01年、福岡・天神にJINS1号店を開いた。「メガネ一式5000円」の売り文句はインパクト大で、店には客が殺到。以降、他社の参入も呼び込みながら、メガネ市場は低価格路線に塗り替えられていく。まさしくイノベーションが起きたのだ。  JINSは大証ヘラクレス(後のJASDAQ)を経て、東証一部上場へと進み、その間に軽量メガネやPC用メガネという独自開発のヒット商品を次々と生み出していった。  時は現在に進む。今年6月、田中はこの秋に開催する「前橋ブックフェス2024」実行委員会のエグゼクティブディレクターとして、エグゼクティブプロデューサーの糸井重里、前橋市長の小川晶らとともに、故郷の町で記者発表に臨んでいた。  JINSが右肩上がりに成長したゼロ年代は、それと反比例するように、前橋が活気を失くしていく時代だった。子どものころに賑(にぎ)やかだった中心部は軒並みシャッター商店街と化し、日曜でも人はまばら。 「前橋に限らず、日本全国で地方都市の衰退が進んでいました。僕自身、もともと大きな思い入れがあったわけでもなく、前橋は終わった町だな、ぐらいの感覚でした」(田中)  その認識が覆ったのが、14年に市の文化施設「アーツ前橋」のトークイベントに招かれ、自分よりも若い世代と語り合った時だ。その一人、地域デベロッパー「まちの開発舎」を営む建築家の橋本薫(47)は、空き家を改装したコミュニティー拠点を運営しながら、町に若者を呼び戻すイベントを開き、地元を積極的に盛り上げていた。橋本は言う。 「東日本大震災の前後から、前橋にはUターンの若者が目立つようになっていました。それでも町中のさびれ具合は、ひどいものでしたが、僕は人のいない町が逆に新鮮に見えて、やりようはいくらでもあると思っていたんです」  橋本ら地域のクリエイターたちの活動に、心を動かされたそのころ、老舗の「白井屋旅館」が東京のデベロッパーに買収されて、跡地にマンションが建つという噂が立った。江戸期創業の白井屋は、300年の歴史を持つ前橋のシンボルである。ここがマンションに変わったら、町はますます衰退するだろう。「田中さん、買ってくださいよ」「オレはメガネ屋だからできないよ」といったやりとりが繰り返された後、橋本は田中から一本の電話を受けた。 「橋本さん、僕、買いましたよ」  白井屋を新たなランドマークにするべく、田中は10社近くのコンサルタントに事業をもちかけたが、すべて断られた。ここでベンチャー魂に火が付いた。だったら自分が何とかする。  背景には、海外での体験があった。  11年、前年に受賞した「EYアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」のモナコ世界大会で、同時代のグローバル起業家と一堂に会する機会を得た。その時、自己紹介の書類には「社会貢献」という項目が、当たり前のようにあった。片や日本では、起業家の振る舞いとして注目されるのが、派手な夜遊びだったり、超高額の買い物だったり。 「日本の起業家は、成功して大金を手にしても、使い方が分からないんです。若いころの自分も似たようなものでした。それはロールモデルがないからなんですね」  20代から建築、アートに興味を持ち、JINSの店舗やプロダクトにも気鋭の建築家を多数、起用していた田中は、白井屋を「世界に類を見ないホテル」にしようと決めた。設計を依頼したのは建築家の藤本壮介(52)。四半世紀前、デビューしたばかりの藤本にいち早く注目した田中は、JINSのロードサイド店をともに企画したことがあった。敷地条件でそれは実現できなかったが、05年には藤本が田中の兄一家の家を設計。1階平屋に食堂、リビング、個室をドアなしで配置した家は、田中が心惹かれる「新しい発想」に満ち、かつ、そこに暮らす人への細かな配慮があった。 価値基準の中で意義あれば 挑戦的なデザインも進める  白井屋では6年半の歳月をかけてフルリノベーションに取り組んだ。既存の建物を活かし、そこに植物が茂る斬新な壁面の新築棟を加える。25室の客室と館内は、レアンドロ・エルリッヒ、杉本博司ら世界的アーティストの作品、着想を取り込み、メインダイニングは群馬の食をフィーチャーしたイノベーティブフレンチ。群馬初出店のブルーボトルコーヒーも入居した「白井屋ホテル」は、前橋から東京を飛び越え、いきなり世界の先端都市につながるような空間に生まれ変わった。  白井屋のプロジェクトを発端に、田中は空洞化が進む中心部で空き物件を次々と取得し、「アート」と「食」をテーマにリノベーションを推進した。町全体を活性するソフトとして「群馬イノベーションアワード」「群馬イノベーションスクール」など人材の育成事業も同時に回し始めた。ホテル単体、短期で採算が取れないなら、町全体、長期で目指せばいい。その過程で、新進の建築家やアーティスト、ショップオーナーらにどんどん仕事を振っていった。  海鮮和食の「つじ半前橋店」を手がけた建築家の高濱史子(44)はその一人だ。スイスの有名な建築ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンでの勤務経験があった高濱は、22年にJINSの店舗内装に起用された後、ロードサイド店2店を経て、JINS東京オフィスの移転では、全面的な設計もまかされている。 「最初に声をかけてくださった時、私はまだ実作のない駆け出し。それでも起用されたことに驚きました。田中さんは、ただお金を出すだけではなく、そこに明確な価値基準をお持ちです。コストにはもちろん厳しいですが、価値基準の中で意義があれば、挑戦的なデザインを迷わずに進めていく。まれなクライアントだと思います」  クライアントとして、前橋のプロジェクトと、JINSの事業との間には一線を引いている。前者は私財を投じて設立した「田中仁財団」と田中個人が担うが、事業家の視点でまちづくりを見ると、ここにもイノベーションを起こす余地は大いにあった。 「まちづくりをしようとすると、みなが考えるのが、お上から補助金をもらうこと。この発想を変えるだけで、他にないオリジナリティーが生まれて、発信力が高まる。そのためにはビジョンが重要ですが、多くの現場でそれが設定されていない。ということは、ここをきちんとやっていけばいい」  ビジョン、すなわち目指すものの重要性については過去にJINSで強烈な体験があった。会社が大証ヘラクレスに上場した直後、業績不振で株価が低迷。責任に押しつぶされそうになっていた時に、ユニクロの柳井正から助言をもらう機会を得たのだが、柳井から「会社のビジョン」を問われて、まったく答えることができず、寝込むほどに落ち込んだ。  それをきっかけに、社内で議論を戦わせて、「メガネをかけるすべての人に、よく見える×よく魅せるメガネを、市場最低・最適価格で、新機能・新デザインを継続的に提供する」と、明確な言語に落とし込んだ。すると、言葉が社内に浸透するとともに、業績は回復していったのだ。 探求心旺盛で世界のイノベーション現場を回り続ける。今年はエストニア、フィンランドにも行った。イノベーションを促す教育システムを日本にも根付かせたい(写真/高野楓菜)   メガネを売ることではなく 常にイノベーションを  前橋ではドイツのブランドコンサルタントを雇い、核となる言葉を探った。なぜドイツの会社かというと、「日本の地方はダメだ、という先入観を持っていなかった」からだ。彼らが抽出したのは「Where good things grow(よきものが成長する場)」という言葉だった。  それを日本語の「めぶく。」と表現したのが糸井重里(75)だ。前橋出身の糸井は、故郷を離れてからは長い間、距離を置いていた。しかし、田中からの依頼を発端に「ちょっとお手伝い」をしているうちに、大がかりなブックフェスを発案、実行するまでに至った。 「この年でようやく前橋と和解することができました(笑)。田中さんがなぜまちづくりに夢中になるかというと、難しいからじゃないかと思います。それはJINSを経営するより難しいことかもしれない。でも、喜ぶ人がいっぱいいると、飽きないんです。前橋の人ってお調子者だから、誰かが楽しそうにやっていると、どんどん集まってくるんですよね」  起業家仲間でもあるメルカリ会長の小泉文明(43)は、同社の子会社、鹿島アントラーズ・エフ・シーの経営を通じて、ホームタウンの茨城県鹿嶋市でスポーツを核にしたまちづくり事業に取り組む。その小泉に田中への評価を求めたら、開口一番「クレイジー!」と、起業家にとって最大級の褒め言葉が返ってきた。 「傾いた旅館を発端に、身銭を切って町を最先端のアーティスト、クリエイターのショーケースにする。経済合理性からかけ離れたアイデアだし、だったら『道楽』で終わってもいいのに、そこから次世代の起業家、事業継承者を本気で育成して、次のフェイズへの成長軌道を描いている。難し過ぎて、普通はやらないし、できないです」  小泉の言葉通り、既成の経営概念からすると、前橋のプロジェクトは取締役会もない、株主もいない「大いなる遊び」である。田中自身「リターンは自分がいなくなった後」と苦笑するほど、その時間軸は、はるかなものだ。しかし、実はそれこそが第二の創業の先にある、企業のサステナビリティにつながるのではないか。 「JINSはこの先、売り上げと価値創造の両方で、グローバルナンバーワンを目指します。動機はメガネを売ることではなく、常にイノベーションを起こすこと。日本の起業家が世界で勝負するなら、ITよりもモノづくり、まちづくりの方が優位だ。そんな戦略もあります」  挑戦的でありながら、物腰は終始リラックス。「どんなに厳しい時でも、そう、未来への希望はずっと変わりませんね」と、また笑顔を見せた。 (文中敬称略)(文・清野由美) ※AERA 2024年8月5日号  
現代の肖像田中仁
AERA 2024/08/02 18:00
50周年のTHE ALFEE ファンが選ぶ「一曲」の16~20位は大混戦 「何度も励まされた」とファンを奮い立たせた名曲の数々
50周年のTHE ALFEE ファンが選ぶ「一曲」の16~20位は大混戦 「何度も励まされた」とファンを奮い立たせた名曲の数々
THE ALFEEの高見沢俊彦    8月にデビューから50周年を迎える「THE ALFEE」。その名を全国に知らしめた「メリーアン」「星空のディスタンス」だけでなく、多くの名曲を発表してきたが、ファンがお勧めする「一曲」は何か。3500件を超える回答が集まったアンケート結果から、この記事では16位~20位にランキング入りした曲を発表する。「一曲なんて選べない」――。そんなコメントがいくつも寄せられたとおり、「大接戦」「大混戦」の結果となった(アンケートは7月9~20日、AERA dot.の記事や公式SNSアカウントで実施し、3559人から回答があった)。 【11位~15位はこちら〉〉〉50周年のTHE ALFEE ファンが選ぶ「一曲」の11~15位 古希の3人のカッコよさが世代を超えた「一番熱い曲」】 *   *   *   【THE ALFEEファンが選ぶ「この一曲」ランキング】 #1 1位~5位 1位は「この曲のためにライブに」 https://dot.asahi.com/articles/-/229297 #2 6位~10位 「泣きのギターに艶ボイス」がランクイン https://dot.asahi.com/articles/-/229298 #3 11位~15位 カッコよさが世代を超えた「一番熱い曲」 https://dot.asahi.com/articles/-/229563 #4 16位~20位 「何度も励まされた」とファンを奮い立たせた名曲 https://dot.asahi.com/articles/-/229566     第16位 Promised Love  16位に入ったのは35枚目シングル「Promised Love」(1992年2月5日リリース/作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE)。  90年代はまだラジオから流れる音楽を聴いていたというファンの声もある。この曲にも、ちょっと“面白い”エピソードも。 「中学生の頃、初めて聴いて、歌っている人を見たら、驚いた。こんなひげの人かと。あの顔から、こんないい声が出るとは想像もつかなかった」(40代・男性)  ひげにサングラスの桜井賢の見た目と声の美しさのギャップに、かえって引き込まれてしまったファンも多いだろう。 「子どものころから、THE ALFEEの存在は知っていたのですが、高校時代にラジオで『Promised  Love』を初めて聴いたときの桜井賢さんの素晴らしい声と素晴らしいコーラスに聞き惚れてしまいました」(40代・男性) 「アルフィーという名前を初めて知った曲です(メリーアンとか曲は知っていたけど、アーティストまでは知らなかった)ラジオで聴いていい曲だな~と思い、歌番組で昔の映像として芸人さんみたいなことをやっているのを見て曲とのギャップに驚き、トークコーナーでずっと喋っていた高見沢さんがボーカルかと思ったら、ずっと無言だった桜井さんが歌い出して衝撃を受けました。実は本格的なファンになるのはもっと後の話だったりします(笑)」(40代・女性)    三人三様のトークもイケてるところもTHE ALFEEの大きな魅力であり、本当に稀有なアーティストだ。   【こちらも話題】 50周年のTHE ALFEE ファンが選ぶ「一曲」の16~20位は大混戦 「何度も励まされた」とファンを奮い立たせた名曲の数々 https://dot.asahi.com/articles/-/229566       第17位 祈り  17位は同票で2曲がランクインした。1曲目は「祈り」(作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲::ALFEE)で、「暁のパラダイス・ロード」(1983年3月21日リリース)のカップリング曲。  今回のアンケート全体で多かった声は、「1曲に絞れない」だ。もちろん、この曲にもそんなコメントが。 「どの曲も好きで本当に選べなかったのですが、あえて挙げた理由は3声コーラスの美しさでしょう。3人がボーカルをとれて、ハモれる。これにつきます!」(50代・女性) 「散々迷った末『祈り』を選びました。全曲を対象にすると迷い過ぎて決められないので、一覧の中から選ぶという縛りを自分で掲げました。『祈り』はTHE ALFEEの古い楽曲ですが、生きづらいこの世界で自分の力で生きていくことを心にずしっと問いかけてきます。  あるいは戦争や平和をイメージさせる短くも重い歌詞です。若き日の高見沢さんの歌詞には独特で魅力的な世界観の楽曲がたくさんあります。“夢を繋げられる力はあるか”挫けそうになると思い出すフレーズです。もちろん70歳になった高見沢さんの楽曲も大好きです」(50代・女性)  美しい3声コーラスで歌われる不変のメッセージは「神聖な気持ちになる」(50代・女性)という声もあったほどだ。   バンド・アルフィーが中田宏・横浜市長(当時)にトライアスロン世界選手権の応援ソングを贈呈。中田宏市長(左から2人目)に曲を贈呈したジ・アルフィーの桜井賢さん(左端)、坂崎幸之助さん(右から2人目)、高見沢俊彦さん(右端)=横浜市役所 2009年4月17日   第17位 Victory  同票だった第16位のもう1曲は、雰囲気ががらりと異なる37枚目シングル「Victory」(1993年4月28日リリース/作詞・作曲:高見沢俊彦、編曲:THE ALFEE)。  選んだ理由にひとこと「元気になる」(50代・女性)というように、サッカー・Jリーグの横浜フリューゲルスのオフィシャルソングらしいコメントが並んだ。 「文字通り勝利の歌! 検定試験前にこれを聞いて臨み、パーフェクトで合格した思い出があります!」(50代・女性)「最高の応援歌です!」(20代・男性)  当時のフリューゲルスのサポーターのみならず、THE ALFEEが届けるみんなへの応援歌だ。 「今はなき横浜フリューゲルスの応援歌。フリューゲルス大好きでした。Jリーグ初年度に天皇杯に優勝し、ファン感謝デー(的な催し)でお三方がこの曲を披露されていたのは今でも忘れられません。この曲はフリューゲルスのサポーターだけでなく、どの世代の方も共感できる応援歌だと思います。サビのお三方のハモリやラストの転調はTHE ALFEEのみなさんの真骨頂とも言うべきパフォーマンスかと」(男性・40代)    THE ALFEEの曲は、大阪国際女子マラソンのイメージソングになったものもあり、スポーツとの結びつきも強い。   【こちらも話題】 デビューから50周年のTHE ALFEEファンが選ぶ「この一曲」 「タカミーの泣きのギターに桜井の艶ボイス」もランクインした6位~10位 https://dot.asahi.com/articles/-/229298     一夜限りのバンド「MACHIKO BAND with THE ALFEE」のステージでのTHE ALFEE=2013年2月11日   第19位 Pride  19位に「Pride」(作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE)がランクイン。アルバム「Nouvelle Vague」(1998年3月25日リリース)収録曲だ。  母娘、2世代に渡るファンから、「ぜひ聴いて」と激推しの声が。 「桜井さんの艶のある声、沁みる歌No.1です。今年で30歳になります。母がファンで幼い頃の子守唄はTHE ALFEEでした。LIVEも小学生の頃から行っていて20年以上母と一緒に参加しています。LIVEで『Pride』を3人がアカペラで歌ったとき、3人の歌声が三位一体となりでとても感動しました。是非聴いてほしい一曲です!」(30代・女性)  この曲には、コンサートで生歌を聴いてほしいというファンの声がとても多かった。 「バラード曲で、心に沁みる1曲です。2019年の代々木第一体育館でのライブで生で聴きましたが、終盤でメンバーのマイク無しのアカペラでの力強いコーラスが胸に詰まった思いが弾け、涙が止まりませんでした。歌詞がとても背中を押してくれ、前に進ませてくれる曲です」(40代・女性)「この1曲にアルフィーのバックボーンのすべてが表現されています。ライブでの最後のアカペラは涙なしには聴けません」(50代・男性)  中には「イントロを聴いただけで涙が流れる」(50代・女性)の声もあった。  8月17日と18日に行われる夏のイベント「THE ALFEE 2024 Wind of Time 50年目の夏祭り」では、どんなセットリストなのか? 楽しみでならない!   第20位 風曜日、君を連れて     名曲の豊富さを示すかのように、多くの曲に票が集まった今回のアンケート。それを象徴するかのような結果となったのが20位。3曲が同じ票数で並んだのだ。 1曲目は、22枚目シングル「風曜日、君を連れて」(1986年3月5日リリース/作詞・作曲:高見沢俊彦、編曲:ALFEE)。  今年50周年のTHE ALFEEのコンサートに何百回も足を運んだというファンからはこんなコメントが。 「当時、高見沢さんがインタビューで“1週間で風がないなぁと思って風曜日と決めた”的なニュアンスの事を話しておられました。何て素敵な発想なんだろうと高校生だった私は感動したことを覚えています。それから、何百回とコンサートに足を運んでいますが時々この曲が演奏されるとやはり当時感動した気持ちは変わらず蘇ります。またいつかこの曲が聴けるようコンサートに参加し続けます」(50代・女性)   【こちらも話題】 THE ALFEE 桜井賢「人生のほとんどがアルフィー」 2900本のライブ経た3人の50年間 https://dot.asahi.com/articles/-/227168      全日空の夏の沖縄キャンペーンソングだったこの曲がきっかけで、なんと上京したファンも! 「それまでもお気に入りなグループのひとつでしたが、この曲で唯一無二の存在になりました。全日空のCMソングですが、軽快なメロディ&リズム、転調、爽やかなコーラスにどっぷり浸かり、今に至ります。ちなみに大学進学ではアルフィーの後輩となる明治学院を選びました。アルフィーを知らなかったら、地方出身者では明学も知らなかっただろうなぁ」(50代・男性)    夏らしい疾走感があるメロディーながら、“風曜日”の歌詞はとても奥深い名曲だ。   第20位 無言劇  同票の2曲目は、7作目シングル「無言劇」(1980年3月21日リリース/作詞・作曲: 高見沢俊彦 編曲:ALFEE、矢野立美)。  あまたあるTHE ALFEEの曲だが、初期の曲もおすすめしておきたいという声も。 「50周年を迎えアルフィーを知ってもらうなら最近の楽曲も勿論いいけど初期の楽曲も聞いて欲しい。選んだ楽曲はアルフィーの歴史が詰まっているから」(50代・女性)「所謂、フォークの流れにある曲も聴いて欲しいです。メロディー・ハーモニーの素晴らしさが体験できます。その中で自分が一番好きな『無言劇』を推薦」(50代・男性)    高見沢俊彦と坂崎幸之助のアコースティックギターの掛け合いのようなメロディーは耳心地がよく素晴らしい。そして、歌詞にストーリー性があり一度聴いたらクセになるような名曲だ。   THE ALFEEの坂崎幸之助 「“シュプレヒコールに耳を塞いで”、学生運動が盛んだった頃の空気感が伝わってくる歌詞が特徴の曲です。“君のアジテーションを聞いていた”“白いヘルメット”など細かく登場人物の設定がされていて、まるで小説を読んでいるかのような世界観に引きこまれます。七色の声を持つ坂崎さんの渋いヴォーガルとサビの桜井さんの力強い歌唱、ふわっとかぶさる高見沢さんのコーラスはこれぞTHE ALFEEという美しさ。ライブでは、坂崎さんと高見沢さんのアコースティックギターの掛け合いを聞くことができます。ギターの神様の戯れといっても良いような高度な技巧を駆使した演奏を聴いたときには、鳥肌が立ちました」(40代・女性)     【こちらも話題】 デビューから50周年のTHE ALFEEファンが選ぶ「この一曲」 「タカミーの泣きのギターに桜井の艶ボイス」もランクインした6位~10位 https://dot.asahi.com/articles/-/229298     第20位 太陽は沈まない            20位に入った3曲の最後は「太陽は沈まない」(2002年8月14日リリース/作詞作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE)。オリコン週間シングルチャートでは4位を獲得している。 “新米”アルフィーファンから熱烈なコメントが。 「長い人生の中でも立ち上がれないくらい落ち込んでいた時のことです。たまたま目にしたツィッターでALFEEファンの方のおすすめ曲が『太陽は沈まない』でした。その時の私は精神的に相当参っていたようで聴きながら声を出して号泣してしまいました。嗚咽が止まなかったのを今でも覚えています。それから他の曲を検索し片っ端から聴きまくりました。立ち上がれないほどだった私が今ではせっせとLIVEに足を運び、右腕を振り上げ推し活に精を出しております。ファン歴3年目の新米です」(60代・女性) 「太陽は沈まない」は、江角マキコ主演ドラマ「ショムニ FINAL」(フジテレビ)の主題歌で、痛快なお仕事ドラマとして人気な同作に提供された曲なだけに“応援ソング”だ。それだけに、この曲に励まされたという声は多かった。 「私が初めてリアルタイムで聞いたTHE ALFEEの曲です。当時中学生だったのですが、学校でも家庭でもつらいことがあり、この曲に何度も励まされました。つらいとか苦しいとか、そんな気持ちに押しつぶされそうになった時、『太陽は沈まない』をぜひ聴いてほしいなと思います」(30代・女性)「仕事でもう辞めたいなと思うとき、奮い立たせてくれました」(30代・男性)    8月25日、THE ALFEEが50周年を迎える日まで、まもなくだ。三人がさらにこれから、どんなカッコいい姿を見せてくれるか、楽しみでならない。 (AERA dot.編集部)   【THE ALFEEファンが選ぶ「この一曲」ランキング】 #1 1位~5位 1位は「この曲のためにライブに」 https://dot.asahi.com/articles/-/229297 #2 6位~10位 「泣きのギターに艶ボイス」がランクイン https://dot.asahi.com/articles/-/229298 #3 11位~15位 カッコよさが世代を超えた「一番熱い曲」 https://dot.asahi.com/articles/-/229563 #4 16位~20位 「何度も励まされた」とファンを奮い立たせた名曲 https://dot.asahi.com/articles/-/229566  
THE ALFEEランキング50周年
dot. 2024/07/31 06:00
プロ野球の審判「ミスジャッジ」でバッシング、重圧で吐き気も…過酷さを超える仕事の「魅力」とは
岡本直也 岡本直也
プロ野球の審判「ミスジャッジ」でバッシング、重圧で吐き気も…過酷さを超える仕事の「魅力」とは
大観衆の前でジャッジをする審判    プロ野球に欠かせない存在でありながら、メディアに取り上げられることはほとんどない。いまだに謎のベールに包まれている「審判」の世界。「過酷な仕事」という印象も強いが、実態はどうなのか。長年、プロ野球界を支えてきた元審判の2人に話を聞いた。※【前編】<プロ野球「審判」 スタートは「年俸102万円」 1軍定着に「最低10年」の過酷な現実>より続く *  *  *  審判は、体力勝負でもある。パ・リーグ審判を29年務めた山崎夏生さん(69)はこう語る。 「試合中、選手は表裏のどちらかのイニングをベンチで休めますが、審判はそれができません。水分補給などはしますが、基本的には休憩なし、試合開始から終了までずっと立ちっぱなしです」(山崎さん) 炎天下で、倒れる審判もいる  特に負担が大きいのが球審だという。 「審判が下す1試合のジャッジ数は500回程度ですが、球審はそのうちの7、8割以上に対応します。試合を左右する判定も多いため、前夜はベテランでも緊張のあまり寝付けないこともあります。球審には、選手の2試合分に匹敵するほどの疲労度があるといっても、決して言いすぎではないと思います」(同)  NPB初代審判長も務めた井野修さん(70)は、近年厳しくなる夏の「暑さ」も、審判に大きな負荷をかけていると指摘する。 「この夏の暑さは深刻な問題です。日中35度を超える日はもうめずらしくない。1軍の試合はナイトゲームが多いのでまだいいですが、最も気温が高い時間帯に試合が始まる2軍を担当する審判は相当つらい。2軍の試合はドーム型の球場を使用することもないため、日光を遮るものもありません」  熱中症対策が話題になるなか、炎天下で倒れる審判も少なからずいる。 「暑さによって体調不良を引き起こし、試合中に倒れている審判も少なくない。2軍の試合では、控え審判はいませんので、こうなると、少ない人数で試合をまわさなくてはいけません。これは負担が大きい。テレビでも『不要不急の外出は控えましょう』とこれだけ報道されていますから、試合開始を早める、もしくは遅らすなど、早急に対策をする必要はあると思います」(井野さん) プロ野球界を支える審判たち    一人前になるまでの長い道のり、決してよいとはいえない待遇、そして体力的な負荷。審判は、体力的、精神的にも、やはり決して楽な仕事ではない。  記者は最初聞いたときに驚いたが、審判にはサラリーマンのような正社員待遇はないという。大昔には、正規雇用されていた時代もあったというが、現在は「個人事業主」として、毎年、NPBと契約しなければならない。「本契約」でも、常に1年契約で、ボーナスや退職金もない。ただし、シビアな就労環境に思えるが、体力的、技術的に問題がなければ55歳前後まで契約更新の可能性はあるという。  もし1軍の試合にレギュラーとして定着できれば、待遇は一気によくなる。最低保証年俸+出場手当などが加わって、年1500万円超も夢ではない。 パ・リーグ審判として29年、通算1451試合に出場した山崎夏生さん   リクエスト制度の導入で負担軽減  技術の進歩によるよい変化もある。  2018年に導入された「リクエスト制度(判断が難しいプレーが起きたときにビデオ判定を求める制度)」が、審判の精神的な負担を大幅に軽減したという。山崎さんと井野さんはこう評価する。 「カメラの台数が少ないなど、まだ課題はあります。ただ、ミスジャッジを『正す』ことができるのは、審判にとっても、監督や選手、ファンにとっても非常に大きなメリットです。かつてはミスジャッジをしたとしても確認する方法がなく、審判は抗議を突っぱねるしかなかった。今だから言えますが、私も自分の判定を悔やみ、眠れぬ夜を過ごしたことは何度もあります。あんな苦しい思いは、これからの審判にはできるだけしてほしくはない」(山崎さん) 「かつては(ミスジャッジへの)バッシングも激しく、自分の家族にまで被害が及ぶこともありました。子どもが学校で『お前の親父のせいで負けたじゃないか』と友だちに責められるケースもよくありました。今はそんなケースはほとんどない。本当によかったと思います」(井野さん)  ただし、「審判がリクエスト制度に甘えていいわけではない」という。 「正しい判定をするために、努力は怠ってはいけない。『絶対、機械に負けない』、そういう強い気持ちをいつまでも持ち続けてほしい」(井野さん) 「こんな面白い仕事はほかにない」  将来的には、「ピッチクロック」や「AI審判」導入の噂もある。技術の進歩により、審判が置かれる環境や果たすべき役割は、今後変化していく可能性もある。ただ、井野さんは、審判について「こんな魅力的な仕事はない」と語る。 「日本の審判は『権威がない』とか『年俸が安い』とか、いろいろと指摘はされますが、私はこんなに面白い仕事はほかにはないと思います。数億円も稼ぐスター選手たちのプレーを誰よりも近くで見ることができ、そんな選手たちを自分が審判としてジャッジすることができる。あの感動はもう言葉にできません」  確かに、過酷な場面は多い。 「私も幾度となくとてつもない緊張におそわれました。特に日本シリーズなどの優勝をかけた重要な試合の球審の重圧は、ほんと吐き気がします。ただ、自分が『プレイボール!』と叫んだ瞬間には、不思議とそんな緊張や重圧は一瞬で吹き飛んでしまう。逆に『さあ、今日もやってやろうか』と興奮でワクワクしてくる。あのスイッチが入るような特別な感覚が私は大好きでした。数万人の観衆が、自分のジャッジ一つで一斉に沸くなんて体験もこの仕事ならではの醍醐味。こんな魅力的な仕事はないです。少しでも興味のある人は、ぜひ審判の世界にチャレンジしてほしい」(井野さん)  今年8月には、年に1度開催されている「NPBアンパイア・スクール」とは別に「NPBアンパイア・キャンプ」という人材を発掘する新たな試みも開催される予定だ。「全日本大学野球連盟所属部員」など参加条件はあるが、若い人材の獲得は業界にとって刺激になることは間違いない。  華やかな選手の裏で、積み上げた経験とスキルでプロ野球界を支える審判。シーズンも後半戦に突入したが、ときには審判の華麗なジャッジに目を向けてみるのも、野球の新たな魅力発見につながるのではないだろうか。 (AERA dot.編集部・岡本直也)
プロ野球
dot. 2024/07/29 11:00
プロ野球「審判」 スタートは「年俸102万円」 1軍定着に「最低10年」の過酷な現実
岡本直也 岡本直也
プロ野球「審判」 スタートは「年俸102万円」 1軍定着に「最低10年」の過酷な現実
プロ野球界を支える審判たち    プロ野球に欠かせない存在でありながら、メディアに取り上げられることはほとんどない。いまだに謎のベールに包まれている「審判」の世界。「過酷な仕事」という印象も強いが、実態はどうなのか。長年、プロ野球界を支えてきた元審判の2人に話を聞いた。 *  *  *  投手が繰り出す150キロを超えるストレートと多彩な変化球を、捕手の真後ろから瞬時の判断で見極める。走者が本塁へ突入……セーフか、それともアウトか。紙一重のプレーのジャッジは、まばたきさえ許されない。称賛されることは少なく、どちらかといえば批判のほうが多い。そんな状況で、審判は、日々プロ野球界を支えている。  だが、プロ野球界には、いったい何人の審判がいるのか。おそらく、こんな初歩的な問いにも答えられる人はかなり少ないだろう。セ・リーグ審判として34年、NPB初代審判長も務めた井野修さん(70)は、審判の組織についてこう語る。 「NPB(日本野球機構)には、現在62人の審判が所属しています」  内訳は、現役の審判が56人、現役の審判を育成・査定するスーパーバイザーが5人、全てを統括する審判長が1人。基本、この56人で、全試合の審判業務を行うという。 「3月下旬から10月まで続くシーズン中、プロ野球は各球団143試合が行われます。球審1人、塁審3人、控え審判1人の計5人の審判が、各試合では配置されています。ちなみに、1人の審判が年間で担当するのはおよそ100試合。経験やスキルの差により、試合数には違いはありますが、オールスターやクライマックスシリーズ、日本シリーズなども担当するベテラン審判であれば110試合程度です」  休日は、月3~5日。 「セ・リーグ、パ・リーグを合わせて1日6試合開催が基本なので、審判を7つのチームに分け、常に1チームは休めるような仕組みで人員をまわしています」  シーズンが終了すればオフというわけではなく、10月から開催される「みやざきフェニックス・リーグ」への参加や定期的な勉強会、会議もあり、12月中旬ごろまでは多忙な日々が続く。翌年2月からはプロ野球のキャンプがスタートし、キャンプには審判も参加する。12月中旬から翌年1月下旬までのおよそ1カ月半が審判にとっての貴重な完全オフになるという。 数万人の大観衆の前で、ジャッジをする審判    キャンプ中、審判は何をしているのか。 「午前中はランニングやダッシュなどの筋力トレーニングを2時間ほど行います。午後からは紅白戦に参加したり、ブルペンに入らせてもらい、投手が投げるボールを捕手の後ろから見たりして、ボールへの『目慣らし』をします」  直前まではオフだったため、「審判も感覚が鈍っている」という。 「キャンプ中に何千球ものボールを見て、少しずつ感覚を取り戻していきます」  この期間に監督やコーチ、選手とコミュニケーションをとることも重要だという。 「馴れ合いはよくありませんが、ある程度の良好な人間関係を形成することは、良い仕事をするためには必要です。立場は違いますが、みんなプロ野球界の仲間ですから」(以上、井野さん) 月17万円 生活できず副業や親の支援を受けるケースも  NPBの審判になるには、2013年に開校された「NPBアンパイア・スクール」を受講するのが基本だ。開催は年に1度で、毎年150人ほどの応募者の中から、1次選考を通過した60人前後が受講できる。  パ・リーグ審判として29年、通算1451試合に出場した山崎夏生さん(69)は「NPBアンパイア・スクール」についてこう語る。 「スクールでは、アメリカの審判学校が5週間かけて行うメニューをおよそ1週間で行うため、内容はかなりハードです。朝9時から、実戦に即したプレーへの対応、投球判定などを学び、夜は座学で講話やルールの勉強。テストも毎日実施されます。過酷なため、途中でリタイアするケースもめずらしくありません」  受講者はNPBの審判を目指す人がほとんどだが、中学・高校の野球部の顧問やアマチュア野球で指導的立場にある人、少数だが女性の参加もあるという。   スクールを終了し、成績優秀と認められた受講者のみが「研修審判」として採用される。ここが審判としてのスタートラインだが、採用人数は毎年わずか3~6人という狭き門だ。  契約期間は最長で2年。「研修審判」の待遇はシビアだ。報酬は、月17万円の6カ月契約(プロ野球のシーズン中のみの契約)で、「年俸102万円」。研修審判の収入だけでは生活が厳しいため、副業をしたり、親の支援を受けたりするケースが多い。かつては引退したプロ野球選手がセカンドキャリアとして審判を志すケースも多かったが、待遇のせいか、近年応募する人はほとんどいない。 パ・リーグ審判として29年、通算1451試合に出場した山崎夏生さん   「研修審判」になると、独立リーグである「四国アイランドリーグplus」や「BCリーグ」に派遣され、球審、塁審としての動きの基礎を徹底的にたたき込まれる。「みやざきフェニックス・リーグ」では実際に昇格試験が実施され、合格すれば「研修審判」から「育成審判」になれる。 「育成審判」になれば、2軍ではあるがNPBの試合にも出場が可能だ。ジャッジのレベルは一気に高くなるが、年俸も400万円弱にまでアップし、「昇給」もある。ここまできて、「審判の仕事に集中できる環境」がようやく整うという。 「育成審判」の契約期間は最長3年だが、研修審判の時と同じく昇格試験に合格すれば、ついに念願の「本契約」となる。ただ「本契約」になったとしても、1軍の試合に出場するには、まだ長い道のりがある。 一人前になるまで「最低10年」 「プロ野球選手なら1年目でレギュラーになることもありますが、審判は無理です。審判に最も大切なのは『経験』。いろいろな修羅場を経験し、あらゆるプレーに遭遇し、ジャッジの引き出しを持たないといけません」(山崎さん)  1軍の試合に出場できるようになっても、最初は月2、3試合ほど。残りの日程は2軍で経験を積む。1軍の試合に定着するまでには、研修・育成の期間を合わせると「最低10年」はかかるという。 (AERA dot.編集部・岡本直也) ※【後編】<プロ野球の審判「ミスジャッジ」でバッシング、重圧で吐き気も…過酷さを超える仕事の「魅力」とは>へ続く
プロ野球
dot. 2024/07/29 11:00
「東京で頑張ってるんだ」と思うことができた 駆け出しの頃の松下洸平を照らしてくれた“明かり”
秦正理 秦正理
「東京で頑張ってるんだ」と思うことができた 駆け出しの頃の松下洸平を照らしてくれた“明かり”
東海林弘靖さんと松下洸平さん(撮影/写真映像部・東川哲也)    松下洸平さんがホストを務めるAERAの対談連載「じゅうにんといろ」、3年目に突入! 25人目のゲストは照明デザイナーの東海林弘靖さん。よりたっぷりとお伝えするために、 今後はゲストお一人ごとに6回の対談をお届けします。AERA2024年7月29日号より。  *  *  * 松下洸平(以下、松下):はじめまして! どうぞよろしくお願いいたします。 東海林弘靖(以下、東海林):はじめまして。お呼びいただいて大変光栄です。 松下:素敵な照明のショールームですね。いろんな形の照明があって面白いです。 東海林:ベルギーの照明器具メーカーの輸入と販売を手掛けているショールームです。普段からお付き合いがありまして、松下さんとお話しするなら照明がたくさんある場所がいいだろうと思い、提案させてもらいました。日本人にはちょっと想像がつかないような面白い世界観がありますよね。 松下:ベルギーの照明というのは有名なんですか? 東海林:照明の世界でどこが有名かと言われたら、最初に出てくるのはデンマークです。他にはフィンランドとか、主に北欧ですね。第2次世界大戦後に復興のために産業デザインに力を入れたらしいんです。デンマークでは1950年くらいからデザインが盛んになったようです。ポール・ヘニングセンによる、傘が何枚か重なったような照明器具は有名ですよね。 松下:あ、知ってるかもしれないです。 東海林:あれはまさにデンマークです。ベルギーのデザインが出てきたのは80年代くらいでしょうか。デザインが世の中にある程度出尽くして、ちょっと変わったテイストの照明もあっていいんじゃないかとなったんでしょう。不思議な照明器具を作って火がついて、世界に支持されるブランドになったんです。 松下:へえ、そうかあ。歴史をひもといていくと面白いですね。僕が今回、東海林さんにお声がけさせていただいたのは、東海林さんが出演されたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」を拝見したことがきっかけで、素敵な方だなと思っていたんです。 東海林:2016年ごろだったかな。そんな昔から知っていただいていたとは驚きです。 松下:僕は照明に対して何の知識もないですが、あのドキュメントを見て「明かり」というものが、日々の暮らしの中でどれだけ重要なのかと考えるきっかけになったんです。いつかお会いしたいなと、ずっと思っていたので、念願が叶いました。 東海林 そう言っていただけると、とてもうれしいですね。普段から明かりは意識していらっしゃるんですか。 松下:一人暮らしをするようになってからです。東京の、都会の明るさにまず驚いたんです。 東海林:ご出身は? 松下:八王子出身です。東京とはいえ田舎で、駅前は栄えているんですが、田んぼや畑など、自然あふれるところなんです。 東海林:私は大学生の時に八王子に通っていましたよ。工学院大学のキャンパスがあってね。 松下:八王子の田舎で生まれ育ったので、都会に対する憧れが強かったんです。 東海林:実際に都会に出てきて、どう感じられました? 松下:とにかく夜中でも明るいなあ、と。お店の明かりだけではなく、街灯の明かり、車のライトの明かり、道路に反射する明かりとか……。本当に些細なところにまで明かりがともっている東京にすごく感動したんですよね。中でも好きだったのが、二子玉川にあるショッピングモールの明かりでした。 東海林:おお! 松下:そこの照明を担当されたのが東海林さんだということを番組で知ったんですが、あそこの照明はあまり明るくないんですよね。「照らす」というより「灯っている」イメージで。田舎から出てきて、東京の夜景や商業施設の煌々とした明かりを見てときめく一方で、あの優しい明かりが、なんかものすごく好きになって。そのまま僕は二子玉川に2年くらい住んだんですよ。 東海林:このショッピングモールが好きで? 松下:そうなんです! 東海林:関係者が聞いたら、もうね、涙ですよ。 松下:当時24、25歳だったんですが、本当に貧乏役者でお金もなくて。お店に入ったところで、中の洋服屋さんの商品には手が出ないものも多く……。でも、あそこにいるだけで、ちょっと「自分は東京で頑張っているんだ」と思うことができた。当時の自分を照らしてくれたのが、そこの明かりだったんです。 東海林:本当に涙が出ます。いいことをおっしゃいますね。 松下:明かりって、ただ物や街を照らすだけでもなく、その人たちの暮らしを照らすものなんだなあ、と。 ※AERA 2024年7月29日号  
松下洸平東海林弘靖
AERA 2024/07/28 10:30
松坂大輔のスライダーに「キャー!」西武時代のG.G.佐藤 セカンドキャリアでは5度目の“戦力外通告”も
平尾類 平尾類
松坂大輔のスライダーに「キャー!」西武時代のG.G.佐藤 セカンドキャリアでは5度目の“戦力外通告”も
現役時代は「G.G.佐藤」の名で活躍した佐藤隆彦さん(撮影・平尾類)   「G.G.佐藤」として日本のプロ野球、西武などで活躍し、北京五輪にも出場した佐藤隆彦さん(45)。2008年オールスターのファン投票では1位の票数を獲得するなど、実力と人気を兼ね備えた選手だったが、36歳で引退し、父親が社長を務める大手の地盤調査会社に入社。野球とはまったく関係のない世界で一営業マンから出発し、2021年からは副社長を務めるまでに。それも昨年8月いっぱいで退社した。副社長のイスを捨ててでも会社を辞めた理由は何だったのだろうか。【前編】では無名のアマチュア時代、野球人生での転機、その後のセカンドキャリアなどについて語ってもらった。 ――まずは野球人生について。振り返ると、法政大の時は補欠だったんですよね。  そうです。大学時代は公式戦で1本しか本塁打を打っていません。高校時代の桐蔭学園(横浜市)でも、主将でしたけど本塁打は3本だけ。無名中の無名でした。学生時代を知る人は僕がプロ野球選手になるなんてだれも想像していない(笑)。 シュワルツェネッガーのポスターを ――無名のアマチュア選手が覚醒する転機は何だったのでしょうか。  大学時代に肉体改造で体を大きくしたのが分岐点でしたね。体重を30キロ増やして100キロを超えました。当時監督だった山中正竹さんが選手の考えを否定せず、個性を大事にする指導方針だったので救われました。筋肉をどうしたら大きくできるのか情報が入ってこない時代だったので、武蔵小杉(川崎市)のTSUTAYAでボディービルの雑誌を買って、筋肉ムキムキのアーノルド・シュワルツェネッガーのポスターを部屋中に貼りまくりました。目からの刺激ですね(笑)。 【あわせて読みたい】 佐々木朗希、登板のメド立たず1カ月… このままメジャー挑戦なら「日本球界とケンカ別れ」の危惧 https://dot.asahi.com/articles/-/227801?page=1 ――生活スタイルや野球への意識は変わりましたか。  飯を3時間おきに食べなければいけないので、夜中に目覚ましをかけて起きて、卵2個とプロテインを食べる生活を繰り返していました。今でこそ大谷翔平選手がやっていますけど、26年前は筋トレをガンガンする選手がいなかった。「やめたほうがいいよ」と多くの人に言われましたが、人が望む姿でなく、自分が望む姿になろうと。人生のスイッチが入りましたね。まだイチローさんが米国でプレーする前だったので、野手で日本人初のメジャーリーガーになるのが目標でした。 ――肉体改造の成果はいかがでしたか。  打撃練習で打球がピンポン球のように果てしなく飛んでいくようになりました。メチャメチャ楽しかったです。でも試合では打てないんですよ、まだ技術がないので。 法政大学時代(本人提供)   捕手の経験ないのに即決 ――大学卒業後は米大リーグ・フィリーズの1A(マイナー)に入団されました。どのような経緯でそうなったのでしょうか。  信じてくれる人が近くにいてくれたことが大きかったです。父が「おまえは絶対プロ野球選手になれる。この世に生まれた最高傑作だから」ってずっと言ってくれて。大学でドラフトの指名がなかった時に母が「父さん、あなたウソつきね」って言ったら、「ふざけるな、今から(プロ野球選手に)なるから一筆書け。『佐藤隆彦がプロ野球選手になった際は、毎晩あなたのことを三つ指立ててお迎えいたします』と」って反論して(笑)。  父の期待に応えたいし、ウソつきにしたくないからあきらめたくなかった。その時に、新聞の「フィリーズが多摩川のグラウンドでプロテストをやる」という小さい切り抜きを見つけて。大学の“補欠軍団”で受けました。300人ぐらい参加して、僕が1人だけ合格して。捕手をすることが入団の条件だったので、経験がないけど「やる」と。即決でしたね。 【こちらもおすすめ】 吉田正尚でも苦戦中 メジャー代理人のシビアな本音「日本人でほしいのは投手だけ。野手はいらない」 https://dot.asahi.com/articles/-/227057?page=1 ――英語は大丈夫でしたか。  英語はどうにかなりました。米国へ行く前に、日本で英会話学校に3日間通ったんですけどね。飛行機でキャビンアテンダントに「ビーフorフィッシュ?」って聞かれて「イエス!」を連発していました(笑)。こんな語学力で米国に行っても、相手の話す英語が分かってくる。何とかなりますよ。 ――フィリーズのマイナーでは3年プレーしました。  実戦がいかに大事かを痛感しましたね。大学の公式戦は多くて年間20試合。僕は補欠なのでほとんど出られない。でも米国では年間100試合以上あり、300~400打席立てる。練習より試合の1打席ですよ。打席に立ち続ければ技術が身についてくる。ダメだったら振り落とされる厳しい世界だけど、1年間プレーした時に日本のプロ野球なら通用する手ごたえはありました。法政大からプロに入団した選手と比べて自分も十分にできるなと。 フィリーズ1Aでの練習の様子(本人提供)   一塁になったら涌井の牽制が速くて「怖くて無理」 ――日本に戻り、プロ野球の西武に入団しました。  米国で3年間プレーして、ヤクルトと西武の入団テストを受けました。西武は捕手が足りなかったみたいで、「捕手ができるなら絶対取る」と言われて。入団したけど、春季キャンプの3日目ですかね。松坂(大輔)の球が捕れなくて。高速スライダーが消えるんですよ。「キャー!」って。「もうそのボール投げないでくれ」って言いました(笑)。 西武時代の同僚だった松坂大輔さん(2003年) ――その後どうなったのですか。 「捕手は無理です」って当時の伊東勤監督に言ったら、「捕手で獲得したのに捕手詐欺か」って(笑)。その後は三塁を守ったんですけど外国人打者の打球が怖くて、一塁になったら涌井(秀章)の牽制が速くて「怖くて無理です」って伝えて。外野に落ち着きました(笑)。 西武時代に同僚だった現・中日の涌井秀章さん(2005年) 【こちらも間れています】 動くなら「3球団」か ヌートバー苦戦続けば「NPB入り」の可能性高まる? 早期来日でメリットも https://dot.asahi.com/articles/-/228935?page=1 ――その後も野球では波瀾万丈でしたが、セカンドキャリアで過ごしたサラリーマン生活はいかがでしたか。  父に恩返ししたいという思いで入社しましたが、モチベーションで苦しんだ部分は正直ありました。プロ野球で経験した刺激を社会に出ると味わえない。もちろん仕事には全力で打ち込んでいましたが、物足りなさは感じていました。自分は夢中になったことに情熱を注げる性格であることは分かっているので、新たな世界に挑戦したいと思いました。 佐藤隆彦さん(撮影・平尾類)   会社を辞めることに妻は「ウソでしょ?」 ――社員からステップアップして副社長となり、お父さんの後を継いで社長になると思っていました。退社を決断した理由を教えてください。  会社を継ごうという使命感はありました。実際にどういう会社にしたいか、将来の方向性を巡って父とぶつかって。「会社を辞めて外の世界を見ろ」と言われ、5度目の“戦力外通告”を受けました(笑)。ただ、自分の中で迷いはあったんですよね。「一回きりの人生これでいいのか」「今の仕事は本当にやりたいことなのか」と少し前から自問自答していて。本気でやらないと1000人いるグループの従業員にも失礼じゃないですか。人生を懸けてやらないと成功しない。相談した人たち全員に「絶対に辞めるな、もったいない」と言われました。  確かに売り上げ180億円、営業所などが20カ所以上ある会社で副社長というのはありがたい立場です。でも、自分が納得する人生を送りたくて。妻は「ウソでしょ?」と驚いていましたが、「あなたは必ずやると言ったことをやり遂げる男なので、信じてついていきます」と言ってくれました。父とは連絡を取ってないですね。関係は良くないです。時が来れば……って感じですかね。   ――独立して10カ月が過ぎました。現在はどのような活動をしていらっしゃいますか。  講演、野球指導、タレント業を中心に忙しくさせてもらっています。自分ひとりでやっているので、組織に守られているわけではない。プロ野球選手に戻った感じです。「(前の会社は)父親の会社だからできたんでしょ」と言われるのも悔しいじゃないですか。野球が終わった後に輝けないのは嫌ですし、人生のピークは常に未来です。今後は起業家として勝負したいので、宅建業の資格を取って不動産業をやっています。やりたいことはたくさんあります。М&A(企業の合併・買収)に興味がありますし、野球選手のセカンドキャリアを支援する活動もしたいですね。 (平尾類) 【後編】<G.G.佐藤を救った野村、星野両監督の言葉とは 北京五輪の悪夢のエラーから16年 「野球界の大仁田厚を目指す」>に続く  
GG佐藤北京五輪佐藤隆彦
dot. 2024/07/27 11:00
「自分がなぜ物書きなのか、いまも謎」長い不遇時代を越え、人気作家になった燃え殻の原点
「自分がなぜ物書きなのか、いまも謎」長い不遇時代を越え、人気作家になった燃え殻の原点
20年通うBar。「作家の仕事、まだ怖くて。きょうも無事仕事が終わった。お疲れ様の一杯です」(写真:今村拓馬)    作家、燃え殻。デビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』がいきなりのベストセラー。その後も燃え殻の作品は常に人気だ。なのに、いつもどこか不安を抱える。燃え殻が現在地にたどり着くまでには、長い不遇時代があった。ラジオや雑誌が命綱だった。置かれた場所でもがき続けた燃え殻が、長い夜を越えて作家になるまで。AERA 2024年7月29日号「現代の肖像」より。 *  *  * 「自分がなぜ物書きなのか、いまも謎なんです」  いまや人気作家となった燃え殻(もえがら・50)は、やや戸惑った表情でそう言った。  燃え殻を一躍有名にしたのは2017年、テレビ美術制作会社に勤めながら書いたデビュー作『ボクたちはみんな大人になれなかった』(以下、『ボクたちは』)である。「自分より好きになった女性」との恋愛を描いた半自伝的小説で、本の帯には著名人がコメントを寄せた。「リズム&ブルースのとても長い曲を聴いているみたいだ」(糸井重里)、「謝りたい人と会いたい人の顔が浮かんだ」(堀江貴文)。文庫版にはあいみょんが「思い出さないでいるつもりだったことを思い出したんだ」という一文で始まる“アンサーソング”を寄稿。のちに森山未來主演の映画になり、本は文庫を含め累計20万部を突破するベストセラーになった。  その後も複数の作品が映像化され、いまは「週刊新潮」「週刊女性」などでエッセイを連載、ドラマの原作、ラジオパーソナリティーなど仕事の幅を広げている。普通ならば、少し自信をにじませてもいいと思うのだが、冒頭の言葉とともに、「怖くて怖くて」という感情をよく口にする。  それは、燃え殻がツイッター(現X)に投稿した呟(つぶや)きの面白さを買われ、小説執筆を勧められた経緯と無関係ではない。140字から8万字以上の世界への飛躍は想像を絶する難しさだ。しかも1冊目を出版した当時は、ミュージシャンの大槻ケンヂや中島らもの著書を中心に読むだけで、家に10冊ほどしか本がないという読書量だった。 仕事場を出て喫茶店で原稿を書くことも多い。偶然隣の席に座った人たちの会話がエッセイで再現されることも。デビュー作はほぼスマホで執筆したが、いまはMacBookで(写真:今村拓馬)   「だからやらなければいけないことが多すぎて。原稿執筆の合間に、本を読む時間を意識的につくっているし、エッセイも何本かストックを書いておきたいんです、締め切りギリギリの中で書く切迫感に耐えられないので。夜2時から3時まで飲んでいても目覚ましなしで朝8時には目がさめるんです。睡眠は1日3、4時間。一日ずっと張り詰めているから昼間も全然眠くならないですよ」 原因不明で髪が抜ける 小2で受けたひどいいじめ 「週刊新潮」の担当編集者によれば、半年先掲載用の原稿まで届くことがあるという。 「駄目なところをガンガン言ってくださいと言われました。推敲(すいこう)して質の高い原稿にしたいという気持ちの表れだと思います。そうして改稿された原稿は不思議な優しさ、気配りがあるんですね。毒があっても後味が悪くなく、私もネタにされたことがあるんですが、嫌な感じがないんです」  デビューから7年。本の売れ行きが芳(かんば)しくない出版界で燃え殻は新刊を出し続け存在感を増している。書き続けられる理由を尋ねるとこう答えた。 「あの頃から地続きだと思っているんですよね。ずっと書いていたらこんなこともあるんだなと」 “あの頃”とは、長い不遇時代のことである。  1973年生まれの燃え殻は、ずっと横浜で育ったが、小学2年の時に受けたいじめは激烈だった。発端は原因不明の脱毛。髪を含め体毛が抜けたのだ。同級生に持ち物を捨てられ、机や椅子を教室外に運ばれる、机に花瓶が置かれる、水をかけられる、「服、脱げ」と言われる……そんなことがほぼ連日続いた。担任教諭まで暴言を吐く始末。母親と通院し脱毛の治療はしたが治らなかった。燃え殻は学校を休みたかったが、母親は不登校になるとこの子は駄目になると思い、行かせていた。しかし耐えられなくなり、ある日母親に「もう死にたい」と打ち明けた。息子のSOSを聞いた母親は夕飯を作る手を止め、持っていた包丁を思いっきり畳に突き刺して言った。「お母さんを殺しなさい。それから自分で死になさい」 今年春、東京・渋谷の大盛堂書店2階に燃え殻のサイン本を集めたコーナーが開設されていた。自著ばかりが面陳列される様をみて「嬉しいですよね」。店員としばし、最近の注目本について情報交換(写真:今村拓馬)   「母が死ぬのがショックで、嫌で。“母さんが死ぬのが嫌だ”って泣いていました」  脱毛症状は数年後に治ったが、中学、高校ではクラスになじめず一人で過ごす時間が多かった。親に大学受験を勧められ2浪するも叶(かな)わなかった。  未来に希望が見いだせなかった頃、始めたことがある。一つはラジオ番組への投稿だ。「ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン」や「鶴光の噂のゴールデンアワー」などでは時々放送で紹介された。ラジオ好きが高じて、DJ風に曲をかけながらトークする自分の声を、父親の小型レコーダーに録音したこともあった。  中学・高校では、B4サイズの紙で新聞を作り、ほぼ毎日教室に貼っていた。学校の行事などを書き連ね、先生を題材にした4コマ漫画を描いた。誰からも褒められず、いつも破かれていた。  高校時代からは、「週刊朝日」の「山藤章二の似顔絵塾」へ投稿を開始。20歳の頃、94年の1年間をみても、竹中直人、タモリ、イチローなど少なくとも7回掲載されている。発売日の夜中12時にコンビニに行き、荷ほどきしたての雑誌をチェックし、掲載されているとガッツポーズした。 「当時は気づかなかったけど、これ全部逃避だったと思いますね。置かれた現実が嫌で、そこから目をそらしたかった。だから投稿したり、新聞つくったりしている。生きるために、命からがら見つけた“命綱”だった。とくに投稿して山藤さんやラジオ番組に採用されたことは、“君、面白いよ、生きてていいよ”と言われたみたいで」  命綱に救われた燃え殻は、人生を投げないで必死にもがいた。専門学校の宣伝関係コースへ進むも、講師陣のやる気のなさに落胆。だがCMの絵コンテを描く課題をだされた時、まったく評価されなかった。低レベルの学校なのに俺って駄目だなとヘコむが、気を取り直して量で勝負だと毎回50点提出した。すると講師にやる気が伝わり、描くコツもつかめた。「お前の作品の中では、今回のはいちばんよかったな」という一言が嬉しかった。 「人と比べて生きるのではなく、“自分の中のベスト”を目指す方がいいことに気づいたんです。そのために工夫をすること。人生は才能じゃねえな。工夫次第で人生楽しくなるんだって」 失敗しても話のネタになる「じゃあ、やっちゃえ」  専門学校を卒業してもこれといった就職先がなく、エクレア工場で激安商品を箱詰めするバイトを始める。望んだ職場ではなく、単純作業だったが、「だからこそ、面白くして自分を盛り上げないと時間の無駄だ」と、トングの使い方から練習した。ある日、自分が詰めたエクレアが並ぶスーパーに行くと、トングの痕が付いているのを見つけた。何とかしたいと思った燃え殻は、トングにビニールテープを巻いたら痕が残らないことを発見。提案したところ工場長に激賞された。  97年、新しいバイト先で働き始める。テレビ美術制作会社「グレートインターナショナル」(以下、グレート)である。グレートは、番組のテロップやフリップ、小物……業界で言う“消え物”を作る会社だ。燃え殻はバラエティー番組に必要な「悪魔が使うペン」や「信じられないほどデカい分度器」といった難題と日々格闘していた。納期はいつも厳しく、予算も限られるなど理不尽な要求が多い。数年後正社員になるが、ハードな仕事を続けるうちに体が悲鳴をあげ入院。テレビの仕事から離れ、採用の仕事なども担当するようになる。 “テレビ以外の新規事業を立ち上げる”と言い出したのは2007年頃のことだ。部下たちは大丈夫かと思った。燃え殻の性格が、人一倍傷つきやすく、落ち込みやすく人見知りだということを知っていたからだ。ただ、こう思ってもいた。 「同じことをやるのがイヤで新しいことを求めるあの人らしい」(部下の関口健太・46) 「見返してやりたい思いが心の奥底にありそうだった」(同・松山雅也・45)  燃え殻に挑戦の意味を問うと、経営的に放送以外にシフトした方がいいということ。そして自分の個性を出せる仕事への欲求もあったという。 毎週J-WAVE(81.3FM)で「BEFORE DAWN」を収録する。当日リスナーからのメールを読みコメントを考える。飲み屋で知人に質問されたらどう答えるかをイメージして話すという。マイクは燃え殻の低音を響かせる特性のマイクを使う(写真:今村拓馬)   「あの頃の気分としては、そもそも失敗したところで俺のことなど誰もみてないし覚えちゃいない。小学校の経験で慣れている。それに失敗したって話のネタになる。じゃあ、やっちゃえ。あとは明日の俺がどうにかしてくれるって感じでした」  尊敬する中島らもがかつて飛び込み営業をしたように、オフィスビルの上から下まで営業をかける。異業種交流会に参加する。自社のデザイン力・企画力を生かして、パンフレットや会社案内、チラシ、ポスター、動画制作などを売り込んだ。 清掃員に扮して営業10年後には4億を稼ぎ出す  極め付きは某企業への営業だ。まずその企業が入居するビルに清掃員のバイトで入り、数年かけて従業員と顔なじみになる。その上で従業員にさりげなく話しかけ、例えば商品の拡販に悩んでいる人がいたら、「実は私、こんな仕事をしていまして」と切り出し、動画制作などを受注した。  こうした営業をみて部下の関口は、普段は猫のように穏やかな燃え殻が、爪を立てて獲物に向かっていくように見えた。変わったなと思った。  新規事業を始めたもう一つの動機は、テレビ業界のような一過性の人間関係ではなく、濃い繋(つな)がりの中で仕事をしたいということだった。いじめの中で裏切られた経験が背景にあるのだが、裏切らない信頼できる人と仕事をしたいという思いをずっと抱いていた。営業に同行した田村庸介(43)によれば燃え殻は、「クライアントと飲んでは、自分の駄目な部分もさらけ出し、自分をわかってもらうことを懸命にやっていた」という。  燃え殻は失敗も部下に見せるタイプで、ある種道化役を引き受ける部分があった。だから部下たちも失敗を恐れず積極的にチャレンジできた。燃え殻は新規事業を仕切る人間としては向いていたのかもしれない。この新規事業、10年後には年間4億円を稼ぎ出すまでに成長させた。 「“やっぱり俺は正しかった”と、過去形で自分が思えるまでやり抜くのが自分のスタイルですね。どんだけくだらなくても、あれも運命だったのかなと思えるぐらいまでやる。そうしないと自分がかわいそうじゃないですか。もしかしたらできたかもしれないことができないまま終わるのって」  実は燃え殻が世に出る発端となるツイッターを始めたのは、この新規事業がきっかけだった。  それは営業先に向かう電車の中で、同僚とプレゼンのロールプレイをしていた時だった。「弊社は『踊る大捜査線』のエンドロールを作っておりまして」と言った次の瞬間だった。隣にいた人が「いまの話、本当ですか?」と食いついてきた。名刺交換すると、ゲーム情報を発信するエンターブレインの社員。のちに「ファミ通.com」というWebページでゲームソフトの宣伝ページを担当することになるのだが、話はそれだけではなかった。その会社では当時、ツイッターで社員同士が連絡を取り合っていたため、業務上、燃え殻も始めたのだった。それとは別に自分でも呟いてみると、知り合いの輪が広がっていった。 (文中敬称略)(文・西所正道) 会社は休職のまま。「会社の関口や松山や田村、みんないい奴らなんです。お互い良いことも悪いこともわかってる。その人間関係を大事にしたいから辞めたくない」(写真:今村拓馬)   ※記事の続きはAERA 2024年7月29日号でご覧いただけます
現代の肖像燃え殻
AERA 2024/07/26 18:00
正社員と同じ仕事で給料安い、時給上がっても10円 企業の“調整弁”にされる非正規雇用
正社員と同じ仕事で給料安い、時給上がっても10円 企業の“調整弁”にされる非正規雇用
  生活スタイルに合わせて働くことができるなど、非正規雇用にもメリットはある。だが、正社員と同じように働いてもボーナスはなく、福利厚生も不十分だ(写真:写真映像部)   生活スタイルに合わせて働けるメリットもある非正規雇用。だが、雇用期間や収入に不安を抱える人も多い。アンケートに寄せられたデメリットとは。AERA 2024年7月29日号より。 *  *  * 「収入が低い」「福利厚生の面で正規に劣る」「ボーナスや退職金がない」「雇用が安定しない」──。  6月、AERAが実施したアンケートに寄せられた非正規雇用のデメリットだ。  非正規雇用にはパートやアルバイト、契約社員や研究者が含まれる。2013年に改正された労働契約法では、契約期間に定めがある労働者の雇用契約が反復更新されて通算5年(研究者は14年から特例で10年)を超えたときは、労働者が申し込めば無期雇用に転換できる。しかし、契約を更新しない「雇い止め」をめぐって裁判も起きている。  経済状況や企業などの業績が悪化しても雇用を継続しなければいけない正社員の採用に企業が慎重になる中、非正規雇用が都合の良い“調整弁”にされる状況が続いている。  デメリットがより強調されるのが、仕事の内容が正社員と同じ場合だ。  行政機関で会計年度任用職員として働く神奈川県に住む女性(53)は、こう話す。 「身分の安定や収入面で、正規職員とはあらがいがたい差がある。『私の方が仕事をしているのだから査定してほしい』と思うことがあります」  女性が大学を卒業して最初に勤めたのは出版社だった。長男を出産後、1年間の育休をとって復職したものの、夫の働き方は変わらず、家事と育児は女性がほぼ一人で担うことになった。  仕事と家庭の両立の難しさについて、職場で相談できる雰囲気はなく、会社を辞めてフリーランスで編集者として働くことにした。「子どもと一緒にいられていいね」と言われることもあったが、日中に別の用事を済ませる代わりに夜中まで仕事をすることも。時間の融通が利く代わりに、仕事時間の区切りがつけにくかった。編集の仕事はやり切ったとの思いもあり、3年前、関心があった現在の仕事に就いたという。 AERA 2024年7月29日号より   時給上がっても10円  勤務は月に16日間。プライベートな時間があることに満足しつつ、「正規になれるなら正規の方が良い」との思いもあるという。  大阪府に住む女性(57)は高校卒業後に4年近く正社員として働いた後、12年ほど派遣社員として勤務。「短期も長期も、数えきれないくらいの会社で働いた」と話す。  今は、かつて派遣社員として働いていた外資系メーカーの正社員だ。仕事ぶりを評価されて声をかけてもらったという。 「派遣社員のときは正社員と同じ仕事をしていても給料が違うし、時給が上がっても10円程度。契約期間が決まっているので不安定で怖かった」と振り返り、「正社員になれて本当に運が良かったです」と話す。 (フリーランス記者・山本奈朱香) ※AERA 2024年7月29日号より抜粋  
woman女性特集③
AERA 2024/07/26 10:30
コンビニやファミレスで相次ぐ「脱24時間営業」 働き手不足の時代、厳しい学生アルバイトの確保
渡辺豪 渡辺豪
コンビニやファミレスで相次ぐ「脱24時間営業」 働き手不足の時代、厳しい学生アルバイトの確保
(写真:Getty Images)    日本の働き手不足が危険水域に達している。地方だけでなく、都心の生活インフラにも影響が出始めている。もはや「働き手」欠乏症ともいえる状況に瀕している。特効薬はあるのだろうか。AERA 2024年7月29日号より。 *  *  *  10月から24時間営業をやめる予定という首都圏の50代のコンビニオーナーに話を聞いた。アルバイトの採用が難しくなる中、勤務経験の長い社員待遇の店員の離職を防ぐのが狙いだという。 「24時間営業で得られる利益を失っても、社員の働き方を見直し、働き手を安定的に確保することを優先させたほうが、結果的に長く経営を持続できると判断しました」(オーナー)  特に厳しいのは、週末や夜勤の担い手になる学生アルバイトの確保。そもそも応募に来る学生が少ない。面接に来ても「土日は休みたい」と勤務条件を逆提示される。採用してもすぐにやめてしまう。 「人と接するのが苦手というか……。レジなどでお客様からちょっと強めに何か言われると、すぐにやめてしまいます。コロナ禍で中学時代をマスクで過ごした子たちが、高校に入ってアルバイトで接客しようとしてもかなり厳しい気がします」(同)  店舗で雇用している4人の社員は20~30代。10月以降は午前5時~午後11時の営業にシフトする。 「この営業時間であれば社員が夜勤に入らなくて済みます。社員にはコンビニで働きながら、結婚も子育てもできる、と思ってもらいたい。それには1日8時間を超える時間外労働を減らして有給休暇もとれる態勢にしたい、と思ったのが時短営業に踏み切る理由です」(同)  数時間の勤務に入ってもらうスポットワーカーの募集も試みたが、人材の当たりはずれの幅が大きく、当日数時間前にキャンセルする人もいるなど、安心して任せるにはほど遠いのを実感した。チェーン本部も表向きは時短営業には柔軟に応じる姿勢を見せるが、本音では24時間営業を続けさせたい意向がにじむという。「24時間営業をやめるとこれだけ利益が減ります」と本部が提示したデータには、時短分の人件費削減が反映されていなかった。「このデータはおかしい」と指摘すると、バツが悪そうに引っ込めた。時短営業を思いとどまらせるため、作為的なデータを提示したとしか受け取れなかった、とオーナーは憤慨する。 (写真:Getty Images)   「呆れてしまい、まだこんなことするんですか、と少し声を荒らげてしまいました」 「年中無休」「24時間営業」で家族を縛るコンビニ経営は時代錯誤だとオーナーは訴える。 「コンビニのフランチャイズシステムは家族経営で支えられてきました。この仕組みができたのは専業主婦が当たり前だった昭和の時代で、オーナーの妻の労働力は無償提供を前提にしています。オーナー夫婦のいずれかは他の仕事に就くべきです。そのほうが家計も潤います」 人手不足倒産が増加  コンビニオーナーの高齢化も進む。近隣店舗の60歳を過ぎたオーナーが深夜勤務中に脳出血で倒れた。同じことが、いつどこのコンビニ店舗で起きてもおかしくはない、とオーナーは考えている。  日常の便利さを支えるだけでなく、災害時の「指定公共機関」でもあるコンビニはもはや社会に不可欠な公共財だ。一方で、「年中無休」「24時間営業」の経営スタイルは構造的な働き手不足の時代に持続可能なビジネスモデルといえるのか。  コンビニ経営に詳しい武蔵大学の土屋直樹教授は24時間営業をしない店舗が増えている背景には、働き手不足と採算性の問題があると指摘する。 「コンビニの業務は複雑化していますが、最低賃金ぎりぎりの時給で、接客のストレスもあるコンビニの仕事は敬遠されがちです。オーナーにとっては時短営業で人件費を圧縮し、利益率の低い時間帯は店を閉めることが経営効率アップにつながります」  日本では今、ほとんどの産業で働き手不足が顕在化しつつある。帝国データバンクが5月に発表した、24年度の業績見通しに関する調査では、業績の下振れ要因として「人手不足の深刻化」を挙げる企業の割合がトップ。実際、従業員の退職や採用難、人件費高騰などを原因とする「人手不足倒産」は23年度が過去最多の313件と前年度から倍増。24年上半期(1~6月)も182件発生し、過去最多を大幅に上回るペースで推移している。  今回アエラが実施したアンケートでも、さまざまな職場から悲鳴のような声が寄せられた。中でも看過できないのは、公的機関で働く人たちが機能不全寸前だと訴える現実だ。 (写真:Getty Images)   「小学校の現場で教職員の人数が必要最低限しかいない」と嘆くのは東京都の男性教諭(43)。複数の職員が超過勤務で切り盛りしているが、「仕事を何とかこなすだけの無機質な職場になってしまう」と胸を痛める。「仕事の量に対して絶対的に人数が足りない」と訴える埼玉県の公務員の男性(45)は現場対応から管理職の業務まで一人で当たっているという。愛知県の保育士の女性(51)は「人手不足で職場がギスギスしている」と感じ、そのしわ寄せで子どもの命にかかわる保育事故が起きないかと懸念を深めている。栃木県の相談業務の女性(52)も「働いているみんなに余裕がなく、休みが取りづらい」と吐露。互いに面談し、つらさを吐き出し合うことで何とか業務を維持しているという。  一方、コロナ禍で大きな打撃を受けた飲食業界では、人口減少や働き手不足などを見据えた変化も起きている。 ファミレスも22時閉店  週末の午後9時。東京・渋谷の道玄坂はすれ違う人の肩と肩が触れ合うほどの混雑だった。この坂沿いにある全国チェーンのファミリーレストランに入店しようとすると、店員がちょうど入り口に「CLOSE」の立て札を掲示するところだった。ラストオーダーは午後9時だが、ドリンクコーナーのみの利用なら、と何とか入店させてもらった。  午後10時の閉店10分前から店内にBGMが流れる。音量が徐々に上がるが、席を立つ客はまばら。座席の半分の40人ぐらいはまだ店内にいる。閉店5分前で、まだドリンクコーナーで飲み物をおかわりする人もいた。変化が起きたのは閉店2分前。「閉店の時間がまいりました」というアナウンスとともに、ドビュッシーの「月の光」が流れる。すると、席を立つ客が相次ぎ、あっという間にレジ前に行列ができた。ただ、ほとんどがキャッシュレスで支払うこともあり、レジはスムーズに進み、10分後には店内に一人も客は残っていなかった。閉店の1時間前にオーダーストップした厨房では、店員が片づけをほぼ終えた様子で談笑していた。 AERA 2024年7月29日号より    ファミリーレストランと言えば、かつては24時間営業の代名詞のような存在だった。それで思わず、出口付近にいた大学生の男女のグループに「ファミレスが午後10時に閉店するのって早いと思いませんか?」と尋ねてみた。1人は「渋谷にしては早いかな」と反応したが、他のメンバーからは「でも居酒屋じゃないから」「ファミレスだから仕方がない」といった意見が続いた。驚いた。それでつい、50代の筆者はこのファミリーレストランがもともと24時間営業だったことを伝え、「かつてのファミレスは終電に乗り遅れた時に始発までドリンクバーで粘れるところ、というイメージだった」とこぼすと、一斉に「えーそれ知らなかった」「ファミレスにそれ(24時間営業)を求めていなかった」と逆に驚かれてしまった。  ライフスタイルや価値観の変化とともに、企業のサービスに対する消費者の意識も着実に変化している。 消費者ニーズとも合致  リクルートワークスが22年に20~60代を対象に実施した「企業のサービス」に対する考え方の調査結果が興味深い。料理の味が十分おいしい前提で、飲食店の具体的なサービス内容の事例を挙げ、それによって次回の来店をやめることにつながるかを問う調査だ。  その結果、「飲み水やお茶、飲み物はセルフサービス」で90.3%、「配膳はロボットやベルトコンベアなどのシステム」で85.3%、「注文はオンライン」で75.3%、「店員の『おもてなし』はなし(気遣いなし、愛想なし)」で53.4%が、それぞれ「来店をやめることにつながらない」や「気にならない」「むしろそのシステムの方が良い」と肯定的な回答をした。  また、コンビニの営業時間について「24時間営業である必要があると思いますか」との質問に、「必要ない」が7割近くに上った。24時間営業が必要ではないと回答した人が希望する開店時間の1位は「午前6時」(36.2%)。午前5~7時で全体の8割強を占めた。希望する閉店時間の1位は「24時」(33.6%)で、22~24時が全体の8割近くだった。  コンビニやファミレスの「脱24時間営業」の動きは、働き手のみならず、消費者のニーズや意識とも合致している可能性がある。構造的な働き手不足と、企業サービスの過剰感や公的機関の過重負担をどう捉え、持続可能な形にバランスを図っていくか。これからの日本社会を考える上で不可避の課題の一つといえそうだ。(編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月29日号より抜粋  
働き手が足りない
AERA 2024/07/26 10:30
森山未來が“37歳の化け猫”に挑んだら 「端に連れ込んでジャンプキック」「動ける瞬間は探していた」
森山未來が“37歳の化け猫”に挑んだら 「端に連れ込んでジャンプキック」「動ける瞬間は探していた」
ダンサーとして俳優として活躍する森山未來さん(撮影/写真映像部 佐藤創紀 ヘアメイク/須賀元子 スタイリング/杉山まゆみ )  5歳からさまざまなダンスを学んできた。15歳で本格的に舞台デビューし、2013年には文化庁文化交流使として1年間イスラエルに滞在する。ダンサーとして、俳優として存在感を示す。 *  *  * ダンサーとして、俳優として ――「モテキ」や「怒り」「アンダードッグ」「世界の中心で、愛をさけぶ」…。どんな作品でどんな役を演じても、森山未來には強い「存在感」がある。ダンサーとして、俳優として、表現者としての道のりをこう振り返る。 森山未來(以下、森山):5歳からダンスを、11歳から芝居を始めました。 ダンスと芝居、どちらも続けていく中で、お互いにさまざまなフィードバックを与え合っている実感がありました。そして10代後半から20代中盤まで、幸運にもドラマや映画の仕事が増えていきます。 今の身体でやれる表現がある ──「苦役列車」の撮影にあたり三畳一間風呂無しのアパートに住んだり、「怒り」のクランクイン前に無人島で生活する等、演じる役の環境に身を投じる役作りをしていた時期があった。 森山:役者は、たとえばボクサーのように毎日体を鍛えている人を演じることもあれば、体をずっと動かさずにどんどん下へ降りていくような人物を演じることもあり、何かのネジが飛んでしまったような人殺しを演じることもあります。  脚本や監督の思想に則って演技し、演じる対象に体をどんどん近づけようとします。やろうと思えばどこまでも近づくことはできて、それがボクサー役ならいいかもしれませんが、それがもし浮浪者役なら体はどんどん使いものにならなくなっていきます。  一方でダンサーは、どんなにやさぐれていようと最終的にはヘルシーな体を担保していなければいけない。  芝居をする時間が長くなるにつれて、日常的に触れていたダンスから遠ざかっていくことになり、「自分の身体をどう見つめたらいいか」に悩みました。そんな中、「コンテンポラリー」という概念に出会い、今ある身体でやれる表現があるということに気付いた。20代中盤から自分の身体表現を見つめ直し始めました。 しなやかなポージング、どことなく猫っぽい?(撮影/写真映像部・佐藤創紀 ヘアメイク/須賀元子 スタイリング/杉山まゆみ )   首から上の表現が消える  29歳で一年間イスラエルにダンス留学をした経験をはじめ、様々な国でいろいろなパフォーマンスを見たり、クリエイションをする中で、日本のダンサーは欧米のダンサーと比べて首から上の表現が消えることが多いことに気付きました。  自分の性格や個性を首から上に置かないのは能や狂言とつながってくる。日本において「舞う」という行為は、何かが降りてくる土着的な概念の影響が大きいと思っていますが、それによって、日本のダンサーは顔の表現が無自覚的に薄いのだと思っています。  一方、実存主義的な西洋文化の舞台の上に立つパフォーマーは、意識的か無自覚かはわかりませんが、役者にしてもダンサーにしても、その人がそのままそこに立っている感覚がある。  その気づきによって、演じる対象に「それまでのような入り込み方をしなくても、できる表現があるのかもしれない」と思うようになりました。今は自分自身のままでいることも大切にするようになりました。 その場の音像の生々しさ ――第77回カンヌ国際映画祭「監督週間」に日本の長編アニメーションとして6年ぶりに選出された「化け猫あんずちゃん」では、主人公の化け猫あんずちゃんを演じた。「ロトスコープ」とは、実写で撮影した映像からトレースし、アニメーションにする手法だ。映画はこの「ロトスコープ」を駆使して作られた。 森山:もちろん、それぞれの役者さんの身体の動きの艶めかしさ、生々しさというのは感じました。が、今回、一番印象的だったのは、実は「音」です。アフレコもしたんですが、ノイズや環境音も含めて、基本的に実写で録ったそのときの音をそのまま使っているシーンが多くなったようです。視覚的にはアニメーションなのに、距離感が狂うというか、その場の音像の生々しさがすごくおもしろかった。  表情はそんなに動かしていなかったと思うんですが、僕の表情に合わせてあんずちゃんの髯(ひげ)が動いたり耳が動いたりというのを見て、ロトスコープのうまみみたいなものを感じましたね。 森山未來さん(撮影/写真映像部 佐藤創紀  ヘアメイク/須賀元子 スタイリング/杉山まゆみ ) 猫はぼーっとしてると思ったら急に ――主人公である37歳の化け猫、あんずちゃんを演じた。どのような身体表現をしたのだろうか。 森山:朴訥と立っているほうが原作漫画のイメージには合うかなと思ったので、あまり動かないようにした時間が多かった気はします。ただ、動ける瞬間を探してはいました。  たとえば、あんずちゃんがかりんちゃん(五藤希愛)と一緒に東京に出てきた時。よっちゃん(佐藤宏)に取りついた貧乏神(水澤紳吾)を見つけて追い払うんだけど、次にかりんちゃんに憑(つ)こうとすると、一度端に連れ込んで、ジャンプキックして弾いたんだっけかな。相手が水澤さんだからそうしたくなっただけかもしれませんが(笑)、猫はぼーっとしていると思ったら、急に動き出す時があるでしょう。自転車を盗まれた後にふすまを包丁で刺して走り回るシーンは、深夜、猫が突然家の中を走りまわるのをイメージしたし、猫ならではの俊敏性は意識しました。 ――「声の演技」で心がけたことはあるのだろうか。 森山:声は声帯の振動という意味では身体的で、テンポ感や高低差の出し方における技術は確かにあると思っています。今回、やっていることは本当に実写だったので、特別な意識はしていませんが、声のプロフェッショナルの声優さんではなく、僕にオファーをいただくということは、既存の声優さんが持っている技術とは違う、ある種ずらした声の表現を求められているということ。そう捉えて臨みました。 表現し続けることが最重要 ――国内外でダンサーとして活躍する一方で、映像作品の監督や振り付け、演出を務めることもある。ボーダーレスな活動を続けている。 森山:自分の活動に線引きをしていないんだと思います。目の前の人が僕について何か特定の肩書きを想像するならそれでいいし、僕自身、「役者だから」とか、「ダンサーだから」という感覚は基本的にはないです。自分の興味のあることを面白がってやっていけたらいいと思っています。これはたくさんの出会いや環境によって自然とそういう考え方になっていったのかもしれませんし、もしかしたら先天的、遺伝的なものもあるのかもしれません  能や落語のように60〜70代にならないとどんな表現者か評価できないという世界もあれば、30代半ばには引退を考えるアスリートの世界もある。舞踏家には104歳まで活動した人もいます。その時々でできることとできないことは変化していきますが、常にその時やれる最大限を考えていけばいい。自分にとって最重要なのはパフォーマーであり続けること、表現をし続けることです。 (構成/ライター・小松香里)  
dot. 2024/07/22 10:30
年間300~400冊も夢じゃない 読書の達人が教える「忙しくても読書習慣を作る」方法
年間300~400冊も夢じゃない 読書の達人が教える「忙しくても読書習慣を作る」方法
ちょっとした空き時間に細切れでも読書をすることが大切(写真/iStock / Getty Images Plus)    社会人になってから、なかなか本を読めないという人も少なくないだろう。仕事が忙しいから、仕事のための読書が優先になるから。いろいろ理由はあるが、忙しくても読んでいる人はいる。どうすればいいのか。AERA 2024年7月22日号より。 *  *  *  弁護士の伊東良徳さん(64)が2002年から自身で付けてきた記録によると、これまで読んできた本は4602冊。06年からは毎年300冊の読書を目指して読書日記も公開するようになった。ちなみに初めて日記に記録した本は梅棹忠夫著『知的生産の技術』。学生の時に読んだものを再読したものだった。 空き時間に細切れ読書  そんな伊東さんは、ちょっとした空き時間に細切れで読書をすることが多い。通勤時間や裁判所への移動時間など、普通ならスマホを開いて見てしまうような数分程度の時間にも、本を開いて読むようにしている。例えば1駅なら、平均して本の2ページは読める。読みやすい新書などなら、2日の通勤で、1冊読むことも可能だ。 「毎日決まった読書の時間を作って読む方法もありますが、たとえ1時間でも、読書の時間を取るのは、誰にとっても簡単なことではありません。仕事場で時間ができたら仕事をしますし。帰宅後に読書の時間を作るのは、続きが読みたいなどよっぽどおもしろい本でないとむずかしいですよね」  伊東さんの読書術は、レベル別にいくつかある。まず年間100冊読破を目指すレベルの場合は、この細切れの読書でも実現可能。ポケットやショルダーバッグに、いつでもさっと本が片手で取り出せるようにしておくのもポイントだ。 「どんな本を読むかも重要です。カッコいい本や理解するのにハードルが高い本は挫折しやすい。つぎの空き時間に続きを読むのが楽しみになるようなおもしろい本を選ぶのが、読書を続けるコツですね」 数冊ごとに別ジャンル  コストを気にせずにおもしろい本に出合うために、図書館を利用するのがいいと伊東さんは言う。返却期限があるのも、デメリットではなくメリット。この期限が“いい意味”のプレッシャーになって、読書数を増やすのに役だってくれるという。  こうして年間100冊近い本が読めるようになったら、200冊を目標にするつぎのレベルへ。読む習慣がついたことを武器に、少しハードルの高いむずかしい本に手を出してみるのもいいという。ただしこのレベルになると、ちょっとした空き時間の読書だけでは、目標に近づくことができない。そこで……。 「平日の夜の1時間、読書のための時間を作ることにチャレンジしてみる。そんな夜の読書習慣のために早道となるのが、とにかく先が読みたい!と思える本を見つけることですね」  通勤中の読書で「続きは次の朝まで待てない」と思えるようになればこちらのもの。帰宅後の読書習慣が作れる可能性が高くなる。さらにその習慣を強固にするのが、もうひとつのプレッシャー、読書日記を公開するなど、アウトプットの習慣だ。日記を書くのが苦痛になったら、読んだ本の目録だけでも付けておけばOK。モチベーションになって、年間200~300冊レベルにも到達しやすくなる。  さらにそれ以上のレベルを目指すなら、「最後は週末の夜と休日も読書の時間に」。まるまる自分の読書時間にできる環境の人なら、年間300~400冊も夢じゃない。  こうして読みも読んだり、4千冊以上。娯楽小説を始め、ビジネス書、実用書など、同じジャンルを読み続けるより、数冊ごとに別のジャンルの本を読むのも有効だ。 「読書数を増やしていくと、この話、どこかで読んだぞと思うことも増えてくる。向こうから内容をプッシュしてくるイメージのスマホと違って、本は自分で選んだという意識が強い。自分で選んだほうが、頭に入ってきます。そうすると未体験の事態にも慌てずに対処しやすい」 本の余白にメモする  読書は名だたる偉人たちも育ててきた。例えばナポレオンは「細切れ読書派」。移動中の馬車の中でも本を読んで、つまらなかったり、読み終わると窓から投げ捨てていたそう。意外な愛読書は『若きウェルテルの悩み』。遠征などにも携帯して、何度も読み返したと伝えられる。  一方、「1時間集中読書型」は、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツだ。1時間を毎日読書のために用意して、この時間に150ページを読むことも。本の余白にメモを取ることは有名で、そのため世界一のテック企業の創始者でありながら、紙の本限定で読んでいると伝えられている。  投資の神様、ウォーレン・バフェットも「仕事時間の80%は、読書と思考に費やしている」と発言したこともある「就業時間活用派」として知られる。「1日千ページ読む」「1日5~6時間は読書に費やす」などの多読エピソードも多数ある。  最後にメタ(フェイスブック)のマーク・ザッカーバーグCEO。2週間に1冊ペースのスロー読書で知られ、その代わり読書の内容を記録したり話したりすることで定着させる「アウトプットタイプ」。以前はフェイスブック内で「A Year of Books」という読書会を主宰していたことも。  みんな、どんなに偉くなってもやめる人がいないのが、読書のすごいところ。歴史上一番の至福の時間は、世界中の人のポケットの中にあるらしい。(ライター・福光恵) ※AERA 2024年7月22日号より抜粋  
AERA 2024/07/22 07:00
認知症の父が拒否「ダメだ! オレのお金じゃなくなる!」  娘が気づいた最初の「異変」とは
認知症の父が拒否「ダメだ! オレのお金じゃなくなる!」  娘が気づいた最初の「異変」とは
離れて暮らす娘が気付いた父の最初の異変とは…『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から  イラストレーターでエッセイストの上大岡トメさんは、3年ほど前、両親が相次いで認知症を発症。遠距離での認知症介護の怒濤の日々や不安について、自身の体験をもとに本にまとめました。両親の異変に気づいたきっかけは何だったのでしょうか。 *   *   * 父からのトンチンカンな電話 ――トメさんは神奈川県の出身ですが、ご結婚してからは山口県に住んでいます。離れて暮らす両親の異変に気づいたのは、どんなことがきっかけでしたか? トメ 父にはパーキンソン病、母には脊柱管狭窄症があって、数年前から要支援1の介護認定は受けていました。でも2人は介護保険に頼らず、自立して暮らしていました。  ところが2021年3月、電話での父の話に「?????」と感じることが増えたんです。  たとえば、父は毎週スーパーにオンラインで注文を入れていたのですが、父の体調が悪いときに私が代わりにネットで注文してあげたんです。そしたら数日後、父が電話で「スーパーから連絡がきて、本人以外が注文しちゃいけないと言われた」と言うんですよ。  そんなこと、あるはずないのに……と思ってスーパーに問い合わせると、父に電話した記録はないって。 「もしや、父の妄想?」と、サーッと血の気が引きました。  そのころから、父の電話の様子がおかしくなったんです。普通に会話していたはずなのに、途中で突然別の話題になってしまう。母も「お父さん、ちょっとおかしいよね」って。 「これは(認知症が)きたな……」と思い始めました。   『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から ――お父さまは認知症の検査を受けたんですか? トメ はい。でも、ストレートに「病院で検査を受けよう」と言うと嫌がられると思ったので、父が定期的に通っている脳神経外科に事前に電話でお願いして、受診のときに先生から「ついでに検査しましょう」と言っていただきました。  結果は、アルツハイマー型認知症でした。  まれにですけれど、認知症の原因に脳腫瘍など大きな病気が隠れていることもあるそうです。何か異変を感じたら、まずは親のかかりつけ医などに電話して相談するのがいいと思います。 「オレのお金じゃなくなる!」お金に固執し始める父 ――お父さまの行動で困ったことなどはありましたか? トメ 父は穏やかな人なのですが、ものすごく「お金」に固執するようになりました。私が家に必要なものを買ってきても、「勝手にお金を使わないで」と怒ったり、「お金は足りるのか」と不安に駆られたり。  一番困ったのは、銀行の定期預金を普通預金に移そうとしたときのことです。  もし、両親が施設に入ることになれば、まとまったお金が必要になることもあります。両親の預貯金をすぐに引き出せる形にしたかったのです。  ところが、父は「オレのお金じゃなくなる!」と思い込んで、断固拒否。  私が「お金を移すだけだよ、お父さんのお金のままだよ」と何度も何度も説明して、やっと理解してもらって、私が代理で銀行に手続きに行き、銀行が父の同意を得るために電話をすると、「ダメだ! オレのお金じゃなくなる!」って。結局、ふりだしに戻るんです(笑)。 ――認知症と診断されると銀行口座が凍結されるとも聞きますよね。 トメ 2021年に、本人のための限定的な支払いに限り、家族がお金を引き出すことを認められるようになったんです。でもその対応も銀行によって違いがあるなぁと感じました。  母も認知症になってから定期預金を解約したのですが、お金については理解力が高くて、解約もスムーズでした。そのとき、銀行の方に父の事情を説明すると「お父さまの手続きもいっしょに進めます」と言っていただけて、とても助かりました。   『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から  銀行といえども、結局は「人」対「人」だと思います。親のお金を親のために使おうと思っていること、認知症のせいでそれができなくなって困っていることを誠実に伝えました。それで何とかなる場合もあるし、ならない場合もありますが、銀行員さんという生身の人間に訴えることが大事だと思います。 料理も着替えもできなくなった母 ――お母さまも認知症を発症したんですね。 トメ 父の認知症がわかって半年ほどしたころ、母が体調を崩してベッドから起き上がれなくなりました。そのとたん、認知機能がカタカタと落ちていきました。  母はとても料理が上手な人だったんですが、手順がわからなくなり、作る気力もなくなってしまった。さらに、人の顔もわからない、着替えもできないという状態になりました。あっという間に父を追い越してしまい、そのぶん父が少しシャキッとしましたね(笑)。 『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から ――ご両親が2人とも認知症になってしまったんですね。ご両親は2人暮らしでしたよね。 トメ はい。しかも私は山口県、姉は関西在住なので、頻繁に様子を見ることができません。母は要介護2になったので、大急ぎで介護態勢を整えたんです。  家に介護ベッドを入れ、手すりをレンタルし、1日2回×週5日、ヘルパーさんに来てもらいました。訪問医療も入れて、週1回訪問看護師さんもお願いしました。そのほか、毎日の夕飯は配食サービスを利用してお弁当を届けてもらいました。土日は私か姉が交代で帰省する、という感じです。     『マンガで解決 親の認知症とお金が不安です』(上大岡トメ/主婦の友社)から   ――そんな介護態勢を整えるだけでも大変そうです。 トメ そうなんです。私が「主たる介護者」になったので、毎日のようにケアマネジャーさんと電話で打ち合わせ。書かなくちゃいけない書類も大量ですし、何かあると問い合わせは全部私のところに来る、という状態でした。 認知症2人の生活は「いつ何があっても不思議はない」。最終的な結論は  しかも母は、骨盤内臓器脱という病気になってしまい、そのせいで排泄コントロールもできなくなって、ほぼ寝たきり。父もパーキンソン病の影響で意識を失うこともあったんです。  私も姉も仕事があるので、帰省できるのは週末だけ。平日の夜は2人だけです。具合が悪くなっても、認知症の両親は救急車を呼ぶことも、誰かに電話して助けを呼ぶこともできません。姉と「朝ヘルパーさんが来たときに、どちらかが冷たくなっているかもしれない。その覚悟はしておこう」と話していました。  施設の入居も、もちろん考えていました。ただ母は医療を必要とする状態だったので、治ってからでないと入居できなかったんです。それで臓器脱の手術をして、落ち着いてから施設の入居を進めました。正直、母の手術が決まって入院したときには安心しました。 ――その後、ご両親は2人で施設に入居されたのですね。 トメ はい。父の認知症がわかってから1年6カ月後です。それまでは本当に怒濤の日々でした。入居して半年後に父は肺炎で亡くなり、現在は母が1人で施設に暮らしています。 【後編へ続く】 認知症の親に「訂正するのが優しさ」は勘違い 「ハッピーな最期を迎えるために」娘が選んだ言葉 https://dot.asahi.com/articles/-/228011 上大岡トメ/東京都生まれ、神奈川県横浜市育ち。現在は山口県在住。世の中の難しいことを、わかりやすいマンガとイラストで描く。著書『キッパリ! たった5分間で自分を変える方法』は130万部超のミリオンセラーに。親の介護を本格的に始まる前の時期を描いた『マンガで解決 親の介護とお金が不安です』(主婦の友社)も好評発売中。
認知症介護
dot. 2024/07/17 16:00
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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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