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この品は、あの人なら買う 浮かぶ顔と名前 ウエルシアホールディングス・池野隆光会長
この品は、あの人なら買う 浮かぶ顔と名前 ウエルシアホールディングス・池野隆光会長 坂戸のトップ2号店、ここで安売りの限界を痛感した。いまは様変わりで、調剤や相談コーナーと、客が主役の形に変えて賑わいが続く(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年7月10日号では、前号に引き続きウエルシアホールディングス・池野隆光会長が登場し、『安売り合戦』を展開した地域を訪れました。 *  *  *  ウエルシアは全国に2751店(2月末現在)と、国内ドラッグストア業界で最大級になった。52年前に埼玉県新座市で売り場面積6坪(約20平方メートル)の小さな薬屋を開き、「もっと品物を揃え、大きくやりたい」との思いを溜めて、1979年に同県南西部の毛呂山町でドラッグストア「トップ1号店」を開業した。  宅地開発が急速に進む地で、夢中でやったのが安売り合戦。でも、売り上げを増やしても、利益が残らない。「安売りだけでは、生き残れないな」と悟ったのが、この1号店と東隣の坂戸市に持った2号店の時代だ。  ことし4月、安売り合戦を展開した地域を、連載の企画で一緒に訪ねた。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  池野隆光さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったという毛呂山町の1号店は、東武越生線の武州長瀬駅から約800メートル。幹線道路に面した物件で、床面積は約20坪と当時では広いほうだった。さらに隣で閉店した家具店も借りて、床面積が一気に100坪となる。 ■売り場広げても売る品がない創業初期の日々  ところが、広くしても、置く品がない。周囲に「こんなに広い店、どうするのか」と言われて、先が怖くなったことを、跡地に立って思い出す。土地はその後、町の区画整理事業の対象になったので、売却した。買い上げてもらえなかった角の三角地は、そのまま残っていた。  あのとき、新座市の薬屋は薬剤師の資格を持つ妻に任せ、1号店の品揃えに走った。何でも売るぞと、ファミコンのゲームソフトから始め、家電製品、飲料、菓子と、次々に並べた。それが「ドラッグストア」のビジネスモデルに、つながった。  安く売れば、売り上げが伸びて、儲かる。そう思い込んでいた。でも、安く売るには、安く仕入れなければいけないのに、思ったほど安く手に入らない。小さな商店を守るためにつくられた大型店の売り場面積の規制が緩和され、地域に自店と同規模の店も増えた。どこもが、安売りに賭ける。対抗するため、酒類の販売免許を取った。化粧品を買う女性ばかりでなく、男性も呼び込むためだ。薬と化粧品しか扱わない薬局から「あいつ、おかしい」と言われた。  苦戦が4年ほど続いたころ、県の薬販売業者の協同組合で、理事長に就く。小さい店が仕入れ数を集めて価格交渉権を強め、安く買う共同仕入れの先頭に立つ。月に2回、夜に集まって勉強会もした。講師の話が終わると、居酒屋で課題や夢を語り合う。熱い時代だった。 ■新商品の売り方バス旅行で紹介 客の好みを記憶  1号店跡の三角地から遠くへ目をやり、「向こうの分譲地に新築住宅の列ができて、どの列の家からきてくれているのかが気になった」と振り返る。客にそれとなく住所や名前を聞き、住宅地図を買ってきて「この家はきている」「きていない」とチェックすると、ある列からは全くきていない。自分たちの品揃えや売り方では、満足してもらえないのか。だとすれば、店はいずれつぶれる──安売りの消耗戦への疑問が、芽生えた。 『源流Again』で、坂戸市浅羽野の2号店にも行った。開いたのは86年で、200メートルしか離れていないところに競合店があり、さらに新規参入店もあって大激戦区となる。  このころ、旅行会社と組んで「感謝のバス旅行」と銘打ち、客を連れてバスで河口湖や箱根など近隣の観光地へ日帰りでいく。みんなが「楽しかった、ありがとう」と言ってくれた。でも、それだけでは、売り上げにはつながりにくい。  そこで、考えた。社員たちに「次は添乗員としていってね」と指示し、1時間や1時間半の道中で売りたい新商品を説明させた。顔見知りの客に「商品を紹介するから、買ってね」と言って、前の席に座ってもらう。車中で「これはすごい商品、買うならいまです」とみせると、その客が「いいよ」と答え、隣の女性客に「奥さんも買ってくれる?」と続けた。  けっこう、売れた。連日のようにバスを2台ずつ出し、多いときは10台に社員を乗せた。社員たちも、売り方のコツを身につけていく。浅羽野店の前で、そんな思い出話が続く。 薬局開店からの半世紀を振り返ると、こちらの勝手な思いを押しつけるのが最低。飲食店で献立を書いた紙を食卓に置き、店員に説明させるのも同じ独りよがりだ(撮影/狩野喜彦)  この日の午前、新座で薬局を開いたところにもいってみた。広島県御調町(現・尾道市)で生まれ、大阪経済大学を卒業、東京の製薬会社に就職して薬局担当の営業を5年余りやって、2人目の子どもが生まれる前に退職した。夫婦で薬屋を開くためで、71年6月に開店する。  久しぶりだが、記憶がどんどん蘇る。「周辺に500世帯くらいあり、名前と家族構成、好みまで全部、覚えた。それで、新商品をみると、誰なら買うかもしれないと分かった」 ■脱・安売り依存 三つの「価値」で一直線に実現  安売り依存からの転進は、一直線だった。埼玉県で競り合っていた競争相手2社が97年に合併し、その経営者と「互いにいまの売り上げでは、社員を十分に食べさせていく給料を払えなくなる。でも、足してやれば、店をたくさんつくれるから、一緒にやろう」と合意した。  2002年に合流し、提携が進んでいた流通大手イオンが使っていた「ウエルシア」のブランドに統一。ウエルは健康、シアは国の意味で、「健康な国にしていきたい」との思いに共感した。  合併前の3社の経営路線は違っていたが、「安売りだけではダメ」では、すぐに一致。三つの「価値あるサービス」でも合意した。24時間営業、調剤の併設、カウンセリングの実施。2013年3月に持ち株会社ウエルシアホールディングスの会長に就き、それを推進する。合併時は3社合わせて80店足らず、売上高は計300億円。買収を重ね、2022年2月期に売上高を1兆円に乗せた。 『源流』再訪の結びに、東京・日本橋の交差点の角に設けた実験店にもいった。思い出の先に「いま」がある。「正直言って、3千近い店を持つ1兆円企業になるとは、思ってもいなかった。本気でやり通せば、やれることは多い、ということですね」と笑った。  いま、四つ目の「価値あるサービス」に「地域への協力」を加えた。調剤に不可欠の薬剤師か登録販売者がいる店は、全国で2千を超える。この戦力が、在宅医療での治療に貢献する通称「在宅調剤」を展開する。  静岡県島田市と埼玉県長瀞町、愛知県岡崎市では、生活用品を買う店がなくなった地域へ移動販売車を送り、商品を売るだけでなく、人々が「今度、これを持ってきてね」という品を次回に届けてもいる。生活や健康に関する御用聞きも含め、情報が移動販売車からウエルシアの薬剤師へつながり、自治体にもつながる仕組みを築いていく。  地域に人々が集まる小さなコミュニティーを、成り立たせていきたい。『源流』からの流れは、かつて想像もしていなかったところへ、向かっている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年7月10日号
旧統一教会、信者から約6千万円借りて1500万円に“値切る” 銃撃事件から1年 救済進まず
旧統一教会、信者から約6千万円借りて1500万円に“値切る” 銃撃事件から1年 救済進まず 元信者宅の倉庫にあった旧統一教会資料  昨年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件を機に、高額献金などがクローズアップされた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)。殺人罪に問われている山上徹也被告は、犯行の動機について、旧統一教会に入信した母が多額の献金をして家庭が崩壊したことを挙げたという。事件から1年が経つが、こうした多額の献金をさせられた被害者の救済はまだまだ進んでいない。2億円を超える額を“寄付”していた元信者の夫妻は銃撃事件以降、親族らの説得で旧統一教会を抜け、献金などの返還を求めている。  旧統一教会の被害者救済に取り組む弁護団の加納雄二弁護士が、和歌山県の元信者宅を訪れたのは今年4月だった。 「旧統一教会に億単位で寄付を強要されたということで被害相談にいきました。自宅と同じ敷地にある倉庫のような場所に案内され、中に入るとあちこちに旧統一教会の本や資料が置いてあるのです。聞くと、『旧統一教会の教会として昔、貸していました』と言うので驚きました」  “教会”の所有者のAさん夫妻は、80代の夫と70代の妻。加納弁護士が、Aさん夫妻が旧統一教会に献金した額や貸し付けた額を確認したところ、2人合わせて約2億5千万円という莫大(ばくだい)な額であることがわかった。  加納弁護士らが作成した「献金一覧表」によると、1998年に「神様の子女になるための条件」として770万円を寄付させられたのを最初に、2021年1月まで確認できるだけで277回。献金状況がわかる旧統一教会側の資料「献金」というカードが残されており、そこには2018年にAさん夫妻が3月末に8回、同年12月末に4回、いずれも500円を払っていた記録がある。旧統一教会が100円単位まで献金を把握していた証拠でもある。  Aさん夫妻の親族のBさんがこう話す。 「このうち5880万円は旧統一教会に貸し付けたものでした。お金をとられたままでの献金や、貸し付けのための借金を重ねて、今は返済に追われて貧困生活です。そこで、教団に返却を求めると『月3万円でどうか』などと言われて、さすがに無理だと断りました。すると『1500万円でなんとかしてほしい』と頼み込まれて、Aさん(夫)が合意書にサインしてしまったのです。高齢のAさん(夫)は、少しでも返ってくればとの思いでサインしてしまいました。旧統一教会が高齢者を丸め込んで、ごまかすやり方に腹が立ってなりません」 霊感商法で売られていた壺、多宝塔などを公表する「霊感商法被害救済担当弁護士連絡会=1987年  合意書には、 <1988年に信者となり、信仰にもとづいて貸し付けをしたが、返済ができておらず、借入金を返還してほしいと求めた。数回の話し合いを行い、その結果、下記の通り合意した> <解決金として1500万円を支払う。支払い方法は3回に分割>  などと支払い条件が記されている。  旧統一教会に「カネを貸してほしい」と言われて貸し付けた5880万円は、借金をして工面したという。 「最初は親族から借りていて、うちは『おかしい』と言って断りました。そのうち親族からも不審がられ、今度は経営していた工場の得意先からも借金をはじめました。それでも追い付かなくなり、クレジットカードや消費者金融などで借りて、それを旧統一教会に貸すという自転車操業になったのです」  とBさんが説明する。  2021年9月にも100万円をクレジットカードのローンで借りて、旧統一教会にまた貸ししているという書類も残っていた。  現在も毎月クレジットカード関連で5万円ほどを返済しているというAさん夫妻。国民年金が生活の糧なので、わずかに残った数万円でギリギリの家計だという。 ●倉庫を改装して教会支部に  Aさん夫妻が旧統一教会と接点を持ったのは1987年。突然、自宅を訪ねてきた旧統一教会の男性信者に「手相を見せてください」と言われたのがきっかけだった。 「転換期にきている。身内に何かないか」 「悪い先祖の霊を解放しなければならない。先祖供養をしないと悪い運勢が家族にいく」  などと恐怖心をあおられ、入信してしまった。  その後、旧統一教会の本部がある韓国・清平へ何度も行った。1996年に「親族がバイクで事故にあった」と相談すると、 「恨みをかっているからだ。お父様とお母様(文鮮明、韓鶴子夫妻)のおかげでその程度のけがですんだ。保険金は全額寄付すべきだ」  と説得され、保険金300万円はすべて旧統一教会に持っていかれたという。  その後、Aさん夫妻は、親族に対し、 「『日本はもうすぐ沈没するので韓国に助けてもらわねばならない』とお父様が言っているからパスポートを用意しておくように」 「壺(つぼ)を置いておけば、悪霊を吸い上げてくれる」  などと熱心に話していたという。  2006年から09年にかけては、所属する旧統一教会支部が困窮し、家賃が払えなくなったため、Aさん夫妻宅に隣接する倉庫を改装して支部にした。 「中を見ると、文鮮明、韓鶴子夫妻の写真が飾られ、いかにも旧統一教会の支部という感じになっていました。家賃は支払うという約束でしたが、ほごにされました。電気代の一部だけを支払って勝手に別の場所に引っ越していきました」(Bさん)  倉庫には今も大量の資料が残されている。Aさん夫妻は毎月、旧統一教会から「ゲスト管理表」という日誌を書かされていた。  詳細を見ると月のうち休みは3、4日しかなく、「氏族メシヤ相談会」「天国講座」「伝導集中日」「祝福式」「正副区域長研修」など細かなスケジュールが決められている。そして「目標」には「21K夫婦で努力する」とある。  詳細は不明だが、毎月の献金額は少なくとも2万1千円とすることが目標とされたようだ。あくまで毎月の額であり、他にもまとまった額を求められるときもあったという。  昨年の安倍元首相の銃撃事件以降、親族らの必死の説得もあり、Aさん夫妻は旧統一教会と縁を切った。 「旧統一教会からはカネのことと用事ばかり言われてとても仕事どころじゃなかった。旧統一教会をやめても『寄付して』『カネを貸して』と信者が来ていた。今はほっとしている。しかし、まだ借金の支払いがあって非常に厳しい生活だ。旧統一教会はコンプライアンスは順守しているというが、まったくのウソだと感じる」(Bさん)  Aさん夫妻は6月、加納弁護士らを通じて内容証明郵便を旧統一教会に送付し、返還を求めている。  加納弁護士が指摘する。 「旧統一教会は、教会改革をして今は何ら問題がないと言っている。しかし、2億円を超す献金と借金を高齢者相手に1500万円でごまかそうとしている。旧統一教会の反社会的な姿勢は今もまったく変わっていない」 (AERA dot.編集部 今西憲之)
何故ろうそく立てに…春風亭一之輔が好きだった祖母の家のお仏壇の鶴亀
何故ろうそく立てに…春風亭一之輔が好きだった祖母の家のお仏壇の鶴亀 春風亭一之輔・落語家  落語家・春風亭一之輔さんが連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今回のお題は「ろうそく」。  恐らく最近の話題の的「キャンドル・ジュン氏」からの「ろうそく」なのだろう。お題を出す担当者も人が悪い。騒動の件で何か書けってことなのか? この原稿にとりかかったら今度はキャンドルさんの過去の暴露記事まで出てきた。  人ごとといえ、もうなにがなにやら。こういうときは一度心を落ち着かせたい。動画配信で自然モノの番組を観るのが一番。だというのに、ついついNetflix「サンクチュアリ-聖域-」を観てしまった(2回目)。やっぱり面白い。主人公役の一ノ瀬ワタルさん、素晴らしい。  ようやく海外制作の「なんちゃらプラネット」みたいなタイトルの番組にいきつく。高性能カメラやドローンを駆使した撮影技術によって、生き物の生態が、まるで役者が演技をしているかのようにドラマティックに迫ってくる。私が子供のころ観ていた「野生の王国」や「わくわく動物ランド」とは確実に別次元だ。  画面にはガラパゴスゾウガメ。カメの目の周りにたかっているハエまでもが主役級の美しさ。目をパチクリしながら何を思うのか、ゾウガメ。佇む姿に癒やされ、またサボテンを食む様子に魅入る。ムシャリムシャリ。脊椎動物では一番の長寿で平均寿命百歳超だそうだ。昔の人は「世界は亀の背中に乗っている」……と思っていたという。さもありなんという貫禄。亀といえば昔、祖母の家のお仏壇の亀が好きだった。本物ではなく仏具の亀さん。その背中には鶴が乗っている。「気をつけておつけよ」と言われて、マッチを擦り、亀の背中に乗っている鶴の嘴に咥えられた軸の先に立つろうそくに火をつけるのが私の役目だった。あのときは何も思わなかったが、そもそも何故ろうそく立てに鶴亀がモチーフとして使われるのだろう。  調べてみると……その昔、お釈迦様が鶴と亀に「俺がお前達にめっちゃいい話聴かせてやっから! でも俺んち暗くてよく見えねえから、ろうそくの灯りを持って来いや!」と命じたらしい。「へーい! ただいまー!」と亀は口にろうそくを咥えて海を泳ぎ、鶴もろうそくを咥えて空を飛び、お釈迦様のもとに駆けつけた。「……おい! つーか火ぃ消えてるじゃねぇか! やりなおーし!」鶴と亀はろうそくを何度も何度も運ぼうと試みるもそこが畜生のあさましさで、どうやっても火が消えてしまう。「いつまでチンタラやってんだよっ!」とイライラをつのらせるお釈迦様。  鶴と亀もだんだんと嫌んなってきた。「なんかめんどくせ」「もうやめる?」「でもまぁ、あとあとのこと考えると行っといたほうがいいかもしれねえし……」「じゃあ、とりあえず行くだけ行こ。慌てることねえよ、どうせあの人他にやることないだろうし。待たせときゃいーよ」  と言って、鶴はとりあえずろうそくを咥え、とりあえず亀の背中に乗り、亀はとりあえずいつも通りののんびりペースで、とりあえず海を泳いだ。「遅えな、あいつら……また消えてたらどうしてやろうか……」とお釈迦様。  「さーせん、遅くなっちゃって……」と、とりあえず頭を下げる鶴と亀。「おい! 俺はな、夕方から用があるんだよ! どれだけ待たせんだよ! ホントいいかげんにしろよ! どーせ、また消えてんだろ……あ? まだ火がついてる……え、どうやって持ってきたんだよ、お前ら?」  「あー、僕が咥えて、亀の背中に乗って、亀が泳いで来ました。さーせん。あのー、灯り持ってきてんで、そのありがたい面白トークみたいの聴かせてくれるんですよね? さっそくお願いします」と鶴。「早く聴かせてくださいよぅ、めっちゃいい話なんでしょー?」と亀。  「(くそ、こいつらタラタラ来たくせに要求だけは強めにしてくるな。こっちは忙しいってのに)……ちょっと待ってろよ!」と、お釈迦様は一度バックステージに引っ込んでから、メイクをバッチリきめ、衣装も着替え、改めて出囃子に乗って二人の前に現れた。   「鶴と亀よ……もう私が話すことは何もない。何故ならお前たちは二人助け合い、見事にろうそくの火を消すことなく私のもとに運んだのだ。私が言いたかったのはまさにこの助け合いの心。この心さえ持っていれば、いかなる苦難も乗り越えることが出来る。お前たちは自らその境地に至ったのだ。もう私が教えることは何もないぞ!」と言って立ち去ろうとした。  「はぁ? なんそれ?」「俺たちをためしたのかよ?」「最初から口で言えばいいんちゃうん?」「なめんなや! 貴重な時間使わせやがって!」鶴と亀は怒りにまかせてその場で暴れ始めたので、お釈迦様も身の危険を感じ「えっ!? ストップ! ストップ! ちょい待ちっ!!!」と気合をかけた。すると鶴と亀はまるで金縛りにあったように動けなくなる。「釈迦に逆らう愚か者めが! 反省するがええ!」と鶴と亀はそのままろうそく立てになってしまったそうな……めでたしめでたし。と、ちょっと大胆にアレンジしてみたが、まぁこんなかんじみたい。あ、図らずもしばらく「ろうそく」関連のことを考えていた。いかんいかん。  テレビではガラパゴスゾウガメに代わって、ザトウクジラが悠々と泳いでいる。胴体に付着しているフジツボでさえも私に話しかけてくるかのように4K画面は美しい。「クジラって油がとれるんでしょ?」と横で我が子が囁く。「燃料にするために捕獲したそうだ」「ガソリン的な?」「灯りをつけるための燃料だね」「たとえば?」「ろうそく……」また「ろうそく」か!?   次にクロコンドルという聞き慣れない名の鳥が出てきた。「一夫一婦制のクロコンドルのコミュニティでは、夫や妻以外の個体と交尾をしないように仲間同士で監視し合います。もし『不倫』をした場合、その仲間が『不貞者』に対して嫌がらせをする……という驚くべき生態があります」というナレーション。「ろうそく」は関係ないけど、ちょっと戦慄。   またまた変わって、こちらは一夫多妻制のライオンの生態。「ライオンの群れを『プライド』と呼びます。そこで生まれたオスライオンは成長するとプライドを抜け、一頭で放浪の旅に出ます。別のプライドを見つけるとそこのオスに戦いを仕掛け、もし勝てばそのプライドを乗っ取ることが出来るのです。負けたオスはそのプライドを追い出され、全てのメスを奪われます。メスは新たなオスリーダーの子を宿すのです」というナレーション。また「ろうそく」に関係ないけど、かなり戦慄。オスライオン、つらいな。  そのライオンの狩りの風景。メスがガゼルの群れに強襲を仕掛け、弱ったところでオスがとどめを刺す。なんとなくお馴染みのシーン。ナレーターが「オスライオンに首根っこを咥えられたガゼル。命の灯火が消えようとしている。まさに……『ろうそく』の火が消え入るように」と続けた。また「ろうそく」かよ! そして、震えるガゼルの頭に2本の角……鹿の角。見るものに違和感を感じさせる、この既視感。あ! あの方の耳に嵌ってる、アレだ。  なんかもう、おなかいっぱいになってきた。それにしてもあのピアスはどこでいくらで売っていて、いつごろからしてるんだろう。お風呂や寝るときは外すのか。冠婚葬祭も着用? 寄席で前の席に座ってたら視界に入って気になるなぁ……なんてなことを考えつつ、そうだ、寝室の引き戸の滑りが悪いのでサンに「ろうそく」でも塗ろう。 春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/1978年、千葉県生まれ。落語家。2001年、日本大学芸術学部卒業後、春風亭一朝に入門。この連載をまとめたエッセー集の第1弾『いちのすけのまくら』(朝日文庫、850円)が絶賛発売中。ぜひ!
社会を変える“武器”としての「公共訴訟」 声なき声を社会に反映させる仕組みを
社会を変える“武器”としての「公共訴訟」 声なき声を社会に反映させる仕組みを 司法の壁に、一度は弁護士という道を断念しようとしたこともある。だが、アメリカで見た光景が谷口太規に、公共訴訟は「変わらない社会を変えられる」可能性があると気づかせてくれたという(撮影/篠塚ようこ)  個人の権利回復を求めるだけでなく、社会の仕組みを変えることも目指す「公共訴訟」。日本では現状、弁護士がほぼ“手弁当”で担っている状態だ。経済基盤を安定させることで公共訴訟の担い手を増やすことを目指すプロジェクトが立ち上がろうとしている。AERA 2023年7月3日号の記事を紹介する。 *  *  *  若者たちの政治参画を目指すNO YOUTH NO JAPAN(NYNJ)の代表、能條桃子(25)は3月、Twitterでこうつぶやいた。 「実は昨日、神奈川県知事選挙に立候補届を出しに行きました。が、被選挙権年齢(選挙に立候補できる年齢)が30歳なので、先日25歳の私は不受理になりました。これから被選挙権年齢の引き下げに向けて、仲間たちと一緒に公共訴訟という形で問題提起をすることを計画中です」  大学時代にデンマークに留学し、若者たちが日常的に政治を話題にしていることに衝撃を受けた能條は、2019年にNYNJを立ち上げた。だがそもそも、自分たちの声を託したい同世代の候補者がいないことに気づく。  16年に選挙権年齢は18歳に引き下げられたが、被選挙権は都道府県知事、参議院議員が30歳以上、衆議院議員、市区町村長、都道府県・市区町村議会議員は25歳以上のままだ。世界の国々では徐々に引き下げられ、日本の衆議院に当たる下院には18歳や21歳で立候補できる国は120カ国以上にもなる。 「なぜ日本は25歳と30歳のままなのか。これには合理的な理由がありません。少子化対策などに若者世代の声が反映されてこなかったのは、中高年の男性中心の政治が続いているから。雇用や気候変動、ジェンダーなど10代・20代にとって関心の高い政策を進めるためにも、被選挙権年齢を引き下げ、多くの若い世代が政治に参画する必要性を感じてきました」(能條)  そんな時に出合ったのが公共訴訟を支援するNPO法人CALL4だった。  公共訴訟とは個人の権利回復を求めるだけでなく、社会の仕組みを変えることも目指した訴訟だ。これまでに「一票の格差」や「在外日本人選挙権」など当事者が起こした訴訟が広く社会課題への関心を呼び、制度や法律を変える契機にもなってきたことから、「社会を変えるための裁判」だとも評される。最近では同性婚や選択的夫婦別姓制度をめぐる訴訟もそうだ。 同性婚訴訟違憲判決に「違憲判決」の横断幕を広げて喜ぶ原告弁護団と支援者ら=2023年5月30日、名古屋市中区の名古屋地裁で  CALL4は19年の活動開始以降、実際の裁判を傍聴するツアーや裁判費用を集めるクラウドファンディングの実施、訴訟の背景を知るために原告への取材記事の発信などを通して、公共訴訟を支援してきた。  能條は自身の問題意識をより多くの人に共有してもらい、世論を喚起する難しさも感じていた。CALL4との出合いで、「社会を変えるには司法、公共訴訟という手段があるんだ」と気づいたという。 ■予算をかける国に対し“手弁当”で戦う限界  CALL4の創設者で、代表理事である谷口太規(44)は大学では哲学や社会学を専攻していた。卒論のテーマにアクティビズムを選んだことで、人には社会を変える力がある、大事なのは力を発揮するために話し合うプロセスだと感じるようになった。「その場を推進できる“代理人”になろう」と司法試験を受け、弁護士の道に進んだ。  谷口が公共訴訟を強く意識するようになったのは司法修習時代だ。師事した弁護士が岡山で、ハンセン病患者が原告となった国家賠償訴訟を担当していた。裁判の過程で、谷口は原告たちが変わっていくのを目の当たりにした。 「最初は裁判をすることすら躊躇していたおじいさんやおばあさんたちが、徐々に自分たちが受けた被害を語るようになった。耳を傾けてくれる人がいて、公に認知されることは人間の尊厳のために大事なことなのだと気づいたのです」  弁護士になって6年目には、ガーナ出身男性の在留資格をめぐる訴訟を担当した。訴えが認められず、強制送還される過程で、男性は入管職員によって手錠や足錠、猿ぐつわ姿で押さえつけられ急死した。彼の妻と母が原告となって、死の責任を問う国家賠償訴訟を起こしたが、国は心臓の特殊な病気のせいだと主張。何人もの医師を法廷に連れてきて証言させた。  一方の弁護団には協力してくれる医師がいなかった。谷口らは必死で英語の文献を読み、制圧行為が死につながることを研究しているイギリスの専門家を見つけ出した。一審では国の責任が認められたものの、控訴審では敗訴。多額の予算をかけ、研究者を雇い、再現実験までやった国に対し、弁護団はそれを翻せるほどの根拠を見つけられなかった。10年に彼が亡くなってから6年間、弁護団は翻訳費用が捻出できない中、徹夜して慣れない英語の医学論文を読み、数百枚もの書面を書いた。 「公共訴訟とはダヴィデとゴリアテの戦いのようなものです。原告は資金も人も潤沢な国を相手に戦わなくてはならない。手弁当に近い形で引き受ける弁護士は『聖人』のように感謝されることもありますが、引き受ける人は限られます。引き受けたとしても、通常の弁護士であれば事務所経営もあり、関われるのは一生で数件。一方の国には100人以上の法律の専門家集団がいて、ノウハウも溜まっているのです」  これまで日本で確定した法令違憲判決は、在外日本人国民審査権訴訟など11件のみ。対して、アメリカでは州レベル最高裁まで含むと500件超、ドイツでは700件以上になるという。コロナ禍で相次いで作られた法律や行政の施策に異議を申し立てる訴訟も、日本では飲食店の営業自粛要請など2件程度だが、ドイツでは営業停止など権利の侵害や制限を巡って1千件以上の訴訟が起きた。 「さらに日本では裁判沙汰という言葉に象徴されるように、裁判には関わりたくないという人が多く、裁判で国や行政の責任を問うことを躊躇しがちです」(谷口)  それでも谷口が、変わらない社会を変える“武器”としての公共訴訟の可能性を信じているのはもう一つの経験がある。 ■アメリカで目にした司法への期待や信頼  谷口はガーナ人男性の控訴審後、日本の司法に絶望してアメリカの大学院に留学した。ソーシャルワークを専攻し、一度は法律以外の方法で貧困問題などに取り組もうと考えていた。もう一度司法界に希望を見いだし、引き戻されたのは、ある光景を見たからだ。  当時アメリカではトランプ大統領が誕生し、イスラム圏の国からの入国を制限する大統領令を発していた。アメリカの変貌にショックを受けていた谷口が目にしたのは、空港に駆けつけた弁護士たちが床に座り込んだイスラム圏の人たちに話を聞いて回る姿だった。数百人単位の弁護士が大統領令の無効を訴える仮処分申請を支援し、その動きを支持する動きがネットで広がり、寄付は数十億円規模で集まっていた。 LEDGEのコアメンバー。弁護士たちだけでなく、CALL4時代からホームページなどで情報発信を担う編集者もいる(撮影/雨森希紀) 「社会の司法への期待や信頼を見て、胸が熱くなりました。一方で、自分自身は必死でやってきたけど、頑張る方向が間違っていたのではないかと感じました。もっと仲間を増やし、司法をより多くの人に開く活動をすべきだったのではないかと思ったのです」  帰国後、谷口はCALL4を立ち上げ、裁判ツアーやクラウドファンディングを通じて、「司法をひらく」活動を始めた。  そして今、谷口は公共訴訟を主体的に担うプロジェクト、「LEDGE」を立ち上げようとしている。広く寄付を集め、弁護士だけでなく、専従のリサーチャーらの経済基盤を安定させることで公共訴訟の担い手を増やすことを目指している。メンバーには、趣旨に賛同した元編集者など法曹界とは関わりのなかった人もいる。  CALL4を谷口とともに立ち上げ、LEDGEにも参画する弁護士の井桁大介は、公共訴訟の担い手の減少に危機感を募らせている。 「司法改革以後、弁護士増員に伴い、1人当たりの平均売り上げは1千万円ほど減少しました。今後ますます“お金にならない”公共訴訟を引き受ける弁護士は減っていくかもしれません。引き受けても日常の仕事に忙殺されていては、思うような主張や立証をできず、結果を出すことも難しい」  理想を掲げて熱い想いで突き進む谷口に対し、井桁は想いだけでは持続可能性が低くなると、ITも生かし寄付が集まる仕組みを作るなど戦略を担う。  アメリカにはアメリカ自由人権協会(ACLU)という公共訴訟を専門に扱う組織があり、専従の弁護士を抱え、予算は年間数百億円規模にのぼる。支えるのは大口から市民まで幅広い人たちの寄付だ。 「日本にも公共訴訟に専従できる環境ができれば、目指す若い弁護士も増える。担い手が増えることで、司法と社会をアップデートすることにもつながります」(井桁) ■声上げる人がいないと社会は変わらない  日本でもベストセラーとなった『FACTFULNESS』や『ゼロ・トゥ・ワン』の翻訳者としても知られる関美和は、早くからCALL4やLEDGEを支援してきた。Twitterで流れてきた、ネパール人男性が取り調べ中に死亡したことに対する国家賠償訴訟を支援するCALL4の活動に寄付をしたことが始まりだった。 3月下旬、神奈川県知事選への立候補を届け出た能條。被選挙権年齢のことは知っていたが、あえて問題提起として届け出た(写真:能條桃子提供) 「特定の人種や国籍の人たちに対する偏見や差別的な扱いに対しておかしいという憤りと、被害にあった当事者への共感もありましたが、公共訴訟という形に一つの希望を見いだしたのです」  関はかつて過ごしたアメリカで、司法が「最後の拠り所」として機能している様子を見てきた。 「アメリカにも韓国にも公共訴訟を担うプラットフォームはあるのに、日本にはない。弁護士が個人的な使命感と負担を背負うのではなく、これは社会で背負うべきコストだと思ったのです」  能條たちの被選挙権年齢引き下げ訴訟は、LEDGEが支援する初めての案件だ。原告は、能條ら19~25歳の6人。いずれも今春、鹿児島県議選や船橋市議選に立候補しようとして届け出が不受理となった。「年齢が低いというだけで立候補できないのは、憲法14条の法の下の平等に反する」ことを問う。  LEDGEは今後、外国人というだけで職務質問を受けるレイシャルプロファイリングの問題や中絶手術に配偶者の同意を必要とするといったセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(SRHR)の問題に対する集団訴訟も予定している。共通するのは、「今十分に聞かれていない人々の声を社会に反映させたい」という思いだ。谷口は言う。 「政治に若い人の声を反映させたいという問題提起のために立候補した能條さんたちは、『ルールを守れ』と苛烈なバッシングにあった。日本には社会を変えたいと声を上げる人たちを叩く『声を上げるフォビア』が蔓延しています。その社会そのものを公共訴訟という手段で変えたいんです。声を上げる人たちがいなければ社会は変わらないのです」 (文中敬称略)(ジャーナリスト・浜田敬子)※AERA 2023年7月3日号
雅子さま、現地学生に「愛子さまを見つめるような温かな眼差し」 皇室番組放送作家が気づいた3つの笑顔
雅子さま、現地学生に「愛子さまを見つめるような温かな眼差し」 皇室番組放送作家が気づいた3つの笑顔 インドネシアのジョコ大統領(中央)の案内で植物園を見学する天皇、皇后両陛下 天皇、皇后両陛下は6月17日から23日に即位後初となる公式の国際親善として、インドネシアを訪問された。雅子さまにとって21年ぶりの国際親善としての海外訪問は、何より笑顔が印象的だった。皇室番組の放送作家つげのり子さんが、今回のインドネシアご訪問を取り上げる番組を制作していて気がついた、雅子さまらしさが輝いた「3つ」の笑顔を指摘する。 *  *  * 「雅子さまは、今回のインドネシアご訪問で本当にすごく素敵な笑顔をされていました」と話すのは、愛子さまご誕生のころから皇室番組に携わる放送作家のつげのり子さん。天皇、皇后両陛下のインドネシアご訪問の映像素材を確認している中で、雅子さまの印象的な笑顔の場面が3つあったという。  何より印象的だったのは、雅子さまがインドネシアの伝統的な衣装『バティック』をまとわれたとき。 「雅子さまは満面の微笑みを浮かべられ、本当にいい表情でした。ニュース番組などではバティックを羽織られたシーンが報じられることが多かったのですが、大統領夫人の案内でインドネシアの伝統音楽の演奏を聞かれたり、バティックが出来上がるまでを見て回られたりして伝統文化に触れられました。大統領夫人の真心のこもったおもてなしに雅子さまは心を動かされたのではないでしょうか」  雅子さまはバティックのまとい方を教えてもらいながら、両手で羽織られた布地をキュッと握り「こんな感じかしら?」というように、少しはにかむように笑顔を見せた。その笑みに、大統領夫人をはじめ現地の人たち全員が笑顔に包まれていた。こちらも微笑んでしまうほど、とても印象的な雅子さまの笑顔だった。この笑顔の理由をつげさんはこう推測する。 インドネシア・ボゴール宮殿を訪問し、ジョコ大統領の妻イリアナさんの案内でインドネシアの伝統的な布地バティックを試着する皇后さま 「迎え入れてくださったインドネシアの方々は雅子さまに対しての敬意があるのはもちろん、雅子さまの体調への理解もありご負担をかけないようにと配慮していたのが映像から伝わってきました。ものすごく温かく、アットホームな雰囲気で、それを雅子さまも感じとられて、大きな感激につながり、あの笑顔になったのだと思います。すごく『嬉しい』という表情で、いままでに拝見したことがないほど。しかも、とても自然で作った表情ではなく、心からのお気持ちが感じられる笑顔でした。インドネシアの人たちの温かさが、雅子さまの心にしみたのではないかと思います」 ダルマ・プルサダ大学を訪問し、日本語を学んでいる学生と日本語で話す天皇、皇后両陛下  今回のインドネシアご訪問で天皇、皇后両陛下が力を入れていたように感じるのは若者との交流。そんな若者との交流でも、バティックのときとは違った雅子さまの輝く笑顔があった。 「当初、現地の職業専門高校とダルマ・プルサダ大学での若者との交流は天皇陛下お一人でご訪問の予定でしたが、雅子さまご自身の判断で同行されました。訪問先で交流するのは高校生と大学生の皆さんで、中には愛子さまと同世代の方もいて、そこでの雅子さまの表情は母親目線でした。どんな夢を持っていて、どのように社会に羽ばたいていくのだろうかととても興味があったと思うんです。インドネシアの大学生たちは流ちょうな日本語を話し、その中のひとりの女子学生が太宰治の『人間失格』を読んだと話したんです」  雅子さまがしっかり目を見つめながら聞いていらしたのが印象的だったという。 「それはまるで愛子さまを見つめる温かな眼差しのようでした。その女子学生は年齢的にも愛子さまと近かったのもあると思うのですが、母のような心境で興味を持ってお話を聞かれているようでしたね。国は違っても若い世代が希望にあふれている姿というのは頼もしいし、すごく清々しく感じられますよね。雅子さまも若者たちとの交流が胸にしみたのではないでしょうか」  交流の中で雅子さまは、学業に励む現地の大学生に「大変でしょう。うちの娘も今は卒論で忙しいみたいですよ」と、まさに母親の目線で話しかけられていた。  最後に印象的だったのは、インドネシアの空港での充実感にあふれた雅子さまの笑顔だという。 「インドネシア郊外のスカルノ・ハッタ国際空港から政府専用機に乗り込むときに、雅子さまはとても充実した笑顔をなさっていました。雅子さまは21年ぶりで、体調を整えられてのぞまれたはずですし、予定された日程を終えられて自信につながったのではないでしょうか。雅子さまの笑顔を見ていると、国際親善というのはうわべだけでなくて心を開いて触れ合い、真心を込めて接すれば、国と国との友好というのは大いに進展するということを示してくださった感じがします」  両陛下揃って21年ぶりの国際親善としての海外訪問は、令和初でもあった。 「国内のご公務ももちろんですが、これから令和の海外訪問が本格的に始まっていきそうですよね。天皇、皇后両陛下は、歴代で初めてお二人とも海外留学の経験があるので、国際親善はより深まっていくのではないでしょうか」  心を映し出すような自然な笑顔は、誰かを笑顔にし、人と人との心が交わっていく。雅子さまの笑顔を通じて、令和の国際親善交流にこれからも期待と注目が集まりそうだ。 (AERAdot.編集部太田裕子) つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。「皇室の窓スペシャル~天皇陛下 皇后雅子さま ご結婚30年の歩み~」(BSテレ東/7月2日午後2時放送)では今回のインドネシアご訪問の様子も紹介される。
松山ケンイチさんが田舎暮らしを選んだ理由「妻が仕事の時は地元の方の力も借りて子育てしています」
松山ケンイチさんが田舎暮らしを選んだ理由「妻が仕事の時は地元の方の力も借りて子育てしています」 「仕事と生活の切り替えに始めた田舎暮らし。妻が仕事の時は地元の方の力も借りて子育てしてます」と語る松山ケンイチさん(撮影/高野楓菜 スタイリング/五十嵐堂寿 ヘアメイク/勇見勝彦〈THYMON Inc.〉 衣装/パンツ〈イーストハーバーサープラス/エスディーアイ〉、モミジ アーティストTシャツwith 笛田亜希〈momiji/オーロラ〉、他私物)  現在放送中のNHK大河ドラマでの名演が話題になるなど、年齢を問わず人気の俳優、松山ケンイチさん。6月公開の時代劇映画「大名倒産」でも熱演を見せています。今回は松山さんに映画について、また家族での田舎暮らしについてうかがいました。 *   *  * ■子どもからシニアまで楽しめる新感覚の時代劇 「大名倒産」は、幕末の江戸時代を舞台に、財政赤字に苦悩する藩の若き殿様・松平小四郎の活躍をコミカルに描いた時代劇です。今回は、主演の神木隆之介くん演じる小四郎の兄・新次郎役で出演しています。  新次郎は、いわゆる“うつけ者”の役どころ。鼻水を垂らして登場するなど、常識外れで周囲は敬遠したくなるようなタイプです。それでも心優しく、庭造りには天賦の才を発揮し、無垢でピュアな存在です。  演じるにあたってお手本になったのが、今回メガホンをとった前田哲監督。前田監督とは僕が20代のころから親しくお付き合いさせていただいていますが、とても無垢でピュアな方で役作りの参考にさせていただきました。  監督と一緒に仕事をした前作の映画「ロストケア」(※松山ケンイチと長澤まさみが初共演を果たし、連続殺人犯として逮捕された介護士と検事の対峙を描いた社会派サスペンス)では、表現の仕方や演じ方について、かなり話を詰めて作り上げていきました。今作では前田監督は、「ロストケア」の時とは違い、現場をすごく盛り上げようとしていたのが印象的でしたね。そんなピュアな仕事への向き合い方をそのまま吸収して新次郎を演じました。 「大名倒産」は、年齢に関係なく時代劇に親しんでもらえるような現代風のセリフ回しや演出になっています。また、勧善懲悪と悪代官の成敗といった昔ながらのわかりやすい時代劇のプロットは守られています。だから子どもやシニア層の方々、みんな一緒に楽しめる内容になっていると思います。 ■田舎暮らしが俳優業にもプラスに  4、5年前のコロナ禍以前から家族で田舎暮らしを始めました。東京で仕事があるときは単身赴任していますので、2拠点生活が基本になっています。  田舎暮らしを始めた理由はいろいろあります。一つは、家族との時間や趣味を大切にするためです。  今までは、映画やドラマの仕事が始まると、演技のことをずっと考えたり、その世界に引き込もっていました。東京暮らしだと、仕事と家族、趣味に充てる時間や気持ちの切り替えがうまくできず、僕自身や家族にとってもプラスにならないと感じていました。それを解決するには、環境を変えることが一番だと思ったんです。 松山さんは、捨てられていく資源をアップサイクルするプロジェクト、「momiji」を立ち上げた。今回の取材で着用しているのも、そのmomiji プロジェクトで製作したTシャツ(撮影/高野楓菜 スタイリング/五十嵐堂寿 ヘアメイク/勇見勝彦〈THYMON Inc.〉 衣装/パンツ〈イーストハーバーサープラス/エスディーアイ〉、モミジ アーティストTシャツwith 笛田亜希〈momiji/オーロラ〉、他私物)  田舎暮らしを始めたもう一つの理由が、トマト農家さんでいただいたトマトジュースが感動的なおいしさで、自分もトマトを栽培してみたいと思ったことです。その農家さんにビニールハウスを借りてトマトを一から育てています。 「大名倒産」やNHKの大河ドラマ「どうする家康(本多正信役で出演)」の撮影現場に、僕が作ったトマトジュースを差し入れで持っていくんですが、皆さんとても喜んでくれますよ。農作業はとても楽しくて、今回、前田監督からオファーをいただいたときも、「トマトの栽培はどうしよう?」って、一瞬頭をよぎったほどです(笑い)。  ほかにも釣りをしたり、ぼーっとして過ごしたりしています。家族や趣味に集中できて、リフレッシュできる今の生活スタイルはとても気に入っています。  子どもたちとは、一緒に農作業をしたり、虫を捕ったり、釣りをしたりしています。ただ、こうした生活は、あくまでも「僕がやりたいこと」ですから、子どもたちに強制したくはないという思いもあります。農作業のお手伝いをするよりも、他の習い事をしたほうが将来の役に立つかもしれません。子どもたちが大人になるころは、どんな時代になって、何が必要なのかもわかりません。  だから、僕は子どもたちを「雇う」ことにして、農作業のお手伝いには、“お給料”を払っています。お小遣い程度ではなく、同一労働同一賃金ですから、ちゃんと大人と同等の金額を払っています。自分で稼いで、好きなものを買ってますし、今のところ楽しく農作業を手伝ってくれているようです。  自分で育てた野菜や釣った魚を食べるのは、お店で買うよりもおいしく感じますし、他の人に「おいしい」と言って食べてもらえることは、お金とはまた別の価値となっているように感じます。  田舎暮らしを始めたことで視野が広くなり、多角的な視点を持って自分を俯瞰して見ることができるようになったと思います。さまざまな役を演じるために多くの人とコミュニケーションを取ることで、自分の世界が広がっていって、俳優業にもプラスになっている実感があります。 松山ケンイチさんが出演する映画「大名倒産」(6月23日(金)より全国公開) (C)2023 映画『大名倒産』製作委員会 配給:松竹 ■高齢者の知恵や技術を若い世代に  田舎暮らしを始めてから地域コミュニティーの大切さを改めて感じています。夫婦共働きで、妻が仕事で東京に行くときは、僕が子どもたちの食事とかの用意をしています。東京だったらシッターさんなどにお願いするところですが、とてもありがたいことに、ここではご近所の奥様方が手伝ってくださいます。「第5婦人までいます」って周囲には吹聴しますけど(笑い)、すごく助かっていますね。  他にも採れたての野菜をいただいたり、農作業等を教えていただいたりする中で、僕たちもコミュニティーの一員として還元できることは何かについて、いつも考えています。もちろん合同での草刈りや、ゴミ拾いのクリーン作戦にも積極的に参加しています。  少子高齢化が進む日本ですが、特に、地方農家の高齢化は深刻です。「大名倒産」のなかでも、“塩引き鮭”という新潟の特産品が一時期衰退しかけるシーンがあります。農業も同様に高齢者の知恵や技術を若い世代に受け継いでいくことはとても大切だと思っています。今後は、そのつなぎ役であったり農福連携(農業と福祉の連携)といったテーマで、役者を続けながらも地域に還元することはできないかと模索しています。 (構成・文/山下 隆) ※「朝日脳活マガジン ハレやか」(2023年8月号)より抜粋 まつやま・けんいち/1985(昭和60)年、青森県生まれ。2002年に俳優デビュー。映画「男たちの大和/ YAMATO」で注目を集め、「デスノート」シリーズの"L"役でブレーク。NHK大河ドラマ「平清盛」では主演を務めた。16年公開の主演映画「聖の青春」で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。その他受賞歴も多数。23年はTBS連続ドラマ「100万回言えばよかった」、NHK大河ドラマ「どうする家康」に出演。3月には主演映画「ロストケア」公開。6月23日に映画「大名倒産」が公開される。 ◆映画「大名倒産」(6月23日(金)より全国公開)=ベストセラー作家・浅田次郎の小説を映画化。江戸時代、越後の鮭役人の息子として平穏に暮らしていた間垣小四郎(神木隆之介)は、ある日突然、自分が徳川家康の血を引く藩主の跡継ぎだと知らされる。藩主へ大出世と思いきや、なんと藩には隠された25 万両(今の価値で約100 億円)もの莫大な借金が。実は小四郎に借金の責任を押しつけて切腹させようというたくらみがあったのだ……。松山さんは小四郎の兄で“うつけ”の新次郎を熱演。ほかキャストは杉咲花、小日向文世、浅野忠信、佐藤浩市など。 (C)2023 映画『大名倒産』製作委員会 配給:松竹
ドラマ「エルピス」で話題の俳優・岡部たかしが50歳でブレークした理由
ドラマ「エルピス」で話題の俳優・岡部たかしが50歳でブレークした理由 ドラマ「エルピス」以降、街で声をかけられることも増えた。「おもしろくありたい」という願いは変わらない(撮影/門間新弥)  俳優、岡部たかし。ドラマ「エルピス」のセクハラ暴言プロデューサー・村井役で、岡部たかしの名前は一気に全国に広がった。岡部自身も売れることをあきらめていた矢先の大ブレーク。だが、その演技力は高く評価されていた。俳優仲間の岩谷健司は「あれは運命的なものだった」と言う。岡部が引っ張り上げられるまで、どんな道を歩んできたのだろうか。 *  *  * 「本番、よーい、スタート!」のかけ声でステージにライトがともる。星野源の「Week End」にのって、舞台上のダンサーたちがリズムを取り始める。10代、20代の若者に交じってただひとり、岡部(おかべ)たかし(51)が颯爽(さっそう)と踊り出す。  ここは7月オンエアのフジテレビのドラマ「リズム」の収録現場。岡部が演じるのはあるきっかけでダンススクールに通い出したサラリーマン・尾木だ。今日はクライマックスのダンス大会シーンの撮影で、岡部は2時間前から真剣な表情で、ヒップホップダンスを踊り続けている。  曲はほぼフルコーラスで4分弱。岡部の動きは存外にキレがよくコミカルな味わいもある。が、一糸乱れず完璧な……というわけにはいかない。すでに15回以上同じダンスを繰り返し、息も上がっている。ソロパートで一瞬、出が遅れたのか、「あっ!」と口が動く。でもカメラは止まらない。岡部も止まらない。もういってしまえ!──舞台上が熱くなる。「カット!」の声がかかったとたん、岡部は若者たちと大の字になって床に倒れ込んだ。玉のような額の汗と笑顔に、客席のエキストラから大きな拍手が起こる。  以前、「演技には、よう苦しんでましたけどね、俳優をやめようと思ったことはないんですよね」と、岡部は言っていた。ああ、これはやめられないな──。俳優という仕事の魔力を見た気がした。  岡部たかしの顔と名は昨年のドラマ「エルピス─希望、あるいは災い─」で一躍、全国区になった。第1話の開始1分で、長澤まさみ演じる女子アナ・恵那に「更年期」「ババア」とセクハラ暴言を浴びせるプロデューサー・村井役。ひょろりとした体から出る軽いノリと、凄みある恫喝(どうかつ)を行き来するキャラクターが世間の度肝を抜き、さらにその後の展開で、人々の懐にグイと入り込んだ。 ■ジャッキー・チェンに憧れ「ジャッキー軍団」を結成  演出を務めた大根仁(54)は村井役に「(世間一般に)顔は知られているけど、名前はそこまで知られていない」俳優を想定していたという。岡部とは20年来の付き合いがあり、演技に絶大な信頼を置いていた。 ドラマ「リズム」の撮影風景。セリフのタイミングや相手役との呼吸など、その場での指示に素早く対応する。「エルピス」の演出をした大根仁は言う。「岡部さんは異常に早いんですよ。正解に辿り着くのが」(撮影/門間新弥) 「岡部さんレベルのスキルを持つ俳優にとって、村井はいわゆる『絶対に美味しい役』。岡部さんはバイプレーヤーとして活躍していたけれど、もっとメジャーな場所に行くべき人だとずっと思っていた。僕自身もくすぶっていた時間が長いんで、個人的な思いもあったんです。もう一歩先の岡部さんを、村井役だったら見せることができる。『これはすごいことになると思う』と話しました」  実はもうひとり、村井役の候補がいた。岡部の盟友ともいえる俳優仲間の岩谷健司(53)だ。 「一応、体を空けて待っていたんですけど、事務所から『もう一人候補がいる』って聞かされて、なんだよ、腹立つな!って。蓋(ふた)をあけてみたら『なんだ岡部かよ。じゃ、しょうがねえや』って(笑)」  岡部でよかった、と岩谷は清々(すがすが)しい。 「あれは運命的なものだったもんね」  実際、すごいことになった。ツイッターでは回を追うたび「村井株」が爆上がり。取材のオファーも増え、今年7月には2本のドラマにレギュラー出演。秋からのNHK連続テレビ小説「ブギウギ」への出演も決まっている。岡部はいう。 「母親にはずっと『いつ、やめんねんや』って言われ続けてましたし、地元にもなかなか帰れなかったけど、やっと友達が『お前、すごいな』って俳優として認知してくれるようになった」  そのやわらかい関西弁と物腰で、対人の垣根を決して高くしない。ドラマ収録の合間も常に若い共演者たちに話しかけ、場をなごませていた。やさしさと気配りのひとだと感じる。  和歌山から上京して四半世紀。50歳でブレークした俳優の半生とはどんなものなのか。  岡部は1972年、和歌山県に生まれた。3歳下の弟がいる。家は大阪との県境の街にあり、自転車でいける距離に小さな飲み屋街やデパートがあった。母は2児の母ながら20代半ばと若く、父はあまり家にいなかった。  子どものころなりたかったのはジャッキー・チェン。テレビで映画「酔拳」を観て、コミカルで笑えるキャラクターに魅了された。自らジャッキーたかしを名乗り、仲間を巻き込んで「ジャッキー軍団」を結成、田んぼにわらを積んでバック転の練習をした。ほうきとちりとりを手にニセ広東語を操り、学校でアクション劇を披露したこともある。ニセ広東語は、いまも持ちネタのひとつだ。関西弁でいうところの「いちびった(調子にのってはしゃぐ)」ことをやるタイプ。クラスの盛り上げ役で、小5のときには担任から「ひょうきん大賞」をもらった。  中学時代には『ビー・バップ・ハイスクール』の影響で髪を染め、短ランに憧れた。が、厳しかった母は断固として許さず、岡部は友達の家で着替えて学校に行った。 俳優の岩谷健司(左)と居酒屋で幾度となく芝居について語り合ってきた。最近はそこに息子で俳優の岡部ひろき(右)も加わるようになった。「シルエットとか若いころの岡部によく似てますよ。声がいいのも、親譲りだよね」(岩谷)。(撮影協力/風流四季)(撮影/門間新弥)  工業高校の土木科に進学し、卒業時はバブルの名残で就職には困らなかった。だが大手建設会社で現場監督として働くも、これがまったく肌にあわなかった。1年で辞めて実家に戻ると、母は案の定「なんで辞めんねや!」と大騒ぎ。やりたいことも見つからないまま、トラックの運転手や喫茶店で働いた。地元の友達とつるむのは楽しかったが、次第に「このまま和歌山におってもなあ」と鬱屈した思いが芽生えてくる。ぼんやりと「芸能人になりたい」と思うようになった。  そんななかで知ったのが、柄本明が座長を務める「劇団 東京乾電池」。たまたま大阪での公演を観て、驚いた。「こんなちっちゃい声で芝居するのか!」。演劇とはワーッと声を張るものだと思っていた。研究生の月謝は1万円。これなら払えそうだ。東京でオーディションを受けてみようか。最終的に背中を押してくれたのは、当時の恋人で後に妻となる女性だ。「一緒に行っちゃるから行きなよ! そんなびびってやんと!」「ええ? ほんま、来てくれる?」と、上京を決めた。 ■前を向けなかった卒業公演 恋人からは「辞めたら?」  オーディションでは全身白のスーツで大真面目に尾崎豊の「I LOVE YOU」を熱唱した。面接中、柄本はずっと笑っていた。本気でヤバいやつが来た、と思われたらしい。合格し、1年間自分たちで台本を書き、演技をするレッスンを繰り返した。柄本はたまにしかレッスンに来なかったが、その存在は怖く、大きかった。 「例えば携帯電話を普通に拾う、というだけでも、柄本さんがやると、なぜかおもしろい。それが本当に不思議でした。『演技っぽい』ところが入ってないんだと思うのですが、どうしたらあんなふうにいられるのか、当時は全然わからない。僕、全然演技できなかったですから」  まずぶつかったのが言葉の壁だ。標準語と身体的な感覚が一致せず、セリフを言っていても気持ち悪くてしかたない。卒業公演の脚本を担当したが、これがまた地獄。まったく筆が進まず体重は激減、十二指腸潰瘍になった。当日の舞台では恥ずかしくて前を向けず、体がどんどん後ろに下がっていく。観に来てくれた恋人もさすがに「辞めたら? 向いてへんで」と言った。  が、必死さが伝わったのか、何にも染まってないのがよかったのか。正式に劇団員となり3年を過ごす。この間に結婚、息子が生まれる。だが「何かが見つかってない」感覚がずっとあった。  乾電池を辞めて、お笑い芸人で俳優、脚本や演出を手がける九十九一(つくもはじめ)のもとに集まるようになる。ワハハ本舗出身の俳優・岩谷と出会ったのはこのときだ。居酒屋でアルバイトをしながら、ホテルで開催されるミステリーイベントに出演したり、「もし白木屋に尾崎豊がいたら」などネタを作っては、お笑いのイベントにも参加したりした。  九十九との縁で出会ったのが俳優で脚本・演出家の村松利史だ。ここから数年間、村松のもとで岩谷とふたり、「狂気のような」(岡部)修業時代を過ごすことになる。 「村松さんは、徹底的に『おもしろいこと』にこだわる人なんです。公演も決まってないのに『明日までにホン(脚本)書いて』と毎日言われる。『もっとおもしろくならんか』『もっともっと』と、食事も忘れてやり続ける。みんな付き合えずにバタバタ倒れていって、気がついたら岩谷さんとオレだけになっていた」(岡部)  まさに千本ノック状態。しかし言っていることは正しい。「役のノリとか空気が全然、出来上がってないよ!」とダメ出しをされ、歯を食いしばって食らいついた。「おもしろい」とは単に笑わせることじゃない、ともわかってきた。どんなに残酷な悲劇でも心に響けば、人は「おもしろかった」と言う。とにかく「おもしろくある」ことが命題になってきた。すでに30歳になっていた。 ■売れることをあきらめたら人生が大きく変わり始めた  村松の勧めで舞台の世界に入ったのが、当時売れっ子CMディレクターだった山内ケンジ(64)だ。2004年に山内は劇作家として「城山羊(しろやぎ)の会」を立ち上げ、岡部は初回公演から岩谷と参加した。山内の演出は「とにかく、自然に、普通にやって」。ここで岡部はまた壁にぶつかった。 「おもしろい」に執着するあまり、普通に立っていることができない。普通、が難しかったのは、自身が「普通」だという自覚からでもある。中肉中背、見た目に特徴がない自分は奇抜なことをするしかないと思っていた。芝居がうまくいかない、オーディションに全然受からない、誰も自分に気づいてくれない。当時は鬱屈した思いを、酒場で俳優仲間と分け合っていた。岡部は言う。 「世間が悪い、事務所が悪い、CMのオーディションなんてあんなん最初っから決まってるんよ!とか、全部自分から遠いところのせいにして、傷をなめ合ってたんです。おもしろくない自分に気づいてしまったら、もう終わり。だから自分に向き合うことを避けていた」  さすがにこのままじゃ何も変わらない。そう思い始めていたとき、城山羊の会のメインキャストだった故・深浦加奈子に言われた言葉がある。 「自分、普通でおもろないんですよね、って言ったら鼻で笑われたというか。『そんなことで悩んでるの? 普通をちゃんとやりなさい。普通をちゃんとできる人って、あまりいないんだから』と」  08年2月、深浦の最後の舞台となった城山羊の会の「新しい橋~le pont neuf~」に出演した岡部を見て、岩谷は「変わった」と強烈に感じた。 「スッと自然にいる感じ。これまで『おもしろくしなければ』と演技一個一個に過剰にまぶしていたものが無くなって、肩の力が抜けていた」(岩谷)  何がきっかけかわからない。それまで自分のなかに血肉のようにたまっていたものが、結実した瞬間だったのかもしれない。岡部もいう。 「子どもがふと『あれ、自転車に乗れた?』みたいなもんがあったんでしょうね」  36歳で岡部はようやく壁を抜けた。自然に普通に、かつおもしろく。その両輪がまわりはじめた。同時に大きく変化したことがある。 「売れる、とかっていう考えを、ある意味あきらめたんですよね。演技になにかが見つかってくると『おもしろくなる』ことしか考えられなくなる。あきらめ、っていうと悪い言い方かもしれないですけど、それでけっこう力が抜けたんもあんのかなと思うんです」  ドラマ「エルピス」のプロデューサー・佐野亜裕美(40)は、城山羊の会の公演で岡部の芝居と声に魅了された。「難しい役でも岡部さんなら何とかしてくれるかもしれない」という絶対的な信頼感で村井役をオファーしたという。 「(脚本の)渡辺あやさんと『エルピス』に着手したのは2017年。当時といまではセクハラやパワハラに対する世間の空気もまったく違う。そんななかで村井という人物の奥行きや多面性を、きちんと表現できる方にお願いしたかった。あやさんと私のなかでは岡部さん一択、でした」 ■「おもろいことやってる」と息子も同じ俳優の道へ  撮影初日まで岡部は懸命に村井の「ノリ」を探っていた。佐野や演出の大根とも話し合い、結果、何かを食べながら、飲みながら、携帯をいじりながら、垂れ流すように話す村井のノリが出来上がった。それを岡部は「散らす」と表現する。 「あんまり悪意が見えないように、いまはこの腕のかゆいところが大事で、しゃべってることは二の次で、みたいな」(岡部)  佐野は「いい意味で予想がはずれた」という。 「村井は嫌われてもしょうがない、と思っていたんですけど、岡部さんが演じてくれたことで自分が想像していたよりも愛された。ご本人の人柄もあると思います。私もいつも、また作品で岡部さんに会いたくなるんです」  岡部を岡ちゃん、と呼ぶ山内ケンジもいう。 「岡ちゃんはいい加減そうで憎めない、本気かどうかわからないけど、でも可愛げがある。そういう人なんですよね、本人が。だからそれが役ににじみ出るのかもしれない」  それにしても岡部のこの1年をみると、俳優にとって売れる、とはどういうことなのかを考えずにいられない。そんな問いに前出の岩谷がこう答えてくれた。 「どんな世界でも『出世したい』『認められたい』という思いはありますよね。それを縦軸だとすると、俳優の仕事は縦軸にではなく、横に進んでいくものだと思うんです。俳優としてうまくなるとか、新しい表現をみつけていくことはその世界の奥に進んでいく仕事で、そこに上とか下はない。あとはそれを外の縦軸の世界にいる人、監督や観客が引っ張るかどうか。それはもう俳優には関係ない話なんです。で、運のいい人は、岡部のように上から引っ張られることもあるわけで」  岡部は九十九&村松の修業時代に知り合った先輩俳優・吹越満の言葉を思い出すという。 「吹越さんはあんなに有名なのに『俳優は顔と名前が一致してなくていい』って言うんです。『俳優はどこか謎なほうがいい。売れずに売れなきゃダメなんだよ』って。俳優は作品を作っている人に『あいつ、おもろいで』とまた使ってもらうことが大事。だから『売れずに売れる』って。これ相当いい言葉やな、と思うんです」  いま岡部には、私生活でも相当に「おもろく」なっていることがある。息子の岡部ひろき(22)が自分の背中を追うように俳優になったことだ。ひろきは6歳で父と離れ、母と和歌山に移った。たまに顔を見せる岡部をあまり父親と感じたことはない。中学時代にグレたときにも「それ、おもろいんか。おもろかったらええやん」とのたまう、おかしな親父だった。が、高3にあがる前に城山羊の会の公演を観て、「親父(おやじ)ってこんなにおもしろいことやってんねや!」と開眼した。ひろきは言う。 「『俳優、やろうと思ってる』と言ったときも『おもろかったら、ええんちゃう?』って」  20年には城山羊の会の公演で同じ舞台に立った。演技のアドバイスをもらうこともあり、いま人生で一番、密に関わっている。 「父親というより、やっぱり役者の先輩です」  そんな息子を見つめる岡部の目は、いつも以上にやさしく、心底「おもろそう」に輝いていた。(文中敬称略) (文・中村千晶) ※AERA 2023年7月3日号
謎多き売れっ子俳優・成海璃子の素顔 「陰キャ」「サブカル好き」ならではの演技がクセになる
謎多き売れっ子俳優・成海璃子の素顔 「陰キャ」「サブカル好き」ならではの演技がクセになる 成海璃子  7月放送開始の生田斗真主演ドラマ「警部補ダイマジン」(テレビ朝日系)に出演することが決まっている俳優の成海璃子(30)。生田演じる“悪をもって悪を制す”ダークヒーローの警部補が巨悪に挑む物語で、成海は主人公の元妻で弁護士という役を演じる。  成海といえば、2000年に放送された「TRICK」(テレビ朝日系)でドラマデビューした子役出身の俳優だ。12歳のときに「瑠璃の島」(日本テレビ系、05年放送)でドラマ初主演を果たし、一気に知名度がアップ。最近は脇役として活躍し、今年は「警部補ダイマジン」の他、NHK連続テレビ小説「らんまん」、「かしましめし」(テレビ東京系)と、すでに3本の連続ドラマに出演するなど、引っ張りだこ状態だ。 「成海さんは00年代後半には数々の映画で主演を務め、有名になりましたが、素顔は謎が多い印象です。10年に放送されたバラエティー番組で自室が紹介された際、CD棚に並んでいたのが『スターリン』『村八分』『あぶらだこ』『猛毒』といった、1970~80年代の少しマニアックな日本のロックバンドの音源だったことから、その趣味が一部で話題になりました。それゆえ、サブカル女子の雰囲気があります。自身の高校時代を振り返り、『“わかってくれるのは音楽だけ”という気持ちで、高校時代は過激な音楽を聴いていた』とラジオ番組で明かしていたことも。友達もおらず、10代のころはいつも一人で音楽を聴いて映画を見ていたとか。その後、20代になって人と関われるようになり、お酒を飲んだりして明るくなれたそうです」(テレビ情報誌の編集者)  10代のころは“陰キャ”のサブカル女子だったという成海。キャリアは順調そうに見えるが、さまざまな迷いもあったのかもしれない。一方、20代でのインタビューでは、俳優業に対するしっかりとした意識が垣間見える。 「cinemacafe.net」(2019年12月3日配信)では、「自分の納得したものしかやりたくない」と言っている時期も長かったが、大人になった今は周囲の声に耳を傾けるようになり、他の人の意見も分かるようになったと語っている。また、自分のパフォーマンスで評価が決まるため、無責任なことはできないとも。こうした考えが、自分を動かす原動力になっているという。 14歳の成海璃子。大人びた雰囲気で、当時は23歳の看護師役を演じたこともあった(2007年)  さらに、「オトナンサー」(20年8月6日配信)では、監督が望むことを表現するように心がける一方、役作りについては作り込んだりはせず、相手とのやりとりで変えていくこともあると話している。そうした高いプロ意識や柔軟性も、役者として評価されているところなのだろう。 「現在放送中の朝ドラ『らんまん』では、元彰義隊である夫の妻役として出演。主人公が住むことになった明治時代の長屋の住人という役どころですが、江戸っ子らしいセリフ回しも披露し、存在感を発揮しています。一方、5月まで放送されていたドラマ『かしましめし』では、人生に悩みながらも主人公たちと“おうちごはん”を囲み、一緒に暮らしていくようになるアラサー女子役を好演。こちらはナチュラルな演技で、朝ドラとは全く違うキャラをしっかり演じていました。その安定した演技力はベテランのようなすごみも感じさせます」(同) ■好きな映画は「悪魔のいけにえ」  俳優としての成長著しい成海だが、「大人になってもサブカル好きな雰囲気は漂っている」と言うのは民放ドラマの制作スタッフだ。 「夜、疲れて家に帰ってきたときに見たくなる映画が『悪魔のいけにえ』だと、数年前のインタビューで答えていたのを覚えています。同作品は70年代のホラー映画ですが、『めちゃくちゃな面白さがある』と成海さんは語っていました。主人公の殺人鬼・レザーフェイスが少しドジっ子なところもたまらなく、チェーンソーでうっかり自分の足を切ってしまうシーンに、『なにヘマしてんだよ!』と思ってしまうとか。そうした、独特な視点を持ち合わせつつ演技力も確かという絶妙なバランスが、見ている人を引きつけるのかもしれません」  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は、成海の魅力についてこう分析する。 「独特の雰囲気を放っており、良い意味で自我があるというか、他にはない個性の持ち主です。バカリズム脚本で船越英一郎演じるドラマプロデューサーの愛人役を演じた『黒い十人の女』や、『世にも奇妙な物語 '20秋の特別編』内の大竹しのぶ主演作『タテモトマサコ』といった、かなり変化球的なドラマでもしっかり存在感を残すことができる実力派です。サブカル好きというところも、掘ればもっと意外な素顔が出てくるに違いありません。なにより30代は俳優にとって、どんな役にでも自由にチャレンジできる理想的な時期。キャリアを重ねて幅をさらに広げ、実績を残していけば、代えのきかない、無二の存在になっている可能性は大いにあるでしょう」  派手さはないが、キラリと光る個性を放つ成海。どこかクセがあり気になってしまう存在感は、今後も大きな武器となりそうだ。 (丸山ひろし)
“ミニ与沢翼”とマッチングし港区女子気分に…結婚したくてもアプリ沼から抜け出せない人たち
“ミニ与沢翼”とマッチングし港区女子気分に…結婚したくてもアプリ沼から抜け出せない人たち ※写真はイメージです(Getty Images)  マッチング・アプリをやめられない人たちを取材しながら、「マッチング・アプリ症候群」に陥る人々の心理を描く、ジャーナリスト・速水由紀子氏が上梓した『マッチング・アプリ症候群 婚活沼に棲む人々』(朝日新書)。同書から一部を抜粋、再編集し、結婚したいはずが、高所得者とのデートに味をしめ、アプリの海から抜け出せない矛盾が膨らむ女性たちの実態を紹介する。 *  *  *  住宅メーカーの営業部で働くサエコさん(29歳)は去年5月、3つの大手アプリに同時登録した。  とにかく早く結婚して会社を辞めたい。その一心でマッチングした年収800万円以上の男性にはほぼ全員会ってみたという。  サエコさんの会社は売り上げのノルマが厳しいだけでなく、残業も多いし休みも少ない上に上司との人間関係が複雑でストレスフルだ。 「上司の派閥間の冷戦に巻き込まれることが多くてどんどん精神的に疲れて。とにかく辞めるか転職するかしたかった」  サエコさんは杉並区で両親、妹と実家住まいだが、結婚をうるさく勧め過干渉する母との関係もうまくいかず実家を早く出たい。だが、今の給料では会社に通える場所にまともな部屋を借りることもできないし、シーズンごとに欲しい服も買えない。  早く結婚して専業主婦になりたい。美容や服、コスメなどのインスタグラマーもやっているためそのコストは切り詰められないし、子供はどうしてもインターナショナル・スクールに入れたいので、夫の年収は1500万円以上必要だという。 「大学の同級生がアプリ婚活で結婚したと聞いて、自分にも合っているかも、とリサーチして3社を選び登録してみた」  1500万円フィルターにかけると50代以上の経営者や役員ばかり。そこで手が届きそうな1200万にしてみたのだが、それでも結婚相手としての範囲内の年齢となると普通の会社員はほとんどいない。 「最初のマッチングは個人で株の投資をやってる人。新宿のパーク ハイアットのレストランで5万円のコースとシャンパンを御馳走してくれて……。ネットの株売買ならどこに住んでいてもできるから将来はシンガポールかドバイに住みたいと言ってた。イメージとしてはミニ与沢翼」  年収は魅力的だがサエコさんは東京を離れる気持ちはない。それに個人投資家はいつ転落して全財産を失うかもわからないから、怖いという。  だが、2度、3度と会ううちに、彼の連れて行ってくれるあちこちの超一流レストランにすっかり味をしめてしまった。 「別にタワマンに住みたいとか別荘が欲しいとかじゃないけど。彼が連れて行ってくれる店は好きだし港区女子の気持ちがわかる。贅沢を楽しむ時間があると、会社で嫌なことがあっても忘れられるし」  その彼と月に3、4回は食事に行きながら、他のマッチング相手ともランダムに会う日々にすっかり慣れてしまった。でも、一つ気になることがある。彼はいまだにアプリから退会していない。自分以外にも会っている人がいてキープにされているのかも、と薄々感じている。早く専業主婦になりたい、実家を出たいという目的からどんどん遠ざかるのに、アプリの海からは抜け出せない矛盾が膨らむ。  今、都内の一流ホテルの高級レストランは、サエコさんたちのようなマッチングカップル客がどんどん増えているという。港区で高級ワインバーを営む経営者のFさんは、「自分もアプリに登録して何度か会ったことがあるので、アプリのマッチング客はすぐにわかる」という。和やかだがどこか緊張感があって恋人にしては言葉遣いがぎこちないし、おたがいにかなり気を使っている。そして必ず男性のほうが代金を払うという。 「マッチングのカップルさんはワインも料理も高級なものを注文されるので、お店にとってはかなり収益率のいい客。男性は勝負をかけていることもあって、相手にいいところを見せようと必死だから、キャビアとシャンパンのスペシャルメニューもよく出る」  その中の何パーセントが結婚にたどりつくかは謎だが、少なくともマッチング依存が傾いた日本経済を回す一助になっていることは確かだ。  医者と結婚して港区白金のタワマンに住む。27歳の会社員ケイコさんはそんなミッションを果たすために2年前、アプリに入会した。父は金融系の企業を経営していて母は専業主婦。開業医の娘だった母からは、物心ついた時から医者と結婚しなさいと言われ続けてきた。  家が裕福で成人しても両親から月々20万円の生活費をもらっているケイコさんは、生活の心配がまったくない。週末は着付けやネイル、バレエを習い、29歳になるまでに結婚しようと考えていた。 「会社勤めは好きになれないので結婚して子育てが終わったら、趣味のネイルを勉強してネイルの店をやりたい。逆算すると27歳で出産するとちょうどいい。出会いのチャンスが少ないので試しにアプリに登録してみた。母に賛成されない結婚は難しいので、相手を医者だけに絞っている。でも結局決めきれなくて」  アプリでは医者に「いいね!」が200、300近くつくことも珍しくないし、競争率はかなり高い。しかしケイコさんは若い上に芸能事務所にも何度かスカウトされたぐらい容姿端麗で、8割の確率でマッチングできたという。  そこからはランキング制で淘汰していった。  年収が2000万円以上、住所が港区か渋谷区、世田谷区、内科医、出身大学……。条件をクリアした相手とはレストランで会い、性格や将来性を見極める。 「3人ぐらいに絞りたいので、今度のお誕生日を覚えていてくれて、ちゃんとお店を予約して祝ってくれた人を残す。いくら医者でも家事と子育てだけやってくれればいい、みたいな人では一緒にいるのが苦痛だし。それにネイルサロンにも賛成してくれる人がいいので、余裕のある10歳ぐらい年上の方がいいかも」  アプリのコミュニティではコンサバな年下好きの嗜癖コミュが目立つ。「男性が10歳以上年上でもOKな人」「年上男性と年下女性の組み合わせが好きな人」「ついてきてくれるタイプが好き」……。特に医者や弁護士、経営者など社会的地位が高いとみなされる職業の人々は、「自慢できる10歳以上年下の美人妻がいい」というトロフィーワイフ信仰が根強い。  だからケイコさんのような富裕層狙いは、最初にフィルターで候補を数人に絞るほうが、結婚には早道だ。白金住まい、ネイル店を出すことなどへの理解は付き合ってから確認すればいい。  すでにアプリ登録から2年が経過した。ケイコさんは自分がマッチング依存症の泥沼にはまっている自覚はないが、いつの間にか朝起きた時と寝る前にアプリチェックするのがルーティンになってしまったという。 「何人かと付き合ったが、理想通りの人はまだいない。30歳になったら条件を緩和すべきか、今から悩んでいる」 ●速水由紀子(はやみ・ゆきこ)大学卒業後、新聞社記者を経てフリー・ジャーナリストとなる。「AERA」他紙誌での取材・執筆活動等で活躍。女性や若者の意識、家族、セクシャリティ、少年少女犯罪などをテーマとする。映像世界にも造詣が深い。著書に『あなたはもう幻想の女しか抱けない』(筑摩書房)『家族卒業』(朝日文庫)『働く私に究極の花道はあるか?』(小学館)『恋愛できない男たち』(大和書房)『ワン婚─犬を飼うように、男と暮らしたい』(メタローグ)『「つながり」という危ない快楽─格差のドアが閉じていく』(筑摩書房)、共著に『サイファ覚醒せよ!─世界の新解読バイブル』(筑摩書房)『不純異性交遊マニュアル』(筑摩書房)などがある。
広末涼子のダブル不倫騒動、子育て中の女性は何を思う? 「キャンドルさんとやり直せるかは別問題」
広末涼子のダブル不倫騒動、子育て中の女性は何を思う? 「キャンドルさんとやり直せるかは別問題」 広末涼子  心のバランスがなぜ崩れてしまったのか――。女優・広末涼子(42)が、フレンチレストランのオーナーシェフ・鳥羽周作氏とダブル不倫が報じられたニュースは、子育て世代の30~50の女性たちにも衝撃が大きかった。  今回のスキャンダルで、広末にどのような感情を抱いたか。街頭で取材すると、「奔放な生き方の代償は大きい。女性から見ても魅力的な女優さんだったけど子供の顔が浮かばなかったのかな」(40代女性)、「清純なイメージはないけど、ここまでひどいと思わなかった。うーん、母親の身としては広末さんより子供たちが心配かな」(50代女性)などのコメントが。   今回のスキャンダルを受けて所属事務所は、広末の無期限謹慎処分を発表。今後のメディア出演はすべて白紙となった。光文社も広末が雑誌「STORY」で連載中だったエッセイ「毎日が3兄弟ママで、女優。」の休止を発表した。子育て世代の女性の読者層が多い雑誌で、3人の子供を育てる広末が子育てについて自身の考えを語り好評だった。  3児の子供を育てる千葉県在住の女性は広末と同学年の1980年生まれ。「STORY」の愛読者で、広末のファンだったという。  「広末さんは内面の弱さをさらけ出してくれる。『肩肘を張らずに、楽に生きて大丈夫ですよ』とメッセージを送ってくれるので私も気持ちが楽になった。10代の頃からアイドルでキラキラしていましたが、孤独な部分もあったと思います。キャンドルさんの記者会見を聞いていて腑に落ちる部分がありました。純粋で繊細な人なので周りが見えなくなってしまう部分もあったのかなと。ただ、不倫は思いとどまってほしかった。3人の子供がどう感じるか。そこに想像力を張り巡らせてほしかった」  週刊文春6月15日号で2人の不倫関係が報じられた際は、共に報道内容を否定していたが、週刊文春6月22号で広末と鳥羽氏がやり取りを重ねた手紙や、親密な交換日記の詳細が報じられると、事態が大きく変わった。広末はスタッフのインスタグラムで直筆文書を公開。鳥羽氏も自身のツイッターで謝罪文を掲載した。  広末の夫でアーティストのキャンドル・ジュン氏が、都内で緊急会見を開いたのは今月18日。「皆さんにお伝えしたいことの一番は、妻、広末涼子が育児放棄をしたことは、今まで1度もありません。私にとっても良き妻ですし、なにより子どもたちにとって最高の母であり、家族や親戚の中でも最も頑張る、すてきな女性です」と記者会見の冒頭で擁護。記者が壇上でキャンドル氏の隣に座って質問をする形式の際は過去に同様の男性問題があったかについて聞かれ、「相手方と示談にした話なので詳しくは語れませんが、1回彼女のLINEを見て、相手を確認して、彼女に分からないように相手のところに行き、決着をつけたこともあった」と告白。広末から今回の不倫報道以前に離婚を切り出されていたことも明かした。  広末は3児の母で子育てに打ち込む傍ら、女優として精力的に活動していた。現在放送中のNHK連続テレビ小説「らんまん」では、主人公の母・ヒサを好演している。傍目から見れば公私で充実しているように見えたが、会見でキャンドル氏が明かした内実は衝撃的だった。  キャンドル氏の会見を視聴したという30代後半の女性は、バツイチで中学生の子供がいる。  「テレビや映画でキラキラして見えていた広末さんと、キャンドルさんが語る広末さんが同一人物に感じられなかった。精神的に不安定になって誰かにすがりたい気持ちは理解できなくはないけど、不倫はダメ。なぜブレーキが掛けられないんだろうと…」   そしてこう続けた。  「広末さんが離婚を切り出したのが衝動的な思いだったのか、悩み抜いた末の決断か分からないけど、もう一度キャンドルさんとやり直せるかというと別問題だと思います。個人的な思いですが、離婚しないことが子供に取って良いとは限りません。私は両親が離婚しているけど、母親の愛情を受けて心も満たされていた。子供にも私が離婚したから辛いと思わせたくない。子供は敏感です。自分が幸せを感じられなければ、子供も精神的に満たされない。広末さんは自分の人生と向き合い、心の状態が落ち着いたらキャンドルさんと話し合うべきだと思います」  産後鬱になった経験を持つ都内在住の38歳女性は自身の子育てを振り返りながら、広末の今後を案じた。  「子育てって本当に大変なんです。それこそ、働いていた時期より何倍も疲れたし悩んだししんどかった。でも、子供の寝顔を見ると優しい気持ちになれる。本当にかけがえのない宝物です。親の一番の願いって、子供が幸せになることだと思うんですよね。広末さんも子育てを頑張ってきたと思うし、その部分は称えられるべきです」   そしてこうも言う。  「でも、子供を悲しませるようなことをしてはダメ。不倫は許されることではないし、子供に対する裏切り行為だと思います。キャンドルさんの会見に100%納得できたかというと、そうではないですね。広末さんが精神不安定だったことを明かされて、どんな思いなのかなって。悩んだ末に公表したのかもしれないですが…。キャンドルさんやご家族だけでは支えられない。病院で専門家の指示を仰いで治療に専念した方が良いと思います」   広末と同世代で民放テレビの男性プロデューサーは、広末の不倫報道で女性からの反響が多い理由をこう分析する。  「広末涼子は僕らの青春時代のアイコンでした。透明感あふれる美少女で一気に国民的アイドルに駆け上がって。プライベートで色々あったので清純派という印象は薄れたけど、紆余曲折を経ながらも年齢を重ねて女優として存在感を放ち、3人の子育てと仕事を両立していた。色々な見方はあると思いますが、広末の生き方に励まされた女性は少なくない。今回の不倫報道は、子育てを頑張ってきた同志としてショックを受けている女性が多いように感じます」   衝撃的なスキャンダルで表舞台から姿を消すことになるのか。広末は今、何を思う――。 (今川秀悟)
妻の死が先でも「年金が増えた」人も 「年金繰り下げ」実施機関で取り扱いに差か
妻の死が先でも「年金が増えた」人も 「年金繰り下げ」実施機関で取り扱いに差か 「繰り下げ」を定めた厚生年金保険法の条文。「繰り下げ」にチャレンジする人は、今後増えると予想する声が多い(撮影/写真映像部・和仁貢介)  妻に先立たれると「年金繰り下げ」はできなくなる。しかし、このルール、実施機関で考え方に差があり、不公平な事態が生じかねないことがわかった。AERA 2023年6月26日号の記事を紹介する。 *  *  *  東京都内に住む元公立学校の教師の男性(70)は昨年11月、老齢厚生年金の繰り下げを請求した。老齢厚生年金の受給開始は原則65歳。男性は7月生まれだから、5年4カ月遅れて請求したことになる。  男性には民間で働いた経験もあることから、「公立学校共済組合」(以下、公立学校共済)と「日本年金機構」(以下、機構)に老齢厚生年金の記録がある。それぞれの窓口へ出向いて手続きをした。機構の年金事務所では5年4カ月繰り下げた見込み額を記した試算結果を受け取り、公立学校共済からは今年1月、5年4カ月繰り下げた金額を記した年金証書が届いた。  2月から、偶数月に繰り下げた年金額が振り込まれている。繰り下げの増額効果で、男性の老齢厚生年金は公立学校共済分で年額210万円を超す。  と、ここまでは普通の繰り下げ話だが、男性の次の発言を聞くと、年金関係者なら男性の年金繰り下げに疑問が生まれるはずだ。配偶者について尋ねると、男性はこう答えるのだ。 「2年前、68歳4カ月の時に妻を病気で亡くしました」  なぜ、これが疑問につながるのか。順を追って見ていこう。 ■「繰り下げ不可」の条件  超高齢社会が進むにつれ、「年金繰り下げ」は注目度合いが高まっている。「人生100年」で老後が長くなり、老後資金を自助努力で準備しなければならない時代に入ったからだ。年金繰り下げは、受給を遅らせた分、受け取る年金額を増やす手法。1カ月遅らせるごとに0.7%年金額が増える。最長10年遅らせることができ、5年で42%、10年だと84%も年金額を増やせる。  ただし、誰でも繰り下げができるかと言うと、そうではない。年金法には、「他の年金の受給権」を得た場合は繰り下げができないと定められている。66歳前だと、そもそも繰り下げができなくなり、66歳以降75歳までは、受給権が発生した時点で繰り下げ待機は「強制終了」となる。近年、繰り下げが注目されるにつれ、この規定を基にした「落とし穴」が年金関係者の間で指摘されるようになった。  その「落とし穴」こそ、妻が先に死亡した場合の夫の年金繰り下げである。今の年金世代の妻は会社で働いた経験を持つ人がほとんどで、老齢厚生年金を受給する資格を持つ。その妻が先に亡くなると遺族厚生年金が発生し、一定の条件を満たせば夫に遺族厚生年金の受給権が発生するのだ。具体的には、(1)夫が55歳以上である(年齢要件)、(2)妻と同居していて、かつ、前年の収入が850万円未満である(生計維持要件)、の二つだ。 AERA 2023年6月26日号より  男性の妻も学校の先生で公立学校共済に年金記録があり、病気がわかると年金受け取りの時期を早める「繰り上げ受給」をしていた。男性に聞くと、「妻の死亡当時、『一定の条件』をすべて満たしていましたね」。 ■「受給権」を巡る法理論  とすると、妻の遺族厚生年金の受給権が、夫である男性に発生していそうにも見える。年金実務に詳しい社会保険労務士の三宅明彦氏が言う。 「年金法における受給権は、請求の有無にかかわらず、法が定めた条件を満たせば自動的に発生するというのが通説です」  確かに、年金法の権威、堀勝洋・上智大名誉教授の『年金保険法』は、受給権のうち「年金給付を受ける権利」は「基本権」とし、「支給要件に該当したときに発生する」としている。 「この立場に立てば、男性が年齢と生計維持要件を満たしていたことがわかれば、妻の死亡で遺族厚生年金の受給権が発生したことになります。発生は事由が生じた日、つまり妻の死亡日で、それ以降は繰り下げ待機はできなくなります」(三宅氏)  とすると、男性はそれまでの3年4カ月分(0.7%×40カ月=28%)を増額された年金を受け取ることになる。しかし、先述のように公立学校共済は70歳4カ月までの繰り下げを認めた年金証書(0.7%×64カ月=44.8%増額)を発行している。  以前は主に公務員のための実施機関だった「共済」と厚生年金は「別物」だったが、2015年に統一されて厚生年金に「一元化」された。それ以降は、元教師の男性のように共済と厚生年金の両方に年金記録があって繰り下げる場合は、時期をそろえなければならなくなった。このため、機構も70歳4カ月での繰り下げを認めているとみられる。 ■「希望に寄り添う運用」  機構は「個別具体例については回答できない」としているため、どういう経緯でそうなったのかは藪(やぶ)の中だが、公立学校共済に聞くと、同共済は先の三宅氏の説明とは違う立場を取っていることがわかった。そもそも男性に妻の遺族厚生年金の受給権が発生しているかどうかは確定していない、というのだ。 「遺族厚生年金の受給権は、条件を満たしているかどうかを見る書類審査を経て初めて確定します。この男性の場合、遺族厚生年金を請求していないため、受給権の確認を行えておらず、受給権の発生は確定していないことになります。公立学校共済では、このように遺族厚生年金の受給権が確定していない場合、夫が希望すれば、夫が妻の遺族厚生年金を今後も請求しないという申立書を出したうえで、夫が繰り下げ支給を申し出た時までの繰り下げを認めています。なお、今回のように遺族厚生年金を請求していない状態で繰り下げも続けているケースはまれです」(広報担当者)  実際、今年1月、公立学校共済からの求めに応じる形で、男性は遺族厚生年金を請求しない旨の申立書を提出し、70歳4カ月までの繰り下げが認められた。 「法の範囲内でどこまで受給者の希望に寄り添えるかの観点で運用しています」(同)  受給者への有利な取り扱いは歓迎すべきことかもしれない。しかし、年金事務所の年金相談を知る複数の関係者に男性の事例を示すと、そうも言っていられなくなる。 「年金事務所では認められないケースです。妻が死亡した時点で遺族厚生年金の受給権は発生していて、それ以後、繰り下げはできなくなります。たとえ窓口の担当者が見逃したとしても、バックオフィスが気付いて繰り下げ終了になるでしょうね」 「他年金の受給権は、繰り下げ請求者が来たときに調べるイロハのイです。とりわけ配偶者死亡による遺族厚生年金のケースは、例が多いのか、注意事項になっているようです」 ■取り扱いが異なる恐れ  男性の例はともかく、通常は先の三宅氏の解説に基づいた解釈で受給権の発生と繰り下げの是非を判断しているように思える。機構の広報室もこう言う。 「繰り下げ請求に来た人には、繰り下げる際の注意事項を説明しています。66歳以降の繰り下げ待機中に妻が死亡して、それ以降も繰り下げ待機を続けている人が請求に来た場合は、生計維持要件に該当していれば、妻死亡時で繰り下げの増額率は固定されたことを説明することになります」  だとすると、同じケースでも公立学校共済と年金事務所で違う取り扱いをされる可能性がある。この男性の場合、両方に記録があったために取り扱いがそろえられたようだが、「公務員だけ」「民間だけ」だと、取り扱いが異なる可能性が高まる。  男性の体験が、この見方を裏づける。2年前に、妻死亡で妻が受給していた年金に「未支給年金」(本人に支給すべきもので、まだ支給していないもの)が発生した時のことだ。 「未支給年金の請求に窓口へ行ったんです。年金事務所では、私には妻の遺族厚生年金の受給権が発生しているから、『ルールに従って繰り下げは妻死亡の時点で終了』と説明を受けました。その時点での年金見込み額を試算した資料ももらいました」  ところが、公立学校共済では対応が違っていた。 「年金の決まりで、妻の遺族厚生年金は請求しても全額支給停止で『0円』になると聞きましたが、繰り下げを続けられなくなるという説明はありませんでした。若い職員に『繰り下げをしておられますね。もったいない、どうぞ』などと言われました」  同じ法律に基づいているのに、実施機関によって取り扱いに差が生じ、不公平な事態が生じるようでは困る。先の三宅氏もこう指摘する。 「一元化前ならまだしも、一元化以降に共済と年金機構で異なる取り扱いが行われるのはおかしいと思います」  一刻も早く取り扱いを統一してほしいものだ。(編集部・首藤由之) ※AERA 2023年6月26日号
なぜパートナーに出会えた管理職女性44歳は卵子を廃棄したのか 「産まない」決断の裏側
なぜパートナーに出会えた管理職女性44歳は卵子を廃棄したのか 「産まない」決断の裏側 写真はイメージです(GettyImages) 「今は産めない」事情を抱える人が、将来の可能性を残す卵子凍結。凍結して保管している卵子を融解して“使うタイミング”というのは、子どもを迎える環境が整い、準備ができたときだ。だが実際には、卵子凍結をしても使わないままになるケースも多いという。当事者を取材して、産み時をめぐる女性の葛藤からこの技術を選択する意味を考えた。 *  *  *  都内にあるメーカー本社で、部長を務める田村美咲さん(仮名・44)。数年前に卵子凍結したが、今年に入ってから保管していた卵子を廃棄する決断をした。複雑な思いだったが、同時に「これでやっと産むかどうかという長い迷いから解放されて、次に進むことができる」と安堵も広がったという。  卵子凍結のきっかけは、不妊治療を経験した友人の勧めで受けた「AMH検査」だった。AMH検査とは、年齢とともに減っていく卵子が、卵巣内にどれぐらい残っているかを推測する血液検査のこと。田村さんは生理痛がほとんどない体質で、過去に婦人科系のトラブルがあったこともない。趣味で長年ランニングを続けていることもあり、体力には自信があるほうだ。30代後半になっても漠然と、「私は40代でも出産できる」と思っていた。  ところがAMH検査の結果を見て、愕然とした。田村さんの結果は、同世代の標準値と比べてかなり低く、医師から「閉経間近の数値」だと説明されたのだ。医師は、子どもを持ちたい思いがゼロではないのなら、卵子凍結も一つの選択肢だと続けた。パートナーはいなかったが、いつか子どもは欲しいと思った。日々の忙しさにかまけて、先延ばしにしてきた問題が、突然目の前に立ちはだかった。  検査を受けたのは、転職を2カ月後に控えた時期。ちょうど有給休暇消化中で、まとまって休みが取れるまたとない機会だった。転職すれば、また忙しい日々が始まる。善は急げと採卵手術に踏み切り、15個の卵子を保存した。  パートナーができたのは、それから半年後のことだった。相手は40代後半の年上の男性で、前妻との間に子どもが1人いる。仕事熱心で、グルメで、サーフィンが好きな人。彼と一緒に過ごす時間は楽しく、自然と「この先の人生を一緒に過ごしていきたい」と思えた。1年ほど交際し、同棲するようになった。  田村さんに部長職の打診があったのは、それから間もないタイミングのことだった。20代から仕事中心の生活を送ってきて、必死に努力もしてきた。同僚が結婚や出産を機に会社を辞めたり、仕事をペースダウンして家庭と両立する姿を横目に、常に第一線に立ってここまで踏ん張ってきた。昇進はこれから先のキャリアにおいても、きっとプラスに働く。  凍結している卵子のことがふと頭をよぎるも、二つ返事で承諾し、部長職についた。責任あるポジションを任され、日々の仕事はやりがいがあって充実していた。それまでにも増して、仕事中心の生活が始まった。 ■待ちに待ったタイミングのはずだったが…  子どもを産むなら、悠長なことを言っていられないタイミングが迫っていることは自覚していた。長年の不妊治療を続けた末に、授かることを諦めた同い年の友人もいる。同棲し始めて間もなく、パートナーから「結婚しよう」という話が出たとき、「実は私、卵子凍結してるんだよね」と打ち明けた。いつか子どもを産みたいという思いで卵子を保管していること、保管期限が45歳までであることを話した。それまでパートナーは、新たに子どもを持つことは考えていなかったようだったが、「君が望むならチャレンジしてみようか」と促してくれた。  それは、待ちに待ったタイミングのはずだった。パートナーができ、やっと妊活に本腰を入れて取り組める。年齢から無事に出産できる可能性が低いことは分かっているが、挑戦できる環境は整った。だがこのとき、自分でも意外な思いがじわじわと広がった。 「これから子どもを持つ……果たして、私は本気なのか」  このとき、42歳。授かれるかという不安よりも先に「本当に欲しいのかどうか」という疑問が広がった。これから出産となると、1~2年は仕事から離れることになる。子どもが幼いうちは、全力で仕事をするのが難しい場面も出てくるだろう。部長職は大きな抜擢だったが、出産後に同じポジションに戻れるとは限らない。 「責任ある立場になった今、このタイミングで子どもを産むというのはどうなのか……」 それまで積み上げてきたものがどうなるか分からないという不安も大きかった。何事も決断は早い方だが、こればかりはどうしても、すぐには決められなかった。3カ月間、仕事の傍らで、悩みに悩んだ。人生で一番、答えの見えない葛藤に包まれた期間だった。ある朝、目覚めてシンプルに思った。 写真はイメージです(GettyImages) 「やっぱり子どもは産まないでいい」  パートナーと二人一緒に過ごすので十分という結論に至った。その後、凍結していた卵子を廃棄する手続きをした。 「卵子を凍結したときも、廃棄したときも、素直に自分の心に向き合った結果の選択だから、悔いはありません。もし30代で今のパートナーと出会っていたら、産みたいという気持ちが強かったと思う。子どもを持ちたいかどうかは、その時々のタイミングで選択が変わってくることを実感しました。今の私には“これから産んで、育てていく”ということが、どうしても考えにくかった。でもやっぱり、もし来世があったら、その時は産んでみたいかな」  ◇  凍結して保管している卵子を融解して“使う”タイミングというのは、子どもを迎える環境が整い、準備ができたとき——―。だが実際に卵子凍結をしても、結局は保管している卵子を使わないままになるケースが多い傾向が見られるという。  例えば、順天堂大医学部付属浦安病院(千葉県浦安市)での臨床研究の事例。同病院では、浦安市の助成を受け、2015年から3年間、市内に住む20~34歳の女性を対象に、卵子凍結の臨床研究を行った。対象者の自己負担は、排卵誘発にかかる部分のみとする補助事業だ。3年間で合計34人が卵子を凍結したが、これまでに凍結した卵子を使ったのは2人で、出産に至ったのは1人だという。 「また、欧米で行われたある調査によれば、卵子凍結した人の中で、15年後に子どもがいる人の割合は20%。うち半分が凍結卵子を使用せず、妊娠を計画した時点での自分の卵子で妊娠しており、凍結卵子を使って子どもが産まれた割合は5.2~7%という結果でした。」  こう話すのは、東邦大学医療センター大森病院産婦人科の片桐由起子教授。卵子凍結の技術には、「高齢出産を増やし、晩産化を社会でますます加速させるのでは」といった懸念の声も聞かれる。「卵子を凍結したから安心」というものではなく、本当に出産を望むなら、それなりの計画性も必要になってくる。 「実際に凍結した卵子をいつ使おうと思うのか、ある程度イメージすることも大切。例えばキャリアを優先してきた人が責任ある立場になったときに、子どもを持つことを選べるかどうか。妊娠や出産がゴールではなく、そこから始まる子育ても含めて計画してほしいと思います」(片桐教授) 写真はイメージです(GettyImages)  東京都は今年、健康な女性が卵子凍結する際の費用を助成する方針を固め、来年度の本格実施を検討している。少子化対策の一環として、未婚の女性が将来の妊娠・出産の可能性を残すための後押しとしている。だが、専門家の間では効果を疑問視する声も多い。 「諸外国の調査結果などを見ても、凍結した卵子を使って妊娠までに至る例が少ないし、あくまで個人の保険という意味合いが強い。それに税金を投入することには、少なからず疑問を感じています。少子化対策になる出生数につながるのかどうか……」(片桐教授) ◆ビジネスの側面もある 情報提供は中立的か  生殖医療の一つである卵子凍結は、クリニックが自由に料金設定できる自由診療だ。ビジネスという側面もあるだろう。現状、関連する法律や制度などがなく、どこまで技術の質が担保されているかどうか、医療を受ける利用者には分かりにくい。  生命倫理政策を研究する東京大学医科学研究所の神里彩子准教授は言う。 「生殖補助医療について法律などで規制をしている国は多くありますが、日本では残念ながら公的な規制は手つかずの状態です。こうした状況の中で、行政が助成金を出すとなれば、ビジネスとして新規参入を考えるところが次々に出てきてもおかしくはない。今でも、卵子凍結や体外受精は経営の観点では収益につながるサービスであり、それを受ける側に中立的な情報提供がなされているか疑問です」  加齢によって卵巣機能が低下し、一定の年齢を過ぎると妊娠・出産が難しくなるのは避けられない現実だ。一方で、不妊治療を受けている患者の多くが、卵巣機能や卵子の質という意味で「出産適齢期」を過ぎた年齢という実態がある。そうした中で健康な女性の卵子凍結は、日本産科婦人科学会の専門委員会をはじめ専門家たちは「推奨しない」という見解を示す。だが、実際は多くのクリニックが技術の提供に乗り出し、利用者も広まっている。  生殖工学博士の香川則子さん(プリンセスバンク代表)は、利用者側の視点で説明する。 「子どもが欲しいのに何らかの理由でそれがかなわず、大きな焦りを感じている人や、40歳を超えても妊活しそうという人などは、ひとまず卵子を凍結して時間を止めることが“お守り”代わりになる場合もあります。また最近は、2人目、3人目の子どもを産むための“保険”としての目的なども増えてきました」 写真はイメージです(GettyImages)  ◇  当事者の話を聞くと、現時点で妊娠・出産より優先したい何かがあって“あえて”卵子凍結をしているというものではなかった。例えばパートナーがいないなど、「産めない」今の状況がいったいいつまで続くのか、自分でも読めないから、少しでも将来に可能性を残しておきたいからという傾向が強いように感じた。  20代から日々仕事に向き合い、「キャリアを優先してきた」つもりはなくても、ふと気がついたら出産適齢期と言われる年齢を超えていた、そんな女性は決して少なくないだろう。今、37歳の筆者も、そのうちの一人だ。卵子の老化や不妊について、メディアなどでも活発に取り上げられ、不安を煽られる心理はよく分かる。なかなか周囲に本音を話しづらい話題で、内なる葛藤を抱えがちなテーマであることも。今回の取材でも、「卵子凍結は“孤独な闘い”だから、話して楽になった」という声があった。「近い人にこそ話せないテーマ」なのかもしれない。  卵子凍結をめぐる現状について、専門家の視点からは厳しい意見も多かった。技術や制度の面でも課題が多く、卵子を凍結したからといって必ず妊娠できるわけではない。ただ、リスクをしっかり理解したうえでなら、選択するのは個人の自由だと思う。  卵子凍結という技術は、産み時に悩む現代の女性に何をもたらすのか。第一の目的は、将来の妊娠・出産の可能性を残すこと。実際は、心のお守りがあることで不安からの一時的な解放感かもしれないし、今やれることはやったという達成感かもしれない。何より今回取材した当事者は、今の自分の体と真剣に向き合い、突き詰めてこれからの人生を考えていた。その過程にこそ、この技術を選択した意味があるのかもしれない。 (松岡かすみ) ※連載を始めから読むにはコチラ >>【上:38歳東京都の女性が「卵子凍結」で向き合った現実 「産めなくても堂々と」実名で発信】 >>【中:「今が一番若い」未婚の会社員女性39歳が総額100万円で18個の卵子凍結 「意外なデメリットも…」】
渡辺美奈代が今だから語れる結婚秘話 「1度だけ口頭で伝えた電話番号を夫が覚えていたんです」
渡辺美奈代が今だから語れる結婚秘話 「1度だけ口頭で伝えた電話番号を夫が覚えていたんです」 渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  元おニャン子クラブの渡辺美奈代(53)には、今でも多くのファンがいる。【前編】では、主におニャン子クラブ時代を振り返ってもらったが、【後編】では結婚に至るまでのエピソードや息子たちとの生活ぶりなどを語ってもらった。夫の矢島昌樹氏と知り合ったのは21歳ごろ。2人は今年の3月28日で、結婚27周年を迎えた。現在は家族4人で暮らしているが、どのような生活を送っているのか。詳しく話を聞いた。 ※【前編】<元おニャン子・渡辺美奈代が明かすアイドル時代 「スキャンダルで追いかけられたのは1度だけ」>より続く *  *  *  渡辺と矢島氏が付き合うきっかけとなったのは、渡辺が歌手の郷ひろみと共演したフジテレビのドラマ「生前情交痕跡あり」(1991年7月放送)の打ち上げパーティーだった。  渡辺は夫とのなれそめをこう明かす。 「打ち上げで同じテーブルになったんです。四角いテーブルで、たしか、私の前には郷ひろみさん、斜め前に夫が座っていました。皆で話をしてちょっと間が空いたときに、夫から『ちょっとお手洗いに行って、コースターに電話番号を書いてきて』と言われたんです。そんなことをしたら証拠が残ってしまうので、『ごめんなさい、それはちょっとできません』とその時は断ったんです。その代わりに、『じゃあ、一回だけ口頭で言うから、覚えてたら縁があったと思って』と、口頭でナンバーを言ったんです」  渡辺はお酒が飲めないのもあり、マネジャーとともに打ち上げの途中で自宅に帰ったという。 「当時は携帯電話もないので、口頭で伝えたのは自宅の電話番号です。家に着いた途端、電話がかかってきました」  取材に同席した夫はこう話す。 「美奈代さんが打ち上げ会場を引き上げてから30分くらいたったころ、『そろそろ家についているはずだ』と思って、パーティー会場のお店から急いでかけたんです(笑)」  それから7年ほどの交際をへて結婚した。夫婦は今年3月28日で結婚27周年を迎えた。夫妻の間には、長男・矢島愛弥(まなや、25)さんと次男・矢島名月(なづき、19)さんの2人の息子がいる。 渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  おニャン子時代から仲がよかった、「ゆうゆ」こと岩井由紀子とは子育てについて情報交換していたという。 「ゆうゆも2人の子どもがいて、わりと年代が近いんです。だから、LINEやメールで子育てについて教え合いました」  渡辺は長男についてこう話す。 「現在はソロで音楽活動を始めています。私のできないラップが得意なんです。愛弥は普段、しゃべるときはすっごいスローな話し方なんですけど、ラップになるとすごく早く口が動く。私の曲の作詞もしてくれています」  愛弥さんは、渡辺のシングル曲「Merry GO! Land」「BIG LOVE」など、約5曲の作詞を担当したという。  次男の名月さんは格闘技に挑戦している。 「名月は大学2年生で、大学では英文学を専攻しています。格闘技のK-1アマチュア大会に出場していて、これまで4試合戦いました」  4戦目は5月28日にあり、KO勝ちをおさめた。これまでの戦績は3勝1敗。 「うちの子どもたちは、兄も弟も友だちとケンカをしたことがないんですよ。そんな子がなぜK-1にっていまだに思うことがあります。試合は見ていますけど、いつもこんな状態です」  と、手を目の前に持っていき、視線を遮るしぐさをした。 「本気で殴られるのを見るのは嫌ですから。今年9月にK-1カレッジという大会があるみたいで、名月の当面の目標はその試合のようです。人生は一度きりなので、自分のやりたいことを、自分の好きなようにやって生きていくのがいいんじゃないかと思います。もちろん、恋愛もね」  渡辺は子どもたちが小さいころから、毎朝、お弁当を作り続けてきた。 「朝5時半に起きて、お弁当を作っていました。上の子が2~3歳で幼児教室に通いだしてから作っていたので、お弁当作り生活は23年間くらい続けたことになります。次男が高校を卒業した昨春、やっとその生活が終わりました」  子ども中心だった生活も少し落ち着いてきた20年4月から、渡辺は自身のYouTubeチャンネル「渡辺美奈代のMinayoチャンネル」を始めた。そこではお弁当作りの動画もアップしており、チャンネル登録者は、現在約8万人いる。 渡辺美奈代(撮影/門間新弥) 「お弁当の動画は再生数が70万回を超えて、これまでで最も多く視聴されました。一緒に子育てをしてきたママたちのファンも見てくれているみたいです」  夫の矢島氏によると、視聴者の9割以上が女性だという。 「美奈代さんのコンサートでは、女性客が圧倒的に多い。アイドル時代の武道館コンサートで、1万2000人くらい集まった男性ファンはどこに行ったんだっていうくらい(笑)。女性ファンが自分と等身大の感覚で、美奈代さんを見てくれているようですね」(矢島氏)  渡辺は今、インテリアやアパレルのプロデュースもしている。そんな彼女に、美容の秘訣を聞いてみた。 「豆乳を10年以上飲み続けています。大豆イソフラボンは肌の調子を整えてくれますし、大事ですね」  今後も一生歌い続けますか? 「ファンのかたがいらしてくださるのなら、続けたいなと思っています」  男性ファンをとりこにした10代から、女性ファンに支持される50代へ。年齢や性別にとらわれず、渡辺はファンを魅了し続けている。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
服役中の河井克行元法相「すべてをのみ込んだから刑務所にいる」 非公開法廷で述べた発言の真意は
服役中の河井克行元法相「すべてをのみ込んだから刑務所にいる」 非公開法廷で述べた発言の真意は 2021年3月、東京地裁に入る河井克行氏=代表撮影  2019年の参院選で広島県を舞台に起きた買収事件。公職選挙法違反(買収)の罪に問われ、実刑が確定した河井克行元法相=服役中=から現金を受け取ったとして、同法違反(被買収)の罪に問われている元県議の裁判に、河井元法相が証人として出廷した。刑務所内に臨時で設置された法廷で非公開で行われた。河井元法相は、自身の実刑判決に納得していないと述べ、「政治家の責任ですべてをのみ込んだから刑務所にいる」などと含みを持たせた発言をしたという。  河井元法相から現金を受け取ったとされる被買収側で、広島県議を無所属で4期務めた元県議の佐藤一直被告(48)の公判が、6月19日に広島地裁で開かれた。そのなかで、5月31日に栃木県さくら市の刑務所「喜連川社会復帰促進センター」内に臨時で設置された法廷で、河井元法相が証人出廷したことが明かされた。  佐藤被告の起訴内容は、河井元法相の妻、案里氏=有罪確定=の当選に向けた選挙運動の報酬として、2019年6月に広島市内の事務所で30万円を河井元法相から受け取ったとされる。 参院選で街頭演説する河井案里氏=2019年7月、広島市  佐藤被告は、これまでの公判と同様、6月19日の被告人質問でも「受け取った現金は選挙運動の報酬ではない」と改めて起訴内容を否定した。  AERAdotは、5月31日に刑務所内であった河井元法相の証言の詳細について佐藤被告に取材した。  佐藤被告によると、河井元法相はベージュのズボンに作業服のような上着で現れたという。 「刑務所内の体育館のような場所に長テーブルが置かれて、法廷に見立てたような感じでした。河井元法相は、入ってくると一礼をしました。やせた印象でした」  裁判の冒頭、河井元法相は、自身の裁判では罪を認めていると問われると、 「全員に選挙買収という趣旨でお金を渡したのではないです。裁判所の外形的な判断で承服できない」  と否定したという。  この事件をめぐっては、候補者選考の段階で自民党本部と広島県連の方針が食い違い、選挙期間中も対立が続いた。  当時、広島県連は、現職だった溝手顕正・元国家公安委員長(故人)の公認を決めていた。広島選出の岸田文雄政調会長(当時)が率いる岸田派(宏池会)の重鎮だ。  ところが、党本部は2人目の公認候補として案里氏を擁立した。これを主導したのが当時の安倍晋三首相と菅義偉官房長官だった。この決定に県連は猛反発。県連のホームページでも、早々と溝手氏のみを「公認」とし、案里氏の名前は出していなかった。  佐藤被告の裁判に戻る――。  佐藤被告によると、河井元法相は、自身が県議時代の1992年にあった参院選の記憶としてこう話したという。 「選挙戦がはじまると、自民党広島県連から活動費として20万円か30万円をちょうだいしました。県議に当選してから初めての国政選挙でした。大型選挙の前には活動費が支給されるのが当然と思うようになりました。しかし、案里は県連からは認められていなかったので活動費は出ませんでした。自分でも同じようにすべきだと、広島県連の代理として陣中見舞いや当選祝いなどとして、活動費をポケットマネーで配りました」  今回の買収事件について、自身の裁判でも語っていなかった内容だ。  そして、佐藤被告へ渡した30万円については、 「佐藤さんには失礼な言い方だが、無所属で後援会もないので票を集めるのは無理。期待していないし政治的な力はない。漠然と案里を応援してくれればと思った」 「2019年は統一地方選があった年。当選祝いとして渡しました」  などと述べ、買収の意図ではなかったと説明した。  また、河井元法相は当選8回のキャリアがありながら、自民党広島県連の会長になれなかったことも、カネを配った一因だったと話したという。 「県連会長は、岸田文雄首相が異例の任期延長を繰り返していて、(岸田首相は)当時は外務大臣という立場で忙しいので、私にもチャンスがあると思っていたが、私よりキャリアが少ない(岸田首相の)親族の議員がなってショックでした。そのとき、ある自民党の重鎮県議に聞くと『コネをつけないといけない』と助言されました。参院なので、県全体で(活動費を配るのが)許されると思った。助言にのっとり、当選祝いなどを持っていった面もあります」  河井元法相は県議や市議の名前に数字を書いた2900万円の「配布リスト」を作成していた。東京地検特捜部はそれを押収し、立件のきっかけになり、裁判でも「最重要証拠」の一つだった。AERAdotも入手したその「配布リスト」を見ると、県議や市議の名前の横に金額がきっちりと書かれていた。  だが、名前はあるが配布されなかった人や金額が違う人もいたことが河井元法相の裁判などでわかっている。  法廷で河井元法相はそのリストについて、 「どんな人に差し上げるとか、いくらかとかは頭の体操。頭の中で考えていたことをメモしただけで実際とは違う」  と話した。また、「氷代」「餠代」など自民党の派閥では盆や暮れに現金を配るのは当然のように語られる。その点について佐藤被告側から聞かれると河井元法相は、 「みんなやっていることで何が違法なのか、検察に聞いてくれ」  などと声を荒らげたという。  配った計2900万円については、 「違法なことをしていたとは思っていなかった。当選祝いなど活動資金の一環で渡した」  と自身の裁判と変わらない主張をしたといい、 「いったん、自分の自民党の選挙区支部にお金を入れて、河井からの寄付として配るとかすればよかった」  と後悔も口にした。  そして最後にこう言ったという。 「私の実刑判決には納得していないが、政治家の責任ですべてをのみ込む、引き受けると決めたので、刑務所にいるのです」 *  *  *  この事件では、自民党本部から河井夫妻側に1億5千万円の資金が渡されたことも指摘されたが、いまだに検証はされていない。  河井元法相は、チラシの全戸配布や電話作戦などに費消し、「2900万円、配ったカネはポケットマネー」と語っていた。  河井元法相がのみ込んだすべてとは何だったのだろうか。  佐藤被告が河井元法相の法廷について、こう感想を話した。 「自民党では選挙でこういう大きなお金が動くものなんだと改めて思った。無所属の私には信じられない。刑務所での法廷だったので傍聴人はおらず、証言しやすい感じがした。河井元法相は法廷が終わると私にも深々と礼をして、刑務官に連れられて去っていったシーンが印象的だった」  7月にも別の被買収関連の裁判で河井元法相が出廷する予定だ。 (AERA dot.編集部 今西憲之)
ジュン氏が「謝罪がない」と激怒した鳥羽氏の振る舞い レストラン周辺住民からも上がっていた「本当の評判」
ジュン氏が「謝罪がない」と激怒した鳥羽氏の振る舞い レストラン周辺住民からも上がっていた「本当の評判」 鳥羽周作氏(写真:REX/アフロ)  18日に緊急記者会見を開いたキャンドル・ジュン氏(49)は、妻で女優の広末涼子(42)について謝罪するとともに、これまで夫婦にあった出来事を赤裸々に語った。さらに、広末の不倫相手である有名フレンチレストラン「sio」のオーナーシェフ・鳥羽周作氏(45)について怒りをあらわにする場面もあった。ジュン氏が経営するショップ「ELDNACS」と鳥羽氏の「sio」は、ともに小田急線の代々木上原駅が最寄りで、両店はわずか100メートルほどしか離れていない。地元商店街などを取材すると、鳥羽氏が日常で見せる“素”の顔がみえてきた。 *  *  * 「彼の謝罪文を見た時に怒りしか浮かんでこなかったです」  記者会見の中で、ジュン氏は鳥羽氏に対して、こう怒りを表現した。 広末の不倫報道後、ジュン氏は鳥羽氏と直接話をしようと、アポイントを取ることを試みたという。しかし、ジュン氏の電話に対して鳥羽氏の事務所スタッフは「どういったご用件ですか? 代表(鳥羽氏)はリモートですから」と取り付く島もなく、連絡をくれるように言付けをしても、鳥羽氏から折り返しはなかった。こうしたやりとりが2回続いた後、最終的には、鳥羽氏から「このたびは申し訳ありませんでした」というメールが届いたが、アポについて「今日は他に用事があるので」と断られたという。  そんな状況のなかで、14日、広末と鳥羽氏は同時に謝罪文を発表。鳥羽氏の謝罪文に「今後は、改めてゼロから料理に向き合いたいと思います」と書かれていたことについて、「なんとも言えない気持ちになりました」と胸中を語ったうえで、冒頭のように怒りをあらわにしたのだ。  ジュン氏は記者会見のなかで、鳥羽氏に対して、「文書1枚」で済ませるのではなく、大人として責任ある対応をすべきだということを強調していた。  記者会見前、AERA dot.は鳥羽氏のレストラン「sio」がある代々木上原駅周辺を取材していた。「sio」はミシュラン一つ星の有名レストランだけあって、地元の人たちにも広く知られていた。地元商店街で話を聞くと、鳥羽夫妻を知る女性店主がこう話した。 会見前、直接取材を申し込んだときのジュン氏。「ノーコメントです」とのことだった(撮影/上田耕司) 「鳥羽さんの奥さんはキレイで、すごくいい人ですよ。奥さんは会計みたいなことをしているのかな、商店街の会費をもらいに行くと、『はい、はーい』と言って払ってくれて、すごく感じよく接してくれます。だから今回の広末さんとのことでは、みんな『奥さんがかわいそうだよね』って言っています。だって、ジュンさんの店とこんなに近いのに不倫だなんて、もう(商店街の人からは)総スカンですよ」 「sio」へ行ってみると、店には看板がかかっていなかったが、営業はしていた。地元店の店主はこう話す。 「店の看板がないのは“今どき”なのかもしれませんね。ただ、こちらとしては『sioはどこですか』と道をたずねられることが多いので、ちょっと時間が取られますね」  鳥羽氏の知らないところで、商店街からは助けられているのだ。  そうしたことに鳥羽氏は意識が向かないのか、かんばしくない評判も少なくない。  別の店の商店主は「鳥羽シェフはすごく感じ悪い」と顔をしかめ、その理由をこう明かす。 「店の前を通りかかると、店先で鳥羽シェフがお客さんと、『マジですか』『そうっすね』『いいっすか』などと、大声で話しているのをよく見かけます。お客さんやファンにはとても愛想がいい、面白い人なんでしょうけど、地元の私たちには無愛想で、あいさつひとつしない。『こんにちは』と言っても、ブスッとして、ナマ返事しかしない。オレに話しかけるな、みたいなオーラを発しているんです」  鳥羽氏が「sio」をオープンしたのは2018年7月だが、それ以前には同じ場所にフレンチレストラン「Gris(グリ)」があり、16年から鳥羽氏はそこでシェフとして働いていた。18年にオーナーから「Gris」を引き継ぎ、今度はオーナーシェフとして「sio」をオープンさせた。  オープンしたてのころは、商店街の人たちと付き合いもあったという。地元の「上原銀座商店街」の理事長がこう話す。 「『sio』がオープンしたころは、毎年9月にある地元のお祭りにも積極的に関わってくれました。その後は、『sio』とご自身の他のビジネスに忙しくなったのか、あまり商店街の会合や催しには参加してくれなくなりました。でも、現在も会費を収めていただいているので、会員ではあります。『sio』はミシュランの一つ星ですし、いつも繁盛している店なので、やり手の経営者なのだと思います」  ただ、商店街の中には鳥羽氏に不満を持つ会員もいるようだ。 「『sio』が開店した当時、地元のお祭りの打ち上げに、(商店街の費用から)1万円を出して料理を提供してもらいました。でも、出てきたのは空揚げが2皿くらい……それも『これで1万円もするの?』というくらい分量が少なかった。一流のシェフはいい値段を取るんだなと感じました」  ある居酒屋の店主は「地元商店街で仲のいい人は少ないだろう」と話す。 「鳥羽さんは、定期的に開かれている商店街の会合にも出てきませんからね。その会合では、店のオーナーがみんなに近況を報告するんですが、そういう場にもいないから、そもそもどんな人だかわからない。地元では孤立していますよ」  一方で、やはりお客さん相手には愛想がいいようだ。かつて「sio」の店先で行われたケーキの無料配布に並んだ地元の主婦はこう話す。 「たしかチョコレートケーキだったかな、1人1個限定で配布していて、ウチも子どもと並んだんです。ファンの方たちが鳥羽さんに『一緒に写真を撮っていいですか』と言っていて、鳥羽さんはニコニコして応じていました」  では、ジュン氏についてはどうか。「ELDNACS」の近くの居酒屋へ行くと、店の客はこう話した。 「以前は、広末さんとジュンさんが店の前を仲良さそうに一緒に歩いているのをよくお見かけしましたよ。代々木上原のそんなに高級ではない店でも、広末さんが食事をしているのを見かけました。このへんは有名人が多いのでそんなに驚かなかったですが、夫婦ともに人柄はよさそうな人でしたよ」  地元では仲のよい夫妻の姿が目撃された時期もあったようだ。  だが、ジュン氏が会見で語ったところによると、現在、広末は子ども3人と家を出て、ジュン氏も自宅とは別の場所で寝泊まりしているという。  これからは弁護士を入れて今後の話し合いを進めるというジュン氏。家族の未来は、まだまだ先が見えそうにない。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
佳子さまの本質はファッションではない 実は、皇室の「祈り」に向き合う存在
佳子さまの本質はファッションではない 実は、皇室の「祈り」に向き合う存在 千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式に参列した秋篠宮家の佳子さまと岸田文雄首相=5月29日、東京都千代田区  東京・千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑で5月にあった、第2次世界大戦での戦没者を慰霊する拝礼式。今年は秋篠宮ご夫妻ではなく、次女の佳子さまがお一人で参列した。華やかなイメージで注目される佳子さまだが、一方で最近は宮中祭祀や慰霊の行事へ参加する機会も増えてきており、国民の平和を祈る若い皇族としての存在感が高まってきている。 *   *   *  静寂があたりを包むなか、コツ、コツと足音が響く。  千鳥ケ淵戦没者墓苑に到着した佳子さまは、戦没者遺族たちの視線が注がれるなか、納骨堂に歩を進め、深く頭を垂れて祈りを捧げた。  収集されたものの身元がわからず、遺族に引き渡すことのできない遺骨を納めているのが、千鳥ケ淵の戦没者墓苑だ。この日は硫黄島やロシアで見つかった235柱が、加藤勝信厚生労働相によって新たに納められた。遺骨は、計37万485柱にのぼる。  拝礼をした佳子さまは、静かに戦没者墓苑をあとにした。 ■若い皇族へのバトン  これまで千鳥ケ淵戦没者墓苑での戦没者拝礼式は、秋篠宮ご夫妻が担ってきた。平成の終わりからは長女の眞子さんが務め、そして今回初めて佳子さまが参列した。  昭和天皇は陸海軍を統帥した「大元帥」であり、複雑な思いを整理できぬまま胸にしまう遺族もいる。参列した遺族の一人は言う。 「皇室に戦争責任がまったくないわけではないと思っている。思うことはあります。しかし、戦没者への祈りが若い皇族に受け継がれているのは重要なことで、大切にしてほしい」  祈りを捧げる佳子さまの姿を、遺族は見つめる。  千葉県遺族会副会長の川島義美さん(81)の父親は、ニューギニア島で亡くなった。川島さんは、初めて参列した佳子さまの姿を「ほほえましい」と表現し、若い世代に継承されることへの希望を感じた。 「若い世代に、戦争の事実を知ってもらい、伝え続けてほしい。佳子さまが、真摯(しんし)な姿勢で祈りを捧げる姿はうれしくもあり、戦没者の存在を受け継いでくれると思うと頼もしさを感じます」 武蔵野陵の参拝を終えた秋篠宮家の佳子さま=1月7日、東京都八王子市  佳子さまが祈りを捧げる姿は、犠牲者に向き合う姿勢が伝わるものだった。ただ佳子さまに限らず、この拝礼式での皇族の滞在時間は、いずれも10分間に満たないものだった。  参列の手順や滞在時間はあらかじめ決められ、その場の皇族の意思で変えられるものではない。ただ、献花もなく、黙礼をして8分ほどで退場する様子に、さみしさを感じる遺族はいる。  台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で2人の兄を亡くした植本八重子さん(89)は「帰ってしまうのが、早いですね。せめて遺族の献花まで見守ってくださればうれしい」と話した。 ■秋篠宮家は祭祀に熱心  その華やかさから、容姿やファッションに注目が集まる佳子さまだが、宮内庁が明らかにしている日程を見ると、重要な祭祀にほぼ参列し、慰霊にかかわる公務にもたびたび携わっていることがわかる。  宮中祭祀は天皇の私的な行事とされるため、その内容は国民にほとんど知られていない。 「実は、祭祀は外で思うよりも過酷な務め」と話すのは、宮中祭祀を担当する掌典職を経験した人物だ。 「祭祀に臨む天皇や皇族方は、強い緊張感と集中力そして気迫をもって儀式を務めます。皇室の高齢化が問題になった際に、『公務ができなくとも祈ってくだされば』という意見もありました。しかし、その祭祀に伴う『祈り』がどれほど大変なものか……。極寒のなか、祈り続ける儀式もあります。天皇や皇族方は、お疲れになった表情や様子を決して見せることはありません。しかし、全身全霊で臨む儀式のあとの疲労感は、相当なものではないでしょうか」  この人物は、「秋篠宮家は祭祀に熱心。自分が知る限り秋篠宮さまが公務以外で祭祀を欠席されたことはほとんどなかったと思う」と話す。  天皇家の祭祀は、いくつかの種類に大別できる。なかでも、天皇が自ら御告文(おつげぶみ)を奏上し、自ら祭祀を執り行う大祭は重要な祭祀だ。それに熱心に参列しているのが、秋篠宮家の佳子さまだ。 石巻南浜津波復興祈念公園の祈りの場で供花する秋篠宮家の佳子さま=5月23日、宮城県石巻市  新年を迎えてまもない1月7日、昭和天皇の命日に執り行われる「昭和天皇祭」も大祭のひとつ。今年は皇居・皇霊殿での「昭和天皇祭の儀」に天皇陛下や長女の愛子さま、秋篠宮さまら皇族方が参列。佳子さまは昭和天皇が眠る武蔵野陵がある武蔵陵墓地(東京都八王子市)で、皇族の代表として「奉幣の儀」に臨んだ。平成の時代には武蔵陵墓地に秋篠宮ご夫妻が、あとを引き継いだ眞子さんが結婚してからは、佳子さまが皇族代表として参拝している。  春分、秋分の日に三権の長や首相、閣僚も招かれて執り行われる「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」や4月の「神武天皇祭」も大祭にあたる。  そのほか、1月の「孝明天皇例祭」、6月の「香淳皇后例祭」、7月の「明治天皇例祭」、12月の「大正天皇例祭」などの祭祀についても、留学から帰国してからの佳子さまは公務が重ならない限り出席している。 ■極寒のなか、祈りを捧げる  なかでも注目すべきは、年末の極寒のなかで執り行われる大晦日の「大祓」だろう。皇居内の宮中三殿に付属する神嘉殿(しんかでん)の前庭では、皇族と国民のためのおはらいの儀式である「大祓の儀」が6月と12月に執り行われる。特に大晦日の「大祓」は、戸外の凍えるような寒さのなかで皇族と国民のために祈りを捧げる儀式である。  実はこの儀式は以前、参列できるのは男性皇族に限られていた。1948年に故・高松宮妃喜久子さまが参列した記録があるのみで、男性皇族で続けられてきた儀式だった。  しかし、参列可能な男性皇族が少なくなったことから、女性皇族も参列できるように内部の取り決めが2014年に変更された。このときから、眞子さんが皇族代表を務め、そして20年以降は佳子さまに引き継がれている。  佳子さまの祈りは、祭祀だけではない。  佳子さまはこの5月に、全国都市緑化祭のために宮城県を訪れた。  式典の前日には沿岸部の石巻市を訪れ、東日本大震災の犠牲者を追悼する石巻南浜津波復興祈念公園や、津波に襲われた後に火災で焼けた門脇小学校を視察。犠牲者に花を手向けた。  佳子さまの宮城訪問は、17年に仙台市であった全国高校総合文化祭に出席して以来2回目で、お一人での訪問は初めて。津波で受けた被害と復興状況、「震災遺構」として保存されている黒焦げの校舎などについての説明に、佳子さまは真剣な表情で聴き入っていた。  前出の掌典職にいた人物は、こう話す。 「宮中三殿で執り行われる祭祀における祈りも、戦争や災害などの犠牲者のための祈りも本質は同じ。国安かれ、民安かれとの願いです」  災害や戦争で犠牲になった魂と、今を生きる国民の安寧を祈ってきた皇室。そのなかで若き佳子さまの存在は、これからますます重要なものになっていきそうだ。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
なぜ悲惨なバーベキュー事故は繰り返されるのか 顔を大やけどした当事者が語る「燃えている時」の恐怖
なぜ悲惨なバーベキュー事故は繰り返されるのか 顔を大やけどした当事者が語る「燃えている時」の恐怖 バーベキューでは着火剤の正しい使い方を知らないと、火災事故の原因になりかねない。写真はイメージ(GettyImages)  5月24日、福岡県柳川市でバーベキューをしていた専門学校生の男子学生4人に火が燃え移り、そのうち、18歳の男子学生が死亡するという痛ましい事故が起きた。この事故は専門学校の理事長が炭に消毒用のアルコールを混ぜたことが原因で火が燃え上がったとみられるが、炭に火をつける際に使用する着火剤による事故も後を絶たない。転職エージェント「マイキャリア」代表取締役の兼平竜也さん(36)は昨年8月、バーベキューの準備中に着火剤が爆発。頭に付着した着火剤が燃え上がり、顔に大やけどを負い救急搬送された。着火剤による事故が少しでも減ってほしい。その思いから、悪夢のような体験を語ってくれた。 *   *   *  事故が起こったのは昨年8月。家族でバーベキューを楽しもうと、大阪府豊中市にある「服部緑地」を訪れ、コンロの炭に火をつけた数分後だった。 「机やいすを組み立てて、コンロに行ったら、火が消えているように見えたんです。それで、炭から離れた高い位置から着火剤のジェルを降りかけました」  すると、かすかにスーッと音がした。最初はどこから音がしているのかわからなかった。耳を澄ますと手に持った着火剤のチューブから音がしていることに気がついた。そのときすでにチューブに引火していたのだ。 「チューブの口を確認しようと、手を傾けた瞬間、爆発した。火がついたジェルが飛び散って、ジェルが付着した髪の毛と顔が燃えました。慌てて火を振り払ったのですが、全然消えない。妻に水筒のお茶を頭からかけてもらい、何とか火を消しました」  元消防レスキュー隊員の弟(現YouTubeレスキューハウス隊長)から電話でアドバイスを受け、救急車が到着する間、やけどを負った頭部を流水で冷やし続けた。 「子どもたちは泣きじゃくっていました。妻から、もう顔の皮膚がなくなっていると言われた。『結構、重症なんやな』と思った記憶があります」  やけどによって体温が上昇したことで、新型コロナの疑いが持たれた。それにより、搬送先の病院はなかなか決まらなかった。 「(搬送中も)左目が痛くて、目に火が入ったんかなと思った。そうすると、失明してしまう可能性もある。顔もめっちゃ痛かったです。(救急隊員から)重度のやけどですね、と言われて、命の危機にあるのかなとか、どんどんネガティブになっていきました」 やけど治療中の兼平竜也さん。着火剤による事故が少しでも減ってほしいとの思いから、治療中の画像を提供してくれた  治療中の兼平さんを写した写真を見せてもらうと、顔全体はガーゼで覆われ、なんとも痛々しい。 「治療薬を塗り直すため、ガーゼを交換すると、黄色い体液がドロドロと流れ出てきた。子どもたちからは『パパ、怖い』って言われて悲しかったですね」  さいわい、やけどの治療は順調に進み、顔の皮膚も完全に回復した。  大学時代から親しんできたバーベキューは今も続けている。ただ、着火剤は安全性の高い木質のものに切り替えたという。 ■なぜ事故がなくならないのか  消費者庁が2015年に行ったバーベキューに関する意識・行動調査によると、バーベキューで使用する加熱調理器具(複数回答可)は炭(薪)グリル83.2%、バーベキュー用のガスグリル20.1%、カセットコンロ18.0%、電気コンロ3.5%と、圧倒的に炭や薪を燃料として使うケースが多い。  さらに、「1度火をおこした後で、火の勢いが弱いときにゼリー(ジェル)状の着火剤を継ぎ足して使ったことがありますか?」という問いに対して、「はい」は33.5%、「いいえ」は66.5%。3人に1人が着火剤を継ぎ足し使用した経験があることがわかった。  ジェルタイプの着火剤には揮発性が高く引火しやすいメチルアルコールが使われている。そのため容器には「燃焼中の継ぎ足し厳禁」と書かれている。消防庁も継ぎ足し使用の危険性について繰り返し注意喚起を行ってきた。  にもかかわらず、バーベキューでの着火剤による事故はなくならない。  日本バーベキュー協会の下城民夫会長は「着火剤の危険性を訴えるだけではなかなか事故を防げません」と指摘する。 「着火剤による事故が起こるたびに取材を受けますが、『着火に手こずった』ことが遠因であることがとても多い。つまり、着火剤だけが燃えて炭に火がつかず、もう一回、着火剤を投入して事故が起こるわけです」 ■火の玉となって飛び散る  典型的な着火の失敗は、グリルに入れた炭の上に着火剤を塗ってしまうことだという。 「それにライターやマッチで火をつけると、着火剤から炎は上がりますが、その下にある炭には燃え移らない。そのうち着火剤が燃え尽きてしまう。そうすると、いけないことだとわかっていても、もう1回、着火剤を投入したくなってしまうわけです」  ところが、1度でも着火作業をした炭には小さな火種が残っていることが多いという。しかも、それはほとんど目に見えない。火が消えていると思い、炭の上にジェル状の着火剤を絞り出してしまう。 「アルコール系の着火剤は引火性が非常に高いので、その瞬間、パンと爆発的に燃え上がります。さらに、炎が絞り出した着火剤を伝わって手にしたチューブに迫ってくる。当事者は火が消えていると思い込んでいるので非常に驚きます。で、何をするかというと、必死に火を消そうと思ってチューブを振り回す。すると、火がついたジェル状の着火剤が火の玉となって周囲2~3メートルに飛び散る。それが他の人たちの服や顔に付着する。着火剤ですからジュクジュクと燃え続けます」  楽しいバーベキューが一瞬にして悲惨な事故現場となってしまう。 「つまり、炭の着火に失敗したことが着火剤を再投入につながり、事故が発生するわけです」 ■炭を割るという意外なコツ  では、どのような着火方法が正しいのか。下城会長にコツを教えてもらった。 「まず、ジェル状の着火剤であればそれを塗った炭をグリルの底、炭網に置きます。その上に砕いた炭を山のように積み上げる。そして着火剤に火をつける。これが基本中の基本です。後は何もしなくても火が炭に燃え移っていく。失敗することはほとんどありません」  事故のほとんどはチューブ入りのアルコール系着火剤で起こっている。なので、「初心者は避けたほうが無難です」。  チューブ入りではなく、小袋にパックされたアルコール系着火剤もある。こちらは万が一、再投入しても手元に炎が迫ることはないので、比較的安全だという。  さらに、おがくずや繊維などを固めたものに灯油を染み込ませたタイプや、木片にろうを塗った着火剤もある。 「木質系の着火剤はそれほど引火性が高くないので、よほど極端なことをしなければ事故は起こりません」  いずれの着火剤も炭の一番下に置くことが非常に重要である。 「もうひとつ、大切なことは炭を小さく割って使用することです。最大でも握りこぶし大にする。理想はその半分。ただ、それ以上、小さくしようとすると、炭が粉々になってしまうことがある。そうなったら使えません」  炭を小さくする理由は着火性をよくすることだ。 「アメリカで売られているバーベキュー専用の炭は握りこぶしの1/3くらいの大きさで、とても着火性がいい。なので、火をつけるのに苦労することは少ない。ところが日本で売られている炭の多くはバーベキュー用には大きすぎて、なかなか火がつかない」  炭を割るには、炭を両手に持って、炭同士をぶつける。ハンマーで割ってもいい。  小さく割った炭は山のように高く積み上げる。そうすると、底に置いた着火剤からの炎が効率よく燃え移る。最上部の炭まで火がまわると、その表面が灰をかぶったように白くなる。 「火が燃える移る仕組みを理解すれば、炭に火をつけるのは簡単です。危険もともないません。安全に楽しいバーベキューを楽しんでください」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなった 米国での別居婚から9.11を機に夫の故郷・インドへ移住した夫婦
夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなった 米国での別居婚から9.11を機に夫の故郷・インドへ移住した夫婦 アルヴィンド・マルハンさんと坂田マルハン美穂さん(撮影/岡田晃奈)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年6月19日号では、プライベート・エクイティ投資家のアルヴィンド・マルハンさん、ライターでNGO団体ミューズ・クリエイション主宰の坂田マルハン美穂さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫28歳、妻35歳で結婚。南インドのベンガルール(バンガロール)で猫4匹と暮らす。 【出会いは?】1996年の七夕の夜、ニューヨークのマンハッタンで語学学校の宿題をしようとスターバックスに入った妻が、唯一空いている席を見つけて相席を頼んだ相手が、夫だった。ともに翌8月が誕生日で、互いの誕生日を祝ううちに交際スタート。 【結婚までの道のりは?】交際開始から5年後の2001年に挙式。互いの仕事の都合でニューヨークとワシントンでの別居婚をスタートさせたが、2カ月後に米同時多発テロが発生。妻は「人生を見直そう」と考え、同居することに。05年に夫の故郷インドへ移住。 【家事や家計の分担は?】家事は妻と使用人が99%。夫は1%(猫のエサやり)。財布は一緒。 夫 アルヴィンド・マルハン[50]プライベート・エクイティ投資家 ある・ぃんど・まるはん◆1972年、ニューデリー生まれ。マサチューセッツ工科大学(MIT)卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに就職。ペンシルべニア大学でMBA取得。ベンチャーキャピタルを経て、投資会社パートナー  ミホに初めて会った時、とてもチャーミングなエナジーを感じました。優しくておっとりとした話し方はまさに「大和撫子」。後々、それは英語力がまだ乏しかっただけだとわかるのですが(笑)。  海外で学び、働くことを当然とする家庭で育ち、1990年に渡米。MITなどで学び、当時の米国で最も力のある企業に入りました。転職など紆余曲折はありましたが、日々が充実していたので、9.11後に故郷へ戻る選択肢が出てきた時は、すぐに決断できませんでした。積極的だったのはミホの方。すんなりとインドになじみ、新生活の基盤を整えてくれました。  ミホは仕事の傍ら、社会貢献活動も始め、コロナ前は週に一度自宅をメンバーに開放。手作り菓子で歓迎し、歌や手芸の場を提供していました。僕も一緒に慈善団体を訪問し、新鮮な経験ができました。  インドに戻り、人生がリッチになりました。急成長するインド市場での仕事も面白い。ミホが人生のパートナーである幸せを感じています。 アルヴィンド・マルハンさんと坂田マルハン美穂さん(撮影/岡田晃奈) 妻 坂田マルハン美穂[57]ライター、NGO団体ミューズ・クリエイション主宰 さかた・まるはん・みほ◆1965年、福岡県出身。梅光女学院大学(当時)を卒業後に上京し、旅行誌の出版・広告関係の仕事を経て独立。渡米後、出版社を起業。現在は日印の相互理解を促す仕事に力を入れている  20代の頃、夢を追って上京しましたが、仕事に追われ、男運もなく、未来が見えませんでした。30歳の時、「仕事に生きよう」と腹をくくり、仕事の幅を広げるためにニューヨークへ語学留学しました。  でも、渡米3カ月後にアルヴィンドに出会い、人生が思わぬ方向に動き出しました。不思議と気が合って、映画や食事を楽しんだり、ドライブ旅行をしたり。ケンカは日常茶飯事だし、子どもができず悩んだ時期もありましたが、出会うべくして出会い、インドにたどり着きました。  日本を離れて27年。日本にインド事情を伝える仕事が主でしたが、最近はインドに日本の魅力を伝える仕事を増やしています。今回の撮影で着た「京友禅サリー」のプロモーターもそのひとつ。日米印3カ国に暮らし、世界中を旅した経験を生かせる気がしています。振り返ってみると「よくぞ、ここまで漕ぎつけた」という想いが強いですが(笑)、夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなったのは、間違いありません。 (構成/編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月19日号
木村拓哉がAERA表紙と蜷川実花との同学年対談に登場 二人が「トップランナーでいられる理由」をたっぷり語る/AERA6月19日発売
木村拓哉がAERA表紙と蜷川実花との同学年対談に登場 二人が「トップランナーでいられる理由」をたっぷり語る/AERA6月19日発売  6月19日発売のAERA6月26日増大号の表紙には木村拓哉さんが登場します。AERA創刊35周年記念の一環として、本誌表紙フォトグラファーの蜷川実花と「同学年対談」が実現。仕事や人生についてじっくり語り合う対談は、名言続出です。1テーマを掘り下げる「時代を読む」では、ミサイル発射が続く北朝鮮でいま何が起きているのか、狙いは何なのかを探りました。続発する地震についての記事もあります。震度5弱以上が5月だけで6回も起きました。これは何を意味するのか、「次」はどこか、詳報します。連載4年目に突入した「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」は、向井さんが日ごろから撮り続けている作品を掲載する特別編「誌上写真展」をお届けします。BTSのSUGAさんが、横浜で行ったソロライブのレポートも収録。会場の熱気をそのまま収めた誌面は保存版です。大好評連載「松下洸平 じゅうにんといろ」は、元格闘家の魔裟斗さんをゲストに迎えた最終回。ほかにも読み応えある記事が詰まった一冊です。 表紙&巻頭対談:木村拓哉さん 表紙に登場する木村拓哉さんと本誌表紙フォトグラファーの蜷川実花さんは、共に50歳。それぞれの分野でトップランナーとして走り続けています。そんな二人が仕事と人生についてたっぷり語り合いました。木村さんはこれまでを振り返り「“できない感覚”が自分を突き動かしてきた」と話します。そして仕事については、仕事と捉えるよりも「自分と対峙してくれる人たちとのセッションを楽しむ」という思いで続けてきたと言います。これを受けて蜷川さんも「自分で自分をなぞりたくない」という信念が、常に挑戦を続ける原動力になってきたと語ります。次世代へのメッセージも込めた対談は、AERAでしか読めない内容です。そしてその二人が「対峙」した表紙とグラビア撮影。木村さんの強いまなざしに吸い込まれるような写真の数々です。二人の対談も含む巻頭特集は「生み出す原動力」をテーマに、新たな価値を生むビジネスにつての記事もあります。 時代を読む「北朝鮮ミサイル連発の背景」 1テーマを深掘りする「時代を読む」は、今回、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮の狙いと現状について。軍事偵察衛星を搭載したミサイル発射を続ける北朝鮮ですが、その衛星が撮影する写真の解像度は、米国のそれと比べると相当劣っているとみられます。それでも発射を続けるのは、北朝鮮が直面する国内事情も関係しているようです。経済が低迷し、餓死者も出ている状況で、「国防5カ年計画」に失敗できないという切羽詰まった情勢についても詳報しています。金正恩総書記の健康不安なども相まって、複雑な事情が絡み合う北朝鮮情勢を総合的に考えるための記事です。 震度5弱以上が5月に6回 「次」は? 大きな揺れの地震が次々と起きていることに不安を感じている人も多いでしょう。日本では、震度5弱以上が5月だけで6回ありました。東日本大震災や熊本地震などで本震や余震が集中した時期を除けば、ここ20年の記録にはなかったそうです。阪神・淡路大震災の前年には兵庫県で群発地震が起きていたといこともあり、地震が続くことはさらなる大きな地震の予兆かとの不安もあります。一方で、大地震の前には地震が減る場合もあることが知られており、この状況をどう捉えればいいのか、専門家の見方を詳報しました。地震列島に住む私たちが、どう備えておくべきかも考えます。 向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン【特別編】誌上写真展 Snow Manの向井康二さんが、Photo Boy として第一線の写真家から撮影や写真の神髄を教わる大好評連載「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」が、連載スタートから4年目に突入。今回は特別編として、さらなる進化を遂げつづける向井さんの作品が織りなす世界を、第2回「Photo Boy誌上写真展」としてお届けします。扉は「こんなにカッコつけて撮ったのは初めて」という艶っぽさ満点のセルフポートレート。身近な人々や、日常のなかでふと目を止めた光景、そして、最近「撮るの好きやから」と明かしてくれたもの――写真家の桑島智輝さんが「向井さんが何を見ているかがわかる」「人間性を感じます」とコメントを寄せる貴重な17点は、もちろん本誌独占です。 併せて、Snow Man初のドームツアーから、東京公演のレポートも写真30点超で掲載。ほかでは見られない、向井さん写真コーナー付きでお届けします。 BTS SUGAソロライブレポート BTSのメンバー、SUGAさんが横浜で行ったソロライブの様子を完全レポート。日本でのライブはBTSのファンミーティング以来4年ぶりとあって、会場はこの日を待ちわびたARMYでぎっしりと埋まりました。音楽に対する畏敬の念も詰まったライブの様子や、SUGAさんの言葉を詳報します。会場で見られなかったというファンの方たちにも、その熱気を存分にお伝えします。また、日本では初となるソロでのラジオパーソナリティーを務めた様子も取材しました。 松下洸平 じゅうにんといろ 松下洸平さんの“憧れの人”である魔裟斗さんをゲストに迎えた対談の最終回。松下さんが「今後、何か挑戦したいことはありますか」と質問することから始まる対談は、結婚や家族の話題にも及びます。先輩として魔裟斗さんから結婚についてアドバイスされると、「その時は相談させてください(笑)」と、松下さん。初対面から始まった対談は、すっかり打ち解けた様子がうかがえます。最後に、松下さんが魔裟斗さんをイメージした「色」は何か、誌面でお確かめください。 ほかにも、・【独自】「年金繰り下げ」で不平等 妻が先に死んでも「年金が増えた」・戦場ジャーナリスト 伝えたいのは不条理な世界・ミャンマー民主派 自由を奪われ、生活は困窮・強度近視で失明のリスク・オールジェンダートイレ 誰も犠牲にしない・サッカー日本代表 W杯後に見えた課題と進化・多和田葉子 「はじめて」詰まった『白鶴亮翅』の世界・【トップの源流】DeNA・南場智子会長・棋承転結 渡部愛・女流三段・武田砂鉄 今週のわだかまり・大宮エリーの東大ふたり同窓会 ゲスト・高田万由子・ジェーン・スーの「先日、お目に掛かりまして」・現代の肖像 幾田桃子 デザイナー・社会活動家などの記事を掲載しています。 ※発売日の6月19日(月)正午からは、公式ツイッター(@AERAnetjp)と公式インスタグラム(@aera_net)で、最新号の内容を紹介する「#アエライブ」を行います。ぜひこちらもチェックしてください。 AERA(アエラ)2023年6月26日増大号特別定価:510円(本体464円+税10%)発売日:2023年6月19日(月曜日)
陛下と雅子さまの結婚30年、短め文書に平坦でない道を思う 21年ぶり外国親善訪問が同じ日に閣議決定
陛下と雅子さまの結婚30年、短め文書に平坦でない道を思う 21年ぶり外国親善訪問が同じ日に閣議決定 宮内庁提供  ご成婚30年を迎えた天皇・皇后両陛下。節目の日に際して、短めの文書が公表された。文書からうかがえる30年の道のりとこれからについて、コラムニストの矢部万紀子さんが考察した。 *   *  *  6月9日、「天皇皇后両陛下ご結婚満30年に際しての両陛下のご感想」が文書で発表された。この30年で日本を襲った自然災害やコロナ禍を憂え、立ち直りつつある状況に安堵しながらさらなる復興を願う。世界や社会が変化していく中、自分たちの果たすべき役割を考える。上皇ご夫妻への尊敬と、愛子さまへの愛、そして国民への感謝を述べる。天皇、皇后として必要なことが過不足なく語られていた。文字数は1200字余り。生真面目なお二人らしい、抑制的な文章だった。  平成の時代もお二人は4回、結婚の節目にあたって感想を述べているが、文字数は今回が一番少なかった。最初の節目は結婚が決まった皇室会議から1年後(結婚から8カ月)、1994年の記者会見。文字数は質問も含めて5000字を超えていた。結婚10年(2003年)はあらかじめ記者から提出された質問に文書で答える形で、質問も含め5000字超だった。結婚20年(2013年)は質問なしで感想が語られ、1400文字余り。質問が復活した結婚25年(2018年)の文書は、5000字余りであった。  今回の結婚30年は即位後初の節目でもあり、宮内記者会は会見を求めたと想像する。それが、これまでで一番短い文章になった。少し寂しく感じてしまったのはちょうど半年前の2022年12月9日、雅子さま59歳の誕生日にあたって発表された「ご感想」があったからだ。  1993年6月9日に結婚したことに触れ、その日はちょうど29歳と半年にあたる日だったと雅子さま。誕生日の今日は、その日からちょうど29年半、いつの間にか人生のちょうど半分を皇室で過ごしてきた。そう綴っていた。まとめはこうだった。 ご成婚パレードで、満面の笑みで沿道に手をふるお2人 「29歳半までの前半にも、また、皇室に入りましてからの後半にも、本当に様々なことがあり、たくさんの喜びの時とともに、ときには悲しみの時も経ながら歩んできたことを感じます」 「悲しみの時」という言葉に、心が打たれた。病を得て、ますます国民への「感謝」を語るようになった雅子さまが、自分の弱い部分を見せた。皇后として国民に受け入れられているという実感を得たことで、国民への信頼感が増した。その証しではないかと感じたのだ。  だから、感情が抑えられた結婚30年の「ご感想」に一抹の寂しさを感じてしまったのだが、同時に当然だとも思っている。そもそも誕生日に発表される文書は雅子さまのものだが、結婚30年の文書は陛下とお二人のものなのだ。加えて「皇太子と皇太子妃」だった結婚25年までとは違い、今回は「天皇と皇后」だ。地位の重さが、お二人をより抑制的にしたことは容易に想像がつく。そのことはわかったうえでなお、30年の文書から雅子さまの30年が平坦でなかったことを思った。同じ日に発表された閣議決定が重なり、その感情はいや増した。  天皇、皇后両陛下のインドネシア公式訪問(6月17~23日)が閣議で決まったのだ。そのことを報じるニュースは、国際親善のための外国訪問は令和になって初めてで、雅子さまにとっては2002年以来となると伝えていた。そうか、昨年のエリザベス女王の国葬参列は儀式への出席で、もろもろ合わせて国際親善のための外国訪問は21年間もなかったのか。改めて知った。  21年前の訪問先は、ニュージーランドとオーストラリアだった。出発の6日前にあたる12月5日、お二人は記者会見を開いている。中東訪問以来約8年ぶりのお二人外国親善訪問だということで、それについての感想が問われた。雅子さまは中東訪問の話を少しして、それから8年を語った。直近の2年間は妊娠、出産、子育ての時期だったが、として、それ以前をこう振り返った。 「6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」 2002年に訪問したニュージーランドで  もう少し説明を、と記者が質問した。雅子さまは、「国民の皆さんの期待というものが、いろいろな形での期待があって、その中には子供という期待もございましたし、他方、仕事の面で外国訪問なども国際親善ということでの期待というものもございまして、そういう中で、今自分は何に重点を置いてというか、何が一番大事なんだろうかということは、随分考えることが必要だったように思います」  率直な雅子さまが、そこにはいた。「子供」か「国際親善」か。どちらも国民から期待されていることを、十分わかっている。では、何が自分にとって大事なのか。「考えることが必要だったように思う」という表現は、どちらも大切なのだという雅子さまの心の叫びのようにも聞こえる。ニュージーランド、オーストラリアから帰国した翌年、雅子さまは帯状疱疹で入院、「適応障害」という病名が発表されたのはその翌年だった。  雅子さまが外務省に入ったのは1987年。男女雇用機会均等法施行の翌年だった。均等法のもと、意気軒昂に入社した女性たちは多かれ少なかれ挫折を経験していた。「お世継ぎ」に苦しむ雅子さまは、彼女たちにとっての映し鏡だった。結婚30年の文書が抑制的だったことで、そんなことも思い出した。だが、悩みの先にある光を示しているのも、30年の文書だった。  それは、これから果たすべき役割についての記述だった。世界や社会の変化に応じて、私たちの務めへの要請も変わってくるだろう。お二人はそのような認識を示したうえで、これからも各地に足を運び、多くの人と出会って話を聞きたいとし、こう述べた。 「時には言葉にならない心の声に耳を傾けながら、困難な状況に置かれた人々を始め、様々な状況にある人たちに心を寄せていきたいと思います。そして、そのような取組のうちに、この国の人々の新たな可能性に心を開き続けていくことができればと考えています」  日本の可能性は、小さな声の先にある。そういうメッセージだと理解した。平坦でない道を歩いてきた雅子さま、常に雅子さまの声に耳を傾けてきた陛下。お二人だからこそ、小さな声を聞くことができる。そして、その先にある新たな可能性を信じられる。そう思うと、こちらまで明るい気持ちになってくる。 皇太子時代の2017年、デンマークのコペンハーゲンを訪問した(代表撮影)  ところで雅子さまにとっては21年ぶりだが、陛下は国際親善のための外国訪問をお一人で続けてきた。代替わり前、つまりコロナ禍が広がる以前だが、2018年にはフランス、2017年にはデンマークとマレーシアを訪問している。そして訪問にあたっては記者会見をし、そこでは宮内記者会だけでなく在日外国報道協会のメンバーも質問をするのが恒例になっている。  インドネシア訪問にあたって、記者会見はどうなるのだろう。陛下お一人での会見となるのか、雅子さまとお二人での会見となるのか。もしお二人の会見が実現するのなら、雅子さまにお願いしたいのが「Take it easy」だ。英語は全く苦手なのだが、英和辞典には「のんびりやる、あまり力まない」とあって、それが私の気持ちだ。  例えばなのだが、「虫」の話題はどうだろう。インドネシアは昆虫の楽園で、蝶など希少種がたくさんいるそうだ。そして雅子さま、大変な昆虫好きなのだ。結婚30年にあたって公表された映像は、陛下と雅子さま、愛子さまが3人で繭の作業をする様子だった。この映像とともに、「皇后さまは蚕がお好きで、素手で触られるということです」と報じるテレビ局もあった。  インドネシア訪問でも記者会見をし、「虫」について語る。そんな雅子さまを期待するのは、実績があるから。1998年、35歳の誕生日にあたっての会見で雅子さまは、クワガタ愛を語っていた。「公務を離れて楽しみにしていること」を聞かれ、雅子さまは御所の窓の外で弱っていたクワガタを見つけた話をした。保護して、メスも一緒に育てたら卵が生まれ、幼虫を育てていると説明し、「クワガタの場合、成虫になるまでは3年ぐらい掛かるということで、割と長い3年掛かりの仕事になるかしらと思っております」と述べていた。  国際親善とともに幕をあける雅子さまの31年目。虫の話から始まったらいいな。かなり本気で思っている。(矢部万紀子) 春の園遊会での一場面。撮影に臨む姿勢にもご夫婦の生真面目さが滲む(代表撮影/JMPA)

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