中国の塾産業が“消滅”し大量失業 一方で「早く死んで早く生を得たほうがいい」と政策支持する声も
モニュメントは「北京五輪まで50日」を示すが、人々の日常に変化はない。北京市はコロナ対策のために、固く門を閉ざす(photo gettyimages)
中国で隆盛を極めた塾業界が、政府からの通達一つで事実上消滅した。塾産業に従事した人々は苦境にあえいでいるが、一方でこの政策を支持する人もいる。AERA 2022年1月24日号の記事を紹介する。
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「まるで雪崩だよ。塾産業に関わっていた2千万人がゼロから仕事を探すことになったんだから」
そう話すのは、北京市内の大手学習塾「巨人教育」で5年間、講師をつとめていたという男性(31)だ。
担当は個別授業。夏休みや冬休み、そして週末には、朝8時から時には夜10時まで、1対1で子どもたちを教えた。平日の授業は学校が終わる午後4時以降だが、朝から準備に追われ、授業の後も保護者への対応に時間を割いた。激務と引き換えに、多い時は彼の地元の公立校教師の3倍以上に当たる1万5千元(約27万円)の月給を手にしていた。しかしその生活は、昨年7月に政府が突然公表した、いわゆる学習塾禁止令でひっくり返った。
2021年、中国ではITや芸能など、いくつかの業界を対象に大規模な締め付けや摘発が相次いだ。中国共産党と中国政府が連名で出した、小中学生向けの学習塾を一律非営利団体化し、週末と長期休暇の授業を禁止する通達「宿題と学習塾が義務教育段階の児童・生徒にもたらす負担のさらなる軽減について」は、その最たるものだ。格差解消を目指す習近平(シーチンピン)指導部が掲げたスローガン「共同富裕」の一環と見られているが、これほどの激変を、北京の人々はどう受け止めているのか。
■1点の差で「1万順位の差」 熾烈な受験戦争で人口減
冒頭の男性が勤務していた巨人教育は、彼の2カ月分の給与を未払いにしたまま、北京市内に100カ所以上あったすべての教室を8月に閉鎖し、同月31日に破綻を宣言。男性は妻とともに、実家のある河北省の田舎町への引っ越しを余儀なくされた。講師を務める学生を勧誘するなど営業部門の社員なら転職先もある。しかし、教師たちは他の業界への転職も一筋縄ではいかない。「教えるのが好き」というこの男性は、地元の公立小学校の教員への道を考えたこともあったが、月給が4千元(約7万円)と低すぎて断念した。
「家族を養うにはとても無理」
目下、公務員試験の勉強中だという。
極端な「市場主義」でどんどん高級化する塾の人気ぶりは、格差やゆがみの象徴でもあった。冒頭の男性が担当していた個別授業の受講料は1カ月に6千元(約10万円)とも言われる。
「あんな塾は閉鎖されて当然」
と息巻くのは、中国版ウーバー「滴滴」の運転手として北京に出稼ぎにきている男性(48)だ。地元で妻と暮らす中学2年生の娘は、大学まで進学させたい。だが、毎月の稼ぎが約7千元(約12万6千円)の男性に、塾通いの費用を捻出することは難しい。
中国の受験戦争は、全国大学共通試験の1点の差が「1万順位の差」と言われる熾烈さだ。義務教育は、日本よりレベルの高い英語力などの「結果」を出している一方で、公立校への投資は少なく、地方都市の教師の給与は北京の警備員並みだ。
塾産業は受験を有利に勝ち抜きたい親子にきめ細かいサービスを提供し、みるみる高級化した。懇切丁寧な1対1の個人指導サービスなら、2時間で1千元(約1万8千円)前後。「名門校の先生が教えてくれる」という口コミの中学生向け補習クラスは、12人のクラスで90分授業10回が6千元(約10万円)と日本以上だ。子どもたちの心身の負担も問題になっていた。
2歳の子どもを育てながらIT企業で働く女性(39)は、いらだちを隠さない。
「もし中国がこれまでやってきた『試験対策教育(応試教育)』をこの期に及んで変えないなら、人間への害は本当に大変なことになるわよ。国からすれば、それは想造力の欠如。ノーベル賞が取れないのはこの教育の土壌のせいだと思う」
2千万人とも言われる大量の失業者を出す一見乱暴なやり方について尋ねると、彼女はのみ込むように一拍置いて、こう答えた。
「改革は必要なの。今までのやり方はもう合っていないんだから淘汰される。だったら早く死んでそのぶん早く生を得たほうがいいわよ」
(AERA 2022年1月24日号より)
一部を犠牲にすることで大多数が「結果」を手にできるなら、バッサリと切り捨てる。大多数の合理性こそが、中国で優先される価値観だ。
人口問題との関係を指摘する声もある。過酷で均一的な競争社会の生きにくさに対する市民の意思は、人口の激減に表れた。中国の合計特殊出生率は、日本を下回る1.3。北京や上海などの大都市だけでなく、儒教的伝統が色濃く残る農村を含めた中国全土の数字としては、信じがたい低さだ。
学習塾禁止令の背後には、政府の産業戦略があると指摘する声もある。
世界各国で、国を凌駕する勢いで巨大化するIT企業。中国は、こうした企業の国営化や国有化を進めており、今回の塾禁止令もその一環ではないか、というのだ。実際、政府はこれまで塾が提供してきたインターネットを通じた家庭教師サービスと同様のサービスを、より安く提供しはじめている。米国で上場する「新東方」や「好未来」などの大手民営塾がとりわけ壊滅的な打撃を受けたことは、中国国内からのデータ流出を嫌い、米国上場企業を排除しようとする動きにも符合する。
数千年変わらぬ古い農村社会の基盤の上に、世界一「圧縮」して成し遂げられた経済成長を重ね、さらに高度のIT社会に向かう中国。積年のゆがみと矛盾を抱えギリギリで巨体を回す中で、民営塾をつぶして国営塾を設立するという前代未聞の荒行は起きた。(ライター・北野ずん(北京))※AERA 2022年1月24日号より抜粋
AERA
2022/01/23 09:00