AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
検索結果4139件中 81 100 件を表示中

2児の父となった「加藤晴彦」が“失礼な保護者”に怒り心頭 小学校の運動会で体験した「非常識な父親」の振る舞いとは
2児の父となった「加藤晴彦」が“失礼な保護者”に怒り心頭 小学校の運動会で体験した「非常識な父親」の振る舞いとは 加藤晴彦さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)    4月から放送される日曜劇場「キャスター」(TBS系)で7年ぶりのドラマ出演を果たす加藤晴彦さん(49)。インタビュー【前編】では「キャスター」への出演が決まるまでの経緯や、寝る間もないほど多忙だったという20~30代の芸能生活などについて聞きました。【後編】では、38歳で結婚した際のなれそめや結婚生活について、また、俳優以外でこれから取り組みたい活動についてうかがいました。 ※【前編】<「加藤晴彦」が日曜劇場で7年ぶりにドラマ出演 「僕は芸能人ではなく『人間・加藤晴彦』として生きたい」>より続く *  *  *  自分がどんどん壊れていってるんじゃないか――ヘリコプターで仕事現場へ移動するなど超多忙な生活を送るなかで、加藤さんはそんな不安を抱くようになり、30代前半から徐々に芸能の仕事をセーブ。心身を整える生活にシフトしていくなか、私生活で大きな変化がおとずれる。 20代でブレイクしていた頃の加藤晴彦さん(事務所提供)    2014年、39歳のときに一般女性と結婚した。  生まれ育った名古屋のことが大好きで、どんなに忙しくても1日でも休みがあればすぐに帰るほど、地元愛は強かった。 「昔から、家庭を持って住むなら絶対に名古屋だ、と思っていました。名古屋といえば赤みそなんですけど、『赤だしのみそ汁が上手に作れる子と結婚したい』なんてことも言っていました」  キューピッドになってくれたのは、名古屋の中京テレビで働く黒宮英作さんだ。 「妻も名古屋の別のテレビ局に勤めていた社員で、黒宮さんが『なんか2人は合うんじゃないかと思った』と言って引き合わせてくれたのがきっかけです。本当に恩人というか、人生を変えてくれた人だと思っています」  結婚から10年がたち、2人の子どもにも恵まれたが、妻との関係は「本当に仲が良いです」という。 「家にいると、ずーーーっと話しています。些細なことを共有しあうのはもちろん、絵にかいたようにボケたり突っ込んだり、冗談を言い合ったりとか、会話を止める方が難しいくらいです。妻は『芸能人のあなたと結婚したわけじゃない』と言ってくれていて、それも合っているんだと思います」と話す。 加藤晴彦さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   2児の父となり「世界が変わった」  子育てに積極的に参加することで、見える世界がガラリと変わった。 「子どもが生まれて物理的に変わったという事ではなくて、視野が広がりました。例えば遊びに行く場所ひとつとっても、子どもにとってどうなのか? 便利さや楽しさだけではない『学びがあるのか?』を考えています。子どもが成長し、進学する上でも考えさせられることも多いです。幸いなことに我が子の幼児期の園生活はとても恵まれていました。しかし、小学校では教育現場の違和感や混乱を目の当たりにしました。そのため、教育にもとても興味が湧いてきました」  教育に関心を持ったことで、必然的に教育現場との接点が増えた。保護者会役員から始まり、現在は、保護者会とは別の学校法人の理事にも就任している。  さらに加藤さんが今参加しているのが、NPO法人の立ち上げだ。教員の働き方改革などで部活動が減少する中、子どもたちにさまざまな競技との出会いと、体を動かす機会を提供するスポーツ組織「AOZORA」の立ち上げに参画している。メンバーは現役の教師や校長・アスリートなどさまざまで、心から子どもたちの未来を考える人たちが集まっている。 「実際に動き始めてみると、場所の確保や人の確保なども含めて、想像を絶するほど大変だと感じています。最初からいきなり完璧を目指すのではなくて、子どもたちに楽しんでもらうところから始めていこうと思っています。」  この活動を通して、加藤さんは子どもたちに「人間として成長してほしい」と願っている。その根底には、一部の大人たちが悪びれもせずに身勝手な振る舞いをすることへの“怒り”がある。 「僕は自分が偉いとは一切思ってないですけど、最近は30代~50代のいい大人でも本当に自分勝手な人が多いなと感じているんです。それぞれの個人や家庭で、その人なりの物差しがあるのは当然です。でも一歩外に出たら、社会の物差しに合わせて行動することも必要です。なのに、最近は自分の物差しを家の外でも振りかざしている人が多い。悪いことをしたらまず謝るべきなのに、相手を責める人もいます。トラブルになると先に騒いだ人が勝ちのようになって、結局、正しい行動をしている人がコトを荒立てないように口をつぐむことも少なくありません。直接話したこともない人を陰で悪く言う保護者などなど、言い出したらキリがありません。見えない所から石を投げるような……そういう非常識や理不尽さが許せないんですよ」 加藤晴彦さん(撮影/写真映像部・和仁貢介)   近所にいた「昭和のオヤジ」みたい  そうした大人たちに怒りを覚えるのは、加藤さん自身が実際に“被害”に遭ったこともあるからだ。 「小学校の運動会での出来事ですが、下駄箱で靴を履いていると突然『あれ! 晴彦君、元気?』と言われて見上げると、立っていたのは全く知らない誰かのお父さんでした。初対面なのにいきなりタメ口で声をかけられ、あとは知らんぷりされて、その場を去っていきました。あまりにクレイジーな行動に一瞬ぽかんとしてしまいましたが、非礼な行いをする人間には、必ずしっぺ返しがくると思っています」  礼儀やあいさつを大事だと強く感じてずっと生きてきた加藤さんだからこそ、今の時代の子どもたちにもそういった社会性をしっかり学んでもらいたいと考えている。 「自分の娘と息子には、『もし怒られるようなことをしたときは、まず自分の側になにかあったんじゃないか考えろ』と徹底して言っています。昔はまず社会や地域のルールがあり、その上で自分や家族の考え方やルールがあったが、今はその線引きがなくなってきてしまっていると感じています」  そして、「あいさつはされるものではなく、するものです!」と語る加藤さん。自身が幼稚園にお迎えに行ったときは、子ども、先生、保護者へ大きな声であいさつをする。あいさつを返してくれた子には「偉いね!」「気持ちがいいね」と褒める一方で、あいさつをしない子どもがいたら、顔を覗き込んでもっと大きな声であいさつをすることにしている。 「僕って近所にいた昭和のオヤジみたいな感じなんです。でも、あいさつから始まるコミュニケーションで地域は作られていて、その地域全体が子どもたちを育てていたと思うんです。今は過保護どころか過干渉な親が多くて、自分の子どもの顔色をうかがっているような状況でしょう。他人の子どもに注意をしてくれる人なんていないんです。そもそも礼儀について注意するのって、そこに愛があるからなんです。だからこの時代でも、ちゃんと愛を持って言えば伝わるんです。今の子どもたちは愛を受けることも知らないし、愛をかける人もいないからおかしくなっちゃうと思うんです。それを少しでも変えていきたいなって思います」  そう語る言葉には、「人間・加藤晴彦」を貫いてきた加藤さんだからこその“熱”がこもっていた。 (藤井みさ) ●加藤晴彦(かとう・はるひこ) 1975年生まれ、愛知県出身。中学2年のときにNHK『中学生日記』で俳優デビュー。高校3年で『ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』審査員特別賞を受賞し上京。TBS系『アリよさらば』、朝ドラ『走らんか!』など数々の映画・ドラマ、『アルペン』などのCMにも出演し、『あいのり』『どうぶつ奇想天外!』などバラエティでも活躍。2014年に結婚し、現在は2児の父。
オンラインカジノが違法ならパチンコやFXは? 違法性が浸透しない理由と改善策を考える 田内学
オンラインカジノが違法ならパチンコやFXは? 違法性が浸透しない理由と改善策を考える 田内学 AERA 2025年3月31日号より    物価高や円安、金利など、刻々と変わる私たちの経済環境。この連載では、お金に縛られすぎず、日々の暮らしの“味方”になれるような、経済の新たな“見方”を示します。 AERA 2025年3月31日号より。 *  *  *  最近、芸人がオンラインカジノへの参加が原因で活動を自粛するケースが増えているが、初めてニュースを見たときに「オンラインカジノって違法だったの?」と驚いた人も多いのではないだろうか。実際、当事者の芸人たち自身も「違法だとは知らなかった」と語っている。もちろん、知らなかったで済む話ではないが、「知らないほうが悪い」と単純に切り捨てていいのだろうか。  警察庁が昨年7月〜今年1月に実施した調査によれば、日本国内でオンラインカジノを利用したことがある人は約337万人にのぼるという。驚くべきことに、全体の約44%がオンラインカジノを「違法だとは思っていなかった」と回答した。芸人だけの問題ではなく、多くの一般人が違法性を意識することなく気軽にオンラインギャンブルを楽しんでいる現実がある。  しかし、こうした認識不足には理由もある。日本では、公営ギャンブルだけが合法とされる一方で、実際にはギャンブル的な行為が広く許容されているからだ。例えばパチンコは「換金していない」という建前で事実上黙認されており、警察関係者が賭け麻雀をしていた際も「図書券を景品にしていただけ」ということで、法的処分を受けなかったこともある。自粛を余儀なくされた芸人たちでさえ、思わず「ギャンブルやないか」とツッコミたくなる状況だ。 たうち・まなぶ◆1978年生まれ。ゴールドマン・サックス証券を経て社会的金融教育家として講演や執筆活動を行う。著書に『きみのお金は誰のため』、高校の社会科教科書『公共』(共著)など    さらに最近では、暗号資産やFX(外国為替証拠金取引)といった取引も盛んだ。これらは法律上「投資」として認められているが、その実態は非常にギャンブル性が高い。特にFXは最大25倍のレバレッジをかけられ(以前の500倍に比べれば改善されたが)、短期間で大きな利益や損失を生むことがある。実際、FXの年間取引額は推計で1京円を超え、オンラインカジノの年間賭け額(約1兆2423億円)の約1万倍にもなる。この巨大な取引市場の中で、刺激やスリルを求めて依存症に陥る人も少なくない。依存症患者が増えれば、その社会的コストも当然高くなる。  国内にギャンブル性の強い取引が合法的に存在している以上、オンラインカジノの違法性が浸透しないことはある意味自然だとも言える。現在の法的な曖昧さを解消するには、ギャンブルという行為を明確に定義し直す必要があるだろう。  しかしながら、一大ビジネスになってしまったパチンコやFX取引を違法にはできないだろうから、一定範囲のギャンブル性を認めた上でその収益を社会福祉や教育へ還元する仕組みを作って、社会的コストを負担してもらうのが現実的だろうか。  こうしたギャンブル的な取引が社会に浸透している背景には、経済の停滞や社会格差の拡大といった構造的な問題がある。真面目に働いても報われない、多少報われたとしても、すでに開いた格差を埋められないなら、一攫千金のロマンを追いたいと思ってしまうのも無理はない。  資産所得倍増計画も悪くないが、それ以上に大切なのは「真面目に働いている人が報われる」という当たり前でシンプルな社会なのではないだろうか。この連載でも何度か指摘しているが、いろんな場面で生活インフラが崩れつつある。生活を支える人が報われれば、社会全体がもっと明るくなるはずだ。 ※AERA 2025年3月31日号
[京都橘大学 スペシャルクロストーク]文化交響−文化の創造と伝統の継承。次世代のクリエイターへ
【PR】[京都橘大学 スペシャルクロストーク]文化交響−文化の創造と伝統の継承。次世代のクリエイターへ  テクノロジーが著しい進化を遂げる中、ITやAIなどの技術を駆使した創造的な活動は、社会にどんな価値を生み出せるのだろうか。伝統と未来が交わる清⽔寺を舞台に、識者が語り合った。 *本記事は、2024年12月14日に開催されたイベント当日のクロストークの内容を編集して掲載しています。  音楽革命を巻き起こした「初音ミク」の生みの親・伊藤博之さん、1200年以上に亘って人々の心に寄り添い続ける「清水寺」の歴史と文化の語り部・森清顕さん、AI研究のパイオニア・松原仁さん、人と技術をつなぐ教育工学の旗手・大場みち子さん、好奇心の翼で世界を駆け巡る春香クリスティーンさん。異彩を放つ5人が世界遺産・清水寺の経堂(重要文化財)に集い、文化の創造と伝統の継承をテーマに語り合った。多様な文化を尊重しながら「伝統」と「未来」を交差させ、発展し続ける技術と共に、新しい価値を創造していく楽しさとは。 春香クリスティーンさん:まず伊藤さんにお伺いします。ボーカロイド・初音ミクがアニメやゲームなどと並ぶ、日本発の新たな文化として世界中から注目されています。そのアイデアはどのように生まれたのでしょうか。 伊藤博之さん(クリプトン・フューチャー・メディア株式会社):我々は音楽制作のソフトウェアを扱う企業として、人の歌声のソフトウェアも作りたいと思ったのが、初音ミク開発のきっかけです。歌声合成ソフトウェアにキャラクターという姿を付けることで人々の想像が膨らみ、より多くの創作が生まれるのではと考えました。初音ミクを使った創作の連鎖は、インターネットで繰り広げられ、国内はもとより海外にも広がりました。 春香:初音ミクを題材とした2次創作についてもライセンス方式によって許諾され、多くのクリエイターによる創造力溢れる作品が広がっていますね。 伊藤:はい、個人クリエイターによる個性豊かな創作がインターネットを介して広がりました。また、歌舞伎やアートなど異分野とも積極的にコラボレーションしてきました。このように創作の連鎖を積極的に認めることで、初音ミクが文化とも言えるようになってきました。 春香:大場さんは初音ミクが巻き起こした音楽革命をどう受け止めていますか?  大場みち子さん(京都橘大学):今まで物作りを遠い世界のことだと思っていた一般の人に、クリエイターになるハードルを下げ、共感・創造の連鎖につながるきっかけを与えてくれました。素晴らしいのは、著作権、使用料などの問題をクリアしたプラットフォームが確立されているので、安心して利用でき、ビジネスにもつながっていることです。 春香:松原さんはAIとさまざまな分野を掛け合わせた新しいプロジェクトに挑戦されています。そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか。 松原仁さん(京都橘大学):幼稚園児の時に「鉄腕アトム」のアニメを見て、天馬博士に憧れました。将来、私も鉄腕アトムのようなロボットを作りたいと思ったのが、AI研究者を志したきっかけです。AIと何かを掛け合わせるとき、私の場合は漫画、将棋、ゲーム、スポーツ、観光などの分野を渡り歩いてきました。この「何か」は自分が好きなこと、面白いと思うことを選ぶのが大事だと思います。 春香:時代が移り変わる中で、森さんは、仏教の歴史や文化の伝え方と、今のデジタル技術の発展との関わりをどう捉えていますか。 森清顕さん(清水寺):以前、「清水寺本堂の舞台は15年に1回ほど張り替えなどの修復を行う必要がある」と海外の方に話したら、「鉄筋コンクリートに変えたら?」と言われたことがありました。その方が合理的だとは思うのですが、清水寺の建物は先人が高い崖に柱をかけて大事に作ったものです。  数年前に、「レガシー」という言葉が流行りましたが、「遺産」というのは、感動の記憶でもあります。清水寺の建物を見て、「昔の人は、ここで何をしはったんやろうなあ」と想像を巡らせる。ここから見える西山に沈む夕陽は、「1000年前に清少納言も同じように見ていたのだな」と感動する。そうしたことが「この美しい情景を表現したい」と人の心を動かし、AIなどの最新技術を使った創造と表現につながるのではないでしょうか。  3人のお話とも共通していますが、クリエイティビティーには自分の体験や興味、人間の五感がますます重要になると思います。 AIの進歩で湧き上がる「人間とは、自分とは何だろう」 春香:技術の発展は止めどなく、私たちの生活を大きく変え、その先にはロボットと共生する社会が考えられます。それは楽しそうだと思う半面、人間の仕事を奪ってしまうのではないか、という心配も出てきます。 大場:部分的には、AIやロボットに置き換わる職業も出てきます。ただ、ロボットか人間かという二者択一ではなく、AI・ロボットと共生することで人のQOL(クオリティー・オブ・ライフ=生活の質)が上がっていくことを目指したいですね。例えば、介護ロボットは力が必要なお世話をサポートし、人間である介護者は相手の心に寄り添う、会話の相手になるなど、そうしたコラボレーションができれば、より良い世界につながっていくと思います。 春香:ロボットが人間のように心を持つことは可能なのでしょうか? 松原:私が子どもの頃に印象的だった鉄腕アトムのエピソードがあります。自分はロボットだから、人間が景色を見て「美しい」と思う気持ちがわからない、と鉄腕アトムが寂しそうに語る場面です。人間が美しいと思うことはわかっても、美しいと感じ取ることはできない。今のところ、ロボットも心を持てるとすればこの程度です。  1950年代の作品でこんなことを表現していたなんて手塚治虫さんはやはり天才だと思うわけですが。そこで湧いてくるのは「人間の心とは何だろう」という疑問です。「自分には心がある」と皆さん思っています。でもいくら親しい家族でも、他人の心は見えません。自分が思う「美しい」が、相手が言う「美しい」と同じかは永久にわからない。人の心は想像するしかないですよね。AIを突き詰めることは人間を追究することだと思っています。 「AIやロボティクスの楽しさ」を求めて松原教授がさまざまな事にチャレンジ!「ヒトシの部屋」  詳しくはこちら (外部リンク)→ 春香:「人間とは何か」を理解した技術開発が必要なのですね。 森:最近よく思うのは、今の世情が人間に対してAIのような完璧なものを求めている違和感です。そもそも、人は間違ったことをしますが、AIは間違ったプログラムでない限り、365日24時間正確に悪いことをせず働きます。人間は、不確実で失敗もするし、良いことも悪いこともする。でも、それら含めて人間ですよね。それを皆が了承した時点で、AIと人間の違いが明らかになる。今後、AI技術がもっと発展していく中で、人間は不確実な人間に何を求めるのか。それが面白いテーマになるのではないでしょうか。 車は足、電話は耳、そしてAIは脳を拡張させる 伊藤:人間は技術なくして生きられません。例えば、裸では寒い冬は越えられない。つまり繊維織物の技術は、生命維持のために必要です。体を保護するために肌を覆う衣料があるように、車は足の、電話は耳の延長です。そうなるとAIは脳の拡張といえます。今、人間社会は車なしでは生活できないのと同様、AIもそうなる日が訪れるでしょう。人間の一部として溶け込み、私たちは人間を拡張するためにAIを活用していくのではないかと思います。 春香:AIは、実際に人間の脳に似せて作られていると聞きました。 松原:約70年前、コンピューターを“賢く”するためにAI研究は始まりました。賢さの目標を人間とし、膨大な神経細胞が活動している人間の脳のようなネットワークをコンピューターにも搭載したらいいのでは、という素朴な発想から生まれたのがAIです。そこからディープラーニング(深層学習)へ成長しました。 春香:AIの最終目標は人間のようになることですか? 松原:すでに人間の能力を超えるものも出ています。ただ、生物か、そうでないかの違いは大きいです。AIには、人間が持つような欲求や目的がありません。また、人間がおいしいと喜ぶことは知っていても、おいしさを味わうことはできません。そうしたことに人間との違いがあり、AIが進歩するほど、その差が広がってくるのではと思います。 大場:私の場合は、生成AIで仕事量を2倍こなせるようになりました。とはいえ、依存してしまうのは怖いので、本を毎日読むようにしています。それも、AIによる音声読み上げを活用したオーディオブック。おかげで、1日に2、3冊読めるようになりました。聞きながら、電子書籍でテキストを辿ると、難しい内容でもスムーズに理解できます。新しい技術が読書を進化させ、その読書が新しいアイデアの創出につながると私は信じています。 「草木にも魂が宿る」日本流AI研究の強み 春香:次々と生まれる技術は、自発的に使ってみて、思い切り楽しむことが大事ですね。 伊藤:生成AIの登場でクリエイターの立場が弱くなるかもしれないと言われますが、私はそうは思っていません。例えば、コンピューターミュージックのクリエイターには男性が多いのが実情です。  しかし、生成AIのような簡便なツールがたくさん出てくると、老若男女を問わず、より多くの人々が使えるようになり、多様性が出て可能性が広がると思っています。AIに取って代わられるのではという危機感が先行しがちですが、価値を生み、活用していくことをおおらかに楽しめると、新しい未来が待っているのではないかと思います。 森:2024年6月にイタリアで開かれた先進7カ国首脳会議で、ローマ法王がAIをテーマにスピーチを行いました。その中で、AIの軍事利用に懸念を示されました。それを聞いて思ったのは、西洋でのAIは、あくまで人間が使う「道具」として扱われていますが、多神教の考えが根づいている日本では、ロボットは「友だち」であり、「人間のよき仲間」として受け入れられていることです。鉄腕アトムだけでなく、ドラえもんに代表されるようにロボットを主役にした漫画やアニメがたくさんあります。  AIは単なる道具で、ともすれば人間を脅かす存在なのか、そうではなく人間に寄り添う友だちのような存在なのか。今後、そうした議論が出てくるかもしれないと思います。 松原:日本のAI研究者として、森さんのお話に納得しました。確かに、西洋の名作映画の中には、AIやロボットが人間と敵対する物語の作品をよく見かけます。日本を含めた東洋では「草木にも魂が宿る」という考え方があり、これはAI研究者には心強い概念です。だったらロボットにも心があっていいじゃないか、と。  日本のアニメはロボットと仲が良いですが、そこには「人間だけが特別じゃない」という思想があります。AIやロボットを仲間として柔軟に受け入れ、自分の世界を広げるために使おうという姿勢が、今後、日本の研究の強みになると思います。 自由で寛容な社会のために「自分を軸にして考える」 春香:新しい文化を生み出せるクリエイターになるためには、どんな学びが必要なのでしょうか?  大場:私の専門はITですが、好奇心がクリエイションの出発点です。新しい物作りは一人だと時間がかかるし、くじけやすいので、よきアドバイザーを得て、仲間と一緒に歩んでいけるといいと思います。大学教員として、これからの未来を作る若い人たちが活躍できるようにサポートして道標を示していきたいです。 松原:40年間、AIに携わる中で、研究は失敗の連続でした。目標の鉄腕アトムもまだできていません。でも、くじけない、成功するまでやめない。それができることが大学の強みです。みんな好奇心を持っていると思うので、「これは勉強だから、仕事だから」ではなく、自分の興味があることを生かしてほしいです。  AIだけですごい小説が書けるとは思いませんが、クリエイションのハードルが低くなって書きやすくなるのは事実です。若い人が最新技術をうまく使って、新しいアイデアをどんどん出すことで、より良い未来を築いていけると思います。 春香:伊藤さん、森さんは大学の教育に何を期待しますか。 伊藤:生成AIなど、情報技術は非常に進歩が速く、人間を超える機能にまで発展しているものもあります。一方、深刻な犯罪がサイバー上で起きて、その使い方が問われています。この先、映像や写真を含め、デジタルの世界はフェイクだらけになる可能性があります。専門分野だけでなく、宗教、芸術、音楽、自然科学、文学、歴史、哲学など、一般教養も幅広く学んで知識や思考の引き出しを増やし、本物と偽物を見極める目を養ってほしいです。そのためにも、大学には教養教育も充実させてほしいと思います。 森:クリエイションとは生きている人間の五感、経験をカタチにすることです。これは仏教の教えにもある「自分を軸にして考える」ということに通じます。例えば、華道の作品などではない、道端に咲いている花を一輪取って、グラスに飾ったものを美しいと思うのは、自分自身の価値観です。それは、日常の生活における経験、友だちとの飲み会も失恋も、ありとあらゆることを積み重ねて築かれます。  幸い京都の大学は、近くに神社仏閣がたくさんあったり、お花やお茶の家元が集まったりしているので、感性を磨き、知識を深められる場が身近にあります。その利点を使って、人とのつながりを大事に、自由にのびのびと大学という安全な場所で「自分を軸」に色々な経験をしてほしいです。それが、いいアルゴリズムを作る力にもつながると思います。 クロストークの動画はこちら! https://www.tachibana-u.ac.jp/culturesymphony   *  *  * 世界で人気を誇る日本のゲームやアニメ、音楽といったメディアコンテンツ。これらをさらにシンカ(進化・深化)させるには、どんな学びが必要なのか? 新設予定のデジタルメディア学部同学科※長就任予定の吉田俊介教授に聞いた。 ●新学部・学科誕生へ! 詳しくはこちら → 現在は、インターネットに代表されるデジタルな社会基盤を通じて、世界中の人との交流、買い物などが日常的に行われています。この中で、現実(リアル)とデジタルの世界とが融合した、新しい社会の血液にあたるものがデジタルメディアです。 興味関心に合わせて自由に掛け合わせる学び  作り上げたコンテンツをデジタルな社会基盤で販売・流通させる時、重要になるのは、人に「どう伝えるか」をデザインする力=クリエイション。もちろん、工学的な技術=エンジニアリングも伴わなければ、ユニークなアイデアを形にできません。  デジタルメディア学部※では、エンジニア系領域とクリエイション系領域の両方を学べるカリキュラムを準備しています。1回生は、全員が情報技術とデザインの基礎を学習。その後は、卒業後の進路を見据えてAI、CG、VRなどの専門技術を習得し、クリエイションも磨きます。リアル向け、VR向け、あるいは両方が融合したものなど、リアルとデジタルの世界を行き来しながらモノづくりができる、自由で挑戦的な学びの環境をつくりたいと思います。 数学で挑む「ボス戦」をゲーム感覚で楽しもう  発展し続ける情報技術(IT)は、今後より日常的で不可欠になり、それを駆使した創造的な活動は、未来をもっと豊かに楽しくできるはずです。それには、確かな基盤技術を習得し、それを軸にさまざまな応用技術を理解できる力が求められます。  コンテンツ制作の裏側には数学の要素も登場しますが、今、苦手意識がある人も心配無用です。高校生の時は、まだ数学という「武器」で素振りをしている「レベル上げ」段階。「ボス戦」といえる大学の学びの場では、三角関数でCGを自由自在に動かす「奥義」などが次々と目に見える形で展開します。「武器」の真価を実感する学びは、大いに楽しめるはずです。 AI・ITは新しい創造の選択肢 AI・ITと共に発展するこれからの社会は、新しい希望と夢に溢れた未来です。デジタル技術で自分が何をしたいのか、社会をどのように描いていくのか、皆さんの楽しむ力を思い切り発揮してください。 ※すべて仮称。2026年4月開設予定(設置構想中)。計画内容は予定であり、変更することがあります。 *  *  * ●新学部・学科誕生へ! 詳しくはこちら → ●新しい共通教育がスタート! 詳しくはこちら → ●「ACADEMICTERRACE(仮称)*」誕生!!  詳しくはこちら → ●「ヒトシの部屋」 詳しくはこちら → ※1 すべて仮称。2026年4月開設予定(設置構想中)。計画内容は予定であり、変更することがあります。  ※2 近畿圏大学 医療系(保健・看護系統)学部の入学定員数 (出典:旺文社「2023年度用 大学の真の実力情報公開BOOK」)
タワマン高層階に住む“世帯年収3千万円”の30代夫婦の悲哀 「貯蓄ができない」順風満帆なはずなのに…
タワマン高層階に住む“世帯年収3千万円”の30代夫婦の悲哀 「貯蓄ができない」順風満帆なはずなのに… 年収が高くてもお金の使い方には注意が必要だ(写真映像部 和仁貢介)   「長く住み続ける場所だから、マイホームだけは金銭的にも妥協せずに本当に欲しいものを買おうと妻とも話し合っていました。そして、マイホーム以外にはお金をかけるつもりはまったくなかったのですが……」  ため息交じりにこう語るのは、都内のIT企業で役職に就く河島俊介さん(仮名・36歳)だ。某外資系企業に勤める妻の恵梨香さん(仮名・34歳)の給与と合わせると年収が約3千万円に達しており、いわゆる典型的なパワーカップルだ。  さすがに都心の超高額物件には手が届かないが、環状7号線の外側で環状8号線の内側にあるエリアで約1億5千万円の新築マンションを見つけ出し、モデルルームを見学した二人はほぼ即決で契約を結んだ。二人がともに憧れていたタワーマンション(タワマン)の高層階にある物件である。 欲しくもない外車を購入 ふだんの買い物も高級スーパー  ほぼ全額の貯蓄を取り崩して2千万円の頭金を投じ、残りの資金は夫婦それぞれが融資を受ける形式のペアローンで調達した。月々の返済額は合計約36万円に達するが、二人の収入とそれまでの月々の出費を踏まえれば、家計が赤字に陥るリスクは極めて低いと考えられた。  ところが、新居に引っ越してみると、待ち受けていたのは想定外の家計悪化だった。以前よりもはるかに出費が増え、ローンの返済に窮するまでには至っていないものの、貯蓄に回すお金がまったく残らないのだ。  もっぱら至近距離にある高級スーパーを利用することになったことで食費をはじめとする生活費の負担が驚くほど増加しただけでなく、引っ越し前はほとんど発生していなかった交際費(ご近所付き合いのランチ代やお茶代)も軽視できない出費となった。  より深刻なのは、本人たちが望んで贅沢な暮らしを始めたわけではないことだ。 「親しくなった同じマンションの居住者たちと日帰りでドライブ旅行に出かけたのですが、国産車に乗っていたのは私たち夫婦だけで、他の方々はいずれも高級外車。肩身が狭い思いをしたので、我が家も外車に買い替えました」(俊介さん)  妻の恵梨香さんも次のように述べる。 「高級スーパーにしても、好き好んで利用しているわけではありません。私が庶民的な店で買い物をしている姿を目撃されたら、『河島さんのお宅、どうしちゃったのかしら?』と陰口を叩かれかねない雰囲気なんです。私自身、マンションの奥様方がその場に居合わせていない人に関するよからぬ噂話を耳にしたことがありますから」  さらに、恵梨香さんはうんざりとした表情で嘆く。 教育関連費も少なくない負担だ(写真映像部 和仁貢介)   「それに、ウチのマンションでは子どもを有名私立に通わせているケースも多く、そういった家庭の奥様方は私に対して口々にプレッシャーをかけてきます。『河島さんのお宅も、そろそろお子さんが欲しくはないの? 生まれたら、どこの学校に通わせるつもり?』って。悪気はないのでしょうが、少なくとも小学校までは公立で十分だと思っている私の本心なんて、とても口に出せる状況ではありません」 安直に高額ローンを組むと後悔しかねない  河島さん夫婦の苦悩ぶりについて伝えると、家計の見直し相談センター代表でファイナンシャルプランナーの藤川太さんはこう指摘する。 「住む場所によって生活が大きく変わりうるということは、住み替えを決める前からあらかじめ認識しておいたほうがいいでしょう。それまでとは異なるコミュニティーの中で暮らすことになれば、おのずと自分たちの生活スタイルにも影響が生じるものです。いったん贅沢な暮らしを始めてしまうと、家計が多少苦しい程度で生活水準を落とすことは容易ではありません」  河島さん夫婦の場合、ローンの返済自体には困っておらず、「なかなか貯蓄ができない」といった程度の危機感にとどまっているだけに、従来の生活スタイルに戻すのは難しそうだ。そもそも、安直に高額な住宅ローンを組んでしまうこと自体も考えものだと藤川さんは説く。 「二人の収入が現状のまま続いていくことを前提にした金額の融資を受けているわけですから、出産・育児のようなイベントが発生すると、家計が大きく圧迫されかねません。実際に私がお客様から相談を受けた際にも、高収入が続く前提でローンを組むのはやめたほうがいいと忠告したことが多々あります」  先述したように、恵梨香さんは先々に子どもが生まれた場合、その子の進路が「小中高私立」の一択になりそうなことについて危惧していた。だが、河島さん夫婦に対しては酷な言及になってしまうが、実は高額な住宅ローンを組んでしまった以上、子どもを生むことにも慎重にならざるをえないのが現実である。 お金の使い方を身の丈に合わせることが重要だ(写真映像部 和仁貢介)    勤務先によって異なるが、概して産休・育休中の収入はそれまでの3分の2程度に減ってしまう。一方で妻の社会保険料負担が免除され、出産育児一時金や出産手当金、育児休業給付金が支給されるものの、それでも出産前と比べれば手取りは2割程度も少なくなる。しかも、たとえ育休を終えて職場に復帰しても、子どもが幼いうちは時短勤務を余儀なくされるケースが少なくない。 タワマン低層階に引っ越し、余剰資金を投資へ  下手をすれば、タワマン高層階というコミュニティーの暮らしぶりに自分たちを合わせたままでいる限り、産休・育休中にローンの返済も苦しくなる恐れもあるのだ。では、こうした状況を打開するにはどうすればいいのか? 「昔の親がよく口にしていたように、『他所は他所、ウチはウチ』と割り切って、自分たちの家計の状況に合った暮らしぶりに戻すしか術はありません。それができないなら、環境(住む場所)を変えざるをえないでしょう」(藤川さん)  幸い、タワマンは中古住宅市場でも人気が過熱しており、特に高層階なら手放す決断をしても有利に売却できる可能性が高い。ただ、次もタワマンを希望するなら、低層階を選ぶのが無難だと藤川さんは忠告する。 「低層階のほうが地震などの自然災害が発生した際の避難に苦労するリスクも低いと言えますし、販売価格も高層階と比べて安くなるので、そちらのコミュニティーのほうが無理をせず付き合えるのではないでしょうか? 私が相談を受けたお客様の一人も、家業の承継を機に高級住宅地から郊外に引っ越し、移住して本当によかったとおっしゃっていました。以前は近所の手前もあって外車に乗り、特に好きでもないブランド品を身にまとっていたそうです。逆に郊外ではそのように派手な暮らしぶりをしていると後ろ指をさされかねず、妙な見栄を張らずに気楽に過ごせると笑っていました」  プライバシーの問題もあり、今回は河島さん夫婦が近所付き合いをしている方々のバックグラウンド(職業や年収・資産の状況)までは調査を行っていない。したがって、あくまで推測にすぎないのだが、もしも彼らが河島さん夫婦のような悩みとは無縁で当たり前のように優雅な暮らしを送っていたとしたら、それは本当の富裕層だからだろう。  厚生労働省の「2023年国民生活基礎調査の概況」によると、世帯年収が1千万円を超えているのは11%、1500万円以上は3%ほどだ。一方、野村総合研究所が今年2月に公表した調査によると、23年時点で純金融資産(金融資産の合計から負債を引いた額)を1億円以上保有する「富裕層」と、5億円以上保有する「超富裕層」は計165万世帯いる。  世帯年収が1500万円を超えて一般世帯よりかなり高くても、豊富な資産を持っているかどうかは別の話だ。ここでは世帯年収は高いが、資産は多くたまっていない世帯を「プチ富裕層」と呼ぶ。  あくまで河島さん夫婦は、「プチ富裕層」の域を脱していない。推測通りに河島さん夫婦が仲間入りしてしまったコミュニティーが富裕層によって構成されているなら、今の場所で暮らすのは時期尚早だったと言えそうだ。 富裕層向けに資産運用コンサルティングサービスを提供しているウェルス・パートナー代表取締役の世古口俊介さんは喝破する。 「結局、プチ富裕層にとどまっている人たちはフローリッチ(高収入)ではあるものの、キャッシュリッチ(資産家)ではないということです。資産を築きたいなら、清貧な生活を心掛けて手元にお金が残るようにしたうえで、①ノーリスクの預貯金にこつこつと蓄えていくか、②リスクを取ってNISAを通じて株に投資するかの二者択一ですね」  また、前出の藤川さんもこう語る。 「際立って高収入ではなくとも、40代にして億の財を築き上げている人は実在します。マイホームも購入し、子どもの教育費にもきちんとお金をかけたうえで、蓄財に成功しているのです。そういった人たちに概ね共通しているのは、普段は質素な生活を心掛けながらもリスクを取って資産を運用し、その成果として億超えを達成していることです」  肝心なのは、収入の多い少ないにかかわらず、つねに家計の収支をプラスにしたうえで、残った資金を着実に運用に回し、せっせと資産を増やしてくことだ。
原田龍二  「友達いなくても寂しいと思わない」 人生観揺さぶられた「ベネズエラのジャングルの出来事」とは
原田龍二  「友達いなくても寂しいと思わない」 人生観揺さぶられた「ベネズエラのジャングルの出来事」とは 撮影/岡田晃奈    俳優の原田龍二さん(54)はドラマ、映画、舞台、バラエティー番組、YouTubeと幅広いジャンルで活躍している。物腰が柔らかく、周囲に愛される生き方の原点は何だろうか。インタビュー【後編】では、共演して衝撃を受けた俳優、人生観が変わった海外での出来事、SNSとの向き合い方などについて語ってくれた。 〈前編〉不倫騒動から6年…原田龍二が明かす“家族の中で生じた不和” 「今は妻と同じ歩調で一緒に歩いている感じがします」 から ――「水戸黄門」や「相棒」など名作のドラマに出演されている原田さんですが、特に印象に残っている俳優はいますか。  たくさんいらっしゃいますよ。初めて出演した映画「河童」でご一緒させていただいた藤竜也さんは独特のオーラがあり、見ているだけで「この人はどういう人生を歩んできたんだろう」と惹かれました。里見浩太朗さんは時代劇、水谷豊さんは現代劇の主役を長年やられていたので、重圧を乗り越えた方だけが持つ圧倒的な存在感がありました。お2人にいろいろな思い出話を聞かせてもらいましたし、遠い雲の上の方なんですけど、自分のような若輩者と同じ立ち位置に降りてくださる。偉ぶらず親しみやすくて、懐が深い。人間的に尊敬しています。 待ち伏せしました(笑) ――同世代で衝撃を受けた俳優の中ではいかがですか。  山本太郎ですね。私が21歳の時に「キライじゃないぜ」というドラマに初出演したんですが、その時に出会って衝撃を受けました。年齢は彼が4つ下なんですけど、当時はまだ17年しか生きていないのに堂々としていて自我が確立されている。話せば話すほど面白くて、ドラマでは敵対する役でしたが現場でずっと一緒にいました。その十数年後に時代劇で共演したんですけど、その時も芯の強さが変わっていない。最後に会ったのは2年前ですね。渋谷で妻と買い物をしている時に、れいわ新選組の街頭演説があると聞いて、待ち伏せしました(笑)。彼の性格を考えると、政治家はいきつくべくしてたどりついた場所なんじゃないかなと思います。   昨年11月に舞台『水戸黄門』に助さん役として出演(ブログから)   ――旅番組にも出演されていますが、思い出深い出来事はありますか。  「世界ウルルン滞在記」(TBS系紀行番組)でモンゴルやアジアの奥地、アフリカなどいろいろな場所に行ってきましたが、中京テレビの特番で行かせていただいたベネズエラのジャングルでのヤノマミ族との出会いは、僕が会いたかった思いを叶えられたので強く印象に残っています。褌(ふんどし)一つを身に着けて、弓矢で獲物を取って生活している。物を買うことがないから、遊びも自分たちで道具を作って楽しむ。面白い出来事があったらみんなで笑って、つらい出来事は共有することで悲しみを分散させる。シンプルなんですけど、人生観が揺さぶられました。「この人たち、幸せだな」って。彼らと一緒にいるだけで縛られるものがなくなり、自由になる感覚がありました。日本にいると周りの目があるから規律が保たれているんですけど、帰国してしばらくすると体が重くなるんですよね。どちらの環境が本当に自由なのか、幸せなのか。比べるものではないですが、いろいろ考えさせられました。 僕は昔から自信がない ――確かに日本の生活が便利に感じますが、それも勝手な思い込みかもしれません。SNSの普及でいつでも誰とでもつながれますが、いじめや精神的に疲弊している人が多いように感じます。  SNSで救われた方もいると思います。私もSNSをやっているので全否定はしませんが、幸せにならないなら手放したほうがいいと思います。例えば、加工した写真や普段食べないものを発信して何が楽しいのかなって。友達がやっているからやめられないかもしれないですけど、傷つくならやる必要はまったくない。承認欲求を得て自信を得たいのかもしれないですけど、自信がなくていいんですよ。僕は昔から自信がないし、友達もいないですから。 撮影/岡田晃奈   ――自信もないし、友達もいない……意外に感じますね。  自信ないですよ。臆病ですからいつも緊張しています。今もそうです。でも、虚勢を張る必要はないと思っていて。準備を大事にして仕事に臨みますけど、ありのままを出すしかないですから。友達も全然いないです。10代のころから集団行動が苦手で、1人行動が基本でした。飲み会には全然行きません。先輩や知り合いに誘われても行かないから、誰にも誘われなくなって(笑)。家族や仕事先のスタッフ以外にプライベートで外食に誰かと出掛けるのは、1年間で数えるほどです。でも寂しいとまったく思わない。1人行動、楽しいですよ。 ――俳優の方たちとプライベートでも交流があると思っていました。  現場で話しますし、興味があることを質問する時はありますけど、一緒にお酒を飲みに出掛ける機会は全然ないですね。ドラマや映画の打ち上げの食事会もあまり好きじゃないんです。その場では盛り上がるけど、最後の宴みたいな感覚で寂しくなる。でも、皆さんもそうだと思うんですよ。職場の人と仕事の場では力を合わせるけど、プライベートも一緒にいたいかと言ったら、1人でいるほうが気楽な人もいると思います。僕は友達がいないことをマイナスと捉えていません。人間関係のしがらみがないし楽ですから。でも、娘がこの性格を受け継いじゃって(笑)。1人行動が多いんですよ。 心がつながった感覚 ――「友達が必要」という考えが無意識に刷り込まれているのかもしれませんね。  そうですね、もちろん1人で生きていくことはできないし、家族や支えてもらう方たちを大切にしないといけません。ただ、自分に無理して友達付き合いするのが幸せかというとそうじゃないなと。自然に無理をせず生きることで、大切なことに気づくような気がします。先程お話ししたヤノマミ族は言葉が通じなかったけど、一緒に生活して「村に残ってほしい」と言われた時に本当にうれしかったし、心がつながった感覚がありました。あの時に出会った村の首長や子供たちのことを思い出す時があるし、また会いたい。一度しか会っていないし、遠く離れているけど、旅先で出会った人たちはかけがえのない存在ですね。 はらだ・りゅうじ/1970年10月26日生まれ。東京都出身。1990年に渋谷で芸能事務所からスカウトされ、同年の「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」で準グランプリを受賞。92年 に ドラマ「キライじゃないぜ」(TBS系)で芸能界デビューする。94年に 「河童」で映画初出演。02年 に NHKの大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」に石田三成の役で大河ドラマ初出演を果たした。その後も「水戸黄門」(TBS系)、「相棒」(テレビ朝日系)など人気ドラマ、映画に出演。俳優以外にも旅番組、バラエティー、情報番組に出演するなど多角的に活動し、視聴者参加型カラオケ番組「カラオケ大賞」(チバテレビ)のMCを務めている。また、自身のYouTubeチャンネル「原田龍二の『ニンゲンTV』」で日本各地の心霊スポットを精力的に巡っている。 (聞き手・平尾類)
早稲田大卒・ハナコ岡部大に聞く子ども時代「親から勉強しなさいと言われたことはない。反抗期もなかったんです」
早稲田大卒・ハナコ岡部大に聞く子ども時代「親から勉強しなさいと言われたことはない。反抗期もなかったんです」 岡部大さん 『キングオブコント2018』王者であり、『新しいカギ』(フジテレビ系)などバラエティ番組でも大活躍のお笑いトリオ・ハナコの岡部大さん。小学生のころからバスケに熱中する一方、秋田県随一の進学校を経て早稲田大学に進学し、文武両道を実現しています。どんな子ども時代を過ごしてきたのか、お話をうかがいました。※後編<ハナコ岡部大、秋田高校300番台から早稲田大へ 高3の夏に始めた「現役合格」のための“猛追作戦”とは?>へ続く 小4から高校生までバスケ漬けの日々 ――岡部さんは秋田県ご出身ですが、小学生くらいのときはどんなお子さんでしたか?  田んぼのど真ん中にあるような小学校で、学校が終わると近くの小川に行ってみんなでおたまじゃくしを探すとか、自然の中でめっちゃ遊んでいました。あとは木の棒ばっかり集めていましたね。手に持ったときに振り回しやすいようなやつがお気に入りで、見つけると家に持ち帰って、傘立てに入れていました。 ――傘立てに? 親御さんに処分されなかったですか。  そうですね。でも小3くらいになって親に「そろそろ木の棒やめないか?」って言われて(笑)。戦隊モノも好きで、オリジナルの剣とかを考えて、自由帳によく書いていましたね。あとは生き物、特に陸の動物が好きで図鑑をよく見ていました。 ――バスケを始めたのはいつ頃ですか?  小4のときにスポーツ少年団のミニバスチームに入りました。隣の家のお兄ちゃんがバスケ部で、家の前でバスケットボールで遊んでいるのを見ていて、いいなと思っていたんです。僕らの代は人数が多かったからどんどん強くなって、小学校最後の年には市や地区大会で優勝できて、結果もついてきたから、ずっと楽しくやれていました。 食事のマナーだけは厳しかった両親 ――小学生のころ、勉強面はどうでしたか?  塾には行っていなかったんですが、何となくクラスの中ではできるほうで。2学年上に姉がいて、小さいころから姉が勉強しているのを横でのぞいたりしていたからですかね。  両親から「勉強しなさい」とは一回も言われたことはないです。宿題は基本やらないタイプだったので、やっていないことがバレたときには「やりなさいよ」とは言われましたけど(笑)。でも、ごはんの食べ方はやたらと厳しかったですね。残さずきれいに食べること、箸の使い方、魚のきれいな食べ方とか、食事のマナーについてはうるさく言われました。そのほかは、怒られたことはほとんどないんです。高校生のときにEXILEのATSUSHIさんみたいに坊主頭にラインを入れたら、父に「まだ早い」って怒られたくらい(笑) 幼少期の岡部大さん。元気いっぱい!(提供) ――怒られないのは、岡部さんがいい子だったのか、ご両親がやさしいのか……。  僕は反抗期もなかったんです。姉が思春期に入って親とバチバチにケンカして、典型的な反抗期をやっているのを見て「僕は反抗期、やらなくていいかな」って。母とは特に仲良しで、小6まで同じ布団で寝ていました。「そろそろ1人で寝なさい」って言われても、枕を持って母の布団に入っていましたね。中学生になっても一緒に買いものに行っていましたし、距離をおくことはなかったです。 ――お母さんっ子だったんですね。どんなお母さんですか?  友だちが家にくると「大ちゃんのお母さんっておもしろいよね」ってよく言われていました。基本は真面目なんですが、明るくて、ふざけるときはふざけるみたいな。お笑いが大好きで、『爆笑オンエアバトル』(※)を寝る前に布団の中で一緒に見ていた記憶があります。 ※NHKで1999年から2009年まで放送。若手お笑いタレントたちが審査員の前で芸を披露する番組。 中3の夏からの勉強で県内随一の進学校へ ――中学もバスケ部に入部、小学生時代よりも練習や指導は厳しかったのではないですか?  週に6日練習があって、さらにバスケ漬けの毎日になりましたけど、楽しいというのは変わらなかったですね。わりと体育会系の厳しさは大丈夫なタイプで。2年生になったら試合にも出られるようになって、よりのめり込んでいきました。 ――頑張ることは苦ではないという感じですか?  そうですね。わりと我慢することが得意なんです。長距離走も得意だったんですけど、長距離って我慢が必要ですよね。テレビに出られるようになったころに大食い企画によく呼んでいただきましたが、たくさん食べられる体質なわけではなくて、我慢できるから食べられるだけなんです。だからちゃんと太ります(笑)。 ――高校は県立トップの秋田高校に進学されています。受験勉強はいつごろから?  部活を引退した中学3年生の7月の終わりくらいです。周りの子たちが一気に塾に通いだしたので、僕もそこから通い始めました。母が知り合いから聞いてきた塾で、個人経営のスパルタな塾でしたね。宿題の量が多くて、間違えるとちゃんと怒られるみたいな。部活でそういった厳しさへの耐性はついていましたし、耐えるのが得意な僕には合っていたかもしれないですね。 幼少期の岡部大さん(提供) ――高校に合格したときの心境は?  親や祖母たちが喜んでくれたのが、何より嬉しかったです。地元の人たちにとって秋田高校に入るというのは、大きなこと。僕自身は初めての受験で、すごく達成感がありました。 高校最後の試合で能代工に大敗 ――入学してからの高校生活はどうでしたか?  めちゃくちゃ頭がいい人ばっかりで。成績がすぐに320人くらい中300番台になってしまいました。でもバスケ部に入って、勉強していなかったので、「まぁ、仕方ないよな」って。勉強している子はすごくしているから差がつくのは当たり前だと思っていたので、成績が悪くても心が折れるということもなかったです。試合にすぐに使ってもらえたので「今はバスケをやりたい」という思いが強く、テストで赤点を取らなければいいや、くらいに思っていました。 ――バスケ部ではキャプテンだったそうですね。目標は?  能代工業高校(現在は能代科学技術高等学校)に勝つことです。全国大会で何度も優勝していて、当時本当に強くて。高3の県大会の準決勝でぶつかって「このためにやってきたんだ」という思いで頑張ったんですけど、180対50で負けました。 ――どんな気持ちでしたか?  試合中何が起こっているのかわからなくなるくらい、レベルが違いました。でかいし、速いし、シュート入るし。そのまま能代工は全国大会で優勝して、めちゃくちゃ強い代だったんです。試合後、あまりの大差にほかの部員たちは誰も泣いていなかったんですけど、僕だけは2時間くらい泣き続けました。高校最後の試合で、チームメイトが1人ずつ順番に挨拶に来てくれたんですけど、全員済んでもまだ泣いているから、挨拶2周目が始まったくらい(笑)。僕はやっぱり悔しかったんです。 小学生時代の岡部大さん(提供) (構成/中寺暁子) 〇ハナコ 岡部大(おかべ・だい)/1989年生まれ、秋田県出身。ワタナベエンターテインメント所属。秋山寛貴、菊田竜大とともに2014年にお笑いトリオ・ハナコを結成。2018年に「キングオブコント2018」優勝。NTV『有吉の壁』『THE突破ファイル』、CX『新しいカギ』『なりゆき街道旅』などにレギュラー出演中。俳優としても活躍し、NHK連続テレビ小説『エール』、TBS系『私の家政婦ナギサさん』、NHK大河『どうする家康』、フジテレビ系『ブルーモーメント』などの出演作がある。
里親になって苦しんだ母の姿が原点に 里親支援の仕組みを作ったNPO法人キーアセット代表・渡邊守
里親になって苦しんだ母の姿が原点に 里親支援の仕組みを作ったNPO法人キーアセット代表・渡邊守 講演を前に。冷え込む朝だったが「北海道生まれなので寒さには強いんです」と笑った(写真:上田泰世)    NPO法人キーアセット代表、渡邊守。親元で暮らせない子どもを里親とつなぎ、里親の研修や支援活動をしているキーアセット。渡邊守が代表をつとめる。渡邊の母は里親として命を削るように子どもを育てた。渡邊自身もまた、里親になった。実感したのは、里親の孤独だった。孤立する里親を支援し、もっと里親を増やしたいと、持てる力を尽くす。 *  *  *  この国には現在、親元で暮らせない子どもが約4万2千人いる。広く知られるようになった虐待だけでなく、親の病気や家出、離婚など理由は様々だ。日本ではこの子どもたちの8割が乳児院や児童養護施設などの施設で暮らすが、一部は一般の家庭に迎え入れられて養育されている。里親養育と呼ばれる形だ。子どもたちがより家庭に近い環境で暮らせることが必要だとして、国は現在、里親委託を進めている。  渡邊守(わたなべまもる・53)が母親から「里親になろうと思うんだけど、どう思う?」と聞かれたのは大学に入学する直前だった。「我が子でもこんなんなのに」と強く反対した。母みよは愛情深い人ではあったが、「感覚として『この人は里親をやったらあかん』と感じた」。しかしみよは息子の反対を押し切って里親になり、渡邊はのちに苦しむ母の姿を目にすることになる。自身も里親の世界に深く関わるきっかけになった出来事だった。  渡邊が代表を務める「特定非営利活動法人キーアセット」(東大阪市)が行っているのは里親のリクルートや研修、そして実際に里親として登録した人を支援する活動だ。事務所は大阪や東京、福岡など全国6カ所にあり、2024年度は複数自治体から事業を受託したほか、一部事業には日本財団から助成金を受けた。講師として招かれることも多い。昨年12月、名古屋市で開かれた里親支援に関わる人材育成講座に登壇した渡邊は受講生たちに語りかけた。 「星の数ほどある生き方のひとつとして、里親という生き方を選んでもらう仕掛けを作らないといけない」 フォーラムに登壇した際、冒頭で「健やかな育ちの経験を得られなかった子ども」へのお詫びと「孤立しながらも養育を担ってこられた里親とその実子」への感謝の言葉を述べてから話を始めた(写真:上田泰世)   病でも「この子を離さない」 身を削り里親続けた母  1971年、北海道で生まれた。父親は牧師で、教団から派遣されて各地を転々とする生活だった。2歳で静岡に引っ越し、その後は千葉、沖縄へ。母もクリスチャンで、両親はDV被害を受けた女性を教会でシェルターのように受け入れていたこともあった。  千葉にいた時にひどいいじめを受け、どうしたら周囲に受け入れられるかを常に考えるようになった。姉2人の観察を通して叱られない行動も身につけた。「すごくひねくれた子どもで、『大人なんて朝飯前や』と思っていた」。心の中にはどろどろしたものを抱えているのに、外から見たら「良い子」。そんな息子を母は溺愛した。だからこそ、母が里親になることには反対だった。母のもとでは「良い子」を強いられるのではないかと感じたからだ。 一緒に留学した妻は「最初は私のほうが上のクラスにいたのに、どんどん伸びて抜かされた。必死さが違ったし、勉強量がすごかった」。家庭でも社会課題についてよく話し合う(写真:上田泰世)    渡邊は実家を離れて日本福祉大(愛知)へ進学。福祉に関心があったわけではなく、学力に合うところを選んだだけだったものの、授業を受ける中で「いつか海外でソーシャルワークを学びたい」という気持ちが芽生えた。しかし大学から始めたアメリカンフットボールに熱中し、「今しかできないことをしよう」とアメフトの実業団を持つ電気設備メーカーに就職。5年ほどすると福祉関係の物品を売る営業職に転職した。その間に大学の後輩だった妻(51)と結婚。介護職に就いた妻には「いつかアルツハイマー専門のケアを学びに留学したい」という夢があった。妻に引っ張られるようにして2002年、会社を辞めて2人でオーストラリアへ渡った。  当時31歳。大学院進学を目標にしたものの、英語力は「This is a penのレベル」。語学学校では6段階のうち一番下のクラスになり、買い物や物件の交渉は中級クラスに入った妻がしてくれた。どうしたら大学院というゴールにたどりつけるのかがまったく分からず、後悔や不安に苛まれて時々日本の転職サイトをのぞいた。  そんなある日、学校に残って勉強していると教師から留学の目的を尋ねられた。このレベルで大学院に行きたいなんて恥ずかしくて口にできない。なんとか「大学に行けたらいいなと思っている」と伝えた。日本の感覚では「無理だ」と言われると思っていた。でもその教師は真剣な顔で「このクラスから大学に行った子はいないけど、幸運を」と言ってくれた。背中を押され、渡豪から10カ月後にモナッシュ大学大学院へ進学した。専攻は児童福祉。文献を読みあさったところ、「日本の高齢者福祉や障害者福祉の水準はそんなに低くない。圧倒的に遅れているのが児童福祉だ」と感じたからだ。1年半後に修士号を取得。最先端の知見を得て「薔薇(ばら)色の人生」を期待して帰国した。だが、なかなか仕事が見つからない。妻がフルタイムの仕事に就いたのを横目に、児童福祉関連機関の嘱託職員やNPOでのアルバイトを掛け持ちする日々だった。  この頃、仕事以上に頭を悩ませたのが母のことだった。3歳の頃から養育していたユウタ(仮名)が荒れ始め、高校生の頃には「1分1秒でも早く、この家から出ていきたい」と言うようになったのだ。母は病気が発覚したにもかかわらず「私の命に代えてでもこの子を育てる」と譲らなかった。  渡邊はみよの様子を見て「養育にエネルギーを注ぐことは難しいだろう」と感じた。「なべちゃん(渡邊)が里親になったらいいやん」という妻の助言を受け、児童相談所にも相談して、渡邊が里親となってユウタを引き取ることにした。  「母は『この子を離さない』と言っていたから、私は人さらい扱い。顔も見ず、口もきいてくれなかった」 全乳協前会長の長井晶子(右)らと年に2度ほど集まって飲む。この日は東京・新橋の居酒屋で。長井は「彼は危なっかしいからまわりが支えるんじゃないですかね」と笑う(写真:上田泰世)    渡邊家に来たユウタは落ち着きを取り戻して大学へ進学。3カ月後、みよは入院先で亡くなった。身を削るようにして里親を続けた母を見送り、渡邊は思った。「命をかけてでも養育しろ、なんて誰も思っていない。誰かが悪いのではなく、何かが欠けているから起きた悲劇」だと。 里親として未熟さを痛感 相談する人がいない孤独  里親として登録していたため、ユウタを送り出すと別の子どもの委託依頼があった。それが高校1年生だったミカ(仮名)だ。現在33歳になったミカは穏やかな印象だが、当時は「何を言われてもうっとうしくて、キーッとなっていた」と笑う。虐待する親から別の里親宅に引き取られたものの、年配だった夫妻は反抗的なミカを持て余し、彼女の目の前で「こんな子は無理」と児童相談所に電話をかけたという。そのような経緯もあり、ミカは「なんやねん、と大荒れで行った。何に対してもツノが立っているというか……。顔つきも相当悪かったと思います」。渡邊夫妻は当時30代後半。優しそうな人たちだとは思ったものの「若いし、大丈夫なのかな」と感じたという。 「小さなことを忠実にできない者に誰も大きなことを任せない」「他人がやりたがらないことを笑顔でやりなさい」という母の教えがいまも胸にある(写真:上田泰世)    渡邊はミカに「うちにはルールは一個しかない」と伝えた。「生きている以上、人は傷つけあってしまうけど、自分も他人もわざと傷つけるのはやめよう」と。だがミカは感情を言葉にして伝えるのが苦手。イライラを吐き出せないから「人に当たるよりも自分に当たっていた」。自傷行為が見つかると話し合いの場が設けられた。カーペットの上に座り、向かい合う。黙っていると「いつまでも待つから」と声をかけられた。ミカは振り返る。 「脳内で時計がチッチッて鳴るんですよ。いつ終わるんやろって」  仕方なく、ぽつりぽつりと話すとようやく自室に戻れた。 「うざかったし、面倒くさかった。でも、それだけ待てるのはすごいな、と思っていました」  19歳で家を出たが、今も毎年、正月は渡邊家で過ごす。「なべちゃんはすごく信頼できる人。今となっては『ありがたい』の一択です」と話すが、一方の渡邊は反省ばかりだという。 「話してくれるまで一晩中でも待つよ、という方法しか当時は思いつかなかった。でも『いつまでも待つ』というなら明日でも1年後でもいいよ、と言えばよかった。本当に申し訳ないことをした」  里親としての未熟さを痛感し、相談できる人がいない孤独さを感じた。そして思った。母も孤立していたのではないか。 (文中敬称略)(文・山本奈朱香) ※記事の続きはAERA 2025年3月31日号でご覧いただけます  
中日、ヤクルトは新人に期待! 開幕一軍ならずも…今季チームの“カギ”になり得る選手たち
中日、ヤクルトは新人に期待! 開幕一軍ならずも…今季チームの“カギ”になり得る選手たち ヤクルト・中村優斗※画像は2024年3月に侍ジャパン選出時のもの  いよいよ開幕となった今年のプロ野球。各チーム、開幕に一軍登録される選手は固まったが、中には主力として期待されながら出遅れている選手がいることも確かだ。今回はそんな開幕メンバーからは外れたものの、今シーズンのキーマンとなりそうな選手を探ってみたいと思う。  セ・リーグでまず名前を挙げたいのが中日のドラフト1位ルーキー、金丸夢斗だ。関西大ではリーグ戦で18連勝、72イニング連続自責点0、通算20勝3敗など圧倒的な成績を残しており、昨年のドラフトでも4球団が1位で競合している。ただ昨年春のリーグ戦で痛めた腰の影響を考慮してキャンプからスロー調整が続き、現時点でもまだ実戦登板を果たしていない(28日の二軍戦でプロ初登板の予定も雨で中止に)。  それでもブルペンでの投球を見た評論家や球界OBもその実力を高く評価しており、首脳陣としても無理はさせずに万全の状態で実戦デビューを迎えるという方針を貫いている。チームとしては先発の柱だった小笠原慎之介(ナショナルズ)の抜けた穴を埋めることが大きな課題となるだけに、金丸にかかる期待ももちろん大きい。仮に一軍デビューが5月、6月にずれ込んだとしても、本来の力を発揮できれば十分に新人王争いに加わる可能性は高いだろう。  セ・リーグのルーキーでもう1人挙げたいのが中村優斗(ヤクルト1位)だ。愛知工業大時代は金丸ほどの成績を残すことはできなかったが、それでも4年時には最速160キロをマークし、コンスタントに150キロ台中盤をマークするスピードはプロでも上位に入る。即戦力としての期待は大きかったものの、合同自主トレ中に上半身の違和感を訴えて別メニュー調整が続いている状況だ。  チームは先発もリリーフも投手陣は手薄な状況であり、昨季5位からの巻き返しを図るには若い選手の底上げが必要不可欠である。金丸と同様に無理は禁物だが、持ち味のスピードボールでプロの打者を圧倒するようなピッチングを見せてくれることを期待したい。  セ・リーグではルーキーの2人を挙げたが、実績のある選手でも故障やチーム事情で開幕一軍から外れた選手も存在している。パ・リーグ連覇を狙うソフトバンクでキーマンとなりそうなのが嶺井博希だ。昨年まで不動の正捕手だった甲斐拓也がフリーエージェント(FA)で巨人に移籍しており、キャッチャーは大きな課題となっている。  現時点では昨年甲斐に次いで出場試合数が多かった海野隆司が一番手と見られており、他の捕手では渡辺陸、谷川原健太の2人が開幕一軍メンバーに名を連ねているが、経験という部分では心もとないのが現状である。嶺井はソフトバンク移籍後は出場試合数こそ少ないものの、DeNA時代からリード面には定評があり、一軍での実績はトップであることは間違いない。近年は配球などはデータ面に頼るところが多いが、それでもその場での捕手の判断や洞察力がモノを言うことはまだまだ多いだけに、シーズン中に嶺井の力が必要な場面が出てくる可能性は高いだろう。  パ・リーグで最下位からの巻き返しを狙う西武では昨年の新人王である武内夏暉の名前が挙がる。ルーキーイヤーはデビューから5連勝を飾るなど、低迷するチームにあって数少ない希望の星となり、21試合に登板して10勝をマーク。防御率2.17はモイネロ(ソフトバンク)に次ぐパ・リーグ2位の数字であり、その安定感は新人離れしたものがあった。  2年目の今年はさらなる飛躍が期待されたが、1月の自主トレ中に左肘を痛め、キャンプではリハビリ生活を余儀なくされていた。それでも手術は回避し、26日には実戦形式の打撃練習に登板して最速145キロをマークするなど順調な回復ぶりを見せている。西武は打線が大きな課題で、投手陣の強さを前面に出して戦う必要があるため、武内の復帰時期と状態によってチーム成績も大きく変わってくることになりそうだ。  今回はセ・リーグ、パ・リーグ2人ずつの名前を挙げたが、他にも一軍昇格が待たれる選手は少なくない。開幕一軍メンバーはどうしても注目が集まるものの、シーズンは長いだけに、ここから巻き返しを見せてくれる選手が多く出てくることを期待したい。(文・西尾典文) 西尾典文/1979年生まれ。愛知県出身。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間400試合以上を現場で取材し、執筆活動を行っている。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員。  
ウォーキングも豪華な朝食も必要ない…「攻めのリハビリ医」64歳が認知症予防に「毎朝10分間」やっていること
ウォーキングも豪華な朝食も必要ない…「攻めのリハビリ医」64歳が認知症予防に「毎朝10分間」やっていること ※写真はイメージです(gettyimages)    いつまでも若々しく過ごすために、認知症の予防は欠かせない。どんなふうに生活習慣を変えるといいのか。「攻めのリハビリテーション」を掲げるねりま健育会病院の酒向正春院長に、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんが聞いた――。 なぜ認知症の患者数は増加し続けるのか  2022年から23年にかけて九州大学が発表した研究結果がある。「認知症及び軽度認知障害(MCI)の有病率調査並びに将来推計に関する研究」という長い題名のものだ。  題名は長いけれど、結論は短い。つまり、「認知症の患者は想像以上に多く、今後も増えていく一方」というものだ。高齢になると、誰もが認知症になるリスクがあるわけだ。  研究によれば2022年における認知症の高齢者数は443.2万人(有病率12.3%)、また、MCI(軽度認知障害)の高齢者数は558.5万人(有病率15.5%)と推計されている。そして、この調査から得られた性年齢階級別の認知症及びMCIの有病率が2025年以降も一定とすると、2040年には、それぞれ584.2万人(有病率14.9%)、612.8万人(有病率15.6%)になると推計される。  有病率とは65歳以上の高齢者数(3627万人、2022年)に対する認知症になった人の割合だ。高齢になると、認知症は避けて通ることのできない病気ということである。  そこで、できるだけ認知症にならずに生きていたいわたしは「酒向先生に話を聞くしかない」と判断した。それで連絡して会いに行ったのである。 「私一人ではない」チーム医療を実践する名医  まずはお世辞からである。  「酒向先生は日本一のリハビリ医ですね」  そう言ったら、ねりま健育会病院の院長、酒向正春は首を振った。  「やめてください。私はチームで診療しています。私ひとりではできません。ただ、チームは日本一だと自負しています」  わたしはとたんに謝罪した。  「わかりました。浅はかでした。すみません、それはそれとして、認知症にならないための生活の仕方を教えてください」  酒向先生は微笑する。  「最初からそう言ってください」  現在、酒向先生は練馬区大泉学園にある医療法人社団健育会 ねりま健育会病院院長を務めている。2階が病院で、3階にある老健施設もまた彼が管轄している。著書も多い人だ。NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」第200回にも取り上げられている。  プロフィールは次の通りだ。  酒向先生は1961年生まれ。地元の愛媛大学医学部を卒業して脳神経外科医となった。その後、脳リハビリテーション科に転身し、医師、看護師、リハビリスタッフなどと一緒に「チームねりま」を作り、チームとして障害者や認知症の患者、家族のために働いてきた。 朝5時に目覚めたらすぐにやること  酒向先生に教えてもらったのは「認知症にならないようにするには高齢になる前から、どういった生活を送ればいいか」だ。  具体的には一日の過ごし方だ。加えて食事の内容、酒タバコなどの嗜好品との付き合い方、ウォーキングなどの運動、入浴、睡眠など、対人関係、ペットとの関係……。生活のあらゆる面で認知症にならないためのアドバイスをもらった。  まず、酒向先生に仕事と生活の時間割を訊ねた。 なるほど彼は「これなら健康そのもの」という生活を送っている。  毎朝、起きるのは午前5時だ。そして、起きたらすぐ風呂に入る。  「妻は夜に入りますが、私は朝風呂です。湯の温度は36度くらいです。そして、追い炊きを10分。湯の温度を42度にあげます。至福の時です。湯上りには妻がヘアアイロンで髪の毛を整えてくれます」  風呂に入る時は必ず入浴剤を入れる。肌が弱いため保湿が必要なのだ。水道水で肌がかゆくなる人は入浴剤を使ったほうがいいと先生は言う。 パートナーとの会話が脳を活性化させる  湯上りに髪の毛を整えてもらいながら、妻と会話する。これも重要だ。認知症にならないためには夫婦、パートナーとの親愛のコミュニケーションが不可欠なのである。夫婦、パートナーが冷え切った関係になってしまうと、ストレスがたまる。それはよくない。  入浴の後、麦茶、ブラックコーヒー、加えて少量のブラッドオレンジと牛乳をとる。朝はそれだけで固形物は食べない。  酒向先生は16時間の糖分の断食によるケトジェニックダイエットで体内の脂肪を燃焼させている。  午前6時30分に自宅を出て、徒歩、電車、バスを利用し、7時30分にねりまの病院に到着する。  そのまま仕事に突入だ。老健、および病院の回診から始めて、午前中は15分の病院運営会議を終え、新患外来の診療で忙しい。  正午には検食。病院で出している昼食を食べる。おいしい。しかし、ご飯をお代わりすることはない。  12時45分から15分間は入院判定会議を行う。入院判定会議とは、月に60~70件ある患者の紹介案件のうち、誰を受け入れるかを判断する会議だ。 飲酒は月1回、運動は欠かさない  午後1時から5時30分までは診療、人材の育成、医療安全などがある。その後、午後8時まで、臨床研究、社会貢献活動、講演準備、執筆、学会準備、医師会、地域貢献に関係する仕事をする。  月に一度は会食が入るので、その時は午後5時30分には病院を出る。  帰宅すると、8時30分だ。  愛する妻が作った食事をふたりで食べる。基本的に酒は飲まない。飲むのは会食時のお付き合いで、月1回程度。1回に飲む量はスパーリングワイン1杯と赤ワイン1杯。もしくは、生ビール1杯程度にしておく。  眠るのは午後10時から11時。テレビやスマホはニュースだけ。ショート動画を見ることはない。ただし、趣味の競馬中継とスポーツライブは見ることにしている。  運動は週に1回、スポーツジムに通う。加えて、週に2回は病院か自宅で筋トレとストレッチをやる。疲労がたまると、2カ月に1回は60分のマッサージを利用する。 95歳を迎えるころは8割が認知症に  酒向先生は言う。  「認知症の人の分布ですが、年齢では80代の人で20%くらい、85歳では40%、90代で60%くらいで、95歳になると80%は認知症になると思ってください。ただし、同じ年齢なら女性の割合が高いです。そして、認知症になるには遺伝的な要因と環境的な要因があります。遺伝的な要因がある人はなりやすい。  しかし、生活環境を整えればリスクを減らすことはできます。特に、認知症予防の啓蒙が始まって以来、世界の先進国では、運動と新しい学習や人との交流を楽しく続けることで、90歳までは認知症の発症率が低下するエビデンスが出てきました」  酒向先生のように、早寝早起きして、適度な運動と仕事をしていれば認知症のリスクを減らすことができる。  逆に認知症になりやすい人とはどういった生活を送っている人なのか。これもまた教えてくれた。  「絶対にやってはいけないのはタバコを吸うこと。加えて、糖尿病、高血圧、肥満、鬱の人は認知症になりやすい。なりたくなければ高血圧、肥満にならないよう生活し、鬱にならないよう気をつけることです」 朝風呂で得られる4つの効果とは何か  酒向先生が毎日、朝風呂に入り、16時間の断食とケトジェニックダイエットをしているのは糖尿病、高血圧、肥満、ストレスを防いで気持ちよくなるためで、ひいては認知症になるのを防ぐためである。  そして、先生は朝風呂を推奨する。それは「温熱、清潔、静水圧、浮力」という4つの効果があるからだ。ここにある「静水圧」とは静止した水(お湯)のなかに働く圧力で、水の深さが深くなるほど、静水圧は大きくなる。  先生は朝風呂の4つの効果について、詳しく説明してくれた。認知症になりたくないわたしはメモしながら聴いた。  「まず、温熱効果で深部体温を上げることで、代謝が活発になります。寝起きでなかなか開かないまぶたが覚醒しますし、筋肉のコリや緊張がほぐれます。深部体温を上げるにはゆっくり浸かってください。私は15分は入っています。深部体温とは体の中心部の体温のことです。内臓などの体温で、皮膚表面の温度よりも高い。人間の深部体温は37度前後になります」  次は清潔にすることの効果だ。  「汗や皮膚表面のよごれを落とし、朝一番から清潔ですっきりと、快適な気持ちよさを獲得できます」 シャワーより湯船、そして正しいマッサージを  そして、静水圧効果である。シャワーを浴びて出勤する人は多いと思われるが、シャワーでは静水圧効果がない。そこで、酒向先生はシャワーよりも湯船につかることをすすめる。  「静水圧効果は重要ですよ。横隔膜があがり、呼吸数が増加し、覚醒します。また、下半身の血液が心臓に戻りやすくなり、血液循環が良好になることで、脚のむくみが解消します」  最後が浮力の効果だ。  「浮力効果で、重力の影響が低下するため、筋肉の緊張がほぐれます。腰痛がある時は、浮遊感を利用して、湯船のなかで腰椎の屈曲と伸展運動が簡単にできます。これを10回繰り返します。さらに、膝を屈曲して、左右に回旋する運動も簡単にできます。10回繰り返すことで、腰痛は驚くほど改善します」  屈曲と伸展のほか、酒向先生は「リンパマッサージもいい」と言う。リンパマッサージは体の先端から心臓に向かってマッサージすること。足であればふくらはぎから鼠径部に向かって手で揉んでいく。手のひらから腕の付け根を経て首筋まで揉む。  簡単なマッサージだし、湯船のなかでできる。  そして、もうひとつ、教わった。水道水で風呂に入っているのであれば「入浴剤は必須」ということだ。 ジムやウォーキングよりも気持ちいい  先生は言った。  「私は皮膚が弱いので、入浴剤を使わないと、皮膚がぱさぱさ、かゆかゆになり、とてもつらいです。ですから毎朝、入浴剤を湯船に入れます。入浴剤の効果は、温浴効果と洗浄効果ですが、保湿効果もあると思います」  入浴剤は市販のものでいい。値段も高いものでなくていい。皮膚が「ぱさぱさで、かゆかゆ」になると、ストレスになるので、使うのだという。  朝風呂、入浴剤、湯船での腰痛体操やマッサージはすぐに真似できる。ジムに行ったり、ウォーキングしたりといった手間とお金もかからない。認知症の予防にはまずここから始めるといいだろう。また、風呂は夕方でも夜でもいいが、翌朝も湯船に浸かることを勧める。要はリラックスすることだ。  次回は食事の内容を見直して肥満を防ぐ話である。ひいては認知症のリスクが減少すると思われる。 (野地 秩嘉:ノンフィクション作家)
カバンの中身でわかる認知症になりやすい人の特徴
カバンの中身でわかる認知症になりやすい人の特徴 ※写真はイメージです(gettyimages)   「頭の回転が速くなる」「誰でも脳の機能が向上しそう」「脳の老化防止に使える」「ゲーム感覚で小学生でも楽しめる」「たとえるなら、脳のストレッチ」「集中力や記憶力が伸びた」などの声が届いた、くり返し楽しんで使える『1分間瞬読ドリル』は、何歳からでも6つの力が飛躍的に伸びます。間違ってもOK。1分間で与えられた課題を見ていくだけで、「記憶力」「思考力」「判断力」「読解力」「集中力」「発想力」が抜群にあがります。 子どもには、これから必要とされる「考える力」や勉強脳が磨かれ、覚えに不安があるシニアはボケ防止に使える、そして、大人は脳機能を高めていくことができるのです。10歳から100歳まで、誰でも簡単に続けられる『1分間瞬読ドリル』で、脳をよくしていきましょう! 認知症になりやすい人のカバンの中身、共通点はコレ!  ふとした時に自分のカバンの中を見て「ごちゃごちゃしてるな」と感じたことはありませんか?  レシートや使わないポイントカード、いつから入れっぱなしかわからない飴やティッシュ……。そして、いざ何かを取り出したいときに、「あれ? どこに入れたっけ?」と探してしまう。  この“カバンのごちゃつき”は、単なる整理整頓の問題ではなく、脳の状態や、日々の思考グセとも深く関わっています。私たちの脳は、日常の行動や癖に大きく影響を受けます。 「まぁいっか」「後でやろう」が積み重なると、知らないうちに脳もだんだん怠けグセがついてしまう。その結果、記憶力や判断力が低下しやすくなり、認知機能の衰えにもつながることがあると言われています。 「まだ若いし大丈夫」なんて思わないでくださいね。認知症の予防は、40代・50代から始めるのが理想です。なぜなら、脳の変化は表面に現れるずっと前から、じわじわと進行しているのです。  では、「認知症になりやすい人のカバンの中身」とは、どんな特徴でしょうか? 1. 何が入っているか把握できていない 「どこに入れたっけ?」とカバンの中をガサゴソ探すことが日常になっている人。これは、物忘れや注意力の低下だけでなく、脳が“整理整頓”できていないサインかもしれません。日常生活で整理する習慣がない人は、脳内も情報が散らかりやすくなります。 2. 不要なレシートや古い紙類がたくさん 「もしかしたら必要かも」と思って、つい捨てられない。それが積もり積もると、カバンは不要物の山に。脳も同じで、古い情報や使わない知識を整理できないと、思考が鈍くなっていきます。 3. 「いつか使うもの」で埋まっている  買い物袋、古いクーポン、ずっと使っていないペンやリップ。「いつか使う」の“いつか”は、なかなかやってきません。頭の中も同じで、「いつかやろう」が積み重なる人は、判断力や行動力が低下していく傾向があります。  認知症予防は、「カバンの整理」から始めましょう。カバンの中をスッキリさせることは、脳内を整えるトレーニングにも繋がります。必要なものだけを選び、不要なものは手放す。シンプルな行動ですが、これが脳を活性化する第一歩です。  すぐ散らかってしまう人には、脳の整理整頓力を高めるトレーニングがおすすめです。おすすめしたいのが、『1分間瞬読ドリル』。毎日たった1分で脳に負荷をかけ、集中力・記憶力・判断力を同時に鍛えることができます。脳を刺激する習慣を持つと、生活全体が整理されていく感覚を感じるはずです。 参考資料:認知症になりやすい人の生活習慣3選 *本記事は、『1分間瞬読ドリル』の著者による書き下ろしです。
「ドイツ人は断捨離をしない」それでも家が片付いているのは、日本人とは物に対する考え方がまったく違うから
「ドイツ人は断捨離をしない」それでも家が片付いているのは、日本人とは物に対する考え方がまったく違うから ※写真はイメージです(gettyimages)   多くのドイツ人の家がすっきり片付いているのは、日本人と物に対する考え方がまったく違うからのようです。それはプレゼントやお土産物の渡し方にも表れています。本稿では、『ドイツ人は飾らず・悩まず・さらりと老いる』より一部抜粋のうえ、日本人が参考になるドイツの習慣をご紹介します。 物を捨てる以前に物を買わない  ドイツ人の家を訪れた日本人から「何故あんなに片付いているのですか?」と聞かれることがあります。確かに私がお邪魔するドイツ人の家も、モデルルームみたいにきれいで、日本のように「人をもてなす応接間やリビングだけをきれいにして、残りの部屋は物であふれている」という家は滅多にありません。  これにはドイツと日本の「住宅事情」も関係しています。ドイツの住宅は平均して日本よりも広めです。さらに一軒家には地下室(ケラー Keller)があるので、「普段使わない物を目につくスペースに置かなくて済む」という点は大きいと思います。集合住宅の場合も、全体の地下室に、日本で言うトランクルームのスペースが設けられています。  さらにドイツでは「人を家にあげ、“お家ツアー”をする文化」があります。来客に「これが書斎で、これが子ども部屋で、これが寝室で」と部屋を一つずつ案内するのが礼儀であり、昔からの習慣なのです。したがって必然的に「きれいな家」が保たれるというわけです。 プレゼントは「消え物以外、お断り」  「80代のうちの母は『スッキリした生活』に関するこだわりが徹底しているわよ」  そう教えてくれたのは50代のドイツ人女性で、彼女の母親は子どもや孫たちに「消え物以外のプレゼントを禁止している」のだとか。プラリネ(チョコレート菓子)やお花などをあげると喜ぶそうですが、それ以外は基本的に「物が増えるから」という理由で却下。消え物以外で喜ばれる唯一の例外は「孫の写真」とのことです。  「母は昔からとても現実的で、地に足がついた人。いわゆるセンチメンタルな感情とは無縁で、物を捨てる時も悩まずにサッと決断するから、高齢者には珍しいタイプかもしれない。母が亡くなったとしても、物が少ないので片付けには苦労しないと思うわ」  ドイツ人は誕生日やクリスマスにプレゼント交換をしますが、最近はこれもどんどんシンプルになっています。商品券だったり、その人が好きそうなテーマの本を選び、ラッピングはリボンだけということも。日々の生活の中で「環境保護」という意識が常に頭の中にある人も多く、「包装なしでリボンだけ」がデフォルトになりつつあります。  また最近は、現金をプレゼントすることもタブーではなくなりつつあります。ドイツのデパートや文房具店では現金を入れるための可愛いカード(ゲルトゲシェンクカルテ Geldgeschenkkarte)を見かけるようになりました。  ちなみにドイツには日本のような「旅先から職場の仲間や友達にお土産を買ってくる」という習慣もありません。もらうだけで使わない、いわゆる「ばらまき土産」のやり取りもないので、ますます家がスッキリしているのかもしれません。  ドイツではかつて、メモなどをファイルせずにそのままにしておくことはツェッテルヴィルトシャフト(Zettelwirtschaft)と言われ、揶揄と軽蔑の対象でした。ツェッテル(Zettel)とはメモなどを書いた紙キレのことであり、紙キレが机や部屋に置かれたままでどんどん増えていくカオスな有り様を指します。  昔のドイツでは、女性は花嫁修業も兼ねて家政学を学ぶことが多かったのですが、そこでも「ファイルできない紙キレは即ゴミ箱へ」と教育されていたほどです。 日本にいると紙が増える?  「日本にいると箱とか紙がとにかく増える!」  こう言って笑うのは、かつて日本に住んでいた私の友人、30代のダグマール(Dagmar)さんです。  「ちょっと買い物に行くとビニールや紙袋に入れるでしょ。お土産やプレゼントを買うと、ものすごい紙を持ち帰ることになる」  最近は改善されてきたものの、確かに日本はまだまだ過剰包装が多いと私も感じます。物が捨てられない「もったいない精神」が少しでもあると……家の中に紙袋やら箱やらが増えていくことになります。  現在はドイツに住み、日本語からドイツ語への翻訳の仕事をしているダグマールさんは、「何日までに返送してください」という書類が出版社から届くと、送られてきた封筒の住所の部分だけ貼り替えて、同じ封筒で返送をするのだそうです。  「サイズもぴったりだし、新しい封筒を買う必要もないし、合理的でしょ。メモ用紙には裏紙を使い、かわいい包装紙は取っておいて、また何かの時に使うようにしているの」  物を捨てる「断捨離」を考える前に、まず物を買わない、増やさない。これが節約好きなドイツ人の「片付けの基本」と言えそうです。 (サンドラ・ヘフェリン コラムニスト)
元フジテレビ「渡邊渚」90分インタビューで語った「ウソをつきたくない」という言葉の真意
元フジテレビ「渡邊渚」90分インタビューで語った「ウソをつきたくない」という言葉の真意 渡邊渚さん(撮影/小山幸佑)    今年2月に出版したフォトエッセーが大ヒットとなった、フリーの渡邊渚アナウンサー(27)。フジテレビアナウンサー時代にPTSDに苦しみ、会社をやめざるを得なくなった苦しい経験を前向きなメッセージに変え、多くの人の共感を得た。ネットニュースにも頻繁に取り上げられる「時の人」となったが、本人は今の状況をどう感じているのか。本音を語ってもらった。 *  *  *  インタビューを行ったのは、3月には珍しく雪が降った日だった。 「早めに家を出たら、ちょっと早めに着いちゃいました」  1人で待ち合わせ場所にやってきた元フジテレビアナウンサーの渡邉渚さんは明るい声で笑った。その笑顔から、渡邊さんの「心」は少しずつ回復している様子が見て取れた。   今年2月に出版された初の著書「透明を満たす」(講談社)は、アマゾンのカスタマーレビューが1548個(3月25日現在)にのぼり、大きな反響を呼んでいる。売り上げも好調だと聞くが、実際はどうなのか。 「書籍のほうは1月中旬から、予約注文が跳ね上がりました。1月末に書店に搬入発売したのですが、予約の段階で、すでに3刷りの発売前重版をかけていました。そして、2月に入って4刷りになりました。累計部数も業界的にみれば上々なのですが、Kindleが書籍の部数を圧倒的に上回って売れています。売れ方も含めて異例と言っていいと思います」(講談社関係者)  渡邊さんはSNSの投稿がすぐネットニュースになるなど、その発言が最も注目される女性の1人になった。一躍、「時の人」となった今の状況を渡邊さんはどう感じているのか。 「びっくりしています。エッセーを書き始めた頃は、こんなに読んでくださる人がいるとは思っていなかったんです。だから、アマゾンのレビューを読むと、すごく励まされます。私が伝わってほしいなと思っていたことが、ちゃんと届いているんだって。私には『自分がこうなっていてほしい』という未来があるのですが、その1歩が踏み出せたかなと思っています」 渡邊渚さん(撮影/小山幸佑)   地球上のどこかに味方はいる  フォトエッセーの中には「夢を持つこと──たとえ持っていなくても」という項目がある。筆者がそのフレーズがとても印象的だったと伝えると、渡邊さんはこう答えた。 「本の中では一番短いトピックなのですが、これは絶対に入れようと思っていたんです。私は、自分が抱いていた夢や目標が、ある日突然、壊れて、それを失うという経験をしました。どうやって生きていったらいいかわからくなって、自分の存在意義がなくなったように感じた時期もありました。だから、夢はあるだけで素晴らしいもので、自分が頑張れるエネルギーになるものだと今夢を追いかけている人の背中を押したかった。また、もしそれがなかったり、なくなったりしても、大丈夫だよと。夢や目標がなくても焦らなくていい、ないことを引け目に感じる必要はないと伝えたかったんです。本の中でもここは特にメッセージを込めた箇所です」  2023年6月、渡邊さんは後に大きなトラウマとなる出来事を体験する。それにより体調を崩し、同年7月に都内病院の消化器内科に入院した。心身に不調をきたし、食べ物も喉を通らなくなった。  「コロナの時期でもあったので、基本、面会はできませんでした。それでも(芸人の)キャイーンの天野ひろゆきさんは連絡をくださったことは本当に感謝しています」  自身が予期せぬ出来事で傷つけられ、精神科での入院生活を余儀なくされた日々についてこう振り返った。 「精神科にかかるということがイコール、心が弱い人と受け取られる風潮は間違っていると思います。私は精神科の担当医からPTSDと診断されましたが、それは心が弱いからじゃなく、脳にダメージを受けている状態なんです。わかりやすく言えば、脳の損傷なんです。だから、心の不調というよりも、脳の病気として理解していただけたらうれしいです」  だからこそ、今悩んでいる人たちにはこう伝えたいという。 「もちろん病院にかかるのが一番簡単ですが、医師だけが病気を治すわけではありません。周りにいる人たちの言葉で救われることもあるんです。自分には友達なんていないと思っている人もいるかもしれませんが、実は大切に思ってくれている人がいることもあります。私自身もあまり友達はいない方だと思っていたんですけど、それは私が周りを見てなかっただけだと気づきました。ちゃんと向き合ってみたら、大切に思ってくれる人はいるんですよね。地球上のどこかに絶対に自分の味方はいる。そう信じてほしいなって思います」 渡邊渚さん(撮影/小山幸佑)   元フジのスタッフとも交流はある  フジテレビアナウンサー時代は「めざましテレビ」の情報キャスターやバラエティー番組の進行など責任のある仕事を任され、分刻みで時間に追われていたという渡邊さん。食レポの仕事を大量にこなしていた時期もあった。  「週に3日、食レポのお仕事をしていた時期もあります。1日にラーメン6杯とか食べた日もありました。だから、必然的に太っちゃいますよね(笑)。お店の人の手前、残すわけにもいかないですし。私は食レポでもウソをつきたくなかったので、おいしくないときは『おいしい』とは言わなかったです。食感や具材の特徴を見つけてそれを表現するだけに留めていました。おいしくないものを『おいしい』と言うのは、やっぱり視聴者を裏切ることになると思っています。食レポに限らず、事件、事故の現場レポートでも、ディレクターやカメラマンから『いい絵がほしい』と注文されても、ウソをつかないことは徹底していました」   渡邊さんはフジテレビをやめた後も、かつての同僚たちとつながっているという。 「最初は会社をやめたら、もうフジテレビの人とは誰とも交流がなくなるんだろうなと思っていたんですけど、意外と交流は続いていますし、今でも仲良くしています。私の場合はアナウンサーよりも、番組スタッフさんと仲が良くて、食レポを一緒にやっていたスタッフさんたちとは今でも会いますし、カメラマンや技術さんとも、ご飯を食べに行ったりしているんですよ」  渡邊さんは今、新しい試みを始めている。今年2月から有料の公式メンバーシップ「Lighthouse」を開設した。会員になると「会員限定エッセー」「会員限定Instagramアカウントへの招待」「イベントチケット・限定グッズの先行/優待販売」「会員限定お悩み相談」の特典が受けられるというものだが、開設の経緯をこう語る。 「最初はインスタのサブスクを始めたんですが、会員がどんどん増えてしまい、コメントの数も多すぎて読めず、コミュニケーションが取りづらくなってしまいました。そのため、メンバーシップにしてきちんと対応したいと思ったんです。メンバーシップに入ってくださっている人の中には、うつ病などメンタルに関わる病気を抱えている方もいて、そこでお悩み相談を受けることもあります。さまざまな生きづらさと向き合っている方のお話を聞くことで、これから自分がどんな活動をするべきなのか、ヒントにもなっています。私は医療従事者ではないし、病気の詳しいことはわからないけれど、どうしたらちょっとでも心が楽に生きていけるかということは、自分の体験から言うことはできます。正解はないと思いますが、メンバーシップはファミリーみたいな温かい空間になっています」 渡邊渚さん(撮影/小山幸佑)   イケメンのマネジャーなんていません(笑)  こうした新しい試みが話題になることも多い渡邊さんに対して、誰かがバックについてコントロールしているのでは、と見る向きもある。だが、それに対してはきっぱりと反論する。 「本当にいろいろ言われるんですよ、黒幕がいるんだろうとか。この前は、イケメン敏腕マネジャーがいるとか書かれましたが、イケメンも、マネジャーもいないです(苦笑)。全部自分でやっています。だから、今日も1人でやって来ましたよね」  「ウソが嫌い」と語る渡邊さんはまっすぐな目でそう話す。心身ともに大変な日々を乗り越えた今は、毎日、少しでも楽しいことを見つけながら暮らしているという。 「好きなアニメを見ながら『しゃりもに』(ブルボン)というグミを食べたり、スーパーで両手にたくさんのグミを買っている時が一番テンションが上がります(笑)。私は生活費にはあまりお金を使わないタイプなので、月々の電気代は1980円と基本料金並みです。お金をかけて買うのは、アクセサリーくらいです。女友達と2人でアクセサリーショップ回りをしているときは楽しいです。仕事をがんばった自分へのプレゼントに今度は何を買おうかなとか。これは渋谷で買った2900円のイヤリングなんですよ。落としてもいいように(笑)」  そう楽しそうに話す渡邊さんの笑顔は、やはり誰かを救う力を持っていると思わせる魅力があった。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
さらば、明治の「瓶入り牛乳」 科学が証明した「おいしさ」にメーカーが今も「命をかける」ワケ
さらば、明治の「瓶入り牛乳」 科学が証明した「おいしさ」にメーカーが今も「命をかける」ワケ 3月末で販売が終了する瓶入りの「明治牛乳」。銭湯で風呂上りの瓶牛乳を楽しみにしていた人も多いはずだ=米倉昭仁撮影    乳業大手の明治が瓶入りの牛乳やコーヒー飲料の販売を3月末で終了する。近年、大手乳業メーカーが相次いで瓶入り牛乳の販売を終了するなか、「瓶」にこだわり続けるメーカーや自治体がある。 *   *   *  湯上がりにぐいっと飲む瓶入り牛乳は、銭湯の醍醐味だろう。東京・高円寺の老舗銭湯「小杉湯」は、長年、明治の瓶入り牛乳を販売してきた。1本180円。 「50年前から通っています。銭湯に来ると瓶入り牛乳を飲むことが多い。ひんやりした瓶を口につける感触は家では味わえませんから」  風呂上がりの男性(60)は話す。  父親と小杉湯に来ていた8歳の男の子は、コーヒー牛乳を飲むのが楽しみだという。風呂上がりのコーヒー牛乳の味を聞くと、瓶を片手に指でGOODサインを見せてくれた。 銭湯で飲むコーヒー牛乳が好きだという男の子=米倉昭仁撮影  だが、ここ数年、瓶入り牛乳の取り扱いをやめる大手乳業メーカーが相次いでいる。小岩井乳業は2021年、森永乳業は24年にそれぞれ販売を終了した。1928(昭和3)年の発売以来100年近く親しまれてきた瓶入り「明治牛乳」の販売もまもなく終了する。  牛乳瓶を手に取り、スマホで写真を撮っている女性(30代)もいた。 「明治の瓶入り牛乳がなくなると聞いて、世田谷から来たんです。『銭湯といったら瓶入り牛乳』という感じなので、寂しいです」  小杉湯を営む平松佑介さんは、こう語る。 「うちは昭和30(1955)年ごろからずっと明治の瓶入り牛乳を販売してきました。そもそも、瓶入り牛乳を大々的に売り出したのが銭湯なんですよ」  昭和30年代、冷蔵庫は高級品で、一般家庭にはそれほど普及していなかった。瓶入り牛乳の宅配販売は行われていたが、常温では腐敗しやすく、消費量は伸び悩んだ。そこで乳業メーカーが注目したのが「銭湯」だったと。 「当時、東京には銭湯が2000軒以上ありました。地域の人々が集まる銭湯に冷蔵庫を置き、瓶入り牛乳を飲んでもらったのです」(平松さん) 瓶入り牛乳のおいしさは格別だ。だが、大手乳業メーカーの撤退が相次いでいる=米倉昭仁撮影   科学が証明した「瓶入り」のおいしさ 「瓶入り牛乳」の販売終了が相次ぐ背景には、いくつかの理由があるという。  最大の課題は「供給コスト」だ。瓶は洗えば繰り返し使えるが、洗浄や殺菌に費用がかかる。重さから運送費もかさむ。 「大手乳業メーカーは、『食のインフラ』を支えるという使命感から、瓶入り牛乳の供給コストを価格に転嫁しづらかったのでは」と語るのは、三重県伊勢市の山村乳業の山村卓也さんだ。  山村乳業は1919(大正8)年の創業以来、「おいしい牛乳には瓶が欠かせない」というこだわりを持ってきた。現在、日本最多の14品目47種類の瓶入り乳製品を製造する(自社調べ)。 「うちは瓶入り牛乳に命をかけています」(山村さん)  大手乳業メーカーでは、生乳を120~130度で2~3秒間加熱して殺菌する「超高温瞬間殺菌」が一般的だ。 「短時間で大量の牛乳を製造でき、コストダウンにつながりますが、高温加熱により『牛乳独特のにおい』が生まれてしまう面もあります」(同)  山村乳業は85度の低温で15分間かくはんしながら殺菌する「パスチャライズ殺菌」を採用している。 「手間とコストはかかりますが、たんぱく質や乳脂肪が熱変性することが少なく、牛乳本来の風味を味わうことができます」(同)  その牛乳本来の味をさらに引き立てるのが「瓶」だという。  明治食品開発研究所と金沢工業大学の研究によると、瓶入り牛乳は、牛乳とふたの間の空間「ヘッドスペース」に香りが凝縮し、ふたを開けた瞬間に濃厚な香りが広がる。コップよりも瓶で牛乳を飲むほうが、香りは約3倍強い。瓶の飲み口がくちびるに接触する面積はコップの1.4倍あり、心地よいひんやり感を生み出す。そのため、瓶で飲む牛乳はおいしく感じられるという。  前出の小杉湯の平松さんは、昨年4月、東京・原宿の商業施設「ハラカド」の地下1階に「小杉湯原宿」をオープンした。そこで提供しているのが山村乳業の瓶入り牛乳だ。1本300円。 「牛乳に詳しい知人から、『瓶入り牛乳なら山村乳業』と教えられた。飲んでみておいしさに驚いた」(平松さん) 牛乳本来の味わいを大切にしてきた山村乳業の瓶入り牛乳=米倉昭仁撮影   子どもたちには「瓶入り」が必要  瓶入り牛乳の学校給食にこだわる自治体もある。東京都日野市もその一つだ。 「子どもたちの評判もいいです。紙パックよりも瓶の牛乳のほうがおいしいし、飲みやすい、という声を聞きます」と、日野市教育委員会の担当者は言う。  同市では2005年春、大手乳業メーカーの工場改修にともない、一度は容器が瓶から紙パックに切り替わった。 「子どもたちの食育を進めるうえで、瓶入り牛乳のほうが優れている。保護者や栄養士会から『瓶入り牛乳に戻してほしい』という声が上がった」(日野市教育委員会の担当者)  瓶入り牛乳には、さまざまなメリットがあるという。①容器のにおいが牛乳にうつることなく、五感で牛乳本来のおいしさを味わえる。残食や「牛乳嫌い」が減る。②中身が見えるので、かたまりや異物がないか、目視で確認できる。③児童が飲んだ量を把握できるので教員が喫食の指導をしやすい。④紙パックだと、リサイクルするために切り開いて洗浄する際、周囲の牛乳アレルギーを持つ子どもに影響が出ないようにしなければならない――。  ただし、学校給食の牛乳は、都道府県ごとに設立されている学校給食会を通じて供給されるため、各自治体が業者を決めることができない。独自に瓶入り牛乳メーカーと契約を結ぶには、学校給食会から離脱しなければならず、国からの牛乳代の補助金も受け取ることができなくなる。  当時、周辺自治体の国立市や小平市では独自契約に踏み切り、子どもたちに瓶入り牛乳の提供を継続していた。瓶入り牛乳を求める声はさらに高まった。 「(日野)市は学校給食会から抜けることを了承してくれました。国庫補助がなくなったぶん、市の予算で『牛乳代補助』をつけていただきました」(同)  06年度、同市の学校給食に瓶入り牛乳が復活した。こうした動きは広がり、現在、都内では9市が瓶入り牛乳を小中学校の給食に提供している。そのすべてが郊外の乳業メーカーが製造するパスチャライズ殺菌の牛乳だ。 販売が終了する明治の瓶入り牛乳をスマホで撮影する女性=米倉昭仁撮影   おいしい「瓶入り」が果たす役割  骨と健康について研究してきた女子栄養大学の上西一弘教授は、「牛乳は比較的手軽にカルシウムが取れる、とてもよい食品。学校給食の牛乳が子どもの成長を担う役割は非常に大きい」と言う。  小学生から中学生にかけては「発育スパート」と呼ばれる時期で、十分なカルシウムを摂取できないと、骨が大きく、丈夫に成長できない。そのツケは高齢になったとき、骨粗しょう症や骨折となって表れる恐れがある。 「若いときにどれだけカルシウムを骨に『貯金』できるかが、老後の生活の安心につながります」(上西教授)  おいしい瓶入り牛乳が果たす役割は思いのほか大きいのだ。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
東大推薦入試に合格した息子の母が語る、子ども時代の“種まき”「スケジュールを詰め込んだり間違えても怒ったりはしなかった」
東大推薦入試に合格した息子の母が語る、子ども時代の“種まき”「スケジュールを詰め込んだり間違えても怒ったりはしなかった」 タエさんと息子のキリさん(撮影/横関一浩)  『お金・学歴・海外経験 3ナイ主婦が息子を小6で英検1級に合格させた話』(朝日新聞出版)が話題を呼んだタエさん。息子のキリさんは英語をやる一方で、小学生時代から算数の先取り学習をし、小学校卒業時には高校「数学Ⅰ」まで終えたといいます。その後高校では国際物理オリンピックの代表に選ばれるなど、理数方面の学びへの興味を深めて東大推薦入試に合格しました。英語力という土台を持ちながら自分の学びの方向を決めたきっかけや、当時の思いについて、母親のタエさんと20歳を超えて大人になった息子キリさんにうかがいました。 ※前編<小6で英検1級、推薦で東大合格した息子が語る、母の“英語子育て”「勉強させられていると感じたことは一切なかった」>から続く 「数字で遊ぶのが楽しい」という感覚があった ――3歳になる前から始めた英語は「言葉という道具」と思っていたタエさん。英語以外に力を入れていたのが算数でした。幼稚園年長から学習漫画やネット上の無料のプリント、市販のドリルなどを活用しながら先取り学習を進めてきました。 タエ:幼児期は日常生活の中でも算数の思考を刺激する声かけや遊びをけっこうしていたんです。友だちが来ておやつを分けるときに「2つずつ渡していくね。いくついるかな? 3人いるから1、2、……6個だね」とか。 キリ:生活の中で数に興味をもって遊ぶことはあったと思うけど、記憶に残っているのは『数の悪魔』という本です。数字で遊ぶのが楽しいという感覚をより強めたのはあの本だった。 タエ:だからといって「算数がズバ抜けてできる」というわけではなかった。パズルを解くのはそんなに得意でもないし。 キリ:うん、自分の考えに沿ったロジックでしかできない。面白いっていう漠然とした感覚って、別に自分が得意なジャンルじゃなくてもあるじゃないですか。そういうのに近い感覚でした。 タエ:算数の先取りは小1から順番にやって終わったら次……と進めてまして。小5のときに中学の数学が終わり、高校の「数学Ⅰ」の青チャート(『チャート式基礎からの数学』)を始めたんです。もちろん全部がスムーズということはなくて、苦手な単元があれば他の教材も与えてましたね。「数学Ⅰ」の青チャートも小学生には難しくて一旦やめたんですけど「なんでできないんだろう」と思ったときに、これまで簡単な中学レベルの問題しかやっていなかったからだと気づいて。だから、少しだけ難しい中学生向けの問題集を買ってきて、それをやってから再び青チャートに取り組むようにしました。 キリさんが幼少期に親しんだ英語の本(タエさん提供) ――先取り学習と聞くと、ストイックに問題を解き続けているイメージがありますが、タエさんの手法はほんの少しの問題を毎日コツコツ続けること。そのために一番気をつけていたのは、スケジュールを無理に詰め込んだり間違えても怒ったりせず、息子さんがスッと取り組めるタイミングに合わせる配慮だったそう。 タエ:まず覚えたものは忘れるから「一切覚えなくていい」って言ってました。小さいうちに一生懸命やって覚えたって、忘れてしまうのはしかたないじゃないですか。公式だって絶対忘れるから覚える必要はないし、教えることもなかったです。公式を暗記して解くより、考え方やしくみを理解するほうが大事だと考えていました。 キリ:とにかくできなくて怒られるとか、勉強しなきゃいけない、みたいな圧はまったくなかったし、勉強していると思ってなかった。 タエ:性格もあると思いますが、普通に歯磨きしているのと同じような感じで取り組めたのはよかったと思いますね。英語は言葉だから日常にとけ込むんですよ。算数もとけ込ませたかったけど座ってやらないといけないから、英語のようにはできなかったです。もう一つは「どう取り組ませるか」ですね。例えば算数のテキストを買ってくると、ずっと机に置いたままにして息子が座ったら2秒ですぐ始められるよう、文房具を置いてページを開いておいて。帰ってきたらまず風呂に入れて、出てきたらすぐにご飯を食べさせて、取り組むまでのロスをどれだけなくすかを考えてました。算数をやらせるために頑張っていたというより、「算数をやるための時間を作る」ほうに力を注いでたんです。もちろんやりたくない日もあって、そのときはこちらもまた翌日、と思って強制は一切していませんでした。 物理も数学も同じトーンで続けていた ――理数方面の学びに興味を持ってくれたらとせっせと種まきをしてきたタエさん。化学や鉱物の本を渡したこともありましたが、息子さんは興味を持たずに断念。その後、知人の息子さんが国際化学オリンピックの日本代表に選ばれたことで、数学オリンピック以外にも科学系のオリンピックがあることを知りました。調べると物理の国際オリンピックもあり、大会に出場する日本代表選手の選抜を行っている「全国物理コンテスト 物理チャレンジ!」から116枚もの問題をダウンロード。プリントしてキリさんに手渡すと興味を示して解き始め、ここから物理分野の扉が開き始めます。 国際物理オリンピックの解答用紙(コピー)、物理チャレンジ過去問ファイルなど(タエさん提供) タエ:小学校で算数や数学の先取りをしていたときに、小学生なら誰でも予選から参加できる算数オリンピックに出場していたんですけど、「できる子たちのすごさは違う」と感じて。算数以外にないかなと思っていたら、物理のオリンピックがあることがわかり、中3のときに「全国物理コンテスト 物理チャレンジ!」の問題集を印刷したんです。息子に渡したら、「お! やるんやん」と。 キリ:物理の問題もいつものように「お、次これか」くらいな感じでした。母はたくさん問題をプリントしてくれて大変だったと思いますが、自分は目の前の問題に向き合ってただけなので、そこは感謝しています。 タエ:こっちはあまりやらせすぎないように気をつけてましたね。量が増えるとしんどくなって嫌になるから調整をしたり、時間がない時はあきらめたり。 キリ:自分としては物理も数学も同じトーンで続けていたのですが、「全国物理コンテスト 物理チャレンジ!」では高1の夏に予選通過して、高2で再度チャレンジしたときは国際物理オリンピックの日本代表になりました。数か月間レポート提出もあったのですが、代表になれて大会で銀メダルをもらえたときはうれしかったですね。 ――各国代表の高校生らが物理学の知識を競う「国際物理オリンピック」で銀賞をとった功績がきっかけとなり、東大推薦入試を受験しようと考えたキリさん。日本全国から選りすぐりの優秀な高校生が受験し、英語力だけでなく研究分野におけるコンクールの入賞、論文掲載や課外活動の実績が評価対象になる東大の推薦入試では、キリさんのこれまでの活動がアドバンテージになったといいます。 キリ:当時は正直、大学っていうものがどういうものなのかよくわかってなくて、行ったほうがいいかな、くらいでした。ただ、物理の世界に興味はあって。英検1級と物理オリンピックで推薦が通るかもしれないという話を聞いて、受けられるならと東大の推薦入試を選びました。とはいえ一般入試の場合はセンター試験を受験しなければならず、東大模試(予備校が実施する東京大学入学を想定した模試)は受けていましたね。 国際物理オリンピックの銀メダルや賞状など(撮影/朝日新聞出版写真映像部) タエ:「英語と物理オリンピック」は作戦済みだったんですけどね。推薦で行けたらラッキーじゃないですか。東大模試ではA判定が取れていたので、ほっとしましたね。 キリ:うん、「自分が勉強したな」と思うのは、東大模試のときと、定期テストの歴史くらい(笑)。 母は「俺のことが世界一好きな人」 ――中学時代は首席、高校でもトップクラスの成績で6年間学費を免除されたキリさん。「どんな子どもにでも、その子に秘められた特別な力があるから、親はそれを信じて種まきをして、サポートをするだけ」とタエさんは話します。そんな親子関係があるからこそ、常に自然と学びに向き合えたのかもしれません。 キリ:母は「俺のことが世界一好きな人」だと思います。自分が何を選んでも受け入れてくれますし。他の人と比べたりしないとか、あまり物事を気にしないのは、お互いに信頼しているという絶対的な基盤があるから。性格も自分と母は似てるんちゃうかな。 タエ:似てると思う。 キリ:自分は楽天的で考えることが好きで、鉛筆と紙があれば一生楽しんで生きていける。 タエ:自己肯定感も高いよね。 キリ:「自分が愛されている」という実感があるから、自分を愛せている気がします。とにかく毎日楽しく過ごしています。それは完璧に言えることですね。 タエ:いちばん守りたかったところが育っていてうれしい。 キリ:やりたいことは全力でやらせてくれているので、そこは揺らがないですね。 (構成/久次律子) ※前編<小6で英検1級、推薦で東大合格した息子が語る、母の“英語子育て”「勉強させられていると感じたことは一切なかった」>から続く
小6で英検1級、推薦で東大合格した息子が語る、母の“英語子育て”「勉強させられていると感じたことは一切なかった」
小6で英検1級、推薦で東大合格した息子が語る、母の“英語子育て”「勉強させられていると感じたことは一切なかった」 タエさん(撮影/横関一浩)  お金、学歴、海外経験がないなかで独自の手法でおうち英語を実践し、『お金・学歴・海外経験 3ナイ主婦が息子を小6で英検1級に合格させた話』(朝日新聞出版)も出版したタエさん。息子のキリさんは、2歳10カ月で英語を始めて小6で英検1級に合格、高校では国際物理オリンピックで銀メダルを獲得し、東大推薦入試に合格しました。タエさんの英語子育てについてどう思っていたのでしょうか。20歳を過ぎて大人になったキリさんと、現在は幼児教室「ベビーパーク」の英語育児部門で顧問を務めるタエさんの親子対談をお届けします。 ※後編<東大推薦入試に合格した息子の母が語る、子ども時代の“種まき”「スケジュールを詰め込んだり間違えても怒ったりはしなかった」>に続く 何語でしゃべっていたかはまったく意識していなかった ――大阪に住む専業主婦だったタエさん。自身は大学には行っておらず、特別に英語ができるわけでもありませんでしたが、「子どもの将来を考えたときに英語ができたら可能性が広がる」と思い、おうち英語をスタート。高額な教材やスクール、留学などにかけられるお金がないなか、タエさんの独自のアイデアで試行錯誤を重ねました。息子・キリさんの英語習得のコツは幼児期に「日本語を身につけるのと同じように英語も自然に身につける」ことにあったといいます。英語で語りかけをし、英語のBGMのかけ流し、英語のアニメなど、たくさんの英語に触れる環境を作りながら5歳で日常会話ができるまでになったそうです。 キリ:実は小学校に入る前のことは、正直全然覚えてなくて。日本語をいつからどうしゃべったのかってあまり意識しないのと同じで、小さいころ英語をどんなふうにしゃべっていたかも記憶がないんです。 タエ:言葉だけではなくて小さいころは全体的に記憶がおぼろげだよね。英語でしゃべっているときは、「何語かを考えずに普通に会話しているだけ」と思っていたんじゃない? とにかく日本語と同じように自然に言葉として覚えてほしかったから。 キリさんが幼少期に読んだ英語の本(タエさん提供) キリ:うん、たぶん何語でしゃべっていたかはまったく意識していなかったと思う。英語をしゃべろうとして話していたのではなくて、何かの拍子に勝手に切り替わる感じで不意に出ていたんじゃないかな。 タエ:英語をいかに生活になじませるか、は、いろいろやりましたね。まず日本語がいちばん大事だから日本語でたくさん語りかけて、日本語を獲得したな、と思ってから2歳10カ月で英語を始めて。当時はまだ「日本語と同じくらい英語の量を与えることが大事」という観点の情報は少なくて。CDのかけ流しをしたり英語の絵本を読んだり、自分は英語ができないのに生活に必要なフレーズを覚えて言ったりして。多くの人は「それだけ?」と思うかもしれませんが、「日本語と同じ量をインプットする環境を英語でも作る」と考えると、けっこうな英語量です。日常的に英語で語りかけながら、親子で英語の絵本を読んだり絵日記を書いたり、毎日の生活に「当たり前」にあるように工夫していました。 お母さんはもっと英語ができると思ってた ――5歳で英検を受け始めると、幼稚園卒園前に準2級を、小6で1級を取得したキリさん。幼児期には「朝・昼・晩」に英語のCDのかけ流しをし、1日2分のフラッシュカード、夕方に英語のアニメタイム、夜に英語の絵本の読み聞かせをすることで、なるべくネイティブの子どもと同じ英語環境で暮らしながら少しずつ資格試験の実績を作っていったといいます。 タエ:幼少期はいろいろ取り組んでいました。現在、英語関係の仕事をしていていろんな親御さんを見ていて思うのは、自分の英語の「語りかけのしかたがよかったのかもしれない」というのがあります。私は「英語ができないこと」にあまりにも躊躇(ちゅうちょ)がないというか、少しくらい間違った英語でもめっちゃ自信満々で語りかけていたんです。これがなかなか難しい。正しい英語を使わなければとしり込みしてしまう方が多い気がします。「Brush your teeth(歯磨きしてね)」「Wash your hands(手を洗って)」など簡単な英語でいいから自分にできることを、さもアメリカ人の親が子どもに言うように話しかけていましたね。 国際物理オリンピックの解答用紙(コピー)、物理チャレンジ過去問ファイルなど(タエさん提供)  あと「勉強として頑張らせない」のも大事。英語を教えようとして「This is a desk」みたいに学ばせようとすることが多いと思うんです。「まず単語から語りかけたほうがいいですか?」と聞かれたときも「なんでそんなことを思うんやろ」と感じたりして。でも普通に言いたいことをなるべく英語で言う、ということなんです。なるべくと言っても全然言えないんですけど、自分が言えることは言うと。小学校3、4年のころ、息子に「お母さん、もっと英語ができると思ってた」って言われましたね(笑)。 キリ:そんなこと言ったんだ。全然覚えてない。 タエ:そう。それで「すごいやろ、できへんのやで」って答えて(笑)。 キリ:とにかく自分は無意識に言葉を使っていて、英語について何か勉強させられていると感じたことは一切なかったです。言葉に好きも嫌いもないし、そもそも言葉って意識の下にあるような感じじゃないですか。日本語と英語、どっちで話していたかを考えることが少し不思議なくらい。 ――絵本を読めるようになってからは好きな本を少しずつ広げながら多読もしていたキリさん。タエさんは通販サイトや中古書店で購入していました。 タエ:赤い大きな犬の「クリフォード」の絵本やアニメは好きでよく見てたよね。私は本の語数を数えて「今月は10万語超えた!」って喜んでたんです。簡単な本から少しずつ読む力を実感してね。小学生時代は『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』(静山社)をよく読んでたね。 キリ:それは覚えてる。『パーシー・ジャクソン』はギリシャ神話がからんだ話なんですけど、神様のとらえ方が日本神話とちょっと似ているところがあって好きだったな。 タエ:よかった、覚えてることがあって(笑)。本人が気に入ったら同じ作者の本を買って、を繰り返しながら英語の本を読んでいましたね。 英語はあくまで道具 ――英語以外に算数にも力を入れたというタエさん。「算数ができれば将来の勉強で困ることはない」という思いで続けた学びは、算数や数学の先取り学習、中学生で物理の世界への興味につながっていきます。英語という土台を持ちながら好きな分野を英語で学ぶ面白さを実感しながら、高校では世界各国の高校生らが物理学の知識を競う「国際物理オリンピック」にも出場しました。 国際物理オリンピックの銀メダルや賞状など(撮影/朝日新聞出版写真映像部) タエ:高2で国際物理オリンピックに出場したときは開催地で英語が役に立ったんじゃない? キリ:他の国の人とコミュニケーションをとるときは英語ができて楽しめましたね。問題文は基本的に全部翻訳されるので、解くときは英語ができたことで有利になることはなかったです。でも翻訳されたものと原文の両方をもらえるので、自分は基本原文で解いていたような……。あと、大学3、4年になって授業が英語になったことや、いろいろな国から留学生が来て英語が公用語のような感じになっていたので、英語ができて楽だったというのはあります。 ――自宅学習が中心で、中学受験や大学受験の際にも塾通いや通信教育は一切しなかったキリさん。その裏側では「どんな子にでも、その子に秘められた特別な力があるはず」と信じて、お金をなるべく使わずに親の知恵と工夫で子育てをしてきたタエさんの、学習サポートに対する強い思いがあります。 タエ:実は、英語を習得しているからといって、息子が「英語の道に進みたい」と望んだらいやだなと思っていたんです。自分が始めた英語が息子の人生を決定してしまったら、それはそれで複雑な心境になるのではないかと。でも息子は自分なりに好きな分野を見つけて進路を選んでくれて。物理学という分野に興味をもって国際オリンピックに参加したりその後の進路を決めたりしたときはうれしかったですね。 キリ:英語はあくまで道具なので、どういう方向に進むかはまったく別の話ですね。母は自分がやってみたいことを全然否定しないし、すべてを受け入れてくれたので、とてもありがたかったです。 (構成/久次律子) ※後編<東大推薦入試に合格した息子の母が語る、子ども時代の“種まき”「スケジュールを詰め込んだり間違えても怒ったりはしなかった」>に続く
多様化する写真表現……第49回木村伊兵衛写真賞 選考を振り返って
多様化する写真表現……第49回木村伊兵衛写真賞 選考を振り返って   第49回木村伊兵衛写真賞の選考委員。(左から)大西みつぐ氏、長島有里枝氏、澤田知子氏、今森光彦氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部)  故・木村伊兵衛氏の業績を記念して1975年に創設された木村伊兵衛写真賞は、各年に優れた作品を発表した新人写真家を対象に表彰し、写真関係者からアンケ―トによって推薦された候補者の中から、2回の選考会によって決定されます。  第49回の木村伊兵衛写真賞の一次審査では6人の作家がノミネートされ、二次審査で受賞者が長沢慎一郎さんに決まりました。最終選考後4人の選考委員(今森光彦氏、大西みつぐ氏、澤田知子氏、長島有里枝氏)に、主に受賞者以外のノミネートされた作品について語っていただきました。 *  *  * 今森光彦 今回はドキュメンタリー的なもの、自然的なもの、私的なものというように、追求しているものがはっきり分かれました。 澤田知子 推薦された作品が今回少なかったじゃないですか。でもノミネートに残った作品は、接戦だった印象ですね。 事務局 一頭地を抜くような作品がなかったということでしょうか。 大西みつぐ 前年あるいはその前からかもしれないですけれども、候補に挙がってくる、あるいはノミネートされてきた作品がさらにバージョンアップ、あるいは新しい作品として、今年もしっかり並んでいるという事実があります。これは外からよく聞かれるのですが、木村伊兵衛写真賞はアートに流れているのではないか、そんな強い言葉を言われた経験もあるんです。しかし決して一つの方向に流れているわけではありません。これだけ候補に挙がったものに目を通すと、今の日本の写真はものすごく幅があって、そこで特に若い作家の皆さんたちが、かなり真摯に活動しているというのがちゃんと見てとれる。 背景にはもちろん写真のことがある 事務局 映像作品に対してしっかり賞を出して、でもその背景にはもちろん写真のことがあるということは語られてしかるべきですよね。 大西 語ってきたんですよ、ここでもしっかり。 長島有里枝 今年も候補者のうち吉田多麻希さんの作品には映像が含まれていました。これまでの審査でも、映像を含む作品でノミネートされた作家は、写真もしっかり撮れていました。吉田多麻希さんの作品もさまざまな要素の一つが映像で、あくまでも「写真」の展示という印象を受けます。また、何度かノミネートされる人は、年によって作品のボリュームが大きいときとそうでないときがありますね。今年度対象の作品を評価することは大前提ですが、これまでの活動を完全に頭から追い払うことも難しく、たまたま今年はボリュームが少ないよねという議論をした場面もありました。 大西 毎年コンスタントに作品を発表するのは大変ですよ。 長島 受賞するかどうかは作品の優劣だけじゃなく、タイミングも大きいですね。 「写真集は、やっぱり大変な作業だと思うんです」と話す、大西みつぐ氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部) 大西 また写真集という形だとすると、出版社側のいろんな予定、サイクルとも歩調を合わせていかなきゃいけない。作家一人の計画性で、こういうボリュームで作りたい、こうしたいということが100パーセント届くことでもない。難しいですね、その兼ね合いが、タイミングも含めて。写真展の場合は、作家とギャラリーの間でさまざまな調整ができるわけです。写真集はそうもいかないでしょう。いろんな日程に乗っかりながらやっていかなきゃいけないから、やっぱり大変な作業だと思うんですよね。 今森 作家は長い時間をかけて自分のペースでやっていくことになります。そして活動の山場となるようなタイミングで、受賞することが理想だと思います。若手作家を応援する場合は、これからの活躍に期待して、賞が贈られる。今回は、新人賞に値する作品がたくさんあって、絞りにくかったですね。どれも力量があるんで、たいへん難しいです。 長島 将来性も見ているということでしょうか。 今森 そうですね。あと前後とね。 事務局 その点、金川晋吾さんは作品の量的なもの、ペースもかなり精力的に発表しています。 澤田 推薦の数も多いですね。 自分自身が考えていかなきゃいけない問題 大西 金川さんは写真集『father』を、いい意味でもずっと引っ張っていかざるを得ないし、一つのプロセスとして見た場合に、写真集『長い間』もありました。それから写真集『明るくていい部屋』と、ひと続きの金川さんの写真家としての、あるいはその生活信条を含めて、いろいろな葛藤が綴られてきていると思うんですね。彼自身にも問いかけてきているし、写真を見る我々にも問いかける姿勢がある。そこはものすごく僕は評価したいと思ってます。なかなか難しい生活形態かもしれないし、あるいは僕と同じ年齢のお父さんが失踪することに関しても、自分自身が考えていかなきゃいけない問題も突きつけられているわけです。その社会性も含めて、個人の暮らし、家族についてなど、いろんな問題提起はしてると思うんですね。金川さんのその意味での変化というか、継続しながら、そのプロセスの中で作家として少しずつ少しずつ変わっていく。そこに期待をして、この『明るくていい部屋』の続編を落ち着いて見ていきたいなと思っています。 事務局 受賞に至らなかったのは? 大西 『明るくていい部屋』というのは完結編でもない。『father』はなぜか文章も含めて完結してきているんですよ。その説得力はあると思うんです。時間の流れの中で、お父さんの変化や彼自身の変化も含めて、カメラを持たせたりとか、あるいは映画を撮ったりするという中で、ある種の落ち着きどころはあります。ただ、『明るくていい部屋』というのは現在進行形としての暮らしがあるので、それに対して僕らがそれぞれ考えていかなきゃいけない。今の時代の家族の行方、人と人のさまざまな関係性みたいなものを僕らが受け入れ、写真を見ながら考えていかざるを得ない。金川さんもさらに変わっていくだろう。だからもう一つ、これからに期待したいです。 長島 今回、他の作家さんについてもこれまでの作品に一旦戻って考えてみるということが多かったように思います。金川さんはすでに多くのお仕事をされていますし、私は彼の「これから」に期待することで先延ばしにするより、今年こそ踏み込んで向き合いたいという気持ちでした。ですが、最後の最後になにかが引っかかって、彼の作品を押しきれませんでした。それがなんなのか、ちゃんと知りたかったけれどまだ言語化できません。 大西 彼の言う「ワカラナサ」というカタカナがいつも私たち頭の中にあるんです。 「『わからない』ということが納得できる作品もある」と話す、長島有里枝氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部) 長島 「わからない」ということが納得できる作品もあるし、そういうわからなさは私も好きなんですが、なんでしょう。 事務局 中西敏貴さんについてはどうでしょう。 今森 ジャンル分けはあまりしたくないですけれども、どちらかというと自然というものを捉えるところから来られた人だと思います。最近のこの一連のお仕事は民族学的な要素が加味されています。人と自然を一緒にするかどうかという表現については今まで議論はあったんですけど、それが10年、20年ぐらい前からこういう表現の仕方が成立してきたかなと思います。中西さんのお仕事は、風景写真の枠を超えて表現されていることがたいへん面白いです。だから、ノミネートされている。 長島 そうですね。 半分は写真芸術で、あと半分は自然そのものの力 今森 自然を題材にした作品は、ストレートにものを見る行為です。被写体に魅力がいっぱい詰まっているので、作家が小細工をする必要がない。むしろ、自分の気配を消してしまうことに努力しないといけない場合もあります。自然写真は、芸術と科学の融合だとよく言われますが、半分は写真芸術で、あと半分は自然そのものの力なんですね。ですから、評論する人は、芸術面だけでなく、被写体についての知識もないと撮られた写真のほんとうの価値がわからないということになります。自然写真の場合は、私がデビューした頃は、植物、動物、野鳥、昆虫などのジャンル分けがされている時代でした。これは、決して否定的なことではなく、自然の場合は、それくらい専門的に被写体にのめり込んでいかないと良い写真が撮れないんですね。場合によっては、それを研究する学者と二人三脚で活動する、というスタイルも珍しくはなかった。自然写真が大きく成長して、時代背景もあると思いますが、やがて生物の中に人を入れた表現の仕方が注目されるようになります。日本人本来の自然観を取り戻そうとする考え方です。中西さんの作品を見ていると、その延長上にあるように思いますが、今回の作品を拝見していると、その枠をさらに超えようとしているエネルギーを感じます。 澤田 去年今森さんが、写真集『オプタテシケ』をご覧になったときに、これからこう積み重なっていくのが楽しみだとおっしゃっていたのが印象的で。 今森 自分のことが結構その中に出てくるのかなと思いますが。 澤田 これからがますます楽しみですね。 大西 風景としてのある種の広がりとか世界観を表現するだけじゃなくて、歴史観というか、相当肝に銘じていかないと、表現の中で自立してこないと思うんですよね。一番そこが難しいかなと思っていて。昔だったら、例えば学生が35mmで風景を撮っていて、次は4×5で撮れば、みたいなアドバイスがあるじゃないですか。そこでフォーマットの違いによって発見するものとか、写真作業がより拡大してくる可能性がある。この方はすごくお上手だから、そういう技術的な背景よりも、むしろ歴史観だったり、ある面で思想が大きく反映してこざるを得ないだろうなと。そうでなければいけないという見方も僕の中にはちょっとあるんです。完成されたこの風景の捉え方、技術力、それプラスアルファかなという気がしてる。 長島 後半に向かうにつれて人の営みが写ってくるのにはなにか意図があるんですか。 大西 なんでしょうね。 事務局 次につなげることなのかもしれません。彼はこれは本当に古代のこと、人の世界がはじまる前のこと、というように言っていましたから、だんだん人間の歴史に近づこうとして。 大西 やはり近代史との関わりですよ。 長島 『オプタテシケ』がそういう作品でしたよね。 大西 そうそう。 長島 博物館の物撮りのような感じの、民族学的な調査の写真を経て、この後半部分の展開、今森さん的にはどうですか。 集められた作品に対して真摯に向き合う、一次審査での選考委員たち(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部) 今森 なにか補足的に説明したいのだと思うんですが、あまり解説的に出てくるとマイナスの面があるかもしれませんが......。 長期的な計画 大西 本人がどういう気分、考え方でその後半を入れてきたのかというところが、結構核心かなと思ってます。 澤田 長期的に自分で計画している流れの中での今回の作品だったら、その流れのために後半変わってくる、ということなんでしょうね。 事務局 本人も長期的な計画だと言っています。 今森 かなり長期的だね。 澤田 乞うご期待っていう感じですね。 今森 そうですね。 事務局 吉田さんについて。 大西 展示をしっかり拝見していることもあって、そのときから非常に重厚な写真映像空間を作られているということは、すごく称賛に値するなと思いました。それから、ロードキルっていう、僕らがなんとなくわかっていることを、具体的に富士山周辺の専門家の人たちの力を借りて、きちっとマッピングしながら、そこで撮影取材というか、時間をかけて写真を集めてきている。その写真もダゲレオタイプという、本来ならば古典技法で、多くのアーティストたちが使ってきていると思うんですけども、ここはたぶんダゲレオタイプでなければならないという明確な吉田さんの理由があって提示してきた。それは空間の中でダゲレオタイプをのぞき込むことによって、単純な話ですけど、鑑賞者が映り込み、富士山周辺のおびただしい動物が死んでいる。そのことと同じような体験に即していると見てとれたんですね。そういう面では、しっかりした自然、環境、それから富士山のオーバーツーリズムを含めて、今の社会環境、社会状況もイメージさせている力はあるなと思いました。 長島 とても力のある作家さんですよね。 澤田 クオリティーが高い。 長島 ですがここまで美しいと、なにかこう、逆に不安な気持ちになるのはなぜでしょうか。 澤田 説明的すぎるのかもしれない。 今森 あまり環境のことが前に来なくてもいいように思いますが......。 長島 なるほど。 「しかばねになるほうが形とか色とか鮮明に出てくる」と話す、今森光彦氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部) 今森 この方はたいへん実力があって美意識が高く、生命がないところに生まれる美を発見しているように思います。たとえば標本。標本って死んでいるほうが形や色の違いがよくわかるんですよね。命があって飛んだりしてると全然わからないんですけど、しかばねになるほうが形とか色とか鮮明に出てくる。それを学者さんとやるのはすごく正当で大事なことだと思うんです。環境問題に言及しないピュアな姿勢のほうが、意図を強調できるように思います。 死の問題、環境の問題をしばし考える 事務局 社会性みたいなことを気にしすぎるということですか? 今森 そうですね。標本的なことで言うと、博物学的な視点、まなざしというのが、作品から感じられます。知らないものを初めて見るときの感動ですね。 大西 そうですね。東京・丸の内の商業施設KITTEに日本郵便と東京大学総合研究博物館が協働で運営する博物館があり、そこに行ったときの感じがそのまま吉田さんの展示にも僕の印象としてありました。陳列ケースなどにさまざまな生き物の骨格標本もある。そこで死の問題、環境の問題をしばし考えるけれども、その標本自体のある意味すごみ、リアリティーがあって不思議な気分を誘う。そのリアリティーは画像としてのダゲレオタイプの像に通ずるかもしれない。 澤田 私が説明的って思ったのが、今森さんがおっしゃるストレートに出せばいいのに出してないっていうところかもしれない。最初見たときにすごい好きな作品だったけど、いろいろ話をしていく中で、文章も読むと、ちょっと思っていたのと違うのかなって印象が変わりました。もしかしたら、今森さんがおっしゃったことが私が感じていることに近いのかもしれません。 事務局 上原沙也加さんは、まだ厚みがこれから出ていく作品ではないでしょうか。 澤田 上原さんと須藤さんはそうかな。 長島 単純に、作品がまだ制作過程にあるように見えます。 澤田 もうちょっとボリュームがあればパワーを感じられたかなと思うけど、二人とも今回のノミネートの中ではちょっとパワー不足に見えちゃったかなと思います。 長島 二人とも既に本も出版されていて、それらを見るとやっぱり今回ノミネートの作品にもまだ先があるんだろうな、という印象を受けました。もう少し完成度が上がるのを待ったほうがいいんじゃないか、という。 澤田 今後が楽しみです。 大西 誤解をされたら困るんだけども、沖縄の写真だからというふうに僕は見なかったんです。沖縄であろうが、東京であろうが北海道であろうが、ある種の日常性に対してどういうふうにカメラがそこに即していくのかなということの興味があったんです。台湾まで行ってるわけだし、沖縄からアジアに対しての写真の広がりっていうのは期待できると思うので、日常性という観点で、上原さんがここでスタートしてたんだったら、また伸びしろとして僕はあるなと思っています。 目に見えないことをうまく切り取って作品にする力 事務局 最後に須藤絢乃さんについて。 澤田 前提として、審査をやるうえで自分と似ているジャンルの人に対しては、一般的にどの審査でも審査員って基本的に厳しくなると思うんです。専門的にやっているからこそだと思いますが、そういう目で私は彼女の作品をずっと見てきて、日本のサブカルチャーや、アンダーグラウンドの世界を切り取って作品にしているところ、目に見えないことをうまく切り取って作品にする力がある人だと思います。今はまだ形になっていないけど、彼女の作品はこれからどんどん増えていき、日本のサブカルチャーとか、日本独特、独自の文化のドキュメンタリー的な記録にもなる作品を作っていける作家になるんじゃないかと思っています。デジタルの時代になって、アイデンティティーの希薄さみたいなものがどんどん浮き彫りになっていく中で、他に類を見ない作家という評価です。ただ、わかりにくさみたいな部分もあるから、そこはこれからに期待したいですね。 大西 須藤さんの作品は、少女のシリーズは外で撮っているけど、わりとスタジオが多いじゃないですか、ライティングして。これって必然なんですかね? 澤田 いえ、ロケのほうが多いと思います。 大西 そうですか。 澤田 もうちょっと作品をつくるスピードを上げられたらいいかなと思うんですけど、その難しさもわかるので。 大西 なんで阿部定かよくわからなかったんですけど。 「ジャンル問わず長く続けている人は応援したい」と話す、澤田知子氏(写真:佐藤創紀 朝日新聞出版写真映像部) 澤田 突然行方がわからなくなった一世を風靡した人の中から、彼女が気になる人をピックアップして選んでいっているのかなと思いますね。 大西 何かテキストがあってじゃなくて。 澤田 そうじゃないと思います。 長島 みんな実在の人ですよね。  事務局 彼女の中で興味がある、サブカルチャー的に引っかかってくる人ではないでしょうか。 大西 なかなか思いつかないな、と。さきほどの話じゃないけど、「ワカラナサ」を探求しようとしているという意思は感じられます。 根底にある存在の希薄さ 澤田 その存在が消えてしまった方の、存在の希薄さみたいなところが彼女の根底にあって、それを表せるモチーフとして今回はたぶん選んでいると思うんですよね。 大西 大阪芸大で教えていた学生が「行旅死亡人」をテーマに作品を制作してたんですよ。最終的に立体になっていったりということがあって、やっぱり存在の希薄さなんですね。路上で亡くなった人は官報でしか告知されない。名前もわからないこともあるし、どこで倒れていたのか、ジャンパー着ていたとか、資料を集めてそのビジュアルを作って、その人の架空のポートレートを作った。 澤田 長い間一つのことに向き合っているっていう意味でも、素晴らしい。やっぱり一つのことをずっとやり続けることの難しさっていうのは、自分自身が続けていると感じることなので。ジャンル問わず長く続けている人は応援したいなっていう気持ちにはなりますよね。 事務局 上原さんとは作品が全然違うけど、やはり作品が増えていくことによって、より厚みが出てくる。 澤田 そうですね、説得力が増すし、解釈の幅が広がるかなって思います。 大西 MIO写真奨励賞では森村泰昌さんが賞を与えたんですか? 澤田 そうです。 大西 ご本人にとっては森村さんの存在ってやっぱりあるでしょうね。 澤田 そう思いますけどね。須藤さんは、かなり幅広くいろんなことに興味を持っている印象があって、一つ気になるとものすごく丁寧に研究するタイプだと思うので、たぶん作品をつくるのも時間がかかるのだと想像します。 (対談まとめ:勝又ひろし)
「あなたが我慢すれば皆が助かる」 有給休暇と最低賃金から考える合理性だけではない問題 田内学
「あなたが我慢すれば皆が助かる」 有給休暇と最低賃金から考える合理性だけではない問題 田内学 AERA 2025年3月24日号より    物価高や円安、金利など、刻々と変わる私たちの経済環境。この連載では、お金に縛られすぎず、日々の暮らしの“味方”になれるような、経済の新たな“見方”を示します。 AERA 2025年3月24日号より。 *  *  *  社会人になったばかりの頃、有給休暇をすべて使い切ることは許されなかった。制度上は年間20日の権利があったが、周囲の目を気にしてなかなか休みを取れず、半分も消化できないのが当たり前だった。「忙しいのに休むの?」と上司から苦言を呈されることもあった。一方、外国人の同僚は「権利だから当然だ」と平然と休暇をすべて使い切る。その姿を見るたびに、「強制的に休暇を取る仕組みならどれだけ楽だろう」と思ったものだ。権利があっても、合理的に行動するのは簡単ではない。  賃金問題にも同じ構造が見える。合理的に考えれば、同じ労力や能力なら時給が高い企業に移ったほうが得だ。しかし実際には、「あなたに辞められたら会社が困る」「賃金を上げたらお客さんが困ってしまう」などと懇願されると、優しい人ほど待遇の悪い職場に留まり、我慢を続けてしまう。その優しさのおかげで企業や消費者は助かるが、本人だけが不利益を背負い込む形になってしまう。  先日、日本商工会議所と東京商工会議所が最低賃金の引き上げについて全国調査を行った。政府は2020年代に最低賃金を全国平均1500円にする目標を掲げているが、地方の小規模企業の25.1%が「不可能」、51.3%が「困難」と回答した。「最低賃金を上げると地方経済が崩れる」「廃業を検討する」という切実な声も聞かれた。  確かに、市場経済の原理に任せて最低賃金を設定しない方が効率的だという意見もある。そこには、人間は常に自分の利益を優先し合理的に判断するという経済学の前提が存在している。しかし現実社会では、優しさや遠慮という美徳を持つ人ほど合理的に動けず、低賃金から抜け出せなくなる。「あなたが我慢すれば皆が助かる」と言われれば、自分の利益を犠牲にしてしまう人がいる。有給休暇と同様に、法律で「下限」を明確に定めることで初めて、正当な権利を安心して行使できる人がいるのだ。 たうち・まなぶ◆1978年生まれ。ゴールドマン・サックス証券を経て社会的金融教育家として講演や執筆活動を行う。著書に『きみのお金は誰のため』、高校の社会科教科書『公共』(共著)など    一方で、今春の連合による春闘の賃上げ要求は、加重平均で6.09%と32年ぶりの高水準となった。多くの人の賃金が上昇すれば人件費も上がり、当然物価も上昇する。もし最低賃金だけが据え置かれたままならば、最も生活が苦しい人たちがさらに苦しくなるという矛盾が生まれてしまう。政府の目標達成に必要な年率平均7.3%の上昇は高すぎるように思えるが、連合の要求水準が約6%であることを考えると、少なくともそれと同程度でなければ、物価水準の上昇に勝てない可能性がある。  最低賃金の議論は経済合理性だけでなく、「我慢を強いられているのは誰なのか」という視点も必要だろう。制度として最低ラインを設けることで、すべての人が安心して働ける社会を目指すべきではないだろうか。 「最低賃金を上げると、地方の生活を支える産業・商業インフラが崩れる」という声もある。一見もっともらしい反論だが、それは「あなたが我慢して今の賃金で働いてくれれば、他のみんなが助かるんですよ」と言っているのと同じではないだろうか。  本当に地方経済が崩れるなら、一部の労働者だけに大きく負担させるのではなく、多くの消費者が少しずつ負担する必要があるだろう。 ※AERA 2025年3月24日号  
子どもが生まれてから家の中は散らかり放題! 片づけたら「まるで生まれ変わったよう」
子どもが生まれてから家の中は散らかり放題! 片づけたら「まるで生まれ変わったよう」 全体的にモノが多く、ベビーベッドの存在感が大きいリビング/ビフォー    5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.92  生活がしやすくなると家事の時間も半分に  夫・子ども1人/一般事務  家をきれいに保つためにまずやることは、家の中にあるモノの量を減らすこと。モノの量が少なければ、限られた収納スペースの中にきちんと収めることができます。さらに、何が、どこに、どれだけ置いてあるかを管理できるようになります。  管理できる量というのは、人によって異なります。片づけに悩んでいる人はだいたい自分の管理能力を超えた量のモノに囲まれて生活しています。ギュウギュウに詰まったクローゼットの中から、「あ、こんな服持ってたっけ」としばらく着ていない服を見つける人がこのパターンです。  実家や一人暮らしのときはそれほど片づけに苦労しなかった人も、子どもの誕生によってモノが急に増えて対応できなくなってしまうことも。  今回ご紹介する加奈子さんも、その一人。 「7年ほど前に子どもが生まれて、ベビー用品やおもちゃが増えたときに家の中がモノでいっぱいになってしまったんです。私も仕事を始めると、ワンオペ状態だったこともあり、仕事との両立でけっこうイライラしていました」  夫は仕事が忙しく、あまり家事に参加ができません。加奈子さんは毎日の育児・家事・仕事をこなすのに精一杯。加奈子さんの心が癒やされるのは、好きな音楽を聴いているときだけでした。  さらに、夫婦二人の生活のときはあまり気にならなかった夫の趣味のプラモデルが増え続け、どんどん家の空間を占拠していきます。 “いる・いらない”で選別したモノを定位置に戻せる仕組みができてスッキリ/アフター    家の中をちょっと動くだけでモノにぶつかり、掃除機をかけるのもモノをどかしながら。こんな生活に嫌気がさしてきます。 「片づけの本を読んで頑張ったこともありました。でも、不要な洋服を手放すことができても、小物とか思い入れのあるモノをどうしたらいいのかわからなくて……。結局、片づけられませんでした」  ある日、加奈子さんはSNSで家庭力アッププロジェクト®のことを知りました。詳しく話を聞いてみると、「45日間で片づけが終わる」という内容に興味を持ちます。 「『これならできるかも!』という自分の直感を信じて、思い切って参加しました」  これまで何度も挑戦した片づけでしたが、今回はとても楽しくできました。それは、プログラムの中で出される課題をクリアしていくと「今日はこれだけ片づけた」という成果を実感できたからです。  加奈子さんが家の中のモノの“いる・いらない”を選別していると、夫も自分の洋服や書類を片づけ始めました。今まで「片づけてね」と声をかけても何もしなかったので、加奈子さんは驚きました。  加奈子さんの行動が、家族にも影響し始めます。 「子どもも絶対に自分のおもちゃを手放さなかったのに、『一緒に片づけようか』と声をかけると、一緒にやってくれるようになりました!」  リビングには子どもが小さい頃に使っていたベビーベッドがずっとあり、その上におもちゃや荷物を置いていました。モノを減らして残しておくモノの定位置を決め、ベビーベッドを処分すると家の中がスッキリ。 「すごく動きやすくなって、積極的に家事をやりたくなったんです。掃除機をかける時間は半分以下になって、かける頻度も上がりました」 さらに、散らかっているときは食事の準備が面倒で冷凍食品に頼ることも多かったのに、今では「手の込んだ料理を作りたい」という気持ちになっています。大嫌いだった食器洗いも苦ではなくなりました。  加奈子さんは、自分が変わり始めていることに気づきました。モノが減るということは、管理するために使っていた自分のパワーも削減できるということ。頭の中がスッキリして、その分のパワーをほかのことに使えるようになります。 使いたいお皿を取り出すのも大変だったキッチンの棚/ビフォー   「プロジェクトの中で、時間はみんな平等に1日24時間なんだと改めて教わったことが、私に大きな変化をもたらしたと思います。時間を意識するようになって、例えば5分の時間ができるとその間にできる家事や用事を終わらせるようになったんです」  さらに、加奈子さんは家族との関係もよくなったと言います。 「私がイライラしてワンオペだと思い込んでいたんですよね。今振り返ってみると、夫も協力的だったことはたくさんありました。片づけて余裕ができたのか、子どもにも大きな声で怒ることがなくなったんです」  今後モノが増えたとしてもきちんと管理できる量をキープして、さらに暮らしやすい家を目指してブラッシュアップしていきたいと、加奈子さんは笑顔で語ってくれました。 お皿がワンアクションで取れてストレス軽減。料理が楽しくなりました/アフター   「プロジェクトでは朝の時間を活用して片づけていたので、早起きがクセになってきました。今まで朝は苦手だったんですけど、これからも続けていこうと思います。毎日イキイキとしていることを感じられて、まるで生まれ変わったような気分です!」  モノの管理ができるようになると、時間の管理や気持ちの管理もできるようになる人がたくさんいます。私はよく“部屋は心の鏡”と言っていますが、加奈子さんの家と心はこれからもスッキリと晴れやかになっていくことでしょう。  片づけようと思ったときに必要なのは、大きな収納家具ではありません。まずはモノの量を減らすこと。これによって家も生活も大きく変わることを、加奈子さんは自ら証明してくれました。 人生が変わる片づけの習慣 片づけられなかった36人のビフォーアフター 商品価格¥1,650 詳細はこちら ※価格などの情報は、原稿執筆時点のものになるため、最新価格や在庫情報等は、Amazonサイト上でご確認ください。
50代になった「百獣の王」武井壮が演技にこだわるのはなぜか 語った「亡き兄」への思い
50代になった「百獣の王」武井壮が演技にこだわるのはなぜか 語った「亡き兄」への思い 撮影場所はテレビで人気者になる前、芸人の話術を学ぶために通ったバーがあった近く(写真/今 祥雄)   「百獣の王」・俳優、武井壮。「百獣の王」として芸能界に乗り込んだのは、39歳と遅咲きだった。芸人らが深夜に集うバーに通い詰め、お笑いの話術を学んで磨き上げた芸が爆発的にウケた。陸上の十種競技で日本王者の経歴を持つアスリートでもある。テレビの人気者は50代に入り、世界に羽ばたく俳優の道を歩み始めている。演技へのこだわりを、源流からたどる。 *  *  *  2月下旬、東京・西麻布の交差点で、この欄の撮影をしていたら、犬を連れて散歩していた有名女優から声をかけられる一幕があった。 「芸能界の有名な人に、あいさつしてもらえる人間になったんだなあ」  撮影の合間に、武井壮(たけいそう・51)はつぶやいた。感慨深げなニュアンスを込めて。  テレビをよく見る人なら、知らない人はいないだろう。ただ、この13年余り活躍してきたジャンルの広さを踏まえると、肩書を「タレント」でくくるのは雑に思える。「百獣の王」として世に出たのは39歳と遅咲きだ。陸上の十種競技の日本王者の経歴を持ち、自身の冠番組を含め、番組のMCをいくつも務める。情報番組のコメンテーターとしても、放送局をまたいで重用される。  そんな武井が50代に入って力を入れているのが、いわゆる俳優だ。  昨年暮れ、武井は東京・池袋の映画館で舞台に上がっていた。タイ制作の壮大なSFファンタジー映画「URANUS2324」に日本軍将校の役で出演し、その日本公開だった。  武井にあいさつの順番が回ってきた。 「20代のころから、40代はタレント、50歳から先はドラマや映画の映像作品をやると決めていました」 ジャパン・アクション・ギルド(JAG)でスタントマン、スタントウーマンを前に、自身の「ボディコントロール理論」の特別講義をする。JAGの特別顧問にも就任、日本のアクション界を盛り上げる(写真/今 祥雄)    さらに「気づいてない方も多いかもしれないですけど……」と前置きしつつ、この10年間、芝居にも取り組んできたと明かした。NHKの朝の連続テレビ小説や大河ドラマなど、多くの作品で場数を踏んでいる。  あいさつの最後は、抱負で締めた。 「ここからの10年はあらゆる国の、あらゆる作品に顔を出してがんばっていきたいと思います」  さりげない、世界進出宣言だった。 両親の離婚で兄と生活 ごみ出しのバイトでしのぐ  タイで武井に協力したのは、バンコクで撮影コーディネートなどを手がけるEMUの代表取締役、中島美紀代だ。 「これまでも、日本の有名芸能人の方からタイ進出の打診を受けたことがありましたが、渡航費もホテル代も自腹で、すぐに飛んできたのは武井さんだけ。だから、こちらも同じ熱量で向き合わなきゃと覚悟が決まりました」 日曜日の朝に放送されている「武井壮のゴルフバッグ担いでください」(テレビ大阪)の収録。武井はアメリカへ1998年にゴルフ留学をし、2023年にティーチングプロの実技テストに合格している(写真/今 祥雄)   「URANUS2324」のロケは気温40度を超すタイのジャングルで長時間に及んだ。武井は汗だくになりながら休憩中も軍人の冬服を着込んだまま過ごした。同行したEMUの本村洋介は「兵士のリアル感を意識したんでしょう。日本のカップラーメンとかを持ち込んだんですが、一切口をつけず、お茶碗1杯のタイ米に、ふりかけだけで1日の収録を乗り切る。プロ意識を感じました」。  熱演が評価され、同じプロデューサーが手がけるタイのテレビドラマへの出演も決まった。  武井が演技にこだわるのはなぜなのか。その理由を知るには、彼の生い立ちからの家族の物語に踏み込んでいく必要がある。  1973年、東京都葛飾区に生まれた。  小学生のころ、両親が離婚した。マンションの一部屋に残された2歳上の兄との生活が始まった。毎日、献立を考えるのも大変だし、経済的にも安上がりでたどりついたのが、母の得意料理だった「そぼろご飯」。1キロとかのひき肉を買い、しょうゆとみりんと砂糖で味付けして、毎日、少しずつ温めて食べた。毎月、電気、ガス、水道のライフラインの料金が払えず、止められた。  そんな窮状をおそらく知っていたのだろう。近所の豪邸に住む人が提案してくれた。 「うちのごみ出しを手伝ってくれたら、毎月500円あげる」  それを一軒ずつ増やして、早起きして家の前に出されたごみを集積所まで持って行った。多いときは150軒。月々7万5千円の収入になった。 昨年12月に日本で公開されたタイ映画「URANUS2324」の舞台挨拶に俳優のFriend(真ん中)らと登壇。武井は日本軍の将校を演じた。50代は世界で活躍する俳優を目指して活動を広げる(写真/今 祥雄)   「人の嫌がることは仕事になり、お金になることを学びました」  地元葛飾区にある修徳学園は、学業成績が優秀なら高額な学費は免除され、さらに毎月1万2千円の奨学金が出た。  中学では野球部に入り、夜まで練習漬けの日々になった。効率的に勉強するために、授業中に、その日教わったことは覚えた。中高6年間、成績トップは譲らなかった。奨学金は生活費の足しにした。修徳高校でも野球部で活躍してプロ野球選手をめざそうと思ったが、寮生活は決まり事が多く、練習も夜まで続く。奨学生で居続けるための成績維持を優先するため、部活はあきらめた。 独自の身体理論を確立 十種競技で日本選手権優勝  東京を離れ、神戸学院大に進学した。陸上部から声がかかり、軽い気持ちで入部した。1年の夏、100メートルのデビュー戦で10秒9をマークした。夏の沖縄合宿でステーキ16枚を平らげた。合宿で食べ放題を満喫していたら、夏の終わりには入学時より身長が5センチほど伸びて、170センチ台になっていた。少年時代、胃袋が満たされていなかった肉体に栄養が行き渡った。  3年になり、十種競技を選んだのには理由があった。自分の体を思うように動かせるようになれば、パフォーマンスの向上に直結する。そんな独自の身体理論を確立していた。十種競技は100メートル、走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、400メートル、110メートル障害、円盤投げ、棒高跳び、やり投げ、1500メートルを一人でこなす万能性が求められる。 パワースラップを舞台にした縦型ショートドラマの撮影。若いスタッフや俳優にも気さくに話しかけ、撮影の現場は和やかな雰囲気だった(写真/今 祥雄)   「より多くの種目をこなすほど、順応性が高い自分には有利になる」。そんな計算が働いた。  97年の日本選手権で優勝した。当時24歳。本格的に取り組んで、まだ2年半。ある強豪大学の関係者からドーピングの疑いをかけられたのは、常識を超えた急成長がもたらした「勲章」ともいえる。  ところが、栄光に酔いしれる間もなく、失望が待っていた。2000年シドニー五輪に向けて、スポンサー企業を探したところ、一番良いオファーが800万円だった。同い年のイチローは、阪神・淡路大震災後に「がんばろうKOBE」を合言葉に戦ったオリックスで日本一にもなり、98年の推定年俸は4億円を超えていた。 「同じ日本一でも、価値が違う。何か人生が拓けると思ったら、街を歩いていても、誰からも気づかれない」  お金も知名度も、世間の評価も手に入らない。自分には需要がない。マイナーな競技を選んだ自分の不勉強を思い知らされた。 「地球で暮らす誰にでも名前を知られている人間になる」。そんな野望が芽生えた。 亡き兄の夢をかなえるため バーで芸人の話術を学ぶ 友人、仕事仲間を取材し、共通する武井評は「努力を惜しまない人」。ほぼ必ず付け加わるのが、苦笑交じりの「私はあそこまで濃密にがんばれないけれど」(写真/今 祥雄)    今歩んでいる芸能の道は、亡き兄、情の存在抜きには語れない。兄は中学を卒業するとすぐ、俳優をめざして活動を始めた。坂上忍の付き人として、テレビドラマや舞台にも出るようになった。  ところが、武井が大学生のとき、兄にガンが見つかる。すでに末期。自力で歩けなくなっていた兄を車いすに乗せ、新宿の映画館に行った。作品は「メジャーリーグ2」。石橋貴明の奮闘をスクリーンで見た兄はつぶやいた。「病気を治して、こういう作品に出たいな」。夢はかなわず、武井が22歳のとき、兄は24歳で生涯を閉じた。  武井は高校にも行かずに芸能界をめざした兄について、「何、夢みたいなことを言っているんだ」と思った時期もあった。よくけんかもした。ただ、のちに、父の限られた援助が弟の自分に回るよう、兄が高校進学をあきらめたと、兄が付き人をしていた坂上から知らされた。 「兄が元気なままだったら、僕はふつうにアスリートとして五輪をめざしていたかもしれない。それに芸能界に入ってから知りあう人で、奇跡のような偶然で兄と縁があった人に出会う。いつかは兄がやりたかったことにも手を伸ばそうと思い、芝居の勉強をしてきた。今の僕の原点には、亡き兄がいる」 (文中敬称略)(文・稲垣康介) ※記事の続きはAERA 2025年3月24日号でご覧いただけます
医師が指南「食後の血糖値急上昇」防ぐ5つのコツ 毎食後「3分間」イスから立ち上がるだけでもOK
医師が指南「食後の血糖値急上昇」防ぐ5つのコツ 毎食後「3分間」イスから立ち上がるだけでもOK ※写真はイメージです(gettyimages)   成人の5人に1人は糖尿病かその予備群といわれ、健康診断などで高血糖を指摘される人が少なくありません。糖尿病はさまざまな理由で血糖コントロールがうまくいかずに“血糖値が高くなる病気”ですが、誤った知識によって治療に結びつかないケースも。 SNSで筋肉博士として人気の糖尿病専門医・大坂貴史氏がこのたび、『血糖値は食べながら下げるのが正解』を上梓。本書から一部抜粋・再構成してお届けします。 “隠れ糖尿病”にご用心  糖尿病は慢性的に血中のブドウ糖が増えて“血糖値が高くなる病気”ですが、たとえ一日中高いわけでなくても、食後の短時間の血糖値が急激に上がってなかなか下がらないケースが多々あります。一般の健康診断で空腹時血糖値だけを測定していると見逃されがちなので、「隠れ糖尿病」と呼ばれます。  血糖値は、食事をすれば誰でも上がりますが、通常はすい臓からインスリンというホルモンが分泌されてゆるやかに変動します。ところが、インスリンの分泌が不十分だったり、インスリンの効きがよくなかったりすると、食後の血糖値が急上昇したまま、下がりにくい状態が続くことがあります。これを「血糖値スパイク」といいます。  血糖値スパイクがあると、食事のあとに眠くなったり、だるくなったりすると思っている人がいますが、誤解です。ほとんど自覚症状はありません。  しかし、食事のたびに繰り返される「血糖値スパイク」を放置すれば、血管が損傷し、動脈硬化や糖尿病の合併症が進みやすくなるリスクが高まります。健診で空腹時血糖値が正常でも、血糖値の長期的な傾向を判断できるヘモグロビンA1cが6%を超えるときは、一度医療機関で調べてもらうようにしましょう。  血糖値スパイクを避けるためには、糖質の過剰な摂取を控えることも必要です。だから血糖値コントロールにはガマンが必要と思っている人も多いですが、それも誤解です。  やみくもに糖質を避けることはかえってキケンです。  ご飯やパン、麺といった穀類には糖質が多く含まれますが、こうした主食をゼロにするような極端な食事はおすすめできません。ご飯ならお茶碗1杯程度、パンなら6枚切りを1枚半までなら、むしろ食べたほうが健康的です。  米や麦などの穀類は食物繊維のほか、体に必要なミネラルなどのさまざまな栄養素を含みます。  また、極端な糖質制限を続けることで、すい臓からインスリンを出す力にさぼり癖がついて弱まってしまい、かえって糖尿病の引き金になることもあるのです。  一方で血糖値に影響の大きい、ジュースやスポーツドリンク、エナジードリンクなどの甘い飲み物はやめましょう。  甘い飲み物を飲むと、一気に糖質ばかりが吸収されて、血糖値が短時間で跳ね上がります。それが「血糖値スパイク」の温床です。 食後30分以内に立ち歩けば「血糖値スパイク」予防に  血糖値の安定化のためには、“食後30分以内に座っている時間を減らす”ことも有効です。室内でもかまいません。立ち歩くだけで、筋肉が糖をエネルギーとして使い始め、高血糖予防につながります。30分間ずっと立ち歩く必要はなく、食べたら3分間、とにかくイスから立ち上がると覚えておくとよいでしょう。  自宅であろうと職場などの出先であろうと同様です。  例外を設けないことが、継続のカギ。職場でのランチ後、フロアや廊下を少し歩くようにしてみてください。 「たったそれだけ?」と思うでしょうが、「それだけの積み重ね」こそが、将来にわたる健康の下支え。血糖値の安定化は、糖尿病だけでなく脂肪肝やメタボリック症候群をはじめ、あらゆる病気のリスクを低下させる有効な手段なのです。  とはいえ、毎食後となると億劫にも思いますよね。そこで、食後の座りっぱなしを避ける小さな工夫を紹介しましょう。 1 食後、すぐに食器を洗う  自宅にいる場合は、食後にすぐ食器を洗うのがおすすめです。食器を洗いながらかかとを上げ下げする動きを追加すれば、身体活動量もアップ。食後にゆっくり休んでしまうと食器の片付けも億劫になりやすいので、「ごちそうさま」の声を合図に食器を持ち、キッチンへ向かう習慣をつけるといいでしょう。 2 別の作業と紐づけて動く  例えば、食後はすぐに洗面所に行って歯磨きをする。日によっては、リビングや台所をフロアワイパーで拭きながら立ち歩く。気分がスッキリすることと紐づければ、一石二鳥です。ささいなことでいいので、何らかの行動や作業を紐づけることで、わざわざ運動をするという負担感は減らせます。 3 ゆっくりスクワット  立ち歩くのが難しければ、机やイスに手をかけた状態でゆっくり立ったり座ったりを繰り返す「スクワット運動」をするのもOK。下半身の大きな筋肉を刺激して、糖をエネルギーとして効率よく使うことができます。たった1分でもかまいません。毎日の効果は大きいです。 4 職場や出先なら、トイレは別の階へ  ランチ後に用を足したり、身だしなみを整えたりするためにトイレに向かうこともあるでしょう。その移動は絶好のチャンス。ぜひ、1つ上の階や下の階など、階段で別のフロアのトイレを使いましょう。もちろん自宅のトイレも階が分かれている場合は、このような工夫ができます。 5 外食ついでに散歩  勤務中の外食ランチでは、休憩時間をお店でフルに満喫せずに会計を済ませ、帰社する前に少し散歩するのもいいでしょう。気分も新たに午後の仕事に取り組めますよ。  これらの工夫のすべてをやる必要はありません。そのときどきで自身の生活に合わせて実践しやすいものを選びながら、「食後の座りっぱなし」から抜け出して、血糖値の安定化につなげましょう。 目標を2段階にして“ゼロにしない”  さらに、食後の立ち歩きは3分以上できればベストですが、それが難しいときは、できる範囲でかまいません。とにかく、“ゼロにしないこと”がコツです。  このために有効なのがメモに残すこと。  3分以上できたときには◎、1~3分のときは◯、まったくできなかったら×というように、簡単な記号を記録するだけOK。◎が並んでいれば、「次も◎にしたい!」と取り組みやすく、モチベーションにもつながります。  できるだけ「×」がつかないように、基本の目標とそれが難しいときの小さな目標の2段階を用意しておくこともポイントです。ゼロか100かの2択ではなく、できないときには負担が少ない目標を選んで行うようにすれば運動がゼロにならず、継続しやすくなります。  そもそも、満点を目指すと減点方式になりがちです。そうではなくて、「今日もクリア」と“加点方式”でいきましょう。2段階の目標設定なら、小さな成功を積み重ねられて、結果的に血糖値をコントロールしやすい体になっています。 いつもの活動の“置き換え”でプラス10分の運動を確保  食後の立ち歩きが継続したら、次は“運動の量”を増やしましょう。  “プラス10”といって、いつもより10分運動する時間を増やす取り組みは、これまで運動習慣がなかった人でも始めやすい方法です。この10分は連続した時間でなくてかまいません。1日のうちでトータルの活動時間を10分増やせばよく、家事でもOKです。  何をしたらいいか迷うなら、エスカレーターやエレベーターでの移動を階段に変えてみてはどうでしょう。1つ前の駅やバス停で降りて歩くのもおすすめです。  新しいことを始めようと意気込んでも、3日坊主で続かないのが普通です。それよりも、いつもの動作をもうちょっと運動量のあるものに“置き換える”ところから始めませんか。  運動によって筋肉量が増えれば糖を効率よく使うことができます。筋肉は血糖値コントロールの重要なサポーターです。筋肉を味方につけて血糖値スパイクを防ぎ、血糖コントロールができる体を維持していきましょう。  最後に厚生労働省が紹介している“プラス10”の効果を示しておきます。  体重70kgの男性が10分間早歩きに変えると、35kcal分多くエネルギーを消費。1年365日で12,775kcal消費できるので、脂肪組織を1年で1.9kg減らす効果があります。  脂肪が減ればインスリンの効きがよくなるので、血糖コントロールにも有効です。  まさに、“置き換え活動”のチリツモが高血糖を防ぐと言えますね。 (大坂貴史 : 医師)

カテゴリから探す