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「中年の星」錦鯉M-1優勝で視聴者もらい泣き 「第7世代に負けない輝き」の称賛
「中年の星」錦鯉M-1優勝で視聴者もらい泣き 「第7世代に負けない輝き」の称賛
優勝トロフィーを手にする錦鯉  心を揺さぶられた視聴者は多いだろう。漫才日本一決定戦「M―1グランプリ2021」決勝が19日に行われ、お笑いコンビ「錦鯉」が第17代王者に輝いた。優勝が発表されると、ボケ担当の長谷川雅紀(50)は「諦めないでやってきてよかった。僕はラストイヤーが56歳だった。その前に今年決めれてよかった」と号泣。ツッコミ担当の渡辺隆(43)も「本当に雅紀さんとコンビ組めて良かったです」声を上ずらせた。2人が抱き合う光景を見て、審査員たちももらい泣き。サンドウィッチマンの富澤たけしが「賞金で歯、入れてください」と目をうるませると、ナイツの塙宣之は「本当、ごめんなさい。モグライダーが残念でなりません」とおどけたが、目元をぬぐった。 「錦鯉の2人が初優勝を飾ったことは他の中堅、ベテラン芸人にも大きな励みになったと思います。長谷川は23歳から芸人になったがなかなか売れず、ピンで活動したこともあった。牛丼チェーン店で週5日深夜勤務を10年間続けるなど、様々なバイトで生活費を稼いできた。長く続く不景気に加えてコロナ禍もあり、他の芸人がどんどん辞めていく中、2人はコツコツ努力を重ねてあきらめなかった。第7世代の台頭でお笑い界も若返りの傾向がありましたが、年齢を重ねたからこそできる芸もあります。錦鯉の漫才は同世代だけでなく、若い世代や子供たちにも人気です。長谷川は愛される天然ボケで渡辺は頭の回転が速い。トークもうまいし、老若男女問わない人気芸人としてこれから仕事のオファーが殺到するでしょう。体調管理だけには気を付けてほしいですね」(スポーツ紙芸能担当記者)  2019年のM-1グランプリで準決勝進出し、昨年は決勝進出して4位に入賞。遅咲きの実力派はテレビなどメディアで露出が急増し、今大会では優勝候補と見られていた。ファーストラウンドは「50代の合コン」で665点獲得し、2位で最終決戦に進出。最終決戦は「街に出た猿との戦い」で爆笑をさらった。オール巨人がオズワルド、上沼恵美子がインディアンスに入れたが、その他の5人が錦鯉に投票。長谷川49歳の昨年に「最年長ファイナリスト」の記録を塗り替えたのに続き、「最年長チャンピオン」の栄冠をつかんだ。  テレビ業界で数年前に一大ブームになっていたのが、「お笑い第7世代」だ。18年M-1王者の霜降り明星を筆頭に、EXIT、宮下草薙、四千頭身、ハナコ、3時のヒロイン、ぼる塾ら若手芸人たちが席巻。テレビ制作スタッフは「霜降り明星、EXITを筆頭に華やかな雰囲気で『主役感』がある。彼らはダウンタウン、とんねるずを見ても萎縮する世代ではない。個性的で洗練されたお笑いの世界を作り上げるので、一時は企画会議で『第7世代は絶対にキャスティングしろ』が合言葉になっていました」と振り返る。  だが、中堅やベテラン芸人も負けていない。この世代の1つ上の「第6世代」に当たる千鳥、オードリー、NON STYLE、ジャルジャルも根強い人気を誇る。  そして、今大会は「中年の星」と形容したくなる錦鯉が初優勝。ネット上では、「おめでとうございます。感動して、こちらまで泣けてきました。世の中の50代に希望を与えてくれたと思います。ほんとに面白かったです」、「数年前から第7世代と呼ばれる若くて勢いがある芸人達が台頭してきた中、その子たちが生まれた頃くらいから何年も何年も諦めずに頑張ってきたおじさん達が報われた瞬間の涙にはもらい泣きしました」など感動の声が。  閉塞感漂う世の中で、過去最多6017組の頂点に立った錦鯉の偉業は今後も語り継がれるだろう。(安西憲春)
dot. 2021/12/20 15:50
テレワーク明け「出社がきつい」の相談増 医師が教える“在宅時差ぼけ”解消法
テレワーク明け「出社がきつい」の相談増 医師が教える“在宅時差ぼけ”解消法
イラスト 小迎裕美子  緊急事態宣言が解除されて約3カ月。テレワークから出社に切り替わったという人も少なくないだろう。テレワーク明け以降、「出社がきつい」と不調を訴える相談が増えているという。どう対策すればいいのだろうか。AERA 2021年12月20日号から。 *  *  *  テレワーク明けの出社でメンタルやられ気味……。こう苦笑するのは、大手食品メーカーに勤務する48歳男性だ。  約1年半のテレワーク期間は快適だった。朝は始業時間の9時直前まで寝ていられ、昼の休憩時間にはソファで仮眠できる。家事に「夫の昼食作り」という新たな仕事が加わった妻(50)が始終イライラしているのとは対照的だった。  しかし、10月にテレワークが解除。起床時間が一気に2時間早まり、朝起きるのがつらい。満員電車に揺られての片道1時間の通勤は、コロナ前よりも耐え難く感じる。 ■深夜までゲームに没頭 「テレワーク明けの出社がきついと訴える社員にどう対応するべきか、人事部からの相談が増えています」  こう話すのは、複数の企業の産業医を務める「産業保健メンタルヘルス研究会」代表理事の鈴木安名さん。「明け」以降、仕事の能率が低下したり、ミスやトラブルを頻発。疲れた様子で、笑顔がなく、欠勤が目立つ。しかし体の病気があるわけではない──。メンタル不調が頭に浮かぶが、鈴木さんはその原因を、自身の造語「在宅時差ぼけ」という言葉で説明する。 「テレワーク中に体内時計が乱れ、海外旅行で時差ぼけが起きた時のような不調が生じているのです」(鈴木さん)  大学院修了、入社3年目、一人暮らしの上場企業社員のケースでは、テレワークで通勤時間がなくなり時間に余裕ができたため、平日も深夜過ぎまでゲームに没頭。テレワーク明けに生活を元に戻そうとしたものの、夜眠れず、朝起きられず、遅刻や欠勤が増えた。メンタル不調を心配した上司の勧めで、鈴木さんへの相談につながった。 「メンタル不調が疑われる同僚や部下で、始業前後にメールやLINEで欠勤連絡が入り、その理由があいまいなようなら、かなりの確率で在宅時差ぼけが考えられます。本人としては、朝起きた時だるく、仕事に集中できないといった自覚症状があるはず」(同)  体内時計は25時間周期で動いており、朝の太陽の強い光を浴びることで、地球の24時間周期に合わせてリセットされる。在宅時差ぼけ対策としては、とにかく朝は決まった時間に起き、カーテンを開け、太陽の光を存分に浴びる。 ■うつ予防にABC  休日も寝だめをせず、決まった時間に起きる。さらに「同じ時間に食事を取る。特に朝食は必ず取る」「朝にストレッチをする」「夜、パソコンやスマホなど明るい光を浴びない」ことも、体内時計を乱れさせないために重要だ。 「体内時計の乱れはうつ病や肥満、糖尿病なども招く。放置してはいけません」(同)  結局は「規則正しい生活」が重要なのか……と思った人もいるだろう。残念ながら、そうなのだ。国立精神・神経医療研究センターなどの研究グループが2018年に発表した日本人約1万2千人対象の大規模な調査結果もそれを裏付けている。うつ病になったことがあると答えた人はそうでない人と比較してストレス症状が強く、2型糖尿病や肥満、脂質異常症といった生活習慣が関係する病気の割合が多かった。また、うつ病患者では朝食を食べる頻度が有意に低く、間食・夜食の頻度が有意に高く、運動不足も多かった。  労働衛生コンサルタントとしてメンタル疾患の予防方法や休職者に対する復職支援策を多くの企業に提供する医師の櫻澤博文さんは、テレワーク明けのメンタル不調はもちろん、うつを予防する3大要素として「ABC」を提唱する。Aは有酸素運動であるエアロビクス(Aerobics)、Bは朝食(Breakfast)、Cはたばこ(Cigarette)、禁煙だ。 「運動には、中等度のうつ病の治療において抗うつ薬と同程度の治療効果があるという研究結果がありますし、再発防止効果は抗うつ薬より高いことも示されています。運動によって睡眠の質も良くなり、以前は耐えられなかった負荷に対して、楽に耐えられるようになる。これは、体と心両方に当てはまります」(櫻澤さん)  朝食の重要性は、すでに述べた通り。栄養バランスに富んだ内容であれば理想的だ。中でも月経がある女性は、赤血球の成分ヘモグロビンを作るために必要な鉄分が欠乏しやすく、貧血から疲労感や、頭がぼーっとする、集中力や持続力が途切れるなど、うつに似た症状が出やすい。これを「鉄欠乏性貧血」というが、その回避のために、朝からしっかりと鉄分が取れる食事を心がけたい。 ■専門家につなげる行動  たばこに関しては、ニコチンの作用で脳からドーパミンが放出され快感が得られるが、一時的な作用。ニコチンが切れるとイライラや集中力低下といった心身の不調が起こる。たばこが原因の心身の不調を、たばこで解消する悪循環に陥る。禁煙でうつ病リスクを非喫煙者と同程度まで下げられることも分かっている。 「ABC全てを一度にできなければ、一つずつできることを増やしていくのでもいい。テレワーク明けをきっかけとし、『始める』ことが大事です」(同)  とは言え、テレワーク明けのメンタル不調が深刻な場合は、産業医や職場のメンタルヘルス対策に精通した医師の治療が必要だ。自分ではそれが判断できないことも珍しくない。周囲に「もしかして」と思う人がいたら、あなたが、専門家へとつなげる行動を起こすべきだ。(ライター・羽根田真智)※AERA 2021年12月20日号
AERA 2021/12/20 08:00
『鬼滅の刃』 “遊郭の鬼”の言葉ににじむ「生きること」への苦悩――なぜ堕姫は“人間”の遊女として働くのか
植朗子 植朗子
『鬼滅の刃』 “遊郭の鬼”の言葉ににじむ「生きること」への苦悩――なぜ堕姫は“人間”の遊女として働くのか
上弦の陸(ろく)の鬼・堕姫(画像は「鬼滅の刃」遊郭編公式YouTubeより) https://kimetsu.com/anime/yukakuhen/movie/ 【※ネタバレ注意】以下の内容には、今後放映予定のアニメ、既刊のコミックスのネタバレが含まれます。『鬼滅の刃』アニメ2期「遊郭編」の第3話では、ついに遊郭に潜む鬼「堕姫(だき)」が登場した。堕姫は鬼でありながら人間に擬態し、遊郭で人気を博す華やかな花魁を「演じて」いた。だが、“人間”としての堕姫の言葉からは、周囲へのいら立ちと激しいストレスが感じられる。「人を喰う」ことが本能である鬼が、無理をして人間社会に適合し、遊女として仕事までしていたことは異様とも言える。なぜそこまでして堕姫は“人間の遊女”として振る舞ったのか。堕姫の行動、セリフを掘り下げることでその理由を考察してみる。<本連載が一冊にまとめられた「鬼滅夜話」が発売されました> *  *  * ■なぜ“遊郭の鬼”はあれほどいら立つのか?  「遊郭編」は、放送前の一部からの懸念をよそに、遊郭の美化は行わない、という姿勢が貫かれている。それどころか遊郭を棲家(すみか)とする鬼の視点を通じて、「苦界」に身を置かざるをえなかった人々の悲憤が伝えられる。  遊郭の鬼は、鬼殺隊隊士・我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)が潜入捜査している「京極屋」という店に潜んでいた。その名を堕姫(だき)といい、最高位の遊女である“花魁”・蕨姫(わらびひめ)として、客からの人気を博していた。  しかし、蕨姫(堕姫)は、その愛らしい容貌に反していつもいら立ち、周囲の者たちに当たり散らしていた。 <五月蝿い(うるさい)!ギャアじゃないよ 部屋を片付けな>(堕姫/9巻・第73話「追跡」)  まだ幼い禿(かむろ ※花魁の世話をする見習いの少女)を叩き、罵倒し、いじめる。耳がちぎれるほどにひねり上げる。これらの堕姫の暴力シーンに出くわした善逸は、周囲への警戒を一瞬忘れ、少女をかばってしまう。堕姫はそんな善逸を一撃で殴り倒した。 <気安く触るんじゃないよ のぼせ腐りやがってこのガキが>(堕姫/9巻・第74話「堕姫」)  これまでにも怒り口調の鬼、本能に忠実で直情型の鬼は登場してきたが、堕姫ほどのいら立ちは珍しいといえよう。堕姫はたびたび「癪(しゃく)に障る」という言葉を繰り返す。彼女の耐えきれないほどの怒りや不快感はいったい何に起因するのだろうか。 ■強い鬼が「遊女」に化ける理由  遊郭は人の出入りが多く、喧騒の陰でひっそりと殺される者、重篤な病にかかる者、逃亡を試みる者など、行方不明者や死者が少なくない。鬼が人を喰っても見つかりづらいというメリットがある。しかし、なぜわざわざ「鬼」が遊女に化けようとしたのか。  人間を食い荒らすのが目的であれば、鬼が遊郭に「潜入」する必要はないはずだ。人間の姿で、それも花魁という目立つ姿で堂々とひとつの場所に留まり続けることにはリスクがともなう。しかも、堕姫は遊女であることを自らが望んでいたわけではないように見える。 <最近ちょいと癪に障ることが多くって><酷いこと言うわね 女将さん 私の味方をしてくれないの 私の癪に障るような子たちが悪いとは思わないの?>(堕姫/9巻・第74話「堕姫」)  単なるワガママや、鬼としてのむき出しの本能だけで、いら立っているわけではなさそうだ。 ■遊女としての堕姫の働きとその実態  そもそもの前提だが、堕姫は遊女として「働いて」いるのだろうか。鬼と一般の人間の戦闘力の差を考えれば、遊郭で人間を殺害・捕食することだけが目的だとしたら、「遊女としての働き」までは不要だったのではないのか。しかし、吉原の店の女将に対する、堕姫の言葉から考えると、やはり彼女は遊女として仕事をしていることが分かる。 <誰の稼ぎでこの店がこれだけ大きくなったと思ってんだ婆(ババア)>(堕姫/9巻・第74話「堕姫」)  つまり、彼女は強い鬼であるにもかかわらず、人間として働き、「仕事」までして、成果も残してきた。他の鬼には「人間としての労働」シーンはほぼ描かれておらず、堕姫以外で人間社会に溶け込んでいるのは、新興宗教の教祖として活動している、上弦の弍の鬼・童磨(どうま)くらいであろう。  上弦の鬼が表の世界で「仕事を持つ」のは異様なことのように思える。しかも堕姫は強い不快感といら立ちに耐えながら、遊郭で生きているようにしか見えない。  彼女が働く「京極屋」の主人が「どうか俺の顔を立ててくれ…」と土下座すると、堕姫はいったん怒りをしずめ、花魁らしい美しい表情に戻っている。強い鬼でありながら、人として煩わしい「仕事」にとらわれる。これが堕姫の毎日の生活なのだ。 ■誰が堕姫を遊女として「働かせて」いるのか?  そんなある日、鬼を統べる鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)が、堕姫のもとを訪れてこう言っている。 <私はお前に期待しているんだ><これからも もっともっと強くなる 残酷になる 特別な鬼だ>(鬼舞辻無惨/9巻・第74話「堕姫」)  無惨は鬼殺隊の戦闘の要である「柱」たちを遊郭におびき寄せ、殺害することを堕姫に命じていた。つまり無惨は彼女の美貌を「遊女としての仕事」に生かすように仕向けていたのだ。無惨の姿を見ただけで頬を赤らめる堕姫。そんな堕姫に無惨は「調子はどうだ?」「良いことだ」と優しくねぎらう。堕姫といる時の無惨は、他の鬼に対するようないつもの高圧的な態度はとらない。無惨は堕姫の顔を両手で包み込み、「お前は誰よりも美しい」と言葉をかけ、まるで悪魔が「人」を堕落させるように、彼女を誘惑する。堕姫は美貌を使って人間の男を「遊女」として利用する。その一方で、彼女がいら立ちを抱えながら客の相手をするのも、鬼殺隊との戦闘を重ねるのも、無惨への心酔ゆえなのだ。結局、堕姫には自由がない。無惨のために、客のために、そして自分が自分であり続けるために、遊女としての勤めを果たしている。誰も堕姫に「遊女」以外の生きる道を示してやろうとはしない。教えてやることもできない。 ■鬼が“遊郭”で「生きる」理由  遊女の仕事は、男にその身を差し出すこと。堕姫の日々には「癪に障る」という言葉だけでは言い表せないほどの不満が蓄積されていただろう。堕姫を遊女として働かせているのは無惨なのだが、堕姫の日々のストレスは、他の遊女たちや、「京極屋」の女将、か弱き者たちへとぶつけられる。  堕姫は人間だった頃、遊郭の最下層の貧困区域で生まれた。人間の時も、鬼になってからも、彼女の眼前に広がる世界は、人が金で売買される「遊郭」だったのだ。 <鬼は老いない 食うために金も必要ない 病気にならない 死なない 何も失わない>(堕姫/10巻・第81話「重なる記憶」)  そんな堕姫の悲痛な叫びは、貧困にあえぎ、腹をすかせ、病気に苦しみ、若さも命も手のひらからこぼれ落ちるままの「不幸せ」のただなかで、彼女が生きてきたことを表している。失ってばかりの人生……そこには彼女を人間から「鬼」に変えた”絶望”がある。  美貌に恵まれながらも「不幸せ」に終わった人間時代の自分。鬼として生きることを決めた後も、人間に擬態して「華やかな生」を甘受する自分。堕姫の中には、複雑に入り組んだ「自分」が存在している。そのはざまで運命に絶望し、もがいている姿が堕姫の言葉からはにじみ出ている。  物語が進むにつれて、この堕姫だけではない、登場人物たちの不幸な半生も語られる。堕姫やそれらの人物から発せられる“いら立ち”の言葉は、遊郭という世界で生きることの「現実」を突き付ける。  畢竟、『鬼滅の刃』で描かれているのは、決して美化されることのない遊郭の姿なのである。 ◎植朗子(うえ・あきこ)1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が11月19日に発売されると即重版となり、絶賛発売中。
堕姫植朗子遊郭編鬼滅の刃
dot. 2021/12/20 07:00
スキーシーズンはじまる!アクセス便利な新潟のスキー場【北陸エリア】
スキーシーズンはじまる!アクセス便利な新潟のスキー場【北陸エリア】
今回は新潟県にあるスキー場から、オープン早めでアクセス便利な4つの施設をご紹介します。サポートも充実! 小さいお子さん連れのファミリーや、スキー・スノボは初めてという方にもおすすめですよ。今年はひと足早い雪あそびを満喫してみてはいかがでしょうか? スキー場のリストアップには『tenki.jp スキー場・天気積雪情報』も、ぜひご活用ください。 ※外出の際は、手洗い、咳エチケット等の感染対策や、『3つの密』の回避を心掛けましょう。 ※新型コロナウイルス感染拡大の影響で外出の自粛を呼び掛けている自治体がある場合は、各自治体の指示に従いましょう。 ※お出かけの際は、各施設、イベントの公式ホームページで最新の情報をご確認ください。 新潟市内から1時間以内!夜景が美しいナイターは最長22時まで遊び放題 /ニノックススノーパーク(新潟県新発田市) 新潟市内から車で40~50分、JR「新発田」駅からは無料シャトルバスも運行されアクセス抜群のスキー場です。二王子岳の斜面を生かしたゲレンデは、豊かな積雪量とふわふわの雪質が自慢。「エンジョイコース」は、斜度もゆるくて初心者にもおすすめです。ナイター営業では、新潟の美しい夜景を楽しみながら最長22時まであそび放題! お仕事帰りにもたっぷり滑れますよ。 ニノックススノーパーク ■所在地:新潟県新発田市上三光大平国有林無番地 ※アクセスはこちら ■問い合わせ:0254-29-3315 ※施設・料金等の詳細は公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 妙高高原ICから約8分!変化に富んだゲレンデでさまざまに楽しもう/赤倉観光リゾートスキー場(新潟県妙高市) 上信越自動車道「妙高高原」ICを降りてわずか8分で行けるスキー場です。滑る練習にも便利なコース、ビギナーも快適にツアー気分を味わえる林間コース、滑り手にはたまらない新雪・コブ斜面が楽しめる非圧雪コースなど、ファミリーから上級者まで、変化に富んだゲレンデを満喫できますよ。小さなお子さんも、ネットに囲まれた「ちびっ子広場」で思いきり雪遊び! ゲレンデの目の前にある赤倉観光リゾートホテルに宿泊して温泉や朝一番の滑走を満喫するのもおすすめです。 赤倉観光リゾートスキー場 ■所在地:新潟県妙高市田切216 ※アクセスはこちら ■問い合わせ:0255-87-2503 ※施設・料金等の詳細は公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 駅とスキーセンターが直結!オトナも楽しい「なんちゃって」コース/湯沢中里スノーリゾート(新潟県南魚沼郡) JR上越線「越後中里」駅とスキーセンターが直結、電車でも車でもアクセス抜群のスキー場です。ガンガン滑りたい人も、ぜんぜん滑れない人も、一緒に楽しめるのが大きな魅力。スノーエスカレーターが完備され、小さなお子さんやビギナーの方も楽々登れます。ユニークなゲレンデアトラクションも! 選手気分でコブコブを滑るだけでターンの基本動作が身につく「なんちゃってモーグル」コースなど、こどもだけでなく上級者の練習にも人気ですよ。ぜひチャレンジしてみてくださいね。 湯沢中里スノーリゾート ■所在地:新潟県南魚沼郡湯沢町土樽5044-1 ※アクセスはこちら ■問い合わせ:025-787-3301 ※施設・料金等の詳細は公式サイトをご参照ください※写真はイメージです 塩沢石打ICからすぐ!日帰り派もステイ派も大満足/舞子スノーリゾート(新潟県南魚沼市) 関越自動車道「塩沢石打」ICからすぐの究極のショートアクセス! 最寄駅からは無料シャトルバスも運行されています。ビギナーからエキスパートまで楽しめる全26コースで、最長滑走距離は約6000m。若者世代を応援するキャンペーンなどにも参画中。温泉などもある充実した施設で日帰りスキーを楽しむ? それともゲレンデ直結の舞子高原ホテルで快適なリゾートステイ? お気に入りの過ごし方で、スノーリゾートを満喫しちゃいましょう。 舞子スノーリゾート ■所在地:新潟県南魚沼市舞子1819-79 ※アクセスはこちら ■問い合わせ:025-783-4100 ※施設・料金等の詳細は公式サイトをご参照ください 積雪状況などにより営業期間が変更となる場合もありますので、公式サイトで最新情報をご確認のうえお出かけください。体調管理と感染防止対策をしっかりして、この冬を元気に楽しみたいですね! <注意事項> ■写真はイメージです ■ゲレンデの状況や、施設の営業日時・料金・イベント等の詳細は、お出かけ前に公式サイトなどで最新の情報を必ずご確認ください※写真はイメージです
tenki.jp 2021/12/20 00:00
コロナ禍の上海で出会った手負いのボス猫を家猫に 「幸せにしたい!」日本人夫婦の願い
水野マルコ 水野マルコ
コロナ禍の上海で出会った手負いのボス猫を家猫に 「幸せにしたい!」日本人夫婦の願い
貫禄たっぷり。椅子に座る元ボス猫ニャジラ(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回お話を聞かせてくれたのは、上海の医療機関に勤めている50代の医師、コダマさん。自宅アパートに隣接する公園に暮らすボス猫と心を通わせ、怪我(食欲不振)を機に家に迎えました。 *    *  * 私は医師として2019年より中国・上海で仕事をしています。  上海の自宅アパートは大きな公園が隣接していることもあり、以前からたくさんの野良猫が近くに暮らしていることに気付いていました。  毎日顔を合わせているうちに、それぞれの猫の特徴や性格がわかるようになってきたため、1匹1匹に勝手に名前をつけるようになりました。  その野良猫のグループの中に、ひときわ体が大きく落ち着いた、ふてぶてしい茶白柄の猫がいました。誰が見ても“一番偉いな”とわかるような佇まい。その一方で、妙に愛嬌があり憎めない性格をしている。私はすぐに虜になり、「ニャジラ」と名付けました。  名前は、高校生のころに読んでいた小林まことの漫画『What’s Michael?』に登場する最強の雌猫「ニャジラ」から。初めて会った瞬間に「あ、ニャジラがいる!」と思ったのです。  当初は中国での野良猫との共生ルールが解らないこと、無責任な餌付けは避けるべきとの認識で“観察”するだけに留まっていましたが、ある時期からニャジラの方から私に興味を持って近付いてくるようになりました。朝晩の通勤の際に向こうからあいさつに顔を見せ、目の前で撫でてもらうために寝転がったり、体を寄せて自分の臭いを擦り付けてきたり。そうなると情もどんどん湧いて、世話をはじめ……。  昨年12月20日、私たち夫婦はボス猫であったニャジラを家猫にして、“誕生日”とました。まもなく1年が経つのですが、じつはニャジラは現在、動物病院で闘病中なのです。  ニャジラの身に何が起きたのか…。振り返ると、彼に対する私たち夫婦の気持ちもずいぶん変化し、彼との出会いが私たちに多くのことをもたらしてくれたことに気づきます。仲間思いのニャジラ、私たちが愛してやまないニャジラの“生きた証”を残したく、また地域の保護活動について知らせたくて、このコーナーに応募しました。 ◆ 甘えてもボス猫として威厳のある態度で 見かけによらず膝枕が好きなニャジラ(提供)  実はニャジラと出会った時には、自宅でニャジラを飼おうと思っていませんでした。  元々、動物好きですが、医師の仕事が忙しすぎて十分なケアができそうにないこと、犬・猫アレルギーもあったからです。しかし、家猫は難しくても、地域猫として夫婦で見守ることはできるのではないかと考えました。  ちょうどそのころ、流行したのが新型コロナウイルスです。私も自宅と職場の往復以外にすることがなくなり、自由に使える自分の時間ができました。奇しくもコロナにより、外の猫の世話ができる余裕ができたのです。  ただし、無責任なかわいがり方をしたり、単なる餌やりさんになったりしないよう気を付けました。主な世話は、誰かが与えた餌の食べ残しや汚れやゴミの清掃、猫が食べない餌の廃棄など、生活環境を整えてあげることに終始していました。猫好きな人が設置した猫用シェルターも清掃し、毛布なども準備しました。  ニャジラはプライドが高く、私たちとの距離を詰めて甘える仕草を見せるものの、数分も経つと根城(ねじろ=行動の根拠地)に戻っていきました。ボスとしての威厳のある態度をとっていたのです。  そんなニャジラが去年9月、後ろ脚を引きずっていることに気づきました。外から侵入した猫とけんかをしてけがをしたのです。  しばらくして正常に歩けるようになりましたが、ジャンプをしなくなり、木に登らなくなったことから、脚に後遺症があるようでした。それでも、猫同士のけんかの仲裁などで“キレた”時にはすごい勢いで走っていましたから、日常生活には支障はなかったようです。  けんかの後の9月後半、ニャジラは仲間を引き連れて、私たちのアパートの敷地内に根城を移したのですが、食欲が落ちて、疲れた顔を見せることが多くなりました。カリカリを与えても、左側の歯を使わずに咀嚼するようになってきたのです……。  妻と2人で気にして、「今日、ニャジラはいた?」「今朝は居た」「今晩、カリカリを少し食べた」というような会話を毎日していました。  そうこうしているうちに12月になりました。上海は海沿いの街ということもありただでさえ風が強めですが、高層ビルの谷間を根城にするニャジラたちにとって、冬は厳しい季節です。 ◆   後ろ姿が、自分の人生と重なって見えた  ある日、ニャジラは帰宅した私に(数分ですが)ひとしきり甘えた後に、いつものように距離を取って独りでぽつんと佇みました。その後ろ姿を見た瞬間、自分の人生と重なって見え、心が動いたのです。 寂しそうに見えた“孤高のボス”ニャジラの後ろ姿(提供)  勝手な想像ですが、ニャジラは本当に疲れ切っていたけれど責任感から仲間を見捨てることできずにがんばっていたのではないか。そのつらさを紛らわすために、私たち外国人にだけ弱さを見せてくれたのかもしれない。そして、少しだけ甘えた後に、気を取り直してボス猫としての自分に戻っているのだ……と感じてしまいました。  それまでは、自分たちに猫を飼えるか? ボス猫が家猫になれるのか? 外猫のほうが自由があって楽しいのではないか? という疑問に答えを出せず、踏ん切りがつかなかったのですが、その後ろ姿を見た瞬間に、この猫に温かい家で平和に長生きをしてもらいたい、安全な環境で幸せにしたいと思ったのです。 「お前はもう十分に仲間のために尽くした。これからは自分の幸せのためだけに生きたらいい、そのために全力で手を貸してあげよう」  そんなふうに考え、妻に「やっぱりあの猫を飼おう」と伝えました。  妻は妻で悩んでいたようで、「彼は孤高のポジションですごく寂しそうに見えてかわいそうに思っていた」と明かし、「お家に入れて寂しさを感じさせないようにしてあげたい」と、自分の思いを私に伝えてくれました。それで決まったのです。  そして、12月20日に我が家に招き入れ、その日をニャジラの誕生日としました。 ◆ 次々と明らかになるニャジラの「物語」  ニャジラには最初、用意したテントの中で過ごしてもらったのですが、「にゃん、にゃん」と顔に似合わない可愛い声で、少し鳴きました。  3日後、少し慣れたところで病院に連れていきました。すると、ニャジラは診察室で大暴れ。獣医さんと看護師さんが3人掛かりで押さえつけたのですが、採血どころか体の診察もさせないほど……。(引っ掻いたりして)獣医さんにけがをさせ、ニャジラ自身も傷ついてしまいました。  何とか鎮静剤を打ち診療してもらうと、いくつかのことが判明しました。  ニャジラは4歳くらいの雄であること(それまで雌と思っていた!)すでに去勢済みであること。猫エイズに罹患していること。猫エイズのために口内炎や歯肉炎を起こし、咀嚼時に強い疼痛があること。  口の炎症がある程度治まるまで、入院をさせることにしたのですが、生粋の野良猫と思っていたニャジラが「去勢済み」であったことは驚きでした。  ニャジラが入院している間も(ニャジラの仲間の)地域猫を世話していましたが、その過程で、アパートの人たちから、ニャジラについての“ある事実”を知ることとなりました。  以前、ニャジラは私たちと同じアパートに住むアメリカ人に可愛がられていて、そのアメリカ人が帰国する時に「一緒に連れて帰るため」に去勢手術を施していたというのです。  しかし、コロナ禍によって、アメリカ人に緊急帰国の命令が出て、ニャジラを連れて帰る手続きができなくなってしまった。そのため、ニャジラはそのまま(地域猫として)置いていかれたのです。  おそらく、去勢されたことで、けんかでけがを負わされるほど劣勢に立たされたのでしょう。去勢前であれば余裕で返り討ちにしたしょうに、けんかでエイズにも罹患してしまったのです……。 外にいたころのニャジラ。名前を呼ぶとやって来た(提供)  また、ニャジラのボスとしての行動についてもわかったことがあります。ニャジラは小さな猫をとても可愛いがって守るボスであり、また、腹違いの弟がよその猫にいじめられた時、わざわざ相手の猫を探しに出掛けて“仕返し”をしたことがあったそうです。  そんな話を聞くにつけ、私たち夫妻はますます、ニャジラを強く思うようになりました。 ◆  「人間と共存できない猫もいる」ニャジラはどうか?  ニャジラは5日ほどで退院し、昨年12月28日、ニャジラをあらためて家に迎えました。  晴れた日には気持ち良さそうにソファーに寝転がって日向ぼっこしたり、妻の膝枕でリラックスしたりするようになりました。外では私によくなついていたけど、家の中に入ったら妻の方にばかり甘えるようです(笑い)。  ただし、布団の中に入ってきたりしません。なんだか彼の中で「一線」をひいて、ここまではしていいけど、夜は人間の邪魔をしないと決めているようなところがありました。  ニャジラは適応能力が高い猫だと思います。しかし、獣医さんには当初、心配されていたのです。最初に診察室で大暴れした後、獣医さんは私たちにこうおっしゃいました。 「君たちはこの猫を本当に飼い猫にしたいのか?猫の性格は子猫のころに決まるため、その時点で人間と共存できる猫とできない猫がいる」 「もし、私がこの猫は人間と共存できないと判断した場合は地域猫に戻すことを強く勧める」  幸いなことにこの心配は杞憂に終わりました。それどころが、ニャジラは人間が思う以上に懐の深い猫だったのです。 日に日に信頼が深まっていくニャジラとマイケル(提供)  その後、私たちにはまた気になる猫が現れました。地域猫の中で“次のボス猫候補になるかも?”と考えていた、マイケルという2歳くらいの茶トラ猫が別の猫に追い回されるようなり、生活の場を失ってしまったのです。  マイケルも『What’s Michael?』から名づけました。赤ちゃんの頃から妹猫のジャネットとともに私たちに懐いており、何時間も一緒に遊んでいたイケメン猫でした。  マイケルをすぐに家猫にしたい気持ちがありましたが、葛藤もありました。多頭飼いができるのか、ニャジラの猫エイズが伝染するのではないか、グループでの2匹の階層が異なりすぎて上手くいかないのではないか、ようやく訪れたニャジラの平穏な日々の邪魔にならないか……。  最終的に6月30日、マイケルを家猫として迎え入れました。当初のマイケルは不安で落ち着かない様子。たびたび悲しそうな声を上げました。すると、その度にニャジラが様子を見に来て、落ち着かせるなどしてくれたのです。ニャジラの父性のおかげで、マイケルはスムーズに家猫になりました。 日向ぼっこをするニャジラ(右)とマイケル(提供)  マイケルはフレンドリーな猫でしたが、ボス猫になれなかったのは、猫同士のコミュニケーションが少し下手な面があったからと感じています。このあたりの欠点を、ニャジラは根気強く正してくれています。ニャジラはやはり、年下の猫の面倒をみるのがうまいのだと思いました。  ニャジラは老成したところがありますが、病院の見立てでは4歳。私と妻は5歳くらいかなと感じていました。いずれにしてもまだわりと若い猫なのです。  そのまま、私たち夫婦と2匹と楽しく平穏な日々が続くと思っていたわけですが、今年の10月、ニャジラに異変が起きました。目やにが目立つようになってきて、食欲も落ちてきたのです。 「なんでニャジラにばかりこんな試練が」というのが、私の気持ち。ニャジラに病魔が忍び寄ってきていたのです。 >>【後編:「おとなの猫を飼うのですか?」上海のボス猫と日本人夫婦の保護活動が日中友好の懸け橋に】に続く 家猫になったマイケルを可愛がるニャジラ(提供) (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
ねこネコ保護猫猫をたずねて三千里
dot. 2021/12/18 14:00
【大阪ビル火災】放火の疑いの60代の男「アルコールでトラブルも」 府警が自宅を家宅捜索
今西憲之 今西憲之
【大阪ビル火災】放火の疑いの60代の男「アルコールでトラブルも」 府警が自宅を家宅捜索
大阪市北区曽根崎新地で24人が死亡したビル火災  大阪市北区曽根崎新地で24人が死亡したビル火災で、大阪府警は60代の男が火元の心療内科クリニックに来院直後に放火したとみて、殺人と現住建造物等放火の容疑で捜査本部を設置した。 「男は雑居ビル4階のエレベーターから降り、すぐ前のクリニックのフロアに手にしていた紙袋を暖房機器近くに置き、倒したところ、火の手が上がったとその場にいて助かった人が話している」(捜査関係者)  クリニックに火を付けたとされるのは、現場から西に約3・5キロ離れた同市西淀川区に住む患者の61歳の男。心肺停止状態で搬送され、容体は重篤という。  事件が起こる30分前に、男の自宅で火事があり、放火とみられている。男は20数年前に自宅を購入していたが、近所の人はこう話す。 「ここ数年は誰も住んでいませんでした。それが1か月前くらいに急に、男が引っ越してきたので、挨拶しました。17日朝、男の自宅から火が出て、消防車が何台もきて大騒ぎでした。男が自宅に放火したようだと警察から聞きました」  男の知人によれば、男は西淀川区、淀川区周辺を転々として暮らしていたという。 「北新地の火災があり、西淀川区でも火事があったとニュースで聞いて、もしやと思い、訪ねてみると、男の自宅でした。普通に仕事をしていたと思います。しかし、ここ数年は体調を崩して仕事はしている様子はなく、『福祉のお世話になっている』と話していました。男は酒好きでアルコール依存症になり、火災のあった心療内科クリニックやいくつかの病院に通っていたと聞いた。『病院に行き、いろいろ薬をもらうが、よくならない』と愚痴っていた。そして、酒を飲んでは暴れて、悪態をつく。短気で、酒乱のようなところがあった。コロナ前は自宅近くの飲み屋でもトラブルを起こしていました。だから男を知る別の人も、ひょっとしてと言っていた。ただ、放火と聞いて、そんな大きなことができるような人間ではないと思うのですが……」(男の知人)   大阪市北区曽根崎新地で24人が死亡したビル火災(撮影・今西憲之)  大阪府警は18日朝、男の西淀川区の自宅を家宅捜索した。 「男は今も意識はなく、予断を許さない容態です。目撃証言から、男は事前に火がつきやすい油のようなものを準備し、燃えやすい紙袋に入れるなど、犯行は計画的だったと思われる」(前出の捜査関係者)  火災現場は曽根崎新地の8階建ての雑居ビル「堂島北ビル」の4階にある心療内科クリニック。5人前後の病院スタッフ、患者ら男女28人が救急搬送され、うち24人の死亡が確認された。男を含む3人が今も心肺停止状態で、1人は軽いけが。死亡したのは、男性が14人、女性が10人で身元の確認を急いでいるという。火元となったクリニックに通院していた、50代の女性は現場を訪れ、こう語った。 「クリニックの先生やスタッフの方は優しいひとばかり。無事であってほしいと願うばかりです」  惨事から一夜明けたビル火災現場には、関係者らが次々と献花に訪れている。 (AERAdot.編集部 今西憲之)
大阪ビル火災
dot. 2021/12/18 13:44
眞子さまの結婚どう思う? 瀬戸内寂聴が27歳スタッフに質問した結果【2021年下半期ベスト20】
眞子さまの結婚どう思う? 瀬戸内寂聴が27歳スタッフに質問した結果【2021年下半期ベスト20】
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。  2021年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期に読まれた記事ベスト20を振り返る。  16位は「眞子さまの結婚どう思う? 瀬戸内寂聴が27歳スタッフに質問した結果」(9月11日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま) *  *  *  半世紀ほど前に出会った99歳と85歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。 ■横尾忠則「スジ金入りの肉体的朦朧体、大観より本格派です」  セトウチさん  耳が聴こえなくなったと言うと、「きっと作品が変るわよ」と、ベートーベンじゃあるまいし、変なことおっしゃると、その時はそう思いましたが、本当に変ったんです。その変り方が理に適(かな)っているといえば適っている。つまり聴こえないことは、音の輪郭が失くなることです。そうなると音が朦朧(もうろう)となって、横山大観の朦朧体の絵のように音がボケて聴こえるんです。耳がボケると、日常生活もボケて、曖昧模糊(あいまいもこ)となって、したことと、してないことの区別もわからなくなるんです。つまり虚実の区別ができなくなって、夢で見た仕事の依頼を、本当に依頼されたと思って、やっちゃったりするんです。ボケの症状に似てるけれど、ボケ老人になったんではなく耳のせいだと理解しているので、そこはまだ理性がコントロールしています。  ハイ、絵の話だったです。大観は思想で朦朧体を描きましたが、僕はスジ金入りの肉体的朦朧体なので、思想のようなチョロコイ考えではなく、肉体的ハンデキャップによる堂々たる自然体派です。大観よりこっちの方が本格派です。そんなわけでセトウチさんの大予言は的中しました。  先っきも言いましたが境界線が失くなるということは自由のキャパシティも拡張したことになります。近代人は何でもかんでも境界線を引いて、全てを分業化します。縄文時代はひとりの人間が、多面的に物事をこなしていました。狩猟(しゅりょう)も農業も、漁業も工芸も、子育ても、教育もひとりでするという、境界線をはずした労働生活です。現代のような役割分担などしません。正に多義的です。越境した狩猟社会です。  難聴が与えてくれた神の恩寵です。だから病気の高徳です。僕が度重なる病気によって救われてきたということはこういうことです。神は人間に色々な苦難を与えますが、病気は罪ほろぼしでもカルマ落としでもなんでもないのです。人間の進化向上のためのカリキュラムだと思えばどうでしょう。難聴のほかに、腱鞘炎(けんしょうえん)にもなりました。もう、セトウチさんの「幻花」のような繊細(せんさい)な描写の絵など描けません。今は太い筆やハケを握りしめて、キャンバスにバンバン叩きつけるように描いています。それも痛いので、左手で描きます。左手は思うような形が取れません。幼児の絵より下手くそになります。でも、デュビュッフェは幼児の絵のマネをして、幼児風に描きますが、そんな意図的なことをしなくても、僕の左手はそのまま幼児以上に下手に描けます。これもハンデキャップから来た自然体です。 横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。(写真=横尾忠則さん提供)  今書いている手紙では、前にも同じことを書きましたかね。境界を越えると時間差もなくなって、やったことと、やらないことの区別がわからなくなるのです。いよいよ本格派老人です。100歳老人のセトウチさんにも負けていません。ただ僕はセトウチさんのように年齢には拘っていません。拘っているのは他人の方で、今行っている展覧会では「85歳、85歳」と年齢を売り物にされています。歳のことは言うな!  アーティストには年齢はないのです。昨日の続きが今日、今日の続きが明日です。原始社会では年齢など無関係です。アーティストは原始人です。 ■瀬戸内寂聴「私もヨコオさんに負けないように!」  ヨコオさん  何だか、ずいぶん久しぶりにこの往復手紙を書いているような気がします。  それにしても相変わらずコロナは豪勢を極め日本はおろか、世界的にその力を奮っています。  コロナのせいで、人に会えず、寂庵はずっと門を閉めっぱなしです。コロナになる前はもちろん、一も二もなく門内に入ってもらっていました。  大抵遠く九州や東北から来られた人で、まだ生きている私に逢えたと言って、抱きついて泣き出します。もちろん、私は丁寧にお迎えして、写経などしてもらい、お茶菓子を一緒に食べて、しばらくその人のお話を聞きます。つきあいの人もあれば、寂庵の信者を自称する人もあり、初めて門内に入ったという人もいます。 「まさか、門内に入れてもらえると思わなかった」と泣き出す人もあれば、「生きている寂聴さんに逢えた!」と、子供のように足を踏み鳴らす人もいる。 「とても百歳には見えない!」と誰もが感嘆してくれるが、終日ベッドに横になり、本ばかり読んで、一日を過ごしている私の毎日の状態など話せない。私は、人に逢っている間だけは、必死になって元気らしさを演じ、声を張り上げる。客の帰る時は、長い廊下の途中で、へばってしまい、さっさと歩く客の跡がおえない。  ──だって百だもの……──と、私は廊下の途中で、ペシャンコに座り込み、つくづく、自分に向かって言う。  食事だけは時間が来ると、しゃきっと体がのび、食卓の自分の位置に早々と座り込んでいる。 「あら、お昼はもう召し上がりましたよ!」  スタッフの一人が、わざと大きな声を張り上げる。 「私のスパゲティは、どうしてこんなに美味しいのだろうなんて、お世辞までいただいて」 「そうよ、ほんとに! でも今ここに座ったのは、食べるためでなくて、眞子さんの結婚をどう思うかって、寂庵で一番若い二十七歳のP子の意見を聞きたいのよ」 「ああ、眞子さん、ほんとに、よかったですね。大体、みんなあんまりこの結婚に意地悪すぎましたよ。でも、どうして一時金を眞子さんは辞退なさるのかしら? 貰う権利のあるお金でしょう? あんまり弱気にならない方がいいと思うけど……」  ヨコオさん、今、寂庵の中は、こんなにのんびりしています。耳が聞こえないのは、私も同然です。テレビの時なんか、びっくりするほど大きな声にしてくれるので、何とか会話が出来ています。鶯も、秋の夜の虫の音も、私の耳にはさっぱり聞こえません。ヨコオさんとTELしてるのを横で聞いてる人があれば、どんなにおかしいでしょうね。耳だけでなく体のあちこちがどしどし衰えてきます。  そのうち、きっと、自分の死んだこともわからなくなって、──ヨコオさんにTELして!──など叫んでる日が来るのでしょうね。でも目がよく見えているので、一日に二冊は厚い本を読み切っています。ヨコオさんの展覧会、ますます人気上昇でおめでとうございます。私もヨコオさんに負けないよう、あっとこれまでと変わった小説を二つくらい書き残して死にたいものですね。  では、また。 ※週刊朝日  2021年9月17日号
AERAdotベスト【2021】瀬戸内寂聴皇室眞子さま
週刊朝日 2021/12/16 17:00
著者自らが「これはなかなかすごい本です」 毎日出版文化賞授賞式で語られた、伝説のデザイナー石岡瑛子という生き方
著者自らが「これはなかなかすごい本です」 毎日出版文化賞授賞式で語られた、伝説のデザイナー石岡瑛子という生き方
毎日出版文化賞受賞式でスピーチをする河尻亨一さん(撮影/書籍編集部)  世界的なデザイナー石岡瑛子の評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(河尻亨一著・朝日新聞出版)が第75回毎日出版文化賞(文学・芸術部門)を受賞。12月13日、その贈呈式が椿山荘でおこなわれました。  この賞は毎日新聞の主催で1947年に創設、第1回の受賞作には谷崎潤一郎『細雪』ほかが選ばれるなど、戦後の文学や学術、ジャーナリズムの文化を築いてきました。  受賞者挨拶で、著者の河尻さんは、石岡瑛子さんのタイムレスな仕事と人生について語りました。仕事の領域や国境、さまざまなボーダーを超えてきた瑛子さんの生き方を伝えることで、停滞気味な日本社会に一石を投じたい――そんな河尻さんのスピーチの全容をお届けします(一部加筆)。 ■芸術と商業は水と油。でも、そのど真ん中を行く  ご紹介に預かりました河尻と申します。このたびはありがとうございます。各部門を受賞された皆様おめでとうございます。今日のスピーチはマックス10分までと言われているのですが、私は話しだすと止まらなくなります。途中から自分でも何を言っているのかわからなくなるタイプなので少々心配です。  ですから、原稿を読ませていただくことにしました。ご安心ください。昨日、練習したら8分30秒でした。すぐに終わりますので温かく見守ってください。  まず自己紹介がてらのお話になりますが、私の仕事は、説明するのがややこしいんです。何がややこしいかと言いますと、関わる領域が主にふたつあるんですね。ひとつは出版界。いわゆるジャーナリズム、物書き、編集者なんかの仕事です。  それだけならシンプルなんですが、もうひとつ。広告やデザイン界の人間でもあるんです。最近はそうでもなくなってきましたが、出版文化と対照的なド派手でミーハーな世界です。結構なギャップです。  たとえて言うなら、水と油。私はその二つの世界のスキマに生息しています。“両生類”みたいな物書きなんです。 授賞式で賞状を受け取る河尻さん(撮影/書籍編集部)  そんな私が執筆しました『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』。自分で言うのもなんですが、これはなかなかすごい本です。いや、本当なんです。それは私がすごいのではなくて、この評伝の主人公である石岡瑛子さんがすごいんです。  ちょうど10年前、彼女の活動にフォーカスしたNHKの「プロフェッショナル」がオンエアされましたが、番組の最初に出てくるテロップは、「すごい日本人がいた」。身も蓋もない話ですけど、基本的にそうとしか語りようがない人物です。  どこがどうすごいのか? 一例を挙げますと彼女は、仕事の上で目指すべきは「アートとコマースのマリッジ」だと言います。簡単に言うと、芸術性の高いものと一般ウケするものを両立すべきだと言うんですね。  私もそうなのですが、一部の人だけが理解できる「気取ったアートサロン」は嫌いだと言うんです。大衆社会を攪拌するような活動がやりたいと言う。一方で、人々が求める「売れるもの」に忖度・迎合する広告的マーケットもイヤなんです。流行は追いたくないんですね。  いわば水と油。今日はそれがキーワードなんですが、この両者が完璧に美しく溶け合う瞬間を目指すと、彼女は言うわけです。「タイムレス・オリジナリティ・レボリューショナリー」の精神でいけばそれは可能だ。“YES, We can”だと。ど真ん中を行こうと。  言葉で言うのは簡単ですが、なかなか難しいんです、実際は。芸術と商業には相反する要素も含まれていますから。素晴らしいアートだからと言ってヒットするわけではない。しかし、彼女はそれを口で言うだけではなく実践してきたわけです。  資生堂を退社してからは、どこの組織にも属さず、グラフィックデザインから美術、衣装などいろんなジャンルに越境しながら、フリーランスの立場でそれを成し遂げました。1980年代からはニューヨークを拠点に移して、世界的クリエイターたち、まあ言うならば『ゴッドファーザー』クラスの“ビッグボス”たちとコラボレーションしながら、厳しい現場を生き残ったわけです。 河尻亨一著『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』※Amazonで本の詳細を見る  すさまじい努力と才能だったと思いますが、同時に大変だったと思います。私がお話をうかがったときも「いつも崖っぷちに立っている気分」とおっしゃってました。「私の人生のテーマはサバイブなのよ」と。  世間的にはアカデミー賞受賞の大成功者なんですが、こんな感じでアツいんですね。青春のまま真空パックされているような人なんです。「私は永遠の25歳なのよ」と言っていたという話も聞いています。インタビューをしてると、エネルギーが止めどなく湧いてくるのが目に見えるようでした。 ■石岡瑛子の生き方に、世界との付き合い方を学ぶ  しかし、最後のインタビューから半年後に亡くなってしまいました。さまざまな意味で残念でした。フランク・ロイド・ライトとか、ジョージア・オキーフのような長距離ランナーを目指すとおっしゃっていたことを考えると、早すぎる死です。そして、私にとって残念なのは、あれだけすごい人なのに、日本で忘れ去られつつあったんです。  瑛子さんのような常識や固定概念、それまでの慣習のフレームからはみ出して活動する人に対して、日本の社会というのは、本当に冷たい。不寛容です。口では「国際化」や「個人の自律」「多様な価値観の包摂」「女性活躍」などなどを唱えるのですが、いざ、それをやろうとすると、まずは叩き、次にシカトして、いなかったことにするんです。リスペクトがないんです。  そのことは東京五輪の開会式、あそこにすべて凝縮されていました。クリエイティブや広告は、社会のいまを映し出す鏡なんだと改めて思いましたね。あのときSNSには、「もし、石岡瑛子が生きていたら……」という無念の書きこみが溢れていました。  そういう状況に一石を投じるために本書は存在します。私の目論みとして、石岡瑛子という“意志”を社会に注入したいわけです。石岡瑛子さんの人生には、デザイナーや表現者、メディアの関係者だけでなく、経営者や起業家、研究者、いまからキャリアを築こうとしている若者etc――新しい何か、まだ見ぬイノベーションを生み出そうとしている人へのヒントとメッセージがいっぱいありますから。  出版文化がサバイブするためのノウハウも、実は本書に書かれているんです。ですから本日お集まりのみなさん、これを読まないという選択肢はない。マストバイ・アイテムです(笑)。それはともかく、日本のこれからを考えるときに、石岡瑛子は坂本龍馬レベルで重要な人物なんだと私は思います。  西洋に追いつき追い越せとか、都合よくパクるとかではなく、瑛子さんの生き様は、日本がどのように世界とコラボレーションしていけるかの可能性と方向性を示唆しているんです。未来志向の人物です。そんな“宝石”が歴史の波打ち際に見え隠れしているので、私は拾いに行きました。このまま埋もれてしまうのはもったいないからです。  そういった諸々がこの本を書こうと思ったきっかけです。「深く掘り下げる」ことと「価値ある物語を広める」こと。その両立を目指したいと思いました。  ここで冒頭のお話に戻ります。私のポジションであるジャーナリズム的な何かと広告的な何かをドッキングさせようとしたんです。回顧展の話も進んでいたのですが、深く知ってもらうためのツールとして評伝が必要だろうと思いました。  ご存知のように東京都現代美術館とギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された二つの石岡瑛子展は、コロナ禍での開催にもかかわらず行列ができていました。現美はなんとマックス2時間半待ち。若者の姿が目立ちました。石岡瑛子リバイバル・キャンペーンはひとまず成功したんです。 ■クライアントワークの中の「私」とは?  執筆のプロセスの中では、いろんなことがあったのですが、長くなるのではしょります。ひとつだけお伝えしておくと、書くのはなかなか捗りませんでした。  何が大変だったかと言うと、石岡瑛子さんがこだわった「私」というのは、西洋的な「セルフ」や「アイデンティティ」とはちょっと違う気がしたのです。彼女は『私デザイン』(2005年、講談社)という著書があるくらい、自己を確立することの重要性を強調した人ですが、それは他者とのキャッチボールの中から生まれるタイプの「私」なんです。他者からのオーダーを受けて「私」が発動される不思議なカラクリになっている。  それはデザインや広告という表現のあり方と関わっています。先ほど選考委員の西垣(通)先生の審査評の中で、「どのビジュアルも見たことがあるのに、石岡瑛子さんの仕事とは知りませんでした」という趣旨のお話がありましたが、デザインや広告は基本、匿名性のアートであり、クライアントの課題を解決するための表現です。  瑛子さんも生涯クライアントワークの人でした。あれだけ「私」にこだわりながら、ファインアート的な意味での自己表現はまったくと言っていいほどしていない。いわば全身デザイナーで、他人の力になりたいというモチベーションで動いているんです。  でも、そのためにはある種の「エゴ」が全開になっている必要があるという。そこが、ちょっといないタイプの人物なんですね。東洋と西洋の「私」が、戦後的価値観の中で絶妙にハイブリッドされている。ある意味、時代精神の中で“クリエイト”された「私」です。ですから、おおよそ10年ごとに「私」がアップデートしていきます。  評伝である以上、その「私」に切りこまないといけないのですが、そのありさまをどのように活字化していけば、主人公の魅力が伝わるのか、最初は皆目わかりませんでした。色々考えた結果、時代という座標軸の中に、瑛子さんと仲間やライバルたちのエピソードをマッピングすることで、進化する「私」を捉えようとしたのです。  そのことで客観性が担保され、群像劇風のテイストも加わり、読み物として面白くなっていきました。このミステリアスな「私」をホログラムのように浮かび上がらせるため、“合わせ鏡”のメタファーも仕こんでみました。  すると不思議なことに、石岡瑛子さんのワン・アンド・オンリーな「私」が、作者や読者、つまり私やあなたにとっての「私」とつながっていることに気づいたんです。このとき石岡瑛子の「私」の物語が、みんなにとっての「私」の物語に変換されます。つまり、共感性が高まるんです。  チャレンジングな冒険でした。本書に評伝文学としての独自性があるとすれば、ここだと思います。瑛子さんの妹の石岡怜子さんが、この試みをあと押ししてくださいました。  そういう作業を無我夢中で四苦八苦しながらやっていると、ある日の夜、瑛子さんが夢枕に立ちました。見るに見かねて降臨したんでしょう。それで、何かアドバイスをしてくれたようなんです。しかし残念なことに……なんて言っているのか聞こえなかった。まあ、そのときのムードから、これでいいんだと腹を括りました。  本書がタイムレスに読み継がれる1冊になることを願っています。ある意味、本というものは、書き終わってから始まるんだと思っています。私の目標はアート&コマースのマリッジですから、自主的なセールス活動に力を入れています。500ページ超の書籍を「どうやれば読んでもらえるか?」の挑戦です。  トークイベントもかなりの数やりましたし、担当編集の山田さんと書店を約60軒営業に回りました。図書を必要とする多くの方に届けるためには、宣伝が大事なんです。広告屋の立場から言うと「いいものだから売れる」というのは幻想です。  本書に関して、お世話になった皆様に感謝いたします。すでに5年以上並走してくれている担当編集の山田智子さん、取材に応えてくださった皆様。インタビューのきっかけをつくってくれたギンザ・グラフィック・ギャラリーの北沢永志さん、装幀をお願いした箭内道彦さん、小杉幸一さん。私の家族、選考に携わってくださった先生方と関係者の皆さま、版元である朝日新聞出版。そして石岡怜子さんとご家族、もちろん瑛子さんご本人と読者に。  お名前をあげていくと大変なことになるのですが、一冊の本もご縁とコラボレーションによって生まれるものだということを噛み締めております。本日はありがとうございました。 *  *  * 毎日出版文化賞は、毎日新聞社が主催する、優秀な出版物を対象とした文学・文化賞。文学・芸術部門、人文・社会部門、自然科学部門、企画部門の4部門と、特別賞が併設されている。  第75回は、文学・芸術部門『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(河尻亨一著)、人文・社会部門『人びとのなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』(益田肇著)、自然科学部門『言語とフラクタル 使用の集積の中にある偶然と必然』(田中久美子著)、企画部門『シェイクスピア全集』全33巻(松岡和子訳)、特別賞『チェーホフの山』(工藤正広著)が受賞した。
朝日新聞出版の本読書
dot. 2021/12/14 18:53
「絶対に産めとは言えない」 医師に言われ悩んだ14年前  息子が教えてくれること
江利川ちひろ 江利川ちひろ
「絶対に産めとは言えない」 医師に言われ悩んだ14年前  息子が教えてくれること
生後1カ月、夫が長男を始めてだっこしたとき/江利川さん提供 「インクルーシブ」「インクルージョン」という言葉を知っていますか? 障害や多様性を排除するのではなく、「共生していく」という意味です。自身も障害を持つ子どもを持ち、滞在先のハワイでインクルーシブ教育に出会った江利川ちひろさんが、インクルーシブ教育の大切さや日本での課題を伝えます。 ■妊娠8カ月で生まれた  もうすぐクリスマスですね。1年で一番華やかなシーズンです。私はこの時期にイルミネーションを見ると、息子が生まれた14年前のことを思い出します。  息子はクリスマス直前に妊娠8カ月で生まれてきました。早産の後遺症で膝から下が不自由です。当時、入院していた病院のデイルームには大きなクリスマスツリーが飾られており、早産するかもしれない不安に襲われた時も、出産後にNICU(新生児集中治療室)にいる息子に会いに行く時も、綺麗なイルミネーションに癒やされました。  息子の妊娠がわかったのは、長女が難治性てんかんのコントロールのために入院していた時でした。長女の看病や、まだ歩けなかった双子の次女のことに追われ、妊娠に気付いたのは4カ月に入る直前でした。  長女が入院している病院で妊娠を知った私は、そのまま小児病棟へ行き、小児科医の友人あーちゃんに話をしました。あーちゃんは長女の担当医でした。 ■産んだ方がよいとは言えないかも 「時間外に突然ごめんね。ちょっと話したいことがあって」  ただならぬ顔をしていたのだと思います。あーちゃんはそのまま長女の病室に入ってカーテンを閉めると、隣のベッドから椅子を持って来てくれました。 「…妊娠してた」  私は、この時点では妊娠を継続する自信がありませんでした。産科では、再び早産する可能性が高いと言われたこと、早産になれば、またPVL(脳室周囲白質軟化症)の子どもが生まれるかもしれないこと、ドクターに今の我が家の状況では絶対に産めとは言えないと言われたこと、産まないのなら転院して手術を受けなくてはならず、しばらく長女を連れて帰るのが難しいかもしれないこと……。  あーちゃんは驚きながらも理解を示してくれました。 「私は小児科医だから、小児科としては赤ちゃんの誕生は喜ばしいこと。でも私も、この状況で産んだ方がいいとは言えないかもしれない。ゆうちゃんは大丈夫。ここでしっかり預かるよ」 長男は妊娠8カ月で生まれた。数日後の様子/江利川さん提供  その後、病院の外に出て夫に電話をしました。 「なんかね、私、妊娠してた」 「はぁ~??」 ■3人目が来ると思うと 「もうだいぶ大きくて11週~12週くらいだって。産まないならすぐに決めなくちゃいけないんだけど、やっぱり無理だよね」 「なんで?」 「また早産してPVLになっちゃったら…」 「いいじゃん、PVLでも。ぴぴのためにも絶対もうひとりいた方がいい」  長女の面会時間中には、彼からこんなメールが来ました。 「3人目が来ると思うとますます仕事に力が入るよ」  この人はどうしていつもこんなにポジティブなのだろう。  彼の明るさに救われたことも多々ありましたが、この時だけは他人事のように聞こえ、腹立たく思いました。  私は病室で長女を抱きながら、何度も何度も考えました。 ■医ケア児がふたりになったら?  この子(医療的ケア児)がふたりになったらどうする? 双子だけでも大変なのに、年子なんて無理でしょ。  けれども、もしも37週までおなかで元気に育つのなら、確かに次女のためになるような気もしました。なにより、「この子を殺してしまうの?」という問いに、答えられない自分がいました。  でも……。  面会時間が終わり、やはり無理だと伝えようと夫に電話をしたところ、すぐにつながりました。 「ちょっと待って? 今びっくりする人に代わるから」 「はろー!」  声の主はあーちゃんでした。 「えっ? なんで? さっきまで病棟で…? なんで?」  夫がたまたま通りかかったスーパーに入ると、偶然あーちゃんがいたそうです。ふたりで私の話をしていると、ちょうど私から電話が来たとのことでした。ここは自宅から離れたお店であり、帰宅した夫は「運命だよ」と言って笑っていました。  この日の出来事がなかったら、もしかすると私は、出産する勇気を持てなかったかもしれません。それほど、この偶然には大きな意味があるような気がしました。  産むと決めたものの、やはり妊娠経過は順調にはいきませんでした。  最も安定しているはずの妊娠6カ月にお腹が張って入院することになり、子宮収縮抑制剤(ウテメリン)の量を上げると双子の妊娠時と同じように肝機能障害が起き、29週に入った12月半ばに、子どもたちの主治医のター先生がいる病院に転院しました。肝機能障害のためにウテメリンの点滴ができなくなり、産科も新生児科ももういつ生まれてもおかしくないという見解でした。  出産当日、おなかに軽い痛みを感じてモニター(分娩監視装置)を付けると、不定期に陣痛の張りが出ていました。この日は金曜日で、翌日から祝日の月曜日まで3連休であり、このまま肝臓の数値が変わらなければ、連休明けの25日に帝王切開になると言われていました。 ■夫の手をギュッと握った 「今の状態ではもう25日までもたないと思います。休日はスタッフの人数も少ないし、緊急オペは危険なので、今日のうちに帝王切開しましょう。ただ、今日は連休前でオペ室がいっぱいです。赤ちゃんが小さいので産科は3名入れたいのですが、どうしても夕方まで空きません。赤ちゃんが危険にならないように、もう一度点滴をしてもいいですか?」  私の肝臓の状態から頭痛や吐き気が起きるかもしれないと言われましたが、少しでも安全に出産するために承諾しました。  突然会えることになったおなかの中の息子に向かって夫とふたりで声をかけ、最後に夫の手をギュッと握ってからオペ室に入りました。  息子は生まれたとたん、へその緒が付いた状態で泣き出しました。 「お~元気だ元気だ」  そう言いながら、ター先生は私に息子の顔を見せてくれました。双子の出産時とは雰囲気が全く違いました。オペ室には可愛いクリスマスソングが流れ、スタッフの鼻歌も聴こえました。 「元気な男の子だよ。良かったね」  夫もター先生も「よかった」「よかった」と繰り返し、さらにペインコントロールのおかげで術後の痛みも全くなく、安心して眠ることができました。 ■不安定な状態が1カ月  ところが、翌日の早朝。病院に泊まって息子を診てくれていたター先生から、夜遅くに息子は呼吸が安定しなくなり、人工呼吸器を挿管したと言われました。双子の娘たちは生まれたその場から挿管していたし、週数的にも当然だとは思いましたが嫌な予感がしました。  息子の不安定な状態は、そのまま1カ月近く続きました。無呼吸発作が多く保育器から出せないとのことで、1月半ばになってもまだ抱くことすらできませんでした。毎日毎日、冷凍した母乳を届けに行き、指先を保育器に入れて顔をさわり、「また明日ね」と言って帰宅する日が続きました。  生後1カ月が過ぎるとやっと状態が安定し始め、GCU(継続保育室)に移ってすぐに、頭のMRIを撮ることになりました。  検査当日、順調に行けば40分程で戻ると言われていたのに、1時間半が過ぎても息子は戻って来ませんでした。心配で何度も待合室の外の様子を見ていたところ、ター先生の姿が見えました。ター先生はゆっくりこちらに歩いて来ると、息子の検査結果について話し始めました。 ■障害の有無はきっと関係ない  障害児がふたりになってしまった衝撃は、言葉では表せないものでした。産む決断をしたことが間違っていたのだと、自分を責めたこともありました。  でも、息子は今、多くの友達に恵まれて、好きなことをたくさん見つけ、毎日とても楽しそうです。  きっと障害の有無は関係なく、チャンスは誰にでもあり、チャレンジして実現するかは自分次第。 これが、息子が14年間ずっと私に教え続けてくれていることです。 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2021/12/14 16:00
50歳で天文学者に弟子入り 伊能忠敬の子孫が語る“地図人生”秘話
鮎川哲也 鮎川哲也
50歳で天文学者に弟子入り 伊能忠敬の子孫が語る“地図人生”秘話
伊能忠敬像 千葉県香取市伊能忠敬記念館所蔵  日本で初めての日本地図が完成して200年を迎えた。実測して作り上げ、世界に衝撃を与えた地図の完成度と、日本全土を歩いた伊能忠敬の偉大さを、子孫と関係者に聞いた。 *  *  * 「チュウケイ先生は、純粋に地球の大きさを知りたかったのです。その願いをかなえるため蝦夷まで歩いて測量したことがきっかけとなり、日本地図を作ることになりました」  そう話すのは伊能忠敬(ただたか)から数えて7代目にあたる子孫で画家の伊能洋さん(87)である。伊能家の人々は、忠敬のことを親しみをこめて「チュウケイ先生」と呼ぶ。  2021年は伊能忠敬が半生をかけて作った「大日本沿海輿地全図」が完成して200年を迎えた年であり、さらに深川の富岡八幡宮に忠敬の銅像が建って20年と、大きな節目の年となった。  忠敬は日本で初めて実測して日本地図を完成させた。教科書にも書かれているので、ご存じの読者も多いだろう。  忠敬は日本地図をどうやって完成させたのか。実は忠敬が日本を測量したのは、先に紹介したとおり、日本地図の完成が当初の目的ではなかった。地球の大きさを知るという疑問を解決することがきっかけだった。 「実は九十九里の網元の子どもだったチュウケイ先生は、毎日星を見て天文や宇宙に対する夢を育んでいたのです」(洋さん)  しかしすぐに行動を起こすわけにはいかなかった。忠敬にはいわば前半と後半の人生があり、前半の人生には測量とは全く関係ない商人としての仕事があった。  忠敬は17歳のとき、佐原の伊能三郎右衛門の家の婿養子になる。伊能家は佐原の旧家の一つで後継者に悩んでいたところ、忠敬に白羽の矢が立った。 「伊能家は50人ほどの従業員がいる大店(おおだな)で、チュウケイ先生のお相手は6歳年上のミチ。相当のプレッシャーがあったと思いますよ。私だったらどうでしょうね。萎縮してしまいますね」(同)  だが忠敬には商才があった。いや、それだけでなく人心掌握術にも長け、さらに強い正義感を持っていたという。 量程車(国宝) 地上測量の器具 千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵 「名主として村政に関わり、毎年のように起こった利根川の洪水による堤防の修復などで測量の知識を積んだと思われます。後年、大勢の人を指揮することにも役立ったでしょう」(同)  こんなことがあった。佐原の村は不作が続き、厳しい経済状況であった。そこで村の祭りで中心となる山車をやめ、質素にしようと決めたのだが、その約束を破って一部の地主たちが山車を引き回し、騒ぎになった。その件がきっかけで忠敬は相手と絶交したのだ。 「伊能家に入った忠敬は商人として才能を持ち、人口5千人の小さな村で日本中を見据えた大きな商いをして家運をもり立てました。酒造業のほか、米、材木の売買、水運など幅広い仕事をして、隠居した時点の資産が3万両(およそ45億円)という記録が残されています」(同)  こうして商人としての人生の前半は終了し、後半へ続いていく。 「子どものころからの夢をずっと諦めないでいたのです」(同)  本格的に測量に携わるようになるのは、50歳での天文学者・高橋至時(よしとき)への弟子入りがスタートとなる。  至時のもとで測量の勉強をしていた忠敬は、緯度の差と緯度の距離を測り緯度1度の長さを出せば地球の大きさがわかると考え、深川にある自宅から浅草の司天台(幕府天文方の観測所)までの距離を歩いて測り、その間の緯度を測定。計算結果を師匠の至時に伝えた。  考え方はよいがこれでは誤差が大きい。もっと広い範囲の測量、例えば蝦夷までの距離を測って計算すればいいのでは、と提案された。 「チュウケイ先生は、その言葉を受けて行動を起こそうとしました」(同)  こうして1800年に蝦夷地までの第1次測量が始まった。実績が幕府に認められ、翌年第2次から第10次まで、足かけ17年にわたり全国の測量をすることに。第4次までは私費を投じての測量であった。  しかし、忠敬は地図の完成を見ることなく1818年にこの世を去った。日本全土の地図を作成する計画の中止を恐れ、弟子たちは死を秘した。そして死後3年の1821年に幕府に「大日本沿海輿地全図」が提出された。大図214枚、中図8枚、小図3枚という膨大なものだった。 白い小さな点が針穴 大日本沿海図稿 南海(部分) 徳島大学附属図書館蔵  納められた「大日本沿海輿地全図」は幕府から明治政府に引き継がれた。しかし、1873年、皇居が炎上し焼失。さらに伊能家に残され政府が借用していた副本も東京帝国大学の図書館に保管中に関東大震災で焼失してしまった。残念ながら本体は現存していない。  ただ佐原伊能家には正図を完成させるために忠敬が描いた下図や測量器が数多く残され、見学に来る人も多かったという。洋さんの祖母である、孝(こう)さんは、訪れる見学者に学芸員のように丁寧に解説していたという。 「5代目に当たる祖母の生年1867年と忠敬の没年1818年の差はわずか49年で、祖母にとって忠敬はご先祖様のひとりというより、祖父に近い存在だったと思います」(同)  祖母には歴史上の人物・伊能忠敬ではなくチュウケイおじいちゃんだったのだ。 「うちは地図屋だったので、下図や反故がたくさんありました。あまりに多いので、一部をお雛様を保管する際の包み紙にしていました。今は国宝になっている量程車(りょうていしゃ)に乗って遊んでいたら、すごく怒られたこともありました」(同)  日本で初めて実測で作られた伊能図は、その後の日本にどんな影響を与えたのか。1828年、ドイツ人医師のシーボルトが伊能図の写しを国外に持ち出そうとして発覚、国外退去させられたシーボルト事件は有名である。シーボルトは伊能図の一部をすでにオランダに送っており、それを見たロシア海軍中佐のクルーゼンシュテルンは出来栄えに驚愕したという。  それから30年余り後の1861年、当時世界最高水準の地図を作っていたイギリスの海軍が日本地図を作るべく幕府に許可を願い出た。幕府が伊能図を見せたところ、あまりの出来のよさにイギリス海軍は自分たちで測量をすることをやめ、伊能図を元に地図を作り直すことにした。 「伊能図は山や海が丁寧に彩色され、芸術的な美しさを持っていることも忘れてはなりません。夜間の天測を行った地点に星印が付いていることも独特です。実測できなかった箇所の『不測量』も他の地図に見られず、科学者としても矜持が如実です」(同) 小図3図を接合した伊能図の画像 ゼンリンミュージアム蔵  徳島大学名誉教授で伊能図の研究をする平井松午さんが語る。 「伊能図は測量した地点のポイントを清書するために下に置いた紙に写し取る。そのために針で穴をあけるのですが、0.2ミリほどの針穴が1~2ミリの間隔であけられているほど緻密なのです。徳島大学附属図書館伊能図学習システムでは、その針穴を閲覧できます」  同システムでは針穴のほか、現代地図や空撮画像との比較や重ね合わせての閲覧が可能。それを見ると現代地図とほとんど違わず、伊能図がいかに正確であるかがわかる。 「伊能図は、大図(縮尺3万6千分の1)214枚、中図(縮尺21万6千分の1)8枚、小図(縮尺43万2千分の1)3枚と三つのサイズの地図からなります。これらの地図は、測量下図を何度もつなぎあわせて幕府上呈図(清図)が作製されています。その過程を想像するだけでも楽しいですね」  最新の技術で地図を製作している「ゼンリン」は伊能図をどう見ているのだろう。 「根気強さ、几帳面さ、体力、精神力……すべてを結集させてできたのが伊能図です。物事を成し遂げるとは、どういうことかを表現したのが伊能図だと思います」とはゼンリンミュージアムの学芸員の新井啓太さん。  伊能図は正確さ、緻密さだけでなく、先見性もあると館長の佐藤渉さんは強調した。 「伊能図が作られる前までは絵図で、相対的な地図でした。どのあたりに川があったりお寺があったりするか、距離的に多少違っても目安でわかればよかったのです。一方、現代においては、人が読む地図から機械が読む地図への変化の中で、より正確な地図が求められます。そういう意味では伊能忠敬が求めていたものが、200年経った今もまた求められているのでしょうね」 (本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2021年12月17日号
歴史
週刊朝日 2021/12/13 17:00
岡田将生がコロナ禍で意識した「自分にとって一番に考える存在」
岡田将生がコロナ禍で意識した「自分にとって一番に考える存在」
岡田将生 [撮影/平間至、ヘアメイク/小林麗子(do:t)、スタイリング/大石裕介、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO、衣装協力 ニット、パンツ/JOHN MASON SMITH(HEMT PR) ミュール/NEEDLES(ネペンテス)]  少し傾きかけた冬の光が差し込むなか、自らも白く発光するような眩しさをみせる俳優・岡田将生。自分にとっての自由とは何か、考えてみた。 *  *  *  2021年も映画「さんかく窓の外側は夜」やテレビドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」など、さまざまな作品に出演してきた。それぞれの役によって向き合い方は異なるかと聞くと、「同じです」と答えた。 「楽しもうという気持ちがまずあって、そこはどの作品、どの役も変わらないです。そこから監督や演出家が求めるものを話し合い、意見を合わせながら役を作り上げていくことが多いです」  12月12日から上演される主演舞台「ガラスの動物園」は、劇作家テネシー・ウィリアムズ作で1945年のブロードウェーでの初演以来さまざまな国と時代で上演されてきた名作戯曲。30年代のアメリカを舞台に、自分の夢と、自らが支える母や姉への思いの狭間で葛藤する主人公・トムを演じる。 「俳優の仕事を始めるときに、一人で戦ってみたいという思いで実家を離れました。わかったことは、親の偉大さですね(笑)。家事ひとつとっても、こんなに大変なことを毎日やってくれていたのかと。生まれ育った街を出たトムも、そういう気持ちになったこと、あったかもしれませんよね」  本作との出会い、そして昨年から続いたコロナ禍で、あらためて家族や共演者などとの絆を意識することができたという。 「家族はやっぱり自分にとって一番に考える存在ですね。コロナ禍によって、より密に連絡をとるようになりました。人とのコミュニケーションがとりづらい時期が続いたからこそ、現場で実際に会って、直接話し合い、助け合いながら作品を作り上げていくことの大切さも強く感じました」 岡田将生 [撮影/平間至、ヘアメイク/小林麗子(do:t)、スタイリング/大石裕介、アートディレクション/福島源之助+FROG KING STUDIO、衣装協力 ニット、パンツ/JOHN MASON SMITH(HEMT PR) ミュール/NEEDLES(ネペンテス)]  映像作品にも数多く出演するが、今回のような舞台での演技との使い分けをこう語る。 「映像のときにはなるべく抑えるようにしている表現を、舞台では発声も含めて存分に出せる気がするんです。舞台が終わるたび、またやりたいな、こんな役にまた出会いたいなという思いになります」  自由を求めるトム。自分にとっての「自由」とは何かとたずねると、「外に出て、友人と気兼ねなくご飯を食べること」と笑った。 「お寿司屋さんのカウンターで日本酒を飲んで、ゆっくりお話ししながら食べたいです。今まで当たり前だったことができないのがこんなに窮屈だったのかと感じました。それがトムの環境や心境とリンクするような気もして、役をつかむヒントになりました」  去り際に好きな寿司ネタを聞くと、振り向きざまに……、 「アジです! よく行くお寿司屋さんでは毎回3回頼みます!(笑)」 (文/本誌・太田サトル) 岡田将生(おかだ・まさき)/1989年、東京都生まれ。2006年デビュー。近年の主な出演作は、映画「ドライブ・マイ・カー」「聖地X」、テレビドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」、舞台「ブラッケン・ムーア~荒地の亡霊~」「物語なき、この世界。」など。主演舞台「ガラスの動物園」の東京公演は、シアタークリエで12月12日から上演。※週刊朝日  2021年12月17日号
週刊朝日 2021/12/13 11:30
限界を「出来ること」へ変える 視線入力でデザインにも挑戦 WITH ALS・武藤将胤
限界を「出来ること」へ変える 視線入力でデザインにも挑戦 WITH ALS・武藤将胤
創造の力で世界に希望を届けることが使命。「(パラ開会式で)デコトラから見渡した光景は一生忘れない」(撮影/関口達朗)  一般社団法人WITH ALS代表理事、武藤将胤。27歳のとき、ALSと診断された。仕事もプライベートも絶頂期のとき。一瞬も無駄にしないように生きようと決めた。テクノロジーと人の共創でコミュニケーションの仕組みを変えれば、ALS患者の失われゆく機能が補完できる。武藤将胤は、自分の身体をテクノロジーで拡張しながら、力強く自由に生きる。それが身体に制約を抱えた人の希望になっていく。 *  *  *  自宅の居間で、武藤将胤(むとうまさたね)(35)の髪に妻の木綿子(ゆうこ)(37)がジェルをなじませると、スーッと直線を引くように念入りに髪を梳(と)いた。髪を団子にして留めたところで、彼女が鏡を差し出す。武藤が入念に仕上がりを確かめていると、ヘルパーが武藤の目の前に、ひらがなの配された文字盤を差し出した。目の動きに合わせて文字盤を動かして武藤が言いたいことを読み取り、代読する。 「す、こ、し、だ、け、ひ、ひだり」  木綿子は、「ああ、髪の流れを左にするのね」と髪を梳き直して、もう一度鏡に映す。武藤は満足げな表情を浮かべる。 「よかった。今日は、直し1回でOKが出た」  木綿子が笑った。  27歳のとき、武藤は難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された。筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経だけが変性して徐々に動かなくなっていく病気。多くが60代以上で発症し、20代で発症するのは稀(まれ)だ。2019年に人工呼吸器を装着するため、気管切開手術を受けた。さらに、昨年は食べ物と空気の通り道を「分離する手術」を受け、声を失った。  現在は自力で立ち上がるのは困難で、上背のある彼をベッドから車いすに移乗するのは、木綿子とヘルパーの2人がかり。けれども、顔の筋力は残っていて、表情は豊かだ。ゆっくりとうなずくこともできる。わずかに動く指先で車いすを駆使し、仕事の熱量もスタイルも、昔と変わらない。東京パラリンピックの開会式で登場したまばゆいばかりのデコトラの先頭で、原色づくしのピカピカ光る衣装を身に纏(まと)っていた人物を覚えている人も多いだろう。その人物こそ武藤だ。武藤は言う。 「目指すのは、コミュニケーションとテクノロジーで社会を明るく変革すること。挑戦こそ、最大のエンターテインメントだと思っているんです」 ヘルパー経験のあるスタッフが、武藤のおなかに入れる栄養剤のチューブを消毒する脇で、イベントのミーティングは続く。介護というより、自然と手が出ている。スタッフは、「私たちは、チームMASA」と笑う(撮影/関口達朗) 原色の服にシルバーの靴洋服が自己表現だった  武藤はボーダーレスな社会への仕掛けを次々と世に放ち、ALSの闘病のイメージを変えてきた。テクノロジーを駆使して誰も思いつかないアイデアを形にし、世に広め、人の意識をガラリと変える。そんな彼の姿に心打たれて、まだ自力で発話できる段階から、私は彼に取材を重ねてきた。  米国のロサンゼルスで生まれ、邦人の少ない地域で暮らしていた。実父は銀行員で、MBA取得のためにUCLA経営大学院で学んでいた。取得後に邦銀の現地法人に残り、駐在員に。父は早朝に出勤し、母・雅葉子(かよこ)(59)と2人で過ごす時間が長かった。武藤はディズニーアニメのDVDと、英語のテレビアニメを繰り返し見る日々だった。 「将胤は、言葉が遅かったんです。幼稚園では英語の世界。帰宅したら、日本語で会話する相手は私だけ。英語でもアニメなら動きがあってわかるから、映像作品を通じて言葉とイマジネーションの世界を広げていたんでしょうね」(雅葉子)  武藤がハマったのは、現地でテレビ放映され、個性的なカメたちが空中戦を繰り広げるSFアニメ「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」。物語の続きを「妄想」し、机の下や扉の陰から銃声音を「プシュプシュ」と口マネしてキャラクターの人形を操るのに夢中になった。  4歳半の時に両親が別居し、日本に帰国後に離婚。小学校入学と同時に母が再婚して、港区の赤坂で暮らし始めた。武藤は言う。 「アメリカから離れ、父親と離れることは寂しかった。母親に心配をかけたくなくて、その感情を表に出さないようにしていた記憶があります」  義父・真登(まさと)(61)は電通を経て広告畑で起業しており、武藤は幼少期からCM撮影の現場などに遊びに行く機会が多かった。「出会ってきたカッコいい大人たちが広告マンばかり」で、人と人のコミュニケーションを創発する場の熱気に触れた。  とはいえ、思春期に壁にぶつかる。母によれば、「こだわりの強さと自己表出のギャップ」だ。中高時代、友だちは多かったが、ぶつかることも多かった。愛情が深い分、子育てにも厳格だった真登ともぶつかった。 「もともと、将胤は人一倍こだわりがあるんですよ。私と口げんかしても、もう、絶対折れない。幼い頃は、こだわりをうまく表現できないジレンマがあったようですね。思春期には自分の『こうしたい』という気持ちが空回りして、うまく折り合いが付けられなかった感じでした」(雅葉子)  自己表現の扉を開けたのが、ファッション。高校時代から、古着屋やブランド店を巡っていた。國學院大學に入学すると、服の個性を全開にした。大学の同級生の小田切彰子(34)は、当時の武藤のいでたちが脳裏に刻まれているという。 「髪はツンツン、服は原色で、靴はシルバー。正直、マサがパラの開会式で、ド派手な衣装で現れても驚かなかった。マサっぽいなって(笑)」  神道精神に基づく同大学で、武藤は「世の中を明るくするideaを形に」をモットーに、当時人気だったミスコンなどの企画を行うイベントサークルを立ち上げた。「保守的な大学のイメージを変えたい」と小田切を始め、仲間を引き入れていった。全ての先生が顧問を断っても、武藤は何度でも頼みに行く。一人の先生が根負けして顧問を引き受け、設立に至った。小田切は言う。 「マサは昔から『諦めの悪さ』が尋常じゃないレベルだった(笑)。時に人を困らせることもあるけれど、その行動力で物事が前に進んでいく。病気になって、彼は今『限界を作らない生き方』を打ち出しているけれど、あの頃と変わってない」  武藤も「諦めの悪さ」は自認していて、「たとえ理解を得られず諦めるにしても、やれることをやり尽くしてからジャッジしたい」のだという。  新卒で博報堂に入社。当時の上司で現在はグーグルに勤める岡村有人(38)は、武藤を「熱量150%の男」と呼ぶ。 「客先や先輩には礼儀正しく、後輩の面倒見もよく、熱量を向ける先は全方位。マサは早朝から深夜まで、熱量のレベルが全く落ちないんですよ」  外資系の広告主を任され、仕事の醍醐味(だいごみ)を感じていた。13年には木綿子と出会う。まさに人生の絶頂期だった。だがその年の秋になると、手に痺(しび)れを感じるようになり、やがて手が震えて文字も書けなくなった。病院を転々として、長い検査入院をしてもなお診断がつかず、焦燥感が募った。翌年10月に東北大学病院でセカンドオピニオンを受け、ALSと診断された。 (文・古川雅子) ※記事の続きは2021年12月13日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2021/12/12 17:00
西原理恵子「50過ぎたら『やり逃げ』が一番、キラキラ生活なんて無理」
西原理恵子「50過ぎたら『やり逃げ』が一番、キラキラ生活なんて無理」
漫画家の西原理恵子さん(撮影/写真部・東川哲也)  人気漫画家の西原理恵子さんの本音が炸裂、お金に対する考え方は? コロナ禍での暮らし方は? ふっと気持ちが楽になる“西原節”を「AERA Money2021秋号」より。 ■投資はすっぱりやめた 「得意技は狼狽(ろうばい)売りです(笑)。1円でもプラスになったら狼狽して売ろうとします」 狼狽売りとは、相場の急変に心をかき乱され、株式や投資信託などを慌てて売ってしまうことを指す。決していい意味では使われない相場用語だ。  かつて「村上ファンド」を率いてニッポン放送買収を仕掛けた村上世彰(よしあき)さんとの共著もある西原さん。本業の傍ら投資も続けているのかと思っていたが、実際にはすっぱりと手を引いていた。  理由は「仕事に差し障るから」と、いたってシンプル。株式投資でも外貨投資でも、西原さんは買った直後から値動きが気になって仕方がないという。 「漫画を描いている間も株価が気になって、確認してしまう。そこで集中の糸が切れるわけです。ダメとわかっていても、つい株価を見ては、せっかくのアイデアが消えて……」  こんなことを繰り返すうちに心臓が急にどきどきしたり、精神面が変になったりして、西原さんは投資をやめた。 「スタッフを待たせっぱなしのうえに、明らかに仕事の質が落ちました。老後に2000万円の蓄えが必要だといわれますが、投資でプラス2000万円でも仕事でマイナスになればトータルで損」 ■1枚50円の紙に描いた漫画が何百倍ものお金に  スタッフにも怒られて、目が覚めたという。 「1枚50円のケント紙に漫画を描いて原稿料が数万円だとしたら、それで何百倍ものお金になるでしょ。株の信用取引やFX(外国為替証拠金取引)みたいに、私が最強のレバレッジ(元手に対する、動かしたお金の投資効率)じゃないかって気づいた」  以前、日経225に連動するETF(上場投資信託)や個別株のソフトバンクグループ、暗号資産のビットコインを勧められたことがある。 素肌美人の西原理恵子さん(撮影/写真部・東川哲也)  伝説の大物投資家によるアドバイスだったので買ってみたが、本格的な値上がり前に全部売ってしまった。 「上がりはじめると、がまんできない。FXで1000万円なくなったときはがまんできたのになぁ」  掛け金が所得税控除の対象になるiDeCo(個人型確定拠出年金)にも関心を寄せた。税理士に相談したら年40万円ほどの節税効果がある、と。「やったほうがいいのかなと思いつつ、それで仕事が滞るデメリットを考えて、やめました」 ■「キラキラした生活」なんて無理ですよ  自分のペースを大事にする西原さんだが、新型コロナウイルスの感染拡大をどう見ていたのか。 「夜の街から人の姿が消えて、驚きました。飲食店でお酒の提供を控えるだけで、こんなに人の流れが細ってしまうのかと」  西原さん自身も、お酒を飲まない日が週に2~3日できた。 「35年間、漫画家をやってきました。仕事中は今も昔も座りっぱなしですが、外出が減って、さらに不健康。肝機能の数値も、ついに医者から怒られるぐらいに。一念発起してジムに行きはじめました。酒量も以前より減った」  西原さんが健康を意識? ジム通い? 失礼ながら、やや驚く。 「今まで、外で朝まで飲んでいることも珍しくありませんでしたが、深酒をしなくなったら午前中に起きられるようになりました。そこで美術館にも行ってみました。キラキラしてる私。おお、これこそ意識高い系の生活……って思ってたら、ある日、吐いちゃった。  心療内科で薬を出してもらって、キラキラ生活をやめたら、すぐに改善しました(笑)。世間でいう美しい暮らしが、私にはストレスになったようです。そういうライフスタイルが自分に合っていなかったようで」 ■50過ぎたらやり逃げが一番  西原さんは「がんばるな」と言う。 「人生やり逃げ。50歳を過ぎて、いらんことしない。年なんて関係ない、それはそうなんですけど。新しいことへの挑戦は若い人のほうが上手に決まっています。新しいことって難しいもん。年齢とともに逃げるほうへ軸足を移すのが自然でしょ」  新しいことというと、たとえば? 西原理恵子さんの最新刊『りえさん手帖2』(毎日新聞出版)『ダーリンは75歳』(小学館) 「50代ではじめて外国語にチャレンジして、マスターできる人、何人いるのかな? 50代といえば今まで十分に働いてきた年齢。もう自分に見切りをつけてもいいんじゃないかと。 『断捨離』も流行してましたけど。あ、今もはやってる? どっちでもいいんですけど、一つ捨てても何かまたいらんもんが入ってくるし」 「朝からヨガやるって、マリー・アントワネットくらい生活に余裕あるわけじゃないですか。そういうの、信用しない」  西原さんは、「ダーリン」こと美容外科医の高須克弥氏の漫画を描いており、ネット上で攻撃されることも多い。 「そんなネットをわざわざ見ない。『見ない力』ってのをやっと身につけました」  負のエネルギーがネットという匿名空間で噴き出してくるのは、それこそ「キラキラ系」の空気が世の中を覆ってしまった副作用なのかもしれない。  ■上京直後のアパート家賃は3万円  仕事場を併設した西原さんの自宅は東京都内の閑静な住宅街にある。値段を聞くのもためらうほど立派な建物だった。  購入資金は西原さんが腕一本で稼いだお金だ。美大進学のために高知県から上京してきたのが19歳のとき。  最初に住んだ家は、「隣室のおならの音が聞こえる」ほど壁の薄い賃貸アパートで、家賃は3万円程度だった。同じ棟に家族連れも住んでいて、怒鳴り声が昼夜かまわず響いていたという。  西原さんはそのアパートで男性と同棲していた。相手は無職。貯金もない。炊事も掃除も洗濯もできない。それなのに猫を拾ってくる。猫が病気になって獣医に診てもらうと、7万円の請求書がきて目をむいた。 ■月収30万円オーバーで『「男」捨離』 「料金未払いで電気や水道が止められる直前に、新聞やチラシから日払いのアルバイトを見つけて私が3000円を稼ぎ、急場をしのいでいました。明日は電気が止まるのに、日銭を稼ぐこともできない男でしたから。猫の世話代も私持ち」  当時、水道を止められても蛇口をゆ~っくりひねると、なぜか水がちょろちょろ出てきた。「貧乏時代のライフハック」と笑いつつ、「タイムマシンがあったらあの頃に戻って、無職の男の横でへらへらしてる自分をぶん殴ってやりたい」。  転機が訪れたのは月収が30万円を超えたときだ。 AERA Money 2021秋号 「やっと狭いアパートを引っ越しました。粗大ごみを出してるときに、同棲男も捨てました。やっと別れられた」  当時を思い出した目で、話は続く。 「それまでずっとできなかった断捨離ならぬ『男』捨離に踏み切れたのは、えいっと別れられるお金が貯まっていたからです。  月30万円あれば、20万円で生活して10万円ずつ蓄えに回せます。着実に暮らしていける。お金を稼ぐことは自由を得ることなんだと、家を出たとき実感しました」  男捨離を果たした西原さんが移り住んだのは家賃が10万円を超える物件だ。 「引っ越してみて発見がありました。家賃が10万円を超えるような部屋は、大家さんが劇的に優しいの(笑)。移った先では大家さんの方から『長く住んでね~』『ここ修繕しておいたよ』って。家賃が2倍以上になるとこんなに違うのかと驚きました」 ■人生の自由は有料です  最後の西原さんのセリフは非常に印象的だった。 「自分で稼いだお金で、ちょっとだけ広いところに住んで、それから土地を買って家を建てました。35年、漫画を描き続けてきて、なんか一言いうとしたら『人生の自由は有料』ですかね」 ◎西原理恵子(さいばら・りえこ)/1964年、高知県生まれ。武蔵野美術大学卒業。1988年『ちくろ幼稚園』で漫画家デビュー。1992年『恨ミシュラン』が大ヒット。1997年『ぼくんち』で文藝春秋漫画賞、2004年『毎日かあさん カニ母編』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、2005年『上京ものがたり』『毎日かあさん』で手塚治虫文化賞短編賞、2011年『毎日かあさん』で日本漫画家協会賞参議院議長賞を受賞。『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(2010年テレビドラマ化)などお金がテーマの著作も。最新刊は『りえさん手帖2』(毎日新聞出版)、『ダーリンは75歳』(小学館)など (編集・文/綾小路麗香、伊藤忍) ※『AERA Money 2021秋号』から抜粋
AERAマネー
AERA 2021/12/11 09:00
黄昏の街にともる「灯り」に感じるぬくもり。始まりは焚き火から!?
黄昏の街にともる「灯り」に感じるぬくもり。始まりは焚き火から!?
地球にとっての唯一無二の「明かり」は太陽。日が沈むのが早くなっていく冬は、気づけばすっかり陽が落ちてしまっていることも多々あります。夕闇の中に家路を急ぐ時、家々の窓からもれてくる灯りに感じるのはぬくもり。明るさは暖かさに通じているのを実感します。 現代の生活ではそこかしこにともる灯りのおかげで、何不自由なく快適な暮らしができています。インテリアとしての灯りは安らぎや癒しとして、さまざまな工夫がなされるようになりました。室内で過ごすことの多い寒い冬、あらためて灯りについてふり返ってみませんか。京都東山 石塀小路の夕景 人類が手にしたのは燃える太陽の火…灯りの始まりです 古代の人々が怖れていた夜の闇を克服したのは火。人類が火を手に入れると闇夜を明るく照らしだすだけでなく、食べものを焼いたり煮たり食生活も大きく変わりました。火のある場所には人々が集い、暖かさと安らぎを得られました。焚き火は、囲炉裏や暖炉となり生活の中心として長い時が刻まれていきました。 火は松明やかがり火に工夫されて持ち運ばれるようになり、やがて明るい照明を持つプライベートな空間を作り出しました。植物や動物の油を使ったランプや蝋燭の誕生で、火は必要な時に自由に使える道具となりました。さらに石油やガスといった天然資源を利用した火は、その明るさも調節できるようになり、人々が活動する場に合わせた明るさを作り出すようになっていきました。 ガスの火を使ったガス燈は、東京でも1874(明治7)年に街路を照らす灯りとしてに銀座通りにともりました。翌年は日本橋にも敷設され、明治の日本に明るさをもたらしました。ガスは灯りから熱源へ、調理に暖房にと生活を大きくかえるエネルギーとなり、電気とともに現在まで使われています。 参考:【ガスミュージアム】 エジソンから始まった照明の発達…LEDの完成は日本人の手で 灯りの革命は1879年にエジソンが白熱電球を発明したことに始まります。ガラス球の内部に仕込んだ細い線、フィラメントに電気を流し高温にすることで明るい光を放ちます。これが電球のしくみです。長く使うとフィラメントが切れてしまい電球はつかなくなります。切れた電球を取り替える作業は家庭でのちょっとした仕事となっていました。熱くなったフィラメントの放つ光は燃える火と同じようなぬくもりが感じられます。 20世紀に入り1938年(諸説あり)に生まれた蛍光灯は、内側に塗られた蛍光物質に紫外線があたって発光し、赤・緑・青色の光の三原色が重なることで白色光が作られました。電気代が白熱電球よりも割安なため学校やオフィスなどの大きな施設で広く使われました。 20世紀の終わりに大きな転換を与えたのがLEDの発明です。今や照明といえばLEDが主流ですが実用化されるまでには長い時間がかかりました。 1960年代初めにアメリカで赤色LEDが発明されましたが、実用には明るさが足りませんでした。1970年代になると西澤潤一博士が赤色LEDの高輝度化に成功し、実用可能となりました。さらに西澤博士は三原色の一つ緑色のLEDも発明したのです。 白色の光を作るために必要な最後の青色LEDの開発は困難を極め、平成の時代まで待つことになりました。1990年代、ついに青色LEDの発明とその量産技術を作り上げたのが赤﨑勇博士、天野浩博士、中村修二博士の三氏です。2014(平成26)年にノーベル物理学賞が授与され、大きな話題となりました。 光の三原色である赤・緑・青色のLEDがそろったことからLEDで白色電球を作ることができるようになりました。明るい光を放つLEDはそれまでの電球の欠点を克服して、消費電力が少ない上に寿命が長いものとなりました。エネルギー消費を抑えるLED照明は世界中から歓迎され、あっという間に広がり、さまざまな場面で日々の生活の中に溶けこんでいます。夜中でも赤や緑の小さな灯りが部屋の中で光っているのにお気づきですか。すべての物がコンピュータとつながる現代、LEDの点滅はそれぞれの機器が生きているのを示す呼吸ともいえるでしょう。 参考: 谷豊著『LEDのひみつ(学研まんがでよくわかるシリーズ 108)』 学研プラス出版コミュニケーション室発光する電球のフィラメント 照明が自由自在にできる今…欲しいのは自然で穏やかな光 太陽が翳り始めると急激に光を失っていくのが冬の夕暮れ。そんな淡い時間「火ともし頃」とは、そろそろ灯りをつけようかと心迷うようなときを言います。夜の帳が下りるまでのひとときは急いで灯りをつけず、自然の光の中で、身のまわりの物が闇と溶け合っていく美しさを味わうのも一興です。 ひとしきり穏やかな時間を過ごしたら、さあ食卓をかこむ団欒の夕食へ。ともす灯りは外へもれ出で街の明かりとなり、道行く人に優しいぬくもりを作りだすでしょう。 くつろぎの空間では光源を見せない間接照明が落ち着きを醸します。光が強いなと感じたら壁に向けて照らしたり、何かの背後へ置いたり等のひと工夫で雰囲気が変わります。 和紙の利用も効果的とか。もともと障子は外の明かりを取り入れやすくするため、片面だけに和紙を貼ったもので、余分な光を遮りほどよい光を取り入れる智恵といえましょう。張りのある和紙は折り畳むだけで形を作ることができ、照明器具にかぶせればちょっとした和の味わいを演出できそうです。 LEDの出現で電気の消費量が抑えられるようになった照明器具はバラエティに富んでいます。アイデアと個性を発揮して照明を使いこなせば、寒さが厳しくなるこれからの暮らしもまた、素敵に変わっていきそうです。 参考: 『子どもに伝えたい和の技術 5 あかり』 和の技術を知る会著 文溪堂 『照明で暮らしが変わる あかりの魔法』 村角千亜希著 株式会社エクスナレッジ
tenki.jp 2021/12/07 00:00
「嘲笑の的」だったフレディの姿は“戦略的演出” 楽曲は「人生の応援歌」 80年代のQUEENの魅力
「嘲笑の的」だったフレディの姿は“戦略的演出” 楽曲は「人生の応援歌」 80年代のQUEENの魅力
クイーンの魅力を存分に味わえる展示。未公開写真、貴重映像、楽器などの品々が堪能できる(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  結成50年、フレディの死から30年。足跡をたどるQUEEN展が開催中。「ボヘミアン・ラプソディ」に代表される70年代に限らない、彼らならではの魅力がそこに。AERA 2021年12月6日号の記事を紹介する。 *  *  *  大型スクリーンに映し出されたフレディ。一度見たら忘れられないあの顔が、マイクを手に歌い上げる。1985年7月、世界規模で開かれたロックのチャリティーコンサート「ライブ・エイド」でのクイーンの雄姿である。 「QUEEN50周年展─DON’T STOP ME NOW─」のメインビジュアル。86年のツアーで撮影された有名な一枚だ(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  ああフレディ・マーキュリー。早世したロック界のマラドーナ、異形の大輪の華よ。フレディなくしてクイーンが不朽の存在であることは、おそらくなかったろう。91年にエイズのため45歳で死去。その生涯を描いた大ヒット映画「ボヘミアン・ラプソディ」のクライマックスは、圧倒的パフォーマンスで語り草になったこのシーンだった。  フレディ、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコン。不動のメンバーがそろった結成から50年、フレディの死から30年の今年、その足跡をたどる「QUEEN50周年展」が東京・渋谷の西武渋谷店モヴィーダ館で開催中だ(来年2月13日まで)。 クイーンのステージの雰囲気を間近で体感できるコーナー。ロジャーのドラムにブライアンのギター。華麗な演奏が思い浮かぶ(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  メンバー4人の子どものころの貴重な写真(ブライアンの女装姿など)に始まり、前身バンド「スマイル」時代、73年のデビュー、そして美貌の4人が織りなす、ロック史に輝く不滅の名曲「ボヘミアン・ラプソディ」に代表される怒濤の快進撃が年代順に紹介される。 80年代は人気低落?  QUEEN展は結成40周年の年や昨年初めにも開かれたが、「今回はあまり日の当たらない『ライブ・エイド』後の80年代後半以降に焦点を当てた」と製作委員会の担当者。86年の欧州ツアーでフレディが身にまとったド派手なマントと王冠や、晩年の曲「愛しきデライラ」のアイデアが走り書きされたメモ用紙の展示が目を引く。 初期の手作り感が伝わるアイテムの数々。バンドの紋章はフレディのデザイン(撮影/写真部・戸嶋日菜乃) 「彼は先が長くないのはわかっていたけれど、決して哀れみを乞うようなことはなかった」  とフレディについて語るブライアンの最近のインタビュー映像も。 「企画の趣旨はとてもうれしい。80年代の楽曲はずっと無視されがちだったから」  と話すのは朝日順子さん(51)。英語と日本語のバイリンガルで、全楽曲の歌詞を解説した『クイーンは何を歌っているのか?』を一昨年に出版。曲を深掘りするNHK-FMの毎週日曜の番組「ディスカバー・クイーン」にも出演している。  朝日さんと一緒に、クイーン展を見て回った。  父の仕事で子ども時代を米国で過ごした朝日さんは80年、小学4年のときに帰国。年上のいとこからクイーンのライブ盤を借りて聴き、夢中になった。 「でも80年代になってクイーンの人気は落ち込み、私の周りにはファンなんていなかった。音楽雑誌にも載らなくなっていた」(朝日さん)  75年に初来日したクイーンは、長髪で痩身、中性的で美しいルックスもあいまって、それまでロックと縁のなかった少女たちから絶大な支持を獲得。洋楽ロックの世界を席巻した。  当時筆者は(すでに解散していた)ビートルズ好きの北海道の中学生。キャッチーでノリのいいハードロックと「キラー・クイーン」「ボヘミアン・ラプソディ」の素晴らしさに仰天した。アルバム「オペラ座の夜」は新時代の「サージェント・ペパー」のようだった。ロック以外のさまざまな要素を取り込む創作法もビートルズと似ていた。 80年代前半の活動を紹介するコーナー。82年発売のアルバム「ホット・スペース」は全米トップ20に入れず苦戦した(撮影/写真部・戸嶋日菜乃) 舞台芸術と自己演出  だが全身にぴったり張り付いたタイツに身を包み、怖いもの見たさの女子をドキドキさせるようなフレディのパフォーマンスは、ロックの華麗さと猥雑ぶりが満開。田舎の男子学生をひるませた。  80年代になると短髪にひげ、「ハードゲイ風のファッション」が彼の定番となり、「遠い存在」と正直感じた。  80年にクイーンの楽曲にほれ込み、ファンになった朝日さんにとっては、ファッションより曲こそが重要だった。 「80年代、フレディの姿は嘲笑の的だった。でもそれはいい。ゲイファッションが欧米のロック界で流行、彼は戦略としてその波に乗ったんです。70年代の中性的な衣装もそう。彼は舞台芸術と自己演出に関心と才能があった」「でも、80年代の彼らの素晴らしい音楽まで馬鹿にされるのが不思議で、とても腹が立ちました」 86年のマジック・ツアーで披露されたフレディの衣装。深紅のヴェルヴェットに毛皮がついたゴージャスなマントに王冠 寄り添ってくれる歌  85年5月、中学3年の朝日さんはオリジナルメンバー最後のクイーン日本公演に行った。2カ月後のライブ・エイドではテレビの前にかじりつき、クイーンの「伝説のチャンピオン」の途中でCMになり激怒した。  91年11月24日、フレディ死す。朝日さんは大学生だった。生前最後のアルバム「イニュエンドウ」を聴けなくなった。正気を保てなくなる気がしたからだ。2018年に映画「ボヘミアン・ラプソディ」公開。見て平静でいられなかった。クイーンはいまも生々しい存在なのだった。  クイーンの歌詞は、70年代では伝説や神話を取り入れるなど英国的に作りこんだ曲が目立つが、80年代になると、米国進出を意識したこともあり、シンプルさが特徴という。 「人生の応援歌と解釈できる歌がいくつもある。厳しい現実に立ち向かう勇気を与えてくれる。現実から逃れたいときに聴いても最強。しっかり寄り添ってくれる歌だから。SNSでバッシングされて悩む人にもクイーンのよさを勧めたい」(朝日さん) フレディの熱唱。85年「ライブ・エイド」での歴史的パフォーマンスが上映されている(photo 小北清人) あこがれと美を体現  クイーンは、デビューからずっと英国などで評論家筋に叩かれ続けたバンドだ。ロックがカウンターカルチャーでなくなり、娯楽となった時代に大成功したせいもあるかもしれない。 「第二の母国」と呼ぶほど愛した日本のファンへの対応は格別だ。一部が日本語で歌われる曲「手をとりあって」では「僕らはみんな愚かで無知だと人は言うだろう でも心を強く持って くじけてしまわないで」と呼びかける。それがファンの心に刺さるのだ。  70年代に日本の少女の心をワシ掴みにしたクイーン。あこがれと美を体現する存在として、メンバーを少女漫画のイラスト風に描くなど多くの人が「私だけのクイーン」愛を育てた。年齢を重ねたいまも想いが変わらない人もいるだろう。  長年のビートルズファンである筆者は何となくわかる気がする。ジョンとポールが演奏中に軽く笑顔でうなずきあう映像を見ると、満ち足りた、幸せな気分になる。この喜びは他のものでは代えがたい。ファンにしかわからない愛し方があるのだ。 「地獄へ道づれ」「永遠の誓い」「アンダー・プレッシャー」「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」「ONE VISION─ひとつだけの世界─」「アイ・ウォント・イット・オール」──。80年以降の名曲の数々。あ、どこかで聴いたな、という曲ばかりだ。  アフリカの非キリスト教徒の家に生まれ、インドで育ち、難を逃れ英国に移り住んだフレディの人生を思うとき、その背景と才能が、クイーンを唯一無二の「娯楽としてのロックの巨人」たらしめたと思わずにいられない。  THE SHOW MUST GO ON.(ライター・小北清人)※AERA 2021年12月6日号
AERA 2021/12/04 11:30
咳が8週間以上続く状態を放置すると約3割が「ぜんそく」に 大人は風邪が引き金
咳が8週間以上続く状態を放置すると約3割が「ぜんそく」に 大人は風邪が引き金
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  ぜんそくは子どもの病気と思われがちだが、大人の患者の8割近くは、成人してから初めて発症している。咳はよくある症状なので放置されやすいが、初期のぜんそくの可能性も。早期の見極め、治療することが重症化を防ぐ。 *  *  *  新型コロナウイルスが流行してからは、ちょっとした咳でも不安に感じることが多くなっただろう。しかしコロナ禍前は違った。咳は呼吸器の症状のなかでも身近なもので、風邪を引いた後などに咳が長引いても、「たかが咳」と放置しがちではなかっただろうか。  咳の原因として多いのは風邪だが、通常であれば、咳は1週間程度、長くても2週間程度で治まる。それが3週間以上続くようなら、ほかの病気が考えられる。マイコプラズマ肺炎や百日咳、結核など風邪以外の感染症のほか、慢性閉塞性肺疾患(COPD)、肺がんなどの場合もある。ぜんそくも、長引く咳の原因の一つだ。  ぜんそくは潜在患者も含めると、日本人の10人に1人は発症しているといわれている。15歳までに発症する「小児ぜんそく」と、大人になって発症する「成人ぜんそく」に分けられる。小児ぜんそくが大人になって再発するケースもあるが、大人になってから初めて症状が出るケースが多く、成人ぜんそくの70~80%を占める。  代表的な症状は、繰り返す咳のほか、呼吸時にゼーゼー、ヒューヒュー音がする喘鳴、息切れ、息苦しさなどだ。  これらの症状は、空気の通り道である気管が、さまざまな刺激に対する反応などによって炎症を起こし、それが慢性化して気道が狭くなることで起こる。そして刺激に対して過敏になり、発作を起こしやすくなるという悪循環に陥る。炎症を放置すると気道の構造が変化し、気道が硬くなっていく。すると重症化し、治りにくくなる。 ■疲れや環境変化が発症の引き金に  小児ぜんそくは、ダニやホコリ、ペットのフケや毛など、原因物質(アレルゲン)を特定しやすい。一方、大人の場合は原因を特定しにくい傾向がある。国立国際医療研究センター病院呼吸器内科診療科長の放生雅章医師はこう話す。 「成人ぜんそくで圧倒的に多いのが、まず素因としてアレルギー体質があり、風邪が引き金となって発症するケースです。疲れやストレス、気圧の変動、職場や住居の変化などが加わったときに、特に発症しやすくなります。つまり、発症の要因は複合的なのです」  80代で発症するケースもあり、年代は幅広い。一般的には40代で発症する人が多い。 「社会的な制約が多く、仕事や家庭でストレスを抱えやすい世代といえます。成人ぜんそくは女性のほうがやや多いのですが、これは妊娠や出産によるホルモンバランスの崩れや子どもから風邪をうつされやすいといったことも要因になると考えられます」(放生医師)  咳がぜんそくによるものかどうか、見極めるうえでのポイントとなるのが症状の「変動性」だ。 「夜寝る前や朝起きたときに痰がからんだような咳が出るのがぜんそくの典型的な症状です。重症化すると夜中に咳で目が覚めたり、一日中症状が出たりすることもありますが、基本的には一日の中でも症状の軽い重いといった変化、『日内変動』があり、日中は症状が出にくいという特徴があります」(同)  時間帯に加え、場所や温度の変化に伴って症状が出るなど、環境によって変動するケースも。人によっては、台風が多い季節の変わり目、花粉が飛ぶ季節、寒い季節など、症状が出やすい時季があり、「年内変動」が表れることもある。  日本では、ぜんそくの前段階は「咳ぜんそく」と呼ばれる。咳が8週間以上続いている状態だ。ぜんそくと違って喘鳴や呼吸困難は伴わない。だが、放置すると約3割がぜんそくに移行するといわれている。つまり、咳ぜんそくのうちに治療すれば、ぜんそくに移行するのを防げるのだ。 ■花粉症によって咳が長引くことも  しかし、医大前南4条内科院長の田中裕士医師は「咳が長引いたとしても、咳ぜんそくではない場合も多い」と話す。 「長引く咳の原因が、風邪を引いた後の感染後咳嗽や花粉によるアレルギー性鼻炎だった、という場合も多いのです」  同院を受診した40代の女性は、近隣の医療機関で咳ぜんそくと診断され、ぜんそくの治療薬である吸入ステロイド薬と気管支拡張薬を服用していた。しかし症状が改善しなかったため、田中医師が詳しく検査をしたところ、呼吸機能検査では、ぜんそくは認められなかった。 「その患者さんは喘鳴を訴えていましたが、ぜんそくで気管支が狭くなった結果起きる喘鳴ではなく、アレルギー性鼻炎に伴う咽頭炎による症状でした。ぜんそくの治療薬はやめ、点鼻薬と抗アレルギー薬を服用してもらったところ、改善しました。咳ぜんそくやぜんそくは、ぜんそくの治療薬を1~2週間服用すれば改善します。その期間で改善しなければ、ほかの病気の可能性が考えられます」(田中医師)  そもそもぜんそくや咳ぜんそくの多くはアレルギーが素因になるので、アレルギー性鼻炎との合併も多い。ぜんそくは確定診断の方法がなく、診断が難しいのが現状だ。 「ぜんそく発作をどの程度繰り返しているのかといった病歴や呼吸機能を調べる検査、気管支の炎症の有無を調べる検査など、総合的に調べて診断します」(同)  咳は誰もが経験する、よくある症状なので、特に大人の場合は、受診につながりにくい。 「咳が3週間以上続く場合や、市販の咳止め薬で症状がおさまっても薬をやめるとまた症状が出てくる場合は、呼吸器内科の専門医を受診するといいでしょう」(同) (中寺暁子)※週刊朝日  2021年12月10日号
ぜんそく病気病院
dot. 2021/12/03 09:00
FIREは早期退職でのんびりではない? 「働くことはやめない」達成者たちの人生観
中島晶子 中島晶子
FIREは早期退職でのんびりではない? 「働くことはやめない」達成者たちの人生観
北海道が好きで、たびたび旅行に。羊がいる牧場が隣接したホテルに泊まったときの写真(photo 本人提供)  米国発のFIREブームが日本にも波及し、この「夢」を達成する人が続々登場。早期退職してお金のことも心配せずのんびりできるイメージだが、実際は? AERA 2021年12月6日号から。 *  *  *  FI(ファイナンシャル・インディペンデンス=経済的自立)とRE(リタイア・アーリー=早期退職)を目指すFIRE。これを達成した人たちの暮らしはどう変わったのだろうか。  大手企業に勤めていた穂高唯希(ほたかゆいき)さん(32)は約7千万円の資産を築き、2019年に会社を辞めた。穂高さんは「若くして経済的自由を獲得し、人生の選択肢を増やす」ための展望を学生の頃から考えていた。会社も仕事も好きだが、ほかの生き方もしたいと入社後も感じた。熟考の末、「お金を貯めること・資産を形成すること」に一定期間、集中しようと決めた。  穂高さんが具体的に実践したのは、給与の8割を投資に回しつつ“支出を最適化”すること。ペットボトル飲料は買わずに水筒を持参、デートは公園で手作り弁当とともにピクニックなど、支出にメリハリをつけた。  運用では米国株をメインに購入し、その配当金を積み上げた。「預貯金は資産全体の1割に満たなかった」ので、ほぼ証券口座に入金した格好だ。 穂高唯希さんは2019年、30歳のとき資産7千万円で三菱系の会社を退職。その後、ブログは続けているが自分の食べるものを自分で育てられるようになりたい、と農家で働くように。写真は自分で育てたナス(photo 本人提供) 農業にスポーツ三昧  その結果、19年には月額ベースで20万円を超える配当、分配金を得られるようになった。給与の8割を入金したとはいえ、30歳でこのレベルに達したのは高収入による面もある。ただ、高収入でもこれと同じことができる人は何人いるだろう。 「最近は現金比率を増やしたので、今の配当金は、月平均15万~20万円です」  FIRE達成で、嬉しい誤算といえる収入も得られた。著書が8万5千部のヒット。その印税収入も入ってきた。  退職とともに穂高さんは郊外に移住。農業・林業・除雪などをやり始めた。 「自然が好きで、食べものを自分で作ることにも興味がありました。農家の方々に教わりながら四季折々の野菜を育て、田植えや収穫、精米などを経験させていただいています」 穂高さんが関わった田んぼ(photo 本人提供)  加えてブログ読者からの資産運用などに関する相談への回答、コラム執筆や講演、各種メディアの取材対応・出演などで忙しい時期もある。だが、激務だった会社員時代と比べれば、はるかにスローな時間が流れている。 「自由な時間には水泳やスキー、登山、テニス、旅行などを楽しんでいます。スペイン語などの勉強も続けています」  FIREを機に、エバンジェリスト(伝道師)のような立ち位置でさまざまなメディアに登場しているのは、関西在住の桶井道(おけいどん)さん(48)だ。20代の頃は日本株を買っていたが、米国株をメインとする高配当株・増配株へシフトし、約1億円を蓄財。2020年10月、47歳のときに会社を辞めた。  投資家で執筆家、ついでに節約家、というのが桶井道さんの現在のマルチな肩書。メディアからの取材依頼には快く対応し、自らも積極的に寄稿する理由についてこう述べる。 「私がFIREを目指した頃は関連書籍が見当たりませんでした。自分が情報発信することで、僭越ながら社会貢献につながるかもしれないと考えました」  その後、21年3月に著書も出版。予想外だったのは、臆測にすぎない誹謗中傷がネット上で散見されたことだ。たとえば実家で両親と同居していることに対して「経済的に自立していない」と揶揄された。 桶井道さんは昨秋、47歳・資産約1億円でFIRE宣言。マスコミの取材が増え、1年で21の紙、ウェブ媒体に載った。出版社からの依頼により自分でも原稿を書くようになり、今後2本のウェブ連載が始まる(photo 本人提供) 働くほうが性に合う  しかし、現時点における桶井道さんが受け取る配当金は月額換算で約10万円。他にもブログからの広告収入や印税、取材謝礼、原稿料などで、1カ月の手取りは約37万円に達している。年収にして約440万円だ。難病を患う父親の介助を行いながら、母親と家事も分担。10月からは、こども食堂でのボランティア活動も開始した。  そもそも個人資産を1億円以上持っていて、21年だけでも1千万円以上、資産を増やしている。これで経済的自立をしていない、と言われたら誰が「自立している」のか。 「ひたすらのんびりして何もしないのがFIREだと思っている人もいますが、そんな毎日ではつまらない。私は、働いているほうが性に合っています。それ以上に強いのは、社会に貢献したいという気持ちです」  ただし、せっかくFIREを達成したのだから、ストレスを感じるような人付き合いには関わらないようにしている。 「100人いれば100通りのFIREがあり、いずれも正解。大切なのは『FI』によって会社から『RE』し、選択肢のある人生を送ることでは」  東京在住のアラフィフ男性は、いったんFIREしたが再び会社員に戻ったという異色の経歴。90年代半ばに京都大学を卒業後、外資系金融機関のトレーダーとして、巨額の取引を繰り返す日々を送っていた。  その重圧から就業中に過呼吸を頻発するようになってしまった。ついには夜中に咳が止まらなくなり、吐血して救急車で搬送された。 30代後半に資産2億円で外資系企業を退職したものの、しばらくのんびりしたら「飽きてしまい再就職した」都内在住のアラフィフ男性。趣味の高級時計をつけて週3で出勤(残り2日はテレワーク)。この五つはウィークデー用で総額890万円ほど(photo 本人提供) ストレスで吐血した 「ストレスで食道がただれ、咳の弾みで出血したようです。血を吐いても、翌朝6時に出勤しましたが(笑)。とにかくつらくて退職したかったのが本音」  その後「心の内で何かがプチッと切れて」、数社からの転職の誘いも断り、30代後半でFIRE。当時の資産は約2億円。 「2億円を“稼ぐ”のは、外資系トレーダーなら珍しくありません。でも2億円を“貯める”のは大変。年収が額面5千万円でも、手取りは2800万円程度でした。資産2億円というのは、ボーナスで受け取った自社株の値上がりが貢献しています」  会社を辞めて、まずは温泉地に長期滞在しながら読書三昧の日々。「とにかく最初はアホみたいに寝ていた」。だが、徐々に暇を持て余すようになった。 「30代後半というと、同世代の友人は誰も退職しておらず、平日に遊ぶ相手も限られて。寝ることにも旅行にも飽きました。結局、約半年後には国内の金融系の会社に再就職」  現在は自分のペースで働いており、ストレスとは無縁だそう。再就職後に人生のパートナーとも巡り合った。一方、物欲には大きな変化が生じたようだ。 「昔はポルシェに乗り、高価なブランド品も買っていました。今は、趣味の高級時計くらい」 従来型労働への反発  現在、夫婦合わせて約3000万円の年収。その後、4億円まで増えた資産は国債、値動きが安定的で分配金が充実している米国ETF、REIT(不動産投信)で“守り”の状態に。 「米国がテーパリング(量的金融緩和規模縮小)のフェーズに入ったので、運用効率より安定を重視して組んでいます」  その結果、配当収入は、月平均40万~50万円になった。 「最近のFIREブームは、従来型の労働へのアンチテーゼだろうと。これを機に、週3日間勤務や使途制限のないサバティカル休暇など、多様な働き方・休み方が普及するといいですね。いずれにせよ、今後も私は働き続けるでしょうけど」  FIRE、三者三様。いずれも達成できて幸せなのは「FI(経済的自立)」の部分であり、「RE(早期退職)」でのんびりすることではなかった。(金融ジャーナリスト・大西洋平、編集部・中島晶子)※AERA 2021年12月6日号
お金
AERA 2021/12/02 08:00
偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生
偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生
菊名記念病院・心臓血管外科部長の奈良原裕医師 (撮影/写真部・張溢文) 「会社の上司ではなく、目の前にいる人のためになる仕事をしたい」――私立大文系卒の営業職だった27歳男性が、仕事に疑問を感じてめざしたのは医師だった。現在、神奈川県横浜市の菊名記念病院で心臓血管外科部長を務める奈良原裕医師(51)。大手企業での安定を捨て、1年半の浪人生活で会社員時代の蓄えをほぼ使い切り、29歳で高知大医学部に合格。6年間の勉強の末に医師免許を手にした後も、年齢的に厳しいとされる30代後半で心臓血管外科医の道を選んだ。奈良原医師はどのような思いで勉強をしてきたのか。その半生を語ってもらった。<<後編・1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは>>に続く *  *  * 私は中央大学法学部を卒業後、石油会社に勤めていました。医師になる道を考え始めたのは社会人4年目になったころです。東京・品川のオフィスで深夜11時ごろに残業を終えた私は、同期と一緒に近くの牛丼屋に入りました。そのカウンターで、「医者になりたいな」という言葉がポロッとこぼれたのです。  仕事は評価されていました。任された業務の範囲は広く、支店長室のソファをベッド代わりにして何日も会社に寝泊まりしていました。上司からは一番上の評価をもらっていたと聞いています。けれども、そんなワーカホリックな日々の中で、いかに上司から褒められるかを目標にする生き方に、次第に違和感を覚えるようになりました。  石油は社会や経済を支える基盤となる重要なエネルギーです。もちろん、それを取り扱う仕事の社会的使命はとても大きい。しかしその一方で、自分がやっているのは、目の前のお客さんに少しでも高い金額を提示して商品を販売し、利益を出すということでした。自分の目の前にいる人ではなく、自分の後ろにいる、自分を評価する人の方向を見て仕事をしていることに、疑問をもち始めたのです。  結局自分は、中学・高校生時代にやっていたことを繰り返しているのだと思いました。学生時代は一生懸命勉強しました。でもなぜ数学の公式を使えるようにならなければならないのか、なぜ歴史を覚えなければならないのか、その理由までは考えなかった。仕事も同じでした。意味や背景まではそこまで深く考えず、とにかくやっていた。大学では法学部に進みましたが、付属校時代に勉強した結果として偏差値の高い学部に内部進学できたというだけで、法律の勉強をしたいという気持ちからではありませんでした。その延長戦が社会に出てからもずっと続いていたのです。 退職して最初に受けた模試の結果。物理は100点満点で4点、数学の偏差値は37.9だった (写真提供/奈良原医師)  それでも自分は間違ってはいないと思っていました。しかし、そんな毎日が続いていたある日、兄が自殺しました。その理由を私はまったくわかりませんでした。というよりも、兄のことが何もわかっていませんでした。いや、兄だけでなく父、母、祖母のことも。目の前の一番大切な家族のことを気にしない生き方になっていること気がつき、27歳の9月、新卒で4年半勤めた三菱石油(現ENEOS株式会社)を退職しました。  目の前の人のためになるような、そんな仕事をしたいと思いました。そこで行き着いたのが医療従事者です。医師、看護師、介護士……そのなかでも指揮官である医師をめざしました。学費が比較的かからない国立大の医学部を目標にして予備校に入ったのですが、私が置かれたのは8クラスあるうち下から2番目のクラスで、国立の医学部に受かる人はほぼいないと言われていました。 ■模試は「E判定」、偏差値は38  そもそも私は付属校からの内部進学組だったので、受験というものを知りませんでした。過去に大学受験をしたことのない社会人からすると、センター試験の出願の仕方すらわかりません。また、学校の教科書も持っていないので、出題範囲もまったくわからない。まず大学受験の仕組みを知るのに3、4カ月はかかったと思います。  10月に受けた模試は当然E判定。数学の偏差値は38。その年の受験は、センター試験も6割程度しか得点できず、医学部には箸にも棒にも掛からぬ結果でした。そこからまた浪人生活が始まりました。ただ、受験は2回までにしようと思っていました。1年間かけて受からなかったら医師はあきらめて、別の医療従事者をめざそうと思っていました。  後にも先にも、この時が一番勉強したと思います。会社員時代はデータを使って顧客分析や商圏分析をしていたので、それにならって受験勉強も分析していました。細かい勉強計画表を作り、どの科目を何時間勉強したのか、1週間ごとに計画と実績の差をチェックしていました。 浪人中の勉強計画表。科目別の勉強時間を毎日記し、週末に「計画」と「実績」の差を出し達成度を測っていた  部屋中には物理の公式や化学式などを書いた紙を貼っていました。トイレにも貼って、そこにこもって暗記をしたり。勉強は受験に向けて追い上げていくといったものではなく、最初から限界ぎりぎりのスケジュールで取り組んでいました。集中力を保ちながら勉強できるのは一日最大16時間。これを続けるのは本当に大変でした。当時のノートを見ると、文字がびっしり書かれていて、ちょっと狂気じみているようにも感じます。  同棲していた妻は、ピリピリしていた私を横目にいつも長いコードの付いたヘッドホンをしてテレビを見ていました。お笑い番組を見ながら、私の勉強を妨げないように笑いを押し殺していたのを覚えています。妻とは会社を辞めて医学部浪人を始めると決めたころに付き合い始めました。よくそんな人と付き合ったものですね(笑)。  志望校は高知大医学部に決めました。一番の理由は学力的に合格が狙えそうだったからですが、理由はそれ以外にもありました。予備校の友人の兄が高知大医学部出身で、新聞販売店に住み込みで働きながら勉強して合格したというのです。その話に感銘を受け、第1志望が決まりました。 ■「受かるまで外さない」つけた腕時計  浪人中はずっと、トライアスロンの人がよく使っているタイマー機能付きの腕時計をつけていました。お風呂や休憩も時間を区切るために、「受かるまで外さない」と決めたのです。当時27、8歳で、10個下の現役高校生よりはメンタルも落ち着いている。そんな私が重い決意で勉強をすれば受かるはずだ、という妙な自信がありました。  しかし模試は最後までE判定で、これで医学部に受かるのは奇跡でした。ところがその年のセンター試験は数学が難化したり、難解な現代文で大量失点する人が出たりして「荒れた」のです。その結果、8割ちょっとの得点でなんとかボーダーラインを超えることができました。2次試験を受験し、妻と一緒に合格の通知を受け取ったときは、正直、信じられませんでした。何か採点ミスなどが発覚して、合格が取り消されるのではないか……医学部合格から22年が経ち手術を執刀している今ですら、そう思うことがあります。  4月からはすぐに高知での生活となるため、アパートや中古車などを1日で準備しました。妻は高知についていくことになんのためらいもなかったようです。その後、学部1年生の時に結婚することになりました。 「開心術(心臓手術)の緊迫感は自分でも驚くほどの集中力を発揮させてくれます。開始から初めて顔を上げたら3時間半経過していたことも」(写真提供/奈良原医師)  高知大の医学部には他に再受験生が2人いましたが、私が一番年上でした。でも基本的には、ごく普通に周りの同級生と同じように過ごしていました。空手道部に入りましたが、中では当然、先輩後輩の関係がありました。会社員時代の蓄えは受験生時代に底を突きかけていたため、朝は新聞配達のアルバイトをし、学校に行って勉強や解剖の実習をし、夕方は酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。妻も喫茶店でアルバイトをしていました。  進級試験、卒業試験、そしてそのあとの医師国家試験など、勉強は1回目の大学時代よりずっと大変だったと思います。しかし、仕事を辞めて挑戦した医学部受験のときのほうがもっと大変でした。  研修医としての2年間も楽しく過ごしました。目の前にいる患者さんに感謝されるのは本当にうれしいですね。当時、主治医として診療に当たっていた患者さんのなかには、いまでも年賀状やお手紙をやりとりしている人もいます。外科の後期研修医として行った横浜の病院も、1年だけではありましたが思い出深いものでした。 ■「30歳以下が望ましい」心臓血管外科に転身  医学部時代、私が一番好きだったのは心臓手術だったので、心臓血管外科医をめざしました。しかし日本心臓血管外科学会では、心臓血管外科医になるのは30歳以下が望ましいと言われています。体力的な問題もありますし、比較的、一人前になるまでの階段が長いという要因もあると思います。そのため、一度は心臓血管外科医をあきらめました。しかし外科の後期研修をしていく中で、その気持ちが抑えられず、研修先の病院を変えました。  38歳だった私は、現役医学部生から心臓血管外科医になった人と比べると10歳も年上ですが、上司は私を現役同様の新人として扱ってくれました。これまでの経験が生かせる職場ではまったくなかったので、教えを請う立場であることをわきまえるのは極めて大切なことだと思っています。  実は、会社を辞めて医師をめざすときも、研修医後に外科へ進むときも、そして心臓血管外科医を目指すときもすべて、家族・友人・知人の皆に反対されました。今さらそんなこと出来るわけがないだろうと思われたのだと思います。私はこれまで、みんなが右を向いたら右を、左を向いたら左を、少しでも早く向こうとする人間でした。でもあるときから、人が右を向こうと左を向こうと自分の見たい方向を見るようになりました。会社を辞めて、医師をめざそうと思ったところが、人生の転換点だったように思えます。 (構成/白石圭) <<後編・1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは>>に続く
奈良原裕病院
dot. 2021/12/01 10:00
1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは
1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは
激務の医療現場を変えた菊名記念病院・心臓血管外科部長の奈良原裕医師 (撮影/写真部・張溢文)  忙しい医師の世界のなかでも、とりわけ多忙と言われる心臓血管外科医。神奈川県の菊名記念病院・心臓血管外科部長の奈良原裕医師も、これまで「年に3日しか休みがない」という生活を送っていた。こうした働き方では「医療の質も担保できない」と危機感を覚えた奈良原医師は、業務改革に取り組み、働き方のみならず診療の質を向上させることにも成功した。会社員を経て医学部に入り、38歳で心臓外科医になったという“異色”の医師は、どうやって心臓血管外科を変えていったのか。<<前半・偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生>>から続く *  *  * 北陸新幹線の佐久平駅から車で30分。長野県佐久穂町立千曲病院に、奈良原医師は毎週金曜日、東京から片道2時間半かけて日帰りで勤務する。 「佐久穂町は意外と近いですからね。以前は、片道3時間半かけて新潟県・松之山や5時間半かけて北海道・木古内に日帰りで診療に行っていました」  奈良原医師は、中央大学法学部を卒業後、一般企業での4年半の社会人経験を経て、29歳で医学部に合格。35歳で卒業後、激務ゆえ学会では「30歳以下でなることが望ましい」と言われるという心臓血管外科医を38歳からめざしたという“異色”のキャリアをもつ。  現在、常勤先である菊名記念病院の心臓血管外科部長として多忙な日々を送るなか、奈良原医師は週に1回、医師不足の町へと日帰りで診療を行っている。だがそれができるまでには、10年にわたる心臓血管外科の業務改革が必要だったという。 ■「1ヶ月のうち91%は病院で過ごしていた」  10年前、菊名記念病院心臓血管外科は、奈良原医師とその上司の2人で切り盛りしていた。病院のそばに住んではいたものの、家に帰ることはほとんどなく、病院に泊まることもしばしばだった。 「振り返ってみると、1ヶ月のうち91%は病院で過ごしていたようです。一番ひどい年は、年間の休みは3日だけ。そのうち1日は地方の結婚式に、残りの2日間は学会に出席していました」 サージカルルーペを通して見える視野は直径8cmほど。4つの眼で寸分の狂いもないことを確認しながら手術を進める (写真提供/奈良原医師)  奈良原医師が同病院で働き始めた2008年ごろ、患者の50%以上は救急患者だった。救急で来るということは当然、緊急性が高いため、すぐに治療しなければならない。夜中に飛び起きて手術、外来で待合室に患者がいても手術を優先する、という日常生活を送っていた。手術が終わっても一段落とはいかない。重症患者の場合、術後の不整脈や再出血など、さまざまな対応をしなければならなかった。  重症ゆえに日曜日も入院患者の様子を見る必要があった。別の診療科の医師がすぐ対応できるほど、心臓手術後の患者の対応は「甘くない」という。結局、週7日で勤務する日々が続いていた。 「1人の患者に対する業務量はかなり多い。忙し過ぎれば医療の質が落ちる可能性もあるし、場合によっては安全性も担保できないかもしれない。このままではだめだ、という危機感がありました」 ■起死回生のFacebookで「いいね」3000超え  そこで上司と一緒に始めたのが、Facebookでの情報発信だ。「当時、病院がSNSで情報発信するのは珍しかった」と奈良原医師は振り返る。内容は、診療に当たって日頃思っていることや一緒に働く仲間のこと、今日食べたランチなど心臓血管外科医の日常をありのままにつづるというもの。これを写真とともに投稿したFacebook記事には3000以上の「いいね」がつき、先駆的な試みとして医療系のメディアで紹介されることもあった。 「発信の目的は自分たちを知ってもらうこと。私たちの人となりを見てもらって、患者さんや他院から少しでも信頼していただけたらと。その結果、こんな先生がいるからここで手術してもらってはどうですかと、他院から患者さんたちが次第に紹介されるようになりました。紹介患者さんの手術は緊急ではなく予定された手術としてスケジュールが組めるので、看護師さんたちも含めて仕事がやりやすい。仕事の予定が立つというのは、救急患者ばかりのそれとは負担感が全く違います。結果的に、手術後の患者さんの病状も安定していることが多くなります」  手術前の診療にも良い影響があった。紹介で来院した患者と話すと、「先生のことはFacebookでよく見ています」「このあいだ投稿していたお弁当、おいしそうでしたね」と話が始まる。初対面でもうち解けた雰囲気で、患者との信頼関係をつくることができた。  さらにFacebookを見た医療関係者のなかから、この病院で働きたいという若手があらわれた。働き方改革だけでなく、仲間を増やすこともできたという。 業務改革によって生まれた休日を地方での日帰り診療に充てる。「休むよりは、何か世の中のためになることをやろうと思っていました」 (撮影/写真部・張溢文)  休みがほぼない状況で働きつづけて10年。二人の部下ができたおかげでやっと週に1日の休日を手に入れた。しかし奈良原医師は「休みができたからには、何か世の中のためになることをやりたい」と考え、空いた時間を地域医療に使うことにした。社内で評価されることを第一に考えて働いていた会社員生活を捨て、人のために働きたいと思って医師の道へ――。そのときの思いが自分を突き動かしたという。 「地方では、6、70代、場合によっては80代の先生が一人で頑張って医療を支えているところも多い。また、必要な専門医が不在なため医療が不十分となっている地域もあります。そこで医師不足で困っているところのお手伝いをしようと考えました」  全国自治体病院協議会という団体に相談し、2016年、新潟県十日町市の松之山診療所で診療を始めた。 「ある先生がたった一人でやっている診療所なのですが、その先生は午前中に別の診療所で働き、午後にそこから車で1時間近くかかる松之山診療所に来るという働き方をしていました。医師が足りていないため、そうせざるをえないようでした。週に1日だけでも支援してくれるとありがたいということで、毎週金曜日に日帰り診療に行くことになりました」 ■都市部と地方の交流で医療格差を解決したい  地方では「こんな遠いところまで日帰りで来てくれる医師はいないだろう」という発想になりがちだと奈良原医師は言う。 「だからニーズがあるのに、それを上手く生み出せていません。でも今は、新幹線をはじめとして交通も発達しているから、都市部から地方に日帰りすることも可能です。また、会社もそうですが、4月になって人が入れ替わると、組織が活性化しますよね。外部の医師との交流が生まれることは、地方にとってもいい効果があると思っています」  奈良原医師は今、自身のSNSで、佐久穂町への日帰り診療の様子を発信し続けている。診療のことだけでなく、食べたものや町で行われたイベントについてなど、話題はごく身近なものも多い。 「都市部と地方の医師の交流が進めば、医師の偏在や地域間医療格差の解決につながるのではないかと、本気で思っています。どちらの医師にとっても、またそこで暮らす患者さんたちにとっても良い流れになったらいいなと思って、楽しみながら日帰り診療を続けています」 (白石圭) <<前半・偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生>>から続く
奈良原裕病院
dot. 2021/12/01 10:00
短時間の昼寝にストレス解消、パフォーマンス向上効果 寝不足の日本人こそ必要
川口穣 川口穣
短時間の昼寝にストレス解消、パフォーマンス向上効果 寝不足の日本人こそ必要
西川の「ちょっと寝ルーム」は、設計と設備をパッケージにして外部企業にも提供している。導入を検討する企業は50社を超えた(撮影/写真部・戸嶋日菜乃)  ランチ後に眠気が襲われ、午後の仕事に身が入らないという人も少なくないだろう。仕事のパフォーマンス向上には昼寝が最適だ。そこには日本人ならではの事情もある。AERA 2021年12月6日号から。 *  *  *  部屋に入ると、アロマの柔らかな香りに包まれた。足元のダウンライトの光が優しく揺らいでいる。手ごろな枕を手にしてデスクに突っ伏すと、すぐにあたりが暗くなった。初めはゆったりとした波の音だった“背景音”は、気付くと心地よい“ノイズ音”に変わっている。いつしか眠ってしまっていた──。  そして15分後。軽やかな音楽と朝日のような明るい光で意識を引き戻された。眠っていたのは、ほんのわずかな時間。それでも、頭の靄(もや)がすっきりと晴れ渡ってくるようだった。  ここは、東京・日本橋に本社を構える寝具メーカー・西川の仮眠室「ちょっと寝ルーム」。正午から午後3時、1回15分の入れ替え制で社員たちが「昼寝」する。コロナ禍で出社人数が減ったため、仮眠室の利用も少なくなったが、それでも1日20人ほどの社員がこの部屋で昼寝するという。  また、在宅勤務をする社員に対しても、短時間の昼寝を推奨している。 約9割がストレス減少  同社の研究機関・日本睡眠科学研究所で睡眠や生体リズムの研究を担う安藤翠さんは言う。 「仕事のパフォーマンス向上やミスの予防のため、昼過ぎに短時間の仮眠を推奨しています」  実際、短時間の昼寝を継続して取り入れた社員のうち、約9割が「ストレス」や「午後の眠気」が減ったと回答した。  業務時間中に短時間の昼寝を取り入れることは「パワーナップ(積極的仮眠)」とも呼ばれ、数年前から推奨する企業が増え始めた。広島大学の林光緒教授(睡眠科学)も、短時間の昼寝の効果をこう説く。 「昼下がりに短い仮眠をすると、その後の脳の覚醒レベルが上がることがわかっています。集中力が高まり、作業時のミスが減ってかかる時間も短縮される。仕事に向き合う意欲も高まります。特に、日本人は慢性的な睡眠不足を抱えて、知らず知らずのうちにパフォーマンスが下がっている人が多い。昼寝の効果は高いと考えられます」 (AERA 2021年12月6日号より) 日本人の多くが寝不足  昼下がりは生体リズムの影響で眠気が強くなる。睡眠不足だと、それに拍車がかかるという。実際、日本人の多くは慢性的な睡眠不足だ。適切な睡眠時間は人によって異なるが、標準的な成人では7時間から8時間程度は必要だと考えられている。  厚生労働省の「令和元年国民健康・栄養調査」では、20歳以上の73%が1日の平均睡眠時間が7時間未満と回答した。経済協力開発機構(OECD)の「Gender data portal」によると、日本人の平均睡眠時間は7時間22分(2016年)。「7時間の壁」は越えているものの、データのある33カ国で最も短く、トップの南アフリカ(9時間13分)とは約2時間の差があった。  夜になっても明るく、寝る直前までブルーライトを浴びる生活では、就寝時間は自然と遅くなる。一方、朝8時台から始業という企業も多い。睡眠不足はもはや現代人の宿痾(しゅくあ)ともいえ、昼寝を必要とする人は多い。  また在宅勤務の浸透は、日常的に昼寝できる人を大きく増やした。寝具メーカーのコアラスリープジャパンが今年3月に行った調査では、「在宅勤務に伴い新たに習慣化した行為」として28.6%の回答者が「昼寝や仮眠」を挙げている。(編集部・川口穣)※AERA 2021年12月6日号より抜粋
AERA 2021/12/01 09:00
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