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中国の塾産業が“消滅”し大量失業 一方で「早く死んで早く生を得たほうがいい」と政策支持する声も
中国の塾産業が“消滅”し大量失業 一方で「早く死んで早く生を得たほうがいい」と政策支持する声も
モニュメントは「北京五輪まで50日」を示すが、人々の日常に変化はない。北京市はコロナ対策のために、固く門を閉ざす(photo gettyimages)  中国で隆盛を極めた塾業界が、政府からの通達一つで事実上消滅した。塾産業に従事した人々は苦境にあえいでいるが、一方でこの政策を支持する人もいる。AERA 2022年1月24日号の記事を紹介する。 *  *  * 「まるで雪崩だよ。塾産業に関わっていた2千万人がゼロから仕事を探すことになったんだから」  そう話すのは、北京市内の大手学習塾「巨人教育」で5年間、講師をつとめていたという男性(31)だ。  担当は個別授業。夏休みや冬休み、そして週末には、朝8時から時には夜10時まで、1対1で子どもたちを教えた。平日の授業は学校が終わる午後4時以降だが、朝から準備に追われ、授業の後も保護者への対応に時間を割いた。激務と引き換えに、多い時は彼の地元の公立校教師の3倍以上に当たる1万5千元(約27万円)の月給を手にしていた。しかしその生活は、昨年7月に政府が突然公表した、いわゆる学習塾禁止令でひっくり返った。  2021年、中国ではITや芸能など、いくつかの業界を対象に大規模な締め付けや摘発が相次いだ。中国共産党と中国政府が連名で出した、小中学生向けの学習塾を一律非営利団体化し、週末と長期休暇の授業を禁止する通達「宿題と学習塾が義務教育段階の児童・生徒にもたらす負担のさらなる軽減について」は、その最たるものだ。格差解消を目指す習近平(シーチンピン)指導部が掲げたスローガン「共同富裕」の一環と見られているが、これほどの激変を、北京の人々はどう受け止めているのか。 ■1点の差で「1万順位の差」 熾烈な受験戦争で人口減  冒頭の男性が勤務していた巨人教育は、彼の2カ月分の給与を未払いにしたまま、北京市内に100カ所以上あったすべての教室を8月に閉鎖し、同月31日に破綻を宣言。男性は妻とともに、実家のある河北省の田舎町への引っ越しを余儀なくされた。講師を務める学生を勧誘するなど営業部門の社員なら転職先もある。しかし、教師たちは他の業界への転職も一筋縄ではいかない。「教えるのが好き」というこの男性は、地元の公立小学校の教員への道を考えたこともあったが、月給が4千元(約7万円)と低すぎて断念した。 「家族を養うにはとても無理」  目下、公務員試験の勉強中だという。  極端な「市場主義」でどんどん高級化する塾の人気ぶりは、格差やゆがみの象徴でもあった。冒頭の男性が担当していた個別授業の受講料は1カ月に6千元(約10万円)とも言われる。 「あんな塾は閉鎖されて当然」  と息巻くのは、中国版ウーバー「滴滴」の運転手として北京に出稼ぎにきている男性(48)だ。地元で妻と暮らす中学2年生の娘は、大学まで進学させたい。だが、毎月の稼ぎが約7千元(約12万6千円)の男性に、塾通いの費用を捻出することは難しい。  中国の受験戦争は、全国大学共通試験の1点の差が「1万順位の差」と言われる熾烈さだ。義務教育は、日本よりレベルの高い英語力などの「結果」を出している一方で、公立校への投資は少なく、地方都市の教師の給与は北京の警備員並みだ。  塾産業は受験を有利に勝ち抜きたい親子にきめ細かいサービスを提供し、みるみる高級化した。懇切丁寧な1対1の個人指導サービスなら、2時間で1千元(約1万8千円)前後。「名門校の先生が教えてくれる」という口コミの中学生向け補習クラスは、12人のクラスで90分授業10回が6千元(約10万円)と日本以上だ。子どもたちの心身の負担も問題になっていた。  2歳の子どもを育てながらIT企業で働く女性(39)は、いらだちを隠さない。 「もし中国がこれまでやってきた『試験対策教育(応試教育)』をこの期に及んで変えないなら、人間への害は本当に大変なことになるわよ。国からすれば、それは想造力の欠如。ノーベル賞が取れないのはこの教育の土壌のせいだと思う」  2千万人とも言われる大量の失業者を出す一見乱暴なやり方について尋ねると、彼女はのみ込むように一拍置いて、こう答えた。 「改革は必要なの。今までのやり方はもう合っていないんだから淘汰される。だったら早く死んでそのぶん早く生を得たほうがいいわよ」 (AERA 2022年1月24日号より)  一部を犠牲にすることで大多数が「結果」を手にできるなら、バッサリと切り捨てる。大多数の合理性こそが、中国で優先される価値観だ。  人口問題との関係を指摘する声もある。過酷で均一的な競争社会の生きにくさに対する市民の意思は、人口の激減に表れた。中国の合計特殊出生率は、日本を下回る1.3。北京や上海などの大都市だけでなく、儒教的伝統が色濃く残る農村を含めた中国全土の数字としては、信じがたい低さだ。  学習塾禁止令の背後には、政府の産業戦略があると指摘する声もある。  世界各国で、国を凌駕する勢いで巨大化するIT企業。中国は、こうした企業の国営化や国有化を進めており、今回の塾禁止令もその一環ではないか、というのだ。実際、政府はこれまで塾が提供してきたインターネットを通じた家庭教師サービスと同様のサービスを、より安く提供しはじめている。米国で上場する「新東方」や「好未来」などの大手民営塾がとりわけ壊滅的な打撃を受けたことは、中国国内からのデータ流出を嫌い、米国上場企業を排除しようとする動きにも符合する。  数千年変わらぬ古い農村社会の基盤の上に、世界一「圧縮」して成し遂げられた経済成長を重ね、さらに高度のIT社会に向かう中国。積年のゆがみと矛盾を抱えギリギリで巨体を回す中で、民営塾をつぶして国営塾を設立するという前代未聞の荒行は起きた。(ライター・北野ずん(北京))※AERA 2022年1月24日号より抜粋
AERA 2022/01/23 09:00
3時間歩き食料を得る人も コロナ禍で食料配布の列に並ぶ女性が増加
野村昌二 野村昌二
3時間歩き食料を得る人も コロナ禍で食料配布の列に並ぶ女性が増加
都庁前の食料配布の最前列に座っていた30代の女性。自分の力で何とかしたいので、生活保護は受けたくないと話した(photo 編集部・野村昌二)  ホームレス支援の食料配給の現場で、多くの女性を見るようになった。コロナ禍で、女性たちにいったい何が起きているのか。AERA 2022年1月24日号では、政府の生活支援からこぼれ落ちている女性たちの現状を取材した。 *  *  * 「生きるのに必死です」  1月上旬、東京・新宿の都庁前。食料配布の最前列に座っていた30代女性は、つぶやいた。  高校を卒業後、派遣の仕事を続けてきた。しかし昨年5月、新型コロナウイルスによる業績不振を理由に「雇い止め」にあった。姉と一緒に都内のアパートに住んでいるが、姉もコロナ禍で仕事をなくしたので頼れない。家賃と光熱費は、姉と折半し月4万円ほど。貯金はわずかしかない。少しでも節約するため毎週、配給の列に並ぶようになった。情報はSNSで知った。  最近、ようやくスーパーでのパートが見つかったが上司のパワハラがひどく、近く辞めるつもりだ。だが、次の仕事の当てはない。このまま仕事がなかったらどうしよう──。不安ばかりが頭をよぎる。この日は、3時間近くかけ歩いてきたという。 「少しでも切り詰めないと、生きていけなくなります」(女性)  コロナ禍で生活に困窮する人を取材してきて、ある変化に気がついた。公園などホームレス支援の食料配給の場で、多くの女性が並ぶ姿を見るようになったのだ。年代は幅広く、初めて列に並ぶという人も少なくない。 ■支援からこぼれ落ちた  電気代が払えない、食べる物がない……。幼い子どもを連れた母親を見かけたこともあった。コロナ禍の片隅で、女性たちに何が起きているのか。  都庁前の食料配布は、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」と「新宿ごはんプラス」とが共同で毎週土曜日に開催している。もやい理事長の大西連(れん)さんは、コロナ禍以降、明らかに女性の数が増えたと話す。 「コロナ前は毎回100人ほど並び、その中で女性は数人でした。コロナ以降は、毎回350人近い中で女性は50人近くになりました。家族にも地域にも頼れる人がいないなど、国の支援からこぼれ落ちた人たちが多い。国は、困窮者の声を聞いてほしい」  長い列の中に、女子大生(22)がいた。 「親に負担をかけられないので、こういう支援はうれしいです」 東京・池袋の公園で、冬物のジャンパーをもらった50代の女性。コロナ禍で仕事をなくし、ネットカフェで寝泊まりしている(photo 編集部・野村昌二)  都内の私立大学に通う4年生だという。地方から東京に出てきて、友人とルームシェアをしている。生活費は飲食店でのバイトで稼いでいたが、コロナ禍でバイト先が時短営業になり収入は月5万円近く減った。親には学費も出してもらっているので、これ以上は頼れない。少しでも出費を減らさなければと思っていたところ、ツイッターで食料配給を知ったという。  しかし、1人で並ぶにはハードルが高いので、ルームメートを誘った。女子大生は言う。 「めっちゃ、緊張します。1人だと来なかったと思います。でも本当は、現金支給など国がもっと支援してほしいです」  同じ日の夕方。東京都豊島区の東池袋中央公園では、NPO法人「TENOHASI」が炊き出しを実施した。月2回、食料の配給などを行うが、この現場にも、ギリギリのところで生きている女性たちの姿があった。事務局長の清野(せいの)賢司さんは、「異常事態だ」と話す。 「特に国は、家をなくしたり家賃が負担になった人への支援が薄い。日本には大量に空き家があります。その空き家を活用し、住宅の現物支給として貸し出す仕組みが必要です」 ■冬物ジャンパーほしい  列に並び、ネットカフェで寝泊まりしているという50代女性が取材に応じてくれた。  コロナのあおりで仕事を失い家賃を払えなくなり、生活保護を受けるようになった。ネットカフェで暮らすようになったのは1年ほど前から。働きたくても、スマホがないので仕事を見つけるのは難しい。この日は食料の他、冬物のジャンパーをもらった。寒くなったのでどうしてもほしかったのだという。 「本当は部屋を借りたいけど、敷金や礼金を考えると無理です」  今夜も、ネットカフェに寝るのだという。(編集部・野村昌二)※AERA 2022年1月24日号
#新型コロナウイルスウィズコロナ
AERA 2022/01/20 08:00
男の「いつまでもペニスに振り回される」人生 “妻だけED”の理由は?
男の「いつまでもペニスに振り回される」人生 “妻だけED”の理由は?
※写真はイメージです 「妻に迫られても体力気力が追いつかない」「50代なのに、最近は“その気”になれなくなった」。そうお嘆きの男性諸氏の声をよく聞く。まだ若いつもりなのに心も体も思いどおりにならない。そんなときはまず、加齢男性性腺機能低下(LOH)症候群=いわゆる男性更年期を疑ってみる必要がありそうだ。フリーライターの亀山早苗さんがその実態を調べた。 *  *  * 「このままだと夫婦関係が危ないと感じています」  そう話すのはタカヒロさん(53)。最近、急に性欲がなくなり、10歳年下の妻の誘いに応えられないという。 「どうしてもできないんです。妻には疲れているからごめんと言っても、『どうせ私のことを女として見てないんでしょ』と言われ……」  タカヒロさんは性欲だけではなく、集中力ややる気も減少。「男の更年期もあるらしい」との話を聞き、病院へ行くことを考えているという。  女性の更年期はよく知られている。女性ホルモンのエストロゲンが急減し、頭痛や肩こりなどさまざまな症状が表れてくる。閉経前後の10年間、つまり45~55歳くらいまで、人によってはかなり苦しむ。しかもそのころはちょうど子育てが一段落し、我慢していた夫への忍耐も切れかける。だから夫が求めても妻は性的な関係を拒否しがちだ。  ところがその現象、女性ほど激しくはないが男性にも起こりうる。10代後半から20歳くらいをピークとして男性ホルモンであるテストステロンが減り、50~60代の男性がおかれている環境やストレスにともなって心身の不調が出てくるのだ。  LOH症候群の専門家である獨協医科大学埼玉医療センター・泌尿器科の井手久満教授が、特徴的な症状を話してくれた。 「加齢に伴うテストステロンの減少によって起こる症状は、性欲低下、勃起不全(ED)をはじめ、全身の倦怠(けんたい)感、不眠、イライラ、排尿障害、集中力低下など多岐にわたります。しかも50代の男性は、仕事、子どもの問題、住宅ローン、親の介護など多くのストレスを抱えており、それらが重なって抑うつ状態を引き起こすこともあります。総コレステロールや内臓脂肪の増加にも関連するので、心血管系疾患や糖尿病などの危険因子になったりもするのです」 (週刊朝日2022年1月21日号より)  LOH症候群の背景には、さまざまな病気の存在も否定できないのだ。本来、生き物としては20歳くらいまでに子どもを作って、あとは人生の終わりを待つのがベストなのかもしれないが、現代人はそうはいかない。テストステロンが減ってきている中で、仕事や子育てなどの活動をするのだから、無理がかかるのも当然だろう。  さらに、男性と「セックス」の関係は、女性とセックスの関係より複雑だ。つまり男性は「いくつになってもペニスに振り回されている」から。男性が自分の性器を「息子」とよく言うが、息子と言いながらも実際には支配されている。 「それはどうしようもないんですよ。実際、EDが治ると、男性は性に対して自信を持つようになる。自信を持つようになるとQOL(生活の質)が上がるんです。やる気が上がって仕事も充実する。性は生きる活力と同じなんでしょうね。個人差はありますから、60歳であきらめている人もいれば、90歳で性に執着している人もいる。でもやはり後者のほうが元気です」(井手教授)  こんなこともあったとか。 「80歳の男性が『60歳の彼女ができたけど5年以上、勃起していない。彼女に“ふにゃちん”は嫌だと言われた』と相談に来ました」  では、テストステロンを維持するためには、どうしたらいいのだろうか。  日々、ウォーキングなどの運動をして肥満を防ぎ、バランスのいい食事をして、たとえひとりでも勃起・射精をしたほうがいいという。スポーツ観戦なども競争意欲を盛り上げることでテストステロン増加に一役買うようだ。 「テストステロンを注射剤で補充することができます。最近、なんだか心身が不調だと感じたら、気軽に泌尿器科に来ていただきたいです。性欲はあるけどEDという場合には、バイアグラのような薬も処方できますから」(同) ◆性の充実勘違い 夫婦で楽しめず 「一般的に50代以降の男性は、地位が上がり、責任が重くなる一方で体力は落ちてくる。その中で、性に対するスタンスは、人によって3タイプくらいあると思いますね」 ※写真はイメージです  そう話すのは臨床心理士である大妻女子大学の福島哲夫教授だ。一つ目は、衰えて元気がなくなり、ますますセックスレスへの道をたどる人。二つ目は、手早くセックスだけしたがる人。三つ目は時間をかけてめいっぱいセックスを楽しみたい人だという。  衰えて元気がなくなった人は泌尿器科でまずはテストステロンの検査をしてもらおう。ただ、問題なのは、性欲も勃起力もあるのに手早くセックスを求める人だ。福島教授が説明する。 「こんなケースがありました。50代で、子育てが一段落した女性が寂しさから、夫に『したい』と言ってみた。夫は会社経営者で夜の街へも遊びに行くタイプ。妻の誘いに応じたものの、前戯も何もなく、いきなり挿入してきたそうなんです。妻はそれでますます傷ついてしまった。夫は妻を大事に思っていないわけではないけど、めんどうなことはしたくないんでしょうね。バリバリ仕事をしている人にありがちです」  女性から見れば、性の充実を勘違いしている男性。これでは夫婦の性を楽しむことはできない。  一方で「妻のときだけED」というタイプが出てくるのもこの年代。  ひとり息子が巣立ったというハヤトさん(56)は、「妻としているときに何度か萎えてしまい、妻に『できないのなら誘わないでよ』と言われました。それ以来、怖くて誘えないし、妻ではできなくなってしまった。でもこっそり風俗に行ったりはしているんです」。  ふたりきりになったら、妻とゆっくり性についても楽しみたいと思っていたが、妻への恐怖感が先立ってしまうという。  福島教授は言う。 「夫のDV(ドメスティックバイオレンス)が問題になっていますが、妻から夫へのDVや暴言も案外多いんです。男性たちは妻の言いなりで対等な関係が築けていない。いずれにしても50代からの性のすれ違い以前に、人間性のすれ違いを考えないと夫婦は破綻(はたん)します」  マンネリになるのを避ける工夫も必要だ。 ※写真はイメージです 「年齢を問わず、夫婦の寝室を別にすることを勧めています。特に年を重ねると、エアコンの温度が合わないとか、いびきで眠れないとかいろいろと問題が出てくる。ひとりでゆっくり熟睡したほうが健康にもいい。それでお互いの気持ちが一致したときに訪ねていく形にしたほうがちょっとエロチックじゃないですか」(福島教授)  EDで泌尿器科にかかり、バイアグラなどの薬を使って夫婦の性を回復したというショウタさん(55)は、「うちは以前、セックスレスで常に重い雰囲気が漂っていたんです。でも医師にバイアグラを処方してもらって2年ぶりにできたとき、妻が涙を流しました。僕もうれしかった。できるとわかると気持ちに余裕が出る。今は薬なしでいけることもあります」。  それでももちろん、年齢的に「もうしなくていい」と思う人もいるだろう。するかしないかは個人の自由。だが、相手がいることを忘れてはいけない。糖尿病もあってEDになり、自分はもういいと思っていたというのはヨシロウさん(62)だ。 「6歳年下の妻に聞いてみたら、彼女はしたいという。じゃあ、どうしようかと。抱き合うだけでは満足できない、中途半端なのは嫌だと妻は言う。だったら手も舌もあるのだから妻を感じさせようと思ったんです。今はそれだけではなくて、妻の要望があって通販で買った“プレジャーグッズ”を使っています。セックスってペニスの挿入だけじゃないし、グッズをうまく使いこなしてこそいい男と妻に叱咤激励されて。妻が喜ぶならとがんばっています」  というのもかつて浮気がバレて妻を悲しませたことがあるからだ。それ以来、贖罪(しょくざい)の気持ちから妻を幸せにすると決めた。たとえ自分が、もうしなくていいと思っても、妻が心身共に満足したいなら、その要望に寄り添っていくつもりだという。 ◆セックス卒業で相性のよさ発見  長年連れ添って、ふたりともセックスはいらないということになっても、夫婦関係は続いていく。セックスの関係から卒業すると、男女の生々しさがなくなるからだろうか、お互いの相性のよさを改めて発見できたという人もいる。 「うちは同い年なんですが、60代に入ってからはほとんどセックスをしていません。あるとき何かの話から、『今後のことはわからないけど、今はしなくてもいいね』となりました。そうしたらなんとなくすっきりして。それからはふたりでよく散歩に行ったり、映画を見に行ったり、一緒に出かけることが増えました」  そう話すのはヒデユキさん(66)。夫婦ともまだ仕事をしており、帰りに待ち合わせておしゃれなバーで一杯やることもあるという。 「今はいちばんの親友みたいな感じ。話していて飽きない。僕たち『夫婦っぽくない』とよく言われるんですが、それはお互いに相手を認めながら、適度な距離を保っているからかもしれません。外で待ち合わせると、妻は大人の素敵な女性だなと思います」  夫婦で残りの人生をどう豊かに歩んでいくか。そのためにセックスが必要かどうか。その距離感も含めて関係性を今こそ話し合い、すれ違いのまま人生を終えないようにしたいものだ。※週刊朝日  2022年1月21日号
セックス夫婦
週刊朝日 2022/01/18 16:00
上田慎一郎が語る「カメ止め」旋風「『見たことある?』って聞かれました」
上田慎一郎が語る「カメ止め」旋風「『見たことある?』って聞かれました」
上田慎一郎さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・松永卓也) 「カメラを止めるな!」で一躍脚光を浴びた上田慎一郎監督。作家・林真理子さんとの対談では、独学で監督を目指した「カメ止め」以前のこと、社会現象を自覚したヒット後のことなど盛りだくさん。 【前編/上田慎一郎・最新作は男性器が飛ぶ? 制作のきっかけは“妻の言葉”】より続く *  *  * 林:私、「カメ止め」は映画館で見たんですけど、前の上映回が終わって人がぞろぞろ出てきたら、向こうから「ぴあ」の社長(矢内廣氏)が来たんです。「おもしろかったですか?」って聞いたら、「いやあ、おもしろかったよ」とおっしゃるので、こういうのが社会現象ってことなんだな、と思いましたよ。映画館で知り合いとすれ違うってめったにないし。 上田:僕、「『カメ止め』って映画、見たことあります?」って聞かれたことありますよ。 林:えっ、そんなことが。 上田:「あります!」って言いましたけど、「これが社会現象なんやな」と思いました(笑)。 林:それはすごくうれしいですよね。最高ですよ。私もそんな目にあってみたいな。 上田:僕、子どもがいるんですけど、壁に「カメ止め」のキーホルダーがかかってるのをベビーシッターさんが見て、「上田さん、『カメ止め』好きなんですか? 私、3回ぐらい見に行きました」って言われて、「僕がつくったんです。ここで撮影したんです」って(笑)。 林:あれ、ご自分のおうちなんですか。ちょっとショボい1LDKぐらいの……。 上田:そうです。ショボい1LDKです(笑)。 林:今は引っ越しました? 上田:引っ越しました。都心のほうへ。 林:よかったですね(笑)。いまもちゃんと結婚指輪をしていて、すてきです。 上田:妻も映画監督をやっていて、「カメ止め」のときはポスターなんかをつくってくれました。 林:そうなんですか。そういえば、「あの主演女優さんが上田監督の奥さんだよ」って、間違えてる人がけっこういましたよ、当時。 上田慎一郎 (撮影/写真部・松永卓也) 上田:虚実がないまぜになっているところがあって、監督の役をやった濱津(隆之)さんを本当の監督だと思ってる人が、けっこういるんですよ。映画を見終わったあと、濱津さんに「監督、おもしろかったです」みたいに言う人がいて(笑)。 林:「俳優さんにギャラを払えたのがいちばんうれしくて、みんなが人気者になったのもうれしい」とおっしゃってましたね。 上田:うれしいですね、それは。 林:どんぐりさん(竹原芳子)という方、すごいじゃないですか。私、「カメ止め」でどんぐりさんを見たときに、すごいインパクトだな、と思いました。あの方、今や引っ張りだこで、ドラマ「ルパンの娘」でもおばあちゃん役で出てましたよね。 上田:そうなんですよ。どんぐりさん、ほんとにパワフルな方で、50歳を過ぎてから俳優を始めたんです。裁判所の事務をやっていて、NSC(吉本総合芸能学院)という吉本のお笑いの養成所に入って、そこに何年かいて、それから俳優を志したそうで、映像演技はあれが初めてだったんです。 林:そういう人を見つけてくるところがすごいですよ。上田監督は昔から映画を撮ろうと決めてたんですか。 上田:中学校のころからハンディーカメラで映画を撮ってました。 林:スピルバーグみたいじゃないですか(笑)。 上田:放課後、友達と集まって、その場の思いつきで毎日撮っていたような感じです。撮るのが楽しいから撮ってただけで、映画監督になろうとは思ってなかったんですけど、高校に進学するときにはじめて、職業として映画監督を意識しました。 林:日芸(日大芸術学部)とか、日本映画学校(現・日本映画大学)とかに行こうとは思わなかったんですか。 上田:僕、お笑いがすごく好きだったので、将来は映画監督かお笑い芸人かで迷ったんですよ。高校のときは演劇をやっていて、近畿で2位ぐらいになったんです。それで大学からオファーをいただいて。 林:あ、演劇もオファーがあるんですね。スポーツだけじゃなくて。 上田:「うちの大学で劇団をやらないか」というのが来たんです。でも、生意気だったんで、ハリウッドに行こうと思ってそれを蹴って、1年間英語を学んでからハリウッドに行こうと思って英語の学校に行ったんです。でも、そこでなじめなくて中退して、そこからは完全に独学で映画を撮るようになりました。 林:独学ってどうするんですか。カット割りをメモしながら映画を見てたって、誰かから聞いたことがありますけど。 上田:とにかく浴びるように見て撮って、見て撮って、体で学んでいった感じです。そして20代半ばで初めて映画制作団体に加入して、大きいカメラでの撮り方とか、音声の録り方とかを学んだんですよ。でも、ここでも生意気なところが出ちゃって、「自分でできる」と思って、自分の制作団体を立ち上げたんです。そこで10本ぐらい自主映画をつくったあとに「カメ止め」をつくったという感じですね。 林:失礼だけど、その間の生活はどうしてたんですか。 上田:バイトをしてました。長かったのは携帯電話ショップの店員で、最後はその店の副店長になりました。 林:そうなんだ。けっこう社会生活に参加してるんですね(笑)。 上田:そのあと保険のコールセンターの深夜受付をやったんですけど、そこは役者とか歌手とかのタマゴが多かったので、自主映画の主題歌を仲間につくってもらったりしてました。 林:へぇ~、おもしろいですね。顔が見えないところに、俳優のタマゴ、歌手のタマゴ、そして監督のタマゴがいるんですね(笑)。 上田:今でもつながってる人が多いです。そこは時給がすごくよくて、月40万ぐらい稼いでましたね。一時、講演会とか結婚式を撮って、編集したりする仕事をしてたんですけど、それはすごくしんどくて。自分が好きなものだけ撮って、好きなように編集すればいいわけじゃないですからね。だから、ちゃんとバイトして、生活の地盤があったうえで、自分の好きなものだけを撮るほうが性に合ってるなと思って。 林:そのときはもう結婚されてたんですか。 上田:えっと、結婚はいつだったか……。5、6年前かな。 林:忘れちゃった? 奥さんに怒られちゃいますよ(笑)。いずれにしても「カメ止め」を撮る前ですよね。家庭を持ったタイミングって、売れないお笑い芸人とか役者の人が夢をあきらめて、ふつうの会社に入るってパターン、よく聞きますけど、なんで監督は家庭を持っても「映画をやるぞ!」と思えたんですか。 上田:妻も映画監督だったことは大きいですね。それと、僕は妻と出会ってから、いろんなことがうまくいき始めたんですよ。だから、妻には感謝というか。 林:それはよかったですね。いつまでも仲良くして、これからも見た人が度肝を抜かれるようなおもしろい映画をたくさんつくってください。 上田:はい、頑張ります! (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 上田慎一郎(うえだ・しんいちろう)/1984年、滋賀県生まれ。中学生から自主映画を撮り始め、高校卒業後も映画を独学。2009年、映画制作団体を結成、代表を務める。18年、劇場用長編映画デビュー作「カメラを止めるな!」は興行収入31億円を突破、国内外の映画賞を多数受賞した。その後も「イソップの思うツボ」(19年、共同監督)、「スペシャルアクターズ」(19年)、「100日間生きたワニ」(21年、共同監督)など、話題作を監督。1月14日から、脚本・監督を務める映画「ポプラン」が、全国ロードショー。※週刊朝日  2022年1月21日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/01/16 11:30
ツイッター・デビューから1カ月で大人気の泉明石市長が語る「これはあかん、失言や」
今西憲之 今西憲之
ツイッター・デビューから1カ月で大人気の泉明石市長が語る「これはあかん、失言や」
明石市の泉房穂市長(撮影・今西憲之) 「今まで家族や役所からツイッタをして失言、炎上したらと羽交い絞め、止められていたんです。こうしてはじめてみると、市政運営をする上で勉強、参考になることも多々あり、よかったです。今のところ大炎上はありませんね、プチ炎上くらいか」  こう苦笑しながら話すのは、兵庫県明石市の泉房穂市長だ。  子どもや高齢者など社会弱者に寄り添った政策で、全国から注目を浴び、中核都市人口増加率全国1位、全国戻りたい街ランキングでは全国1位と結果も出している。  知事や首相、相手がどんな大物でも、舌鋒鋭く迫ってきた泉氏だが、SNSで自ら発信することはなかった。昨年12月21日から突然、はじめたのがツイッターだ。  アカウントを開設し、1カ月にも満たないうちに、泉氏のフォロワーは8万5千を超えた。2013年からツイッターをはじめている立憲民主党の泉健太代表のフォロワーは2万3千。(明石市長の)泉氏の方が3倍近く多いのとツイッターなどで話題になった。 「正直、まだツイッターの仕組みがわかっていないのですが、注目をいただいているのはうれしい。フォロワーの皆様には感謝です。8万5千が多いか少ないか、よくわかりません。しかし、弁護士時代の司法修習生同期の橋下くん(橋下徹元大阪府知事)は、270万でしょう。それとくらべたら全然です。まあ、芸能人ではないので、そんな気にはしてませんけどね」  なぜ、ツイッターをはじめたのか。理由を聞いてみると泉氏は以下の3点をあげた。 1 市長としての説明責任 2 明石市の政策を広く知ってほしい 3 自分も楽しみたい  1~3の理由を泉氏はこう説明する。 「1についてですが、市長としていくら説明してもすべて市民に真意、詳細な点まで届けることは難しい。その点、ツイッターは短くコンパクトに訴えられる。スマートフォンで手軽に見ることもできます。ツイートすると、コメントがつき、すべて読みます。市民の反応、意見もあるので参考にできます。2は、ツイッターをはじめた日、旧優生保護法で不妊や中絶の手術を強いられた市民とその配偶者を支援する条例を全国で初めて可決した。これを広く伝えたいという思いがありました」   きつねうどんを食べる泉市長(撮影・今西憲之)  明石市では子どもや高齢者の政策で全国初というものが数多くあるという。 「明石市でなくともできることばかりです。例えば、18歳以下の子供に配られる10万円の特別給付金。離婚して家庭で実際に子育てしているひとり親が受け取れず、元配偶者に渡ってしまう。または二重取りになる可能性があることがわかった。それを防ぐために、離婚した家庭にお知らせを送付し、対応したとツイートすると、徳島市や愛知県一宮市も追随してくれました。明石市は国の定める所得制限も撤廃したところ、これもたくさん支持するお声をいただきました。ツイッターの発信力を実感しましたね」  3については、日常のトピックや昔話をツイートして自分が楽しむのだという。 「先日も東大時代に駒場寮にいた思い出話をツイートすると、昔の仲間がいいねをしてくれました。あいつ元気なんや、よかったなと」  最初はツイートを自ら投稿せず、秘書にテキストデータを送って、チェックを受けていたそうだ。その背景には、2019年2月の「大炎上」騒動がある。  泉氏が部下に「火付けてこい」などと叱責している音声が流出し、ツイッターなどで拡散し、パワハラが問題になり市長辞任に追い込まれた。その後、同年3月の出直し選挙で当選した。 「最初はツイートの方法もよくわからず、秘書らがチェックし、炎上しないように気をつけていた。ツイートの反応がいいと、見ていると楽しいし、市政にも役立つことが多い。リツイートは必ずしも明石市民ではないことも理解しています。ツイッターを始めた週末の12月25日は土曜日で秘書らも休みだったので、やり方を教えてもらい、自分でツイートした。すると、ますます面白い。それ以来、自力でやっています」  火付けてこいなど過去の失言が再燃する危惧もあったが、杞憂だったという。市役所にツイッターに関する苦情もなく、激励がくることもある。 「おかげでまだ妻には止められていません。以前、ある知事さんが『政治家は揚げ足をとられないようにすべきだ』とお話されていた。炎上しないように、丁寧にやっています。朝の仕事前はランチのネタとか日常のトピック、昼間は市政に関する内容、夜は昔話、故郷・明石市のことなどを念頭に書いています。1日15前後、ツイートできるようにと心がけています」  最近のツイートで注目されたのが、泉氏のランチメニューだ。市役所の食堂の明細を公開し、連日、きつねうどんを食べているという内容だ。  1月11日のツイートにはきつねうどんの写真とともに<ツイッターを始めて22日目の朝(1月11日)。朝食の前なのに、すでに昼食のことを考えている自分がいる。#明石市 #明石市長 #きつねうどん #きつねラーメン>と書き込むと【いいね】が3500以上もついた。 「朝、市役所に出てきて仕事をはじめる。昼くらいはちょうどエンジン全開です。昼ご飯を何にしようかなどと考えるより仕事。そこでいつしかヘルシーなきつねうどんが定番になりました。まれにスパイスをきかせてと、カレーライスを食べることもあります。12時になると市長室の机にきつねうどんが置かれているのですが、たまに仕事に没頭しすぎて、麺が伸びてしまいってこともありますわ」  取材した日、記者がランチに同行すると、食堂できつねうどんが出てきた。3分ほどで泉氏はたいらげた。 「おいしいですよ、サッと食べれるのもいい」  ツイッターなどSNSは重要な選挙でも大きなツールとなっている。泉氏のツイッターが注目を集める中、今夏の参院選挙に泉氏が転身して出馬するのではないかとの噂も地元では広がっている。  1月8日に泉氏も<神戸市長選の記事に目が止まる。明石生まれ・明石育ちの私だが、国会議員時代の選挙区は神戸市だった。そういう事情もあり、これまでに二度(2005年、2009年)、政党や市民団体から神戸市長選への出馬要請を受けたことがある。即答でお断りしたが、神戸のことは、やはり気になってしまう。>と書いたことで、憶測が広がっている。 「よく市長から転出して赤じゅうたん踏みたいっていう方もいますわ。私はすでに衆院議員を1期やらせていただいているので、そんな気持ちはないです。明石市長として頑張ります。しかし、他の国のように大統領制度があれば…。日本は大統領制ではない。あ、これはあかん、失言や。明石市長として市民目線、市民感覚の政治をやっていきます」 (AERAdot.編集部 今西憲之)  
明石市長
dot. 2022/01/15 10:00
コロナ禍で地元志向の就職が増加 一方で地方の多様な雇用の機会創出が喫緊の課題に
井上有紀子 井上有紀子
コロナ禍で地元志向の就職が増加 一方で地方の多様な雇用の機会創出が喫緊の課題に
コロナ禍の2020年、千葉興業銀行はオンラインでインターンシップを開き、相続対策のニーズを考えるグループワークなどをした(写真:千葉興業銀行提供)  コロナ禍で、地元や地方での就職に関心を持つ学生が増えている。オンライン就活で、地方企業にも気軽に応募できるようになったからだ。ただ、東京など大都市と比べてキャリア選択の幅が狭いという課題が残る。AERA 2022年1月17日号の記事を紹介する。 *  *  *  北陸の大学3年の女性(21)は昨年11月、就職活動の予定をびっしりと詰めていた。朝から東京の会社説明会に出席し、10分間の休憩を挟んで北陸のインターンシップ先と面談。いずれもオンラインを活用した。アルバイトがある夜まで、パソコンの前にかじりついている日もある。 「地元の首都圏で就職するつもりですが、北陸の知らない企業でも面白そうなら気軽にオンラインイベントに参加します」 「就職の明治」として名高い明治大学・就職キャリア支援センターの原口善信さんも、例年より地方への関心が高いと話す。 「2020年の学内Uターンガイダンスには、前年の2倍以上が参加しました。Uターンへの意識は高まっていると思います。地方企業で内定が目立つのは、地銀と有名メーカーです」  オンライン就活が主流になったコロナ禍で、地方企業と学生の出合いが増えている。マイナビキャリアリサーチラボ・主任研究員の東郷こずえさんは、22年3月卒業予定の大学生・大学院生5910人に調査した結果について話す。 「地元就職の希望者が5年ぶりに増加に転じました。ここ数年、学生にとっては売り手市場で地元で就職する意識が薄れていました」 ■他エリアの応募者増加  マイナビの調査(3440社)によると、37.7%の企業がコロナ禍前と比較して「他エリア在住の応募者が増えた」と回答し、「同じエリア在住が増えた」(計14.1%)を大幅に上回った。前出の22年卒者への調査では、「働く場所が自由になった場合」と仮定すると「東京に住みたい」学生は12.7%で、前年比2.4ポイント減。一方で、「地方に住みたい」は57.0%で前年比2.2ポイント増えた。 AERA 2022年1月17日号より  千葉興業銀行(千葉市)は21年、マイナビ・日経新聞の就職企業人気ランキング関東甲信越エリア版で、20年の63位から26位に大幅アップした。人事部の加藤陽介さんは、コロナ禍前は採用に苦戦していたと明かす。 「以前の就職合同説明会では、呼び込みをして数百人の学生にブースに来てもらうのがやっと。なかなか見てもらえず、エントリーは減少傾向でした」  ところが、コロナ禍で説明会やインターンシップをオンラインで開くと、難関大の学生が増えた。哲学や理工系といった今まで接点のなかった学部・学科の学生も集まるようになった。 「ちょっとのぞいてみようと、インターンシップには2倍以上の学生が参加しました。地元出身者と、隣接する東京や茨城の学生が主でした。結果として、幅広い人材を採用できました」 ■地方で知名度を上げる  前出の就職企業人気ランキング東北版で2年連続1位の生活用品・家電メーカー、アイリスオーヤマ(仙台市)も、「地元回帰」の波に乗る。採用担当の佐藤祥平さんはこう語る。 「生活用品だけでなく、LEDライトや食品など幅広い事業をしており、18年から採用人数を増やし始めました。CMを打って知名度が上がり、応募者が格段に増えました」  東北で知名度を上げることが、優秀な人材の獲得の近道になる。 「関東・関西は人口が多いだけに優秀な学生がいますが、各社と競合になります。一方、東北出身の優秀な学生が地元に戻りたいと思ったら、人気ランキング上位の弊社にエントリーしてくれる可能性が高いのです」  ただ、新たな悩みも生じている。人材紹介業「DYM」の奈良智笑さん(24)が説明する。 「オンラインで企業と接点が増え、学生の内定取得率は上がっていると考えられますが、内定辞退も増えたとよく聞きます」  マイナビの調査(2279社)によると、「辞退の増加」と回答した企業は41.3%で、前年比15.9ポイント増だ。 アイリスオーヤマもオンラインで実施した(写真:アイリスオーヤマ提供) 「複数の内定はあるけど、どこに就職をするか決め手がないまま、就活を続ける人が多いのが現状です」(奈良さん)  雇用に詳しい大分大学の阿部誠名誉教授はこう語る。 「高度成長期以来、若者が働き先を求めて地方から都市部に出ていき、政府も地方の自治体も地方に雇用の場を作ろうと努めてきました。その結果、企業立地が進み、雇用機会は増加しました。福祉・医療関係の雇用も増えました。しかし、キャリア選択の幅が狭いのは変わっていません。ITなど専門的な仕事は、地方では限りがあります。仕事の多様性に乏しく、それが地域間格差につながります」  大都市で雇用情勢が悪いと、地元志向になるという。 「1990年代以降、地元志向が言われていますが、これは都市でも非正規雇用が増え就職が難しい状況を受けて都市へのあこがれが小さくなったためと言えます。今の状況を放置すれば、地域間格差は拡大するばかり。地方でも望むキャリアを展開できるように多様な雇用の機会を増やしていくことが重要です」 (編集部・井上有紀子)※AERA 2022年1月17日号
就活新型コロナウイルス
AERA 2022/01/12 08:00
『ドーンFM』ザ・ウィークエンド(Album Review)
『ドーンFM』ザ・ウィークエンド(Album Review)
『ドーンFM』ザ・ウィークエンド(Album Review)  2020年3月にリリースした前作『アフター・アワーズ』は、翌4月に初登場から4週連続で首位を獲得し、「Heartless」(2019年12月)、「Blinding Lights」(2020年4月)、「Save Your Tears」(2021年5月)の収録曲3曲が、米ビルボード・ソング・チャート“Hot 100”で3年連続1位を獲得するという史上2人目の快挙を達成した。中でも、「Blinding Lights」は同チャートでTOP10滞在記録を歴代最長の57週に更新し、2020年の年間チャートで首位、2021年は3位にランクインする史上最高のモンスター・ヒットとなったのも記憶に新しい。  本作『ドーンFM』は、その『アフター・アワーズ』が大ヒットしている最中に制作を開始したという自身5作目のスタジオ・アルバム。 新型コロナウイルスの終息にかけて「このパンデミックが終わるまでに次のアルバムをリリースする可能性がある」と示唆し、そのタイトルを「夜明け」を意味する『ザ・ドーン(The Dawn)』と発表していたが、最終的には“Dawn FM”と名付けられた。後述にもあるが「FM」の意味についてはアルバムをお聴き頂ければ理解できるだろう。  プロジェクトは、昨年8月にリリースした1stシングル「Take My Breath」に始まり、10月にはラジオ番組でアルバムが完成したと発表。翌11月のインタビューでは本作のテーマについて述べ、年明けには自身のSNSでリリースとトラックリストを告知した。直前に公開したティーザー動画では、完成に至るまでのプロセスやコンセプト、年老いた自身を画いたカバー・アートなどがお目見えする。  スペイシーなデジタル・サウンドをバックに「あなたは今、ドーンFMを聴いています」というナレーションではじまるタイトル曲「Dawn FM」は、長年ヒット曲に携わってきたマックス・マーティンとオスカー・ホルター、そしてワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(OPN)がプロデュースを担当。サイケデリックなラジオ・ステーションは、そのOPNが一昨年の秋に発表したアルバム『マジック・ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー』とも類似する。実質上のオープニング曲である次の「Gasoline」も3者によるプロデュースで、前作に続き80年代直系のUK(風)テクノがたのしめる。曲調にフィットしたラップを絡めたボーカル・ワークもいい。  続いて3曲目の「How Do I Make You Love Me?」は、スウェディッシュ・ハウス・マフィアが手掛けたプログレッシブ・ハウス。フロア映えするサウンド・プロダクションは、彼らの出身地であるスウェーデンをはじめヨーロッパ諸国で受けが良さそうだ。スウェディッシュ・ハウス・マフィアとは、昨年10月にリリースした「Moth To A Flame」で共演したばかりで、人間の欲望をコンセプトとしたミステリアスなMVも話題となり、オーストラリア(8位)や本国スウェーデン(5位)などでTOP10入りするスマッシュ・ヒットを記録した。本作では、2ndシングルとしてカットした後述の「Sacrifice」でも共作している。  「How Do I Make You Love Me?」のアウトロから間髪入れずにはじまる「Take My Breath」は、イントロ~インタールード~アウトロがフロア使用のロング・バージョンとなっている。キャッチ―なサビ、毒々しさを緩和させたシンプルな歌詞、スリリングな展開の煌びやかなMV……と文句のない出来栄えだが、前作からの流れからすると若干マンネリ感否めず、チャート・アクションも伸び悩んだ印象。しかし、アルバムの趨勢からすると類稀な存在感を放っている。オープニングから途切れることなく続いたシンセウェーブの波はこの曲で完結し、新章「Sacrifice」へ……。  「Sacrifice」は、『アフター・アワーズ』より前々作『スターボーイ』(2016年)路線のディスコ・ファンクで、本作にも「I Feel It Coming」で共演したダフト・パンクや故マイケル・ジャクソンを彷彿させるパッセージが見受けられる。“80年代初期”をニオわせるのは、アリシア・マイヤーズのディスコ・クラシック「I Want to Thank You」(1981年)をサンプリングしているからだろう。フロアで倒れたザ・ウィークエンドがトラップに引きずり込まれる「Take My Breath」の続編となるミュージック・ビデオも完成度高く、本作のハイライトともいうべき活況を呈した。  本作のハイライトといえば、レジェンドのキャリアを振り返ったクインシー・ジョーンズによるインタールード「A Tale By Quincy」~「Out of Time」もそのひとつ。「Out of Time」は、J-POPが誇る亜蘭知子の3rdアルバム『浮遊空間』(1983年)に収録された「Midnight Pretenders」を下敷きにした風通し良いミディアムで、マイケル・ジャクソンの名作「Human Nature」や同曲を手掛けたTOTO等、80年代AORの真骨頂が伺われる。昨今、竹内まりやの「PLASTIC LOVE」(1984年)をはじめ、海外で日本のシティ・ポップがフィーバーを起こしているが、ザ・ウィークエンドがその波に乗ったことで、さらに注目度が高まる可能性も……?この曲がシングル・カットされチャートにトップに立ったら、J-POPでは故坂本九の「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)」(1963年)以来の快挙となる。なお、同曲を手掛けたのは、後にTUBEやZARDの仕事でヒットを連発する織田哲郎だ。  ラジオのナレーションで繋ぐ次曲「Here We Go… Again」も穏やかな空気感のメロウ・チューンで、中盤のこの2曲はアルバムの“休息”的な役割を果たしている。ゲストとして参加したのは、ステージネームを本名に戻すと公言したことが話題となっているタイラー・ザ・クリエイター、そしてキーボードとバックコーラスを務めたザ・ビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストン。ソングライターには、リアーナやシアラ、クリス・ブラウンのヒットを手掛けるブライアン・ケネディもクレジットされている。ザ・ウィークエンドは、これまでのキャリアをタイトルの如く“前向き”に捉え、無理にねじ込んだ感のない、タイラーとの相性良いコラボレーションを披露した。  続いては、デビュー作『キッスランド』(2013年)からすべてのアルバムに携わっている同カナダの奇才、DaHealaプロデュースの「Best Friends」。同曲からテイストが一変し、往年のザ・ウィークエンドらしい不穏な気配を漂わすダーク・ウェーブが包み込む。ここでいうベスト・フレンズは、真のベストではない恨み節……か?  この曲から繋ぐミディアム「Is There Someone Else?」~抑揚の無さが刹那的な「Starry Eyes」も、初期の作風に近い。この2曲は、アリアナ・グランデの主要プロデューサーとして活躍しているトミー・ブラウンとの共作で、個人的には彼女に匹敵する相性の良さをみせたと賞賛したい。ここで「Best Friends」からの局(流れ)が完結し、天使の毒々しい真相を番組仕立てで訴える長編インタールード「Every Angel Is Terrifying」へ……。  テクノをバックにお届けする「Every Angel Is Terrifying」に続くのは、『スターボーイ』の人気曲「Die For You」の歌詞を一部使用した「Don't Break My Heart」。スタイリッシュなサウンドは、80年代中期のエレクトロ・ファンクっぽくもあり、00年代初期のUKソウルにも聴こえる。また、2013年にヒットしたドレイクの「Hold On, We’re Going Home」を彷彿させるステップもあり、幅広い年代に受け入れられそうな傑作だ。  この曲もすばらしいが、リル・ウェインをフィーチャーしたカルヴィン・ハリス作の次曲「I Heard You're Married」も、夜のネオンが映えるお洒落で爽快なスムース&メロウで、甲乙つけがたい良曲が続く。結婚~離婚を経ても様々なゴシップにまみれているリル・ウェインだが、この曲ではその真意に迫る一面も……?  実質上のエンディング曲「Less Than Zero」が、またいい。30~40年前の映画やゲームのエンディングが蘇るノスタルジックなシンセ・ポップで、甘く軽快なメロディー・ライン 、重奏するハーモニー、デジタル・サウンドからアコースティックに切り替えて幕を閉じる演出等、どの世代が聴いても嗜好が違えど「いい曲」だと頷かせる説得力がある。ラストは、同郷カナダを代表する俳優・コメディアンのジム・キャリーによるアウトロ「Phantom Regret by Jim」で、パンデミックと番組の終わりを告げ、50分強のストーリー仕立てなラジオは終了する。  過去4作、特に前作『アフター・アワーズ』は“闇”が深かった印象だが、本作はタイトルにもあるように“夜明け”が訪れたようなう感覚がある。パンデミックの影響か、年齢的なものか、理由は定かでないが、これまでとはひと味違うザ・ウィークエンドの世界観が堪能できるだろう。インタビューでも話していたように、世界と自身の平和を見出すためのファースト・ステップだ。  サウンドは、前述にもあるプリンスからマイケル・ジャクソン、ダフト・パンクにケンドリック・ラマー、テーム・インパラなど、年代・ジャンルを超越した斬新なアイデアに満ちていて、且つ過去の作品を愛聴する往年のファンも肩を落とすことのない仕上がりとなっている。それは、悲惨さや自己嫌悪感を緩和させた解放感のある歌詞もとい。  『アフター・アワーズ』がリリースされてからの約2年間は、毎日数十万人が病で倒れ、悪いニュースが飛び交い、世界中が淀んだような雰囲気と恐怖に襲われたが、本作『ドーンFM』はその夜明けが訪れ、新たなスタートを切った象徴となるだろう。   サウンドは、前述にもあるプリンスからマイケル・ジャクソン、ダフト・パンクにケンドリック・ラマー、テーム・インパラなど、年代・ジャンルを超越した斬新なアイデアに満ちていて、且つ過去の作品を愛聴する往年のファンも肩を落とすことのない仕上がりとなっている。それは、悲惨さや自己嫌悪感を緩和させた解放感のある歌詞もとい。 Text: 本家 一成 
billboardnews 2022/01/11 00:00
「父は弱かったんだ」 人生のどん底を味わった元ひきこもりの非常勤講師男性27歳、過去を許す
「父は弱かったんだ」 人生のどん底を味わった元ひきこもりの非常勤講師男性27歳、過去を許す
写真はイメージです(Getty Images)  不登校やひきこもりが社会問題になっている。その原因やきっかけに「家族との関係」を挙げる人は多い。子どもの将来を思っての親の言動が、ときには子どもを追い詰めることもある。不登校やひきこもりは、家庭内暴力に発展することも多い。立ち直るための大きなカギは、家族との関係改善だ。第三者に支援を求めることで、家族との関係を立て直し、社会復帰を果たすことができたという元ひきこもりの男性を取材した。 *  *  *  福田大和さん(仮名、27歳)は、中学校の保健体育の非常勤講師だ。  昔から運動は得意だった。子どもと関わることも好きだし、今の仕事にはやりがいを感じられる。来年は教員採用試験を受けて、正規の教員になることを目指している。  健康的で明るく、社交的な青年に見える大和さんだが、実は学生時代、何度も不登校になり、家にひきこもった経験がある。さらには家庭内暴力の末、警察沙汰になったこともあるという。 ◆優等生でサッカー部のエースの変貌  大和さんが初めて不登校になったのは、高校二年生の秋だ。 「こんなはずじゃない。何か違う」  あるとき、自分の中に黒い雲のようなものが広がっていくようで、苦しくなり、耐えられなくなった。  当時、大和さんは県内でもトップクラスの進学校に通っていた。成績優秀で、国立大学を目指して勉強し、海外留学も予定していた。  家庭環境にも恵まれていた。有名大学出身で一流企業に勤める父と専業主婦の母。両親は教育費を惜しまず、大和さんも小学校のときから常に優等生で、学級委員も務め、サッカー部ではエースだった。  はたから見れば、陽の当たる道を歩んできて、これからも道は拓かれている、順風満帆な人生だった。  しかしあるとき、大和さんはその道を「これは俺の人生じゃない」と思った。 「親に押しつけられた人生だ」  そう思い始めてからは、何をしていても落ち着かない。教科書や本を読んでも、文字が頭に入らない。夜も眠れない。ついに学校に行けなくなった。      写真はイメージです(Getty Images)  昼夜逆転の生活になり、起きているときは布団の中でゲームをし続けた。食事は、母親が部屋まで運んでくれた。たくさんの友達が心配してメールをくれたが、返すことはなかった。  1カ月後には精神科に通うようになり、さまざまな薬を処方された。副作用で気力がなくなり、頭が回らなくなった。  結局、高校を休学して一年4カ月間自宅に引きこもったのち、通信制の学校に編入。しかしそこでも、しばらく通っては数カ月休学する、ということをくり返した。そのころは、他人に対して心を閉ざし、常に不安を抱えていた。  大和さんの変貌ぶりに、母親は「どうして」と泣いた。宗教に傾倒し、大和さんにも「お祈り」や「瞑想」を強要するようになったという。一方、父親はただ、不思議そうに大和さんを見ていただけだった。 ◆父は何を考えているかわからない  父親は、大和さんが小さいころから、忙しすぎてほとんど家にいなかったという。あまり顔を合わせることもなく、大和さんにとっては何を考えているかわからない「怖い」存在だった。そんな父に従う専業主婦の母。大和さんには夫婦で意思疎通ができているようには見えなかった。  ただ、2人は教育熱心という点では一致していて、大和さんは小さいころからたくさんの習い事をさせられた。サッカー、水泳、武道、英語……。毎日何かの予定が入っていて、多い日は一日に3つの教室をはしごするという詰め込みスケジュールだった。  日ごろ無口な父が、大和さんの受験については口を出した。地元でいちばんの進学校に進み、国立大を目指すこと。大和さんは、本当はサッカーが強い高校に進みたかったが、父の言いつけに従ったのだった。  不登校やひきこもりの原因やきっかけは、ひとつではない。しかし、「家族との関係」が一因になっている人が多いことは間違いない。一般社団法人「ひきこもりUX会議」の調査によると、「あなたのひきこもりの原因やきっかけはなんですか」という設問に対して「家族との関係」と答えた人が42.2%。さらに、「生きづらさの理由」として親を挙げる人も半数近くにのぼっている(『ひきこもり白書2021』より)。  また、子どもがひきこもる家庭の特徴として、父親は仕事熱心で家庭での存在感が薄く、子どもとのコミュニケーションが少なく、母親は過干渉・過保護、という話を複数のサポート団体から聞いたことがある。大和さんの家庭は、まさにこのタイプにあてはまるように思える。 ◆制止を振り切って「殺すしかない」  休学しながらも、なんとか通信制の高校を卒業し、短大に進学した大和さんだったが、やはり人間関係はうまくいかず、入学して間もなく不登校になり、何カ月もひきこもった。  小中学校時代のサッカー部の仲間たちが、大学に入ったり、サッカーを楽しんだりする様子をフェイスブックで見るたびに、劣等感にさいなまれる。「現実を見たくない」と思い、ゲームにのめりこんだ。 「おかしいな、俺はこんなに頑張ってるのに、なぜこうなるんだろう」 「もう死にたい」 「居場所がない」  そんな気持ちを、誰に伝えればいいのかもわからなかった。そして、いつのまにか父親への憎悪をつのらせていった。 「なぜ、俺がこんなに苦しんでるのに本気で向き合ってくれないんだ?」  ある夜、こう思った。 「父を殺すしかない」  夕食を終えてくつろいでいる父親に、突然殴りかかった。母親や祖父が制止しようとするのを突き飛ばし、父親に向かっていった。  父親はというと、緊迫した事態にも無反応で、大和さんに殴られるままにされていた。 「これでもまだ俺を無視するのか。この人はずっと変わらない。父親として、何もしてくれない」  大和さんは悲痛な思いを抱えながら「殺す!」「死ね!」と叫び、無抵抗の父に拳を振り下ろし続けた。止めようとする家族にも手を挙げた。まだ小学生だった弟が部屋で泣き叫んでいた。  ついに母親が警察に通報。「このままだと夫は殺される」と思ったのだろう。電話口で「家の中で息子が暴れています」と母親は必死に助けを求めていた。  駆け付けた警官は大和さんをパトカーに乗せ、精神病院に連れて行った。気がつけば、自分の意志に反して入院手続きが進められていた。そこで我に返った大和さんは、「もう大丈夫です、二度としませんから」と警察官に訴え、なんとか入院を免れた。  大和さんは、この時、人生の「底」が見えたと振り返る。 「父に暴力をふるったときが“どん底″でした。誰を信じていいかわからず、言葉で気持ちを伝えることもできなかった。あのとき父を殴らなければ、どこかで別の形で爆発していたと思います。暴力が、家族以外の他人に向かわなくてよかった。家族には申し訳なかったけれど、変わるきっかけになったのは確かです」 ◆悩まされていた「多動症」への対策  じつはその事件の少し前から、大和さんは、あるサポート団体に支援を求めていた。「福岡わかもの就業支援プロジェクト」という団体だ。父親が新聞で見つけて、「こんなところがあるから、行ってみないか」と勧めてくれたのだ。  団体の代表である鳥巣正治さんは、大和さんの話をじっくりと聞いてくれた。そして、自身の息子がひきこもりだったという経験や、苦しかった時期をどう乗り越えたのかを、大和さんに話してくれた。  精神科でも心療内科でも「上から目線で診断するだけ」だけのように思えたが、「この人は横に立って自分の話をきいてくれる」、そう感じた。  鳥巣さんは言った。 「これからは、薬に頼るのはやめなさい。大和は病気じゃない」  そう言われても、5年以上飲み続けていた薬をやめるのは不安だった。しかしやめてみてしばらくたつと、だんだん元の自分の活力が戻ってくるのを感じた。  実は大和さんは、高校に入学したころから「多動症」に悩んでいた。じっと座っていられない、集中力が続かない。何も頭に入ってこない。  そのひとつの原因は、メールが気になってしまうことだ。当時、セールス系を含めて1日に1000通近くのメールやLINEが来ていて、その通知がくるたびに開いてしまっていた。  鳥巣さんのアドバイスに従って、メールアドレスを5つから2つに減らし、LINEのグループも7つから3つに減らし、フェイスブックもやめた。通知を切る方法、不要なメールを拒否する方法など、情報を整理する方法も教わった。  じっと座って勉強に集中する練習もした。最初は5分やって5分休憩。集中する時間を、10分、15分と伸ばしていった。すると徐々に、決めた時間は集中できるようになってきた。また、部屋を片づけて、収納ボックスなど集中を切らす原因になりそうなものを、座った位置から目に見えない場所に移動した。 ◆父とふたりで飲みに行ってわかったこと  鳥巣さんの団体では、ひきこもりの人たちが立ち直るために「コーチング」という手法を用いている。コーチングとは、人が本来持っている力や可能性を最大限に発揮できるようサポートするためのコミュニケーション技術だ。傾聴、承認、質問といった技法により、本人の「気づき」を促していく。 「コーチングを受けた感想は、一言で言えば『スッキリした』。心がもやもやしていたのが、解けていくようで気持ちよかったんです。自分の性格や心の癖がわかり、抱えている問題の原因がわかってきた。落ち込んでも、どうすればいいかわかる。最近では、すぐあきらめる癖がなくなって、意欲的になってきたと感じます」(大和さん)。  そのうちに、「人を元気にする仕事っていいな。得意なことを生かして、体育教師になろう」と考えるようになった。  教員免許を取るために、短大を出たあと、他県の大学に編入した。しばらく家族とは疎遠だったが、あるとき父が訪ねてきてくれた。  その日、初めてふたりで飲みに行った。暴力事件の後、父は髪の毛が一気に抜け、老けてしまっていた。 「進路を決めるとき、自分の意見を押しつけて悪かったな」と大和さんに謝ってくれた。 「今では、父は本当は優しくて気の弱い人だったんだなとわかります。ひきこもった息子に無関心だったわけではなく、何も言えなかっただけ。暴力をふるったことに対しても、ひとことも僕を責めなかった。今でも、完全に許せたわけじゃないけれど、社会人になった今では、働き続けてきた父の立派さがわかるし、応援してくれていることを感謝しています」 ◆職場の先輩に思い切って打ち明けたところ…  編入した大学を2年間で卒業し、晴れて中学・高校教諭の一種免許状(保健体育)を取得。今の職を得ることができた。  学校での仕事は忙しく、常に分刻みで行動しなくてはいけないので、焦って集中力がなくなることもしばしばだ。現在でも、多動症の症状が出そうになることがある。そんなときも、鳥巣さんに教わった方法で気持ちを落ち着かせることができている。 写真はイメージです(Getty Images)  いつの間にか友達が増え、彼女もできた。今はもう孤独ではないし、元に戻ることはないと思う。  大和さんの将来の夢は、ヨーロッパで暮らすこと。日本人学校で、教員として働きたいと思っている。  最近、職員室で隣に座っているベテランの先生に、思い切って自分の過去の話をしてみた。するとその先生はこう言ってくれた。 「そんな経験をしている人が教員になるって、素敵なことだよ」  学校には不登校の生徒もたくさんいるが、大和さんには誰よりも彼らの気持ちがわかる。 「あの辛い経験が役に立って良かったと、心の底から思います。子どもたちの味方になってあげるのが、自分の使命だと思っています」 (取材・文/臼井美伸) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/1965年長崎県佐世保市出身、鳥栖市在住。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。ペンギン企画室代表。http://40s-style-magazine.com 『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_fJ-iFbNRFF3CW
ひきこもり多動症父親
dot. 2022/01/10 10:00
天龍さんが語る“名前” 病院で本名を呼ばれてももはやスルー!「天龍」の由来と重責
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍さんが語る“名前” 病院で本名を呼ばれてももはやスルー!「天龍」の由来と重責
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)  50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「名前」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。 *  *  *  俺は“天龍源一郎”になってから約50年。本名の嶋田源一郎よりも天龍の方が自分でもしっくりくるようになっている。病院の受付で「嶋田さ~ん」と呼ばれても気づかない(笑)。全身麻酔で手術するときも医者に「嶋田さんって呼びかけて起きなかったら、天龍って呼んでください。そっち方が反応しますから」と娘がお願いしたほどだ。  相撲時代は天龍関とか関取と呼ばれることがほとんど。力士はお互いを「〇〇関」とか「関取」と呼ぶんだけど、飲み会なんかで大勢集まると、横綱、大関以外はみんな関取で、あちこちで「ねぇ関取」「そうでしょ関取」「関取、飲んでますか?」って、関取だらけだ!(笑)  天龍のほかにも、WARで自分の団体を持ってからは、周りに“大将”と呼ばれるようになった。この大将という呼び名は、もともと相撲界の習わしで、部屋で一番上の立場の力士を呼ぶときに使っている。テレビでビートたけしさんに「なんで大将って呼ばれているの?」と聞かれたときに「相撲の呼び名なんですよ」と説明したけど、ピンと来てなかったなぁ。でも、たけしさんだって「殿」って呼ばれてるじゃない!(笑)  俺がいた二所ノ関部屋で大将と呼ばれていたのは、もちろん大鵬さんだ。この大将も、ただ番付が上というだけでは使われないし、横綱になったから「大将」というわけでもないんだ。大将と呼ばれるには実力や実績、地位、品格がしっかり伴った人でないといけない。逆にどうしようもない奴を「よ、大将!」なんて呼んだら、それは相手を卑下したり、馬鹿にしたりしている場合だろう。 新年の挨拶を拳で締める!(天龍源一郎公式インスタグラム@tenryu_genichiroより)天龍プロジェクトpresents『SURVIVE THE REVOLUTION Vol.15』2022年1月9日(日)OPEN18:00/GONG18:30/新木場1stRING (東京都江東区新木場1-6-24)/チケット料金(前売りチケット)特別リングサイド(1.2列目)…6000円/指定席(3列目以降)…5000円※当日券は500円UP/チケットはこちらhttps://www.tenryuproject.jp/product/47 配信チケットはこちらhttps://tenryuproject.zaiko.io/buy/1qoL:dSx:9982d LINELIVE⇒https://onl.tw/WAMdtKg 大阪大会決定!2022年2月12日(土)/『Osaka Crush Night 2022』/大阪豊中・176BOX/1st(昼)12:00OPEN/12:30GONG/2nd(夜)16:00OPEN/17:00GONG  だから、自分でプロレス団体を持って、いろいろやって苦労して、憧れの大鵬さんと同じように、大将と呼ばれるようになったときは快感を覚えたよ。さらに(レッドシューズ)海野がカラオケに行くと近藤真彦の「大将」を歌って、俺を乗せるんだ(笑)。  大将とか源ちゃんとか、俺にもいろいろと通り名やニックネームがあるけど、外国人選手のニックネームにも印象的なものが多いよね。一番最初に思い浮かぶのは“ネイチャー・ボーイ”リック・フレアーだ。金髪で見た目もしぐさも全てがカッコいい。彼も俺と同様に先代の“ネイチャー・ボーイ”(バディ・ロジャース)がいたんだが、俺は同じ時代で見ているから、やっぱりフレアーのイメージだ。彼のセコセコしない立ち居振る舞いは本当に優雅だったよ。ただ、そんな彼でも遊んでいて夜遅くに帰ると、奥さんにコスチュームや服を自宅のプールに投げ捨てられていたってね。海外のレスラーは本人よりも、家を守っている奥さんが強い。嶋田家みたいだ(笑)。  それから“美獣”ハーリー・レイス。彼はNWAチャンピオンを何度も防衛して、タフな人で、知名度と実力が合致していた。日本の居酒屋に来ると、何かよく知らないのに刺身の船盛やらなんやらをテンコ盛りで注文したいていた。「俺はチャンピオンだから注文も豪快なんだ!」っていうのを周りの客だけでなく、同業のレスラーにもアピールしていたんだ。(スタン・)ハンセンと(ブルーザー・)ブロディが『居酒屋「村さ来」は安くて最高だ!』って喜んでいるときに(笑)。結果的に最期はあまり裕福でなかったけど、チャンピオンらしい豪快な振る舞いをしていた人だね。  それから、なんといっても“千の顔を持つ男”“仮面貴族”のミル・マスカラス! 彼は来日したときも、15試合あるとしたら、15試合全部違うマスクに変えるし、シューズから何から全て、毎試合違ったりと、自分を「魅せる」ことに長けている人だったね。シャワーを浴びるときも直前までマスクを取らないで、浴びたらまたサッとマスクをつけるくらい、素顔を見せないように徹底していた。  彼の素顔を直で見た人は本当に少ないんじゃないかな。実際はメキシコ系の男前な顔だったよ。なんで知っているかって? 彼は晩年、俺が東京・世田谷でやっていた寿司屋「鮨處 しま田」に素顔で来てくれたんだ! メキシコ人は日本人と顔立ちが似ているから、店にいたお客さんは誰も気が付いていなかったよ。まさか、あのミル・マスカラスが素顔で寿司を食べているとは思わなかっただろうね(笑)。  俺の名前に話を戻すが、天龍という四股名はもともと、出羽海部屋で活躍した天竜さんからお借りした名前。二所ノ関部屋の親方、佐賀ノ花さんが現役の頃の天竜さんを知っていて、自分の弟子につけたいとお願いしてつけさせてもらったんだ。二所ノ関部屋は大麒麟や麒麟児、大蛇川、そして天龍と幻の生き物からとった四股名が多いから「二所ノ関動物園」なんて呼ばれたりもした(笑)。  天龍の名前を使わせてもらうときのことは今でも覚えているよ。天竜さんは当時、相撲解説をしていて、毒舌で、相撲協会にも堂々とモノ申す人。現役時代は協会相手に「春秋園事件」と呼ばれるストライキを起こしたり、一本筋が通っていて骨があり、とても厳しい人で、ちょっと近寄りがたい存在だった。  名前を使わせてもらうお許しが出たとき、天竜さんと、その仲間でいつも砂かぶり席に座っている「溜会」の人たちが勢ぞろいした宴席に呼ばれて「絶対に、この名前を汚すなよ!!」とガツンと念を押されたんだよね。20歳そこそこのあんちゃんだった俺は、すごい面子に囲まれてすっかり緊張してしまって、飯も酒も全然おいしく感じなかった。そんなこともあって、天竜さんが作った中華料理店「銀座天龍」には、いまだに緊張して行けないんだよ(苦笑)。  天竜さんがそこまでして「名前を汚すな」と念を押したのは、この四股名が明治時代に横綱・梅ヶ谷さんと共に“梅常陸”で人気を博した横綱・常陸山さんがつけてくれたものだからなんだ。そんな大切な四股名だからこそ、そこらのチンピラに使ってほしくないという思いが強かっただろうし、俺も絶対にこの名を汚してはならないと心に決めていた。そんなこともあって、プロレスに転向するときは、本名の嶋田でやるつもりでいたんだ。  当時はジャイアント馬場さんをはじめ、アントニオ猪木さん、ジャンボ鶴田、ロッキー羽田、ラッシャー木村、ストロング小林とカタカナ+漢字のリングネームが多かったから、俺もジャングル嶋田とかジャグジー嶋田みたいな名前になっていたかもね。そうしたら、全然違うタイプのレスラーになっていただろう(笑)。  でも、馬場さんは「絶対に大成しますから」と天龍の名前をプロレスでも使わせてもらえるよう、天竜さんに掛け合ってくれたんだ。そのときに馬場さんと天竜さんの間に入ってくれたのが、日本プロレスにいた九州山さんという、出羽海部屋出身の人。この人が何度断られても天竜さんのもとに足を運んで説得してくれて、ようやく許しがもらえた。このときも「絶対に、名前を汚すなよ!!」と二度目の念押しをされたよ。  それくらい、相撲は名前ひとつとっても伝統や代々受け継いでいるものを大切にしているし、四股名はこれまで名乗っていた人の責任も背負うからね。その歴史をひっくり返したり、泥を塗ったりできないという責任感も出てくる。相撲はプロレスと歴史も重みもまったく違うから、天竜さんも本心は「二所ノ関部屋の訳の分からない奴が名乗った上に、プロレスラーになって、冗談じゃない!」と思っていたはずだ。  本当にプロレスでも使うことをよく許してくれたと思う。まぁ、今になって正直なことを言うと、プロレスデビュー当初は、みんなカタカナ+漢字のリングネームの中、俺だけジジ臭い名前でカッコ悪いなと思っていたこともある(苦笑)。そんな俺を救ってくれたのが“長州力”だ! いやあ、彼の名前を見たときはホッとしたよ。「この人も古風な名前でかわいそうに」って(笑)。長州のブレイクで俺もずいぶん救われたもんだ。  本来、天龍の四股名は出羽海部屋に名前をお返しするのが筋なんだ。本当はプロレスを引退したらお返しするつもりだったが、俺の通り名になっていて、引退後も天龍源一郎で活動しているもんで、今でも使わせてもらっている。お返しするのは俺の活動の場が無くなってからか、死んでからになるだろうなぁ……。  俺が使わせてもらっているうちは、相撲の四股名でも使えないからね。本当は使ってもいいんだろうだけど、出羽海部屋も義理立ててくれている。だから、天龍プロジェクトの最後の仕事は、出羽海部屋に天龍の四股名をお返しすることだ。最近になって自分でもようやく「天龍の名前を汚さないでやってこられたかな」と思えるようになった。名前をお返ししたとき、天国の天竜さんに怒られないで済むといいが……大丈夫だろうか? やっぱり緊張するね!(笑) (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
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dot. 2022/01/09 07:00
中村獅童、歌舞伎「4部制」を提言 「コロナはピンチだけど歌舞伎が変わるチャンス」
中村獅童、歌舞伎「4部制」を提言 「コロナはピンチだけど歌舞伎が変わるチャンス」
中村獅童さん(左)と林真理子さん (撮影/写真部・松永卓也)  伝統的な世界でのご活躍はもちろんのこと、新しいことにもチャレンジし続けてきた歌舞伎俳優・中村獅童さん。コロナ禍で打撃を受ける状況にどう向き合っているのでしょう。作家・林真理子さんとの対談では、コロナ時代の歌舞伎を語りました。 【中村獅童、息子・陽喜が「舞妓さんを連れて戻ってこなくて…」】より続く *  *  * 林:獅童さんはこのごろ、これからの歌舞伎はどうあるべきかというご発言が目立ちますよね。ついこのあいだまでは新世代で、「こんな新しい人があらわれた」という感じだったのに。 獅童:いつまでも若々しい気持ちではいるんですけど、といってもそろそろ50歳なのでね。コロナになって興行も大変で、お客さまあっての商売なのに、50%しか入れなくて、それでもなかなか席が埋まらない月があったりしたんですよ。 林:私も客席を見て「えっ、これだけ?」ってびっくりしたことありますよ。 獅童:コロナで一回離れたお客さんに戻ってきてもらうってなかなか大変で、こちらが「大丈夫だろう」と思ってぬるま湯につかってると、ほんとにダメになっちゃうんじゃないかと思いますね。ただ、コロナってピンチなんだけど、歌舞伎が変わるチャンスでもあると思うんですよ。伝統を守りつつ、「こうじゃなきゃいけない」という価値観を変えるチャンスでもある。 林:コロナの時代になってから歌舞伎は3部制になったじゃないですか。それに慣れちゃうと「これ、いいな」って思うんですけど、これからはまた2部制に戻るんですか。 獅童:歌舞伎って長いじゃないですか。正直言って自分があんまり見たくない演目も見なきゃいけないことがあると思うんですね。おっしゃるとおり、コロナになって「3部制、いいね」って言う人が多いんです。バリバリ働いている人が平日の昼間11時から3時までのんびり芝居を見に行くことなんてなかなかできないし、夜の部4時半からというのも、世代によっては行きづらい。たとえば4部制にして料金も安くして、2部は若手、4部は腕のあるお弟子さんというふうに分けたりしたら、お客さんは自分が見たいものが見られると思うんですね。 林:本当にそうですよね。 獅童:僕、コロナでいちばん心配したのは、お弟子さんたちのことです。旦那の仕事が決まらない中で、お弟子さんたちは自分の先々の仕事がどうなるかわからない。役者としてのモチベーションが下がっちゃうのがいちばんコワいことで、だから僕が「あらしのよるに」という……。 中村獅童 (撮影/写真部・松永卓也) 林:はい、絵本を原作にした新作歌舞伎ですね。拝見させていただきました。 獅童:あれは子どもから大人までが楽しめる歌舞伎を意識したんです。歌舞伎が、ただめずらしい天然記念物みたいな演劇になっちゃうと寂しいので、今に生きる演劇として残っていくべきだと思ってやったんですね。 林:コロナの中、獅童さんはユーチューブをやられたり、初音ミクちゃん(バーチャルシンガー)と“共演”したりされたんでしょう? 獅童:「超歌舞伎」ですね。 林:ああいう発想をなさるのがすごいですよね。ふつうは考えつかないですよ。 獅童:でも、江戸時代にバーチャルがあったら、当時の人も絶対取り入れてますよ。歌舞伎って最先端の演劇だし、その時代その時代の最先端を行くものを取り入れてきたんですよね。その精神は忘れちゃいけないと思うんです。 林:なるほどね。 獅童:昔、うちの母なんかは「役者はふだんの生活を見せちゃダメよ」と言ってましたけど、いまはインスタグラムとかユーチューブを見て興味を持つという時代になっちゃって、それに取り残されるのもよくないので、僕もインスタを始めたんです。子どもの写真を出したら、あっという間にフォロワーが十何万人になって。 林:すごいじゃないですか。 獅童:でも、シャクにさわりますよね。僕じゃなくて、子どもを出したら十何万人なんて(笑)。だからライバルですよ。 林:私はいつもチケットを2枚買って、一緒に行く友達が都合悪いときは、若い子を誘って行くんですけど、初めて歌舞伎を見るっていう人、多いんですよ。みんな見たあとは、「こんなにおもしろいとは思わなかった」って言いますね。私たちの世代がそういう若い人を導いてあげるべきだと思うんです。 獅童:ああ、ぜひよろしくお願いします。10年後、20年後、30年後の歌舞伎界を考えて、若い人だけじゃなく、子どもたちに見てもらいたいなと思いますね。 (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 中村獅童(なかむら・しどう)/1972年、東京都生まれ。81年に歌舞伎座『妹背山婦女庭訓』で初舞台、二代目中村獅童を襲名。2003年、前年に公開された映画「ピンポン」で日本アカデミー賞新人俳優賞。以降、映画、ドラマ、現代劇と幅広く活躍。22年は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演予定があるほか、「壽 初春大歌舞伎」(1月2~27日、東京・歌舞伎座)で、『一條大蔵譚』の吉岡鬼次郎を演じる。また、この公演で長男の小川陽喜が『祝春元禄花見踊』にて初お目見得。※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/01/08 11:30
僕が「運がいい」といわれる理由とマンボウやしろ君からの一本の電話 鈴木おさむ
鈴木おさむ 鈴木おさむ
僕が「運がいい」といわれる理由とマンボウやしろ君からの一本の電話 鈴木おさむ
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、「運」について考えます。 *  *  * 僕は運がいいと言われます。確かにそうです。いろんな人との出会いがとても多い。  昨年もたくさんの出会いがあった。「縁」をつなげて「円」にするが僕が大事にしていること。  僕の高校の後輩でマンボウやしろという男がいます。彼はカリカというコンビで芸人をやっていて、解散してから今は、東京FMの「スカイロケットカンパニー」という帯番組の司会をやっていてとても人気です。彼は脚本を書いたり、舞台の演出もたくさんしています。  僕が30歳。放送作家を始めて10年たった時に、高校の後輩である彼から久々に電話が来ました。芸人を始めて数年たち、ようやく自分たちの単独ライブを出来るようになったと。なので「久々に会いませんか?」という電話だった。  それまでの僕はもう、仕事だけで時間が過ぎていく。外に出ることもない。息苦しい毎日。その年にやったドラマがヒットはしたけど、自分の能力のなさを痛感し、これからどうやって仕事をして行こうかと悩んでいる時に、やしろ君から電話があったのです。  やしろ君と久々に会い、彼らと年の近い芸人さんをたくさん紹介してもらいました。その時に、才能はあるけど売れない芸人さんってこんなのいるのかと驚きました。  そこからそんな芸人さんたちと毎週、飲みに行くようになり、その流れで、うちの妻と出会って結婚するわけです。あの時、やしろ君が誘ってくれなかったら、外に出てなかったら、  妻と出会うことはなかったんだなと思います。  あれ以来、外に出て人と会うことを積極的にしています。そこから好奇心という能力が鍛えられていった気がします。  昨年末、仕事で大阪に行きました。夜、ご飯を食べて、梅田のホテルに戻ろうと思ったのですが、ちょっとだけ飲みに行こうという話になり、一緒に仕事をしていたスタッフA君と梅田の街に。ただ、街に詳しくないので、思い切ってGoogleで「Bar おもしろい」と検索したら、すぐ近くのお店がヒット。その名前は「ドン釜ワールド」と書いてあるじゃないですか。すごい名前。HPには「私たちドン釜ワールドは、大阪梅田のショーハウスにてニューハーフたちが美しくきらびやかに舞うショーを皆様にお届けしております」と書いてある。僕の好奇心の虫がうずく。せっかくだから行ってみようということになる。  ドキドキしながら入っていくと、とても広くてきれいな店内。お姉さまたちが接客してくれる。すると、そこの一人のスタッフさんが僕の前に座り、言ったのです。「私、同郷よ」と。  僕は千葉県南房総市出身。お店は大阪の梅田。そのお店になんと同郷がいるなんて。なんて偶然。そして話していくと、そのスタッフは言ったのです「カリカのやしろって芸人知ってる?」と。僕が「高校の後輩ですし、一時期はうちの事務所の下にも住んでました」というと、なんと「私ね、彼とハトコなの」と。「えーーーーーーー!??」  たまたま入った店に同郷で後輩の親戚が働いてるーーーー?こんなことあるーーー?と驚きました。そこから話は弾み、とてもとても素敵なショーを見せていただき、話しているうちにドラマの大きなヒントをもらったりして。刺激的でいい一夜になりました。  あの時、30歳の僕に外に出ることの楽しさを教えてくれたやしろ君。彼のおかげで、外に出るようになり、まさか大阪のニューハーフさんがショーをするお店で彼のハトコに会うなんて。  僕はよく運を雨に例えます。運という雨が降っていたら、家の中にいただけではその雨に当たれない。外に出ている人にしかその雨の恵はないと。  2022年。好奇心という能力を武器に、たくさん外に出ていろんな縁を作りたい。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)は発売中。「お化けと風鈴」はLINE漫画でも連載スタート。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が発売中。作演出を手掛ける舞台「怖い絵」が2022年3月に東京・大阪にて上演。
マンボウやしろ放送作家鈴木おさむ
dot. 2022/01/06 16:00
年上キラー「内山理名」に選ばれた「吉田栄作」の正しい“オジサン道”
宝泉薫 宝泉薫
年上キラー「内山理名」に選ばれた「吉田栄作」の正しい“オジサン道”
2021年に結婚した吉田栄作(左)と内山理名  吉田栄作と内山理名が結婚した。昨年結ばれたカップルのなかでも、渋い印象のふたりだ。栄作は52歳(結婚当時)での再婚、内山は40歳での初婚である。  内山は料理上手としても知られ、インスタグラムで投稿する手料理も話題に。一方、栄作は1990年代前半に絶大な人気を誇ったとはいえ、50代でバツイチのオジサンだ。それがひと回り年下の美女をモノにした、ということで、男性向けのメディアではあやかりたいという声も飛び出した。  ただ、誰もがなれるわけではない。まず、内山はもともとオジサン好きでもある。かつては15歳年上の東山紀之との交際で注目された。所属事務所はスウィートパワー。のちに堀北真希や桐谷美玲を輩出する事務所の土台を築いた功労者だ。ただ、しだいに脇役タイプへとシフトしていった。  象徴的だったのは、2003年の「GOOD LUCK!!」(TBS系)。当初はヒロイン的立ち位置だったが、柴咲コウに食われる感じになった。時代のトレンドとはちょっとズレたところもあるのか、近年の仕事で光っているのは時代劇の「雲霧仁左衛門」(NHK BSプレミアム)だ。盗賊一味の「七化けのお千代」を演じ、ここではヒロインである。  そんなちょっと古風な(?)オジサン好き女優が、生涯の伴侶に選んだのが栄作だったわけだ。では、どこに惹かれたかというと、結婚時のコメントでこんなことを言っている。 「自然を愛し、一日一日に感謝を込めて、丁寧に生きている彼の姿はとても逞しく、一緒に居ると日常が豊かになっていくことを感じています」  ここから思い出したのが昨年7月「徹子の部屋」で栄作が語っていた日課だ。以前は夜に走っていたが、ここ数年は朝走るようになり、公園の鉄棒やジャングルジムを使ってトレーニングしているという。 「朝走るのが気持ちよくなりまして。やっぱり朝の光って、すごく元気がいいんで。で、走ったあとに大の字書いて太陽を浴びて、太陽電池みたいになってますね」  じつは、こういうオジサンはモテる。特に、昔はやんちゃだった人が自然志向にというのは、女性にとっての萌えツボを刺激するようだ。  たとえば、反町隆史。若い頃は栄作と似たファッションで「言いたいことも言えない」などとシャウトしていたが、今ではすっかり穏やかになり、趣味のバス釣りに夢中だ。また「昭和のプレイボーイ」と呼ばれた火野正平も還暦を過ぎてからは自転車で全国を回り、旅先でチョウを追いかけるような牧歌的な姿で再ブレークした。  では、栄作の若い頃はというと、ビッグマウスが売りだった。いや、彼の場合は「ジャンボマウス」だ。というのも、1995年に休業して米国留学する際「ジャンボになってやる」という発言が話題になった。のちに、そのときの気持ちを「ビッグになる、では普通すぎたので」と明かしている。  前出の「徹子の部屋」では過去の出演映像も流れ、かつてのジャンボマウスぶりが紹介された。そのひとつが、芸能界を目指すきっかけとなった高校時代のエピソードだ。  それは新宿にある50階以上の高層ビルから街を見下ろした際、歩く人たちが「ありんこ」に見えたため「自分はありんこみたいな中の一匹で終わってしまうのがすごくイヤ」になり「東京に出て何かしたいなと」思ったというもの。当時、コラムニストのナンシー関からは「単なる遠近法の問題ではないのか。おもしろいなあ栄作は」などとちゃかされていた。  そしてもうひとつ、スターになってからの美学というのもある。彼いわく「お金を出してくれるファン」がいる以上「街でインスタントに見る人がいちゃいけない」のがスター。それゆえ「自分はね、街を歩いちゃいけない存在なんだなって言い聞かせてるんですね」と語っていた。公園で大の字になったりしている今とは大違いだ。  しかし、こうした発言がちゃかされるようになった頃から、彼は失速していった。米国留学から帰国後、俳優業を再開したものの、ライバル的存在だった織田裕二のようにはヒット作に恵まれず、テレビ的な役者としては低迷期に入る。  97年には、モデルの平子理沙と結婚。ただ、これも夫婦生活の実態がよく見えないといわれるなど華やかさに欠け、18年後に離婚した。とまあ、あまり「ジャンボ」とはいえない時期が続いたのだ。  が、彼はしだいに巻き返す。低迷期を深夜バラエティー「マネーの虎」(日本テレビ系)の司会などで乗り切り、役者としての実力を蓄えていった。NHKの朝ドラや民放のサスペンス、戦記物の映画、さらには舞台と、渋い存在感を放つ役者として評価を高めたのである。  そんな栄作の近年の仕事のなかでも、印象的だったのが「探偵・日暮旅人」(日本テレビ系)第5話で演じたミュージシャン役だ。ドラッグの売人に落ちぶれていたが、自首する前にしゃがれた声でひとふし歌ってみせる。その歌をめぐり、ネットでは「昔よりうまくなってる」「グッときて、涙がとまらない」などの賛辞が飛び交った。  なお、この放送が2017年2月で、内山との出会いとなったTBS系単発サスペンスの放送が同年11月。この時期は栄作にとって転機だったのかもしれない。  ただ、別人のように生まれ変わったわけではない。というのも、彼は最近、メディアに登場する際はだいたい、白いTシャツとブルージーンズという全盛期のファッションでキメている。あの頃を知る人に懐かしがられることを踏まえての自己顕示も兼ねたサービスだろう。  ウケ狙いにも見えるが、そこには譲れない本気も感じられるというか、若い頃に培った自分らしさをあえて引きずっているように思える。それでいて、大人の分別も備わってきているあたりが絶妙にかっこいいのだ。  ちなみに、栄作は結婚時のコメントで「この数年、何時も僕の健康管理に気を遣ってくれました」と内山への感謝を示している。そして「天国の母にも喜んでもらえる様に…頑張ります!」とつづった。  じつは交際中だった21年4月、栄作の母が死去。この出来事は、身近にいて支えてくれる内山への安心や信頼をさらに高めたはずだ。ふたりは出会ったタイミングもよかったのだろう。  そもそも、結婚とは相性とタイミング。内山にとって、東山紀之との関係は何かがちょっと合わなかったのかもしれない。ヒガシがその後、結婚した木村佳乃はそこがピッタリ来たのだと思われる。  それにしても、栄作の歩むオジサン道はじつに正しい。内山が惹かれたのも納得だ。  あと、中盤で挙げた同系統のオジサン3人のうち、挫折の少ない反町隆史は理想的だがスマートすぎる印象だし、若い頃が破天荒すぎる火野正平はすごいけどまねしにくい。栄作のような年の重ね方が、オジサン道を学ぶにはいちばん参考にできそうだ。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など
オジサン内山理名吉田栄作
dot. 2022/01/06 11:30
「家から死人を出したくない」家族も 森鴎外の孫・小堀医師が語る“在宅死”の課題
「家から死人を出したくない」家族も 森鴎外の孫・小堀医師が語る“在宅死”の課題
小堀鴎一郎(こぼり・おういちろう)/1938年、東京都生まれ。医学博士。東京大学医学部医学科卒業後、東京大学医学部付属病院第一外科、国立国際医療研究センターに外科医として約40年勤務。定年退職後の2005年から、埼玉県新座市の堀ノ内病院に赴任し訪問診療に携わり、多くの看取りをおこなってきた。母は小堀杏奴、祖父は森鴎外(本人提供、撮影/磯村健太郎)  70歳まで外科医としてメスを振るっていた小堀鴎一郎医師は2005年に外科医から、活動の場を在宅医療に移した。以来16年、400人近い患者の最期の日々に寄り添った。その実例から、在宅死の現場の実情や課題を考えてみる。 *  *  *  文豪・森鴎外の孫でもある小堀医師は、著書『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』で1965年に亡くなった作家・中勘助の随想「母の死」の一部を引用した。1934年に亡くなった母の死に際が描かれている。 <いよいよ最後の時が迫ってきたようだ。ときどき見えそうな目をあいて見まわしたり、人の顔に視線をとめたりするがわかる様子もない。なにをきいてもうなずくこともしない。ただ反射的に手足を動かしてるらしい。苦痛もない。おそらく苦痛を感ずる力もないのだろう。私との感情関係は母のほうからはもう断たれてしまった。(中略)夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている。母の臨終が精神的にも肉体的にも安らかなのが嬉しい>  自宅で親を看取り、死にゆく母の枕もとで安らかな死を喜ぶ。そんな死の場面が当たり前だった時代は消えゆき、今では家族の死の大半は自宅ではない“外部”で迎えられる。  厚生労働省の人口動態統計によると、1950年代には80%以上だった「自宅死」の割合は2000年代に入って10%台まで落ち込んだ。代わって80%近くにまで増えたのは「病院死」である。この大きな変化の原因は、交通網の発達で病院へのアクセスがよくなったことと、在宅と病院との医療レベルの格差が広がったことにあると言われている。  こうした時代の変化を見てきた83歳の小堀医師は、在宅医療を始めて、ある問題に気付いた。 「病院死が増えた結果として、自宅で病人を看取る記憶が失われ、自分や家族がいずれ死ぬという実感がなくなってしまっていると痛感したのです」  小堀医師はそう言って、自分の死を認められない人々の事例を紹介してくれた。 ■事例1(83歳男性・胆管がん)  妻と2人暮らしのこの男性は、病院で化学療法を行ったが効果が認められず、退院を勧められた。胸水・腹水がたまり、足のむくみもひどく、妻は在宅看取りを希望していた。しかし本人は「栄養をつけ元気になる」と入院を希望。自分の死を予感できず、入院時には退院後のスケジュール調整のために、妻にスマホを持ってくるように頼んだが、入院4日目に亡くなった。  死を認めたくない、自分が死ぬとは思ってもいない意識が、死を「タブー視」する気持ちにつながる。小堀医師は家族の死を恐怖する事例も目の当たりにした。 ■事例2(80歳男性・前立腺がん)  前立腺がんは末期で骨にも転移しており、本人も介護する妻もその病状はしっかり認識している。患者は自宅で最期の時間を過ごす意思を表していたが、妻は「本人は自宅で逝くことを望んでいるが、私は家から死人を出したくない」と言明。その2週間後、大量の下痢を契機にして夫が傾眠傾向になると、妻は「正月明けまで家でみる」と言ったが、その2時間後「息子と話して、そんな状態ならすぐ入院させてほしい」と気持ちが変わり、緊急入院。男性はその1カ月後に死亡した。  本人や家族だけでなく、社会的な死へのタブー視も強い。  小堀医師は自分の母を自宅で看取っている。本人が病院は嫌だというのを尊重した。 「母は自分で新聞を取りに行ったときに玄関で倒れ、亡くなりました。するとご近所から『お医者さんのお宅なのに入院させなかった』と言われてしまったことがあります。やはり、死はネガティブな目で見られてしまうのだなと感じました」 もっと露骨な社会からのタブー視もあった。 ■事例3(71歳男性・直腸がん)  手術不能の末期直腸がんと診断され入院。他の臓器への転移も見つかるが、本人の強い希望で退院し、訪問診療に切り替える。緩和ケアが奏功し、ADL(日常生活動作)が一時的に改善。しかし訪問診療後、待ち受けていたアパートの大家に「このアパートで死なれては困る。死ぬときは入院させるという約束でこの部屋を貸した」と主張された。そこで家族を同伴して家主と話し合いを重ねた結果、大家から「この部屋で息を引き取るのはやむを得ないが、ここから出棺するのは避けてほしい」と懇願され、遺体は寝台車にのせて搬送した。 小堀鴎一郎医師(撮影/写真部・張溢文)  小堀医師は言う。 「家主からすれば事故物件扱いになると、家賃を下げないと借り手がつかなくなるという意識があるのでしょう。在宅診療を始めて、そうした事例を見ることで感じたのは死へのタブー視が社会にはあるということでした。そのいい例が、令和元年に『神戸新聞』が報じた、須磨区の“看取りの家”建設断念でしょう。余命の短い人に最期の場所を提供しようという試みが、近所の反対で潰れてしまいました」  8割が病院で死を迎えている現実の背景にはこうした理由があると考えられる。しかし、「できることなら在宅で死にたい」と考える患者の割合は7割近いという調査もある。小堀医師が現在在宅医として勤務する堀ノ内病院に移ってきた当初、少なくとも約半数の患者は在宅での最期を希望していた。 「予備知識もないまま在宅医療の世界に足を踏み入れた当初から3年間ほど、私は往診時に患者の容体が急変した際、そのまま自宅で死を迎えるか、救急車を要請して病院に向かうかという判断の岐路に立ったとき、往診医として意見を述べることはせず、本人と家族の意向に100%従うことにしていました。その結果、当時は在宅死と入院死がほぼ同数になったのです」  患者と家族の希望をかなえると約半数が在宅死となるのに、現実は約8割が病院死しているのはなぜか。希望どおりの最期を迎えていない患者が多数いるということではないのか。  小堀医師はある事例を契機に、自身の考えを患者や本人に説明するようになったという。 ■事例4(101歳女性・老衰)  それまで長男夫婦と通常の生活を送っていた女性が、ある日突然、寝たきりになってしまい、訪問診療を開始。半月後に食事量が低下し、眠ったまま2日間目を覚まさなかった。在宅看取りの方針であったが、3日目になって患者が息を吐くときに発するかすかな息遣いを聞いた長男が「母が可哀想で耐えられない」と急遽(きゅうきょ)入院を要請。堀ノ内病院に救急搬送した。入院直後は頻繁に見舞いに来ていた長男夫婦の足は次第に遠のき、患者はその後10カ月余りを集中治療室で一人生き続けた。ある夜、夜勤看護師がモニターを見て気づき、死亡が確認された。  小堀医師はこう述べる。 「この女性が本来迎えるはずだった101歳の老衰死と、現実に迎えることになった入院死という名の孤独死の格差は大きい。彼女にとっての“望ましい死”とは家族や主治医らに囲まれて自宅で迎えるはずだった10カ月前の死だったのではないかと」  これ以降、小堀医師は400人近い人々の臨終に関わったが、在宅看取りをおこなった割合は75%を超えている。 「闘病生活は長いので、ご本人やご家族との付き合いも長くなります。自然に、死ぬときはどうしたいかについても話し合うようになり、僕の考えも伝えられる。あくまで本人の意思が基本。それに家族の応援と、医者の後押し。それが在宅死のキーポイントになります。話し合っているうちにご家族が持っていたタブー視を変えることができると思えるようになりました」  もちろん、在宅死が善で、病院死が悪というわけではない。その家族にとっての最も望ましい死は何かを考えることが重要だ。 ■事例5(89歳男性・間質性肺炎)  長男夫婦と3人暮らしをしていたが、夫婦は早朝から仕事に出かけ、日中は独居状態。体重の減少、食欲の減退が続き、デイサービスにも行かなくなったため、訪問診療が始まった。1カ月もすると傾眠状態の日が増え、長男夫婦は入院を望んだが、本人は「気楽に過ごしたいので入院はしたくない」と自宅療養を希望。2週間後に、帰宅した長男の妻が廊下で倒れている患者を発見。以降、寝たきり生活になる。長男夫婦が不在のときに、患者と2人だけで話し合い、「最期のときは短くても1~2週間、長ければ数カ月も続く。その間、長男夫婦が仕事を休むダメージは計り知れず、特に長男の妻が18年勤務している福祉施設は人手不足で介護休暇は無理」と説明すると、患者は「私は先生と嫁の言うとおりにする。どうせ長くは生きないし、向こうで母ちゃんも待っている」と入院を承諾。入院中に私は毎日患者のベッドを訪れたが、昏々と眠っており、最後まで言葉を交わすことはなかった。10日ほど過ぎたある朝、彼は静かに息を引き取った。  小堀医師は言う。 「実は患者と2人きりで話しているとき、勤務中の長男の妻から私の携帯に電話がかかってきました。長男の妻は『今、義父と一緒にいるが、衰弱が激しいので明日にでも入院させてほしい』と嘘の電話をかけてきたんです。それほど追い詰められていたということですね」  小堀医師は、入院したことでこの患者は“人間らしい死”を迎えられたと思ったという。  こうして患者たちと接してきた小堀医師は、これまでタブー視されてきた死への意識が徐々に変わりつつあるとも感じている。 「ひとつはコロナで病院にお見舞いに行けなくなったこと。面会できないのは嫌なので、家にいてほしいという人が何人もいました。それと格差の問題もある。介護してくれる人がいない独居なので入院したいと思っても、お金に余裕がなく在宅死しか選べない人も増えています。そういう人にとっては病院のほうが安住の地になる可能性が高いのに」  さらに、約800万人といわれる団塊の世代が後期高齢者になる2025年問題への対応は、在宅医療の大きな課題になると指摘した。 「国は在宅診療を推進していますが、はたして高齢者の人口爆発を迎えたときに医師は気軽に在宅診療に応じてくれるのかというのが大きな問題になる」  06年に国は在宅療養支援診療所を創設し、診療報酬を高くした。これに予想を超える数の医療機関からの届け出があった。 「ところが、ちゃんと往診をしている在宅療養支援診療所は決して多くない。年間50人以上の在宅診療をしている診療所はわずか3%しかない。しかもその3%の医療機関が訪問診療全体の75%をカバーしているのが現状です。特に地方部での医師不足は深刻です」  中でも大きな課題は夜中に容体が急変したときだと小堀医師は指摘する。 「日中なら来てくれる医師も、夜中には電話をかけても出てくれない診療所が多くある。そこで仕方なく救急車を呼ぶことになるのですが、亡くなってしまった場合には救急車は対応できないので、警察マターになる。つまり、検視が行われる事態になってしまう。地域によっては病院外での死の約70%が検視となっており、これが是正されることが重要になってくると考えています。在宅での看取りの際には医者が来てくれないとどうにもならない。つまり鍵を握るのは医者の確保ということになるのですが、数が足りるだけではなく、患者それぞれが“かかりつけ医を持つこと”が大切になってきます」 ■事例6(87歳男性・慢性呼吸不全)  認知症の妻、次女との3人暮らし。次女は介護に熱心で、父親の住み慣れた自宅での看取りを強く希望しているが、日中は仕事があり不在。ある日、所用で訪れた民生委員が患者の急変に気付き、緊急連絡を受けて往診。まさに「穏やかな最期」に近い状態だったが、次女の携帯電話がつながらない。認知症の妻は事態を全く理解していない。そこで堀ノ内病院に救急搬送し救命。1カ月後に退院したが、退院7日目に亡くなった。次女が看取りに専念するために退職した直後のことだった。  小堀医師は言う。 「私が救急車を要請したのは熱心に父の介護をしてきた次女が不在の間に父親を死なせたくなかったからでした。私が患者家族の状況を熟知している“かかりつけ医”だったからできた判断だったと思っています」  小堀医師は患者とその家族が望む最期の時間を実現する後押しをするのが自分の仕事と考えるようになったという。 「事例1で紹介したスマホを持って入院した男性についても、今はそれが本人の望んだ死に方だったと受け入れられるようになりました」 (本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
介護を考える
週刊朝日 2022/01/05 16:00
乙武洋匡ら4人に聞く「価値観を変えるために必要なこと」「変える人」
福井しほ 福井しほ
乙武洋匡ら4人に聞く「価値観を変えるために必要なこと」「変える人」
乙武洋匡さん・作家  時代とともに価値観をアップデートし、世の中を牽引する人たちは、何を大事にしているのか。アエラは今回、社会に新たな視点を提供してきた4人に、それぞれの思考やこだわり、価値観を変える人を教えてもらった。AERA 2022年1月3日-1月10日合併号は「価値観を変える」特集 *  *  *  作家の乙武洋匡さん(45)は変えるためには「巻き込み力」が必要だと考えている。 「変えたい人もそうでない人もいる。その中でなぜ変える必要があるのかをわかりやすい言葉で誠実に説明し、少しずつ仲間を増やしていくことが必要です」  何かを変えようと動けば必ず変化を嫌う人から批判を浴びる。 「そうしたときにこそ、批判にひるむのではなく、『自分の声がより多くの人に届くようになった』と前向きにとらえ、手応えに変換するようにしています」 ■俯瞰する視点を持つ  組織改革を進める企業を支援するエール取締役の篠田真貴子さん(53)は、いま「変化を生む人」とは、声高に変われと言う人ではなく、「異なる価値観に触れさせて刺激する人」だという。明確なスタンスと柔軟性を併せ持つ。そんな姿勢に触発されて、周りも自然と変わるようなロールモデルが変化を牽引する。篠田さんが選んだのもそんな5人だ。  さらに、変化するには、「自分の価値観を保持したうえで、複数の価値観を俯瞰する視点を持つことが大事」とも。そのためには、「聴き手が自分の考えや価値観をいったん脇において、判断をはさまずに相手の話に関心を寄せる」=「聴く力」を持てるかどうかがカギだという。 「変えるべきは、日本に根付く身分制度です」  そう説明するのは、地方創生に長年取り組む日本総研の藻谷浩介さん(57)だ。各地を訪れて目の前にあるものを見つめるなかで、ある問題に気づいた。  人材は豊富なのに、都会と田舎、正社員と非正規社員、年齢などの“身分”が社会を縛っている。まるで幕末のようだと感じた。それを打破するためには、「色眼鏡なく、事実をありのままに見て認識する能力と習慣をつけること」だと指摘する。  フェムテックのベンチャー「フェルマータ」を19年に起業した杉本亜美奈さんは「自分が納得できているか」を重視する。海外生活が長く、常に自分の価値観が試される日々。幼い頃から、「こうあるべき」に従う習慣はなかった。 「他人の常識は自分の常識ではないという状況が当たり前。自分の納得感を大事にしていると、周りにも自分を貫く人が集まってくるように感じています」  大切なのは、「自分の頭」で考えること。シンプルに思えるが、実践するのは意外と難しい。 「指示されるまま行動するのではなく、自分の中で物事を組み立ててアウトプットする。それが何かを変える力になると思います」 ■乙武洋匡さん/作家 おとたけ・ひろただ/1976年生まれ。手足がない状態で生まれる。早稲田大学在学中に出版した『五体不満足』がベストセラーに。元小学校教諭。ロボット義足で歩くプロジェクトに挑戦中 【変えるためには「巻き込み力」 わかりやすい言葉で説明する】 遠藤謙さん・Xiborg代表取締役、義足エンジニア Xiborg代表取締役、義足エンジニア/遠藤謙さん えんどう・けん/1978年生まれ。「すべての人に、動く喜びを」を目指しロボット義足やスポーツ義足の開発に取り組む。「テクノロジーを駆使して『障害のない社会』を築こうと尽力している」(乙武さん) ロボット研究者/吉藤オリィさん 「重度の障害や難病によって自宅から出られない人に、遠隔操作ロボット『OriHime』を通して働く機会を提供するなど、テクノロジーの力で障害者に『働く』を届けている」(乙武さん) メイクアップアーティスト、僧侶/西村宏堂さん にしむら・こうどう/浄土宗の僧侶、ミス・ユニバース世界大会などで活躍するメイクアップアーティスト。LGBTQ当事者として啓発活動も。乙武さんは「既成の枠にとどまらない多様な活動をしている」 歌舞伎町商店街振興組合常任理事/手塚マキさん てづか・まき/新宿・歌舞伎町でホストクラブ、バー、通所介護施設など二十数店舗を経営。「コロナ禍で新宿区長と夜の街をつなぎ対策を練るなどホストの世界を表舞台に押し上げた」と乙武さん ジェンダーレスモデル/井手上漠さん いでがみ・ばく/2003年生まれ。17年に「少年の主張全国大会」で文部科学大臣賞を受賞して注目され、性別の枠を超えたモデルとして活躍。「ジェンダーレスの時代を象徴している」(乙武さん) 篠田真貴子さん・エール取締役(撮影/写真部・辻菜々子) ■篠田真貴子さん/エール取締役 しのだ・まきこ/日本長期信用銀行、マッキンゼーなどを経て、ほぼ日取締役CFO。現在はエールで、社外人材によるオンライン1 on 1を通じて、組織改革を進める企業を支援している 【異なる価値観で刺激を与える相手の話を「聴く力」が大事】 COTEN代表/深井龍之介さん ふかい・りゅうのすけ/「ポッドキャスト番組『COTEN RADIO』『a scope』で、歴史や自分学の知見だけでなく、それら専門分野の持つ背景や視点などを私たちの文脈に接続して伝えている」と篠田さん 翻訳家/関美和さん せき・みわ/『FACTFULNESS』など50以上のビジネス書を翻訳。「著者の背景と意図を理解し、日本の読者が置かれた背景に持ち込んでも著者の意図がブレずに伝わるよう調整している」(篠田さん) Well‐being for Planet Earth財団代表理事/石川善樹さん いしかわ・よしき/予防医学者。世界がwell-beingを目指せるよう活動。「GDPに加えてwell-beingも重視しようという視座によって、私たちを異なる価値観に触れさせて刺激してくれている」(篠田さん) ロンドン・ビジネススクール教授/リンダ・グラットンさん 『LIFE SHIFT』著者。「『人生100年時代』という大きな変化、それに伴い家族観や職業観、人生計画のあり方も変えることで、変化を意味あるものにしようと呼びかけている」(篠田さん) 慶應義塾大学SFC教授/安宅和人さん あたか・かずと/『シン・ニホン』著者。「日本の未来の方向性について、新たな価値観と具体性で支えられた提言と行動を次々と打ち出している。私たちの自己理解を助けている」(篠田さん) 藻谷浩介さん・地域エコノミスト ■藻谷浩介さん/地域エコノミスト もたに・こうすけ/1964年生まれ。日本総研調査部主席研究員。平成の大合併前には、全国の市町村を自費で訪問し、地方創生に邁進した。著書に『デフレの正体』や『里山資本主義』(共著)など 【変えるべきは日本の身分制度地方の豊富な人材生かせ】 Public Meets Innovation代表シェアリングエコノミー協会常任理事/石山アンジュさん いしやま・あんじゅ/1989年生まれ。「男に対する女、都会に対する田舎、所有に対するシェアなど、令和の身分制度の根底にある価値観をひっくり返す提案を続けている」と藻谷さん 「風と土と」代表取締役/阿部裕志さん あべ・ひろし/1978年生まれ。島根県海士町で、企業の人材育成や出版社「海士の風」を運営する会社を起業。藻谷さんは「人口2千人余りの孤島で、全国スケールでものを動かしつつ、地域づくりを続けている」と魅力を説明 地方創生活動家/木下斉さん きのした・ひとし/1982年生まれ。国内外で事業型まちづくりを研究し実践。「狂犬とのあだ名もある直言人だが、都会や学歴などの身分を相対化する視点で、よりよい地域を目指す人を支援している」と藻谷さん 「真野鶴」5代目蔵元/尾畑留美子さん おばた・るみこ/1965年生まれ。映画配給会社勤務を経て、95年に家業を継ぐ。「佐渡島という小さな小さな小宇宙にこそ、世界に通じる価値があることを発掘し、活用し、広め続けている人」と藻谷さん ひじき漁師、山口県周防大島町集落支援員/栄大吾さん さかえ・だいご/1989年生まれ。銀行に勤務した後、脱サラ。「高齢化で日本の100年先を行く」山口県周防大島町へ移住し、「本気の地域おこしを行いつつ発信する、まさに価値観を変える若者」と藻谷さん 杉本亜美奈さん・fermata CEO ■杉本亜美奈さん/fermata CEO すぎもと・あみな/1988年生まれ。父が国連関連の仕事をしていたため、アフリカのタンザニアで育ち、日本、英国、ドイツの大学で学ぶ。2019年にフェムテックを手がける「フェルマータ」を起業 【「こうあるべき」に従わない自分の納得感を大事に】 Mistletoe代表、ベンチャー投資家/孫泰蔵さん そん・たいぞう/1972年生まれ。「起業家一人ひとりの価値観を壊し、再構築するという作業に、根気強く取り組んでくださる方。それを乗り越えれば、面白い事業を生み出せると思う」と杉本さん ドイツの月経周期管理アプリ「Clue」CEO/Ida Tinさん デンマーク出身の女性起業家で、「フェムテック」の言葉を編み出した。「女性の健康課題がタブー視され、資金が集まりにくいなか、言葉を創り投資家の目線を変え、潜在市場を加速させた」(杉本さん) ユナイテッド・ワールド・カレッジISAKジャパン代表理事/小林りんさん こばやし・りん/1974年生まれ。外資系投資銀行や国連児童基金などを経て、全寮制国際高校を開校。「テストでは測れない力を得られる場をつくりあげた『教育の当たり前』を変える存在」と杉本さん fermataメンバー/片山晴菜さん かたやま・はるな/1998年生まれ。アメリカ留学などを経てミネルバ大学に初の日本人として入学。「自分にリミットをかけず、グローバルに挑戦する姿は若い世代の可能性を象徴する存在」(杉本さん) fermata主催イベントに来た80代の女性 東京・六本木で開催した「Femtech Fes! 2021」に新聞記事を見て参加。「かつての日本に存在した性教育や価値観についての話は、固定観念を壊してくれた。先輩方と一緒にフェムテック産業をつくっていきたい」(杉本さん) ※4人の選者にアンケートで「価値観を変える人」を推薦してもらった。推薦理由は回答から抜粋 (編集部・深澤友紀、福井しほ、木村恵子)※AERA 2022年1月3日-1月10日合併号より抜粋
AERA 2022/01/05 08:00
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ryuchell & peco ryuchell & peco
ryuchellとpecoが実践する、3歳の息子に「親はわかってくれない」と思わせない方法とは?
撮影/写真部・松永卓也  現在3歳になる男児を育てるryuchell(りゅうちぇる)さんとpeco(ぺこ)さん。「無理なときは、サボったっていい」「叱っても愛を伝えるのが大事」など、夫婦が発信する“子育て論”に、SNSでは「救われた」「ためになる」など、共感の声も寄せられています。そんな二人が、日々の育児について語る新連載「ryuchell&pecoの子育て日記」が、今月からAERA dot.でスタートします。ryuchellさん、pecoさんが隔週交代で登場し、お子さんとの生活を通じて考えたこと、うれしかったこと、悩んだことをつづります。今回は、連載スタートを記念して、お二人一緒に登場してもらい、子育てについて話してもらいました。 *  *  * ――二人がそれぞれ子育てで大事にしていることはありますか? peco(以下ぺこ) どっちかが怒っているときは、絶対にどっちかが味方で、二人同時に怒らないというのはありますね。 ryuchell(以下りゅう) 怖い顔でお話するときがあっても「絶対に味方だよ」というのは伝わるようにしている。「あなたのことが心配だから、大好きだから言ってしまったんだよ」みたいな。 ぺこ うん、言ってる。 りゅう 同じ立場になって「さっきは言い過ぎてごめんね」と言うのもする。「大好きなんだよ」というのはベースにあるけど、あるだけじゃなくて伝える。そこは気をつけてる。愛をしっかり伝えることは意識はしていますね。  親がいろいろ決めすぎちゃったら、決めたことができなかったとき、子どもが自分を責めてしまう。そういう厳しい親になってもいいことないのかなと。だから、決めるのは少なくしようと思っていますね。 ぺこ 私は共感をするということを大事にしている。 りゅう うん、大事。 ぺこ 例えばやけど、お友達にベシンとしてしまったときも「ダメでしょ」ではなくて、「なんでベシンとしちゃったの?」って聞いて、「おもちゃ貸してくれなかったから」とか、「おもちゃ取られたから」って言ったら、「そうか、それは嫌だったよね」、「でも、叩くのはダメだよ。どうしたらいいと思う?」っていうように。どんな悪いことをしたとしても共感してから話をしてる。 撮影/写真部・松永卓也 ぺこ 昨日も早く寝てほしいのに、歯磨き終わって「クチュクチュペ」するまでにも5分くらいかかりました。で、こっちもけっこうイライラなって、やっと「クチュクチュペ」しても次は、水を出したり止めたり、出したり止めたりし始めて。  もうプッチンと来て、「なにしてんの!」「水で遊ばないで!」みたいな感じで怒ったら、「ここ」って言われて、見たら泡があったわけ。それをどうにか流したくて、勢いをつけたら流れるかな、ってしてたらしくて。その瞬間は怒ってるからこっちも共感できへんくて、「いいからパジャマ濡れるから早くして!」、「早く寝るよ」みたいなこと言っちゃったけど、1分後くらいにふっと落ち着いたとき、「さっき泡を流したかったんだよね」って言って。それだけでも違うやん。 りゅう 全然違う。 ぺこ 後付けでもいいから共感するようにしている。 りゅう 子どもが「親はどうせわかってくれない」ってなってしまうのは、親の共感が足りないからなのかなって、ぼくは思ってる。「ちゃんと味方でいてくれる」、「自分の話をちゃんとわかってくれる」という存在で僕もいたいなと思ってる。だから、小さい頃から共感してあげるのは大事と思いますね。 ぺこ こっちも人間やから、いくら子ども相手でも素直になられへんときってあるやん。私はめちゃくちゃそういうタイプ。だから、そこは「頑張れ、自分素直になれ」って思って、「ごめんね、嫌だったよね、ママ怒りすぎたよね、そうしたかったんだよね」と頑張っていうようにしてる。 ――パパ、ママとしてお互いに「すごいな」「尊敬できるな」と思うところはありますか? りゅう ぺこりんは息子を中心にいろんなことを考えてくれていて、息子のことで悩んでしたりしている姿を見てる。でも、僕は心配していません。お仕事で夜遅い日が続いて久々にゆっくり息子の笑顔を見たとき、「ぺこりんに任せられる、安心できるなぁ」って僕は思える。ぺこりんが息子のことを一番に考えて動いてくれているというのが伝わるから。 撮影/写真部・松永卓也 りゅう あと、ちゃんと力を抜くところは抜くことができている感じはするので、そこも安心できるところですね。ただ夜に息子が寝たあとに自分のブランドのお仕事をしないといけないことがあって、疲れている中でも仕事をしていて、心配になることもあるけど。  それと、僕は一人の時間も大事にしないといけないタイプで、それで余裕をつくって、家族ともハッピーでいられる性格なんですね。そういう自分が嫌になることもあるんですけども、ぺこりんは自分の時間は家族との時間という感じで。すごい真っすぐな人で、素敵なママだな、こういうママだったら安心だなって、いろんなとこで思います。 ぺこ ふふ。ありがとう。 りゅう はい。 ぺこ もし私がりゅうちぇると立場が反対になったら、同じことをできるかなと考えたときに、120%できない。子どもが新生児のとき、けっこう大きく生まれたから沐浴が大変で。一人でできたのは本当に最初の一週間くらい。そんなときも本当に15分でも30分でも帰ってこれるタイミングがあったら、帰ってきてくれて、沐浴だけして、また仕事に行くとかやってくれた。  朝も本当なら寝れるところを7時に起こしちゃったりするんですけど、それでもちゃんと起きて全力で息子と接してくれる。で、自分はまた仕事に行って、夜に帰ってきてとか。  私にも同じことができるかなって考えたら、できない。私は今仕事がたくさんあるわけじゃないけど、それでも仕事があった日に家に帰ったら、子どもに優しくできないし。それに加えて、私のことまでちゃんとケアしてくれて、優しい言葉もかけてくれて。  けっこう私、古い考えがあるんですけど、もし私がりゅうちぇるの立場だったら「いや、こっち、こんなに働いてんねんから、食器洗いくらい自分でやってくれ」とか絶対思っちゃうし、「疲れてんねん、こんなに仕事してんねんで、なんで寝させてくれへんの」とか絶対言っちゃうと思うけど、りゅうちぇるは言わない。シンプルに尊敬だなって思いますね。 撮影/写真部・松永卓也 りゅう すごいところだけ、いま言ってくれたので、全然だめですけど。 ――子育てについて、新しく始まる連載の読者にはどんなことを伝えたいですか。 ぺこ 子育てって、我慢しなくちゃいけないし、自分を犠牲にしないといけないタイミングもあると思うんです。でも、ママもパパも人間だし、やっぱりママとパパがハッピーで楽しく生きていることを先ずは見せたいな、と思っています。もちろん完璧にこなすこともすごく素敵なことだし、大切なことかもしれないですけど、私はそれよりもどれだけ手を抜いても、どれだけ適当に日々過ごしてたとしても、「ママとパパといるの楽しいな」、「このお家でよかったな」って子どもに思ってほしいと思っています。適当は悪いことではなくて、むしろハッピーに生活するためにはすごくプラスなことだよ、ということを思ってもらえたらいいなと思います。 りゅう SNSが普及して、インスタとかユーチューブとかで人の幸せの形が簡単に見られるので、「他のママ、パパはこうできているのに」とか、他の子どもと比べてしまったりとかで、悩んでしまったり、病んでしまったりすることってあるんじゃないかな。だけど、あなたらしくしっかり子育てをしていれば、何も問題ないって思います。  こういうママ・パパでいなきゃとか、自分が何かを守る立場になったときって思ってしまうと思うんですね。だけど、そこで余裕がなくなってしまったら、キャパオーバーしてしまうんです。  それでは元も子もないから、自分の限界を把握して、余裕をつくることを一番に考える。そうすることで子どもにも幸せがいくのかなと思っています。僕もそういうのに縛られて仕事でも子育てでも悩んでしまうので、すごく気持ちはわかります。  一緒に頑張りましょう! (構成/AERA dot.編集部・吉崎洋夫)
ぺこりゅうちぇる
dot. 2022/01/02 11:30
愛猫は最期、甘えた声でナァーンと鳴いて深い眠りについた 闘病と介護、余命に向き合った3カ月
水野マルコ 水野マルコ
愛猫は最期、甘えた声でナァーンと鳴いて深い眠りについた 闘病と介護、余命に向き合った3カ月
13歳の誕生日に数字入りのお手製の首輪をして(提供)  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回お話を聞かせてくれたのは、埼玉県在住の公認心理師の洋子さん(仮名、42歳)。一昨年12月9日、12歳の保護猫を迎え入れました。心根の優しい雌猫で、洋子さんがつらいときにはそっと寄り添ってくれました。しかし、これから落ち着いて生活をというときに、難病が見つかります。それでも「私の元に来たのには意味があった」と洋子さん。出会いと別れの約1年間の物語です。 *      *  * 私の愛猫の話を聞いていただけますか?  猫の名前は「ふわちゃん」といいます。昨年の12月22日にお空に上りました。一緒に過ごした時間はわずか1年と13日。でも、なぜか最初から心が通じていて、振り返ると猫のお世話をすることで私のほうが救われたのだと感じています。  ふわちゃんの元の飼い主さんは、都内で独り暮らしをするおじいさんです。ふわちゃんと数匹の兄妹猫を飼っていたのですが、病気で入院することになり、家に取り残されていたところを、ボランティアさんが救出したのです。  どうして私の家に来たかといえば、猫のお世話をするボランティア活動をテレビで知り、「私も猫ちゃんの助けになりたいな」と思ったことがきっかけ。私は10年ほど前から自宅の一室でカウンセリングをしており、相談の合間に少し時間があるので、動物の様子をみることができたのです。  試しに保護サイトを見てみたら、たくさんの“行き場を失った”猫たちがいて衝撃を受けました。そこで一目惚れしたのが、ふわちゃんです。お鼻がハートマークで、目の縁のアイラインもくっきりした美猫さん。サイトにはすでに保護の申し出がある猫もいましが、ふわちゃんは年齢のせいか、誰からもお声がかかっていなかったのです。  12歳といえばもうシニア。私も年齢が気にならなかったといえばうそになりますが、それ以上に引き寄せられるものがありました。  ふわちゃんは、一昨年の12月9日、私が1人で住む3DKのマンションにやってきました。 アイラインとハートマークのお鼻が魅力的なふわちゃん(提供)  ふわちゃんは本当にかわいく、お利口で、シャーもいわないし大声で鳴くこともしませんでした。夜になって「ここどこ?」という感じで窓辺からお月様を見上げているのを見ると、ちょっと切なくなりましたが、最初の晩からベッドで一緒に寝て、腕枕に体を預けてくれたんですよ。会ったときから私を信頼してくれていました。 ◆ 父親の突然の死…ふわちゃんと実家へ  ふわちゃんがやってきて12日目のことです。私にとって晴天の霹靂とも言うべきことが起こりました。  近くに住む70代の父が突然、亡くなったのです。ぴんぴんしていて、前日私も話をし、その日の寝る前まで母とテレビを観ながら笑っていたのに、夜中に背中が痛いと訴えて救急車搬送され、そのまま病院で亡くなりました。腹部大動脈瘤破裂でした。  そこから葬儀が終わるまでの1週間、私は自分のマンションと実家を行ったり来たりしながら、できる範囲で仕事もして、ふわちゃんの面倒をみていました。私は一人娘なので、急に独りになった母のことが心配でした。搬送途中で父に「(自分は)このまま逝く。お母さんのこと頼む」と言われたので、なおさらしっかり支えないと、と思ったのです。   そこで思い切って、49日が終わるまではふわちゃんを連れて実家に帰ることにしました。  ふわちゃんは順応能力が高く、実家にもすぐ馴染みました。仏壇の前の座布団にちょこんと座りながら、日中は過ごしていました。  ときどき、宙をふーっと目で追ったりするものですから、私も「ふわちゃん、おとうさんまだいるのね?」なんて声をかけたりして。私たちに笑顔を運んでくれさえしました。母も後で、「来てくれて心がなごんだ」と言ってくれました。  そうして、49日の法要を終えるまで、ふわちゃんは私と母を静かに見守ってくれました。 ◆現実を受け入れることができなかった私の葛藤  マンションに帰ってからも、私はやることがたくさんありました。相続の手続きが残っていたからです。父に相続のことも託されたと感じ、自分ですることにしたのです。カウンセリングの仕事をしながら、慣れない作業を続けました。  一連の手続きが完了したのが6月末。ようやくほっとできたのですが、今度はふわちゃんの様子がだんだんおかしくなってきたのです。 ふわちゃんの体調を綴ったノート(提供)  食事はしているけど、便があまり出ないのです。  病院を回り、詳しく検査をしてみたところ……「直腸腺がんだろう」と言われました。9月初めのことです。  直腸に腫瘍ができて狭窄し、肛門の前を塞いでいたため、便がでなかったのです。猫の腺がんは予後はよくないということでした。「年末まで持つかわからない」と言われ、私は言葉をなくしました。  その病気は猫では珍しく、治療は手術になります。直腸を反転させて肛門から出し、がんの部分を取ってまたお腹に戻すプルスルー術という方法です。  手術をすると(肛門を閉じる筋肉がなくなることもあり)便が出っぱなしになるので部屋が汚れます。しばらくはお腹も緩い状態になるし、さらに転移のリスクもある。腫瘍を取ったからハッピーになるということではないようでした。自分で獣医療の文献を探して読んでも、予後は悪いと書いてありました。  ふわちゃんが12歳で手術を受けることは生き地獄になるのかもしれない…。眠れないなか、わたしはふわちゃんを安楽死させようかとも考えてしまいました。  でも行動に移せなかった。目の前のふわちゃんは、ガリガリではないし、不健康には見えないのです。 顔を隠しておねんね(提供)  一方、手術にも踏ん切りがつかずにいました。手術をしてくれる病院はすでに見つかっているのに、ボランティアさんなどに連絡して、「いい先生いませんか」と、また2軒くらい、ふわちゃんを連れて病院に行きました。でも、どの先生にも「予後はよくない」と言われました。  結局、私はふわちゃんががんだとは認めたくなかったんですね。現実を受け入れたくなかったのです。  でもそこから私の中に変化が少し起きたんです。八方ふさがりともいえる状況で、「私のところにこの子が来たのは、なにか意味があるのではないか」と思い始めたんです。  私は家で仕事をしています。だから、(仕事の合間を縫って)様子を見ることができる。そこに来たということは、“体のことを見てくれる人”を猫のほうが選んだのだろう。だったらちゃんと向き合ってみよう、と思いました。 術後、お見舞いにいったとき(提供)  ようやく手術の決心をして9月25日、手術を受けました。退院は3日後でした。  退院してからは下痢と便秘を繰り返しました。お尻が汚れるとそこをふわちゃんが舐めるのですが、そうすると肛門がただれてきてしまって、エリザベスカラーとおむつをしてという状態が続きました。ふわちゃん本人は、便意をもよおすと、おむつをしたままトイレにいくので、そのタイミングで私がおむつを外し、お尻を洗ったのですが、このケアは家で仕事をしてなければ無理だなと、あらためて感じたものです。  下痢が落ちついてからは、「かりんとう」のような便が、ぽろっと床やベッドに落ちることがありました。でもそれすら愛おしく思えました。 食事や薬が綴られたノート(提供)  手術前に4キロあった体重は術後に3・5キロに。食欲増進剤を飲ませ、食べられそうな食事を探しました。“品評会”ができるのではないかというくらい買って。わがままになりましたね(笑)。でも好きなフードで3・8キロまで戻ったんです。 ◆一緒にいられる時間はあと少し  手術以降はふわちゃんに負担がかかる医療ではなく、症状の緩和のための処方を受ける範囲で通院をしました。  お昼寝して、キャットタワーでニャルソックして、私とおしゃべりして、ゆっくり家で過ごしてもらえれば……と思って。  そうして、12月9日、家に来て一周年を迎えました。  その日を誕生日にして、13歳のお祝いをしました。お手製の赤い首輪を作り、朝から何度もおめでとうと言ってしまいました。  でも、一緒にいられる時間は、あと少しでした。  誕生日の数日後、お腹が膨れているのがわかったんです。ついに来たか、と。直腸がんの症例を自分で調べたとき、最期は腹膜播種を起こして腹水がたまって亡くなる例が書かれていたのを私は覚えていました。  12月17日に、病院にいったときには、先生に「なんとか元気に年越しができそうだね」と言われたのですが、私は正直長くないと覚悟をしました。 通じ合うものがあり、来た日から腕枕で寝ていた……(提供)  12月22日、ふわちゃんは静かに虹の橋を渡りました。  その日の朝も、好きな味のペーストを舐めていたんですよ……。最期のとき。とっても可愛い声でナァーンと鳴いたので眉間を撫でると、愛らしい甘えた目で私を見てゆっくり瞬きをしてそして、深い眠りにつきました。  最期まで本当に美猫さんでした。そのままずっと胸に抱いていたので、抱いた形のままになりました。  ふわちゃんは、甘えるのが好きで、撫でるとすぐにグルグル喉を鳴らすけれど、抱っこされることが苦手でした。きっと前のおうちで、抱っこの習慣がなかったのでしょうね。でもふわちゃんは人をこわがらず、すごく落ちついているので、飼い主さんに愛されていたということだけは、よくわかりました。  抱っこ嫌いだったので、旅立って初めて抱けたわけですが、それも幸せな時間でした。亡くなって2晩ほど、クリスマスソングを一緒に聴いて、早めのクリスマスを過ごしました。 ◆うちに来てくれてありがとう  今は、闘病の苦痛からふわちゃんが解放されたんだから良かったな、と安堵の気持ちです。ふわちゃんのいない家に慣れるのには、もう少し時間が必要かな。 お気に入りのマカロンベッドですやすや(提供)  生前、あなたは誰なのとふわちゃんに聞く事が何度かありました。  実は、ふわちゃんの命日は、父の命日の翌日でした。  父の一周忌。無事一周忌法要を終え、先日、命日を迎え……その翌日です。まるで「お役目」を果たしたかのように、ふわちゃんは、私のもとから旅立ちました。  父の他界後の1年、悲しみの底にいる私達のそばで見守ってくれて、落ち着いたころ、自らの介護に奮闘させる事で悲しみの沼に落ちない様に、私を救いに来てくれたのではないかと思うんです。  ラストの3カ月は介護だったけど、一喜一憂する私に「まぁ落ちついたら」と諭すような視線を送ってきて、いつでもおおらかにのんびりしていて、お世話の時も悲壮感がありませんでした。  ふわちゃんとの間には、いつでも不思議と「わかり合えていた」感覚があり、その感覚に今もふとしたときに救われます。 メダカを見るふわちゃん(提供)  寂しいけれど、前をむいていきたいと思います。いつまでも泣いていたら、ふわちゃんも安心してお空で遊べないものね。  ふわちゃん、私のうちに来てくれてありがとう。ふわちゃんのお世話ができて楽しい日々でした。  ふわちゃんは、幸せだったかな? 外を見るのが好きだったふわちゃん(提供) (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
ねこ保護猫
dot. 2022/01/01 14:00
愛子さまが担う“将来と決意” 黒田清子さんとの共通点は「控えめな星が好き」
愛子さまが担う“将来と決意” 黒田清子さんとの共通点は「控えめな星が好き」
2021年12月、成年の行事に臨む愛子さま  美智子さまをはじめ、これまでの皇室を支えてきた女性皇族。その将来を象徴するのが、このほど成年皇族となった愛子さま。自然を愛し、勉学に励みつつ、女性皇族の宿命をも背負う。黒田清子さんとの共通点と、愛子さまの将来、そして決意とは。ジャーナリストの友納尚子氏がレポートする。 *  *  *  成年を迎えられた愛子内親王殿下は12月5日に無事に行事を終え、毎冬楽しみにされている天体観測を天皇、皇后両陛下とご一緒になさった。 「見つけた!」。愛子さまは、御所の大きな窓からプレアデス星団、通称「すばる」を見つけて、喜ばれたそうだ。 「すばる」は平安時代に清少納言が書いた随筆「枕草子」にも登場する星で、明るさは控えめながら、青白い美しさで知られている。  幾つもの星が集まっていることから“結ばれる”などの意味も持つともされるが、見方によっては仲良く楽しそうにも映る。  愛子さまはこの星たちを見ていると、希望が感じられるという。成年皇族となって初めての天体観測は、これまでとは違って見えたのだろう。輝き続ける星々を見つめられるお姿からは、成年皇族としての決意が感じられたそうだ。  愛子さまが星を好きになったのは、天体観測をよくなさる陛下の影響だった。皇太子時代から妹の清子内親王殿下(黒田清子さん)ともよく望遠鏡や双眼鏡で夜空の星を眺められたという。 「紀宮さまも愛子さまと同じように、明るい光を放つ星よりも少しぼんやりとした光だけども美しい星が好きだといわれました。皇太子さまとは仲が良かったため互いに星の名前を言い当てたり、探されたりしながら楽しい時間を過ごされた思い出がおありになるそうです」(元宮内記者)  愛子さまが成年の行事で着けたティアラは、清子さんからの快諾を得た借用というだけでなく、ともに天皇家の長女として生まれ、お育ちになったお二人の「歴史の継承」でもあった。  祝賀にご夫妻で出席なさった清子さんは、愛子さまの佇まいをしっかりと見届けられていたそうだ。優しさの中に皇族というものへの思いが託されていたのかもしれない。 05年、朝見の儀の紀宮さま(当時) (代表撮影)  紀宮(当時)は、皇太子同妃両殿下(同)の、徳仁親王殿下(同)、文仁親王殿下(同)に続く3人目のお子さまとして、1969年に誕生された。  その年は、アメリカの宇宙船「アポロ11号」が人類で初めて月面に着陸し、日本は学生運動に揺れ、高度経済成長の最盛期を迎えるという激動の時代だった。  当時の皇太子は紀宮の教育方針について「何よりも本人の意思が大切でしょうが、将来は結婚して身分を離れるのだから、例えば社会福祉に役立つような皇族としての教育と、一般市民になった時のための教育とを調和を取りながら進めたい」と述べられている。 「いずれは皇室を離れる身」という将来を見据えたものだった。時代の考え方と母親の美智子さまが社会に出ずに皇室入りしたことが背景に窺(うかが)えた。  一方の愛子さまが生まれた2001年は、米同時多発テロなどの影響もあり景気は後退、暗い話題が多い中での愛子さまご誕生の報は、国民から大きな祝福を持って迎えられた。  皇太子(同)はご誕生の会見で、 「子どもには陛下をお助けして、そして、国や社会のために尽くす気持ちを養って欲しいというふうに思います」  と希望を述べられた。  美智子さまと雅子さまはともに、お子さまに合った良い環境を求めて幼稚園選びをされた。  結果、紀宮は3歳で民間の「柿ノ木坂幼稚園」に1年間通園した後に学習院幼稚園へ。愛子さまは、両殿下が民間の幼稚園のパンフレットを多く取り寄せ検討の末に学習院幼稚園に決まった。  プライベートでは、ともにご家族で水族館や動物園などに出掛けられた。  注目すべきは、紀宮が学習院初等科2年生の時から美智子さまと二人で旅行をなさるようになったことだった。 ◆清子さんの自立促す教育  皇室を離れる日まで見聞を広めるためにも多くの体験と思い出を、という親心だったのだろう。  お二人は、毎年のように箱根、愛知県の熱田神宮、和歌山の白浜などを訪れて、紀宮が12歳の時には京都の修学院離宮、大宮御所を回られた。紀宮が時代劇ファンだったことから東映の太秦映画村へも足を運ばれて、江戸の古き町並みのセットに、感激なさったといわれた。 1975年、即位50年の新年を迎える昭和天皇ご一家(当時)  88年の18歳の時には、岐阜県美濃地方のパイプオルガン工房にも宿泊されている。  後に紀宮はここに親友とやお一人でも泊まられて、家庭の味や暮らしを知ることになったという。こうしたことも美智子さまの、自立を促す教育だったのかもしれない。  愛子さまは雅子さまがご療養中ということもあり、いまだに母娘二人旅は実現していない。愛子さまはご一家でスキーや雅子さまの妹親子とご一緒に近郊に出かけられることはあったが、それだけでも「雅子妃は公務を休んで遊んでばかりいる」とメディアから批判を受けてきたので、療養中である限りたとえ旅行をなさったとしてもリラックスできないかもしれない。 「愛子さまは、それでもお友だちとボウリングをしたり、水族館へ行ったりして楽しい時間をお過ごしになってきたので、不満を漏らされるようなことはなかったそうです。『急がなくても行こうと思ったら、いつでも行けるから』とおっしゃって、雅子さまを庇(かば)うようにも感じました」(ご一家と親交のある人物)  紀宮も愛子さまも、幼い頃からご両親に命の大切さを教えられて、たくさんの生き物に囲まれて育ってきた。  紀宮は12歳の誕生日に、かねて飼いたいといっていた犬を両殿下からプレゼントされた。犬種は紀州犬で、名前は「千代」。学習院初等科の卒業文集に将来の夢は「盲導犬の指導員になりたい」と書かれるほどだった。 ◆動物保護にも興味と関心  紀宮は「千代」にも盲導犬の訓練を受けさせていたが、92年に紀宮が海外訪問中に預けられた施設から脱走してしまい、そのまま行方知れずになってしまったという。  その後も紀宮の犬に対する愛情は変わることはなく、学習院女子高等科から盲導犬の指導を始められている。  愛子さまと犬の関わりも深いものがある。既にご誕生された時には、家に両陛下が可愛がってこられた2匹の雑種犬「ピッピ」と「まり」がいたことから、家族のような存在だったという。 02年、栃木の湿原を散策する皇太子ご一家(当時)  赤坂御用地に迷いこんだ犬が産んだ10匹のうちの2匹で、後は職員が引き取った。  今でこそ保護犬や殺処分問題に注目が集まるが、当時はまだあまり知られていなかった。犬を含めた小さな命を守ることを両陛下が大切になさってきたからこそ愛子さまにも教えられてきた。  愛子さまの幼稚園の通園バッグには、雅子さまが愛犬2匹の刺繍を施されていたり、愛子さまも学習院初等科になってから、犬の首に巻くバンダナを手作りされた。 「宮さまは、『ずーっとずっと だいすきだよ』という絵本が大好きで、妃殿下(雅子さま)もお好きだったことからよくご一緒に読まれていたようです。物語には、愛するペットとの触れ合いや別れなどから教えられることがあるそうで、教科書にも載るほどの作品だと妃殿下はお話しになっていました」(元東宮関係者)  その後、2匹は老衰で亡くなり、動物病院に保護されていた生後2カ月の3代目となる犬を引き取られた。愛子さまは「まり」に寄せて「由莉(ゆり)」と名付けて、きょうだいのように可愛がられてきた。  12歳となった由莉は、愛子さまの20歳のお誕生日の写真にも凜として一緒に写っていた。  愛子さまも学習院初等科の卒業文集には、紀宮と同じ犬がテーマで「犬や猫と暮らす楽しみ」を書かれている。  紀宮と同じ初等科5年生の時から盲導犬活動にもご関心が高かった愛子さまは、毎春、学習院大学で行われるイベント「オール学習院の集い」で「アイメイト協会」が主催するブースにも必ず立ち寄られてきた。  雅子さまと愛子さまは動物介在療法にもご関心が高い。 「お二人やご一家で、動物介在療法のセミナーや実際に病院などに出向かれて、犬と患者との触れ合いを見学なさってこられました。犬によって、患者さんの表情が明るくなる様子に感動なさっておられました」(宮内記者)  今後は愛子さまも紀宮と同じように、公務で盲導犬の活動を見学、体験なさるかもしれない。  お二人の共通点はまだある。愛子さまが学ぶ学習院大学文学部日本語日本文学科(旧・文学部国文学科)は紀宮と同じ。  お二人とも、幼い頃から、独自の歌やお話を作られるのが好きだったという。学校で学ばれるようになると、日本で生まれた短歌や詩、戯曲といった文学作品を通じて、時代背景や作者の見方を究めていかれた。  紀宮は、美智子さまの文学に対する捉え方のセンスや文学の才能を受け継いでいるといわれる。中等科2年の時の詩「母の日に」は次のようなものだった。 <母の日に夕焼けの絵を書いた 夕焼けはどこか母に似ているから 夕焼けの絵を書いた ただそれだけの絵なのに 母は大事にたなの上に かざってくれた 夕焼けのよく見える 窓の近くにかざってくれた>  紀宮は大学では、和歌を学ばれて、卒業論文は「八代集四季の歌における感覚表現について」。古今和歌集から新古今和歌集までの歌を五感に分類したものだと言われ、歌会始の歌にも役立つほど研究されているという。  愛子さまも幼稚園のご入園前から文字の成り立ちなどを学び、五七調の歌や俳句、詩などを作られてきた。初等科卒業前の文集に歴史研究レポート「藤原道長」が掲載されている。  大学はコロナ禍で、これまで1回しか通学していないが、オンラインで課題と授業に取り組む日々を送られている。  今後は学業を優先されながら、社会福祉、慈善事業などの公務にもご出席されることだろう。卒業後はどのような仕事に就きたいと願われているかは分からないが、陛下と同様、ご興味のあるテーマについて継続して研究なさる仕事を選ばれるのではないだろうか。 ◆公務と研究を両立する働き  愛子さまにとって、母親の雅子さまは理想の女性であり、理想の働く女性でもある。  それは、紀宮にとっての美智子さまも同じ存在であっただろう。  紀宮は卒業後、「公務に差し支えのない範囲で」(会見)、「山階鳥類研究所」の非常勤研究助手となった。同資料部に配属された時には、お茶くみなどもする配慮をされていたという。内親王が4年制大学を卒業して働かれるのも給与を得られたのも初めてのことだった。皇居や赤坂御用地でのカワセミの生態を研究しながら、専門書にもレポートを寄せられている。 2005年、アイルランドのメアリー・マッカリース大統領(中央)と話す紀宮さま(当時)  同時に公務も本格化していった。宮中の儀式を始め、式典や大会へのご出席、盲導犬の育成や社会福祉施設への訪問など成年皇族としての約15年間で、740回の公務と14カ国を公式訪問なさった。  まさに公務と研究活動を両立される働きぶりは、男女雇用機会均等法世代の女性を体現されてもいた。千葉県我孫子市にある研究所にもご結婚前まで、週に2回、片道1時間以上をかけて車で通勤されていた。  33歳の誕生日に際し、「継続的な責任ある立場に就いたりすることは控えてきた」と女性皇族としての公務について述べられた紀宮。皇籍を離れ黒田清子さんとなった後も、元皇族として伊勢神宮祭主のご活動を続けている。  愛子さまは、どんな女性皇族を目指すのだろう。 「愛子さまは成年の行事の際、清子さんがこのティアラを着けて、皇族としての務めを大切に行ってこられたことを両陛下から聞いておられただけに、身が引き締まる思いで行事に臨まれたといわれています」(宮内庁関係者)  愛子さまの公務への取り組み方は、清子さんと同じように、緩やかなものから本格化していくことになるだろう。注目されるのは「継続的な責任ある立場」に就けるかどうかだ。時代は変わり、やがて愛子さまが初の責任ある公務に取り組むことができるか期待が寄せられている。※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
愛子さま皇室
週刊朝日 2022/01/01 10:00
「患者に残された時間を伝えるのも私の仕事」 在宅「看取り」件数東京都1位の診療所医師がみた現場
「患者に残された時間を伝えるのも私の仕事」 在宅「看取り」件数東京都1位の診療所医師がみた現場
都内看取り件数1位・立川在宅ケアクリニック院長の荘司輝昭医師(撮影/白石圭)  自宅で最期を迎えたいという患者の希望を多くかなえた診療所はどこか――週刊朝日ムック『さいごまで自宅で診てくれるいいお医者さん 2022年版』(朝日新聞出版)では、全国1518件の診療所の「看取り件数」を独自調査により掲載している。東京23区+市部で「看取り件数」が最も多い診療所はどんな診療所なのか。日々往診をおこなう医師の思いを聞いた。 *  *  *  近年増えている「在宅医療」をご存じだろうか。患者が病院に行くのではなく、医師が患者の自宅に出向き、診療をおこなう。病院での過剰な医療で延命されて迎える最期とも違い、望まぬ形で突然自宅で亡くなるのとも違う。自らの意思で、住み慣れた自宅での穏やかな最期を選ぶ人を支える医療が、数ある在宅医療の形の一つだ。  日本財団が2020年11月に67~81歳の男女に対しておこなった調査では、最期を迎えたい場所について「医療施設」と答えた人が33.9%だった一方、「自宅」と答えた人は58.8%だった。にもかかわらず、自宅で医療を受けながら最期を迎えたいという希望がかなうケースはまだ少ない。厚生労働省の「人口動態調査」によれば、2020年に亡くなった人の82%は病院のベッドで最期を迎えている。  そのようななか、在宅看取りを積極的に支えてくれる診療所はどこか。表は、東京都での2020年6月~21年6月の診療所別「看取り件数」ランキングだ(上述のムックから)。  看取り件数283件で、1位の立川在宅ケアクリニックはどのような診療所なのか。 ■医師一人あたり40人近くを担当、看取り総数は4000人超  東京市部の主要都市・立川。JR立川駅の一日の平均乗降客数は上野駅よりも多い。そこから多摩モノレールで4駅離れた閑静な住宅街にクリニックはある。  2000年、立川市上砂町の調剤薬局の2階に在宅緩和ケア専門の診療所として開業。以来多摩地区を中心に在宅医療をおこない、16年には緊急往診や看取りなどに関する高度な実績を必要とする「在宅緩和ケア充実診療所」として厚生労働省の認可を受けている。00年に60人だった在宅患者数は、20年には150人程度を抱えるまでになった。常勤医師は4人。1医師あたり40人近くの患者を担当している計算になる。診療所全体で例年250人前後のがん患者を看取っており、21年12月20日までの看取り総数は4135人を数える。 立川市の住宅街にある立川在宅ケアクリニック(撮影/白石圭)  院長の荘司輝昭医師は、一日10件前後の家に車で訪問する。厚生労働省は病院から半径16キロ圏内に出向く診療を「在宅診療」と定義づけ、保険点数の加算対象としているが、立川在宅ケアクリニックの半径16キロには吉祥寺、立川などといった人口が集中する街も含まれている。  限られた医師で、24時間365日、多摩地区の幅広いエリアをカバーする往診対応をどう工夫しているのか。荘司医師はこう話す。 「家族をいかに味方につけるかが一つのポイントだと思っています。家族全体が在宅医療に慣れれば、急な症状変化にも自分たちで対応することができる。そのためには『家族の力』を高めるのが一番必要なのではないかと思っています」  たとえば、昼間の往診で疼痛コントロール(がんによる痛みに対する治療)ができていれば、夜間の緊急往診数は少なくて済むと荘司医師は言う。 「手術や大きな検査を除き、末期がんの人の痛み止めなどの治療は在宅医もおこなっています。ですが医師は家族の代わりにはなれません。患者のそばに24時間いるのは家族です。がんや心不全、呼吸不全の末期で、夜に苦しい症状が出ると、家族は心配して医師に電話することがあります。でもそこで、この薬を使ってみてくださいと言ってみると、症状が落ち着いて電話が来なくなることも。昼間、家族を含めて患者への対応がちゃんとできていれば、家族が不安になって医者を呼び出すこともなくなってきます」 ■残された時間を伝えないと、家族が最期を見届けられない  また在宅医として、残された時間がどのぐらいかを患者に伝えることも大事な仕事だと語る。その背景には、警視庁の嘱託医として勤めてきたなかでの苦い経験がある。 「ある大学病院の先生が『次に来たときはホスピスのことも考えないといけないね』と言って帰した患者さんが、その翌日に亡くなり、私が警視庁で検案(検視)したことがあります。ご遺族と話すと、『昨日病院に行ったときはまだ大丈夫って言われたんです』と。でもその患者さんは、私が見たところでは、がん末期でいつ亡くなってもおかしくなかった。医者も患者から見放されたと思われるのはつらいから、短い外来の時間で最期について話すのは難しいのだと思います。だけど伝えないと、家族が患者の最期をちゃんと見届けられなくなってしまう。だから“大病院と町医者のすみわけ゛が重要なのです」  そうした経験を踏まえ、在宅医療の意義をこう語る。 「町の先生も、長年見てきた患者さんが限界だと思ったら、ちゃんと外来で伝えなければいけないと思うのです。うまく食べられなくなってやせ細った高齢者の人が急に倒れて、家族に救急車を呼ばれ、救急隊員に心臓マッサージされて、大きな病院に運ばれて、警察医に遺体を検案されるのは、ちょっと理想とは違うかもしれないですよね。そうではなくて、町の先生と連携して、どうすればこの人が残りの少ない時間を家族と一緒に楽しく過ごせるかを考えるのも、我々の仕事です」 ■「大病院と町医者のすみわけ」カギになったコロナ禍  同クリニックはコロナ禍においてもさまざまな在宅診療をおこなってきた。荘司医師は立川市医師会のワクチン担当理事を務めたが、そこで地域包括ケアの真価が試されることになったという。その事例の一つが、外出が難しい高齢者のために、在宅でのワクチン接種の体制をいち早く21年5月中旬に整えたことだ。 「65歳以上の接種が始まるとなったときに、まずは各クリニックの接種開始日を決めましたが、その次は心疾患などで重症化リスクの高い人や、在宅医療を受けていて外出が難しい人に優先的にワクチンを接種するように決めました。そしてその次は、やはり重症化リスクの高い透析患者の人たちが普段通っている透析病院で接種ができるよう、各病院長に呼びかけ、計画を立てました」  6月下旬から始まった「第5波」の渦中でも、「大病院と町医者のすみわけ」がカギになった。 「多摩地区の医療はなんとか耐えきりました。立川には災害医療センターという三次救急(重症・重篤患者に対して高度な医療を行うこと)の病院があり、最初はどんな患者でもまず入院させていました。しかし感染者数が多くなると、ベッドの数が足りなくなってきました。そこで軽症の人を我々が在宅で引き取り、空いたベッドを往診で診てきた中等症以上の人にゆずることにしました。病院と町の診療所が普段からやりとりして、電話一本で連携できるようにしていれば、入院が必要な患者が入院できないということはなかったと思います」  在宅の患者を支え、地域医療を支える在宅医。このコロナ禍を、荘司医師はこう振り返っている。 「入院調整もワクチン接種の順番も、大病院と町医者がそれぞれの役割を果たして連携することが大事なのだと本当に思いました。このコロナ禍は『地域包括ケアの究極の実験場』だったと思います」 (白石圭)
病気病院看取り
dot. 2021/12/27 09:00
料理研究家・リュウジ “天職”に巡り合うためには「大好き」の発信が大事
中島晶子 中島晶子
料理研究家・リュウジ “天職”に巡り合うためには「大好き」の発信が大事
リュウジさん(35)/最新刊『リュウジ式至高のレシピ』(ライツ社)がベストセラー。フォロワー数はツイッター196万人、ユーチューブ250万人(撮影/写真部・加藤夏子)  在宅勤務が増え、ダブルワークに興味を持つ人も少なくないだろう。会社の外で通用する自分になるにはどうすればいいのか。「かつては何者でもなかった」有名人の話に貴重な“気づき”があった。AERA 2021年12月27日号は、料理研究家・リュウジさんに聞いた。 *  *  *  今や出版する料理本がベストセラーを連発し、テレビでも引っ張りだこの料理研究家・リュウジさん。2019年までは年収300万円台の会社員だった。 「最初に就職したのはホテルでしたが、勤務4年目に東日本大震災の影響で閉鎖されました。よし、次は子どもの頃から大好きだった料理の道に行こうと、イタリア料理店に転職。でも、その店の休みは月3日しかなかった。朝9時から深夜0時までの長時間労働が当たり前のブラックな職場でしたね。『このままでは料理が嫌いになる』と思って3カ月でやめました」  その後、介護関連会社が運営する高齢者専用住宅のコンシェルジュとして転職。7年間、勤めた。介護関連会社では、高齢者の対応以外に日々の記録事務作業も求められた。 「僕は事務が苦手……というか興味がなかったので、ほぼやりませんでした(笑)。でも『施設の食事がおいしくない』という話を聞いたら、志願して月に1度のディナー会を提案するなど、入居しているおじいちゃんおばあちゃんの満足度や生活の質を向上させることには、いくらでも熱心になれた」  会社のリュウジさんに対する評価は「プラマイゼロ」。 「全部、平均点じゃなきゃダメなんですよね。こっちはめちゃくちゃできるけど、あっちはめちゃくちゃできない人は会社員として評価されません。要するに、ダメダメでしたね」  リュウジさんが料理の才能で世の注目を浴びるきっかけになったのは、ツイッターに投稿した“バズレシピ”のおかげ。 「最初はアメブロ(サイバーエージェントのブログサービス)に『ピンク色のチャーシューを低温調理で作る方法』などを発信していました。料理好きの人のためのレシピですね。そのうちなんとなくツイッターでもレシピをつぶやくようになって。『大根をから揚げにするとおいしいんだよ』と、白だしで煮た大根のから揚げレシピをツイートしたら“バズった”。100人だったツイッターのフォロワーが一気に3千人まで増えました。『あ~、みんな、こういうのが好きなんだ』とうれしくなり『ペッパーチーズ枝豆』というレシピをアップしたらフォロワー数は5千人になりました」 ■やっぱり年300万円  極め付きは千切りキャベツにシラスや味の素、ゴマ油をかけた「無限キャベツ」。フォロワー数は一気に1万人を超えた。 「発信しているうちに、レシピを求めている人は料理が好きな人ばかりではないということに気づきました。自分とは違い、料理に手間をかけたくない人がたくさんいる。求められているのは少ない時間、限られた材料で、誰が作ってもおいしいレシピ。それを考えるのが楽しい」  今のリュウジさんは、会社員時代と何も変わっていない。 「好きなことをしていたら、なぜか収入が会社員時代の数十倍になりました。でも法人にしたので、僕の役員報酬はやっぱり年300万円です(笑)」  リュウジさんが「ここで一つ言ってもいいでしょうか」と背筋を伸ばした。 「今、会社員で自分の好きじゃないことをやってる人、たくさんいますよね。それ、多かれ少なかれ社会のためになっています。好きなことだけしてお金をもらうより、嫌でも働いてるほうがよっぽど偉くないですか? だから自分を下げたり“自分なんか”って思わないでほしい。今、働いているあなた。すでに市場価値はありますから」  自分の現在の仕事は肯定したうえで、何かを外に向けて発信すること。それが副業の天職に巡り合うために大切。 「自分はこれが大、大、大好きっていうプラスの感情で、世の中に発信してみてほしい」  そう、リュウジさんが料理のレシピをつぶやいたように。 「自分の好きなことを人に伝えるだけ。今日の朝ごはんの写真とか。甘いものが大、大、大好きなら今日のおやつとか。食べ物の話ばっかりですけど、ゲームでも、ネトフリ(ネットフリックス)の感想でも、発信の内容はなんでもいいんですよ」 (ジャーナリスト・安住拓哉、編集部・中島晶子)※AERA 2021年12月27日号より抜粋
AERA 2021/12/24 11:30
「中年の星」錦鯉M-1優勝で視聴者もらい泣き 「第7世代に負けない輝き」の称賛
「中年の星」錦鯉M-1優勝で視聴者もらい泣き 「第7世代に負けない輝き」の称賛
優勝トロフィーを手にする錦鯉  心を揺さぶられた視聴者は多いだろう。漫才日本一決定戦「M―1グランプリ2021」決勝が19日に行われ、お笑いコンビ「錦鯉」が第17代王者に輝いた。優勝が発表されると、ボケ担当の長谷川雅紀(50)は「諦めないでやってきてよかった。僕はラストイヤーが56歳だった。その前に今年決めれてよかった」と号泣。ツッコミ担当の渡辺隆(43)も「本当に雅紀さんとコンビ組めて良かったです」声を上ずらせた。2人が抱き合う光景を見て、審査員たちももらい泣き。サンドウィッチマンの富澤たけしが「賞金で歯、入れてください」と目をうるませると、ナイツの塙宣之は「本当、ごめんなさい。モグライダーが残念でなりません」とおどけたが、目元をぬぐった。 「錦鯉の2人が初優勝を飾ったことは他の中堅、ベテラン芸人にも大きな励みになったと思います。長谷川は23歳から芸人になったがなかなか売れず、ピンで活動したこともあった。牛丼チェーン店で週5日深夜勤務を10年間続けるなど、様々なバイトで生活費を稼いできた。長く続く不景気に加えてコロナ禍もあり、他の芸人がどんどん辞めていく中、2人はコツコツ努力を重ねてあきらめなかった。第7世代の台頭でお笑い界も若返りの傾向がありましたが、年齢を重ねたからこそできる芸もあります。錦鯉の漫才は同世代だけでなく、若い世代や子供たちにも人気です。長谷川は愛される天然ボケで渡辺は頭の回転が速い。トークもうまいし、老若男女問わない人気芸人としてこれから仕事のオファーが殺到するでしょう。体調管理だけには気を付けてほしいですね」(スポーツ紙芸能担当記者)  2019年のM-1グランプリで準決勝進出し、昨年は決勝進出して4位に入賞。遅咲きの実力派はテレビなどメディアで露出が急増し、今大会では優勝候補と見られていた。ファーストラウンドは「50代の合コン」で665点獲得し、2位で最終決戦に進出。最終決戦は「街に出た猿との戦い」で爆笑をさらった。オール巨人がオズワルド、上沼恵美子がインディアンスに入れたが、その他の5人が錦鯉に投票。長谷川49歳の昨年に「最年長ファイナリスト」の記録を塗り替えたのに続き、「最年長チャンピオン」の栄冠をつかんだ。  テレビ業界で数年前に一大ブームになっていたのが、「お笑い第7世代」だ。18年M-1王者の霜降り明星を筆頭に、EXIT、宮下草薙、四千頭身、ハナコ、3時のヒロイン、ぼる塾ら若手芸人たちが席巻。テレビ制作スタッフは「霜降り明星、EXITを筆頭に華やかな雰囲気で『主役感』がある。彼らはダウンタウン、とんねるずを見ても萎縮する世代ではない。個性的で洗練されたお笑いの世界を作り上げるので、一時は企画会議で『第7世代は絶対にキャスティングしろ』が合言葉になっていました」と振り返る。  だが、中堅やベテラン芸人も負けていない。この世代の1つ上の「第6世代」に当たる千鳥、オードリー、NON STYLE、ジャルジャルも根強い人気を誇る。  そして、今大会は「中年の星」と形容したくなる錦鯉が初優勝。ネット上では、「おめでとうございます。感動して、こちらまで泣けてきました。世の中の50代に希望を与えてくれたと思います。ほんとに面白かったです」、「数年前から第7世代と呼ばれる若くて勢いがある芸人達が台頭してきた中、その子たちが生まれた頃くらいから何年も何年も諦めずに頑張ってきたおじさん達が報われた瞬間の涙にはもらい泣きしました」など感動の声が。  閉塞感漂う世の中で、過去最多6017組の頂点に立った錦鯉の偉業は今後も語り継がれるだろう。(安西憲春)
dot. 2021/12/20 15:50
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