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梯久美子「“父と出会う旅”は死んで始まる」女性作家9人の父娘物語
梯久美子「“父と出会う旅”は死んで始まる」女性作家9人の父娘物語 梯久美子(かけはしくみこ)/ 1961年、熊本市生まれ。ノンフィクション作家。2005年のデビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『狂うひと』『原民喜』『サガレン』など。 「娘から見ると母の気持ちは理解しやすいのですが、父にはどこか謎があるんです」と、ノンフィクション作家の梯久美子さんは言う。 『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋、1980円・税込み)は小説家、詩人、歌人など9人の「書く女」とその父との関係を描いたもの。取り上げるのはいずれも、梯さんが愛読してきた作家だ。  石垣りんは、詩の中で父とその4番目の妻の関係を「鼻をつまみたくなるのだ」と表現した。 「父をここまで突き放して描いたのはすごいと思います。それほど父を嫌悪していたのに、りんは一人で働いて一家を支えたんです」  修道女の渡辺和子は9歳のとき、二・二六事件で教育総監の父・錠太郎が目の前で射殺されるのを目撃した。 「和子さんにインタビューしたことがあるのですが、戦後、叛乱軍の一人と会った際、相手に憎しみを感じたことを、『父の血が流れていると思ってうれしかったですね』と話されていました。自分に対してとても正直な人でした」  一方、二・二六事件で叛乱軍を支援した齋藤瀏(りゅう)を父に持つのが、歌人の齋藤史(ふみ)だ。彼女は父のことを「おかしな男」と歌に詠んだ。 「時代に左右されて、何者にもなれなかった父への気持ちが表れていると思います」  作家・島尾敏雄の妻である島尾ミホは、奄美の父を捨てたという思いを生涯抱えていた。 「実は養父でしたが、彼女はそのことを隠していました。自分が素晴らしい父の娘だったという物語を守りたかったのかもしれません」  本書に登場する女性は長命だった人が多い。 「父を描くためには、肉親としての『近い目』と、一歩引いた距離から父を見つめる『遠い目』が必要です。『遠い目』は年齢を重ねることで獲得できる面がある。長く書き続けることで、父の見方が変化することもありますね」  水俣病患者を描いた『苦海浄土』の石牟礼道子は、若い頃は家父長制を批判していたが、晩年には父の深い孤独に目を向けた。また、作家の田辺聖子は少女時代の日記で、父を辛辣に批判したが、後年には戦争で多くを失った父を哀惜している。 「その時代ゆえに、そう生きるしかなかったということに気づくと、父の気持ちが分かるようになるんですね」  梯さんの父は陸軍少年飛行兵学校を経て、戦後に自衛官となった。 「40代になって初めて書いた『散るぞ悲しき』で軍人をテーマにしたのは、父を知りたいという思いがあったからかもしれません。当時のことを調べるうちに、その時代に父が置かれた立場が理解できるようになった」  他に、萩原朔太郎を父に持つ作家・萩原葉子、詩人の茨木のり子、ノンフィクション作家の辺見じゅんが登場する。 「父が亡くなっても関係は終わらない。むしろ、そこから父と出会う旅が始まるのだと思います」 (南陀楼綾繁)※週刊朝日  2022年12月23日号
【承久の乱ドキュメント(4)】上皇軍にとって最終防衛ラインでの攻防「瀬田・宇治川の戦い」とは?
【承久の乱ドキュメント(4)】上皇軍にとって最終防衛ラインでの攻防「瀬田・宇治川の戦い」とは? 瀬田の戦い。『吾妻鏡』によると、「瀬田橋の二間分の敷板が引き落とされ、その向こうには楯を並べ弓矢を構えた朝廷軍と比叡山の僧兵たちが並んでいた」と書かれている(CG製作/成瀬京司)  鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。 *  *  *  幕府軍と上皇軍との最終決戦の地となったのが、近江国の瀬田(勢多)と山城国の宇治である。この二つの場所は環境が似ている。いずれも川を挟んで対峙する両軍の間で起きた、橋をめぐる攻防なのである。橋とは、瀬田川に架かる瀬田橋と宇治川に架かる宇治橋である。東国から京へ入る場合、必ず川を越える必要がある。その主たる場所が瀬田橋と宇治橋で、古代以来、政変の発生においては攻防の舞台となっている。  琵琶湖の南端、瀬田の地から湖水が大阪湾に向かって流れ出る。これが瀬田川で、この琵琶湖の南端に位置する瀬田川の源流部に架かるのが瀬田橋である。近くには、紫式部が源氏物語を構想したことで知られる石山寺がある。瀬田橋はたびたび再建を繰り返しているが、唐橋とも呼ばれ、交通の要衝であるだけでなく、景勝地としても知られる。東海道や東山道から京へ向かう大軍が、琵琶湖という巨大な湖を船で渡るのは容易でないので、瀬田で川を越えることになるのである。  瀬田が京と東国との境界であるとすれば、宇治は京と南都(奈良)との境界である。瀬田川と宇治川とは同じ川で、琵琶湖から流れ出た瀬田川が、下流で宇治川と名を変えて巨椋池に流れ込む。戦前に干拓されたため現在は姿を消しているが、京の南方には巨椋池と呼ばれる湖が存在していた。宇治川が巨椋池に注ぐ、いわば河口部が宇治であり、ここに宇治橋が架かっている。京とかつて都だった奈良とは当時の二大都市である。二大都市の中間に横たわる宇治川は往来を阻む障壁であり、そこに架かる宇治橋は往来を保証する生命線であった。中世において、奈良興福寺の僧兵は強訴のため春日社の神木を担いでしばしば京へと迫ったが、都を守る武士との間で攻防を繰り広げたのがこの宇治である。  このように、東国から京に向かうには、瀬田川=宇治川を越える必要がある。代表的な渡河点が、琵琶湖から流れ出る瀬田と巨椋池に注ぎ込む宇治であった。 「歴史道 Vol.24」から  瀬田と宇治とにおける合戦の様子は、『吾妻鏡』や『承久記』に見える。六月十三日、幕府軍は川を越えて京へ侵攻すべく、渡河点に通じる「方々の道」へと軍勢を手分けして進めた。このうち、瀬田には北条時房の部隊が、宇治には北条泰時の部隊が向かう。上皇軍も両所を最終防衛ラインと位置づけて、多くの軍勢を配置したので、まさに激戦となった。  瀬田橋では、比叡山の僧兵も加勢した上皇軍が橋板を外し、幕府軍が大挙して橋を渡ることができないようにした上で、垣楯(楯を並べて相手からの矢を防ぐ防御壁)を構築し、向かってくる幕府軍に矢の雨を浴びせかけた。また、川の中には綱を張り、乱杭(不規則な杭)を打ち込み、川辺にも逆茂木(尖った木の枝を結び合わせた柵)を並べて、浅瀬からの侵入を防いだ。綱・乱杭・逆茂木といった障害物は、人の行く手を阻むのはもちろんだが、特に武将たちが乗る馬が障害物に弱かった。時房率いる幕府軍は苦戦したが、十四日夜、突破に成功した。  宇治橋でも、上皇軍は同様の戦術で幕府軍の行く手を阻んだと思われる。泰時は一帯が見渡せる栗子山に陣取ったが、幕府軍の中で一部不用意な武士たちによる先陣争いが起き、負傷者が相次いだ。翌日、泰時は宇治橋を正面突破するのではなく、川の浅瀬を渡る作戦をとった。宇治川が巨椋池に注ぎ込むあたりには多くの中州や中島が形成されており、水深の浅い場所をうまく見つけ出せれば、必ずしも橋を渡らずに対岸へ進入できるのである。泰時は水練(泳ぎの名人)の武士に浅瀬の調査を命じた。そして、浅瀬や中島を利用して対岸へと到達した幕府軍により上皇軍は撃破された。『吾妻鏡』には幕府軍で軍功を挙げた武士のリストが引用されており、戦闘の激しさを今に伝えている。この戦いで、泰時は周囲にある民家を破壊し、その廃材を利用して作らせた筏で川を渡っている。また、幕府軍は敗走し周辺に逃げ隠れた上皇軍の兵士を掃討すべく、近隣の民家を焼き払っている。戦場となった地域に住む民衆は、戦禍を免れえなかったのである。  こうして、上皇軍にとっての最終防衛ラインである瀬田と宇治とは突破された。ここに乱の勝敗は決した。翌十五日、京へと入った幕府軍に上皇は降参した。 ■上皇の命令は絶対ではなくなっていた東国の武士  最終防衛ラインの宇治・瀬田が突破された翌日、後鳥羽上皇は降伏する。「挙兵は自分ではなく、一部の臣下が企てたこと」。幼い将軍を操る義時を非難して挙兵した権力者の降伏宣言は、トカゲのしっぽ切りを思わせる保身の弁であった。  上皇軍の敗因は様々あるが、兵員数に相当の差がついたことは決定的だった。兵力が不足した理由の一つは、武士の動員をめぐる上皇の見込み違いである。官宣旨という朝廷の公文書を用いて守護・地頭に挙兵を呼び掛けた上皇は、彼らが命令に従うと思っていた。源氏であれ、平氏であれ、本来武士とは朝廷の軍事部門の一員であり、皇族や貴族に奉仕する存在である。守護・地頭もあくまで武士なので、朝廷の最高権力者たる上皇は自分の思い通りに動くものと信じていた。  事実、京周辺や西国に拠点を持つ武士は、多くが上皇軍に加わっている。幕府との関係が弱く、朝廷との関係が強い地域であれば、上皇の命令に従い行動するのは武士としてごく自然なことである。 「歴史道 Vol.24」  ところが、幕府が誕生した東国の空気は少し違っていた。命令を知った幕府の首脳部が動揺を隠しきれなかったように、武士として上皇や朝廷に対する畏怖と畏敬の念があったことは確かだが、しかし、上皇の命令は絶対でもなかった。  源頼朝が鎌倉に入ってから40年ほどの間に、上皇の想像を超えて東国では変化が起きていた。朝廷を尊重しつつも朝廷という存在を相対化しうるポテンシャルが、幕府や東国武士の中に萌芽し始めていたのである。上皇の挙兵は東国武士に芽生えつつあった朝廷を相対化する意識を、むしろ開花させてしまった。  この開花をうまく誘導したのが、大江広元ら京出身の文官たちだった。彼らは御家人たちの気持ちが揺るがぬうちに即時の派兵を訴えた。上皇は挙兵を呼び掛ければ、あとは東国の武士たちが義時に反旗を翻し、幕府はおのずから空中分解すると考えていた。そのさまを、自身は京で悠々と見ていればよいはずだった。  ところが、幕府は攻勢作戦に打って出る。東国でも武士が自分に味方すると信じてやまない上皇の目論見は外れたのである。鎌倉から帰京した密使が、幕府軍が大挙押し寄せてくるとの一報を伝えたとき、上皇には鎌倉に対して反転攻勢を仕掛けるだけの戦力も戦略もなかった。乱後、上皇に味方した畿内・西国の武士や貴族の所領は没収され、幕府は全国へと大きな影響力を及ぼすようになる。  看過しえないのは、後鳥羽を含む天皇・上皇・親王が流刑に処されたことである。過去にも天皇や上皇が政争に敗れ流されたことはある。しかし、その場合の敵方はあくまで別の天皇・上皇(を推戴する勢力)であった。しかし、承久の乱で幕府は別の天皇・上皇を推戴していない。武士が天皇・上皇を流し新天皇を立てる、それ以上でもそれ以下でもなかった。  天皇に仕えるべき武士が、天皇を流す。この受け止め難い現実を人々は受け入れなければならなかった。そのためには全く新しい価値観が必要となる。承久の乱は日本史上の一大転換点に他ならない。 ◯監修・文/下村周太郎しもむら しゅうたろう/1981年東京都生まれ。早稲田大学文学学術院准教授。博士(文学)。主な著書に『図説鎌倉幕府』(分担執筆、戎光祥出版)、論文に「鎌倉幕府の草創と二つの戦争―<鎌倉幕府二段階成立史観>覚書―」他。  ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から
お年玉の金額差「うちは1人なのに、義姉の子は3人」不公平と感じる父親は小さい人間? 論語パパが一喝
お年玉の金額差「うちは1人なのに、義姉の子は3人」不公平と感じる父親は小さい人間? 論語パパが一喝 4歳の一人娘を持つ40歳の父親。親戚の3きょうだいから毎年お年玉をねだられ、不公平感を抱いています。「論語パパ」こと中国文献学者の山口謠司先生が、「論語」をはじめ中国の古典から格言を選んで現代の親の悩みに答える本連載。今回の父親へのアドバイスはいかに。 *    *  * 【相談者:4歳の娘を持つ40歳の父親】  4歳の娘を持つ40歳の父親です。私には義姉夫婦の子である中学3年生と小学6、4年生の3きょうだいのおいっ子・めいっ子がいて、毎年彼らからお年玉をねだられることに不公平感を抱いています。家には実母も一緒に住んでいて私の収入だけでやりくりしているので余裕がありません。1人5千円にしていますが、毎年1万5千円を包むのに対して、うちは一人っ子で、まだ小さいので、義姉夫婦からいただくお年玉は3千円です。  娘にとっては年に1度会う大切な「いとこ」ではありますが、子どもの人数の差から、毎年お年玉の金額の差が痛いです。自分の気持ちと財産を守る方法はないでしょうか。こんなことを考える自分は、小さい人間なのでしょうか。 ※写真はイメージです(写真/Getty Images) 【論語パパが選んだ言葉は?】 ・「儒に、貧賤(ひんせん)に隕穫(いんかく)せず、富貴に充(じゅう)くつせず、君王に溷(はづか)しめられず、長上に累(わずら)はされず、有司に閔(や)ましめられざる有り。故に儒という」(※『孔子家語』儒行解) ※『論語』に漏れた孔子一門の逸話などを集めた古書 ・子曰(い)わく、「力足らざる者は、中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり」(『論語』雍也第六) 【現代語訳】 ・儒者とは、貧賤の境遇にいても志を失うことがなく、富貴を得ても節度を失うことがなく、君主によって辱められることもなく、年長の人に束縛されることもなく、役人に悩まされることもない。だからこそこのような人を儒者と呼ぶ。 ・孔子はおっしゃった。「努力をしない人は、志を貫くことができずに途中でやめてしまう。お前は、自分自身で限界を初めから決めてかかってもう無理だと、あきらめているのだ」 【解説】  あえて厳しい言葉でいいますが、相談者さん、あなたは小さい人間ですねー! もっと心の狭い、小さな人間になりたいのであれば、ノートに、どんどんこの世の中の不公平を挙げてみてはいかがですか。マイクロソフト創業者のビル・ゲイツの資産は? テスラCEOのイーロン・マスクは、どんなステキな家に住んでいるか? 日本にも、大金持ちの人たちはたくさんいるでしょう。  相談者さんの周りにも、どうしてこんなにぜいたくな生活ができるのだろうと思う人がいるのではありませんか?  それに比べて、自分は……?  お年玉を用意する時期に、毎年ずっと不公平感を抱き続けるなんて、惨めすぎます。1人5千円、3人のおいっ子・めいっ子さんに合計1万5千円、お年玉をあげると決めたのは誰なのでしょうか。お年玉に現金をあげるなんてこと、やりたい人はやればいいとは思いますが、もうなくしてもいいのではありませんか。  そもそも、「お年玉」という名前をつけて、年始に現金を子どもにあげるようになったのは、1950年代後半です。「お年玉をあげる習慣は日本の伝統的行事」といわれますが、現金をあげる前は、お餅をあげていたのです。餅には無病息災の神様が宿ると信じられていたからです。「お年玉」は、言い換えれば、子どもを大事に思う気持ちなのです。  孔子の教えに、こんな言葉があります。 「儒に、貧賤(ひんせん)に隕穫(いんかく)せず、富貴に充(じゅう)くつせず、君王に溷(はづか)しめられず、長上に累(わずら)はされず、有司に閔(や)ましめられざる有り。故に儒という」(『孔子家語』儒行解)  孔子は、自分が貧しい境遇であること、裕福であることなどに関係なく、自分の志をひたすら貫き通せと説きました。君主や年長の人、あるいは役人に縛られて「やらされる」のではなく、自分が進んでやっていく気持ちを大切にすることが「儒学」、つまり生きる糧だと言うのです。  しかし、人は、いろんな理由で、初めに決めたことを途中でやめてしまいます。  相談者さんが「痛手」と感じている「1人5千円のお年玉」は、義理のお姉さん夫婦の一番初めに生まれ、今中学3年生のおいっ子を大事に思い、5千円のお年玉を渡したことから始まったのではないでしょうか。まさかその後2人もきょうだいが生まれるなんて、考えることもなく。 「自分の娘は1人なのに不公平」などと考え、「自分の気持ちと財産を守る方法」を模索されるのであれば、もう来年からお年玉は廃止にしてしまってはどうでしょう。あるいは「やっぱり初志貫徹をしよう」と考えるなら、経済的余裕ができるように副業するなど努力してはいかがでしょうか。 「力足らざる者は、中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり」(『論語』雍也第六)  人としての生き方を説いた『論語』の有名な一節です。 「努力をしない人は、志を貫くことができずに途中でやめてしまう。お前は、自分自身で限界をはじめから決めてかかってもう無理だと、あきらめているのだ」という意味です。  副業で稼いだお金で、おいっ子・めいっ子の将来のためにと、喜んでお年玉に1万5千円あげることができ、自分自身の中に家族の愛をより大きく感じることができるなら、そうすればよいと思います。おい・めいのみなさんが成人を迎えるまで、お年玉をあげ続けるのだ、と思ってがんばってください。  ただ、繰り返しますがお年玉は、必ずあげないといけないものではありません。お歳暮や年賀状のやりとりも、心から相手に感謝する気持ちがない形だけのものはすでに少なくなってしまっているのですから。相談者さんが、おい・めいを大事に思う気持ちがあれば、他の方法でそれを表してもいいのです。  一番よくないのは、自分を「小さい人間」なんて、卑下した考えをすることです。そんな父親は、家族からも嫌われてしまいますよ! 【まとめ】 経済的に大変でも、副業をするなどして最初においっ子を大事に思ってお年玉をあげた気持ちを貫くべきだ。自分を卑下するような考えなら、現金をあげるのをやめよう 山口謠司(やまぐち・ようじ)/中国文献学者。大東文化大学教授。1963年、長崎県生まれ。同大学大学院、英ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。NHK番組「チコちゃんに叱られる!」やラジオ番組での簡潔かつユーモラスな解説が人気を集める。2017年、著書『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。著書や監修に『ステップアップ 0歳音読』(さくら舎)『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。2021年12月に監修を務めた『チコちゃんと学ぶ チコっと論語』(河出書房新社)が発売。母親向けの論語講座も。フランス人の妻と、大学生の息子の3人家族。
【承久の乱ドキュメント(3)】幕府軍と上皇軍の全面衝突「美濃・尾張の戦い」 攻防の舞台は乱流する渡河点
【承久の乱ドキュメント(3)】幕府軍と上皇軍の全面衝突「美濃・尾張の戦い」 攻防の舞台は乱流する渡河点 長野県から岐阜・愛知県を経て、伊勢湾に流れる木曽川は、畿内の防衛の要だった。川の両岸に、両軍は対峙。幕府軍が渡河し始めると、上皇軍は敗走した(CG製作/成瀬京司)  鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。 *  *  *  攻勢に出た鎌倉幕府では3軍が組織され、東海道・東山道・北陸道の三つのルートで京へ進軍することとなった。『吾妻鏡』によれば、東海道軍は北条時房・泰時らが率いる十万騎。東山道軍は武田信光・小笠原長清らが率いる五万騎。北陸道軍は北条朝時(義時子)らが率いる四万騎。計十九万騎の大軍勢である。  ただし、中世の戦乱を記録する歴史書や軍記物語は、たとえ叙述に臨場感があろうとも、あくまで後世の編纂物である。そのため、記される兵員数は必ずしも正確でない。それどころか後世になればなるほど史実から乖離し、誇張された数に書き換わっていくことすら珍しくない。  実際、『承久記』は幕府の兵力について、東海道軍は七万騎、東山道軍は五万騎、北陸道軍は七万騎と記す。東山道軍の五万騎は『吾妻鏡』と同じだが、東海・北陸両道については大きく異なっている。三軍を足すと十九万騎という点は両書に共通しているので、幕府軍を総計十九万騎とする認識は広まっていたのだろう。 「歴史道 Vol.24」から  一方、これを迎え撃つ上皇軍の兵力について『承久記』は、東海道軍を七千騎、東山道軍を五千騎、北陸道軍を七千騎、合計で約一万九千騎としている。一見して明らかなように、これは同じ『承久記』が記す幕府軍の兵力の10分の1となっており、三道の比率も同じである。要するに『承久記』も『吾妻鏡』も、幕府軍と上皇軍との間に戦力の圧倒的な差があることを読者に印象づける叙述となっているわけだが、特に『承久記』については10倍というわかりやすい数字を用いて、落差を表現しているのである。  上皇軍が実際にここまで幕府軍に水をあけられていたかはわからない。京周辺や西国の武士は多くが上皇軍に加わっており、比叡山の僧兵も上皇軍に与している。兵員数はおくとして、確かなのは幕府軍の動員がうまくいったことである。  当時の武士の身の振り方に関して、『承久記』には興味深い逸話が見える。幕府の東山道軍の大将だった武田信光と小笠原長清との会話である。無常の世で進路に迷う長清に、信光は「鎌倉方が勝てば鎌倉方につき、京方が勝てば京方につくのが武士の慣習だ」と語った。勝ち馬に乗るという著しく功利的な発想である。  上皇の挙兵命令を伝える密使として鎌倉へ送り込まれた押松を、幕府は捕縛する。『承久記』によれば、幕府は押松をすぐには解放せず、しばらく鎌倉で拘留し、幕府の大軍勢を見せつけてから帰京させた。兵力が揃っていない段階で帰京させてしまうと、宇津山(駿河国の峠道)から西の武士たちが上皇側に与してしまうことを危惧したからである。武士たちが幕府という勝ち馬に乗るための環境づくりである。帰京した押松から幕府の大軍が上京中との報告を受けた上皇たちは慌てふためくほかなかった。 ■乱流する河川の渡河点で攻防が繰り広げられた  京へ向けて進撃する幕府軍とこれを迎え撃つ上皇軍との全面衝突は、尾張国(愛知県西部)から美濃国(岐阜県南部)にかけての地帯、いわゆる濃尾平野で始まった。この一帯が激戦地となった理由を、交通や地形の観点から考えてみよう。  東国から京へ向かう三道のうち、東海道と東山道とがこの濃尾平野で合流する。東海・東山両道は北陸道と比べて京までの距離が短く、また、沿道に拠点を持つ武士も多かったから、幕府軍の主要な戦力はこの両道の軍と見て大過ない。 「歴史道 Vol.24」から  東海道は本来、尾張国から伊勢国(三重県)に向かい鈴鹿関を越えて近江国(滋賀県)に入り、京へと至る。しかし、この時の東海道軍は尾張国から美濃国に向かい、東山道軍と合流して不破関を越え近江国に入っている。というのも、鈴鹿峠は難所であり、鎌倉幕府成立期には伊勢は平氏、他方美濃は源氏の勢力圏だったこともあって、鎌倉時代には東海道も伊勢廻りではなく美濃廻りが定着した。  鎌倉を出た後、海沿いを進む東海道軍と内陸の山間を抜ける東山道軍とは、いずれも濃尾平野という開けた場所に出る。上皇軍は幕府軍の主要戦力がこの平野に出てくるところを待ち受けたのだった。  濃尾平野は海抜ゼロメートルほどの広大な平坦地であり、今日輪中地帯として知られる。そこに木曽川をはじめ大小の河川が乱流している。川は互いに対岸まで迫った敵軍同士が対峙する戦争の最前線であり、周囲に広がる川原は格好の戦場となる。乱流地帯には主要なものだけでも複数の渡河点がある。幕府の東海道軍は尾張国一宮から「方々の道」に分かれて進んだ。各所に散在する渡河点一つ一つが攻防の舞台となったのだった。  東海道軍と比べると、東山道軍と北陸道軍の動きは『吾妻鏡』や『承久記』(慈光寺本)に詳しくは見えない。東海道軍は北条時房・泰時というのちに実力者となる二人が率いた主力であるため記録や伝承が残りやすい。これに対し、東山道軍と北陸道軍とは影が薄いのである。『承久記』諸本の中でも後世に成立し、信憑性がやや低い前田家本や古活字本によれば、五月三十日に越後国府(直江津)に至り、六月八日には越中・加賀国境の砺波山(黒坂)と、越中・能登国境の志保山とを突破した。砺波山の西側(加賀国側)は倶利伽羅峠の名でも知られる。砺波・志保両山は北陸道の要衝で、治承・寿永の乱でも木曾義仲や源行家ら源氏軍が北陸から京へ進軍する際、平氏軍との間で攻防の舞台となっている。『吾妻鏡』には六月八日に般若野荘を通過したことが記されている。般若野荘は砺波山の東麓だから、六月八日頃に北陸道軍が越中から加賀・能登へ進入したと考えられる。 「歴史道 Vol.24」  こうした北陸道軍の軍事行動に関連して、『吾妻鏡』に興味深い一節がある。五月二十九日に越後国加地荘願文山(新潟県新発田市)で、幕府軍の佐々木信実と上皇軍の酒匂家賢とが交戦した。信実が勝利したこの戦いを「関東の武士が官軍を負かした最初」と特筆しているのである。  しかし、願文山は越後国の北部に位置しており、鎌倉から日本海側へ出て国府がある越後国の南部を通り越中に向かう北陸道軍の進軍ルートからは京と逆方面に外れている。仮に『承久記』が記すように、翌日にあたる三十日には遠く離れた越後国府に到達していたとすれば、このことともつじつまが合わない。  これに関して近年の研究では、願文山の合戦は幕府軍と上皇軍との公的な戦争ではなく、地域での利益を追求する武士同士の私的な紛争であったと考えられている。幕府軍と上皇軍との戦乱に伴う社会的混乱に便乗して、個人的な権益を確保・拡大しようとした家賢の行動に対し、やはりこのエリアに権益を有していた信実が阻止しようとして、合戦に及んだ可能性がある。『吾妻鏡』は実態としては地域の局所的な紛争であったものを、幕府軍対上皇軍という図式にあてはめ、前者が後者に初めて勝利した記念すべき出来事と大書したのだった。治承・寿永の乱や南北朝の動乱では、現地勢力同士の局所的な紛争が、権力者同士の戦争と結びつき、戦火を全国化・長期化させた。承久の乱は短期決着だったが、水面下には武士一人ひとりの思惑が渦巻いている。 ◯監修・文/下村周太郎しもむら しゅうたろう/1981年東京都生まれ。早稲田大学文学学術院准教授。博士(文学)。主な著書に『図説鎌倉幕府』(分担執筆、戎光祥出版)、論文に「鎌倉幕府の草創と二つの戦争―<鎌倉幕府二段階成立史観>覚書―」他。 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から
小室圭さん「弁護士の仲間入りができました」 喜びの声も「合格で急に秋篠宮家と仲良くなるわけではない」と関係者【2022年 反響の大きかった記事22選】
小室圭さん「弁護士の仲間入りができました」 喜びの声も「合格で急に秋篠宮家と仲良くなるわけではない」と関係者【2022年 反響の大きかった記事22選】 小室圭さんと眞子さん 2022年も残すところあとわずか。ここでは、2022年にAERAdot.で配信された記事の中から「反響の大きかった記事」を22本選別して紹介します。(10月22日配信/※肩書年齢等は配信時のまま)  小室さんが米ニューヨーク州の司法試験に合格した。  米ニューヨーク州司法試験委員会(The New York State Board of Law Examiners)のホームページに公表された合格者の一覧に、「KOMURO,KEI」の名前があった。  小室さんが日本でパラリーガルとして勤務していた弁護士事務所の奧野善彦所長は、NHKの取材に対し、21日の午後に小室さんから合格の連絡があったことを明らかにした。  小室さんは留学などを支援した奥野氏に、こうあいさつをした。 「今回は合格しました。弁護士の仲間入りができました。本当に先生のおかげです。今後はますます弁護士として研鑽を積んでいきたい。本当にうれしいです。ありがとうございます」  同委員会によれば、小室さんが受験した今年7月の試験は9609人が受験。合格率は66%。小室さんのような再受験での合格率は23%であった。  試験に合格したのちは、登録申請書類を提出してから面接(インタビュー)を経て弁護士の新規登録者が会場に集まり、宣誓式となる。正式に弁護士の肩書がつくのは、半年ほど先になる見込みだ。  笑顔のスーツ姿写真に   3度目の受験となった今回、発表を待つまでもなく手ごたえはあったようだ。  現地で小室さんを知る人物は、彼の様子をこう話していた。 「試験の結果に自信を持っていました。合格するのでは」  そして発表の数日前に、小室さんが勤務するニューヨーク市内の中堅法律事務所のホームページが更新された。スタッフの欄には、 「Kei Komuro Law Clerk」(法務助手)と名前と肩書が掲載されている。これまでラフなシャツ姿であったのが、パリッとしたスーツに笑顔で写っている。  ニューヨーク市内で活躍する日本人弁護士の一人は、 「2回試験に落ちて事務所をクビにならなかったのは、米国では非常に珍しいケースです。小室さんが在籍することに価値があると考えての判断でしょう。ともかく、あきらめずに挑戦したのはすばらしいですね」 米ニューヨーク州司法試験委員会(The New York State Board of Law Examiners)のホームページに公表された合格者の一覧に、「KOMURO,KEI」の名前  ロー・クラークの平均年収は600万円程度だが、司法試験合格を前提として、弁護士と同じ年収で契約するケースも珍しくない。 「ニューヨークで新人のアソシエイト弁護士の初任給は、およそ2千万円。その程度はもらっていたと思われます。というのも、ニューヨーク市内で賃貸住宅を借りようと思った場合、家賃の40倍の年収がなければ審査に通らない。ロー・クラークの年収であれば借りることすら難しい」  たとえば眞子さんと小室さんが住むヘルズ・キッチンの高級賃貸マンション。ホームページの空室を見ると、リビングと寝室を持つ1LDKで月4988ドル(約75万円)程度だ。小室さんの弁護士としての年収で、なんとか収まる具合だ。 秋篠宮ご夫妻と小室家の関係  一方で「女性自身」は、眞子さんがニューヨークの四大美術館のひとつであるMoMA(ニューヨーク近代美術館)などをMET(メトロポリタン)美術館のスタッフと訪れたと報じた。  就職を視野に入れた訪問だと見られている。眞子さんと小室さんがニューヨークに移住した当初から、現地の日本国総領事館の職員がひとり、担当としてついていると言われている。  しかし、秋篠宮家の事情に詳しい人物はこう話す。 「秋篠宮ご夫妻がそうしたサポートを望むことはまずありません。一方で、放って置いてトラブルや事故に巻き込まれても困る。将来の天皇の義兄や実の姉ですからね。外務省などが事情を忖度して生活をサポートするのは、不自然なことではありません」  では、小室さんが司法試験に合格したことで、秋篠宮ご夫妻との関係に変化は起こるのだろうか。 「小室圭さんを含む小室家と秋篠宮ご夫妻が、急に仲良くなることいったことは、まずないでしょう。そもそも秋篠宮さまは、小室さんの職業は何も問題にしていない。弁護士試験への合格の有無が結婚の条件に入ったこともありません」  また、秋篠宮家と交流のある人物は、眞子さんがニューヨーク市内の美術館に就職するといったことが事実だとすれば、望ましいことではないと考える。 小室圭さんと眞子さん  というのも、眞子さんは博物館学を学んだものの博士号は取得していない。東京大学総合研究博物館の特任研究員として、東京・丸の内のインターメディアテクで勤務経験のみだ。 「ニューヨークの有名美術館の学芸員といえば、博士号を取得した優秀な人物が過酷な競争を勝ち抜いて得られる地位です。眞子さんがキャリア不足であるのは否めません。仮に『皇室ブランド』でその地位を得たとすれば美術館自体の信頼にも影響してしまう。ご両親もそうしたことは、望まないでしょう」(前出の人物) 眞子さんに最高のプレゼント  母の紀子さまは、9月の誕生日に公表した文書で眞子さまについてこう触れた。 「今は直接会うことが叶いませんが、庭の花の世話をしながら、木香薔薇のアーチを作り、いつか娘と一緒にゆっくり庭を歩くことができましたら、と思っております」   小室さんの合格は、10月23日に31歳の誕生日を迎える眞子さんにとって最高のプレゼントとなった。26日は、初めての結婚記念日でもある。  前出の秋篠宮家の事情に詳しい人物がこう話す。 「小室さんの合格をきっかけに眞子さんが抱くご両親へのわだかまりがとける日が来るかもしれませんね。時間はかかるかもしれませんが、そんな日が来ることを願っています」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
インドでの起業は相当な忍耐力が必要 それでも「早く来ないとバリュー減る」
インドでの起業は相当な忍耐力が必要 それでも「早く来ないとバリュー減る」 「駐妻」として渡印後にビジネスビザを取得し、起業した見上すぐりさん(左から2人目)。2021年9月、新アプリ開発のためにタミルナード州を訪問し、エンドユーザーである地域の母親たちにインタビューをした(写真:見上すぐりさん提供)  世界有数の経済大国・インドで起業する日本人が増えている。混沌とした不思議な国というイメージの転換が、ビジネス面では日々加速している。激しい競争の中で成功する秘訣は粘り強さとニッチな分野への挑戦だという。AERA 2022年12月19日号の記事を紹介する。 *  *  *  インド・ビジネス・センター(東京都千代田区)の島田卓社長(74)は、こう話す。 「インドでは、重要な契約書類を作成した翌日にはCEO(最高経営責任者)のサインが入って戻ってくるなど、その迅速対応に学ぶものは多い。このままでは日本は置いていかれる」  07年からインドで宅配寿司ビジネスを展開する「LA DITTA(ラ ディッタ)」の小里博栄社長(51)は、 「インドほど仕事がしやすい場所はない」  と力説する。特に気に入っている点はヨーロッパ、アジア、アフリカに近いことだ。時差は日本と3時間半、英国とは5時間半。各地へすぐに移動できることもビジネスをする上で重要なポイントだという。  同社は現在、4都市10店舗に拡大し、毎月約12万食を売り上げている。平均単価は日本円にして約1800円。これまでの日本食レストランは非常に高額だったが、仕入れやメニューの工夫によってリーズナブルな値段を実現させたことが成功につながっているという。 ■「相当な忍耐力が必要」  とはいえ、インドで起業することはそう簡単なことではない。兵庫県立大学の福味敦教授(インド経済論)はこう話す。 「マーケットの規模を考えると行かない手はないでしょう。ただ、大半は失敗するし、これまで進出した日本企業も10年かけて、ようやく実り始めると聞く。相当な忍耐力が必要です」  だまされたり、インド人スタッフとの意思疎通に苦労したり。州ごとに制度が違うことも多く、その制度も朝令暮改。しかも、競争相手は地元企業だけではない。神戸大学の佐藤教授は、 「韓国、中国、そして欧米の資本が続々と参入している。競争は非常に激しい」  と指摘する。そんな中で起業を成功させるポイントは粘り強さとともに「ニッチ」な分野に目を向けることだろう。 AERA 2022年12月19日号より  デリー近郊のグルガオンでデジタルマーケティング会社「STORY TELLING(ストーリー・テリング)」を経営する見上すぐりさん(40)は16年6月、設備メーカーに勤務していた夫の転勤に伴い、帯同ビザを得てインドに渡った。長女は当時生後6カ月。見上さんは、 「最初は孤独でした。英語もそれほどできない、子育てもよくわかっていない。私のラベルは『駐妻(ちゅうつま)』で、銀行口座が持てず、アルバイトもできない。10ルピー(約17円)を使う時すら、夫に連絡しなければならない。出しゃばるといけない空気感がつらかった」  と振り返る。  転機は、アパートの隣の部屋に住む一家との出会いだった。 「ナニー(子どもの世話をする人)を雇って子育てをうまく回しながら、インドでは外国人であるロシア人の妻が大黒柱としてバリバリ働いていた。私も正面切って自分という存在を出すところが欲しかった」 ■「駐妻」が現地で起業  駐妻が起業した前例がほぼないため、ガイドはない。渡印後の職歴も空白。大使館の警戒心は強く、ビジネスビザはなかなか発行されなかったという。  コンサルタントの助言を得て、まずはインド人の友人を代表として会社を設立。19年7月、ようやくビジネスビザを取得し、会社の共同代表に加わって実質的な指揮を執っている。  現在、日本の大手人材会社やEVメーカーなどからホームページや動画などのコンテンツ制作の依頼を請け負っている。大手の広告会社を使わず、より手軽にインドの情報を発信したいという企業の需要にうまく応えられているという。見上さんはこう話す。 「急成長するインドを体感できるのは、あと3年くらいだと思う。早く来ないとバリューがなくなっちゃうよ」 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2022年12月19日号より抜粋
「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」監督も猫好き 「本物の愛」感じる瞬間
「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」監督も猫好き 「本物の愛」感じる瞬間 「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中(c)2021 STUDIOCANAL SAS-CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION  かの夏目漱石にもインスピレーションを与えたという“ネコ画家”ルイス・ウェイン。その人生を描いた映画「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」が全国で公開中だ。監督のウィル・シャープさん(36)は日本にルーツを持ち、俳優としても活躍している。ネットでは“松ケン(松山ケンイチさん)”似のルックスも話題だ。映画のなりたち、猫への愛、そして自身についても語ってもらった。 *  *  * ──「年に1度の“猫号”で記事にします」と伝えると「それは嬉しいです」と顔をほころばせたシャープ監督。自身も猫好きで2匹の猫を飼っている。  ルイスの猫の絵はもちろん見たことがありました。でも実は本作の企画に着手するまで、彼の名前を知らなかったんです。彼の人生とその生き方を知り、ぜひ映画にしたいと思いました。 ──ルイスは19世紀末から20世紀にかけてイギリスで活躍し、世界中にファンを持つ画家だ。その人物像はかなり風変わりでもある。ロンドンの上流階級に生まれ、発明家や音楽家を目指すものの、長男として一家を養うために新聞社の専属イラストレーターになる。身分の違う女性エミリーと恋に落ち、周囲の反対をものともせず結婚。さらに当時、不吉な存在とされていた猫をモデルに絵を描き、その立場を向上させたのだ。  彼はあるがままの自分でいることを、恐れずにできる人だったのだと思います。とても個性的でイノセントな心の持ち主でもありましたが、当時の社会では誤解されることも多く、間違いなく自分をアウトサイダーだと感じていたでしょう。だからほかのアウトサイダーにも優しく、彼らを守ろうとした。そんな彼に僕は惹かれたんです。  ルイスの人生には悲劇的な側面もあります。それらを知ったうえで絵を見ると、カラフルで軽妙なのと同時に、どこか不安や切なさを感じます。彼は心の病を持っていました。そして僕も軽度の双極II型障害を持っています。僕自身も自分をアウトサイダーだと感じている。ゆえに彼の生き方にすごくインスピレーションを受けるのです。 「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中(c)2021 STUDIOCANAL SAS-CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION ──劇中で重要な役割を果たす猫の登場シーンはCGを一切使わず撮影した。ルイス役の人気俳優ベネディクト・カンバーバッチも、猫との共演を楽しんでいたという。  猫はご存じのように気ままで自分のタイミングで動きます。猫の登場シーンでは全員が「猫モード」になり、彼らに合わせて予定を組み、大きな音を立てないように気を使いました。時に「猫待ち」になることもありましたが、ベネディクトは「猫が一番のスターだよね」と実に忍耐強く、最高の共演をしてくれました。うまく演じた猫たちにご褒美としてチキンをあげていたのですが、彼はふざけて「僕のチキンどこ? 僕はもらえるほどの仕事をしていないってことなの?」とジョークを言っていました(笑)。 ──イギリス人の父と日本人の母のもとに生まれたシャープ監督。8歳まで日本で過ごし、インタビューでも日本語のリスニングはほぼ完璧だった。  祖母はいまも日本に住んでいますし、ほかの国とは違う特別なノスタルジアを感じます。東京・代々木の国立競技場にヴェルディの試合を観に行った思い出もあります。それに僕は日本のコメディーで育ったんです。「志村けんのバカ殿様」やとんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、ドラマ「古畑任三郎」も大好きでよく観ていました。そうした日本の文化に一番影響を受けた気がしています。  子どものころから物語を書くことが好きでしたが、家族にクリエーティブ系の仕事をしている人はいなくて、そういう仕事の選択肢があるとも知りませんでした。  でもイギリスの学校で演劇の授業に触れたんです。そのとき母に言ったことを今でも覚えています。「演劇って人のふりするだけじゃない? それって難しいことかな?」って。そうして演技のおもしろさを知っていきました。 ──ケンブリッジ大学を卒業後、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーに所属。映画の脚本や監督を手がけるようになる。  書くことも演じることもすべては同じストーリーテリングだと思います。だからカメラの前にいるか後ろにいるかは、僕にとって大差がないんです。 Will Sharpe(ウィル・シャープ)/ 1986年、イギリス・ロンドン出身。脚本・監督を務め、オリヴィア・コールマンと共演したテレビシリーズ「FLOWERS(原題)」(2016~18年)で一躍注目され、英国アカデミー賞テレビ部門の助演男優賞を受賞したドラマシリーズ「Giri/Haji」(19年)などに出演。  俳優として監督が抱えるプレッシャーやストレスも理解できるし、監督として俳優の大変さも理解できる。両方を知ることでどちらの立場になっても相手に共感や思いやりを持つことができていると思います。ロンドンで車と自転車の両方に乗る人の感覚に近いかもしれません。自転車に乗っているときは、ドライバーの気持ちを思い出す、またその逆をすれば、お互いに対してもっと思いやりを持てますよね。 ──松ケン似、を指摘すると「すみません、存じ上げないのですが、今度見てみます!」と笑って答えてくれるナイスガイ。飼っている猫たちについても教えてくれた。  飼い始めたのは6年ほど前、いまの家に引っ越してからです。トラ猫のドーラはいたずら好きで元気いっぱい。黒猫のモードは13日の金曜日生まれでとてもシャイです。  以前、犬を飼っていたこともありますが、改めて猫っておもしろいなあと日々感じています。彼らは自立していて、自分自身ですべてを決めますよね。いつ何をどうするのか、何がしたいのか。だからこそ彼らが愛情を見せてくれると「ああ、本物の愛だ」と感じることができるんです。 (フリーランス記者・中村千晶)※週刊朝日  2022年12月23日号
「節税」したいなら相談料無料のプロに聞け!パックンが解説する節税のキホン
「節税」したいなら相談料無料のプロに聞け!パックンが解説する節税のキホン パトリック・ハーランさん  皆さんの中で、「節税ってややこしい……」と思っている方も少なくないかもしれません。しかしポイントだけ押さえれば、税金の節約はとってもシンプルな制度です。ハーバード大学卒業後、日本に25年以上住んでいるパトリック・ハーラン(パックン)が、日本の税金のポイントを分かりやすく解説! いまさら聞けない「お金の基本」から手堅くお金を増やす方法までしっかりカバーした、パックン初のお金の本『パックン式 お金の育て方』から、一部を抜粋・再編して公開します。 *  *  *■税金に詳しくなると、節約上手になれる!  節約に関連して結構大事なのが、税金の節約。つまり「節税」です。  もちろん、税金はきちんと納めなければいけません。  でも節約のためには、必要以上の納税はやめましょう。  税金の仕組みを知らずに、税金で損をしている人は結構多いようです。  僕は日本の税金の専門家ではありませんが、妻と法人を持っていて、税理士さんともお話しする機会がたくさんあるので、大切ないくつかのポイントは理解しています。  節税の基本は、「経費」や「控除」をうまく使うことにあります。  まず、とくに経費が大事になるのは、僕みたいに事業をしている人です。  税金は利益に対してかかるものなので、仕事に使った経費があれば、漏れなく申告して利益を下げることが大切です。  たとえば、仕事のために5万円のモノを買ったのに申告を忘れたら、利益は5万円分多く計算されてしまいます。  ということは、この5万円に対して余計な税金を払うことになってしまうのです。  経費はどんなに面倒くさくっても、しっかり申告しましょう。  ■控除を駆使して、税金の払いすぎを避けよう!  一方、控除は事業をしていない人でも使えます。  医療費をたくさん払ったときに使える医療費控除や、扶養家族がいると使える扶養控除など、いろいろなパターンがあります。  これらも使えるものがあれば、どんどん申告すべきです。 税務署への相談手順(『パックン式お金の育て方』より)%%%BR%%%パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』%%%BR%%%※Amazonで本の詳細を見る  節税にチャレンジすると、いろいろと疑問点が出てくると思います。  税金の仕組みは複雑な上、学校や会社でも教わらないですからね。  経費や控除を使いたくても、どう手続きをしたらいいかわからない人も多いと思います。  だから、何か税金のことがわからなくなったら、専門家の力を借りることが大事です。  自分で調べられることは調べたほうがいいですが、それでもわからないことは、素直に聞くのが近道。  もちろん、プロの税理士やタックスアドバイザーに聞いてもいいですが、まず節約大好きな僕が勧めるのは、「税務署の人に聞く」という方法です。  税務署の人を「何となく怖い!」と思っている人は多いかもしれないけれど、相談すれば丁寧に教えてくれるはずです。電話でも面談でも、質問を受け付けてくれます。  そして、これが一番大事なことですが、相談料は無料です!   もし「税務署の人に聞くことさえも面倒!」と思うのなら、税理士さんに申告書の作成などをお願いするのも一つのやり方です。  僕も、自分の会社の申告などは、税理士さんにお願いしています。  気をつけたいのは、税理士さんにお願いするときは報酬が必要ということ。  だから、その報酬に見合ったサービスを受けられるのか、やはり考えなくてはいけません。  ちなみに、僕は会社をやっていたりして特別に面倒くさいケースだから、お金がかかっていても、その手数料より節税額が大きいから、お得だと判断しています。  しかし、一般的なケースだと、実は、個人の確定申告はそんなに難しくありません。  だから、最初の1回だけは税理士さんにお願いするとしても、翌年からは税理士さんに頼らず、1年目の申告書を真似しながら自分で作ってもいいと思います。  というわけで、節税にぜひチャレンジしましょう! ■脱税は、「知らなかった!」では済まされない!  言うまでもないですが「脱税」には挑戦しないでね!   節税と脱税は似た言葉なのでややこしいですが、ありもしない経費や控除をでっちあげたりすることを「脱税」といいます。 パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』%%%BR%%%※Amazonで本の詳細を見る  これはもちろん違法です。  脱税がバレたときは、重たいペナルティがあります。しかも、代償はお金だけではありません。  社会的な信用を失ったり、税務署から目をつけられたり、何もいいことがない。  税務署の人は、基本的に優しいと思うけれど、脱税犯にはとっても厳しいよ。  このあたりのことをあまりよく知らない人は、日本映画の名作・伊丹十三監督の『マルサの女』を見ると理解が……深マルサ! (構成/増田侑真) パックン本名:パトリック・ハーラン。芸人・東京工業大学非常勤講師。1970年11月14日生まれ。アメリカ・コロラド州出身。93年ハーバード大学比較宗教学部卒業。同年来日。97年、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。NHK「英語でしゃべらナイト」「爆笑オンエアバトル」をはじめ、多くのテレビ番組に出演し、注目を集める。「AbemaPrime」「報道1930」でコメンテーターを務めるなど、報道番組にも多数出演。2012年10月より池上彰氏の推薦で東京工業大学の非常勤講師に就任。コミュニケーションと国際関係についての講義も行っている。二児のパパ。25年以上の投資歴があり、金融教育の講師として全国各地で講演会も行っている。最新刊の『お金の育て方』では、「生活保護」状態から「お金持ち」になるまでに身につけた、誰にでもマネできる、お金との付き合い方を詰め込んだ。
迫る兄弟猫との別れ 石田ゆり子さんの言葉に激しく共感【50代無職男のミルボラ初体験記(下)】
迫る兄弟猫との別れ 石田ゆり子さんの言葉に激しく共感【50代無職男のミルボラ初体験記(下)】 同時にあくびをするウリ坊(右)とペロ  初めてのミルクボランティアで預かったウリ坊とペロ。よちよち歩きだった赤ちゃんも、1カ月余りで子猫らしい体格になってきた。かわいい成長期に寝食を共にしていたら、愛着は深まる。しかし、「別れ」はミルボラの宿命。人の手を必要とする猫はほかにも、いっぱいいるんです。  8月に会社を辞め、メールも電話も激減した。望み通りでもあったが、誰からもアテにされないというのはさみしくもある。社会的には無用の長物。鏡の前に立つと、額がはげ上がり、腹にでっぷりと肉のついた無残な姿が映る。亡くなった山本コウタローの「♪僕はどうして生きていこう」のフレーズが脳裏をよぎる。  ところが、どうだ。ウリ坊とペロはそんな男に全力で甘えてくる。読みかけの新聞をくしゃくしゃにされても、カーテンを爪でひっかかれても、なんでも許せた。買い物など外出は短時間で済ませた。大好きな釣りはもちろん、一切の遠出は控えた。友人に招かれたホムパでも、ハローワークの求職者説明会でも、2匹のことが気になって集中できなかった。 【24日目】庭の畑でオクラやスイフヨウを食害するフタトガリアオイガの幼虫を駆除する。子猫はかわいがり、ガの幼虫は容赦なく殺す。この幼虫にも親があろうに。庭の畑で収穫したサツマイモで鬼まんじゅうを作った。2匹に食べさせようとしたが、無関心。試しにドライフードを与えると、2匹ともポリリとかんだが、大半を残した。 【31日目】朝、皿に入れたドライフードを初めて完食。いよいよお別れの時期が近づいてきた。 【39日目】よちよち歩きの赤ちゃんだった2匹も、子猫らしくなってきた。「体重600グラムまで育てるのが一応の基準」と聞いていた。当初は約300グラムでジュース缶くらいだった2匹の体重は、量ってみたらそれぞれ800グラムに達していた。  11月8日。宮崎県動物愛護センターの入り口でしばらく立ち尽くした。手にしたキャリーケースの中から、ウリ坊もペロも神妙な顔で私を見つめている。いよいよお別れだ。ウリ坊がニャーと鳴いた。その声はまだ幼い。手放しがたい思いがこみ上げる。2匹をセンターにお返しし、後ろ髪をひかれながら帰路に就いた。ずっと私のことを覚えていてくれるだろうか……。 譲渡会の会場。宮崎県、宮崎市のセンターのほか、個人・団体の保護猫も  昨年、ミルボラをした俳優の石田ゆり子さんが、「ちびた」と名付けた猫を手放すにあたり、自身のインスタグラムにこう書いていた。 「たとえちびたの記憶にわたしが残らなくても 人間の手が優しくて 人の手のそばにいることを幸せだと感じてくれることが ちびたのこころの底辺にしっかりと根付くことだけを祈って。それがミルクボランティアの役目です」  うんうん、ウリ坊とペロもそうあってほしい。  11月20日、私は車で宮崎県動物愛護センターをめざした。2匹は先週、初めての譲渡会で誰にも引き取ってもらえなかった。新しい飼い主との出会いがないと、いつまでもセンターでの狭いケージ暮らしが続く。かわいい盛りを過ぎないうちに、何とかしてやりたい。  道中、交差点でのぼり旗を立てて手を振る男性を見かけた。12月25日投開票の県知事選に立候補を表明している東国原英夫氏(65)だった。目が合ったので停車し、「投票率が上がるといいですね」と伝えると、すぐに先を急いだ。知事選の行方よりも、ウリ坊とペロの運命のほうが気がかりだった。  この日も会場には50匹ほどの保護猫が集められた。グレーのロングヘアのウリ坊は異彩を放ち、「ちょっと見せて」と多くの人が関心を寄せた。一方、黒猫のペロにはなかなかお声がかからない。センター職員によると、黒猫は不人気という。ペロのいじらしいほどの人懐っこさを知っているだけに不憫に思えた。ペロは「抱かれ上手」を買われて、センター主催の子ども向け教育講座に「出演」し、児童らを大いに喜ばせてもいた。  正午すぎ。落ち着いた雰囲気の初老の男女が訪れた。男性が三毛猫を抱き、「この猫がかわいいな」。女性はウリ坊を見初め、「私はこっちのコがいい」。男性は「2匹は大変だろうけど、まあ、いいか。じゃあ、このコと、このコを」と言った。目の前にいた私は反射的にケージからペロを抱き上げ、「グレーの猫の兄弟です。ずっと一緒にいたから相性抜群です」と説いた。  男性は「そうか、じゃあ兄弟の2匹にしよう」と、ウリ坊とペロの引き取りを即断してくれた。 新しい飼い主となった田中夫妻にウリ坊とペロを渡す筆者(右)  宮崎市在住の会社員田中雅廣さん(58)と、妻の房子さん(57)だった。聞けば、18歳9カ月だった愛犬を昨年に亡くし、さみしくなったので今度は猫を飼うことを決めたのだという。房子さんは「一生大事にしますからね。私たちもこのコたちと楽しい生活を送らせてもらいます」と言ってくれた。私は何度も頭を下げた。2人と2匹を見送り、「お幸せに」とつぶやいた。  帰宅すると、我が家の「先住民」の猫が出迎えてくれた。妻は「立派に育てたよ。ウチの子が幼いときはいつも私任せだったけど、今回は責任感をもってしっかりやってた」と皮肉交じりにほめた。私は上の空で聞き流しながら、ウリ坊とペロと過ごしたキラキラした思い出にひたっていた。 ◆   ◆   ◆  保健所や動物愛護センターに引き取られ、殺処分される野良猫は全国で2万6418匹(2020年度)。1日に70匹程度が人の手で命を絶たれている計算だ。全体の約6割を幼齢の猫が占める。  行政の殺処分は、(1)重篤な病気やけがで譲渡できない(2)譲渡先が見つからない、施設に収容しきれない(3)引き取った後に老衰や幼齢、病気などで死んだ――の3分類がある。宮崎県動物愛護センターの獣医師・久保明子先生は、宮崎県では3年連続で(2)がゼロで、(1)(3)の大半が子猫である実情を踏まえ、「手当の甲斐なく死んでしまう子猫も殺処分に数えられてしまう」と訴える。  公益財団法人どうぶつ基金(兵庫県)の佐上邦久理事長は「子猫を減らすことが殺処分の減少につながる」とし、全国でTNRを進めている。野良猫を捕獲(Trap)し、不妊手術(Neuter)をし、もとの場所に放す(Return)活動で、繁殖を抑える。  子猫の養育やTNRを担う「猫ボラ」への期待は大きい。活動内容=下記の一覧参照=は多岐にわたる。いま、熱心な人に仕事が集中するのが大きな課題になっている。  宮崎市を拠点に猫ボラを続ける主婦の山本清美さん(55)は、この8年で1万匹以上のTNRにかかわってきた。自費で購入した捕獲器を35個も保有し、保護や捕獲のためにマイカーで年間数万キロも走り回る。譲渡できなかった猫も含め、自宅では約20匹を飼っている。「私はおバカだから(笑)、こんなにがんばっちゃってるけど、みんなが同じように動けるはずはない。少しずつでいいから、より多くの人が参加してくれたら、かなりの子猫が救えるはずです」と話す。   宮崎県動物愛護センターの獣医師・久保明子さん。野良猫の不妊・去勢手術を年間1千件もこなす ≪猫ボラの一例≫ ●譲渡ボランティア 行政や団体に登録し、担当した猫の適切な里親を探す。自分で保護した猫を他者に譲る行為も含まれる。譲渡会への参加のほか、知り合いに声をかけたり、商店街の掲示板で告知したりもする。 ●ミルクボランティア 行政や団体に登録し、生後間もない子猫を預かり、2~5時間ごとにミルクを与え、排せつの世話をする。適切な飼育環境を備え、在宅時間が長いことが条件となる。 ●捕獲ボランティア 主にTNRのための活動。捕獲器にえさを仕掛け、野良猫を誘導して捕まえる。自家用車が必要。 ●運搬ボランティア 主にTNRのための活動。捕獲器に入った猫を動物病院や動物愛護センターなどへ運搬する。自家用車が必要。 ●手術ボランティア TNRの手術の際、獣医師の手助けとして、機材を用意したり、猫を運んだり、清掃をしたりといった雑用をこなす。 ●シェルター運営ボランティア 行政や保護団体で運営するシェルターで、保護猫の世話や施設の清掃などを手伝う。 ●バゲージボランティア 離島など地方の保護猫を航空機で都市圏に運ぶ。旅行などの際、NPOの依頼を受け、「自分の貨物」として飛行機に乗せ、行先の空港で待機しているNPOのメンバーや譲渡先の飼い主に手渡す。 ●一時預かりボランティア 保護猫を自宅で預かる。新たな飼い主が見つかるまで預かるのが一般的。災害時に避難所で受け入れ困難な場合にも需要がある。 (佐藤修史) ※関連記事>>赤ちゃん兄弟猫に悪戦苦闘! 「やる気ない病」と「猫アレルギー」を超えて【50代無職男のミルボラ初体験記(上)】はコチラ ※週刊朝日  2022年12月23日号の記事に加筆
赤ちゃん兄弟猫に悪戦苦闘! 「やる気ない病」と「猫アレルギー」を超えて【50代無職男のミルボラ初体験記(上)】
赤ちゃん兄弟猫に悪戦苦闘! 「やる気ない病」と「猫アレルギー」を超えて【50代無職男のミルボラ初体験記(上)】 ミルクを与えようとする筆者にじゃれてくるウリ坊(右)とペロ  はい、そこのあなた。「猫ボラ」やってみませんか。文字通り、猫にかかわるボランティア。今も各地で、親とはぐれた子猫が腹をすかせて鳴いている。殺処分の日を待つばかりの猫もいる。猫ボラをすればハッピーな気分になれます。やってみた私(54)が言うのだから、間違いありません(笑)。 ◆  ◆  ◆ 「ウリ坊、がんばれよ」  ニャー!! 「ペロもがんばれよ」  ミー!!  1匹ずつ抱き上げて、何度もほおずりした。  ウリ坊とペロは11月13日、宮崎県動物愛護センター(宮崎市清武町)で、“譲渡会デビュー”をはたした。私が1カ月余り、哺乳瓶でミルクを与えて育ててきた兄弟猫だ。  会場には、県や宮崎市、個人・団体が用意した保護猫がざっと50匹。来場者は1匹ずつ顔や毛並みを見て、「かわいいねえ」と目を細めながら瞬時に品定めし、他の猫に目移りする。ウリ坊は自慢のグレーのロングヘアを見せつけた。黒猫のペロはちょこんと前脚をそろえ、つぶらな瞳でかわいらしさをアピールした。 「兄弟一緒に引き取ってもらえたらいいな」。私は祈る気持ちで来場者の顔色をうかがっていた――。  宮崎市在住の私が県のミルクボランティアに登録したのは9月30日。きっかけは、その1週間ほど前に県内で開かれた保護猫のシンポジウムだった。保健所などに引き取られて「殺処分」となる猫の大半は幼い。親猫とはぐれた子猫は人の手で育てる必要があり、ボランティアの手が欠かせないという。会場で同センター勤務の獣医師、久保明子(めいこ)先生の悲痛な訴えを聴き、その場でミルボラに志願したのだった。  8月に自己都合で会社を辞めると、何にもする気が起きず、つい自堕落な生活を送っていた。大作映画「戦争と人間」3部作を見たり、小麦粉をこねてクロワッサンを作ったり、夜更けまで川でウナギを釣ったりしても時間は余っていた。7年前から我が家にいる猫2匹は手がかからない。「そんなに難しくないだろ」と、そのときは思った。 県動物愛護センターから支給・貸与された品々  生後間もない保護猫を預かり、哺乳や排せつの世話をするのがミルボラの任務だ。離乳食を経て、カリカリのドライフードを食べられるようになるまで育てる。  センターで登録を済ませ、生後2~3週間ほどの2匹を預かった。ヒヨコのようにふわふわで、片手に載る大きさ。ぬいぐるみのような脚。青い瞳。おぼつかない足取りで私の手足にじゃれてくる。真っ黒のをペロ、縞模様のをウリ坊と名付けた。仕事から戻った妻(52)、中学校から帰宅した次女(13)が「かわいい!」と目を輝かせた。家庭が一気に明るくなった。  支給・貸与された品々は、約20種にのぼった。2匹の家となるポータブルケージをはじめ、哺乳瓶、粉ミルク、猫砂、体温計、記録用紙など。自宅2階の5畳間を養育部屋とし、私の布団も敷いた。子猫中心の新生活が始まった。  朝6~7時に2匹は騒ぎ出す。虫かごのカブトムシのように、ケージ側面の網目に4本の足でぶらさがっている。ケージを開けると、2匹は先を争うように私に駆け寄り、ミャーミヤーと空腹を訴える。  1匹ずつ抱き上げ、膀胱付近をトントンと指で刺激する。すると、チョロチョロとおしっこが出る。幼いうちは、しっかり排尿の管理をする必要があるそうだ。  粉ミルクをぬるま湯で溶かし、人肌の温度に調整して与える。哺乳瓶を口に近づけると、すぐにむしゃぶりつき、チッ、チッ、チッとリズミカルな音を立て吸う。音と同じリズムで耳がピクピク動くのが、よく飲めている証拠らしい。当初は慣れず、ぼたぼたとこぼした。 「ちょっと貸して」。見かねた妻が子猫を膝に載せ、上手に飲ませた。「私は子育てをしてきたからね」と刺してくる。 【3日目】就寝中の0時すぎに震度4の地震。跳び起きて妻子より先にケージを覗く。2匹は「遊んでくれるの?」と目を輝かせた。 【4日目】ウリ坊が下痢。久保先生から預かっていた薬を注射器で口から投与する。妻が洗面器に湯をはり、ウリ坊を洗った。実に手際がいい。ほめると、「人間の子どもはもっとたいへんよ」とまた刺された。 【5日目】ウリ坊とペロでは、理想的な哺乳瓶の角度が微妙に違うことを発見。ペロは25ccをイッキ飲みするが、ウリ坊は2度に分けないと飲み切れない。徐々にコツやクセがわかってきた。 筆者がしゃがむといつも2匹はよじのぼってきた  毎朝、猫砂や吸水シーツを取り換える。ミルクは3~4時間ごとに与えた。しばらく室内で遊ばせる。2匹はもんどりうって格闘し、最後はいつもペロが負けてミーッと悲鳴を上げる。  そのペロに異変が起きたのは7日目の午前6時だった。ぐったりしたままケージから出てこない。抱くと、トクトクと小さな鼓動が伝わるだけで、動かない。おしっこも出ない。ミルクも飲まない。  もしかして……。久保先生から「『チンコ吸い』にはくれぐれも注意するように」と厳命されていた。幼い猫たちは母親のおっぱいを求め、互いの体をむさぼり、間違えてチンコを吸ってしまうことがある。それが原因で尿道が詰まり、尿が出なくなるケースがあるそうだ。かつて動物病院で、何者かに毒を盛られた野良猫が腎臓を患って尿が出せず、みるみる弱って絶命する姿を見たのを思い出した。  愛護センターへ車を飛ばした。「死ぬな」。赤信号のたびに左手で助手席のペロをなでる。トクトクと小さな鼓動が伝わる。  私が預かる前日、ペロはウリ坊とともに民家の敷地内にうずくまっていた。見つけた住民が保健所に急報し、駆けつけた職員が保護し、愛護センターの獣医師に託された。この救命リレーを途絶えさせてはならない。  出勤してきた職員にペロを預け、自宅でじりじりと待った。夕刻に久保先生からメールが来た。 「とても元気です。ご安心ください。元気がなかった原因は分かりませんが、子猫は突然体調を悪化させることがあります。気持ちが乗らないだけの『やる気がない病』かも」  そりゃ、俺と同じ病気だ――。後日、ペロを引き取り、車の中で抱き上げた。脚をじたばたさせながら涙目の私を見てミーッと鳴いた。ペロ、ペロ、ペロ! 【13日目】ペロが授乳中、哺乳瓶の乳首をかみきって食べてしまった。材質を調べたらコンドームなどに利用される「イソプレンゴム」。久保先生に相談したら「便になるのを待ちましょう」。2匹とも歯が伸びてきている。ドライフードを水でふやかすと、もりもり食べるようになった。 預かったばかりのペロ  今度は私自身に異変が起きた。就寝中、呼吸するたびに気道に違和感を覚える。ヒューヒューと音がして苦しい。呼吸器内科で診てもらうと、猫アレルギーによるぜんそくだという。検査結果の指標では、ほとんどの項目で0が並ぶが、ハウスダスト7・5、ダニ9・7とあり、猫はケタ違いの157! 飼い猫が倍増したせいだろうか。医師は「猫と隔離した生活を送るように」という。「それは無理」と苦笑すると、「あなたはれっきとしたぜんそく患者だ」とくぎを刺され、吸入薬を処方された。  2匹は、階段をのぼることを覚えた。寝室のベッドの裏を探検し、居間のカーテンでかくれんぼをし、風呂場の浴槽のふちを行進した。我が家の「先住民」たる成猫のえさを盗み食いし、フーッと威嚇された。私がしゃがむと、肩までよじのぼり、耳元でゴロゴロとのどを鳴らした。猫の人生でも、いちばんかわいい時期である。眺めているだけで脳内にセレトニン、ドーパミンが噴出するらしく、時間を忘れて2匹と遊んでしまう。 「ウチの猫も、小さいうちにもっと一緒に遊んでやればよかった」。そんな後悔を口にすると、妻は「猫だけでなく、子どもたちもね」とまた刺してきた。確かに、子ども3人の育児は妻任せだった。私は不器用だからか、正職があるとワークライフバランスをとれなかった。  いまは毎日、家じゅうを掃除し、夕食もつくる。ウリ坊とペロは、掃除機をかける私をどこまでも追いかけてきた。走力も跳躍力もついてきた。手放す日が刻々と近づいている。  (佐藤修史) ※関連記事>>迫る兄弟猫との別れ 石田ゆり子さんの言葉に激しく共感【50代無職男のミルボラ初体験記(下)】はコチラ ※週刊朝日  2022年12月23日号の記事に加筆
“生活保護”状態で極限まで切り詰めたパックンだから見つけられた「良い節約」と「悪い節約」とは?
“生活保護”状態で極限まで切り詰めたパックンだから見つけられた「良い節約」と「悪い節約」とは? パトリック・ハーランさん “生活保護”の状態から、奨学金や借金で進学したパトリック・ハーラン(パックン)さん。貧しかった少年時代から「節約」に努めてきました。しかし、節約には「良い節約」と「悪い節約」があると言います。いまさら聞けない「お金の基本」から手堅くお金を増やす方法までしっかりカバーして書き上げた最新刊『パックン式 お金の育て方』から、一部を抜粋・再編して大公開します。 *  *  *■「良い節約」と「悪い節約」を区別しよう!  ここで、基本的なこととして、「良い節約」と「悪い節約」の違いを知っておいてもらいたいと思っています。  そもそも節約の意味を辞書で調べると、「無駄を省いて切り詰めること」と書いてあります。  ここで大事なのは、「無駄を省いて」という箇所なのですが、たまに「切り詰めること」ばかりに意識が向いている人がいます。  良い節約というのは、無駄な支出を減らすことです。そもそも無駄なのだから、どんどんなくしたほうがいい。  使っていないスポーツジムや英会話学校の費用とか、効果のない健康食品とか。  そういうものがあれば、ぜひとも減らすべきです。  でも、僕らのお金の支出には、無駄ではないものもたくさんあります。  最低限の生活費はもちろん、教育費や医療費など、大切な支出があります。そういうものは削るべきではありません。  たとえば、「やりたい仕事をするために大学に行かなければいけない」という人が、その学費をケチってしまうのは悪い節約です。  実際にデータとしても、日本では高卒の男性の生涯賃金は2.59億円で、大卒・大学院卒は3.30億円というもの(「ユースフル労働統計2021」)があります。  このデータをもとにして単純に考えれば、大学の学費を払えば7000万円ほど収入を増やせる可能性だってあるわけです。  投資としても学費をかけるのは理にかなっています。  しかしそもそも、学校は収入を上げるためだけに行くものではないですよね。人間関係が広がったり、新しい経験ができたり。 最終学歴別・男性の生涯賃金(『パックン式お金の育て方』より)パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』※Amazonで本の詳細を見る  僕も奨学金を借りて、一生懸命バイトしながらハーバード大学に行きましたが、そのことは一切後悔していません。あれは絶対にかけるべきお金だったと思います。  もしあの頃の僕がハーバードに行こうか悩んでいるなら、「内臓を売っても行け!」とアドバイスするでしょう。もちろん、売ってもいいのは盲腸だけですが……。 ■意地を張って節約しても「悪い節約」になりがち  良い節約と悪い節約の話をしたけれど、僕自身、「節約」で得したことも損したこともあります。  子どもの頃の僕は、「お金がないからって、なんの問題があるんだ?」と開き直っていました。  たとえば、アメリカで大人気のアメフト部に入るのは道具が買えず諦めたけれど、水泳パンツを一枚買えば参加できる板飛び込み部に入って活躍しようと考えました。  ほかにも、学校の勉強で良い成績を収めたり、演劇を頑張ったりして、人とは違うやり方やジャンルで、自信を身につけていったのです。だから、お金がかかりそうな話があったら、「そんなのはいらない」と条件反射で強がって断っていたのです。  だけど、その癖のせいで「節約」して後悔したこともあります。ハーバード大学のソーシャルクラブ(アメリカの大学にある会員制の社交会みたいなもの)に誘われたのに、年会費の500ドル(約5万円)を払うのがバカバカしくて入らなかったこともそうです。  ハーバードでは、学生たちはソーシャルクラブで結びつきを強めていきます。そこでは、将来につながる人脈も築かれていきますが、僕はそのチャンスもみすみす逃してしまいました。今さら入ろうと思っても入れないので、少し後悔しています。  当時の僕はいきがっていたので、「有料のクラブに入らなくても友達は作れる!」と誘いを蹴ってしまいました。  もちろん、たくさん大切な友達も作れましたし、とても充実した学生生活を送ることはできました。でも、貧乏根性が邪魔をしたせいで、手が届いたはずの特権を獲得し損ねてしまったとも言えます。  パトリック・ハーラン著『賢く貯めて手堅く増やす パックン式 お金の育て方』※Amazonで本の詳細を見る ■お金よりも大切な思い出に投資しよう!  大人になって、ある程度のお金を持ってからも、貧乏時代に染み付いた考え方の癖で失敗したこともあります。  あるとき、有名なジャズミュージシャンのオスカー・ピーターソンの来日コンサートのチケットを、運よく手に入れたことがありました。しかも、妻と合わせて2人分です。 でも、僕はそのコンサート当日に仕事を入れてしまったのです。  仕事を断ることで収入を得るチャンスがなくなるのが嫌だったし、「コンサートにはまた行けばいい」と思っていたから。そして、僕はチケットを人に譲ってしまいました。  ところが、そのコンサートからまもなく、オスカー・ピーターソンが亡くなってしまったのです……。もう、僕と妻は彼のコンサートに二度と行けません。  大事な思い出のためには、お金よりも優先すべきことがあります。  そのことを僕は痛みとともに学びました。  節約は大事なことだけど、守りたい領域ははっきりと決めて、決して後悔のないようにしようね! (構成/増田侑真) パックン本名:パトリック・ハーラン。芸人・東京工業大学非常勤講師。1970年11月14日生まれ。アメリカ・コロラド州出身。93年ハーバード大学比較宗教学部卒業。同年来日。97年、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。NHK「英語でしゃべらナイト」「爆笑オンエアバトル」をはじめ、多くのテレビ番組に出演し、注目を集める。「AbemaPrime」「報道1930」でコメンテーターを務めるなど、報道番組にも多数出演。2012年10月より池上彰氏の推薦で東京工業大学の非常勤講師に就任。コミュニケーションと国際関係についての講義も行っている。二児のパパ。25年以上の投資歴があり、金融教育の講師として全国各地で講演会も行っている。最新刊の『お金の育て方』では、「生活保護」状態から「お金持ち」になるまでに身につけた、誰にでもマネできる、お金との付き合い方を詰め込んだ。
アメリカ市民権講座に挑戦してみました 50歳「子連れ留学」で知ったあふれんばかりの夢
アメリカ市民権講座に挑戦してみました 50歳「子連れ留学」で知ったあふれんばかりの夢 ミッドタウンの5番街にあるニューヨーク公共図書館(写真/筆者提供)  ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さんが10歳の息子と年上の夫を連れ、今年1月からニューヨークで留学生活を送っている。日本との違いに戸惑いながら、50歳になっても挑戦し続ける日々を海南さんが報告する。 *  *  *  うわさには聞いていたけれど、アメリカの大学の勉強は超大変だ。資料も提出課題も多い。私はついていくのに必死だから、放課後は毎日、さまざまな図書館で勉強している。  一番のお気に入りはミッドタウンにあるニューヨーク公共図書館本館だ。映画「ゴーストバスターズ」や「デイ・アフター・トゥモロー」の舞台になったゴージャスな建物。クラシックな意匠と高い天井はまるで宮殿だ。1890年代に巨額な資金を注ぎ込んで建設されたが、図書館だから入館料は無料。ここに来るたびに思う。 「こんな美しい図書館で勉強している私ってすてきだ(笑)」  通ううちに、図書館のさまざまなサービスに気がついた。無料で英語やパソコンを学べる講座や、投資や就活の相談など。せっかくだから大学以外の学びも体験してみようと「アメリカ市民権」講座に申し込んでみた。そこではからずも移民大国アメリカを実感することになる。  教室には多様な人種の大人が30人くらい。先生はフレンドリーなアメリカ人女性で、開口一番ノリノリでこう叫んだ。 「みなさん! ヨシュアが先月の市民権テストに合格しました! イエーい! 拍手!!」  ヨシュアがそもそも誰なのか知らんけど、とりあえず私も拍手した。  そして先生は、おもむろにアメリカ大統領の絵を次々と貼り始めた。 「耳の横にチョココロネが二つ」みたいな同じ髪形で誰が誰だか見分けがつかない。 「建国の父は誰ですかー? 奴隷解放宣言はー? 主要な大統領は“市民権テスト”に出ます。この5人の名前と政策は覚えましょう!」  実は、この講座はアメリカ人になるための“市民権テスト”の講座だった。市民権テストとは、移民局で受ける面接と試験のことで、受かれば宣誓式を経てアメリカ市民になれる。試験には「英語」の4技能(読む・書く・聞く・話す)と「歴史と公民」がある。特に「歴史と公民」は義務教育レベルの社会科の知識が必要だ。日本なら、聖徳太子や織田信長を知っているかとか、首相、知事の名前や、選挙権、裁判について問われる感じだ。   さまざまな背景を持った人々と出会うのもニューヨークならでは(写真/筆者提供) 図書館では10回の連続講座で、「歴史と公民」を学べる機会を提供している。きちんと勉強すれば9割が合格できるらしいが、市民権を申請できる条件自体が厳しいため、合格が簡単だとは言えない。  この日のトピックは議会制度だった。先生はこんなふうに話し始めた。 「バイデン大統領とハリス副大統領の写真です。2人が事故で一緒に死んだら、次の大統領は誰?」 「ん、考えたことないけど?」 「下院議長のナンシー・ペロシです。彼女が代行します。アメリカには、大統領とは別に議会があります。上院と下院です」  小学生にもわかるような優しい説明だ。  途中からランダムにペアになり、想定問題集を質問しあった。最初に組んだのはウクライナ人。ロシアが侵攻してきた後にニューヨークに来たらしい。「応援しています!」と言葉をかけたかったが、緊張してスルーしてしまった。そのことを1人で「プチ反省」していると、隣にいた中国人の中年女性がたまたま彼女とペアを組んだロシア人に向かって、 「プーチンをなんとかとめなさいよ」  と最初にめちゃくちゃ怒鳴ってから質問を始めた。ロシア人が気の毒ではあったが、大声で意見を言える女性に頼もしさを感じてしまった。思っていることは言わなければいけない。それがニューヨークなのだ。「黙っているのが一番いけない」と、いつも息子に言っている言葉が自分に返ってきた。 かな・ともこ/1971年、東京生まれ。ドキュメンタリー映画監督。19歳で是枝裕和のドキュメンタリーに出演し映像の世界へ。NHKを経て独立。2007年、『川べりのふたり』がサンダンスNHK国際映像作家賞。ライフワークは環境問題。趣味はダイビングと歌舞伎鑑賞。フルブライト奨学金を得て、22年1月からニューヨークのコロンビア大学の客員研究員として留学中。1児の母(写真/筆者提供)  参加者の国籍や背景は多様だった。南米、欧州、アジア。4割は「駐妻」など期間限定で米国にいる人で、テストの受験予定はないが、歴史などを学ぶ目的で参加していた。残りの6割は米国移住を希望する人々だ。 「なぜ、英語を学んでいますか?」  ペアを組んだブラジル人に聞かれた私は、 「自分の勉強のためよ」  と答えた。でも、彼の答えは、 「市民権を得て、自分と家族の人生を変えるためです」  母国には帰らない、米国で生きる覚悟でこの場所にいる。講座の冒頭で、市民権テストに合格したヨシュアも、アメリカ市民になる夢をかなえて第一歩を踏み出したのだろう。だから先生もノリノリで喜んでいたのだ。私は日本という恵まれた場所に生まれて、移民を本気で考えたことは一度もない。自分とは全く違う背景を持った人々に出会えるのは、ニューヨークならではだ。  気軽に受けた図書館の無料講座だったが、ある意味、コロンビア大学に負けない学びがあった。ニューヨークには夢かお金がある人しか住めないと言われている。市民権講座の教室には、あふれんばかりの夢があった。みんなの夢がかなうようにと願わずにはいられない。 ※AERAオンライン限定記事
【下山進=2050年のメディア第21回】世界一の広告代理店 創業者の風俗店通い FT紙のスキャンダリズム
【下山進=2050年のメディア第21回】世界一の広告代理店 創業者の風俗店通い FT紙のスキャンダリズム FT週末の名物企画「Lunch with the FT」風に「Sake with Shimoyama」の店とメニューを載せるとこうなる。この他アレックスは福島の吟醸酒「風が吹く」を気にいり、お店にある一升瓶をおみやげで買っていった。  フィナンシャル・タイムズ(FT)の名物企画に、「Lunch with the FT(FTと昼食を)」がある。FTのジャーナリストが、ビジネスや文化、科学などの分野の著名人と昼食をとりながら、インタビューをする。何を食べたか値段も載せて毎週土曜日に掲載されている。  スーパーマーケットの籠をつくっていたメーカーだったWPPを世界最大の広告代理店に育て上げたマーティン・ソレルとFT紙のグローバル・メディア・エディターのアレックス・バーカーが、リバーカフェというテムズ川のほとりにあるイタリア料理店でランチをとったのは、2020年12月10日のことだ。アレックスの記事はこう始まる。 <バイ菌野郎、嘘つき、そしてFT紙のつらよごし。マーティン・ソレルは、私のことをこう呼んだ。ところが数日後、そのソレルが私をランチに招待してくれたのだ。えっ? まじ? なんかの間違いじゃない?>  マーティン・ソレルが、アレックスのことを「バイ菌野郎」と痛罵したのには理由がある。FT紙は、その2年前に、ソレルがWPPを去る原因になった経費の私的利用とパワハラについての調査を、WPPの内部情報をもとに詳報したのだった。  記事は容赦のないもので、15年にわたってソレルの運転手を務めていた男性が、突然解雇を言い渡された件に始まり、妻との旅行を会社の経費でまかなっているとの指摘(27万4000ポンドの妻の旅費が会社経費としてつけられていた)、WPPの年次総会の前の晩、メイフェアにある売春の店(50A Shepherd Marketの住所を記事には銘記)に入ったこと、その買春に会社の金を使ったのではないかという疑惑、等々が内部で調査され、それがひきがねになってソレルは、WPPをやめることになった、とする記事だった。  この記事は他の二人の記者が書いたものだったが、ソレルと一緒に働いた25人以上の人物に取材をしていた(ソレルはすべての指摘について否定している)。 こちらは、アレックスが、マーティン・ソレルと昼食をとった際の「Lunch with the FT」(2022年12月18日付)に掲載されていた二人の食べた食事飲み物とその値段。  前号で、FT紙には日経にない、もうひとつジャーナリズムにとって重要な資質、「スキャンダリズム」があると書いたが、この記事はその証左だ。  アレックスの「Lunch with the FT(FTと昼食を)」でも、その健全なスキャンダリズムは充分に発揮されている。  マーティン・ソレルは、WPPをやめたあと、デジタル広告の会社を興し、コロナ禍のなか成功していた。  前菜やメインの際には、こうしたビジネス上の成功についてアレックスは聞いているが、プディングが注文される段になると、厳しい質問をくりだしていく。WPPをやめる理由のひとつとされたソレルのパワハラについて。  あなたのことを恐怖に思っていた人々がいることを知ってましたか? 「そんなのは神話だ!」  そして経費の問題。60万ドルとも言われた疑惑の出費について、いくらかでもWPPに返却したのか? 「NO no no」  買春についてもアレックスはこう畳みかけた。 「50A Shepherd Marketを実際に訪ねたのか?」 「売春婦を訪ねるのは、CEOとしての過ちになるのか?」  それに対してソレルはこう答えたことになっている。 「会社は、きちんと調査をし、その結果は君も見ている。私は、跡を濁さず社を離れた」  WPPの調査では、経費やその他の疑惑について立証するだけの証拠はない、と結論づけていた。  アレックス・バーカーは、この他にもディズニーや、マードック率いるニューズ・コーポレーションなどの記事を書いているが、調査したことに関しては、容赦なく書いている。  たとえばコロナ禍で半分の従業員が無給の休暇という状態で苦しんでいる中、経営陣の報酬がまったく下がっていないことについて書いた2020年4月27日の記事では、それに対する広報の冷酷なコメントをそのまま載せている。「上場会社や善管注意義務の定義をあなたは、よく調べなければならない」  こうしたニュースソースに対しても遠慮のない報道は、日経にはないだろう。  アレックスのFTへの入社は、2005年9月。2年間の研修の後、正社員に採用された。現在はグローバル・メディア・エディターとして、メディア全般について書くとともに、デスクの仕事もしている。昨年は、部下の女性記者とともに、ポルノ産業の歴史とファイナンスについて半年間調査をし、それを、ポッドキャストの8本、計320分の番組にまとめている。  11月中旬に、日本のメディアの予備調査のために来日して、私に取材をしたことで知り合った。上智大学近くの焼鳥屋で、日本酒を傾けたが、「Sake with Shimoyama」の企画として私も少々厳しい質問を──。 「日経についても同様に厳しく書くこともあるのか?」  これについてはあっさりと「ない」と。 「英国の新聞は、自社のことについては書かない。FTもFT紙自身のことについては、書いてこなかった。これは日本経済新聞がFTを買収する前から、そうだった」  それも「FTの流儀」なのだそうだ。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年12月23日号
カリスマ家政婦も驚愕!片づけ現場で遭遇した「人・モノ事件簿2022」トップ5
カリスマ家政婦も驚愕!片づけ現場で遭遇した「人・モノ事件簿2022」トップ5 ※写真はイメージです(GettyImages) 片づけの伴走役としての理想は「わがままを言える相談相手」  2022年もたくさんのご家庭で、片づけのお手伝いをしてきました。自著『家じゅうの「めんどくさい」をなくす』でも述べているように、家庭によって、人によって、大事にしているモノやコトはさまざま。「これじゃダメです」「必ずこうしてください」などと私の意見を押し付けるのではなく、依頼者の暮らしの“ちょっとしたわがまま”を尊重することが私のモットーです。  さて、12月に入り、大掃除の時期が近づいてきましたね。皆さんの片づけマインドを盛り上げるためにも、私の振り返りのためにも、22年に整理収納の現場で遭遇したさまざまなモノや人、出来事をつづってみます。 カリスマ家政婦が遭遇<それぞれの“こだわり”> 遭遇事件簿(1)「ボールペンの替え芯は捨てないで」 比較的モノの量は少なめの書斎で、デスク周りの棚卸しをしていたときのこと。紙袋をぐるっと巻いた塊が出てきました。中を確認すると、ボールペンの替え芯がたくさん入っていました。未使用ではありません。使い切って、インクのなくなった替え芯です。 「これは…なんですか?」 捨て損ねたゴミかな、それにしてもこの量はすごいなと思い、処分していいかどうか依頼者に尋ねると、思いがけない答えが返ってきました。 「あ、それ僕のです。社会人になってから使ったボールペンは、芯だけ全部残しているんです。捨てないでください」  そういう思い出の残し方があるのか!とびっくりしましたね。事情がわかると、不思議と見え方まで変わってくるもので「これは依頼者のかけがえのない思い出、きっと宝物なんだなぁ…」と、私の胸もじわり温かくなりました。そして、引き続き丁重に保管しました。  詳しい経緯はお尋ねしそびれてしまい、わかりません。当初は書けなくなったボールペンを全て保管していたけれど、あまりにもかさばるので途中から芯だけ残す方法に変えたようにも見受けられました。いずれにせよ、膨大な量が1カ所にまとめられていたことで「何か意味があるのかも…」と、第三者のアンテナにも引っかかる存在感を放っていたのは確かです。 「使うか使わないか」とは違ったところに価値が生まれる「思い出アイテム」は、ご本人以外には価値が伝わりにくいものです。この事例のように、種類が絞られ、場所がまとめられていると、家族の誤解も防ぎやすいでしょう。 遭遇事件簿(2)「ダッフィーの蓋はどこですか?」 その家のリビング収納は、空き箱や空き缶を使って文具やご夫婦の私物が収められていました。全ての箱・缶にはしっかり蓋がされていたため、全てのモノを出して入れ直す棚卸し作業は、まるで宝探し状態。「そっか、これにモノサシとかを入れたんだった」「こっちは消しゴムだよ」「未使用の消しゴムならこちらにも入っていましたよ」「あ、これは妻の会社のノベルティーグッズだな」などと賑やかなやり取りがしばらく続きました。 「見えないモノは忘れてしまう」のは、あらゆる人に共通する片づけのわなです。  改善策として、(1)よく使うモノのケースは蓋をしないで並べる、(2)個人の私物(思い出)のケースは蓋をして重ねる――、という提案をしました。ところが、試しに作業してみていただくと夫氏がこういうのです。 「ダッフィーの蓋はどこですか?」  かわいらしいディズニーキャラクターの缶の蓋は、片づけのしくみ上は不要なため、まとめて別の場所に置いていたのですが、「離れた場所に置くのは好きではない」とのことで、すぐ脇にしまうことで納得されました。  決断力があって迷いのない夫氏は、同時に「箱と蓋が一緒になっていないと気持ち悪い」というこだわりを強くお持ちでした。「かわいいから缶の蓋は捨てたくない」という声はよくお聞きしますが、この方はそうではなく、シンプルなおかきの缶であっても同じように感じられるとのこと。蓋と本体が離れていることへの拒絶感は珍しく、非常に興味深かったのを覚えています。  個人の感覚的なこだわりが片づけのハードルを上げてしまうことは多いのですが、自分ではなかなか気付きにくいもの。こだわりを尊重しつつ、片づけやすくするための落としどころを見つけていきたいですね。 カリスマ家政婦が遭遇<好き、が原動力になる片づけ> 遭遇事件簿(3)ハワイアンズ愛と模様替え すっきりした空間が好きで断捨離が得意なお母さまと、おっとりしてマイペースな小学校低学年の娘さんと3人で進めた片づけは、「ねえ、コレもう要らないんじゃないの?捨てる?」と前のめりになりがちなお母さまを、たびたび私が「…まあまあ、そうせかさずに」と制しながらの作業になりました。  まず目に入ったのは、「鬼滅の刃」グッズ。あれこれお尋ねしていると、娘さんもいろいろと思いを話してくれるようになりました。飾っておきたいグッズ、捨てるのは嫌だけど飾るほどでもないグッズ…。ところが、ある程度の違いが見えてきたところで、鬼滅よりも彼女を熱くさせているのが「スパリゾートハワイアンズ」なのだとわかってきました。  現地で撮った記念写真や、フラダンスの衣装、手作りのハワイ小物などが実はたくさんあるほか、お部屋全体もハワイアンな空間にするためにカーテンを替えたり、ウオールステッカーを用意したりして模様替えを進めていたとのこと。その背景には、「ハワイアンの雰囲気で部屋をまとめたい」というお母さまの気持ちも感じられました。  そこで、「鬼滅&ハワイアン」の両方を尊重するモノの仕分けを進めつつ、仕上げの段階で「鬼滅の刃とハワイアングッズを両方こうやって並べると、お互いがケンカしちゃう感じがするけど、どう思う…? どっちかに絞った方がいいかもよ」と語りかけた結果、「ハワイアンでいく!」と決まりました。  手間はかかりましたが、ていねいに時間をかけたことでお部屋の模様替えを完成させ、親子間の満足度・納得度もギャップなくまとめることができて、ホッとしましたね。 カリスマ家政婦が遭遇<好きかどうかとは別にモノが増える事情> 遭遇事件簿(4)TPOに合わせた服 都心に暮らすあるご家庭では、「母が使い分ける服のTPO」のバリエーションに驚かされました。 ・日々の子どもたちの送り迎え用の服・お母さん同士で集まるときの服・授業参観のときの服・子どもたちの野球を見に行くときの服・家で過ごすときの服  「コレは○○用、アレは○○用…」と説明を聞いていると、同じ色みの服でも、ちょっとしたデザインや質感の違いで使い分けられているのがわかりました。子育てにおいて、「その場で悪目立ちしないための配慮」が大切な時期があることは、他の家庭でもたびたび感じることで、なるほど、こういう文化があるのか…と勉強になりました。  服を使い分けるためには、収納もしっかり分けましょう。用途ごとのアイテムがしっかり整理されていれば、着たいときにパッと着られて、戻したい時にサッと戻せるクローゼットにできます。 カリスマ家政婦が遭遇<人生の転機> 遭遇事件簿(5)60代の専門学校デビュー「和室に布団を敷いて寝られるようにしたい」というご希望を聞いてふすまを開けてみると、そこは壁になっていました。正確に言えば、私の背丈以上に日用品や何かの箱、家具などが積み上がっていたのです。衝撃的な光景でした。正直、「これは私の手に負えるレベルではない…」と感じました。  ところが、依頼者は本気でした。60代の年齢を感じさせないバイタリティーで、要、不要の判断を進め、1回目の片づけで大きな成果が出たのです。  聞けば、先日ようやく家族の問題が一段落し、「自分のために時間を使う」と覚悟を決めて料理の専門学校へ入学を決めたとのこと。4月になると学校が始まり、週末も実習の準備で忙しくなる、まとまった片づけはもうできない、やるなら今しかないんです!と力強くおっしゃるのでした。  家族の事情に合わせて暮らしていた時は、「今後どうなるかわからない」といった恐れの気持ちが強く、モノを捨てることがどうしてもできなかったそうです。でも今は、新生活を迎えるために快適な睡眠環境を作る必要があるから、捨てるのは好きじゃないけれどがんばって片づけたい、とのことでした。  2名態勢での訪問が続き、毎回ゴミ袋20袋以上のモノを処分。3カ月後、和室は布団を敷ける部屋に生まれ変わりました! 短期間でこんなにも空間と生活が変化するのは驚きでした。期限と目的が決まっていることはもちろん、生活に希望があることが、片づけの原動力になるのだと実感させられた出来事でした。  22年の片づけ現場を振り返ってみると、「片づけたくなるモチベーション」について、改めて考えさせられました。「今年こそ大掃除をがんばるぞ!」「だけど、何から手を付けたらいいかわからない」という人も多いと思います。そんな時は、『家じゅうの「めんどくさい」をなくす』を読んでみてくださいね。 (家族の片づけコンサルタント sea(しー)) sea(しー)家族の片づけコンサルタント国立音楽大学作曲学科卒業後、音楽活動の傍ら家事代行サービスに携わる中で、掃除や片づけで家や依頼者の人生が変わっていくのを実感し、現職へ。22年間にわたり、延べ約6000件のご家庭をサポートしてきた実績を持つ。長年の経験の中で、独自の整理収納のスタンスとノウハウを確立。インスタ映えより散らかっても気にならない空間づくりをモットーに、ただモノを減らすのではなく使う人みんながストレスなく片づけられる暮らしを提案。特に、家族単位での片づけには定評があり、単なる収納にとどまらず、家族内の片づけのゴールを共有するなどコミュニケーションの見直しから実践サポート。現在は、家事代行マッチングサービス「タスカジ」にて予約の取れない家政婦として活躍する一方、メディアや企業向け講演・研修など活躍の幅を広げている。著書:ダイヤモンド社『家じゅうの「めんどくさい」をなくす。』主婦と生活社『タスカジ sea さんのリセット 5 分の収納術』
【承久の乱ドキュメント(2)】攻勢に出るか?守勢か? 割れる幕府を一つにまとめた北条政子の「名演説」
【承久の乱ドキュメント(2)】攻勢に出るか?守勢か? 割れる幕府を一つにまとめた北条政子の「名演説」 承久の乱合戦供養塔は前渡不動山にある=2022年1月7日、岐阜県各務原市  鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。 *  *  *  五月十五日に後鳥羽上皇が挙兵を命じたとの情報は、十九日に鎌倉に達する。幕府内に衝撃が走るが、御家人たちの動揺を抑えたのが北条政子の演説である。  演説の存在自体は有名だが、実は史料によって内容が違う。『吾妻鏡』では、「平氏を倒し幕府を創設して以来、源頼朝から御家人に与えられた御恩は、山より高く海より深い」とその意義を強調する。上皇の命令は一部の臣下の企てだとして彼らの排除を促し、源氏将軍「三代」のレガシーを守り抜こうと訴えている。よく知られた内容だが、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂物であり、後世の歴史認識が混じり込んでいる可能性が否めない。  一方、乱から約10年後に、乱を実際に体験した貴族によって著された『六代勝事記』という歴史書には、文脈は近似するものの、ニュアンスの異なる演説が記録されている。右の『吾妻鏡』に見える内容と比べた場合、第一に、頼朝の功績の前提として前九年・後三年合戦を戦った頼朝の先祖である源頼義・義家への言及がある。第二に、将軍を「四代」と表現して将軍就任前だが摂家将軍頼経(三寅)の存在が考慮されており、しかも、歴代将軍の事績とされているのは「朝威をかたじけなくする」(朝廷の権威に畏敬の念を持つ)ことである。他にも、仏教が滅びることへの懸念が記されている。  後世に編纂された『吾妻鏡』は、文脈が近似している『六代勝事記』(もしくは『六代勝事記』が参考にした史料)を基に書かれたと考えられる。源氏の父祖や四代将軍頼経の存在に留意したり、朝廷の権威を重視したりする発想は、乱の起きた承久三年当時の認識としては、十分想定できるものである。『六代勝事記』の方が史実に近い可能性があるだろう。  一方、趣の異なる演説を記録しているのが軍記物語の『承久記』(慈光寺本)である。すなわち、娘(大姫)・夫(頼朝)・長男(頼家)・次男(実朝)に先立たれ、このままでは弟(義時)にまで先立たれてしまうとの老婆の悲哀が語られる。御家人に対して、上京し天皇御所などを警備する役務の負担軽減に実朝が取り組んだとの「御恩」や、鎌倉の頼朝や実朝の墓が戦火で荒らされれば神仏の加護は失われるとの揺さぶりも語られてはいる。しかし、全体的には政子の身の上が前面に押し出された内容となっている。『吾妻鏡』や『六代勝事記』では、幕府という政権の正当性が強調されているのに対し、『承久記』では政子個人の悲愴な思いが特筆されているといえよう。実際の演説は公私にわたる内容を含んでおり、史料によって注目すべきポイントが異なっているのだと考えられよう。  さて、政子の演説により幕府内は対上皇でまとまるが、いかなる戦略をとるかについては意見が割れた。北条義時ら首脳部による作戦会議では、足柄と箱根の守備を徹底して上皇軍を迎え撃つとの守勢作戦派が大勢を占めた。足柄と箱根は、伊豆・駿河両国と相模国との境にそびえる足柄山・箱根山を越える際の、北側ルートと南側ルートを指す。足柄峠より東を坂東と呼ぶが、この山地を越えれば関東平野に入り、幕府のある鎌倉までほとんど遮るものがない。幕府にとって足柄と箱根は最終防衛ラインなのだった。  守勢作戦に異を唱えたのが大江広元である。時の経過に伴い幕府方の結束がゆるみ、士気が低下する恐れがあることから、即時派兵による先制攻撃を主張した。先手必勝の攻勢作戦である。2日後、幕府では再び首脳部の作戦会議が開かれる。本拠の東国を離れて朝廷の軍に戦いを挑むことへの不安が、守勢作戦派から改めて表明される。これに対し攻勢作戦派の広元は、日が経てば経つほど心変わりする者が現れることへの危惧を述べ、北条泰時一人でも今すぐ出陣すべきだと主張した。さらに、老齢で会議を欠席していた三善康信も、北条政子からの諮問に対し、即時派兵を助言した。この結果、まず泰時が先陣を切って、鎌倉を出立することになったのである。  一連の議論に関して注目すべきは、幕府首脳陣のうち攻勢を主張したのは広元や康信など京の貴族社会で生まれ育った文官だということである。これに対して、北条氏ら有力武士は守勢作戦にこだわり、やや腰が引けているようにも見える。  武士とは本来貴族に奉仕する身分であり、いみじくも『承久記』に載る政子の演説にあるように「朝威をかたじけなくする」立場に他ならない。有力武士といえども、上皇に反旗を翻し朝廷の軍隊と鉾先を交えることは、あまりに身の程知らずの行動であって躊躇は当然だった。他方、京下りの官人はかえって貴族社会の実情に通じている。それゆえ、上皇軍の態勢が整う前に先手を打つことが何より得策であると判断しえたのだった。  この間、鎌倉ではやはり京から来た陰陽師により吉凶が占われるが、いずれも幕府の勝利を予言する結果が示された。 ◯監修・文/下村周太郎しもむら しゅうたろう/1981年東京都生まれ。早稲田大学文学学術院准教授。博士(文学)。主な著書に『図説鎌倉幕府』(分担執筆、戎光祥出版)、論文に「鎌倉幕府の草創と二つの戦争―<鎌倉幕府二段階成立史観>覚書―」他。 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から
【承久の乱ドキュメント(1)】北条義時を討つべし! 横暴を糾弾した「後鳥羽上皇」の複雑な思惑
【承久の乱ドキュメント(1)】北条義時を討つべし! 横暴を糾弾した「後鳥羽上皇」の複雑な思惑 承久の乱を描いた絵巻が2020年、京都市で見つかった。北条義時(左上)のもとに集まる武士たち  鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。 *  *  *  承久の乱はなぜ起きたのか。その遠因を複雑な人間関係の中に探ってみよう。  正治元年(1199)、初代将軍源頼朝が急死する。頼朝の跡を継いだのが嫡男の頼家である。頼家は生誕の時から頼朝の正式な後継者として遇されており、この継承自体は当然の成り行きであった。  しかし、頼家が征夷大将軍に就いた建仁二年(1202)の翌年、幕府政局は風雲急を告げる。頼家が阿野全成・頼全父子を討ったのである。全成は頼朝の弟で、頼家からすれば叔父、頼全は従兄弟にあたる。彼らは源氏将軍の血統を引いていた。しかも、全成の妻阿波局は北条時政の娘で、政子・義時兄弟とも親しい。全成は北条氏と近い関係にあった。  一方、頼家は政子の実子だが、北条氏とはやや距離がある。父頼朝の乳母は比企尼と呼ばれた比企氏の女性で、伊豆に流された頼朝を支援したのも彼女だった。頼家の乳母も比企尼の娘だが、のみならず妻にも比企尼の娘を迎えている。頼家の時代に幕府で存在感を放ったのは、母の実家北条氏ではなく、妻の実家比企氏なのだった。北条氏と比企氏が対抗する中で、頼家が近親の全成・頼全を排除したのは、権力基盤の不安定さを物語る。  全成・頼全の殺害直後、今度は頼家が病気を理由に引退する。ここで、さらなる事件が起きた。将軍の権限を子の一幡と弟の千幡(実朝)との間で分割することが決せられたのである。嫡子一幡に全権が譲られると思っていた頼家や比企氏にとっては、寝耳に水である。比企氏に対抗して実朝を推戴する北条氏の策謀であった。両者の対立は軍事衝突へと発展し、結果、一幡と比企氏は討たれ、実朝が将軍を継いだ。頼家は伊豆の修善寺に幽閉され、翌年、暗殺されたという。  しかし、頼家はもともと自他ともに認める頼朝の後継者だから、幼い実朝を将軍に担いで権勢を増す北条氏を快く思わない御家人も少なくなかった。北条氏と和田氏とが争った和田合戦に前後して、頼家の遺児・千寿(栄実)を奉じた反乱計画が相次ぎ発覚している。  そして、承久元年(1219)、頼家の遺児である公暁によって、実朝が暗殺された。翌月には阿野全成の遺児時元が、翌年には頼家の遺児禅暁も討たれる。将軍の後継をめぐる暗闘の背景には、頼家と実朝、同母兄弟でありながら、政治的バックグラウンドを異にする二人の将軍をめぐる錯雑な人間模様があった。  実朝暗殺にもっとも衝撃を受けた一人が後鳥羽上皇である。実朝は『新古今和歌集』など京都の最新文化に深い関心を示し、京都政界と良好な関係を築いていた。しかも、実朝と上皇はともに公卿坊門信清の娘を妻としている。すなわち、二人は義理の兄弟でもあったのだ。実朝の死により、公武間の友好は泡と消えた。 ■義時の横暴を糾断した後鳥羽上皇の真意  源実朝の暗殺は、幕府に重大な政治課題をもたらした。実朝には子供がいなかったため、将軍が不在となったのである。以前から政子は子のない実朝の後継に気を揉んでおり、後鳥羽上皇の乳母として京都政界に隠然たる影響力を有していた藤原兼子(卿二位)らと接触していたが、突然その時が来たのである。  これを受け、幕府は朝廷に対し、次期将軍として実朝の義姉が生んだ後鳥羽上皇の皇子を要請した。しかし、上皇は皇族の将軍が誕生すれば「日本国を二つに分ける」ことになると言って、要請を拒否した(『愚管抄』)。幕府は次善の策として天皇家に次ぐ家柄にある摂関家の子弟に狙いを定める。こうして、将軍候補として鎌倉に下ったのが、左大臣九条道家の子で弱冠二歳の三寅(頼経)である。三寅の父祖には九条兼実・一条能保・西園寺公経といった親幕派貴族の名前が並ぶが、なかでも能保の妻で父方の曾祖母は、源頼朝の実の妹であった。三寅は頼朝と血のつながりもあったのである。  しかし、この一連の動きに納得がいかないのが上皇である。前述の通り、実朝は上皇をはじめ京都の貴族と親睦があり、しかも、上皇とは義理の兄弟でもあった。友好関係にある実朝が甥の公暁に暗殺されたことは、上皇をして幕府への不信感を抱かしめるには十分である。しかも、幕府が実朝に代わる将軍として自らの子を要求し、それが叶わないとなるや、摂関家の子弟を将軍に引き抜いたことは、不穏以外の何物でもない。そして、貴族社会における身分は取るに足らない北条義時が、幼い三寅を傀儡として、我が物顔に権力を振るう様子は、耐え難いものであったことは容易に想像される。  上皇が挙兵に踏み切った事情を、『吾妻鏡』は次のように語る。上皇は愛妾亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘(大阪府豊中市)に置かれている地頭の停止を幕府に求めた。しかし、北条義時は頼朝が御家人に与えた御恩を特段の理由もなく取り消すことはできないと拒んだ。このことが上皇の逆鱗に触れたのだという。 『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に幕府側の立場から書かれた歴史書なので、額面通り受け取ってよいわけではない。愛妾の願いを叶えようとする上皇、他方、頼朝の御恩を重んじる義時。両者を対照させることで、私情を挟む後鳥羽の不当性と原則を貫く義時の正当性とを浮かび上がらせようとしている。ただ、義時が上皇の要求を拒むようなことが実際にあったとすれば、それは上皇の目には分不相応な振る舞いに映ったことは間違いなかろう。  こうして上皇は、承久三年(1221)、幕府に対して兵を挙げることになる。この時の上皇の命令を伝える五月十五日付の文書が2種類伝わっている。一つは官宣旨(弁官下文)という形式の文書、もう一つは院宣という形式の文書である。いずれも世の政治を牛耳り、朝廷の権威を軽んじていると、義時の横暴を非難する点は共通しているが、ただし、命令の対象と内容は多少異なっている。  前者は朝廷の歴とした公文書で、形式上の宛先は「五畿内・諸国」であり、内容的には全国の守護・地頭に対して「義時の身を追討」するよう指示を出している。一方の後者は、個人に宛てて出される私的な文書であり、幕府の有力者に対して「義時の奉行を停止」するよう働きかけている。ここでの「奉行」とは御家人を統率し幕政を担っていることを指す。すなわち、前者は不特定多数の武士に対する軍事動員であり、後者は特定の関係者に対する政治工作である。  軍略と政略の両面から、義時の権力を切り崩そうとしたわけである。ただ、この時の挙兵の最終目的が、あくまで義時個人を排除することにあったのか、幕府そのものを崩壊させることにあったのかについては、見方が分かれている。  確かに上皇の命令は義時個人を名指ししており、幕府という組織に対する敵意は必ずしも表明されていない。ただ、承久の乱の30年ほど前に起きた平泉政権の滅亡は藤原泰衡の追討と表現され、乱の110年ほど後に起きる幕府の実際の滅亡は北条高時の追討と表現された。当時は組織の代表者の追討が、組織そのものの打倒を意味することもある。仮に上皇の「義時の追討」が成功していた時、幕府が存続できていたかは不透明である。 ◯監修・文/下村周太郎しもむら しゅうたろう/1981年東京都生まれ。早稲田大学文学学術院准教授。博士(文学)。主な著書に『図説鎌倉幕府』(分担執筆、戎光祥出版)、論文に「鎌倉幕府の草創と二つの戦争―<鎌倉幕府二段階成立史観>覚書―」他。 ※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から
来年NHK大河は「どうする家康」 津川雅彦、内野聖陽…歴代「家康役」大研究
来年NHK大河は「どうする家康」 津川雅彦、内野聖陽…歴代「家康役」大研究 津川雅彦  2023年のNHK大河ドラマの主役は徳川家康。家康といえば、大河の長い歴史の中で多くの名優たちが演じ、それぞれの時代背景も反映した千差万別のキャラクターを披露してきた。あなたの心に刻まれているのは、どの家康だろうか? *  *  *  大河ドラマの中でさまざまに描かれてきた徳川家康。3月まで本誌で連載された、家康と毛利輝元それぞれの視点から関ケ原の戦いに迫った小説『天下大乱』(朝日新聞出版)の作者である作家の伊東潤さんはこう語る。 「大河ドラマには歴史を伝えていく役割も課されているので、大筋は史実に忠実でなければなりません。キャラクター面でも信長や秀吉、幕末でいえば西郷隆盛、勝海舟ら英雄たちは強烈な個性の持ち主なので、そのイメージを大きくは逸脱できません。一方、家康は後景に一歩引いている人物なので、比較的自由に描きやすい。だから時代ごとの世相や、脚本家やプロデューサー、俳優らの狙いを反映しやすい人物だと言えます」  家康が登場する初期の作品群の中で大きな足跡を残したのが1973年放送の司馬遼太郎原作作品「国盗り物語」だ。当時中学生だった伊東さんも夢中になり、大河を見てから小説を読む習慣が根付いたという。 「本作は、ディレクターの齊藤曉さんが、『分厚く、幅広く、しかも現代性のあるドラマとして作る』と宣言し、家康の描き方に限らず現代的価値観を反映した作品でした。大河ドラマ人気に火をつけた作品と言っていいのではないでしょうか」 寺尾聰 「国盗り物語」で家康を演じたのが寺尾聰だった。 「高橋英樹さんが信長で、近藤正臣さんが明智光秀。寺尾さんは脇を固めるべく、抑制された演技で家康を演じています。当時は山岡荘八さんの小説『徳川家康』の影響も大きく、家康が非常に肯定的にとらえられた時代でした。腹に一物あるというよりも、慎重で冷静な人物。寺尾さんは昭和の家康像の基礎を築いたと思います」(伊東さん)  寺尾はのちに「軍師官兵衛」(2014年)でも家康を演じている。 フランキー堺 ■誠実な正義漢か狡猾な野心家か  81年には橋田壽賀子原作の「おんな太閤記」が放送される。家康を演じたのはフランキー堺だ。伊東さんは言う。 「フランキーさんは91年の『太平記』で演じた長崎円喜のイメージも強烈ですが、ここでは“いい人”としか言えない家康を演じた。40代で豊臣家から家康に嫁ぐことになった朝日姫にも優しく接し、秀吉の正妻である北政所にも同情的でした。北政所の要望に沿って戦乱のない世を築いていくという、新たな家康像が誕生しました」  83年、ついに家康が主人公の作品が誕生する。滝田栄主演の「徳川家康」だ。時代劇や歴史物の映画やドラマに造詣が深いコラムニストのペリー荻野さんはこう語る。 「年を重ねるごとに徐々に自分のやるべきことを見つけていき、ここで乱世を終わらせるんだという決断力、誠実さと正義感を持って生き抜いた。姿勢よく声量もある滝田さん演じる家康像は、自分は前線に立たず信長・秀吉の成果を奪うそれまでのイメージと違い、真剣に悩み、行動していた。背負うということの大変さに気づかされました」  87年の「独眼竜政宗」では、津川雅彦さんが家康を演じた。前出の伊東さんがこう語る。 「まさに昭和の家康の集大成ともいえる役作りでした。渡辺謙さんの政宗と勝新太郎さんの秀吉に対し、一歩引きながらも野心を持つ、それでいて情けも併せ持つという人物像でした。このあたりから家康像に変化がみられ、野心家というダークサイドの部分が入ってきた気がします」  ペリーさんも、津川家康が印象的だったと語る。 「85年の朝ドラ『澪つくし』でも津川さんの魅力を引き出したジェームス三木さん脚本でしたから、おもしろいったらない!腹の底は見せないけれど、たとえば爪を噛むような小さなしぐさひとつとっても、オーバーアクションに見せずにとことんやる。私たちはそれを見てゲラゲラ笑う。そのあたりの“津川エンタメ”はさすがでした」 郷ひろみ  津川は2000年の「葵 徳川三代」(ジェームス三木脚本)でも家康を演じている。  平成に入り、92年には緒形直人主演で大河のイメージを一新した「信長 KING OF ZIPANGU」が放送。郷ひろみが家康を演じた。 「緒形さん以外にも菊池桃子、的場浩司、仲村トオル、中山美穂らそうそうたるメンバーがそろい、『トレンディー大河』とも言われました。そこにヒロミゴー(笑)。緒形さんたちより先輩格の郷さんが、津川さんなどが見せる貫禄とはまた違う、独自の貫禄ある家康を印象づけました」(ペリーさん) 西村まさ彦  96年、竹中直人主演「秀吉」で西村雅彦(現・まさ彦)が演じた家康が、これまでのイメージを覆したと伊東さんは言う。 「竹中さんの秀吉と真田広之さんの三成の“演技合戦”的側面もあった作品。西村さんはその脇にいながら、腹黒さやずるがしこさを表現し、実に強いクセのある家康像を披露してくれました」  2006年には「功名が辻」で西田敏行演じる家康が登場。イメージぴったりだが、家康役は初だった。11年の「江」では、北大路欣也が威厳たっぷりに演じた。このときのインパクトからか、「青天を衝け」(2021年)でも、北大路家康がナビゲーター役で登場したのが記憶に新しい。 内野聖陽 ■待つだけの家康やるわけがない  16年、内野聖陽が「真田丸」で演じた家康について、伊東さんは「これこそ新しい時代の家康像ではないでしょうか」と評する。家康を主人公にした伊東さんの作品『峠越え』(2014年)では、英雄でもなく腹黒くもない、「凡庸な」家康が描かれていたが、「真田丸」で描かれた家康にも、そうしたイメージに通じるものがあったという。 「油断もするし失敗もするユーモラスな家康像を、内野さんがつくりあげました」(伊東さん)  ペリーさんも、内野家康の印象は強いと語る。 「07年の『風林火山』のときは主役だったからあまり無茶はできなかったと思いますが、脇で自由にできる『真田丸』で、あの家康! 伊賀越えのときに転ぶシーン、最高でした。おっちょこちょいで、斉藤由貴演じる側室の阿茶局に『爪を噛まない!』と怒られて。それでいて『てへ』みたいなお茶目な面があり、一方で主人公の最大の壁となって最後は勝つ側になる。毎週内野さんが出てくるのが楽しみでした」 滝田栄(所属事務所提供)  伊東さんは、平成の家康像をこうみる。 「謹厳実直な律義者という表の顔だけでなく、腹に一物ある『謀略家』、さらに内野さんの家康のようなユーモラスな一面を強く打ち出すようになりました。つまり、表裏がある人物、凡庸でありながら、這い上がっていく人物像が定着していったように思います」  そして2023年1月。滝田栄の「徳川家康」から約40年の時を経て、大河の単独主人公としての家康が帰ってくる。主演は松本潤。「リーガルハイ」や「コンフィデンスマンJP」の古沢良太が脚本をつとめる「どうする家康」だ。ペリーさんは大いに期待していると語る。 「大河ドラマには、史実を織り交ぜながら脚本家がどういう人物造形をしていくのかという楽しみ方もあるんです。そう考えると、あの古沢さんが、普通の家康、ホトトギスを待っているだけの家康をやるわけがない。しかも、タイトルが大河で初めて問いかけ型の『どうする』ですからね。今川家に人質に取られて苦労した幼少期から、常に『どうする』と選択肢を突きつけられながら何かに気づいていく家康を描いていくのでしょう。大きなテーマにどう向き合っていくのか、楽しみです」  令和初の主役・家康ということにもなる。伊東さんは言う。 「この家康が『令和の家康像』の指針になると思います。責任重大ですが、どんな演技を見せてくれるか、今から楽しみです」  どうする、松潤。 ■「寺での生活で見つけた新たな家康像」 1983年「徳川家康」主演 滝田栄さん  いわゆる“狸親父”的なそれまでの家康のイメージとは違う、端正なルックスの滝田栄さん。1983年放送のNHK大河ドラマ「徳川家康」の主役として抜擢されたとき、「なぜ滝田が家康なんだ!?」という声が世間にあったという。 「僕自身も『なぜ僕が家康なんだ!?』と思いました(笑)。それまでさまざまな役を演じてきましたが、家康という人物のイメージは狡猾、狸親父、気が弱い……表層的なものばかりでその中に入る手がかりが全くつかめない、役作りにおいてこれまでの方程式のようなものがまったく通用しない感覚でした」 JR静岡駅前の徳川家康銅像  家康の実態に触れようと、滝田さんは静岡市にある今川家の菩提寺・臨済寺を訪ねた。幼少期の家康が人質として預けられた寺だ。 「人間として基本的なものを身につける一番大事な時期をすごした環境。もしかしたらそこで家康の人格は培われたのではないかと感じたんです」  何度も断られては門をたたき、許された修行僧との厳しい生活の中で、何かをつかんだ。 「他の武将たちはみな、自分の欲望を剥き出しに生きています。しかし家康だけは違う。華美を戒め、自分たちは天下太平のため、天下万人を幸せにするために政治をするんだと。厳しい生活の中で家康は何を学んだかつかめた気がしました。もう大丈夫だと思いました」  家康の質素さは、食事にも表れていたという。 「生涯通して一汁一菜なんですね。将軍になってからも華美な生活はせず、食事はお粥一杯が体にもいいんだと周囲にも話している。人間50年と言われた時代に70まで生きて、世の中を見通していた。あの頭の冴え方も、寺での生活のおかげだと思うんです」  撮影が始まってからは、一気に駆け抜けたような感覚で、記憶はほとんどないという。 「戦国という時代を終わらせた人間がどういう生きざまでどう実現したのか。浅い風評でしか認識されていなかった本当の家康のすごさ、偉大さをしっかり見せるんだという思いでした。ここまで深いものを芝居で求められたことはなかったです。難しかったけれど、ものすごく楽しかった。撮影が始まる前にプロデューサーと制作サイドに『これを演じたら、このあと演じるものがなくなっちゃうかもしれませんよ、いいですか?』と言われた意味もわかりました」  新たな家康像を作り出し、自分の中で、役柄としての家康像は完成したという思いだったという。 「しかし、終わってからさらに楽しくなっちゃいました。家康に本当に惚れてしまって(笑)。もっとマニアックに家康の実態を知りたいという思いで、あちこちに残った記録や逸話を求め訪ね、自分の中で楽しむようになりました」  87年の大河ドラマ「独眼竜政宗」で主役をつとめた渡辺謙さんがプロデューサーに連れられてきて、主役の心構えを教えてやってほしいと言われた。 「教えることなんて何もないと言ったのですが(笑)。ただひとつ、僕自身の経験としては、頭でわかったつもりでも、“演技”なんか通用しない、“本気”だった。それだけでしたと謙ちゃんに言ったことは覚えています」 「どうする家康」では約40年ぶりの家康を単独で主役とした大河ドラマとなる。 「やるからには、おっと驚くような家康の魅力を見つけてほしいですね」 週刊朝日 2022年12月16日号より (本誌・太田サトル)※週刊朝日  2022年12月16日号
天龍源一郎が語る“亡き妻と後輩たちへ” 「手強い交渉人」といわれた奥さんの手腕とは!?
天龍源一郎が語る“亡き妻と後輩たちへ” 「手強い交渉人」といわれた奥さんの手腕とは!? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、今年6月24日に亡くなった妻への想いや現役プロレスラーたちへのメッセージを語ってもらいました。 *  *  *  今も入院生活を送っているが、まあまあ順調だね。リハビリも遅々としてだが進めているから、来年の早い段階でファンの前に姿を見せられたらなと思うよ。  俺が入院してすぐ、妻・嶋田まき代の書籍「天龍源一郎の女房」(ワニブックス)が俺たちの結婚記念日、9月26日に刊行されたんだが、それを読むことができたのは2ヵ月くらい経ってからなんだ。だから、読み終えたのはつい最近のこと。 本は手元にあったんだけど、手を伸ばそうとすると、その手がすくんでしまってね。まき代が命を削ってさらけ出して書いたことを、たらたらと読んでいいのかという気持ちだったんだ。やっぱり感傷的になってしまうね。  ようやく本を読んで、いろいろなことがあったよなと思い出すけど、やっぱり思い出深いのは、結婚してすぐにまき代が「天龍源一郎を日本一のプロレスラーにする」と言ったことだね。動きがモソモソして、決してシャープとは言えない当時の天龍を日本一にするなんて公言して、周りのレスラーは「何言ってんだ?」という気持ちだったろう。  それでもまき代はその言葉通りに実行して、家族で旅行に行くときも家族全員の荷物を抱えて娘の手を引いて、俺の後ろをついてきてくれた。新幹線に乗っても俺だけグリーン車でね。俺が飲みにいくときもありったけの金を持たせて、俺にいい顔をさせてくれたり。自分では一生懸命頑張って稼いでいるつもりだったが、まき代が持っていた貴金属を質屋に入れたりして生活費にして食いつないでいた時代があったのを知って、ショックを受けたりね。 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『WRESTLE AND ROMANCE』Vol.8/開催日時2022年12月11日(日)OPEN11:30/GONG12:00/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP ▽特別リングサイド…6,500円(東西南1列目 /2列目) ▽指定席…5,500円(南側ひな壇)/チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  それを知ったのは、全日本プロレスを辞めてSWSに移籍する前後だったと思う。俺が後輩や記者を連れて豪快に飲み歩いていた時期だね。天龍がすごく稼いでいるように見えたし、“酒豪伝説”も生まれた。これもまき代がお金を右から左へうまく工面してくれたりと、彼女の理解とサポートがあったおかげで生まれたものだ。  それから本に書いてあったことで印象的だったのは、俺がフリーになって新日本プロレスのリングに上がっていたとき、彼女が交渉の窓口になってくれていたこと。当時の新日本は長州力や永島勝司さんがコンビを組んでいろいろなことを仕掛けていて、勢いがあった時期だ。その永島さんとまき代が交渉するんだが、永島さんはインタビューで「ギャラの問題になると奥さんが出てくるんだよ。タフ・ネゴシエーター(手強い交渉人)だったなあ」と言っていたそうだ。あの当時の永島さんにそう言わせるんだから大したもんだよ!   まき代は交渉するとき、無理強いするんじゃなくて、うまいことポイントをついて攻めていたね。例えば新日本相手だと「ここで天龍が出るから、これくらい儲かるんじゃないの? だからこれくらい払ってもどうってこと無いでしょう」ってね。 新日本のドーム大会でどれだけ客が入っていくら儲かるのかなんて、普通は算段できないよ。それを女一人で計算して攻めてたから、向こうにすればまき代はだいぶ強面だったと思うよ。今でも新日本相手に、天龍の女房として毅然とした態度で堂々と渡り合っている姿を思い出すよ。それにしても、頼もしかったなあ(笑)。  そんなまき代の姿を見ていたから、俺の書籍「俺が戦った真に強かった男」(青春出版社)でも、多くのプロレスラーたちが並ぶ中、最後にまき代のことについても触れたんだ。実際に彼女がよくやってくれて、アドバイスしてくれて、それで完成したのがプロレスラー天龍源一郎だからね。  この本の中ではジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さん、ジャンボ鶴田、ハルク・ホーガン、ドリー&テリー・ファンク、ミル・マスカラスといろいろなレスラーを挙げているけど、俺が思う中で特に強かったのはスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディだ。  俺にとっては大きな壁であり、目標だったからね。現役時代はスタンとバチバチにやり合ったけど、二人とも引退して、先日も俺が入院先からリモートでトークバトルをやったけど楽しかったね。スタンも冗談を言いながらニコニコとトークしてくれてさ。  俺の引退試合の相手、オカダカズチカもこの本にメッセージを寄せてくれている。「天龍さんが誇りに思ってきたプロレスをしっかり引継ぎ、さらに進化させて、天龍さんが妬いてしまうようなプロレスをしますんで」という言葉があったが、潔いじゃないか! アッパレだ!  でも、オカダよ、最近少し停滞しているんじゃないか? 新日本プロレスと全日本プロレスのエースは常に最前線でプロレス界を引っ張る活躍をしてもらわないと困るよ。年齢的にもまだまだできるだろう。ちょっと一休みしているのか? 俺を嫉妬させてやるという気持ちを常に発揮してくれよ!  それからオカダは「昭和のプロレスもすごかったけど、今のプロレスだって負けていないんだよ、ということを伝えたかった」とも言っていたね。昭和、平成、令和といろいろあるが、俺が思うのは肉体的なレスラーのすごさが、今のレスラーには足りていないと思うんだよな。 きれいなプロレスをする華奢なレスラーが増えているように思えて、それも「時代が求めているんだからいいだろう」と言われればそれまでだが……。俺としてはほかのスポーツをやっている人がプロレスを見て「俺でもできるんじゃないか」と一瞬でも思わせることがあってはならないと思っている。  俺がプロレスに転向してすぐ、1970年代前半にアメリカ修業時代にインディアナポリスで、イワン・プトスキーというレスラーを見たときは、岩みたいなからだつきに驚いたもんだよ。元力士の俺が「すごいからだをしている!」と思うくらいだからね。当時はそんなからだのレスラーがたくさんいて、そういう人たちが全力でぶつかり合う姿を見て、お客さんが熱狂していたよね。華やかな技でどうのこうのより、肉体のせめぎあいが従来のプロレスだと思うから、今のプロレスもそこから逸脱してほしくない。  俺が書いたのは、実際に戦った者でないと知りえないレスラーのすごさやその対比だ。そうやって戦った者やそれを見たファンが語り継がれるレスラーがこれからも生まれてほしいし、オカダにもそういうレスラーになってほしいと思う。俺の今の状態についてもオカダは「そんな病気に負けるような天龍源一郎じゃないでしょ!」と言っているが、これは長州がよく言うセリフ「お前に俺の何がわかるんだよ!」をそのままぶつけてやる(笑)。  俺が65歳まで現役を続け、いろいろなケガやダメージが重なってできたからだだから、オマエにはまだまだわからないことが多いぞ! 先輩レスラーとして、後輩には俺と同じようになってほしくないから、俺や何人かのレスラーがからだを代償にして贈ったメッセージだと思って、もう一度、鍛錬して、ケアして、自分を高めていってほしい。いつまでも一休みしてないで、語り継がれるレスラーになれよ! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
「さらば青春の光」個人事務所で前代未聞の“ぼろ儲け”の真相
「さらば青春の光」個人事務所で前代未聞の“ぼろ儲け”の真相 「さらば青春の光」の森田哲矢(左)と東ブクロ  最近、お笑いコンビ・さらば青春の光の勢いがすごい。各局のバラエティー番組に引っ張りだこで、11月からはテレビ東京系でMCを務める番組も始まった。22日放送予定の関西ローカルのバラエティー特番の収録で森田哲矢(41)は「ひと言でいえば儲かりました」と述べ、個人事務所「ザ・森東」の業績は順調だと語っている。  2008年に森田と東ブクロ(37)が結成したさらば青春の光は、2013年に所属していた松竹芸能を退社。フリー芸人として東京進出し、その後自ら事務所を興した。キングオブコントをはじめとする賞レースで結果を残しつつ、気づけばテレビでも引く手あまたの存在に。最近でも『あちこちオードリー』(テレビ東京、11月2日放送)に出演した際、「こんだけ働いても(年収が)億いかないってなると、メンタルは削られます」と発言し、話題になった。この発言の真意について、民放バラエティー番組のプロデューサーはこう明かす。 「この年収発言は業界内でも話題になりましたが、要は『ちゃんとした事務所なら億越えするほどの出演本数なのに、まだ働かないといけないのか』という思いなのでしょう。彼らの個人事務所のギャラ配分は、マネージャーと3等分というのは有名な話。しかも小さい個人事務所ですから足元を見られやすく、ギャラ交渉もできない。森田さんいわく、『テレビでギャラ交渉をしても3万が5万に上がるだけ。だったらすべて言い値でやって、テレビ露出を増やしたい』という戦略を取っているそうです、今のテレビ業界はお金がないですから、安くてうまい森田さんにオファーが殺到するのは当然といえば当然。彼らの場合、YouTubeが好調なので、テレビで知名度を上げてYouTubeや単独ライブの動員の集客につなげる考えなんです」  現在、YouTubeは6チャンネルも運営。メインチャンネルは登録者数85万人を突破し、彼らの主戦場としてしっかり機能している。 「6チャンネルをあわせると150万人ほどの登録者数になりますから、YouTubeだけでおそらく年間5000万円前後の売り上げになる計算です。相当成功している部類でしょう。彼らのチャンネルの魅力は『地上波では絶対にできない』ことを全力でやっているということ。『屁をこける女性をTwitterで募集 屁こきダービー』『東ブクロの私生活をGPSでガチ追跡』『GPS追跡風俗』など、テレビの企画会議には危なくてあげられないようなものばかり。当然リスクはありますが、YouTubeなので炎上覚悟でやれますし、個人事務所なのでスレスレの企画もノリで通してしまう。YouTubeとはいえ、大手芸能事務所所属ならばここまで下品なものはOKが出ない。なので、他の芸人は羨望(せんぼう)のまなざしで彼らを見ていて、コンプライアンスという重荷に苦しんでいる若いディレクターもまた憧れてしまう。予算も削られ、自由度も低くなり、『面白くなくなった』と言われて久しいテレビのカウンターとして、彼らの芸風が求められているのだと思います」  とはいえ、「本人たちは現状には満足してないはずだ」と言うのは、バラエティー番組を多く手掛ける放送作家だ。 「YouTubeでは過激なことをやればやるほどバズりますが、彼らはあくまでも“昔の深夜番組”くらいのレベルにとどめており、そのバランス感覚はお見事です。それがここまで人気コンテンツになるのだから、テレビ離れの恩恵を最も受けているのは、このコンビかもしれません。とはいえ、彼らはコントで世に出てきた芸人。『キングオブコント』では6回も決勝に進出しています。無冠のまま2018年に自ら卒業しましたが、やはり忸怩たる思いはあるでしょう。しかし、賞レースを自ら卒業したことでテレビ露出が増えたとも言える。今後、彼らのコントが単独ライブでしか見られない状況になれば、当然ライブの動員は増えるはずです。そのラインを狙っているのかもしれません」 ■東ブクロの次なる醜聞対策もバッチリ!?  そんな彼らにも“弱点”はある。東ブクロは2013年に先輩芸人の妻との不倫スキャンダルを起こし、昨年も週刊誌で複数の元彼女に対し、中絶をさせていたと報じられた。 「最大のネックは、東ブクロさんがいつスキャンダルを起こしてもおかしくないこと。自ら女性好きを公言し、下半身にだらしないことをネタにしていますが、昨年の中絶スキャンダルでは収録したバラエティー番組がお蔵入りになるなど、実害も出ています。今春からようやくコンビでのテレビ出演がかないましたが、各局はかなり警戒しています。今、地上波のバラエティーに出るとき、森田さんは『スキャンダルがいつあっても編集しやすいように』と東ブクロを一番端に座らせるようお願いしているといいます。戦略家の森田さんだからこそ、リスクの高い相方自体を武器にしている面がありますが、次に大きなスキャンダルが出たときどうなるかは心配ですね」(前出の放送作家)  お笑い評論家のラリー遠田氏はこう述べる。 「さらば青春の光は、もともとネタに定評があり『キングオブコント』では前人未到の6回の決勝進出という記録を持っています。ネタ作りを得意としているだけでなく、トーク力や演技力、企画力にも秀でていて、YouTubeでも笑える企画を量産しています。彼らは何よりもまず“面白さ”という一点で突出しているからこそ、芸人や業界関係者、お笑いファンから一目置かれているのです。さらに言えば、大手事務所からの独立騒動、東ブクロさんの女性スキャンダルなどの逆風があっても、それを逆手に取って開き直ることで、独特のポジションを確立することにも成功しました。東ブクロさんだけでなく、森田さんも女性好き、風俗好き、ゴシップ好きのゲスいキャラクターをあえて前面に出すことで、そういう路線の仕事を総取りしています。転んでもただでは起きない“雑草魂”を持っていることが彼らの強みでしょう」  スキャンダルという“爆弾”を抱えながらも、徹底的に面白い笑いを追求していこうとする姿勢が、多くの人に支持されているのかもしれない。(藤原三星)
ヒロミ「スッキリ」後継MC報道 復帰9年目で大出世できた理由
ヒロミ「スッキリ」後継MC報道 復帰9年目で大出世できた理由 ヒロミ  朝の情報番組「スッキリ」(日本テレビ系)が来年3月をもって終了することが決定しているが、後継番組のMCにタレントのヒロミ(57)の名前が浮上している。「NEWSポストセブン」(11月30日配信)は、MCとしてすでに内定しているとの業界関係者の話を紹介。さまざまな番組での実績に加え、最近は主婦層にも人気があるため適任で、来年4月以降のスケジュールがすでに押さえられているというのだ。  ヒロミといえば1980年代後半にお笑いトリオ「B21スペシャル」のリーダーとして人気を博し、1990年代から2000年代にかけて毒舌キャラで大活躍。しかし、その後10年間はテレビから離れていた時期があった。14年頃からテレビ復帰したが、その際に出演した「しくじり先生 俺みたいになるな!!」(テレビ朝日系)で、テレビから姿を消した経緯を告白していた。  絶頂期に週10本のレギュラーを抱え、天狗状態だったというヒロミ。さらに、後輩タレントやスタッフにふざけて「腹パンチ」をするなど、自覚のないパワハラを繰り返していたという。そうした悪態に視聴者からも批判が集まるようになり、レギュラー番組の全てを失うことに。一方、その後は心機一転してトレーニングジムの経営に専念し、経営者として過ごす中、優しさやいたわりの心を持つようになったという。 「50歳をすぎてから、ここまで人気を維持しているのは休業を経て丸くなったからというだけではないでしょう。復帰後に引っ張りだこになった要因のひとつは、趣味であるDIY系の企画で高い技術をみせているから。最近でも『有吉ゼミ』の企画で、広さ2000坪の敷地を開拓しキャンプ場の設営に取り組むほどの腕前です。10月には、自らも作業を手伝いながら2~3カ月かけて別荘の倉庫をリフォームしたことを自身のYouTubeチャンネルで報告。金づちを片手に手慣れた様子で大工さんとともに床や天井を作っていました。今の若い視聴者には、過去の生意気なイメージよりも、頼れるオジサンという印象が強いでしょう。言葉遣いはあまり変わっていませんが、キャリアや年齢的にも呼び捨てやタメ口に違和感がなくなったところも大きいでしょうね」(テレビ情報誌の編集者)  情報バラエティーやワイドショーでは庶民目線で常識ある大人のコメントをすることも多く、中高年女性の取り込みにも成功しているようだ。「ヒロミは芸能界いち、コミュ力が高い」と言うのは民放バラエティー制作スタッフだ。 「若手の頃からビートたけしや所ジョージなどの先輩あしらいの巧みさが抜群でしたが、芸能界での交友の広さは随一です。家族ぐるみで付き合っているという藤井フミヤや木梨憲武は有名ですが、浜田雅功や内村光良ともゴルフ仲間です。さらに、森繁久彌らが立ち上げた芸能人・文化人の射撃愛好会の3代目の会長をしたり、高橋みなみやフワちゃん、アンジャッシュ児嶋一哉など八王子出身の芸能人で構成される『八王子会』の代表も務めています。元SMAPの中居正広をはじめジャニーズの面々もヒロミを慕っている人は多く、先日退所した滝沢秀明との仲の良さはよく知られています。これだけ顔が広いのに、今まで情報バラエティーのMCをしていないほうが不思議です。今のテレビ界で、彼以上の適任者はいないでしょう」 ■伊代の親衛隊にも認められている  一方、先日テレビの収録で負傷してニュースになった妻・松本伊代(57)の存在も大きい。アラ還となった松本だが、天然キャラは健在で、今も“永遠のアイドル”としてバラエティー番組に出続けている。「そんな松本とのおしどり夫婦ぶりが、さらに好感を呼んでいる」と言うのは前出のテレビ情報誌の編集者だ。 「夫婦仲の良さは有名ですが、最近もヒロミが松本に対して『生きてりゃいいよ』という気持ちでいるとインタビューで明かしていました。また、芸能活動から離れていた時期も相当助けられたと語っています。一方、松本も仕事で失敗したときなどは『ママはそのままでいいから大丈夫』と受け止めてくれると、ヒロミについて話しています。何を言っても味方でいてくれる大きな存在だそうです。また、2020年にヒロミが自身のYouTubeチャンネルで松本の髪を切る動画を公開したのですが、再生回数は500万回を超え『いつまでもすてきなご夫婦』など、多くの称賛コメントが寄せられていました。ラブラブな熟年夫婦ぶりに癒やされる人も多いのだと思います」  芸能評論家の三杉武氏はヒロミの好感度の高さをこう分析する。 「近年のヒロミさんの人気の背景として、やはり奥さんの松本伊代さんの存在は無視できないでしょう。おしどり夫婦ぶりは広く知られていますが、伊代さんが先日行ったデビュー40周年ライブにヒロミさんが祝福に駆けつけた際、10代の頃から伊代さんを応援している親衛隊の人たちからも大歓迎を受けていました。結婚後もずっと変わらず、妻の伊代さんを大切にしていることが、彼女のファンからも認められている。こうした根っからの愛妻家ぶりが、昨今のテレビ業界を支えている女性視聴者層の人気につながっているのでしょう。売り出し中の若い頃はヤンチャなイメージや押し出しの強さが悪目立ちしたり、後輩芸人たちに対する面倒見の良さが裏目に出てスパルタ的な指導が過ぎることもあったようですが、年齢を重ねて、今では成熟した魅力を醸し出しています」  本当に“朝の顔”となれば、どんなMCをしてくれるのか。今から楽しみだ。(丸山ひろし)

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