AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
検索結果3489件中 961 980 件を表示中

中学入試で「東大入試」と同じテーマを出題した学校は? 「詰め込みでは太刀打ちできない」
中学入試で「東大入試」と同じテーマを出題した学校は? 「詰め込みでは太刀打ちできない」 写真はイメージです(Getty Images) 2022年度の首都圏の中学入試の受験者数は5万1100人、受験率も17.30%前年度よりも上昇しました(首都圏模試センター調べ)。8年連続で受験者数、受験率ともに増加し、ますます過熱する中学受験ブームですが、入試そのものにも変化が起きています。AERA dot.では短期集中連載「2023中学入試の今」と題して、入試の現状を専門家の分析とともに紹介していきます。第1回は、脱知識型の入試問題について。従来のような知識の詰め込み対策だけでは太刀打ちできない、その場での読解力や思考力が問われる出題が目立ちます。工夫を凝らした各校の問題が受験生に伝えたいメッセージとは――。 *   *  *  テスト用紙を開いた受験生は、とまどったにちがいない。公文国際が17年度に行った社会科のテストは、最初の資料が婚姻届の用紙だった。資料2では婚姻に関して規定された日本国憲法の第24条を取り上げ、資料3と4に朝日新聞の同性婚に関する記事が続いた。問題の意図を、社会科主任の渡辺太郎先生は次のように話す。 「本校は毎年公民の問題に、実社会で起きている時事を取り上げています。17年は夫婦別姓が問題になった年でした。問題には、社会科をただの暗記科目にしてほしくない、社会に興味を持ってほしいというメッセージが込められているのです」 ■大学入試の一歩先を行く中学入試  首都圏を中心に中高500校あまりの入試過去問題集を出版している声の教育社常務取締役・後藤和浩さんは「中学入試が面白い」と語る。後藤さんの業務は現在は渉外が中心だが、編集部にいたときには毎年250校、500以上の入試問題を解いていた。その経験からこう話す。 「大学入試改革や、センター試験が共通テストに変わった影響があるのでは、という説もあるのですが、実は中学入試のほうが先です」  とくに15年度あたりから記述が増えたり、小問数を減らして考える時間を増やしたりするなど、思考力を問う問題が増加してきたという。 「従来型の知識を問う問題も出されるので、中学入試の学習は必要です。ただ最近は細かな知識を問うよりは、その場で考えさせる問題や、文章で表現するような問題を出題する学校が増えてきた印象です」  後藤さんが「重箱の隅」をつつくような知識問題として挙げる過年度の難問例は「静岡県内の東海道新幹線各駅停車の西からの駅名」「タシケント(ウズベキスタン)の雨温図」「十字軍の遠征が世界に与えた文化的な影響」など。後ろの2問は中高校生レベルの問題ではないだろうか。  一方で、「資料として提示されたガイドブックを読み取り、旅行の計画を立てる」(清泉女学院)、「自分が日本代表の監督だったら消化試合をどう捉えるか」(慶応湘南藤沢)など、知識だけにとどまらない自身で考えるような問題が出題されるようになったという。  超難関校では以前から、深い考察を必要とする問題が出されてきた。たとえば灘や筑波大付属駒場の国語で出題される「詩」の問題は、受験生を戦々恐々とさせている。 「詩の形式を問うような学校もあるのですが、灘や筑駒は本質的な読解です。詩のような短い文章からは、その行間も読み解かなければならず本当に難しいのです。筆者が言葉に表さなかったことまで理解して、言葉に落とし込む。いわば芸術的な行為であるとすら思います」(後藤さん) ■数学者の定理が出題  明星学園の算数の最終問題では、「ユークリッドの互除法」「ヴェーダ数学」「カプレカ数」「オスターリー・マッサー予想」など、過去の数学者の定理が出題されたこともある。定理についての詳しい解説がなされ、それを読み解けば問題を解けるようになっている。本物の数学を知ってほしいという、教員の意気込みが伝わってくるようだ。  大妻多摩では22年度、東大と同じテーマの問題が出題された。大妻多摩の「日本のりんごが高価格であるにもかかわらず、台湾が日本のりんごを輸入するのはなぜだと思いますか」に対して、東大は「りんごの輸出量が増加している理由として図から考えられることを、2行以内で説明せよ」と、両校ともに日本の果物の輸出が伸びていることに着目。  社会科の森谷陽子先生は、出題の背景を次のように話す。 「小学校の知識に、自分なりの考えをプラスできないかと考えました。日本は工業製品の輸出では知られていますが、農作物の輸出はあまり知られていません。そこに目をつけました」  亜熱帯、熱帯地域の台湾ではりんごが生産できないこと、また赤や黄色を縁起が良い色として尊ぶ中華圏の文化など、いろいろな角度から考えられる問題だ。 「たまたまでしたが、東大とかぶったのはうれしかったですね」(森谷先生) ■入試は1日目の授業  後藤さんは入試を「1日目の授業」と称する。 「先生方は入試を、ただの選抜だとは思っていません。入学してから伸びてほしいと思う、指標でもあるんです」  大妻多摩の森谷先生は言う。 「地理は、覚えなければいけないことが多くて苦手意識を持つ生徒が多い。でも修学旅行に行くと主体的に学習します。社会科は生活に密着した教科です。関心を持って、情報を受け入れるだけでなく、発信もできるようになってほしいのです」  冒頭の公文国際は、公民で新聞記事を使った授業を行っている。同じテーマを扱った複数の新聞記事を比較し、視点の違いなどを生徒が話し合う。22年度の東大推薦入試で、同高校の原田怜歩(はらだ・らむ)さんが合格した。在学中に行った「LGBT(性的少数者)にとってのトイレ」についての研究が評価された。 「社会科の教員は、社会問題に関心がある生徒を育てたいという思いがある。そういう影響があったのかもしれません」(渡辺先生)  これからも思考型、読解型の入試は広がりそうだ。後藤さんは対策として、多くの人と話をすることが大切だと話す。 「同じニュースを見ても、立場の違いでいろいろな考えがあります。いろいろな人と話をして違いを知り、それ対して自分はどう思うのか考える習慣を身につけましょう」 (ライター・柿崎明子)
「中学受験人気ブロガー」が提唱する“父親の狂気”に陥らない心得 子の受験を「自分ごと」にしない
「中学受験人気ブロガー」が提唱する“父親の狂気”に陥らない心得 子の受験を「自分ごと」にしない 中学受験は「親の受験ではない」と心得、のめり込みすぎないことも大切だ。写真はイメージ(PIXTA) 年々過熱する中学受験において、子どもの受験勉強に積極的に関与する父親が増えつつある。育児に積極的な父親が増えるなかで、受験でもわが子をサポートしてあげたいと父親が考えるようになったのも当然の流れかもしれない。その一方で、父親が自身の受験の成功体験を押し付けたり、会社での仕事のやり方を受験勉強に適用させたりすることで、疲弊してしまう子どもがいるという話も多い。そこで、AERA dot.ではさまざまな「中学受験パパ」のケースを取材し、子どもとの最適な関わり方を探った。短期集中連載の第3回は、2人の兄妹との中学受験体験を書いたブログがヒットし著書「偏差値に効く究極サポート10の実践」も出版したゆずぱさんが登場。中学受験パパが覚えておくべき“心得”を聞いた。 *  *  * 「自分も中学受験をしてみようかな」  ゆずぱさん(仮名)の息子が、そんな言葉をかけてきたのは、小学校4年の頃だった。  当時、通っていたのは私立の小学校。小学校受験もしたが、友人たちも中学受験に挑む子が多く、「みんなやっているから」がその理由だった。  自身も妻も、公立の中学、高校と進んでいたため、中学受験の経験はない。 「文字通り、右も左もわからない状態からのスタート。どんな塾があるのか、カリキュラムはどうなっているのか。まずは徹底的に調査をしようと決め、僕自身が受験勉強について学ぶことから始めました」  小3から入塾し、二度の転塾を経て、大手進学塾へとたどり着いた。大切にしたのは、通いやすさと子どもの性格に合っているかどうか。塾の雰囲気が子どもに合わないと感じれば、無理に通わせることはしなかった。  当時、大きなプロジェクトの責任者を務めていたため、帰宅時間は遅く、平日の夜に勉強をみることは難しいと感じていた。妻もフルタイムなうえ、夜勤もある。 「次第に、サポートするにしても仕組み化が必要だ、と気づきました。仕組みづくりをするうえで基準にしたのは、『子ども一人でできること』と『親と一緒でなければできないこと』をきっちり分けるということ。自律的行動につながるような仕組みづくりこそ、親ができることだと考えました」 ゆずぱさんの手書きのホワイトボード。完全に無機質になるわけではなく、『頑張ろう!』『忘れないように!』といった手書きのメッセージを加えた(画像=本人提供)  スケジュール管理とタスク管理、そしてファイル管理。その3つを、自身の主な仕事と課した。 「子どもがその時々にやらなければいけないことを把握し、週間スケジュールを一緒に作成することから始めました。時間割をつくり、子ども部屋やリビングなどに貼り、平日はそのスケジュールをもとに、自走してもらうようにしました」  大切にしたのは、「細かなスケジュールは子どもと一緒に決める」ということ。 「息子のタイプを考えても、人から指示されるのは嫌だろうな、と感じていたので、中身は子どもに主体的に決めていってもらいました。僕がしていたことといえば、エクセルの操作くらいです」  小学4年から週間スケジュールをつくり、学期や学年が変わるタイミングで改版していった。勉強への取り組み方、仕組み化のヒントが欲しい時は、ネットからの情報や同じ受験生の親のブログを頼りにした。  自身は理系ということもあり、ビジネス同様、「PDCAサイクルを回していくこと」に重きを置いたことも良かったのかもしれない、と振り返る。 「僕は感情を捨て、仕組みだけを提供することを徹底しました。例えば、夏休みであれば、毎朝ホワイトボードにやらなければいけないことに所要時間を加えて渡すなどなるべく具体的に記すようにしていました」  とはいえ、毎回思った通りに進むとは限らない。  中学受験専門塾スタジオキャンパス代表の矢野耕平さんも、「12歳の子どもが取り組むことなので、『PDCAは崩れるもの』という前提を頭に入れておくことも必要」と話す。 「勉強はビジネスと異なり、『こうすればうまくいく』という方程式のない世界。Plan(計画)、Do(実行)の段階で崩れることも少なくありません。大切なのは、バグが発生した時に、パニックに陥ることなくスムーズに対処できるかどうか。『そもそもバグは生じるもの』ということを前提に考えておく必要があります」 ■受験を親の「自分ごと」にしない  ゆずぱさんの場合、父親と母親の役割分担も明確にした。  教科問わず、理解が浅い点など勉強のサポート自体はゆずぱさんが週末にまとめて行う。対し、弁当づくりや学校説明会や文化祭の予約、そして受験期の忙しい時期に妹を終日外に連れ出すという役割は母親に委ねた。 「共働きで、子どもと接することができる時間が限られているため、平日は自走してもらい、週末だけ真横について教える、というスタイルを少しずつ確立していきました」  どれくらいの偏差値帯を目指すのか、志望校はどの辺りにするのか。本人の意見を尊重しつつも、両親で意見が割れていると、子どもは振り回されてしまう。そのため、互いに歩みよるなど、時に無理やりにでも夫婦の歩調を合わせることも大切だと感じた。  時には、思うように取り組まない子どもの姿を見て、イライラしたこともある。 「わが家の場合、子どもから『中学受験に挑んでみたい』と言い出したにもかかわらず、ダラダラしている時間も多かったので、『本当にやる気があるのか』と怒りたい気持ちになったこともあります。ですが、次第に『これは親の受験ではないんだ』と意識を切り替えることにしました。『せっかく受験をするのだから、このくらいは目指してほしい』といった思いはすべて捨てることにしました」  受験勉強に並走する時間は長く、費用もかかる。だからこそ、次第に受験が“自分ごと”になってしまい、親の思いや願望を捨てることが難しくなりがちだ。ゆずぱさんがそれを潔く「捨てる」ことができたのはなぜなのか。 「妻も自分も中学受験は未経験だったからこそ、『中学受験をすることだけが唯一無二のルートではない』という考えが前提にあったことが大きいかもしれません」と言う。 「息子の友人たちを見ても、私立の小学校から公立の中学に進む子もいれば、中学受験をしても進学した中学で勉強について行けずにやめてしてしまった子もいた。いろいろなパターンやルートがあることがわかっていたため、『道はここしかない』と思い詰めなかったのも良かったのかもしれません」  前出の矢野さんも「中学受験未経験だからこそ、『唯一無二のルートではない』という冷静な視線を持ち、『これは親の受験ではない』と割り切れたのが良かったのではないか」と言う。  息子の受験を終えてから数年後、今度は娘が中学受験に臨んだ。  兄と両親の姿を近くで見てきた娘は精神的にも安定し、心の余裕を持って試験当日を迎えることができた。 「不安定になり焦って詰め込むよりも、時間はかかってでも一問一問確実に取り組んでいく方がいい。それに、たとえうまくいかなかったとしても、長い人生でいくらでもリカバリーはできる。親はどっしり構えていればいいのではないか、と今は思います」 (古谷ゆう子)
家康はなぜ「松平」姓を捨てたのか?2年で将軍職を譲った理由は?徳川家と江戸時代をめぐる5つの疑問
家康はなぜ「松平」姓を捨てたのか?2年で将軍職を譲った理由は?徳川家と江戸時代をめぐる5つの疑問 徳川家康の肖像。江戸時代前期に描かれたもの/堺市博物館  活動休止中のアイドルグループ「嵐」のメンバー、松本潤さんが主演することで話題のNHK大河ドラマ「どうする家康」。1月8日、ついに放送が始まる。タイトル通り、ドラマの主人公は徳川家康。言わずと知れた「戦国の乱世を終わらせた男」だが、家康という人物についても、彼が江戸幕府を開いたことから始まる江戸時代についても、まだ解明しきれていない謎があり、通説とされてきた史実が覆されることもある。 「どうする家康」を120%楽しむために、累計35万部超の「だからわかる」シリーズ最新刊『テーマ別だから政治も文化もつかめる 江戸時代』から、徳川家康と徳川家、江戸時代をめぐる5つの疑問に答えていく。 【疑問その1】松平家出身の家康はなぜ、徳川を名乗ったのか 「どうする家康」の冒頭、徳川家康は「徳川」ではなく「松平元康」として登場するはずだ。松平家は、初代の親氏が三河国松平郷の領主になったことに始まる徳川の祖。親氏の子孫は岡崎や安城に進出して勢力を広げ、多くの分家を創出した。  親氏から数えて7代目にあたる家康の祖父・清康の代で、松平家は国人領主として自立。三河の大部分を平定する。しかし、清康は24歳で家臣に暗殺され、その子・広忠も23歳で早世。松平家は今川家の支配下に入り、広忠の子として生まれた9代目・竹千代(のちの家康)は今川家の人質として幼少期を過ごすことになる。  家康の人生を大きく動かしたのは、今川義元軍と織田信長軍が戦った1560年の桶狭間の戦いだ。今川義元は戦死。その混乱に乗じて岡崎に帰還した家康は、尾張の織田信長と同盟を結び、一向一揆を鎮圧して三河を平定。三河守に任官した際、姓を松平から徳川に改めた。  当時、官位を受けるには、家の「由緒」が必要だった。そのため、家康は系譜を詐称。清和源氏新田氏の庶流である得川家の末裔を称したとされる。 【疑問その2】家康が捨てた「松平」姓はなぜ、高貴の証となったのか  徳川家が将軍の地位を手に入れると、旧姓の「松平」は特定の一族のみが名乗ることができる尊貴な姓となった。最も多いのが、将軍家と同祖の「十八松平」。多くは譜代大名や旗本になった。安祥松平、大給松平、大草松平などが「十八松平」とされるが、どの家を指すのかは資料によって異なる。  家康の次男・秀康に始まる越前松平家、家光の弟・保科正之の会津松平家など、分家も松平姓を名乗り、御家門として御三家に次ぐ家格を誇る。前田家や池田家などの外様大名にも松平姓が称号として与えられ、信頼関係を築いた。 【疑問その3】家康の嫡男・信康はなぜ将来を期待されながら「切腹」したのか 松平信康の首塚を祀る若宮八幡宮/愛知県岡崎市   家康と信長の同盟は、家康の嫡子・信康と信長の娘・五徳の結婚により結ばれた。信康は有能な武将で将来を期待されたが、1579年、21歳の若さで、信長の命で切腹している。  原因は、信康の母と武田家の内通、信康自身の不行跡、五徳の讒言(ざんげん)など諸説あり、「家康の悲劇」の一つとされてきた。近年は、信康の家臣がクーデターをたくらんだため家康に粛清されたなど、家康自身の意思だったとする説も提起されている。  愛知県岡崎市の若宮八幡宮に、信康の首塚が祀られている。 【疑問その4】家康はなぜ、たった2年で将軍職を秀忠に譲ったのか  1605年、家康は将軍職を嫡子・秀忠に譲った。家康が征夷大将軍となったのは1603年だから、たった2年でその職を手放したことになる。  関ケ原の戦い後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名となった。それでも、豊臣秀頼を主君と仰ぐ大名は多かったとされる。家康は、早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、日本の統治者が徳川家であることを天下に示そうとしたのである。  ただし、実権は駿府城に隠退した「大御所」の家康が握っており、実態は江戸と駿府の二元政治だった。1611年には、二条城で三カ条の法度を発し、諸大名に幕府法への遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。 【疑問その5】家光はなぜ、日光東照宮を絢爛豪華な建築群へと改修したのか  1636年、3代将軍・家光は、祖父・家康が祀られる日光東照宮の全面的な改築を命じた。これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、絢爛たる唐様へと変貌した。大改築の背景には何があったのか。  2代将軍・秀忠が亡くなったとき、居並ぶ諸大名に「余は生まれながらの将軍である」と語ったとされる家光だが、幼いころは病弱で、秀忠とその妻・江は弟の忠長を溺愛。家康の裁定で家光が嫡子とされた経緯がある。 華やかな彫刻で彩られた日光東照宮の陽明門/栃木県日光市  日光東照宮の改修は、家光の並々ならぬ祖父への畏敬の念に加え、参詣する諸大名らに豪華な建築群を見せることで、幕府の威光を示す狙いがあったと考えられる。  約260年という長期政権の礎を築いた徳川家康。「どうする家康」の公式サイトには、「織田信長、武田信玄という化け物が割拠する、乱世に飛び込んだ。待っていたのは死ぬか生きるか大ピンチ!計算違いの連続!我慢の限界!どうする家康!」とある。松本潤さん演じる家康はこの問いに、どんな答えを出すのだろうか。 (構成 生活・文化編集部 塩澤巧)
“見えない存在”にされていた隣町の団地に暮らす青年から伝わるリアルな現実 映画「ファミリア」
“見えない存在”にされていた隣町の団地に暮らす青年から伝わるリアルな現実 映画「ファミリア」 photo (c)2022「ファミリア」製作委員会  陶器職人の神谷(役所広司)は海外で働く息子(吉沢亮)と、息子が現地で出会った妻の結婚を祝福していた。あるとき神谷は偶然、隣町の団地に暮らす在日ブラジル人青年と関わりを持つようになる──。連載「シネマ×SDGs」の34回目は、自身の父や故郷への想いを物語に綴った「ファミリア」の脚本家のいながききよたかさんに話を聞いた。 *  *  * photo (c)2022「ファミリア」製作委員会  僕の実家は代々窯業を営んでいて、家から数キロのところに映画に登場する保見団地がありました。でも「危ないから行くな」と言われる場所で、彼らと交流したことはなかった。そこで数千人の在日ブラジル人が生活しているのに、彼らは完全に「見えない」存在にされていたんです。30代後半になり、父親との関係にずっと悩んできた自分や故郷について見つめ直したいと考えたとき、彼らについても描きたいと思った。2013年にアルジェリアで起きた人質事件にも衝撃を受け、その三つを軸に物語が生まれました。 photo (c)2022「ファミリア」製作委員会  今回、初めて保見団地の若者たちと話し、彼らがどれだけハードな人生を歩まされているかを知りました。突然の解雇や自殺、傷害事件も多く、大げさでなく死が身近にある。普段は明るい彼らはふとした瞬間に「どうせ俺なんて」というあきらめをにじませます。当たり前に幸せになりたいのに、人生の選択肢があまりにも少ない。それは僕たちが彼らを「区分け」し、排斥してしまっているからです。テロにもヘイトにも戦争にも根には同じ不寛容の空気がある。 photo (c)2022「ファミリア」製作委員会  現在、日本には在留外国人が280万人以上いますが、彼らに対する視線や搾取の構造は変わっていない。そしてこれからは僕ら日本人が海外に出稼ぎに行く時代になり、同じ状況に置かれるだろうと僕は思っています。そう考えれば彼らの状況にリアルに思いを巡らせられるのではないでしょうか。 いながききよたか(脚本家)/1977年、愛知県生まれ。2007年に「オリヲン座からの招待状」(三枝健起監督)で脚本を担当しデビュー。その後、テレビドラマや映画の脚本家として活躍。23年1月6日から公開(photo 小黒冴夏)  問題を声高に伝えたいわけではありません。観た後に「こういう現実もあるのか」と思ってもらえればベストだし、なにより本作は孤独な男がさまざまな違いを超えて家族を作ろうとする話です。血の繋がりや国籍に関係なく、人は誰かの大切な人になれる。それって希望だなと思うんです。(取材/文・中村千晶)※AERA 2023年1月2-9日合併号
天龍源一郎が語る“時代・昭和編” 真冬でもアロハシャツを着る昭和のレジェンドといえば?
天龍源一郎が語る“時代・昭和編” 真冬でもアロハシャツを着る昭和のレジェンドといえば? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  2023年が始まったね! この連載は令和元年から始まって、今年で令和と同じ5年目だ。令和はまだ5年目だけど、これからどういう時代になるんだろう。今、令和がどんな時代かはなかなかわからないので、新年が明けたばかりのいま、俺が思う昭和と平成を振り返ってみようと思う。今回は昭和のことだ。  俺の昭和の印象といえば、真っ先に思い浮かぶのは力道山関だ。日本中がそうだったように、俺も小学生のときはプロレスが始まると力道山関の試合に釘付けになったもんだ。あのころはまだうちにテレビが無くて、隣の親戚の家に見に行ったよ。隔週金曜に中継をしていて、プロレスの放送が無い金曜はディズニーのアニメをやっていたけど、俺はそっちには興味が無かったなぁ。  それから13歳になって相撲の世界に進むんだが、俺は力道山関がいた二所ノ関部屋に入門したから、先輩たちに力道山関の話をいろいろと聞いているよ。気に食わないタニマチがいたら若い衆を4~5人その人の家の前に並べて「〇〇のケチ野郎!」と叫ばせて逃げるとか、ウィットに富んだイタズラをしていたらしい(笑)。  相撲部屋にいても横暴で暴れん坊だったようで、当時からハーレー・ダビッドソンのバイクに乗っていて、そのエンジン音が聞こえると後輩力士はみんな押し入れに隠れたとか、そんな話が伝説みたいに語り継がれていたよ。  力道山関がプロレスラーになった後も、横綱の大鵬さんが試合を蔵前国技館に見に行ったら、帰りに力道山関からご祝儀をもらったって。相手が横綱でも先輩力士だったっていう意識もあったろうし、もともといい恰好しいだったらしいからね。だって、真冬にアロハシャツを着て歩いている人なんて、当時もいまも力道山関くらいなもんだろう。  俺もよくアロハシャツを着ていたが、それは女房が「プロレスラーという稼業なんだから、目立つ格好をした方がいいよ」と言うからなんだけど、力道山関も同じ考えだったのかもね。まだ日本では誰もプロレスのことを知らなかった時代だし、自分も目立つ格好をしてことさら派手に宣伝したんじゃないかな。 昨年6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『天龍祭~天龍源一郎AID~』/開催日時2023年2月12日(日1部12:00開場/12:30開始 2部17:00開場/17:30開始 )/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/【チケット料金】《チケット料金》(前売りチケット) ※当日券は500円UP ▼特別リングサイド(最前列)…10,000円(特典付き) ▼リングサイド(2列目)…7,000円▼指定席(南側ひな壇)…6,000円【1部、2部通し券】全券種1,000円割引 ※天龍プロジェクトショップのみ販売/チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  俺がプロレスラーになって、時代が経ったいま見ても力道山のからだはすごいし、日本にプロレスを確立した功績はやっぱり大きいよ。プロレスで稼いだカネでビルやマンションを建てたりして先見の明もあったよね。力道山関の伝説をいろいろと聞いていると、同じ二所ノ関部屋にいたというだけで嬉しく思ったもんだ。  ただ、俺が二所ノ関部屋に入るころは「力道山がいた二所ノ関部屋」ではなく「大鵬がいる二所ノ関部屋」というイメージだった。大鵬さんはあれだけの強さと人気を持っていたことを考えれば、もっと驕ってもよかったと思うんだけど、控え目で人間的にもすばらしい人だった。俺は大鵬さんが威張っている姿を見たことがないし、付け人に手を上げたり“かわいがり”をしたことも一切無かった。これは二所ノ関親方(佐賀ノ花)の教えとそれを守った大鵬さんがすばらしいと思う。その大鵬さんのライバルだった柏戸さんは自由奔放だったけど(笑)。佐田の山、栃ノ海といったほかの横綱と比べてもやっぱり大鵬さんは一番人間ができていたよ。  大鵬さんは度量も大きい人だった。二所ノ関部屋には大鵬さん専用の個室があって、出かける用事があるときは若い衆に留守番をさせるんだ。そのときに、部屋にある食べ物や飲み物を好きに食べたり飲んだりしてよかったんだって。  普通だったら「何、食ってるんだ、この野郎!」となるんだけどね。残念ながら俺はその留守番の話が回ってくることはなかった。相撲部屋は開けっ放しでいろいろな人が出入りするから防犯的な意味もあるし、大鵬さんを訪ねてきたお客さんにきちんと対応できる人を置いていないといけないからね。俺はその身分じゃなかったし、気が利いて、大鵬さんの人となりを分かっていて、物事を見極められる人じゃないと任せられなかっただろうね。大体、幕下以上の番付の人が担当していたよ。  大鵬さんはそういう度量が大きくて、小さな事にはガタガタ言わない人だったし、俺だけじゃなく、二所ノ関部屋のみんながそう思っていたはずだ。大鵬さんの先輩も大鵬さんのことを「大将、大将」って言って立てていたくらいだもの。  身内からもそう思われるくらいだからファンもたくさんいて、毎日手紙が200通くらい届いていた。二所ノ関部屋には大鵬さん宛の贈り物やファンレターを保管、仕分けする専用の部屋があったし、それを選別してまとめる役の付け人もいたくらいだ。大鵬さんは北海道出身だから鮭やイクラが好きで、よく贈られてきたけど、どれもコレステロールが高いものばかりだったね……。  そんな昭和を代表する力道山関、大鵬さんと同じくらい俺がすごいと思うのは、時津風親方の双葉山さんだ。今日ある大相撲の部屋別総当たり戦を考えて実行した人で、双葉山さんがいなかったら、いまでも一門別で見たことのある取り組みばかりだったかもしれないね。  あの当時、相撲協会の理事は立浪親方(羽黒山)、伊勢ヶ濱親方(照國)、春日野親方(栃錦)といった元横綱たちが顔を揃えていた中で、双葉山さんが部屋別総当たりにしようと言い出して、その面子を賛同させたことは本当にすごいよ。うちの二所ノ関親方も現役時代は大関までいって、大横綱の大鵬さんを育てたという実績があったので理事になっていた。  俺もお供でついて行くことがあったけど、あまりにもすごい顔ぶれが並んでいるもんで、その部屋にいるだけで息苦しかったよ。北の富士さんの師匠でもある九重親方(千代の山)ですら部屋に入るときは「九重、入ります」と丁寧に言ってから入らなければならないほどだったんだもの。  当時の理事会の雰囲気は、はっきりいってプロレスの世界とは全然貫禄が違っていたね。やはり伝統の重み、強みがそうさせているんだと思う。どんなに着飾って周りを整えたところで、伝統の重みを背負っている迫力には勝てないよ。歌舞伎役者も市川團十郎といった伝統ある大きな名前を継ぐと箔が付くのと一緒。伝統を背負うプレッシャーがある分、迫力もついてくるんだ。  当時の理事たちも、その覚悟と自覚を持っていたから迫力があったんだと思うよ。今、相撲界を見渡して当時と比べると、少し軽いなと思うこともあるけど、それを言うと相撲界から「お前がどうのこうの言うんじゃねぇ!」と怒られるか(笑)。最近といっても、俺よりも上の世代の北の富士さんは現役時代からゴルフをしていたし、玉の海さんもボウリングに興じていたりと、そのころから軽くなりつつあったね。昭和44~45(1969~1970)年ころかな。そこが相撲にとっても昭和にとっても時代の転換期だったように思うよ。  やっぱり俺が昭和を振り返ると相撲の話になってしまうね。俺がプロレスラーに転向したのが昭和51年だけど、平成に入ってからの方が苦労も多かった分、悩んだり、自問自答した思い出が多い。そんな平成の話は次回で! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
「夫の家の“嫁”にはなりたくない」夫婦別姓のために選んだ事実婚で思い知らされた偏見
「夫の家の“嫁”にはなりたくない」夫婦別姓のために選んだ事実婚で思い知らされた偏見 写真はイメージ(GettyImages)  夫婦別姓が法律婚で認められないために、婚姻届けを出さない「事実婚」を選ぶ夫婦が一定数いる。実態は夫婦であることに変わりないが、日本では法律で認められていない結婚の形であることから、税制の優遇制度が適用にならないなどの問題がある。不安や迷いと葛藤しながら、それでも事実婚を選んだのはなぜなのか。事実婚をしてみて見えた世界について、当事者が語った。 夫婦別姓連載第1回はこちら>>夫婦別姓のリアル「名字、捨てちゃったんだ?」 妻の名字になった夫へ浴びせられる言葉と眼差し *  *  * 「夫婦別姓を選べないために、事実婚の道しかなかった」  東京都在住の田中智子さん(38・仮名)。5年前、大学時代の先輩である夫(40)と“婚姻届けを出さない結婚=事実婚”をした。  智子さんは、幼いころから自分の名字に愛着があった。少し珍しい名字で、周囲から「かっこいい名字だね」「ありきたりな名字じゃなくて羨ましい」などと言われてきたことも大きいかもしれない。友人からも名字で呼ばれることが多く、いつしか名字は自分の大事な一部になっていた。  夫と出会い、「この人と一緒に人生を歩みたい」と思うようになってから、“結婚”に対してどこかモヤモヤした感情を抱いている自分に気づいた。突き詰めると、自分の名字への愛着以上に、「相手側の名字に変えなければならない」という状況を受け入れがたい自分がいた。  世間一般の“当たり前”をのみ込めない自分はおかしいのではないかと自問自答を繰り返した。そのうえで、夫に「できれば名字を変えたくない」と打ち明けた。  夫は少し驚いたようだったが、「自分の気持ちを大事にしたほうがいい」と寄り添ってくれた。夫自身は、自分の名字に対して特に執着がなく、「じゃあ俺が名字を変えようか」と言った。だがその後、雲行きが変わってきた。 「男が名字を変えるなんて、ありえない」  夫の両親が、断固としてその姿勢を崩さなかったのだ。夫の家は、地方で家業を営んでいる。夫にはうえに兄がおり、家業は兄が継ぐことになっている。兄はすでに家庭を持ち、子どもも2人いる。だから夫が名字を変えても、名字が途切れることはない。 写真はイメージ(GettyImages)  だが夫の両親は、「息子が名字を変えるなんて許さない」「結婚して女性が名字を変えるのは当たり前」だと言い張った。一連のやり取りの中で、夫の両親から智子さんへの印象が悪くなり、風当たりが強くなったのを感じた。  思えばそれまでも、夫の家に遊びに行ったときに違和感を抱くことがあった。  家の中では父親が一番偉く、専業主婦である母親は、常に父親に気を使っているように見えた。家のすべてのことを「母親がやって当たり前」という父親の態度は、亭主関白そのもの。共働きのサラリーマン家庭で、父親も家事や子育てに比較的協力的な家庭に育った智子さんには、夫の両親のあり方がとても窮屈に映った。  夫のことは好きだ。だが名字の一件があって、ますます「夫の家の“嫁”になりたくない」「結婚はしたいけれど、夫の家と距離を置きたい」という思いが強まった。  智子さん自身も仕事を持ち、経済的な面でも夫と対等な立場にある。それなのに「名字を変える」ことが「相手側へ合わせる」「〇〇家に入る」ということを感じずにはいられなかった。夫もまた、自分の両親を敬遠していたが、自分が名字を変えるところまでは踏み切れなかった。  そんななかで見つけたのが、婚姻届けを出さない“事実婚”という選択肢だった。二人とも、できることなら婚姻届けを出して、「普通に結婚したかった」(智子さん)。それによって、「どちらかの名字を捨てることになる」。  逆に言えば、婚姻届けを出さなければ、それぞれがこれまで通り自分の名字を名乗ることができると考えた。届けを出さないことで、夫の家との距離も保てるような気がした。 「婚姻届けを出さずに、結婚と呼べるのか」「法的に認められていない結婚はありなのか」と揺れる思いもあったが、最終的には「自分たちにとって納得のいく形を大切にしよう」と事実婚を選んだ。届けを出さないことへの不安もあったが、「不便が生じたら、そのときに考えよう」という話になった。 写真はイメージ(GettyImages)  夫の両親は、事実婚の決断に対し、怒りを超えてあきれかえっていたが、夫も智子さんも「放っておこう」となった。内心複雑そうだった智子さんの両親からは、「結婚式を挙げて、ちゃんと“夫婦”としているんだったらいいよ」と言われた。  婚姻届けの提出以外に、周囲からきちんと夫婦として認めてもらうための手段——智子さん夫婦にとって、それは結婚式であり、披露宴だった。実際に、大勢を招いて盛大に式と披露宴を行ったが、その場で自分たちから事実婚であることはあえて言わなかった。せっかくのお祝い事に、どこか水を差すような気がしたからだ。  衝撃を受けたのが、披露宴が終わった後に手渡された、式場からのサプライズプレゼント。そこには「〇〇様ご夫妻」と、当たり前のように夫の名字が書いてあった。 「せめて事前に、結婚後の名字の確認ぐらいしろよ……と思いました。だけど一方で、夫婦は夫の名字を選ぶのが当たり前だという社会通念を物語っているようで、その同調圧力を、やはり怖いなと思いました」(智子さん)  その日から5年——。現状では事実婚に対し、周囲から否定的な反応を受けることは思った以上に少ない。  事実婚を選んだことで、友人から「旦那さんがかわいそう」と言われたことがあったが、「法律に則ってないというだけで、法を犯しているわけではない」と説明した。無論、よくは分かっていないようだった。 「以来、自分の中で、相手を選んで話すようになったかもしれません」(智子さん)  事実婚がいかにマイノリティーな選択肢なのか、思い知らされる日々でもあった。夫の親戚からはいろいろと揶揄されているようだが、「“法的”な嫁ではない」という事実によって、懸念だった夫の家とも、堂々と距離を保つことができているという。 「周りと違う選択をしたことで、気持ちが大きく揺れることもある。でもそんな経験を重ねるうちに、良くも悪くもメンタルが強くなりました」(智子さん)  目下の悩みは、子どもが生まれたら法律婚をするかどうするか。まだ妊娠には至っていないが、夫婦ともに子どもが欲しいという思いは一致している。 写真はイメージ(GettyImages)  事実婚の場合、パートナーとの間に子どもが生まれると、自動的に母親の戸籍に入ることになっている。ゆえに父親と子どもの親子関係を法的に認められるようにするには、認知の手続きをする必要がある。また父親が子どもの親権を持つためには、家庭裁判所で親権を変更する手続きが必要だ。 「そうした一連のことが、子どもに何か不利益をもたらせないかということが心配。日本では、事実婚という結婚のあり方が、社会的にまだまだ認められていない。事実婚と同棲をごっちゃにして、偏見を持っている人は少なくないですから」(智子さん)  事実婚を貫くことに対し、将来的な不安も大きい。例えば、事実婚は、法律婚と比べて税制上で優遇されないのがデメリットの一つだ。所得税では、配偶者控除や医療費控除が認められず、相続税や贈与税においても配偶者税額軽減が適用されないため、税額が増えることになる。  また事実婚は、パートナーの遺産の相続人としても法的に認められておらず、たとえ一緒にいた時間が長くとも、パートナー名義の預貯金や不動産などの相続権がない。遺言書を残すことで相続が可能になるが、前述のように法律婚より高い相続税がかかる。 「法律とか権利とか、いつまで社会的な保護や支援が必要ない婚姻の関係性でいられるか分からない。事実婚をしている人は、あくまで“自称・事実婚”でしかなく、せいぜい住民票に“夫・妻(未届)”と記載できるぐらい。自分たちで、“これは結婚関係なんだ”と言い張るしかないんです。この先、何かがあったときのことや老いていく過程を考えると、事実婚を貫き通すのは難しいと思うこともあります」(智子さん)  取材の中で、智子さんは何度も「法律婚で夫婦別姓が選べるようにさえなってくれたら、本当の意味で納得した結婚ができる」とつぶやいた。  実際に、別姓を望むなどの理由で、事実婚を余儀なくされている夫婦が一定数いる。事実婚に関するデータは極めて少ないが、内閣府で昨年度に実施した意識調査によれば、事実婚を選択している人は、成人人口の2~3%を占めていることが推察される。  例えば、内閣府男女共同参画局が実施した委託調査(令和3年度 人生100年時代における結婚・仕事・収入に関する調査)では、調査回答者のうち「配偶者(事実婚・内縁)がいる」と回答した人は2.3%。別の調査(令和3年度 性別による無意識の思い込みに関する調査研究)では、調査回答者のうち、「事実婚」と回答した人が2.9%、「パートナーと暮らしている」と回答した人は1.1%だった。  さらに内閣府大臣官房政府広報室による世論調査(令和3年度)では、「あなたは現在、結婚していますか」との質問に対し、「結婚していないが、パートナーと暮らしている」と回答した人が2.5%となっている。  これに加えて、現在、法律婚を選んでいるが「本当は別姓でいたかった人」もいるはずだ。それらの数や実態を示す調査はなく、いわば“声なき声”。ただ、夫婦別姓を求める声は年々強まり、ここ数年、「選択的夫婦別姓」が選挙においても争点の一つになっている。  実は、「結婚した夫婦はどちらかの姓を選ばないといけない」と夫婦同姓を強いるのは、世界で日本だけ。日常生活で不便や不利益を感じている人が存在するのに、なぜ日本だけで夫婦別姓が進まないのか。同姓も別姓も選ぶことができる「選択的」なのに、なぜ実現しないのか。次の記事では、その理由を探るとともに、当事者らの別姓への展望を掘り下げる。 (松岡かすみ)
くらってうれしい猪木の「闘魂ビンタ」 愛弟子・蝶野正洋の継承は!?
くらってうれしい猪木の「闘魂ビンタ」 愛弟子・蝶野正洋の継承は!? 自ら進んで闘魂ビンタをもらった木村政司・日大藝術学部長(本人提供)  誰が呼んだか、闘魂ビンタ。その始まりは1990年、予備校でアントニオ猪木が講演した際、ビンタされた予備校生が無事合格したため“縁起もの”として後に定番化し、ときに希望者が列をなした。闘魂注入された人たちが「至福の瞬間」を語った。 *  *  *  2009年3月12日、東京・帝国ホテルで落語家・林家三平(52)の襲名披露パーティーが盛大に開催された。  豪華な料理が並び、落語界はもちろん、政界や芸能界などから約800人が招待されていた。宴は桂歌丸(故人)のあいさつで始まった。そのとき、控室でサンドイッチをつまみながら出番を待つ大柄な男がいた。22年10月に79歳で亡くなったプロレスラー、アントニオ猪木だ。  三平さんが振り返る。 「猪木さんにはサプライズで登場していただくお願いをしていました。芸人のお祝い事には、歌手を呼んだりダンスを披露したりする“余興”がつきもの。父(初代林家三平)の代からのお付き合いで、お願いしたら快諾いただきました」  宴もたけなわ、「あるお方からお祝いのコメントをいただきます」と司会者が切り出すと、場内は暗転。「イノキ! ボンバイエ!」でおなじみの入場テーマ「炎のファイター」が会場中に響きわたる。 「それなのに多くの人が、まさか本当に猪木さんが来てくれているとは思わずに、モノマネ芸人のアントキの猪木さんだと思ってたらしいんです(笑)。猪木さんが『いいですか~?』と掛け声をかけたとたん、みんなビックリ。やっと本物だって気づいてくれた」  一同注目の中、「闘魂注入します」。猪木さんが宣言し、紋付き袴の三平師匠にビンタ。そしていつもの決めぜりふ「イチ、ニー、三平~!」と雄たけびを上げた。客席は大盛り上がりだ。 「痛いと思う間もありません。一発で違う次元に飛ばされた感覚でした。“かめはめ波~”みたいな衝撃波を食らった感じです。猪木さんは人さし指を目の前に持ってきて、その手をすーっとおなかに下ろす。私が『あれ?』と思った瞬間に、バチーン!です。体を硬直させないための動きだったんだと、あとからわかりました」 青野社長の頬にクッキリ残された手形の跡(本人提供)  その後、招待客から「俺も、俺も」と希望者が殺到したが、猪木さんは「今日は彼だけです」とさりげなく三平さんを立ててくれた。 「闘魂注入されて、昭和の人の思いを受け継ぎ、令和の若者につなげたいと誓いました。もう願いはかないませんが、できることならもう一度たたかれたいと思いますね」  クラウドサービス「キントーン」などを展開するサイボウズの青野慶久社長(51)が闘魂ビンタを食らったのは12年9月26日。同社が開いたカンファレンスの特別ゲストに猪木さんを招いた。  青野社長が語る。 「当社が社運を懸けてクラウドサービスを立ち上げたばかりの転換期でした。市場に投入したばかりのサービスにインパクトが必要ということで、ビッグなゲストを呼びたいと思っていました。猪木さんにお願いしたのは、私がプロレス好きで、小さいころから憧れの人でもありましたが、世界に向かってチャレンジを続け、一人でそれを切り開いていった人だから。われわれもグローバルに切り込んでいきたいという思いからでした」  青野社長の基調講演のあと猪木さんが登壇し、2人が対談。その流れで闘魂注入と相成った。 ■売り上げ上昇もビンタの効果か 「猪木さんを特別ゲストに呼んだときから、格闘技に詳しい社員に教えてもらい、ダメージの少ないたたかれ方の練習をしたことも思い出ですね。その瞬間は、“バチ~ン”というより“ドシャ~ン”という感覚。そのとき撮った写真には猪木さんの手形がくっきりと写っていました。痛いはずなのに、写真の私は至福の笑顔(笑)。事実、うれしかったんですよ。その後しばらく友人たちに自慢しまくりました(笑)」  この年以降、同社の売り上げは上がり続ける。 「ビンタ効果でしょうかね(笑)。少なくともあれ以降、社員のみんなが世界を目指して頑張ろうという気持ちになれたのは間違いありません」  何度も“闘魂注入”を受けた人もいる。福岡市長の高島宗一郎氏(48)だ。  36歳で市長選に初出馬した10年11月9日、個人演説会で一発。12年2月は、市が開いた飲酒運転撲滅運動で、それ以前にも猪木さんが会長を務めるプロレス団体のイベントが福岡であったとき、元九州朝日放送アナウンサーとして司会を務めた高島氏に壇上で一発。本人も「今まで何発ビンタされたか正確には覚えていない」と笑う。  学生時代からの熱烈な猪木ファン。「猪木会長の著書『たったひとりの闘争』を学生時代に読んで感動し、政治を志したのもこの本がきっかけです」と語る。  就職してアナウンサーになり、プロレス中継も担当。試合会場でのインタビューで初めて対面した。あるとき、「九州で講演会をするので来てくれないか」と頼まれ、司会を務めた。控室で食事中、憧れの人に学生時代からの思いを打ち明けて以来、食事や酒を共にする関係になったという。 「初出馬のときは応援に駆けつけてくれて闘魂ビンタを受け、私が『闘魂の伝承ですね』と言うと、猪木会長は『闘魂っていうのはプロレスだけじゃないからな』と言ってくれました」  闘病中の猪木さんを訪ね、自分の「闘魂」はまだ甘かったと痛感したという。 「闘魂というのは闘いのための体の強さではなく、魂の強さなんだと。痩せていく体を隠すことなく、生きる闘いそのものを見せてくれた。まさに字のごとく“魂の闘い”を見せてくれたと思います」 ■葬儀のときにも連発ビンタが?  最後に高島市長は「まだどこにも話していないんだけど」と、問わず語りを始めた。 「最後にビンタを受けたのは、猪木会長の葬儀のときでした。会長の前で手を合わせて、これまでのお礼をお伝えしようとしたら何連発ものビンタが飛んできた。もちろんご遺体が動いたわけではありませんが、本当にそんな感覚になりました。“お前はまだヌルい”というメッセージをいただいたと思っています。カウント2・9になっても諦めず闘っていくぞと自分を引き締めることができました」  憧れの対象が亡くなって以来、自室に猪木さんのサイン色紙を飾り、毎日線香をたき思い出に浸っているというのは、日本大学藝術学部長の木村政司さん(67)。幼少からの猪木ファンで、地元の千葉・松戸に日本プロレスが巡業に来たとき、ブロック塀の隙間から必死で試合を見たという。 「駅前ロータリーにリングを設置しての巡業、のぞきに行きましたね。ジャイアント馬場さんは宿泊していた旅館で練習していたのですが、猪木さんは別の場所で練習していると聞き出してね。鬼のような形相でトレーニングをしている姿を見て、子供心にものすごく勇気をもらいました」 蝶野正洋さん(本人提供)  木村学部長が闘魂注入されたのは17年11月3日、学部の学園祭「日藝祭」でのことだ。実は猪木さんの妻、“ズッコさん”こと田鶴子さん(故人)は日大藝術学部写真学科の出身。写真学科の教員である浅井譲特任教授から田鶴子さん経由で猪木さんにお願いし、日藝祭のトークショーに出てもらったという。 「トークの最後に希望者に闘魂ビンタをするというので、私はいの一番に手を挙げて一発いただきました。ビンタされるなんて高校生のとき以来。うれしくて光栄な瞬間でしたね。イベント後に猪木さん、田鶴子夫人、浅井教授らと食事を共にし、バーにも連れていっていただき、楽しい時間を過ごしました」  木村学部長は“そのとき”のことをよく思い起こすという。 「ビンタの前に“行くぞ!”“いいか?”と気合を入れてくれるんですが、あれは猪木さん自身が自分に気合を入れていたんじゃないか、まるで自分自身にビンタしているようだったなと思うんです。ビンタをするときの姿勢で、自分はどう生き、どう死ぬかを伝えてくれていたように今では感じています」  引退後、猪木さんは多くの愛(まな)弟子たちにも闘魂注入ビンタをお見舞いしている。その一人がテレビでもおなじみの蝶野正洋さん(59)だ。20年2月28日、場所は後楽園ホール。この日は試合終了後に猪木さんのデビュー60周年を祝うセレモニーが予告され、会場は超満員だった。  蝶野さんが裏話を明かしてくれた。 「実はこれ、猪木さんの了承なしに企画しちゃったもので、猪木さんは不機嫌、長州力さんも不機嫌と聞いていた。なのに、入場してくる長州さんがなんかうれしそうにニコニコしている。不吉なものを感じていました(笑)」  すると長州さんがマイクを取り、「今日は武藤(敬司)と蝶野がぜひ闘魂ビンタをと言っているので、お願いします」と猪木さんに伝える。 ■“むちゃぶり”に派手に転がろう 「もうむちゃぶりですよ。武藤さんはまだ現役だからいいですが、オレはもう現役離れてたからね。でもすぐに羽交い締めにされ、まず武藤さんに闘魂注入。自分も覚悟を決めた。年末の特番で、毎年オレが月亭方正くんにビンタするんだけど、彼のように嫌がろうと。そしてたたかれたら派手にリングの外に転がろうと決めた。そのほうがおもしろいだろうって思ったんだよ。たたかれた後に猪木さんと目と目が合ったんだけど、“お前、たたかれ方、わかってるじゃないか”って顔をしてました(笑)」  たたかれて「猪木さんはビンタが上手だ」と知った蝶野さん。2代目を継ぐつもりはないかと聞くと、笑って「ないです」と即答した。 「オレが初めて方正くんにビンタしたときは素人のたたき方しちゃってね。痛がってたよ。下手なたたき方したら脳震盪起こしちゃうし。イベントでオレがビンタしている写真が報道で出るけど、あれビンタしてないからね。手前で止めてる。オレがビンタするのは方正くんだけにするよ。闘魂ビンタは猪木さん以外にはできません」 「闘魂注入」の思い出話は、これからも語り継がれるに違いない。(本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2023年1月6-13日合併号
「10年後の皇室」に迫るプリンセス不在と高齢化 公務を減らせば「象徴天皇制の実態はなくなる」と専門家
「10年後の皇室」に迫るプリンセス不在と高齢化 公務を減らせば「象徴天皇制の実態はなくなる」と専門家 2023年1月2日、3年ぶりとなる皇居での新年一般参賀。愛子さまも初出席された(写真/アフロ)  令和の皇室も5年目を迎えた。しかし、皇位継承の危機的状況は何も解決していない。どのような状況にあるのか「10年後」を想像してみると、問題点がまざまざと浮かび上がる。 *  *  * 「皇室の将来を考えたとき、5年後がひとつの節目となります。そして10年後の皇室の姿を現実として認識する想像力が、日本には必要です」  そう話すのは、皇室の制度に詳しい、静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんだ。  令和皇室も4年が過ぎようとしていた2022年の秋から初冬にかけて、世間をざわめかせる出来事があった。  天皇陛下の健康問題だった。天皇陛下が受けたMRI検査で前立腺の肥大が認められたため、組織検査をすると発表された。  12月2日。 【速報】「天皇陛下の前立腺組織検査 異常認められず」  2日間にわたる東京大学医学部付属病院(東京都文京区)での検査入院の結果を受けて、メディア各社は「異常認められず」の速報を打った。  宮内庁でも安堵(あんど)の声が漏れたという。 「念には念をという意味での検査ではありましたが、ほっとした空気が広がりました」(宮内庁関係者) 2023年の新年一般参賀にて(写真/アフロ)  天皇陛下の健康問題は、重大事項である。  令和の天皇陛下が即位したとき59歳。奈良時代に至る公式の歴史書『続日本紀』に記載がある文武天皇以降では、60歳で即位した光仁天皇(奈良時代)に次いで2番目の高齢即位となった。  とはいえ、平成の天皇として55歳で即位した上皇さまと美智子さまは60代、70代で膨大な公務をこなし、国内外を訪問している。  先の小田部さんは、こう話す。 「平成の天皇は、69歳で前立腺がんの手術をなさるなど健康面が思わしくない時期もありました。しかし、むしろ60代から70代が天皇として円熟味を増した時期でもありました。即位してから15年、70歳になる年に全47都道府県への訪問を達成。国内外を精力的に訪問します。78歳で心臓のバイパス手術を受け、無理を押してではありましたが3カ月後にはエリザベス女王の招きで訪英も実現しました」 22年6月11日、皇居内の紅葉山御養蚕所で天皇陛下、雅子さまと愛子さま  平成の天皇と皇后が高齢になっても多忙な公務を抱えていた背景には、皇室の高齢化と皇族の減少がある。  22年1月、岸田内閣は、皇位継承のあり方を議論した政府の有識者会議の報告書を衆参両院議長に提出した。首相は、皇族の数の減少が緊急の課題だと説明。「女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持」「旧宮家の男系男子の養子による皇族復帰」の2案の検討を求めた。  それを受けて1月下旬に自民党は、「皇室問題等についての懇談会」の初会合を開催。しかし、「静かな環境で議論を進めていくことが望ましい」との認識からいまだ具体的な動きは聞こえてこない。  小田部さんは、いま皇室の将来について言及できるのは、皇室の深刻な高齢化と人数の減少だけ、と慎重な物言いをしつつも、こう警鐘を鳴らす。 「10年後を想像してみると、天皇陛下と皇后雅子さまは10年後に72歳と69歳です。先にも説明したように、平成の両陛下は60代、70代でも熱心に公務を務めました。しかし、問題は天皇家を支える宮家を含む全体の高齢化をなすすべもなく見守るしかないという点です」  上皇さまの弟の常陸宮さまは、現在87歳、妃の華子さまは82歳。昭和天皇の弟の故・三笠宮崇仁さまの妃である百合子さまは99歳だ。  天皇ご一家をのぞく宮家において膨大な量の公務を主に担っているのは、皇嗣家である秋篠宮さま(57)と紀子さま(56)、そして高円宮妃の久子さま(69)だ。10年後、秋篠宮ご夫妻は67歳と66歳である。久子さまは、79歳になっている。   久子さまは3人のお子さまを育て、夫の高円宮憲仁さまが02年に47歳で急逝して以降は、宮家の女主人として切り盛りしてきた。  久子さまと親交のある人物は、こう話す。 「秩父宮家、高松宮家の妃殿下方に学び、御所言葉など皇室に伝わる伝統や作法を学んできたのが久子妃殿下です。次女の典子さんと三女の絢子さんは結婚して皇室から離れ、いらっしゃるのは長女の承子さまのみです。久子さまが学び守ってこられた皇室の文化を受け継ぐ先があればよいのですが」 2023年の新年一般参賀にて(写真/アフロ)  久子さまの長女の承子さまは、現在36歳。久子さまも公認のお相手とは、数年前から結婚のタイミングをうかがっているとうわさされてきた。 「ヒゲの殿下」と人びとに愛された故・三笠宮寛仁さまの妃であった信子さま(67)と長女の彬子さま(41)と次女の瑶子さま(39)も、10年後は、信子さま77歳、おふたりの姉妹は51歳と49歳になる。  将来のことはわからないが、彬子さまご本人は周囲にこう話しているという。 「結婚はしない。三笠宮家に人生をささげるつもりだ」  若い世代は、天皇家の長女の愛子さま(21)と秋篠宮家の次女の佳子さま(28)だが、10年後に愛子さまは31歳、佳子さまは38歳となる。  秋篠宮家の長男で皇位継承順位2位の悠仁さま(16)は、26歳になる。  いま30代、20代の女性皇族は承子さまと瑶子さま、佳子さま、愛子さまの4人。  10年後には、結婚などにより皇室を離れている可能性が高い。 「その10年後に公務を担うことが可能な70代以下の皇室メンバーは、72歳の天皇陛下と69歳の皇后雅子さま。そして79歳の久子さまをはじめ、77歳の信子さま。67歳の秋篠宮さまと66歳の紀子さま。若い世代では、51歳の彬子さまがいらっしゃる。そして26歳の悠仁さまだ」(小田部さん) 2023年の新年一般参賀にて(写真/アフロ)  公務を担うことが可能な70代以下の皇室のメンバーは合計8人だ。72歳の天皇陛下と皇族は70代が2人、60代が3人、50代が1人の7人である。  いまの愛子さまや佳子さま、承子さまや瑶子さまといった、若い世代の「プリンセス」不在の皇室となる。  小田部さんは、 「皇室の人数が少なくなるならば、単純に公務を減らせばいいという声もあります。ただし、担い手が減れば地方を訪ねて人と触れ合う余裕はなくなる。必然的に国民と皇室のきずなはうすれます。それは、象徴天皇としての実態がなくなることを意味します」  冒頭で述べたとおり、小田部さんは5年後がひとつの節目だと話す。  なぜなら5年後であれば、愛子さまや佳子さまらの女性皇族の結婚について見通しが立っている可能性が高いからだ。そして悠仁さまの結婚についても候補者のリストアップが進んでいる可能性もある。  しかし、女性皇族が結婚後も皇室に残るといった議論が5年後までにまとまり、制度として確立されている可能性は低いだろう。 「極端な話、天皇陛下が国事行為をできる環境があればいい、という議論も出てくるかもしれません」(小田部さん)  日本社会と同じように、皇室の高齢化は深刻な問題だ。タブー視して、目を背け続けた先に見えるのは、どのような風景なのか。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
男子平均身長が25年間「170センチ」から伸びないのはなぜ? 若者は「低い方がモテる」と前向き
男子平均身長が25年間「170センチ」から伸びないのはなぜ? 若者は「低い方がモテる」と前向き 17歳男性の平均身長は170センチ台から25年以上伸びていない。画像はイメージ(PIXTA) 高学歴、高収入、高身長が「三高」などともてはやされたのは、はるか昔のバブル時代。令和に変わった今、給料は上がらず、学歴があっても職に就けない人はわんさかいる。一方、身長はどうかというと――実はここ25年以上、男性の平均身長は1ミリも伸びていないのだ。若者よりも高齢者の方が高身長、という逆転現象も起きている。若者たちはさぞ悲観しているかと思いきや、意外とそうでもないようで……。 *  *  * 親戚の子、近所の子、友だちの子……「最近の子はどんどんデカくなっちゃって~~」などと驚くようになって久しいが、実はこれ、けっこうな思い込みだったらしい。  11月30日に文部科学省が発表した「令和3年度学校保険統計」によると、17歳男性の平均身長は170.8センチ。その推移を見て見ると、1948年、160.6センチだった17歳男性の身長は、1994年には10センチ増の170.9センチに。戦中戦後の食糧難をへて、欧米並みの食生活などで体格がよくなったから、というのが定説だった。  94年といえば、まだバブルの残り香があった時期。経済成長とともに背の高い人も目立つようになり、米国のエンパイア・ステート・ビルだって買っちゃった日本人だもの。この調子でいけば、米国の成人男性並みの平均身長178センチなんてすぐ……と誰もが思ったものだ。  でも実際はその後、25年以上横ばいが続き、今回も0.1センチだが減っている。自分が思い込んでいたように、「どんどんデカく」は、全然なっていなかったのだ。  そう言われて、思い出したことがある。コロナ前に、東京下町のとある町内会で開催された祭りでのこと。高身長ゆえ肩の位置が高く、おみこしの重みを一手に引き受けている2人の担ぎ手がいた。ひとりは70代の洋食店店主、もうひとりは60代の自営業者だ。どちらも身長180センチ。ほかに30人ほどいた10~70代の担ぎ手のうち、この白髪コンビを越える身長の人はひとりもいなかった。  2人を知る40代の男性(身長169センチ)は話す。 「頭の中は、何かと古いしきたりを押しつけてくるザ・昭和のおじさん。10センチ以上も高い上空から見下ろされて意見されるのは、ちょっと複雑な気分です(笑)」  この先は、高齢者ほど背が高くなる逆転現象が進む可能性もある。「17歳の平均身長は、もっと低くなっていくだろう」という、かなり鉄板の予測があるからだ。 「身長の大部分、8割程度は両親の身長で決まります。とはいえ小さく生まれたり、幼少期の栄養不足や病気、ストレスなどがあると、両親から受け継いだもので予定されている身長と比べて、身長が小さくなることが分かっています」  そう教えてくれたのは、国立成育医療研究センター・社会医学研究部の森崎菜穂部長だ。両親から受け継いだもので予定されている身長を「予測身長」と言うが、17歳の身長が低くなっている背景には、「この予測身長よりも小さくなる、幼少期の影響が増えているからと考えられます」(同)。  大きな要因のひとつは、生まれる時の体格、つまり「出生体重が小さくなっていること」だと考えられている。実際に、日本では2500g以下で生まれる低出生体重児の出現率は、1970年代後半に5.1%だったものが、37年後の2007年には9.7%となり、現在も高止まり状態が続いているという。 「出産日を決めて産むことが増え、お産が早くなったこと、やせている妊婦さんが増えたこと、また妊娠中の体重増加を抑制する文化があったことなど、低出生体重児が増えたのには、さまざまな複合的理由があったと思われます」(同) 出生年度別の低出生体重児率と成人の平均身長 (1996年までの実測値は実線、1997年以降の予測値は点線) ※国立成育医療研究センターによる「日本人の平均身長は低下傾向―低出生体重児増加が影響している可能性あり―」より    上のグラフが示すように、1980年生まれは低出生体重児がもっとも少なく、同時に成人後の平均身長がピークになっている。その後低出生体重児は増加傾向なので、その子どもたちが成人になる頃に、成人の平均身長は170センチを切ることも予想されている。  一方、朗報もある。2021年に産婦人科学会の方針が変わり、推奨する妊娠中の体重増加の抑制が、以前より緩やかになったのだ。今後は状態が改善し、平均身長のV字復活することも期待できそうだ。  と、日本人男性の平均身長が高くなるのはいいニュース……的なことを反射的に書いてしまったが、これって本当にいいニュースなのだろうか。そもそも日本人の身長は、何センチくらいが順当なのか、森崎さんに聞いてみた。 「これは難しい質問です。一部の人類学者のなかには、『〇〇人だから背が低い、高い』というのは妄想で、人種によって身長は異ならないのではないかと言う人もいます。日本人にとって、遺伝子としてベストな身長は、今のところ『わからない』としか言えません」  にもかかわらずバブル時代は、高学歴、高収入に加えて高身長が「三高」と呼ばれる理想の結婚相手の男性の条件だった。が、こうした「高身長男性は七難隠す」伝説は、徐々にほころびも見えてきているようだ。  例えば日本語入力&きせかえ顔文字キーボードアプリ「Simeji」が11月1日に発表した「Z世代が選ぶ!!『憧れの有名人夫婦TOP10』」で、1位になったのは星野源&新垣結衣夫妻だった。で、それぞれ公表されている身長は、169センチと168センチでほぼ同じ。昔の少女漫画に出てくる胸キュンシーンのように、頭をよしよししてくれる彼氏との30センチ近い身長差は、「あってもいいけど、別になくてもいい」(20代女性)とツレない女性も少なくないようだ。  それどころか、こんな自営業の30代女性も。 「私の周りでは背が高い男性より、むしろジェンダーを感じさせない身長低めの男性のほうがモテますね。ここ数年、男女が着られるユニセックスの服も増えているじゃないですか。身長低めの男性は、そういう服を着こなせるのも武器じゃないかな」  では男性側の意識はどうか。小さいサイズのメンズ服を専門に扱う、2社にも聞いた。まず2009年に、小さいサイズ(XXS・XS・XSサイズ)専門のメンズファッションブランドとして誕生した「Retropics.(レトロピクス)」だ。顧客の平均体重、身長は、160センチ、50キロ。30~40代を中心に、50~60代の顧客も少なくないという。事業責任者の林周平さんはこう話す。 「創業当時、男性の大きいサイズ専門店はあっても、小さいサイズの専門店はなかった。低身長の男性から『ぴったりのサイズが見つからないため、買い物に行くのが苦痛』という声も多かったですね」  とくに普通のカジュアル服を着ようと思っても、そもそもSサイズを売っていなかったり、Sがあっても身長170センチでちょうどいいサイズだったり。「そんな服の悩みが、低身長のコンプレックスにつながっている例は少なくなかった。ただここ数年は、低身長を売りにするインフルエンサーが登場するなど、低身長をポジティブに捉える動きも、少しずつ出てきています」(林さん)  もう一社、10~20代の若い層に向けた、身長168センチ以下のメンズファッションブランドを展開する「UNITED ANTS(ユナイテッド・アンツ)」の大谷成さんはこう話す。 「2020年のオープン時に行ったアンケートでは、低身長のプラス面として『彼女と同じ服を共有できる』ことなどを挙げる人もいました。ただし、自身の低身長をネガティブに捉える人は若い層でも多い。だからこそ自分に合った服を見つけようと努力するオシャレな人も多いと思いますよ」  ちなみに低身長の男性が服を選ぶ極意は、 「ジャストサイズの服を選ぶことが何より大事。また下半身にダークな色のパンツを持ってくると、足を長く見せるのに一役買うことも多いです」(「Retropics」林さん) 「厚底靴より、合っているサイズの服を選ぶことをおすすめしています。パンツの丈はもちろん、トップスの着丈も、ポイントになりますね」(「UNITED ANTS」大谷さん)  ちなみにうちの夫は、身長180センチの白髪頭だが、タワマンの上層階の景色と一緒で、毎日見ていれば「長身がすてき……」とため息をつくなんて、ありえないわけで。上空からの“頭よしよし”より、皿を1枚でも洗ってくれる人のほうがずっと好き。低身長男性の逆襲、あるかも?(福光恵)
夫婦別姓のリアル「名字、捨てちゃったんだ?」 妻の名字になった夫へ浴びせられる言葉と眼差し
夫婦別姓のリアル「名字、捨てちゃったんだ?」 妻の名字になった夫へ浴びせられる言葉と眼差し 写真はイメージ(GettyImages)  95.3%——結婚するときに、夫の名字(姓、氏)を選ぶ人の割合だ(2020年)。結婚すると、妻の名字が夫の名字へと変わるのが大多数で、結婚によって夫の名字が変わることはごくまれ。現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性または女性のいずれかが、必ず名字を変えなければならない。  現実には男性の姓を選び、女性が姓を改める例が圧倒的多数だ。ところが女性の社会進出などに伴い、同姓か別姓かを選べる「選択的夫婦別姓」を求める声が強まっている。短期集中連載「夫婦別姓のその先に」では、多角的にこの問題を特集する。  取材を進めると、名字を変えることで起こるさまざまな問題や葛藤が見えてきた。短期集中連載第1回は、結婚によって妻の名字に変えた男性が見た“世界”について――。 *  *  *  現在、会社員として働く松岡基弘さん(34)。4年ほど前に結婚した際、名字を妻の姓である「松岡」に変えた。もともと名字に対して執着がなく、10代のころから漠然と「いつか結婚することになったら、名字を変えることになるかもな」と思っていた。  そう考えるようになったきっかけの一つに、両親の不仲があった。東大出身で官僚だった」父と、名門私大出身で長く銀行に勤めた母。晩婚だった両親の間では、基弘さんが幼いころから口論が絶えなかった。基弘さんは中学生のときから両親に離婚を勧めてきたが、世間体を気にしてか、両親は付かず離れずの距離感を保ちながらも同居する道を歩んできた。それも起因してか、両親と同じ自分の名字が、あまり好きになれなかったという。  高校時代、ある日突然、名字が変わったクラスメートの姿も印象的だった。理由は定かではないが、昨日までは○○君だったのが、今日からは△△君。クラスメート自身は何も変わらないのに、名字だけが突然変わる。当たり前だが、名字が変わっても、その人の中身が変わるわけではないことを知った。「名字って不思議だな」と思うと同時に、「親がつけてくれた下の名前は大事だけれど、名字は飾りみたいなものだな」とも感じた。 写真はイメージ(GettyImages)  6年の交際期間を経て、30歳で結婚を決めたとき、基弘さんはふと名字について考えた。日本では、結婚する際に役所に提出する婚姻届で、夫か妻どちらかの姓に印をつけ、どちらかを選ぶことになっている。それぞれの名字が歩んだ歴史や“名字としての幸福度”を改めて考えたとき、妻の姓を名乗ってもいいと思う自分がいた。喧嘩が絶えない自分の両親に比べると、妻の両親は仲が良さそうで、幸せそうに見えた。 「婚姻届を出すときに、妻の名字に変えたいと思ってる」  結婚を前に、基弘さんは両親にこう切り出した。自分たち夫婦の仲が良くないことは、父も母も、百も承知の事実だ。二人は驚いていたが、名字を変えようと思う理由に、自分たちの夫婦仲が起因していることを話すと、苦笑いするしかなかった。以前から結婚することにより名字を変えることを疑問に思っていた母は、基弘さんが名字を変えることに対し賛成だったが、父の反応は複雑そうだった。 「お父さんとしては愛着がある名字だから、名字を変えるのは少し寂しい」 「もう一度考えてみたらどうだ? 男で名字を変える人は少ないから、周りがいろいろ邪推するよ」 「考え直してくれ」とまでは一度も言われなかったが、「自分の中でよく考えてから答えを出したらいい」というニュアンスだった。基弘さんには兄弟がいないため、名字を変えると他に継ぐ人がいない。父の「寂しい」という言葉が、思いのほか心に刺さった。どちらの名字にすべきか、どれだけ悩んでも答えが出ない。前日になっても決めきれず、「明日決めて、婚姻届を出す前に連絡する」と父に伝え、当日を迎えた。父からは、 「お前が出した答えを尊重するよ」 とだけ言われていた。  結局、当日の朝になっても答えが出ず、どちらの名字にするかの部分のみ空欄の婚姻届を持って、妻とともに役所に行った。役所に到着してもまだ、どうすべきか答えは出ていなかった。待合ベンチで2時間ほど考えに考え、「もうここで決めるしかない」と腹を決め、父に電話した。 「やっぱり、妻の名字にしようと思う」  父の「寂しい」という言葉で揺れ動く自分はいたが、結局は元々の考えを覆すほどの理由にはならなかった。父に告げると、父は電話の向こうで優しくうなずいた。 「いいよ。好きなほうにしなさい。自分で考えて決めたなら、それでいい」  心から自分に寄り添ってくれた声だった。保守的で、世間体を気にする父のことだから、きっと周囲には「息子が名字を変えた」とは言いづらいだろう。それでも「いいよ」と優しく背中を押してくれた。父の気持ちを思うと、涙があふれた。晴れやかで嬉しいはずの結婚なのに、なぜこんな思いをしなければならないのかと思った。  その日から、もうすぐ4年が経とうとしている。その間、いろんなことがあった。婚姻届を出した後に、父が末期がんであることを知り、結婚から1年後にこの世を去った。  父は末期がんであることを家族に隠していた。名字について迷っていたとき、父から末期がんであることを告げられ、「名字を変えないでほしい」と言われたら、「おそらく名字を変えてなかったと思う」(基弘さん)。それでも父がそうしなかったのは、やはり息子の考えを尊重してくれたのかなと感じている。  強烈だったのが、久しぶりに顔を合わせた前の会社の元上司から、 「自分の名字、捨てちゃったんだ」  と言われたこと。「捨てた」という言葉で傷つきはしなかったが、父からの「周りがいろいろ邪推する」という言葉の意味が分かったような気がした。その場は笑顔で流したが、どこか嫌な後味が残った。  さらに「婿入りしたんだ」「婿養子に入ったの?」——思った以上に投げかけられることが多い言葉で、言われるたびに「またきたか……」と、うんざりしてしまう言葉だ。結婚し、妻の姓に変えた男性を、「婿養子に入った」と同義で捉える人は「想像以上に多い」(基弘さん)。  婿養子とは、夫が妻の親と養子縁組し、妻と結婚して妻の氏になることを指す。妻の氏を名乗る男性は、一般的に「婿」と呼ばれるが、「お婿さん」という言葉は、妻の氏を名乗らずとも幅広く使用されているケースが多い。婿の言葉の意味が曖昧になっているのと同様に、妻の氏を名乗る男性=婿養子と混同する人が多いのかもしれない。  だとしても、「婿入りしたんだ」「婿養子に入ったの?」などと聞かれて、良い気持ちがしないのは正直なところだ。事実、妻の親と養子縁組などしておらず、正しい意味で「婿養子」になったわけではない。相手に悪気がないことは分かっていても、そうした質問をしてくる人に対し、心のどこかで一線を引いてしまう自分がいるという。 「婿入りという言葉には、どこか“立場が弱い”というマイナスなイメージがある気がする」(基弘さん)  いわく、妻の名字にしたことに対し、例えば「柔軟性」や「優しい」といったポジティブなイメージ以上に、「奥さんに負けちゃったのか」という感じが伝わってくるという。しかし、相手に対して、婿入りという言葉の意味まで説明するのは、はっきり言って面倒だし、そこまでしようとも思わない。だから適当に、その場を終わらせるのが常だ。  一方で周りの友人らが、名字を変えたことに対して、特に大きな驚きを見せなかったのは救いだった。名字の一部を使ったあだ名で呼んでいた友人からは、「じゃあ新しい名字のあだ名にするか」と提案されたが、「下の名前で呼んでくれ」と伝えた。名字にそこまで大きな意味合いを持てないからこそ、友人からも下の名前で呼んでもらいたいと思った。  昔から、下の名前は「自分の名前」だという感覚がある。海外に行くと、下の名前で呼ばれることが圧倒的に多く、「なぜ日本は名字で呼ばれることが多いのだろう」と思ってきた。 「僕にとって大事なのは、下の名前。名字に特に大きな意味合いを感じないのもあって、妻の名字に変えることには抵抗がなかったけれど、世間一般からすると、これほどまでにマイノリティーなのかと感じさせられる」(基弘さん)  名字を変えたことで生まれる思いもあれば、“変えさせてしまった”ことで生まれる葛藤や悩みもある。夫が名字を変える選択を、妻側の視点から見ると、また違った捉え方があり――。 (松岡かすみ)
“生活保護”状態から奨学金と借金を駆使してハーバード進学したパックンだからわかる「お金持ち」の意味と価値
“生活保護”状態から奨学金と借金を駆使してハーバード進学したパックンだからわかる「お金持ち」の意味と価値 パトリック・ハーランさん  子ども時代は貧しい生活、奨学金と借金を駆使してハーバード大学に進学したパトリック・ハーラン(パックン)。貧しさを経験して、現在ではお金に困らない生活をしているパックンは、現在、「お金を持つこと」と「幸せに生きること」についてどのような感が方を持っているのでしょうか? 最新刊『パックン式 お金の育て方』から一部を抜粋・再編して公開します。パックンのお金についての連載、全50回の最後となります。 *  *  * ■忘れもしない「生活保護」で苦しい少年時代  ここまでたくさんの記事を、連載で出してきたけど、ついにこれでフィナーレを迎えました! 読んでくれたみんな、ありがとう!  最後にもう少しだけ、僕がお金とどう付き合ってきたのかをお話ししておきたいと思います。 「お金持ちになりたい!」と思うことは誰でもあると思います。  では、お金持ちになるために大事なことは何だと思いますか?   僕が思うに、お金持ちになる一番の近道は……、お金持ちの家に生まれること!  でも、僕はこの点はミスってしまいました。  むしろ、お金持ちとはほぼ逆の環境で、子ども時代を過ごしたのです。  我が家の経済状況が悪くなったのは、僕が7歳のとき。  両親が別居して、その翌年に二人は離婚しました。  しかも不運なことに、その直後に母はリストラにあってしまった。  あのとき、僕は悲しかったし、不安だった。  けれど、「お母さんを支えなくちゃ」と子どもながらに思ったことを、今でも鮮明に覚えています。  そういうわけで、「生活保護」状態の経済的に厳しい暮らしが始まりました。  高校生になるまでカラーテレビを家で見たことがありませんでしたし、母親は1食89セントの予算を守るため、僕ら家族は、安い脱脂粉乳を牛乳の代わりに飲んでいました。  肉もほとんど脂がなくて、パサパサのターキー(七面鳥)のひき肉が基本。  あの頃は、ファストフードや炭酸飲料水はかなりの贅ぜい沢たく品でした。  そういう我慢を強いられる生活は辛かったです。    けれども、それ以上に、母親の涙を目にするのが辛かった。  アメリカでは普段の支払いを小切手で行います。  小切手の期日に銀行にお金がないと、残高不足でペナルティを取られてしまいます。  僕の母はよく、夜中に一人で小切手帳を見ながら泣いていました。  きっと、銀行の残高が心配でたまらなかったのでしょう。  そういう母の姿を偶然目にした僕は、母を後ろからハグして、「ママ、大丈夫だよ」と精一杯慰めたこともありました。  こういう環境で育ったから、いつしか僕はお金のことを考えるのが大嫌いになってしまいました。  母から、「お小遣い帳をつけるように」と言われていたけれど、それも嫌で続きません。  そして僕は、こんなことを考えていました。 「お金のことを考えなくて済むには、どうすればいいだろう」 「どうしたらこの状況を抜け出せるだろう」  これが、僕がお金との付き合い方を考えるようになった原点です。 ■ついにたどりついた「パックン式 お金の育て方」  そして、たどり着いたシステムは意外とシンプルなものです。  1.徹底的に節約する  2.一生懸命働く  3.投資でお金を増やす  節約に関しては、そもそも無駄遣いをする余裕がなかった僕は、自然と身についていました。  大人になって余裕が生まれた後も、月の支出が収入を超えたことは、これまで3回しかありません。  働くことももちろん大切です。  実は22歳で日本に来る前、僕は新聞配達のほかに、庶務、道路工事、重機の操縦、フォークリフトの運転手、家庭教師、データ入力、役者、厨房の手伝い、寮の掃除、トラックの運転手などなどのアルバイトをやってきました。  働いて得るお金は、収入の基本なので、それを増やすのも大事。  だから今でも「どうすれば、僕という『商品』の価値を高められるのか」ということを良く考えています。  そして、経済的な自由が手に入っても「好んで」仕事を続けることは、僕の理想でもあります。  最後に、投資。  僕が投資を始めたのは、日本に来て2年半ほど経ったときです。  それまでは投資をする余裕はなかったのですが、奨学金を完済してようやく投資を始められました。 パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』 ※Amazonで本の詳細を見る ■やっと手に入れた、夢のような幸せな暮らし  そうして25年以上投資を続けてきた結果、僕は今それなりの財産を持っています。  都内には家があるし、かっこいいバイクもある。しかも、夢の外車!(……ヤマハですよ。僕にとっては「外車」ね)  さらに、子どもを何不自由なく育てることができていて、大好きな家族をミュージカルやコンサート、海外旅行にも連れて行けています。  今の生活は、僕にとって夢のようです。  子どもの頃に憧れていたケンタッキーフライドチキンの「パーティバーレル」をいつでも買えるなんて!  もちろん、島も買わないし、宇宙旅行もしないし、BTSを誕生会の余興に呼んだりしません。  でも、毎日の暮らしの中で使う分も、将来の安心のために備える分も十分なお金を持つことができました。  その意味では、もう十分、僕はお金持ちです。  そして、僕がやってきたお金の工夫は、ほぼ誰にでもできることです。  つまり、僕くらいのお金持ちになるチャンスは、みんなにあります!  節約と価値観の見直しで「必要なお金のレベル」をまず一気に下げて、懸命に働き、堅実に投資すれば、このお金持ちの水準は案外達成できるものです。  若いうちに頑張ると、中年になると余裕が出てきます。  普段からあまり無駄遣いをしなくなるし、海外旅行はできるし、子どもの学費も払えるし、結婚記念日に妻と一緒に「パーク ハイアット」で素敵なディナーを食べて、ライオネル・リッチーにも会えます。(まあ、それはたまたまだったけれど) パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』 ※Amazonで本の詳細を見る  僕とビル・ゲイツやイーロン・マスクとは、もちろん資産の額は変わります。  でも、幸福の度合いは変わらないと思う。  お金に悩まないで、お金に振り回されないで、ほとんどお金を気にしないで、幸せな暮らしができる。それができれば十分じゃない?  こんな考え方ややり方をみんなに伝えたくて、この本を書きました。  じっくり考えて、「自分ならでは」のお金の育て方、幸せの育て方を見つけてください。ゆっくりでいいですよ。それが一番「賢い」お金との向き合い方のはずです。  地球上に生きている間、お金との付き合いは終わらないからね!  僕との付き合いも、これからもよろしくね! (構成/増田侑真) パックン 本名:パトリック・ハーラン。芸人・東京工業大学非常勤講師。 1970年11月14日生まれ。アメリカ・コロラド州出身。93年ハーバード大学比較宗教学部卒業。同年来日。97年、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。NHK「英語でしゃべらナイト」「爆笑オンエアバトル」をはじめ、多くのテレビ番組に出演し、注目を集める。「AbemaPrime」「報道1930」でコメンテーターを務めるなど、報道番組にも多数出演。2012年10月より池上彰氏の推薦で東京工業大学の非常勤講師に就任。コミュニケーションと国際関係についての講義も行っている。二児のパパ。 25年以上の投資歴があり、金融教育の講師として全国各地で講演会も行っている。 最新刊の『お金の育て方』では、「生活保護」状態から「お金持ち」になるまでに身につけた、誰にでもマネできる、お金との付き合い方を詰め込んだ。
「苦しむ人の声を届けることと代弁者になることは違う」作家と研究者、立場の違う二人が抱く同じ思い <丸山正樹×村上靖彦対談>
「苦しむ人の声を届けることと代弁者になることは違う」作家と研究者、立場の違う二人が抱く同じ思い <丸山正樹×村上靖彦対談> 『キッズ・アー・オールライト』著者の丸山正樹さん(左)と『「ヤングケアラー」とは誰か』(朝日選書)著者の村上靖彦さん(丸山さん撮影:写真映像部・高橋奈緒、村上さん写真:本人提供)  社会派エンタメ小説『キッズ・アー・オールライト』を上梓した丸山正樹さんと、『「ヤングケアラー」とは誰か』の村上靖彦さん。異色の初対談では、小説とは?研究とは?と考えを巡らせた。 *   *   *村上:ヤングケアラーを取り上げた『キッズ・アー・オールライト』もそうですが、丸山さんは障害や医療、福祉といった社会問題をテーマに小説を書かれていますね。きっかけは何だったのですか? 丸山:脚本の仕事を経て小説を書き始めたのですが、コンクールに出しても一向に通らない。それで、自分にしか書けないものは何か、と考えました。浮かんだのは、身近な障害者の存在でした。妻には頸髄損傷という重い障害があって、私自身も子どもの時から吃音という言語障害があります。母親も双極性障害を何十年も抱えていました。そういった自分の経験や環境をうまく活かせないか、と考えたのです。 村上:デビュー作の『デフ・ヴォイス』はCODA(ろう者の親から生まれた聴こえる子ども)が主人公でしたね。ろう者の困難や心のひだが丁寧に描かれていました。 丸山:実は一作目は、文献や映像だけを基に書いたのです。そこからいろんな当事者と知り合って、直接に見聞きする中で次々と知らないことが出てきました。それを基に新しい作品を書く。憤りから出発することが多いのですが、自分に書けることは何かとその都度考えて、書いた結果が小説になっているのです。逆に村上さんは、どうして子どもたちの支援の現場やフィールドワークに行き着いたのですか? ご専門は現象学とお聞きしましたが。 村上:現象学は学問の視点の取り方を変えます。客観的な視点ではなく、一人称の視点から経験と世界がどのように形作られているのかを描きます。一人一人経験も実践も異なる形を持っています。個別の視点から見た経験の形を背景の文脈も含めて描き出すことをめざしています。僕の場合、対人関係の機微に関心があったことがきっかけで、医療現場に通うようになりました。一人一人の視点から描くことでしか見えないケアのあり方があるはずだ。そんな思いから、現在の方法論を取っています。   丸山正樹さん(撮影:写真映像部・高橋奈緒) 丸山:なるほど。『「ヤングケアラー」とは誰か』でとても興味深かったのは、内容はもちろん、語り方もそうでした。それぞれの語り手のちょっとした言い回しだったり、繰り返される言葉だったりにとても注目されて、そこにどんな思いが込められているのかを分析されていました。ああいう手法は初めて見ました。 <『「ヤングケアラー」とは誰か』は7人のヤングケアラー経験者へのインタビューを収録。長期脳死の兄や障害のある母親、過量服薬で救急搬送を繰り返す母親など、さまざまな背景を持った家族のケアがつづられている> 村上:そこは僕にとってもすごく大事なところで、人の語りには、本人が考えているストーリー以上のことが必ず語られているのです。それは、細かい言い回しの中や口癖の使い方に出てきます。そこを読み解いていって、言葉のネットワークを再構成していくと、その方がどういう形をした世界を生きているのかが分かるのです。 丸山:非常に面白いですね。 村上:例えば第2章、覚醒剤依存の母親をケアしたAさんの場合だと、「でも」という言葉がたくさん出てくる箇所と、それが消える場面があります。「知っている。でも誤魔化されている」「知っている。でも分からない」という、気づきの曖昧さを巡って、「でも」がたくさん出てきます。それは母親が逮捕される前の場面だけなのです。逮捕された後は全部明らかになっているので、「でも」を使う必要はなくなりますし、「全部知っていた」と語られます。Aさん自身は意識していないと思いますが、没頭して語っていると、ディテールの中に言葉遣いの変化が生じます。その変化は世界がそのつどどのように現れているのかの変化を表しています。 丸山:私は『デフ・ヴォイス』シリーズでろう者のことを書いていますが、声が届きにくい少数者の考えや意見を届けたい、といった意識を持っています。ただ代弁者的な、誰かの代わりに何かをスピークするといった形は、できれば避けたい。「当事者性」がとても大事だと思っていて、本当は当事者が語るべきだし、語ってほしい。語る場が与えられるべきだと考えています。実際には、その当事者の大事な問題を扱う場に、当事者本人が存在しないということがすごく多いのではないでしょうか。   村上靖彦さん(写真:本人提供) 村上:代弁者にならない。これはすごく大事なことですよね。同時に、とても難しい倫理だと思います。僕の場合、当事者にインタビューして、それを本にまとめていくわけです。でもそれがあたかも、当事者になり代わってしまうのは、どこか違いますよね。 丸山:「当事者の代わりに」というような傲慢なことは言いたくないのですが、エンターテイメント小説は、割と読んでもらいやすいと考えています。そこで少数者のことを描いていけたら、その声が少しは届くかもしれません。小説の場合、セリフを通して大切なポイントを感じてもらえることもあります。 村上:自分たちはどういう立場なのか。これは研究活動の中で常に考えさせられる問題です。僕の場合だと、どういう立ち位置で西成の人たちのことを書いているのか、すごく意識しなければいけないと思います。彼らを代表できるわけではありません。一方で、何かを伝える役割を担っているのは事実です。研究者が代弁者であるかのように振る舞ってしまうケースは、実はすごく多いのではないでしょうか。自戒を込めて、注意しないといけないと思います。 (取材・構成/眞崎裕史) ■丸山正樹(まるやま・まさき)1961年東京都生まれ。小説家。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業後、シナリオライターとして活動。2011年松本清張賞に応募した、「ろう者」を主題としたミステリ『デフ・ヴォイス』で作家デビュー。以後、社会的に「見えない存在」に焦点を当て、創作を続ける。 ■村上靖彦(むらかみ・やすひこ)1970年東京都生まれ。大阪大学人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点(CiDER)兼任教員。2000年、パリ第7大学で博士号取得(基礎精神病理学・精神分析学)。13年、第10回日本学術振興会賞。専門は現象学。
嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語【2022年 反響の大きかった記事22選】
嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語【2022年 反響の大きかった記事22選】 嘉門タツオさんと妻のこづえさん(写真=本人提供)  2022年も残すところあとわずか。ここでは、2022年にAERAdot.で配信された記事の中から「反響の大きかった記事」を22本選別して紹介します。(11月30日配信/※肩書年齢等は配信時のまま) たった今、息を引き取ったばかりの妻に、夫は大きな拍手を送った。「あっぱれや」。今年9月に、妻の鳥飼こづえさんを亡くした嘉門タツオさん(63)。交際前に悪性脳腫瘍をわずらい、自分の命が長くないことを悟っていたかもしれない妻と過ごした14年間には、夫婦だけの物語が詰まっていた。 *  *  * 2007年。食事仲間の先輩が宴席に連れてきたのが、こづえさんだった。その場は神妙なお見合いのような感じでもなく、かといって、どちらかがひとめぼれして猛アタックしたというわけでもない。初対面では、お互いにそんなに意識はしなかった。  結婚願望なしの49歳中年男。一方、こづえさんは医師という仕事ひと筋で、友人から「プラチナのよう」と形容されるほどのお堅い性格。年も6歳下だった。そんな2人をみこしに担ぎ上げたのは、嘉門さんの仲間たちだ。  こづえさんも連れられてやってきた、とあるイベントの打ち上げ。 「後から聞いたんですが、一緒に飲んでいた北野誠や桂雀々たちが、僕がトイレに行ったときなんかに『タツオを頼むわ』って彼女に言ってたそうなんですよ」  はしご酒したあと、こづえさんと一緒にタクシー乗り場まで行ったのに、彼女を一人で車に乗せて見送ろうとした嘉門さん。 「送っていけやー!」  鈍すぎる独身男の背中を押して、車に押し込んだのは北野誠さんだった。 「周りが、これが僕のラストチャンスやろうって勝手に思って雰囲気づくりをしてくれたんですよ。僕が自分から頑張らなくてもいい状況を作ってくれて。せっかくやから、乗っかろうと思ったんです」  眼科とアンチエイジングの分野で活躍していた「プラチナ」のエリート医師は、なぜか嘉門さんのことを面白がり、惹かれた。歌い手風情がと不信感を持たれたか、こづえさんの母親は交際に猛反対。だが、意外にお似合いな2人に心変わりしたのか、何度か会ううちに「式はちゃんと挙げなさい」と言うようになった。交際から半年後にゴールインして、東京と大阪で2度、結婚披露宴を行った。 「わたし、2002年に悪性脳腫瘍の手術をしたけど、もう大丈夫だから」  こづえさんが、がん患者であることを打ち明けたのは付き合い始めて間もないころ。  いつ再発するかわからない悪性腫瘍。3カ月に1度、病院でMRI検査を受け状態を確認していた。それでも、「彼女は、自分の命に対する不安を表に出したことはなかったんですよ。本人が大丈夫って言うんやから、大丈夫なんやろうと僕も思っていました」  だが、病気の影響で、徐々に右半身の自由が効かなくなっていた。結婚して1年ほどたつと、歩くときにステッキが必要になった。利き手である右手でカルテを書くことが難しくなり、こづえさんは医師の仕事を断念した。  それ以降、こづえさんは嘉門さんの仕事場へも連れ立って来るようになった。嘉門さんの曲作りにもかかわり、積極的に自分の考えを伝えるようになった。  カラオケは大好きだったが音楽には門外漢のこづえさん。そんな妻が仕事に口を出してきたら怒ってしまう夫もいそうだが、あっさりと仕事のパートナーとしても息が合ってしまうのが、このカップルの不思議なところ。 「メロディーが違うとか、歌詞のこの部分、もうちょっと違う言い回しがいいよ、だとか、的を射ていることを言うてくれるんですよ。仲よくさせていただいている宇崎竜童さんと妻の阿木燿子さんは夫婦で曲を作っていて、もし結婚することがあれば、そんな夫婦がいいなって憧れていたんです。まあでも自分にそんな話があるわけないわなって思っていましたけど、あったやん!って」  趣味でも息が合っていた。2人の共通軸は「食」と「ワイン」。夕刊紙で食に関する連載を持ったことがあるほどの食通の嘉門さんと、ワインやシャンパンと、食べることが大好きなこづえさんは、住まいのある都内でも地方の仕事先でも、いつも一緒に外食に出かけた。  予約の取れない人気店にくじけずに電話をかけ続けて美食を求めたり、今日の店はここが良かった、ここがいまいちだったなど、グルメ談義を交わした。夫婦でほれ込んだ焼き鳥屋には200回以上は通った。  その趣味が趣味で終わらず、仕事につながってしまうのも、この夫婦ならではだった。 「歌うべきことは歌おう、歌にした方がいいことは歌にしよう」の考えで活動してきた嘉門さん。そんな“食べすぎ夫婦”で食に関する曲を作りはじめた。それを収録したのがアルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」(2016年)である。 「カレー マイラブ」という曲を作った際には、夫婦で40軒はカレー店を食べ歩いて構想を練ったそう。曲作りのためにカレー店巡りをする夫婦は、この2人以外にはいないだろう。 「オリジナリティーがある2人ならではの考えを歌にしていこう、という関係性でしたね」  アンチエイジングの医師だったこづえさんの思いをつづった「アンチエイジングの歌 入門篇」も作り、昨年、こづえさんが歌っている動画を撮影した。  一緒に歌を作って、一緒に飲んで食べまくって、旅行もたくさん行って、次の曲の構想を練って。はた目にはちょっと不思議で、でも絶対に楽しいであろう夫婦の生活。だが、その未来を病魔は許してくれなかった。  今年5月に、がんが再発。進行が早く、手術をしてもすぐに腫瘍は大きくなった。最後の望みをかけた薬も効かなかった。歩行がさらに困難になっていくこづえさん。介助の疲れが一気にたまり、嘉門さん自身も体調を崩して入院した。  8月の終わり。もう歩くことができなくなっていたこづえさんを車いすに乗せて、病院から家に戻った。  夫婦の、最後の21日間。  嘉門さんが妻のために用意した看取りへの道は、にぎやかな花道だった。  こづえさんが会いたいと願った、160人もの友人が続々と家にやってきた。部屋で宴会をして、こづえさんも一緒にワインを飲んだ。  押尾コータローさんがギターを弾き、元JAYWALKの中村耕一さんが「何も言えなくて夏」を歌った。固形物が食べられなくなり弱り切っていく中、最後に北海道から送られてきたウニをチュルチュルっと、実に美味しそうに食べた。  何もしゃべらなくなり、ベッドに寝ているだけになったこづえさん。  9月15日。訪問看護師が、死が近づいていることを察知して嘉門さんと廊下に出て話をした。その間、わずか2分。嘉門さんが席を外しているうちに、こづえさんは旅立った。 「息を引き取る瞬間を夫に見せてくれなかった。これは、最もつらい瞬間に僕を立ち会わせないという彼女の演出なんだと。そんな信念が伝わってきて、拍手をしたんです。あっぱれや!って」  身内だけで行った葬儀で、嘉門さんが妻にささげた2曲の歌がある。 「HEY!浄土~生きてるうちが花なんだぜ~」という終活をテーマにしたアルバムに収録された「旅立ちの歌」と「HEY!浄土」という歌。お墓の中の故人への思いと、故人が、お墓の中から見た思いをつづった曲だ。  3年前にこづえさんの母が亡くなったとき。昨年、嘉門さんの母が亡くなったときの葬儀で、こづえさんが歌ってほしいとお願いしてきた曲だ。 「私の時も歌ってね、という彼女のメッセージだったんだ。そう理解したんですよ」 <早くお前に会いたいけれど もう少し浮世の風に吹かれてから行くよ♪> <忙しいとは思うけれど たまには会いにきて欲しい 風になんてなるつもりはない そこにいるから きっといるから♪>  こづえさんのそばでその2曲を歌い切った。泣きながら。 「納骨の日に、お墓の前でその歌をプレーヤーで流したんです。そしたら、線香の煙がふわっと広がってね。やっぱり彼女はこれを願っていたんだと、確信しました。なんとも不思議な体験でした」  妻を天国に送って、夫婦生活はフィナーレ。と思いきや、物語にはまだ続きがあった。  照れからか、介護されることについて、嘉門さんに感謝の気持ちをそれほど語らなかったこづえさん。だが、つい最近、こづえさんの昔からの友人と酒を飲んだら、いつも、病気の自分を助けてくれる嘉門さんのことをほめていたと聞かされた。別の機会に会ったこづえさんの友人からも、同じ話を聞かされた。 「自分が死んだあと、僕の耳に入ることが絶対にわかっていて、友人たちに伝えたんだと思うんですよ」  数ヶ月前、車の中でこづえさんが突然、「何があっても、応援してるからね」と言ったことがあった。あまりに唐突で、しかも嘉門さんはハンドルを握っていたため、「おう」と返しただけ。忘れてしまっていたこづえさんの言葉が、今になって脳裏によみがえった。  これもこづえさんの演出なんだと、嘉門さんは思う。 「職業柄、ただ嘆き悲しんでいていい立場ではないと自覚しています」と話す嘉門さん。こづえさんの遺志を継ぎ「アンチエイジングの歌」の動画を編集し、49日が終わった後、ユーチューブで公開した。夫の手で、念願の“歌手デビュー”を果たした。  妻と生きた14年間のできごと。自宅で過ごした最後の21日間と、160人で見送った花道。妻が亡くなってから、宙を仰ぐような不思議な動作をするようになった2匹の飼い猫。そんな過去と今を、何か形にしていきたいと話す。  だが、死別からわずか2カ月。今が苦しくないはずはない。取材中、嘉門さんは何度も眼鏡をはずして涙をぬぐった。  思い出の店に行けば、妻の好きだった料理の味が心にしみて泣けてくる。行きつけの店で飲んでいても、こづえさんはもういない。 「いっつも、ここにおったなあってね」  それでも、震える声で、一生懸命思いを話した。 「彼女が生きたことも、亡くなったことも、ちゃんと意味を持たせたいと思っています」  物語を、続けるんやー。                  ◆  取材は、都内のホテルで行われた嘉門さんの、とあるステージの前だった。 「見てってくださいよ」  本番ギリギリまで話してくれた嘉門さん。筆者にそう声をかけると、さっそうと衣装をはおりサングラスをかけて控室を出ていった。  会場は控室の向かいの宴会場。お言葉に甘え、客席後方の壁際にいすを置き、座らせてもらった。  不思議な光景だった。  ついさっきまで亡き妻を思い涙していた男性が、「嘉門タツオ」としてお客さんを一瞬で爆笑させている。毒あり悲哀あり、ちょっとシモありの歌とトークに、筆者も仕事を忘れかけて吹き出した。  中でも盛り上がったのは「炎の麻婆豆腐」という一曲。  麻婆豆腐への愛や作り方を歌ったものだが、「麻(まー)と~辣(らー)~が~♪」と熱唱するサビに入ると、お客さんがタオル代わりに卓上の白いナプキンをぐるぐる振り回す。  アルバム「食べることは生きること~」に収録された、こづえさんと一緒に作った歌。  こづえさんは、いつも会場の、ちょうど筆者がいたあたりに座っていて、嘉門さんの歌にのってタオルをぐるぐると回していたそうだ。  会場にいた嘉門さんのスタッフが、そう教えてくれた。(AERA dot.編集部・國府田英之)
愛子さまと眞子さん、2人の長女とそれぞれの父。違いと共通点と根底にあるもの
愛子さまと眞子さん、2人の長女とそれぞれの父。違いと共通点と根底にあるもの 21歳を迎える愛子さま(宮内庁提供)  時代を映す鏡ともいわれる皇室。国民は親または子の立場から、自分の姿を重ね、心を寄せることも少なくない。天皇家と秋篠宮家の父親と娘のそれぞれの関係について、コラムニストの矢部万紀子さんが考察する。 * * * 天皇陛下と長女の愛子さまが2日続けてお忍びでの外出をしたと報じられていた。最初が2022年12月3日、学習院大学史料館(「ある皇族の100年―三笠宮崇仁親王とその時代―」)、4日は五島美術館(特別展「西行―語り継がれる漂泊の歌詠み」)、それぞれを訪問、鑑賞したという。  「お忍び」「外出」と聞いてオードリー・ヘプバーンの「ローマの休日」を思い出すのは世代ゆえかもしれないが、皇室における「お忍び」とは何を指すのだろう。という疑問に答えてくれたのが、朝日新聞の島康彦記者。10年にわたる皇室取材経験をもとに、朝日新聞デジタルの「コメントプラス」に書いていた(22年12月4日投稿)。  それによると「お忍び」とは、宮内庁が事前に公表しない皇室の方々の活動のうち、外出を伴うもののこと。私的である、または取材機会を設定しないと宮内庁が判断したものだが、「そうしたものにこそ、皇室の方々を深く知るうえで重要な内容が含まれているのではないかと思い、担当記者は『お忍び』をキャッチすべく、各方面への取材を進めているわけです」とあった。  なるほどそうだとすれば、今回のお忍びからはお二人の何を知ることができるだろう。まずは愛子さまの高い学習意欲だろう。学習院大学文学部日本語日本文学科に在学する愛子さまは、そもそも大変な勉強家だ。21年、20歳になったことを受けての記者会見での「関心のある分野は、いまだ模索中といったところではございますが、以前から興味を持っておりました、『源氏物語』などの平安時代の文学作品、物語作品を始め、古典文学には、引き続き関心を持っております」という言葉からも、それは明らかだ。  西行は従来からの関心分野と言えそうだが、それに加え「ある皇族の100年」で昭和天皇の弟である三笠宮さまについても学んでいる。愛子さまは天皇家の長女である自覚を十分にもっているし、陛下もその役割に期待しているということだと思う。  陛下の父親ぶりを垣間見た気がしたのは、「TBS NEWS DIG」の記事(22年12月4日配信)を目にした時だ。[独自]と特記した上で、西行の特別展鑑賞についてこう伝えていた。「関係者によりますと、当初、愛子さまが一人でこの特別展を鑑賞される予定でしたが、陛下も同行されたということです」。娘の向上心をうれしく思い、つい一緒に出かけてしまうーーそんな姿が想像できたのだ。  女性皇族は「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と皇室典範に定められている。だから愛子さまはいずれ、皇室の外に出る。その一方で「女性宮家」については国会での審議が待たれていて、仮に創設されれば愛子さまがその対象になることは間違いない。そのようにどっちつかずな立場に置かれている愛子さまが、ひとりの親としてはさぞや不憫だろう。だが愛子さまは健気にも、皇室の近現代史への興味を示している。陛下はさぞやうれしかったに違いない。そう思うと、翌日の「予定外の同行」が一層ほほ笑ましく感じられるのだ。 夫婦そろって出国する小室眞子さんと圭さん  ここから秋篠宮家の父と娘に目を転ずる。11月30日、57歳の誕生日に合わせての記者会見で、秋篠宮さまは長女の小室眞子さんの近況について尋ねられた。夫の圭さんが10月にニューヨーク州の司法試験に合格したことを受け、加地隆治皇嗣職大夫が「(ご夫妻が)お喜びであるというご様子とお見受けしています」と語った。だから喜びの言葉があっても不思議はなかったが、秋篠宮さまはこう述べた。 <長女のことですけれども、これは本人が近況などについての自分のことについては話をするのは控えてほしいということを申しているようですので、私もここではお話を控えることにいたします>  会見で秋篠宮さまは「皇室の情報発信」について、正確でタイムリーであることが必要と言及していた。そうであれば眞子さんの生活についても発信すべきではないか。そんな識者のコメントを紹介するメディアもあった。  が、そういう話より前に、この言葉を秋篠宮さまと眞子さんの関係がよくない証拠かのように扱うメディアが多かった。「控えてほしいということを申しているようですので」と婉曲的な表現を秋篠宮さまは使った。他人について「~なようだ」と表現するのは珍しい話法ではない。だが、何につけ良くない方向で読み解かれる。それが今の秋篠宮家だ。  秋篠宮さまと眞子さんの関係がスムーズではなかったことは、ジャーナリストの江森敬治氏の著書『秋篠宮』からも伝わってくる。秋篠宮さまとの37回に及ぶ面会から、眞子さんの結婚までの過程を丁寧に追った本書で、「夏が過ぎ、秋となった。眞子内親王は、父親と結婚問題について話し合うことはなかった」というくだりがある。  18年8月に圭さんがアメリカ留学した直後の記述で、それ以後も話し合いがもたれたという記述はない。きっと今も、そのような関係なのだろう。秋篠宮さまの心労はいかばかりかと思うと同時に、「父と娘とはそんなもの」という感想もわいてくる。 笑顔の内親王時代の眞子さん  多くの娘は成長するにつれ、異性である父親と距離を取るようになる。自分もそうだったし、それを世間は「親離れ」と呼ぶ。「未来の夫」が現れれば、父よりその男性を優先する。こちらもよくある話だろう。  眞子さんの結婚は、こじれにこじれた。結果、眞子さんが選んだのは、「儀式なし、一時金辞退」という「皇室としては類例を見ない結婚」だった。こうして退路を絶ち異国に赴いた2人なのに、メディアもSNSもまだ好奇の目で追いかけている。そういう状況で「自分たちのことを話さないで」と父親に伝えることは、ごく自然な成り行きだと思う。そして秋篠宮さまがその意志を尊重したのは、娘への愛があるから。そう私は受け取った。  ちなみにこの会見で秋篠宮さまは、佳子さまの公務に助言をしているかという質問も受けている。「何か聞かれればそのときに私の意見を言うことがあります。恐らくそれぐらいだと思います」が答えだった。自分でない人に関わることは、ごく抑制的に語る。それが秋篠宮さまの流儀なのだと理解した。が、これも「娘との距離」と解釈される。それが秋篠宮家、と繰り返しになる。  もう一つ、この会見で私は、「秋篠宮さまは良い上司だな」と感じた。長く組織で働いてきた者として、私は皇室を女性皇族にとっての職場ととらえ、あれこれ考えている。「公務=仕事」だから、「皇室=職場」。だが、先述したように女性皇族は「結婚したら身分を離れる」ことが定められていて、それ以外の定めはない。結婚退職だけが決められている職場に帰属意識を持てと言われても、それは難しいだろう。眞子さんがひたすら結婚を望んだ根底には、そのことがあると思っている。そういう問題をはらみつつ、昨今の佳子さんは公務に邁進している。聞かれた時だけ助言をくれる、つまり部下を信頼してくれる、良い上司がいるからだと思う。  最後に、陛下と愛子さまの話に戻る。眞子さんと秋篠宮さまの関係を「親離れ」ととらえれば、陛下と愛子さまにもいずれそういう日は来るだろう。そう思う一方で、陛下と愛子さまの関係は変わらないのではないか、そんなふうにも感じている。  お忍び訪問の5日後、12月9日に雅子さまは59歳のお誕生日を迎えた。その日に公表された「ご感想」で雅子さまは、皇太子殿下(当時)と結婚したのがちょうど29歳半の時で、それから29年半が過ぎ、いつの間にか人生の半分を皇室で過ごしてきた、と振り返った。そして、こう続けた。 <これまでの人生を思い返してみますと、(略)本当に様々なことがあり、たくさんの喜びの時とともに、ときには悲しみの時も経ながら歩んできたことを感じます>  「悲しみの時」という言葉に心が揺さぶられた。「適応障害」という病名が公表されたのは、愛子さまが生まれて2年余り経った時だった。その時、雅子さまの苦しみのありかをきちんと理解していたのは、皇太子さま(当時)だけだったのではないだろうか。それから19年、常に雅子さまの苦しみに寄り添い、喜びを共にしてきたのは陛下と愛子さまだ。私の心には、肩を寄せ合うように生きる陛下と雅子さまと愛子さまの姿が常にある。だから陛下と愛子さまの関係は、そう簡単には変わらない。そう思えてならない。  というわけで、天皇家の父と娘、秋篠宮家の父と娘、その違いについて書いてきた。どこの親子も違うものだから、違って当然だ。が、この二組の父娘の場合、違いの根底あるのは女性皇族の生きづらさだ。そのことは忘れず、考えていかねば。そのように思う年の瀬だ。
芸人・じゃいが競馬で9千万円超を当てたのを妻に隠した結果、起きたこととは
芸人・じゃいが競馬で9千万円超を当てたのを妻に隠した結果、起きたこととは お笑いトリオ「インスタントジョンソン」の、じゃいさん  競馬や麻雀に強い芸人として知られるお笑いトリオ「インスタントジョンソン」の、じゃいさん。競馬では、6410万円の払い戻しを受けた後に確定申告を行ったが、数千万円の追徴課税を請求され、“破産”したことをYouTubeで報告して話題になった。だが、その後も競馬で9千万円超を取り戻した。なぜそこまで勝てるのか? 聞くと、勝つためのメンタルを身につけることだという。それは仕事や恋愛など、あらゆる場面でも同じだというのだが。 *  *  * ――最初に競馬の税金問題について。税制に不備があるとして、異議申し立てもし、弁護士費用の寄付も集まっていると聞いています。その上で新たな提言もされると。 「今の税制は、仮に8千万円分の馬券を購入し、合計で1億円の払い戻しがあったとします。そうすると、もうけは2千万円です。でも、負けた分の8千万円は考慮されずに、勝った分の1億円に税金がかかって、結果的に2千万円が徴収されます。これでは勝った意味がないです。競馬を続けること自体に意味がなくなります。そもそも競馬の売り上げの25%は、JRAと国庫に納められているんです。国庫には年間約3千億円強を納めているので、競馬ファンはそれだけでも大きく貢献しているわけです。この仕組みを競馬ファンは『二重課税』と呼んで疑問視しています。これは、70年以上前にできた法律に当てはめて、こういう形になっているんです。競馬ファンを代表するというわけではないですが、この法律を改正してもらえるように国会議員らに働きかけているところです」 ――6月に“破産”を報告しましたが、その2カ月後には、また競馬で見事当てて、9370万円を取り戻しました。自著の『稼ぐメンタル ギャンブルで勝ち続ける「ブレない」心の作り方』(KADOKAEA)では、ギャンブルに限らず、稼ぐことにおいて、勝つためにはメンタルが重要だと書いています。 「長年ギャンブルをやってきた経験から言えるのは、メンタルは稼ぐために一番重要だということです。ビジネスや恋愛においても、色々な意味で勝ちを求めていくなら、メンタルは重要なファクターになると思います。勝ったり負けたりした時のメンタルだったり、スランプで調子が悪い時のメンタルだったりが、人の行動に影響を及ぼすと思いますが、ブレずに行動は変えない方がいいんです。恋愛に例えれば、仮に異性から振られて落ち込んで、最悪、男性不信や女性不信になってしまうようなことがあるかもしれません。でも、その時の相手のような人ばかりじゃないからと、考えをすぐに変えて気持ちをコントロールした方がいい方向に進むと思うんです」 ――メンタルを鍛えることは難しそうです。 「感情は抑えきれないものがありますよね。勝ちを追い求めることによって、メンタルをコントロールできなくなってしまうから難しいんです。僕は20代のころとか、負けてムカついて、物に当たったり、荒れたりしたこともありました。ただ、負けを積み重ねていくうちに、感情の乱れが負けにつながっていることがわかってきたんです」 ――感情が乱れなくなったら、勝てるようになってきたんでしょうか。 「そうですね。仮に負けたとしても、後に引きずりません。特に麻雀やポーカーなどの対人勝負では、感情が大きく影響すると思います。麻雀は、弱気になると臆病になり、勝負すべきところでできなくなるケースがあります。そこは決めたら、それで勝負する。仮にそれでその勝負に負けたとしても、後悔せず引きずらない。『別の牌を切っておけばよかった』とか思わない。弱気とは別に、やけになってしまうパターンもあります。それも負けにつながります」 ――でも、何かを選択しなければならない場面は、どっちがいいのか迷います。どうしたらいいのでしょうか。 「一喜一憂しながら選んだ方が楽しかったりもするんですよね。僕は、ほぼ感情のないAIのように判断します。競馬も麻雀と同じように、決断したら後悔しないことです。どの馬にするかを決めたら、あとで『ああ、こっちにすればよかった』と後悔しなくていいんです。そこで引きずると、前はこっちだったから、次はあっちにしようとか、両方にしておこう、とかなって判断がブレていきます。負けたとしても、あの選択で間違っていなかったんだ、と思えるぐらいでいる方がいいです。結局は、いかに先を読むかなんです。投資においても、先を読める人ほど、借金してでもお金をかけて、最終的な見返りで得をしますよね。ただ、目の前のものだけしか見ていなかったら、そのお金がもったいないとか、損したらどうしようと弱気になってしまう。だから、その道のパイオニアの人たちは、ギャンブルそのものだと思うんです。誰もやってこなかったことをするには、勝算と自信を持っていないとできません。もちろん成功させるために、準備も緻密(ちみつ)にやらなければなりませんけどね」 ――相当な自信を持ち合わせていた方がいいのですね。 「そうです。だから、負けも想定しておきます。すべての結果を想定内にしておくと、割と何が起きても冷静に対応できるんです。極端ですが、僕は、妻の浮気とかも含めて想定していますから(笑)。もちろん、疑っているわけではなく、ただ可能性として考慮しているだけです。予想外のことが起きたときに、パニックならないために」    ――メンタルを整えるために実践していることはありますか。 「自分を客観的にみるために、もう1人の自分を頭の中に宿しています。僕は、そのもう1人の自分を『リトルじゃい』と呼んでいます(笑)。はたから見る他人の姿はよく見えるけれど、人は自分のことになるとわからなくなってしまう。でも、もう1人の自分が自分を見ていると、かっこ悪いことができなくなります。かっこいい生き方をしたいと意識して、いつも客観的に見ることも、勝ちにつながっていると思います。簡単にはできないかもしれないけど、意識するだけでも、何もしないのとではずいぶん違う気がします」 ――追徴課税を払うことになって、その後、9370万円を当てた時は、ご家族はどんな反応でしたか。 「実は、8月に9370万円を当てたことを妻に内緒にしていたんですよ。破産動画を配信した後だったので、発表したくなかったんです。でも、知人とオンラインサロンをやろうという話をしていて、そこで主催者からぜひ発表してほしいと言われました。夢を与えられる話かもしれないし、ならばということで発表したんです。税務署からの追徴課税は、妻と親に借金して払ったので、高額配当がバレないように返済していました。でも、返済額がちょっと大きかったので、妻から『なんなの、気持ち悪いんだけど』と言われていました。その後にネット記事が出て、妻にもばれてブチギレてました。2カ月黙っていたので、沸騰するくらい爆発して、溶けるのかってくらい。怖くて3日ほどは、こっそり家に帰って妻と鉢合わせないようにしていました」 ――ギャンブルによって身を滅ぼす人が多いなかで、じゃいさんの場合は稼げているのですが、この差についてはどう思いますか。 「ギャンブルは運だという人がいます。競馬は、競馬新聞を片手に一生懸命に予想したのに外れたり、一方で、とりあえず誕生日とかの番号を買った人が当たったりする。そうなると努力しても報われず、運が大きいと思いがちです。ただ、それは一時的なもので、5~10年続けていると、予想をしてきた人としないで適当に買っている人との差は明確に出てくると思います。麻雀は、実力と運が7対3だとよく言われます。だから、どんなに下手な人でも勝てることがあるんです。そこだけを捉えると運というのももちろんあります」 ――運を味方につけるためにはどうすればいいでしょう。 「運については解明できません。だけど、過去にこんなことがありました。ニッチェ(お笑い女性コンビ)の2人のうち、1人は出産して、1人が結婚したときがありました。たまたまライブでニッチェに会って、そのときご祝儀を渡したんです。そうしたら、その週は競馬は全然当たっていなかったのに、ご祝儀を渡した5分後に10倍になって返ってきました。たまたまかもしれませんけど、徳を積んだ方が勝てるんだ、と思えれば、日ごろからいい行いをするようになるし、それによって周囲から好感を持たれるようになるとか、そういう相乗効果が生まれてくると思います。もちろん、徳を積むことが運につながるかどうかはわかりませんけど、そう思っていた方が、人生としてはうまくいく気がします」    (聞き手/AERA dot.編集部 岩下明日香) ■じゃい 1972年神奈川県生まれ。「おつかれちゃーん」でおなじみのお笑いトリオ「インスタントジョンソン」のボケ。パチプロだった祖父の遺伝かギャンブル全般に強く、2009年にはギャンブルでためた5千万円でマンションを購入。また、WIN5で、12年に3775万円、14年に4432万円、20年に6410万円、22年8月に9370万円を払い戻している。現在は、チャンネル登録者数17万人を超えるYouTubeチャンネル「じゃいちゅ~ぶ」などで競馬や麻雀などの話題を中心に発信している。著書に、『勝ち方がわかる 馬券の教科書』(池田書店)、『勝てる馬券の買い方』『図解 博才が必ず身に付くギャンブルのセオリー 最強ギャンブラー芸人じゃいばかりがなぜ儲かるのか?』(ともに、ガイドワークス)などがある。
天龍源一郎が語る“2022年” 最愛の妻、親友、アントニオ猪木さんの死を乗り越え頑張れる理由
天龍源一郎が語る“2022年” 最愛の妻、親友、アントニオ猪木さんの死を乗り越え頑張れる理由 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、今年一年を振り返るメッセージを語ってもらいました。 * * *  2022年は悲しいことがたくさんあって、ひと言で言うなら「むなしい」だけだね……。女房のまき代、親友の楽ちゃん(三遊亭円楽)、アントニオ猪木さんと、立て続けに亡くなってしまって、俺自身も入院生活だ。心に張りも無くなってしまったが、今の楽しみは競馬くらい。  だけど今年の競馬の出来に点数をつけるとすれば100点満点中20点……。なかなか当たるもんじゃないね。それでもよかったのは、女房が亡くなる前、入院先に馬券を買って見舞いに行ったら、その馬券が62万円当たっていたことだ。それを女房に報告できたことは印象的だったね。俺も今は入院中でネット投票で馬券を買うのが、唯一の趣味になってしまった。財布のひもは娘がしっかり握っているから、遣い過ぎることもないから俺も安心して打ち込めるよ(笑)。  その娘が代表として引っ張っている天龍プロジェクトの大会を映像も俺の活力になっているんだ。今の俺がかろうじて持ちこたえているのは、娘が健気に頑張っているのを見て、俺も励まされている、というのが実情だ。  そんな中、俺が入院してからも9月にスタン・ハンセンとのトークイベントを開催できたことはよかったね。病室からのリモート出演だったけど、ファンの前でスタンと懐かしい話もできたし、ザ・グレート・カブキさんもサプライズで登場してくれたりと、いい時間が過ごせたと思う。スタンはまだまだ元気だし、これからもちょくちょく日本に来て、しっかり金を稼いでアメリカに帰ってほしいよ(笑)。  10月には天龍プロジェクト久々の後楽園ホールでの大会も開催できた。俺自身は会場に行けなかったけども、女房があんなことになった後ということもあって感無量だったよ。ウルティモ・ドラゴン、ケンドー・カシン、石井智宏はじめ、天プロやWARで縁があった選手が参加してくれるのは嬉しいね。みんな、ありがとう! 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『WRESTLE AND ROMANCE』Vol.9/開催日時2023年1月20日(金)OPEN18:30/GONG19:00/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP ▽特別リングサイド…6,500円(東西南1列目 /2列目) ▽指定席…5,500円(南側ひな壇)/チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  そしてこの1年間、天プロの試合をずっと見ていて感じたのは、最近は試合のレベルが上がって、選手もスピーディーになっているということだ。一人が突出しているんじゃなくて、全体がレベルアップして、それに引っ張られて出場しているレスラーが「俺も頑張ろう」と、競争意識も芽生えて面白くなっているんじゃないかな。  そんな2022年の天プロで特に印象的だったのは、レイパロマだな(笑)。あいつがなんだかんだ天プロで一番売り出したMVPだよ。パロマの入場曲は沢田研二の「ストリッパー」なんだけど、沢田研二が好きだった女房が「あんなことにジュリーの歌を使って!」と怒っていたなぁ(笑)。  パロマはよく試合中にトランクスが脱げてケツを出すんだけど、ちゃんと実力があって、一生懸命戦っているから笑えるんだよね。1から10まで下手だったら、あんなに笑いはとれないよ。ウラカン・ラナをはじめ、ちょこちょこいい技を思い出したようにやるし、不思議なレスラーだ。それもこれも含めて、エンターテインメントを分かっているし、試合の間やタイミングもいい。ふざけているようで、やっていることは一流だ。  渡瀬瑞基も頑張っているね。やられてもやられても、何度でも立ち上がってくるし、見ている者に何か訴えるものがある。派手な技こそないが、気持ちの強さがいいね。それから、まったく無名のレスラーだったのに、ここまで昇りつめた矢野啓太も大したもんだよ。彼のテクニックを見ているとうならされるし、本当にプロレスが好きなんだなと感心させられる。なんで今までくすぶっていたんだろうね。これまで黙々とやってきた分、基礎もあるし、まだまだ伸びるチャンスがあるよ。  今の天プロでは佐藤光留も頑張ってくれている。彼は商売人だからやっぱり上手いよ。商売人というのは別に悪い意味じゃないよ。どうしたら会場が陰になるのか陽になるのか理解しているから、見ているこっちからしたら心強いよね。その佐藤光留を矢野啓太がサポートしていて、彼らはちょうどいいコンビニなったね。佐藤と矢野はインディ界のザ・ファンクスだよ!  天プロで開催しているトーナメント「龍魂杯」は、出ているみんなが率先していい試合をファンに見てほしいという気持ちが特に伝わってくる。「龍魂杯」の題字は女房が亡くなる前に筆をとって書いてくれたもので、俺と女房の合作のような大会だ。  そんな大会を盛り上げてくれる選手たちは、本当に感謝しているし、ここで一生懸命やっていればきっとどこからか声がかかるし、チャンスはあると思う。「誰かがどこかで見てくれている」というやつだ。  俺もアメリカ修業時代は、全然知らないテリトリーを転戦しているときでも、この言葉を支えに頑張ってこられた。選手たちが俺と同じように思ってくれればありがたいし、そうなってほしい。ここで必死にやっていれば誰かが注目してくれると、自信を持ってリングに上がってほしい。  天プロのプロレスも来年はもっともっと発展させていかなきゃいけないと思う、それがわざわざ会場に来てくれたファンに対する返礼だ。来年は俺も家族で力を合わせて前に進んでいくしかない。それをファンの人に見てもらって、元気を感じてほしい。会場にはなかなか行けないけど、その分代表にはまた頑張ってもらうかな。ただ、選手たちのことは当面、映像でチェックしているから油断するなよ! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
役所広司が感じた日本の衰退「他人の痛みを感じる人間を育てなければ」
役所広司が感じた日本の衰退「他人の痛みを感じる人間を育てなければ」 役所広司(やくしょこうじ)/ 1956年、長崎県生まれ。カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した「うなぎ」(97年)をはじめ数多くの作品で活躍。近作に「すばらしき世界」(2021年)、「峠 最後のサムライ」(22年)ほか。「ファミリア」の成島出監督とは「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(11年)などでタッグを組んでいる。  日本のある地方都市を舞台に、国籍の違いや血のつながりを超えて“家族”になろうとする人々を描いた「ファミリア」。実際の事件に触発された内容には、日本に20万人以上いる在日ブラジル人たちの実情も織り込まれている。主役の役所広司さんに聞いた。 *  *  * ――妻を早くに亡くし、山里で一人暮らす陶器職人・神谷(役所広司)のもとに、アルジェリアに赴任中の一人息子・学(吉沢亮)が一時帰国してくる。学は現地で出会った妻・ナディア(アリまらい果)を連れていた。二人の結婚を喜ぶ神谷は、あるきっかけで隣町に住む在日ブラジル人青年マルコス(サガエルカス)と関わるようになる。  神谷は児童養護施設の出身で昔はやんちゃだった、という設定です。腕っぷしは多少強くて、最後には若者の未来のために命をかけて動こうとする男です。自分の家族や息子のためだけでなく、他人であるマルコスのために行動する。子どもたちのために頑張ってくれるこんな大人がもっといればいいなと思えるような作品になればと演じました。 ――在日ブラジル人へのまなざしが映画の大きなテーマでもある。実際に彼らが多く住む団地で撮影をし、住民たちもエキストラとして参加した。  僕は1995年の「KAMIKAZE TAXI」(原田眞人監督)で、ブラジルから出稼ぎに来た日系ペルー人のタクシー運転手役を演じ、実際に同じ立場の人たちに話を聞いたことがあります。彼らは一様に「私たちは使い捨てだ」と言っていた。この映画でも彼らはまったく同じことを言っています。在日ブラジル人社会はもう2世、3世の時代になっているのに、いまだに彼らは日本での生活に苦労している。30年たっても状況はよくなってないと実感しました。 ――劇中、建築現場で働くマルコスは、あるトラブルからクビになり半グレ組織に目の敵にされる。彼の父はリーマン・ショックで解雇され、自殺していた。映画には社会に差別され、顧みられない彼らのやりきれなさや、未来の見えない状況が映る。 役所広司(やくしょこうじ)/ 1956年、長崎県生まれ。カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した「うなぎ」(97年)をはじめ数多くの作品で活躍。近作に「すばらしき世界」(2021年)、「峠 最後のサムライ」(22年)ほか。「ファミリア」の成島出監督とは「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(11年)などでタッグを組んでいる。  国や民族が違えば、当然ながら文化や習慣にギャップはある。それを埋めるには時間がかかるかもしれません。でも神谷のように関わることで見えてくるものもある。  撮影で出会った彼らはエネルギッシュでパワフルでした。とにかく陽気で、極寒のなか薄着での撮影にも快く付き合ってくれた。映画撮影という経験を楽しもうとする思いが伝わってきて、すごくありがたかったです。  彼らのような人々に思いを寄せるには、他人の痛みを感じる人間を育てなければならない。それには結局、大人や社会が子どもたちにどんな姿を見せているかが重要なのだと思います。すべては大人の責任なんです。大人は下の世代のために何かをしてあげる必要がある。そうしなければこの国は本当に心の貧しい国になってしまう。 ――役所さんは現実世界でも若い世代の未来を考え行動を起こしている。日本映画界の労働環境改善やハラスメント防止などを視野に立ち上げられた是枝裕和監督らによる「日本版CNC(*)設立を求める会」に賛同し、応援メッセージを寄せている。 *CNC=フランスの支援機関「国立映画映像センター」。興行収入などの一部を徴収し、助成金として業界全体に資金を還元する「共助」の仕組みをもつ  僕の周りにもコロナ禍で仕事を失い、辞めていく若い俳優やスタッフがいました。せっかくこの世界に憧れて入ってきた才能のある人たちに、日本の映画界はなかなか手を差し伸べてくれない。もったいないし、業界にとっても損失ですよね。若い人たちが働きたいと思える環境を整えて、彼らを守っていく態勢がないと、このままでは本当に日本映画は痩せていってしまう。  同時に自戒の念もあります。「Shall weダンス?」(96年、周防正行監督)のクランクイン前にダンス教室に通ったんですが、覚えたステップを忘れたくないので京都で時代劇の撮影中、女性スタッフに「ちょっと体貸して!」と頼んで、ダンスの練習をしてもらったことがあった。「これ、いまやったらセクハラじゃないか?」とヒヤッとしました(笑)。僕も意識を改めて、気をつけないといけません。 「ファミリア」(成島出監督)2023年1月6日から全国で公開 (c)2022「ファミリア」製作委員会 ■元気なうちに思いを伝えて ――役者人生も40年超。時代劇、家族ドラマなど、さまざまな役を自在に行き来する。本作ではろくろをまわし、見事な腕前を披露した。  もともと陶芸に興味はあったんです。以前から佐賀県唐津の陶芸家・中里太亀(たき)さんと親しくさせていただいていて、唐津の工房にお邪魔して、一緒に酒を飲んだりもしました。でも自分でやるのは初めてで、最初のシーンは20テイクくらい撮ったんじゃないかな。撮影後に土とろくろをいただいたので家でもやろうと思っているけど、まだ手をつけられていません。  演技もね、いまだにうまくはいかないんですが、不必要に緊張したり、周りが見えなくなったりするようなことはなくなってきたかな。僕は役を引きずらないタイプなんです。撮影中は役のことばかりを考えて、なかなか私生活と仕事を完全には切り離せないけど、終わったら「後悔してもしかたない。次、頑張ろう!」とスッパリ切り替えます。  ただ方言が心地よかったりすると、何かの折に出ることもある。いまも何かをバシッと決めたいときに「孤狼の血」の広島弁が出たりします(笑)。  この映画を観た後、久しぶりに誰か大切な人に連絡してみようかな、会いに行こうかなと思ってもらえればうれしいですね。何があるかわからない世の中で、元気なうちに自分の思いを伝えておくことの大切さを感じてもらえればと思います。(フリーランス記者・中村千晶) 役所広司(やくしょこうじ)/ 1956年、長崎県生まれ。カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した「うなぎ」(97年)をはじめ数多くの作品で活躍。近作に「すばらしき世界」(2021年)、「峠 最後のサムライ」(22年)ほか。「ファミリア」の成島出監督とは「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(11年)などでタッグを組んでいる。 ※週刊朝日  2022年12月30日号
上皇さま89歳 退位後に目立った発信はなくても「令和」に伝えたかったものとは
上皇さま89歳 退位後に目立った発信はなくても「令和」に伝えたかったものとは 上皇さまと美智子さま(2021年10月)  上皇さまが89歳の誕生日を迎えた。昨年、歴代上皇の中で最高齢を記録。その上皇さまが令和の皇室に伝えたかったこととは――。 *  *  *  上皇さまが89歳の誕生日を迎えたこの日。  天皇陛下と皇后雅子さまは、赤坂御用地にある仙洞御所に祝賀のごあいさつをする。  上皇さまは、夏前から胸に水がたまる「胸水貯留」などの症状が見られ、心臓の三尖弁(さんせんべん)閉鎖不全による右心不全など年齢からくる体調不良はあるものの、家族で暮らした思い出の住まいで美智子さまと穏やかな日々を送る。  引退生活に入ったいま、上皇ご夫妻から目立った発信はほぼない。  皇室の事情に詳しい人物はこう話す。 「何か発信すれば、二重権力といった批判だけが飛び交う。しかし、それでも何かを伝えたいという思いがまったく残っていないわけではないと拝察します」  というのも、月刊「文藝春秋」1月号に、作家の保阪正康さんが皇室に関する原稿を寄せている。平成の時代、保阪さんと近現代史の研究家である故・半藤一利さんは、御所の応接室で当時の両陛下と懇談した。原稿では当時の様子を振り返っている。  そこでは、上皇ご夫妻は、戦前の教科書と終戦後に焼け野原になった日本を回想し、そして美智子さまは養蚕について「日本の若い人も養蚕に関心を持ってほしい」と話している。  戦争の記憶を伝え続けること。そして日本の伝統の継承は上皇ご夫妻が心を寄せ続けてきたことだ。   先の人物は、こう思いをめぐらせる。 「平成の時代の談話をなぜあえていま執筆するのか。上皇ご夫妻周辺にも令和の人びとにも伝えていきたいという思いがあったのではないか」  上皇さまは、天皇として迎えた最後の誕生日会見(2018年)で、昭和の時代から11回訪問を重ねた沖縄について、歴史や文化を理解するよう努めてきたことに触れつつ、こう述べた。 「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」    退位後も心を寄せる――その言葉通り、沖縄復帰50年にあたる今年、東京国立博物館(東京都台東区)で開催された「琉球展」にご夫妻で足を運んだ。  上皇さまは昭和の時代から、沖縄独特の定型詩である琉歌も学んできた。  皇太子時代、沖縄戦最後の激戦地・糸満市にある平和祈念公園に建てられた魂魄之塔を訪れ、琉歌を詠んでいる。 <花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て>  次のような意味だと解説されている。 「花を捧げます。だれにも知られず戦場に散った無名の人々の魂に。いくさのない世を願いながら」  上皇ご夫妻の思いは、令和の皇室に受け継がれている。  令和の天皇陛下と秋篠宮さま、そして黒田清子さんは幼少期から、沖縄の中学生が全国各地を訪れた「豆記者」の少年少女と交流し、歴史や文化を学んできた。天皇陛下は、27歳の時に初めて沖縄を訪れている。  豆記者との交流は、ご一家で続けた。秋篠宮妃の紀子さまは、琉球舞踊を習った。  そして令和の天皇陛下と皇后雅子さまは、今年10月に沖縄を訪問した。天皇陛下は、戦後生まれの天皇として初めて沖縄を訪問し、沖縄戦の遺族らと対面した。  美智子さまが思いを強くするのは、日本の伝統文化の継承だ。保阪さんと半藤さんが御所を訪ねた際、美智子さまは養蚕についてこう話している。 「今でも皇居で養蚕をやっているんですけれど、日本の若い人にも関心を持っていただくといいのですが……。いま養蚕所で一生懸命やってくれているのはブラジルで育った二世の方たちです」  御養蚕といえば、歴代皇后の大切な務めのひとつだ。平成の時代は、秋篠宮家の眞子さんが幼いころから、美智子さまのお手伝いをしていた。  美智子さまが幼い眞子さんにあてた手紙が公開されたこともある。 <眞子ちゃんは、ばあばがお蚕(かいこ)さんの仕事をする時、よくいっしょに紅葉山(もみじやま)のご養蚕所(ようさんじょ)にいきましたね(略)>  天皇ご夫妻の長女の愛子さまも、学習院初等科3年の時に授業で蚕をもらって以来、毎年、卵を採ってお住まいで育てている。今年は、皇后の雅子さまと一緒に天皇陛下と愛子さまが養蚕の作業に取り組む写真も公開された。  上皇さまは、来年には90歳の卒寿を迎える。平成の天皇と皇后が積み上げたものは、令和の皇室に受け継がれている。 (AERAdot.編集部・永井貴子)  
夫婦で考えたい定年前後のお金 60歳以降も働く人が受け取れる“手当”とは?
夫婦で考えたい定年前後のお金 60歳以降も働く人が受け取れる“手当”とは? ※写真はイメージです (GettyImages)  いつもよりゆっくり過ごす時間が多い年末年始は、将来について話し合う絶好の機会だ。知らないと損する定年前後のお金の手続きのこと、生活や働き方のこと、夫婦でじっくり考えてみませんか。定年を迎えた人、迎える人はもちろん、40、50代もこの機会にぜひ。 *  *  *  長年勤めた会社を定年退職するとき、「退職一時金」に期待する人も多いだろう。  自分たちへのご褒美として夫婦で海外旅行に出かけたり、高額な買い物をしたりするのはいいが、それ以前に、「『退職金の受け取り方』を間違えると、老後の資産形成に影響を与えます」と、注意を促すのは、税理士でファイナンシャルプランナーの西原憲一さん。 「退職金は一時金、分割、一時金と分割の併用と、受け取り方は会社によっていくつかの選択肢が設けられていますが、60歳の定年退職時に一括で受け取るケースがほとんどです。また、退職金には『退職一時金』と三つの『企業年金』があり、ご自身が今までどの企業年金に加入していたのか、受け取る金額と受け取れる期間を知らないと、税金の負担が多くなり、資産が目減りしてしまいます」(西原さん)  企業年金制度には「確定給付企業年金」「企業型確定拠出年金」「厚生年金基金」の三つがある。  まず、定年前にやることは、企業年金を含めた退職金をいつ、どれだけ受け取るのか。これを必ず確認しよう。  もう一つ重要なことがある。退職前に会社の総務などから「退職所得の受給に関する申告書」を受け取り、必要事項を記入して、会社に提出する。この作業を怠るととんでもないことになる。 「『退職所得の受給に関する申告書』を会社に提出すると、退職一時金は退職所得控除の対象になり、控除の計算をした上で、金融機関の口座に振り込まれます。まれに、この書類を提出しない人がいます。そうすると退職一時金から一律20.42%の所得税等が引かれた後の金額で振り込まれてしまいますので必ず手続きをしましょう」(同) 週刊朝日 2022年12月30日号より ■60歳以上働く人 受け取れる手当  確定申告で手続きをすれば、支払った所得税等は戻ってくるが手間がかかる。  その「退職所得控除」は勤続年数によって控除額が異なり、退職一時金と企業年金を一括で受け取ると、退職所得控除の額を超えてしまうケースがあるので注意が必要だ。 週刊朝日 2022年12月30日号より  例えば、勤続年数が38年のヤスヒコさん(仮名・59歳)は、退職一時金2千万円、650万円の企業型確定拠出年金を受け取れることがわかった。  下記の計算式にあてはめると、退職所得控除の額は2060万円。退職一時金と確定拠出年金を一括で受け取ると、課税対象額は295万円、所得税額は19万7500円にもなる計算だ。  ヤスヒコさんは、「それならば60歳で退職一時金を受け取って、翌年に確定拠出年金を受け取ればいい」と思っていたが、そうはいかないことがわかった。 「退職所得控除は60歳のときに退職一時金を受け取ったら、『4年超間隔をあける』というルールがありますので、翌年は適用されません。次に退職所得控除が使えるのはヤスヒコさんが65歳のときになります」(西原さん)  60歳以降、再雇用制度を利用して同じ会社で働くことにしたが、給料が60歳前と比べて減額することがわかったので、確定拠出年金は「年金形式」で受け取り、生活費の足りない分を補おうと考えた。60歳から64歳までの人は、年60万円まで、65歳以上の人は110万円まで、「公的年金等控除額」を使えば税金がかからない。  月5万円で設定すると、公的年金等控除額の範囲内で収まる計算になった。 「確定拠出年金は、原則60歳以降75歳までの間で受け取りを開始することが可能です。ここでも退職所得控除に関するルールがあり、確定拠出年金を一括で受け取ろうとするときは注意が必要です。退職一時金を60歳で受け取ったら確定拠出年金を一括で受け取るまで14年間空けなければなりません。それは現実的ではないので、年金形式で受け取ったほうがいいでしょう」(同)  また、ヤスヒコさんのように60歳以降、働き続ける人は「雇用保険」から受け取れる手当があるので、忘れないようにしたい。  60歳以降、再就職した人の給料が60歳時点の75%未満に下がった場合、「高年齢雇用継続基本給付」がもらえるのだが、「60歳時点の給与の上限が47万8500円」「月額の賃金が支給限度額を超えると支給されない」というルールがあり、「75%未満」という条件をクリアしても給付の対象にならないケースがある。  いずれにしても自分で計算しないで、ハローワークで相談してみよう。  これらの退職一時金、企業年金の受け取る時期やもらい方の手続きを含めて、たいていの会社では50代の社員を対象に「リタイアメントセミナー」が開催され、自分で情報収集をしなくても会社が教えてくれるのでひと安心。 ■妻と夫では違う知りたい情報  都内に住むタロウさん(仮名・58歳)は、「大事な話なんだからしっかり聞いてきてね」と、妻に送り出されて会社主催のセミナーに参加したのはいいが、帰宅後、妻からの質問に答えられず、「何を聞いてきたの!」と、こっぴどく叱られた経験がある。 「妻と夫で知りたい情報は違います。夫がセミナーで聞いたことを妻に説明するのは至難の業なので、そこで齟齬(そご)が生じると定年後、溝が埋められないまま過ごすことになってしまいます」  そうアドバイスするのは、『お金・仕事・生活…知らないとこわい 定年後夫婦のリアル』(日本実業出版社)の共著者で、確定拠出年金アナリストの大江加代さん。  タロウさんが退職時に「全部でいくら資産があるのか」妻に説明できないで、しどろもどろになったのはワケがある。  社内預金制度や積み立て制度、財形貯蓄など、妻に内緒で蓄財してきた資産を“へそくり”にして「老後の自分だけのお小遣いに」と計画していたからだ。  しかし、「これらも大事な老後資金の一部なので、嫌でも白日のもとにさらさなければなりません」と言うのは、夫で経済コラムニストの大江英樹さん。英樹さんが定年退職したとき、退職一時金を除く預貯金は150万円しかなかったという。 週刊朝日 2022年12月30日号より 「お金に関しては大丈夫だから」と言う英樹さんに対して、加代さんは「夫が言うほど大丈夫とは思えず、老後の家計をシミュレーションした」と言う。 「まず定年後、1年間の生活費を計算しました。支出は家計簿をつけていたので、夫婦で毎月約22万円で生活ができる道筋がつけられました。次に私が受け取る年金を計算して、夫に先立たれた後、私がひとりになったときの生活費を試算しました」(加代さん)  夫婦で生活していたときの半分にはならず、月約17万円、年間200万円は確保したいと考えた。  妻がひとりになっても生活が成り立つのか、というように「お金にまつわる不安」を書き出す。  その「不安」を夫婦で共有しながら、具体的に金額を出すことで不安を解消していくプロセスがとても大切という。  お金の不安を話し合うと、年金の繰り下げなどの受け取り方や、65歳以降の働き方も決まってくる。このように、定年前後のお金や仕事、生活に関して、くれぐれも夫が一方的に決めないようにしたい。 「私(70歳)の世代は、男は一家の大黒柱として稼がなければならないという思い込み、『大黒柱バイアス』にとらわれている人が多く、家庭やご近所デビューなど、生活圏が会社から自宅に移るとき、さまざまな弊害を起こします。この『大黒柱バイアス』を早く捨てて、家庭内では妻を上司だと思って従うことです(笑)」(英樹さん)  例えば、再雇用、再就職で働く際も、ついエラそうな態度で人と接してしまう人もいるだろうが、マウントを取ろうとすると相手に嫌われる。 「現役時代は大した仕事はしてこなかったと自分に言い聞かせるようにしてきました。好きなこと、やりたいことにチャレンジしてそれを仕事にすればいいと思います。無理に何十万円も稼ごうと気張らずに月3万~5万円ぐらいでいいと思えば、いくらでも仕事は見つかります」(同)  また最近は「プロボノ」といって、自分のスキルを登録して、休日や夜の時間を使って、地方企業やボランティア団体にノウハウを提供する「マッチングサービス」もある。  個人事業主や起業はハードルが高いと思う人は、月に数日からプロボノに参加してスキルの棚卸しから始めてみるのもいい。 「定年後に起業して、仕事の依頼が来るようになったのは、会社を辞めてから知り合った人たちのツテが大きかったです」  と英樹さんが言うように、定年後、個人事業主や起業などで働きたいと思う人は、現役時代から社外の友人をたくさん作っておくことを勧める。 ■感謝の気持ちを口に出す習慣を  一方で、今までずっと働いてきたのだから、定年後は家でのんびり過ごしたいと「三食昼寝付き」の夫もいるだろう。  ヤスシさん(仮名・65歳)もそのひとり。やっと会社員生活から解放されたのはいいが、これといった趣味がない。 「コロナにかかりたくないから外出は自粛する」と言い訳をしながら、居間で新聞を読みながらテレビを見る日が続くうちに、妻から「お小遣いあげるから遊びに行っておいでよ」と言われるようになってしまった。 「夫の三度の食事を作るのは面倒という妻のシグナルです。家にいるのであれば、もっと家の仕事を手伝いなさいと妻は心の中でそう思っているのです」(加代さん)  夫に家事を手伝ってもらうと、かえって手間がかかる。「自分の城(台所)」を汚されたくないと思う妻もいるだろうが、妻が長期不在にしても、夫がひとりで留守番できるようにしておいたほうがラクという。 「妻が突然、寝込んでしまったときに、それまで夫が一切家事をやっていなかったら、休んでいられない事態に陥ってしまいます。1週間ぐらい妻が家を空けても、夫ひとりで自炊、洗濯、掃除、ゴミ出しぐらいはできるようにしてもらいたい」(同)  その際、洗濯物の畳み方や食器の後片付けなどが気に入らなかったとしても、「妻は我慢して夫をほめてほしい」と加代さんは言う。 「自分のやり方と違うなと思っても、目をつぶって『手伝ってくれてありがとうね』と一言があると、亭主は喜んで、次から率先してやるようになります(笑)」(英樹さん)  そして定年後は、夫婦2人で過ごす時間が長くなる。会話不足を補う魔法の言葉が「ありがとう」だという。夫も妻も手伝ってくれたら「ありがとう」と、口に出して言ってみよう。 「そんなこと恥ずかしくて言えない」という人は、コンビニやスーパーの店員さんにも、身の回りでのささいな出来事から、感謝の気持ちを口に出す習慣をつけておくと、家庭内だけでなく、どこでも「ありがとう」が言えるようになり、対人関係も良好に保てるようになる。第二の人生、好循環のサイクルを作るためにも、内面を変えることからスタートしよう。(ライター・村田くみ) ■退職所得控除額の計算式 勤続年数:20年以下の人/20年超の人 退職所得控除額:40万円×勤続年数/40万円×20年+70万円×(勤続年数-20年) 勤続年数の端数は切り上げ。最低金額80万円 (例)勤続38年の人のケース 800万円+70万円×(38年-20年)=2060万円まで税金がかからない (例)60歳で退職一時金(2000万円)と確定拠出年金(650万円)を一括でもらう場合 (2650万円-2060万円)×1/2=295万円(課税対象額) 295万円×10%-9万7500円=19万7500円(所得税額) 復興特別所得税を考慮しない※週刊朝日  2022年12月30日号
「盾となり」皇室を守ったエリザベス女王 平成の天皇の手紙の書き出しは「親愛なるお姉さま」【2022年 反響の大きかった記事22選】
「盾となり」皇室を守ったエリザベス女王 平成の天皇の手紙の書き出しは「親愛なるお姉さま」【2022年 反響の大きかった記事22選】 写真:Press Association/アフロ 2022年も残すところあとわずか。ここでは、2022年にAERAdot.で配信された記事の中から「反響の大きかった記事」を22本選別して紹介します。(9月11日配信/※肩書年齢等は配信時のまま)  英国のエリザベス女王の国葬に、天皇陛下が参列されることで政府が調整している。天皇陛下が葬儀に参列したのは戦後一度だけ。特別な措置に、両国の交流の深さがにじむ対応だ。  * * *「Dear Sister」  上皇さまがかつてエリザベス女王につづった手紙。書き出しにはそうつづられていた、と皇室に仕えた人物は振り返る。エリザベス女王を「親愛なるシスター」と呼ぶほど、ふたつのロイヤルファミリーは、温かな交流を育んでいた。  政府は、エリザベス女王の国葬に天皇陛下が参列する方向で調整している。過去一度の例外を除いては、天皇陛下が葬儀に参列することはない。それだけ、日本の天皇ご一家と女王は、親密な交流を育んできた証だ。  平成の天皇皇后両陛下が英国を訪問した98年当時、多賀敏行・中京大学客員教授は在英国日本大使館公使としてロンドンにいた。  国民がエリザベス女王に手紙を書くときは、「madam」を使う。多賀さんは、英王室の侍従長に「エリザベス女王に朝、お会いする際に何と呼ぶのか」とたずねた。  返ってきた答えは、「Good Morning, ma‘am」だった。 「ma‘amは、マダムの省略形で英国では女王への呼びかけとして用いられますが、madamより親しみが表現される。上皇さまがエリザベス女王に『Dear Sister』と呼びかけたとすれば、女王から上皇さまには『Dear Brother』であったと思います。親戚同士でつながる欧州王室と同じように、皇室も家族の一員として親しい交流をなさっていた証だと思います」 1975年 来日したエリザベス英女王と東宮御所の庭を散策する当時の皇太子ご一家。左から紀宮さま、皇太子さま、礼宮さま、美智子さま、浩宮さま  天皇陛下がエリザベス女王に初めて会ったのは、1975年の女王が来日したときだ。   女王は、元赤坂の東宮御所に明仁皇太子ご一家を訪ねた。浩宮さま(現・天皇陛下)と礼宮さま(秋篠宮さま)、と紀宮さま(黒田清子さん)が、ご両親と一緒に女王を囲むように温かく出迎えた。御所の庭を笑顔で散策する女王と皇太子ご一家。当時の写真を見ると、列を離れて歩き回る幼い紀宮さまの愛らしさに目がとまる。   女王と将来の天皇となる浩宮さまの縁は深い。   浩宮さまが誕生した時、女王は、祝電を寄せて浩宮さまの誕生を祝っている。  実は、女王も4日前に第二王子のアンドリューを産んだばかり。体調が万全でない身にもかかわらず、見せる気遣いに人柄がにじむエピソードだ。  数日違いで生まれたアンドリュー王子との交流は続き、英国での王子の結婚式にも参列している。  浩宮さまと女王が再会したのは8年後の83年。  オックスフォード大学に留学するためにロンドンに到着した浩宮さまを、安心させる心遣いだったのだろう。女王はバッキンガム宮殿に招き、自ら紅茶を入れた。  翌年の夏には、王室ご一家が休暇を過ごすスコットランドのバルモラル城に招かれた。エリザベス女王が台所に入り、エジンバラ公がバーベキューの肉を焼く。家族団らんのなかで数日間、一緒に過ごした。 1985年9月、留学先の英オックスフォード大周辺で自転車に乗る浩宮さま時代の天皇陛下  令和に代替わりをして、新天皇、皇后両陛下が初の外国訪問地として招待されていたのも英国だった。  天皇陛下は、女王の死去を受けて公表したお気持ちで招待してくれた女王への感謝を述べている。 「女王陛下から、私の即位後初めての外国訪問として、私と皇后を英国に御招待いただいた」  こうした天皇陛下と女王との親密な交流は、上皇ご夫妻の代からの地道な交流の上に築かれたものだ。 ■競馬場でのいたずら  上皇さまが、初めて女王と対面したのは69年前、1953年の戴冠式だ。明仁皇太子(上皇さま)が19歳、エリザベス女王は26歳だった。  還暦の誕生日会見で、女王との対面をこう振り返っている。 「英国の女王陛下の戴冠式への参列と欧米諸国への訪問は、私に世界の中における日本を考えさせる契機となりました」  53年という年は、第2次世界大戦に敗れた日本が国際社会に復帰した翌年。敗戦国である日本や日本人を見る世界の目は厳しかった。  19歳の青年だった明仁皇太子(上皇さま)にとっては、大切な友人となる各国の王族との出会いの場であると同時に、英国民の冷たい視線にさらされた場でもあった。第二次世界大戦後の両国の関係は、今からは想像がつかないほど溝が深かったのだ。  明仁皇太子が英国に到着した日、英大衆紙デイリー・エクスプレスは、「68%の読者が日本の皇太子を戴冠式に出席させることに反対した」と報じた。  宿泊先だったケンブリッジは、ビルマ(ミャンマー)で日本軍の捕虜となった人が多く暮らす街だ。日本の皇太子の訪問に、「アンチ・アキヒト」という不穏な空気が高まった。そのため、急きょ訪問した大学の学長宅に滞在したほどであった。また、イングランド北部のニューカッスルでは、元捕虜団体の抗議で明仁皇太子の訪問は中止に追い込まれた。  しかし、26歳の若き女王と英王室は明仁皇太子を温かく歓待した。ダービー競馬を明仁皇太子が観戦していることを知った女王は、自身のスタンドに招いたという。   明仁皇太子が美智子さまと結婚したときには、女王からお祝いに銀製の茶器一式が贈られた。  ロンドン五輪などでユーモアを見せた女王。「おてんば」な素顔は、昔からであったようだ。  76年に明仁皇太子と美智子さまが訪英したときのことだ。  英国のロイヤル・アスコット競馬を観戦中に、女王が明仁皇太子のひざの上に置かれたレースカードに突然、手を伸ばした。 1976年の英国訪問 大勢の観客が出迎えるなか、英女王の馬車で競馬場のコースを走る美智子さまたち  びっくり仰天する明仁皇太子を尻目に、女王は自分の競馬予想を書き込みだした。母の皇太后が、女王のいたずらをたしなめるというオマケもついた。  他方、英国やオランダでは元捕虜団体が日本に対して補償と謝罪を求めており、戦争が残した溝は埋まらないままだった。   イギリス政治外交史に詳しい君塚直隆・関東学院大学国際文化学部教授は、こう当時を振り返る。 「89年の昭和天皇の大喪の礼で、オランダのベアトリックス女王は、国内世論を鑑みて王族を列席させなかった。英国も国内世論の厳しさは同じでしたが、夫のエディンバラ公フィリップ殿下を列席させる配慮を見せました。この『恩』があるわけです。本来ならば、上皇ご夫妻が自らお別れをなさりたいと思います。しかし、ご年齢を考えると難しい。エリザベス女王の国葬には、異例であっても天皇陛下が列席なさるのが相応しいと思います」 ■大衆紙は「ジャップ」と批判するなか…  平成の代替わりを経て明仁天皇となっても英国の日本への批判は止まなかった。むしろ戦後50年の節目である95年ごろから、その声はさらに強まった。  明仁天皇が「天皇」として訪英への訪問が実現したのは、平成が始まって10年目のことだった。  この時式部官長だった苅田吉夫さんは、かつて記者の取材にこう振り返っている。 「英国との親密度を考えれば、訪問はもう少し早く実現してもよかったかもしれない。しかし、下地を整えるのに時間が必要だった」  アジア各地の劣悪な環境の下で長期にわたり強制労働をさせられた元捕虜のほかに、収容所には女性や子供も含む民間人もいた。心の傷は簡単に癒えるものではなかった。  両陛下の訪英直前まで、両国トップは、不測の事態を招かないよう、手を尽くした。当時の林貞行駐英大使も、前任者の時期から日本の民間団体とも協力して、和解への努力を続けてきた。英大衆紙「サン」に捕虜の扱いを謝罪する橋本龍太郎首相の寄稿文が掲載され、両国首相の会談で協力を確認。 だが、多くの英国紙には捕虜問題を訴える記事が並び、一部大衆紙は「ジャップ」と批判した。  そうしたなか実現した98年の英国訪問。 98年、平成の天皇皇后両陛下の英国訪問。パレードの沿道で馬車列に背を向けブーイングをして抗議する元日本軍捕虜の英国人たち  ロンドンの大通りザ・マル。バッキンガム宮殿に続く800メートルの沿道は、天皇、皇后両陛下のパレードを待つ日英市民らで埋め尽くされた。さらに、旧日本軍の元捕虜団体も沿道に並んだ。両陛下の馬車に背を向け、シュプレヒコールを浴びせた。   不穏な状況にもかかわらずテロや両陛下に危害を加える事件は起こらなかった。  エリザベス女王と王室が盾となって平成の天皇と皇后を守ったからだ。  馬車のパレードの先頭はエリザベス女王と明仁天皇、2台目の馬車には夫のフィリップ殿下と皇后美智子さまが乗る形を取った。馬車の周囲には、大勢の近衛騎馬隊が整然と隊列を組んだ。  元英国兵らの抗議を受け、戦争の傷痕を確認する旅となった。そんな中でも女王との友情は揺らぐことはなく、出国の際は女王が最後まで名残を惜しんだ。 皇室も英王室も長い歳月をかけて相手と交流を重ねることで、国と国の信頼へとつないでゆく。政治家による外交と比べるともどかしいかもしれない。しかし、静かな交流が大きな力へと変化することもある  上皇さまが手紙で、「Dear Sister」と呼び敬愛したエリザベス女王。偉大な英国女王の国葬は、19日に執り行われる。(AERAdot.編集部 永井貴子)

カテゴリから探す