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夜食は「愛の不時着」チキン 明洞は死んだ?「私たちの韓国は健在だった」 最速観光ルポ【繁華街編】
夜食は「愛の不時着」チキン 明洞は死んだ?「私たちの韓国は健在だった」 最速観光ルポ【繁華街編】
明洞のメインストリート。コロナ前も夜は人通りが少なかったが、空き店舗のせいでより寂しく見える  ソウル一の繁華街として知られていた明洞(ミョンドン)。だがコロナ禍で海外からの観光客が途絶え、SNSなどでは「明洞が死んだ」と話題になっていた。いま、どうなっているのか。韓国観光公社主催のマスコミ関係者向け視察旅行2日目の6月16日夜、明洞を歩いた。 ※記事<<ポストコロナの韓国観光「感涙」の最速ルポ  コロナ後「初」の「テチャン」を体感【ドラマロケ地&K-POP編】>>より続く  明洞駅6番出口からメインストリートに出ると、巨大な白いビルが目の前に現れる。ここはかつてアジア最大規模の店舗としてにぎわっていた「ユニクロ明洞中央店」。2021年1月に閉店したが、いまも新たなテナントは入っていないようだ。その向かい側には、韓国のコスメブランド「ネイチャーリパブリック」の大型店舗がある。韓国で一番地価が高い場所(1平方メートルあたり1億8900万ウォン、日本円にして2000万円弱と報道されている)でもあるが、こちらは健在。明洞の顔ともいえる店が残っていることにホッとする。  通りを歩くと、やはり空き店舗が目立つ。一方で、食べ物の屋台がいくつか出ていたり、東京・渋谷にも支店がある有名セレクトショップ「A LAND」もメインストリートに移転オープンしていたり。欧米からの観光客もちらほら歩いていて、明洞復活の兆しが見え始めていた。 明洞チキン通りの「生活麦酒」にて。1羽分(2~3人前)で2万2000ウォン(取材時点で2300円)だった  ドラマ「愛の不時着」などの影響で、コロナ禍に日本での知名度が上がった料理といえば韓国式のフライドチキン。このチキンとビール(韓国語でメクチュ)を一緒に味わうことを“チメク”と呼び、韓国ではおなじみの組み合わせだ。  明洞芸術劇場近くの路地にチキン専門店が何軒も連なる通りがあったことを思い出し、夜食を食べに向かった。「ここもなくなっているかも……」と覚悟して路地に入ったが、杞憂(きゆう)だった。各店舗の前にはプラスチックのテーブルとイスがずらりと並び、どこもお客さんでいっぱい。表通りの静けさがうそのような光景が広がっていた。そのうちの1軒である「生活麦酒(センファルメクチュ)」に入り、クリスピーチキンとガーリックしょうゆ味のハーフ&ハーフ、生ビールをオーダー。久しぶりの本場のチキンは、ザクッとした食感がたまらない。店内はにぎやかで、隣のグループ客の声でこちらの会話が聞こえないくらいだ。「この感じ、懐かしいな」と思いながら、チメクを楽しんだ。 21年9月にオープンした明洞の人気カフェ「MOLTO」。テラス席から明洞聖堂とNソウルタワーが見える  視察旅行4日目、今度は昼の明洞を訪れた。人出はコロナ前と比べればかなり少ないが、店によってはにぎわいを取り戻している。ここ明洞などで観光案内の仕事をして7年目だという40代の女性が、こう教えてくれた。 「以前はコスメショップなど外国人観光客向けの店ばかりで、地元の若者はあまり明洞に来ませんでした。でもコロナの影響で店が入れ替わり、MZ世代(ミレニアル世代+Z世代。20~30代の若者たちを韓国ではこう呼ぶ)向けのショップやカフェが増え、地元客が多くなってきています」  アップルストアやナイキの大型コンセプトショップなど、世界的ブランドも新たに明洞に出店している。 自分の肌の色に合ったファンデーションを作れるサービスが人気。まずはスタッフと一緒に専用プログラムで診断  ソウル旅行の定番が明洞なら、最旬エリアは聖水洞(ソンスドン)だ。町工場をリノベーションしたおしゃれなカフェやショップが数年前から増加し、“ハップル”(韓国語でホットプレイスの略で、話題のスポットのこと)としてSNSでもよく紹介されている。2年半ぶりに訪れた聖水洞は、お店がさらに増え、若者たちであふれていた。  車の整備工場をリノベーションした「アモーレ聖水」は、1945年創業の大手化粧品メーカーであるアモーレパシフィックが手掛ける複合空間。同社の40余りのブランドから約1800種類のアイテムを試すことができるショールームや、緑茶メニューが売りのカフェなどを備える。2021年4月からスタートした、100色のベースカラーと2種の質感(マットとグロウ)から自分に合ったファンデーションを作れる有料のサービスが特に好評だ。予約制ということでこの日は試せなかったが、独自のプログラムで診断しロボットが製造するという工程が興味深かった。 華やかな外観がフォトスポットになっている「ディオール聖水」。22年11月まで運営予定の期間限定ストア  聖水洞で今一番のハップルはおそらく、フランスの高級ブランド「ディオール」のポップアップストアだろう。22年5月にオープンしたばかりだが、日によっては1~2時間ほど待たないと入店できないそうだ。中に入らずとも、きらびやかな建物の前で写真を撮る人が多く、訪れたときも20~30代と思われる女性たちがひっきりなしに撮影していた。 アイドルの誕生日を記念したフレームをファンが制作。ファンが指定した期間中はそのフレームで撮影できる  フォトスポットといえば、聖水洞をはじめソウルの街のあちこちに無人セルフ写真館があるのが目についた。日本のプリクラのようなものだが、盛るというよりはナチュラルに撮れ、4~6カットのコマが1枚になっているという違いがある。17年頃から流行しており、日本でも東京・新大久保などに上陸しているが、その数がコロナ前より格段に増えていた。スマホの写真とは違うアナログ感と、思い出を物で残しておける点がウケているという。今後は日本人観光客にとっても、訪れた街でセルフ写真を撮るのが定番になるかもしれない。  4泊5日の結論。私たちの韓国は健在だった。コロナ前以上の活気が戻ってくると確信した。(執筆・写真 土田理奈/omo!)
韓国
dot. 2022/06/29 17:00
「六本木クラス」で注目の“本家”ロケ地、大合唱OKのドリコンで韓国エンタメの力を確信 最速観光ルポ【ドラマロケ地&K-POP編】
「六本木クラス」で注目の“本家”ロケ地、大合唱OKのドリコンで韓国エンタメの力を確信 最速観光ルポ【ドラマロケ地&K-POP編】
「梨泰院クラス」の主人公セロイがオープンした居酒屋「タンバム」のロケ地。実際に居酒屋として営業中  日本人にとって身近な海外旅行先だった韓国。ビザの申請や入国前後のPCR検査の義務化といったハードルはあるものの、コロナで途絶えていた行き来がついに再開された。2022年6月15日から4泊5日で実現した、韓国観光公社主催のマスコミ関係者向け視察旅行では、人気ドラマのロケ地も訪ねた。 ※記事<<ポストコロナの韓国観光「感涙」の最速ルポ「仁川空港のトイレがきれいに!」と渡韓ハイ【入国編】より続く  日本リメイク版「六本木クラス」の放送を目前に控え、再び注目を集めている韓国ドラマ「梨泰院クラス」。Netflixで配信が始まった20年、ステイホーム中にドハマリしたという人も多いだろう。「梨泰院クラス」の舞台となった梨泰院一帯のロケ地の「いま」もお伝えしたい。  まず訪れたのは、パク・ソジュン演じる主人公パク・セロイがオープンした居酒屋「タンバム」のロケ地となった店。タンバムは「甘い夜」という意味だが、実際の店名は「ソウルの夜」を意味する「ソウルバム」だ。内装はドラマと異なるが、店構えはほぼ同じ。上部には、ドラマで輝いていたネオンの看板の跡もうっすらと見えた。  丸い看板にはウサギと月とともに、タンバムのハングルを1文字変えた文字が。カタカナで発音を表すとどちらもタンバムだが、変えたほうの意味は燃えた夜、または焦げた栗となる。これは「梨泰院クラス」と同じテレビ局のバラエティー番組「ジャンルだけコメディー」の企画で、パロディードラマを撮影したときの名残だろう。パロディーが作られるほど、「梨泰院クラス」は放送当時、韓国でもヒットを飛ばした。  タンバムの前で写真を撮っていると、とある日本人女性に声を掛けられた。アメリカ在住30年という彼女は、夫の仕事の関係で訪韓し、梨泰院を訪れたという。 「娘の影響で、Netflixで韓国ドラマを初めて見たんですけど、すごく面白くて。それが『愛の不時着』でした。そこから『梨泰院クラス』にハマって、BTSのファンになって…。いい年してなんでそんなに夢中なのって娘に笑われるんです」  サウジアラビアから来たというヒジャブを被った女性2人組も、タンバムの前で記念撮影中。コロナ禍において、韓国ドラマが世界的に人気を拡大しているんだと実感する。 「梨泰院クラス」の原作者が経営する居酒屋「クルバム」。原作漫画のイラストが描かれた看板が目を引く  タンバム関連のスポットは、もう2カ所ある。まずは「梨泰院クラス」の原作および脚本を手掛けたチョ・グァンジン氏が経営する居酒屋「クルバム」。ロケ地ではないが、原作漫画の大きな看板が掲げられていて、作品の世界に浸ることができる。  そしてタンバム2号店として登場したカフェ&バー「Oriole(オリオール)」。梨泰院駅周辺から少し離れた解放村(ヘバンチョン)というエリアにあり、ルーフトップからソウルの街並みを見下ろせる。タンバム1号店からは坂道が続くため、タクシーで行くのがおすすめ。約10分、5000ウォン(取材時点で520円)ほどで到着した。 ドラマでおなじみの歩道橋「緑莎坪陸橋」。遠くにNソウルタワーが見え、フォトスポットとしても知られる  ほかにも、梨泰院には、ドラマに頻繁に登場する歩道橋「緑莎坪陸橋(ノクサピョンユッキョ)」や、キム・ドンヒ演じるチャン・グンスが暮らす宿舎となった「Gゲストハウス」など、見覚えがある場所があちこちにある。ドラマファンならマストで訪れたいエリアだ。  今後、入国条件が緩和されて観光客が増えれば、ソウル市内だけでなく周辺都市のロケ地にも海外のファンが集うだろう。Netflixで配信中のドラマ「その年、私たちは」は、ソウル近郊の水原(スウォン)市で一部シーンが撮影された。「梨泰院クラス」のチョ・イソ役でブレイクしたキム・ダミと、映画「パラサイト 半地下の家族」のチェ・ウシクが主演を務めるラブロマンスだ。  ソウル駅から地下鉄に乗り1時間ほどで到着する水原は、ユネスコ世界文化遺産に登録されている水原華城(スウォンファソン)で有名。「イ・サン」や「赤い袖先」など時代劇の主人公としてもおなじみの朝鮮王朝第22代王・正祖(チョンジョ)が築いた城郭で、全長5.7キロの城壁にぐるりと取り囲まれている。城壁に沿って歩いていると、まるで時代劇の中に入り込んだような気分になった。 「その年、私たちは」でチェ・ウシク演じるチェ・ウンの家は、その城壁の西側にある。もとはカフェ。現在は閉店しているが、白い壁には主人公たちを彷彿(ほうふつ)とさせるイラストが描かれていた。「コロナが収束して観光客が来るようになれば、ロケ地として再オープンするんじゃないか」というのは、ガイドの女性の話。今は中には入れないが、20代とおぼしき現地の女性たちが外観をバックに楽しそうに写真を撮っていた。 キム・ダミ演じるヒロイン、ヨンスの家。ドラマそのままの姿に思わずテンションが上がってしまう  ウンの家のちょうど反対側、城壁の東側にはキム・ダミ演じるクク・ヨンスの家がある。カラフルな壁画に彩られた池洞(チドン)壁画村と呼ばれる住宅街で、ヨンスの家も実際に人が住んでいる個人所有の建物だ。壁画も緑色の門も劇中のまま。今にもウンとヨンスが出てきそうな雰囲気に感動したが、ここでは住民に迷惑をかけないよう静かに撮影してその場を去った。  ほかにも、水原では公園でのデートシーンなどさまざまな場面が撮影されたが、実はこの作品のロケ地は全羅北道・全州(チョンジュ)など全国各地に散らばっている。ドラマをきっかけに地方都市を訪れ、その土地の魅力を知るというのもいいものだ。これまで水原にはなかなか来る機会がなかったが、おしゃれなカフェが並ぶ行理団(ヘンニダン)キルをはじめ、見どころがたくさんあることを知った。いつか再訪し、ゆっくりと街歩きを楽しみたい。 たくさんの人たちでにぎわうドリームコンサートの会場周辺。10~20代と思われる女性の姿が多かった  そして今、韓国ドラマとともに世界を席巻しているのがK-POP。  コロナ禍以降、コンサートはオンラインが主流となっていたが、リアルな公演も徐々に再開している。1995年から続く毎年恒例のK-POPイベント「ドリームコンサート」(通称ドリコン)も、3年ぶりに有観客で開催されることになった。6月18日の土曜日、ソウルの東南部に位置する蚕室(チャムシル)総合運動場・オリンピック主競技場で、総勢27組のK-POPアーティストが出演したドリコンに参戦した。 各アーティストの横断幕が飾られたスタンド席。コンサートの開始まであと少し。期待が高まる  会場に着くと、すでにたくさんの人たちが集まっていた。この日の動員は4万5000人。公演開始前から熱気が伝わってくる。チケット代わりのリストバンドを腕に巻き、スタジアムの中に入った。スタンド席にはにぎやかな横断幕がかかっていたが、これは各アーティストを応援するためにファンが制作したもので、通常は、事務所がファンから応募を受け付け、その中で選ばれた横断幕が採用される。「神(シン)人アイドルCLASS:y」などウイットに富んだ文言がずらりと並ぶドリコンの風物詩で、「これこれ!」とうれしくなった。 開始前のステージの様子。今年のテーマは「TRAVEL TO KOREA BEGINS AGAIN!」で、世界中に生配信された  午後6時、まだ日が落ちないうちに、コンサートが始まった。序盤は新人アーティストから1曲ずつパフォーマンスを披露したが、歓声から会場全体が高揚しているのを感じられる。その声がひときわ大きくなったのは、今回唯一のソロアーティスト、イ・ムジンがヒット曲「信号」を歌ったときからだった。ムジンがサビ前に「知らない人はいないよね~?」と呼びかけると、会場全体でサビの大合唱が起きたのだ。韓国では4月18日にコロナによる規制が解除され、それまで禁止されていたテチャンと呼ばれる観客の歌唱行為も解禁になった。待ちに待ったテチャン。アーティストと観客がともに歌い、一体になって盛り上がる、韓国ならではのコンサートが復活した瞬間だった。 トリを飾ったNCT DREAMの属するNCTのペンライトで黄緑色に染まった観客席。大歓声が響いた  その後はほかのアーティストたちもMCで「一緒に歌って」と呼びかけ、大合唱の連続!直近では18年のドリコンも観覧したが、会場の熱量や一体感はそのとき以上だと感じた。3年ぶりの有観客公演に喜びを隠せないのはアーティストも同様で、コロナ禍にデビューしたグループが「こんなに人がいるのは初めてです!」とはち切れんばかりの笑顔で語っていたのが印象的だった。  帰り際、この日のトリを務めたNCT DREAMのファンだという女子高校生2人組が、興奮冷めやらぬ様子でこう語ってくれた。「オンラインライブと違って、声を出してみんなと一体になれるのが楽しかったです。やっぱりこれからは、オンラインじゃなくてリアルのコンサートに参加したい!」  視察団の中には初めてK-POPアーティストのステージを生で見たという人もいた。口をそろえて言っていたのが「とてもエネルギッシュ」「全力でパフォーマンスする姿に元気をもらった」ということだった。  コロナ禍において、K-POP界のオンラインライブやオンライン特典会への対応の素早さは目を見張るものがあった。世界中どこにいても彼ら、彼女らの存在を感じられることで、これまで現地に行けなかった人たちも取り込み、ファン層を拡大したのは確かだ。しかし、K-POPの強みは、観衆を熱狂させる生のパフォーマンスの力だと今回のドリコンで確信。すでに多くのK-POPアーティストの来日公演が行われ、ワールドツアーや世界各地での大規模イベントも続々と決定している。K-POPの快進撃は、ポストコロナも続いていく。 (執筆・写真 土田理奈/omo!)
韓国韓国ドラマ
dot. 2022/06/28 11:30
ホンダは「週5出社」でNTTは「原則在宅」――テレワークやめる企業と続ける企業の「分岐点」
ホンダは「週5出社」でNTTは「原則在宅」――テレワークやめる企業と続ける企業の「分岐点」
「週5出社」に戻すホンダの本社(左)。右はNTTドコモ代々木ビル(GettyImages) 新型コロナウイルスの感染状況が落ち着ついてきた今、停滞していた経済活動も元に戻りつつある。それに伴い、テレワークをめぐる企業の対応も大きく分かれている。ホンダは5月から全従業員を対象に原則的に週5出社となった。一方で、NTTは7月から国内グループの従業員3万人を対象にテレワーク(在宅勤務)を原則とする勤務制度となる。出社とテレワークを組み合わせた「ハイブリッド型」を含め、企業は従業員の働き方を模索しているが、それぞれの企業で抱える“課題”は異なる。テレワークを続ける企業とやめる企業では、どのような判断の違いがあるのか。また、従業員の満足度や採用にはどのような影響があるのか。識者に取材した。 *  *  * 「今はちょうど、コロナ下でテレワークを実施した企業にとって、“良い面”と“悪い面”がみえてきた時期です。その結果をふまえて、各企業は『ウチはどんな方針にしたらいいのか』と悩んでいます。経営側からすれば、完全テレワークはやはり生産性やイノベーションへの不安がある。その一方、従業員はテレワークを継続してほしい人が多く、人材確保にも影響が出る可能性がある。その板挟みで、思い切った決断に踏み切れない状態にある企業も多いはずです」  パーソル総合研究所の小林祐児・上席主任研究員はこう語る。  今年2月、同研究所が全国約2万5000人を対象に行った調査では、正社員のテレワーク実施率は全国平均で28.5%。「第5波」があった昨年7月末が27.5%だったので、ほぼ横ばいだった。  そんな中、ホンダも在宅勤務を推奨していたが、5月のGW明けからは、原則週5日出社に方針転換した。工場や研究所なども含め、すべてのオフィス、部署が対象となる。ただし、育児や介護などの事情があれば、引き続き在宅勤務できるという。  企業がテレワークを導入してからおよそ2年。この間に“課題”も浮き彫りとなった。小林さんはメンタルヘルスの問題を一番に挙げる。 「職場に出勤していた時は、パワハラやセクハラが大きな問題になりましたが、テレワークになったことで、直接的な被害は減りました。その一方で、『誰も助けてくれない』とか『何のためにこの仕事をしているのかわからなくなる』など、孤独感に苛まれる人が増えた。ハラスメントとは別の問題で、メンタルに不調をきたす人が出てきてしまったのです」 ■長時間労働と孤独の問題  働き方評論家で千葉商科大学准教授の常見陽平さんは、その問題を最もよく知る一人だ。実は、常見さんの妻は、テレワークにより「心と体のバランス」を崩してしまったのだという。 「妻がコロナ下でテレワークを始めてから1年で適応障害と診断されました。いくつか要因はあったと思いますが、仕事の時間と密度で疲弊してしまったのです」  妻の会社は「極めてホワイト」な企業だった。コロナ前は、午前10時に出社して午後6時には退社できた。出勤が適度な運動になり、家から解放されることもいい気分転換になっていたようだ。  だが、テレワークが始まると、始業が午前9時に早まり、夜は8~9時を過ぎるまで仕事する毎日に変わった。営業担当や取引先とのやりとりも、以前は1日くらいかかっていたのが、リモートですぐに返事が来るようになった。効率は上がったが、次から次へと仕事をこなさなければならず、心身に不調が出始めた。適応障害と診断された後は、業務量を調整してもらい、運動をするなど健康管理に気を使い今は回復している。常見さんは言う。 「テレワークゆえに、仕事が逼迫(ひっぱく)して病む人が出てしまったことも忘れてはいけません。こうした長時間労働を防ぐためにフランスでは、2000年代はじめから『つながらない権利』が議論され、2016年に改正労働法に盛り込まれました。その結果、企業ごとに労使で合意した上で、例えば、原則週末など勤務時間外にメールの返事や電話はしてはいけないなどのルールを設けるようになったのです」(常見さん) ■テレワーク先進国アメリカは出社回帰へ  前出の小林さんは、テレワークでは仕事の細かい調整が行き届かないことが長時間労働につながってしまう、と指摘する。 「日本の職場は、上長が部下の様子や仕事の進捗を見ながら仕事を振り分けるのが一般的です。そこにテレワークを導入すると、突発的な業務によるサービス残業が増えたり、優秀な人に仕事量が偏ったりしたりと、柔軟な仕事の割り振りができなくなってしまう。日本企業でテレワークを定着させるには、仕事の割り振りにかなりの工夫が求められます」(小林さん)  では、海外ではどうなのか。コロナ以前からテレワーク先進国だったアメリカでは、現在は対面コミュニケーションの重要性が見直され、いかに社員を出社させるかが議論となっているという。 「アメリカ、そして日本でもIT企業は、これまで何度もテレワークと出社の間で“揺り戻し”が起きています。頭の切れる優秀な人材がリモート会議をすると、通信の遅延による声の被りがあったり、悪気はないのに必要以上にきつく伝わったりして、その場の空気感がつかみにくくなる。対面の方が、活発に議論を交わしやすいですし、それによって斬新なアイデアが生まれやすい。それゆえ、今はまた対面コミュニケーションの価値が高まっています」(常見さん)  だが、対面コミュニケーションが重要だとわかってはいても、テレワークが定着した企業が「週5出社」に戻すのは容易ではない。従業員からの反発も大きいだろう。そこで、アメリカでは出社とテレワークを組み合わせた「ハイブリッド型」が増えつつある。 ■折衷案は週2~3出社の「ハイブリッド型」  4月からはグーグルとアップルが「ハイブリッド型」の勤務制度をスタートさせている。 「テレワークを希望する人が増えている中で出社を強制すれば、優秀な人材に離職される恐れや、採用力が落ちる懸念があります。そこで、週2~3日出社で“落としどころ”を探しながら、(アメリカの)企業は幅広く採用候補者を集めようとしています。日本でも、バランスの取れた『ハイブリッド型』が、ほとんどの企業にフィットする働き方だと思います」(小林さん)  そんな中で、NTTは国内の主要グループ会社の従業員3万人を対象に、7月からは「原則在宅勤務」にすると打ち出した。その背景ついて、常見さんは「外資系企業に優秀な人材を取られないようにするためだろう」と推察する。 「NTTや日立を日系IT企業としてみると、人材確保で競合となるのはアクセンチュアやデロイト トーマツなどの外資系コンサル企業になります。日系IT企業に在籍する若手で、ちょっと優秀な人であれば、給与が1・5倍以上で、かつ労働環境がいい外資に転職できます。NTTは『原則リモートワーク』という新制度を打ち出すことによって、労働環境の充実をアピールしたのでしょう。ただ、やはり対面で接することによる化学反応が起きにくくなるリスクはある。そこは今後のトップと現場管理職の腕の見せどころになるでしょう」  ポストコロナの「働き方」は、今、過渡期を迎えている。(AERA dot.編集部・岩下明日香)
NTTテレワークホンダ在宅勤務
dot. 2022/06/28 06:00
稲垣えみ子「ピアニストと連弾する大きな夢が叶った 人生は苦難も続くけど楽しい」
稲垣えみ子 稲垣えみ子
稲垣えみ子「ピアニストと連弾する大きな夢が叶った 人生は苦難も続くけど楽しい」
元朝日新聞記者 稲垣えみ子  元朝日新聞記者でアフロヘア-がトレードマークの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。 *  *  * 『老後とピアノ』を出版したご縁で楽器店のイベントに呼んで頂き、40年ぶりのレッスンにどハマりした怒涛の日々について楽しくトークさせて頂いたんだが、実はこの仕事をお引き受けした理由はトーク云々ではなく、先生と連弾という「ザ・夢」としか思えないことを何とかして実現したかったからなのであった。  だって私の先生、ピアニストなんですよ! しかもイケメン! その先生と、動かぬ指・働く脳とエンドレスに格闘を続ける、要するにやる気はめちゃあるんだがちっとも上達せぬ中年アフロが連弾! 神をも恐れぬ行為とはこのことだ。と思いつつ、イベントやるなら連弾しましょうよ~という、おそらくはうっかり口を滑らせた先生の一言を私は聞き逃さず、その機会を虎視眈眈と狙っていたのであった。そして楽器店とご縁ができるや「アフロとイケメンの連弾」というレアすぎる企画を猛プッシュ。ちゃっかり実現の運びとなったのである。 必死の練習の跡が窺えるぼろぼろの楽譜。先生の書き込みは一生の宝物です!(photo 本人提供)  だが夢心地だったのはそこまで。「先生が一緒に弾いてくれるから安心」などと考えていた自分を殴りつけたい。連弾は小学校時代に発表会で姉と弾き、さして困難を感じなかったので舐めていたが、40年以上経って取り組んだらこれがもうアータ! 自分が弾いてない音が聴こえるだけでパニックに陥り「私はどこ?」と瞬時に迷子。隣で弾くのはプロという圧も半端なく、一人の練習では弾けてたはずが超絶レベルで大崩壊。何度やってもダメ。これって……もしや「脳の老化」? つまりは克服不能なんじゃ? という恐怖に夜も眠れぬ。先生もご多忙ゆえ練習もなかなかできず、マジでやばい死ぬと地獄も極まったところでギリギリ直前の猛練習にお付き合い頂き、どうにか当日は奇跡的に最後まで弾ききることができたのであった。  終わってしまえばまさに夢のようであった。いろいろあったが人生で起きるはずのなかった夢が確かに叶ったのである。もういつ死んでもいい。でも実際は苦難の人生がまだまだ続くのだ。人生は難しいネ。でもまあまあ楽しい。 ◎稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行※AERA 2022年6月27日号
稲垣えみ子
AERA 2022/06/27 17:00
作家・五木寛之の石原慎太郎さんとの交流秘話 盛り上がった話“裏待ち詩人”とは?
作家・五木寛之の石原慎太郎さんとの交流秘話 盛り上がった話“裏待ち詩人”とは?
五木寛之(いつき・ひろゆき)/ 1932年、福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮半島にわたり、47年引き揚げ。57年に早稲田大学ロシア文学科を中退。その後、編集者、ルポライターを経て、66年、『さらばモスクワ愚連隊』で小説家デビュー。同作で小説現代新人賞を受賞。『蒼ざめた馬を見よ』(67年)で第56回直木賞、『青春の門』(76年)で吉川英治文学賞を受賞。そのほか代表作に、『戒厳令の夜』『風の王国』『親鸞』『大河の一滴』『ステッセルのピアノ』など。(撮影:写真映像部・松永卓也 編集協力:一木俊雄) 『蒼ざめた馬を見よ』(1967年)や『青春の門』(1976年)などで知られる作家・五木寛之さん。作家・林真理子さんとの対談で、今年2月に亡くなった石原慎太郎さんとのエピソードや、コロナ禍で変わった生活などを語ってくれました。 *  *  * 五木:最近、妙に忙しかった理由の一つに、石原慎太郎さんが亡くなられたことがある。なんで僕みたいにエンタメやってる作家のところにいろいろ聞きに来るんだろうと思ったら、要するに彼とは生年月日が全く同じなんだよね。 林:私もびっくりしました。でも、作家のあり方はまったく違いましたよね。 五木:そうでしたね。ただ一点、共通してるところがある。それは歌が好きで、流行歌をいろいろ書いてるところ。 林:石原慎太郎さんがですか? 五木:うん。五木ひろしの歌も書いてるし、ジャニーズの歌も書いてる。ずいぶんたくさん書いてるんですよ。 林:知らなかったです。「さあ太陽を呼んでこい」(NHK「みんなのうた」)という歌だけは知ってますけど。 五木:ああ、それもありましたね。僕は石原さんとは数度しか会ったことないんだけど、一度、同じ生年月日ということでグラビアの撮影があって、その合間に雑談をしたら、「五木さん、レコード会社の専属作詞家だったんだってね。僕、いろいろ歌を書いてるんだけど、なんで売れないんだろう」ってきくんだ。後年、いちばん売れたのが「夏の終わり」という歌なんだけど、裕次郎が歌って、次にペギー葉山が、そのあとご本人も歌ってる。 林:えっ、石原慎太郎さんが? 五木:うん。ペギー葉山さんとデュエットもやってるんですよ。そんなことで話が盛り上がりましてね。「昔は“裏待ち詩人”というのがたくさんいたんです」と言ったら、「裏町詩人? それはうらぶれてる詩人って意味のこと?」ってきくんです。そういう意味ではなくて、売れない作詞家は売れっ子の歌い手さんのヒット曲のB面(レコードの裏面)を書かせてもらって、A面が売れるとB面の印税もたくさん入るから、“裏待ち詩人”と言われてたんだと説明したら笑ってた。 林:ああ、なるほど。 五木:僕はレコード会社の学芸部というところにいて、ずっと童謡を書いてたんですよ。 林:五木先生の童謡って、例えば何ですか。 五木:自慢できるものはないんだけど、いまの上皇后、昔の美智子妃殿下が「ねむの木の子守歌」という歌を書かれたんです。で各社競作になって。 林:「♪ねんねのねむの木 眠りの木……」。 五木:それのB面が僕の詞なんですけど。「雪がとけたら」というんですが、A面がすごく売れたので、僕も“裏待ち詩人”としてしばらくそれで生計を立てさせて頂きました(笑)。そんなことで、石原さんとはわりと垣根なくいろいろ話をして、ちょっとコミュニケーションがありました。 林:そうだったんですか。 五木:石原さんは歌を余技でやってるんじゃないんですよ。本気でやってたんです。そして、心の中では裕次郎より俺のほうが歌がうまいと思ってた。声もいいし、音程もしっかりしてるし、リズム感もあるし。 林:へぇ~。私、石原慎太郎さんが歌ってる姿、まったく想像できないですよ(笑)。 五木:以前、NHKで「歌う作家たち」というアルバムをシリーズでつくったことがある。三島由紀夫さんの「からっ風野郎」、石原慎太郎さんの「夏の終わり」、野坂昭如の「マリリン・モンロー・ノー・リターン」、戸川昌子さんの「金曜日の晩に」、新井満さんの「オクトーバー14・外は雨」の五つを取り上げて、それにコメントをつけたんです。これは自分で言うのはなんだけど絶対、面白いです。みんなそれぞれ味があってね。林さんは歌やらないの? 林:いやー、なかなかお声がかからないんです。 五木:やるんだったら詞、書くよ。 林:ほんとですか先生! うれしい! 五木:なんか、小説家同士の対談じゃないみたいだね(笑)。 林:そうですね(笑)。話は変わりますけど、先生が最近すごく行動的になられたのは、早寝早起きになったからじゃないですか。 五木:コロナのせいなんです。昔は夜の12時ぐらいから街に出ましたからね。唐十郎が芝居やってる、大島渚が議論してる、あっちのほうで浅川マキがオールナイトのコンサートをやってる、深夜映画、深夜喫茶、みんな夜の12時からの世界だったのが、一昨年あたりからは8時ぐらいに閉まっちゃうんだもの。一人でウロウロしてもしょうがないから、いまは12時に寝て、7時半には起きてますね。 林:前は寝るのが朝だったんでしょう? 五木:そう。「朝日を浴びなきゃいけない。ビタミンDがとれないから」って言われたから、「僕は寝る前に朝日をちゃんと浴びて寝てるから大丈夫」って言ってたんだ(笑)。いまはふつうに朝起きてカーテンを開けてふつうの朝日を浴びてる。 林:先生は、いま旬の人、例えば又吉(直樹)さんとかともご対談してらして、そこで活力をもらってらっしゃるんですよね。 五木:僕は対談をいちばん大事にしてるんです。ブッダという人は、一生涯、講演と対談しかやってないんですよ。お説法というのは講演でしょう。人を集めて話をするわけだからね。問答というのは、いろいろ質問されてそれに対して答えるわけだから、対談じゃないですか。だから対談は大事なんだよね。林さんもこの対談シリーズ長いよね。僕も週刊読売の「真夜中対談」とか、いろんなところで対談のホストをやってました。僕の対談の第1号は井伏鱒二さんだった。 林:井伏鱒二さん! 私がデビューしたとき、まだご存命と聞いて、文藝春秋の人に「色紙もらえませんかね」って言ったら、「ダメです」って言われたことがありますよ(笑)。 五木:林さんは本屋の娘さんだから、子どものときから文学者の名前とかに親しみがあったでしょう。 林:はい。だから五木先生とかにお目にかかれるときは本当にうれしくて。だって、私がハタキをかけてた方々と会えるんですから(笑)。 五木:アハハハ。そういえば昔の本屋さん、ハタキをかけてたよね。いつの間にか自分もハタキをかけられるようになっちまった(笑)。 五木寛之さん(左)と林真理子さん(撮影:写真映像部・松永卓也 編集協力:一木俊雄) 林:先生はまだ「日刊ゲンダイ」のエッセー(「流されゆく日々」)をやってらっしゃるんでしょう? 五木:創刊のとき(1975年)からやってます。林さんも週刊文春のエッセーをずっとおやりになってるじゃないですか。あれも長いねえ。 林:「いつまでもダラダラやりやがって」と言われるんですけど、出版社もちゃんとアンケートを取ってるんですから、先生、堂々と続けましょうよ。私が偉そうに言うことじゃないですけど(笑)。 五木:それは心強い話だなあ。向こうから「もういいです」と言ってくるまでは、ということね(笑)。 林:私はまだ「an・an」のエッセーやってるんですよ。孫みたいな読者に向かって。 五木:すごい! 僕の日刊ゲンダイの連載は47年目になるんだけど、会社がつぶれるまでやろうと思ってる。迷惑だろうなあ(笑)。 林:先生こそすごいです。 五木:林さんは年々パワフルになってきてますね。とどまるところを知らない。僕は昔よりいまのほうが林さんの本を読んでるんです。『李王家の縁談』や『小説8050』も読んだし。今度の『奇跡』は書きおろしですってね。日本文藝家協会の理事長という国際的な活動をこなしながら、しかもこれだけ連載を抱えて、よく書きおろしなんてできるなと思って。 林:短かったし、彼女の日記もありましたし、わりとラクでした。 五木:林さんには、(瀬戸内)寂聴さんじゃないけど、いくつになっても色恋沙汰の小説を書き続けてほしいですね。 林:でも、いま色恋沙汰はすごくたたかれるんです。『奇跡』もネットで「不倫を美化するな」「こんな女、許せん」とか。 五木:だけど、そうやって社会に波風を立てるのも作家の仕事の一つだからね。みんなからほめられて、文科省から表彰されるだけじゃ困るんで。 林:はい。私もそう思ってるんですけど。 五木:林さんは大器晩成型です。いまからどんどん大きな作品が出てくると僕は見てる。 林:ほんとですか? うれしいです。頑張ります! まだ体力ありますので。 五木:日本ペンクラブの会長が桐野(夏生)さんで、日本文藝家協会の理事長が林さんで、この二本柱があることで、日本の文芸の世界が安定してるような感じがするんです。いや、今後はもっと何かあるかも。 >>【前編】作家・五木寛之『捨てない生きかた』 モノで過去の記憶がよみがえる >>【中編】作家・五木寛之が見るウクライナ侵攻 「戦争は愛憎とか運命がある以上なくならない」 (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2022年7月1日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/06/26 11:00
東大卒ミュージシャン・キタニタツヤが語る“音楽と学び” 独創的な歌詞の源泉は哲学の講義だった
森朋之 森朋之
東大卒ミュージシャン・キタニタツヤが語る“音楽と学び” 独創的な歌詞の源泉は哲学の講義だった
キタニタツヤさん(撮影:張溢文)  東京大学在学中の2014年頃に音楽活動をはじめ、2020年にソロアーティストとしてメジャーデビューを果たしたキタニタツヤ。“神曲”と話題になった“木10”ドラマ『ゴシップ#彼女が知りたい本当の〇〇』の主題歌をはじめ、ドラマ、アニメのテーマソングを数多く担当する一方、ジャニーズWEST、私立恵比寿中学への楽曲提供、Ado、まふまふの楽曲制作に携わり、ヨルシカにベーシストとして参加するなど、多才ぶりを発揮している。  “東大生のボカロP”からキャリアをスタートさせたキタニに“音楽と学び”の関係について聞いた。 * * *  音楽好きの母親の影響で、幼少期からロックバンド(ASIAN KUNG-FU GENERATION、8otto、MO’SOME TONEBENDERなど)に親しんできたというキタニタツヤ。小学生~中学生までは「音楽は好きでしたけど、めっちゃ普通の野球少年」だったという。 「杉並区出身なんですけど、お受験もせず、普通に区立の小学校、中学校に通ってました。ランドセルに(ロックバンド)ELLEGARDENのステッカーを貼ってましたけど(笑)、ごくごく普通の子どもでしたね。中学3年のときは、一応、野球部のキャプテンをやってましたけど、すぐにサボりたがるダメなキャプテンで。音楽やサブカルに詳しいヤツと仲良くなって、そいつのウチでマンガを読んだり、YouTubeを見てるほうが楽しかったんですよね」 ■高校入学時には金髪に  中学卒業後は、都立西高校へ進学。日比谷高校、国立高校と共に“都立御三家”と呼ばれる都内トップレベルの進学校だ。西高校を選んだ理由は、家から自転車で通えること、そして、校則のゆるさ。 「親からは『公立に行ってほしい』と言われてたんですけど、私服で通学したり、髪を染めたくて。日比谷はきちんとしているイメージだったんですけど、西高校は校則がほとんどなくて、かなり自由なんですよ。僕、入学前の登校日に金髪にして行きましたけど(笑)、何も言われませんでしたから」 ボカロPのこんにちは谷田さん名義で発表した「芥の部屋は錆色に沈む」はニコニコ動画において10万再生を記録し殿堂入りを果たした(撮影:張溢文)  自由に好きなことをやれる校風のなか、高校生のキタニ少年は独学で楽曲を作りはじめる。ベースも弾きはじめ、少しずつ音楽に傾倒していった。 「機材とソフトがあれば、自分で音楽を作れることがわかってきたんですよね。高校の時はパソコンを持ってなかったから、出来ることは限られてたんですけど。バンドも少しやってました。同じ高校じゃないんですけど、ひとつ上の先輩がやってたPENs+というバンドがあって。高3のときに『大阪でライブやるから、手伝ってくれない?』って言われたんですよ。学校をさぼって行ったんですけど、後日、担任の先生から『何やってた?』と聞かれて、『音楽をやりに大阪まで行ってました』と正直に答えると、『そうか。勉強もがんばれ』で終わり。先生も個性的な人が多かったです。本当にいい高校なので、おすすめですよ(笑)」 ■予備校にも通わず東京大学に現役合格  音楽に熱中しているだけではなく、勉強もコンスタントに続けていたというキタニ。高校と同じく、大学に関しても親に負担をかけないようにするためだ。 「家から通える国公立の大学はいくつかありましたけど、いずれにしても勉強しないと受からないので。予備校にも行けなかったし浪人もできそうになったから、かなりプレッシャーはありましたけど、自分としても大学には行きたかったんですよね。社会に出るまでの時間稼ぎというか。音楽の専門学校に進むという発想はなかったです。ロックキッズだったんで、<音楽は勉強するものじゃない、ハートでやるもんだろう!>と(笑)」  2014年春、キタニは東京大学文学部(思想文化学科・美学芸術学研究室)に見事合格。ようやくパソコンを入手し、ボーカロイド(楽曲制作ソフト)や機材を揃えてボカロP“こんにちは谷田さん”として活動をスタートさせた。 「講義中も音楽理論のサイトを見て、ずっと勉強してました(笑)。ボカロPの友達や先輩とノウハウを交換することも増えて。リスナーのことを意識するようになったし、曲作りは劇的に向上しました。とにかく“音楽作るの、楽し過ぎる!”という感じでどっぷりハマってましたね」 幅広いフィールドでの活動が自分の糧になっていると語るキタニさん(撮影:張溢文) 「大学ではほとんど友達ができなかったですね(笑)」というキタニだが、講義にもしっかり出席していたという。 「“美学芸術学研究室”というのは、“美しさとは何だろう?”という視点で一次元上から芸術を見るようなところだったんですが、その他に哲学や世界史など、興味のある講義を幅広く取ってました。友達がぜんぜんいなかったから、テスト期間はつらかったですけど(笑)、僕、ずっと特待生だったんですよ。めちゃくちゃ親孝行じゃないですか?」 ■就活をするように“職業作家”に  同級生が出版やテレビ業界に就職していくなか、キタニはもちろんプロのミュージシャンとしての将来を模索。大学3年のときに音楽プロダクションの門を叩き、“職業作家”(※音楽をアーティストやクライアントに提供する作曲家)としてのキャリアをスタートさせた。 「職業作家になりたくて、今の事務所に履歴書とデモCDを持っていったんですよ。なぜかスーツを着て、長髪をひとつにまとめて行ったんですけど、『そんな恰好しなくていいのに』と言われました(笑)。大学卒業後に契約してもらえることになって、すぐに仕事をはじめました」  大学卒業後は、楽曲提供、バンド活動、そして、“キタニタツヤ”名義のアーティスト活動を同時進行させ、プロのミュージシャンとして着実にステップアップ。2020年にアルバム『DEMAGOG』でメジャーデビューを果たした。その後もソロ活動に専念するのではなく、アイドルへの楽曲提供など、幅広いフィールドで才能を発揮している。 「いろんな活動をするほうが、メリハリが出ますからね。違う現場で経験したこと、学んだことを自分の作品に反映できるし。自分の活動以外のことをやらないのは、勉強できる機会を失っている気がします」  今年5月にはニューアルバム「BIPOLAR」(読み:バイポーラ―)を発表。ドラマ『ゴシップ#彼女が知りたい本当の〇〇』主題歌の「冷たい渦」「プラネテス」、漫画『BLEACH』(『週刊少年ジャンプ』)生誕20周年を記念した原画展のために制作された「タナトフォビア」「Rapport」などを収録した本作。中心となるテーマは、“対極”“双極”だ。 「何の役に立つかわからないからこそ、勉強して楽しいと思う」という(撮影:張溢文) 「ドラマ(『ゴシップ#~』)もそうなんですけど、ひとつの物語のなかにいくつかのメッセージが内包されていて、そのなかの2つを取り出して曲にすることが何度かあって。そのやり方でアルバムを組み立ててみたくなった……、つまり“1つのものを2つの角度から見て作った2曲”を5セット入れてるんですよ。ひとつのものにいろいろな側面があるのは、人間も同じ。僕自身は自分のことを『ハッピーで明るくてお気楽な人間だな』と思ってるんですけど、作品に関しては暗いものが出力されることが多くて。そういうギャップは誰にでもあるんじゃないかなと」 ■歌詞には東大の授業の影響も  独創的な歌詞のセンスも、このアルバムの魅力。そこには高校、大学のときに学んだことも反映されている。 「『夜警』という曲の歌詞に出て来る“アミグダラ”は偏桃体(脳内にある神経細胞の集まり)のことなんですよ。大学の認知心理学の講義で知った言葉なんですが、普通に生きてたらそんなに出合わないですよね(笑)。『タナトフォビア』はニーチェが提唱した“運命愛”という概念がテーマ。それも大学の哲学の授業で聞いて、なんとなく覚えていたんです」 「映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)に<創造的人生の持ち時間は10年だ>というセリフがあって。映画を観たのが高校生のときなので、ちょっと焦ってます(笑)」というキタニ。高校時代から培ってきたクリエイターとしての才能は今後、さらに大きな注目を集めることになりそうだ。最後に、高学歴の人生を歩んできた彼に「学ぶ」ことの意味について聞いてみた。 「何の役に立つかわからないからこそ、勉強して楽しいと思うんですよ。実際、受験勉強も楽しかったし、大学でも趣味と興味の赴くままに講義を取っていたので。実学は仕事を始めてから学べばいいんじゃないかな。僕自身、音楽の作り方は現場でやりながら覚えたので」 (森 朋之) キタニタツヤ/1996年生まれ。ミュージシャン。東大在学中の2014年頃からネット上に楽曲を公開し始め、ボカロP”こんにちは谷田さん”として活動をスタート。2017年、高い楽曲センスが買われ作家として楽曲提供をしながらソロ活動も行う。2018年にはバンド『sajou no hana』を結成。同年9月にソロAL「I DO(NOT)LOVE YOU.」を発表。ギター、ベース、プログラミングなど、マスタリング以外のすべての作業を一人で完結させた作品で、高い評価を得る。2021年7月クールのノイタミナ枠アニメ「平穏世代の韋駄天達」OPテーマ「聖者の行進」、漫画「BLEACH」20周年&原画展「BLEACH EX.」テーマソング、CX系木曜ドラマ「ゴシップ#彼女が知りたい本当の〇〇」主題歌等、楽曲提供も多数。
森朋之
dot. 2022/06/25 11:00
作家・五木寛之『捨てない生きかた』 モノで過去の記憶がよみがえる
作家・五木寛之『捨てない生きかた』 モノで過去の記憶がよみがえる
五木寛之(いつき・ひろゆき)/ 1932年、福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮半島にわたり、47年引き揚げ。57年に早稲田大学ロシア文学科を中退。その後、編集者、ルポライターを経て、66年、『さらばモスクワ愚連隊』で小説家デビュー。同作で小説現代新人賞を受賞。『蒼ざめた馬を見よ』(67年)で第56回直木賞、『青春の門』(76年)で吉川英治文学賞を受賞。そのほか代表作に、『戒厳令の夜』『風の王国』『親鸞』『大河の一滴』『ステッセルのピアノ』など。(撮影:写真映像部・松永卓也 編集協力:一木俊雄)  世間では断捨離が流行っていますが、作家・五木寛之さんは「捨てない生きかた」をされています。作家・林真理子さんもモノを捨てられない性格。お二人はモノを通じて、いろいろなことを思い出すそうで……。 *  *  * 林:先生の『捨てない生きかた』というご本が評判で、たくさんの人に読まれています。断捨離とはまったく異なった生き方ですよね。 五木:そう、正反対。ひねくれてるんだ(笑)。 林:私もモノが捨てられないんです。まったくモノを持たない人がテレビとかで紹介されると、「何が楽しくてこんな何もない部屋に住んでるんだろう」と思ってしまうんですよね。 五木:僕は築50年の古いマンションに住んでるんだけど、仕事部屋なんかゴミ屋敷ですよ。体を横にして通ってるもの。 林:ご本がものすごい量なんじゃないですか。 五木:林さんこそ大変じゃないんですか。『李王家の縁談』なんか、資料、大変だったんじゃないですか。 林:先生は洋服なんかもお捨てにならないそうですね。 五木:いま着てるこの服、42年目になるかな。はいてるズボン、これは1973年につくったものです。洋服類は、40年以上何も買ってないなあ。 林:体形が変わらないというのもすごいです。 五木:いやいや、脚が短くなりました(笑)。靴は、1968年、「五月革命」下のパリで、デモの真っ最中に一軒だけ開いてる店があって、そこにロンドンブーツが置いてあったんです。見たらジッパーがYKKだったんですよ。民族意識をちょっと刺激されて、サイズもぴったりだったのですぐに買いました。だけど、はかずにいまでも部屋に転がしてあります。 林:50年以上前に買った靴を、一度もはかずに? 五木:うん。それを夜中に手に取って眺めると、催涙ガスと銃声の中で学生がワーッと声を上げていたサンジェルマン・デ・プレの大騒乱の景色が、まざまざと浮かんでくるんだよね。でも、過去の記憶がよみがえるためには依代(よりしろ=ある記憶を呼び起こすモノ)が必要だと思うのです。 五木寛之さん(左)と林真理子さん(撮影:写真映像部・松永卓也 編集協力:一木俊雄) 林:文章よりも、モノのほうがいいんですね。 五木:そう。1950年代かな、プレスリーがカバーした「ブルー・スエード・シューズ」という歌がはやって。「俺に手を出してもいいが、この青いスエードの靴には触るなよ」とかいう面白い歌詞のロックンロールなんだけど、そのころ馬車道(横浜市)の靴屋で青いスエードの靴を見つけたんですよ。それでその月の収入の大半を投じて衝動的に買ったんです。 林:その靴は実際におはきになったんですか。 五木:いや、あまりにも派手すぎて一回もはいたことがない(笑)。そのまま置いてあるけど、その靴を見ると、1950年代の東京とか馬車道とかが映画を見るようにパーッと浮かび上がってくるので、退屈しないんですよね。 林:そうなんですか。 五木:1950年代から60年代にかけて、新宿が「夜の王国」だった時代に、「ナジャ」という酒場で、画家の金子國義さんが肖像画をサラサラッと描いて、それを僕にくれたことがあった。それも大事にとってあるんだけど、見ると当時の新宿が頭に浮かんできて、古い映画を見ているよりも面白いんだよね。夢遊病者のようにうつらうつらと、あのときはあの人がこうだった、ああだったと思い出す。ちょっとボケたのかしら(笑)。 林:『捨てない生きかた』のカバーに「愛着ある『ガラクタ』は人生の宝物である」ってありますけど、いろんなモノを持つことで思い出が自分によみがえって、そこから深い思索の旅に出るということは、確かにあるかもしれませんね。 五木:コロナのステイホームで、無為の時間ができるじゃないですか。そういうときにいろんなことを回想するんですよ。それにはモノがあったほうがいい。モノから糸口が無限に開けてくる。回想に浸って日がな一日ステイホームしてるというのは、すごくいい人生だと思いますけどね。 林:私なんかはそういうとき、何であんな恥ずかしいことをしたんだろうとか、親に申し訳ないとか、いろんな反省が胸を突いて出てくるんです。特に最近は年齢的に。 五木:林さんはまだまだエネルギッシュだからね。新刊も続々と出されて。でももうちょっと年をとってくると、悪い記憶は浄化されていって、いい記憶だけがよみがえってくるんだよね。ひょっとしたら極楽浄土というのは、そういういい記憶だけに包まれてるような世界なのかもしれないし。 >>【中編】作家・五木寛之が見るウクライナ侵攻 「戦争は愛憎とか運命がある以上なくならない」 >>【後編】作家・五木寛之の石原慎太郎さんとの交流秘話 盛り上がった話“裏待ち詩人”とは? (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2022年7月1日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/06/24 17:00
就活で人生を諦めた大卒27歳男性 スーパーのアルバイトで得た自己肯定感と社会との接点
就活で人生を諦めた大卒27歳男性 スーパーのアルバイトで得た自己肯定感と社会との接点
※写真はイメージです(Getty Images)  大卒者の13人に1人が、ニートや無職になっているという現実を、どれだけの人が知っているだろうか。理由はさまざまだが、人間関係を構築するのが極端に苦手な人の場合、就職活動がうまくいかず一度「普通の人」のコースを外れてしまうと社会復帰が難しいことは想像がつく。再チャレンジ可能な社会の実現が提唱されて久しいが、実態はどうなのか。ある男性のケースから、世の中のあり方を考えたい。 * * * 田原悠(仮名)さんは、現在27歳。スーパーでのアルバイトを始めて半年になる。  仕事は品出しやレジ打ちで、勤務は週5日。基本は9時から17時までだが、時には夜勤に入ることもある。  母親と二人の実家暮らし。父親は単身赴任中で、会社員の弟はひとり暮らしをしている。  悠さんは今の仕事に就くまで、大学を出てから一度も働いたことがなかった。  1年前から、若者の就職支援をする団体のサポートを受けるようになり、ようやく受かったのが今の職場だ。この半年間、仕事は一日も休まずに続けられている。周りからは「次は正社員」と言われるが、今はアルバイトで精いっぱいの日々だ。 「正直、自分としては正社員になるのはずっと先かなと思っています。今のバイトをいつまで続けるかもわからないけれど、職場が変わってもやっていけるような人になりたい」 ■嫌われても仕方がない人間だった  悠さんは、子どものときから人との付き合いが苦手で、おとなしい性格だった。弟ともあまり仲が良くなく、ひとりでゲームばかりしていたという。 「小さいころ、友達はいましたか?」と聞くと、「友達、いたのかな? ときどき遊ぶ子はいたけど、友達だったのかな……」と考え込んでしまった。  不運なことに、小学校ではいじめにあった。 「嫌われても仕方がない人間だったから」  寄り添ってくれる先生もいなかったし、母親は「相談できる相手ではなかった」という。 「それはつらかったでしょうね」というと、「相談できる相手が見つけられなかった自分が悪いんです」という答えが返ってきた。  小学校時代は、ほぼ毎日塾通いをしていた。なんとなく、中学受験をするのが当たり前と思っていたので、塾が嫌だとは思わなかった。 第一志望の中学には受からずがっかりしたが、「自分の実力なら当然かなと思った」  中学に入り、小学校の時の友達と離れられたのはよかったが、勉強では一気につまづいてしまった。「どんどんわからなくなってしまって、軌道修正できなかった」という。  中高一貫校だったが、中学でも、高校でも、友達はひとりもできなかった。休み時間は、次の授業の準備をしたり、机につっぷして寝ているふりをしてやり過ごした。昼ご飯もひとりで食べた。 「自分のなかではそれが普通だと思っていたし、そのままやっていくしかないと思っていた」  驚くことに、それでも学校を一日も休まなかった。 「どうして? 学校に行くの嫌じゃなかったの?」と聞くと、こう答えた。「病気でもないのに、休むのはおかしいと思ったから」  修学旅行にも参加したという。友人のいない悠さんは自由時間にひとりぼっち。さぼろうとは思わなかったのだろうか。 「行くのが普通だと思ったから。行かないなら、明確な理由がないとダメだと思った」  高校生になると、有名な国立大学を目指して家庭教師について勉強をした。 「小学校のころから、周りの子よりもたくさん勉強してきたというプライドがある。ある程度のレベルの大学じゃないといけない」。しかしいっぽうで、自信はなかった。「自分は頭がいい人間じゃない」  家庭教師は、3年以上同じ人に来てもらっていたという。その人と親しい関係が築けたからだろうか。 「嫌いだった。いつもボロクソ言われていたから」 やめたいと言わなかったのか。 「自分はそういう立場じゃない」  まじめすぎるほどまじめで、自己評価が低かった。他人には理不尽に思えることでも、悠さんは「自分が悪い」「自分のせい」だと思っていた。悠さんは、家庭でも学校でも、自己肯定感を育む機会に恵まれなかったように見えた。 ■大学の「学生相談室」に救われたが…  そんな悠さんに、ようやく救いの手が差し伸べられた。  一浪して大学に進学。入学時の健康診断で、「学生相談室」を紹介されたのだ。学生が抱える様々な問題について、サポートしてくれる制度で、カウンセラー(臨床心理士)が心配ごとや困りごとを聞いてくれる。悠さんは週に1回、相談室に通うようになった。 カウンセリングでは、今の状況や、過去の出来事など、親にも言えなかったことを安心して話すことができた。いつも自分を待っていてくれる。そういう場所は、今までなかった。 「相談室がなかったら、大学は4年で卒業できなかったと思う。本当に感謝しています」  卒業した後も、1年くらい続けて相談室に通うことが許されたという。就職活動がうまくいかない悩みなども、聞いてもらった。しかし本来は、在学生が利用するための相談室。卒業して1年ほどたつとサポートは得られなくなった。  在学中から就職活動はやっていたが、うまくいかなかった。書類審査は通っても、面接で通らない。質問にうまく答えられないからだ。何社も受けたが、ひとつも受からなかった。  卒業後も就職活動は続けた。1年目は公務員を目指した。2年目は、「資格を取ったら就職につながりやすいんじゃないか」という母親のアドバイスで、資格の勉強をした。専門学校を受験したこともあるが、受からなかった。  そうこうするうちに、コロナ禍になり、外出もままならない日々が訪れた。悠さんは、家に引きこもるようになった。毎日YouTubeを見たりして、ぼんやりと過ごしていたという。 「そのころは、人生を諦めていましたね。小・中学時代にいじめられていた日々とは、また違うつらさでした。もう消えてしまいたい、自分なんていなくなったほうがいいかな、と思うこともありました」 文部科学省の「学校基本調査(平成29年)」によると、大学卒業後に進学も就業もしない人の割合は7.8%。大卒者の13人に1人が、ニートや無職になっているという現実がある。その中には、働く意志はあるのに就職活動がうまくいかなかったという人もいる。悠さんもそのひとりだった。  近年、少子化で学生に対する大学のサポートは手厚くなっている。学生数の多い私立でも、「キャリア支援」「就職支援」の体制が整い、相談体制やプログラムも充実している。だが、そうした大学の支援は、たいていは学生が卒業するまで。就活に失敗して卒業したとたん、社会との接点も切れてしまう人もいるのだ。 ■あの電話がなかったら… 「ずっとこのままでいいのか? このままではいけない。勇気を出そう」 悠さんは、力を振り絞った。HPを検索していて見つけた、「ひきこもりやニートの社会復帰を支援する」という謳い文句のサポート団体に、連絡を取ったのだ。  実は1年以上前から見つけて知っていたが、連絡する勇気が出ないでいた。「相談したいことがあります」というメールを書いたものの、送信ボタンがなかなか押せなかった。迷いに迷った末、ついに、ボタンを、押した……。  悠さんが連絡したのは、福岡市の一般社団法人「八おき塾」。説明会に行き、入塾するかどうか迷っていたところ、代表の人から電話があった。 「またおいでよ」  悠さんは、あとでこう振り返る。 「あの電話がなかったら、行っていなかったかもしれません」  八おき塾の代表、鳥巣正治さんは言う。「『八おき塾』という名前には、『何回転んでも、また起き上がって前に進んでいこう』という意味が込められています」  八おき塾の毎週1回の若者との面談では、「プラス3、マイナス1」というルールがある。必ず3つ、「いいこと」を話し、最後に1つ、「できなかったことや課題」を話すというものだ。 「できないことばかり考えたり、反省し過ぎると、やる気が出ない。プラス3マイナス1なら、2つのプラスが残る」(鳥巣さん) ■「友達はいなくてもいい」  八おき塾での就労訓練を経て、悠さんは就職活動を再開した。10回目の面接で、ようやく今のバイト先に雇ってもらえることになった。  最初のころは、レジ打ちで食品をかごに移すときの入れ方がわからず、焦ってしまっていた。牛乳は、立てて入れるのか横にするのか……?  いまだに苦手なのは、人に頼みごとをすることだ。たとえばレジに並ぶ客の行列が長くなると、呼び出し機を使ってほかのスタッフに「応援要請」をしなくてはいけない。 「さっき呼んだばかりなのにまた呼ぶの?と思われそうで……。ほかの人にも、品出しとかやることがたくさんあるのに。お客さんにも、スタッフにも迷惑をかけないようにするのが難しいです」  それでも、できるようになったこと、やりがいを感じられるようになったことも少しはある。  あるとき、50代くらいの女性のお客さんから、声をかけられた。 「もう、お仕事は慣れましたか?」 「3か月以上たちますが、全然だめです」と答えると、「いつも見てますけど、お仕事がていねいで、頑張っていますね」と言われた。  びっくりしたが、嬉しかった。  いろいろな経験を重ねることで、困ったことがあっても「この間も乗り切れたんだから、大丈夫」と思えるようになってきた。これから先のことはわからないが、とりあえず前に進まないと、と思っている。 そんな悠さんに聞いた。 「友達が欲しいと思いますか?」  答えはすぐに返ってきた。「今は友達がいてもいなくてもいいと思っています」  不思議に、悲壮感はなかった。友達はいなくても生きていける。でも、人とのつながりがなくては、人は生きていけない。  外に出ることで、人とのつながりは確実にできる。勇気を出してこの取材を受けたことも、すべて悠さん自身が開いた扉。少しずつ、悠さんの世界は広がっている。(取材・文/臼井美伸) 臼井美伸(うすい・みのぶ)/長崎県佐世保市出身。出版社にて生活情報誌の編集を経験したのち、独立。実用書の編集や執筆を手掛けるかたわら、ライフワークとして、家族関係や女性の生き方についての取材を続けている。佐賀県鳥栖市在住。http://40s-style-magazine.com 『「大人の引きこもり」見えない子どもと暮らす母親たち』(育鵬社)https://www.amazon.co.jp/dp/4594085687/
ひきこもり社会復帰
dot. 2022/06/19 10:00
レジリエンスの高い社会を目指して発信し続ける 評論家・チキラボ代表・荻上チキ
レジリエンスの高い社会を目指して発信し続ける 評論家・チキラボ代表・荻上チキ
少年のような眼差し。群れ、つるみ、騒ぐことに距離を置く生き方と無縁ではない(撮影/佐藤慧)  評論家・チキラボ代表、荻上チキ。ラジオ「Session」では、精度の高いニュースが放送される。それはパーソナリティーの荻上チキの力量によるところも大きい。パーソナリティーだけでなく、評論家として、アクティビストとして、荻上はいじめ問題をはじめ、様々な社会問題の解決の道を探る。自身も理不尽ないじめを受けた。人が不遇な状況に陥ったとき速やかに回復できる社会を作ろうと、本気で取り組んでいる。 *  *  *  いつも冷静に淡々と事実を伝え、論評する荻上(おぎうえ)チキ(40)の声は、その日、すこし張り詰めていた。 「第2次世界大戦も経験した80歳を超えたおばあさんは、自分の家をロシア兵の拠点にされ、自宅の屋根から、スナイパーが隣人を殺しつづけているのを目撃したと……」  2022年5月14日から24日にかけ、荻上は、親しいフォトジャーナリストら3人とロシアが侵攻したウクライナや周辺国を取材した。360万人が避難したポーランドで支援の実情を視察し、ウクライナの首都キーウへ。そこからロシア軍による住民虐殺があったブチャ、戦場となった近隣のイルピン、ボロディアンカを訪ね、自身がパーソナリティーを務めるTBSラジオの番組「荻上チキ・Session」(月曜~金曜午後3時30分~5時50分)でレポートした。 「チキさん、眠れていますか。心疲れてないかな」「Session」のパートナーで、フリーアナウンサーの南部広美が健康を気遣う言葉をかけた。夜に放送していた先代の番組「Session-22」が始まった13年からパートナーを務める南部は、ニュースを通して物事の見方を深められたり、気づかされたりすることの連続だという。  数多ある全国のラジオ番組の中で、「Session」は、ラジオの枠を超え、他のメディアにも知られる報道・情報番組だ。ニュースを伝えるだけでなく、専門性をもったゲストに毎回しっかりと話を聞き、データや事実を基に本質を考える荻上の力量が、番組の個性を際立たせている。放送文化の発展と向上に貢献した番組や個人、団体に贈られるギャラクシー賞でDJパーソナリティ賞。番組で展開した「薬物報道ガイドラインを作ろう」で、同賞ラジオ部門の大賞も受賞している。 ■転校して始まったいじめ ゲームや習い事が救いに  南部は番組を担当する前、別の職場で行き詰まり、一時海外で暮らしたことがある。 自宅の仕事部屋。壁一面の本棚には心理学系やメディア論、戦争関連の書籍、資料が目立つ。ラジオ番組の放送に出かける前にメールをチェックする。オンラインミーティングも頻繁に行う(撮影/佐藤慧) 「逃避でした。ただその時は苦しみの正体がよくわからなかった。でも、それがパワハラの一種による傷だということが、チキさんの言葉で一つずつ区分けされ、理解できるようになったんです。私だけでなく、チキさんの話を聞いてモヤモヤの理由がわかるリスナーさんはとても多いと思う」  生きづらさを抱え、困難に直面している人は多い。そこには社会的な背景や原因がある。実態を調べ、データで裏付けて言語化、見える化し、問題解決や改善へとつなげる。言いっぱなしにせず、社会を変えるためにどうすればいいのか。荻上がラジオをはじめ様々なメディアで発信する時にいつも意識していることだ。肩書は「評論家」。といっても、捉えどころのないタイプのそれではなく、専門知を使って社会問題の解決の道を探るアクティビストだ。一般社団法人社会調査支援機構「チキラボ」代表として、様々な社会問題の実態調査と情報発信を行い、いじめ問題の研究や啓発活動を行うNPO法人「ストップいじめ!ナビ」の代表理事も務めている。また「『ブラック校則をなくそう!』プロジェクト」を立ち上げ、いじめと関わる校則の理不尽な指導是正を訴えている。  アグレッシブに社会と正対し、解決へ向けての活動を行う行動力と発信力の原点には、少年期の理不尽な体験が影響している。  1981年、兵庫県明石市生まれ。小学校2年の時、父親の仕事の関係で埼玉県浦和市に転居する。学校で上級生から「お前が関西から来た奴か。ちょっと関西弁をしゃべってみろ」といじられた。「そんなこと急に言われても、わからへん」とおもわず関西弁が出た。とたんに笑われた。いじめの日々が始まった。当時、太っていた荻上は、運動は苦手、社交性がなく、本を読んだり、ゲームをしたりするのが好きだった。学年が上がり、クラス替えがあっても、いじめは続き、中学1年頃までつづいた。小学校3、4年生の時のあだ名は「貧乏神」。中1の時は「便器」。プロレスのドロップキックを食らい、上履きに画鋲を入れられ、傘を取られ、ランドセルを焼却炉の中に投げ込まれた。  毎日のようにいじめの方法が変わった。ボール遊びをしていて絡まれ10分間ぐらい蹴られ続けたこともある。そういう時は、自分の尊厳のラインを決めて、一線を越えたら反抗した。 「だけど反抗するといじめはエスカレートします。だから対処せず、時間が過ぎるのを待ちました」  とは言え、いじめの期間があまりに長い。どのように耐えたのか。 「学校はサブ、家でゲームなどをして遊ぶのがメインと考えていました。いじめられたことをひたすら忘却して、恨みを持ち越さないようにして」  両親は共働き。学校から帰ると誰からも干渉されず、夢中になれるのがゲームだった。テレビっ子でもあり、バラエティー番組を録画してデッキで編集。放送予定のチェックは欠かさなかった。一方で教育熱心な母親に勧められ、小学生の時から、塾はもとより、ピアノ、スイミング、スケート、習字、ボーイスカウトなど通った習い事は10種類ほどに上る。放課後なにもしないという日はなかった。学校と家庭以外にそうした「第三の場所」があったことは一つの救いだった。 「学校がいいと思える要素なんか一つもない。世界はムダでできていると考えていました。形式的には行っておくけど、なくてもいいんだと」  それでも、いじめによる事件は気になった。テレビニュースを食い入るように観た。そして落胆した。学校がいやで休む時もあった自分には、役に立つ情報がないと感じたからだ。  荻上の活動の一つ「ストップいじめ!ナビ」は、自身のそうした経験も踏まえ、やむにやまれず始めたものだ。  きっかけとなったのが、11年に滋賀県大津市で中学2年生がいじめられた末、自殺した事件だった。この時も、メディアは事件を繰り返し大きく報じたが、荻上がいじめにあっていた頃と同じように、社会の理解不足は変わっていないと感じた。 ■大学で文学理論の研究 文学を通して社会を読む  いじめについては、日本も含め世界的に1980年代から30年以上にわたり研究が重ねられてきていた。いじめには「傾向」があるという。いじめが起きやすい「ホットスポット」は教室。次が廊下や階段。教室の中のいじめが最も起きやすいのは「休み時間」が圧倒的に多い。学校は自由に動けず、持ち込める私物も制限されている。マンガを読んだり、息抜きしたりすることもできない。いじめは、個々人の心や道徳の問題ではなく、環境が大きく作用していることは、研究者の間では共通の理解だ。だとすれば知見に基づいて改善できるはず。しかしそうはなっていない。もっと社会全体で、いじめの構造や対策などを共有してもらい、提言や啓発活動を通して改善、解決に寄与したい。そう考え、12年からナビの活動を開始。14年にNPOとして法人化した。この間、13年に成立した「いじめ防止対策推進法」成立に向けて、政治家に働きかけもした。 (文中敬称略)(文・高瀬毅) ※記事の続きは「AERA 2022年6月20日号」でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/06/18 17:00
「100本ノックだ!」「打席に立て」 何でも野球にたとえる“野球上司”に若手が呆れるワケ
福井しほ 福井しほ
「100本ノックだ!」「打席に立て」 何でも野球にたとえる“野球上司”に若手が呆れるワケ
※写真はイメージ(gettyimages)  打席に立て! 打って、走って、100本ノック──。職場にあふれる用語の意味が実はよくわかりません。上司はどうして何でも野球にたとえるのでしょうか。AERA 2022年6月20日号ではそんな疑問にズバッと迫ってみました。 *  *  *  深夜0時過ぎ、記者のもとに届いたメール。開くとこんな言葉が飛び込んできた。 <ベンチから声を出しているだけではゲームは動かせません>  送り主は、企画をともに進めている上司の一人だった。メールはこう続く。 <チームメンバーは、みなプレーヤーです> <球を見極め、打って、走って、ゲームを進めていく>  丁寧な言葉づかいの裏に、「熱い」思いが見え隠れする。ただ、インドア文化系出身の身としては、こうも思ってしまう。  どうして野球にたとえるのか、と──。 ■正直ピンとこない  物事をわかりやすく説明するために、比喩を使う人は多いだろう。勇気を振り絞って最初に水に飛び込む「ファーストペンギン」の話を聞いたのは、一度や二度ではない。だが、あまたあるたとえのなかで頻出するのが、冒頭の「野球たとえ」だ。 「たとえ話は誰もが理解できるかどうかが大事。ただの趣味と違って、野球の情報は息を吸うように入ってくるものだから」  と上司は説明するが、ルールさえ知らない記者にとってはかなり縁遠い存在なんですが……。  なんでも野球にたとえる「野球上司」がいるのは、記者の職場だけではない。  ある会社では、「100本ノック」と称した社内報が飛び交っている。新入社員はルーキー、上役をベンチと表現し、仕事の取り組みや事業についてそれぞれが紹介する。もちろん、野球関連の事業はない。この会社に勤める女性は言う。 「最初はなんで野球?と思いましたが、盛り上げていくぜという熱意は伝わった。古い会社で野球が好きな人が多いのも、用語が使われる理由なのかも」  職場では、プロ野球から高校野球まで、幅広く会話が繰り広げられているという。 「野球上司」はあなたの職場にも?(イラスト/土井ラブ平)  都内の会社に勤める女性(28)の近くにも、野球上司がいる。仕事中にふらっとやってきて、 「打席に立て! 空振りでもいいからバットを振れ!」  と激励して去っていく。「ありがたい言葉ではあるけれど」と前置きしながら、こうこぼす。 「ニュアンスというか、言わんとしていることはわかります。でも、野球をしたことがないから、本当に理解できているかどうかは怪しい」 “令和の怪物”と呼ばれる佐々木朗希や二刀流の大谷翔平などの有名選手はもちろん知っている。だが、細かいルールや往年の名選手のことはよくわからない。正直ピンとこないのだ。  しかも、こんな弊害も。 「話の内容よりも、またこのたとえか~と面白くなっちゃうんですよね」(女性)  相手に伝わらなければ、たとえ話の効果は半減。なぜたとえてしまうのか。龍谷大学文学部教授で、ビジネス心理学が専門の水口政人さん(48)は言う。 「人間の記憶は、映像で思い浮かべたことが残りやすい傾向にあり、言葉より野球の場面を使って説明することでコミュニケーションが円滑に進んだ成功体験があるのでしょう」 ■野球たとえは処世術  40~50代の上司世代にとって、娯楽といえば野球だった。そんな水口さんも、子ども時代から野球を続ける生粋の野球好き。かつて勤めた大阪の会社では、阪神ファンの取引先との会話に備え、経済新聞だけでなくスポーツ紙も読み込んでいた。受けが良いからと、事あるごとに“王・長嶋”の話を挟む若手社員を見たことも。 「もちろん当時のことは知らない世代。ただ、野球のたとえは会話パターンの一つで、何にたとえるかは本質ではない。互いに良い関係を築きたいと思えば、いまいちなたとえでも潤滑油に変わる。向き合う前から毛嫌いするより、いっそ胸元にズバッと投げ込んでみては」  処世術としての野球たとえ。斜に構えるより、まずはバットを振ってみます。 (編集部・福井しほ)※AERA 2022年6月20日号
AERA 2022/06/16 17:00
少子化がギアを上げて加速、最大の人口減に 要因は「既婚女性の出生率低下」と専門家
古田真梨子 古田真梨子
少子化がギアを上げて加速、最大の人口減に 要因は「既婚女性の出生率低下」と専門家
AERA 2022年6月20日号より  イーロン・マスク氏が「日本は、いずれ消滅する」と警告した。ここ数年、ギアを上げて進む少子化の背景には何があるのか。AERA 2022年6月20日号の記事から紹介する。 *  *  * 「日本は、いずれ消滅する」  5月、そんな衝撃的なツイートがSNSを駆け巡った。発信者は、米電気自動車大手テスラのイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)。同氏が米ツイッター社の買収に約440億ドルで合意したとの報道が出た直後だったために、 「次は日本が買収されるの?」  と思った人もいたというが、ジョークでも笑い話でもない。現実になりつつある未来なのだ。  総務省が4月に発表した、昨年の日本の総人口は、前年より64万4千人減の1億2550万2千人(外国人272万人を含む)。減少数、減少率ともに1950年以降で最大となった。  冒頭のマスク氏のツイートは、その報道を引用する形で投稿されたもので、全文はこうだ。 「明らかなことを言うようだが、出生率が死亡率を超えるために何かを変えない限り、日本はいずれ消滅する」  そんなこと言われても──。  都内の広告会社で働く女性(33)は、そのツイートをスマホで見たが、すぐに画面をスクロールさせた。 「責められている気がして怖くなった。早く産みたいですよ。でも結婚相手もいないし、どうしたらいいんですかね」 2014年、AERAの表紙に登場したイーロン・マスク氏 ■既婚者の子の数が急減  女性は最近、卵子凍結サービスの説明会に足を運んだ。出産するとしても遅くなるかもしれない。その時に備えようと考えたからだ。だが、映像で見た冷凍設備が想像していたよりも簡易なものに見えて、急に不安になって踏み出せなかったという。  最近、社内の同僚が未婚のまま出産した。女性は言う。 「様々な選択肢のある時代だし、シンプルにうらやましいと思った。だけど私は、独身のまま出産する勇気が出ません」  厚生労働省の人口動態統計によると、2021年に生まれた日本人の子どもの数(出生数)は81万1604人で、前年より2万9231人(3.5%)少なく、データがある1899年以降で最少となった。15年までは年約1%の緩やかな減少だったが、16年に100万人を割りこんで以降は減少率が毎年3.5%程度になり、わずか5年で約80万人に。少子化が一段階ギアを上げて加速している。 撮影/写真映像部・東川哲也  少子化問題に詳しい日本総研の藤波匠・上席主任研究員は、 「日本では、結婚している人が子どもを産むのは当然で、それが幸せという価値観があった」  と話す。そのため、これまで「既婚女性の出生率」は出生数を押し上げてきたが、藤波さんが国勢調査などのデータをもとに出生数の減少要因を5年ごとに分析したところ、最近の結果に大きな変化が見られたという。  それまでは、出生数減少の原因は「年齢的に出産が可能な人口」の減少と「婚姻率」が低下しているためだったが、20年に初めて「既婚女性の出生率」が押し下げ要因になったのだ。藤波さんはこう解説する。 「結婚しているカップルの持つ子どもの数が急減しています。出生意欲の低下が現在の少子化の最大の要因です」  一般財団法人「1more Baby応援団」が、既婚男女2995人と40代で出産を経験した女性409人に実施した調査結果(6月発表)によると、「今後出産する・したいと思う」と回答した人が、調査を始めた13年以降最低の47.1%に。理由は「経済的不安」が最多の62.4%、次いで「すでにいる子どもで満足している」が45.9%。既婚で子どもがいない女性に限ってみると「心理的な不安」が62.1%で最多だった。  神奈川県の看護師の女性(40)は38歳の時、第1子となる男の子を出産した。 「妊娠中は年齢を考えて、できるだけ早く2人目を、と考えていたけれど、出産後にそんなに簡単ではないと思い知った」 ■家計を考えて一人っ子  経理畑の会社員の夫(37)は当初から「子どもの大学入学と夫婦の退職が重なる。家計を考えると、一人っ子でいい」とかたくなで、さらに仕事が忙しく、帰宅は深夜だ。地方で暮らす両親に頼ることもできず、平日は近所の病院でパート勤務をしながらのワンオペ生活が続く。  産婦人科医の宋美玄さんは、 「経済的な理由でそもそも結婚ができない層がいることに加え、子育てが大変だというイメージが強い。子どもを産んでから自立するまでの“課金ゲーム”に耐えられる気がしないと考える人も増えていると感じます」  政府は、保育園を作り、男性育休などの環境整備に力を注ぐ。4月から不妊治療の保険適用が広がり、5月には自民党の議員連盟が出産育児一時金を数万円増やす提言書を首相に提出した。宋さんは、自己負担が減ることを歓迎しつつも、こう話す。 「だからと言って、安心して子どもを産めるようにはならないでしょうね。目先の政策でごまかさず、もっと子どもの未来に投資するような政策を打ち出してほしい」  出生意欲の低下、ズレた少子化政策、減り続ける子どもの数。明るい話題がない中、第1子の平均出産年齢は30.9歳(21年)で、15年以降ほぼ横ばいで推移している。(編集部・古田真梨子)※AERA 2022年6月20日号より抜粋
AERA 2022/06/15 18:00
甘いものも辛いものも! 「明治座」関係者御用達、“真心菓子”を売る店
山田美保子 山田美保子
甘いものも辛いものも! 「明治座」関係者御用達、“真心菓子”を売る店
山田美保子・放送作家、コラムニスト  放送作家でコラムニストの山田美保子氏が楽屋の流行(はや)りモノを紹介する。今回は、「『銀座あけぼの 日本橋浜町店』の菓子」を取り上げる。 *  *  *  仕事でもプライベートでも各地の劇場に行く機会が多い。本来ならばウキウキ、ワクワクさせられる場所。だが振り返れば、コロナ禍、それも緊急事態宣言下は、落胆することだらけだった。  リハーサルやゲネプロに行き、主演俳優にインタビューもしたのに公演が初日から中止になったのも一度や二度ではない。観客として訪れる際の消毒液や検温というのは他の施設でも慣れっこだが、チケットの半券を自分でちぎって箱に入れ、無言で観劇というのは、どうにも味気ない。  送り主の名前がデカデカと札に記されたスタンド花や胡蝶蘭、大箱に外熨斗の楽屋見舞いなどは、まだしばらく見られないのだろうか。決まりとは言え、なんだか淋しい。  さて、そうした厳しいルールがありつつも、4月は香取慎吾さん、5月は演歌第7世代ら後輩歌手を引き連れた五木ひろしさんと、吉本新喜劇×NMB48、6月は氷川きよしさん……と人気の演目が目白押しのせいか、すっかり戻ってきた感があるのがおなじみ『明治座』だ。 人形町駅から徒歩で「明治座」へ向かう途中にある「銀座あけぼの 日本橋浜町店」。お店の中はいつも「明治座」の関係者をはじめ、人形町や水天宮帰りの土産を求める客でにぎわっている。季節ごとに変わる商品に合わせたショーウィンドーを眺めるのも楽しい。「白玉豆大福」「味の民藝(おかき)」などの通年商品のほかに、これからの季節であれば「水大福」「わらびもち」など、涼しげな夏の和菓子が加わる。 東京都中央区日本橋浜町2-6-1 浜町パルクビル1階 営業時間・月~金9:00~19:00、土日祝9:00~18:00 不定休  施設内にも多くの店舗があるのだが、そこを利用するのは観客たち。昔ながらの“しきたり”を熟知した座長さんとスタッフらが「急に観に来てくださった方へのお土産をすぐに買いに行けて便利」「2個ずつとか少しだけのお願いでも最高の接客で素早く包んでくれる」と絶賛するのが劇場のすぐ近所にある『銀座あけぼの 日本橋浜町店』だ。本店は銀座4丁目交差点近くの晴海通り沿いで、その賑わいを目にした方も多いだろう。まだ甘いものが貴重だった戦後、人々の活力の素と「新しい日本の夜明け」を願う想いが店名になったという。  現在、人気の定番菓子に使っているのは契約農家で栽培された北海道産小豆や、宮城県産みやこがねもち米。 「日本橋浜町店」は、大通りから少し入った閑静な場所にあり、ショーケースが見やすく、何より『明治座』とは目と鼻の先。季節のお菓子から「白玉豆大福」「もちどら」「姫栗もなか」などなど、職人が早朝から丹精こめて仕上げた菓子の数々は自分用に1個、2個からも買える。  店主は職人に対し、「自分の一番大切な方に差し上げるお菓子だと思い、心をこめてください」と常に言っているのだとか。大御所らが安心して進物に利用できるワケである。 山田美保子(やまだ・みほこ)/1957年生まれ。放送作家。コラムニスト。「踊る!さんま御殿!!」などテレビ番組の構成や雑誌の連載多数。TBS系「サンデー・ジャポン」などのコメンテーターやマーケティングアドバイザーも務める ※週刊朝日  2022年6月17日号
山田美保子
週刊朝日 2022/06/12 11:30
滝藤賢一の“演劇界の東大”「無名塾」時代 「多くてもセリフ7つぐらいの役だった」
滝藤賢一の“演劇界の東大”「無名塾」時代 「多くてもセリフ7つぐらいの役だった」
滝藤賢一さん(右)と林真理子さん(撮影:写真映像部・戸嶋日菜乃 編集協力:一木俊雄 ヘアメイク:那須野詞)  ドラマ「半沢直樹」のブレークを果たし、数々の作品に出演する俳優・滝藤賢一さん。現在の華々しい活躍の裏にあった「無名塾」時代のエピソード、ブレーク後の売れっ子ならではの苦労など、作家・林真理子さんとの対談で語ってくれました。 *  *  * 林:私は最初「半沢直樹」で滝藤さんを見て、なんてすごい人なんだろうと思いましたよ。いちばん印象に残ってるのは、うつで狂気の顔をしてるときに、金庫の鍵の番号を記憶してるという……。 滝藤:じとーっと見てるシーンですね。 林:そう、目が充血して。 滝藤:目が赤くなる努力はしてました。寝る時間もなるべく短くして、現場ではまばたきしないでカッと見開いているとか。 林:あの「半沢直樹」でブレークしたと言われてますよね。 滝藤:そうですね。あの作品で認知していただいたんだと思います。僕がお仕事をいただけるきっかけになったのが映画「クライマーズ・ハイ」(2008年)で、そのあとに「踊る大捜査線」シリーズとか、いろいろ出させていただくようになりました。 林:朝ドラ(「梅ちゃん先生」12年、「あまちゃん」13年、「半分、青い。」18年)にもいっぱいお出になってるし。大河ドラマ(「龍馬伝」10年、「麒麟がくる」20年)もお出になってますけど、舞台はあんまりお出になってないですよね。 滝藤:そんなに。舞台は東日本大震災の年が最後です。もともと映像に憧れてこの世界に入って、仲代達矢さんの「無名塾」で10年間みっちり勉強させていただきました。おかげで今、映像のお仕事をたくさんいただけております。舞台は遠ざかってますね。 林:つらかったことがよみがえってきて? あそこは「演劇界の東大」と言われて、ハンパじゃなかったんでしょう? 滝藤:仲代さんは「芝居のことだけ考えなさい」という場所を無償で提供してくださっていたので、とても恵まれた環境でした。もちろん厳しかったですね。 林:仲代さんにこの対談に出ていただいたとき、「無名塾」について伺いましたけど、広い稽古場のお掃除から始まるんですよね。 滝藤:電車組は始発に乗って朝5時半に来るんですけど、自転車組は朝5時からでしたから、僕、自転車で40分ぐらいかけて行ってましたね。あいさつから姿勢から言葉づかいから、厳しく育てられました。僕はこんなんですけど(笑)。 林:あの方は漫画界の手塚治虫さんとか、そんな感じですよね。レジェンド、神みたいな領域の方。 滝藤:そうですね。僕らは黒澤映画の影響を受けてますからね。 林:そうですよね。 滝藤:「俳優は普段から演じなさい」と常日頃からおっしゃってました。「芝居だからといって急にお上品にはなれない。普段からちゃんとした日本語をしゃべりなさい」とか、「人間として普段からちゃんと歩きなさい」とも言われてましたね。一歩歩くと「違う!」、ひと言発すると「聞こえない!」って毎日言われてました。 林:そのころ役所広司さんはもういなかったんですか。 滝藤:僕が入ったころにはもういらっしゃらなかったですね。1期生に隆大介さんがいらして、2期が役所さん、若村麻由美さんが9期。「花の9期」と言われてました。僕とか真木よう子さんは22期です。 林:でも仲代さん、滝藤さんに「君は40(歳)すぎたら売れる」とおっしゃったんでしょう? 滝藤:売れるというより、「40からが勝負だ」と言われてました。「だから40までは芝居を一生懸命勉強しなさい」と。 林:「無名塾」ではどのレベルの役がついてたんですか。 滝藤:多くてもセリフ七つぐらいの役だったと思います。いちばん最初は同期3人で一つのセリフを日替わりで言ってました。無名塾は180センチ以上でロートーンの太い声を出すイイ男がそろっているので、僕みたいなタイプは通用しなかったです。 林:「無名塾」をやめたあと、仲代さんとお会いしてお話ししたことはあるんですか。 滝藤:ありますよ。7年ぶりぐらいに現場でお会いしたときに、仲代さんが入られるのを入り口で待ってたんですけど、僕の顔を見た瞬間、肩をバチンと一回たたかれて、何も言わずにスーッと行かれました。 林:「よくやってるじゃないか」という無言のお褒めの動作だったんじゃないですか。 滝藤:だったんですかね。そのとき、僕、涙がとまらなかったですね。無名塾の外でご一緒することを、一つの目標として頑張ってきたので、すごくうれしかったです。そのときを含めて2作品ご一緒させていただきました。 林:それは映画ですか。 滝藤:ドラマです。WOWOWとNHKで。仲代さんと僕の2人のシーンでは、スタッフみなさん正座です。畳の部屋で。もう緊張しましたよぉー。 林:でも滝藤さん、また舞台やりそうな気がしますよ。舞台は麻薬みたいなものでやめられないって言うじゃないですか。 滝藤:「無名塾」に10年いましたけど、「無名塾」の芝居には4作しか出てないんです。在籍中も青年座のスタジオ公演に出たり、とにかく自分が芝居をする場所を小劇場に探し求めました。舞台でしか演じる場所がなかった。開場時間ギリギリまで客席を並べたり、5人出てる舞台でお客様2人とかありました。なので、舞台が楽しいっていう感じがあんまりないんですよね。 林:主役をやれば楽しいですよ。 滝藤:楽しいですかね……。今は舞台よりも映像のほうをやりたいと思ってます。やれることがまだまだいっぱいあると思うんで。一つひとつの作品に丁寧に向き合って、大切にやっていきたい。なんなら打ち合わせから参加したいぐらいです。やれることを、やれるだけやってから、作品にのぞみたいです。 林:オファー、いっぱい来てるんでしょう? 滝藤:それが、事務所は「いまの作品に集中して、これが終わったらお話ししましょう」と言ってくれているので、先々どんな仕事が、という情報はぜんぜん知らないんです。 林:でも、マネジャーさんに「どう? こういう話が来てるんだけど」って言われるの、うれしいんじゃないですか。売れっ子の人って、たくさん積まれた台本の中から選ぶんでしょう? 滝藤:台本が何十冊も山積みになってる時期が何年もあったので、今は、1冊でいいです。そのほうが幸せです。僕、あまりの忙しさに心と体のバランスを崩しましたから、コロナの前ぐらいに。 林:そうなんですか。その話はびっくりです。 滝藤:自分では「俺は無敵だぜ」と思ってやってたんですけど、やっぱり崩れましたね。自分をコントロールできなくなって、そういう中で仕事をやっていくのが苦しくて苦しくて。急に泣きだしたり、夜中に家を飛び出したり。 林:えっ、ほんとですか。 滝藤:ようやく去年の終わりぐらいから「あ、大丈夫かな」と思えるようになりましたけど、働きすぎって恐ろしいですね。 林:息抜きにお洋服を買いに行ったり、お酒を飲みに行ったりはしてらっしゃるんですか。 滝藤:あんまり外にお酒を飲みに行ったりもしないですけど、植物との時間がとても穏やかでいいですね。 林:そうだ、多肉植物が趣味なんですよね。 滝藤:はい、乾燥地帯の植物ですね。僕、きのうまで3日間ぐらいお休みをいただいてたんで、その間ずっと植物と一緒に過ごしてました。サボテンとかにお水をあげたり、下枝をカットしたり、元気ないなと思った植物に水をたくさん入れてあげて、ポリ袋に入れて密閉すると、2週間ぐらいするとプリップリに復活するんで、それを一つずつやったり。 林:この間「情熱大陸」に樹木医の人が出てましたよ。 滝藤:えっ、見たかったなあ。 林:私も途中で娘が来てチャンネル替えられちゃったんで、ちょうどいいところを見てませんけど(笑)。 滝藤:植物はおもしろいですよ、とても。 林:ベランダにいっぱい並んでるんですか。 滝藤:600鉢ぐらい並んでいますね。 林:奥さん何も言わないですか。 滝藤賢一(たきとう・けんいち)/ 1976年、愛知県生まれ。98年、俳優養成所「無名塾」に入り、舞台を中心に活躍。映画「クライマーズ・ハイ」(2008年)で脚光を浴びる。以降も、NHK大河ドラマ「龍馬伝」(10年)や連続テレビ小説「梅ちゃん先生」(12年)、「半沢直樹」(13年)などで話題に。現在公開中の映画「極主夫道 ザ・シネマ」にも出演。洋服好きでも知られ、著書に『服と賢一』(主婦と生活社)がある。芸能界きっての植物マニアでもある(撮影:写真映像部・戸嶋日菜乃 編集協力:一木俊雄 ヘアメイク:那須野詞) 滝藤:興味ないので、特に何も言いません。 林:植物に水をやったりしながらセリフを頭の中で反復したりするんですか。 滝藤:それをやってたんですけど、何かをやりながらではセリフは入らないですね。植物に何時間か費やしたら、パッと切り替えて覚えます。 林:そうですか。 滝藤:あとはとにかくいい睡眠をとるようにしてます。朝20分くらい太陽を浴びて、一日をスタートする。いまは5、6時間睡眠がとれるんで、それを大事にしてます。セリフを覚えるというより、そちらのほうを大事にしてますね。そうすればセリフは入ります。 林:師匠の仲代さんは、お年でセリフを覚えられなくなって、紙に書いて壁に貼ってるとおっしゃってましたよ。 滝藤:無名塾に入ったころは、僕らがベニヤ板にセリフを書いてました。僕も何かで拝見しましたが、懐中電灯を照らして覚えてらっしゃいましたね。あの鬼気迫る表情が忘れられませんよ(笑)。 >>【前編】滝藤賢一「探偵が早すぎる」のアドリブ事情 ほぼ編集でなくなって…… >>【後編】滝藤賢一、撮影現場に子どもを連れて行くことも 家族を大事にする父親ぶり (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2022年6月17日号より抜粋
林真理子
週刊朝日 2022/06/11 10:00
いじめで不登校 私が中卒から政治家になった理由 東京都議会議員・弁護士、五十嵐衣里
いじめで不登校 私が中卒から政治家になった理由 東京都議会議員・弁護士、五十嵐衣里
弁護士をしつつ昨年から都議に。「17歳のときに38歳でこうなっているとは想像できなかった」(撮影/植田真紗美)  東京都議会議員・弁護士、五十嵐衣里。中学時代にいじめにあった。当時のことはあまり記憶にないと言う。学校に行けなくなり、アルバイト生活を始める。バイト先を理不尽な理由でクビになり、労基署に相談するとバイト代が出た。これをきっかけに法律に目覚め弁護士に。もっと問題解決ができると思い、昨年、東京都議会議員になった。都議と弁護士の二足のわらじで、目の前の課題に取り組む。 *  *  *  ロシアがウクライナに侵攻した翌日、東京都議会議員の五十嵐衣里(いがらしえり)(38)は、動いた。  東京都議会立憲民主党の政調会長に、都議会で軍事侵攻に反対する決議をしたい旨を伝え、その日のうちに自ら決議案の草案づくりに入っていた。いかにも、という素早い反応だった。  自身の行動を五十嵐はこう振り返る。 「戦争が始まったと思った。じゃあ、私に何ができるかとなったら、結局何もできないじゃないですか。でも、東京都議会の総意として戦争に反対だと言うべきだし、悪いものは悪いって言ったほうがいいと思ったんです」  新聞記事を読み込み、ウラジーミル・プーチンの発言を拾い、草案をつくった。決議案のひな型から外れる「東京都議会はウクライナの市民に寄りそう」といった文言が削られたりしたものの、3月3日、「ロシア軍の即時撤退を求める決議案」は、全会派の共同提案として、本会議において全会一致で採択された。  30歳で司法試験に合格し、国会議員の政策担当秘書を4年間務めたあと、五十嵐が東京都議に初当選したのは、2021年7月のこと。弁護士、政策担当秘書、都議会議員とわずか8年足らずの間にめまぐるしく仕事は移り変わった。  劇的人生の、すべての始まりは、中学2年のときのいじめだった。通っていた静岡市内の中学は、当時、ひどく荒れていた。学校内では、誰かがあたかもローテーションで常にいじめを受けているような状態で、五十嵐にもその順番は回ってきた。ポケベルには、「キモイ、シネ」と言った言葉が並んだ。「当時のことは、記憶を消している感じなんですよね。つらいから」と言葉を選びつつ当時をこう振り返る。 「いじめはみんなに対してきつかったけれど、私は、プライドがあったから、本当に嫌だった。自傷に走ったりはしなかったけど、自分なんてと自信をなくしていたら、どうなっていたかわからない。強くみせるために茶髪にしたりして、悪い友だちから自分を守っていました」 4月1日、夕方から吉祥寺駅前の街頭に立ち、街宣活動。この日は、地元選出の元首相・菅直人、前衆議院議員の辻元清美とともに。このあと武蔵野公会堂で自ら主催した都政報告会へ(撮影/植田真紗美) ■バイトを転々とする生活 将来の不安が募っていく  中学時代の同級生で親友だった鈴木彩乃は、当時横行していたいじめをこう語る。 「いじめをされていない人はいないんじゃないかというぐらい、ハッピーな人は誰もいなかった。私もターゲットになって、うちのガラスを割られたりして、鉄格子までつけましたから。いじめという領域は超えていたと思う」  一方で、五十嵐の中学時代の成績は、常にトップクラスだった。鈴木が言う。 「授業中はいつも私としゃべっていたし、一緒に遊んでいたのに、いつ勉強したんだろうというぐらい勉強はできた。たぶん、パッと教科書を見てわかっていたんだと思います。文章もすごくうまかったし」  しかし、五十嵐は、中2になってから欠席が目立つようになり、ついには高校への進学も放棄してしまう。昼はアルバイトをし、夜、街を徘徊(はいかい)するという日々の始まりだった。金髪のギャルは悪ぶりながら、10代後半をスタートさせていた。 「ただ、どこかで良識があるから、どんなに悪いことをしようとしても苦しくて、この世界は向いてないな、と感じていました。そんな本当のワルになりきれない自分も嫌でしたね。暴力的なことは本当に嫌いだったし。そう考えると、やっぱり、教育と環境が大事なんですね。どこまで良心を持って生きられるかという」  そんな五十嵐に転機が訪れるのは、チェーンの飲食店でアルバイトをしていた17歳のことだった。正月のシフトを決めるという年末、店長と衝突したのだ。正月に遊びたかった五十嵐は、休みを申請したが認められず、その場で「明日から来なくていい」とクビを言い渡されていた。都議会の財政委員会で質問に立つ。「国ではなく、都議にできること、都政だからできることを考えている。女性の貧困問題は、いま、どこから手を突っ込んでいこうかと模索しているところです」(撮影/植田真紗美) 「むかついたし、悔しかった。すぐにどうやって闘おうかと思って、労働基準監督署に行ったらいいと知って向かいました。そこでそれは不当解雇に当たると聞き、会社に通知してもらって1カ月分の給料を払ってもらったんです」  そして、この一件は、五十嵐に新たな道を示すことになった。 「そのお金を得たことは成功体験だったし、法律はすごい、と思った。そこで法律に目覚めてしまって、行政書士になろうと思ったんです。もともと何か資格があれば、社会で働けると思ってましたし。もちろん、すぐには無理でしたが」  その後も乳業会社の事務、4トントラックの運転手といった仕事をしながら10代から20代を過ごしたものの、なかなか充足感は得られなかった。地元吉祥寺を散策。土日も働きづめだが、唯一の息抜きはお笑い番組。「『水曜日のダウンタウン』は必ず録画して見ている。お笑いは癒やし。笑わないと生きていけないですよね、人生なんて」(撮影/植田真紗美) 「自分の能力を発揮していない、というのがつらかった。何をやってもしっくりこないし、続かないし。給料も安くて、あんまり生きている意味はないし、きついなあ、と思ってました。仕事は、自分なりにてきぱきできていたと思うけれど、時給894円じゃお金は貯まらないし、将来に対する不安はものすごくありました」 「楽しいかどうかがすべての基準。街宣も楽しいし、弁護士として困っている人を助けるのも楽しい。この週は弁護士、この週は都議会の質問と決めたら、一気に集中的に作業するのが私の流儀です」(撮影/植田真紗美) ■大学を目指し勉強を再開 30歳で司法試験に合格  この頃、たまたま出かけた先で手相占いをしてもらったことがあった。そのとき、五十嵐は占い師から「あなた、大物になれるね」と言われたことが心に残っていた。 「浅田次郎さんの『蒼穹(そうきゅう)の昴(すばる)』を読んだときに、その占いのことを思い出したんです。やはり、貧しい少年が占い師に『天下の財宝を手中に収める』と予言される物語で、実はそんなことは占い師には見えてなかったというオチなんですけど、未来を信じれば、運命は変えられるという話です。私も心のどこかで、その占いを信じた。猛勉強しようと思った。自分の力が発揮できるのは、勉強ぐらいしかないなと思ったし、大学へ行った同級生たちよりも、自分のほうがやったらできるかも、という思いもあったから」  五十嵐の中では、もっと上の世界の扉を叩いてみたいという思いが日に日に強くなっていく。22歳になった五十嵐は、大学をめざし、高卒認定試験を受けるための専門予備校に入る。  五十嵐が進学先に選択したのは、地元の国立、静岡大学夜間主コース。働きながら学ぶためには、学費が安いことが絶対だった。  大学に通ううちに自尊心も身につき、司法試験という目標もできた。簿記と行政書士の資格は3年のときに早々にとってしまった。  翌年、五十嵐は、名古屋大学法科大学院へと進む。優秀な学生たちに囲まれながら、遅れてきた学生は、改めてこう思ったという。「初めてそういう恵まれた環境に身を置いたわけですけど、そこでもそこそこ通用したということは自信にもなった。自分の中では、大学というのはひとつのコンプレックスでもあったけど、ルートの違う自分でも、法学の世界で戦えば、まあ戦える、ということがわかったのも嬉しかった」  14年、五十嵐は30歳で司法試験に一発合格する。 (文中敬称略)(文・一志治夫) ※記事の続きは「AERA 2022年6月13日号」でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/06/10 11:00
「松本潤くんの影響です」 立教大法学部の「美 少年」浮所飛貴は弁護士が夢
「松本潤くんの影響です」 立教大法学部の「美 少年」浮所飛貴は弁護士が夢
※写真はイメージです (GettyImages)  アイドルを続けながら弁護士資格もとりたい。立教大学法学部3年生の浮所飛貴さん(美 少年)は、壮大な野望を抱いている。中学受験を乗り越えて立教池袋中学校に入学し、14歳でジャニーズに入ってからも自らの夢や好奇心に忠実に、勉強を続けてきた。お茶目なキャラクターで愛される浮所の、もうひとつの顔とは。 *  *  * ──中学受験は何をモチベーションに頑張った?  塾に行ってる人が少ない小学校だったので、クラスのなかだと僕ともう一人が勉強ではツートップで。いつもテストで1位を争ってました。ライバルだけど最後は仲良くなって。  あとで先生から聞いたんですけど、そいつが「浮所がいたから頑張れた」って言ってくれたらしくて、なんかうれしいじゃん~って思いました。僕も刺激は受けてましたね。  受験直前は一日中勉強してました。50分勉強して10分休憩っていうサイクルで、ずっと。前日とか前々日は第1志望の立教の過去問をとにかく必死に解いたんですよ。そしたら本番、算数でほぼ同じ問題が出て、これやった!って。過去問って大事だなと思いました。 ──中学高校時代の得意科目は?  英語はそこそこできたのかな。学校としても力を入れてたので、週7時間くらい授業があって。僕、英語を勉強したいなと思ったきっかけが洋楽なんですよ。それと同時にヒーローものとかの洋画も見るようになって、英語でわかるようになりたいなと。  それに、この仕事してたら海外の有名な人たちと会える可能性もあるじゃないですか。そのときに英語で話したいなっていう夢もあって。なにか明確な目標があるとここまで勉強がはかどるのかと驚きました。  洋画はまだ字幕ありでしか見ないですけど、たまに英語字幕にします。高校の先生が教えてくれたやり方なんですけど、まずは字幕を英語にして、慣れてきたら字幕なしにして、台詞を全部覚えちゃうくらい何回も見る。  僕としては、演技も勉強できるし最高なんですよ。今は映像配信サービスがあるので、空いた時間があればたくさん洋画を見ています。 ──苦手科目は?  社会です。仕事が忙しくて、授業で置いていかれたのがあるんでしょうね。僕、完璧がいいので、休んだときの話がわからないまま先に進むのがすごくいやで。だから苦手意識がついちゃいました。  でも暗記物は嫌いじゃないんですよ。大学で勉強した民法はすごく好きで、「あーおもしろい!」って。テストも楽しかったです。六法(全書)が配られるんですけど、自分の知識と照らし合わせながらその場で答えを求める。数学みたいな感じです。小学校のころは算数が得意だったので、結局、根は理系なのかなと思いつつ。  大学って、授業に行くとびっくりするくらい頭に入るんですよね。中学高校はあんまり集中してなかったので、もっとちゃんと聞いとけばよかったです。 ──勉強はコツコツ派? 一夜漬け派?  一夜漬け派ですね。テスト1週間前くらいから本気でやる感じです。そのほうが効率いいと思うんですよ。コツコツやってもその間に忘れちゃうから、一気に詰めこんだほうがいいじゃん!って。覚えていようと思えば覚えていられますよ。それこそ民法は覚えてるけど、忘れやすい教科もあったりして……。自分で頭のストレージのデータを削除して、脳内クリーニングしてるんです(笑)。 ──大学で法学部に進んだ理由は?  完全に松本潤くんの影響です。ドラマの「99.9‐刑事専門弁護士‐」を見て、言葉を使って人を守ったり闘ったりする弁護士さんってかっこいいなと思って。弁護士、目指してるんですけど、ほんと大きな夢として語っています。あと、いつか起業したいなっていう夢もありますね。どんな会社とかは考えてないんですけど、漠然と。最近は起業者向けの本も読むようになりました。  でもやっぱり、今ほんといい仕事してるなと思ってて。人と話すのが大好きなんです。いろんな人のことを知りたい。人間が好きなのかもしれないですね。だから、話しながら「あ、この人しゃべりながらここ見てるんだ」とか「ニコニコしてるなー」とか、よく観察してます。 週刊朝日 2022年6月10日号  仕事は、もはや仕事だと思っていません。学校がオンで、あとは仕事を含めオフ。勉強の息抜きみたいな感じです。コンサートとかでストレス発散するってこともあるし。まあくじけそうになることもありますけど(笑)。  こう見えて、実はメンタルめっちゃ弱いんですよ。学校の先生に怒られたらほんとに落ち込んじゃってましたし。しょぼーんってなっちゃう。でもそれを知られるのが嫌だから、俺ずっとこうやって、「へへ~ん」って明るくいるんですよ。仕事で失敗したら、たぶん一生引きずっちゃうタイプ。元の自分でいたらダメだけど、この浮所飛貴でいると大丈夫って感じですね。難しいですよねー。でも頑張ります! ──今後の目標は?  前に、「まるっと!サタデー」っていう情報番組に出演させていただいたんですけど、アナウンサーさんがめちゃくちゃかっこよく見えて。情報番組みたいな知的なイメージのあるお仕事に挑戦したいですね。  心理学の研究で、モテる人の条件を45カ国で調査したらしくて、そのトップ2が親しみやすさと知性なんですよ。やっぱりファンの人が求めるものを兼ね備えたいから、こういう今の面白キャラだけじゃなくて、知的さもほしいなと。  美 少年としては、まず第一優先にすべきはいろんな人に知ってもらうこと。6人全員でなにかバラエティー番組にお邪魔させていただけたらいいですね。それぞれのキャラとか面白さが伝わると思います。 ──最後に、受験生へのエールをお願いします。  受験っていうガチな人間の競争(笑)は、人生経験として絶対プラスだと思います。それにたとえいい結果じゃなかったとしても、頑張って身につけた知識は、その先なにかで生きてくるはず。なんなら僕は今、中学受験で勉強したときの知識を思い出してクイズ番組に出てるんで。出演してる人たち、みんなそう言ってます(笑)。 (構成 本誌・大谷百合絵)※週刊朝日  2022年6月10日号
週刊朝日 2022/06/09 18:00
料理は“楽しく適当に!”母に背中押され、魚料理を強みに 料理家・栗原友
中村千晶 中村千晶
料理は“楽しく適当に!”母に背中押され、魚料理を強みに 料理家・栗原友
「魚料理は負ける気がしない。誰に?って感じだけど(笑)」。築地の鮮魚店「クリトモ商店」で(撮影/高野楓菜)  料理家、栗原友。料理は「思いっきり適当につくってください」と、栗原友は勧める。もっと楽しく、自由に。それは、自身の生き方でもある。母は栗原はるみで、料理家として恵まれたスタートを切った。けれども魚がさばけず、鮮魚店で修業し、強みに変えた。がんをきっかけに髪をピンクに染めた。自分の好きなように生きていきたい。人生はレシピ通りにはいかないから、おもしろい。 *  *  * 「揚げたて、どうぞ!」  都内のハウススタジオ。撮影用の料理を作るため、栗原友(くりはらとも)(46)がキッチンに立っている。テーマは「ビールに合う魚つまみ」。取り出したのはスーパーで普通に売られているパック入りのタラの切り身。皮を剥き、フードプロセッサーに入れ、卵と小麦粉、にんにくのすりおろしに、マヨネーズをぶちゅっ。素早い手さばきにレシピを起こす編集者でライターの神吉佳奈子(52)が慌てて聞く。 「待ってトモさん、マヨネーズはどのくらい?」 「大さじ1かな? テキトー!」  わっははと豪快に笑う。トレードマークのピンクの髪に、指先には淡いピンクのグラデーションのネイル。口調は親しみやすく、意思表示はストレート。嫌なことは嫌、とハッキリ口にする。  だが常に周囲に気を配り、心遣いはこまやかだ。手際よく完成させた熱々のタラの「フィッシュナゲット」をクライアントとともに「AERAさんもどうぞ」と、差し出してくれる。ふわっふわでガツンとパンチがあり、これはビールに合う!  衝撃だったのは「帆立のクロスティーニ」。バゲットに細かく切った生のホタテがあふれんばかりにのっている。ホタテの下にはクリームチーズがチラリ。直前にオリーブオイルをかけて食べる。口にしたとたん、予想外の展開にポカンとした。  ──え? これって魚介? フルーツじゃない? オリーブオイルの効果だろうか。爽やかな塩気と甘みが層になって訪れる。フレッシュで生臭さなど皆無。大げさでなくケーキを食べているようだ。栗原が種明かしをする。 「バゲットには下からアンチョビペースト、刻んだ黒オリーブ、クリームチーズ、ホタテをのせてあります。その順番にすることで、塩味と甘さが層になって順にやってくるんです」 ■ありそうでなかった味 「絶対舌感」が作り出す『スーパードライ OFFICIAL BOOK』の撮影風景。「ビールに合う魚つまみ」をテーマに、身近な食材から未体験の味を生み出していく。レシピを起こす神吉(右)との呼吸もピッタリだ(撮影/高野楓菜)  素材はどこの家庭にもありそうなものばかり。それなのに、未体験の味。いったい、どうやって味を組み立てているのだろう? 「自分でもわからないんです。アイデアは常に考えていて、枕元にもノートを置いているけれど」  料理家・栗原友に魅了された瞬間だった。  栗原は昨年出版した『ひとりぶん、ふたりぶん刺身パックでさかなつまみ』のヒットで注目を集めた。「刺身は醤油とわさびで食べるだけじゃない」をコンセプトにパックの刺身を使った料理50品を紹介する。  イカそうめんをタラコと和(あ)えて柿ピーをのせた「イカタラコ」。ブリの刺身をバターにくぐらせ、半熟の目玉焼きをのせてナンプラーと黒こしょうをかけた「ブリのバターしゃぶ」などなど、驚きのアイデアが満載だ。パックの刺身なら調理も簡単、魚のごみも出ない。なにより冒頭ページの言葉は「思いっきり適当につくってください」。  魚は難しくない。さばけなくても大丈夫。料理は自由に楽しくつくってほしい。そんな栗原の思いに、多くの人が共鳴し、ファンが急増した。  前出の神吉がこの本の仕掛け人だ。栗原との出会いは2017年。日本酒「賀茂鶴(かもつる)」のイベントで栗原がつくった「しば漬け入りポテサラ」に一発でノックアウトされた。 「ありそうでなかった味。あまりの衝撃に『どうやって考えたんですか?』と聞いたら『いや、そんなたいしたものじゃないから』って」  本人には説明できないその能力を、神吉は「絶対舌感(したかん)」と呼ぶ。絶対音感の味覚バージョンだ。 「絶対音感のある人って一度聴いたものをすぐに弾けると言いますよね。栗原さんもそれと同じ。彼女はご両親の影響で小さい頃からいろんなものを食べている。それがすべて『舌』のなかに入っていて、感覚的に再現できるんだと思います」  料理家・栗原はるみを母に持ち、3歳下の弟・心平も料理家だ。恵まれた環境に加えて、栗原には「魚なら誰にも負けない」という自負がある。  12年から5年間、築地の鮮魚店で魚の修業をし、20年には築地に鮮魚店「クリトモ商店」をオープン。毎週土曜に自ら手がける惣菜(そうざい)を売る。「トラフグのレモンカレー」や定番の「うちのポテサラ」が飛ぶように売れていく。小学2年になる娘のお弁当を日々インスタグラムにアップし、食育についても発言する。YouTubeの料理チャンネルは酒呑みの男性にも好評だ。 ■「トモは料理、上手だよ」 母に背中押され料理の道へ  しかし、ここまでの道のりは、決してまっすぐではなかった。  栗原は1975年、東京都に生まれた。父はニュースキャスターの栗原玲児。 「父が帰ってくる日は、父が食卓につくまで食事は始まらなかった。一家の『長(おさ)』の威厳があったし、テーブルマナーなどにも厳しかった」  いっぽうでバイク好きな父はよくツーリングに連れて行ってくれ、運動会にも参加してくれた。味覚は父の影響が大きいと栗原は言う。 「父はグルメで、いろんな国に行っていろんなものを食べていた。父からさまざまな味を教えてもらいました。自分でも台所によく立っていて、スパイスから作るカレーを初めて食べたのは父のカレー。何週間もかけて作るコンビーフもあった」  栗原が8歳になるころから、母・はるみが料理家として表に出るようになる。「知らない間に鍵っ子になっていた」と栗原は当時を振り返る。 「家族で街を歩いていると母のファンの人に話しかけられるんです。『家族の時間を邪魔しないでよ!』って思ってました」  弟と2人で留守番をするため、母に料理を仕込まれた。まずは味噌汁とチャーハン。最初はだしの素を使い、少しずつステップアップしていく。 「おいしくできると『もうちょっと上手な感じでやってみる?』と、自分でだしをとることを教えてくれる。教え方、上手だったと思います」  ただ弟が料理をできるようになってからは食べる専門になった。弟のほうがうまいし、料理は好きな人がやればいい、と思っていた。  中学時代はマンガやゲームに夢中になった。高校では漫研に入り、小林じんこの『風呂上がりの夜空に』にハマった。   栗原家は「母・弟」と「父・自分」で分かれると栗原はいう。栗原と父は激情型でせっかち。母と弟は冷静なおっとり型。思春期はタイプの似た父と激しいケンカもしたが、1時間後には仲直り。ファッションの趣味も合い、服も2人でよく買いに行った。いっぽうで母との衝突はなかった。 「だって、あの母ですよ? 穏やか~じゃないですか」と笑う。メディアにみせる顔そのままに母はやさしく、家では上げ膳据え膳。おいしいご飯を食べ、洗濯物は畳んで部屋の前に置いてあった。  高校の三者面談で教師から「出席日数が足りず進級が危ない」と言われ、母を泣かせてしまったことも苦い思い出だ。卒業後、服飾専門学校に進学するも1年で辞めた。やりたいことも、目指す道も、まったくわからなかった。 「いま考えてもちょっと子どもすぎましたね。何も考えていなかった」  ファッション誌のライターやPRの仕事など、20代は与えられた仕事やチャンスをなんでも試した。ロンドンに半年の語学留学もした。帰国後、アパレル会社でPRの仕事をしていたとき、思わぬ誘いで料理家への道が開く。ゴルフ仲間の一人が自身の手がける小冊子の料理ページを担当してみないかと持ちかけたのだ。 「栗原はるみの娘だし、トモならできるはずだからいいじゃん?みたいな感じだった」  ええ?と思ったが、ちょうど料理を好きになりだしていた時期でもあった。きっかけはロンドン留学。初めて実家を離れて料理をし、友人に振る舞う楽しさを知ったのだ。  家に帰って母に「どう思う?」と聞いた。母は「すごくいいと思う。やってみなよ」。続く一言が、背中を押した。 「トモは料理、上手だよ」  その言葉で「やってみよう」と決めた。 「自分は普通の人よりも、料理家になるチャンスがあった。この七光りをどう生かすかはもう自分次第なわけです」 (文中敬称略)(文・中村千晶) ※記事の続きは「AERA 2022年6月6日号」でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2022/06/05 18:00
醤油の配合を間違ったら…「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで
井手隊長 井手隊長
醤油の配合を間違ったら…「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで
カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」は一杯880円(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。熊谷で“TKM”というシンプルすぎる一杯で大行列ができる店主が愛するラーメンは、名店「六厘舎」でスープを作り続けた男の紡ぐ、鶏のうま味が凝縮した清湯系の一杯だった。 ■具なし、スープなし、卵あり 「TKM」誕生の背景  JR高崎線・熊谷駅(埼玉県)から徒歩5分、突如現れる大行列にはいつも驚かされる。「ゴールデンタイガー」だ。およそラーメン店には見えないポップな店だが、常連客を中心に遠方からもラーメンファンが集まる。 「ゴールデンタイガー」の看板メニューは“TKM(タマゴカケメン)”。麺線のビシッと整った麺の上に卵の黄身が鎮座する。シンプルすぎるメニューながら、麺のうまさが際立つ一杯だ。「卵かけご飯」の“TKG”からヒントを得て付けた名前もこれまたポップで良い。 ゴールデンタイガーの「特製TKM」は一杯850円。生卵、鶏チャーシュー2枚、味玉がのっている(筆者撮影)  TKMのような汁なし麺は一般的には「まぜそば」「油そば」と呼ばれることが多い。なぜそう呼ばなかったのか。店主の金澤洋介さんは言う。 「“冷やしまぜそば”と呼ぶこともできたかもしれませんが、人と同じことをしたくなかったんです。写真を見たら驚くものにしたかったので、卵に目がいく盛り付けを目指しました」  TKMはまかないから生まれたメニュー。まかないとして具なし、スープなしで麺を食べていた時に「卵かけてみる?」と思いついたのがきっかけだ。卵は近隣の川本町にある田中農場のものを使っている。黄身のオレンジ色が濃く、臭みがないので生で食べるには最高の卵だ。  店の外観や内装はとにかくポップ。「ゴールデンタイガー」という店名はピザ屋をやっている知人がつけてくれた。ありきたりの名前で営業するより、目立つ店名にしたかったという。  金澤店主の決めポーズは、店名にちなんだ“タイガーポーズ”。お客さんと一緒にタイガーポーズをして写真を撮ると、SNSにその写真があふれた。こうしてだんだんファンがついていったのである。 ゴールデンタイガー店主の金澤洋介さん。「タイガーポーズ」が様になる(筆者撮影)  2020年10月からは麺を自家製麺にした。製粉会社と二人三脚で完成させた、加水が高めで弾力が強い麺は、麺だけ食べた時の説得力が半端ではない。コロナ禍に合わせて自社工場を作り、製麺と同時に店頭・オンライン販売用のお土産麺も準備した。イートインのみならず、オンラインでもファンが広がり、“TKM”は少しずつ広がっている。  すべてにアイデアがあふれ、唯一無二の存在になった「ゴールデンタイガー」。マーケティング視点でも参考になる店である。今後は、もう1、2店舗広げていきたいという。 「次はTKMの専門店を出してみたいです。TKMを国民食のひとつにできたらと考えているんです。『東池袋大勝軒』の山岸さんがいっぱい弟子をとってつけ麺文化を広めたように、TKMをどんどん広めていきたいと考えています」(金澤さん) ゴールデンタイガー/埼玉県熊谷市本町2-116アイジマビル1F/11:00~14:00、18:00~21:30LO。水曜定休日。営業情報は店のツイッター(@golden_tiger24)にて/筆者撮影  そんな金澤さんの愛するラーメンは、つけ麺の名店「六厘舎」でスープを作り続けた男が独立して一転、清湯(ちんたん)系でミシュラン・ビブグルマンを獲得した一杯だ。 カネキッチン ヌードル/東京都豊島区南長崎5-26-15 マチテラス南長崎 2F/[木~火] 11:30~15:00、18:00~21:00、水曜定休※麺、スープなくなり次第閉店/筆者撮影 ■醤油の配合を間違ったら… 「六厘舎」出身のラーメン店主がミシュランを取るまで  西武池袋線・東長崎駅南口から徒歩2分。飲食店の集まる小さなビル「マチテラス南長崎」の2階にその店はある。「カネキッチン ヌードル(KaneKitchen Noodles)」だ。ラーメンフリークの店主がたどり着いた至高の一杯で多くのラーメンファンをうならせる名店である。  店主の金田広伸さんは埼玉県朝霞市出身。若い頃はアニメーターを目指して代々木アニメーション学院へ。アニメーターとして2年間働いたが、実力不足を感じ、その後はアルバイトをしていたすし屋に就職した。 カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。名店「六厘舎」で修行した(筆者撮影)  それも続かず、今度はホンダの自動車工場で働くことに。夜まで仕事をしては、夜中によくラーメンを食べていた。リーマン・ショックで仕事を辞め、職業安定所で仕事を探していたところ、つけ麺の名店「六厘舎」が地元近くの新座市で工場を開くため働き手を募集しているのを見つけた。そろそろ手に職をつけたいと思っていた金田さんは、「六厘舎」に就職する。33歳の時だった。  はじめの2年間は工場勤務。スープ作りがメインの仕事だったが、最終的にはレシピを任せられるようになった。ちょうど多店舗展開を始めた頃で、とにかく勢いがあった。はじめは60センチの寸胴(ずんどう)でスープを1日2本分炊く仕事だったが、どんどん量が増え1日20本に。24時間態勢でスープを炊く工場になった。 「体力的にはしんどかったですが、このスープと向き合った日々が今の自分を作っています。徹底的に覚えましたね。人が一生で作るスープの量は、この時期だけで余裕で作っていたと思います(笑)」(金田さん)  その後、東京駅の店や別ブランド「舎鈴」の立ち上げなど、いろいろな店舗を回った。年月とともに立場が変わり、従業員管理やマネジメントにも携わり、大変勉強になったという。  退職の2年前ぐらいから独立を見据えて食べ歩きを始める。特に好きだったのが「蔦」「鳴龍」「くろ喜(*)」。濃厚系のスープを作り続けてきた金田さんだったが、独立したらあっさりした清湯系をやろうと心に誓った。  書店で見つけた本に「鳴龍」のラーメンの作り方が書いてあり、それに倣って作ってみた。だが、似たようなラーメンは作れるが、どうしてもクオリティーが届かない。作りたいラーメンのイメージは決まっていたが、技術が追い付いていなかったのだ。自分がこれまで作ってきた濃厚系のラーメンとは基礎の基礎から違ったのである。 西武池袋線「東長崎駅」南口から徒歩2分の場所にある(筆者撮影)  そこで金田さんは「鳴龍」の店主・齋藤一将さんに直接質問し、食材の使い方や仕入れ先まで教えてもらうことに。独立前に、地元の朝霞にある定食屋を週1で間借りし、ラーメンを提供することにもなった。「ラーメン 金田」のオープンである。 「安定して同じものは作れなかったけれど、おいしいものはできていたと思います。『鳴龍』さんが麺を卸してくれて、本当にありがたかったです。最後の方は行列もできていたんですよ」(金田さん)  そしていよいよ独立の時。地元で店を開きたかったが物件がなく、エリアを広げ、東京都豊島区の東長崎に決めた。駅前ではありながら建物の2階というあまり条件の良くない物件。アニメーター時代によくこの辺りで仕事をしていたので土地勘があったことと、とにかく早くやりたいという気持ちが大きかったのだという。 「売れてしまえば場所は関係ないと思い、決めてしまいました。建物的に『ラーメン 金田』という名前が合わないと思い、大好きだった『Japanese soba noodles蔦』に敬意を表してオマージュしました」(金田さん) カネキッチン ヌードルの「地鶏丹波黒どり醤油らぁめん」。醤油の配合を間違ったことから生まれたという(筆者撮影)  こうして2016年12月、「カネキッチンヌードル」はオープンした。開店して3カ月は間借り時代のファンや、特集された雑誌を見てたくさんのお客さんが来た。だが、ワンオペで店がまったく回らず、許容量オーバー。金田さんはオープンから半年間の記憶がほぼないという。 「クオリティーが全く追い付いていませんでした。間借り時代とは道具も違い、コンロもIH。満足いくスープが炊けなかったんです。オープン景気が終わった頃、IHが壊れてガスに変えたことでようやくちゃんとスープが炊ける環境になりました」(金田さん)  この後転機になったのはオープンから1年半経った頃である。仕込み中に醤油の配合を間違ったことがあった。試しにそのまま作ってみたら、これが驚くほどうまかったのである。ここから醤油の量や火入れの有無を気にするようになる。 「これをきっかけにより食材と向き合えるようになりました。それぞれの素材の良さをマックスで引き出せるようにいろいろ工夫しました。醤油をきっかけにスープも変え、地鶏を使い始めました。オープンから2年である程度完成形に近づいた感じです」(金田さん)  この後、「カネキッチンヌードル」は『ミシュランガイド東京』で3年連続のビブグルマンを獲得。一気にトップの仲間入りを果たす。鶏清湯ラーメンブームの一端を担う名店として、今も行列を作り続けている。 カネキッチン ヌードル店主の金田広伸さん。素材の良さを生かしたラーメンづくりをしている(筆者撮影) 「ゴールデンタイガー」の金澤店主は、金田さんを兄のように慕う。 「イベントで初めてお会いして以来、いろいろ教えてくださる兄貴です。『六厘舎』の出身ということで数字管理やマネジメントにも詳しいですし、食材の扱い方についてもすごい知識を持っています。つるし焼のチャーシューの作り方も金田さんに教えてもらいました。TKMも気に入ってくださり、週1の限定でお店で出されているんですよね」(金澤さん)  金田さんもTKMを高く評価している。 「TKMがとにかくおいしいです。シンプルすぎるだけにこれを作るのは非常に難しいんです。金澤さんは明るい体育会系。職人の部分と経営者の部分のバランスが取れていて、お店が完成されている感じがします」(金田さん)  取材を通して思ったのは、金澤さんも金田さんも底抜けに明るいこと。そして、ラーメン作りだけでなく、経営面もしっかり考えられているのが印象的だった。長く店を続けるには、そのバランスが大事なのだと再認識した。(ラーメンライター・井手隊長) *「くろ喜」の「喜」は「七」を三つ並べたものです。 ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2022/06/05 12:00
【追悼】生涯現役を貫いた写真家・田沼武能 アサヒカメラ編集者に語っていた「戦争」と「子ども」
米倉昭仁 米倉昭仁
【追悼】生涯現役を貫いた写真家・田沼武能 アサヒカメラ編集者に語っていた「戦争」と「子ども」
写真家の田沼武能さん  世界の子どもたちや武蔵野の面影を写すことをライフワークとし、写真界の地位向上にも尽くしてきた写真家・田沼武能さんが1日、東京都中野区の自宅で亡くなった。93歳だった。生前、田沼さんがアサヒカメラ編集者だった著者に語っていた「戦争と平和」「師匠・木村伊兵衛からの言葉」などを改めて振り返る。 *   *   *「命あるかぎり、世界の子どもたちを撮り続けたい」  生前、筆者にそう語っていた田沼さんは少年時代、東京大空襲を体験した。忘れられないのは全焼した家の前にあった防火用水槽の中で直立不動のまま焼け焦げていた小さな子どもの姿だ。それが近所の寺で目にしていた地蔵の姿と重なった。 「炎にあぶられたお母さんが子どもを熱さから逃すために水槽に入れたのではないでしょうか。なんともいえない切なさ、無常さを感じました」  それが原点となり、田沼さんはとりわけ恵まれない環境にいる子どもたち写すことに熱心だった。  ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんとともに紛争地域に暮らす子どもたちの取材を重ね、「国が平和でなければ、家族の幸せも子どもの幸福もありえない」と訴えてきた。  しかし、田沼さんが本格的に子どもの写真を撮り始めたころ、周囲の目は冷たかった。 「そんなものを撮ってどうするんだ、写真集を作っても売れないからやめろ、って言われましたよ。子どもなんか、プロの写真家が撮るものじゃないと、みんなばかにしていたんですね」  しかし、田沼さんは諦めなかった。「何を撮ろうと、ぼくの勝手でしょう」と、周囲の視線をはね返した。いつも脳裏にあったのは、師匠である木村伊兵衛氏から浴びせられた痛烈な言葉だった。 「いまみたいな仕事をしていたら、必ずつぶされる。自分の写真を撮らないとチューインガムのように捨てられるよ、って」 ■売れっ子の写真家になったが  29年、田沼さんは東京・浅草の写真館に生まれた。47年に東京写真工業専門学校(現東京工芸大学)に入学。アルバイトをして手に入れた二眼レフで街角の風景を撮り始めた。  当時、街には子どもがあふれていた。チャンバラをする子ども。赤ん坊を背負い子守をする子ども。駅には戦災孤児が住んでいた。 「そんな子どもたちに自然にレンズを向けていましたね。振り返ってみれば、それが私のいちばん大きなライフワークの始まりですよ」  写真学校を卒業後、49年にサンニュース・フォトスに入社。上司であった木村氏の助手を務めるようになる。 「ただ、助手といっても撮影中は手伝うことは何もなかった。かばん持ちをしようにも木村はカメラバッグなんて使っていませんでしたから」  木村氏は休日になるとライカ1台を持って出かけ、街角で軽快にスナップ写真を撮影した。  そんなライカの軽快さにほれ込んだ田沼さんは酒も飲まず、喫茶店にも行かず、金をためた。師匠には「趣味が倹約貯蓄の田沼」と笑われた。ようやく進駐軍から横流しされたライカを手に入れた田沼さんは変貌する東京を撮影した。でも、足が向くのは決まって下町。そして気づいてみれば、子どもたちの写真を撮っていた。  53年、サンニュース・フォトスはあっけなく倒産してしまったが、田沼さんは「芸術新潮」などで活躍し、売れっ子の写真家になっていく。ところが、ある日、先に書いたように、木村氏に手厳しく忠告され、ショックを受けるのだ。 「なんとかしなければ、と思いましたね。でも豊かな暮らしは捨てがたいし……、悩みました」 ■ドル建ての給料をすべて子どもたちの写真に  ちょうどそのとき、願ってもない話が舞い込んできた。アメリカの「ライフ」誌で働かないか、という誘いだった。 「社員になると自由がきかないし、撮影した写真の著作権も自分のものにならない。それで契約写真家になることにしたんです」  ライフの仕事を始めた66年当時、ドル建ての給料は大きかった。1年のうち、3分の1だけライフの仕事をこなせばそれまでの生活を維持できた、と打ち明ける。  しかし、田沼さんは給料のすべてをつぎ込み、「世界の子どもたち」を撮り始めた。 「あのころ写真集『ザ・ファミリー・オブ・マン』を見てものすごく感動しましてね。『ファミリー・オブ・チルドレン』を撮ろうと思ったんです」  フランスをはじめとして、アメリカ、インドネシア、ドイツ、タイなどを訪ね、子どもたちの姿をカメラに収めた。  しかし、師匠にその写真を見せても、いつも無反応だった。 「でも、木村が亡くなった後、人づてに『田沼はいい仕事をしているよ』と言っていたと聞き、ほんとうにうれしかったですね」  84年、田沼さんは「黒柳徹子さん、ユニセフ親善大使に任命される」という新聞記事を目にすると、すぐに彼女に連絡をとった。 「ずっと子どもの写真を撮り続けてきましたから黒柳さんにお会いして、すぐに意気投合しました。いっしょに行こうということになりました」 ■終活も明るく、前向きだった  ユニセフで訪れたのは干ばつや貧困、内戦に苦しむ国々だった。第1回目のタンザニアは20世紀最悪といわれる飢餓に見舞われていた。田沼さんは干上がった川底に穴を掘り、底にたまった水をすくい上げる小さな子どもたちにレンズを向けた。  黒柳さんとともに訪れた国はアフガニスタン、コンゴ(旧ザイール)、シエラレオネ、ジンバブエ、ニジェール、モザンビークなど約40カ国にのぼる。2週間ほどの取材費用はすべて自費で、国連機にも料金を払って搭乗した。 「宿泊場所は小さな村の宿であればましなほうでテントに泊まることもありました。冬のアフガニスタンでマイナス20度、夏のニジェールは50度近くになりました」  95年、田沼さんはより多忙を極めていく。プロの写真家約1700名が在籍する日本写真家協会の会長に就任したからだ。昼は理事会、委員会、他団体との会議、その他もろもろの仕事をこなし、夜は会員の写真展や出版パーティーに顔を出す。さらには東京工芸大学の教授を務め、フォトジャーナリズムを講義した。  それでも、なんとか日程をやりくりして海外取材に出かけた。1年間で3回もアフガニスタンを訪れ、難民キャンプや学校を回ったこともある。  15年、会長職を退き、昨年秋には妻・敦子さんと共著で『棺桶出せるか~田沼家の快適リフォーム顛末記』(小学館)という風変わりなタイトルの本を出版した。 <トーチャンの唯一の希望は「この部屋から棺は出せるのか? ベランダからつるして下ろすなんて、ごめんだぞ!」>  最初、タイトルにぎょっとしたのだが、ページをめくると、田沼さんが明るく、前向きに終活をしていたことが伝わってくる。会うたびにべらんめえ口調で話してくれた、田沼さんの気さくな人柄が思い浮かんでくる。(アサヒカメラ・米倉昭仁)
ユニセフ田沼武能黒柳徹子
dot. 2022/06/03 12:53
「誰も使っていない」50歳で「子連れ」米留学 大学友人に長財布を驚かれた今どきの理由
「誰も使っていない」50歳で「子連れ」米留学 大学友人に長財布を驚かれた今どきの理由
コロンビア大学の正門前に立つ筆者(写真/筆者提供)  ドキュメンタリー映画監督の海南(かな)友子さんが10歳の息子と年上の夫を連れ、今年1月からニューヨークで留学生活を送っている。日本との違いに戸惑いながら、50歳になっても挑戦し続ける日々を海南さんが報告する。 *  *  *   留学のきっかけは、40代も後半になって仕事や子育てに追われるなか、何か”自分のためだけ“の挑戦をしたいと思ったことだ。私はテレビのディレクターを経てドキュメンタリーの映画を作る仕事をしている。ずっと同じ仕事してきて25年。仕事と家事、介護などで自分の時間はほとんどない。このまま50歳、60歳になるとなんとなく後悔しそうだと思った。だから、 「若い時からしてみたかったことでまだしていないことに挑戦しよう。失敗したっていいじゃない。挑戦したこと自体が自分にとって意味がある」  と数年前のある夜、リビングで1人思い立った。  正直、学生時代の英語の成績は悪かった。何十年かぶりに毎日、子どもが寝た後や出勤前にありとあらゆる機会を使って英語を勉強した。今までしたことないくらいしたので本当に倒れそうだったが、2年後にはそれが実って、フルブライト奨学金という由緒ある奨学金を得た。  今、コロンビア大学に留学をしているのは現実なのか? と自分でも不思議だ。なんでも何歳からでもチャレンジってしてみるもんだ。  4月、ニューヨークでは一部を除いてマスクの義務が撤廃された。久しぶりにほおに風が当たった。この爽快感はたまらない。ニューヨーカーの皆さんは、解除が決まった直後に一瞬でマスクを外した。「マスクの何がそんなに嫌なの?」と思ったが、アメリカに長く住む日本人の友人は「アメリカ人はマスクの強制に従うこと自体に耐えられない」と言っていた。  家族でNBA(米プロバスケットボール協会)の試合に行ってみたら、2万人の観客はほぼ全員がノーマスク。後ろの席の若者は興奮して叫び、隣の席の女性たちはハーフタイムショーで歌いながら踊り出した。ビール片手にノリノリの大観衆。ついこの間まで、ワクチン証明書とパスポートを見せないと飲食店に入ることもできなかったのに、うそみたいな変わりようだった。その光景に、不安がぬぐえない私と夫と息子は、マスクをしたまま観戦した。なんだか、私たちが悪い病気に罹患(りかん)している危険人物みたいだった。 街中にある新型コロナウイルスの検査をするテント(写真/筆者提供)  ただ、コロナが終わったのかというとそうではない。バスや地下鉄には「MASK REQURED」(マスクが必要)と掲示され、多くの人がそれに従っている。コロンビア大学の前には「FREE COVID―19 TESTING」(新型コロナウイルス無料検査)のテントがいくつもある(5月後半から検査の一部は有料)。予約なしで抗原検査とPCR検査ができる。試しにやってみると、本当に10分で済んだ。実はこのテントはマンハッタン中に無数にあり、いつでも誰でも気軽に検査ができる。羽田空港で予約の上、3万円も払って検査したのが遠くの星の話のようだ。  ちなみに大学内では、教授や学生は今もマスクをしている。これはコロナで学内が閉鎖された2年間の苦い記憶からきているそうだ。 「コロナでまた大学が閉鎖され、授業がリモートになるのは学生にとって最悪だ。だからマスクは必要」  と、私がとっている授業のリサ・デール教授は言った。コロンビア大学の正規の授業料は年間600万~1千万円。高額な学費にもかかわらず、リモートになったことで大切な学びの機会を失った学生も多い。つい先日までは、キャンパスに入るためには大学独自のコロナ証明アプリを毎日見せなければならなかった。この2年はひどい状況だったのだ。だから街中でマスクが解除された後も、学内ではマスクが続いている。  実際、若い学生たちの間では今も感染者が出ている。リサ教授も先日コロナにかかり、急きょリモート授業になった。学内のマスクの継続はありがたい。もし、NBAの会場のような授業だったらと考えると、50歳で高血圧の私は命の危機を感じてしまう。  ただし、マスクのせいで困っていることがある。授業の聞き取りだ。ニューヨーカーは早口でまくしたてる。専門用語を交えた議論が続く教室で、マスクで声がこもって聞こえないのだ。immigration(移民)とmitigation(緩和)のようにマスクがなければまちがえない単語を聞き間違えて議論の全体像を見失い、私は毎日落ちこぼれ、深い迷宮に迷い込んでいる。 かな・ともこ/1971年、東京生まれ。ドキュメンタリー映画監督。19歳で是枝裕和のドキュメンタリーに出演し映像の世界へ。NHKを経て独立。2007年、『川べりのふたり』がサンダンスNHK国際映像作家賞。ライフワークは環境問題。趣味はダイビングと歌舞伎鑑賞。フルブライト奨学金を得て、22年1月からニューヨークのコロンビア大学の客員研究員として留学中。1児の母(写真/筆者提供)  そんな私を助けてくれるのは友だちだ。最初に親しくなったのは30代のしおりちゃん。同じ語学クラスの生徒で、授業の後にランチをするようになった。彼女はアメリカ人と結婚して現地に住んでいる。マスクで英語が聞き取れない悩みを共有できて心は楽になった。友だちって大切だ。たとえ何歳になっても。  彼女と毎日のようにランチに行くようになって実感したのは、現金が使えない店が増えていることだ。もともとアメリカはカード社会だが、感染対策で現金の扱いをやめた店が増えた。『No Cash!』と冷たい回答のお店では、しおりちゃんがカードやアプリで払い、私が現金で割り勘分を彼女に払う。いつしか私は彼女から「カナさん銀行」と呼ばれている。  彼女は普段、最低限の現金しか必要としない。それが私の割り勘分の10~20ドルで足りるので、ATMに行かなくなった。だから「カナさん銀行」なのだそうだ(笑)。 「現金って普段いります?」  と、しおりちゃんから真顔で聞かれたが、私はまだ現金がないと不安だ。ニューヨークでは飲食店以外でも、個人のお金のやり取りはアプリだ。例えば、息子の小学校の保護者会会費などは、アプリでの支払いを指示されてとても困った。朝から晩まで1円も現金を使わない日も多い。  ある晩、別のコロンビア大学の友だちと食事をしたとき、彼女は私の持っていた長財布を見てつぶやいた。 「久しぶりに財布を見た。もう誰も使っていない」  現金を使わないと、お財布もいらないのか。まるで自分が骨董(こっとう)品になったような気分だ。最近は念のためお店で聞くようにしている。 「現金を使ってもいいですか?」  50歳の子連れ留学。戸惑いながら、私のニューヨーク生活は続いてゆく。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定留学
AERA 2022/06/03 11:30
「家事ハイ」を味わえる皿洗いのゾーンとは? 脳の容量を空けるコツで瞑想効果と達成感
「家事ハイ」を味わえる皿洗いのゾーンとは? 脳の容量を空けるコツで瞑想効果と達成感
脳を休める究極の皿洗いをマスターしよう ※写真はイメージです(GettyImages)  夫や妻にイライラしながら食器を洗うなんて、もったいない! コロナ禍で家にいる時間が増えてから、家事は誰もが生活していく上で必要なスキルと見られるようになった。社会が正常化していってもそれは変わらない。せっかくやるなら、脳を癒す究極の家事を身に付けよう。 「今日の夜ご飯は何を作ろうかな」「あー時間がない、また寝る時間が遅くなる(泣)」「ていうか、なんで私一人がやらなきゃいけないわけ!?(怒)」「家事を自動で全部できる時代が早く来ないかな……」「あ、明日の会議の資料どうしよう。ニュースもチェックしなきゃ」「子どもが少し元気なさそうに見えたけど、どうしたのかな」  いつもの食器洗いの間、頭の中はこんな感じではないだろうか。仕事のTo do整理、家事分担にイライラ、現実逃避、妄想、今日の振り返り、気づき、そしてまたイライラ……。せわしなく移り変わっては元に戻り、気づけばまた動き続けている。そうやってキレイにしたシンクも、またすぐに洗い物が積まれていく。日々この不毛な時間の繰り返しだ。  だが、家事をメリットのあるものに変えている強者もいる。なんと、煩わしいはずの皿洗いで「瞑想」効果が得られるのだという。 「家事は時間と手間がかかり、ずっと続いていく作業でマイナスのことと捉えられがちですが、ビジネスの考え方で徹底的に効率化してみたら、実はメディテーション(瞑想)効果が得られることに気が付いたんです」  そう話すのは広告クリエイターで『家事こそ、最強のビジネストレーニングである』の著書がある堀宏史さんだ。ランナーズハイのような「家事ハイ」という名のゾーンを味わうためには「段取り8割」だという。 「大事なのは手を動かす前のワークデザインです。食器洗いなら、洗う順番や洗い終わったものをどこに置くかを先に決めましょう。  そして基本的な作業の順番は、集める→仕分けする→洗う。まず洗い物を一か所に集め、種類ごとに分けておきます。我が家の場合は手洗いなので、水切りかごと同じ配置になるようにシンク内に皿、お茶碗、お箸、そのほかと分けながら水で軽く汚れを落とします。あとは機械的に洗っていくだけ。無になれる時間です」(堀さん)  ここで一つ、大事なことがある。せっかく空けた脳の容量に、イライラやTo doを入れないことだ。使いすぎて熱を持ったパソコンを切るように、意図的に思考を止めるといいという。 「コロナ禍で在宅ワークが増えた人は、以前に比べて仕事とプライベートの境目が曖昧になっているでしょうし、徐々に社会が“正常化”に向かっているとはいえ、以前ほど自由にスポーツや旅行を満喫できない今、それらに代わるリラックス法を脳が求めています。汚れていたものがきれいに片付いて達成感を味わう、さらに瞑想効果も得られるという意味では、家事もその一助になるかもしれません」  あのビル・ゲイツもジェフ・ベゾスも、毎日皿洗いをすると言われている。瞑想の一種を活用した皿洗いでストレスが減り、インスピレーションなどポジティブな要素が増えたとする米・フロリダ州立大の研究成果もある。家事には想像以上の効能が隠れているのかもしれない。(AERA dot.編集部・金城珠代)
dot. 2022/06/02 18:00
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