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「飽き性は、好奇心旺盛と近似値 弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることもある」ジェーン・スー
ジェーン・スー ジェーン・スー
「飽き性は、好奇心旺盛と近似値 弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることもある」ジェーン・スー
「飽き性」も愛おしく思えるお年ごろ(イラスト:サヲリブラウン)    作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  *  ここ2年ほど、髪にはパーマをあてています。最初はセミロングにゆるく。そのまま伸ばして風に美髪をなびかせるつもりが、長さに耐えきれず結んでばかり。徐々にパーマも強くなり、イラストレーターのサヲリブラウンさんに描いていただいているとおり「ウェーブヘアをポニーテール」が定番になっておりました。  その前はボブヘアにカチューシャが定番でした。ラジオのレギュラー番組や連載の仕事をしていたら、ずっと同じ髪形でいたほうがよいという考え方もあります。その通りです。宣材写真は頻繁には撮影しないものですし、私が私のマネージャーだったら、髪形をコロコロ変えるのは賢明ではないと言うでしょう。ちなみに、ポッドキャスト番組「OVER THE SUN」のアイコン写真の私はおかっぱにカチューシャ。お相手の堀井美香さんは、ずっと髪形を変えていません。  しかし、私は飽き性です。またしても髪形を変えてしまいました。今度はミュージカル「アニー」の主人公のような髪形。クルクルカーリーヘアです。我ながら、よく似あっていると思います。  学生時代、「飽き性」は明らかに弱点と見做されていました。まさに、習い事や勉強など、飽きずに続けていたら、違う人生が待っていたかもしれません。  人生とは面白いもので、若い頃には尊ばれた「飽きない性格」は40歳を過ぎると、固定観念に囚われ変化を恐れる傾向と見做されるようになります。堀井さんのように、まるで同じに見えて時代に合わせて都度微調整を行える人は稀で、たいていは不変が思考停止と同義になってくる。  飽き性は、好奇心旺盛と近似値です。しかし大人になると、好奇心は否が応でも目減りしてくる。やらなければならないことばかりですし、新しい情報に興味を持つ気力体力も薄れてきます。 イラスト:サヲリブラウン    ここで、飽き性が本領を発揮します。純粋な好奇心とは異なれど、新しいことにトライする動機にはなるのです。50歳を過ぎ、私は自分の「飽き性」を愛おしく思えるようになりました。  飽き性だけでなく、若い頃は弱点だと思っていたことが、大人になったら強みに変わることがあります。「落ち着きがない」が「アクティブ」と解釈されたり、「引っ込み思案」が「慎重な人」と見做されるように。これだから加齢はやめられませんね! ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中。 ※AERA 2024年5月20日号
ジェーン・スー
AERA 2024/05/16 19:00
<ライブレポート>ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、毎年恒例の【ヨーロッパ・コンサート】をジョージアで開催
<ライブレポート>ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、毎年恒例の【ヨーロッパ・コンサート】をジョージアで開催
<ライブレポート>ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、毎年恒例の【ヨーロッパ・コンサート】をジョージアで開催  演奏とは、誰がどのように演奏するかだけでなく、いつ、どこで演奏されるかによっても力を得ることがある。現地時間2024年5月1日にジョージアの歴史的なツィナンダリ・エステートで開催されたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の【2024 ヨーロッパ・コンサート】もそうだった。 ジョージアの人々が首都トビリシの街頭で、ロシアを利する、あるいは少なくともその非自由主義的な道をたどることになると多くの人が信じている方法でNGOや外国のメディア企業を規制する法律に反対する抗議デモを行う中、欧州で最も熟達したオーケストラの一つが、欧州の中心にこの国を文化的に固定するかのように、シューベルト、ブラームス、そしてベートーヴェンの曲を堂々と演奏した。 ツィナンダリ・エステートでのコンサートは、晴れた日の昼下がり、鳥のさえずりをバックに屋外で行われた極めて美しい公演だった。指揮者のダニエル・ハーディングがダニエル・バレンボイムの代役を務めた。ジョージア出身で、現在はベルリン・フィルのアーティスト・イン・レジデンスである著名なヴァイオリニスト、リサ・バティアシュヴィリは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調のソロを力強く、絶妙な繊細さで演奏した。 翌日の夜にオーケストラが、抗議デモが行われた場所からもそう遠くないTbilisi Opera and Ballet State Theater(トビリシ国立オペラ・バレエ劇場)で同じ公演を行った際には大きな拍手が起こり、欧州連合(EU)の旗が何枚か広げられた。それが象徴するもの、ナショナリズムではなくもっと寛大な何かをという意味を見逃すことはできなかった。政治が音楽に影を落とすことはなく、それ自体がパワフルだったが、ジョージアの聴衆にとってこの音楽が、そして欧州的理念がどれほど重要なものであるかは明らかだった。コンサートとは時に、別の手段による政策の継続だ。 ジョージアは、常に地理的に、そして現在は政治的にも欧州とアジアの交差点に位置している。東方正教会が主流で、独立前はソビエト連邦の一部だったこの国は、文化的には常に西側を向いてきた。ジョージアは12月、現政権のもとで正式にEU加盟候補国の地位を獲得した。これは国民の大多数が賛成しているとみられ、この国を西側諸国にしっかりと位置づけることになる。そして、【ヨーロッパ・コンサート】とこの法律案に関する議論が重なったのは単なる偶然だが、この国にとっては国際的な楽観主義か、より狭いナショナリズムかという二つの可能性があることを示唆しているようだった。 政府から貸出され、ジョージアの企業であるシルクロード・グループによって改修されたツィナンダリ・エステートには、特に欧州文化の歴史がある。ソ連時代に荒廃したこの地所は、ジョージア貴族だったアレクサンドル・チャヴチャヴァゼ王子が、1800年代にジョージアに欧州スタイルのワイン、幾何学的配置庭園、そしてクラシック音楽をもたらすために利用したことで知られている。シルクロード社は、歴史的保存を視野に入れながらこの地所のかつての輝きを取り戻し、現在ではそこで二つのホテルを運営しているほか、近隣のブドウ園の経営や、コーカサス地方の若手演奏家を集めた秋のクラシック音楽祭も開催している。これもまた、非常に楽観的な話だ。 シルクロード・グループの創設者であり会長であるジョージ・ラミシュヴィリは、「私たちは、“どうしたらこの地所に命を吹き込むことができるだろう”と考えました。そして、歴史に結びついているのでクラシック音楽を選んだのです」と話す。 数年前にラミシュヴィリはバティアシュヴィリを通じてベルリン・フィルとつながり、毎年開催される【ヨーロッパ・コンサート】をジョージアに招聘する話し合いを始めた。「それは完璧な音楽であると同時に、平和へのメッセージでもあリます。私たちは二人とも統一された欧州を目指しています。欧州はジョージアであり、ジョージアは欧州なのです」と彼は語っている。 今回のコンサートのすべてが、その思いを強調していた。両公演とも、観客の多くは中流階級のジョージア人であり、多くが若年層だったデモ参加者に比べ、おそらく数歳年上で少し恵まれているように見えた。しかし、彼らはともに、紛争を脇に置いた欧州とのさらなる関わりを求めている。EUには問題が山積しているが、ロシアから出てくるものよりも説得力のある未来像を示している。 だがこのようなことがコンサートに影を落とすことはなかった。毎年EU加盟国で開催される【ヨーロッパ・コンサート】は、その開催地や、欧州の文化の中心となったベルリンの役割など、さまざまな理由から象徴的なものだ。しかし、政治的なことを理解していなかったり、単に忘れたかったりする人でも、そのような背景がなくてもこのコンサートに同じような説得力を感じただろう。ツィナンダリでは、円形劇場の石壁が音を拡大するかのようで、鳥のさえずりがシューベルトの「魔法のハープ」の静かな部分を突き抜けていった。特にトビリシ国立オペラ・バレエ劇場では、ハーディングがオーケストラの力を引き出し、バティアシュヴィリはブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調に豊かな音色をもたらしていた。 音楽外交は、米国務省が故ルイ・アームストロングを代表とする“ジャズ大使”の世界ツアーを手配した、少なくとも1950年代以来の伝統だ。音楽家が国際的な意見の相違を解決することはめったにないし、それが彼らの仕事でもない。だがこのようなショーは、各国が互いに何を提供し合えるかを示す形で、国同士の距離を縮めてくれる。この二つのコンサートは、欧州的理念の価値とその拡大の可能性の両方を力強く訴えた。Text: Robert Levine / Photo: Stephan Rabold
billboardnews 2024/05/16 18:13
受話器越しに「手首を切ってます」 いのちの電話の“レジェンド相談員”85歳は「今もドキドキするんです」
大谷百合絵 大谷百合絵
受話器越しに「手首を切ってます」 いのちの電話の“レジェンド相談員”85歳は「今もドキドキするんです」
埼玉いのちの電話の電話センターで、受話器を握る相談員たち(撮影/大谷百合絵)※画像の一部を加工しています  悩みや不安を抱える人からの電話相談を受ける「いのちの電話」。高齢化やライフスタイルの変化に伴ってボランティア相談員が不足し、全国的に厳しい運営を強いられているという。半世紀の歴史を誇る、いのちの電話の現状は? 発足当初から活動を支えてきた、埼玉いのちの電話のレジェンド相談員・安藤康江さん(仮名/85)に、自身の相談員人生と、草の根の市民活動が担う役割について語ってもらった。 *  *  * ――どうして相談員になったのですか?  自分から、何か社会のために!と思っていたわけではないんです。1971年に、いのちの電話の活動が東京でスタートした時に、同じ(キリスト教の)教会に通っていた方から「一緒にボランティアをしない?」と誘われたのがきっかけです。32歳のころですね。  東銀座にある、プラントの設計会社で英文タイピストをしていたの。東京いのちの電話の事務所は飯田橋にありました。24時間体制だったから、夕方仕事が終わると飯田橋に行って、仮眠をとりつつ朝8時まで電話を受けて、そのまま会社に行く日もありました。 「すっかり生活の一部になっています」 ――埼玉へはいつ?  埼玉いのちの電話ができたのは91年です。埼玉から東京に通っていた相談員30人くらいが集まって、私も立ち上げメンバーに加わりました。当時を知る人はもうほとんどいなくなっちゃった。  気づけば半世紀以上相談員をしていますね。生きることに不安がある人を支えたいとは思っていますが、何としても相談員を続ける強い信念があったわけではありません。結婚しないまま定年まで会社勤めをして、母親を看取ってからは30年以上一人暮らしですけど、幸い大きな病気もせず、やめる必要がないから続けてきたっていう、本当に淡々としたもので。休んだのは、父が亡くなった時の1回くらいかな。すっかり生活の一部になっていて、だからこそ続いてきたのかもしれません。 ――85歳の今も、バリバリの現役ですよね?  月に一度、深夜帯のシフトに入っています。夜のほうが、帰る時間を気にせずじっくり聞けるから好きなんです。「眠れない」とか「色々考えて不安」とか。長くなる電話も多いですが、真夜中に話し相手がいない人たちと話すっていうのは、かえって意味があるような気もして。  安心してなんでも話せる場所であるために、相談員をしていることは家族やごく親しい人以外には明かしません。相談者から「お会いしたい」と個人的な関係を求められる場合もあるけれど、トラブルを防ぐ上でも絶対禁止。違反したら、相談員をやめてもらうことになります。 ――どんな人が相談員をしているのですか?  埼玉は登録人数が約400人、実働人数が約300人いるのですが、東京とちがって定年を設けていないこともあり、高齢化が進んでいます。60代、70代の方がメインで、80代の方が7、8人。最高齢は90代です。  最近は男性の相談員も増えてきました。当初は子育てを終えた主婦の方がほとんどで、男性は1割にも満たなかったけれど、応募年齢の上限を取っ払ったことで仕事をリタイアしてから始める男性が増えて、今は2割程度になりました。 埼玉いのちの電話では、インターネットでの相談も受け付けている 100件のうち3件しか出られていなかった  でも相談員不足は深刻ですね。中高年の主婦の方々はパートなどで働くようになったし、同じ傾聴ボランティアでも手当てが出る活動が広がってきたことも背景にあると思います。 ――現場はひっ迫しているのでしょうか?  埼玉は募集活動や相談員のサポート体制を強化してきて、年間2万件以上という全国最多の相談を受けているけれど、電話が鳴りっぱなしでとても受けきれない。数年前にNTTに調査してもらったら、100件のうち3件ほどしか出られていませんでした。「3日かけつづけてやっとつながりました」とおっしゃる相談者もいます。  相談は一人1時間を目安にしているのですが、なかなか切ろうとしない方もいますね。昔は、「電話代が数万円になって家族から怒られた」なんて話も聞いたけど、今は「かけ放題プランなので大丈夫です」って。  着信すると、電話機に赤いランプがつくんです。受けると青いランプに変わるけれども、受けられないと消えてしまう。他の電話に対応している間、赤いランプがついては消え、ついては消え、の繰り返しです。  以前、自死した方のご家族から電話がかかってきたことがありました。「本人の携帯に、この番号にかけた履歴が残っていて……」と。でもこちらでは受けた記録がなかったので、残念ながらつながらなかったんだろうと思います。 記録にまとめる時、そこに自分の気持ちも置いていく ――相談員を続けていて、心が苦しくなることはありませんか?  たまに、後味の悪い電話を受けることはありますよ。「人の苦労は蜜の味って思ってんだろ」なんて言われたり、「そうね」と相づちを打ったら「ため口聞くな!」って怒られたり。でも、その人はその時そういう気持ちだったんだって割り切るしかないし、怒って気がせいせいしたならいいかなって。  自分の無力を痛感する電話もあります。ある時は、死にたいと話す30代くらいの女性からの電話を1時間以上聞いたけど、何を言ってもダメで、向こうも黙っちゃって。家族とうまくいかず、精神を病んでいたようでした。「お医者さんに相談してほしい」って繰り返し伝えても、「それはいいです」「迷惑かけてすみません」と。その後、彼女がどうなったのかは分かりません。 相談員たちのグループ研修の様子 ――落ち込んだ時、どうやって気持ちに折り合いをつけていますか?  電話が終わって相談内容を記録用紙にまとめる時に、自分の気持ちもそこに置いていくようにしています。あとは毎月、相談員同士のグループワークがあって、「こんな電話があって困った」「この対応でよかったんだろうか」などと一緒に考えられるので、一人で抱え込まずに済みます。自殺願望のある方からの電話は全体の15%くらいあるので、その対応をロールプレイング形式で練習する研修もあります。 ――「死にたい」と言われたら、どう対処するのですか?  「今手首を切ってます」とか「薬を飲んだ」とか「富士の樹海に向かってる」とか。そういう切羽つまった電話を受けた時は、ブザーを押して事務局の人を呼んで、子機で一緒に聞いてもらうようにします。  もし手首を切っていたら止血するよう、ビルの屋上にいたら安全な場所に行くよう指示をしてから、じっくり話を聞きます。それでも死にたい気持ちが消えない場合は、「明日の何時にまた電話をかけてください」と約束する。継続的な電話相談は原則しませんが、命が危ない場合は、そうやって1日1日つないでいきます。 気持ちを吐き出すことで人は変われる  不思議なもので、自殺すると決めても、死ぬ前にそれを誰かに知ってほしいと思う人は少なくないんですね。マザーテレサは、亡くなる間際の人の手を握って「あなたは一人ではない」と伝えたそうですが、やっぱり人間が一番弱いものは、孤独だと思います。 ――これまで受けた中で、「忘れられない電話」は?  10年以上前、明け方4時くらいに、京都に住む女性から電話がありました。仕事をしながら障害のある子どもを育てるシングルマザーで、「(元夫との)離婚の裁判に疲れた」「子どもを殺して一緒に心中しようと思う」と。  でも1時間くらい話を聞いていたら、最後に泣きながら、「思いの丈をこんなにじっくり聞いてもらったのは初めてです。裁判もなんとか頑張ってみます」って言ってくれたのね。こちらが何かアドバイスしたわけではないのに、不安でやるせない気持ちを吐き出すことで、人は変われるんだと思いました。  いのちの電話の役割は、埋もれてしまった前向きな気持ちを掘り起こす支えになること。解決策を指示するのではなく、一人ひとり自分で行動する力があると信じて励ますことを心がけています。人はどんな時でも、希望を持てるはずだから。 まだまだ求める人がいる ――相談者の様子や相談内容に、時代の変化は感じますか?  昔は、家族や友達とうまくいかないっていう人間関係の悩みが多かった気がします。でも今は、誰ともつながれない孤独に苦しんでいる方が多い。相談者の年代で一番多いのは40、50代なので、高齢者が孤立するのとはまた別の話です。  SNSの影響で、ある意味生きづらくなっているのかもしれませんね。SNS上では多くの人とつながれるけど、お互い自分を偽れるわけでしょう。そんな相手を、どこまで信頼できるのか。人と人の関係が希薄になって、ぬくもりが阻害されているように思います。若い人からの電話が減っているのも、その表れなのかな。面倒くさいのか怖いのか、誰かとじかに会話するのを嫌がる傾向があるようです。  とはいえ、いのちの電話が50年以上つぶれないで続いているのは、まだ求めている人がいるということ。「はい、埼玉いのちの電話です」って電話をとってから、相手の声が聞こえてくるまで、今でもドキドキするんですが、あなたが生きていることを応援する人がいると伝え続けたい。つながりにくいかもしれないけれど、いつでもお電話お待ちしています。 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・大谷百合絵) 〈いのちの電話〉 悩みを抱えた人に寄り添う相談ダイヤル。1953年にロンドンで始まった自殺予防のための電話相談にならい、71年に日本初となるボランティアの電話相談が東京で始まった。77年には中核組織となる「日本いのちの電話連盟」を結成。現在は全国各地にある約50のセンターで、6千人ほどの相談員が活動しているが、相談員不足により24時間対応ができないセンターもある。
いのちの電話相談自殺
dot. 2024/05/16 11:00
ガムを噛むと集中力が高まるのは本当か? 医師が教える集中力を高める4つの行動
小林弘幸 小林弘幸
ガムを噛むと集中力が高まるのは本当か? 医師が教える集中力を高める4つの行動
(写真はイメージ/GettyImages)  勉強や仕事中に集中力が途切れてしまった時、目の前のことに集中しよう努力してもうまく行かないことがある。こんな時、どうすれば集中力を高められるのだろうか? 順天堂大学医学部教授・小林弘幸さんによると、ガムを噛んだり、YouTubeを観たりするなど、行動によって集中力を高める方法があるそうだ。小林さんの著書『自律神経の名医が教える集中力スイッチ』(アスコム刊)から、集中力を高める行動を紹介する。 *   *   * ガムを噛めば集中力が高まる  ガムには持続集中力を妨げる要因となる強いストレス症状をやわらげてくれる効果もあることがわかりました。ここで大切なことは、噛みごたえのあるものを口にしましょうということではありません。どんなものを食べるときでも、一定のリズムでなるべく長く噛むことです。咀嚼するリズムが集中力を強化します。  一定のリズムで噛む習慣がつくと、持続集中力の強化につながるだけでなく、集中に至るための自律神経のバランスを整えるスイッチの役割も果たしてくれるのです。授業中やテスト中にガムを噛むというのは、現実問題として難しいかもしれませんが、その直前にガムを噛むことによって脳を活性化させ、集中しやすい状態を作っておくことならできるのではないでしょうか。  噛む回数を増やしてくれる食べ物としてイメージしやすいのは、スルメやフランスパン、おせんべいなどの硬いものですが、私がおすすめするのはガムです。かつて私も、手術前にはガムを噛むのが習慣でした。私だけでなく、じつは執刀前にガムを噛む外科医は多くいます。 YouTubeの『勉強ライブ』を観て集中する  じつは最近、YouTubeなどで『勉強ライブ』といった名前の動画が流行しています。これは、ただひたすら無言で勉強している人が映っている動画です。集中している人を目にすることで、ミラーニューロン効果により、自分も集中できるといわれています。 【PR by 暮らしとモノ班】 2024年6月16日は父の日!2点以上買えば5%OFFになるAmazonのおすすめアイテム プレゼントはもう決めましたか? https://dot.asahi.com/articles/-/222379  東大出身タレントの伊沢拓司さんらが運営するQuizKnockの勉強LIVE動画などは100万回再生を超えています。集中が集中を呼ぶ「ミラーニューロン効果」とは、そばにいる他人の行動を見て、自分も同じ行動をとっているかのように共感する効果です。  リモートワークよりもオフィスのほうが集中できるという人は、同僚たちが仕事に集中している姿を目にし、ミラーニューロン細胞が活性化され、「自分も集中する」という意識が生まれやすいからではないでしょうか。学生時代に自宅で勉強するよりも、図書館や塾の自習室で勉強をしたほうが集中できたというのも、ミラーニューロン効果かもしれません。  つまり、集中したいときには、すでに集中している人のそばで作業をするのがひとつの手段なのです。 「7階までは階段」の選択が集中力を底上げする  人間の体はアクティブに動くと交感神経が優位に、そして休息モードに入ると徐々に副交感神経が優位になっていくのですが、運動をすることによって、なかば強制的にその自律神経のサイクルを作ることができます。  自律神経の乱れは、おもに交感神経が過剰に活動することによって生じるケースが多いのですが、運動後の休息がそれまで影を潜めていた副交感神経の活動を活性化してくれるということ。だから、運動は必要なのです。  運動と聞くと、「つらい」「めんどうくさい」「ハードルが高い」といったマイナスのイメージを抱く方が多いと思います。運動が苦手な方は、「できればしたくない」と強く願っていることでしょう。  でも、そんなに身構える必要はありません。現状の生活に、体を動かすプラスαの行為を少し加えるだけでも、充分に効果があります。エレベーターと階段のどちらを使うかでも、健康寿命に違いが出ます。  私も健康のために、7階までは階段を使うようにしています。最初は息が上がったとしても、階段の上り下りを毎日続けると慣れてきます。3階くらいから始めて、7階を目指しましょう。 ランニングやリズム運動が集中力を高める  みなさんは「セロトニン」をご存じでしょうか。これは脳内の神経伝達物質の一種で、喜びや快楽などをつかさどる神経伝達物質のドーパミンや、恐怖や驚きなどの感情をコントロールするノルアドレナリンを制御し、精神を安定させるホルモンです。  心を穏やかにする働きがあることから、通称「幸せホルモン」とも呼ばれています。セロトニンは、交感神経と副交感神経のバランスを保つことに貢献してくれるので、自律神経と集中力の安定には欠かせません。  セロトニンは、パソコンやスマホ画面の見すぎ、運動不足、夜更かしなどによって低下するといわれています。その一方、規則正しい生活を送り、日中は陽の光を浴び、適度な運動を行うと、増加することがわかっています。この適度な運動のうち、大きな効果があるとされるのがリズム運動です。  手軽に取り組めるものをいくつか紹介するので、自らセロトニンを増やしていくことに努めましょう。 ウォーキング・軽いジョギング  体に大きな負荷をかける必要はありません。いずれも、「ちょっと息が弾む」くらいの強度がベスト。一定のリズム、同じくらいの歩幅で、歩いたり走ったりしてください。 ダンス・体操  こちらも動きがハードなものは不要。専門的なダンスを習わなくても大丈夫です。手と足を中心に、全身をリズミカルに動かすことができていれば、オリジナルのダンスで構いません。ラジオ体操や太極拳でもOKです。  
集中力
dot. 2024/05/15 06:30
LiLiCoさんが語る仕事と子ども、不妊治療のこと。ワーママが増える時代に「産まなかった私が思うこと」
小野ヒデコ 小野ヒデコ
LiLiCoさんが語る仕事と子ども、不妊治療のこと。ワーママが増える時代に「産まなかった私が思うこと」
テレビでのコメンテーターやラジオナビゲーターなど、多方面で活動しているLiLiCoさん=本人提供  国が子育て支援策を推し進め、ワーママが増える昨今。産まなかった女性たちは何を思うのか。映画コメンテーターのLiLiCoさん(53)にお話を伺いました。AERA5月13日号に掲載したインタビューの全編を公開します。 高学歴で社会的地位のある母の下で  幼少期、子どもは母親の影響を大きく受けると思います。高学歴だった私の母は、当時女性では珍しかった機械設計士として社会的地位を得ていました。2人の子どもにも恵まれ、スウェーデンの首都ストックホルムの一等地にある家に住んでいて、周囲からは何不自由なく暮らしているように思われている人でした。  でも、母自身はハッピーではありませんでした。生きているのが楽しくなく、自殺未遂もしたことがあります。そんな母を見ていたから、私は10歳の頃から「私は新しい命を生み出しちゃいけない」と思っていました。いま振り返っても、早熟な子だったと思います。  私には9歳離れた弟がいます。弟が生まれてまもなく、父は家を出ていってしまいました。母は働かないといけないので、自ずと弟の面倒を見るのは私の役目に。弟は体が弱く、入退院を繰り返していたので、学校が終わったら弟を迎えに行ったり、家事をしたり。そのため、遊ぶことなどままならず、友達さえいませんでした。12歳の私は、“子育て”に疲れていたんです。弟は可愛いかったけど、私自身はボロボロ。私の人生は、どん底からのスタートでした。 今年4月、スウェーデンで父と再会したLiLiCoさん=本人提供 出産適齢期に「王様のブランチ」レギュラーに  18歳で来日し、歌手としてデビューしました。でも全く売れず、20代では5年ほど車中生活を送るほど厳しい生活を送りました。  最初の結婚は、30歳の時。相手は、一般の日本人男性です。結婚の2カ月後、毎週土曜放送のTBS系「王様のブランチ」に、映画のコメンテーターとしてレギュラー出演が決まりました。これまで何度も辛酸を嘗める思いをしてきた中で、テレビ局の門をくぐれた時の心情といったら……。この大チャンスを絶対に逃さないと決意しました。  ちょうど出産適齢期。子どものことを考えなかったわけではありません。でも、長い下積みの末、やっとチャンスが舞い込んできたこともあり、自ずと子どものことは後回しになりました。もし妊娠したとしても、週一回の番組収録に穴を開けないために、出産後数日で復帰するつもりいたほどです。「大きな仕事のオファーが来た時、子どもを足かせに感じてしまうかも」とも考え、子どもを持つことに踏み切れずにいました。  仕事が軌道に乗っている時だったら、仕事よりも子どもを選んだかもしれません。でも、「やり直せたなら」とは思いません。生まれ持った容姿や過去を含めて、変えられないことを嘆く時間がもったないですから。  結局、6年間の結婚生活を経て、離婚しました。一方、仕事の方は、その後どんどん依頼が増えていきました。 47歳で再婚。報道陣から「お子さんは?」の質問 2023年6月15日、映画「ハリー・ポッター」をテーマにしたエンターテインメント施設「ワーナーブラザース スタジオツアー東京 メイキング・オブ・ハリー・ポッター」(東京都練馬区)の開業前夜祭前夜祭に参加したLiLiCoさんと小田井涼平さん(photo 朝日新聞社)  47歳の時、同い年の小田井涼平と再婚しました。報道陣からは「結婚おめでとうございます」と言われ、その次に「お子さんは?」という質問が飛び交いました。47歳の女性に、その質問を何のためらいもなく聞く男性記者を目の当たりにした時、「それはアウトでしょ」と心の中で思いました。  それでも、自身の“姉御肌”のキャラクターを演じ、夏だったら、「コウノトリが、バテてしまって」とか、クリスマスが近かったら「サンタさんが、ちょっと事故にあっちゃったみたいで〜」とか、あえてボケて、受け流していました。  それ以外にも、「それ、セクハラ、パワハラですよね」と思う言葉を公私で言われたことは一度や二度ではありません。その時のシチュエーションや心境は、今でもはっきりと覚えています。その際には感情を露わにせずに、対応したのは本当にえらかったと自分でも思っています。  子どもは元々好きですし、何より愛する夫との子どもが欲しくて不妊治療をしましたが、授かりませんでした。  夫は当時、ムード歌謡グループ「純烈」のメンバーとして多忙を極めていました。そんな彼に「妊娠中、LiLiCoがつわりなどで苦しみ、吐いたり、叫んだり、眠れなかったりする姿を一つも見られないし、そばにいてあげられない。立ち会い出産もできないと思う」と言われたことで、納得して子どもを諦めることがでました。 「母になることが全てではない」  日本ではここ10年で、抱っこ紐で赤ちゃんを抱いたり、子どもを連れていたりする男性をよく見かけるようになりました。子育ての支援制度も広がり、良い変化を感じています。その上で大前提としてあるのは、結婚することはもちろん、母になることが全てではないということです。自分と異なる立場や意見があることを知り、相手への想像を豊かにしてほしいと願っています。  例えば、子どもがない女性がいたとして、もしかしたら子どもが欲しくてもできなかったり、何か理由があって子どもを持たない選択をしていたりするのかもしれないと考えてみる。相手と自分の価値観や考え方が違っていたとしても、「そういう風に考えるんだ」と知る。その考えに共感はできしなくても、認める。それが本当の意味で多様性を尊重する考え方だと思うので、社会全体でもっと重要視されてほしいと思っています。 アパレルブランド「Queen Li(クイーン リー)」のプロデュースも手がけるLiLiCoさん=本人提供 子どもがいないからこそ  私たち夫婦は子育てにかかる費用はゼロなので、自分が稼いだお金を自由に使えます。今ちょうど動き出したプロジェクトが、発展途上国の子どもたちが通える学校を現地で作ること。10年ほど前から、コンゴとウガンダの子どもたちの支援している中で、勉強がしたくてもその機会や場所がない子どもの存在を身近に感じるようになりました。特に女の子は、望まない結婚をさせられることが日常的です。そんな少女たちが知識と教養を得られる場所を作りたいと思っています。  私1人の力では、女性の地位や立場を上げることは難しいかもしれません。それでも、自分ができることをしていきたいと思っています。  来日して35年が経つ今、テレビや雑誌、ラジオでの活動を見聞きしてくれた人から、「LiLiCoさんの話を聞いて勇気が出ました」という手紙をもらうこともあります。街中でも同様に声をかけてもらったり、友人からもそう言われたり。包み隠さず、自分の経験を話すことが、誰かの背中を押すことにつながっていることを感じています。  40年前、厳しい母との暮らしの中でもがき苦しんでいた自分に、「将来、めちゃくちゃ陽気なおばさんになるよ、LiLiCoから元気もらっているって言われる存在になっているよ!」って言ってあげたいですね。 LiLiCoさん(本人提供) ◎りりこ/映画コメンテーター。1970年、スウェーデン生まれ。テレビ、雑誌などで幅広く活躍。2024年国際女性デー表彰式で「HAPPY WOMAN賞」受賞 (構成 フリーランス記者 小野ヒデコ) ※AERAオンライン限定記事
LiLiCo女性×働くインタビュー性とカラダ女性特集➀
AERA 2024/05/14 06:30
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中村千晶 中村千晶
「アンメット」で話題の若葉竜也 「才能ない」と否定され続けた演技が花開いた瞬間
「僕にとって俳優の仕事は生きるための手段。1年、2年で(人気を)競い合ってもしょうがない。70年間ご飯を食べられたヤツの勝ちなんだと思う」(若葉)(撮影/植田真紗美)    カンテレ・フジテレビ系ドラマ「アンメット ある脳外科医の日記」(月曜午後10時)に出演中の若葉竜也(34)の演技が注目を集めている。初回が放送された4月15 日には、X(旧Twitter)で「#アンメット」が世界トレンド1位を獲得。とくに、変わり者の脳外科医・三瓶を演じる若葉についての書き込みが目立ち、「若葉竜也」「三瓶友治」がXのトレンド上位に並んだ。その後もドラマ放映のたびに話題を呼んでいる。本人へのインタビューと周囲の証言で若葉の人物像に迫ったAERA 2023年12月11日号「現代の肖像」で、オンライン配信されていない記事後半部分を初公開する。 【前編はこちら】 俳優・若葉竜也が語る「演じることを嫌ってきた14年間を救ってもらえた」瞬間とは https://dot.asahi.com/articles/-/208133 *  *  *  大衆演劇一座に生まれ、1歳3カ月から舞台に立ってきた。物心ついたときから芝居をするのが当たり前だったと若葉は言う。小学生になると大衆演劇に加え、テレビドラマにも出演。だが、演技をおもしろいとは思えず「早く撮影が終わればいいのに」と願うばかり。そんな14歳のとき、最初の転機が訪れた。映画「4TEEN」での芝居を機に、映画への興味が湧いてきた。自宅から自転車を飛ばし、吉祥寺バウスシアターに通い、映画を観るようになる。   《以下、記事後編》  特に俳優の田口トモロヲが初監督した「アイデン&ティティ」に衝撃を受けた。ぼそぼそとゆるい会話と空気で進む若者たちの青春譚(せいしゅんたん)。わかりやすい芝居を求められる大衆演劇へのアンチテーゼもあったのかもしれない。「この先、もし役者を続けることがあれば、こんな映画を作りたい」と思った。  しかし、その思いはなかなか通じない。 「4TEEN」をきっかけに学園ドラマへの出演依頼が増えた。だが若葉はここでも違和感を持ちはじめる。普通の若者を演じようと、オーディションでボソボソと話すと「もっとわかりやすく話して!」と怒られる。「才能ない、やめたほうがいい」と罵倒されることもしばしば。しかし事務所は「売れれば好きなようにできる。まずは売れよう」とプッシュし続ける。ドラマの主演が決まっても「自分は適材じゃない」という感覚に襲われて降板した。すべてに対し反抗的になっていた。 「作品が悪いわけじゃない。街で声をかけてくれる人にも申し訳ないと思いながら、どんどん態度が悪くなってしまって」 取材でも撮影でもこちらの求めるものを瞬時に理解し、提示してくれる人だと感じた。監督もする若葉には常にカメラの前と後ろの視点があり、さまざまなものが「見えている」ようだ(撮影/植田真紗美)   退路を断って挑んだ殺人犯役のオーディション  ナイフのように尖(とが)る若葉を家族は大衆演劇に誘わなくなった。それでも高校生の自分が食べていく手段は俳優しかなかった。アルバイト感覚で俳優を続け、高校卒業後は俳優以外の仕事もやった。解体業に引っ越し作業員、昼はイタリアンと蕎麦(そば)屋の厨房(ちゅうぼう)をかけもちし、夜はショーパブのボーイをした。ドラマで話題になった当時を知る同僚に「落ちぶれたね」と言われても、怒りは湧かなかった。20歳で自主製作映画を撮り始め映画祭に出品もした。それでも俳優をやめなかった。吹っ切れなかった要因は三つある。 「地元の友達が『お前の場所はここじゃないんじゃねえか』と言い続けてくれたこと。悶々としてた時期に廣木監督から電話があって『お前、やめんの? オレはやめないほうがいいと思うぞ』と言ってもらったこと。そして母親が『役者の竜也をみたいと思っているんだよね』と言ってくれていたこと。それにいま振り返ると本質的には映画をやりたかったのかなとも思います。心の奥底では映画に対する渇望があったのかもしれない」  そんななかで若葉は「葛城事件」のオーディションを知った。実事件を連想させるような無差別殺人犯役。とてつもない難易度を要求される役だ。震えが走ると同時に支配的な父のもとで抑圧され暴走する稔に、どこか自分を重ねていた。 「変な話、稔に同情してしまう部分があったんです。怒りとか殺気とか、何をやっても虚無な感覚とか。一番近くで、彼をみている気がした」  これがダメだったらもう潮時だ。俳優を辞めよう。退路を断ってオーディションに挑んだ。  監督の赤堀雅秋(52)は会場に現れた若葉を鮮烈に記憶している。役を自身でイメージしたのだろう、ヨレヨレのTシャツに薄汚れたスウェット姿、便所サンダルをつっかけた彼からは、ただならぬ殺気が漂っていた。 「会場に現れたときから役になりきっていて『この役は絶対にオレが獲(と)ってやる!』という執念みたいな狂気のような感情がダダ漏れていた。『いた! この人でいこう!』とすぐ思いました」 一見そっけなさそうで、常にユーモアで場を和ませる。撮影中も「『太陽にほえろ!』のポーズね」と応じてくれた(撮影/植田真紗美)    役が決まったと聞いたとき若葉は「助かった、と思った」と笑う。否定し反抗し続けた俳優という仕事を自分はまだ欲していた。そしてそれを受け入れてくれた人がいる。道はまだ残されていた。「葛城事件」の演技は高く評価され、若葉は第8回TAMA映画賞の最優秀新進男優賞を受賞する。赤堀は言う。 「撮影後に何度か酒を飲みに行ったとき、彼の出自を初めて聞きました。失礼だけど『ああ、だからあのいびつな家族の話にマッチしたのかな』と(笑)。でも普段の彼からは、エキセントリックな印象は皆無。『普通』というかむしろ『凡庸』という印象で、そこが彼の魅力だと思う」  そんな魅力を引き出したのが今泉力哉(42)だ。「南瓜(かぼちゃ)とマヨネーズ」(監督・冨永昌敬)で若葉に目を留め、「愛がなんだ」の出演をオファーした。登場人物たちのままならない恋愛模様のなかで誰の想いの対象にもならず、片思いの矢印の一番端にいるナカハラを、若葉はこれ以上ないほどナチュラルに演じきった。今泉は言う。 「いまだに驚くんですが、あの映画で評判になったのは実はナカハラだったんです。でも僕は現場で芝居を見ているときには、気づけていなかった」 抑圧されている状況から映画で抜け出せたら  今泉の演出法は誰に対しても「こういう風に演じて」と言わないこと。俳優の持ってきたアイデアが自分の想定を凌駕(りょうが)することがあるからだ。若葉は「愛がなんだ」で10代から否定され続けた芝居をやろうと決めていた。悲しいシーンを悲しくなく、楽しいシーンを楽しくなく演じる。真に恐怖を感じたとき人は笑ってしまったりするじゃないか。人間の感情は理屈ではなく動き、ぶれたりするものだ。それが自然なんじゃないか? そんな若葉の芝居は、当時の今泉の想像を超えていた。 「現場で僕が若葉さんの芝居を何度も修正しようとしたシーンがあったんです。終盤で片思いをやめたナカハラの写真展に、好きだった女性がふらっとやってくる場面。ナカハラの『え、なんで来たの』という芝居を、僕はもっと喜んでやってほしかった。でも若葉さんは気まずさを前面に出した芝居をした。なんで? もうちょっと喜んで?と頼んだんですが、映画を観た人の感想に『せっかく思いを断ち切ったのに彼女が来るなんて、またナカハラの地獄が繰り返されてしまう』というものが多かった。そうか若葉さんがやりたかったのはこれだったのか!と気づかされました」  役の捉え方や提示のしかた、芝居の温度やスピードにも相性の良さを感じ、以降何度もタッグを組んでいる。人より前に出ることや売れることに固執せず、自分がおもしろいと思うことをしたいと願う姿勢にも共感していると今泉は言う。 「やりたくないことを無理してやってもいいものは残らない。創造物へのリスペクトからくるその感覚も僕らには共通していると感じます」  自分は凡人だ、と若葉は言う。監督をするからこそわかる。映画は大勢のスタッフの尽力によって作られ、役者が現場に入る前に9割は出来上がっている。自分にできることはその9割を超えて、みんなが想像する以上のことを提示するだけだと。それでも俳優として、若葉は生き続けていく。 「やっぱり自分が映画に救われた、っていうのがあるんだと思うんですよね。自分が役者である以上は、誰かの逃げ込める場所を一個つくりたい。閉塞(へいそく)や抑圧されている状況から、映画が一歩抜け出すきっかけになればいい。そんな思いは一丁前にあるのかもしれません」  前出の廣木は「市子」の若葉を見て「めちゃくちゃ大人になった」と嬉しそうだ。14歳で出会った時から、彼の苦悩をその時々で感じてきた。 「演劇一座という環境のなかで孤独だったんだろうなという気がしていて。映画の人たちと出会えて本当によかったよね、って思います」  若葉が映画「市子」に寄せたコメントを思い出す。 「この映画が寂しくて寂しくて頭がおかしくなりそうなひとりぼっちの誰かに届いてほしいです」  そう願いながら、若葉は今日もカメラの前に立っている。 (文中敬称略)(文・中村千晶)   【前編から読む】 俳優・若葉竜也が語る「演じることを嫌ってきた14年間を救ってもらえた」瞬間とは https://dot.asahi.com/articles/-/208133 ※AERA 2023年12月11日号より抜粋
AERA 2024/05/13 18:00
集中力が続かないのはなぜ? 集中力低下につながる6つの悪い習慣
小林弘幸 小林弘幸
集中力が続かないのはなぜ? 集中力低下につながる6つの悪い習慣
(写真はイメージ/GettyImages)  集中力が続かない原因はなんだろうか? 順天堂大学医学部教授・小林弘幸さんは「自律神経の乱れが集中力の低下につながる」と話す。日常の中のちょっとした習慣が、自律神経を乱すそうだ。小林さんの著書『自律神経の名医が教える集中力スイッチ』(アスコム刊)から、集中力を低下させる悪い習慣を紹介する。 *   *   * スマホが集中力を奪う  2013年のカナダのマイクロソフト社の発表によると、現代人の集中力は8秒しか続かず、金魚の9秒を下回る――すなわち、人間の集中力は金魚以下であるという内容でした。とくに若い世代は、ネットニュースにSNSにソーシャルゲームにと、つねにスマホに視線を送り、さまざまな情報を得ようとしている人が多いです。この「あれもこれも」となってしまう状態が、ひとつのことに集中する能力を減退させる一因になっていると考えられます。  情報過多社会は、人々の生活からゆとりの時間を奪いました。せわしない生活を送っていると、脳が興奮状態から抜け出しづらくなってしまい、結果として自律神経が乱れることになります。そして、そんな状況に拍車をかけるのが、SNS依存です。知らず知らずのうちに入ってくるネガティブな情報、相手への気づかいに端を発する返信の内容やタイミングに対する悩みなどが、余計なストレスを生みます。  つまり、SNSに依存すればするほど、ストレスによって自律神経は乱れていきます。 リモートワークが集中できない原因かも  リモートワークが自律神経と集中力の乱れを生む原因になっている場合があります。  「居心地のいい自宅で仕事ができるのだから、リラックスできるのでは?」と思われがちですが、意外にそうはいかないもの。ひとりで仕事を完結しなければならないという責任感や孤独感、子どもをはじめとする家族への配慮などが、思いのほかストレスとしてのしかかってきます。  人間は環境の変化が大の苦手で、それがストレスを生み、自律神経の乱れをもたらすのです。 同じ姿勢で長時間すごすと集中力が低下  同じ姿勢で長時間仕事をすることによって起こる首や肩のこりや、パソコンのモニターを見続けていることからくる目の疲れも、自律神経のさらなる乱れを誘発します。現代人は自律神経が乱れて当然ともいえる状況で、日々の生活を送っているのです。  また、交感神経が優位な状態のときに、副交感神経のひとつの迷走神経が刺激されると、「迷走神経反射」という症状を引き起こすことがあります。迷走神経反射(血管迷走神経反射)とは、長時間の同じ姿勢、強い痛み、疲労やストレスなどが引き金となって迷走神経が反射的に働き、心拍数の減少や血圧の低下を起こすこと。  これによって貧血状態になり、気分が悪くなったり、お腹が痛くなったり、めまいが生じたりといった症状が続き、最終的に失神に至ることもあります。失神は、立ったままの状態や、座ったまま同じ姿勢を維持しているときに発生しやすく、また、日中(とくに午前中)に起こりやすいといわれています。 リベンジ夜更かしは翌日の集中力に悪影響  ここ最近、「リベンジ夜更かし」なる言葉を耳にするようになりました。「報復性夜更かし」とも呼ぶそうです。 これは、日中に自由な時間を得られなかった人が、夜更かしをして自由な時間を獲得する行為のことを指します。「○○したかったのにできなかった」という思いから生まれる欲求不満やストレスを、寝る前に(おもに布団にもぐってから)解消させようとすることです。  リベンジ夜更かしとはすなわち、睡眠時間を削る行為のことです。人間は良質な睡眠をとらないと、心身にさまざまな悪影響が生じます。体内時計の夜型化が進み、朝の目覚めが悪くなります。これが、疲労、倦怠感、無気力などにつながっていくのは自明の理です。睡眠不足は脳の活動を減退させるので、集中力や注意力の欠如、情緒不安定、判断力の低下など、メンタル面にも多大な影響を与えます。  リベンジ夜更かしをした翌日のパフォーマンスの質は一気に落ちます。自覚のある方は、まずはしっかり睡眠をとること、そして規則正しい生活をすることを心がけ、持続集中力の土台を築いていきましょう。   スマホ寝落ちは集中力を奪う悪い習慣  もっともおすすめできないのが、寝る前スマホなどの「ながら寝落ち」です。とくに就寝準備を整え、布団に入って寝る態勢を作り、電気を消してスマホに手を伸ばす…これが『日課』になっている方は多いのではないでし ょうか。 (写真はイメージ/GettyImages)  今、ドキッとした方は、ただちにその習慣をやめるようにしましょう。寝る前のスマホが入眠しづらい状態を作り、睡眠の質をさらに悪くし、翌日の集中力低下を増長させるからです。スマホの画面から発せられるブルーライトが、睡眠ホルモンのメラトニンの分泌を抑制する働きをすることが明らかになっています。メラトニンが分泌されないと、眠気が強くなりません。  さらに動画・SNS・ゲームなどのさまざまな情報が脳に刺激を与えることで、眠りづらくなる状態を後押しします。脳が刺激されると交感神経が優位になり、脳が覚醒して目がさえてしまうからです。  このように、光と刺激の波状攻撃により、睡眠の質はどんどん悪い方向に向かっていってしまいます。とはいえ、夜にまったくスマホを見ないでいるというのは、なかなか難しいでしょう。目安としては、「寝る1時間前からスマホを見ない」ことをおすすめします。 マルチタスクと集中は両立できない  結論からいうと、マルチタスクは集中力の低下をまねき、作業効率のアップ、生産性の向上にはつながりません。人間の脳の機能は20万年前からほとんど変わっておらず、しっかりと対応しきれていないのです。マルチタスクは、同時に作業をこなしているようでいて、じつは脳がものすごいスピードで複数のタスクを瞬時に切り替えているだけなのです。  ひとつの作業を行い、その作業に対する思考をいったん停止し、別の作業の情報を呼び起こし、思考を切り替えて次の作業を行う、ということを超短時間のうちに繰り返していたら、脳はどうなってしまうでしょう? 当然、疲れてしまいます。  脳が疲れると、自律神経が乱れます。そして、自律神経が乱れると、集中力や判断力が低下します。結果的に、ミスや物忘れが多くなり、作業効率は落ちます。そう、マルチタスクと集中は両立できないのです。
集中力習慣
dot. 2024/05/13 06:30
5月から急増するゴキブリ「悪徳駆除業者」に要注意 同業者が明かす“驚きの高額請求手口”
大谷百合絵 大谷百合絵
5月から急増するゴキブリ「悪徳駆除業者」に要注意 同業者が明かす“驚きの高額請求手口”
流し台の水栓周りに侵入経路がないか確認する鈴木さん(撮影/大谷百合絵)  5月は、ゴキブリの活動が活発化する季節。家の中で“G”と出会ってしまった人々からのSOSが急増するため、害虫駆除業者は繁忙期となる。ときにはゴキブリが「大量発生」している過酷な現場にも立ち向かう大変な仕事だが、中にはずさんな作業で高額請求してくる“悪徳業者”もいる。24時間態勢で依頼を受けつける駆除業者「害虫獣SOS」に所属する、若き“Gハンター”に密着し、プロの技や悪徳業者の見分け方などを取材した。 *  *  *  5月上旬の午後9時。事前に指定された、東京都港区の3階建てアパートの前で待っていると、“Gハンター”こと鈴木聖也さん(29)が現れた。鈴木さんは午後6時~翌朝3時までの夜間シフトを担当しており、このアパートに住む20代男性・Aさんからの駆除依頼を受けてやってきたのだ。  鈴木さんに同行し、部屋に入ると、Aさんが今回のSOSに至った経緯を切々と訴えはじめた。 「昨日トイレからゴキブリがぴょこって出てきて、ネット検索で見つけた別の業者に来てもらったんです。その1匹は駆除してもらったんですけど、その後に、『天井裏にもいっぱいいます』『卵があります』なんて言われて、勝手にトイレや風呂場に薬剤をびしゃびしゃまかれて。おまけに『燻煙(くんえん)剤を使うから2時間外に出ていてください』とか言われて、さすがに断りましたけど、トータルで7万円も請求されたんです。明らかに高いし何か怪しいから、クレジット払いにしました。その後ネットで、悪徳業者の手法を紹介している害虫獣SOSさんのブログを見つけて、まさにこのやり口だ!と。次はちゃんと対策してもらおうと思って、今回依頼しました」 トイレの換気扇にあったわずかな「すき間」をコーキング剤でうめる鈴木さん(撮影/大谷百合絵) まさか! 前日の業者が玄関先に……  Aさんの話を聞き終えた鈴木さんは、まずはゴキブリの侵入経路を特定すべく、キッチンやトイレの換気扇、流し台や洗面台の下の水栓周りなどを順番に確認していく。Aさんと費用を相談しつつ、侵入経路の可能性が高い「すき間」を、粘着性のシートやコーキング剤と呼ばれる詰め物でふさいでいった。優先順位が低く、すき間を埋めなかったキッチンの換気扇内には、ベイト剤と呼ばれる毒餌を設置した。  鈴木さんの作業中、ゴキブリの成虫や卵はもちろん、住みついている痕跡も一切見当たらなかった。前日の業者に対して、返金依頼などの行動を起こすのかとAさんに尋ねると、既に策を講じているという。 「クレジット決済のとき、業者がカードリーダーを持っていなくて、代わりにカード番号とセキュリティー番号を聞かれたんです。でも有効期限は聞かれなかったから教えずに、業者が帰った後すぐにカードを止めました。今朝は消費者センターに相談して、クーリングオフすることにしたので、お金はとられずに済みそうです。業者には、『有効期限教えて下さい』ってショートメールで追いかけられてますけど、無視してて……」  そんな話をしていると、突然「ピンポーン」とチャイムが鳴った。インターホンの画面を見て、「あ、まさに昨日の人だ!」とAさん。なんと、代金を回収しそびれた作業員本人が、再び訪ねてきたのだ。  Aさんは玄関で応対し、消費者センターやカード会社に連絡の上クーリングオフすることや、ちょうど別の業者が家にいることを伝えると、作業員は「そうですか……」とそそくさと帰っていった。  一連のやりとりを聞いた鈴木さんは、「この時期(悪徳業者が)増えてくるんですよ」と話しはじめた。 Aさんが最初に依頼した業者から渡された、約7万円の契約書。作業日は5月上旬だったにも関わらず、なぜか「令和6年6月7日」と記載されていた ※画像の一部を加工しています(撮影/大谷百合絵) 高額請求の判断基準は? 「僕がこの間担当したお客さんなんて、一戸建ての家全体で駆除費用100万円って言われたらしくて。でもイケイケの方だったので、その場で作業員を正座させて説教したら、『人や家を見て金額を変えてます』って白状したらしいです(笑)」  Aさん宅での作業は、約1時間。費用はコインパーキング代1400円をふくめた4万3100円(税込み)だった。鈴木さんは最後に、「もし次に出たらキッチンの換気扇か玄関が侵入経路だと思うので、またご相談ください」と伝え、部屋を後にした。  次の依頼が来るまでは、車の中で待機する。ゴキブリは夜行性のため、緊急SOSは夜間が多い。9時間のシフト中、多い日だと20件ほどの依頼が舞い込む。害虫獣SOSは東京、神奈川、千葉、埼玉の1都3県を対象エリアとし、基本的には30分~数時間で現場に駆けつけるという。  待機中、快く取材に応じてくれた鈴木さん。まず聞いたのは、悪徳業者の見分け方だ。高額請求かどうかを判断する、目安となる金額はあるのだろうか。 「費用は作業内容によるので一概には言えませんが、ポイントは、経路遮断などの根本対策を行った上での金額かどうかです。Aさんが昨日依頼した業者は生体の駆除や薬剤散布しか行わなかったようですが、悪徳業者ほど経路遮断の知識がないケースが多い。しかも、Aさんが渡された明細を見ると、卵処理が2万円となっていました。卵を取り除いてつぶすだけの作業になぜ2万円かかるのか、僕が聞きたいくらいです」 洗面台の水栓周りに侵入経路がないか確認する鈴木さん(撮影/大谷百合絵) ホストの男性宅で見た「大量発生」の光景  鈴木さんによると、業者に依頼するときは、作業内容や金額をしっかり確認することが大切だという。その際、「一番高いプランにすれば、二度とゴキブリが出なくなる」というセールストークには要注意。ゴキブリは1~2ミリの隙間があれば入ってくるし、玄関ドアの前で待ち伏せして、人が来たタイミングで一緒に忍び込むケースもある。鈴木さんは、入念に掃除が行き届いた家や、タワーマンションの50階の部屋に出向いた経験をふまえ、「ゴキブリが絶対に出ない家なんてありえない」と断言する。  業者を決めて家に来てもらっても、事前に聞いていない作業を勝手に行われて高額な費用を請求されたら、「頼んでいないので払えません」と突っぱねるべきだ。どうしても拒みきれない場合は、現金で払ってしまうと返金される可能性が下がるので、カード払いにして、すぐに消費者センターに相談するのが得策だという。  後日、Aさんが最初に依頼した業者に記者が取材を申し込んだところ、「Aさんとは契約が成立しなかったので、取材には協力できない」と言うのみだった。  一通り悪徳業者についての話を聞いたところで、鈴木さんがこれまで経験した“修羅場”エピソードを尋ねてみた。先ほどのAさんの家は、ゴキブリが1匹もいない穏やかな現場だったが、中には「大量発生」案件などもあるのでは? 「その方はホストをしている男性で、もともと彼女の家で暮らしていたのですが、1年ぶりに自宅に戻ったらゴキブリだらけになっていたそうで。キッチンのシンク下の扉を開けると、大きなクロゴキブリが3~4匹いました。冷蔵庫をどかすと6Pチーズの箱があって、箱をトンとたたくたびに1匹ずつ飛び出してきました」 キッチンの換気扇に侵入経路がないか確認する鈴木さん(撮影/大谷百合絵) パニックを起こして泣く依頼者も  また、自称・元宇宙物理学者の高齢男性が住むマンションには、飲食店や工場にいることが多いチャバネゴキブリが「見たことないくらい」大量にいたという。 「ずっと放置し続けたのか、数千匹はいましたね。依頼主のおじいちゃんは手でたたきつぶしていました。『興味があれば本棚の本を持って行っていいよ』とおっしゃるんですけど、本の隙間にびっしりとゴキブリがいて……」  そう苦笑する鈴木さん。ゴキブリを見れば「一応気持ち悪いとは思う」そうだが、依頼主の前で嫌な顔をするわけにもいかないので、日々淡々と駆除にあたっている。  緊急SOSの電話をかけてくる人の中には、パニックを起こして泣いていたり、既にホテルや漫画喫茶に避難していたりする人もいるという。依頼主の男女比は、男性4:女性6ほど。過去には、「彼女の家にゴキブリが出て駆けつけたものの、どうしても立ち向かえなかった彼氏」や、「『ほんとムリなんで!』と全力でおびえる、ゴリゴリマッチョ&入れ墨姿の男性」もいたという。  結局、Aさんの後に依頼が入ることはなく、この日のシフトを終えた鈴木さん。最後にこうつぶやいた。 「ゴキブリがいなくなることはないし、ゴキブリが嫌いな人がいなくなることもないと思う。これからもこの仕事を続けるつもりです」  人間とゴキブリとの闘いは、まだまだ続く……。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵) 【次ページはゴキブリの閲覧注意画像が掲載されています。ご注意ください】 【このページはゴキブリの閲覧注意画像が掲載されています。ご注意ください】   依頼者宅から回収した、クロゴキブリの卵(提供/害虫獣SOS)   ゴミ屋敷と化していた依頼者宅では、無数のクロゴキブリが繁殖していた(提供/害虫獣SOS) 仲間を共食いするチャバネゴキブリ(提供/害虫獣SOS) 大量のチャバネゴキブリの死骸が転がる、依頼者宅のキッチン(提供/害虫獣SOS)
ゴキブリ害虫駆除
dot. 2024/05/12 10:00
「沖縄に縁もゆかりもない自分が歌っていいのか」宮沢和史が悩みながら歌ってきた「島唄」に込めた思い
「沖縄に縁もゆかりもない自分が歌っていいのか」宮沢和史が悩みながら歌ってきた「島唄」に込めた思い
音楽生活35周年を迎えた。「若い時は未来は続くと思っていた。でも、先のことは今は誰にもわからない」(撮影/松永卓也)    シンガー・ソングライター、宮沢和史。今春、音楽生活35周年を迎え、4月24日にはアルバム「~35~」を発売。「島唄」や「風になりたい」は名曲となった。音楽を作るために、沖縄民謡をはじめ、ラテン音楽などを自身にしみこませるように、世界中を旅して学んできた。沖縄出身でないのに、「島唄」を歌っていいのか。その葛藤を抱えてきた。けれども、平和な沖縄への祈りを込め歌い続ける。 *  *  *  名古屋市の中心部から地下鉄で数駅東に行ったところにある繁華街、今池。繁華街といっても、華やかさよりもどこかほの暗い空気感が漂う。その町の一角にあるライブハウス「TOKUZO」で、宮沢和史(みやざわかずふみ・58)はアコースティックギターと三線(さんしん)だけで、デビュー以来作詞・作曲した20曲あまりの歌を披露した。サポートをするのはピアノ・コーラスの白川ミナだけ。ブラジルでは誰もが知る歌も、ポルトガル語で歌いあげた。  宮沢は今春、音楽生活35周年を記念して「~35~」と題したアルバムを出し、同時期に東京と大阪の公園の音楽堂でコンサートを開く。その「前夜祭」と称して全国11カ所の小規模ホールやライブハウスを回る「春が来たら旅に出よう 風の歌を届けに行こう」ツアーを、このライブハウスからスタートさせた。 「箱」を満員にしたのは約100人。大半が女性で、何人かに尋ねると1989年にデビューした「THE BOOM」初期からのファンばかり。宮沢はライブの中盤、「皆さん、お尻が痛いでしょう。立ち上がってほぐしてください」と往年のファンを笑顔で気遣った。曲のラインナップとMCからは宮沢の長い旅の報告を受けたようだった。   沖縄民謡の登竜門の一つといわれるラジオ沖縄「新唄(みーうた)大賞」の審査員を、今年から始めた。2016年からは、沖縄県立芸術大学音楽学部で講師も務めている(名古屋の「TOKUZO」で。年表上の写真も)(撮影/松永卓也)    87年、THE BOOMは、東京・原宿の「ホコ天」(歩行者天国)でバンド活動をスタートした。当時、「ホコ天」は社会現象ともなり、路上ではおびただしい数のバンドが演奏していた。88年にレコード会社のオーディションに合格し、メジャーデビュー。最初は、ロックにスカやレゲエをミクスチャーしたバンドだったが、沖縄の音階を取り入れた「島唄」が大ヒット。ラテンや南米の音楽をリスペクトし、サンバのリズムに影響を受けた「風になりたい」も数カ月にわたってヒットチャートにランクイン、世界中でカバーされた。 「ラボ・パーティ」の参加が視野を海外に開かせた  宮沢はバンドを率いて貪欲に世界中の音楽を吸収しながら、音楽の方向性を自由自在に変え、旺盛な活動を続けてきた。単に世界の音楽を耳で聴くだけではなく、身体丸ごとをその国や地域や人、文化の中に浸し、音楽家たちと友人になり共に演奏してきた。 「加藤登紀子さんや坂本龍一さん、佐野元春さんのような“旅をしながら音楽を創造する”スタイルに憧れていました」  子どもたちへの語り聴かせなどの小さな集まりでも、呼ばれたら旅烏(たびがらす)のようにひょいと出かけていく。枠にはまらない行動は先達の影響も受けながら、音と言葉を濃密に連動させつつ、異文化に対するリスペクトを真摯(しんし)に深めていった。  山梨県甲府市に生まれた宮沢は、小学生のころから言葉に対する興味が強く、フォークソングブームだった中学2年の頃、自分で作曲を手掛けるようになった。「島唄」のベースとなる沖縄民謡を最初に聴いたのは小学生の頃。ラジオから流れてきた喜納昌吉の「ハイサイおじさん」だった。聴いたことのない音階や歌詞は、多感な宮沢少年に確かな手触りを残した。   坂本美雨がパーソナリティをつとめる「ディア・フレンズ」(TOKYO FM/JFN)に出演。「音楽の旅をしてきたけれど、コロナもあり、自分の歌って何だろうと考える時間が5年ぐらいありました。それが少しずつわかってきた」(撮影/松永卓也)    幼稚園の頃から中学まで所属した「ラボ・パーティ」は、宮沢の視野を海外に開かせた。「ラボ・パーティ」とは、主に英語を通じて異文化の文学や詞、歌などに触れる子どものためのワークショップのようなもの。中2の時には、1カ月間カリフォルニア州のホストファミリーの家に滞在し、アメリカ生活を体感した。 「どちらかというと引っ込み思案で身体の弱い子ども時代でしたが、アメリカの大きさ、文化の違いに触れ、内向きだった自分が外界に目が行くようになった気がします」  THE BOOMはロックバンドとしてデビューしたが、バンドを引っぱる宮沢は、音楽と自身のルーツの不整合さに戸惑いがあった。ロックをルーツに持たない自分が、ロックを歌っていいのだろうか。関係ない誰かになりきってシャウトすることを否定しないが、どこか違和感がある。だから、英国のバンド「ポリス」や「ザ・スペシャルズ」がロックにジャマイカのレゲエやスカのリズムを取り入れ、「出どころがはっきりしない音楽」となっているのにしっくりきて夢中になる。  音楽家として自分の音を求める中で、沖縄民謡に再会した。宮沢は「沖縄」という熱にうかされたようになる。当時所属していたレコード会社のスタッフが、沖縄出張の際に買ってきてくれた「沖縄民謡大会」という全10巻のカセットテープを朝から晩まで聴き込んだ。  90年にTHE BOOMは3枚目のアルバム「JAPANESKA」で、初めて沖縄民謡の要素を取り入れた曲を収録した。そのアルバムのジャケット撮影で、宮沢は初めて沖縄の地を踏んだが、その時点ではまだ曲しかできておらず、詞はできていなかった。沖縄のゆっくりとした時間の流れの中で、言葉が自然と湧いてきたという。しかし、その悠久を感じさせる土地に、地獄のような地上戦が起きていたことを宮沢は知らなかった。  ほどなくして再訪、ひめゆり平和祈念資料館などを訪れ、元学徒隊の生き残りの女性の話に耳を傾け、激しい衝撃を受けた。 「自分は、家族が家族を手にかけるような『集団自決』(強制集団死)を生んだ沖縄地上戦の歴史を知らず、沖縄民謡にはまっていたのだと、無知が恥ずかしくなりました」  それでも宮沢にできることは歌を作ることだった。沖縄戦の惨劇を生んだ「ヤマト(内地)」から来た自分への罪悪感と懺悔(ざんげ)の念から「島唄」は宮沢の身体から放たれた。 ダブルミーニングで「島唄」は作詞作曲した 「島唄」は、サトウキビ(ウージ)畑での男女の出会いと別れを描いているが、歌詞一語一語には沖縄戦で不条理な犠牲を強いられた人々に対する哀しみと、沖縄全体を捨て石にした怒りを織り込んだ。その象徴的なパートがここだ。 〈ウージの森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら〉  宮沢は、この歌詞に「ウージの森(ガマの上)で出会った幼馴染(おさななじ)み同士がなぜウージの下(ガマの中)で互いに殺し合わなければならなかったのか」と疑問を込めた。生い茂るサトウキビの下にはガマ(壕(ごう))があり、そこで起こった住民の「集団自決」を念頭に置いた歌詞だった。  また、他が三線や琉球音階で作られているのに対し、このパートだけは、西洋音階で作った。押し付けられた戦争で死へと追いつめられた沖縄の人たちのことを思うと、沖縄の音階は使えないと考えたのだ。  ダブルミーニングで作られたこの曲は、「表」で聴くと、嵐の前の風景が思い浮かぶが、「裏」の意味は沖縄戦の犠牲者への鎮魂歌であり、沖縄の恒久的な平和を祈る歌に姿を変える。 「ダブルミーニングにしたことは、公にはしたくはなかったんです。とくに発売してから10年後までは絶対に言わないと決めていました。自分で言ってしまってはダブルミーニングにした意味がなくなってしまうし、クリエーターとしてはネタばれというか、敗北みたいなものですから。でも、各地の学校で沖縄戦の話をする機会が増えてきた時、真の意味を語ると、沖縄の歴史が伝わりやすいことが分かりました。それで語らないといけないな、と思うようになったのですが」  こうして「島唄」は完成したが、ダブルミーニングとはいえ、沖縄に縁もゆかりもないヤマトの人間に、三線を持って戦争のことを歌うことが許されるのだろうかという懸念や不安が、発売する段になって芽生えてきた。    1992年、悩んだ末に発売に踏み切った。最初は、アルバム「思春期」に収録された一曲にすぎなかったが、沖縄で「島唄」がシングルカットされ話題になった。その後、沖縄限定でウチナーグチ・ヴァージョンをリリースすると、50万枚と大ヒット。沖縄から火がつき、「島唄」のオリジナル・ヴァージョンは全国で150万枚の売り上げを記録する。  石垣島出身の民謡歌手・大工哲弘(75)は当初から「島唄」に共鳴した一人で、「ぼくも八重山の民謡とジャズをミックスしたアルバムを出して一部から批判された経験があったし、宮沢君の唄はメロディーがよかった。若い人たちからあの歌を演奏したいと言われて、やっぱりと思いました」と振り返る。  しかし、やはり一部ではあるが、「ヤマトの人間が軽々しく歌うな」とか「あんな歌なら自分でもできる」「島唄なんて軽々しく言ってくれるな」という批判が宮沢の耳に入ってきた。地元の新聞にも批判する投稿が載った。 次世代に沖縄民謡を伝える「唄方プロジェクト」発足  宮沢にとってキツかったのは〈くり返す悲しみは 島渡る波のよう〉という歌詞についての思いが伝わらないことだった。戦前、戦中、戦後にかけて沖縄から中国の大国主義やヤマトの「帝国主義」が、大切なものを奪ってきたことを「裏」で意味を込めたものだった。けれども、宮沢こそ沖縄ブームに乗っかってひと儲(もう)けしようと企(たくら)んでいる「帝国主義」じゃないか、沖縄から大切なものを搾取していこうとしているじゃないか、という批判が起きたのだ。  称賛のほうが圧倒的多数ではあるにせよ、ネガティヴな声のはざまで宮沢は葛藤し、沖縄をそれまでのように自由に旅することができなくなってしまう。   音楽生活35周年を記念したアルバム「~35~」が4月24日に発売、5月25日に(東京・日比谷野外音楽堂)、6月1日(大阪・服部緑地野外音楽堂)で記念コンサートをおこなう。6月9日には山梨県甲府市の武田神社甲陽武能殿で愛と平和を歌うLove Songコンサートを開催    このころ、沖縄と同じように宮沢の心を占めていたのが、ブラジル音楽だった。94年に宮沢は初めてリオ・デ・ジャネイロを訪れ、その文化と躍動感に圧倒される。同年に作った6枚目のアルバム「極東サンバ」は、ブラジルサウンドを取り入れたものとなり、「風になりたい」もこのアルバムに収録された。  ブラジルにのめりこんだ宮沢は、98年にすべてポルトガル語で収録したソロアルバム「AFROSICK」をリリース。それがブラジルで話題となった。ブラジルをはじめ、中南米やヨーロッパでツアーを行う。そのときに一緒に世界をまわった、国籍も音楽のバックグラウンドも違うメンバーと「GANGA ZUMBA」というバンドも結成した。  宮沢は沖縄にも向き合い続けた。「『島唄』の真意が浸透してきているな」と感じ始めた2012年、「今なら始められるかもしれない」と、以前から心に決めていた沖縄民謡をアーカイブ化する「唄方プロジェクト」に取り掛かる。大好きな沖縄民謡を次世代に伝えたいという思いだった。唄い手をスタジオに招き、時にこちらから訪ね、1人1曲、後世に残したい民謡を歌ってもらう。4年をかけて245曲を収録。沖縄民謡界の重鎮は弟子全員に声をかけてくれた。4人ほど断られたが、理由は高齢ゆえに今は歌っていないから、とか、手術したばかりというものだった。あからさまに断ってきた人は皆無だった。  沖縄発の雑誌で、宮沢も連載を持っていた「モモト」の元編集長のいのうえちず(55)は「唄方プロジェクト」に驚きを隠さない。 「プレスやパッケージの費用は寄付等で集め、沖縄や東京でおこなわれたレコーディング費用は私費でまかなったことに心底、感動しました。唄者をたずね歩くなんて、後にも先にもあんな事業は宮沢さん以外できないと思う。本気で沖縄を愛しているんだなと」  無事、17枚組のCDボックスは完成し、解説書付きで県内の学校や図書館などに寄贈された。    唄方プロジェクトと並行して、やはり宮沢は「くるちの杜(もり)100年プロジェクト」を立ち上げている。「島唄」がヒットしたため、三線が広く売れるようになり、それまで棹には沖縄産の黒木(くるち=琉球黒檀(こくたん))を使っていたのが、輸入に頼らざるを得なくなったと職人から聞かされたのだ。そこで読谷村と協力して植樹をスタートした。 「ぼくが音楽家としてできることは小さいし、あちこち手をだせない。くるちを植樹すれば100年後や200年後にこのくるちを使って三線をつくり、沖縄民謡の歌手を目指す人がいるかもしれない。ぼくは沖縄に行く前に民謡が好きになったから、民謡がずっと続いてほしい」 沖縄の犠牲者の上に我々の日常生活がある  十数年にわたって宮沢と仕事をし、宮沢が沖縄にゆかりのある人と対談した『沖縄のことを聞かせてください』を編集した安東嵩史(42)は、宮沢のことを「生真面目な人」と話す。 「この本を出した理由は、ミヤさんが沖縄をつまみ食いしてこなかった30年をまとめたかったから。沖縄の関係者で、あえて初対面の人を選び対談してもらうことでミヤさんを相対化したかった。ミヤさんはよく、『ウチナーンチュになりすますことはよくない』と言うんです」  宮沢は「沖縄に借りがある」という言い方もする。それは、故郷である山梨県にもかつて米軍の海兵隊が駐屯していたが、「富士に銃口を向けるのか」というスローガンのもと、基地の撤退運動があり、沖縄に移駐したことによる。 「沖縄の人の20万の犠牲者の上に、いま我々がおいしいものを食べたりできる。それは借りがある、ということでしょう」 頻繁に沖縄に足を運ぶが、「一定の距離をおかないと、沖縄で迷子になってしまう気がするんです。逆に沖縄が見えなくなっちゃいそうで。境界線に立って、自分のできる『係』を探したい」(撮影/松永卓也)    2022年、沖縄と東京で開催された沖縄本土復帰50年を祝う「沖縄復帰50周年記念式典」のフィナーレで、沖縄の会場から「島唄」を歌った。しかし、最初は断ろうと思ったと言う。復帰50年は祝うものではないし、米軍基地は残ったままだと反対する人たちも多いからだ。 「歌ってよかったと断言することはできないけれど、引き受けたのは二つ理由があります。一つは、じゃあこれを誰がやるんだ、ということです。フィナーレを沖縄の人がやると県内で対立する声の渦に巻き込まれるかもしれない。活動しにくくなったりしたら大変だろうなと思いました。やるなら、ぼくぐらいがちょうどいいんじゃないかと思ったんです。ぼくだったら反対している人から何を言われてもいい。もう一つの理由は、日本の国内的にも、外国に対しても復帰50年の式典はきっちりやったほうがいいと思ったからです。いろいろな意味で忘れてはいけない大事な日だから」  その楽屋では、いまも過大な基地負担が続くことへの抗議のシュプレヒコールがずっと聞こえていた。  今でも、特に年配の人の中には、どうしてもヤマトは赦せないという人はいる。1609年に薩摩が琉球を制圧してから今日まで、沖縄は頭ごなしに押さえつけられてきている。今でも米軍基地を押しつけ、米兵の犯罪もやまない。政府は沖縄のことを知らないし、知ろうともしていない。沖縄に縁もゆかりもないからこそ、宮沢は学び続けてきた。ぼくぐらいがちょうどいい──という言い方は、沖縄の複雑な地肌を感じ取り、懊悩(おうのう)を抱えつつも腹を括って歌ってきたからこその言葉だろう。 「ぼくの名前を知らなくてもいいし、『島唄』だけ知ってくれたらいい。平和を祈る歌だから、究極的にいえば『島唄』が消えていってもいい。平和な沖縄があれば祈らなくていいんです」  真顔を崩さずにさらりと言った言葉が、胸に刺さった。 (文中敬称略)(文・藤井誠二) ※AERA 2024年5月13日号  
現代の肖像
AERA 2024/05/10 18:00
いぎなり東北産、【北東北ゴールデンめぐり】ツアーを岩手で締めくくる
いぎなり東北産、【北東北ゴールデンめぐり】ツアーを岩手で締めくくる
いぎなり東北産、【北東北ゴールデンめぐり】ツアーを岩手で締めくくる  ゴールデンウィーク中に実施されたいぎなり東北産の北東北ツアー【北東北ゴールデンめぐり】が、5月6日のトーサイクラシックホール(岩手県民会館)での公演をもってファイナルを迎えた。奇しくもこの日は岩手県出身・桜ひなのの20歳の誕生日当日。彼女へのバースデーサプライズも飛び出した2部公演の公式レポートが到着した。 今回の北東北ツアーは、東北という彼女たちのホームでありながら、最近なかなか足を運ぶ機会がなかった青森、秋田、岩手の3都市で実施された。中でもファイナルとなった岩手公演は、ゴールデンウィーク最終日、そしてメンバーの桜ひなのの誕生日というメモリアルも重なったこともあって、開演前から観客のボルテージはすでに最高潮といった様子を見せていた。 開演時間となり、場内BGMに合わせて飛んで跳ねてのコールを巻き起こす観客側。そんな盛り上がりに張り合うかのように、暗転した会場にはけたたましい陽気なラテンのリズムが鳴り響く。「全力で楽しもうね!」とメンバーがステージへと駆け込み、「テキーナ」からライブはスタート。きらびやかなライトに照らされたステージに向けてペンライトを掲げて踊るオーディエンスは、吉瀬真珠の「大好き!」のキラーフレーズに射抜かれて大興奮の声を上げる。さらにあざと可愛いが詰まった「沼れ!マイラバー」で、今夜もまた彼女たちの一挙一動に視線釘付け。ホールの体感温度も季節先取りの熱中症になりそうなほどに上昇していた。 最初のMCで、桜ひなのは「今日は私の誕生日、そして私の地元ということで、岩手の力を借りたいと思います。」と、挨拶。次の瞬間、ステージに手をついて、気合いの声とともに、地面から大地のパワーのような何かを取り込む(?)。そして、おもむろに「ムキッ」とつぶやきながら、客席に向かってボディービルダーのような仕草で上腕二頭筋をアピール。冷静に考えるとまったくもってよくわからないものの、観客からはそんな桜に大歓声が送られていた。 ライブ前半は、4月の春ツアー最終日にリリースされた彼女たちの3枚目のアルバム『東北産万博』収録曲が立て続けに披露された。それぞれメンバーカラーのTシャツをアレンジした衣装で、ステージを縦横無尽に動き回る「大勝利宣言」に、現代社会をゾンビに見立てて反骨心を歌い上げた「ゾンビソサエティー」。さらにキュートと狂気が同居するベイビーベイビーおベイビーな「狂くるどっかーん」では照明演出で会場壁面にもくるくると光の輪が描される。一方、「恋愛フィルター」では、いぎなり東北産メンバーがステージパフォーマンスで切ない恋心を表現する。そして伊達花彩と桜ひなののふたりがそれぞれボーカリストの顔で立ち向かう「轟」に、チーム東北産の体験談や感情が盛り込まれた「東京アレルギー」。 セットリストとして並べられると、アルバム『東北産万博』が、万博の各パビリオンのようにいぎなり東北産の様々な魅力をパッケージングした作品であることにあらためて気付かされる。同時に、いぎなり東北産は様々な角度からのアプローチが必要となる楽曲群を見事に表現しきる力量を持ち合わせているグループであることを思い知らされた。 中盤には、いぎなり東北産恒例の企画コーナーが用意された。観客を3つのグループに分けてのジェスチャーゲームでは、「領域展開をする大谷翔平」や「ぴょんぴょん舎に行く皆産(※いぎなり東北産ファンの呼称)」といった、岩手と関わりのある人や場所がお題として出され、オーディエンスは頭を捻りながらも必死にジェスチャーで正解をメンバーに伝えようとしていた。 そして今回のツアーの見どころのひとつとなっていたのが「恋はじめ」。昔からこの曲がセットリストに組み込まれる際には、いぎなり東北産は何かしらのチャレンジを行なうのがお約束。昨年夏に山形で開催された8周年イベントでは、ステージに流しそうめんを設置して、そうめんを食べながらこの曲を歌っていたことを記憶している人もいるかもしれない。 今回の北東北ツアーを通じて彼女たちが挑戦することなったのは、けん玉。年末の歌番組で話題になることもあるけん玉チャレンジだが、今回はメンバー全員で16回連続成功を目指す。なお成功した暁には、特典としていぎなり東北産沖縄公演の開催決定がプレゼントされるという。 「ゆっくりでいいから落ち着いていこう。私たちならできる。私たちならできる。けん玉絶対成功させるぞ!」 リーダー・橘花怜を中心に、メンバー全員、ライブ前よりはるかに気合いの入った円陣をステージ上で組んで、絶対負けられない戦いに歩みを進める。「恋はじめ」のイントロが流れ出すと、ひとりずつけん玉に向き合い、そして成功させていく。思えばツアー初日には全然上手くいかなかった。しかし、そこから彼女たちはそれぞれ自主練に励み、沖縄にもあと一歩のところまで個々のけん玉スキルを引き上げてきた。 そんな練習の成果と本番での勝負強さを存分に発揮して、本公演では連続成功10回を突破。客席からも熱い視線が注がれ期待も一気に高まる。沖縄の青い海と白い砂浜もチラチラと脳裏をよぎり始めてきた。まもなく運命の16回。「恋はじめ」もそろそろアウトロに差し掛かるという、これはもう誰の目から見ても完全に物語のクライマックス。 こんなタイミングで、笑いの神はいぎなり東北産へと微笑む。 栄光にむけて葉月結菜が手にしたけん玉は、ふわりと弧を描いたものの、玉はけんの先にある大皿の縁にあたり、無情にもこぼれ落ちてしまう。痛恨の失敗。結果、「次の曲に行けないよ……。」と、メンバー全員がステージに倒れ込んで曲が終わる。コントとしては100点満点の見事なオチは、観客の笑いと交通費や宿泊費の心配が不要となった大人たちの安堵を誘っていた。 後半戦は、律月ひかる、葉月結菜、安杜羽加、北美梨寧、吉瀬真珠の年上組ユニット・とうほくちゃんによる「未成年」が、20歳を迎えた桜ひなのへのエールのように会場に響きわたる。さらにメンバー全員の気持ちをひとつにして未来への決意を歌い上げるバラード「I decided」をしっかりと聴かせる。そして「みなさん盛り上がってくれますか! 行動で示してくれますか!」と桜ひなのが煽ってのラストスパートは、ライブで盛り上がる東北産楽曲がこれでもかと並ぶ。メンバー側が全力で歌えば、オーディエンスも力の限りのコールで応える「シャチョサン」に、会場全体がパーリーピーポーとなる「うぢらとおめだづ」では、“夏には沖縄行こう♪”や“コスプレ沖縄集合♪”“沖縄行きたい♪”などなど、沖縄を諦めきれない気持ちをこれでもかとアドリブで歌詞に盛り込んで場内を沸かせる。そしていぎなり東北産の伝家の宝刀「天下一品 ~みちのく革命~ 2020ver.」で、ステージ側も客席側も荒ぶる感情を全力でぶつけ合い、今日のライブを全身全霊で堪能するのだった。 北東北ツアーの最後を飾ったのは「feeling」。曲が始まると、夜の帳が下りていく途中の街並みのように、客席側の至るところでオレンジの光がひとつ、またひとつと灯っていく。それは桜ひなののメンバーカラーのペンライトを一斉に灯すというファン主導のバースデーサプライズ。右へ左へとたなびくように揺れる暖かな光が広がる光景を目にして、桜はたまらず声を震わせる。そんな彼女の隣でそっと肩を並べるメンバーたちと、客席からそんなステージの様子を笑顔で眺めるいくつもの眼差し。 いぎなり東北産の【北東北ゴールデンめぐり】は、いろんな人のやさしさに満たされて、無事にその幕を下ろしたのだった。 北東北で皆産から熱いエールを受けたいぎなり東北産は、ここからいよいよ年末のパシフィコ横浜リベンジ公演に向けて動き出す。初夏から夏にかけては、【TOKYO IDOL FESTIVAL 2024 supported by にしたんクリニック】を筆頭に【クロフェス2024~5周年だよ!全員集合だしん!~】【OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL Special Live 「POPPIN’BASE in KYOTO 2024」】といったフェスに出演が決定しているほか、6月29日にはつばきファクトリーを迎えての主催ツーマンライブ【A LIVE SENDAI Vol.2】を実施。そして7月26日には【東京ワンマンライブ ~年末への前哨戦~】と銘打った公演をかつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホールにて開催する。 「今日はみなさん来てくれてありがとうございました! 私事ですが、私も20歳にならせていただきまして。お母さんやお父さん、お兄ちゃん、おじいちゃんおばあちゃん、甥っ子。たくさんの方々の力を借りて、わたしはここまですくすく育ちました。でも私の人生の半分は本当にいぎなり東北産で。20年間の半分くらいを東北産とともに歩んできました。その人の人となりって、一緒に関わってきた人によって変わってくると思うんですよ。だから、私の人格は、ほぼ皆産とかメンバーとか、家族とか。そういう方々で作られてきて、だからこんなにいい子に育った……だって、この中に極悪人がいたら、私も極悪人になってるかもしれないし。だけど、こんなに素直で、こんなに可愛くて。可愛い子に囲まれたし、性格いい人に囲まれたから、私もこうやって素直にすくすくといい子に育ったと思っています。本当にありがとう。信頼できる人間がこんなにたくさんいるのってすごいと思うし。こうやって【北東北ゴールデンめぐり】ツアーがあって、みなさんに会う機会ができて、誕生日も祝ってもらえて、お仕事なのに全部幸せで、全部みんなが……(涙で声が詰まる)。言葉で伝えるのって簡単なんですよ。でも皆産はこうやって行動で示してくれて。飛行機も宿泊代も最近高いじゃん? なのに全通とかしてくれたりする人もいて。私たちのことを飽きずに好きでい続けてくれる人とかいてくれるし。みんな素敵な人だから、自信持ってほしいです(号泣)。いつも“もんちゃんが頑張ってると僕も頑張れるよ。”って言われるんですけど、それはこっちの台詞で。みんなが頑張ってお金稼いできたり、仕事終わりにスーツで駆けつけてくれる人もいるじゃん?そういう人を見て、私も頑張らなきゃって思っています。すごい本当にありがとうございます!」── 桜ひなの取材・写真・文:Yosuke TSUJI 【北東北ゴールデンめぐり】2024年5月6日(月・祝)岩手・トーサイクラシックホール(岩手県民会館)2部 セットリスト1 テキーナ2 沼れ!マイラバーMC3 大勝利宣言4 ゾンビソサエティー5 狂くるどっかーん6 恋愛フィルターいぎなり魔曲7 轟8 東京アレルギーMC(企画コーナー)9 恋はじめ(けん玉紅白超えチャレンジ)10 未成年11 I decidedMC12 シャチョサン13 うぢらとおめだづ14 天下一品 ~みちのく革命~ 2020ver.15 feeling
billboardnews 2024/05/09 18:21
<フジロック’24出演>レイ(RAYE)が語る、インディーズでの全英1位獲得&【BRITs】歴史的快挙への軌跡
<フジロック’24出演>レイ(RAYE)が語る、インディーズでの全英1位獲得&【BRITs】歴史的快挙への軌跡
<フジロック’24出演>レイ(RAYE)が語る、インディーズでの全英1位獲得&【BRITs】歴史的快挙への軌跡  約3年前、レイ(RAYE)は自身のレーベルの状況について、「ベッドから出たくないし、孤独を感じている」とツイートした。2014年に契約したポリドールは、彼女のシングルが一定の商業的成功を収めない限り、楽曲のリリースを禁じていたのだ。そんな彼女は現地時間2024年3月2日、【ブリット・アワード2024】(BRITs)で7つのノミネートのうち6つを獲得し、それをすべてインディーズという立場で達成した。 【ブリット・アワード】の翌日の月曜日、レイはGoogle Meetで米ビルボードとのインタビューに応じ、「2日間の二日酔いから回復中」だと明かした。この高く評価されたシンガー・ソングライターは、<最優秀新人賞>、<R&Bアクト賞>、<最優秀ソングライター賞>、<最優秀楽曲賞>(ラッパーの070シェイクをフィーチャーした「Escapism」)、<最優秀アーティスト賞>、<最優秀アルバム賞>(『My 21st Century Blues』)の6部門を受賞し、当然ながら週末を祝って過ごしていたのだろう。特に<最優秀アルバム賞>が一番意義深かったという彼女は、「子どものように号泣しました!」と述べた。 レイを現在の世界的なポップスターの時代へと導いた音楽ディストリビューション会社、ヒューマン・リ・ソーセス(Human Re Sources)の創設者であるJ・アーヴィングが、彼女の後ろに置かれた巨大なテディベアの椅子の上でくつろいでいる。Google Meetのウィンドウとしてはなかなか絵になる光景だ。この巨大なテディベアは、ナイジェリア出身のDJ兼プロデューサーのDJカッピーからの贈り物で、ポリドールからの移籍後にレイに贈られた。彼女は、「(アルバムの)ボーカルとかを仕上げている時、私はそのテディベアの上にいたんです!」と明かす。 そのアルバムとはもちろん、大胆不敵なソングライティングと大げさなボーカル・パフォーマンスが刺激的な力作である『My 21st Century Blues』だ。レイはビッグ・バンド・ジャズ、ブーンバップ、ゴスペル、ダンス、R&Bを含む広大なサウンド・パレットに乗せ、性的暴行のトラウマ、身体醜形障害、薬物乱用、信仰の旅、そして一般的な実存主義などと向き合っている。まさに万華鏡のようなこのアルバムは、レイがかつて所属していたレーベルから受けたメッセージ、そして彼女の特異な芸術的ヴィジョンを剥奪しようとした他のレーベルへの完全なアンチテーゼとなっている。 2021年7月にポリドールと別れたレイは、ディストリビューションを中心とした音楽&エンターテインメント会社であるザ・オーチャードの子会社、ヒューマン・リ・ソースと契約した。そこから彼女は、“最も協力的で美しいチーム”と共に、デビュー・アルバムのためのキャンペーンを適切に展開し、【ブリット・アワード】での歴史的な夜まで駆け抜けた。授賞式でレイは、 「Prada」(2021年のディーブロック・ユーロップとのコラボ曲「Ferrari Horses」をCassoのプロデュースでリワークしたバイラル・ヒット)のオーケストラ・アレンジ、UKチャートで首位を獲得した「Escapism」、そして音楽プロデューサーから受けた性的暴行について歌った痛ましい「Ice Cream Man」などからなる人目を引くメドレーを披露した。  授賞式の数日前にツアーを終えたばかりだったため、リハーサル期間が短縮されたものの、レイにとってこのメドレーは至福の凱旋の瞬間だった。「あのピアノの前に座った瞬間、その夜初めて本当に心が安らぎました。私はステージの上でとてもくつろげるんです……ここが私のいるべき場所だと感じるんです」と彼女は述べている。 しかし、【ブリット・アワード】のステージでくつろぐためには、レイはまず、独立したばかりのアーティストとしての旅路で、新たなパートナー(会社)を安息の場所にしなければならなかった。アーヴィングは、「レイは船の船長でした。僕が最初に聴いたこのアルバムは、まさにリリースされたアルバムそのものでした。我々の仕事はレイの邪魔をせず、できる限りのサポートをすることでした。我々はとても機敏にもなれますし、何かが活気づき始めたらすぐに動くことができますが、レイが今やっていることに青写真はないんです」と話している。 アルバム時代の成功だけでなく、熱狂的なファンベースと確固たるキャリアを築き上げるという進歩的なアプローチが、レイが「Escapism」の勢いを1年間維持することを可能にした。2022年後半にTikTokで人気を集めた「Escapism」は、翌年1月には彼女と070シェイクにとって初の全英1位を獲得した。『My 21st Century Blues』はその翌月(2023年2月3日)にリリースされ、UKアルバム・チャートで2位を獲得した。ここ数年のレイの驚異的な成長の原動力が「Escapism」だったことはまさに彼女らしいと言える。この夜っぽいエレクトロ・ポップ/ヒップホップのハイブリッドは、意味のないセックス、パーティー、ドラッグを通して現実逃避と傷心を怯まずに見つめ、オーディエンスを熱狂させた。つまり、従来のレコード会社が警戒していたレイのレコードそのものだったのだ。  レイは、「本当に、私たちが出向いてこの音楽を聴いてもらったところのうち、楽曲がそのままでOKというところはほかに一つもありませんでした。“レイは好きだけど、もう1回やる必要がある”というのがほぼ一致した意見で。“我々が決めたい、我々がコントロールしたい、我々がA&Rしたい”というような話ばかりでした。私は今、ようやく独立して、またすべてを手放す必要がないところまで来ました。もうそんなことはしません」と語っている。 ヒューマン・リ・ソーセスで、アーヴィングはレイと『My 21st Century Blues』のために、自由放任と同じくらい反応の早いチームと戦略を組み立てる手助けをした。彼は、「これはソウル・フードです。調理に少し時間がかかりますが、電子レンジで作るものよりずっと満足感がある。レイが特定の1曲よりも大きな存在であるという啓示を人々が毎日のように受けています。彼女が行ってきた公演やサポート公演、客席と近い空間でのライブの数々によって、本物のオーディエンスやファンベースが形成されているんです。大事なのは、ちゃんと聴いてくれる人たちを惹きつけることです」と述べている。 レイと彼女のチームは、どの楽曲が全力でプロモーションするにふさわしいかを計画したり予測したりする代わりに、ただ音楽がリスナーとつながり、リスナーが反応するものに応えるようにした。例えば、レイは米国でのいくつかのライブで「Prada」をピアノで演奏したあと、この楽曲の公式アコースティック・バージョンをストリーミング配信し、その結果、独自のTikTokトレンドが生まれた。「Prada」は最終的にUKチャートで2位、米ビルボードの“Hot Dance/Electronic Song”チャートで5位を記録した。  レイの勢いを維持するためのその他の重要なプロモーション活動としては、目を見張るようなミュージック・ビデオや盛り上がるライブ・パフォーマンス映像のほぼ絶え間ない流れや、『My 21st Century Blues』を引っさげたヘッドライナー・ツアー、シザ、カリ・ウチス、ルイス・キャパルディのツアーでのオープニング・アクトを含むステージで埋め尽くされた一年があった。最近では、英ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでヘリテージ・オーケストラとフレイムズ・コレクティブと共に出演したライブ・コンサート『My 21st Century Symphony』を撮影し(2023年9月26日)、この模様は英BBCで放送され、ライブ・アルバムもリリースされた。 レイは自身のプロモーションへのアプローチについて、「私たちが計画したり、それなりにコントロールできたのは芸術だけでした。私たちは、何が“大ヒット作品”になるか計画できない、奇妙で美しい時代にいます。私はライブをしたり、サポート・アクトとしてライブをしたり、プロモーションしたり、SNS関連もしてきました。最終的には、芸術が最も多くの人の耳に届くよう可能な限り最高のチャンスを与えることです」と話している。 レイはヒューマン・リ・ソーセスで、アーヴィングという同じ考えを持つパートナーを見つけた。ブレント・ファイヤズやピンク・スウェッツのような著名なインディペンデント・アーティストのキャリアの立ち上げを手助けした会社を設立したアーヴィングは、単なる配給会社以上のものを育てることができた。 「J(・アーヴィング)に会った時、他の誰とも違っていたのは、彼が実際に音楽を気に入ってくれたことでした。“君を信じている”と言ってくれたんです」とレイは振り返り、「(ヒューマン・リ・ソーセスが)理にかなった唯一の選択肢です。ここだけが、誰かが私を導こうとしたり、舵取りをしたり、何をすべきかを指示したりする心配をしなくていい場所なんです」と話している。 レイは、ヒューマン・リ・ソーセスで人間として、アーティストとして、そして明確なビジョンを持った人物として話を聞いてもらえて尊敬されていると感じたことに加え、ヒット曲から正当な金銭的リターンを得られる契約を獲得した。これは、ほとんどのアーティストにとって権利ではなく、不当に特権的なものだった。自身の音楽の権利を売ることを決めるアーティストが増えている中、レイのヒューマン・リ・ソーセスとのパートナーシップの成功は、アーティストにとって別の選択肢を示唆している。アーヴィングによれば、レイは現在自身のカタログを所有しており、永続的に収益を上げ続けることができる。これは、彼女が【ブリット・アワード】で祖母のアガサ・ドーソン=アモアをステージに上げて賞を受け取ったときに披露したレガシーに加わった実利だ。 レイは、「自分のレコードで実際にお金を稼ぐ!それがどんなに素晴らしいことかわかります?自分たちの楽曲でお金を稼いでいるんです。出版や作詞作曲の面だけでなく、実際に売り上げがあるんです。それがあるべき姿なんです」と話す。 現在【ブリット・アワード】で6つの賞を受賞しているレイは、世界を制覇するインディーズ・アーティストとしてのキャリアの次の段階に照準を合わせている。彼女は、“これまで頑張ってきたことを心の中で整理する”ために、そしてまた作詞作曲を始め、“プロデューサー・バッグに入る”準備をするために2週間の休暇を取る予定だ。米TV番組『サタデー・ナイト・ライブ』(4月6日)、【コーチェラ】(4月13日、20日)、【FUJI ROCK FESTIVAL】(7月28日)、英【リーズ・フェスティバル】(8月25日)など、いくつかのパフォーマンスが控えており、結局のところ勢いがすべてであるため彼女は”ただ進み続ける”のだ。  しかし、レイが【ブリット・アワード】の歴史的な一夜に残したいと願うレガシーがあるとすれば、それは自身が、そしてすべてのアーティストが、外での功績よりも自分の芸術に誇りを持つことを優先すべきだということだ。 「私は自分の音楽と芸術に夢中になっているアーティストです」と彼女は述べ、「【ブリット・アワード】でのような一夜を幸運にも過ごすことができたとしても、自分の芸術についてそう感じることができなかったとしたら、私は何のためにそれをやっているのでしょうか?【ブリット・アワード】でのような一夜を過ごしたとしても、(さまざまなことを)やったりやらなかったりした2年がなかったとしても、自分の音楽に対する思いは変わりません。それが大事なんです」と語っている。By: Kyle Denis / 2024年3月14日 Billboard.com掲載◎公演情報【FUJI ROCK FESTIVAL '24】期間:2024年7月26日(金)、27日(土)、28日(日)会場:新潟県 湯沢町 苗場スキー場※レイの出演は28日となります。<2次先行販売>3日通し券:54,500円、1日券:24,500円、金曜ナイト券:16,000円3月1日(金)~5月30日(木)<一般発売>3日通し券:60,000円、1日券:25,500円、金曜ナイト券:16,000円5月31日(金)~Under22/18<2次先行販売:Under22>1日券:18,000円<2次先行販売:Under18>1日券:9,000円3月1日(金)~5月30日(木)<一般発売:Under22>1日券:18,000円<一般発売:Under18>1日券:9,000円INFO: SMASH
billboardnews 2024/05/08 18:16
「木村沙織」35歳で長男を妊娠するまでに起きた“予想外のアクシデント” あまりの激痛に「意識が飛べばいいのに…」
平尾類 平尾類
「木村沙織」35歳で長男を妊娠するまでに起きた“予想外のアクシデント” あまりの激痛に「意識が飛べばいいのに…」
木村沙織さん(撮影/写真映像部・上田泰世)    女子バレーボール史上初となる4大会連続の五輪出場、さらに世界選手権に3度、ワールドカップに4度出場を果たした、元日本代表のエース・木村沙織さん(37)。2017年に現役を引退した後は、大阪市内にカフェ「SUNNY Thirty Two Club」をオープンしたことでも話題になった。昨年2月に長男・煌太郎くんを出産し、現在は子育てと仕事の両立のため関東に拠点を置いて生活を送っている。【前編】では不妊治療の末に授かった長男への思い、現役時代に世界最高峰のトルコリーグで挑戦した際に衝撃を受けたという子育て環境などについて語ってもらった。 *  *  * ――煌太郎くんを出産して1年2カ月がたちました。  毎日成長して、日々できることが増える姿を見るのが楽しいですね。赤ちゃんのときにはちょっと夜泣きがありましたけど、私が寝不足になるほどではなかったですし、育てやすい子だと思います。まだ会話はできないですが、もうバタバタと走ったりはしているので、成長は順調なほうなのかな。生まれたときは3316グラムだったんですが、この前、予防接種のために病院に行ったときに、体重を計ってもらったのですが、新生児用の12キロまで計れる体重計でエラー表示が出たので「12キロ以上はあるから、2~3歳児ぐらいの大きさかな」と言われました(笑)。すでに足がしっかりしているので、動くことが好きな感じはします。 木村沙織さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   今まで味わったことのない激痛 ――それは将来有望ですね。バレーボール選手になってほしい思いはありますか。  全然ないです(笑)。ただ、もちろん、バレーをやりたいなら「どうぞ、どうぞ」っていう感じですが。旦那さん(日高裕次郎さん)も私もしてきたことですし、チームスポーツで人間のつながり、思いやりなどプレー以外にも集団行動で学んだこともたくさんありますから。でも、バレーをやってほしいと誘導はしたくないし、自分の興味を持ったものをやってほしいですね。 ――木村さんは36歳のときに出産されました。出産を振り返ってみていかがでしたか。  昔から子どもは望んでいました。いろいろな情報をネットで見たり、不妊治療している人のブログを読んだりしていましたが、なかなかできない期間が長くて……。不妊治療をしていることはあえて言う必要がないかなと思っていました。というのも、子どもを望んでいる方がいれば、そうでない方もいる。生き方はそれぞれですし、今はインタビューで聞かれればお答えしていますが、出産当時は自分から発信はしませんでした。 ――子宮内膜症の一種である「チョコレート嚢胞(のうほう)」で緊急入院した時期もありました。  妊娠を望んでいたことをきっかけに行った病院でチョコレート嚢胞が見つかりました。そこで薬を服用することになり、手術する日も決まっていたんですけど、急に破裂してしまいました。その日は大阪で開いていたカフェのオープン当日だったのですが、今まで味わったことがない激痛でした。現役時代もケガとかいろいろありましたけど、経験したことがない痛みで、救急車で運ばれるときも「意識が飛べばいいのに。意識がなくなってくれ」と思っていたくらいです。 トルコリーグへの移籍を発表したときの木村沙織さん(2012年7月)   トルコで感じたバレーと子育ての両立 ――想像を絶しますね……。手術後はいかがだったでしょうか。  専門医の先生に「おなかの中がきれいになったから妊娠しやすくなるよ」と言われたんですけど、その後もなかなかできなかったです。妊活の専門的な病院に通って、年齢的にも欲しいなあと思ったときに妊娠しましたが、体調はずっと安定しませんでした。先生からは「もしかしたら最悪のパターンも考えてね」と言われていたので、安心することはありませんでした。 ――そのぶん、出産したときの喜びは大きかったかと思います。  そうですね……感激しましたね。この世に生まれてくれてありがとうという思いになりましたし、生まれてきてくれた息子に感謝しています。出産は普通分娩だったんですが、こんなに大変なんだという思いとやっと終わったという感情が入り混じって不思議な感じでした。旦那さんは喜びを無言でかみしめていたので、私が話しかけたら「幸せかみしめたいから黙って」と言われました(笑)。驚いたのは赤ちゃんが男の子だったことですね。私も旦那さんも妹がいて、めいっ子もいて女の子ばかりなので、私の子どもも勝手に女の子と思っていました。だから、女の子の名前しか考えていなくて(笑)、義理の祖父が第1希望で考えてくれた煌太郎に決めました。 大津で引退報告をした木村沙織さん(2017年12月)   ――高校、東レの先輩で日本代表でも共にプレーした荒木絵里香さんは2014年1月に女児を出産後、当時は異例の現役復帰を決断して、21年までプレーしました。女性アスリートの出産を取り巻く環境も変わってきていると感じますか。  少し前までは、子どもが欲しいならバレーをやめるという選択が主流でしたが、今はいろいろな生き方が尊重される世の中になっているように感じます。岩崎こよみ選手(埼玉上尾メディックス)が出産後に復帰して今年も日本代表に選ばれていますし、赤ちゃんを望む人がバレーを続けられる選択肢は広がっているのかなと。  私は現役時代にトルコで2シーズンプレーしたのですが、バレーだけでなく、一人の女性の人生を尊重してくれる文化でした。「妊娠したから休むよ」っていなくなって、「子どもが生まれたから復帰するね」ってフランクに戻ってくる。びっくりしました。日本だったら「この時期にいなくなるの?」って一大事になるけど、トルコでは選手が出産して現役復帰するのが日常の光景でした。練習中も体育館で子どもが遊んでいて、練習試合でコートに入ってきて中断したりしたこともありました(笑)。子どもと一緒にいられる環境が自然にありましたね。 木村沙織さん(撮影/写真映像部・上田泰世)   女性アスリートの体調への理解 ――近年は日本でも女性アスリートのコンディションを理解する動きが高まっています。  現役でプレーしていたときは女性の体調がフォーカスされることが少なかったし、むしろ隠すことが多かったので良いことだと思います。私は生理痛がひどすぎて、コンディションが上がらない時期がありました。試合のパフォーマンスも良くなくてチームに迷惑を掛けていたので、ドクターと相談してピルを飲むようになりました。当時は自己管理で何とも思わなかったけど、現役引退後も人生は続きます。アスリートは体に大きな負担がかかりますし、生理痛や子育てへの理解がもっと広がればいいと思っています。 ――アスリートの前に女性として幸せを感じる環境づくり、社会の理解の重要性を痛感します。  そうですね。出産後に現役復帰する選手が増えていますが、子育てとバレーを両立させる環境が重要です。子どもを預ける場所やシッターの普及など、サポートする体制がさらに充実してほしいですね。もちろん、日本も良い部分はたくさんあります。時間にきっちりしているし、急に試合がなくなったりしない。トルコでは遠征が急になくなったり、練習だと思ったら試合に変更になったりして、「ユニホームないんだけど」みたいな(笑)。そういうことが日常茶飯事なので、海外での生活を経験してちょっとしたことでは動じなくなりましたね。 ※【後編】<元女子バレー日本代表「木村沙織」ずっと夢だったカフェは「やりきった」 家族が増えて挑戦したい“次のステージ”>に続く (聞き手/構成 平尾類) ●木村沙織(きむら・さおり)/1986年8月19日生まれ。東京都出身。小2からバレーボールを始め、成徳学園中学で全日本中学校バレーボール選手権大会優勝。成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に進学すると、2003年(高2)の春高バレーで大会連覇に貢献する。同年に日本代表に選出され、04年のアテネ五輪に出場。東レ時代はエースとして活躍し、12~14年は世界最高峰のトルコのクラブでプレーした。女子バレーボールで史上初の4大会連続五輪出場。12年のロンドン五輪で28年ぶりの銅メダル獲得の立役者になった。16年に元バレーボール選手の日高裕次郎さんと結婚し、昨年2月に長男・煌太郎くんを出産した。
木村沙織女子バレーインタビュー
dot. 2024/05/07 11:00
キャリアのために「早く産む」という選択 晩産化傾向ストップした日本社会の変化とは
井上有紀子 井上有紀子
キャリアのために「早く産む」という選択 晩産化傾向ストップした日本社会の変化とは
2023年に国内で生まれた日本人の子どもは、過去最少の72万6千人(推計)。少子化が加速する中、働きながらも産み育てたいと願う女性は多い(撮影/写真映像部・東川哲也)    2023年に国内で生まれた日本人の子どもは過去最少の72万6千人(推計)。少子化が加速する中、晩産化傾向には歯止めがかかっているという。AERA 2024年4月29日-5月6日合併号より。 *  *  *  バリバリ働いて、キャリアを積んでから、いつか子どもを産む。そんなイメージが変わりつつある。 「キャリアを積んでからの出産ではなく、早く子どもを作ったほうがいいんだなと思った」  そう振り返ったのは、東京都内の情報通信系企業で働く女性(38)。現在7歳と1歳の2人の子どもの子育て中だ。  女性は、本社勤務だった20代半ばの頃、あまりの激務で自分のことで精いっぱいだった。「子育てと仕事の両立なんて無理」と感じていたし、少し上の世代の先輩たちはキャリアを積んでから30代後半以降で出産しているイメージだったので、自分もそうなると思っていたという。  だが、ある時、10歳上の女性の先輩が、不妊治療をしていると知った。忙しい中、治療を続けているが、なかなか子どもに恵まれない様子だった。  その頃、男女ともに加齢によって妊娠する力が低下すること、特に女性の場合は35歳前後から低下し始めることが、テレビなどで報じられていた。28歳で結婚した直後、支社に異動になり、忙しさも落ち着いた。35歳までに子どもを2人産みたいと考えていたが、すぐには子どもに恵まれなかったので、不妊治療を経て31歳で第1子を出産した。  厚生労働省の人口動態統計によると、第1子出産年齢の平均は、1975年の25.7歳から、右肩上がりとなり2015年に30.7歳まで上昇したものの、以降は横ばいが続く。22年は微増したが30.9歳だ。働く女性の増加に比例して続いていた晩産化傾向に歯止めがかかっているのだ。 AERA 2024年4月29日ー5月6日合併号より   第1子は30代前半で  AERAが今年4月にインターネット上で実施したアンケートでも「望ましい第1子の出産年齢」は30代前半という回答が最多で、20代後半という声も目立った。その理由のほとんどが、体力面や妊娠できるリミットを考えたというものだ。 「最初の妊娠は29歳でしたが、結局出産にこぎつけたのは33歳。30代では体力が追い付かない。できれば20代後半には第1子を産めたほうが余裕があると思います。特に私は夜泣きがひどい子どもを連続で2人育てたため、2人目が幼稚園に入園するころまで、6、7年毎晩起こされていました。これはきつかった」(東京都・教育学習支援契約社員・30代)  自分の身体と向き合い、早い段階から出産の時期について考えることは、働く女性こそ必要なことかもしれない。AERAアンケートには、50代を中心に「タイミングを逃した」という意見があった。 「子どもを持ちたいと思った時には年齢が高すぎた。個人事業主は自分のペースで働けるからこそ、健康であればあるほど『卵子老化』になかなか注意がいかない」(東京都・個人事業主・55歳)  今の50代は、1970年代前半に生まれた団塊ジュニア世代だ。少子化問題に詳しい日本総研・上席主任研究員の藤波匠さんは、時代背景をこう説明する。 「当時は大学への進学率が上がって、社会に出るのが遅くなった一方で、社会に出る頃にはバブルが崩壊して、希望の仕事に就けなかった人が多い世代です。そのため、結婚、出産が後ろ倒しになった人も多くいます」 子育て支援策の成果  第1子の出産年齢が横ばいになった起点は15年。政府が高齢者向けだった消費税の使い道を少子化対策にも広げ、「子ども・子育て支援新制度」がスタートした年だ。同制度は、子どもの年齢や親の就労状況などに応じた多様な支援を用意することを掲げたもので、保育の量の拡充と質の向上に向けた動きが加速した。  日本総研の藤波さんは言う。 「晩産化の歯止めになった要因として、妊娠の年齢的なリミットについての認知度向上のほか、社会的な子育て支援策の成果があったと思います」 育休など両立支援制度の広がりで、出産後も働き続ける女性は多い。子どもの急な体調不良など、綱渡りの日々が続く(写真:gettyimages)    藤波さんによると、約10年前までは、保育所が足りず待機児童が社会問題となった。結局、賃金が安くて、定期昇進の可能性の低い妻の方が仕事を休んだり辞めたりすることがよくあったという。保育所に預けられず、復職できない問題もあった。16年には、保育園の抽選に落ちた親のブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」が話題になった。  AERAアンケートにも、約10年前に出産した女性のこんな声が寄せられた。 「出産のために仕事をやめた。働きたくても保育所は入れず、小学校に上がるタイミングまで就活できなかった」(大阪府・医療契約社員・47歳)  この10年で、企業も変わってきた。育休や時短勤務などの両立支援制度が拡充。ワーママは珍しい存在ではなくなり、待機児童は23年、5年連続で過去最少になった。 「出産育児を経ても働くことを『頑張っている』とみてくれる」(東京都・教育学習支援・46歳) 「上司もしっかり育休をとり子育てしながら仕事を続けているので、不利に感じる事は少ない」(千葉県・正社員・34歳) 30代で昇進のチャンス  AERAアンケートでもポジティブな変化が浮かび上がった。冒頭の38歳女性も、働きやすくなったと感じているという。 「在宅勤務はもともとありましたが、使えるのは子育て等の事情がある人という雰囲気でした。子どもが病気になった時など、やむをえない事情の時だけ使っていたのが、コロナ禍で誰もが在宅勤務となり、それがスタンダードになったことが大きかったです。罪悪感なく働けるようになりました」  藤波さんは、こう解説する。 「今は時短勤務が制度化されましたし、男性育休も整ってきて、預けながら働くことが無理なくできるような環境になってきています」  そんな環境の変化は、かつての「キャリアを積んで、30代後半以降で出産」の価値観にも影響を与えているようだ。AERAアンケートには、こんな意見が届いている。 「30代に入ると昇進のチャンスが巡ってくると感じるので、それまでに子どもがある程度の年齢になっている方がよいと思うから」(大阪府・製造業・56歳)  年齢と身体のことはもちろん、キャリアのことも考え、早く産んだほうがいいという価値観は確実に広がりつつあるようだ。  とはいえ、働きながら産み育てることは、そう簡単ではない。今年、株価は最高値を更新したが、足元の経済は厳しいまま。非正規雇用で収入が少なく、育休などの両立支援制度を使えない女性は数多くいるのだ。企業による格差も依然として大きい。 「低所得層の賃金が上がってこないと、少子化は改善しないと思います」(藤波さん) 理想と現実に大差  国立社会保障・人口問題研究所の21年の「出生動向基本調査」によると、独身女性が実際になりそうだと考えるライフコースは、「結婚せず仕事を続ける」が33.3%となり、前回から10ポイント以上も急増してトップになった。一方、理想のライフコースのトップは「結婚し、子どもを持つが、仕事も続ける両立コース」で34%。「結婚せず仕事を続ける」は12.2%で、理想と現実に大きく差が開いている。 「結婚相手の女性に経済力を要望する男性が増えている。女性の賃金が安いと、結婚のハードルが高くなると考えられる。日本では、既婚女性が出産するケースが大半。つまり出産のハードルも高くなる」(藤波さん)  晩産化傾向に歯止めをかけた社会の良い変化。一方で、働きながら産み、育てることが難しい現実もある。仕事と出産のどちらも望む女性たちの葛藤はまだまだ続きそうだ。(編集部・井上有紀子) ※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
女性✕働くwoman女性特集➀
AERA 2024/05/07 10:30
コウケンテツ 妻に「料理も掃除も洗濯も頑張りすぎ」と言われても「居心地のいい家を作りたい」理由とは
コウケンテツ 妻に「料理も掃除も洗濯も頑張りすぎ」と言われても「居心地のいい家を作りたい」理由とは
コウケンテツさん(写真提供)  仕事に家事に3人の子育てにと奮闘するコウケンテツさん。今でこそ、料理研究家として広く知られていますが、実は「料理を仕事にするつもりはなかった」とも。運命に導かれるように料理の道へ入ったきっかけ、そして家族への思いとは? ※前編<3児の父・コウケンテツが語る家事育児 「主婦にも休みは必要。毎日手作りごはんでなくてもいい」>から続く テニスのプロを目指して高校を中退するも… ――思春期はテニスに打ち込んでいたそうですね。  僕は中学3年生からテニスを始めて、夢中になりました。けっこう、激しい考え方をするほうで。「プロになりたい」と思ったときに、高校に行っている場合じゃないから、「高校をやめてテニスに専念したい」と親に相談しました。 ――わぁ、親御さんはなんと?  もちろん、大反対ですよ。親も親戚もみんなが、考え直すよう毎日のように説得しに来ました(苦笑)。結局、テニスがダメだったら、当時の「大学入学資格検定」(現在は「高等学校卒業程度認定試験」)を受けて大学に進む、ということで許可してもらい、高校を中退して、テニスに打ち込む毎日でした。  でも……テニスの腕は、まったく上がらず。ジュニアチームの小学生にも負けてしまうくらいで(苦笑)。しかも、20歳のときに椎間板ヘルニアになってしまって、断念するしかなくなりました。親や親戚に啖呵を切って高校をやめたのに、あっけなく夢が破れてしまって、ものすごく落ち込みましたね……。 挫折を経て開かれた、料理の道 ――それはつらかったですね。テニスをやめてからは?  2年ほどは治療に専念して、抜け殻のように絶望していました。そこから、少しずつ、家計を助けるためにもアルバイトをするようになって。料理は好きだったので、いろいろな飲食店を掛け持ちしました。早朝のパン屋さんから、カフェ、夜はイタリアンのホールなど、いろいろやりましたね。不思議なことに、テニスの腕は上がらないのに料理の腕だけはメキメキ上達していったのですよ。 お子さんと仲睦まじい食事風景(写真提供) ――それで料理研究家を目指すことに?  母(注:料理家、李映林さん)のアシスタントをしていたころ、撮影でお世話になっていた雑誌『オレンジページ』の担当の編集さんから、料理連載のオファーをいただいたことがきっかけです。今思い返してみても、信じられないくらいの大抜擢で、本当に感謝しています。 ――料理の道は、自然に開けていったのですね。  それまで僕は、自分の意思や希望を通すことに必要以上に固執していました。でも、そうすればするほど、失敗を重ねることになったのです。   それが、考え方を変えて、人からいただいたアドバイスを真摯に受け止めて、それを素直に実行するようになってからは道が開けて、人生がまるで変わりました。 次女がまだ小さいころ。長女と一緒に料理を楽しむ姿も(写真提供) ――お子さんたちにどんなふうに育ってほしいですか。  道を自分自身で切り開くことができる人と、そうではない人。一般的には前者のほうが優れた生き方とされるかもしれませんが、僕の場合は違いました。ある意味、受け身的な生き方ですから。でもやっぱり適性は人それぞれなんだと感じています。  なので、僕が子どもたちや、若い世代に助言できることなんてあまりないと思っています。今の子どもたちは、生まれながらにインターネットがあるデジタル世代。彼らが、大きくなったときの社会がどんなものか、僕には想像なんてまったくつかないですし。僕にできることは、子どもたちを信じて、ただ見守って応援することだけなのかな、と。 ――料理も掃除も洗濯もできるお父さんの姿は素敵です。  いやいや、そんなことないです。だけど、僕はちょっとやりすぎなところもあるらしくて。毎日夜ごはんを作り終えると、へとへとになってしまいます……。  妻は、「そこまで完璧に頑張らなくていいんじゃない?」「時には、子どもたちに役割としてやらせてあげることも大事だよ」って言ってくれるし、そうだな、とも思うのですが……。 抱っこしながらキッチンに立つコウケンテツさん(写真提供) ――家事を完璧にしようというモチベーションはどこに?  僕も深く考えてなかったのですが、改めて思うと、やっぱり僕自身が「居心地のいい家にいる」ことが好きで、自分で整えるのが好きなんでしょうね。掃除や片づけも、全然苦じゃないし、子どもたちが帰宅したときに、居心地のいい家でホッとしてほしいという気持ちが強くあるからなのかもしれません。 ――きっとお子さんもご家族もうれしいでしょうね。   そう思ってくれるとうれしいですが。ただ、僕は能力的に自分にできることは、本当に基本的なことだけだと思っています。税金をきっちり払って、教育費や医療費もきっちり払う。そして住まいを整えて、おいしいごはんを作る。あ! あとは送り迎え(笑)。  子どもたちはこれからどんどん自分の世界を広げていって、当然、親と疎遠になる時期もくるはず。それでもたまに帰ってくる日があったなら、安心できる居場所を作ってあげられたらいいな、と。そのための努力は、僕にもできることだから。 ――大事なことですよね。  ありがとうございます。当たり前といえば当たり前のことなのですが。僕自身、やりたいことを勝手に決めて、自分の意思を貫き通せば通すほど、失敗を繰り返して、みんなに迷惑をかけて、という思春期を過ごしました。それでも、ホッとできる家があることは、ありがたかったですから。 (取材・文/玉居子泰子) ※前編<3児の父・コウケンテツが語る家事育児 「主婦にも休みは必要。毎日手作りごはんでなくてもいい」>から続く コウケンテツさん(写真提供) コウケンテツさん(写真提供) 〇コウケンテツ/大阪府出身。韓国料理を中心に、アジア、ヨーロッパ、日本など世界各地の味を生かしたレシピが人気。手軽でおいしい家庭料理を紹介するYouTube「Koh Kentetsu Kitchen」は登録者数202万人の人気チャンネル。1男2女の父。著書に『本当はごはんを作るのが好きなのに、しんどくなった人たちへ』(ぴあ)、『コウケンテツのおやつめし』(クレヨンハウス)ほか多数。
コウケンテツパパの子育て思春期料理
AERA with Kids+ 2024/05/05 11:00
大自然と先住民の文化を体験できる! オーストラリアが「家族旅行」に人気の理由
大自然と先住民の文化を体験できる! オーストラリアが「家族旅行」に人気の理由
コアラはいつでも人気もの!●Magnetic Island, Townsville/Tourism Australia    新型コロナウイルスの感染症法の位置づけが「5類」に移行してから、1年が経とうとしています。大手旅行会社JTBが実施したアンケート調査などによると、今年のGWに海外旅行に出かける日本人の数は、コロナ禍前の8~9割程度まで回復する見通し。今年の夏休みには海外旅行を検討しているご家庭も多いのではないでしょうか。その目的地として、オーストラリアが注目を集めています。その理由や、小学生のうちに海外に出かけることの意義をオーストラリア政府観光局 日本・韓国地区局長のデレック・ベインズ氏に聞きました。   大自然と先住民の文化を家族で体験しよう! ――現在、オーストラリアの観光事情はどのような状況でしょうか。  オーストラリアも日本同様、観光で訪れる人たちが世界中から戻ってきています。オーストラリア政府統計局(ABS)によると、コロナ禍前の2019年の日本人渡豪者数は49万8千人で、6年連続プラスでした。コロナの影響を受けたものの、2023年は当時の60%が渡豪し、順調に回復しています。今年はさらにたくさんの人が訪れてくれると、楽しみにしています。  日本からの旅行者は、小さなお子さんを連れたファミリーから年配の方まで、実に幅広い年齢層であることが特徴です。小学生くらいの年齢のお子さんもたくさん訪れて、オーストラリアならではの文化や自然を楽しんでいます。 ――オーストラリアが人気の理由は、どんなところでしょうか。  オーストラリアは、大陸全体から成る世界唯一の国として知られています。それぞれの地域によって異なる表情を楽しめるのは、大きな魅力だと思います。  たとえば、自然です。オーストラリアでは、日本とは違う雰囲気の自然に触れることができるでしょう。たとえば、熱帯雨林や世界自然遺産のウルル(エアーズロック)があることで知られるアウトバックの砂漠、夏でもスキーができる地域やグレートバリアリーフのように冬でも泳げる海など、幅広い自然があります。   ラクダに乗ってウルル(エアーズロック)を巡るツアーも。●Uluru-Kata Tjuta National Park/Uluru Camel Tours   美しいサンゴ礁の海、グレートバリアリーフ。●Great Barrier Reef, Queensland/Tourism Australia    また、先住民アボリジナル・ピープルの文化に触れることもできます。アボリジナル・ピープルは、今から6万年以上前からオーストラリア大陸に居住していたといわれる先住民。その時代から続く彼らの文化はとても興味深く、そのスタイルを教わり体験できるツーリズムを目的に訪れる人も多いのです。   伝統的なブッシュフード(食)とブッシュ メディシン(薬)について学び、さまざまな体験ができる。●Wanmara、Petermann/Tourism Australia    季節が日本と逆であることも、とくにお子さんたちには楽しく、新鮮に感じられるようです。日本からなら時差が1~2時間。たとえば、夜便に乗って、現地に朝到着したら、時差ボケもなくすぐに行動できる「行きやすさ」も選ばれる理由のひとつでしょう。時間を有効に使えます。 小学生時代の海外旅行は「家族」の素晴らしい体験に ――デレックさんは、はじめての海外旅行が日本だったそうですね。  はい。17歳の時に、はじめて訪れた海外が日本でした。本当はもっと早く行きたかったのですが、なかなかチャンスがありませんでした。当時お世話になったご家族とは、今も仲よくしています。 ――なぜ、もっと早く海外旅行をしたかったのですか?   海外で、自分の国とは異なる言語や文化に触れることは、それこそ人生において大きな出来事です。小学生くらいならもうちゃんと覚えているし、理解もできるころ。それくらいの年令で、世界の広さを感じたりさまざまな人々と関わったりすることは、とても有意義だと私自身の体験も含めて感じます。  また、日本の小学生、つまり6~12歳くらいのお子さんなら、おそらく「はじめての海外旅行」という人が多いのではないでしょうか。日本では小学校3年生から英語の勉強が始まりますよね。そこで実際に英語が母語の国に行って外国語を耳にすることで、英語が一気に身近なものになるでしょう。  また、オーストラリアは移民が多いことでも有名です。街中を歩いていると、さまざまな言語が聞こえてきますよ。そんな体験も刺激的ではないでしょうか。まさに多様性です。 ――日本人は、パスポート保有率が約17%(2023年12月現在※)で、G7最下位です。  たとえば、オーストラリア人は約53%です。アメリカ人は約50%、イギリス人は70%を上回っています。こうしてみると、日本人のパスポート保有率は少ない印象ですよね。  小学生のお子さんなら、海外旅行に出かける場合、その多くは「家族といっしょ」であることが想像されます。もう少し成長すると一人で留学というケースもあるでしょうが、この年代は家族との行動が基本ですよね。そう考えると、海外旅行のタイミングとして小学生時代はベストかなと思います。お子さんだけでなく「家族」にとってかけがえのない体験となるでしょう。  日本はとても治安のいい国です。オーストラリアもその点はファミリーも安心して楽しめます。ぜひ、ご家族で訪れてみてほしいですね。 ――最後に、オーストラリアの最新情報を教えてください。  オーストラリアは、移民が多いということもあり、複数の国の食文化のよいところを融合させたフュージョン料理がたくさんあり、食べ物もおいしいものが多いのです。親御さんにはワインもおすすめですよ。  意外と知られていないのですが、コーヒーも有名。今、ワーキングホリデー制度を利用してバリスタの勉強のために日本から訪れる人が増えているのです。街中にはこだわりのコーヒー専門店がたくさんあって、みんなお気に入りのバリスタがいるお店で、仕事前にコーヒーを購入してから出勤します。  旅行でいらした際は、ぜひオーストラリアのコーヒーも楽しんでみてください。お子さんには、エスプレッソマシンでミルクを淹れた「ベビー・チーノ」が大人気。カプチーノのカップに入って、かわいくておいしいですよ! ※出典:外務省 令和5年1月~12月旅券統計 (取材・文/三宅智佳)   ○デレック・ベインズ/オーストラリア政府観光局 日本・韓国地区局長。20年以上カンタス航空に勤務。さまざまな部門での仕事を担当したのち、2020年にオーストラリア政府観光局に入局。高校生時代の留学をきっかけに日本の歴史や文化、経済なども学ぶ。日本語も堪能で、和食全般が大好き。隣はオーストラリア政府観光局のブランドアンバサダーであるカンガルーの「ルビー」。    
オーストラリア
AERA with Kids+ 2024/05/04 16:00
「ウエストランド河本」泥酔暴行で注目される「ビンジドリンキング」とは? 医師は「たまにしか飲まない人もリスクある」
國府田英之 國府田英之
「ウエストランド河本」泥酔暴行で注目される「ビンジドリンキング」とは? 医師は「たまにしか飲まない人もリスクある」
お笑いコンビ「ウエストランド」の河本太(写真:つのだよしお/アフロ)    お笑いコンビ「ウエストランド」の河本太(40)が酒に酔って起こした暴行騒動の余波がいまだ収まらない。所属事務所社長の太田光代氏はスポーツ紙の取材に「そもそも(酒に)弱くて、ビールとかジョッキで3杯ぐらい飲むと、そのあと流し込むようにグイグイ飲んじゃう」と河本の酒の飲み方にも言及したが、この騒動を契機に「ビンジドリンキング」という危険な飲み方に焦点が当たっている。聞きなれない言葉だが、どのような飲み方で、どのような危険性があるのか。専門医に聞いた。 *  *  *  報道によると、4月20日夜に河本は友人と酒を飲んで帰宅する際、タクシーに乗車拒否されたと勘違いし、車体を蹴った。その後、運転手とケンカになり、自分自身が前歯を折ったとされている。  河本は4月30日深夜にラジオ番組で生謝罪。騒動後は酒を飲んでいないことを明かし、今後の禁酒も示唆した。  その河本が起こした騒動について、薬物依存の過去があり、依存症の予防や啓発活動を続けている俳優の高知東生が「X」(旧ツイッター)で言及。その中で高知は「芸人さんの飲酒事件を知り、伝えたいことは、ビンジドリンクって飲み方があること」とし、こう訴えた。 「これは毎日は飲まなくても、飲む時にはとことん飲んでしまうという危険な飲み方。ビンジドリンクは事件や事故につながりやすいんだよな。この飲酒習慣が思い当たる人は、依存症じゃなくても禁酒した方がいいらしいゾ」 「ビンジドリンキング」は、外でワイワイと飲むのが好きな人の方が陥りやすい。写真はイメージ(GettyImages)   反社会的な行動を誘発  厚労省によると、ビンジドリンキングとは「イッキ飲みなど短時間に大量のお酒を飲むこと」を指し、「一度に純アルコール60g以上の飲酒」としている。どれくらいが「短時間」なのかは示されていないが、純アルコール60グラムの目安は、ビールなら中瓶3本、日本酒は3合、ウイスキーはダブルで3杯となる。  2023年末の忘年会シーズンにはビンジドリンキングを控えるよう、同省は注意喚起を出した。  これまでの情報では、河本の飲み方が「ビンジドリンキング」に当てはまるかは判断できない。ただ、若い世代で友人らと勢いよく酒を飲んだり、普段はさほど飲んでいなくても、歓送迎会や忘年会では、とことん飲むという人は少なくないだろう。  アルコール依存症の専門外来「さくらの木クリニック 秋葉原」院長の倉持穣医師は、ビンジドリンキングについて「簡単に言えば、短い時間で無茶な飲み方をしてしまうことです」と説明する。  例えば、同じ酒好きでも、自宅で酒を飲む人は、量が多くてもゆっくり飲む。悪く言えば、だらだらと飲むのでビンジドリンキングにはならないかもしれない。逆に、店などで仲間とワイワイ飲むのが好きな人がビンジドリンキングに陥りやすい傾向があるという。 「楽しい飲み会が好きで、飲むとハメを外して調子に乗ってしまう人や、仕事のストレスなどで鬱屈した気持ちを抱えている人。お酒の適量を知らない若い世代や、体が衰えてきているのに、若いころと同じように酒が強いと思い込んでいる中年層などは、リスクが高いと考えられます」(倉持さん)  倉持さんによると、アルコールの急速な大量摂取によって、感情の制御などをつかさどっている脳の前頭前野がまひする。 「それによって感情の抑制ができなくなり、怒りをむき出しにするなど、普段はしない反社会的な行動を誘発しやすくなってしまうのです。いつもは温厚なのに、飲むと人格が一変してしまう人は、少なからずいますよね」 お笑いコンビ「ウエストランド」の井口浩之(左)と河本太。今回の騒動を受けて「ギャラの分配」についても再考すると報じられている(写真:つのだよしお/アフロ)   自分で飲み方を変えるのは難しい  当然だが、短時間で大量飲酒すればするほど、その危険がより大きくなる。他人への危害だけではなく、記憶をなくしたり、転んでけがをしたり、駅のホームから転落するなどの大きな事故につながる恐れもある。  倉持さんは、居酒屋の2時間飲み放題システムや、特定の時間帯に酒が安くなる「ハッピーアワー」のサービスなどを引き合いに、「日本は、ビンジドリンキングにつながり安い環境が、整い過ぎてしまっている現実があります」と話す。  こうした店を利用するなら、せめてお酒一杯ごとにチェイサーを飲む。つまみを食べる。仲間との会話を楽しみ、酒を飲むペースを遅らせる、などの工夫が重要になるという。  有名人が酒で不祥事を起こすと、人格攻撃につながる傾向があるが、倉持さんはこう指摘する。 「酒好きなら、誰もがビンジドリンキングをしてしまい、大きな失敗をする可能性があります。有名人の不祥事はまったく人ごとではありません」  また、やっかいなのは、たまに酒で失敗して反省しても、時がたつとまた同じ失敗を繰り返すことだ。倉持さんは言う。 「苦い記憶でも、次第に風化してしまいます。断酒や減酒を含め、自分の力だけで飲み方を変えるのは実はとても難しいことなのです。ビンジドリンキングに心当たりのある人は、医療機関の受診を選択肢として検討してほしいと思います」  自分が失敗するはずはない、と思い込んでいる「酒に強い」あなたも、リスクと隣り合わせなのかもしれない。 (AERA dot.編集部・國府田英之)
ウエストランド河本太ビンジドリンキング
dot. 2024/05/04 11:00
チャンカワイが語る子育て 「娘を褒めてあげたい気持ちが“マグマ”のように高まるんです」
チャンカワイが語る子育て 「娘を褒めてあげたい気持ちが“マグマ”のように高まるんです」
「Wエンジン」チャンカワイさん(提供)    お笑い芸人のチャンカワイさんは、夫妻と国立小学校に通う長女、幼稚園年長の次女の4人家族です。ロケが多い仕事柄、自宅に帰れるのは月に半分ほどという日々の中、チャンさんはどのように子育てに関わっているのでしょうか。夫婦間における「役割分担」や芸人パパ友の話、娘さんたちの将来について思うことなどを聞きました。※<前編>チャンカワイ、長女が「IQ139」とわかった“偶然”のきっかけとは 「言われてみればパズルがめっちゃ好きやった」から続く   留守が多いから帰宅後のほめ言葉は効果絶大 ――ご夫婦で決めている子育てのルールはありますか?  わが家では、夫婦の役割分担をはっきり決めています。例えば、ここぞ!という場面で子どもをほめるのは僕の役割。奥さんも毎日の生活の中で子どもたちをほめますが、ずっと一緒にいるママの言葉よりも、普段あまり家にいない僕の言葉のほうがインパクトがあるみたいです。  奥さんもそのことがわかっているので、子どもたちには「パパが帰ってくるまでにできるようになって、たくさんほめてもらおうね」なんて声かけをしてくれるし、ロケ先にいる僕には、子どもたちの動画をたくさん送ってくれます。娘が一生懸命逆上がりの練習をしている動画なんかを見ると、「早く会ってほめてあげたい!」という気持ちがマグマのように高まるわけですよ(笑)。思いを募らせて家に帰るから、帰宅して娘たちの顔を見ると「逆上がり、できたん? すごいやん!」って感情が爆発するし、娘も喜んでくれます。 夫婦2人で同時に叱らない ――なかなか会えないパパの言葉だから、重みがあるんですね。    これは子どもを叱るときも同じで、「帰ってきたらパパに叱ってもらおうね」という一言も、効き目があるようです。叱ることに関しては、「叱る人」と「話を聞く人」という役割分担もあって、奥さんか僕のどちらかが叱ったら、後からもう1人がじっくり話を聞く。2人同時に叱ることは、しません。夜、寝かしつけのときに「さっき怒られてたけど、何があったの?」というように切り出すと、子どもも自分の気持ちを話してくれるので、あとから夫婦で情報を共有するんです。叱る人は僕が担当することが多いですけど、時々奥さんとポジションを交代しています。 家族で高尾山へ(提供)   叱るのはもちろん、イヤですよ。でも、叱るからには、何がどう悪いのか、しっかり言葉で伝えます。例えばおもちゃの取り合いをした場合、長女には「なんで妹のおもちゃを取るの? それは良くないよね」、次女には「人をたたくのは一番いけないよ。たたかれたらイヤな気持ちになるよね?」って。で、最後は「はい、じゃあ抱き合って仲直りしよ!」っていうのが、いつものパターンです。 ――子育ての中で、難しいと感じていることはありますか?  長女はもう2年生ですし、学校で何かイヤなことがあっても、話さなくなってきました。小学生なら友だち同士のちょっとしたケンカや言い合いはあって当然だと思いますし、話さないことにも娘なりの理由があるんですよ。もめた相手のお友だちのことをパパに悪く思ってほしくないとか、自分にも非があるとわかっているとか。だから親に話さない娘の気持ちも、そんなことを考えられるようになった成長も受け入れたい。それでも「なんで話してくれんの?」と思ってしまう自分もいるんです。  こういうとき、親としてどう対応すればいいのか、この辺りはまだ奥さんと話し合い中です。ほんと、激ムズですよ。思春期になれば子どもとの関わり方はもっと難しくなって、僕はきっと、奥歯を噛み締めながら娘を見守るんでしょうね……あー心配です(笑)。 芸人パパ共通の悩みとは? ――子育ての情報交換をするパパ友はいらっしゃいますか?  コロナ禍もあったので、学校のお父さん方の付き合いは、今のところあまりありません。芸人仲間だと、先輩のビビる大木さんとは子ども同士の年齢が近いこともあり、よく子育ての話をします。  芸人パパ同士でよく話題になるのが、子どものお友だちとの接し方です。幼稚園や学校に行けば「あ、チャンが来てる!」と気づく子もいます。テレビに出ている以上そうなるのは当然のことで、問題はそうなったときに僕がどう行動するか。自分から「おー、こんにちは!」って子どもたちに声をかけるっていう先輩もいるんですが、僕はそんなふうに一気に距離を詰めることはできません。徐々に様子を見ながら、ですね。長女が小学校に入学して初めて学校に行ったときも、緊張しましたよ。 過酷なバラエティー番組でも「わが家だけは応援してくれます」と、チャンカワイさん(提供)   ――子育てをしながら、ご自身とご両親の関係を思い出すこともありますか?  僕は三重県名張市の出身です。娘たちとはまったく違う子ども時代を過ごしましたが、今の自分があるのは、あの豊かな自然の中で育ててもらったからだと思っています。  30歳になったころ、父から「バラエティー番組で爆弾を背負っているあなたを見ても、息子とは思わないことにする」っていう手紙をもらいました。僕は視聴者のみなさんに楽しんでほしくて結構むちゃなこともやっていましたが、両親は心配していたんですね。家族ってそういうものです。「マツコ&有吉 かりそめ天国」(テレビ朝日系)で毎年やらせていただくファイヤーショーも、マツコさんと有吉さん、そして視聴者のみなさんを笑わせるためにやっているのですが、わが家だけは「パパ、がんばれ‼」って、真剣に応援してくれています。 長女が語る三つの夢 子どもたちを全力でサポートしたい ――娘さんたちの将来について、望むことはありますか?  親に心配をかけた僕が言うのもなんですが、娘には安心できる範囲で夢をかなえてほしいです(笑)。幼稚園の卒園式で聞いた長女の夢は、オリンピック選手とロケットのパイロットと博士でした。どんだけ夢あんねん!と言いつつ、よくぞ言ってくれた、すごいなぁとも感心するし、全力でサポートしたいとも思います。   今年小学校受験を控えた次女も、今一生懸命がんばっています。物語の音声を聞いて問いに答える練習とか、半年前と比べるとものすごく進歩しているんです。もう記憶力では、抜かれてしまいました(笑)。「アーティスティックスイミングをやってみたい」という一言を聞けば、奥さんがすぐにいろいろ調べて、僕も一緒にプールまで行ってみる。できること、興味のあることはまず体験させて、その上で本人がやりたいと言うなら、やらせてあげたいと思っています。 ――芸人になるという夢をかなえたチャンさんなら、娘さんが将来について考えるときにもパパとしていいアドバイスができそうですね。  確かに「このテレビ番組に出たい!」って言われたら、これはこういう事務所に入って、こういうオーディションを受けて、受かったら出られるんだよ、とかそういうノウハウはアドバイスできそうですね(笑)。  でも、特に芸人だからいいことが言える、とは思いません。どんな仕事をしている方でも、難しい目標を達成したり、誰かとポジションを争ったり、つらい時期を努力で乗り越えているはず。いつか子どもが必要とするときがきたら、どこのパパもそういう経験を話すんだと思いますよ。僕も娘たちの成長を楽しみにしながら、まだまだがんばります。 (取材・文/木下昌子)   ※<前編>チャンカワイ、長女が「IQ139」とわかった“偶然”のきっかけとは 「言われてみればパズルがめっちゃ好きやった」から続く   〇チャンカワイ/1980年、三重県生まれ。2000年、えとう窓口とともにお笑いコンビ「Wエンジン」を結成。以来、テレビのバラエティー番組を中心に活躍。2015年に結婚した妻の妊娠をきっかけに、ベビーマッサージインストラクター、ベビーヨガインストラクターなど、子どもに関するさまざまな資格を取得。2女の父。  
チャンカワイ子育て
AERA with Kids+ 2024/05/03 11:00
貸し渋られる「高齢者」をターゲットに利益を出す大家は何が違うのか 「高齢者リスクはほぼ外部サービスで解決できる」
國府田英之 國府田英之
貸し渋られる「高齢者」をターゲットに利益を出す大家は何が違うのか 「高齢者リスクはほぼ外部サービスで解決できる」
高齢者への住宅賃貸はリスク…という認識は変わっていくかもしれない。画像はイメージ(GettyImages)    近年、社会問題となっているのが、高齢者が賃貸住宅への入居を拒否される「貸し渋り」だ。貸主の大家が、孤独死や家賃滞納のリスクを懸念して嫌がるケースが目立つ。だがその反面、高齢者を積極的に受け入れ、利益もあげている大家もいる。そうした大家に実態を聞くと、高齢者へのさまざまな懸念は、ただの思い込みという側面も見えてくる。  *  *  *  総務省によると、65歳以上の1人暮らしの高齢者は、2040年には約900万人に増えるとされる。  また、国立社会保障・人口問題研究所が今月公表した推計によると、2050年には、国内の全世帯に占める1人暮らしの割合が44.3%となり、このうち65歳以上の高齢者が半数近くに達する。身寄りのない独居の高齢者が急増する見通しだ。   年を取れば体力は衰える。持ち家が広すぎて持て余すなど、より暮らしやすい物件に住みたいと考え、賃貸住宅を探す高齢者はどんどん増えることが予想される。   だが、65歳以上の顧客を専門にする不動産会社「R65」がこのほど、全国の賃貸オーナー500人に対して行った調査では、「高齢者を積極的に受け入れている」と答えたオーナーは19%にとどまり、「受け入れていない」が40パーセントを超えた。 ただ一方で、高齢者を積極的に受け入れている貸主もいる。  「高齢者だとリスクがある、問題が起きる、というのは、勝手なイメージだと思います」   そう話すのは、関西で父親の跡を継いで大家業をしている神吉(かんき)優美さんだ。 家賃の滞納はめったに起きない   神吉さんの家族は複数の集合住宅を所有しているが、入居者の半数以上が65歳以上の高齢者だという。ずっと住み続けて高齢になった人もいるが、毎年十数人の高齢の新規入居者を受け入れてきたという。  「結婚して子どもを育て、その子どもが独立して家を出て、その後、夫や妻と死別してひとりになったという方もいますし、入居する時点ですでに高齢の方もいます。新規入居の方で最高齢は89歳の男性でした」(神吉さん、以下同)   神吉さんは、高齢者を受け入れるにあたって、どのような工夫をしているのか。   まずは家賃滞納への備えだが、神吉さんは入居する条件として、家賃滞納があった際に、それをカバーしてくれる保証会社との契約を必須にしている。   と言っても、高齢者の滞納が目立つからではない。逆に高齢者は年金暮らしで収入が安定しており、身の丈にあった生活をしているため、滞納はめったに起きないという。認知症になって支払いができなくなったときのリスクを回避するためだ。  「家賃滞納に関しては、高齢者より、リストラや仕事をやめたりして収入が一気に減る可能性のある若い世代の方が、リスクがあると感じています。保証会社の方と話しても、滞納は若い世代の方が目立つと聞きますね」  そして、大家が最も懸念するのは孤独死だろう。特に発見が遅れた場合、大家にも心理的負担が生じるし、特殊清掃に大きなお金がかかるためだ。 唯一の懸念は「認知症」   ただ、神吉さんはそのリスクにも懐疑的だ。見守りサービスの利用や、清掃費をカバーしてくれる保険が販売されており、事前に取れる対策はある。   そもそも、高齢者は日中、家にいるため、大家や管理人は接点を持ちやすいというメリットがある。介護サービスを利用している人も多く、人との「つながり」によって、万が一の時にも早期発見につなげることができる。  「高齢者だから発見が遅れる、というのは事実ではないと思います。ただ、人とのつながりがなく、介護サービスも受けずにずっと家にいる1人暮らしの高齢者は、発見が遅れるリスクがあります。自分は大丈夫だと思わず、介護サービスは積極的に受けてほしいです」   入居者が亡くなった際には「残置物」の処分をどうするかという問題もある。だがこれも、処置の手続きや費用を保証してくれるサービスがある。残置物を円滑に処分できる「モデル契約条項」も国土交通省と法務省が示しており、備えさえしておけば大家の負担は少ない。   神吉さんが唯一、強く懸念するのは入居者が認知症になった場合だ。「大家だけでは限界があります。地域包括支援センターと大家が協力して対策を取っていくことが重要で、その体制を充実させていく必要があると考えています」   神吉さんが高齢者を受け入れるのは単なる「善意」ではない。利益もしっかり確保している。高齢者は次の物件探しが難しいため、長期の入居を望む。滞納や“夜逃げ”もなく、安定した賃貸経営につなげやすいのだという。 大家との関係性が「見守り」につながる   安定的な経営のためには、高齢者との関係づくりも重要になる。神吉さんは管理している物件に出向き、入居者たちとの交流に努めている。旅先で大量に土産を買ってみんなに配ったり、世間話をしたり、その関係性が「見守り」につながる。   さらに、高齢者たちの社会参加や生きがいづくりにも取り組んでいる。物件の近所の清掃活動をはじめ、特定の入居者に、ごみ集積場で分別をチェックする役割を任せたりもしている。いずれもボランティアではなく、働いてもらっただけの賃金をちゃんと支払う形だ。役割があることで、高齢者が生き生きすることを実感している。  「現代における、下町的な人間関係をつくっていきたいと思っています」   さまざまな人間が暮らす集合住宅。問題が発生することもある。   それでも、神吉さんはこう思いを語る。  「認知症を除けば、高齢ゆえのリスクは少ないと感じています。人間、誰もが年を取りますよね。勝手なイメージを作って、それを理由に高齢者の排除を続けるのは良いことではないと思います」   親や自分が老いて一人になったとき、賃貸に移り住むという選択肢があった方が、暮らしやすい老後につながることは間違いないだろう。 (國府田英之)
高齢者賃貸住宅大家
dot. 2024/04/29 10:00
人生後半の住まいづくりは50歳から!家族関係にも影響を与える見直しポイントとは?
人生後半の住まいづくりは50歳から!家族関係にも影響を与える見直しポイントとは?
こんなリビングなら、家族みんなが快適に過ごすことができる  人生100年時代と言われるいま、50歳は人生の折り返し地点にあたる。これまで「ライフステージ」といえば、①教育を受ける ②働いて子育てに力を注ぐ ③リタイアしてのんびりと老後を過ごす、と大きく3つの段階に分けられていたが、60歳もしくは65歳でのリタイアを想定すると、その先はまだ40年もあって、3つ目のステージがずいぶん長くなる。加納住環境研究所所長で一般社団法人日本住育協会の加納義久氏は、「ここをいかに過ごすかが、人生の充実度に大きく関わってくる」と話す。 このゴールデンウイーク、いつもより少し時間があるなら、人生後半の住まいづくりについて考えてみてはどうだろう。加納義久氏監修の『50歳からの住まいプラン』から引用する形で、人生後半のシミュレーションの仕方、住まいづくりの基本的な考え方について学んでおきたい。 ***  米国のダートマス大学、デービッド・ブランチフラワー教授の研究によると、50歳の手前が最も幸福度が低く、82歳頃が最も高くなるという。  50歳手前の幸福度が低いのは、まだまだ仕事や子育てに忙しく、経済的な面などでの悩みも多いから。82歳頃になると、人間的な内面の成熟とともに悩みからも解放され、自身の人生を生きているという感覚が味わえるようだ。つまり、50歳前後からの幸福度は右肩上がり。もちろん、紆余曲折はあるかもしれないが、人生後半の目標や夢を書き出して、具体的に動きだしたい。  書き出すべき内容は、以下の4つだ。 〇 これからはどんな人生にしたいか (例:「人とのかかわりを大切にしたい」「自分軸のある生き方をしたい」) 〇 これからはどんな夢をかなえたいか (例:「世界の人々や文化に触れたい」「外国人観光客向けのペンションを作りたい」) 〇 やりたいと思うことを具体的に (例:「何か国家資格を取りたい」「本に囲まれて読書にふけりたい」) 〇 家のことで「変えたい」と思うことを具体的に (例:「狭いリビングを広くして知人を招きたい」「家事の時間を短くして自分の時間を持ちたい」)  これからの人生や暮らしの希望が見えてきたら、それらに連動させて住まいを考えていく。大切なのは、「どんな人生、暮らしにしたいか。それらをかなえるには、どんな住まいが必要か」という視点。希望の人生や暮らしをかなえるためには、まず住まいを変えてしまうのがかしこい方法だ。  人の意識や行動は、自分の意思ではなかなか変えられないが、おかれている環境を変えてしまえば、それに合わせて意識や行動も変わっていく。孟子の言葉に「居は気を移す」とあるように、人は住む環境によって自然に感化されるのだ。  現在の住まいをどのように変えたいか、と問われれば、「駅や商店街などに近い便利なところに住みたい」「自然環境のなかで暮らしたい」など、立地も含めて考えるだろう。思い切って変えたいのなら、住み替えや規模の大きなリフォームが選択肢ということになる。  住み替えの場合は、現在の土地で建て替えるか、引っ越しをするか。引っ越し先は新築か中古か。中古をリフォームするという手も考えられるだろう。一戸建てにするかマンションにするか、持ち家か賃貸かというのも大切なポイントだ。  50歳代の時点から、老化や病気などで体が不自由になったときのことを考え、住まいに具体的な対策をしておこうとする人も少なくないが、今はまだアクティブに行動し自己実現を果たせるようにすることが最優先。高齢期に向けた住まいの変更、実際の体の状態に即した設備の導入などは、実際に健康に不安を感じ始める70歳代ぐらいから検討するといい。  50歳前後では、高齢期に備えて柔軟に変更できるようなプランや仕様などを考えておくと安心。そのために、最期のときをどこでどのように過ごしたいかは、今からイメージしておきたい。特に、自宅か高齢者施設かの選択は、これからの人生や住まいの計画において重要になる。 思い出のコーナーは、定期的に飾るものを取り換えてもいい  現在の住まいが快適で、とても気に入っているのであれば、無理に住まいを変えようとする必要はなく、そのまま住み続けるのも一つの選択肢。人生や暮らし方を見直したうえで、必要なお手入れや、ちょっとしたリフォームを行うといい。その意味で、50歳前後でやっておきたいのは「家の中のモノと向き合う」ことと、「ながら作業ができる住まいにする」ことだ。  家の中のモノがすっきり片づいていると、快適に気持ちよく暮らすことができる。50歳からの人生を幸せにするために、まずは家の中のモノと向き合いたい。  すっきり片づかない大きな原因の一つは、モノの多さ。いらなくなったモノは捨て、必要なモノや好きなモノだけを残す。ライフステージが変わり、これまでとは違う暮らし、人生を送ろうとするのだから、必要でなくなるモノも多いはずだ。住まいの中の主役は、そこに住まう人。モノにスペースを占領されてしまうのはもったいない。  住み替えの際の新築やリフォームのことを考えても、モノを置くスペースにかけるコストは、できるだけ削減したい。後々に、“実家(親)のモノの片づけ”で子どもたちに苦労をさせないためにも、モノはできるだけ減らすこと。「いる・いらない」を判断したり、捨てたりするのには、思いのほか時間とエネルギーが必要なので、50歳代の早いうちから着手しておくといい。  子どもが巣立った後も、子ども部屋とその中のモノをそのままにしている家は多くある。子ども部屋が倉庫と化し、さまざまなモノがさらに詰め込まれ、ますますモノが増えるという事態も考えられる。ここは一つ、早めに整理・処分することだ。  本来は、子どもが巣立つ前に、本人と相談して取捨選択しておくのが理想的。思い出のモノは厳選して、思い出のコーナーに飾る、写真におさめて現物は処分するというのも一案だ。子どもが帰省したときの寝泊りは、子ども部屋ではなく、例えばリビングにつながる和室などを考えるのがいい。モノがなくなってすっきりとした子ども部屋は、自分のこれからの人生のために、ぜひ有効活用してほしい。  毎日の洗濯、食事の用意・後片づけ、掃除などの家事が、心地よい空間で手際よくできることも、よい住まいの基本的な条件だ。長く住み続けていると、不便な環境であってもそれに適応し、慣れてしまうことがよくある。ただそれは、ストレスや、効率、安全面の問題など悪影響に気づけなくなってしまっているだけ。自宅に問題点がないかを見直し、便利、快適に暮らせるよう改善すれば、家族みんなに笑顔が増え、毎日の生活、人生が変わることに気づくはずだ。  住まいの便利さ、快適さの鍵を握るのは、動線。動線とは、住まいの中での人の動きを線で表したもので、朝起きてから夜寝るまでにムダな動きがなく、家族の同時使用でぶつかるといった混乱もないのが望ましい。できるだけシンプルで短い動線を描けるのが理想的だ。  不便な動線でよく見られるのは、キッチンと、浴室、トイレ、洗面・脱衣・洗濯室が離れている例だ。家事をするときの移動距離が長く、並行して作業を進めにくいため、非効率。2階にベランダ(洗濯物を干す場所)があり、1階の洗濯機から遠いケースも少なくない。たくさんの洗濯物を持って急な階段を上がるとなると、危険もともなう。一日の生活のなかで家族がそれぞれどのような動きをするか丁寧にシミュレーションし、動線、間取りを考えたい。  家庭や家族によって生活習慣は異なるので、最適とされる動線は、住まいそれぞれに異なる。家族のふれあいをうながす動線は、よい家族関係を育むことにもつながる。例えば、家族の個室が2階にあって、玄関から階段に直行できてしまう場合は、「ただいま」「おかえり」といった声がけが難しくなることがある。玄関からすぐにLDKへとつながり、LDKを経由して階段を上がる動線にしておくと、家族が顔を合わせて声をかけることができ、よい関係が生まれやすくなる。 (構成 生活・文化編集部 端 香里)
住まいプラン50歳加納義久
dot. 2024/04/29 07:00
フランスの家庭料理や食事の楽しさがあふれた一冊 家政婦・タサン志麻さんが繰り返し読んだ大好きな本
フランスの家庭料理や食事の楽しさがあふれた一冊 家政婦・タサン志麻さんが繰り返し読んだ大好きな本
タサン志麻(たさん・しま)/1979年、山口県生まれ。大阪あべの・辻調理師専門学校、同グループ・フランス校卒業。著書に『志麻さんのレシピノート』他多数(撮影/写真映像部・和仁貢介)    忙しい日常を忘れ、心の安らぎをもたらしてくれる読書だが、各界の読書家や識者はどんな本を読んできたのか。家政婦・タサン志麻さんに、おすすめの本を聞いた。AERA 2024年4月29日-5月6日合併号より。 *  *  *  フレンチの調理師時代は早朝から深夜まで立ちっぱなしで仕事。自分の時間はほとんどありませんでした。でも私は勉強したくて。フランス料理、フランス語、知りたいことがいっぱいあって、本をたくさん買って、寝る時間を削って勉強していました。  そんな中繰り返し読んだのが佐藤真さんの『パリっ子の食卓』。いわゆるレシピ本ではなく読み物なんですが、イラストと文章で家庭での定番料理をエピソードとともに紹介しています。自分がレシピ本を作る立場になって伝えたいのは、いかに料理や食事を楽しむかということ。そういう楽しさが溢れた、大好きな本です。  フランスでは男女問わず楽しく料理を作っていて、そんな姿を日々見ているので、子どもたちも自然に料理を作ることができます。  家政婦として忙しいご家庭に行くなかで、日本だとまだ母親を苦しめる仕事になっているような気がして。もっとみんなで助け合って、忙しい時は買ってきたりして、フランスのように料理を作ることも食べることも楽しめるようになるといいなと思います。 食事することで救われ  2冊目は『フランス料理の源流を訪ねて』。フランスの地方の風景や食文化を写真で紹介するもので、調理師時代には高くて買えなかったんです。お金に余裕ができてようやく買えたという本で、私の中ではフランス料理って今でもこの本のイメージなんです。土地があり食材を作っている人がいて文化がある、そこから料理が生まれている。フランス料理ってそういう地方料理がベースなんですよね。  小川糸さんの『つるかめ助産院』は、食事をすることで病んでいた妊婦さんが救われる話です。料理人になった以上三つ星のレストランのシェフになりたい、といった夢が持てなかった中で、自分の料理人としてのあり方、私はこういう料理を作りたいと改めて思わせてくれた小説です。  家政婦の仕事を通して、みんなそれぞれ味覚があって感覚が違うということがよくわかりました。 『志麻さんのレシピノート』は私にとって初めてのイラストレシピ本です。イラストにしたのは、作る人に想像力を持ってほしい、自分の感覚を大切にして作ってほしいから。このレシピに自分で書き足していってほしい、そして次の世代にバトンタッチしてほしいという気持ちでレシピノートとしました。(構成/編集部/小柳暁子) AERA 2024年4月29日ー5月6日合併号より   タサン志麻さんの3冊 フランスの家庭料理イラストと文章で 『パリっ子の食卓』/佐藤真著/河出文庫 『フランス料理の源流を訪ねて』/ロベール・フレソン著、酒井一之監訳/同朋舎 『つるかめ助産院』/小川糸著/集英社文庫 ※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
読書タサン志麻
AERA 2024/04/28 08:00
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