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お棺に落書き!? 増える「簡素な葬式」と「ユニーク葬」
お棺に落書き!? 増える「簡素な葬式」と「ユニーク葬」 野球場を映した「メモリアルスクリーン」。担当スタッフが撮影することもある(提供:むすびす) 「家族葬」や短縮型の「直葬」「一日葬」、お経、位牌(いはい)なしの「無宗教葬」に昔ながらの「自宅葬」、人を呼ばないんだからいっそセルフはどうかと「DIY葬」の動きも。コロナ禍で葬儀の自由化が進んでいる!? ライターの朝山実さんが、今ふうお別れの現場を歩いてみた。 *  *  *  7月はじめ。都内の駅から徒歩数分のセレモニーホールで、コラムニストの小田嶋隆さんの「送別会」があった。とてもいい見送りだった。  故人の「葬儀は要らない」の希望を尊重。「告別式」とは称さず、前夜と合わせて2日にわたってお別れの会が催された。色彩鮮やかな生花祭壇とともに印象的だったのは、僧侶の読経の代わりに小田嶋さんが還暦を機に習っていたギターの先生の演奏だ。  友人たちが故人との逸話を語る間、ジョン・レノン、ボブ・ディランなどの曲を静かに伴奏されていた。喪の場ではあるが笑顔を絶やさず、穏やかな弦の音色が心地よかった。  コロナ禍とあり、当初近親者だけの見送りとされていたが、問い合わせのあった人には伝えられるうち、両日で200人ほどが集まった。  しかし、複数の葬儀社を取材すると、コロナ禍の期間に大人数の会葬は珍しく、増えているのは10人前後の「家族葬」。通夜を省いた「一日葬」や、儀式は略し火葬場でお別れする「火葬式(直葬)」を選択されるケースも多いという。 「コロナの影響ですか? 選ばれるプランが、以前と比べ半分くらいの料金のものになってきていますね。『もう直葬でいいから』という人も増えています。変わったといえば『霊柩(れいきゅう)車は要りません』って言われることかなぁ(セット料金にはご遺体を病院から安置所まで移送する寝台車の料金が含まれている)。うちは関西で有名なタレントさんにイメージキャラクターになってもらって、白いレクサスの霊柩車のオプションサービスをしていたんですが、『ああ、そんなん要らんわ。セットの車で十分や』って」  笑いまじりにぼやかれるのは、京阪神をエリアとする「あゆみセレモニー」の川原昭仁社長だ。1日1家族限定で「ふるさとの家」を思わす古民家ホールと、国内に数台のハイクラスの「霊柩車」を売りにしてきたが、コロナで目玉のリムジンの出番が激減したという。  利用者の本音はどうなのか。昨年、父親を亡くされた図書館員のマユミさんに話を聞くことができた。  父親のトモヒデさん(享年84)は長年、学習参考書の編集者をされていた。長女のマユミさんの下には弟が2人いる。 「父は1年半ほど入院していて、息をひきとった翌日にホールの部屋で葬儀社の人に湯かんをしてもらいました。葬儀は親戚には知らせず、家族だけで見送りました」  実家に仏壇はあり、父の生家は日蓮宗だったが、トモヒデさん自身は無宗教者で「死んだら川に流してくれたらいい」と語っていたこともあり、祭壇も位牌もなし。棺の上には、母が持参した小さなスナップ写真を飾った。  シンプルながらも喪の時間の中でよかったのは、いつも父の傍らにいた愛犬オルが葬儀場に入れたことだという。 「弟が、葬儀社の人に、犬にお別れさせたいんですけどと尋ねたら、いいですよと言ってもらえて。オルが父の顔をペロペロとなめているのを見て、みんな泣いてしまいました」  耳を傾けながら、記者が、父のときにもそうしたらよかったなぁと思ったのが遺影写真だ。  額装の大きな遺影でなく小さな額にしたのは、「母は、ふだんから居間に家族の写真を飾っていて。大きな写真は好みじゃなかったんでしょう。実家に行くと母は父のその写真を見ているんですよね」  リムジンの霊柩車もそうだが、出棺の際に家族が胸に抱く大きな遺影は、会葬者に向けたセレモニーの意味合いが大きいのかもしれない。コロナ禍は葬儀の形も変えつつあるようだ。「お坊さん」も「位牌」もなしでもいいかと葬儀の簡略化が進むとともに、それぞれの価値観にあった「自由」な弔いが加速度的に広まりだした。 富士山を映した「メモリアルスクリーン」。担当スタッフが撮影することもある(提供:むすびす) ■故人らしさ演出 スクリーン祭壇  そこでユニークな試みをしている葬儀社を取材した。ひとつは、東京近県を拠点とする「むすびす」。近年は生花の祭壇が主流になっているが、こちらでは畳数枚分のシルクスクリーンを用いた祭壇づくりを提案している。  草野球に熱を入れていた故人なら、なじみの球場のホームベースを中心にした写真をスクリーンのように棺の背後に貼りだす。いつも夏祭りの先頭に立っていた故人のいなせな法被姿の写真を等身大に引き伸ばして飾るなど、故人にあった送り方を提案している。 「当社では、メモリアルスクリーンと呼んでいますが、故郷の風景、満開の桜など故人らしいオリジナリティーを出せることから、月平均250件施行させていただいている中の6割以上のご利用をいただいています」と語るのは、むすびす株式会社・葬祭事業部の吉岡雄次部長代理だ。 「費用面でも、生花の祭壇と比べて抑えられるという利点もあります」  そのために専用の大型プリンターを導入しデザイン部門も設けている。 「スクリーンもそうですが、当社が力を入れているのは、まず担当がご家族にインタビューし、ひとつひとつプランを練っていくこと。ですから、まったく同じお葬式というのはありません」  むすびすでのコロナ禍での変化を問うと「10人前後の家族葬」「無宗教葬」「自宅での葬儀」の増加をあげた。  葬儀の縮小がいわれる中、葬儀社が提示する価格プランも驚くほど下落している。ネットを検索すると家族葬だと30万~70万円をよく目にするが、火葬だけだと10万円以下(火葬料金は別途だが、自治体によっては無料、1万円のところもある)のものも出てきている。  さらにコストダウンを図りたいなら「セルフ」という一案もある。 一見サブカル本だが、丁寧な取材で葬儀のことがよくわかる  棺おけや骨つぼ、お坊さんの手配すらネットで可能な時代である。「3万円以下で火葬までできる場合も!」と節約マニュアル本も出ている。『DIY葬儀ハンドブック 遺体搬送から遺骨の供養まで』(駒草出版)だ。著者でライターの松本祐貴さんに都内で会ってみた。 「葬儀社の人たちの現場を取材。遺体の保冷庫まで見せてもらいましたが、取材するほど、本当に自分でやるとなると難易度は高いと思いました」  出版は2019年10月。地道に売れ続けているが、読者から体験したという反響はいまのところないという。企画の発案は葬儀社で働いていたことのある編集者によるもの。記者も読めば読むほど「セルフは大変だ」と思った。 「そう思います。だから本の注意書きに、やるには覚悟がいりますと書いたんですよね」  いちばんのハードルは、遺体の処置。体液が漏れ出さないように綿を鼻などに詰めていくのだが、「グイグイ押し込まないといけない。これは心理的にかなりキツイ」と松本さん。 ■本人からが多いDIY葬儀相談  よく「高い」といわれる葬儀料金だが、仕事内容を細かくチェックしていくと、なるほどなあと納得するところもある。そもそも松本さんがこの本を書くことになったのは、父親の葬儀の体験がもとにある。 「ネットの紹介会社に頼んだんですが、あとからいろいろ後悔したんです。父はテレビのカメラマンでしたから、あのとき映像を使って何かしてあげたらよかったとか。初めてのことだけにどうしたらいいか。いろいろ話を聞いてもらえる葬儀社だったら、よかったんでしょうけど」  私事ながら記者も10年ほど前に父の葬儀を体験し、弔いに関わる取材をしてきた。葬儀社選びのポイントを問われると、松本さんが言うように「プランの説明の前に、まず話を聞こうとしてくれるかどうか」だろう。 『DIY葬儀ハンドブック』が出版された当初は、葬儀関係者から否定的な陰口を浴びたりもしたが、なかには好意的な葬儀社もあるもので「DIYをサポートします」という葬儀社があらわれた。鎌倉を拠点とする「鎌倉自宅葬儀社」だ。  名前のとおり、自宅での葬儀を専門とする。「自力葬」と名付けたプラン(税込み5万5千円。数回の電話相談などで完全サポートする)を始めたのは昨年6月から。 色とりどりの生花に囲まれた故人のベッドで、愛犬が眠っている(提供:鎌倉自宅葬儀社)  葬儀コンシェルジュの馬場偲さんを訪ねたところ、「残念ながら実施にいたったケースはまだゼロなんです」という。それでも問い合わせは開始から1年間で40件ちかく。意外というか、ゆくゆくを考えた本人からの事前相談が多いという。 「断念されるのは、やはりご遺体のケア。ひとつひとつ説明しはじめると、じっくり考えてみます、となります」  相談者が家族の場合は、本来の「自宅葬」を申し込まれるそうだ。  じつは、記者の知人で、先のハンドブックが出版される以前だが、DIY葬を実践した人たちがいた。病院で亡くなった後、棺おけと火葬場の予約だけは葬儀社に頼み(火葬場によっては一般からの受け付けは断られることがある)、病院から自宅への搬送も自家用のバンに載せ、2階の寝室にも数人で抱えて運ぶなどした。  故人が舞台演出家だったこともあり、遺族は通夜を「フェス」と呼び、平服で集った知人たちがワイワイガヤガヤと思い出話に花を咲かせる。その場に交じり落語みたいだと思ったが、故人の妻いわく唯一の失敗は「ぽかんと開いたままの口」。気づいたときには遅かったという。「でも笑っているみたいだったから、いいよね」  印象に残っているのは、小さな子供たちによるクレヨンの寄せ書きだった。棺の四方がスキマなく、カラフルな絵や言葉で埋まっていた。  その話をすると、馬場さんが「落書き、ああいいですよね」とニコニコする。馬場さんも過去にそういう葬儀に立ち会ったことがあるという。 ■自分たちで考え見送った充足感 「鎌倉自宅葬儀社」の社員は馬場さん一人。社外のスタッフに協力を仰ぐことはあるが、ドライアイスの交換などは自身が日参する。欠かさないのは「故人のお人柄などを聞かせてください」とヒアリングするなど、遺族との対話を心掛けている。推奨するプランが一風変わっているのは、葬儀にかける日数だ。短くとも3日間。できれば7日間「自宅」で見送りをする。  近年、通夜を省略した「一日葬」が一般化しつつあることを考えると、時流に逆行しているように思えるのだが、「コロナ以降、受注は3倍近く伸びています」という。  シンプルプランで35万円(税別)。7日間が目安のセレモニープランだと85万円(同)。他社と比べそれほど価格は違わない。  しかし7日ともなれば、さすがに「長い」「間延びするのでは」と問い返してみた。馬場さんも「そうなんです」とうなずく。馬場さんは「故人と過ごしながら、何もすることがなくなってくる日常が大事なんです」。家から送りだす「最期の日」をどのようなものにするのか。「故人としっかり向き合い、ゆったりと考えていくことが癒やしにもなっていく」という。  棺に孫たちが色とりどりのクレヨンで言葉や絵を描いていくのもいい。最後の晩餐は故人が好きだったものを家族でこしらえたり取り寄せたりして、昔話に花を咲かせるのもありだろう。 「ペットのいるご家庭でよかったのは、一緒にお別れができたことですね。入院中に会えなかったりして、ホールの葬儀だと家族のような存在ながらお別れができないことが多いですから」  馬場さんが心動いた葬儀の例と話してくれたのは、ドライアイスの交換で訪れたときに、故人を寝かせていたベッドの布団の上で愛犬が眠っていた。 「私もなぜ、お葬式をするのだろうかと考えてきました。葬儀社にぜんぶを任せてしまうのではなく、自分たちで見送ったという充足感が大事なんだと思うようになり、なるべく日常のままにお見送りすることをテーマにするようになりました」  拠点は鎌倉だが、関東近県のみならず名古屋からの依頼にも応じている。 「確実に『自宅葬』の需要は増えてきていると思います。うちと直接のつながりはないですが、全国各地で『○○自宅葬儀社』を掲げる葬儀社も増えているんですよね」  馬場さんは葬儀の仕事をする前に写真を学んでいたこともあり、葬儀の際に家族が集まった写真を撮影させてもらうことが多い。一部を見せてもらったが「おじいちゃんの耳もとで語りかけるひ孫たち」。記念の集合写真にしても、にぎやかな声が聞こえてきそうなくらいの笑みを見せたものが多かった。 (文中カタカナは仮名)※週刊朝日  2022年10月14・21日合併号
【夫婦のお財布事情2000人アンケート】相手の収入を知らない人は16%「聞きづらい」の声も
【夫婦のお財布事情2000人アンケート】相手の収入を知らない人は16%「聞きづらい」の声も ※写真はイメージです(GettyImages)  10月からビール類をはじめ幅広い酒類が値上げされた。食品だけで6500を超える品目が値上げされる見通しで、家計の重荷となりそうだ。そんな「値上げの秋」に家計は耐えられるだろうか。「夫婦のお財布事情」を探るべく、AERA dot.はYahoo!ニュースを通じ「配偶者またはパートナーがいる人限定でお金の管理」についてアンケートを実施し、2000人から回答を得た。(調査は2022年8月17日に実施。対象は対象はYahoo! JAPANユーザー2000人。男女比は6対4、年代は20代が4%、30代が15%、40代が33%、50代が30%、60代以上が17%、その他1%)  夫婦や生活を共にしているパートナーといえども、出会うまでは赤の他人。そもそもお互いの「お財布」事情を知っているのだろうか? まずは「あなたと配偶者またはパートナーとはお互いの収入額を知っていますか?」を聞いてみると、意外にも、お互い全て知っているのは全体の半分以下だった。 お互いの収入額を知っているのは全体の半分以下だった 「お互い全て知っている」と回答したのは46%(男性28%、女性は18%)。「一部知らない」は37%(男性22%、女性15%)。そして、「わからない、全く知らない」は16%(男性9%、女性7%)という結果となった。  この結果に対して、夫婦問題研究家の岡野あつこさんは「いまは相手の収入を知らないという人は多いですよ」と話す。当然だが、その理由のひとつに上がるのは「共働き」が多い現状だ。 「昔は夫が妻に収入を全部預けて、妻が家計を握るというのが一般的でしたが、いまは共働きの人はそれぞれの“財布”を持っている。生活費もそれぞれが出し合い、それも稼ぎの割合で配分を決めている人もいる。夫の稼ぎが多いから夫が生活費を多く出している人、またはその逆もある。家賃は全額自分が払うけど、その他は半分出し合うなど、それぞれの世帯で共働きの人はうまく工夫をしています」 「共働き」の他に、相手の収入を知らない理由は「生活費をきちんと入れてもらっているなど家計管理が問題ないので聞く必要もないと思っている人もいます」と岡野さんは指摘する一方で、これまで3万8000件もの相談に乗ってきた経験から「収入額を聞けばケンカになるという夫婦もいる」という。  アンケートで「収入額を知らない理由、もしくは知りたいと思わない理由」を聞いたところ、岡野さんの指摘する家計像が見えてくる。 「お互いの収入額を知っていますか?」で「わからない、全く知らない」を選択した人たちに「収入額を知らない理由、もしくは知りたいと思わない理由」を聞くと、「家計管理ができているので知らなくてもいい」が最も多く15%(男性9%、女性6%)だった。続いて、「あらかじめ別管理と決めていたため」が8%(男性5%、女性3%)で、「わからない、全く知らない」とはいうものの、家計管理ができていたり、そもそも別で管理を話し合っていたりする様子がうかがえた。その他、アンケートの自由記入にはこんなコメントがあった。 「決められた支出以外はお互いに自由だからです」(40代男性/新潟県) 「自分が家計管理をしていて、相手はさほど金銭にとやかく言わないし、任せられているから」(40代女性/新潟県) 「私は専業主婦なので支払いのすべては主人がしているので、それに義両親の生活の負担も主人の収入から出ているので一切私はわからないです」(60代以上女性/埼玉県)  また少数ながら、「聞いても教えてくれない」が6%(男性3%、女性3%)、「自分の収入額と差があるといやなので知りたくない」が3%(男性2%、女性1%)という回答もあった。  そこにも「このご時世ならではの理由がある」と岡野さんは指摘する。 「いまの賃金形態は、月によって収入が増えたり減ったり変動するケースもある。昔は勝手に給料が毎年増えていったけど、いまは逆に大幅に減ることも多い。増えたときは“こんなに稼いだ”と配偶者やパートナーに伝えるかもしれないけれど、その逆をあえて知らせようとも、聞き出そうともしないのでは? また、非正規雇用だったり、自慢できるほどの収入じゃなかったりする場合もある」  アンケートの自由記入の回答には、「パートナーに聞いたことがあるが、明確な返事がなかったから」(20代女性/大阪府)、「知っても良いことはないから」(40代男性/長崎県)、「聞きづらいのもあるし、あえてお互いに聞かない」(50代男性/広島県)など、夫婦やパートナーといえども、踏み込めないラインが見えてくるようなコメントが少なくない。  では、相手の収入額を知っている・知らないは問わず、家計管理はどのようにしているのだろうか? 「世帯の家計管理で当てはまるものを選んでください」の設問には、「世帯の家計は自分で管理している」が一番多く35%(男性16%、女性19%)で、続いて「世帯の家計は自分以外が管理している」が27%(男性21%、女性6%)と、夫婦やパートナーのどちらかが管理をしている様子がうかがえる。 「世帯の家計は『共同財布』に出し合い管理している」が16%(男性10%、女性6%)、「世帯の家計は費目ごと(食費、住居費、光熱費等)でそれぞれ分担して管理している」が11%(男性6%、女性5%)となった。「世帯の家計管理はそれぞれが別々に管理している」も全体の1割近くの9%(男性5%、女性4%)だった。  家計管理を別々にしていようが、どちらかがしていようが、岡野さんは夫婦円満のために提案したいことがあると言う。それは「『株式会社家庭』を経営していると思ってみる」だ。 「私の近著『夫婦がベストパートナーに変わる77の魔法』の1項目にも挙げたんですが、どちらが社長でも社員でもいいのですが、大切なのは『株式会社家庭』という会社を成長させていく同じ目標を持つこと。目的達成のためには、それぞれの得意なことを生かして、フォローしていく。営業(収入を得る)だけでなく、会社にはその他の仕事(家計管理)もあるので、しっかりタッグを組むことです」  家計管理事情が見えてきたところで、お小遣い制度について見ていこう。世帯の家計管理を自分もしくは配偶者・パートナーのどちらかがしている人に「お小遣い制ですか?」と聞いてみると、回答は「いいえ」が42%(男性25%、女性17%)で、「はい」の38%(男性23%。女性15%)を上回った。それでも、まだ4割近くがお小遣い制で、最も多かった金額は「2万円以上3万円未満」が14%(男性9%、女性5%)で、続いて「1万円以上2万円未満」11%(男性7%、女性4%)だった。「アラウンド3万円」な感じを境に、「必要な時に必要な額をもらう」9%(男性5%、女性4%)、「3万円以上4万円未満」8%(男性5%、女性3%)、「4万円以上10万円未満」7%(男性5%、女性2%)と、お小遣い制とはいうものの「お小遣い富裕層」みたいな人もいるようだ。  そんなお小遣い制だが「不満はありますか?」の設問に「はい」と回答したのは、わずか8%(男性6%、女性2%)。多くの人は現状に不満はないようだ。しかし、不満のある人たちの意見は切実だ! 「あと1万円は欲しいですねぇ」(60代以上男性/神奈川県) 「もう少し金額を上げてほしい」(50代男性/愛知県)  金額アップもそうだが、お小遣い制そのものへの不満も少なくない。 「金額が相手の意向で決められてしまうからです」(40代男性/山梨県) 「自分の稼いだお金を自由に使えない」(60代以上男性/愛知県) 「収入が増えても増えない」(50代男性/岡山県) 「出費が多い月に困る」(40代男性/愛媛県) 「食事代込みで遊興費が足りない」(40代男性/新潟県)  声を拾ってみると、男性からのボヤキが多いのも興味深い。「物価が高い」(40代男性/奈良県)という意見もあり、値上げラッシュのいまは、とくに切実な悩みかもしれない。(AERA dot.編集部 太田裕子)  後編に続く>>【夫婦のお財布事情2000人アンケート】「俺が稼いだ金」「稼ぎが少ない」相手に最も言われたくない言葉は? 岡野あつこ/夫婦問題研究家、パートナーシップアドバイザー。立命館大学産業社会学部卒業、立教大学21世紀社会デザイン研究科修了。1991年に離婚相談室を設立。近著に『夫婦がベストパートナーに変わる77の魔法』(サンマーク出版)。
夫のことが好きすぎて結婚 一緒に夢を見続けるアクティングコーチ夫婦
夫のことが好きすぎて結婚 一緒に夢を見続けるアクティングコーチ夫婦 夫の斉藤敏弘さんと妻の藤原琳子さん(撮影/篠塚ようこ)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年10月10-17日合併号では、女優でアクティングコーチの藤原琳子さん、芸能事務所MPS代表でアクティングコーチの斉藤敏弘さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  2008年、夫46歳、妻37歳で結婚。現在、大型犬3匹と猫2匹と暮らす。 【出会いは?】1997年、夫がアクティングコーチを務める演劇ワークショップに妻が参加して出会う。 【結婚までの道のりは?】ワークショップの指導者と参加者という関係から始まり、2002年に夫がアメリカ公共放送局PBSから依頼された日本の江戸時代を紹介するドキュメンタリードラマシリーズを2人で共同制作したことで親しくなり、03年から交際開始。08年に結婚。 【家事や家計の分担は?】家事は主に夫。夫は、ストレス解消として煮込み料理や風呂掃除をするほどの家事好き。妻は、役作りなどで減量が必要なときのみ料理を担当。家計管理も主に夫。 妻 藤原琳子[51]女優 アクティングコーチ ふじわら・りんこ◆1971年、大阪府出身。大阪芸術大学舞台芸術学科卒業後、新生松竹新喜劇に入団。坂東玉三郎主演公演などの外部作品にも多数出演し2000年に退団。その後、結婚前から夫の作品に出演し、現在は若手俳優の育成にもあたる  夫のことが好きすぎた。これが結婚の決め手です。人や動物に対するとんでもない温かさと、人を育てる才能。演技指導中に、その子が変わる瞬間を絶対見逃しません。  表現って、自分がこうしたいという理想と実際にできる力量とのズレがあるものですが、彼はうまく軌道修正してくれる。あなたの一番の魅力はそれじゃなくて、これでしょ、と。本人も気づかない心の奥底の感情まで引っ張り出してしまう。私もかつて指導してもらった一人で、おかげで所属していた劇団でいい役がたくさんつきました。  彼が「こうしたいよね」というと、無謀なことでも不思議と実現しちゃうのも凄いところ。おかげで“普通の女優”ではなかなかできないような雑木林の中や棚田、零下15度の豪雪地帯で大きな火柱が立つ前で演じるという貴重なキャリアを積めました(笑)。  一緒に夢を見続けられるのも結婚してよかったと思うこと。今の夢は、うちに所属する約20人の子たちを世界で通用する俳優にすることです。 夫の斉藤敏弘さんと妻の藤原琳子さん(撮影/篠塚ようこ) 夫 斉藤敏弘[60]芸能事務所MPS代表 アクティングコーチ さいとう・としひろ◆1962年、山形県出身。中央大学法学部法律学科卒業後、映像制作や俳優マネジメントを行う会社に入社し、2002年副社長に就任。08年独立。16年に芸能事務所の立ち上げを任され、19年に事業譲渡を受けて現職に就く  本当にいい女優だ。2001年2月に、私が演出した舞台に初めて主演してくれた妻を見てそう痛感したことを今でもよく覚えています。  2年後に付き合いだして制作にも関わってもらったことで、ビジネスパートナーとしての信頼関係ができました。私が前職会社の副社長を、社長の不正を追及したことで解任され、すべてを失ったときは、妻が住む家や起業の手配を進めてくれました。生活、いや人生を立て直すことができたのは妻のおかげです。  法人化してすぐにコロナに見舞われても、妻は攻めの姿勢を崩さず、オンラインでの稽古をしながら、対面稽古の再開に注力しました。金融機関から融資を受けて、所属俳優たちに休業補償を払い彼らの生活を守ることも、彼女が率先してやってくれました。  妻がいなかったら所属俳優との絆も深まらず、会社を存続できなかったかもしれません。“人の運”が強く、仕事仲間から生涯の友になるような最高な方々を呼び込んでくれるのも妻のおかげです。 (構成・茅島奈緒深) ※AERA 2022年10月10-17日合併号
「岸井ゆきの」が“クセ強すぎる”のに重宝されるのは圧倒的な「本物感」
「岸井ゆきの」が“クセ強すぎる”のに重宝されるのは圧倒的な「本物感」 岸井ゆきの  女優の岸井ゆきの(30)の快進撃が止まらない。9月23日から公開中の映画「犬も食わねどチャーリーは笑う」で主演・香取慎吾の妻役を演じて話題となっているが、本作を含め今年だけで映画5本、ドラマ4本に出演している。  10月16日スタートの注目ドラマ「アトムの童」(TBS系)ではメインキャストとしてヒロインを務めることも決定。さまざまな作品に引っ張りだことなっている岸井とは、一体どんな女優なのだろうか。  高校を卒業する直前、山手線内でのスカウトをきっかけに芸能界入りを果たした岸井。上京当初は、できるだけ舞台に足を運びたいと、チケット代を稼ぐためにアルバイトを3つ掛け持ちしていたこともあったという。この頃について、「『レ・ミゼラブル』を見るならなるべくいい席で、キャストを変えて何度も見たい」「映画もレンタルではなく、映画館で観たい」と語っており、若くてお金がなかったのに「精神だけはブルジョア」だったとインタビューで語っている(「婦人公論.jp」9月20日配信)。 「彼女の自然体なのに深みのある表現力は、数多くの舞台や映画を熱心に見てきた蓄積もあると思います。『パンドラの果実~科学犯罪捜査ファイル~』で見せた、有能ながらプライベートでは寝ぐせも気にせぬ天才科学者役や、『#家族募集します』での6歳の男児を育てながらシンガー・ソングライターを目指すシングルマザー役も評価されました。さらに『恋せぬふたり』で演じた、恋愛を前提としたコミュニケーションになじめず、自身がアロマンティック・アセクシャル(他者に恋愛感情と性的感情を抱かない人)かもしれないと気づく女性の役は、クセが強めのキャラでしたが岸井さんはうまく演じ切った。非現実的な人物像でも、細やかなしぐさや表情、視線の配り方などを駆使した丁寧な演技により、視聴者に『こんな人もいるかも』と思わせてしまうところがすごい。脇役だったとしても思わず見入ってしまう“本物感”があるんです」(テレビ情報誌の編集者)  岸井自身、「ORICON NEWS」(2021年1月11日配信)の取材に「お芝居をする上で、番手や役の大小で、向き合う気持ちを変えることは絶対嫌なんです」と答えている。物語の中では少ない出番かもしれないが、その人にも必ず人生があるというのだ。脚本家も、不要な人物を書くことはないから、「役に失礼のないようにしっかりまっとうしたい」という気持ちなのだという。「どんなにウザく見えるキャラクターでも、演じる私だけは味方になってあげたいという思いで向き合っています」という言葉から、彼女の演技に対する真摯な姿勢がうかがえる。 ■リアルすぎる演技でCMが放映中止に  その細やかな演技が話題となりすぎて、CMが放送中止になるという珍しい“事件”もあった。 「2014年に放送された東京ガスのCMで、就職活動の厳しさに押しつぶされそうになる学生を演じ『リアルすぎる』と炎上して放映中止になったこともありました。それほどの影響力がある彼女の演技は、強いこだわりや理想像が根底にあるのでしょう。所属事務所も安藤サクラや門脇麦のいるユニマテで、クセの強い個性派ぞろい。周囲の環境も彼女の演技に影響を与えているのだと思います」(同)  10月10日放送のオムニバスコント番組「LIFE!秋」(NHK)では、コントにも挑戦する岸井だが、共演した内村光良も絶賛しているという。さらに12月公開予定の映画「ケイコ 目を澄ませて」では、耳が聞こえないプロボクサー役を演じる。こちらも予告編が公開されるや、「今年一番見たい映画」「予告編だけでも感動した」との声がSNSで相次いだ。  ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、岸井の演技と今後についてこう分析する。 「どんな役を演じても存在感が確かで半端なく、確実に視線が止まる。それでいて悪目立ちせず、リアリティーを感じさせる彼女の演技は、作品世界の雰囲気を引き締める重要なピースの一つであることは間違いありません。テレビドラマでは、『モンテ・クリスト伯』の大学院生役や、『やけに弁のたつ弁護士が学校でほえる』の新人教師役など、すでに4年ほど前からその存在は目を引いていました。今年に入って『恋せぬふたり』『パンドラの果実』と、主演やヒロインを連投したのも当然の流れと言えるかもしれません。これから先、ますますドラマや映画の中心人物として起用されていくことでしょう。地に足のついた、人物の感情や思いがしっかり『伝わる』演技とともに、これからも活躍し続けてほしいですね」  次世代の演技派女優の筆頭として、岸井の活躍は今後ますます注目されるだろう。(高梨歩)
新・NHK朝ドラ「舞いあがれ!」開幕 朝ドラウォッチャーの期待を上げる“脚本家と大阪放送局”の存在
新・NHK朝ドラ「舞いあがれ!」開幕 朝ドラウォッチャーの期待を上げる“脚本家と大阪放送局”の存在 「舞いあがれ!」でパイロットを目指すヒロイン・岩倉舞を演じる福原遥。学生時代、朝ドラから元気や勇気をもらっていたという photo(c)NHK  沖縄を舞台にした「ちむどんどん」が終わり、「舞いあがれ!」が開幕。今度の舞台はものづくりの町・東大阪と、自然豊かな長崎県五島列島だ。AERA2022年10月10-17日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  9月30日に本編最終回を迎えたNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」。「9月27日放送の回、号泣」と話すのは、朝ドラ好きの女性。草刈正雄さん演じる大里五郎が、沖縄の比嘉家を訪れ、優子(仲間由紀恵)に、40年前の沖縄戦の際、優子の姉・時恵を看取ったことを語る。ひどく負傷し、小屋に身を隠していた時恵は、幼かった五郎に小さなおにぎりをあげた。時恵は亡くなる前、水を欲しがる。しかし五郎は、明日からのことを考え、水はないと嘘をつく。 「ちむどんどん」/ ふるさと沖縄の料理に夢をかけたヒロイン(黒島結菜)と、支え合うきょうだいの歩みを描く50年の物語。4月11日から9月30日まで放送 photo(c)NHK 「草刈さんが泣きながら告白する演技に圧倒されました。でももっと早く、こういうシーンが出てきてもよかったのでは……」と女性。同様の声は、SNSでも少なくなかった。  第2次世界大戦の沖縄戦を描いた映画「島守の塔」の脚本家、柏田道夫さんが言う。 「沖縄の本土復帰50年を記念して沖縄を舞台にしたわりには、その意味があまり感じられないのが残念でした。基地問題や米軍との関係などは朝ドラで触れにくかったのかもしれません。しかし、沖縄戦の遺骨収集の話もチラッと出てくる程度で中途半端でしたし、復帰時の混乱や、沖縄の人が本土復帰をどう捉えたかなど、もっと観たかった。沖縄の人の感覚や風土が伝わってきた『ちゅらさん』(2001年)とどうしても比較してしまい、『なぜ今回は?』と思いました」  芸能ライターの山下真夏さんは、ヒロインの暢子役、黒島結菜さんに着目。 「朝ドラは長丁場なので、ヒロインを演じた俳優さんは通常、次回出演作まで間を置きます。しかし黒島さんは10月スタートのTBS系ドラマ『クロサギ』のヒロイン役を務める。こんなにすぐなのは異例で、だからこそ、芸達者な黒島さんが、批判も多かった暢子役をどう払拭し、どんな顔を見せてくれるか。楽しみです」 「舞いあがれ!」/舞台は1990年代から現代。ものづくりの町・東大阪と自然豊かな長崎・五島列島で様々な人との絆を育みながら、空を飛ぶ夢へ向かって奮闘するヒロインを描く。「連続テレビ小説」第107作。10月3日から放送中 photo(c)NHK ■「空」に憧れるヒロイン  10月3日から始まったのが、福原遥さん主演の「舞いあがれ!」。ものづくりの町、東大阪と、自然豊かな長崎県五島列島が舞台。ヒロインの岩倉舞は、幼い頃から引っ込み思案な性格。祖母が暮らす五島列島を訪れ、五島に伝わる民芸品「ばらもん凧」をきっかけに「空」に憧れるようになり、やがてパイロットを目指す。朝ドラ脚本に初挑戦する桑原亮子さんのオリジナル作品だ。前出の山下さん、そして『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』の著者、田幸和歌子さんともに開口一番「桑原さんに、めちゃくちゃ期待!」。 「『彼女はすごい』という噂はかねてから耳にしていました。人の心の機微を繊細に丁寧に描く。初めて連続ドラマの脚本を担当したNHK土曜ドラマ『心の傷を癒すということ』には胸を打たれました」(山下さん)  田幸さんも、「心の傷を~」に魅了された。 「朝ドラに限らず近年のドラマの傾向として、ナレーションやセリフで説明をつけようとするきらいがある。ところが桑原さんはそれをしない。言葉の紡ぎ方、削り方が見事。ご本人が難聴の悪化から『書く仕事』に進まれたこと、歌人でもあることが関係しているのかもしれません」(田幸さん)  脚本は桑原さんに加え、「エール」(20年)の脚本も担当した嶋田うれ葉さん、19年に創作テレビドラマ大賞を受賞しNHKで放送された佃良太さんが担う。3人体制は「エール」以来だ。  山下さんと田幸さんで一致した見どころポイントがもうひとつある。それは、NHK大阪放送局制作であること。ドラマ好きの間では、NHK大阪放送局制作の朝ドラは優れている、というのがほぼ常識。脚本チームがうまく連携し、さらにプロデューサー、演出との連携がうまくいけば、素晴らしい作品になること間違いない、と2人が太鼓判を押す。 「いろんな意味でメディアに頻繁に取り上げられた『ちむどんどん』のような派手さはないかもしれません。また、『舞いあがれ!』の良さが多くの人に認識されるのは、SNSで評判がじわじわ広がった物語中盤くらいかもしれません。でも、私は1話から見逃したくないですね。最初から観ることを、強くお勧めします」(田幸さん)  舞台の一つ、五島列島についても言及したい。五島列島の最南端、五島市は最近移住先として注目を集めており、18年以降、4年連続で年間移住者が200人超え。20年11月に愛犬と移住した岐阜県出身のホワイト美佳さんはインバウンドマーケティングの会社の代表で、国内外を飛び回っている。「自宅から福江空港まで車で10分、福岡空港までは飛行機で40分。福岡空港からは国内はもちろん海外へも飛行機が飛んでいる。まったく不便は感じません。バカンスしながら仕事できて最高」(ホワイトさん) photo(c)NHK ■五島の海は「想像以上」  大手企業を早期退職し千葉から妻と移住した「釣り体験民泊みさき丸」の松本隆三さんは「景色の美しい島はたくさんあるけど、大型スーパーや総合病院、複数の各種クリニックが揃っていて、インフラが整っている島はそうはない。五島は釣りの聖地とも呼ばれていて、釣り好きにはたまらない地」。松本さんを追って、息子夫婦、そして息子さんの妻の妹も移住。 「五島ごと芋」の冷凍焼き芋などを取り扱う会社「ごと」の安達真美さんも、21年から五島暮らし。海のきれいさは想像以上で「感動しかない。せかせかしない、本来の生き方ができているように思います」。  五島でのワーケーションの企画・運営を担う「一般社団法人みつめる旅」代表理事の遠藤まめこさんが言う。 「今回、朝ドラで取り上げられることで、五島の魅力が広まればと、五島のみなさんも盛り上がっています。個人的にアピールしたいところでは、五島で生産しているお米がつやつやしていて本当においしいんです。五島牛も五島ワイナリー醸造ワインもぜひ味わってほしい。『舞いあがれ!』の放映が始まる秋は、五島のベストシーズンです」 photo(c)NHK ■“芋たこロス”の人も “おまけ”として、田幸さんから一言。 「“芋たこロス”の人も、『舞いあがれ!』を」  06年放映の朝ドラ「芋たこなんきん」がBSプレミアムで再放送。作家の田辺聖子さんの半生と数々のエッセイ集がベースで、当時47歳の藤山直美さんが主演。06年には話題にならず、DVD化もされていなかったが、再放送でファンになった人が9月17日の最終話以降、嘆きの声をSNSで上げているのだ。 「『芋たこ』と『舞いあがれ!』はどちらもNHK大阪放送局制作。『舞いあがれ!』の予告を見ていたら、『芋たこ』で火野正平さんが着けていたタコのエプロンが出てきたんです。『芋たこ』の“浪速大学附属病院”と、『舞いあがれ!』の“なにわバードマン”も関連がありそう! そんなドラマ好きをうまくくすぐってくれるシーンがところどころある。朝ドラオタクほど楽しめます」(田幸さん)  明日から、朝はテレビの前に正座か。(ライター・羽根田真智)※AERA 2022年10月10-17日合併号
世帯年収1000万円の夫婦「私立中学に子ども2人行かせて大丈夫?」FPの答えは
世帯年収1000万円の夫婦「私立中学に子ども2人行かせて大丈夫?」FPの答えは ※写真はイメージです(GettyImages)  年収1000万円、貯金も1500万円あるという夫妻から「年子の子どもたちに中学受験させたい」と相談を受けた筆者。「収入は少ないほうだと思わないし、生活にゆとりがあるから大丈夫」と言われるので、改めて家計の状況をチェックしてみることに。子どもたち2人を私立に行かせたらいくらかかるのか?その答えは……。(家計再生コンサルタント 横山光昭) 中学受験にはメリットが多い  コロナ禍がきっかけかどうかはわかりませんが、最近、お子さんに「中学受験」をさせたいというご家庭が増えています。高校、大学までエスカレーター式だと、学生時代は好きなことをさせられるからという人もいますし、私立はコロナ禍のような事態になっても対応がしっかりしている、グローバルな視点で教育が受けられるなど、メリットを話される方が多い印象です。  教育費の無償化が徐々に広がっていますが、小学生、中学生は義務教育であるというところから、無償化の対象外。私立学校に通うとなれば、その学費は自己負担しなくてはなりません。かけないで済む学費でもあるため、私立に行くと決めるならば、きちんと準備して臨みたいところ。そこを意識しているご家庭ももちろんあるのですが、中には先のことを考えないまま、行き当たりばったりの発想で受験を決めるご家庭もあります。 小学4年、5年の子どもたちを中高一貫私立校に通わせたい  数か月前にご相談に来られたCさんご夫婦は、夫(48)が会社員、妻(45)は専業主婦です。夫の年収は1000万円ほどあり、相談時の貯金は約1500万円。「収入は少ない方だとは思わないし、生活にゆとりがある」とも感じているので、小学4年生と5年生の年子のお子さん二人を、中高一貫の私立学校に通わせたいと考えているのだそう。  大学付属校に進学できれば、自由に好きなことをしながら大学まで行かせられるだろうし、その子の個性や特性を伸ばしてあげられる。良い環境を与えられれば、良い教育を受けさせられる。そう思って大学付属中学受験を希望されているそうです。  お子さんの教育についてはご家庭それぞれの考えがあるものですし、それができるようにやりくりができるのであれば、問題ないのかもしれません。ただ、家計的な準備をしていないのに、希望だけが先走ってしまうと、将来的に行き詰まってしまう可能性があります。資金不足になり、教育費を払うためにローンに頼ったり、奨学金を検討したりしなくてはいけない、さらには老後資金が作れなくなるなどの影響が考えられるのです。 家計をよく見ると赤字なのに……  実際のCさん夫婦の家計状況を改めて見てみると、毎月5万円ほどの赤字家計。夫の手取り収入は毎月40万円ほどありますが、支出は45万円ほどになってしまう状況です。支出が多い原因を探ると、食費、妻の美容代・洋服代、加えて夫のこづかいとは別にかけている交際費。これらが負担となり、現在のところは赤字になっていました。  この赤字は、ボーナスで補てんしています。貯金が1500万円ほどあっても、毎月のやりくりがこういう状況であれば、安心できる家計とはいえません。ですがご本人たちは貯金に加え、「年間の収支」では30万円前後黒字となることから、現状でもゆとりがあり、子どもたちを私立中学校に通わせても問題ないと思っていたようです。 子どもが2人中学受験をしたら、いくらかかるのか  ただ実際には、ご夫婦が思っているよりもかなりお金がかかるはずです。  まず、受験するには、塾に通うことになるでしょう。また、私立中学校に入学した後は、年間100万円前後の授業料等がかかります。それを少なくとも3年間、支払っていかなくてはいけないのです。しかも年子ですから、二人とも私立に入学すると、中学校のうち2年間は倍の学費がかかります。今のままでは、家計の赤字はますます大きくなるでしょうし、年間の黒字も赤字に転換。貯金はかなりのスピードで減っていくだろうと思われます。  高校には私立高校の授業料無償化制度があるので、もしその対象になれるのであれば、上のお子さんが高校に進むと、少し負担は軽減されます。しかしこの制度を使えるのは、都内では年収910万円まで(両親と中学生、高校生の4人家族の場合)。今のCさんの年収では所得制限に引っかかってしまい、その制度を利用できません。  制度を利用することよりも、家計を上手くコントロールして学費の捻出ができることが目標となるので、妻が働くことを選択してもよいのですが、「子どものサポートのために、働くことは考えていない」とのことでした。 子どもたちを私立中学に入れるためには、支出削減が必須  希望通りにするには、支出を小さくして、貯金をしながら学費を積み立て、かつある程度満足した生活ができるようなコントロールをすることが必要です。さらに、妻も働いてしっかり収入を得ることも効果的でしょう。ですが、支出はおおむね「必要なもの」であり、極端に削減するのは難しいようですし、支出削減のために生活習慣を変えるのは相当なストレスである、(妻が)働く気はないということでした。しかし、今のままで希望を叶えたいというのは、無理があります。  何とかお子さんの私立に進学というご希望をかなえられ、老後資金の準備もしていけるようになっていただきたいのですが、「教育」「私立進学」にこだわるだけで、支出の改善にはなかなか本気で目を向けられないようです。  今のままでは、お子さんが6年生になった時、「やはり中学受験はやめた、校区内の公立に通うことになった」という報告を受けるのではないかと危惧しています。今後どうするのか、広い視野で俯瞰していただきたいところです。 横山光昭家計再生コンサルタント よこやま・みつあき/家計再生コンサルタント、株式会社マイエフピー代表。お金の使い方そのものを改善する独自の家計再生プログラムで、これまで1万人以上の赤字家計を再生。書籍・雑誌への執筆、講演も多数。著書は55万部を超える『はじめての人のための3000円投資生活』や『年収200万円からの貯金生活宣言』を代表作とし、著作は累計270万部となる。また、お金の悩みが相談できる店舗を展開するmirai talk株式会社の取締役共同代表も務める。
「吉永小百合から、大泉洋は生まれない」 山田洋次監督作品で“親子”共演
「吉永小百合から、大泉洋は生まれない」 山田洋次監督作品で“親子”共演 「正直申し上げて、あの吉永小百合さんから、大泉洋は生まれない。私もそう思います」  大泉洋本人はそう語り、笑った。  吉永小百合の出演最新映画が発表された。山田洋次監督がメガホンを取る「こんにちは、母さん」(来年9月1日公開予定)。吉永にとってこれは出演123作目にあたり、山田監督にとっては90本目。日本映画界の超重鎮がタッグを組む作品で、吉永演じる「母さん」の息子を大泉がやるのだ。テンションが高くなるのも無理はない。  原作は日本を代表する劇作家・永井愛氏の同名戯曲で、2007年にはNHKでドラマ化もされた人気作。今作では舞台は現代の下町に移されている。  大泉演じる昭夫は、大会社の人事部長として日々神経をすり減らすうえ、妻との離婚問題や大学生の娘との関係に頭を悩ませる。そこで久しぶりに母親が暮らす東京下町の実家を訪ねると、いつも割烹着を着ていた母さんが、艶やかなファッションに身を包んでいる。どうやら恋愛をしているようで…。  山田監督は、2001年に新国立劇場で観劇して大変気に入り、映画化を検討。その際は実現しなかったが、昨年、吉永と会ったときこの原作を思い出し、現代に置き換えれば吉永を主演とした映画ができると思い、オファーをした。  一方、大泉の起用については、以前、山田監督が脚本を担当したドラマ「あにいもうと」に大泉が出演したことが縁となった。同作での演技や、普段の活躍、チームナックスの舞台などを観て、これまで演じたことのないような下町の元気な女性に挑戦する吉永の息子役は、大泉しかいないと思ってオファーをしたという。  山田監督は、 「隅田川沿いの下町、古びた家並みの向こうにスカイツリーが高々とそびえる向島にカメラを据えて、この江戸以来の古い町に暮らす人々やここを故郷として行き来する老若男女たちの人生を、生きる喜びや悲しみを、スクリーンにナイフで刻みつけるように克明に写し取り、描き出したい」  と意気込みを語る。  さて吉永と大泉だが、初顔合わせは撮影開始の3カ月前となる6月下旬だった。  初対面の場でも「吉永小百合さんからは僕は生まれない」と繰り返す大泉のトークに、吉永と山田監督は大笑い。すぐに、初対面とは思えない、まさに親子のような軽快な会話が始まった。その後、吉永は「本当の親子に少しでも近づけるように」と、大泉に幼少期から青年期くらいまでの写真をいただきたいとお願いしたという。  ところで筆者は以前、山田監督・吉永主演の「おとうと」(08年公開)撮影現場で密着取材をしたことがある。  撮影がひと段落して、セットの縁側で二人に座っていただいてインタビューすることに。その模様を撮影しようとしたカメラマンは、光量が足りないと感じたようだ。カメラマンの動きからそれと気づいた山田監督は、照明係りに目配せ。するとスタッフが動き出し、たちまち叙情的な明かりが縁側の二人を照らした。  山田組一人ひとりの細やかな動きは、俳優たちのストレスを軽減し、心地よさを感じさせるのだろう。そのうえでの山田監督の演出だ。「おとうと」では、弟役の笑福亭鶴瓶ものびのびと演技をし、吉永と本当の姉弟のような関係が生まれた。  大泉は今作の抱負として、 「役の重責に押しつぶされそうではありましたが、リハーサルで、山田監督の力強くも細やかな演出を受け、海より深い愛情を湛えた吉永さんの母親としてのお芝居を目にし、今は感謝と、喜びと、期待でいっぱいであります。吉永小百合さんから大泉洋は生まれないと思わせない山田監督の演出、吉永さんの演技。映画とは偉大だと改めて感動しております。今や私は吉永さんの息子としか思えません」  とテンション高く語る。それを受けて吉永は、 「山田学校に再入学し、原点に戻って、監督の思いをしっかり受け止められるよう、努めます。大泉さんとは初めてなので、ちょっと心配でしたが、明るくて、優しくて、リハーサルのときから励まされています。素敵な親子になりたい……なります!」  山田監督のもと、ニ人の間にどのようなケミストリーが起きるだろうか。 (本誌・菊地武顕) ※週刊朝日オリジナル記事
さらば闘魂アントニオ猪木 ジャンル飛び越えた規格外のカリスマ
さらば闘魂アントニオ猪木 ジャンル飛び越えた規格外のカリスマ 東京・日本武道館で行われたアリとの「世紀の一戦」(1976年6月26日)  元プロレスラーで参院議員を2期務めたアントニオ猪木(本名・猪木寛至)さんが10月1日、79歳で亡くなった。「元気ですか!」のかけ声や「闘魂ビンタ」で引退後も沸かせ、金銭スキャンダルなどでも世間を騒がせた、規格外のスターだった。  猪木さんの悲報が伝わると、かつてのまな弟子たちがSNS上に次々と追悼コメントを寄せた。 <やっと解放されましたね。リングを降りても貴方は闘魂アントニオ猪木でした。まさに闘魂そのものでした。猪木さんどうか安らかに>(長州力さん) <我がスーパーヒーロー、アントニオ猪木が亡くなったとの一報が入った。ついにこの日が来たか、猪木さんが逝ったんだ。まだなんとも言えぬ気持ち。心よりご冥福を祈りします>(高田延彦さん、いずれも自身のツイッターから)  近年は全盛期の雄姿とはほど遠い姿をカメラにさらし、難病と闘う姿を自身のYouTubeなどを通じて発信。その姿を追ったドキュメントがNHKの地上波でも放映され、大きな反響を呼んだ。  そんなレスラー猪木のハイライトは何と言っても1976年6月26日、東京・日本武道館で行われたボクシング世界ヘビー級王者、モハメド・アリとの一戦だろう。猪木・アリ戦の真実に迫った『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)の著者でノンフィクションライターの柳澤健さんが言う。 「猪木さんにとって一番大事な試合がアリ戦です。猪木さんは、力道山が始めて、馬場さんがアメリカンプロレスを持ち込んで大きくした日本のプロレスを、決定的に格闘技のようなものに変えてしまった偉大なるプロレスラーでした。その契機となったのがアリ戦だったと思います」  ともに力道山に師事し、同じ日にプロレスデビューしたジャイアント馬場さんが72年10月に立ち上げた全日本プロレスは、空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒していった力道山の勧善懲悪スタイルを継承。日本テレビがゴールデンタイムで毎週放映したこともあり、安定した人気を誇った。   二人三脚で新日本プロレスを支えた当時の妻・女優の倍賞美津子さん(左)と(82年)  これに対して同じく72年の3月に旗揚げ戦を行った新日本プロレスは、強豪外国人レスラーの招へいルートを全日本に押さえられ、テレビの定期放映もつかず、旗揚げしてしばらくは苦戦を強いられた。  その中で猪木さんは力道山時代にはご法度とされた日本人対決、さらにはアリ戦をはじめとする異種格闘技戦を積極的に開催。戦いの要素を前面に押し出した「ストロング・スタイル」で、ショー的要素が強いとされた全日本との差別化を図った。この巧みなマーケティング戦略によって新日本は80年代前半、爆発的な人気を獲得する。   元「週刊プロレス」記者のスポーツライター・市瀬英俊さんは、こう語る。 「馬場さんの基本的な考えが『プロレスはプロレスである』というものだったのに対して、猪木さんはそれまでの常識を打破することで、プロレスを世間に認めさせようとした。『キング・オブ・スポーツ』であるべきだとして、さまざまなチャレンジもした。そうした開拓者精神は後に続くプロレスラーだけでなく、多くの若者にも大きな影響を与えたと思います」  先の柳澤さんは「異種格闘技戦というものはボクシングとプロレスが戦うわけで、プロレスというものは格闘技であると猪木さんは言うわけです。現実とは違うわけですけど。結末の決まったエンターテインメントであるプロレスを格闘技と言い張って、その幻想を多くの人が信じた。それは、アントニオ猪木さんのプロレスラーとしての魅力がとんでもないものだったからです」と話す。  ルール問題などで紛糾し、一時は実現が危ぶまれたアリ戦。全世界に中継されたものの、がんじがらめのルールで動きを制限された猪木さんはアリのパンチを警戒し、リングに寝そべった状態でキックを繰り出す単調な展開に終始。試合は15ラウンド引き分けとなり、当時のメディアに「世紀の凡戦」と酷評された。   東京ドームで現役を引退。最後のリング上で(98年4月)    アリへの莫大なファイトマネーの支払いで多額の借金を背負い、窮地に陥った猪木さんだが、新日本はその後、黄金期を迎える。猪木さんは“熊殺し”の異名を取った極真空手のウィリー・ウィリアムスらとの異種格闘技路線を推し進め、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンといった外国人選手らと熱闘を繰り広げた。  また、初代タイガーマスクの華麗な空中殺法や「名勝負数え唄」と呼ばれたまな弟子、長州力と藤波辰巳(現辰爾)の日本人ライバル対決などを、当時テレビ朝日の若手アナウンサーだった古舘伊知郎さんが伝えた。  引退後の猪木さんは総合格闘技のイベントにも深くかかわり、柔道メダリストから転向した小川直也らを育てた。90年代以降、多様なバックボーンを持つ格闘家が戦う総合格闘技というジャンルが認知され、観客の目も肥えてくる。  総合格闘技で、打撃系と寝技系の選手の試合などで往々にして起こる膠着状態は「猪木アリ状態」と呼ばれ、アリとの一世一代の真剣勝負は、総合格闘技の原点とも言える戦いと再評価されたのだった。  アリ戦が当時は酷評されたことについて柳澤さんは、「世界ではボクシング記者が多いわけですから、それは当然だったと思います」と言う。 「アリの取材をしているボクシング記者にとっては、あの試合は非常にくだらないものになる。日本のインテリも欧米のマスコミに追随して、あれはくだらない試合なんだと。しかし現在のメイウェザーvs.朝倉未来の試合に至るまで、日本人が好きなのは総合格闘技ではなくて、猪木さんがつくり出した異種格闘技戦だった。我々はいまだに猪木さんが76年につくり出した世界観の中にいるんじゃないでしょうか」  猪木さんが立ち上げた新日本は今年、創立から半世紀を迎えた。テレ朝時代に中継を担当し、闘病中も頻繁に自宅を訪れていたという古舘さんは1日、猪木さん宅を弔問に訪れた。 師匠である力道山の故郷、北朝鮮で売られていた切手。95年に平壌でプロレスイベントを開催し、2日間で30万人以上を動員した 「感謝しかないですね。猪木さんのいなくなった世界はとても寂しいですと言いました」  そう神妙に語った。 燃える闘魂・アントニオ猪木の歩み 1943年2月20日 横浜市鶴見区で生まれる 1956年      母親、祖父、兄弟らとブラジルへ渡る 1960年4月        サンパウロを訪れていた力道山にスカウトされて日本プロレス入団 1960年9月        大木金太郎を相手にデビュー。永遠のライバル、ジャイアント馬場も同日デビュー 1971年      日プロとの確執から追放処分に。11月、女優・倍賞美津子と結婚(87年に離婚) 1972年1月        新日本プロレスを設立。80年代を中心にブームを巻き起こす 1976年6月        モハメド・アリと対戦し引き分け。「世紀の凡戦」と酷評される 1989年      スポーツ平和党を結成、参院議員に初当選。10月、暴漢に襲われ左頸部などを負傷 1990年12月      フセイン政権下のイラクで「平和の祭典」を開催。在留日本人と人質の解放にこぎつける 1991年      東京都知事選に一度は立候補を表明するも辞退 1995年      北朝鮮・平壌でプロレスイベントを開催。2日間で30万人以上を動員 1998年4月        東京ドームで現役引退。セレモニーには盟友アリが駆けつけた 2013年7月        日本維新の会から参院選に立候補し当選(比例区)。18年ぶりに国政復帰 2017年10月      両国国技館で自身の生前葬を開く 2019年6月        参院選に立候補せず引退の意向を表明 2020年7月        難病「心アミロイドーシス」を告白 2021年11月      正式な病名が「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」と公表 2022年10月1日  心不全のため自宅で死去
ラオウ演じた内海賢二の素顔と「声優黎明期」 「顔出しNG」だった時代も
ラオウ演じた内海賢二の素顔と「声優黎明期」 「顔出しNG」だった時代も 内海賢二さん  2013年、75歳で世を去った声優の内海賢二さんの人物像に迫る映画が公開される。内海さんの駆け出し時代を知る「レジェンド声優」は、まだ声優が「裏方」扱いだった黎明期から現在までの、目覚ましい時代の移り変わりを語る──。 *  *  * 「北斗の拳」のラオウ、「Dr.スランプ アラレちゃん」の則巻千兵衛、「魔法使いサリー」のサリーちゃんのパパ、そして洋画でのスティーブ・マックイーンやジャック・ニコルソンの吹き替え……内海賢二さんは、さまざまな“声”でお茶の間に親しまれた。  9月30日公開の映画「その声のあなたへ」は、新人ライターが内海さんゆかりの声優やスタッフに話を聞いていくドラマ仕立てのパートを盛り込みながら、その人物像を浮き彫りにするドキュメンタリー。作品には内海さんの妻で「サザエさん」のワカメちゃんや「ドラえもん」のしずかちゃんの役をつとめた野村道子さんをはじめ、野沢雅子、神谷明、戸田恵子、山寺宏一、水樹奈々などの豪華声優が「証言者」として登場。声優界全体の歴史やあり方についても語られていく。 「『お世話になったから、恩返しのために』と、みなさん本当に快く出演を引き受けてくださって。そこは父の人徳だったのかなと思います」  と、作品にも登場する内海さんの息子で、内海さんが設立した声優事務所・賢プロダクションを受け継いだ内海賢太郎さんは語る。 「明るく豪快なイメージの父ですが、一方で謙虚でもあり、生前には自伝の話を断ったこともありました。父が生きていたら映画なんて絶対嫌だと言っていた気がします(笑)。父の世代は、声優というと裏方意識というか、メインストリームに出る花形役者とは別物という感覚があったようですからね」(賢太郎さん)  ラオウとしずかちゃんの声が響く家庭で生まれ育った賢太郎さんは、少年時代をこう振り返る。 「遊びに来た友達に、母がふざけてしずかちゃんの声で呼びかけて、ビックリされていましたね。当時、野沢雅子さんもご近所で、時々いらっしゃいました。『Dr.スランプ』が始まったときには『お前のお父さん、スケベだな』と言われていたのに、『北斗の拳』のラオウが出てくると、『親父さん、強いな』と変わった(笑)」 内海賢太郎さん  そんな内海さんを「ケン坊」と呼び可愛がってきた声優が、柴田秀勝さん(85)。60年以上のキャリアを持ち、今なお現役。「タイガーマスク」のミスターXや「マジンガーZ」のあしゅら男爵など、また特撮作品で何度も悪のボス格を演じた“レジェンド”だ。二人が出会ったのは1960年のことだ。 「『やたら声のいい男が九州から出てきたから、面倒みてやってもらえないか』と知人に言われたんです。ケン坊はボストンバッグ一つだけ持って現れてね。住む所もお金も仕事も全く考えていないと言うから呆れました」  内海さんは、柴田さんが現在も経営する新宿ゴールデン街の会員制バーに住み込みで働きながら、映画の吹き替えや劇団の舞台など、俳優のキャリアをスタートさせた。 「当時は、『声優』という言葉すら普及していませんでした」(柴田さん)  声優専門のプロダクションもあまりなく、大山のぶ代、野沢雅子といった、後に“レジェンド”と呼ばれるようになる声優の多くが俳優・役者としてキャリアを始めた。 「当時は声の仕事はどこか裏方のような存在で、劇団に所属している役者のアルバイト感覚の面もあった。アニメ作品ではキャラクターのイメージを崩してはいけないからと、顔出しもあまりしなかった時代です。大きなスタジオにBGMを担当する演奏者、靴音や風の音を担当する音響効果の人などと一緒に入って大勢で収録していました」(同) 柴田秀勝さん  柴田さんの元に転がり込んだ内海さんも、役者を目指して上京してきた若者の一人だった。 「収入が必要だろうと、キャバレーの照明の仕事を紹介して。そうこうするうちに外国映画の吹き替え番組がテレビで始まるというので、お前、ちょっとやってみろと」  状況が一変したのは、74年に「宇宙戦艦ヤマト」のテレビシリーズが大ヒットしたときだ。 「『ヤマト』がブームになって、子供向けと思われていたアニメに、大人も楽しめるような物語がどんどん作られるようになりました」  同時期にアニメ雑誌が創刊され、一部の声優はアイドル的人気を集めるなど、「声優」という職業にもようやくスポットライトが当たる時代が到来した。一方で、声優に求められる演技やパフォーマンスの質も、徐々に変わってきたのだという。 「昔の日本アニメはセル画の枚数も少なく、表情の乏しさを補うために、抑揚をつけて誇張した演技が要求されました。それが今やフルCGで作画する時代になって、より自然な演技のほうが作品に合うようになってきた。僕は劇団育ちなので、どうしても誇張した演技が染み付いている。『俺の芝居、古くない?』って時々周りに聞くんです。時代が求めるものが変化していくから、僕自身、今も修業中の気分です」 ■変化しながらも継承される名作  低音で張りのある声が特徴だった内海さんも早くから頭角を現し、長年、声優界の第一線で活躍。自ら事務所を設立し、後進の育成にも努めた。柴田さんは、84年のアニメ「北斗の拳」で内海さんが演じたラオウが印象的だったと語る。 「『Dr.スランプ』の千兵衛さんのときはまだ千兵衛さんを“演じている”という感じでしたが、『北斗の拳』で久しぶりに共演したときのラオウは、その気迫たるやもはや“ケン坊”が演じるのではなくラオウそのもの。おおすごい、こいつ完全にラオウの中に入っているとビックリしました」  声優界の黎明期を知る存在は徐々に少なくなっている。今年も「ルパン三世」の次元大介役で知られる小林清志さん、「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズの冬月コウゾウ役の清川元夢さんなど、複数のベテランが世を去った。長寿作品では声優の交代も珍しくなくなっている。柴田さんは言う。 「作画も声も、時代に合ったものに変化していく。ものまねではなくて、ちゃんと今の作画に合う声、演技をみなさんしてくれて名作は受け継がれてきていると思います」  この先、新たなラオウ像も生み出されることだろうが、レジェンドたちが作り上げた芯の部分はきっと変わらず、世代を超えて受け継がれていく。(本誌・太田サトル)※週刊朝日  2022年10月7日号
雅子さまの肉声が3年ぶりに…エリザベス女王「国葬」に両陛下参列の感動
雅子さまの肉声が3年ぶりに…エリザベス女王「国葬」に両陛下参列の感動 英国訪問のため皇居・御所を出発する天皇、皇后両陛下と見送る愛子さま=9月17日  天皇皇后そろっての海外公務は7年ぶりだった。雅子さまにとっては皇太子妃だった2015年7月のトンガ以来の外国訪問。短い日程だったが、天皇ご一家が微笑み、言葉を交わす姿を久しぶりに見ることができた。コラムニスト・矢部万紀子さんが、その感動を綴る。 *  *  *  天皇陛下と皇后雅子さまが英国のエリザベス女王の国葬に参列した。出発から帰国まで、4日間。陛下と雅子さまが見えた。愛子さまも見えた。見えただけでなく、聞こえもした。感動した。  というこの文章、エリザベス女王に由来している。女王の報道官だったディッキー・アービターさんが、女王をしのびこう証言していたのだ。「女王はいつも『信じてもらうためには見てもらわなければならない』と言っていました」  ダイアナ元妃の事故死後、弔意の表明が遅れた後の挽回策。アービターさんはこう続けた。「(女王は)鮮やかな色の服も着るようになりました。月からでも見えるかもしれませんね」  一方の陛下と雅子さま、月からも国民からも見えにくくなっていた。理由は新型コロナウイルス。2020年1月、埼玉県所沢市に行って以来、東京都以外の行事はオンライン。行っていないのだ。  それが2年半ぶりの「東京都以外」の訪問。いきなりのロンドンとなった。天皇が葬儀に参列するのは「異例」だが、皇室と女王との関係が重視されたという。共に英国留学経験のある陛下と雅子さまの思いもあったことだろう。  陛下が女王の訃報に際し公表した「お気持ち」には、こんな言葉もあった。 <女王陛下から、私の即位後初めての外国訪問として、私と皇后を英国に御招待いただいたことについて、そのお気持ちに皇后とともに心から感謝しております>  そう、令和2年目の20年1月、両陛下の英国訪問が日英同時に発表された。即位後すぐにアメリカのトランプ大統領夫妻(当時)が来日し、雅子さまは通訳なしで夫妻と語り合った。国民の目が釘付けに。雅子さま×英語=ステキ。 来日した皇太子時代のチャールズ新国王とカミラ新王妃をもてなす天皇、皇后両陛下(2008年10月)(c)JONES IAN/POOL/GAMMA/Eyedea Presse/AFLO  だから初の外国訪問が英国で、そこはおふたりともにゆかりの地だったから、楽しみにしていた人は多かったはずだ。コロナ禍で実現できず、おふたりも残念だったと想像する。それが、エリザベス女王の死という思わぬきっかけで実現した。  最初に訪問が報じられたのは、訃報の2日後。「天皇陛下、英女王国葬参列へ調整」という朝日新聞9月10日付夕刊には、天皇が外国王室の葬儀に参列するのは異例だという記述があり、こう続いていた。「関係者によると、皇后さまは体調を考慮した上で、参列を検討するという」 「適応障害」という病を得て以来、雅子さまの予定公表には必ず添えられる一文だ。結果的に欠席となることもあったが、今回は心配無用だった。  17日の出発当日、テレビ各局が皇居・御所を出発する両陛下と見送る愛子さまの様子を写していた。車寄せに3人が並び、車を待つ間、何やら話をしていた。小さく頷いたり、顔を見合わせたり。雅子さまがグレー、陛下と愛子さまは黒という服装だったけれど、包む気配はふんわりと軽かった。  おふたりは車に乗り込むと、愛子さまに小さく手を振った。深く礼をした愛子さまは、走り去る車に向かって手を振った。愛子さまの動く姿を見たのは、3月の記者会見以来だった。あの時より、また少し大人っぽくなったのでは、などと思う。  風が吹いたと感じた。閉ざされていた空間を開く風。少し遠くなっていた天皇ご一家と国民の距離が、再び近くなる。そんな予感を連れてくる風。「見える」は大切だ。  冒頭には「聞こえもした」と書いた。聞こえたのは、ロンドン到着後のこと。19日、両陛下は記帳をした。AP通信が20日、その映像を配信した。素晴らしく貴重な記帳の映像だった。再現する。  女王の写真と白いバラに挟まれ、記帳用の台帳が置かれた部屋に両陛下が入ってきて、ページをめくる。「メッセージが」という陛下の声。「そうね」という雅子さまの声。はっきりではないが、確かに聞こえる。  陛下が座り、ペンを取る。「デイトなの?」と雅子さま。日付を入れる確認だろうか。陛下が「デイト」と答える。「date」と書きたくなる発音。失礼を承知で書くなら、陛下の生真面目さが表れていて「cute」である。そこにまた雅子さまの声。「日本語……」。陛下が「そうね、下に」と答え、台帳がアップに。「Naruhito」というきれいな筆記体の下に「徳仁」とある。  次に雅子さまが座る。丁寧に書く手が映る。書き終えた雅子さまが陛下を見上げる。おふたりが目を合わせ、にっこりと笑う。心からの笑顔だとわかる、とても良い笑顔。「雅子さまはお幸せなのだ」とこちらが勝手にうれしくなる。「見えて、聞こえる」。とても大切だ。  そもそも雅子さまの声を聞いたのは、19年8月以来だ。ご一家の那須御用邸での静養で、「風が気持ちいいですね」と記者団に語る声が放送された。それ以来の声。  ちなみに陛下の声は記者会見や式典などで聞くことができるが、雅子さまにはそういう機会がない。誕生日には文書回答とビデオも公開され、そこには陛下と話す様子も映るが、なぜか弦楽四重奏のようなBGMが流れている。「プライベートな会話は公開しない」という宮内庁の方針だろうが、正式なカメラの前での会話を隠すことにどんな意味があるのか謎だ。  と、かねがね思っていたのだが、動きがあった。宮内庁の23年度予算概算要求に、SNSを使った情報発信を始めるための予算が盛り込まれたのだ。  エリザベス女王は在位70年にあたり、短編動画に出演した。共演相手は、くまのパディントン。共に宮殿でお茶をする楽しいストーリー。女王とパディントンの会話がユーモラスで優しい。おしゃれな「見えて、聞こえる」。  宮内庁にはぜひとも、「見えて聞こえる皇室」から始めてほしい。記帳動画の感動よ、再び。(コラムニスト・矢部万紀子)※週刊朝日  2022年10月7日号
“ラジオ界の宝”ピストン西沢の「GROOVE LINE」、24年半の歴史に幕 「ラジオのために生まれてきた」
“ラジオ界の宝”ピストン西沢の「GROOVE LINE」、24年半の歴史に幕 「ラジオのために生まれてきた」 毒舌で笑わせても音楽への敬意があるから、アーティストからの信頼も厚い。気持ちが上がったのは「HMV渋谷のスタジオにきれいなお姉ちゃんが一人で見に来たとき(笑)」(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  J-WAVEの人気番組「GROOVE LINE」が9月29日に終了する。「自分がやりたいことができる環境をつくってきた」というピストン西沢さんの24年半とは、どんなものだったのか。AERA 2022年10月3日号の記事を紹介する。 *  *  *  あと十数秒で放送が終わる9月1日の夜7時前、ピストン西沢さんが言った。 「そうだ、この番組、今月いっぱいで終了です」  突然の終了宣言にリスナーはざわつき、DREAMS COME TRUEの中村正人さんは「ピストン西沢はラジオ界の宝。」とブログに投稿した。番組にはアーティストからの出演希望が相次いだ。スタジオでは物心ついたときから聴いていたというチャラン・ポ・ランタンが涙し、石井竜也さんが絵を贈るなど、ラスト1カ月はゲスト満載、祭りのような放送が続いている。  一貫してハイテンション、独特のトークとDJミックスで人気を集めるピストンさんは24年半、J-WAVEの夕方の時間を走り続けてきた。同じナビゲーターが続ける番組でさらに長いのは、同局ではクリス・ペプラーさんの「TOKIO HOT100」しかない。聴取率は6月の首都圏ラジオ聴取率調査(ビデオリサーチ)で同時間帯トップだし、スポンサーもついているが、10月からの新番組編成のために終了することになった。 「ラジオの自分は店じまいして、他の自分が今度はメインになるというだけの話です。やりたいことがいろいろありますから」  とピストンさんは語る。 ■ADから始めた努力家  そもそもバイリンガルのナビゲーターが主流のJ-WAVEに、なぜピストンさんが出演することになったのか? 「脳科学者にも言われたんですけど、僕は小さい頃から今まで子どもが興奮しているような状態がずっと続いてるんですよ。うるさい子どもだったと思うし、我慢しないと社会でうまくやっていけないことはわかっていたから、自分の能力でごはんが食べられるところを目指したんです」  選んだのは音楽の道だった。通産省(当時)の官僚だった父親が薦める企業には行かず、ディスコで、今でいうクラブDJをしていた。番組の初代プロデューサーで当時を知る杉山博さんは、 「彼がターンテーブルミックスを始めると客が集まってきてフロアがぎゅうぎゅうになるんです。とんでもなく人気のあるDJでした」 人気のDJミックスは「曲だけは事前に選んでおきますけど、あとは出たとこ勝負。いつも必死ですよ。やった後はヘットヘトです」(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  しかし、ピストンさんにはディスコより放送局の水が合っていた。声をかけられてFM横浜の深夜番組で初めてマイクの前に座り、J-WAVEのパーティーでDJをしたときに自らプレゼンして番組制作に携わるようになる。杉山さんは、 「人気DJなのに、一から番組作りを学びたいと言ってADから始めました。努力家で、でも振り切った面白さがあるやつなんで、スタッフの中でも瞬く間に知れ渡り、裏方よりしゃべったほうがいいんじゃないか、となったんです」 ■少しずつ陣地を拡大  1993年頃から番組に出演し、最初はですます調で真面目に話していた。3週目くらいに、留守番電話にリスナーが入れた鼻歌の曲名を当てる企画を始めた。ピストンさんは振り返る。 「それから番組がうまく回り出しました。僕は制作者としての勘が働いたから生き延びた。どうしたら面白くなるか、自分で矯正していったんでしょうね」  そして98年に「GROOVE LINE」がスタートした。ゲストをいじったり、リスナーとの電話を途中でブチッと切ったりと、J-WAVEらしくない、やんちゃな番組は評判になった。とはいえ、最初から好きなように話せたわけではない。局内には歓迎しない人もいた。 「昨日の放送でいいと言ってくれる人が局の中に1人増えたと感じたら、今日はもう少し言ってみようと、少しずつ陣地を拡大していきました。自分がやりたいことができる環境を作ってきたんです」  とピストンさん。傍若無人に聞こえるトークの裏には緻密な思考がある。松尾健司プロデューサーは、 「ただ話しているのではなく、番組が面白いのか、リスナーは喜んでいるのか、スポンサーがどう思っているかまで、360度が見えている。そんな人はそうそういません」  台本には曲名くらいしか書かれていない。あとはピストンさんが臨機応変に言葉を繰り出す。リスナーが飽きたと察すれば、すかさず言葉や行動で刺激する。ピストンさん自身も、 「僕がディレクターとして自分を見たら、これだけラジオに合ってるやつはいないと思いますね。ラジオのために生まれてきたやつだとも言えます」  人気は過熱し、2009年にHMV渋谷での公開生放送が終了するときには、ファンがフロアを埋め尽くした。 AERA 2022年10月3日号より  番組にはリスナーから日々1千通、2千通に上るメッセージが届く。ピストンさんはそこから世の中の動きやリスナーの思いを敏感に感じ取ってきた。  東京都板橋区でお好み焼き店「みりおんばんぶー」を営む佐々木拓・麻子夫妻は、仕込みをしながら番組を聴いて17年になる。投稿で番組とつながり、東日本大震災、麻子さんの病気、コロナと、危機に瀕するたびにピストンさんに励まされて乗り越えてきた。  番組での紹介でリスナーが来店するようになり、18日には17人が集まってリスナー会議が開催され、「最後まで番組を盛り上げていきましょう!」と乾杯した。参加したラジオネーム「Mr.ハラキリ」さんは多い日には50通ものメッセージを投稿し、10年間で4670回以上、番組で取り上げられた。 ■リスナーに寄り添う  やはりリスナーにはおなじみの「野球道」さんは仕事中にもネタを考え、生活が番組中心に回っているほど。他の番組より採用のハードルが高いだけに読まれたときの喜びは大きい。 「ピストンさんは一瞬のうちに順番を入れ替えたり、セリフ調にしたりして、より面白く味付けして読んでくれる。そのすごさは投稿した本人にしかわからないんですよ」  20代の「右手にコーラ」さんはトラック運転手をしていた5年前に番組を聴き始めた。毎日30通を投稿するが、採用されなくても番組を盛り上げる一助になればいいと言う。 「ピストンさんには恩があるんです。電波越しにDJの面白さを教えてもらって2年前に機材を買って練習を始めました。今はクラブでDJをしています」  ナビゲーターのトーク力は非常時に試される。東日本大震災後の不安な日々の中、いつものピストンさんの声にホッとした人は多かった。リスナーの気持ちに寄り添った情報発信は高く評価され、ギャラクシー賞ラジオ部門DJパーソナリティ賞を受賞している。  コロナで世の中が硬直したときも話題をそらさず、周りに感染した人はいますか、療養中のあなたに電話しますよ、と呼び掛けた。 「僕の中でラジオの重要な部分はやはりコミュニケーションなんです。みんなで同じ気持ちを味わって気が楽になったり、勉強になったり。共有と拡散です」 ■「今、すっごい自由」  今後、やりたいことの一つがSNS、YouTubeでの交流だ。たとえば、悩みや相談事をみんなで考える。生きている上で抱えているものを軽くしたり、やりたいことを我慢しない生き方を探すヒントになればいい。  番組終了後の同時間帯にはタカノシンヤさんと藤原麻里菜さんによる新番組「GRAND MARQUEE」が始まるが、ピストンさんの声は日曜夜7時の「DRIVE TO THE FUTURE」で引き続き聴くことができるし、YouTube配信も始めている。 「長くやっていて一番の大敵は自分に飽きちゃうことなんです。番組終了が決まってから急に楽しくなっちゃった。今まで番組継続に悪影響があるものは自分の中でアウトと縛ってきたけど、もう関係ないもんね。今、すっごい自由ですから」  28日は秀島史香さんと2人で進行する。29日の最終日に何が起きるかはわからない。(ライター・仲宇佐ゆり)※AERA 2022年10月3日号
「3C・4低・3強・3生」という高い壁…結婚したくても結婚できない日本人男性が増える根本原因
「3C・4低・3強・3生」という高い壁…結婚したくても結婚できない日本人男性が増える根本原因 ※写真はイメージです(GettyImages) 「生きづらい」とこぼす日本人男性が増えている。『男が心配』(PHP新書)の著者で、20年以上にわたり、男性の生きづらさを取材、研究してきた近畿大学の奥田祥子教授は「依然として『男らしさ』に縛られている人は多い。20年前は少しは笑いに変えられるような希望があったが、いまはまったく笑えない深刻な状況になっている」――。 20年たってやっと「男が心配」と言えるようになった ――なぜ「男性の生きづらさ」を研究するようになったのですか。  大学院修了後に新聞社に入社し、30歳代になって、30~50歳代のサラリーマン男性を主な読者とする週刊誌に配属されたのですが、そこで一般的なサラリーマン男性の中には「男らしさ」を実現できずに苦しんでいる人がたくさんいることに気がつきました。ポスト削減が始まっていた20年前にも、出世できないという仕事の悩みや、ずっと仕事一筋でやってきたために家庭にも居場所がないと嘆く声はすでにあったんですね。  私は女性が極めて少ない時代に新聞記者としてキャリアをスタートして、警察や政治家といった権力に毅然とした態度で対峙(たいじ)して弱音を吐かない先輩たちに憧れていましたから、強い存在と思い込んでいた男性が仕事や家庭の悩みで弱り果てていることに激しく心を揺さぶられたのです。  しかも、男性の生きづらさは経済動向や雇用情勢の悪化によって起きている問題ですから、看過されている社会の問題です。にもかかわらず、男性記者は同姓の男性のつらさを取り上げたくないのか、手を挙げる人はいない。それで私がやるべきなんじゃないかと考えたのです。  新聞社での仕事とは別に個人活動として取材を始め、その後研究を再開して大学教員となった今まで、週末を使って全国を回ってインタビュー調査を行い、夜から朝にかけて調査データを分析、執筆するといった生活を続けてきました。取材者総数は男性だけでも約1000人に上ります。このうち500人を超える男性が一度で終わることのない継続インタビューで、最も長い方で20年余り追い続けています。 ――『男が心配』という本のタイトルはインパクトがありますね。  今でこそ『男が心配』というタイトルの本を出させていただいていますが、取材を始めた当初は「心配」という言い方ができない状態だったんですよ。  女性が男性の生きづらさを追うことに対して、男性からは「なんでお前に分かるんだ」というお叱りを受けますし、女性からは「今、女性の差別撤廃が必要なのに女性のあなたがなんで男に同情するの?」と言われる。最近になってようやく、男女ともに共感を持ってくださる方が増えて、時代が変わってきたなと感じています。 5年、10年と取材していくなかで語られる“男性の本音”  自分の実績が評価されずにポストに就けないことに苦しむ男性も少なくありません。バブル崩壊を機に始まった新卒採用減が、2000年代前半ごろからリストラへと進行し、さらに法律に抵触しないよう、巧妙にリストラに追い込んでいくケースが増えていきます。同期は出世したのに自分は左遷、出向、転籍という憂き目に遭ったと嘆く人もいました。  2015年に刊行した『男性漂流 男たちは何におびえているか』の中でも紹介しましたが、「長年勤めた会社からいろんな手を使って退職に追い込まれたら、会社を恨んでしまうから、あえて感謝して別れるために、先に自分から会社を辞めたんだ」と話された方のお話には胸を打たれましたね。 ――本書の中では、普段聞くことのない悲痛な本音が吐露されています。  皆さん、1回会っただけでは本音を明かしてくれないんです。最初は「大丈夫ですよ」と明るくお話されていても、会う回数を何度も重ねて、5年、10年と月日が流れていく中で「やっぱりつらいんです」という本音を打ち明けてくださいます。  もちろん「大丈夫」とおっしゃった時の表情や身振りなどノンバーバル(非言語)の部分を観察し、取材者として「本心ではないな」とは思いますが、臆測で対象者の心情を書くことはできない。だから、「眉間にシワがよった」「頬がピクピク動いている」といった観察記録を書き留めておくわけです。初めてお会いしてから20年経って、「あの時、本当はつらかったんです」と本音を話してくれた方も少なくありません。  弱音を吐かない、出世しなければいけない、妻子を養わなければならない。そんな旧態依然とした「男らしさ」に縛られているがゆえに、誰にも悩みを打ち明けられずに自分をここまで追い込んでしまうのではないかと思うと……。男性がすごく心配という気持ちは、今も昔も変わりません。 出世圧力に追い詰められ自信をなくしていく ――なぜ多くの男性が「出世しなければならない」と感じてしまうのでしょうか。  旧態依然とした「男らしさ」のジェンダー規範に沿おうとすると、男性はどうしても出世して社会的評価を得なければならなくなりますよね。また、人間には人から認められたいという承認欲求があるとされています。男性の場合は、社会から高く評価されたいという承認欲求と、自分は「男らしさ」を具現化するための勝負に勝ったんだという自負が結びつきやすい。出世は、まさに「男らしさ」を認めてもらう究極の象徴なのです。  ただ、最初に申し上げましたように、ポスト削減は昔から始まっているし、多くの人は給料も上がらないし、人件費削減がどんどん進んでいるので一握りの人しか出世できません。「男らしさ」を実現するのがかなり難しい状況の中で、出世圧力に追い詰められる男性が増えているのです。 「正規雇用になれば結婚できる」と考えていた40代男性  非正規雇用の男性にとっては、正規登用されることが出世に近い状態です。しかし、運よく正社員になれても、「男らしさ」の呪縛からはなかなか解放されません。  学卒期が就職氷河期と重なってしまった小川さん(仮名)は、非正規雇用で、派遣スタッフや契約社員の職を転々としてきました。経済力がないことを理由に女性に対する自信を失っていた小川さんですが、2013年に施行された改正労働契約法の「無期転換ルール」を追い風にして18年にジョブ型正社員に登用され、さらに翌年44歳で同業他社に正社員として転職を果たしました。  それを機に、「雇用形態に負い目を感じて女性から逃げなくても、堂々としていられます」と、精力的に婚活を始めます。しかし、いざ婚活を始めてみると、正社員であること以外にも女性から求められる条件の多さに疲弊し、「まるで粗探しをされているようだ」と、女性に対する自信を再び失ってしまいました。  その後、小川さんはこれまで以上に仕事に邁進し、周囲に遅れながらも46歳で課長に就任します。仕事を女性に好かれるための手段ではなく、仕事自体にやりがいを感じられたのは幸いでしたが、「出世圧力」と、「男たるものモテなければいけない」という「モテ信奉」の根深さを感じた取材でした。 かつては「半径5メートル以内」で相手が見つかった ――男女ともに結婚できない人が増えている印象があります。なぜ結婚できない人が増えているのでしょうか。  国立社会保障・人口問題研究所の「出生動向基本調査」では、「結婚できない理由」として最も多い回答は男女ともに「適当な相手にめぐり会わない」という傾向が20年以上続いています。しかし、出会いの数が多すぎることがかえって結婚を遠ざけていると私は考えています。  昔は、職場など身近な半径5メートル以内で巡り合った人をいい意味で、“運命の人”だと思えました。出会いに溢れた現在は、そうした尊さが全くありません。「来週また婚活パーティーがあるから」などと思うと、男女ともに相手の良いところを見つけるのではなく、粗探しをしてしまいやすく、「選択」ではなく、「排除」に陥ってしまっているのです。 出所=『男が心配』  2020年の国勢調査を基に国立社会保障・人口問題研究所が算出した男性の「50歳時の未婚割合」は28.3%と、3人に1人に迫る勢いです。結婚したいのにできない人の割合が、なおいっそう増えています。現在の状況が続けば、男性の孤独や孤立を強め、自殺者数の増加といったより深刻な事態につながりかねません。 女性が求める男性の条件はますます厳しくなっている ――本書では女性が求める「理想の男性像」がさらに厳しくなっていると指摘されていました。  女性は変わったと言われていますが、男女のマッチングにおける本音の部分は変わっていません。これは既存の意識調査などでは女性が本音を明かさないケースが多いため、ほとんど出てこないことです。学歴と経済力は依然として重要ですし、それに加えて家事力や育児力を求められていることを考えると、条件はむしろ厳しくなっています。  例えば本書では、先行研究などから、女性にとっての男性の新しい理想像として、高身長に目をつぶった代わりに家事などへの協力を重視した「3C」や、女性にとっての負担やリスクを軽減する「低さ」を求めた「4低」、女性を経済面・体力面・生活面で守る「強さ」を兼ね備えた「3強」、生存力・生活力・生産力を重視した「3生」などを挙げています。 プレジデントオンライン編集部作成  経済力に関して変化があるとしたら、年収の高さよりも、リスクの低い職業に就いているなどの安定性が求められるようになったことですね。現在はハイスペックのサラリーマンでも収入の伸びには限度がありますから、自治体の正職員のように、リストラされずに収入を常に入れてくれる男性に人気が集まりやすくなっています。 「男のプライドにかけて女性の条件は下げられない」 ――「結婚できないのではなく、しないだけ」と語っている高スペック男性のエピソードも印象的でした。  いわゆる「高スペック男性」の苦悩については、いままで多くの取材を重ねてきました。本書で紹介した男性はそのうちの一人です。大手ゼネコン営業課長の佐藤さん(仮名)は、38歳にして同世代と比べて収入も高かったですし、コミュニケーション能力も抜群で、婚活市場では“超”がつくほどの“優良物件”でした。ただ、会って開口一番「僕は結婚できないんじゃない。結婚しないだけですから」と能力不足で結婚できないのではないと釘を刺してくる。典型的なパターンですね。  しかも、「男のプライドにかけて女性の条件は下げられませんよ」と堂々とおっしゃって、お付き合いする女性の条件として「美人で料理がうまくて家庭的、聡明で短大か女子大卒」の「20歳代」を挙げていました。当時の女性が結婚相手の男性に求める条件を兼ね備え、合コンに出向けば、逆に女性から声をかけられるという。「男はモテなければいけない」という「男らしさ」を具現化できていることに誇りを持っていたんでしょうね。  その5年後、佐藤さんは「効率性」を求めて結婚相談所に入会していたのですが、収入など外面ばかり注目され、中身を見てもらえない婚活に疲弊している様子でした。そこに、部長昇進間近と目されていた時期に、うつ病で休職していた部下から「佐藤さんに過重労働を強いられていた」と人事部に訴えられ、譴責(けんせき)の懲戒処分を受けたことが追い打ちをかけます。  佐藤さんは「花形部署を離れて、出世も見込めないなんて、女性にモテるわけがない」と心をひどく痛めていました。 20年前は笑いに変えられる明るさがまだあった  ポストが削減されている現在、実際には「高スペック男性」は部長まで昇進できればまだいいほうですが、彼らの中には社長は無理でも、せめて役員にはならないとダメという認識の人も少なくない。だから、高スペックは、どこかで終わってしまう期限付きのものなんですね。高スペックの期限に気付いていない男性たちを前にしても、取材者という立場上、何も言えないことをいつももどかしく思っています。  15年前に『男はつらいらしい』を刊行したときは、取材相手の男性に怒られながら取材する大変さがあった一方で、文字にしてみると、男性からもクスっと笑ってもらえるような明るさがまだありました。  ですが、現在は最悪、男性が孤独死する状況が明日にでも待ち受けている状況なわけです。男性も年齢が上がれば上がるほどマッチングの可能性が低くなってしまいますし、自信もやる気もなくなり、最終的には孤独感に苛まれながら、周囲から孤立してしまいかねない深刻さをとても危惧しています。それでも、次にお会いしてインタビューするときには状況が良くなっているかもしれないと願いながら、取材を継続しています。 (構成=佐々木ののか) 奥田 祥子(おくだ・しょうこ)近畿大学 教授京都生まれ。1994年、米・ニューヨーク大学文理大学院修士課程修了後、新聞社入社。ジャーナリスト。博士(政策・メディア)。日本文藝家協会会員。専門はジェンダー論、労働・福祉政策、メディア論。新聞記者時代から独自に取材、調査研究を始め、2017年から現職。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程単位取得退学。著書に『捨てられる男たち』(SBクリエイティブ)『社会的うつ うつ病休職者はなぜ増加しているのか』(晃洋書房)、『「女性活躍」に翻弄される人びと』(光文社)などがある。
彼女ができることは自分もできるようになりたい 積極的に家事にチャレンジする夫
彼女ができることは自分もできるようになりたい 積極的に家事にチャレンジする夫 鶴原・アイシャ・絵理奈さん(右)とムハンマド・サブハン・チャウドリーさん(撮影/篠塚ようこ)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年9月26号では、グローバルパートナーズで海外進出支援事業部マネージャーを務める鶴原・アイシャ・絵理奈さん、ファザール代表取締役のムハンマド・サブハン・チャウドリーさん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫24歳、妻26歳で結婚。長男(1)と3人暮らし。 【出会いは?】妻が住んでいたドバイのアパートのエレベーターで。妻が一目ぼれして声をかけ、その後は夫の積極的なアプローチで交際がスタート。 【結婚までの道のりは?】夫からプロポーズ。宗教上の結婚はすぐにできたが、国際結婚の手続きに2年を要した。 【家事や家計の分担は?】家事も家計も折半が基本だが、特に決まった分担はなく、手が空いているほうが家事を担いながら助け合うよう心がけている。 妻 鶴原・アイシャ・絵理奈[30]グローバルパートナーズ 社長室、海外進出支援事業部マネージャー つるはら・あいしゃ・えりな◆1992年、大分県生まれ。短大卒業後、オーストラリア語学留学を経て外資系航空会社の地上職員。2015年にグローバルパートナーズに入社し現地責任者としてドバイに駐在、日本企業の進出支援を担当  休日も返上するような仕事人間だった私が、彼と出会ったことで大切な人と過ごす時間がいかに豊かな時間であるかを知り、仕事以外の世界へも視野を広げることができました。  結婚を機にイスラム教徒になることに、抵抗がなかったわけではありません。でも、信仰は個人を縛るものではなく、豊かな人生を送るための指標なのだから自分自身を変える必要はないと言われて、受け入れることができました。今は本当に夫の言う通りだったなと実感しています。  時には感情的になって心にもない言葉でお互いを傷つけてしまうこともあるけれど、彼の言動はすべて私を思うからだということを知っているし、私も夫を大切に思っています。1日経って冷静になったらもう一度、お互いの思いを理解するよう努めることが私たちのルールです。いつも私に寄り添い、私を一番に思って行動してくれる彼がそばにいてくれれば、この先どんな困難があっても乗り越えていけると思っています。 鶴原・アイシャ・絵理奈さん(左)とムハンマド・サブハン・チャウドリーさん(撮影/篠塚ようこ) 夫 ムハンマド・サブハン・チャウドリー[28]ファザール代表取締役 1994年、ドバイ生まれ。パキスタンの高校を卒業後、ドバイで大手飲料メーカーの営業を経て、不動産会社に転職し新規事業開拓のため来日。2021年に日本で不動産開発とITサービス提供を担うファザールを起業  初めて会った時から、彼女はポジティブなエネルギーをくれる人だなと感じています。これまでの人生で多くの人とかかわる中でなかなか自分をさらけ出せずにいたけれど、彼女とならありのままの自分でいられる気がします。  以前から周囲に良い影響を与えられる人間になることを、人生の目標としていました。家族ができ、最も近い存在である妻と息子に対してそうありたいと意識して行動するようになり、自分が成長できていることを感じます。  私は家にメイドがいる環境で育ち、自分で家事をすることのないまま大人になってしまいました。結婚してからは妻だけに負担をかけられないし、彼女ができることは自分もできるようになりたいと、積極的に家事にチャレンジしています。今では僕のルーツのひとつであるパキスタン料理を振る舞えるようになりました。  育ってきた環境も性格もまったく異なるふたりだけれど、人生のパートナーとしてお互いを支え合える存在でいよう。 (構成・森田悦子) ※AERA 2022年9月26日号
紀子さま24年不変のショートカット、その合理性と愛と
紀子さま24年不変のショートカット、その合理性と愛と 宮内庁提供  女性皇族で注目される事柄の一つといえば、髪形の変化だろう。愛子さまがボブヘアにしたときも「イメージチェンジ」と話題になった。一方で、ヘアスタイルに変化がない場合は世間に注目されにくいが、変わらないことの意味とは? 紀子さまについて、コラムニストの矢部万紀子さんが考察した。 *  * * 佳子さまはこの夏、髪を切った。腰に届きそうだったのが、7月の「全国都市緑化祭」では肩と同じほどの長さに。これはショートヘアへの道?  上皇さまの孫は4人いるが、うち3人の女性(小室眞子さん、佳子さま、愛子さま)はみなロングヘアだ。愛子さまはボブにしたこともあったが、すぐに元のロングになった。ショートヘアは女性らしさに欠けるという“自主規制”が働いているのかもしれず、打ち破るとしたら率直に自分の思いを語る佳子さまでは? そう勝手に期待。  が、ある日、突然気づいた。それを言うなら紀子さまは、ずっとショートヘアではないか、と。  9月11日、紀子さまが56歳の誕生日を迎えた。その日に公表された宮内記者会への質問に答える文書には、眞子さんについてこうあった。 <庭の花の世話をしながら、木香薔薇のアーチを作り、いつか娘と一緒にゆっくり庭を歩くことができましたら、と思っております>  木香薔薇は眞子さんが皇族だったときの「お印」で、紀子さまはアーチを作るための手入れをしている、と報じられていた。「納采の儀」も「一時金」もなく旅立っていった眞子さん。親心と薔薇が重なり、読んでいて切ない。  だが、合わせて公開された写真は、1年前のそれより表情が柔らかくなったようだった。アーモンド形の目、柔らかなほほ笑み。少しは気持ちが軽くなったのだろうか、醸し出される雰囲気がふんわりとしている。1989年の婚約内定後の記者会見を思い出した。「秋篠宮さまが初恋の人ですか」と聞かれ、「そうでございます」と恥ずかしそうに答えていた川嶋紀子さん。あのとき紀子さんは、たっぷりと長い髪の毛を紺のバレッタで留めていた。そうだ、紀子さまといえばロングヘアだった。忘れていたのは、現在の髪形がすっかり定着しているからだろう。ずーっとあの髪形なのだ。そう、分け目は右側で、前髪はつくらず、耳にかける。それが紀子さまスタイルだ。 1989年 婚約が決まり、記者会見する礼宮さま(当時)と川嶋紀子さん(同)  令和になってすぐ、雅子さまを特集する週刊誌に林真理子さんがこんなことを書いていた。 <いつのまにか紀子さまがヒール役を担わされてまことにお気の毒である。ご婚約の時の、愛くるしく清楚な「紀子ちゃん」を知っている者にとって、昨今の「皇室顔」となられた紀子さまにはあまり親近感がわかない。それでもいつのまにかヒール役を負わされていて、私は憤っているのである>(「週刊文春」2019年8月15日・22日号)  確かに紀子さまの表情は、あまり変わらない。笑っているのに笑ってないような、本音を出さないぞというような。そこに髪形が影響しているような気もする。紀子さまはいつからあの髪形だったのだろう。たどってみることにした。  振り返ってみると、幼いときから紀子さまはほとんど長い髪をしていた。1990年6月に皇室に入ってからもしばらくはロングヘアで、まさに<愛くるしく清楚な「紀子ちゃん」>だ。が、その時代は案外短い。2年ほどでセミロングになる。  きっかけは眞子さん誕生だ。91年10月に眞子さんが生まれている。出産後、宮内庁病院を退院するときは、長い髪を一つにまとめていた。が、翌年8月に生後9カ月の眞子さんを抱っこした軽井沢での紀子さまの髪は、肩のあたりまでになっている。単純に分析するなら、子育てにはセミロング、ということだろう。94年12月には佳子さまが生まれた。97年11月、秋篠宮さまの誕生日に公開されたご一家4人の写真では、小さい姉妹も紀子さまも、みな肩までのセミロング。姉妹お揃いの赤いカーディガンがとてもキュートだ。  その翌年、紀子さまはショートヘアになる。4月、眞子さんの学習院初等科入学式に臨んだ時点で肩上10センチほどの長さになっていたのだが、このときはまだ耳が隠れている。が、8月にご一家で静養した須崎御用邸(静岡県)では、さらに5センチほど短くなり、耳を見せる今のスタイルに。以来、24年間、紀子さまはずっと同じ髪形を守り通している。  髪を切るにあたり、何があったのかはわからない。佳子さま出産から1カ月もたたない95年1月に阪神・淡路大震災が起こった。その半年後には紀子さまも被災地を訪問、97年からは追悼式に出席した。そのような経験を通じ、皇族としての役割を体に染み込ませていった。<愛くるしく清楚な「紀子ちゃん」>ではいられなくなる。その延長線上に、「髪を切る」もあったのではないだろうか。そんな気がしている。  そして紀子さまは、合理的な方なのだと想像する。短い髪は長い髪より、ずっと手入れが楽だ。パッと洗えて、サッと乾く。忙しい人向け、と言っていいだろう。紀子さまは、まさに忙しい人だ。 2015年1月14日歌会始の儀  公務の話は後述するが、勉強にも熱心に取り組んでいる。1990年6月に結婚、その5年後に学習院大学大学院の心理学専攻博士前期課程を修了している。そして2009年にはお茶の水女子大学で研究を始め、2013年には博士の学位を授与されている。94年から結核予防会総裁となったことを足場にし、10年から結核予防に関する意識調査を実施、それをまとめた論文で博士号を得たのだ。  06年に悠仁さまが生まれた。次世代では唯一の男子が、天皇家の「次男」の家に生まれた。その“ねじれ”にメディアがつけこみ、紀子さまへの風当たりが強くなる。そんな中、紀子さまは子育てし、勉強し、公務をする。努力の人だ。 「紀子さまほど、実像とかけ離れた姿が描かれる方はいないと感じている」と書いたのは、朝日新聞の島康彦さんだ。紀子さま50歳に際して出版された『清淑なる紀子さま 50年のご足跡』(宝島社)という写真集へ、当時の宮内庁担当記者として寄せた文章でそう書いている。タイトルは「『嫌われ者』に徹する知られざる紀子さまの素顔」だった。  そこで島さんは、出版前年の9月10日から16日を例に紀子さまの多忙ぶりを説明する。週末の10日から1泊で宮城県を訪問、12、13日は宮邸で公務、15日は日帰りで兵庫県、16日は午前中、宮邸で公務、午後から福岡県へ。その上でこうまとめた。 <こうした動静はめったに報道されることはないが、日常的に過密日程は続いている。その多忙さは皇室いちと言っても過言ではないと思う>  この状況は令和になっても同じだった。コロナ禍前の19年7月を例にとると、6日にポーランド、フィンランド訪問から帰国、8日には帰国の参拝を賢所で済ませたのちに、赤坂御所で結核予防関連の研修生と懇談、9日に宮邸で2件の説明を受けて、10日から1泊2日で石川県へ。15日は都内でレセプション出席後、悠仁さまと「国際地図学会議」の展示へ。  これはもう、ショートヘアしかない。髪形は時短が一番。だから、今日までスタイルは不動。そうに違いない。そして紀子さま、意志が強い。24年の間に、髪型を変えたいと思ったときもあったはずだ。だって、女子だもの。だけど変えない。強い意志とは、つまり「仕事ファースト」なのだと思う。写真集で島さんは、こう書いている。 <紀子さまに近い関係者によると、紀子さまは殿下やお子さま方が矢面に立たないよう、あえて周囲に厳しい姿勢で臨み、「嫌われ者」になることもいとわないのだという> 2022年9月、英国へ向けて離陸した天皇、皇后両陛下が搭乗した政府専用機を見送る秋篠宮ご夫妻  紀子さまの「夫、子どもファースト」を表しているとも読めるが、私は「成果ファースト」なのではないかと思う。今どきの表現になるが、皇室が果たすべき役割=成果だろう。それを実現することが一番。だから「嫌われ者」も引き受ける。髪形を変えるという個人的思いは二番以下になる。成果達成には合理的だし、紀子さまにとってはそれが日常なのだ。島さんの文章はこう続いていた。 <紀子さまの奮闘ぶりの心底にあるのは何か。長く交流のある一人は「やはり秋篠宮さまへの愛情でしょう」と明かす>  愛情とは双方向。9月11日に公表された写真には、秋篠宮さまとお二人で絵本を見る写真があった。そこで秋篠宮さまは、頬杖をついていた。すごく楽しそうで、とてもくつろいでいることが伝わってきた。人が心からくつろげるのは、好きな人の隣だろう。秋篠宮さまの隣で紀子さまも笑っている。紀子さまの横顔に、つややかな髪が映えている。(矢部万紀子)
上皇さま、美智子さまの写真や映像を旧統一教会関連の芸術団が“利用” 宮内庁「宣伝目的は好ましくない」
上皇さま、美智子さまの写真や映像を旧統一教会関連の芸術団が“利用” 宮内庁「宣伝目的は好ましくない」 皇太子ご夫妻を案内する日本統一教会初代会長の久保木修己氏。リトルエンジェルス芸術団の公式YouTubeチャンネルより  世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が過去に皇室と接触していた写真や動画がある。当時の皇太子さま、皇太子妃美智子さま(現・上皇ご夫妻)が旧統一教会の関連団体の行事に訪れている様子や、昭和天皇の弟の三笠宮さまと見られる人物が、旧統一教会の創始者である文鮮明氏と一緒に収められていた。旧統一教会が霊感商法などで問題となる前の出来事だが、その後、写真や動画は旧統一教会や関連団体などで長く利用されていた。宮内庁は「皇室の写真を宣伝目的のために利用することは好ましくない」との見解のようだが――。 *  *  *  当時の皇太子ご夫妻が写っていた写真は、旧統一教会の関連団体「リトルエンジェルス芸術団」(韓国・ソウル)のホームページ(HP)にあった。  同芸術団は1962年に旧統一教会の創始者である文鮮明氏によってつくられた。小中学校の女子児童、生徒らによる舞踊公演などを世界各地で行っている。写真は、皇太子ご夫妻が公演に訪れた際に撮影したと見られる。  写真の説明では、 <1971.1 皇室御前特別公演後、リトルエンジェルスと挨拶を交わされる皇太子(当時)ご夫妻>  とある。 旧統一教会の関連団体「リトルエンジェルス芸術団」のホームページより。写真左上に当時の皇太子ご夫妻が紹介されている。  他にも、英エリザベス女王やアイゼンハワー米大統領との写真や、2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会の開会式に参加したことなどが紹介されている。  写真以外にも同芸術団の公式YouTubeチャンネルには、「日本巡回公演 紹介映像」という動画があり、1971年1月に皇太子ご夫妻が観覧したときの様子が映っている。  今年7月1日に創設60周年の歴史資料としてアップロードされていた。  動画を見てみると、皇太子ご夫妻以外にも、皇室からは秩父宮妃殿下も観覧していたようだ。  さらに意外な著名人も出ていた。プロ野球選手(当時)の張本勲氏や作家の川端康成氏らだ。  安倍晋三元首相の祖父である、岸信介元首相も出ており、動画ではこう紹介されている。 張本勲氏。リトルエンジェルス芸術団の公式YouTubeチャンネルより 川端康成氏。リトルエンジェルス芸術団の公式YouTubeチャンネルより 皇太子ご夫妻(左奥)を迎えた岸信介氏(右手前)。リトルエンジェルス芸術団の公式YouTubeチャンネルより <東京公演最終日、皇太子殿下、美智子妃殿下、秩父宮妃殿下をお迎えして、特別公演がもたれました。お迎えする、名誉会長の岸信介元首相も到着です>  映像には、リトルエンジェルス芸術団の理事長の久保木修己氏が、皇太子ご夫妻を迎えて、会場へ案内するところが紹介されている。久保木氏は、日本統一教会初代会長で、64年から91年まで会長を務めた人物だ。動画内では、久保木氏が皇太子ご夫妻をエスコートしている姿が何度も収められていた。 皇太子ご夫妻を案内する日本統一教会初代会長の久保木修己氏。リトルエンジェルス芸術団の公式YouTubeチャンネルより  動画の最後には、菊の花が映し出され、同芸術団の今後の予定がしっかりと宣伝されていた。  皇室関係者が、同芸術団の公演を観覧したことについては、旧統一教会の書籍の中にもたびたび出てくる。旧統一教会の歴史をまとめた書籍『日本統一運動史』(初版2000年)には次の記述がある。 <1971年1月8日夜の部(神田・共立講堂)で、皇太子殿下(現天皇陛下)・美智子妃殿下(現皇后陛下)・秩父宮妃殿下がリトルエンジェルスの公演を御観覧されました> <1972年12月26日のリトルエンジェルス日劇公演を美智子妃殿下(現、皇后陛下)、常陸宮御夫妻、秩父宮妃殿下が御観覧されました> 旧統一教会の歴史をまとめた書籍『日本統一運動史』より  また旧統一教会や関連組織の幹部を務めた朴普煕氏の書籍『青年よ行け、そして世界を救え』(初版1996年)では皇太子ご夫妻、そして久保木氏の写真を紹介しながら、<今の天皇陛下が皇太子殿下であられる時、「リトルエンジェルス」舞踊団と共に謁見する光栄にもあずかりました>などと紹介している。 旧統一教会や関連組織の幹部を務めた朴普煕氏の書籍『青年よ行け、そして世界を救え』より  旧統一教会の活動を紹介するなかで、皇室の写真などが掲載されており、長い間、皇室も宣伝に利用されていたともとれる。  さらに取材を進めると、文鮮明氏が皇族と見られる人物と写る写真をサイトで見つけた。食事の席での記念撮影のような雰囲気で、文鮮明氏(写真前列左)の隣(写真前列左から2番目)に写っているのが、昭和天皇の弟・三笠宮さま(1915~2016)と見られている。 旧統一教会の創始者である文鮮明氏(前列左)と昭和天皇の弟の三笠宮さま(前列左から2番目)と見られる人物が写っている。「truelove.org」より  写真を掲載していたのは、英語などで旧統一教会の原理や出来事などを詳細に紹介するサイトだった。サイトの運営者は明示されていないが、過去のサイト情報を調べると、問い合わせ先に、旧統一教会の「お問い合わせフォーム」がリンクされていたことが確認できた。さらに旧統一教会のHPの内容と同じページが作られていたこともあった。  写真に付けられた英語の説明では「文師は1965年1月に韓国から第1回となる世界ツアーに出た」「日本で2週間過ごした」などとあった。  先に紹介した旧統一教会の書籍『日本統一運動史』を開くと、文鮮明氏は65年から世界40カ国に拠点をつくるための旅に出ており、この年の1月28日から2月12日までの約2週間、日本各地に滞在していたことが記録されている。そして、こんな記述がある。 <2月10日午後2時に真の御父様(注:文鮮明)は羽田に到着され、直ちに本部に戻られて着替えをされ、三笠宮殿下との会見に臨まれました> 書籍『日本統一運動史』より  三笠宮さまの写真と、サイトに掲載されている人物をつきあわせると、酷似しており、同一人物と見られる。  これらについて専門家はどう見るか。元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司氏が語る。 「リトルエンジェルス芸術団の公演を鑑賞されたのは、霊感商法で統一教会が問題視される前です。通常の公務としてお出ましになったのではないでしょうか。外務省や文部省など省庁が後援していれば、日韓の交流という目的でお出ましになることは十分に考えられます」  また、三笠宮さまと文鮮明氏らとの写真については、 「三笠宮殿下は間違いないと思います。ただ、他に皇族の方はいないようですね。このような写真を撮る場合、皇族方は前列にお座りになるはずです。後ろにお立ちになることはないでしょう」  皇族と会うことは可能だったのか、またどういった経緯だったのか。山下氏はこう見る。 「天皇や皇太子となると、私的なことでも通常は宮内庁が関わり、必要があれば調べることもあるでしょう。一方、宮家皇族の場合は側近職員も少なく、また自由度も高いため、宮内庁が把握していないこともあると思います。文鮮明氏は反共主義の政治団体『国際勝共連合』を68年に立ち上げており、岸信介氏とも関係が深かったといわれています。想像ですが、三笠宮殿下は元総理の岸信介氏からの依頼を受けて、私的にお会いになったのではないでしょうか」  同芸術団や旧統一教会はどう答えるか。  同芸術団に、当時の皇太子ご夫妻が公演を観覧した経緯や、その当時の様子をHPやYouTubeで使っている趣旨について尋ねたが、「当芸術団の日本公演をご観覧されたのは事実ですが、それ以外のことは存じ上げていません」と答えるのみだった。  旧統一教会には、三笠宮さまが写る写真を掲載しているサイトとはどういった関係なのか、皇室関係者との写真を布教などで使ったことがあるか、どういった経緯で三笠宮さまと面会したのかを尋ねた。  サイトについては「当該ホームページと当法人は全く関係ございません」と関係を否定した。皇室との写真については、「布教のための広報活動に使用したことは一切ございません」。  三笠宮さまとの面会の経緯については、資料が古く確認できなかったとしたが、「Wikipedia等の情報から推察するに、三笠宮崇仁親王が日本オリエント学会の会長も務めた1967年に『聖書年代学』(ジャック・フィネガン著)を翻訳されていることから、キリスト教研究の一環として当法人とコンタクトを持ち、会食および写真撮影の機会を持つようになったのではないか」と回答した。  宮内庁にも事実関係を確認すると、上皇ご夫妻が当時、同芸術団の公演を観覧したことは認めたうえで、「公演については、外務省や文化庁等が後援しており、主催者からの要望があり、お出ましになったと思われますが、詳細は確認できませんでした」。三笠宮さまとの面会については、「文書では確認できませんでした」としている。 宮内庁からの回答  さらに、今回の件以外でも、旧統一教会や関連団体との皇室のかかわりを把握しているかを尋ねると、「把握していない」と回答した。  旧統一教会やその関連団体が公開しているHPや書籍などに、皇室関係者の写真や動画などが使われており、団体の宣伝活動に利用しているとの見方もある。その点について宮内庁の見解を尋ねると、「基本的に、皇室のお写真等を専ら営利や宣伝目的のために利用することは、国民感情からみて好ましくないことと考えています」との回答だった。  旧統一教会とのかかわりについては「把握していない」とのことだが、調査を尽くしてほしい。 (AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
【ルポ】ピンク色のプラカードで安倍元首相「#国葬反対」掲げて デモで見えた「強行」への反発
【ルポ】ピンク色のプラカードで安倍元首相「#国葬反対」掲げて デモで見えた「強行」への反発 「国葬させない女たちの会」に参加した30代の女性(撮影/上田耕司)  27日に執り行われる安倍晋三元首相の国葬に反対するデモや集会が、主に都市部で開かれている。市民グループは当日、国葬と同時刻、国会正門前での集会なども予定している。9月に入ってから、首都圏で繰り広げられたいくつかの集会をルポした。 *  *  *  9月初旬の土曜日、午後2時前。  埼玉・浦和駅東口を出ると、布教活動をしている女性たちや不動産物件のチラシを持って声をかけている男性に交じって、通路の両側にプラカードを持った市民たちがいた。  土曜の昼下がりとあって、途切れることなく通行人が行き交う。ここでは毎週土曜日、市民グループ「安倍『国葬』を認めない埼玉県民の会」が、プラカードを掲げてスタンディングをしてきた。さいたま市大宮区から来たという男性は、国葬の文字の上から朱色でバツの文字を書いたプラカードを持っていた。 「自宅で2種類作りました。妻からは『パッと見て意味がわかるから、これがいい』と言われました」 浦和でのスタンディング(撮影/上田耕司)  集まった人たちの立場はさまざま。男性はこう続ける。 「みんな市民ですよ。いわゆる政党の人はいない。支持者はいるだろうけどね。現役のお医者さんもいますし、元大学教授や元新左翼の活動家だった人もいますよ」 浦和でのデモ(撮影/上田耕司)  1時間半ほどのスタンディングの後、筆者は浦和の商店街の目抜き通りをデモ隊と歩いた。 パトカーや「POLICE」と書かれたベストを着た警察官約10人が、ものものしく警備にあたっている。そんな中、市民約70人のデモ隊は「国葬反対」「税金を使うな」「岸田は退陣」と叫びながら、牛丼店やゲームセンターなどがある商店街を通り過ぎる。 浦和でのスタンディングにて(撮影/上田耕司) 外見ではわからないビル  歩き始めて30分くらい経った。最前列にいた男性がメガホンを使ってデモ隊列に、こう呼びかけた。 「ここから20メートル先の信号を左に曲がると、通り沿いにビルが見えてきます。そのビルには旧統一教会の関連施設が入っています。抗議文を読み上げますので、ビルの前では歩幅を小さく、ゆっくり歩いてください」 浦和のデモにて。旧統一教会の入っているビル前で手紙を読み上げる(撮影/上田耕司)  ビルの前まで来た。外からビルを見上げても旧統一教会らしき看板は見当たらず、外見上は全くわからない。  すると、デモ隊の一員がメガホンでビルに向かって、こう呼びかけた。 「旧統一教会のお偉方にお手紙を読ませていただきます。ボランティアに名を借りた特定政党への介入を直ちにやめること。また過去に遡って特定政党との関係を全て公表すること。今までに日本国内で集金した(金銭の)所在と使途を明らかにすること。霊感商法や献金による信者からの集金は、直ちにやめること。信者から脱会の申し出があった場合は、無条件で応諾すること。信者および2世信者から訴えられた訴訟には、誠意をもって対応し返金要求に応ずること。宗教の名をかたった反社会的活動をやめ、今後一切行わないこと。以上のことができないのであれば、直ちに教会を解散することを要求します」 浦和でのスタンディング(撮影/上田耕司) 「反対」を貫く医師  デモ隊は次に、さいたま市浦和区の自民党支部の前へ向かった。  参加者の男性は、こう言う。 「自民党のビルの中は電気がついていましたが、シャッターが閉まっていました。何度かインターホンを鳴らしましたが誰も出なかったので、手紙を入れました」  そして、こう続ける。 「県内には旧統一教会の関連施設が10カ所以上あります。そして、何人もの国会議員が関係を持っていたことがわかっています。きちんと対応していきたい。いろんな人たちが怒りの声を上げている」 「安倍『国葬』を認めない 埼玉県民の会」の共同代表を務めるのは現役の医師で、埼玉協同病院内科診療部長の辻忠男氏(74)だ。医師がこのような活動をするのはめずらしいのでは?と聞くと、 「国葬に反対している医師は周りにいっぱいいますよ。私は公立病院を65歳で定年後当院に勤務し、今は自由に社会運動に参加しています」  市民グループの共同代表となり、メガホンを片手に先頭に立ってデモ隊を引っ張っていく。辻医師はこう続ける。 浦和でのデモにて。医師の辻忠男氏(撮影/上田耕司) 「多くの国民が反対しても政府は国葬を強行するでしょうね。当初、政府は弔問外交などと言っていましたが、海外からの大物来賓はカナダのトルドー首相とアメリカのハリス副大統領くらいではないですか。私たちは国葬を止めるために、160カ所の在日各国大使館に不参加要請の手紙を送ったり、埼玉県知事、教育長、さいたま市長に公開質問状を送ったりしました。今後もデモや集会で国内外にアピールし、中身のない“スカスカな国葬”にしたい」  県内61の市教委に「生徒に喪服を強制するな」と要請もしたという。  デモ隊のコースにもなった旧統一教会について、辻医師はこう話した。 「今、多くの信者は動揺しているのではないでしょうか。マインドコントロールされ、お金を巻き上げられ、家庭崩壊の目に合っている。脱会したい信者には、一日でも早く道が開かれることを願っています。県に総合相談窓口を早急に作るように、強く要請してきたところです。脱会の道は開かれています」  そして、こう続ける。 「統一教会が骨の髄までしみ込んだ安倍的自民党政治を終わらせ、政治を私たちの手に取り戻したい」  デモに参加した人たちに話しかけると、会社を定年してパートで働いている人など、デモの間、ずっとマイクを片手にコールしていたのは大宮から来た71歳の女性。ビルの谷間に響き渡るような、元気な声を上げていた。 「#国葬反対」のプラカード  メディア各社の世論調査では岸田内閣の支持率は下落傾向が続いている。国葬に反対する意見が多数で、旧統一教会と自民党との密接な関係問題も収束の気配は見られない。  次に、9月10日、東京・新宿駅南口で開かれた集まりに行った。その場所からはファッションビル「新宿ミロード」の看板が見える。集まっている人の多くは、女性だ。 「国葬させない女たちの会」とNPO法人「アジア女性資料センター」が行った集会には、120人が参加した(主催者発表)。女性が7割ほどで、年齢層は幅広い。 「国葬させない女たちの会」に参加した30代の女性(撮影/上田耕司)  新宿区から来たというショートヘアの30代の女性は、ピンクの銀紙で装飾したオシャレな「#国葬反対」というプラカードを持っていた。服飾関係の自営業者だという。 「百均でラッピング用紙を買って、自分で作りました。国会で国葬をやってもいいということが決まってないのに強行しようとしている。岸田文雄首相は費用が16億6000万円だと言っていますが、たとえタダだとしても反対していたと思います。どんな屁理屈を言ってもダメだよという気持ちを、このプラカードに込めました」  遡ること 8月20日。  新宿で開かれたデモ「ラブ&ピース・パレード」が話題となったが、彼女はそれにも参加し、日比谷から銀座・有楽町などを歩いたという。開催したのは全国で選挙ボランティアを行う「選挙ギャルズ」という若者たち。 「政治腐敗や現状のおかしさに対して声を上げることは、とても大切なことだと思います。その中で『選挙ギャルズ』のパレードのように楽しく抗議することで、声を上げていいんだって思えました。実際、とても楽しかったです。そういうポジティブなムードが、企画したみんなが言う『ギャルマインド』のことなんだなって理解できました」 ※記者が見たデモは、記事後編<<【ルポ】「これまでのひどいことをチャラにしようとするだけ」 安倍元首相「国葬」反対デモで記者が見たもの>>に続く。  (AERA dot.編集部・上田耕司) 
俳優・山本學が認知症早期治療へ「今年から幻視が」
俳優・山本學が認知症早期治療へ「今年から幻視が」 撮影・小暮誠  山本學さん、85歳。「白い巨塔」などテレビドラマの名作ほか映画、舞台を通じ演劇史に名を刻む俳優である。近作「峠 最後のサムライ」(原作・司馬遼太郎)でも存在感ある農民役を渋く演じた。その學さんがいま認知症早期治療に励んでいる。『ボケてたまるか!』の著者の山本朋史・元本誌編集委員(70)が報告する。 *  *  *  山本學さん(筆者も山本で紛らわしいので以下、學さん)が東京・お茶の水にあるメモリークリニックで初めて朝田隆医師の診断を受けたのは今年4月下旬のことだ。 「記憶力が低下していることは以前から意識していました。特に80歳を過ぎて固有名詞が出なくなった。人の名前だけでなく物の名前も。それだけだったら加齢が原因と軽く考えていたのですが、今年になってから幻視が始まった。ないものが見える。床に毛布が転がっている、足でどけようとしたら空を蹴っただけ。ハートやスペードの印のついたプラスチックの箱が壁にかかっている、でも実際にはそんなものはなかった」  學さんは白内障を手術、緑内障の治療もしていたが、視力に問題はなかったはず。寝ぼけているのかと瞼(まぶた)をこすったという。しかし、1週間に2、3回の頻度で幻視は現れ続けた。本などを読んで得た知識から「これはレビー小体型認知症の症状では」と疑った。心配は募り、すぐに朝田医師のもとに駆け込んだという。  學さんと筆者をつないだのは朝田医師である。 「山本學さんが認知症早期治療の体験記を書いた山本朋史さんに会って話を聞きたい、と。連絡をとってもらえませんか」  ゴールデンウィーク明けにメモリークリニックの近くのホテルでお会いした。筆者は朝田医師から8年半前にMCI(軽度認知障害)との診断を受けている。早期治療の効果か、リバーター(健常者に戻った人)とお墨付きをもらったが、今も週に1回デイケアに通いボケ再発阻止を念じて不断のトレーニングを自分に課す身である。あの學さんが困っているのか。力になることができるだろうか。 山本學(やまもと・がく)/ 1937年生まれ。繊細な表現力と独自の存在感で俳優としてテレビ、映画、舞台などで活躍。主な出演作品としては、舞台「放浪記」(1987~2009年)、テレビドラマ「白い巨塔」(78年)、「おんな城主 直虎」(17年)などNHK大河ドラマは8本出演。(撮影・小暮誠)  テレビドラマで認知症の老人役もやったことがあるし、医師を演じることが多かった學さんだ。役で使うマイ聴診器(ファンの医者から贈られた)を持っているそうだ。病気に対する関心は深い。疑問がわくと専門書で調べたり医者に取材したりもする。知的好奇心が旺盛なのだ。医学雑誌にコラムも書いている。 「30年以上前に亡くなった父がアルツハイマー型認知症でした。病室で『あそこの壁から子どもが出てくる』とよく言っていた。今思えばあれも幻視だったんですね。以来、この病気のことについてはとくに興味を持っていました」  父とは建築家の山本勝巳さん(富山市郷土博物館など代表建築は多数)である。弟は圭さん(今年3月に81歳で死去)と亘さん。ともに俳優である。  父の仕事を見ていて建築家にはなりたくないと思っていたそうだ。たまたま三越劇場で見た芝居で舞台装置に興味を持ち、弟・圭さんの友人の父親だった東野英治郎さんに相談して俳優座の養成所に。でも、関心はあくまで舞台装置、役者になるつもりはなかった。養成所同期には田中邦衛や露口茂、井川比佐志らがいた。  成蹊小・中・高校からエスカレーター式に大学に進学していた學さんだったが結局、大学は中退、養成所で舞台の勉強に打ち込んだ。  父からは「30歳までに建築事務所を継いでくれればいい。それまでは好きなことをすればいい」と言われていたが、養成所にいる間にテレビ出演の声がかかった。俳優はできないと断りに行ったが「海外ロケもあるよ」との言葉に誘われ引き受けることに。当時のテレビドラマはリハーサルを重ねての生放送である。 ■側頭葉血流悪くMCI診断受け 「NGが出せない生放送では極度の緊張感で台詞(せりふ)を間違えないことが大切だった。芝居をするというより、サーカスの曲芸かスポーツのようなものでした」  と學さん。テレビ業界は芝居の基礎ができた人を必要としていたに違いない。東芝日曜劇場など依頼が殺到した。「愛と死をみつめて」のヒットもあって、學さんはドラマを何本も掛け持ちでこなすようになった。TBSからフジテレビへとハイヤーを玄関に待たせて移動することもしょっちゅうだったそうだ。  それはさておき、學さんの現在の症状である。MRIや血流検査など精密検査の結果、脳の萎縮は年相応だが、脳の側頭葉の血流が悪いことがわかっている。朝田医師は言う。 「認知力検査では85歳にしてはしっかりしているし点数も良い。ただ、精密検査で血流が悪いところがあってMCIと診断しました。本人はレビー小体型と思われていましたが、むしろアルツハイマー型認知症の初期で進行する可能性があります。一人暮らしで人との接触も少ないので心配もあります」  認知症はその50%以上がアルツハイマー型認知症、20%がレビー小体型認知症、残りが血管性認知症や前頭側頭型認知症などと言われる。レビー小体型認知症の初期と診断された筆者は認知症早期治療に励んでいることを本誌で連載し、『ボケてたまるか!』など2冊にまとめた。今回は『學さんのボケてたまるか!』にアドバイス役として伴走できたらうれしい限りだ。  學さんは4年前に数カ月、筑波大学附属病院の認知力アップデイケアに参加している(筆者も最初に半年通った)。この時は治療を意識して、というよりは認知症早期治療への興味が動機だったという。筋トレの本山輝幸さんも当時のことをよく覚えていた。 「とても熱心に通われていました。しかし、仕事が忙しくなったのか数カ月で見えなくなった」  ちょうどその時、學さんは別の病魔に襲われていたのだ。 「胃の内視鏡検査で悪性腫瘍(しゅよう)が見つかったのです。最初は胃壁を削り取る手術をしました。結局は胃の3分の2を摘出しました。80歳を過ぎてからの2度の大手術はこたえました。62キロあった体重は10キロ以上減少し、体力も落ちた」 ■舞台稽古で使う洒落た室内履き  体力には自信があった學さんである。若いころは山にこもって体を鍛え、400メートルトラック3周を軽く走った。高齢になってからも毎日8千歩歩くことを日課にしていた。その体力がなくなったという。學さんにとってショックだった。手術後はコロナ感染拡大による緊急事態宣言などと重なったこともあり、デイケアにはそのまま行かなくなってしまった。それが今年になって幻視である。 認知トレではかわいいカニのイラストも描いた  メモリークリニックのデイケアプログラムには芸術療法や音楽療法、シナプソロジー(同時にいくつかのことをするデュアルタスク)や認知トレなどさまざまなメニューがあるが、學さんと打ち合わせて最初は木曜日の本山式筋トレのレッスンを共にすることになった。85歳と言うが信じられない。姿勢がいい。柔軟体操をすれば筆者より体が柔らかい。  参加者はトレーニング用の室内履きを持参するのだが、學さんはダンスシューズのような洒落(しゃれ)た履物を取り出した。 「数十年前に舞台稽古の時に履いていたもので、もう履くことはないと思ったのですが、今回思わぬところで役に立ちました」  コロナ禍のためこの日、本山式筋トレは残念ながら録画を見ながらの運動。器具は使わず自分の力を最大限に利用して鍛える筋肉に負荷をかける。この時に感覚神経が痛みを感じて脳に刺激を与えて活性化させるというのが本山理論である。認知障害がある人は感覚神経が脳につながっていない人が多いそうだ(筆者も最初、つながっていなかったのか感じ方が鈍かった)。學さんの顔が思いっきり歪(ゆが)む。痛みを感じなければ意味がない運動だから、この苦悶の表情はいい兆候。まさか演技ではなかったはず。  學さんのテレビドラマや映画、舞台などでの活躍ぶりは山ほどあるが、中でもよく知られているのは「白い巨塔」の内科医・里見脩二役だろう。山崎豊子原作の『白い巨塔』はこれまで何度も映像化されているが、學さんが出演したのは伝説の1978年バージョンである。主演・田宮二郎(田宮二郎が最終回直前に猟銃自殺。それまでも高かった視聴率は最終回に30%超となった)。  大学医学部の次期教授をめぐる権力闘争を描いた物語だった。食道噴門がんの権威、外科助教授・財前五郎役の田宮二郎にたいして患者第一主義のライバル、里見内科助教授を學さんが演じた。患者思いのヒューマニストで、里見助教授ファンが激増したと言われている。學さんは言う。 「他のドラマとの日程調整ができないと最初は断ったのですが、脚本家とプロデューサーがどうしてもと言ってすり合わせてくれました。躁鬱(そううつ)病を患って感情の起伏の激しかった田宮さんとぶつかることもあった。早く彼の病気を知ってアドバイスできていたらと思うこともありました。あのドラマでは先日亡くなった島田陽子さん(東佐枝子役)とラブシーンも。彼女は身長がぼくより少し高かった。抱き合う時の撮影では、ぼくは小さな木箱に乗ってました。屈辱のラブシーンでした(笑)」  出演したテレビドラマは「下町ロケット」(2018年版)など数百本、舞台では「放浪記」だけで1300回も演じている。  學さんは俳優座同期生と結婚したが離婚、その後一般女性と結婚した。しかし、その女性とは2007年に死別。子どもはない。一人暮らしが長くなった。 「妻は広島の原爆被爆者でした。肺がんの治療から8年後に今度は頭に腫瘍ができた。最後は自宅で亡くなりました。家の中のことは妻に任せっきりでしたので、はじめはどこに何があるのかもわからず大変でした。でも、料理も自分でするようになってなんとか暮らしています」  學さんはポジティブだ。筆者ぬきでもデイケアに通うようになった。週に3回も。 ■筋トレの効果か記憶テスト満点 「授業(メニュー)をひと通りやってから通い方を決めようと思って」  心配した本山トレーナーから連絡が入った。 「學さんは今日も参加されました。まだ体力回復が万全でないのに85歳できついトレーニングを週に3回はやりすぎ。朋さんから學さんにひとこと言ってください」  でもその言葉の後で、本山さんは嬉しそうにこうつけ加えた。 「學さんはすごいですよ。昨日トレーニングの後で残ってもらって、認知症テストで有名なファイブコグテストをやってもらったら32点満点でした。本山式筋トレを集中的にやった効果ですよ。過去に筑波大学の大学院生でもそんな点数は取れていません」  筆者もそのテストを受けたことがある(筋トレを始めて約1年後)。その時は30点、學さんに負けた。ちょっと悔しかった。學さんに電話すると、 「ああ、あの記憶テストですね。俳優は台詞を覚えるのが仕事ですから、あれぐらいは……」  デイケアの感想を聞くと、 「ぼくは(デュアルタスクの運動の)シナプソロジーと本山式筋トレが効くような気がしています。疲れてしまったが、筋トレを続けてやって感覚神経がつながって脳に刺激が上がるというのが何となく理解できた。やった後でスッキリしたし」  という答えだった。趣味で水墨画を描くという學さんは写真撮影をした認知トレで素晴らしいデッサン力も見せてくれた。弟の圭さんはもっと絵がうまかったという。 「父の知人の画家の所に2人で習いに行っていた時期もありました」  幻視を見る回数が減り、頻繁には見なくなったそうだ。トレーニングを始めて3カ月。効果があらわれたのか。學さんは真剣だ。拙著2冊を読んでくれたらしい。 「あなたは競馬が好きなんですね。私も電話投票で少しやります。中央競馬会の10競馬場を巡って雑誌『優駿』に紀行文を書いたこともあります。今度、競馬場に一緒に行きますか」  筆者がギャンブラーであるのは間違いないが、馬券で儲けたことは数えるほど。しかも、当たったつもりがマークシートを書き間違えて大外れしたボケ体験も何度もしている。學さんに競馬道を教えてもらわねば。(山本朋史)※週刊朝日  2022年9月23・30日合併号
「老け顔」を防ぐ食生活とは?食事のとり方でも見た目は変えられる
「老け顔」を防ぐ食生活とは?食事のとり方でも見た目は変えられる 私たちの年齢による変化は、肌だけではなく、その下にある骨でも、確実に起こっている。「顔の骨の骨粗鬆症」を防ぐ食材とは(写真はイメージです GettyImages)   仕事において能力はもちろんのこと、やはり見た目も大事ですよね。肌ツヤがよければ清潔さにもつながりますし、自分の体を支える筋肉が少なくなれば疲れやすく、姿勢も悪くなりやすいため老けて見えるものです。若々しい見た目を保つためにも、自分の能力をフルに発揮するためにも、なにはともあれ“体が資本”です。日々食べているものから体は作られていきますから、体を万全な状態に持っていくためにはどんな食事をとればいいのでしょうか。そこで今回は、森由香子さんの著書『60歳から食事を変えなさい』(青春出版社)から、若々しくいられるための食事のコツをご紹介します。 美しい立ち姿を維持するには、たんぱく質をどう摂る?  筋肉量は20代から少しずつ減りはじめ、80歳頃までに20歳代に比べて約30~40%の筋肉量が失われるといわれています。特に女性は閉経後に筋肉量減少が加速することがわかっています。  当然のことながら、筋肉が減れば、体力や移動能力は低下しますし、平行感覚も弱くなり、転びやすくなります。私たちのからだは、何をするときも筋肉を使うことで動いています。その筋肉が減り、機能が衰えてくれば、若いころと同じことをしても以前よりしんどく感じるようになるのは、当然でしょう。  60歳から筋肉量を維持するためには、筋肉の材料となるたんぱく質を食事でしっかり補給するのが重要だということは、皆さんももうおわかりでしょうかと思います。  では、その大事なたんぱく質を、いつ、どのように、どれくらいとればよいか、より具体的にわかっていたほうが、日々の食事にとりいれやすいですよね。  そこで、まず皆さんに覚えていただきたい合言葉が、「朝ごはんにたんぱく質!」です。   たんぱく質は、基本的に3食しっかりとっていただきたいのですが、中でも重要なのが朝ごはん。からだがもっともたんぱく質を必要としている朝にたんぱく質をとることで、筋肉の分解を抑えることができるからです。  筋肉は常に合成と分解を繰り返していますが、合成の際に原料となるのが、食事でとったたんぱく質から分解・吸収された、アミノ酸です。  アミノ酸は筋肉を作る以外にも、さまざまな臓器や免疫機能のはたらきで重要な役割を果たしていたり、酵素・ホルモンの材料として使われていたり、エネルギーとしても使われています。  私たちのからだは、寝ている間でもアミノ酸を必要として、ずっと使い続けているのです。  しかし、寝ている間には栄養の補給はなされません。そこで、体内でアミノ酸が足りなくなってしまうと、からだは筋肉を分解し、生命維持のためにアミノ酸を使いはじめます。つまり、私たちの体内では、寝ている間に筋肉量が減少してしまっている可能性があるわけです。  ですから、朝起きたらまず、何はなくともたんぱく質を朝ごはんで補給することが、筋肉量維持のための、もっとも効果的な食事法だといえるでしょう。 たんぱく質を効率的に摂るためには何を食べる? さらに大切なのは、たんぱく質は、できるだけ毎食20gずつとること。  実際には、一般的な日本人の場合、昼と夜はたんぱく質がある程度とれていても、朝ごはんだと、たんぱく質は10g程度しかとれていない人が多いことがわかっています。ぜひとも朝ごはんで今まで以上に積極的に、たんぱく質を補給してください。  では、私たちに馴染み深い主な食品のたんぱく質量をざっと挙げておきましょう。 【主に洋食】 卵1個…6.1g/ソーセージ1本…2.3g/ハム2枚…7.4g/鶏むね肉80g…18.64g/鶏ささみ肉40g…9.6g/食パン8枚切り…4g/ロールパン1個…3g/牛乳1杯(210ml)…6.9g/ヨーグルト80g…2.9g/ピーナッツバター小さじ1杯…1.1g 【主に和食】 納豆1パック…8.3g/さけ1切れ…17.5g/さば1切れ…15.6g/焼きのり1パック…1.2g/ごはん1杯…3g/豆腐100g…7g   朝ごはんにとりいれやすい食品を中心に挙げておきましたので、1食20gで考えると、いつもの朝食でどれくらいたんぱく質をとっているのか、どれくらい足りていないのか、どれを足せば20gクリアできそうか、まずは確認してみてください。  いきなり毎朝20g食べるのが難しいと感じる場合は、無理のない範囲で、少しずつ増やしていくとよいでしょう。 顔が老け見えするのは、肌の下にも原因があった!  人と会う時の第一印象の中で、顔も大きな要因を占めますよね。たとえお肌のケアなどをしていても、年齢を重ねると、どうしても気になりはじめるのが、お肌のたるみ。  50歳も過ぎた頃からフェイスラインは下がり、ほうれい線が深くなって、目は落ちくぼみ、目の周りや口元にはシワが刻まれていきます。  皆さんは、こうした変化の原因は、年齢とともに起きるコラーゲンの減少や、保湿力の低下など、いわゆる“肌の老化”だと思い込んでいませんか。  確かに肌の老化でもあるのですが、それだけではありません。実は頭蓋骨が大きく関係しているという意外な事実が、近年の研究によって明らかになってきたのです。  ある研究報告によれば、各年代の男女の頭蓋骨をMRIで撮影してみたところ、年齢が上がるほど頭蓋骨が下に向かって崩れてしまっているとのこと。同時に、眼窩(目が位置する穴のこと)も年齢とともに広がっていく傾向にあるそうです。  原因は、年齢による骨密度の低下。つまり、私たちの年齢による変化は、肌だけではなく、その下にある骨でも、確実に起こっていたのです。   なかなかショッキングな事実ですが、こうした現象を少しでも防ぐためには、骨密度を保つ栄養成分を、毎日の食事からしっかりとることがとても重要です。 「顔の骨の骨粗鬆症」を防ぐ食材とは  骨といえばカルシウムが有名ですが、それだけでは不十分です。葉酸、ビタミンK、たんぱく質なども必要で、中でも特に注意していただきたいのが、カルシウムの吸収を助けるビタミンDです。  しかし、ビタミンDは入っている食品が限られており、なかなかとりづらい栄養素であるため、多くの日本人が不足しているといわれています。  そこで私が皆さんにおすすめしているのが、魚料理です。  ビタミンDは卵黄やきのこなどにも入っていますが、なんといっても魚に豊富です。  成人男女のビタミンDの1日の推奨摂取量は8.5マイクログラムですが、たとえば、さけ1切れ(焼き魚)で39マイクログラム、真がれい1切れ(焼き魚)で27マイクログラム、さんま1尾(焼き魚)で17マイクログラムもとれます。  しかも魚には骨を作るときに必要なたんぱく質もしっかり含まれているので、骨の健康を保つために必要な栄養成分が効率良くとれる食材といえるでしょう。  クリニックで栄養指導をしていると、骨粗鬆症になられている方の中には、魚があまり好きではない人が多いような印象があります。魚は調理が面倒、匂いが気になる、骨がわずらわしいなどの理由で、肉料理ばかり好む方が多い気がします。  また、「ビタミンDは日光を浴びることで体内で増える」という話がテレビや雑誌でとりあげられたことで、「自分はよく外に出て日光を浴びているからビタミンDは不足するはずがない」と思い込んでいらっしゃる方もいました。まずは食事でビタミンDをしっかり補給しないと、いくら日光を浴びても、それだけでは不十分です。  ですから、男女問わず、フェイスラインのたるみが気になる年齢になってきたら、ぜひ1日1回は魚料理を食べて、ビタミンDを積極的にとってください。  特に女性の方には強くおすすめします。更年期に入り女性ホルモンが低下すると、その影響で骨が弱くなり、男性の約3倍も骨粗鬆症になりやすいからです。毎日魚料理をしっかり食べて、骨の健康を保ち、若々しいフェイスラインを保ちましょう。 森 由香子管理栄養士・日本抗加齢医学会指導士東京農業大学農学部栄養学科卒業。大妻女子大学大学院(人間文化研究科 人間生活科学専攻)修士課程修了。2005年より、東京・千代田区のクリニックにて、入院・外来患者の血液検査値の改善にともなう栄養指導、食事記録の栄養分析、ダイエット指導などに従事している。また、フランス料理の三國清三シェフとともに、病院食や院内レストラン「ミクニマンスール」のメニュー開発、料理本の制作などを行う。抗加齢指導士の立場からは、<食事からのアンチエイジング>を提唱している
眉毛ケアで第一印象が激変! “ゴールデンバランス”と男女別メイク法を解説
眉毛ケアで第一印象が激変! “ゴールデンバランス”と男女別メイク法を解説 ※写真はイメージです (GettyImages)  マスク生活が日常になってから早3年目。マスクを着けていると、いやが応でも目と眉に視線が集まる。「眉は顔の額縁」という言葉があるように、眉ひとつで顔の印象が大きく左右される。マスク姿ならなおのこと! 今こそ眉毛ケアの好機だ。 *  *  *  東京・巣鴨のシニア世代専門ヘアサロン「えがお美容室」には、眉毛の相談に訪れる人も多い。常連客の池田志美子さん(68)もその一人だ。 「白髪が増え、目尻側の眉毛は減りました。左眉の位置が右眉より高いのも気になっています」  ヘアメイクアップアーティストの船津有史さんは、シニアこそ眉毛をカバーする技術が求められるという。そのためにまず覚えておきたいのは、眉毛の位置の目安。眉頭は目頭の少し内側、眉山は黒目の外側と目尻の間、眉尻は小鼻と目尻の延長線上にあるのが“眉毛のゴールデンバランス”といわれている。  女性の眉毛ケアの基本はメイク。用意するのはアイブロウパウダーとアイブロウペンシルだ。パウダーはベージュ、ブラウン、グレーの3色パレット、ペンシルは髪の色に合わせてグレー系かグレーブラウン系があるといい。船津さんが言う。 「パウダーで眉毛全体のアタリをつけて、ペンシルで毛を描いていくのが大まかな流れです」 週刊朝日 2022年9月23・30日合併号より  もう一つの必須アイテムは大きな鏡。小さい鏡で片方の眉ばかり見ていると、全体のバランスをチェックしにくいからだ。  まずは眉頭から。幅が広めの筆にベージュのパウダーを軽くつけ、両眉の眉頭の位置を合わせていく。「頭蓋骨の目のくぼみに沿って眉毛が生えているので、ここに合わせるとわかりやすいです」と船津さん。  眉山の位置を定めたら、そこが山になるようにブラウンのパウダーを軽くつける。眉山から眉尻にかけては、毛が薄くなっている人が多い。眉があるべき位置に、眉の下絵を描くように少しずつブラウンのパウダーを乗せていく。 「下絵ができたらペンシルで毛を一本一本植えるように短く、軽く描いていきます。描いたところはペンシル付属のブラシや綿棒、指などで軽くこすってなじませると自然になります」(船津さん) ケア前(左)ケア後(右)  冒頭の池田さんは、眉頭の位置が左眉のほうが高い。その場合、高く飛び出た部分の眉毛を肌に近い色のコンシーラーで塗って目立たなくさせる。 「まずは片方に集中して理想の眉の形を整えましょう。それを基準にしてもう片方もメイクすると失敗が少ないです」(同)  眉毛を抜いたり、剃ったりして整えるのは最終手段。まずはメイクで理想の眉毛を完成させてから、明らかにはみ出ているところだけ、最小限の手を加える。ただし、まぶたの上など不要な毛は抜いてもいいという。 「シニア女性は流行よりも、かつての自分の眉に近づけることを意識するといいですよ」(同)  メイクの習慣があまりない男性の場合は、どうすればよいのか。メンズ眉毛サロン「エサージュオム銀座店」店長・北崎好海さんにケア方法を教えてもらった。  主なお客は20~30代だが、50代以上も少なくない。シニアの男性は白髪や薄毛、突然生えてくる太くて長い毛に悩む人が多い。メイクに頼らない分、今ある眉毛をどう整えるかが決め手になるという。さっそく、同じ悩みを抱える本誌記者(60)に眉毛ケアを初体験してもらった。  北崎さんによると、記者は会話をすると表情筋が動き、それに伴って眉頭が上がり、眉尻が下がる特徴があるという。 「眉全体をまっすぐに近づけて眉尻をカットすると、優しく爽やかな印象に変わります」  同店では、肌に近い色のコンシーラーで眉の周りを塗って“眉毛の完成イメージ”を形作る。その後、不要な毛を脱毛ワックスや毛抜き、ハサミで処理し、形を整える。 「長さに左右差がある時は短いほうに合わせます。加齢で毛が薄くなっても産毛は生えているもの。眉毛の濃い部分を間引くと濃淡が均一化され、薄い部分が気にならなくなります」(北崎さん) “完成形”に整えてもらうのは専門サロンにお任せするとして、その後のケアなら自宅でもできる。 「(完成形の)眉からはみ出した部分をカットする時は、心持ち太いかな、と思うところで留めたほうが無難です。眉頭は指1本分を目安に空け、余分な毛を抜きます。眉尻の下やまぶたの上も毛が生えやすいので、ここも抜きましょう」(同)  男性もメイクの技を覚えておくと、格段に見栄えがよくなる。 「先が細いグレー系のペンシルを選び、眉の薄いところを埋めるように軽いタッチで描きます。指などでぼかすときれいに仕上がります」(同)  仕上がりを鏡で見た記者は驚きの表情を見せた。 「毛抜きは相当痛かったけど、かなり印象が変わりましたね」  記者の妻は、眉毛の変化に気がついたという。 「妻から何も言わなかったのは、私がよからぬことをしていると疑ったからかも(笑)。私から眉毛ケアのことを切り出すと、『優しそうになった』と褒めてくれました。今回を機に、自分で眉毛の手入れをするようになりました」(記者)  眉毛一つで印象がいい意味で激変するのなら、やってみる価値はある。(ライター・吉川明子)※週刊朝日  2022年9月23・30日合併号
「中山美穂」離婚で好感度下がったのに仕事が途切れないワケ
「中山美穂」離婚で好感度下がったのに仕事が途切れないワケ 中山美穂  9月5日、歌手で女優の中山美穂(52)が自身のインスタグラムを更新し、赤のドレス姿の写真を公開した。その華やかさに、フォロワーからは「真っ赤なドレス、すっごく似合ってる」「ミポリン、お美しい」など、称賛の声が寄せられた。  中山といえば、80年代にアイドルとしてデビューし、90年代には全盛期だったフジテレビ系の月9ドラマで何度も主演を務めるなど、女優としても一世を風靡した。2002年にはミュージシャンで小説家の辻仁成と結婚し、芸能活動を一時休止してパリに移住。その後、14年に辻とは離婚することになるが、同時期に不倫疑惑を報じられ、さらに親権を夫に譲ったこともあり、好感度が急落。特に母親世代からはSNSなどで厳しい声が寄せられた。その一方で、離婚後も女優としてコンスタントにドラマや映画に出演しており、仕事は途切れていない。 「離婚時のイメージが尾を引き、今も好感度が高いとは言えない中山ですが、7月期のドラマ『魔法のリノベ』に初回ゲストとして寺脇康文と夫婦役で出演した際も、視聴者からは『年を取ってもキレイ』との声が目立っていました。やはり、女優として華やかな存在感があるのは確かです。また、5月に公開されたサイコサスペンス映画『死刑にいたる病』では、主人公の母親で、常に夫の顔色をうかがう何も決められない妻役を怪演していました。オーラを全く消して、生活に疲れた感じを醸し出しつつ、ストーリーに深く関わっていく母親役をうまく演じ切っており、業界内でも好評でした」(テレビ情報誌の編集者)  アイドル、女優として一時代を築いただけあって、芸能界では変わらず重宝されているようだ。あまりプライベートを明かさない中山だが、最近では精神的な強さがうかがえるエピソードを披露している。 「毎日キレイ」(20年1月23日配信)では、「昔のほうが、物事を一つ一つ真面目に考えていました。でも、今はすごくいい具合に自由というか、怖いものがないというか、じたばたしなくなりました。そもそも面倒くさいと思うことが、もうなくなってきている」と断言。周囲の反応を気にして、くよくよするだけ時間のムダだと思っているのかもしれない。 「離婚をめぐる報道もそうですが、その後も妻子のいる年下のイケメンバンドマンとの熱愛疑惑が写真週刊誌で報じられるなど、恋愛がお盛んなイメージもあり、とくに中高年女性からの評判はいいとは言えません。しかし、アイドル時代から女優全盛期、そして今日までいろんな業界の苦労を知っており、そんな経験が今、まさに演技に生きているのだと思います。最近、テレビマンや映画関係者の間では、中山さんの名前が挙がることも増えています」(民放ドラマ制作スタッフ) ■「眠れる森」はドラマ史上に残る名作  もともと評価されていた演技力に加え、私生活でのさまざま経験をへてメンタルの強さが備わったということなのかもしれない。 「演じる役柄について、『素晴らしい!』と感じるものなら何でも引き受けたいと思っていると、以前インタビューで明かしていたのも印象的です。“良い監督”や“良い脚本”であることが最優先だが、面白い作品ならどんな役でもいいから関わりたいそうです。また、昔は自分が求めるものと違うものを求められることに悩んだりしがちだったが、今は悩むこと自体がほとんどなくなり、割と何でも受け入れてしまうとも話していました。そうしたところを見ると、意外とフットワークは軽いのかもしれません」(前出の編集者)  一方、「私が女優の仕事でいちばん必要だと思うのは体力。とにかく健康でいることが重要!」(「ハルメク365」19年10月21日配信)と話していたこともある。倒れると撮影に穴をあけて、多くの人に迷惑をかけてしまうという理由だが、中山は子どもの頃から体が強く、特別なケアをしなくとも風邪もほとんどひかず、体力や健康には自信があるという。演技力やメンタルだけでなく、フィジカルの強さまでそろっているところもオファーが途切れない理由なのかもしれない。  ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、これまでのキャリアを振り返りつつ、中山の今後についてこう考察する。 「『毎度おさわがせします』でドラマデビューしたアイドル時代を皮切りに、80年代後半から00年代にかけ、中山さんは女優として目覚ましい活躍をしていました。主な代表作をざっと挙げただけでも、『な・ま・い・き盛り』『ママはアイドル!』『君の瞳に恋してる!』『すてきな片想い』『もしも願いが叶うなら』など、どれも彼女と同世代の多くの人たちの記憶に今もなお残る作品ばかり。中でも、木村拓哉と共演した『眠れる森』はドラマ史上に残る名作と言っても過言ではありません。彼女がすごいのは、歌手としても実績を残しているところ。中山美穂&WANDSとしてリリースした『世界中の誰よりきっと』は、今ではよく見るアーティストコラボの先がけであり、40代後半から50代の人にとってはカラオケの定番曲でしょう。今の彼女は、女優としては良い意味で未知数です。彼女ならではの目ヂカラと円熟味を増した存在感で再びブレークする可能性も十分あると思います」  私生活でゴタゴタがありながらも、それを感じさせない活躍ぶりは“本物の女優“なのだろう。(丸山ひろし)

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