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「さらば青春の光」個人事務所で前代未聞の“ぼろ儲け”の真相
「さらば青春の光」個人事務所で前代未聞の“ぼろ儲け”の真相 「さらば青春の光」の森田哲矢(左)と東ブクロ  最近、お笑いコンビ・さらば青春の光の勢いがすごい。各局のバラエティー番組に引っ張りだこで、11月からはテレビ東京系でMCを務める番組も始まった。22日放送予定の関西ローカルのバラエティー特番の収録で森田哲矢(41)は「ひと言でいえば儲かりました」と述べ、個人事務所「ザ・森東」の業績は順調だと語っている。  2008年に森田と東ブクロ(37)が結成したさらば青春の光は、2013年に所属していた松竹芸能を退社。フリー芸人として東京進出し、その後自ら事務所を興した。キングオブコントをはじめとする賞レースで結果を残しつつ、気づけばテレビでも引く手あまたの存在に。最近でも『あちこちオードリー』(テレビ東京、11月2日放送)に出演した際、「こんだけ働いても(年収が)億いかないってなると、メンタルは削られます」と発言し、話題になった。この発言の真意について、民放バラエティー番組のプロデューサーはこう明かす。 「この年収発言は業界内でも話題になりましたが、要は『ちゃんとした事務所なら億越えするほどの出演本数なのに、まだ働かないといけないのか』という思いなのでしょう。彼らの個人事務所のギャラ配分は、マネージャーと3等分というのは有名な話。しかも小さい個人事務所ですから足元を見られやすく、ギャラ交渉もできない。森田さんいわく、『テレビでギャラ交渉をしても3万が5万に上がるだけ。だったらすべて言い値でやって、テレビ露出を増やしたい』という戦略を取っているそうです、今のテレビ業界はお金がないですから、安くてうまい森田さんにオファーが殺到するのは当然といえば当然。彼らの場合、YouTubeが好調なので、テレビで知名度を上げてYouTubeや単独ライブの動員の集客につなげる考えなんです」  現在、YouTubeは6チャンネルも運営。メインチャンネルは登録者数85万人を突破し、彼らの主戦場としてしっかり機能している。 「6チャンネルをあわせると150万人ほどの登録者数になりますから、YouTubeだけでおそらく年間5000万円前後の売り上げになる計算です。相当成功している部類でしょう。彼らのチャンネルの魅力は『地上波では絶対にできない』ことを全力でやっているということ。『屁をこける女性をTwitterで募集 屁こきダービー』『東ブクロの私生活をGPSでガチ追跡』『GPS追跡風俗』など、テレビの企画会議には危なくてあげられないようなものばかり。当然リスクはありますが、YouTubeなので炎上覚悟でやれますし、個人事務所なのでスレスレの企画もノリで通してしまう。YouTubeとはいえ、大手芸能事務所所属ならばここまで下品なものはOKが出ない。なので、他の芸人は羨望(せんぼう)のまなざしで彼らを見ていて、コンプライアンスという重荷に苦しんでいる若いディレクターもまた憧れてしまう。予算も削られ、自由度も低くなり、『面白くなくなった』と言われて久しいテレビのカウンターとして、彼らの芸風が求められているのだと思います」  とはいえ、「本人たちは現状には満足してないはずだ」と言うのは、バラエティー番組を多く手掛ける放送作家だ。 「YouTubeでは過激なことをやればやるほどバズりますが、彼らはあくまでも“昔の深夜番組”くらいのレベルにとどめており、そのバランス感覚はお見事です。それがここまで人気コンテンツになるのだから、テレビ離れの恩恵を最も受けているのは、このコンビかもしれません。とはいえ、彼らはコントで世に出てきた芸人。『キングオブコント』では6回も決勝に進出しています。無冠のまま2018年に自ら卒業しましたが、やはり忸怩たる思いはあるでしょう。しかし、賞レースを自ら卒業したことでテレビ露出が増えたとも言える。今後、彼らのコントが単独ライブでしか見られない状況になれば、当然ライブの動員は増えるはずです。そのラインを狙っているのかもしれません」 ■東ブクロの次なる醜聞対策もバッチリ!?  そんな彼らにも“弱点”はある。東ブクロは2013年に先輩芸人の妻との不倫スキャンダルを起こし、昨年も週刊誌で複数の元彼女に対し、中絶をさせていたと報じられた。 「最大のネックは、東ブクロさんがいつスキャンダルを起こしてもおかしくないこと。自ら女性好きを公言し、下半身にだらしないことをネタにしていますが、昨年の中絶スキャンダルでは収録したバラエティー番組がお蔵入りになるなど、実害も出ています。今春からようやくコンビでのテレビ出演がかないましたが、各局はかなり警戒しています。今、地上波のバラエティーに出るとき、森田さんは『スキャンダルがいつあっても編集しやすいように』と東ブクロを一番端に座らせるようお願いしているといいます。戦略家の森田さんだからこそ、リスクの高い相方自体を武器にしている面がありますが、次に大きなスキャンダルが出たときどうなるかは心配ですね」(前出の放送作家)  お笑い評論家のラリー遠田氏はこう述べる。 「さらば青春の光は、もともとネタに定評があり『キングオブコント』では前人未到の6回の決勝進出という記録を持っています。ネタ作りを得意としているだけでなく、トーク力や演技力、企画力にも秀でていて、YouTubeでも笑える企画を量産しています。彼らは何よりもまず“面白さ”という一点で突出しているからこそ、芸人や業界関係者、お笑いファンから一目置かれているのです。さらに言えば、大手事務所からの独立騒動、東ブクロさんの女性スキャンダルなどの逆風があっても、それを逆手に取って開き直ることで、独特のポジションを確立することにも成功しました。東ブクロさんだけでなく、森田さんも女性好き、風俗好き、ゴシップ好きのゲスいキャラクターをあえて前面に出すことで、そういう路線の仕事を総取りしています。転んでもただでは起きない“雑草魂”を持っていることが彼らの強みでしょう」  スキャンダルという“爆弾”を抱えながらも、徹底的に面白い笑いを追求していこうとする姿勢が、多くの人に支持されているのかもしれない。(藤原三星)
ヒロミ「スッキリ」後継MC報道 復帰9年目で大出世できた理由
ヒロミ「スッキリ」後継MC報道 復帰9年目で大出世できた理由 ヒロミ  朝の情報番組「スッキリ」(日本テレビ系)が来年3月をもって終了することが決定しているが、後継番組のMCにタレントのヒロミ(57)の名前が浮上している。「NEWSポストセブン」(11月30日配信)は、MCとしてすでに内定しているとの業界関係者の話を紹介。さまざまな番組での実績に加え、最近は主婦層にも人気があるため適任で、来年4月以降のスケジュールがすでに押さえられているというのだ。  ヒロミといえば1980年代後半にお笑いトリオ「B21スペシャル」のリーダーとして人気を博し、1990年代から2000年代にかけて毒舌キャラで大活躍。しかし、その後10年間はテレビから離れていた時期があった。14年頃からテレビ復帰したが、その際に出演した「しくじり先生 俺みたいになるな!!」(テレビ朝日系)で、テレビから姿を消した経緯を告白していた。  絶頂期に週10本のレギュラーを抱え、天狗状態だったというヒロミ。さらに、後輩タレントやスタッフにふざけて「腹パンチ」をするなど、自覚のないパワハラを繰り返していたという。そうした悪態に視聴者からも批判が集まるようになり、レギュラー番組の全てを失うことに。一方、その後は心機一転してトレーニングジムの経営に専念し、経営者として過ごす中、優しさやいたわりの心を持つようになったという。 「50歳をすぎてから、ここまで人気を維持しているのは休業を経て丸くなったからというだけではないでしょう。復帰後に引っ張りだこになった要因のひとつは、趣味であるDIY系の企画で高い技術をみせているから。最近でも『有吉ゼミ』の企画で、広さ2000坪の敷地を開拓しキャンプ場の設営に取り組むほどの腕前です。10月には、自らも作業を手伝いながら2~3カ月かけて別荘の倉庫をリフォームしたことを自身のYouTubeチャンネルで報告。金づちを片手に手慣れた様子で大工さんとともに床や天井を作っていました。今の若い視聴者には、過去の生意気なイメージよりも、頼れるオジサンという印象が強いでしょう。言葉遣いはあまり変わっていませんが、キャリアや年齢的にも呼び捨てやタメ口に違和感がなくなったところも大きいでしょうね」(テレビ情報誌の編集者)  情報バラエティーやワイドショーでは庶民目線で常識ある大人のコメントをすることも多く、中高年女性の取り込みにも成功しているようだ。「ヒロミは芸能界いち、コミュ力が高い」と言うのは民放バラエティー制作スタッフだ。 「若手の頃からビートたけしや所ジョージなどの先輩あしらいの巧みさが抜群でしたが、芸能界での交友の広さは随一です。家族ぐるみで付き合っているという藤井フミヤや木梨憲武は有名ですが、浜田雅功や内村光良ともゴルフ仲間です。さらに、森繁久彌らが立ち上げた芸能人・文化人の射撃愛好会の3代目の会長をしたり、高橋みなみやフワちゃん、アンジャッシュ児嶋一哉など八王子出身の芸能人で構成される『八王子会』の代表も務めています。元SMAPの中居正広をはじめジャニーズの面々もヒロミを慕っている人は多く、先日退所した滝沢秀明との仲の良さはよく知られています。これだけ顔が広いのに、今まで情報バラエティーのMCをしていないほうが不思議です。今のテレビ界で、彼以上の適任者はいないでしょう」 ■伊代の親衛隊にも認められている  一方、先日テレビの収録で負傷してニュースになった妻・松本伊代(57)の存在も大きい。アラ還となった松本だが、天然キャラは健在で、今も“永遠のアイドル”としてバラエティー番組に出続けている。「そんな松本とのおしどり夫婦ぶりが、さらに好感を呼んでいる」と言うのは前出のテレビ情報誌の編集者だ。 「夫婦仲の良さは有名ですが、最近もヒロミが松本に対して『生きてりゃいいよ』という気持ちでいるとインタビューで明かしていました。また、芸能活動から離れていた時期も相当助けられたと語っています。一方、松本も仕事で失敗したときなどは『ママはそのままでいいから大丈夫』と受け止めてくれると、ヒロミについて話しています。何を言っても味方でいてくれる大きな存在だそうです。また、2020年にヒロミが自身のYouTubeチャンネルで松本の髪を切る動画を公開したのですが、再生回数は500万回を超え『いつまでもすてきなご夫婦』など、多くの称賛コメントが寄せられていました。ラブラブな熟年夫婦ぶりに癒やされる人も多いのだと思います」  芸能評論家の三杉武氏はヒロミの好感度の高さをこう分析する。 「近年のヒロミさんの人気の背景として、やはり奥さんの松本伊代さんの存在は無視できないでしょう。おしどり夫婦ぶりは広く知られていますが、伊代さんが先日行ったデビュー40周年ライブにヒロミさんが祝福に駆けつけた際、10代の頃から伊代さんを応援している親衛隊の人たちからも大歓迎を受けていました。結婚後もずっと変わらず、妻の伊代さんを大切にしていることが、彼女のファンからも認められている。こうした根っからの愛妻家ぶりが、昨今のテレビ業界を支えている女性視聴者層の人気につながっているのでしょう。売り出し中の若い頃はヤンチャなイメージや押し出しの強さが悪目立ちしたり、後輩芸人たちに対する面倒見の良さが裏目に出てスパルタ的な指導が過ぎることもあったようですが、年齢を重ねて、今では成熟した魅力を醸し出しています」  本当に“朝の顔”となれば、どんなMCをしてくれるのか。今から楽しみだ。(丸山ひろし)
そんな親からは離れていい…江戸で暮らす“訳ありのふたり”の物語
そんな親からは離れていい…江戸で暮らす“訳ありのふたり”の物語  文芸評論家・大矢博子さんが評する『今週の一冊』。今回は『吉原と外』(中島要、祥伝社 1760円・税込み)です。 *  *  *  中島要のデビュー2作目、2011年の『ひやかし』は出色の出来だった。吉原の遊女を描いた短編集で、泥の中で咲く蓮の花のような遊女たちの誇りと、けれどそれを決してきれいごとにはしない造形が圧巻だったのに加え、流れるような台詞使いに一気に魅せられたものだ。  以降、さまざまなジャンルの時代小説を手がけてその引き出しの多さを見せつけてきた中島が、久しぶりに遊女ものを手がけたと聞いては放っておけない。  ただし今回の舞台は吉原ではない。18歳の若さで身請けされた元花魁(おいらん)・美晴と、彼女の妾宅で働く23歳のお照の物語である。  呉服屋の主人・砧屋喜三郎が吉原の花魁・美晴を身請けした。喜三郎は婿養子で妻のお涼に頭が上がらないため、通い番頭の卯平と相談し、吉原に通い詰めるよりは安いからと、妻には内緒で美晴を囲うことにしたのだ。  そして卯平は義理の娘であるお照に、美晴の世話をするよう命じる。だがそれは表向き。実際は美晴が他の男を連れ込んだらすぐに知らせろという、いわば監視係として送り込まれたのだった。  23歳にして独り者のお照は、吉原あがりの美晴がどうしても好きになれない。しかしともに暮らすうちに、いつの間にかふたりの間には絆が生まれ……。  全6話が連作の形で収録されており、各編にちょっとしたミステリの趣向があるのが楽しい。  第1話ではお照が前の奉公先で体験したゴタゴタを、美晴がある策を弄して解決する。第2話では板塀の修理に来た大工が美晴に執着して悶着が起きるが、その陰にあった事実を美晴が見抜く。  各話の顛末は実に爽快で、人情ものとしてとてもレベルが高い。そうして美晴の意外な一面を知ったお照が次第に彼女を見直すようになるのだが、各話で綴られる事件がいずれも家族の物語であることがポイント。  事件だけではない。お照が母親とも義理の父親ともうまくいっていないことが繰り返し綴られる。親に捨てられて吉原で育った美晴の過去も語られる。途中から登場する小間物屋の手代の野乃吉は、親の期待に沿えない自分を責め、成長を待ってくれない親を嘆く。物語を通じて浮かび上がるのは、親が我が子を自分の思い通りに動かそうとし、それに逆らうすべを持たない、あるいは逆らおうとして懸命に足掻く子の姿だ。  近年「毒親」「親ガチャ」という言葉をよく目にする。大半の親は我が子を愛しんでいると思いたいが、悲しいことにそうではない親も時には存在する。本書は、不運にもそんな親のもとに生まれてしまった者たちが、そんな親からは離れていい、自分の足で立てばいい、血より心でつながる相手と家族になればいいと、そう思えるようになるまでの物語なのだ。  それがはっきりとわかるのが、最終話で明かされる衝撃の事実である。そうだったのか、これが描きたかったのかとため息が出た。  また、美晴とお照の対比も実に効果的だ。吉原(なか)しか知らない美晴と外しか知らないお照。男に慣れた美晴と、男を知らないお照。戦略的に使われる美晴のありんす言葉と、腹の中を隠せないお照の江戸言葉。幼い頃に親に捨てられた美晴と、親がいることで辛い思いをするお照。何もかも捨てたように見える美晴と、親の愛をあきらめきれないお照。対照的なふたりを配することで問題に違う視点から光が当たる。  もちろん著者お得意の江戸の粋が詰まった台詞回しも健在。重いテーマを孕みながらも、市井小説ならではの生きの良さと温かみが全編に満ちている。江戸の女子バディものの佳作だ。※週刊朝日  2022年12月9日号
東大卒・元官僚、競馬で自己破産 酒、ギャンブル…「中高年の依存症」
東大卒・元官僚、競馬で自己破産 酒、ギャンブル…「中高年の依存症」 写真はイメージ(Getty Images)  お酒、競馬、ゲーム……軽い気晴らしで始めたら、いつの間にか止まらなくなっていた──そんな経験はないだろうか。依存症への入り口は身近な暮らしにもあふれている。人はなぜ依存症になってしまうのか、そのメカニズムや対処法を調べた。 *  *  *  アルコール摂取を巡り、悲惨な事件が起きてしまった。11月12日、横浜市内の自宅前の路上で、同居する息子(50)の頭をバールで殴り殺害したとして、無職の父親(78)が逮捕されたのだ。  報道によれば、父親は日ごろから酒を飲んで暴言を吐いたり、壁を殴ったりする息子に対し、「このままでは、私たち夫婦の命が危ないと思った」と供述。親子げんかの末、凶器に手を伸ばしてしまったのだという。  80代の親が50代になっても引きこもる子どもの面倒を見る「8050問題」を想起させるこの事件。もう一つの要素は「酒」だ。父親は調べに対し「息子の飲酒に長年、悩まされていた」と話しているという。このように、時に、人生を破壊してしまうのが酒の怖さだ。  厚生労働省が2021年にまとめた統計によると、現在、アルコール依存症の患者は26万人。依存症が疑われる人は18年時点で約303万人にのぼる。中高年は特に注意が必要なようだ。厚労省の「国民健康・栄養調査」(2019年)によると、生活習慣病のリスクを高める量を飲酒している者の割合は、男性では20代が6.4%、30代が13.0%と年齢を重ねるにしたがい上がっていき、40~60代は軒並み20%前後とずっと高い状態が続く。女性も20代の5.3%から次第に上がっていき、ピークの50代では16.8%となっていた。  アルコールに限らず、依存症にはさまざまなかたちがある。大きく分けて物質依存症と行為依存症の二つがあり、前者はアルコール、カフェイン、違法薬物、鎮静薬、睡眠薬などへの依存。後者はギャンブルやゲーム、買い物、食事などへの依存があげられる。  なぜ依存症に陥ってしまうのか。キーになるのは、神経伝達物質のドーパミンだ。脳の「報酬系」と呼ばれる神経回路で分泌され、快感や多幸感をもたらすことから“幸せホルモン”と呼ばれることもある。依存症などの治療に力を入れるライフサポートクリニックの山下悠毅院長がこう語る。 「快楽をもたらすドーパミンを簡単に出す方法が、依存物質と言われるアルコールやニコチンなどを摂取することなんです。その瞬間は快楽を感じられますが、ドーパミンは同じ刺激に対しては耐性がつき、次第に出づらくなってくる。このため、より多くの刺激を得ようと、酒やたばこの摂取量が増えていくのです」  もっと、もっと──快楽への欲求がエスカレートしていく。さくらの木クリニック秋葉原の倉持穣院長はこうした状態を「ブレーキの壊れた車」と例える。 「初めは体に害のない少量の飲酒習慣でも、次第にアルコール摂取への渇望は強まっていきます。やがて意志の力を渇望が上回るようになり、ひとたび飲みだすと止まらなくなるといったアルコール依存症の症状が出てくる。アリ地獄の穴にアリが落ちていくようなイメージで、ひとたび転落が始まると、抜け出すことは困難です」  アルコール依存症には、「離脱症状」も大きくかかわっているという。飲酒から時間が経つと、次第に体内に残ったアルコール量は減っていく。この時に表れるのが離脱症状で、イライラして怒りっぽくなったり、眠れなくなったりと、強烈な不快感を味わう。  このような状態の時に困難や苦痛に直面すると、助けを求めてまたアルコール摂取に走ってしまう。大量のアルコール摂取は肝臓を痛め、肝炎や肝硬変、膵炎などの病気につながることは言うまでもないが、それでも、目の前の困難から逃れるため、酒を手放せない。まさに、「わかっちゃいるけど、やめられない」状態だ。  ここまで、アルコール依存症の話を中心にしてきたが、前述した「行為依存症」に苦しむ人も世の中にはたくさんいる。 写真はイメージ(Getty Images) 例えば、ギャンブル依存症。競馬やパチンコ、カジノなどにのめり込み、興奮を求めて次第に賭け金が増えていく。やがて、勝負を途中でやめようとしてもうまくいかなくなり、ギャンブルをしていないと落ち着かなくなる。負けたお金をさらなるギャンブルで取り返そうとし、自身のギャンブルに関して周囲に嘘をついたり、借金をしたりする──こういった症状が連鎖的に表れてくるのが典型的な特徴だという。  ある精神科医は、ストレスへの対処がうまくない人、ギャンブルが身近にある環境にいる人などは、リスク因子が高いと指摘する。また、リタイアして時間を持て余す中高年層は特に要注意だという。コロナ禍で人と接する機会が減り、孤独を感じる時間が増えた状況も、依存症への陥りやすさを高めている。  ある中央官庁にキャリア官僚として勤めていた50代前半の中野タダシさん(仮名)は、競馬で人生が暗転した。東京大学法学部卒。結婚し子宝にも恵まれ、いわゆるエリート街道を走ってきた。ある時、友人に競馬を見に行かないかと誘われ、よく知らないまま2万円ほど賭けたところ、大穴を当てて70万円を手にした。  いわゆるビギナーズラックだったわけだが、タダシさんはそれ以降、競馬にはまってしまった。負けが続いても、最終的には勝てるという根拠のない確信があった。負けた時のことはよく覚えていないのに、勝った時のことはよく覚えていた。毎週10万円単位で馬券に投じるようになり、占いで「ラッキーナンバー」と言われた数字から買う馬券を選ぶなど、「神頼み」的な行動で運をコントロールできると信じるようになってしまった。  数年後、競馬の損失によって抱えた借金は約500万円に膨らみ、妻とは離婚。自己破産して、中央官庁も辞めざるを得なくなってしまった。運送会社に転職したが、競馬の借金を返済するために客が支払った代引き料金を懐に入れたことが露見。刑事事件にこそならなかったものの会社はクビになり、現在は引っ越しのアルバイトで生計を立てている。競馬は今も、続けている。  前出の山下院長は、「ビギナーズラックは、ギャンブル依存症のきっかけになりやすい」と言い、こう解説する。 「競馬の借金を返すためと、サラ金などでお金を借りてまで馬券を買う人がいますが、ギャンブルで『取り返すために』と思ってやっている時点で病気です。なぜならギャンブル依存症の方は、『取り返せないかも』『負けたら終わる』という興奮も求めてやっているからです」  山下院長によると、ギャンブル依存症も、アルコールと同じくドーパミンが関連しているという。  競馬で自分が賭けた馬がゴールする瞬間以上に、なけなしのお金を賭ける行為でドーパミンが分泌されて高揚感を感じ、次も馬券を買いたくなる。しかし、耐性によってドーパミンが出づらくなるため、より賭けてはいけないお金を投じるようになっていく──ビギナーズラックによる「成功体験」が、身を持ち崩すまで続くギャンブル地獄の引き金になってしまうのである。パチンコやパチスロの場合も同じだが、これらは画像や音響を使った演出で、負けていても勝っているかのような錯覚を起こさせ、脳内の報酬系をより活発にするというから厄介だ。  行為依存症の中には、万引きや盗撮などといった犯罪行為に依存してしまうパターンもある。山下院長が診てきた患者の中には、普段は温厚な産婦人科医なのにもかかわらず、盗撮の常習犯だった男性もいるという。 「この男性の場合、女性の裸を見ることへの欲求ではなく、『撮ってはいけないものを撮りたい』という『行為』に依存していた。盗撮や痴漢などの犯罪行為に依存してしまうのは、そうした『チャレンジ』によってドーパミンが分泌されていると考えられます」  依存症になるメカニズムはだいぶわかってきたが、それでは、依存症になりやすい性格の傾向などはあるのだろうか。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長で、薬物依存症センターの松本俊彦センター長はこう語る。 週刊朝日 2022年12月9日号より 「人から評価されたり、比べられたりすることに対するプレッシャーにさらされやすい人は依存症になりやすいと考えられます。あとはやはり、普段から強いストレスのかかる仕事をしている人は要注意です。ベトナム戦争の帰還兵の中でヘロイン依存症になるケースが多かったように、過酷でつらい状況にいる人は、依存に走りやすくなる傾向があります」  前出の倉持院長は、依存症になりやすい六つの性格を挙げている。 ・自己肯定感が低い=NOと言えない。嫌われるのが怖い ・白か黒か思考、100か0か思考=曖昧なものが許せない完全主義 ・ネガティブ思考=不安になりやすい ・過度な自立心=他人に弱みを見せるのは格好悪い。負けず嫌い ・過剰な努力=未来の自分への過信、現在の自分の否認 ・のめり込み=何かへの過集中と没頭(アディクション)  では、依存症から抜け出すためにはどうすればよいのだろうか。  ギャンブル依存症の場合、患者は「自分は最終的には勝てる」と思っているなど、考え方が偏っている場合がほとんど。こうした偏りを見直し、日常の金銭管理の方法を変えてギャンブル欲を低減させるなどの、認知行動療法と呼ばれる治療プログラムが有効だという。 依存症からの回復を目指す「自助グループ」のイメージ(Getty Images)  また、依存症は社会で孤立している人がなりやすく、症状の進行とともにますます孤立していくため、「孤立の病」とも言われている。そのため、医療機関以外にも、同じ依存症に悩む人が自発的に集まって回復を目指す「自助グループ」などに参加する選択肢がある。前出の松本センター長はこう語る。 「アルコール依存症の場合、『もう飲まない』という決意を維持し続けるのは難しい。孤独に陥らず、同じ問題を抱えている人の話を聞くことは非常に大事です。自助グループなどに参加して、仕事帰りに顔を出すことをお勧めします。人とのつながりを作って症状から回復し、元の生活を取り戻した人は多くいます」  また、現在、依存症の臨床現場で注目されているのが「自己治療仮説」だ。依存症は従来、依存性のある物質や行為がもたらす「快感やハイになる気分」(正の強化)が動機となって引き起こされると考えられてきた。 週刊朝日 2022年12月9日号より  だが、患者たちをよく観察すると、その人が感じている苦痛の緩和(負の強化)のために何かに依存していることがわかってきた。前出の倉持院長はこう語る。 「飲酒は人生そのものに深く結びついている。アルコールという『やさしい悪魔』が、仕事や対人関係など、生きる中で生じた都合の悪い問題を見えなくさせてくれる。減酒や断酒に取り組むことは、酔うことで目をつぶってきた問題を直視するつらい作業ですが、それは人としての成長、成熟につながっていくのです」  一人ひとりが抱える「生きづらさ」に光を当てること。これが依存症の予防になるだけでなく、依存症からの回復の道筋を示してくれることだと考えられるという。  何かの拍子に、誰もが陥る可能性がある依存症。「アリ地獄」の気配には、敏感になりたいものだ。(本誌・村上新太郎)※週刊朝日  2022年12月9日号
家事の外注・機械化が極端に進んだアメリカで肥満度が急上昇!? 日本の掃除文化は残すべき
家事の外注・機械化が極端に進んだアメリカで肥満度が急上昇!? 日本の掃除文化は残すべき 親子で一緒に掃除しよう、という意識はアメリカにもあったはず。これは40年前、1982年発行の絵本ですが最近こういったテーマの絵本はあまり見かけない気がします(画像/筆者提供) 「家事とはいつでもどこでも自分の手で作り出せるベーシックインカム」のタイトルを読んで、深くうなずきました。先月の『AERA』に掲載された稲垣えみこ氏の記事です。  記事は、家事育児をしないのが『男らしさ』という意識があるらしいが≪どう考えても百害あって一利なしのナゾの価値観である≫と、主に男女格差について指摘されたものです。確かに私の親世代はそんな意識の人が多いし、上司がそうだから早く帰宅して家事育児を手伝いたくてもできない若手男性が多いのでしょう。OECDの国際比較を見ると、無償労働時間の男女比が日本は5.5倍(女性/男性)と、OECD全体の1.9倍を超えて極端に大きいのです。  女性の家事負担を減らすにはどうすればいいか。男性側にもっと家事時間を配分できるよう社会の構造が変わるといいのですが、すぐに変えるのが難しいからか「家事はアウトソーシング、またはデジタル化しよう!」という呼びかけを耳にします。でも、果たしてそれでいいのでしょうか。家事の外注・機械化が進んだアメリカに住んでいましたが、それで人々の生活が豊かになっていたかというとそうとは思えないのです。  私が住んでいたのはワシントン州とアラバマ州でしたが、どんなおんぼろアパートにも食器洗浄機、乾燥機、ディスポーザーが完備されており、掃除洗濯が日本より圧倒的にラクでした。お掃除ロボットやスマートスピーカーも日本よりお手頃価格で種類豊富。料理中に「アレクサ、牛乳8オンスってミリリットルに換算するといくつ?」と尋ねてすぐ答えが返ってきたときは、未来に生きていると感動したものです。  でも、家事の機械化はちょっとやりすぎじゃないかと感じるところまで来ています。最近は、電気のスイッチをパチッと押す機械まで出ていました。スマートスイッチではなく、物理的にスイッチを押す機械です。そんなの、ちょっと腰を浮かせてスイッチを押しに行けば済む話ではないか。もちろん、体が不自由な方々に役立つのは別の話ですが。  29世紀を舞台にしたピクサー&ディズニーの映画『ウォーリー』に、すべての活動を機械に任せた結果歩くことすらできなくなった肥満体の人間が出てきますが、いずれその未来もフィクションではなくなるかもしれません。アメリカの肥満度は年々上昇しており、1960年~70年代には13パーセント程度だったのが、アメリカ国立衛生センターによると2018年は42.4パーセントまでになっています。5人に2人か3人は肥満体ということ。確かにアメリカの親戚の家や博物館に飾ってある70年代の集合写真を見ると皆スラっとしているのに、今は見る影もありません。食生活が大きく影響しているのでしょうが、「面倒なことは機械任せ」の価値観も一因になっている気がしてなりません。  機械だけでなく、他人に家事を一任する価値観もあります。クリーニング・レディ、日本語にすると掃除婦と呼ばれる職業の人にキッチンからバスルームまですべての掃除をまるっとお願いする家庭が多いのです。クリーニング・レディの名が示す通り、担当するのは圧倒的に女性。それもマイノリティの女性が多い。先のOECDの調査で、無償労働時間の男女比がアメリカは1.7倍と確かに小さめなのですが、日本では妻・母という家庭内の女性にのしかかっている負担が、アメリカではそのまま家庭外・国外の女性にスライドしているだけともいえます。アメリカの知人には「今日はクリーニング・レディを使う(use)日だから」と言う人もいて、人をまるで物のように扱う言葉遣いに抵抗を感じたものです。  また別の知人には、家事を一切しない男性がいました。妻が亡くなった後はずっとクリーニング・レディに家事を依頼していたそうです。でも依頼するのが面倒になったのか依頼先が変更になったのかはたまた金銭的に苦しくなったのか、いつしか依頼が途絶え、最後亡くなったときの部屋はひどい荒れようだったといいます。  結局、家事を100パーセント物任せ・人任せにすることはできません。お掃除ロボットをかける前には床の物をどけなければならないし、掃除婦さんに依頼する際は物の配置や掃除してほしい箇所・方法を細かく伝える必要があります。そして、それらのサービスはいつでもどこでも無料で享受できるわけではありません。停電したり、過疎地に引っ越したり、お金がなくなったりしたとき、頼れるのは自分の手だけです。  日本には、「自分の事は自分の手で」の価値観がアメリカに比べて残っている気がします。よく言われることですが、アメリカ人が日本の小学校を見学すると「生徒が自分たちで床拭きもトイレ掃除もするなんて!」と驚きます。アメリカでは掃除の時間がなく、外部の業者任せの学校が大半だからです。日本では小学校どころか園児の頃から雑巾の絞り方を教わるし、職員全員で年末の大掃除をする会社もあります。自分の使ったものを自分できれいにするのはごく当然。そんな意識が浸透している日本に、「家事を自分でするなんてスマートじゃない、物か人に任せよう」というアメリカ式の価値観を導入していいものでしょうか。  こんなことを書くと、さぞなんでも一から自分で手を動かし、自給自足のていねいな暮らしをしている人間だと思われるかもしれませんが、実際は真逆です。麻や綿ではなくシワになりにくいポリエステル繊維の服を日々着て乾燥機で乾かし、きれいな漆塗りのお椀を食器棚の奥にしまって食洗器対応の食器を使いまわし、先週はカビだらけの浴室を掃除業者さんにきれいにしてもらいました。自分の手を使わないって確かにラク。もう元には戻れそうにない。でもなんだか違う道に迷い込んでしまった気がして、お掃除ロボットを投げやりに起動する度、お尻のあたりがソワソワするのです。 〇大井美紗子(おおい・みさこ)ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi ※AERAオンライン限定記事
愛子さま21歳 宮中祭祀と古典文学に関心をお持ちの内親王 期待される黒田清子さん以上の活躍
愛子さま21歳 宮中祭祀と古典文学に関心をお持ちの内親王 期待される黒田清子さん以上の活躍 21歳の誕生日を迎えた愛子さま(宮内庁提供) 「愛子内親王は、宮中祭祀など皇室の伝統に関心をお持ちのご様子だ」  宮内庁幹部のひとりは期待を込めるように、こう話したという。  12月1日、愛子さまが21歳の誕生日を迎えた。  学習院大学では、文学部日本語日本文学科3年に在籍する。  コロナ禍が続く中、オンライン授業の選択は続いているようだ。  愛子さまを幼い頃から知る学習院の関係者は、こう話す。 「大学自体に人が少ないこともあり、お見かけしたという話も聞きません。大学生活も残り1年と少し。キャンパスライフを楽しんでいただきたいのですが……」 21歳の誕生日を迎えた天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(宮内庁提供)  それでも21歳の誕生日には、皇居内の厩舎(きゅうしゃ)で馬と触れ合う愛子さまの姿が公開された。小さいころから動物好きの愛子さまが、両陛下と相談して場所を決めたという。うすいメイクに、長い髪を編み込みながらふんわりとカールさせて品よくアレンジした髪形。好感度のあるおしゃれを楽しんでいる様子が伝わってくる。白いセーターの上につけたペンダントは以前、お友だちからプレゼントされたものだという。 「ご友人がたと直に顔を合わせる機会はほとんどなくとも、友情にはげまされている、というメッセージかもしれませんね」(前出の関係者)  愛子さまは、2年からは、「日本語日本文学系」を選択。日本語のルーツや文法など言語の基礎への学びとともに平安時代から昭和初期までの文学や紀行文を民俗学的な視点で読む授業などを受けている。3月の成年の会見では、『源氏物語』をはじめとする古典への関心を語っていた。  また、歴代皇后の伝統行事である紅葉山御養蚕所での「養蚕」の作業に、愛子さまも今年、初めて加わった。  初等科3年生の時に授業で蚕をもらってから、毎年卵を採って住まいで育てるほどの熱心さをみせる。  冒頭の宮内庁関係者によれば、祭祀への関心も高いという。  愛子さまの祭祀デビューは、20歳の誕生日から間もない昨年12月25日。皇居・宮中三殿で執り行われた「大正天皇例祭の儀」であった。皇后雅子さまは欠席だったが、白いロングコートと帽子を着用した愛子さまは落ち着いた所作で、女性皇族として最初に拝礼した。 21歳の誕生日を迎えた愛子さま(宮内庁提供)  3月21日の春分の日の宮中祭祀、そして神武天皇の命日とされる4月3日には、神武天皇祭の「皇霊殿の儀」にも参列した。12月と4月の祭祀に雅子さまは参列することができなかったが、母親をそっと支えるように祭祀や養蚕など皇室の伝統行事に参加している。  京都産業大学名誉教授の所功さんはこう話す。 「愛子さまは、天皇皇后と同居する唯一の内廷皇女。ご両親をもっとも身近で支えることができる重要な存在です」 ■実現できなかった成年の報告  残念なのは、コロナ禍もあり愛子さまが成年を迎えた報告の参拝が実現できなかったことだ。  成年や結婚の節目に迎えた皇族方は、報告するために大正天皇陵と昭和天皇陵などがある武蔵陵墓地と神武天皇陵、伊勢神宮に参拝するのが習わしだ。秋篠宮家の眞子さんや佳子さまも、それぞれ成年の報告で参拝をしている。  ただ、上皇ご夫妻の長女、黒田清子さん(当時の紀宮さま)の成年の際も昭和天皇の喪中であったため武蔵陵や伊勢神宮への参拝はかなわなかった。  昨年20歳になり、成年皇族の仲間入りをした愛子さま。今年3月に行われた記者会見では緊張気味で初々しさがあふれていた  愛子さまも成年の記者会見を3カ月遅れで行ったが、清子さんも21歳の誕生日に合わせて行っている。  「愛子さまは、天皇皇后であるご両親の背中を常々ご覧になっており、皇室や日本の伝統にも造詣が深い。愛子さまは皇位の継承者ではありません。しかし、令和のいまは皇族の数の減少がより深刻であり、聡明な内親王として知られた黒田清子さんより本格的な役割が期待されます。結婚後も愛子さまが皇族として皇室に留まり、ご両親の祭祀や公務を分担するようなご活躍を期待する声が高まりつつあると感じています」(所さん)   愛子さまは、来年の4月から大学4年生となる。  若き内親王として、愛子さまへの期待が高まっている。 (AERA dot.編集部・本誌取材班)
嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語
嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語 嘉門タツオさんと妻のこづえさん(写真=本人提供) たった今、息を引き取ったばかりの妻に、夫は大きな拍手を送った。「あっぱれや」。今年9月に、妻の鳥飼こづえさんを亡くした嘉門タツオさん(63)。交際前に悪性脳腫瘍をわずらい、自分の命が長くないことを悟っていたかもしれない妻と過ごした14年間には、夫婦だけの物語が詰まっていた。 *  *  * 2007年。食事仲間の先輩が宴席に連れてきたのが、こづえさんだった。その場は神妙なお見合いのような感じでもなく、かといって、どちらかがひとめぼれして猛アタックしたというわけでもない。初対面では、お互いにそんなに意識はしなかった。  結婚願望なしの49歳中年男。一方、こづえさんは医師という仕事ひと筋で、友人から「プラチナのよう」と形容されるほどのお堅い性格。年も6歳下だった。そんな2人をみこしに担ぎ上げたのは、嘉門さんの仲間たちだ。  こづえさんも連れられてやってきた、とあるイベントの打ち上げ。 「後から聞いたんですが、一緒に飲んでいた北野誠や桂雀々たちが、僕がトイレに行ったときなんかに『タツオを頼むわ』って彼女に言ってたそうなんですよ」  はしご酒したあと、こづえさんと一緒にタクシー乗り場まで行ったのに、彼女を一人で車に乗せて見送ろうとした嘉門さん。 「送っていけやー!」  鈍すぎる独身男の背中を押して、車に押し込んだのは北野誠さんだった。 「周りが、これが僕のラストチャンスやろうって勝手に思って雰囲気づくりをしてくれたんですよ。僕が自分から頑張らなくてもいい状況を作ってくれて。せっかくやから、乗っかろうと思ったんです」  眼科とアンチエイジングの分野で活躍していた「プラチナ」のエリート医師は、なぜか嘉門さんのことを面白がり、惹かれた。歌い手風情がと不信感を持たれたか、こづえさんの母親は交際に猛反対。だが、意外にお似合いな2人に心変わりしたのか、何度か会ううちに「式はちゃんと挙げなさい」と言うようになった。交際から半年後にゴールインして、東京と大阪で2度、結婚披露宴を行った。 「わたし、2002年に悪性脳腫瘍の手術をしたけど、もう大丈夫だから」  こづえさんが、がん患者であることを打ち明けたのは付き合い始めて間もないころ。  いつ再発するかわからない悪性腫瘍。3カ月に1度、病院でMRI検査を受け状態を確認していた。それでも、「彼女は、自分の命に対する不安を表に出したことはなかったんですよ。本人が大丈夫って言うんやから、大丈夫なんやろうと僕も思っていました」  だが、病気の影響で、徐々に右半身の自由が効かなくなっていた。結婚して1年ほどたつと、歩くときにステッキが必要になった。利き手である右手でカルテを書くことが難しくなり、こづえさんは医師の仕事を断念した。  それ以降、こづえさんは嘉門さんの仕事場へも連れ立って来るようになった。嘉門さんの曲作りにもかかわり、積極的に自分の考えを伝えるようになった。  カラオケは大好きだったが音楽には門外漢のこづえさん。そんな妻が仕事に口を出してきたら怒ってしまう夫もいそうだが、あっさりと仕事のパートナーとしても息が合ってしまうのが、このカップルの不思議なところ。 「メロディーが違うとか、歌詞のこの部分、もうちょっと違う言い回しがいいよ、だとか、的を射ていることを言うてくれるんですよ。仲よくさせていただいている宇崎竜童さんと妻の阿木燿子さんは夫婦で曲を作っていて、もし結婚することがあれば、そんな夫婦がいいなって憧れていたんです。まあでも自分にそんな話があるわけないわなって思っていましたけど、あったやん!って」  趣味でも息が合っていた。2人の共通軸は「食」と「ワイン」。夕刊紙で食に関する連載を持ったことがあるほどの食通の嘉門さんと、ワインやシャンパンと、食べることが大好きなこづえさんは、住まいのある都内でも地方の仕事先でも、いつも一緒に外食に出かけた。  予約の取れない人気店にくじけずに電話をかけ続けて美食を求めたり、今日の店はここが良かった、ここがいまいちだったなど、グルメ談義を交わした。夫婦でほれ込んだ焼き鳥屋には200回以上は通った。  その趣味が趣味で終わらず、仕事につながってしまうのも、この夫婦ならではだった。 「歌うべきことは歌おう、歌にした方がいいことは歌にしよう」の考えで活動してきた嘉門さん。そんな“食べすぎ夫婦”で食に関する曲を作りはじめた。それを収録したのがアルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」(2016年)である。 「カレー マイラブ」という曲を作った際には、夫婦で40軒はカレー店を食べ歩いて構想を練ったそう。曲作りのためにカレー店巡りをする夫婦は、この2人以外にはいないだろう。 「オリジナリティーがある2人ならではの考えを歌にしていこう、という関係性でしたね」  アンチエイジングの医師だったこづえさんの思いをつづった「アンチエイジングの歌 入門篇」も作り、昨年、こづえさんが歌っている動画を撮影した。  一緒に歌を作って、一緒に飲んで食べまくって、旅行もたくさん行って、次の曲の構想を練って。はた目にはちょっと不思議で、でも絶対に楽しいであろう夫婦の生活。だが、その未来を病魔は許してくれなかった。  今年5月に、がんが再発。進行が早く、手術をしてもすぐに腫瘍は大きくなった。最後の望みをかけた薬も効かなかった。歩行がさらに困難になっていくこづえさん。介助の疲れが一気にたまり、嘉門さん自身も体調を崩して入院した。  8月の終わり。もう歩くことができなくなっていたこづえさんを車いすに乗せて、病院から家に戻った。  夫婦の、最後の21日間。  嘉門さんが妻のために用意した看取りへの道は、にぎやかな花道だった。  こづえさんが会いたいと願った、160人もの友人が続々と家にやってきた。部屋で宴会をして、こづえさんも一緒にワインを飲んだ。  押尾コータローさんがギターを弾き、元JAYWALKの中村耕一さんが「何も言えなくて夏」を歌った。固形物が食べられなくなり弱り切っていく中、最後に北海道から送られてきたウニをチュルチュルっと、実に美味しそうに食べた。  何もしゃべらなくなり、ベッドに寝ているだけになったこづえさん。  9月15日。訪問看護師が、死が近づいていることを察知して嘉門さんと廊下に出て話をした。その間、わずか2分。嘉門さんが席を外しているうちに、こづえさんは旅立った。 「息を引き取る瞬間を夫に見せてくれなかった。これは、最もつらい瞬間に僕を立ち会わせないという彼女の演出なんだと。そんな信念が伝わってきて、拍手をしたんです。あっぱれや!って」  身内だけで行った葬儀で、嘉門さんが妻にささげた2曲の歌がある。 「HEY!浄土~生きてるうちが花なんだぜ~」という終活をテーマにしたアルバムに収録された「旅立ちの歌」と「HEY!浄土」という歌。お墓の中の故人への思いと、故人が、お墓の中から見た思いをつづった曲だ。  3年前にこづえさんの母が亡くなったとき。昨年、嘉門さんの母が亡くなったときの葬儀で、こづえさんが歌ってほしいとお願いしてきた曲だ。 「私の時も歌ってね、という彼女のメッセージだったんだ。そう理解したんですよ」 <早くお前に会いたいけれど もう少し浮世の風に吹かれてから行くよ♪> <忙しいとは思うけれど たまには会いにきて欲しい 風になんてなるつもりはない そこにいるから きっといるから♪>  こづえさんのそばでその2曲を歌い切った。泣きながら。 「納骨の日に、お墓の前でその歌をプレーヤーで流したんです。そしたら、線香の煙がふわっと広がってね。やっぱり彼女はこれを願っていたんだと、確信しました。なんとも不思議な体験でした」  妻を天国に送って、夫婦生活はフィナーレ。と思いきや、物語にはまだ続きがあった。  照れからか、介護されることについて、嘉門さんに感謝の気持ちをそれほど語らなかったこづえさん。だが、つい最近、こづえさんの昔からの友人と酒を飲んだら、いつも、病気の自分を助けてくれる嘉門さんのことをほめていたと聞かされた。別の機会に会ったこづえさんの友人からも、同じ話を聞かされた。 「自分が死んだあと、僕の耳に入ることが絶対にわかっていて、友人たちに伝えたんだと思うんですよ」  数ヶ月前、車の中でこづえさんが突然、「何があっても、応援してるからね」と言ったことがあった。あまりに唐突で、しかも嘉門さんはハンドルを握っていたため、「おう」と返しただけ。忘れてしまっていたこづえさんの言葉が、今になって脳裏によみがえった。  これもこづえさんの演出なんだと、嘉門さんは思う。 「職業柄、ただ嘆き悲しんでいていい立場ではないと自覚しています」と話す嘉門さん。こづえさんの遺志を継ぎ「アンチエイジングの歌」の動画を編集し、49日が終わった後、ユーチューブで公開した。夫の手で、念願の“歌手デビュー”を果たした。  妻と生きた14年間のできごと。自宅で過ごした最後の21日間と、160人で見送った花道。妻が亡くなってから、宙を仰ぐような不思議な動作をするようになった2匹の飼い猫。そんな過去と今を、何か形にしていきたいと話す。  だが、死別からわずか2カ月。今が苦しくないはずはない。取材中、嘉門さんは何度も眼鏡をはずして涙をぬぐった。  思い出の店に行けば、妻の好きだった料理の味が心にしみて泣けてくる。行きつけの店で飲んでいても、こづえさんはもういない。 「いっつも、ここにおったなあってね」  それでも、震える声で、一生懸命思いを話した。 「彼女が生きたことも、亡くなったことも、ちゃんと意味を持たせたいと思っています」  物語を、続けるんやー。                  ◆  取材は、都内のホテルで行われた嘉門さんの、とあるステージの前だった。 「見てってくださいよ」  本番ギリギリまで話してくれた嘉門さん。筆者にそう声をかけると、さっそうと衣装をはおりサングラスをかけて控室を出ていった。  会場は控室の向かいの宴会場。お言葉に甘え、客席後方の壁際にいすを置き、座らせてもらった。  不思議な光景だった。  ついさっきまで亡き妻を思い涙していた男性が、「嘉門タツオ」としてお客さんを一瞬で爆笑させている。毒あり悲哀あり、ちょっとシモありの歌とトークに、筆者も仕事を忘れかけて吹き出した。  中でも盛り上がったのは「炎の麻婆豆腐」という一曲。  麻婆豆腐への愛や作り方を歌ったものだが、「麻(まー)と~辣(らー)~が~♪」と熱唱するサビに入ると、お客さんがタオル代わりに卓上の白いナプキンをぐるぐる振り回す。  アルバム「食べることは生きること~」に収録された、こづえさんと一緒に作った歌。  こづえさんは、いつも会場の、ちょうど筆者がいたあたりに座っていて、嘉門さんの歌にのってタオルをぐるぐると回していたそうだ。  会場にいた嘉門さんのスタッフが、そう教えてくれた。(AERA dot.編集部・國府田英之)
秋篠宮さまと国民のすれ違いはなぜ続く 断り続けた「30億円」宮家改修や皇室改革「宙ぶらりん」の背景
秋篠宮さまと国民のすれ違いはなぜ続く 断り続けた「30億円」宮家改修や皇室改革「宙ぶらりん」の背景 秋篠宮ご夫妻/2022年11月11日  11月30日、秋篠宮さまは57歳の誕生日を迎えられる。その直前となる22日、改修工事が終わった秋篠宮邸の内部が公開された。老朽化していた旧宮邸。宮内庁が以前から改修を打診してきたものの、国民への負担を思い、秋篠宮さまが長年断り続けた末の工事だった。皇嗣家として皇室を支える秋篠宮家だが、国民とのすれ違いは続くのは、なぜだろう。 *  *  * 「秋篠宮殿下は国民の血税を使わないように、予算を越えないように、と繰り返しおっしゃっていたと聞いています」  そう話すのは、元宮内庁関係者。  一方で、「こうした方が…」といった変更が続いて現場は混乱した、との話しも宮内庁から漏れてきたという。  秋篠宮邸の改修工事が終了した。総工費は約30億円。鉄筋コンクリート造で地下1階、地上2階建。広さ(全体の延べ面積)は改修前の約2倍となる2972平方メートルだ。 改修を終えた秋篠宮邸の大食堂/2022年11月22日  主に、広くなったのは、皇嗣として来客を接遇する公室部分と職員が働く事務スペースの面積だ。そした使われたシャンデリアや大理石の棚板は、秩父宮邸として建設された1972年当時の部材をできる限り活用した。 ■「わざとらしい」と受け取られる  元宮内庁職員の山下晋司さんはこう解説する。 「30億円の総工費について批判的な声もありますが、何も贅沢な暮らしをするための豪邸ではありません。10月にはブータンの王女と王子を秋篠宮邸(御仮寓所)に招いて接遇されました。皇位継承順位1位の皇嗣となれば、宮邸で外国王族などの賓客を接遇する機会も少なくありません。それ相応の場所でもてなさねば相手に対して礼儀を欠くことになりかねません。宮内庁は、相応の施設や予算が必要であることを堂々と説明すればよいと思います」  山下さんが気にかかったのは、宮内庁が「大理石やシャンデリアは旧秩父宮邸のものを使用した」とわざわざ説明した点だ。こういう釈明めいた説明がまた国民に「わざとらしい」という感情を持たれてしまうのではないだろうか、と感じる。 改修を終えた秋篠宮邸/2022年11月22日  天皇ご一家が暮らす御所の改修費は、8億7千万円と公表された。ほとんど内装の修復も増改築の必要もなかったため、その金額におさまった。だが、結果として比較されることになってしまった。 「秋篠宮さまは、国民の税金で皇室の費用を賄っていることはよくご存知です」  そう話すのは、秋篠宮家と長年親交があり『秋篠宮』の著者でもあるジャーナリストの江森敬治さんだ。  築50年となる旧秩父宮邸は、老朽化が進んでいた。眞子さんと佳子さま、悠仁さまも成長し、住居部分も手狭になった。見かねた宮内庁が増築を打診しても秋篠宮さまは、 「やめておきましょう」  と断ってきた。 ■築60年元職員宿舎の新居  そもそも、1990年に結婚した秋篠宮ご夫妻の新居は、驚くほど質素だった。昭和の初めに「乳人(めのと)官舎」として建てられた築60年近い木造の平屋。この元職員宿舎は、仮住まいを意味する「御仮寓所(ごかぐうしょ)」と呼ばれた。 改修を終えた秋篠宮邸の小食堂/2022年11月22日  総床面積はわずか100平方メートル余り。直前に新築された高円宮邸(690平方メートル)と比べても、極端に小さかった。総務省の「平成30年住宅・土地統計調査」によれば、持ち家で戸建て住宅の場合、総床面積の全国平均は129平方メートル。一般の平均的な戸建て住宅より狭い住まいだったことになる。  当時、ご夫妻は3畳の書斎にパソコンを置き、夫婦で仕事や勉強をした。それ以外の部屋は、寝室とアコーディオン・カーテンで仕切られた各10畳ほどの居間と食堂。お客と会うときは、近くの皇族共用殿邸や旧秩父宮邸を、その都度、借りていた。  97年に眞子さんが生まれ、10畳と6畳相当の洋間2部屋が増築された。  2000年には、旧秩父宮邸につなげる形で鉄筋コンクリート造り二階建て(8室、総床面積472平方メートル)の増築部分が完成。公的なスペースとして使っていた旧秩父宮邸を含む総床面積は1417平方メートルとなった。  江森さんは、築60年の木造平屋が新居であったころから宮邸を訪ねている。印象に残るのは、植物の化石である珪化木(けいかぼく)と細長い神木のマンザカベニタニだった。江森さんは、この化石を何度見ても価値がわからない。 改修を終えた秋篠宮邸の第一応接室からの眺め/2022年11月22日  しかし、秋篠宮さまにこんな話を聞いたことを思い出した。  初対面の人が部屋に来た時に、部屋に珍品が置いてあれば、「これはなんでしょうか?」と尋ねられ、それをきっかけに話しが弾むことがあるのだという。 「自分はシャイで社交ベタ」  そう自認する秋篠宮さまらしい工夫だと、江森さんは感じる。 ■ジェンダーレスの考え  江森さんは、秋篠宮さまとお会いするたびに、世間の印象と実像にギャップがあることに気づかされる。巷間では、学生時代にサングラスをかけて外国車を乗り回していた自由奔放な次男坊の印象が抜けきっていないように思われているかもしれないが、先の話のように実際は洞察力に富み、深く考え慎重に行動する人だ、と感じている。  時代に合わせた皇室の在り方についてもそうだ。たとえば、秋篠宮さまは仕事の面で宮家職員を男女の性差で区別しない。秋篠宮家を支える皇嗣職の職員の数は50人ほど。侍従や女官といった名称を廃止した。  江森さんが言う。 「もともと秋篠宮さまは、男だから女だからこの仕事と、決めつけることをしません。適性や能力に応じて仕事を割り振る柔軟さや合理性をお持ちです」  秋篠宮さまは、こうしたジェンダーレスの考え方を以前から口にしていたと話す。 改修を終えた秋篠宮邸の和室/2022年11月22日  悠仁さまが生まれた2006年の誕生日会見でのこと。「女性皇族の役割」について質問された秋篠宮さまは、こう答えている。 「私たちは、社会の要請を受けてそれが良いものであればその務めを果たしていく。そういうことだと思うんですね。これにつきましては、私は女性皇族、男性皇族という違いは全くないと思っております」  江森さんは、秋篠宮さまがこう話したのを耳にしている。 「これからは、女性の皇嗣職大夫や女性の宮務官長も十分にありえます」  価値観が多様化した社会へ令和の皇室がどう向き合うのか。そうした姿勢も問われる時代になったのだ。 ■宮内庁が皇嗣家を支える重要さ  秋篠宮さまは、合理的で時代に即した思考を持ち、新しい皇室を感じさせる発言を実際にしている。一方で、宮内庁が秋篠宮さまをフォローする姿勢が見えてこないという指摘もある。秋篠宮さまが新しい皇室の在り方を打ち出しても宙ぶらりんになってしまっている、という分析だ。  いずれにせよ、発言が素直に国民に受け止められているとは言い難い。なぜだろう。 「秋篠宮さまは、兄の天皇陛下を支え、助けながら、少しずつ新しい皇室を築かれると思います。コロナ禍の影響で令和皇室は、動き出したばかりです。これからではないでしょうか。期待しています」(江森さん)  前出の山下さんも、宮内庁が秋篠宮さまを支える体制がとれていない点は気にかかると話す。  「令和も5年目に入ります。皇室と宮内庁の足並みがそろうことで、国民との信頼関係もより深まるのではないでしょうか」 (AERA dot.編集部・永井貴子)
余計なひと言で人間関係崩壊も 令和の世で注意すべき“4Hワード”
余計なひと言で人間関係崩壊も 令和の世で注意すべき“4Hワード” ※写真はイメージです (GettyImages)  余計なひと言を発したばかりに、場がシラケたことはありませんか? 逆に言われて嫌な思いをしたこともあるでしょう。なぜ人は言わなくてもいいことを言ってしまうのか……。 *  *  *  定年後も嘱託として働く60代の男性が、夕食後にテレビを眺めていたときのことだ。ソファでスマホのニュースを見ていた妻が、大声を上げた。 「えー、大変よ。あなたと同じ年のあの映画監督。昨日、病気で急死したんだって!」  ……と言われたところで知り合いでもないし、「ふーん」としか言いようがなかったが、とりあえずこう返す夫。 「同い年が亡くなるニュースは嫌なもんだって、死んだじいちゃんがよく言ってたな」  すると妻はこう言い放った。 「あなたは心配ないわよ。この監督、あなたと違って、東大卒だもの」  いったい急死と東大卒に何の関係があるのか。余計なひと言に反論しようとしたが、これまた余計なひと言の上塗りになることを案じて、言葉をのみ込む夫だった。  というわけで「余計なひと言」とは、言わなくてもいいことをわざわざ言って、場の空気を凍てつかせたり、相手に嫌な思いをさせたりしてしまうセリフのことを言う。  さまざまな「○○ハラスメント」への注意喚起が叫ばれ、言葉を慎重に選ぶ人が増えているはずだが、いまだにこうした「余計なひと言」は世の中にあふれている。週刊朝日がおこなった「余計なひと言」アンケートなどにも、さまざまなエピソードが寄せられた。 「天然系のため、思ったことをすぐに口にしてしまうクセがある」という40代男性は、「沈黙が怖くて、間を埋めるために焦ってしゃべってしまう」と自己分析する。ただ、「そういうときはたいてい失言をしていることが多い」とか。 「例えば学生時代、大学2年から入ったサークルでのことです。入学時に入った部員たちはすっかり人間関係ができていて、自分だけが疎外感があった。ある日酔った勢いもあって、飲み会の席で『お前ら、閉鎖的なんだよ』と、余計なひと言を言ってしまい……。その後半年ほど、誰も口をきいてくれませんでした」 週刊朝日 2022年12月2日号より  自身も「場を盛り上げようと余計なひと言を言ってしまうクセがある」という50代の女性の場合は、こうだ。まわりに「自分を大きく見せたいのか、他者を攻撃するために余計なイヤミを言うタイプの人」がいるとか。  それで思い出したのが、筆者が取材したことがある評論家の先生だ。コメントについて疑問点を聞いたところ、「うーん、わかってもらえないだろうね。キミとは住んでる世界のレベルが違うから」と、まさかのツッコミ返し。だいたい「住んでる世界のレベル」の話は、余計だって!  まあ、言う人のキャラクターにもよるだろうが、その昔、この手のタイプの人は「皮肉屋が入った、ちょっとおもしろいヤツ」と、多少好意的に受け入れられることもあった気がする。  ところが、そんな皮肉屋キャラを演出していた「余計なひと言」のほとんどが、令和の世では「百害あって一利なし」。円滑なコミュニケーションを阻害する、NGワードになりつつある。  ここで整理してみると、余計なひと言を言ってしまう理由も、決してひとつではないようだ。  冒頭に登場した60代男性の妻のように、“天然系”ゆえ、思ったことを精査せずに言ってしまうタイプも多いだろう。昭和時代にはキラキラ見えることもあった皮肉屋を引きずって、わざと余計なイヤミを言うタイプや、ウケ狙いで余計なひと言を発してしまうお調子者タイプもいそうだ。  いずれにしても、その余計なひと言が及ぼす影響は、日に日に大きくなっている。著書『よけいなひと言を好かれるセリフに変える 言いかえ図鑑』(サンマーク出版)が、シリーズ累計50万部以上のヒットになっているカウンセラーで、日本メンタルアップ支援機構の代表理事を務める大野萌子さんはこう話す。 ■とっさのひと言で人間関係崩壊も 「産業カウンセラーという仕事を通して、2万人以上の悩みに耳を傾けてきました。そうしてわかったことは、働く人の悩みの9割は、身近な人間関係の問題であるということ。そしてその人間関係は、とっさに出た余計なひと言が元になって、壊れてしまうこともあるのです」  また、余計なひと言が積もり積もって、上司のパワハラとして受け取られたり、はたまたご近所やママ友などのコミュニティーからはじき出されたり。「あの人、いつもひと言多いよね(笑)」では済まされない、人間関係の深刻なトラブルにつながることも少なくないという。  だからといって、トラブルを避けて、無口な人になってしまっては意味がない。 「今はハラスメントの問題もあって、余計なひと言どころか、他人と関わらないようにしている人も増えている印象です。ただし関わりがなくなると、逆に人間関係が悪くなると私は思っていますし、実際に会話がない職場は、ハラスメントが起こりやすいという実感もある。トラブルを避けようと言葉をのみ込んでしまうのは、余計なひと言の防止法にはなりません」  そうならないために、まずは、無意識に余計なひと言を発してしまわないように、自身の気持ちを、考えなしに発しないのは鉄則。とくにこんな言葉は、さらなる精査が必要になりそうだ。 「トラブルを起こしがちな言葉を、私は4Hと呼んでいます。否定、批判、非難、比較の四つです。これに分類される言葉は、余計なひと言になりやすいと思います」  ただし大野さんは、余計なひと言を言ってしまいがちな、もうひとつのタイプにも注目している。相手への気遣いから、本音をはっきり言わずオブラートに包み、かえって相手を嫌な気持ちにさせる余計なひと言を言ってしまう、けっこうやっかいなタイプだ。 「はっきり言えばいいことを、遠回しに言ったり、かと思えば相手を傷つけないようにやんわり伝えたり。または遠慮がちに言ってしまったことが、結局、余計なひと言になることは多いんです」  わかりやすい例が、何かのプレゼントをするときに、いまだに使う人がけっこういる、ザ・社交辞令といえるこの余計なひと言、「つまらないものですが(受け取ってください)」だ。  実は謙遜しているだけで、こう言って、本当につまらないものをプレゼントする人はいないが、それを知っているのは、もはや一部世代だけ。若い世代や、ましてや外国人に言ってしまった日には、「なんで、わざわざつまらないものをくれるんだ」と怒りだす人もいそうだ。  ほかにも気遣いから、遠回しに言ったがために墓穴を掘って、余計なひと言になってしまう例は多い。『言いかえ図鑑』にも、こんな例が紹介されている。ある日、残業を頼んだ部下から、こう言われたらどうだろう。 「断ってもいいですか?」  たしかに上司の采配に任せるという意味の言葉になってはいるが、それでも「断らないで残業して」と言える会社は、今どきないだろう。部下はそれをわかっていて、「できるわけないでしょ。それくらい察してよ」という本音をわざわざ遠回しに言ってるだけ……そう掘り下げていくと、かなり感じが悪い。  こういうシーンでは、部下は妙な小細工はせずに「今、別件の締め切りが近いので、お断りさせてください」と言い換えて、シンプルに意思を伝えるのが正解。こねくり回して言うより、きちんと意思表示をするほうが、信頼関係につながっていくことも多いという。  さらにここ数年で登場した、ニューフェースの余計なひと言もある。テレワークが増えたため、リモート会議などでつい言ってしまう言葉だ。  例えば、オンラインの打ち合わせ中、相手の部屋の人の気配が気になったときの「誰かいるんですか?」。リモート会議でプライバシーに言及することは、リモハラ、テレハラ(リモートハラスメント、テレワークハラスメント)とも呼ばれ、禁句となっているからだ。 「家庭は会社と同じ環境ではありません。『ご家族のことで何かあれば、遠慮なく言ってください』と言い換えることで、お互い様の気持ちを伝えるのがいいですね」  こうして、余計なひと言を言ってしまうために、会話クラッシャーや、“場”の瞬間冷却器になってしまいがちな人が、一転好かれる人に変わる方法、それは余計なひと言を、好感ワードに言い換えることだ。  大野さんに教えてもらった言い換え例を頭にたたき込んで、ひねくれキャラを返上、好かれる人を目指そう。あ、余計なひと言ありました?(ライター・福光恵)※週刊朝日  2022年12月2日号
「石田か? 徳川か?」東西合わせて約15 万人が対峙した天下分け目の戦い 「戦国の大合戦」ランキング!
「石田か? 徳川か?」東西合わせて約15 万人が対峙した天下分け目の戦い 「戦国の大合戦」ランキング! 岐阜県関ケ原町の関ケ原古戦場。  桶狭間の戦い、川中島の戦い、備中高松城の戦い――歴史に名を刻んだ戦国の合戦は枚挙にいとまがない。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では「戦国の大合戦ランキング」を特集。戦国の期間に関しては異説も多いが、この大合戦ランキングでは、応仁の乱が起こった応仁元年(1467)から「元和偃武」を迎えることとなる慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までの約150年間として、その間に起こった大小数多くの合戦のなかから厳選した戦いを、「兵力」「采配力」「武力」「革新性」「歴史への影響力」の5つの基準で採点しランキング化。その上位、ベスト10のなかから歴史を彩った合戦をシリーズで解説する。今回は、2位となった「関ヶ原の戦い」を紹介しよう。 *  *  *  慶長三年(1598)に豊臣秀吉が世を去ると、後には朝鮮出陣で何の恩賞も得られず、膨大な負債に困り果て処理に窮する諸大名が残された。彼らの中には豊臣家五大老筆頭の徳川家康を頼ろうとする者も多く、豊臣中央集権体制の秩序維持を主張する五奉行・石田三成との軋轢が深まる。この対立は、慶長五年(1600)に至ってついに爆発。家康が同僚の大老、会あい津づ上杉景勝を「豊臣家への謀反準備」の罪で征伐するため六月十六日に大坂を発すると、三成は打倒・徳川を叫んで挙兵したのだ。  三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、八月一日に徳川方の伏見城を攻め落とす。一方三成の挙兵を知った家康は従軍している諸大名が集まった「小山会議」で事の次第を告げ、「皆が大坂に置いていた妻子は三成らに人質にされているから、三成に味方してもよい。自分が勝っても、罪に問うことはない」と言ったという。  一方で家康は豊臣恩顧の大名筆頭・福島正則に根回しをしており、正則は先頭きって家康への加担を表明し、衆議は上杉征伐中止と三成との決戦で一致した。  こうして福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興ら豊臣諸侯は反転して尾張に赴いた。家康は江戸に残ってひたすら諸方に書状を書き送り、恩賞を餌に味方に勧誘し続ける。この調略の手は毛利輝元重臣の吉川広家や小早川秀秋などにも及び、一方で伊達政宗や最上義光に対しては上杉氏の牽制を指示するなど、全国規模で展開された。 『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から  その間、家康の出陣を待ちわびた福島正則らは岐阜城を八月二十三日に攻め落とし、この報告を受けた家康も出陣を決定。息子の秀忠には徳川主力部隊を与えて中山道を進ませ、「真田表仕置の為」(秀忠書状)と信濃の三成方で会津への連絡路を扼する上田城の真田昌幸退治を作戦目標とさせて三成勢力の各個撃破を図った。  九月一日、家康は江戸を進発。東海道を進んで美濃へ赴く。十四日に美濃赤坂に着陣した家康は、三成らの拠る大垣城を無視して大坂に進むとの偽情報を三成らに流したともいい、また大垣城を水攻めにしようという動きもあった。  これを察知した三成は城外決戦の道を選択、その夜関ヶ原に向けて城を出る。一説には、かねて彼が家康への内通を疑っていた小早川秀秋が関ヶ原をにらむ松尾山の陣城を乗っ取ったのを知って処断のため移動したともいわれているが、いずれにしてもその暇はすでになかった。翌十五日早朝にこれを知った家康も、関ヶ原に移動して来たからだ。  九月十五日午前10時頃、東軍(家康勢)7万4000、西軍(三成勢)8万2000が戦闘を開始する。この兵数に第二次上田城攻め、大津城攻め、長谷堂の戦い、石垣原の戦いなど、地方での戦いを含めると26万以上の兵力による戦いが繰り広げられたことになり、小田原城攻め・大坂の陣に次ぐ高ポイントとなる。  戦闘の陣形としては笹尾山・天満山一帯の三成・宇喜多秀家・小西行長ら、南宮山の毛利秀元・長宗我部盛親ほかの部隊、藤古川沿いの隘路を押さえる大谷吉継ほかの部隊と、縦隊となって進む東軍を正面と側面から攻撃でき、地形的にも高所を占める西軍の有利は動かない筈だった。実際、開戦後しばらくは宇喜多隊が福島隊を圧倒するなど西軍優勢で進んだが、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱が東軍に寝返り大谷隊を潰滅させたことにくわえ、黒田長政を通じ家康に通じていた吉川広家が毛利隊の戦闘参加を押し止めたことで、3万ほどの兵で3倍以上の敵と戦わなければならなくなった西軍は兵力の限界を迎え、正午すぎに崩れる。島津義弘隊が敵中突破の「島津の退き口」を行ったのはこのときの話である。  東軍主力は福島正則ら豊臣恩顧の大名たちだったが、それを巧みに制御し破綻させなかった家康の采配力にも、高いポイントを配した。豊臣関白政権時代から徳川将軍政権時代へと歴史を転換した影響力の面でも、ポイントを多く付さなければならない。 ■関ヶ原の戦い(合計点:85点) 【動員兵力】18 【采配力】17 【武器】17 【革新性】14 【歴史への影響力】19 ◯監修・文/橋場日月(はしば・あきら)1962年大阪府生まれ。関西大学経済学部卒。戦国や江戸時代を中心とした歴史研究をおこなう歴史作家。著書に『戦国武将に学ぶ「必勝マネー術」』(講談社+α新書)『明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く』(祥伝社)『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相』(学習研究社)『戦国美麗姫図鑑』(PHP研究所)『地形で読み解く「 真田三代」最強の秘密』(朝日新聞出版)他、多数。 ※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から
天龍さんが語る“近況報告とその後”稀勢の里の二所ノ関部屋にYouTubeの撮影で行こうかな!?
天龍さんが語る“近況報告とその後”稀勢の里の二所ノ関部屋にYouTubeの撮影で行こうかな!? 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  9月に「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、現在は入院してリハビリ中の天龍源一郎さん。前回の記事の引き続き、近況報告といまの思いを語る。 *  *  *  俺は今、会場には行けないけど、天龍プロジェクトでは代表で娘の紋奈が先頭に立って大会を開催している。なかなか会場に行けないのが歯がゆいが、出場しているレスラーは俺が見ていなくても、お客さんを満足させる試合をしてくれていると信じている。  俺は若い頃は相撲で部屋の揉め事とか、いろんなことがあってプロレスに転向したから、勝敗よりも、お客さんに満足して帰ってほしいという、他のレスラーとは違う感覚が芽生えたんだよね。もちろん、幕内でやめてきたからプロレスでへこたれるもんか、トップになってやろうという思いもあったけど、それよりもお客さんに「面白かった!」という気持ちを持ってかえってほしいという意地があったんだ。  プロレスに転向して4~5年くらいはパっとしない時期があった。それでも応援してくれるファンがいて、俺がアメリカから日本に帰ってきたとき「この数少ないファンに退屈させちゃいけない」と思い、それからは目新しくて面白いプロレスをしようと決心して、引退するまでその気持ちを持っていたよ。  試合に勝った、負けたはついてくるけど、自分自身でも「面白かったかな」という満足感の方が大切だった。今日の客は天龍とジャンボ鶴田を観て、満足して帰ってくれたかなって、そればかりを考えていたよ。  SWSのときだってそうだ。今では当たり前になっている「一本花道」もSWSが最初にやったんだ。「対戦する選手が同じ花道から出てくるなんてとんでもない!」って最初は言われていたが、今となっては、プロレスだけじゃなくて、さまざまな格闘技でも取り入れられているだろう。とにかく命の次に大切なお金を払ってきてくれるお客さんに、満足してもらいたいという思いから新しいことにチャレンジしたんだよ。 6月24日に亡くなられた妻・まき代さんの写真と親子3ショット(公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)【大会情報】『WRESTLE AND ROMANCE』Vol.8/開催日時2022年12月11日(日)OPEN11:30/GONG12:00/東京・新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/【チケット料金】(前売りチケット)※当日券は500円UP ▽特別リングサイド…6,500円(東西南1列目 /2列目) ▽指定席…5,500円(南側ひな壇)/チケット販売所・天龍プロジェクト…https://www.tenryuproject.jp/product/575  お客さんに喜んでもらうために頑張ったSWSだが、当時は「金でレスラーを引っ張った」と批判もされた。でもSWSができたから、全日本プロレスと新日本プロレスが揃って、選手のファイトマネーをアップして、引き留め金まで払ったんだ。外国人レスラーならまだしも、ほかの団体の日本人レスラーの待遇までアップしたんだから、これこそ天龍がやった“革命”だよ(笑)。  ただ、知っての通りSWSは約2年で解散となってしまった。1990年の横浜アリーナの旗揚げ戦には、新日本プロレスをはじめ、その当時のプロレス団体の全部が偵察に着ていたんだ。でも、その旗揚げ戦で俺が若いジョージ高野に負けたのを見て、新日本の営業は「これからエースでやっていく天龍が旗揚げ戦で負けたんだったら、この団体はすぐにつぶれる」って喜んだんだって。見事に2年でつぶれたよ……。  新日本の営業にそこまで言わせたんだから、ある意味、ジョージ高野も大したもんだな(笑)。いつかクレイジーキャッツの関係者に聞いたことがあるんだけど「グループで人気があるのは一人でいい。その一人をメンバーみんなで盛り上げれば、お客さんはそいつを見に来てくれる。人気者は二人も三人もいらないんだよ」って。今になるとよく分かるよ。  相撲の話になるが、団体のトップになるということの大変さは身に染みて分かった俺としては、今の二所ノ関部屋の親方になって、後進を育成している稀勢の里(現二所ノ関寛)は立派だと思うんだ。二所ノ関部屋は立派な部屋になったけど、それは稀勢の里の性格だからコツコツお金を貯めていたことと、さらにいいスポンサーもいたんだろう。それは彼の人徳だし、そうした後援者たちが集まって、かつて俺がいた二所ノ関部屋を再建できたのは嬉しいね。  二所ノ関部屋が無くなる直前に娘と二人で部屋の前まで行って「ここがああで、そこがこうで」と教えながら記念写真を撮って帰ってきたことを思い出すよ。自分がいた部屋だから消滅するよりも、やっぱり延々と続いてくれた方が安心だ。  それにしても今の二所ノ関部屋は茨城県にあるんだけど、すごく立派な建物だね。退院したら勝手に行ってみようかな。YouTubeの撮影だとかなんと言ってね。今の二所ノ関部屋がある場所は、実は昔に女房が「家を建てようか」と言っていたあたりなんだ。見に行ってあまりに田舎でやめたんだが……(笑)。住んでこそいないが、縁はあるんじゃないかと勝手に思っている。突然行くかもしれないから、二所ノ関部屋のみなさん、よろしく頼むよ!  稀勢の里と二所ノ関部屋にはぜひ、親方を超える力士を育ててほしいけど、身体能力が高いと若い子はほかのスポーツに行っちゃうしね……。とりあえず今の子は裸になってまわしをつけるのがかっこ悪い、恥ずかしいと思っているだろうし、ほかのスポーツから比べると特筆してよい思いができるわけでもない。  でも、学校の勉強は苦手なやつでも出世できる世界だから、いい職業だと思うんだよね。スポーツで有力な奴が相撲にくればイメージが変わるだろうし、辞めた後も、100いくつの年寄株を買えば、定年まで心配ないって、こんないい商売ないよ。本人に力があれば買えるんだから。65歳まで公務員をやるより堅実だよ。稀勢の里や白鵬はそういう、そういういいところから相撲のイメージを変えていってほしい。  そう思うと、昔は俺を含めて大熊元司さんやグレート小鹿、ロッキー羽田とか、相撲上がりのレスラーが多かったが、今は本当に相撲取り上がりのレスラーがいなくなったね。やっと気が付いたか、プロレスは割に合わない商売だって(笑)。  相撲からプロレスに転向するのは大変だよ。似ているようでまるっきり違う。試合もそうだが、それよりもプロレスは金の話になるとアメリカ流のビジネスライクな話になり、待遇の話になると渡世の義理人情の話になる。日本とアメリカの都合のいい部分だけを使ってうまくできているよ!  でも、今の現役のレスラーにはあまりビジネスライクにはなってほしくないなあ。いろいろなレスラーと戦ってきた俺が見ていると、今のレスラーにはもっとハチャメチャで弾けてくれよっていうのが本音だ。みんなきれいに万人に好かれようとしているし、こぢんまりして見えちゃうんだ。イスで殴ったり、凶器を持ってどうこうしろってわけじゃないが、それもアクセントにはなるんだよ。  今はきれいでアクロバティックなプロレス、華麗なプロレスが主流になってきているが、生で試合を見ると必死になっていい試合だとは俺も思うんだよ。でも、試合後に居酒屋に行ってまで語り合いたくなるほどの試合は少ないね……。昔は試合が終わった後も、どうだこうだと語っていたもんだけど。  もし俺が今、現役で天龍プロジェクトでリングに上がっている佐藤耕平や矢野啓太といった選手としょっちゅう戦っていたとしたら、彼らも気持ちの入り方がずいぶん変わったと思うよ。憎しみとか恨みでね(笑)。でも、そういう気持ちを丸出しで戦っているレスラーは印象に残るもんだよ。古いと言われるかもしれないが、俺たちがやっていたプロレスは不器用で汗臭いけど、一味違った、秋田名物「いぶりがっこ」みたいな味だったのかもね。  今のレスラーにも苦言みたいなことを言ってしまったが、俺がいない間も天龍プロジェクトのリングで戦ってくれているレスラー、それを見に来てくれているファンは本当にありがたいし、心強い。  SWSが解散したとき「俺に騙されたと思ってついてきてくれ、引退したときは俺がみんなについていく」って言ったけど、今はついてきてくれた人たちに感謝している。俺は身を引くけど、あなたたちのことを見守っている、そんな気持ちだ! 天龍プロジェクトやイベントの会場でみんなが元気な姿を見せてくれるから、俺も頑張れる!リハビリをさっさと終えて、みなさんの前に出られるように頑張っているから、もう少しだけ待っててくれよ! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
追っかけだったユーミンをデビューへ導いた一本のカセットとは? 【前編】
追っかけだったユーミンをデビューへ導いた一本のカセットとは? 【前編】 左から山内マリコ(やまうちまりこ)/ 1980年生まれ。「女による女のためのR-18文学賞」読者賞受賞。著書に、映画化された『あのこは貴族』や『一心同体だった』などがある。シー・ユー・チェン/ 1947年生まれ。60年代に成毛滋のザ・フィンガーズに加わる。その後、渡米。帰国後、ブランド・コンサルティング会社CIA Inc.を設立。(撮影/写真映像部・高野楓菜)  デビュー50周年を迎えた松任谷由実さん。彼女がデビューするまでを描いた小説『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』を10月に出した山内マリコさんと、ザ・フィンガーズの元ベーシストで、荒井由実さんが世に出る前から交流があったシー・ユー・チェンさんが、ユーミンについて語り合った。 *  *  * 山内マリコ:チェンさんとユーミンの最初の出会いはどんな感じだったのですか。 《シー・ユーは視線をベースから離さず、黙ったまま再びうなずいた。  由実はその青年の、一挙手一投足に目を奪われた。》 『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』(本文から) シー・ユー・チェン:僕はフィンガーズというバンドをやっていたのですが、バンドのたまり場的なところによくユーミンが顔を出していたんです。まだ彼女がデビューする前で、本当に音楽が好きで、興味にあふれて、すごく感覚が鋭い少女という記憶が強く残っています。 山内:フィンガーズの追っかけとして現れたとき、ユーミンは他の娘(こ)と違っていたんですか。 チェン:全然違う。ユーミンみたいな娘は誰もいなかったね。当時、FENが唯一の音楽のリソースで、洋楽のレコードは半年遅れで日本のヤマハや山野に出る時代に、ユーミンは自分のアンテナにひっかかり、僕たちが好きそうなLPをBX(アメリカ軍の基地内の売店)で買って持ってきてくれた。僕たちが求めている音楽の方向性を理解していたんです。だから、ユーミンが来たら何か面白い話ができそうだなって、みんなが思っていましたね。 山内:追っかけでそこまでの存在になるのがすごい(笑)。 チェン:まだショートヘアで、ちょっとニキビがあってね。探究心の強い、面白い娘というのが最初の印象。僕がレッド・ツェッペリンを初めて聴いたのは、ユーミンが持ってきたレコードでした。 山内:ユーミンは自分をフィンガーズの参謀だと思っていたそうですね。フィンガーズは「尖(とが)った」バンドでしたけど、その参謀というのが、かっこいい。 チェン:グループサウンズ(GS)の多くが、プロダクションがヒットさせたい、わかりやすい音楽をやっていたのですが、僕たちがプログレッシブ・ロックみたいなのをやっていたので、GSを聴きに来た人は何やってんだろうと思っていたでしょうね。でも、ユーミンはそこに興味を持った。 山内:フィンガーズが練習場所にしていたギターの成毛滋さんの麻布のお宅にも、ユーミンはよく行っていたそうですね。 チェン:フィンガーズも初めはアイビーリーグのようなスタイルをしていたのですが、ビートルズが出て、プログレッシブ・ロックが来て、滋と僕は1969年にアメリカで行われたロックフェスのウッドストック・フェスティバルに行ったら、ロングヘアになってしまった(笑)。ビートルズに影響され、音楽、思想、生きること、死ぬことなどを考え、学生運動が盛んな時代でした。同時に音楽が人生の指針となっていた時代でしたね。  僕もユーミンも大好きなプロコル・ハルムの「青い影」という音楽があるのですが、状況描写がかっこよかった。難解な内容でよく調べたら、カンタベリー物語の粉挽きの主人が奥さんを寝取られて、彼女の顔が青白くなっていくという内容。ユーミンはそういう、音楽の奥深くを解こうとし、プロコル・ハルムの情景描写の方法をインプットしていった。ユーミンが他のアーティストと違うところは、音楽に情景描写を取り入れ、時代感や時の流れなど、エモーショナルな部分も表現している。そういう才能を感じますね。 山内:みなさんで歌詞の解釈のことをよくお話しされたそうですね。 チェン:当時ユーミンがベンチマークしていたのはキャロル・キングでした。ピアノを弾きながら歌うシンガー・ソングライターとして大成功していた人です。 山内:キャロル・キングの成功があったから、作曲家志望だったユーミンも歌うことになったのですかね。 チェン:ユーミンは自分らしさを表現したいという気持ちが強かった。当時、彼女らしさが表現された曲が入ったカセットをもらったんです。それがすごく新鮮で。作曲家の才能を感じ、象ちゃん(音楽プロデューサーの川添象郎[しょうろう]さん)に言ってアルファレコード(創立者)の村井(邦彦)さんにテープを渡したのが、ユーミンがデビューするきっかけになった。 山内:川添さんは当時のキーパーソンですね。ところで64年のビートルズはストレートなラブソングを歌っていたのに、5年もするとサイケデリックな音楽になった。1、2年違うと世界が変わっていく時代だったんだなと調べていてわかりました。 チェン:50年代後期のアメリカはそれまでの価値観に不信感を持ち、世俗から離れて酒やドラッグなど、やや過激な方法で自分を見つけようとしたいわゆるビートニクス(ビート・ジェネレーション)、そして60年代後期はベトナム戦争下に誕生したヒッピーのフラワーチルドレンが、意識の世界を探究しようとマリフアナやLSDによって、自分が組織に入って歯車の一つで人生を終えていいのかと問い始めた時期でした。“自分”の意識を広げていきながらも共同体的な価値観を見つけようとし、社会への反発としてロングヘアになっていった時代背景があります。しかし、そういう人たちもその後結婚し、組織に入り、以前と同じトラップに入ってしまった。それが僕たちの世代です。 山内:日本ではベビーブーマー世代ですよね。ユーミンはそれよりも下の世代で、団塊の世代の人たちがGSで時代を切り開いている姿を見ていた。でも2年くらいでGS人気が下火になると、音楽から離れていく人も多かった。そのブームの終わりを見届けた後、細野晴臣さんたちキャラメル・ママの力もあって、いよいよユーミンが登場する。 チェン:僕たち団塊の世代が自ら時代を切り拓いていったのですが、パラレルに素敵な大人たちのお手本がありました。キャンティ(東京・飯倉のイタリアンレストラン)の川添浩史さん(象郎さんの父)やタンタン(妻の梶子さん)を中心とした人たちが、表層的ではなく、こういう日本文化をつくっていきたいという、確固とした信念とビジョンを持って時代をリードしていました。僕たちはこういう人たちを見て、かっこいい大人がいるんだな、自分たちももっと文化的になりたいと影響を受けたんです。 山内:戦争を経験した世代は、これからこの国をどうしていこうかという意識がとても強いですね。 ユーミンはいかに誕生したのか。好奇心いっぱいに回遊し、才能を開花させてゆく荒井由実の軌跡を追った。マガジンハウス刊 チェン:山内さんの小説のなかで、タンタンがユーミンにいいことを言っていましたね。タンタンは確かに人を見る目があった、やはり素敵な人だったと本を読んで再確認しました。 《「あなたはこんなもんじゃないわよ」 その言葉は、由実にとって、不滅のお守りとなった。》 『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』(本文から) 山内:ユーミンにとってチェンさんは、村井さんへのパイプ役でした。その村井さんも、若い頃に川添さんのおかげでパリのバークレー・レコードを見学させてもらったり、「マイ・ウェイ」の版権を購入したり、ヤナセと組んでスタジオをつくったりといった経験があったので、若いユーミンを育てるという気持ちは強かったのですね。 チェン:川添さんの家に行くと、いろんな次元で、とにかくいろんな人がいた。エネルギーに満ちあふれていて、「コネクトする」ということが自然に行われていくんですよ。人をミックスするのが好きだったのでしょうね。 山内:チェンさんの昔のお写真を拝見すると、とてもかっこいいですよね。もちろん今も素敵ですが(笑)。 チェン:僕は音楽をやめてファッションの世界へ行くことになったんです。アルファキュービック・インターナショナルの社長を経験し、アルファキュービック・アメリカというのをつくってアメリカへ行きました。 山内:当時はロスでどんな音楽が流行(はや)っていましたか。 チェン:日本の音楽ではイエロー・マジック・オーケストラというのが面白いよって紹介されたな。でも、当時のロスはニューウェーブやスカやレゲエなどでした。4、5年経ってユーミンが日本でスーパースターになっていると知り、えっ?という感じ。10年近くアメリカにいて日本に帰ってきたとき、彼女に会って「すごいね、ユーミン!」って話をしました。 山内:チェンさんの結婚式でユーミンが伴奏してくれたんですよね。 チェン:そう、イグナチオ教会(東京・四谷)でね。ユーミンがオルガンを弾いてくれました。 (構成/本誌・鮎川哲也) ※記事後編>>「ユーミンは時代を先読みして音楽で表現する 山内マリコらが語る魅力」はコチラ※週刊朝日  2022年12月2日号より抜粋
「やっぱりこの人と一緒じゃなきゃダメだな」 夫婦は毎朝の珈琲のような生活の一部
「やっぱりこの人と一緒じゃなきゃダメだな」 夫婦は毎朝の珈琲のような生活の一部 山口紀子さんと山口敏彦さん(撮影/写真映像部・上田泰世)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2022年11月28日号では中華料理店・芙蓉亭で接客・経理を担当する山口紀子さん、同じく芙蓉亭で調理を担当する3代目店主・山口敏彦さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 妻37歳、夫38歳で結婚。猫と共に暮らす。 【出会いは?】イタリア・フィレンツェで。遊学中だった妻がアルバイトで入った飲食店で、夫は料理人として働いていた。 【結婚までの道のりは?】帰国後、イタリアで知り合った仲間で集まるうち、自然と付き合うように。3年経ち、夫が今の店の仕事に馴染んだ頃に結婚。 【家事や家計の分担は?】掃除などは妻、料理は夫。財布はいっしょ。 妻 山口紀子[51]芙蓉亭 接客・経理 やまぐち・のりこ◆1971年、愛知県名古屋市生まれ。専門学校でグラフィックデザインを学んだ後、イタリアへ遊学し2003年に帰国。08年に結婚し、夫と共に店を切り盛りする  24時間ずっと一緒にいても、もっとずっと一緒にいたいって思う。親子やきょうだい、友達の関係とも違う、まさに人生のパートナー。毎朝の珈琲のような生活の一部であり、「いないと、やぁよ!」みたいな存在です(笑)。運命だった。出会うべくして出会ったんだと思う。  絶対に隠し事をしない、というルールは自然とできたかな。やだなと思ったら「こう思うよ」と伝える。超能力者じゃないから、黙っていたら相手はわからない。私はもともと言うほうで、彼は必ず私の話を受け止め、「僕の意見はこうだよ」と言ってくれる。だから一緒にいてとにかくストレスがないんです。  たまには思い切り喧嘩もするし、常にいいときばかりじゃない。でも私は人と一緒に何かをやり遂げて感動するタイプだから、つらいことも楽しいことも二人で経験することに幸せを感じるし、そこに生きる意味があるのかなと。  仕事をしていて毎日すごく楽しい。お互いこれからも健康で笑って生きていこうね。 山口紀子さんと山口敏彦さん(撮影/写真映像部・上田泰世) 夫 山口敏彦[52]芙蓉亭 調理 やまぐち・としひこ◆1970年、千葉県市川市生まれ。高校を卒業後、四川飯店で12年働く。イタリア料理に魅せられ、現地で3年修業。帰国後は、伯父が創業して父親が引き継いだ中華料理店・芙蓉亭に加わる。3代目店主  僕も彼女もしんどい空気が苦手だから、そうならないよう彼女は「思ったことを伝えなきゃ」って思うし、僕はそれを聞いて頭で処理して、自分の考えを返す。その一連の流れがあるからムリがないし、ストレスが消える。イタリアで出会った二人だから、難しく考えないんです。自分に素直になって相手と向き合えば伝わるんですね。  二人で考えたものを形に表し、実を結んだときが楽しくてしょうがない。新メニューの試作や試食を繰り返し、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいって考えて人気メニューになったときの「よっしゃ!」という感覚。そういうものを積み重ねてきて「やっぱりこの人と一緒じゃなきゃダメだな」って思います。  愛ってよくわからないけど、こういうことなんだと思う。  ほぼほぼずっと一緒にいて苦じゃないどころか逆に楽。今はまだ人生の前半戦。ここまでを見つめ直して後半戦につなげていければ、絶対もっと楽しくなる自信があります。これからもよろしく。 (構成・大塚玲子) ※AERA 2022年11月28日号
北欧で成功した「精子提供ビジネス」の実態と“子供の知る権利”をめぐる衝撃的な事実
北欧で成功した「精子提供ビジネス」の実態と“子供の知る権利”をめぐる衝撃的な事実 デンマークにある世界最大の精子バンク「クリオス・インターナショナル」創業者、オーレ・スコウ氏(写真:大野和基氏提供)  1980年代、エイズの蔓延によって確立した精子の凍結・解凍技術や厳正なセレクションによって信頼度と知名度を上げた海外の「精子バンク」は不妊に悩む多くのカップルを救ってきた。北欧で成功した「精子提供ビジネス」。匿名提供をやめた国はスウェーデン、オーストラリア、ニュージーランドなど12カ国ある。匿名提供と非匿名提供の難しさはどこにあるのか。10年以上にわたり取材を続けるジャーナリスト大野和基氏の新刊『私の半分はどこから来たのか――AIDで生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)から一部抜粋して紹介する。 *  *  *■ビジネススクールに通う27歳の大学院生が見た「何百という凍結精子」が泳ぐ夢  デンマークのオーフスにある世界最大の精子バンク「クリオス・インターナショナル」(以下、クリオス)を訪れたのは2018年9月末のことだ。デンマークで2番目に大きな都市であるオーフスは人口約28万人。オーフス空港から44キロほど海岸沿いを北西に行った中心部にクリオスはある。創設者のオーレ・スコウ(68)は1987年にこの会社を設立した。2017年12月1日付で引退し、後継者にはピーター・リースリヴがCEOの座に就いた。スコウはスイスのルツェルン湖沿いに位置するヘルギスヴィールで優雅な引退生活を送っている。  2019年7月、私は彼の自宅を訪ねた。なぜ精子バンクというビジネスを始めたのだろうか。  1981年、当時27歳だったスコウは、ビジネススクールの大学院生だった。「私はある日、非常に奇妙な夢を見ました。今でも脳裏に焼き付いているほど強烈な夢で、氷が混じった海の中で何百という凍結精子が波にとらえられるシーンが出てきたのです」。その夢が忘れられず、スコウは後に大学の図書館に向かい、精子と生殖能力についての文献を渉猟した。するとますますのめり込んでいってしまったのだ。  毎晩自らの精子を香水や薬などを入れるときに使う小さなバイアル瓶に入れ、冷凍庫で凍結させ、「実験」を始めた。彼の友人がアパートに来てそのことを知ると驚いたという。「私が学生のときに見た夢が、もう一つの夢を与えてくれました」。スコウは精子バンクを作る運命にあったのかもしれない。その夢をもとにして描かれた絵がデンマークのクリオス本社に一歩入ってすぐの所に大きく飾られている。  1986年2月にターニングポイントがやってきた。当時スコウは、特に定職に就いていたわけではなかったが、精子バンクを設立すべく、奔走していた。「400ページものビジネスプランを立て、ある日ビーチを歩いているとき、プランを実現するためにすぐ行動しようと決意しました」。ビジネスプランの前半は精子凍結の技術や生命倫理に関するもので、後半がビジネスに関するものだったという。当時デンマークに、「マーメイド・クリニック」という不妊治療を行う初の民間病院ができたが、民間という理由で公的機関から精子提供を受けるプログラムに加わることができなかった。29ある公立病院には精子提供されていたが、民間病院では提供されなかったのだ。 ■1週間後に最初の妊娠、2週間後には5人の妊娠が成功した  当時のスコウにはドナー・プログラムを立ち上げる資金がなかったため、精子を凍結保存することだけに特化したビジネスを始めようと思った。放射線治療や化学療法を施されると精子形成ができなくなることが多いと考えられていて、その治療を受ける前に精子は凍結保存されることが多かった。スコウ自身も自分の精子で凍結保存する実験をしたものの、「精子の質があまりよくなかった」という。ここで言う質の良さとは、運動性、運動率が第一に挙げられる。方向性をもって生き生きと動いているのが良い精子だという。そのあとに選別されるのが、1ミリリットル当たりの精子の数だ。  スコウは、マーメイド・クリニックが公的な精子提供プログラムに参加することができないと知り、すぐにこのクリニックを訪れ、精子の凍結保存ビジネスを自分が始めたことを伝えると、幸運にもその場で10万ユーロ(2019年当時のレートで約1200万円)の資金を得ることができた。公的な精子提供プログラムに参加できなかったマーメイド・クリニックは、すぐにでも提供精子を必要としていたので、スコウの精子提供ビジネスに飛びついたのである。 大野和基著『私の半分はどこから来たのか――AIDで生まれた子の苦悩』(朝日新聞出版)※Amazonで本の詳細を見る  その資金を元手に9平方メートルの広さしかない部屋を借り、1メートルの長さのテーブルを置いて精子凍結の施設にした。自分の手で町中にポスターを貼って宣伝して回った。交通手段は自分の自転車だった。宣伝を見て集まった提供者の凍結精子を自転車でマーメイド・クリニックに持っていくと、1週間後に最初の妊娠に成功した知らせが来た。2週間後には5人の妊娠が成功し、そこからは口コミで、大学教授や医師、そしてあちこちの病院にいたるまでこのニュースが広まった。公立病院からも凍結精子を使いたいという問い合わせが連日あり、供給が追いつかないほどにまでなった。 「自分から宣伝する必要がなくなりました。ドナーの選択、精子の数や状態などからみても最高の精子を提供したからです。妊娠率もすぐに4倍になりました。これは私が長年独学で精子について勉強していた成果です」。成功には運とタイミングがつきものだが、スコウの場合、医学部で習うレベルかそれ以上の専門レベルに達するほど精子について勉強した。経済学者のスコウが精子について強い関心を持っていた80年代、彼はビジネススクールに通っていた。帰宅後、ビジネスの勉強をしたあと朝4時まで精子について調べていた。 「精子の形態学、DNAの構造、運動性、先体反応だけではなく、体外受精、子宮など精子に関連するありとあらゆる専門書や論文、記事を読み、長年独学で勉強しました」。精子頭部先端には、ゴルジ装置から派生して、卵子を囲む細胞外基質や透明帯を消化するのに必要な酵素を含む先体が存在するが、受精能獲得精子が透明帯と結合すると先体は胞状化し、先体内の酵素を放出する。この現象が先体反応と呼ばれるもので、スコウはこれについても「頭が混乱するほど勉強した」という。「最終的に達した結論は、精子が子宮を移動するときに十分な濃度があれば、卵子に到達し、結合できるということです。卵子に結合できるのは最初に到達した精子ではなく、100番目と150番目の精子かもしれませんが、結合するには濃度と運動性が重要なのです」 ■7~10%は男性不妊が原因  この大胆なビジネスが軌道に乗り始めたとき、人々はすんなり受け入れたのだろうか。議論は起きなかったのかスコウに訊ねた。「もちろん多くの抵抗がありました。特に精子に問題がある夫側からの抵抗です。それでも私には明確なビジョンがあったので突き進みました。カップルの15~20%が不妊だった場合、その原因の半分は男性側に問題があると考えられます。つまり全体からみると7~10%は男性不妊が原因です」。最近は「マイクロ・テセ」という、精子が一匹でも見つかれば、それを卵子と顕微授精(ICSI:Intra Cytoplasmic Sperm Injection)といって精子を卵子に直接注入する方法で結合させる方法もあるが、マイクロ・テセの手術ができる医師はそれほど多くなく、AIDを勧めることが多い。  不妊の原因がどうしても見つからない場合、あるいは原因が見つかっても治療法がない場合は選択肢が三つある。一つはそのまま子供を持たない人生を送ること。二つ目は養子縁組で養子をとること。そして三つ目はドナーを使うことである。カップルのどちらに原因があるかによって精子提供か卵子提供となる。精子凍結・解凍技術の開発はアメリカで最初の精子バンクを作ったジェローム・シャーマン医師だと言われている。 「精子の凍結・解凍技術がなければ、フレッシュな(生の)精子を使わないといけません。そうするとドナーとカップルがほぼ同時に病院に行かないといけないので、互いに出くわすリスクがあります。でも、精子凍結・解凍の技術があれば、そういうリスクもなく、さらに精子を選択する範囲が広がります」。不妊治療において大きなブレークスルーが起こったのは1980年代の半ば、スコウがビジネスの夢を実行に移そうとしたときだ。そのころはエイズが広がり始めたときで、多くの国でフレッシュな精子の使用が違法とされた。 「まず精子を凍結して半年後に解凍して検査します。すると潜伏期間が過ぎているのでその精子がHIV(エイズウイルス)に感染しているかどうかわかります。エイズのまん延によって精子凍結を余儀なくされたのです」。クリオスが現在、1千人以上のドナーを有する世界最大の精子バンクとなり、100カ国以上に精子を輸送することができるようになったのもこの凍結技術のおかげだ。  次のターニングポイントは1992年にあった。初めてデンマーク国外からの注文が入った。ノルウェーからだった。92年にノルウェーの病院に凍結精子を送り始めると、すぐに現場で使用され、立て続けに子供が生まれたのです。それが契機となって他の国の病院にも知られるようになりました」  スコウはビジネススクールで学んだ顧客開拓の方法や経営戦略と、精子凍結技術の医学的知識を組み合わせて、液体窒素を使う凍結精子の海外発送も成功させた。「凍結される生物学的物質はマイナス140度以下で保存されなければなりません。その温度がすべての生物学的活動が止まる温度です。液体窒素は(沸点が)マイナス196度なので保存と輸送に向いています。空輸システムも非常に重要ですが、いまや世界のいかなる場所へも数日以内に輸送できるようになりました。追跡システムも完備しているので需要がますます増えました」  生殖補助医療に関する法律は国によって異なるため、凍結精子を送る相手国の法律に合わせなければならない。特に厳格な国はイスラム教圏の国である。これらの国で不妊治療など生殖補助医療の行為はハラーム(禁止)とされるが、医師は命がけで法律を犯してまで患者を助けているという。 「人工中絶と似ています。それが禁止されたところでは人は法律を犯してまで中絶手術を行うし、子供がほしい人は、どんな手段を使っても子供を持とうとするものです。イタリアでは2004年に生殖補助医療法が初めて制定されましたが、カトリック派が中心になって作られた法案が採用され最も厳しいものとなりました。配偶子提供も禁止、凍結保存も禁止となり基本的に生殖補助医療を受けることができなくなりました。しかし、2014年にこの法律は違憲であるという判決が出て合法になりました。イタリアはEU加盟国なので、自由に凍結精子を送ることができる。凍結精子を自宅に送ってそこで人工授精ができます」  クリオスのミッションは不妊カップルや子供を持ちたい女性同士のカップルやシングルの人を助けることであるとスコウは言う。「法律で禁じられていても抜け道を見つけます。その人の人生における最大の夢を実現するのを助けるためです。国によって法律は異なりますが、常にその国の議員たちと交渉や議論をしています。精子バンクを違法にしてしまうと、どうしても子供がほしい人は、いわゆるグレーマーケットに頼らざるを得ません。そうなると、何の検査もしない、何の保証もない出自不明の精子を使うので、感染症や遺伝病のリスクが大きく、非常に危険です」  最近はSNSで精子提供をしている人が増えているが、それも一種のグレーマーケットである。クリオスの場合、遺伝病や感染病の厳格な検査を合格した精子しか使わない。「ネットで精子提供と検索すると何千もの男性が見つかりますが、中にはセックス目的で精子提供をする人もいます。男性が原因でカップルに子供ができない場合、夫がそれを受け入れるのは非常に辛い」  オーストラリアのヴィクトリア州の法律では匿名で精子提供した人も追跡可能となり、提供精子で生まれた子が提供者に連絡してくる可能性も出てきた。これについてスコウはこう言う。「この法律の最大の問題は、すべての場合に適用したことです。もしあなたが医者に匿名を約束されて、精子提供したはずなのに、その精子から生まれた子から連絡があったらどう思いますか? あまねく法律を適用することは間違いです。提供者の匿名問題の解決法について、私は30年以上研究し、各地で講演もしてきました。クリオスがあるデンマークでは1953年にこの問題が提起され、継続的に議論されてきました。そして私は一つの結論に達したのです。この問題を解決する方法は一つしかありません。それは、『匿名提供』と『非匿名提供』の2種類のドナーを持つことです。クリオスもそうしています」 「非匿名提供、つまり自分が提供者であることを明かす場合、自分のID(自己確認書)を開示することで、その精子から生まれた子はドナーが生物学的にどのような人物であるかの情報を得られます。これは子供にとって重要です。匿名提供をやめた国はオーストラリア、ニュージーランドのように12カ国ありますが、最初にやめたのはスウェーデンで1985年です。長いプロセスを経て匿名提供をやめました。しかし、問題は匿名提供ができなくなるとドナーは減ります。私は市場経済学者でもあるので、その点から見ると、需要が大きいときに供給を減らすと何が起きるか断言できます。先ほど述べたように、人々は治療を求めて国外に行くか、怪しげなグレーマーケットに頼るかそのどちらかしか選択肢はないのです」 ■デンマークでは子供の5~8%が父親だと思っている人と血がつながっていない  子供の視点からみると、出生の事実を教えられたほうがいいと考えているのだろうか。そう問うと間髪を入れずにこう答えた。「もちろんそうです。できるだけ早く告知するのがベストです。それは専門家の間でもコンセンサスができています。3、4歳までに子供が『自分がどこから来たのか』と親に聞くことがあります。そのとき事実をきちんと伝え、そのあとも継続的に教え続けることです。そうすると子供は何の抵抗もなく受け入れます。問題は起きません」  しかし、もう一つの問題があるとも言う。「デンマークでは子供の5~8%は自分が父親と思っている人とは血がつながっていません。コペンハーゲンにあるジョン・F・ケネディー・インスティテュートのマーガレッタ・ミケルセン教授は私にこう言いました。『毎年腎疾患の子供が100人くらい来るが、まず腎臓提供者として親を第一候補として考えます。そこで血液型検査をすると、5~8%が父親と生物学上つながっていないことがわかりました。もちろんそのことは子供には言いません。ただ移植には合わないというだけです』。これは妻が浮気をして子供を作り、そのことを夫は知らないということを意味します。ですから、子供が生物学上の父親が誰であるかを知ることはすべての人にとっての権利ではないということです」  この衝撃的な事実と出自をめぐる権利についての著者の提言については、本書『私の半分はどこから来たのか』に詳しく書かれている。
夢は心身のパラメーター? 悪夢と結びつきやすい“疾患”とは
夢は心身のパラメーター? 悪夢と結びつきやすい“疾患”とは 写真はイメージ(Getty Images)  寝ている間に夢を見ない人はいないだろう。自分の意思ではコントロールできず、不思議な展開をすることも多い夢には、一体どのような意味があるのか。夢研究の第一人者として知られる研究者に聞いた。 *  *  *  悪夢を見て夜中に目を覚まし、「この夢にはどんな意味があるのか」と考え込んでしまった経験はあるだろうか。  大手出版社に勤める40代の編集者・アユミさんには、最近見た中でひときわ印象に残った悪夢がある。夢の中で、アユミさんは職場の上長から指示を受け、見も知らぬ誰かを殺している。自分が殺されないために誰かを殺した──そう言い訳をし、現場から一目散に逃げていく。場面は変わり、アユミさんは車の中。隣には実父が座っているが、実家で一緒に暮らしていた頃に比べ、明らかに痩せている。そう指摘すると父親は急に泣きだし、「自分はPTSD(心的外傷後ストレス障害)だ」「人生を振り返るとこうならざるを得なかった」とアユミさんに訴えてきた。「殺したから、殺されない。もう大丈夫だよ」と父親に声をかけ、車は走り抜けていく。そこで夢は途切れ、目が覚めた。アユミさんは、「人を殺したり、『PTSD』という具体的な単語が出てきたりと、生々しい感じがしました。数日前に担当した本が校了し、解放感を抱いていたところで、このタイミングでどうして悪夢を見るのかも不思議でした」と振り返る。  自分の脳内の現象なのに、いつ悪夢を見るかは予測できず、筋書きも内容も決められない。考えてみれば不思議だが、そもそも夢にはどんな役割があるのか。臨床心理学の立場から夢についての聞き取り調査や悪夢を減らすための心理療法を行う東洋大学社会学部の松田英子教授(博士・人文科学)はこう指摘する。 「人の脳は日中、膨大な量の情報をインプットし続けていますが、睡眠中は活動が縮小し、入ってきた情報を整理している。図書館の客足が途切れた時間帯のような状況下、情報を弁別し、いらなくなった記憶を処分したり、新しい記憶を古い記憶と関連づけたりすることが夢の役割だと言われています」  夢を読み解く上では「トリガー」と呼ばれるきっかけへの注目が必要だと、松田教授は話す。 「トリガーとなりやすいのは1週間くらい前までの経験で、連想をもとに関連素材が引っ張り出され、一つのストーリーになる。それがストレスフルなイベントや、自分の中で気にかかっていることだと、なおさら悪夢になりやすい。殺される夢は一般的ですが、アユミさんの場合、校了まで一生懸命仕事に打ち込んでいたからこそ考えなくて済んでいた課題との関係が考えられます。しかし逃げ切って大丈夫と励ますという結末なので、課題にも対応できそうです」  アユミさんは、悪夢を見る数日前までは「締め切りに間に合わなければ自分は首になるのでは」というプレッシャーを常に感じていた。そういった心境が、夢に影響した可能性も考えられる。  ところで、いわゆる「夢占い」のように、夢を潜在意識や欲求の象徴と捉える見方は根強い。アユミさんの夢にも同種の解釈を当てはめたくなるが、「その見方はもう古い」と松田教授は指摘する。 「夢とは連想のつなぎ合わせのようなもの。悪夢ならば自分の状態を知るのに役立ちますが、ほとんどのものはそうではなく、出てくるものすべてに意味があるとも限りません。例えば『PTSD』は、すでに一般的に使われる言葉。自分が知っている病気の単語に『PTSD』が含まれていて、何かのはずみに刺激されて出てきただけという可能性もあります」 『悪夢障害』(幻冬舎新書)などの著書を持ち、現在も精神科医として学生などを対象とした臨床活動を行う早稲田大学スポーツ科学部の西多昌規准教授も、「試験など、プレッシャーを感じる出来事がある前後に悪夢を見る人は多くいます。夢を見て一晩ぐらいうなされたからといって、さほど気にする必要はありません」と断った上で、「ただし、疾患によっては悪夢が重要な兆候となっている場合もあります」と続ける。  どのような場合に疾患の可能性を疑うべきか。 「目安は『悪夢が連日続いているか』『睡眠不足が日中の生活を妨害しているか』の2点。悪夢を見て眠れない状態が週に3~4日以上続き、仕事など日常生活に支障が出る状態が続くと心配です。精神科の受診を検討してみてください」 ■睡眠中に妻殴打 神経疾患が関係  悪夢と結びつきやすい疾患には、どのようなものがあるのか。よく名前が挙がるのはうつ病だが、「実は精神科医の間でも、悪夢とうつとは関連が高いとはそれほど思われていません。うつの場合は、気分が沈んだり、意欲が出なかったり、食欲や睡眠、体調の問題、極度の後ろ向きな思考など、確かなサインを伴っていることが多いです」と西多准教授は言う。  他方、悪夢との関連性が高いのがPTSDだ。 「戦争や災害の文脈で語られることが多いですが、いじめやハラスメントを受けても発症することがある。悪夢に加え昼間のフラッシュバックなど過覚醒を伴う場合、可能性が疑われます」(西多准教授)  そのほか、高齢者の男性に多い障害にレム睡眠行動障害がある。人間の睡眠には眼球がキョロキョロと動く「レム睡眠」と、レム睡眠以外の「ノンレム睡眠」という二つの状態があり、特にレム睡眠の時ほど、鮮明な夢が生じやすいと言われる。レム睡眠の最中は脳からの運動指令を遮断する機能が働き、腕や脚などの筋肉を活発に動かすことができない。ところがレム睡眠行動障害では、夢と行動とが結びつき、「睡眠中に怒鳴り散らす」「誰かから逃げ回るように徘徊する」「隣で寝ているパートナーを殴りつける」といった症状が表れる。  会社員の場合、部下に指示しているような言動が見られることもあるという。背景には脳の神経疾患が関係していると見られ、特にパーキンソン病、レビー小体型認知症、多系統萎縮症など、脳や脊髄にある特定の神経細胞が徐々に障害を受け、脱落してしまう病気の前駆症状である可能性が指摘されている。 「レム睡眠行動障害の場合、本人には自覚がなく、ケロッとしていることも少なくありません。下の階で寝ていても夫や父親の寝言が聞こえるとか、徘徊していて近所から苦情が来たといったことがあれば、可能性を疑っていただけたらと思います」(同)  夢は自分の心身の状態を教えてくれる目安のようなもの。ぜひ一度、現実的に向き合ってはいかがだろう。(本誌・松岡瑛理)※週刊朝日  2022年12月2日号
「女の目を見ない日本のビジネスマン」はウワサ通り 性差別がニューヨーカーの「観光地」レベルに
「女の目を見ない日本のビジネスマン」はウワサ通り 性差別がニューヨーカーの「観光地」レベルに 写真はイメージです(Getty Images) 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、日本の性差別社会ついて。 *   *  *  先日、アメリカに住む友人が来日したので、彼の同僚も一緒に3人と食事をする機会があった。ニューヨークの投資会社に勤めていて、3人のうち2人は日本が初めてという30代の女性(アジア系)と男性(ヨーロッパ系)だ。何十億円もの投資を募るために、たった1週間で20社近く回ったという。そして案の定、訪日初めての2人に日本の印象を聞くと、口を揃えてこう言うのだった。 「いろんな国に出張しているけど、これほど女性と会わない国は珍しいよね」と。  聞けば、誰もが知る大企業の名前が次々に出てきたが、彼らとのミーティングに参加するのは9割が男性だったという。そして当然のように受付は全員女性であることも、私のことを少し気にしながらも笑いながら話していた。制服を着て、高く甘い声で、深々とお辞儀をする若い女性たちの姿にはかなり衝撃を受けたようだった。さらに凄いのは、こちら側の女性に対して、日本人男性たちが商談中一度も目すら合わせようとしない、話しかけもしない、ひどい場合は名刺を渡そうともしないこともあったという。 「私が自己紹介しても、あ、そうって感じですぐにダン(男性の同僚)に話しかけるんだよね。私のことを、話す価値のない人だと思っているのがわかった」  日本に暮らす女としては、目をつむっていてもやすやすと想像できる光景ではある。念のために、それって日本以外では起きないの? だったら早めに亡命したい……みたいなことを言ったら、「そんなことはない。女の目を見ない、特にアジア人女性を無視するようなビジネスの場所はあるよ。でも、日本の会社にはあからさまにそれをする人が多いよね」とのことだった。  もし、この場にいるのが全員、日本に暮らす女だけだったら、きっと私たちは悔しさに涙する勢いで互いを慰め、どう復讐しようかと盛りあがるだろう。でも、彼女はニューヨーカー。日本がどうなろうがハッキリ言ってどうでもよく、ビジネスがうまくいけばただそれでOKなのだ。というより、「日本ってウワサ通りでウケル~」と楽しんでいるような調子すら彼女にはあった。もちろんアメリカにだって性差別は根深くある。それでも、ビジネスの場でそれをやったらおしまいよ、というレベルで女がストレスを感じる機会は日本よりも、きっとずっと少ないのだろう。 北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表  「女の目を見ない日本のビジネスマン」の話に私がむぅーと暗い気分になっていたら、隣にいた男性が、「質問があります」と聞いてきた。 「新聞で読んだんだけれど、安倍さんは、日本で初めて男女平等を政策に掲げた首相だったんでしょう? あなたはどんなふうに安倍さんを評価していたの?」  不意を突かれた。そうだった、完全に忘れてはいたけれど、そういえば安倍さんは日本で初めて、女性に輝いていただきますよ、と予算を大量につけた首相だった。2015年に「女性活躍推進法」を成立させ、女性が働きやすい環境づくりを目指そうと音頭を取った人であり、海外の投資家たちが読むような新聞では、「シンゾー・アベは男女平等政策に熱心な政治家」として記述されるような人だったのだ。  例えばビフォー安倍さんのころ、どれだけの人が3月8日の国際女性デーを認知していただろう? 今でも覚えているが、16年に女性活躍推進法が施行された翌年の3月8日の国際女性デーは、まるでお祭りのようなにぎわいだった。時の首相の妻であった昭恵さんが自ら渋谷ヒカリエで行われたイベントに登壇し、「イキイキワクワクできる女性が輝く社会の実現」について話もしたものだ。それはなかなか画期的なことだった。実際、今や日本の3月8日は、大企業が率先して「私たちは多様性を大切にする会社、SDGs大切です!」(←男女平等とは言わない)をアピールするような日になった。3月ともなれば花屋にはミモザがあふれ、企業のホームページにも黄色の花がちりばめられるようになっている。それもこれも安倍さん時代につくられた空気でもあった。  でも、そういう空気は、いったいどれほど私たちの社会を変えたのだろう。  女性活躍推進法施行から6年を経ても、大企業の男たちが女の目を見ようともしない社会であることが、その答えなのだろう。「多様性大事、SDGs大事、私たちちゃんとやってますよ~」、という空気はつくられているが、そこには中身や、核となる芯がない。押せばヘコヘコとしぼむゴムボールのようなもので、真剣ゲームはできないが手軽に遊ぶには問題ない軟らかさだ。それでも、ないよりはあったほうがまし……と、はずまないボールをつかまされているのが日本の女の現実だ。  そういえば、安倍昭恵さんが登壇した17年の国際女性デーのイベントでは、「日本の未来を元気にする現役女子大生『キャンパスクイーン』」6人がつくった「幸せの黄色い花のミニブーケ」と彼女たちの目標を記した「幸せの黄色いハンカチ」を発表して、1人ずつ「夢宣言」を行うイベントがあった。現役女子大生とかキャンパスクイーンとか、そういう言い方がもう……という話なのだけど、日本の国際女性デーからは、そんなふうな、キラキラ光る宝石箱の中に若い女性を押し込めて無理やり夢を前向きに語らせようとするような怖さがある。男女平等を命がけで求めた泥臭い女の運動の歴史などはなかったかのような、軽さがちょうどいいのよ、男は恐がりだからあまり強くならないで……な、こぢんまり感がある。そしてそういう空気こそが、安倍さんのつくってきたものなのだろう。  ニューヨーカーたちが行きたいと言った新宿の居酒屋は、会社帰りのサラリーマン(ほぼ9割男性)でにぎわっていた。女は家に帰り、食事の支度をしているのか、子どもの世話をしているのか、親の介護をしているのか、そもそも会社帰りに一杯の余裕もないのか。まるで「浅草寺に行ってきたよ~、観音様見てきたよ~」「富士急ハイランド行ってきたよ~」といった調子で、「日本ってウワサ通り~」「性差別体験してきた~」という軽さで日本の状況を語られると、性差別がいよいよ「観光地」レベルになってきたのかもな……という気持ちになる。たぶん、私はその居酒屋一、空気の重たい女だったろう。イキイキワクワクな軽さからは程遠い女のリアルだ。
稲垣えみ子「家事とはいつでもどこでも自分の手で作り出せるベーシックインカム」
稲垣えみ子「家事とはいつでもどこでも自分の手で作り出せるベーシックインカム」 元朝日新聞記者 稲垣えみ子  元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。 *  *  *  先日の新聞で、共働き夫婦でも妻と夫の1日の家事・育児時間の差は約4時間半で、15年間ほぼ縮んでいないという調査結果が紹介されていた。結局は夫の側に「家事育児をしないのが『男らしさ』という意識があるのでは」と専門家。  ま、さもありなん。私は独身子ナシゆえ育児は未経験だが、少なくとも家事に関しては「外で働いているから家事できない」ってことは全くないということを知っている。だって会社員時代はまあまあ長時間労働だったが他に誰もやらんとなれば自分でやった。逆に言えば、やらないのは「できない」のではなく、単にやる気がないだけである。私も実家にいたころは超ヒマだったのに母にほぼ任せきり。ハイやる気がなかったのです。母がやってくれるからラッキーと思っていたんですな。  で、そこなんですよ。自分の身の回りのことを誰かがやってくれることって、本当にラッキーなのか。 やっと本格的に秋ですね。タイ焼きの美味しい季節!(photo 本人提供)  今にして思うと、就職してすぐ家を出たがゆえ仕方なく最低限の掃除洗濯料理をやり続けたことが、いかに今の自分を支えているかを痛感しない日はない。いや「支えている」なんて言葉じゃ全く不十分で、会社を離れ明日をも知れぬ不安定な身となってもニコニコ暮らしているのは100%家事ができるおかげである。だって家事っていわばセルフ「お・も・て・な・し」。家事さえできれば金があろうがなかろうが、快適な部屋でウマイものを食べ清潔なお気に入りの服を着て日々生きられるのだ。となれば世の中がどうひっくり返ろうが何を心配する必要がある? 家事とはいつでもどこでも自分の手で作り出せるベーシックインカムなのである。  そんな宝を自ら手放すことが「ラッキー」とか、ましてや「男らしさ」などと言っている人が正直心配だ。念のため付け足しておけば、そもそも家事をしない人が「男らしい」なんて思ってる女性は今どき皆無で、つまりは100%モテない要素でしかなく、どう考えても百害あって一利なしのナゾの価値観であることを申し添えておく。 ◎稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行 ※AERA 2022年11月21日号
京大の周辺はキノコの宝庫だった! 歌人・永田和宏が語るキノコ狩りの醍醐味
京大の周辺はキノコの宝庫だった! 歌人・永田和宏が語るキノコ狩りの醍醐味 ※写真はイメージです (GettyImages)  秋の食卓を彩るキノコたち。スーパーで買うのもいいが、自分で採ったものなら味も満足感も格別だ。歌人の永田和宏さんもキノコに魅せられた一人。「キノコ人生」を振り返ってもらいました。 *  *  *  今では普通に売られているマイタケですが、昔は幻のキノコでした。大量生産されスーパーで売られているのを見たときは、ショックでしたね。  それでも店で売っているキノコの種類は、まだまだ限られています。売られていないものの中に、おいしい種類がたくさんあるのです。  また、「今このキノコを食べているのは、採ってきた俺だけなんだ」という満足を感じられるのも、キノコ採りの醍醐味だと思います。自分の足で探して見つけたものを食べるのは、とても贅沢なことでしょう。 ──そう語るのは、宮中歌会始詠進歌選者、朝日歌壇選者の歌人であり、細胞生物学者としてJT生命誌研究館館長を務める永田和宏さん(75)。長年にわたりキノコ採りを楽しんできた。  あれは京都大学で講師をしていた30代半ばくらいのことですね。文学部の助手だった友人が、ツルタケを採ってきたのがきっかけです。「ツルタケはテングタケという毒タケの仲間だけど、これだけは食べられるキノコ。おいしいですよ」と言ってくれたんです。家に持って帰って食べたら、これがおいしくて。  あくる日、「昨日はおいしかったよ」と言ったら、「え、本当に食べたんですか?」と言われました(笑)。ひどい話ですけど、そんなことから、キノコを採って食うという楽しみが始まりました。  京都では、市内でもいろいろなところにキノコが生えています。皆、気がつかないだけですね。キノコを探す目にならないと、見てても見えていないわけです。  京大の横の東大路通には、プラタナスの並木があります。その木に春秋2度、ヤナギマツタケというキノコが生えます。古い木の枝を切った断面に、ワッと束になって生えていたりします。百万遍から京大病院まで歩いて戻ってくる間に、採ったキノコで紙袋が二つくらいいっぱいになって。それを塩漬けにして、冬の間、毎晩のように鍋で食べた年もあります。 キノコの神秘について語る森毅さん(1989年5月、朝日新聞社提供)  森毅さんという数学の先生が京大におられました。森一刀斎といって人気の教授でした。森さんは『キノコの不思議』という本を出していたので読んだところ、東大路通でヤナギマツタケを採っていると書かれてました。誰か採った奴がいるなあというプラタナスがありましたけど、森毅さんだったんですね。  京大のキャンパスの中にもいろいろあるんですよ。文学部横の幅50センチほどの砂地には、ヒトヨタケという白いキノコが生えてきました。  このキノコは、出てきてもその日のうちに溶けてしまいます。地上に出てきたやつはだいたい溶けかかっているので、出てくる頃を見計らって採るのがコツ。地面に顔をつけるように探すと、出てくるのがわかるんですね。通りがかりの連中からは、変な顔で見られていましたけど。  ヒトヨタケはみそ汁にしたり、大根おろしと一緒に食べるとおいしい。すぐに溶けちゃうから、絶対スーパーには出ません。採ってくるしかないんです。それだけに強い満足感が得られます。  熊野寮のそばには、アミガサタケが生えていました。バターで炒めてワインと一緒に食する。なんともいえないひとときを堪能したものです。  京都岩倉の瓢箪崩山に行って、マツタケを採ったこともあります。いわゆるマツタケ山じゃないけど、寄生しているマツタケに巡り合ったんですね。あのとき採ったのは23本やったかなあ。  ──永田さんの妻(歌人の故・河野裕子さん)も子どもたちも、キノコ採りに夢中になった。永田さんが河野裕子さんとの出会いと愛を綴った書籍『あの胸が岬のように遠かった』は、今年6月にNHKでドラマ化されて話題になった。キノコをめぐる河野さんとの思い出も尽きない。  家族で信州に行ったとき、河野がアカヤマドリを採ろうとして、崖から滑り落ちたこともありました。アカヤマドリは量感のあるキノコで、色も奇麗。京都近辺にはないですし、私も採ったことはなかった。行く前から「採りたい、採りたい」と言ってました。 永田和宏さん  山に入ったらほんとに見つけて、思わず足が滑っちゃったんですね。斜面を転がりました。でもアカヤマドリだけはしっかり握りしめていました(笑)。  アカヤマドリは焼いても炒めてもおいしく、苦労したかいがありました。  1984年から86年まで、アメリカ・ワシントン郊外の国立がん研究所に留学していたときにも、キノコを採りました。  家族でボストンに旅行に行ったら、プラタナスの木があったんです。私はどうしてもキノコに目がいっちゃうんですよね。よく見たらやっぱり生えていて。「おお、ヤナギマツタケや」と、子どもを肩車して採らせようとしたんですよ。するとパトカーが止まって「お前ら何してるんや」と質問を受けました。不審者に見えたんでしょうね。  毒タケと食べられるキノコとを見分けるのは難しいので、注意が必要です。毒タケにあたったのは、一度だけ。アメリカ留学中のことです。  あれはたぶんキツネノカラカサだったんでしょうね。NIH(国立衛生研究所)の庭に生えていました。私はキノコ図鑑を何十冊も持っていて、毒タケかそうでないかは、だいたい見分けがつきます。これは怪しいと見たんだけど、チェコスロバキアの科学者が「我々は母国でこのキノコを食べている」と言ったんです。類似のカラカサタケはいい食菌だから、それと間違えたのでしょう。  家に持って帰りましたが、怪しいから「後で調べるから置いておけ」と言って再び研究所に戻ったんです。でも河野は好きなもんだから、私が帰る前に食べてしまった。それで下痢を起こしたんです。まあ大したことにならずに済んだんですけど。  うちの家の庭には竹やぶがあって、そこに、まるでレースのスカートをはいたような美しいキヌガサタケが生えるんです。これは中華料理の高級食材ですよね。  河野が好きだったのでその話をエッセーに書いたら、地元の新聞が毎年のようにうちの庭に取材に来るようになりました。河野がキヌガサタケを見てる写真が、紙面に掲載されたこともあります。秋になると、そのときのことを思い出します。(本誌・菊地武顕)※週刊朝日  2022年11月25日号
つみたてNISAアクティブ投信1位「ひふみ」運用責任者の意外な本音
つみたてNISAアクティブ投信1位「ひふみ」運用責任者の意外な本音 レオス・キャピタルワークスの「ひふみ投信」シリーズのバトンを、カリスマ運用者・藤野英人さんから渡された佐々木靖人さん。多忙の合間を縫って、週に3回は家族のために夕食を作る一面も   つみたてNISA(少額投資非課税制度)のアクティブ型投資信託で純資産総額トップの「ひふみプラス」(レオス・キャピタルワークス運用)。この投資信託のファンドマネジャーである佐々木靖人さんにインタビュー。  2022年4月、佐々木さんはカリスマと呼ばれる藤野英人ファンドマネジャーから、日本株メインの「ひふみ投信」シリーズのバトンを渡された。米国留学で学んだ金融知識とトップ直撃型の就職活動で磨かれたフットワークの軽さが持ち味の敏腕運用者だ。  佐々木さんは「探索余地が多いのが日本株の魅力」と語りはじめた。 「ひふみ投信」シリーズは高い運用成績で人気を集め、レオスでの直接販売、銀行と証券会社での販売、確定拠出年金用の3つを合わせた純資産総額は6500億円(2022年10月17日現在)を超える。個別銘柄を選別して投資するアクティブ型投資信託では指折りの存在である。  ひふみシリーズを大きく育てたのは、レオス創業者の藤野英人代表取締役会長兼社長CIO(最高投資責任者)だ。  藤野さんは以前、本誌のインタビューで、自らの後任について「才能にあふれたキレッキレの人材が社内にいっぱいいます」と述べていた。巨大投資信託「ひふみ投信」シリーズを任された佐々木さんが、まさしくその人である。  佐々木さんは岡山県倉敷市の生まれだ。 「卒業を控えた高校3年生の1月、母親から突然『どこかに留学しなさい』と言われました。企業経営者だった父は『これからの人間は、英語とドルがわからなければ』が持論。ドルって、為替のことを言ってるんでしょうけど(笑)。父母の言うことを合体すると米国行きってことになりますよね」  21歳で米国の大学に行ったら人より牛が多かった…  佐々木さんは東京にある米国のレイクランド大学日本校を経て、21歳で本校のある米国に渡った。 「着いたら、『うへぇ……』ってなってしまって。現地は人より牛が多いくらいの田舎でした。がっかりして4カ月で退学しました。その後、カリフォルニア州立大学に転入し、金融を学びました。  金融を選んだ理由? 入学直後に配られた資料に『卒業生の専攻別初任給』が載っていたんですけど、金融が上位にあったからです(笑)」  佐々木さんの就職活動は正面突破型。 「卒業して最初の職場はブルー・マーリン・パートナーズというコンサルティング会社でした。ロサンゼルスの紀伊國屋書店で買った企業価値評価の本がとてもおもしろくて、著者の山口揚平さんに感想を伝えるメールを送ったんですね。  そうしたら、山口さんはタイミングよくコンサルティング会社を起業したばかり。入社の誘いをいただき、二つ返事で乗りました」 AERA Money 2022秋冬号(AERA増刊)  2006年に会社員生活をスタートさせたが、その後すぐリーマン・ショックが発生し、転職を考えはじめる。 「外資系コンサルティング会社で面接したとき『会計知識を鍛え直して資産運用の世界でがんばりたい』と話したら、そういうやつは運用会社へ行けと言われました。そりゃそうですよね(笑)。でも、リーマン・ショックのせいでどこも門戸を閉ざしていました」  するとチャンスが舞い降りてくる。 「日本でははじまったばかりだったツイッターに、留学や転職のこと、資産運用への熱意を日々投稿していたらダイレクトメッセージが届いたんです。レオスの藤野英人社長からでした。  フォーシーズンズホテルのロビーで待ち合わせたんですが、いきなり『三越百貨店で鳥取物産展があるから、見に行くぞ』と。運用や金融の話はなく、藤野社長は『梨、うまいな』と言って喜んでいました。僕も『メロン、甘いっすね~』って」  2009年、レオスに入った佐々木さん。だが、2013年に退職してヘッジファンドに活躍の場を求めた。 「ダーウィン・キャピタル・パートナーズに行きました。転職して収入もポジションも上がったんですが、倉敷にいる父が病気で倒れたので辞めました。その後の身の振り方を藤野社長に相談したら、あっさりと『じゃあ、戻ってくる?』。うれしかった」  レオス退社時、藤野さんは佐々木さんに『出戻りOKよ』と声をかけていた。戻ってきてほしかったのだろう。 株式にも旬がある。工夫の余地は大きい  佐々木さん担当の「ひふみ投信」シリーズは、企業調査を踏まえて主に国内の成長銘柄を選ぶアクティブ型だ。 「株式にも旬がある。夏には成長株が上がり、年末は相場全体が上がる傾向があります。選挙前になると動き出す銘柄もあります。  こうした特徴のある銘柄を脇役に、中長期の成長が期待できる銘柄を運用のメインに据えるのが基本的な考え方です。成長して株価が上がる可能性を秘めた企業は多く、工夫の余地は大きい。  インデックス型だと株価指数の構成銘柄はすべて買わねばならないので、旬ではない銘柄まで機械的に組み入れることになります」  これが佐々木さんの本音だろう。もちろんインデックス型投資信託を否定しているわけではない。ただ、それ以上にアクティブ型であるひふみ投信シリーズが好きで、熱を込めて運用している。  そんな佐々木さんは就学前の2児のパパ。多忙な中、週3回は夕食を作る。 「妻に好評なのはマーボー豆腐です。子どもたちには辛くないあんかけ豆腐を出します。私は小学生の頃からずっと、ほぼ毎日、夕食の準備を手伝っていました。 『これからは男も家事と育児をできるようにならないと』と繰り返していた母の教育の成果ですね」  世の中には約6000本もの投資信託がある。ただ、設定から10年以上経っても勢いが衰えないものは少ない。  佐々木さんは「無難な幕の内弁当より特徴のある弁当、自分好みの食事を丁寧に作っていきたいと思います」と、料理に例えた。  米国株のインデックス型投資信託全盛の一方でひふみ投信が支持されてきたのは、投資家に最高の味を提供してきたからだろう。 ◯佐々木靖人(ささき・やすと)/ファンドマネジャー。1980年生まれ。2006年、California State University, Bakersfield校を卒業後、ブルー・マーリン・パートナーズで戦略立案等に従事。2009年にレオス・キャピタルワークス、2013年にダーウィン・キャピタル・パートナーズ、2016年に再びレオス・キャピタルワークス。2022年、「ひふみ投信」シリーズのファンドマネジャーに就任 (構成/編集部・中島晶子、伊藤忍) ※『AERA Money 2022秋冬号』から抜粋
若者や子連れの母親が食料配布に並ぶワケ 東京・新宿の支援所で見たインフレのリアル
若者や子連れの母親が食料配布に並ぶワケ 東京・新宿の支援所で見たインフレのリアル 支援用のパンを袋詰めするボランティアたち  11月5日午後1時半過ぎ。東京・新宿駅から西へ徒歩7分ほどにある東京都庁地下1階の都道下通路には、500人を超える行列ができていた。午後2時から始まる食料品の無料配布を待つ人たちだ。先頭は午前6時ごろから待ち続けているという60代の求職中の男性。11時過ぎから行列が延び始めたという。  主催は生活困窮者の支援をするNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」と「新宿ごはんプラス」。20人ほどのボランティアたちがポリ袋に小分けした食料品のセットをトラックから降ろしていた。 「ここでの食料品配布は『新宿ごはんプラス』が8年前に実施したことに始まります。当時は隔週土曜日の事業で、手作り弁当の配布をメインに、医療や生活、労働に関する相談にも乗りながら支援をしてきました」 こう話すのは、「認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」理事長で「新宿ごはんプラス」の共同代表を務める大西連さん(35)。初回は周辺で暮らすホームレスの人たちを中心に約40人が利用し、以降、60~80人前後で推移していた。ところが2020年2月ごろから、毎回100人を超えるようになった。 「コロナ禍による失職や就業時間の削減による収入減の影響で、ホームレス以外の生活困窮者が増えたからです。それで20年4月から『もやい』も加わって毎週行うことになりました。そして、お弁当を作るには人手が足りないし財政的にも厳しいため、アルファ米や缶詰、パンなどすぐに食べられて日持ちもする食料品の配布に切り替えました」(大西さん)。  20年6月13日には160人余りの行列ができ、都庁側が「使用許可を取っていない」と注意する事態も起きた。両団体はそれをはねのけて支援を継続。21年2月には200人超えが常態化し、今年1月には500人を超えた。  大西さんが続ける。 「10月29日には過去最多の631人に食料品セットをお渡しました。前週22日が581人でしたから一気に50人も増えてしまったのは想定外で、配布セットが足りなくなりました」  何かと出費が多い月末だったこともあるが、「景気は依然として低迷し、先行きが不透明。加えて食料品や日用品などの値上げに追い打ちをかけられ、『生活防衛のため食事の支出をとにかく減らしたい』という方が増えているからだと思います」(大西さん)。 温かい食事を準備  インフレは収入が乏しい人たちの暮らしを直撃している。帝国データバンクが発表した「食品主要105社」価格改訂調査によると、11月に値上げを予定しているのは833品目。「今月と12月に予定されているものを含めると本年は2万743品目が値上がりし、平均値上げ率は14%」になるという。  筆者は今年4月から毎月1~2度、支援の様子を取材してきた。並んでいるのは60代前後の男性が大半だが、老夫婦もいれば、体の不自由な人もいる。なかには子供を連れた母親の姿もあった。毎回、ベビーカーに3~4歳の男の子を乗せた年配の女性、乳児と思われる女の子を抱く若い母親、姉妹を連れた女性を見かける。時には小学生くらいの子供たちだけで来場していることもある。  6月ごろから20~30代と思われる男女が増えてきたのも見逃せない。困窮者の裾野は徐々に広がってきている、と言うのが実感だ。  10月29日には、食料品の他に500円分の「全国共通お食事券ジェフグルメカード」も配られた。都内の派遣会社で働くヤスオカさん(仮名、54)が、こう説明してくれた。 「食事券も不定期なんだけど、これのメリットは、飲食店で温かい食事を食べられることもさることながら、金券ショップで450円前後で買い取ってもらえること。たかが450円であっても手元に現金が残るのはありがたい。ここへ来る交通費の足しにもなるしね」  ところが、この日は想定以上に行列ができ、30人ほどに食事券が渡らなかった。数人前でそれが判明した40代くらいの男性は「俺の牛丼が……」と絶句。「交通費がもったいないから、練馬区内の自宅へは2時間半かけて歩いて帰る」と肩を落としていた。  そして今月5日。午後2時ちょうどに「お待たせしました」のアナウンスで、配布が始まった。  この日のセットは、アルファ米2袋にビスケットやせんべい、缶詰、トマトにミカン、りんごなど。ほかにアルコール消毒液、液体せっけん、マスクなどの衛生用品と「新宿区の保健所からの依頼で、無料の結核検診のお知らせが入ったポケットティッシュもお配りしました」(大西さん)。 生野菜やフルーツもある  歩道脇の階段に座り、配布されたばかりのトマトにかぶりついていたのは、3月まで六本木でダイニングバーを経営していたというナカムラさん(仮名、46)だ。 「ここは必ずトマトや果物をもらえるので、ビタミン補給にはもってこい。一人暮らしだと買う機会はあまりないから」  店は東京ミッドタウンの裏手にあった。しかし、コロナ禍で19年の売り上げは前年比9割ダウン。公的支援で1年半ほどしのいだものの、起死回生を狙って始めたFX(外国為替証拠金取引)に失敗して昨年末に約2千万円の負債を抱え、桜の開花前に閉店せざるを得なかった。  バツイチ・独身。港区内の賃貸マンションを引き払って中野区の1Kアパート暮らし。日雇い警備員のアルバイトで生計を立てているという。 「収入は月に手取り14万円。4万8千円の家賃と水道光熱費、携帯電話代、生命保険料を払ったら残るのは5万円ほど。貯金どころか年金を払うのもやっとだから、食費をどう削るか毎日、頭が痛いよ。アハハハハ」  最後は自嘲気味に笑い、アルミ包装クラッカーの封を切った。  50代のイトウさん(仮名)にも話を聞いた。3年前まで電気工事会社の営業をしていたが、上司によるパワハラで心を病み退職。ところがPTSDのため転職しても長続きせず、妻は昨年3月に子供2人を連れて実家に帰った。家賃5万円のワンルームマンションに暮らし、現在も心療内科に通っているという。 「9月にアルバイト先の物流倉庫でけがをしてしまい無職なんです。50万円弱あった貯金は減る一方で、残りは28万円ほど。ここでもらえる食品を当てにして、一昨日から口にしたのは水道の水だけ。今日はこの後、渋谷の美竹公園で別のボランティア団体がやってる炊き出しに行きます。6キロ弱の距離なので徒歩ですよ」 「炊き出し」を行っているのは、「渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合」(通称のじれん)。毎週土曜日の午後6時から、鶏肉と野菜の炊き込みご飯、フルーツなどを配っている。 「毎回、作りたてを提供してくれるので重宝しているんです。やっぱり、温かい食事を食べられると、心がホッとしますから。特にこれからの季節はね」(イトウさん)  美竹公園では10月25日早朝、公園と周辺の再開発を名目に渋谷区の職員が園内でテント生活をしていた路上生活者を追い出そうとしてトラブルになった。  そのニュースに接した2ちゃんねる開設者で実業家の『ひろゆき』こと西村博之氏が「区がアパートを用意したのに、公園に残ったホームレスの話しです。『公園しか居場所が無い』とか、すぐにバレる嘘をつくのは、何故ですが?(原文ママ)」などとツイートし物議を醸したばかりだ。 「ひろゆき氏の発言は一見、もっとものようですが、何故、路上生活になったのか?どうして過酷な路上生活を続けているのか? と言う視点と知識、洞察力がないと思います。いつもながら上っ面しか見てない」とイトウさんは手厳しい。 「私だって営業マンをしていた頃は年収が手取りで800万円ほどありました。3年後、こんな生活をしてるなんて思いもよらなかった」。  5日に新宿で食料品セットを受け取ったのは569人。12日は過去2番目に多い624人。そして19日は622人だった。 「10月に入り、600人超えが常態化しつつあります。このまま年末に向けて物価高が続くと、ますます食料品を希望される方々が増えると思います。質や量は減らしたくないので、ご寄付は大歓迎です」(大西さん)。  NPO法人やボランティアによる支援や自助努力だけでは、すでに限界が見えている。政治、行政による抜本的な貧困対策と支援が今こそ必要ではないだろうか。 (高鍬真之) ※週刊朝日オリジナル記事

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