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「自分の言葉で伝えたい」天皇陛下が17年間学び続けるスペイン語 “先生”が振り返る愛子さまとのレッスン
「自分の言葉で伝えたい」天皇陛下が17年間学び続けるスペイン語 “先生”が振り返る愛子さまとのレッスン 2013年6月、フェリペ皇太子同妃主催の晩餐(ばんさん)会で、あいさつに立つ皇太子さま(当時)/マドリードの王宮  63歳の誕生日を迎えた天皇陛下。国内はもちろん、世界のロイヤルや要人などと交流する立場だけに、語学も重要だ。英語以外にフランス語、スペイン語も学ぶ陛下。17年間にわたり、スペイン語を天皇陛下に教えるカルロス・モリーナさん(70)に、授業を通じてはぐくんだ陛下との交流について、話を聞いた。 *  *  * 「つい先週も天皇陛下の授業を行ったばかりです」   そう話すのは、カルロスさんだ。  コロナ禍が始まった当初は授業を中断した時期もあったが、2020年7月には再開。皇太子時代から続く授業は今年で17年目に入った。 「いまは、仕切りもマスクもせずに勉強しています。というのも、勉強をする部屋の机は3メートルほどもあり、すごく大きいためです」   カルロスさんが初めて天皇陛下と対面したのは、また陛下が皇太子だった06年のこと。陛下のライフワークである「水」問題の国際会議がメキシコで開かれることを受けて、陛下はスペイン語に関心を持ったという。  メキシコの母国語でもあるスペイン語は、ラテンアメリカ地域を中心におよそ20の国や地域以上に広がる。英語とスペイン語を習得すれば、コミュニケーションには苦労しないといわれるほどだ。   実際には、陛下が海外の人と交流する場面では、通訳が必ず立ち会う。しかし陛下は、「自分の言葉で伝えたい」と、勉強することを望んだという。  外務省職員のスペイン語の主任講師を務めていたカルロスさんに、外務省の儀典官室から打診がきた。 「皇太子さまの『先生』をして欲しい」  思いがけない依頼に驚きつつも、宮内庁で面接を受け、その2日後に「採用」の連絡を受けた。授業は、当時の東宮御所の一室で行われた。初めてのカルロスさんとのあいさつのやりとりは、勤勉できまじめな陛下らしいものだった。  カルロスさんはスペイン語で、皇太子殿下を表す「Su alteza」という敬称を用いて、あいさつをした。スペイン語については、ほぼゼロからのスタートであった陛下は、カルロスさんにこう質問した。 「それは、どういう意味でしょうか」 2013年6月、スペインで歓迎を受ける皇太子さま(当時)  カルロスさんの説明を経て、無事に対面のあいさつは交わされたという。  多いときは週に1回、忙しい時期でも月に1回ほどのペースで10年以上にわたり授業は続く。  また、ゆくゆくは公務を担う愛子さまの立場を考えたのだろうか。 「愛子には、英語より先にスペイン語に触れさせたいのです」   そうした陛下の願いで、当時6歳の愛子さまもカルロスさんの授業に参加した時期がある。カルロスさんは、スペイン流に頬を合わせて愛子さまへあいさつをした。  お父さまの隣にちょこんと座る愛子さま。陛下が文法などに取り組む間、カルロスさんと愛子さまは絵のついたカードを使い、遊びながら簡単な会話や単語に触れた。  勤勉な陛下らしく、事前の準備は欠かさず、授業中はしっかりメモを取るなどをして、愛子さまのサポート役も務めたという。  授業の様子はどうだったのか。  カルロスさんは、思い出したように少し微笑んで、こう言った。 「6歳の子どもが外国語を学ぶのは難しいものです。集中力が途切れると、隣の(当時の)皇太子さまに『ピアノの楽譜はどこにあるの?』などと授業に関係ないことを話しかけていらっしゃいました。(愛子さまとの)授業自体は1年ほどでしたが、楽しい思い出です」  それから10年以上の歳月が流れた。  カルロスさんは、愛子さまが学習院大学での第二外国語としてスペイン語を選択したことを陛下から聞き、嬉しさを感じたという。  陛下は、「自分の思いを自分の言葉で伝えたい」という思いを実行に移している。  13年、「日本スペイン交流400周年」を機に行われたスペイン訪問。当時のフェリペ皇太子夫妻主催の晩さん会のあいさつで、陛下は東日本大震災での支援に感謝を示している。 この時、陛下に同行した外務省の通訳は、カルロスさんの研修所での教え子だった。後日、カルロスさんはその教え子から、陛下があいさつで触れた震災への支援のお礼と、漫画やアニメ、フラメンコやワインといった日本とスペインの文化交流の部分については、外務省が準備した原稿ではなく、陛下自身が言葉を選び、あいさつ文を練ったと聞いた。  そのときのあいさつは、次のようなものだった。  【日スペイン間の温かい友情は、両国の皇室と王室との関係にとどまるものではありません。2011年3月、日本が未曾有の震災に襲われた際、スペイン王室はもとより、スペイン国民の方々から心温まる支援や励ましを頂きました。また,福島原発事故の初動対応に従事した「フクシマの英雄たち」に対し、スペインで最も権威のある「アストゥリアス皇太子賞」が授与されたことについては、日本でも大きく報じられました。こうした温かい友情と連帯の表明を通じ、両国の絆(きずな)はさらに強いものになりました。「逆境の時の友が真の友(El amigo en la adversidad, es amigo de verdad)」という諺(ことわざ)の意味を,我々日本人は改めて深く噛かみしめました】  また、和食やアニメなど、日本文化への関心が高まっていることを挙げ、両国の交流への期待を寄せた。 【近年では、新鮮な食材の持ち味を引き出す和食の魅力がスペインの皆様に広く親しまれ、漫画やアニメーションなどの日本文化もスペインの若者になじみ深いものになっています。日本でもスペインへの関心が高まっており、フラメンコ、スペイン料理やワイン、ファッション、そしてサッカーなども注目を集めています。このように、国民レベルで双方への関心が高まっている中で、交流を通じ,両国国民の相互理解と友好関係がますます深まることを期待しております】   スペイン訪問を前に陛下は、どう表現すれば自然なスペイン語になるのかと熱心にカルロスさんに質問したという。陛下のスペイン語は、欧州人の基準でみても中級には達しており、日常会話には不自由しないレベル。ゆっくりではあるが美しい発音でスペイン語を話すという。  天皇陛下の誕生日やお祝いのお茶会へ招待されて、カルロスさんは御所にうかがう機会もある。そして、令和の天皇ご一家への期待を寄せる。 「今年は、陛下と皇后雅子さまのご結婚から30年の節目にあたり特別な年です。国籍の垣根を越えて、世界中の人と自分の言葉で対話を望む陛下。その裏には、外交官として活躍した雅子さまの存在も大きいのではと感じます。勤勉で誠実な令和の天皇陛下は、国内そして海外との交流においても存在感を増していかれるでしょう」 ◯カルロス・モリーナ/スペイン語専門学院アカデミア・カスティージア学院長。1953年マドリード生まれ。外務省研修所スペイン語課主任講師。2006年より当時皇太子であった天皇陛下のスペイン語の講師を務めている (AERA dot.編集部・永井貴子)
高島礼子「魂を込めて演じていた」 家族が白血病を患った実体験から来る演技
高島礼子「魂を込めて演じていた」 家族が白血病を患った実体験から来る演技 高島礼子(たかしまれいこ)/ 1964年生まれ。神奈川県出身。88年「暴れん坊将軍III」で俳優デビュー。映画「陽炎」シリーズ、「極道の妻たち」シリーズ、「長崎ぶらぶら節」など、話題作に出演。2001年には、日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。昨年は、「東京ラブストーリー」で初のミュージカルに挑戦した。NHK BSプレミアム「スイーツ列車紀行」が3月18日に放送される。(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃 ヘアメイク/佐々木大輔(TRINE) スタイリスト/村井緑 衣装協力/MOGA、ABISTE) 「映画を作るなら、通行人でもいいから出してね」と約束していた。通行人ではない役で実現した映画「いちばん逢いたいひと」への出演。いくつもの問題提起のある作品で、高島礼子さんは「命の尊さ」とあらためて向き合った。 *  *  *  30代の頃は仕事一筋。働いていた記憶しかない。次から次へと魅力的な役が舞い込んできて、当時は「この先も、ずっとこんな感じが続くのかな」と漠然と思っていた。 「とにかく目の前のことに一生懸命で、将来どんな女優になりたいかなんて、考える余裕はありませんでした。不安と楽しさの両方を感じつつも、いつもジタバタはしていましたね(笑)。先輩からは『俳優の仕事は、男性なら途切れずいい役が回ってきても、女性は年齢を重ねるといろいろ制限が増えるわよ』なんて話も聞いていて、40歳になった頃に、『たしかに最近はお母さん役が多くて、いただける役の幅が狭くなっているかもしれない』とも感じました」  今も昔も、スケジュールの都合を除いて、仕事を断ることはまずない。お芝居の仕事でもそれ以外でも、「すべては縁」と考えるようにしている。 「欲張りなんです。いただいた仕事は基本全部やりたい。昨年も、初めてのミュージカルのお話のあとに、連ドラのお話がきて、事務所の人には『スケジュール的に厳しいかも』と言われたんですが、『絶対やりたいです』と答えました(笑)。バラエティーや情報番組の出演が続くと、『あれ? 私女優だったっけ』なんて思うこともありますが、お芝居の仕事が続くと今度は、『バラエティーとか楽しそうでいいな』とか。結局ないものねだりで。最終的には、『楽しければいいか』に落ち着くんですけど(笑)」 「女優だから美しく」などという気負いはまったくない。若く見えたい気持ちもなければ、失敗したら恥ずかしいとも思わない。自分はこうだと決めつけないのが、楽しく毎日を過ごす秘訣だという。 「『○○しなければ』とか、『これができなきゃダメ』みたいなことを考え始めると、自分を追い詰めちゃうでしょう? 私は、自分の可能性を自分で制限してしまうのが嫌なんです。まだまだいろんなことに挑戦したいし、失敗したら『ま、いっか』って笑っていたい。せっかくこういう変化のある仕事をさせてもらっているのだから、いろんな変化を楽しみたいです」 映画「いちばん逢いたいひと」は、福山駅前シネマモードにて先行公開中、24日からシネ・リーブル池袋ほか全国順次公開(c)TTGlobal  そんな高島さんが出演する映画「いちばん逢いたいひと」は、同じ太田プロに所属する俳優で演出家の丈さんが脚本と監督を担当した。 「丈さんはお芝居で何度もご一緒していますが、ご自分で劇団を立ち上げて、演出もずっとやってきている。劇団って続けるのが大変なので、たいていの人は途中でやめちゃうんですよ。でも、丈さんは地道に続けていらして、前から、『丈さんが映画を作るなら、私も通行人でもいいから出してね』なんて言ってたんです。そうしたら、本当に呼んでいただけて」 「いちばん逢いたいひと」は、急性骨髄性白血病と診断された11歳の女の子・楓が、病気を克服し、社会人になってから一人旅に出る。その楓のドナーとなった柳井健吾は、最愛の娘を白血病で亡くし、ドナーになったことが人生で唯一の誇りだった。高島さんが演じたのは、楓の母親役だ。 「本作のプロデューサーさんの娘さんが白血病を患い、ドナーさんのおかげで乗り越えた経験があったことが、今回の映画作りのきっかけになったと伺っています。丈さんも、ちょうど命と向き合う経験があったので、この作品に全力で向き合いたいと思ったそうです。そうしたら、私の旦那役の大森(ヒロシ)さんも楓のおじいちゃん役の不破(万作)さんも、ご家族が白血病を患ったことがあったと、後になって知りまして……。大森さんは現場で終始明るかったんですが、それが実体験から来たものかと思うと、あらためて『みんなそれぞれに魂を込めて演じていたんだな』と、胸に迫るものがありました」 「ドナー登録しませんか?」という貼り紙はよく目にしても、それだけでは、「はい、します」とはならないのが現実だ。 「でも、こうやってドナーになった人と、それによって助かった命を映画にして見せるのは、説教くさくないし、それぞれが病気になることやドナーになることを、“自分ごと”として考えられるいい機会だと思いました」  映画の前半で描かれるのは、11歳の楓の闘病生活だ。高島さんは、丈監督が子役に細かく芝居をつけていくのを見ながら、「はい」「はい」ときちんと話を聞いて、言われたとおりに芝居を変えていく、子どもたちの素直さに刺激を受けた。 「素直さって大事ですよね。年齢を重ねていくと、人間って頑固になるじゃないですか。私は、頑固になるのだけは絶対に避けたいと思っていたので、子役の皆さんの真摯な態度を見るにつけ、『いくつになっても、人の話には耳を傾けなければ!』と。それと同時に、『だけど』とか『でも』みたいな、相手を否定するような接続詞はなるべく避けよう、とも思いました」 (菊地陽子、構成/長沢明)※週刊朝日  2023年3月3日号より抜粋
天皇陛下63歳に 雅子さまと愛子さまと仲良しファミリー写真で振り返る
天皇陛下63歳に 雅子さまと愛子さまと仲良しファミリー写真で振り返る 沖縄県で開かれた国民文化祭などの公式ガイドブックを見ながら天皇陛下と言葉を交わす皇后さま  23日、63歳のお誕生日を迎えられた天皇陛下。寒い2月にたくさんの人が集まることを避けるために、コロナ禍では行われていなかった天皇誕生日の一般参賀が行われる。天皇誕生日の一般参賀はお代替わり後、初めてのこと。お誕生日に先がけ21日に、皇居・宮殿東庭「長和殿」ベランダには天皇皇后両陛下の長女・愛子さまもお出ましになることが報じられた。天皇ご一家の仲の良いお姿が見られることだろう。過去の天皇陛下と雅子さまと愛子さまの仲良し家族写真で振り返る。 *  *  * 【1】愛子さまのお宮参り  2001年12月に生まれた愛子さま。翌2002年3月「お宮参り」に向かう雅子さまと敬宮愛子さまの隣には、皇太子さま(当時/以下同)が寄り添い、温かな眼差しを向けられる。皇太子さまは42歳。 【1】  【2】高校入学式に笑顔あふれるパパの顔  2017年、学習院女子高等科の入学式を前に報道陣からの質問に笑顔を見せる皇太子ご夫妻(当時)と愛子さま。入学式は子どもの成長をひときわ感じるものだが、その参列に皇太子さまの笑顔が弾ける。よく見ると、愛子さまはスキー焼けをされている。  愛子さまが初めてスキーをしたのは3歳のときで、雅子さまのスキーデビューも実は3歳だったそう。デビューの地はなんとモスクワ! 当時外交官だった父親の赴任先がロシア・モスクワだったからで、天皇陛下のスキーデビューは6歳。こちらは、赤坂御用地に積もった雪が初滑りだった。趣味がご家族で一緒というのも仲が良い証だろう。 【2】 【3】愛子さまと真剣に八ヶ岳について語り合う  愛子さま16歳に。2017年のお誕生日前に公表されたお写真で、八ケ岳について話す皇太子さま(当時)と愛子さま。  天皇誕生日に際し2月21日に皇居・宮殿「石橋の間」で行われた記者会見で天皇陛下は愛子さまについてこう語られた。 「愛子は、学業で忙しい日々を送りつつも、いつも楽しい話題で家庭の雰囲気を和ませてくれ、私たちの生活を和やかで楽しいものにしてくれています」  この当時、16歳の愛子さまとの語らいも、写真撮影をされているのに気づかれていないかと思うほど真剣で、おふたりの姿はとても楽しそうだ。 【3】 【4】まさに仲の良し!陛下と愛子さまがチェックの柄かぶり  22年6月11日、天皇陛下、雅子さま、愛子さまはご一家揃って皇居にある「紅葉山御養蚕所」で養蚕の作業をされた。御養蚕は明治以降、歴代の皇后に引き継がれてきたもの。天皇陛下の希望で、今夏は家族揃ってとなったが、天皇陛下と愛子さまはカジュアルな服装で、そのシャツはチェックの柄かぶり! 柄が同じとは仲の良さがここでも垣間見られる。学習院初等科3年生以来、自ら蚕を飼育。10年以上にもわたり毎年、卵からふ化させて飼育されているそう。 【4】 【5】久しぶりのご家族そろってのお出ましはリンク率高め  22年11月24日、天皇皇后両陛下と長女の愛子さまが、特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」を、およそ1時間半にわたって鑑賞された。3人揃っての公の場は、20年1月の両国国技館での大相撲観戦以来のこと。天皇陛下と雅子さまの装いは色合わせなどリンクすることが多いと話題だが、今回の天皇陛下と雅子さま、そして愛子さまもリンク率高めだった。天皇陛下は黒いスーツに薄い水色ドット柄のネクタイ、雅子さまは淡い水色のパンツスーツ。愛子さまは薄水色に紺色のラインの縁取りが入ったノーカラージャケットにネイビーのスカートといういでたち。 【5】  天皇ご一家がお揃いの写真は、どれも画像からだけでも仲の良さがあふれ出てくる。仲の良さといえば、愛子さまは成年皇族に仲間入りされた記者会見で明かしたエピソードが心に残る。ご静養先で「サーフボードに天皇陛下と雅子さまと愛子さまで3人で座るチャレンジ」で、3人揃ってまさかの海にドボン! そんなほほ笑ましいひとコマを披露されていた。  きっと、63歳のお誕生日も新たなエピソードがうまれるくらい笑顔があふれる一日になるだろう。(AERAdot.編集部・太田裕子)
「夫は子育ての戦友」東工大教授の女性細胞生物学者60歳が開けた風穴 妻のほうが教授の夫婦帯同雇用
「夫は子育ての戦友」東工大教授の女性細胞生物学者60歳が開けた風穴 妻のほうが教授の夫婦帯同雇用 ラボに立つ粂昭苑さん  山中伸弥教授(京都大学)が開発したiPS細胞を使って糖尿病患者を救う治療法をつくりだそうとしているのが、東京工業大学大学院生命理工学院教授の粂昭苑さんだ。患者に必要なのはインスリン、それを分泌する膵臓の細胞を実験室で効率よくつくるにはどうすればいいか。昭苑さんは、その研究を長年続けてきた。夫の和彦さんは名古屋市立大学大学院薬学研究科教授。実は、2002年に前職の熊本大学発生医学研究センターの教授に就任したとき、和彦さんは同センターの助教授(現在は准教授と呼ぶ)に採用された。同じ研究室で妻が教授で夫が助教授というケースは、日本初ではなかっただろうか。  新しい時代を切り開いたこの「就職」は、どのようにして実現したのだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――米国の研究大学では、夫婦ともが研究者の場合に二人とも雇用することは珍しくないそうですが、日本では配偶者のことなどお構いなし、というより一緒に雇用するなどとんでもないという考え方が長らく支配的でした。結果として、大学に雇用されるのは夫で、同じところで妻が研究をしたければ今でいう非正規雇用のような立場となるケースが多かった。そんな状況に風穴をあけるべく、九州大学が配偶者帯同雇用制度を導入して話題になったのが2017年です。ところが、その15年も前に熊本大学は夫婦帯同雇用をしたのですね。しかも、妻のほうが教授というのが、実に画期的でした。  それは、たまたまそうなったんです。  熊本大学発生医学研究センターが募集していたのは、発生医学を研究する教授で、もっと具体的に言うとヒト胚性幹(ES)細胞の実験ができる教授でした。このとき、私は一家で米国に留学中で、主人と私は専門も違うのでそれぞれ別の大学で研究生活を送っていました。  ヒトES細胞は、私が米国に留学したころから使えるようになり、私はまさにこれを使って膵臓の細胞をつくる研究をしていました。それで応募したら、当時のセンター長の須田年生先生(のちに慶応大学教授、現・熊本大学国際先端医学研究機構機構長)が「ご主人も来るなら准教授のポストをあける」とおっしゃってくださった。 夫の両親とボストンの自宅前にて。長男10歳、次男4歳10カ月=2000年8月(粂昭苑さん提供)  もともと主人は「女性のほうが就職は難しいだろうから、先に就職先を探していいよ」と言っていたんです。別に私はどちらが先でも良かったんですが、たまたま熊大の話が入ってきて、当時はヒトES細胞を使っている人がまだ少なかったこともあって、トントン拍子に話が進んだ。最初は助教ポストはあるということだったんですが、向こうの先生が「ご主人も来てくれるなら助教じゃいけないよね」と言い出して、准教授ポストをつけてくださった。 ――すでにお子さんがいらしたんですよね。  はい、2人いました。子育てでは主人は「戦友」だったんです。当時はまだ子どもたちも小さくて、お互いに一緒にいたほうがいいと思っていたんです。でも、なかなか両方一緒にポストをとれるということはないので、熊大の提案を伝えたら「行くよ。僕はそのうち何とかなるよ」って。熊本は子育てするにもいい場所だろうとも話しました。 ――夫婦で教授と准教授って、どんな感じだったんですか?  私は、それまでずっと研究員だったんですよ。それでいきなり教授になった。主人のほうは、アメリカに留学する前は東京大学医学部の助手をしていたので、そのとき実務的なことをずいぶんやっていた。それで、いてくれてすごく助かった。いろんなことを相談しました。 ――大学のお部屋は別々?  いや、お部屋はそんなになかったので、一つの部屋でした(笑)。研究は、それぞれ別のグループを作って進めました。  主人は米国に留学してすぐに運よくいい論文が出せて、その後ハーバード大学のラボからタフツ大学に移って、そこで睡眠の研究を始めました。熊本に帰ってまもなく『時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子』(講談社現代新書)という本を書き、講談社出版文化賞をいただきました。分子生物学的に体内時計の研究をしながら、医者として睡眠医学を専門にし、熊本に11年いて、今は名古屋市立大学大学院薬学研究科の教授をしています。 ――それにしても、「お先にどうぞ」と言ってくれる男性は日本でめったにいないと思います。  何か、性格的にそういうことをしちゃう人なんです。自分よりも先に相手のことを考える。私に対して特別にというわけではなく、多くの人に対してそうなんだと思います。そういえば、フェミニズムの勉強を大学生のときにしていましたね。それで「家庭内アファーマティブアクション」なんて言っていた。  出会ったのは東大に入学したときで、同じクラスでした。しかもESS(英会話クラブ)と自然科学研究部というサークルでも一緒。日米学生会議というのがあって、日米の学生が40人くらいずつ集まって交流するんですが、大学2年の夏休みにはこれに一緒に参加してアメリカに行きました。 ――どのくらいの期間ですか?  結構長かったですよ。国連に行ったり、大学の寮に泊まったり、ホームステイしたり。全部で1カ月ぐらいでした。 ――それで仲良くなった?  その前からですね。1年生になってすぐから、クラスメートの中で一番気が合う人でした。何でもすごく真摯にやる人で、そこに惹かれたというところですかね。 ――3年生で薬学部に進学されました。  将来のつぶしもきくし、いいかなと思って。行ってみたら、ちょうど分子生物学が栄え始めた時期で、とても魅力を感じました。赤芽球という細胞に薬剤を加えると赤血球に変わっていく(分化する)んですけど、そういう実験を学部と修士のときにしました。  ただ、修士のときに入った研究室はけっこう厳しくて、自分が研究者としてやっていけるか不安になり、就職しました。当時の大学には女性のロールモデルもいませんでしたし。主人は医学部で6年間ですから、同じ時期に卒業することになって、結婚しました。  就職した帝人では、生物医学研究所の研究員として2年働きました。創薬の現場でしたけれど、そのうち大学の基礎研究がすごくなつかしく思えて。やっぱり私は実用化を目指す研究よりサイエンスをやりたいと思うようになった。すると、研修医をしていた主人が大阪大学の分子遺伝学の博士課程に行きたいと言い出し、私は自分の進学先を一生懸命探して、二人して大阪大学の博士課程に入りました。  私が入ったのは、脳神経科学者として著名な御子柴克彦先生の研究室です。生物学の基礎といえば発生だ、と思って先生に相談したら、アフリカツメガエルの卵を使って実験するのがいいと。それでカエルにホルモン剤を打って卵を産ませて、卵からどのように発生が進むのかの研究に取り組みました。  ところが、まもなく御子柴先生は東京に移るという話が聞こえてきて、私は大ショックでした。それでも博士号をとるまでは阪大に残ることにして、ドクター2年の8月に長男が生まれました。1992年に御子柴先生は東京大学医科学研究所の教授になったので、私は阪大に所属したまま研究の場を東大医科研に移しました。  東京の自宅での昭苑さんのお誕生日祝い。長男5歳、次男9か月=1996年7月(粂昭苑さん提供)   ちょうど同じ時期に、主人の東大医学部の恩師の清水孝雄先生が生化学の准教授から教授になられて主人を助手として呼んでくださった。偶然でしたが、おかげでめでたく二人で東京に移りました。  その年の12月に私は博士号を取得し、いわゆるポスドクとして研究を続けました。3年後の10月に2人目を産みました。この年に御子柴先生が科学技術振興事業団創造科学技術推進事業(ERATO)プロジェクトの研究代表に就任され、私は産休明けの翌年2月からERATOの研究員になりました。任期付きですが、お給料をいただける職に就いたわけです。 ――子育てはどのように?  阪大のときは研究室の隣のマンションに住んで、二人で交代交代で何とかやっていた。育児は毎日が戦争みたいなんですけど、まさに主人は「戦友」です。子どもは大学の保育所に預けましたが、しょっちゅう風邪を引いて、1カ月も風邪が抜けない時もあった。昼は私が仕事をして主人が子どもを見て、夜は交代するとか。主人の母に来てもらったこともありますが、基本は二人でやりました。  アフリカツメガエルに卵を産ませるときはどうしても夜中まで仕事になるんです。そういうときはベビーシッターも利用しました。保育園のお迎えからごはんを食べさせて寝かしつけるところまでやってもらうというサービスがあって、とても助かりました。 ――そんなに大変だったのに、2人目を産む決断をよくされましたね。  私には姉と弟がいますので、子どもにもきょうだいがいたほうがいいと思ったんです。年があまり離れないほうがいいとも思っていました。5歳違いになりましたが、同じ小学校に通えて良かったと思います。  ただ、2人目が生まれてからの子育ては本当に大変でした。主人は仕事のほうも大変で、疲れてしまったんでしょう。そのうち「もう仕事をやめたい」「もう研究者もいい」なんて言い出して。主人はとにかく人のために働いちゃう人で、助手の仕事を一生懸命やりすぎたんだと思います。それで、私から留学を提案しました。二人で行けば育児も何とかなるだろうと思いました。 ――留学先はどのようにして見つけたのですか?  私はハーバード大学の発生生物学で有名なメルトン教授の研究室に入れてもらったのですが、ラボに入るテクニックは御子柴先生に教えてもらいました。有名教授には希望者が殺到するので、メールを出してもダメなんです。 ラボに立つ粂昭苑さん   会ったことがなければ受け入れてもらえない。それで広島の発生生物学会に招待講演でいらしたときにつかまえてお話しし、さらに米国・コールドスプリングハーバーでの学会で講演されるということを探し出して、その学会に参加して質問に行きました。質問に行くのはすごく大事です。手紙も出しました。それでようやく、奨学金を自分でとってくるなら受け入れるというお返事をいただけて、留学が実現できました。  この先生のお子さんが糖尿病で、それで先生はカエルの研究をやめてヒトの研究を始めた。それは私が行く前のことなんですが、それで私もヒトES細胞を使ってインスリン産生細胞をつくる研究を始めました。 ――ちょっと時間を戻しますが、お生まれは台湾なんですね?  はい、台北市生まれです。姉と弟とは1歳半ずつ違います。父は、台湾の奇美実業という会社の創立メンバーの一人で、私が小学6年生のときには家族はシンガポールに住み、父はインドネシアやマレーシアと行ったり来たりして仕事をしていました。中1のときに台北市に戻り、中2のときに一家で東京に来ました。姉は中3でインターナショナルスクールに入りましたが、ここは学費が高いので私と弟は公立中学に入れられました。日本語には漢字があるので、シンガポールで英語を勉強したときよりは気が楽でしたよ。  高校は都立戸山です。高3のときに両親が台湾に帰りました。そのとき、私と弟は父から「君たちはアメリカに移りなさい」と言われたんですよ。姉はインターナショナルスクールから米国の大学に進んだので、父としては私と弟もアメリカで教育を受けたらいいと考えたのでしょう。私たちもそのつもりで高3の夏休みに準備万端整えたのですが、最後の最後になってビザが下りなかった。理由はよくわかりません。台湾籍だったからかもしれません。仕方がないので退学手続きをした高校に戻り、先生に「戻ってくるなら東大を受けなさい」と言われて受けました。 成人式で熊本に帰省した長男とともに。次男は中学3年生=2011年1月10日(粂昭苑さん提供) ――それで現役合格とは!  予備校に通って、直前講習も受けましたよ。試験当日、数学と物理で塾でやったことのあるような問題が出て、そんなんで受かりました。 ――ずっと一緒に暮らしてきた和彦さんが「独立」されたのは2013年ですね。  上の子は大学に受かって東京に行き、下の子はまだ熊本にいるときでした。名古屋は主人の生まれ故郷なので、良かったと思います。私はどうしようかなと思い、弟が東京で仕事をしていることもあり、東京がいいと思っていろいろ応募書類を出しました。それで東工大に採用されて、2014年12月に着任しました。  子どももいて、子育ても楽しみながら、サイエンスも諦めずにやれたのは、良かったと思います。私は就職に苦労しなかったように見えますが、サイエンスをいかに追究するか、その過程でいろいろ苦労はありました。そういうとき、パートナーがすごくサポートしてくれたし、いつも背中を押してくれた。私たちの境遇は二人三脚みたいでした。  自分のことを振り返れば、子どもが生まれたことで、あまり迷いもなく研究員として長く続けられた。御子柴研には博士課程時代も含めて10年いました。さらにボストンのハーバード大学で3年間。普通だったら、任期付きではない安定した職に早く就きたいと思うのでしょうが、私はそうした焦りをほとんど感じることなく実績を積むことができた。それが結果的に良かった。  研究内容はボストンからずっと変わっていません。幹細胞から膵臓の細胞への分化がどうすれば効率よくできるか、培地の成分をどのようにすればいいのか、といったことを探っています。熊大から東工大に移ってくるときに見つけたことが2つありますし、企業との共同研究もしています。培地の特許もとりました。  ただ、糖尿病の患者さんに役立つようにするにはまだまだ課題があります。効率をもっと上げないといけないし、安全性を確かめていく必要もある。iPS細胞から目的の細胞ができるまで1カ月以上かかるので、その間の品質管理も難題の一つです。つくった細胞をどういう形で体内に入れるのがいいのかも、まだ研究途上。一歩一歩、着実に研究を進めていきたいと思っています。 粂昭苑(くめ・しょうえん)/1962年、台湾・台北市生まれ。東京大学大学院薬学系研究科修士修了、帝人で働いたのち、大阪大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士(大阪大学)。日本学術振興会特別研究員、科学技術振興事業団創造科学技術推進事業(ERATO)「御子柴細胞制御プロジェクト」研究員を経て米国ハーバード大学に留学、2002年に熊本大学発生医学研究センター教授、2014年12月から東京工業大学教授。
早逝の天才画家、エゴン・シーレ 時を超え、多くの人の心揺さぶる理由を追う
早逝の天才画家、エゴン・シーレ 時を超え、多くの人の心揺さぶる理由を追う ほおずきの実のある自画像/1912年 油彩、グワッシュ/板 レオポルド美術館蔵/生涯で残した200点以上の自画像のほとんどは、自身を鏡に映して描いたもの。もっとも有名なシーレ作品のひとつであるこの自画像は、恋人の肖像画とペアの作品にする構想があったとされ、独特な構図で描かれている (c)Leopold Museum, Vienna  約100年前、芸術の都・ウィーンで才能を開花させ、わずか28歳でこの世を去ったエゴン・シーレ。戦争や伝染病の流行など現在とも通じる時代を生きた彼の作品は、見る人の心を揺さぶる。AERA 2023年2月20日号より紹介する。 *  *  *  今にも皮肉を口にしそうな自画像、木々を揺らす不吉な風音が聞こえてくるような風景画、不自然に目を見開いた肖像画──。絵の前に立った人の気持ちを妙にザワザワさせる作品が並ぶ。東京・上野の東京都美術館で開かれている展覧会「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」だ。  実はバブルの足音が聞こえ始めた1980年代後半、自分が社会人になって初めて行かされた“現場”も、展示作業中だったエゴン・シーレの展覧会だった。そのとげとげしい作品に、アートは美しいもの、心安まるものという小娘の思い込みはあっさり打ち砕かれ、以来、シーレのザワザワに心乱されたいと、何度も何度も画集を開いた。 ■約30年ぶりの大展覧会  その後91~92年には、東京などで大規模なシーレ展が開かれたが、今回はそれ以来、約30年ぶりの大規模展覧会となる。シーレは28歳の若さで亡くなった早逝(そうせい)の画家。活動した10年少しの間に、デッサンなども含めると3千点近い作品を残している。今回は多くの代表作を含む約50点の作品が紹介されている。  会場を歩いて思ったのは、死後100年以上を経た今もシーレ作品のオーラがまったく色あせていないことだ。今なお100年前の画家に心が揺さぶられるのはなぜなのか。その前に、まずはシーレの生涯をおさらいしておこう。  エゴン・シーレは1890年生まれ。その才能から、16歳でウィーン美術アカデミーに学年最年少の特別扱いで入学するが、古めかしい教育になじめず退学。先輩で画家のグスタフ・クリムトに天才ぶりを認められ、金箔(きんぱく)を使ってきらびやかな愛と官能を表現したクリムト作品に大きな影響を受けたほか、画商を紹介してもらうなどの経済的サポートも受けていたという。 縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ/1915年 鉛筆、グワッシュ/紙 レオポルド美術館蔵/この絵が描かれた年、徴兵されることになったシーレが結婚を決意したのが、エーディトだ。当時、シーレと恋人ワリーとの関係が続いていたためだろうか。睨むようにも、怯えているようにも見える視線が印象的 (c)Leopold Museum, Vienna ■文化花開くウィーンで  天才画家エゴン・シーレの誕生には、当時のウィーンの状況も大きく関わっている。産業革命が始まって約50年、オーストリア=ハンガリー帝国の首都だった当時のウィーンは人口が増大して、ヨーロッパではパリ、ロンドンなどについで5本の指に入る大都市となっていた。  そのなか、音楽や文学から、建築、心理学まで、さまざまな文化や学問が花開いた。時は19世紀と20世紀の合間。「ウィーン世紀末」としてくくられるようになった。もちろんアートもウィーン世紀末の中心的存在となり、シーレの作品の評価も年々上がっていった。  世紀末芸術に詳しい美術評論家で成城大学名誉教授の千足伸行さんは、今回の見どころをこう紹介する。 「例えばデッサンです。人体の描き方のルールを、自由にハズして、デフォルメしているものが多い。その結果、見る人にわざと、とげとげしさを感じさせようとした節もあります。いずれにしても彼の人体のデッサンを見ると、単に美しかったり、人の目を癒やしてくれるような、ギリシャ的な美しい人体像は少ないんです」  こうした、露悪的ともいえる技法も、ウィーン世紀末と言われた時代と無関係ではない。世紀末のウィーンにはさまざまな文化や才能が生まれて、互いにせめぎ合い、葛藤しあった。 「シーレが24歳のときに第1次世界大戦にも突入。シーレの活躍は、もちろん彼の才能による部分も大きかったでしょう。一方で、とくに自画像などには時代への批判的なまなざしがにじみ出ているものも多く、時代が抱えた軋轢(あつれき)や、緊張感のようなものがなければ、シーレのような迫力の画家は生まれなかったかもしれない」(千足さん) ■日本画との共通点多い  今回のシーレ作品を貸し出したウィーンのレオポルド美術館は、シーレ作品の世界的な収集家として知られるルドルフ・レオポルドさんのコレクションを核とした美術館だ。そのルドルフさんを父に持ち、小さい頃からシーレの作品とともに育ったディータード・レオポルドさんは、私たちがシーレに引きつけられる理由をこう考えている。 悲しみの女/1912年 油彩/板 レオポルド美術館蔵/シーレが別の女性と結婚するまで、長年同棲していた恋人ワリーの肖像。頭の上にチラッと見える男性の顔のようなものは、ワリーに寄り添っていこうとするシーレの分身との説もある (c)Leopold Museum, Vienna 「線を多く使うこと、画面に空白が多いことなど、シーレと日本画との共通点は多い。また日本に限らず、誰もがパソコンなどの画面に囲まれているのが現代。一方、シーレの世界には、人のリアルな肉体感覚があちこちにちりばめられています」  また肉体だけでなく自我に対する意識や孤独感などを描き、戦争などに翻弄(ほんろう)されて破壊された人間ならではの価値を、絵を描くことで取り戻していったような作品も多い。  レオポルド美術館のハンス=ペーター・ウィップリンガー館長が感じているのは、わずか10年余りの画家生活のなかで、シーレの作風が目まぐるしく変わったことだという。象徴主義から自然主義、またアール・ヌーヴォーや分離派などを駆け抜け、最後にシーレがたどり着いたのが「表現主義」という感情を表現する様式だった。 「装飾的で調和のあるアール・ヌーヴォーなどから一転、1910年を境にして攻撃的な表現主義の作品を描くようになった。自分は何かと問うなど、精神的な感覚に視線を向けたのです」  クリムトが表層的に美しいものを生涯求めたのとは対照的に、シーレはさまざまな様式に手を染めては、もっともっとと別の様式を探求していったという。 「なぜか?ですか……彼が探していたのは、美しさというより、いわば“真実”。最後までそれが見つからなかったからでは」(ウィップリンガー館長)  1918年、大流行していたスペイン風邪にかかった妊娠中の妻が死去。その3日後、自らもスペイン風邪が悪化し、天才画家はこの世を去った。戦争、コロナ、そして多くのパラダイムシフトが起きている現代。そのザワザワを、共有するなら今だ。(ライター・福光恵) ※AERA 2023年2月20日号
稀代の悪役レスラー、キラー・カーンさん 居酒屋閉店から手話劇団の三越劇場公演に出演するまで
稀代の悪役レスラー、キラー・カーンさん 居酒屋閉店から手話劇団の三越劇場公演に出演するまで キラー・カーンさん  身長195センチ、スキンヘッドの巨漢。キラー・カーンさんといえば、昭和の悪役レスラーとして真っ先に思い浮かぶ一人だろう。リングを降りた後は飲食店を経営していたが、コロナ禍のあおりなどで閉店に追いやられた。そんな彼が手話劇団のゲストとして、新たな舞台に上がろうとしている。  プロレス全盛期の1980年代、“蒙古の怪人”の異名で国内は言うに及ばず米国でも大活躍したヒールレスラー、キラー・カーンさん(75)。“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントとの死闘は今も語種だ。  87年に引退し、89年から東京・新宿で飲食店の経営に乗り出した。プロレスファンらでにぎわっていたが、コロナ禍や交通トラブルに巻き込まれ、2021年5月に閉店。その後、体調も崩したこともあり、自殺も脳裏をよぎったという。  それから1年9カ月。カーンさんは手話劇団の舞台にゲスト出演する。その経緯を取材した。  東京・お茶の水にあるレンタルスペース。耳や目に障害がある人たちが主なメンバーの手話劇団「NPO法人 劇団はーとふるはんど」が稽古に励んでいた。2月18~19日に日本橋の三越劇場で健常者も交えて開催する舞台「恋におちて」の準備だ。  主演の小林綾子さんはNHKの連続テレビ小説「おしん」で一世風靡。数多くの大河ドラマに出演歴がある水澤心吾さんと、セリフあわせをしながら位置を決めていた。 「シルバー世代の恋愛と家族愛を描いた心温まるストーリーで、監修はTBSのドラマ『渡る世間は鬼ばかり』シリーズの石井ふく子さんです。第1回公演が02年でしたから、22回目になります」と話すのは、劇団を主宰する山辺ユリコさん。 「ピンクの電話」の清水よし子さん、俳優の一谷伸江さん、山本みどりさんらベテランが脇を固め、キラー・カーンさんは介護施設の料理長役で3シーンに登場。短いながらセリフもある。 「カーンさんは共通の友人に紹介してもらい、朴訥で温かい人柄に好感を持ったので出演を依頼しました。実は30年ほど前、演歌歌手だった私は、カーンさんのカラオケスナックでミニライブをしたことがあるんです。『ご縁を感じた』っていうのも起用した理由の一つですね」(山辺さん)。 劇団のメンバーと  出番待ちの間、台本に目を通していたカーンさんに聞くと、「三越劇場なんて大舞台だから“瓢箪から駒”だよね。最初は驚いたけど、何事も挑戦だしさ。今は無職で時間があるから、『ぜひお願いします』って二つ返事でお受けしました」。  公演は芝居と歌謡ショーの2部構成。カーンさんは歌謡ショーにも出る。 「プロレスラー時代から親しくさせていただいた立川談志師匠の紹介で、三橋美智也さんの弟子になってたからね。05年には『ふるさと真っ赤か』って曲で歌手デビューしてるんですよ。今回は3年前にリリースした『カンちゃんの人情酒場』を披露します」  立ち稽古の後は、清水さんとろうあの人たちが歌う「上を向いて歩こう」のコーラス練習に参加。「初めての経験」と戸惑いながら手話の振り付けに取り組むなど、かつての悪役レスラーからは想像できない姿があった。 稽古に励むキラー・カーンさん  そんなカーンさんだが、ここ3年ほどは不運続きだった。 「新型コロナのせいで店にお客が来なくなって、いきなり売り上げが4分の1に激減してさ。それでも時短しながら細々と営業してたんだけど、20年12月に俺が乗ってた自転車と歩行者との接触事故で書類送検。その影響もあって21年5月に店を閉めました。22年3月にはS状結腸がんがわかって緊急手術。その4カ月後、今度は足の付け根に大動脈瘤が見つかって、これまた緊急手術。心身ともに痛めつけられました」  接触事故はスポーツ新聞やワイドショーにも取りあげられた。その後、嫌疑不十分で不起訴処分になったが、度重なる嫌がらせの電話や暴言に苦しめられた。 「『ひき逃げハゲ』とか『悪人』とかね。街を歩いてると見知らぬ人から罵られ、外出するのが怖くなったこともありました」  閉店を決断したものの、「いっそのこと死んじゃおうか」と思ったほど悩み、睡眠薬を購入したり、自宅マンションの窓から道路を見下ろしりしたのは、2度や3度ではなかったという。  そんなある日、レスラーになる前の大相撲時代に所属した春日野部屋の兄弟子、元関脇・栃東知頼さん(78)から電話があった。 インタビューに応じるキラー・カーンさん 「小沢(カーンさんの本名)、俺はお前の人間性を信じている。そんなことをやる人間じゃない。頑張れ」  短い会話だったが、この言葉に「涙が止まらないほど感激した」とカーンさん。 「誰かから窮状を聞いたんでしょうね。あの電話がなかったら、本当に死を選んでいたかもしれません」  時間はかかったが、昨年夏にはうつ病から脱出。プロレス時代の思い出を語るトークイベントを再開し、飲食店の再オープンも視野に入れる。 「接客しながら体を動かしたり歌ったりが好きなんです。世代的に話が合うシルバーエイジを対象にした演歌や歌謡曲専門のカラオケスナックをやるつもり。近々、正式に公表できると思います」  今は一人暮らしだが、米フロリダ州には長らく別居中の妻と2女1男が住んでいる。 「家族とは、もう38年ほど会ってないけど、長女は3年前に初孫となる男の子を授かりました。電話ではよく話していて、『フロリダで一緒に住もう』と誘われるんです。でも米国には公的医療保険制度がないから、医療費が高すぎておちおち医者にもかかれません。俺みたいにプロレスの後遺症であちこちにガタがきてたり、何度も癌の手術してる人にはリスクが高すぎる。だから次の店が順調にいったら、女房を日本に呼ぼうかなって思ってるんですよ」  長かった冬の時代。カーンさんの“春”はもうすぐそこだ。 (高鍬真之) キラー・カーンさんが出した曲 ※週刊朝日オリジナル記事
家事は外注、子どもとの時間を増やしたい 親の価値観変化で家事代行サービスの市場規模拡大
家事は外注、子どもとの時間を増やしたい 親の価値観変化で家事代行サービスの市場規模拡大 隅々まで掃除する「タスカジ」スタッフ。ドラマやカリスマ家政婦の登場により、家事代行スタッフ志望者も増えているという(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  家事代行サービスが広がっている。背景には利用者のライフスタイルや「こうあるべき」とされてきた価値観の変化がある。AERA2023年2月20日号の記事を紹介する。 *  *  *  家事代行のマッチングサイト「タスカジ」は、1児の母でもある和田幸子代表が、「出産しても仕事を続ける環境は整いつつあったけれど、キャリアアップは諦めなければならなかった。その最大の理由が、家事負担である状況を変えたい」  と2014年に立ち上げた。家事サポートを利用したい人とハウスキーパーとを直接契約にすることで、従来の相場の約半額となる1時間1500円(最低価格)という低価格を実現。現在、利用者は約10万人で、年々増加中という。サービス開始から8年半。最近の利用者の特徴について和田代表は、こう話す。 「キャリアのためという理由とともに『子どもとの時間を増やしたいから、家事をしてほしい』というニーズが顕在化している。同じお金を使うならば、シッターよりも家事代行を選ぶ人が増えている印象です」 ■息子と向き合う時間  都内の会社員女性(46)もそのひとりだ。同業者の夫と小学6年生の息子と暮らす自宅には、毎週火曜日は掃除のために、水曜日は1週間分の食事を作りにそれぞれ別のスタッフがやってくる。出産後、夫と家事をめぐるケンカが増加し、利用を決めたという。女性は、 「普段は掃除はもちろん、料理もほぼしません。たまに休日のお昼に焼きそばなど簡単なものを作るくらい。私が作ると息子は『美味しい!』と大絶賛。たぶん毎日作ってほしいのだろうとは思いますが、割り切ったおかげで、仕事もでき、夫との衝突もない。何より、息子と向き合う時間を捻出できた」  と話す。30年以上共働き夫婦の家事分担について研究を続ける日本女子大学の永井暁子准教授(家族社会学)は、 「時代の変化によって『母たるもの、妻たるものこうあるべき』という価値観が消滅しつつある。以前は、子どもへの愛情は『手作り料理』などに時間をかけることによって示されるとされていましたが、今は必ずしもそこに重きは置かれていません」  と指摘。確かに、共働き世帯の増加により、子どものお弁当箱にコンビニの総菜を詰めてもいい、デリバリーしてもいいし、ミールキットも使えばいいという雰囲気は広がっている。自宅が清潔であれば、誰が掃除したかまでは重視しない風潮もある。その結果、家事代行を利用するハードルも下がりつつあるのだという。 食事作りサービスのスタッフは酢豚など手の込んだメニューを作ってくれる(写真:会社員女性提供) ■多くのニーズ  拡大する市場。野村総研が18年に約3千人を対象に実施した調査では、家事代行の利用者は1.8%ではあったが「将来的に利用したい」と考える人は36.5%。17年の国内市場規模は698億円だが、25年には最大8千億円超に拡大すると予想されている。その要因として、もうひとつ忘れてはならない点がある。 「限られた時間の中で優先順位をつけ、家事を外注してでも、子どもとの時間を大切にする人、自分のための時間を確保しようとする人が増えている」(永井准教授)  前出の会社員女性も、この言葉に大きくうなずく。この冬、中学受験を迎えた息子は、塾には通っていたが、先生とのやり取りや宿題の管理などは親のサポートが不可欠だったという。女性は、 「塾や家庭教師を選ぶ時は、家庭の教育方針と合っているかについて、かなりの時間をかけて検討しました。学校のPTA参加や担任の先生とのやり取りなども密にやっています。家事を外注しているからこそ、共働きでも中学受験を戦うことができました」  と話す。  一方で、家事代行を使うと、それまでの家庭内の役割分担を変えずに済むため、夫が成長しないというデメリットに直面することもある。  横浜市のシステムエンジニアの女性(41)は、2人目を出産直後、部屋が散らかったままの日が続き、家事代行サービスに登録。早速、来てくれたスタッフがお風呂とキッチンを新築と見間違えるほど磨き上げ、子どものおもちゃが散乱したリビングもすっきり整えてくれてからの悩みを吐露する。 「夫が以前に増して、何もしなくなり、イライラしています。片づけてよ、と言うと『誰か呼べばいいだろ!』と言われ唖然。私は、あなたと一緒に家庭を運営したいのに」  著書に『家事は大変って気づきましたか?』のある作家・生活史研究家の阿古真理さんは、 「家事代行が広がっている前提に、家庭内での家事分担が進んでいないという現実があります。特に男性側に『家事は自分がやるべきことではない』という意識があり、それが変わらない結果でもあります」  と指摘する。確かに、家事代行の市場が拡大する一方で、総務省が実施した2021年の「社会生活基本調査」によると、共働き世帯における夫婦の家事・育児に関わる時間差は1日あたり4時間38分、妻が長く、15年前と全く同じだった。阿古さんは、 「仕事は生活を支えますが、家事は命を支えるもの。家事代行はいつまでも使えるものではありません。退職や病気、別離などで世帯収入や家族構成に変化があった時のことを考えると、常に家事のスキルを維持しておく必要はある。夫育ても継続してやっておくべきでしょう」  と話す。家事負担が減って万々歳とばかりは言っていられない側面もあるものの、家事代行というサービス形態はいま、家庭にとどまらず、あちこちに広がっている。 AERA 2023年2月20日号より ■家族全体のために  秋田県湯沢市では、ふるさと納税の返礼品に「家事代行」がある。遠方で暮らす高齢の親のための利用を想定しているという。冒頭の和田代表によると、福利厚生のひとつに取り入れる企業も増えているという。  大手の参入も目立つ。昨年9月に神奈川県でスタートした「Yohanaメンバーシップ」。パナソニックの子会社が運営し、米アップルやグーグルの副社長を歴任した松岡陽子さん(51)が代表を務めている。その最大の特徴は「多様な家庭のニーズに寄りそう」というスタンスだ。 「雨の週末に子どもを連れていける室内の遊び場を調べる」 「クリスマスパーティーで、子どもたちが喜ぶ飾り付けをする」 「友人へのプレゼントを選んで、発送する」  いずれも仕事や家事の後回しにしがちで、場合によっては手をつけずにやり過ごすこともできてしまうことばかりだが、専門家が下調べをして提案してくれたり、必要な業者を手配してくれたりするという。  費用は月1万8千円でけっして安くはない。だが、同社が21年から先行して事業展開している米シアトルでは月249ドル(約3万2千円)ながらも1千世帯以上が利用しているという。双子を含む4人の子どもがいる松岡さんは、 「慌ただしい生活の中で最初にギブアップしてきた分野が達成できると満足度が高い。家族全体のウェルビーイング(心身の健康と幸福)を上げていくためにも必要なサービスであり、ニーズはあると思います」  家事代行の一歩先へ。業界の進化は止まりそうにない。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年2月20日号
「死は敗北ではない。患者さんと心を通わせて最期まで笑顔でピースを」在宅看取りの第一人者が語る
「死は敗北ではない。患者さんと心を通わせて最期まで笑顔でピースを」在宅看取りの第一人者が語る 小笠原文雄医師。日本在宅ホスピス協会会長や岐阜大学医学部客員教授なども務め、在宅看取りについての著書もある(撮影/写真映像部・加藤夏子)  小笠原文雄医師は、在宅看取りの第一人者だ。同医師のもとでは、末期がんの多くの患者が、最期まで自宅で穏やかに暮らす。週刊朝日ムック『医者と医学部がわかる 2023』では、なぜ開業医として在宅医療の道を選んだのか、小笠原医師にお話をうかがいました。 *  * *  大学受験当初は京都大学の数学科を目指していたが、受験直前に父が体調を崩し、在学中に実家の寺院を継ぐ可能性が出てきた。僧侶と医師を両立する知人のアドバイスもあって、岐阜県の自宅から通える名古屋大学の医学部を選んだ。麻雀や部活動に熱中した学生時代を、「出来の悪い医学生だった」と笑いながら振り返る。 「卒業して勤めた市民病院では、『血尿が出ないやつはサボっている』と言われるほどの激務でした。必死で目の前の患者さんを診る日々で、受験生時代よりもはるかに勉強していました」  だが目を悪くしたことをきっかけに、40代で自院を開業することに。それは当時の小笠原医師にとって「敗北」だったと言う。 「高度先端研究を行う名大病院を離れるのは『負け』だと思っていました。在宅診療だって、最初はやりたくなかったんですよ」  背中を押したのは妻だった。在宅医療を必要とする患者の存在を説かれ、小笠原医師は「そんなもんかなあ」と、看護師と共に患者宅の訪問を始めた。  同医師が病院で直面したもうひとつの「敗北」は、「死」だった。 「病院の目標は患者を健康にすること。死という結果は、その目標が果たせなかったことになると感じていました」  だが在宅診療を始めた小笠原医師が目にしたのは、敗北であるはずの死を自然に受け入れ、笑って生きて亡くなる患者の姿だった。 「ありえない、なぜなんだと強く思いました」  やがて小笠原医師は「退院して家に帰るから笑顔になれるのだ」と気がついた。慣れ親しんだ自宅で、家族や近所の人と共に過ごし、好きな時間に好きなことをする。その人らしく暮らすことが余命宣告さえ覆し、その期間を年単位で超える例も少なくないという。 独自のアプリ「THP+(ティーエイチピープラス)」では、離れた家族や医師も患者の体調を確認できる(撮影/写真映像部・加藤夏子) ■患者と信頼関係を築き、笑顔で納得できる死を 「人が病気になった時や亡くなる時、どう役に立てるのか。必要なのは医師の自己満足ではなく、患者さんとの信頼関係や、心と心の触れ合いです」  看護師やヘルパーらと行う「人生会議」には、患者やその家族も参加し、最期の過ごし方を話し合う。患者自身で扱えるモルヒネの機器や、離れていても体調を確認できるスマホアプリなども活用し、「一人で死にたい」という意思も尊重する。重視するのは当事者が納得することだ。それがあれば、死の淵の患者も、それを見送ったばかりの遺族も、笑顔でピースすらできるのだ。  在宅医療は報酬面でも恵まれており、さらなる需要の見込める分野だ。小笠原医師は「求められているからこそ、医師の質が重要なのです」と言い、在宅診療に参入する医師の支援・教育など、後進の指導にも尽力している。 医師を志す若者に伝えたいことを聞くと「まずはおじいちゃん、おばあちゃんのお見舞いに行ってほしいですね。花を愛でたり鳥の声に耳を傾けたりするのもいい。医師を目指す人には心を豊かに保ってほしいです」とほほ笑む。  実家を継いだ小笠原医師は現役の僧侶でもある。 「宗教とは本来、医学や科学とも何も矛盾しないものです。父からはよく『宗教を学ぼうと思わなくていい。哲学を学べ』と言われていました。その精神は医学部時代にも現在にも役に立っていると感じます。医師自身が癒やされていなければ、患者さんを癒やすことはできません。いまは私自身が好きなことをやれているので、患者さんにも笑顔になってもらえるのだと思います」 現在の小笠原医師の揺るがない死生観は、僧侶としての経験にも裏打ちされたものだろう。 「死は必ず訪れる人生の一過程。それを敗北だとすると、人生そのものが敗北になってしまいます」と語り、「開業や在宅医療は低レベルなことだと思っていた自分は、本当に愚かでした」とにんまりする小笠原医師。二つの「敗北」が、いまは笑顔に変わっている。 (鈴木絢子) ※週刊朝日ムック『医者と医学部がわかる 2023』より 小笠原文雄(おがさわら・ぶんゆう)/ 医師。1973年、名古屋大学医学部卒業。名古屋大学第二内科(循環器グループ)で勤務。1989年、小笠原内科を開院。1999年、医療法人聖徳会小笠原内科理事長に就任。2012年、厚生労働省委託事業の在宅医療連携拠点事業所を受託
半永久的に不労所得が入ってくる…「配当株投資こそ王道の投資法」と断言できる6つの理由
半永久的に不労所得が入ってくる…「配当株投資こそ王道の投資法」と断言できる6つの理由 ※写真はイメージです(GettyImages)  株式投資でリスク少なく利益を上げるにはどうすればいいか。投資家の配当太郎さんは「配当株投資なら、株を保有するだけで配当金を得られる。一度でもその楽しみを体感すると、『沼』にハマるような魔力がある」という――。 ※本稿は、配当太郎『年間100万円の配当金が入ってくる最高の株式投資』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。 株式投資でも「大貧民」になる可能性がゼロ  配当株投資とは、どんな投資法なのか?  その持ち味を知るためには、配当株投資の「位置づけ」や「特徴」をきちんと理解しておく必要があります。  株式投資をやっている方にとっては基本中の基本ですが、これから始める初心者の方のために、株式投資のイロハを最初に確認しておきます。  株式投資で利益を得る方法には、大きく分けて2つのアプローチがあります。 「キャピタルゲイン」と「インカムゲイン」です。  キャピタルゲインは、購入した株が買った時よりも高値になった時に売却して利益を得る……という投資法です。  株式投資というと、このキャピタルゲインを思い浮かべる人が多いようです。  一度の取り引きで大きな利益を得られることもありますが、購入時よりも株価が下がっていれば、利益は得られません。「大富豪」になる可能性がある代わりに、「大貧民」になるリスクもありますから、見方によっては、ギャンブル的な要素が強い投資法といえます。  インカムゲインは、株を保有していることで、その企業が利益の中から株主に分配する「配当金」によって利益を得る……という投資法です。  この本では、配当金を主な目的とした株式投資を「配当株投資」と呼んでいます。  配当株投資は、キャピタルゲインのように株を売買して利益を得る必要はなく、投資先の企業が利益を上げ続けていれば、その株を持っている限り、継続して配当金を受け取ることができます。  莫大ばくだいな投資資金を持っていない限り、短期間で「大富豪」になれる可能性はゼロですが、あっけなく「大貧民」になる可能性もゼロです。  時間をかけて、コツコツと地道に利益を積み上げていくタイプの投資法ですから、すでに株式投資をやっている人でも、そこに物足りなさを感じている人が少なくありません。  キャピタルゲインとインカムゲインのどちらを選ぶかは、自分の好みや生き方が分かれ目になると思います。 配当株投資の注目すべき6つの魅力  私は現在、配当株投資に軸足を置いていますが、その理由は配当株投資にキャピタルゲインにはない魅力を感じているからです。  配当株投資には、大きく分けて6つの魅力があると考えています。 【魅力(1)】企業が利益を上げ続ければ、半永久的に配当金が得られる  配当株投資の一番の魅力は、その企業が利益を上げ続けている限り、株を持っているだけで、半永久的に配当金が得られることです。  持ち株を売買してその差益を稼ぐ必要はなく、自分が眠ったり、遊んだりしている間も、投資先の企業がしっかりと稼いでくれれば、黙っていても配当金が入ってくるのです。  自分では何もする必要がなく、ただ株を持ち続けているだけですから、ある意味では、究極の不労所得……と考えることができます。 【魅力(2)】企業の利益が上がると、配当金も増える  投資先の企業が利益を上げ続けてくれれば、株主に分配する配当金も増えることになります。  株を持っている企業の優秀な社員のみなさんが、私の代わりに一生懸命に働いてくれることが、配当金の増加につながります。  株主の立場で考えてみれば、これほど嬉しく、楽しいことはありません。  企業が増配を続けてくれれば、配当金はドンドンと増えていきます。 【魅力(3)】株価や市場の動向に影響されない  現在のような「ボラティリティ」(証券などの価格変動の度合い)が高い状況にあっても、投資先の企業が利益を上げていれば、配当金の分配を受け続けることができます。  株価や市場の動向を過剰に意識する必要はなく、株主として毅然きぜんと構えていれば、淡々と収入を得ることができるのです。  株価の動きに動揺する必要がないという「心理的安全性」も見逃せない魅力です。  私の経験では、世の中の景気が良くない時ほど、「配当金がある」という心強さを実感できるように思います。 生活設計しやすく再投資に回すことも可能 【魅力(4)】給料以外に安定した収入を確保できる  配当株投資は、給料などの労働収入の他に「もうひとつ安定した収入の柱が欲しい」と考えている人には、非常に適した投資法だと考えます。  企業が「このくらいは株主の方に還元しますよ」という配当予想を出してくれるため、金額の大小はあるとしても、1年間に得られる配当金の見通しが立てられます。 「これだけの株を持っているから、このくらいの配当金が入りそうだな」という収入の目処が明確にわかっていることは、生活設計の面でも大きな安心感につながります。 【魅力(5)】配当金は自由に活用することが可能  私は配当株投資で得られる配当金を「資本収入」と解釈して、毎日の仕事によって得られる「労働収入」(給料)とは分けて考えています。  労働収入は自分や家族の現在と未来の生活のために必要なお金ですが、資本収入をどのように遣うかは、すべて私が自由に決めることができます。  家族と食事や旅行に行ったり、生活費やお小遣いの不足を補うこともあります。  その一部を再投資して、株数を増やすこともできます。  金銭的に余裕があるならば、そのすべてを再投資に回すことも可能です。  配当金を遣っても、持っている株を手放して株数を減らすわけではないので、今後の配当株投資に影響が出る心配はありません。  それをどのように活用するかは、あくまで本人の自由なのです。  こうした柔軟性の高さも、配当株投資の魅力のひとつといえます。 【魅力(6)】配当金は家族や子孫に引き継ぐことができる  配当金は、不動産を所有することで得られる賃貸収入や、本の印税と同じように「権利収入」(自分が保有している権利に基づいて得られる収入)ですから、株の所有者が亡くなったとしても、妻や子供がその権利を引き継ぐことができます。  家族や子孫の今後の生活を支えるための、大きな安心材料となるのです。  こうしたポテンシャルの高さを知れば、配当株投資が「いかに今の時代に必要な投資であるか?」が、ご理解いただけると思います。 配当株投資が「王道」であり、配当金は「主産物」の理由  株式投資をしている人の多くは、株価上昇による利益を「主産物」と考えて、配当金は単なる「副産物」や「おまけ」のように考えていますが、私はまったく逆の見方をしています。  株式投資の「王道」は配当株投資であり、配当金がその「主産物」だということです。  株式投資の本来の趣旨は「多くの人からお金を集めて、それを元に企業が頑張って成果を出しその利益の一部を株主に還元する」ということにあります。  これが株式投資の本筋ですから、配当株投資を王道と考えて、配当金を主な目的にすることは、極めて合理的な投資活動だと思っています。  投資先企業の経営トップが自社のホームページなどで発信する情報を見れば、私が配当金を主産物と考える理由が、ご理解いただけると思います。  日本企業の多くは、3月期決算であれば、4月から5月にかけて決算内容を発表して、「決算の結果を受けて、いくら配当金を出すか?」という最終結論を出します。  それと同時に、「今期は、どのように配当金を出していくか?」という予想を発表します。  ここで注目したいのは、経営トップは配当金に関しては予想を出しますが、「今期の株価がいくらになるか?」を予測したり、担保することはないという点です。  株価を担保することなど、誰にとっても不可能なことですが、企業のトップが責任を持って担保できないようなものに対して、私は自分の大切な財産を委ねる気にはなれません。  これから先も安定した利益を得ていくためには、不確かなものを主産物と考えるのは、やはり無理があると思ってしまうのです。 株式投資で利益を上げ続けられる2タイプ  株式投資をやっている人でも、配当株投資の底力をきちんと理解している人は、それほど多くはないように感じています。  それは、配当株投資の実態や本当の魅力を知らないだけでなく、短期間で利益を上げることばかりを最優先させているからではないでしょうか?  自分でもよくわからない企業の株を買って、その株価の動きに一喜一憂しながら売買を繰り返し、結局は「退場」や「引退」を余儀なくされてしまう人も少なくありません。  退場とは、「投資行為を諦める」という意味の相場スラングで、経済的にピンチに陥って株式投資を「やめざるを得ない」状況を指します。  引退は、自らの意思で株式投資から身を引くという意味です。  株式投資で利益を上げ続けられる人は、2つのタイプしかいないと思っています。  ひとつは、見事なまでに相場の動きを読み切れるような、ごく一握りの稀有な才能を持った人たちです。  もうひとつは、配当株投資などをやっている、いわゆる「長期投資家」です。  配当株投資は、短期間で利益を得たい人には「物足りない」と感じるかもしれませんが、個人投資家の時間軸をフル活用して、「長い目で見る」という覚悟を決めれば、やがて利益を享受できる日がやってきます。 「急がば回れ」ではありませんが、稀有な才能を持っているという自覚がなければ、王道の配当株投資を選択するのが賢明だと考えます。 出典=『年間100万円の配当金が入ってくる最高の株式投資』 「増配」で株を持ち続けるだけでも儲かる  配当株投資の一番の楽しさと強みは、配当金の「増配」があることです。  増配とは、企業が株主に対して分配する配当金が前期よりも増えるということですが、増配ができるということは、その年の企業の業績が良かったことを意味しています。  こうした企業の業績向上による増配は「普通増配」と呼ばれています。  一般的に増配という場合は、この普通増配を指しています。  この他に、企業の創業何十周年などの節目の際に支払われる「記念増配」や、固定資産を売却したなど、何らかの特別な理由によって企業の業績が良くなった時に支払われる「特別増配」があります。  増配とは、「どういうことか?」を具体的な数字で説明します。  現在、10円の配当金を出している企業があるとします。この企業が、毎年1円ずつ増配していくと、配当金は10年で20円に増えます。  その株を配当金が10円の時に買っていれば、この時点で配当金は2倍に膨らんでいます。つまり、10円の時に50万円の配当を受けていた人ならば、10年後にはそれが2倍の100万円になっているということです。  三菱UFJフィナンシャル・グループの配当金は、10年前は12円でしたが、2023年3月期には32円に増配しています。10年前に年12万円の配当を受け取っていた人であればずっと株を持ち続けることによって、32万円の配当金を手にしているのです。  その10年間、ただ株を持っているだけで、株数を増やしていなくても、企業が増配してくれれば、受け取る配当金は2.6倍になっているということです。 出典=『年間100万円の配当金が入ってくる最高の株式投資』 配当株には「沼にハマり込む」ような魔力がある  世の中の景気がどうなっていても、投資先の企業が頑張って利益を出し続けてくれれば、継続的に配当を受けることができます。  これが、配当株投資が「インフレに強い」といわれる理由です。  大切なことは、目先の利益に目を奪われて、短期間で結果を求め過ぎないことです。  1年や2年の短い期間で、資産を3倍とか10倍にしようと思っても難しい話です。  配当株投資で成果を実感するためには、最低でも10年くらいの時間軸で取り組むことが求められます。  市場の動きにとらわれずに、淡々と株数を増やしていけばいいだけですから、「この先、10年は続ける」と方針を決めてしまえば、モチベーションは意外に保ちやすいと思います。 「10年は頑張ろう」と覚悟を決めても、その間、ずっと我慢を強いられるわけではありません。  配当金が入ってきたり、増配によって配当金が増えるなど、その時々でつねに楽しみが待っていますから、実際に始めてみれば、その楽しさが理解できます。  私は、その状態をツイッターで「沼」と表現しているのですが、一度でもその楽しみを体感すると、どっぷりと沼にハマったようになって、そこから抜け出せなくなります。配当株投資は、そうした「やめられない」、「止まらない」となるような魔力を持っている投資だと思います。 配当 太郎(はいとう・たろう)投資家学生時代に株式投資を始め、リーマン・ショックを経て、配当株投資に目覚める。大型株を中心に投資し、保有銘柄の9割は配当金が年々増える「増配銘柄」が占める。Twitterのフォロワーは7万5000人超。毎日、配当株投資に関する情報を発信している。本書が初の著書となる。Twitter 
「逮捕されて安堵した」 懲役5年4カ月を受けた“闇バイト”主犯が語る罪悪感と恐怖心
「逮捕されて安堵した」 懲役5年4カ月を受けた“闇バイト”主犯が語る罪悪感と恐怖心 「闇バイトは切り捨て」だと話すフナイムさん。自身が特殊詐欺の主犯格だった頃、現金を受け取る「受け子」と直接会うことはなかったという   警察官に取り囲まれた日のことをよく覚えている。 「やっと終わったな」  特殊詐欺事件の主犯として活動していた男性(42)は安堵した。  23歳で“闇バイト”の世界に足を踏み入れ、詐欺行為を繰り返した。当初は「使われる側」だったが、いつの間にか「使う側」になっていた。35歳のとき、高齢者から金をだまし取ったとして、逮捕された。懲役5年4カ月の実刑判決を受けた。  服役中、妻からは手紙で離婚を言い渡された。2021年に刑期を終えたが、妻と子どもには今も会えていない。  出所後は、刑務所で呼ばれていた番号「2716」から、自らを「フナイム」と名乗り、その経験を語っている。「犯罪者」が口を開くことで、批判にさらされることもある。それでも発信を続けるのは、次の加害者を生みたくないからだという。  なぜ、闇バイトに手を出したのか。詐欺だと気づいても、なぜやめられなかったのか――。150分間にわたって、アエラの取材に応じた。 *  *  * ――闇バイトに手を出したのは。  俳優を目指しながら、水商売の仕事で生計を立てていました。あるとき、客の男性から「もっと稼げる昼のバイトがある」と誘われ、事務所についていった。それが「闇バイト」でした。 ――どんなことをしましたか。  お金を必要としている人に融資をうたい、保証金を受け取る「融資保証金詐欺」です。最初は合法だと聞かされていました。研修を始めて2週間くらいして、詐欺なんじゃないかと思い始めました。 ――詐欺だと気づいてもやめようと思わなかったのですか。  身分証のコピーを取られていましたし、暴力団の影もちらつかせてきました。飲みの場では「〇〇組の人がこういうことを言っていて」とあたかも付き合いがあるかのように話す。一度、屋形船の飲み会に参加したときは、暴力団の集まりなのか、指を詰めた人もいました。東京湾の花火の日だったかな。それに、お金の魔力にも取りつかれていました。 ――すでにたくさんお金を得ていたのですか。  月50万~100万は稼げると言われて始めましたが、実際に受け取っていたのは月20万ほどでした。でも、研修先の従業員が毎月200万~300万円を現金で受け取る姿を間近で見て、自分もああなりたいと思った。 逮捕されてから、毎日日記をつづった。ノートは10冊以上にのぼる ――その事務所には長くいたのですか。  2カ月で40万しかもらえなかったので、違うグループに移りました。ただ、どう頑張っても月30万ほどしかもらえない。リスクに見合わないと言っても、「今は経費がかかるから」「表の会社を作ったら取締役にしてやるから」と理由をつけては流されました。そこには半年くらいいて、それから闇金にシフトしました。  ただ、闇金の仕事は性に合わなかった。督促の電話をかけるときには、舌をまくらせて吠える(怒鳴る)必要があるのですが、それをしたくなかった。普通にお金を借りている人をだまして闇金に落とすというのも嫌で、この仕事を「辞める」と伝えました。 めくれないと詐欺じゃない ――スムーズに辞められましたか。  引き留められはしましたが、バックをちらつかされることはありませんでした。25、26歳のときです。 ――犯罪から足を洗った。  はい。闇金をやめてからは、もう一度芸能の仕事を目指しました。当時同棲していた恋人がいて、結婚することになりました。ただ、芸能の仕事では食べていくことはできないし、昼間もしっかり働こうと考えていたとき、知人から昼の仕事の紹介を受けました。 ――仕事内容は。  未公開株の販売業です。 ――未公開株の販売ができるのは、その未公開株の発行会社や登録を受けた証券会社に限られています。  犯罪にあたらないか確認しましたが、事務所を借りて所在も明らかにするし、投資事業組合を作ると言われました。なら大丈夫かなと。2カ月で月収が120万円を超えましたが、だんだんグレーだと感じ始めました。 ――具体的には。  未公開株の販売だけだと思っていましたが、「株を買いたい人がいる」とうたっていた相手が実は身内だったんです。マッチポンプのような手法で、本当は買いたい人なんて存在しない。めくれない(バレない)と詐欺じゃない。それでも32歳くらいまで続けていました。 ――やめるきっかけは?  本当にやりたいことじゃないなと思ったんです。若いころ、よく海外に行っていたこともあり、役者がダメなら輸出入の仕事がしたかった。それで、実際に韓国で雑貨を買い付けてネットで販売することにしたんです。  ただ、売り上げは月に40万ほど。仕入れを引くと、お金はほとんど残らない。生活が圧迫され、どうしようと思ったときに未公開株の販売を誘ってきた知人から再び連絡がきました。 ――今度は何の誘いでしたか。  老人ホームの入居権の販売マニュアルがあるから、やってみないかと連絡がありました。やり方は未公開株のときと同じで、本当は入りたい人なんていない。でも、あたかもいるかのようにみせて、権利を販売する。お金に困っていたので、手を出してしまいました。 広域連続強盗事件。フィリピンから移送された今村磨人容疑者(写真右)と藤田聖也容疑者(写真/アフロ) ――どんなことをしたんですか。  自分を含めて、4人で動いていました。僕は電話をかける役で、後は金銭の受け取りをする「受け子」を取りまとめるリーダー、不動産の調達担当、そしてインフラ面を整える役割を担う人がいました。 ――罪悪感はありましたか。  電話でアポを取っているときは、不思議と罪悪感はありませんでした。ただ、相手がお金を受け子に渡す瞬間には「やってしまった」という気持ちが湧き上がってきました。変な高揚感というか、罪悪感がゾワッと押し寄せてくる。 ――やめようとは思わなかった。  その罪悪感も受け子が逃げ切ったことがわかると、なくなってしまうんです。振り幅がすごいというか。罪悪感を抱いたときには、「悪いことをしているわけではない」「自分の将来や家族のために必要なんだ」と自分に言い聞かせていました。今思えばとても利己的でした。 ――現在問題になっている広域強盗事件では、指示役がフィリピンから遠隔で指示をしていたといわれています。フナイムさんは受け子と面識はありましたか。  受け子のリーダーが取りまとめていたので、僕は直接会ったことはありません。電話で声を聞く限り、30~40代くらいかなという印象でした。 「やっと終わったな」 ――その後はどうなりましたか。  高齢者から保証金をだまし取ったとして、2015年に逮捕されました。ガサ入れの前日、販売マニュアルをくれた人から「かけ子(電話をかける)グループと連絡が取れなくなっていて、たぶん捕まりました」「そっちもやばいから片づけたほうがいい」と電話がありました。それで、急いで他の3人を招集しました。でも、受け子のリーダーが「お金を持っていこうとしているんじゃないか」と勘ぐり始め、その日は帰ることになりました。  翌朝、事務所でパソコンや資料を処分していたら、急に外が騒がしくなった。ルーフバルコニーや事務所の入り口ですごい足音がして、数十人の警察官に取り囲まれました。朝11時くらいだったと思います。受け子のリーダーともう一人は、事務所近くまできていたそうですが、様子がおかしいと思って逃げたそうです。彼らは2カ月後に自首したと聞いています。捕まってからは会っていません。 ――逮捕されたとき、どう思いましたか。 「やっと終わったな」という安堵感がありました。ただ、すぐに恐怖心が湧いてきました。 ノートの端までびっしりと文字が詰まっている。「ノートの購入にも制限があり、もったいないから」とフナイムさん ――恐怖心とは具体的に。 「両親や妻になんて言おうか」「子どもの七五三には行けないな」「ニュースに出てしまうだろうな」とか、そんなことが頭をよぎりました。  逮捕された翌朝、刑事さんから「奥さんが泣いていたぞ」と言われました。ただ、そのときは「てめぇらが来たからだろ」としか思えなかった。留置場にぶちこまれてからも、ずっと他責思考のままでした。 ――どういうことですか。  僕には学もないし、資格もない。そんな自分が家族や周りの人を幸せにするには、詐欺は必要なことだったと本気で思っていたんです。「僕がどういう思いで詐欺をしていたか、誰もわかっていない」と感じていました。 刑を軽くすることだけ考えていた ――被害者への申し訳なさはありましたか。  妻や子どもに対して悪いという気持ちはありましたが、被害者の方への償いの気持ちはありませんでした。 ――起訴され拘置所に移ってから、被害者への感情は変化していましたか。  このときも申し訳ない気持ちはなく、刑を軽くすることだけを考えていました。 ――判決は。  懲役5年4カ月の実刑判決でした。刑務所に入ってすぐのころも、償いの気持ちをあまり持てていませんでした。ただ、高卒認定試験の勉強を始めて、自分の常識が世間と違うことに気づきました。 ――どんなところが違ったのですか。  倫理の教科書を読んだのですが、最初は「たかが道徳でしょ」と軽くみていました。国語は得意だったし、余裕で理解できると思ったんです。なのに、書いてあることの意味がまったくわからなかったんです。 ――わからないとは、どういうことですか。  きれいごとばかりだと思ったんです。何百年も前から当たり前のように言われていることなのに、どうして自分は違う考え方なんだろうと疑問を持ちました。なぜこんな考え方をしているのか不思議になり、1冊の教科書を4カ月くらいかけて何度も読み返しました。 ※記事の後半では、倫理の教科書を読み込むなかで利己的だった自分に気づき、被害者に謝罪の気持ちを抱くようになった心情や特殊詐欺への後悔について、聞いています。 <<妻の手紙から「大好きだよ」の言葉がなくなった 特殊詐欺の主犯格だった42歳男性の後悔>>に続く。 (構成/編集部・福井しほ)
永田町「世襲天国」で“首相ガチャ” 資金も課税されず継承
永田町「世襲天国」で“首相ガチャ” 資金も課税されず継承 「公用車でお土産」問題の岸田翔太郎氏。父は何を思うのか  親の経済力いかんで子どもの将来が左右されるという「親ガチャ」。一昨年の新語・流行語大賞でトップテン入りし、格差社会を象徴する言葉となったが、永田町も事情は似たり寄ったりだ。大事な未来を決める政治の世界は、このままでいいのか。 *  *  *  岸田文雄首相は2021年の自民党総裁選に出馬した際、党の動画チャンネルで「親ガチャ」について聞かれ、「寂しく、悲しいことだ。子育て世帯をしっかり支える施策を用意し、格差をなくさなければならない」と殊勝にコメントした。  その総裁選を勝ち抜き、首相の座を射止めて1年後、岸田氏は長男の翔太郎氏(32)を政務担当の首相秘書官に抜擢(ばってき)する。慶大法学部を卒業後、三井物産に入社。20年に退職後は岸田氏の事務所で公設秘書を務めていた長男の起用に対し、「公私混同」「身内びいきでは」といった批判や疑問の声が野党のみならず与党からも噴出した。  皮肉なことに、この「親バカ人事」がいま岸田政権の足を引っ張っている。今年1月に岸田氏がパリやロンドンを外遊した際、同行した翔太郎氏は公用車を使って“観光三昧(ざんまい)”をし、老舗超高級百貨店などを訪ねてはお土産を買い込んでいたと「週刊新潮」が報じたのだ。  観光地での写真撮影は対外発信に使う、買い物は閣僚に向けた首相の土産購入が目的の「公務」である……。政府は苦しい言い訳を強いられた。  岸田氏が翔太郎氏を秘書官に起用したのは「岸田家4代」への布石と見られている。岸田家は現首相の文雄氏だけでなく、先代も先々代も衆院議員を務めた世襲一家。翔太郎氏が跡を継げば4代目となる。文雄氏も父・文武氏の秘書から政界でのキャリアをスタートさせ、文武氏が当選を重ねた選挙区から出馬して35歳で初当選している。  2月1日の衆院予算委員会で、翔太郎氏を「官邸の要」である首相秘書官に任命したのは妥当かを首相に問うた立憲民主党の落合貴之議員は、「自民党の衆院議員の3割以上、閣僚は半分以上が世襲」「英国の貴族院でさえ世襲の割合は2015年の調べで1割」などと例示し、日本の現状は「異常だ」と訴えた。  日本ではかねて選挙に勝つために三つの「バン」が必要と言われてきた。後援組織の「地盤(票)」、知名度の「看板」、選挙資金の「カバン」だ。一般に政治家となるには多大なコストがかかるが、世襲候補は三つの「バン」を親の代から労せずして引き継げる。  選挙において世襲議員が圧倒的に有利なのは、データからも明らかだ。  小選挙区制が導入された1996年以降の衆院選の全選挙区、全候補者について分析した日本経済新聞の記事(2021年10月17日付)によると、(1)父母が国会議員(2)3親等内の国会議員から地盤の一部または全部を引き継いだ、のいずれかに該当する候補を世襲と定義した場合、候補者全体の13%が世襲で、世襲候補の勝率は比例代表による復活当選を含めると80%に達したという(非世襲候補は30%)。  また、昨年の参院選について分析した時事通信の記事によると、世襲の定義を「父母、義父母、祖父母のいずれかが国会議員」または「3親等内の親族に国会議員がいて同一選挙区から出馬」とした場合、世襲候補者は19人。うち14人が当選した。全体の当選率22.9%に対し、世襲候補の当選率は73.7%だった。  前に示した世襲の定義にあてはめると、96年以降に誕生した12人の首相のうち、非世襲は自民党の森喜朗氏、菅義偉氏と民主党の菅直人氏、野田佳彦氏の4人だけ。永田町の力学で、世襲議員の中から首相が選出される「首相ガチャ」の状態だ。 ■親子間で資金が課税されず継承  むろん安易な世襲の禁止は憲法の定める「職業選択の自由」に抵触するおそれがある。世襲議員のなかに立派な政治家もいるだろうが、世襲政治家の問題点について政治ジャーナリストの角谷浩一氏は、こう解説する。 「世襲政治問題の本質は、親が代表の政治資金団体に子が代表として就任するなどして、その団体の政治資金が非課税でゆだねられてしまうことです。法律を変えるなどして、政治資金団体の代表を引き継いだ場合は課税対象にしてメリットをなくしていくか、代表が代わる場合に残金は国庫に返納させるなどし、引き継ぎができないような仕組みを構築していく必要はあるでしょう」 小泉純一郎氏(左)・小泉進次郎氏 ◇     ◇  ここからは、主な世襲政治家の最近の言動や情勢をおさらいしよう。  郵政民営化問題で脚光を浴びた小泉純一郎元首相(81)の次男、進次郎衆院議員(41、当選5回)は2019年に38歳という戦後3番目の若さで初入閣を果たすと、カリスマ性を持つ純一郎氏の後継者として期待を集めた。  しかし環境大臣として施行したレジ袋の有料化やプラスチック製品の削減義務化などの評価はいまひとつ。また原発事故による汚染土の最終処分場について問われた際の「30年後の自分は何歳か、発災直後から考えていた」発言など、ときに意味不明で独特な言い回しが「ポエムのよう」「進次郎構文」などと揶揄(やゆ)され、最近は影が薄い。 福田康夫氏(左)・福田達夫氏  祖父・赳夫氏と父・康夫氏が首相を務め、自身もその座に就けば3代にわたる首相就任となる福田達夫衆院議員(55、当選4回)は、一昨年の総裁選で岸田氏を支持し、閣僚未経験ながら総務会長に任命された。だが、昨年7月の安倍晋三元首相銃撃事件で旧統一教会と党所属議員の関係について会見で問われた際に「何が問題か僕はよくわからない」と発言。厳しい非難を浴びた。  約半世紀にわたって自民党を取材してきた野上忠興氏はこう語る。 「今の世襲議員は野党にもまれたり党や派閥の幹部から、どつかれたりする下積みの苦労もないまま、若くしてチヤホヤされる傾向がある。『選挙に強い』が政治家としての成長を止めるというマイナス要素に働くことになる。一選挙区一人の小選挙区制になったことで、地元の政財界にしても選択肢がなくなり、その一人に頼ることになるため選挙基盤が盤石化してしまう。同じ世襲政治家でも小選挙区制以前の中選挙区制下で落選経験を持つ安倍晋太郎さんから、『自分に慢心があった。あの落選で目が覚めた』と聞かされたものだが、中選挙区制には、そうした緊張感があった」 ■山口で代々続く安倍家のゆくえ  衆院小選挙区を「10増10減」する改正公職選挙法が昨年末に施行され、選挙区が4から3に減る山口県では、この4月にダブル補選が行われる見通しだ。  安倍氏の死去で議員不在となった4区は、妻の昭恵氏の立候補を推す声があったものの、昭恵氏が固辞。現職の下関市議が立候補を予定している。  一方、2区は安倍氏の弟、岸信夫首相補佐官(63)が健康状態の悪化を理由に議員辞職。後継に長男で自身の秘書、信千世氏(31)を指名した。4区で途絶える安倍家の世襲の系譜を2区で次世代につなぐ構えだが、ことは簡単ではない。全国紙の政治部記者は言う。 小渕恵三氏(左)・小渕優子氏 「山口には3区選出の林芳正外相もおり、議席を巡って安倍派と林派がぶつかる可能性もある。安倍元首相という後ろ盾がない状況では、いくら信千世さんが岸家の人間でも、政治家として生き残れるか厳しい状況となる。最悪お家取り潰しとなるかもしれません」  故小渕恵三元首相の次女、優子衆院議員(49、当選8回)は08年に少子化対策担当相として34歳で初入閣し、戦後の最年少入閣記録を塗り替えた。14年には女性初の経済産業大臣に就任。父に続く首相の座へ着々と駒を進めていたかに見えたが、同年、自身の政治団体を巡る不明瞭な資金処理問題が明るみに出た。  東京地検特捜部が元秘書宅や後援会事務所を家宅捜索した際には、複数のハードディスクに電気ドリルで穴が開けられ、会計書類が処分されていた。政治資金規正法違反で元秘書2人に有罪判決が下り、優子氏自身への疑念も残す結果に。 「やはり政治とカネのスキャンダルがあったということは大きい。彼女自身もあまり表に出たがらないようだ。ただ不祥事の過去はあるものの、選挙で禊は済んだとして期待する声もある。初の女性首相を誰にするのかというのは、永田町だけでなく国民にとっても大きな関心ごとではないか」(野上氏) 加藤紘一氏(左)・加藤鮎子氏  かつて「宏池会のプリンス」と呼ばれた故加藤紘一・自民党元幹事長の三女、鮎子衆院議員(43、当選3回)は、岸田氏が総裁選に出馬した際に注目された。  森内閣時代の00年、紘一氏が野党の内閣不信任決議案に賛成する構えを見せた「加藤の乱」で、父とともに造反組に回った同志が岸田氏だった。20、21年の総裁選で鮎子氏は岸田氏の推薦人に名を連ね、その後、国土交通政務官に就いた。「首相の座に最も近い」と言われた政治家の娘は、これから頭角を現すだろうか。 鈴木宗男参院議員(左)と貴子衆院議員  初の女性首相の「大穴」になるかもしれないのが、日本維新の会の鈴木宗男参院議員(75)の長女で、自身は自民党に属する貴子外務副大臣(37、当選4回)だ。13年に27歳で当時最年少の衆院議員として国会デビューを果たすと、18年には32歳で防衛政務官、35歳で外務副大臣と経験を重ねてきた。  しかし、ロシアによるウクライナ侵攻が始まると、ロシア寄りともとれる宗男氏の発言が取りざたされ、貴子氏の副大臣としての立ち振る舞いも問われている。  これら世襲議員の中から未来の首相は出るだろうか。誰がなるにせよ、「世襲ありき」でなく、その働きぶりで評価されるべきなのは言うまでもない。(本誌・佐賀旭)※週刊朝日  2023年2月17日号
正しく見えることも、見る人によっては逆に感じる 映画「別れる決心」のパク・チャヌク監督が語る見どころ
正しく見えることも、見る人によっては逆に感じる 映画「別れる決心」のパク・チャヌク監督が語る見どころ (c)2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED  現代の韓国。岩山から男が転落死した。刑事ヘジュン(パク・ヘイル)と彼の部下スワン(コ・ギョンピョ)は、男の妻で中国出身のソレ(タン・ウェイ)を取り調べる。スワンはソレを疑うが、ヘジュンは次第に彼女に魅了されていく──。連載「シネマ×SDGs」の39回目は、人気監督が新たなアプローチで魅せるサスペンスロマンス「別れる決心」のパク・チャヌク監督に話を聞いた。 *  *  *  私は思春期のころスウェーデンの推理小説『刑事マルティン・ベック』シリーズに夢中でした。数年前に韓国語版が出版されて久しぶりに読み返し、「こういう刑事を映画にしたいな」と考えたのです。ファンの方は「全然似てないよ」と思われるでしょうが(笑)、インスピレーションの源とは往々にしてそういうものだと思います。 (c)2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED  刑事ヘジュンと事件の容疑者であるソレは、お互いの感情に気づきつつ、それを押し殺します。私が尊敬する成瀬巳喜男監督の「乱れる」の主人公のように、です。これは「感情を隠している人たちの愛の物語」で、それを表現するためには繊細な仕草や表情、まなざしが重要です。そこで今回はあえて刺激的な描写やエロティックな表現を避けることにしました。 (c)2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED  特にいまは性的描写や暴力シーンに非常に気を使わなくてはいけない時代です。ただ「芸術における性的描写を完全になくせ」という人はいないと思います。人間が生きていく上で、セックスは非常に重要な要素のうちの一つだからです。ただ創作において、まず「本当にそれが必要なのか」を熟考すること、そして芸術のなかで必ず必要だと判断したときは、表現をすべきだと私は考えています。 (c)2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED  本作は公平さや善意が必ずしも良い結果にならないことも描いています。刑事ヘジュンは人に対して偏見なく、常に公平な目と態度で接しようと努力をしてきた人です。直感でソレを疑う部下スワンに「若くて美人で外国人なら被疑者になって当然か?」と言う。それに対しスワンは「それは(男に対する)逆差別じゃないか?」と言い返します。正しく見えることも、見る人によっては逆に感じるものです。どのような結末が待っているか、ぜひご覧いただければと思います。(取材/文・中村千晶) パク・チャヌク(監督)朴 贊郁/1963年、韓国・ソウル生まれ。「オールド・ボーイ」(2003年)で第57回カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞。代表作に「渇き」(09年)、「お嬢さん」(16年)などがある。17日から全国で公開 (c)2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED ※AERA 2023年2月13日号
雅子さまが「しっくりくる」お好みとは? 親子2代の皇室デザイナーが明かす「ご自分らしい」帽子
雅子さまが「しっくりくる」お好みとは? 親子2代の皇室デザイナーが明かす「ご自分らしい」帽子 愛子さまは浅めにトーク帽をかぶり若々しく、雅子さまは深くフォーマルな印象。22年元日仙洞仮御所へごあいさつ  女性皇族の正装にかかせない帽子。新年は愛子さまが身に着けた帽子に注目が集まったが、雅子さまの装いにも皇太子妃のときから変わらない「自分らしさがある」と語るのは、父である故・平田暁夫さんとともに親子2代で皇室の帽子デザイナーを務める平田欧子さんだ。雅子さまの帽子に込められた秘話とは――。 *  *  *  皇后雅子さまの帽子の装いには、はっきりとしたお好みがある。 「近年は、やや目深にかぶられます。いま、ご自身にもっともなじまれる角度なのでしょう」  そう話すのは、皇室の帽子デザイナーの平田欧子さんだ。 工房で帽子を制作する平田欧子さん  たとえば、新年に上皇ご夫妻にごあいさつに向かう、天皇ご一家の写真。雅子さまと愛子さまはローブモンタントに、つばのない「トーク帽」を合わせている。  よく見るとお二人のかぶり方は、まるで違う。  愛子さまは、浅めにかぶって額を見せている。お顔の表情がよく見え、若々しさが伝わってくる。一方、雅子さまは眉が隠れるほど深めの位置で、フォーマルな印象が際立つ。かぶる角度をわずかに変えることで、実に表情豊かな装いとなる。それが、帽子の魅力でもある。  このコロナ禍で、皇族方の装いにも変化があった。 「コロナ禍でマスクをつけるようになってからは、ベレー帽をかぶられたり、帽子のつばを上げて額と顔を広めに出すなどの工夫をなさる皇族方が増えました」  しかし、雅子さまのスタイルは、変わらないという。 雅子さまのブルトン帽姿。正面は深く、耳からのラインが上がっている。2019年愛知・植樹祭で両陛下  これは自分らしい、自分らしくはない――雅子さまは、ご自分の中にあるそうした「感覚」を大切になさる方である、と欧子さんは感じている。  その感性が体現されているのが、丁寧に考えられたつばの曲線だ。  つば全体が上がるのが「ブルトン帽」。雅子さまの場合は、正面はやや深めで、耳から後ろにかけてなだらかにラインが上がる作りに仕上がっている。  このつばのラインを好まれるのは、皇太子妃時代から変わらない。 「雅子さまがしっくりくるとお感じになるフォルムなのだと感じます」  雅子さまの着こなしの特色のひとつはリメイクとリフォームだ。 個性が出る皇族方の帽子。常陸宮妃華子さま、寛仁親王妃信子さまは斜めにかぶりアクセントをつけて。2019年全国赤十字大会  皇太子妃時代からのスーツや衣装を大切に保管し、繰り返し身に着けられることが少なくない。公務や皇室行事において帽子は、洋服やドレスと対になる存在。洋服を新調する際には、その共布を使って作られるのが一般的だ。  だが、リメイクもそれはそれで悩ましい面はある。10年、20年前の洋服となれば共布が必要な形状で残っていれば幸運だが、そうでない場合もある。  似た質感の素材をお洋服の色に染めたり加工を施したりすることも珍しくない。  しかし、たとえ難しい状況であっても、皇后にふさわしい装いに仕上げるのがデザイナーの仕事だ。というのも、天皇や皇后、そして他の皇族方の装いは、単なるファッションで終わるものではないからだ。  皇后は、天皇の隣で国内外の要人の接遇を行い、厳粛な式典にも出席する。装いは、接遇の相手やそこに集まる人々に敬意を示す手段でもある。デザイナーは、洋服やドレスと一体感を持ち合わせた皇后にふさわしい帽子に仕上げなくてはいけない。 雅子さまと愛子さま  実は、デザイン以外にも細やかな配慮が必要だ。  天皇や皇族方は、360度どの角度から写真や映像を撮影されても困らないような立ち居振る舞いを求められる。  たとえば、風の強い日に屋外で式典に臨むこともある。そうした場面でも皇族方の負担にならないよう、帽子が飛ぶことのないように工夫が必要だ。  雅子さまの衣装は、スーツやジャケットがメイン。つばのある「ブルトン帽」がよく調和する。  ここ数年、雅子さまは白を基調としたスーツやドレスをよくお召しだ。さらに、鮮やかなブルーと白のマリンカラーも公務でよく目にする組み合わせだ。この場合、ブルーの服にブルーの帽子では色味が強すぎる。白を基調にブルーのリボンでアクセントをつける工夫がなされている。 雅子さまがよくお召しのマリンカラーの装い。2019年茨城国体の開会式  雅子さまは、お直しやメンテナンスを繰り返しながら帽子を長く愛用されている。 「今回はこの服に合わせて」と、リボンだけを作り変える場面も少なくない。襟や袖口、ポケットにブレード(飾り)でアクセントをつけたデザインも多い。 「飾りの一部を帽子にお付けして一体感を出すこともあります。雅子さまは、どちらかといえば、すっきりとシャープな印象のデザインをお好みになられます」 眞子さんと佳子さまも浅めにかぶり方が多く、顔の表情がよく見える。2019年、日本芸術院賞受賞者を招いた茶会  平成のころ、欧子さんは園遊会で着用する帽子をデザインしていた。皇太子妃であった雅子さまに、「園遊会であればお花もよろしいかと」と提案したことがある。  雅子さまが選ばれたのは、花飾りやふわりとした華やかな飾りではなく、シルクサテンにさりげなく表情を加えた仕上げだった。  皇室は、時代を映す鏡といわれる。相手への敬意と同時に、ご自身らしさを大切にすることも、また時代にふさわしい装いなのだろう。 (AERA dot.編集部・永井貴子) 
わが子の臓器が5人を支えている 脳死下臓器提供を経験した家族が、いま願うこと
わが子の臓器が5人を支えている 脳死下臓器提供を経験した家族が、いま願うこと 両手を交差するポーズは5歳の夏から彼女が好んで使った。家族は「くーちゃんぽーず」と呼び、葬儀の場では同級生らが同じポーズでくーちゃんを見送った(photo 三浦拓さん提供)  家族が脳死になったら、臓器を提供するかしないか──。かつて長女(享年5)の脳死下臓器提供を決断した父親が、当時の揺れ動く心境を振り返った。AERA 2023年2月13日号の記事を紹介する。 *  *  *  脳死は脳幹を含む脳の機能全体が失われた状態で、植物状態などとは異なり回復することはない。ただし薬剤や人工呼吸器で一定期間は延命可能で、その間は心臓が拍動し、体温も感じられる。多くの国では脳死を「人の死」と定義するが、日本では臓器提供を前提とした場合に限り、脳死が死とみなされる。  もし、愛する家族が脳死になったら──。家族は心臓死の際とは別の決断を迫られる。臓器を提供するか否か。臓器提供の決断は、まだ心臓が拍動する家族の最期を自分たちで決めることでもある。  いま、日本で臓器移植を待つ人は1万5851人(2022年12月末時点)。腎臓が大半で1万4千人を超えるが、心臓に限っても898人が移植を待つ。移植以外に助かる道がない人だ。一方、待機人数に対し、提供される臓器は圧倒的に少ない。22年に行われた移植は455件(脳死下または心停止後の死体移植)で、心臓は79件だった。専門医らの努力や社会的な理解増進で増加基調だが、移植にたどり着けず亡くなる人も多い。  子どもの移植はさらに少なく、小児からの臓器提供が可能になった2010年から22年までの13年間で、6歳未満がドナーとなったのは25例しかない。  臓器移植は、ドナーや家族の決断に支えられる医療だ。家族は深い悲しみのなか葛藤し、揺れ動きつつも移植を決める。岡山県に暮らす三浦拓(ひらく)さん(44)と家族は数年前、5歳だった長女・愛來(あいく)ちゃん(くーちゃん)の脳死下臓器提供を決断した。 (photo 三浦拓さん提供) ■これ以上の後悔はない  その日の朝、くーちゃんはかかりつけの小児科でインフルエンザと診断された。高熱は下がり始めており、顔なじみの医師とふざけあうなど比較的元気な様子だったという。だが午後になり、急変した。体温は再び上がりはじめ、40度に達した。拓さんは救急搬送が必要か電話で問い合わせた。ただ、インフルエンザであることはわかっていたし、インフルエンザなら40度の熱が出ることもある。いったんは様子を見ることになった。 (photo 三浦拓さん提供)  「でも、次に測ると41度を超えていた。失禁もして、これはただ事ではないと思い救急車を呼びました」(拓さん)  病院に搬送されるころには既に意識がなかった。  インフルエンザ脳症だった。  インフルエンザ感染を機に意識障害やけいれんなどを引き起こすものだ。毎年数十~200例程度の報告があり、重症例・死亡例も少なくない。  48~72時間がヤマと言われたが意識は戻らず、搬送から7日目に医師から「限りなく脳死に近い状態」と告げられた。  毎日、病床で声をかけ続けた。 「がんばれがんばれ」「くーちゃん負けるな」「戻っておいで」  だが、さらにその3日後の検査で、くーちゃんは「臨床的な脳死(法に規定される脳死判定を行ったとしたならば脳死とされうる状態)」と診断された。  拓さんはこう悔やむ。 「もっと早く救急車を呼べば助かったかもしれない。『搬送が早くても結果は変わらなかったと思う』と言ってくれる先生もいます。でも、常に後悔を感じます。わが子を救えなかった。これ以上の後悔はありません」 ■「人のためになりたい」  過去に脳死から回復した例はない。それでも、何か手はないか。奇跡が起きるかもしれない。あらゆるものにすがりたくなったが、担当医は拓さんの目をまっすぐに見据え、言った。 「くーちゃんがお父さん、お母さんより先にこの世からいなくなってしまうのは、もう避けられないことなんです」  回復の見込みがないと理解したとき、頭をよぎったのは臓器移植のことだった。本人の意思を聞くことはかなわない。それでも、幼いながらに「世界中の人のためになりたい」と話していた彼女の姿が思い浮かんだ。  その夜、祖父母も交えた家族会議で拓さんは臓器提供について切り出した。そのときは皆が賛成したという。  家族に臓器提供を検討する意思がある場合、日本臓器移植ネットワークから臓器移植コーディネーターが派遣される。臓器提供の仕組みを丁寧に説明し、家族のケアに当たるのが彼らで、移植へ誘導するものではない。説明を聞き、当初は賛成していた妻と両家の母は反対に転じた。心臓が動いているのに死を認め、それを取り出すことがやはり受け入れられなかったという。 (photo 三浦拓さん提供)  意見がまとまらず、時間は刻一刻と過ぎていく。脳死下臓器提供の決断に使える時間は有限だ。脳死状態になってから心停止まで、大人の場合で多くは数日から2週間。子どもの場合、比較的長期間脳死状態が継続するケースもあるが、臓器の状態は日々悪くなる。血液検査などの数値も、全身状態の悪化を表していた。それでも、拓さんは家族の「説得」はしなかった。 「『人のためになりたい』と言っていたくーちゃんのためにも、家族が将来少しでも前を向くためにも、提供したほうがいいだろうとは思っていました。それでも私自身奇跡が起きないかと心のどこかで願っていたし、家族の説得もしていません。口先で納得させても、後で絶対にほころびが出る。より強く後悔させてしまうと思ったからです」 移植を受けた人の様子は、希望すれば日本臓器移植ネットワークから定期的に伝えられる。ネットワーク経由で手紙が届くことも(photo 三浦拓さん提供) ■家族3人で川の字に  そのまま数日が過ぎたある日、脳に新たな出血箇所が見つかった。ただ、出血に広がりがない。出血量が少ないわけではなかった。広がる余地がないほど脳が腫れていたのだという。これ以上「がんばれ」というのは酷だった。その日、誰からともなく「移植しようか」と口にした。  2度の法的脳死判定が終わり、搬送から27日目にくーちゃんの脳死が確定した。脳死判定の基準は厳格だ。脳幹の機能が消失しているかを確認するために、角膜を綿で刺激したり、耳に冷たい水を入れたりする検査もある。拓さんはこう振り返る。 「立ち会っていて、本当につらかった。1回目の法的脳死判定が終わったときほど泣いたことはありません。脳死が確定したあと、摘出の前夜は集中治療室のベッドの横にストレッチャーを出してもらって、家族3人で川の字になって寝ました。看護師長さんは、『こんなに朝が来なければいいのにと思ったことはない』と言って妻と抱き合って泣いてくれた。くーちゃんの祖父母も朝4時に集まって、皆で送り出しました。一番最後までくーちゃんに触れていたかったけれど、それは妻のほうがいいだろうと思って妻より少しだけ早く手を離して……」 厚生労働大臣から贈られた感謝状。「尊い行為により(中略)明るい希望をもたらされた」とある(photo 三浦拓さん提供) ■決断に正解はない  くーちゃんの臓器は各地に運ばれ、5人に移植された。心臓は10歳未満の女児に、肝臓は男児に。ふたつの腎臓と小腸は10代の男女に。彼らが今後、どんな人生を歩むかはわからない。それを知りたいとも思わないという。それでも、5人の体のなかでくーちゃんの臓器が生き続け、彼らを支えている事実に拓さんらは励まされている。  臓器を提供するかしないか。そこに正解はない。提供する決断にも、しない決断にも、それぞれに家族の深い苦悩がある。拓さんはこう言う。 「移植するのが善だとか、正しいなどとは思いません。提供しない決断も尊重されるべきです。ただ、脳死はいつ誰の身に降りかかるかわからないことは知っておいてほしいし、家族がそうなってしまったときにどんな決断をするか、当事者になる前に、冷静に考えられるときに少しでも想像してほしいと願っています。起こらない方が良い万一が起きた際、それがきっと、苦悩を減らす助けになると思います」 (編集部・川口穣) (photo 三浦拓さん提供) ※AERA 2023年2月13日号
ハリー王子の初体験にまでケチ? 暴露本『スペア』でしぼむ男ぶり そんな彼にも援軍が登場
ハリー王子の初体験にまでケチ? 暴露本『スペア』でしぼむ男ぶり そんな彼にも援軍が登場 ロバート・F・ケネディ人権賞を受賞したハリー王子とメーガン妃。ただし米国での好感度は急降下中(REX/アフロ)  ハリー王子(38)の暴露本『スペア』による激震が収まらない。事実誤認が次々と明らかになるなか、今度は王子が赤裸々に綴った初体験の”相手”を名乗る女性が現れた。スキャンダルがスキャンダルを呼ぶ展開に、チャールズ国王(74)の苦悩は募るばかり。しかもハリー王子に同調する王族も出てきて……。  ハリー王子は『スペア』の中で、初めての相手を「馬が好きな年上の女性」と記した。真っ先に名前が挙がったのは、ハリー王子が10代のころに交際していたと噂される女優のエリザベス・ハーレイ(58)。本人は強く否定したが、英メディアの詮索は加速するばかりだ。  そんななか、「私がその女性」と顔を出して大衆紙に詳細を語ったのが、サーシャ・ウォルポールさん(40)。夫と2人の娘と英南西部ウィルトシャー州に住む、パワーショベルの運転手だ。ある日『スペア』の内容を友人から知らされて、ソファから転げ落ちそうになるほど驚いた。書かれたからには、きっとそのうち見つけ出されて好き勝手に騒がれる。その前に真実を明かそうと取材に応じたという。金額は発表されていないが謝礼も受け取ったとされる。  報道によると、コトがあったのは2001年7月、彼女の誕生日だった。チャールズ国王(当時は皇太子)の私邸ハイグローブで馬の世話係として働いていた彼女は、私邸を訪れるハリー王子と顔なじみだった。誕生パーティーにハリー王子を招き、2人ともパブで酒をかなり飲んだところで、「外でシガレットを吸おう」とハリー王子が声をかけてきた。パブの裏庭に出てキスをし、芝生の上で5分間ほどセックスしたという。ハリー王子の尻を叩いたり、つねったりしたのも事実だという。『スペア』でハリー王子は17歳としたが、実際は16歳のときだった。  それから21年あまり。彼女は家族や親しい友人以外には打ち明けることなく沈黙を続けた。ただ今は、ハリー王子はなぜ事前に話してくれなかったのか残念に思うという。 ハリー王子が唯一信頼するといういとこのユージェニー王女(代表撮影/ロイター/アフロ)  彼女は、ハリー王子が誕生プレゼントにくれた「ミス・ピギー」(英テレビ番組「マペット・ショー」に出てくる豚のキャラクター)の人形とバースデーカードを、今も大切に持っている。ハリー王子が米国で幸せに暮らしていればそれでよいとも言う。ただ、誘われれば、「お茶を一緒に飲んでもよいかな」と話している。  だが、ハリー王子の初体験に異議を申し立てる人が出てきた。俳優のルパート・エヴェレット(63)だ。「ベスト・フレンズ・ウェディング」(1997年)でジュリア・ロバーツの親友のゲイ役を演じたことでも知られる。そんな彼が英テレグラフ紙に「相手が誰だか知っている。それはにぎやかなパブの裏の芝生ではない」と打ち明けた。詳しいことは言えないとしながらも、英国内でもなかったという。『スペア』の信ぴょう性が、また揺らいでいるようだ。  ハリー王子夫妻が暮らす米国でも、2人の好感度が急降下している。ニューズウィークの調査によると、王子の好感度は昨年12月に38ポイントあったが、『スペア』の発売直後にはマイナス7ポイントに沈んだ。  ただ、暴露本だけが影響しているとは言えなそうだ。遡ること2021年8月、オバマ元大統領の60歳の誕生パーティーに2人は招かれなかった。メーガン妃(41)は「育休中なので招待されても行くつもりはなかった」としたものの、オバマ夫妻をロールモデルとして接近してきた彼女は残念だったに違いない。  そして今年1月には知人の米有名司会者オプラ・ウィンフリー(69)の誕生日にも呼ばれなかった。ハリー王子夫妻は18年5月の挙式に彼女を招いて、王室での生活を語るつもりだった。この計画は王室から拒否され、2人は20年1月に王室離脱後、満を持して彼女のインタビューを受けたのだった。その関係が崩れたのも『スペア』だった。ハリー王子は本の宣伝のために受けたインタビューで「(メーガン妃への)人種差別はなかった」と語った。それが、メーガン妃の良き理解者とされてきた彼女を否定したと受け取られた。 兄弟仲に亀裂が入ったままのウィリアム皇太子とハリー王子(AP/アフロ)  どんどん人心を失ってゆくハリー王子夫妻だが、思わぬ理解者が現れた。  ハリー王子のいとこ、ユージェニー王女(32)だ。ユージェニー王女一家が、ハリー王子夫妻が暮らす米カリフォルニア州に移住する計画があるという。それはハリー王子夫妻が自宅近くの不動産情報をユージェニー王女に送っていることから発覚した。  ユージェニー王女はエリザベス女王の次男アンドルー王子(62)の次女で、王位継承順位11位。ユージェニー王女夫妻は昨年2月にスーパーボウルの観戦で米国に行き、ハリー王子の自宅に泊まったといわれている。英国ではウィンザーにあるハリー王子所有の住居フロッグモア・コテージを借りているといい、ハリー王子にとっては唯一信頼できる親戚といわれている。  ユージェニー王女は現在、第2子を妊娠中で、夏に出産予定だ。米国移住はその後になりそうだ。チャールズ国王の方針である王室のスリム化が本格的に始まる前に、ハリー王子に続いて王室を離脱する心づもりなのかもしれない。  エリザベス女王が亡くなって5カ月が過ぎた。要を失った王室では、メンバーのバラバラな動きが目立ってきた。チャールズ国王の強いリーダーシップが求められるなか、5月6日の戴冠式の準備が進んでいる  チャールズ国王はハリー王子が戴冠式にいないほうが、かえって注目を集めてしまうとして、式を執り行う英国国教会のカンタベリー大主教に出席の仲介を依頼したとされる。大主教はハリー王子夫妻の結婚式も挙行した人物だ。 ハリー王子に甘い?チャールズ国王にウィリアム皇太子は不満を募らせているもよう(PA Images/アフロ)  だがハリー王子側は出席に条件をつけているという。称号をはく奪しないことと、戴冠式で上席を用意することだ。しかもさらに良い条件を引き出すため、ぎりぎりまで正式な回答は控えるとされる。  戴冠式を巡る父王の意向に、ウィリアム皇太子(40)は失望しているとされる。弟が帰国したら、また何か仕掛けてくるのではないだろうか。それは娯楽となって、インタビューやドキュメンタリー番組、本で暴露されるのではないか……。  当然、戴冠式にはメーガン妃の同行を求めることも予想される。そうなると、カミラ王妃(75)やキャサリン皇太子妃(41)に、正式なコーティシー(儀礼)を行うことが求められる。ネットフリックスの番組で見せたような、ふざけた振る舞いは許されない。 (ジャーナリスト・多賀幹子) ※週刊朝日オリジナル記事
銃射殺事件の背景に「アジア系高齢者の社会的孤立」も 米ロス郊外の街で起きた悲劇
銃射殺事件の背景に「アジア系高齢者の社会的孤立」も 米ロス郊外の街で起きた悲劇 近隣の街の住民のギルバート・ガルシアさんと妻のデビーさんは、事件の現場となった社交ダンス・スタジオに花を供えに来た(写真/長野美穂)  ロサンゼルス近郊の街、モントレー・パークの中心部にある社交ダンススタジオ「Star Dance」に行ってみると、赤色の線香から立ち上る煙の匂いが立ちこめていた。  1月21日の夜、チャイニーズ・ニュー・イヤーの春節のダンスイベントを楽しんでいた男女11人を、アジア系の72歳の男性が射殺するという事件が起きた現場だ。 「タンゴ、ワルツ、チャチャチャ、サルサなどを朝9時から学べます」という看板が掲げられたスタジオの外壁には、数日前に殺害された11人の名前が書かれたボードが並んでいる。  11人のうちの7人の写真が、白い花で飾られた大きなパネルに飾られている。このスタジオのダンス講師の笑顔の写真を含め、犠牲者の多くは65歳以上だった。 「若い頃からずっと働いて、やっと引退できるシニアの年齢になって、さあこれから人生を楽しもうという時に、なぜいきなり射殺されなくちゃいけないんだ?」  犠牲者たちの顔写真を見ながら、60代の近隣住民のギルバート・ガルシアさんは、そうつぶやいた。  ガルシアさんの妻のデビーさんは、持ってきた黄色い花の花束をそっと地面に置き、深くため息をついた。 「私はこの近くの街で育ったから、モントレー・パークは自分の故郷みたいなもの。平和で静かなこの街で、こんな惨劇が起きたことを、未だに受け止めきれない」  壁には「Ban Semi-automatic Rifles 禁止半自動歩槍」と、英語と中国語で書かれた青い紙が貼られている。 「銃が家族を破壊する」「大量殺人はもうたくさんだ」「銃での殺人が毎日。何度犠牲者の追悼式をやればいいのか。もう耐えられない」というメッセージが、コンクリートの地面にチョークで書かれていた。  ガルシアさんが80年代にこの地域に住み始めた頃は、素手での殴り合いの喧嘩は時々起きていたが、銃での射殺事件など1度も記憶がなかったという。 「ここは犯罪多発のダウンタウンとは違う。だからこそ当時この地域に家を買おうと決めたし、当時13%と高金利だった住宅ローンも必死で払ってきた。殺された人たちもきっとみんな同じじゃないかと思う」 モントレー・パークの街のレストラン。中国語がメインで、店員も客も英語を話す人はほぼいない(写真/長野美穂)  ダンススタジオに隣接する店のショーウィンドウを見ると、ZOJIRUSHIのマークがついた炊飯器や「ホットポット」と書かれた調理器具や電気鍋の箱が山のように積まれている。  人口の65%がアジア系のこの街では、台湾系や中国系の住民が圧倒的に多い。通行人の8割以上がマスクをしている光景もはっとするほど新鮮だ。LAのダウンタウンの路上で、現在、マスクをしている人は少数派だからだ。  道ばたにホームレスがおらず、街の看板はほとんどが中国語で書かれている。  街自体が“巨大な中華街”という感じなのだが、LAダウンタウンのチャイナタウンと違うのは、多くの飲食店のガラスドアにクレジットカードのシールが貼られておらず、現金払いが奨励されていることだ。  あるレストランに入って注文すると、店員の若い女性数人は「英語は話せない」というジェスチャーをして、店の奥から英語の話せる中年女性を連れてきた。彼女にまず聞かれたのは「キャッシュは持っているのか?」だ。  豚や鶏の料理が大皿に盛られているカウンターにテイクアウト料理を注文しにひっきりなしにやってくる客たち。50人ほどの客が次々と店員に注文するそのやりとりを聞いていても、全員が中国語で話し、店の中で英語を聞くことはなかった。 「生活の全てを中国語で完結することができてしまうのがモントレー・パークの特徴。私の友人のおばあさんは一言も英語を話さずに何の問題もなく生涯ずっとあの街で生活していた」と語るのは、すぐ隣の町アルハンブラに6年間住んだ経験がある台湾出身のクリスティーン・ジョーングさんだ。  今回の射殺事件の犯人のアジア系の72歳の男性は、このダンススタジオでダンスを教えていた過去があり、離婚した妻ともこのダンススタジオで出会ったと報道されている。 「ダンスのステップを間違えると彼に激怒されることがあった」とこの元妻はメディアの取材に話している。  臨床心理士の資格を持ち、スタンフォード大学医学部でメンタルヘルスの専門家として勤務経験があるジョーングさんは、この犯人の殺人の動機が何か、犯人の精神状態がどうだったのかなどは全くわからないが、と前置きした上で、こう語った。 「アジア系の人々、特に高齢者の場合、何か心に問題を抱えていても、メンタルヘルスの専門家の助けを求めることに強い抵抗がある人が多いことは確か。彼らの母国語でカウンセリングを提供する専門家も地域にいるけれど、英語ネイティブのカウンセラーに比べれば、その数は圧倒的に少ないと言える」  英語が母国語ではないアジア系高齢者の場合、母国語を話す同胞たちとの気心知れた地域コミュニティーが主な生活基盤となることが多い。  そのコミュニティー内で何か問題があった時、母国語を話すカウンセラーに問題を打ち明けたりすれば、最悪、周囲に知られてしまうのではと警戒するケースもあるのではないだろうか。 「私たちカウンセリングの専門家には守秘義務があり相談内容が他人に漏れる心配はない。そのことを知ってもらえると安心できると思う。ただ、メンタルヘルスや精神医学などという言葉自体に抵抗がある人が多いのは、わかる。例えば台湾では『心と体のコネクション』という柔らかな表現を使い、身体と心にまつわる相談をしやすい雰囲気作りをするクリニックも増えている傾向がある」とジョーングさんは言う。  英語ネイティブの臨床心理士の場合、アジア系の高齢者の文化や生活習慣に必ずしも精通していない場合もあり、その点を配慮した対応が望まれると彼女は話す。 「髪のカット料金12ドル」「太平銀行:定期預金8か月で固定金利3.88%」などという看板を見ながら街を歩き、再びスター・ダンススタジオに戻った。  すると「トランプ2020」のロゴが印刷された赤い帽子を被り、黒い服を着たアジア系の男性が犠牲者の顔写真のパネルに近づき、手にしたスマホで各パネルをなめるように撮影しはじめ、中国語で実況中継しながらライブストリーミングをしていた。  さらに、白い服を着た女性が犠牲者の顔写真の前で踊り始めた。  花を供えに来た白人やアジア人や黒人やラテン系などさまざまな人種の人々が、その2人を遠巻きにいぶかしげに無言で眺めていた。 右が福音派のキリスト教会のボランティアのジョン・カーン氏。集団射殺事件の現場に48時間以内に駆けつけるチームの一員だ(写真/長野美穂)   すると、そこに現れたのが、青い半袖のポロシャツを着てチノパンを履き長い髭を生やした中年の白人男性だ。シャツの胸には「チャプレン(牧師)」という白い文字が刺繍されている。  ジョン・カーンという名札をつけたその男性は、福音派のキリスト教会の「緊急対応チーム」に所属するボランティアで、米国内で銃での大量殺人事件が起きると、48時間以内にその殺害現場に駆けつけるのが使命だと言う。  同じ教会のボランティア仲間数人と、数日前にこの現場に到着したそうだ。 「誰かと話したい、気持ちを吐き出したい、という人たちの聞き手として、少しでも受け皿になれれば」と彼は言い、事件翌日から毎日ここに立っていると言った。 「悲劇を利用して福音派のキリスト教信者を増やそうとしているのかと批判されることもあるんだけど、その批判は甘んじて受けるよ。神を信じてもらえれば一番いいから。でも個人的には、銃撃事件でショックを受けて、トラウマを抱える人々の助けになりたいだけなんだ」と彼は言う。  すると、アジア系の男女がカーン氏に近づき「重症を負って病院に運ばれた9人がどうなったか知ってる?」と聞いた。カーン氏は「さっき病院に見舞いに行った人から聞いたけど、ある男性の首の後ろにはまだ弾丸が埋まっていて、あまりに神経に近すぎて、まだ手術ができないそうだ。州知事も見舞いに訪れたそうだけど」と語った。  すると隣にいた白人男性が「いや、それが、見舞いに来た州知事に、ベッドで治療を受けている男性が『早くこの病院から出してくれ。莫大な治療費が払えない。明日仕事を休んだらクビになってしまう』と叫んだそうだよ」と語った。  前述のデビーさんが「銃撃事件の犠牲者のために州から見舞金が出るんじゃないの?」と言うと、白人男性は「いや、上限が7万ドルなんだよ、その見舞金は。ICU病棟に3日入院しただけで7万ドルなんて簡単に超過してしまう。銃弾を取り出す手術すらできないよ、そんな金額じゃ。何とかしてクラウドファンディングで手術費を募らないと、負傷者は破産するよ」と言った。  カーン氏を含む全員がうなずく。  このモントレー・パークの射殺事件は、今年に入って全米で36件目の集団射殺事件で、その直後、カリフォルニア州内のハーフムーン・ベイでは、アジア系の66歳の男性がマッシュルーム畑で、同じ職場の上司含む7人を射殺する事件が起きた。  どちらもアジア系のシニア層の男性が犯人という点では共通しているが、ハーフムーン・ベイ事件の犯人が警察署の駐車場で逮捕されたのに対し、このモントレー・パーク事件の犯人は、事件後、30キロ以上離れたトーランスの街に逃走し、日系スーパー前の駐車場の車内で自殺しているのが見つかった。多くの日系人や日本人にとっては馴染みの深い場所だけにショックは大きかった。  トーランス在住で、日系アメリカ人の人権団体「ジャパニーズ・アメリカン・シチズンズ・リーグ」のサイスベイ支部のプレジデントを務めるケント・カワイ氏はこう語る。 「あの辺りはトーランス警察と州警察の捜査網が張り巡らされている捜査ハブなのに、そこにわざわざ犯行直後に逃げてきたというのは、別の犯行目的があったのか。犯人が自殺した今となってはわからないが、何が起きてもおかしくなかった」。  この72歳の犯人がアジア系だったことと、コロナ禍に米国でアジア系に対する犯罪が急増したこと、この2つに直接の関係はないにせよ、「コロナ禍の3年間の間に社会不安が強まり、特にアジア系の高齢者は外で危害を加えられる危険が増え、外出を控えるなど、社会的孤立の危険が大きかったことは確かだ」とカワイ氏は指摘する。  そんなアジア系の高齢者たちの子供たちの世代は、アメリカ生まれで英語ネイティブとして育ち、価値観も親の世代とは違うことが多い。仮に親世代が孤立していても、子供世代には深く理解してもらえないことは多いのではないか、とカワイ氏は言う。  また「もはや過去に犯罪歴がある人間だけを警戒しても銃犯罪は防げない。米国ではオンラインでも簡単に銃が買えてしまう。根本的に銃の取り締まり強化を法律で制定しないことには、同じことが起き、犠牲者が出続ける」とカワイ氏は警告する。  実際に、このモントレー・パーク事件の最中に、ロサンゼルス郡政府の犯罪者の更生に携わる部署が、ネットの公開オークションで、セミ・オートマティックの銃を売っていたことが報道で発覚した。  モントレー・パーク事件の犯人が使ったのと同じタイプの銃を、こともあろうに郡政府がオークションで不特定多数の市民に売っていた、という前代未聞の失態が明らかになったのだ。 「オンリー・イン・アメリカ」(こんな馬鹿げたことは、世界中探しても、アメリカでしか起きないよ)という批判が、ロサンゼルス中で溢れていた。 (文・写真/長野美穂) ※AERAオンライン限定記事
「千秋」実業家再始動宣言の“勝算” ポケビ復活は実現するのか
「千秋」実業家再始動宣言の“勝算” ポケビ復活は実現するのか 千秋  昨年12月3日に放送された音楽番組「ベストアーティスト2022」(日本テレビ系)で、台湾人タレントのビビアン・スー、ウッチャンナンチャンの南原清隆、キャイ~ンの天野ひろゆきが集結し、「ブラックビスケッツ」が20年ぶりに復活したことが話題となった。  これを機に再注目されているのが、同時期に大ブームを起こした同じく3人組ユニット「ポケットビスケッツ」だ。実は、ボーカルであるタレントの千秋(51)は、2021年9月に更新した自身のYouTubeチャンネルで、「登録者数が100万人になったら、1日だけポケビを復活する」という計画を発表しているのだ。今年2月2日現在の登録者数は19.2万人で、復活への道のりはまだ遠そうだが、同チャンネルで久々に千秋の歌声を聴いた視聴者からは「20年経っても口からCD音源。ほんとすげぇよ」「大人になってわかる千秋の凄さよ」と、彼女の歌声に絶賛の声があがっている。 「昨年11月に出演した『徹子の部屋』で、ポケビ時代は歌が大ヒットし、紅白歌合戦にも出場できたことで夢がかなったと話していました。ただ、もともと歌手志望だったのにポケビを卒業してソロになると全然売れなくなったそうで、20年近く歌の仕事がなかったとか。需要はないと諦めていたそうですが、歌いたいという熱い思いをSNSで吐露したところ、『待っていました』とファンから応援メッセージがたくさん届き、感動して何日間か泣いたそうです。そうして、YouTubeにポケビ時代の曲を歌った動画をアップしたところ、300万回以上も再生されたのです」(テレビ情報誌の編集者)  タレント、歌手、母と多様な顔を持つ千秋だが、自らデザインを手掛けた子供服ブランドやハンドメイドブランドを立ち上げるなど実業家としての活動実績もある。昨年10月、51歳の誕生日を前に、自身のインスタグラムで「50歳を機に、芸能界以外のお仕事も本格的にやることにしました」と報告。芸能以外にもブランドコンサルティングやPR、地方創生などと仕事の幅を広げていくと宣言した。 「近年は子育てを優先していたせいか、テレビよりも、女性誌などでの連載を多くこなしており、仕事を選んでいる感じがしますね。『徹子の部屋』では、07年に離婚した元夫・ココリコの遠藤章造との間に生まれた娘についても言及していました。現在は19歳に成長したそうですが、16年に15歳年下のTBS社員と再婚するまでの約9年間は、シングルマザーとして娘を育てていたそうです。『苦労したことは思い出してもあまりないかも。女2人だったので、毎日、修学旅行みたいな感じ』とあっけらかんと話していたのが印象的です。一方、芸能人のわがままな娘と周囲から思われるのが嫌で、厳しく育てたと自負。堅実な金銭感覚を教えるため、みんなが持っているおもちゃに関しても『最後から2番目になるまで買わない』というルールを課していたとか。ゲーム機や携帯電話も、紙のおもちゃを娘が自作していたことを明かしていました」(同) ■娘は週1で遠藤の家にお泊まり  千秋のこうした教育方針はママ世代から支持されているが、彼女が築き上げたステップファミリーの形に憧れる女性も少なくない。女性週刊誌の芸能担当記者は言う。 「現在の夫に結婚を申し込まれた際、『(自分は)四重苦だよ。バツ1、子持ち、年上、芸能人』と話したというエピソードは有名です。再婚後、娘さんは新しいパパとも恋バナをするほど打ち解けているといいます。一方、元夫・遠藤さんの家にも、娘さんは10年以上、週に1回泊まりに行っていると明かしていたこともあります。『あちらの奥さんもウチの娘にやさしい』と遠藤さんの現在の妻とも良好な関係性を保っているそうです。千秋さんは離婚や再婚を経るなかで、娘さんに対し『超大好きだよ』『一番大事!』『かわいい、超かわいい、世界一かわいい』と毎日のように言い続けていたそうです。自己肯定感のある子に育てたかったようですが、こうした子育て法も離婚を経験したママ世代からは好感を持たれています」  芸能評論家の三杉武氏は千秋についてこう評する。 「千秋さんはデビュー当時から自己プロデュース能力に非常にたけていました。バラエティー番組などでは時に鋭い毒舌で笑いを誘っていますが、一方で、遠藤さんとの離婚後も決して悪口やネガティブな発言はしませんでした。娘さんの存在も大きいのでしょうが、話題性や注目度ほしさに私生活を切り売りするようなタレントとは一線を画すスタンスも好感度の高さにつながっているのでしょう。仕事とプライベートをうまく両立させているところや、娘さんに対する教育方針などを見ても、芸能界という特異な世界に長くいながらも、家庭人として真っ当な感覚を持っており、自身の育ちの良さがうかがえます。こうした感覚やプロデュースの高さは以前から実業の分野でも遺憾なく発揮されていますが、今後もますます活躍の場を広げそうです」  いつまでも若々しく、ルックスこそ変わらぬ千秋だが、芸能界以外で活躍する「実業家・千秋」としてどんどん進化中のようだ。 (高梨歩)
江戸が舞台の時代小説「木挽町のあだ討ち」 作者が現代と江戸時代の共通点を語る
江戸が舞台の時代小説「木挽町のあだ討ち」 作者が現代と江戸時代の共通点を語る ながい・さやこ/1977年、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒業。新聞記者、ライターを経て、作家に。2020年刊行の『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』で細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、新田次郎文学賞を受賞。その他の著書に『女人入眼』『横濱王』など(photo 写真映像部・戸嶋日菜乃)  AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。 『木挽町のあだ討ち』は、永井紗耶子さんの著書。雪の降る晩に芝居小屋の近くであだ討ちがあった。まだ16歳の菊之助が父親の仇である作兵衛の首を討ち取ったのだが、2年後、当時の顛末を聞きに一人の若侍が芝居小屋を訪れる。小屋で働く人々が語った真相とは。予想外の結末が待ち受ける長編時代小説。永井さんに、同書にかける思いを聞いた。 *  *  * 江戸の芝居小屋で働く人々が一人ずつ登場し、近くで目撃した若い武士のあだ討ちについて語る。それを聞くうちに、ぼんやりしていた事の真相にピントが合い始め、思わぬ結末に心を揺さぶられる長編小説だ。  蝶の柄を染めた更紗の着物で現れた永井紗耶子さん(45)は、子どもの頃から歌舞伎に親しんできた。 「大叔母に連れられて小学2年生のとき初めて行ったのが三代目市川猿之助さんのスーパー歌舞伎でした。最後には感動して泣いていました」  忠臣蔵、曽我物をはじめ、あだ討ちを題材にした演目を何度も観てきたが、その度に引っかかるものを感じていた。あだ討ちは遂げた側がハッピーエンドかというとそうでもない。自分の思いというより周りの人に追い立てられて討つこともあるし、最終的に自ら死を選ぶこともある。 「制度として認められていたとはいえ、人を殺めた業を負います。いろいろ複雑ですよね。自分がその場に立ってみたらどう思うか、考えながら書いていました」  作中で語るのはいずれも芝居の裏方だ。小屋の入り口で客に芝居の見どころを語る木戸芸者、役者に立ち回りを教える立師、衣装係、小道具係の妻、戯作者の5人が、あだ討ちだけではなく自分の仕事や生い立ちについても話す。  永井さんは香川県琴平町の旧金毘羅大芝居で「女殺油地獄」を観たことがある。 「江戸の頃から続く芝居小屋で薄暗くて本当に殺人現場を見ているような迫力がありました。終演後に舞台裏を見せていただいたとき、裏方さんの熱気がすごかったんです」 『木挽町のあだ討ち』(1870円〈税込み〉/新潮社)雪の降る晩に芝居小屋の近くであだ討ちがあった。まだ16歳の菊之助が父親の仇である作兵衛の首を討ち取ったのだが、2年後、当時の顛末を聞きに一人の若侍が芝居小屋を訪れる。小屋で働く人々が語った真相とは。予想外の結末が待ち受ける長編時代小説(photo 写真映像部・戸嶋日菜乃)  一人ずつに語らせていくスタイルにも理由がある。 「時代小説は難しいと思っている方が多いから、語りのほうが近く感じてもらえるかなと。会話なら情報が自然に入ってきて伝わりやすい。私自身がおしゃべりなので、説明している自分を想像しながら書いたらすごく楽でした」  なるほど、あだ討ちの制度や武士の社会、芝居小屋の仕組みがスッと頭に入ってくる。5人の中には吉原の遊女の息子、火葬を担う隠亡に育てられた人など世の不条理を味わってきた人もいて、芝居小屋の中だけではなく当時の社会も見えてくる。  目の前で話を聞いているような心地よい語り口は、落語を参考にしたという。江戸物の小説を書くときは落語を聞くとスイッチが入るそうだ。  永井さんは当時と今の社会は似ていると感じている。遠くに異国船が来て脅威を感じ、経済的には豊かなようでいて格差が広がっている。忠義を尽くす、人に迷惑をかけないよう我慢するなどの道徳観で身動きが取れなくなっている。 「今の話として書くと毒が強いことも、江戸を舞台にして少し離れて見ると客観視できます。この小説はエンターテインメントでありつつ、現代に光を当てることにもなればいいなと思っています」(ライター・仲宇佐ゆり)※AERA 2023年2月6日号
中高年に忍び寄るアルコール依存症 減酒外来の受診理由は「ブラックアウト」が最多
中高年に忍び寄るアルコール依存症 減酒外来の受診理由は「ブラックアウト」が最多 ※写真はイメージ(gettyimages)  コロナ禍の閉塞状況が続くなか、「中高年の依存症」に注目が集まっている。仕事のストレスや健康不安、親の介護……。社会的責任を伴う中高年。取り返しのつかないリスクを背負う前に、依存症から抜け出す回路を紹介する。AERA 2023年2月6日号の記事から。 *  *  * 「コロナ禍が転機になりました」  こう振り返るのは、都内在住の50代の会社員男性だ。  もともと酒はよく飲むほうだった。接待で飲む機会も少なくなかった。新型コロナウイルスの感染拡大で2020年4月からリモートワークに切り替わると、自宅で飲む酒の量が一気に増えた。引き金は仕事のストレスだ。コロナ禍の部下のマネジメントに苦心したという。 「オンラインの定例会議や個別面談以外の普段の顔が見えないなか、ケアの仕方に戸惑いました」  酒量が増えたのは飲む時間が長くなったためだ。リモートワークだと仕事はすべてパソコン上で完結する。オンライン会議が終わると、「今日はもう会議がないから」とまだ明るいうちから、ワインやウイスキー片手にパソコンに向かう。海外の取引先との夜間のオンライン会議にはほろ酔いで臨んだ。 「オンライン会議だと中身をマグカップに移せば、会議メンバーにはコーヒーを飲んでいるようにしか見えません。プレゼンもしますが、弁舌が滑らかになりかえって調子がよくなるため、飲酒がばれたことはありません」 ■「減酒」が入り口でよい  夕食時に開けたワインのボトルは一晩で空いた。晩酌の延長で6時間飲み続け、そのままソファで寝ることも。見かねた妻に促され、20年末ごろ精神科を受診した。 「飲酒の状況を聞かれると、『仕事に支障のない範囲で飲んでいます』と答えます。『自分でコントロールできているなら大丈夫じゃないですか』と医師に言われると、『はい』と答えるしかありませんでした。断酒しかないと思って精神科を受診しましたが、本音では断酒となると突然、人生の楽しみの一つを失うようで抵抗もあります」 AERA 2023年2月6日号より  男性は飲酒による暴力や暴言で、家族や同僚に迷惑をかけたことはないという。とはいえ、隠れた飲酒の要因を抱えているのかもしれない。そう考え、3カ所の精神科を受診したが、いずれも通院には至らなかった。「ダラダラ飲み」が習慣になると、健康に致命的な悪影響が出るのでは、という不安もある。男性はこう打ち明けた。 「夜な夜な一人で飲酒しても楽しいことなんてありません。依存症のボーダーラインにいると自己分析していますが、本当にこのままでいいのでしょうか」 「依存症予備軍」かもしれない、と自覚している人は少なくないだろう。だが、そんな人もすでにれっきとした「依存症」の可能性がある。 「いわゆる『大酒飲み』とアルコール依存症の人は根本的に異なるものではなく、飲酒が増えるにしたがって連続して依存が強化されていくものなので、境界線上の人では『ここから先は依存症』と明確に線引きできるものではありません」  こう話すのは、国立病院機構久里浜医療センターの木村充副院長だ。コロナ禍の臨床現場で実感してきたのは、働き盛り世代の酒量の増加だという。  同センターは17年に「減酒外来」を開設。「飲酒に問題を感じているすべての人」が受診できるよう間口を広げた。すぐに飲酒をやめることができない場合は飲酒量を減らすことから始め、飲酒による害をできるだけ減らす「ハームリダクション」という概念に基づいている。 「アルコール依存症は飲酒を断つしか治療法はないと言われてきましたが、医療が早くから介入したほうが重篤化を防ぐことができます。であれば、『断酒』ではなく『減酒』が入り口でよい、という認識がこの10年で定着しました」(木村副院長) ■最多はブラックアウト  減酒外来を受診するのは、収入や生活が安定した現役世代が目立つという。  同センターが17~18年に減酒外来を受診した人の属性を調べたところ、平均年齢は男性が48歳、女性が43歳。仕事に就いている人が男女とも9割超。同居家族がいる人が男女とも約8割。男性の学歴は大学卒と大学院卒で7割を超えた。受診理由で最も多いのが「ブラックアウト」(記憶がなくなる)で3割強を占め、身体的(健康)問題、暴言・暴力と続く。  減酒外来では「お酒の量を減らす」ことや「問題のない飲み方をする」ことなど、それぞれの目標設定に合わせた酒との付き合いをサポートする。生活習慣の行動変容を目指すカウンセリングが中心だ。 「『恥の文化』が根強い日本では、自分の弱い面をさらけ出すことに抵抗を感じる人が多いと思います。本音を引き出せる関係を構築するのも医師の重要なテクニックです」  こう話すのは精神科以外で全国初の「アルコール低減外来」を19年に開設した北茨城市民病院附属家庭医療センターの吉本尚医師だ。  アルコール依存症に関する18年の診断治療ガイドライン改定で、精神科以外の内科などでも初期の依存症患者の診察が推奨された。吉本医師はその最大のメリットは「アクセス改善」だと言う。 「内科や小児科もある医院だと、対外的なメンツを気にする人も受診のハードルが低くなります。外来患者には医療関係者も珍しくありません」  同センターの外来は内科治療も並行するのが特徴だ。長年の飲酒習慣で内臓疾患を併発している人が多いため、採血や肝臓機能のチェックも行いつつ、飲酒改善も指導する。高血圧や糖尿病の薬も処方してもらうため、途中で通院しなくなる患者は少ないという。 ■周囲の人にばれている  筑波大学准教授の吉本医師はこれまでに、同センターと筑波大学附属病院で合わせて約170人のアルコール低減外来の患者を治療してきた。平均年齢は50代後半だ。この世代は、仕事に対するモチベーションの変化が飲酒のきっかけになりやすいという。 「定年後に時間をもてあまして飲酒する人もいますが、意外とその手前の世代が多いように感じます。がむしゃらに働いてきた人が、社内でのポジションも先が見えてくると仕事のモチベーションが下がり、その心の隙間をお酒で埋めてしまうわけです」  女性の場合、介護がきっかけの人が目立つという。親の介護で外出できなくなり、ストレスが発散しにくくなって飲酒を習慣化してしまう。心身の不調も飲酒のきっかけになりやすい。加齢とともに体の自由が利かなくなったり、身近な人と死別したりする「喪失体験」を飲酒で癒やす傾向は男女を問わない。吉本医師は言う。 「こっそり多飲しているつもりの人も、実際は周囲にばれていると考えたほうがいいでしょう。中高年は特に、これまで築いた社会的信頼を飲酒で失うリスクが大きいことを肝に銘じる必要があります」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2023年2月6日号より抜粋
【確定申告】意外に広い扶養控除の範囲 払いすぎた税金を賢く取り戻す方法
【確定申告】意外に広い扶養控除の範囲 払いすぎた税金を賢く取り戻す方法 申告会場では、スタッフがスマホを使った申告を手伝っていた(昨年の様子)  食費や電気・ガス代は上がるのに、給料や年金は思うように増えない。家計は厳しくても、税金の取り立ては容赦がない。2月16日から始まる「確定申告」で、払いすぎた税金を賢く取り戻す方法はないのだろうか。 *  *  * 「昨年3月末に会社をやめてからも、現役のころのつながりでちょくちょく仕事はもらっています。やっぱり年金だけじゃ不安なので。ただ今回から確定申告を自分でしなければならないと思うと、ちょっとおっくうですね」  千葉県に住む男性(68)はこう漏らす。昨年3月まで都内の印刷会社に勤め、主に得意先回りの営業を担ってきた。少人数体制のため60歳を超えた後も頼りにされて会社に残ったが、後進も育ち、退職を決断。今では妻とのドライブなど、現役時代に思うようにできなかった趣味を楽しんでいる。  月数万円と、ささやかながらも現役時代からの副業を続けるのは、そうした費用の足しにしたいと考えているためだ。 「物価高や将来的に年金が減る不安を考えると、面倒でも確定申告はしたほうがいいとは思っています。蓄えも少なく、今は何でもできることをして負担は少しでも抑えたい」  確定申告は所得の合計などをもとに課税金額を確定させるもので、自営業者らが対象となる。今回の期間は3月15日までで、2カ所以上の会社から給料をもらっている場合や、給料以外の雑所得が年20万円を超える場合は会社員らも対象だ。  一定額を超す医療・介護費がかかったり、寄付をしたりした場合など、払いすぎた税金があれば、申告をすることで取り戻すことができる。  年金が年400万円以下など「確定申告不要制度」の対象になる年金生活者でも、申告したほうが有利になる場合がある。税金が取り戻せるだけでなく、課税対象の所得を減らせれば連動して住民税が減ったり、低所得者向けの支援制度が受けやすくなったりする可能性がある。  まずは今回の確定申告に関わる変更点をみてみよう。 週刊朝日 2023年2月10日号より  昨秋には、副業で生じた損益を処理するためのルールができた。副業所得が20万円を超えると、会社員でも確定申告をする必要がある。ただし、これまでは「事業所得」ととらえるか、「雑所得」かの線引きがはっきりしていなかった。  事業所得として認められれば、給与所得などと相殺してその額を減らしたり、「青色申告」が利用できたりするので節税につながる。雑所得の扱いだと、そうしたメリットが受けられない。  国税庁は新しいルールで、副業については帳簿書類を作成・保存していればおおむね事業所得として認める方針を示した。ただし、元国税調査官で税理士の松嶋洋さんは「すべてが事業所得として認められるようになったわけではない」と注意を促す。  おおむね過去3年の副業収入が300万円以下で、かつ給与収入など主たる収入に対する割合が10%未満の場合や、副業収入が例年赤字なのに解消するための取り組みをしていない場合などは、雑所得と判断される可能性があるという。 「国税庁が新しいルールを作ったということは、そこから外れるケースは確実に課税するという姿勢の表れとみることもできます。同庁のホームページ(HP)などでしっかり確認しておきましょう」(松嶋さん)  昨年は円安・ドル高が急速に進み、外貨預金や外国為替証拠金取引(FX)で儲けた人も少なくないだろう。外貨預金の利息に対しては日本の円預金と同様、一律20.315%の税金がかかる。為替相場の変動によって得られた差益は雑所得の扱いで、確定申告の必要がある。  ただし、年収2千万円以下の会社員で、ほかと合わせた雑所得が20万円以下なら申告は不要だ。前出の松嶋さんは言う。 「注意したいのは異なる外貨間の取引で為替差益が生じたケース。ドルやユーロを日本円に替えたときに利益が出たら申告が必要なのは知っていても、ドルからユーロといった円以外の外貨同士の取引は忘れてしまうことも少なくないようです。そのつど円換算した差額を所得として認識する必要があります」  100万円の現金を1ドル=100円で米ドルに交換し、その後、この米ドルを1=150円になった時点で8千に替えたケースで考えてみる。100万円で買った1万ドルが8千×150円=120万円になったということだから、円換算で元の100万円との差額20万円の為替差益が得られた計算だ。このユーロを日本円に戻さずに別の外貨に替えた取引でも、得られた利益は所得として申告する必要がある。 国税庁のホームページなどをもとに作成(週刊朝日 2023年2月10日号より) ■払いすぎた税金 これで取り戻す  それでは、実際に払いすぎた税金を取り戻すための方法をみていこう。  まず多くの人にとって身近なのは医療費控除だろう。基本的に、その年に払った医療費が10万円を超えた分は、納税額を計算するベースとなる所得から差し引ける。控除額の上限200万円まで引くことができ、本人だけでなく、家計が同じ妻や子どもらにかかった分も合算できる。  医療費控除をはじめとする所得控除は、決まった控除額の分だけ、所得税の額を計算するもとになる課税所得が減る。戻ってくるお金の目安は、控除の額と所得に応じて決まっている所得税率をかけ合わせればよい。医療費控除を含め15種類の所得控除がある。  税理士の板倉京さんは「医療費控除は『10万円』という数字にとらわれすぎないようにしましょう」と指摘する。  10万円を超えていなくても、所得が200万円未満の場合は、所得の5%を上回った分の控除が受けられる決まりがあるからだ。所得が100万円の人は100万円×5%=5万円を超えた分の控除が受けられる。  では、どんな医療費が対象になるか。例えば、健康診断や人間ドックにかかった費用は原則、控除の対象にはならないが、検査で病気が見つかり、治療が始まった場合は対象になる。マッサージ代や、メガネや補聴器の購入代金も治療のためと見なされれば対象に含まれるのに対し、疲れを取るためだったり、医師の診断を受けずに買ったりしたケースは対象外だ。 「医師などによる診療や治療によるものかどうかに注目です」(板倉さん)。 「セルフメディケーション税制」(医療費控除の特例)を利用する手もある。市販薬のうち、国が指定した「スイッチOTC医薬品」の購入額が合計で年に1万2千円を超えた分が控除の対象になる。スイッチOTC医薬品とは、医師から処方される医療用医薬品のうち、副作用が少ないためドラッグストアや薬局で買える市販薬に転用されたものをいう。  購入額の限度は10万円なので、10万円-1万2千円=8万8千円が最大で控除できる。 国税庁のホームページなどをもとに作成(週刊朝日 2023年2月10日号より) 国税庁のホームページなどをもとに作成(週刊朝日 2023年2月10日号より) ■控除額を比べて節税効果高める  対象となる薬は厚生労働省のHPに載っているほか、レシートに星印がついていたり、薬の外箱に共通のマークが印刷されたりしている。家族を含め、通常の医療費控除のように10万円を超えなくても適用できるので、その年にまとまった医療費を払わなかった人は検討してみよう。  ただし、セルフメディケーション税制は定期健康診断や健康維持のために一定の取り組みをすることが条件となる。通常の医療費控除との併用もできない。控除額を比べ、大きいほうを選ぼう。  医療費控除でもう一つ注意したいのは、民間の医療保険の保険金や、公的制度の高額療養費といった、後からもらったお金の扱いだ。もらった分を控除額から差し引く必要がある。だがこのとき、自己負担分を上回る保険金を受け取った場合でも、医療費から差し引くのは給付の対象分だけでよいという。  板倉さんが解説する。 「年間で合計42万円の医療費がかかった家族を考えてみましょう。このうち、夫の手術代30万円は自己負担し、後から保険金50万円をもらったとします。このとき、夫の手術代を上回る20万円分は、保険金の給付の目的外となるほかの家族の医療費からは差し引く必要はありません。つまり、控除額から除かれるのは手術代にあたる30万円だけで、残りの医療費12万円は控除の対象となります」  寄付をした人は、寄付金控除もある。年間で計2千円を超える寄付をした人が対象で、寄付金の合計から2千円を引いた額に、所得税率をかけた分だけ税金が戻る。  政党や政治資金団体、認定NPO法人といった特定の団体に寄付をするとさらにお得だ。控除額の分だけ、課税の対象となる所得が減らせる寄付金控除(所得控除)か、税金そのものを直接減らせる税額控除のどちらかを選べる。  どちらが有利かは所得や寄付金の額によって異なるが、税額控除のほうがより大きな節税効果が期待できるとされる。具体的にどんなところが特定の団体に該当するかは、自治体や内閣府のサイトや寄付先に問い合わせて確認する必要がある。  人気の寄付先として、自治体への「ふるさと納税」がある。  所得や家族構成などに応じた一定額の範囲内なら、寄付金から2千円を引いた全額が戻ってくる。言い換えれば、2千円の自己負担だけで寄付金の3割に相当する返礼品がもらえる。  各地の特産品をはじめさまざまな返礼品があり、利用した人も多いだろう。寄付先が5カ所以内などの条件を満たせば確定申告をしなくてよい「ワンストップ特例制度」もある。6カ所以上に寄付したり、ほかの控除を受けるために確定申告したりする場合は、ふるさと納税分も申告が必要なので注意しよう。 ■専門家や相談会 活用して備えを  所得を大きく減らせる可能性がある所得控除に、扶養控除がある。扶養する家族がいると、1人につき38万~63万円を所得から差し引くことができる。扶養家族が増えれば、その分、取り戻せる額も大きくなる。前出の板倉さんは言う。 「扶養の対象は実は意外に広い。一緒に暮らす親や子が思い浮かびますが、『生計を一にしていること』が条件で、離れて暮らしていても仕送りをしていれば当てはまる可能性があります。病気で働けない自分や配偶者の両親やきょうだい、おじやおばなどでもよい。対象となるか確認してみましょう」  扶養の対象は、16歳以上の親族で年間所得が48万円以下なら該当する。年金暮らしの高齢者は原則、65歳未満だと108万円以下、65歳以上だと158万円以下だ。条件に当てはまれば、人数分だけ申告できる。  税金の制度はとかくわかりにくい。税務署や税理士ら専門家に聞いたり、無料相談会に参加したりして、万全の備えをしよう。(本誌・池田正史)※週刊朝日  2023年2月10日号

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