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「妻が怖い」「夫が不快」脳科学者が伝授する“既婚ボッチ”を抜け出す3つの方法
「妻が怖い」「夫が不快」脳科学者が伝授する“既婚ボッチ”を抜け出す3つの方法 黒川伊保子さん 撮影/高橋奈緒(写真映像部)  不機嫌な妻に困っている夫のための『妻のトリセツ』や、使えない夫にイラついている妻のための『夫のトリセツ』などの著書が人気の脳科学者・黒川伊保子さんが新刊『夫婦のトリセツ 決定版』を出版した。「夫婦は必ずすれ違い、腹が立つようにできている」、「100%満足な夫婦の会話はあり得ない」と断言する黒川さんに、その理由と、少しでも快適なパートナーシップを築くために試してほしい超簡単な3つの方法を聞いた。 くろかわ・いほこ/脳科学・人工知能研究者、感性リサーチ代表。1959年、長野県生まれ。奈良女子大学理学部物理学科卒業後、コンピューターメーカーにてAI開発に従事。男女の脳のとっさの使い方の違いに注目し、研究結果をもとにした『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』(ともに講談社)が話題に *  *  * 「妻が怖い」 「既婚男性には人権がないのでしょうか」  そう訴える男性が増えていると黒川さんは言う。巷にあふれる「妻の機嫌を取れ」という本の通りにしても、夫にはその行為自体がストレスとなり、夫婦は互いに満たされず孤立し“既婚ボッチ”へと化していく。 「これまでのトリセツシリーズは『本当に厄介よね』『捨ててやりたいよね』というトーンで書いたので、『夫婦のトリセツ』は夫婦の共通言語として仲良く読める本にしたかったんです。男女の脳は大きさのバランスは違えど、同じ機能を持つ同じ臓器です。ただ、とっさに使う脳の回路が男女で違うことが多く、言ってほしい言葉と言いたい言葉が正反対。それが夫婦生活でどんなすれ違いを引き起こすのか、特に子どもを産んだときにどんな溝ができてしまうのかを知ってほしかった」  黒川さんによると、何か問題が起きたとき、脳内では主に2タイプの回路が起動されるという。ことのいきさつを振り返り根本原因を探る「ことのいきさつ派」と、今できることに集中してスピード重視で動き出す「今できること派」だ。意識的には男女ともにどちらも起動できるのだが、反射的には女性が前者、男性が後者を選ぶことが多いのだそう。  例えば、子どもの具合が悪いとき、多くの女性は「そういえば夕べ…」のように関連記憶をたぐって根本原因に迫ろうとする。一方で、男性は「体温計は?」と探し始める。妻にしてみれば、体温は二次的情報なのに(触れば高熱なんかないのもわかるし)、体温計で大騒ぎする夫にイラッとすることになる。 「夫婦はお互いに逆を選び合って、鉄壁の守備体制を取るようになっています。だから愛があるからこそすれ違う。必ず腹が立つ組み合わせなんです。単純に脳の選ぶ回路が違うだけなのに、相手のことを心がないひどい人だと人格を疑ったり、能力を低く見積もったりしてしまう」  夫婦の日常会話が噛み合わないのも、この違いによるものだ。  女性に多い「ことのいきさつ派」は結果よりも、そこに至った気持ちを訴える。例えば「荷物を持ってほしい」と言わずに、「ほら見て、どの夫婦も旦那さんが持ってる」「どうして私だけ?」「なぜあなたは……」と言うのだ。一方、男性に多い「今できること派」には、過去のことや心得を指摘されても、今どうしてほしいのかが伝わらないため、「気づかなかったんだからしょうがないだろう」「忙しかったんだ」と論点がズレていく。 ■夫婦の会話「100%幸せはあり得ない」  この場合、男性は「しなかったこと」ではなく「気づかなかった気持ち」に謝るべきなのだ。「気づかなくてごめんね」のように。逆に女性は「持ってほしい」と率直に言えばいい。案外素直にそうしてくれて、「やっぱりあなたは頼りになるわ」とでも言っとけば、次からは黙って持ってくれることもあるそう。 「妻のために共感型の会話にする、夫のために結論だけを伝えるという工夫はできても、互いにストレスです。つまり、夫婦の会話でお互いが100%幸せという状態は、実はあり得ない。夫婦の会話は痛み分けなんですよ。そもそも100%思い通りの答えが返ってくる人に異性として惹かれますか? 予想と違う答えが返ってきて、良くも悪くもこちらの心に波が起こるから魅力的なのです」  積み重なるすれ違いの結果、パートナーがいても孤独に苛まれる“既婚ボッチ”が巷に溢れることになる。できることはあるのだろうか……。  今年こそ夫婦関係を良くしたいと考える人に、黒川さんがオススメする方法を3つ教えてもらった。 “既婚ボッチ”を抜け出すためには?  まず1つ目は、相手の話を肯定的に受け止めること。聞いた話に「いいね」「そうだね」「確かに」と言ってから、自分の意見を添える。これは従来から黒川さんが男性向けにアドバイスしてきたことだが、女性にもやってみてほしいと訴える。 「女性は女友達には共感できるのに、夫や家族にはそうしていないことも多い。腹立たしくても、1回は『いいね』です。本当に同意できないなら『そうかぁ』でもいい。子どもがいるなら、子どもに対しても使って欲しい。どんなことでも話していいんだという安心感が育っていきます」  2つ目は、何でもないことを話すこと。特に子育て中や仕事などで忙しく時間に追われている時は、用件を伝えるだけのコミュニケーションになりがちだ。「連絡事項がない会話は相手と触れ合うこと自体が目的。それに気付き愛おしく感じる人は多いでしょう」と黒川さんは言う。つまり、付き合いたてのカップルがやる、アレだ。 「結論のない会話は男性にとって非常に難しいことでもあります。それなら見たものをそのままLINEしてください。出張帰りの新幹の中から『小田原通過中』と打つだけでいい。電光掲示板に出てきますから簡単です。離れている間も、あなたのことを思ったという証拠を残しましょう。欠けがえのない存在だという感情がよみがえってくるはずです」  そして3つ目は、家事のリーダー制導入だ。「家事の手順も世界観も違う男女が一つの作業を協業するのは困難」なので、責任を持つ家事を分ける方が圧倒的に楽になる方法だという。 ■「精緻なシングルタスク」と「無責任なマルチタスク」 「男性は買い物に行く前にきちんとリストを作り、計画的に進めたがる精緻なシングルタスク。一方、女性は無責任なマルチタスクです。やかんに水を入れている間に、野菜を切って、お風呂を洗って……と、頭に浮かんだことをどんどん片づけていくから1日の家事を終わらせることができる。20回に1回は鍋を焦がしてしまうぐらいの失敗は想定内のリスク。そのぐらい世界観が違うのです」  だからこそ、夫婦で家事分担を進めたい場合は「カビ取りリーダー」や「蕎麦茹でリーダー」など、得意なことから担ってもらうといいという。当番ではなくリーダーなので、誰かに指示してやってもらうことも可。ただし、リーダーがやることに決して偉そうに指示をしてはいけない。「失敗も糧になると覚悟を決めて、使う道具や洗剤、工程まで任せてほしい」と黒川さんは言う。 「愛があれば乗り越えられるのではなく、愛があるから男女はすれ違います。脳の違いが理解できれば、心理的安全性が保たれるいい夫婦になれるはずです」  最後にAERA dot.編集部に寄せられた読者からの相談にも答えてもらった。 【相談内容】 「出産してから夫へのイライラが止まりません。息子も5歳になり、パパとママが険悪だと可哀想だし仲良くできたらいいのにイライラが勝ってしまいます。(30代 広島市)」 【黒川さんの答え】 相談者さんは「イライラする」と書いてあるだけなので、夫が暴力を振るうなど明らかな問題があるわけではなく、おそらく感性の違いなのだろうと思います。 子育て真っ最中にイライラしてしまう理由の一つは、「今できること派」と「ことのいきさつ派」という男女の特性が、生殖・生存のために大きく振り切るからです。女性は子どもの変化を見逃さないようにものすごく共感型になり、守るものができた男性は狩猟本能が働き共感力が人生で最低レベルに落ちる。子育てに対する温度差も出てくるでしょう。 もう一つの理由は、母親の五感のレンジ(範囲)が子どもに合っているから。ずっと子どもの肌を見ていると、帰宅後の夫が脂ぎって、汚いもののように感じてしまいます。足音も冷蔵庫を閉める音もうるさくて、子育て期はとにかく夫がガサツで汚くて、わかってくれなくて、もうとにかくそこにいるだけで腹が立つという状態。何でもわかってくれる5歳の1人息子に対して、何もわかってくれない中年の夫。それは、夫にとってちょっと不利な状態です。 ■子育て期は「夫を同居人と思ってやり過ごす」 離婚して別のパートナーを探すという選択ももちろんあると思いますが、夫婦になれば大体7年ぐらいで同じ状態になるはずなので、「気のいい男友達」と思って少しやり過ごしてみてはどうでしょうか。自分の夫でも子どもの父親でもない同居人が生活費を半分出してくれるってすごく良いなと思っていたら、数年後には情のような気持ちが芽生えているはずです。 私の研究では、人は免疫サイクルの影響により7年周期で精神的にも“脱皮”していきます。結婚7年目、14年目で離婚するカップルも多いし、転職も多い。今、相談者さんが結婚7年目で「この人じゃなかった」と思っているなら、1年間は慌てず騒がず、つかず離れず過ごしてみて。ある日、そこまで嫌じゃなかったって思えたりすると思います。 さらに子どもは8歳になると小脳が発達して因果関係が分かるようになり、言葉で説得できたり、子ども自身が解決策を提案してくれたりするようになります。以降、子どもは生活のパートナーになり、夫婦の時間を持ってお互いを見直す余裕が出てくると思います。その時に「やっぱり要らない」となってしまわないよう、すれ違う理由を知っていてほしいなと思います。
【下山進=2050年のメディア第27回】実は一年前に届いていた『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』34年目の真実
【下山進=2050年のメディア第27回】実は一年前に届いていた『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』34年目の真実 ハバロフスクの収容所を社会党の左派の議員団が訪れ、帰路、香港で記者会見を開いた。山本幡男の遺書をとりあげて打電した毎日新聞、1955年10月7日付の記事。  シベリアの収容所で一人寂しく果てた山本幡男(はたお)。その遺書を、収容所の仲間たちが、ソ連兵に見つかってとりあげられてもいいよう、分担して暗記する。山本が亡くなった2年半後の1957年1月半ば、そのうちの一人が大宮に住む山本の妻モジミのもとを訪ね、暗記した遺書の中身を謡うように伝える。以降も他の抑留者が次々に、母や子どもたち、そして妻への遺書を口頭で届ける。 <妻よ!よくやった。実によくやった。夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た>  公開中の映画『ラーゲリより愛を込めて』のラストシーンは感動的だ。ノンフィクション作家辺見じゅん(2011年没)の書いた原作『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1989年6月 文藝春秋刊)は大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞したこともあり、映画になる前にも、テレビドラマ等でこのシーンはたびたび再現されてきた。  ところが、山本モジミに遺書を最初に届けたのは、ラーゲリで必死の思いで暗記した抑留からの帰国者たちではなかったのである。 実は、その一年以上前の1955年10月に当時の社会党議員戸叶(とかの)里子によって四通の遺書は、完全な形でモジミのもとに届けられていた。  そのことは、辺見の『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』には一行も触れられていない。  新春合併号で、映画と原作の違いについてとりあげたが、私にとってこの衝撃の事実を知らせてくれたのは、文藝春秋時代の元同僚。「しもちゃん、山本幡男の長男が本を出したわよ。面白いから読んでみれば」  そう言われて手にとった『寒い国のラーゲリで父は死んだ』(山本顕一著 バジリコ刊)の冒頭に、そのことが書かれているのだ。  にわかに信じられず、埼玉のふじみ野に住む山本顕一に会ってきた。彼は、戸叶議員が、ハバロフスクの収容所を視察した後、香港で日本人記者に会見した際の古い新聞記事も持っていた。 山本幡男の長男山本顕一。埼玉県ふじみ野で。  毎日新聞1955年10月7日付のその記事には、ハバロフスク戦犯収容所を訪れた議員団が託された手紙や遺書は911通あったといい、「埼玉県大宮市ろうあ学校気付山本モジミさんにあてた山本幡男氏の遺書は異国の地に妻を恋いつつ去ってゆく夫の涙あふるる別離の言葉が書きつらねてあった」とリードに謳い、遺書の中身が要約して紹介されている。 「辺見さんもそのことを知っていました。なので、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』が1989年6月に文藝春秋から出された時、私も読みましたが『あれっ?』と思った。戸叶さんが母の勤めていた大宮のろう学校をわざわざ訪ねてきて、遺書を手渡したことは、本を感動的にするためにあえて触れなかったのかな、と」  収容所内の誰かが書き写したその遺書(山本のオリジナルのものではなかった)が大宮のろう学校にいるモジミに手渡されたのは、1955年の10月。モジミが家に持って帰ってきた遺書は四通あり、そのうち「子供等へ」と書かれた自分宛の遺書を読んだこともよく覚えている、という。その頃、東大に通っていたが、「遺書が言うような立派な人生を自分が歩けるのかな」と思ったと。  収容所からの帰国者の一人が、分担した遺書の中身を最初に届けたのは、それから1年3カ月後の1957年1月半ばである。ほどなくして「子供等へ」そして「妻よ!」の遺書が別々の帰国者から届くが、これらの遺書が届いた時、モジミや子供たちは、遺書の中身を既に知っていたのである。  そのことを、文藝春秋の担当者は了解していただろうか? 再度、当時『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』を担当していた藤沢隆志に聞いたが、藤沢は、驚くばかりでまったく知らなかった。 「しかしそのことを知っていたら自分も困っただろうな。遺書が実は一年以上前に届いていたことを書く書かないでは、帰国者たちが三々五々、暗記した遺書を届けたという事実の重みが違って見える」 山本幡男がラーゲリで描いた絵は、モジミの墓参が許された1961年以降、ソ連から返還された。父親に対してずっとわだかまりをもっていた顕一は、これらの絵を見て、初めて氷が溶けるようにして父親のことを見ることができるようになったという。  自分が書き手だったら、あるいは編集者だったらばどうしただろうか? それでも収容所の仲間たちが、分担して暗記して、遺書を持ち帰るという行為自体にモジミは感動したはずで、そのことを細かく聞いて、戸叶のことも書いたような気がする。  現在87歳になる長男の顕一の書いた本には、他にも、社会主義者だった山本が、軍部がいやでいやでたまらずしかしそのことは外では口にできない鬱屈から、満州では酒に溺れ家で暴れたこと、まだ幼くて泣き止まない顕一を「生きていたいと思うなら、意志の力を振り絞ってピタリと泣き止むのだ!」と包丁の刃を顕一の首に押し当てたこと、などシベリア抑留前の屈折した幡男についても正直に書かれてある。  遺書が実は届いていたことについて、「辺見さんは、編集者をも騙したのか!」と藤沢は天を仰いだが、私の好きなアメリカのジャーナリスト、ハリソン・ソールズベリーは回想録でこんなことを書いている。 <人生におけるごく単純なことであっても、真実というのは多面体であって、光をさまざまに屈折するガラスのようなものである>  ノンフィクションはそのガラスを照らす光だ。またひとつ、新たな光が「ラーゲリからの遺書」に照らされた。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2023年2月10日号
マスクをせず牛肉を食べない世界に…40歳会社員の主人公はどうなる?
マスクをせず牛肉を食べない世界に…40歳会社員の主人公はどうなる? 荻原浩(おぎわらひろし)/ 1956年、埼玉県生まれ。97年『オロロ畑でつかまえて』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2005年『明日の記憶』で山本周五郎賞、14年『二千七百の夏と冬』で山田風太郎賞、16年『海の見える理髪店』で直木賞。(撮影:洞澤佐智子)  朝の通勤電車に乗らずにホームの反対側の下り電車に乗ってしまいたい。それを実行した40歳の会社員男性が小説『ワンダーランド急行』(荻原浩、日本経済新聞出版 2090円・税込み)の主人公だ。 「僕もサラリーマン時代に会社に行きたくないときがありました。京浜急行の沿線だったので下り電車に乗ると海に行ける。実際に行ったことはなかったんですけど」  会社をサボった男は郊外の終着駅から山に登る。ビールを飲み、昼寝して下りてくると誰もマスクをしていない。新型コロナウイルスがないばかりか、なぜか牛肉を食べる人がいない異世界に迷い込んでいた。  現代小説の書き手として荻原さんはいつかコロナについて書かなくてはと考えていた。 「街でみんながマスクをしている光景が現実とは思えなくて、アメリカの同時多発テロや東日本大震災の映像を見たときと同じ感覚に襲われました。これは異世界だ、この異世界を書いてみようと思いました」  男が家に帰ると妻は同じ人のようでいて話が噛み合わないし、牛の観音様を祀る宗教団体に入っている。元の世界に戻ろうと再び山に登るのだが、今度はまた別の世界に行ってしまう。 「ワンダーランド急行」という楽しげな題名とは裏腹に、マスク警察、独裁社会と、ホラーな世界が次々に現れ、牛肉と環境、宗教など現実の話題が先取りされている。  荻原さんは主人公と同じ40歳の頃にコピーライターから小説家に転身した。もともと広告制作会社に勤めていたから、サラリーマン時代と同じ8時間を基本に仕事をしている。朝は8時に起きてゴミを出し、10時にひと駅先の仕事場に向かう。  月に原稿用紙で50枚前後の小説を書くが、一気に書き上げるタイプではない。コピーライターらしいこだわりで、ここは「が」ではなく「を」ではないかと文章を細かく検討する。だから締め切りがないと原稿を手放せないそうだ。 「僕は自分の内面を書くというより誰かに面白がってもらいたいと思って書いている。物語を作るのは好きだし向いていると思う。それを文章というツールを使ってやっている感じですかね。自分でも思わぬ小説ができていくのが面白い」  仕事の息抜きは自宅の庭での野菜作り。家庭菜園についてのエッセイも出している。大根の葉を食べる虫について熱のこもった解説をしてくれた。  この小説は主人公が生きた可能性のある世界をいくつも見せてくれる。人の行く道は偶然と大小さまざまな選択で決まっていく。そして社会もそれぞれの小さな選択の積み重ねで作られていることに気づく。 「今の世の中はいろんなことに気を使わないといけなくて、どんどん息苦しくなっています。昔に比べたらいいほうに進んでいるけど、行き過ぎていることが多いような気もしています」  男は元の世界に戻れるのか、最後まで気が抜けない小説だ。(仲宇佐ゆり)※週刊朝日  2023年2月3日号
家康支えた「徳川四天王」とは? 戦国大名は「家臣」を統率し、「女性」は自分の意思で動いた
家康支えた「徳川四天王」とは? 戦国大名は「家臣」を統率し、「女性」は自分の意思で動いた 酒井忠次(1527~96年)/「背に目を持つごとし」と称された家康の宿老。家康が今川家から自立して三河を支配すると、東三河を統括。長篠・設楽原の戦いでは織田信長に鳶ヶ巣山砦の攻略を進言し成功させた(東京国立博物館蔵)  徳川家康には「徳川四天王」と呼ばれた側近の家臣がいた。放送中の大河ドラマ「どうする家康」で大森南朋が演じる酒井忠次、山田裕貴が演じる本多忠勝、杉野遥亮が演じる榊原康政、板垣李光人が演じる井伊直政の4人だ。  戦国大名は、多くの家臣の力で合戦や領国管理をしたが、家臣団とはどのような構造だったのだろうか。  東北、関東、東海など戦国時代の日本を9エリアに分けて章立てし、地域別の通史を解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(監修・小和田哲男)が、詳しく解説している。 家臣団の「ランク」分け  家臣団は、大名家の運営に加わることができる上級家臣と、運営には関わらない下級家臣に大別され、両者は寄親寄子(よりおや・よりこ)制で結ばれていた。寄親が寄子を指揮下に置いて統率したのである。  上級家臣は血縁関係の一門、代々仕える譜代、新参の外様(とざま)に分かれており、そのトップに20人程度の家老がいた。大名との関係はほぼ対等で、特に家老クラスは大名の代わりに家のかじ取りをすることもあった。徳川四天王の一人、酒井忠次が率いた酒井家は、古い時代に松平家から分かれた庶流にあたり、家康が幼いころから松平家に仕えていた譜代中の譜代である。 戦国大名の家臣団はこんな構成。主に一門・譜代・外様からなる直臣と、土豪や地侍などの陪臣で構成される。大名は、直臣と陪臣に「寄親・寄子」と呼ばれる関係を結ばせ、直臣を通じて土豪らを支配した(チャート作成 ウエイド) 織田信長が進めた兵農分離  戦国大名が台頭し始めた当初、下級家臣の多くはふだんは農業を営み、合戦時だけ兵役を務める半農半士の土豪(どごう)だった。このため収穫期は遠征ができず、その上、寄子が各地に散っているので集団訓練ができなかった。この問題を解決したのが織田信長である。  信長は兵農分離を進めて下級家臣を専業武士「足軽」とし、城下町に住まわせた。この結果、計画的な集団訓練と、鉄砲隊や騎馬隊のような兵種別軍隊「備(そなえ)」の編成が可能になり、軍が強化された。さらに大名たちは、逃走すれば改易に処すなどの厳しい軍律や規則を徹底し、将兵の独断行動で戦略が瓦解(がかい)しないよう取り締まった。  大規模な家臣団や軍隊は、何層もの工夫によって運用されていたのだ。 「通い婚」から「嫁取り婚」へ  そして、家臣団と共に、戦国大名を支えたのが女性たちである。  鎌倉時代以降、武士は「一所懸命(いっしょけんめい)」に自らの所領を守ってきた。所領を守らなければならないので、基本的に、先祖伝来の地を離れるわけにはいかない。そこで、それまでの通い婚に代わり、男性が妻として女性を迎える嫁取り婚が一般的となっていき、室町時代には、家長としての男性が家族を支配するような家父長制的な家族制度が確立した。  そのため、戦国時代には恋愛結婚はまれであり、基本的には両家の相談で結婚が決まった。当然、戦国大名家では婚姻も政略的に行われた。  政略結婚は、文字通り政略のための結婚である。同盟の証として女性が嫁ぐわけだが、これは実質的な人質にも等しい。万が一、実家と婚家が対立し、戦争にでもなれば、妻が殺される可能性もあったのである。  このような形の政略結婚に悲劇的な側面があったことは否定できない。しかし、婚姻によって両家の平和が保たれていたのも事実である。また、嫁ぐ際には女性は「敷銭(しきせん)」と称する財産を婚家に持参していった。財産は金銭とは限らず、土地であれば、毎年、そこから収入が得られた。こうした財産があればこそ、婚家において女性に発言権が与えられていたことは無視できない。 城主にも戦国大名にもなった女性たち  戦国大名の居館は、「表」と「奥」で構成されていた。「表」は政務を担う公的な空間で、「奥」は妻や子が暮らす私的な空間である。「奥」には、夫である戦国大名以外の男性は基本的に立ち入ることはできない。ただし、江戸時代と違って、妻が「表」に出て政治に関与することは禁止されていなかった。妻が夫に従うべきだとする儒教道徳は、戦国時代において社会規範とはなっていなかったためである。  実際、戦国時代には、女性が統治にあたることもあり、「女城主」と呼ばれた井伊直虎の例はよく知られている。  今川義元の母、寿桂尼(じゅけいに)も「女戦国大名」と呼ばれ辣腕を振るった。公家・中御門宣胤(なかみかど・のぶたね)の娘で、駿河の戦国大名、今川氏親(うじちか)の正室となった彼女は、氏親の死後、14歳で家督を継いだ実子の氏輝(うじてる)を後見した。氏輝が早世した後、今川家で家督争いが起きると、氏輝の弟で実子の義元(よしもと)を擁立して勝利を果たす。この間、自ら領国の支配にあたったが、義元が桶狭間の戦いで敗死し、今川家の栄光に陰りがみられるようになる中、駿府で没している。  北条氏康の娘として生まれ政略結婚で武田勝頼に嫁いだ北条夫人のように、武田家と北条家の同盟が解消されても武田家に残り、滅亡に殉じた女性もいた。能動的に生きた戦国の女性たち。妻が夫に従うことが求められたのは、江戸時代になってからのことだった。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂)
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子
商業主義に消費されない、人間の新淵に迫る舞台を 演出家・上田久美子 好奇心、探究心、社会性、完璧主義が核。「でも、最近は、完璧主義からは抜け出すように意図しています」(撮影/篠塚ようこ)  演出家、上田久美子。宝塚歌劇団の人気演出家だった上田久美子は、その成功にすがることなく退団。フリー1作目に選んだのはオペラだった。大衆演劇一座に泊まり込みで取材し、さらには文楽の手法で作り上げる。これまでに見たことのないオペラである。芸術が商業主義の波にのみ込まれ、コンテンツとして消費されることに疑問がある。そこにどう抗うかが、新たな挑戦でもある。 *  *  *  空気の乾いた冬の稽古場で、オペラのリハーサルが進んでいる。みずから大道具を動かし、小道具を用意しながら、出演者に細かく演出を付けているのは上田久美子(うえだくみこ)。昨年3月まで、宝塚歌劇団の座付き演出家として、次々と話題作を世に放った斯界(しかい)の才能だ。今回は、19世紀末イタリアのヴェリズモ・オペラ「道化師」「田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)」の2本立てで、宝塚退団後、初めての舞台演出に取り組む。  ヴェリズモ・オペラは、上流層が愛好した既存オペラへのカウンターとして、130年前のイタリアで起こったムーブメントだ。「道化師」は、しがない旅一座で不倫を犯した女役者が、痴話喧嘩(ちわげんか)の果てに、夫である座長に殺される話。「田舎~」は、自分の兵役中に別の男の妻になった女を取り戻すため、身ごもった婚約者を捨てた男が、女の夫に決闘で負ける話。「ヴェリズモ(リアリズム)」の名の通り、陰惨なほどにドロドロで、オペラや宝塚歌劇が体現する豪奢(ごうしゃ)、夢々しさとは、かけ離れている。 「過去のイタリア、しかもオペラという日常とは遠い世界を、現代の日本人につなぐ。その難しさに惹(ひ)かれて、やってみようと思いました。ヴェリズモ・オペラは、登場人物をそれまでの貴族、富裕層ではなく、貧困者や田舎の人に置き換えて、人間の真実を描こうとした。背後には可視化されにくい階級差への問題意識があったはず。そこに焦点を当てれば、日本社会の現実も重ねていけるのではないか。そう考えているんです」  理知的で隙のない語り口。宝塚時代から、完璧主義で人間の深淵に迫る作劇に挑んできた。 ■オペラ「道化師」の取材で 大衆演劇一座に泊まり込み  2013年のデビュー作「月雲の皇子─衣通姫(そとおりひめ)伝説より─」から、在団最後の作となった「桜嵐記」まで一貫して描いたのは、美しく輝いていたものが、現世のシステムの中で、どうしようもなく壊れていく悲劇。作品には、権力者と非権力者、男性と女性といった、固定した身分差への異議申し立てが通底していた。  中でも「ショーの革命」と話題を呼んだのが、18年に手がけた「BADDY─悪党(ヤツ)は月からやって来る─」。男役至上の宝塚では、娘役は常に一歩引いた存在で、自己主張は掟(おきて)破りと目される。しかし、この作品ではラインダンスで、ズラリと並んだ娘役が笑顔を封印し、「絶対ゆるさない」「わたしは怒っている」と、足を踏み鳴らしながら激しく客席に迫る。 「道化師」の稽古場で、ダンサーの三井聡(右)、森川次朗(奧)と。「いい舞台のために、愛と向上心を惜しみなく注ぐ演者とスタッフがいる。フリーになって、そのことを再確認できてうれしい」(撮影/篠塚ようこ)  ストーリーの中の一場面ではあったが、#Me Tooにリンクする表現は、宝塚に内在する男性優位思想を、その様式を守ったまま打ち壊すという離れ業だった。ファンはこれを観て、宝塚史に新たな時代が幕を開けたと、快哉(かいさい)を叫んだのである。  昨春、その上田が歌劇団を辞めたというニュースは、ゆえにセンセーションを巻き起こした。「寝耳に水過ぎる」「ウエクミ先生、辞めるの本当にショック」「何かあったのか」。ネットにあふれる声とともに、私自身も取材者として開口一番、「なぜ」を聞きたかった。 「結婚したい理由は一つしかないけれど、離婚の理由は山ほどある。それに似たことですね」  クールな一言の後、それ以上を上田は語らなかった。後日、本人から次のようなメールを受け取った。 「これまでやってきたことにはもう満足して、今は、これからどういうことをしていくのかの方が自分の関心事です。宝塚でのことを語るよりも、一人の人間が、この時代に何を感じて定職を放り出し、何を探しているのかの方が面白い話ができると思います」  なるほど、取材に対する「演出」がすでに始まっている。乗るしかない、と思った。   上田は昨年6月に梅田芸術劇場制作の朗読劇「バイオーム」の脚本を手掛けた後、富山・利賀村(とがむら)、大阪・西成、兵庫・城崎の演劇イベントを精力的に巡った。その間にフランス滞在を挟み、9月末には大衆演劇一座「花柳(はなやぎ)劇団」の住み込みとして、岩手県北上市の温泉施設にいた。  花柳劇団は座長の花柳願竜(がんりゅう)、長女で若座長の花柳竜乃(たつの)を中心に、一家と座員たちが大きな家族のように暮らしながら、全国を巡業している。食事は温泉施設のまかないで、寝起きは楽屋。昭和感あふれる畳敷きの宴会場で、ライトをあやつる上田は、その場になじんで楽しそうだった。 「知らない場所なのに、毎晩爆睡しちゃって」と笑った後、「今までピンスポットのタイミングが0.5秒早いとか、遅いとかやっていたけれど、ここにいると、そういう堅苦しさから、いいものが生まれてくるか微妙だな、と思うようになっています」と、続けた。  住み込みの名目は「道化師」の取材だったが、一座はそんなこととは関係なく、上田を迎えてくれた。夜はまかないを囲んで、それぞれの思いを好きに語り合う。花柳竜乃が言う。 「知らない人とよく暮らせるね、と言われるけれど、役者も裏方もあうんの呼吸が大事だから、みんなが一緒に暮らすのは理にかなっている。逆に、今は他人と自分との間が分断されすぎているんじゃないかな」 ■今いる場所から逃れたい 会社から「宝塚」へ転職する  それを受けた上田から自然に、宝塚を辞めた理由の一端が出てきた。 「デジタルが発達して、ナマの人間関係はますます築きにくくなった。代わりに『推し』を作って、仮想の関係をコンテンツとして消費している。芸ではなく、関係性が商品化される風潮は不健全で、何とかそれに抵抗したい。宝塚のスターシステムは、非常にうまくできていて、だからこそ、その中に居続けることはできなかったんです」  そもそも学生時代まで、自分が演劇の世界に入ることなどは、想像もしていなかった。  生まれ育ったのは、奈良県天理市。父が会社員、祖父母が柿を作る兼業農家で、周囲にアーティストらしき人間は誰もいない。一緒に遊び回る子どもも集落には少ない。祖父母を手伝い、畑作業にいそしむ母を見て、「生きることはなんて大変なんだろう」と感じながら、一人、本を読んでいるような子だった。  京都大学で美学美術史とフランス文学を専攻し、氷河期の就活戦線をくぐり抜けて、04年に製薬会社に総合職として入社。「偏差値競争の勝ち組はこれだ、という価値観が何の疑問もなく自分に染み付いていた」と、振り返る。  それが激しく揺らいだのは、東京で働き始めてから。朝起きて会社に行く。与えられた仕事をこなし、家に帰る。そのルーティンに生きる実感は薄く、大学までは気づかないでいた男女差別が、企業社会に根強く残ることにも傷付いた。  これがあと40年続くのか。そう思うと、とても耐えられなかった。入社2年目で転職を決意し、興味のある分野を考えた時に、かろうじて浮かんだのが「劇場」だった。 「とにかく今いる場所から逃れたい。そうしないと私は死ぬ、というぐらい追い詰められていた。好きだから応募する、という動機ではなかったんです。だから、次々と落ちましたね」  舞台作品を海外に売るエージェントやプログラム制作会社への応募を続ける中で、最終的に残ったのが、宝塚歌劇団の演出助手だった。不採用の体験から学んだのは、「学歴では通用しない。この人はヘン過ぎるから、会ってみたい。そう思われないとダメだ」。  歌劇団への応募では、クセの強い擬古文調で志望動機を書き、課題の小脚本は東銀座に通い詰めて、歌舞伎に類した和物を仕上げた。作戦は奏功し、06年に演出助手として採用決定。そこから7年間の下積みが始まった。  演出助手は、演出家の手足アタマとなって動き、稽古場での音出しからスケジュール管理、さらに徹夜で調べものと、あらゆる雑用をこなしながら、作劇を学んでいく。ドアストッパーを枕に寝落ちするほど体力勝負の現場だったが、それは苦ではなく、むしろ面白いことだった。嫌なこと、つらいこと、うれしいこと、すべてをひっくるめて、「何かを感じる」ことが、いちばん価値がある──。この時、上田は自分の生きる原理を確認したという。  宝塚歌劇団雪組の元トップスター、早霧(さぎり)せいなは、駆け出し時代からすでに有能だった上田を覚えている。 「お稽古場の雰囲気は演出助手の動きで左右されることがあります。上田さんは流れを的確に読み、必要なことを先取りして、その場にストレスを与えない。観察眼、センスが抜群でした」 (文中敬称略) (文・清野由美) ※記事の続きはAERA 2023年1月30日号でご覧いただけます。
処女と童貞が結婚してそのままセックスレスの切実な悩み 増加傾向にあると産婦人科医
処女と童貞が結婚してそのままセックスレスの切実な悩み 増加傾向にあると産婦人科医 写真はイメージ(Gettyimages)  未完成婚(unconsummated marriage)とは、結婚した男女がペニスを腟内に挿入する性行為を一度も行えないまま、セックスレスになっている状態を指す。中でも30代の処女と童貞のカップルに多く、だれにも相談できずに途方に暮れているケースが少なくない。セックスできないカップルの実情や、当事者たちの思い、また、改善に向かって医師がどのようにサポートしていくのか。30年来にわたって女性たちの相談に乗っている産婦人科医、いけした女性クリニック院長、池下育子先生に聞いた。 *   *  *  池下先生によれば、「結婚して何年たっても性生活がない」という未完成婚の相談は、30年前にクリニックを開業した当初からあったという。  近年では、処女と童貞の2人が「どうしたらいいのか、わからない」と途方にくれ、近い将来の妊娠・出産を目指して相談にやってくるケースが増加傾向にある。現在、いけした女性クリニックには、1カ月あたり10人以上の女性たちが未完成婚を含め、セックスレスの相談に定期的に訪れている。 ■男女ともに未経験だと、なかなか先に進むことができない  未完成婚の2人は一緒にご飯を食べたり、買い物に行ったり、映画を見たりと夫婦仲が円満にもかかわらず、実は1回もセックスしたことがない。だが、セックスしないことに違和感を持つこともなく、これまで生活に支障をきたすことはなかった。性に関わることは親や友人に相談しにくいこともあり、「当分はこのままでいこうか」とセックスレス問題を棚上げにしたまま、時間が経過してしまうのだ。だが、そんな2人に、人生の転機が訪れる。  東京近郊に住む32歳の会社員A子さんのケースを紹介しよう。A子さんは29歳のときに、大学時代の同級生(33歳)と結婚。結婚前も今もセックスしたことがない。「私たちは2人とも性欲が旺盛なほうではないし、別にこのままでもいい」と思っていたという。しかし、同世代の友人たちが子どもを産み育てるようになり、「子どものいる人生もいいな。私も産みたい」と考えるようになってきた。 「かつては子どもがいなくても、仕事をして収入を得て、ファッショナブルなのが<いい女>という風潮がありました。でも、今は『子どもがいても素敵なママでいたい』と、子どもを持つことが女性たちのライフスタイルの一部となってきました。未完成婚の女性たちも、『女であることの証は子どもを宿すこと。お金や地位より、最終的には子どもがほしい。妊娠・出産にいたるためにもセックスできるようになりたい!』と思うようになったのです」と池下先生。  未完成婚の相談にやってくる女性たちによれば、そもそも男性側が「ペニスを挿入するべき腟の入口がどこにあるのかわからない」ケースが少なくないという。どちらか一方に性経験があれば、リードしてもらいながら初体験を難無く通過できるのだが、処女と童貞のカップルゆえに、なかなか先に進めないのだ。 「性の営みは太古の昔から行われ、自然とできるようになるんじゃないの?と思われてしまいがちです。でも、現に『結婚後もできない状態が続いている』という人たちがいるわけです。実は近年、母親の過干渉によって、思春期にマスターベーションを経験せずに大人になってしまった男性が少なくありません。『床オナ』といって、フローリングの床など硬いものでペニスを刺激しなければ射精できず、生身の女性とセックスすることに消極的な男性も増えているようです。そうした影響も影を落としているのかもしれませんね」(池下先生)  また、もう一つのケースとして多いのが、「処女ではないけれど、性交痛があってセックスが苦痛」という人たちだ。  製造業で課長に就任したばかりの40歳のB子さんは、5歳年上の夫と結婚して2年目。結婚前に3歳年上の元カレと数回のセックス経験があったが、最後まで挿入できたかどうか、実感がない。「セックスはただ痛いだけ。どこがいいのかわからない」という。「違うパートナーと結婚すれば痛くなくなるのかな?」と思っていたが、やはり痛くて、最後まで挿入したことがない。「夫は無理強いすることなく、待ってくれている。とはいえ出産のタイムリミットも迫っているし、女性に生まれたからには子どもを産みたい」と、切実な思いをドクターに訴える。「妊活のためにセックスレスを克服したい」という思いは、前述のA子さんと同様といえるだろう。 写真はイメージ(Gettyimages) ■医療器具を使って腟を拡張し、挿入の練習  では、未完成婚の相談で訪れた彼女たちに、医療機関ではどのような治療が行われるのだろうか。  婦人科外来で未完成婚の相談に応じてくれるドクターたちにはそれぞれにメソッドがあり、腟を拡張させる行動療法や、心理的な不安を和らげる精神療法などでアプローチすることが多いようだ。中には夫婦2人で通院できる医療機関もあるが、いけした女性クリニックでは女性のみの受診に対応している。 「処女と童貞のカップルの場合は、問診でじっくりと彼女たちの話を聞いた後、『このままでは先に進めないから、女性側がリードしてあげるしかないよね』と伝えています。そして、私の診療室では『ダイレーター』という医療器具を使って、腟を拡張させるとともに、挿入のしかたを練習するトレーニングを行っているんです」(池下先生)  近年、「フェムテック」といって、テクノロジーを生かした<腟まわりのお手入れ>や<腟トレ>がブームとなっており、すでにダイレーターをネットで購入したという相談者も少なくない。医療機関でセックスに関する悩みの相談をしたり、腟のトレーニングを受ける治療は、以前に比べて敷居が低くなっているようだ。  池下先生の診察室では、腟の拡張トレーニングを始めるにあたり、まずは相談者に内診台に座ってもらい、自分の外陰部を手鏡に映して見てもらうのが第一歩。その際、ドクターが「ここよ」と腟の入口を示して教えてあげるのだ。トレーニングを希望する人たちはダイレーターを購入し、ドクターから使用法を伝授してもらうとともに、自宅でも練習して少しずつ慣らしていくという。  ダイレーターには様々な太さ、長さのものがあり、5本セットになっている。1番小さなサイズは月経時に使うタンポンのように細いもの、1番大きなサイズは男性のペニスとほぼ同じ大きさ。まずは小さなサイズから順番に使っていく。 ■腟の拡張トレーニングの手順は?  トレーニングを行う際は体の力を抜いてリラックスを心がけ、以下のように進めていく。(いけした女性クリニックの場合)  内診台に座った態勢で、ダイレーターを挿入する練習をスタート。ドクターが「ここが腟の入口」と鏡で見せて、示してあげる。まずは1番小さなサイズを自分の手で挿入し、慣れてきたら、徐々にダイレーターのサイズをアップしていく。 「最初のうちは、ドクターが腟口に触れるだけで『キャーッ』と声を上げてしまうほど。でも、自宅でもダイレーターを挿入する練習を行ううちに、少しずつ腟口が拡張され、挿入することに慣れていきます」(池下先生)  5本中4番目のサイズを使えるようになったら、ペニスの挿入をイメージした練習を始める。その際、ドクターがダイレーターを手に持って、夫役を務める。女性はドクターと向き合う態勢をとり、少しずつダイレーターを挿入する。 「イメージトレーニングをすることにより、腟の位置を自分で把握し、挿入の方向を体で覚えることができます。座位の姿勢は女性が自分でコントロールしやすいんです。脱力を心がけ、自分のペースでゆっくりと行います」(池下先生) ■夫とセックスできるようになるまで、もうひと息!  自宅で練習する際、妻がダイレーターを挿入するトレーニングの様子を夫に見せてあげる。 「『腟の場所がわからない』という男性が少なくないので、『腟の入口はここ。ここから挿入する』と教えてあげます」(池下先生)  そして次の段階で、夫にダイレーターを挿入してもらう。ダイレーターを妻の腟内に挿入する方向や、出したり入れたりの力の加減を練習すると、実際のセックスにつながりやすいのだ。 「童貞の方は、自分で挿入することができずにいるため、まずはダイレーターを疑似ペニスに見立てて、パートナーである女性の体を支えてあげながら、挿入の方向を練習してもらいます。夫側がダイレーターの挿入に慣れてきたら、実際に、ペニスの挿入にチャレンジしてみてもいいでしょう」(池下先生)  最後に「痛くないセックス」のための大切なポイントを池下先生から伝授してもらった。 「性交時の痛みがイヤだから、セックスしたくない」という人の場合、多くは、挿入時に腟口の両脇にある小陰唇・大陰唇というヒダを巻き込んでしまっているのが原因だという。 「私は日ごろから、挿入前に『がま口を開けるように、腟の両脇のひだをしっかりと開いて』と患者さんたちに伝えています。大陰唇・小陰唇を巻き込まれなければ、痛みが軽減すると思いますよ。パートナーにもぜひ伝えてあげてください」。(池下先生)  また、もう一つ重要なのは、肩やひざなど全身の力を抜いて脱力すること。体に力が入ってしまうと腟の筋肉にも力が入り、挿入時にダイレーターやペニスを押し返してしまって痛み出やすくなる。フーっと息を吐いて、脱力を心がけることが肝心だ。 「性の問題というのは、目を背けてやり過ごすことができません。片方だけが悩む問題ではなく、夫婦やパートナーと話し合っていかなくては。挿入することだけにとらわれずに、2人で手をつないで散歩したり、ハグしたり、キスしたり。セックスって、お互いを大切に思う気持ちの延長線上にあるものだと思うので、スキンシップを通して幸福感を感じる時間を大切にしてほしいですね」(池下先生)  未完成婚を克服するには、女性の体と心について精通している専門医のレクチャー、そして、マンツーマンのトレーニングが欠かせない。困ったときには夫婦2人だけで抱え込まず、医療機関に相談してみよう。(取材・文 スローマリッジ取材班 大石久恵) 池下育子(いけしたいくこ)いけした女性クリニック院長。産婦人科医。帝京大学医学部卒業後、帝京大学麻酔学教室助手、国立小児病院麻酔科を経て、東京都立築地産院産婦人科に勤務。1991年、同産院医長に。1992年に池下レディースクリニック銀座を開業。2012年より医院名をいけした女性クリニックに改称し、現在に至る。「女性のコンビニエンス医療」を目指すとともに、心や体、セックスのこと、ダイエット、美容まで、トータルにサポート。「いつまでも美しくありたい」と願う女性たちを応援する医療をモットーとしている。いけした女性クリニック https://www.ikeshitaikuko.com/page1
木村拓哉「等身大の人物にしたかった」 一対一で向き合った織田信長
木村拓哉「等身大の人物にしたかった」 一対一で向き合った織田信長 俳優・歌手 木村拓哉  1月27日に公開予定の映画「レジェンド&バタフライ」で主演を務める木村拓哉さん。本人曰く「えげつないラブストーリー」になったという、織田信長と濃姫の物語だ。邦画史上最高峰の大作に、どう挑んだのか。AERA 2023年1月23日号から。 *  *  * ――1998年のドラマ「織田信長 天下を取ったバカ」から25年。満を持して再び織田信長を演じる。 木村拓哉(以下、木村):前回演じたのは25歳ですか。そのときはサブタイトルに「天下を取ったバカ」と書かれていたんですけど、実際の信長は天下も取ってないし、バカでもないんですよね。  でも、その間違えが許されるのが信長でもある。今回改めて演じてみて、そう感じました。十人十色のイメージを受け入れられるだけの幅の広さがあるというか。おそらく本人は、他人の評価なんて全く気にしない人だと思います。やるべきことの目的を自分で考えられるし、伝統やしきたりであっても「ダサいものはダサい」と言える人。じゃないと、あえて丈の短い袴(はかま)をはいて腰に縄をしめるなんて、普通しませんよね。どこまで自己プロデュースをしていたのかはわかりませんが、相当な“デザイナー”だったと思います。  一方で、今回は彼の心の底にあったかもしれない弱さや迷いも、演じていて感じられました。信長といえば、「比叡山焼き討ち」など非道なイメージもあります。でも、もし何かが少しでも違っていたら、自国を守るだけで幸せに暮らすこともできたんじゃないかとか、本当は不安だったんじゃないかとか、いろいろ考えました。家臣に皆殺しを命じたときも、「その責任は全て自分にある」と、どこか自虐(じぎゃく)に近い覚悟を俺は感じましたね。 ■信長を練り上げたい ――東映創立70周年記念作品である本作は、総製作費20億円の巨費を投じて細部まで徹底的にこだわって制作されている。監督は「るろうに剣心」シリーズの大友啓史、脚本には「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの古沢良太を迎えた。 木村:古沢さんが書いてくださった世界観は脚本を読んですぐ理解できましたし、実際に面白かった。ただ、現場で実際にやってみないとわからないところが多かったのも事実です。脚本で描かれた信長像を一度バツバツに切り崩して、撮影現場で改めて彼を練り上げてみたいという欲求もありました。  脚本に書かれている言葉に反発する気はないんですよ。ただ、脚本は皆が共有する「地図」なので、そのままだと現場に信長が現れたときに、“一対一”になりづらいなって。なんていうか、脚本だと信長が“でかい”んです。例えるなら、生えている木に対しては人、馬に対しては主人、妻に向き合う夫というように、等身大の人物にしたかった。やっぱり信長は、歴史とともに、皮一枚ずつ偉人のイメージがでかくなっていると思う。それをできるだけ剥ぎ取って、生身の人にしたいなあと思いながら、現場ではやっていました。 AERA 2023年1月23日号より ――本作では、信長の妻・濃姫との関係性も、これまでにない形で描かれている。打つ手がないと弱音をこぼす信長を奮い立たせ、効果的な打開策を提案するなど、今までになく“対等”だ。 ■新しい視点をもらう 木村:史実はわかりませんが、濃姫と出会ったことで、彼の中にはなかった引き出しを授けられた、新しい視点をもらった部分はあるんじゃないですかね。世界中の人々が知っているような有名な絵画でも、赤外線を当てると、「実は下絵が描かれていることがわかった」ということもありますよね。現代を生きる僕らは、その表層の部分しか見ることができないんですけど、人物像にしてもエピソードにしても、それと同じようなことはあるんじゃないかと思います。今川軍との戦いにしても、「全て信長のアイデアで勝った」というほうが、エピソードとしては美しい。でも、もしかすると歴史書に記述されていない部分で、斎藤道三の娘である濃姫に相談したこともあったかもしれない。今回はその下絵の部分というか、「表面からはわからなかった新しい信長と濃姫像を作れるかもな」というモチベーションもありました。  濃姫役の綾瀬(はるか)さんとは3度目の共演ですが、心配は全くなかったですね。彼女もすごく自然体で現場にいたし、スタッフから愛されていた。綾瀬さんは“佇(たたず)まい”で皆を納得させられる力があるんです。演じる、動くだけではなくて、「そこにいる」ということがすごく大切だと思わせてくれる人です。同時に、いないことの喪失感を感じさせてくれる、大きな存在感があります。  ただ、彼女はほかの現場も同時に進めていたので、現場で二人で話し合うこともありました。若い時代のときなら「このほうが幼く見えない?」とか、ラブシーンなら「こうしたほうが理性を失ったように相手を求めているように見える」とか、作戦はよく立てましたね。自分だけでなくこうした関係性の中で、信長と濃姫の間の取り方が構築されていった感じはあります。 ■相手の立場に立つ ――信長と濃姫は、互いを愛しながらも、それぞれの信念の違いから激しくぶつかり合う。仕事などで意見がぶつかり合うことをどう考えているのだろうか。 木村:うーん、自分がどう思う、感じるというより、相手の立場に立ったときに「言われたら嫌だろうな」ということは言わない、そういう基本的な視点をまずはもつことじゃないかな。逆にその視点さえあれば、仲違いすることもほぼないというか。お互いの意見が違っても、相手の考えを理解して同調したとき、すごくうれしそうなリアクションをしてくれるのを見れば、自分もうれしくなる。10回に1回は「こっちにおいで」と言うこともあるかもしれないけれど、自分から「相手と同じ道を行こう」と選ぶのも自分の意思だし、喜びになると思うんですよね。  信長と濃姫は政略結婚で結ばれたので、現代の夫婦や家庭について彼らから学べることは少ないと思うんですが、あえて言うなら、結婚は個人と個人のつながりだけではないよねってことかな。結婚って、恋人だけじゃなくて、相手の両親やきょうだい、育ってきた歴史や生活習慣とか、その人の背後にあるいろいろなものとも一緒になるってこと。そのつながりを考えることや守ることも大切なんじゃないかなと、信長たちを見て感じますね。 ■求めてくれるからこそ  あとは何だろう、伝えられるときに感謝を伝えることの大切さかな。自分のことを求めてくれる人がいるって、ものすごいことだと思う。今回の映画でも、「信長だったらあいつに頼みたい」と、その“あいつ”に自分を選んでくれたことが、すごくうれしかった。「ぎふ信長まつり」に参加させていただいたときも、46万人ものとんでもない数の人が駆けつけてくださった。数字や評価じゃなくて、そういう自分を求めてくれる“現実的な存在”が、自分のとても大きな支えになっています。  前に、この世界の大先輩に言われたことがあるんです。 「自分らだけでやってるように勘違いしている奴らもおるけど、うちら全員生かされてるんやで」  その言葉はすごく心に残っています。自分でも薄々「ですよね」とは思ってはいたんですけど、まさかその人の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったので。 「この人、その感覚で皆のことを笑わせているんだ」  って、さらに魅力的に感じました。求められない限り、自分たちは何者でもない。求めてくれるからこそ自分らがいられるんだよ、と教えてもらったときは、やられましたね。  それが誰って? もうわかるでしょ(笑)。 ――奇しくも、信長が本能寺で没した49歳(数え年)で信長を演じた。現代は「人間50年」ではなく「人生100年時代」に突入したが、後半戦の展望をどう考えているのか。 木村:先ほどと同じになりますけど、自分で展望を描くのではなくて、どんな作品や現場で自分が求められるのか、そして相手の期待にベストコンディションで応えることが自分の役割だと思っています。  この間の「ぎふ信長まつり」で岐阜にお邪魔したとき、夜に岐阜城を案内してもらったんです。そのとき天守閣で、「信長と濃姫もきっとここからの星空を見たんじゃないかな」という場所に立ったとき、すごい感情的になっちゃった。もうちょっと、二人で共に生きて、共に過ごす時間をもってもらいたかったなって。  信長をやらせていただいた立場としては、「この先の人生もきっちり無駄にせず生きないといけないよな」と思います。 (ライター・澤田憲) ※AERA 2023年1月23日号
「どうする家康」で瀬名姫に出会った今川館 40年後、同じ地に駿府城を築城した家康の思いとは?
「どうする家康」で瀬名姫に出会った今川館 40年後、同じ地に駿府城を築城した家康の思いとは? 復元の進む駿府城。この地下に今川館が眠っている(写真/千田嘉博)  2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる家康は幼くして人質となって今川館に入り、有村架純さん演じる瀬名姫を妻に迎える。その今川館だが、現在の駿府城の一角に建てられていたと考えられている。家康が人質といえども今川館で最高水準の教育を受けたことだけでなく、駿府城もまた近年の発掘調査によって、秀吉が築城させたという説に見直しが迫られている。  国内外の城に精通し、テレビ・ラジオや講演で大人気の城郭考古学者・千田嘉博先生の最新刊『歴史を読み解く城歩き』から、一部抜粋し、今川館での少年家康の境遇、その後、秀吉と比肩する有力武将家康がその地に築いた駿府城の革新性を紹介する。 *  *  * 【今川館】義元のもとで最高の教育を受ける  近年、浜松城をはじめ、徳川家康ゆかりの城の調査が行われており、城から家康を捉え直せるようになってきた。そこで城の最新成果にもとづいて家康を考えていきたい。家康が生まれた三河は戦国期には武士が分立し、家康の父、松平広忠は三河の主権をめぐって戦った。その戦いは一族間だけでなく、西の織田信秀、東の今川義元がからんで混迷を極めた。  1547(天文16)年には今川義元と連携した信秀が三河へ進攻し、松平一族の安祥城(愛知県安城市)を攻め落とし、松平氏本拠の岡崎城(愛知県岡崎市)を包囲して広忠を降伏させた。家康はこの年に織田家へ人質として出された。  従来は今川の人質になる道中に家臣が裏切って織田の人質になったと説明されたが、広忠が信秀との戦いに敗れたので、家康は信秀の人質になったと考えるべきだろう。家康はこのとき6歳。最初から「どうする家康」である。  いったんは連携した信秀と義元はすぐに決裂し、岡崎城の南東九キロの丘陵地帯が松平を巻き込んで織田・今川がにらみ合う最前線になった。その最中の1549(天文18)年に広忠が死去してしまった。義元はこの機を逃さずに軍事攻勢をかけて信秀を圧倒し、西三河を制圧して織田が押さえていた安祥城も奪った。 復元した駿府城東御門(写真/千田嘉博)  1549(天文18)年に織田信秀は子の織田信長に家督を譲った。信秀が病によって身体の自由を失ったため、16歳の少年へ緊急の代替わりを行った。三河国を攻めて領土を拡張してきた信秀だったが、駿河・遠江国を治めた太守・今川義元が三河の松平氏を軍事支援して反撃を開始していた。病身の信秀は指揮を執れず、先述したようにこの年には西三河の要衝である安祥城の今川軍による奪還を許した。  安祥城の攻防戦後の捕虜交換で、家康は今川方に返された。しかし家康は岡崎城に戻れたのではなく、そのまま義元本拠の静岡市の今川館に連れられ、今度は今川の人質になった。ただし人質といっても家康は、義元に従う松平氏の当主として今川館の近くに屋敷を与えられ、西三河の武士たちは駿府の家康への臣従を求められた。  幼い家康が、父広忠でさえ完全にコントロールできなかった三河武士たちを従え、大名として生き残るには、義元の後ろ盾が不可欠だった。また義元は西三河の武士たちを対織田戦の先兵として使うために家康が必要だった。  今川館は現在の駿府城と重なっていると考えられている。今川館は一辺100メートル級の大型館城で、その周囲にはやはり堀や溝をめぐらした武士の館が群在した。そのひとつが家康の館だったと想定される。家康は義元のもとで最高の教育を受け、正妻築山殿(瀬名姫)を迎えた。今川館時代の家康はそれなりに幸せだった。しかし三河武士たちとは疎遠で、強い信頼関係があったとはいえなかった。 【駿府城】信長・秀吉の先を行く連結天守  1582(天正10)年に織田信長・徳川家康は武田勝頼を攻めて滅ぼした。これによって家康は、駿河など旧武田領を手中に収めた。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い後も羽柴秀吉との戦闘態勢にあった家康は、翌1585(天正13)年8月から駿府城(静岡市)を居城にする工事に着手した(『家忠日記』)。  拡大した領国を統治するのに最適な位置に居城を移すとともに、秀吉との戦いに備えるためだった。同年11月には家康が現地指揮をして岡崎城(愛知県岡崎市)の改修工事を実施したように、秀吉の進攻に備えた防衛網の構築は、家康にとって最重要課題であった。 駿府城で発掘された家康の天正期大天守台石垣(写真/千田嘉博)  1586(天正14)年9月11日、家康は駿府城に入った。このとき駿府城は未完成で御殿周辺ができただけだった。家康が駿府入城を急いだのがわかる。こうしたなかで翌10月に家康と秀吉との講和が成立した。秀吉の母、大政所を人質として岡崎城に迎えた上で、家康が豊臣大坂城に出向いて臣従の礼をとった。  秀吉の軍事進攻という危機を回避した家康だったが、駿府城の工事は継続した。1587(天正15)年2月には二の丸堀の工事をしつつ、石垣の石材を運び込み、翌3月には石垣を積みはじめた(『家忠日記』)。そして同年12月までに本丸の堀の工事も完了。1588年5月には大天守台石垣の、1589(天正17)年2月には小天守台石垣の工事をはじめて4月に完成した。石垣完成後は即座に大小天守の建築工事を進めたので、1589年末頃には石垣をめぐらし、大小天守がそびえた家康の駿府城が完成したと思われる。   信長の安土城も秀吉の大坂城も天主(天守)は単立だったので、大小天守を連結した家康の駿府城天守はまさに先進の設計だった。さらに駿府城天守は信長の安土城と同じように凹面に金箔を施した瓦を用いて、凸部に金箔を貼った秀吉流とは異なる金箔瓦で飾った。秀吉への対抗心が光っていた。  現在、静岡市が駿府城の発掘をつづけている。そして発掘で見つけた天正期の天守台を、秀吉が建てさせたものと長く説明してきた。しかし同時代史料と発掘成果にもとづけば、静岡市の解釈が成り立つ余地はない。市役所の発表を無批判に報道してきた新聞社も反省してほしい。天正期の石垣も天守も「家康の城」である。
三成は茶を膿ごと飲み干した 「友情に殉じた武将」の墓前で文芸研究家が落涙した理由
三成は茶を膿ごと飲み干した 「友情に殉じた武将」の墓前で文芸研究家が落涙した理由 藤堂高虎が建てたとされる大谷吉継の墓(手前)。奥には吉継を介錯し、その後藤堂軍に討たれた湯浅五助の墓も(写真:カジポン・マルコ・残月さん提供)  歴史をひもとけば、さまざまな人生が見えてくる。生きざまや言葉、残された逸話に胸打たれ、指針にする人は少なくない。AERA2023年1月23日号から。 *  *  *  戦国武将・大谷吉継(よしつぐ)の墓は、岐阜県関ケ原町の山中にある。関ケ原の戦いで西軍についた吉継が布陣し、そして自害したと伝えられる場所の近傍(きんぼう)だ。吉継の軍は決して多くない手勢で藤堂高虎ら東軍と相対しつつ、寝返って背後から攻めかかってきた小早川秀秋を押し返す。しかし、配下にいた脇坂安治ら4将が東軍に内応して側面を突かれたことでついに壊滅、重臣・湯浅五助の介錯(かいしゃく)で自害した──。  文芸研究家のカジポン・マルコ・残月さんは20年ほど前、吉継の墓前に立った。 「お墓に手を合わせたとき、彼が本当にいたのだと実感しました。吉継の生きざまが単なる物語ではなくなり、吉継のように生きたいと自然に涙が出ました」 ■茶を膿ごと飲み干した  吉継は「友情に殉じた武将」と言われる。慶長5(1600)年、石田三成から徳川家康打倒のために挙兵する決意を聞かされたとき、吉継は「勝機なく、無謀である」と3度、三成を諫めたという。だが、三成の固い決意に心動かされ、敗戦を予期しながらも西軍に加わった。  吉継と三成は年齢が近く、同郷、共に秀吉に仕えるなど共通点が多い。そして、それにとどまらない絆で結ばれていた。  吉継は病で容貌(ようぼう)が変質していたという。あるときの茶会で武将たちが茶の回し飲みをしていると、吉継の頬から膿が一滴、茶碗に落ちた。諸将はどよめき、吉継は茶碗を回せなかった。助け舟を出したのが三成。「喉が渇いて待ちきれん。早く回せ」と言って碗を受け取った三成は、それを一息に飲み干した。吉継は心打たれ、三成と深い友情で結ばれる。そしてそれが、関ケ原の決戦へとつながっていく。そんな逸話が残っている。 「墓前では『本当の友情を教えてくれてありがとう』と伝えました。なかなかそうできないけれど、吉継のように何よりも友情を大切にする人でありたいと思っています」  カジポンさんは偉人の墓参りをライフワークとし、100カ国、2500人以上の墓を巡礼してきた。なかでも100人以上の墓地を訪ねた戦国時代の人々から学ぶことは多いという。 津市の寒松院にある高虎の五輪塔。高虎の墓は上野動物園内にもある(写真:カジポン・マルコ・残月さん提供) 「戦国の世は死が身近な分、人生を精一杯生きた時代だと思う。そして、並行して茶の湯などの文化も成熟した豊かな時代でした。戦国武将の生きざまや残した言葉の中には、現代に通じるもの、人生の教訓にしたいものが多くあります」 ■渡り歩く勇気もらった  心に深く刺さったのは吉継だけではない。吉継の墓を建てたとされるのは、関ケ原で彼と対峙した藤堂高虎だ。生涯に7度主君をかえた高虎には「裏切り」のイメージも付きまとう。だが、吉継の墓を建てたお礼を伝えに高虎の墓に参り、彼について調べるにつれ、高虎の生き方から人生を渡り歩く勇気をもらった。 「主をかえたのは、自分を信じぬき、高く評価してくれる居場所を探し続けた結果だと思う。フットワークも軽くて、『高虎ならここで方針転換するよな』と考えると気が楽になります」  戦国の世は女性たちにも苛烈な試練が降りかかる時代だった。織田信長の妹・お市の方は浅井長政の継室となるが、やがて織田家と浅井家は断絶。お市は浅井家に残るも、夫は兄に敗れ、自害する。信長の死後、清須会議を経て柴田勝家と再婚。その勝家が秀吉に敗れると、勝家らとともに北ノ庄城を枕に自害した。何度も究極の選択を迫られながら命を燃やした強さに惹かれるという。そして、カジポンさんには勝家とお市の方についてこんな思いが。 福井市の西光寺にある柴田勝家とお市の方の墓。石室内に勝家(前列中央)のほか、お市や血縁のものが眠る(写真:カジポン・マルコ・残月さん提供) 「お市は『戦国一の美女』とされ、再婚相手の勝家は60歳でお市と結婚するまで妻を迎えた記録がありません。私は、勝家は主君・信長の妹であるお市に憧れ、独身を貫いていたのではないかと勝手に妄想し、一方的に親近感を覚えていました。ふたりの結婚にお市の意向が考慮されたのかわからないし、勝家が本当に未婚だったのかもわからない。それでも、浅井長政と悲劇的な別れを体験したお市が、柴田勝家に深く愛され、束の間でも救われていたらと、そう願ってやみません」 (編集部・川口穣) ※AERA 2023年1月23日号より抜粋
天龍源一郎が語る“時代・平成編” 三遊亭円楽と銀座で遊び、65歳の引退まで突っ走ったプロレス人生
天龍源一郎が語る“時代・平成編” 三遊亭円楽と銀座で遊び、65歳の引退まで突っ走ったプロレス人生 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  昨年9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在も入院してリハビリを続けている天龍源一郎さん。今回は入院先から主治医の許可をもらいながら、平成という時代を振り返ってもらいました。 * * *  前回は昭和で、今回は平成を振り返ってみよう。まず、平成になって印象的なレスラーは藤田和之。あいつはいい度胸をしていると思ったよ。藤田が出てきたのはプロレス人気が下降して、総合格闘技隆盛の時代。プロレスと総合格闘技を並行してやるなんてなかなかできないし、こいつは大したもんだと感心した。 プロレスはアントニオ猪木さんだったら卍固め、天龍だったらパワーボムみたいに見せ場を作ることができるけど、総合格闘技はそうはいかないだろう。そもそも負けたら嫌だろうし、格好悪い試合は出来ないというネガティブな思いも含めて、あのリングに上がっていたのは見事だ。藤田はPRIDEから声がかかって水を得た魚だったもんね。俺が新日本プロレスに参戦していた当時、彼はプロレスがあまり好きそうじゃなかったからなぁ。  平成で印象的な選手は藤田くらいしか思いつかないが、平成という時代について、声を大にして言いたいのは、あの当時(平成2年)プロレス界に参入したメガネスーパーという会社はすごいということだ。社長の田中八郎氏がプロレスを野球界のようにしたいという意思のもとにSWSという団体を立ち上げた。団体自体は2年ほどで潰れてしまったが、当時は俺を筆頭に、SWSにピックアップされた選手はみんな誇りを持って戦っていた。  昭和のプロレス界の選手はみんな親分、子分の関係だったが、メガネスーパーが参入してからその関係性も変わったと思うし、なによりみんなの給料がベースアップしたよね。それはSWSの選手だけではない。全日本プロレスも新日本プロレスも、SWSの気風がいいもんだから、負けちゃいけないって所属選手の給料を一気に上げたんだ。それまでは会社がいくら儲かっても選手はほとんど潤わなかったが、SWS発足後は頑張ったヤツのファイトマネーが上がるという、わかりやすい仕組みになった。「やればできるじゃねえか」と選手はみんな思ったよね。 昨年6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『天龍祭~天龍源一郎AID~』/開催日時2023年2月12日(日1部12:00開場/12:30開始 2部17:00開場/17:30開始 )/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/【チケット料金】《チケット料金》(前売りチケット) ※当日券は500円UP ▼特別リングサイド(最前列)…10,000円(特典付き) ▼リングサイド(2列目)…7,000円▼指定席(南側ひな壇)…6,000円【1部、2部通し券】全券種1,000円割引 ※天龍プロジェクトショップのみ販売/チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  SWSがなかったらプロレスは旧態依然としてなにも変わっていなかったと思うし、プロレスの市場規模がもっと小さくなっていたんじゃないかな。平成後期の新日本プロレスだって、他企業が進出しようという機運になったのはSWSの前例が少なからず影響していると思うんだ。平成のプロレスはSWSが出来たことが転機だったと今でも思うよ。  SWSの解散後、俺自身は流浪の身になったけど、心には「俺はSWSに主力として引き上げられた天龍だ」というプライドがずっとあった。やっぱり、自分の中でも嬉しいことだったんだよね。  だから晩年はワケのわからないリングに上がっているときに「SWSに引き抜かれた俺が、いつまでもプロレスにしがみついてなにをやっているんだ……」と自問自答する俺もいた。そういった思いがプレッシャーにもなっていたんだと思う。  ただ、カッコいいことを言わせてもらうと、周りがなんと言おうと、天龍源一郎としてリングに上がれる限り、金を稼ぐことができた。そうすれば嶋田家は潤うわけだから「家族のため」と割り切ってリングに上がっていた時期もあったよ。そういえば、ハッスルも最初はよかったけど、最後はなにをやっていいかわからなくなっていたね。ギャラの未払いもあったし……。  昭和と平成での違いは、目先のギャランティで惑わされたってのは大きいかもしれないね。よくも悪くもね。昭和の人は力道山関のいるプロレスで頑張っているだけで満足だったが、昭和後半から平成になると力道山関を知らない世代は満足できなくなって、金がほしくなって、移籍も多くなったよね。  そういった時代の変化もあって俺も金が稼げるようになり、平成初期の40歳すぎくらいが一番よく遊んだよ。若かったしね。遊ぶのはいつも俺と楽ちゃん(故・三遊亭円楽さん)、岡ちゃんの3人だ。岡ちゃんは会社経営者だったけどタニマチという関係でもなく、フランクな友だち付き合いだった。  岡ちゃんももともと楽ちゃんと知り合いだったし、斜に構えたところも無かったから楽しく遊べたよ。銀座に飲みに行って3軒ハシゴして、一人一軒ずつ金を払うんだ。そうやって朝まで飲んで、飲む店が無くなって、上野駅の売店で酒を買って飲んでいたくらい(笑)。  あの頃は本当によく飲んでいたけど、楽ちゃん、岡ちゃん以上に親しくなった人はいないなぁ。プロレスは相撲の世界と違ってみんなで飲みに行く慣習はなかったし、日本に来ている外国人レスラーもリング降りたら個人主義で、飯に誘ったりするのはタブーだって、プロレスに転向してから知ったよ。  だからといって仲が悪いわけではなく、引退した後もスタン・ハンセンが来日するとちょこちょこ顔を合わせたりしていた。今は俺のからだの調子のこともあって頻繁に会えるわけではないが、スタンは元気でうらやましいよ。肩や膝が悪くなっても早めに手術して、今じゃあ万全の態勢。やっぱり賢かったね。スタンとブルーザー・ブロディは「プロレスはいつまでも続けられる商売じゃない。続けられると思っているのは日本人だけだよ」といって、彼らは引退後のための資産形成をしっかりしていたからね。  一方の俺は「好きなプロレスで飯が食えるならいい」って、それだけで突っ走ってきて、今では、ボロボロのからだしか残ってないよ。65歳までプロレスをやっていたのはただの意地。相撲からプロレスに転向して、途中でダメになって辞めたなんて言われたくないから、そこまでやれたってのが正直なところだ。  晩年は「俺なにやってんだろう」という気持ちも出てきたし、引退を勧められたこともあったが、年を取れば取るほど、周りも「そういうこといっちゃいけない」という雰囲気になって、誰も何も言わなくなった。引退を決意したのは女房の具合が悪くなって俺が支えなきゃと思ったからだ。振り返ってみると最後まで家族のためという思いが強かったね。  引退したらしたで、今度は「人の心配するくらいだったら、自分の心配をしろ」という状況になってしまって、本当にプロレスという職業は割に合わないよ。からだへのダメージも大きいし、ハンセンみたいにコツコツ貯蓄して財産を残せる人も稀で、ほとんどなにも残らないんだから。それなのに令和の今でもプロレスで頑張っているレスラーを見るのは心強い。こんな危ない商売で、こんなギャラで、待遇で、キツイことをどうしてできるのだろうか……。彼らには頑張ってほしいし、いい思いもしてほしいと思っている。  ただ、そう思う一方で、俺が見た感じで「なんでこの人はプロレスをやってんの?」と疑問に思うレスラーが多いのも正直なところだ。やっぱりプロレスの間口が広く、垣根が低く、入りやすく、出やすくなったのが理由かな。昔はなかなか入れなく、辞めるわけにもいかない中で鍛えられたもんだが、今は出入り自由だもんね。  令和のプロレスはどうなるか、誰にもわからない。ただ、時代は変われど、ファンの求めに応えなければいけないということは昭和も平成も令和も変わらない。プロレスが変化していくことに、ああだこうだといったところで、それはファンが求めているってことだ。客商売はファンに迎合して応えてナンボ。それは変わらないだろう。令和のレスラーたちも変化を恐れずにファンの期待に応えるプロレスをやってくれることを期待しているぞ! (構成・高橋ダイスケ) 前回記事はこちら〉〉天龍源一郎が語る“時代・昭和編” 真冬でもアロハシャツを着る昭和のレジェンドといえば? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
「モリコーネ 映画が恋した音楽家」監督が明かす 成功の裏にあった映画音楽への葛藤
「モリコーネ 映画が恋した音楽家」監督が明かす 成功の裏にあった映画音楽への葛藤 「モリコーネ 映画が恋した音楽家」TOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開中(c)2021 Piano b produzioni, gaga, potemkino, terras  数々の映画音楽を手がけた巨匠エンニオ・モリコーネ。2020年に91歳で亡くなった彼のすべてを捉えた「モリコーネ 映画が恋した音楽家」が公開される。映画の名シーンとともに、彼の人生を振り返ろう。(フリーランス記者・中村千晶) *  *  * 「彼を撮影することに、困難は何もありませんでした。まさに友人どうしのように会話をし、長いインタビューをすることができたのです」  と、監督のジュゼッペ・トルナトーレは語る。1988年に「ニュー・シネマ・パラダイス」でモリコーネに作曲を頼んで以降、多くの作品でタッグを組んできた。モリコーネ本人が「ジュゼッペが撮るなら」と本作の撮影を承諾したという。 Giuseppe Tornatore 1956年、イタリア・シチリア島出身の映画監督。88年の「ニュー・シネマ・パラダイス」でアカデミー賞外国語映画賞やカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞。ほかに「海の上のピアニスト」「マレーナ」など。 「私は彼と出会ってから、仕事中も昼食や夕食の席でも彼を質問攻めにしてきました。映画のこと、音楽のこと、彼の人生についてです。今回、改めて彼に話を聞き、音楽家としての彼だけでなく“人間・モリコーネ”を描きたいと思いました。彼が長い人生を通じてどんな冒険をしてきたかを、音楽劇のように物語ってみたいと思ったのです」  エンニオ・モリコーネは1928年、イタリア・ローマに生まれた。幼いころは医師になりたかったが、トランペット奏者の父に音楽の道を薦められ、音楽院を卒業。学生時代に生涯の伴侶となる妻・マリアと出会い、27歳で結婚する。  作曲家を目指していたが、生計を立てるためにレコード会社と契約して編曲を手がけ、やがて映画音楽を頼まれるようになる。64年にセルジオ・レオーネ監督の「荒野の用心棒」であの印象深い口笛の音楽を奏で“マカロニ・ウェスタン”ブームを生み出した。  だがモリコーネには長年、映画音楽への葛藤があった。アカデミックな音楽界で「商業音楽」は低く見られていたからだ。 「彼には自己に対するアイロニーがありました。大きな成功を得たが、苦しんだことも多かった」(トルナトーレ監督) 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(84年)が世界的に評価されてなお映画音楽から離れようとしていたこと、「ミッション」(86年)でアカデミー賞作曲賞を逃した悔しさなども映画に刻まれる。 「モリコーネ 映画が恋した音楽家」TOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開中(c)2021 Piano b produzioni, gaga, potemkino, terras 「モリコーネ 映画が恋した音楽家」TOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開中(c)2021 Piano b produzioni, gaga, potemkino, terras  そして88年、再び映画音楽との決別を決めていたモリコーネの心を動かしたのが「ニュー・シネマ・パラダイス」だった。2007年にアカデミー賞名誉賞を受賞するまで、彼が葛藤をどう乗り越えていったのか、その道のりに心を揺さぶられる。 「モリコーネは人間的にとてもシンプルな人でした。同時に複雑で尖った面もあった。だからこそ魅力的で、彼をもっと深く知りたいという好奇心を誘発するのです」  映画に登場しないエピソードを教えてもらった。 「彼は動物好きで、ローマ郊外に住んでいたころは犬や鳥などすごい数の動物を飼っていた。そのなかに2羽のクジャクがいたのですが、セルジオ・レオーネ監督に『クジャクはアンラッキーで不幸を呼び込むんだよ』と言われ、すぐ動物園に寄贈したそうです(笑)。その後、ローマの中心街に移った際には、ほかの動物たちもすべて動物園に寄贈していました」  そんな「人間・モリコーネ」の魅力が詰まった本作で、懐かしの映画と音楽に酔いしれてほしい。 ■「作品を描くときに常に頭の中を駆け巡っている」 弘兼憲史さん 漫画家 弘兼憲史さん   僕はエンニオ・モリコーネ、大好きなんです。入り口はやっぱり「荒野の用心棒」などのマカロニ・ウェスタン。特に好きなのは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」です。ギャングの激しい殺戮シーンにあえて柔らかい切ないメロディーを入れたのは本当に革命的で、あれはあの音楽がないと成立しない映画だと思います。  でもクラシックに比べて映画音楽が下、という空気があり、ご本人がそのことでずいぶん悩んだり、苦労をしたりしてきたことを、この映画で初めて知りました。監督と意見が合わなかったり、ときに喧嘩したりしながら、あの名曲たちを生み出していたという部分にも人間性を感じましたね。僕も物を作る人間なので、やはり編集者や原作者とのぶつかり合いはある。映画音楽は共同作業であり、物作りの苦労は同じなんだなあ、と感慨深かったですね。  僕は漫画を描きながら、よく音楽を聴くんです。あるシーンを描くときに、頭の中で音楽が流れている。たぶん映画を作る感覚に近いんじゃないかなと思うんです。映画監督になりたかった時期もずいぶんあって、でも漫画で同じような作業ができているので、いまはこの職業に満足しています。  モリコーネのメロディーは、意外と闘いのシーンを描いているときに頭の中で流れていることが多いかな。あとはやっぱりラブストーリーですね。『島耕作』より断然『黄昏流星群』。ロマンチックなシーンや切ないシーンのバックには、実はモリコーネの音楽が流れているんです。 ■「家族を大切にし、誠実に生きた。父も同じだったな」 平原綾香さん シンガー・ソングライター 平原綾香さん  映画が始まって5分で泣いてしまいました。譜面に埋もれた仕事場で彼がたった一人、指揮をする姿に感極まってしまった。2021年に父(サックスプレーヤーの平原まことさん・享年69)を亡くしたばかりなので、父の姿もどこか重ねて見ていたのかもしれません。おじいちゃんになるまで、サックスを吹いていてほしかったな、と。  最初にモリコーネの音楽に触れたのも、父からなんです。5歳のころ「ニュー・シネマ・パラダイス」の曲をサックスで吹くのを聴いて「なんていい曲なんだろう!」と恋に落ちました。10代のころは映画「海の上のピアニスト」のサウンドトラックをすり切れるほど聴きました。そのなかの「愛を奏でて」という曲に、いずれ日本語の歌詞をつけて歌ってみたい。  彼の音楽の魅力はメロディーとオーケストレーション(オーケストラ用の編曲)が運命的な出合いをしているところです。どんなにメロディーがよくてもオーケストレーションが悪いとうまく伝わらない。彼はどちらも素晴らしく、それが「泣ける音」を生み出している。本作で彼の音楽への誠実な向き合い方や、奥様をとても大切にされていたことを知り、それも彼の音楽の素晴らしさの理由だとわかりました。  モリコーネは「妻がいいと思った曲はだいたい監督はみんなOKする」と言っています。私も生前の父も、音楽をリリースする前に母に必ず「これどう?」って聞くんです。アカデミー賞の授賞式で「これは妻の賞でもあります」という姿を素敵だと思いました。自分の才能に溺れることなく、一番そばにいる大事な人の意見を聞いて誠実に音楽を作ってきた。だからこそみんなに愛される音楽を生み出せたのだと。  あれだけ偉大な存在になってもなお探究を続ける姿に、自分もそうありたいと思いましたし、なによりその生き方に「これでいいんだよね」と励まされる気持ちもありました。この世界では「悲劇や破天荒な人生からしか音楽は生まれない」と言われがちで、私も「そうでないと、音楽を生み出せないのだろうか」と疑問を抱いたことがあったんです。でもモリコーネは苦労もしたけれど、家族を大切にし、誠実に生きてきた。そして父も同じだったなと。ミュージシャンは真面目で誠実であっていい。モリコーネと父の姿を思い浮かべながら、これからもがんばっていこうと思います。※週刊朝日  2023年1月27日号
「その収入でよく結婚できたな」 芸能人や他人の“結婚報告”に中傷コメントを書き込む惨めな心理
「その収入でよく結婚できたな」 芸能人や他人の“結婚報告”に中傷コメントを書き込む惨めな心理 他人の結婚についてあら探しをしてしまう心理とは…(gettyimages)  著名人や身近な人の結婚はおめでたい話。だが、それを知った人への直接的影響や実害はないはずなのに、なぜときにネット上で批判や中傷コメントが書き込まれたり、現実社会でもチクリとものを申したりする人がいるのか。対人心理や恋愛心理を研究する専門家は、その根っこには人間誰もが持つ「嫉妬の心」が働いていると指摘する。 *  *  *  年の瀬にネットなどで報じられた、とあるスポーツ選手が結婚した記事。その選手がSNSで結婚を報告したことをメディアが取りあげたものだったが、記事のコメント欄に並んだのは“祝福の言葉”だけではなかった。  その選手の今の立場や収入に言及し、 <奥さんはとても大変だ> <結婚生活の大変さを理解できていない。そんなに甘くないです> <その収入で良く結婚できたな>  などと、めでたい話に水を差すようなコメントも入り混じった。ちなみに、その選手の年俸は公表されていない。  著名人や知人であっても、その人が誰と結婚しようがその夫婦の生活がどうであろうが、基本的には自分の生活への影響はないはずだ。仮に大ファンの著名人なら「〇〇ロス」になったり、昔好きだったり憧れていた人の結婚ならちょっと複雑な気持ちになったりすることはあるかもしれないが、少なくとも実害が生じる恐れはない。  なのに、人間はなぜ他人の結婚がそんなに気になってしまうのか。 ■人間が「結婚を求める生き物」のワケ  小室圭さんと眞子さんのように激しくバッシングされるケースもあれば、身近な人の結婚について、あれやこれやと意見したりする人もいる。  恋愛や対人関係の心理を長年研究してきた元立正大学教授の川名好裕さん(昨年、定年退職し現在は非常勤講師)は、まず、人間にとって結婚とはどのような存在かについて、心理学の「欲求」という視点からこう解説する。 「そもそも人間とは欲求の塊で、快楽と幸福を得るために生きているのです。心理学にはその欲求として、『快楽原理』と『生存原理』というものがあります。前者には食欲や性欲が当てはまりますが、恋愛や結婚は、その性欲の範疇(はんちゅう)に入ります。つまり、人間にとって好きな人と結婚するということは、大きな快楽を伴う行為なのです」(川名さん)  もう一方の「生存原理」とは、人間の個としての生存や種の保存にかかわるものだという。病気や困難に直面したときは、一人より、そばに助けてくれる人がいた方がいい。子孫を残すという点でも、既婚者は独身者より幸福度が高いとされるそうだ。よって、人間はその生存原理からも、結婚を求める生き物なのだという。 「結婚は相手の承諾が必要ですから、滅多にチャンスがあるものではありません。簡単には手に入らないという点で、お金を出せば満たすことができる食欲とは異なります。だからこそ人間は結婚に非常に大きな関心を抱き、他人の結婚にまで興味を持つのだと考えられます」  とはいえ、だ。  先のスポーツ選手や小室さん夫妻の件では、憶測に基づいての否定的なコメントや中傷的なコメントまであった。  結婚に「非常に大きな関心」を抱くのが人間の性だとしても、なぜわざわざ否定的なコメントを書き込んだり、心無い言葉を口にしてしまったりするのか。 ■嫉妬心は「幸せ度の低い人」に  川名さんは、こうも言う。 「人間とはそれほど理性的な動物ではなく、その心を突き動かしているのは、むしろ、感情や欲求のウェートが大きい。また、人間は自分の幸せが一番で、他人と自分を比較して幸せを感じる側面も大きいのです。さらに、自らが幸福でない人は『他人の幸福は“しゃくの種”、他人の不幸は“蜜の味”』という嫉妬の心を示しがちになるので、他人の結婚について、あら探しをしてしまうのです」  独身であろうと既婚者であろうと、自分の幸せを実感できている人は、他人の結婚をとやかく言おうとはしない。嫉妬心を抱いてしまうのは、幸せ度の低い人に目立つという。 「20代前半くらいの人は、著名人や友人の結婚に接しても、自分自身の結婚に希望を持っている年代なので、嫉妬心が湧くことは少ないと思います。ところが、だんだんと歳を重ね、結婚したいのになかなかできなかったり、さらに収入面などで結婚への壁を感じていたりする人は焦る気持ちも加わって、人の幸せがしゃくに感じるようになります。また、結婚はしていても今の夫婦生活に幸せを感じられていない人は、そうした独身者と同じ心理状態にあり、他人の幸せそうな姿に嫉妬してしまいやすくなります」  若いころは素直に言えていた「おめでとう」。それが言えなくなり、不幸にばかり食いついてしまうのは悲しいことである。  小室さんについては、金銭面の問題や仕事がどうなるかについての懸念が報じられていた。  川名さんは、「眞子さまの将来を心配して『親心』で批判した人も多数いただろう」と推測しつつ、こうも指摘する。 「ぶれない二人に嫉妬し、あれこれと書き込んだ方も間違いなくいるでしょう。そうした心理状態の人にとっては、もし2人の結婚が破談になったら、それが“蜜の味”になるからです」  川名さんによると、一般的に、自分が幸福な人は他人も幸福であってほしいと思い、自分が不幸な人は他人も不幸であってほしいと願ってしまいがちなのだという。 ■悪口は「満足感」なのか?  最近は著名人でなくとも、SNSなどで結婚したことを報告したり、結婚式の写真をアップしたりする人がいる。  この風潮について、川名さんは注意を促す。 「結婚を報告するのは、ごく自然な心理です。結婚を親類や友人たちだけに報告するなら、たとえそうした人の中に嫉妬する人がいたとしても言葉で表明することはありません。ですが、ネットなどで不特定多数の人々に自分たちの幸福を報告すると、必ず嫉妬したり、匿名であることを笠に着て、言いたい放題の発言をしてしまったりする人が多く現れます。人は自分が特定されない『匿名環境』では、かなり攻撃的な言葉を発しがちになるのです」  ただ、仮に攻撃した側が悪口で満足感を得たとしても、それは本当の意味での喜びにはつながらないという。 「幸せではない自分がいる。誰かの幸せを否定することで、なんとか自己正当化を図ろうとする。繰り返すうちに、その行為が止められなくなってしまうのです。人は『他人の幸せはしゃくの種、他人の不幸は蜜の味』という誘惑的な心理に陥りがちですが、その心理状態にはまってしまうと、結局は自分から人が離れていってしまいますよね」  人の幸せに嫉妬し、あらを探して言動や行動に移した結果、さらにその人の幸せ度が低くなるとしたら、なんとも皮肉なことである。 (AERAdot.編集部・國府田英之)
2人で美容室を始めて10年 コロナ禍の経営を運命共同体でもある夫婦で乗り越える
2人で美容室を始めて10年 コロナ禍の経営を運命共同体でもある夫婦で乗り越える 多田信之さん(右)と多田由紀さん(photo 篠塚ようこ)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年1月23日号では、Artteam Green代表取締役で美容師の多田信之さん、同じく美容師の多田由紀さん夫婦について取り上げました。 *  *  *  夫34歳、妻30歳で結婚。小学6年の長男と3人で暮らす。 【出会いは?】東京・新宿で行われた美容業界の交流イベントで知り合う。 【結婚までの道のりは?】同じ美容業界なので話が合い、半年後に交際を開始。それから約8年後に結婚。 【家事や家計の分担は?】掃除と洗濯は妻。食事は個別に作るが、子どもの食事は妻が作る。家計は妻が管理。 夫 多田信之[48]Artteam Green代表取締役 Atelier Vert 美容師 ただ・のぶゆき◆1974年、山形県生まれ、東京都育ち。真野美容専門学校を卒業後、東京都内で複数の美容室勤務を経験。その後に独立し、Artteam Green代表取締役  若いころは結婚や子育てに対して漠然とした不安があったのですが、そんな心配は無用でした。妻は子どもに、とにかく優しい。愛情いっぱいで育てています。僕には厳しいですが(笑)。  仕事にも熱心で、お客さまへの態度も真面目です。彼女は夕方になると自宅に戻って子どもの夕飯を作ったり、ほかの家事をしたりと忙しいので、僕は自分の食事は自分で作ることにしています。一人暮らしが長かったので、料理を作るのは苦になりません。味付けの好みが全然違うので、その方が平和かなと。  家族全員の休みがそろうことが少ないので、休みが取れた時は夫婦そろって子どもの接待です。遊園地、プールなど子どもが行きたい場所で一日中遊びまくります。  コロナ禍ですが、殺菌や清掃など店でやれることをやるしかないと思っています。コロナに限らずいろいろなことは起きると思いますが、戦友であり、運命共同体でもある妻と一緒に乗り越えていきたいです。 多田信之さん(左)と多田由紀さん(photo 篠塚ようこ) 妻 多田由紀[44]Atelier Vert 美容師 ただ・ゆき◆1978年、福島県生まれ、埼玉県育ち。メイクの専門学校を卒業後、ヘアメイク事務所に就職。そこで勧められた美容師免許を取得し現職。山野美容専門学校卒業  初めて会った時、誠実そうな人だなと思いました。話してみると頼れる先輩でもあるし、いろいろなことを教えてくれるお兄さんのような人でした。「結婚を前提に付き合ってください」と言われて、すんなり受け入れることができました。  2人で美容室を始めてから2月で10年になります。仕事でも家庭でも一緒なので、当然言い争いもあります。  お客さまの前では極めて自然に振る舞いますが、お客さまを送り出した途端、シーンとなることもよくあります(笑)。  どんなことがあっても一緒にいられるのは、子どもの存在が大きいです。「かわいいよね」と私が言うと、夫も同調する。お互いに自分たちの子どもがどれだけかわいいか、主張し合っているようなところがあって、楽しいです。  コロナ禍で経営は大変ですが、夫はいつもポジティブ思考で、決して愚痴は言いません。私は考え過ぎるタイプですが、夫のおかげで救われています。 (構成・浴野朝香)※AERA 2023年1月23日号
二階氏も加勢?「新・阿波戦争」勃発の徳島県知事選 「もう地元では決めきれない」複雑すぎる構図
二階氏も加勢?「新・阿波戦争」勃発の徳島県知事選 「もう地元では決めきれない」複雑すぎる構図 徳島県といえば阿波踊り  阿波踊りで知られる徳島県。今春の統一地方選で実施される知事選が、荒れ模様だ。すでに立候補を表明している3人は、いずれも自民党の元国会議員2人と元県議。保守分裂の状態だ。前回の知事選で味方だったものが今回は争い、そこに派閥や家系なども絡み、代理戦争の様相を呈している。候補者選びはまだ一波乱ありそうだ。  これまでに立候補を表明しているのは、自民党の元参院議員の三木亨氏、自民党の元衆院議員の後藤田正純氏、自民県連副幹事長を務めた元県議の岸本泰治氏の3人だ。5期目の現職、飯泉嘉門知事は態度を明らかにしていない。  この状況に、ある自民党幹部がこう話す。 「今回の知事選は、新・阿波戦争と言っても過言じゃない」  徳島の県政界では1970年代半ばから80年代にかけて、地元出身の三木武夫元首相と、田中角栄元首相の側近だった後藤田正晴元副総理の派閥にわかれ、自民党系の候補が激しく対立する保守分裂の選挙が繰り広げられていた。その激しさから「阿波戦争」と呼ばれ、全国的にも話題となった。 三木武夫元首相 後藤田正晴元官房長官  今回、立候補を表明した後藤田(正純)氏は、その正晴氏を大叔父にもつ。今月5日に辞職願を出して受理されるまで、国会議員としても8期目の途中まで務めるなど経験は豊富だ。  後藤田氏は記者会見で、 「(衆院議員)22年間で培った経験、人脈すべてを、わたしのルーツである徳島県に捧げたい」  と語り、自民党の推薦は「求めない」とも明言した。  前回、19年の知事選では、自民党は現職の飯泉氏を支援したが、後藤田氏は、自身に近い岸本氏を擁立し、自民党推薦の飯泉氏を徹底的に批判した。  今回の会見でも、 「(飯泉氏の)多選の弊害に、徳島の政治家で唯一、反対してきた。県政改革を訴えてきた」  などと対抗意識をむき出しにした。  21年の衆院選前には、後藤田氏が知事と県議会について、「なれあい県政」と指摘したことに対し、自民党県議団は、 「いわれなき指摘に憤りを覚える」  などと党本部に県議全員の署名入りの「連判状」まで出し、衆院選での後藤田氏の支援を取りやめた。  結果的に、後藤田氏は小選挙区で無所属候補に敗れ、比例区で復活当選となった。  そして、後藤田氏といえば、妻が女優の水野真紀さんであることが知られており、地元での知名度は抜群だ。  ただ、後藤田氏には女性スキャンダルの印象もついてまわる。過去に週刊誌に2度、大きく報じられた。  後藤田氏の後援会幹部がこう不安を口にする。 「前回の衆院選後、後藤田氏の後援会長が辞任しました。言うことがころころと変わる後藤田氏に愛想をつかしたようです。今は三木氏の支援にまわっているともっぱらです。後藤田氏は、知事選に出馬といってもそれまでに選挙態勢が作れるのか心配です」  今回出馬する三木(亨)氏は、父が元知事の三木申三氏(故人)だ。後藤田氏も三木氏も、政治家の系譜として、譲れない闘いなのだ。  そしてこの2人、別の側面からも競合関係にある。  前出の自民党幹部がこう話す。 「後藤田氏は(辞職前までは)茂木派で、茂木敏充幹事長自身が『自重を』と促していたが聞く耳を持たなかった。後藤田氏の知事選出馬は、茂木氏の派閥トップとしての、幹事長としての手腕も問われかねない。三木氏は(辞職前までは)二階派所属で、二階俊博元幹事長の了承を得て参院選に出馬した。1月に入ってから、議員辞職のタイミングも二階氏の意向があったようだ。こういうけんかに二階氏はめっぽう強い」 茂木敏充幹事長 二階俊博元幹事長  地方で繰り広げられる派閥の争い。「新」「令和版」の阿波戦争などと言われるゆえんだ。  その三木氏は、出馬会見で、 「いまの徳島は活気が失われている。県民の力を引き出せていない。この状況を目の当たりにして、県民のための政治を、徳島で生まれ育ったものとしてなんとか立て直したい」  と前回選挙で自民党が推薦した現職の飯泉県政の「継承」はしない方向性を語った。  その上で三木氏は、自民党の徳島県連に「推薦願」を出している。  しかし、党県連としては三木氏を支援したくない事情がある。  19年の参院選では、徳島県と高知県が合区になったため、三木氏は、候補者を出せない県の救済策としてできた比例代表の「特定枠」として当選した。そうした背景もあり、昨年、合区対象4県(徳島・高知、鳥取・島根)の自民県連は三木氏に対し、知事選への立候補再考の申し入れをした。しかし、三木氏は応じなかった。  それだけに、「せっかくの優遇された議席を捨ててしまう人は推せない」という県議らの声も聞こえてくる。  自民党としては、2人の立候補で、様々なもくろみが外れた状況だ。  そんななかで、前回に続く岸本氏の立候補表明。前回は後藤田氏の「名代」で飯泉氏に立ち向かっただけに、今回は支援者も複雑な思いだろう。  県議として自民県連の副幹事長まで務めたが、会見では、 「4年前より徳島は疲弊している。一党一派に属さず、あらゆる利権利害を排除する」  として、自民県連に推薦は求めない考えだ。  こうした事態に、自民県連幹部は、 「応援できる候補がいない、独自候補もいない」  と頭を抱える。  現職の飯泉氏は、21年の衆院選では後藤田氏の「征伐」を掲げ、徳島1区から出馬をほぼ決めていたが“ドタキャン”した。今回、知事選に立候補すると6期目。多選を指摘されるが、まだ62歳。どのタイミングで進退を明らかにするかはわからないが、もし飯泉氏が出馬しない場合、自民県連として新たな候補者をこれから立てるというのは、時間的にも現実的ではない。  それだけに、 「もう地元では決めきれない」 「党本部の裁定も」  との意見も出ているという。  混迷の徳島県知事選。まだひともめ、ふたもめしてもおかしくない気配だ。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
いしだ壱成「女性は神様みたいな存在ですね」 3度の結婚と離婚の顛末を包み隠さず明かす理由
いしだ壱成「女性は神様みたいな存在ですね」 3度の結婚と離婚の顛末を包み隠さず明かす理由 写真=小黒冴夏  俳優・石田純一を父に持つ俳優・いしだ壱成(48)は昨年、長いトンネルを抜けて復活しようとしている。「女性は神様みたいな存在ですね」と話す壱成は3度の結婚と離婚を経て、2人の子どもがいる。一昨年別れた前妻と娘には仕送り中だという。壱成が取材にリアルな近況を答えた。 *  * * 一昨年、離婚した前妻(23)との間には4歳になる娘がいる。娘の話になると、壱成は「かわいくてしょうがない」と顔をほころばせる。前妻とはLINE(ライン)のビデオ通話でしょっちゅう、話をしているそうだ。 「前妻がLINEで娘の顔を見せてくれるんですよ。娘が『パパー』と言ってね、かわいい」  2人には、誠意をもって対応しているという壱成。 「前妻とは書面を取り交わしたわけではないんですが、養育費を送っています」  前妻と結婚したのは2018年。当時19歳の女性は24歳下で、一緒に記者会見を開き、報道陣の前で公開キスをし、のろけたものだった。その後、壱成は芸能界を引退するつもりで、石川県に移住。一軒家に家族3人で仲睦まじく暮らしいた。離婚してからも前妻と娘は石川県で暮らしている。  壱成は離婚の理由をこう語る。 「私がうつ病になってしまったんです。何も手につかないし、コップの持ち方もわからない状態で、外が怖いから家から出られなかった。人と話もできず、ベッドから出るのすら怖い。こんなんじゃダメだ、ダメだと思うと、もう死にたくて……。度胸がないので死ねなかっただけ」  心療内科に通い、精神安定剤も服用する日々。前妻ともよく話し合った末の離婚だという。 「彼女もいろんなことを考えてくれて、お互いそれぞれ自立した人生を目指したほうがいいんじゃないかという結論になりました」  それから、壱成は群馬県や愛知県を転々とした。ようやく昨年4月に東京に戻り、腰を据えて生活するようになった。 「そうこうするうちに、急に仕事がパーッと入ってきてくれました。おかげさまで生活の見通しは立ってきました。自分の居場所を確保でき、映画や舞台での俳優の仕事をするうちに、うつ病も快方に向かいました」 写真=小黒冴夏  収入もあれば、養育費の支払いも可能だろう。毎月7万円前後を払っているという。ただ、壱成いわく、いまの自分の状態からすると「高いんですよ」。 「芸能界って支払いが遅いことも多々あるので、前妻に『今月は少ないんだ。これでごめん』と言って、7万円を切る月もあります。その代わり、収入が多い月は多めに送っています。平均すると7万円くらいなんです」  生活は楽ではないが、養育費は送り続けるつもりだ。 「ちゃんと養育費を払わないと、娘に会わせてもらえませんよ(笑)。娘と会いたいし、顔が見れないと、とても寂しいですので」  実は、壱成にはほかにもう一人の子どもがいる。3度の結婚と離婚をしており、最初の結婚でもうけた子どもだ。  壱成は1992年、17歳の時、フジテレビ系ドラマ「悲しいほどお天気」で俳優デビュー。その後、トレンディドラマのブームを作った脚本家の野島伸司氏に見出され、「ひとつ屋根の下」「未成年」「ひとつ屋根の下2」「聖者の行進」「リップスティック」といった数々の野島氏のヒット作に出演。90年代にスターの階段を駆け上がった。  当時は「存在感がある」「演技がうまい」「目が綺麗」と評され、熱心な女性ファンも多く、モテモテだった。  最初の結婚は2003年、相手はタレントで、2人の間には長男が生まれた。だが、3年後の2006年には離婚した。 「もう長男は19歳になるはずです。別れる時、元妻から『子どもは私に任せてほしい。そのかわり養育費はいらない』と言われました。約束をしたんです。だから、別れてからずっと長男に会っていない」  2度目の結婚は2014年、相手は青森県出身の一般女性だった。 「その頃、私はDJの仕事で青森に3カ月に1回くらいのペースで行くたびに、会っていたんです。そのうちに東日本大震災(2011年)が発生し、東京を出ようと思って、石川県に移住しました。石川県はいいところなので、好きなんですよ。昨年までで延べ10年くらいの期間は住んでいました。最初に住み始める際は、パートナーもおらず、1人で生活するのはムリだと思ったんです。それで、青森県の女性に一か八かでプロポーズしました」 写真=小黒冴夏  女性の返事は「いいよ」だった。 「それで、2人で石川県に住んだのです。でも、私の仕事の拠点は相変わらず東京で。石川と東京を往復していましたが、やがて限界が来て、東京にも家を借りた。彼女も石川県から東京に出て来てくれて2人で暮らしていたんです。それから彼女が働き初めて、ある日『もう好きじゃないから』と言い残し、フッといなくなってしまったのです」  結局、結婚生活は2年半くらいだった。不思議なのは、どの結婚も3年ほどで終わりを迎えていること。なぜなのか、聞いてみた。 「周期があってね、3年くらいたつと、僕がふられちゃったりするんですよね。何かが私に足りないんでしょうね……」  女性とはどういう存在ですかと聞くと、彼はこう答えた。 「私はちょっとマザコン気質なところがあるので、女性に頼りたくなる、すがりたくなる。神様みたいな存在ですね」  父の石田純一は「3度結婚し、子どもは5人いますね」と壱成。現在の石田の妻はプロ野球チーム西武ライオンズ元監督・東尾修氏の長女で元プロゴルファーの理子さん。壱成も華麗なる一族のメンバーだが、その生い立ちは少し変わっていた。後編では、壱成の親子関係と芸能界で起こしたある事件の真相に迫った。(AERAdot.編集部 上田耕司) >>【後編:いしだ壱成が語る芸能界と親子関係 「何の『ごめん』だったのか」思い出す松原千明の手紙 】に続く 写真=小黒冴夏
【食道がん】男性に多い 患者数は増加傾向にあり、飲酒・喫煙に加え、逆流性食道炎もリスク因子
【食道がん】男性に多い 患者数は増加傾向にあり、飲酒・喫煙に加え、逆流性食道炎もリスク因子  国立がん研究センターのサイト「がん情報サービス」のがん統計によると、食道がんの2019年の罹患者数は2万6382人。飲酒・喫煙が主なリスク因子であり、男性に多いこのがんは、自覚症状がみられてから受診した場合、ほとんどが進行がんとして発見されます。しかし、近年では薬物療法などの進歩もあり、しっかりした治療計画を立てて臨めば進行がんでも根治を目指せる可能性は十分にあるといわれます。本記事は、2023年2月27日発売の『手術数でわかる いい病院2023』で取材した医師の協力のもと作成し、お届けします。 *  *  * ■リスク因子は飲酒・喫煙。高齢者にも増加  食道がんとは、のどと胃の間をつなぐ飲食物の通り道、「食道」にできるがん。食道は、上から「頸部食道」「胸部食道」「腹部食道」に分かれており、食道がんのなかで最も多いのは、胸部食道がんです。  男性に多く、50代から増え始め、近年では70代以上の患者も増えています。飲酒や喫煙と関わりが深いといわれ、「受動喫煙も大きなリスク因子になる可能性がある」と岡山大学病院消化管外科・食道疾患センター講師の野間和広医師は話します。 「ご家族がヘビースモーカーの人、飲食店で働くなど職業柄たばこの煙を吸いやすい環境にいる人などは高リスクです。夫が食道がんになり、その後、喫煙しない妻も同じく食道がんになった例もあり、環境因子も関連すると考えられます」  近年、喫煙者は減少傾向といわれますが、食道がんの患者数は緩やかに増加しており、その理由を野間医師はこう推察します。 「食道がんになった人には喫煙をやめて10年以上経っている人も多くいます。これは個人的な見解ですが、現在は吸っていなくても、何十年も喫煙を続けてきた蓄積の影響が大きいのではないでしょうか。現在20代、30代の喫煙や飲酒の習慣のない人が60代、70代になる時代には、食道がんが減少に転じている可能性もあるでしょう」(野間医師)  食道がんのリスク因子について、大阪国際がんセンター消化器外科主任部長・食道外科長の宮田博志医師はこう話します。 「食道がんの中でも、腺がんというタイプは、逆流性食道炎がリスク因子とされています。日本では、扁平上皮がんというタイプが95%以上で、欧米で多い腺がんは3~4%と少ないものの、食生活の欧米化などに伴い少しずつ増加傾向にあります。今後は、新たなリスク因子として逆流性食道炎にも注意が必要かもしれません」 ■初期は自覚症状がなく、早期発見には内視鏡検査が必要  初期の食道がんは、自覚症状がほとんどありません。そのため、ステージ0期、I期で症状により発見されることは、まずないといわれています。のどの詰まりや胸やけなどの症状がみられてからの受診では、すでに進行がんとして発見されることが多く、早期発見のためには定期的に内視鏡検査を受けることが必要です。  食道がんの診断には、食道がんであることの確定診断と、治療方針を決めるための病期(がんの進行度)診断があります。 確定診断のためには、食道内視鏡検査で食道の状態を調べるのと同時に、病変がある部分の組織を採取し、顕微鏡でがん細胞の有無を確認する病理検査をおこなうのが一般的です。  病期診断には、「内視鏡検査とCT検査が必須」と宮田医師は話します。内視鏡検査で、がんが食道壁のどの程度の深さまで及んでいるか、周囲の臓器まで広がっているかなどを調べ、CT検査では周辺の臓器への広がりと、リンパ節や肺、肝臓などへの転移の有無を調べます。 「プラスαとして、PET(陽電子放射断層撮影)検査をおこなうこともあります。この検査も転移診断に有用です」(宮田医師) ■手術ではがんのある食道を切除し、胃や腸で食道を再建  食道がんの治療法は、病期や患者の年齢、からだの状態、合併症の有無などによって検討します。一般的に、がんが食道壁の粘膜内にとどまりリンパ節への転移がない早期がん(0期)では、内視鏡によるがんの切除が推奨されます。  がんが粘膜の下の層にとどまっているI期は手術、進行がん(II期、III期)でも手術ができるからだの状態であれば手術が第1選択となります。進行がんでは手術の前に化学療法をおこなう「術前化学療法」が標準治療です。術前化学療法には、抗がん剤によりがんを小さくしてから手術に臨めることと、将来の再発予防という二つのメリットがあります。  手術ができない場合や、患者が手術を希望しない場合は、化学放射線療法をおこないます。I期では、化学放射線療法と手術はほぼ同程度の治療効果が得られるという報告がありますが、進行がんでは手術のほうが根治性は高いというデータがあります。  食道がんの標準的な治療法である手術では、がんのある食道と周囲のリンパ節を切除し、胃や腸で新たな飲食物の通り道を作る「食道再建術」が基本ですが、がんの場所によって、切除範囲などが異なります。  頸部食道がんでは、がんの大きさや場所によって、食道だけでなくのど(咽頭・喉頭)も一緒に切除することがあります。胸部食道がんと腹部食道がんでは、食道に加えて胃の一部もしくは全部を切除します。  現在では、多くの病院で胸腔鏡(または腹腔鏡)による手術がおこなわれるようになっており、ロボット手術も保険適用されています。  手術のメリットは根治性の高さですが、一方で、食道や胃を切除することでその働きが損なわれるため、術後ののみ込み(嚥下、えんげ)や食事への影響は大きいといえます。化学放射線治療には、食道を温存できるメリットがありますが、副作用もあります。とくに放射線治療では、治療中からみられる副作用に加え、治療後数カ月、もしくは数年後に起こりうる「晩期障害」とよばれる副作用にも注意が必要だと野間医師は話します。 「治療によりがんが治っても、数年後に骨髄の病気や肺臓炎など、放射線治療による合併症が起こることもあるため、その点は患者さんにも十分に説明します」(野間医師) ■栄養管理や嚥下リハビリなど、術前・術後のケアも重要  食道がんの治療選択において迷うケースがあるとすれば、0期かI期と考えられます。 「0期で適応の内視鏡治療で病理検査の結果、がんを取りきれなかった可能性がある場合や、リンパ節転移の可能性がある場合などは追加治療が必要になります。その場合、『手術』か『化学放射線療法』、もしくはすぐに治療をしない『経過観察』かで迷う患者さんはいます。基本的には手術が勧められますが、患者さんのからだの状態や希望、医師の方針によっても選択は異なるでしょう」(同)  また、I期は手術が第1選択ですが、その病期では手術と化学放射線療法による治療成績の差が小さくなりつつあり、選択に迷うケースも。その場合、患者の年齢、基礎疾患の有無、治療への意欲や考え方、ご家族のサポートが得られるかなどを総合的にみて選択されます。  食道がんの手術は、食道を切除することでとくに術後早期は食事をとりにくくなり、体重減少や体力低下につながるなど患者の生活の質(QOL)への影響が大きいものです。そのため、手術などの治療に加え、栄養管理や体力回復のためのリハビリなど、術前から術後まで、長期にわたるサポートが必須です。今回取材をした二人の医師もその重要性を強調しており、それぞれが所属する病院では、術前から術後までチーム医療により患者をサポートする体制が整っていると話します。  食道がんの治療を受ける患者一人ひとりに対し、医師、歯科医、看護師、栄養士、言語聴覚士や理学療法士といったリハビリスタッフなどでチームを形成。術前には筋肉量や体力を維持するための運動や栄養指導、呼吸リハビリなど手術に向けた準備をおこない、術後はのみ込み(嚥下)のリハビリ、栄養管理から心のケア、退院支援まで、フェーズごとに多職種が支援しています。  食道がんでは術前化学療法をすることが多いため、その期間が有効活用されることになります。これらの取り組みが治療後の患者のQOLを左右するため、がんの治療実績があることに加え、食道がんの患者を支えるためのチーム医療の体制が整っている病院を選ぶことも重要です。 (文・出村真理子) 【取材した医師】岡山大学病院消化管外科・食道疾患センター講師 野間和広 医師大阪国際がんセンター消化器外科主任部長・食道外科長 宮田博志 医師 岡山大学病院消化管外科・食道疾患センター講師 野間和広 医師 大阪国際がんセンター消化器外科主任部長・食道外科長 宮田博志 医師 「食道がん」についての詳しい治療法や医療機関の選び方、治療件数の多い医療機関のデータについては、2023年2月27日発売の週刊朝日ムック『手術数でわかる いい病院2023』をご覧ください。
【下山進=2050年のメディア第25回】新薬「レカネマブ」承認の朝に届いたある女性科学者の訃報
【下山進=2050年のメディア第25回】新薬「レカネマブ」承認の朝に届いたある女性科学者の訃報 ラエ・リン・バークは夫と一緒にセイリングにいくのが趣味だった。ウインチにラインを巻きつけることができずにあたふたしていることを2006年ごろに夫が発見したのが、最初の兆候だった。1月8日に行われた「お別れの会」で、ラエ・リン・バークの写真を背にスピーチする夫のレジス・ケリー。  1月7日の土曜日の朝、パソコンを開くと、良い報せと悲しい報せが同時に入っていた。  良いニュースは、米国FDA(食品医薬品局)が、アルツハイマー病の進行に直接働きかける初めての疾患修飾薬としてエーザイの「レカネマブ」を承認したこと。  そして悲しい報せは、一世紀あまりにおよぶアルツハイマー病との闘いにおいて、人類が偉大な一歩を記したことを知らず、一人のアルツハイマー病患者がこの世を去ったこと。  ラエ・リン・バーク。  彼女は、エーザイの「レカネマブ」につらなる、脳内のタンパク質アミロイドβを標的とした創薬に挑んだ科学者の一人だった。 「レカネマブ」の承認については、各紙が一面トップで報じ、テレビでも大きく報道しているので、私のコラムでは、創薬の初期に創造力と勇気をもってこの病気に挑んだ幾多の科学者のうちの一人ラエ・リンのことを書いてみたい。その訃報を知らせてくれたのは、カリフォルニア大学サンフランシスコ校薬学部教授のリサ・マッコンローグ。  リサは、かつてエランという製薬会社につとめ、エランは、90年代後半に最初のアミロイドβを標的とした薬「AN1792」を開発、ラエ・リン・バークは、外部からこの開発に参加した研究者で重要な役割を担っていた。  アミロイドβがアルツハイマー病の原因だとするアミロイド・カスケード・セオリーにのった最初の薬である「AN1792」はワクチンとして開発された。すなわちアミロイドβそのものを注射することで、免疫反応を惹起し、体内に抗体をつくって、脳内にたまったアミロイドβを排出するという仕組みだった。その免疫反応を惹起するためのアジュバントをつくる専門家として、ラエ・リン・バークはこのプロジェクトに参加したのだった。  私が、2021年に出した『アルツハイマー征服』という本の取材で、ラエ・リンをおいかけることにしたのは、リサから、ラエ・リン自身が、「AN1792」を開発した直後に若年性アルツハイマー病を発症し、「AN1792」の後継薬「バピネツマブ」の治験に自ら入っていったと聞いたからだった。 エーザイが開発した『レカネマブ』(商品名LEQEMBI)はアミロイドβ抗体薬。アミロイドβを標的とした創薬は、ラエ・リン・バークが90年代後半に開発に参加した「AN1792」がその原点  夫のレジス・ケリーに連絡をとり、2020年2月に、サンフランシスコの施設に入所しているラエ・リン本人を訪ねるつもりでいた。  が、2020年1月から始まったコロナ禍で、渡米そのものが難しくなり、ラエ・リンには会えなかった。が、彼女の科学者そして妻としての生き方を、レジス・ケリーやリサから聞いて、大きな感銘をうけた。本の中では重要な登場人物になっている。  アルツハイマー病を告知されてから、ラエ・リンがもっとも恐れたのは、「科学」から離れなければならないことだった。まだまだ、女性の科学者の活躍の場が限られていた80年代に、大学に残るのではなく、バイオベンチャーにとびこんだラエ・リンは、他の女性科学者のロールモデルにもなっていた。 「今医療ベンチャーにはフロンティアがある」  そう言ってリサに大学で職を得るのではなく産業科学者の道を選ぶよう勧めたのもラエ・リンだった。  しかし、アルツハイマー病が告知されたことに、勤めていた研究所は冷たく、退職を勧奨された。しかも、病気のことも、退職まで誰にも言ってはならないとされた。  退職後、ラエ・リンは、積極的に自分の病気をあかし、スピーチをし、アルツハイマー病の患者の権利のために闘い、映画『アリスのままで』のモデルの一人にもなった。  そしてエランが開発した初期のアルツハイマー病抗体薬「バピネツマブ」の治験に自ら入っていく。が、2000年代に行われたこの薬の臨床試験は、時代によって厳しい制約をうけていた。当時は正体がわからなかった副作用「ARIA」を恐れて、最高投与量はわずか体重1キログラムあたり1ミリグラムだった。  脳内の浮腫が原因で、脳画像上に異常があらわれるこの副作用は多くの場合、投薬をやめれば、自然に治っていくものでコントロール可能とされたのは、2010年代のことだ。「レカネマブ」の最終治験は、10ミリグラム隔週投与が最適用量とされている。  やがて科学の話ができなくなり、睡眠が乱れ、家中を自分のベッドを探して徘徊するようになると、ラエ・リンは施設に入所した。施設の年間の費用は、12万ドル(約1300万円)。この施設に入るために、夫のレジス・ケリーは家を売却、息子の家の暗い半地下の部屋に住むことになった。  ラエ・リンの話すことは意味不明になっていたが、それでも、科学者であった時常に口にしていた言葉「何か自分が助けられることはないだろうか」は、最後まで残った。 「お別れの会」は、1月8日、サンフランシスコ湾をのぞむ「FIREHOUSE」というかつての消防署を改造したメモリアルホールで行われた。多くの友人や科学者が集まったが、リサは、友人としてこんな弔辞を読んでいる。 「ラエ・リンが開発に参加したアルツハイマー病治療薬のアプローチは、一昨日、FDAが承認した新薬のそもそもの出発点でした。なんとほろ苦い(bittersweet)真実であることでしょう」  夫のレジス・ケリーは私へのメールにこう書いている。 「彼女の言葉が意味をなさなくなっても。自分で食事をとることができなくなっても。最後まで彼女はやさしく、美しかった」  多くの研究者の希望、思いを礎に「アルツハイマー征服」への登頂は続く。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディアに関する作品を発表する一方、2000年代からアルツハイマー病の治療薬の開発について取材を進め、昨年『アルツハイマー征服』として上梓した。 ※週刊朝日  2023年1月27日号
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで 数学者の石井志保子さん 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *    *  *――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
元日本ミドル級王者、人気俳優から覚醒剤で転落した大和武士 料理人で“敗者復活”奮戦中
元日本ミドル級王者、人気俳優から覚醒剤で転落した大和武士 料理人で“敗者復活”奮戦中 ボクシングからは遠ざかっているが、今は空手に取り組んでいるという大和武士さん  プロボクシングの日本ミドル級王者から俳優に転身し、日本アカデミー賞・新人俳優賞受賞、任きょう映画、Vシネマで人気を博し……。多くの栄光と華やかな暮らしが一転、2度の逮捕で転落の人生を歩んだ大和武士さん(57)。表舞台からは姿を消したが、その後はい上がり、現在、「今が一番幸せかも」と思えるようになった。今に至る人生に何があったのか。  小田急線・代々木八幡駅前から原宿方向へ抜ける商店街の途中にある、しゃぶしゃぶ料理屋の「花咲じいさんHACHIMAN」。  記者が訪ねると、濃紺の作務衣を着た大和さんが、厨房(ちゅうぼう)で仕込みの真っ最中だった。オーナー兼料理人。それが今の肩書だ。 「ウチのしゃぶしゃぶは、上質のかつお節と昆布をたっぷり使った特製出汁(だし)に牛肉を潜らせて味わう“出汁しゃぶ”スタイルが特徴です。牛肉のうまみに出汁の風味が加わり、すっごくうまい」  看板メニューの「しゃぶしゃぶセット」は、ご飯と茶わん蒸しが付いてランチタイムが1500円、夜はこれがボリュームアップしてコースで4千円(いずれも税別)。  なぜ、しゃぶしゃぶ店なのか聞くと、 「シャブ(覚醒剤)で捕まったから、しゃぶしゃぶでリベンジしようと思ったんですよ」。  大和さんはそう言ってニヤリ。  もちろんジョークだが、ルーツは義兄が渋谷駅の近くで経営していた創作和食料理店にある。再開発で2018年10月に閉店したが、大和さんは直前の1年間、そこでみっちりと修業し、独立したのだ。  19年の11月4日にオープンした。 「おかげ様でオープン当初は、俺のファンとかボクシング、Vシネマ関係の友達、それに渋谷時代のおなじみさんがよく来てくれました。想定以上でしたよ」  だが20年1月末、新型コロナの感染拡大でいきなり逆風にさらされた。 「営業自粛に始まり、緊急事態宣言とまん防(まん延防止等重点措置)の繰り返し。雇用調整金や(感染拡大防止)協力金で一時的にしのいだものの、この3年近くは散々な状態でした。ようやく昨年10月くらいから少しずつ客数が上向いてきた感じですね」  冗談抜きでなぜしゃぶしゃぶ店なのか。 「修業する前に中目黒でスナック、その前は広尾のラウンジのマスターをやってました。でも深夜営業の店って、アフターとか色んなお誘いが多いじゃないですか。振り返ると、これまで家族と一緒の時間ってあまりなかった。シャブの件で家族や親戚にもたくさん迷惑かけちゃったしさ。それで、日付が変わる前に帰宅できる業態にしたってわけ」 ■特別少年院で読んだ沢木耕太郎の本が人生を変えた  生まれは岡山県北部に位置する鏡野町。中国山地に抱かれ、林業や酪農が盛んな地域だ。 「住むには良い所ですよ。でも物心ついたころからヤンチャ坊主で、中学生で『大和会』っていう暴走族を立ち上げて“頭”(あたま)をしてた俺は浮きまくってた。中学に行かなくなり、家出して向かったのが大阪。餃子店とかでアルバイトしながら、意気がって毎日けんかばかり。で、何度かパクられ、結局、岡山市内の少年院に収容されたんです」  親からも見放されるくらい生活も心もすさんでいた。しかし、院内で読んだ1冊の小説が人生を大きく変えた。 『一瞬の夏』(新潮社)。一度リングを降りた元東洋太平洋ミドル級チャンピオンのカシアス内藤さん(現E&Jカシアス・ボクシングジム会長)が、4年余りのブランクを経て、再び世界王座を目指すさまを描いた沢木耕太郎氏のルポルタージュだ。1982年のベストセラーで、第1回新田次郎文学賞を受賞した名著である。 「カシアスさんと、トレーナーのエディ・タウンゼントさん(故人)の泥臭いけど大きな夢を追う姿がカッコよく思えてさ。大阪時代に見た映画『トラック野郎』の主人公・菅原文太さんに憧れて、俳優になりたいって夢も持ってたから、『まずボクシングでチャンピオンになったら近道じゃないか』って。単純だよね(笑)」  退院後、迷わず上京。世界チャンプを輩出したワタナベボクシングジムの門をたたいた。 “岡山のけんか屋”はすぐに頭角を現し、デビュー後、引き分けを挟んで4連勝。86年の全日本ミドル級新人王に輝いた。そして88年3月、日本ミドル級王座を奪取。翌89年に、赤井英和さん主演の映画「どついたるねん」(阪本順治監督)で念願の俳優デビューを果たした。 1988年3月、日本ミドル級王座獲得(本人提供)  90年には、憧れの菅原文太さんと阪本監督の作品「鉄拳」で共演。91年の日本アカデミー賞新人俳優賞に選ばれた。 憧れの菅原文太さんと共演した映画「鉄拳」(1990年10月公開)で、大和さんはアカデミー賞・新人賞を受賞した 「文太さんとご一緒できるなんて本当に夢みたいでした。ロケ地は高知県大正町(現、四万十町)で、7月中旬から2週間ほどの予定だったんですが、台風が5回も来ちゃったから延びに延びて1カ月くらい泊まり込み。毎晩、宴会でしたよ」  付き人がうらやむほど菅原文太さんと親しくなり、クランクアップ後、所有していた愛車コレクションの中から「アメ車」のシボレー・ブレイザーをプレゼントされた。 「すごくうれしかったんですが、日本車に比べ、ふた回りほど大きいから駐車場代が高い高い。当時、住んでた世田谷区内のアパートは家賃6万円なのに駐車場代が5万円かかった。ボクシングの稼ぎが少ない新人俳優の俺にとっちゃ、毎月の支払いが大変でした(笑)」  ボクシング界から引退したのは92年。その後は、映画「トカレフ」「修羅がゆく」、Vシネマでは「ボディガード牙」「牙直人闘龍伝」の各シリーズに主演するなど、こわもての個性派俳優として引っ張りだこに。一方で飲食店経営にも進出。広尾でラウンジを経営したのもその一つだった。  だが、「てんぐになって周りが見えなくなっていた」(大和さん)。2度の結婚、離婚。そして3度目の結婚から7年後の2008年には、飲食店で酔っ払い、店主を殴るなどして傷害容疑で、13年には覚醒剤取締法違反容疑で逮捕され、家族以外、全てを失った。 「自暴自棄になったこともありました。いくら後悔しても後戻りできないもどかしさ。心底、反省したね」  薬物事犯の怖さは常習性、依存性にある。芸能人や元芸能人で何度も逮捕されているニュースはよく見る。  しかし、大和さんは更生した。彼らとの違いはどこにあるのか? 「家族の支え、でしょうね。それと俺の場合は子どもの存在です。シャブでパクられた時は、今は社会人の長男と高2の長女がまだ小さくてさ。『2人が学校でいじめられたり、将来、不利益を被るんじゃないか?』って思ったら、居ても立ってもいられなくて……」  明るくて人付き合いのいい妻のサポートも見逃せない。 「困ったことや、でかいトラブルが起きても動じない。肝っ玉は俺より大きいんじゃないかな。ほんと頭が上がらないですよ」  と大和さんは照れ笑いした。  昨年9月には、9年ぶりに芸能活動に復帰し、演劇と女子プロレスを融合させたエンターテインメントを目指す「アクトレスガールズ」主催の舞台『カウント2・9』に出演した。  アイドルを目指して上京したものの、所属事務所の都合で女子プロレスラーに路線変更した女の子の物語。大和さんは、ヒロインの父親でシングルファザーの居酒屋店主役だった。 「舞台は初めての経験でした。映画とかVシネと違って、ミスってもやり直しができないじゃないですか。だから30ちょいあるセリフのパートをトチらないように、公演の1週間前から店を閉めて、一生懸命稽古に取り組みました」  ここでも家族が助けてくれた。 「娘が、学校へ行く前と帰宅後の朝晩、セリフ合わせに付き合ってくれたんです。でなきゃ、全部覚えられなかったんじゃないかな」  昼・夜の2回公演。いずれも満席に近く客席が埋まり、大和さんお目当ての観客も少なくなかった。 アクトレスガールズの舞台「カウント2・9」に出演した大和さん。都内新木場・ファーストリングにて、22年9月18日撮影  終演後、アクトレスガールズの坂口敬二代表に感想を聞くと、 「不器用で実直な父親役。思っていた以上に良い芝居をしてくれました」  と言って目を細めた。 「元々、力のある俳優なんですから、『そろそろ復帰してもいいんじゃないか』と思ってオファーを出しました。これをきっかけに、映像作品にも出演できれば、ウチの団体としてもうれしいです」  もう一つ、10月に思わぬ出会いがあった。 「俺、35年ほど前に最初の結婚をして、1年ちょいで離婚してるんです。生後8カ月の娘を残してね。そしたら9月末にいきなり、その子から店に『母とお邪魔してもいいですか?』って電話があって、本当に来てくれたんですよ」  最後に娘に会ったのは5歳のとき。幼かった娘は保育士の道を選び、2児のママになっていた。 「俺のわがままで離婚することになっただけに、来てくれたうれしさと申し訳なさで言葉に詰まってさ。ネットで調べて電話くれたそうだけど、あの時ほど『閉店しないで頑張ってきて良かった』って思ったことはなかった。料理作りながら涙出ちゃったよ」  先日迎えた開店3周年。大和さんは記念イベントとしてランチタイムに500円カレーを提供していた。 「人生は失敗しても本人次第でやり直しがききます。生きてたら、良い時も悪い時もあるもんです。どんな時でも諦めない。お客さん、周囲の人たち、家族に感謝する。気がつくのが遅かったかもしれないけど、もしかしたら今が一番幸せかもね」  大和さんの“敗者復活戦”。今日も愛する家族のため厨房に立つ。 すっかり板についた包丁さばき。調理中の大和さん (高鍬真之)
ドキュメンタリー映画の舞台裏と未来 監督・大島新×東海テレビ・阿武野勝彦
ドキュメンタリー映画の舞台裏と未来 監督・大島新×東海テレビ・阿武野勝彦 東海テレビ ゼネラル・プロデューサー 阿武野勝彦(左)とドキュメンタリー映画監督 大島新(撮影・横関一浩)  大作が話題の映画界で、ドキュメンタリー映画も続々と佳作が生まれている。「香川1区」の大島新監督と、「チョコレートな人々」が公開中の東海テレビ・阿武野勝彦プロデューサーにドキュメンタリー映画の今と未来を語り合ってもらった。 *  *  * ──阿武野さんと大島さん、おふたりの手掛けられてきた作品に共通するもののひとつが、取材者の存在を明らかにしているところです。 大島(以下、大):私はよく「出たがり」と言われるんですが、実際に声や姿が映りこんでいるかはともかく、取材者の存在は画に投影されるものだと思っています。その点でいえば、阿武野さんが新たに手掛けられた「チョコレートな人々」もそう。この映画、2回観たんですが、2度目にずいぶん印象が変わりました。 阿武野(以下、阿):ほぉう。 大:破格の善良さというか。映っている人たちはもちろん、カメラの後ろにいる人の心の綺麗(きれい)さに圧倒されたんですね。 阿:そうですか。たしかにドキュメンタリーは人の裏をのぞきみる意地のわるい視線も必要とされる。けれども「チョコレートな人々」の鈴木祐司監督は、僕が言うのもなんですが、あきれるほど裏も表もない人なんです。 大:それは観ていて伝わってきました。こういう時代だからこそ、心が澄んだものを観たい。ただ、もしかしたらそこが弱点になるかもしれないと思ったんです。 阿:なるほど。 大:私なりに東海テレビの映画を「サイドA」「サイドB」と分類させてもらうと、「ヤクザと憲法」(2015年)のように、他がまったくやろうとしない(組事務所に長期間密着するなど)強烈な問題作に、作り手として刺激を受けてきました。  それとは別の方向性にあるものとして、「人生フルーツ」(16年)という結果も含めて桁違いの作品がある。プロデューサーとしての阿武野さんは異なる種類のものをやられてきているわけですけど、意識されていることはあるのですか? 「チョコレートな人々」(鈴木祐司監督(c)東海テレビ放送) なぜ、チョコレートなのか? 障がいをもつスタッフと経営者が菓子生産に取り組んだ20年近い歩み。現実と格闘しながら、ひとりを見捨てない久遠(くおん)チョコレート創業者・夏目さんのまなざし。ポレポレ東中野(東京)、名古屋シネマテークほかで公開中。 「チョコレートな人々」(鈴木祐司監督(c)東海テレビ放送) 阿:私の意識では関わり方は全く変わりません。 ──大島が指摘する東海テレビドキュメンタリーに併存する2種類の傾向はいわば「静」と「動」。「人生フルーツ」は「静」にあたる。90歳の建築家と妻の穏やかな日常を描いたドキュメンタリーで、ミニシアター上映ながらロングランを重ね観客動員27万人を記録した。阿武野は言う。ディレクターの個性を尊重しながらもプロデューサーとしての基本姿勢は同じ、と。 大:なるほど。阿武野さんが書かれた『さよならテレビ』を読み返して気づいたことがありまして。ナレーターの起用を大事にされている。それも宮本信子さん、樹木希林さんなど大物。それが作品に合致している。しかし、土方宏史監督作品(「ヤクザと憲法」「さよならテレビ」など)だけ、ナレーターがいない。 阿:そうなんです。これはディレクターの向き不向きもあって。土方は文章を書くのが不得意なぶん、取材と構成がしっかりしている。映像表現として、どうしてもナレーションがないといけないものでもないので、彼の好きなようにさせているんですね。 大:僕は土方さんのことは「撮り屋」だと思ったんです。なんでこんなものが撮れてるの?という画がある。「ホームレス理事長」(13年)を観たときにそう感じました。 阿:取材対象の理事長が借金を申し込むためにディレクターの土方に土下座をする。10分くらいのシーン、あれは衝撃でしたね。不思議なんですけど、取材対象を四苦八苦、漂流するように追い続けていると、フッとそういうことが撮れてしまう。僕は、ドキュメンタリーには神様がいる。そう思っているんですが。 ■時間かけて撮る「ええっ!」という画 大:ありますね。 阿:僕のいる東海テレビはニュースとドキュメンタリーが同じフロアにあって「なんでこういう画が撮れていないんだ!」というやりとりが聞こえてくる。そういう感じは、大島さんがプロデューサーをされるときにディレクターとの関係ではあるんですか? 「チョコレートな人々」(鈴木祐司監督(c)東海テレビ放送) 大:ない、ですね。 阿:なぜ? 大:うーん。しょうがないよね、という感じですかね。 阿:アハハハハ。 大:40代の前半、まだプロデューサーになった初めの頃はあったかも。それはニュースとドキュメンタリーの違いもあるのかもしれないですね。ニュースだと、どうしても一言が欲しい。新聞のインタビューを受ける機会に、記者が自分で「それはこういうことですか?」としゃべる。僕はうなずいて聞いているだけなんだけど、記事では僕が話したように文字になっているんですね。 阿:どうしても合理的に取材をこなそうとすると、事前に頭の中で仮の原稿を作り、型にはめ込もうとしがちになる。私もディレクターをやっていたときに覚えがあり、反省もあって、いまは「ムダ打ちはいくらやってもいい」と言っている。時間をかけることで、ええっ!!という画が撮れる。 大:ありますね。 阿:だけど大島さんの本を読んでちょっと反省しました。そういうムダ打ちは取材対象にしてみたら(撮られ続けるのは)こんな迷惑なことはない。 大:いや、私も被写体にカメラを向ける時間を減らす傾向にあるぶん、コミュニケーションの時間は多めに頂いてるので。 阿:それはわかります。僕らは2011年に映画の世界に入っていったんですが、当時映画の人たちによく言われたのが「テレビの人はいいよなあ」。とくにヘリコプターの空撮場面は苦虫をかんだようにされて。だけど、テレビは金にモノを言わすみたいな批判に終始していたら、ドキュメンタリー映画は広がらないよと反論し、早くテレビと映画が融合していくことが起きればいいなと思ってきたんですね。 大:ポレポレ東中野で東海テレビの第1作「平成ジレンマ」(10年、戸塚ヨットスクール事件後の教育現場を追ったドキュメンタリー)を観たとき、今後これが続けば、広がりができると思いました。 ■地方勇気づけた東海テレビ映画 阿:そもそも僕らが映画へ入っていったのは、地方のテレビ局で1年かけて作ったものが東海3県で1回ないし2回の放送で終わってしまう。それが悔しくて。これを全国の人に観てもらいたいという表現欲と、わずか300人の組織ならではの利点を上手に生かそうというのもあった。 「香川1区」(大島新監督、(c)ネツゲン、22年)「なぜ君は総理大臣になれないのか」(20年)の続編 大:どれだけ東海テレビの活躍が地方のテレビマンを勇気づけたことか。このあいだ中四国ブロックのテレビ制作者フォーラムに審査員で行ってきたんですが、若い人たちが「いつか東海テレビのように」というのを意識しているんですね。「チョコレートな人々」にしても、20年くらい前からのテレビ取材の素材がある。そこに地方局ならではの力を感じますね。 阿:そう言っていただけるとうれしいですね。 大:これはポレポレ東中野支配人の大槻(貴宏)さんが話されていたんですが、ドキュメンタリーというと原(一男)さん(「ゆきゆきて、神軍」「水俣曼荼羅」など)と森(達也)さん(「A」「FAKE」など)のイメージが大きくて、あそこまで強烈な個性がないといけないのではないかと思わせる壁があった。だから大島さんのようにリーズナブルにやる人がいたほうがいいんだと。褒められているんだか何だかわからないですが(笑)。 阿:大島さんが、これは映画にしようと思うのはどういう? 大:一つは、テレビでは企画が通らないから映画にするという現実的な問題があります。たとえば「なぜ君は総理大臣になれないのか」(20年)は、ひとりの政治家にスポットをあてた長尺のドキュメンタリーで、テレビではありえない。 阿:ヒットする予感は? 大:まったくないです。びっくりしました。 阿:やっぱり、これはいくぞと思うとかえってダメなんですかね(笑)。 大:いま思っていらっしゃる? 阿:ハハハ。とにかく「チョコレート」はたくさんの人に観てほしいんです。 大:それは同感! ──柔軟に見える阿武野だが、頑固でもあるのが作品は劇場で観てほしいという姿勢。一切DVD化もネット配信もしていない。 阿:それは不文律にしてきているんですが、大島さんはそこはバッと出されるんですよね。 大:そうですね。 阿:そうすると映画館で観るのをやめて、配信を待とうという人も出てくると思うんですが。 大:それは、しょうがないかなぁ。もちろん劇場で観てほしいんですけど。ヒットしたといっても「なぜ君」はコロナもあって3万7千人くらい。いっぽう配信では10万人を超えた感触があった。 『さよならテレビ』阿武野勝彦(平凡社新書)東海テレビのドキュメンタリー作品が5倍面白くなる 阿:僕は、よく「なんで配信に出さないの?」と言われるんですけど、カッコつけて言うと、みんなと同じは嫌だよ。ときには立ち止まることによって、別の価値が生まれるかもしれない。 大:わかります。 阿:振り返ってみると、ミニシアターの人たちが僕たちの映画を育ててくれたんだから、劇場でないと観られないのだというのを守ろう。それに新作がかかると「東海テレビドキュメンタリー劇場」と銘打って過去作の特集上映をやってくれる。これはありがたい。 大:それは素晴らしい。いま会社の中で、阿武野さんの班はどういう扱いになっているんですか? 自局の中にカメラを向けた「さよならテレビ」(19年)以降、局内でハレーションがあるのかなあと思ったんですが。 阿:むしろ、東海テレビに500人ぐらい就職希望の学生がいたとすると、半分くらいが志望動機に「さよならテレビ」を作った局だからという。それによって社内での評価が逆転したんですよね。 大:それはすごいなあ。 阿:「さよならテレビ」を作ったときは局のイメージを毀損(きそん)しただのさんざん言われたのに(笑)。 ■バカと言われる真っ正直な監督 ──阿武野さんはこれまで常にメディア取材の前面に立たれていたのが、今回の「チョコレートな人々」では極力減らされているそうですね。 阿:樹木希林さんが晩年言っておられたのが「時が来たら誇りをもって脇にどきなさい」。65歳で東海テレビは2度目の卒業になりますので、僕もあと1年ちょっと。それと、くしくも大島さんが最初に言ってくださったように、まず鈴木監督のこのピュアさを受けとめてもらえたらというのと。  先週、大阪に鈴木監督とふたりで行ったんですが、僕は「この映画は、じつは働かせ方改革の話なんです」とメディア対応しながら監督の様子を見ていた。すると帰りのタクシーで鈴木監督が「ぼくは、あまり障がい者のことは言わないほうがいいんでしょうか?」と言うから、「どのように書かれるかは考えなくてもいい。あなたが表現したいこと、作品にかける思いをきちんとしゃべればいいんだよ」って言ったんです。 『ドキュメンタリーの舞台裏』大島新(文藝春秋)ピリッと個性が光る「大島印」。ドキュメンタリーは被写体ありき。「聞く」だけの映像なら作り手を意識することはないが、「大島は出たがり」と言われながらも心掛けてきたのは被写体との「会話」だという。失敗の中から学んだ大島流ドキュメンタリーの極意。 大:結局プラスとマイナスは裏表なんですね。最初、若干物足りないと思った。それは監督の善良さというのか。でも2回目、これは長所でもある。この善良さが持ち味なんだと思い直しました。 阿:鈴木祐司という人は東海テレビの中でもいちばん真っ正直な監督なんです。彼はいつも「中にどれだけ資料が入っているの!?」というくらい大きなバッグをパンパンにして動いているんですね。 大:ディレクターの鑑ですね。宣伝資料に、被写体の人から「バカ」と言われるという。それってある意味、勲章ですね。 阿:まったく気取りがない。ノーガードなんです。 大:そうじゃないと撮れないものがありますよね。 ──最後に、おふたりにドキュメンタリーの可能性について何か。 阿:僕は、お金や数字にからめとられずにたくさんの人に観てもらう方法を模索しながら、地域のことを一生懸命に掘っていく。そのことが世界に通じる作品を生む可能性がある。そう示していけたらとやっています。 大:私は、ドキュメンタリーは、映画を観る前と後でちょっとした景色が変わる。それを今後も意識してやっていきたいですね。(構成/朝山実)※週刊朝日  2023年1月20日号

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