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新薬開発へ背中押す母の言葉「困っている人がいる」 塩野義製薬・手代木功会長兼社長
新薬開発へ背中押す母の言葉「困っている人がいる」 塩野義製薬・手代木功会長兼社長
限られた人たちしか使えない高額医薬品は塩野義はやらない。大勢にいい薬を送って「人生は楽しかったな」と思ってもらえる会社、れを目指している(撮影/山中蔵人)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年4月29日-5月6日合併号より。 *  *  *  1982年4月に入社し、大阪市福島区の中央研究所にあった企画部へ配属された。入社は営業の枠だったが、そこは別世界。新しく開発した化合物からつくる薬の製造・販売の承認を、厚生省(現・厚生労働省)から得る仕事が待っていた。  以来4年余り、各地の医師に新薬の臨床試験を依頼し、集めたデータを分析して、承認の申請書をつくる。最初に担当したのは、遺伝子組み換えを活用した糖尿病用のヒトインスリン。同僚もいたが、1人で会社に泊まり込み、すべてをこなす。  たまに近くのホテルに会社の費用で泊まらせてもらうのが、数少ない息抜きだった。それも夜中の2時ごろにいき、朝6時半には起きて、誰よりも早く出社する。いまなら許されない働き方だろうが、最後の1カ月は1日しか休めず、眠くて昼食後にトイレで寝込んでしまい、捜しにきた上司に起こされた。 新薬に届いた手紙感謝の言葉を読み創薬の達成感を得た  疲れはしたが、つらい、と思ったことはない。うれしい瞬間もあった。新薬が承認され、使われるようになると、手紙が届く。糖尿病で困っている人は多いから、1通や2通ではない。 「いい薬をつくってくれたおかげで、生活がずいぶん楽になりました」「ありがとう。また、いい薬をつくって下さい」  中学生のころ、母から何度も聞いた言葉が、頭に浮かぶ。 「世の中には困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」  その言葉通りのことが創薬でできている、との達成感が、手代木功さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。母の言葉は、その豊かな水源だった。  87年8月、米ニューヨーク事務所へ赴任した。今度は、自社が開発した薬のもととなる化合物の特許を、米国の製薬会社へ売り渡し、薬にして売ってもらう役。製薬の世界で「導出」と呼ぶ過程だ。米国では、日本でやった動物実験のデータがそのまま使えたから、取り寄せて提供し、承認までのスピードを上げた。それが、交渉相手を引き付ける。塩野義で開発した化合物が薬となって使われ、利用者からの感謝の言葉が生んだ『源流』が、海外へも流れていく。 車の中にいつも虫取り網(写真:本人提供)    ニューヨークに3年8カ月いて、中央研究所にあった開発渉外部へ戻る。次は、海外の製薬会社から特許を買い、日本で新薬をつくって売る「導入」の仕事だ。すべての領域の新薬を自社でつくるのは、欧米の巨大な製薬会社でも無理。「導入」も大事な手法で、「世の中には困っている人がいるのだから」という母の言葉にも、重なる。  1959年12月に仙台市で生まれ、両親と姉の4人家族。父は東北電力の技術者で転勤が多く、小学校に入ったのは福島県会津若松市。「手代木」の姓は会津若松に多く、偶然だが、父の実家もあった。その後、東京へ引っ越し、さらに仙台へ戻って小学校を卒業。宮城教育大学付属中学校から、県立仙台第一高校へ進んだ。 血をみるのが嫌いで「医者になって」との母の願いは無理  父母は何でも自由にさせてくれ、進路などに口は挟まない。ただ、母は息子が医者になることを願っている、と分かっていた。でも、献血をしている人をみると貧血になりそうなほど、血をみるのが嫌い。数学や化学が好きだったので東大理科II類を受けて、薬学部に入る。進路は、同期生の9割が大学院へいくなか、就職に決めた。研究生活が嫌で「研究所以外なら、どこでもいい」という希望を認めてくれたのが、塩野義製薬だ。  94年6月から3年間の2度目の米国勤務を経て、本社社長室課長になった。さらに秘書室長兼経営企画部長に就く。社長は創業家一族の塩野元三氏で、部下に「1を言えば、10が分かるな」というトップダウン型。その相手に選ばれ、「懐刀」のように映ったのか、みんなが壁のようなものを感じて付き合いにくかったようだ。  でも、思い出の一つになる仕事があった。91年に塩野義が開発した高コレステロール血症の治療薬「クレストール」の日本での販売権を、取り戻したことだ。やはり創業家出身で塩野元三氏の前の社長が「世界中で販売するだけの力は、塩野義にない」として、英国企業へ世界中の製造・販売権を渡していた。その結果、世界での売上高から年間に入る百億円単位の特許使用料が、研究開発を支えてきたから、正しかった面もある。  その社長が99年に体調を崩して退任し、専務だった塩野元三氏が後任に就いた。2年後、国内最大の製薬会社の社長から塩野氏に電話が入り、「クレストールの国内販売権を買い取る交渉を始めるので、よろしく」と告げられる。親しい同士だったので、「仁義」を切った形だ。 自社製の薬の販売権取り戻す交渉へ3週間で百頁の書類 「宣戦布告」を受けて、社長は「威信にかけて、クレストールの英社との国内共同販売の契約を獲れ」と檄を飛ばす。すぐに交渉に入るため、3週間で約百頁の書類を用意した。販売権の買い戻し額や国内での販売計画をつくり、社長と2人で相談。何度かの英国での交渉にも、単身か社長と2人でいった。そこで、英社も日本に連携相手を欲しがっていることを、つかむ。  合意への決め手は、英社にもメリットがある形へ、一歩退く戦法だ。英社が払う特許使用料の料率と支払期間で、目先の投資資金が必要だった英社の事情に配慮した。  一方で、売り上げが増えていけば塩野義の利益が増える仕組みにした。自社が得をするばかりの「100対0」でなく、相手も納得する「51対49」の案。日米で新薬の特許の「導出」と「導入」のやり取りに携わり、手代木流の交渉術が身に付いていた。  単品で年間売上高が1千億円を超える薬を、製薬業界で「ブロックバスター」と呼ぶ。日本での共同販売権を得て05年に発売したクレストールは、2014年度に日本で八つ目の「ブロックバスター」となった。  常務執行役員・医薬研究開発本部長として創薬部門のトップに就き、専務執行役員で営業も担当して国内の最前線を回り、「帝王学」を修了。08年4月に社長に就任した。創業家以外から久々の社長で、48歳と前任社長より13歳も若返る。  新薬は原型の化合物が生まれてから市場へ到達するまでに、平均13年から15年かかると言われ、前任社長は「きみがいま社長になって始めたことが、実を結ぶのは私の年だ」と笑った。「やっぱりそれくらいの期間で考えないと、薬屋などやっていられないな」と聞いていた。  いまトップになって17年目。医薬研究開発本部長のときから送り出した新薬は、20年間に九つ。その一つが、昨年3月に一般医療用に提供を始めた新型コロナウイルスの治療薬「ゾコーバ」だ。新型コロナウイルス向け飲み薬としては、世界で3番目の早さで世に送り出した。  もちろん、「世の中には困っている人がいるのだから、それは役に立つでしょう」という母の言葉が、背中を押した。そしてまだまだ押され続け、『源流』からの流れは広がっていく。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
トップの源流
AERA 2024/04/28 06:30
「はんにゃ.」金田哲が「思い出したくもなかった」と語るブレークの裏側 「ダークサイドに落ちそうになった」
唐澤俊介 唐澤俊介
「はんにゃ.」金田哲が「思い出したくもなかった」と語るブレークの裏側 「ダークサイドに落ちそうになった」
お笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    かつて「ズクダンズンブングンゲーム」などで一世を風靡したお笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さん(38)。コンビ結成から数年しかたっていないにもかかわらず、2008年ごろから大ブレークを果たした。現在は大河ドラマに出演するなど俳優としての顔も持つ金田さんだが、お笑いでブレークした裏では「思い出したくもなかった」と話すほど、心身ともに疲弊していたという。やっと話せるようになったという知られざる「裏話」を語ってもらった。​ *  *  * 「渦中にいるときは、それが幸か不幸かなんて本当にわからないですよね」  人間万事塞翁が馬。お笑いコンビ「はんにゃ.」の金田哲さんの座右の銘だ。まさにこの言葉が象徴するような人生を歩んできた。 「18歳のとき、一旗揚げてやろうと田舎から上京してきて、当時は根拠のない自信だけがありました。いま思うと、とんだ勘違い野郎だったなと思います(笑)」  志村けんさん、とんねるず、ナインティナイン……テレビで活躍する芸人の姿に憧れ、愛知県田原市から東京にやってきた金田さん。2005年、川島章良(あきよし)さんとお笑いコンビ「はんにゃ.」(当時は「はんにゃ」)を結成した。  それから数年後、「エンタの神様」(日本テレビ系)や「爆笑レッドシアター」(フジテレビ系)などへの出演をきっかけに大ブレークを果たした。絶頂期だった08年から10年ごろには、一日に仕事を8~12本こなし、睡眠時間は2~3時間だったという。金田さんは当時をこう振り返る。 撮影中に「変顔」をしてくれた金田さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   実力がないのに前線に放り込まれた 「勢いと無知を強みにブレークしてしまったというか。フツーのあんちゃんが、22、23歳で憧れた人たちと番組で共演することができてしまった。内村(光良)さんとコント番組やったり、ナインティナインさんの『めちゃイケ』(『めちゃ×2イケてるッ!』、フジテレビ系)にも出させてもらいました。その他にも、CMや映画、ドラマへの出演、曲を出して音楽番組にも出ることができました。本当に運が良かったと思います」  プライベートでも、芸能界のスターたちと時間をともにすることができたという。 「岡村(隆史)さんと2人でおでん屋さんでお食事出来たり、志村さんともご一緒に飲ませていただいたことも忘れられません。コントやキャラクターの話をしたり、僕が当時やっていたネタを『やり続けなさい』って言っていただけたり。この数年で本当にいろんな経験をすることができました」  しかし、爆発的な人気の裏では、キャリアの浅さが露呈したこともあったという。「実力がないのに前線に放り込まれて、どの番組もうまくいきませんでした」と話す。 「ネタはウケていたし、評価もされていたと思います。けど、トーク番組とか平場だと全くウケなかったんです」  人気の絶頂期にあった金田さんは、当然、番組の華として中心に置かれることが多かった。その脇を固めるのは、有吉弘行さん、ブラックマヨネーズ、フットボールアワー、チュートリアル、バナナマンといった「刀を研ぎ続けてきた猛者たち」(金田さん)だった。 「大先輩たちと横並びで出されるのは、めちゃくちゃキツかったです。ネタはフレーズやテンポでウケるんですけど、平場だと人間力とか経験値が全てなんですよね。ベテランの方たちとは、人間としての分厚さが全然違うなと思いました。やっぱり自分の言葉は軽いし、薄っぺらかったんです」 金田哲さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   ロケに行くとひどい暴言を吐かれる  そして、次第に好きだったお笑いが嫌いになっていったという。 「スタッフさんに怒られ、ロケに行くとひどい暴言を吐かれて、SNSでもボロカスに言われて……。でも一方で、テレビで見ていた人たちに僕が憧れたように、僕に憧れを抱いてくれる人たちも少しばかり現れてくれて、その人たちに夢を持ち続けてもらうためにも頑張らないといけない、と自分を追い込 んでたりもしていて、精神的にすごくキツかったです」  当時のテレビ業界は、「スーパーマッチョハードモード」(金田さん)で、朝から翌朝までの収録もざらにあったという。そんななかで金田さんは心身ともに疲弊していった。そのあまりのつらさに、当時のことは思い出すことすらしたくなかったという。 「本当によく今笑顔で取材受けられてるなって思います。最近まで、昔のことは話したくもなかったんです」  当時は、「ダークサイドに落ちていきそうになっていた」という。 「もうしんどすぎて、夜中に家を飛び出して、公園の木に抱きついたときもありました。寝られないし、食べられないし。お世話になったスタッフさんに呼んでいただいた番組でスベり倒して、番組終わりに飲みに行ったら、隣で飲んでる輩(やから)にボロカス言われて、飲み過ぎてゲロ吐いて。で、帰宅してお風呂に入ろうと思って下着を脱いだら、うんこ漏らしてて。それにも気がつかなかったんです。そのときに『俺、終わってるな』って。世間では華やかなデビューをしたと思われていましたけど、その作り上げられたイメージと現実の自分とのギャップがえげつなくて」 大河ドラマに出演する俳優でもありポージングもさまになる(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   孔子や朱子学の本を読みあさった  徐々に仕事もなくなっていったというが、そんな状況でも周囲の人たちは金田さんを支えてくれたという。 「先輩方やスタッフさんは目をかけてくれました。先輩たちが日々、飲みに連れ出して、皆さん、『金田は面白いから大丈夫』と言ってくださって。だから僕も踏ん張れたんです」  どん底を経験した金田さんだが、ここからはい上がっていく。人間としての厚みが足りないことを実感していたため、これを機にいろいろなことを経験していこうと決めたのだという。 「プライベートでもいろんなところに出かけていったり、あとは本を読みあさりましたね。もともと歴史に興味があったので、孔子の『論語』とか、朱子学についての本を読んだり。あとは、哲学とか岡本太郎さんの本とかも読みました。そうやってインプットしたあとに、それを行動に移して。で、めっちゃ失敗しました。でも、それでよかったんです。チャレンジしていくことが大事だったので。今の自分になるには、ブレークもどん底の時期もどちらも必要でした」 「とにかく急上昇と急降下のG(重力)がとんでもなかった」と表現する20代を過ごし、大きな学びを得た金田さん。それから10年ほどがたった今、自分自身に変化は起きたのだろうか。 「正直わからないですけど、自分としては分厚くなってるとはまだまだ思わないです。けど、20代での経験をどうやって次に生かしていくかを考え続けて、意識し続けていけるかが大事だと思ってます。それ次第でだいぶ30代が変わるなって。だから、意識し続けてきました。どん底の経験を絶対に無駄にしたくなかったんです」 ※【後編】<「はんにゃ.」金田哲 大河出演で“イケメン”と話題も「笑いにカッコよさはいらねぇ」と反発した20代>に続く (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●金田哲(かなだ・さとし)/1986年、愛知県生まれ。お笑いコンビ「はんにゃ.」のボケ担当。2005年に吉本興業の養成所で知り合った川島章良とコンビを結成。08年ごろから注目され始め、「エンタの神様」(日本テレビ系)や「爆笑レッドシアター」(フジテレビ系)などで大ブレーク。「ズクダンズンブングンゲーム」は小学生たちの間で大流行した。その後、仕事が激減するが、最近ではTikTokやYouTubeなどのSNSで再び注目を集めている。また、俳優として、映画「燃えよ剣」(21年)、「ヘルドッグス」(22年)などに出演。現在、NHK大河ドラマ「光る君へ」で藤原斉信役を演じ、その演技やイケメンぶりが話題になっている。
はんにゃ金田哲お笑い
dot. 2024/04/27 11:00
映画「新聞記者」や「余命10年」を撮った新世代の監督・藤井道人の原点とは
中村千晶 中村千晶
映画「新聞記者」や「余命10年」を撮った新世代の監督・藤井道人の原点とは
社会派からラブストーリーまでヒットを飛ばす。「知らないことが来ても『お!』と楽しめちゃう」(撮影/高野楓菜)    映画監督、藤井道人。5月3日に公開される映画「青春18×2 君へと続く道」は、日本と台湾で撮影。藤井道人にとって初の国際プロジェクトとなった。「新聞記者」や「余命10年」とヒット作を撮るだけでない。俳優からも「一緒に作品を作りたい」と切望される。仲間と自主映画を作るのが楽しかった。その延長線に今もある。映画を作るのはかっこいいと、その姿勢と作品とで伝える。 *  *  * 「はい、よーい、スタート!」  3月終わりの東北地方。薄闇に包まれつつある寒空に、藤井道人(ふじいみちひと・37)の声が響く。この日クランクインしたNetflixシリーズ「イクサガミ」の撮影現場。黒いキャップに黒いコート姿の藤井はすらりとした長身を猫背気味に丸めながら、モニターを食い入るように見つめている。視線の先には300人のキャストとエキストラ、スタッフも100人以上はいるだろう。「いつもとはだいぶ違います」と苦笑いしつつ、軽いフットワークで俳優たちのそばに行き、スタッフに指示を出す。緊張感はあるけれど、威圧感はない。藤井を中心に現場がひとつになっている。撮ることが楽しくて、楽しくてしょうがない。そう言いたげな背中が、かがり火に照らされて輝いていた。  藤井はいまもっとも「求められる」監督だ。2019年の「新聞記者」で一躍世に知られ、現代を生きるヤクザを新たな視点で描いた「ヤクザと家族 The Family」(21年)、閉ざされた村を舞台にした「ヴィレッジ」(23年)など、硬派&社会派のイメージを持つ人も多い。が、「余命10年」(22年)では実話をもとに限られた命を生ききった少女の恋を切なく編んで興行収入30億円の大ヒットを記録した。今年2月にはNetflix映画「パレード」が配信公開、5月には新作「青春18×2 君へと続く道」が公開される。 「青春18×2 君へと続く道」でジミーを演じたシュー・グァンハン(33)と、ウェブメディア「シネマカフェ」の取材に応じる。グァンハンは藤井を「日本のお兄さんでもあり、大の親友」と語る。藤井の「人間力」は万国共通のようだ(撮影/高野楓菜)    まごうことなき売れっ子ぶり。さまざまなジャンルに果敢に挑戦し、しかしそのすべてに「藤井印」を刻んでいる。大学在学中からコマーシャルなど映像作りに携わり、卒業後、大学の仲間たちとクリエーター集団「BABEL LABEL」を立ち上げて活動。まさに「新世代の監督」の風情だ。大学時代から藤井を知る映画プロデューサーの伊藤主税(ちから・45)も言う。 「第一印象はすらっとして、オシャレな大学生という感じでした。でも中身はストイックで純粋。映画に対する執念はあのころから尋常じゃなかった」 年に350日は剣道の稽古 映画は高2で出合う  脚本を書いては「読んでください」と伊藤に持ち込み、自主制作映画でも予算をつけて、一般に公開することにこだわってきたという。 「スマートに見えるけど、その裏では本当に血みどろになりながら作品を作ってきた。そのときの時間とDNAがいまでも生きていると思う」  相対すると柔和な雰囲気と気さくな語り口が相手の心をなごませる。映画「新聞記者」の監督オファーが来た当時を振り返り「タイトルが『新聞記者』? ダサッ! ないわ!と思った」、続く「ヴィレッジ」のオファー時にも「オレ、ニューヨーク生まれ東京育ちのシティーボーイですよ? 村は無理!って言いました」などなど、ユーモアたっぷりに語る様子に爆笑させられる。  藤井は1986年、正確には東京に生まれ、すぐにニューヨークに移った。銀行員の父と旅行代理店で働く母、3歳上の姉と4歳までマンハッタンのど真ん中で暮らしていた。祖父は医師で、台湾に生まれ日本に渡った華僑だ。その血を引く藤井の父は絵や骨董(こっとう)のコレクターで、藤井は幼いころから家族でギャラリーをめぐっていた。いま母はキルト作家、姉は絵本作家として活躍している。 来日スペシャル上映会で、グァンハンとダブル主演の清原果耶と。「いまもお互いに緊張感がある。ちょっとでも成長してる姿を見せたいと、サボらずに作品作りができるのは幸せだと思います」(清原)[撮影/高野楓菜]    父は藤井の名を「剣(つるぎ)」にしかけたほど剣道一筋の名人でもあった。その影響で藤井は3歳から剣道を始めた。高校卒業まで365日中、350日は稽古。当時はつらかったが、いまでは感謝していると藤井は言う。武道の基本は「克己心」、己にどう勝つかだ。礼節や忍耐も身についた。実際、藤井は強く、都大会や関東大会で勝ち続けた。だが中学で渋谷区から中野区に引っ越したことで、剣道と並走して青春も走り始める。地元の友達ができ、稽古のあと夜まで遊び、母や姉に反抗的になった。初めてできた恋人と浜崎あゆみのCDを貸し借りっこした。うう、甘酸っぱい。  リーダーというよりは「ナンバー2」のポジション。「クラスの一番後ろの席で椅子をギッコンギッコンやっていた」藤井少年は、高2で映画に出合う。きっかけは親友と一日ひとつ何かをやろうと決めたことだ。親友は「一日一善」。藤井は「1日1本映画を観る」。家から1分のところにTSUTAYAがあったのだ。最初はアメリカのコメディー。キャメロン・ディアス主演の「メリーに首ったけ」を友達とワイワイ楽しんだり、「世にも奇妙な物語 映画の特別編」をデートで観に行ったり。映画は難しいものではなく、みんなで楽しむもの。それが藤井の映画原体験であり、間違いなくいまの藤井を形成している「もと」だ。 映画の知識はなくても 仲間と工夫するのが楽しい  日大芸術学部映画学科の脚本コースに進学するが、まわりは濃いめのシネフィルばかり。「小津のなかで何が好き?」と聞かれて「オヅ……?」と返して呆(あき)れられた。廃部寸前だった非公認映画サークル「ズッキーニ」に参加したのもコアな映画好き集団とは違う空気があったからだ。脚本も監督も担当し、自主制作映画を撮り始めた。  食品用のラップをレンズにつけて岩井俊二風のふんわりした映像を再現しようと試みたり、配膳台にカメラを乗せて動きのある映像を作ってみたり。バイト代で機材を借り、仲間を増やしていった。映画の知識はなくても、藤井にはコミュニケーション能力やチームを作る力があった。 「剣道って個人戦なんですよ。それまでみんなで何かをやるってことをしてこなかったから、楽しくて。いまもそのまま、ここに至るって感じです」 撮影に取材にと多忙を極める。でも楽しいと思えるから続けられる。「休みたいって思わないんですよね。1日空くとソワソワしちゃう」(藤井)[撮影/高野楓菜]   「いつか読書する日」などで知られる脚本家の青木研次(66)は3年次から藤井を教えた。 「柔らかくて、人懐っこい。脚本コースに来る子は割と暗いから(笑)、珍しいタイプだと思った」  と振り返る。青木が身を置いてきた映画界は監督を頂点にしたピラミッド型のボーイズクラブだ。藤井にはそれとは違うスタンスも感じたという。 「強権発動型ではないし、最初から『食うに困らない方法で映画をどうやって作っていくか』考えていたような気がする。俺たちの時代とは、ちょっと違うなって」  藤井も意識的に「違う」を模索していた。大学1年のとき、ある現場に助監督として行った。深夜まで働いても「勉強」だから当然ノーギャラ。理不尽なことで怒鳴られもする。映画は作りたい。でもいままでの方法ではいやだ。ならば、これまでとは違うルールを自分たちがつくればいい。  藤井はハイクオリティーのデジタルビデオカメラや編集ソフトに触れられたデジタルネイティブファースト世代だ。プロに頼むと50万円かかる動画制作を学生価格の5万円で請け負った。撮影、監督、編集、納品まですべてできる藤井は重宝され、仕事が次々と舞い込んだ。卒業後もフリーで活動し、お金を貯(た)めてはアパートの一室に仲間と集まり、自主制作映画を50本以上作り続けた。  いまも多くの藤井作品で撮影を担当するカメラマンの今村圭佑(35)は藤井の2年後輩で、当時からの付き合いだ。「いまや冷えきった夫婦のような関係」と笑わせながら振り返る。 「僕も大学生だったし、スタッフも俳優もプロじゃない。でも“ない”ところからどれだけいいものにするか。もっと、もっと良くしようという気持ちはお互いにあって。それぞれが研究して、経験を持ち寄って、トライ・アンド・エラーしながら一緒にやってきたという感じですね」  そして26歳の藤井に大きな転機がやってきた。  大学時代から藤井の脚本の腕を買っていたプロデューサーの奥山和由に、伊坂幸太郎原作「オー!ファーザー」の脚本を任された。伊坂本人が気に入り、脚本家として映画化に関わる。がクランクインの半年前に監督が降板し、急遽(きゅうきょ)「藤井、やる?」と言われた。「やります!」と即答した。 「僕はたぶん一般の人の感覚に近いんだと思います。映画は大衆のカルチャー。スピルバーグが『レディ・プレイヤー1』を撮るのをカッコイイ!と思う」(藤井)[撮影/高野楓菜]   河村光庸と出会い 「新聞記者」が誕生する  だが商業映画デビューは苦かった。平均年齢50歳代のスタッフに藤井は的確な指示をすることができなかった。せっかくいい芝居が撮れても「雑音が入ったからいまのはダメ」と言われる。もっとカットを撮りたくても「全員分の送りタクシーのお金出せるのか!?」と怒鳴られ、言い返せなかった。お金の管理も照明も録音も、もう一度勉強し直さないとダメだ。新たなオファーをすべて断り、自主映画からやり直すことを決めた。すべての原動力は「リベンジだった」と藤井は言う。 「数年後、あれ? 1回消えたはずの新人が蘇(よみがえ)ってきてるよ、みたいにしたいなと」  30歳で自主制作映画「光と血」を撮り、翌年に青春群像劇「青の帰り道」で商業映画に復帰する。32歳で撮った「デイアンドナイト」には内部告発をしたことで自殺に追い込まれる男や、非合法な手段で運営金を稼ぐ児童福祉施設のオーナーが登場する。善悪とはなにか? 自分が当時抱えていた葛藤を映画にぶつけた。それが2度目の転機を運んでくる。スターサンズのプロデューサー河村光庸との出会いだ。藤井は言う。 「突然『オーッスオッス、河村です』って電話がかかってきたんです。ちょっと会おうよ、って」  当時、河村は69歳。完成前の「デイアンドナイト」のラッシュを観たよ、すごいね、と言われ前のめりで企画書を渡された。タイトルは「新聞記者」。当時の安倍政権による隠蔽(いんぺい)や文書改ざんなどリアルタイムな事件をモデルに、現代日本の闇をえぐるビビッドな内容だ。前監督が降板し、若い監督を探しているという。  同社の映画プロデューサー・行実良(37)は当時の河村の様子を笑いながら思い出す。 「おい、藤井道人ってめちゃくちゃいいぞ!って興奮気味に電話をもらったのを覚えています。でも、そのときは断られているはずなんですよね」  そう、藤井は断っていた。政治にまったく興味がなく新聞も読んでいなかった。河村はねばった。「君みたいな子だからこそ、撮ってほしいんだ」  3度目のオファーで藤井は折れた。だが、どんなに勉強しても自分に政治を語ったり批判したりする土台はない。ならば登場人物の感情に踏み込んだ人間ドラマにしよう。河村がアグレッシブなアイデアを持ち込み、藤井がそれを映像に落とし込む作業が続いた。藤井は正直に言う。 「完成したとき『これ、おもしろいのかな?』ってなった映画は初めてだったんですよ。知れば知るほど、この映画を世に出すことが怖くなった感情もあったと思う。でもいいや!って。これは河村さんの企画だし、河村さんが考えていることをたぶん、ちゃんと映像化できたなと」  そして出来上がった「新聞記者」は日本映画界に一石を投じるヒット作になった。河村とのタッグで「ヤクザと家族 The Family」、ドラマ「新聞記者」と次々に作品を作る。河村は決してやりやすいタイプのプロデューサーではない。撮影中「だって思いついちゃったんだもん」とたびたび変更を迫る河村を前に、次々と監督が降板する。だが藤井とは相性がよかった。 「デジタルネイティブ初号機の特性でもあるんですけど、自分にとって一回やってみることはそんなに難しくないんです。5分しか変わらないなら、じゃあ一度やってみるかとトライ・アンド・エラーができる。自主映画時代からそうやってきたから」  だが「ヴィレッジ」撮影を終えた2週間後に河村が急逝する。闘病していたことは行実以外、誰も知らなかった。亡くなる1週間前にも焼き肉屋で次回作「パレード」の企画を話し合っていた。 「最後の友達っていうか、かわいいおじいちゃんでした。もっと一緒に遊びたかったな、みたいなのはありますね。でも彼の企画がまだ何本も残っているし、彼の熱意とか愛情のようなものは僕らが引き継いで頑張んなきゃという思いです」(藤井)  最新作「青春18×2 君へと続く道」は藤井の祖父のルーツである台湾との念願の合作映画だ。ヒロイン・アミを演じた清原果耶(22)は藤井と3度目のタッグ。藤井を「役者と一緒に歩んでくれているのがわかる監督」だと言う。 「監督によっては『このシーンで泣いてください』とダイレクトに言われることもあるんです。でも藤井さんは違う。役者が考える余地を残してくれるし、感情を無駄に消耗させない。やっぱり役者もロボットではないから。役への責任を平等に持って作品作りができる。そんなイメージです」  俳優の綾野剛(42)も同じ意見だ。「ヤクザと家族 The Family」で出会ってから、公私ともに付き合いがある。 「藤井監督はどうすれば現場が良くなるかを常に考え、修正や変化、進化を恐れていません。監督が各部署をリスペクトされているので、現場全体が監督を信頼し、どうしたら良い作品、現場になるかそれぞれが自分事として考え、ワンチームになる事ができる。藤井監督とは映像や作品を通して繋がっている以上に、家族のような存在です」 映画監督はかっこいい 後輩に態度で示したい 「一回成功したものをもう一度、こすりたくない」と藤井は言う。社会派、ヤクザ、ラブストーリー。ジャンルにこだわらず縦横無尽にかけめぐり、来た球は打ち返す。ただし自分のなかで咀嚼(そしゃく)して、相手の想像を超える大きなヒットを飛ばす。藤井作品に通底するものを前出のプロデューサー・行実は「点描とメタファー」と表現する。 「例えばメタファーでいえば、『新聞記者』で美しく黄葉していたイチョウがきれいに散ってゆく様は、官僚が自分のキャリアと正義を秤(はかり)にかけ、葛藤に重ねた比喩だと思う。『ヴィレッジ』の霧は社会に漂うもやっとした空気感を表している。単に印象的なシーン、ではない。彼は物を届ける側の責任として、映像や小道具、すべてに意図をもってやっている」  前出のカメラマン、今村はそんな藤井を「作品作りお化け」と呼ぶ。 「作りすぎ、みたいな意見も周りにあると思うけど、それ以上に撮りたいものがいっぱいあるんだろうなと。誰もが持っている『自分に飽きてくること』への恐怖心を藤井さんは映画を作ることで解消しているというか、あんまりできない選択だとは思います」  藤井は40歳を一区切りに、監督業のみならず視野を広げる決意をしている。拠点を移すのか、職業を変えるのかはわからない。 「考え始めたのは、河村さんが死んでからですかね。急に友達がポコッといなくなったっていうか、信頼できるファミリーはいても、自分がちょっとすり減っている部分は正直あって」  後進のことも考えている。旧態依然とした映画業界のままでは若い世代は入ってこない。ゲートを開けたうえで、バトンを渡したいと言う。 「映画監督ってかっこいい仕事だよと、教えてあげるには、態度で示さないと」  前出の綾野も伴走者のひとりだ。 「現状に凝り固まらないために、時に背中を支え、肩を叩き、見える景色は一緒っていうところに、みんなでいけることが大事だと自分も思っている。そして同じ思いをシェアできる仲間と出会う努力をしていく。それは新しい時代、というよりは『これからの時代』なんだと思います」(綾野)  これからの映画界へ。道しるべを刻む旅はまだ終わらない。 (文中敬称略)(文・中村千晶) ※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
現代の肖像
AERA 2024/04/27 10:30
「“おひとりさま”この先どうする? 超高齢化社会、旧来型の家族とは異なる互助システムを」ジェーン・スー
ジェーン・スー ジェーン・スー
「“おひとりさま”この先どうする? 超高齢化社会、旧来型の家族とは異なる互助システムを」ジェーン・スー
超高齢化社会家族とは異なる互助システムを(イラスト:サヲリブラウン)    作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  *  厚生労働省の推計によると、2050年に全5261万世帯の44.3%に当たる2330万世帯が1人暮らしとなり、うち65歳以上の高齢者が半数近くを占めるそうです。まさに、私。  土曜日の夜9時。私と友人2人は飲食店におりました。急な誘いにもかかわらず、2人は乗ってくれました。  彼女たちとの付き合いは四半世紀以上。新卒で入社した会社の先輩と後輩です。あの頃は、会社のやり方に憤っては、仕事終わりにファミレスやカフェに集まって、文句を言ったり改善策を考えたり。  あれから25年。もはや、先輩も後輩もありません。血気はすっかり消滅しました。アラフォーだった先輩は、いつの間にかあと2年で定年です。  私ともうひとりは未婚、ひとりはバツイチ。子どもは誰もおりません。自宅介護が必要な親もおりません。だから25年経っても夜遅くから会うことができるのです。  翌日曜日。午前中から友人5人とプロレスを観に行きました。メンバーは30代から50代。全員未婚で子どもナシ。だから日曜日の午前中から外出できるのですよね……。 イラスト:サヲリブラウン  30代の女性が言いました。「パートナーも私も子どもが欲しいと思っていないので結婚する理由が見当たらない」と。40歳以上のメンバーは「手術を受ける際に家族の同意が必要な場合もあるけどね……」などと答えつつも、誰一人結婚しておらず、後悔もしていないので声が弱々しい。説得力がありません。しかし、「結婚しなくたっていいよ!」と力強く肯定もできない。いま楽しくても、この先どうなるか、わからないからです。  先日、父親が入院しました。命に別条のない手術でしたが、80代半ばを過ぎて、私がこれを誰の助けも借りずにやるのは難しいとも思いました。今更ながら、私設セーフティーネットの必要性を感じました。  これからの超高齢化社会、行政がいま以上に高齢者を手厚くケアできるとは思えません。子どもがいても、介護を押し付けるのは無理な話。  公助なき互助は言語道断なれど、旧来型の家族とは異なる互助システムを考えないと、社会が立ち行かなくなるのは必然。テクノロジーが解決する場面もありそうですが、心許なく感じてしまうのも事実。  独身の友人が集まって住めるホームがあればいいけれど、かなりお金がかかりそう。さあ、どうしたものか。まだ人生は折り返したばかり……。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2024年4月29日-5月6日合併号
ジェーン・スー
AERA 2024/04/25 19:00
「どう考えても勝てないビジネスコンペ」で大逆転勝利を収めた恐るべき戦略とは?
「どう考えても勝てないビジネスコンペ」で大逆転勝利を収めた恐るべき戦略とは?
井下田久幸さん  社員数わずか16名のベンチャー企業が、名だたる大企業とソフトウェアのビジネスコンペで争い、300戦無敗! そんな離れ業をやってのけた、「選ばれることの達人」が、そのものズバリ、『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』というタイトルの本を上梓した。  達人の名は井下田久幸(いげたひさゆき)。氏は、もともと日本IBM社のエリート社員だったが、自ら志願して弱小ベンチャー企業に転職。そこで、上記のビジネスコンペ300戦無敗を実現した。現在は起業し、その会社のCEOを務めている。  今回は、そんな井下田氏の友人であり、新刊本の企画者でもあるブックライターの西沢泰生氏が井下田氏に「選ばれ続ける極意」について聞くインタビューの第3回(最終回)。 「今回は選ばれるのは無理だろう」からの大逆転 西沢:ベンチャー企業時代のビジネスプレゼン300戦無敗のなかで、「今回ばかりは、受注は難しいのではないか?」という窮地から逆転した事例があれば教えていただけますか。 井下田:そうですね。ベンチャー企業時代ではなくて3社目にいたときのことですが、かつて、自分がコンペで叩きまくっていたソフトウェアを自分が売ることになったことがありました。しかも、コンペの相手が、少し前まで自分が売りまくっていたソフトウェアというめぐり合わせのときは、これは参ったなと。 西沢:えーっ、言わば昨日の友は今日の敵ですか。嘘みたいな展開ですね。 井下田:しかも、そのシチュエーションで、自社製品を含めて9社とコンペをすることになったときは、さすがに、今回ばかりは難しいかなと思いました。 西沢:それはキツイですね。いったいどうやって選ばれたんですか? 井下田:まずやったことは、確率9分の1を2分の1にすることでした。 西沢:えっ? どういうことですか? 井下田:お客様に、こう伝えたんです。「今回の御社のご要望を考えると、正直、A社の製品が一番良いと思います。あとの会社の製品は私の目から見ても問題外です」。このA社の製品というのが、かつて私が売っていた製品です。こう伝えることで、選ばれる確率をA社の製品か当社の製品かの2分の1にすることに成功しました。 井下田久幸『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』(朝日新聞出版)>>書籍の詳細はこちら 西沢:えぐい! でも、そのままだと、A社の製品が選ばれてしまいますよね。 井下田:そのとおり。そこで、私の会社の製品とA社の製品で、ある処理を行うデモを同時に実施しました。それは、めったに発生しない処理なのですけど、実は私、A社のその製品が、その処理を行うとバグが発生することを知っていたんです。なにしろ◯◯社にいた頃、そのパグを取り除くように何度か提案したんですが、それがレアケースの処理であることと、根本的に製品をつくり直す必要があることから黙殺されていたんです。 西沢:もともとその製品を売っていた自分の強みを生かしたんですね。それで、あえて、めったに発生しない処理で、今、自分が売っている製品と同時にデモを行ったと。 井下田:そうです。そして、「A社の製品は優れていますが、こんな致命的なバグがあります。ウチの製品はその点、安心ですが、どちらにしますか?」と。これで、そのコンペでも選んでいただくことができました。 西沢:いやはや、「選ばれる人には、選ばれるだけの理由がある」というのがよくわかります。井下田さんを敵に回したら怖いですね(笑)。 なぜか選ばれないことに悩む人たちへのメッセージ(1) 最善を尽くすことだけ意識する 西沢:井下田さんの新刊『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』には、「選ばれるための戦略」として、4つの戦略、「試食戦略」「帳尻合わせ戦略」「アドバイザー戦略」「根性論戦略」が登場しています(蛇足ですが、私の最新刊『一流は何を考えているのか』(Gakken)でも、井下田さんの「試食戦略」の成功事例について、クイズ形式で紹介しています)。拝読すると、「これはたしかに300戦無敗になるのも道理……」と納得しました。そこで、もし今、目の前に悩んでいる人が来て「私、いつも選ばれなくて自信を失っています。井下田さんのように選ばれる人になりたいんです」と言われたら、何をアドバイスされますか? 井下田:そうですね、行動や心がけは、本にたくさん書いたので、自信を喪失している方に向けて、あえて3つだけお伝えします。 西沢:ぜひ、教えてください。 井下田:1つ目は、「選ばれている人は、選ばれている自覚があまりないことを知ってほしい」です。自分がなかなか選ばれない人は、選ばれる人を見て、うらやましく感じると思います。たとえば、オーディションなら、「どうしてアイツばかりがいつも選ばれるんだ」って思うでしょう。でも、実は選ばれている本人は、「自分は選ばれる人だ」という自覚がなくて、ただただ、目の前のオーディションに最善を尽くしているだけ。その結果、たまたま選ばれたという感覚なんです。 西沢:そういうものなんですね。 井下田:私は、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を座右の銘の1つにしています。ですから、変に「選ばれたい」と意識するより、とにかく「自分にできることを出し切る」という気持ちで選択される場に臨んでほしい。そうすれば、選ばれなくても、やるだけやったって納得できて後悔しませんし、選ばれた人をうらやましく思うこともなくなります。そして、気がついたときには、自分が選ばれるようになります。 なぜか選ばれないことに悩む人たちへのメッセージ(2) 自分のほうが選ぶ意識を持つ 井下田:2つ目は、「『選ばれる』のではなく、自分のほうが『選ぶ』という気持ちになってほしい」ということです。たとえば、会社の採用面接に行くときも、「自分がこの会社を選びに来た」という感覚で臨んでほしいんです。スポーツなら、「この監督、自分をレギュラーにしないなんて目がないな」とか、オーディションなら「自分を選ばないなんて、この監督、あとから後悔するのに」とか。それこそ、商品のプレゼンなら、「この商品を選べば、絶対に便利なのに」と、そういう気持ちを持つ。「選ぶ側に対してへりくだる必要はない」と知ってほしい。そうすると、選ばれなくても落ち込まなくなりますし、態度に自信がにじみ出るようになります」 西沢:そう考えて臨むと、選ぶ側にもその自信が伝わりそうですね。 井下田:そのとおりです。 井下田久幸さん なぜか選ばれないことに悩む人たちへのメッセージ(3) 準備が自信になる 井下田:最後は、「自信がなければ、徹底的に準備する」です。私はこれまでに2000回を超える講演やセミナーをやってきましたが、今でも本番前は震えるくらいに緊張します。 西沢:井下田さんのプレゼンする姿を知る者としては、信じがたい話です。 井下田:もともとアドリブが得意ではないので、本番前は人の何倍も準備しない安心できないんです。友人の披露宴の司会をやるときも、事前に新郎新婦から「スピーチする人たちが何をしゃべりそうか」を聞いて、こんなことをしゃべったらこう返そう、こんな話題が出たらこう次につなげようなど、さまざまな場合を想定してコメントを全部決めてから臨んでいます。 西沢:ひえー、私にはとても無理です。 井下田:それだけの準備をしているから、何が起こってもうまく対応できる。周りの人はそんな私の姿を見て、「井下田さんはアドリブの対応力がすごい」と誤解してくださるわけです。これを「選ばれる場」に置き換えれば、「どう転んでも選んでもらえる戦略を立てる」ということになります。 西沢:「どう転んでも選んでもらえる戦略を立てる」って、すごい言葉ですね。その戦略を立てるうえで、今回の井下田さんの本がおおいに役に立つと思いました。 井下田:はい。私も「どうして自分は選ばれないんだろう?」と悩んでいる方たちに役立ててほしいという思いで書きました。この本が、たくさんの皆さんの助けになることを願っています。 西沢:本日はロングインタビュー、ありがとうございました。 (終了) 【井下田久幸プロフィール】 ドルフィア株式会社代表取締役。1961年生まれ。青山学院大学理工学部卒業後、日本IBMに入社。38歳のときに社員数16人のITベンチャーに志願し転職。ほどなく倒産の危機に直面し、マーケティング部長の傍ら営業支援SEとして現場に入る。以来、足かけ4年にわたりマイクロソフトなど名だたる競合を相手に、コンペ300戦無敗という結果を残す。その後、東証一部上場企業JBCCにて執行役員、さらに先進技術研究所を設立し、初代所長となる。55歳で独立し、現職に。著書に『理系の仕事術』(かんき出版)。 【聞き手:西沢泰生プロフィール】 ブックライター・書籍プロデューサー。主な著書『一流は何を考えているのか』(学研)、『夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語』(三笠書房)、『コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語』(PHP文庫)他。
朝日新聞出版の本読書書籍ビジネスコンペビジネス書井下田久幸選ばれ続ける極意仕事プレゼン
dot. 2024/04/25 16:00
プレゼンや会議で「選ばれない人」がやってしまっている3つのこと
プレゼンや会議で「選ばれない人」がやってしまっている3つのこと
井下田久幸さん  社員数わずか16名のベンチャー企業が、名だたる大企業とソフトウエアのビジネスコンペで争い、300戦無敗! そんな離れ業をやってのけた、「選ばれることの達人」が、そのものズバリ、『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』というタイトルの本を上梓した。  達人の名は井下田久幸(いげたひさゆき)。氏は、もともと日本IBM社のエリート社員だったが、自ら志願して弱小ベンチャー企業に転職。そこで、上記のビジネスコンペ300戦無敗を実現した。現在は起業し、その会社のCEOを務めている。今回は、そんな井下田氏の友人であり、新刊本の企画者でもあるブックライターの西沢泰生氏が井下田氏に「選ばれ続ける極意」について聞くインタビューの第2回。 「プレゼンで選ばれない人」がやってしまっていること(1) 相手の顔を見ない 西沢:営業に限らず、自分の提案を通すためのプレゼンテーション(以下 プレゼン)をする機会というのは、ビジネスの世界ではつきものと思います。そんなプレゼンをするとき、井下田さんがとくに意識している「選ばれる人になるため」にやっていることを教えていただけますか? 逆説的に、「選ばれない人がやってしまっていること」でも構いません。 井下田:選ばれない人がやってしまっていることの1つ目は、相手の顔を見ないでプレゼンするということ。今回の本でも触れていますが、今まで、数多くのプレゼンを見てきて、とても気になるのは、聞いている人たちの顔を見ないでプレゼンをする人がたくさんいることです。それなりに有名な会社の営業が、お客様へのプレゼンのときに、ずっとプレゼン資料を映しているスクリーンのほうばかりを見続けていて、1度もお客様のほうを見ないという姿を何度も見ました。 西沢:あー、そういうプレゼンをする人、たしかにいますね。しかも、そういう人って、資料を読み上げるだけのことが多い。それなら、資料を配って「読んでおいてください」で十分ですよね。 井下田:そうなんです。そんなプレゼンでは選ばれるわけがないと思います。 井下田久幸『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』(朝日新聞出版)>>書籍の詳細はこちら 「プレゼンで選ばれない人」がやってしまっていること(2) 専門用語ばかり使う 井下田:2つ目は、聞いている相手がわからない専門用語を使ってプレゼンすることです。私が見てきたプレゼンが、ソフトウエアに関するものだということもありますが、まるで自分の頭の良さをひけらかすように、聞いている人たちがまったく理解できない専門用語を並べ立てるプレゼンを何度も目撃しました。 西沢:私はその手のことに弱いので、そんなプレゼンをされたらポカンとすると思います。 井下田:ですよね。ところがあるとき、同じソフトウエア関係のあるベテラン営業から衝撃の言葉を聞いたことがあります。 西沢:ええっ! 衝撃の言葉? 井下田:その彼はこう言ったんです。「お客はソフトウエアの話なんて、どうせ理解できないんだから、プレゼンではバンバン専門用語を使って煙(けむ)に巻けばいいんだよ。 西沢:うわっ、それはひどい。 井下田:でしょ、そのときはお互いに飲んでいたこともあって、ちょっと口論になりました。 西沢:そうですよね。よく理解しないで発注をいただいても、あとから「こんなことは聞いていない」って、クレームになりそうです。その点、井下田さんは、お客様がわかる言葉で丁寧に説明してくれそうですね。 井下田:もちろんです。あっ、そう言えばあるとき、お客様から「我々でもわかるように、英語は使わないで説明してほしい」って頼まれてことがあって、「ディスプレイ」を「画面」と言ったまではよかったんですが、「キーボード」のことを「鍵盤」と言ったら、「そこまではいいよ」って笑われたことがありました。 「プレゼンで選ばれない人」がやってしまっていること(3) 話の流れが悪い 井下田:あと、流れが悪いプレゼンをする人は選ばれません。 西沢:といいますと? 井下田:いわゆる起承転結にこだわって最後に結論をもってくるようなプレゼンは嫌われます。私がプレゼンのときに意識する基本的な流れは、「結承転提(けっしょうてんてい)」です。最初に「結論」、次に「理由の説明」、次に「相手の意表をつくもっとも伝えたいこと」、最後に「提案」という順番です。プレゼンではなく、講演を依頼されたときなどは、「どういう流れでお話をすれば、一番効果的に伝わるか?」を考え抜きます。 西沢:なるほど。いつも同じ流れというわけではないんですね。 井下田:そうです。話をプレゼンに戻すと、大切なのは、どういう順番で話せば聞いてくださっている方にスムーズに共感していただけるかです。共感を1つひとつ積み上げていくことで、最後に「選んで」いただけるのです。 会議で自分の提案を通したいとき、効果バツグンの「裏ワザ」 西沢:ビジネスパーソンにとっては、お客様へのプレゼンのほかに、社内の会議で自分の提案を選んでもらうという機会も多いと思います。そんなときの『選ばれる』ための裏ワザがありましたら教えてください。 井下田:効果バツグンの裏ワザがあります。 西沢:おーっ、ぜひ教えてください! 井下田:ひと言で言えば、会議前のネゴシエーションです。会議では、この人が賛成すれば選ばれるっていうキーパーソンが必ずいますよね。たとえば、そのキーパーソンが部長なら、会議の前に、その部長のところへ行って、こう言うんです。「今日の会議で、こんな提案を通したくて悩んでいるんですが、◯◯部長なら、どうやってこの提案を通しますか?」。 西沢:うわっ、それはすごい。 井下田:こう言って相談すると、相手は悪い気はしませんから、アドバイスをいただけますし、会議では味方になってくれて、提案が選ばれる確率がグンとアップします。 西沢:それはたしかに効果がありそうです。でもたとえば、キーマンが社長とか、事前に相談に行けないような相手のときはどうしますか? 井下田:会議が始まる直前に、「おはようございます! 今日はこの提案をぜひ認めていただきたいのでよろしくお願いします」と挨拶するだけでも効果があります。 西沢:なるほど。では逆に、キーマンがいなくて、自分の提案に無関心な参加者が多いような会議ならどうしましょう? 井下田:私はそもそも無関心な人は会議に呼ぶべきではないと思っていますが、そういう会議って多いですよね。そのときは、会議が始まって10分以内に、参加者に声を出してもらいます。それこそ、最初にこちらから「皆さん、おはようございます!」と言って挨拶を促してもいいし、声出しが無理なら、「今日の会議では、最低、ここまでは決めたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」と手を挙げてもらってもいい。とにかく、無関心なメンバーに、参加意識を持ってもらって、無責任に否定されるのを避けることが大切です。 西沢:選挙で言えば、浮動票を獲得することが選ばれるコツということですね。 【井下田久幸プロフィール】 ドルフィア株式会社代表取締役。1961年生まれ。青山学院大学理工学部卒業後、日本IBMに入社。38歳のときに社員数16人のITベンチャーに志願し転職。ほどなく倒産の危機に直面し、マーケティング部長の傍ら営業支援SEとして現場に入る。以来、足かけ4年にわたりマイクロソフトなど名だたる競合を相手に、コンペ300戦無敗という結果を残す。その後、東証一部上場企業JBCCにて執行役員、さらに先進技術研究所を設立し、初代所長となる。55歳で独立し、現職に。著書に『理系の仕事術』(かんき出版)。 【聞き手:西沢泰生プロフィール】 ブックライター・書籍プロデューサー。主な著書『一流は何を考えているのか』(学研)、『夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語』(三笠書房)、『コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語』(PHP文庫)他。
朝日新聞出版の本ビジネス書ビジネスコンペ読書書籍井下田久幸選ばれ続ける極意プレゼン仕事
dot. 2024/04/23 16:00
「学校カメラマン」はもう限界 5千枚撮影で日給2万円 首都圏の運動会に関西から助っ人も
米倉昭仁 米倉昭仁
「学校カメラマン」はもう限界 5千枚撮影で日給2万円 首都圏の運動会に関西から助っ人も
運動会の撮影には、写真館の撮影の代理を勤める「代写カメラマン」がくることがよくある=米倉昭仁撮影  運動会や修学旅行、文化祭など、学校行事を撮影する「学校カメラマン」の不足が深刻化している。背景にはコロナ禍と、「激務に報酬が見合わない」という課題があるようだ。 *   *   *  これから多くの学校で運動会シーズンを迎える。徒競走やリレーで力走し、団体競技に挑んだ記憶は、子どもにも家族にもよい思い出になることだろう。そんな運動会を写真として残すのが、学校カメラマンだ。  今年2月、ひとつの「炎上」で学校カメラマン不足の実態が表面化した。ある撮影会社が、小中学校の入学式を撮るカメラマン約100人をXで募集したのだ。  すると、「SNSで集めたよくわからない人たちが子どもを撮るなんて、マジで怖い」「何かあったらどうやって責任をとるつもりなんだろう」などと、批判が相次いだ。 「代写カメラマン」が足りない 「Xの投稿は、『代写カメラマン』を募集したものです。本当に人手が足りず、ギリギリだったのでしょう」  関西在住のカメラマン、松本さん(30代・仮名)はそう話す。  多くの場合、学校カメラマンとして撮影実務を請け負うのは、地元の写真館や写真スタジオのカメラマンだ。だが、行事日程は複数の学校で重なることが多く、スタッフだけではまわりきれない。そのため、助っ人のカメラマンに業務委託して撮影を分担する。彼らは写真館の撮影の代理を務めることから、「代写カメラマン」と呼ばれる。  松本さんは大学で写真を学んでいたとき、先輩の紹介で初めて代写カメラマンを務めた。その後、中堅の卒業アルバム制作会社を経てフリーになり、学校撮影をメインにしていた時期もある。現在は出版社を中心に活動しているが、「学校写真の師匠」が経営する首都圏の写真館から声がかかれば、代写カメラマンの仕事も請け負っている。 運動会の日程は複数の学校で重なることが普通なので、助っ人のカメラマンに業務委託して撮影を分担することが多い=米倉昭仁撮影    今春も首都圏の入学式の撮影を頼まれた。関西から代写カメラマンを呼ばなければならないほど、人手不足は「深刻」だという。  Xに投稿した会社は必要な人数を確保できなかった。だから、異例ともいえるXでの募集にふみきったのではないか――。そう松本さんは推察する。 Xデーは10月12日?  写真館の経営者らで構成される日本写真文化協会は、カメラマン不足についてこう語る。 「以前から、学校行事が重なることが原因でカメラマンが不足します。最近はコロナ禍明けで学校行事が再開され、人手不足がクローズアップされているということだと思います」(事務局の澤田京一さん)  だが、昨今の「代写カメラマン」獲得競争はあまりに苛烈だ。なんと2024年4月現在、すでに来年の学校行事のスケジュールが押さえられていたりする。 「今秋の首都圏の運動会の撮影も受けました。10月12日に幼稚園や保育園、小中学校の運動会が集中していて、いまだカメラマンを確保できていない写真館もあるようです。代写カメラマンの募集はいつでもあります」(松本さん)  記者が求人サイトを覗いてみると、すぐに募集が見つかった。 “副業も大歓迎。写真撮影が好きな方、興味がある方にピッタリなお仕事です” “これからカメラマンとしてやっていきたい、という学生さんもご相談ください!”  記者は長年、写真雑誌「アサヒカメラ」の編集に携わってきたが、代写カメラマン経験者の知り合いは多い。代写をメインにしているカメラマンもいる。だが、学校行事が軒並み中止になったコロナ禍をきっかけに、この業界から去った人は少なくない。  東京商工リサーチによると、昨年1~8月の写真館などの倒産は過去最多の20件だった。以前からの苦境に加え、コロナ禍で入学式、修学旅行、結婚式などが減少し、関連支援も打ち切られたことが倒産の原因だという。代写メインのカメラマンの窮状は推して知るべしだ。 「激務なのに報酬は安く、将来が見えないので若手がよりつかない」と学校写真を撮影するカメラマンについて語る松本さん(仮名) 30年前から報酬変わらず  そもそも、高価な機材が欠かせず、機材を運搬する車も必要なのに、報酬は決して高くない。大手卒業アルバム業者が価格破壊を引き起こし、潰れた写真館はかなりある。残った写真館も値下げに追従せざるを得ない状況になった。代写カメラマンの報酬は、首都圏の場合、1校につき2万円ほどで、30年ほど前からほとんど変わらないという。  首都圏に拠点を持つ60代の広告カメラマンも「代写の仕事を長年引き受けてきたが、本音を言うと、もうやりたくない」と漏らす。友人が卒業アルバムの制作をしていて、卒業式や入学式などが重なる繁忙期に代写を頼まれると、断れない。 「ギャラがあまりにも安すぎる。これでは、他のカメラマンを紹介することもできない」 修学旅行と運動会で30連勤  さらに、学校写真の現場は重労働だ。  例えば、運動会では児童生徒全員を確実に写すことが求められる。学校にもよるが、撮影枚数は1日約5千枚。重い機材をかかえて校庭を走りまわり汗だくになった後は、学年別に写真をセレクトして納品しなければならない。修学旅行の同行撮影では朝7時に東京駅に集合。新幹線での移動から撮影は始まり、名所旧跡をまわる生徒たちを一日中撮影する。夜は11時ごろまで学校や旅行会社と打ち合わせる。翌朝は6時起床、また撮影が始まる――。 「卒業式などの集合写真の撮影が1日で終わればいいですが、ほとんどの場合、欠席者があって、報酬なしで追加撮影がある。それが1回で済まないと、ストレスがたまります。学校はこちらのギャラについては配慮してくれない」(広告カメラマン) 「平日は4泊5日の修学旅行、週末は運動会で30連勤くらいしたことがあります。その間に納品もあるので、とてつもなく忙しい」(前出の松本さん)  写真の仕事に憧れて、今でも学校写真を目指す若者もいるが、実際に働いてみると、あまりにもきついので5年以内にやめてしまうことが多い。ある程度、撮影技術が身についてくれば、ECの商品を撮影したほうが楽に稼げたりするので、学校の撮影には戻ってこない。 「学校写真を目指す若者もいますが、実際に働いてみると、あまりにもきついので5年以内にやめてしまうことが多い」と語る松本さん(仮名) 理不尽なクレーム  保護者や教職員からクレームを受けることもある。  クレームの定番は、「うちの子の写真が少ない」。全員をほぼ同じ枚数で撮影しても、そう責められることはある。時に理不尽なクレームもあり、卒業証書授与式で生徒の前髪が顔にかかってしまったりして再撮影になった際、教職員から「プロなのに再撮影はありえない」と激昂されたこともあった。 撮影クレジット表記はまれ  さまざまな苦労を経て出来上がる卒業アルバムは、カメラマンにとっては成果物でもある。だが、卒業アルバム制作の最大手ダイコロの担当者によると、アルバムにカメラマンの名前が載ることは「まれ」だ。  撮影クレジットが入らないから、学校撮影のカメラマンには提示できる作品がない。そのため「プロ」扱いされず、機材修理の割引サービスを受けられないこともあるという。  松本さんは、それでも「学校写真の撮影が好き」だと言う。大学時代から自分を育ててくれた写真館の師匠への恩義もある。 「学校カメラマンの職務は、家庭とは違う子どもの姿を撮影し、記録すること。写真は本人の思い出になるだけでなく、保護者にとっても大切なものです。この写真文化をつないでいきたい」 (AERA dot.編集部・米倉昭仁)
運動会
dot. 2024/04/23 06:30
港町で籠ったホテルの小部屋 不振解明と立て直しに ホテルオークラ・荻田敏宏社長
港町で籠ったホテルの小部屋 不振解明と立て直しに ホテルオークラ・荻田敏宏社長
ホテルの前は神戸港インバウンド客が続々とやってくる。異人館など国際色が豊かな町だけに、活性化の策はあると、心の内で動き出した(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年4月22日号では、前号に引き続きホテルオークラ・荻田敏宏社長が登場し、「源流」である神戸の港町やホテルオークラを訪れた。 *  *  *  入社して11年目の1998年2月、開業以来10年も赤字が続いていた子会社のホテルオークラ神戸の再建策を、託された。33歳。米国の大学院へ留学し、ホテル経営や財務・会計を学んで修了していたとはいえ、まだ事業部の平社員だ。  東京の親会社に、ホテル経営のノウハウは蓄積されている。でも、言うまでもなく、ホテルは一つずつ、それぞれの立地条件によって、どこに力を入れるべきかが違う。「現場」へいって現場の声に触れなくては、的確な再建案はつくれない。自分を指名した上司と2人で神戸市へ2度、計8週間やってきた。 窓もない会議室で課題と改革点などを管理職全員に聴いた  間口2メートル、奥行き4メートル。神戸港に面したホテルの管理部にある、窓もない小さな会議室が、その間に最も長く過ごした場所だ。そこで、約30部門の管理職約50人全員から連日、現状と課題、改革すべき点などを聴き取った。夜は、眺望の利かない低層階の空き室に泊まり、聴き取った内容を整理して、再建案の骨子をつくっていく。経営陣が一新されるまで2カ月、突貫作業だった。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  ことし1月、神戸の港町とホテルオークラを、連載の企画で一緒に訪ねた。荻田敏宏さんがビジネスパーソンとしての『源流』となったとする小部屋は、当時のままだった。フロントから従業員用の通路や階段をたどると、管理部の左奥に「忘れるはずもない」と言い切る小さな会議室がある。ここに、上司の五島重彰・事業部長と朝8時から日暮れまで籠り、全部門の責任者から聴き取りを重ねた。  米国留学から戻って配属された事業部の調査課で、グループホテルの経営支援などを担当したが、ホテルの全部門の役割やコストまで知り尽くすことはない。でも、神戸で個別の事情もすべて聴いた。ある部門にとって都合のいいことが、別の部門には不都合なことは、少なくない。それらをどうすれば、全体として得るものが多くなるか。「部分最適よりも全体最適を」という、経営の軸とすべき視点を、学んだ。 経営の立て直し策を練る任務だけに、ホテル内の割烹やレストランは使えない。元町にあるホテル幹部の馴染みの店で、夕食でちょっと飲むのが唯一の楽しみだった(撮影/狩野喜彦)    この経験が、「本体」と呼ぶホテルオークラ東京の改革の担い手役をもたらす。日本経済の長期デフレ化に海外のトップ級ホテルの日本進出が加わり、国内で最高級の評価を得てきたオークラ東京も、経営に厳しさが増していた。前号で触れたように、神戸から帰京して半年後、臨時に設けられた全社的な業務改革本部へ呼ばれ、バブル期に膨らんだ「負の資産」の整理に着手。豪華な独身寮兼研修センターや伊豆高原の保養所の売却など、米国留学で得た財務・会計の知識と、資産の開発に縁を持つ「しがらみ」のなさを、思い切って活かす。『源流』からの流れが、広がりをみせていく。 まずいった会議室いまも残っていた細かく吟味した文書  改革が軌道に乗ると、43歳の若さで社長に就任。海外展開で競合することが多かったホテルへ資本参加し、さらに子会社化する。長年の懸案だったオークラ東京の本館改築にも、踏み切った。国内外で激しさを増す競争に勝ち抜けるように、体力を強化した2大決断だ。  これらのすべてが、あの神戸の小部屋で始まった。実は『源流Again』の取材が始まる前、オークラ神戸に早めに着いて、真っ先にいってみた。すると、26年前に聴き取って書いた文書が、保存されている。 「各部門の組織はどうなっていますか」「売り上げ増進策はどう考えていますか」「情報処理はどうやっていますか」など、当時のやり取りが書いてある。  まとめた資料をみると「費用がどれだけ削れるか、5億円から7億円くらいではないか」とあった。食事の原材料費や水道・光熱費など、削減策を細かく吟味している。  社長になって6年後、神戸の社長交代に立ち会って以来だから約10年ぶり。港町を代表する元町商店街へもいった。聴き取りが終わった後、五島さんとよく食事にきた。管理部の幹部のいきつけの店で、午後7時半くらいに合流。食べながらちょっと飲んで、ホテルへ戻って、聴き取りの結果を整理する。 先輩たちに退任を告げる重い役に眠れずにいた上司  明るいうちに中華街を歩き、原色が多い装飾や通りの賑やかさに驚いた。当時は夜にきて、暗くて気がつかなかったのか。ホテルへ戻る途中のコンビニで翌朝用のおにぎりを買い、昼食は従業員食堂だったことも、覚えている。その食堂で、この日はラーメンを食べた。  あのころ、五島さんが「よく眠れない」と言ったことを、思い出す。オークラ神戸の社長以下、役員を辞めてもらう面々は総務人事畑の出身が多かった。五島さんも、もともと総務人事畑で、よく知っている先輩たちだ。その人たちに「退任して下さい」と言うのが、睡眠を奪うほど重かったのだろう。「役割分担」だな、と頷く。  1964年10月に東京都中野区で生まれ、父は建設会社勤めで、母と兄2人に祖父がいた6人家族。近所の幼稚園にいたとき、兄2人が通っていた千代田区の私立暁星学園に幼稚園ができて、転園した。暁星はサッカーが「校技」で、足が速く、小学校の5、6年生で選抜チームに選ばれた。「役割分担」の大切さは、このサッカーのプレーで、身に染み込んでいる。 『源流Again』で神戸へいった後、暁星学園も再訪した。幼稚園のときは母が送り迎えしてくれたが、小学校からは1人で、電車で最寄りの地下鉄・九段下駅へ通う。兄たちよりも早く家を出て、授業が始まる前に校庭で運動をした。久しぶりに小学校へきたら、児童たちが体育の授業でリレーをしている。当時の自分の姿が、重なった。  93年にオークラ神戸の改革に区切りがついたとき、大学院へ戻って博士課程へいこうか、と考えた。以前から「それも選択肢」と思っていた。入る専門課程も、書こうと思う論文のテーマも、決めていた。でも、五島さんに出会い、オークラ東京の改革からグループ全体の経営の見直しへと引っ張り込まれ、その選択肢は消える。神戸へくると、そんなことも、浮かんでくる。五島さんは、残念ながら2022年11月に亡くなった。  神戸の業績は、改革で少し上がったが、その後で再び厳しい状況を迎え、リーマンショックやコロナ禍の打撃も受けた。館内をみて「もう一度、神戸に何かしら関与して、よりいい会社にできればな」と思う。他のグループのホテルとともに、どういう需要を想定し、どうやったら施設の価値を上げられるか、内々に検討させている。  グループ全体としては、脱・コロナ禍で経営はよくなった。でも、水面下の事業が残っていては、気分がすっきりしない。『源流』からの流れは、まだ勢いを強めそうだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年4月22日号
トップの源流
AERA 2024/04/22 06:30
テレ東退社1年でドラマ初主演「森香澄」 順風満帆なフリー転身の裏にある“過去発言”の懸念
丸山ひろし 丸山ひろし
テレ東退社1年でドラマ初主演「森香澄」 順風満帆なフリー転身の裏にある“過去発言”の懸念
森香澄(写真:Pasya/アフロ)    5月6日にスタートする連続ドラマ「オトナの授業」(TOKYO MX)で主演を務める、フリーアナウンサーでタレントの森香澄(28)。問題を抱える生徒たちが集まる定時制高校を舞台とした本作。森は元全日制の教師という役どころで、彼女にとってドラマ初主演となる。  昨年3月にアナウンサーとして在籍していたテレビ東京を退社しフリーに転身した森。その後、タレント活動をスタートさせ約1年が経過したが、現在はバラエティー番組に引っ張りだこ。2月には水着やランジェリー姿に挑戦した初写真集「すのかすみ。」(幻冬舎)を発売し、DMMブックスで写真集売り上げランキング1位(3月)となった。一方、女優業にも進出。昨年10月期に放送されたドラマ「たとえあなたを忘れても」(テレビ朝日系)で初のレギュラー出演を果たすなど、最近フリーに転向した女子アナとしては順風満帆にキャリアを積んでいる。 森香澄(写真:つのだよしお/アフロ)   「森といえば、男ウケしそうな“あざとい”言動が多く、今やあざとい女子の代表格になっていますが、振り切った発言が多いところも人気の一因でしょう。例えば、昨年11月放送のバラエティー番組では、モテすぎるがゆえに男友達ができないという悩みを千鳥の大悟に相談するシーンで、森は自身について『あ~、外見で勝負してるかもしれないですね』とつい本音を口にしてしまっていました。また、別の番組では『相手が自分のタイプなら年収最低いくらまで付き合える?』という質問に、『103万円』と答えていたのも印象的。自身の扶養家族に入ることが前提だそうで、イケメンで家の中では常にゴキゲンな状態でいてくれて、自身の機嫌も永遠に取ってくれる人だったら許せると話していました。これにはSNS上で『男女逆なら大炎上するやつ』との声もありましたが、好感度を無視したかのようなインパクトのある発言が多いので、視聴者の興味を引くのだと思います」(テレビ情報誌の編集者) 森香澄(写真:つのだよしお/アフロ)   TBSの女性アナにかみついたことも  見た目はふんわりとした雰囲気ながら、言動はぶっちゃけているというギャップが人気となっている森。さらに、時々披露する軽い自虐トークも話題になることが多い。 「上田と女が吠える夜」(日本テレビ系、2023年9月6日放送)では、MCの上田晋也から「森さんは友だち多そうだよね」と振られると、「よく言われるんですけど、本当に少なくて」と、友だちが少ないことを告白。結婚式に参加すると、みんなはウエディングドレス姿に泣いてくれる友だちがいて、ビデオメッセージのサプライズとかもあったりするが、自身にはそんなことをやってくれる人が世の中にいるだろうかと思い、行くたびに震えて帰ってくると話していた。そうした自虐的な一面が親しみを与え、ぶっちゃけ発言が目立っても、視聴者はそこまで嫌悪感を抱かないのかもしれない。  ときには、出演した局の女性アナウンサーに対抗心をむき出しにすることもある。 「2月に『ラヴィット!』に初出演した際、“ほろ苦いもの”について『2019年、TBSの入社試験に落ちたこと』と告白。その年は女性を3人もアナウンサー採用していたのに落ちたのが屈辱的だったと言い、さらに番組MCの田村真子アナに『アナウンサーとしては一つ先輩になるけど、年齢は同じでライバル視させていただいてます』と対抗意識を燃やす発言をしました。田村アナはさらっと『テレ東でもフリーでも活躍されて、成功されているんですから』と森を持ち上げたのですが、森は『この謙虚さで、好きなアナウンサーランキング4位なわけですよ。私、ランク外ですから。悔しい』と応戦。その後、両者は早口言葉など3番勝負をするのですが、田村アナが勝利するという結果でした。局アナにかみつくという、ある意味、損な役割もしっかりこなしているところは抜け目がないなと思いました」(同) 森香澄(写真:Pasya/アフロ)   局アナは踏み台だった?  一方で、「あざとさを通り越して腹黒さを感じるところが懸念材料です」と言うのは民放バラエティー制作スタッフだ。 「2月放送のラジオ番組では、学生の頃少しだけ学生リポーターみたいなのをやっていて、タレントになる道と局のアナウンサーになる道があったと告白。一方、お天気お姉さんなど、さまざまなオーディションを受けるも全然無理で、『安定志向でいったん局アナになりました』と自ら打ち明けています。アナウンサーは有名芸能人になるための踏み台だったと感じる人も少なくないでしょう。そうなると“あざとい”というより“腹黒い”イメージが強くなります。こうした類の言動が目立ち始めると、一気にたたかれて仕事に影響する可能性もあるでしょう」  芸能評論家の三杉武氏は森についてこう述べる。 「森さんはテレ東在籍時、同局公式SNSで歌やダンスの動画を投稿したり、TikTokでメーク動画を公開したりして注目されるなど、若い世代からも人気を集めていました。フリー転身後はバラエティー番組を中心にドラマや雑誌グラビア、地方競馬の投票サービスのイメージキャラクターも務めるなどマルチな活動を展開しています。女優業やタレント業での活躍が目立つ一方、アナウンサーとしての仕事はそこまで多くない印象です。今後も女優やタレント業を中心に活動することが予想されますが、局アナ時代のぶりっ子キャラからシフトチェンジして、今や“美のカリスマ”として女性からも高い支持を集めている田中みな実さんのように、いかに同性を味方につけられるかが今後のポイントになってくるでしょう」  フリー転身後、需要が増え続ける森。思わぬ言動で足をすくわれないように気をつけてほしいところだ。 (丸山ひろし)
森香澄女性アナウンサーテレビ東京
dot. 2024/04/21 11:00
交際期間18年、仕事も一緒 結婚にこだわっていなかった2人が結婚した理由とは
三島恵美子 三島恵美子
交際期間18年、仕事も一緒 結婚にこだわっていなかった2人が結婚した理由とは
北川剛之さん(右)と豊島愛さん(撮影/写真映像部・東川哲也)    AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2024年4月22日号では、デザイナー・イラストレーターとして夫婦でユニットを組む北川剛之さんと豊島愛さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫38歳、妻39歳で結婚、2人暮らし。 【出会いは?】大学に通うかたわら学んでいたデザイン学校夜間部の同級生。 【結婚までの道のりは?】交際期間は18年。約10年の同棲期間を経て結婚。 【家事や家計の分担は?】食事作りは基本的に週替わりの担当制。洗濯は各々。掃除はお互いが気づいたときにしていて、床はルンバが担当。生活費は折半し、自分が欲しいものは各々のお財布から。 夫 北川剛之[49]キットデザイン株式会社 代表取締役/デザイナー・イラストレーター きたがわ・たけし◆1975年、大阪府生まれ。97年、追手門学院大学、大阪デザイナー専門学校卒業。フリーランスでイラストレーターとして活動後、愛さんとユニットを組み、同時にデザインの仕事も開始する。2013年、キットデザイン株式会社を設立。業務は経営の他にグラフィックデザイン全般の制作  妻は裏表がほとんどなくて、この人は何を考えているのかわからないみたいなことがありません。そういう意味では、喜怒哀楽がダイレクトに伝わって付き合いやすい。それが悪い方向に出て、どうしたらいいのかなという時もありましたが、それを何回も繰り返しているうちに、こういう時はこうすればいいっていうのが分かってきて年々お互いの関係が穏やかになっています。  一緒に暮らして仕事もしていますから、そこで険悪になるとプライベートにも響きます。そうならないために仕事部屋を別にしたことが良かったと思います。一緒の空間にいるけれども常に一定の距離感があるので、お互いに干渉しなくなりました。そもそも仕事以外でケンカすることがないので、それがなくなっただけで険悪になることはだいぶ減りましたね。  今までお互いに仕事、仕事という感じでした。今後は少しペースを落として、お互いが楽しめるようなものを2人で見つけていければいいですね。 【あわせて読みたい】 大谷妻「真美子さん」のロールモデルに? 夫・長友を支える「平愛梨」の“メンタルモンスター妻”っぷり https://dot.asahi.com/articles/-/220007?page=1 撮影/写真映像部・東川哲也   妻 豊島愛[50]キットデザイン株式会社/デザイナー・イラストレーター とよしま・あい◆1973年、奈良県生まれ。97年、立命館大学、大阪デザイナー専門学校卒業後、デザイン系会社に就職。独立後、剛之さんとユニットを組んで活動開始。2013年、キットデザイン株式会社を設立。グラフィックデザインやイラストだけでなく、自治体や会社などのキャラクターデザインも手掛ける 交際期間は18年。同棲もして一緒に仕事をしていましたから、特に結婚にこだわってはいなかったんです。なぜ結婚したかというと、ちょっとケンカしたときに別れようかと思う時がある。でも本心では別れるわけないと思っているわけです。それがいちいちめんどくさくて、結婚したら簡単に別れようなんて思わなくなるだろうから、結婚しようかと(笑)。  私は卒業後に一度会社員になりましたが、夫はいきなりフリーになりました。マスコミ電話帳を見て片っ端から電話して持ち込みするなど、とても行動力がある。私とは違うなとは思ったけれども否定的な感じはまったくなくて。当時は、それでやっていけるのかという不安も多少はあったけど、私も若かったから能天気だったかもしれません。  出会ったときからずっと、笑いの感覚が合って、いつまでも楽しく話していられる人なんです。野球好きなのも同じです。どうか、健康で長生きしてください。私も健康でいられるように頑張ります。 (構成/編集部・三島恵美子) ※AERA 2024年4月22日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2024/04/19 18:00
ビジネスコンペ300戦無敗! いじめられっ子だった私が「選ばれる人」になった理由
ビジネスコンペ300戦無敗! いじめられっ子だった私が「選ばれる人」になった理由
井下田久幸さん  社員数わずか16名のベンチャー企業が、名だたる大企業とソフトウエアのビジネスコンペで争い、300戦無敗! そんな離れ業をやってのけた、「選ばれることの達人」が、そのものズバリ、『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』というタイトルの本を上梓した。  達人の名は井下田久幸(いげたひさゆき)。氏は、もともと日本IBM社のエリート社員だったが、自ら志願して弱小ベンチャー企業に転職。そこで、上記のビジネスコンペ300戦無敗を実現した。現在は起業し、その会社のCEOを務めている。今回は、そんな井下田氏の友人であり、新刊本の企画者でもあるブックライターの西沢泰生氏が井下田氏に「選ばれ続ける極意」について聞いた。 「いじめられっ子」たちから「選ばれて」いた? 西沢:井下田さんはベンチャー企業時代に、古巣の日本IBMなど、名だたる大企業を相手に、ビジネスコンペ300戦無敗という奇跡的な実績を築かれたわけですが、そもそも、井下田さんは子どもの頃から『選ばれる人』だったのですか? たとえばいつも学級委員をやるような。 井下田:いえ、それがぜんぜん逆でした。学級委員なんて1度もやっていませんし、高校の水泳部でも、大学のテニス部でも、キャプテンをやったこともありません。それどころか、幼稚園や小学校の低学年の頃は、むしろ、いじめられっ子でしたね。ドイツ人を祖父に持つクォーターで、見た目が少し外国人ぽい。それに当時は名前もカタカナ表記の本名でしたから……。そういう意味では、いじめの対象に『選ばれて』いました。 西沢:えっ、そうなんですか。意外です。今の井下田さんを見ると、周りの人たちから自然とリーダーに選ばれていたのではないかと思っていました。 井下田:それがぜんぜん。小学校の頃は、クラスに、やっぱりガキ大将がいましたね。リーダーというより、専制君主みたいでしたが……。校庭の隅っこを秘密基地と称して、同級生を子分にしては、いつも群れていました。 西沢:ジャイアンみたいな。 井下田久幸『ビジネスコンペ300戦無敗 選ばれ続ける極意』(朝日新聞出版)>>書籍の詳細はこちら 井下田:そうですね。私はその仲間には入れてもらえませんでしたし、こちらも人に媚びるのが嫌いでしたから、1人でいることが多かった気がします。ただ、なぜか私は、いじめられっ子たちの中では人望があり、『いじめられっ子たちのリーダー』みたいにはなっていました。おそらく、自分自身がいじめられっ子で、弱い者の気持ちがわかって、いつも味方になっていたからかもしれません。 西沢:なるほど。現在、井下田さんはSNSを配信されていますが、それを拝見すると、弱い者というか、悩んでいる人たちに向けての熱いメッセージが感じられます。その下地は小学生の頃からあったんですね。 イケイケで転職するも、大ピンチに 西沢:そうなると、ご自身で『選ばれる人』を自覚するようになったのはいつ頃からなんですか? 井下田:それはやはり社会人になってから、日本IBM社に入社してからです。何しろ、社内外でプレゼンテーションをする機会があって、選ばれないことには話になりませんでしたから……。まだ明確に「選ばれるために何をするべきか?」みたいなことは意識していませんでしたが、おそらく、この頃に『選ばれること』が日常になっていった気がします。 西沢:そうこうしているうちに、日本IBM社を志願退職されて、社員数わずか16名のベンチャー企業に転職されたわけですね。 井下田:そうです。日本IBM時代に、個人で1千回を超える講演会をやったりしていて、『会社の看板に頼らなくても自分は世の中に通用するのか?』を試してみたくなったのです。 西沢:すごい度胸だと思います。でも、著書にあるように、転職したベンチャー企業が開発していた新製品が大コケてしまった。そして業績が大ピンチになり、井下田さんは、エンジニアでありながら営業同行をすることになるわけですね。 井下田:そうですね。このままでは半年後には倒産という非常事態でしたから。 初めての営業同行で、選ばれるための「ハッタリ」!? 西沢:ビジネスコンペ300戦無敗ということは、初めて営業同行をされたときのコンペも勝っているわけですよね。そのときのことを教えてください。 井下田:初めての営業同行は今もよく覚えています。当時の私は40歳くらいで、1つ年下の営業と2人でお客様を訪問しました。会社が肝入りで開発したソフトはもうコケていましたから、まだプロトタイプ(試作品)段階のソフトを持参して、それでデモンストレーションをやりました。簡単に言えばデータのフォーマットを変換するためのソフトだったんですが、このとき、お客さんが、自社のデータについて、『これを圧縮できない?』と質問してきたんです。データの圧縮なんて、今は簡単にできますが、当時はなかなか難しかったのですね。質問された私は、そこでハッタリをかましました。 西沢:ハッタリ? いったいどんな? 井下田:「はい、もちろんできます!』って即答しました。本当は、その時点ではできなかったのですが、そこで即答しないと、選んでもらえないと思ったんです。 西沢:イチかバチかのハッタリ。 井下田:もちろん、私はエンジニアですから、「この程度の機能はすぐに開発できるな」と思いましたし、ウチのような小さな会社なら、大企業と違って、社内決済も何もすっとばして、すぐに開発に着手できるなと……そういう、2つの勝算はありました。ですから、ハッタリというよりは、その場しのぎでしょうか。事実、会社に戻って速攻で圧縮機能を開発して、翌日にはお客様に報告し、受注につながりました。これは、今にして思うと、今回の本の中に書いた4つの戦略の中の「帳尻合わせ戦略」ですね。 西沢:自分がエンジニアであり、会社がベンチャーで小回りが利いたという利点を生かしての勝利だったんですね。素晴らしいです。私も、編集者さんから「◯月◯月までに入稿できますか?」と聞かれたときは「楽勝です!」ってハッタリをかましています。もちろん宣言の通り締め切りはちゃんと守りますけど。 【井下田久幸プロフィール】 ドルフィア株式会社代表取締役。1961年生まれ。青山学院大学理工学部卒業後、日本IBMに入社。38歳のときに社員数16人のITベンチャーに志願し転職。ほどなく倒産の危機に直面し、マーケティング部長の傍ら営業支援SEとして現場に入る。以来、足かけ4年にわたりマイクロソフトなど名だたる競合を相手に、コンペ300戦無敗という結果を残す。その後、東証一部上場企業JBCCにて執行役員、さらに先進技術研究所を設立し、初代所長となる。55歳で独立し、現職に。著書に『理系の仕事術』(かんき出版)。 【聞き手:西沢泰生プロフィール】 ブックライター・書籍プロデューサー。主な著書『一流は何を考えているのか』(学研)、『夜、眠る前に読むと心が「ほっ」とする50の物語』(三笠書房)、『コーヒーと楽しむ 心が「ホッと」温まる50の物語』(PHP文庫)他。
朝日新聞出版の本読書書籍井下田久幸選ばれ続ける極意
dot. 2024/04/19 16:00
神戸のホテル改革が拓く道 本体も再建で改築へ ホテルオークラ・荻田敏宏社長
神戸のホテル改革が拓く道 本体も再建で改築へ ホテルオークラ・荻田敏宏社長
ホテルや部屋の数などどんなことでも数字がどんどん口から出る。小さいころから算数や数学が好きで得意。過去の決算の内容も、当然、忘れていない(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 4月15日号より。 *  *  *  2002年から03年、グアム島にあったグアムホテルオークラへ旅行する社員に、宿泊費の半額を補助した。上限は5万円で、3日間の旅行なら飛行機代をもつ形だ。グアムでは観光客の伸び悩みや台風被害などで、苦境が続いていた。宿泊数が増えれば、運営効率が上がる。「建て直しの一助に」と考えた。 「本体」と呼ぶ東京都港区のホテルオークラ(現・ホテルオークラ東京)もバブル崩壊後、1993年度から赤字が続いた。98年10月、全社的な業務改革本部が設置され、立て直し策が諮られる。その本部へ、グループ会社への支援などを担当していた事業部調査課から呼ばれた。  運営の効率化と、社員たちの福利厚生や設備の維持などにかかる固定費の圧縮を、受け持った。財務の改善も図り、99年3月期は経常黒字へ転換させる。課長になる前の30代半ば。そんな大役を任されたのは、本部へ行く半年前に手がけた、やはり苦境にあったオークラ神戸の再建案が評価されたためらしい。業務改革本部は99年末に解散したが、調査課で、さらに収益改善策を進めた。  オークラ神戸へ赴いたのは部長の指名で、2人で朝から夕方まで小部屋に籠り、約50人いた管理職全員から聴き取りを重ねる。89年の開業以来赤字で、増資や投資でようやく上向いた矢先に、阪神・淡路大震災が起きた打撃でまた落ち込んでいた。 「戦場」での仕事に上司が指名してくれやりがいを感じた  聴き取りは1人1時間から2時間、状況と改革すべき点などを聞く。8時から始めても、合間にデータの収集もあり、1日に多くて4人。相手は全員、年長者だ。東京の事業部には先輩たちもいたのに、なぜ自分を指名したのか。行きの新幹線で部長に尋ねると、「これから、戦場へ向かうようなものです。だから、信頼できる相手を連れていかなければならないので、お願いした」と言った。やるべきことの重さを痛感し、やりがいも感じた瞬間だ。 大学生で20カ国超へ旅行(写真:本人提供)    小部屋に入ると、準備した質問シートに沿って部長が問いかける。そのやりとりを筆記し、気になる点は自分も質問し、深掘りする。事務部門に「OA機器を新しくすると、どのくらい生産性が上がるか」、調理部門には「瞬間冷凍機を入れると、作業効率が上がるか」。そんな質疑から、効果が最も早く出る案をまとめていく。神戸には2度いって、計50日間ほどいた。4月に経営陣が一新されるので、再建案の提出は3月末が目途。期限が迫ってくると、部長が質問をしている隣でパソコンを打つようにした。  全部門の管理職から話を聴くことで、ホテル運営全般の知識を得た。ある部門にとってはよくても、全体からみるとマイナスになることもある。「部分最適よりも全体最適」との経営の視点も、身に付いていく。これが、オークラ東京の立て直しでも活きる。荻田敏宏さんがビジネスパーソンとしての『源流』となった、とする体験だ。  オークラ東京の立て直しで、バブル崩壊で「負の資産」となっていた赤字要因を、次々に消していく。91年初めに千葉県柏市に建てた豪華な独身寮兼研修センターは、運営に年間3億円もかかっていたので売却。運営費だけで年に3千万円以上かけながら、利用者は約千人しかいない静岡県・伊豆高原の社員保養所も、コスト分を社員へ還元したほうがいいと、売った。  バランスシート(BS=貸借対照表)をきちんと読めば、資産の実態はよく分かる。03年3月期で、簿価に残る取得価格よりも時価のほうが下回る「含み損」を、ほぼ一掃した。自前主義も捨て、規模のメリットを出すために茨城県の筑波、新潟市、東京ディズニーリゾートなどのホテルの運営を引き受けて、「オークラ」の名を冠していく。 世界の名声の維持と歴史と伝統の更新へ命名に込めた思い  重荷が取れて、リーマンショックも国内の長期デフレも乗り越え、長年の懸案だった本館の全面改築も実現する。2019年9月、41階建ての「プレステージタワー」と17階建ての「ヘリテージウイング」が開業。世界での名声を維持していく、歴史と伝統を更新していく。オークラ神戸の再建策づくりで始まった『源流』の行き先へ、思いを込めた命名だ。  1964年10月、東京・中野で生まれる。祖父と両親、兄2人の6人家族で育ち、地元の幼稚園へ入ったが、兄たちが通っていた千代田区の私立暁星学園に幼稚園ができて転園。暁星で、高校を出るまで過ごす。  慶應大学商学部では、家庭教師のアルバイトで得た資金で、海外旅行を楽しむ。同好会のホテル研究会へ入っていた友人との30日間の旅行で、2夜だけ高級ホテルに泊まってみた。父が建設会社に勤め、長兄が一級建築士の資格を取ったので、小さいころから家の中に建築誌があって、触れていた。高級ホテルに泊まり、間取りに「みたこともない形だ」と関心を持ち、図に描いて残している。  87年4月にホテルオークラへ入社。プラザ合意後の円高不況で就活は厳しかったが、高級ホテルの見取り図を描いたことを思い出し、何社か受けたホテルからオークラに決めた。1年目はコーヒーショップでウエーター、2年目は玄関のベルボーイで働き、3年目に資材部の用度課へいってホテルで使う食品やシャンプーなどを購入した。  米国留学はホテル開発の知識を付けたかったためで、ニューヨーク州イサカにあり、ホテル経営学で知られたコーネル大の大学院を選ぶ。不動産ファイナンスを専攻し、ホテルのスペースの配置やマーケティングなどを学び、併設のビジネススクールで財務・会計などホテル開発で役立ちそうな講座も取った。  修士課程を修めて93年夏に帰国し、冒頭で触れた事業部へいく。2000年初めに課長になって、BS改革に着手。持ち株会社制へ移行させて、意思決定も迅速化させた。 43歳で社長に就任明言した抱負が二つの決断を呼ぶ  08年5月、持ち株会社ホテルオークラの社長に43歳で就任。上席役員8人を抜いた抜擢で、ジョン・F・ケネディが米国の大統領になったときと同じ年齢だ。でも、臆さない。明言した抱負は、こうだった。 「ホテルを支える経営上のインフラは、システム、従業員教育のプログラム、開発マニュアルの3本柱。世界に通じるように2、3年以内に整備し、完成させる。それを武器に、ラグジュアリー・ブランド・ホテルの道を歩んでいく」  まだインバウンドの急増もみえず、東京五輪の姿もないときの自信。トップとしてやるべきことが『源流』に乗って、みえていたのだろう。2010年9月にJALホテルズ(現・オークラニッコーホテルマネジメント)へ資本参加し、子会社化した。海外でホテルを開発しようとすると、いつもぶつかった相手。競争が過ぎると、実現への条件が悪くなる。一緒にやったほうがいい、と判断した。  そして、オークラ東京本館の建て替え。社長になって大きな決断を二つしたが、『源流』からの流れは、まだまだ続く。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年4月15日号
トップの源流
AERA 2024/04/15 06:30
「1日24時間じゃ足りない」と思っていたママが、片づけたら資格取得と趣味の時間までできた
西崎彩智 西崎彩智
「1日24時間じゃ足りない」と思っていたママが、片づけたら資格取得と趣味の時間までできた
モノを取るためにあちこち移動してムダ動いていたキッチン/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.69 無頓着な夫が気づくほどきれいな家に変化 夫+子ども3人/理学療法士  毎日忙しくて家を片づける暇がないと思っている方は、ちょっと発想を変えてみませんか? 家の片づけを優先的にやってみると、驚くほど時間に余裕ができる場合があります。  今回ご紹介する瞳さんが、まさにそうでした。小学1年生から2歳までの3人の子どものママであり、仕事も忙しい毎日。夫は朝から夜まで仕事で出ているので、家の中のことはほぼワンオペです。 「なんで1日は24時間しかないんだろう」と思うほど、時間に追われていました。  瞳さんは1LDKの間取りに5人で住んでいます。寝るとき以外、子どもたちと一緒に食事も遊びも勉強もリビングダイニングで過ごすので、モノがごちゃごちゃしているのが気になっていました。 「子どもたちがもっと自由に遊んだり動き回れたりできたらいいなと、ずっと感じていました。でも、そう思っていたのは私だけで、子どもたちも夫もあまり散らかっていることを気にしてはいなかったんですけど」  家を片づけたいというモヤモヤを1人で抱えていた瞳さんは、家まで出張して片づけをしてくれるサービスに頼ったこともありました。 「家の1ヶ所を集中的に片づけてくれるというので、パントリーをお願いしました。確かにきれいにはなったけれど、2週間くらいで元に戻っちゃいましたね。その後に片づけの本を買って自分でやってみたものの、うまくいかなくて……」  なんとかして家を片づけたいと、いろいろ検索していたときに家庭力アッププロジェクト®の情報が目につきました。 引き出しの中も整理されて使いやすくスッキリ/アフター 「実は、以前から家庭力アッププロジェクト®の存在は知っていたんです。自分なりに片づけをいろいろ試してダメだったし、ラストチャンスという気持ちで申し込みました」  プロジェクトがスタートして不要なモノを手放し始めると、モノが少ない状態を快適に感じたことにビックリしました。 「視界がスッキリして、息がしやすいというか。そんな気分になったのは初めて!」  モノを手放すことがむしろ楽しく感じるようになったという瞳さん。それでも、書類や文房具の選別は苦労したそう。 「仕事で使った書類や本は、『いつか使う』という気持ちが強すぎてなかなか手放せませんでした。あと、ボールペンなどはこだわりがなさ過ぎて、どれを残せばいいのかわからなかったです」  片づけることは、自分と向き合うことでもあります。今まで気づかなかった自分の苦手なポイントがわかるので、今後もそこに注意すればリバウンドを防げます。 「プロジェクト中に、片づけは学校で習わないからできなくて当たり前という話を聞いて納得しました。一度教わってみると気づきがたくさんありますね」  家の中がきれいになると、子どもたちは自分のほしいおもちゃをすぐに見つけて遊べるようになりました。これまでほとんどしなかった片づけも、自分からできるように。  さらに、散らかっていても気にしなかった夫が「なんかきれいになったな」と気づいてくれて、自分のモノがいっぱい置いてあった玄関を片づけ始めました。 「キッチンも片づいて動きやすくなったので、子どもたちと料理をする機会をもっと増やそうと思っています。うちは男の子3人ですが、男女関係なく料理が作れるようになるといいなと思って」  キッチンを片づけたことで、瞳さんは気づいたことがありました。それは、今までいかにムダな動きをしていたかということ。 「料理しながら、『使いたいモノがここにある!取りやすい!』って、いつも喜んでいます。自分が必要以上に動いているなんていう感覚はゼロだったので、驚きました」 玄関を入ると必ず目に入るパントリー横もごちゃごちゃ/ビフォー  これは、キッチンだけではありません。リビングダイニングも、寝室も、浴室も、片づけるとムダな動きがなくなって少しずつ時間が節約されます。そして、ある程度の隙間時間ができると仕事や家事などタスクが消化できるようになり、大きな時間の余裕につながるのです。  時間に余裕ができたので、瞳さんはずっとやりたかったことを始められました。 「仕事にも活かせるインストラクターの資格を取ろうと申し込みました。あと、趣味として習字も始める予定。今年はいろいろやりたいなと思っています」  片づけると自分の時間ができるという話を聞いたことがあったけれど、とても信じられなかった瞳さん。3人の子育てと仕事と育児というと、時間に余裕のある生活なんて誰しも無理だと思うかもしれません。 「いつも『時間が足りない』って思っていましたが、時間って自分で作れるんですね。片づけて家の中のスペースにも余裕があり、時間にも余裕があり、毎日楽しくて感動しています!」  家を片づけたいという悩みから解放されるだけでなく、時間管理もできるようになって家族の笑顔も増えた瞳さん。 きれいになって使いやすくストレスゼロ/アフター  目の前の仕事や作業に追われて忙しい日々を送っていると、家の片づけはつい後回しになってしまうもの。もし、そんな生活を変えたいと思っているなら、今までと考え方を大きく変えてみるのも一つの手段です。後回しにしていた片づけをやってみると、瞳さんのように感動の毎日が待っているかもしれませんよ。 西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
片づけ
AERA 2024/04/08 07:00
札幌、ロンドン、ニューヨーク続いた「出会い」の恵み 川崎重工業・金花芳則会長
札幌、ロンドン、ニューヨーク続いた「出会い」の恵み 川崎重工業・金花芳則会長
札幌地下鉄のホームで車両が入ってくると、思わず型式を確認。もたらす風を受けて、試験走行を重ねた日を思い出したのか、笑みが浮かんだ(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年3月25日号では、前号に引き続き川崎重工業・金花芳則会長が登場し、「源流」である札幌市を訪れた。 *  *  *  1994年4月から米ニューヨーク市で、市営地下鉄の新型車両の走行試験と納入の指揮をした。ニューヨークの地下鉄車両は、かつて、いたずら書きだらけで世界に知られた。でも、川崎重工業(川重)の先輩たちが考案した車両のステンレス化と特殊な加工で、80年代前半に納入した車両がいたずら書きを一掃する。  その評価を継いで受注した新型車両の試験で苦戦していた部隊を、ロンドン駐在から応援に出た。「1年くらい、いることになるかな」と思って家族は日本へ帰したが、駐在期間は13年半にも及ぶ。うち4年余りは、米国法人の社長も務めた。  その結果、ニューヨーク地下鉄の車両の約半分が、川重製となる。成功には、札幌市での体験が大きい。初めて担当した車両の納入で、戸惑いを経て出した答えが「商売相手側のキーパーソンをみつけて、その要求に可能な限り応えよう」だ。その後の欧米勤務でも貫いた金花流の「ビジネスの極意」で、続いた「出会い」の恵みが支えた。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れて多様性に触れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 車両を点検した長さ240mの工場油のにおいは同じだ  昨年12月、札幌市を、連載の企画で一緒に訪ねた。金花芳則さんが「極意」を身に付け、ビジネスパーソンとしての『源流』となった、と挙げる街だ。 「懐かしいなぁ。35年ぶりだ」  同市厚別区大谷地東にある市営地下鉄の東車両基地に着き、建屋内のテラスへいくと出た第一声だ。納入し、運行ダイヤに組み込まれた車両が深夜に戻ってきたら、ここで点検や改善をした。流れてくる潤滑油のにおいは、当時と同じ。車両の台車の付属機械を分解すると、このにおいが広がった。 車両基地は札幌で一番長く過ごした場所だ。広いので、移動に自転車を使う人もいる。潤滑油のにおいは「ものづくり」の象徴。現場の作業者たちと共有した「思い出」だ(撮影/狩野喜彦)    建屋は全長240メートル。5年ごとに台車を車両から外して、クレーンで移動させて分解した。内部に傷はないかなどチェックして、また組み立てて車両へ戻す。走り出ていくとき、拍手で送りたい気分だった。  テラスから、フロアへも下りた。車両や車台は新型になったが、みれば、川重独自の構造も含めて、すべてが分かる。やはり、自分は「車両屋」だ。  76年春に大阪大学基礎工学部の電気工学科を卒業、4月に入社し、コンピューター制御の自動運転車両「KCV」の試験走行を担当した。タイヤはゴム製で、走行は静か。兵庫県加古川市の試験線で約3年、先輩と2人で動かしながら、様々な点を計測し、改良点を考えた。79年、上司が札幌市営地下鉄担当の部長となり、「鞄持ち」として一緒にいくことになる。  札幌には長期出張の形で、1年の半分以上はホテル住まい。地下鉄はゴムタイヤで走り、KCVと同じだ。夜零時過ぎに終電が車庫へ入り、始発が朝5時ごろ。5時間近く線路が空く深夜に、新車両を試験運転して、いろいろなデータを取る。  市交通局の事務所は、当初は南区真駒内にあったが、82年11月に厚別区大谷地東へ移った。『源流Again』で東車両基地から歩いて、事務所があるビルも訪ねた。この道で、冬は地吹雪が吹き上げ、何度も倒れそうになる。路地を抜ければ800メートルほどの距離だが、ずっと遠く感じた。  ビルの前に立つと、ここで出会った係長のことが浮かぶ。試験運転した車両が朝の4時ごろに基地へ戻ってくると、みんなはホテルで仮眠する。自分は責任者だから、詰所でデータを集めて報告書を書き、コピーを取って、このビルへ届けた。 上司が転勤して20代で協議の主役に見いだした「極意」  車両の納入は、川重が主契約者。上司の部長は市交通局との協議で、電気機器を納入する大手電機会社の部長級を両脇に置き、見事に仕切っていた。感心してみていたら、突然、その役が降ってくる。部長が1年もいないうちに神戸市の本社へ転勤し、後任がこなかったためだ。まだ20代半ば。協議前の控室で、聞こえよがしに「こんな若造で仕切れるのか」という声が飛び、「どうしようか」と戸惑いから始まった。  道が開けたのは、市交通局側で厳しい姿勢を示していた係長が、自分に気持ちを向けてくれたことだった。30代前半で、すべての決定に関わり、電機会社の部長級に不快なことがあると、相手が年長でも「帰れ」と怒鳴る。それをみて「そうか、この人の気持ちをつかまえたら勝てるな」と思った。  それからは、係長が求めていることを聞き出し、どうすれば満足してもらえるかを徹夜で考え、徹底的に実現した。やがて打ち解け、信頼を得て、同意が簡単に得られるようになる。電機会社の面々も「あの係長を押さえられる金花は、いいね」と認めてくれた。『源流』が、流れ始めたときだ。  その後に駐在したロンドンで心をつかんだ相手は、市交通局の技術分野の総帥だった副総裁だ。前号で触れたように、本社の社長が怒りまくった問題で、助け舟も出してくれた。『源流』の流れに、国境はない。続くニューヨーク駐在でも「出会い」は続き、流れは勢いを増す。 車両が故障すれば週末でも出ていって信頼を得た日本流  ニューヨークの仕事場は、市北部にあるブロンクス区。車両基地に置いたトレーラーハウスが、事務所だった。勤務はジーパンにTシャツ姿。ロンドン時代の背広にネクタイの紳士風から、様変わりする。  ニューヨーク市交通局(NYCT)から受注した車両は兵庫県の工場でつくり、米国へ持ってきて営業運転をしながら試験をした。週に1度、1週間にどんなトラブルがあり、どう処置したかの会議が交通局であり、まずそれに出た。  すると、部屋の隅に1人、パイプ椅子に座って黙っている男性がいた。前から駐在している部下に「あれは誰?」と聞くと「NYCTの技術責任者で、ジーン・サンソン氏という人だ」と言う。「何であんなところにいるの?」と尋ねると、「川重が嫌いなのです。問題ばかり起こして最悪だと」と説明した。  当然、「彼を落とせばいい」となる。以来、徹底的に話し、言われたことはすべてやる。車両が故障したら、すぐ飛んでいく。週末でもいった。これは、厚い信頼を得た。競争相手の米欧勢は、そうはしない。ジーンと仲よくなり、いまもニューヨークへいけば会っている。  自分のビジネスパーソン人生は「天の配剤」で決まり、昨今の「キャリアアップ志向」とは無縁だ。与えられた機会に本気で取り組み、成果を出してこそ「次」が生まれる。自分の歩みは、そうだった。「やりたいことをやらせてくれない」と不満を言い、転職を繰り返しても、同じところを回り続けて終わる例が多い、と思う。  いま、地球温暖化を防ぐために、脱・炭素に水素の活用を図る世界組織の共同議長をしている。川重がロケットエンジンの開発で蓄積した水素関連技術で世界に貢献したいし、世界の企業人たちの同じ思いを結集したい。これも「天の配剤」、また出会いに恵まれるだろう。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年3月25日号
トップの源流
AERA 2024/03/25 07:00
本当に大谷の資産を無断で使い込んだのか? 水原一平氏が90分のインタビューを翻すまで 現地報道の衝撃
本当に大谷の資産を無断で使い込んだのか? 水原一平氏が90分のインタビューを翻すまで 現地報道の衝撃
大谷翔平選手と水原一平氏(左)=2024年3月18日午後7時25分、韓国・ソウルの高尺スカイドーム    大谷翔平選手の通訳、水原一平氏がメジャーリーグのドジャースから解雇されたニュースは、全米でもスポーツ枠を超えてトップニュースの扱いで大手メディアが報じているようだ。水原氏の通訳能力は「秀逸だった」という米国在住40年以上のジャーナリストが、現地での報道などを紹介する。 *   *   *  3月21日、アメリカの3大ネットワークの一つABCは、朝の人気情報番組「グッドモーニング・アメリカ」の中で、3分間を超える長さを費やして今回の衝撃的なニュースを報道した。その内容をざっと要約すると以下のようになる。 「メジャーリーグで最も高額の契約を手にした大谷翔平の通訳、水原一平が違法のギャンブルで何百万ドルもの負債をつくり、ドジャースから解雇されたことがわかりました。野球シーズンがスタートをきったばかりの現在、このニュースはスポーツ界全体を震撼(しんかん)させています」 50万ドルの送金が2回にわたり振り込まれ  番組のキャスターは冒頭でそう紹介し、大きなニュースであることを伝えると、水原氏がドジャースを解雇された経緯について、  「昨年史上初の7億ドルの契約を手にしたメジャーリーグのスーパースター大谷は、大きな打撃をくらうことになりました。彼の長年の友人で通訳の水原が、違法のギャンブルの負債の支払いのために大谷からおよそ400万~500万ドル(約6億~7億6千万円/日本時間の22日現在)を盗んだことが発覚し、ドジャースが水原を解雇したのです。水原はカリフォルニアの違法ブックメーカー(賭け屋)を通してスポーツ賭博に参加していたとされています」 「(スポーツ専門ネットワークの)ESPNの調査によると、昨年、ブックメーカーの口座に大谷の名前で50万ドルの送金が2回にわたって振り込まれていました。水原は『自分は野球で賭けをしたことは一度もなく、大谷は(水原氏の)ギャンブルによる負債も送金についても知らなかった』と主張しています。大谷の弁護士事務所は、野球界のスター大谷が多額の盗難の被害に遭い、当局に調査を依頼したと発表しました」   などと説明し、韓国で開幕したドジャース対パドレス戦での大谷やチームの様子についてもこう伝えた。  【あわせて読みたい】 大谷翔平の相棒・水原一平氏がギャンブルに手を染めた理由 「世界一有名な通訳」が抱えていた“葛藤”とは https://dot.asahi.com/articles/-/217674?page=1 WBC、メキシコ戦前の大谷選手と水原氏=2023年3月   「水原は、解雇が発表になる数時間前、韓国のソウルで行われているドジャースの試合中に、大谷と会話をしている様子が目撃されています。大谷は、ドジャースに入団して初のヒットを祝いました。この日の試合のチケットは完売し、ファンは大谷の活躍に驚喜しました。でも今朝の2試合目のダッグアウトは、昨日とは違う空気に包まれています。監督のデイブ・ロバーツはこのスキャンダルに関しては口を閉ざし、多くを語ろうとはしません」  一方、ブックメーカー側の動きについては、  「ブックメーカーの弁護士はESPNの取材に『彼(ブックメーカー)は大谷とは面識がなく、話をしたこともない』と語りました。水原は、ギャンブルが違法であることを知らなかったと主張し、二度とやらないと語っています。状況を複雑にしているのは、カリフォルニア州ではスポーツ賭博は違法ですが、他の州では合法であることです。水原は、普段自分が他の場所でやっている(合法的な)ギャンブルとは違うものだということを理解できていなかったと主張しています」   などと語った。   こうした内容は、ABC以外にもNBCやワシントン・ポストなどの大手メディアでも大きく取り上げていた。  ギャンブルの負債の肩代わりに同意?  このニュースが明るみに出たきっかけは、違法ブックメーカーとして連邦当局の捜査の対象になっていたカリフォルニア州在住の男性の調査を進めているうちに、大谷選手の名前が浮上したという情報をロサンゼルス・タイムズ紙がつかんだことだった。同紙からの問い合わせによって、大谷選手の弁護士事務所、ウェストハリウッドにあるバーク・ブレットラー法律事務所が水原氏の行動に目を向けたのだという。   ESPNの報道によると、解雇される前日の火曜日の夜、大谷選手のスポークスマンは、 「大谷は水原のギャンブルの負債の肩代わりに同意した」  と語り、水原氏はESPNの90分のインタビューに応じた。  だが、水曜日にそれが公開される直前、大谷選手のスポークスマンは前日の発言を撤回し、代わりに大谷選手の弁護士事務所から文書が発表されることを通達した。これが前述の「大谷は多額の盗難の被害に遭った」というブレットラー法律事務所からの公式発表になったのである。 【こちらもおすすめ】 「水原一平氏」横領で起訴なら最長で「3年収監」 カリフォルニア州弁護士は「大谷側は検察に協力する姿勢」 https://dot.asahi.com/articles/-/217632?page=1 エンゼルス時代の大谷選手と水原氏=2023年3月    2017年に大谷選手がエンジェルスに入団した当時から専属通訳として、影のように寄り添っていた水原氏は、米国でも野球ファンにはよく知られた存在で、好感度も高かった。大谷選手は2月の会見で水原氏について聞かれたときに、「(友人ではなく)ビジネスの関係」と答えている。だが英語のメディアは、ずっと行動を共にしていた水原氏のことを、大谷選手の「長年の友人である通訳」と形容している。  「通訳が雇用主である大谷の資産を無断で使い込んだのであれば、信頼関係を裏切る許しがたい行為です」   米国大手に務める某スポーツエージェントはそう語る。  「その一方で、もし実際に大谷の口座から直接違法ブックメーカーに振り込みがなされていたのなら、状況は少し複雑になる可能性もあります」  水原氏の通訳は秀逸だった  今後調査が進むにつれて、さらに多くの事実が明るみに出ていくのだろうが、一つ確実なのは、水原氏の代役はそう簡単には見つからないであろう、ということだ。   筆者は高校留学を機に渡米して、現在米国在住40年以上になる。日米の各種通訳や翻訳の仕事に携わった経験も少なからずあるが、そうした経験を踏まえてみても水原氏の通訳は秀逸だった。事務的に右から左へと言語を変換するだけでなく、細かいニュアンスを正確にくみ取り、日本と米国の微妙なカルチャーギャップを上手に埋めてきた。腕の良いプロの通訳はそれなりの報酬を出せば見つかるとはいえ、彼のような人柄を感じさせる、しかもキャッチボールの相手までできる通訳はそうはいないだろう。それだけに今回のニュースは衝撃であり、とても残念であった。   水原氏はその後、ギャンブル依存症であることを告白している。今後彼が法的な制裁を受けることになるのかはまだわからないが、少なくとも大谷選手に対しての負債を返済していく責任はある。きちんと誠実に対処した上で依存症の治療を受け、いずれ社会復帰を果たしてくれることを願っている。  (米国在住ジャーナリスト・田村明子)   【こちらも話題】 【声明全文】「水原一平」違法賭博問題で大谷翔平が会見 「僕は賭けていない」「言葉では表せないような感覚」 https://dot.asahi.com/articles/-/218016  
大谷翔平水原一平
dot. 2024/03/22 20:07
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子
ガザの空爆下を逃げた26日間「現地スタッフの助けがなければ生きて帰れなかった」 国境なき医師団・白根麻衣子
空爆下のガザ、退避までの26日間に地獄をくぐった。戦争はむごく、非道だ。即時停戦を(撮影/横関一浩)    白根麻衣子が、国境なき医師団のスタッフとして、ガザで人道支援に携わっていた昨年10月、その地が、空爆にさらされた。日常が一瞬にして地獄となった。命がおびやかされる中、白根たちは避難の日々を送る。安全な場所はなかった。白根は無事に帰国できた。だがガザでの戦争は終わっていない。ガザに戻りたい気持ちをこらえ、今は伝えることが使命と考える。 *  *  *  2023年10月7日早朝、パレスチナ自治区ガザ北部──「国境なき医師団(MSF)」の8階建ての宿舎は週末の静けさに包まれていた。  その6階に医療プロジェクトの財務や人事を担う白根麻衣子(しらねまいこ・37)の部屋があった。  前の日は休みで、白根は他のNGO(非政府組織)の仲間とビーチバレーに汗を流し、海辺のレストランでシーフード料理を味わった。心地よく眠り、青い唐草模様の掛け布にくるまっていた。 「ドーン ドン ヒューン」  と花火を打ち上げるような音がして目が覚めた。出窓を開けると、薄暗い空に無数の火の玉が尾を引いて飛んでいる。ガザを統べるイスラム組織ハマスが、イスラエルへミサイルを撃ち込んでいた。眠気はいっぺんに吹き飛んだ。 「退避しなくちゃ、と思い、手順に従って携帯電話だけ持って、地下1階の広い部屋に下りました。MSFは宿舎のビルを1棟まるごと借りていて、住んでいる外国人スタッフ11人全員が避難所の地下室に集まりました。そのうち、いつもどおり近くのエレズの検問所が開いて、外国人はイスラエル側に出られるだろうと、誰もが楽観的でした。ところが、すぐにイスラエルの報復の空爆が始まり、全然、収まらない。不安が募りました」  と白根はふり返る。携帯電話はまだ繋(つな)がっていた。サマータイムで日本との時差は6時間。東京の実家で、母・洋子(70)が娘の電話を受けた。 「麻衣子の第一声は、ママ、まるで真珠湾攻撃よ、でした。その後は、毎日、通信の都合で向こうの朝一番に1分間だけ、安否確認の電話がかかるのですが、こちらからはかけられません。電話のない日もあり、何度もうダメかと。怖かったです」  白根たちが望みを託したエレズ検問所は、ハマスが襲撃し、閉ざされた。 拠点からの移動を前に電話で遺書を預ける  イスラエルの空爆は激しくなり、目の前のビルが地響きをたてて崩れ落ちる。爆風で、宿舎の窓という窓のガラスが砕け散った。  白根は、4日間、地下室で過ごし、とうとう「その時」を迎えた。イスラエル軍の指示で宿舎を出て、国連の施設に移るよう促されたのだ。 「とにかく明るい」白根とミーティングをするMSF日本事務局のスタッフたち。赴任地は自分の希望では決められない。世界約500カ所の活動地から適切な場所が提示される(撮影/横関一浩)    MSFは、世界中すべての活動地を申告し、非暴力の中立を保ち、どの政治勢力からも保護されている。だが、拠点を出れば、いつ「標的」になるかわからない。拠点を軍隊に教えていても、15年には、アフガニスタンでMSFの病院が米軍の誤爆を受け、患者や医師42人が亡くなっている。  白根は覚悟を決めた。  東京のMSF側のサポート役で、紛争地で経験を積んだ看護師の白川優子(50)は、こう語る。 「電話で麻衣子さんから、万が一のことがあったら、と遺書を預かりました。長い文章を、母と姉と妹と甥(おい)っ子にって、恐怖で泣きながら伝えてくれました。大丈夫だよ、大好きだよ、愛してるよって言いながら、受け取ったんです。そのぐらい場所を移るのは危険でした」  母の洋子や白川は何としても麻衣子を助け出したい。しかし、白根と医師、看護師の3人の日本人スタッフがガザにいることが日本ではまったく報じられていなかった。メディアは気づいていない。MSFは情報を統制していた。  その理由を、MSF日本のメディア担当マネジャー・舘俊平は、次のように述べる。 「外国人スタッフがガザに閉じ込められている事実が公になれば、状況しだいでハマスに狙われる可能性もあった。現に彼らはイスラエルに越境して外国人を人質に取った。そこが問題でした」  情報をめぐる当事者と本部のせめぎ合いが続くなか、宿舎を出た白根たちはガザ北部から南部への移動を強いられ、国連施設を転々とする。  白根はひそかに知人の国際ジャーナリストにボイスメッセージを託した。 「ガザはいま地獄です。逃げる場所もないのに、逃げろといわれて。逃げろといわれても空爆はとまらなくて。一般市民はどこにもいく場所がありません」  と名を伏せた白根の悲痛な声が、23年10月13日、TBSのニュース番組で流れた。15日、白根ら外国人の一団は国連施設の露天の駐車場に送られる。  白根は日本の友人にLINEで窮状を訴えた。  洋子に「お母さん、もうがまんできません。麻衣子さんのメッセージをX(旧ツイッター)に流します」と意外な人物から連絡が入った。相手は夫の元総理・安倍晋三を凶行で亡くした妻の昭恵であった。  白根と昭恵は立教大学の社会人大学院、21世紀社会デザイン研究科の同期生だった。16日に昭恵は「避難民で溢(あふ)れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます」という白根の伝言を投稿。世間に白根の存在が知られ、ガザの惨状が直(じか)に伝わってくるようになった。  空爆下の苦しい生活を、白根はこう回顧する。 母・洋子(中央)と姉の長男、左は1歳下の妹。家族の団欒(だんらん)が一番の楽しみ。昨年ガザから帰国直後、真っ先に母にリクエストしたのは「卵かけご飯」。海外の生卵は食中毒の危険があり、食べられない(撮影/横関一浩)   「パレスチナ人の現地スタッフの命懸けの助けがなければ、私たちは絶対に生きて帰れなかった。彼らは、爆弾を落とされ、銃撃を受けながら水や食料を探して私たちに運んでくれました。移動中、一緒に連れて行ってくれ、と群がるガザの市民たちを説得し、押しとどめて、クルマを運転してくれたのです。ほんとうに感謝しかありません」  ガザ南部の駐車場での避難生活は2週間以上続く。運命に弄(もてあそ)ばれる白根は眠れぬ夜を過ごした。 大手銀行に入行したが昭和の風習になじめず  白根は、1986年、建設関係の会社を営む父と、ピアノ教師の母との間に3人姉妹の次女として生まれた。のびのびと育てられ、両親に勉強しなさいと言われた記憶はない。  ただ、疑問や変だと感じることがあれば納得できるまで聞きなさいと教えられる。高校を卒業する前、父が長い闘病生活の末にがんで逝った。  国際貢献や人道支援に関心はなかった。「子どもにかかわる仕事をしたい」と京都女子大学の発達教育学部に進む。中学・高校の家庭科の教員免許を取ろうと教育実習に臨んで、理想とかけ離れた現実にぶち当たった。  授業は学習指導要領に縛られていて、教科書を読むだけで終わってしまう。自由な発想で何かをつくる授業をしたかったが、諦めた。自分には教育は向かないと感じ、方向をあらためる。 「大企業に入れば何とかなるだろう」と三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職した。  東京都下の支店に配属され、富裕層が相手の個人営業に携わる。保険や投資信託、不動産関連の金融商品などを売った。仕事はともかく、銀行の「ザ・昭和」の奇妙な風習になじめなかった。 「まず、ホテルで開かれた新人歓迎会で、芸を、と求められ、新入の女子全員で、韓国のアイドルグループ『少女時代』の真似(まね)をして歌って踊りました。男の子は漫才やモノマネ。いったい誰の歓迎会だろうって感じです。年末にも、また芸をやらされた。飲み会が週4回、お得意さんが相手だと女子が駆り出される。将来は寿退社か敷かれたレールを進むかのどちらか。げんなりしました」  白根は、入行3年目に仕事をしながら夜は立教大の社会人大学院に通った。  じつは、立教に入ったのは母の洋子のほうが先だった。洋子は、夫を亡くした後、音楽を使って地域を活性化したいと社会デザイン研究科の門を叩(たた)いた。年長の洋子は若い大学院生たちから「おかん」と親しまれ、院生の2組を結婚させている。 空爆下のガザでの26日間の避難生活。水道も電気も通っておらず、露天の駐車場で数少ない缶詰を分け合い、ペットボトルの水で身体を拭く。電話は朝7時、何度もかけ直し、やっと通じた(写真は国境なき医師団提供)(撮影/横関一浩)   アルジェリアの少年に会い国境なき医師団へ入る  洋子が立教での学びを楽しそうに家で話すのを聞き、麻衣子もあとに続いた。  ここが人生の分かれ目だった。社会人大学院にはさまざまな人が通っていた。会社を辞めて東日本大震災の被災地に寄り添う仕事を始めた人、危機管理の会社を起こした人、妻がキャリアを積んだのでパートタイムで働きながら勉強をしている人……多様な生き方を知り、白根は「やっぱり教育にかかわろう」と原点に返った。  イギリスに渡り、語学学校を経て、ウォーリック大学の大学院で教育マネジメントを学んだ。英国流のクリティカルシンキング(批判的思考)を徹底的に叩き込まれる。 「自分自身でなぜ、どうしてと問いをどんどんつくり、問題に向き合う手法を英国で教わったんです。たとえば、人事が遅刻を重ねる社員に警告を出すのは簡単です。だけど、その前に、なぜと問いを重ねれば、背景の深刻な理由があぶりだせるかもしれない。根本的な問題がわかれば、また別の対処法が考えられます」と白根は言う。  帰国後、軽井沢の全寮制国際高校、ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパンに転職した。サマーキャンプの運営を担当し、途上国の子どもにも奨学金を出して軽井沢に招く。そこで、13歳の少年と出会い、人生を見つめ直した。  少年は、アルジェリアの難民キャンプの出身だった。来日したときは英語を喋(しゃべ)れなかったが、寝る間も惜しんで勉強し、2週間後にはたどたどしいけれど、人前で武力紛争や、キャンプの過酷な暮らしについて話した。そして、「僕には夢がある。プロのサッカー選手になって、家族に楽をさせたい。がんばります」とスピーチを締めくくる。  白根は目頭が熱くなった。懸命に思いを伝えようとする姿に打たれ、世界の人道危機への目が開かれる。危機的な現場に飛び込んで働きたいと熱望し、国境なき医師団の日本事務局の総務部に入った。事務職を1年ほど務めた後、非医療の現地派遣スタッフの試験を受けて合格する。  初任地は、ウクライナの南部、ミコライウだった。17年、地域にまん延するC型肝炎の治療薬を普及させる事業の予算案を作り、経費を管理する。銀行時代に培った財務のスキルが役に立った。宴会芸に悩んだ日々も無駄ではなかったのだ。  18年の暮れ、次の任地のガザに入った。「帰還の大行進」という抗議デモの最中だった。  パレスチナの人びとは、70年前のイスラエル建国で父祖の地を追われた。その2世、3世の若者がパレスチナの旗を掲げ、帰還を求めて境界付近を行進する。  イスラエルの狙撃兵は、彼らの足を狙い撃った。特殊な弾丸で骨を砕き、痛みや感染症のリスクを身体に刻みつける。  そうした負傷者を治療する診療所の予算を白根は管理し、手術器具も購入した。ガザ滞在中に空爆に遭ったが、北部のエレズ検問所が開いて外国人は脱出でき、ことなきを得ている。  19年12月には戦乱と飢餓の地、アフガニスタンに赴いた。首都カブールに着いたものの治安が悪く、数週間足止めされる。西部のヘラートへ行き、国内難民キャンプの診療所の運営に加わった。そこにコロナ禍が襲いかかる。国境が閉まる寸前に出国し、這(ほ)う這(ほ)うの体で日本に帰り着いた。  その後、白根は、韓国事務局の人事部門で働き、23年5月、半年間の契約で、またガザに着任する。派遣終了までひと月を切り、もうすぐ母の手料理が食べられると期待を膨らませたところで、先の見えない戦争に巻き込まれたのである。  23年10月下旬、白根らMSFの外国人スタッフ二十数人は、まだガザ南部の国連施設の駐車場で野宿生活を送っていた。目と鼻の先に隣国エジプトに通じるラファ検問所があるが、事実上封鎖されていた。  国際政治の舞台では、米大統領ジョー・バイデンがイスラエルを訪問し、首相のベンヤミン・ネタニヤフとガザへの人道支援を再開する交渉をしていた。両者の意見が一致し、10月21日よりラファ検問所が少しばかり開く。  エジプト側から支援物資を積んだトラックが入り始めたが、ガザ側の外国人の出国は認められなかった。  一方、駐車場の避難所は、治安が悪化した。パレスチナ人の避難民が押し寄せ、駐車場の塀をよじ登って侵入を試みる。投石が後を絶たない。外国人と一緒にいれば、生命を守れる、食べ物にありつけると皆、必死だった。  10月31日、突然、白根たちは駐車場から海岸へ移動させられる。塀に囲まれた貸別荘のような建物を宛(あて)がわれた。井戸があり、ソーラーパネルが設置されている。水と電気が手に入って、16日ぶりに屋根の下で眠った。 人であふれたラファ検問所 現地スタッフが命の恩人に  翌11月1日の早朝、「7時にラファの検問所が開く。エジプトに出られる」と噂が流れ、白根たちは車列を組んで国境に向かった。  午前10時、やっと国境が開いた。だが、エジプトやヨルダンなどとの二重国籍を持つパレスチナ人が殺到し、検問所は大混乱に陥った。  ふだんラファ国境は一般のパレスチナ人しか通らず、英語が話せる職員もいない。しかし、10月7日以降、エジプトは難民の流入を恐れて国境を閉ざした。再開後も、外国籍の者しか通過を認めなかったのだが、その数が半端ではなかった。  群衆を前に外国人は途方に暮れた。  するとMSFのパレスチナ人スタッフが白根らのパスポートを集め、人波をかき分けて出国管理事務所に突き進んだ。職員とねばり強く交渉する。  しばらくして、出国審査官がアラビア語で人名リストを読み上げた。MSFの現地スタッフは、マイクを握って、一人ずつ英語に言い換える。 「マイコ・シラネ」と呼ばれたとき、これは現実だろうかと白根は頬をつねる。現地スタッフに精一杯の感謝を伝え、こう聞かずにいられなかった。 「どうして、ここまでしてくれるの。いいんだよ、こんな状況なんだから、仕事のことなんか忘れてあなたの大切な人のそばにいていいんだよ」  男性の現地スタッフは、髭面に(ひげづら)笑みを浮かべて、 「だって、マイコ、君たちは僕らの家族じゃないか。MSFの家族が戦乱を避けて、安全な場所に行くのは誰だって助けるだろ。じゃあ元気でね」  と言い、ふたたび地獄のガザへと戻って行った。  白根は、はらはらと涙をこぼしながら、国境の長い通路をエジプトに向かって歩いた。解放された喜びと心苦しさが胸中で入り交じる。  白根の英国留学時代からの友人で菓子研究家のSAWAKO(37)は、帰国後の親友のひと言が耳に残っている。 「麻衣子さんと再会できて、ゆっくりランチを食べて話をした際、彼女、できることならもう一度、ガザに戻りたい、と言ったんです。びっくりしました。まだ何週間も経っていないのにですよ」  白根になぜ、厳しいフィールドに行こうとするのか、と問うと、こんな答えが返ってきた。 「現場は物事が動いていて、すごく躍動感があるんです。機動力を駆使して、一斉に医療プロジェクトにとりかかって、現実を変えられる。あれは現場にしかありません」  すでにガザではイスラエルの空爆と地上戦で3万人以上が亡くなっている。ハマスが取った人質の解放も進んでいない。国際社会はガザを見殺しにしながら互いの顔色ばかりをうかがう。  白根は、「26日間とはいえ戦争の惨状を目の当たりにした私には、それを伝える責任がある。即時停戦を願うばかりです」と言い残し、今年2月28日、次の赴任地、オーストリアへと旅立った。 (文中敬称略)(文・山岡淳一郎) ※AERA 2024年3月25日号
AERA 2024/03/22 18:00
「離婚しない男」で訳アリの人妻を怪演 梨園の妻になってパワーアップした「藤原紀香」の“魔力”
丸山ひろし 丸山ひろし
「離婚しない男」で訳アリの人妻を怪演 梨園の妻になってパワーアップした「藤原紀香」の“魔力”
藤原紀香(写真:アフロ)    3月16日に最終回を迎えた伊藤淳史主演ドラマ「離婚しない男-サレ夫と悪嫁の騙し愛-」(テレビ朝日系)に出演し、注目を集めていた女優の藤原紀香(52)。妻の不倫の証拠を掴み、父親が親権を獲得するという困難な壁に立ち向かう主人公を描いた作品で、藤原は主人公のマンションの隣に引っ越ししてくる謎多き美女役として第4話から登場。大人の色気で主人公を誘惑するというキャラクターを演じた。  2月24日に放送された第6話では、胸元が開いたドレス姿で登場。主人公に沖縄の伝統菓子「ちんすこう」と「パイ」を振る舞い、「パイとちんすこうで、パイちんパーティーしましょ~!」「ちんでパイでパイでちん!」と大胆なセリフを連発。そんな振り切った演技にSNS上では、「離婚しない男の藤原紀香好きすぎる」「面白さやばい」など、好評の声が集まっていた。  藤原といえば2016年に歌舞伎俳優・片岡愛之助と結婚し、女優業の傍ら現在、梨園の妻として奮闘中。一方、3月3日まで上演された舞台「メイジ・ザ・キャッツアイ」で、怪盗キャッツアイの三姉妹の次女役として剛力彩芽、高島礼子とトリプル主演を務めるなど、最近は、ドラマ以外でも女優として存在感を発揮している。二足のわらじをしっかりと履きこなしているところに尊敬の念を抱く人も多いと思うが、梨園の妻になってからは、さらに見る人を惹きつけている印象がある。 藤原紀香(写真:Motoo Naka/アフロ)   「アンチがいて当然」というマインド 「最近の藤原はイキイキしていて楽しそうですよね。『メイジ・ザ・キャッツアイ』に出演中は舞台上だけでなく裏側でも疾走したり、階段を駆け上がったりしたため、インナーマッスルもキレキレになったとSNSで報告していました。一方、毎日どこかにアザができていたり、節々が痛かったりと満身創痍(そうい)を明かしつつも、『劇場へ通うことがワクワクする』とつづっていました。そんな仕事を楽しんでいる人は、見ていても気持ちが良いものです。また、『離婚しない男』では主人公の妻役を篠田麻里子が演じていますが、藤原はインスタグラムで自身の役について、『同じ事務所の可愛い麻里子のためなら、ひと肌でもふた肌でも脱ぐよーなんて笑いながら話してましたが そんな想いでつとめたお役です』と告白。後輩思いの姿は好感が持てます」(テレビ情報誌の編集者)  日々の充実ぶりが伝わってくる藤原。そんな姿に見ている側も楽しくなるが、自身の価値観もますますポジティブになっているようだ。 「with class」(2023年12月9日配信)では、あるときからアンチがいて当然というマインドに切り替え、ネガティブなことを言われるほど、自身の運気は上がっていくと思っていると告白。そして、人の悪口を言う人は自ら自分の運気を下げ、足を引っ張りたいはずの相手に自分の運気を差し出してしまっていると持論を展開した。自分をたたく人が現れた場合、「また運気が上がったよ~ありがとう!」と、心から思うようになったという。 「夫婦でバラエティー番組を見ていて、前夫の陣内智則が出ていても2人で笑っているとテレビ番組で話していたのも印象的です。さらに『道で陣内夫婦と紀香夫婦が偶然出会い、時間があるから夜ご飯でも行きましょうか』というシチュエーションになったらどうするかとMCから聞かれると、藤原は『あるかもしれない』と笑顔で答えていました。元夫にも好意的でテレビでもそれを言及できるポジティブさは、見ていてすがすがしい気分になる人も多いでしょう」(同) 藤原紀香(写真:つのだよしお/アフロ)   番組でUFOを本気で熱く語る  一方、藤原の魅力について民放バラエティー制作スタッフは「周りが困惑するような突拍子もないことを真剣に語るところが面白い」と話す。 「例えば、以前バラエティー番組で、興味があることについて“UFO関連”と挙げていました。いつか会えるだろうなというロマンがあり、宇宙人と会えるようにテレパシーを送っていたりすると明かしていました。また、テレパシーは『あなたたちの存在は知ってますよ。私には隠れなくていいので、降りてきてくださ~い』という内容で、空に向かって呼びかけるものの、宇宙人が降りてきたことは一度もないとか。また、夫がスペインに行った際にテレパシーを送ったところ、写メを撮ったらUFOが写っていたと回想。夫婦でUFOの存在を信じていて、宇宙船に乗ることが2人の夢だそうです。ときに怪しげな商品やスピリチュアル系グッズを宣伝して批判されることもありますが、彼女の場合、なぜか致命的なダメージにならない。そこは藤原さんの人間力のなせる技でしょう」  これだけの個性がある女優は芸能界でもなかなかいないだろう。しかも、年を重ねても美貌と抜群のスタイルをキープしており、もはや“藤原紀香”という一つのジャンルになりつつあるようにも思える。 バラエティーでも「フルスイング」 「週刊SPA!」元副編集長で芸能デスクの田辺健二氏は藤原についてこう分析する。 「女優としてのキャリアは長いですが代表作に恵まれず、一時は演技力のなさをイジられて『代表作はバスロマン』『いやレオパレス』などと出演していたCM名でネタにされていた時期もありました。陣内さんとの離婚後は間接的に離婚をイジられる場面も増えてしまい、バラエティーに出づらい期間が長かったように思います。しかし、愛之助さんとの再婚を経て、ここ数年はバラエティーでもフルスイングができるようになり、本来の紀香さんをお茶の間に知らしめることに成功している印象です。主演作品にこだわっていた時期もありましたが、最近ではピンポイントの出演でもしっかり爪痕を残し続けている。自然体になれた今こそ、女優としてより大きく花を咲かせるチャンスかもしれません」  華やかなオーラがありながら独自の路線を突き進む藤原。アラフィフとなっても、新たなファンが増えていきそうだ。 (丸山ひろし)
藤原紀香離婚しない男梨園
dot. 2024/03/21 11:00
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長
相手のキーパーソンに照準を 札幌で得た取引の基本 川崎重工業・金花芳則会長
米国でiPodを早々と買った。先端機器好きは楽をするため。父はものづくり自分は機械少年血筋だと思う(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年3月18日号より。 *  *  *  入社4年目の1979年から約8年、札幌市で、市営地下鉄へ納入する車両の試験走行や改善を重ねた。ここで予想外のことが起きて、ビジネスパーソンとしての道が定まっていく。  札幌市の地下鉄は72年の冬季五輪へ向けて工事が進み、71年12月に南北線が開業した。その後、東西線と東豊線が開通。どれも車両はアルミ合金製で軽く、音の静かなゴムタイヤで走る。全車両の車台が川崎重工業(川重)製で、川重が主契約者だ。  着任当初は、担当の部長と2人で動いた。と言っても、市交通局との協議をまとめる部長の鞄持ちで、ついて回るだけ。部長は交通局との会議で、電機分野を受注した会社の幹部らを両脇に従え、課題を次々に切れ味よくさばく。後ろの席にいて「すごいな」と感心していた。 年長者にも怒鳴る交通局係長の要求徹底的に実現した  ところが、1年もたたないうちに部長は本社の技術部長へ栄転、「後はきみがやれ」と言われた。会議の仕切り方はみてはいたが、想定もしていない。以後、中央に座らされ、左右にいる父の年齢に近い電機会社の部長たちが露骨に「こんな若造に仕切れるのか?」という雰囲気を出す。「困ったな」と思ったが、ともかく勉強を重ねた。  接し方が難しかった人は、交通局側にもいた。議論に答えを出す係長だ。係長は30歳くらいで、年長の電機会社の部長でも不快なことがあると「帰れ」と怒鳴る。身を縮めてやり過ごしていた間に、閃いた。父くらいの年齢の面々に言うことを聞かすには「この係長をつかまえればいい」と頷く。  以来、係長に照準を合わせ、求めていることを的確に把握して、徹夜で対応策を考え、徹底的に実現していく。相手も、正面から受け止めてくれた。両脇の面々が「あの係長を押さえられる金花はいいね」と、一目置くようになる。冬の厳しい寒さも楽しむゆとりが、生まれた。  商売相手側のキーパーソンをつかむ──金花芳則さんがビジネスパーソンとしての『源流』になった、と思う体験だ。その後のロンドンやニューヨークの勤務でも同じ。どうやら場の状況や力関係、空気などを読むのが、得意なようだった。 70年万博で英語を鍛える(写真:本人提供)    1954年2月に神戸市で生まれ、両親と弟の4人家族。父は川重の技術者で、工場見学へ連れていってくれた。小学校時代は算数を教わり、いつも「技術者の匂い」をかいでいた。  県立神戸高校時代のある日。街で40代くらいの外国人男性に声をかけられた。ジョーという名の米国人で、大学の教師だった。親しくなり、自室にカラーテレビがなかったジョーは、日曜日にやってきてNHKの大河ドラマを観て帰る。  2人の会話はほぼ英語で、両親が「何を話しているの?」と尋ねた。この経験で、就職後に札幌で英語を話す機会に、抵抗感なくこなせた。 自動運転車両の開発会社の資料で知って就職先に決める  72年4月、大阪大学基礎工学部の電気工学科へ進む。4年生になって、就職先に自宅から通勤できるメーカーを考えていたとき、川重の資料でコンピューター制御の自動運転車両「KCV」を開発中と知る。「これをやりたい」と思い、受けた。76年4月に入社し、希望通りに車両事業部のKCV開発室へ配属される。KCVは高層ビルや高速道路の間を縫うように軌道を走らせるため、急カーブも急勾配もこなさなければならない。のちに「ポートライナー」として実用化した。  兵庫県加古川市の試験線で約3年、先輩と2人で試験車両を動かして様々な点を計測し、改良点を考えた。タイヤはゴム製で、同じゴムタイヤの札幌地下鉄との縁が生まれていた。  札幌から本社の車両部へ戻って約1年後の88年10月、ロンドン事務所のアシスタントマネジャーへ赴任した。川重は、英仏海峡トンネルを走るワゴン車の台車の試作車2両を受注していた。毎週のようにパリへいき、台車の試験に立ち会う。翌年にロンドン市営地下鉄のセントラルライン向け台車1436台も受注し、それも受け持った。「人生で、一番仕事をした」と思うほど、働いた時期だ。ここでは、市交通局で技術分野の総帥だった副総裁に食い込んだ。  副総裁は、思わぬところでも力になってくれた。神戸から社長がきて交通局の総裁を訪ねた際、台車の溶接や塗装で苦情を言われた。大きな問題ではなかったが、社長は腹を立て、宿泊先のホテルに現地法人のトップとともに呼ばれて怒鳴られる。「これは、クビになるな」と思い、帰宅して妻に話すと「そうなったら、2人でタコ焼き屋をしましょう」と言ってくれた。  翌朝、交通局へいって出社してきた副総裁に事情を話すと、「では『昨日はああ言ったが、ちょっと言い過ぎた』と手紙を書こう」とホテルにいた社長へファクスを送ってくれた。発注者が受注者にそういう手紙を出すのは、異例だ。  1436台の台車を納入し終えたころ、神戸の車両事業部長から「ニューヨークがいろいろ困っているので、いって手伝ってやれ」と指示がきた。米ニューヨーク市交通局(NYCT)向け車両の走行試験のことだ。1年くらいで終わるだろうと思い、妻と長男は日本へ帰し、単身でニューヨークへ赴く。米国駐在は結局、13年半に及ぶ。  ニューヨーク市の事務所は、車両基地の近くに置いたトレーラーハウス。ロンドンでは背広にネクタイで「紳士」を演じていたが、ここではジーパンにTシャツ姿で仕事をした。 端に座って寡黙な男相手の責任者と知り夜中にも訪ねた  週に1度、どんなトラブルをどう処置したかの会議がNYCTであり、それにも出た。すると、部屋の端のパイプ椅子に座って、寡黙な男がいる。部下に「誰?」と聞くと、NYCTの技術責任者だ、と言う。「何で、あんなところに座っているの?」と続けると、「川崎が嫌いなのです。問題ばかり起こして最悪だと」と答えた。  ここで、『源流』からの流れが、勢いを増す。「彼を落とせばいいのだ」と思い定め、夜中にも訪ねて話し込み、言われたことは全部やる。仲よくなり、07年10月に帰国した後も、ニューヨークへいけば会っている。いまニューヨークの地下鉄車両のほぼ半分が、川重製だ。  2016年6月に社長就任。地球環境対策の水素ビジネスなど、成長が期待できる分野で「攻め」を鮮明にした。地球環境の改善には、二酸化炭素(CO2)を多く排出する化石燃料の使用を抑制しなければならない。  現在、世界に電車の架線がない地域が多く、そこはディーゼル車が走り、多くのCO2を出している。それに代えて、川重が開発中の水素を使った燃料電池で走る新車両の時代が必ずくる、とみる。  いま、世界の自動車や車両のメーカー、電力などエネルギー関連の企業など、主要な約150社のトップによる水素協議会の共同議長も務め、水素の利用促進の議論も重ねている。『源流』となったキーパーソンの発見と攻略。今度は、自らに150社の目が注がれている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年3月18日号
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AERA 2024/03/16 20:00
親は「道は一つではない」と示す役割 働きながら子どもの大学受験を支える親が気をつけたいこと
松岡かすみ 松岡かすみ
親は「道は一つではない」と示す役割 働きながら子どもの大学受験を支える親が気をつけたいこと
この10年あまりで大きく変化している大学受験。親の時代の受験とは様変わりしている (立体イラスト/kucci 撮影/写真映像部・佐藤創紀)    子どもだけでなく、親も神経をすり減らし、高額なお金も投入する大学受験。 働く親は子どもをどう見守り支えたらいいのか。実際のエピソードを元に探った。AERA2024年3月18日より。 * * * 「ストレスがかかっているのは受験生だけじゃない。むしろ親の方がストレスがかかっている場合もあると思う」  ため息交じりにこう話すのは、都内のコンサルティング会社で働く女性(53)。同業の夫とフルタイムで共働きしている。高3の息子は、週に3日、塾に通い、それ以外の日は自宅で自習している。しかし勉強に取り掛かるまでに、時間がかかる。  勉強中だと思って夜食を持って部屋に入ったら、スマホのゲームに熱中していたのも一度や二度ではない。「さっさと勉強しなさい!」と言いたい気持ちをぐっとこらえ、優しめに言葉を投げかけるも、反抗期でもある息子からは「うるせえ」とにべもない返事。あるいは、ほとんど無視。夫に助けを求めるも、「親があんまり口出しするのは良くない」「落ちて挫折を味わうのも、また経験」と、どこか達観したような答えが返ってくる。 本音話せる相手いない  夫のスタンスは、中学受験の苦い経験にも起因している。親子ともに必死で臨んだのに不合格だったとき、しばらくうなだれていた小6の息子の姿が忘れられない。「親主導で受験をして、無理をさせてしまったのでは」という引け目があり、「大学受験は本人のやりたいようにやらせよう」と夫婦で話し合っていた。子どもの中高時代は、女性も仕事が忙しく、テスト結果には目を通すも、そこまで子どもの勉強にコミットしてこなかった。  だが、勉強しない息子を前に、胃がキリキリしてしまう自分がいる。中学受験に失敗しているせいか、不眠症になり、寝ても合格発表の夢を見る。慢性的な寝不足で、仕事もスランプ。やる気のない息子の様子に、自分もやる気がなくなって会社を休んだ時もあった。 「静かで落ち着ける外の環境で勉強したい」と言い出した息子に付き合って、夜間や休日に長時間、コワーキングスペースに通ったことも。正月休みにも、勉強する息子を見守りながら、仕事をしたり家計簿をつけたりして、1日14時間超を過ごした。 「子どももピリピリしていたので、なるべく明るく笑顔で接するように気をつけていましたが、更年期の身体は正直に悲鳴をあげていました(笑)。気持ちも乱高下を繰り返し、入試が近づくと口内炎がたくさんできて、柔らかいものしか食べられなくなったり……。先日、合格がわかった途端、気が抜けて、家事も仕事も手につかない状態に。その夜、高熱が出て、いかに受験が重荷になっていたのか思い知りました」(女性)  受験生の親は気力、体力を使い、神経をすり減らす。しんどくてもはけ口がなく、ストレスをため込んでしまいがちだ。 「心の中の不安なことや愚痴をこぼす相手がいないのが受験生の親。仲が良いママ友がいても、核心に触れることは話題にしづらかったりして、本音を話せる相手がなかなかいないのです」  こう話すのは、人気の受験ブログ「二浪日記(大学付属中高一貫だったのに二浪した息子の母の愚痴日記)」を運営する、marimcreamさん。息子の受験に対する言葉にならない思いを吐き出す場所として11年前に始めたブログだったが、息子が大学を卒業し、就職した今もなお、受験生の親から数々の相談や悩みが寄せられる。 「○○大学と○○大学、どちらに行ったほうが良いでしょうか」「心の保ち方を教えてください」など、親から寄せられるリアルな悩みに対し、自身や他の読者の体験談をまじえつつ回答。受験というテーマのもと、見ず知らずの親同士が、安心して本音を吐露し、情報交換ができる場として、活況を呈している。 “女優”になりきって  marimcreamさんの息子は、都内の私立中高一貫校に通っていた。付属大学への進学権もある中高一貫校ということで、「大学受験で浪人はまずないだろう」と考えていたが、息子は高3のときに推薦を全て蹴って浪人し、2浪にも突入。当時は、スーパーに買い物に行くと、普通に買い物をしている人が幸せそうに見えて泣けてきて、暮れの街を照らすイルミネーションもまぶしくて見られなかった。そんな中でも、息子の前では、平静を装うと決めていた。 「子どもの前では『何言ってるの、大学受験に落ちたぐらいで人生何も決まらないわよ』と平静を装いました。受験生の親は、子どもの前では“女優”になりきって、不安が伝染しないようにするのが大事だと思います。私自身、息子の2浪で『また落ちたらどうしよう』という大きな不安の中にいた経験があるので、親御さんから寄せられる悩みや愚痴にも共感できるし、追い詰められる親の気持ちが分かる」(marimcreamさん)  この11年間、受験生の親からの差し迫った相談や悩みを聞く中で感じるのが、「子どもの受験を、親が何とかできると思わないほうがいい」ということ。頭では分かっていても、無意識のうちに「何とかしよう」と思って行動している親が思いのほか多いという。 「そういう人ほど、『私がもっと早く塾を探していたら』『私が滑り止めの大学をもっとリサーチしていたら』など、いつの間にか主語が“自分”になっていることが多い。子どもの受験は、親が何とかできるものではないと捉えるのが大前提だと思います」(同)  では具体的にどう支えたら良いのか。  まずは、目指す方向を早めに定めること。漠然と受験勉強するのではなく、志望校を早めに決めたほうが、効率の良い勉強ができる傾向にある。得意科目を生かせる入試がある学校に焦点を定めるなども手だ。息子2人の公立大医学部現役合格を支えた子育てアドバイザーの藤田敦子さんは言う。 「目標が早めに定まると、あとは勉強に集中できます。方向性が漠然としている場合には、将来どうしたい? 大学でどんなことを学びたい?と聞きながら、具体的なことを親子で一緒に詰めていけると良い。そのためには、信頼関係が必要です」 常に一番の味方でいる 子育てアドバイザーの藤田敦子さん(中央)と医学部現役合格を果たした息子2人。「働く親は、学費を稼ぐために働く自分を偉いと褒めましょう」(藤田さん)(写真/藤田さん提供)  藤田さん流の信頼関係を築くコツは、子どもがやりたいことは積極的に応援してやらせること。藤田さん自身、息子が高2の時、体育祭の応援団長と文化祭のリーダーを兼任することについて、塾の先生に「受験勉強の妨げになる」と猛反対されたが、塾には「家庭の方針です」と説明し、息子の意見を尊重した。息子はやりたいことを全力でやり切れたことで、その後は勉強に集中、現役合格を果たした。息子からは「常に一番の味方でいてくれたことが心強かった」と言われた。 「子どもが最後まで頑張るためには、学校、塾、家とそれぞれに居場所があることが大切。親が一方的に禁止事項を作って抑え込むのではなく、『合格したいなら、どうやったらできると思う?』と話し合って、子どもの意見をしっかり聞くことが大事です」(藤田さん)  目標を決める際には、合格をゴールにするのではなく、卒業後のことまで考えた上で方向性を定められると良い。前出のmarimcreamさんは言う。 「大学名や学歴を最終ゴールにせず、こうなりたいという“その先の道”を描くことが大事。特定の大学への合格のみを目指して頑張ってきた子ほど、不合格だったときに心が折れてしまう傾向があります。道は一つではないという広い視点での希望がないと、いざという時に切り替えができなくなる」 毎年、多くの難関校に生徒が合格することで知られる進学塾VAMOS代表の富永雄輔さん。「子どもの支え方は、親が直接的に手を出すことだけじゃない」と話す(写真/富永さん提供)    広い視点を持つために、「子どもが知らない世界を意図的に見せる努力をするのが大切」と話すのは、『東大生を育てる親は家の中で何をしているのか?』などの著書で知られる、進学塾VAMOS代表の富永雄輔さん。スマホを持つ子どもが増える現在、知らないことも“知ったつもり”になっている子が増えていると指摘する。 「スマホありきの調べ方は、特定の狭い分野に深くなることはあっても、自分が興味があること以外の領域を知らないままになる。そうならないためにも、親が意識的に広い視点をもたせてあげられると良い」 主体はあくまで子ども  合格をゴールと捉える親は、塾の三者面談などで、子どもに質問しているのに、親が答えるケースも少なくないとか。 「親の存在が子どもの人生に与える影響が大きいと信じ込んでしまっている親ほど、そうなりがち。子どもには子どもの世界があって、親が知ることができない世界もある。特に大学受験ともなると、主体はあくまで子どもです」(富永さん)  共働き世帯が7割を超える現在、働きながら受験生を支える親も多い。「親の受験」とも呼ばれる中学受験と比べれば、大学受験は親の関与度は下がるものの、中には、「こんな大事な時期に仕事をしていて良いのだろうか」という不安の声も聞かれる。最近では、東大生の母親の専業主婦の割合が約30%、管理職の割合が約5%という調査結果から、「受験を乗り越えるには、仕事をセーブすべきなのか」という議論を呼んだこともあった。  だが富永さんは、「共働きで両親が働く姿を見せるのは、これからの時代を生きる子どもにとっても大切なこと」と話す。富永さんの塾に通う子どもの親も、大半が共働き。ひと昔前までは、3食栄養バランスの取れた食事を作り、夜食も用意するのが受験生の母親の役割とされてきたが、「支え方も時代に合わせて変えるべき」とくぎを刺す。 「今はデリバリーサービスも発達しているし、必ずしも親の手作りごはんじゃないといけないわけじゃない。働きながらでも無理なく支えられるやり方で、バランスを取った方が良い」   仕事が生きる場面も  前出の藤田さんは、シングルマザーとして働きながら、息子2人を育て上げた。「あまり小言を言わずにいられたのは、仕事で忙しかったおかげ」とにっこり笑う。marimcreamさんも、会社員として働きながら息子の受験を支えた。「大変な時も、仕事の時間はそれを忘れられた。一点集中しなくて済んだのは、仕事があったから」と話す。  仕事の経験が生き、受験を機に、親子の絆が強まったエピソードもある。埼玉県内に住む女性(51)の息子が本気で受験勉強を始めたのは入試の半年前と出遅れたが、猛勉強で模試では志望する難関大のB判定までこぎつけた。  だが試験当日、息子は「やらかした」と笑いながら帰宅。夕食を食べながら、息子の笑顔はいつしか引きつり笑いになり、気づけば必死で涙をこらえていた。女性は、そんな息子を前に、どう反応しようか悩んだ。  これまでは怒っても仕方ないと分かってはいながら、息子に散々怒鳴ってきた。だが自分で失敗を悟り、悔やみきれない渦中にいる相手に対し、頭ごなしに叱ったとして、良い方向に進むとは限らないのは、仕事を通じても実感してきたことだ。  とっさに口をついて出たのは、「大丈夫、これで終わりじゃないから。また次があるよ」。後に、息子から「あの言葉で救われた」とお礼を言われた言葉だ。 「どれだけ不安で頭がいっぱいでも、受験で親ができることは本当に限られている。あの時、ぐっと感情をのみ込んで、息子に“大丈夫”と言えた時が、私にとって受験の最大のハイライトだった」  子どもの大学受験の主役は、あくまでも“子ども”。親は働きながら見守るぐらいがちょうどいいようだ。無理がないバランスを探りながら、主役を支える“名脇役”を務めたいものだ。 (フリーランス記者 松岡かすみ) ※AERA2024年3月18日号
AERA 2024/03/16 16:00
「賀来賢人」が鬼才監督と挑んだ歌舞伎町での“ゲリラ撮影” 「悪いことしてるんじゃないかって、興奮した」
唐澤俊介 唐澤俊介
「賀来賢人」が鬼才監督と挑んだ歌舞伎町での“ゲリラ撮影” 「悪いことしてるんじゃないかって、興奮した」
賀来賢人さん(撮影/横関一浩)    おととし、事務所から独立し、今はフリーとして活躍する俳優の賀来賢人さん(34)。「今日から俺は!!」(日本テレビ系)など、コメディー作品のイメージが強い賀来さんだが、「コメディーは一番難しい」と語る。そのきっかけとなった出来事や、コロナ禍での人生観の変化、そして、初めての三池崇史監督作品への参加となったショートムービー「ミッドナイト」の撮影秘話などについて聞いた。 *  *  * 「俳優の仕事って本当に人気商売なんです」  その裏には、長かった下積み時代の記憶がある。 「僕は、同世代に比べたら、なかなか芽が出ませんでした。どうして自分は彼らと同じフィールドに立てないのか、いい役がもらえないんだろうか、そういうことを考えた時期がすごく長かったんです」  賀来さんは、2022年9月、約16年間所属した大手芸能事務所から独立し、フリーとなった。その際、自身のインスタグラムに投稿したコメントには、以下のような一節がつづられていた。 〈自分の力でどこまで出来るのか、挑戦したい気持ちが次第に強くなっていきました〉  全編iPhoneで撮影されたショートムービー『ミッドナイト』の主演も“新たな挑戦”の一つだ。  本作は、手塚治虫氏原作の同名マンガの実写化作品。鬼才・三池崇史氏がメガホンを握った。賀来さんにとっては、初の三池組への参加となった。 「三池さんとはお仕事をしたいとずっと思ってたんですけど、なかなか機会がなくて。今回、こういう挑戦的な企画でご一緒できてうれしかったです。けど、正直もうちょっと長く、ガッツリやりたかったなっていう気持ちもあります。少年のように映像制作を楽しんでいる三池さんの姿は、すごくすてきでしたね」 賀来賢人さん(撮影/横関一浩)   三池監督に「男心をくすぐられた」  待望の三池組はどんな一座だったのだろうか。 「現場の空気や勢いとか、今この瞬間に生まれるものを大切にされていました。そこに役者を乗せて、どんどんエネルギーを作っていくというか。(新宿)歌舞伎町でゲリラチックな撮り方をしたんですけど、そういうところも、悪いことしてるんじゃないかって、男心をくすぐられて、興奮しましたね。三池さんご自身が本当に楽しんでいるので、それが周りにも伝わって、いい緊張感がありつつもワクワクする現場でした」  冒頭でも触れたように、長い下積み時代を過ごしてきた賀来さんだが、転機となったのは、18年に放送されたドラマ「今日から俺は!!」の主演だったという。当時をこう振り返る。 「街で普通に人に気づかれるようになりましたし、あの作品をきっかけにお仕事もすごく増えました。見られ方が変わったというか。それまでは『俺、見てもらえてないな』っていうのを感じていたので」  同作の脚本、演出を務めたのは、実写映画「銀魂」シリーズなどで知られる福田雄一さんだ。賀来さんは、映画「斉木楠雄のΨ難」やドラマ「スーパーサラリーマン左江内氏」(日本テレビ系)など、福田さんが手がけた作品に多く出演している。そのため、賀来さんにコメディー俳優としてのイメージを持っている人もいるだろう。だが、「コメディーが一番難しいです」と話す。 「だからこそ、挑戦し続けたい分野でもあります。映像だと編集次第というのもありますが、舞台だとお客さんのリアクションで、笑いが成立しているかどうかが顕著にわかるので、自分の技量が最も問われると思っています。なので、毎回お客さんと勝負してる感覚になるんです」  賀来さんはコメディーを「一番緻密で面白いジャンル」と言う。そう思うようになったきっかけは、福田さんが企画、脚色、演出を務めたミュージカル「モンティ・パイソンのスパマロット」(12年)に出演したことだったという。主演のユースケ・サンタマリアさんをはじめ、ムロツヨシさん、戸次重幸さんら、経験豊富な俳優陣が名を連ねていた。 賀来賢人さん(撮影/横関一浩)   守りに入っている自分に気づいた 「このときは舞台の仕事を全然やったことがなく、周りのベテラン俳優さんたちはウケてるのに、僕だけスベリまくっていたんです。なんでできないんだろうって悔しかったですね。そんなときに池田(成志)さんに、『間を1個ずらしたら、ウケるよ』というようなことを言われて。で、それを言われた通りにやったら、本当にウケたんですよ。そのとき、『あ、ノリでやってるんじゃないんだ、この人たち』って初めて気づいたんです。全部、技術でやってるんだなって。笑いとか喜劇って、それまで一番簡単に見えていましたけど、一番難しいことなんだなって思ったんです。それが自分のなかではすごく大きくて。そこから、自分で考えて、いろいろ試行錯誤していくなかで、ウケるようになって、ちょっとずつ自信がついてきました」  もうひとつ、賀来さんに大きな影響を与えた出来事がある。新型コロナウイルス感染症の流行だ。コロナ禍で行われた「AERA STYLE MAGAZINE」(Vol.48、2020年)のインタビューで賀来さんはこう語っていた。 〈30歳から40歳までの間に本当に自分のやりたいことを突き詰めたい〉  そう思うようになったのには、「守りに入っている自分に気がついたから」と話す。 「コロナで僕たちの仕事は全部ストップして、当時はこのまま本当に仕事がなくなると感じていました。今後どうしようかなって思って、自分で作品を作ったりとかもしたんですけど、あるとき、守りに入っている自分に気がついたんです。売れなくてつらい時期を脱して、いいところに行ったことで、今度はそこから落ちるのが怖くなっていました。でも、僕たちの仕事って、なかなか安定しないじゃないですか。それなのに、心のどこかで、安定したいとか、今のポジションを守ろうとしていて。コロナで仕事がなくなって考える時間ができて、そうじゃないよなと思ったんです。この仕事ってやっぱり浮き沈みがあって当然だよなと思い直して、そこから、自分のなかで、『攻め』の姿勢でいこうと考えるようになりました」 賀来賢人さん(撮影/横関一浩)   真面目な人が勝ち残っていく  賀来さんはフリーになったことで、常に意識していることがあるという。 「ずっと第一線にいる人は、やっぱり真面目なんです。真面目っていうのは、いろんなことにちゃんと向き合って、常に自分をアップデートしようという気持ちがあるということ。最終的に勝ち残っていくのはそういう人たちなんだろうなって、事務所から独立した今、それをより感じますね。本当に自分の力だけでやってかなきゃいけないので、絶対に下手は打てないですし。真面目に仕事に向き合う姿勢は、常に意識してます」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●賀来賢人(かく・けんと)/1989年、東京都生まれ。2007年に俳優デビュー。09年、映画「銀色の雨」で初主演を果たす。その後も、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」(14年)、大河ドラマ「花燃ゆ」(15年)、「今日から俺は!!」(18年)、「半沢直樹」(20年)、「マイファミリー」(22年)、「忍びの家 House of Ninjas」(24年)などのドラマに出演。主な映画出演作に、「斉木楠雄のΨ難」(17年)、「ちはやふる―結び―」(18年)、「劇場版TOKYO MER~走る緊急救命室~』(23年)などがある。22年9月、所属事務所から独立し、フリーとして活動している。現在、全編iPhoneで撮影されたショートムービー『ミッドナイト』がYouTubeなどで配信中。 ■ショートムービー『ミッドナイト』 舞台は夜の東京。もぐりのタクシードライバー「ミッドナイト」は、若い女性トラック運転手「カエデ」と出会う。カエデがとある事情で命を狙われていることを知ったミッドナイトは、「第5の車輪」を持つ改造タクシーで彼女の逃亡に手を貸すことに。ネオン煌く東京で繰り広げられる一夜限りのカーチェイスをiPhone 15 Proのカメラが捉えます。 【作品視聴URL】 ・iPhone 15 Proで撮影 | ミッドナイト | Apple: https://youtu.be/XUTOgwO4ZN0  ・iPhone 15 Proで撮影 | 「ミッドナイト」の舞台裏 | Apple: https://www.youtube.com/watch?v=ZfDFoNkYxdc 
賀来賢人ミッドナイトiPhone15
dot. 2024/03/16 11:00
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