新薬開発へ背中押す母の言葉「困っている人がいる」 塩野義製薬・手代木功会長兼社長
限られた人たちしか使えない高額医薬品は塩野義はやらない。大勢にいい薬を送って「人生は楽しかったな」と思ってもらえる会社、れを目指している(撮影/山中蔵人)
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年4月29日-5月6日合併号より。
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1982年4月に入社し、大阪市福島区の中央研究所にあった企画部へ配属された。入社は営業の枠だったが、そこは別世界。新しく開発した化合物からつくる薬の製造・販売の承認を、厚生省(現・厚生労働省)から得る仕事が待っていた。
以来4年余り、各地の医師に新薬の臨床試験を依頼し、集めたデータを分析して、承認の申請書をつくる。最初に担当したのは、遺伝子組み換えを活用した糖尿病用のヒトインスリン。同僚もいたが、1人で会社に泊まり込み、すべてをこなす。
たまに近くのホテルに会社の費用で泊まらせてもらうのが、数少ない息抜きだった。それも夜中の2時ごろにいき、朝6時半には起きて、誰よりも早く出社する。いまなら許されない働き方だろうが、最後の1カ月は1日しか休めず、眠くて昼食後にトイレで寝込んでしまい、捜しにきた上司に起こされた。
新薬に届いた手紙感謝の言葉を読み創薬の達成感を得た
疲れはしたが、つらい、と思ったことはない。うれしい瞬間もあった。新薬が承認され、使われるようになると、手紙が届く。糖尿病で困っている人は多いから、1通や2通ではない。
「いい薬をつくってくれたおかげで、生活がずいぶん楽になりました」「ありがとう。また、いい薬をつくって下さい」
中学生のころ、母から何度も聞いた言葉が、頭に浮かぶ。
「世の中には困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」
その言葉通りのことが創薬でできている、との達成感が、手代木功さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。母の言葉は、その豊かな水源だった。
87年8月、米ニューヨーク事務所へ赴任した。今度は、自社が開発した薬のもととなる化合物の特許を、米国の製薬会社へ売り渡し、薬にして売ってもらう役。製薬の世界で「導出」と呼ぶ過程だ。米国では、日本でやった動物実験のデータがそのまま使えたから、取り寄せて提供し、承認までのスピードを上げた。それが、交渉相手を引き付ける。塩野義で開発した化合物が薬となって使われ、利用者からの感謝の言葉が生んだ『源流』が、海外へも流れていく。
車の中にいつも虫取り網(写真:本人提供)
ニューヨークに3年8カ月いて、中央研究所にあった開発渉外部へ戻る。次は、海外の製薬会社から特許を買い、日本で新薬をつくって売る「導入」の仕事だ。すべての領域の新薬を自社でつくるのは、欧米の巨大な製薬会社でも無理。「導入」も大事な手法で、「世の中には困っている人がいるのだから」という母の言葉にも、重なる。
1959年12月に仙台市で生まれ、両親と姉の4人家族。父は東北電力の技術者で転勤が多く、小学校に入ったのは福島県会津若松市。「手代木」の姓は会津若松に多く、偶然だが、父の実家もあった。その後、東京へ引っ越し、さらに仙台へ戻って小学校を卒業。宮城教育大学付属中学校から、県立仙台第一高校へ進んだ。
血をみるのが嫌いで「医者になって」との母の願いは無理
父母は何でも自由にさせてくれ、進路などに口は挟まない。ただ、母は息子が医者になることを願っている、と分かっていた。でも、献血をしている人をみると貧血になりそうなほど、血をみるのが嫌い。数学や化学が好きだったので東大理科II類を受けて、薬学部に入る。進路は、同期生の9割が大学院へいくなか、就職に決めた。研究生活が嫌で「研究所以外なら、どこでもいい」という希望を認めてくれたのが、塩野義製薬だ。
94年6月から3年間の2度目の米国勤務を経て、本社社長室課長になった。さらに秘書室長兼経営企画部長に就く。社長は創業家一族の塩野元三氏で、部下に「1を言えば、10が分かるな」というトップダウン型。その相手に選ばれ、「懐刀」のように映ったのか、みんなが壁のようなものを感じて付き合いにくかったようだ。
でも、思い出の一つになる仕事があった。91年に塩野義が開発した高コレステロール血症の治療薬「クレストール」の日本での販売権を、取り戻したことだ。やはり創業家出身で塩野元三氏の前の社長が「世界中で販売するだけの力は、塩野義にない」として、英国企業へ世界中の製造・販売権を渡していた。その結果、世界での売上高から年間に入る百億円単位の特許使用料が、研究開発を支えてきたから、正しかった面もある。
その社長が99年に体調を崩して退任し、専務だった塩野元三氏が後任に就いた。2年後、国内最大の製薬会社の社長から塩野氏に電話が入り、「クレストールの国内販売権を買い取る交渉を始めるので、よろしく」と告げられる。親しい同士だったので、「仁義」を切った形だ。
自社製の薬の販売権取り戻す交渉へ3週間で百頁の書類
「宣戦布告」を受けて、社長は「威信にかけて、クレストールの英社との国内共同販売の契約を獲れ」と檄を飛ばす。すぐに交渉に入るため、3週間で約百頁の書類を用意した。販売権の買い戻し額や国内での販売計画をつくり、社長と2人で相談。何度かの英国での交渉にも、単身か社長と2人でいった。そこで、英社も日本に連携相手を欲しがっていることを、つかむ。
合意への決め手は、英社にもメリットがある形へ、一歩退く戦法だ。英社が払う特許使用料の料率と支払期間で、目先の投資資金が必要だった英社の事情に配慮した。
一方で、売り上げが増えていけば塩野義の利益が増える仕組みにした。自社が得をするばかりの「100対0」でなく、相手も納得する「51対49」の案。日米で新薬の特許の「導出」と「導入」のやり取りに携わり、手代木流の交渉術が身に付いていた。
単品で年間売上高が1千億円を超える薬を、製薬業界で「ブロックバスター」と呼ぶ。日本での共同販売権を得て05年に発売したクレストールは、2014年度に日本で八つ目の「ブロックバスター」となった。
常務執行役員・医薬研究開発本部長として創薬部門のトップに就き、専務執行役員で営業も担当して国内の最前線を回り、「帝王学」を修了。08年4月に社長に就任した。創業家以外から久々の社長で、48歳と前任社長より13歳も若返る。
新薬は原型の化合物が生まれてから市場へ到達するまでに、平均13年から15年かかると言われ、前任社長は「きみがいま社長になって始めたことが、実を結ぶのは私の年だ」と笑った。「やっぱりそれくらいの期間で考えないと、薬屋などやっていられないな」と聞いていた。
いまトップになって17年目。医薬研究開発本部長のときから送り出した新薬は、20年間に九つ。その一つが、昨年3月に一般医療用に提供を始めた新型コロナウイルスの治療薬「ゾコーバ」だ。新型コロナウイルス向け飲み薬としては、世界で3番目の早さで世に送り出した。
もちろん、「世の中には困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」という母の言葉が、背中を押した。そしてまだまだ押され続け、『源流』からの流れは広がっていく。(ジャーナリスト・街風隆雄)
※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
AERA
2024/04/28 06:30