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子どもたちはなぜ「マイクラ」に夢中になるのか? マインクラフトの“プロ”が語る、教育効果と魅力とは
子どもたちはなぜ「マイクラ」に夢中になるのか? マインクラフトの“プロ”が語る、教育効果と魅力とは
“プロ”のマインクラフターのタツナミシュウイチさん(写真/高野楓菜)  子育て家庭の多くが「子どもがゲームにハマって困っている」という悩みを抱えていますが、教育現場ではゲームが活用されはじめています。その最前線で活躍しているのが、小学生に爆発的人気のゲーム「マインクラフト」のプロマインクラフター・タツナミシュウイチさんです。「マイクラおじさん」の愛称で親しまれるタツナミさんに、マイクラの教育効果とその魅力について話を聞きました。 マイクラの遊び方は「人それぞれ」 それが何よりの魅力   ――マインクラフトとはどのようなゲームですか? なぜ子どもたちはこれほどマイクラに夢中になっているのでしょうか?  マインクラフトはスウェーデン生まれのゲームで、全世界の累計販売数は3億を突破し、「世界で一番プレイヤーが多いゲーム」です。でも、なぜマイクラがこれほど人気なのかを説明するのはなかなか難しいなと感じています。  ゲームにはいろんなタイプがありますよね。異世界を冒険して、宝物を探したり誰かを助けたりするゲームは「ロールプレイングゲーム」、街の運営や乗り物の運転など、実世界でも行われることをデジタル空間で仮想体験するゲームは「シミュレーションゲーム」です。このような分類でいうと、マイクラは「サンドボックスゲーム」の一つです。   ――サンドボックスゲームとは、なんですか?  サンドボックスとは、砂場のこと。つまり、砂場のように好きに遊んでいいゲームなんです。山をつくってトンネルを掘ってもいいし、泥だんごづくりをしてもいい。もっと大規模で複雑な作品にチャレンジしてもいいし、その実況を動画にしてもいい。まるで砂場で遊ぶかのように自由に動き、創り、壊し、再設計するゲームで、遊び方は人それぞれ異なるんです。またオンラインで友達とつながって、一緒に建築や冒険を楽しめることも大きな魅力です。 ゲームというより「自分を発揮するプラットフォーム」   ――マイクラの全国大会として、毎年「Minecraftカップ(マイクラカップ)」がおこなわれていますよね。これはどのようなイベントでしょうか? 「教育版マインクラフト」でつくられた作品で内容を競い合う「マイクラカップ」は、今年で6年目を迎えました。ゲームで才能を発揮する子どもたちにスポットライトが当たる場は、実は日本ではまだ多くはありません。ゲームはスポーツと比べると地味で目立ちにくいミニマムな世界ですから。でも、マイクラは世界一プレイヤー数が多いですし、英語でコミュニケーションすることもあるので、やっていることはとてもグローバルなんです。  マイクラをやっていると世界共通のプログラミング言語も覚えるので、そういう点では、スポーツと変わらないくらい広いフィールドで、子どもたちの才能を発揮できる世界だと思っています。   ――マイクラによって才能を発揮する子どもが増えたのか、もともと才能がある子が表に出てきたのか、気になります。  昔からモノづくりが好きな子はたくさんいました。でも、そういう子どもたちが輝ける場所が少なかったんですね。スポーツも芸術も数学の世界も、優秀な子は世間から評価されますが、モノづくりが得意な子はただのオタクだと思われやすいので。私自身も子どもの頃からずっとモノづくりが趣味でしたけど、1人で楽しんでいるだけで、友だちも少ない青春時代でした(笑)   ――逆に、マイクラは世界中の人とつながれるので、自分がつくった世界を喜んでくれる人がいれば自信もついて、自己肯定感も高まりそうです。  それこそがマイクラの魅力です。建築でも冒険でも映像でも、自分が得意なことを自できて、つくった作品をすべて丸ごと受け入れてくれる。正解も失敗も順位付けもなく、唯一無二の存在として輝けるのがマイクラの世界なんです。ですから私はよく、マイクラはゲームではなく「自分を発揮するプラットフォーム」だと話しています。   ――マイクラでゼロから自分の世界をつくり上げるには、どんな力が必要なのでしょうか。  想像力、創造力、分析力、やり抜く力などさまざま力が必要ですね。自分の頭で考えて新しいモノを生み出す力は、どんな仕事でも求められる時代になっています。マイクラ好きの子どもたちは、将来、それで生計を立てられるような場所がたくさんあるでしょうね。日本はゲームに対して偏見を持っている大人が多いのですが、「マイクラカップ」がスタートした6年ほど前から、「この大会に参加する子どもたちは素晴らしい才能を持っている稀有な存在だよね」と、ようやく認識しはじめた大人が増えてきました。 マイクラで上を目指せる子は、自ら動き出す   ――「マイクラカップ」審査委員長のタツナミさんが、特に印象に残っている作品はありますか? 「Minecraftカップ2020全国大会」で、小学5年生にして大賞を受賞した浦添昴くんの「未来への5つの約束~キレイな水と渓谷の洞窟学校~」がまさにそういう作品でした。浦添くんは大きな山をくりぬいて、美しい渓谷にある学校をつくりました。SDGsを意識し、敷地内には畑や牧場、巨大水槽、ウンチ発電所もあります。建物についてもよく調べ、フランクロイドライトの落水荘にも影響を受けたそうです。 「Minecraftカップ2020全国大会(第2回大会)」の大賞を受賞した浦添昴さん(写真:浦添さん提供) 巨大な学校の全景(写真:浦添さん提供) CO₂削減のため、多くの生徒は船で登校する(写真:浦添さん提供) 地下7階建ての高層教室(写真:浦添さん提供) 給食の食材は自給自足(写真:浦添さん提供) すべての電力をまかなうバイオマス発電所(写真:浦添さん提供) 美しい巨大樹保護区の夜景(写真:浦添さん提供) 溶岩暖房であたたかい地下の宿泊施設(写真:浦添さん提供) 山頂にはツリーハウス教室も(写真:浦添さん提供) ――マイクラ経験者でなくても、すばらしい作品であることがわかります。  浦添くんは、小さい頃からボーイスカウトに参加していて、仲間とトラック3台分の海岸のゴミを回収したこともあるほどアクティブな子です。その一方で、プログラミングの賞を多数受賞するほど集中力もあり、マイクラをやりはじめてわからないことがあると父や兄に質問していたといいます。周りの大人がそんな彼の才能をいち早く発見して情報提供し、サポートしてあげたことが、あの壮大な大賞作品につながったのだと思います。  審査員一同、「構想や技術がすばらしい。ワールドをつくるだけじゃなく、世の中をよくしていきたいという志がすごい」と高く評価していました。 ――マイクラは正解がないので、自分が納得できるものをつくり上げるためには人の協力も必要なんですね。子どもだとわからないことも多いですから。  より上を目指すための方向性って自分の中にしかないので、精度を上げるために必要な情報を自分から調べはじめる子もいます。図書館に行き、ネットで調べて、それでもわからなければ親や先生に聞く。そうやって必要な知識を得て、自分のワールドを完成させるために、水や光や肥料を与えはじめるんです。  周りにいる大人たちも、その子に適した肥料を与えた結果、作品としての実がなるわけです。もしも周りが彼の興味関心に働きかけることもせず、ただ漫然と日々をやり過ごしていたら、浦添くんのあの素晴らしい作品は生まれなかったでしょうね。 向き不向きがあるのはスポーツもマイクラも同じ   ――マイクラが好きな子は男の子が多い印象ですが、向き不向きはありますか?  スポーツと同じで、サッカーが嫌いな子にボールを与えても蹴らないですから、マイクラに関心を示さない子もいるでしょう。水が苦手な子に水泳やらせようとしたら、もっと嫌いになりますから、無理に与える必要はありません。  子どもがマイクラに向いているかどうかは、やはり親が観察して、コミュニケーションしながら判断するに尽きると思います。 〇タツナミ シュウイチ 日本で最初のプロマインクラフター。東京大学大学院客員研究員、常葉大学客員教授、マインクラフトカップ全国大会審査員長、マイクロソフト認定教育イノベーター・FELLOW 。マインクラフト歴14年の通称「マイクラおじさん」。各メディアにプロマインクラフターとして出演し、マインクラフトの教育的効果とエデュテインメントの効果について広く発信。現在もSTREAM教育や特別支援教育を推進していくためマインクラフトをプラットフォームとして使用した教育教材の制作や活用を研究中。
マインクラフトタツナミシュウイチマイクラカップ
AERA with Kids+ 2024/07/17 11:00
森脇健児「夢がMORI MORI」の人気絶頂からどん底も味わい、覚悟を決めた「しくじり先生」で再ブレーク
平尾類 平尾類
森脇健児「夢がMORI MORI」の人気絶頂からどん底も味わい、覚悟を決めた「しくじり先生」で再ブレーク
森脇健児さん(撮影・平尾類)    タレント・森脇健児さん(57)の人生は波瀾万丈だ。バラエティー番組「夢がMORI MORI」「笑っていいとも!」(フジテレビ系)にレギュラー出演するなど、20代でレギュラー12本を抱える売れっ子に。ドラマやCMにも引っ張りだこで飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、人気に陰りが出て30歳の時にレギュラーが0本に。京都から再出発して復活すると、あるバラエティー番組に出演したのを機に講演依頼が殺到した。紆余曲折を経ての復活劇。森脇さんが直撃インタビューに応じてくれた。 ――京都在住の森脇さんは東京でお仕事があるとき、新幹線で「のぞみ」を利用しないと聞きました。今日は「こだま」で来られたんですか? 「ひかり」できました! 午前10時10分京都発ですね。午後2時以降は「こだま」で、どうしても間に合わないときをのぞけば、「のぞみ」に乗らないです。今日は違いますが、東京に行くときは出演する番組の傾向と対策を練るので、3時間47分(こだまで京都から東京までの乗車時間)が必要なんです。20代の時みたいに失敗できないですから。僕は全部の仕事がオーディションだと思っているんです。東京から一度撤退した人間なのでまた呼んでいただけるのがありがたい。でも爪痕を残さないと、次がないんでね。毎日が真剣勝負です。当てにいくんじゃなく、思い切りバットを振ってね。今は空振りを期待されている感があるけど(笑)。 8000万円のマンションにベンツ2台購入 ――森脇さんは90年代に東京に進出すると、バラエティー番組、ドラマ、CMに出演するなど若くして人気の絶頂期を迎えます。当時を振り返っていかがですか。 「夢がMORI MORI」「笑っていいとも!」に出演していた時が東京でのピークでしたね。お金もたまったので当時8000万円ぐらいのマンションを買って。品川と大崎の間です。いいところでしたよ。ベンツも2台買って。スポーツカーのSLクラスとセダンですね。駐車場代が11万円かかりました。体ひとつで2台買う必要は…まったくありませんでした! 今は公共交通機関で移動しています。お金が全部なくなりました(笑)。 森脇健児さん(撮影・平尾類)   ――芸能界は浮き沈みの激しい世界です。12本あったレギュラーが30歳のときにゼロになりました。  売れているときは全力で駆け抜けていただけ。無我夢中でした。自分が面白いと思って走っていないと蹴落とされる世界です。でも、「実力がないのにこんなにお金をもらっていいのか」という不安はありました。神輿(みこし)に乗って踊ればいいけど、いつか外されることは分かっていますから。でも仕事がなくなったのは誰のせいでもない。全部自分の責任ですから。ここまでどん底を味わうとは思わなかったですけどね。 マンションは2200万円で売却 ――それからはどのように暮らしていたんですか。  マンションを2200万円で売って、ベンツも売って、京都に戻りました。若井はやと師匠の付き人をもう一度やって。師匠からは「何をビビっとんねん。芸人で売れるやつは30歳を超えてからや。借金背負ってないんやったら勝ちやで。今までの経験が全部財産になる」って声をかけていただきました。生活が苦しい時期はあったんです。当時結婚して子供が2人いましたし、「やばいな、お金ないな。バイトしなければ」と思ったら、営業の仕事が来て「助かる、今月はいける」って。その繰り返しでした。でも芸能界を辞めようとは一切思わなかったですね。だって、この世界が好きで入ったんですから。苦しかったけど、30代が一番大事な時期だったと思います。 ――36歳のときに初出演した「オールスター感謝祭」(TBS系)の赤坂5丁目ミニマラソンでの活躍で徐々にメディアでの露出が増えるようになります。そして、2017年に放送された「しくじり先生 俺みたいになるな!!」(テレビ朝日系)が大きな反響を呼びました。ご自身を「全然面白くないのに自分のことをめっちゃ面白いと勘違いしちゃった先生」、「究極の勘違い野郎」と語るのは大きな覚悟が必要だったと思いますが。 「しくじり先生」は大勝負でしたね。打ち合わせの段階で、京都のラジオでお世話になっているスタッフにも入ってもらったんです。そのときに「おもろくないのバレました、て言えますか?」って、そのスタッフに聞かれて。僕には、たいこ持ちとかじゃなく、そういう人間が必要なんです。プライドが邪魔したら話せません。覚悟が必要でした。トークの内容次第では本当にこの世界から消えてしまう怖さがある。話をどう組み立てるか何度も本番前にシミュレーションして。放送後に講演の依頼が殺到して、今も来ています。企業からの依頼が多いですね。ありがたい限りです。 ――芸能生活が来年で40年目を迎えます。人生観、お金の価値観に変化はありましたか? 「ギャラを上げなくていい」って事務所に言っているんですよ。それより仕事でスケジュールが埋まった方がうれしい。若いときより収入が全然落ちていますけど、仕事をリピートで呼んでいただけることのありがたみをすごく感じています。50代後半になったらタレントはどんどん減っていくじゃないですか。この春からラジオ大阪で「森脇健児のぶっとび水曜日」がレギュラーで始まったんですがメチャメチャ燃えています。他局なんですが、3年半やっていたラジオが終わったことが悔しかったんです。もう一度チャンスをいただいたので期待に応えたい。この世界は挑戦の繰り返しですよね。 舞台での森脇健児さん(事務所提供)   あのちゃん、マジカルラブリーのラジオ番組がお気に入り ――ラジオは毎週3時間の生放送ですが、トークで心掛けていることを教えてください。  今は「radiko」で全国のいろいろなラジオ番組をいろいろ聞ける時代です。面白くなかったら聞いてもらえないし、競争が激しいので毎週新ネタが必要です。今をしゃべらないといけないので、世の中のトレンドを知るために、色々なジャンルで常にアンテナを張るようにしています。僕は夜の9時に寝て4時半に起きる生活なんですけど、おもろいラジオ番組は全部チェックしています。最近で言えば、「あのちゃんのオールナイトニッポン」、「マジカルラブリーのオールナイトニッポン」がお気に入りですね。ラジオでトークが面白い人は他の舞台でも成功している。いろいろな方のトークを聞いて勉強させてもらうことが多いです。 ラジオ大阪「ぶっとび水曜日」の様子(事務所提供)   「僕の代わりはいくらでもいますから」 ――森脇さんの仕事に向き合うストイックな姿勢をひしひしと感じます。  ストイックというか当たり前ですよね。僕の代わりはいくらでもいますから。芸能界で必要とされる限りずっと仕事をしていたい。キッズ・リターンの最終回の名ゼリフ「バカヤロー、まだ始まっちゃいねぇよ」と一緒です。芸能界での冒険は始まったばかりだと思っているんです。まだ何も成し遂げていない。50代でホップ! 60代でステップ! 70代でジャンプ! 80代でウイニングラン! 何歳になっても全力でガムシャラに走っているやつがいても面白いじゃないですか。笑われてもいいです。いじってもらえるのは、むしろありがたいですから。 番組出演時の森脇健児さん(事務所提供) (平尾類) 【後編】<森脇健児がSMAPに抱く「特別な思い」とは CM共演の吉田栄作の体見てボクシングのプロに>に続く 森脇健児(もりわき・けんじ)/1967年2月5日生まれ。大阪府出身。京都・洛南高で陸上に打ち込む傍ら、高2の時に「第1回松竹芸能タレントオーディション」に合格。高校卒業後に関西のバラエティー番組に出演して人気を集めると、90年代に東京に進出。「笑っていいとも!」、「夢がMORI MORI」でレギュラー出演し、CMやドラマの主演を務めるなど人気絶頂に。その後は仕事が減少して京都に戻るが、「オールスター感謝祭」の赤坂5丁目ミニマラソンでの活躍を機に復活。現在はテレビ、ラジオ出演のほか、マラソンのイベントや講演活動など多角的に活動している。
森脇健児しくじり先生オールスター感謝祭
dot. 2024/07/14 11:00
「花火の燃えカス」問題で花火大会中止が続々 「被害総額1200万円」「苦渋の決断」の背景を聞いてみた
米倉昭仁 米倉昭仁
「花火の燃えカス」問題で花火大会中止が続々 「被害総額1200万円」「苦渋の決断」の背景を聞いてみた
千葉県船橋市の「船橋港親水公園花火大会」。昨年は4年ぶりに開催され、約6万人の観客でにぎわった=船橋市提供  長かったコロナ禍が明け、全国各地で花火大会が復活した2023年。ところが今年、再び中止を決定した花火大会がいくつもある。原因の一つは「花火の燃えカス」だという。 *   *   * 人気の花火大会が中止のワケ  7月8日、千葉県船橋市は「船橋港親水公園花火大会」の開催見送りを発表した。同花火大会は、長年市民に親しまれてきた。地元に住む女性は、こう残念がる。 「打ち上げ場所との距離が近くて、迫力ある花火が魅力でした。特に昨年はいい観覧席から見られて、とても楽しかった。駅から会場も近いし、仕事が終わってから行けると今年も楽しみにしていたのに」  コロナ禍明けで4年ぶりに再開された昨年は、約4000発が打ち上げられ、会場は6万人の観客でにぎわった。 燃えカスが落下して…  ところが、打ち上げ花火の燃えカスが、港に係留されていたプレジャーボートなどに落下。総額1200万円という被害が生じたという。花火大会を主催する「ふなばし市民まつり実行委員会」は港での開催継続は困難と判断、今年度の開催は中止を決めた。  中止が報道されると、実行委員会の事務局である同市商工振興課には問い合わせが相次いだ。同課の尾崎晃一郎係長は語る。 「『場所の変更は仕方ないにせよ、今後も花火大会を続けてほしい』という声が多く寄せられました。花火大会を楽しみにされている方が大勢いらっしゃることを実感しました」 昨年10月、秋の夜空を彩った美しすぎる花火 シートで覆うのに540万円 「花火の燃えカス」とは、花火の火薬を覆う丈夫な紙で作られた容器「玉皮」の燃え残った破片のこと。花火を打ち上げれば必然的に飛散する。火のついた状態で落下することもある。  花火を打ち上げる際は、花火の直径に応じて打ち上げ地点からの安全距離(保安距離)が設けられる。 「我々が打ち上げる2.5号玉の花火の場合、半径65メートルの保安距離の円内は基本的に何もない状態でないと、県から打ち上げ許可は下りません」(尾崎係長)  例年、港のほぼ中央に台船を停泊させ、打ち上げ地点にしてきた。保安距離のすぐ外側にはボートやヨットが係留する「船橋ボートパーク」があり、風向きや風力によっては花火の燃えカスが落下する恐れはある。実行委員会は花火大会のたびに業者に依頼して船を防炎シートで覆ってきた。昨年は係留された船が200隻近くあり、シートのレンタル代と作業費を合わせた費用は約540万円にもなった。 千葉県船橋市の花火大会の実行委員会事務局である同市商工振興課の石﨑博課長補佐(左)と尾崎晃一郎係長 花火の打ち上げ場所の近くに「船橋ボートパーク」があり、ボートやヨットが係留されている=船橋市提供 「ボートやヨットにはさまざまな付属品があり、完全に全体を覆うことは難しい。昨年はシートのすき間から燃えカスが入ってしまった」(同課の石崎博課長補佐)  燃えカスで、計7隻の船に焼け焦げが生じた。高価な船だと1隻数千万円もするため補償額がふくらみ、最終的に修理代として計1200万円が加入していたイベント保険から支払われた。 「過去にも花火の燃えカスによる被害はありましたが、昨年ほど大きな被害ははじめてでした」(石崎課長補佐) 港内での打ち上げ地点変更は難しい  花火大会の開催見送りは、実行委員会が「燃えカス」対策の検討を重ねた結果だ。 四方にある建物やボートパークは保安距離に入らないギリギリにあり、港内での花火の打ち上げ地点は変更できそうになかった。周辺のボートやヨットの防炎対策を徹底すると、持ち主が船を使用できない期間がこれまで最長だった10日間よりも延びてしまい、「私有財産にそこまで制限をかけるのは難しい」(同)。  船の移動を依頼することも考えたが、係留場所の確保は簡単ではなく、乗用車が駐車場を移動するようにはできない。 「船の所有者の皆さんが、『焦げても弁償してくれればいいから、花火大会を続けていいよ』とおっしゃってくださったとしても、被害を重く受け止めている我々としては、同じ被害を繰り返すわけにはいかない」(同)  被害が繰り返し発生すれば、イベント保険の保険料は上がることも考えられる。  新たな会場も探したが、意見調整や計画策定の時間が十分になく、今年度の花火大会開催を見送らざるを得なかった。 「花火大会を楽しみにしている方が多くいらっしゃり、苦渋の選択でした。次年度以降、持続可能な花火大会にするため、検討を重ねていくことといたしました」(同) 鳴門市の花火大会も中止  徳島県で最大級の「鳴門市納涼花火大会」も、燃えカス問題で今年の開催は中止になった。4年ぶりの開催となった昨年は、約7000発が打ち上げられ、5万5000人を魅了した。  ここでも花火の燃えカスが、車や屋根の上に設けられた太陽光発電のソーラーパネルに落下、燃えカス被害が発生した。 花火の打ち上げ場所に近い「船橋ボートパーク」に係留されたボートやヨット。防炎シートで覆われている=船橋市提供   ボートを覆っていた防炎シートのすき間から入り込んだ花火の燃えカス=船橋市提供 燃えカスで変色やシミが発生  飛散した花火の燃えカスは、同市観光振興課の職員によると、毎年、花火大会後はボランティアや市の職員らが清掃活動を行ってきた。だが、昨年の花火大会では断続的に雨が降った。水分を含んだ花火カスが車やソーラーパネルの表面に密着し、火薬由来とみられる成分が染み出し、変色やシミをつくってしまったのだという。 「『洗ってもとれない』という苦情が市に寄せられました」(観光振興課の職員)  花火の打ち上げ場所は川沿いの「撫養(むや)川親水公園」の近くで、周辺には住宅地が広がる。 「ソーラーパネルを設置する家屋が増えました。屋根の上を覆う対策も難しい。花火大会を見直す時期にきていると思います」(同)  市や商工会議所などは、25年度以降の開催を目指して、打ち上げ場所の変更や規模の縮小を検討していくという。 2016年8月、夜空を焦がす花火=鳴門市撫養町 燃えカスが車上やソーラーパネルに落下 「関東三大七夕まつり」の一つ、「狭山市入間川七夕まつり」(埼玉県)の花火大会も今年は中止になった。理由の一つがやはり、花火の燃えカス。祭りの実行委員会の事務局である狭山市商業観光課の担当者は言う。 「以前から燃えカスの課題はあり、昨年は打ち上げ場所を700メートルほど移動したのですが、また苦情が寄せられました」  燃えカスがカーポートの屋根や車上、ソーラーパネルなどに落下、汚れたという。狭山市でも、燃えカス問題も含め、花火大会全体を見直していくという。 花火大会は減ってしまうの?  花火を打ち上げれば、発生する花火の燃えカスのために、愛車や家屋に傷がつくのは確かに問題だろう。このまま、花火大会は減っていってしまうのか。  日本煙火協会に問い合わせてみた。  国内外で多くの花火大会を手掛けてきた河野晴行専務理事は、相次ぐ花火大会の中止について、「複合的な要因が絡んでいて、燃えカスだけが理由とは一概には言えないでしょう」と語る。 花火の打ち上げ場所に近い「船橋ボートパーク」に係留されたボートやヨット。=千葉県船橋市、米倉昭仁撮影   千葉県船橋市の花火大会。1983年の初開催以来、多くの市民に親しまれてきた=船橋市提供   なぜいま「燃えカス」が問題に? 「花火の燃えカス問題は昭和の時代からありました。なぜ今年、花火大会がこの問題で中止が相次いでいるのか、わかりません。花火の構造や打ち上げ方法が変わったわけでもありません」(河野専務理事)  確かに、打ち上げ場所の近くに大きな駐車場やヨットハーバーがあると問題が拡大しやすいので、協会はこれまでも大会主催者に注意を呼びかけてきた。だからこそ、首を傾げる。 「もし、花火の燃えカスのみの問題で花火が打ち上げられないのであれば、東京の人口密集地で開催される『隅田川花火大会』は大問題になっているはずです」(同)  河野専務理事は、「開催地の住民感情が関係しているのでは」と推察する。  取材に、「4年ぶりの花火大会で住民の意識が少し変化したのかもしれない」と、話す自治体の職員もいた。 「毎年、花火大会が開催されていたころは、燃えカスが降ってきても、『いつものことだから』で済んでいたのかもしれません。コロナ禍の4年をはさみ、昨年は久々の開催だった。降ってきた『燃えカス』に改めてストレスを感じたかもしれません」(ある自治体職員)  夏の花火は、老若男女を問わず楽しむことのできるイベントのひとつだ。  どの職員も、「市民の期待が大きくて、花火大会はやりたいのですけれど」と、残念そうに訴えていたのが印象に残った。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
dot. 2024/07/14 10:00
フィンランド取材 軍の最上級のごちそう「塩辛いスープ」に思うこと 侵攻で「軍事訓練」志願2倍に
フィンランド取材 軍の最上級のごちそう「塩辛いスープ」に思うこと 侵攻で「軍事訓練」志願2倍に
軍事演習をする戦車。砲撃訓練も行われた(写真:小山 歩)    国連の幸福度ランキングで7年連続1位を獲得している国、フィンランド。国境をロシアと接しており、2023年、NATOに加盟した。現地を訪ね、安全保障と徴兵制を取材した。AERA 2024年7月15日号より。 *  *  *  建造物に隠れながら移動してきた陸軍近衛猟兵が、茂みをほふく前進して銃を撃った。機銃は空砲だが、強烈な破裂音が響く。  司令官のマッティ・ホンコ陸軍大佐に「耳当てをしないと鼓膜が傷つく」と言われ、慌てて耳当てをした。戦車の大砲音が鳴り響き、音とともに建物内に兵士が突入していく。砂埃が舞い、兵士の叫び声が聞こえる。敵役がいた建物を制圧したようだ。  5月28日、フィンランド・サンタハミナ島で有事を想定して行われた軍事演習を見学した。  演習後、プレスの案内役を務めていた近衛猟兵ローガン・ヴィクトロンさん(21)が気さくに話しかけてきた。 「同年代だよね。私、日本のアニメ好きなんだ、『呪術廻戦』ってわかる?」 「もちろん」と答えると、ローガンさんは目を輝かせた。 「一番好きなのはSatoru Gojoさ! かっこいいよね!」と言って、「領域展開」ポーズを決めてくれた。  フィンランドは徴兵制を導入している。男性は満18歳の誕生日を迎える年の1月1日から兵役招集の対象となり、女性も志願すれば参加できる。  ローガンさんは、アメリカ・サウスカロライナ州出身で、子どもの頃からアメリカで暮らしていた。母親がフィンランド人でローガンさんもフィンランド国籍を持ち、兵役の義務がある。 「大学進学とか、人生で大切なことがある場合は兵役を遅らせることができる。私は大学で学位をとってから、昨年の7月から兵役に就いた」 必要な知識つけたい  兵役の期間は、165日、255日、347日のいずれか。はじめの半年間は、銃の組み立て、扱い方など、いわゆる基本の“歩兵術”を学ぶ。ローガンさんは当初、「最短の165日で兵役を終えるつもりだった」という。 プレスに説明するローガン・ヴィクトロンさん。兵役が明けるのは来年1月。アメリカに戻っても「軍に関わる仕事をしたい」と語った(写真:小山 歩)   「同年代は割と積極的に取り組んでいたけど、私は元々けんかは好きじゃないし、早く家族のところに帰りたいなと思っていた」  だが、結局、兵役を347日延長した。理由は「家族のため」。必要な知識を身につけ経験を積み、有事に備えておきたいという気持ちが強くなったという。「国を守ることが、家族を守ることだと痛感したんだ」  フィンランドの人々の中にある、国防意識を感じた瞬間だった。  徴兵制というと、日本に暮らす自分はつい「苦役」と身構えてしまう。だが、取材で会った若い兵士たちは、「兵士になるのは使命だと思っていた」と口をそろえた。  徴兵制とは別に、軍の予備兵の軍事訓練や、日々の安全や非常事態への対応方法を教育する国家機関、フィンランド国防訓練協会(MPK)も存在する。 街中にシェルター  コロナ禍を境に軍事訓練を志願する国民は減っていたが、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに増加に転じ、23年は20年と比べ2倍以上になった。銃の使い方、キャンプの設営方法、応急処置の仕方などを学ぶ女性向けの講座は、順番待ち状態だ。  同国国防省が2022年5月に実施した世論調査によると、フィンランドが攻撃された際、「祖国防衛に参加する」との回答は実に82%に上った。  フィンランドには、街中いたるところにシェルターがある。ヘルシンキ中心部メリハカ地区の公共シェルターは、地下およそ20メートル、岩盤をくりぬいたような巨大な空間だ。普段は、地下通路や、ジムやフットサルコート、駐車場などとして使われているが、有事の際は周辺の集合住宅の住民ら6千人を収容するという。避難者は、シェルターの運営など労働、自由時間、就寝の3交代制で動く想定で、簡易の3段ベッドは2千人分用意してある。  アパートなどの集合住宅にもシェルターがあり、各家庭ごとに部屋が割り振られている。もしも建物が倒壊しても、シェルターは崩れることなく残る仕組みだという。 硬いパンが2切れにバター、ニンジンなどの野菜と鶏肉のスープ。糧食では"最上級のごちそう"だという(写真:小山 歩)   塩辛いスープの理由  ヘルシンキ郊外の民間アパートの管理組合長、オスカリ・オヤラさん(44)はこう話す。 「ここが核シェルターだということは、地元民ならみんな知っている。あまり意識してこなかったが、ロシアによるウクライナ侵攻でシェルターの必要性を感じることが多くなってきた」  夜、入ったパブでは、日系企業に勤める男性と雑談した。公共シェルターについて尋ねると、「手ぶらでもいいからとにかく駆け込むんだ」と即答した。どこにシェルターがあるか、常に意識はしているという。  軍事演習の後、食べさせてもらった“軍の最上級のごちそう”は、硬いパンが2切れにバター、ニンジンなどの野菜と鶏肉のスープだった。あのスープはぎょっとするほど塩辛かった。前出のローガンさんはこう言っていた。 「戦場では常に塩分が不足する。取れる時に取るために、味が濃いんだ」  有事の日常を私は知らない。世界のいくつかの場所で戦争が起こり、安全保障環境が変容する国がある中で、フィンランドの人々の当事者意識が印象に残った。(AERAdot.編集部・小山歩) 取材協力/フィンランド大使館 ※AERA 2024年7月15日号
AERA 2024/07/12 08:00
〈2024年上半期ランキング スポーツ編4位〉本当に大谷の資産を無断で使い込んだのか? 水原一平氏が90分のインタビューを翻すまで 現地報道の衝撃
〈2024年上半期ランキング スポーツ編4位〉本当に大谷の資産を無断で使い込んだのか? 水原一平氏が90分のインタビューを翻すまで 現地報道の衝撃
大谷翔平選手と水原一平氏(左)=2024年3月18日午後7時25分、韓国・ソウルの高尺スカイドーム    早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。スポーツ関係の記事の4位は「本当に大谷の資産を無断で使い込んだのか? 水原一平氏が90分のインタビューを翻すまで 現地報道の衝撃」でした(この記事は3月22日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  大谷翔平選手の通訳、水原一平氏がメジャーリーグのドジャースから解雇されたニュースは、全米でもスポーツ枠を超えてトップニュースの扱いで大手メディアが報じているようだ。水原氏の通訳能力は「秀逸だった」という米国在住40年以上のジャーナリストが、現地での報道などを紹介する。    3月21日、アメリカの3大ネットワークの一つABCは、朝の人気情報番組「グッドモーニング・アメリカ」の中で、3分間を超える長さを費やして今回の衝撃的なニュースを報道した。その内容をざっと要約すると以下のようになる。 「メジャーリーグで最も高額の契約を手にした大谷翔平の通訳、水原一平が違法のギャンブルで何百万ドルもの負債をつくり、ドジャースから解雇されたことがわかりました。野球シーズンがスタートをきったばかりの現在、このニュースはスポーツ界全体を震撼(しんかん)させています」 50万ドルの送金が2回にわたり振り込まれ  番組のキャスターは冒頭でそう紹介し、大きなニュースであることを伝えると、水原氏がドジャースを解雇された経緯について、  「昨年史上初の7億ドルの契約を手にしたメジャーリーグのスーパースター大谷は、大きな打撃をくらうことになりました。彼の長年の友人で通訳の水原が、違法のギャンブルの負債の支払いのために大谷からおよそ400万~500万ドル(約6億~7億6千万円/日本時間の22日現在)を盗んだことが発覚し、ドジャースが水原を解雇したのです。水原はカリフォルニアの違法ブックメーカー(賭け屋)を通してスポーツ賭博に参加していたとされています」 「(スポーツ専門ネットワークの)ESPNの調査によると、昨年、ブックメーカーの口座に大谷の名前で50万ドルの送金が2回にわたって振り込まれていました。水原は『自分は野球で賭けをしたことは一度もなく、大谷は(水原氏の)ギャンブルによる負債も送金についても知らなかった』と主張しています。大谷の弁護士事務所は、野球界のスター大谷が多額の盗難の被害に遭い、当局に調査を依頼したと発表しました」   などと説明し、韓国で開幕したドジャース対パドレス戦での大谷やチームの様子についてもこう伝えた。  【あわせて読みたい】 大谷翔平の相棒・水原一平氏がギャンブルに手を染めた理由 「世界一有名な通訳」が抱えていた“葛藤”とは https://dot.asahi.com/articles/-/217674?page=1 WBC、メキシコ戦前の大谷選手と水原氏=2023年3月   「水原は、解雇が発表になる数時間前、韓国のソウルで行われているドジャースの試合中に、大谷と会話をしている様子が目撃されています。大谷は、ドジャースに入団して初のヒットを祝いました。この日の試合のチケットは完売し、ファンは大谷の活躍に驚喜しました。でも今朝の2試合目のダッグアウトは、昨日とは違う空気に包まれています。監督のデイブ・ロバーツはこのスキャンダルに関しては口を閉ざし、多くを語ろうとはしません」  一方、ブックメーカー側の動きについては、  「ブックメーカーの弁護士はESPNの取材に『彼(ブックメーカー)は大谷とは面識がなく、話をしたこともない』と語りました。水原は、ギャンブルが違法であることを知らなかったと主張し、二度とやらないと語っています。状況を複雑にしているのは、カリフォルニア州ではスポーツ賭博は違法ですが、他の州では合法であることです。水原は、普段自分が他の場所でやっている(合法的な)ギャンブルとは違うものだということを理解できていなかったと主張しています」   などと語った。   こうした内容は、ABC以外にもNBCやワシントン・ポストなどの大手メディアでも大きく取り上げていた。  ギャンブルの負債の肩代わりに同意?  このニュースが明るみに出たきっかけは、違法ブックメーカーとして連邦当局の捜査の対象になっていたカリフォルニア州在住の男性の調査を進めているうちに、大谷選手の名前が浮上したという情報をロサンゼルス・タイムズ紙がつかんだことだった。同紙からの問い合わせによって、大谷選手の弁護士事務所、ウェストハリウッドにあるバーク・ブレットラー法律事務所が水原氏の行動に目を向けたのだという。   ESPNの報道によると、解雇される前日の火曜日の夜、大谷選手のスポークスマンは、 「大谷は水原のギャンブルの負債の肩代わりに同意した」  と語り、水原氏はESPNの90分のインタビューに応じた。  だが、水曜日にそれが公開される直前、大谷選手のスポークスマンは前日の発言を撤回し、代わりに大谷選手の弁護士事務所から文書が発表されることを通達した。これが前述の「大谷は多額の盗難の被害に遭った」というブレットラー法律事務所からの公式発表になったのである。 【こちらもおすすめ】 「水原一平氏」横領で起訴なら最長で「3年収監」 カリフォルニア州弁護士は「大谷側は検察に協力する姿勢」 https://dot.asahi.com/articles/-/217632?page=1 エンゼルス時代の大谷選手と水原氏=2023年3月    2017年に大谷選手がエンジェルスに入団した当時から専属通訳として、影のように寄り添っていた水原氏は、米国でも野球ファンにはよく知られた存在で、好感度も高かった。大谷選手は2月の会見で水原氏について聞かれたときに、「(友人ではなく)ビジネスの関係」と答えている。だが英語のメディアは、ずっと行動を共にしていた水原氏のことを、大谷選手の「長年の友人である通訳」と形容している。  「通訳が雇用主である大谷の資産を無断で使い込んだのであれば、信頼関係を裏切る許しがたい行為です」   米国大手に務める某スポーツエージェントはそう語る。  「その一方で、もし実際に大谷の口座から直接違法ブックメーカーに振り込みがなされていたのなら、状況は少し複雑になる可能性もあります」  水原氏の通訳は秀逸だった  今後調査が進むにつれて、さらに多くの事実が明るみに出ていくのだろうが、一つ確実なのは、水原氏の代役はそう簡単には見つからないであろう、ということだ。   筆者は高校留学を機に渡米して、現在米国在住40年以上になる。日米の各種通訳や翻訳の仕事に携わった経験も少なからずあるが、そうした経験を踏まえてみても水原氏の通訳は秀逸だった。事務的に右から左へと言語を変換するだけでなく、細かいニュアンスを正確にくみ取り、日本と米国の微妙なカルチャーギャップを上手に埋めてきた。腕の良いプロの通訳はそれなりの報酬を出せば見つかるとはいえ、彼のような人柄を感じさせる、しかもキャッチボールの相手までできる通訳はそうはいないだろう。それだけに今回のニュースは衝撃であり、とても残念であった。   水原氏はその後、ギャンブル依存症であることを告白している。今後彼が法的な制裁を受けることになるのかはまだわからないが、少なくとも大谷選手に対しての負債を返済していく責任はある。きちんと誠実に対処した上で依存症の治療を受け、いずれ社会復帰を果たしてくれることを願っている。  (米国在住ジャーナリスト・田村明子)   【こちらも話題】 【声明全文】「水原一平」違法賭博問題で大谷翔平が会見 「僕は賭けていない」「言葉では表せないような感覚」 https://dot.asahi.com/articles/-/218016  
大谷翔平水原一平2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/09 11:00
「人より不器用すぎた」虻川美穂子が、子育てを“楽しめる”ようになったきっかけは? 9歳息子との日々を語る
「人より不器用すぎた」虻川美穂子が、子育てを“楽しめる”ようになったきっかけは? 9歳息子との日々を語る
北陽・虻川美穂子さん  人気お笑いコンビ「北陽」のあぶちゃんこと虻川美穂子さん。長男の出産後、育児や仕事を全力で頑張りすぎていた日々を経て、いまは「少し楽になった」と語ります。イタリア料理店のオーナーシェフであるパートナーとの家事・育児分担や、9歳になって「少し大人っぽくなってきた」という息子との毎日、そして迷いながらも楽しんでいる子育てについて話を聞きました。※前編<虻川美穂子が語る、乳児期の子育ての苦悩 「産後9カ月くらいまでは自分が自分じゃないみたいだった」>から続く。 オーナーシェフの夫と二人三脚 ――乳児期の子育てを抜けて、少し楽になったと感じましたか?  そうですね! まず、息子が4歳の時、保育園の運動会を見た時。「わぁ、あんなこともこんなこともできるんだ!」と今まで見えてなかった息子の成長が感じられて。たくましくなったなあとうれしくて。その時、「あ、そんなに心配しすぎなくてもいいのかも」と思えたんです。  同時に、そのころから息子との会話もなんだか面白くなってきて、育児を少し楽しめるようにもなってきたんですよね。 まあ、そこまでが、私は人よりちょっと不器用すぎたんですが。 ――料理人のパートナーも多忙とのことですが、お子さんが少し大きくなってどんなふうに子育てに関わっていらっしゃいますか?  息子が9歳になった今は、息子が夫のお店に行って、宿題をしたり晩ごはんを食べて帰ってくることもよくあります。私も安心して仕事ができますし、ちょっと楽になりましたね。  お店の定休日には、夫がごはんを作ってくれます。私は料理が大の苦手なので、それはすごく助かってます。  あとは、私が忙しくて力尽きて、シンクのお皿をそのままにして寝てしまったら、必ず夜中に洗っておいてくれるかな。ま、普段は全部家のことも息子のことも私がやっているので、それくらい、やってくれよって感じではありますが(笑)。 夫婦の子育て観は真逆? ――夫婦の子育て観は似ていますか?  いや、それは全然違いますね。私は、息子のことに関しては、どうもあれこれ気になってしまって。「宿題したの?」「ゲームやりすぎないで!」「ショート動画を見るのは週何回までだよ!」とか口うるさく言っちゃうんですよね〜。ショート動画って見すぎるのは、私も同じだからわかるんだけど(苦笑)。  息子さんが父親・桝谷周一郎さんのお店25周年を祝って描いた絵(虻川さん提供)  一方、夫は全く、そういうことに口出ししないというか、「なんでもあり」。「勉強がしたくないなら、しなくてもいいよ」というタイプ。なんなら、二人でこっそりゲームとタブレットを持って、遊びに出かけたりもするんですよ!  まあ、彼自身が、自分の好きなことで、手に職をつけてきた人だから、最終的には「本人の好きなように好きなことをすればいい」という考えのようです。 ――お子さんはどんなことが好きなんですか?  息子は、絵を描くのが好きみたい。家でずっとひとりで何かしら絵を描いていることが多いんですよね。でも、私自身は、高校生のころソフトボールを結構一生懸命頑張っていて体育会系だったんですよ。だから、息子にも野球とか何か運動をやらせたくてしょうがない。汗をかいて泥だらけになる男子ってかっこいいじゃないですか!  それで、先日、近くの少年野球チームの体験に行かせてみたんですよ。でも、私が熱く指導しすぎて、息子はうんざりしたみたい。ますますスポーツが嫌いになっちゃいそうです……。 ――パートナーはなんと?  夫は習い事をさせることに反対は全然しないけど、「嫌がってるならやめればいいじゃん」とあっさりしています。夫自身も、子どものころから、自由にやりたいことをやって過ごしていたのでしょうね。  まあ、私がついこまごまと口出ししすぎてしまうから、息子にとっては、そんな父親がいてくれてちょうどいいバランスなのかもしれませんね。 居酒屋でたこ焼きを作る息子さん(虻川さん提供) 「なんでママ怒っているの?」と聞かれて ――お忙しい仕事をしながら、勉強や習い事の手配もして。虻川さんも子育てに奮闘されていると知って、すごく共感します。  え、本当ですか!? そう思ってもらえたならうれしいです。でも、先日なんて息子に「ママ、なんでそんなにいつも怒っているの?」って言われたんです。超ショックでしょ! 私自身は、そんなに怒っている自覚はなかったのでびっくり。自分で、それこそ笑顔の多いママだと思っていたのに。 公園で家族3人にっこり(虻川さん提供) ――それはショックですね。怒ってるんじゃなくて、ママっていつも必死なんですよね。  そうなんです。もちろん私も、いつも笑顔で楽しいママでいられたら、と思っているんですよ。でも、実際はそうもいかないですよね……。 大切なのは人に頼る子育て ――産後すぐの授乳の悩みや、保育園での悩み、反抗期など、たくさん壁を乗り越えながらの、9年の子育てをされてきた虻川さん。同じように悩んでいる読者に伝えたい言葉は?  もうこれは私の失敗の経験から言わせていただきますが、やっぱり、「子育ては、できるだけ人に頼ろう!」ってことに尽きますね。  一昔前のように何世代も一緒に暮らして、みんなで子どもを見られる時代じゃないし、私もそうでしたが、自分で抱えすぎて孤独になりがちですよね。だからこそできるだけ、いろんな人に頼って、いろんな人に子育てを手伝ってもらえるように、そういう心構えを持っているといいのかなぁと思ったりします。  あとは、子どもが生まれてみて、地域の方には優しいおばあちゃまも意外といらっしゃるとわかって。幼い時、バスで息子が泣いたり騒いだりした時も優しく接してくれる人もたくさんいました。 ――社会全体で、子育て中の人を温かく見守れるといいですよね。  ほんと、みんながあまり窮屈な思いで子育てをしなくて済むようになるといいな、って思います。あとは、きっと今、幼い子を育てていらっしゃる人は、もう十分頑張っていると思うから、できるだけ手を抜く方法を考えながら、子育てをしていってもらえたらいいな、と思います。私自身も、そうできるように。私自身も苦手なんですが、人に頼る事が大事だと思います。 (構成/玉居子泰子) ※前編<虻川美穂子が語る、乳児期の子育ての苦悩 「産後9カ月くらいまでは自分が自分じゃないみたいだった」>から続く。 北陽・虻川美穂子さん 〇虻川美穂子さん/高校時代の友人、伊藤さおりさんと1995年にお笑いコンビ「北陽」を結成。お笑い芸人として人気を博し、テレビのバラエティー番組への出演や、俳優や声優としての活動、CM出演など幅広く活躍。2010年にイタリア料理店のオーナーシェフ・桝谷周一郎さんと結婚。15年、第1子の長男を出産後も、フジテレビ系の情報バラエティー「ノンストップ!」にレギュラー出演するなど精力的に活動を続けている。埼玉県出身。プロダクション人力舎所属。
虻川美穂子子育て
AERA with Kids+ 2024/07/07 11:00
「どこかで勝負をかけたい」 ベテラン編集者が大学院で学ぶ理由 
渡辺豪 渡辺豪
「どこかで勝負をかけたい」 ベテラン編集者が大学院で学ぶ理由 
高原敦さんが大学院の制作課題として挑もうとしている長編小説の参考文献の一部(写真:高原敦さん提供)    変化の激しい時代。さらなるキャリアアップを、と考える社会人は多く、大学・大学院の社会人向けプログラムも多様化、完全オンラインで学べる大学院も誕生している。AERA 2024年7月8日号から。 *  *  * 「どこかで勝負をかけたいという思いをぬぐいきれませんでした」 こう心情を吐露するのは、NHK出版に勤務する高原敦さん(54)だ。今春から京都芸術大学通信制大学院の「文芸」領域で学んでいる。目標はずばり、歴史小説作品を世に送り出すことだという。 編集者歴が30年近いベテラン。昨年編集を手掛けた『ラジオと戦争』は毎日出版文化賞を受賞。昨年は東映人気特撮作品をSF考証したシリーズ『すごい科学で守ります!』を合本・復刻した『グレート合体愛蔵版 すごい科学で守ります!』もリリース。これまでの仕事が評価され、充実感が得られている今だからこそ、新たなチャレンジに踏み出せると考えたという。 だとしても、円熟期にあるプロの編集者がなぜ、書き手を目指すのか。きっかけは、10年前にステージ4のがんと診断されたことにさかのぼる。休職して3年間、治療に専念した。医師に高くない5年生存率を告げられ、治療の過程で2度「死」も頭をよぎった。重い現実をはね返すように、ひたすら読書にふけった。中でも、没頭したのはもともと好きだった歴史本。特に論文集だ。歴史に埋もれた謎を掘り起こし、単純な勝者と敗者だけでなく、その間でうずもれた存在に光を当てられるような作品を書けないだろうか――。歴史小説のアイデアが次々浮かんだ。 それでも、自分が「書き手」に回ることには抵抗があった。 「ゼロからものを生み出すクリエイターたちをそばで見てきて、リスペクトがあるからこそ、その人たちをサポートして力を引き出すのが僕の仕事だと思ってきました。その思いは今も基本的に変わりません」 ただ、自分の着想を何とか形にしたい、という欲求は捨てきれなかった。休職中、小説を2本書いて新人賞に応募したが、いずれも入選に至らず。「いま読み返してもちょっとバタバタしすぎ。着想だけは面白いかな」という自己評価だ。なぜ、仕事の時の切迫さや集中度で取り組めないのか。思い悩んでいた時に、「完全オンライン制」をうたう京都芸術大学の通信制大学院を知った。これなら、仕事と両立できるかもしれない、と考えた。 京都芸術大学の通信制大学院は、完全オンラインでデザイン、美術・工芸、写真・映像、文芸などの各領域で学べる(写真:iStock / Getty Images Plus)   「編集者としてのキャリアはいったん脇に置き、いち学生として謙虚に学びたいと思いました」 ただ、高原さんにとって大学院で学ぶ理由は「小説の執筆スキルを磨く」ということ以外にもある。念頭にあるのは、若い頃に一緒に仕事をしたことがあり、「心のお師匠さん」だという大御所の作曲家、大野雄二さんの「発注があるからこそ書くんだ。そして締め切りに勝る“作品をつくるコツ”はない」という金言。発注されて、締め切りがあるから作れる――これぞプロだなと思った、と高原さんは振り返る。 「頼まれてもいないものを書くというのは、人はなかなか苦痛なのです。締め切りを設定してもらわないと、僕はたぶんいつまでも動けないと思いました」 大学院に入り、必然的に課題提出などで小説を書かざるを得ない状況に追い込まれれば、自分の中の創作スイッチが「オン」になるのではないか、と考えたのだ。とはいえ、完全オンライン制の講義は想像以上にハードだった。 「ゼミの回数は年9回。これまで3回出席しましたが、内容が濃密で半日の講義が終わると脳がヘトヘトになります」 フル勤務を続けながらの大学院生活。通勤時間の短縮と体力の温存のため最近引っ越しをしたという。 「夜間や休日を執筆に注ごうとしていますが、なかなかままならず……。あと半月以内に短編小説を1本書かなければいけないんですけど、全く手をつけられていなくて……」 自分の中に編集者と作家がいれば最強ではないか。そう問うと、「作家の自分はいないですね」と苦笑しながらこう返した。 「ネタはあるんですけど、いざ作品にするとなると、どうしても編集者根性が出てくるんです。この要素が足りない、ファクトチェックができてない、そういうことに気を取られて、なかなか一歩を踏み出せないんです」 この記事が実名で出ると、さらに自分を追い込むことにならないか。つい心配になって尋ねたが、そこは覚悟の上だという。 「自分の納得のいくものを残すチャレンジをしてみたい。それだけなんです。作家になりたいとか、有名人になりたいという気持ちは全くありません。チャレンジして何も残せなかったら、ちょっと恥ずかしいけど、自分には力がなかったんだと諦められます」 あえて逃げ場のない形で挑むのは、これまで競争やプレッシャーの中で成果を収めてきた高原さんの職業人としての成功体験もあるからなのだろう。社会人の学びの奥は深い。 京都芸術大学の通信制大学院はレポートや作品提出、動画講義、グループワーク、個別指導などをすべてウェブ上で行い、完全オンラインで学べる。面接入試はなく、研究計画書などの書類審査のみで合否判定する。現在20~80代の742人が在籍し、デザイン、美術・工芸、写真・映像、文芸などの各領域で学び、「修士(芸術)」(MFA)の学位取得を目指している。 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月8日号から抜粋・加筆  
リカレント教育熱
AERA 2024/07/07 08:00
ひとりでホテルに泊まったら「何する?」「夜ごはんは?」「怖くない?」 すべてを楽しむ方法
ひとりでホテルに泊まったら「何する?」「夜ごはんは?」「怖くない?」 すべてを楽しむ方法
 Instagramでひとり時間の過ごし方を提案するメディア「おひとりさま。」を運営する「おひとりプロデューサー」のまろさんは、1年365日のうち、実に250日をホテルに泊まるという、ひとりホテルステイの達人。6月に発売した初の著書『おひとりホテルガイド』では、ひとりホテルステイをめぐるフォロワーからの「あるある質問」に答えている。 「ひとりで何するの?」「夜ごはんどうするの?」「怖くない?」などなど、誰もが抱く疑問に対するまろさんの答えには、まろさん流の「ひとりホテルステイの楽しみ方」が詰まっていた。一部を引用して公開したい。 *** 結局ひとりで何するの?問題 夜中のホテル内散歩は、ちょっとしたアトラクション 「1人で羽を伸ばしたかったはずなのに、急になにをしたらいいかわからなくなる」「ひとりだと結局スマホ見ちゃいます」――そう! よく聞かれるんですけど、何か特別なことをしよう!と構えなくていいと思っています。 「携帯いじっちゃう…」というお悩みもありましたが、私は普段やっていることも、ホテルでやるとなんだか贅沢に感じられて好きなんですよね。  個人的に好きで、少し変わった?過ごし方でいうと、人けの少ない夜に館内を散歩したり、お部屋に合う優雅なBGMを選んで女優気分を味わったり(笑)、朝ごはん後に幸せな2度寝をしたり、ですかねえ。 ひとりで夜ごはんどうする? 問題 オープンキッチンがあれば、ひとりごはんだって平気 「ちょっといいレストランだと、カップルや家族ばかりで人目が気になる」とか、「ホテル内のちょっといいレストランで食事してみたいけど、緊張していけない」とか、“人目が気になる”お悩みがかなりありましたが、多分それは人目ではなく、自分が気にしているだけな気がします!  そう言われても……という人もいると思うので、そんな方は、食事処に仕切りがある半個室・個室のお宿や、お部屋食のお宿を選ぶのがいいかもしれません。  個人的には、オープンキッチンのカウンター席が好き。調理の様子を眺められて飽きないし、「この食材はなんですか?」など、スタッフさんと会話が弾むところも多くて楽しいです。あとは、食事の待ち時間に本を読むことも結構あります。そんな感じで、ひとりディナーをぜひ堪能してください。 ひとりだと宿泊料金高くない? 問題 夢のように完璧なシングルルーム!もう、たまりません 「2人ならホテル代が半額。1人だとちょっと高い。これが悩みです」。これは、ひとりホテルするにあたってはどうしても付きまとう問題ですよね。ただ、まず前提として、“部屋売り”をしているお宿のビジネスモデル上、これは仕方のないことなんです。その上で、私は2人利用時の料金とは比較せずに「この値段で、ひとりで泊まって満足できるか?」という観点だけで決めています。  そもそもの目的が違うので、例えばT シャツが欲しいのに、「ズボンの方が安いですよ」と言われたからといって買わないのと同じかなと。あとは、ひとり客向けの割引プランや素敵なシングルルームがあるお宿もあるので、そんな場所も本では紹介しています。  料金が下がりやすい、6 月や冬の閑散期を狙うのもおすすめです! この気持ち、誰かと共有したい!問題 ひなたぼっこでほっこり。仕事中の友人にLINEして自慢? 「予想以上にそのホテルがよかった時。誰かに共有したくなる」って、素敵な悩みですね!  まず、私がよくやるのは、スタッフさんに感動を伝えること。例えば食事中、食べたお皿が下げられるタイミングで「これすごくおいしかったです」と言うなど。そこから「そうなんですよね、これ実は〇〇って言う食材が使われていて~」みたいに会話が膨らんでいくことも結構あるので、楽しいんですよね。  あとはよく、友人にLINEします。大体みんな笑わせてくるので、周りにいる人には不審がられているかもしれませんが……(笑)。今の時代だからこその方法ですね。  くだらない話を聞いてくれる友人たち。この場を借りて、ありがとう! なんか、怖い!問題 和室のほかに「ちょっと怖い」のはクラシックな洋館とか 「ひとりの時、怖くなります。怖さ軽減のためにできることを教えて欲しいです!」   対策としては、音楽をかけるとか、完全に暗くせずに明かりをつけておくとか、テレビをつけるとか? 自分でにぎやかな環境をつくるという感じですかね。  あとは誰かと下見に行く! 実は私、夜の和室が気味悪いなあと思う時があって。でもひとりでレトロな旅館に行ってみたいと思っていたので、まずは友人を誘って泊まってみることに。そしたら、ひとりでも大丈夫そうだなと思えたので、えいっと泊まったら結果全く問題なしでした!  いきなりひとりが怖いって時は、まずは誰かとやってみるのがおすすめです。ありがとう、友よ。 (構成 生活・文化編集部)
おひとりホテルガイドまろ
dot. 2024/07/07 07:00
大学・大学院の社会人向けプログラムが多様化 背景に学び直しで存在感増す「女性とシニア」
渡辺豪 渡辺豪
大学・大学院の社会人向けプログラムが多様化 背景に学び直しで存在感増す「女性とシニア」
高知大学土佐フードビジネスクリエーター人材創出事業の実験体験会の様子。地域社会に溶け込み、新たな商品やビジネスモデルを創造できる人材が輩出している(写真:高知大学土佐FBC提供)    かつて大学院などで学び直しをする社会人学生は40代までの男性中心だったが、現在は女性やシニアの存在感が増している。学び直しに意欲的な社会人の層の多様化により、大学・大学院の社会人向けプログラムが充実している。AERA 2024年7月8日号より。 *  *  * 「想像以上の大変さでした」  都内のシンクタンクに勤務しながら、2年前に筑波大学大学院を修了した荒井絵理菜さん(30)はこう振り返る。  職場には大学院進学に伴う就労規定がなく、人事部や上司と交渉し、給与水準を維持したまま、週5日勤務のうち1日を大学院の受講や研究にあてる制度を新設してもらった。しかしこの制度だと、5日分の仕事を4日間で圧縮して対応しなければならず、休日や夜間も講義や研究課題に打ち込むのが前提。このため、録画で聴講できるオンライン講義は夜間や休日にまとめて2倍速でチェックするなど、効率的な時間の使い方に腐心する日々だったという。  荒井さんが大学院に在籍した2年間、最も留意していたのが「健康の維持」。体調を崩せば、仕事との両立どころではなくなるからだ。 「あとですべて自分にはね返ってくると考えた時、ベストなコンディションをキープする重要性に気づき、生活習慣を徹底的に見直しました」 起床時間は毎朝5時と決めた。軽い運動のあと、この日の優先順位を頭の中で整理する。生活リズムを崩さないよう飲み会も控えた。 女性とシニアの存在感  そんなストイックな生活を経て、得られた成果は何だったのか。論文発表などの実績や実務力のアップにとどまらない、と荒井さんは言う。 自分の限界を乗り越えた自信。支えてくれたゼミの友人たちとのつながり。喜びも悲しみも充実した時間の中にこそある、という気づき……。 「変化を恐れず、世界を面白がる力をもてるようになったと感じています。これは目先のメリットやデメリットという価値観でははかれない、一生ものの財産だと思います」 青山学院大学のワークショップデザイナー育成プログラムの様子(写真:青山学院大学社会情報学部提供)   「学ぶ姿勢」はポジティブに生きる糧にもなる。  今春から東京大学公共政策大学院で学ぶ都内の会社員女性(39)は、保育園と小学校の子の育児も抱える。子どもを寝かしつけてから毎日深夜2時頃まで勉強という超ハードな日々。授業帰りの電車内で寝落ちすることも。だが、疲れていても充実感はある。 「やりたかった勉強、情熱をもって学べる分野だから続けられているのだと思います。だから、時間効率重視でサクサクこなすのはもったいない、という気持ちもどこかにあるんです」  録りためたNHKの朝ドラ「虎に翼」を観るのが一番の息抜き。ヒロインの奮闘や成長に勇気をもらい、自身を鼓舞するエネルギー源にもなっている。  大学院などで学び直しをする社会人学生の中で今、存在感を増しているのが女性とシニアだという。 「かつては40代までの男性が中心でしたが、今はほとんどの分野で男女差は少なくなっています。50~60代のシニアも珍しくありません」  こう話すのは、リカレント教育の専門家、リクルート進学総研の乾喜一郎主任研究員だ。  働く女性の増加や、定年後も働くのが当たり前になる中、学び直しに意欲的な社会人の層は多様化している。それに伴い、大学側も社会人向けプログラムを充実させ、求める学生像を明確に打ち出すようになったのが、ここ数年の「最大の変化」だと乾さんは指摘する。逆の言い方をすれば、十分な準備やリサーチを行うことで自分の関心や目的、好みに合致する、納得のいく学びの場と出合える可能性が高まっている、というわけだ。 履修証明プログラムが  社会人向けの学びの場として近年、充実度を増しているのが「履修証明プログラム」だ。再就職やキャリアアップに役立つプログラム、体系的な知識や技術の習得を目指す課程など、一定のまとまりのある学習プログラムを各大学が開設している。修了者には学校教育法に基づく履修証明書が交付される。  青山学院大学のワークショップデザイナー育成プログラムもその一つ。ワークショップデザイナーとは「コミュニケーションの場づくりの専門家」。会社組織、医療、福祉、教育、地域コミュニティー、アートなどさまざまな場で、コミュニケーションを基盤とした参加体験型活動プログラム(ワークショップ)の企画運営を専門として行う人材の養成が目的だ。約3カ月間、計120時間の授業はオンラインのみのコースも選べる。 立教セカンドステージ大学の授業の様子(写真:立教セカンドステージ大学提供)    50歳以上のシニアのために創設されたのが立教大学の「立教セカンドステージ大学」。人文学的教養の修得を基礎とし、「学び直し」「再チャレンジ」「異世代共学」を目的に掲げる。修業年限は1年で、学部学生と一緒に全学共通科目を受講したり、学部学生の授業にコメンテーターとして参加したりするなど、若い世代との交流の機会もある。すべての受講生がゼミに所属し、担当教員の指導を受けながら修了論文を作成する。  高知大学の土佐フードビジネスクリエーター人材創出事業も履修証明プログラムだ。主に高知県内の社会人向けに、食品産業における生産・加工・流通・販売を総合的につなげることができる専門人材「フードビジネスクリエーター」を育成する。  社会人の学び直しには専門職を対象にしたニッチな分野も用意されている。日本福祉大学には、里親支援に関心のある人を対象にした人材養成プログラムや、性犯罪の被害者のケアをする看護師を対象にした人材養成プログラムがある。 公開講座やセミナーも  学びの入り口になりそうなのが大学で開催している一般向けの公開講座やセミナーだ。興味のあるテーマや内容のプログラムがあればお試しで参加し、「面白そう」と感じた講師が担当する社会人向けの大学院などを探すのもいい。  中でも丁寧なキャリア支援で注目されるのは、武庫川女子大学のリカレント教育「ムコノアプラス」だ。幅広くDX人材を育成しキャリアアップや成長分野への移動を支援するため、仕事に必要なスキルに特化した150以上の専門講座をそろえる。プロのカウンセラーが常駐し、受講中のキャリア相談や仕事の悩みにも応じ、転職先や再就職先の紹介も行う。  大学院で本格的に学ぼうとする場合気になるのは学費。乾さんによると、通学が必要な大学院の場合、入学金と授業料を合わせて2年間で250万~350万円が相場。オンラインや通信制の大学院だと2年間で50万~100万円で収まることが多いという。ただし、仕事につながる大学院の修士課程の場合、社会人学生は国の「専門実践教育訓練給付金」(2年間で最大112万円)を受給することが可能だ。乾さんは「雇用保険に3年以上加入するなどしていれば認められる、この給付金制度は絶対に活用すべき」と強調する。  社会人向け大学院は一般的に間口が広いのも特徴という。 「研究計画書や職務経歴書と面接がベースです。ビジネス系は特に仕事で培ってきた問題意識が重視されるため、専門科目や英語をガチガチに勉強する必要はありません」(乾さん) (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年7月8日号より抜粋  
リカレント教育熱
AERA 2024/07/06 08:00
「アラフィフの今、新たな命題 定年までのあと10年をどう働くか」ジェーン・スー
ジェーン・スー ジェーン・スー
「アラフィフの今、新たな命題 定年までのあと10年をどう働くか」ジェーン・スー
新たな命題あと10年をどう働くか(イラスト:サヲリブラウン)    作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。  *  *  *  賑やかな商店街から少し離れた住宅街。その一角にある柔らかなアイボリーの壁を持つマンションに、ホッと一息つける一室がありました。  以前、本連載が私のマッサージ放浪記だった時代があります。その際、よく登場したゴッドハンドのAさんが20年以上勤めたサロンから独立し、遂に自分の城を築きました!おめでとうございます。  Aさんは、愛される施術者の条件をすべて兼ね備えた稀有な人。体を預ける相手として必須条件である温厚な雰囲気と性格、常に技術を更新する仕事に対する熱心さ、そして結果を体感できる施術。私も10年以上頼ってきました。  定期的にちゃんと通ったほうが体にはよいのですが、「はやく次の予約を入れてください」とプレッシャーをかけることもない。端的に表すなら、現状をまるごと受容し、解決に導いてくれるような人。  常連客も多く、いつ独立しても大成功間違いなしだったAさんが、50歳の背中が見えてきたあたりでようやく独立。逆に、なぜいま?と気になり尋ねると、「もっとお客様と向き合いたかったから」と答えが返ってきました。 イラスト:サヲリブラウン    客は肉体を癒やすためだけにサロンを訪れるのではありません。体をほぐされていくうちに、誰もが人に言えない悩みを口にするようになるそう。張りつめていた心も緩むのでしょう。サロンを営む別の友人も同じことを言っていた。  Aさんは「答えはお客様がもっている」とも言いました。「答え」とは、お客様がほしかったものを手に入れられたかどうかでしょう。肉体だけでなく、心のわだかまりも解消できたか否か。答えを導きだすには、客の安心と安全が確保できる場所で、じっくり向き合うしかない。そう思っての独立だったそう。  最近、俗に言う異業種転職の脱サラとは異なり、いま持つ自分の技術をより極めるための大人の独立が目立ちます。フリーアナウンサーの堀井美香さんも50歳で独立しました。会社員であり続けたからこそ、定年60歳までの10年をどう働くかを、真剣に考える年ごろなのかもしれません。守られて働いてきた人が、今度は自分の信条を守るため、リスクをしょって沖に出る時期。  晴れて自営業になれば定年の概念など吹き飛ぶのですが、とは言え思うように働ける時間は限られています。私だってそう。後悔のないように生きるには、あと10年どうやって働くか。新たな命題です。 じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中。 ※AERA 2024年7月8日号
ジェーン・スー
AERA 2024/07/04 19:00
〈2024年上半期ランキング エンタメ編7位〉「はんにゃ.」金田哲が「思い出したくもなかった」と語るブレークの裏側 「ダークサイドに落ちそうになった」
唐澤俊介 唐澤俊介
〈2024年上半期ランキング エンタメ編7位〉「はんにゃ.」金田哲が「思い出したくもなかった」と語るブレークの裏側 「ダークサイドに落ちそうになった」
お笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。エンタメ関係の記事の7位は「「はんにゃ.」金田哲が「思い出したくもなかった」と語るブレークの裏側 「ダークサイドに落ちそうになった」」でした(この記事は4月27日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  かつて「ズクダンズンブングンゲーム」などで一世を風靡したお笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さん(38)。コンビ結成から数年しかたっていないにもかかわらず、2008年ごろから大ブレークを果たした。現在は大河ドラマに出演するなど俳優としての顔も持つ金田さんだが、お笑いでブレークした裏では「思い出したくもなかった」と話すほど、心身ともに疲弊していたという。やっと話せるようになったという知られざる「裏話」を語ってもらった。 ​ 「渦中にいるときは、それが幸か不幸かなんて本当にわからないですよね」  人間万事塞翁が馬。お笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さんの座右の銘だ。まさにこの言葉が象徴するような人生を歩んできた。 「18歳のとき、一旗揚げてやろうと田舎から上京してきて、当時は根拠のない自信だけがありました。いま思うと、とんだ勘違い野郎だったなと思います(笑)」  志村けん、とんねるず、ナインティナイン……テレビで活躍する芸人の姿に憧れ、愛知県田原市から東京にやってきた金田さん。2005年、川島章良(あきよし)さんとお笑いコンビ「はんにゃ.」(当時は「はんにゃ」)を結成した。  それから数年後、「エンタの神様」(日本テレビ系)や「爆笑レッドシアター」(フジテレビ系)などへの出演をきっかけに大ブレークを果たした。絶頂期だった08年から10年ごろには、一日に仕事を8~12本こなし、睡眠時間は2~3時間だったという。金田さんは当時をこう振り返る。 撮影中に「変顔」をしてくれた金田さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   実力がないのに前線に放り込まれた 「勢いと無知を強みにブレークしてしまったというか。フツーのあんちゃんが、22、23歳で憧れた人たちと番組で共演することができてしまった。内村(光良)さんとコント番組やったり、ナインティナインさんの『めちゃイケ』(『めちゃ×2イケてるッ!』、フジテレビ系)にも出させてもらいました。その他にも、CMや映画、ドラマへの出演、曲を出して音楽番組にも出ることができました。本当に運が良かったと思います」  プライベートでも、芸能界のスターたちと時間をともにすることができたという。 「岡村(隆史)さんと2人でおでん屋さんでお食事出来たり、志村さんともご一緒に飲ませていただいたことも忘れられません。コントやキャラクターの話をしたり、僕が当時やっていたネタを『やり続けなさい』って言っていただけたり。この数年で本当にいろんな経験をすることができました」  しかし、爆発的な人気の裏では、キャリアの浅さが露呈したこともあったという。「実力がないのに前線に放り込まれて、どの番組もうまくいきませんでした」と話す。 「ネタはウケていたし、評価もされていたと思います。けど、トーク番組とか平場だと全くウケなかったんです」  人気の絶頂期にあった金田さんは、当然、番組の華として中心に置かれることが多かった。その脇を固めるのは、有吉弘行、ブラックマヨネーズ、フットボールアワー、チュートリアル、バナナマンといった「刀を研ぎ続けてきた猛者たち」(金田さん)だった。 「大先輩たちと横並びで出されるのは、めちゃくちゃキツかったです。ネタはフレーズやテンポでウケるんですけど、平場だと人間力とか経験値が全てなんですよね。ベテランの方たちとは、人間としての分厚さが全然違うなと思いました。やっぱり自分の言葉は軽いし、薄っぺらかったんです」 金田哲さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   ロケに行くとひどい暴言を吐かれる  そして、次第に好きだったお笑いが嫌いになっていったという。 「スタッフさんに怒られ、ロケに行くとひどい暴言を吐かれて、SNSでもボロカスに言われて……。でも一方で、テレビで見ていた人たちに僕が憧れたように、僕に憧れを抱いてくれる人たちも少しばかり現れてくれて、その人たちに夢を持ち続けてもらうためにも頑張らないといけない、と自分を追い込 んでたりもしていて、精神的にすごくキツかったです」  当時のテレビ業界は、「スーパーマッチョハードモード」(金田さん)で、朝から翌朝までの収録もざらにあったという。そんななかで金田さんは心身ともに疲弊していった。そのあまりのつらさに、当時のことは思い出すことすらしたくなかったという。 「本当によく今笑顔で取材受けられてるなって思います。最近まで、昔のことは話したくもなかったんです」  当時は、「ダークサイドに落ちていきそうになっていた」という。 「もうしんどすぎて、夜中に家を飛び出して、公園の木に抱きついたときもありました。寝られないし、食べられないし。お世話になったスタッフさんに呼んでいただいた番組でスベり倒して、番組終わりに飲みに行ったら、隣で飲んでる輩(やから)にボロカス言われて、飲み過ぎてゲロ吐いて。で、帰宅してお風呂に入ろうと思って下着を脱いだら、うんこ漏らしてて。それにも気がつかなかったんです。そのときに『俺、終わってるな』って。世間では華やかなデビューをしたと思われていましたけど、その作り上げられたイメージと現実の自分とのギャップがえげつなくて」 大河ドラマに出演する俳優でもありポージングもさまになる(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   孔子や朱子学の本を読みあさった  徐々に仕事もなくなっていったというが、そんな状況でも周囲の人たちは金田さんを支えてくれたという。 「先輩方やスタッフさんは目をかけてくれました。先輩たちが日々、飲みに連れ出して、皆さん、『金田は面白いから大丈夫』と言ってくださって。だから僕も踏ん張れたんです」  どん底を経験した金田さんだが、ここからはい上がっていく。人間としての厚みが足りないことを実感していたため、これを機にいろいろなことを経験していこうと決めたのだという。 「プライベートでもいろんなところに出かけていったり、あとは本を読みあさりましたね。もともと歴史に興味があったので、孔子の『論語』とか、朱子学についての本を読んだり。あとは、哲学とか岡本太郎さんの本とかも読みました。そうやってインプットしたあとに、それを行動に移して。で、めっちゃ失敗しました。でも、それでよかったんです。チャレンジしていくことが大事だったので。今の自分になるには、ブレークもどん底の時期もどちらも必要でした」 「とにかく急上昇と急降下のG(重力)がとんでもなかった」と表現する20代を過ごし、大きな学びを得た金田さん。それから10年ほどがたった今、自分自身に変化は起きたのだろうか。 「正直わからないですけど、自分としては分厚くなってるとはまだまだ思わないです。けど、20代での経験をどうやって次に生かしていくかを考え続けて、意識し続けていけるかが大事だと思ってます。それ次第でだいぶ30代が変わるなって。だから、意識し続けてきました。どん底の経験を絶対に無駄にしたくなかったんです」 ※【後編】<「はんにゃ.」金田哲 大河出演で“イケメン”と話題も「笑いにカッコよさはいらねぇ」と反発した20代>に続く (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●金田哲(かなだ・さとし)/1986年、愛知県生まれ。お笑いコンビ「はんにゃ.」のボケ担当。2005年に吉本興業の養成所で知り合った川島章良とコンビを結成。08年ごろから注目され始め、「エンタの神様」(日本テレビ系)や「爆笑レッドシアター」(フジテレビ系)などで大ブレーク。「ズクダンズンブングンゲーム」は小学生たちの間で大流行した。その後、仕事が激減するが、最近ではTikTokやYouTubeなどのSNSで再び注目を集めている。また、俳優として、映画「燃えよ剣」(21年)、「ヘルドッグス」(22年)などに出演。現在、NHK大河ドラマ「光る君へ」で藤原斉信役を演じ、その演技やイケメンぶりが話題になっている。
はんにゃ金田哲お笑い2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/04 11:00
官僚からキャリアスタートの女性管理職たちの約20年 模索し続けてきた子育てと仕事の両立
三島恵美子 三島恵美子
官僚からキャリアスタートの女性管理職たちの約20年 模索し続けてきた子育てと仕事の両立
官僚として仕事のキャリアをスタートした3人。今は民間で働く白井さんは「最初に厚労省で『働く女性というもの』を間近で見られたことはその後の人生における大きな分岐点」と話した(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    現役官僚と、官僚出身で民間企業で働く管理職の女性たちが、ここ十数年での働き方の変化や、キャリアを積んでいくうえで大切なことなどを語り合った。AERA 2024年7月8日号より。 【鼎談者プロフィール】 元厚労省、現ベネッセ・女性キャリア支援事業部長の白井あれいさん 2003年、厚生労働省入省。法改正担当を経て、マッキンゼー・アンド・カンパニーに転職。子連れでの大学院留学、資生堂を経て20年ベネッセ入社。新規事業等担当。中2、小3の母 こども家庭庁虐待防止対策課長の河村のり子さん 1999年、厚生省(当時)入省後、内閣官房働き方改革推進室企画官などを務める。2014年「霞が関で働く女性有志」のひとりとして「『霞が関的働き方改革』のための10の提言」を発表。中3、小6の母 元総務省、現freee金融渉外部長兼プロダクトマネージャーの小泉美果さん 2007年、総務省に入省、内閣官房やOECDに出向。総務省ではデジタルガバメントや働き方改革を担当。19年フリー株式会社入社。21年から日本金融サービス仲介業協会理事。中3の母 *  *  * 白井あれい:私は平成15(2003)年に厚生労働省に入省しましたが、私たち、夕方になったら、上司のお湯割り作ったりしたじゃないですか。 河村のり子:私は平成11(1999)年の入省だけど、それはなかったけど(笑)。職場でビール飲んじゃうおじさんはいたし、「昭和」でしたね。 白井:さすがに今はそういうのはないでしょうけどね。若手の頃、女性は上の人から飲みに行くぞと呼ばれるから夜になると隠れたりして。 河村:それも私はなかったけど(笑)。あの頃は、まだ働く女性のロールモデルのバリエーションが偏っていたころですよね。ごく一部、子育てされている方もいたけど、完璧すぎるように見えて、自分はとてもこうはなれないって思い悩んでいました。その後、子育てと両立させている女性も増え、工夫しながら、自分で仕事の終わりのリミットを設定するなどして自律的な働き方をするメンバーが増えた。それに伴って組織の仕事の回し方も変容したと思います。夜じゃないとできない仕事なんて、たいしてないですから。 元総務省、現freee金融渉外部長兼プロダクトマネージャー:小泉美果さん   小泉美果:私は平成19(2007)年に総務省に入省し、配属先は「行政管理」という分野でしたが、当時、女性が少なく、いわゆる「かわい子ちゃん」みたいな扱いをされるので、すごく嫌だし、しんどかったですね。 河村:確かに、厚労省でも私が20代の頃のほとんど女性がいなかった時代は、たまに自分は女性だな、と意識することもありましたが、ここ15年ぐらいは意識したことがなくて。なぜかと考えると、女性の採用数が増えて、女性の管理職が当たり前にいて、性別による違いよりは個人差の方がよっぽど大きいという感覚が自然に生まれていったからかもしれません。 母親像への期待大きい 白井:職場に15%しか女性がいないと“女性”と見られますね。35%が、「女性」と総称されなくなるティッピングポイント(転換点)と言われています。キャリアの最初に厚労省で「働く女性というもの」を間近で見られたことは、本当に幸せな経験であり、その後の人生における大きな分岐点だったと最近強く感じています。 小泉:私は総務省に12年間いましたが、シングルマザーということもあって、子どもが小さいころは、周囲に特別扱いを求めているとか、難しい仕事をアサインしにくいとか、ネガティブに捉えられるのが怖くて、職場では子育てを理由に仕事を断ることを極力避けていました。同時に、いわゆる「母親業」も完璧にやらねば、と思っていました。恥ずかしながら、当時は自分にとってベストな働き方を考える余裕もありませんでした。 白井:小泉さんも子連れで留学もされているんですね。 小泉:ひとり親なので連れていくという選択肢しかなかったのですが、留学に行っていなければ、働き方や子どもとの関係を見直せていなかったかもしれません。留学中に日本は母親像に対する期待がとても大きいって気づいて。その後、民間企業のフリーに移り、いまは大学でも授業をもっていますが、管理職・教員として、自分が感じていた息苦しさを他の人が繰り返さなくて済むように、「私も失敗しながら育休やら留学やら転職やらギアチェンジしてきた。働き方のギアチェンジは、ライフステージに変化があってもなくても、自分でやりたいようにやっていい」という等身大のメッセージをもっと伝えていかないといけないと思っています。 こども家庭庁虐待防止対策課長:河村のり子さん   誠意もって相談すれば 河村:私は出産して復職した時に、両立ってキツイなと思う瞬間があったんです。そのとき職場の上司や同僚には洗いざらい状況を話して、自分としてはここまでは頑張れるけど、ここから先はきついっていうのを相談しながらやってきました。案外、人は誠意をもって相談すれば状況を理解してくれる。今、管理職の立場になって、部下には子育て中で時間制約があって曜日によって働くペースを変える人もいれば、テレワークを入れながら一定のペースで働く人もいます。昔に比べれば長期的なスパンで仕事を持つようになった。やってみれば、大体のことはできるんじゃないか、と。周囲に相談しながら、自己規制というか、諦めちゃう気持ちを払拭していくことが、自分にとって働きやすい働き方をつくるコツなんじゃないかと思っています。 白井:私は民間企業に移ってから妊娠したんですけど、上司の女性が「あなた産むの?」って言ったんです。それがすごくショックで。自分の中で「キャリアが終わる」って感じたんですよね。あの時は自分の中のキャリアの軸が決まってなかったから迷ってしまった。でも産んだ瞬間に、それが全部なくなったんです。自分の軸は「この子がいて幸せ」になった。両立もそこまで追い込まれずにやれたのは、家族の支援と、この軸があったからこそ。熱が出てお迎えで早退するときも、自分が行きたいから行くのだと思えた。出産する人生、子どもがいない人生ということも含めて自分が決めることだったのに、なぜあの時は他の人の“呪い”に乗っかってしまっていたんだろうってあとから思いました。 河村:私の場合は最初から軸は決まっていました。人の困難を少しでも解決できる仕事をしたいという想いで働いていて、このやりがいある仕事は続けたいけれど自分の生活や子どもを犠牲にしてまでは働けない。その軸を持って周囲を見渡したら、同じ想いの仲間がいたので霞が関の働き方改革のために提言をまとめたりできたと思います。 白井:それが大事だなと思います。その軸が決まっていたからこそ、主張できるわけですから。 小泉:私自身は、女の子だったからおとなしくしてなさい、自分の意見を主張するよりも周りに合わせなさいと言われて育ちました。伝える訓練をしてこなかったので周りの都合にふり回されてきた部分があります。だからこそ自分のロールモデルがあると主張しやすいと思うし、いろいろなロールモデルが必要だと思います。 元厚労省、現ベネッセ・女性キャリア支援事業部長:白井あれいさん   白井 ベネッセで6月からの新規事業で女性の支援サービス「withbatons」を開始しました。若手の会社員が他の会社の女性リーダー6人と一対一で対話ができるというものです。実はキャリア研修のいちばん最初に話すのが、「完璧なロールモデルはいません」ということです。特に若い世代はロールモデルというと100点満点の誰かにすがりがちです。でも、それはやめた方がいい。それってつまり自分の軸が見つからないってことだと思うからです。事業でも「大事なのは6人の中の人からロールモデルを探すのではなくて、それぞれに会った時に自分がいいなと思ったところを切り取ること、と伝えています。その切り取るということは自分自身の価値観・キャリア観なんですよね。これは、パーツモデルを集めるともちょっと違っていて、そこのパーツを切り取った自分のキャリア観をちゃんと育てていかなきゃいけないんです。「ロールモデルを探す」の話にしちゃうと、青い鳥症候群で終わっちゃうから。 河村  そこに刺激をうけて、自分はこうなりたいって自分を作っていくということですよね。 「活躍」支援との両輪で 白井:両立支援は充実してきましたが、活躍支援とごっちゃにしすぎていると感じています。管理職の意向を調査すると、男女とも管理職になりたがらない。でも男女では内容が違っていて、女性は「なりたくないし、なれる気がしない」。男性は「なりたくないけど、やれと言われたら俺はできる」と。男性の場合は、身近に「あのやり方なら俺もできる」という男性管理職がいるわけです。一方で、女性管理職はまだ限られていて「あそこまでやらないといけないのか、それは無理」となるんです。多いのは両立支援ばかりをやって「これだけ整えているのに管理職をやりたくないっていうのは、女性側の意欲がないから」とされてしまう。両立支援と活躍支援は両輪でやらないと。 小泉:いま慶應義塾大学SFCで「ジェンダーと社会経済」という授業をもっています。性別関係なく、働くことに不安があるからこの授業をとったという学生が多くて、働き方改革が進んだとて「結局マッチョさが求められるんじゃないの」というネガティブなイメージをもっているようです。どうやったら学生たちに自分らしく働けそうと思ってもらえるかを考えることが、どうやって女性管理職を増やすか、に通じるなと思います。白井さんが活躍支援の必要性を挙げていましたが、「自分らしい心地よい働き方を見つける支援」と、河村さんがおっしゃっていた「事情を周囲に伝えやすい環境づくり」に、管理職がコミットすることが肝になると思います。 (構成/編集部・三島恵美子) ※AERA 2024年7月8日号  
woman女性特集➁
AERA 2024/07/03 07:00
〈2024年上半期ランキング 社会編10位〉「セクシー田中さん」脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も
板垣聡旨 板垣聡旨
〈2024年上半期ランキング 社会編10位〉「セクシー田中さん」脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も
 早いもので、2024年も折り返しです。1月~6月にAERA dot.に掲載され、特に多く読まれた記事をジャンル別に、ランキング形式で紹介します。社会関係の記事の10位は「『セクシー田中さん』脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も」でした(この記事は2月1日に掲載したものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。 *   *   *  漫画「セクシー田中さん」の原作者、芦原妃名子(本名・松本律子)さん(50)が亡くなったことに追悼と驚きの声があがっている。自殺とみられるが、原因はわかっていない。ただ、セクシー田中さんのドラマ化の過程でトラブルがあったことが、死亡が確認される数日前のSNSの投稿内容からうかがえた。原作とドラマで内容が変わるのはなぜなのか。そこには演出上の問題や、芸能事務所とテレビ局との関係性といった事情が影響しているようだ。出版社の編集者やテレビ局のドラマ担当者らに聞いた。   「ドラマ化の際に、原作者と脚本家がもめることはよくあります」  都内の出版社で漫画の編集者として勤務する30代男性はこう語る。  今回のセクシー田中さんのケースでも脚本をめぐり、芦原さん側とテレビ局、脚本家側との間でもめたようだ。 脚本家の存在意義を考えさせられた  セクシー田中さんは、累計発行部数が100万を超える人気漫画で、「姉系プチコミック」(小学館)で連載している。主人公の「田中さん」は、昼間は一般企業の経理部で働く地味なアラフォーOL。一方、夜はセクシーな衣装で踊るベリーダンサーの顔を持つ。そんな田中さんを中心に、まわりの個性的なキャラクターとの人間模様が描かれている。  日本テレビ系でドラマとして実写化され、昨年10月から全10話が放送された。主人公は俳優の木南晴夏(38)が演じた。  テレビドラマ版の脚本を1~8話まで手がけていた脚本家の相沢友子さん(52)は、ドラマの最終回が放送された12月24日、自身のインスタグラムで、 「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」  と報告。28日には、 「私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」  などと更新した。 【あわせて読みたい】 「セクシー田中さん」の件で漫画原作について考えた鈴木おさむ 感謝を感じながら作ることしかない https://dot.asahi.com/articles/-/213013?page=1 ドラマ「セクシー田中さん」で“伝説のベリーダンサー”を演じた未唯mie    脚本家にとっても「苦い経験」として大きな出来事だったことが文面から伝わってくる。  一方、芦原さんは1月26日に自身のX(旧ツイッター)で、 「色々悩んだのですが、今回のドラマ化で、私が9話・10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、小学館とご相談した上で、お伝えする事になりました」  と前置きした上で、今回ドラマ化する際の条件について、 ▽必ず漫画に忠実に。忠実でない場合は加筆修正する ▽原作が未完のため、今後に影響を及ぼさないようドラマオリジナルとなる終盤は、原作者があらすじからセリフまで用意する ▽これについては、原則変更なし。場合によっては芦原さんが脚本を執筆する  といったことを条件に出したという。また、これらの条件が脚本家や監督、制作スタッフらに失礼なことであることも理解していたため、 「この条件で『本当に良いか』ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後でスタートした」  と経緯を書いている。 キャラクターのアイデンティティーの変更は絶対に許せない  前出の編集者がこう語る。 「漫画がテレビや映画などで実写化される際に、セリフや原作にないシーンが追加されることがあります。それを、原作とは全く異なる作品、として割り切ったり、まあまあ許せたりする漫画家がいる一方で、原作の再現にこだわる方もいます。キャラクターのアイデンティティーが変わるなどは絶対に許せないでしょう」  ところが、今回の芦原さんのXでは、ドラマ化が決まって以降、 「毎回、漫画を大きく改変したプロットや脚本が提出されていました」「個性の強い各キャラクターが原作からかけ離れた別人のように変更される」  などがあったとし、何度も脚本の加筆修正を繰り返したと書いている。  9~10話はもめた末、芦原さん自身が脚本を書くことで解決したという。  原作と映像化された作品に違いが出てくるのはなぜなのか。  大手テレビ局のドラマ監督が説明する。 【こちらもおすすめ】 “セクシー田中さん”効果でブーム再来? 「ベリーダンス」に主婦やシニアが熱中 https://dot.asahi.com/articles/-/207085?page=1 「原作のストーリーを、そのまま1~2時間の尺(時間)には落とし込めないんです。漫画のコマで面白いものでも、映像となるとその面白さが通じないこともしばしばあります。漫画とテレビでは伝え方が違いますから」  そして、出演者の所属事務所との関係性も影響するという。 「芸能事務所との関係で、こっちの俳優の尺はこれ以上削れない、といった問題が出てきます。必ずしも原作者の希望通りに現場が動けるとは限らないんです」  と打ち明け、こう話した。 「脚本家やテレビ製作陣らの仕事は、原作者と話し合って、盛り上げどころを決めたり、尺に合わせて取捨選択をしたりすることです」  原作者と制作側とのこうしたトラブルを避けるために、契約時に大きな役割を担うのがライツ業務だ。出版社側が、原作を映像化・商品化するときの窓口業務を担い、契約交渉や著作物の複製や販売についての権利などの管理を担う。 原作者が脚本を書くのは異例中の異例  都内の出版社でライツ業務を担当する男性(40代)は、 「原作者が脚本家に修正の依頼をすることは多々ありますが、ドラマの途中から脚本家の代わりに原作者が脚本を書くというのは異例中の異例。これまで聞いたことがありません」  と指摘する。  漫画が実写化される際、出版社が原作者の代理人としてテレビ局などと契約書を結ぶ。前出のライツ担当の男性によると、契約の際に最も注意を払うのは「著作者人格権」だという。著作者人格権とは、著作権の一部であり、著作物で表現された内容、キャラクターに対しての名誉権などを指す。  原作者の思い入れなども対象となり、作品内の登場人物のキャラクター性なども含まれる。例えば、原作ではおとなしい性格のキャラクターが活発になっていたり、派手になっていたりした場合などは、その権利が侵害されたということにもなる。そのためライツ担当者は、契約時に著作者人格権が侵害されていないか特に注視するという。  また、原作者と脚本家との間には、漫画の担当編集者やライツ担当、テレビ制作陣や脚本マネジャーら多くの人が介在する。そのため、互いの主張が伝言ゲームとなり、適切に伝わらないこともしばしばあるという。 「映像化を円満に進めるため、原作者と脚本家がひざを突き合わせて話し合うこともあります。直接の話し合いの場は、トラブルを回避するための有効な手段です」(前出・ライツ担当者)  しかし、芦原さんのXによると、 「私達は、ドラマの放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることはありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマの制作スタッフの皆様とも、ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります」  と説明している。 小学館と日本テレビは説明責任がある  前出のライツ担当者は、 「脚本の修正依頼も多くきているなかで、トラブルに発展する可能性を減らすという意味で一度は話し合うべきでした。テレビスタッフや脚本家ら制作陣営が、原作者の気持ちに沿えるかどうか。その点のリスペクトは必要不可欠で、そのための場は設けなければいけません」  と指摘し、こう続けた。 「なぜこのような問題が起きたのか、小学館と日本テレビは説明する責任があるはずです」  日本テレビは1月29日、ドラマの公式サイトで、芦原さんへのお悔やみの言葉を述べた上で、 「『セクシー田中さん』につきまして、日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております」  とコメントしており、芦原さんの主張とは少し食い違いがあるようだ。  小学館は1月30日、プチコミックの公式サイトで、 「先生の生前の多大なご功績に敬意と感謝を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生が遺された素晴らしい作品の数々が、これからも多くの皆様に読み続けられることを心から願っております」  などとするコメントを発表した。脚本をめぐるトラブルについての言及はなかった。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨) 【あわせて読みたい】 個性派女優「木南晴夏」が封印していたセクシー路線“解禁”の理由 https://dot.asahi.com/articles/-/200317?page=1
芦原妃名子セクシー田中さん日本テレビ小学館2024年上半期ランキング
dot. 2024/07/01 17:00
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大谷百合絵 大谷百合絵
愛子さまご誕生時は学内全体で“Congratulations!” オックスフォード大研究員が明かす「大学と両陛下」秘話
 オックスフォードを再訪し、雅子さまが留学されていたベーリオール・カレッジ周辺を歩く両陛下(写真は楠さん提供)  天皇皇后両陛下は、英国ご訪問の最終日となる28日、ともに留学生活を送った思い出の地、オックスフォードを散策される。30年以上の時を経て訪れる母校や街の景色に、お二人は何を思われるのだろうか。同大で脳科学の研究員として20年以上勤務する楠(くすのき)真琴さん(65)に、オックスフォードの「今」と両陛下と大学に関する“秘話”を聞いた。   *  *  *  オックスフォード大学は今、卒業式とオープンキャンパスの季節を迎えている。楠さんによると、式を終えた学生たちが公園で大騒ぎしたり、天皇陛下が留学していたマートン・カレッジにも受験生がひっきりなしに出入りしたりと、街は若者であふれ、「自転車で走るのも大変なくらい」のにぎわいを見せているという。  留学時代を過ごしたのは、天皇陛下が1983年~85年、皇后雅子さまが88年~90年だ。大学や街並みはどう変わったのだろうか。天皇陛下の著書である留学記『テムズとともに――英国の二年間』(紀伊國屋書店)を参考に、楠さんにひもといてもらった。(【】内は著書からの引用)。 【私が初めてオックスフォードで自転車に乗った日、これを見たある学生が、私に「ああ、君もこれで本当のオックスフォードの学生になったね」と言ったが、それほどに学生と自転車は切りはなせないものとなっている】 【中世のたたずまいを今に残すオックスフォードの町並みを、ガウンに蝶ネクタイの姿で歩くのもなんとはなしにオックスフォード的でよい】  オックスフォードは今も昔も、自転車があれば十分回れるほどの小さな町。学生たちは買い物をする時も映画館やパブに出かける時も、相変わらず自転車を乗り回しているという。   英国留学中、寮の自室でほほえむ天皇陛下  とはいえ、「ここ10年くらいでオックスフォードも変わってきた」と、楠さん。古い建物を改修しつつ守り継ごうとする人がいる一方で、「ちょっと周りと合わないモダンで芸術作品みたいな建物」が建ったり、大きなショッピングモールができたり。郊外の放牧地や森は開発が進み、数百軒単位で各地に新しい住宅が作られている。街中では車と自転車がぶつかる事故も増えているそうだ。  楠さんは、「経済的に大きくなりつつあるオックスフォードを見て、陛下も驚かれるかもしれませんね」と推察する。 両陛下が通われた中華料理店は今… 【一九八五年の三月には弟の秋篠宮がオックスフォードを訪ねてくれたので、~中略~夜は私が時々行く中華料理店に案内した。弟は大学で覚えた中国語で店員と上手に会話をしていた】  今回の両陛下英国訪問に際し、お二人が何度か訪れたという中華料理店の店主がメディアのインタビューに応じている。報道では、天皇陛下がマーボー豆腐とライスのセットをお好みだったことや、雅子さまが友人と北京ダックを召し上がっていたことが明かされていた。  当時は「Opium den」という学生にも人気の本格中華の店を営んでいたが、コロナ禍を機に閉店。店主はその後一念発起し、今は小さなヌードルショップ「TSE NOODLE」を営んでいる。楠さんも時折ランチを食べに訪れるといい、「中国人も好んで通う本場の味」は今も健在のようだ。  学生たちのキャンパスライフには変化はあるのだろうか。 【(寮の)ベッドの上の窓枠の隙間から入り込む風は異常に冷たかった】 【自分用の風呂があることには感謝すべきであるが、浴槽に約半分ほど給湯すると湯が出なくなってしまい、およそ温まるという状況には程遠い有様である】 【私はここ(大学の食堂)で出されるゆで過ぎとも思われる芽キャベツが大好きで、いつも多く取っていたが、ある時そばにいたイギリス人の友人から何でこんな物がそんなにおいしいのかと聞かれたことがあった】 英国留学中、大学周辺で自転車に乗る天皇陛下 上の写真が撮影された場所の現在の様子。当時とほとんど変わらない姿を残している(写真は楠さん提供) 「寮は築数百年の建物なので、みんな『暖房が入らない』とかしょっちゅう文句を言ってますよ(笑)。陛下がお好きだったという芽キャベツは、少し苦みと辛みがあって、クリスマス料理の付け合わせのイメージですね」と、楠さん。イギリス人は野菜をとろっとやわらかくして食べるのが好きで、日本人には相変わらず「ゆで過ぎな感じはある」そうだ。 テニスの代表選手に選ばれた陛下  陛下は『テムズとともに』の中で、余暇としてスポーツに打ち込んだ経験もつづっている。 【ボートの練習は、男女混合のクルーの一員としてコレッジの艇庫からボートを出すことから始まった。私の後ろの女子学生が船を持つ位置や運び方をていねいに教えてくれた。それにしても女性も実にたくましい。きゃしゃな体格でも力は相当ありそうだ】 【テニスの後に、冷えているとはいいがたいビールで喉を潤すのも、これまた気持ちのよいものである】  ボート、ジョギング、登山、スキーなどさまざまなスポーツに挑戦する中、とりわけ熱中されていたのがテニスだ。マートン・カレッジの代表選手に選ばれてカレッジ同士の対抗戦に臨んだこと、体格的なハンディを感じつつも必死で球を打ち返すうちに逆転したこと、試合後は主将がいつも“Well done, Hiro.”と声をかけてくれたことなど、事細かに記されている。  楠さんによると、今もオックスフォードの学生たちは大半がスポーツのサークルに入り、上手に息抜きをしているという。また、大学を出ると大きな公園が広がっていて、郊外には数百年前の姿のままとも言われる美しい田園地帯「コッツウォルズ」が広がる。   そんな豊かな生活が保障された環境で、陛下は心置きなく研究に没頭された。 【(オックスフォード暮らしにおいて)最も大きなウエートを占めていたのはもちろん研究生活である。~中略~研究という一つの柱を通して私は数々の貴重な経験ができ、様々な人と出会え、研究者であればこそ味わえる感動を覚えたことも確かである】 英国留学へと出発する雅子さま  オックスフォードの学生たちは、生活がほぼキャンパス内で完結するほど、研究漬けの日々を送る。学問を志す仲間たちと、寮や食堂や図書館で四六時中顔を合わせることで、カレッジ内の人間関係は濃密なものになるという。  楠さんは、両陛下の留学先として見た時のオックスフォードの利点について、同じ英国の名門大学であるケンブリッジ大と比べても、政治関係者との人脈を築きやすいことを挙げる。卒業生には、マーガレット・サッチャー氏やデーヴィッド・キャメロン氏など英国歴代首相のほか、ミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スーチー氏、オーストラリア元首相のマルコム・ターンブル氏など、各国の政界の重鎮が名を連ねる。 「雅子さまが外交官時代に留学されたように、今もさまざまな国の中央省庁から留学生が派遣されています。世界中から優秀な人を集める強力な力を持ち、学びを深めることに特化した、歴史と伝統のある大学です」(楠さん) 「このまま時間が止まってくれたら」  著名人や王族など世界のVIPたちを輩出するオックスフォードだが、両陛下とは特に強い結びつきを感じさせるエピソードがある。楠さんによると、2001年の愛子さま誕生の際、大学職員のメーリングリストに“Congratulations!”と祝意を伝えるメールが流れたのだ。メーリングリストは学内の連絡事項を共有するためのもので、卒業生に関するニュースが流れたことは後にも先にもなく、印象的だったという。  研究、余暇、そして仲間との親交。2年間にわたる充実のキャンパスライフは、85年10月、幕を閉じる。帰国間際の心境について、陛下はこう振り返る。 【再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないであろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう】 天皇陛下が留学されたマートン・カレッジの現在の様子(写真は楠さん提供) 雅子さまが留学されたベーリオール・カレッジの現在の様子(写真は楠さん提供)  天皇陛下という立場になった今、再びオックスフォードの地を踏む心中について、陛下と同年代の楠さんはこう察する。 「この歳になると、大学院で得た学びや友人はとても大事なものだったと思うし、陛下も青春時代を懐かしんでいらっしゃるのではないでしょうか。社会に出ると、仕事上の付き合いや利害が発生する人間関係が増えますが、天皇というお立場であればなおのこと。オックスフォードで過ごした日々は、気の置けない友人と自由に過ごす、最初で最後のかけがえのないものだったことでしょう」  念願の再訪で両陛下に許された時間は、わずか1日。時計の針を巻き戻し、当時の思い出に浸る穏やかなひとときとなることを、願ってやまない。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
天皇皇后両陛下天皇陛下雅子さまオックスフォード
dot. 2024/06/29 11:00
「うっせーんだよ!」 街でキレる女、カプセルホテルに住む女 東京の地獄は都知事選で変わるのか  北原みのり
北原みのり 北原みのり
「うっせーんだよ!」 街でキレる女、カプセルホテルに住む女 東京の地獄は都知事選で変わるのか  北原みのり
写真はイメージです/gettyimages    作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は女たちの生きざまに見る、もはや「地獄」化した街・東京について。 *    *  *  朝、バス停に並んでいたときのこと。私の2人前くらいに、お母さんと手をつないでいる5歳くらいの女の子がいて、その子が「バスまだかなまだかな〜」と大きな声で歌っていた。女の子オリジナルの歌。女の子の声はどんどん大きく、テンポはどんどん速くなっていき、そんな自分の歌声に女の子自身が興奮しちゃって、歌いながら時々笑い声も交じっている。 私は手元のスマホを見ながらその子の歌をなんとなく聞いていたのだが、突然、「うっせーんだよ!」と野太い声が私に降りかかってきた。 ハッ?と顔をあげると、目の前に眉間に深い皺を刻んだ女性(肌の感じでは40代?)が、女の子に背を向ける形で、それでも母親にはハッキリと聞こえる程度の音量で、うっせーんだよ、と吠えているのであった。  バスに乗る気が失せ列を離れ、少し歩くことにした。けっこうな衝撃で心臓がばくばくしているのがわかる。子どもに本気でキレる大人の姿は見慣れているつもりだった。それなのにバスを諦めて歩くくらいにショックを受けているのは、それは多分、彼女が女性だったから、なのだと思う。 もし、「うっせーんだよ!」と言ったのが男性だったら、私は何も考えず反射的に「いい加減にしたら?」と注意してしまうくらいのフェミニストではある。友だちに「危ないから見知らぬ男性を注意しないほうがいい」と言われても、身体が動いてしまうのだ。それでも私は女性には何も言えない。女性だから子どもに優しいわけではないのは当然の前提で、子どもの声にキレるくらいに壊れてしまっている女性を目の前にしたときに、かける言葉が何一つ思いうかばなかった。  この話を会社でしたところ、「街でキレる女」の話になった。あるスタッフは、電車の中でオジサンにキレる女性(40代?)がいたという。隣の席の中年男性の新聞が邪魔だったらしい女性が「腕があたるんだけど! 朝からいらつかせないでよ!!!!」と車内に響く大声を出していたという。言われたオジサンのほうはその剣幕に怯みパニックになっていたそうだ。別のスタッフは、ちょっとうれしいことがありケーキを買って自宅に帰る途中、向かいから歩いてきた女性(50代?)に「笑顔がむかつくんだよ!!!」とどつかれたという。  ため息をつきながら私たちはみな同じことを言う。 「もし彼女が男だったら……」  それは不愉快だけど見慣れた光景である。「公共とは男のためにできている」と信じて疑わない男性ジェンダーをすくすくと生きてきた一部の男性が、女にわざとぶつかったり、女を叱りつけたり、子どもにキレたり、男同士で罵り合ったりする姿は幾度と見てきたし、私自身も被害にもたくさんあってきた。でも、こんな風に中年女性たちが、同じ女や子どもにキレる姿が同時多発する事態は、どのように考えたらよいのだろう。 何より複雑なのは、私が「キレる女」に味わう感情である。女性や子どもにキレる男性へは怒りや悔しさしかないのに、キレる女に対して抱くのは、一言で割りきれない複雑な痛みである。その痛みは同情であり、恐怖であり、不安である。なぜ彼女たちはそうなってしまったのか……という全ての想像は、彼女が女だったから……というものにつながるような気がして、ひたすらに痛い。  そんな話をしていたら、女友だちがカプセルホテルで出会った女性の話をしてくれた。激安のカプセルホテルで、たまたま隣りあわせになった50代の女性とお酒を飲んだという。50代の女性はほぼ持ち合わせがなく彼女が奢ったそうだが、女性は若いときに世界中を旅した話を詳細にしてくれたという。イギリス領だった香港を旅した時のときの喧騒、中国大陸を列車で移動したときの行程、東南アジアをバックパックしたときに出会った現地の女性たちとの会話……鮮やかな記憶から語られる想い出は尽きず、聞き惚れるほど楽しいものだった。  その女性は今、夜中に清掃の仕事をして暮らしているという。友人が見たところカプセルホテルの常連らしく、というより定住する場所がなく、ほぼそこで暮らしているように見えたという。何年も着込んでいるようなハイビスカスが大きく描かれた派手なTシャツに、スーツケース一つで生きている女性が、「今の生活」についてを慎重に避けながらも昔見た景色を活き活きと語るのを聞きながら、友人は胸が締め付けられるような思いになったという。 「上から目線の同情」と言われるかもしれない。でも、彼女が感じたのは、ハッキリと同情であり、そして、「私ももしかしたら、将来はこうなるのかもしれない」という不安であり、そう感じてしまうことで味わう女性への罪悪感であり、痛みだった。未来に希望を感じられない、安全を感じられない、政治に守ってもらえると思えない、どうやって生きていけるのだろう。どうやって年を取っていけるのだろう。  コロナ禍に、エッセンシャルワーカーの女性たちの多くが失業した。中高年女性の中には失業した途端に家を失うような生活を強いられた人も少なくなかった。その中に、60代の女性、大林三佐子さんがバス停で休んでいるところを男性に撲殺される事件が起きた。所持金は8円。亡くなる数カ月前まではスーパーの試食販売員として仕事をしていた。  大林さんの事件が衝撃だったのは、日本社会の停滞に巻き込まれるように人生を奪われる無数の「大林三佐子さん」がこの社会にいることを私たちに突きつけたからだと思う。そして大林さんが亡くなって3年以上過ぎ、バス停ではなくカプセルホテルに泊まれるのは「まだましなほうだ」と思ってしまうような、そんな社会を私たちは生きているのだ。  東京都知事選が山場を迎えている。不安の強い社会で勝つのはどのような候補者なのだろう。現都知事は「不安なんてありません」とでもいうようにニッコリ不敵に微笑み続けているが、8年間の小池都政の下、女性たちを巡る環境がよくなったといえるだろうか。    潤沢な財産をもつ都政でありながら、小池さんは福祉予算を削ってきた。派手なPRには予算がどんどん注ぎ込まれるが、地味な福祉への予算管理は厳しくなる一方で、特に女性福祉に関しては人も予算も足りていない。そういう中、私が関わる福祉施設では、30代で妊娠した女性が会社が提供する単身者用の住居から追い出され、相手の男には逃げられ、とたんに仕事を失うしかない状況が報告されてきている。30代で会社勤めの女性が妊娠をきっかけに路頭に迷う、なんてことは福祉の現場でもこれまでなかったことである。生きるか死ぬかを生きる女性たちのリアリティーは、政治でしか救えない。  街でキレる女、仕事を失う女、希望を失う女、生活を失い、命を失う女……そんな女たちが可視化されている首都東京の地獄は選挙で変えられるだろうか。
dot. 2024/06/26 16:00
【「光る君へ」本日25話】踊って出世「庭の清掃」が権力の証 現代の常識で捉えきれない源氏物語の世界
【「光る君へ」本日25話】踊って出世「庭の清掃」が権力の証 現代の常識で捉えきれない源氏物語の世界
砂崎 良(さざき・りょう)/フリーライター。東京大学文学部卒。古典・歴史・語学など、学習参考書を中心に執筆。『平安ものことひと事典』『源氏物語ものことひと事典』(共に朝日新聞出版)のほか著書多数。『まんがでSTUDYはじめての♡源氏物語』(朝日新聞出版)も監修  1月の『平安 もの こと ひと 事典』に続き、6月20日に『源氏物語 もの こと ひと 事典』を発売したライターの砂崎良さんが、6月15日、朝日カルチャーセンター新宿校で「用語でみる平安時代、源氏物語の世界」と題した講座を開いた。源氏物語は、用語の意味や時代背景を知らずに読むのと知って読むのとでは面白さがまったく違う。このことを、具体例を挙げながら解説した。  実際、砂崎解説を聞くと源氏物語の「解像度」が一気に上がる。その一部を、ここで特別に公開したい。  現代人が源氏物語を読むと、「平安貴族は、恋や宴に時間を使い、優雅に遊び暮らしていた」というイメージを持ちがちだ。砂崎さんは、「それは誤解だ」と話す。  例えば、第7帖「紅葉賀」の、光源氏が「青海波(せいがいは)」を踊る場面。青海波とは、左右二組に分かれて演奏する舞楽の左グループが披露する曲で、2人がペアになり西域渡来の青海波模様(同心円を重ねた幾何学模様)の衣装をつけて舞う。光源氏はこれを親友かつライバルの頭中将(とうのちゅうじょう)と共に舞い、格段の出世をする。  ちょっと舞を舞うだけで出世とは、と思うかもしれない。だが、砂崎さんによれば「平安人は、この舞を観ている人たちがこんなに喜んでいるということは、きっと神様も喜んでいる、と考えるんです。結果、厄災も防げるだろう、と。つまり、光源氏が青海波を舞うという行為は、今で言うと、防災対策に力を尽くしたことに等しいんですね」。  第18帖「松風」に出てくる「遣水」の清掃シーンも、平安人の常識を知れば単なる掃除ではないことがわかる。遣水とは、当時の庭園で人気だった小川のようなもののことで、自然に近づけるためにわざとくねくねした形にするのが人気だった。理想は東から南西へ流すこと。「松風」では、都近郊に越してきた明石君(あかしのきみ)を久しぶりに訪ねた光源氏が、その翌日にいきなり、遣水を清掃させる。紫式部はその光源氏の姿を「なまめかしい」と書いている。「なまめかしい」は、若さや生命力があふれる魅力を指す言葉だが、当時は、官能性のある「色っぽい」という意味も持ちつつ、天皇家特有の美質や高貴さ、上品さを表現する語として使われていた。 「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された毛越寺に残る遣水  遣水の清掃が「なまめかしい」のには理由がある。遣水周りのもろもろは、平安人にとっては男性の仕事。「流れは東から南西へ」ということを含め、適切に処理する知識があるのはハイスペックな男性のみだったから、明石君とその家族は「うちの婿殿、すごい」と感じたことだろう。しかも、男性が女性のもとを訪ねる通い婚だった当時、朝になってもすぐに帰らず清掃を指揮する姿は、光源氏が明石君との関係を公にしていい、と考えていることの証左だ。「今後も責任を持ちます、という気持ちをみせてくれたようなものです」と砂崎さん。  青海波一つ、遣水一つとっても、言葉の意味と背景を知るだけで、多くのことが読み取れることがわかる。 宮中に参内する際に男性が着用した「束帯」。紫(または黒)を身に着けることを許されたのは、原則、一位から三位までの高級貴族のみ(イラスト 鈴木衣津子)  遣水周りが男性の仕事なら、装束周りは女性の持ち場。男性は束帯姿で内裏に出勤するが、その仕立ては妻の仕事で、「妻とその実家の力量を示す機会でもあった」と砂崎さん。第38帖「鈴虫」には、紫の上が自ら女三宮(光源氏の正妻)の法事のために縫製をしたと書かれている。天皇の子である女三宮はあまりにも格が高いので、紫の上自身が仕立てを行い、その縫い目が「見事」だった、と。  砂崎さんによれば、装束の仕立ては当時の女性にとって、縫いや色のセンスを含め優秀さのみせどころでもあった。第6帖「末摘花」や第15帖「蓬生(よもぎう)」に登場する末摘花は、器量が悪かったために捨てられたというイメージが強いが、実は光源氏は不器量であることは問題にしていない。ハイセンスな会話ができない、感性が鈍い、と感じることがあった後に、器量がよくないということがわかり、極め付きが装束のプレゼントだった。  世間に公表するほどの関係には至っていないのに装束を送ってくるという空気が読めない感じに加え、あきれ返るほど質の悪いものが届いた。光源氏はこのことを「あさまし(がっかりだ/嘆かわしい)」と思ったのだ。第11帖「花散里」に登場する花散里も不器量だったが、衣服を作るということにかけては素晴らしかった。結果、光源氏の邸宅「六条院」に住居を得ている。  もう一つ、砂崎さんの講座で目からうろこだったのは、平安貴族たちの忙しさの背景だ。 第6帖「末摘花」に、朝早く光源氏の寝室に頭中将が乗り込んでくるという場面がある。「内裏から来たのか」と問う光源氏に「そうだ」と答えた頭中将は、こう続ける。「予定されている朱雀院への行幸で、誰が演奏して誰が舞うのかを今日決める。このことを昨夜、帝から承った。それを伝えに来た。また内裏に帰る」。  このあとふたりは一つの牛車(ぎっしゃ)にのって内裏に出勤していくのだが、メールも電話も郵便もなかった平安時代、平安人たちは行事の準備のために、牛車に乗って「今日ミーティングやるよ」を参加者一人一人に伝え回った。そして、もろもろのことを「縁起のいい時間」に行うために、常に時間を気にしていた。誰かが来ないという場合も、牛車で出かけていって叱責する。藤原道長の側近として活躍した藤原行成が残した日記「権記(ごんき)」からは、彼が連絡係をしていた当時、月に1日ないし2日しか休んでいなかったと思われる出勤記録が残っている。  砂崎さんは言う。「用語を正確に把握すると、現代の感覚では見逃したり誤解したりしてしまう場面に気づくことができる。作者がこれを書くことで何を言おうとしているのかがわかる。当時の常識を踏まえれば読み解けるところが、源氏物語にはまだたくさんあるんです」。 (構成 生活・文化編集部)
平安ものことひと事典源氏物語ものことひと事典砂崎良朝日カルチャーセンター
dot. 2024/06/23 20:00
早稲田大卒・皆藤愛子アナ 高2まで勉強への“熱意”失い模試も「E判定」 それでも“絶対行ける”と自信を持てた理由とは?
早稲田大卒・皆藤愛子アナ 高2まで勉強への“熱意”失い模試も「E判定」 それでも“絶対行ける”と自信を持てた理由とは?
皆藤愛子さん(提供)  幅広いフィールドで活躍中のフリーアナウンサー皆藤愛子さんは、小学時代に「楽しく」中学受験を乗り越えたものの、合格後は燃え尽きて成績“低空飛行期”に突入したといいます。そこから大学受験にスイッチが入ったきっかけや、苦手克服のために努力したエピソードなどを聞きました。※前編< 渋幕出身・皆藤愛子が語る中学受験「受験は楽しかった。でも、合格後に燃え尽きて成績“低空飛行期”に突入しました」>から続く 留学をきっかけに、高2までの成績“低空飛行期”が終了 ――中高生時代は、小学生時代とうって変わって成績は低空飛行だったそうですね。  そうなんです。渋谷教育学園幕張中学・高校での学校生活はとても楽しかったのですが、「ここに入りたい!」「こうなりたい!」といった目標がないとダメなタイプなのか、新たな目標が見つからず勉強に身が入らなくなりました。思春期も重なり、目立つことも嫌になって……ですから、成績ももちろん目立ちませんでした(笑)。  そうそう、中学時代はラジオにはまって、宿題やテスト勉強をしながら夜な夜な好きな番組を聞いてリクエストのハガキを書いていました。 ――勉強への熱意は、どこで取り戻されたのですか?  中3のとき、学校行事で2週間、ニュージーランドにホームステイをしたんです。私にとってとても大きな出来事となりました。お世話になったご家庭は庭に羊がいたり、同じくらいの年齢の女の子が運転してくれる車で(※ニュージーランドは16歳から運転可能)毎日学校に行ったり。日本とは違う世界に目覚めたのです。そこで英語が大好きになりました。  そして、高2では10カ月間、交換留学でニュージーランドに行きました。向こうでは英語で授業を受けるので、もちろん英語を勉強しなくてはいけないし、実際身についていくのが実感できました。現地の学生はもちろん、ドイツや中国、バングラデシュなど、さまざまな国からの留学生との交流も本当に刺激的でした。  すっかり英語が得意になって日本に戻ってきたのは、3年生への進級も目前の時期で、同級生たちも受験モードに切り替わるころ。もともと文系だった私は「受験は英語中心でいこう」と一気にスイッチが入ったのです。 高2のとき、留学でニュージーランドに。「すべてが広かったです。自然の中を、毎日自転車で学校まで通っていました」(提供)  中学受験の時もそうでしたが、友達とみんなで「受験がんばろう!」「あそこに入ろう!」みたいな雰囲気があると一気に燃えるんですね(笑)。そこで私の長い成績“低空飛行期”が終わりました。   高3は受験勉強一色の生活。放課後は自習室で勉強したあと、友達と待ち合わせをして駅に向かいながらの唯一のおしゃべりタイムが楽しみでした。夜中に友達とメールで励ましあったり、「昨日は16時間勉強した」なんて、あえて「やった自慢」を披露しあってやる気を高めあったり。起きている時間はすべて勉強しているといっても過言ではないくらい、勉強したと思います。 “謎の自信”で大学受験をクリア そして→また燃え尽きる ――そして早稲田大学に見事合格されたのですね。  早稲田は、文化祭に行ったとき、学内の雰囲気と大隈記念講堂の時計台に一目ぼれして「ここに行きたい!」と受験を決めました。  とはいえ、なんといっても高2まで「勉強嫌い期」だったので、模試もしょっちゅう「E判定」なんてことも。しかしそれで落ち込むどころか「絶対行ける!」という謎の自信があったんです。まだ本番ではないし、これからだ!なんて。受験勉強では、あまり早く頭に入れてしまうと、試験の時期には忘れてしまう知識もありますよね。なので、つねに「ここからだ!」と思っていました。  無事に合格したときは本当にうれしかったのですが……そこで私はまた燃え尽きました(笑)。合格という目標を達成して、また次になにをしたらいいのかを見失いました。 このままじゃ社会人になれない! あらゆる職種で自分を鍛えたアルバイト時代 ――また燃え尽きてしまったのですね。  そうなんです。しかも、小学生時代は自信満々の目立ちたがり屋だったのが、中高時代は思春期に突入して「絶対目立ちたくない派」にキャラ変。そのうえ、中高一貫でずっと同じ仲間といっしょに過ごしていたので、人前に立ったり初対面の人と話したりするのがすっかり苦手になってしまったんですね。 ホームステイ先のひとコマ。10カ月の滞在で鍛えた英語力が、のちの自信につながっていきます。(提供)   「このままでは社会人になれない。なんとかしなくては」という焦りがありました。そこでアルバイトを始めたんです。  アルバイトは「自分を鍛えないとだめだ!」と、あえて苦手なことを選びました。はじめて会う人とお話しするのが苦手といっても、仕事ではそんなことは言っていられません。ですから接客を中心に、パン屋さんや野球場、洋服のショップスタッフ……本当にいろいろなアルバイトをしました。 ――きっと、どの場面でもてきばき手際よく働いていらしたのでは……  いえいえ、それが全然(笑)。鈍くさくて皆さんにご迷惑をかけ、申し訳ないと思いながらがんばっていました。  洋服のショップは、自分がお客さんの立場で服を見ているとき、スタッフの方から声をかけられるのがとても苦手だったんです。そこで、あちら側の気持ちを学ぼうと思って。実際に自分がお客さまに勧める側に立つことで、ショップでのドキドキも克服することができました。  野球場では、アイス最中の売り子をやりました。重かったけれど体力もつきますし、大声を出さなくてはいけないのでメンタルも鍛えられました。野球好きが高じてベンチ脇に待機して審判にボールを渡すボールガールもやりましたよ! たまにテレビに映ったり、新聞の写真にちらっと写っていたりすると、巨人ファンの両親が気がついて喜んだりしていました(笑)。 ――そして、お天気キャスターとしてテレビに登場されたのですね。  友達の紹介でセント・フォースに所属して、お話をいただきました。大学生活との両立に不安はありましたが、キャスターはやりたいことでもあったし、このチャンスは逃してはいけないと飛び込みました。  当時、毎朝3時に起きてテレビ局に出勤する生活。つらかったのは、1限の授業がある日でした。10分だけ寝るつもりが、起きたら3時間経っていて「……間に合わない」とぼうぜんとしたなんてこともあり、2年がかりで単位を取った授業もありましたね。今となっては思い出ですが、当時は大変でした(笑)。 大学在学中にキャスターの仕事をスタート。「まわりの皆さんに、本当に助けていただきました」(提供) なにかを目指して一心に「がんばる」体験は、その後の人生に生きる ――受験の経験は、人生にどんな影響を与えましたか。  中高生くらいの時期は、思春期にも入っていろいろと悩みや迷いが多くなる時期。私も目標を見失って、目の前のことしか考えられていませんでした。でも、この時期に「将来これになりたい!」と明確に見える人は少ないだろうし、たとえ見えなくてもそれでいいと思うのです。わからないからこそ、さまざまなことに興味を持ってやってみる。その点、私はアルバイトでも本当に多くのことを学びました。  受験のようになにかを目指して一心に「がんばる」体験は、絶対にその後の人生に生きてくると実感しています。その中で少しでも「楽しさ」が体験できれば、もう最高なのではないでしょうか。 ※前編〈渋幕出身・皆藤愛子が語る中学受験「受験は楽しかった。でも、合格後に燃え尽きて成績“低空飛行期”に突入しました」〉から続く (取材・文/三宅智佳) 〇皆藤愛子/1984年生まれ、千葉県出身。渋谷教育学園幕張中学校・高校卒業。早稲田大学第一文学部在学中に、お天気キャスターとして朝のテレビ番組で仕事をスタート。学生とお天気キャスターの両立が話題となった。現在はテレビの情報番組やバラエティ、ラジオのパーソナリティなど幅広く活躍中。
皆藤愛子大学受験英語教育
AERA with Kids+ 2024/06/23 11:00
資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「(2人とも)金持ちなのになぜまだ稼ぐ?」最終回
中島晶子 中島晶子 安住拓哉 安住拓哉
資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「(2人とも)金持ちなのになぜまだ稼ぐ?」最終回
cisさんとテスタさん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)   総資産270億円のレジェンド投資家・cisさんと利益100億円投資家のテスタさんの対談最終回(全4回)。今回はcisさんの髪の毛が一時期だけ抜けたときの話、「なぜ2人とも十分お金があるのに、まだ稼ぐのか」について。 (本記事はアエラ増刊「AERA Money 2024春夏号」掲載対談の続編として未公開部分を載せています)   【cisさんはハゲたことがある編】 (テスタ)ところで、全然、相場を見ない日ってあるんですか? (cis)それはない。 (テスタ)旅行は行かれるんですか? (cis)海外旅行に行くことはあるけど、コロナ後はまだ行ってない。そろそろ行きたいかな。 (テスタ)海外で時差があっても、夜中に1回くらいは株価をチェックしますか? (cis)1回どころじゃなく、前場は全部見ちゃう気がする(笑)。 (テスタ)ヨーロッパに行って、時差で時間が全然違っていても平日だったら見ちゃう感じですか? (cis)見ちゃう感じ(笑)。 (編集部)さすが「今は普通の人の10倍(のモチベーション)」だけのことはある(笑)。 新婚旅行中も株 (cis)前場ぐらい見るでしょ。だって、前は新婚旅行でゴールデンウィークに海外に行ったときでも、祝日の谷間の平日は飛行機で(日本に)とんぼ返りしてパソコンでトレードして、また祝日になったら飛行機で海外に戻ってたからね(笑)。 (編集部)新婚旅行中に!? (cis)うん。ゴールデンウィークに穴あきで平日が2日か3日あったから、株のために新婚旅行先から帰ってきてました。乗り物酔いするんで、ほんと迷惑な平日だなと思いつつ、トレードしてまた新婚旅行に戻る(笑)。 (テスタ)平日に日本に戻ったときは奥さんと2人で? (cis)いや1人。 (テスタ)え〜〜っ。 cisさんの爪がマニュキュアを塗りたくなるほど美しかった(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)   (編集部)奥さん、怒らなかったんですか? (cis)忘れました。 (テスタ)それだけ仕事に真剣っていうことで、怒りたくても怒れないとか……。 (cis)さすがに今はそういうことはしないよ。そのときはトレードが楽しすぎただけ。でも、体調は悪かった。 (テスタ)えっ、病気の時期があった? (cis)いつもおなかが痛くて月の半分は下してるし(下痢)、どんどん髪の毛がなくなってさ。一時期、若ハゲみたいになってた。楽しいけどストレスはあったのかもね。 (テスタ)ハゲって……。 (編集部)今はこんなにフサフサなのに信じられない……。 俺の(髪)じゃねえか (cis)日常的に髪が抜けてたのよ。風呂場の排水溝に、やけに髪の毛がたまってるから「うわぁ、この髪すげ〜な〜」と思いながら鏡を見たら、「俺の(髪)じゃねえか」みたいな(笑)。でも株は楽しかったのよ。楽しくてもストレスはあるってことなのかも。 【cisさんが暗号資産を語る編】 (テスタ)今も相場を見るのは楽しいですか? (cis)楽しいよ。今は根を詰めないようにしてるし。 (テスタ)Xは、もう飽きちゃったんですか? この間(3月7日に「〈日経平均〉全部降りた」の投稿)は9カ月ぶりだったようですが。 (cis)うん、Xはよくないことがあるから足が遠のいた。さっきも言ったけど、詐欺系の人や「お金貸してください」「支援してください」系の人が寄ってくるし。フォロワーが多い(2024年4月末現在、62万人)から、事業をやってる知り合いから「これをつぶやいてくれよ」と頼まれて、「そういうのやってないです」って断るのも面倒で。でも1日に何回かはチェックしてるんで、テスタの(投稿)は目に入るよ。 (テスタ)情報収集はXが中心ですか? (cis)そう。 (テスタ)テレビは見ないんですか? 日経なんちゃらみたいなニュースは。 (cis)たまに見るけど、情報収集のためじゃないね。世の中の出来事が、ニュースではどう捉えられてるのか、どんな感じで報道されてるのかを見る感じ。 (テスタ)ユーチューブは見ますか? 自身の記録を塗り替えるため株式投資を続けるテスタさん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)   (cis)相場関係の動画は全く見ない。趣味のゲーム動画や、プロレスの試合は見る。 (テスタ)仮想通貨(暗号資産)やFXは今もやってるんですか? (cis)口座は閉じてないし、お金も入れてるけど、税金の絡みもあってほとんどやってない。 (テスタ)「気が向いたらFXちょっとやる」ことは、あるんですか? (cis)為替ねぇ。ちょっとはやるけど、値動きが繊細すぎるんだよね。いろんな人がやってるから。海外要因とか、需給以外で値が動くことも、やたらあるし。しかもよく滑る(売り買いのスプレッドと取引の約定価格がずれる)し、コストも安くないよね。結局、先物と現物(個別株)がいいかな。 ビットコインを買った理由 (テスタ)前にcisさんはビットコインをトレードしてましたよね。なぜ仮想通貨を買ってたんですか? (cis)上がりそうなのがあると買っちゃうってことなんだよ。もう買わずにはいられないみたいな(笑)。 (テスタ)僕もcisさんも、たとえば不動産とか、畑が違うところは触らないじゃないですか。僕はビットコインも畑が違うと思って気にしてなかったんですが、cisさんは触ったんですね(笑)。 (cis)10年前(2014年)にマウントゴックス(当時、大手暗号資産交換業者)がハッキング被害に遭って、破産して、ビットコインが暴落したのよ。で、「これ買いなんじゃないか?」と気になって値動きを見ちゃってた。 (テスタ)マウントゴックスがきっかけで見るようになって、本気で盛り上がってきたからちょっとやった感じですか? (cis)ビットコイン自体が世界的に有名になりだしたからね。これだけ「ビットコイン、ビットコイン」と騒がれてて、まだ時価総額が3兆円、4兆円なんて安いんじゃないかな、と。 (テスタ)時価総額で考えるんですね。 (cis)そのときは、そう。 (テスタ)今はもう1ビットコインが1000万円じゃないですか。さすがにそこまで上がるとは予想してなかったですよね。 (cis)全然わかんなかったよ。わかってたら、くすぶってないよ(笑)。 「ニッポン 新時代」に向け日本株も新たなステージへ(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)   【もうお金必要ないんじゃ?編】 (編集部)最後に一つ聞かせてください。テスタさんは総利益100億円、cisさんは総資産270億円。そんなにお金があるのに、なぜまだ投資をするんですか? (テスタ)はい、では僕から答えますね。自己最高記録を出した瞬間が最高に楽しいからです。いつも過去最高利益を目指してやってます。 遊ぶより、おいしいごはんを食べるより、過去最高利益を更新した瞬間が人生で一番テンションが上がります。自分の中で「よしっ」って思えるから投資を続けています。 その瞬間をいっぱい味わいたいから、高値からのドローダウン(下げ幅、下落率)が大きくても、また高値を目指しますし、高値を突破したら、「また次の高値を」って。僕はそこがモチベーションでやってるんです。 お金を増やしたい、使いたいというより、記録を更新したい。 ゲームや漫画にお金 (cis)「なんで投資するか?」か。生きるだけなら月10万円もあれば十分なんだろうけど。 会社員の人たちは、10万円じゃ足りないから、それ以上稼ぐためにがんばってるわけですよね。 僕もみんなと同じように、今の資産じゃ全然足りないってことですね。まだまだ、やりたいことがあるし。 (テスタ)そんなに、やりたいことが残ってるんですか? (cis)あともう2桁ぐらい、兆単位のお金を持ってたら、ゲームや漫画のタニマチみたいなことをしたいと思ってたのよ。自分が、ゲームも漫画も好きなので。 この前、『コミックバンチ』っていう漫画(雑誌)の紙版がなくなりましたが(ウェブ版に移行)、もし兆単位のお金を持っていたら、「みなさん、このお金でどうか描いてくださいよ」ってやりたいし。 (テスタ)なるほど。どちらかというと自分の欲じゃなく、みなさんのため? (cis)そこまで美しい感じでもない。みなさんのためにもなるけど、自分も楽しいから、自分のためでもあるでしょ。 ゲームもそう、漫画もそう。おもしろい文化ってスポンサーがいたほうが育つ気がするから。そういうことを、小規模でもいいからやりたい。 二人は年齢がほとんど変わらない(撮影/朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)   (編集部)素敵です。 (テスタ)cisさんって、これまでの人生でどれぐらいお金を使いましたか? (cis)50億円から100億円ぐらいかな。 (テスタ)50億円と100億円って、全然違いますけど(笑)。 (cis)それが難しいのよ。「知り合いと会社をつくってそれがうまくいかなくて、倒産して10億円なくなってしまった」は投資なのか趣味なのか使い果たしたのか、というような。 (テスタ)その10億円は投資で稼いできたわけですもんね。 (cis)あとさ、趣味で買った、そこそこ高価なものは? レアなものは売ろうと思えばメルカリやヤフオクで売れるわけ。そういう換金できるものはお金を使ったことになるのか。それとも、いつでも売れるからお金を使ったことにはらないのか、とかね。 (テスタ)資産価値があるものってことですね。 (cis)お金って、買い物や飲み食いで消えるけど、いざとなったら売れるものは「資産」なのか「使い果たし済み」なのか。まあ、50億〜100億円使って買ったものの大半はきれいさっぱり「ない」けど(笑)。 (テスタ)ということは、利益ベースでは軽く300億円を超えてるんですね。 (cis)そうね。 ゲーム課金に「億」 (テスタ)cisさんの「270億円」というのは現在の資産残高ですもんね。僕は「稼いだ利益」で言ってるから、100億円達成といっても使った部分もあるわけで。cisさんと同じように資産残高でいえば80億円ぐらいしかない。 (編集部)「80億円ぐらいしか」って(笑)。 (cis)まあ、ゲームには1年間で1億〜3億円ぐらいはつぎ込んでるんで、もったいない気がするけど(笑)。 (テスタ)ゲーム課金にゼロ8個(笑)。 (cis)ゲーム会社も利益があればいろいろできるから、俺みたいな遊び方をするやつがいてもいいんじゃないかと。ゲームも、サーバー代、プログラマー代、イラスト代、声優さん代、いろいろかかるから。 儲かる業界のほうが優秀な人も来るし、社員さんのやる気も出るし。自分が好きな分野にお金を使うの、いいよね。ゲーム課金はもったいないから人には勧めないけど。 本記事が最初から読めるアエラ増刊「AERA Money 2024春夏号」が好評発売中。Amazonや楽天ブックスなどのネット書店では「アエラマネー」で検索して、この表紙を探してください!(編集部より)   (テスタ)もう、スケールが違うわ。 (cis)いやマジで、ゲームに億はよくない(笑)。 (テスタ)ゲームは何も残らない、いや、思い出ぐらいしか残らないですもんね。最後に僕からも質問です。なぜ今回、15年ぶりに雑誌に出てくれたんですか? (cis)頼まれたから出たんです(笑)。KADOKAWAで本を出したときも、知り合いから頼まれた。でも、知り合いから頼まれても出ないときは出ない。知らない人なら、もっと出ない。 (テスタ)僕はcisさんとこうやって対談させてもらうのが夢だったんです。何かのタイミングで、2人で株の話をさせてもらえたらとずっと思ってきました。恐れ多くて、なかなか言えなかったんですけど。今回の100億円突破のタイミングで言わなかったら、もう一生言えないと思ったんで。本当にうれしいです。ありがとうございます。 株の成功で納税 (cis)株は、稼げるから。テスタもそうだけど、若くて優秀な人が投資の世界でどんどん成功してくれたら、業界にとってもいい循環になるよね。株の成功者はいっぱい納税するし、いろいろいいんじゃないでしょうかね。 ※テスタさんのことを「若い」とかなり意識してお話しくださったが、cisさんとテスタさんはそこまで年が変わらない(cisさんのほうが少しだけ上)ことが対談後にわかった (構成/安住拓哉、中島晶子・AERA編集部) ★本記事は最終回です。第1回~第3回のタイトル一覧★ 第1回/資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「5年で1200万円を50億円に増やした特殊能力とは」 第2回/資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「伝説のB・N・Fさん」ジェイコム誤発注事件のとき俺は… 第3回/資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「cisさんが長期保有で買ったことがある銘柄」は? 第4回(当記事)/資産270億円cis×利益100億円テスタ対談「(2人とも)金持ちなのになぜまだ稼ぐ?」最終回 ***** cis(シス)/1979年3月生まれ。法政大学卒業後、会社員として働く傍ら、2002年に貯金300万円を元手に株式投資をはじめる。資産6000万円に到達した2004年に会社を辞め、専業トレーダーに。2007年に50億円の資産を築き、デイトレーダー界のスターになる。X(旧Twitter)のフォロワー数は62万人超(2024年4月現在)。2024年3月現在の資産は「270億円ぐらいかな」。メディア取材はほぼすべて断っているが、今回の対談は特別 テスタ/兵庫県生まれ。2005年に株式投資の世界に飛び込み、専業トレーダーに。最初はスキャルピング(超短期取引)を中心としたデイトレードからスタート。ITバブル崩壊、リーマン・ショックなど、幾多の市場暴落で退場するトレーダーが続出する中、寡黙に荒波を乗り越えてきた。2021年8月に総利益50億円を達成、2024年2月に同100億円を達成。投資先のメインは日本株、先物 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2024春夏号』から抜粋
AERA Moneyテスタ日本株新NISAアエラマネー
AERA 2024/06/22 17:00
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」
大学で教壇に立つ元日テレ報道キャスター・小西美穂「学ぶ楽しさを伝え、人生の背中を押してあげたい」
講義終了後、学生に協力してもらって撮影を行った。取材の現場も学びだ(写真:楠本涼)    関西学院大学総合政策学部特別客員教授、小西美穂。日が当たらないことでもテレビなら応援できると思った小西美穂は、大阪の読売テレビに就職。事件や司法を担当した。人一番努力しないと認めてもらえないと、休む間も惜しんで取材。数々のスクープを報じ、話題のドキュメンタリーを作った。異例の出向で日本テレビへ。キャスターとして活躍した後は、50歳で大学院で学び、現在は大学でも教鞭を執る。 *  *  * 関西学院大学神戸三田キャンパスⅡ号館201教室の前では、学生が長い行列を作っていた。2限の講義「テレビ報道論」が、まもなく始まろうとしているのだ。担当するのは、小西美穂(こにしみほ・55)。広々とした大教室がどんどん埋まっていく。24年度の履修者は396名。他学部からわざわざ聴講に来る学生もいる。小西は、開始時間が迫ると声を張り上げて着席を誘導していった。講義に向かうワクワク感、高揚感が伝わってくる。 「学ぶことの楽しさを、学生に知ってほしいんです。知的好奇心を喚起してあげて、人生の背中を少しでも押してあげたい」  長くテレビの世界で生きてきたが、52歳でテレビ局を退職。大学で教える仕事をスタートさせた。 「オワコンと呼ばれるテレビが、果たして学生たちからどう見えるのか。とても関心がありました」  しかし、小西が教壇に立つことになった22年、驚くべき事態が起きた。履修者が810名を数えたのだ。637名定員の大教室に入りきらなかった学生は、別の教室からオンラインでつないで小西の講義を聴くという異例の事態となった。 「うれしかったです。今や誰でも情報発信できる時代。メディアがいかにシビアに丁寧に事実と向き合ってきたか、未来を作る若者に伝えたいという思いがありました。そうしたら彼らは知らなかったと驚いてくれ、メディアに感謝もしてくれて」  革ジャンに身を包んだ教壇上の小西には、テレビ番組出演時のような温和さはない。スライドを見ながら学生に語りかける表情は厳しい。私語ができる雰囲気はなく、居眠りも許さない。時には後ろの席まで歩いていき、緊張感を高める。関西学院大学総合政策学部長、長峯純一(66)は語る。 講義で発する言葉、立ち位置、表情などは、すべて意図的にコントロールしている。「リラックスするところ、引き締めて記憶にとどめてもらうところがある」というテレビ番組の構成も意識している(写真:楠本涼)   「記録的な数の学生が集まりましたから、心配して様子を見に行ったこともありました。ところが、学生を騒がせることなく、関心を見事に引きつけて授業をコントロールされていた。なかなかできることではない。大したものだな、と思いました」 練習方法も分からず 手探りでラクロスを学ぶ  この日のテーマは、ニュースとは何か。使ったスライドは59枚。毎回の講義の後、数百枚に及ぶレポートすべてに目を通す。自らの過去の経験、50歳で通い始めた大学院での体系的な学び。まさに小西のすべてが詰まった、熱い講義なのだ。  兵庫県神戸市に生まれた。2歳のとき、家族で加古川に移り住む。父はのちに祖父の家業の米穀店を継いだ。祖父は死ぬ間際まで頼山陽の『日本外史』を手放さない勉強家だった。父からは「学び続けなさい。学びが人生の道を拓(ひら)くのだ」と言われて育った。父が学んだ県立校から、関西学院大学文学部へ。だが、華やかな私学のキャンパスで、打ち込めるものは見つけられなかった。 「テニスサークルに入ってみたんですが、私がいてもいなくてもこのサークルは進んでいくんだな、と思ったら、一気に興味をなくしてしまって」  何かに行き詰まったら、学びに行く。父の教えを思い出し、英語通訳の専門学校に通い始めた。ラクロスを知ったのは、大学2年生の5月。同じクラスだった男子学生が、棒の先に網がついたスティックを持って授業に現れる。「それ、なんなん?」と話しかけると、彼は関学でできたばかりのラクロス部に入部したと言う。日本ではまだ知られていなかったスポーツ。興味があるならマネージャーをやらないかと誘われたが、どうせなら選手としてやってみたいと思った。そんな談笑をしている最中、偶然にものちに顧問となる先生から、「女子のラクロス部を作らないか」と言われた。先生の研究室で、アメリカのラクロスの試合をビデオで見たときの衝撃を今も覚えている。 「華やかなタータンチェックの巻きスカートにポロシャツを着て、空中ホッケーみたいなことをしている姿が映って。可愛(かわい)らしいんですが、エネルギッシュなんです。これだ、と思いました」 大学2年で立ち上げたラクロス部は人生を変えた。当時の思い出の品々は今も大事に保管している。カナダ人コーチにもらった言葉「Hard Work Pays Off(頑張っただけ報われる)」は折々に感じた(写真:楠本涼)    まずは手当たり次第に友人、知人に声をかけると少しずつ人が集まってくれた。競技用の道具は海外から取り寄せたが、ルールも練習方法も分からず手探り状態。練習場所は石がゴロゴロした河川敷しかなかった。メンバーを増やすために、競技の写真を貼った手書きのラクロス部の募集ビラを作成、ユニフォームを着て、関学だけでなくそれ以外の大学の前でも配った。海外からラクロスのルールブックも取り寄せた。説明はすべて英語だったが、小西が自ら内容を翻訳し、仲間に伝え、効果的な練習方法を探っていった。外国人のコーチが来ると聞くと滞在をサポートし、宿泊先として実家を提供した。本場の練習や試合を見てみたいとカナダにも渡った。ところがカナダ人との練習中、小西は初日に鼻の骨を折る大怪我(けが)をしてしまう。このとき、通訳も兼ねて同行していたのが、草創期のメンバーだった瀧川裕子(54)だ。 「大量の鼻血が出て、もうびっくりでしたが、次の日からは顔を覆うフェイスガードをして練習に出ていました。うまい人とプレーできる、せっかくの機会。時間がもったいない、と。ラクロスに対しての情熱は、本当に強かったです」 弁護士の大平光代と出会い 極秘で1年密着取材  練習、戦術の研究、合宿、新たな部員の勧誘、他大学の指導、スポンサー探し……。スケジュール帳は真っ黒になった。小西はいう。 「今日、何かやれば、違う明日が来る。なるほど、そうなのか、と実感しました」  部員は3年後には100名を超える規模になった。後に小西は日本代表選手にも選ばれた。  就職先としてテレビ局を選んだのは、その影響力を実感したからだ。大学4年のとき、日本テレビの夜のニュース番組が、ラクロス普及の活動について取り上げてくれた。後にラクロスをやってみたいという声が、各地で広がったことを知った。 「マイナーなスポーツもそうですが、日が当たらないけれど一生懸命頑張っている人がいる。それをテレビの力で応援できるんじゃないか、と」 関西在住のラクロス仲間たちと年に数回集まる。創設当時の同期や後輩たちで30年以上の付き合いとなる。メンバーは、大学も年次もバラバラだ。昔話から最近の話まで、笑い声が絶えなかった(写真:楠本涼)    女性の総合職採用が始まったばかりの大阪の読売テレビに入社。最初は人事部に配属されるも現場を希望。2年目に大阪府警記者クラブへ。強盗、殺人、放火などを担う捜査一課担当は社内で女性初だった。夜討ち朝駆けの日々が始まる。官舎に夜回りに行くと、入り口の電灯の下で複数の男性記者がタバコを吸っていた。近づける雰囲気はなく、自転車置き場で一人待っていたら、年配の男性記者に声をかけられた。「お嬢ちゃん、何しに来たんや。お父さんお母さん待っとうで。はよ帰り」。なんとか「取材に来たんです」と返した。 「女性というだけでとにかく目立つわけです。これは、よほどの結果を出さないと認めてもらえないと思いました。だったら人一倍努力しよう、と」  とことん周辺を取材した。他の記者が行かなくなっても現場に顔を出した。捜査関係者が通うパチンコ店で話を聞こうと隣に座って声をかけたこともある。捜査関係者が出入りする食堂があると聞くと、入店して耳を澄ませた。できることは、あらゆることをやろうと思った。  捜査一課担当後、社内で女性初の司法記者クラブ所属の検察担当になった。夜回り朝回りの寝る間もない忙しさ。日中少しだけ時間が空き、裁判所のトイレで座って眠ったこともあった。ほとんどの時間を取材に使い、昼食も惜しんで関係者に会った。泊まり勤務の夜は新聞のスクラップ作りに使った。あるとき司法関係者に声をかけられた。 「あなた、よく頑張ってるね。実は弁護士で変わった経歴の女性がいる。紹介しようか」  それが、大平光代だった。会って話を聞いた。壮絶ないじめを苦に自殺をはかり、非行に走って16歳で暴力団組長の妻となった。しかし人生を立て直し、猛勉強の末に弁護士になったという。そのときは話を聞いただけで別れたが、この人の生きざまは多くの人に勇気を与えられると思った。小西はドキュメンタリーを撮りたい、と手紙を書く。最初は断られたものの、あきらめずに連絡を取り続けた。するとある日、自分のことを書いてくれないか、と大平から話がきた。鑑別所に行って「昔、君と同じように悪さをしていたんだ」と自分の過去を話しても信じてもらえない。だから見せられるものが欲しい、と。だが、小西は書くプロではない。ドキュメンタリーなら最高のスタッフを集められる。映像を先に作り、そのあと書籍を作るのはどうかと伝えたら提案を受け入れてもらえた。極秘の密着撮影が始まる。1年間の取材を凝縮した25分間の映像は大きな反響を呼んだ。 読売テレビが制作する番組「情報ライブ ミヤネ屋」では水曜日のコメンテーターを務める。最新情報が次々に飛び込んでくることもある。瞬時に自分らしさのあるコメントが求められる仕事だ(写真=楠本涼)   「一番うれしかったのは、30代の主婦の女性から、自殺をしようと思ったけど思いとどまりました、というお手紙をいただいたことでした」 日本テレビへ異例の出向 キャスターに抜擢される  放送を見た出版社から、出版企画書が山のように届いた。その中から、2人が選んだのは児童文学の編集者からの提案だった。大平が、子どもたちの立ち直りのために力になりたいと考えていたからだ。著書『だから、あなたも生きぬいて』は、250万部を超えるベストセラーになった。  その放送から1年後、小西が32歳のとき、海外特派員としてロンドン赴任の話が来る。当時、海外特派員は既婚男性が行くのが通例。憧れていたものの、さすがにないだろうと諦めていたが、社内で女性初の特派員として声がかかったのだ。  行ったものの最初は、大きなニュースには声がかからない。焦りを覚えながらも、自分にしかできない小さなニュースをコツコツと出し続けた。声がかかれば現場にいけるように常に態勢を整え、挑む姿勢を貫いた。2004年、イラク復興支援の現地取材に抜擢(ばってき)された。銃声の響く危険な地域で自衛隊が現地でどう役に立っているか、ヘルメットを被り、防弾チョッキを着て取材した。緊迫感と恐怖とともに、自分の目や耳で感じたことは、その後の仕事にも生きている。 「偉くなりたいとか、何かになりたいとか、そういう思いはまったくありませんでした。見聞を広め、多くの人に伝えたい。それだけでしたね」  帰国後、意外な辞令がやってきた。日本テレビへの出向。キー局への出向は異例だった。政治部に配属されて2年目、夕方のニュース番組「ニュースプラス1」内の討論コーナーのキャスターに選ばれる。抜擢した当時の報道局プロデューサー、BS日本顧問の中山良夫は語る。 「当時、日本テレビには報道局が作るような討論番組がなかった。討論は予定調和ではつまらないんですよ。それだけにキャスターが重要になる。混乱してガチャガチャにしてくれる、でも乱れたりはしない。そんな人物を探していたんです」 講義が始まる前、ギリギリまで使用するスライドを精査していた。情報を使い回すことはほとんどなく、常に最新情報を盛り込むことを意識している(写真:楠本涼)    ローカル局出身で政治部の経験も浅い記者に、生放送もある討論を任せようというのだから、中山の大胆さは並外れだ。しかし、中山の動物的な勘を小西も大胆に引き受けた。「わからないことはわからないと答えればいい。聞いたことに答えていないと思ったら答えてませんと言えばいい」。中山のアドバイス通りに番組を推し進めたら、あの生意気な女性キャスターはなんだと、抗議の電話やメールが殺到した。厳しい言葉に小西は堪えた。だが、中山の感触は違った。何か心に引っかかったから、視聴者は反応したのだ。翌年、小西は夕方のニュース番組「NEWSリアルタイム」のサブキャスターを任される。 番組終了後に人生が暗転 自分磨きに目覚める  充実した日々だった。とりわけ、40歳の誕生日は華やかだった。20人ほどの仲間が集まり、レストランで祝ってもらった。だが、その後、番組終了が決まると人生は暗転する。「私は本当に必要とされているのか」と不安に襲われ、たびたび東京の街を彷徨(さまよ)った。関西では馴染(なじ)みの深い大丸によく行った。書店で自己啓発の本を買いあさった。ある日、アクセサリーショップで女性に声をかけられた。大学時代に小西からラクロスを教わったことがあるという。アクセサリーを見立ててもらい、後にメイクの仕方やファッションも教わった。 「行き詰まったら、学びに行く。そうか、こういう学びもありだな、とスイッチが入って」  美容やファッションなど、自分磨きを始めた。変化の様子を見ていたのが、番組を通して親しくなったスポーツキャスターの陣内貴美子(60)だ。ある日、陣内が誘ったレストランに行くと、小西が客の男性を見て「かっこいいね」と言う。 「それで私が、年を聞いてきてあげようか、と。ずいぶん年下だったので、これはないかな、と思っていたら、ゴルフをきっかけに二人で会うようになっていって」(陣内)  43歳で結婚。その8カ月後、3年半メインキャスターを務めることになる番組「深層NEWS」が始まる。政治、経済、医療などのテーマについて、政治家や文化人など、その道のキーパーソンを招いてニュースを深掘りしていく。しかも1時間の生放送。高度な進行技術が問われた。終了後のスタッフ会議では、容赦ない注意や指摘が飛んだ。ゲストにもっといい質問ができたはず。なぜあのとき、あんな切り返しをしたのか。いいゲストを招いても司会者がダメならどうしようもない……。集中砲火を浴びる日々。苦しかった。会社に行く途中、涙が止まらなくなることもあった。オンエア前にも、顔が紅潮したり、おなかが痛くなったり。だが、医師を頼り、体のメンテナンスを行うことで気持ちも落ち着くようになった。しゃべりを基礎から学ぼうと「日テレ学院」にも通った。その後、47歳で防衛省担当記者になり、半年後に夕方のニュース番組へ。ここからまた、むくむくと学びへの思いが押し寄せてくる。 「私は成長を感じなくなると、自信がなくなったり、焦りが生まれてくることがわかったんです。だから、これはインプットが必要だな、と」  50歳で小西は早稲田大学大学院に入学。テーマに選んだのはジェンダーと政治。討論番組でも、やって来る政治家や専門家は男性ばかりで、小西だけが女性ということが多々あった。政治の世界での男女比もいびつ。こうした問題を体系的に学びたい、ジャーナリズムとしての報道の在り方を考えたいと思った。忙しい合間を縫って講義に通った。長い時間をかけて議論された研究者の深い知見に改めて驚いた。目の前のニュースばかり追いかけてきた視野が一気に広がった。仕事以外の時間のほぼすべてを勉強にあてた。休日もなかった。入学前、ある年上の女性に投げられた言葉が忘れられなかった。「大学院? プロフィールの1行になるだけで何もならないことを今さらやってどうするの」。腹が立った。学びこそが人生を拓く。父の教えを思い出した。 「自分の可能性は誰かに決めつけられるものじゃないですよね。そこに蓋(ふた)をしたくなかった」  大学時代に出会った1冊の本がある。千葉敦子の『若いあなたへ!』。あなたは何にだってなれる。忘れられない言葉が詰まっていた。 「もう十分じゃない。どうしてまたチャレンジするの。そんな声が聞こえてくることがあります。でも、私にはぜんぜん十分じゃないんです。だって、大事なことは今だから。人の輝きって、今、何をしているかにあると思うから」  年齢なんて単なる数字でしかない。それよりも今、一歩を踏み出したとき、目の前に広がる景色を大事にしたい。そこにこそ、人生はあるから。 (文中敬称略)(文・上阪徹) ※AERA 2024年6月24日号
現代の肖像
AERA 2024/06/21 18:00
「子どもの存在はプラスでしかない」阿部真央さんがシンガーとして、シングルマザーとして、いま思うこと
森朋之 森朋之
「子どもの存在はプラスでしかない」阿部真央さんがシンガーとして、シングルマザーとして、いま思うこと
今年デビュー15周年を迎えた阿部真央さん    今年デビュー15周年を迎えた阿部真央さん。一児の母でもある阿部さんに、仕事と子育ての両立について話を聞いた。 * * *  2009年、19歳のときにアルバム『ふりぃ』でメジャーデビューを果たした阿部真央さん。等身大の歌詞と表現力豊かなボーカルによって10代~20代の女性を中心に幅広い支持を獲得し、2019年には2度目の日本武道館公演を成功させるなど、シンガーソングライターとして着実にキャリアを重ねている。  プライベートでは2015年、25歳のときに第1子となる男児を出産。その後、離婚を経験して、シングルマザーとして子どもを育てながら音楽活動を継続してきた。 出産後は子どもに救われていた部分が大きかった ――2015年9月、25歳のときに第1子を出産したことを発表。音楽活動が中断してしまうことの心配はなかったですか?  出産時期がわかった時点で、「この時期までレコーディングして、この時期に新作をリリースして」というスケジュールを立てたんですよ。出産前後も、歌手としての活動が止まって見えないようにするための準備をしていたので、そういう心配はあまりなかったですね。その前に声帯の手術で半年休業した経験があったし、(休んでいる間も)稼働しているように見えることの大切さもわかっていたので。ただ、私の場合は全国ホールツアーを控えている段階で妊娠していることがわかったので、そっちのほうが慌てました。中止にしたほうがいいか迷ったんですけど、「できるだけ回りたい」という私の意思を周りの人たちに尊重していただいて、ツアーを決行しました。ライブ中に座って歌うコーナーを設けるなど、みなさんにサポートしてもらいながら何とかやり遂げることができました。ファンの方々が温かく見守ってくれたのもうれしかったですね。 ――出産後の活動ペースについてはどうでしたか?  曲のリリースは続いていたんですが、自分がしっかり復帰して、人前に出たのは半年後くらいですね。最初の2~3か月は授乳などで寝られなかったし、メンタル的にも体力的にもとても歌えなくて。   「息子がいるところが自分の帰る場所になる」と語る阿部真央さん    でも、子どもに救われていた部分のほうがぜんぜん大きかったんですよ。とにかく子どものことに集中しなくちゃいけなかったし、余計なことを考えることもなくて。私は小さい頃から、自分が“今、ここ”にいる感覚が持てなくて、ちょっと先のことや過去のことに引きずられるタイプだったんです。子どもと接しているときはそうじゃなくて、目の前のことだけだったから、私自身も助けられたというのかな。あとね、とにかく子どもがかわいかった(笑)。もともと子どもは好きだったけど、これほど「かわいい!」ってなるとは思ってなかったので。夢中だったし、幸せでしたね。 ――お子さんの存在が、阿部真央さんを“今、ここ”につなぎとめてくれた?  はい。自分の家であっても宿泊先のホテルであっても、息子がいるところが自分の帰る場所になるので。彼の存在にはとても感謝しているし、活動にもまったくマイナスではなかったと言い切れます。もちろん“私の場合は”ですけどね。仕事の特性もあるし、サポートしてくれる母親やスタッフのみなさんの協力で成り立っていることなので。 ――音楽の制作にも影響はありましたか?  すごくあります。たとえば子ども番組を観ていて、「この歌が何十年にもわたって愛されている理由があるはずだ」と考えたり、「これくらの月齢の子が必ず反応するリズムや声の高さがあるな」って分析したり。小学生くらいになると、「今はこれが流行ってる」という情報を持ってきてくれるし、それに対して「なるほど、面白いな」と思うこともけっこうあるんですよ。あとは子供の純粋さや素直さがすごく響くんです。たとえば宿題で作文を書いたときも、拙さが愛おしいし、“わが子だから”ということを抜きにしても美しい文章だなと思うんです。「うちには犬がいて、学校から帰ると、必ず靴下を片方だけ持っていきます」みたいなたわいもないことなんだけど(笑)、そのストレートさに胸を打たれる。そういう刺激はいつも受けてますね。 シングルマザーとして子育てと仕事を両立することについて ――阿部真央さんは2016年に離婚を経験。シングルマザーとして子育てと仕事を両立させていますが、どんなところに大変さを感じていますか?  シングルマザーと言っても人によって状況はまったく違うから、一概に言うことはできないと思いますがそれを踏まえて言えることがあるとすれば、頼れる人たちが周りにいるかどうかはすごく大きいと思います。私の場合は、生活を共にしてサポートしてくれる実母ですね。息子にとってのおばあちゃんですけど、母のおかげで私は仕事に集中できるし、一家の大黒柱として働くことができる。それは感謝してもしきれないですね。  あとは友人たちの存在。私が仲良くしているのは40代から50代の人が多いんですけど――若い頃から年上のお姉さんとばかり遊んでいたので(笑)――彼女たちはママとしての先輩でもあるから、「子供がこういうとき、どうしてました?」と質問できたり、先回りして「これをやっておいたほうがいいよ」と教えてもらえたりするんですよ。ママ友ではない、ママ・ネットワークですね。 ――子どもを介したママ友ではなく、もともとの友人関係が大事。  しかも私の場合は年上の友だちがほとんどで、お子さんがいる人も多かったので、そこは幸運だったと思います。フリーランスだったり、起業してがんばっている女性も多いし、子育てしながら仕事をすることに対してマイナスイメージがなかったのもよかったですね。もちろん大変なこともありますけどね。この業界って、けっこう夜の仕事なんですよ(笑)。 ――たしかに、ライブも夜ですからね。  子どもが小さいときはツアーに連れていかなくちゃいけないこともあったし、それ以外でも「今日は〇時までに仕事を終えたい」「この時間帯は子どもの用事があるから、打ち合わせはその前でお願いしたいです」ということもあって。スタッフのみなさんはとても協力的なので、こちらもきちんと説明したり主張することを心がけています。仕事をしている以上、それは当然のことなのかなと思いますけどね。 ――仕事と子育ての両立において、周囲に気を遣ったり、理解を得られないなと感じることはありますか? たとえば男性とはやはり感覚が違う、など……。  男女の差というよりは、人によって共有できる話題が違うという感じはあると思います。「この人とは仕事の話はできるけど、子どもの話はできない」とか、いろいろと住み分けがあるというか。性別にかかわらず、キャリアの話ばかりに花が咲く女性もいるし、家庭の話ができる男性もいますからね。ただ私は「お父さん、お母さんの役割ってあるよな」と思うタイプで。そういうのは古いのかもしれないけど、自分が母子家庭で育ったから余計にそう思うのかもしれないですね。実際、今の私は「父親と母親、両方の役割をやっているんだな」と感じるので。 母の明るさに何度も救われた ――阿部真央さんは今年デビュー15年。当初からのファンの方は30代前後が多いと思うし、ライフステージも変化している時期ですよね。  そこにも大きく二つあって。「結婚しました」「子どもが生まれました」という声は2年くらい前から増えているんですけど、20代後半あたりの人たちは「転職しました」「独立しました」というキャリアの変化を迎えている方もけっこういるんですよ。アラサーの女性は人生の岐路に立っていることが多いし、「今年は忙しくて、ファンクラブイベントに行けません」という声があったり。そういう人たちには「がんばって!」という気持ちを遠くから送っています(笑)。 ――一緒に年月を重ねてきたし、「これからも一緒にがんばろう」という気持ちも?  それはすごくありますね。さっきも言ったように状況は人それぞれ違うと思いますが、私が元気に活動を続けることで、「こういう人生もあるよ」というのを見せていけたらいいなという気持ちもあるので。私自身は「やっぱりお母さんは笑ってないとね」と思っているんです。ウチの母がまさにそうで、めっちゃ笑う人なんですよ。「お金? ないけど何とかなる!」みたいな(笑)。その明るさに何度も救われたし、お金はない家庭だったんですけど、「自分は貧しい家の子だ」って思ったことは1回もないんですよ。私がグレずに済んだのは確実に母のおかげですね。 ――デビューのきっかけになった「母の唄」(ライブでしか披露されない楽曲)の歌詞は“そのまま”なんですね。ちなみに息子さんは阿部真央さんがどんな仕事をしているのか認識しているんですか?  さすがにわかっているみたいです。新曲ができたら聴かせるんですけど、「うん、いいと思う」って言ってくれます(笑)。4月にCreepy Nutsさんの「Bling-Bang-Bang-Born」カバー動画をアップさせてもらったんですけど、その音源を息子に聞かせたら「もうちょっとうまくできるんじゃない?」って言われて。「なにそれ!」って怒りました(笑)。動画を見せたら「すごい」って感動してましたけどね。 ――8月にはニューアルバム「NOW」がリリースされます。 「5周年、10周年のときもそうだったんですけど、周年ってベストアルバムを出したり、振り返ることが多かったんですよね。でも今回のアルバムには、しっかり“今”を表したいと思っています。久しぶりのバンドツアーもあるので、ぜひ会場に来てほしいですね!」 (取材・文/森 朋之) あべ・まお/ 1990年生まれ、大分県出身。2009年にアルバム『ふりぃ』でデビュー。シンガーソングライターとして、同世代の女性を中心に幅広い層からの支持を得る。圧倒的な存在感をともなったライブパフォーマンスも高く評価されている。2024年8月7日にニューアルバム『NOW』をリリース予定。8月25日からは2019年以来、5年振りとなる阿部真央のソロ弾き語りツアー『15th Anniversary Abe Mao Solo Live Tour 2024』の開催が決定している。
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