検索結果2076件中 781 800 件を表示中

事件を縦糸、鉄道を横糸に近現代史描き出す さまざまな人物が交錯する「歴史のダイヤグラム」刊行
三島恵美子 三島恵美子
事件を縦糸、鉄道を横糸に近現代史描き出す さまざまな人物が交錯する「歴史のダイヤグラム」刊行
はら・たけし/1962年、東京都生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。著書に『大正天皇』『滝山コミューン一九七四』『昭和天皇』『一日一考 日本の政治』など多数(撮影/写真部・高橋奈緒)  AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。  原武史さんによる『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』は、朝日新聞土曜別刷り「be」で現在も連載中の好評コラムを「皇室」「郊外」「文学」「事件」など五つの章にまとめて書籍化したものだ。昭和天皇の極秘裏の伊勢参拝、大宮vs.浦和問題を語る田山花袋、リュックに猟銃を詰めた永田洋子が長岡から北海道へ渡ったルートとは? 著者の原さんに、同著にかける思いを聞いた。 *  *  *  二・二六事件の後、特別車両の中で歴史学者の平泉澄と密談する秩父宮、東京─大阪間を移動する際、わざわざ夜行の普通列車を利用した谷崎潤一郎、「峠の釜めし」か「だるま弁当」かで論争する鶴見俊輔と竹内好、長万部で内縁関係にあった坂口弘に「かにめし」を半分譲る連合赤軍幹部の永田洋子──。  皇族や文学者から一般庶民まで、さまざまな人物と鉄道が交差したこのような歴史上の一場面を、原武史さん(59)は『歴史のダイヤグラム』で鮮やかに描き出す。通説からはこぼれおちるような断片的なエピソードを日記などの資料から丁寧にすくいあげ、それが博覧強記の鉄道知識と化学反応を起こすことで、いままでとはまったく違う歴史像が立ち上がってくる。  原さんは日本政治思想史が専門だが、鉄道に関する著書も多く、「時刻表と歴史資料の読み方にはどこか通じるところがある」と言う。 「歴史資料の読み方にも当然読む人なりのバイアスがあって、例えば『昭和天皇実録』について何も新しいことは書かれていないと言った学者もいましたが、ちゃんと読むととんでもないくらい、いままで知られていなかったことが書かれています。時刻表もじっくり読んでいると、通常のルートとはまったく違う、場合によっては目的地により早く着ける別のルートが見つかることもある。小さな記述から通説が覆されるようなダイナミズムや面白さは、共通するものがあると思います」  そんな原さんの思想形成の背景には、父親に連れられて鉄道で地方を旅した幼少期からの経験がある。 「一口に日本といってもいろいろだと感じていました。政治の現場は具体的な空間や風土などに規定されているので、抽象的な次元でのみ論じていても政治の実態は見えないのではないか。そんなところから、アカデミズムのテキスト中心主義には最初から違和感を持っていました」  国会図書館勤務や新聞記者として皇室取材に携わった経験がある原さん。アカデミズムとジャーナリズムの両方に軸足を置くことは、研究を「本店」、ジャーナリスティックな仕事を「夜店」と言った丸山眞男のように、ある意味自然なことなのかもしれない。  高校1年生のときに、北海道の国鉄全線に乗車した。コロナ禍が収束したら行ってみたい場所として再び北海道を挙げる。 「いつ廃線にされるかわからない路線が結構あることと、すでに廃線にされたところがどうなっているのかが気になります。私が高1の時は北海道からSLがなくなってからまだ3年しかたっておらず、その面影があちこちに残っていました。例えば鉄道の町として栄えた岩見沢の駅員のアナウンスは、まさに職人芸を感じさせるものでした。いつか廃線になった線も含め、もう一度北海道の線路をたどってみたいと思います」 (編集部・三島恵美子)※AERA 2021年11月8日号
読書
AERA 2021/11/08 08:00
伊沢拓司が「こんな言い訳ばっかりな作者インタビューもなかなかない」と吐露した理由
伊沢拓司が「こんな言い訳ばっかりな作者インタビューもなかなかない」と吐露した理由
撮影:高野楓菜 「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司氏。彼が2年半を費やした大著『クイズ思考の解体』では、クイズを愛しすぎた“時代の寵児”が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かしています。本について、また、愛してやまないクイズについて、伊沢氏に語っていただきました。 ※「伊沢拓司『早押しクイズでの“誤答”は勝つための手段』クイズ王が分析するクイズの世界」よりつづく ――社業や芸能活動がお忙しい中、深夜に時間を作り孤独に耐えてご執筆を継続されたとお聞きしました。並大抵の精神力ではなし得なかったと思います。完成まで書き続けることができた、伊沢さんのモチベーションについて教えていただけますでしょうか。 伊沢:僕は単純に、文章で伝わる自己のイメージについて過度に気にしいなんだと思います。インタビュー原稿とかも沢山直しちゃうんです。本を書くときも、以前聞き書きでやってもらおうとしたこともあったんですけど、伝えたいことが上手く伝わらない文章になってしまっていたので頓挫してしまった。結局、自分の手で書いていないものが出るのは怖くなってしまったんです。  写真とかは全然確認しないんですけど、文章についてだけは正直けっこう神経質で申し訳ないなと自分でも思います。それでもなお、やっぱり自分で書きたかったし、書いているときは煩悶の中に自己満足があったので、そこはエナジーを燃やし続けることはできましたね。  書いたものが称賛されようと批判にさらされようと、一石を投じて何かしら状況をすすめることができるのであれば、それはとても幸せなことです。クイズをプレーする時間が執筆で減ったこととかは辛かったですけど、多くの人に協力してもらえたし、編集の松浦さんがずっと伴走してくださったので、孤独を感じることはなかったです。一人になれる夜の作業も好きですしね。  書いていて寝落ちした日は10や20ではきかないかもしれませんけど、クイズのことを考えているうちに一日が終わるのであれば、それはとても幸せで平和なことです。ほんとは社会人としての勉強により時間を割かないといけないんですが(笑)。 撮影:高野楓菜 ――本書を読んで、「クイズ」そのものだけでなく「クイズ界」や「クイズ研」に興味を持つ人も多いと思います。伊沢さんご自身も「クイズ界」に育てられたと書かれていて、人間味あふれる温かさみたいなものも読み取れました。改めて、「クイズ界」というコミュニティならではの魅力を教えていただけますでしょうか。 伊沢:そもそも僕自身がクイズ界の構成要素の一つなので、クイズ界を総括することはおこがましいなと思うんですが、やはり多様性のあるコミュニティの中で、己の信じるクイズを各々が考え、貫くというのがクイズ界らしさなのかなと。スポーツみたいに明確なルールがあるわけではないし、集まりたい人たちで集まって、やりたいことをすればよい。クイズというくくりは、スポーツ名よりも広いというか、「囲碁将棋研究会」「ボードゲームサークル」みたいな感覚なんですよね。  ボードゲームサークルの中で別のボードゲームをプレーしている集まりが複数あっても別に問題ないですよね。クイズ界というのはそれのでっかい版みたいなもので、各々が信じるクイズ像と、創作意欲、独自の知識なんかを、他人に侵害されぬまま楽しむことができる。これがクイズ界の在り方の良いところだと思いますし、そうあり続けてほしいですね。 ――実際に、多くの諸先輩方がこの本の編集にも携われていますよね。 伊沢:感謝しかないですね。クレジットさせていただいた仲の良い先輩後輩はもちろん、クレジットできなかった人も、そもそも自分がメディアに立つために必要な土壌を作ってくださったり、ご指導くださったり、それこそクイズの理論を築き上げてきた人たちですから。僕はあくまで系譜の中にいる一パーツにすぎません。サークルで先輩におごってもらったときに「俺にはいいから、下の代におごってやれよな」って言われる感じというか。そういう感覚はずっと持っていたので、今回はそれが少しはできたかなと思います。 ――「クイズそのものの面白さをありのままに書き残したい」「クイズのために書いた『クイズの本』」とおっしゃっています。昨今のクイズブームやご自身がCEO兼編集長を務められているQuizKnockの急成長に伴い、「クイズの効能とは?」や「クイズは何に役立つのか?」という風潮が変わってきている予感もします。まさに、発展途上であり、これからどんどん進化していく可能性がありますね。 伊沢拓司著『クイズ思考の解体』(朝日新聞出版)※Amazonで詳細を見る 伊沢:そうですね、ありのままのクイズというか、クイズというゲームが、クイズというゲームそのものとして存在するのが当たり前、という状態を作っていきたいですね。藤井聡太三冠に「将棋をやっていて役に立ったことはありますか?」と問うことがないように、クイズをやることはなにかのためにある行為ではないのです。クイズはクイズのためにある。  その上で、クイズもそのゲーム性、ただ知っているか知らないかで勝敗が決まるわけではないという面白みが知れ渡っていけばよいなと思っています。なにかの役に立つかなんてひどく相対的で移ろいゆく指標だし、ゲームはゲームとして面白ければそれでいいわけですからね。  そもそも、なんでクイズは世の中の役に立たなくちゃいけないのか。仕事としてやるにしても、なぜクイズを見せるだけじゃいけないのか。それで楽しんでくれる人がいたら、もうそれはゲームとしても仕事としても成立していると思うので。  僕自身、生きていくためにクイズ以外のことを沢山やっていますし、QuizKnockでは教育を通して社会に貢献することを目指していますけど、それとこれとは別ですからね。クイズそのものがなにかに貢献しなければならない、というのは、少なくとも外部から要請されるようなことではないと考えています。  もちろん、僕が記述したクイズというものすら、他の人のクイズの定義からずれてしまっている可能性があるので、そこは共通のルールを持たないゲームとして難しいところ、普及の上での壁にはなると思うんですが、そのあたりは今回あえてのスルー、多少の捨象を含んででも「クイズはそれ単体でゲームとして成立しており、これだけ語ることがあるのだ」ということをここに示せたということには価値があると思います。そういう意味では、本屋にこの分厚さの本が鎮座した時点で、少し僕の目的は達成されていますね。  この本が、クイズは浅く広く知っているだけで価値がない、学問とは対極の存在、ゆえにクイズはくだらない、だからバカにしていい……みたいな無知ゆえの見下しに対する、優しい処方箋になっていたらいいなと思います。これ、僕の被害妄想みたいですけど、ほんとにあるタイプの批判ですからね。もう馬鹿らしいし時代遅れなんで、さっさとアップデートしちゃいたいなと思います。 撮影:高野楓菜 ――解説者の徳久倫廉さんは「クイズ関係者が避けてきた言語化を本書は引き受けようとしている。その志の高さに注目して欲しい」とおっしゃっています。膨大な情報量にも関わらず、謙虚な予防線が張られ、伊沢さんのご執筆行為やクイズへの誠実さ、敬意を読み取ることができます。その姿勢は、クイズ好きの人だけでなく、多くの人の胸を打つはずです。 伊沢:謙虚というよりは、猜疑心が強いんだと思います。もしくは言い訳がましい。ちゃんと読まれるかな、みたいな。これは書く上での強みにはなりますね。  本という形で出すからには、やはり1ページめからラストまでの流れというものを前提に書いているし、この一冊に含めること、含めないことという事実の線引きも加わります。だからこそ、口頭やSNSでは伝わらないような表現と、じっくり考えて完成した状態で発信することが可能になったんだと思います。完成したといっても、書き直したいところばかりですが、改訂版がつくれるのであればそれが可能というのも本の良いところですね(笑)。 ――「膨大な情報が詰め込まれたクイズの教科書」と言ってよいかと思いますが、本書の活用方法について、簡単にレクチャーいただけますでしょうか。 伊沢:面白いところは人によってぜんぜん違うと思います。そもそも徳久さんが解説で言ってくれたとおり、冒頭からお尻まで順番に読む人ってあんまりいないと思いますし、まずはなんとなく惹かれたところから読んでほしいですね。  少なくとも入門書ではないので、この本からクイズを始めよう!というのには向いていません。クイズ番組を見たり、QuizKnockを見たり、先人たちが残したクイズ入門書を読んだり、というところからこの本に来ていただけるとありがたいです。  とはいえ、それはちゃんと理解しようという視座を前提とした話で、ちょっとクイズの世界を覗き見したいなとか、コラムが読みたいなとか、そういう理由だけでも読めるものにはなっています。用語集とかもつけたので、一見さんお断りでもありません。クイズをやったことない人でも、初心者でも、お好きなところからつまみ食いしてほしいですね。 撮影:高野楓菜  そのかわりクイズプレーヤー諸氏には、自分の意見を持った上でぜひ冒頭から読んでいただきたいですが。理論としては頭からお尻まで読むと順序立てた意味があるようになっているはずです。 ――今後、『クイズ思考の解体』を土台に議論と研究が深まり、クイズの概念が進化していくのがとても楽しみです。今後の伊沢さんの活動とともに、クイズ文化の発展にも注目していきたいですね。 伊沢:ありがとうございます。こんな弱気なというか、言い訳ばっかりな作者インタビューもなかなかないんじゃないでしょうか。  2年半という歳月を賭けた作品がでるとなると、どうしても不安になるものです。どこまで言葉を尽くしても、僕がこの本を書いたことで切り捨ててしまう概念とかが出てしまう。影響力がある人間が出した本によって歪められる真実がある。そういうことを考えるたびにどうしたもんかなと思いますが、そうしたことへの批判検証もまた、クイズという文化を進歩させてくれるものだと信じています。  そして、これはまえがき冒頭にも書いたように、クイズの世界の外側からの意見というのは、大変貴重でありがたいものです。この本を介して、読者の皆様すべてがクイズに携わり、その発展に資する存在になるのです。食わず嫌いだけはせず、一度お手にとっていただけたら、なにかしら面白く思える要素はあるはずです。ぜひ、ご一読ください。 伊沢拓司日本のクイズプレーヤー&YouTuber。1994年5月16日、埼玉県出身。開成中学・高校、東京大学経済学部を卒業。「全国高等学校クイズ選手権」第30回(2010年)、第31回(2011年)で、個人としては史上初の2連覇を達成した。TBSのクイズ番組「東大王」では東大王チームとしてレギュラー出演し、一躍有名に。2016年には、Webメディア「QuizKnock」を立ち上げ、編集長・CEOとして日本のクイズ界を牽引する。Twitter @tax_i_ / QuizKnock http://quizknock.com/
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/11/03 17:00
「花の心」を撮ることでいやらしい「人間の毒」もさらけ出す写真家・吉住志穂
米倉昭仁 米倉昭仁
「花の心」を撮ることでいやらしい「人間の毒」もさらけ出す写真家・吉住志穂
撮影:吉住志穂  写真家・吉住志穂さんの作品展「夢」が11月1日から東京・目白の竹内敏信記念館・TAギャラリーで開催される。吉住さんに聞いた。 *   *   * 花はアマチュアに人気の被写体だが、意外なことに、吉住さんのように花を専門とする写真家は少ない。 「今回の花の写真展はテーマを『夢』としたので、かなり自由にイメージはできました」と、吉住さんは言う。  かわいらしいタイトルだと思っていたら、黒澤明の映画「夢」(1990年)ついて口にする。意外に骨太なのだ。 「黒バックにドーンと『こんな夢を見た』で始まる、あの映画。今回、展示を章立てて構成したのも映画のなかに短いストーリーがあったからかなあ」 「夢」は黒澤が見た夢を題材にした作品で、8話からなるオムニバス形式でつくられている。  一方、吉住さんの写真展は「輝きの夢」「桜の夢」「命の夢」「秋の夢」「心の夢」の5章からなる。 「最初は、単純に春夏秋冬で、『春の夢』『夏の夢』とかにしようと思ったんですけれど、ちょっと、ストレートすぎてつまらない。それで、早春、春、夏、秋、そして終章、という構成にしました」 撮影:吉住志穂 ■「春はサクラのお姫様」  第1章「輝の夢」は1年の始まり。 「冬から春。種から芽が出て、すべてが輝いて美しい。でも、春や夏の本番の輝きではない、小さいきらめきのような早春のイメージ」  作品に写るのは、漆黒の闇にポンと光が当たったような一輪のウメ。夜の光に照らされたようなスイセン。  段々畑を見下ろすように撮影したナノハナ畑が斜光線に照らされ、花だけに光が当たり、画面に入り混じる黒と黄の色合いが新鮮だ。 「ナノハナというと、青空バックの明るい写真が多いですけど、寒暖の間を行き来しているような感じの、この写真を組み入れました」  第2章「桜の夢」は、早春の余韻が残るころから春本番へ。  黄色いナノハナを背景に咲くサクラの花のクローズアップ。引きのサクラの写真にはひんやりと引き締まった空気を感じる。 「春はサクラのお姫様ということで、『木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)』という、古事記や日本書紀に出てくる神様をイメージしています」  木花咲耶姫は富士山本宮浅間大社(富士宮市)の主祭神で、サクラの語源ともいわれる。 撮影:吉住志穂 ■薄暗い空に咲くヒマワリ  春の次は「命の夢」。 「アリさんも出てきますので、『夏の夢』ではなくて、『命の夢』。素直に小さいものたちの命のよろこび、みたいなのを出したかった」  紫色のアサガオの花の奥で蜜を吸うように見えるアリ。「ちょっと寂しげであり、喜んでいるようにも見える」雨にぬれるバラ。日の影った薄暗い空に咲くヒマワリ。 「青空で順光の『ザ・ヒマワリ』という写真ではなく、がんばって生きている感じを表現したかった。そこに夏の陰りが訪れる」  そして「秋の夢」。ここでは「枕草子でちょっと言葉遊びをしてみました」。  作品にはこんな文章が添えられている。 <秋は夕暮れ 夕日のさして 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の絨毯(じゅうたん)を染めたるに 木漏れ陽(び)が三つ四つ、二つ三つと輝くさへ あはれなり>  夕日を浴びるヒガンバナがあると思えば、暗いかすかな光のなかで咲くヒガンバナもある。「暗い印象の花。ほがらかなものもあれば、冬のきざしも感じられる、陰の季節」。 撮影:吉住志穂  終章は「心の夢」。  ソフトフォーカスで写したクリスマスローズ。大きなボケを生かして写したチューリップ。 「いつもは『春夏秋冬』で壁面を構成して、最後は冬の写真で終わらずに、ナノハナとかに戻ることが多いんですけれど、今回は『心の夢』ということで、ほんとうに夢らしい写真で終わります」 ■花の心は私の心  吉住さんは2005年に竹内敏信事務所を卒業して以来、ずっと「花の心」をテーマに撮り続けてきた。 「私はいつも花を擬人化して接してきたんです。動物みたいな感情はないとは思いつつも、感情みたいなものを感じてきた。雨に打たれて寂しそうとか、喜んでいそう、とか」  昔は「花がこう思っている」という、単純なものだったが、次第に「それは私自身なのかな」と、思うようになった。 「花の心は私の心。自分の心のフィルターを通して出てくる感情なので、『花が寂しそう』と思っているときは、自分もちょっとそういう気持ちになっている」 撮影:吉住志穂  転機が訪れたのは30歳を過ぎたころ。「陰&陽(いん&やん)」(11年)という写真展を開催した。 「20代は『きれいです』『かわいいです』というお花の写真だったんです。でも、『陽』の部分ばかり見せてきたのは、まやかしなんじゃないか」と、思うようになった。 「作品のベースとなる『花の心』は変わらないんですけれど、自分の『陰』の感情、いやらしい人間の『毒の部分』も写真でさらけ出したい」 ■風景は相手が大きすぎる  花が好きで、高校の写真部時代からずっと花を撮り続けてきた。「ほんとうに素直に、わき目も振らずに、ここまで来ちゃった」と言う。  周囲からは「もっといろいろなものを撮ったほうがためになる」と助言され、ほかの被写体を撮ってみたこともあった。しかし、花のようにはのめり込めなかった。 「スナップ、夜景、子どもの写真とか。撮っているときは『いい光だな』とか、思いながら夢中で撮るんです。でも、撮影が終わると、『なんか、撮っている』という感じがした。花は目の前にあるだけでずっと楽しい。やはり、ほかの被写体とは世界が違う」 撮影:吉住志穂  ちなみに、被写体としての風景は、「大きすぎちゃって」と言う。 「風景を撮るのは好きなんです。でも、相手が大きすぎて、『心を寄せる』というところまではいけない。竹内先生は『海外の風景は大きすぎて、日本の風景のようには寄り添えない。日本の滝くらいがちょうどいい』って、言っていました。私には花くらいのサイズが寄り添える感じがする。それくらい小さい世界が私の表現には合っている」  これまで、事務所の先輩や後輩がさまざまな仕事をしながら独自の世界をつくり上げていく様子を間近で見てきた。その苦労が作品の強みになっているのではないか。そう、吉住さんは感じている。 「視野の広さや、人間としての深み。そういう要素が作品のエッセンスになっているのかもしれない。私はほんとにずーっと花できているので、その点ではちょっともろいかも。30になって、暗い部分も必要では、と思いましたけれど、年齢を重ねていけば自然と作品に深みが出てくるのか? これから40代、50代の写真をどう写していけばいいのか、悩みますね」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】吉住志穂写真展「夢」竹内敏信記念館・TAギャラリー 11月1日~11月22日
TAギャラリーアサヒカメラ写真家写真展吉住志穂竹内敏信記念館
dot. 2021/11/01 08:00
元祖「ひょうきん」アナ・山村美智が語る夫の看取りと「不倫」  葬儀に一人で訪れた小泉進次郎氏の言葉
上田耕司 上田耕司
元祖「ひょうきん」アナ・山村美智が語る夫の看取りと「不倫」  葬儀に一人で訪れた小泉進次郎氏の言葉
夫の看取りを綴った本を出版した山村美智さん(撮影・上田耕司)  フジテレビの伝説のバラエティ番組「オレたちひょうきん族」(1981~89)で、初代ひょうきんアナとして活躍した山村美智さん(64)。  現在は女優として活躍するが、フジテレビのプロデューサーだった最愛の夫・宅間秋史(たくま・あきふみ)さんを昨年12月、看取った。著書「7秒間のハグ」(幻冬舎)で山村さんの夫の看取りから不倫写真を発見した瞬間、小泉進次郎前環境相との交流など様々なエピソードを赤裸々に綴っている。山村さんにインタビューした。 【前編】フジ元祖「ひょうきん」アナの山村美智が語るたけし、さんま、島田紳助の思い出「スカートめくりの洗礼も」 ***  36年半連れ添った夫の宅間さん(享年65)に病院の検査で食道がんが見つかったのは19年7月のこと。がんは既にステージIIIになっていた。手術をしたが、あちこちに転移してしまい、13回も入退院を繰り返した。   最後の入院では、山村さんは51日間、毎日午前7時から午後7時まで、夫に付き添った。その頃の宅間さんは胸の辺りから気管を切開し、人工呼吸器を入れて、言葉を失った。ふたりはノートでの筆談を交わすしかなかった。山村さんは「痛い、痛い」と苦しみ、気持ちが悪くなった宅間さんの背中をさすったり、少しでも痛みが和らぐようにオイルマッサージをしたりと、夫のために全てを捧げていた。どうしてそこまでできたのか?  「何とか生きて欲しいと思ったからです。一緒にいる2人の生活を手放すことができなかったから。彼に生きてもらうためには何をすればいいんだろう、それしか考えられませんでした」   最愛の夫が病に苦しんでいる時に、一緒に付き合うのは辛いことだったでしょうと尋ねると、  「それは精神的にしんどかったです。病院から家に帰る車の中で、本当にいつもいつも号泣しながら帰っていました」   悩みながら、生きるとは何かを考え続けた山村さん。著書の中で、  <秋史も(染めていた)頭髪が真っ白で、人から見たらおじいちゃんだけど、中身は昔と変わっていない。結局歳を取るということは、外側だけ肉体だけのことなんだ>  闘病中の夫と山村さん(提供) <秋ちゃんは、これからの人生、65歳からの人生のために生まれてきたんだよ。早くにこんな大変なことを経験したのは、これからの人生のためなんだ。凄い使命を持ってるよ> とつづっている。   病院で夫の最後を看取った山村さんは "没イチ"となった。初めての著書を書こうと思い立った理由を山村さんはこう語る。  「夫は病床で、映画の構想を何本も練っていました。私は苦しい思いをする夫に、『これから撮る映画に生かすために病気になったんだよ』と言って励ましていました。なのに彼は死んじゃった。だから映画の代わりに、私が書くことで、宅間の生きた爪痕を残したいと思いました」    山村さんが宅間さんと結婚したのは84年5月26日。結婚式・披露宴は、東京都港区のホテルオークラで開かれ、流行作家の「狐狸庵(こりあん)先生」こと、遠藤周作夫妻が晩酌人を務めて盛大に行われた。    それから36年半の夫婦生活を送ったが、夫婦の危機が訪れた瞬間もある───。  山村さんは34歳のある日、夫の不倫を知ることになる。  「夫が犬の散歩中、ハンカチを入れてあげようと思って彼のビジネスバッグを開けると、10枚ほどのポラロイド写真が束になっているのを見つけたんです。手にとってみると、夫と女性の親密なツーショット写真でした」    山村さんは犬の散歩から帰宅した夫を問い詰めた。夫は最初、「見間違いだ」とごまかしていたそうだが、憔悴する山村さんを前に観念して、こう謝罪したという。   「『僕は十字架を背負うことになるけれども、みっちゃんと一緒に生きて行きたい』と言いました」   山村さんは夫を「秋ちゃん」と呼び、夫は山村さんを「みっちゃん」と呼び、ほとんどケンカもしないラブラブの仲良し夫婦だっただけに衝撃は大きかった。  不倫相手について尋ねると、「それはちょっと…………」と言葉を濁した山村さん。夫の謝罪を受け入れたのだろうか。 「ミスターフジテレビ」と呼ばれた夫と山村さん(提供) 「その時は2人の生活を終わりにする自信がなくて許しました。でもこのことは忘れないで、いつか絶対別れてやると思っていました」    夫は謝罪したはずだった。  「けれど、この後も、浮気があったかもしれませんね。どれも軽い感じだったと思いますけどね。宅間は凄くモテたんですよ。ユーモアがあって、おしゃべり上手で、女の子たちをキャッキャッと喜ばせるのがうまかった」     夫の宅間さんは結婚当初、フジテレビの営業部に所属していたが、結婚後1カ月もしないうちに編成部へ異動。    その後、編成担当として、「ドリフ大爆笑」「夜のヒットスタジオ」「火曜ワイドスペシャル」など、数々のヒット番組を手がけ、フジテレビの黄金時代を創った。その後、映画部へ異動からは、「GTO」「ウォーターボーイズ」「大河の一滴」などのヒット映画を世に送り出した。「ミスターフジテレビ」と呼ばれるようになっていった。  不倫について書いた理由は?  「はじめは積極的に書きたかったわけではないんですけれど、夫婦のことを書くのに、ウソをついたり隠したりしてしまうと、また別のところでウソをついて、隠さなければいけなくなりますよね」   編集サイドからのアドバイスもあったと明かす。 「『ご主人が浮気をしたんだったら、そういうことも書きましょう』と言われて。その時、私も綺麗ごとばかりを並べてみても、人に響くものがないし、自己満足の本になってしまうと思ったんです。酸いも甘いも書くことが、人の心に残るものにつながると考えました」   モテるということなら、キュートな山村さんの方が宅間さんよりもさらにモテたのではないか。 他の男性から誘惑されることはなかったのかと質問してみた。 「そりゃあ、ありましたよ。だけど、そんなことはもう大丈夫です、私はね」とひょうきんアナだった時代のようにかわされてしまった。   不倫が発覚した当時は別れることも考えたが、そのうちに別れる意志はお互いになくなっていったという。 ニューヨークに遊びにきた明石家さんま(C)朝日新聞社 「一緒に暮らしていると、食べ物の趣味も何もかも同じになっていくんですよね。生活のすべてが、あうんの呼吸。彼は私で、彼との生活が私だった。夫も同じ気持ちで、今、私たちが離婚して、他の人と結婚するなんて絶対ありえない。この生活、他の人とは考えられないね、それは勘弁だねと言っていました。だから、夫の最大の裏切りは不倫ではないんです。私を残して死んだことなんです」    山村さんは大学時代、劇団「東京キッドブラザース」の主宰者・東由多加さんにスカウトされて女優として1年間活動した後、1980年にフジテレビに入社した。宅間さんと結婚した翌年の85年に退社した。   2002年には、山村さんが脚本、演出をした2人芝居「私とわたしとあなたと私」に主演。その舞台が好評で、翌年には女優吉川ひなのと共演して再演された。  ところが、ちょうどその時期に、宅間さんがフジテレビ本社からアメリカのニューヨーク赴任を命じられる。山村さんはせっかく舞台が軌道に乗ってきたところでと、迷ったが夫とニューヨークに行くことに決めた。2003年から08年までの5年間は一緒にニューヨーク生活を送った。   当時の生活をこう振り返る。 「ニューヨーク市マンハッタンのコンサート会場『カーネギーホール』の裏手にある高層マンションの48階に住んでいました。1LDKでしたが、リビングは30畳くらいありました」   部屋の窓からはセントラルパークやメリディアンホテルの屋上を見下ろせた。ホテルのプールサイドでは、客たちが水着で日光浴を楽しんでいる光景が見えたそうだ。  「この頃、夫婦の絆が深まりました。それまではそれぞれが好き勝手に生きるニ心ニ体の私たちでしたが、ニューヨークでは、どこへいくにも、なにをするにも夫婦一緒。一心同体となりました」  ニューヨーク滞在中、明石家さんまもやって来たという。    「さんまさんは時々、ニューヨークにいらっしゃったけれど、ブロードウェイのミュージカルを毎日がんがん見て、ゴルフしてっていう感じの過ごし方だと聞いています。それくらい勉強家でいらっしゃるんでしょうね」  小泉進次郎前環境相(C)朝日新聞社  宅間さんは、自民党の小泉進次郎前環境相ともニューヨークで交流があった。小泉氏は04年3月に関東学院大学を卒業後、渡米し、コロンビア大学大学院の政治学部に進み、06年に修士号を取得し、米国戦略国際問題研究所(CSIS)の研究員となった。  「小泉さんがコロンビア大学に通っている時、夫が頼まれて、彼のお世話をしたと聞いています。夫もニューヨーク近郊の大学院を卒業していますから、ニューヨークには詳しかった。私が時々、日本へ仕事で戻っていたので、そういう時に夫は小泉さんと会って、レストランとかいろんなところにお連れしたんじゃないでしょうか」    山村さん自身も、ニューヨーク滞在中に小泉氏と電話で話したことがある。  「夫と一緒に小泉さんと会うことになっていた日があったんですよ。ところが前日、チャイナタウンで買ったアサリでボンゴレを作ったら、2人とも食あたりしてしまった。それで、小泉さんに電話をして、『すいません、2人ともお腹を壊しちゃったので、きょうの会食はやめにさせてください』と、お詫びしたことがありました」     小泉氏と再び会話を交わしたのは、昨年12月20日、東京都港区青山の梅窓院で行われた宅間さんのお通夜だった。 「お通夜が終わり、片づけ出した頃、小泉さんが一人で飛び込んでいらしたんです。小泉さんは『私は本当に宅間さんにお世話になったんです。ありがとうございました』と言って下さった。それはもの凄く胸を打ちました」   通夜・葬儀には、前出の小泉進次郎氏以外に、藤原紀香、長谷川京子、内田有紀、南野陽子、田中麗奈、ともさかりえ、石黒賢らが参列。長野智子、河野景子、近藤サト、寺田理恵子、中井美穂、越智(高木)広子らのフジテレビの先輩、後輩アナたちも駆けつけた。  貴乃花の元妻・河野景子はこの頃、エステサロン経営者で映画監督のジャッキー・ウー氏との交際が発覚して騒がれていた渦中だった。  在りし日の夫と山村さん(提供) 「河野景子さんに、『こんな時に景子ちゃん、ありがとう』って声をかけたら、『私のことなんてどうでもいいんです』と言ってくれて。近藤サトちゃんはお通夜と葬儀と2日間も来てくれました。皆さんの温もりが本当にありがたかったです」    夫を亡くしてそろそろ1年が経つ。最近の生活と心境は?    「一心同体だった夫が亡くなり、本当に自分が半分なくなっている感覚です。夫婦ってお互いの素敵なところで繋がっているんじゃなくて、お互いのボロボロになっている姿を愛おしいと思うことでつながっていると思うんです。夫の前だと私は失敗してもいいし、ぐちゅぐちゅの顔で、ボサボサ頭でも良かった。人の愚かさをお互いに愛おしいと思っていくというのを夫に教えてもらった気がします。まだ私には母が施設にいるし、シェットランドシープドッグのカレンとセリーナの2匹の愛犬もいるので、今は倒れられないですね」     夫婦の習慣も失ったという。山村さんと宅間さんには2人にしかわからない毎日の儀式があった。   「私たち夫婦は毎日ハグをしていました。そして『愛しています』と『おやすみなさい』がひとつになった『あいてまなさい』という言葉をかけあっていました。夫の闘病中も、病院の自動販売機の裏で、1、2、3、4、5、6、7と、7秒間抱き合って、体を離す時に『あいてまなさい』と言っていました」   それが10月27日に発売された著書のタイトル「7秒間のハグ」につながった。  抱き合うのは7秒は長いんじゃないですか、3秒くらいでいいのでは?と突っ込みを入れてみた。  「7秒じゃなきゃダメなんですよ。絆が深まらないんです」   こう真剣に返された。かけがえのない伴侶を失った山村さん。"7秒後"のこれからの活躍に期待したい。   (AERAdot.編集部 上田耕司)
dot. 2021/10/31 13:00
三十三回忌松田優作のシナリオ「真夜中に挽歌」を43年ぶりに再演するわけ
三十三回忌松田優作のシナリオ「真夜中に挽歌」を43年ぶりに再演するわけ
1978年の「真夜中に挽歌」初演楽日終演後に撮影。前列中央のサングラス姿が松田優作さん(渡邉俊夫さん提供)  11月6日に三十三回忌を迎える俳優・松田優作が遺したシナリオ「真夜中に挽歌」が11月3~7日、東京・サンモールスタジオで43年ぶりに再演される。三十三回忌に向けて公演を準備した文学座演劇研究所同期の野瀬哲男さん(69)に、思いを語ってもらった。  文学座付属演劇研究所の1次試験が新宿の文化服装学院であって、そこに集まっていた1200人の中で見かけたのが最初なんですが、やたら目立ってました。休憩時間にタバコを吸いに出たら人だかりができてて、その中にアニキがいまして、身長が高かったのとアフロで、すっげーデカく見えてね。《アイツは誰だ?》というのが第一印象です。はなっから存在感が並外れてました。芝居以前の話です。  約200人が1次を通過して文学座のアトリエで2次試験があり、そのときアニキは入り口に近いところに座ってて「おう、合格したのか。頑張ろうな」と声掛けてきたんです。1次で目立ってた記憶が残ってたんで《あ、あの時の……》と、それが第2印象です。既にその時点で何人かが周りを囲んでて、その中心にいました。その頃のアニキは、どこいくにもジーパンに下駄というスタイルで、僕もまねしました。文学座の後輩になる中村雅俊がドラマでそういう格好をしてましたけど、それは、そのずっと後のことです。  最終的に40人が合格(12期生)し、その中に僕もアニキもいました。信濃町の文学座のアトリエの反対方向に歩くと文学座の練習所があるんです。入所して3日くらいしたとき、授業が終わってから「飲もうじゃないか」となって、先生の許可を得て練習場でゴザひいて、酒を買いに行ってね。ちょうどそれが僕の二十歳の誕生日で、酔っ払っちゃって、僕は割れたビール瓶で首を切ってしまったんです。大けがではなかったけど血がバーッと出たとき、「おーい、何か持って来い」って言って最初に動いてくれて、介抱してくれたのがアニキです。傷口を押さえてるだけで包帯なんか巻きませんでしたし、病院にも行ってませんけどね。そのあと喫茶店に入って「お前、ゆっくりしとけ」と。で、「血が止まったな」と言うと、また仲間集めてどっかに飲みに行っちゃて……僕は置いてけぼり(笑)。 松田優作さんの墓前に、今回の公演の報告をした野瀬哲男さん(後列右から2人目)ら=提供写真  文学座時代、教室でも目立ってました。授業でラブシーンを演じたとき、その稽古でホントにブチューッとキスしたんで、皆びっくりしたんです。うわーっ、となりました。本番でやるのは分かるんですけど、普通、稽古ではしません。まねするだけです。アニキは練習のときから本気なんです。相手の女性はビックリして、そのあと、惚れてましたね。  格好良かったし、アニキはモテましたよ、メチャクチャ。本気度が分かるんじゃないですか。それは何事に対してもで、芝居に対しても、勝負事に対しても……麻雀ひとつ取ってもね。当時、授業が終わると、雀荘に行って麻雀するか飲むかで、僕もバイトが始まるまでの時間に麻雀しましたけど、バイトの給料の半分はアニキの財布の中です。強いんです。アニキが一番強くて、皆から巻き上げてたって印象です。  めっちゃくちゃ負けん気が強いんですよ。負けず嫌いです。たとえば、僕がオセロを持ってったとき。アニキはそれまでやったことがなくて、僕が勝ったんです。そうすると、「もう一回」「もう一回」となって、本人が勝つまで止めさせない。で、アニキが勝つようになったら僕は二度と勝てませんでした。  将棋でも、僕、サウナで意識不明になりましたからね。「すみません。水飲ませて下さい」って言っても「まだ勝負がついてねぇ」って言って、出してくれないんです。で、勝負がついて「テツ、水風呂でも浴びて来い」って言われて「ありがとうございます」と言ったあと、脱水で意識不明になって……気が付いたときは「テツ、大丈夫か」って言いながらボンボンたたかれてて、そこまで僕は記憶がないんです、危ないでしょ。見境ないですよ。二度とサウナで将棋しませんでした。  何であんなに勝負事が強かったかって言うと、そういうことだと思うんです。僕が勝ったのはオセロぐらいですよ(笑)。  日テレのプロデューサーたちが「太陽にほえろ!」の、ショーケン(萩原健一)のあとの刑事を文学座に探しに来るらしい、って情報が流れたことがあってね。皆、緊張してたんですが、アニキ一人だけ緊張してなかったなぁ。 「真夜中に挽歌」(作・松田優作)の公演ポスター  まだ若いときから言ってたのが「現場には最低20分前には入ってろ。で、先に入ることで周りに気を遣え」でした。僕が運転するときも「30分前に着けるように俺はお前を呼んでる。そうしとけば、道が混んでも20分前には着くだろう」と。で、遅れそうになると「おい、20分前には着くぞ。これ、着かんぞ。あっち、あっち」「おい野瀬、出せ、出せ」って感じで後ろからせかされて、警察に捕まったことがあります。ワーッとスピード出したらそこでネズミ捕りをやってまして(笑)。  時間を守ることにうるさかった。キッチリしてるんです。遅刻なんて、自分も他人も許さない。だから、アニキがキャストだったり、監督だったりしたら、現場は張り詰めた空気でした。初めてきた役者さんは僕に「おい、優作ちゃんの現場って、こんなに緊張感あふれる感じでいつも始まるの」と聞いてきて「そうだよ。心地いいでしょ」と答えると「いや、オレ、どうやっていたらいいかわからん」と言ってましたね。  アニキは、ハッキリしてるんです。道理に合うか合わないかにものすごくこだわる人でした。その辺が分かれば付き合えるんですが、それが分からなくて離れていく人も多かったですね。最後の頃は「人として、どうか」と言い出して、こだわってました。「その行動は、人として成り立っているのか」とかね。  愛情深い人なんです。ただ、それに甘えるやつは、殴られる(笑)。ある時期、あの人は、気を遣え、ではなく、「心を遣え」と言ってました。「気を遣っておべんちゃらを言うのではなく、心を遣って接しろ」と。そういう色んなことを飲みながら聞かされました。  皆さん、何それ、と思われるかもしれないけど、飲んでる最中に「オレ、昨日、月を1周してきた」とか「この前、ジュピターに行ったらな」なんて話をするんです。有り得ないけど、そのときの僕らは《この人は行ってる》《幽体離脱でもして行ってきたんじゃないか》と思ったんです。そう思わせるものがありました。だから「どうでした?」って真剣に聞きました。  仲間が死んだときの悲しみ方もすごかった。  何と言ったらいいんでしょう……次元が違うんですよ、アニキは。スポーツで言うなら大リーグで活躍してる大谷翔平。彼は次元が違うと言われてますよね。似たようなものです。  一緒に芝居するようになってから、10年先行ってる、と思いました。付き合えば付き合うほど、もっと先行ってると思いました。だから、飲んでて言ったことがあるんです。 「アニキは、追い付け、って言うけど、追い付こうと思って頑張ってると、そのまた先へ行く。一生かかっても追い付けない。ゆっくり進んでくれませんか」と。それは芝居の話じゃないんです。あの人は、僕にはまねできない、色んなアンテナを張り巡らせてて、生き方が先行ってるんです。感覚だから説明できないけど、2、3年分追い付いてきたかな、と思うと、さらに10年先に進んじゃってて、つまりは17、8年先行ってることになる。というぐらい、どんどん開いていく……そういう感覚にさせられるんですよ。  カリスマって、神に一番近い人のことですが、僕にとってのカリスマはアニキです。  僕が「アニキ」って言い出したのは、一緒に芝居するようになって、2本目くらいのときです。  アニキは原田芳雄さんのことを「アニキ」、渡哲也さんのことを「あにい」、勝新太郎さんのことを「師匠」って呼んでました。で、アニキのことを周りは「優作」とか「松田」とか呼んでて、同期(年齢は向こうが3歳上)の僕もそう言っていいんだけど、言えなくて、文学座当時に僕が付けたあだ名の「ジャンボ」と呼んでたんです。で、あるとき「やめてくれよ。呼び方、変えてくれないか」と言われて、「俺にとってジャンボはアニキだよね」「いいね、その響き」。次の日から「アニキ」で、「お前が俺をアニキと呼ぶなら、俺はお前のことをテツと呼ぶ」と。  ある年齢になったとき、急にカヌーの練習に付き合わされました。「今から、あるところに行く。一緒に行こう」と言われてね。  埼玉の戸田ボート場の横に学生が練習する場所があって、そこに行ったんです。何すんだ? と思ってたら、若い男の子が2人来て「優作さん、本当にやりますか」「おう、お願い」。訳が分からないまま付いてくとカヌーが用意されてて、「今から練習をします」「え、聞いてねえよ」ってやつです。  だけど、ひっくり返ったらどうやって抜け出すか、どうやってカヌーを起こすか、ってところから始まって、アニキも一緒に1日中カヌーの練習でした。で、その帰り、「俺、ちょっと寄りたいところがある」と。「いいっすよ」と言った俺は、どこかの飲み屋に行くのかと思ってたら池袋の西武デパートのスポーツ売り場に行って、その場でカヌーを買ったんです。1日しか練習してないのに。  で、ちょっと仕事が落ち着いた日、「テツ、行くぞ」。「は?」「乗れ。1泊で行くから」「は?」。着いたのは秩父の奥の方。カヌーで川下りすると……。平坦なところは何とかなっても、急流とかゴツゴツした岩場とか、危ないでしょ、1日しか練習してないんですから……。だけど行くんです、アニキは。実際、僕には死にそうなことが起きて「助けてくれ~」と言ったんですが、釣り人に「邪魔だぁ」とか言われてねぇ。アニキは振り返らないですから。先に降りて待ってて、「おう、テツ、大丈夫か」(笑)。そういうこともありました。  やろうと思ったらすぐやって、それもトコトンなんですよ。手を抜くとか気を抜くことがないんです。遊びでも一生懸命で、本気。何に対しても前向き。それが皆さんにも伝わってたと思うんです。  あるコンサートで、暴走族が集まったんです。アニキは、そういう人たちにも人気がありましたから。で、会場で騒ぎまくって、松田優作の歌を聞きに来てた他のお客さんの迷惑になってたんです。そしたら舞台の上から観客席の暴走族たちに「てめーら、この野郎! おとなしくできねーのか。黙ってろ」。見事に静かになりました。その暴走族たち、コンサートが終わったあと、出待ちのところで整列してました。本気で怒るから、向こうにも、その本気が伝わるんです。  彼らにとっても憧れになっちゃってたというか、別のとき、アニキが渋谷でファンに取り囲まれて歩けなくなっちゃってたら、バッと人を分けて「どうぞ」ってやってくれたのも暴走族たちでした。  男にも女にも惚れられた人でしたね。 「ブラック・レイン」に出られたことはうれしかったと思います。アニキは日本という枠から外れちゃってましたから。昔から大陸願望が強くて、大陸に行って勝負したい、って気持ちが強かったと思います。ブラックレインが最後になってるのが惜しい。次の作品までやって欲しかった。デニーロと共演の話があったようですからね。大好きな俳優さんがデニーロで、いつかデニーロ共演するって気持ちを持ってたと思いますし。  僕と、本公演のプロデューサーである西田聖志郎くんとで作った四月館という劇団がありまして、それを解散するとき、アニキに言われたんです。 「お前、今、一番やりたいものは何だ?」と。 「『真夜中に挽歌』を、僕の手で再演したい」って言ったんです。そしたらアニキが「やめろ。恥ずかしいから」というので止めて、それを題材にして作ったのが『マオモ』という作品で、それが四月館の最後の上演になりました。  その後、僕は義父の会社を引き継ぐために役者を辞めました。アニキが亡くなる年です。で、アニキの七回忌が近付いてきたころ、《芝居やりたいな、『真夜中に挽歌』を》と思ったんですが、義父の会社の経営が傾いてそれどころじゃなくなって、結果、会社は潰れ、保証人になってたので借金を負い、芝居どころじゃなくなって、その状態が20年以上続いてました。  そんな中で4年前、膵臓(すいぞう)に腫瘍(しゅよう)が見つかって、《これで終わるのかも……やり残してることがある》と思ったとき、一番に浮かんだのが、《この作品を、どうしてもやりたい》ということでした。《やらないままでは逝けない》と。あのときできなかったことをやりたい、というより、アニキに近付くためにね。近付ける訳がないんですけどね。それで(松田優作の妻)美由紀さんに「三十三回忌までに上演したい」と相談して、その翌年、聖志郎くんに話したんです。  アニキの作った作品で、台本が残っているのがこれしかないんですよ。それも1978年の初演の本番の10日ぐらい前にアニキが「テツ、どうだ、まとまってきたよな」って言うから「随分まとまりましたね」と答えると、「じゃあ、本にしとけ」と。それまでは、皆がアニキの口にする言葉をノートに書きながらやってたんです。アニキはそういう作り方でしたが、普通は台本がありますから例外的な話です。  で、今回、演出は僕。勝てないんですけど、僕は僕なりに、この『~挽歌』を、こういう風に理解して作り上げます。それを天国のアニキに見せたい。《つたないけど、観て下さい》。そういう感じです。  発病から5年目を迎える来年12月、僕はがん再発の不安から一応開放されます。だけど、《この芝居で、怒り心頭になったら、僕を連れて行ってください。もし、やったな!と思ったら、もう少し生かして下さい》……この前、そういう気持ちでアニキのお墓参りに行ってきました。だから必死です。 (聞き手・構成 渡辺勘郎) 「真夜中に挽歌」(作・松田優作、演出・野瀬哲男)公演。11月3~7日、東京・サンモールスタジオ。出演=松永涼平、野元空、藍梨、崔哲浩。4500円(全席自由)。予約=CoRich/問い合わせ=パディハウス(電話03-3385-2256)。公式HP(https://mayonakanibanka.com/) ※週刊朝日 2021年11月5日号の記事に加筆
週刊朝日 2021/10/31 11:30
櫻井翔さんがAERAの表紙に登場/インタビューに加え、嵐「初」のライブ映画を手がけた堤幸彦監督との対談も掲載
櫻井翔さんがAERAの表紙に登場/インタビューに加え、嵐「初」のライブ映画を手がけた堤幸彦監督との対談も掲載
AERA11月8 日号※アマゾンで予約受付中  11月1日月曜日発売のAERA11月8日号の表紙に、活動休止中の嵐のメンバーで、タレントとしてもキャスターとしても活躍中の櫻井翔さんが登場します。11月に嵐の20周年ツアーを記録したライブ映画が公開されるのを前に、この映画を手がけた堤幸彦監督と対談。単独のインタビューにも応じ、2020年までの日々と今を結ぶ自分自身の哲学について語りました。この号の巻頭特集は、人生の必需品ともいえる「本」。ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんやテレビ朝日アナウンサーの弘中綾香さん、ハリセンボンの箕輪はるかさんなど16人の「本好き」が、自分と本の関係を語りながら、自身にとっての「最強の5冊」を明かします。好評の月2回連載「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」は、引き続き、高砂淳二さんを先生に迎えて、夜の水族館での撮影テクニックを学びます。  2020年末で活動を休止した国民的アイドルグループ「嵐」。その嵐が、2018年から1年以上をかけて50公演を行い、累計237万5000人を動員した結成20周年ツアー「ARASHI Anniversary Tour 5×20」が映画になりました。手がけたのは、嵐の初主演映画でもメガホンを取った堤幸彦監督。AERA 11月8日号では、この映画の公開を記念して、嵐のメンバーで、タレント、キャスターとして活躍中の櫻井翔さんを表紙に起用しました。堤監督とともに映画「ARASHI Anniversary Tour 5×20 FILM “Record of Memories”」を語り合う対談と、櫻井さんへの単独インタビューも掲載しています。   対談でまず明らかにされたのは、堤監督と嵐の関係性。堤監督は自らを、嵐にとっての「親戚のおじさん」だと話し、彼らの活躍を記録できることの幸せや、125台のカメラを操ったカメラマンの多くが嵐と仕事をしたことのあるスタッフだったことなどを明かします。結果、映画に映り込んだものは何だったのか――。   単独インタビューでの櫻井さんは、ライブが撮影された「あの日あの時」から2年を経て、すべてのことが2020年までの延長線上にあるという自身の感覚を率直な言葉で語ります。オリンピック・パラリンピックのスペシャルナビゲーターも、音楽番組の司会も、自分の中に根を張る経験があるからできるのだ、と。多忙を極める櫻井さんが疲れを感じない理由、テレビから嵐が歌う「カイト」が流れてきたときにあふれ出た感情、そして、目指す未来。櫻井翔という人物の輪郭が浮かび上がるインタビューとなりました。  この号は巻頭で、コロナ禍で需要が高まったとされる「本」を特集。「16人の人生を支える本80冊」と題し、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんやテレビ朝日アナウンサーの弘中綾香さん、ハリセンボンの箕輪はるかさん、マネーフォワードCEOの辻庸介さん、イグ・ノーベル賞を受賞した京都工芸繊維大学助教の村上久さんのほか、早稲田大学村上春樹ライブラリー館長、大手書店「有隣堂」YouTubeのMC、投資銀行のアナリストなど16人の「本好き」にインタビュー。自分の中で「両極」に位置すると感じる本を含む「最強の5冊」を聞き出しました。ある人の両極は「直感的と理論的」、またある人の両極は「見られたいと隠したい」「右脳の経営と左脳の経営」。落ち込みたい夜も、心を浮上させたい夜も、裏切らずに伴走してくれるのが本。自分とは違う誰かの本棚をのぞき見する感覚を、誌面でお楽しみください。  月2回連載の「向井康二が学ぶ 白熱カメラレッスン」は、夜の貸し切り水族館での第2弾。前回、屋外エリアでペンギンを撮影した向井さん、水中フォトグラファーとしても活躍している先生の高砂淳二さんと、いよいよ水槽の並ぶ屋内へ足を踏み入れます。  好きな魚にまつわる子どものころのエピソードトークなどを繰り広げながら、まず向かった先はクラゲの巨大水槽。向井さんは、幅14メートルのパノラマに、「きれー!」「癒やされるな!」と感動しつつ、「どう撮るのがいいですか?」と尋ねながら丁寧に撮影していきます。南国の浅い海を再現した大水槽では、意外な魚の博識ぶりを見せる場面も。「光の演出がええわあ」「魚にも照明がだいじ!」と、写真にとって最も大切な光をしっかり見て、魚たちを写真におさめました。  じつは水族館での撮影でいちばん気になるのは、水槽のガラスへの反射による映り込み。ポイントを教わっていた向井さんが、映り込みをなくすことができるアイテムを見たときの反応も、今回の見どころの一つ。向井さんがクラゲに囲まれて目を閉じる癒やしの一枚や、水底で休息するトラフザメを見て「これ、おれも寝転んだらおもしろいかな?」と水槽の前で見せてくれたショットも必見です。「おまえ、ほんまに好きやろ? おれのこと」という発言まで飛び出し、「好かれてるね、ペンギンだけじゃなくて…」と高砂さんの微笑みを引き出した、向井さんの水族館での様子とともにお届けします。  King Gnuの井口理さんがホストを務める対談連載「なんでもソーダ割り」は、ポルノグラフィティの岡野昭仁さんをゲストに迎えた1回目。中学生の頃から大ファンだったという井口さんは、大学時代の恩師を迎えた先月の「生徒の顔」から一転、「ミュージシャンの顔」に。自分で書いた「のし」をかけたあるものをプレゼントするところから対談がスタートすると、話題は一気に、岡野さんが下北沢で過ごした上京直後の苦労時代へ。この号を含めて4回にわたり、二人のリアルなやりとりが続きます。  ほかにも、・眞子さん結婚と愛子さまの「12・1会見」・【総選挙2021】岸田自民「議席減」で浮上する22年参院選の「選挙の顔」選び・【総選挙2021】どの党の「ばらまき」公約もナンセンス・ブースター接種「知っておくべき」A to Z・ネット上の誹謗中傷で量刑が軽くなった・少女たちの「チック症」シェア・桐野夏生さん最新作『砂に埋もれる犬』のテーマは虐待・大学のサークル文化はもうだめです・竜王戦第2局はAIが描く「藤井曲線」通りに完勝・池田エライザがELAIZAとしてリリースする「失楽園」・フィギュアグランプリシリーズ開幕!宇野昌磨の「4回転5本」 などの記事を掲載しています。AERA(アエラ)2021年11月8日号定価:440円(本体400円+税10%)発売日:2021年11月1日(月曜日)https://www.amazon.co.jp/dp/B09HLDY584
dot. 2021/10/29 17:47
9月から「深夜に子どもを預ける親」が増えているワケ 「24時間保育園」の園長が語る実態
9月から「深夜に子どもを預ける親」が増えているワケ 「24時間保育園」の園長が語る実態
エイビイシイ保育園の保育の様子(撮影/写真部・張溢文)  9月に緊急事態宣が全国的に解除され、飲食業や旅行業も含めて徐々に経済が回り始めた。リモートワークが一部解除された企業もあり、昼・夜ともに街の人出は増加した。そうなると、また課題となるのは小さな子どもの預け先だ。夜の街が息を吹き返せば、そこで働く家庭の子どもには“居場所”が必要になる。コロナ禍となって以降、夜間保育の状況はどうなっているのか。都内で唯一、24時間保育を行う保育園の園長と保育士に実態を取材した。 *  *  *「来月にはまた園児が増える予定です。いま続々と見学者が来ています」  東京都新宿区にあるエイビイシイ保育園の園長、片野清美さんはこう話す。エイビイシイ保育園は、東京都で唯一、24時間保育を行う認可保育園だ。  園には0歳(生後43日以上)~5歳までの子ども90人が通う。11時~22時の基本の保育時間に加え、その前後13時間の延長保育が利用できるので、夜遅くまで親が働く家庭の強い味方となっている。深夜まで子どもを預けて働く親というと、いわゆる水商売をイメージしがちだが、子を預けている親の職業は多様だ。 東京・新宿区にあるエイビイシイ保育園(撮影/写真部・張溢文) 「今は保護者の7割が企業や役所勤めの人です。医師、看護師、新聞記者や国家公務員、警察官などもいます。両親ともにそうした仕事をしている家庭もあれば、母子家庭、父子家庭も3割ほどいます」  夜遅くまで働く親の代わりに、保育園では夕食を食べさせ、風呂に入れ、20時には就寝させる。創立以来、認可外の期間も含めて38年間、昼も夜も変わらず保育を続けてきた。  しかし、コロナ禍で状況は一変。常時35人ほどいた夜間の利用者が半減したという。さらに、飲食店を経営していた保護者の中には、経営が立ち行かず店を畳んで引っ越す人もいた。 「こんなこと初めてですよ。0歳の新規入園者も4月は0人。保護者からいただく保育料も減りますし、深夜保育の補助金もなくなりました。抱えている保育士も多いので、経営も苦しかったですね」 コロナ禍でマスクをして過ごす子どもも多い(撮影/写真部・張溢文)  コロナ禍は、園児たちの過ごし方や保育士の日々の業務にも影響を与えた。主任の冨田千尋さんはこう話す。 「おもちゃは使うたび消毒、ドアノブなど頻繁に手が触れる部分は常に手が空いた職員が消毒作業をします。給食もなるべく対面を避け、4~5歳の幼児クラスでは黙食を指導しています。幸いうちの保育園ではまだ感染者が出ていませんが、行事も行えず、子どもたちに日常を過ごさせてあげられてないもどかしさはずっと感じています」  そんな中、9月には緊急事態宣言が全国的に解除され、だんだんと日常が戻り始めた。4月には入園者がいなかったエイビイシイ保育園にも、徐々に見学者や入園希望者が増えてきた。 「9月ごろから増え始めましたね。今も続々と問い合わせが来ているので、年内には残りの枠も埋まってしまうと思います」  東京で24時間保育が可能な認可園は1つしかない。エイビイシイ保育園に入れなかった子どもは、ベビーホテルなど認可外の施設に預けられることになる。数年に一度、そうした施設で保育事故などが起こると、預けている親も一緒にバッシングをされてきた。しかし、今でもベビーホテルなどを利用せざるを得ない保護者は多い。なぜ認可の24時間保育園が増えないのだろうか。 夜間保育園はなかなか増えない現状がある(撮影/写真部・張溢文) 「夜間の保育は昼間に比べてお金がかかります。夜間保育を増やすとなれば、今よりさらに(行政からの)補助を手厚くしてもらわないと、手を挙げる園はなかなかいないと思います」  夜間保育園が広がらない理由の一つに「行政の偏見があるのではないか」と片野さんは憤る。 「(担当者から)よく言われるんです、夜間なんて水商売の子どもばっかりだろうって。夜間の保育園なんか作ったら子どもを預けっぱなしにする親が増えると思われている。実際は企業勤めや公務員の親が大半ですし、いわゆる水商売と言われる職業の親だってちゃんと迎えに来ますよ、当たり前じゃないですか」  保育園の運営には保育士の確保が不可欠だが、給与や労働環境などの待遇が悪いというイメージから、働き手が集まりづらい現状がある。岸田文雄首相は、就任後の所信表明演説で保育士の待遇改善に言及したが、現場はどう受け止めているのか。 片野清美園長(撮影/写真部・張溢文) 「実は岸田首相はうちの保育園に視察に来られたことがあるんです。4年ほど前に、後藤茂之厚労相や小泉進次郎前環境相など数人で視察に来られました。その時にぜひ待遇改善をとお話ししたので、その面で期待はしたいです。今のままでは、なり手が少ない状況を変えられません」  エイビイシイ保育園は学童保育も運営している。そのため、ほとんどの園児が、0歳で入園してから小学校卒業の12歳まで過ごすことになる。「地域で育てられた子は地域に戻ってくる」と片野さんは話す。 「来年、うちの卒園生が保育士として帰ってくることが決まったんです。そのほかの卒園生も地元に残って立派に働いている子ばかり。行政は税金を使うことに抵抗があるのかもしれませんが、税金で育てた子はちゃんと税金を納める大人になるんですよ」  新宿には夜間保育を必要としていても、無認可施設に預けるしかない親がいる。片野さんには、ずっと持ち続けている構想がある。 「新宿にもうひとつ、24時間保育園を作りたいと思っています。それで救われる子もたくさんいるはずです」  日常を取り戻しつつある今だからこそ、政治は「経済を回す」人たちの後ろにいる子どもたちにも目を配ってほしい。(AERAdot.編集部・大谷奈央)
24時間保育エイビイシイ保育園
dot. 2021/10/29 16:00
中日“立浪新監督”に感じる「若手育成」への覚悟 根尾ら有望株が一気に覚醒も?
dot.sports dot.sports
中日“立浪新監督”に感じる「若手育成」への覚悟 根尾ら有望株が一気に覚醒も?
現役時代の立浪和義氏 (c)朝日新聞社  中日の監督就任が決定的な“ミスタードラゴンズ”立浪和義氏の周辺が騒がしい。  正式発表前にも関わらずコーチ陣の具体的な名前まで出始めているが、その裏側には立浪氏からの熱いメッセージも受け取れる。  中日は11年を最後にリーグ優勝から遠ざかり、本拠地の集客も苦しんでいることから、かつての看板選手だった立浪氏の監督就任を望む声は多かった。しかし女性問題などのトラブルが度々表沙汰になり、球団側が二の足を踏む状態だったとも言われていた。そんな中、3年契約が今季限りで終了する与田剛監督からの辞任の申し出を球団が了承したことが10月12日に発表された。同日には次期監督として立浪氏へ監督就任を要請したことも明らかになった。 「監督就任は様々な問題が片付いたことでゴーサインが出たということだろう。昨年はAクラス入りを果たしたが今年は開幕から低迷、早々と諦めムードも漂っていた。外国人監督を含めた外部招聘ではなく立浪氏だったことは久しぶりの明るい話題。ファンのみでなく、地元政財界を巻き込み中日をサポートする体制ができるのではないか」(中日担当記者)  立浪氏は87年ドラフト1位で中日に入団すると、09年の現役引退までにNPB歴代8位の2480安打、プロ野球記録の487二塁打を記録。また、88年の新人王をはじめゴールデングラブ賞を5回、ベストナインを2回獲得した中日の顔だった。プレー以外でもPL学園時代からキャプテンを務めるなどリーダーとしての資質も持ち合わせ、監督としてはうってつけの人物と言われてきた。  就任は決定的で既に監督としての仕事もスタートしている。10月24日深夜放送のテレビ番組『S-PARK』(フジテレビ系)に出演した際には、報道されている来季のコーチの陣容について聞かれると「間違いないんじゃないですかね」と認め、新体制が早くも固まっているもよう。二軍監督には片岡篤史氏、投手コーチには落合英二氏と大塚晶文氏、打撃コーチには中村紀洋氏と森野将彦氏、内野守備走塁コーチには荒木雅博氏、外野守備走塁コーチには大西崇之氏、バッテリーコーチには西山秀二氏を抜擢したようだ。PL学園OBと中日時代に同じユニフォームを着た信頼できる人物を中心とした組閣となっている。 今年2月のキャンプ初日、臨時コーチとして京田陽太にバッティング指導をする立浪和義(C)朝日新聞社 「若手育成を重要視しており信頼できるコーチ陣に任せたい。本人はあまり語らないが『背番号3』に並々ならぬ愛着がある。タツのあとに背負った選手がチームの中心になるまで時間がかった。複雑な思いで見ていたはず。現在は高橋周平が背負っているが来季がプロ11年目と中堅の域に入る。高橋のあとの『背番号3』をつける選手を含め、中日の顔になれる選手を育てたい。そういった選手が多ければチーム力の底上げにもつながる」(立浪氏に近い関係者) 「中日のトレードマークは『強竜打線』。天才打者と呼ばれた立浪氏は打力の重要性と魅力を熟知している。バッテリーの育成は韓国サムスンで二軍監督を務めるなど指導者として実績抜群の落合氏とメジャー経験もある大塚氏、そして百戦錬磨の捕手だった西山氏に任せる。自身は打撃、守備・走塁コーチなどと連携して野手のレベルアップに取り組むはず。その中から将来の『背番号3』候補が何人も出ればリーグ屈指の打線が組める。やはり打つチームは見ているほうも面白いですからね」(在京球団テレビ局スポーツ担当)  中日の課題は何といっても“貧打”の解消。野手に将来を嘱望されている選手は多くいるだけに、どれだけ彼らを育成できるかが今後のチームの浮沈を左右するのは明白だ。 「『勝利か?育成か?』で球団方針がどっちつかずだった。監督要請時にはその辺の話し合いもしたはず。近年のドラフトでは狙い通りの選手を多く獲得して有望株が揃う。まずは宝庫と言えるほどの若手たちを育てあげること。コーチ陣に対する要求も当然高くなる。数年で戦える選手を育てたあとに優勝争いに絡むイメージではないか」(中日担当記者)  中日には期待の若手が多いのは先述の通り。18年ドラフト1位の根尾昂と19年1位の石川昂弥に加え、俊足が売りの高松渡、走攻守三拍子そろった岡林勇希、堅実な守備は既に一軍クラスとの評価もある土田龍空など、特に野手陣は未来のスター候補が他球団に比べても多い印象を受ける。 「コーチ陣の名前が出たことにメッセージ性を感じる。経験のあるコーチを揃えたのだから本気で野球に取り組めと選手にやる気を促しているのではないか。コーチ陣には強固な責任感を持たせ今から指導への準備を徹底させる。タツの本気度を感じる。頑固な部分もあるから決めた道を進むはず。その先に優勝、黄金時代到来があると良いね」(立浪氏に近い関係者)  毎年のように監督就任が噂されていたが、ここにきてようやく指揮官として古巣に戻ってくることが決まった。立浪氏が就任することについては大歓迎ムードが溢れており、指導者としても中日の勝利に貢献して欲しいと願うファンの声は大きい。 「立浪ならなんとかしてくれる」  話題性だけではなく、その手腕にも大きな注目が集まっている。自らを追い抜くような魅力ある選手を作り上げ、再び名古屋に勝利を届けることはできるのだろうか。来季の中日の戦いぶりからは目が離せなくなりそうだ。
中日立浪和義
dot. 2021/10/29 10:00
伊沢拓司「早押しクイズでの“誤答”は勝つための手段」クイズ王が分析するクイズの世界
伊沢拓司「早押しクイズでの“誤答”は勝つための手段」クイズ王が分析するクイズの世界
撮影:高野楓菜 「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司氏。彼が2年半を費やした大著『クイズ思考の解体』では、クイズを愛しすぎた"時代の寵児"が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かしています。本について、また、愛してやまないクイズについて、伊沢氏に語っていただきました。 ※「クイズ王・伊沢拓司が解き明かす『クイズ王がボタンを早く押せる謎』」よりつづく ――本書で「クイズの誤答」との向き合い方を理論立てて解説されています。競技クイズプレーヤーにとっても、これまで意識し語られることが少なかった視点なのではないでしょうか。 伊沢:アマチュアクイズの世界では、誤答というのは大変大事なテーマで、おそらくここに書いてあるようなことは頭の中では意識されてきたし、各所各所で議論はされてきていると思います。ただやはり、前提として置かなければいけない情報が多くて、早押しクイズはどういうものかとか、ルールにどのようなものがあるかとか、そういう説明なしには語れない領域なのでなかなか外に出ていくことのなかった情報なのかなと。  とはいえ、早押しクイズを語る上で誤答の扱いというのはとても大事な要素。誤答によるリスクが大きいか小さいかによって、早押しの攻め方も変わってくるので、誤答の話をしないと早押しを語りきれないのです。これだけ長く書ける本だからこそ、ここはしっかりと書きたいな、と思いました。中級編だからこそ、クイズプレーヤーが普段から気にしていることを普段のとおりに伝えられた、という感じです。 ――「誤答」についての概念が変換されるきっかけになった画期的な解説だと興味深く読ませていただきました。 伊沢:誤答=その知識について知らない、みたいな単純な話ではないので、そういう部分からまずは伝わっていけば嬉しいですね。誤答というのは無知の結果ではなく、勝つための手段なんだ、ということだけでも伝わればと思います。 撮影:高野楓菜 ――クイズの作問における構文とアイディアの絶妙な組み合わせ方、ホスピタリティの作り方など、具体例を交えて丁寧に解説されている箇所にも感銘を受けました。クイズの作問が、いかに創造的な作業であることが読み取れます。 伊沢:もうほんとは日常のメモとか、そういうのでもいいんです、クイズの作り方なんて。ああしろこうしろを強いるつもりはない。ただ、一本規矩があると、作るときにやりやすいよねということで、大会とかで行う作問作業を、なるべく分解してお見せした、というのが今回のコンセプトです。  そもそもクイズは誰か問題の作り手がいてはじめてゲームとして完成するものなので、作り手のことを考えるというのはクイズというゲームを攻略する上でひとつ重要な要素だと言えます。なので、「なぜクイズ王は早く押せるのか」を語るならば作問の話は欠かせないんです。  作り手の立場を推測するというのはテレビクイズを攻略する上で昔から重要な要素とされていましたが、今回はそれをより分解して、ステップを踏んで語ったつもりです。丁寧にやった結果として、主眼はあくまで「早く押すために」というところにありますが、問題を作ってみたいという人へのひとつのマニュアルにもなるようなものにもなっているはずです。 ――さらに「早押しクイズ=要素還元的に捉えることのできない、複雑系の世界」として論が展開されていきます。早押しクイズには、人間の思考の不安定さというものがついて回るがゆえに、「実は、正確な分析が困難だ」という「ちゃぶ台返し」が起こっていますね。 伊沢:ここは、今回やるならどうしても触れないといけないなと思ったというか、厳密性にこだわるなら言及しないといけなかった部分ですね。そもそもクイズが解けた、早押しに勝ったという結果がどのように発生するのかを考えた時、第4章までは自分の脳内で起こっていることをなるたけ正確に書き起こしてきたつもりだったけど、その翻訳の過程でいろいろなものが捨象されてしまったり、それらしい因果関係に押し込めてしまったりしていて、実は間違ったことを書いているんじゃないか、というのは当然の疑いとして生じたわけです。 撮影:高野楓菜  そして、そこを疑うと更に一歩先に考えが進んで、そもそも早押しクイズを解く時に行われている思考というのは、第4章までのように分解して解き明かすことなど不可能なんじゃないか、というところにまで至りました。ようは、それっぽいこと言ってるだけなんじゃないかと。  クイズって、「知ってる」から「正解できる」わけじゃなんです。知らなくたって、推測で正解できたりもする。カンでも正解できる。僕が『土曜はナニする!?』(フジテレビ系、毎週土曜8時半放送)で解いている企業に関するクイズとかはまさにそれですね。答えとなる事実は知らないんだけれど、ヒントと推測でこれかな?という答えを書いている、ということに過ぎない。  逆もまた然りで、「知ってる」けど「正解できない」問題もある。ど忘れとか、解答方法を間違ってしまうとか。これはつまり、正解したことのみをもって、答えとなる知識を持っている証明にはならない、ということ。  となると、早押しクイズを正解するまでにリアルな脳内で何が起こっているのかを、因果を持って語ること事態に疑義を呈するべきなんじゃないかなと思ったんです。なので、早押しクイズの思考過程が複雑系に当たる、という仮説を立ててみた、というのが第5章です。いやはや、これまでやってきたことはなんだったんでしょう、という。最終的にはそのあたりの意義についても書いてはいますが、結局これだけ考えてわからないんだから、早押しクイズというものは面白いなと再確認できましたね(笑)。  ただ、それを語る上での学術的な裏付けとか、正確な言葉を僕は持っていなくて。そこはもう白旗をあげつつ、できる範囲で進めようと。複雑系研究の専門家に手伝ってもらって、極力ブレイクダウンしつつ、呈するべき疑問とか、今後この研究を進めてくれる人に向けての課題提示というのはやったつもりです。  あくまでクイズの当事者として、早押しクイズの思考過程は複雑系なんじゃないかという所感を持った、という程度に今回の記述はとどめていますが、いつか本当にプロが研究してくれるのであれば、僕は喜んで実験台になりたいですね。できないことはできない、大きな課題として残しておきましたよ、というスタンスです。 撮影:高野楓菜 ――「モデル」を作り、「現実」と「モデル」を行き来することで真実に近づいていく。これこそが、「クイズを科学する」ということなのですね。本の最後には、「完璧にはまだ遠い」と書かれています。これまで、科学的なアプローチで研究がなされてこなかったからこそ、本書を機に議論や研究が深まると面白いですね。 伊沢:これが科学なのかはわからないし、おそらく正しい科学ではないんでしょう。科学らしく振る舞いはした、ということですね。筋道をつけた、というと言いすぎかも知れませんが、いずれにせよ早押しクイズが、多方面から研究されうるための俎上にはどうにかこうにか載せられたと思います。  少なくとも、早押しクイズを解いているときの自分の感覚は記述できました。学術的なフォーマットで書けなかったことで自分の力不足を痛感しましたが、なにかこうせめて架け橋のようなものになっていたらいいなと思います。もっともっと、早押しクイズの思考モデルをブラッシュアップするべく、いろいろな人のお力を借りたいですね。 ――「人工知能VSクイズ王伊沢」という対決も見てみたいですね。「AI技術の発展×クイズ」についても、今後研究が進むとクイズ界に大きなイノベーションが起こるかもしれないですね。 伊沢:人工知能には、僕は勝てないでしょうね。どういうタイプのものかによりますが、クイズAIの研究は各所で進んでいるようなので。クイズを作るAIならまだ僕のほうがいい作品を作れると思うんですが、ちゃんとそのあたりの研究をやられている方も複数知っているのでうかつなことは言えません。解く方は、僕よりずっと正確で強い、機械のようなプレーヤーを知っているので、僕は人工知能に勝利した囲碁棋士・イ・セドル氏には少なくとも今はなれないですね。そういう人たちとAIが戦うなら、解説くらいはやりたいな。 ――本文は3~5回程度、何周もして書き直し、難航した章に関しては15回も書き直しをされたと聞いています。ほぼ毎日、夜中や明け方に原稿を上げていた2年だったとか。 伊沢拓司著『クイズ思考の解体』(朝日新聞出版)※Amazonで詳細を見る 伊沢:いやはや本当に編集の松浦さんにはご迷惑ばかりおかけしました。イレギュラーなことしかない執筆の中、私をずっと守ってくださって、極力やりたいことを通してくださったので……普通じゃない本を、普通かのように書いて、出版できることに本当に感謝です。  ここ2年ほどは生活の裏側、仕事をしていない時間の多くをこの本のために割きましたから、書店に並んだ時の喜びは凄まじいですね。長距離移動のときはほぼ原稿をやってましたし、家に帰ったらまず執筆、という暮らしでした。それだけの時間を賭けたので妥協なくやれた、と思いたいんですが、正直今すぐにでも書き換えたいところがたくさんあるので、どこまででも満足はできないと思います。  歴史のパートなんて、いざ脱稿か、みたいなタイミングで「アタック25」放送終了というニュースが飛び込んできましたから、そこから内容を書き換えて……ということもあり。日々変わっていく世界と、自分の内面との終わらない戦いに、ひとまず出版という形で終止符を打ったような感覚です。  ズルズルズルズルといつまでも書いていた中、お付き合いいただいた松浦さんには感謝の言葉しかないです本当に。ありがとうございます。 伊沢拓司日本のクイズプレーヤー&YouTuber。1994年5月16日、埼玉県出身。開成中学・高校、東京大学経済学部を卒業。「全国高等学校クイズ選手権」第30回(2010年)、第31回(2011年)で、個人としては史上初の2連覇を達成した。TBSのクイズ番組「東大王」では東大王チームとしてレギュラー出演し、一躍有名に。2016年には、Webメディア「QuizKnock」を立ち上げ、編集長・CEOとして日本のクイズ界を牽引する。Twitter @tax_i_ / QuizKnock http://quizknock.com/
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/10/27 17:00
寡黙イメージから脱却した柳楽優弥の「コメディー力」 憧れは中居正広のようなMC!?
藤原三星 藤原三星
寡黙イメージから脱却した柳楽優弥の「コメディー力」 憧れは中居正広のようなMC!?
柳楽優弥(C)朝日新聞社  10月16日から始まった連続ドラマ「二月の勝者―絶対合格の教室―」(日本テレビ系)の主演を務める柳楽優弥(31)。中学受験専門の塾を立て直すためにやってきたスーパー講師・黒木蔵人を演じているが、そのビジュアルは原作漫画の主人公そのもの。“憑依型俳優”ならではの仕上がりぶりが、早くも話題となっている。テレビ情報誌の編集者はドラマをこう評する。 「原作は『ビッグコミックスピリッツ』で連載中の人気漫画で、累計発行部数は200万部を突破。主人公である黒木蔵人のビジュアルにしっかり寄せつつも、柳楽さんの圧倒的な芝居力でしっかり人間ドラマとして成立させています。原作者の高瀬志帆氏は主演が柳楽さんだと決まった時に、ガッツポーズするほど喜んだとか。原作者もお墨付きのハマり役で、柳楽さんの仕上がり方にはスタッフの間でも相当評価が高いそうです。そもそも昨年の夏にオンエアされる予定でしたが、新型コロナ感染拡大の影響で1年以上も延期に。そのぶん、役を作り込む時間はたっぷりあったので、かつてないほどの完成度となったと思います」  柳楽の連ドラ主演は7年ぶり。ただし前回はテレビ東京系の深夜枠だったため、ゴールデン帯での連ドラ主演は今回が初めてとなる。映画ではさまざまな役で存在感を出してきた柳楽だが、主演ドラマでどこまで結果を残せるか注目される。いわば、「二月の勝者」は柳楽のターニングポイントとなる作品なのだ。  柳楽の俳優デビューは早い。是枝裕和監督の映画「誰も知らない」では14歳でカンヌ映画祭男優賞を受賞。華々しいスタートダッシュを飾ったが、しばらくは低空飛行が続いた。 「10代でカンヌを制覇し、将来を嘱望されていましたが、いくつが映画の主演をした後に俳優業を休止しました。洗車バイトや飲食店でホールスタッフなどもしていたそうです。その後、また俳優業を復帰させましたが、転機となったのが福田雄一監督との出会いでしょう。初の連ドラ主演作『アオイホノオ』や映画『銀魂』『今日から俺は!!劇場版』などに出演し、今では福田組の常連俳優となっています。もともと柳楽さんはお笑いが好きで『周りを笑わせたい』という理由で芸能界に入ったそうですが、俳優としてのパブリックイメージは寡黙で真面目でストイック。『デストラクション・ベイビーズ』で見せたような猟奇的で暴力的な役を演じる一方で、福田監督との出会いでコメディー俳優としての才能が開花。以後、コメディー作品にも積極的に出演することで、役の幅は相当広がりました」(前出の編集者)  今まで硬派な作品が多く、主演にこだわった時代もあったようだが、ここ数年はコメディー色の強い作品に脇役で出演しても強烈な存在感を残している。ビートたけしの小説『浅草キッド』の映像化作品が今冬にNetflixで配信される予定だが、柳楽がたけし役を演じることは配信前から話題になっている。 ■20歳で結婚し娘を溺愛  最近では、映画や連ドラのプロモーションでバラエティー番組に出演すると、自らの私生活を積極的に語るようになった。クイズコーナーのMCをやることもあり、バラエティー番組への出演を楽しんでいるようにも見える。民放ドラマ制作スタッフは柳楽の意外な素顔をこう明かす。 「憑依型俳優とかカメレオン俳優とか言われていますが、素はとてもおしゃべりで、将来的には中居正広さんのようなMCをやりたいと以前、トーク番組で語っていました。普通、俳優さんはバラエティーに出てもイメージがあるため“一線”は超えてこないのですが、柳楽さんは放っておいたら余裕で超えていきそうな気配すらある。そこが面白い。家族のネタも含め、プライベートもNGなしで語れるので、番組サイドとしては非常にありがたい。インタビュー取材にもとても協力的で、スタッフからの評判はとてもいいですよ」  私生活では20歳という若さで女優の豊田エリーと結婚。娘もすでに11歳になっており、溺愛ぶりがたびたびSNSやバラエティー番組で紹介されている。豊田が仕事で忙しいときは、柳楽が“ワンオペ”で娘の面倒をみることも少なくないようで、家族のラブラブなエピソードがテレビで紹介されることも多い。  仕事もプライベートも絶好調の柳楽だが、ドマウオッチャーの中村裕一氏はこう語る。 「インパクトのある鋭い目つきから、寡黙で怖いイメージを持っている人も多いかもしれませんが、昨年9月に出演した『TOKIOカケル』では、憧れだったクイズ番組のMCにチャレンジし、TOKIOを相手に好き放題に暴れ回り、大いに笑いを巻き起こしました。また7月に出演した『あさイチ』では、コロナ禍で一級船舶免許を取得したことを告白。プライベートは相当アクティブなようですね。Netflixで12月から公開予定の『浅草キッド』では、ビートたけし役で大泉洋とW主演。予告映像で見る限り、たけしさんの特徴であるまばたきや首をクイっとひねるしぐさを完璧に再現しており、まさに生き写しのようだと評判です。年齢的にもまだまだ伸びしろがあり、日本エンタメ界を支える存在の一人であることは間違いないでしょう」  俳優としてここまでの振り幅があれば、そのポテンシャルは無限大。カンヌが認めた男が改めて日本に衝撃を与える日も、そう遠くなさそうだ。(藤原三星)
二月の勝者柳楽優弥
dot. 2021/10/27 11:30
これって話していいの? 「きょうだい児」のSOSに寄り添った教師の提案とは
江利川ちひろ 江利川ちひろ
これって話していいの? 「きょうだい児」のSOSに寄り添った教師の提案とは
写真はイメージです/gettyimages 「インクルーシブ」「インクルージョン」という言葉を知っていますか? 障害や多様性を排除するのではなく、「共生していく」という意味です。自身も障害を持つ子どもを持ち、滞在先のハワイでインクルーシブ教育に出会った江利川ちひろさんが、インクルーシブ教育の大切さや日本での課題を伝えます。  この数年、医療や教育現場で「きょうだい児」という言葉を聞くようになりました。  きょうだい児とは、病気や障害のある子どもの兄弟姉妹のことであり、我が家で言うなら健常の次女です。子どもに病気や障害が見つかると、保護者は病児のことで頭がいっぱいになり、他のきょうだいの世話が充分にできなかったり、通院のためにきょうだいとの時間が減ったり、きょうだいの寂しさに気づく余裕がなくなってしまうなど、きょうだい児はメンタル面での負担が大きいと言われています。今回は、きょうだい児についての話です。 ■次女が心を閉ざしていった  私が初めてきょうだい児という言葉を意識したのは、次女が小学4年生の時でした。  この年の夏休み、息子が足の手術をするために都内の病院に6週間入院しました。病院は一定期間の付き添いが必要であり、重心児の長女はリハビリ目的で一緒に入院できることになりましたが、次女は連れて行けません。昼間は私の両親に頼み、夜間は夫とふたりで過ごすことになりました。  入院日が近づくと、次女の口数は減り、買ったばかりのペンケースを壊してしまったり、頻繁にじんましんが出たりとメンタルに不調が出始めました。今思えば必死のSOSだったはずですが、当時の私にはどうすることもできず、私が「仕方ないよ」と言うたびに無表情になり、次第に誰に対しても心を閉ざしていきました。 ■担任の先生に相談  どうすればよいのかわからず、次女の1~2年の担任だったりょうこ先生に相談してみることにしました。りょうこ先生は、次女のクラスの担任から息子の学年の主任先生となったため、担任を離れてからも次女の近況をよく話していました。さらにインクルーシブ教育にも関心を持ってくださり、私にはとても心強い存在でした。  数週間やり取りをした結果、りょうこ先生はわざわざ息子の入院先まで、次女が面会に来る日に合わせてたくさんの差し入れを持って来てくれました。そして、子どもたちそれぞれに合う本や漫画やお菓子を渡し、一緒に1学期の成績表を見て話し、次女が和んだところでこんな提案をしてくれました。 次女、ぴぴちゃんの小学校低学年の時の文集。りょうこ先生との思い出も詰まっている/江利川さん提供 ■何を書いてもいいから 「ぴぴちゃん、先生と交換日記しない? 先生もぴぴちゃんくらいの時に、よく学校の先生にお手紙を書いて渡したんだよ。何を書いてもいいから持っておいでよ」  りょうこ先生のクラスでは、日記は毎日の宿題であり、毎回、うれしくなるようなコメントを書いてくださったことを思い出しました。  その後、実際に先生と次女が交換日記をしたのかはわかりません。でも、難しい年齢に差しかかったきょうだい児には、家族以外にも寄り添ってくれる大人が必要なのだと実感しました。  ある時、りょうこ先生に「クラスのどんなにませている子でも、今のぴぴちゃんの気持ちや状況を理解することはできないと思います」と言われたことがありました。だから、周りにいる大人が「大丈夫だよ、ちゃんと見ているよ」と示すことが大切だと思う……と。 ■ホッとした表情に  この頃の次女は、常に冷静を装いながらも、先生が関わって下さるたびにホッとした表情を見せるのが印象的でした。  実はこのエピソードは、これまでに何度か、きょうだい支援に関する話題として、講義や学会などでお話ししたことがあります。りょうこ先生と次女のやり取りを聴いた学生さんが、卒論でりょうこ先生にインタビューを依頼したこともありました。  今回、保護者とは少し違う角度で、先生にはどう見えていたのかと聞いたところ、次女のことを書いたファイルを送って下さいました。  ご本人の許可を得て、抜粋して紹介します。 【教師の仕事は教科指導や生活指導など、さまざまある。しかし、どんな仕事でも、中心にいるのは「子ども」である。目の前の子どもをどう見るか、どう理解するかということで、授業づくりを進めたり、日々の問題との向き合い方が変わってくる。私は、子どもをよく見ること、関わること、つながることを通して、子ども理解を深めていこうと思い、日々の教育実践をしている。  今から8年前。高学年が続いて、久しぶりに1年を担任することになった。元気な男の子が多く、入学式からずっとにぎやかなクラスだった。そんな中にぴぴちゃんがいた。クラスの3分の1は幼稚園からの友達であったせいか、いつも仲良しのお友達と一緒にいた。  昼食時間にグループのところで一緒にご飯を食べながら、子どもたちの話を聞くのが私の楽しみの1つである。多くの子どもが「先生!あのね…」と家族のこと、習い事のことなど、話を聞いてもらいたくて自分からどんどん話す。  ぴぴちゃんは、こちらから話しかければ話すが、自分からは話さない。  返事も「うん」「ううん」くらい。自分でたいていのことができるぴぴちゃんだったので、お友達が困っていることは「先生、○○ちゃん困ってるよ」とそばにきて話してくれた。「おとなしいけれど、しっかりしている子だな」と思った。  そのうち、保護者面談を通じて、双子のお姉さんが車いすで生活していること、弟は足が不自由でリハビリをしていることなど、家庭の様子を知ることができた。その時は「お母さん、大変だな」と思うくらいで、それがぴぴちゃんにとってどういう影響を与えているのか?ということまで考えが及ばなかった。  ぴぴちゃんの担任を外れた後に「きょうだい児」という言葉を知った。  私が見ていたぴぴちゃんは「きょうだい児」だった。それを理解して接していただろうか。ぴぴちゃんを単に「おとなしい子」と見ていたが、本当だったのだろうか。ぴぴちゃんは本当に自分のことを話せていたのだろうか。昼食時間に、みんながただ話したいことや聞いてほしいことをどんどん話している一方で、ぴぴちゃんは「これって話していいの?」とブレーキをかけていたのではないだろうか。本当に私は「ぴぴちゃん」という子どもを理解していただろうか。いろいろな考えがぐるぐる回った。  私がきょうだい児という言葉を知っていれば、ぴぴちゃんのことをもう少し深く見たり、関わったり、つながったりできていたのではないかと思う。そしてぴぴちゃんに「先生はあなたのことをわかっているよ」というメッセージを出すことができたのではないかと思う。  そんな彼女も中学生になり、今ではすっかりお姉さん。今、私がふり返って思っていることと、彼女の当時の思いはすれ違っているかもしれない。けれど、次にきょうだい児を担任することになれば違うアプローチができると思うし、より深くその子を理解できると思う。】 ■大丈夫、ちゃんと見ているよ  言うまでもなく、我が家の子どもたちは3人とも分け隔てなく大切な存在です。  でも、息子の手術や長女の身体に深刻な出来事が起きた時には、どうしても手のかからない次女は後回しになっていた時期がありました。  保護者が入り込めない学校という場所で、さりげなく見守ってくださる先生に出会えることは、きょうだい児にも家族にも有難いことです。特別なことは必要なく、「大丈夫だよ、ちゃんと見ているよ」というサインを感じるだけで、子どもの気持ちは軽くなるのではないかと思うのです。 〇江利川ちひろ/1975年生まれ。NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事、ソーシャルワーカー。双子の姉妹と年子の弟の母。長女は重症心身障害児、長男は軽度肢体不自由児。2011年、長男を米国ハワイ州のプリスクールへ入園させたことがきっかけでインクルーシブ教育と家族支援の重要性を知り、大学でソーシャルワーク(社会福祉学)を学ぶ  ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2021/10/26 16:00
キャンディーズのLPに残された遺書「いまさみしくってしょうがない」ある少年の自殺
キャンディーズのLPに残された遺書「いまさみしくってしょうがない」ある少年の自殺
遺書はキャンディーズのLPの上にあったという…(※写真はイメージ/Gettyimages)  訴状、蹶起趣意書、宣言、遺書、碑文、天皇のおことば……。昭和・平成の時代には、命を賭けて、自らの主張を世の中へ問うた人々がいた。彼らの遺した言葉を「檄文」という。  保阪正康氏の新刊『「檄文」の日本近現代史』(朝日新書)では、28の檄文を紹介し、それを書いた者の真の意図と歴史的評価、そこに生まれたズレを鮮やかに浮かび上がらせている。今回は、キャンディーズのLPの上に残された遺書から、昭和53年の少年のさみしさに迫る。 *  *  *拝啓おれは今、レコードをききながら泣いている。これからはどうやって生きていいかわからない。ただいろんなことを考えているだけだ。おれなんか、死んだ方がいいのかな。死んで天国に行きたい。田舎に帰りたかった。いまさみしくってしようがない。 ■いまさみしくってしようがない─少年の自殺  16歳の少年、江尻富美雄(仮名)は、キャンディーズのLPの上に、この遺書をのこして逝った。昭和53(1978)年3月16日正午すぎ、江尻少年の死体は都営地下鉄工事現場のコンクリート製水槽(高さ3.7メートル、幅7.3メートル、奥行9.5メートル)の水底で発見された。場所は東京都千代田区九段1の1、いわば東京の中心地である。この自殺を報じた読売新聞は、「さびしい、田舎に帰りたい―少年作業員 工事現場で自殺」と社会面の一部をさいた。  しかしほとんどの新聞は黙殺した。なぜだろうか。  なにしろこの日は、もうひとつ女子高校生の自殺があった。大学の進路を文科にするか、理科にするか悩み、あげくのはてに日赤医療センター敷地内宿舎屋上からとびおり自殺をはかったのである。こちらのほうが、たしかに人びとの関心を集める。おりしも教育過熱の時代ではないか。  少年作業員の工事現場での自殺は、女子高校生よりはるかにニュース価値が低いということだろう。とにかくこの少年の死は、都会人の関心をさそうにはあまりにも条件が悪かった。 ※写真はイメージ/Gettyimages  私はこの新聞記事が気になった。新聞記事のなかに、江尻少年が自殺したのは、「寂しいので泣いている。彼女もできない。いなかに帰りたい」などの走り書きがあり……という一節にも関心を持ったが、それより江東区のアパートの一室に住み、そこに遺書が置かれていたというのを知ったからだった。  そのころ私は、ある老人の生き方を追いかけて、江東区のアパートを訪ねては取材していた。貧相なアパートであった。ドアをあけると4畳半の部屋のまんなかにコタツがあり、あとはピンク・レディーや西城秀樹らのポスターが壁にはってあった。それが不自然であった。孫のような歌手たちの笑いのなかで、老人はテレビを見ては、一日をすごしていた。  江尻少年の自殺を新聞記事で読んで、私は陽当たりの悪い部屋でテレビにかじりついている老人を思った。もし少年であれば、あんな環境には耐えられぬだろうと思った。江尻少年が作業現場に寝泊まりしていたのなら、私の関心をひかなかった。しかし江東区の陽のあたらないアパートの一室で、「寂しいので泣いている」少年の像は、あまりにもむごい感がする。  昭和54年4月、サンケイ新聞は、少年の自殺をとりあげた。たまたまこの企画のなかで、江尻少年がとりあげられた。そこで私は、彼がのこしていた冒頭の遺書の詳しい内容を知った。中学生時代の同級生に宛てたものという。 「おれは今、レコードをききながら泣いている。これからはどうやって生きていいかわからない」  この一節は、大仰にいうなら、深遠をつくことばである。レコードをきいているうちに、己れのいまがなんとも空しくなるというのは、しばしばあることだ。そんな経験はだれにでもある。しかしだれもがそれに耐えている。そういう経験をとおして、私たちは成長していく……。  16歳の少年が、なぜ死んでいかなければならなかったのかを追いかけていくと、そこにはこの時代がかかえているあらゆる問題がひそんでいることに気づく……。この少年は時代に押しつぶされた犠牲者だということがわかってくる――。 ※写真はイメージ/Gettyimages  まだ世の中のことを寸分も理解しないでいる少年が、地下鉄工事の現場で自死するのは、この社会がかかえている矛盾をひとりでかかえていった姿ともいえる。大変失礼な推測をする。もし彼が犯罪者に転じて、そのことにより“社会的発言”を得るようになったら、たちまちのうちに“守る会”なるものが、その発言を武器にするだろう。実際にそういう例があるではないか。  しかしひたすら「レコードをきいて泣いている」少年には、だれもふりむいてはくれない。そこにまたこの社会の二重の残酷さがある……と私は思う。  江尻少年は、昭和36年12月16日に生まれた。高度成長政策が進められたころに生まれたのである。推測すれば、物質的に恵まれた環境が用意されている世代のはずだ。  実家は福島県の小さな町にある。そこには祖父母と母親、そして小学生の弟がいる。サンケイ新聞の報じるところでは、彼の自殺を東京の警察が伝えると、母親は絶句し、つぎに弱々しく汽車賃の心配をしたという。そこに家庭環境の一端がのぞかれる。  少年は地元の中学を卒業すると、すぐに神奈川県藤沢市の電機会社に就職した。仕事は、ベルトコンベアの作業工程の監視だった。彼に必要なのは、目と手だけである。じっと流れてくる部品を見つめているだけだ。それも限られた時間いっぱいつづける。神経は疲れる。仕事を終えると、会社の体育室でピンポンをして寮に帰ってくる。あとはテレビを見るだけだ。  平凡な日々のくり返し。  そこには彼なりに満足感はあったろう。なぜならここにいる限り衣食住が保証されるからだ。ときに家庭へ仕送りをしている。しかしこういう生活に耐えるには、ある種の諦観とか割り切りが必要になる。そこに達するには、彼はまだあまりにも若すぎた。  中学時代、少年は野球部にはいっていた。万年補欠だった。それでも退部はしなかった。家に帰るより、学校にいるほうがまだ楽しかったからともいう。そういう楽しさを、人生のあきらめにむすびつけるのは、彼にはあまりにも厄介な営みだった。 保阪正康著『「檄文」の日本近現代史 二・二六から天皇退位のおことばまで』(朝日新書)※Amazonで本の詳細を見る  昭和53年2月、彼は電機会社を辞める。すでに人生の輪郭を知った中年の社員たちが、懸命にとめる。しかしそれをふりきるように辞めていく。彼は、衣食住の代償として毎日8時間から9時間も拘束されつづける仕事が耐えられなくなったのだ。それをだれが辛抱がたりないといって責められよう。  その後、彼は叔父を頼って東京に出てくる。  叔父が地下鉄工事に従事していたので、その手伝いをすることになった。1日5500円の仕事。といってもとくべつにむずかしい仕事ではなかった。  地下鉄工事に従事する労働者は、30代か40代の屈強な者が多い。経験こそが工事を円滑に進める鍵なのである。そのなかにあって、十代のこの少年は、あまりにも弱々しく痛々しい。  この仕事についてまもなく、2メートルの高さのヤグラからすべり落ちて怪我をしている。事実、1カ月ほど共に働いた労働者は、その痛々しさと仕事の不慣れに同情していたのだ。  5500円の日給は、彼にとっては高額に映る。  電機会社の単調さから救われ、そのうえこれだけの金がはいる。しばしば藤沢にある電機会社の寮にも遊びに行ったという。土産を渡し、ときに椀飯ぶるまいをした。それがたとえ少年の見栄であっても、そのこと自体に彼自身が満足感を味わっていたとするならば、それはそれで人生勉強のひとつであっただろう。  少年の自殺のあと、彼の部屋をのぞいた叔母は、布団とボストンバッグ、そして一台のプレーヤーがあるのを見つけている。4畳半の部屋に、彼の楽しみをあらわすのはプレーヤーだけだ。  レコードが一枚あった。キャンディーズのLPだったという。キャンディーズは、半年前に「ふつうの女の子に戻りたい」と、解散宣言をし、その素朴さが若者の気持をとらえた。彼女たちのヒット曲「春一番」のなかに、 <もうすぐ春ですねえ>  という歌詞がある。青春の息吹をたたえる歌詞が散っている歌。三人の女性がハーモニーをとりながらくり返し歌う。  感情を刺激し、そしてレコードがとまる。 ※写真はイメージ/Gettyimages  思うに、少年は、4畳半の部屋でなんどもなんどもLPをかけていたのだろう。それをききながら、彼は泣きつづけている。なんのために……なぜ自分が生きているのか、生きつづけるのか、それをたしかめようとする。そのことを知ろうと希求する。しかし彼にはそれがわからない。16歳、彼の年齢の90%はまだ高校1年生である。 <もうすぐ春ですねえ>をきいて泣きつづける少年。夜、地下鉄工事で地下10メートルの地底にもぐり、そして昼はアパートにかえってキャンディーズのレコード。そのくり返しに、こんどは初めの職場、電機会社の単調さとちがう耐えられなさを見つけていただろう。  だが地下鉄工事もまた永遠の彼の仕事になりうるかどうか。都会の喧噪をぬうように、都会が寝静まると同時に、地下にもぐっていく生活。周りにいるのは30代か40代の男たちばかりだ。少年はまだ一人前でない。労働の意味もしらない。屈強な男たちが工事の基本ともなるべき土砂運びをし、重いコンクリートを運んでいるとき、筋肉もかたまっていない少年はどぎまぎしているだけだ。仕事の邪魔にさえなりかねない。  少年は故郷を思う……そこに友人もいる。肉親もいる。しかし彼を受けいれる職場はない。  3月10日すぎ、彼の姿が工事現場から見えなくなった。ここにきて40日を経たときだ。心配した叔父は、捜索願をだす。まだ子どもだから仕事もあきっぽいのだろう、どこかで遊びあるいているのかもしれん――しかし4畳半をしらべてはじめて遺書をのこしているのを知る。  遺書はLPのレコードの上にのせられていた。  姿が見えなくなってから1週間後、彼の姿は水槽のなかから発見される。彼の働いていた職場の一角にある水槽であった。カーキ色の作業衣と長ぐつ姿。ズボンのポケットに、11000円と25円の硬貨があった。中学時代の友人に宛てた遺書、それに女性の友だちに宛てたらしい手紙が投函されずにあり、それらが、彼の遺志をはかる、のこされたすべてであった。 保阪正康著『「檄文」の日本近現代史 二・二六から天皇退位のおことばまで』(朝日新書)※Amazonで本の詳細を見る  肉親宛ての遺書はない。肉親に別れを告げる遺書より、彼自身の心の悩みをそのまま書きのこすことで、江尻少年は<時代>に宛てての遺書を書いたことになる。 「死んで天国に行きたい」「いまさみしくってしようがない」――。  16歳の少年の本音だろう。彼は本音のままに死んでいった。土曜日の夜の新宿、日曜日の昼の原宿、そこにはこの少年と同じ境遇の少年が無数にいる。田舎に帰りたいが帰れない少年、4畳半で泣くだけの少年、しかし彼らはとにかく新宿や原宿で、自己発散をしてつかのまの解放感を求めている。  私が取材した老人は、もう人生の終焉を迎えていた。いまの4畳半の生活で、好き勝手のできる境遇は幸せすぎるほどだといっていた。  そういう老人たちの人生は、戦争によって狂わせられたにもかかわらず、「しかし生きのこっていることで、私は幸せなのだ」といいつづける。その意味を、死んだ江尻少年や、原宿や新宿に集まる少年が理解するには、まだ幼すぎる。所詮、人間はたったひとりで生きていく動物なのだということを知るには、彼らは子どもでありすぎる。だが江尻少年の死は、この時代がいつかこういう層によって反撃を受ける予兆であると断言できる。  この少年の苦しみを歪曲して“政治化”しようとする勢力が生まれ、それが時代の主流になれば、社会はより苦悩に満ちたものになる。勉強部屋と塾だけにとじこめておこうと願う母親への“秀才生徒”の反乱は、江尻少年の自死と同根である。彼らもまた、 「これからはどうやって生きていいかわからない」  と悩んでいる。この悩みを放置すれば、いつか政治がまちがいなく<死>へとつながる道に進む。いまふえている一連の少年、少女の自殺は、次代の断面をきびしく断罪しているのである。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/10/25 17:00
松田聖子とSMAPが音楽史において別格な理由 時代を変えた「アイドル」の共通点とは
宝泉薫 宝泉薫
松田聖子とSMAPが音楽史において別格な理由 時代を変えた「アイドル」の共通点とは
松田聖子(C)朝日新聞社  松田聖子とSMAP。  ソロとグループという違いはあっても、ともにビッグアイドルだ。  が、共通点はそれだけではない。どちらも音楽シーンの節目に登場して、新たな流れを作った。大げさにいえば、ジャンルの分断を防ぎ、統合するという大きな功績を残したのだ。本稿ではそれをわかりやすく説明してみたい。  まず、聖子のデビューは1980年。当時、アイドルは終わったと言われていた。その根拠は、70年代後半に起きたニューミュージックブームだ。  たとえば、79年のオリコンチャート。幕開けこそ、ピンクレディー最後の1位曲「カメレオン・アーミー」が首位に立ったが、年間で見れば、約3分の2の週の首位がニューミュージック系の曲だった。特に7月以降は、さだまさし、桑名正博、久保田早紀らで首位を独占。この状態は翌年も続き、クリスタルキング、海援隊、シャネルズ、もんた&ブラザーズ、長渕剛らで9月まで歌謡曲系の首位を許さなかった。  78年の「NHK紅白歌合戦」ではこうした状況に対応すべく「ニューミュージックコーナー」を特設。庄野真代やさとう宗幸ら6組が登場した。また、ゴダイゴ、アリス、甲斐バンド、サザンオールスターズなども人気だったし、ロック御三家というアイドル的存在も現れた。そのかわり、石野真子や榊原郁恵が最後のアイドルと呼ばれていたものだ。  いわば、職業作家の提供するものを歌う歌謡曲系より、自分で作詞作曲も行うニューミュージック系のほうがオシャレでカッコいい、というイメージが広まりつつあったのだ。それゆえ、80年代はそんなシンガー・ソングライター、自作自演の時代になると予想されていた。  しかし、予想に反し、空前のアイドルブームが到来することに。その最大の立役者が聖子だ。2カ月後にデビューした田原俊彦とともに、音楽シーンの空気を一変させた。  ちなみに、ニューミュージック系のオリコン1位曲独占状態を阻止したのは田原の「ハッとして!Good」だが、これが2週続いたあと、聖子の「風は秋色」が首位に立ち、5週間独走。ここから彼女の24作連続1位という大記録が始まる。 松田聖子とアイドルブームを牽引した田原俊彦(C)朝日新聞社  81年以降は、近藤真彦や中森明菜らも首位の常連となり、年間で見てもアイドル系が1位曲の7~8割(おニャン子ブームの86年は9割以上)を占めるという状況が80年代末まで続いていくわけだ。  ただ、聖子が成し遂げたのはアイドルの復権だけではない。彼女が別格なのは、ニューミュージック系と積極的にコラボして、聖子ポップスともいうべき独自の世界を作り上げ、時代を前に進めたところにある。  デビュー当初こそ、職業作家による作品をシングルにしていたが、2年目からは財津和夫、大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美といったニューミュージック系のアーティストが作曲したものに切り替えた。アルバムでも、その方向性を模索し、彼女の歌はニューミュージックのテイストも味わえる歌謡曲として高く評価されるようになる。夏と冬にリリースされるアルバムはユーミンやサザンのアルバムと同じく、リゾート向きの音楽としても支持された。それはまた、当時、若者にも浸透しつつあったカラオケや、急速に普及しつつあったウォークマンにも合うものだったのである。  なお、聖子の連続首位記録が始まった月に引退した山口百恵も、ニューミュージック系とのコラボには積極的だった。宇崎竜童に谷村新司、堀内孝雄、さだまさしらの作品をヒットさせ、アルバムではブレーク前の浜田省吾なども起用している。  が、時代的にまだ早かったことと、本人の声やキャラが和風で演歌寄りだったことから、ニューミュージックのポップな感じは取り込みきれず、旧来の歌謡曲の領域からそれほど飛び出すことはなかった。  また、聖子のライバルでもあった明菜は競合を避ける意味もあって、ラテンやフュージョンのアーティストと組んだりした。百恵同様、その声やキャラもあいまって、ニューミュージック色は薄かった印象だ。  つまり、聖子が誰よりも適任だったわけで、その資質を見抜いたのはプロデューサーの若松宗雄だ。彼女の声に惚れ込み、芸能界入りに難色を示す父親を説得してデビューさせたこの男は、70年代にキャンディーズと吉田拓郎のコラボを成功させた経験から、その路線をさらに推し進め、聖子で新たなジャンルを作り上げた。 「夜空ノムコウ」の作詞作曲を担当したスガシカオ(C)朝日新聞社  実際、彼はこんな発言もしている。 「松田聖子という存在は、ニューミュージックと歌謡曲の間で生み出されたアイドルなんです」(「語れ!80年代アイドル」)  それを言うなら、Jポップというのも歌謡曲とニューミュージックが融合して生まれたものだ。Jポップが絶頂期を迎えていた96年に、聖子が自作自演による「あなたに逢いたくて」を大ヒットさせられたのも、彼女がそれ以前からJポップ的要素を持つ存在だったからだろう。  そんな96年、音楽シーンの中心に躍り出ようとしていたのがSMAPだ。  こちらは結成が89年で、CDデビューが91年。当時もまた、アイドルのブームが去り、歌番組も減少して、アイドルは終わったといわれていた。高橋由美子あたりが最後のアイドルと呼ばれていたものだ。  そんななか、彼らはバラエティーやドラマで人気と実力を高めていく。音楽的には、筒美京平や馬飼野康二といった歌謡曲のベテラン職業作家のもとで出発しつつ、93年からは林田健司、庄野健一、小森田実といったニューミュージック系の作家と組んで「$10(テン・ダラーズ)」「がんばりましょう」「SHAKE」などをヒットさせた。サウンドとしては、Jポップの特徴ともいえるファンキーなグルーブ感を取り入れ、録音にも国内外の一流ミュージシャンを呼ぶなどして、いわば「アイドルの顔をしたJポップ」を作り上げたのである。  もっとも、同時期のJポップにはビーイング系や小室ファミリーがいて、主流争いをしていた。アイドルのSMAPはあくまで傍流であり、肩身が狭そうな印象も受けたものだ。  しかし、97年に「セロリ」98年に「夜空ノムコウ」をヒットさせたことで見方や存在感が変わる。山崎まさよしやスガシカオというJポップの実力者とコラボして、成果を出したことがそのステイタスを上げることにつながったのだ。  このコラボ路線がもたらした最大の収穫が「世界に一つだけの花」であるのはいうまでもない。2003年にシングルとしてリリースされ、平成最大のヒット曲となり、音楽の教科書にも掲載された。 「世界に一つだけの花」を作曲した槇原敬之(C)朝日新聞社  ただ、作詞作曲をした槇原敬之は99年のクスリによる逮捕ですでに前科一犯だった。ちょっと勇気の要るコラボでもあっただろう。が、この作品のサウンドやメッセージはそういうものを超えて支持されることに。ちなみに、振り付けは小室ファミリー出身でのちに性別適合手術を受けたKABA.ちゃんが担当した。「誰もが特別なオンリーワン」というテーマは、ジェンダーフリー的な多様性も含んでおり、まさに時代を象徴したヒット曲といえる。  こうしてSMAPは、ジャニーズ的なポップスとJポップの融合に成功し、音楽シーンの本流となった。この世界は後輩の嵐にも引き継がれていく。ではなぜ、SMAPがこれだけのことをできたかというと、その鍵はアイドルならではの華と上手すぎない歌唱力だ。  じつはこの時期、自作自演で世に出たアーティストの作品をアイドル的な歌手やグループが歌うスタイルが流行した。つんくとモーニング娘。に、奥田民生とPAFFY、小室哲哉と鈴木あみ、などなど。これらはアーティストが作る難しそうな曲を身近に感じさせる効果を生んだ。人気者が上手すぎない歌唱力で歌うことで、親しみが持てるのだ。  SMAPもまた、山崎やスガ、槇原による詞やサウンドを華やかにわかりやすく伝えることで、Jポップをより大衆的なものにした。これに対し、聖子は歌唱力も高く評価されたが、それを上回る武器がアイドルとしての華やわかりやすさだったのである。それゆえ、どちらも別格として、時代の本流を担えたのだろう。  なお、SMAPについては、酒井政利が興味深い指摘をしている。09年に出版された「音楽誌が書かないJポップ批評59」のなかで、自身がプロデューサーとして手がけた百恵が活動の終盤「表現に取り憑かれすぎていた」としたうえで「SMAPにはそういう心配はいらない」と語ったのだ。 「国民的に支持される人というのは『超二流』なんですね。『超二流』というのは一流でいるよりもずっと難しいゾーン。そこにいま、唯一足を踏み入れているのがSMAPです。この超二流のゾーンこそが、国民が待望している本当の娯楽の世界なんです」 SMAPを独特の表現で称賛していた酒井政利さん(C)朝日新聞社  表現者としての高みだけを目指すのではなく、ファンにとって身近な存在にとどまり続けることの尊さ。こうした機微を、彼らはよくわかっていた気がする。「世界に一つだけの花」のあとも、アイドルのまま、アーティストとのコラボを繰り広げた。斉藤和義に山口一郎、津野米咲、尾崎世界観、椎名林檎、そしてラストシングルは川谷絵音だ。  もし解散しなければ、嵐より先に米津玄師の作品も歌っていたかもしれない。  じつは今も、音楽シーンは大きな節目を迎えている。アニソンが日本レコード大賞に輝いたり、SNS発信のヒット曲が多数生まれるなど、多種多様なものが展開されつつ、それは本流なき混沌とした状況にも見えるのだ。  はたして、聖子やSMAPのような大仕事をやってのける存在がこのあたりで出現するのだろうか。その兆しがいまひとつ感じられないことも、聖子やSMAPの別格さを際立たせているように思えてならない。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
SMAPアイドル松田聖子
dot. 2021/10/24 11:30
眞子さまは“結婚”後、渡米までホテル暮らしか 気になる祖父・川嶋氏の容体と金銭トラブルの未解決
永井貴子 永井貴子
眞子さまは“結婚”後、渡米までホテル暮らしか 気になる祖父・川嶋氏の容体と金銭トラブルの未解決
結婚を控えた眞子さま(c)朝日新聞社(宮内庁提供)  10月23日、秋篠宮家の長女、眞子さまは30歳の誕生日を迎えた。皇族として最後の誕生日となる。眞子さまと小室さんの結婚は3日後に迫るが、いまだに周辺は落ち着かない。 *    *  * 深いボルドー色のニットとまとめ髪が落ち着いた雰囲気を醸し出している。  眞子さまが30歳を迎えた日、妹の佳子さまと住まいのある赤坂御用地を散策する映像が公開された。眞子さまが皇族として過ごすのは残り3日余り。名残を惜しむように姉妹は、池のほとりを歩き、優しくほほ笑みあう。  秋は皇族の誕生日が続く。3日前の10月20日は、上皇后美智子さまの87歳の誕生日だった。誕生日に際して側近の上皇職が公表した文書には、眞子さまについてこうつづられていた。 <今月26日に皇室を離れられる秋篠宮眞子さまのことは、両陛下とも常に大切に愛おしんでおられましたので、お別れはお寂しいことと拝察いたします>  結婚を祝福する直接的な言葉は見当たらない。そのため、「お寂しい」という言葉が強い響きを帯びた。 秋篠宮ご一家(c)朝日新聞社(宮内庁提供)  その日、紀子さまの父親で、眞子さまの祖父にあたる川嶋辰彦さん(81)が、「東京都内の病院に緊急入院していた」との速報が流れた。前日の19日、眞子さまは皇居の宮中三殿を結婚の報告のために参拝したが、その午後に、紀子さまと眞子さま、佳子さま、悠仁さまが川嶋辰彦さんのお見舞いに病院を訪れていたことが報じられたのだ。  容体によっては結婚の延期もあるのでは、と言及したワイドショーもあった。  しかし、状況はやや違うようなのだ。川嶋辰彦さんはもともと都内の病院に入院しており、19日は治療の都合に合わせて計画された転院だという。 「川嶋さんの容体はいいとはいえませんが、危篤で今日明日にもといった状況ではないと聞いています」(皇室記者)   結婚前日の25日には、眞子さまは仙洞仮御所を訪問し、私的に上皇さまと美智子さまにあいさつをする。川嶋辰彦さんへのお見舞いは、病床にある祖父への結婚のあいさつも兼ねていたと見ることもできる。  このように世間は落ち着かないものの、26日の午前中に宮内庁職員がふたりの婚姻届を自治体に提出する予定だ。眞子さまは午前のうちに住み慣れた秋篠宮邸を後にする。そして午後、眞子さまは、「小室眞子さん」として都内のホテルで小室圭さんとともに記者会見にのぞむ。  記者会見の会場は、もともとふたりが式を挙げる予定だった帝国ホテルも候補のひとつとして検討されたようだが、決まったのは別のホテル。警備の行いやすさと同時に、サービスに対して料金の手ごろさで知られる。会場費は、「小室夫妻」の私的な費用でまかなわれるが、ホームページに掲載された料金表では正規料金でも20万円程度。関係者の割引があればさらに、リーズナブルな料金となるだろう。 婚約内定の会見の際の眞子さまと小室圭さん(c)朝日新聞社  国民の関心が高い記者会見で、特に注目が集まるのは、小室家と母、佳代さんの元婚約者の金銭トラブルが、どのように説明されるのかである。  26日の結婚と記者会見の前に、小室家が金銭問題にある程度のめどをつけるのでは、との見方もあった。  帰国後、小室さんが外出したのは18日。秋篠宮ご夫妻に結婚のあいさつをするために、赤坂御用地内にある赤坂東邸を訪問した。午後にパラリーガルとして勤務していた奥野総合法律事務所を訪問したあとは、すんなり横浜の自宅に戻った。 18日に車で移動する小室圭さん(c)朝日新聞社  果たして金銭問題は、解決に向けて話が進んでいるのだろうか。元婚約者の代理人によれば、眞子さまの複雑性PTSDが公表された直後、元婚約者は熱を出して会社も休み、ふせっていたという。 「ショックを受けた末の心労もあるのでしょう。解決金の件も進展はありません。小室さんサイドの代理人である弁護士からは、とくに解決につながる連絡はありません。連絡を待っていましたが、いま(22日)はもう金曜日の夜ですから、火曜日の記者会見までに何か動くということはないでしょう。そもそも金銭問題と眞子さまと小室さんの結婚は、別の問題ですしね」  もう一つ、国民の関心事といえば、民間人となった眞子さまが米国に出発するまでの間、どこに滞在するのか。出発までの期間がそう長くないことを考えるとマンションなどは現実的ではない。また、「儀式なし婚」のけじめをつけた父、秋篠宮さまの性格を考えると、民間人となった眞子さまを宮内庁の関連施設に滞在させる公私混同も考え難い。ホテルの滞在が現実的では、と見られている。 笑顔がまぶしい眞子さま(c)朝日新聞社  皇室の事情に詳しい人物がこう話す。 「会見会場は実は、雅子さまが皇太子妃時代に、友人らとお忍びで食事会をしたホテルでもあります。皇太子妃のお忍びの会場に選ばれるくらいですから、警備も手堅い。小室圭さんは、仕事の関係で早々に米国に戻るようですが、記者会見場のホテルにそのまま滞在なさるのが安全に思われます」  眞子さまの結婚は3日後に迫った。記者会見では、小室家の金銭トラブルに触れた厳しい質問も出ると見られている。 「小室夫妻」は、何を語り新しい生活へとどのようにして踏み出すのか。国民が見守っている。(AERAdot.編集部 永井貴子)
小室圭さん皇室眞子さま結婚
dot. 2021/10/23 16:31
ストリップ劇場が変えた人生 流されてきたモロ師岡が見つけた楽しさ
ストリップ劇場が変えた人生 流されてきたモロ師岡が見つけた楽しさ
 ほとんどが、成り行き任せの人生だった。モロ師岡 (撮影/写真部・張溢文) 「川に流れる小枝のように流されっぱなし。抵抗したこともないです。はたからは楽しそうに見えるかもしれないけど、新しいことを試すたびに、撃沈されないよう、いちおう努力はしているつもりです」  俳優・コメディアンのモロ師岡さんは大学在学中に、役者を志した。新劇を上演する劇団に入団し、卒業後も、バイトで食いつなげばなんとかなると思い、就職活動はしなかった。周りの仲間たちは、いつの間にか夢を諦め就職活動をしていたが、モロさんはそれに気づかずにいた。 「いざ卒業するとなったとき、就職しないのは仲間内で俺だけ(苦笑)。『いつの間に就職活動なんてやっていやがったんだ? この卑怯者!』と心の中で悪態をつきつつ、もう一人、『就職しないでバイトやる』って言っていたヤツと2人で、『いっそ、芝居じゃなくてコントでもやるか』と。新劇をやっていても、なかなか大きい役はもらえなかったし、もともとがせっかちなので、お笑いで自分がメインを張りながら芝居と似たことをやったほうが近道じゃないかと思ったんです。ネタを書くのは好きだったので、六本木の、裸の男が踊るショーパブでコントをやって、今から約40年前に、月20万ぐらい稼いでました」  すると、芸人の先輩から、「こんなところでやっていても腕は上がらないぞ! ストリップ劇場で修業しろ!」と言われ、無理やりショーパブを辞めさせられた。 「店の売り物が、裸の男から裸の女になっただけの違いでしたが、ストリップ小屋は、ものすごくギャラが安かった。ワンステージ500円が1日4ステージあるんですが、365日休みなしで、朝の10時半から夜の9時半まで、修業中の芸人はずっと劇場から出てはいけない決まりで。結局、アパートを引き払って、楽屋で寝泊まりするようになった。食事は先輩がご馳走してくれるから、毎日500円支給される食事代も含め、1日2500円、丸々貯金できました(笑)」  先輩芸人からは、「ギャラを貯金するなんて、芸人の風上にも置けねぇ」と冷やかされはしたが、その貯金は、結婚するときに大いに助かった。 「踊り子さんに、『これでたばこでも』とチップを1万円もらったこともありました。お酒は、毎日のように先輩に奢ってもらえるし、ストリップ劇場はネタの宝庫でしたね。性別や年齢や職業に関わらず、野放図な人たちが大勢いたので」  20代後半から、テレビ番組に誘われるようになった。ただ、コントのネタを披露できる番組は好きだが、バラエティー番組で瞬発力のあるコメントをするのは苦手だった。 「フリートークは、からきしダメでしたね……。今だったらそんなに悩まずにコメントできるかもしれないけれど、当時は悩みました。コメディアンとして仕事をもらえるようになったのは有り難かったですが、司会やコメンテーターとしての役回りは、物凄く苦手だと30代半ばで気づいてしまった。そんな頃、北野武さんの『キッズ・リターン』という映画がきっかけで、役者としても少し認められて。そこから役者の仕事も来るようになったんです」  話は少し前後するが、モロさんは34歳ぐらいのときに、落語家の春風亭昇太さんらと一緒にコントをやったことがある。場所は池袋の文芸坐。今をときめく柳家喬太郎さん、三遊亭白鳥さんらも出演していた。 「結婚してまだ間もない時期で、芸人をやってるカミさんが、『せっかくサラリーマンコントのネタを持ってるんだから、サラリーマン落語をやればいいじゃない』と。最初は軽い気持ちで始めてみたら、素人落語がすごく受けまして。正直、落語と言えるような代物じゃなくて、ただくすぐりがいっぱい散らばっている、漫談崩れの内容ですが、『背広を着ながら落語ってなんだよ』と、周りも面白がってくれた」  以来、落語の勉強もずっと続けているが、今になって、語りの難しさをヒシヒシと感じるようになった。 「落語は、見せるんじゃなく聞かせる芸なので、ちょっとした間とか、セリフの流れの中で、お客さんに想像して楽しんでもらわなきゃならない。そのことが、30年近く落語を勉強して、やっとわかるようになりました。落語は奥深いです」  今でも年に何回かはコントライブを開催している。最近は、「コロナの時代のコント」というテーマで書いたりもした。 「コントは、演じることよりネタを書くのが好き。人が書いた芝居で役を演じるときは、また別の快感があります。舞台では、作品の中でちゃんと役を生きないと、作品が評価されない。一人コントなら、自分が頑張れば評価されますけど、お芝居は相手がいることだし、評価されるのは作品であってほしいと思う。でも、映画にしてもテレビにしても、芝居の面白さというかコツに気づいたのは最近です。まだまだですけど、『ちょっとこうしたらどうかな?』みたいな楽しみ方ができるようになった。恥ずかしながら、最初は『自分が目立てばいいじゃん』みたいな感じでしたからね(笑)」  芝居もコントも落語も、「話があったから、乗ってみよう」程度の気軽さで始めたことが長く続いている。続ければ続けるほど、面白さが見つかるからだ。(菊地陽子 構成/長沢明) モロ師岡(もろ・もろおか)/1959年生まれ。千葉県出身。78年劇団「現代」に入団。芸人としてテレビに進出後、北野武監督作品「キッズ・リターン」(96年)で中年ボクサー役を好演し注目される。以降、映画、舞台、テレビドラマで活躍。コントの舞台や一人芝居なども。他に、サラリーマン落語で高座に上がることもあれば、しみじみフォークソングウクレレ弾き語りライブも行っている。※週刊朝日  2021年10月29日号より抜粋
週刊朝日 2021/10/23 11:30
職場内のLINEハラスメントに用心 「交換しよう」はアウトかも…誘う側の注意点は?
職場内のLINEハラスメントに用心 「交換しよう」はアウトかも…誘う側の注意点は?
写真はイメージです(Getty Images) 「LINE交換しない?」  プライベートならまだしも、職場で自分より若い人や部下に対話アプリ「LINE」でのやりとりを持ちかけたことはないだろうか。相手との距離を縮めようとして、つい軽い気持ちで放つ一言。うっかり、30代の記者は、編集部に新しく入ってきた20代女性に聞いてしまった。口にした瞬間、自分に失望。自分が20代だった頃、年上からSNSの交換を問われると断れず、「ともだちじゃないのに、『ともだち』に追加されたわ……」と、戸惑ったものだ。かつて、自分がされて違和感を抱いたことを、若い人にやってしまったのだ。気をつけないと「LINEハラスメント」になるかもしれない。「大人力」に関する著書が多数あるコラムニストの石原壮一郎さんに、職場内のLINEマナーを聞いた。  上司からLINE交換を問われた部下は、親近感の表れかと思って快諾することが多いだろう。はじめのうちはいいかもしれない。しかし、油断していると予想だにしないトラブルに巻き込まれることもある。上司によっては、「既読」がつくのを確認しながらリアルタイムで部下の動向をうかがったり、仕事の進捗状況の報告や返信を執拗に煽ったりするというハラスメントの域に達するケースもある。過去にそうしたトラブルを実体験した筆者が、年下を同じような状況下に追いやってしまうことに不安を覚えたのだ。 「年齢を重ねるにつれ、自分が若い時に年長者にされて嫌だったことを忘れがちになります。例えば、飲みに行って説教するとか。そうした先輩にはなるまい、と思ってきたことをついやってしまう。それが、LINEを中心とするSNSでもみられるご時世です。ハラスメントをしている側は、『悪気はなかった』、『そんなつもりじゃなかった』、『親しみの表れだった』と、自分に都合よく解釈するもので、セクハラをした人と同じ言い訳をします」(石原さん) ◆職場内でのLINE交換は慎重に  LINE交換は悪いことではないが、家族や恋人、友人などとのコミュニケーションの場でもある。そこに仕事が入り込むのだから、年長者は気を配った方がよさそうだ。 「本来、LINEは便利で楽しいツールなのに、そこに職場の人間関係や仕事の義務感が入ってくると、途端に面倒なものになります。立場によっては、『仕事のやりとりに利用するのをやめてください』と言いにくいのがLINEの厄介なところ。相手に逃げる余地をほとんど与えないため、少なくとも年長者からLINEを聞くのは慎重になった方がいいと思います」(石原さん) ◆LINE交換を回避する手段  LINE交換を誘われた側は「LINEはあまり見ていないんです」や「LINEは家族とのやりとりにしか使っていませんので」と前置きを入れて、別のSNSに誘導してしまうのも手だ。 「LINE以外のSNSのアカウントをどれか1つだけ仕事用に設けておくのはどうでしょうか。LINEのアカウントは1人1つで、複数のサブアカウントを持つような小技を使うのもそれはそれで面倒。どれかのSNSアカウントを仕事用に諦める方が楽かと思います」(石原さん)  ◆LINE交換後の対処法  すでに職場内でLINE交換をしていたり、LINEのグループに追加されてアカウントが共有されていたりすることも少なくないだろう。 「グループを作られると、部下は常に上司に気を使わなければなりませんよね。上司の中には、意図がわからない花の写真をアップする人がいます。それを誰かが気を利かせて『きれいですね』というのを待っているんですね。そういう人はあまり話題がないので、花とか月、空などの写真を送るのですが、上司は場を和ませようとしていることでも、部下からすると『返事をしろ』という無言のプレッシャーになります」(石原さん)  また、「不急」と書いておきながら、上司が休日や夜中にメッセージを送るパターンも厄介だ。 「『不急』だったらわざわざ送らなければいいのに、上司が急に思いついたことを『あの件どうなったの』と夜中にメッセージを送ってくる場合もあるようです。送った側は、『忘れないうちに送っておいただけで、すぐに対応してくれとは言っていない』というような自分の都合のいい言い訳をします。でも、読まされる方は、一気にその時点で仕事モードに戻されたり、何か気がかりなことを思い出したりと、気が休まりません。これもハラスメントの一種だと思います」(石原さん)  すでに職場内でLINEを介したやりとりにストレスを感じていたら、「LINE優等生」を辞めてしまえば肩の荷が下りるかもしれない。 「LINEを全く見ていない人になってしまうのがいいかもしれません。または、ちょいちょい見てはいるけど、返事をめったに送らない人でもいいわけです。きちんと返事をするLINE優等生になろうとすると、ストレスを抱えることになるのです。仕事はちゃんとするけど、LINEに関してはダメな人という定評が広まれば、送る相手も期待しなくなります」(石原さん) ◆仕事でLINEを利用するなら冒頭2行に要点を  スマホの通知バナーに表示されるのは2、3行ほど。LINEで仕事の内容をやりとりする際、この2、3行で相手に内容が伝わるように要点を前に書いておくことも、送る側の配慮のひとつ。 「ちらっと表示される通知で内容がわかるようなメッセージを送るのがマナーだと思います。受けとった側は、その内容によって返事したり、スルーでもよければスルーしたりすればいいのです。通知に表示されるわずか2、3行に『お疲れ様です』とか余計な1行が置かれると、内容がわからなくてメッセージを開かなければなりません。まさか、それを見越して前置きを長くする上司はいないとは思いますが……」(石原さん)  メールならまとまった情報を送る人でも、LINEになると一言一言の対話形式になり、重要事項が決まるまでやりとりを続けなければならいといった煩わしさもある。 「仕事の内容を一言ずつ送ってくる人は、それが癖になっているのかもしれませんが、電話をした方がよっぽど早いと思うこともあります。いつ、どこで、何をといった最低限の内容を1つくらいしか書いていないなど、大事な情報が伝わってこないことがあります」(石原さん)   また、LINEだと対スマホ画面が基本なので、相手に向かって話しているという感覚が薄れがち。特に、40代・50代は、権力や地位を握ってからLINEなどのSNSを知った世代。SNSネイティブである若者がプライベートで使う感覚とはかけ離れた使い方を、若い世代に押し付けがちになる。 「かつてのモーレツ社員的な働き方は今ではダメだと是正される時代。残業なしで、ワーク・ライフ・バランスを推進する方向になっているはずですが、実際はSNSの発達によって24時間縛られる状況に陥った人もいるのではないでしょうか」(石原さん)  LINEがコミュニケーションツールとして重要になってくるにつれ、利便性を上回るストレス要因になることもある。LINEのやり取りで年下から「ウザい先輩」だと煙たがられる前に、節度のある利用を心掛けたい。 (AERA dot.編集部 岩下明日香)
dot. 2021/10/22 10:00
30歳でひきこもり脱却の男性の生きづらさ ドラッグストア品出し早朝バイトは「もっと早くやっておけば」
30歳でひきこもり脱却の男性の生きづらさ ドラッグストア品出し早朝バイトは「もっと早くやっておけば」
写真はイメージです(Getty Images)  中高年のひきこもりが社会問題となっている。長いひきこもり期間を経験しても、周りのサポートなどにより、再び外で働き始めることができるケースはある。就労は大きな一歩だが、それがゴールというわけではない。問題は、それを継続できるかどうか。社会生活に復帰して数カ月がたち、不安や悩みを抱えながら日々を送る吉野亮介さん(仮名、31歳)を取材した。 *  *  * 夜明け前、亮介さんは寝ている家族を起こさないようにそっと身支度をして、台所でバナナを一本食べて家を出た。外はまだ暗い。自転車にまたがると、ペダルを無心でこぐ。暑い日は汗が噴き出ることもあるが、人気のない道を走るのは快適だ。  亮介さんは朝3時に起き、4時には家を出るのが日課だ。アルバイト先のドラッグストアには自転車で片道約1時間。始発前だから仕方のない移動手段ともいえるが、電車に乗ることに不安がある亮介さんにとっては、自転車通勤も苦にならない。仕事は、朝5時すぎから10時までの「品出し」。働き始めてもうすぐ4カ月になる。これまで、遅刻や欠勤は一日もないという。早朝の通勤も含めて楽ではない仕事だ。 「たいしたことじゃないですよ。これくらいのことだったら、もっと早くやっておけばよかった。逆に後悔の気持ちが止まらなくて、キツイときもあります」  亮介さんは、「ひきこもり経験者」だ。  ◆ 30歳を機に「いよいよ何とかしなくては」  亮介さんは、小さいときからおとなしく、「暗い」「何を考えているかわからない」と言われる子だった。ときどき、人の話を理解できないことがあり、自分の気持ちを話すのも苦手。何か少しでも「失敗した」と思うと、頭が真っ白になってしまう。唯一、緊張せず話せる相手は母親だけで、「大丈夫、亮介は普通だよ」という言葉が心の支えだったという。  高校1年のときから不登校ぎみになり、家にひきこもることが多くなった。その後専門学校に入学したが、やはり途中で通えなくなった。だんだんと友人に会うこともなくなり、外に出かけることも少なくなった。何度かアルバイトをしたこともあるが、突然パニックになったり、言われたことがうまくできなかったりして、どれも続かなかったという。  30歳になるのを機に、「いよいよ何とかしなくては」と焦るようになった。ネットで、就労の困難な若者を支援している団体を探し、勇気を出して自ら連絡をした。  亮介さんが頼ったのは、「一般社団法人福岡わかもの就労支援プロジェクト」だ。「コーチ」と呼ばれる支援者との面談や、就労訓練を経て、2か月半後に就職活動を開始。面接では今までひきこもっていたことも正直に話し、「とにかく仕事がしたい」と伝えた。ほどなく、今の職場にアルバイトとして採用になった。 写真はイメージです(Getty Images)  亮介さんが担当する品出しは、基本的に開店前の仕事なので、接客をすることはほとんどない。コミュニケーションをとるのは職場の人たちだけだ。人との会話に自信のない亮介さんだが、幸い、理解のある優しい上司や同僚に恵まれて、今のところはなんとかやれているという。 「職場は60代くらいの人が多いので、安心感があります。自分から話しかけることはできないけれど、ときどき、『言い方がキツイ人もいるけど、気にしないで』『早く就職が決まるといいね』などと話しかけてくれるのがうれしいです」(亮介さん)  初めて給料をもらった日は、家族にプレゼントを買って帰った。父親には茶わん、母親には箸、姉には本の栞を。ふだんは寡黙な父親が、「もったいなくて使えないね」と言って微笑んでくれた。 ◆「今も、生きているのはつらいです」  端からみると順調に社会復帰を果たしているように見える亮介さんだが、本人は決してそうは思っていない。  失敗をして怒られたり、うまく会話ができなかったりと、自分のふがいなさに落ち込むこともしばしばだ。体力には自信があったのに、帰宅後はぐったりして何もできなくなることもある。 「毎日、自分のやるべきことをこなすだけで精いっぱい。周りから『次は正社員』といわれても、自信はないし、新しいことに挑戦したり、やりたいことを考える余裕は全くないです」(亮介さん)  亮介さんが自信を持てない大きな理由のひとつは、「強迫行為」と思われる自身の行動に若いときから悩まされてきたことも大きい。強迫行為とは、無意味で不合理であると自覚しながらも、意志に反して、一定の行為を繰り返してしまうことをいう。亮介さんの場合は、スマホのスクロールなどを延々と続けてしまうことがよくある。ひたすら歩くことがやめられなくなったり、電車で降りる駅に着いてもまた引き返してしまい、乗り続けてしまったりすることもあるという。 写真はイメージです(Getty Images)  もうひとつの悩みは、子どものころから、授業の内容が頭に入らなかったり、人から何か言われても「流れてしまって」理解できなかったりすることだ。テレビを観ていても、言葉が頭に入らないので楽しめない。  お店で品出ししているときにも、たまに客から突然話しかけられると焦ってしまう。「こういう商品が欲しい」と言われても、あまり内容を理解できないので、すぐに担当者を呼びに走る。  友達はいない。子どものころ仲良くしていた友達にも、「こんな自分と話しても楽しくないだろうと思って」連絡できずにいる。  思い切って心療内科を受診してみたこともある。医師に、「一度ちゃんと検査をしてみては」と勧められたが断った。もし「発達障害」などが検査によって明らかになれば、障害者枠での就職の可能性や公的な支援があることもわかっているが、自分がその事実と向き合うことができるのか、よくわからない。 「今も、生きているのはつらいです」と亮介さんは言う。  実は、社会生活へ踏み出すことができても、亮介さんのように「生きづらさ」を抱えるひきこもり経験者は実は少なくない。  たとえば、今年6月に刊行された「ひきこもり白書2021」(一般社団法人ひきこもりUX会議)で紹介されている調査結果。2019年秋に実施した調査で、6歳~85歳、北海道から沖縄まで全都道府県から1,686名ものひきこもりや生きづらさを抱える人々が回答している。「あなたは生きづらさを感じたことがありますか」という設問に対して、「過去にひきこもりだったことがあり、現在はひきこもりではない人」のうち、「現在生きづらさを感じる」と答えている人は80.7%にのぼっている。 ◆ 人が、居場所になる  社会生活を送るうえで、不安や悩みは相変わらずある。けれど、亮介さんは少しずつ確実に前進しているようだ。取材でも、回を重ねるごとに表情が豊かになり、会話がスムーズになってきたのを感じた。  何よりも、亮介さんにはいくつもの「居場所」がある。  亮介さんのたったひとつの趣味は、18歳のときに始めたボクシングだ。週1回汗を流すのは気分転換になるという。途中休んだ時期もあったが、同じジムに通い続けて10年以上。今でもジムのスタッフや生徒たちの会話には入っていけないし、話しかけられてもうまく返すことができない。だから、あいさつ以外に言葉を交わすことはほとんどない。しかし、たとえ会話がなくても、ボクシングジムに行けば一緒に汗を流せる仲間がいることは大きい。  何よりいつも穏やかに見守ってくれる家族がいる。毎日仕事が終わるころには、母から「おつかれさま」のLINEスタンプが届く。家に帰ると、食卓にはおにぎりが置いてある。シャワーを浴びてからおにぎりを食べるのは、ホッとするひとときだ。 写真はイメージです(Getty Images)  最近飼い始めた猫も、心を癒してくれる存在だ。あるとき道路の真ん中に倒れているのを、父が見つけて病院に連れていったのがきっかけだ。猫は毎朝3時ちょうどに部屋にやってきて、亮介さんを起こしてくれるのだという。  職場の人たちも、毎朝亮介さんを待っている。「一般社団法人福岡わかもの就労支援プロジェクト」での定期的な面談は終了したけれど、「困ったことがあったら、いつでも来なさい」と言ってくれるコーチとはラインでつながっている。  私も亮介さんの居場所のひとつになりたくて、ライン友達になってもらった。亮介さんから初めての返信には、こんな言葉があった。 「朝の自転車通勤中に見上げる夜空の星は、いつもきれいです」 (取材・文/臼井美伸) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/1965年長崎県佐世保市出身、鳥栖市在住。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。ペンギン企画室代表。http://40s-style-magazine.com『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_fJ-iFbNRFF3CW
ひきこもり
dot. 2021/10/21 10:00
自宅と施設の中間「小規模多機能」で在宅介護をあきらめない! 実体験ルポ
自宅と施設の中間「小規模多機能」で在宅介護をあきらめない! 実体験ルポ
※写真はイメージです  両親の介護をする際、どこまで在宅でできるのか悩む人は多い。嫌がる親を無理やり施設に入れることはしたくない。でも、在宅で頑張って体を壊しては元も子もない。じゃあどうすれば──。実は両者の中間のような方法があることはご存じだろうか? *  *  *  記者(52)は現在88歳の父(要介護3)と82歳の母(要介護5)を介護中だ。枠組みでいうと「在宅介護」に入るが、実際は両親とも施設と自宅の両方で過ごしているといったほうがいい。  この施設は、在宅を希望する記者にとっては、最も大きな助けになったので、詳細は後述するが、そのおかげで仕事をしながら実家に通い、介護をしている。  今の形になるまでには紆余曲折があった。両親を完全に施設に入れたこともあったし、在宅か施設かで姉妹でぶつかっていた期間もあったが、結果的に両親が望んでいた在宅という形にできた。  介護の仕方や考え方は人それぞれ。置かれた状況も違うので、どこまでが在宅でできて、どこからが施設なのかの明確な線引きはできない。  今回、記者がここに至るまでにどんなことが起きて、どういう選択をしたかなどの経緯を紹介することで、「できれば在宅」を模索している人の参考にしていただきたい。 「2人同時に入れるからこれしかないよ」  昨年3月、姉が、新規で開く特別養護老人ホーム(以下、特養)を見つけてきて、そう言った。都内の一軒家の実家で暮らす両親を、安全な施設に入れたいと思っていた。  きっかけになったのは一昨年11月。母が玄関で転び、頭を打ったことだった。母はその日を境に、急激に歩けなくなった。  もともと両親は介護保険による介護と看護のサービスを利用していた。食事や掃除、洗濯といった生活介助から、看護師による入浴介助などだ。母が歩けなくなり、父の認知症も進み、夫婦での通院が難しくなると、夫婦そろって在宅診療にシフトし、月2回の往診医による健康観察や薬剤の処方、注射などを受けるようになった。  しかし、母の転倒の頻度は増え、父はそれに気づいても対応できず、おろおろするばかりで救急車を呼ぶことすら難しい。 ※写真はイメージです (c)朝日新聞社  記者にとっても不安の日々が続いた。母の電話の様子が普段と違うと、夜中にタクシーを飛ばして実家に向かった。午前2時、3時に家に入り、両親の寝息を確認してから明け方までソファで眠り、両親には「朝方に来た」とウソをつくことも。同居も考えたが、近すぎるとぶつかる気がしたので、頻繁に顔を出すことにした。だが疲れや不安もたまっていった。  そうした状況が続いていたある日、当時のケアマネジャーが「在宅介護はそろそろ限界なのでは」とやんわりと施設への入所を促してきた。そこから、冒頭の特養の話になった。  一日も早く施設に入れたい姉と、一日でも長く家にいさせたい記者。数カ月も話し合った末、最後は記者が折れた。「24時間だれかの目があるというのはやはり安心なのだろう」と言い聞かせた。施設にいたほうが安全だと考えたからだ。嫌がる両親を3カ月かけて説得した。父は前日まで「この家にずっといたい」と記者に泣きついた。  特養のロビーで両親と別れた後、実家に戻った。リビングに入ると、脱ぎ捨てられた父のパジャマや、飲みかけの状態のコップが目に入った。2人はこの家に帰ってこられるのだろうか。とてつもない不安と罪悪感で胸が締め付けられた。本当にこれでよかったのだろうか。それ以来、実家に帰るたびに自問していた。  しかし、両親は1年も経たずに退所することになる。期待した看護や介護を受けられなかったことが大きな原因だった。  コロナ禍で面会もできず、通院で会うたびに衰えていく両親を見ていられなかった。姉と相談し急きょ、「看護小規模多機能型居宅介護(看護多機能)」の事業所へ移すことにした。これがどんな事業所かを説明する前に、「看護」がつかない「小規模多機能型居宅介護(小規模多機能)」について説明しておきたい。  認知度はいま一つだが、「在宅」か「施設」かで頭を悩ませている人にとっては使い勝手が良く、試してみることをおすすめする。  介護保険制度改正により2006年に創設された地域支援事業の一つだ。施設へ通う「通所介護」を中心に、利用者の希望などに応じ、居宅への「訪問介護(ホームヘルプ)」、短期間の「泊まり(ショートステイ)」を組み合わせて利用できる。  特徴的なのは、これらがすべて一つの事業者で行われる点だ。利用できる人数は、一事業者29人以内と定められているので、家庭的な雰囲気が特徴でもある。厚生労働省によると、利用料は1カ月単位の定額制で、要介護1で約1万円、2で約1万5千円、3~5は約2万2千~約2万7千円となっている。そのほか、食費や宿泊費、おむつ代などの日常生活費は利用者負担となる。事業所によっては、「訪問体制強化」「看護職員配置」「認知症」といった各種加算がかかるので、詳細は各事業所に確認していただきたい。事業所数は全国に約5500カ所(20年時点)ある。  実際、どのような生活パターンの人が利用しているのか。NPO法人「全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会」事務局長の山越孝浩さんが話す。 「たとえば夫婦共働きで、日中の介護が不安な方が、出勤前の午前8時に事業所にお母さまを預け、仕事帰りの午後8時にお迎えに来るという方もいらっしゃれば、通いは少なく、訪問が中心の方、週末だけお泊まりの方など、それぞれの生活によっていろいろです」  逆に夜間が心配な人は、日中は家で家族が介護をし、夕方から「泊まり」を利用することも、週末だけ預けて、息抜きをすることもできる。事業所内にある泊まり用のベッドに「空き」があれば可能だ。  事業所のケアマネジャーが家族の要望を聞き、他の利用者の状況をみながら弾力的に組む。一度作ったケアプランどおりに動くのと違い、臨機応変に利用者や介護者の状態に合わせて事業所に通ったり、泊まったりできる。  東京都調布市の「小規模多機能ケアハウス絆」の管理者、安川誠二郎さんは、「在宅で暮らす認知症の人が、何かをできなくなってくると、たいていのケアマネジャーが施設入所を促してしまう」と指摘し、こう話す。 「認知症の人は場所に対する変化に弱いので、すごく混乱します。施設か在宅か、その中間に小規模多機能があると考えてほしい。薬の服用とか見守りとか、一日に数回の訪問介護や看護を入れることで在宅でも安心して暮らせるようになるはずです」  次に、記者の両親も利用している看護多機能だが、基礎疾患がある人や、体調の急変が心配な人が利用するのに向いている。  高齢者住宅・施設を全国展開する「学研ココファン」は今年4月、看護多機能を「ココファン南千束」(東京都大田区)内で始めた。エリア責任者の坂入郁子さんは、コロナ禍のようなときは特に、看護多機能の存在意義が大きいと話す。 「たとえば入院中に胃ろうを装着した患者さんの退院後のご自宅での対処の仕方については、コロナ禍では面会制限があるので病院で十分にできません。そんなとき、看護多機能ならば、看護師が訪問して指導ができるから役に立ちます。結果的にご家族の負担の軽減につながります」  利用者にとっては、訪問看護の予定日ではない日に転倒や体調不良などで不安になったとしても、その日に相談ができるため安心につながる。逆に訪問介護や看護の予定日でも「今日は体調が良いので通所に変更します」というのもできる。  在宅療養支援クリニック「かえでの風 たま・かわさき」(川崎市)院長の宮本謙一医師は、看護多機能についてこう話す。 「血糖測定やインスリン投与、持続点滴や胃ろう、たんの吸引、尿カテーテルや経鼻胃管、ドレナージチューブなどの医療処置があり、『最後まで在宅で』という方も『自宅でも施設でも良い』という方も柔軟に活用できます」  そもそも看護多機能が生まれたのは、「家で最期まで暮らしたいと願っているのに、医療の不安から在宅療養を中断してしまう」という視点からだという。  日本看護協会副会長の齋藤訓子さんは言う。 「小規模多機能だと、いわゆる医療依存度が高い人はなかなか受け入れられない。そこであの枠組みの中に看護を入れたら依存度の高い人でも受け入れることができるのではないか。それでできたのが看護多機能でした」  施設と在宅とのいいとこどりとも言える。家に帰りたいときは帰れて、泊まりたいときは泊まれる。介護者の事情や、本人の希望に沿って、柔軟に決められる。  小規模多機能と看護多機能の両方を運営する、つつじケ丘在宅総合センター社長で看護師の金沢二美枝さんは、「寝たきりの人であっても看護多機能の24時間365日提供可能な介護や看護サービスをうまく利用すれば、一人暮らしが可能です」と話す。  瀕死(ひんし)の状態で病院から運ばれてきた母は、寝たきりではあるが、周囲も驚く回復を見せている。病院から移ってきた当初は、言葉は発せられず、意識低下が見られ、酸素吸入していた。しかし、1カ月ほどで母の意識はしっかりしてきた。看護多機能に来てから約半年。今の母は施設入所前にあった幻視もなくなり、1年前よりさえているほどだ。笑う回数が増え、声も大きくなり、顔色も良くなった。  当時の薬剤師から、「産婦人科以外は全部かかっているのでは」と言われるほど大量にのんでいた薬も一切のまなくなった。  常に看護が必要な状態ではあるため、泊まり利用が多くなっているが、父も含め、2人の体調が安定したらもっと頻繁に家に帰る時間を増やしてあげたいと思う。本来、看護多機能は「在宅」がベースのサービス。泊まりを少なくして家にいる日数を増やすべきだからだ。  9月に父は米寿になった。昨年の誕生日は特養で、面会もできずケーキを届けただけだったが、今年は家で祝うことができた。父は言う。 「もう少し、頑張るよ」  特養にいたころ、通院に連れ出すと「生きてて、ごめんな」と言っていた。そんな父が「頑張る」と言うのだ。  今、父は母と同様に看護多機能の泊まりを多く利用しているが、時々実家に戻ると、時間の感覚を失うせいか、たった2泊でもずっと家にいる感覚になるようだ。 「やっぱり家はいいね。ありがとう、ありがとう」  そう言われると、1年前の罪悪感が薄れる。(本誌・大崎百紀)※週刊朝日  2021年10月22日号
介護
週刊朝日 2021/10/19 17:00
黒歴史暴露も…離婚&独立の前田敦子が「強いシンママ」にキャラ変
丸山ひろし 丸山ひろし
黒歴史暴露も…離婚&独立の前田敦子が「強いシンママ」にキャラ変
前田敦子(C)朝日新聞社  女優の前田敦子(30)が10月13日にフォトエッセー「明け方の空」(宝島社)を発売し、東京都内で刊行記念イベントを開催した。4月に離婚した元夫・勝地涼について聞かれると、「休みのタイミングが合ったら、(子どもと)3人でどこかに行ったり、ご飯を食べたり、すごい仲良しなお友だちみたいな感じです」と、良好な関係であることをアピール。そして、明石家さんまと大竹しのぶのような関係になることが理想だと打ち明けた。  一方、勝地も10月10日に放送された「行列のできる法律相談所SP」(日本テレビ系)で、「今日も(親子)3人でランチ食べてきた」と仲が良いことを告白。バラエティー番組に出演した際、離婚の話にもなることについては、前田が「実際に3人で過ごしたりしてるんだから、隠さないでいいんじゃない」と言ってくれたという。そんな2人の関係はSNS上でも話題にのぼり、「親が子供にお互いの悪口言うよりは全然いい」など、おおむね好意的に捉えられているようだ。  離婚後の生活を赤裸々に語るようになった前田だが、最近ではアイドル時代のぶっちゃけエピソードも披露している。週刊誌の芸能担当記者は言う。 「昨年末に所属事務所を退所したこともあり、前田さんはこの1年で環境が激変しました。10月7日放送の『櫻井・有吉 THE夜会』では、元AKBの高橋みなみと出演し、AKBのエースだった当時について、『ピリついてたという実感はすごいある』と振り返っていました。さらに、サプライズで前田の誕生日を祝ったときの話を高橋が披露。板野友美が提案したそうですが、みんなで『おめでとう!』と言うと、前田はケーキのろうそくの火だけを吹き消し、『じゃあ帰ります』と去ってしまい、板野が号泣したとか。そんなドン引きするようなエピソードにネット上では、『非常識にも程がある』と厳しい声もありますが、意外にも『黒歴史として語れる大人は強い』など共感する声もあったんです」  6月にもバラエティー番組で、AKB48時代の16歳に初めて恋愛をしたことを告白していた前田。しかし相手に裏切られ、精神的にショックを受けたことで秋元康に相談。結果、AKB48は「恋愛禁止」になったと衝撃の事実を披露したこともある(「突然ですが占ってもいいですか? 2時間SP」・6月23日放送)。 ■「顔のパーツが真ん中にある」と自虐  過去の暴露以外でも、前田は自ら体を張るようになった。「有吉ゼミ」(日本テレビ系、4月12日放送)では、人気企画の「超激辛チャレンジグルメ」に登場し、「激辛とろみ! 紅の蒸し鶏あんかけ麺」に挑戦。あまりの辛さに一口目でむせて麺を吐き出してしまうも次々と食べ進め、完食を目指してチャレンジ。途中でギブアップしてしまったが、アイドル時代とは違う体当たりぶりだった。 「10月5日に放送された浜田雅功がMCを務める『ごぶごぶ』では、前田が『浜田さんと顔似てるってすごい言われるんです』と言い、浜田も『分かる、2人ともパーツが真ん中にある』と賛同。さらに、前田が『顔替えアプリをやってみたい』と、実際似ているのかを検証していました。アイドル時代は『パーツが真ん中にある』なんて、絶対に言えなかったし、誰も指摘できなかった。今や事務所の後ろ盾もないので、シングルマザーとして、新しいことにチャレンジしなければいけないということなのでしょう」(前出の記者)  ぶっちゃけエピソードや体当たりのチャレンジの裏には、前田本人も認めるメンタルの強さがあるようだ。テレビ情報誌の編集者は言う。 「前田さんは『自分で勝手に落ちたりしない』とインタビューで明かしていました。特に仕事に関しては『もうダメだ』とは絶対にならないそうで、『打たれ強い』と自身の性格を分析しています。特にこの1年は過去のカッコ悪かった自分を話したり、体も張ったりと、人間的に一皮むけそうな気がします。そうした姿はたくましくて強い女性という印象に繋がり、ジワジワと共感を得ることになれば、女優としての需要も高まってくると思います」  ドラマウオッチャーの中村裕一氏は、前田の女優としての魅力をこう語る。 「前田さんは女優としてのキャリアも実は長い。佐藤健主演の『Q10』では未来からやって来たロボット、主演作『毒島ゆり子のせきらら日記』では恋愛に奔放な政治記者、『伝説のお母さん』では主人公でワンオペ育児中の魔法使いをそれぞれ好演しています。そして、現在放送中の片桐はいり主演の『東京放置食堂』では純白のウエディングドレスを着て結婚詐欺に遭った女性を演じるなど、役の幅も広い。女優としては、むしろ離婚したことでリミッターが外れて自由になり、今ならどんな役でも果敢にチャレンジできるようになったのではないでしょうか。かつてその負けん気の強さでAKBグループを牽引した“マエアツ無双”を演技の世界でもぜひ見てみたいです」  離婚、独立をへて人間的に成長した前田は、今後、女優としても一皮むけそうだ。(丸山ひろし)
シングルマザー前田敦子勝地涼離婚
dot. 2021/10/19 11:30
汚部屋を脱出したら、毒親からも卒業できた
西崎彩智 西崎彩智
汚部屋を脱出したら、毒親からも卒業できた
キッチンのカウンター下はなんとなく置かれた書類や小物がいっぱい/Before  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.10 片づけたら母も息子も自分が大好きになった(夫+子ども1人/会社員)  物を捨てることが苦手で片づけを後回しにするうちに、家の中が物であふれ、安心して暮らすこともできなくなって、心に影響が出ている人を多く見てきました。  今回ご紹介する女性も、もともとは明るい性格。子育て、子ども会の役員、仕事と慌ただしい日々の中、部屋に物が増え、だんだん窮屈になって、焦りと不安で余裕がなくなったと言います。  明るい自分でいられる職場は彼女にとって“逃げ場”。大切な居場所だからこそ、評価してもらうためにがむしゃらに働き、残業する日も多かったとか。家事はますます回らなくなりました。  帰宅してバタバタと食事を作り、洗濯はなんとかするけど、ほかはまったくやる気が起きず自己嫌悪。そんなときほど息子のできていないところが目について怒鳴ってしまう。息子は「ママごめん、俺のせいで」と謝ってばかりいたそうです。  気がつけば息子は「どうせ俺なんか……」が口癖で、すぐに卑屈になり、友だちと遊んでいても疎外感を抱くようになりました。学校でトラブルを起こすことも、増えていきました。  ある時、息子が友だちに仲間外れにされたと言うので、彼女がその友だちのママに伝えると、逆に「母親がしっかりしないと、子どもも変わらないよ」とキツく言われてしまいました。子どもの不安定は母親の影響だと見抜かれたのです。  他人に痛いところを突かれボロボロになったとき、彼女の家もかつてないほど荒れていました。一年前はまだ、4LDKの一部屋をつぶして物を押し込めば人を呼べたのに。「やっぱり変わらないといけないのは自分かも」と思いはじめたときに、プロジェクトのお知らせを目にしたのです。  彼女が参加したのは、ZOOMを使ったオンライン講座でした。大人数でのオンラインの片づけを成功させるために、朝6時から集中して片づける「朝活」にトライした講座でした。 収納ごと手放しスッキリ。ダイニングが明るいと家族に笑顔が増えるんです/After  彼女は、朝活で一番のコンプレックス「物を捨てられない」を克服すると決心。毎朝4時に起き、朝活がはじまる2時間前からごみ袋にいらない物をまとめました。教わった通りにやってみたら「いつか使うかも」とちゅうちょしていた物もあっさり手放せた。出勤前という時間制限のほか、私やみんながいる強制力に後押しされたようです。 着なくなった服600着は各部屋に散らばっていた/Before 「毎日、夜逃げの勢いで家から物を出しました。きっとご近所さんには不審がられていたと思います」と話す彼女が家から出した自分の服、なんと約600着。片づけるうちに、現実が見えてきました。  自分の服が多すぎたせいでちゃんとした収納ができなかったのに、「片づけなさい!」と息子を叱っていた。クロゼットを整理したら、次の日から息子は上着を自分でかけるようになりました。「自分を棚に上げて怒ってばかりでごめんね……」と猛省。  いろんな思いがめぐりました。お店を営む忙しい両親に甘えられない寂しさから、「自分の子どもには決して寂しい思いをさせない、いつも笑って子どものそばにいる優しいお母さんになる」と決めていたのに、全然そうなってない。冷蔵庫を整理しながら泣いたこともありました。 「今からでも遅くない、絶対に変わる!」 夜逃げの勢いで服を手離したら、息子の机を置くスペースが生まれた/After  ずっとお願いされていた息子の学習机を置くスペースを作っるために、朝も夜も、片づけ続けました。  ある晩は、食事中にウトウトしてみそ汁に顔を突っ込み、息子に「子どもかよ」とツッコまれるハプニング。夜に弱いママは、強制シャットダウンするほど頑張ったんです。  部屋がきれいになるにつれて、自信が出てきました。人生で初めて片づけが楽しいと思えたそうです。会社で仕事中も、「早く帰って片づけがしたい」「今日はどこを片づけよう?」と考えていたんですって。  ついに45日間でおもちゃや洋服でいっぱいのリビングは、家族がくつろげる憩いの空間に変身。一度きれいになると物が出しっぱなしになることはなく、別世界で暮らしているみたい。「あんなにイライラしていたのは何だったんだろう?」と思うくらい、息子に怒鳴ることもなくなりました。 夫と息子からのプレゼント。いまは「ありがとう」が飛び交う家庭に/After  すると親子関係が大きく変わりました。息子は学校であったことを教えてくれるし、甘えてくれる。先生に「友だちが教室で騒いでいたとき、彼の声かけでみんなが助かったんですよ」と言われるくらい、人と堂々と関われるようになりました。  優しい夫はこれまでも言えば協力してくれたけど、今は言わなくても夕食後の後片づけをしたり、子どもの宿題を見てくれたり。以前とはいろんなことが変わっていきました。  仕事でも、必死でやらないと必要とされなくなるという不安が消えて、もう十分に認めてもらえていると気づけた。人事考課面談ではミスが減ったと評価され、大変なことは率直に言えるようになり、人を増やしてもらえた。後輩と分担ができて、無駄に残業することもなくなったそうです。「自分の自己肯定感が下がっていると、周りを信頼できないと気づいたんです。息子に対してはまさにそう。自分を責めるほど、息子の欠けている部分に目がいっていました。自分を認められたら、相手のありのままを受け入れられるんですね」と彼女は言います。今では、息子の友だちのママに感謝の気持ちでいっぱいです。  家庭力アッププロジェクトでは、実施の前後に「自己評価シート」を書いてもらいます。自分につける点数の差にみんな驚くのですが、彼女は開始時が52点中18点、終了時は48点!倍以上の差がありました。自分で片づけたからこそ自分を認められたんです。 「自己嫌悪でいっぱいだったときは、外面ばかりよくして家族を見る余裕がありませんでした。でも大切にすべきは一番近くにいる家族だって本当にわかりました。お家に空間が生まれたことで、心にもスペースができて、家族への愛情があふれ出してきちゃったんです」  私は「家事はラブレターだよ」とよく言うのですが、彼女は今、家族との関係を守るためにちょっと部屋が散らかったら、すぐにリセットする習慣を最優先にしているそうです。身近な家族との関係が整った今、離れて暮らす高齢の両親のことも、もっと大事にしていきたいと話してくれました。 ◯西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2021/10/18 07:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
〈地方に赴く皇族方〉佳子さまの絶妙なセルフプロデュース力「強い意思を感じる」皇室番組放送作家
佳子さま
dot. 11時間前
教育
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
静かで透明で、寄る辺がなくて……でもときどき意表をつく鋭さと洞察が 劇壇ガルバ「ミネムラさん」
AERA 6時間前
エンタメ
春風亭一之輔、スズムシは心地いいけど、蚊やゴマダラカミキリムシはちょっと……「ぷーん」と「ギジギジ」なんで
春風亭一之輔、スズムシは心地いいけど、蚊やゴマダラカミキリムシはちょっと……「ぷーん」と「ギジギジ」なんで
春風亭一之輔
dot. 5時間前
スポーツ
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
〈「ニノさんとあそぼ」出演〉 阿部詩の「号泣」に賛否両論、嫌悪感を持つ人はなぜ増えた
阿部詩
dot. 2時間前
ヘルス
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子“カラス天狗化”で露見した「ボトックス」のリスク 町医者の副業、自己注射まで…美容外科医が警鐘
高嶋ちさ子
dot. 12時間前
ビジネス
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
田内学の経済のミカタ
AERA 10/5