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10分で届くスーパー「OniGO」が登場 1年後に100店舗を目指す
渡辺豪 渡辺豪
10分で届くスーパー「OniGO」が登場 1年後に100店舗を目指す
注文が入ると同時に、ピッカーの端末に商品の情報が表示される(撮影/工藤隆太郎)  注文して10分以内に商品が届く。夢のようなスーパーができた。高齢化やコロナ禍で増える宅配のニーズを、ITを駆使して効率化した。AERA 2021年9月20日号から。 *  *  *  注文から10分以内に商品を届けるネットスーパーが東京・目黒に誕生した。「即配」を売り物とするこの店は「OniGO(オニゴー)」。「鬼ごっこ」のように楽しく、また「鬼速」で届けるという意味も込めたという。オープン翌日の8月26日、東急東横線の学芸大学駅近くにある1号店を訪ねた。  自動車販売店が軒を連ねる目黒通り沿い。外車のショールームだった建物に店があった。といっても、お客が入れるわけではない。商品棚や冷蔵・冷凍庫が並ぶ物流センターなのだ。約130平方メートルの広さに、生鮮食品やお菓子、ドリンクのほか、洗剤やオムツなどの日用品も含め約1千種が並ぶ。  お客は専用アプリを使って商品を注文する。決済もスマホで行い、商品代のほかに宅配料金が300円かかる。“店内”には、パソコンで注文や配送状況をチェックする人や、「ピッカー」と呼ばれる商品の収集・梱包(こんぽう)担当、配達を担うライダーら10人足らずのスタッフが、注文に備えて待機している。 棚で注文品を見つけたら、小型の読み取り機でスキャン。間違えたらエラーが出る仕組みだ(撮影/工藤隆太郎) ■秒単位で作業を管理  筆者が訪ねたのは昼下がり。直前に注文が入り、店内には張り詰めた空気が流れていた。店に入ると、すれ違いざまにライダーの男性が電動アシスト自転車で軽やかに店を後にした。注文からほんの数分の早業だ。  一連の流れは秒単位で管理されている。パソコンの記録を見せてもらうと、お客が「11時55分57秒」に注文ボタンを押した。それと同時に店内のブザーが鳴り、ピッカーが腕に装着した端末に、商品の画像と、棚の番号が表示される。  今回の注文は「調整豆乳とカフェボトルコーヒー」。ピッカーが商品を集めて梱包するまで1分足らず。担当の女性は「商品が多い場合でも2~3分以内の梱包を目標にしています」と説明する。 OniGOの商圏は店から1~2キロ。ライダーが商品を受け取ると、電動アシスト自転車に乗って注文先に届ける(撮影/工藤隆太郎) ■商圏は半径1~2キロ  お客が初回登録と決済を終えたのは「12時8分25秒」。それと同時に、ライダーが配達に出る。お客のアプリには、ライダーの名前と、「今から商品をお届けします」というチャットのメッセージが流れる。  配達先は店から約1キロ離れたマンション。ライダーが玄関前に到着すると店に通知する。時刻は「午後12時15分47秒」。支払い手続きの完了から到着まで7分強。10分以内でミッション完了というわけだ。  この日の都心は最高気温36度の猛暑だった。だが、配達から戻った男性は額に汗も浮かばせず、「戻りました」と元気な声を店内に響かせた。 「即配」のカバー範囲は店から半径1~2キロ。10分以内に自転車で配達できるエリアを実際の交通状況に応じて設定した。1号店の販売対象は約5万世帯。世帯年収が比較的高く、子育て中の家庭が主なターゲットだ。坂道が少ないことも適地と判断する理由の一つになった。  OniGOの最高経営責任者(CEO)を務める梅下直也さん(44)は「これだけ狭いエリアに住宅が密集している街は世界でも稀有(けう)です。首都圏は商圏として優位性があると見込んでいます」と自信を見せる。  OniGOのビジネスモデルは「ダークストア」といい、お客を店に入れないことから「表に見えない店」という意味がある。コロナ禍の欧米や中国で急速に広まりつつある新業態だ。OniGOは、商品のピックアップや在庫管理、注文や配達のシステムをすべて自社で開発した。梅下さんは言う。 「コロナ禍以降、フードデリバリーが一般化し、ネットスーパーの市場が拡大している今は食品通販の潮目と考えています」  シンクタンク「矢野経済研究所」の調べでは、2020年度の食品通販の市場規模は4兆円超の見通し。OniGOは、とりわけ即配ビジネスが急速に伸びるとみており、25年には2兆円規模に膨らむと予測する。「国内初の即配ビジネスの専業事業者として、リーディング会社になることを目指しています」(梅下さん) 梅下直也(うめした・なおや)/1977年、横浜市生まれ。東京大学経済学部卒。2002年、三井住友銀行に入り、その後独立。21年にOniGO創業(撮影/工藤隆太郎)  仕事や家事、介護など多忙な生活を送る人や、スーパーから重い荷物を持って帰るのを負担に感じる高齢者たちにとって、宅配のニーズは高い。すでに宅配に取り組んでいるスーパーもあるが、配達時間が2~3時間の幅で設定されていることが多く、不便を感じる人もいる。ほしい時に、必要な分だけ食品を受け取れるようになれば、買いだめせずに済み、家庭の食品ロスも発生しにくくなる。 ■1年後に100店展開  OniGOは年内に、1号店の近隣に25店を出す計画だ。1年後には100店の展開を目指す。店舗ごとの商圏が狭いため、地域密着型で顧客のニーズに細かく対応していく。1号店では、地元の米穀店から仕入れたお米や、「ミシュランシェフ」が手掛ける低糖質の冷凍弁当も販売している。  これまでに「食後にアイスクリームが食べたい」「夜食にラーメンが食べたくなった」という理由で注文した人や、自宅のパーティー中にドリンクやつまみを発注した人もいた。  開業してまだわずかだが、「すごい、本当に10分で届いた」「ママ友に紹介する」といった声も寄せられている。梅下さんは「大事なのは、リピーターを増やすこと」と強調する。 「一度利用した人に満足してもらい、また使いたいと思っていただけるかが、このビジネスの一番大事な肝だと思っています。地域のお客様に向き合い、受け入れられるサービスを、日本全体に提供できるようになりたいです」  OniGOは年中無休、営業時間は午前10時~午後10時。配達圏外の場合でも、アプリに住所とメールアドレスを入力しておけば、圏内に店がオープンした時に通知してもらえる。(編集部・渡辺豪)※AERA 2021年9月20日号
AERA 2021/09/16 11:00
カンニング竹山が見た、喋った河野太郎さん、高市早苗さん、岸田文雄さんのリアルとは?
カンニング竹山 カンニング竹山
カンニング竹山が見た、喋った河野太郎さん、高市早苗さん、岸田文雄さんのリアルとは?
カンニング竹山さん(撮影/今村拓馬) 左から岸田文雄前政務調査会長、高市早苗前総務大臣、河野太郎規制改革担当大臣(C)朝日新聞社 ポスト菅を選ぶ自民党総裁選挙は、岸田文雄前政務調査会長、河野太郎規制改革担当大臣、高市早苗前総務大臣が立候補を表明し、17日の告示を前に石破元幹事長が不出馬へ。お笑い芸人・カンニング竹山さんは、そんな総裁選にいろいろと思うところがあるという。 *  *  * 自民党総裁選の報道に色々な意見があって、そのひとつは、野党支持者が多いのかもしれないけど、「自民党総裁選のことばかりメディアも取り上げるなよ」という意見。確かに、自民党を応援していない人からしたら総裁選なんて関係ないですよね。関係ないというか、毎日毎日「なんだよ!」ってなりますよね。でも、衆議院議員選挙も控えていて、総裁選で選ばれた人が首相になる可能性があるからじゃないですか。次の首相が誰かっていうのをやっているから、盛り上がる様相はありますよね。 野党が党代表選挙をやったらどうなるか? さほど盛り上がらないですよね。例えば、立憲民主党の党代表の選挙があり、その後に衆議院選挙あったとして、今回の自民党総裁選ほど盛り上がるかといえばそうではないだろうと思う。政権奪回とかをスローガンに掲げてやるだろうけど、盛り上がらない。自民党は、衆院選を控えているこの時期といい、盛り上がる要素を持っているということですよね。 よくよく考えたら、自民党総裁選が盛り上がるのは正しい事だと思うんです。民主主義の正しいありかただから。総裁選の裏で派閥がなんだとかは置いといて、ちゃんと選挙で代表を選ぶわけじゃないですか。共産党や公明党の代表は選挙で選ばれない。共産党は話し合いで決まり、任期も決まっていない。共産党の代表って、だいたいずっとやっている。民主主義の世の中で、代表を選挙によって決めていないのは、それはそれでおかしなことではないか? 別に僕は自民党寄りなわけではないですよ。自民党に文句を言っている党もあるけれども、その前に代表は選挙で決めるべきじゃないの?  メディアで自民党総裁選がこれだけ報じられるのは、自民党にとっても時期がいいのと、需要と供給のバランスが取れているからでは。総裁選に立候補している人たちは、自民党員票が欲しいからメディアで自分の顔と名前を売りたいんですよね。自民党員なんて国民全体からしたらほんのちょっとしかいないわけですけど、全国各地津々浦々に散らばっている自民党員に自分の顔と名前を売るのは、やっぱりメディアに多く出るのは手っ取り早い。こぞって、立候補者みなさんがメディアに出ていますよね。 インターネットメディアにも出てくれて、今週土曜深夜の「カンニング竹山の土曜TheNight」に岸田さんが出演してくれて2時間話しました。ABEMAprimeには河野さんが出てくれました。政治番組を始め、夜のニュース番組、昼のワイドショーなどにリモートやスタジオで出ているけど、明らかに全国に名前を売りたい、自分の主張を伝えたいというのはありますよね。インターネットメディアに出てくるのは、しっかり自分の主張を話せるというのと、インターネットを見ている人が多く影響力があるメディアと認められてきている。 メディアで取り上げても普段はあまり読まれない、視聴率が取れない政治ネタが、今回の総裁選は読まれる、数字が取れるのであれば、もっと取り上げようとなるわけじゃないですか。そういう意味で、今回の総裁選は需要と供給のバランスが取れている。ただ、自民党総裁選一色にメディアがなってしまうのは、あまりいいこととは思っていません。 が。 TBSの「news23」で河野さんが「派閥っていうのは、政治記者が面白おかしく取材していくうちに作られている。実際は、派閥で何票とか現場が動くことはない。派閥って報道したほうが面白いから政治記者はすぐにそうしたがる」と話していたことが面白かった。確かに、そういうところはすごくあると思った。田中角栄時代の派閥は、陸山会だ、宏池会だと確固たる派閥があっただろうが、我々世代がドラマで見るような政治派閥と今はちょっと変わってきているのではないかと思った。だから今回、当選三回生が派閥に関係なく選びましょうと集まったのも、昔ならあんなことしたらものすごい怒られたんじゃないかと思うんですよ。その辺で言うと、政治家は国民から離れているとは言われていても、離れないようにしようとしている人もいるんだなと思った。 メディアが、ここ10年ぐらい、もしかしたら安倍政権の時からかもしれないけれども、政権批判をするのがトレンドで、ちょっと偏りすぎな気もしています。モリカケのことも総裁選の出馬会見や番組に出演した時に、候補者は質問されるわけですよね。候補者たちはどういう風に答えるかというと、岸田さんなんかは何度も何度も答えていますが「説明します」と言っていますね。高市さんも「みなさんに説明をします」と言っているが、記者たちは「そうじゃないだろ! 再調査をするかしないかだろ!」と詰め寄る。 冷静に考えると、いま司法の場で話し合われていて、法治国家なんだから、裁判が終わるまでは再調査も何もないですよね。再調査したら、国は司法を無視するのか? ということになってしまう。それで、「この候補者は再調査しないんだ、安倍の肩を持っているんだ」としてしまう。そう詰め寄ることは理解はできますが、今再調査しますとなったら、それはそれでおかしなことではないのかな。 司法の結論が出た時に、その結論に対して国民があまりにも納得しなかったら、その時は国のやり方に則って、もう一回調査や裁判をやるとかね。この段階で「再調査」というのは、なんかメディアも詰め寄り過ぎだなと思った。 河野さんがテレビ番組に出演すると、脱原発問題、皇位継承問題に関して「出馬したら考えが変わったけれども、その点について聞かせてください」という質問ばかりされていました。その点に関して、河野さんは出馬会見で話しているし、考え方は変わっていないとしているし、ブログでも書いている。会見でもそれに触れているのに、テレビ番組などに出て来た時に、そのことだけを河野さんに散々ぶつけるって、やりとりだけを見た視聴者は「この人、考えを変えた人だ」って刷り込まれてしまうなと感じた。 岸田さんに関しては、思ったより話しやすい方でした。ニュースなどの映像でしか岸田文雄氏というものを知らないので「The国会議員」みたいな人かと思ったら、意外や意外、しゃべりやすい。岸田さんが何よりも話していたのは、これまでの自民党は「国民に説明不足な点はあった」と。 岸田さんには、例えば、河井案里氏の件も聞いたんですよ。「あれはどう思っているんですか? カネ出したのは二階さんということでいいんですね?」と質問したら、「執行部と言っているので、そういうことにはなりますね」とまで話してくれている。いろいろ話してはくれるものの核心部分になると、白・黒の断言はしない。そういう点はあった。 でも、この人が総理になったら、この時点でウソついていなければ、記者会見でもきちんと説明するんだろうなと思った。記者会見って、時間が限られているじゃないですか。記者会見という場が記者に説明して、国民が知ることになるわけだけれども、今は途中で切ったり、質問を一人一問にしたりして、「時間がないから十分な説明ができないのでは?」と質問したら「そこは可能な限り説明します」と。そこがキモだと岸田さんは言ってました。 一方、河野さんは白・黒、ハッキリ決めるイメージはありますよね。高市さんは主張は一貫していますよね。僕が昔、内閣府の詐欺防止のCMをやった時に高市さんが大臣だったんですよ。CM撮影後、詐欺防止のキャンペーンにも駆り出されて、東京・巣鴨でおじいちゃんおばあちゃんにビラを配る仕事で、その時、大臣の高市さんも来ていました。すごく話しかけやすい、ノリのいい関西の女性という感じでした。「大臣ってこんなにしゃべりやすいんだ!」って、思ったことを覚えています。 立候補者は50代~60代でみんな、このままじゃいけないという思いは同じな感じがする。この流れは止めなければならないということ。それぞれ、争点がなんだとかなるけど、今回みたいにワチャワチャなるのはいいことなのでは? 猫も杓子も誰でも政治を語っているっていうのはアリだな。政治は我々みんなのもの、国家もみんなのものだから。批判もわかるんだけど、自民党総裁選ばっかり取り上げやがってというのもわかるけど、それによって、おじさんもおばさんも、若者も政治の事をしゃべるというのは、実はこれはとても正しい。 ■カンニング竹山/1971年、福岡県生まれ。オンラインサロン「竹山報道局」は、4月1日から手作り配信局「TAKEFLIX」にリニューアル。ネットでCAMPFIRE を検索→CAMPFIREページ内でカンニング竹山を検索→カンニング竹山オンラインサロン限定番組竹山報道局から会員登録。
カンニング竹山岸田文雄河野太郎自民党総裁選高市早苗
dot. 2021/09/15 12:59
事業は赤字、組織も瓦解寸前に… 初代バチェラー、ほど遠い「成功者」の実像
事業は赤字、組織も瓦解寸前に… 初代バチェラー、ほど遠い「成功者」の実像
東京湾岸沿いの倉庫には、サブスクリプションで貸し出す家具や家電が所狭しと収められている。真夏は朝から30度を超し、扇風機が欠かせない(撮影/写真部・東川哲也) 久保裕丈(くぼ・ひろたけ)/1981年生まれ、東京都八王子市出身。40歳(撮影/写真部・東川哲也)  かつての起業家が「意思ある投資家」として、次世代の起業家を育てる。そんな循環の中心にいる人々に迫る短期集中連載。第1シリーズの第4回は、家具や家電を定額で貸し出す「CLAS(クラス)」代表取締役で、「初代バチェラー」でもある久保裕丈(40)だ。AERA 2021年9月13日号の記事の2回目。 *  *  *  久保は1981年8月、東京都八王子市で生まれた。両親はともに市役所で働く公務員で、祖母は学校の先生。「あんたもしっかり勉強して公務員になりなさい」と言われて育った。  中学受験では第3志望の海城中学・高校に進んだ。数学の教員免許を持つ父親に勉強を見てもらったこともあり、高校3年からスパートをかけただけで東大理科一類にストレートで合格。そのまま大学院に進み、プラズマ材料の研究に没頭した。地下の研究室にこもって夜中まで実験を続ける生活が「性分に合っていた」と振り返る。  米国とスイスに短期留学した時、多くの研究者がMBA(経営学修士)を取得していると知った。先端技術を使ってビジネスを立ち上げるためだ。「研究の成果を社会に還元するには経営が必要なのか」と悟った。  経営に惹(ひ)かれた久保は院生1年目の冬にA.T.カーニーの内定を得る。そこには後に同社日本代表になる梅澤高明がいた。  梅澤は東大の先輩で、日産自動車からマサチューセッツ工科大学の経営大学院を経てA.T.カーニーのニューヨークオフィスに入った。東大在学中にゴシック・ロックバンドのベーシスト兼作曲家として鳴らし、入社後も激務の合間にクラブでDJをこなす。クールジャパン機構の社外取締役など政府系の仕事も受け、テレビ出演も多い。  だが華やかな活躍ぶりとは裏腹に、仕事ぶりは「異常なほどにストイック」だった。ほとんど睡眠をとらず、短時間の瞑想だけで何日もぶっ通しで働き続ける。そんな梅澤の下で、久保はハイテク企業から流通まで様々な会社の組織戦略の立案や新規事業の立ち上げを任された。  梅澤の下で働く日々は刺激的だった。だが4年目を過ぎた頃から、あくまで顧客のアドバイザーという仕事に物足りなさを感じ始めた。そんな時、大学時代からの友人で、ファッション系のベンチャーなど数社を立ち上げた廣田朋也が「一緒にやらないか」と声をかけてきた。 「何をやったら成功するか」  久保は5年間のコンサル経験から、廣田は起業の経験から、成功への最短の道筋を考えた。 ■起業したら倒産の危機  たどり着いたのは会員制の女性向けファッション通販サイト。短い期間で大幅な割引をしたり、一定の条件を満たせば割引クーポンを発行したりして「今だけ感」を出す。当時最先端とされた「フラッシュセール」の手法を取り入れた。 「MUSE&Co.(ミューズコー)」と名付けた会社の社長に、久保が就いた。15年2月、久保と廣田は会社をSNS大手のミクシィに17億円超で売却する。フェイスブックやLINEに押されていたミクシィはスマホゲーム「モンスターストライク」の大ヒットで息を吹き返し、金余りの状況にあった。第2の柱としてミューズコーに目をつけた。  設立3年の会社を売り抜けた久保は、世間で「成功者」と言われた。しかし実態はかなり違う。売却時点でミューズコーは慢性的な赤字で債務超過に陥っており、組織も瓦解(がかい)寸前の危機にあった。売却額の大半は債務の肩代わり。実際の取得金額は1300万円に過ぎなかった。 (敬称略)(ジャーナリスト・大西康之) ※AERA 2021年9月13日号より抜粋
AERA 2021/09/13 11:00
天龍さんが語る“面白い人” 裸で走り回る上島竜兵と馬場激怒の“風俗嬢サイン騒動”
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍さんが語る“面白い人” 裸で走り回る上島竜兵と馬場激怒の“風俗嬢サイン騒動”
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子) ジャンボ鶴田園からぶどうが届いて大喜び!(天龍源一郎公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)天龍プロジェクトpresents「SURVIVE THE REVOLUTION Vol.10」9月29日(水)OPEN18:30/GONG19:00/新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/チケット料金(前売りチケット)特別リングサイド(1.2列目)…6000円/指定席(3列目以降)…5000円※当日券は500円UP/チケットはこちらhttps://www.tenryuproject.jp/product/47日本全国どこからでも会場の熱気そのままにお楽しみ頂ける生配信!ログイン方法等お使いになりやすい方のチケットでお楽しみください! 配信チケットhttps://tenryuproject.zaiko.io/buy/1qoL:dSx:9982dLINELIVE⇒https://onl.tw/WAMdtKg  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「面白い人」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。 *  *  *  相撲時代で面白い人といえば、俺の話にもよく出てくる大文字さんだ。いつも面白いことをしゃべっているというより、ちょっとした言動とか人との接し方、何気ないひと言が面白いんだよね。俺が大文字さんの付け人をしていて一緒に歩いていると、ファンから「お、大文字!」と声をかけられたりするんだけど、そんなとき大文字さんは「おい、嶋田。俺はあのオッサンと友達とか親戚だっけ?」なんて、ボソっと言ったりね。何気ないひと言が印象的で、まだ10代のガキだった俺は影響を受けたもんだ。  ユーモアがある大文字さんだけど、付け人になるのは嫌だったよ(笑)。前にも話したことがあるけど、大文字さんはよく夜中まで呑んでいて、部屋に帰る前に俺ら若い衆に「おい、そうめんをゆがいておけ!」と電話をかけてきていた。こっちは、寝ているところを起こされて支度しなきゃいけないし面倒臭くてね。しかも、味にうるさいから、ちゃんと作らないと怒る。  そのそうめんを食いながら「おい嶋田、俺はうまそうに食っているか?」なんて聞いてきて、面倒くさいから「はい、おいしそうに食べています」なんて言ってね。こっちは早く寝たくてしょうがないのに。ちゃんこなんかも、味が気に食わないとお椀を放り投げるからね。俺だけじゃなく、若い衆はみんな苦労させられたよ。場所ごとに誰の付け人になるか、部屋に張り出されるんだけど、大文字さんに付くとみんな「えぇ~、嫌だなあ……」ってブー垂れていたもんだよ。本当に向こうっ気が強くて、厳しくて。でも、大文字さんの人物像は、俺の娘が言うには「天龍源一郎みたい」らしいが(苦笑)。  それでも大文字さんは、ウィットに富む一面もあるからタニマチには評判がよくてね。そのユーモアもたぶん天然じゃなくて計算されたものだと思う。素の大文字さんはカッコつけ。ぶつかり稽古で大鵬さんが胸を貸したりすると、投げられてもバーン!っときれいな受け身を取ってみせたり、人に見せることを意識していて「大文字はきれないぶつかり稽古をする」と当時からよく言われていたよ。さすが、プロレスから相撲に転向したという珍しい人だ。京都出身で、プロレスと相撲、両方からスカウトされて、激動の中に身を置けるのは本当にすごいことだと思う。俺みたいな田舎の農家の出身とはワケが違うからね。  相撲時代に印象的だったのは大鵬さんの付け人。横綱の大鵬さんには15人くらいの付け人がいるんだ。横綱の身の回りのことは全部付け人がやるから、横綱は座ったまま「おい、〇〇持ってこい」と用事を言いつけるだけでいい。俺が初めて大鵬さんの体に触れたのは、風呂上がりにスリッパを履く前に出した足をタオルで拭く役割の時だ。すごいだろう? 風呂上がりの横綱の足を拭くだけの役割の付け人がいるんだ。それも乱暴にやってはダメで、四股を踏むように股を割って、中腰できれいにやらなければならない。それが、相撲の所作にもつながるからね。関取衆の出した足をしっかり捕まえなきゃいないから、こっちもしっかり構えておかないとバランスが崩れてしまう。今の力士はみんな体が大きくなって、俺らの頃より大変だろうな。  これだけでなく、横綱が風呂に入ると「石鹸を渡す人」「湯舟に浸かったらタオルを渡す人」といろいろな役割があって、付け人の序列によって役割が変わるんだ。俺も「早く大鵬さんの顔が拭けるようになりたい」と思ったもんだよ。  そんな付け人の中でも序列が一番上の役割はなにかと言えば、要は“太鼓持ち”だ。一緒に飯を食いに行ったり、話し相手になったり、横綱を心地よくさせる人によく声がかかるんだ。俺が二所ノ関部屋に入ったばかりのときも、大鵬さんにも3~4人、そういう人がいて、この人たちは何なのかな? と不思議に思ったよ。その中でも特異なのが、小櫃さん(後の大荒)という人でね。この人はいつも大鵬さんの横にいて、ちゃんこを食うときも一緒。大鵬さんが「うまい?」と聞いて、小櫃さんも「うん、うまいよ」なんて横綱にタメ口で話しているんだ。小櫃さんは大鵬さんの1歳下で、当時は三段目。入門したての俺からしたら三段目なんてすごく輝いて見えたけど、実際に自分が三段目になってみると屁みたいなもんだった(笑)。  小櫃さんは、二所ノ関部屋にある大鵬さん用の洋間の個室、ここは俺たちは簡単に入ることを許されなかったんだが、そこにも自由に出入りしているし、大鵬さんがタニマチと飯を食いに行くときも一緒で、横綱のような扱いを受けていたし、大鵬さんの飯をつまみ食いしてるし、大丈夫かよと思ったもんだ。まあ、小櫃さんはいわゆる「無理へんにげんこつと書いて兄弟子」というタイプではなく、穏やかでずいぶん気さくな人。大鵬さんもそんな小櫃さんを横にいるとリラックスできたんだろう。宮城野部屋の炎鵬も番付が上がっても白鵬の付け人をやっていたりするし、彼らもウマが合うんだろうね。  同じく横綱でいえば、日本大学時代に名をはせて、相撲界に彗星のごとく現れて横綱まで昇りつめた輪島さんもユニークな人だったね。花籠部屋が日大相撲部の合宿所の隣だったから、輪島さんは入門しても日大の合宿所に行って、後輩と過ごしている方が多かったんだって。後輩にマネージャーみたいなこともさせて、花籠部屋の若い衆も「輪島さんのことは放っておいても、日大相撲部がやってくれるからいいよ」って感じだったらしいから付け人も楽だよ。  実力もあったし、場所中は京王プラザホテルに宿泊して、国技館にリンカーン・コンチネンタルで乗りつけたり、銀座で飲み歩いたりと華もあって、若い衆にも「横綱になればああいう風になれるんだ」っていう夢を与えてくれたよね。本人はあっけらかんとして、調子に乗ったらどこまでも乗るタイプだったけど(笑)。それまで、いくら横綱といっても、当時の野球界の王選手、長嶋選手と比べると地味な印象だったけど、輪島さんが変えたんだ。  そうそう、王さん、長嶋さんも対照的で、二所ノ関部屋で大鵬さんと雑誌の対談なんかがあって、長嶋さんは終わるとすぐに帰っちゃうんだけど、王さんは稽古部屋に来て、寝っ転がりながら若い衆と「相撲も大変でしょう~」なんて話し込んでいたもん。「王ってこんなに気さくなんだ!」と思ったよ。この2人も対照的で面白いよね。  プロレスラーでは寺西勇もユニークだった。彼も相撲から国際プロレスに入って、全日本プロレス、新日本プロレスと渡り歩いて、長州力とよく行動を共にしていた人で、すごい潔癖症なんだ。公共の場所でトイレに行くときは、誰かが来てドアを開けるまで待っていて、開けたら一緒に入って、用を足し終わったらまた誰かがドアを開けるまで待っているほど、ドアを触らない。  風呂に入るのも徹底していた。当時のプロレス巡業は旅館に泊まることが多くて、風呂は序列が一番上の人から順番に入るんだけど、寺西は中堅くらい。潔癖症の彼は、下の選手も全員が入り終わるのを待って、風呂の湯を全部抜いて、自分で風呂を洗って、それから湯をため直して入っていたんだ。レスラーの汗や血がついたり、トイレに行ったシューズで上がったり、リングの上の方がよっぽど汚いと思うんだが、それは平気なんだよな……。もちろん、試合が終わったらすぐに体をピカピカにしていたけど。今のコロナ禍に見本にしたい人だよ。  タレントでいえば、ダチョウ倶楽部の上島君とリーダーの肥後君。彼らは、俺たちのプロレスの打ち上げにもよく来てくれていたんだ。もともと、俺と楽ちゃん(三遊亭円楽)と一緒に遊んでいた、岡ちゃんという人のつてだったんだけど、特に上島君がよく来てくれるようになってね。打ち上げに来るといつも裸になって走り回って場を盛り上げてくれていたよ。 上島君が今の奥さんと結婚するかしないかくらいで、結構売れ始めていた頃だね。でも俺はテレビ番組にうとかったから「おい、上島、またタダ酒飲みに来たのか! そんなに仕事ないのか!?」なんてからかったりしてね。本当によく場を盛り上げてくれて、あまりにもいつも来るもんだから、車代を渡そうとしたこともあった。「いや! 僕はここにいるだけで楽しいですから!」と言って受け取らなかったけどね。上島君はいつもそんな感じで、リーダーも朝までバカ話をしたりね。リーダーは脱ぐことはないけど、上島君くらいパーッとできたら、ダチョウ倶楽部ももっと違うグループになっていたかもね。本当によく2人で来てくれて盛り上げてくれた。寺門ジモンは一度も来なかったなぁ(笑)。。  また、面識はないけれど、藤田まことさんは俺の印象では面白い人。初めて見たのは「てなもんや三度笠」だ。「この人は面白い人な~」と思っていたら、どんどん売れてビッグになったよね。白木みのるさんとチャンバラコントをやっていたのが、「剣客商売」で殺陣をやってみせたり、「はぐれ刑事純情派」をはじめ、役者として沸点までいった人だ。漏れ聞くところによると、私生活も渋くて味のある人だったらしい。「裸の大将」の芦屋雁之助も渋い人だったというし、バカなことをしているお笑いの師匠ほど厳しかったり、ビッグな人にそういうギャップがあるのがカッコいいよね。  ビッグな人といえばもちろん馬場さんだけど、この人も面白いところがあったよ。馬場さんは「日本一背が高いプロレスラー」という看板を背負って戦っていたけど、あるとき、俺が身長2メートル30センチのバスケットボールの岡山恭崇選手を見て「馬場さん、岡山をプロレスに入れたら面白いんじゃないですか」と進言したことがある。そうしたら馬場さんは、OKともダメとも言わず、ただ葉巻をくゆらせるだけだった。  俺はよかれと思って言ったのに、そんな態度だから納得がいかなくてザ・グレート・カブキさんにも言ったら「源ちゃん、馬場さんが日本一背が高いプロレスラーと言っているのに、自分より背が高い選手を入れるわけないだろう!」と怒られて、初めて納得したよ(笑)。  馬場さんは2~3晩続けて麻雀をやったり、ゴルフをしたり、遊びの方も熱心だったけど、女遊びだけはしなかったね。なぜ、女遊びをしなかったのかは知らないけど(笑)。ところがあるとき、どこかのソープ嬢の「馬場さんが来て、サインももらった」という記事が出たんだ。それを知った馬場さんが「なんだと! そんなところに行ったことなんてないぞ! 今すぐその色紙を買い取って来い!」と激怒してね。茶化した俺たちも悪かったが「色紙を買い取って来い!」だもんな(笑)。  面白い人、ユニークな人に求心力があるのは、やっぱり余裕があるからだろう。そういう人のところに、みんな面白がって集まるよね。周りが興味示してくれて、金持って余裕のある人はどんなことしてるのか、のぞき見したくて、集まってくる。必死でやってる人、苦労している人には集まってこないでしょう。成し遂げた人のプライベートを見たくて集まってくるんじゃない。実は誰々は、俺だけが知ってるよって、優越感を持つって、それだけじゃないか。余裕があると誰が来ても拒まないからね。  俺自身、冗談を言ったりするのは大文字さんから受けた影響が大きい。俺がよく「あいつには味噌汁の一杯もご馳走になったことはない」というセリフを使うんだけど、これは大文字さんが言っていたセリフ。面白いこと言うな~と思って、俺も使うようになって、さらに最近では娘も使うようになった。  彼女は天龍の娘ということで声をかけられることも多く、知らない人からも「天龍さんとは、どこそこでよく呑んで~」なんてことを言われたりしていてね。そんなことを聞くたびに「うちの父がご馳走になりました? お世話になりまして?」と返すように俺は娘に指導している。これも大文字さんの詰め方で“角が立つ世渡り”の仕方だ(笑)。いやぁ、あれだけ付け人につくのが嫌だった大文字さんだけど、結局、嶋田家では彼からいろいろ受け継いでいるね。 (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
プロレス天龍源一郎相撲
dot. 2021/09/12 07:00
眞子さまの結婚どう思う? 瀬戸内寂聴が27歳スタッフに質問した結果
眞子さまの結婚どう思う? 瀬戸内寂聴が27歳スタッフに質問した結果
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った99歳と85歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「スジ金入りの肉体的朦朧体、大観より本格派です」  セトウチさん  耳が聴こえなくなったと言うと、「きっと作品が変るわよ」と、ベートーベンじゃあるまいし、変なことおっしゃると、その時はそう思いましたが、本当に変ったんです。その変り方が理に適(かな)っているといえば適っている。つまり聴こえないことは、音の輪郭が失くなることです。そうなると音が朦朧(もうろう)となって、横山大観の朦朧体の絵のように音がボケて聴こえるんです。耳がボケると、日常生活もボケて、曖昧模糊(あいまいもこ)となって、したことと、してないことの区別もわからなくなるんです。つまり虚実の区別ができなくなって、夢で見た仕事の依頼を、本当に依頼されたと思って、やっちゃったりするんです。ボケの症状に似てるけれど、ボケ老人になったんではなく耳のせいだと理解しているので、そこはまだ理性がコントロールしています。  ハイ、絵の話だったです。大観は思想で朦朧体を描きましたが、僕はスジ金入りの肉体的朦朧体なので、思想のようなチョロコイ考えではなく、肉体的ハンデキャップによる堂々たる自然体派です。大観よりこっちの方が本格派です。そんなわけでセトウチさんの大予言は的中しました。  先っきも言いましたが境界線が失くなるということは自由のキャパシティも拡張したことになります。近代人は何でもかんでも境界線を引いて、全てを分業化します。縄文時代はひとりの人間が、多面的に物事をこなしていました。狩猟(しゅりょう)も農業も、漁業も工芸も、子育ても、教育もひとりでするという、境界線をはずした労働生活です。現代のような役割分担などしません。正に多義的です。越境した狩猟社会です。  難聴が与えてくれた神の恩寵です。だから病気の高徳です。僕が度重なる病気によって救われてきたということはこういうことです。神は人間に色々な苦難を与えますが、病気は罪ほろぼしでもカルマ落としでもなんでもないのです。人間の進化向上のためのカリキュラムだと思えばどうでしょう。難聴のほかに、腱鞘炎(けんしょうえん)にもなりました。もう、セトウチさんの「幻花」のような繊細(せんさい)な描写の絵など描けません。今は太い筆やハケを握りしめて、キャンバスにバンバン叩きつけるように描いています。それも痛いので、左手で描きます。左手は思うような形が取れません。幼児の絵より下手くそになります。でも、デュビュッフェは幼児の絵のマネをして、幼児風に描きますが、そんな意図的なことをしなくても、僕の左手はそのまま幼児以上に下手に描けます。これもハンデキャップから来た自然体です。  今書いている手紙では、前にも同じことを書きましたかね。境界を越えると時間差もなくなって、やったことと、やらないことの区別がわからなくなるのです。いよいよ本格派老人です。100歳老人のセトウチさんにも負けていません。ただ僕はセトウチさんのように年齢には拘っていません。拘っているのは他人の方で、今行っている展覧会では「85歳、85歳」と年齢を売り物にされています。歳のことは言うな!  アーティストには年齢はないのです。昨日の続きが今日、今日の続きが明日です。原始社会では年齢など無関係です。アーティストは原始人です。 ■瀬戸内寂聴「私もヨコオさんに負けないように!」  ヨコオさん  何だか、ずいぶん久しぶりにこの往復手紙を書いているような気がします。  それにしても相変わらずコロナは豪勢を極め日本はおろか、世界的にその力を奮っています。  コロナのせいで、人に会えず、寂庵はずっと門を閉めっぱなしです。コロナになる前はもちろん、一も二もなく門内に入ってもらっていました。  大抵遠く九州や東北から来られた人で、まだ生きている私に逢えたと言って、抱きついて泣き出します。もちろん、私は丁寧にお迎えして、写経などしてもらい、お茶菓子を一緒に食べて、しばらくその人のお話を聞きます。つきあいの人もあれば、寂庵の信者を自称する人もあり、初めて門内に入ったという人もいます。 「まさか、門内に入れてもらえると思わなかった」と泣き出す人もあれば、「生きている寂聴さんに逢えた!」と、子供のように足を踏み鳴らす人もいる。 「とても百歳には見えない!」と誰もが感嘆してくれるが、終日ベッドに横になり、本ばかり読んで、一日を過ごしている私の毎日の状態など話せない。私は、人に逢っている間だけは、必死になって元気らしさを演じ、声を張り上げる。客の帰る時は、長い廊下の途中で、へばってしまい、さっさと歩く客の跡がおえない。  ──だって百だもの……──と、私は廊下の途中で、ペシャンコに座り込み、つくづく、自分に向かって言う。  食事だけは時間が来ると、しゃきっと体がのび、食卓の自分の位置に早々と座り込んでいる。 「あら、お昼はもう召し上がりましたよ!」  スタッフの一人が、わざと大きな声を張り上げる。 「私のスパゲティは、どうしてこんなに美味しいのだろうなんて、お世辞までいただいて」 「そうよ、ほんとに! でも今ここに座ったのは、食べるためでなくて、眞子さんの結婚をどう思うかって、寂庵で一番若い二十七歳のP子の意見を聞きたいのよ」 「ああ、眞子さん、ほんとに、よかったですね。大体、みんなあんまりこの結婚に意地悪すぎましたよ。でも、どうして一時金を眞子さんは辞退なさるのかしら? 貰う権利のあるお金でしょう? あんまり弱気にならない方がいいと思うけど……」  ヨコオさん、今、寂庵の中は、こんなにのんびりしています。耳が聞こえないのは、私も同然です。テレビの時なんか、びっくりするほど大きな声にしてくれるので、何とか会話が出来ています。鶯も、秋の夜の虫の音も、私の耳にはさっぱり聞こえません。ヨコオさんとTELしてるのを横で聞いてる人があれば、どんなにおかしいでしょうね。耳だけでなく体のあちこちがどしどし衰えてきます。  そのうち、きっと、自分の死んだこともわからなくなって、──ヨコオさんにTELして!──など叫んでる日が来るのでしょうね。でも目がよく見えているので、一日に二冊は厚い本を読み切っています。ヨコオさんの展覧会、ますます人気上昇でおめでとうございます。私もヨコオさんに負けないよう、あっとこれまでと変わった小説を二つくらい書き残して死にたいものですね。  では、また。 ※週刊朝日  2021年9月17日号
週刊朝日 2021/09/11 11:30
高市早苗氏の意外な過去にフェミニストも震えた 総理の座を狙う過程で何があったのか
北原みのり 北原みのり
高市早苗氏の意外な過去にフェミニストも震えた 総理の座を狙う過程で何があったのか
自民党総裁選に出馬表明した高市早苗氏(c)朝日新聞社  作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、自民党総裁選に正式に出馬表明した高市早苗氏について。 *    *  *  近しい人がデルタ株のコロナ陽性になったり、友人の同僚や、通っている美容院のお客さんが亡くなったりなど、夏以降、急速にコロナの危機が迫っているのを実感している。健康観察をされずに自宅で死亡した50代の方の話などを聞くと、東京五輪・パラリンピックに時間とお金と人材を費やすべきではなかったのではないかとつくづく悔しい思いになる。適切な処置を医療機関で受けられていたら、亡くならないですんだかもしれない命は少なくない。  Go Toキャンペーンやオリパラを強行することに専念してきた自民党政権が、トップの顔を代えただけで変われるとは思えず、期待には程遠い自民党総裁選。岸田文雄さんは、ボロボロの小さいノートを振りかざしては「国民の声を書き留めてきた、1年間で3冊、10年間で30冊」と様々なメディアでアピールしているが、正直、少ないと思う。薄いノートを1年でたった3冊埋めたくらいで、国民の声を聞いたとか言えるって、どんだけ聞いてこなかったかという話なのでは。河野太郎さんは、先日週刊誌でそのパワハラ言動が取りざたされていたが、ワクチン接種という、申し訳ないが素人目線でそこまで難しいとも思えない仕事でつまずいている人に期待するのはムリという話だし、高市早苗さんにいたっては、選択的夫婦別姓に強硬に反対するアンチフェミ女のイメージしかない。女性の人権に無関心な女性総理候補にいったい何の価値があるというのでしょう。  とはいえ、高市早苗議員、いったいどんな人なのか。32歳で衆議院議員に若くして初当選(※)。しかも同期の田中真紀子議員や野田聖子議員のように、親や祖父が国会議員だったというわけではなく、自民党員だったわけでもなく、サラリーマンの父と警察官の母という一般家庭から出てきた無所属の女性議員が、今、最も総理の椅子に近い女性となっている。なぜ高市さんは、政治家の道を選んだのだろう。どのように政治の道を歩いてきたのだろう。政治家としては多い著作のなかから国際政治評論家としてテレビで活躍していた頃に書かれた『30歳のバースディ―その朝、おんなの何かが変わる』(大和出版)、政治家2年目に記された『高市早苗のぶっとび永田町日記』(サンドケー出版局)を読んだ。  高市氏が大学を卒業したのは1984年。1986年に男女雇用機会均等法が施行されるが、この2年の差はやはりとても大きいものがある。女性が生涯にわたる仕事を手にすることも、そもそも親が大学に行かせてくれるかどうかも「女の子」であるというだけで諦めることがまだまだ当たり前にあった世代だ。特に地方であればなおのこと。保守的な奈良に育った高市氏も、当然のように「諦めさせられて」きた。例えば大学もそうだ。高市氏は第1希望だった早稲田と慶応のどちらも合格したにもかかわらず、「女の子のあなたを東京の私学で学ばせる余裕はない。弟の学費に回してほしい」と親に諦めさせられ、「女の子だから一人暮らしはさせられない」と通学に往復6時間かかる神戸大学に入学するのだ。  たとえ難関国立大学出身であっても、女性がその能力と希望に見合う就職先を見つけるのが難しい時代だった。「身の丈」よりもずっと小さく窮屈な型に押し込められる女性たちの悔しさは計り知れないが、高市氏の著書からはその類いの悔しさは強調されない。それは高市氏に並外れた行動力と決断力があり、自らの人生を切り開いてきた自負があるからだろう。たとえば、たまたま大学で目にした松下政経塾のポスターを目にして、直感に導かれるように松下政経塾に“就職”したり。たまたまテレビで見た女性議員で史上初の米国大統領候補指名争いに立候補準備を進めていたパトリシア・シュローダーに惹かれ、その2週間後にはワシントンに旅立ち、その情熱だけでシュローダー議員のオフィスで働き始めたり……若さゆえの大胆さと希望に満ちあふれた当時の高市氏のエピソード一つひとつに圧倒されてしまう。「女だから」と諦めさせられてきたのは大学まで、それ以降は絶対に諦めないという粘り強さで今の地位を築いていくのである。 『30歳のバースディ』は文字通り30歳を迎えた高市氏がそれまでの人生を「ポップ」に振り返る本である。「BGMはいつもユーミンだった」「寂しいのはあなただけじゃない」「空港でまたまた恋人と涙の別れ」「男かペットがいなくちゃダメな私」「女と日の丸と視聴率の相関関係」「三〇女が孤独を感じるとき」といった目次からもわかるように、女友だちに話しかけるように書かれた軽く、優しいノリのものだ。アメリカから帰国し、若い政治評論家としてメディアに露出していたころで、日本の男性社会へのいら立ちも率直に記されている。 「アメリカ議会では日本流のバカバカしい会議がないのが良かった。(略)ところが日本の企業では会議の場では何も決められない。本当は既に決まっているし、とっくに根回しが済んでいることを確認しあうだけの、儀式的な会議のなんと多いことか。でも、私たち女性は妙に正義感が強いので、このような巧妙な人間関係のテクニックとは相性が悪い」  90年代に若い女性が書いたテキストを追いかけながら、私は何度か噴き出したり、そうそうと共感したりと震えるような思いになる。ねぇ、高市さん、「女が入ると会議が長くなる」とほざく森喜朗さんに「あんたの会議はバカバカしい」とはやっぱり言えないものだったの? こういうまっとうないら立ちを文章にしてきた女性が、最も「わきまえる女」になっていく過程に、いったい何があったというの?  さらにこういう率直さは、国会議員になった後に書かれた「高市早苗ぶっとび永田町日記」にも残っている。高市氏は歯に衣着せずに永田町のダメなところをきちんと切っている。 「この一年間に永田町で一番多く耳にした言葉は次の二つ。『挨拶がない』『俺は聞いてないぞ』。委員会の審議日程が流れたり、大切な法案の採決がパーになったりする理由は大抵この二つだったりする」 「笑い話のようなことばかりだが、事実、永田町政治は『理屈』ではなく、『メンツ』で動いている」  さらに、夜の会食や女性がいるクラブなどで行われる男たちの根回しで物事が決まっていく永田町で、女の自分が不利であることも記し、サッチャーのこんな言葉を引用し共感を表明するのだ。 「私は最後まで党内基盤が弱かった。それは男性の世界の根回しに加えてもらえなかったからよ」  なにこの人……すごくまともな「一般人」の感覚で、すごくまともな「女の悔しさ」をストレートに出すフェミじゃないの? しかもそのまともさで、「総理大臣の資質」というものを論じ、当時の村山政権を真っ正面から批判している。明言しているわけではないが、高市氏自身が政治家として一番になること=総理になることを30代から目指しているのも伝わってくる内容なのだった。根回しから排除されてきたサッチャーが首相になれたように、パトリシア・シュローダーが80年代に大統領を目指したように、高市氏は政治家としてトップに行くことを最初から視野に入れていたのだ。  ……と、昔の高市氏の本を読んでいると、うっかり「がんばれ、早苗!」と言いたくなってしまう私がいるのだった。「総理になろうよ!!」と早苗の女友だちポジションに立って拍手したくもなってしまうのであった。まずい、まずい。正気に戻るために2011年に出版された『渡部昇一、「女子会」に挑む!』(WAC)も読んだ。櫻井よしこ氏、山谷えり子氏、高市早苗氏、小池百合子氏、丸川珠代氏・・・といった早々たる「わきまえ女」(帯には「なでしこ軍団」とある)たちと渡部昇一氏との対談本だ。  渡部氏との対談で、「総理になったら、まず何をしますか?」と聞かれた高市氏はこう答えている。 「最初に、政府歴史見解の見直しをします。新たな歴史見解を発表して、村山談話を無効にします」  東日本大震災のあった年の9月に出版されている本だ。震災後から、こういう歴史修正主義を堂々とうたう本や、韓国ヘイト、「慰安婦」運動への過剰な攻撃は度を越していったという実感が私にある。保守政治家から極右政治家に舵を切るように発言をより過激化させていく高市氏の横顔が、対談にはしっかりと刻まれている。夫婦が別の姓を名乗ったら家族が崩壊すると適当なことを言い、戦時性暴力の責任を問わないどころかなかったことにすることが、高市さんの「目指した政治」だったのだろうか。この国の女性たちが権力に近づこうとするならば、率先して選択的夫婦別姓を批判し、「慰安婦」被害者をおとしめる発言をいとわず、女性の権利を口にするフェミを冷笑するというマニュアルでもあるのだろうか。  今いる自民党の女性議員の顔を、一人ひとり思い浮かべてみる。わきまえなければ権力に近づくこともできなかった女性たち。夜の会議や根回しから排除されながらも、その立場を維持するための努力は、二世・三世の男性議員たちとは全く違うものがあったはずだ。それでも、それほどの努力をしても、彼女たちが自らの後ろを振りかえったとき、彼女たちの後ろを歩きたいと思う女性はどのくらいいるだろうか。というかそもそも、その道は後続の女性のために開かれていたことはあったのだろうか。  かつて高市氏が憧れ渡米したパトリシア・シュローダーはテレビカメラの前で涙を流した。そのことによって20年以上「女の政治家は感情的だから、ダメだ」と言われ続け、「あなたの涙のせいで、女の地位が悪くなる」と責められ続けたという。女であるというだけでその「涙」が事件になるのは、昔のアメリカも今の日本も変わらない。そういう政治の世界でトップを目指す女性たちが、女性の味方であることを忘れるのは「仕方ない」ことなのだろうか。それとも、アンチフェミニズムの顔で女性をたたくような女性政治家しか出せない自民党政治そのものが終わっている、ということなのか。 ※訂正 配信時の「32歳で衆議院議員に初当選、女性議員としては、当時憲政史上最年少だった」という一文を、「32歳で衆議院議員に若くして初当選」と訂正しました。高市氏の著書『高市早苗のぶっとび永田町日記』に「女性として憲政史上最年少当選」と記してありましたが、実際は1946年4月10に三木キヨ子氏が20代(当時)で当選していたため削除、修正します。 ■北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表
フェミニスト北原みのり自民党総裁選高市早苗
dot. 2021/09/09 08:00
9月7日はクリーナーの日!メガネのコンディションを整えよう
9月7日はクリーナーの日!メガネのコンディションを整えよう
9月7日は「クリーナーの日」。メガネクリーナーやメガネクロスなどの製造・販売を手掛けている株式会社パールが「メガネをきれいにして美しい視生活を」と制定した記念日です。メガネは定期的なメンテナンスが必要なアイテムですが、ついつい手抜きになってしまいがち。 そこで今回は、メガネのコンディションを維持するための正しいお手入れ方法や、レンズ交換、メガネの買い替えタイミングなどについてご紹介します。普段からメガネを使っているという人は、ぜひ参考にしてください。9月7日は「クリーナーの日」です。メガネを正しくお手入れしましょう 日本人の4人中3人がメガネを使用している 株式会社プラネットが2017年に行った調査結果によると、日本人のメガネの使用率は75.7%とのこと。コンタクトレンズを併用している人も含めての数字ですが、実に4人中3人がメガネを使用していることになります。 そんなにもメガネをかけているとは思えないかもしれませんが、文部科学省の学校保健統計調査によると平成29年度の「裸眼視力1.0未満の者」の割合は高校生で62.3%。日本人にとってメガネは生活の必須アイテムになっています。 メガネの使用率が高いこともあり、最近ではフレームとレンズのセットが1万円以下で購入できるショップが増えています。手軽に購入できるということもあって、複数のメガネを持っている人もいますよね。ただ、それらをきちんとメンテナンスしているかというと、「汚れたら拭くくらい」という人がほとんどではないでしょうか。 メガネが高価だった時代と比べると、メガネの扱いがやや雑になっているように感じます。そもそもメンテナンスに何をすればいいのか分からないという人もいると思います。そんな人のために、正しいメガネのお手入れ方法をご紹介します。 【参考】 Vol.71 メガネに関する意識調査|株式会社プラネット 学校保健統計調査|文部科学省日本人の75.7%がメガネを必要としています メガネの正しいお手入れ方法 メガネのレンズの汚れをティッシュペーパーなどで拭き取っている人もいるようですが、その方法ではメガネの寿命を縮めてしまう可能性があります。長く使い続けるためにも、メガネは次の手順でお手入れしましょう。 1.汚れを水で洗い流す 2.タオルやティッシュペーパーで水分を取り除く 3.メガネクリーナーを吹きかけて油分を浮かせる 4.タオルやティッシュペーパーで拭き取る 5.メガネクロスでメガネ全体を拭く これを1週間に1回くらいのペースで行ってください。意外とやるべきことが多くて面倒に感じるかもしれませんが、快適な視界を長く維持するためにとても大切なことです。1週間の仕事がひと段落した金曜日の夜や、翌日から新しい週が始まる日曜日の夜のルーティーンにしましょう。 お手入れが面倒だという人は、超音波洗浄機を導入するという方法もあります。超音波洗浄機はネットショップなら4,000円程度で購入でき、手軽にメガネをクリーニングできます。ただし木製フレームやべっ甲フレームには使えないなどの制限があります。 超音波洗浄機を購入する前に、商品の使用上の注意や実際に購入した人の口コミなどをチェックして、自分のメガネで問題なく利用できるのかを確認しておきましょう。メガネは週に1回のペースでお手入れしましょう メガネの買い替えタイミングの見極め方 メガネのレンズはプラスチック製が主流で、いくらきちんとお手入れをしていても2~3年で寿命を迎えるといわれています。レンズそのものが劣化することもありますし、コーティングが剥がれてしまうこともあります。そのような状態で使い続けるのはおすすめできません。 もし次のように感じたなら、それが交換のタイミングです。 ● 見えにくく感じる ● レンズに小さな傷がいくつもある ● レンズが黄色っぽくなってきた 見えにくく感じるのは、老眼や視力低下によってレンズの度数が合わなくなっていることが考えられます。これはレンズがきれいでも早めにレンズ交換をする必要があります。見えにくい状態が続くなら、眼科で視力をチェックしてもらいましょう。 レンズに小さな傷がある場合や、黄色っぽくなってきたら、それもレンズ交換のタイミングです。レンズの劣化が視力の低下につながることもありますので、見え方が気にならなくてもレンズ交換をしましょう。2年経過したら交換すると決めておくのもいいかもしれません。 フレームはそのまま使い続けることもできますが、汗などの汚れが付着して変色していたり、修復が難しいほど変形をしていたりするならフレームごと買い替えるのがおすすめです。自分で判断が難しいときには、眼鏡屋さんのスタッフに相談してみましょう。メガネレンズは2〜3年で交換する必要があります
tenki.jp 2021/09/07 00:00
東京パラリンピックが閉幕へ いまだに事実関係がはっきりしないアーチェリー日本代表の辞退騒動
東京パラリンピックが閉幕へ いまだに事実関係がはっきりしないアーチェリー日本代表の辞退騒動
開会式で聖火が聖火台にともされると、花火が打ち上げられた(c)朝日新聞社  過去最多の254人の日本選手が出場した東京パラリンピックが9月5日に閉幕する。大会直前にアーチェリー日本代表の一人が出場を辞退したが、この異例な事態がなぜ起きたか事実関係はいまだにはっきりしていない。 *  *  *  日本身体障害者アーチェリー連盟が選手の出場辞退を文書で発表したのは、開幕3日前の8月21日。選手名は明かされなかったが、日本パラリンピック委員会は翌22日、長谷川貴大選手(32)の名前を文書で発表した。  長谷川選手は千葉県出身で、小学3年生のときに小児がんを発症。右足の太ももを切断し、義足を使用している。早稲田大学1年のとき、2008年北京パラリンピックに出場し、団体で4位になった。大学卒業後に日本テレビに入社。仕事の合間や休日にトレーニングを積み、今年3月の代表選考会で3大会ぶりにパラリンピック代表に内定した。  連盟によると、長谷川選手は7月下旬に「所有者に無断で競技者の複数台の弓に触れる」行為をしたという。重大なコンプライアンス違反だとして、連盟はコンプライアンス委員会を立ち上げ、本人や関係者に聞き取り調査などを実施した。その過程で本人から出場辞退の申し出があり、日本パラリンピック委員会などと対応を協議して開幕3日前での発表となった。大会直前だったこともあり、代わりの選手を選出できなかった。  長谷川選手は勤務する日本テレビを通じて、次のような謝罪コメントを出した。 「他の選手の皆様、また連盟の方々にご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした。今回の件に関して深く受け止めており、応援していただいた関係各位のご期待を裏切ってしまい反省しております」  全日本アーチェリー連盟には「許可なく他人の弓具に触れてはならない」という安全規定がある。なぜ許可なく他の選手の弓具に触ってはいけないのか。  アーチェリーは70メートル、もしくは50メートルの先の的を狙う競技で、選手たちは弓を細かく調整して矢を放つ。手元が1ミリずれると、70メートル先では10センチ近くのずれとなり、2~3点の違いになってしまう。調整が知らぬ間に変わっていると、場合によってはけがや暴発につながる。あるアーチェリー経験者は「他人が触れた弓は信頼できない」と話す。  今回、長谷川選手が他の選手の弓に触れた動機については明らかにされていない。日本身体障害者アーチェリー連盟の担当者に尋ねると、 「今回代表辞退という重い処分を受けているので、これ以上むちうつようなことはしたくないし、聞き取り調査の内容を外には出すのは好ましくない」  と説明を避けた。日本テレビも「連盟に対応は一任している」という。  一方、ネット上では動機についてさまざまな意見が出ている。 「悪意を持って弓のセッティングを変えたのではないか」 「細工以外に敵の弓に触れることなんて考えられない」  などだ。  関係者によると、長谷川選手は片足義足のため競技の際に体がぶれてしまうという悩みがあり、「他の選手の弓に新しい器具がついているのを見て自分にも使えないかと思って触った」などと理由を語ったという。  実際、すでに代表は決まっており、悪意を持って他の選手の弓具に細工するとは考えにくい。しっかりと説明の場を設ければ、臆測を呼ぶことはなかっただろう。説明を避ける連盟の対応は、結果的に長谷川選手を追い込んでいるように見える。  また、出場辞退が発表された前日の8月20日、日本テレビは長谷川選手の特集を朝の情報番組で放送した。その翌日に出場辞退が発表され、ネット上では「特集が放送された翌日に辞退とは」「つい最近特集されてませんでした??」などと驚く声も多かった。  本人が出場辞退を申し出た日時について、連盟関係者は「具体的な日は話せないが、昨日今日のことでない」と明かし、長谷川選手が出場辞退の意思を連盟に伝えた後に放送があったことを認めた。この連盟関係者は放送されたことについて「驚いた」と話している。  日本テレビの広報部によると、出場辞退を把握したタイミングは放送後の「8月20日夜」で、本人から「出場辞退を決断し、明朝辞退届を提出する」と報告を受けたという。つまり、放送前には把握していなかったことになる。  一方で、長谷川選手は日本テレビの社員でもある。すでに出場辞退の意思を連盟に伝えていた社員を、知らなかったとはいえ出場するかのように広く紹介したことになる。この点についてどう考えるか日本テレビに2回メールで尋ねたが、1週間経った今も回答はない。  筑波大学教授の菊幸一さん(スポーツ社会学)は今回の連盟の対応についてこう話す。 「もちろん、問題を起こしたパラアスリート個人の問題は、追及されて当然ですが、連盟も出場を辞退させるだけではSNS上でいらぬ臆測やデマが飛び交う事態になるのも当然でしょう。連盟は、何のためにあるのでしょうか。所属する選手の立場を第一に考えなければ、誰が彼あるいは彼の将来を守ってあげられるのでしょうか」  また、菊さんは所属企業についてもこう語る。 「日本テレビはメディア企業として、一般社員の管理責任だけでなく、それ以上に大きな責任を負う立場にあると考えます。企業は雇用している側としても社員を守らなければならない立場にあるはずで、その観点からも機能を果たしているとは言えません」  また、日本におけるメディアとスポーツの関係も、今回の問題の背景に横たわっていると指摘する。 「近代スポーツが発祥したイギリスや、その影響を比較的早くに受けたヨーロッパでは、メディアとスポーツとの関係は極めて禁欲的です。例えばメディア自体が、スポーツを主催したり、そのコンテンツに直接関わったりすることをタブー視しているところがあります。なぜなら、メディアとしての公正な報道が保障されないからです。今回の件は、企業として、特にメディア企業としてのスポーツに対するかかわり方にも、そもそも問題があると思います」 (編集部・深澤友紀) ※AERAオンライン限定記事
東京パラリンピック
AERA 2021/09/05 13:00
瀬戸内海でゴミ拾いする自称「かっこいいクソじじい」は、プラゴミ汚染と闘うドン・キホーテ
瀬戸内海でゴミ拾いする自称「かっこいいクソじじい」は、プラゴミ汚染と闘うドン・キホーテ
「瀬戸内海がゴミ箱になる日」から(提供/南海放送)  瀬戸内海という広大なエリアで「ゴミ拾い」を続ける60歳の男性がいる。  自称、「かっこいいクソじじい」。  白髪を長く伸ばし一本に縛ってヘルメット姿で行動する。プラスチックゴミが集まる海辺を船でパトロールして発泡スチロールなどのプラスチックを回収しゴミ処理場などに運ぶ。プラスチックゴミは、波に砕かれてマイクロプラスチックとなって生き物を脅かす。拾っても拾っても増え続け、海の底や沿岸にたまり続ける。圧倒的なゴミの量に対し、活動は手作業だ。無謀な闘いに挑む現代版のドン・キホーテにも見える。  そんなスケールの大きいボランティア活動が8月22日深夜の日本テレビ系「NNNドキュメント」で紹介された。  南海放送が制作した「瀬戸内海がゴミ箱になる日」。  主人公は岩田功次さん(60)。愛媛県八幡浜市に住み、若い頃から鳥や動物の保護活動に従事。今はモーターボートを操ってプラスチックゴミが集まっている浜辺を駆け回る。 「誰も知らないような船でしか行けないような場所には、実はたくさんのゴミが集まっている……」  岩田さんの本業はサインデザイナーだ。表示板やピクトグラムを設計・施工する仕事だが、5年前から船でゴミ拾いを行っている。活動範囲は瀬戸内海全域だ。 「この場所も去年トラック10台分のゴミを拾った際のゴミ浜の一つ。7カ所拾った(ゴミ浜)の1か所…」  口から飛び出すのは、どれだけの量のゴミを拾ったのかというエピソード。  発泡スチロールを抱えて語ったのは「大きい発泡スチロールは大網で7杯8杯拾っている」。大網で何杯かがこの人のゴミ集めの単位だとわかる。  プラスチックゴミは分解するのに400年以上。2050年には海中のプラスチックの量が魚の上回るという予測がある。そんな情報をナレーションが伝える――。 ■「放射線を浴びたX年後」のディレクターが担当  番組を制作したのは南海放送の伊東英朗ディレクターだ。  1950年代以降、南太平洋で相次いで行われた米英などの核実験によって高知県などから操業に出ていたマグロ漁船の乗組員が死の灰を浴びて健康被害に苦しんだ事実を「放射線を浴びたX年後」で放送。続編を次々作って映画公開するなど核兵器による環境汚染に警鐘を鳴らしている。今年3月には芸術選奨文部科学大臣賞も受賞した。  長編を世に送り出してきた伊東氏にとって実質30分に満たない短編の番組だが、これまで作った中でも一番といえる反響があったという。 「瀬戸内海がゴミ箱になる日」から(提供/南海放送)  話を戻そう。捨てられたプラスチックゴミが瀬戸内海に流れ込み、風や潮の流れで集められ、何十年も堆積し、プラスチックゴミの「層」になる。簡単に掘り起こせないほど厚く積もった「層」。それを岩田さんらは手で掘り起こしていく。  一緒に清掃活動する仲間が海の中を指さす。海中にはコンビニ弁当のプラスチックの箱が重なっているのが見える。ウニの姿も見える脇にプラスチックの弁当容器がたくさん沈んでいる。表面に石苔のような汚れが付着している。一番多いのはコンビニのお弁当の容器だという。 「プラスチックっぽいお刺身などの容器は浮いて見えるところに来てくれるので拾えるが、電子レンジでも大丈夫なピニールの透明で硬いものは全部、海に沈んでいる」  浜辺に漂着するプラスチックゴミの数十倍、数百倍のプラスチックゴミが海の中にあるという。  岩田さんは発見したゴミスポットを地図の上に様々な色のピンでマークしている。赤いピンでマークするのは問題の場所。たとえば10人で10日かけても拾いきれないほどの量が集まり、マイクロプラスチックも集まっている浜辺がある。全体で500カ所以上のゴミの浜を見つけた。  その中でもとりわけ心配するゴミスポットがある。 「4年間、拾い続けてもマイクロプラスチックの層にまでたどり着かない。上のゴミも拾えない。季節風、海流によってゴミがたまる場所」  だという。湾がV型になっている奥にある浜辺だ。衛星写真でもゴミがあるのがわかる。 「すごい量で4年間拾い続けている」  そのスポットは、愛媛県の中でも特に美しい自然が残る佐田岬半島にある。  佐田岬半島の北側にある御所ヶ浜。岩田さんがもっとも気にかけているゴミスポットだ。訪れると流木などと一緒に小さなプラスチックゴミがたまっている。  岩田さんは5年前の2016年の御所ヶ浜を初めて訪れた。知人から現状を見てほしいと言われたのがきっかけだった。 「見てみてびっくりした。人生が変わった」 ■風光明媚な半島の海岸にプラスチックゴミ  佐田岬半島の塩成海岸は大型発泡スチロールが漂着するスポット。発泡スチロールは波で削り取られて次第に小さくなる。削り取られた部分は細かい粒子のマイクロプラスチックとなって、海岸線の砂や小枝などと混じり合って浜辺全体が白っぽく見える。  昨年9月には佐田岬半島の沿岸にマイクロプラスチックの白い「帯」が現れた。目撃した岩田さんによれば、およそ20キロメートルの長さに及んだという。 「瀬戸内海がゴミ箱になる日」から(提供/南海放送)  砂浜にはマイクロプラスチックが目立つところがあちこちにある。台風が訪れるとそのゴミが根こそぎ流されて佐田岬の南側に帯のように漂ったのだ。砕け散ったマイクロプラスチック、回収するのはとても困難だ。砕ける前に回収しなければ海の汚染は防げない。  連日、発泡スチロールの白い塊を大網に入れて仲間たちと集める岩田さんたち。ところが拾えば拾うほど役所の負担が増えるというジレンマがある。海洋ゴミの受け入れ対応は自治体ごとにまちまち。大型発泡スチロールや漁業用のブイは拾っても受け入れてもらえない場合もある。また、大量の海洋ゴミを燃やすと高温になって炉を痛めるともいう悩みもある。 ■回収したプラスチックゴミを市は…  南海放送は愛媛県の4市にアンケートした。大型発泡スチロールと漁業用ブイについては、受け入れる市が2つ、受け入れない市が2つと対応が分かれた。受け入れない市の一つは「そのゴミの回収と処分にいまボランティアも事業者も行政も大変苦慮している」と回答した。瀬戸内海全域の問題なのに、ツケが個々の市に負担としてのしかかる。調査報道があぶり出した瀬戸内海のゴミの実情といえる。  プラスチックゴミやマイクロプラスチックは地球環境に生きるあらゆる生物に影響を及ぼす極めて深刻な問題だ。だが、その深刻な問題を大所高所から、地球規模の視点からいくら伝えても、視聴者に「自分の問題」だと受け止めてもらうのは難しい。この番組は、自称「かっこいいクソじじい」が家族や仲間たちと奮闘する姿に焦点を当てて伝えた。  等身大の視点のドキュメンタリーは、心に響く。 ◯水島宏明(みずしま・ひろあき)/1957年、北海道生まれ。上智大学文学部新聞学科教授。札幌テレビ、日本テレビで在英・在独特派員、地域密着の情報ワイド番組のデスク、防衛庁・外務省記者、ドキュメンタリー番組を制作。「ネットカフェ難民」という造語でキャンペーン報道。2011年の東日本大震災の後で原発をめぐるドキュメンタリーを制作。2012年から法政大学社会学部教授を経て上智大学文学部新聞学科教授。放送批評懇談会理事(2016~20放送批評誌「GALAC」編集長)、2017~21日本マスコミ学会理事 ※AERAオンライン限定記事。NNNドキュメント「瀬戸内海がゴミ箱になる日」はBS日テレ9月5日(日)8時に再放送予定)
AERAオンライン限定
AERA 2021/09/05 07:00
瀬戸内寂聴は120歳まで生きる? 長生きの秘訣は「バカなことを考える」
瀬戸内寂聴は120歳まで生きる? 長生きの秘訣は「バカなことを考える」
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  半世紀ほど前に出会った99歳と85歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 *  *  * ■横尾忠則「本当に健康な人は気がつくと死んでいたと思う人」  セトウチさん 「健康のために何かしていますか?」と担編さんこと鮎川さんから来た質問です。「ハイ、何もしないことをしています」。健康に拘ること自体が不健康です。そんな時間があるならアトリエのソファにゴロンと横になって、一向に進まない時間を貪っていたいです。  先ず健康といえば時間と関係があると思います。僕は今日現在健康です。なぜかというと時間が静止したように一日の時間が長いからです。不健康な場合は時間が短いです。反省したり、後悔したり、あれこれ取り越し苦労は時間に支配されている証拠で、時間を縮小してしまいます。時間を支配できれば時間を止められます。絵を描くことは時間を止めて、時間を支配することなんです。  昔、元巨人の川上哲治さんは投手の投げた球が止まって見えると言いました。つまりボールのスピード時間を止めるのです。そしてボールを止めたところをガツンとバットで叩くのです。これができるのはあれこれ考えないからできるのです。天才アスリートは、皆、時間を支配する能力を持っています。時間を思い通りに自分の配下に置いて支配するのです。そのためには健康でなければなりません。だから健康と時間は両輪なんです。それを僕は宇宙時間と呼んでいます。健康も時間も宇宙を介在させると思い通りに支配できます。だから考えないことが大事なんです。絵はアスリートにならないと、頭で考えた絵になって、観る人の頭にしか訴えない絵しか描けません。文芸は別でしょうけれど。  魂の奥底から魂の奥底へと交流させるためには三島由紀夫的交霊術的交流が必要です。これも、それも全て時間から来ているのです。三島さんは時間にうるさい人でした。自分の時間も相手の時間も支配してしまいたいと考える人でした。三島さんの健康はこの時間を支配する能力にあったと思います。三島さんには無駄な時間はなかったのです。待ち合わせに一分でも遅刻したら、腕時計を見ながら「遅い!」と言われました。自分に厳しいだけではなく、他人にも厳しいという三島的教育論です。時間に対する、礼儀礼節が宿っていたのです。つまり宇宙時間を45年間生きた人です。三島さんの健康はこの自分らしい時間の実践にあります。  ということが僕の健康と時間の「思想」(笑)でした。鮎川さん、こんなもんでよろしいでしょうか。僕は健康と時間の因果関係(こんなもんはどうでもいいんですが)について、イマジン(想像)してみましたが、超長寿者のセトウチさんなら何とおっしゃいますでしょうか。「愛あれば健康あり」とおっしゃるかも知れません。  時間を忘れることは健康原理のひとつだと思います。時間に縛られることは自由の放棄ですから、死を考えることに結びつきます。老齢を上手に生きた人は時間を忘れます。従って頭から自然に死を排除しています。死を待ち受けたり、死を恐れる生き方は生命期限に縛られた人間だけです。死の概念の乏しい猫などは死が迫っていても死ぬ瞬間まで健康でいられるんじゃないでしょうか。本当に健康な人は、気がついたら死んでいた、と思う人ではないでしょうか。あやかりましょうよ。 ■瀬戸内寂聴「バカなことを考えるのが長寿のヒケツです」  ヨコオさん  今年もコロナにおびやかされながら秋をむかえました。お盆が過ぎると、時の足音が急速になり、たちまち年の瀬がやってきます。  私はこのところ反って体調がよく、ほとんど眠らないで原稿を書いてもビクともしません。よく働き、よく眠り、よく食べています。秘書のまなほが、よく笑わせてくれるので、仕事の合間にはゲラゲラ声をあげて笑っています。  寂庵の内に引きこもり、一歩も門の外へ出ません。寂庵の真ん前の畑地を地主が売って、そこに三軒、家が建つらしいですが、それも話を聞くだけで、見てもいません。売るときは話してくれと、何度も言ってあるのに、地主のおじさんは他の人に売ってしまったようです。  百年生きてきて覚えたことは、一応手に入れた土地は、縁があったということだから、絶対、手放すなということです。  もう今夜死ぬか分からない寿命になって、新しい土地が欲しいなど思う私は、まさに真正の老人ボケになっているのでしょう。  先日編集部から、豪華な花を、どっさり贈ってもらって、びっくりしました。このヨコオさんとの往復書簡が百回を超えたお祝いだということです。  百歳にもなって、週刊誌の連載原稿が百回もつづけられるというのは、なんといっても、ヨコオさんと私が健康だという証拠ですね。  ヨコオさんは、このところけがもせず、入院もせず、ホントにお元気です。  私も数え百歳になっても、この原稿を書かせてもらい、他にも、文芸誌や新聞にも連載随筆を書きつづけ、たまに入院したりしても、数日ですぐ帰ってきます。食べて、出して、よく眠り、よく笑って、まだ死にそうにもありません。  あ、今回は健康について書くのでしたね。  健康のヒケツは、「よく食べ、よく出して、よく眠る」です。そうすれば、一日の時間は自分の思い通りに支配できます。ヨコオさんも私も、そうしようとも思わず、いつの間にか、そうしているのです。  それは、お互いに全身を打ち込む仕事に、若いときからたずさわっているからです。  絵を描くことも、文章を書くことも、時間を支配して、一日の時間を人より長く生きてきたからです。  文筆家の場合は、自分でも生きる時間を勝手に縮めて自殺することが多いのです。三島さんの狂絶な死も自殺です。ヨコオさんが三島さんにこの世でめぐりあう前に、私も三島さんに縁が出来、不思議な交流を交わしました。  近づいた死の前に、このことを整理して書き残しておくべきかと考えています。  百歳まで生きるなんて、三島さんがあの世で、「ワッハッハ!」と躰をゆすって笑っていることでしょう。  三島さんは老人が大嫌いでした。特に老人の文学者を憎んでさえいました。私は三島さんと逢って喋りたいから死ぬ前にはペンを捨てましょう。すると命がよみがえり、心ならずも私は百二十歳くらいまで生き直すんじゃないでしょうか。こういうバカなことを考えるのが長寿のヒケツです。 ※週刊朝日  2021年9月10日号
週刊朝日 2021/09/04 11:30
シニアのセックス事情 「したい」男性は7~8割も女性は3割の現実
シニアのセックス事情 「したい」男性は7~8割も女性は3割の現実
※写真はイメージです (GettyImages) (週刊朝日2021年9月10日号より)  今年で結婚26年になる会社員のアキコさん(仮名・59歳)は、更年期にさしかかった40代後半でセックスに興味を持てなくなった。 「更年期のときは症状がけっこうきつくて、セックスどころじゃなかった。今は、仕事と実母の介護で手いっぱい。体調もイマイチなので、時間があれば寝ていたい」  更年期で悩んだときは婦人科でホルモン補充療法(HRT)も試みたが、性欲はないまま。夫(63)の求めには数カ月に1回程度応じていたが、ほとんど感じない。「自分でしてみると、それなりに感じるんですけどね(笑)」とアキコさん。  夫のことが嫌いかというと、そうでもない。夫は妻の多忙を知ってか、定年後は特に家事を手伝ったり、ねぎらったりしてくれる。妻の体調についても理解しているようだが、それでも夜になるとたまに触れてくる。 「応じたくても体がついていかない。そのつらさは夫にはわからないんだと思う。これからの夫婦関係に不安を覚えます」(アキコさん)  長寿社会を迎えた日本、平均寿命は男性が81.64歳、女性が87.74歳(厚生労働省「簡易生命表」)で、女性は90代にあと一歩というところまで迫っている。長い人生のラストステージにセックスは必要か。  まずは、現代のシニア世代のセックス事情をみてみよう。  一般社団法人日本家族計画協会(東京都新宿区)が、避妊具や育児用品などを製造するジェクスの依頼で、全国20~69歳の男女約5千人に実施した調査から、50代以上の回答を見ていくと、「月に1回以上、セックスをしている」のは、男性では50代が30.7%、60代が21.0%、女性では同20.5%、22.0%。  一方、セックスレス(※)は、男性では50代で69.3%、60代で79.0%、女性では同79.5%、78.0%だった。わが国ではセックスレスが進んでいるといわれて久しいが、50代以降でも顕著にその傾向がみられた。  興味深いのは、セックスに対する考え方の男女の違い。「したい」と考えるシニア男性は7~8割と多いが、女性は2割弱~3割程度にとどまる。一概には言えないが、“したい男性&したくない女性”という構図がみえる。  同協会の会長で産婦人科医の北村邦夫さんが指摘する。「まず大前提として、セックスは2人の合意があってするもの。必要だと思う人がするものであり、“人生にセックスが必要か”といえば必ずしも必要ではない。夫婦やカップルの間で“不要”という意見で一致していれば、あえてする必要はないでしょう」  ここで問題となるのが、夫婦、あるいはカップルの一方が「したい」という欲求を持ち、一方は「したくない」という意思を持っているときだ。 「この場合、専門家による医学的、あるいは生活改善を含めたカウンセリング的なサポートが必要になります」(北村さん) ※日本性科学会の定義では、特殊な事情が認められないにもかかわらず、カップルの合意した性交あるいはセクシュアル・コンタクトが1カ月以上なく、その後も長期にわたることが予想される場合 (本誌・山内リカ) ※週刊朝日  2021年9月10日号より抜粋
シニアセックス夫婦
週刊朝日 2021/09/03 17:00
障害ある人のバリアーをなくす舞台演出で、多様性をごくフツーの日常に SLOW LABELディレクター・栗栖良依<現代の肖像>
障害ある人のバリアーをなくす舞台演出で、多様性をごくフツーの日常に SLOW LABELディレクター・栗栖良依<現代の肖像>
歩く時は、前腕にはめるタイプの杖を使う。「障害者になってからのほうが、心も表現も自由になった」(撮影/篠田英美) 4月のサーカス本番(写真は内覧会。本公演はコロナ禍で中止)、腕組みして見守る栗栖。練習時の口出しは少ない。演者やスタッフが自発的に意見を出すまでじっと待つ(撮影/篠田英美)  SLOW LABELディレクター、栗栖良依。高校1年のときにテレビで見たリレハンメル冬季五輪の開会式に感動し、栗栖良依は自分も五輪の舞台を作りたいと夢見てきた。イタリアにも留学し、夢に邁進していた32歳で骨肉腫に。手術で右脚の機能を失ったが、新たな人生が待っていた。障害者と共に作るパフォーミングアーツと出合い、真の多様性を考えてきた。東京オリパラの舞台も踏み、次を見据える。 *  *  *  4月24日、街が薄暮に染まる頃、東京・池袋の野外ステージに、色彩豊かな衣装を纏(まと)った虫たちが現れた。「スローサーカスプロジェクト」によるサーカス公演「T∞KY∞(トーキョー)~虫のいい話~」の始まりだ。  これは、「ソーシャルサーカス」と呼ばれる、障害のある人もない人も一緒に舞台に立ちサーカスを行うもの。ソーシャルサーカスの源流は、ブラジルで始まった、貧困・移民・虐待・障害など困難を抱えるマイノリティの社会性を育み、社会に送り出す活動。ヨーロッパで普及し、体系化された。  そのソーシャルサーカスを日本に初めて持ち込んだのが、多様性と調和の取れた社会を目指す「スローレーベル」というNPO法人を立ち上げた、栗栖良依(くりすよしえ)(43)だ。サーカス・アートのワークショップや教育、舞台公演、国際展の企画、ものづくりなどを行う。2017年に国内外100人の市民が出演する野外サーカスを発表する過程で「シルク・ドゥ・ソレイユ」が開発したメソッドを知り、その後ソーシャルサーカスに注力してきた。 「虫のいい話」では、車いすのパフォーマンスや、空中芸、光るコマを使うジャグリングや巨大ボールのショーなどが次々と展開し、目を楽しませる。  舞台では、こんな場面があった。道化師役でダウン症の小川香織(26)が、出演者の肩の上に立ち、背面に倒れるパフォーマンス。見えない側へ倒れるため、恐怖心が先立つ。リアルに心配する演者から、「頑張れー」という声がかかる。すると小川は、「よし、行くか」と意を決し、スーッと後ろに倒れた。成功は、後ろに控える仲間の演者が「ちゃんと自分をキャッチしてくれる」という信頼感があればこそ。チームの絆が垣間見えた。 「香織ちゃんのあの場面は、ノンフィクション。私たちの普段の稽古場そのままの景色ですよ。『障害者だから危なそう』と、ちょっとしたリスクでさえ排してしまえば、成長の機会を奪ってしまう。コミュニケーションを取って課題やリスクを共有し、つながることで、人やチームの成長につなげていく。こういう景色を街中でも当たり前にしていけると、私たちは信じているんです」(栗栖) ■日本での美術の成績は最悪 イタリアで高い評価得る  栗栖は今、8月24日に開幕する東京パラリンピック開会式に向け準備に追われている。彼女は、このオリパラの開閉会式のパフォーマンスを創るために、一直線にキャリアを築いてきた。  10年以上前から、様々なアート企画、事業で接点を持つ、祁答院弘智(けどういんひろとも)(50)は言う。 「栗栖さんは目標を定めたら、必ずゴールにまで持っていく。有言実行なんていうのは甘くて、彼女の場合、有言“決定”ぐらいの勢いなんですよ」  東京都大田区で生まれ育った。母、昌世(70)は、子どもに欲しいものがあったら買わずに作って与える主義だった。母は裁縫や編み物が得意で、昔から家にミシン数台と、小さな織り機が備えてあった。取材時に栗栖が着ていた服も、「裂き織り」というモコモコした素材感のある布を昌世が手織りし、裁断して作ったというから、筋金入りだ。母の影響もあり、一人っ子の栗栖は幼い頃からものづくりに熱中していた。机や椅子の下など空間を見つけては、人形の家を作った。 「今思えば、遊びで空間演出をしていた」(栗栖)  小・中・高校と、カトリック系の私立校に通う。講話で難民や環境問題などに触れる機会が多かった。栗栖は小学生の頃から「将来は平和に貢献する仕事がしたい」と考えていた。  中高時代は、ダンスや舞台創作に燃えた。文化祭では、「アニー」「ウエストサイド物語」などのミュージカル演目を、レビューに仕立てた。学年で80人いる生徒の多くを巻き込み、舞台の演出を手がけた。舞台美術も栗栖が担当した。同級生の田中涼子は、学生時代を楽しげに振り返る。 「お嬢様学校なんだけど、私たちは文化祭の後夜祭での舞台づくりとか、無駄に頑張っちゃうアツい学年で。言い出しっぺと熱源は、いつも栗栖でしたね。彼女は生徒会長とバスケ部のキャプテンも兼任していて、目立っていたし。情熱と巻き込む力と説得力は、当時から全然変わってない」  高校1年の冬、栗栖がテレビで目にした、リレハンメル冬季五輪の開会式。数千人の市民が多彩な衣装に身を包み、障害のある人もない人も、子どももお年寄りも一つになり平和を願う演目を披露していた。「国際平和」と「舞台芸術」に強い関心を抱く栗栖だけに、表現がピッタリきた。 「私が創りたい舞台は、これだ!」 <夢>は定まったが、進路はどこにも用意されていない。手始めに美術大学に進学し、分野横断的にあらゆる表現に関われそうな「アートマネジメント」を専攻した。  何千人もの市民が出演する、五輪クラスのショーの演出は、マクロ的な視点で「仕組みからデザインする」必要があると考えた。そこで、28歳の時に、イタリアにある大学院大学「ドムスアカデミー」へ留学。ビジネスデザインを専攻した。意外なのだが、栗栖はイタリアに留学して、初めて自分に自信が持てるようになったと打ち明ける。 「日本って、人と違う表現は、駄目扱いでしょ? 私は絵の個人レッスンを受け、ものづくりが大好きだったのに、美術の成績は常に悪かった。大学の時に演劇を始めたら、『あなたの表現は、演劇じゃない』なんて言われたこともあって……。むしろイタリアだと、『どこにもないことを表現する君は、創意工夫に優れていて素晴らしい!』と評価された。これは人生上、大きな収穫でした」 (文・古川雅子) ※記事の続きはAERA 2021年8月9日号でご覧いただけます
AERA 2021/09/02 17:00
松本人志さんと内村光良さんの2Sはエモかった 「夢で逢えたら」の世代の鈴木おさむ
鈴木おさむ 鈴木おさむ
松本人志さんと内村光良さんの2Sはエモかった 「夢で逢えたら」の世代の鈴木おさむ
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、見ていてワクワクしたテレビ番組について。 *  *  *  フジテレビ大型特番「FNSラフ&ミュージック~歌と笑いの祭典~」で一番ざわついた瞬間は、間違いなく、松本人志さんがいきなり内村光良さんに電話するところだったと僕は思う。  二夜連続で放送していたこの番組の中で、一夜目に、出演者がいきなり芸能人に電話して、明日出演できないかブッキングしようという企画があった。  いろんな会議でいつからか「予定不調和」と言う言葉を聞くようになった。予想だにしないドキドキすることを起こそうということなのだが、会議でこの言葉が出てる時点で「予定不調和」じゃないじゃないか!と思ってしまう。だから僕はこの言葉が大嫌いだ。  だが、この電話企画はまさにそれ。「予定不調和」である。  松本さんが内村さんに電話して、「あれ出ないのかな?」くらいコールして、内村さんが出て、スタジオのみんなが慌てている。翌日、来れるか?来れないか?の話になると、日本テレビでは夜8時から「イッテQ」があるため、ここでは返事ができないというリアリティー。見ていてとてもドキドキした。  そして、翌日、番組終盤近くになり、内村さんはスタジオに登場し、みんな大興奮。松本さんと内村さんの久々の2Sはエモかった。  僕は高校生の時に、ウッチャンナンチャンさん、ダウンタウンさん、清水ミチコさん、野沢直子さんが出演していた「夢で逢えたら」を見て、強烈に「こういうものを作る仕事につきたい」と思い、放送作家を志した。そんな僕からしたら、時を経て、この2人が隣同士に座っているのは熱くなった。テレビを見てこんな気持ちになることも少ない。  この企画の何がすごいか。ここが一番のポイントだと思うんですが、あけて月曜日以降の会議で、必ずこの話になる。そのポイントは「松本さんの内村さんの電話って、本当にマジなんですかね?」というもの。テレビでいきなり電話する企画って、事前に仕込んでいることが多い。だからこそ、みんな思う。仕込んでる電話ってすぐにわかる。だけど、放送作家歴30年の僕から見ても、あの電話には「いきなり」のリアリティーがあった。あれがリアルかリアルじゃないのか?と大の大人が何人も集まって話してしまう。それこそがテレビだよなと思った。そんなことを話したくなってしまう。プロが集まってこんな話をしてること自体が、もう大成功ってことですよね。  もしあれが事前に仕込まれていたもので、みんなが演技していたのだとしたら、それはそれですごいと思う。  そしてもう一つ、書きたいこと。松本さんと内村さんがテレビで共演することにテンションが上がる10代20代ってどのくらいいるか?ということ。テレビが「コア視聴率」とか言いだして、若い人の視聴を大事にしているが、正直言うと、40代以上の僕ら世代のテンションの上がり方とは明らかに違うだろう。  でも、それでいい。それでいいんですよ。もし家で僕らと同じ世代のお父さんやお母さんがテレビ見ていたらテンション上がっているはずなんです。子供はそんな親の姿を見てうれしいはずなんです。  ネットと戦うために、若い人に向けて作るのも大事かもですが、まず、テレビで育った、テレビでワクワクしてきた世代を、今一度めちゃくちゃワクワクさせるようなものを作るのが今のテレビに一番必要なんじゃないかと思った日でした。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。作演出を手掛ける舞台「もしも命が描けたら」が9/3~5兵庫芸術文化センター阪急中ホール、9/10~12穂の国とよはし芸術劇場PLAT主ホールにて上演
鈴木おさむ
dot. 2021/09/02 16:00
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米倉昭仁 米倉昭仁
鉄道写真家・山崎友也が「車両写真が1枚もない」作品展を開く理由
大阪駅で。少年時代の山崎友也さん。写真展案内に作者自身が写っているのは珍しい  鉄道写真家・山崎友也さんの作品展「少年線」が東京・品川のキヤノンギャラリー Sで開かれている。山崎さんに聞いた。 *   *   *  手渡された写真案内のはがきには、赤いスポーツバッグを肩にかけ、コンパクトカメラを首から下げた少年が写っている。赤とクリーム色の、いわゆる「国鉄特急色」の車体を背景に立っている。車両の側面には「特急雷鳥 新潟」の表示が見える。  その少年は40年ほど前、大阪駅を訪れた山崎さんだという。「少年の夢」。そんな言葉が思い浮かんだ。  鉄道写真にかぎらないが、何かに没頭する少年には大きなエネルギーを感じる。  そのころ、広島に住んでいた山崎さんは夜の広島駅に通った。 「寝台列車が通過していくんですよ。一晩いればすごく楽しめた。『あさかぜ』『さくら』『はやぶさ』『富士』『みずほ』とか。東京行が23時、九州行が4時ごろ。それを撮影して朝帰る。小学生のときから」  一方、山陽新幹線の開通(1975年)によって、広島駅では昼間の特急は見られなくなった。  特急列車に憧れた山崎少年はひたすら鈍行列車を乗り継ぎ、たびたび大阪駅や東京駅を訪れた。 「お金がないので、基本は駅で野宿。いまは締め出されちゃいますけど」  不審に思った駅員や警察官から声をかけられた。 「補導じゃないですが、親に電話をさせられた。『あまりにも所持金が少ないようですけれど、親御さんはどう思っているんですか』みたいな感じで。親は『好きにやらせてやってください』と。よく許してくれたと思いますね。当時はとにかく、見たい、撮りたいの一心で」撮影:山崎友也  1988年に上京。日本大学芸術学部で写真を学んだ。 「昔はひたすら、車両の写真を撮りたい少年だったんですけど、日大時代にいろいろな写真を見て、かなり触発されました。ドキュメンタリーやスナップ写真を専攻して、そういう写真がすごく好きになった」 ■人を撮るには必ず許可を得る  今回の写真展には「車両が主役の写真は1枚もない」と言う。 「ガチの鉄チャン(熱心な鉄道ファン)が来ると、残念がられる写真展。まあ、車両の写真はないと知っているので、そもそも、来ないですけど(笑)」 「でも、蒸気機関車が写った写真もありますが」、たずねると、「これは博物館で写したもので、手前の小さな子が主役」と言う。 撮影:山崎友也  ほかにも子どもが写った作品がいくつもある。 「それもあって、タイトルに『少年』と入れています。でも、『少女』のほうが多いですね(笑)」  目の前を通りすぎるトロッコ列車に手を振る園児たち。小さな踏切を渡る小学生。無人駅で遊ぶ子どもたちの姿もある。 「駅をのぞきに行ったら、たまたま子どもがいた。そんなシチュエーションばかりで、子どもを写すために探す、ということはほぼないです」  写っているのはローカル線が多いのだが、近ごろの地方の足といえば車で、電車を利用する人はかなり少ない。 「人を撮るのが好きなんですけど、いま、スナップ写真を撮るのって、すごく難しいなあ、と思いますね。気の利いた感じの人がいつも駅にいるわけじゃないですから、運なんですよ。ひたすらさまよってもぜんぜん撮れないときもあれば、偶然の出会いでいい写真が撮れたりする」  ようやく人と出会え、「声をかけても、撮らせてもらえないこともある」。 「ぼくは事前、もしくは事後に、必ず許可をとる。でないと、発表できないですから。子どもの場合は親に許可を得ないとダメですし」撮影:山崎友也 ■夜に撮る必然性を感じる写真  雨の夜、水滴の向こうにぼやけた東京駅が写る作品もある。  映画「男はつらいよ」シリーズのロケで使われた駅舎の出入り口には小さく犬の姿が写っている。 「岡山県の山あいを走る鉄道には木造の駅舎が残っていて、情緒があるところが多いです」  昨年の豪雨災害で運休中の肥薩線(熊本県-鹿児島県)の線路には木の枝が伸び、それを夕日が照らしている。 「光をうまく使いたいと思っているので、光と影は意識しますね。あと、夜も好きな時間帯です」  フィルム時代から「夜の写真は大好きだった。でも、限界があった。感度が低くて、どうしても長時間露光に頼らざるを得なくて、光跡の写真が多かった」  デジタル時代になると、夜の撮影の可能性がすごく広がった。 「ただ、夜でないとこの色は出ないとか。夜に撮る必然性をどこかに感じる写真でないと、ダメだと思っています」 ■いまの鉄道写真の殻を破りたい  写真展のタイトルは「少年線」と、やわらかいが、山崎さんが目指すのものはなかなか挑戦的だ。  山崎さんはこれまでの鉄道写真展について、「珍しい電車が写っているとか、過去の懐かしい電車の写真とか、鉄道が趣味の人しか見に来ない写真展だったんです。車両が主役の写真では、一般の人は何がいいのか、わからない」と指摘したうえで、「それを打破したい」と語る。 撮影:山崎友也  今回の個展は「鉄道になんら関心がない人が見ても、いいね、と思ってもらえるような写真展にしたい」と言う。 「趣味の世界で終わらせたくないんです。鉄道写真の価値をもっともっと高めて、ふつうの写真好きの人にも支持されるようにしたい。そうしないと、鉄道写真の世界は広がらない。いつも、そう思っています」  山崎さんが写真作家を志向するようになったのは、30歳を過ぎてから。 「だいぶ遅いんです。それまでは、好きで撮っていた、というレベルで。個展をやろうとか、そういう考えはこれっぽっちもなかった」  しかし、歳を重ね、仕事の幅が広がると、さまざまな分野の写真家と話す機会が増えた。それに刺激され、個展を開き、写真集をつくるようになった。撮影:山崎友也 ■自分の作品を撮るべきか?  もちろん、いまでも「基本的には食べるための仕事として」写している。 「電車がきれいに写っているものや、美しい風景のなかを走る列車の写真がいちばん商品価値が高くて、カレンダーやパンフレットに使われる。ただ、それは撮影テクニックや、いい季節に行けば撮れるので、それほど個性は出ないと思っています」  日本全国を訪れる一方、海外の鉄道にはあまり興味がない。 「日本にもいい風景が残っているし、ちゃんと人も撮れる。日本の味を出したり、感性が問われるのは、やっぱり、スナップ写真だと思うので、そっちでがんばりたい」  山崎さんの会社では鉄道写真のフォトライブラリーも営んでいる。 「すごくきれいな風景のなかを電車が走って来ると、『会社のためにお金になる写真を撮るか』『自分の作品を撮るべきか』、いまだに悩みますね」 (アサヒカメラ・米倉昭仁) 【MEMO】山崎友也写真展「少年線」 キヤノンギャラリー S(東京・品川) 8月28日~10月11日
アサヒカメラキヤノンギャラリー写真家写真展少年線山崎友也鉄道写真
dot. 2021/09/01 08:00
ゴンドラに動物園まで 今どき「ワーケーション」を覗いてみた!
ゴンドラに動物園まで 今どき「ワーケーション」を覗いてみた!
テレワークゴンドラ (リゾナーレ八ヶ岳提供) 「zooワーケーション」の一コマ (しろとり動物園提供)  新型コロナウイルスの感染拡大もあり、旅先などで休暇を楽しみながら働く「ワーケーション」が注目だ。学校や鉄道、さらには動物園と働く場所やシチュエーションも広がりを見せている。ユニークな現場を訪ねた。 *   *  *  JR立川駅から青梅線で約1時間。川井駅で下車し、奥多摩大橋を横目に15分ほど歩くと「奥多摩町立古里(こり)中学校」の看板が見えてくる。2015年に閉校となった後、文部科学省の廃校活用プロジェクトで人材育成を手がける会社「JELLYFISH(ジェリーフィッシュ)」の企画案が採択され、昨年1月からワーケーション施設「OKUTAMA+」としてリニューアルした。  旧校舎は3階建て。人体模型のある理科室、作曲家の肖像画が掲げられた音楽室など、そこかしこに学校の面影が残る。建物内にドミトリーがあり(1泊5千円から)、多国籍料理を提供するカフェレストランも近くオープンする。日帰りの場合、基本使用料は2千円。  東京都立川市から施設を訪れた会社員の男性(33)は「自宅周辺よりも緑が多く、癒やされました。廊下の足音など適度な緊張感があるのも良かったです」と話す。  スタッフの久保田博さん(49)は古里中の卒業生。今は都心のIT企業に勤め、副業として週5日施設に関わる。一昨年、新規事業の部署に異動となり、地域活性につながる事業を起こせないかと考え、候補地の一つとしてふるさとを訪れた。 「かつて住んでいた地域の付近は物音ひとつなく、父親が勤めていた会社の工場も閉鎖されていた。衝撃を受けました」  その後、知り合いに誘われ、オープン間もないここを訪れた。生まれ変わった学校の姿に驚くとともに、「不用品置き場になっている部屋も整えれば、さらに素晴らしい施設となるのでは」と思案。施設の運営責任者、鈴木海斗さん(22)に手伝いを申し出て、スタッフの一員に加わった。 「日々自然に接していると、人間界の出来事もささいに感じられてくる。ここは誰にとっても自然体に戻れる場所だと思います」(久保田さん)  JR東京駅から外房線特急わかしおに乗って1時間半。大原駅の構内に、手描きのイラストが描かれた売店がある。全14駅、26.8キロの区間を走るローカル線「いすみ鉄道」が、ワーケーションを支援する事業者などと運行する「ワッペン・ワーケーション列車」の出発点だ。料金は平日が2千円、土日が2300円。  購入したワッペンが証明書代わりとなり、好きな時刻の電車に乗り、好きな座席で作業ができる。車両だけでなく、駅構内での作業も可能。見回すと、写真撮影にいそしむ「撮り鉄」も多い。思い思いの時間が流れ、気兼ねせず自分の仕事ができる。 「いすみ鉄道は単なる移動手段を超え、乗ることを楽しんでもらう列車。自由度が高い分、うまく空間を活用してほしい」と話すのは、6月まで同社の営業課長だった齋藤麻由美さん(33)。昨年4月、コロナ禍で利用者が激減するなか、ワーケーション列車のプランが浮かんだ。かつて旧国鉄で指定席券代わりにワッペンを配っていた話を聞き、再現を思いついた。  齋藤さんは「特別な景勝地も夜景スポットもありませんが、外の景色に目を奪われずに済む分、作業に専念しやすいと思います」と話す。  八ケ岳山麓にあり、避暑地として人気の小淵沢(山梨県北杜市)。飲食店や土産物店が軒を連ねる「ピーマン通り」の中央に並ぶのが、「星野リゾート リゾナーレ八ケ岳」が手がける「テレワークゴンドラ」だ。  同社が運営する福島県のスキー場で使われていたもので計3台。稼働はしていない。約2畳の室内に、パソコンと資料を両方広げられる大きさのデスクとソファ、コンセント、Wi-Fiを完備。小窓や冷風機、換気扇もあり、換気や温度調節もばっちりだ。個室でアイデアをじっくり整理するのに向いている。  宿泊者が無料で使える。予約制だが、当日に空きがあればその場で予約も入れられる。 ■キリンやゾウをバックに会議も  コロナの感染が広がり始めた昨年3月以降、施設の一部をコワーキングスペースとして開放する中で、個室の需要を感じたという。ゴンドラを使うのは同社の星野佳路代表のアイデア。昨年11月にサービスを始めて以来、コンスタントに予約があるという。総支配人の北嶋文雄さん(42)は、「ゴンドラで仕事するお父様やお母様を終わりがけにお子さんが迎えに来て、ご家族でお出かけされるシーンをしばしば目にします」と語る。 「園内を自由に移動でき、疲れたら動物と交流もできる。『自由すぎるワークスペース』と思っていただきたい」  香川県東かがわ市のしろとり動物園で副園長を務める松村一史(かずふみ)さん(37)はこう話す。同園が今年4月から提供する「zooワーケーションプラン」は、折り畳みのデスクと椅子、ポケットWi-Fiなどが借りられ、約1.2ヘクタールある園内のどこでも仕事ができる。  基本使用料は4時間1500円から(別途入園料で1300円)。プラス3500円(1時間単位)でキリンやゾウ、トラなどの動物を背景に会議ができるオプションも追加できる。I‌T関係者を中心に、週平均2~3件の利用があるという。 「『背景にいる動物、何?』と会議が盛り上がったという感想をいただきます。よそ見せず画面に向き合う在宅勤務と違い、仕事上のコミュニケーションでは脱線もプラスになるのでは」と話す。  ワーケーションは「仕事(ワーク)」と「休暇(バケーション)」のかけ合わせと解されることが多いが、労働法が専門でテレワークにも詳しい川久保皆実弁護士によれば、非日常的な環境で新たな交流を生むコミュニケーション、画期的なアイデアを生むイノベーション、さらに人材育成に役立てるエデュケーションなどの意味合いも含まれるという。 「仕事に休暇が組み合わさったというだけでは、企業側に『今ある福利厚生制度で十分』と捉えられかねません。非日常空間での経験が新たな価値を生み、会社の利益にもつながるという理解が広がれば、さらにワーケーションの導入が進むと思います」(川久保弁護士) 「アフターコロナ」を見据え、あなたもまずは一度、近場のお出かけから始めてみてはいかが。(本誌・松岡瑛理) ※週刊朝日  2021年9月3日号
週刊朝日 2021/08/31 08:00
“どピュア”可愛い★ King & Prince岸優太が「週刊朝日」の表紙とグラビア&インタビューに登場!
“どピュア”可愛い★ King & Prince岸優太が「週刊朝日」の表紙とグラビア&インタビューに登場!
週刊朝日9/10号 表紙は岸優太さん ※アマゾンで予約受付中  今週の「週刊朝日」の表紙には、King & Princeの岸優太さんが登場! 岸さんは、フジテレビ系の月9枠で放送中のドラマ「ナイト・ドクター」で新米医師・深澤新を演じています。共演者たちから刺激を受けながら真摯に役や自分自身と向き合う、どこまでも謙虚すぎる素顔に迫りました。他にも、中高年カップルの大問題である「性のすれ違い」を解消する方法を徹底取材した特集や、人生100年時代の武器として期待が高まる「年金繰り下げ」制度について発覚した問題点、ネット上で「ステルス値上げ」と批判される商品ボリュームダウンの正体、Netflixで配信される韓国・米国以外のオススメ作品厳選30など、盛りだくさんのラインナップでお届けします。  放送中のドラマ「ナイト・ドクター」は、夜間救急を専門にする若き医師たちの奮闘を描いた作品。岸優太さんにとって、医師役を演じるのは今回が初めてだそうで、感想を聞かれると「(実際の医療現場を)想像するだけで心臓が口から飛び出しそうです。お医者さんのすごさや大変さを思い知ることができたのは、大きな経験になりました」。取材を通じて伝わってきたのは、岸さんの底抜けの真面目さと実直さ。共演した俳優の北村匠海さんには年下なのに尊敬の念から敬語が抜けなかったり、自分の演技を「素人」と評して、「どんなジャンルでもプロの仕事ができると誇れるようになりたい」と語ったり……King & Princeメンバーの平野紫耀さんからも評された“どピュア”な魅力にノックアウトされるインタビュー記事となりました。  その他の注目コンテンツは、 ●したい?したくない? シニアカップルの大問題「性のすれ違い」を解消する 長い人生のラストステージに、セックスは必要なのか。ある調査では、「セックスをしたい」と考えるシニア男性は全体の7~8割なのに対して、シニア女性では2~3割と、男女間で大きな格差があるようです。このズレを解消するためのヒントになりそうなのは、海外で「ベニス」と呼ばれる新しいセックススタイル。その実践方法とは? また、加齢に伴う体の変化と、うまく折り合いをつけるにはどうすればいいのか? 専門家への取材を元に、「誰にも聞けないカラダの悩み」に迫りました。 ●年金「繰り下げ」に新たなリスクが発覚 70歳超で死亡したら一切恩恵なし! 受給を遅らせれば増額されていく仕組みの年金「繰り下げ」。人生100年時代の“武器”として期待が高まっていますが、来年春からの上限年齢拡大に伴って「不公平」とも思える事態が発生することが、政府改正案に対するパブコメ(パブリックコメント)をきっかけに判明しました。70歳超で死亡してしまえば、一切の恩恵が得られないというのです。専門家も「著しい不公平」と批判するこの制度、問題点を徹底解説します。 ●“ボリュームダウン”で家計を圧迫!?「ステルス値上げ」の正体を企業に直撃! 最近、心なしか食料品や生活用品の内容量が減った気がする……そんな違和感を覚えた経験はないでしょうか。値段が変わらないのに中身が減った商品に対し、ネット上などでは「ステルス値上げだ」との批判の声があがるようになっています。企業なぜ、こうした行動に出るのか。話題になったいくつかの企業に記者が直撃し、真相に迫りました。 ●韓国・米国だけじゃない どハマりするNetflix海外ドラマ厳選30  Netflixでは、話題になることが多い韓国・米国だけでなく、多彩な国々のドラマや映画を配信しています。そこで、3人の識者にあえて韓米以外のおすすめドラマを挙げてもらいました。イギリス、フランス、スペインなどヨーロッパ各国、台湾、中国、タイなどアジア各国にも隠れた名作が……異なる文化や生活習慣などを垣間見ることができ、海外ドラマの“沼”にハマること間違いなしです! 週刊朝日 2021年 9/10号 発売日:2021年8月31日(火曜日) 定価:440円(本体400円+税10%) ※アマゾンで予約受付中!
dot. 2021/08/30 13:43
「お金に糸目はつけませんから…」パリコレ出展のアパレルからラーメン業界へ転身! こだわり抜いた「本物志向」
井手隊長 井手隊長
「お金に糸目はつけませんから…」パリコレ出展のアパレルからラーメン業界へ転身! こだわり抜いた「本物志向」
「ののくら」の特製中華そばは一杯1250円。鶏チャーシューに豚チャーシュー、メンマ、のり、煮玉子、ワンタンの全部入りが人気だ(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。“手打式”の麺で圧倒的な個性を放つ名店の店主が愛する一杯は、20年以上も東京のラーメンシーンを牽引する師匠の紡ぐ一杯だった。■睡眠時間は4時間 クオリティを追求したミシュラン店の今 JR亀有駅から徒歩3分のところにある名店「手打式超多加水麺 ののくら」。2017年のオープン以来、店主の白岩蔵人さんがすべて手作りで作る心のこもった一杯に連日大行列ができる人気店だ。 ののくら~手打式超多加水麺~/〒125-0061 葛飾区亀有3-11-11マーベラス大協ビル1F/火~土11:00~15:00、日・月定休、土曜は記帳予約制、※売切れ次第終了の場合あり/筆者撮影  白岩さんが毎日仕込むのは、加水率53~57%という超多加水の極太麺。縮れがしっかり付いていて、モチモチの食感だ。老鶏の丸鶏と鶏ガラ、さらに鶏肉を入れて炊いたスープに、煮干し、うるめ節、鰹節、昆布などの魚介スープをブレンド。醤油ダレには生揚げ醤油を使用する。この二つがぶつかり合って実に奥深い旨味を引き出している。 業界最高権威ともいわれる「TRYラーメン大賞」では新人大賞2位となり、開店翌年には「ミシュランガイド東京」のビブグルマンを獲得。はた目には順風満帆かと思われていたが、実際の白岩さんは忙殺されていた。開店以来お客さんはどんどん増えて反響を肌で感じていたが、自分がその勢いに追い付いていない感覚があったという。「ラーメン作りの課題ももちろんありましたが、それ以上に経営がうまくいきませんでした。原価と手間がかかりすぎていたんです。こだわりの強さから、仕込みの時間もかかりすぎていました。昼夜の営業を終え、夜中の2時ぐらいまで仕込み、店で仮眠して6時からまた仕込みをするという生活で、これでは続かないなと思いました」(白岩さん)  細かいマイナーチェンジを重ねながら、少しずつクオリティを上げていった。味に自信がついてくると、今度は無駄をなくす努力をした。営業時間も昼帯のみにし、仕込みの時間をしっかり確保した。結局、軌道に乗るまでは3年かかったが、振り返ってみると少しずつ向上していったことで、クオリティも経営面も安定するようになったという。「ののくら」の人気とともに、手打ち麺の再ブームもやってくる。 地方の懐かしさを感じる麺に、東京のど真ん中でも勝負できる研ぎ澄まされたスープがおいしい(筆者撮影) 「手作りがこんなに注目される時代がやってきてびっくりしています。しかもどこのお店も評価されていて、業界としてもうれしいことだと思っています。素朴な良さ、手作りで響くものがしっかりお客さんに伝わっている。これからも個人の飲食店の良さが残っていくことを確信できました」(白岩さん)“手作り”というコンセプトの中でできる限りのチャレンジをしたいと白岩さんは意気込み、麺を粉から作る自家製粉にも興味があるという。そんな白岩さんが師と仰ぐのが、自身の修行先でもあった「九段 斑鳩」店主の坂井保臣さんだ。今年で21年目を迎える老舗で、東京のラーメンシーンを牽引してきた。「ののくら」飛躍の土台には、坂井さんの教えがあるという。■パリコレ出展のアパレルからラーメン店を開業 こだわり抜いた「本物志向」 2000年に九段下でオープンした「九段 斑鳩」は、魚介と動物を合わせたリッチなうまみを放つ一杯が大人気のラーメン店だ。ビルの老朽化で16年に移転した後も人気は衰えず、東京のラーメンシーンの最先端を走り続けている。 九段 斑鳩/〒102-0074 東京都千代田区九段南4-7-16 ヒューリック市ヶ谷ビル1階/月 ~土、11:30~15:00、日曜定休(日曜以外は祝日でも営業)/筆者撮影  店主の坂井さんは東京生まれ。母親は給料をつぎ込んで江上料理学院(新宿区)の師範過程に通うほどの料理好きで、子どものころから家庭でも手の込んだ料理を食べて育つ。一方、いわゆるB級グルメに分類される食べ物にはあまり縁がなく、小学校時代から見よう見まねでルゥを使わずに小麦粉からカレーを作るような少年だった。 実家は曽祖父の時代から続く老舗のアパレル会社を経営。パリコレクションに出展する洋服を作る一流の会社だった。「一人っ子ということもあり、いつかこの会社を継ぐんだろうなと思っていました。逆に、それを勉強を頑張らない理由にしていましたね」(坂井さん) 一浪ののち、神田外語大学の中国語学科へ進学。大学時代には将来の社長業を見据えて、新たな価値観を磨くために一年休学して海外へ。インドネシア、中国、カナダ、アメリカと渡り歩いた。大学4年からは実家の会社を手伝い始め、卒業と同時に入社した。 「九段 斑鳩」店主の坂井保臣さん。「ののくら」白岩さんの原点でもある(筆者撮影) 「父は『名人』と呼ばれるような腕利きでしたので、自分はその道ではなく、生産管理のプロになろうと思いました。少しずつ信頼を勝ち得ていって、結果、1年半で受注量を10倍にしました。その後は海外進出をして、中国での生産管理を商社から任されるようになりました」(坂井さん) 目が回る忙しさで大変な苦労もあったが、坂井さんは若さで乗り切っていった。 会社はどんどん業績を伸ばしたが、大きな転機が訪れる。ユニクロの台頭である。クオリティで勝負できた時代は終わり、価格競争や納期の短さが重視され、薄利多売を強いられることになる。坂井さんはここで勝負すべきではないと判断し、当時手掛けていた事業を撤退。板橋に小さなブティックを作り、自社ブランドの商品を売るなど次なる手も打った。だが、これまで以上の結果は出ないと考え、アパレルから手を引くことを決意する。 今の日本に本当に必要とされるものづくりとは何かと自問自答する坂井さん。仕事をするなら、多くの人に喜ばれるものがいい。そんなとき、思いついたのがラーメンだった。幼いころに父親に時々連れられた「えぞ菊」のラーメンを思い出していた。「本物志向の洋服作り、そして母の料理の腕。今までやってきたことをふまえて、うちがやるのであれば“本物のダシ”を表現したラーメンにしたいと考えました。千円札1枚で本物の味を追求してみたいと思ったんです」(坂井さん) 「九段 斑鳩」店内にある麺の特徴がわかりやすく記された貼り紙。ここにも本物志向が現れている(筆者撮影)  ここから坂井さんのラーメン研究がスタートした。3カ月かけて、1日3軒食べ歩いた。ラーメンの味はもちろん、接客や席の作り、丼の見栄えなど、様々な面から分析した。何よりも食べ続けることでどんどんラーメンにハマっていく自分がいた。自分の好みさえ分かっていれば、ラーメンほど素晴らしい食べ物はないということに気づいたのだという。 父親からは修行に出ろと言われたが、かたくなに断った。誰かに教わることでオリジナリティが失われてしまうことを恐れたからだ。一から一人で悩み抜き、自分だけで作ってみたい。坂井さんはそういうタイプだった。 「九段 斑鳩」の特製濃厚らー麺は一杯1000円。菅野製麺を使っている(筆者撮影) ■「お金に糸目はつけませんから…」 坂井さんのこだわり ラーメンの作り方は、本に載っていた小さなコラムをヒントにした。そこに書いてあったのは、「豚と鶏の骨を洗う」「チャーシューを煮る」「チャーシューの煮汁を醤油ダレにする」の三つだけ。坂井さんは早速肉屋に豚のゲンコツ、鶏ガラを買いに行ったが、はじめは怖くて骨が触れなかったという。“本物のダシ”を追求する中で、絶対に使いたいと思ったのが鰹節と昆布だった。築地の市場を訪れると、見るからに目利きの乾物屋の店主がいた。坂井さんはその人を見るなり、ここから仕入れると決めてしまう。「そこは一流料亭にしか卸していない乾物屋さんで、ラーメン屋でこれを使い続けるのは無理だと断られました。『絶対に日本一になるから使わせてください。お金に糸目はつけませんから』と何度も頭を下げて、ようやく付き合いが始まったんです。ラーメンに使うにはものすごく高価でしたが、絶対に結果を出してやるんだという気持ちでしたね」(坂井さん) こうして動物と魚介のダシを贅沢に合わせたラーメンが出来上がった。高級食材をふんだんに使った原価率60%という前代未聞の一杯だった。  並行して物件探しもしていた。日本のど真ん中から発信したいという思いで、都内の物件を探した。歴史ある街がいいと築地、四谷、目黒など各所をあたったが、条件がなかなか合わなかった。その中で、九段下の物件が見つかった。坂井さんが個人的にもなじみのある街で、条件にも合うということでここに決めた。 だが、物件が決まった後が長かった。店のレイアウトや丼のチョイス、壁の塗り直しなど、こだわり続けた結果、契約してからオープンまで半年以上かかってしまった。「とにかく本物を」と石川県の九谷焼(くたにやき)の丼やノリタケのスプーンなど、食器も一流のものをそろえた。こうして、00年4月、「九段 斑鳩」はオープンした。 店名は、家柄にこだわらず有能な人を集めて国を良くしようという聖徳太子の「冠位十二階」に感銘を受け、そのゆかりの地「生駒郡斑鳩町」の名前から拝借。ブランドカラーも冠位十二階の最上位の色・紫を基調にした。 開店当日から、30人の行列ができた。半年間ずっと準備していた気合の入った店として近所で話題になっていたのだ。想定外の反響に焦った坂井さんは、初日から生の麺をそのまま出してしまい、怒られて返金したという苦い思い出もある。 長野県産の石臼挽き粉などをブレンドした中太麺がおいしい(筆者撮影) 「斑鳩」のラーメンは、魚介の香りとうまみに、動物系の濃厚な厚みが加わり、食べただけでリッチなおいしさを感じる一杯だ。店の外観や内装から女性も入りやすく、花見シーズンや日本武道館でイベントがある日は100人を超える行列ができることもあった。たちまち東京を代表する人気店となり、「TRYラーメン大賞」のランキングの常連でもある。11年には東京駅一番街の「東京ラーメンストリート」にも出店し、16年には本店を市ヶ谷に移転するが、変わらぬ人気を誇っている。坂井さんは開店から21年経った今も厨房に立ち、味のブラッシュアップを続けている。「ののくら」の白岩さんは、師匠・坂井さんが人生を変えてくれたと当時を思い出しながら語る。「自分のベースの部分を作ってくれたのが坂井さんです。本気で細かな部分まで考え抜き、やることすべてが美しい。客商売の基本であるホスピタリティーにあふれていて、坂井さんの姿を浮かべると自分も基本に立ち返ることができます」(白岩さん) 坂井さんは、まな弟子である白岩さんの飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を心から喜んでいる。「開店前から自分だけのものづくりにこだわっていた彼の姿を見ながら、自分がラーメン店を始めた頃のことを思い出していました。自分が教えてきたことがこうやって伝わっていくのかと、構想を聞いていくうちに私もゾクゾクしてきましたね。ラーメンの根本である手作りにこだわることには大きな意味があると彼には伝えました。まずは思うがままに突っ走って、さらにいい店づくりを頑張ってほしいと思います」(坂井さん)                                                  坂井さんが長年突き詰めてきた本質がしっかり弟子の白岩さんに伝わり、また新たなオンリーワンが生まれている。これぞ人と人の繋がりからしか生まれない最高の伝統であると感じた。(ラーメンライター・井手隊長)○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長白岩蔵人
AERA 2021/08/29 12:00
離婚で「親権手放し」の篠原涼子への“逆風”止まらず 
離婚で「親権手放し」の篠原涼子への“逆風”止まらず 
 歌手、女優としてこれまで順調にキャリアを重ねてきた篠原涼子(47)が、初めての“危機”を迎えている。  7月24日、東京五輪の開幕に紛れ込ませるような形で俳優の市村正親(72)との離婚を発表した篠原。だがタイミング悪く報じられたのが8月5日発売の『週刊文春』の不倫疑惑だった。韓国の男性アイドルグループ「SUPERNOVA(元・超新星)」のグァンス(34)と離婚前から親密な関係にあったのではないかと報じられ、19日発売の同誌では「束縛不倫」と「手つなぎLINE」と続報が重ねられた。  篠原は今回の不倫騒動の前から夜に出歩く姿などが目撃されており、女性誌や写真誌のカメラマンからマークされていたといわれる。だが、張り込んでも決定的瞬間は撮らせないことから“密会の達人”との異名までつけられていようだ。 「はっきりと表沙汰になったのは、5年前に『女性セブン』が報じた江口洋介との密会が最初です。ドラマでの共演後に篠原がなじみの個室焼き肉屋にこもって、江口と2人で数時間を過ごしたと報じられました。個室内にソファがある店で、深夜にもかかわらず身を寄せ合いながら食事を楽しんでいた様子などが書かれました。この件で江口と妻の森高千里は一時、夫婦関係が険悪になったと言われています」(芸能プロ関係者)  この報道に懲りたのだろうか。以降、篠原は派手に飲み歩くことはせず、ママ友が主催する飲み会にのみ参加するようになったという。 「そのママ友との食事会にもイケメン男性が同席していたことがあり、恋バナで盛り上がったりしていたようです」(女性誌記者)  表立っては派手な行動は控えていた篠原だったが、大きな動きがあったのは昨年3月ごろ。仕事部屋と称して、自宅から車で10分ほどのところに高級マンションを借りていたことが女性誌で報じられたのだ。 「この記事が出た昨年8月以降は、篠原のマンションに男性が出入りしているとうわさになり、飲食店経営者との交際疑惑も飛び出しました。しかし、セキュリティーがしっかりしているマンションなので裏が取れない。一部女性誌は、不倫情報に自信を持ち、期間限定で社員が賃貸契約を結ぶ準備までしていました」(スポーツ紙芸能デスク)  そんな経緯があったなかで、火を噴いたのが一連の「文春砲」だった。篠原とグァンスの“蜜愛”を2週にわたって詳報したのだ。 「グァンスが日本で住んでいるマンションには篠原が住んでいたとされていますが、同じマンションの別の部屋に住めばマスコミには写真を撮られにくい。これは最近の芸能人カップルの常套手法です。だが、それゆえ文春も2人のツーショットは押さえられなかったのか、決定的な写真は掲載されていません」(同)  文春の報道に対して、篠原サイドは不倫疑惑を否定。その後も沈黙を貫いている。ツーショット写真がないこともあり、他の主要な芸能マスコミも“後追い”はしていない。 「テレビのワイドショーやスポーツ紙などは完全スルーでした。篠原サイドは広告代理店関係者に“完全ノーダメージ”と宣言するなど自信を持っていたようですし、時が過ぎて沈静化するのをひたすら待っていたのでしょう」(前出・女性誌記者)  だが、次第に篠原には想定外の“逆風”が吹き始めた。2週にわたる文春の不倫疑惑報道が出た後は、篠原が2人の子どもの親権を市村に譲ったことなどに対して、SNSを中心に疑問の声が上がるようになる。 「グァンスとの恋愛を全うするために、子どもの親権を市村に譲ったと世間は感じたようです。さらに、2回りも年上の老夫だった市村を“捨てた”という印象もついてしまった。篠原が母親や妻ではなく“女”として自由に振る舞う姿に、子育て世代の女性からの好感度は大きく下がってしまいました」(前出・芸能プロ関係者)  こうしたマイナスイメージは、女優業にも少しずつ影響が出始めているという。 「年老いた夫に子どもを残して親権を手放した妻、というイメージはかなりよくない。CMはほぼ全てが見直しになるでしょう。さらに不倫疑惑についても、いつ決定的瞬間を押さえられるかわからない。クライアントはどこもそんなリスクは背負いたくない」(広告代理店関係者)  名女優・篠原涼子は、このピンチをどう切り抜けるのか。(AERA dot.編集部)
グァンス不倫市村正親篠原涼子親権離婚
dot. 2021/08/27 11:30
「こういうアイドルの在り方もあるんだ」上京から帰郷までの4年間、決意込めたCmiyc(チェミック)新曲『Firefly』配信記念インタビュー公開
「こういうアイドルの在り方もあるんだ」上京から帰郷までの4年間、決意込めたCmiyc(チェミック)新曲『Firefly』配信記念インタビュー公開
「こういうアイドルの在り方もあるんだ」上京から帰郷までの4年間、決意込めたCmiyc(チェミック)新曲『Firefly』配信記念インタビュー公開  太陽みたいな天然の明るさを持った女の子でありながら、聴く者を笑顔にするキュートなポップミュージック~聴く者の涙を誘うドラマティックなエレクトロまで体現してみせる女性ソロアイドル≒アーティスト・Cmiyc(チェミック)。8月27日に新曲「Firefly」を配信リリースすることが決定し、それに向けて自身の音楽人生を語るソロデビュー後初インタビューに応えてくれた。  高校時代にE-girlsのライブを観て「ステージ側に立てたら、どれだけ素晴らしい人生なんだろう」とデビューを目指し、2017年~2019年までアイドルグループ・校庭カメラガールドライ(コウテカ3)のメンバーとして活躍。そして、ソロデビュー後は「アイドルであり、アーティストでもある」という新たな活動スタイルを追求し、その姿勢からしか生み出せない新曲「Firefly」を2021年夏の終わりに発表。上京から4年、地元・岡崎へ帰郷するまでの自らの人生を音楽にした。  そんなCmiycの過去・現在・未来の想い。ファンはもちろん、彼女のことをまだよく知らないリスナーにも(この先、あなたの人生を明るく照らせる存在になること間違いなしゆえ)ぜひご覧いただきたい。 ◎Cmiyc『Firefly』配信記念ソロデビュー後初インタビュー <E-girlsを観て「ステージ側に立てたら」~コウテカでデビュー> --初めましてのインタビューなので、まずはルーツから辿らせて下さい。そもそもどんな経緯でこの世界に憧れ、ステージに立つようになったんでしょうか? Cmiyc:母親が歌手を元々目指していたり、父親もカラオケのコンテストで全国2位になったことがあったり、歌うことが大好きな家族の中で育ったんですよね。なので、私も小さい頃から歌うことが好きだったんです。 --自然と歌うことが好きになる環境で育ったと。 Cmiyc:踊ることも好きだったからダンスもずっとやっていましたし、高校生のときに「楽器が弾けるようになりたい」と思ってギターも始めて、絢香さんやYUIさんの曲を弾き語りしたりして。そんな感じで音楽にはずっと触れていたんですけど、その頃は本気で演者を目指していたわけではなかったんです。でも、E-girlsさんのライブを初めて観に行ったときに、次の日になっても胸のドキドキが収まらないぐらい、めちゃくちゃ感動しまして。それで「ステージ側に立てたら、どれだけ素晴らしい人生なんだろう」と思ってオーディションを受けるようになったんです。 --E-girlsのライブがきっかけだったんですね。 Cmiyc:ただ、大手のオーディションしか受けていなかったので、特別賞や最優秀賞をもらってもスクールに通わなきゃいけなかったり、現実問題としてお金も結構かかるし、そのときは断念したんです。でも、地元で元々活動していた女の子が「新しいアイドルグループを組む上で歌える子を募集しているんだけど、受けてみない?」と誘ってくれて。それで東京までオーディションを受けに行って、MISIAさんの「逢いたくていま」を歌わせて頂いたんです。そしたらメンバーに選ばれて、最初は不安だらけだったんですけど、それ以上に「ライブが出来るんだ! 人前で歌えるんだ!」という気持ちが大きかったからすぐ上京して、アイドルグループとしての活動をスタートしました。 --それが2017年~2019年まで活動していた校庭カメラガールドライ(コウテカ3)ですよね。元々アイドルにも憧れていたんですか? Cmiyc:E-girlsさんみたいにステージで歌って踊りたいとは思っていたんですけど、アイドルには憧れていなかったんですよ。当時は自分の中でアイドルと言ったらAKB48さんのイメージだったから、そういうゴリゴリのアイドルみたいな曲は歌いたくなかったし、可愛い振り付けで踊る感じは正直イヤだなと思っていて。でも、コウテカはラップユニットだったからそういうアイドルグループじゃなかったし、デビューライブからお客さんがたくさんいて盛り上がってくれていたので、すぐに「この応援してくれている人たちの気持ちに応えよう!」という気持ちになりましたね。お客さんにも「アイドルっぽくないね」って言われていましたし(笑)。 <コウテカ脱退&解散~ソロデビューへ「ありがてぇ」> --どういった経緯でアイドルグループからソロアーティストへ移行することになったんでしょう? Cmiyc:グループの中ではメインボーカルを務めさせてもらっていたんですけど、だんだん音楽の方向性が歌メインというよりはオートチューンのチルいラップ寄りになっていって、それはグループ的には進化だと捉えていたんですけど、だからこそその方向性に納得できない自分は抜けるべきだし、新天地でやりたい音楽にトライしたほうが健全だと思ったんですよね。それで「脱退したいです」という話を当時のプロデューサーさんに伝えました。カナダまでライブで遠征していた2日目の夜に打ち明けまして、でもそこでは「冷静になって考えなさい」と言われてしまい、その次の日はみんなで観光の予定だったんですけど、私だけホテルに閉じ籠っていました(笑)。ただ、考えは変わらなかったから「辞めます」と改めて伝えて脱退することになったんです。 --自らの意思で音楽人生の舵を切ったわけですね。 Cmiyc:私の脱退が決まったあとに他のメンバーも「続けられない」と伝えて、コウテカ自体解散することになったので、結局はラストライブまで在籍させてもらったんですけど……今になって振り返ると、コウテカがなかったらステージで歌うこともなかっただろうし、ということは今もこうして歌えていなかっただろうし、生まれて初めて「生きててよかった」と思えた場所でもあったので、あの活動期間には感謝しています。 --脱退を決めた時点で「ソロでやっていこう」と決めてはいたんですか? Cmiyc:そうですね。ソロ活動ができる場所を探していて。そのときに今のプロデューサーさんと出会って、私の想いとか目指したい方向性とかをお伝えしたら「じゃあ、ソロ活動してみようか」と。解散して空白の時間が生まれてしまうと立ち止まっちゃう気がして。そこでまた迷うだろうなと思っていたので、そう言っていただけてホッとしました。そこからアーティスト名などを決めていく流れだったんですけど、コウテカ時代の「きゃち まいはー」という名前は「ハートを掴むよ」みたいなアイドルっぽいイメージだったから、ソロではちょっと大人っぽく、そして一歩先の未来を見せられる存在になりたくて「捕まえられるもんなら捕まえてみなさい」みたいなイメージで「Cmiyc」にしたんです。 --そうしてCmiycとしてソロデビューしたわけですが、最初はどんな心境で活動していたんでしょう? Cmiyc:1年目は「ありがてぇ」という気持ちがいちばん強くて(笑)、グループ時代は自分の意見をなかなか言えなかったんですけど、ソロになってからは「私はこうしたい」という意見を聞いてもらえるようになったので、まずそれが有難かったんですよね。で、Cmiycになってから初めて作詞もするようになって、それまでは与えられたモノを自分なりに表現する感じだったけど、自分でイチから伝えたいことを歌詞にしていくようになったので、それも有難かったですし。そうやって新しいことに次々トライさせてもらっていたので、1年目はあっという間に過ぎていきましたね。「大変だ!」というより「有難い!」と思うようなことばかりだったから。 <アイドル≒アーティスト「こういうアイドルの在り方もある」> --今、Cmiycはどんなアーティストになっていると自分では思いますか? Cmiyc:ポップなところが売りなので、明るさや元気な感じが軸にあるアイドルだと思うんですけど、先程お伝えした通り「一歩先の未来を見せられる存在になりたい」と思って始まったソロ活動なので、今回の新曲「Firefly」のような大人びた格好良い音楽も発信できるアーティストでもある。 --本人の中では、Cmiycは「アイドルであり、アーティストでもある」と捉えているんですか? Cmiyc:アイドルっぽいこと。例えば、チェキを撮ったりしながら近くのファンとだけ触れ合う感じではないけど、枠としては全然アイドルでもいいなと思っているんです。楽曲を評価してくれて「アーティスト」と呼んでもらえるのも嬉しいし、でも同時に「こういうアイドルの在り方もあるんだ」と思ってほしいところもあって。アイドルでもこういう風に活動ができる、そういうちょっと先の未来を表現していけたらなって。別にアイドルが弾き語りをやってもいいし、アーティストらしく踊ってもいいじゃないかと思っているんです。でもそう思えるようになったのは、この2年で歌わせてもらったCmiycの楽曲たちのおかげなんですよね。Cmiycの楽曲たちが今の私を作ってくれたからキャラクターに悩むこともなかったですし。 --今回の新曲「Firefly」は、Cmiyc史上最もドラマティックと言っても過言ではない、夕暮れの野外フェスなどの景色と溶け合いそうなエレクトロナンバーですが、この曲はどういった経緯やイメージから生まれたんでしょうか? Cmiyc:私、東京から地元・岡崎に帰ることにしたんです。もちろんライブやレコーディングやお仕事がある度に東京へは来るんですけど、地元を拠点にCmiycの活動を続けていこうと思って。東京で4年暮らしていろんな景色を見させてもらったんですけど、今の私なら別に場所がどこであってもやりたいことは出来る。でも私にとって故郷へ戻るのは大きな決断で、ここからまたリスタートしていくイメージなんです。今まで以上に自由にいろんな色に染まれるように生きていきたいんですよね。岡崎は東京と違って田舎なんで(笑)自然にも囲まれているし、そういうよりナチュラルでいられる慣れ親しんだ場所で暮らすことで、自分からどんな歌詞や表現が生まれてくるかも楽しみですし……そんな話をプロデューサーに伝えたところから「Firefly」が出来たんですよね。 --では、そんな自身の心境ともシンクロする楽曲なんですね。 Cmiyc:私の今の心境や状況と物凄くハマりますし、自分自身のこれまでの人生とも重なりますね。グループを脱退すると決めたときの「グループが進化していくのに、私がいることで他のメンバーの才能を削っちゃわないだろうか」みたいな苦悩とかも「Firefly」の歌詞には反映されていて。あと、私は元々染まりにくい人間だったというか、やりたくないことは絶対にやらないし、やってみなきゃ分からないのに「苦手だから出来ない」と決めてしまっていたんですけど、Cmiycになってからのこの2年で考え方がいろいろ変わって、その前向きな変化も「次の色に染まっていく」という歌詞に反映されています。 <新曲「Firefly」──ホタルの光に導かれるように明るい未来へ> --Cmiycさんの人生そのものなんですね、今回の新曲「Firefly」は。 Cmiyc:あと、プロデューサーが考えたんですけど、タイトルの「Firefly」ってホタルのことなんですよ。ホタルって誰が見ても「わぁー、きれい!」ってなるじゃないですか。ホタルに対して「汚い、見たくない」と感じる人っていないと思うんです。だから沈む歌というよりは、ホタルの光に導かれるように明るい未来が開けていくイメージ。「この先、何でもできる」って思えるような歌にしたかったんですよね。だから「次の色に染まっていく」「さぁ進んでいこう」といった前向きな曲になったのは、最初に提示して頂いたホタル=「Firefly」のおかげでもあるんです。それが結果的に今の私の心情とも重なったという。 --そんな「Firefly」の光と共に突き進んでいく未来、どんな人になっていきたいですか? Cmiyc:私、わりとワガママなんですけど、だからまわりが見えなくなりやすいんですよね。自分のやりたいことが出来ちゃうと、それについてしか考えられなくなる。でも、私がやりたいことをやれるのは、その環境を作ってくれているまわりの人たちのおかげじゃないですか。だから常に感謝の気持ちを忘れない。それって音楽活動にも繋がっていくことだと思うので、これからはまわりの人たちを大切にできる人になりたいです。今のところ、あんまり空気を読めないタイプなので(笑)。 --それは天然ってことですか? Cmiyc:小さい頃から親に「あんたは天然だよ」と言われて育ちました(笑)。でも自分ではどこが天然なのか分からないんですよ。 --自分は普通に振る舞っているつもりだけど、まわりからそう言われるのは本物ですね(笑)。アーティストしてはどんな未来を掴みたいと思っていますか? Cmiyc:自分もいろんなアーティストさんに憧れたように、私も憧れてもらえる存在になりたいです。さっき「捕まえられるもんなら捕まえてみなさい」みたいなイメージで「Cmiyc」と名付けたって説明させて頂いたんですが、めちゃめちゃ売れすぎて手が届かないアイドルやアーティストになれたら嬉しい話ですけど、私の活動を見て「私も目指せばああなれるかもしれない」と思ってもらえるようになるのが目標。「Cmiycみたいな、何にも考えていなさそうな女の子でもあんな風になれるんだ。私もなりたい」でもいいし(笑)、そうやって「がんばろう」と思ってもらえるきっかけになれたらしあわせですね。 --今日初めてインタビューさせて頂きましたが、太陽みたいな天然の明るさを持っている人だと感じたので、そこを曇らせず突き進んでいけばファンやリスナーの人生を明るく照らせる存在になれると思いますよ。 Cmiyc:そう言ってもらえると嬉しいです! 私、丸顔がコンプレックスで悩んでいたんですけど(笑)変に格好付けちゃうところがあって、でもそれも個性として全面に打ち出していけるようになったほうがいいですよね。変に自分を誤魔化したり、自分を装ったりすると苦しくなっちゃうから、ありのままの自分を出していったほうが気持ち良く活動できるし、そっちのほうがみんなにも楽しんでもらえるかもしれない。みんなが見ていて気分が上がるような、「今日もCmiycが楽しそうにしてるから頑張るか!」って思ってもらえるような存在になれたら私も嬉しいし。よーし、岡崎に戻ってもがんばるぞー! Interviewer:平賀哲雄 ◎リリース情報 「Firefly」 2021/8/27 Release https://linkco.re/TAaBEn38
billboardnews 2021/08/27 00:00
【追悼】ジャニーズ・藤島メリーさん 親友・黒柳徹子が最後にもらったプレゼント
大谷百合絵 大谷百合絵
【追悼】ジャニーズ・藤島メリーさん 親友・黒柳徹子が最後にもらったプレゼント
藤島メリーさん (ジャニーズ事務所提供) 黒柳徹子さん(本人提供)  ジャニーズ事務所の藤島メリー泰子名誉会長が、肺炎のため今月14日に亡くなった。93歳だった。少年隊など多くのアイドルを育てたほか経営者としても手腕を発揮し、弟の故ジャニー喜多川さんを支えた。長きにわたり親交を深めてきた黒柳徹子さん(88)は「私の生涯において、あんなに思いやりのある人はいなかった」と語る──。 *  *  *  60年くらい前、出演番組のスタジオで初めて会ったときからずっと、メリーさんは何も変わらなかったです。第一印象は「強い人」でした。でも怖いという感じではなかった。  ジャニーズのライブのリハーサルでは、ディレクターに「あの子はとってもいいんだから、もっと前に出しなさい」なんて指示していました。指名された子はその後スターに上り詰めたので、さすが見る目があるんだなと思いました。あくまでプロデューサーはジャニーさんですけど、メリーさんも現場で気づいたことはちゃんと言うし、衣装など細かい部分にいつも気を配っていました。  二人でアクセサリーのセールに出かけたとき、私が自分用のお買い物をしている横で、「今舞台に出ているあの子のズボンにつけたらどうかしら」って言いながら飾り物をいくつも買っていました。いつでも頭の中には事務所のみんなの姿があったんですね。  私のお芝居を見に来てくださるときは、必ず若いタレントさんたちを5、6人連れて来るんです。海外の演目だから若い人には難しいと思うんだけど、「いいものは見ておきなさい」って。まだ17歳くらいでズボンを腰まで下げた長瀬(智也)君もいました。  メリーさんは、人前で自分の仕事論を語ることはしませんでした。でも長年その姿を見ていると、タレントのためなら、とことん身を尽くして働く人なんだってわかります。心の底から仕事が好きだったんでしょうね。  年齢を重ねてからもエネルギッシュにお仕事をされていました。二人で一緒に車に乗っているときもひっきりなしに電話がかかってきて、てきぱき指示を出していました。本当につい最近まで、そんな感じでした。  でも、いつも気張っているわけじゃないんです。遊んでいるところに電話がかかってくることはなかったし、仕事を離れればいっぱい冗談を言って、笑って、食べて。  コロナになる前は、毎月のように一緒にお食事に出かけていました。おいしいお店を見つけると、すぐに「ねえ行きましょうよ」って連れていってくださる。  あの方はね、お魚が苦手なの。でも私が好きだからっておすし屋さんに行くのよ。それで板前さんに「何かお嫌いなものはありますか?」って聞かれると、「お魚」って。板前さん驚いちゃって。それでお魚の代わりに貝なんかを食べていました。  帰り、メリーさんの車でマンションまで送ってもらうと、いつも車を降りて私の部屋のドアの前まで来てくださるんです。ドアを閉めるまでそこにいて、「早く閉めちゃいなさい、じゃあね」って。  よく差し入れもしていただきました。夜、家に帰ってドアノブに袋がさがっているとメリーさんからだとすぐにわかる。はちみつとかチーズとか、いろんなものを届けてくださいました。自分が食べておいしかったら、誰かに食べさせてあげようと思うのでしょうね。  みかんなんて皮をむいて筋も取った上で、またきれいに皮に包まれているんです。すぐ食べれるように。私、お手伝いさんがやっているのかと思ってたんだけど、メリーさんが自分でやっていることがわかってすごく驚いたの。思い立ったらパパッと準備して持っていく。優しいだけでなく行動的な方でもありました。  そんなメリーさんが亡くなったと聞いて……。そうねえ、ショックでした。本当に悲しかった。今思い出しても涙が出ちゃうんだけれど。  体調が優れないなんて全く聞いてなかった。それに、この8月9日の私のお誕生日プレゼントとして、パンダをモチーフにしたリュックサックやポシェットが届いたばかりだったんです。私が好きなキラキラしたクリスタルがいっぱいついていて、“T.K”と名前の頭文字も入っていて。特別にあつらえてくださったんですね。  私、他の人からは誕生日プレゼントなんてあまりもらわないけど、メリーさんは毎年忘れずに、心のこもったものをくださいました。でも、私からはあげたことはなくて。実は誕生日も知らないんです。メリーさんは人に何かしてもらうことがあまり好きじゃない感じがしていたので、聞いたことがなかった。今となっては、私もお誕生日に何かして差し上げていたらよかったなと思います。  メリーさんのことだから、たぶん自分では体調の変化をわかっていたのかなと思うんだけど、そういうそぶりは一切見せなかった。自分のことはさておいて周りの人たちに尽くすという生き方を、亡くなるそのときまで貫いたんだと思います。  でも、まさか今年のお誕生日プレゼントが形見の品になるとは。パンダのリュックを背負ってみようと思ったんだけど、悲しくて背負えなかった。だからそばに置いて、眺めるだけです。  メリーさんがいなくなってしまった実感は湧かないんですけど、とにかく寂しい。いずれ天国なりで会ったらいろんなお話ができるからいいけれど、もうちょっと長く生きていてほしかった。  私のことを本当に大切にしてくださって、困ったときは親身に寄り添ってアドバイスをしてくださった。訃報をきっかけに初めて知ったことなんですけど、私のマネジャーにも「わからないことがあったら何でも相談に乗るから心配しないように」って言ってくれていたみたいで。  私にとってメリーさんは親友であり姉であり、そして心の支えだったんですね。 (構成/本誌・大谷百合絵) 藤島メリーさん/1927年、米ロサンゼルス生まれ。夫は作家の故藤島泰輔さん。62年にジャニーズ事務所を創業、弟の故ジャニー喜多川さんがタレントの発掘や舞台演出を担う一方、主に経営実務を引き受け支えた。長年、副社長を務め、2019年7月のジャニーさん死去後、代表取締役会長。その後、昨年9月に名誉会長となっていた。現在の社長は長女の藤島ジュリー景子さん ※週刊朝日  2021年9月3日号
お悔やみ
週刊朝日 2021/08/26 11:30
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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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