平尾類
永井美奈子アナが語る日テレでの「地獄の4年」 “アイドル”時代は「3時間の仮眠を2回する生活」
永井美奈子さん(撮影/門間新弥)
フリーアナウンサー・永井美奈子さん(58)は日本テレビのアナウンサー時代、「元祖アイドルアナ」として絶大な人気を誇った。同局のアナウンサーたちと「DORA」というユニットを結成し、CDをリリースしたほか、「アイドル図鑑」にトップテン入り。一方でアナウンス技術の高さに定評があり、報道番組でも長らく活躍した。日本テレビ時代に経験した試練、人気絶頂の時に抱えていた葛藤などについてインタビューで語ってもらった。
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――1990年代の日本テレビを見ると、「ジパングあさ6」「The・サンデー」「マジカル頭脳パワー!!」「24時間テレビ 『愛は地球を救う』」などを中心に朝から夜まで永井さんが毎日番組に出演していたイメージがあります。
今振り返ってみると、しんどかったですね(笑)。朝の番組で午前4時に日テレに入って、その後は午後10、11時まで収録番組があったので、1日に3時間の仮眠を2回する生活でした。夜中の12時から3時間寝て、朝の番組をやった後に午前10時から3時間寝て。仮眠室が定宿でした(笑)。ホテルを取ってくれたりしたこともありましたが、日テレの近くに公団のアパートを借りていた時期もありました。寝るだけの部屋で、物は何も置いていなかったです。お酒は飲まなかったのでそういう席に行く機会は少なかったですけど、プライベートの時間はなかったですね。友達をなくしました(笑)。でも当時はつらいとかではなく、とにかく必死でした。体がボロボロで記憶がない部分も多いです。
「DORA」結成でCDデビュー
――92年に「DORA」を結成してCDデビューし、「アイドル図鑑」でトップテン入りするなど、アイドルアナの先駆者になりました。
DORAはきつかったですね……。当時28歳ですから。ミニスカートで歌いたくないし、そもそもアイドルではなくアナウンサーなので。当時の部長に「嫌です」って言ったら、「後輩のためにやってくれ。おまえが後輩を引っ張ってくれ」って。うまいなあ、この人って思いました(笑)。話題にしていただけるのはありがたい半面、葛藤はありました。体育会系的なアナウンス部だったので、良く思っていない方もいるだろうなと。アナウンサーとしての本分を忘れないように勘違いしないように必死でした。
永井美奈子さん(撮影/門間新弥)
その後に、「NNSアナウンス大賞」という日本テレビ系列のアナウンサーの中から、アナウンス技術の向上などでネットワークに貢献したアナウンサーを表彰する大賞に選んでいただいて、すごくうれしかったです。バラエティー番組での活動が注目されていましたが、情報番組にもやりがいを感じていましたし、アナウンス技術を認めていただいた。自分の中で一番心に残る賞ですね。
――永井さんはテレビのアナウンサーにいつ頃からなりたいと思っていたのですか?
私はラジオのアナウンサーになりたかったんです。高校時代か、もっと前からかな。AM、FM問わず音楽を聴くのが好きで、音楽をかけながらしゃべりたいと思っていました。ただ、ラジオのアナウンサーは毎年採用されるわけではなかったので、通っていたアナウンススクールのカウンセラーに「テレビ局も受けなさい」と。顔を出すのは嫌だなって乗り気ではなかったんです。親が真面目で「テレビに出るなんて、何を考えてるの?」という空気もありましたしね。
同期の関谷はレギュラー番組がどんどん増えていくのに……
――意外ですね。日本テレビから採用の合格通知が来た時はいかがでしたか?
採用されると思わなかったですし、よく拾ってくれたなって(笑)。フジテレビのほうが可能性があるかなと思ったら1次試験で落ちました。日テレは真面目で硬派なイメージがあるので、私のキャラクターでは残らないなあと思っていたんですよ。内定式の時に人事局長に「君を採るのは冒険だった」って言われました(笑)。
――入社してからの歩みを教えてください。
最初の4年間は地獄でした。私の実力不足ですが、仕事がないのにお給料をもらっているのがつらくて。同期の関谷(亜矢子フリーアナウンサー)はアナウンス技術がしっかりしていてレギュラー番組がどんどん増えていくのに、私は日本全国の秘境を回るロケで週に3日間出張して、そのほかの日は資料整理と電話番。入社2年目に報道番組に抜擢されましたが、見事に期待を裏切ってしまって。
原稿読みが下手で、自分でも不安に思いながら読んでいるので視聴者に伝わってしまう。番組を半年で降板して反省の日々でした。仕事がない期間はアナウンス室にいて、放送を見て私ならどうするかいろいろ考えました。アナウンスメントの練習、原稿読みなど基礎の部分を繰り返ししていましたが、「私しかできない仕事って何だろう」「自分の居場所はどこなんだろう」と毎日考えていました。
永井美奈子さん(撮影/門間新弥)
――自問自答した末に、どのようなポジションを目指そうと考えましたか?
アシスタントのエキスパートになろうと。アナウンサーは制作スタッフの代表です。「マジカル頭脳パワー‼」では私だけインカムをつけていました。クイズをやると「これが正解かな?」って迷った時に、スタッフから指示が来ます。番組の空気、制作スタッフの意図をくみながら進行のサポートをする。正解がない世界ですが、瞬時に判断して「このワードは面白いな、拾いたいな」って思ったらフォーカスしたりしました。
番組によってアシスタントの役割は変わります。「24時間テレビ」では、徳光(和夫フリーアナウンサー)さんが1秒でも長く話せるように、ほかの部分を削ったり調整したりして。自分が主役になるより、メインの司会者の助けになったり、トスを上げたりとかそういう役割が好きなんですよね。人が輝くことで自己肯定感が上がる感覚がありました。
小池裕美子さんの言葉に涙
――日本テレビに8年半在籍しました。改めてどのような職場だったでしょうか?
アイドルアナウンサーと評価されることが多かったですが、勘違いしないですんだのは素晴らしい先輩たちのおかげです。根気強くアナウンスのイロハを教えていただきましたし、年数を重ねても良い部分は良い、ここは直したほうが良いという部分をきっちり指摘していただきました。何年経っても特別扱いはなかったですし、すごく厳しかった。でもそんな環境で揉まれたからこそ今がある。感謝の思いでいっぱいです。
――先輩のアナウンサーから掛けられた、印象に残る言葉はありますか?
私が入社してからの地獄の時代に、報道で長くご活躍されていたアナウンサーの小池裕美子さんに「助走が長い飛行機は長く飛べるから」と声を掛けられた時は涙が出ました。実は小池さんと一緒に仕事をしたことがないんです。でも、一人一人をしっかり見てくださる。小池さんは語録を作れるぐらい凄い方です(笑)。心に残る言葉はたくさんありますね。私が新人で研修期間の時に、小池さんに「ボールペンを貸してくれる?」と言われて。
フリーアナウンサーになって初期のころの永井美奈子さん(事務所提供)
その時に「私はこのボールペンじゃないと仕事ができないとか、起きた時に靴下を右からはくとかルーティンを作らない。その行動ができなかった時にちゃんと仕事ができなくなるから。私たちの仕事はいつ報道フロアに呼ばれるか分からない。どんな時に呼ばれても対応できるように、動じちゃいけないからね」とお話ししてもらったんです。「私の場合は、だけどね」と必ず言って、自分の意見をおしつけないのも小池さんらしくて。
今もお世話になっていて、お嬢さんの結婚式の司会をさせていただきました。打ち合わせの時は緊張してケーキを一口も食べられなかった(笑)。でもうれしかったですね。アナウンサーとしてだけでなく、人間的に尊敬しています。
(平尾類)
※【後編】<永井美奈子アナ、フリーになって感じた力不足 ひな壇で埋もれて、「私は平凡で、カスカス」>に続く
永井美奈子(ながい・みなこ)/1965年6月14日生まれ。東京都出身。成城大学文芸学部英文学科を卒業後、日本テレビに入社。「ジパングあさ6」の初代キャスターを務めたほか、「The・サンデー」「マジカル頭脳パワー!!」「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!」「24時間テレビ 『愛は地球を救う』」など、報道・バラエティー番組と多岐にわたりキャスター、司会を務めた。96年にフリーアナウンサーに転身し、2001年に慶応義塾大学大学院に 入学。同年に結婚し、2児の母として子育てに奮闘する傍ら、成城大学の非常勤講師、日テレ学院の講師、クラシックコンサートのプロデュース業、エッセー執筆など多忙な日々を送っている。
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2024/06/20 11:00