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陛下と雅子さまの結婚30年、短め文書に平坦でない道を思う 21年ぶり外国親善訪問が同じ日に閣議決定
陛下と雅子さまの結婚30年、短め文書に平坦でない道を思う 21年ぶり外国親善訪問が同じ日に閣議決定 宮内庁提供  ご成婚30年を迎えた天皇・皇后両陛下。節目の日に際して、短めの文書が公表された。文書からうかがえる30年の道のりとこれからについて、コラムニストの矢部万紀子さんが考察した。 *   *  *  6月9日、「天皇皇后両陛下ご結婚満30年に際しての両陛下のご感想」が文書で発表された。この30年で日本を襲った自然災害やコロナ禍を憂え、立ち直りつつある状況に安堵しながらさらなる復興を願う。世界や社会が変化していく中、自分たちの果たすべき役割を考える。上皇ご夫妻への尊敬と、愛子さまへの愛、そして国民への感謝を述べる。天皇、皇后として必要なことが過不足なく語られていた。文字数は1200字余り。生真面目なお二人らしい、抑制的な文章だった。  平成の時代もお二人は4回、結婚の節目にあたって感想を述べているが、文字数は今回が一番少なかった。最初の節目は結婚が決まった皇室会議から1年後(結婚から8カ月)、1994年の記者会見。文字数は質問も含めて5000字を超えていた。結婚10年(2003年)はあらかじめ記者から提出された質問に文書で答える形で、質問も含め5000字超だった。結婚20年(2013年)は質問なしで感想が語られ、1400文字余り。質問が復活した結婚25年(2018年)の文書は、5000字余りであった。  今回の結婚30年は即位後初の節目でもあり、宮内記者会は会見を求めたと想像する。それが、これまでで一番短い文章になった。少し寂しく感じてしまったのはちょうど半年前の2022年12月9日、雅子さま59歳の誕生日にあたって発表された「ご感想」があったからだ。  1993年6月9日に結婚したことに触れ、その日はちょうど29歳と半年にあたる日だったと雅子さま。誕生日の今日は、その日からちょうど29年半、いつの間にか人生のちょうど半分を皇室で過ごしてきた。そう綴っていた。まとめはこうだった。 ご成婚パレードで、満面の笑みで沿道に手をふるお2人 「29歳半までの前半にも、また、皇室に入りましてからの後半にも、本当に様々なことがあり、たくさんの喜びの時とともに、ときには悲しみの時も経ながら歩んできたことを感じます」 「悲しみの時」という言葉に、心が打たれた。病を得て、ますます国民への「感謝」を語るようになった雅子さまが、自分の弱い部分を見せた。皇后として国民に受け入れられているという実感を得たことで、国民への信頼感が増した。その証しではないかと感じたのだ。  だから、感情が抑えられた結婚30年の「ご感想」に一抹の寂しさを感じてしまったのだが、同時に当然だとも思っている。そもそも誕生日に発表される文書は雅子さまのものだが、結婚30年の文書は陛下とお二人のものなのだ。加えて「皇太子と皇太子妃」だった結婚25年までとは違い、今回は「天皇と皇后」だ。地位の重さが、お二人をより抑制的にしたことは容易に想像がつく。そのことはわかったうえでなお、30年の文書から雅子さまの30年が平坦でなかったことを思った。同じ日に発表された閣議決定が重なり、その感情はいや増した。  天皇、皇后両陛下のインドネシア公式訪問(6月17~23日)が閣議で決まったのだ。そのことを報じるニュースは、国際親善のための外国訪問は令和になって初めてで、雅子さまにとっては2002年以来となると伝えていた。そうか、昨年のエリザベス女王の国葬参列は儀式への出席で、もろもろ合わせて国際親善のための外国訪問は21年間もなかったのか。改めて知った。  21年前の訪問先は、ニュージーランドとオーストラリアだった。出発の6日前にあたる12月5日、お二人は記者会見を開いている。中東訪問以来約8年ぶりのお二人外国親善訪問だということで、それについての感想が問われた。雅子さまは中東訪問の話を少しして、それから8年を語った。直近の2年間は妊娠、出産、子育ての時期だったが、として、それ以前をこう振り返った。 「6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」 2002年に訪問したニュージーランドで  もう少し説明を、と記者が質問した。雅子さまは、「国民の皆さんの期待というものが、いろいろな形での期待があって、その中には子供という期待もございましたし、他方、仕事の面で外国訪問なども国際親善ということでの期待というものもございまして、そういう中で、今自分は何に重点を置いてというか、何が一番大事なんだろうかということは、随分考えることが必要だったように思います」  率直な雅子さまが、そこにはいた。「子供」か「国際親善」か。どちらも国民から期待されていることを、十分わかっている。では、何が自分にとって大事なのか。「考えることが必要だったように思う」という表現は、どちらも大切なのだという雅子さまの心の叫びのようにも聞こえる。ニュージーランド、オーストラリアから帰国した翌年、雅子さまは帯状疱疹で入院、「適応障害」という病名が発表されたのはその翌年だった。  雅子さまが外務省に入ったのは1987年。男女雇用機会均等法施行の翌年だった。均等法のもと、意気軒昂に入社した女性たちは多かれ少なかれ挫折を経験していた。「お世継ぎ」に苦しむ雅子さまは、彼女たちにとっての映し鏡だった。結婚30年の文書が抑制的だったことで、そんなことも思い出した。だが、悩みの先にある光を示しているのも、30年の文書だった。  それは、これから果たすべき役割についての記述だった。世界や社会の変化に応じて、私たちの務めへの要請も変わってくるだろう。お二人はそのような認識を示したうえで、これからも各地に足を運び、多くの人と出会って話を聞きたいとし、こう述べた。 「時には言葉にならない心の声に耳を傾けながら、困難な状況に置かれた人々を始め、様々な状況にある人たちに心を寄せていきたいと思います。そして、そのような取組のうちに、この国の人々の新たな可能性に心を開き続けていくことができればと考えています」  日本の可能性は、小さな声の先にある。そういうメッセージだと理解した。平坦でない道を歩いてきた雅子さま、常に雅子さまの声に耳を傾けてきた陛下。お二人だからこそ、小さな声を聞くことができる。そして、その先にある新たな可能性を信じられる。そう思うと、こちらまで明るい気持ちになってくる。 皇太子時代の2017年、デンマークのコペンハーゲンを訪問した(代表撮影)  ところで雅子さまにとっては21年ぶりだが、陛下は国際親善のための外国訪問をお一人で続けてきた。代替わり前、つまりコロナ禍が広がる以前だが、2018年にはフランス、2017年にはデンマークとマレーシアを訪問している。そして訪問にあたっては記者会見をし、そこでは宮内記者会だけでなく在日外国報道協会のメンバーも質問をするのが恒例になっている。  インドネシア訪問にあたって、記者会見はどうなるのだろう。陛下お一人での会見となるのか、雅子さまとお二人での会見となるのか。もしお二人の会見が実現するのなら、雅子さまにお願いしたいのが「Take it easy」だ。英語は全く苦手なのだが、英和辞典には「のんびりやる、あまり力まない」とあって、それが私の気持ちだ。  例えばなのだが、「虫」の話題はどうだろう。インドネシアは昆虫の楽園で、蝶など希少種がたくさんいるそうだ。そして雅子さま、大変な昆虫好きなのだ。結婚30年にあたって公表された映像は、陛下と雅子さま、愛子さまが3人で繭の作業をする様子だった。この映像とともに、「皇后さまは蚕がお好きで、素手で触られるということです」と報じるテレビ局もあった。  インドネシア訪問でも記者会見をし、「虫」について語る。そんな雅子さまを期待するのは、実績があるから。1998年、35歳の誕生日にあたっての会見で雅子さまは、クワガタ愛を語っていた。「公務を離れて楽しみにしていること」を聞かれ、雅子さまは御所の窓の外で弱っていたクワガタを見つけた話をした。保護して、メスも一緒に育てたら卵が生まれ、幼虫を育てていると説明し、「クワガタの場合、成虫になるまでは3年ぐらい掛かるということで、割と長い3年掛かりの仕事になるかしらと思っております」と述べていた。  国際親善とともに幕をあける雅子さまの31年目。虫の話から始まったらいいな。かなり本気で思っている。(矢部万紀子) 春の園遊会での一場面。撮影に臨む姿勢にもご夫婦の生真面目さが滲む(代表撮影/JMPA)
ブレイディみかこ「来年の政権交代が予想される英国、労働党は14年ぶりに政権奪還か」
ブレイディみかこ「来年の政権交代が予想される英国、労働党は14年ぶりに政権奪還か」 作家、コラムニスト/ブレイディみかこ  英国在住の作家・コラムニスト、ブレイディみかこさんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、生活者の視点から切り込みます。 *  *  *  今号から当コラムを担当する。この時期というのも何かの縁だと思う。私は1996年から英国在住だが、今年は当時を思い出すことが多いからだ。あれは、1979年から続いていた保守党政権の支持が落ち、翌年の総選挙で大勝した労働党が旋風を巻き起こしていた年だった。サッチャーからメージャーへと続いた保守党政権から、ブレアの労働党へと、政権交代が起きる前年に私は英国に来たのだ。  来年、英国では総選挙が行われる。そしてちょうどあの年のように、2010年から続いている保守党政権がじり貧の状況だ。5月に行われた地方選でも大幅に議席を減らした。嘘を重ねて保守党への信頼を失墜させたジョンソン元首相や、記録的な物価高の影響もあり、来年は政権交代かという見方が強い。  労働党は、ブレアが登場した時と違い、破竹の勢いというわけではない。ただ現政権が不人気なのだ。スナク首相は、G7で訪れた日本でお好み焼きや焼き鳥を食べ話題になったようだが、間違っても庶民派ではない。2023年度版の国内長者番付によると、妻と合わせた合計資産額は5億2900万ポンド(約920億円)。これでもスナク夫妻は、前年から資産を減らしている。1日あたり50万ポンド(約8700万円)を失った計算になる。人が一生働いても貯められないような金額を「1日あたり」で、である。  年間数百億円を失ってもビクともしない大富豪が、年収数百万円の庶民に緊縮財政の必要性を訴えるとき、人々はそこに生活の現実との乖離を感じる。英議会の超党派議員連盟の調査によれば、英国の人々の39%が最も影響力を持っているのは富豪だと答え、政府だと答えた人々(24%)を抜いたという。5年前の調査では逆の結果だった。  つまり、スナク首相は、「結局は大金持ちが政治も動かしている」という、人々がなんとなく感じている印象をズバリ形にしたような首相なのだ。ここまで極端な例はコミカルでもあるが、その滑稽さを相殺する有能さを彼はまだ発揮していない。  来年の今ごろ、労働党は14年ぶりに政権を奪還することになるのだろうか。地べたからその動きを報告していきたい。 ブレイディみかこ(Brady Mikako)/1965年福岡県生まれ。作家、コラムニスト。96年からイギリス・ブライトンに在住。著書に『子どもたちの階級闘争』『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』『他者の靴を履く』『両手にトカレフ』『オンガクハ、セイジデアル』など※AERA 2023年6月19日号
岩合光昭×ねこまきが語り尽くすネコ愛「裏切られても愛さなきゃ」
岩合光昭×ねこまきが語り尽くすネコ愛「裏切られても愛さなきゃ」 岩合光昭(いわごうみつあき・写真右)/ 1950年生まれ、東京都出身。80年に「海からの手紙」で木村伊兵衛賞を受賞。日本人として唯一、「ナショナル・ジオグラフィック」の表紙を2度飾る。ネコの撮影がライフワークで、『日本のねこみち』『岩合光昭 写真集 猫にまた旅 フィルムカメラ編』など著書多数。(撮影/写真映像部・高野楓菜)ねこまきさんの愛ネコ、ノルウェージャンフォレストキャットのマロン(左、7歳)とみかん(5歳)。兄貴分のマロンは普段あまり甘えないが、みかんがいなくなった途端、「にゃー」とそばにやってくる(写真:本人提供)  5月末で休刊した「週刊朝日」の“オアシス”といえば、岩合光昭さんの「今週の猫」と、ねこまき(ミューズワーク/夫婦で活動中)さんの「しっぽのお医者さん」。愛らしいネコの姿をとおして読者の心を潤し続けてきた連載筆者が語りあった。休刊の寂しさも吹き飛ぶ、超弩級のネコ愛をお届けするにゃ。 *  *  * ──みなさんの出会いは、ねこまきさんが原作、岩合さんが監督を務めた映画「ねことじいちゃん」(2019年)ですか? ねこまき妻(以下、ねこ妻):実はその前からお仕事をいただいていて。 岩合:そうそう。何かでねこまきさんのイラストを見たとき、「このかわいい絵を描いたのは誰?」ってなって、NHKの「岩合光昭の世界ネコ歩き」の本にイラストを描いてもらったんです。「ねことじいちゃん」の漫画もすごく気に入ったので、監督をお引き受けして。 ねこ妻:いやー、大喜びしましたよね。 ねこまき夫(以下、ねこ夫):ま、まさか!って。 ──映画を機に、岩合さんの担当編集者がねこまきさんを知り、同年から「しっぽのお医者さん」を連載していただくことになりました。 ねこ夫:ずっと聞けなかったからもやもやしてたんですけど、タイミング的に映画とちょうど一緒だったので、あ、これ、岩合さんのご縁だろうなと。 ねこ妻:本当にありがたいことです。 ねこ夫:動物を描くのが本当に好きなので、ネコにこだわらずいろんなのを描かせてもらってます。トカゲとかオウムとか出てくるのは、もう描きたいから描いてるだけみたいな(笑)。 岩合:(「しっぽのお医者さん」の単行本を手に取りながら)ねこまきさんだからネコがかわいいのは当たり前なんだけど、特にトリの表現の仕方がすごくお上手ですよね。たとえばこのキバタンってどうやって観察して描かれたんですか? ねこ妻:知り合いが飼っているインコを参考にしたり、あとはYouTubeを見たりとか。 岩合:ウサギのあくびもすごい。この鼻!(笑) ねこ妻:ウサギは飼っていたことがあって、ちょいちょい思い出しながら。でも岩合さんみたいに本物を追いかけられる方とは観察できることが全然ちがう。行ってみたいとは思うんですけど。 ──岩合さんは、週刊朝日やアサヒカメラなど様々な媒体で長年連載陣を務めてくださいました。 岩合:一番初めは「アサヒグラフ」で「海からの手紙」を連載させていただいていたから、もう70年代後半からですよ。あのときは、取材費をもらえると思ったらフィルム代しかくれなくて……。 ねこ夫:ありゃ(笑)。 岩合:でも驚いたことに銀行が貸してくれて。28歳から30歳ぐらいまでの3年間の連載でしたけど、写真家としてすごく自信を持つきっかけとなった作品でした。若いときは、当時の写真界で神のように言われていた編集者の方に、「ピントも合ってないし、眼医者行ったらいいんじゃない?」とかさんざん言われましたね。動物が写ってるだけじゃない写真が撮りたくて、10年間模索して。で、10年経ったとき、僕をけなしていた編集者がアサヒグラフの連載を見て、「お前は写真が撮れるようになったな」ってポストカードをくれて。すごくうれしかったです。 ──映画「ねことじいちゃん」は岩合さんの初監督作となりましたが、原作となる漫画が生まれた経緯は? ねこ妻:うちの母が亡くなったのがきっかけなんです。家族で母の思い出を語ったときに、山口県の母の実家から見える海がずっと忘れられないなと思って。それで、海に面した昔の日本の風景を舞台に描こうと。 岩合:瀬戸内海と、山と、のどかな空気。僕も背景は大切にするので、それがすごくよかった印象がありますね。 ■“ハル院長”は○○に似ている ねこ妻:ロケハン大変だったってお聞きしました。 岩合:制作プロダクションの社長と一緒に愛知県の島に行って、ここじゃないな……とか。 ねこ夫:想像も入っているからぴったり合うとこなんてないと思います。一応、愛知県の篠島、日間賀島、佐久島がモデルになっていますけれど、瀬戸内海だろうが、九州だろうが、それぞれの記憶のなかにあるネコがいる場所、みたいな感覚で捉えてもらえればいいのかなと。映画のオープニングで、セリフがほとんどなしで、島の雰囲気を伝えていく場面が続いてたと思うんですけれど、 岩合:ネコに島を案内させていますからね。 ねこ夫:誰かにしゃべらせなくてもカメラワークだけで見せることができるんだって学んで、9巻あたりからはかなり影響を受けていると思います。 ねこ妻:「しっぽのお医者さん」も影響されてるかも。ハル院長(主人公である動物病院の看板ネコ)って、映画で主役のタマを演じたベーコンに近いものがあるなと。オスで顔が大きくて。 岩合:僕好みのネコです(笑)。 ──映画を撮るうえで大事にしたことは? 岩合:全シーンにネコを出したい(笑)。どこを切ってもどこかにネコがいる映画にしたくて、プロダクションから40匹ほど連れてきてもらって。 ねこ妻:とにかくネコがいっぱい出てきて楽しめましたよね。しかもすごく生き生きしていて、さすがだなーと。 岩合:でもプロダクションのネコだから木にも登ったことがなくて、木登りのシーンは大変でした。 ねこ妻:箱入りネコちゃんだ(笑)。 ねこ夫:ベーコンもいい演技してましたよね。 岩合:“じいちゃん”こと大吉を演じた立川志の輔さんが、息子役の山中崇さんから「東京で暮らそうよ」って言われるシーンを撮影していたら、志の輔さんが抱いているベーコンがポーンってはねて庭に下りてしまったんです。そのままカメラは回していたんですけど、山中さんが「タマも東京で暮らせるよ」って言ったら、ベーコンが振り返って山中さんの足元に行って、手水鉢にたまっていた水を飲んでくれて。ベーコンのアドリブなのですが、鳥肌が立ちました。この映画の重要な意味がそこで表現できた。島で生まれて育って果てていくっていうのは、ずっと島の水を飲んで暮らしているわけですよ。だから水を飲むことで、この島で生きていくということを表せたんじゃないかなと。 ──ねこまきさんも撮影現場を見学されたとか。 ねこ妻:ロケハンのときに一回お邪魔させていただいて。でも本番を撮影されているとき、夫の母親が、私たちになにも言わずにロケ現場に突撃してまして。 ねこ夫:すみません、勝手に行ってたんですよ。 ねこ妻:それなのに、「こう撮ってるんですよ」ってすごく親切に教えてもらったって、大喜びで帰ってきて。あの後も味を占めて、何回も行ってたよね。「トマト持って行くから」って。 ねこ夫:そうそう。新鮮な野菜が手に入らないという話だったので、島に渡る前の市場で買って行ったはいいけれど、(スタッフの)人数がめちゃめちゃ多いもんだからあっという間になくなっちゃったみたいな(笑)。 ──岩合さんもねこまきさんも、2匹のネコと暮らしています(岩合家:玉三郎と智太郎、ねこまき家:マロンとみかん)。 ねこ夫:やっぱり家の中を走りまわってます? 岩合:走りまわってます。 ねこ夫:あー、傷だらけになりそうですね。 岩合:ネコのための家を建てたので、地下1階から3階まですべての扉にキャットドア、リビングにはキャットウォーク、柱には爪とぎがあります。前に住んでいたマンションはカーテンとかボロボロにされたんですけど、今はまったくしなくなりましたね。 ねこ妻:幸せなタマトモちゃん。 岩合:タマトモのためのローンですよね。借金を返すために一生懸命働いてます(笑)。 ねこ夫:あと、2匹で走りまわってジャンプして、空中でぶつかりあうんですけど、あれもやるもんなんですか? 岩合:やります。テレビで「笑点」とかを見ている前をパーンって飛び交ってて、「野性すごいね」って(笑)。プレイファイトというか、どっちが高く飛べるかとか彼らのルールがあると思います。 ねこ夫:そうなんですね、初めて見たときはなにやってんのかなと思って。 岩合:すっごい激しいですよね。うちは窓の近くの椅子を倒しそうになるときがあって、窓割れる!みたいな。 ──2匹の仲は良い? 岩合:うちは兄弟ということもあって、仲が良いです。夜とかひとりで急に寂しくなったとき、家族が居間にいるのに、わざと廊下から呼ぶんです。で、僕らが行かないと、もうひとりが行ってあげるんですよ。あの絆には入れないですね。 ねこ妻:うちも、どっちかがひとりぼっちのときは、もうひとりが行ってあげる感じで。 ねこ夫:オス同士で、2歳離れてるんですけどね。 岩合:寝るときは一緒ですか? ねこ妻:別々です。 ねこ夫:高いところの取りあいをしたりとか。 ──みなさんのベッドに入ってきたりは……? 岩合:うちは足もとに。 ねこ妻:私はないんですけど、夫のほうには。 ねこ夫:入ってます(笑)。 ──2匹の存在は、作品づくりに影響している? ねこ妻:ネタは、自分のところのネコのことばっかりです。 岩合:僕も影響は多大ですね。すごく近しい人だけに見せる一瞬の表情を、うちのネコは当然見せる。一期一会のネコたちであっても、なるべくカメラを意識させないでこういう表情を撮りたいなって、日々感じています。 ねこ夫:朝、ただ「にゃー」って言ってるだけなんですけど、「おはよう」って聞こえるんですよね。表情からいろいろ読み取って、なんかしゃべりかけてきてる気がするよな、みたいな。でも、夫婦でも話しかけられ方がちがうよね。 ねこ妻:うちは夫にべったりです。 岩合:ネコって表情がないみたいに思われがちなんですけど、めちゃくちゃあるんですよ。ねこまきさんの漫画を見ると、子ネコを舐めるときの顔と、授乳をしている顔と、甘えている顔と、全部ちがうんですね。すごいです。ちょっとした線の描き方で、これだけ表現できるんだと。これを映像でできたら最高です。 ■裏切られても愛さなきゃ ──ネコを愛らしく描く、撮るうえで心がけていることは? ねこ妻:ネコって思いどおりにいかないじゃないですか。言うこと聞かないし、呼んでも来ないし、触りたいときには触らせてくれないのに、甘えるときは一方的に甘えてくるとか。みんなが「あー、そういうとこあるよね」って思ってくれるようなところを描くように気をつけています。 岩合:愛らしい姿を撮ろうと思ったら終わり。それはこちらの思いなんですよね。ネコは自分では決して愛らしいと思っていないわけで、僕は私は愛らしいって顔をされたら、それは限りなくイヌに近くなるんですよ。キミ、それはネコとしてどうなのよ?って(笑)。 ねこ妻:たしかに。 岩合:世の中的には今、イヌ化したネコを求めつつあって、なんでもこちらが思うとおりに動いてくれるネコを求めてしまう。でも、それが裏切られるのがネコであって、そこを愛さなきゃいけない動物だと思います。 ──岩合さん/ねこまきさんのこんな作品を見てみたい!という夢はありますか? ねこ妻:私、「世界ネコ歩き」で、岩合さんの心の声がポロッと出ているときが本当に好きで。こちらも思うことを咄嗟に発せられるのが面白くて。 岩合:下手なこと言えないんですよ、使われちゃうんで(笑)。 ねこ妻:「ここまでがきみのテリトリーかい?」とか、すごく優しいんですよね。それで、ちょっと見てみたいなと思っていたのが、岩合さんがネコを撮影している状態を撮影している作品。 岩合:それは却下します(笑)。視聴者の方はネコを見たいんです。僕も、こういう素晴らしい動物が我々のすぐ間近にいるんだよ、心がポッと温かくなる動物なんだよっていうことを知っていただきたいので、主役はネコであることが大前提。僕はおつまみで出てくるくらいでいんです。出たがり屋ではないのに、なぜか出させられる……。 ねこ妻:みなさんが望まれるから。 岩合:僕、昔、アフリカで作家の山崎豊子さんに言われたことがあって。「岩合さん、カメラマンである以上カメラの前に出てきちゃだめだよ」って。ちょうど『沈まぬ太陽』を書かれていたときですよ。 ねこ妻:わぁ……。 岩合:(作中に)岩合っていう人物が出てくるんですけど、なぜか悪徳企業の社長で。僕、山崎さんに悪いこと一つもしてないのに(笑)。でも本のカバーの太陽の写真は、全部僕の写真なんですよ。あれ印税にしときゃよかったなー、本当に。 一同:(笑) 岩合:あ、僕が見てみたいねこまきさんの作品は、もう単純に、人物が登場しないネコだけの……。 ねこ妻:私もできるならやりたいですよ。 岩合:ヒト抜きの「猿の惑星」みたいなものです。 ねこ妻:ネコの惑星。いいですね、そしたら岩合さんにまた長回しで映画を撮っていただいて! (構成/本誌・大谷百合絵)※週刊朝日  2023年6月9日号
雅子さまご成婚30年 残したカレーもたいらげる陛下の「神対応」皇室番組放送作家が明かす
雅子さまご成婚30年 残したカレーもたいらげる陛下の「神対応」皇室番組放送作家が明かす 雲取山登山で、頂上に到着した皇太子さま(当時)、雅子さま  千葉県の鴨場でのプロポーズを経てご婚約し、1993年6月9日に結婚の儀が執り行われてから30年経った天皇、皇后両陛下。皇室番組に携わる放送作家のつげのり子さんが取材の現場で見てきたご夫妻の愛情あふれる微笑ましいエピソードを紹介する。 *  *  * 「ご成婚30年ということでエピソードをいくつかピックアップしたのですが」というつげのり子さんが、真っ先にあげたのは、ご結婚3年目の95(平成7)年に雲取山(東京都最高峰)にご夫妻で登山されたときの話。 「雲取山荘の当時のご主人が『登山でお疲れでしょうから』と皇太子さま(当時)と雅子さまにカレーライスを大盛りにして出したそうです。皇太子さま、雅子さまともに『おいしい!』と召し上がってくださって、とても微笑ましいご様子だったとか。ところが、かなり大盛りだったようで、雅子さまがおなかいっぱいになって残されたのです」  そこで天皇陛下がとった行動は、プロポーズの言葉「雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」を有言実行する振る舞いだった。 「皇太子さまが『僕が食べてあげる』と、雅子さまとお皿を交換されて、全部きれいに召し上がられたそうです。山荘のご主人はお二人が召し上がっている場にいるのも失礼だと思い、離れたところから様子を見守っていたそうですが、本当にお優しい方だというのが伝わってきたと話していました」  カレーライスのお皿を交換するという、とっさの行動は「まさに神対応ですよね」とつげさんは感嘆する。 「雲取山は標高が2017メートルで、山荘は山頂から20分ほど下ったところ、かなり高い場所にあるんです。ということは、カレーライスを作るには、そこまで食材を背負って、人間の力で運ばなくてはいけないので、かなりの労力ですよね。そんなカレーライスを残して無駄にしてしまうと申し訳ないという気持ちを持たれたのだと思いました。また完食できなかったことで雅子さまに恐縮する気持ちが残ってしまうといけないと気遣いもされたのでは。皇太子さまが雅子さまの残したカレーライスを召し上がったことで、山荘のご主人にとっても雅子さまにとっても、そして、それは皇太子さまご本人にとってもうまくいく、まさに三方良し。このエピソードを振り返ってみると、まさにこれは神対応だったと思います」 雲取山登山で、頂上の方位盤で眺望を確かめる皇太子さま(当時)、雅子さま  実は天皇陛下は、カレーライスが大好物だという。しかし、いくら大好物とはいえ、パートナーが残したものを食べるのは、この上ない優しさや気遣いが詰まった行動だ。天皇陛下の気遣いは、ご公務での宿泊先でも発揮されるという。 「皇太子ご夫妻(当時)がご公務で訪れた先に、雅子さまの独身時代のお友達やお世話になった方が暮らしていると、宿泊先にお招きされることがあったそうです。皇太子さまは『僕がいると気を使わせるだろう』と思われて、雅子さまとお知り合いの方だけでお話ができる時間をつくられたようです」  友達の「夫」とはいえ、天皇陛下がそばにいては、思い出話や近況をざっくばらんに話すのは難しい。雅子さまに楽しい時間を過ごしてもらえるように天皇陛下が配慮されたのだった。 「雅子さまの知人の書道家の方からお話を聞きましたが、皇太子ご夫妻が滞在されているホテルを訪ねると、雅子さまがまず先に出てこられて、15分くらい後に皇太子さまが『すみません、遅れてしまって』とお見えになったそうです。短い時間ではあっても積もる話があるだろうとあえて遅れていらっしゃったのではないかと、その書道家の方は感じたとか。自分がいると話したいことも話せないだろうと皇太子さまは配慮されたのでしょう。お友達への気遣いもですが、皇太子さまの雅子さまへの優しさも感じられますよね。雅子さまもその優しさを感じていらっしゃるのではないでしょうか」  天皇陛下の優しさは、雅子さまがいないときでも見受けられるという。つげさんが明かすのは14(平成26)年春の園遊会でのエピソードだ。 「園遊会に俳優の高倉健さんが招待されました。雅子さまは中高校生時代、田園調布雙葉学園に通われ、教師の中に高倉健さんの親戚の方がいたそうです。皇太子さま(当時)は雅子さまからその話をお聞きになっていたようで、『雅子がご親戚の方にお世話になったようで』と高倉健さんに話しかけられたとか。それを知らなかった高倉健さんは、『えっ?』と大変驚いた様子だったそうです」  そんな高倉健さんに天皇陛下は「かくかくしかじか…」と丁寧に説明されたという。 「この園遊会に、雅子さまは病気療養中で、残念ながら出席されていませんでした。皇太子さまは出席されていない雅子さまの分まで、話題を提供されようとされていたところからも、仲睦まじさが垣間見えますよね。雅子さまの学生時代のお話をご存じでいらしたことからも、常日頃から皇太子さまといろんなことをお話しになり、理解し合っていることがうかがえます。親しい方たちからの取材でよく聞くのは、会話が多いご家族だということ。高倉健さんのエピソードひとつとっても、本当に会話の多いご夫婦でいらっしゃるのだと思いました」 令和初の春の園遊会での天皇、皇后両陛下  今年5月の令和初の園遊会では、雅子さまも天皇陛下と共にたくさんの会話を楽しまれていたのは記憶に新しい。こうした会話の中から夫婦仲睦まじいエピソードが、ご成婚から30年経てもたくさん生まれることだろう。 (AERA dot. 編集部・太田裕子) つげのり子/放送作家、ノンフィクション作家。2001年の愛子さまご誕生以来皇室番組に携わり、テレビ東京・BSテレ東で放送中の「皇室の窓」で構成を担当。皇室研究をライフワークとしている。日本放送作家協会、日本脚本家連盟会員。著書に『天皇家250年の血脈』(KADOKAWA)、『素顔の美智子さま』『素顔の雅子さま』『佳子さまの素顔』(河出書房新社)、『女帝のいた時代』(自由国民社)、構成に『天皇陛下のプロポーズ』(小学館、著者・織田和雄)がある。
安倍昭恵氏の狙いは比例区順位? 山口新3区をめぐる岸田、安倍両派の“絶対負けられない戦い”
安倍昭恵氏の狙いは比例区順位? 山口新3区をめぐる岸田、安倍両派の“絶対負けられない戦い” 自民党本部を訪れ、茂木敏充幹事長らと面会した安倍昭恵氏  次期衆院選小選挙区の「10増10減」に伴う区割り変更で、自民党の山口県内の候補者調整が難航している。小選挙区が一つ減るため、公認を得られるのは3人。そのうち2人はほぼ内定のようだが、残る1人については、岸田派と安倍派という派閥の問題が大きくかかわるため、決着がついていない。こうした状況のなか、いち早く動き出したのが安倍晋三元首相の妻、昭恵氏だった。活発に動く昭恵氏の狙いはどこにあるのか。 「もめるのはわかっているが、決めなきゃ仕方がない」  そう話すのは、自民党山口県連の幹部だ。 「保守王国」山口の小選挙区は、1区が高村正彦元外相の地盤を受け継いだ高村正大氏、2区には岸信夫前防衛相の長男で先の補欠選挙で当選した岸信千世氏、3区は林芳正外相、4区は安倍晋三元首相の後継として補選で当選した吉田真次氏と、すべての選挙区を自民党が独占している。  この4選挙区が次の衆院選では3に減る。新1区、2区についてはこれまで通り、高村氏、岸氏がそれぞれ公認される方向で落ち着きそうだが、新3区については、林外相、吉田氏の双方が激しい公認争いを展開し、調整が付いていない。  そうしたなか、動いたのが安倍元首相の妻・昭恵氏だ。  補選では、毎日のように吉田氏に付き添い、 「主人の最後の選挙です。圧倒的な勝利で国会に送ってほしい」  と訴えた。当選後、解散・総選挙が近いとみるや、吉田氏の後援会長に就任する決断までした。 「昭恵夫人は、補選が終わったら政治とは距離を置くような話をしていました。しかし、選挙区が減り、林外相か吉田氏かという次のステップに移っていくと、再び火が付いたように動き出しました。吉田氏の後援会といっても本来は安倍元首相の支援者ばかり。国会会期中で吉田氏が地元を空けざるを得ないなかで、昭恵夫人は支援者にあいさつまわりを続け、『私がやらなきゃ』と口にしはじめました」  と安倍元首相の後援会幹部は言う。 山口県下関市で支援者と握手する安倍昭恵氏=2023年4月  昭恵氏は5月31日、自民党本部を訪れた。吉田氏のほか、安倍派の塩谷立、下村博文両会長代理も顔をそろえ、茂木敏充幹事長と会談した。表向きは安倍元首相の一周忌法要についてというものだったが、安倍派の衆院議員はこう話す。 「次回の衆院選、山口の新3区には吉田氏を、という昭恵夫人の強い希望があり、『いち早くお願いしたい』と茂木幹事長に時間をとってもらったんです。直談判ですね。昭恵夫人は『新しい選挙区は吉田さんに継がせてください』『主人の守ってきた選挙区なのです』と切々と訴えたそうです。茂木幹事長は『地元の意見もあがってくるので、それも聞いてから』と話したそうです」  だが、6月4日の山口県連の定期大会で新たな会長に決まったのは、林外相に近い前県議の新谷和彦氏だった。  県連幹部がこう話す。 「保守王国の山口県らしく、大会には500人以上が集まり盛会でした。会長には林外相が就くと思っていた人がかなりいたと思うけど、引退した新谷先生となって驚く人もいました。林外相が会長になれば、新3区の公認も決まってしまいます。会長が選挙区から出馬できないなんてことはあり得ませんから。林外相が吉田氏のことをおもんぱかり、会長職を辞退したようです」  県連からはこんな声があがっている。 「党本部には、林外相と吉田氏のどちらも新3区からの出馬を望んでいると伝えている。最終的には党本部で決めてもらわないと。これ以上、県連でやれといわれても無理。林外相と“安倍元首相”、どちらの名前も大きすぎる」  6月7日、塩谷氏は岸田文雄首相を訪ね、吉田氏の新3区からの公認を要請した。安倍派としても「安倍家」ゆかりの場所をそう簡単には譲れないという事情もある。  岸田派のある国会議員は、 「塩谷氏には難しい判断であることを伝えたそうです。林氏は閣僚経験があり、岸田派の座長です。派閥の将来を背負って立つ首相候補です。それが比例区から出馬なんて格好悪いことはできません。林氏を公認するのが当然というのが岸田首相の意向です。時間をかけているのは、角が立たないようにしているだけでしょう」  と余裕を見せる。  ただ、安倍後援会の幹部は、 「吉田氏は無所属で出馬して、林外相と相まみえる、という主戦論を語る人もいる」  と牽制(けんせい)するなど、容易にはおさまりそうにない。 「10増10減」に伴い、比例区の中国ブロック(鳥取、島根、岡山、広島、山口)では、広島県と岡山県でもそれぞれ選挙区が1減となり、計3減となる。 「その分、比例区にまわる小選挙区の現職議員も多くなります。山口の新3区は、吉田氏が比例にまわることが半ば決まっているようなもの。ただ、他の候補者との兼ね合いで6番、7番という当落スレスレの順位になる可能性があります。昭恵夫人は、吉田氏の小選挙区での公認が難しいことは十分わかっているはずです。茂木幹事長への“陳情”は、吉田氏を比例順位で有利にしてもらうための駆け引きでしょう」  と自民党幹部が話す。  前回、2021年の衆院選で自民党が比例中国ブロックで獲得したのは6議席。林外相が選挙区、吉田氏が比例という裁定が濃厚な情勢だが、昭恵氏のさらなる秘策はあるのだろうか? (AERA dot.編集部 今西憲之)
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ 撮影/飯田安国  週3度の透析、前立腺癌、冠動脈狭窄――。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、自身の病に向き合う『教養としての「病」』を主治医と共に上梓した。病における教養とは、当事者意識とは何か。一部を紹介する。  透析導入に至るまでの私と病気の関係について振り返っておきたい。私は慢性腎臓病になった最大の原因は、生活習慣によるものだったと考えている。特に過食による肥満だ。  1979年4月に同志社大学神学部に入学したときの私の体重は62キロだった。身長が167センチメートルだったので、ごく標準的な体重だ。それが大学院を出たときには83キロに増えていた。修士論文を書く過程で机に向かって本を読み、文書を書くのと、外交官試験の勉強が重なり、ほとんど運動をしなくなったのでそうなった(もっとも小学校のときから体育は苦手科目で、運動は嫌いだ。今でも大学の単位で体育を落としそうになる夢を見ることがある)。  1985年に外務省に入省し、86年から1年間、イギリスに留学しているときにだいぶ痩やせて体重は65キロになった。87年にモスクワに異動してからもこの体重を維持していたが、88年6月にモスクワ大使館の政務班で勤務し、89年頃からロシア人と会食をしながら情報を取るようになってから急に太り始めた。場合によっては、昼食と夕食をそれぞれ2回ずつとることもあった。  1日の摂取カロリーは5000キロカロリーを軽く超えるので太るのも当然だ。90年には100キロを超えるようになった。ときに110キロくらいになることもあったが、絶食をして100キロまで体重を落とした。  中学生時代からショートスリーパーで睡眠時間は3時間台だった。それがモスクワ勤務時代も日本の外務本省で働いているときも続いた。2002年5月14日に鈴木宗男事件に連座して、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に勾留されると夜9時から朝7時半まで床に入っていることが強制されたが、なかなか寝付けずに辛い思いをした。拘置所から保釈されるとすぐに3時間台の睡眠に戻り、それが透析を導入するまで続いた。透析導入後は、疲れやすくなり毎日6~7時間は眠るようになった。  モスクワ時代には、年に2回くらい扁桃腺を腫らし、41~42度の熱を出すようなことがあったが、本格的な対症療法で済ませていた。今になって思うとこの扁桃腺炎が腎臓に悪影響を与えていたのだと思う。 ■健康よりも北方領土交渉を選ぶ  7年8ヵ月のモスクワ勤務を終えて、1995年4月から外務本省の国際情報局で勤務することになった。ロシア情報の収集や分析、北方領土交渉で、土日を含め毎日働くような状態が続いた。ロシアにも年に十数回は出張した。月の超勤時間が300時間を超えることも珍しくなかった。体重は100~120キロの間で変動した。  1996年秋、急性扁桃炎で高熱が続き、喉に激痛が走ったので、外務省の官舎のそばにあった船橋済生病院に入院した。その際に尿たんぱくがかなりでていてIgA腎症の疑いがあるということで、専門医を紹介されたが、一度診察を受けただけで、受診しなくなってしまった。当時の私には、健康よりも北方領土交渉のほうがはるかに重要だった。1998年5月の連休に再び扁桃腺炎で高熱が続き、喉に激痛が走った。このときに東京女子医大病院の耳鼻科に入院した。このときに東京女子医大病院との縁ができる。  それからしばらくは病院とはほとんど縁のない生活をしていた。  鈴木宗男事件の渦に巻き込まれたストレスで、2002年1月には105キロだった体重が5月14日の逮捕時には70キロに激減していた。2003年10月に保釈されたときは若干太り、75キロになっていた。 ■丸茂医院から女子医大へ  人工透析を行う透析室の例 提供:つくば腎クリニック  2004年春からは婚約者(現在の妻)と国分寺市に住むようになった。裁判を抱えながら、2005年3月にはデビュー作『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を上梓し、作家として第2の人生を始めた。  ときどき扁桃腺を腫らし、西国分寺駅そばの丸茂医院に通院するようになった。丸茂菊男先生は慶應義塾大学医学部の卒業で、当時80代だったが、頭脳も明晰で手先も器用な名医だった。私と妻は2005年5月に入籍し、2009年春には新宿に引っ越した。ただし、かかりつけ医は丸茂先生のままだった。  2010年1月に丸茂先生から慢性腎臓病が進行している可能性があるので、大学病院で診てもらうといいと言われた。丸茂先生が書いた同年1月21日付の診断書から1部を引用する。 === 傷病名:(1)高血圧症、(2)高脂血症、(3)高尿酸血症、(4)肥満、(5)糖尿病、(6)ネフローゼの疑い、(7)尿崩症の疑い 紹介目的 平成16(2004)年5月より上記(1)~(5)を治療中でしたが、21(2009)年夏より下肢浮腫、尿蛋白強くなり、24時間蓄尿検査にて(6)(7)が疑われますので御高診宜よろしくお願いします。 症状経過及び検査結果 平成16(2004)年5月、上気道炎症状により来院、血圧150/110、肥満85キロ、身長167センチメートル、血液検査により(2)(3)判明 === こうして私は東京女子医大病院腎臓内科にお世話になるようになった。片岡浩史先生は腎臓内科3代目の主治医だ。  片岡先生との関係については、対談でも触れるので重複を避けるが、医学的見地からだけでなく、私の人生設計を考えて、最適のアドバイスをしてくださった。 ■当事者意識を持つ  それでも作家としての仕事が忙しくなるにつれて会食が増え、体重が増加していった。2010年時点では83キロだった体重が2020年には124キロになってしまった。  肥満患者の特徴は、過食の事実を否認することだ。この年の11月、片岡先生から急速に腎臓が崩れているので、減量とたんぱく質制限、塩分制限をしないと数ヵ月以内に透析になると警告された。  同時に片岡先生は、病院の栄養士の石井有理先生を紹介してくださった。  ここでようやく私も当事者意識を持つようになり、石井先生の指導を受けながら食餌療法と運動療法を併用し、約1年で79キロまで体重を落とすことに成功した。一時、10キロ近くリバウンドしたが、再び減量に取り組んで、この2ヵ月で3キロほど体重を落とすことができた。当面は70キロを目標にして減量に取り組んでいる。  検査結果からだけで判断するならば、半年から1年前に透析導入になってもおかしくなかった。片岡先生は私の全身状態と意思を総合的に判断し、透析導入のタイミングをできる限り後ろ倒しにしてくれた。その結果、3年分くらいの仕事を1年で処理することができた。  私はキリスト教徒(プロテスタント)なので生命は神から預かったものと考えている。神がこの世で私が果たす使命が済んだと思うときに、私の命を天に召す。この世界に命がある限り、私にはやるべきことがあると考え、仕事と生活に全力を尽くすようにしている。  現時点で腎移植まで進むことができるかどうかは、分からない。腎移植が成功すれば、そこで長らえた命を自分のためだけでなく、家族と社会のために最大限に使いたいと思う。  そこまで進めないのならば、透析という条件下で、できる限りのことをしたいと思っている。 『教養としての「病」』 (1034円<税込み>集英社インターナショナル新書) 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 (AERAオンライン限定記事)
悠仁さまがいるのに女性・女系天皇議論は失礼 漫画家・里中満智子「現代の常識だけで歴史を変えるべきではない」
悠仁さまがいるのに女性・女系天皇議論は失礼 漫画家・里中満智子「現代の常識だけで歴史を変えるべきではない」 チャールズ国王の戴冠式のため英国へ出発する秋篠宮ご夫妻を見送る次女の佳子さまと長男の悠仁さま(5月4日)[写真:代表撮影]  皇位の安定的な継承が危ぶまれているなか、女性・女系天皇容認への社会的な機運が高まりつつある。一方、漫画家・里中満智子さんは悠仁さまがいるのだから、男系男子優先の原則は変えるべきではないという立場を取る。里中さんに歴史の重みとこれからの皇室のあり方を聞いた。AERA 2023年6月12日号の記事を紹介する。 *  *  *  皇族数の減少や安定継承の先行きについて、危機意識を持って準備することは大切です。ただ、長い皇室の歴史を見ると継承の危機はこれまでに何度もありました。507年ころに即位したとされる継体天皇は、天皇の血筋からかなり離れた傍系の男子でした。それも中枢から遠い地から迎え入れ、即位させたといわれます。一方、少なくとも今は、次の世代の継承資格者である悠仁さまがいらっしゃいます。過去の危機と比べてそれほど深刻な事態ではないと考えています。慌てて変えてもいいことはありません。落ち着いて見守ることが必要でしょう。  皇位継承は男系男子優先で続いてきました。史実と思われる範囲に限ってもその歴史は1700年にのぼります。過去には8人10代の男系女子の天皇がいましたが、その多くは消去法で選ばれたり、幼い男子が成長するまでのつなぎだったり。天皇の子に男子がいなくても、先代や先々代の天皇ゆかりの男子を見つけて皇位につけてきました。なぜそこまで男系にこだわったのか理由は定かではありませんが、そうして紡がれてきた歴史がある以上、男系男子優先の原則は変えるべきではありません。  過去に例もある通り、後継者がいない場合に、男系女子の皇族に皇位継承資格があるのは当然だろうと思います。しかし、後継者である悠仁さまがいるなかで、女性天皇・女系天皇について好き勝手議論するのは失礼ではないかと思っています。  今の時代の、それもヨーロッパ的な価値観においては女系まで容認すべきという声が強いでしょう。ただ、現代の常識だけで積み重ねられた歴史を変えるのは疑問です。まして、感情論が議論をリードするようなことはあってはなりません。女性天皇・女系天皇を求める声の背景には、秋篠宮家への下品なバッシングも少なからずあるように思えます。 里中満智子(さとなか・まちこ)/16歳でデビュー。代表作に過去の女性天皇である持統天皇を描いた『天上の虹』など。日本漫画家協会理事長(写真:本人提供)  確かに次世代の継承資格者が悠仁さまおひとりしかいないのは不安です。皇室活動の担い手が不足しているのも事実です。皇族数の減少の背景には、戦後の人為的な皇族数削減があります。1947年に皇籍離脱した旧宮家の方々のなかには、皇族としての品位を保ち、自らを律して暮らしている方もおられると聞き及びます。皇籍離脱から75年がたっているとはいえ、長い歴史から見ればたったの75年です。ご本人の意思次第ですが、そうした方に戻っていただくのは自然なことでしょう。  力でその地位を確立したヨーロッパの王室とは違い、日本の皇室は権威と権力を切り離して歴史をつないできました。天皇が実質的な権力を握っていたのは天武天皇の御代や明治憲法期など、ごく短い期間だけです。現代においても、天皇は日本という国を外に向かって表すときの文化的な象徴と言えます。一時の民意で選ばれる、時に上品とは言えない政治家とは別に、権威を持った存在として国民統合の象徴となり、国のホストを務めることもできる皇室が続いてきたのはとても幸運なことだと思います。 (構成/編集部・川口穣) ※AERA 2023年6月12日号
ロバート・グラスパーが若手にダメ出し 現代ジャズ最高峰ミュージシャンにインタビュー
ロバート・グラスパーが若手にダメ出し 現代ジャズ最高峰ミュージシャンにインタビュー 最新作で5度目のグラミー賞を受賞したロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬)  アルバム「ブラック・レディオIII」で5度目のグラミー賞(第65回グラミーション/ベストR&Bアルバム)を受賞したことも記憶に新しいロバート・グラスパー。5月に来日公演を行った世界的ジャズミュージシャンへの単独インタビューが実現した。 *  * * ■来日公演は連日ソールドアウト  5月29、30日にBillboard Live東京で行われた来日公演は、全ステージが発売早々にソールドアウト。日本での人気ぶりを改めて証明した。  まず登場したのはDJのジャヒ・サンダンス。先鋭的なヒップホップがプレイされるなか、ロバート・グラスパーとバーニス・トラヴィスII(ベース)、ジャスティン・タイソン(Dr)がステージに上がり、演奏がはじまった。ジャズ、R&B、ヒップホップ、オルタナティブ・ロックなどを融合したアンサンブル、メンバー個々のセンスと技術を活かしたインプロビゼーション。ジャズの伝統と革新を同時に感じさせる演奏で満員の観客を惹きつける、最高のステージだった。  2010年代以降の世界のジャズシーンを牽引し、多くのミュージシャンに影響を与えているロバート・グラスパーは、日本でも頻繁にライブを行ってきた。昨年12月、コロナが少し収まりかけていた時期にいち早く来日し、カウントダウン・ライブを行ったことも印象に残っている。 「自分のスタジオを作って、娘が誕生して。パンデミックの時期も良いことはたくさんありました」というロバート・グラスパー。昨年からはツアーも再開し、度々日本を訪れている。 「日本には20年くらい前から何度も来ています。日本の文化やファッションが好きだし、何より音楽を好きでいてくれる日本の人たちが大好きなんです。私にとって日本は、平和を感じられる場所。その雰囲気を吸収した状態で曲を作るのは、すごくいいことだと思います。とにかくずっと旅をして、演奏しているので、無意識のうちに何かに影響されたり、受け取っているものがあるんでしょうね。日本に来たら必ず買うもの? 僕は日本のファッションが好きだけど、残念ながら自分には合うサイズがない(笑)。妻や子どもは着物がほしいと言っています。必ず買うものはキットカットかな。いろんな味があるのは日本だけだから(笑)」 Billboard Live TOKYO でのライブ直前にインタビューに応じてくれたロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬) ■音楽シーンを席巻した『ブラック・レディオ』  00年代前半からジャズミュージシャンとして音楽活動をスタートさせたロバート・グラスパー。彼の名が世界中に届いたきっかけは、「ロバート・グラスパー・エクスペリメント」名義で2012年に発表した『ブラック・レディオ』だった。ジャズ、R&B、ヒップホップなどを自在に取り入れた音楽性は当時の音楽シーンに衝撃を与え、史上初めて4つのジャンルのチャート(ヒップホップR&B、アーバン・コンテンポラリー、ジャズ、コンテンポラリー・ジャズ)で同時にトップ10入りしたアルバムとなった。 「『ブラック・レディオ』は当時の音楽業界にとても大きなインパクトを与えたし、本当に多くの人たちをインスパイアした作品だと自負しています。今となってはクラシック・アルバムですが、自分でも誇りを覚えますね。あのレコードによってジャズはいろんなジャンルと融合できることを証明できたと思うし、いろんなタイプのミュージシャンとコラボすることが増えた。自分の活動が広がったんですよね」 『ブラック・レディオ』以降、ジャズの姿は大きく変わった。アメリカ、ヨーロッパ、そしてここ日本でもジャンルの交流が進み、優れた作品が次々と発表されたのだ。ロバートは長い間止まっていたジャズの時計を再び動かしたと言っていいだろう。 「音楽は同じ場所に留まっているのではなく、動き続けるべき、進化するべきだと思っています。それを私に教えてくれたのは、トランペット奏者のロイ・ハーグローヴ。ヒューストンの芸術系の高校に通っているとき、学校に教えてきてくれて、その後、ツアーにも帯同したんです。ジャズを進化させようとする彼にインスパイアされて、“次は自分がその役割を担わなくてはいけない”と思うようになりました」 ■目指すのはコミュニティを作ること  ロバートは、数多くのミュージシャンとの共演やコラボを繰り返していることでも知られる。最近ではカマシ・ワシントン(サックス)、テラス・マーティン(サックス/プロデューサー)――いずれも現代のジャズを象徴する存在だ――と“ディナー・パーティー”を結成。LAのフェス<コーチェラ2023>に続き、5月に埼玉県・秩父で行われたジャズフェスティバルにも出演を果たした。 「才能のあるミュージシャンと一緒に音楽を生み出すことは本当に刺激的だし、これからも続けたい。ただ、基本的には“自分が好きな音楽を作る”ということがいちばん大事だと思っています。自分のやり方で自分がいいと思う音楽をクリエイトし、みなさんがそれを気に入ってくれたらいいな、と。私の音楽を通して初めてジャズを知り、ジャズクラブに来てくれる人も多いですからね。ただ、それは自分のゴールではなくて。私が目指しているのは、いろいろな世代、いろいろなジャンルのミュージシャンが集まるコミュニティを作ることなんです。日本人のミュージシャン、BIG YUKIもその一人です」 「私にとってのスーパーヒーロは母親」と語るロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬) ■若い世代に言いたいこと 「下の世代のミュージシャンから刺激を受けることも多いです。“トラップ・ハウス・ジャズ? なんだそれは?”と新しいジャンルについて教えられることもあるので」という笑顔で語るロバート。一方で彼は、「“若いミュージシャン、ラクしてないか?”と思うこともある」と苦言を呈する。 「音楽大学の学生から、インスタのDMなどで“あなたの楽曲の楽譜を見せてくれませんか?”と言われることがあるんですが、そういうときは“自分で聴いて、譜面に起こして、練習しろ”と返します。私が若いときは、ハービー・ハンコック、チック・コリアといった素晴らしいミュージシャンの作品のCDやカセットテープを聴き、譜面を書き、ひたすら弾いた。そうやって耳と身体と感覚を使って音楽をやってきたからこそ、今の自分があると思っています。筋肉はトレーニングで鍛えるべきで、簡単に身に付けることはできない。怠け者になるな!と言いたいですね」  2022年にリリースされた『ブラック・レディオ3』は、コロナ渦の真っ只中で制作された作品だ。しばらくは「ずっと家のカウチに座っていなくちゃいけなくて、退屈でした」という状態だったが、つながりのあるミュージャンたちとリモートでやりとりし、遠隔的なセッションをスタートさせた。また、パンデミックの最中にアメリカで起こったさまざまな出来事も、彼に大きな刺激を与えたという。 「ジョージ・フロイドの死、それに伴う抗議運動。LAの自分の家の近所でビルが燃えたこともあったし、あの時期、アメリカで起きていたことは『ブラック・レディオ3』に強く反映していると思います。このアルバムに収録した『ブラック・スーパーヒーロー』という曲は、若者、特に黒人の若者に向けています。彼ら、彼女らにとって大切なのは、尊敬できるヒーローのような存在の人がいるということ。何が正しくて、何が間違っているか。夢を持つことの大切さ、そして、それを叶えることが可能なんだと教えてくれる人ですね」  あなたにとってのヒーローは?と訪ねると答えは「母親」だという。 「私にとってのヒーローは、母です。昼はオフィスで仕事をして、夜はクラブで歌って、私のためにすごくがんばってくれた。母のおかげで自分は音楽に囲まれて育ったし、影響はとても大きいです」 (森朋之) ロバート・グラスパー(Robert Glasper)/ジャズ/ゴスペル/ヒップホップ/R&B/オルタナティブ・ロックなど多様なジャンルを昇華したスタイルで、次世代ジャズの最重要人物として注目を集める現代最高峰のピアニスト。2012年、“エクスペリメント”名義でリリースした『ブラック・レディオ』が第55回グラミー賞「ベストR&Bアルバム」部門を受賞。ピアニストとしては初の受賞という快挙を達成する。20年にはH.E.R.とミシェル・ンデゲオチェロをフィーチャーした「Better Than I Imagined」で第63回グラミー賞最優秀R&Bソングを獲得。22年2月にリリースした『ブラック・レディオ3』は、第65回グラミー賞で「最優秀R&Bアルバム賞」を受賞。 *取材協力:ビルボードライブ
世界が認めた女性植物分子生理学者69歳の誇り 「夫婦で研究はダメ」の時代も論文を出してきた
世界が認めた女性植物分子生理学者69歳の誇り 「夫婦で研究はダメ」の時代も論文を出してきた 篠崎和子さん=東京大学農学部の居室  動物と違って自分で動けない植物は、寒さ、暑さ、乾燥、といった「環境ストレス」にどうやって耐えているのだろうか。その仕組みを分子レベルまで分け入って解明してきた篠崎和子さんが今年、日本学士院賞に選ばれた。夫の一雄さん(74)との共同受賞である。  ずっと同じ研究室にいたわけではない。夫は長く理化学研究所で働き、妻は農林水産省の研究所で約10年働いたあと東京大学教授になった。妻は「一つのことにのめり込んでいく」タイプ、夫は「新しいことに飛びついて、どんどん広げていく」タイプ。そういう組み合わせが「ちょうど良かった」と振り返る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) * * *――ご受賞おめでとうございます。日本学士院に聞きましたら、ご夫婦の共同受賞は自然科学系では初めてだそうです。  そうですか。共同研究者であり、夫でもある篠崎一雄と一緒に受賞できるのは大変嬉しく、またありがたく思っています。昔は夫婦で研究しちゃいけないと言われたこともありましたけど、今はそういうことは言われませんね。良い時代になったと思います。  私が研究を始めたのは45年以上前ですが、そのころは植物のゲノム(細胞の核にあるDNAの全体のこと)には全然手がつけられていませんでした。遺伝子の研究はもっぱらゲノムサイズの小さいウイルスを使っていた。ウイルスは私たち真核生物に感染するのですから、ウイルスの遺伝子を調べれば高等生物の遺伝子のこともわかると考えられていました。  私は名古屋大学では葉緑体のDNAの全構造解析に加わりました。葉緑体の中にもDNA があって、それは細胞核の中のDNA よりずっと小さいんですが、それでも塩基配列を決めるのに何年もかかりました。配列を決めるには、薄いゲル(ゼリー状の物質のこと)を一枚一枚手作りして、それに2000ボルトの高圧をかける。間違って電極を触って飛ばされた人もいるという噂があるぐらい、危険もある実験でした。  その後、米国のロックフェラー大学に留学してシロイヌナズナに出合いました。植物の中で一番ゲノムサイズが小さいので、米国ではこれをモデル植物としてみんなで研究しようという機運が盛り上がっていて、私たちは日本にタネを持って帰りました。 篠崎和子さん=東京大学農学部キャンパス  それから植物の遺伝子研究はどんどん進み、今やどの植物でもゲノムの全構造がわかるようになった。イネに至っては多くの品種でゲノム配列がわかっている。塩基配列の決定は次世代シーケンサーという機械がやってくれます。  時代が全然違う。もう自分たちの時代は終わりが近づいているかなとも感じています。 ――日本女子大学を卒業されて東京工業大学の大学院に進まれたんですね。  はい、日本女子大は好きな生物の勉強ができたので、受けることにしました。第一志望はほかにありましたが、そちらの受験に失敗したので、日本女子大に。浪人も考えましたが、両親に反対されました。  当時、日本女子大に大学院はなかった。研究者になるためには大学院受験をしなくてはいけないということがだんだんわかってきて、それで東工大を受けました。 ――研究者になりたいという思いはいつごろから?  小学生のときからですね。父は植物採集とか岩石採集とかを一緒にやってくれて、今思うと、それに良い影響を受けました。それから、母が「子供の科学」という雑誌をとってくれて、その付録でついてくるビーカーやフラスコなどのガラス器具に憧れを持った。そういうイメージだけで、しっかりしたものがあったわけじゃありませんが、理科が好きだったのは確かです。 ――東工大を選んだのはどうしてですか?  遺伝子を研究している先生がいらっしゃったので興味を持ちました。私が入った畑辻明先生の研究室では国立遺伝学研究所の三浦謹一郎先生と共同研究をしていました。私は生物に興味があったので、三島(静岡県)にある遺伝研でウイルスの遺伝子の研究を始めました。  三浦先生は、大学でいえば教授にあたる立場で、今の准教授にあたる立場だったのが杉浦昌弘先生で、杉浦先生は遺伝子のクローニング技術を使って研究していました。杉浦先生が名大に移られることになって、私も一緒に行くことになりました。なぜなら、杉浦ラボの助教にあたる篠崎一雄と結婚したからです。 ――いつ結婚されたんですか?  私が博士号を取得したあとです。篠崎は名大で博士号を取得して、遺伝研の研究員になっていました。私とほとんど同時に遺伝研に移ってきて、そのうちデスクも隣になりました。 皇居乾通り一般公開に出かけたときの篠崎一雄・和子夫妻=2019年4月5日 ――研究所にはほかにも男性研究員がいたでしょう。なぜ一雄先生が良かったんですか?  なぜですかねえ。優しい人だと思いましたし、一緒にいて楽しかったからではないでしょうか(笑)。当時は、結婚はするものだと思っていましたし。 ――女性はクリスマスケーキと同じなんて言われましたよね。24までは飛ぶように売れるけれど、25を過ぎたら売れなくなる。  そうそう、私は28でしたけどね。結婚して1年ぐらいして上の子が生まれました。実はスイスに留学する予定だったんですけど、「子供が生まれる」と伝えたら断られました。篠崎もスイスに行こうとしていたのですが、杉浦先生が大型研究費を得られたので留学に行けなくなった。私の場合は断られてダメになりました。  でも、良かったと思います。クローニングという技術を名大で勉強しましたから。それに、杉浦研は葉緑体DNAの全構造の解析もやり終えました。私個人の仕事としても、遺伝子が読まれるときのメカニズムを研究し、論文も書きました。  自分として誇れるのは、いろんなところへ行きましたけど、どこへ行ってもちゃんと論文を出してきたことです。 ――その後、ロックフェラー大学に留学されたんですね。  3年か4年遅れで留学が実現しました。留学先は、植物の核の遺伝子の研究で有名なナムーハイ・チュア先生の研究室。シンガポール出身で、私たちの憧れの先生でした。当時はロックフェラー財団の資金でイネのプロジェクトも始まっていて、彼は多くの研究費を持っていた。同じラボで働きたいと言ったら夫婦とも雇ってくれました。  私は乾燥耐性に関係する植物ホルモンのアブシシン酸(ABA=エービーエー)に応答する遺伝子を研究テーマに選び、夫は光に応答する遺伝子を研究することになりました。念願の植物ゲノムの研究ができたわけです。  植物は乾燥すると、植物ホルモンABAをつくり出します。これが乾燥耐性に関係するいろいろな遺伝子を動かしますが、私はそのメカニズムを探りました。それを解き明かして環境ストレスに強い作物をつくれれば農業にも役立つと思っていました。  長女も連れていき、最初の1カ月は母も来てくれました。いいベビーシッターも見つかった。ニューヨークはすごく治安が悪くて道を歩くのも怖い時代でしたが、2年3カ月ぐらい滞在しました。 ――帰国して、理化学研究所(理研)の研究員になった。  篠崎は留学前に名大の助教授になっていて、いったん名大に戻りました。すぐに理研に就職して、筑波キャンパス(茨城県)で主任研究員として働き始めました。つまり、研究者として独立しました。  私のほうは、予定していた働き先が「好きな研究をやっていい」という話だったのに実際には言われたことをやらなければならなかったので、諦めて、理研の基礎科学特別研究員に応募しました。博士号を取得した研究者のための制度をこの年から理研がつくったんです。選考は理研全体で行われて、年齢的にはギリギリでしたが、採用されました。3年間、好きな場所で好きな研究ができるということだったので、篠崎の研究室で研究することにしました。 ■ラボに来たある研究者に話すと…  米国では、ABAがどのように遺伝子を制御するのかを研究しましたけれど、そもそもどうしてABAができてくるのか。それを知りたいと思って、その仕事を篠崎と始めました。  遺伝子のコード領域の上流には、遺伝子が働くための合図を出すシス配列と呼ばれる塩基配列があります。私は米国にいるとき、ABAによって動き出す4つの遺伝子を解析して、そのシス配列を見つけました。そのころ、ある研究者がラボに来て、ボスのナムが「今やっていることを話すように」と言うから、私は安易に自分が見つけたことを話してしまいました。そうしたら彼は、しばらくしてこのシス配列に関して論文を発表したんです。 ――え~!  彼もABAに誘導される遺伝子を研究していて、遺伝子のデータは1個しか持っていませんでしたが、私のデータを見てすぐに重要な配列がわかったのだと思います。彼はシス配列に結合する転写因子も単離して、それも一緒に論文発表しました。  私は悔しくて、日本に帰ってからその転写因子を確かめたいと思った。篠崎は「もう終わったことだから」と言っていましたが、私はどうしても自分で確かめたくて理研時代は黙って研究していました。農水省の研究所に移ってからも研究を続け、最終的に彼の論文の転写因子は間違っていることに気付きました。今は私たちが新たに見つけた転写因子、これをAREB(エーレブ)と名付けましたが、これがABA応答性の転写因子として世界で認められています。 ――粘り勝ちですね!  この研究を進めているときに、植物の奥深さを知ることになりました。ABAは合成されるとすごい威力を持つんですが、実は植物はABAを合成するまでにもっと違うことをいろいろやっていて、ABA以外にも環境ストレスに耐えるパスウェー(道筋)を持っているということがわかったんです。 ――なるほど。  これはすごく重要なことでした。そこで働く遺伝子もわかった。世界で最初でした。  こういう私の仕事を面白いと認めてくださる先生が理研の中にいらして、理研のパーマネント(任期がついていない、定年まで勤められる)ポジションに応募を勧めてくださいました。それで、応募してプレゼンまでしたんですけど、断られました。表向きの理由は「そのポジションには私のキャリアが合わない」ということでしたけど、本当の理由は夫婦で研究するのはダメだと、理研にはそういう不文律があるんだということでした。 ■公募で試験を受けて得たポジション ――不文律、ですか。  私は、何より、パーマネントのポジションにつきたかった。 ――それは当然ですよ。不文律なんて、フェアじゃないですね。  そのうち事情を知った先生が同情して、農水省の研究所を紹介してくださった。これは公募だったので、試験を受けて、ついにパーマネントのポジションにつくことができました。国際農林水産業研究センターというところの主任研究官です。つくば市にあるので、通うのにも問題ありません。  当時、所長でいらっしゃった貝沼圭二先生が、私の研究をサポートしてくださいました。これからは国際的な活動が重要だということで、センターの新しい建物を造ることになり、バイオテクノロジーの施設もつくり、最先端の機器を入れてくださった。貝沼先生のおかげで、私は研究所の若い研究者と一緒に思う存分研究ができました。  プライベートでは、農水の研究所に入った翌年に2人目が生まれました。 ――ずいぶん間が空きましたね。  11年空きました。ニューヨークから帰ってきて、つくば近辺の借り上げ住宅に入ったらすごく狭くて、それでローンを組んでつくば市の中心部から少し離れたところに家を買ったんです。中心部は高くて無理でした。  長女はなんとか保育所に入れましたが、次の年には小学校です。その町には学童保育がなかったので、「つくってください」と役所に頼みにいったら「母親は子供の面倒を見るのが役割なのに」と言われて。 ――役所の人に?  そうです。「預けるなんて、母親として問題だ」みたいに諭されました。そういう時代だったので、1人目の手が離れるまで無理でした。  父が亡くなって母が私たちと一緒に住んでくれたので、2人目は小学校入学のころから母が面倒を見てくれるようになり、長女のような苦労はなく育てることができました。 ――農水の研究所に11年いたあとに東大の教授になったんですね。  大学に来た当時は今の研究室の建物はまだなかったんです。結局、建ったのは8年後でした。その間は農水の研究所のほうも併任して、つくばと行ったり来たりでした。東大には定年まで16年いて、後半の8年は専任になり、住まいもつくばから東京に移りました。  夫はずっと理研でしたが、途中で横浜にあるセンターに移って、それでも自身のラボはつくばにあるので、横浜とつくばを行き来していました。今住んでいるのは、どちらにも行きやすい場所です。 ■異なるタイプだから研究がうまくいった ――2018年には内閣府の「みどりの学術賞」を単独で受けられました。  私は農水省にいたので国際共同研究もたくさんしましたし、国際機関とも連携して実用化を目指した作物の研究をやってきたので、そういう応用面も評価されたのかなあと。  私と主人で仕事がうまくいったなと思うのは、私は一つのことにのめり込んでいき、細かく追究していく。篠崎は新しいことを見つけ出し、どんどん広げていく。情報を得るために勉強もよくしているし、実験も上手だし、そういう天才的な人なんで、私みたいに一つのことにしがみつく人とはちょうど良かったんじゃないかな。 「みどりの学術賞」授賞式の日の篠崎一雄・和子夫妻=2018年4月27日、東京都千代田区の憲政記念館 ――そういうタイプの違いって、若いころからわかっていたんですか?  いや、わかりません。一緒にやってみて、だんだんわかってきました。 ――何だか、理想的な共同研究ですね。改めて、ご夫婦でのご受賞、誠におめでとうございます。  ありがとうございます。これまでご指導くださった先生方や、一緒に研究を行ってきた多くの研究者や学生の皆さんにも大変感謝しています。それから、両親や家族の援助や協力もありがたく思っています。  これからは、新しい人が新しい考えで研究を進める時代です。日本が世界をリードするようなサイエンスを行うとしたら、ある程度の層が必要で、たくさんの若い人に能力を伸ばしていただいて、活躍していただければ、ピカ一の人も出てくると思う。そんなふうに若い人をもり立てられるシステムが日本にできたらいい。そういうところで少しでもお役に立ちたいと思っています。 篠崎和子(しのざき・かずこ)/1954年群馬県生まれ。1977年日本女子大学卒、1982年東京工業大学大学院総合理工学研究科博士課程修了、理学博士。日本学術振興会特別研究員を経て名古屋大学遺伝子実験施設特別研究員。1987~1989年米国ロックフェラー大学ポストドクターフェロー、1989年10月~1992年9月理化学研究所基礎科学特別研究員。1993年農林水産省国際農林水産業研究センター(現在は国立研究開発法人)生物資源部主任研究官、2004年東京大学大学院農学生命科学研究科教授、2020年東京農業大学総合研究所教授。2002年つくば賞、2009年日本植物生理学会学会賞、2018年みどりの学術賞などを受賞。
「週刊朝日」の表紙を飾った女子大生たち 出身大学の登場回2位は学習院、慶應大 1位は?
「週刊朝日」の表紙を飾った女子大生たち 出身大学の登場回2位は学習院、慶應大 1位は? 週刊朝日最終号のグラビアページ。過去話題になった女子大生表紙がズラリ  5月末、「週刊朝日」は101年の歴史に終止符を打った。  同誌にはさまざまな人気企画が掲載されていた。なかでも1980年代から90年代にかけて、一世を風靡(ふうび)したのが、篠山紀信氏などが撮影した「女子大生表紙」である。どのような大学が登場したか、その後、女子大生たちはどうなったかをまとめてみた(カッコ内は表紙モデル掲載年)。 * * *  1980年代の女子大生表紙モデルからは俳優を送り出した。  熊本大の宮崎美子さん(1980年)、聖心女子大の真野あづささん(80年)、慶應義塾大の田中理佐さん(85年)、日本大の大塚寧々さん(88年)、法政大の青山知可子さん(88年)などである。田中さんは芸能界を引退しており、夫は前国会議員、石原伸晃氏である。  1980年代半ばから、「局アナ」と呼ばれるアナウンサーが生まれている。  上智大の河野景子さん(85年)、法政大の小島奈津子さん(90年)、早稲田大の下平さやかさん(91年)、松蔭女子学院大(現・神戸松蔭女子学院大)の進藤晶子さん(92年)、東京大の膳場貴子さん(94年)などが存在感を示した。2000年代以降には、京都大の八木麻紗子さん(05年)、成蹊大の畑下由佳さん(12年)、成城大の太田紅葉さん(16年)などがいる。  1990年代にはバラエティー番組などで活躍するタレントが現れた。 成城大の栗尾美恵子さん(90年)、東京大の高田万由子さん(91年)、立教大の乾貴美子さん(94年)などである。栗尾さんは前夫が若乃花(現・花田虎上氏)で、「花田美恵子」と名乗って芸能活動をしていた(現在はMiekoとして活躍)。なお、花田虎上氏の弟、花田光司氏(元横綱貴乃花)の前妻は、前出、上智大出身の河野景子さんである。かつて角界で注目された花田兄弟(若貴兄弟)は、「週刊朝日」表紙女子大生と縁があった。 ■大学別の登場回数1~4位は?  大学別に見てみよう。  1位は早稲田大18人。  早稲田大最初の表紙モデルは1981年に誕生した。彼女は卒業後、銀座の商業施設に勤めていた。夫は日本オリンピック委員会(JOC)会長で柔道の五輪金メダリスト、山下泰裕さんだ。  小川紗良さん(2016年)は映画監督、俳優、作家という3つの顔を持つ。NHK連続テレビ小説に出演したことがあり、映画ではいくつか主演をつとめた。映画監督として「あさつゆ」「最期の星」「海辺の金魚」などを撮っている。早稲田大文化構想学部在学中、学内報のインタビューでこう話している。「是枝裕和先生(映画監督・理工学術院教授)に『BEATOPIA』の脚本を見ていただいたりもしたのですが、世界的に評価されている先生方と話ができたり、演劇や映像制作が盛んな校風であったり、映画作りのための環境はとても恵まれていますね」(「早稲田ウィークリー」16年11月)  2位は学習院大、慶應義塾大10人。  学習院大の西尾はるなさん(2002年)はタレントとして活躍している。「音楽・夢くらぶ」(NHK)、「踊る!さんま御殿!!」「行列のできる法律相談所」(以上、日本テレビ)、「中居正広の金曜日のスマたちへ」(TBS)、「それいけ!アンパンマンくらぶ」(BS日テレ)などに出演した。  慶應義塾大の岩崎果歩さん(18年)はNHKアナウンサーとなっている。岩崎さんについてこんな紹介記事がある。 「大学1年の終わりまでテレビ番組のレギュラーを務めるなど、約8年間の芸能活動歴がある。大学受験の時期は控室でみんながおしゃべりするなか、参考書を開いて勉強した努力家だ。そしてテレビの仕事に関わるなかで、アナウンサーという夢を見つけた。現在はアナウンススクールに通いながら就職活動中」(「週刊朝日」18年9月7日号)  初志貫徹である。  4位は青山学院大、上智大9人。  青山学院大の諸岡奈央さん(2003年)は在学中に全日本学生空手道選手権大会の個人形の部で4年連続(00~03年)優勝している。07年にはアジア空手道選手権大会を制覇した。現在は引退し後進の指導にあたっている。22年、NHK Eテレ「趣味どきっ!」で「空手の形で気分爽快!』の講師をつとめた。  水野今日香さん(05年)は青山学院大在学中からタレント活動を続けてきた。日産自動車、森永乳業、パナソニック、山崎製パン、ビックカメラ、レオパレス21などの広告に登場している。夫はヤクルトスワローズの川端慎吾選手だ。  上智大の上村彩子さん(13年)はTBS、行貝寧々さん (17年)は新潟放送でアナウンサーとして活躍する。  上智大の磯山晶さん(1988年)はTBSプロデューサーとしてドラマの制作に関わっている。これまで、「池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ」「空飛ぶ広報室」「逃げるは恥だが役に立つ」「恋はつづくよどこまでも」などを担当した。 ■「女子大生表紙」リストから読み解く大学史 「週刊朝日」の表紙の女子大生が通っていた大学からは、大学史の一端を見ることができる。  武蔵野女子大(1987年)は当初文学部が1つだけの単科大学だったが、いまは武蔵野大となり、12学部(法、経済、経営、文、教育、人間科学、グローバル、工、アントレプレナーシップ、データサイエンス、薬、看護)を擁する総合大学となった。  文化女子大(87年)は家政学部だけの単科大学としてスタートしたが、文化学園大に変わり、3学部(服装、造形、国際文化)体制となっている。  いずれも少子化を見越して男女共学、拡大路線へと舵を切った。  松蔭女子学院大(85年、92年)は神戸松蔭女子学院大、聖路加看護大(87年)は聖路加国際大に校名を変更した。地域名を強調する、グローバル化を訴える大学の戦略だ。  東京都立大(86年)は掲載時はこの校名だったが、2005年に複数の大学と統合して首都大学東京となった。しかし、20年に先祖返りして東京都立大に戻った。校名変更では時の東京都知事に振り回された大学だ。 大阪市立大(1986年、2016年)は大阪府立大と統合して、22年に大阪公立大となっている。  共立薬科大(1983年)は慶應義塾大と統合し、いま、この校名の大学は存在しない。2008年、慶應義塾大薬学部に生まれ変わった。 ■「週刊朝日」表紙にも反映された“短大離れ” 「週刊朝日」の表紙を飾った女子大生は約260人にのぼり、このうち短大生が約40人いた。2人以上登場したのが青山学院女子短期大、大妻女子大学短期大学部、女子美術短期大、目白学園女子短期大、立教女学院短期大、武庫川女子短期大だ。  青山学院女子短期大は、短期大学として上智短期大、学習院女子短期大と並んで人気が高く、代々木ゼミナールの偏差値では60を超すなど難易度が高かった。  人気の秘密は就職実績にあった。1983年の青山学院女子短期大の就職先は、東京海上火災46人、三井物産44人、三菱商事33人、住友商事25人、丸紅22人と錚々たる企業が並んでいた(「週刊サンケイ」83年4月27日号 社名は当時)。  ところが、表紙に短大生が多く見られたのは1990年代前半までで、2000年以降、その姿を見ることは少なくなった。女子学生の四年制大学志向の高まり、そして少子化によって、短大離れが起こったからである。それは「週刊朝日」にも反映された。  表紙の短大生について、彼女たちが通っていた短期大学の多くは募集停止となり、その姿を見ることができない。すべて紹介しよう。 日本の大学史、「週刊朝日」史に、その名をしっかりとどめておきたい。 ◆募集停止した短期大学(カッコ内は表紙モデル掲載年。北から南へ地域順) 宇都宮文星短期大(95年) 青山学院女子短期大(83年、86年) 嘉悦女子短期大(86年) 学習院女子短期大(86年) 恵泉女学園短期大(84年) 成城短期大(96年) 玉川学園女子短期大(86年) 東京女学館短期大(87年) 東京女子大学短期大学部(80年) 東洋英和女学院短期大(84年) 富士短期大(81年) 武蔵野美術短期大(85年) 山脇学園短期大(86年) 立教女学院短期大 (80年、93年) 関東学院女子短期大(80年) 平安女学院短期大(84年) 大阪信愛女学院短期大(83年) 被昇天女子短期大(84年) 帝塚山短期大(87年) 活水女子短期大(84年) ◆現存する短期大学(カッコ内は表紙モデル掲載年。北から南へ地域順) 聖徳大学短期大学部(93年) 大妻女子大学短期大学部(80年、83年、84年) 産能短期大 現・自由が丘産能短期大 通信教育課程のみ(94年)  上智短期大 現・上智大学短期大学部 2025年度以降募集停止(85年)  女子美術短期大(83年、90年、92年) 桐朋学園芸術短期大(07年) 東邦短期大(81年) 目白学園女子短期大 現・目白大学短期大学部(87年、95年)  武庫川女子短期大(85年、89年)、 九州造形短期大 現・九州産業大学造形短期大学部(84年)  このなかで、短期大が四年制大学に転換するケースは少なくない。  嘉悦女子短期大は嘉悦大、学習院女子短期大は学習院女子大、平安女学院短期大が平安女学院大などである。最近では、2022年に大阪信愛女学院短期大(2018年に大阪信愛学院短期大学に改名)が大阪信愛大となり男女共学として生まれ変わった。 残念な大学もある。  東京女学館短期大は東京女学館大、恵泉女学園短期大は恵泉女学園大になったが、いずれも募集停止となった。2校は短大も四大も経営を軌道に乗せることができなかったが、附属の中学高校は校風、教育内容、進学実績面で支持されており、中学受験で人気は高い。  大学の考え方も変わった。  表紙に登場するなどメディアに出ることを校則で禁じていた大学がある。たとえば、聖心女子大は、かつて校則でメディアへの登場を禁止していた。いまは柔軟に対応している。 「本学では、これまでテレビや新聞・雑誌を始めとするマス・メディアでの活動について、本人の不利益になる可能性を重く見て、原則として禁止してきました。しかしながら、昨今の社会状況をみると、インターンシップなどに代表されるように、学生時代の社会活動体験は、キャリア形成の一環であり、マス・メディアでの活動もまた、そうした社会活動の一つと考えられるようになってきています。そこで、学業に支障のない範囲で、本学の学生がこれらの活動を行うことを容認することとしました」(聖心女子大「学生生活ハンドブック2023」)  俳優の真野あづささん(1980年)は本来、表紙に出てはいけなかったが、当時、黙認されたのか。いまならば、キャリア形成につながる社会活動として認められるだろう。 「週刊朝日」の表紙の女子大生から、日本の大学がどのように発展し、また、苦難の道を歩んだかを知ることができる。「週刊朝日」は大学の歴史とともに歩んだ、そして大学を語ってきた、いわば生き証人といえよう。それゆえ、同誌がなくなるのはさびしい。  大学のあり方を世に問いかけるメディアはネット、雑誌でまだ存在するが、長く続くことを望む。 (教育ジャーナリスト・小林哲夫) 『週刊朝日』最終号の表紙
SNSで驚異の動画再生回数 上皇ご夫妻の「仲良し」「手つなぎ」が若い世代に好感
SNSで驚異の動画再生回数 上皇ご夫妻の「仲良し」「手つなぎ」が若い世代に好感 沿道で出迎える人たちに車内から手を振る上皇さま=5月16日、奈良市  皇室にゆかりの深い尼門跡寺院などを私的に訪問するため、5月14日から5日間の日程で、京都と奈良を訪れた上皇さまと上皇后美智子さま。おふたりは、念願の葵祭をご覧になるなど、穏やかなひと時を過ごした。京都・奈良を回るおふたりの人気はすさまじく、各地は熱気にあふれ、SNSでは若者による投稿が相次いだ。 *   *   * 「たまたま同志社の前にいたら上皇ご夫妻おってんけど!!」 「上皇様に遭遇!!なんというラッキー」  京都、奈良を訪問した上皇さまと美智子さまの姿は、各地で動画や写真に撮影され、SNSに多数投稿された。手をつないだおふたりが京都駅のエレベーターを降りる場面を撮影した動画の再生回数は、270万回(6月5日現在)にもなった。  上皇さまが集まった人たちに手を振ると歓声が上がる。仲睦まじいおふたりを撮影した動画はたくさん投稿され、「手をつないで素敵」「日本一ほほえましい夫婦」「仲良し夫婦にあこがれる」といった言葉がコメント欄に並んだ。  皇室が好きで、千葉県からおふたりの姿を見に来たという阿部満幹さんは、現地での歓迎ぶりに驚いたと話す。京都市の同志社大学の前で上皇ご夫妻の車列を待っていると、大学からどんどん学生が出てきて、「手を振ってもいいのかな」「失礼ではないかな」などとささやきながら車を待っていたという。 「何時間も前から奉迎しようと道路に並ぶなど、平成の現役の天皇、皇后でいらしたときを思い起こさせる熱狂ぶりでした。特に10代、20代の若者が興奮や感激の感情を素直に出してお出迎えをしていることに驚きました」 生真面目なプロポーズ  若い世代が好感を抱いたのは、歳月を重ねても手をつなぎ、互いに寄り添うおふたりの姿だ。  軽井沢で運命の出会いを果たしたおふたりの恋愛物語は、誰もが知るエピソードだろう。  だが当時、上皇さまのお妃選びを取材した朝日新聞記者の故・佐伯晋さんは筆者に、こんなことを話していた。世間では皇太子さま(上皇さま)が美智子さまを熱心に口説いた純愛物語の印象が強かったが、自分の取材ではすこし違うのだ、と。 JR京都駅に到着し、沿道の歓声の中、手をつないで歩く上皇さまと美智子さま=5月14日、京都市(阿部満幹さん提供) 「皇太子さまは最後まで、自分は普通の結婚の幸せを保証してあげられない、皇太子という特別な立場にあっていちばん大事なのは公の義務であり、私事はその次の問題である、と言い続けていました」  そして、佐伯さんはこう続けた。 「おそろしく生真面目で責任感の強い男性だと思うでしょ。でも美智子さまは、かえってそんなところを好きになった。きっとそうですよ」 「葵祭を見たいと思って」  美智子さまが体調を崩したときは、上皇さまがその手と腕をしっかり握りながら歩いた。そして2012年に上皇さまが心臓のバイパス手術をしてからは、美智子さまが上皇さまを支えて公務に臨んだ。  今回の旅行でも、おふたりは優しく手をつなぎ、支えあって歩いた。京都市の大聖寺で、美智子さまがよろけた瞬間があった。上皇さまはすぐに手を伸ばし、美智子さまの体をそっと支えた。  若い世代が沿道から温かく見守る。そんな様子を肌で感じたのだろうか。おふたりには2日目以降、変化があった。 「まず、上皇さまの表情が大きく変わりました。初日はやや表情が硬いご様子でしたが、2日目以降は表情豊かになられたように感じます」(阿部さん)  美智子さまも表情が柔らかく、笑顔が増えた印象だ。  上皇さまは、元赤坂の仙洞御所の改修工事が終わるまでの一時期、高輪の仙洞仮御所にお住まいだった。おふたりはその時期から、沿道の人たちにお手ふりをする場面が減り、軽く会釈をする仕草が多くなった。しかし、今回はお手ふりをする場面がよく見られたという。 「上皇さまの退位後は、意識して目立つことを控えておられたのだろうと思います」と、事情を知る関係者は言う。    新型コロナで外出を控えていたおふたりにとって、私的に旅行をされるのは4年ぶり。今回の旅行の目的のひとつが、京都三大祭りの一つ「葵祭」をご覧になることだった。  おふたりがご覧になったのは、「路頭の儀」。天皇の勅使や検非違使や内蔵使(くらづかい)、牛車に斎王代など、平安貴族の装束に身を包んだ500人余りの行列が、京都御所から下鴨・上賀茂両神社へと歩くものだ。 京都市内を車で移動する美智子さま。集まった大学生からは「素敵なご夫婦」と声が漏れた=5月15日、京都市(阿部満幹さん提供)   テントに座るおふたりの案内役を務めたのが、葵祭行列保存会前会長の猪熊兼勝さん(85)と副会長の西尾斉さん(83)。考古学者で京都橘大学名誉教授でもある猪熊さんは、2016年におふたりが高松塚壁画館(奈良県)を訪れた際にも案内役を務めた。 「2代で案内をありがとう」  猪熊さんはこのとき、葵祭行列保存会の会長だった。すると美智子さまが、こう話しかけてきた。 「以前から葵祭を見たいと思っていましたが、これまで見たことがありませんでした」  葵祭は1400年以上の歴史を誇り、源氏物語絵巻にも登場する。石清水祭、春日祭とならび、天皇が勅使を送る三大勅祭の一つでもあり、皇室にとっても特別な神事だ。  葵祭の中心となる「社頭の儀」では、天皇の勅使が天皇の祭文(さいもん)という神を祭る文を読み上げ、御幣物(ごへいもつ)を祭神に捧げて、国家の繁栄や国民の安寧を祈願する。 「葵祭は、単なる祭りではありません。装束の着方や牛車の化粧、斎王代の神輿の担ぎ方などすべてに意味と作法がある。そうした古くからの儀式を次世代に受け継ぐ役目もあります」(猪熊さん)   猪熊家は、皇室と縁が深い。  猪熊さんの父、兼繁さんは歴史学者で、京都大学名誉教授だった。葵祭の「斎王代行列」を復活させた人物で、1965年の葵祭では昭和天皇と香淳皇后の案内役を務めた。曽祖父は、明治天皇に日本書紀などの御進講を務めたという。  猪熊さんは葵祭の当日、上皇ご夫妻に「路頭の儀」の案内をすべく準備をしていた。ところが、行列がおふたりの前に差し掛かったときにハプニングが起きた。  本来はあらかじめ決められた4、5人だけが礼をすることになっていたのだが、行列に参加した人びとの多くが次々と礼をし、上皇さまと美智子さまもたびたび席を立ち、手をあげてあいさつに応えたのだ。 「上皇ご夫妻がずっと立っていらっしゃるので、準備したご説明はほとんどできませんでした」と猪熊さんは苦笑する。おふたりはもっとご覧になりたかったのか、行列が終わってもすぐに席を立たなかったという。 近鉄奈良駅を出発する上皇ご夫妻=5月16日、奈良市  それでも上皇さまは猪熊さんに、「お父さまと2代にわたり案内をしてくれて、ありがとう」と言葉をかけられたという。そして、学習院高等科時代に馬術部主将を務め、定期戦に出場したこともある上皇さまは、当時をなつかしく思い出されたのか、「馬が大変よく訓練されていますね」と口にしたという。 都内では車はゆっくり  おふたりは15日、皇室ゆかりの寺である尼門跡寺院、京都市の大聖寺を訪れた。ここには、明治天皇の妃であった昭憲皇太后の「大礼服」が保管されている。そして17日には、奈良県の尼門跡寺院である「中宮寺」を訪問。一昨年に修繕を終えた本堂で拝礼をした。  おふたりは、大礼服の修復や中宮寺の保存や修復を支援してきた。修復された文化財などを実際に目にして、「大変なお仕事をなさいました」と関係者をねぎらったという。  美智子さまはかつて、上皇さまの同級生である明石元紹さんに、「皇室の古式馬術打毬といった伝統ある文化を伝えてゆきたい」と話していた。 「おふたりは伝統と文化を後世につなぐ、つなぎ手としてできることをなさってきた。今回の私的旅行の足跡ひとつ見ても、おふたりの見識と教養の深さをうかがい知ることができましょう」(前出の関係者)  京都と奈良の各地を、5日間かけて回られた上皇ご夫妻。前出の阿部さんは、都内でおふたりが外出する光景を何度も見ている。カメラのシャッターを切ることも多いため、車の速度の変化にはすぐに気づく。今回の旅行では、ご夫妻を乗せた車のスピードがいつもより速い印象を受けたと話す。 「都内ではゆっくり走って、奉迎の人びとに会釈をしたり、笑顔でお応えになったりしています。しかし今回は、長距離の移動を伴う旅行。お体の負担を考慮してのことかもしれません」と想像する。  上皇さまは年末には90歳の、美智子さまは秋に89歳の誕生日を迎える。  新型コロナへの制限が緩和され、おふたりもマスクをせずに外出ができるようになった今、思い出の地を訪ねるなど、穏やかな時間を過ごしてほしい。 (AERA dot.編集部・永井貴子)
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」 撮影/写真映像部・高野楓菜  芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 *  *  *  岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」  1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。  生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」  謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」  公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。  賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。  質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。  だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」  明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」 岸部(右)と岸部の父(右から2番目)写真提供=(株)アン・ヌフ  骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」  3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。  71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。  2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」  四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」  20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい  岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 ザ・タイガース。沢田研二(右)、岸部(左)写真提供=(株)アン・ヌフ 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」  音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」  それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。  俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。  動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく  岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。  政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。 タイガース解散間近の岸部、自宅付近にて 写真提供=(株)アン・ヌフ  芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。  この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」  岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」  18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」  それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」  岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」  最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。  京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」  俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。  岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。  ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「死の棘」がカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、記者会見する小栗康平監督(右から2人目)と主演の岸部(左)=1990年5月 写真提供=(株)アン・ヌフ 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」  同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。  6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」  考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」  岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月9日号
キュートで楽しい美智子さまを書いた週刊朝日の64年間
キュートで楽しい美智子さまを書いた週刊朝日の64年間 1959年4月12日増大号  週刊朝日は美智子さまを幾度となく報じてきた。記事から浮かび上がるのは上皇さまと美智子さまがともに抱く平和への強い願いと、お二人を取り巻く人々の温かい視点だ。美智子さまが表紙になった号とともにその歩みを、コラムニスト・矢部万紀子さんが振り返る。 *  *  *  美智子さまが表紙になっている「週刊朝日」を全部読もう。そう思い立ったのは、もちろん「週刊朝日」が休刊になるからだ。編集部がすぐに、全部で7号と教えてくれた。案外少なく感じたが、それはさておき。  最初は1959(昭和34)年4月12日号。皇太子さま(当時、現在の上皇さま、以下略)との「結婚の儀」(4月10日)を直前に控えた正田美智子さんの絵で、小磯良平画伯による横顔だった。  トップは「ヒツギノミコの御結婚」という記事。こう始まる。「『ヒツギノミコハアレマシヌ』そのころ小学生だった人々は、こんな文句がくり返し出てくる唱歌を歌ったはずである。多分なんのことか意味は、はっきりしないままに……」  書いた記者がその世代で、主たる読者はそれ以上の世代なのだろう。唱歌についてこれ以上の説明がなく、現在の天皇陛下世代の私にはわからない。調べたところ、「皇太子殿下御誕生奉祝歌」だった。サビ(?)が「日嗣ノ皇子ハ生レマシヌ」。  そこから、皇太子さまの25年とその時代を振り返る。生まれたのは日本が国際連盟を脱退した33(昭和8)年、戦前の宮廷記事に必ずついた「もれ承るところによれば」という表現、皇太子さまも美智子さんもした疎開、バイニング夫人から学んだ英語などが書かれる。大学生になった皇太子さまの“孤独”を経て、最後にやっと「テニスコートの恋」。読者のほうが詳しいだろうと断り、17行だけの記述だった。  この記事の意図は、リードが端的に表している。祝福の言葉から入り、こう続く。「私たち国民の感慨は深いものがあります。なぜなら、ヒツギノミコが一人の平民の娘と結婚されるのですから……。敗戦は悲しい現実でしたが、いろいろのものを生み出しました」 1966年4月22日号  敗戦がもたらした民主化。それゆえ成立した結婚。その認識のもと、日本の敗戦に至る道や国民と皇室の関係を追うのが眼目の記事だ。  ところで、私は週刊朝日編集部員だった。皇室記事にも関わってきたので、そのころの記憶もある。すると、この表紙第1号は「週刊朝日と美智子さま」の原点だとわかった。トップ記事にあった「戦争」という視点、そしてもう一つは「親しい人の温かな視点」。そう思った。  入江相政さんの随筆「美智子さんとの九時間──『宮中慣習』の先生にされて…──」が掲載されていた。59年1月から始まった美智子さんへのお妃教育で、「宮中慣習」を担当したのが侍従の入江さん。面倒な慣習など宮中にはない、いちばん多く話したのは(昭和)天皇のことで素材のまま持ち出した。どう加工するか、役立てるかは美智子さんの自由──そんな明るい文章だ。  私がいちばん好きだったのは、授業の描写。 「お母さまは、いつも一緒だったし、おわりごろの二、三回は、東宮女官長の牧野さんや女官さんたちも加わった。美智子さんは、『段々学校らしくなってまいりました』と笑っていらっしゃった」  キュート。そんな言葉が浮かぶ。入江さんは美智子さんを「いつも真剣勝負のようなお顔」で学んでいたとし、「そのくせ毎回必ずといっていいほど、なにか、おかしな話が出て来たのも不思議である」と書いていた。そう、美智子さまは楽しい方なのだ。だが「楽しい」と書いたり語ったりするのは、「素晴らしい」と書いたり語ったりするより少し難しい。週刊朝日は「素晴らしい」だけでない美智子さま像を、温かく描いてきたと思う。 ■プライベートは「美智子」と…  ご結婚後に初めて表紙になったのは66(昭和41)年4月22日号。4月8日、現在の陛下が学習院初等科に入学、9日の「授業はじめの日」の写真が表紙になった。メインは美智子さまより陛下。昭和の美智子さまはあくまでも「天皇になる人の妻」であり「母」だった。 1989年1月27日号  89年1月8日に平成が始まった。天皇になったばかりの上皇さまと美智子さまの写真が表紙になったのは、1月27日号。32ページにわたる特集の中に、「新天皇の秘話」という記事があった。「戦時下の少年時代」に注目し、疎開時代の話が書かれていた。ご結婚前、ご結婚後、平成になっても、「週刊朝日」は上皇さまと美智子さまの疎開体験を繰り返し伝えた。それは、お二人の平和を願う気持ちの出発点だから。そう理解している。  この号で一つ“発見”をした。学習院大の1年先輩がお二人について、「お揃いの席では、必ず話の合間合間に、『美智子、そうだったよね』『はい、殿下』と互いに顔を向き合われて相槌を打ち合う」と証言していた。  現在の陛下は皇太子さまの時代も今も、会見などで雅子さまに言及するとき、「雅子は」と言う。上皇さまは美智子さまに言及するとき、「皇后は」と言っていた。上皇さま、プライベートの場では「美智子」と呼ぶのか。しみじみした次第だ。 1999年3月5日増大号  次の表紙は99(平成11)年、ご成婚40年記念号なのだが、その話の前に「93(平成5)年の美智子さま」の話をする。この年、美智子さまはメディアから大変なバッシングに遭った。宮内庁職員を名乗る人物が月刊誌「宝島30」8月号で告発したのをはじめ、「サンデー毎日」「週刊文春」なども加わり、美智子皇后「女帝説」が吹き荒れた。  週刊朝日は10月1日号で「美智子皇后バッシングの内幕」という記事を掲載した。バッシングは「現在の天皇の路線への批判」だとし、その背景には「天皇に『私』はあるか、という天皇制の根源的な問題をめぐって、大きく二つの対立がある」と指摘した。 「週刊ポスト」「女性自身」などもバッシングの列に加わっていく中、「週刊朝日」は「皇室報道がヘンだ!」という記事を第3弾まで続け、それからも毎週、関連報道を続けていた。少数派の「週刊朝日」は目立ったし、他誌の記事を具体的にあげて批判的に検証した。すると「週刊文春」が10月21日号で、「貧すりゃ鈍する 『週刊朝日』は宮内庁のPR誌か」と題した記事を掲載した。 週刊朝日 2023年6月9日号より  自分が週刊朝日編集部員であることは先述した。少し詳しく書くなら、93年4月に配属された。「皇后叩き」をめぐる記事には直接関わらなかったが、「貧すりゃ鈍する」と書かれた時の編集部の空気は覚えている。高揚感、だったと思う。「週刊朝日」が正面からニュースに向き合った時代だった──と書いたのは、休刊を前にした感傷だ。 ■「美智子さまは皇室を救った」  それからほどなく事態が動いた。10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子さまが赤坂御所内で倒れ、言葉を失った。その日に公表された誕生日にあたっての文書には、バッシングについての質問にこう答えていた。 「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません」  これを報じた「週刊朝日」11月5日号は、日本テレビで長く皇室報道を担当してきた渡邉みどり文化女子大教授の「まさに身を挺した『反論』だったと思う」というコメントを掲載した。「週刊文春」は11月11日号で一連の記事についてのおわびを掲載した。  渡邉さんのことを、私は何度も取材した。強く印象に残っているのが、配属間もない93年6月18日号だ。陛下と雅子さまの結婚を祝う企画として、渡邉さんと脚本家の橋田壽賀子さんに対談していただいた。  そこで渡邉さんがこう言った。「私は、美智子さまは日本の皇室を救った人と固く信じています。天皇の名のもとに、たくさんの方が戦争で死んでいるのですから」  担当の副編集長が、「昭和天皇の責任をはっきり口にした渡邉さんはすごいジャーナリスト」だと語っていたことをよく覚えている。新聞で宮内庁担当をした人だった。  さて、美智子さまが表紙になった話に戻る。4度目は99年3月5日号、ご成婚40周年記念だった。中振り袖姿の結婚前の美智子さまで、お一人の写真が表紙になったのはこれだけだ。「ほのぼの秘話でつづる美智子皇后物語」と表紙に印刷されている。画家の安野光雅さんによる随筆のことだ。 2009年4月17日号  当時、美智子さまの国際児童図書評議会(IBBY)での講演録『橋をかける──子供時代の読書の思い出』(すえもりブックス)がベストセラーになっていた。その装丁を担当したのが安野さん。司馬遼太郎さんの「街道をゆく」の挿絵を手掛けていた安野さんと美智子さまの縁の始まりは、92(平成4)年。すえもりブックスから出版された『どうぶつたち』だった。  まど・みちおさんの詩を美智子さまが英訳、安野さんが絵を描いた。出版後、関係者を集めた茶話会が御所で開かれたのが初対面。その日、安野さんは「恋の歌」の話をしたそうだ。すると美智子さまは、「読みます……恋の歌はいいですね」。美智子さまのIBBYでの英語の講演のことは、「わたしにはよくわからなかったが、口の悪いデーブ・スペクターがその英語を絶賛していたところから考えても、すばらしい講演だったことが知られた」と書いていた。  私の一番好きな話は、「携帯電話と美智子さま」だ。安野さんは、美智子さまが携帯電話を持ったらいいのにと思う。実家や友人と直接つながれば、真情を吐露できるから、と。だが、美智子さまが買いにいくわけにもいかないだろうと思う。そこで安野さん、さしあたって「私の携帯を差し上げてもいい」と美智子さまに申し上げた。料金は自分に回ってくるが問題ない、とも言ってから少し考え、海外にかけると「高く請求されますけど」と付け足した。すると美智子さま、「海外にもかけますわよ」。  キュートな美智子さま。入江さんに感じた「親しい人の温かな視点」が重なった。楽しい美智子さまを、安野さんはたくさん紹介してくれた。 ■試行錯誤して「心を寄せる」  2009(平成21)年4月17日号は、ご成婚50年記念号。「結婚の儀」のあとの上皇さまと美智子さまが表紙となった。  巻頭グラビアは新婚時代の美智子さまのファッション特集で、そこに渡邉さんの文章が載っていた。おしまいあたりにこうあった。「『世紀のご結婚』から50年、おふたりの生涯のテーマは、昭和天皇の負の遺産である先の大戦で亡くなった方の慰霊と鎮魂です」 2011年4月22日号  お二人は94(平成6)年に硫黄島を訪問した。戦後50年にあたる95(平成7)年の前年で、それが「慰霊の旅」の始まり。05(平成17)年にはサイパンに行き、バンザイクリフで海に向かって黙礼した。そのことに触れ、「昭和天皇の負の遺産」と表現した渡邉さんは美智子さまと同い年。平和への強い思いがあった。  11(平成23)年4月22日号の表紙は、3月30日のお二人の写真だった。東日本大震災発生から19日、福島県などから避難してきた人々を東京都立東京武道館に見舞ったのだ。写真の横に大きく、「復興への祈り」の文字。  お見舞いの記事はなく、編集長記で触れていた。天皇の級友である橋本明さんの著書から、「(お二人が)試行錯誤を繰り返しながら到達したところは、『心を寄せる』あり方だった」という文章を引き、最後にこう書いていた。「この『心を寄せる』あり方が被災された方々を強く励ましていることを思い、表紙に両陛下の避難所訪問の写真を掲載しました」 2019年5月3-10日合併号  美智子さまが表紙を飾った最後は、19(令和元)年5月3−10日合併号だ。御代替わりは5月1日だが、発売日はまだ平成。手を振ってにこやかに挨拶する上皇さまと、上皇さまに右手を添える美智子さまの写真だった。  特集「31人が語る天皇、皇后両陛下」の中から曽野綾子さんの話を紹介する。曽野さんは聖心女子大学で美智子さまの3年先輩にあたる。お忍びで渋谷のジュンク堂書店に行ったときのエピソードを語っていた。開店と同時に入店すると、一般のお客さんもいたという。「学生さんと、お子さんを連れたお母さんが、皇后さまに気づいたようでしたが、そっと見ぬふりをしてくださいました」とあった。  近しい人も国民も、美智子さまを温かい目で見つめている。最後にとても幸せな気持ちになった。※週刊朝日  2023年6月9日号
箭内道彦×河尻亨一 ふくしまから発信する地域ブランディングの未来
箭内道彦×河尻亨一 ふくしまから発信する地域ブランディングの未来 箭内道彦さん(撮影・倉田貴志) 河尻亨一さん(撮影・倉田貴志)  誰もが思い出すCMを生み出してきた箭内道彦さん(59)は、一方で故郷・福島の復興につながるイメージを発信してきた。「誤解を理解に変える」。このほど、活動を『ふるさとに風が吹く』(朝日新聞出版)にまとめた。共著者の河尻亨一さんと綴るちょっと不思議な構成の本と箭内さんのこれまでを紐解くと、福島に留まらない地域作りのヒントが見えてきた。  上からだんだんと薄くなる淡い空色のグラデーションを背景に、手紙が綴られている。「あなたの思う福島はどんな福島ですか?」 最上段の大きな文字が目を引く。その下は小さな文字で、「ふらっと、福島に。」「あなたと話したい。五年と、一日目の今日の朝。」「福島の未来は、日本の未来。」「ほんとにありがどない。」……。右下から赤べこが見上げている。  2016年3月12日に全国紙各紙に掲載された福島県の全面広告である。メディアの報道がトーンダウンする3・11の翌日、というところにもメッセージが込められているだろう。「僕が思う福島は、桃や梨、お米やお酒がおいしくて、風がまぶしくて、山がきれい。何よりも、人があったかいのです。福島は人が名産、というふうにしていければ、と思っています」  この広告を“監修”した箭内道彦さんはそう話す。福島県郡山市出身のクリエイティブディレクター。タワーレコードの「NO MUSIC,NO LIFE.」、内田裕也さん・樹木希林さん夫妻が初めて共演したリクルートの結婚情報誌「ゼクシィ」など記憶に残る広告を生み出してきた。 髪はずっと金髪。広告以外でも、NHKの「トップランナー」のMCになったり、無料の雑誌「月刊 風とロック」を自費で編集・発行し続けたり、ロックバンド「猪苗代湖ズ」のギタリストとして、2011年に紅白歌合戦に出場したりするなど、活動は多彩だ。  そんな箭内さんが力を注ぐのが故郷・福島県のブランディングである。2015年には、福島県のクリエイティブディレクターにも就任し、「官」としても「民」としても、発信し続けている。 テーマは、クリエイティブ(広告)で福島の課題を解決できるか。風評被害などの「誤解」を福島への「理解」に変えることを目指す。全国紙に載せた「あなたの思う福島は……」もその一つであった。  ほかにも、福島への訪問を誘うポスター「来て。」シリーズ、農林水産物を生産者の思いも含めて丸ごとアピールするCM「ふくしまプライド。」、新型コロナウイルスで2度中止した以外は毎年開催している「風とロック芋煮会」、県内59市町村を順番に巡るラジオ福島の公開生番組……。放送が100回を超えたNHKの「福島をずっと見ているTV」のMCも務めた。  こうした発信の軌跡をまとめたのが、『ふるさとに風が吹く 福島からの発信と地域ブランディングの明日』(朝日新聞出版)である。  同書は、不思議な構成になっている。個々の発信ごとに一章を割き、箭内さんがその発信についての思いやエピソードなどを綴り、雑誌「広告批評」を経た編集者で大阪出身の河尻亨一さん(48)が取材を元に周囲の人たちの記録や客観的な解説を書く。二人の文章を縄をなうようにより合わせて一冊にした。  このスタイルを提案したのは河尻さんだ。箭内さんから単行本の企画を相談されて、当事者が語る物語でも取材者が距離を置いて描く物語でもないものにしたいと考えた。 「震災後の福島の発信というテーマに肉薄するには複眼の視点が必要だと感じました。主観と客観を織りまぜることで、まるで対話が聞こえてくるような共著にしたいと考えたんです。  言ってみれば文章のラリーですよね。著者二人のやりとりが噛み合ったり、逆に微妙にすれ違ったりするところに、地域とブランディングのリアルな可能性を読み取っていただければと」  箭内さんも、世界の広告を熟知している河尻さんの視点を知ると、今後の活動に向かう気づきが与えられる気がした。  背景には、こんな体験もあった。2011年の紅白。箭内さんたち猪苗代湖ズが歌ったのは「I love you & I need you ふくしま」という曲だった。「元気が出た」「ありがとう」などの感想が多い中で、「福島にとどまりなさい、と言われているようで苦しい」という声も届いた。想定外の反応。箭内さんは翌年、「君と僕の 違うところを 尊敬し合いたい」で始まる曲「Two Shot」を作った。 「福島を伝えること、届けることが商品の広告よりはるかに難易度が高いと痛感させられました。復興には、同じフレームに考えの違う人たちが収まって前に進んでいくことが必要です。この本もツーショットなのです」 本作りでは、お互いの原稿を往復させながら、それを元に直し、修正を見てまた直す。童謡「やぎさんゆうびん」のようなやりとりが続いたという。 『ふるさとに風が吹く』では、およそ10の発信の誕生秘話や成果が描かれる。  たとえば、「ふくしままっぷ」。新聞の見開きより一回り大きいサイズを八つ折りにしてある。ざらざらと質感のある紙を開くと、すべて手書きのイラストと文字で、県の基本情報から県民が思う「これから」、名所やグルメなどを描き入れた地図などが現れる。赤色が目につく。  県の総合情報誌のリニューアルを依頼された箭内さんが「体温があり、ずっと手元に残して幾度も読み返したくなるようなものを届けたい」とひらめき、アートディレクターの寄藤文平さんが仕上げた。 ふくしままっぷ  まっぷは、セレクトショップ「BEAMS」と福島県が共同で福島の魅力を届ける「ふくしまものまっぷ」などの派生効果も生んだ。寄藤さんが考案したキャラクターの「ベコ太郎」はその後、グッズが作られるほどの人気となり、県の6秒動画シリーズ「もっと 知って ふくしま」にも登場する。  県の発信では、職員たちの力も大きい。箭内さんはクリエイティブディレクターに就任してすぐに、彼らを前に、「県庁熱血物語みたいな映画を作りたい。それぞれにみなさんは素晴らしい仕事をしている」とエールを送った。  それも刺激になったのか、箭内さんがいわば触媒となって、県庁の部局を越えて職員たちが自由に動き出した。「ふくしままっぷ」のような型破りの企画も通した。箭内さんも思わず「一般の企業にもここまでできる人は多くはいません」と感嘆したという。「県庁のみなさんは、結果を体験することで、ますます輝いてきました」  箭内さんもまた、「お堅い行政の広告」という枠を外し、「オーバークオリティー」を心がけてきた。派手、という意味ではない。「一回見たら覚えてしまう強烈なインパクトをもつ広告ではなく、これまでの広告の物差しにあてはまらないものが必要だと考えました」  その象徴の一つが、8分弱のショート・ミュージカル・ムービー「MIRAI 2061」だろう。西田敏行さん、清野菜名さん、林遣都さんらが出演しているが、2061年に孫娘を連れたおばあさんが3世代の50年を振り返るストーリーは、ありふれた家族史だ。しかしそれゆえ、見る側に「じわん」と染み入ってきて長く残る。 撮影・倉田貴志 「廃炉作業に50年かかるなら、2061年の福島はどうなっているのだろう、とイメージしました。また、震災直後、福島の女性は子どもを産めないのではという悩みも耳にしました。『孫まで生まれてますよ』という映像を作りたかった。僕は、届ける相手が目の前にいると、アイデアが浮かぶのです」 と箭内さんは語る。そのためにも、なるべく自分を「空洞」にしておくという。  箭内さんを一つの芯として、多くの人たちの力が星雲状に重なることで、長期にわたり継続してきた福島の発信は、福島だけに留まらない。『ふるさとに風が吹く』は福島の事例を描いているが、「福島だけで終わらせない。全国のヒントになるふるさとブランディングがもう一つのテーマ」だという。箭内さんは言う。 「反面教師でもいいから、ほかの地域の方たちに何か参考になったらいいな、という気持ちが強くあります。こちらが答えを用意するのではなく、読んでくれた人が何かをピックアップしてくれたらうれしいです」  ブランディングに正解はない。河尻さんは、箭内さんのやり方を整理して伝えるのではなく、活動をそのまま見せる形を選択した。「現在進行形の揺らぎ」も隠さなかった。 「箭内さんがまえがきに記しているように、福島は、全国の自治体が直面する課題を先取りしている面があります。クリエイティブは解決に向けてのひとつの鍵です。福島県の発信をつぶさに見ていくと、その根底には場づくり(プラットフォーム)や拡散(インフルエンス)の発想があることに気づかされます。  本書では『点のブランディング』というワードで言い表しましたが、これは現代的なブランディングの文脈に合致する考え方で、多様性と包摂の時代へのヒントが含まれていると思います。  昨今、欧米では、公共の課題解決に貢献することが、企業に持続可能な成長ももたらすという考え方がブランディングの主流ですが、こうした視点で見ていくと、福島の発信は、実は世界につながっている。その”接点”まで示唆することで、『ふくしま』の発信に息づくマインドを、様々な地域、組織にオープンかつシェアできるものにしたかったのです」  原発事故を、箭内さんは必ず「東京電力福島第一原子力発電所の事故」と呼ぶ。首都圏で使う電気を発電していた東電の原発事故であることを曖昧にしないためだ。こうも話す。 「ほかの原発は、中部電力浜岡原発、関西電力高浜原発など、地元の市町村名が名前になっています。福島だけは県名。もし大熊原発とか双葉原発とかだったら、全国で3番目に広い福島県全体への影響は違ったかもしれない。一方で、地元だけでは立ち上がれなかったでしょう。だからこそ、県全体で乗り越えていこうとしてきたのです」  もっとも、箭内さんはずっと、故郷が嫌いと公言し、逃げてもいた。  生家は郡山市中心部にあった、小さな菓子店兼牛乳屋。二人兄弟の長男で、小学生のころから牛乳配達など店の手伝いをしていた。褒められるし、友だちと遊ぶよりも気楽だったという。 一方で、濃すぎる人間関係が苦手だった。近所の人たちのマイナスの噂話でコミュニケーションが成立している。その輪の中の一人に自分がいることも耐えがたい。  大学受験は東京藝術大学一本に絞るが、三浪した。最初の2年間は東京で予備校に通い、講師が「明日試験でも受かる」と太鼓判を押すほどデッサンが得意だったのに、結果が出ない。義務で描いているからではと思い、3年目は描きたくなるまで待った。その日は、入試の当日まで来なかった。そして、数十倍の倍率を突破し、美術学部デザイン科に合格した。   この間、周囲は「才能がないんだから、もうやめなさい」と助言してくる。それでいて合格すると、「絵を一枚描いて」「俺は受かると思っていたよ」と急に優しくなった。  箭内さんはあるときから、故郷には元日しか帰らなくなった。それも、金髪を黒いニット帽で隠し、誰もいない時間帯に駅からタクシーで実家へ向かった。「人の心の中に土足で上がってくるようにも感じました。それが深いあたたかさだとわかるまでは時間がかかりました」  2007年に地元紙「福島民報」から創刊115周年の別刷り11ページのディレクションを依頼されたときも、最初は断った。結果的に引き受けたことをきっかけに故郷に携わりはじめ、それを決定的にしたのが東日本大震災であった。  人口減、お祭りなど地域の文化をいかに継承するか……。福島の課題は次から次へと現れる。箭内さんは昨年、県とともに、地元のクリエイターたちを育てる道場「誇心館」を立ち上げた(主催は県)。福島に暮らす人だからこそできる発信もある、という。  震災から12年。復興も、ブランディングもまだ道半ばである。しかし箭内さんは、「風化」を肌で感じている。『ふるさとに風が吹く』のゲラをチェックする最後の段階で、まえがきに書き加えた。 「『もういいんじゃないか』『もう大丈夫でしょ』という声が/聞こえ始めていることも事実です。/……新しい苦難が、世界の各地で、今日も生まれているなかで/立ち止まり、/ふるさとの発信の今日と明日を/考えています」 いまは「もう大丈夫」ではない。いつの日か、誤解が理解に変わり、「あなたの思う福島は……」といった広告が必要なくなる。そのときが来ることを、箭内さんは一つのゴールに定めている。 やない・みちひこ1964年生まれ。クリエイティブディレクター。博報堂を経て2003年「風とロック」を設立。数々の話題の広告キャンペーンを手がけ、フリーペーパー「月刊 風とロック」も発行。東京藝大美術学部教授。2015年から福島県クリエイティブディレクター かわじり・こういち1974年生まれ。編集者・作家。早稲田大政治経済学部卒。雑誌「広告批評」を経て、現在はクリエイティブとジャーナリズムをつなぐ様々な活動を展開。評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)で第75回毎日出版文化賞受賞 ※週刊朝日 2023年5月26日号に加筆
主婦が主婦を食い物に…旧統一教会の献金被害 「子育ての後に何かしたかった」悲しき入信の動機
主婦が主婦を食い物に…旧統一教会の献金被害 「子育ての後に何かしたかった」悲しき入信の動機 旧統一教会が2000年ごろ、3千万円で売っていた「聖本」(撮影・米倉昭仁)  まもなく安倍晋三元首相銃撃事件から1年になる。消費者庁によると、事件のあった昨年7月以降、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に関する被害相談が急増したが、被害者の多くが高齢の女性という。そして人々の不安をあおり、「献金」を集める役目を担ったのが主婦信者。つまり、被害者も加害者も主婦、という構図が見えてくる。全国霊感商法対策弁護士連絡会の代表世話人である山口広弁護士が監修した著書もあるジャーナリストのいのうえせつこさんは、1980年代からさまざまな新宗教を取材してきた。『女性の自立をはばむもの――「主婦」という生き方と新宗教の家族観』(花伝社)を出版したばかりのいのうえさんに、主婦が旧統一教会の担い手になってきた実態を聞いた。 *   *   *  2020年10月、いのうえさんは東京地裁で行われた裁判を取材した。甲信越地方に暮らす高齢の女性の長女が、営んでいた果樹園や預貯金など総額1億円以上を献金名目で旧統一教会に取り上げられたと母親に代わって訴えたものだ。裁判を担当した山口弁護士によると、「旧統一教会による典型的な献金被害」だという。  裁判では被害女性から多額の金を教団に献金させた「壮婦(そうふ)」と呼ばれる主婦信者4人が証言台に立った。  そこで明らかになった献金の手口は、次のようなものだ。  壮婦たちは言葉巧みに被害女性に近づいて、教団が懇意にしている不動産屋を紹介。果樹園を売却させた金を教団に「預けさせた」。その後、「本人が神様に差し上げたいと言ったから」、「献金」になったという。  教団の手口もさることながら、いのうえさんの目に焼きついたのは主婦信者の姿だった。 「壮婦たちは疲れ果てているように見えました。化粧っ気のない顔は年齢よりも老けているし、身につけている洋服も貧しいんですよ。山口弁護士の質問でわかったのですけれど、消費者金融を利用しながら活動していた。彼女たちは加害者ですけれど、教団の被害者のようにも映りました」 旧統一教会が2004年ごろ、430万円で売っていた「天聖経」(撮影・米倉昭仁) ■子連れの主婦信者も  裁判の過程で、彼女たちは歌手の桜田淳子さんが参加して話題となった1992年の合同結婚式の参加者だということも明らかになった。  いのうえさんは94年、「天地正教」の道場に潜入取材したときに目にした主婦信者と、裁判所での壮婦たちの姿が重なった。  旧統一教会は霊石愛好会、アジア平和女性連合など、いくつものダミー組織を使って活動してきた。天地正教もその一つで、99年に事実上、旧統一教会に吸収された。  西関東の都市にあった天地正教の道場に集まったのは50人ほど。約7割が女性で、子連れの姿もあった。  祭壇には弥勒(みろく)菩薩像や多宝塔、壺(つぼ)が置かれ、赤や青の光が当てられていた。やがて、道場に信者の歌声が響き渡った。 「安倍元首相銃撃事件で起訴された山上徹也被告のお母さんと同じ世代の女性たちでした。主婦が圧倒的に多い。教団は彼女たちから子育てや夫にまつわる悩みを引き出して、『霊感商法』でいろいろな物品を買わせたわけです」  主婦は夫の「財布」を握っていることが多く、「教団はそこをねらってきた」という。後になって多額の献金を悔やみ、消費者センターなどに相談しても、それを公表することを拒む主婦が多い。なので、明らかになる献金被害は氷山の一角だという。 ■「駆け込み寺」だった教団  霊感商法は「因縁トーク」から始まる。 「先祖のたたりをうまく使いますね。戦死したあなたの先祖は海の底で今も苦しんでいる、とか。それが原因で、子どもが病気がちだ、夫が浮気している、姑と不仲だとか言うわけです。そして、先祖に成仏してもらうために必要だとして多宝塔や壺、玉などを高額で購入させる」  なぜ多くの主婦が旧統一教会に引きつけられて、騙され、金を出してしまったのか?  いのうえさんは、背景にあったのは都市化や核家族化だと指摘する。高度経済成長期、地方から都市部に移り住んだ若者たちは結婚して家庭を築いた。まだ共働き世帯は少数派で、「夫は仕事、妻は家事と子育て」の時代である。 旧統一教会が売りつけた品々や、布教のためのパンフレット(撮影・米倉昭仁) 「夫は家になかなか帰ってこない。たまに子どもの悩みを相談しても、『家庭のことはお前に任せてきたのに、何だ』という反応をされる。相談にのってくれる友だちもいない。主婦たちにとって、教団はまさに『駆け込み寺』だったわけです」  悩みを抱えた彼女たちをあたたかく迎え入れてくれたのが、同じ主婦の信者「壮婦」である。  山口弁護士によると、80年代、旧統一教会は霊感商法を盛んに行ってきた。しかし、メディアから批判され、警察も乗り出すようになると、不特定多数を対象とした霊感商法からは手を引き、新たな金の収奪方法を編み出した。  まず、選挙活動やボランティア活動に若い信者を送り込んで地域や関係機関からの信頼を醸成し、浸透する。 「そこで得た情報を教団に『ほうれんそう』(報告・連絡・相談)させて吸い上げる。それを受けて、今度は壮婦が目星をつけた家に入り込み、財産をすべて奪い取る。そういうシステムができ上がっているんです」と、いのうえさんは説明する。  この動きが顕著になったのは2000年以降だが、先祖の霊の存在を信じ込ませて不安をあおり、大切な家族を守るためといって、財産を献金させる手口は霊感商法と変わらない。 「霊感商法で壺を売ったとしても、100万円単位の金にしかならない。それよりも資産家から一挙に1億円とか10億円をむしり取ったほうが効率がいいわけです」 ■今も続く「因縁トーク」  4年前、いのうえさんは久しぶりに旧統一教会のセミナーに潜り込んだ。1994年の際は道場にあふれんばかりの信者がいたが、今回、会場にいたのは60代と思われる地味な服装の主婦4人と、主催者側と思われる女性が4、5人だけだった。  講師の話が始まった。「漁師だった父親は酒飲みで、海で溺れて死んでしまいました。こんな家庭で育ったのは、ひとえに先祖を大切にしなかったからです」。  いのうえさんは「始まった! 因縁トークだ」と心の中で叫んだ。  講演会は1時間ほどで終わった。帰ろうとすると、壮婦たちは口々にいのうえさんを引き留めた。「これから座談会をするのに」「まあ、すてきなお召し物ですね」。取り囲むように、会場の外までついてくる。  そこで偶然、知人に出会った。「あら、どうしたの」。話を始めると、いつの間にか壮婦たちは姿を消していた。  かつて30~40代が中心だった主婦信者たちの高齢化を感じたが、勧誘の手口は驚くほど変わっていなかった。 「昔は夫が一流企業に勤めているような主婦をターゲットにしてきたわけですが、最近は金持ちの専業主婦が少ない。なので、今は富裕層のおばあさんにねらいをつけている」 ■「子育ての後に何かしたかった」  さらに、いのうえさんは主婦と教団、政治家とのつながりを指摘する。  いのうえさんの夫の母親は地元の自民党県連で長年要職を務めていたこともあり、自身も選挙の裏側を間近で見てきた。 「かつて議員に立候補する人は、その地域の名士が多かった。『いつもお世話になっているから』と、地域のみんながその人を応援する。当時は金をばらまかなくても票が集まりました」  ところが高度経済成長期になると、地方から都市部へ若者たちが流出し、結びつきの強い人間関係に根ざして票を集めてきた政治家たちの基盤が崩れていった。若者を引きつけた都市部も、会社に通う夫と家庭を守る妻が住む新興住宅地は、政治家にとってしっかりした集票基盤になりにくい。「そこに旧統一教会は実にうまく入り込んだ」と、いのうえさんは言う。 「マインドコントロールされた素直な若い信者が、一生懸命に選挙のビラ配りとかをしてくれるわけですよ。しかもタダで。それは候補者側にとってはとてもありがたいことです」  そのような選挙活動で得た情報を基に主婦信者が同じ主婦を食いものにしてきた構図は、先に書いたとおりである。  何人もの主婦がいのうえさんに「子育ての後に何かしたかった」と、入信の動機を語った。それが数多くの献金被害に結びついてきた現実は悲しい。 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
【下山進=2050年のメディア第43回】週刊朝日の「夢十夜」。紙の雑誌の時代とともに生きた。
【下山進=2050年のメディア第43回】週刊朝日の「夢十夜」。紙の雑誌の時代とともに生きた。 1922年3月15日号の「旬刊朝日」。創刊して3号目。このあと、第5号から「週刊朝日」となる。同日に「サンデー毎日」も創刊。  こんな夢を見た。  戦争の気運が遠のき、何やら世の中がかまびすしい。海軍は軍縮をせまられた。新聞が初めて100万部を突破した。そんな時代に、日刊ではなく、月に一度、あるいは10日に一度、様々な言論をのせる「雑誌」というメディアが誕生していた。  百年前の大阪にいる。  まだ大阪に社の中心があった朝日新聞社で、10日に一回発行される「旬刊朝日」の準備に自分はあたふたしている。たいへんな数の注文が、刊行前から舞い込み、35万部を刷ることになった。三百余人の男女の工員をやとって、三昼夜ぶっとおしで印刷した紙面を裁断し折った。  へとへとになって創刊号を送り出すと、女の声がどこかから聞こえてきたような気がした。  百年見ていてください。  これから百年の間こうして見ているんだなと、腕組みをしながらその題字を眺めていた。  そのうちに女の声のとおりに、あたふたと記者と編集者が記事をつくってゲラ刷りを点検し、「よし」の編集長の一言で校了し、雑誌がまた出た。  二つと自分は勘定した。  三つと勘定したときに京大の法学部の教授の書いた「貞操に関する婦人問題の法的考察」という記事が出た。裸婦の絵を中央に配したその記事では、「姦通罪が適用されるのはなぜ女性だけなのか」という問題を論じていた。  当時の刑法では、結婚している夫婦で不倫をした時、罰せられるのは妻だけだった。夫が他の女と通じても罰せられず、妻を寝取った男も罰せられない。これは不公平ではないのか、という議論について、教授の見解を、古今東西の姦通罪の歴史をひもときながら論ずるのである。 <古代メキシコに於ては、姦通せる妻の耳及び鼻を切り、ペルーに於ては妻及び相姦者を共に死刑に処し>たが、グアテマラにおいては、妻に対しては夫は何ら制裁を加えない権利があり、その権利を行使すると<非常に尊敬せられた>。  その教授は、男性に姦通罪をかすのではなく、そもそもこの姦通罪自体をなくして、不貞行為では、民法で、損害賠償を得られるようにすればよい、という結論をだしていたが、この2回の連載は、新聞では絶対にとりあげることのできない、「不倫」の是非について具体例をあげながら論じて、これがまた読者を増やすことになった。 2023年5月13日午後6時の週刊朝日編集部。校了日。この時間に出社していたのは、私の担当小泉耕平さんとあと一人の部員だけだった。天井から下がる中吊りは、2010年代前半でとまっている。 「旬刊朝日」は五つと数えた時に、「サンデー毎日」が創刊されるのにあわせて「週刊朝日」となった。  それからいくつ、自分は「校了」作業をみたかわからない。勘定しても勘定しつくせない「校了」があり、雑誌があり、人々の喜怒哀楽があった。  刊行日には、列車に中吊り広告がでるようになり、人々はそれで世の中の動きを知るようになる。  100万部をうかがう時代には「原爆が若し東京に投下されたならば」(1951年8月19日号)という、自分が前号でやるべしと書いた「大胆な予測報道」に取り組んだ号もあった。超能力ブームにわいた1974年には、写真部員が少年のスプーン曲げを連写し、そのトリックを明らかにしたりもした。  2023年5月13日の土曜日、その日も「校了」の声を聞きに、編集部にいった。  夕方6時なのに、編集部はがらんとしていた。多くの編集者はリモートで仕事をしているのだという。編集長も出社していない。  ふとみあげると、天井からは、いくつもの中吊り広告が下げられていた。が、その中吊り広告は色あせ、民主党政権時代のものを最後にとまっていた。 「百年はもう来ていたんだな」とこの時初めて気がついた。 ※  週刊朝日は紙の雑誌の草分けだった。その紙の雑誌の時代が終わりつつある。では雑誌というメディアの可能性がないかというとそうではない。このコラムでもとりあげた英『エコノミスト』誌(1843年創刊)、や米『ザ・ニューヨーカー』誌(1925年創刊)は、現在も部数を伸ばし続けている。『週刊朝日』との大きな違いは、電子有料版に成功したことだ。週刊朝日もウェブには対応したが、アエラドットという無料で記事が読めるサイトだけだったことに大きな違いがある。  部数という言い方はもうそぐわないかもしれない。月極めあるいは年間購読の契約者数で数える。英『エコノミスト』誌でいえば、1996年に50万部だった部数は、最新の数字で118万5000契約者数ということになる。  サンデー毎日で2020年3月に始まったこの連載は、週刊朝日休刊のあと、6月12日発売号からAERAに移る。ただし、当面の間は隔週での連載。回数はみたび「第一回」からということになる。  そこでしか読めないものを、今後も書き続ける。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※週刊朝日  2023年6月9日号
AVアンプに機械式腕時計、ジーンズ…「修活」の沼にハマった人たち
AVアンプに機械式腕時計、ジーンズ…「修活」の沼にハマった人たち テープデッキの修理が最も楽しいと言う 「修理を仕事にしている人」「修理してでも使い続けたい大切なもの」。週刊朝日で過去2回にわたり“修活特集”で紹介してきた。締めくくりの今回は「修理を趣味にしている人」を紹介しよう。対象や理由はさまざまだが、修理して使う楽しさを知り、その”沼“にハマってしまった方々だ。  現在、音が出なくなった30年ほど前の山水電気のAVアンプの修理に取り組んでいるのは神奈川県在住の河原聡さん(50代)。 故障箇所を入念にチェックする河原さん 「修理し始めると夢中になって、つい徹夜してしまうことがあるんです。徹夜はまずいと思って布団に入っても、直したい気持ちが収まらずに眠れなくなったりしてしまう。だから作業はいつも休みの前日にやってます」  部屋には自分で修理した古今東西のテープデッキ類が並ぶ。ほとんどがフリーマーケットやリサイクルショップに行って発見した元「壊れもの」だ。 「最近はネットオークションも利用します。ただ、そんな壊れ物でも今は値段が上がっててね。昔は100円、200円で買えたものが、今では数万円することもあるんですよ」  家族の目も当初は冷たかった。愛妻からは「また粗大ゴミを買ってきて……」「直していくらで売れるの?」などと言われたこともあったが、家の洗濯機や電子レンジが壊れた際に、河原さんが直してしまったところ妻は感動。今では妻公認の趣味となっている。先日は、変わった修理の依頼を受けたという。 「カミさんがボロボロに錆びた南部鉄瓶を拾ってきて、直してほしいって言う。直した経験はありませんでしたが、“わかった。やってやろうじゃないか!”って(笑)。けっこう楽しめました」  修理の技は独学で身に付けた。始まりは、高校に進学した時に手に入れたバイクだった。 作業机には修理の道具がズラリ 「もともと機械いじりは好きだったんです。プラモデルが好きで、お小遣いでニッパーとかヤスリとか少しずつ買いそろえてね。家のものを分解するのも好きで、分解して壊してしまって、よく怒られていました。そんな少年だったので、バイクのメカが面白くて。ただ、バイクをいじっているうちに限界を感じてしまったんです」  河原さんがぶち当たった限界は電気系統だった。普通科の高校だったので自力で学ぶしかなく、図書館などで本を読みあさり、電気系統の勉強をしまくったという。勉強したら、今度は学んだことを実践したくなる。 「壊れたバイクを見つけて、持ち主に泣きついて譲ってもらい、重いバイクを引きずって帰ったこともありました」  どんどん電気系統に詳しくなった河原さんの興味は、オーディオ系に移っていく。まずは秋葉原で本棚型スピーカーの組み立てキットを買いスピーカーづくりをしたのが始まり。興味は次第にスピーカーからテープデッキに変わっていく。 「オープンリールデッキもカセットデッキも。マイクロカセットデッキにも挑戦しました。試行錯誤の連続なので、修理している最中に煙が出てきて壊してしまったこともたびたびあります。これまで5台くらい潰してしまってます。でも、大変で難しいものほど修理しがいがあり楽しい。どうやっても届かないような故障箇所に手が届いて、部品がハマった瞬間なんて最高にうれしい」  修理好きが高じて、現在は都内のおもちゃ病院のドクターをボランティアでしている。 「子供のおもちゃの修理はテープデッキ以上に難しい場合がある。半導体が使われていたり、ふたを開けた瞬間に中の部品が吹っ飛んでしまう構造のものがあったり。これも楽しみながら直しています」  河原さんの元にはご近所さんから「エアコンが壊れてしまったんだけど、直るかしら?」といった依頼もあるという。 時計修理の繊細な技術を独学で見につけた白賀さん      精密機械の王様ともいえる機械式腕時計の修理を趣味にしているのは、都内在住の白賀太一さん(40代)。十数年前に職場で昇進した自分向けのお祝いに買ったロレックスがきっかけで機械式腕時計のメカに興味を持ち始め、腕時計のカスタム(改造)や修理にのめり込んでいく。 「もともとプラモデルやミニカーが好きだったので、腕時計も抵抗なくチャレンジできた」と白賀さんは言う。  初めはオークションサイトで安価で出品されていた古い国産腕時計を購入し、修理にチャレンジ。未経験だったが、ネット上で見つけた腕時計修理を趣味にしているサイトの書き込みを読み込み、学びながら挑戦した。 これまでに修理した時計は40本ほど 「初めのうちは部品ひとついじるのも怖かったのですが、ネットで勉強しながら少しずつできるようになっていきました。うまく動き始めた時にはうれしくて、さっそく次にチャレンジしたくなる」  オークションサイトでは3千円と破格に安い出物もあれば、ジャンク品なのに1万円を超えるものもあるが、初めは安く買えるオートマチックの腕時計で腕を磨いていった。作業は平日の夜、家族が寝静まってからと決めている。 「休日は子供のために使いたいので、自由に使える平日の夜だけです。だから家族にも認めてもらっています」  作業デスクの周りには工具がずらりと並ぶ。目にレンズをはめて時計の内部をのぞく白賀さんの手には、使い捨てのビニール手袋。手の脂が精密機械の時計には大敵なのだという。これまで40本以上の壊れた機械式腕時計をピカピカで新品同様に修理した。  この日、白賀さんの腕にあったのは機械式ではなく、クオーツ式の腕時計だった。 「クオーツの腕時計にも挑戦したくなって(笑)。今のお気に入りです。最近は忙しくてなかなか時計をいじる時間が取れないのですが、それでも出物がないかネットを探しています。最近は、これまでネットで見るだけだった時計修理が好きな同志と交流したいなとも思っています」 〝磨き〟は単調な作業だが喜びも大きい 修理に修理を重ね、杉田さんが30年履き続けているジーンズ     今年2月、週刊朝日の「修活」特集第2弾で、大切な器を金継ぎしてもらったエピソードを話してくれた神奈川県在住の杉田昌隆さん(50代)は、自身でも修活を実践している。たとえば愛用のジーンズ。穴が開くたびにダーニング(イギリス発祥の衣類補修法)をし、30年近く履き続けているという。ほかにも、手ぬぐいの端切れでTシャツをデコレーションしたり、虫食いで穴が開いてしまった風呂敷とシャツの袖を組み合わせて肩掛けバッグを作ったりする、リメイクの達人なのだ。 英国の修理技法「ダーニング」で補修する 「もともと物を捨てられない性分というのもありますし、母が洋服店を営んでいたので家で洋服のお直しをしている姿は子供のころから見ていました。10年ぐらい前に、セーターにひじ当てをつけたのが始まりでした。それが面白くて、次はジーンズでやってみよう!という感じで、今は楽しみながらやっています」  家にミシンはなく、すべて手縫いだ。しかも、誰にも補修方法を習ったことはなく、すべて見よう見まねの我流だという。 「リメイクが趣味になるとは思ってもいませんでした。私は運動が好きで、休日は自転車などほとんど屋外で過ごすタイプだったんです。ただ、アウトドア派には弱点があって、雨が降ると家で本を読むくらいしかない。でもリメイクの繕い物を始めてから、晴れたら屋外、雨なら繕い物と充実した。今では店に売っているものより、自分で自分のためにリメイクしたもののほうが好き。買いに行くのは端切れなどを売っているリユース店ばかりです(笑)」  杉田さんはほかにも、包装紙や紙バックのデザインを活かしたブックカバーも制作している。その本の内容からイメージしたデザインを選んで、その本だけのためのブックカバーを作る。この春には個展を開き、これまでつくったオリジナルのブックカバーを公開した。たとえば、遠藤周作の『深い河』には長崎銘菓の「クルス」の修道女の絵を使ったカバーを、多和田葉子の『雪の練習生』には2頭の白クマが後ろ向きに肩を組んでいるコカ・コーラのイラストのカバーをあしらった。 包装紙などで作ったオリジナルブックカバーで個展を開いた 「リメイクにもブックカバーづくりにも正解はないけど、間違いもない。楽しいからやっているだけです」  登場いただいた3人に共通するのは、不要になったものに手を加え、再び命を吹き込む楽しさを満喫していることだろう。修活とは、実はクリエイティブなことだったんだと実感させられた。 ※週刊朝日オンライン限定記事
平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度
平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度 ※写真はイメージです(Getty images)  両親を介護することになると、頭を悩まさせるのが介護費用。費用はだれがどれだけ負担するのか、両親の財産からはいくら出すのか、足りなくなったらその負担は誰がするのか。悩みは尽きない。ファイナンシャルプランナーで社会保険労務士の井戸美枝氏が介護にかかわる費用や負担の軽減策など解説した。(朝日新書『親の終活 夫婦の老活 インフレに負けない「安心家計術」』から一部を抜粋、再編集) *  *  * 【関連の記事を読む】 #1 「督促状」で発覚も…老いた親の金銭事情を知るべき理由と方法 #2 平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度 #3 企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い?  介護にはさまざまなお金がかかります。  生命保険文化センターが行った調査で、過去3年間に介護経験がある人に、どのくらい介護費用がかかったのかを聞いたところ、介護に要した費用(公的介護保険サービスの自己負担費用を含む)は、住宅改造や介護用ベッドの購入費など一時的な費用の合計が平均74万円、月々の費用が平均8.3万円となっています。  なお、介護を行った場所別に介護費用(月額)をみると、在宅では平均4.8万円、施設では平均12.2万円となっています。介護を行った期間(現在介護を行っている人は、介護を始めてからの経過期間)は平均61.1カ月(5年1カ月)です。4年を超えて介護した人も約5割となっています。  総費用は一般的な費用と期間から算出すると約580万円です。平均額なのでこれよりももっとかかる人もいれば、少なく収まる人もいます。 ■母(妻)一人になれば年金額は激減する  要介護1~2ぐらいまでは在宅で介護をするほうが費用は抑えやすいものの、要介護3~5は介護施設に入居したほうが、安心した生活を送れることが考えられます。  親を介護する場合、介護費用は親のお金で支払うのが基本です。子どもにはそれぞれの生活があり、教育費や住宅ローンがやっと終わったばかり、という人もいるでしょう。これから準備しなければならないのは、自分たちの「老後資金」なので、親の介護費用を代わりに払ってしまうと、自分たちの退職後の生活が大変なことになってしまいます。  親の年金収入を聞いておき、介護費用は収入の範囲内に収まるのか、確認しておくことが大事です。  問題なのは父が他界した後、母がおひとりさまになって介護状態になったとき。  両親が健在のときは二人合わせて年金収入は月30万円程度あったとしても、母ひとりになったら10万円ぐらいになってしまったということもありえます。  母親世代は厚生年金の加入歴がない人が多いので、年金収入は「老齢基礎年金」と「遺族厚生年金」しかない、というケースがほとんどです。お母さんは「お父さんの年金をそっくり受け取れるから大丈夫」と思い込んでいませんか?   両親が健在なときから、父が亡くなった後、母が受け取る年金額はどのくらいなのか、確認しておきましょう。 ■知っておきたい、お金の負担が軽減される3つの制度  介護にあたって知っておきたい制度は3つあります。 「高額療養費」「高額介護サービス費」「高額医療・高額介護合算療養費制度」です。「高額療養費」とは、医療費がたくさんかかった場合、一定額を超えた分が健康保険から還付される制度です。例えば、70歳以上・年収370万円未満の人は外来では1万8000円(年間上限14.4万円)、入院では5万7600円が1カ月の負担の上限で、医療機関の窓口でそれを超える額を支払った場合、超えた分が還付されます。食事代や差額ベッド代などは自己負担になります。  例えば、入院をして手術を受けたとします。医療費が100万円かかっても、高齢者医療の場合は保険者が計算して還付してくれます。医療費は1カ月の上限額5万7600円(一般の場合)の範囲内で済むのです。  1カ月は各月の1日から末日までを指します。8月21日に入院して9月20日に退院するなど、月をまたぐ場合は、8月、9月、それぞれ上限額を負担することになりますが、それでも医療費をかなり抑えることができます。 「高額療養費」は高齢者だけでなく、健康保険に加入している人なら誰でも利用できます。65歳未満の人は高齢者とは自己負担額の上限が異なります。  還付を受けるためには、健康保険の窓口(国民健康保険では市区町村の窓口)で手続きをする必要がありますが、入院の場合や同一医療機関での外来の場合は、医療機関に「限度額適用認定証」を提出しておけば、請求されるのは上限額までで済みます。いったん立て替える必要がないといったメリットがありますので、事前に健康保険の窓口で発行してもらいましょう。また、マイナンバーカードが利用できる医療機関であれば、「限度額適用認定証」がなくても限度額を超える支払いはありません。 「高額介護サービス費」は、介護保険のサービス利用料について1カ月あたりの上限額が設定されていて、上限を超えた分が払い戻されるという制度です。上限額は同じ世帯の人の収入によって異なります。例えば夫婦2人暮らしで2人とも住民税が非課税なら1カ月の上限は2万4600円。サービスを受けているのが夫だけでも、2人ともサービスを受けていても、2人(世帯)で2万4600円が上限です。夫が2万円、妻が1万円のサービスを受けていたら、5400円が払い戻されます。  1カ月の上限を超えているかどうかは市区町村で計算して、確認をしているので、払い戻しを受けられる人にはお知らせが届きます。  高齢になれば、夫は病気で医療費がかかり、妻は介護費がかかるということもあります。世帯単位で見ると負担が大きくなりますが、同一世帯(ひとつの世帯)に介護保険を利用している人と、医療保険を利用している人がいる場合、1年間に自己負担した合計額が一定額を超えると、超えた分が戻ってきます。これが「高額医療・高額介護合算療養費制度」で、毎年8月1日~翌年7月31日の1年間で計算されます。  同一世帯とは、医療保険の加入制度が同じ世帯のことを言います。夫が「後期高齢者医療制度」、妻が「国民健康保険制度」に加入している場合は、別々の医療保険なので、合算はできません。  還付を受けるためには市区町村の介護保険窓口に申請する必要があります。一般的には、市区町村の介護保険課から通知が来て、それに必要事項を記入して返信する方法が取られています。  1年間(1月1日から12月31日)にかかった医療費が10万円(総所得金額等が200万円未満の人は総所得金額等の5%)を超えた場合、所得税が軽減される「医療費控除」が受けられます。控除を受けるためには確定申告をする必要があります。 【関連の記事を読む】 #1 「督促状」で発覚も…老いた親の金銭事情を知るべき理由と方法 #2 平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度 #3 企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い? ●井戸美枝(いど・みえ) CFP®認定者、社会保険労務士、国民年金基金連合会理事。生活に身近な経済問題、年金・社会保障問題が専門。「難しいことでもわかりやすく」をモットーに雑誌や新聞に連載を持つ。著書に『一般論はもういいので、私の老後のお金「答え」をください!増補改訂版』(日経BP社)、『お金がなくてもFIREできる』(日経プレミアシリーズ)など。
定年「55歳」が当たり前だった時代も 「週刊朝日」が報じた騒乱と高度経済成長期
定年「55歳」が当たり前だった時代も 「週刊朝日」が報じた騒乱と高度経済成長期 1960年6月、岸信介首相(当時)の退陣を求めて国会議事堂を囲んだデモ 「戦後」から脱却し、著しい経済成長を成し遂げた1960~70年代の日本。華やかなイメージの裏で、社会の抱える様々な矛盾も噴出した。「週刊朝日」の記事をひもとくと、激動の時代を熱く泥臭く生き抜いた人々の息遣いが聞こえてくる。 *  *  *  時代は闘いの季節を迎えていた。1960年1月に締結された日米新安保条約を巡って、反対闘争の火の手は全国に燃え広がった。  岸信介内閣は5月20日未明、本会議で採決を強行した。自民党は右翼から屈強な青年たちを秘書団として動員し、座り込みを続ける社会党議員と乱闘状態に。ついには警官隊まで投入された。以来、「安保反対」「岸退陣」を叫ぶ国民の声が、連日、国会を包囲した。抗議運動は全学連や労働組合、文化人らに限らず、一般市民にも拡大していった。 1960年7月3日号の本誌誌面  アトリエで子どもに絵を教えていた小林とみらは、無党派の反戦市民運動「声なき声の会」の活動を始める。「だれデモはいれる声なき声の会。皆さんおはいりください」という横断幕を掲げ、日比谷公園から国会へと歩きだした。参加者は最終的に300人ほどまでふくれ上がった。7月3日号には、「声なき声の会」の列に一般市民が次々と参加していく様子が描写されている。  25歳の女性は抗議デモを伝えるテレビのニュースを見て、東京都日野町(現・日野市)から1時間半かけて国会前へ駆けつけた。 <もともと、デモの経験もなく、家は本屋さんで、組織にもはいってなかったが、政府のやり方をみていて、いても立ってもおられずひとりででかけたのが十一日だった。そのとき集まっているたくさんの人の姿をみて、これは大変、毎日でもこなくちゃと、定期券を買った。ひとりで出かけて、じっとみていると、一般市民のデモがきた。「声なき声の会」という。彼女はその最後尾にくっついてあるいた>  抗議運動が最高潮に達した6月15日、右翼グループがデモ隊に乱入する。全学連の学生たちは国会構内に入り機動隊と激しく衝突。多くの血が流れる中、一人の女子学生が死亡した。東京大学文学部の樺美智子である。 樺美智子  母・光子は娘の死を悼み、同号に「遠く離れてしまった星」と題する手記を寄せている。 <私がこの世を去るまでは、お互いに母娘として結びあう、そのしあわせが続くことと信じ切っていたのです。それだのに、わずか二十二年間で、断ち切れようとは……>  哀しみと無念を滲ませながら、気丈にこう綴る。 <美智子さん。あなた方は、国会構内で抗議集会をもとうとして、中にはいりました。私は、このことを認めます。五月十九日以後の国会議事堂には、もはや今までの権威は認められません。それは「むくろ」と化しているのです。その構内にはいって、抗議集会をもつことは、決して悪いことではないはずです。だれもがしたいのだけれど、ただあの警察の暴力が恐ろしいので、できないだけだと思います> 55歳定年の延長について報じた1963年11月8日号の本誌誌面  戦後的な体制が終わりを告げ、日本は高度経済成長をひた走る。右肩上がりの時世にあって、年功序列や終身雇用は企業の業績拡大に寄与したことだろう。63年11月8日号の「55歳は働きざかり?」と題する記事は、70歳までの雇用機会の確保が企業の努力義務とされている現在から見ると、隔世の感を禁じ得ない。  記事中の日経連(現在は経団連に統合)が実施した調査によれば、傘下の400社中387社が「定年制あり」と答え、そのうち303社が男性の定年を55歳としている(61年3月末時点)。当時、多くの企業が定年を55歳と決めていたが、日本人の平均寿命が大幅に延びたこと(当時は男性66歳、女性71歳)、晩婚化や大学進学率が高くなり子どもの養育年齢が延びたことなどを理由に、定年延長を求める機運が高まったという。 ■立て籠もり犯が記者たちと談笑  当時の全繊同盟(現・UAゼンセン)幹部がこうコメントしている。 <「こんどのように定年延長一本で真正面から闘争した例は、ないんじゃないですか。しかも千三百社四十五万人の組合員が、いっせいに定年延長をかちとったのは、“画期的”といっていい」>  ただ、延長期間は1年が多かったようだ。55歳以後の給料も基準内賃金の7~8割ほど。それでも、定年延長を好機とする企業もあった。記事では日本初の総合石油化学メーカーとして設立された三井石油化学(現・三井化学)を例に挙げる。 <同社の創業は昭和三十年だが、本格的に操業開始したのは三十三年四月のこと。従業員は三井化学、三井鉱山、三池合成、東洋高圧など三井系企業からの出向社員だけで始った。しかも、五十五歳定年後、嘱託ではいった人が六十人近くいた。一ばん若い産業が一ばん年とった人びとの手で始められたわけだ。  石油化学で必要なのは筋肉労働ではない。ふくざつな計器を監視する高度の管理労働である> “人生100年時代”といわれる現在、推進されるシニア人材の活用を先取りした発想だったといえるのかもしれない。  68年に起きた金嬉老事件は、立て籠もった温泉旅館に報道陣を招き入れ、テレビで国民に民族差別を訴え、「劇場型犯罪」と呼ばれた。金嬉老は当時39歳の在日コリアン2世。金銭トラブルから静岡県清水市(現・静岡市清水区)で暴力団員2人をライフル銃で射殺後、静岡県・寸又峡温泉の旅館に入る。ダイナマイトを持ち込み、旅館主の家族と宿泊客の13人を人質に取り5日間にわたって籠城した。  だが、人質を銃で脅したり、傷つけたりするようなことはしなかった。駆けつけた報道陣ともコタツで和やかに“記者会見”を行い、テレビを通じて在日に対する差別を糾弾した。別の事件で清水署で取り調べを受けた際、朝鮮人差別発言をした警察官に謝罪させるよう要求する一方、責任を取って自殺するとも語った。3月8日号は事件の詳報を伝えている。 <最初は、オッカナビックリだった報道陣も、平気でダイナマイトの積んである部屋にはいるようになり、あるいは金と親しげに話をするようにもなった>  報道陣を前に冗談を飛ばすこともあった。 <「けさ新聞を見たんだが、オレと“会見”した記者の中に、飛びかかりたい衝動にかられた人がいたそうだな。これからは油断できんよ、アッハッハ……」  報道陣もつられて笑った。変な風景であった。しかし、こうしたつき合いが金にスキを与え、逮捕のきっかけを作ったとしたら、これも奇妙な“記者会見”の、ひとつの“功績”といってよかろう>  5日目の午後、報道陣に紛れ込んでいた9人の刑事に取り押さえられ、金は逮捕された。金は75年に無期懲役判決が確定する。99年に仮釈放され、両親の故郷である韓国・釜山で暮らした。2010年、81歳で死去。 ■紙を求めて殺到、お婆さんが骨折  73年には好景気を一変させる出来事が起きた。第1次オイルショックだ。この年10月、エジプトとシリアがイスラエルに攻撃を開始し、第4次中東戦争が勃発。それに伴いOAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国などが石油価格の大幅引き上げと、イスラエルを支持する西側諸国への禁輸・供給削減を宣言した。  エネルギーの8割近くを輸入原油に頼っていた日本も例外ではなかった。11月、政府は石油緊急対策要綱を閣議決定、総需要抑制政策が採られ、石油や電力の節約が進められた。これが物不足への不安につながった。オイルショックを象徴するトイレットペーパーの買いだめ騒ぎは、関西が発火点となり、全国に飛び火した。トイレットペーパーやちり紙、合成洗剤、砂糖などがスーパーの棚から消えていった。  11月23日号は、その狂奔ぶりを報じた。 <「トイレットペーパーは在庫が全然ない」「午前と午後では値段が違う」と、うわさがうわさを呼び、紙を求めて“仁義なき戦い”が始まった。 “戦い”となれば、負傷者も出る。尼崎市の灘神戸生協園田店のスーパーマーケットに、トイレットペーパーを買うため朝早くから主婦たちがつめかけた。午前十時開店というのに、九時半には、約二百人の人垣。主婦たちは、われさきに店内に突撃した。八十三歳のおばあさんが、押し倒され、左足を折って二カ月の大けが。こうなると紙を買うのも命がけだ>  首都圏のスーパーでは4万円分の洗剤を買いだめ、自家用車に積んでいくツワモノも現れた。12月7日号のルポでは、人々が買いだめに知恵を絞るさまが描かれる。 <まだ品物があった同(西友)ストアー東久留米駅前店では、「一人ひとつ」という数量制限があるので、四人家族総出で洗剤、石けん、ちり紙を買うファミリー買いだめ客をみた。贈答品売り場では、妻が夫に、夫が息子に「砂糖つめ合わせ」を贈る伝票を書く、珍妙な光景を目撃した> 1975年7月、皇太子ご夫妻(当時)はひめゆりの塔に花を捧げた際、過激派の男に火炎瓶を投げつけられた(沖縄タイムス提供)  片や、すぐさま便乗値上げをした企業、小売店が続出したことに対し、消費者が怒りを募らせたのは言うまでもない。  戦後、沖縄の人々は27年間の米軍統治下に置かれ、米軍人・軍属による事件・事故の頻発に悩まされ続けた。戦争末期、沖縄は「国体護持」「本土防衛」のための捨て石とされ、県民の4人に1人が犠牲となる悲惨な地上戦が展開された。戦後30年、戦禍の記憶は生々しく、皇室や本土に対する県民感情は複雑だ。  75年7月、「復帰記念事業」として沖縄国際海洋博覧会が開かれ、名誉総裁という形で皇太子夫妻(当時)は初めて沖縄の地を踏んだ。だが、沖縄来訪は時期尚早との声もあり、是非論が盛んにかわされた。 ■火炎びん事件の“意図せぬ効果”  皇太子夫妻は初日に南部戦跡に向かい、糸満市のひめゆりの塔に供花する際、火炎瓶を投げつけられる事件に遭ったが、8月1日号は沖縄県民の歓迎ぶりを伝えている。 <お車は徐行しながらも、遠慮会釈なく通りすぎていく。車の中で、皇太子さまが例によって笑いながら手を振っておられる。美智子さまのツバ広帽子が、チラリと見える。その間、一秒あったかどうか。車が見えなくなって、振り向いた人たちの顔を見て驚いた。みんな笑っていた。目が酔っていた。まるで祭りのウズの中にいる人のようだった>  一方で、県民のこんな声も拾っている。 <「天皇陛下なら別ですよ」でも、皇太子に責任はない。戦争の時は子どもだったのだから……>  火炎瓶投擲事件の夜、皇太子は異例の談話を発表している。 「私たちは、沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み……」 <やさしい沖縄の人たちは、ホロリとした。火炎びん事件と談話、この初日の出来事が、その後の二日間に多分“意図せぬ効果”をあげたのだ。早い話、地元の新聞の論調。革新性で鳴るある有力紙のコラムでさえ、 「この談話で、皇太子のファンがさらにふえた」  と書き、 「三木総理以下は、皇太子の心をわが心とせよ」  とやった>  昨年、沖縄は復帰50年を迎えたが、県民が願う基地負担の軽減は進まない。当時の皇太子夫妻は上皇、上皇后となった。これまで11回に及んだ沖縄訪問で胸に去来したものは何か。60~70年代は目覚ましい経済成長を遂げながら、様々な社会や政治の矛盾が露わになった時代といえるだろう。(次回へつづく)(本誌・亀井洋志)※週刊朝日  2023年6月2日号
彼が私の夢をサポートし続けてくれたように、私も彼の挑戦を応援したい 4世代7人で過ごすにぎやかな毎日
彼が私の夢をサポートし続けてくれたように、私も彼の挑戦を応援したい 4世代7人で過ごすにぎやかな毎日 竹内権進さんと竹内寿美恵さん(撮影/小黒冴夏)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年5月29日号では、1級建築士として日鉄環境に務める竹内権進さん、フリーランス管理栄養士の竹内寿美恵さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫28歳、妻29歳で結婚。長男(4)、長女(0)、妻の祖母(90)、母(63)、父(67)の7人暮らし。 【出会いは?】妻が開催する料理教室に通っていた夫が粘り強く食事に誘い続け、妻が押し切られる形で交際がスタート。 【結婚までの道のりは?】夫からプロポーズ。常に自分の仕事を応援してくれる夫となら支え合えると思った妻は、その場でOKした。 【家事や家計の分担は?】料理と洗濯は妻、掃除や片づけは夫で、ときには同居の両親や祖母にも頼る。家計は実家に入れるお金と保育料は妻、そのほかの出費は夫が担う。 夫 竹内権進[36]日鉄環境 1級建築士 たけうち・けんしん◆1986年、長崎県生まれ。2009年に木更津工業高等専門学校専攻科を卒業し現職。製鉄所のインフラ設備の設計、設備基礎や建物の設計を手がけながら、新しい資格取得にも挑戦中  彼女と結婚して家庭を持ってからは、家族と過ごす時間が生きがいになりました。  家族との時間はもちろんですが、自分の時間や妻の時間、そして夫婦の時間を確保することも、同じぐらい大切にしています。休日は6時に起きて、趣味のバイクのメンテナンスや動画撮影などをする自分の時間です。9時ごろ子どもが起きてきたら、仕事をする妻が集中できるよう、世話をしたり遊んだりしています。午後からは、家族みんなの時間です。  そして子どもが寝たら、ふたりでドラマを見たり、話をしたりして過ごすと、また翌日からのエネルギーをチャージできる気がします。  核家族で育った僕にとって、妻の実家で義理の祖母と両親の4世代7人で過ごすにぎやかな毎日が新鮮です。これだけいると全員の誕生日や父の日、母の日、敬老の日とイベント続きで、いつもプレゼントを選んでいる状態。家族みんなでたくさんの記念日を祝える日々が、ありがたいなと思えます。 竹内権進さんと竹内寿美恵さん(撮影/小黒冴夏) 妻 竹内寿美恵[37]フリーランス 管理栄養士 たけうち・すみえ◆1986年、千葉県生まれ。聖徳栄養短期大学食物栄養学科を卒業後、保育園やスポーツチーム、病院での栄養士業務を担当。2021年に独立し、健康経営・管理栄養士育成業務・健康ライターなどの栄養士業務を請け負う  私は昔から自己評価が低くて、自分には無理、自分にはできないと考えてしまう癖がありました。私ができること、がんばれていること、優れていることを彼が一つひとつ見つけて励ましてくれたことで、前向きになれて、あきらめかけていたことにも挑戦できるようになりました。  管理栄養士の資格を取って夢だった独立を果たせたのも、週末に東京の学校に通う私を夫が2年にわたって木更津から車で送迎し、学費もサポートしてくれたおかげです。  付き合い始めてからの16年を振り返ると、けんかをしたことがほとんどないことに気が付きました。彼がコミュニケーションの時間をたくさん取ろうとしてくれること、そして私の寛容さが功を奏しているのでしょう(笑)。  彼が私の夢をずっとサポートし続けてくれたように、私も彼の挑戦を応援したい。お互いにやりたいことを尊重し合い、時には興味を持って関わり、楽しみながら、一緒に成長し続けていきたいと思っています。 (構成・森田悦子) ※AERA 2023年5月29日号

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