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永井美奈子アナが語る日テレでの「地獄の4年」 “アイドル”時代は「3時間の仮眠を2回する生活」
平尾類 平尾類
永井美奈子アナが語る日テレでの「地獄の4年」 “アイドル”時代は「3時間の仮眠を2回する生活」
永井美奈子さん(撮影/門間新弥)    フリーアナウンサー・永井美奈子さん(58)は日本テレビのアナウンサー時代、「元祖アイドルアナ」として絶大な人気を誇った。同局のアナウンサーたちと「DORA」というユニットを結成し、CDをリリースしたほか、「アイドル図鑑」にトップテン入り。一方でアナウンス技術の高さに定評があり、報道番組でも長らく活躍した。日本テレビ時代に経験した試練、人気絶頂の時に抱えていた葛藤などについてインタビューで語ってもらった。 *  *  * ――1990年代の日本テレビを見ると、「ジパングあさ6」「The・サンデー」「マジカル頭脳パワー!!」「24時間テレビ 『愛は地球を救う』」などを中心に朝から夜まで永井さんが毎日番組に出演していたイメージがあります。  今振り返ってみると、しんどかったですね(笑)。朝の番組で午前4時に日テレに入って、その後は午後10、11時まで収録番組があったので、1日に3時間の仮眠を2回する生活でした。夜中の12時から3時間寝て、朝の番組をやった後に午前10時から3時間寝て。仮眠室が定宿でした(笑)。ホテルを取ってくれたりしたこともありましたが、日テレの近くに公団のアパートを借りていた時期もありました。寝るだけの部屋で、物は何も置いていなかったです。お酒は飲まなかったのでそういう席に行く機会は少なかったですけど、プライベートの時間はなかったですね。友達をなくしました(笑)。でも当時はつらいとかではなく、とにかく必死でした。体がボロボロで記憶がない部分も多いです。 「DORA」結成でCDデビュー ――92年に「DORA」を結成してCDデビューし、「アイドル図鑑」でトップテン入りするなど、アイドルアナの先駆者になりました。  DORAはきつかったですね……。当時28歳ですから。ミニスカートで歌いたくないし、そもそもアイドルではなくアナウンサーなので。当時の部長に「嫌です」って言ったら、「後輩のためにやってくれ。おまえが後輩を引っ張ってくれ」って。うまいなあ、この人って思いました(笑)。話題にしていただけるのはありがたい半面、葛藤はありました。体育会系的なアナウンス部だったので、良く思っていない方もいるだろうなと。アナウンサーとしての本分を忘れないように勘違いしないように必死でした。 永井美奈子さん(撮影/門間新弥)    その後に、「NNSアナウンス大賞」という日本テレビ系列のアナウンサーの中から、アナウンス技術の向上などでネットワークに貢献したアナウンサーを表彰する大賞に選んでいただいて、すごくうれしかったです。バラエティー番組での活動が注目されていましたが、情報番組にもやりがいを感じていましたし、アナウンス技術を認めていただいた。自分の中で一番心に残る賞ですね。 ――永井さんはテレビのアナウンサーにいつ頃からなりたいと思っていたのですか?  私はラジオのアナウンサーになりたかったんです。高校時代か、もっと前からかな。AM、FM問わず音楽を聴くのが好きで、音楽をかけながらしゃべりたいと思っていました。ただ、ラジオのアナウンサーは毎年採用されるわけではなかったので、通っていたアナウンススクールのカウンセラーに「テレビ局も受けなさい」と。顔を出すのは嫌だなって乗り気ではなかったんです。親が真面目で「テレビに出るなんて、何を考えてるの?」という空気もありましたしね。 同期の関谷はレギュラー番組がどんどん増えていくのに…… ――意外ですね。日本テレビから採用の合格通知が来た時はいかがでしたか?  採用されると思わなかったですし、よく拾ってくれたなって(笑)。フジテレビのほうが可能性があるかなと思ったら1次試験で落ちました。日テレは真面目で硬派なイメージがあるので、私のキャラクターでは残らないなあと思っていたんですよ。内定式の時に人事局長に「君を採るのは冒険だった」って言われました(笑)。 ――入社してからの歩みを教えてください。  最初の4年間は地獄でした。私の実力不足ですが、仕事がないのにお給料をもらっているのがつらくて。同期の関谷(亜矢子フリーアナウンサー)はアナウンス技術がしっかりしていてレギュラー番組がどんどん増えていくのに、私は日本全国の秘境を回るロケで週に3日間出張して、そのほかの日は資料整理と電話番。入社2年目に報道番組に抜擢されましたが、見事に期待を裏切ってしまって。  原稿読みが下手で、自分でも不安に思いながら読んでいるので視聴者に伝わってしまう。番組を半年で降板して反省の日々でした。仕事がない期間はアナウンス室にいて、放送を見て私ならどうするかいろいろ考えました。アナウンスメントの練習、原稿読みなど基礎の部分を繰り返ししていましたが、「私しかできない仕事って何だろう」「自分の居場所はどこなんだろう」と毎日考えていました。 永井美奈子さん(撮影/門間新弥)   ――自問自答した末に、どのようなポジションを目指そうと考えましたか?  アシスタントのエキスパートになろうと。アナウンサーは制作スタッフの代表です。「マジカル頭脳パワー‼」では私だけインカムをつけていました。クイズをやると「これが正解かな?」って迷った時に、スタッフから指示が来ます。番組の空気、制作スタッフの意図をくみながら進行のサポートをする。正解がない世界ですが、瞬時に判断して「このワードは面白いな、拾いたいな」って思ったらフォーカスしたりしました。  番組によってアシスタントの役割は変わります。「24時間テレビ」では、徳光(和夫フリーアナウンサー)さんが1秒でも長く話せるように、ほかの部分を削ったり調整したりして。自分が主役になるより、メインの司会者の助けになったり、トスを上げたりとかそういう役割が好きなんですよね。人が輝くことで自己肯定感が上がる感覚がありました。 小池裕美子さんの言葉に涙 ――日本テレビに8年半在籍しました。改めてどのような職場だったでしょうか?  アイドルアナウンサーと評価されることが多かったですが、勘違いしないですんだのは素晴らしい先輩たちのおかげです。根気強くアナウンスのイロハを教えていただきましたし、年数を重ねても良い部分は良い、ここは直したほうが良いという部分をきっちり指摘していただきました。何年経っても特別扱いはなかったですし、すごく厳しかった。でもそんな環境で揉まれたからこそ今がある。感謝の思いでいっぱいです。 ――先輩のアナウンサーから掛けられた、印象に残る言葉はありますか?  私が入社してからの地獄の時代に、報道で長くご活躍されていたアナウンサーの小池裕美子さんに「助走が長い飛行機は長く飛べるから」と声を掛けられた時は涙が出ました。実は小池さんと一緒に仕事をしたことがないんです。でも、一人一人をしっかり見てくださる。小池さんは語録を作れるぐらい凄い方です(笑)。心に残る言葉はたくさんありますね。私が新人で研修期間の時に、小池さんに「ボールペンを貸してくれる?」と言われて。 フリーアナウンサーになって初期のころの永井美奈子さん(事務所提供)    その時に「私はこのボールペンじゃないと仕事ができないとか、起きた時に靴下を右からはくとかルーティンを作らない。その行動ができなかった時にちゃんと仕事ができなくなるから。私たちの仕事はいつ報道フロアに呼ばれるか分からない。どんな時に呼ばれても対応できるように、動じちゃいけないからね」とお話ししてもらったんです。「私の場合は、だけどね」と必ず言って、自分の意見をおしつけないのも小池さんらしくて。  今もお世話になっていて、お嬢さんの結婚式の司会をさせていただきました。打ち合わせの時は緊張してケーキを一口も食べられなかった(笑)。でもうれしかったですね。アナウンサーとしてだけでなく、人間的に尊敬しています。 (平尾類) ※【後編】<永井美奈子アナ、フリーになって感じた力不足 ひな壇で埋もれて、「私は平凡で、カスカス」>に続く 永井美奈子(ながい・みなこ)/1965年6月14日生まれ。東京都出身。成城大学文芸学部英文学科を卒業後、日本テレビに入社。「ジパングあさ6」の初代キャスターを務めたほか、「The・サンデー」「マジカル頭脳パワー!!」「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!」「24時間テレビ 『愛は地球を救う』」など、報道・バラエティー番組と多岐にわたりキャスター、司会を務めた。96年にフリーアナウンサーに転身し、2001年に慶応義塾大学大学院に 入学。同年に結婚し、2児の母として子育てに奮闘する傍ら、成城大学の非常勤講師、日テレ学院の講師、クラシックコンサートのプロデュース業、エッセー執筆など多忙な日々を送っている。  
永井美奈子女子アナアナウンサー
dot. 2024/06/20 11:00
永井美奈子アナ、フリーになって感じた力不足 ひな壇で埋もれて、「私は平凡で、カスカス」
平尾類 平尾類
永井美奈子アナ、フリーになって感じた力不足 ひな壇で埋もれて、「私は平凡で、カスカス」
永井美奈子さん(撮影/門間新弥)    元日本テレビのフリーアナウンサー・永井美奈子さん(58)はインタビュアー、朗読、エッセー執筆のほか、クラシックコンサートのプロデュースなどマルチな才能を発揮して多忙な日々を送っている。【前編】では日本テレビのアナウンサー時代を振り返ってもらったが、【後編】ではフリー転身後に味わった挫折、バラエティー番組の発言で大きな反響を呼んだ「2度の家出」の真相などについてインタビューで明かしてくれた。 ※【前編】<永井美奈子アナが語る日テレでの「地獄の4年」 “アイドル”時代は「3時間の仮眠を2回する生活」>より続く ――永井さんといえば、昨年8月にバラエティー番組「踊る!さんま御殿!!」(日本テレビ系)に出演し、結婚後に夫婦げんかで深夜に家出を2回したけれど早朝に自宅に戻り、家族が誰も気づかなかったと告白して話題になりました。  SNS(での拡散)は怖いですね(笑)。ママ友からは「テレビで話すことじゃないよね」と笑われました。私が家族のために一生懸命やっていることが空回りしているんですよ。私の周りは理解していますが、全然深刻なことではなくて。家族も番組を見ていると思うんですけど、何も言ってこないですね。関心がないふりをされています。なめられているのかな?(笑)。  長男が22歳、長女が高3の17歳なのですが、息子が生まれた時に、テレビの仕事を全部やめました。実家を含めていろいろな方々に助けてもらい、子供中心の生活でした。23年間、朝にお弁当を作り続けてきて、還暦まで弁当を作ると思っていたけど、来年で終わるので寂しいです。 私がポンコツであることを知っている ――アナウンサーでしっかりした立ち振る舞いのイメージがあるので、「さんま御殿」でのエピソードにギャップを感じた視聴者が多かったのかもしれません。  全然しっかりしていないんですよ(笑)。局アナの時も周りがカバーしてくれていた。一緒に仕事をしている方たちは私がポンコツであることを知っています(笑)。当時はネットの時代じゃないから表に出ていないだけで、相当やらかしていました。「ジパングあさ6」は朝の5時59分から始まる番組で局に4時入りなのですが、起きたら4時半の時があって呆然となりました。 永井美奈子さん(撮影/門間新弥)    狛江市(東京)に住んでいたのですが、急いでオンエアで着られる服を着て、車を運転して向かって。どうにか間に合いましたが、コマーシャルの間にお化粧を足していって、番組の最後に顔が完成していました(笑)。  こういうエピソードはたくさんあって……。この前も娘と2人で韓国に行ったんですけど、私は何度も海外に行っているのに空港の事務手続きが苦手で。娘のほうがしっかりしていて、「なんで私が貴重品を預かって先導しているの?」と突っ込まれました(笑)。 体温が1度下がる感覚 ――アナウンサーとして有事でも冷静沈着に伝えていた印象があります。  普段はすっとこどっこいでおっちょこちょいなんですけど、仕事で緊急事態のほうが冷静になるんですよね。体温が1度下がる感覚でした。阪神・淡路大震災、松本サリン事件、オウム真理教の幹部逮捕など大きな災害や事件が入ってくると、予定していたニュースの台本が全部飛びます。報道フロアはみんな騒然となっていましたが、不思議と冷静でしたね。 ――日本テレビに8年半在籍した後、1996年9月にフリーアナウンサーに転身しました。  日テレで何度も逃げ出したい時はあったんです。入社して仕事ができなかった時がそうでしたし、人気だけ先行して居心地が悪くなった時もフリーになりたいなって。でも、今辞めたら逃げることになる。8年半続けて認めてくださる方が増えて居心地が良くなった時、フリーになることを決断しました。あとは体調を崩していたことも理由の1つです。今みたいにゆとりを持って有休をとれるシフトではなかったですし、学生時代はラジオのアナウンサーになりたかったので、外の世界を見たかったというのもありました。 フリーになって初期のころの永井美奈子さん(事務所提供)   ――実際にフリーで活動されるようになって、いかがでしたか?  力不足を感じました。私って平凡な人間だったんで。大きな挫折もしていないし大きな成功もしていない。アナウンサーでなく、自分が主役になって何を話せるかといったら何も話せない。バラエティー番組に出てもひな壇の中で埋もれてしまうんです。勝負しようと思ったけど何も武器を持っていないなかで生き残れないと。スポンジでいえばカスカスだったので、もっとジタバタしていろいろなことを吸収しなければいけないと思いました。英会話の専門学校に通ったり、慶大大学院に行ったり……。全然頭は良くないんですけど(笑)、必要な期間だったと思います。 24時間配信ライブでの苦労 ――著名人のインタビュー、エッセーの執筆、朗読など様々な活動をしていますが、クラシック音楽イベント「霞町音楽堂夏Fes.」(略称・おんなつ)のプロデュースを手掛け、今年で5年目を迎えます。どのようないきさつで活動に携わったんでしょうか?  クラシック好きの夫がクラシック専門の音楽ホール霞町音楽堂を始めたのがきっかけでお手伝いしていたのですが、2020年に新型コロナウイルスの大流行で、コンサートが世界中でなくなり、音楽家の方たちが職を失って。私は「24時間テレビ」を経験していたので、24時間配信ライブをやれば話題になると思って動き出しました。  でも、まぁ大変でした(笑)。企画書、音楽家の出演交渉、契約書の手続き、配信のタイムキーパー、当日の司会、カンペ出しを全部やらなきゃいけない。恐ろしいほど忙しくて、途中で「私は何でやるって言ったんだろう」と……(笑)。でも無事に終わったら、音楽家の方たちに「ありがとう」と声をかけていただき、チケットを販売してくださったぴあの社長にも「歴史に残る偉業だよ」と褒めていただいて。凄くうれしかったですね。 やめると言い出せないから続けている(笑) ――永井さんのエネルギーがなければ実現できなかったイベントですね。  アナウンサーの経験、大学院での学び、今まで生きてきたことすべてが役に立ちました。ただ、あまりにも大変でしたし、イベントが大赤字になってしまったのでこの一度きりと思っていたら、翌21年はコロナの感染がもっと深刻になっていて。協賛する企業を探さなければいけないし、まだまだ音楽家を取り巻く状況が大変だったので続けることにしました。昨年はコロナが収束に向かっていたのでやめようかなと思っていたら、音楽家の方から「面白いことやっているね」って認知されるようになって。やめると言い出せないので続けています(笑)。  でもやるからには全力でクラシックの楽しさを伝えたい思いは変わりません。演奏の合間にロングインタビューを交えて、テレビを見るような気軽さで楽しみながら生の演奏のとりこになって欲しい。素人だからできる日本で一番“敷居が低い”コンサートを目指しています。今年は7月に開催予定で今は各所で営業活動をしています。 ――これから思い描く人生設計を教えてください。  私は計画性がなくて走りながら考えるタイプなので、友達に「どこに向かっているの?」と言われるんですけど(笑)、ありがたいことにいろいろなお仕事をさせていただいています。成城大で18年非常勤講師をやって、日テレ学院の講師、クラシックコンサートのプロデュースなどいろいろしていますが、この年になって蓄積できたことを若い人に還元できたり、お役に立てたりすることは幸せに感じます。5年後、10年後に全然違うことをやっているかもしれないですけど(笑)。その時はまた取材に来てくださいね。 (平尾類) 永井美奈子(ながい・みなこ)/1965年6月14日生まれ。東京都出身。成城大学文芸学部英文学科を卒業後、日本テレビに入社。「ジパングあさ6」の初代キャスターを務めたほか、「The・サンデー」「マジカル頭脳パワー!!」「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!」「24時間テレビ 『愛は地球を救う』」など、報道・バラエティー番組と多岐にわたりキャスター、司会を務めた。96年にフリーアナウンサーに転身し、2001年に慶応義塾大学大学院に 入学。同年に結婚し、2児の母として子育てに奮闘する傍ら、成城大学の非常勤講師、日テレ学院の講師、クラシックコンサートのプロデュース業、エッセー執筆など多忙な日々を送っている。    
永井美奈子女子アナアナウンサー
dot. 2024/06/20 11:00
「グリ下の子どもたちと現代の『ライ麦畑のキャッチャー』」内田樹
内田樹 内田樹
「グリ下の子どもたちと現代の『ライ麦畑のキャッチャー』」内田樹
哲学者 内田樹    哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。 *  *  *  大阪の道頓堀にグリコの看板がある。その下を「グリ下」と呼ぶ(最近知った)。家にも学校にも居場所がない子どもたちが集まってくる。親による虐待や経済的な困難などの問題を抱えた「寄る辺ない子どもたち」である。彼らは犯罪に巻き込まれたり、夜の仕事に誘われたり、債務を負ったりするリスクにさらされる。  ここで若者や子どもたちを救援する活動をしている今井紀明さん(認定NPO法人D×P理事長)と話をする機会があった。子どもたちに寝る場所と食べ物を提供し、医療的なケアが必要な場合にはそれも提供するのが彼らの仕事である。  同じような活動は日本中で自然発生的・同時多発的に始まっている。「こういう活動をどう評価しますか?」と今井さんに訊かれたので、日本が再び相互支援ネットワークがなければ生きてゆけない社会になったということだと思うとお答えした。  私は人々が助け合って生きていた時代を記憶している。1950年代の日本には相互支援のネットワークがたしかに存在した。みんな貧しかったし、行政が十分に機能していなかったから防犯も防災も公衆衛生も地域共同体の仕事だった。親たちは生きるための糧を稼ぐのに忙しく、小さい子の面倒は年長の子どもが見た。  でも、高度成長期に入り、みんな豊かになるとこの「貧者の共同体」は割とあっけなく崩壊した。郊外に家を買った人たちは黙って町内を出てゆき、何年間も実の兄弟姉妹のように親しく暮らしていた町内の子どもたちの消息を私は誰一人として今は知らない。  それから長い間「一人でも生きてゆける時代」が続いた。それだけ日本社会は豊かで安全だったのである。でも、また日本は貧しくなり、行政の手が届かず、小さい子どもたちの面倒を年長の子どもが見なければならない時代がやってきた。そのとき自分を「子どもの世話をする年長者」だと感じる人たちが出てきた。橋本治はそういう人を「原っぱのお兄ちゃん」と呼んでいた。サリンジャーは「ライ麦畑のキャッチャー」と呼んでいた。そういう「善き人」はいつの時代にも必ずいる。それを知って私は少しだけ安堵した。 内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数 ※AERA 2024年6月24日号
内田樹
AERA 2024/06/19 07:00
子どもの話を「聞き切る」ことで変わった!視点を変えれば不登校はダメでも不幸でもない
村上 好 村上 好
子どもの話を「聞き切る」ことで変わった!視点を変えれば不登校はダメでも不幸でもない
先の見えない真っ暗なトンネルの中にも、一筋の光が差し込む瞬間が必ずやってきます  3人の子どもの不登校を経験し、不登校の子どもやその親の支援、講演活動などを続ける村上好(よし)さんの連載「不登校の『出口』戦略」。今回のテーマは「不登校に対する視点の変え方」です。 *   *   *  前回の記事では、不登校の原因が「無気力・不安」だというのは本当なのか、ということについてお話ししました。今回は、「不登校に対する視点の変え方」についてお話ししていきたいと思います。  わが子が不登校になって喜ぶ親御さんはいないと思います。ほとんどの方がショックを受け、戸惑い、不安になって、自分や周りを責めてしまうのではないでしょうか?  まさに、私がそうでした。長男の「不登校」という現実を突きつけられて、失意のどん底にいました。「私の子育てのせいだ」「あの言葉がいけなかったのかも」「先生がもうちょっとフォローしてくれていたら」「クラスメートがもうちょっと気にかけてくれていたら」……。ネガティブな思いが頭の中をぐるぐるして、原因探しを始め、底なし沼のようなところにハマっていきました。そして、いつの間にか視野が狭まっていき、先の見えないトンネルに入ってしまったような感覚に陥っていました。  当時、話を聞いてもらった知人に言われたのが「よしさん、息子さんはまだまだトンネルの入り口だと思いますよ」という言葉でした。その時は「ふ〜ん、そうなんだ。でもまぁ、大丈夫だろう」と軽く考えていましたが、やる気なさそうに家でひたすらゲームしていたり、昼夜逆転して家族を避けたりする時期に突入して、その意味を理解することになりました。  この連載の1回目で書いたように、長男との「事件」が起こってから、私は不登校と向き合おうと決め、長男のことを受け入れられるようになりました。だんだんと目の前の事象から他のことに目を向けられるようになり、視野を広げることができるようになったのです。自分の子育てを振り返ってみようと思い、なぜ不安や焦りが常に頭の中にあったのか、なぜそれを子どもにぶつけていたのか……ということをじっくり考えました。 「子どものため」は、多くの親が思うことですよね。信頼して見守るより、世話を焼くほうがラクなのも事実です photo iStock.com/takasuu  自分自身でひもといてたどり着いたのは、「子どものために」と言いながら、実は自分のためにやっていたことが多かったということ。遅刻しないように毎日起こして、宿題を手伝って、忘れ物があれば学校まで届けに行って……。先回りして世話を焼いて、長男が周りに後れを取らないようにと必死でしたが、いま思えば、自分が世間からどう思われるかを気にしていただけで、「子どものため」というのは隠れみのだったんですよね。たぶん、自分の不安を解消するためにやっていたんです。  ほかにも、自分の思い描いた「いい大学→いい会社→安定した生活」というレールに乗ってほしくて無意識に長男を誘導しようとしていたことや、自己肯定感が低い息子に何とか自信を持ってもらいたくて、水泳、かけっこ、体操、野球といろんな習いごとをさせたけれど、そのことで逆に自信を失わせていたかもしれないということに、気がつきました。……というより、なんとなく分かってはいたものの認めたくなかったのが、崖っぷちまできたことで、自分でもいいかげん、認めないといけないと観念したのだと思います。  もちろん、「あぁ、なんてことをしてしまったのだろう」と後悔したし、落ち込みましたが、後悔しても時間を戻すことはできません。そのあたりから、本来の楽天的な自分を取り戻したように思います。目の前に壁が立ちはだかったとき、私はいつも喜々としてアイデアを出して乗り越えてきたんだ、と思い出しました。いまこそ、それを子育てに生かそう、と。「なんで」「どうして」という自責や他責の念からも、解放されいきました。  ちょうどその頃に出会ったのが、「ことばキャンプ」でした。当時、ママ向けのビジネススクールに通っていたのですが、ことばキャンプの講師の方がゲストでいらっしゃって、実際にことばキャンプのプログラムを受講したのです。言葉を使って人とコミュニケーションすることの楽しさを知り、大きな衝撃を受けました。脳は「快」で動きだすといつもおっしゃっている記憶術の吉野邦昭先生の言葉通り、私の頭の中の「快」が動きだしたのです。  これはすごいと思い、早速、家庭で実践しました。まず試したのは「聞く耳モード」と言われるもので、聞く態度を変えることでした。目を見ながら笑顔でうなずき、相づちを打ちながら最後まで聞き切る。じっくりと最後まで聞いてから、「そうなんだね、話れくれてありがとう」「気持ちを伝えてくれてうれしいよ」などと伝えていきます。「二者択一のワーク」も取り入れました。「今日の晩御飯、肉と魚のどっちが食べたい?」と聞いて子どもに選んでもらい、選んだ理由を聞いてみる。理由を教えてくれたら「へ~、そうなんだね。教えてくれてありがとう」と子どもの意見を尊重し、承認しました。結果、自己を理解する力、自分で決定する力、意思表示する力が育っていきました。  まだ小さかった下の子どもたちは、面白いくらい表現力や語彙(ごい)力がぐんぐんと身についていきました。長男も、ちょっとずつですが確実に変わっていきました。それまで部屋にこもりっきりだったのが、だんだんと部屋から出てくるようになり、親子の会話が増えていきました。子どもたちの中で、「コミュニケーションをすることの楽しさ」を脳が「快」と受け止めて、変わっていったのだと思います。 「何をどう言えば子どもたちが変わるのか」といろんな本を読みあさっていたのですが、子どもたちの話をしっかりと最後まで聞くだけで、こんなにも変化があるのだということにとても驚きました。以前は、子どもたちが話しているのを遮って、私の意見や否定、ダメ出しをしていたのですが、この「聞く耳モード」を実践するだけで子どもたちはたくさん話してくれるようになったのです。子どもを変えようと思っていたけれど、変わるべきは大人である自分でした。  ちょっとしたことでも、意識してやってみることで子どもに変化があることに気がつき、だんだんと子どもたちに可能性を感じるようになり、自分の子育て感がどんどん変化していきました。不登校ということ自体も子どもと一緒に何かを変えるチャンスなんだと思えるようになり、視点が変わってきました。 「ことばキャンプ」の力を体感した私は、このプログラムを提供するNPO法人の講師になり、いまは代表を務めています  学校に行くことのメリット、デメリットを一緒に考えたり、どうせ家にいるのなら、いろいろな大人に会いに行って、その人の話を聞いてみようと思い、さまざまな仕事をしている人に会いに行ったり。視点を変え、発想も切り替えたら、「不登校も悪くない」とさえ思えるようになったのです。私は外国人の訪日ガイドもしていたので息子も一緒に連れていき、引きこもって外に出ないときは家に人を呼んで打ち合わせをしたり、とにかく発想を転換してやってみると、次々にアイデアが浮かんできました。私の気持ちが楽になり、不登校に対する引け目や罪悪感がなくなっていきました。  好きだった料理にもまた力を入れるようになって没頭したり、掃除をすると気分がスッキリするので断捨離をしてみたり。「不登校児の親」という概念をきれいさっぱり取り去って心機一転前を向いて進むようになりました。何かが吹っ切れたかのように変わっていく私を見て、子どもたちも気持ちがほぐれていき、主人も長男に対してどう接したらいいかわからないという状態から少しずつ自分も変わらないといけないのかもしれないと思ってくれるようになりました。  家族という集合体で生活している以上、そのメンバーの誰かの影響を他の家族が受けることはよくあることだと思います。長男の不登校という現象を私自身が重く受け止めていた時には、なんだかそれが家族に波及してどんよりとなっていました。でも、崖っぷちまで行き、本当に子育てに必要なものはなんだろうということを世間体や自分の願望抜きに考えたとき、子どもは自分の持ち物でも、自分の評価を高めてくれる判断材料でもないということに気がついたし、自分で背負っていたプライドのような大きな肩の荷物を下ろせたような気がしました。  私の場合はことばキャンプに出会ったことが大きなきっかけになりましたが、この「視点を変えてみる」ということに早めに気がつくと、不登校はダメだ、不幸だという思いにも陥らなくて済むのではないかと思います。もし、あなたのお子さんが不登校の状態にあるなら、自分の子育てを少し振り返ってみて、子育ての棚卸しをしてみることをお勧めします。「良い」「悪い」の判断をするのではなく、変えていく必要があると思ったことを変えていけばいいのです。 「子どもの話を途中で遮って、全然最後まで聞いてなかったなぁ」「いつもダメ出しばかりしていたなぁ」「習い事させすぎたかなぁ」などなど、振り返るのはとても大事なことです。そして、まずは改善してみること。そういう機会を得られたのは不登校になったからこそだな、と思うと、不登校も悪くないと思えるのではないでしょうか? 完璧な子育てなんてどこにも存在しませんし、いつからでもやり直しが効きます。明日は必ず来る!だから前に進んでいきましょう。  次回7月2日配信。不登校が実は選択肢を広げるということについて、お話しします。
不登校オカンの駆け込み寺
dot. 2024/06/18 07:00
科学と通信の世界へつないだ大磯町の浜辺と母校 NEC・遠藤信博特別顧問
科学と通信の世界へつないだ大磯町の浜辺と母校 NEC・遠藤信博特別顧問
ここで地引き網を引くと鯵やシラスが獲れた。シラスは生で食べ、残った分は持ち帰る。母がゆでてくれ、新聞紙の上で乾かす。シラスはいまも好物だ(写真:狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年6月17日号では、前号に引き続きNEC・遠藤信博特別顧問が登場し、「源流」である幼少期を過ごした神奈川県大磯町を訪れた。 *  *  *  2003年4月、モバイルネットワーク事業本部のモバイルワイヤレス事業部長に就いて、「パソリンク」という装置の事業を引き継いだ。携帯電話などの基地局をつなぐ小型の無線装置で、NECが開発した。一時は国内でどんどん受注があって成長したが、大量の信号を高速で送ることができる光ファイバー網が築かれると、主役の座を奪われて赤字に陥っていた。  着任して「3年以内に黒字にできなければ、事業部長を辞めてもいい」と心に決めた。活路は、みえていた。前任者は力を入れていなかった海外展開へ、注力する。光ファイバー網を敷くには膨大な資金が必要だが、「パソリンク」なら通信の品質は少し下がっても、適度な間隔に無線基地局を置いていけばいいだけ。国土が広く資本力不足のインドやアフリカ、南米などにぴったりのはず、と読んだ。  大事なのは、新興国向けに安くつくることと、相手の市場の実情と購買力に応じた柔軟な売り方だ。前者では福島県にあった製造子会社へ出向き、安い価格で売っても黒字が確保できる台数を計算させる。当時の月産4千台を6千台にできれば黒字化すると聞き、「必ずそれだけ売る」と約束してつくらせた。後者では海外営業を受け持つ面々に、相手国へ出張に出たら買い手と最低でも2度会って、相手の懐事情に即した対応をしてくるように指示をする。  商談には自らも出向き、有望な市場だったインドには毎月のように訪れた。出荷台数はすぐに月間1万台規模に増え、3年間で月平均2万5千台となり、世界市場のシェアは約3割に達する。読みは、当たった。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 平塚江南は女子校から始まった高校で、1950年に男女共学の普通高校になった。在学当時は男子が少なくて先生が運動会の後、男子だけにファイアーストームをしてくれた(写真:狩野喜彦)   浜辺でみた人工衛星天空に動く白い粒が技術へ関心の出発点  ことし4月、子どものころから過ごした神奈川県大磯町を、連載の企画で一緒に訪ねた。大磯の海岸からみる相模湾の水平線は、霞んでいた。晴れて暖かかったので、海水が蒸発して光を散らしていたのだろう。でも、左手に江の島、右手に真鶴半島がみえる。子どものころ毎日みた風景と、変わっていない。  この浜で、六十数年前に人工衛星をみた。幼稚園の園長が連れてきてくれて、見上げると、天空を小さな白い粒が動いていた。ソ連製か米国製かは分からないが、いずれにしても新たな世界に触れさせてくれた。小学校4年生のときは、浜辺に近い自宅で人工衛星による日米間初のテレビ中継を観た。大統領暗殺という衝撃的なニュースが、現場から生放送で報じられた。  この二つの体験が、遠藤信博さんがビジネスパーソンとしての『源流』となったとする「科学技術への関心」の出発点だ。  1953年11月に大磯町で生まれ、父母と姉と4人家族。姉は七つ年上で、一緒に遊ぶことはなかったが、小学校へいくようになると家庭教師のような存在になり、中学生になるころに「あなたは意志が弱い。意志をもっと強く持たないと、事はできない」と注意され、「Where there's a will,there's a way.」という文言を教わった。 「意志あるところに道あり」の意味で、この「Will」から「パソリンク」の事業を指揮した事業部長時代に、部下たちへ繰り返して説いた「Strong Will and Flexible Mind」──強い意志と柔らかい心という言葉が生まれた。「パソリンク」の成功は、この実践と言える。  幼稚園にはバスで通ったが、自宅から1キロ以上あった大磯小学校には歩いて通う。訪ねると、すっかり様子が変わっていた。敷地は、元財閥の当主に譲ってもらった、と聞いた。 明治の元勲の別宅や旧財閥の邸宅があり誇らしさも感じた  明治維新の後、大磯町には伊藤博文や山県有朋、大隈重信ら元勲の別宅がつくられ、吉田茂・元首相や財閥だった三井家、安田家の邸宅もあった。近代史の香りがして、子ども心に誇らしさのようなものも感じた。  母校の大磯中学校の前は旧東海道の松並木で、ここも再訪すると、数学好きだったことを思い出す。小学校のときから算数が好きで、科学技術が「関心」から明確な「進路」へと変わったのは、神奈川県平塚市の県立平塚江南高校のときだ。「大学は理科系へ」と決め、理科系の授業を多く取った。  東京工業大学へ入り、大学院で電磁波を研究テーマに選び、博士号を取得後に通信に強いNECへ81年4月に入社。6月にマイクロ波衛星通信事業部の空中線部へ配属され、以後20年余り無線機器の開発に携わり、衛星通信や携帯電話の基地局などを手がけた。その一つが、スウェーデンに納めた直径13メートルのテレビ送信用アンテナで、給電部を受け持った。  パネル面の精度に気を遣ってつくり、輸出した。ただ、スウェーデンは冬にアンテナの大敵となる積雪があり、それを効率よく溶かす仕組みが必要だ。従来型の電熱線を反射パネルの裏に付けたが、衛星を使って送信テストをすると、実現したはずの性能の一部が何度やっても基準に届かない、と連絡がきた。 「球面にへこみが」白夜の太陽光で気づいた欠陥の原因  8月中旬、気温が10度以下になったストックホルムへ飛び、原因を調べる。でも、いろいろ条件を変えてテストをしても、給電系に欠陥はみつからない。困惑が続くなか、ある白夜に外へ出てアンテナの上のほうをみていたら、地平線近くの太陽光が真横から当たり、球面に微妙な影ができていた。球面がまっさらなら、影などできない。へこみがあるからだと思い、ショックを受けた。  輸送中の温度変化が原因と推定し、球面を回収し、日本でつくり直す。いくら電気的な設計が上手くても、物理的な設計や輸送が適切でないと、満足な結果は出ない。失敗はあったが、こういうプロセスは、科学技術好きにとっては神髄だ。 『源流Again』で、卒業した平塚江南高校も訪ねた。すぐに「自主自律」の碑が目に入る。先生たちがよく口にしていた言葉だ。いま考えると「独り立ちせよ」ということだろう。自分もずいぶん意識していたのを、思い出す。  2010年4月に社長就任。翌年の年頭訓示で「ビジネスとは、絶え間ないイノベーションを通じて常にマーケットを開拓していくことで、広くグローバルに目を向けると、NECグループが貢献できる市場はまだまだたくさんある」と、社員たちに呼びかけた。以後、毎年の年頭や入社式の訓示で、大事なことは繰り返す。相手が同じ言葉を口にするようになるまで、繰り返す。それが、信条だ。  科学技術が人々の役に立つ可能性を信じて、常に新しいことに挑戦し、自立し続けてほしい。これは、遠藤さんが歩んだ『源流』からの流れであり、その流れを少年少女たちへ受け継いでいくのが、夢だ。2016年に会長に、2年前から特別顧問へと肩書が替わっていくごとに、その思いを強めている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年6月17日号
トップの源流
AERA 2024/06/17 06:30
9000円台で泊まれて、予約不要、チェックアウト延長可な「おひとりさま」向けホテルとは
9000円台で泊まれて、予約不要、チェックアウト延長可な「おひとりさま」向けホテルとは
書店の売り場の真ん中で対談。左がまろさん、右がマキヒロチ先生。当日は二人ともモノトーン。まろさんのこの日の爪は「HOTEL K5」風  Instagramでひとり時間の過ごし方を提案するメディア「おひとりさま。」を運営する「おひとりプロデューサー」のまろさんは、マンガ『おひとりさまホテル』の原案者でもある。マンガ家のマキヒロチ先生がまろさんのInstagramを見つけたことが、作品誕生のきっかけとなった。  そのふたりの最新作、『おひとりホテルガイド』(まろ/朝日新聞出版)と『おひとりさまホテル』4巻(まろ マキヒロチ/新潮社)が、6月7日に同時発売されたのを記念して、同日夜、2人の対談イベントが大垣書店 麻布台ヒルズ店(東京都港区)で開かれた。 「もうしばらくリアルイベントはやらない」と宣言して臨んだ対談で、マキ先生は何を語ったのか。そして、まろさんはどう受け止めたのか。2回に分けてリポートする。 *** まろ マキヒロチ先生のおかげで、こんな単行本(『おひとりホテルガイド』)まで出せることになって。ありがとうございます。 マキヒロチ まさに今日、6月7日に発売したばかりなのにSNSで話題になってて。売れる予感! まろ この1冊には、けっこうな情報を詰め込んでて。買っていただいた方にもそう言っていただいているようで、うれしいです。先生にも、帯に素敵なコメントをいただきました。 マキ 私は、行ったことがないホテルと行ったことがあるホテル、半々くらいでした。全体的にまろちゃんが好きそうなホテルだなと思うなかで、和歌山のホテルはちょっと行ってみたいですね。 まろ くろしお想ですね。パルグループというアパレルグループがやっていて、持ち帰りも可能な靴下とか、アパレルっぽいこだわりを感じて。アパレルって世界観を表現するのが上手じゃないですか。それがホテルでもできている。自分たちの強みをうまく使ってるな、と思って。和歌山への愛も隅々から感じます。東京からも飛行機で行くと意外と近いんですよね。   HOTEL GROOVE SHINJUKU, A PARKROYAL Hotel(東京都新宿区) 窓の外には果てしない夜景。館内には歌舞伎町との“グルーヴ”を感じる仕掛けがたくさん マキ そんなことはさておき、本には私との対談もあるし、ケンコバさんにもインタビューしてますよね。 まろ ケンドーコバヤシさんは、BS朝日で「ケンコバのほろ酔いビジホ泊 全国版」という番組を持っていて。ビジネスホテルの楽しみ方を聞きたくてインタビューさせてもらったんですが、やっぱりすごく面白かった。 マキ ホテルなんて高くて泊まれない、という人が多いんですけど、なんでもいいんですよね。自分の好きなホテルを楽しんでほしい。マンガだと映えるところを紹介しちゃってるんで、価格との兼ね合いが難しいんですけど、別に高いところに泊まってくれと言ってるわけじゃないんです。 まろ そうそう。だからビジホも入れたり。値段ではなく、泊まってよかったところをご紹介してます。 マキ マンガの話もさせてもらっちゃいます。私も、リアルイベントはしばらくやらないつもりなので、休み前の最後の解説ってことでしゃべりますね。 まろ いいですね!お願いします! マキ 第4巻は、主人公のふみちゃん(塩川史香)の恋が少し始まったのかな、という回です。歌舞伎町に泊まってみたら意外とよかったんで、マンガにも登場させました。 まろ 先生も、ちょっと泊まってみようかな、って感じで泊まってるんですか? マキ マンガほどじゃないけどね。さすがに当日はないけど、東急歌舞伎町タワーのHOTEL GROOVE SHINJUKU, A PARKROYAL Hotelは、泊まってみたら夜景がキレイだったり、映画館もすぐ下にあったり。まろちゃんもよかったって言ってたよね。 まろ 私は、最初は取材で行かせてもらってよかったんですが、2週間くらい前にまた1人で行かせてもらいました。同じ東急歌舞伎町タワーの中で、映画館でレイトショー見て、バー行って、そのまま部屋、みたいな楽しみ方が最高でした。結構、いい景色が見られるシティーホテルってあるんですけど、場所によって見え方が違って。高いビルが立ち並んでいて意外と抜けがないこともあるのですが、ここの場合は、そこまで高いビルがひしめき合ってない分、ずーっと奥まで景色が広がっているんです。安くはないんですけど、あの景色が見られて東京のど真ん中。リーズナブルだと思います。 マキ 2話目は、ふみちゃんの親友がラブホテルに泊まる話。私、昔から昭和のラブホを見るのが好きで。ホテルを見るには外せないジャンルだな。と。 まろ 衝撃の内容でした。 マキ ホテル富貴はラブホなんだけど、おひとりさま歓迎って感じでやってて。部屋ごとにコンセプトがあって、江戸時代だったり、ギリシャっぽかったり中華っぽかったり。そういう部屋を維持し続けてる。アトラクション的で、友だちと「なんじゃこれ」みたいな感じで泊まるのもいいし、仕事帰りに泊まるのもいい。なんと、9000円台で泊まれます。 まろ 手頃ですね。 マキ ビジホみたいな値段。庭園とか部屋を維持するのは大変なんだけど、いろんな業者さんが協力してくれてるらしくて、みんなから愛されてるホテルって、やっぱりいいな、と。新しいものはいくらでも作れるけど、古いものは作れない。だから、紹介したいな、と思いました。 まろ 当初から先生は、ホテルの幅、みたいなことをおっしゃってて。今回の4巻を見て、スゴイの来たな、と思ってたんです。ひとりでラブホいく勇気はないと思っていたんですけど、行ってみたらすごくよくて。こだわりがすごい。ラブホだからこその面白さがプラスされてて、こういうホテル、残してもらいたいと思いました。 マキ 部屋にウォータースライダーがあるとか、昭和のラブホって、楽しんでってくださいっていうホスピタリティーがあるよね。カギがないのもいい。ラブホは予約しなくても入れるし、電話一本で延長できる。ホテルとして優しいな、と思う。 まろ いいです。すごくいい。マンガにありましたが、いろんなドラマがあるっていうのもいいですよね。 マキ 昨日はどんなお客さんが泊まってたのかな、と考えるのも楽しい。 まろ そういう楽しみ方もありますね。お風呂のタイルも本当にかわいくて、テンション上がりました。ひとりだからこそゆっくり入れて、楽しめる。 山の上ホテル(東京都千代田区) 現在は休館中。「ルームサービスの朝食も大好きでした。また食べたいな」(まろさん) マキ で、山の上ホテルです。まろちゃんの思いがいっぱい詰まってるんじゃないでしょうか。 まろ 休業前、あんなに客室が埋まるとは、驚きましたね。本でも、「山の上ホテルに手紙を書く」みたいな、ちょっとカッコつけた企画にしちゃったんですけど、それくらい思い入れがあって。今回の漫画「おひとりさまホテル」4巻に掲載されている山の上ホテルの話は、Xで特別に公開されたのですが、100万インプレッション!スゴイ。こういう場所だったんだ、再開したら行きたいな、というコメントもあって、先生に描いてもらってよかった。 マキ 私は、文豪になれた気分でよかったですね。和室タイプに泊まったんですが。畳に椅子っていいですよね。 まろ ここまで和洋折衷できるんだ、と思うホテルでした。これだけ泊まり歩いても、このホテルにしかないと思うものをすごく感じるから、ぜひ再開してほしい。山の上ホテルの休業では、推しは推せるときに推せ、というのを考えさせられました。喫茶店とかも、もう1年もたないかも、という厳しいところが結構あって。なくなることがすべて不幸かというとそうではないと思うけど、行けるうちに行っておいてほしいとすごく思いました。 マキ 例えばどこに行きたい? まろ Ento(エントウ)に行きたいです。 マキ 何がネック? まろ 遠い……。隠岐諸島にあるホテルなんですよ。でも今年は行きます。先生は? マキ 鹿児島の妙見石原荘。温泉が有名で、いろんな人が愛してるホテルなんですよ。あと金具屋さんとか。長野の。 まろ あ、出てきました。歴史の宿金具屋。 マキ あと、松本十帖ね。「自遊人」っていう雑誌があって、私たち、その雑誌が手掛けている温泉旅館が大好きなんです。箱根本箱が一番有名かな?この漫画の最初に里山十帖を取材させてもらったとき、社長がめっちゃ腰低く接遇してくれて。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とはこのことだ、と思いました。松本十帖はお料理も面白いものが多くて、ウエルカムフードにおやきがでてくる。まち歩きをしながら旅館に向かってください、というスタートなんですが、いろんなお店も点在してて。マンガでも紹介しきれない感じでした。まち歩きも楽しいし、本がいっぱいあってひとりでもずっと楽しい。カウンターに通してもらったら、お料理を用意してくれるところをライブで見られて、それもいいな、と。お部屋にもお風呂が付いてるし、共同浴場みたいなのもあるし。 里山十帖(新潟県魚沼市) 部屋から眺めることができる圧巻のマウントビュー。雪が降り注ぐ中で浸かる露天風呂も最高 まろ 自遊人さんのお宿には、平日ひとりホテルプランというのをやってるところがあって。2名1室の1名料金と同じとはいかないけれど、おそらくそれより少し高いくらいで、泊まることができたりします。私の本にも登場してくれたんですが、自遊人の編集長の岩佐十良さんは、自身がひとり旅に行く人で、だからひとり旅の人のこともちゃんと考えて、こだわってるのかな、と。 マキ バーコーナーがあって夜も楽しめるし、食べ物もジビエが出てきて。無理してクマなんか食べなくても、と思うんですけど、ここのは美味しいんです。料理の哲学を聞きながら食べる。学びがあるんです。 まろ 自遊人でもう一つ面白いと思っているのが、ライフスタイルホテルをしっかり体現しているところ。ホテルで使われている一部食材や備品が、併設のショップですぐに買えるんです。ダイレクトに自分の生活に取り入れられるのがいい。 マキ 私もスライサー買った。「里山十帖」で。 まろ えー! マキ 新潟の三条市に近いから、クラフトはえりすぐりって言うか。 まろ すごく広いんですよね、ショップが。もしかして共用スペースより広いんじゃないの?っていうくらい。意外とそこまでしっかりやってるところってない。本箱は本も買えますしね。滞在中に読み始めると、続き読みたくて買いたくなりますよね。 (構成 生活・文化編集部)
まろおひとりホテルガイドマキヒロチおひとりさまホテル大垣書店
dot. 2024/06/16 11:00
サービス残業が横行で「働き方改革」に勤務医は悲鳴  バイトできず手取りが「月20万円台後半」も
井上有紀子 井上有紀子
サービス残業が横行で「働き方改革」に勤務医は悲鳴  バイトできず手取りが「月20万円台後半」も
診察以外にも、医師の業務は多岐にわたる。書類仕事も非常に多い(撮影/写真映像部・松永卓也)  2024年4月から「医師の働き方改革」が始まり、原則、時間外・休日の労働時間は年間960時間に制限された。それから2カ月が経過したが、医療現場で何が起こっているのか。AERA 2024年6月17日号から。 *  *  * AERA 2024年6月17日号「医師676人のリアル」特集より 「期待」はたった17%、「隠れたブラック化が進む」の声も  医師の働き方改革の背景には、常態化した過重労働がある。22年には、神戸市の26歳医師の自殺もあった。  AERAは5月、医師向け情報サイト「MedPeer(メドピア)」の協力を得て、医師676人に働き方改革についてアンケートを行った。「期待している」と答えた医師は、たった17%だった。 「うわべだけで結局何も変わらない」(整形外科・スポーツ医学、40代、男性) 「かえって業務が行いにくくなった」(精神科、30代、男性) 「引き継ぎなどでミスが起きうる」(一般内科、50代、男性) 「体裁繕いのみで実質的改善は望めない。隠れたブラック化が進む」(勤務医、一般外科、60代、男性)とは、すべての職場に起こりうる問題だろう。 日中の医師が足りない  東京都の立川相互病院も、医師の時間外・休日労働が年間960時間を超えないように、対応を始めた。当直明けの翌日昼には帰ることを徹底して、休日も増やせた。だが、救急診療部の山田秀樹副院長は言う。 「予想外のことが起きました。日中に医師が足りないのです」  労働時間管理を徹底した結果、平日の病院に医師が少なくなった。病院には常勤医師・研修医が約100人いる。それでも、人繰りがつかず、診療に影響が及ぶこともある。 「みんなで穴埋めをしています。問題は医師の長時間労働だけではありません。医師の仕事を減らすために、タスクシフトしたくても、経営的に人材確保も難しい。そもそもの医師数が少ない。国は少子化を理由に医学部定員を減らそうとしていますが、逆に医師の絶対数を増やし、診療報酬を上げない限り、必要な医療を提供することも根本的な処遇改善も期待できません」(山田副院長) 職場は「時間外労働減らせ」と言うだけ 「労働時間はほとんど変わらない」という医師も少なくない。大学病院の麻酔科の40代女性医師は、職場で「時間外労働を減らすように」と言われたが、職場は何ら対策を取ろうとしない。 【前編はこちら】 24時間「フル回転」でほぼ寝られず…医師に「働き方改革」 大阪のある病院が「深夜の救急」を制限した理由 https://dot.asahi.com/articles/-/224994 AERA 2024年6月17日号「医師676人のリアル」特集より   「勤務時間は午前8時30分からですが、患者さんが手術室に入室するのも8時30分。その時間に出勤するなんて、あり得ないじゃないですか」  7時30分には出勤し、手術前のカンファレンスを行い、準備をする。ただ、労働時間の超過で働けない事態は起きていない。 「帳簿上、勤務時間を削っているのではないかと思います」 サービス残業は「自己研鑽」  女性医師が働く大学病院では、「ビーコン」という小型の機器を、院内の滞在時間を把握するために医師に持たせている。 「ビーコンには残業した証拠が残ります。けれども残業申請できず、残業時間を自己研鑽と申告せざるを得ない医師もいます」  残業には所属長への申請が必要だ。麻酔科は手術時間が明白な証拠になるので申請しやすいが、手術のない診療科では申請しづらい。自己研鑽という名のもと、サービス残業が横行しているという。  医師の労働時間の制限により、地方医療への影響も懸念される。大学病院が医師を派遣できなくなる恐れがある。  一方、医師にとって大きいのは、収入減だろう。たとえば、大学病院の若い勤務医にとって、派遣先=バイト先。労働時間を制限されれば収入が減る。アンケートでも不安の声が上がった。 バイトが1カ所なくなるだけで困る 「アルバイトできない」(精神科、20代、男性) 「給料が下がるのではないか」(一般内科、30代、男性)  ある大学病院の女性医師(32)は言う。 「大学病院の手取りは月20万円台後半で、バイト代の方が多い。バイトは1回5万円、週に1回だから月に20万円。1カ所なくなるだけで、困ります」  医療ガバナンス研究所の上昌広理事長は言う。 「問題は個別の病院の過酷な労働環境です。特に大学病院は後期研修医を時給1300円程度で囲いこんでおり、課題が多い」  医師の就労環境は特殊だ。一部の医師は過労死ライン2倍の残業が認められている。地域医療の確保のために必要な医療機関の医師、また初期・後期研修医に限り、年間1860時間の時間外・休日労働が認められる。 AERA 2024年6月17日号「医師676人のリアル」特集より 交渉してようやく「育休」を取得  大学病院に勤務する男性医師(31)はこう話す。 「世間と同様、『休まなきゃダメ』『育休は取った方がいい』という認識が医療界でも普通になってきたと思う。一方で、『休みを取ります!』『育休取れないのは問題ですよね』と主張できないと、ずるずる働かされます。私も交渉して、ようやく2カ月の育休が取れました」  主張しないと叶わないなら、改革とはいえない。アンケートには祈るような声が並んだ。 「過労死が少なくなる」(開業医、泌尿器科、50代、男性) 「子どもとの時間が増えたら」(麻酔科、40代、女性) 「健康を害する医師が少しでも減りますように」(勤務医、小児科、50代、女性) (編集部・井上有紀子) AERA 2024年6月17日号「医師676人のリアル」特集より   ※AERA 2024年6月17日号より抜粋  
医師676人のリアル
AERA 2024/06/14 10:30
今年で60歳「山口智子」のカリスマ性はいまだ衰えず 90年代“連ドラの女王”の現在地
丸山ひろし 丸山ひろし
今年で60歳「山口智子」のカリスマ性はいまだ衰えず 90年代“連ドラの女王”の現在地
誰もが憧れる年の重ね方をしている山口智子    6月1日に女優の山口智子(59)が自身のYouTubeチャンネルで、夫で俳優の唐沢寿明とドライブをする動画を公開した。唐沢が発起人の震災復興応援プロジェクトに参加したときの動画で、運転中の唐沢と助手席に座る山口の自然な会話なども映っていた。そのコメント欄には、「なんて素敵なご夫婦」「唐沢さんと智子さん見るとめっちゃ幸せな気持ちになります」など称賛する声がつづられていた。実際、夫婦仲は良好のようだ。テレビ情報誌の編集者はこう話す。 「お互いに趣味などは逆だそうですが、食の好みは一致すると一昨年に放送されたバラエティー番組で山口さんが話していましたね。特に“オモウマい店”を夫婦ともに愛しているそう。エネルギーが詰まった食べ物が大好きで、日々、そんな味を追い求めていると告白していました。コロナ禍では海外旅行が難しくなり、時間ができたことから、唐沢さんに運転してもらい日本各地を巡ったそうです。夫婦円満の秘訣については、適度な距離感と告白。『背中を合わせて別々の方向を向いてるような感じ。安心感と同時に、背中に温かさを感じられてるみたいな』と説明していました」  山口といえば、1990年代に「ダブル・キッチン」(TBS系、93年放送)や「29歳のクリスマス」(フジテレビ系、94年放送)など、数々のヒットドラマで主演を務めたことから“連ドラの女王”と言われ、人気女優としての地位を確立。特に木村拓哉とダブル主演を務めた月9ドラマ「ロングバケーション」(同、96年放送)では、婚約者に逃げられた落ち目のモデル役として、木村演じる冴えないピアニストとのラブストーリーを好演した。最終回で36.7%というモンスター級の視聴率をたたき出し「月曜日の夜はOLが街から消える」と言われるほどの社会現象になった。 1990年代に一世を風靡したころの山口智子(1994年)   社会現象を巻き起こしたヒロイン  芸能評論家の三杉武氏は全盛期の山口についてこう振り返る。 「山口さんは、モデルやキャンペーンガールをへて、1988年度後期のNHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』でヒロインを演じて女優デビューを果たしました。その後、90年代に数々のドラマに主演してヒットに導きます。社会現象を巻き起こした月9ドラマ『ロンバケ』はもちろんのこと、厳しい現実に打ちのめされそうになりながらも恋に仕事に懸命に取り組み、前向きに生きようとするアラサー女子を巧みに演じた『29歳のクリスマス』も、当時の女性たちから人気を集めてヒット作となりました。どちらの作品も明るく前向きでサバサバした、いかにも同性から高い支持を集めそうな役柄を好演していますが、その一方で『もう誰も愛さない』では純真な女性が男性から手ひどい裏切りに遭い、恋心を抱きながらも復讐(ふくしゅう)の鬼となり悪女と化していく様を見事に演じています。山口さんの演技の幅の広さを感じさせます」  そんな山口だが、95年に唐沢と結婚し「ロンバケ」以降は主婦業に専念するため一時期、女優の仕事を縮小したこともある。一方、近年は「監察医 朝顔」(フジテレビ系、2019年放送)で23年ぶりに月9ドラマに出演し、昨年公開された映画「春に散る」では27年ぶりに実写映画にも出演を果たすなど、全盛期ほどではないが露出が増えている印象だ。 自然体なライフスタイルが共感を呼んでいる   行動する基準は「面白そう」 「最近は5月に放送された『ごぶごぶ』で久々にバラエティー番組にも出演し、ほぼ初対面というダウンタウンの浜田雅功さんと大阪で街ブラロケをしていました。番組中、俳優としてやっていけると思った作品について聞かれると、この仕事でやっていけるなんて一生思わないと言い、やればやるほど自信はなくなると告白。浜田さんから世間的には『ロンバケ』と指摘されても、『それはスタッフや皆さんの力と、キムちゃん(木村拓哉)のキラキラのおかげですよ』と謙遜しています。さらに、いまだに自信のなさの塊で毎日どうやって生きていこうって思うと明かすなど、飾らないトークを展開していました」(前出のテレビ情報誌編集者)  初対面の大御所芸人に対しても、堂々としたトークを繰り広げられるのは、さすが一世を風靡した女優の貫禄といったところだろう。  直近では、1月からFODで独占配信されているドラマ「ペンション・恋は桃色season2」に出演しているが、同作で共演している斎藤工、リリー・フランキーと「ボクらの時代」(フジテレビ系、2月4日放送)でトークを展開。斎藤とリリーは山口の出演に驚いたと明かすと、山口は「なんでなんで? 私、呼んでくださったら喜んで行きますよ、心が動く限りは」と断言。いわく、2人は「組みたい」と思える俳優で、このチームは面白そうだと思ったため出演したという。今でも、自分が面白いと思った作品には積極的に出演していくスタンスなのかもしれない。 いくつになっても憧れられる存在   自分のルーツに向き合いたい  このように女優として表に出る一方で、ここ最近は社会活動も熱心に行っている。 「山口さんは世界各地の伝統音楽など、暮らしから生まれた音楽の素晴らしさを伝える『LISTEN.』というプロジェクトを手がけ、2010年から26カ国も巡っています。また、今年に入って還暦を迎えるにあたっては、初心に立ち返り、自分のルーツに向き合ってみたいという意識が強烈に芽生えていると専門紙の取材で話しています。昨夏に日本の面白さを再発見するというコンセプトの公式YouTubeチャンネルを開設しているのですが、それにより新しい出会いが次々と飛び込んできて人生がさらに面白くなってきたと明かしていました。還暦が近づいた今は、形にこだわらず自分のやりたいことをやっているように感じられます。さまざまな価値観を共有する昨今において、そんな生き方に憧れる人も多いでしょう」(同)  誰もが憧れる年の重ね方をしている山口。その自然体な生き方は、これからも注目され続けるだろう。 (丸山ひろし)
山口智子唐沢寿明
dot. 2024/06/12 11:00
保護司殺人に「あり得ない」と25年活動した女性 担い手不足の現実と「信じてあげる役割」の尊さ
板垣聡旨 板垣聡旨
保護司殺人に「あり得ない」と25年活動した女性 担い手不足の現実と「信じてあげる役割」の尊さ
少年院の息子に宛てて両親が送った手紙。保護司への期待が込められている  過ちを犯した人の更生に寄り添う保護司が殺害されるというショッキングな事件が起きた。自らが担当していた保護観察中の男性が逮捕されている。一般にはあまり馴染のない保護司の仕事。元犯罪者と相対で付き合うからには危険も伴うのでは、と思った人もいることだろう。保護司を約25年間務め、百人を超える元服役囚や少年と向き合ってきた女性から話を聞いた。事件に心を痛めつつ、「それでも保護司の仕事はかけがえのない私の人生そのもの」と語った。  関東地方在住の女性Aさん。数年前に保護司を75歳の定年で引退した。約25年間、会社を経営する傍ら保護司としても活動してきた。刑務所や少年院を出てきたばかりの人、執行猶予中の元被告人らの更生の手助けをしてきたという。  今回の事件で容疑者の男(35)は今年5月、飲食店を経営する大津市内の保護司の男性(60)の自宅で、この保護司を刃物で刺殺したとして逮捕された。容疑者は5年前、同市内のコンビニで強盗事件を起こし、懲役3年・保護観察付きの執行猶予5年の判決を受けた。  保護観察期間があと1か月で終わるところだった。Aさんもこうしたタイプの男性を数えきれないほど支援してきている。 「想像もできなかった事件。あり得ないこと。とても胸が痛く、なぜこんなことが起きてしまったのかとショックです」  保護司は、国が1950年に保護司法で定めた制度で、犯罪歴のある人たちの更生を目的とする。法務省によると、全国かに保護司は約4万7千人いる。身分は国家公務員で、1人で複数を担当する。ボランティアで、多くは保護司経験者からの推薦や、町内会長など地元からの依頼で就任しているが、担い手は不足しているという。刑務所の仮釈放者や少年院を出た非行少年などと月2回ほど面会し、生活や就労などについて助言や指導をする。面会でヒアリングした状況を月に一度、報告書として管轄の保護観察所にあげる。  Aさんは住んでいる地域の保護司会に頼まれて引き受けることになった。多いときには一度に11人を担当したという。   危険はないのか  トラブルも時々はあるようだ。  別のある保護司は、「少年と口論になり、殴られそうになったことがある」と打ち明ける。自宅で少年を面会中のことだった。少年は遵守事項を全く守らず、夜遊びばかり繰り返していた。生活態度を改めるよう指摘したところ、少年は納得せず、口答えをした挙句に保護司をじっと睨みつけ、今にも殴りかかりそうな雰囲気になったという。  総務省が2019年に公開したアンケート調査によると、一人で面接することに対する不安や負担について、なんらかの不安を感じていると答えた人は26.1%だった。一方、感じていないという回答は「あまり」「ほとんど」を合わせて71.1%にのぼった。  Aさんは「自分は怖いと思ったことはない」と話す。 「過去に色々あった人たちだけど、人として対等に向き合うように意識すると、不安はそこまで感じません」  Aさんに限らず、不安に思っていない保護司は多いようだ。対象者と面会する場所について、何かが起きた時にも安全な、公民館などの公共施設があるにもかかわらず、73.4%の保護司が自宅と答えていた。Aさんももっぱら自宅だった。   辛いのは再犯の報  大変なこともある。もっとも辛いのは少年たちの再犯だ。警察から夜中に呼び出されることもしばしばある。  暴走族に所属する保護観察中の少年が暴力事件を起こした。アルバイトに精を出し更生の兆しが見て取れてきた矢先だった。しかしこれまでに何度も暴力事件を起こしており、少年は少年院送致を覚悟していたという。審判の日。家庭裁判所に呼ばれていなかったが、Aさんは「どうしても陳述したいことがある」と駆け付けた。裁判所内には入れなかったが、調査官と電話で話すことができた。少年が保護観察中に地域のボランティア活動に積極参加していることなどを話し、少年院に入れる必要がないと訴えた。審判の結果、少年院送致とはならず、少年には再び保護観察に加え、1週間のボランティア活動の審判が下された。 「少年の場合は大人、成人の場合は世間に対して不信感を抱いている。彼らを信じて行動しなければ、どんどん孤立してしまう。彼らは崖っぷちにいるから。あと一歩でどん底に落ちてしまうから。どんな状況でも、彼らを信じてあげることが保護司の役割なの」   思わぬ電話が生きがい  定年まで長く続けてこられたのは、生きがいを感じてきたからだという。  服役囚や少年たちとの接点は出所後だけではない。少年院では保護者のほか保護司のみ、手紙での連絡が許されており、在院時から連絡を取り合うことがある。  保護観察期間が終わった後も近況をしらせてくる元受刑者は意外に多い。Aさんの場合、今も電話、メールでのやりとりがあるという。  また、保護観察は原則、保護観察者が住んでいる居住地の地区を担当している保護司が担当するため、道中で出会うこともしばしばある。 「元気そうな姿を近所のスーパーで見かけると嬉しい。ああ、ちゃんと頑張っているんだなって」  出所後、建設現場での下積みを経て事業を起こした人もいる。数十人ほどの従業員を抱える建設会社の社長だ。  その社長から思いがけぬ電話を受けたことがある。 「出所してきた人が就職に困ったら、うちで引き受けるよ」。  Aさんが保護司をやってきて、最もうれしい思いをした瞬間だったという。   非行少年「保護司、殴りたいこともあった」  お世話になる側は保護司のことをどう受け止めているのか。  17歳で事件を起こし、少年院に入り、仮退院後に保護司との支援を20歳になるまで受けたという30代の男性が取材に応じた。  男性は暴行や窃盗などで3回逮捕され、最終的に1〜2年の長期少年院への送致となった。この間、少年には3人の保護司がついた。 「何もしない保護司もいた。ただ淡々と話を聞くだけ。地元では”当たり”と言われて、ファミレスでご飯を奢ってくれるだけのおじいちゃんでした」と打ち明ける。うるさく説教される面倒くささがないことが「当たり」なのだという。  少年院からの出院後、少年の担当となった保護司はこれまでと違った。人として間違っている考えなどはとことん指摘されるものの、あれもこれもと全否定は決してせず、常に味方でいてくれたという。頼りにしていた一方で、不安定な気持ちのぶつけ先でもあった。 「当時の私は、親も含め全てが敵だと思っていました。親とはたびたびけんかになり、その態度を保護司さんに注意されていました。カッとなって保護司さんを殴ったろかなと思ったこともありますよ。少年院で暗記させられた出院後の遵守事項を思い出して踏みとどまりましたけど」  そして今はこう考えている。 「あのとき、本当に親身になってくれる保護司さんと出会えて、私は今を送れています。『これからは自分次第。自分を大切にね』と口酸っぱく言ってくれた。どんなことがあっても、塀の中にはもう二度と行かないように頑張ってみようと思う」
保護司非行少年
dot. 2024/06/12 06:00
「どの程度の下駄か、誰もわからないでしょう?」 キヤノン初の女性取締役・前消費者庁長官の伊藤明子さんが本音で語る女性活躍
鎌田倫子 鎌田倫子
「どの程度の下駄か、誰もわからないでしょう?」 キヤノン初の女性取締役・前消費者庁長官の伊藤明子さんが本音で語る女性活躍
前消費者庁長官で、キヤノンで女性初の取締役として注目された伊藤明子さん(撮影/写真映像部・松永卓也)  今の時代にフィットした生き方や働き方の先にある女性リーダー像って? そんなテーマを掲げてAERAdot.編集長の鎌田倫子が女性リーダーにインタビューする連載。1回目は前消費者庁長官の伊藤明子さんにご登場いただいた。                 ◇  伊藤さんは今年、キヤノン初の女性取締役に就任したことでも注目された。1985年の男女雇用機会均等法より前に建設省(当時)に入省し、80人ほどいた同期の中で女性は一人だけだったという。伊藤さんのキャリアを振り返るとき、「女性初」という言葉が常についてまわった。伊藤さん自身は、それをどのように感じてきたのだろうか。まずは社会の「女性登用」「女性活躍推進」についての本音をきいていきたい。 ――キヤノンには女性取締役がおらず、伊藤さんの起用を「おじさん企業に女性役員」と紹介した経済記事もあったほどです。昨年の株主総会では、女性の取締役がいないことに対して米国の議決権行使助言会社が反対を推奨し、取締役選任の賛成率が低下しました。こうした経緯があって、女性初の取締役の打診をどのように受け止めましたか。 伊藤明子さん(伊藤):実は最近、その手の質問を女性からよく受けます。  でも、「初めての女性」についてどう思われますかと聞かれても、女性を代表しているわけではないので答えにくいですよね。  ある勉強会では、「女性だからという理由で選ばれるなら断った方がよいのでは」とまで言われましたよ(笑)。 ――女性だから選ばれたと指摘されているようなもの。あなたは、それには怒るべきだと。 伊藤:そうですね。まず、打診してくださった方は「女性だからあなたに頼みました」とはおっしゃっていませんけど。ただ怒るべきと言われたとき、瞬時に二つ答えました。  一つ目の答えは、入り口はどうであれ、結果「この人に頼んで良かった」と思われればいいんじゃないですか、と。  女性だからというのではなく、私自身が心掛けているのは、入り口で「これは私の仕事ではない」とできるだけシャットダウンしないこと。直接関係ないことがあとで役に立ったりするので。情報を得たり、体験したりすることを躊躇しないほうがいいかなあ、と思っています。  二つ目は、女性という取っ掛かりや枠もなく、「伊藤明子がいい」と言ってもらえるほどの実力があるとは思っていない、という答えです。個人的にはそれは大変残念ですけれども、そこまで能力が図抜けているとは自分自身は思っていない。女性だから機会を得たのだと思う。 前消費者庁長官で、キヤノン初の女性取締役の伊藤明子さん(撮影/写真映像部・松永卓也) ――そんな答えが返ってくるとは思ってもみませんでした。確かに、先に女性という「きっかけ」があるのは、今の女性活躍の現実なのかもしれません。しかし、それをはっきりと口にするのは憚られませんか。実力ではなく、性別で選ばれて、いい気はしません。 伊藤:はっきり口にしない、否定すべきと考えている人は、「(性別は関係なく)自分だから選ばれた、評価された」と思いたいのでしょうね。でもね、その人のいろんな背景も含めて仕事で評価されるわけじゃないですか。たとえ「下駄を履かせてもらっている」としても、どの程度の下駄なのか、わからないでしょう? 下駄を本当に履いているのかも。   男であれ、女であれ、実力や能力とその人の背景を切り分けるのは大変難しいと思います。例えば、私が消費者庁長官に就いたとき、政府の幹部にやっぱり女性がいた方がいいとの判断がなかったわけではないですよね。  ならば、入り口のところで肩肘張る必要はないんじゃないのかな。それが自分にとって面白そうなチャンスなら、気にする必要はないんじゃないのかな。 「私は白いカラス」 周囲の見方と自分の意識にギャップ ――若い時からいまのように自然体でしたか? 伊藤さんは1985年の均等法前の入省です。 伊藤:私は工学部出身なので、学生時代からわりと周りが男性ばかりという環境にいました。入省してからも、自分自身は男性の中に女性が一人の状況には違和感はなかったです。   自分では自分の姿は見えませんから、入省時に「どう思いますか?」と聞かれて、「私は白いカラスなので、気にされているのは皆さんのほうじゃないですか?」と答えたこともあります。そう思うのは私の問題ではなく、周りの問題でしょう。今思うと生意気ですけど。 ――55歳で就任した国土交通省住宅局長も女性初でした。新聞記者は「初めて」ならば記事にします。伊藤さんも取材を受けたと思います。 伊藤:そういうとき、マスコミの皆さんは「後に続く後輩のためにも頑張ります」といった答えを期待されているのかもしれませんが……。私は目の前の仕事と向き合ってきただけなのです。女性のために局長になっているのではなく、仕事をするなかで局長してもらっただけ。   そもそも世の女性たちを引っ張っていくなんて私が言うのはおこがましいですよね。 正直、ゆとりもなかったので、当時は「女性のために」という答えは思いつかなかったです。 育休をめぐって「大変迷惑です」と後輩に本気で怒られた ――建設省(のちに国交省)で伊藤さんの前にキャリアを築いた女性がいなかったので、パイオニアとして、「男性に負けずに働いた」姿をつい想像してしまいます。36歳で第一子を産んだときも、38歳で第二子を産んだときも、育児休暇を取らなかったそうですね。伊藤さんの実際の意識はどうだったのでしょうか。 伊藤:育休を取らなかったのは確かです。そこだけ切り取られると女性活躍に反する人のようなのでが、体調も含めて、休まず働くことを自分で選択できる恵まれた環境にあったということです。   特に2人目は出産を挟んで、2000年の高齢者住まい法(高齢者の居住の安定確保に関する法律)の改正に携わりました。ちょうど介護保険制度ができて、高齢者の住まいについて大きく議論がされていた時期です。私も、人の暮らし、一生を考える上で住まいは大切だと思っていました。子どものころ、祖父母と同居していたことも影響しているのかもしれません。  上司から「法案をやらないか」といわれて、「やりたい」と即答しました。その数カ月後に妊娠がわかったのです。それでもやりたいワケですよ。何とか、育児と両方できないかとあがきました。 伊藤明子さん(手前)にインタビューする編集長の鎌田倫子(撮影/写真映像部・松永卓也) ――懐に温めていたテーマだったのですか? 伊藤さんの仕事への情熱の原点はどこにあるのでしょう。 伊藤:学生時代からこんなふうに思っていたのです。列車の窓から、夜に街を眺めると、たくさんの窓に明かりがついている。光の中に一人の一人の生活が詰まっている。それを想像すると、いとおしいなあと。暮らしや住まいに関わる仕事をしたいとずっと思ってきたのです。  2000年の改正を経て、サービス付き高齢者向け住宅を創設した2011年の法改正にもかかわりました。そのころには立場も課長補佐から課長になっていて。ちょうど民主党政権下でしたね。高齢者の施策を考えるとき、ハード面の国土交通省と生活サービスという厚生労働省の両方の視点が必要で、そういう境界領域に取り組めたのは良かったと思っています。 ――とはいえ、今なら会社や上司から「休みなさい」と言われるでしょうね。 伊藤:育児は1年で終わるワケではないですし、何とか受け入れてくれる保育園があったことも含めて、私の判断を尊重してもらったのは恵まれていました。もちろん、休みたい、休まざるを得ないのに休めないのは論外です。  しかし、後輩からは真剣に怒られましたよ。「あなたがそんなことをするから……大変迷惑なモデルになるんです!」と。ごめんなさい、ごめんなさいと平謝りました。 「いまは過渡期」と話す前消費者庁長官の伊藤明子さん(撮影/写真映像部・松永卓也)  まだまだ日本社会は過渡期にあるのだと思います。休むか休まないか選択できる、自由に休んでいいといわれても、やはりそこは自由じゃない。世の中の空気がまだ偏っているから、今は強制に近いかたちで休むことを推奨しないと、本当に必要なときに必要な人が休めない。「休まないとダメって言われているから」と言わないと休みにくいのだと思います。休むのが、一般的になれば逆に「選択できる」ようになるのではないでしょうか。 「女性活躍」がなくなるのが究極の目標 ――ジェンダーギャップについても過渡期かもしれません。例えば、プライム市場の上場企業の女性役員比率など女性活躍の数値目標が掲げられています。 伊藤:私の直後の均等法世代と呼ばれる年齢の女性は、せっかく企業や省庁に入れても辞めた人も多いのです。採用の門戸は開かれたけれども、その後の環境が整っていなくて。  そもそも組織の中にいるその世代の女性の割合はかなり少ないんですよ。起業したり、国家資格を取って活躍する人が多いように思います。 ――組織の中で女性が増えると、景色だけでなく人の意識も変わってきますよね。今の20代の女性と話していると、感覚が自分と違うと思うことが度々あります。ジェンダー平等が浸透している世代です。 伊藤:これからどんどん変わっていきますね。大学卒が必ずしも必要だとは思いませんが、男女格差の例でいうと、大学の進学率も私の頃は男性4割弱に対して女性は1割強で、その差は大きかった。それが今は男女ともに5割程度です。  時間が経てば、女性の幹部は増えていくでしょう。ただ、スピードアップのためには現状の男女の差を考慮して、公平な機会が提供されるようにする数値目標などの施策が必要なんですね。  もう一つ。地方創生という視点から気になるのは、東京圏外出身者の女性は「自分の地域は、夫は外で働き妻は家庭を守るべきという意識が強い」と思っている人が多いこと。地元はアンコンシャスバイアスが強いと思う女性が東京に出てきて、戻らない現状があります。意識が変わるためにも、社会全体で頑張る必要があります。  今は大きな変化のための過渡期。バリアが取りのぞかれて、全員が公平な機会を最初から得られている状態があるべき姿なのです。女性活躍という言葉がなくなるのが究極の目標でしょうか。  その頃には、私の話なんておばあさんの繰り言になっちゃいますね。 ※【後編】女性の「私なんて」は実は楽? 「風に当たっても自分決めたい」前消費者庁長官伊藤明子さんが管理職を選んだ理由 に続く。 いとう・あきこ 1962年島根県出身。1984年京都大学工学部卒業。同年建設省入省。2015年国土交通省住宅局長、2019年消費者庁長官。22年退職。23年まち・ひと・しごと研究所 代表取締役、伊藤忠商事社外取締役、24年キヤノン社外取締役。
伊藤明子womanキヤノン消費者庁長官伊藤忠商事女性活躍推進
dot. 2024/06/10 17:00
C.ロナウドの「90分の睡眠を1日5回」の睡眠戦略 「『眠れない』ストレスが減る」スリープコーチが解説
C.ロナウドの「90分の睡眠を1日5回」の睡眠戦略 「『眠れない』ストレスが減る」スリープコーチが解説
クリスティアーノ・ロナウド(写真:アフロ)    マドンナ、C.ロナウド、ラリー・ペイジ。歴史に残るスーパースターの活躍を支えているのが、独自の「睡眠戦略」だ。経営者やスポーツ選手らの睡眠改善をサポートしてきたスリープコーチの角谷リョウさんが解説する。AERA 2024年6月10日号より。 *  *  * クリスティアーノ・ロナウドの多分割睡眠戦略 【メリット】細切れ睡眠でもつらさや眠さを感じず活動できる 【デメリット】長く続けると「人間らしさ」を失う可能性も  夜まとまった睡眠を取るのではなく、短い眠を何度も取る「多分割睡眠戦略」は、古くは万物の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、現代ではサッカー界の至宝クリスティアーノ・ロナウド選手が「90分の睡眠を1日5回」という形で実践していることで知られている。  多相性睡眠とも呼ばれ、動物の多くがこの眠り方。人も産業革命以前は多相性だったと考えられており、奇異な印象ほど不自然なものではないと言える。  あえてこの眠り方を採り入れることはおすすめしないが、授乳中の方やドライバーなど今まさに細切れの眠りになっている人は、「1日1回3時間の主睡眠を取り、あとは必要に応じて15分程度の睡眠を繰り返す」ことで眠気やつらさを感じず高いパフォーマンスを保てる。主睡眠は夜でなくても、可能な時にとればOKだ。 「睡眠は夜まとめて取るもの、という常識を捨てるだけで、『眠れない』というストレスを大幅に減らすことができます」  ただし、「短眠」の極端なものとも言えるため、長期間続けるのは危険を伴う。授乳中に使う場合も、親がいつまでも多分割だと赤ちゃんが夜寝るリズムを身につけられない。期間を区切り、緊急避難として使おう。 マドンナのフレックス睡眠戦略 【メリット】活動する時間帯を自分の価値観で決められる 【デメリット】頻繁に変えると体内時計に深刻な障害が  65歳にして世界ツアーを成功させるなどエンタメ界の頂点に君臨し続けるマドンナは、毎日午前4時に就寝する極端な夜型を公言している。「夜が一番クリエイティブになれる」という理由が科学的に正しいかはともかく、信念を貫く生き方が彼女の魅力なのは間違いないだろう。  現代はフレックスタイムやリモートワークの広がりで、かつてないほど自由に働き方を決められるようになった。たとえば「子どもに合わせた生活リズムにして一緒にいられる時間を増やす」「夜型にして副業に注力する」など、眠る時間帯を変えることで大切なものに合わせた生活リズムを作れるのだ。 AERA 2024年6月10日号より    眠る時間帯を変える際は30分ずつ前倒ししていく。寝覚めがすっきりするまで同じ時間に起き、さらに30分縮める。 「9割の人は、自身の『朝型』や『夜型』を自由に変えられます。体がリズムを記憶すると、起きるべき時間帯にコルチゾールという物質が分泌され、体温が上昇して目覚めを促します」  秘密兵器が、強い光で起こしてくれる「光目覚まし」。数千円で買え、驚くほど効果抜群だ。  体内物質をコントロールするだけに、頻繁な時間変更は体への負担になるので控えよう。 ラリー・ペイジのチーム睡眠戦略 【メリット】チームの出力を最大化できるリーダー術 【デメリット】強制はパワハラ! 繁忙期スタートは絶対に避けて  最後に紹介する「チーム睡眠戦略」はグーグル(現アルファベット)のラリー・ペイジ氏、ナイキのフィル・ナイト氏ら優れたリーダーが自社に採り入れている今注目のリーダー術だ。  リーダーが会議で方針や戦略を伝えても、部下は昨夜の寝不足を解消する絶好の機会と捉えていることも多い。もし部下たちが本気でリーダーの声に耳を傾けたら、チーム力は格段に上がるはずだ。また、リーダーがメンバー個人の様々な問題に立ち入るのは難しくても、メンバーが質の良い睡眠さえ取れればメンタルを良好に保て、組織のダメージを未然に回避できる。  導入は(1)リーダー自身が職場で昼寝を取る(2)部下にアイマスクをプレゼントして昼寝を勧める(3)職場で「お昼寝タイム」を採り入れる──といった形で進める。部下が睡眠の回復効果を実感したら、自然に睡眠改善への関心が高まるはずだ。 「職場の飲み会は、睡眠不足になっても仕事への影響が最も少ない木曜日がおすすめです」  ただし今の時代、強制はパワハラと受け取られる可能性もあるのでご注意を。  人生の3分の1を占めるといわれる睡眠の使い方を、この機会に真剣に考えてみては。(朝日新聞社・上栗崇) ※AERA 2024年6月10日号より抜粋
AERA 2024/06/07 16:00
中山秀征なぜバラエティでしぶとく生き残っているのか? 類まれな「なめられる才能」
ラリー遠田 ラリー遠田
中山秀征なぜバラエティでしぶとく生き残っているのか? 類まれな「なめられる才能」
長年に渡りバラエティ番組で活躍する中山秀征  中山秀征はつかみどころのない不思議なタレントである。デビュー当初にお笑いコンビとして活動していた時期もあったが、今では芸人というイメージは皆無。俳優業の仕事をこなしつつ、基本的にはバラエティを主戦場としている。  日常的にテレビを見ている人の中で、中山秀征について真剣に考えたことがある人はほとんどいないのではないか。長年にわたって番組のMCを任されるようなポジションにいるのに、中山という人間のことは誰も気に留めない。視野に入っているのに見過ごされる空気のような存在だ。  彼がこれまでに出演してきた番組も、『DAISUKI!』『ウチくる!?』をはじめとして、楽しげなゆるい雰囲気を見せることに特化したものが多く、本格志向のお笑い番組はない。  そんな彼は、90年代に急速に台頭してきたダウンタウンを筆頭とする吉本芸人一派とその信奉者たちから仮想敵とみなされていた。   今田耕司とピリピリ  1993~1994年に放送されたフジテレビの深夜番組『殿様のフェロモン』では、共に司会を務めた中山と今田耕司の間にピリピリした空気が流れていたという。そのときのことは、先日刊行された中山の著書『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(新潮社)にも詳しく書かれている。  番組が始まる前の決起会で中山が今田に話しかけても、そっけない答えしか返ってこない。本番が始まると、今田は中山の振りには答えず、薄いリアクションを返すのみ。中山のことを「ヒデちゃん」とは呼ばず、頑なに「中山クン」と呼び続ける。「生放送の現場で自分を潰しに来ている」と中山は感じていた。  出演者全員を生かそうとする中山の「テレビバラエティ」の流儀と、出演者全員で潰し合って何とかして笑いをもぎ取る今田の「お笑い」の流儀は最後まで噛み合わず、番組は半年で終了してしまった。  その後、長い年月を経て2人は和解した。久しぶりに会った今田は中山に当時の非礼を詫びて「あのスタジオでテレビのことをわかっていたのはヒデちゃんだけだった」と語った。 【前回のコラムはこちら!】 小室哲哉の手のひらの上で踊らされていた40年 「シティーハンター」で令和に再び脚光 https://dot.asahi.com/articles/-/223417  テレビコラムニストのナンシー関さん(故人)にも、中山はたびたび酷評されていた。お笑い好きの彼女にとって、中山は生ぬるいバラエティの象徴のような存在だった。  たしかに「本格お笑い至上主義」の立場から見れば、みんなから「ヒデちゃん」と呼ばれているあの男が、浅瀬で水遊びをしている甘っちょろい芸人崩れにしか思えないかもしれない。  だが、中山が歩んできた道を振り返ると、彼がテレビのエンターテイナーとしてそれなりに筋の通った生き方をしてきたことがわかる。ダウンタウンを頂点とする本格志向のお笑いとは別の流儀で、彼もしぶとく芸能界を生き延びてきた。  中山がMCを務めた『THE夜もヒッパレ』は、さまざまな芸能人やアーティストが持ち歌ではない最新ヒット曲を歌うだけの、お気楽なカラオケ番組のように見えていた。  しかし、中山の著書によると、本物のライブのように「順撮り」で収録が進められるため、現場は緊張感に包まれていた。収録の2~3日前に歌の楽譜とテープをもらい、必死に練習をして本番に臨むこともあった。 他のバラエティ番組でよく顔を合わせていた出川哲ちゃん(出川哲朗)や、ダチョウ倶楽部のみんなから「『ヒッパレ』には出たい。でも出るのは怖いよ。だってスタジオの緊張感がハンパないからね」とよく言われました。出演者、スタッフ、全員がプロ、妥協を許さない空気が番組づくり全体に漂っていました。/中山秀征『いばらない生き方 テレビタレントの仕事術』(新潮社)より抜粋  ダウンタウンが世に出てから、テレビバラエティの世界では芸人が覇権を握った。芸人がたくさん出ている番組、お笑い志向の強い番組ばかりが重宝されるようになり、それ以外のジャンルのバラエティが過度に見下されるようになった。   一切ブレなかったヒデちゃん  しかし、時代が変わっても中山は一切ぶれなかった。今田に冷たくされても、コラムニストに酷評されても、お笑い好きになめられても、彼はファイティングポーズを保ってリングに立ち続けた。そして、そこで結果を残し、自分の地位を築いてきた。  50代後半の今も、中山は年下の共演者から親しみを込めて「ヒデちゃん」と呼ばれる。彼が持っているのは「なめられる才能」だ。ある意味では、お笑い信奉者の誰もがその才能に知らず知らずのうちに呑み込まれていたのかもしれない。 「ヒデちゃん」と「お笑い」の仁義なき戦いは、中山と今田の和解でいったん幕を閉じた。バラエティ界の静かなるドン・中山は、このお笑い全盛時代にも慌てず騒がず、淡々と与えられた仕事をまっとうしている。(お笑い評論家・ラリー遠田)
中山秀征ヒデちゃん
dot. 2024/06/01 11:00
【日比谷音楽祭2024】、KANA(元CHAI)による呼吸ヨガなど追加プログラムが発表
【日比谷音楽祭2024】、KANA(元CHAI)による呼吸ヨガなど追加プログラムが発表
【日比谷音楽祭2024】、KANA(元CHAI)による呼吸ヨガなど追加プログラムが発表  6月8日、9日に開催される【日比谷音楽祭2024】の追加プログラムが発表された。 今回、発表されたのはグランジ遠山大輔によるトークイベント【音楽業界のお仕事のススメ~マネージャー編】、KANA(元CHAI)によるワークショップ【ボーカリストが教える呼吸ヨガ】、深川バロン倶楽部によるワークショップ【深川バロン倶楽部 からだ と おと あそび の まき】だ。また、配信のみで森保一(サッカー日本代表監督)と、亀田誠治、GAKU-MCによる鼎談『日比谷音楽祭2024 スペシャル鼎談「サッカーと音楽がつなぐ文化と未来」』も決定した。 その他、EXILE TETSUYA with EXPG のステージに Dream Ami の追加出演が決定。また、U-NEXTでの生配信限定で、前夜祭が行われる。U-NEXTの配信では司会進行として、吉田尚記(ニッポン放送アナウンサー)、たなしん(グッドモーニングアメリカ)が出演。また、6月8日は山崎怜奈が、6月9日は玉井詩織(ももいろクローバーZ)も司会進行として出演する。◎配信情報配信限定『前夜祭』2024年6月7日(金)20:00~21:30出演:亀田誠治、たなしん 他◎公演情報【日比谷音楽祭 2024】2024年6月8日(土)、9日(日)東京・日比谷公園、東京ミッドタウン日比谷ほか料金:無料 ※飲食出店等、一部有料プログラムあり※U-NEXTにてオンライン生配信、見逃し配信:スケジュール 6月29日~7月7日予定【日比谷音楽祭 2024 HIROBA MUSIC WEEKEND】2024年6月15日(土)、16日(日)、22日(土)、23日(日)東京・東京ミッドタウン日比谷、日比谷ステップ広場ほか料金:無料
billboardnews 2024/05/29 17:03
鈴木涼美が問う、「その不倫は本当に愛のため?」 安易な自信が欲しいなら、「整形でも散財でも」別の方法で
鈴木涼美 鈴木涼美
鈴木涼美が問う、「その不倫は本当に愛のため?」 安易な自信が欲しいなら、「整形でも散財でも」別の方法で
鈴木涼美さん  作家・鈴木涼美さんの連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」。本日お越しいただいた、悩めるオンナは……。 Q. 【vol.15】不倫相手をどんどん好きになってしまうワタシ(30代女性/ハンドルネーム「りいさ」)  現在不倫中の30代独身女です。同じ職場の男性とひょんなことからホテルに行き、そのまま意のなすままに関係を持ちました。相手は元同級生の既婚男性。駄目なことだとは分かっていても、何度も関係を持ってしまいます。奥様にも不倫はバレており、一度は関係を清算したにもかかわらず、私から連絡してしまい、時間を見つけてはコソコソ会い、どんどん好きになっていきます。もうどうしたらいいか分かりません。  思い返せば学生時代はたいした恋愛はしておらず、いつも片想いのまま終わっていました。可愛いね、なんて、素敵な言葉をかけてもらったことはありません。大人になり、初めてできた彼は既婚男性(現在の方とは違う)で、不倫関係をつづけていましたが、私に好きな人ができ、破局。その後も恋愛はうまくいかず、やっと叶った恋はまたもや不倫。楽しい・うれしい半面、つらい・苦しい思いもあり、悩んでいます。私は、今後どうするべきなのでしょうか? A. 欲しいのは愛? それともインスタントな自己肯定感?  自分にどれくらいの価値があるのか、それはどんな価値なのか、知りたくて仕方ない。何か実感を伴う手掛かりが欲しい。そんなまだ若くて不安定な女が安易に頼ってしまいがちな“仮初めの価値を実感できる手段”というのがいくつかあり、不倫や売春はその典型例だと個人的には思います。 【こちらも話題】 セールスを断るたびに友人を失う女性の嘆きに、鈴木涼美が思う「不倫中の女友達を更生させようとした友人」への違和感 https://dot.asahi.com/articles/-/219650   沖縄・北谷の海をバックに笑顔はじける39歳の鈴木さん  若かった私が吸い込まれるように夜の歓楽街へ入り、知らぬ間に裸になってまでそこに居続けたのは、そういう場所には自分の価値を実感しやすい安易な仕掛けがたくさんあったからなのだとなんとなく思います。自分に値段がつけられてそれが実際に支払われることも、男が自分に興奮するところを目の当たりにできることも、若い私が自己肯定感を高めるには重要な仕掛けでした。簡単に手に入るそれらがどんなにチャチな価値であっても、まだ自分の形の定まらない女にとっては、輪郭を与えてくれるような気がしてしまうものなのです。 “ちやほや”の裏の罪悪感  既婚者との恋愛やセックスもまた、モテへのコンプレックスや自己評価の低さと格闘するまだ若い女にとっては自分の女としての価値みたいなものを実感する契機になりがちです。まず、未婚女性と遊びたい既婚男性は、結婚を最終的な目標に置いて恋愛する女性たちの眼中に入らないので、女性側としては競合相手が相対的に少なくなります。男性側も、既婚男性でもOKと言ってくれる都合の良い女が貴重だということは分かっているので、一度見つけたら手放さないようちやほやしてくれます。  男に小さな罪悪感や後ろめたさがあるため、財布の紐や女性のわがままに対する牽制も緩みがち。安定した家庭はすでに手に持っているため、それとは別の刺激や楽しさのみを目的とした恋愛やセックスは面倒ごとと無縁で煌めきやすいわけです。  一対一の関係を求めているわけではなく、あくまで人生のサイドディッシュなので、相手への要求もそんなに高くありません。普通の男が感じがちな自分の恋人の将来への責任感などを放棄している分、何かしら別のことでその罪の意識を帳消しにしようとする。そういう男の心理が、目の前の浮気相手に甘く、普通の恋愛よりハードルの低い「幸福」みたいなものを提供するわけです。 【こちらも話題】 キラキラインスタ女子をうらやんでいい! 鈴木涼美が説く、「選ばなかったキラキラへの未練」を噛みしめて生きる“味わい” https://dot.asahi.com/articles/-/222098  私は相談者さんの相手である既婚男性が、実際に家庭に不満を持ち、あなたとの将来も考えているような不倫男なのか、あるいは盤石な家庭にあぐらをかいてちょっとした刺激を婚姻外のセックスに求めているタイプなのかは分かりません。でも、日本に住む、不倫経験のある男性のかなり多くが後者であるというのは経験から学びました。 男と女の“浮気タイプ”の違い  既婚女性も浮気をしている人はたくさんいますし、その中には結婚を壊そうなんて一ミリも思っていない人だっているとは思います。しかし傾向として、女性は結婚が壊れてでも浮気相手との燃えるような恋を大切にしたいとか、結婚に不満があって外に補填を求めているとかいうタイプの浮気が多いのに対して、男のほうが本命・本妻への気持ちが盤石で、生活が壊れることには一切の覚悟がない場合が多いような気はします。  まぁ他人の気持ちなんて傾向や割合で推測したところで実は何も分からないものです。もしかしたらあなたの相手は浮気相手に尋常ならざる責任感を持っていて、一生大切にする気満々かもしれないし、結婚なんて壊れてもいいと思っているかもしれないし、一夫一妻制度に異議申し立てをするつもりで新しい男女の関係を模索しているのかもしれない。それは分かりません。あなたが色々推測したところで当たっているかは神のみぞ知る、というところです。あなたに分かるのは、あなたの気持ちだけだと思います。  自分の気持ちというのも存外、日常生活ではあまり意識していないものです。私が若い時のことを今上記のように回想するのは、時間が経って、なおかつ自分の過去を振り返ることが職業柄とても多いからであって、その当時は別に自分が自己承認を求めているとか、自分がどんな形であるか触れてみたいとか、そんなことは意識していませんでした。そういうことは機会を設けてゆっくり向き合ってみないと分からないような気がします。 【こちらも話題】 50代で結婚できるか不安な男性に、鈴木涼美が問う 「金目当て」なんていうくだらない毛嫌いをせずに女を愛せるか? https://dot.asahi.com/articles/-/220992  どうですか、あなたが求めているのは彼との燃えるような愛の時間なのか、あるいは既婚男性とのハードル低めの恋愛で得られる安易な自信みたいなものなのか、思い当たる節はありますか。 不倫には二種類ある  もし本当に彼があなたにとって運命の愛すべき相手で、タイミング的に愛し合ったのは彼が結婚した後だったけれども、今後もその愛を貫き通したいほど愛し尊敬する対象であるならば、それを貫いてもいいとは思います。不倫中というのは私からすると二種類あります。自分が既婚であるか、未婚であるか。前者は結婚という制度に自ら乗っかっておきながらそれをふいにするわけですからやや矛盾していますが、後者ははなから結婚制度を是としないという人もいるわけだから、倫理的にはそんなに罪が重いと個人的には思いません。  ただ、もしあなたがその恋愛で得たいものが自分自身の価値を実感する契機のようなものであるなら、それをわざわざ誰かしらの身体と時間を使い、誰かしらが非常に不快になる行為を通して得るというのはあまりスマートなやり方ではないのではないでしょうか。整形でも散財でもスキルアップでも風俗バイトでもインスタグラマーでも、自分に自信を持つ行為というのはその人のコンプレックスや自尊心の在り方によって色々ありますから、不倫以外にその機会を設けたほうがいい気がします。  今の恋愛であなたが少し自分に自信が持てたり、孤独を紛らわせたり、ちょっと自分の価値が上がる気がしたりしている間に、ただでさえ家庭を持って幸福なはずの男が、余暇をより充実した刺激的なものにして超お得に楽しみを得ているとしたら、それはそれで気に食わないというか、なんか腹が立つじゃないですか。 【こちらも話題】 理不尽にフラれても、守るべき女のプライド 鈴木涼美が説く「退会できないヤバい定期購入サービスにはなるな!」の極意 https://dot.asahi.com/articles/-/218220 【鈴木涼美さんへのお悩みを募集中!】 連載「涼美ネエサンの(特に役に立たない)オンナのお悩み道場」では、恋愛、夫婦、家族、仕事、友人など、鈴木さんと同世代の30~40代女性を中心に、お悩みを募集しています。ご応募はこちらのフォーム(https://forms.gle/vH3KMGRGBPJb2TE5A)から! ●鈴木さんからのメッセージ 私はずっと地べたにはいつくばって生きている感じなので、こんな風にすれば素敵な人生送れるよ!というアドバイスは何もないですが、ピンチに陥ったり崖っぷちに立ったりすることは多い日々だったので、痛み分けする気分で、気負わずなんでもお便りお待ちしてます。
鈴木涼美
dot. 2024/05/28 16:00
メ―ガンさんのナイジェリア「ロイヤルツアー“ごっこ”」に批判が殺到 果たして母親業を優先できるのか
多賀幹子 多賀幹子
メ―ガンさんのナイジェリア「ロイヤルツアー“ごっこ”」に批判が殺到 果たして母親業を優先できるのか
2024年5月12日、ナイジェリア・ラゴスの官邸に到着時に手を繋ぐヘンリー王子とメーガンさん(photo AP/アフロ)  ヘンリー王子(39)とメ―ガンさん(42)がそろってナイジェリアを訪問した。インヴィクタス・ゲームのプロモーションを兼ねたツアーだったが、現地での2人の言動に批判が集まり、「ロイヤルツアー“ごっこ」”と揶揄される結末となってしまった。新ビジネスで多忙を極めるメ―ガンさんの母親ぶりにも不安の声があがっている。 「イギリスに足を踏み入れたくない」はずが…    5月7日、ヘンリ―王子(39)は翌日に控えたインヴィクタス・ゲーム10周年の記念礼拝に参加するため、ロンドンのヒースロー空港に到着した。同ゲームはヘンリー王子が自ら立ち上げた負傷した軍人や退役軍人たちによる国際的なスポーツ大会で、会場はかつて父のチャールズ国王(75)とダイアナ元妃の結婚式が行われたセントポール大聖堂。ヘンリー王子は思い入れのある会場で関係者らとの再会を喜んだものの、兄のウィリアム皇太子(41)はじめ、英王室ファミリーは誰も姿を見せないという、やや寂しいイベントとなった。  その時、メ―ガンさん(42)は何をしていたのだろうか。  以前から「イギリスには一切足を踏み入れたくない」と言い切っていたメ―ガンさんだが、実はヒ―スロー空港には到着していた。ただ、ロンドンの街を歩くことはなく、空港内のVIPルーム「ウィンザースイート」で待機していたという。ここはウィリアム皇太子とキャサリン妃(42)が使用したこともある、世界の王侯やセレブ向けの特別室だ。記念礼拝を終えたヘンリー王子が合流し、9日夜、2人そろって英国航空のファーストクラスに搭乗して、ナイジェリアに向かったのだ。  これは、昨年ドイツ・デュセルドルフで開催されたインヴィクタス・ゲームで、「メーガンさんは遺伝子検査の結果、46%ナイジェリア人である」と知ったナイジェリア国防省からの招待によるものという。同ゲームのプロモ―ションを兼ねての3泊4日のツアーだったが、現地での言動をめぐり、ヘンリー王子とメ―ガンさんは批判を浴びることになる。  何があったのか。  ヘンリー王子は王室離脱時に、軍関係の称号をエリザベス女王からすべてはく奪されている。そのため、英連邦に加盟するナイジェリアの軍関係のイベントに関わる権限を持っていない。それなのに、ヘンリー王子がナイジェリア軍を視察する場面があったことが関係者の怒りに触れてしまったのだ。  メ―ガンさんはまず服装が問題視された。背中が大きく開いたブラレスのドレスで、引きずるほど長いスカートでインパクトを与えたが、そのブランド名は英王室の名前である「ウィンザー」。さらにイヤリングとネックレスが、ダイアナ元妃が1990年にナイジェリアを訪問した際に付けたものとそっくりだったこともあり、「自分をロイヤルに見せたいのか」と驚きが広がった。 夫への愛を語ったメ―ガンさん 2024年5月11日、ナイジェリアのアブジャで開催された各業界の女性リーダーが集うイベントに出席したメ―ガンさん。ナイジェリア出身の世界貿易機関(WTO)のヌゴジ・オコンジョイウェアラ事務局長(左)らと会談した (photo   AP/アフロ)  だが、そんな批判は2人の耳には届かなかったようだ。首都アブジャで、2人が2020年に設立した「アーチウェル財団」が一部支援するライトウェー・アカデミー校を揃って訪ねると、メ―ガンさんは生徒の前で堂々と夫への愛を強調したという。  マイクを握ったメ―ガンさんは「私がなぜヘンリー王子と結婚したかわかりますか?」と問いかけ、こう続けた。「夫は賢くて、本当のことしか言わないからです。だからいつも刺激を受けます」。そんな妻の傍らに立っていたヘンリー王子について、各メディアは「イギリスでは過小評価されていると不満気だが、ナイジェリアでは自信を取り戻したようだ」と皮肉って報じている。  その翌日、メ―ガンさんはWTO(世界貿易機関)のヌゴジ・オコンジョイウェアラ事務局長(69)と「女性のリーダーシップ」をテーマに会談する機会を持った。事務局長はナイジェリア出身。ハーバード大学卒業後、ナイジェリアの外務大臣や財務大臣を歴任、WTO初の女性・アフリカ出身の事務局長だ。多忙なスケジュールを縫って、時間を作ってくれていたわけだが、メーガンさんは約1時間会場に遅れて到着。周囲を慌てさせた。  そんな状況で始まった会談だったが、雰囲気はとても穏やかだったという。けれど、メ―ガンさんは事務局長の優れたキャリアについて積極的に質問することはなく、代わりに自分の家族の話をたくさんしたという。アーチー王子(5)とリリベット王女(2)について「2人はおしゃべりが好きな優しい子どもたちです。12 日の母の日に一緒にいられないことが悲しい」と語り、仕事と育児の両立について聞かれると、「もちろん母親を優先させます。母親になることは私の夢でしたから。母親であることが楽しくて仕方ありません」と答えている。 多忙なメ―ガンさんの母親業は? 「ロイヤルツアー“ごっこ”」と揶揄されたナイジェリアツアーを終えてアメリカに戻ったメ―ガンさんは、自身が立ち上げたブランド「アメリカン・リビエラ・オーチャード」のジャムのビン詰め50個をインフルエンサーなどに発送。だが、その反応は期待通りではなく苛立ちを覚えているという。  また、デイリーエクスプレス(オンライン)は、ネットフリックスでの料理番組の制作に加え、最近は自分の回想録の出版を目指し、忙しく動いていると伝えている。この回想録は、新ブランドとの相乗効果を狙っているもので、ヘンリ―王子が23年1月に出版した暴露本「スペア」のような世界的なベストセラーになる可能性もある。  どんどん忙しくなるメ―ガンさん。その状況で果たして、ヌゴジ・オコンジョイウェアラ事務局長に語ったように、母親業を優先できるのだろうか。  (ジャーナリスト・多賀幹子) *AERAオンライン限定記事  
メ―ガン英王室
AERA 2024/05/19 10:00
凶悪スズメバチ、狩るなら今でしょ! 専門家「ポリ袋ひとつで駆除できる」が失敗すればメッタ刺しも
米倉昭仁 米倉昭仁
凶悪スズメバチ、狩るなら今でしょ! 専門家「ポリ袋ひとつで駆除できる」が失敗すればメッタ刺しも
  日本には10種類以上のスズメバチが生息している=東京都内、米倉昭仁撮影  人を死に至らしめるという意味で、日本で最も凶悪な生き物といえばクマ――ではなく、実はスズメバチだ。昨年度はクマにより6人が亡くなった。スズメバチの場合、毎年15人前後が襲撃により死亡している。 *   *   *  スズメバチはおそろしい。大きな羽音にオレンジ色と黒の大きなボディー。目の前に飛んでくるだけで、体がすくんでしまう。そして、このスズメバチ被害を防ぐうえで、今は非常に重要な時期だという。  東京を中心に年間5千個もの巣を取り除いているという、スズメバチ駆除のプロフェッショナル「ヨシダ消毒」(練馬区)を訪ねた。 女王バチ1匹だけで活動 「5月のスズメバチは『トックリバチ』と呼ぶこともあるんですよ」(※トックリバチという名の別種のハチもいる)  清水一郎代表取締役はそう言いながら、作り始めだというスズメバチの巣を見せてくれた。確かに、とっくりか一輪挿しの花瓶のように見える。  全長10センチほどで、茶色いマーブル模様。手にのせてみると、軽い。巣の出入り口が細長いのは、外敵が侵入しづらくするためだという。  この時期、スズメバチは女王バチだけで活動する。たった1匹で巣作りから産卵、子育てと、大忙しだ。巣の守りにまで手が回らないため、近寄っても刺されることはないという。 一瞬で駆除はおしまい 「日中はエサを取りに行っているか、巣の中で幼虫の世話をしているかで、夜は寝ています。ですから、巣にそっと忍び寄ってポリ袋をかぶせて切り離してしまえば、駆除は終わり。何も特別な道具はいりません」  女王バチが巣の外にいた場合、同じ場所で再び巣作りをすることはめったにない。  女王バチが巣の中にいた場合、スズメバチのあごは非常に強力なので、ポリ袋を食い破って逃げ出す可能性がある。頑丈なポリ袋を使うか、袋を二重にすることが望ましいという。密封しておけば、中のハチは水やエサ不足で死ぬ。3日ほどおいてから生ごみとして出せばいい。 5月ごろ女王バチは1匹でこのような「とっくり」型の巣を作る=東京都内、米倉昭仁撮影 自己駆除で狙うなら夜  ただし、最初の働きバチ十数匹が羽化し、巣を守るようになると、事態は変わる。スズメバチの働きバチは、巣に近づく人間を攻撃するのだ。 巣の形がとっくり形からラグビーボール形に変化するので、働きバチがいる巣かどうかは容易に判別できる。  もし、自分で巣を除去したいのなら、狙うべきはハチたちが寝静まった夜だという。 袋をかぶせてスズメバチの巣を撤去する=ヨシダ消毒提供 7~8月、ラグビーボール型のスズメバチの巣はこれくらいの大きさになる=東京都内、米倉昭仁撮影   ただしチャンスは1回きり 「夜になると、すべての働きバチが巣に戻ってきます。直径3センチほどの出入り口には『門番』のハチが顔を出していますが、半分眠りこけている。その穴をアルコールで湿らせた脱脂綿でふさげばいい」  巣の中のハチは、気化したアルコールを吸って昏睡状態になる。それを待って、ポリ袋で巣を覆い、切り離せば駆除は完了だ。  なんだ、簡単じゃないか。そう思っていると、清水さんから念を押された。 「チャンスは1回きりで、2度目はありません。一発で的確に出入り口をふさがないと巣が揺れ、中のハチが噴き出すように飛び立ち、めった刺しにされてしまいます」  ちなみに、働きバチは人間が歩く際の振動に極めて敏感なので、巣には慎重に近づく必要がある。気づかれれば、おしまいだ。素人が自分で駆除するには、かなりの技がいりそうだ。  自治体によってはスズメバチの駆除用に防護服の貸し出しを行っている。駆除に失敗しても、防護服を着ておけば自分が刺される心配はないが、スズメバチが多数躍り出れば、近所に迷惑をかけてしまうかもしれない。無理は禁物だ。 巣の中にある「巣盤」もスズメバチの種類によって大きさがかなり違う。下はオオスズメバチのもの=東京都内、米倉昭仁撮影 夏に向けて巣は巨大化  夏になると、巣はさらに巨大化する。清水さんは倉庫の中に保管してあったキイロスズメバチの巣を見せてくれた。全長約80センチ。 「この大きさだと、スズメバチは数万匹ほどです」  大きな巣は1.5メートルにもなるという。こうなると、素人の手に負える規模ではない。 キイロスズメバチの巣。大きなものだとこの倍ほどにもなる=東京都内、米倉昭仁撮影   料金の相場は5万円前後  スズメバチの駆除料金は業者によって異なるが、相場は5万円前後。駆除費用を全額負担したり、補助金を出してくれたりする自治体もある。 「駆除の依頼が増えてくるのは5月ですが、ピークは8~9月。ピーク時は生息数が増えるので、スズメバチを見つけやすい」  逆に、女王バチが巣を作りだす今の時期は、駆除はたやすいが、見つけにくい。  スズメバチが巣を作りやすい場所――雨や風の当たらない軒下や葉の密集した常緑樹を、日ごろから注意して見ておく必要があるという。 小さくても攻撃性の強いキイロスズメバチ=東京都内、米倉昭仁撮影   キイロスズメバチを警戒すべし  都内で依頼が多いのは、比較的小型のキイロスズメバチとコガタスズメバチで、大型のオオスズメバチは少ない。 「オオスズメバチは大木の根元や斜面の土の中に巣を作ります。都心の大木は根元までコンクリートで覆われているので、23区内では駆除の依頼はほぼありません」  唯一の例外は、皇居だ。「皇居には豊かな自然が残っていて、さまざまな生き物が生息している」という。  ほぼオオスズメバチがいない、という言葉に安心していると、釘を刺された。 「オオスズメバチよりもキイロスズメバチに注意すべきです。最も攻撃性が高く、集団で襲う能力が優れているうえ、ひとつの巣にすむハチの数がものすごく多いんです」   スズメバチはこのような常緑樹に巣を作ることが多い=ヨシダ消毒提供 スズメバチのホバリングに注意  庭仕事の際、葉に覆われた巣に気がつかずに刺激して、刺されてしまう――。スズメバチ被害の典型例だ。スズメバチは巣の周囲、半径3~5メートルほどに「防衛ライン」をしく。 「そこで侵入者を見つけた1、2匹の働きバチは、空中に静止する『ホバリング』をしています。これは、『こっちに来ないでね』という警告です」  つまり、ホバリングしているスズメバチを見かけたら、それ以上近寄らないことだ。林業関係者などの間では常識で、事故になることはめったにない。 「普通の人はスズメバチの警告に気づかず、その先に進んでしまう。その瞬間、働きバチは『攻撃フェロモン』を侵入者に吹きつけるのです」  侵入者に「攻撃せよ」としるしをつける行動だ。巣から一斉に飛び立った働きバチはフェロモンのついた人間を追いかけ、毒針で攻撃する。100カ所近く刺されて亡くなった例も少なくない。 木の上に作られたスズメバチの巣=ヨシダ消毒提供 巣に近づきさえしなければ…  だが、巣に近づきさえしなければ、スズメバチが人を襲うことはないという。 「スズメバチ(働きバチ)を手のひらにのせて見せることがありますが、まったく刺しません。吸血する蚊やダニと違い、スズメバチが人を刺す理由は普段はありませんから」 また、夏が近づくころには、「庭に飛んでいるスズメバチを駆除してほしい」という依頼も増えるという。 「スズメバチは花の蜜も好きで、アレチウリやヤブガラシといったつる性の植物が花を咲かせると、群れでやってくる。蜜を採りに来ているなら、その草を抜くか、根元から切ること。そうすれば、もう飛んでこないはずです」  スズメバチは社会性のある昆虫で、それぞれが役割に忠実に生きている。 「生態を知れば、むやみに恐れる必要はありません」 撤去したスズメバチの巣=ヨシダ消毒提供 (AERA dot.編集部・米倉昭仁) ※「トックリバチ」という呼称について、説明を補足しました。
スズメバチキイロスズメバチオオスズメバチ
dot. 2024/05/19 08:00
元CAが語るカスハラ体験はリアル「スチュワーデス物語」 動画撮られ拡散「パンツの線が出ている」
大谷百合絵 大谷百合絵
元CAが語るカスハラ体験はリアル「スチュワーデス物語」 動画撮られ拡散「パンツの線が出ている」
機内では悪質なカスハラに遭うことも。画像はイメージ(GettyImages)  客が理不尽なクレームを行う「カスタマーハラスメント(カスハラ)」が社会問題化するなか、航空大手・ANAホールディングスが、本格的な対策に乗り出したと報じられた。「複数人で対応する」「相手の承諾を得た上で録音・録画など記録する」などと対応を統一化し、マニュアルにまとめたという。“空の旅”の道中、どのようなカスハラ行為が横行し、客室乗務員(CA)たちはどう対処しているのか。元CAの女性2人に、リアルな現場の実態を明かしてもらった。 *  *  * 「食事を運ぶカートがお客様の体に少し触れてしまったようで、中年男性に『責任者呼んでこい!』と大声で怒鳴り散らされて……」  自身のカスハラ体験を振り返るのは、2017~19年までANAでCAをしていた中川芽衣さん(仮名/30)。過激なクレーマーのほか、セクハラをしてくる乗客の対応にあたったこともあるという。 「ハイペースでお酒を飲まれている方がいると、CA同士で『もう〇杯目だから、次に頼まれたら注意差し上げて』と共有しあいます。でも、『機内は気圧の関係でアルコールが回りやすいのでお水をお持ちしましょうか?』などとお声がけすると、『なんだよ姉ちゃん!』と絡んでくるお客様はけっこういましたね」  中川さんは「仕事なのでこの程度は我慢しよう」と受け流していたが、接客中に飲み物をかけられて堪忍袋の緒が切れ、退職したCAもいた。  また、日本人ならではのクレームの特徴もあったという。外国人客は不満があればたいていその場で指摘してくれたが、日本人客は後から航空会社に訴えてくる傾向があった。 「会社から『クレームが入った』と呼び出されて、何かと思ったら、『窓の日よけシェードが開けっぱなしで、不快な思いをした』とのことで。直接言いづらいのか、大半はあまりにささいな内容でした」 【あわせて読みたい】 「だから秋田県は嫌われる!」クマ被害続いても駆除に抗議電話 専門家「言葉の暴力受ける必要なし」 https://dot.asahi.com/articles/-/203388?page=1 CAの最重要任務は、機内の安全確保。今年1月2日に東京・羽田空港で日本航空機が炎上した際は、CAたちの的確な指示により乗客・乗員に犠牲者は出なかった  機内で対応に困る乗客がいたら、「絶対的な存在」である先輩CAに指示を仰ぎ、従った。だがどんな場合でも一貫していたのが、安全第一の原則だ。離陸前にドアロックなど安全確認をしている最中は、しつこく話しかけられても作業を優先する。飛行機が揺れてシートベルト着用サインがついている間は、トイレに行こうとする人がいれば止め、温かい飲み物を求められても断る。 カスハラはなぜなくならない? 「CAはサービス要員でもありますが、一番の存在意義は安全確保です」と、きっぱり口にする中川さん。CAの足を引っ張るカスハラ行為がなくならない理由を、どう捉えているのだろうか。 「日本の航空会社は“お客様は神様”という意識でJapan Qualityのおもてなしを提供しています。ブランド価値を高め、多くのファンを獲得しているのは素晴らしいこと。でも一方で、『ANAやJALなんだからこれくらいできて当然』『前はやってもらった』と、求められるレベルがどんどん上がったり、丁寧な接客にあぐらをかいてカスハラをするお客様を生み出したりする側面もあるように思います」  正直、現役時代は、「ここまで丁寧に対応する必要ある?」とモヤモヤしたこともあるという。長距離フライト中の“スリーピングケア”はその一つだ。食事の配膳中、眠っている乗客はすべてメモし、目を覚まし次第「お食事されますか?」と声をかける。寝ている人数が多かったり、着陸が迫っているタイミングで起きる客がいたりすると、業務に大きな負担がかかる。だが、「お客様に満足いただきたい気持ち」と「クレームになったら困るという不安」から、努めて笑顔で対応していたという。 【こちらもおすすめ】 壇蜜が初の客室乗務員役に「夜に強要されたことはあります」 https://dot.asahi.com/articles/-/72311?page=1   吉幾三さんが「態度が非常に横柄」と憤った、自民党の長谷川岳参院議員 〇〇議員には「枕を2つ用意する」  先日、歌手の吉幾三さんが投稿したYouTube動画を機に、CAの過剰な接客内容が波紋を広げた。事の発端は、吉さんが昨年5月に投稿した動画だ。偶然同じ飛行機に乗り合わせた国会議員が、CAに「非常に横柄」な態度をとっていたことに憤る内容だったのだが、この動画を見た匿名の現役CAから手紙が届いたとして、吉さんは今年3月、手紙の内容を紹介する動画を投稿した。  手紙には、問題の国会議員は自民党の長谷川岳参院議員ではないかいう指摘とともに、長谷川議員が搭乗する際は、「枕は2つ用意する」「到着が遅れる時は早めにお知らせする」など多岐にわたる注意点が指示される旨が記されていた。  このようなVIP客向けの特別対応は日常的に行われているのか、中川さんにたずねると、「ありますね」と即答した。 「有名人や重要な取引先企業の重役の方など、会社が大事にしたいお客様については、CAが持つ端末上で注意事項が共有されます。前回の搭乗時はこの飲み物を何杯も召し上がっていた、このサービスはお断りになった、といった申し送り事項を参考に、先輩たちはVIP対応にあたっていました」  中川さんは最後に、カスハラ客に思うことをぶっちゃけた。 「働いている側も人間なので、何を言っても優しく対応してくれるというのは勘違い。お金を払ってるから、こういうステータスの人間だから、とカスハラをするのは、ダサいからやめたほうがいいと思います」 1万円札の束を投げつけ…  新人時代の壮絶なカスハラ事例を明かしてくれたのは、国内の航空会社に18年の勤務経験がある吉岡美絵さん(仮名/50代)だ。  さかのぼること30年前。 「忘れもしません。羽田-沖縄便で上位クラスの席の接客をチーフと2人で担当したとき、空席のはずのシートに、金髪のパーマにデニムの上下、サングラス姿で真っ黒に日焼けした男性が座っていて。チーフが『搭乗券を見せていただけますか?』と声をかけると、男性はポケットに入っていた1万円札の束を投げつけ、『金なら持ってる、馬鹿にすんな!』と怒鳴りはじめたんです」 電波を発する電子機器を利用している乗客に注意し、逆ギレされるケースもあるという。画像はイメージ(GettyImages)  男性はチーフの胸ぐらをつかんで壁に押しつけ、しまいには「怒らせたお詫びに、到着するまで隣に座って酌をしろ」と言い出したという。明らかに理不尽な迷惑行為だったが、チーフは要求を受け入れ、上位クラス22人の接客は吉岡さんが1人で担当することになった。 「1人の迷惑行為に付き合って、きちんとルールを守っている他のお客様へのサービスの質を低下させる対応は疑問だったし、今なら考えられません。でも当時は、波風を立てないことをよしとする風潮が残っていたんですね。チーフは『大丈夫よ、あの人お子様なだけだから』と言って、会社にトラブルレポートをあげようとしませんでした」  当時の航空業界のカルチャーを如実に物語るのが、1983~84年に放送されたテレビドラマ「スチュワーデス物語」だ。吉岡さんは、堀ちえみ演じる主人公のCA訓練生がクレーム対応として土下座し、周囲から「今世紀最大のガッツだよー!」と褒めたたえられる場面を鮮烈に覚えているという。  だが時代の移り変わりとともに、暴言や暴行、土下座の強要といったカスハラには毅然と対応する流れになっていった。CAの腕をつかむ、勝手に非常用機材を触る、といった問題行動をとる乗客には、初めは「ご遠慮願えますか?」、次は「やめて下さい」「機長に報告します」などと徐々に注意のトーンを強め、手に余る場合は警察に出動してもらう。 セクハラされたらどうする?  セクハラへの対応も同様だ。「大人しそうな子が狙われる」と話す吉岡さん自身は、悪質な被害の経験は少ないというが、ある日の勤務後、後輩から「お客様にエプロンのひもをほどかれてしまって……」と打ち明けられたという。 火災を想定し、脱出訓練をするCAたち 「彼女はびっくりして固まってしまったようで、『それは向こうの思うつぼ。ダメなものはダメと言わなきゃ』と伝えました。別のCAは『私なら、そこから先は別料金ですって言っちゃいます』と話していましたが、それも冗談で許していることになる。私だったら、『いかがされました?』って笑顔でつっこんでいきますね。目では『説明してみろ!』って圧をかける感じで(笑)。やっぱり保安要員である以上、なめられちゃいけないんです」  ANAは今回、カスハラ対応に統一ルールを設けたが、吉岡さんは、 「目の前で起こるカスハラ案件だけでなく、SNS社会の中で生まれる理不尽な攻撃からもCAを守れるか」  という課題も指摘する。 「実際、クレーマー客に動画を撮られて拡散された、後ろ姿の写真をさらされて『パンツの線が出ている』『お尻がムチムチ』などとコメントをつけられた、といった事例が起きています。実名が書かれた名札の着用をやめたり、機内に防犯カメラを設置したり、対応強化を検討する時期に来ているのかもしれません」  現在研修講師として活動する吉岡さんは、様々な業界で接客業に携わる受講生たちに、 「通常のクレームは貴重なご意見としつつ、理不尽な要求には応じなくていい。カスハラをする人は“お客様”ではありません」  と伝えているという。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
CA客室乗務員カスハラセクハラ
dot. 2024/05/18 12:56
武田真一アナ 「いまだに空しくて悲しくて」東日本大震災の津波実況に罪悪感を抱え悩み続けた
武田真一アナ 「いまだに空しくて悲しくて」東日本大震災の津波実況に罪悪感を抱え悩み続けた
宮城県名取市閖上。後方の慰霊碑は、この高さ(8.4メートル)まで津波が押し寄せたことを伝える(撮影/高野楓菜)    アナウンサー、武田真一。2011年3月11日、街をのみ込んでいく津波を実況しながら、無力感に襲われていた。自分の言葉は必要な人に届かない──。あの日、リアルタイムで切迫感を伝えきれなかった罪悪感や悲しみから、報道マニュアルの改訂にも尽力した。NHKを退局して1年余り経ったいま、日々勉強し、現場に飛んで声を聞く。喜怒哀楽を豊かに向き合い、自分の声で伝えていく。 *  *  *  早春の朝、乗り込んだバスの行き先は「震災遺構仙台市立荒浜小学校前」という長い名前だった。終点でバスを降り、武田真一(たけたしんいち・56)と妻・陽子(56)と合流する。平日の番組を終え、仙台入りした武田は、チャイムの鳴ることのない校舎を見上げた。  荒浜地区は、仙台市中心部から東に約10キロ離れた太平洋沿岸にある。1873年創立の荒浜小学校は、海から1キロ足らずの場所にあり、東日本大震災当時91人の児童が通っていた。2011年3月11日、津波は多くの命を奪った一方、屋上に避難した児童や教職員、住民ら320人は全員救助された。遺構の校舎内に入り、武田は神妙な面持ちで語る。 「前年のチリ地震津波を経て、避難場所を体育館から屋上に変え、備蓄品も3階に移していたんですね。毛布が体育館にあるままだったら……」  屋上に上がると、粉雪の混じる強風にさらされた。太平洋が鈍色の光を放つ。かつて眼下に広がっていた荒浜の町はない。屋上に避難した人たちは、こんな寒風の下、町を見下ろしていたのか。  武田の運転するレンタカーに同乗し、名取川を越える。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区。ここは、武田にとって運命の場所だ。あの日の午後3時50分すぎ。それまでは釜石や気仙沼などの港の映像を流していたNHKの緊急報道の画面が、武田が放送席に入った時、仙台空港を発(た)ったヘリからの映像に変わった。ヘリは名取川を遡(さかのぼ)る津波をとらえ、まさに閖上の街をのみ込んでいく様子を映した。 「黒い波が今、住宅や畑をのみ込んでいきます」 「海岸や河口付近にいる方々は、どうぞ安全なところに避難してください」  実況で訴えながら、無力感が襲った。ここで今、何を語っても、そこにいる人には届かない。 「それが、このあたりなんです。それからずっと、取材に来られなかった。地元の人に会うのが怖くて、申し訳なくて」 震災遺構仙台市立荒浜小学校で。津波は校舎2階まで到達。屋上に避難した児童・教職員らは救助されたが、地区では190人以上が亡くなった。体育館にあった時計の針は、津波到達時刻の午後3時55分を伝える(撮影/高野楓菜)   津波を実況した閖上の地 罪悪感を抱え悩み続けた  あの瞬間から、武田いわく「声を枯らしながら」震災の報道は続いた。情報は瞬時に伝えた。太平洋沿岸の港に設置されたカメラも正常に作動していた。でも、2万人以上が犠牲となった事実。地震発生から津波到達までの時間に、自分たちがやれることがあったのではないか。彼は苦悩し、そして罪悪感を抱えていた。 「自分が放送席に座って最初に実況した映像が、ここでした。そこからずっと、NHKはすべての番組を飛ばし、僕も日中担当したんですけど、あんまり覚えていないんです。空(むな)しくて、悲しくて。いまだに(その思いが)あります」  妻の陽子も当時を振り返る。陽子はあの日、外出しており、彼の津波の実況を直接は観ていない。 「あの実況をしたと知り、『本当にあれをやったのか』って。すごくつらくて。彼自身、声も喉も痛めたし、それ以上に心を病んだと思います。眠れないし、でも使命感でやってきて。臨時態勢の時からずっと、『もっとやることがあったんじゃないか』『僕ら、できていないんじゃないか』って、悩み続けていたようです」  2018年2月、現地の取材を続けるプロデューサーに促され、武田は初めて閖上の地を訪れた。亡くなった閖上中学校の生徒を悼む慰霊碑の社務所としてつくられた、津波復興祈念資料館「閖上の記憶」へ。この時から武田は頻繁にこの場所を訪れるようになり、家族を亡くした語り部たちと、あの日のことについて語るようになった。 「何でしょうね、この時期になると、ここに来たくなるんですよ」  逃げ場として来ているわけではない。東京にいると「自分は何もしていない。何も役立っていない」と、今でも自らを責める気持ちが湧き上がる。そんな気持ちを抱えながら閖上に来ると、むしろ「逃げてはいけない」と、原点に立ち返る思いになる。閖上の語り部は、こんな言葉を一人ひとりにかける。 「悲しみによって繋(つな)がる人たちがいてもいい」 切迫性をどう表現するか 今伝えるべき言葉を考える  2024年1月1日、午後4時10分。能登半島地震。その数分後、「大津波警報」が発令された瞬間、NHKアナウンサーの声は、およそ聞いたことのない厳しい口調に変わった。 「今すぐ可能な限り、高いところへ逃げること!」 「決して、立ち止まったり引き返したりしないこと!」  これは、NHK在局時の武田が中心となってつくった、報道マニュアルにそったものだ。 宮城県名取市の津波復興祈念資料館・閖上の記憶で話を聞く。かつて5千人以上が暮らした街は更地に。約750人が亡くなり35人以上が行方不明だ。津波のむごさ、命の尊さを語り部が伝える(撮影/高野楓菜)   「未曽有(みぞう)の災害のグレード感って言っていましたけど、とんでもないことが起きたというニュアンスを、3・11ではリアルタイムで伝えきれなかった。ことの切迫性を表現しきれなかった」(武田)  ハザードマップは、過去の知見をもとに人間が引いた線にすぎず、自然はそれを軽々と越えてくる。より遠く、高いところへ。避難の妨げとなる正常性バイアスを打ち破り、心に訴えかけていく。これまでにない強い表現を含んだ改訂を、武田らは局内で調整していった。その初めての実践例が、今年の元日の、あの報道となった。  武田自身、能登には1月6日に入った。日本テレビ系の情報番組「DayDay.」でMCを務める彼は、金沢から早朝、七尾に向かい、その先の穴水や輪島へ。取材し、今、何を伝えるべきか、優先させるべきか、スタッフと議論していった。 「避難所で足りないもの、自宅や車で過ごしていらっしゃる方の実情を取材する。輪島の漁師さんに話を聞き、漁業の話をする。現場で見つけていきました」  武田の印象に強く残ったのは、「現状を伝えて」と切望する人の多さだった。食べるもの、着るもの、暖をとるもの。水、トイレ。それがないと1日も生きていけないようなものが何日も不足している。武田が入ったのは発災後1週間近くも経っていたのに、行き渡っていない。この惨状を伝えてほしい。彼はその言葉を受け取った。  武田といえば、忘れられない場面がある。  それは2016年4月16日放送の「NHKスペシャル緊急報告・熊本地震」。番組終盤、彼はこう語りかけた。 「熊本県は私のふるさとです。家族や親せき、たくさんの友人がいます。(中略)被災地の皆さん、そして私と同じように、ふるさとの人たちを思っている全国の皆さん、不安だと思いますけれども、力を合わせて、この夜を乗り切りましょう。この災害を乗り越えましょう」  2度目の地震があった日の夜の放送で、彼の温かみが伝わって、筆者は感銘を受けた。そう伝えると、武田は静かに首を横に振った。 「私の個人的な思いは、もちろん故郷ですからありますけれども、そうではなく、皆で議論して考えていたことです。私も、熊本を思う全国の人たちも、今は何もできず取材も十分届かないけれど、被災者に心を寄せ、苦境を乗り切るためにできることを考えます、と宣言する番組にしようと」  発災直後の命を守るフェーズ。難は逃れたが災害関連死のリスクがあるような命を繋ぐフェーズ。その後、暮らしを立て直し、復興に向かうフェーズ。それぞれ訴えるべきこと、伝えていくべきことがあるはずだ。その原点は、阪神・淡路大震災の時、武田の大先輩のアナウンサー、佐藤誠が避難所で一人ひとりに、同じ目の位置で膝をつき、関西ことばで語りかけた場面。あるいは東日本大震災の時、杉尾宗紀がラジオで「間もなく夜明けです。皆で力を合わせて乗り越えましょう」と語った場面。今、伝えるべき言葉を考え続けてきた歴史が、武田たちにはある。 日本テレビ系列の情報番組「DayDay.」(月~木曜・午前9時~11時10分、金曜・午前9時~10時25分の生放送)。不測の事態が生じた際にMC自ら情報収集できるよう、武田は傍らにiPadを携えて席に立つ(撮影/高野楓菜)   「議論があって、ああなった、ってことなんです。これはぜひお伝えしておきたいです」  ここで時計の針を戻し、少年時代の武田に会いに行く。彼は地元・熊本で、何かを表現することを模索し続けていた。県立熊本高校で級友となった児成剛(57)は、武田と共にバンドを組んだ。 「1年の秋の文化祭で、先輩がRCサクセションのコピーバンドをやっているのを見て、『かっこいいな、やるか!』って」(児成) 縦ノリのラインナップ 文化祭本番は舞台で弾けた  翌年の文化祭に向け、武田、児成を含む4人は、パンクロックバンドを結成。部活後、近所の貸しスタジオで練習に明け暮れた。児成は振り返る。 「僕はボーカルで、武田君がギター。4人で激しい音楽をやって、ちょっと脚光を浴びたいなという安直な考えがあったと思うんです」 「ザ・クラッシュ」「ザ・スターリン」「セックス・ピストルズ」。縦ノリのラインナップだ。 「武田君は『お前たちが決めた曲でいいから』って。おとなしくて、一歩引いた感じ。ただ楽しそうにしていましたよ。『ついていきます』って」  そんな児成が驚いたのは、文化祭本番だった。おとなしいと思っていた武田は、舞台で弾けていた。武田のギターと、アンプを繋ぐケーブルが短すぎて、前に出すぎた武田が思わずアンプ装置を倒してしまった。これに腹を立てたPA業者が、電源を切ってしまい、音が出なくなってしまった。 「武田君も僕も『なんで電源がこないんだ!』。マイクが使えなくなっちゃったので、僕は黄色いメガホンを使って歌っていました」(児成)  筑波大へ進み、卒業が近づく頃、武田は広告代理店を第1希望に見すえ、就職活動を始めた。 「糸井重里さんなど、コピーライターという職業が生まれていた。クリエイティブになれるかなと」  絵が描けるわけでも、音楽が飛びぬけて上手なわけでもない。でも、言葉ならいけるかも。そんな折、NHKを受験する友人に誘われ、試しにディレクター職希望の書類を出した。そうしたら、アナウンサーで内定が出た。意外な展開に驚いた。 「言葉で表現する、って意味ではコピーライターと同じ。自分の肉体で表現できる」   武田アナウンサー誕生の瞬間だった。  熊本、松山放送局で実績を積み、東京アナウンス室へ。駆け出しの頃は失敗ばかりだったと苦笑するが、東京での彼にドジキャラの印象はない。 「一所懸命、間違いのないように読んでいました。石橋を叩(たた)くように。間違えずに伝えていく」  正午のニュース担当に武田が抜擢された。当時の日々のことを妻・陽子は鮮明に覚えている。 「どんどん責任が重くなり、プレッシャーが大きくなって。私は赤ちゃんの夜泣きで寝られないときで、彼はカバーする範囲が広い昼のニュースを担当。世界中で何が起きても全部やるから、ピリピリしていました」 沖縄勤務以来、家族ぐるみで親交を深める大西正子(94)と。大西は一家の多くが沖縄戦の犠牲に。逃げる際に艦砲射撃に遭い、自身も足を負傷。戦後長年、その経験を修学旅行生に伝えてきた(撮影/高野楓菜)   「私たち」でなく「私」で語る 苦しいけれど楽しい日々  ある休みの日、東京郊外の昭和記念公園にドライブしたことがある。その帰り、車内のNHKラジオで新潟県中越地震の速報が流れた。 「その途端、ワーッて車を飛ばして、家の前に着いたら、もう飛び出て、すぐに局に行くんです。私と子どもを車に置いたまま」  いつも家族一緒で、子煩悩な彼からは想像もつかないエピソードだ。とにかく当時は間違いのないように。迅速かつ一歩一歩。武田は振り返る。 「それでも間違えるんですけどね。積み重ねていって、いざという時『武田に任せよう』って言ってもらえるように。そう思って続けていました」  NHK番組「NHKスペシャル」「クローズアップ現代+(プラス)(当時。『クロ現』)」を担うように。 「『クロ現』の番組を統括する中村直文君から、たくさん学びました。彼からは『一人称で語ってください』って繰り返し言われた。『私たち』ではなく、『私』と言ってください、と。そうすればそれは武田さんが感じたこと。ファクトになる。それが一番強い」  現在も両番組を統括するNHKメディア総局、NHKスペシャル事務局の中村直文(54)は当時を回想する。 「武田さんに『クロ現』を担当していただく前、国谷裕子(ひろこ)さんが長年キャスターを務めていましたが、突然、キャスターが交代する事態が生じ、現場は混乱。番組自体が存続の危機にありました。武田さんに背負ってもらいたいことは山ほどありました。手探りで、本当にイチから一緒に立ち上げました。おこがましいですけど、戦友みたいな関係だと思っています」  トランプ大統領誕生の米国、地震1年後の熊本、復帰45年の沖縄。武田は常に、現場で伝えた。 「政界を揺るがした森友・加計問題も、『クロ現』は積極的に取り上げました。ちゃんと向き合わないと、我々の仕事は終わってしまう」(中村)  番組として取り上げることが難しいテーマもあった。だが、中村は言う。 「武田さんは前向きに勝負してくれる人。厭わずにやっていただいた。国谷さんもそうですが、武田さんは自分が関わる番組に対し、取材マインドや、つくる過程への関心が強い方だと思います」  NHK看板アナが退局! その一報に驚いたのは記憶に新しい。2023年2月末、武田は組織を飛び出した。それは直前の2年間、大阪放送局へ赴任した経験が影響していると武田は明かす。 「地域の社会起業家を紹介する企画があったんです。仕事やNPO活動を通じ、身近な社会を良くしていく。そんな人が大勢いることを知りました」  自分のできる範囲で確実に社会を変えていく姿が眩(まぶ)しかった。もっと自分にできることが見つかるはずだ。こうして武田は、民放の世界へ。山里亮太とツートップMCを務める「DayDay.」が始まった。番組の総合演出を担う日本テレビコンテンツ制作局専門部次長の大橋邦世は、こう語る。 「2人の関係が絶妙です。武田さんが信頼感と安心感をもって構えてくださっているので、山ちゃんがあちこち動ける。お互いリスペクトしているようです」 1月20日、沖縄気象台の防災気象講演会に登壇。過去の自身の経験や、能登半島地震の最新リポート、住民が自ら命を守るための情報を集めることの重要性などについて伝えた(撮影/高野楓菜)    大橋が日々驚くことがある。武田の勉強姿勢だ。 「たとえば最近話題になった『マルハラ』問題を番組で取り上げた際、句読点に関する国語学者の本を読んで臨んでくださった。オンエアにすぐ反映されるわけでなくても、番組として安心感をもって臨んでいける。また、エンターテイナーな側面も垣間見え、今後の展開が楽しみです」  武田は語る。 「番組を日々、どう良くし、自分がどうあるべきか考えています。勉強は苦しいんですけど、じつは、人生の一番良き時代を過ごしていることが最近、わかってきました。この先、成功するかわからない。でも楽しいんですよ。苦しいですけど」  かつてバンドで共にシャウトした児成も、「クロ現」で切磋琢磨(せっさたくま)した中村も、そして妻・陽子も、「今が一番、本来の彼らしい」と評する。現場にかけつけ、ひざを突き合わせて声を聞く。喜怒哀楽を豊かに多彩なジャンルと向き合い、日々を存分に楽しんでいく。  閖上での取材日の夕暮れ、あんなに強かった風はいつの間にかやんでいた。取材の最後、凪(な)いだ海を眺めながら、武田はつぶやいた。 「この風景が、すごく好きなんです」  この先も、この地に、きっと来る。伝える、繋がることを命題として、あれこれ手を拡げずに、できることから彼は始めていく。 (文中敬称略)(文・加賀直樹) ※AERA 2024年5月20日号
現代の肖像武田真一
AERA 2024/05/17 18:00
気合と根性で乗り切れる時代は終わった…"日本一の営業マン"が電話1件に費やした時間に徹底してこだわる理由
気合と根性で乗り切れる時代は終わった…"日本一の営業マン"が電話1件に費やした時間に徹底してこだわる理由
※写真はイメージです(gettyimages)    どうすれば営業で効率よく成果を出せるのか。営業支援を行う営業ハック代表の笹田裕嗣氏は「自分が1件のアポにどのくらい時間を費やしたか、把握していない人は多い。時間あたりの成果を最大化する意識を常に持っておく必要がある」という――。  ※本稿は、笹田裕嗣『営業がしんどい 売れなくて悩む営業が今日からできること』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。 人間は1日に3万5000回の決断を繰り返している  人の脳は常に大量の情報・データをもとに判断をくり返しています。ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン氏の研究では、1日に3万5000回の決断をしているという結果もあります。  3万5000回すべての判断を、自分の意思で決断できるでしょうか? 不可能ですよね。人間は、経験則や先入観によって自分なりの解を導き出す意思決定の仕組みを持っています。つまり、3万5000回の決断すべてが吟味した答えというわけではなく、自分の直感や感覚で決められたものが多数混ざっているということです。  営業活動も決断の連続です。営業には必ず相手が存在し、そして電話や対面・オンラインでの商談時のコミュニケーションでは、即座に返答・回答しなければいけない場面があります。  だからこそ、営業で成果を出すためには、圧倒的に「習慣」が大事だと私は考えています。今自分がどんな習慣を持っているか、回答やコミュニケーションの癖を持っているかが成果に大きく影響します。 営業の成果は一朝一夕で出るものではない  営業の成果は一朝一夕では変わりません。私が経験してきた人材営業では、初めてのテレアポから1年後に初受注、2年後に取引開始というケースもありました。現在行なっている営業代行では、「10年前からブログを見ていました」とお問い合わせをいただき、今の取引がスタートしたというケースもあります。今日の頑張りが未来の受注・成果につながる、つまり日々どれだけ良質な積み重ねができるかで、未来の成果が決まります。  時間への意識を最大限高めるには良質なルーティンを持つことが正義である。この意識を持った上で、今自分が何をすべきかを考えることが大事ということです。 朝から晩までテレアポをしていられた時代は終わった  昔の営業はもっと考えることがシンプルでした。  売れれば正義。売れなければ悪。  私が中途で入った会社では、新卒入社の社員が夜の10時までテレアポをしているのは決して珍しい光景ではありませんでした。退勤時間に「お先に失礼します」と声をかけると「お疲れ様でした!」と元気な声が帰ってきて、その10秒後には「お世話になっております」「夜分遅くに失礼いたします」という声が飛び交うのです。さらに朝8時前に出勤すると「おはようございます」ではなくテレアポの声が聞こえてきます。  なぜそんな時間からテレアポの声が聞こえるのか。今週、今月のアポイント目標に届いていないからです。目標を達成できていなければとにかくやるしかないという時代があった(会社によっては今なお存在する)のです。  しかし、働き方改革や法改正が進み、営業の働き方も変わりました。会社としてこういった働き方や管理ができなくなっています。  成果が出るまでいくらでも時間をかけられた時代とは違い、今は限られた時間の中で成果を出さなければいけません。改めて現代の営業は時間への意識が強く求められるということです。 アポ獲得にどれだけ時間を費やしたか把握しているか  この時間への意識を最近では「タイパ」と表現します。タイパ=タイムパフォーマンスです。1つの成果に対して、どれだけの時間を費やしたのかという発想です。  しかし、自分がアポイント獲得や準備、商談にどれくらいの時間を費やしているのかを把握していない営業がほとんどです。「もっと時間を効率的に使いたい」「もっと時間を有効活用したい」とほとんどのビジネスパーソンはこのような考えを持ちながら、日々の時間の使い方に無頓着ということが少なくありません。  私が経営する営業ハックでは、「時間生産性」という言葉を使い、時間意識を持って営業をしてもらっています。  例えば、メンバーは、コールドリストと呼ばれる接点がまだない相手へのアプローチでは、まずは4時間で1アポという目標を追いかけています。  また誰かに時間をもらうにあたっても、この意識は常に話しています。例えば、同僚にテレアポのロープレをお願いするということは、その間営業はできなくなります。4時間で1アポを目指しているにもかかわらず、仮にロープレで1時間奪われたとしたら、その分どこかで3時間に1件、2.5時間に1件のアポイントを目指さなければいけなくなります。相手の時間を使っているという意識を持たなければ、時間という有限な資産を食い散らかしてしまうということです。 メリハリのないリモートワークは時間が溶けがち  今までの日本は、とにかく成果を出すために働き続けること、残業が多いことが正義とされがちでしたが、今は少ない時間で大きな成果を出す意識が不可欠です。 「時は金なり」と言いますが本当にその通りで、「時間を掛ける=コストが掛かる」という意識を常に持つべきです。営業ハックはフルリモートの会社で、全員が在宅勤務です。営業=出社して競い合うという前提を外した会社ですが、リモートワークは出社というメリハリがない分、時間への意識が強く求められる働き方です。  よくスタートアップでは資金調達したお金があっという間になくなってしまうことを「溶ける」と表現しますが、リモートワーカーは「時間が溶ける」ということが起こりがちです。「気づいたらもうこんな時間」「あれ、もう午前中終わり?」という体験はまさに時間が溶けた最たる例です。 掛けた分の時間=コストを回収するのが営業の役割  営業をしていると前々から入っていたアポイント、定例で入っている会議、部門で決まっているテレアポコアタイムなど、自分だけで決めた時間よりも周囲との兼ね合いや元々存在していたルールによって、予定が決まるということは少なくありません。  しかし、その決定事項・時間の使い方に「~~を達成するために」「~~を実現するために」という目的・意図がなければ、本当にただ時間を溶かしてしまうだけになります。 「ルールだから」「決定事項だから」で自分の時間の使い方を決めていては、時間というコストの浪費です。あくまで営業は時間・コストを投資しなければいけません。  投資は回収しなければいけません。掛けた分の時間・コストを成果に変えることが、営業に求められている役割です。  営業は社長以外に会社にお金=キャッシュをもたらすことができる唯一の職種です。コストセンターではなく、プロフィットセンターであり、もっとシンプルに表現すると売上センターです。コスト意識=コストを減らす意識ももちろん重要ですが、掛けた時間で成果に還元する意識、最大化する意識が営業には不可欠です。 時間の有限性は気合と根性では乗り切れない  営業活動とは時間の投資だという意識を持つべきです。  あなたはその1件のアポイントをいただくために、何時間費やしましたか? アポ率1%の営業は、100件電話をかけて初めて1件の商談を確保できます。100件の電話を5時間かけて行なったのであれば、1件の商談を得るのに掛けた時間は5時間です。そのリストを準備するために使った時間やコストはいくらでしょう?  商談を1件実施するのに、1時間準備を行ない、1時間御礼のメールや提案書、見積書を作ったりしていれば、費やす時間はどんどん増えていきます。  当然、失注するリスクもあります。営業は多くの失敗やうまくいかなかったことの上に成約・成果があります。成約率10%であれば、10商談を費やして9つの失敗と1つの受注があるということです。  自分の時間生産性を考えなければ、あっという間に成果を得られないまま1週間が終わってしまいます。気合いと根性では乗り切れない、乗り越えられない世界が営業には必ずあります。それは1日24時間、1週間は7日間、1年は365日しかないからです。  限られた時間で最大の成果を出す。当たり前のことですが、時間意識とは「時間を無駄にしない意識」です。時間を無駄にしないとは、成果につながらない時間を作らないということです。 自分の感情に流されてアクションを決めてはならない  営業の仕事は、コミュニケーションを取る仕事です。そして、求められるシンプルな成果は、売上を作ることです。  つまり、日々コミュニケーションを積み重ねて売上に変える、これが営業という仕事の本質です。では今日の自分のコミュニケーションは売上につながるやり取りだったでしょうか? ・アポイントがもらえるからニーズはないけど会いに行く ・仲が良いから、呼ばれたからとりあえず訪問する ・架電数を積まなきゃいけないから、不通の番号だけど架電だけする ・オンラインや電話で要件を済ませられるのに、社外に出たいからと訪問アポにする ・出社した方が効率が良いのに、リモートで乗り切ろうとする  これらはすべて、成果から最短ルートを歩むためのアクションではなく、自分の感情を優先したアクションです。営業・ビジネスにおいて、売上・利益はすべて数字です。そこには必ず理屈・ロジックを立てることができます。理屈を考えない、根拠がない判断は、感情に流された意思決定であり、成果を出すための行動ではありません。  営業はこういった「感情判断」が起こりやすい仕事であるといえます。 「コミュニケーションはコスト」の意識を持つ ・泣いてお願いされたから、値引きに応じた ・友人だからと無理な納期を承諾してしまった ・いつもお世話になっているからと特別に無料にしてあげた  こういう営業は「良い人」と言われると思います。しかし、営業をビジネス的な観点で見れば、その場その時は良くても、利益を削り、未来の自分やほかの誰かが負担を強いられる行為であるということを忘れてはいけません。  営業はコミュニケーションを重ねることで、会社に売上・利益、キャッシュをもたらさなければいけません。最小のコストで最大の利益を出すことが理想です。つまり、できるだけ少ない工数・コミュニケーションで成果を出すことができれば、営業として評価されるべき人材ということです。  さらに、コミュニケーションが少ないということは、相手からいただく時間も最小にすることができます。自分がたくさん話す、会話をする、やり取りをするということは、その分誰かの時間を奪っているという意識を持たなければいけないのです。 (笹田 裕嗣/営業ハック代表取締役社長)
プレジデントオンライン 2024/05/17 16:00
「飽き性は、好奇心旺盛と近似値 弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることもある」ジェーン・スー
ジェーン・スー ジェーン・スー
「飽き性は、好奇心旺盛と近似値 弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることもある」ジェーン・スー
「飽き性」も愛おしく思えるお年ごろ(イラスト:サヲリブラウン)    作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  *  ここ2年ほど、髪にはパーマをあてています。最初はセミロングにゆるく。そのまま伸ばして風に美髪をなびかせるつもりが、長さに耐えきれず結んでばかり。徐々にパーマも強くなり、イラストレーターのサヲリブラウンさんに描いていただいているとおり「ウェーブヘアをポニーテール」が定番になっておりました。  その前はボブヘアにカチューシャが定番でした。ラジオのレギュラー番組や連載の仕事をしていたら、ずっと同じ髪形でいたほうがよいという考え方もあります。その通りです。宣材写真は頻繁には撮影しないものですし、私が私のマネージャーだったら、髪形をコロコロ変えるのは賢明ではないと言うでしょう。ちなみに、ポッドキャスト番組「OVER THE SUN」のアイコン写真の私はおかっぱにカチューシャ。お相手の堀井美香さんは、ずっと髪形を変えていません。  しかし、私は飽き性です。またしても髪形を変えてしまいました。今度はミュージカル「アニー」の主人公のような髪形。クルクルカーリーヘアです。我ながら、よく似あっていると思います。  学生時代、「飽き性」は明らかに弱点と見做されていました。まさに、習い事や勉強など、飽きずに続けていたら、違う人生が待っていたかもしれません。  人生とは面白いもので、若い頃には尊ばれた「飽きない性格」は40歳を過ぎると、固定観念に囚われ変化を恐れる傾向と見做されるようになります。堀井さんのように、まるで同じに見えて時代に合わせて都度微調整を行える人は稀で、たいていは不変が思考停止と同義になってくる。  飽き性は、好奇心旺盛と近似値です。しかし大人になると、好奇心は否が応でも目減りしてくる。やらなければならないことばかりですし、新しい情報に興味を持つ気力体力も薄れてきます。 イラスト:サヲリブラウン    ここで、飽き性が本領を発揮します。純粋な好奇心とは異なれど、新しいことにトライする動機にはなるのです。50歳を過ぎ、私は自分の「飽き性」を愛おしく思えるようになりました。  飽き性だけでなく、若い頃は弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることがあります。「落ち着きがない」が「アクティブ」と解釈されたり、「引っ込み思案」が「慎重な人」と見做されるように。これだから加齢はやめられませんね! ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中。 ※AERA 2024年5月20日号
ジェーン・スー
AERA 2024/05/16 19:00
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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