上田耕司
元おニャン子・渡辺美奈代が明かすアイドル時代 「スキャンダルで追いかけられたのは1度だけ」〈中居正広の金スマSPきょう出演〉
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)
4日放送の「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」(TBS・金曜午後8時55分)は、「競争社会を生き抜いてきたアイドルに学ぶSP」と題し、昭和、平成、令和の歴代アイドルが集結する。渡辺美奈代、山瀬まみ、保田圭、矢口真里、藤本美貴、柏木由紀、松井珠理奈、朝日奈央、中村海人(Travis Japan)、松田元太(Travis Japan)が出演。ゲストのひとり渡辺美奈代の過去の人気記事を振り返る(「AERA dot.」2023年6月22日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時)。
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政治からバラエティー番組まで多岐にわたる活躍で、元おニャン子クラブのメンバーに再びスポットライトが当たる機会が増えている。会員番号29番だった渡辺美奈代(53)は、歌手、女優を続ける一方、YouTuberや実業家としても活躍しているが、その美貌は今も健在。SNSに写真をアップすると、若々しさを称賛するコメントが集まる。そんな渡辺がAERA dot.の取材に応じ、16歳で受けたオーディションから結婚、子育て、そして現在の生活に至るまでたっぷりと語った。
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「あーかわいい」
「最高です! めちゃめちゃすてきです」
カメラマンがシャッターを切りながら盛り上がると、渡辺もノリにノッて、次々にポーズを変えていく。ポニーテールの髪を揺らしてクルクルと変わる表情は、アイドル時代をほうふつとさせる。
「(17歳の)デビュー時もポニーテールだったんですよ。きょうのワンピースはちょっとシースルーが入っていて肌が透けていますが、どうぞ見てください(笑)」
そう言いながら、渡辺は屈託なく笑う。記者が「ポニーテールは好きな髪形です」と答えると、気さくに「あら、じゃあ、今日はヒットじゃないですか」と愛嬌(あいきょう)もたっぷりだ。
「おニャン子クラブ」は、1985年4月1日から放送を開始したバラエティー番組「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)で誕生した。同番組は月曜から金曜まで午後5時から放送され、日本中の視聴者をくぎ付けにした。渡辺は当時をこう振り返る。
「『夕ニャン』が始まる前、私は実家の愛知県に住む普通の中学生でした。中学を卒業して高校へ入るまでの春休み中に、新聞の片隅に『タレント養成所の募集』の広告を見つけたので、それに応募してみたのがきっかけです。その後、社長さんから直接電話を頂いたのですが、実はもう応募期限が過ぎていたんです。だけど、社長さんから『東京の事務所やレコード会社にあいさつ回りに行くので、一緒に行きませんか』というお誘いをもらって、受けてみようと思ったんです」
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)
渡辺は、社長について東京へ行くことを決意したという。
「あいさつ回りがひと通り終わった後、帰り際にソニーのスカウトの方とお会いしました。すると次の日、ソニーの方から『おニャン子のオーディションがあるんですが、受けてみませんか』というお話を頂いたんです。せっかくなのでチャレンジのつもりで受けたら、それからは本当にあれよあれよという感じで話が進んでいきました」
当時、渡辺はまだ高校1年生。地元の愛知と東京を何度か往復し、翌年春から堀越学園高校に1年生として転入した。つまり、高校1年を2度繰り返すことになったのだ。
「愛知県の高校では学校やスクールバスのポスターのモデルをやっていたんです。そのため急に辞めることはできず、地元の高校を自主退学し、堀越高校に1年から入ったという経緯なんです」
おニャン子クラブは85年7月にデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」を発売すると、たちまち大ヒットして、社会現象となった。渡辺がおニャン子の一員になったのは、同年11月頃。追加メンバーの1人だった。
住まいはソニーの社員寮に引っ越した。やはり、ソニーにスカウトされた国生さゆり、河合その子らも入れ代わり立ち代わり、同じ寮に入ったという。
「すごくきれいな寮でした。6畳のワンルームのお部屋だったかな。城之内早苗ちゃんが先に寮に入っていたのは覚えています。お風呂は、とても大きな共同風呂でね。冷蔵庫に入っているドリンクには寮生の名前が書かれていて、寮母さんが常に私の名前の書いたドリンクを2本入れておいてくれた。寮母さんは御夫婦で住んでいたんですが、寮を出てからも、しばらく年賀状のやりとりをしていました。すごくかわいがって頂いたことを今でも覚えています」
渡辺が寮にいたのは1~2カ月間だったという。事務所が用意したマンションが決まると寮を出た。
「昔の芸能界では、未成年のタレントは事務所の社長さんのご自宅に住むというのが普通でした。社長が親代わりだったんですね。でも、私の場合は東京には親戚がおらず、まだ16歳だったということもあって、4つ上の姉が親代わりということで、姉と2人で住むことになりました。そのマンションは2LDKくらいで、フジテレビのプロデューサーさんのご両親がオーナーでした」
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)
それからは、仕事漬けの毎日だったという。
「東京の空をゆっくり見上げる時間もなかったですね。本当に仕事ばっかりしていました」
プライベートでは、おニャン子の会員番号19番で「ゆうゆ」の愛称で親しまれた岩井由紀子と仲良しだった。
「年齢はゆうゆの方が1つ上。おニャン子に加入した時期もわりと近かったので、地方のツアーで泊まりになると、ホテルの部屋はいつも2人一緒でしたね。松田聖子さんの話をしたり、2人ともまだ高校生だったので、ベッドの上で一緒に宿題をしたりしたのを覚えています」
岩井は高井麻巳子と85年9月にアイドルユニット「うしろゆびさされ組」を結成。渡辺が加入する前に既に売れっ子だった。ただ、ソロデビューしたのは渡辺の方が8カ月ほど早い。渡辺はおニャン子在籍中の86年7月、「瞳に約束」でソロデビュー。このデビュー曲から5曲連続で、オリコンシングルヒットチャート1位を記録した。驚異的な記録だった。
「ありがたいことですね。それは私の力ではなく、ファンのみなさんの力だと思います」
おニャン子の曲の作詞は秋元康氏、作曲は後藤次利氏が手掛けることが多かった。
「秋元さんはおニャン子の生みの親ですが、たまにコンサートやレコーディングに顔を出すくらいでした。レコーディングの時は、次から次へと変更になる歌詞がファクスで流れてきていましたね」
後藤次利氏とはスタジオでいつも顔を合わせていたという。
「後藤さんは、レコーディングの時、必ずといっていいほどスタジオに来てくれて、私の隣でハモってくれることもありました」
おニャン子は87年に解散。それからの渡辺は一時期、女優としての活動が目立つようになる。
ドラマでは片岡鶴太郎とドラマ「季節はずれの海岸物語」(フジテレビ系)で共演した。
「年1~2本くらい放送されて、4年くらい共演しましたね。片岡さんは、私の子どものころはマッチさん(近藤真彦)などのモノマネでブレイクしていましたけど、共演したころはすてきでダンディーな男性に変わっていました」
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)
一方、バラエティー番組では志村けんとの共演が多かった。
「ドリフターズの番組や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』『志村けんのバカ殿様』『志村けんはいかがでしょう』などに出させていただきました。『バカ殿』には数年間、腰元として出ていました。カツラと着物を一日中、つけっぱなしだったのはちょっとつらかったですね」
アイドル時代の渡辺は、マスコミに追いかけられるようなスキャンダルはなかったような気がするが、それを伝えると、渡辺はこう話した。
「スキャンダルで追っかけられたのは夫との結婚が決まる前、1回だけです。私はスタッフの方にも恵まれていたので、本当に守られていたと思います。お酒が飲めないし、酔っている人がちょっと苦手だったので、夜遊びするところには本当に行ったことがなかったんですよ」
そもそも、自由な恋愛はできない状態だったという。たとえば歌番組の「ザ・ベストテン」(TBS系)や「歌のトップテン」(日本テレビ系)に出演する際は歌手たちはひな壇に座るが、そこで他の歌手と話すこともままならなかった。
「私がひな壇に座っていて、ちょっとでも隣の誰かとしゃべっていると、事務所の社長からチェックが入って、『次からは座席交換してもらえ』という指示が出ていました。だから、お隣の方は常に変わっていました。美容院へ行くときも、スーパーへ行くときも、常にマネジャーがついてきました。だから、お財布を持ったこともありませんでした。マネジャーは男性でしたが、お手洗いでも、女性トイレの前で待っていましたから。帰りは自宅の玄関先まで必ず送ってくれました。でも、私はそれが普通だと思っていたんです」
そんな鉄壁のガードの中、渡辺が夫と知り合ったのは21歳ごろ。当時、夫は歌手の郷ひろみの付き人をしていた。後編では結婚に至るまでのエピソードなどを明かす。
(AERA dot.編集部・上田耕司)
※【後編】<渡辺美奈代が今だから語れる結婚秘話 「1度だけ口頭で伝えた電話番号を夫が覚えていたんです」>に続く
dot.
2024/10/04 21:00