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【下山進=2050年のメディア第8回】沢木耕太郎は現代の「歌枕」か 『深夜特急』『天路の旅人』
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第8回】沢木耕太郎は現代の「歌枕」か 『深夜特急』『天路の旅人』
沢木耕太郎 「沢木さんの『深夜特急』を読んだから」  2019年春に、慶應SFCで教えていた頃の話である。一人の学生が、アジアの国々への一人旅をくりかえしているので、理由を聞いたらば、そんな答えが返ってきた。  私が『深夜特急』の第一便と第二便を読んだのも、大学を卒業した1986年のことだから、なんという作品の寿命の長さなのか、と感嘆したことは以前書いた。  今回書きたいのは、なぜ、沢木耕太郎の旅は今なお、若い人を新たな旅へと誘っているのか、ということだ。  私が、『深夜特急』に触発されて、香港やシンガポール、マレーシアなどを旅していた1990年前後は、それでも、沢木さんが旅をした1970年代の空気をそれなりに感じることはできた。たとえば第一便で描かれた「毎日が祭りの街」香港。三重の屋台が無限に続く廟街(テンプル・ストリート)の猥雑な熱気や、60セントの豪華な航海と描写された香港島と九龍半島を結ぶスターフェリーの空気も当時とそれほど変わることはなかっただろう。  香港がまだ返還前だったということも大きかった。  が、2019年に香港を旅する彼女にとっては、香港は習近平の中国だ。  しかし、彼女にとっては、『深夜特急』に描かれた香港やマカオは、前号で紹介した「歌枕」のようなものなのだ。  たとえば、『深夜特急』ではアバディーンの水上生活者の少女と、沢木さんの交流が心あたたまるように描かれる。沢木さんがその少女とアドレスを交換しようとすると、最初その少女は意味がわからず、とまどった末に、走っていって交差点の標識をみてこう書いた紙を差し出す。  陳美華 湖南街 <彼女たちは水上生活者だった。住所を持っているはずがなかったのだ。彼女の明るい笑顔に胸を衝かれた>(『深夜特急』第一便)  1990年代から、香港政府による定住政策が進み、特に共産主義中国の一部になってからはそもそも水上生活者自体の存在が許されない。なのでSFCの彼女が香港を旅しても、陳美華に会うことはない。 新作『天路の旅人』は、「新潮」8月号、9月号に掲載された。単行本出版は10月の予定。『深夜特急』はこれまで単行本3巻で42万7500部、文庫本6巻で535万8000部を発行している。 「沢木さんが旅した1970年代の香港に行ってみたい」  そう彼女は言ったが、それでも一人で旅をしていると様々な出会いがある。『深夜特急』の中には、安宿にとまったら、そこは娼館だったというエピソードがある。クアラルンプールのびっくりするほど安い宿をネットで予約していったらば、『深夜特急』で書かれたような娼館だった、なんてことを彼女は楽しそうに話してくれた。  SFCの中では彼女はちょっと変わっていて、当時から「校閲者になりたい」と言っていた。私は、「出版社・新聞社は校閲採用がある。駄目だったらフリーという手もある」と励ましたものだった。  さて、沢木耕太郎は、今も「旅」について書き続けている。  文芸誌の「新潮」8月号と9月号に新作のノンフィクション「天路の旅人」を発表した。西川一三という第二次世界大戦末期に中国の奥地深くに潜入したスパイの旅について書いている。西川は、蒙古人「ロブサン・サンボー」としてラマ僧になりすましたまま旅を続け、1950年にインドで逮捕され、日本に送還される。  私がひきつけられたのは、本編の西川の旅に入る前のくだりだ。戦後は盛岡でひっそりと化粧品店をいとなんでいる西川に、沢木は、地元紙の記事から興味をもち、連絡をとって取材を始める。それが四半世紀も前のことなのだ。 <私の流儀として、かりにそれが仕事の場合であっても、最初に会ったときには、いわゆるインタヴューをしない>  こんな一文を読みながら、「焦るな」と沢木さんが言ってくれているような気がした。  そして西川も、1974年の沢木さんの旅に強く反応をするのだった。沢木さんが旅をした1974年というのは奇跡のような年で、パキスタンからカイバル峠を越えて陸路でアフガニスタンの首都カブールまで乗合バスで行くことができた。西川のころは印パ紛争によってアフガニスタンには入れず、1979年にはソ連軍が軍事侵攻をする。以降は戦火に踏みにじられ、一般の旅行者が旅することができるような国ではなかった。 『深夜特急』の中でアフガニスタンの荒野をバスがひた走るシーンがある。土埃をあげてバスが疾走していると、羊飼いの羊を守る犬が、突進してくる。ぎりぎりまでくると羊飼いの口笛で、犬は踵を返して羊の群れに戻っていく。26歳だった沢木はなぜか涙が流れてしかたなくなるのだが、これはとりわけ胸に迫るシーンだ。  そうした光景は「歌枕」のように、西川に話を聞いている1990年代も、今も、幻の中にしか存在しないのだが、西川も東チベットのカム地方を巡礼していたときに、同じ経験をしたと強く反応する。そしてインタビューが始まり、四半世紀の発酵の期間をへて、今回作品「天路の旅人」として結実した。  ところで、SFCの彼女は今ではプロの校閲者になっている。  そして現在も休暇の度にアジアを一人で旅している。彼女にとっては、『深夜特急』に描かれたアジアの街の情景は、今はもう存在しなくても「どうしたらそこにいけるだろうか」と想像力によって行くことのできる「現代の歌枕」なのだ。  西行の旅と芭蕉の旅、沢木の旅と西川の旅、そして我らの旅。旅は互いに呼応する。 下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。 ※週刊朝日  2022年9月9日号
下山進
週刊朝日 2022/08/31 07:00
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと
夫に「でっちあげDV」を謝罪した妻の言い分 それでも女性、母として認めてほしかったこと
里英さんは「ただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」と話す。写真はイメージ(PIXTA) ひとつ屋根の下に同居していても、夫と妻で「見えている景色」が違うことは少なくない。大阪府に住む小柴さん夫婦も、さまざまな「すれ違い」が重なって離婚危機にまで至った過去がある。「前編」では、夫の孝雄さんが妻の親に「DV」だと言われ子どもを連れ去られそうになったが、それがいかに誤解だったかという夫側の主張を聞いた。「後編」では、妻の側からなぜ夫への不満がふくらんでいったのか、どのような行為が「DV騒動」へとつながっていったのかをインタビューした。 *  *  *「夫は天才肌で、考え方がちょっと独特なんです。世間一般の常識とは違うけれども、話を聞けば筋が一本通っている。私は自分の意志が弱く優柔不断なほうなので、私にはないものを持っているところに惹かれて一緒になりました」  小柴里英さん(仮名・25歳)は、保育士として働きながら1歳半の子どもを育てる母親だ。「前編」で紹介した孝雄さん(仮名・41歳)の妻で、夫とは離婚危機がありながらも今も一緒に暮らしている。  里英さんは新潟県で生まれ育ち、進学を機に上京。卒業後はそのまま東京で、保育士として働いていた。後の夫となる孝雄さんとはオンラインゲームを通して知り合った。その当時、里英さんは東京で知り合った彼氏と同棲中だったがあまり関係がうまくいっておらず、その寂しさを埋めるようにゲームに逃げ込んでいたという。 「チャット機能で夫と話すようになり、年上で頼りになるなと思っていろいろ相談していました。当時、仕事も恋愛も親との関係もうまくいっていなくて、精神的に行き詰まっていたんです」  里英さんの両親は、里英さんが高校3年生のときに母親が家を出る形で離婚していた。けんかばかりの姿を見ていたので、破綻したこと自体に驚きはなかった。だが、親に甘えられない子ども時代を過ごしてきたことで、離婚後はよりいっそう親と心の距離ができてしまっていた。 「一度上京したからには、もう親には頼れないと思い込んでいたんです。彼氏とうまくいかなくなってからは、本当はいったん実家に戻りたかったんですけど、そのころ父親は新しい女性と一緒に暮らし始めていたので、遠慮していました」  そんな里英さんの話を聞いて、孝雄さんは的確なアドバイスをくれた。「体調を崩しているなら彼氏とは今すぐ別れた方がいい」、「お父さんは大丈夫、受け入れてくれるから頼ればいい」。里英さんが行動するための具体的なプランも示してくれた。 「夫の言うとおりに行動してみたら、いろいろなことがうまくいったんです。すごいなあ、って一気に信頼が高まりました。でも当時はまだ恋愛感情はなくて、恩人みたいに感じていました」  里英さんはいったん新潟に戻り、父親とその彼女の助けを得ながら、しばらく祖母宅で過ごした。親との関係が取り戻せたことはよかったが、居候の身としては居心地がよくなかった。自分自身の力で、人生をやり直したいと思った。新潟ではない、別の場所で。 「そのとき、思い浮かんだのが夫の住む大阪だったんです。私は保育士なので、そこそこの規模の都市であれば、どこでも就職先は見つかる。夫に相談したら『いいんじゃない?』と言ってくれました。大阪には土地勘がないので、いろいろアドバイスしてくれて、引っ越しの際にはお金まで出してくれました。そうですね、その頃にははっきりと恋愛感情が生まれていました」  孝雄さんには、同居する元妻と子どもがいることも知っていた。 「うちの家庭も複雑だし、そのことはそれほど気になりませんでした。夫の年齢からしても、過去がいろいろあるのは当然だろうな、と」  とはいえ、彼女という立場になってからは、やはりおもしろくはない。里英さん自身、気づかないうちに不満がたまっていった。それが態度や言葉の端々に出た、ような気がする。けんかや言い合いが増え、里英さんは「大阪なんか、来るんじゃなかった」と言った。その言葉に、孝雄さんはひどく腹を立て里英さんを叱った。里英さんは、謝らなかった。我慢しているのは自分の方なのに、という思いもあった。  そんな時、孝雄さんが元妻との同居を解消し、里英さんの部屋に転がり込んできた。もともと孝雄さんが借りてくれた部屋だから、もちろん異論はない。そうこうしているうちに、妊娠していることがわかった。 「私は保育士だし、子どもは大好き。まだ籍は入れていなかったけれど、素直にうれしかったです」  生まれてみたら、子どもはかわいかったが、新生児の子育ては想像以上に大変だった。とにかく寝ない、泣きやまない。新米ママなら、誰もが経験する壁に里英さんもぶち当たっていた。  悔しかったのは、孝雄さんのほうが子どもの世話に慣れていたこと。里英さんが抱っこしても泣きやまないのに、孝雄さんが抱くとすんなり泣きやむことが続いた。母親なのに! 保育士なのに! 里英さんのプライドはズタズタになった。だから、孝雄さんのアドバイスは無視した。 「こんなときはこうしろとか、うるさくて。子育てを手伝ってくれるのはありがたいことだし、内心、夫の言うことが正しいとわかっていても、それを認めたくなかった。『私は私のやり方でやる!』と言い張ってしまいました」  筆者も里英さんの気持ちはよくわかる。女性として、母親として花をもたせてほしいのだ。でも、その気持ちは、正論で押してくる孝雄さんには伝わらない。 「実家に電話をかけて、つい愚痴ってしまいました。こんなこと言われた、あんなこと言われたと洗いざらい話したら、父親と彼女が『それ、モラハラだよ、DVだよ』と。味方になってくれたのがうれしくて、どんどん夫を悪く言うようになってしまったんです」  内心では「DVではない」とわかっていた。でも、DVということにしておけば、父親と彼女は自分の味方をしてくれる。何なら、子どもを連れて新潟に帰ってこいとまで言ってくれる。その話に乗るのも悪くない、と思った。 「そのときは夫と別れてもいいや、と思っていました」  里英さんの思惑以上に父親と彼女がヒートアップして、予定していた日より早く実力行使に出たのは想定外だった。父親と彼女が「今夜行く!」と言い出し上京してきて、里英さんと子どもを連れ帰ろうとしたことが、警察を呼ぶ騒ぎになった。 「バタバタと警察がやってきて、すごく怖かった。警察が帰った後、夫に『里英がやろうとしていたことは有害だ、犯罪だ』と言われたのはショックでした。私はただ、うまくいかない現状から逃げたかっただけなんです」  里英さんは、子どものためにも、家族3人でやっていこうと思い直した。そして、夫に促されるがまま「DVをでっちあげようとしていたこと」を謝罪した。  里英さんが「初めて」謝ったことで、孝雄さんは里英さんを許した。家族3人で再出発。いま、里英さんは二人目を妊娠中である。  もちろん、孝雄さんの主張がすべて正しいわけでもないだろうし、里英さんがすべて間違っていたということもないはずだ。それでも、夫婦は「これでいい」とお互いに落としどころを見つけて前に進んだ。「正しさ」ばかりを追求しないことも、夫婦関係を続ける上では大切なのかもしれない。(上條まゆみ)
DV夫婦離婚
dot. 2022/08/28 11:30
「理由を説明しろ」レギュラーになれず抗議電話も 「子どものため」保護者の要求が加速
大塚玲子 大塚玲子
「理由を説明しろ」レギュラーになれず抗議電話も 「子どものため」保護者の要求が加速
保護者からハラスメントを受けても体制が整っていない学校現場では教員が対応せざるを得ない(photo/gettyimages)  生徒、教員、保護者──。閉ざされた空間の学校でも、トラブルは起きる。様々な事例をもとにハラスメントについて考えた。 AERA 2022年8月29日号の記事から紹介する。 *  *  *  一部の保護者による理不尽な要求やハラスメントに悩まされた経験のある教員は多い。 「生徒が卒業して2年以上経つのに、保護者からまだ電話がかかってくる」と、顔をゆがめるのは、関東地方の公立中学校に勤務する30代の教員だ。  事の発端は校外学習のグループ決めだった。一人の生徒が孤立していたため、温厚な同級生に声をかけ「グループに入れてあげて」と頼んだところ、生徒本人から「余計なお世話」と逆恨みされてしまった。  生徒は校外学習を欠席し、保護者は教員に謝罪を求めて電話や来校を繰り返すようになった。教員は「生徒が卒業するまで」と自分に言い聞かせ、ひたすら謝罪を続けた。  ところが、本人が中学を卒業しても保護者からの電話はやまなかった。 「高校になかなかなじめない」「資格試験に落ちた」「卒業後の進路が決まらない」  など、生徒のあらゆる問題を中学時代の指導のせいにする。しまいには保護者自身のパート先のいざこざまで、教員の指導ミスが原因と責めた。 ■様々な「過度な要求」  教員は「私も親なので子どもを思う保護者の気持ちはわかるが、あまりに行き過ぎ」と吐息をつく。  取材では、ほかにも様々な保護者からの「過度な要求」を耳にした。  中学のバスケ部でレギュラーになれなかった子どもの保護者から「理由を説明しろ」と電話で抗議を受け、毎夜遅くまで家に帰れなかった顧問の話。  進路面談の際、県内の各高校の教育方針や特色など詳細情報を披露し、担任に「こんなことも知らないのか」などと、3時間もマウントを取り続けた保護者の話。 「数学の先生が冷たいせいで娘が学校に行けなくなった。別の教員に代えてくれ」と教育委員会や中学校に訴え、職員室を訪れては当該の教員を呼べと大声で騒いだ保護者の話。 「息子が学校でけんかをした際、仲裁に入った教員から馬鹿にされたと言っている。責任を取れ」と、木刀を持って小学校に乗り込んだ保護者が、管理職2人を土下座させた話などだ。  保護者対応トラブルに詳しい、大阪大学名誉教授の小野田正利さんは、こう注意を促す。 「本来なら問題にならないような、ささいな出来事で、激高しやすい保護者がいる。そういう傾向の保護者と接するときは、適切な距離の取り方を考えることが重要だ」  行き過ぎた要求をしてくる保護者が教員だった例もある。  甲信越地方の中学校の20代教員は、個人的な事情もあり勤務時間内に業務を終わらせ定時退勤していたところ、担任する生徒の保護者に「仕事をせずに遊んでいる」と、デマを言いふらされた。養護教諭をしている母親だった。夫は中学の教員で長時間労働を常としていたため、担任が早く帰るのをサボりと決めつけていた。  母親は保護者懇談会に毎回必ず出席し、担任の発言やプリントの配布漏れをあげつらい謝罪を求めることを繰り返した。生徒たちからの信頼があつかったこともあり、同調する保護者は出なかったものの、最近、学年主任や校長にまで苦情を訴えていることを知り、担任は閉口している。  近畿地方の公立中学校では、「ALT(外国語指導助手)がイギリス英語でなくアメリカ英語を話すのが気に入らないから交代させてくれ」と求めた保護者が、他校の英語教員だった。我が子のノートをチェックしては授業のあら探しを行って、校長やPTA会長にまで手紙を書いて、教員の配置換えを訴えた。  小野田さんは、学校に理不尽な要求をする保護者が教員であるケースは特に多くはないものの、「同業だからこそ手の内がよくわかり、相手の痛いところをついてくるため、攻撃された教員の記憶に残りやすい」と話す。 ■民間と異なる学校 「行き過ぎた要求」をする保護者が現れたとき、学校はどうすればよいのか。民間企業のように「相手にしなければいい」と思うかもしれないが、小野田さんは「学校は民間企業とは異なる面も多い」と説明する。 (AERA2022年8月29日号より抜粋) 「病院や役所などは利用者からハラスメントを受けたとき、警察と連携して対応できる体制を整えているが、現状の学校には体制がないので教員が対応せざるを得ない。しかも、学校は保護者との関係がいくらこじれても、生徒が卒業するまでは関係を切ることができません。『これ以上は無理』と告げると『それなら、うちの子を学校に行かせない』と子どもを人質に取られることもあるため、反撃しづらいのです」  ただし、学校現場が疲弊しないようにガード体制をとることは可能だと言う。  電話がかかってきたら「このあと会議があるため、何時までしか話をうかがえない」など時間枠を伝えておくだけでも改善はあり得る。  言った・言わないの水掛け論になりそうなときは、複数の教員で対応して記録を残すことや、会話を録音することも有効だという。 「あまりひどい場合は証拠を集め、威力業務妨害で警察に通報することもできます」 (ライター・大塚玲子)※AERA 2022年8月29日号より抜粋
AERA 2022/08/28 08:00
東京にも存在した鹿児島・トカラ列島の「宝島」 出身者が集まった“東京宝島村”の軌跡
東京にも存在した鹿児島・トカラ列島の「宝島」 出身者が集まった“東京宝島村”の軌跡
 東京に「宝島村」があった。トカラ列島の宝島から集まってきた人たちの集まりだ。同列島が米軍占領下から日本に復帰して70年。村の軌跡と島のいまを追う。AERA 2022年8月15-22日合併号の記事から紹介する。宝島原産の種からカボチャが群馬県で300~400個収穫できるほど増えた。前列右が杉田ハルコさん、その隣が亀井ヨシノさん、左側が亀井秀夫さん/群馬県太田市(写真:土屋久さん提供) *  *  * 「お友だちがね、奄美大島に移住するんだって」  東京都文京区小石川に住む杉田ハルコさん(84)は夕食時、孫の真奈さん(27)にそう聞いた。故郷の宝島(鹿児島県十島村)から、当時はまだ「外国」だった南隣の奄美大島(同県)に密航船で渡った70年前のことを思い出した。  敗戦直後の鹿児島県が北緯30度線で分断され、これ以南のトカラ列島、奄美群島などが米軍占領下に置かれたのは1946年1月。その6年後の52年2月、宝島を含めたトカラ列島が日本へ返還された。9人きょうだいで下から2番目のハルコさんは53年に中学校を卒業。その夏、定時制高校に通うため長兄の大久保清さん(故人)を頼って奄美大島に渡った。「国境警備船」がいたため、深夜に改造漁船で3~4時間かけて「脱出」した。奄美大島が日本に復帰したのは同年12月のことだった。 ■「一族のせいで過疎化」  清さんは同島を拠点に会社を経営する一方、東京で弟たちやハルコさんと後に結婚することになる杉田稔さん(87)らと、小さな製本会社を立ち上げる相談をしていた。55年に清光社を設立し、翌年にハルコさんと上京。高度経済成長の波に乗って業績を拡大し、宝島出身者をどんどん雇い入れた。昭和30、40年代だけで100人を超えた。 「うちの一族のせいで宝島が過疎化したと冗談を言われるけど、申し訳ない思いもあります」  とハルコさんは言う。週刊朝日やAERAの製本も手掛けていた。  当時の同社の息づかいは、季刊「しま」(日本離島センター)の「島の精神文化誌」(5回連載)に詳しい。月の休みは2日間で、徹夜も当たり前。暮れの30日に仕事が終わって31日と正月三が日が休みだった。1月2日は宝島以外の関係者も集まる「宝友会」が毎年開かれた。 「島では現金収入がない暮らしをしてきたから、お金を使うのが楽しかった。一番大きな買い物が家。みんなこの周辺に家を買った。子どもができて孫ができて」  ハルコさんは言う。そうしてできた「宝島村」と呼ばれた人たちの集団は、昭和50年代には300人ほどに膨らんだ。  ハルコさんの母アイヅルさんと姉ソエさん(ともに故人)も、63年に東京に出てきた。アイヅルさんは「宝島村一家」の母のような存在となった。あちこちにあった会社の寮では、4畳半一間に家族4人が住むことが多かった。アイヅルさんも工場の上の寮に住み、みんなの子どもの面倒をみたり独身者に食事を作ったりした。日本復帰を控えた宝島(鹿児島県十島村)の様子/1951年12月 「宝島村一家」に限らず、会社関係者ら多くの人が出入りした。アイヅルさんを受け継いだハルコさんも面倒見がよく、今年も300枚の年賀状を送っている。  ハルコさんの11人の孫の一人で、佐賀県で放送記者をしている千恵さん(25)は大学4年間を小石川の家で過ごした。 「おばあちゃんのうちのキッチンルームには、いつも知らない人が座っていた」  昨夏にかけて「島の精神文化誌」を連載した順天堂大学講師の土屋久さんは、こう話す。 「『東京宝島村』は宝島の方々の、協働・団結・勤勉といったエートスの結晶です。そうした心の習慣が時代と合致し、皆さんの繁栄につながっていったのだと考えます」 ■沖縄戦の映像を見て涙  いま、社長は清さんの次男になり、会社も「セイコーバインダリー」と名前が変わって平成の半ばに埼玉県新座市に移転した。従業員を宝島から雇うこともなくなった。  それでも、宝島出身の関係者はしばしば会って昔話に花を咲かせる。この6月にもほぼ女性ばかりの数人が集まり、「Lara物資」が話題になった。米国の民間団体が終戦直後、日本に食料や衣料を提供したのだ。 「缶詰とか、ハイカラな洋服や赤ん坊用もあった」 「七面鳥なんか初めて食べた」  ハルコさんも米軍統治下のトカラ列島について、「私は小中学生でしたから、楽しい思い出しか残っていません」と振り返る。中学2年時には「密航船」で鹿児島市に修学旅行に行った。  ただ、毎朝のように見るNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」で、沖縄戦の映像が出てくると涙が止まらない。米軍が宝島に上陸することはなかったが、戦争末期には4、5家族がまとまって山中の洞のそばに小屋を建てて住んだ。空襲警報が鳴るとすぐに洞の中へ。たまに集落に戻ると、家の壁に機銃掃射の跡があり、庭には爆弾が落ちた大きな穴があった。従兄は沖縄戦で戦死した。  一方で、ハルコさんは「宝島のいま」を知るために親戚の平田和代さん(67)とよく電話で話をする。先日かけたら和代さんがちょうど13頭の牛の世話から戻ったところで、山海留学生として今春に東京から来た中学1年生とこれから夕飯だという。山海留学生は今年、これまで最高の42人(小学2年生~中学3年生)で、十島村の七つの島に滞在している。宝島は9人だ。91年から始まった同留学制度を利用したのは、昨年までのべ465人に上る。宝島の大籠(おおごもり)海水浴場/十島村のホームページから、渕上印刷提供 ■変わらない島の暮らし  和代さんは中学校を卒業後、島を出た。故郷に戻ったのは20年ほど前だ。 「島の暮らしは変わりません。落ち着くけれど、仕事はありません。自分は民宿もしていますが、船が来るのは週2回だけ。島の暮らしにあこがれてくる若い人もいるけれど、離れていく人もいます」  村の人口対策室によると、4年前に移住してきた16世帯のうち、昨春まで定住したのは11世帯。7割は「健闘」だろう。 「Uターン」を検討中の人もいる。6月にハルコさんの家でのおしゃべり会に集まったメンバー、亀井ヨシノさん(72)もその一人だ。中学校を出て上京したのが65年。清光社とは別の会社で働き、秀夫さん(69)と結婚後は夫の故郷の群馬県に住んでいる。 「冬の冷たいカラっ風にはまだ慣れないし『海なし県』でしょ」 ■若い世代にはまぶしい  2年前に退職した秀夫さんは旅好きで、海のそばで暮らすことにあこがれがある。最近、宝島のヨシノさんの親戚たちと月に数回、電話で話している。 「2013年に宝島の知り合いからもらった宝島カボチャの種3粒を群馬の畑にまいた。収穫は10月で、300~400個はとれます。でも、島ではもうなくなっちゃったみたい。この種を絶やしてはいけない」  ただ、子や孫たちは群馬県周辺にいる。 「行ったり来たりができれば、理想的かな。村の空き家をシェアハウスにできれば」  十島村の村山勝洋総務課長(53)は、東京で開かれる「関東トカラ会」に何度か顔を出したことがある。 「出身者の方々と親しく話ができます。村の財政は厳しいですが、新しい人に来てもらうほか、村の出身者の方々が故郷に帰りやすいように知恵を絞りたい」  冒頭でハルコさんと孫の真奈さんが会話をしていた夕食の席に話を戻そう。真奈さんの友人は村おこしの仕事をするという。ハルコさんも5月に奄美大島に久しぶりに帰って高校の同窓会に出たら、「奄美で暮らしたい」とやってくる若い人が増えたとも聞いた。  70年前に自分たちが後にした故郷は、平成・令和の新しい世代に、まぶしく見えているのかもしれない。(ジャーナリスト・菅沼栄一郎) ※AERA 2022年8月15-22日合併号
AERA 2022/08/20 08:00
「どんなに働いても残業代もガソリン代も出ない」フリーランスのアマゾン配達員が労働組合を結成した理由
野村昌二 野村昌二
「どんなに働いても残業代もガソリン代も出ない」フリーランスのアマゾン配達員が労働組合を結成した理由
アマゾン配達員組合横須賀支部の50代男性ドライバーは「アマゾンは社会的責任をとってほしい」と訴える(撮影/編集部・野村昌二) 「働き方は会社員と同じ。明らかに偽装請負で、名ばかりフリーランスです」  神奈川県横須賀市でフリーランス(個人事業主)としてインターネット通販大手「アマゾン」の配達ドライバーを務める男性(50代)は、そう憤る。日本法人「アマゾンジャパン」の2次下請けの運送会社と業務委託契約を結んで働く。だが、実態はAI(人工知能)を使ったアマゾンのアプリを通じて配達先や労働時間を管理され、「労働者と同じ」と訴える。  男性が他社を経てアマゾンの配達ドライバーとなったのは2019年3月。報酬は荷物1個当たり160円。1日に配る荷物は110個ほどで、朝8時に配送センターに出勤し、午後8時ごろには帰宅できていた。途中、休憩もゆっくり取れた。しかし、2020年7月ごろ、報酬が荷物1個当たりから1日1万8千円の日当制に変更となった。  状況が一変したのは昨年6月。アマゾンが配達ルートの選定にAIアプリを導入した。すると荷物は急増し、1日の配達数は今年4月から200個を超えることが常態化したという。配達を終え帰宅できるのは夜の10時か11時近く。休憩時間を満足に取れない日もあった。  だが、どれだけ働いても報酬は1万8千円のまま。月3万円近いガソリン代のほか、電話代や車の維持費も自己負担だ。割り当てられた荷物を断ることはできないという。  このままでは過労で倒れるか事故を起こしてしまう――。  男性は同じ配送センターで働く配達ドライバーたちに労働組合の結成を呼びかけた。今年6月、同じ思いを持つ10人ほどで「アマゾン配達員組合横須賀支部」を結成。アマゾンと下請け会社に働き方の改善を求めている。  それぞれのドライバーはアマゾンと直接の契約関係はない。だが、アプリなどを通し働き方の指揮命令を受けていることからアマゾンに「使用者」としての責任があると組合は主張している。男性は言う。 「僕たちドライバーは倒れそうになりながら毎日12、13時間働いている。しかし、どんなに働いても残業代もガソリン代も出ない。個人事業主であるドライバーを社員のように使っているのであれば、労働者として契約するべきです」 アマゾン配達員組合横須賀支部の50代男性ドライバーの配送車(写真/本人提供)  男性が加入する「東京ユニオン」副執行委員長の関口達矢さんは、ユニオンには全国のアマゾンの配達ドライバーから同様の相談が寄せられているとしてこう話す。 「アマゾンからのAIアプリなどを通じた労働時間の管理や指揮命令の仕方も含め、明らかに労働基準法上の労働者に該当すると見ています」  いま、会社に雇われないフリーランスとして働く人が増えている。単発で業務委託などを結んで仕事を受ける、「ギグワーク」と呼ばれる仕事も広がる。働く側にとってはスキルや経験を生かし柔軟な働き方ができるなどメリットがあり、企業にとっても安価な労働力を確保するため個人事業主に委託するケースが目立つ。政府は、フリーランスで働く人数は約462万人(20年)と、日本の労働者人口の7%近くを占めると推計する。  だが、「フリー」とは名ばかりで、会社員に近い働き方をしている人は少なくない。内閣官房が20年に行った「フリーランス実態調査」では、フリーランスの3234人のうちの約37%が「業務の内容や遂行方法について具体的な指示を受けている」と答え、約10%が「具体的な仕事の依頼、業務従事の指示を断ることができない」と回答した。  そうしたことから、フリーランスをめぐるトラブルも後を絶たない。  第二東京弁護士会が厚生労働省から受託し20年11月に開設した「フリーランス・トラブル110番」には、毎月600件近い相談が全国から寄せられる。業種別では運送関連とウェブ制作を含むインターネット関係が最も多い。相談では「報酬未払い」が最も多いが、「辞めたくても辞めさせてくれない」「発注者が勝手に報酬を減額する」事例も少なくないという。相談を受ける山田康成弁護士は言う。 「配達ドライバーの方には、自分から望んだわけではなく、結果的にフリーランスという働き方を選ばざるを得なくなった方もおり、問題に直面する人が多くなっています」  配達ドライバーのトラブルで争点となるのが「労働者性」だ。どのような場合にフリーランスに労働者性が認められるのか。  山田弁護士によれば、1985年に労働省(現・厚労省)の労働基準法研究会が示した「労働基準法研究会報告」の内容が、裁判においても一般的な解釈として踏襲されているという。 「一番のポイントは時間の管理です。例えばフリーランスの人は、会社員のように『遅刻』や『早退』があるわけではなく、時間を管理されていません。しかし、朝から晩まで業務があり、仕事の発注者のために拘束され働き続けなければならない実態がある場合には、『労働者』に近づいていくと思います。さらに、発注者から業務の指揮・監督を受けているかなどを総合的に判断し、労働者性が認められるかどうか決まります」(山田弁護士)  アマゾン配達員組合横須賀支部は7月、下請け会社と団体交渉に入った。だが、アマゾンは団交を拒否しているという。  今回の問題についてアマゾンジャパンは、本誌の取材に次のように回答した。 「今回、アマゾンに書面を提出したドライバーの方々はアマゾンの委託先配送業者のもとで配送業務を行っており、アマゾンの従業員ではありません。委託先配送業者に対しては安全な働く環境を整えること、関連法規やアマゾンの基準を遵守(じゅんしゅ)することを求めています。アマゾンの基準などを遵守していないことが確認された場合は、適切に対処いたします」  アマゾンが導入したAIアプリを通し、配達ドライバーは働き方の指揮命令を受けているという組合の主張については、 「アプリの利用は必須ではありません」  とし、AIアプリによって荷量が一気に増えたとされる点については、 「現在、特にお伝え出来ることはございません」  と回答。組合との団交を拒否した理由については、 「(配達ドライバーは)アマゾンの従業員ではありません」  などと答えた。 「労働政策研究・研修機構」統括研究員の呉学殊(オウハクスウ)さんは、こう話す。 「本来、取引において依頼する側と依頼を受ける側は対等でなければいけません。しかし、実態は依頼をする側の立場が強く、その『優越的地位』を使い、依頼を受ける側が不当な契約で仕事をせざるを得ない状況になっています」  韓国の労働問題に詳しい呉さんによれば、韓国でも個人事業主が増える中、雇用のセーフティーネットとして「全国民雇用保険制度」が導入され、芸能従事者や配達ドライバーなどの個人事業主に雇用保険が適用されている。さらに韓国では、個人事業主が労働組合をつくれば、企業は産業の発展につながるとして組合との団交にも応じているという。  今回、アマゾン側がアマゾン配達員組合横須賀支部の団交を拒否している点について、呉さんは次のように話す。 「労働組合は、働き手の声を会社に伝える、会社発展のためになる経営資源です。労働者性があるかどうかは別にして、配達ドライバーの声を吸い上げることは産業の発展につながります。それを労働者ではないからとして、門前払いする対応は産業の発展につながりません」  多様で自由な働き方の拡大とともに、フリーランスは増えていくとみられる。呉さんは言う。 「たとえば、フリーランス保護法のような法律を制定したり、労働者性の判断基準を緩めたりして、労災保険や雇用保険など安心して働ける最低限の保護を行うなど、フリーランスが安心して働くことができる環境をつくることが重要です」 (編集部・野村昌二) ※AERAオンライン限定記事
AERA 2022/08/18 11:30
不妊治療に「不自然につくった子どもであんたは幸せ?」実母からのひと言が突き刺さる
松岡かすみ 松岡かすみ
不妊治療に「不自然につくった子どもであんたは幸せ?」実母からのひと言が突き刺さる
写真はイメージ(GettyImages)  今や、体外受精で産まれる子どもは14人に1人。約5.5組に1組が不妊治療の検査や治療を受けたことがある時代だ。にもかかわらず、職場での理解にはまだまだ高いハードルがある。短期集中連載「不妊治療の孤独」第3回前編では、職場の上司の偏見との戦い、治療と仕事の両立の葛藤を追ったが、家族や友人など、むしろ近しい人たちから理解されない辛さもあるという。 *  *  *  不妊治療がどのようなものなのかを理解していない人も多く、悪気はなくとも当事者にとってはキツい一言となってしまったり、治療と仕事との両立に悩む声も多い。働く女性患者が多く訪れる不妊外来で多くの患者と向き合う千本友香里医師(さくら・はるねクリニック銀座)は言う。 「仕事と治療との兼ね合いに悩まれる方は依然として多い。働いている場合、どうしても休みを取って通院する必要が出てきますが、治療について職場に言えないという方もいます」  4月からの保険適用拡大によって患者数が増え、病院での待ち時間が長くなっている傾向もある。  不妊治療の人気クリニックとして知られ、患者の9割近くが体外受精に進むという杉山産婦人科では、仕事を続けながら通院できる体制として、朝8時から受付をスタートし、週3日は夜7時まで診療受付を対応。土日祝日も人工授精や体外受精の診療を受け付けている。不妊治療を行う病院の中でも格段に手厚い診療体制を持つものの、4月以降は患者が増え、待ち時間が延びている傾向にあるという。 「不妊治療は通院回数が多い上に、長期間に及ぶため、仕事を辞めざるを得ないケースが少なくありません。仕事をしながらでも不妊治療を受けやすい環境作りのために、私たちも国への働きかけを行っていますが、現状ではなかなか改善されていない。にも関わらず、患者さんに“明日もう一度来られますか?”と聞くと、9割以上が“大丈夫です”と答えます。子どもが欲しいという一心で、ご自身で何とか仕事をやりくりして通われているのが実情ではないでしょうか」(杉山力一理事長)  今年6月にキャリアデザインセンターが行った調査によると、不妊治療のための休暇制度があれば「使いたい」と答えた人は約7割なのに対し、職場に不妊休暇制度が「ない」と答えた人が67.4%を占めた。仕事をしながらの不妊治療で最も辛いことは、「急な通院で職場に迷惑をかけてしまう」(80.6%)。次いで「投薬や通院の負担で体調・体力的に辛い」(75.8%)、「働いても治療費に消えていくので金銭的に辛い」(66.1%)という声が聞かれた。  自身も不妊治療体験者で、不妊体験者を支援するNPO法人Fineを立ち上げ活動している松本亜樹子さんは言う。 「これだけ不妊治療が広がっているのに、職場で不妊治療が理解されずに悩んでいる人は本当に多い。職場の理解が得られないために、治療について誰にも言えず、仕事との両立ができない事態に追い込まれる人が少なくありません」  “不妊治療をしていることを職場に知られたくない”という声も少なからず聞かれる。前出のAさんも、職場で上司からの心ない言葉に傷つき、「言うんじゃなかった」と後悔した一人だ。「治療している」と公表したことで、「休むたびに職場の目が気になった」というBさんのような声もある。松本さんは言う。 「職場で治療していることを告げた場合、結果を報告せざるを得ないことが大きなストレスになることも多い。治療がうまくいったらまだ良いのですが、ダメだった時にも報告する流れになってしまう。上司への報告が、妊娠できない辛さを増長させてしまうことにもつながる」  家族や友人など、近しい存在からの理解が得られない辛さも聞かれる。  岡山県在住のDさん(39)。3年にわたって不妊治療を続け、心身ともに疲弊していた頃、それまで治療について話していなかった母に初めて、治療中であることを話した。「一刻も早く孫を」と望んでいるとばかり思っていた母から出たのは、意外な言葉だった。 写真はイメージ(GettyImages) 「子どもは授かりものだから、できる時はできるし、できない時はできない。それも自然の摂理でしょう。針を刺したり、第三者が受精させたり、そんな不自然につくった子どもって、どうなんだろう……。あんたはそれで本当に幸せなの?」  子どもが欲しい、その一心で辛い治療と向き合ってきた3年を否定されたような気がした。無論、母に悪気はないのは重々分かっている。「それでも」とDさんは言う。 「不妊治療が存在しなかった時代を生きた親世代に、不妊治療を理解してほしいと思ってもどうしても難しい部分がある。やっぱりこれは、治療を経験した当事者にしかわかり得ない世界だと痛感しました」  だが、“当事者”が必ずしも良き理解者になるとも言い切れない。5年にわたる不妊治療中、同じく不妊治療に取り組む学生時代からの友人と励ましあいながら乗り越えようと奮闘してきたEさん(40)。Eさんが治療を始めて2年後、同い年の友人も治療に取り組むことに。当事者同士でしか分かち合えない治療の葛藤や苦しみを、長年にわたる友人と共有できる安心感と喜びは大きかった。だがそんな期間は半年間と短いものだった。友人が早々と妊娠し、治療から“卒業”していったからだ。 「妊娠した友人は、“妊娠のためにはこうすべき、ああすべき”と、完全にアドバイスモードに切り替わって……。私の方が治療期間が長い分、なかなかそれを受け入れられない自分がいました」(Eさん)  追い討ちをかけたのが、妊娠した友人が、不妊治療によって子どもを授かったことを周囲にひた隠しにしていることだった。例えば共通の友人とグループで集まる時、Eさんは不妊治療中であることを明かしているが、妊娠した友人は「私が不妊治療していたことは絶対に言わないで」とEさんに釘を刺し、あくまで“自然に”授かったように装う。「不妊治療は、そんなにまで隠したいことなんだ」と思うと、未だ治療の渦中でゴールが見えない自分が惨めに思えて仕方なかった。 「これだけ不妊治療や妊活という言葉が浸透しても、実際のところ、不妊治療に対する偏見の目は存在する」  とは前出の松本さんだ。その証に、Eさんの友人のように、不妊治療で授かったことを「隠す」人は決して少なくないという。松本さんは言う。 「不妊治療を経て妊娠したら、途端に治療について口をつぐむ方が多い。それは世間の偏見の目から、産まれてくる子どもを守るためでもあると思います。ですが本来、偏見の目をなくすためには、まずは治療をしている当事者が、不妊治療がどのようなものなのか、その実態を周囲にきちんと伝える努力も必要。隠したり中途半端に伝えることを続けていると、世間の理解はなかなか広がらない」  不妊治療の当事者が、自分の体験を声に出して伝えることは、とても勇気のいることだろう。それでも「これから治療に臨む、一人でも多くの人のために」と体験を話してくれる人もいる。次回は、不妊治療をやめる選択をした、ある当事者の話から――。(次の記事に続く) 【前編はこちら】不妊治療と仕事の両立の難しさ 上司からの「いつ頃子どもできそう?」に涙があふれて
不妊不妊治療の孤独妊活病気病院
dot. 2022/08/17 06:30
不妊治療と仕事の両立の難しさ 上司からの「いつ頃子どもできそう?」に涙があふれて
松岡かすみ 松岡かすみ
不妊治療と仕事の両立の難しさ 上司からの「いつ頃子どもできそう?」に涙があふれて
写真はイメージ(GettyImages)  仕事と不妊治療の両立は、未だ解決の兆しが見えない大きな課題の一つだ。仕事を持ち、働きながら治療を続ける女性にとって、治療期間の終わりが見えず、通院回数のかさむ不妊治療は、大きな負担になってしまう現状がある。  4月からの保険適用によって経済的な負担は軽減された傾向があるものの、決して安くはない治療費の捻出を考えると、仕事を辞めたくても続けざるを得ない実態もある。不妊治療の今を探る短期集中連載「不妊治療の孤独」の第3回前編では、仕事と不妊治療の両立に悩んだ3名の女性の実例から紐解いていく。 【短期集中連載「不妊治療の孤独」第1回を読む】→「妊活したいけど1回も性交していない……」結婚6年目夫婦の他人に言えない深い悩み *  *  * 「不妊治療? そんなことまでして子どもを持ちたいって、すごいね」  静岡県在住の会社員Aさん(38)。勤務先の男性上司(50代)に、不妊治療を始めたことを明かすと、耳を疑うような反応が返ってきた。  不妊治療について上司に話すこと自体、とても勇気のいることだった。言わずに伏せておけるのなら、それに越したことはない。でも、度重なる急な休みの申請に訝しがる上司を前に、「これ以上伏せておくことは難しい」と判断し、仕方なく話したのだ。  不妊治療中の通院のタイミングや回数は、月経周期や卵子の生育具合などに左右されるため、自分の意思でコントロールすることは難しい。一般的に不妊治療における最初のステップとされるタイミング法でも、排卵日を確認するために通院する必要がある。最初は排卵日近辺と予測される日を指定されて通院するが、その時に卵子が育ってなかったら「1~2日後にまた来てください」となるのだ。  Aさんはタイミング法を経て、次のステップである人工授精に進んだ。何とか仕事を調整し、やっと休みが取れたかと思えば、「明日も来てください」と指定されることもしばしば。そんな中で5回チャレンジするも妊娠せず、あっという間に体外受精にステップアップした。  卵が育ちにくいAさんは採卵に苦労することが多かったことから、多いときは週に3回、卵を育てるために排卵誘発剤の注射を打つために通院し、スケジュール上の拘束もさらに増えた。薬の影響から、体調が悪くなる日も増え、身体的な負担も増した。  Aさんは営業という職種柄、直行直帰しやすかったこともあり、比較的スケジュールが調整しやすい方ではあった。それでも、たびたび嘘の理由で休むこと自体がストレスになっていた。だからこそ、勇気を出して上司に本当の理由を告げたのだ。上司はこう続けた。 「治療してまで子作りするって、すごい時代だよなぁ」 「自然にできないって、どこかからだが悪いの?」 「で、いつ頃、できそうな感じなの?」  言わずもがな、不妊治療はいつ終わりがくるとも分からない。自分でもこれがいつまで続くのか、本当に授かることができるのかと不安に苛まれることも少なくないが、毎回「これが最後」と思って治療に臨んでいる。不妊治療についてあまりに無知な上司の言葉に凍りついたものの、その場は引きつった作り笑いで何とかごまかした。だが、その後一人になると無意識のうちに涙がこぼれた。子どもを自然に授かれない自分は“欠陥品”で、女性として失格だと言われたような気がした。 「不妊治療しているって話したら、“不妊治療って去勢手術のこと?”って職場のおじさんに言われたことがあります」  と、話すのは、神奈川県在住のBさん(30代)。あまりの無知さにあっけにとられたが、それ以上に辛かったのが職場の人たちから「この人は何回も治療に行っているのに、なぜ子どもができないんだろう」という目を向けられることだった。 「治療で休ませてください」という言葉も、最初のうちはすんなり受け入れられていたが、何回も続くうちに『また休むのか』『いつまで続くのか』というネガティブな空気が漂い始めた。ちょうど時を同じくして、同じ会社に妊婦がおり、だんだんとお腹が出てくる光景を見ることもまた辛かった。 「一番辛かったのが、流産してから出社した時。産前産後の休暇は手厚いのに、なぜ流産には休暇がないのだろうと。出産する人は優遇されるのに、出産を望んで不妊治療する人に対するケアは一切なしで、仕方がないと言い聞かせながらも辛かった」(Bさん) 写真はイメージ(GettyImages)  東京都在住のCさん(41)は、不妊治療とフルタイムの仕事との両立に悩んだ結果、パートで働く道を選んだ。 「子どもを持ちたいなら、働き方を変えざるを得なかったというのが正直なところです」(Cさん)  コンサルティング企業で、朝から夜遅くまでノンストップで働くハードな仕事。女性管理職も多い職場だが、直属の上司を含めて子どもがいない人ばかり。不妊治療をしていることは、何となく言いづらかったという。 「もしかして上司が、子どもを持ちたかったのに諦めた人だったらどうしようと。子どもがなかなかできない辛さを身にしみて感じている分、相手が年上の女性だと、余計に気を遣ってしまう自分がいます」(Cさん)  残業が当たり前の職場で、定時で帰る人はほとんどいない。Bさんは夜まで診療しているクリニックを選んで通院していたが、治療において大事な時に、仕事でも外せない予定が入っていることが続き、しびれを切らした医師からこう言われた。 「子どもを持てる期間は限られています。今のままでは中途半端な治療になってしまい、なかなか子どもを授かることが難しい。一度、ご夫婦で今後の治療について話し合ってみてください」  気づけばハードな仕事に加え、身体的にも精神的にも負担の大きい治療を並行していく日々に、心底疲れている自分がいた。それでもまだ望みがあるのに、一度始めた治療をここでやめるわけにはいかないと思った。だが今の働き方と治療を並行していくことは、もうこれ以上無理だった。一度仕事から離れる道も考えたが、治療にはまとまったお金がかかる。この時すでに500万円を超える金額を治療に費やしていた。 「だから少しでも治療費の足しになるよう、短時間でも働いた方が良いと判断し、なるべく負担の少ない今のパートの仕事に就きました。私の場合は前職がハードな仕事だったことも大きな理由ですが、不妊治療が進めば進むほど、子どもか仕事か、どちらを優先するかを選ばないといけない。もっと支援する体制が整ってほしいと願うばかりです」(Cさん)  今や、体外受精で産まれる子どもは14人に1人。約5.5組に1組が不妊治療の検査や治療を受けたことがある時代だ。にもかかわらず、職場での理解にはまだまだ高いハードルがある。理解が得られないのは職場だけではない――後編では、家族や友人などの近いし人から理解されない辛さを考える。(松岡かすみ) 【後編を読む】不妊治療に「不自然につくった子どもであんたは幸せ?」実母からのひと言が突き刺さる
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dot. 2022/08/17 06:30
「不妊治療の弱音を吐けない」男性の孤独 親や親友、妻にすら本音で相談できない
松岡かすみ 松岡かすみ
「不妊治療の弱音を吐けない」男性の孤独 親や親友、妻にすら本音で相談できない
写真はイメージ(GettyImages) 不妊治療は、妊娠出産の当事者である女性が主体となるものの、その陰でパートナーである男性が悩みや葛藤を抱えるケースが少なくない。妻にも本音が言えぬ中、プレッシャーで追い詰められてしまう例もある。そうした中、妊活の大きなハードルにもなっているのが、ここ10年で増えている男性特有の“ある症状”。不妊治療の今を探る短期集中連載「不妊治療の孤独」第2回目は、誰にも悩みを打ち明けられない男性側の本音に迫る。 *  *  *  東京都在住の会社員、Aさん(41)。2歳年下の妻と不妊治療に奮闘し始めて、5年になる。8年前、Aさんが33歳、妻が31歳の時に結婚。結婚して3年ほどが経ち、「そろそろ」と考えてタイミング法を試みるも、1年半経ってもなかなか妊娠しない。そこで夫婦ともに一通りの検査を受けたが、互いに「異常はない」と言われた。 「このままタイミング法をもう少し続けるか、次のステップである人工授精に進むか、どうしますか?」  医師からこう投げかけられ、夫婦はしばらく悩んだ。ともに「なるべく自然に授かりたい」という思いが強く、できることならタイミング法で授かりたい。だがその頃、タイミング法を試みても、Aさん側の問題から、性交渉がうまくいかないことが増えてきていた。  平日にAさんが仕事を終えて帰宅するのは、夜10時を過ぎることが多い。多忙な業務を抱え、終電で帰る日も月に4~5日はある。妻も仕事を持ち、フルタイムで働いているが、排卵日近辺の“タイミング”の日には、互いに「早めに帰ろう」と努める。  しかし、Aさんは仕事の都合で、どうしても遅くなる日が続いた。仕事から疲れて帰宅し、お酒を飲んでしばし休息したいところだが、妊活中の妻も禁酒を続けている手前、自分だけは飲みづらい。 「体調を整えるためにも、ちゃんと睡眠時間を取りたいから、早めにお願い」  と、妻に急かされて臨むも、もはや事務的な“作業”のように感じてしまう自分がいる。加えて「今日は外せない日」ということや「最後まで成功させなければ」という思いがプレッシャーになり、途中でうまくいかなくなることが続いた。  タイミング法のプレッシャーを緩和させる目的で、シリンジ法も何度か試した。「ここは感情抜きにして、割り切ろう」と二人で話したが、妻と別の部屋でマスターベーションをし、精液をカップに入れて届ける時、妻の表情はどこか複雑そうにも見えた。  妻のことは愛しているが、どうしても同じ屋根の下で日々を過ごす中で、家族という感覚が強まってくることは致し方ない事実だ。交際時や新婚当初の頃とは、性的な欲求も薄まっていることは夫婦ともに感じていた。だが、子どもを持ちたいなら、そしてなるべく“自然に”授かりたいなら、そんなことは言っていられない……。 「自分のせいで妻を傷つけているかも」「どうしたら良いのか」と悩む日々が続いた。プライベートも職場も含め、自分の周りにいる男性から、不妊治療に臨んでいるという声は聞いたことがなかった。   自分の中で、不妊治療はどこか、女性側に何らかの問題があるものと感じていた。男性側に問題があって治療をするという話は、耳にしたことがなかったのだ。「途中でできなくなる」なんていうことが、治療の対象になるのかも分からないし、何より恥ずかしくて情けなくて、口が裂けても言えないと思った。  それだけに、友人や親はおろか、妻にも本音では相談できず、一人で悶々と悩む日々。子を持つ男友達と会うと、「こいつは、奥さんを“お母さん”にさせてあげられたのに、俺は……」と、ブルーな気持ちに拍車がかかる。自分の父親に対してすら、自分にできないことを達成しているように見え、“男”として自分より優位に立っているように感じた。 「何か頼りになる情報を」とネットを見るも、溢れかえる“セックスレス”というワードの一言で片付けられる問題でもなければ、不妊治療という言葉もどこか遠い存在に思えた。その狭間で揺れる思いを、どこに持っていけば良いのか分からなかった。  だから妻が医師の言葉に対して「人工授精に進みたい」と言った時、どこか救われたのも事実だ。ところが人工授精を6回繰り返しても妊娠しない。病院にはなるべく付き添って行きたい思いはあるが、仕事を考えるとなかなか難しく、妻一人で病院に通う日々が続いた。 写真はイメージ(GettyImages)  排卵のタイミングはあらかじめ予定が立てられないことから、医師から指示のあった日に頻繁に病院に行かなければならず、急に仕事を休まざるを得ないことも妻のストレスになっていた。加えて排卵誘発剤を打つ注射の痛さ、内診を重ねる辛さ、頑張っても全く結果が出ない苦しみ――次第に憔悴していく妻を前に、「自分は何もできない」と思えてもどかしかった。治療の主体はあくまで妻であり、自分は妻が抱える葛藤や苦しさの半分も分からないと思った。  Aさん夫妻は今、体外受精に臨んでいる。体外受精が4月から保険適用になったことも後押しになった。だが体外受精は人工授精より体への負担が大きいこともあり、妻は病院から帰るとぐったりして横になることが続いている。 「不妊治療について、妻が弱音をこぼすことはあっても、自分が弱音を吐くことは許されないと思っています。妻がこれだけ頑張っているのに、とても弱音なんて言えない。そりゃ男である自分なりの辛さは、もちろんあります。でもそれを口に出して話せる相手はいません」(Aさん)  不妊治療の主体は、妊娠、出産をする女性であるのは揺るぎない事実だ。だがその陰で、パートナーである男性の心が置き去りにされがちな実態がある。 「不妊治療において、パートナーである男性が葛藤を抱えてしまうことはある。非常にデリケートな問題だからこそ、周囲に悩みを言えず、頑張っている奥さんにも本音を言えないというのが実情だと思います」  不妊外来で多くの患者と接している千村友香里医師(さくら・はるねクリニック銀座)はこう話す。不妊治療中の女性は、ホルモン剤の影響などもあり、イライラしたり落ち込んだりを繰り返すなど、精神的に不安定になってしまうことも少なくない。そうした妻を前に、「どう接したら良いのかが分からない」という戸惑いの声も聞かれる。不妊体験者を支援するNPO法人Fineを立ち上げ、不妊体験者をサポートする活動を行う松本亜樹子さんも、治療中の男性の孤独についてこう指摘する。 「不妊についての悩みは、女性以上に男性の方が周囲に話せないというストレスを抱えがち。治療中に妻とのコミュニケーションがうまくいかなくなって悩む人も多い。男性が葛藤を抱えても、それを話す先がなく、追い詰められてしまう人もいます」  性機能障害による男性不妊も増加傾向にある。 「子どもを持ちたいのに、性交がうまくいかないという悩みを持った男性が多くいらっしゃいます」  とは、男性不妊外来で、日頃から多くの男性患者と接している辻村晃医師(順天堂大学医学部附属浦安病院)だ。男性不妊外来には、冒頭のAさんのように妻との性交渉がうまくいかないことや、タイミング法のプレッシャーに悩む男性の声が多く聞かれるという。  いわゆる“年齢の壁”が、女性だけではなく男性にも存在すると知られるようになったことも、男性の妊活への焦りを助長させているかもしれない。卵子の老化によって妊娠率が低下することは広く知られているが、最近、男性も加齢とともに元気な精子数が減少することが知られるようになった。晩婚化の影響により、結婚前にすでに精液所見が悪化している男性も増えているそうだ。辻村医師は言う。 「これから子どもを作ろうとしている人が受けるブライダルチェックを受診した男性の調査からも、精液量や精子数の減少、精子運動性の低下がそれぞれ約10%認められただけでなく、驚くべきことに1.8%で無精子症が認められました。さらに、妊活前の時点ですでに精液所見に何らかの問題が見られる男性が約25%認められました」  辻村医師の男性不妊外来で特に目立つのが「膣内射精障害」だ。その名の通り、マスターベーションでは射精に至るが、性交渉の際に膣内では射精ができない症状だ。冒頭のAさんも同様の症状にあたる。辻村医師は言う。 「ここ10年で、男性の膣内射精障害がかなり増えていることを実感します。妊活中の男性からは、“妻に対してできない”という声や、タイミング法で性行為を義務付けられること、膣内で射精しないといけないということが大きなプレッシャーになり、追い詰められた状態になって不妊外来に駆け込んでくる人が少なくない」  膣内射精障害による男性不妊の悩みを持って辻村医師の元を訪れるのは、20代後半~40代前半の男性。1年ほどタイミング法を試したものの妊娠しないことから、医療機関を受診する流れに至るケースが多いという。  膣内射精障害の背景には大きく二つの要因があり、一つはネット動画など、性的に刺激の強いコンテンツが氾濫し、過激な刺激に慣れ過ぎてしまっている傾向があること。そして思春期からの誤ったマスターベーションの方法に慣れてしまい、膣内の刺激に反応しないことも要因の一つと言われる。  恋愛観や性欲の低下も、現代人の特徴の一つと挙げられて久しい。2020年にリクルートブライダル総研が行った調査によれば、20代から40代の未婚者において、恋人がいない人の割合は約7割。さらに20代男性に絞ると、一度も交際経験がない人の割合は約4割に上る。辻村医師は言う。 「現状では射精に対する特効薬は存在しないことから、治療法は地道なトレーニングが主。具体的にはマスターベーション方法を修正し、適切な刺激で射精できるよう専用の器具などを用いて膣内射精のトレーニングをします」  行動療法によって少しずつ慣らしていくという意味では、この短期集中連載の第一回目の記事で紹介した実例の女性の挿入障害と同じだ。 「ただ、これだけ生殖医療が発達している今、“何が何でも膣内射精ができるように”とこだわる人は少なくなってきている印象もあります」(辻村医師)  いわば性交をせずとも、他の方法で妊娠を目指すことが可能な時代。自然妊娠にとらわれず、効率的に目標に向けて動こうと考えるカップルも少なくない。 「子どもを望むなら、自然妊娠へのこだわりが思わぬハードルになることもある」  産婦人科医の宋美玄医師(丸の内の森レディースクリニック)はこう指摘する。妊娠出産はカップルで臨むことから、どちらかの自然妊娠への志向が強いあまりに、不妊治療に足踏みする例も少なくない。 「普段から性交しているわけではないけれど、子どもは欲しい。でも“不妊治療までして授かりたくない”という人は多い。しかし、それではなかなか妊娠しないままに時ばかりが過ぎてしまいます。もちろん、子どもを持たない選択もあるというのが大前提の上で、それでも妊娠を望むなら、自然妊娠へのこだわりから離れてみることも大切では」 「子どもは自然に授かるべきもの」と思い込み過ぎると、時に自分たちを追い詰めてしまうことにもなるかもしれない。  ところが、この“自然派信仰”に、当事者を取り巻く人々がとらわれていることで、思わぬ事態に追い込まれる場合もあるという――。(次の記事に続く) 【短期集中連載第1回はこちら】 前編:「妊活したいけど1回も性交していない……」結婚6年目夫婦の他人に言えない深い悩み 後編:年々増加する「セックスレス妊活」 性外来の医師が指摘する深刻な課題とは
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dot. 2022/08/16 06:30
アフリカで待っていた2匹の保護猫  セネガルからモザンビークに引っ越しで“ビビり猫”がキャラ変
水野マルコ 水野マルコ
アフリカで待っていた2匹の保護猫  セネガルからモザンビークに引っ越しで“ビビり猫”がキャラ変
鼻チューする2匹  飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回はアフリカのモザンビークで国際協力の仕事をしている優美さん(30歳)のお話。1年前に縁あって現地の野良猫2匹を家に迎えましたが、その行動に一喜一憂。仕事の関係で一時帰国し、アフリカに戻ると猫に大きな変化が……。異国の“可愛いパートナー”について語ってもらいました。 * * *  私は大学生の頃からアフリカで働くことを考えるようになりになり、6年前からアフリカで暮らしています。2021年に、アフリカ4カ国目の赴任先であるセネガルで。雌猫キキと雄猫トトと出会いました。  猫との暮らしは初めてだったので、すべてが新鮮。アフリカに来て以来、ずっと一人暮らしでしたが、今はもう猫たちのいない生活は考えられません(笑)。こちらアフリカでの猫の保護や生活の様子などをお伝えしたくて、海外でもよく読むこのサイトのコーナーに応募しました。どこの国でも、保護される猫たちと幸せな飼い主が増えるといいなと思っています。 ■一時預かりのつもりが気持ちがぐらっ まずはキキとの出会いから。  昨年5月、現地の動物保護団体でボランティアをしていた友人から、「家の前に、毎日餌を食べに来るシャイな成猫がいる」という話を聞きました。彼女の家には、ハンデの子も含め10匹ほどの犬猫がいて増やせない状況で、保護できる人を探していたのです。  セネガルの保護団体は「人なれした野良猫の引き取り手を国内外で探す」という取り組みをしていたので、私は数カ月してなれたら引き取り手を探すという友人の提案にのり、キキを一時的に預かることにしました。仕事の移動も多いし、動物を飼うことはまったく考えていなかったけど、路上で踏ん張るようにたたずんでいたキキを見て、何かしてあげたいと思ったし、コロナで在宅勤務だったので、短期間なら面倒を見られるかな、と思ったのです。 路上にいた保護前のキキ  そうしてキキを預かったのですが、キキは究極の「ビビり」で、私のアパートに着くと食器棚の下に入り込みました。夜になると玄関前でずっと鳴いていたので、「路上の方が良かったのかな」と、胸が痛みました。  それでもとにかく距離をとりながら、お互いに観察し合っていました。キキはしばらくすると、食器棚の下からランニングマシンの下に移りました。触ろうとしていなくても、横を通る度に威嚇の「シャーシャー」をします。 保護してすぐ、キキは家で隠れながら生活した  そんな状態のキキだったので、私もキキファーストで生活するようになりました。あちこちに餌を数粒置いて、少しでもキキの行動範囲が広くなるようにしたり、物音に驚く状態だったので、大きな音を立てないように気を付けたり、来客の時はキキの隠れ場所に布をかけたり。  そうした日々の中、キキは少しずつ進歩していきました。隠れる時間や逃げる頻度が徐々に減って、ビビりながらも毎日懸命に生きている様子がいとおしくなり、私は預かってから1カ月後に、ボランティアの友人に「このままキキを引き取りたい」と連絡しました。  友人には「ずっと触れなくてもいいの?」と聞かれたのですが、キキを大事に幸せにしたい!と思ったのです。 ■トトを迎えてにぎやか2匹に  トトとは、キキと出会ってから3カ月後の8月に会いました。生後6カ月くらいでした。  場所は引っ越し先のアパートの地下のゴミ捨て場なのですが、キキと正反対で、フレンドリーで究極の甘えん坊な子。茶白柄でキキと見た目が似ていて、(私と会う前の)キキの子猫時代はこんなだったのかなと、感じ入るものがありました。  1週間毎日ゴミ捨て場に通いましたが、母猫の気配はなく、駐車場内の一画にあるゴミ捨て場だったために、車の出入りも多く、保護を考えました。友人にも相談しましたが、保護団体に預かるキャパがないというので、「じゃあ私が」と決めたのです。 アパートの地下にいた保護前のトト  自分にとって初の捕獲でしたが、これは慎重にしました。アフリカは日本と違って狂犬病発症国が多いのです。最初に赴任したマダガスカルで猿になめられた人が、狂犬病の注射を3回も打っていたんです。それを見ていたので、トトが驚いて暴れてかまれたりしないように、キャリーケースに餌を入れて捕まえました。扉を閉じた瞬間からトトは驚いてずっと鳴き叫んでいましたが、アパートに連れてきてキャリーの扉を開けた数分後には、私にスリスリ。 すぐに懐いたトト  獣医さんに来てもらい、すぐに予防注射を打ってもらったのですが、獣医さんにも甘えていました。キキと同じ猫なの?とびっくりしたものです。  キキの名は「魔女の宅急便」の主人公の女の子からもらい、トトは、「Africa」という素敵な曲を歌うロックグループTOTOからもらいました。アフリカに憧れていた頃によく聞いていたんです。キキとトト、あわせて“キキトト”。響きも好きでした。  こうして猫2匹との暮らしが始まりましたが、最初の2週間はキキと離し、トトにはキッチンで過ごしてもらうことにしました。本当に甘えん坊でぎゃーぎゃー私を呼び、足にしがみついてくるので、私はキッチンにヨガマットを敷いて、そこで仕事をしたり、トトと寝たりしました(笑)。  やがて2匹を一緒にしましたが、トトは遊んで欲しくてキキにちょっかいを出し、キキはそんなトトに対して威嚇して仲良くなる気配がありません。ネットで検索すると、「相性が悪い猫同士が暮らすのは不幸だ」なんて記事もあり、やってしまったか!と落ち込むことも……。でもトトがのびのびしてこちらに甘える様子を目にして、キキも徐々にのんびりした様子を見せるようになりました。 トトが来てリラックスするようになったキキの寝姿  このままどんどんキキが慣れるといいな……と思っていたのですが、じつはトトを迎えた1カ月後、仕事の関係で引っ越しが決まりました。 ■悩んだ末の2匹の輸送  次の行き先はモザンビークです。  アフリカの最西端のセネガルと南東にあるモザンビークは、時差が2時間。飛行機でもかなりの時間がかかります。  私はもちろんキキトトとずっと生活を共にするつもりでいたので、よりよい移動方法を考えました。  仕事の手続きで日本に戻る必要があったのですが、その時にキキとトトも連れ帰り、そこからモザンビークに一緒に行くのがいいのか。それともセネガルから直接、2匹をモザンビークに送るのがいいのか。  調べると、トトが日本の受け入れ条件(狂犬病予防接種後6カ月)を満たせなかったし、輸送が一度で済む方が猫に負担がかからないと思い、モザンビークに送ることにしました。モザンビークで動物保護団体紹介のペットシッターさんが見つかったので、その家で預かってもらうことにしたのです。 いつしか仲良くなりましたキキ(右)とトト  2匹の出発は11月末に決まりましたが、コロナで減便という状況もあって、エチオピア経由での動物輸送にはなんと30時間以上。キキとトトには申し訳なかったですが、それでも無事にペットシッターさん宅に着いたと聞き、ほっと胸をなでおろしたものです。  私が日本での仕事の手続きを終えて、モザンビークに向かったのは今年1月末。約2カ月、シッターさん宅に預かってもらったのです。  果たして私のことを覚えているでしょうか……。それが次の心配ごとでした。 ■猫同士に変化!キキがキャラ変?  キキとは半年、トトと2カ月しか暮らしていなかったので、「忘れられてもしかたない」と覚悟して、シッターさん宅にキキとトトを迎えにいきました。すると、トトは私を見て近づき、「どこに行ってたんだい」というようにスリスリして離れませんでした。キキの方は、少し離れてこちらをじっと見ていました。  シッターさんから、キキはおびえてシャーシャーいうし、餌をあげる時も近寄ってこないと聞いていたので、「キキはあまり変わってないかな」とその時は思いました。  しかし、2匹を私の新たな家に連れていくと、それまで見たことのない光景を目にしたのです。セネガルの時は、キキはトトに向かって威嚇して常に“ヨガマット1枚分”の距離があったのですが、何と、グルーミング(毛づくろい)し合ったり、一緒に遊んだり、昼寝したり。 寄り添ってお昼寝するトト(左)とキキ.  さらに驚いたことに、キキをなでられるようになりました。前はちゅーる(アフリカでも売ってます)をあげる時がいちばん私と近い距離でしたが、トトがするように、キキが私に「なでて~」と甘えてくるようになったのです。リラックスして、“へそてん”まで!  キキとトトが仲良くなったのも、キキが甘えて触れるようになったのも、どちらもうれしいこと。環境が目まぐるしく変わる中で2匹は互いに絆を深め、キキのキャラも変化したのでしょうか? そう思うと、会えない間の心配もつらさもすべて溶けていくようでした。 ■これからもよきパートナーとして  8月。モザンビークに来て、はや半年が経ちます。  振り返ると、コロナ禍でアフリカ赴任という日常生活の制限も不安も大きい中、キキトトと暮らすようになって、自分も幸せを感じる時間が増えたなとあらためて感じます。  猫たちにも変化がありましたが、私の生活も大きく変わりました。  外で何があったとしても、家に帰ってキキトトの姿を見て、2匹をなでていると安心して癒やされます。餌が欲しくて、朝「早くちょうだい」と起こしに来るので、以前に比べて、休日でも生活が規則正しくなりました。 甘えるようになったキキ(左)と逞しくなってきたトト  トトがいたずらするので(髪ゴムを食べる、服のひもをかむ、置物を棚から落とすなど)気を付けていますが、何でも引き出しの中にしまう癖がつき、家の中の見た目もシンプルできれいになりました。  猫との暮らしは「いいこと尽くし」です(笑)  そういえば、私の好きなTOTOの「Africa」には、<アフリカに降る雨をたたえよう。急げ青年、あそこでお前を待っている……>という歌詞があります。アフリカで私を待っていたのは、可愛い2匹の猫たちでした。  キキトトと楽しそうに暮らしている私を見て、日本の家族もうらやましがり、今ではすっかり2匹のファンになっています。猫に救われたという言葉をよく聞きますが、私の場合も同じです。おっかなびっくりしながら少しずつ成長していくキキと、甘えん坊のままだけどたくましくなってきたトトに救われて、今の元気な自分がいるのだと思います。  イタズラばっかりするトトだけれど、そんなトトのお陰で、キキと私の距離もグッと近づきました。  キキトト、いつも幸せな時間をありがとう! かわいい姿に癒やされる (水野マルコ)  【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
ねこ猫をたずねて
dot. 2022/08/13 14:00
片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた
西崎彩智 西崎彩智
片づけたら、物に囲まれた今までの生活と過去の自分に感謝してサヨナラできた
家族の思い出の品があふれ雑然とする空間/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.28 物を手放すと物への思いがなくなって心が軽くなる 夫+子ども2人/専業主婦  物が捨てられないと悩む人は、あまりその物自体に目が向いていません。「苦労して入手した」「記念にもらった」など、手に入れたときの気持ちや思い出に執着してしまい、手放せないのです。  誰でもそんな経験はあると思いますが、亜紀さんは人一倍その気持ちが強かったと話してくれました。  「今思えば、子どもの頃から物をため込む性格。シングルマザーで育ててくれた母から与えられた物はすべて母の努力の結晶に思えて、壊れても捨てられなかった。結果、大人になっても物に囲まれる生活になってしまいました」   もっとも、自分が物を手放せないことについて原因を考えたことはありませんでした。気づいたきっかけは、家庭力アッププロジェクト®に参加したこと。  現在、娘2人と夫の4人暮らしの亜紀さんは、夫の海外赴任を含めて結婚してから7回の引っ越しを経験。物を片づけるよりも移動した方が時間も手間も省けると、新居にはすべての荷物を運んでいました。   ヨーロッパで住んでいた家は広かったので問題なかった物の量も、日本の住居事情ではそうはいきません。押し入れなどの収納場所はもとより、部屋のあちこちに段ボール箱が積まれたまま生活していました。  次女が習っているヴァイオリンを弾こうと思っても、そのスペースを作るために一苦労。子どもたちは物が散乱している家に慣れてしまい、「こんなに散らかっていたら友だちは呼べないね」と残念そうに言ったこともあります。  新調したソファでゆっくりできる家族の憩いの場に/アフター  夫は仕事が忙しく、家のことに口出ししないタイプ。家族みんなであきらめていたし、私がいつも家事に追われてピリピリしていたので、文句を言わせない雰囲気を作っていましたね」  亜紀さんは当時を振り返り、そう話してくれました。専業主婦とはいえ、家事に育児に忙しい毎日です。娘たちの習い事の送迎は週5日あり、お昼休みも取りにくい夫のために毎日お弁当作り。その上、常に探し物をしたり、家事を始める前に物をどかす作業が入ったりと、ムダな動きが多い生活でした。よけいな時間が取られるばかりで、リビングのソファに座る暇もありません。  そんな中、美大を目指す長女の新たなチャレンジを機に、自分も家を片づけようとプロジェクトに参加しました。  「私は片づけについて、『4人家族の物の量はこれくらい』という物理的な基準やノウハウを学ぶつもりでした。でも、『どんな自分になりたいの?』『その自分になれない理由は?』と、一見片づけには関係ないことを掘り下げていくことに驚きました」  プロジェクト参加中に、物に執着する理由がわかった亜紀さん。理由がわかっても、物を手放すことはとても大変でした。  特に海外赴任先から持って帰ってきたものは、慣れない土地で苦労して生きてきた証のように感じられて、使い古した日用品も捨てられません。一度手放すと、日本では手に入れることが難しいことも亜紀さんの心にブレーキをかけてしまいます。  「段ボール箱の中身を全部出して広げることを繰り返して、改めて物の量に唖然としました。一つ一つに思い出があるので、選別して一度捨てても、やっぱり考え直してゴミ袋から取り出してみたり……」   物への思いが強い亜紀さんにとって、物と向き合うことは過去の自分と向き合うこと。とてもパワーが必要でした。物を捨てたり手放したりする作業に疲れ果て、大量の物に囲まれながら「なんでこんな自分を自分で作ってしまったんだろう」と泣いた夜も一度ではありません。 大型の家具や収納に占拠されていた子ども部屋/ビフォー  それでも実際に手放してみると、残しておけばよかったと後悔する物はそれほどありませんでした。物を通して自分と向き合い、対話をしながら「いる・いらない」の選別を繰り返すことによって、決断力と判断力が上がってきます。さらに、物に占領されていたスペースが空くと、そこでいろいろなことができる可能性があると気づきました。物を手放すという作業が、ネガティブなものからポジティブに変わった瞬間です。  「これがなくなると、新しい未来が作れるんだと思うようになりましたね。そう思うと、無心で物を手放せるようになりました」  どんどん物を捨てるようになった妻の様子に、夫は驚きを隠せません。でも、家の中がスッキリしていくことは気持ちよく、片づけに協力してくれました。ゴミ出し担当の夫は「今日は3往復もしちゃったよ」と笑い、もともと仲のよい家族のコミュニケーションはさらに増えました。   家の中が片づいたら、夫の帰宅時間が早くなり、次女はいつでもすぐにヴァイオリンの練習ができるようになりました。きれいに整頓されたキッチンで料理の腕をふるい、月に1回ほど帰ってくる長女と4人で明るい食卓を囲みます。夫と娘たちは「ママのレストランみたいなおいしい料理が1番だから、外食なんてしなくていいよ」と言ってくれるそうです。 「使いたいアイテムがすぐに取り出せるようになり、もともと好きな料理がさらに楽しくなりました。娘が手伝いたいと言ってくれたときも、今まではスペースを作る手間がありましたがそれもなし。『私も料理を覚えられる!』と喜んでくれます」 ピアノを入れてすぐにヴァイオリンを弾けるスペースができました/アフター  片づけを通して、自分を知り、自分の未来を見て、自分の可能性を信じられるようになった亜紀さんは、これからも自分の未来のために挑戦し続けます。 「今までは小説とか美術とか、想像の世界に入り込むような本ばかり読んでいました。でも最近では、自分と向き合って分析するような本を読んで勉強しています。今の自分が何をすることに喜びを感じて、今から何をしていこうか、いろいろと考えるのが楽しくなってきています」  物への執着から解放された亜紀さんの目線は、過去から未来へと変わりました。自信を持って突き進む先には、きっとワクワクすることが待っていることでしょう。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。 ※AERAオンライン限定記事
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AERA 2022/08/08 07:00
NON STYLE石田明「僕は井上の説明書。もう必要なくなった」 週休2日を叶えたパパの仕事術
NON STYLE石田明「僕は井上の説明書。もう必要なくなった」 週休2日を叶えたパパの仕事術
「子どもが寝た後に奥さんとしゃべるのが僕の充電」と語った石田さん(撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃)  新型コロナウイルスは働き方や家族関係を大きく変えた。元M-1グランプリ王者で、人気お笑いコンビのNON STYLE・石田明さん(42)が所属事務所の吉本興業に異例の「週休2日」を宣言したのもコロナ禍の“余白”がきっかけだった。3人の娘の父として、夫として「代わりはほかにいない」という現実と、仕事をどう両立するのか。コンビ間でも舞台でも、家族や親子にも共通する石田さん流のコミュニケーションとは。 *    *  * ――4歳(双子)と2歳の子育て中です。どう感じていますか。 仕事をしていない時は子ども達と全力で遊んで、毎日、生きてるなーという気がします。それぞれしゃべりたい時期なので、3人おると互いに「そんなことしちゃダメでしょ」「そんな言い方しちゃ嫌な気するよ」と注意しあっていて、面白いですね。朝、幼稚園への見送りもなるべく行きたくて、仕事の入り時間を少し遅くしてもらっていたら、今はマネージャーさんが先に調整してくれるようになりました。 ――家事もされますか? 特に夫婦で分担はしてないので、空いてる方がやります。奥さんが子どもを送る日は、僕が家の掃除をしたり。参加する意識が周りより高いのは、双子なのがでかいと思います。おむつ替えにしても、同時にやると絶対1人は回ってくるし、常に手が足りないので。 ――男性芸人さんは仕事以外の時間も先輩・後輩と飲み会やゴルフ、旅行して……と家を空けているイメージがあります。  僕も行きますよ。ただ、奥さんもお酒が好きなので、僕が「飲みに行っていい?」って言う前に奥さんに「飲んでおいでね」って言われることが多いです。特に舞台はコミュニケーションが必要なので、稽古に入ると「うちは気にせんでええから」「(ギャラより飲んで)どうぞ破産してきてください」って言ってくれる。 ――かっこいい! 男前なんですよ。結局「飲みに行きたい」「息抜きしたい」と互いに求めてばかりだと、時間を奪いあうことになる。でも相手に何をやってあげられるか考えていたら、同じことが起きてるのに、お互いが気分のいい状態になる。そういう関係を作れているのかなと思います。 夜、子どもたちが寝た後に奥さんと3~4時間しゃべるのが僕の充電ですね。1日の様子はLINEとか奥さんのブログでわかるんで、「今日は楽しそうやったね」「大変そうやったね」と子どものことを中心に、たわいもないことを。 コンビ間でもそうなんですが、無理にでも話す時間を作らないとギクシャクしたりするし、普段から意見を交換していないと、調整が必要なときに「何よ、こんな時だけ!」って受け入れられなくなるじゃないですか。 (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃) ――我が家がまさにそのパターンです(笑)。 奥さんの表情からピリピリしてるなと感じたら「完璧にこなす必要ないから何か止めよう」と話します。これは僕がどれだけ自由な時間をあげられるかにもよるんですが、「髪の毛切りに行っておいでよ」と言えて、その間にちゃんと家のことをして、子ども達も楽しませることもできていたら、奥さんもいい顔して帰ってきます。やりすぎると罪悪感が生まれて良くないし、いいタイミングがめちゃくちゃ難しいんですけどね。 ――コロナ禍で週休2日宣言された意図は? 第1波のときに、舞台が中止になってスケジュールが3カ月空いたんです。人生で初めてめちゃくちゃ休ませてもらった。家族と近くの公園で遊んで、「家を遊園地みたいにしよう」とかいろいろ企画したりして過ごし、何のために働いてるんやろ?と立ち返ったんです。稼いだとて、世に認められたとて、何が幸せなんやろ?と。そしたら、僕にとっては好きな人たちと楽しい時間を過ごすことだった。それから吉本には「週2で休みくれ」とお願いして、なるべくそうなるように調整してもらっています。 ――「休みたい」と言うと、やる気がないと思われそうでハードルが高くないですか? 休みを取って怠けていたら総スカンだと思うので、その分、仕事はめちゃくちゃ攻めているつもりです。僕らの芸歴で多いと年に40本も新ネタ書いて、企画を考えて、ムチ打ってる人はいないと思う。出役(でやく)として休みを取っているだけで、頭を使う仕事はいつでもどこでもできますから。家族が寝た後でも、移動中でも。 それに、自分のスケジュールに余白を作ったからこそ、デカい仕事をやれているとも思う。会社の会議に入って、イベントやフェスの運営をして、基本的に芸人はやりたがらないNSC(吉本総合芸能学院)の講師もやっています。お笑いは教えるもんじゃないし、教わるもんじゃないとみんな知っている。でもやるからにはちゃんと授業を作る。生徒に話す、そしたら自分に全部返ってきて、どんどん伝えたくなる。 仕事は踏み出してなんぼやと思うんですね。責任を担えば担うほど、失敗したときの「なにくそ」感と成功した高揚感は莫大です。今年、僕が脚本・演出したセリフなしの演劇「結-MUSUBI-」が興行としては大赤字だったんですが、携わったタレントも吉本の社員も「やってよかった。続けましょう」と言ってくれて、赤字=失敗じゃないと気づけたのも、踏み込んだからやと思う。 昔は嫌な仕事もやらないといけないから疲弊しきっていましたが、嫌な仕事から逃れて、嫌な仕事の中に楽しさを見つけるようになってから、面白くなっている。今は楽しめているので、まったく疲れないです。 (撮影/写真映像部・戸嶋日菜乃) ――もちろん実力あってこそだと思いますが、自分から嫌な仕事を断るようになったのはいつごろからですか。 結婚後に親の借金を返し終えた時と、その後、子どもが生まれたときかな。お金に興味がなくなって、この仕事に家族との時間を奪われるのか!という気持ちになりました。 家には赤ちゃんが2人いて、父親の代わりはいないから、テレビの仕事のオファーが来ても「これ、俺じゃないとダメ?」と思う。僕は中学まで家にテレビが無かったので、見る習慣がないし、そもそもTVスターになりたいわけじゃない。収録中も常に「向いてないな」と思っているんですよね。その感覚がより強まり、ゲストで人数合わせのような仕事は断ることも多い。「これ井上だけでいけるんじゃないですか」が口癖になっていて、最近はマネージャーさんが先回りして井上だけにしてくれていますね(笑)。 テレビでよくあるのは、井上のいじり方を僕がやって見せる、ウケる、アイドルたちが適当にいじる、ウケるというパターン。俺はただの説明書です。あいつはもう説明書いらずなので、僕は今あるレギュラー番組と漫才番組ぐらいでいいのかなと思っていますね。 ――忘れられる恐怖は?  ないですね。テレビに重心を置いてしまうと、怖いという感覚になると思うんですけど。もちろん表面的なファンは減りますよ! でも興味を失わせへんように自分を更新し続けていたら大丈夫と僕は思うので、定期的に舞台に出て、新ネタを作り続けて、常に新しい表現を見せて攻め続ける。 井上の長期休業のときも、テレビを諦めて劇場で食っていけばいいと、全く焦らなかったんですよ。まさかここまで復活するとは思っていなかったんですが(笑)、それは本当に井上のタレント力やと思います。井上はNON STYLEという会社の社長兼広報。僕は常にヘルメットをかぶった現場監督か職人ですかね。 ――仕事面とプライベートでの今後の目標は。 プライベートは、より自然に街にとけこめるような家族になれれば。うちの子たちは近所の喫茶店でよく会うおじいちゃんの膝の上にポンと座ったり、お巡りさんを見る度に「こんにちはー!」「ありがとう」と挨拶したり、すごくいいんです。夫婦としては、お酒好きの奥さんと「いつか朝から飲みたいね」と話しています。仕事は漫才をつくり続けながら、今、裏方としてかかわっている仕事を一つ一つ成功させることですね。有名になるより、会社の力に、NON STYLEの力になりたいです。 ■石田明(いしだ・あきら)/1980年、大阪府生まれ。2000年に井上裕介とお笑いコンビ「NON STYLE」を結成。07年『爆笑オンエアバトル』9代目チャンピオン、08年『M-1グランプリ』王者に輝き、10年『S-1バトル』初代グランドチャンピオンを獲得。12年に一般女性と結婚し、現在は3児の父。読売テレビ「大阪ほんわかテレビ」、関西テレビ「おかべろ」、TBS「ラヴィット」などのレギュラー番組に出演中。子どもたちとの日常をつづるブログも人気 (聞き手・構成/AERA dot.編集部・金城珠代)
ノンスタイル仕事働き方
dot. 2022/08/02 11:30
京本大我にとって音楽とは 「悩んでいるからこそ生まれるメッセージを大切にしたい」
京本大我にとって音楽とは 「悩んでいるからこそ生まれるメッセージを大切にしたい」
 8月に開幕するオリジナルミュージカル「流星の音色」で主演と音楽を担当する京本大我さん。作品の曲作りを始めたのは、1年ほども前。舞台に映画に活躍するなかで、心がけていることがあるという。AERA 2022年8月1日号から。 *  *  * ――オリジナルミュージカル「流星の音色」で主演兼音楽に挑戦する。あまり例のない形での二足の草鞋(わらじ)は、演出を務める滝沢秀明からの提案がきっかけだった。 京本大我(以下、京本):滝沢くんが表舞台にいた時代から、僕が作った曲を聴いてもらって、アドバイスをいただくことがありました。今回、「劇中の音楽を作ったら?」と提案してくださったんですが、僕が作曲に夢を抱いていることを覚えてくれていたことも、作品の色を決めるテーマ曲という大きな責任を与えてくださったことも、すごくうれしかったです。 ――9年ほど前、作詞作曲を始めた。当時は舞台の音楽を担当するとは思ってもみなかった。 京本:お芝居も演出もという二刀流への夢はありましたが、お芝居と舞台の音楽を同時にやる、という発想はありませんでした。劇中歌はソロ曲の作詞作曲とは違って、言いたいことを書けばいいわけではなく、舞台のストーリーを汲んで作る必要がある。滝沢くんに提案してもらった瞬間、興味がすごく湧いて、「やらせてください」と言いました。 ――開幕の約1年前から準備を始めてきた。 京本:思ったより早く、テーマ曲のメロディーラインやアレンジはできあがりました。ただ、台本がある程度完成してからでないと作詞はできないので、ひとまず「ラララ」で歌入れしておいたんです。 ■ブーストがかかった 京本:テーマ曲をモチーフにしたリアレンジものも含めて全7曲に歌詞を付けたんです。曲を生み出すことと、演じる仕事との両立は、まったく違う引き出しを使うので苦労しました。締め切りがあるとこれほど追われる気持ちになるのかという厳しさも感じました。  リアレンジする楽曲では、メインテーマに似たメロディーラインにさまざまな歌詞をつけていくのは、難しかったです。テーマ曲の詞が頭にしみついているから元の歌詞が出てきてしまいますし、本番で歌う際にもからまってしまいそうだと思いました。そうしたことも含めて、すべてが自分の手にかかっているので、自分で挑戦するおもしろさも感じました。音楽担当として名前が出るからには、「音楽もすてきだった」と言っていただきたいから、必死に頑張りました。 ――これまで、「役を演じるのは自分の要素をゼロにすることだが、音楽は100%自分を出すこと」と位置づけてきた。今回求められたのは、役になりきったうえで、音楽を作ることだ。 京本:自分の感情ではなく、僕が演じるリーパという人物の言葉を書くとは、どういう感じなのか、書き出してみるまではまったく想像がつきませんでした。けれども、リーパの心情が自分の中で定まるとブーストがかかったように言葉がすらすら出てくる瞬間があったんです。自分ではないからこそ、「ここでかっこよく言いたい」や「キャッチーなフレーズを使いたい」といった発想を超えて、勢いよく書けたところがありました。「リーパはきっとここで『好きだ』と言いたいんだろうな」と思ったら、そのまま「好きだ」を書けばいい。リーパを俯瞰(ふかん)して、「この言葉が相応(ふさわ)しい」という判断ができました。 ■悩みを共有したい 京本:僕が「詞を書きたい」と思う時は、気持ちがまとまらなかったり、吐き出しようのないものを抱えた時だということも改めて意識しました。自問自答を歌詞にしているというか、だからメモにはネガティブなことが書かれてることも多いんです。  きれいな言葉で感情の出口を作ることも時には大切ですが、悩みや苦しみを共有したいという気持ちで曲作りをしてもいいんだと思っています。その曲を誰かが聞いて、「気持ちがわかる」と感じて、その人が救われることもきっとある。  例えば、2017年にコンサートで歌った「SUNRISE」という曲は映像化もされてないんですが、いまだに「また歌ってほしい」という声をいただくんです。いつかしっかりとした作品として仕上げられたらいいなと思っています。悩んでいるからこそ、生まれるメッセージを大切にしていきたいです。 ――アイドルとして俳優として音楽家として活動の幅を広げるなか、8月11日公開の「TANGタング」で本格的に単独での映画出演を果たした。主演は事務所の先輩・二宮和也だ。 京本:ドラマ「流星の絆」もそうですが、二宮くんの作品はこれまで視聴者側にいて、まさか対面でお芝居をさせていただく日がくるとは思いませんでした。緊張もしましたが、僕がやりやすい空気を作ってくださり、とても助かりました。フラットですてきな方だと改めて感激しました。映画は日常的に観ますし大好きなので、「TANG タング」はこの世界にもっと飛び込んでいきたいという意欲に火をつけてくれた作品になりました。 ■振り切って演じた ――作中で演じたのは、超ナルシストのロボットデザイナー・林原だ。強烈な個性は作品にスパイスを与えた。 京本:三木孝浩監督との顔合わせの時に、「大げさにナルシストをやってもらいたい」と言われ、「林原ならではのポージングを考えてほしい」という宿題をいただきました。悩んだのが、現実にはそういないキャラクターを、二宮くんや満島ひかりさんといったリアリティーある演技をされる方々と同じ場面にいても、違和感ないように演じるさじ加減です。“大げさ”と“嘘っぽい”は紙一重でしょう。林原はコメディー担当でもあるのかなと考え、くすっと楽しんでもらえたらという気持ちで、最終的にはかなり振り切って演じました。 ――多忙な日々が続く。癒やしは、愛犬と過ごす時間だ。 京本:息抜きのためにゲームをしても僕にとってはその場しのぎにしか感じられなくて。本当に追い込まれている時は特に、愛犬と過ごす時間が一番リフレッシュできます。うちの犬は夜はあまり歩きたがらないので、抱っこをして家の周りをほんの1、2周歩くだけなんですが、それだけで癒やされます。 ――舞台はライフワークのひとつだ。だが、「何度立っても気持ちの大半を恐怖が占める」という。どう向き合っているのか。 京本:心が折れた瞬間に、クオリティーも体調も悪い方に流れていくと思います。だから、自分を信じることが何よりも大切だと思います。ある意味、自分をだましながら強気でいくことで何とか持たせられているところがあります。同時に、カンパニーの方々の優しさや大変さをキャッチできる余裕も持っていたい。 ■絶対にあきらめない 京本:ただ、いまも「自分を信じなくてはいけない」と言っているということは、まだ信じきれてない部分があるということだとも思うんです。もし、「声が裏返ってしまうかも」と不安に感じる場面があるとしても、瞬時に「僕は絶対できる」と強気に変換できれば、ある程度の問題は回避できるのかもしれません。  不安や課題はたくさんありますが、ではあきらめるかというと、それは絶対にない。絶対に僕は8月2日に「流星の音色」のステージに立つ。必ず、立つんです。ということは、いま何をするべきか。そう逆算して、一日一日時間を無駄にせずに役と向き合っていきたい。全力で向き合わないと学べるものも学べないで終わってしまうので、毎日、「今日は絶対にこれを獲得する」という目標を掲げて、ひとつひとつクリアして、本番はもちろん、千秋楽のその先まで、気持ちをつなげていきたいと思っています。 (ライター・小松香里) ※AERA 2022年8月1日号
AERA 2022/08/01 11:52
「旧統一教会」元信者が涙の告白 「70代女性に980万円で『多宝塔』を買わせた」
古田真梨子 古田真梨子
「旧統一教会」元信者が涙の告白 「70代女性に980万円で『多宝塔』を買わせた」
山上徹也容疑者は事件前日に旧統一教会関連施設に銃弾を撃ち込んだと供述し、現場で弾痕のようなものが見つかった/7月、奈良市  安倍晋三元首相銃撃事件を機に、旧統一教会が注目されている。かつての信者は「何十人もの人生を変えてしまった」と告白する。AERA 2022年8月1日号の記事から。 *  *  * 「今も、自分が『献身』(入信)させてしまった何十人もの人たちの顔を鮮明に覚えている。人生を変えてしまったという罪を抱えて生きなければならないと思い、自殺はできなかった」  宗教法人「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の脱会者の60代女性は、そう話すと涙をぬぐった。脱会後に「5~6年かかって元の自分に戻り」、大学院で心理学を学びながら脱会者やその家族のサポートを続けてきた。少しでも償いたいという思いからだ。  女性は大学卒業後、企業に就職。その年の秋、自宅近くの駅で「アンケートに協力してほしい」と声をかけてきたのが旧統一教会の信者だった。  幼い頃から常に両親がケンカしている家庭で育ち、心のよりどころがなかった。仕事も多忙で心身ともに疲弊していった。次第に「この道こそ唯一の道だ」と妄信するようになったという。  84年12月、仕事を辞めて、信者が共同生活する「ホーム」に引っ越した。ホームは廃業した旅館や使われなくなった社員寮などで自分の部屋はなく、夜は大部屋で他の信者約30人とともに雑魚寝。昼は信者の獲得や献金集めに奔走した。当時70代の女性に、貯蓄1200万円から980万円を出させて「多宝塔」を買わせたこともあるという。 収入は月1万2千円  収入は教団から「お小遣い」として渡される月1万2千円だけ。しかも満額支給されず、月6千円しかなかったこともある。  女性らが集めた献金の多くは、旧統一教会の理想を実現するための「統一運動」に使われていた。具体的には、団体の建物や土地購入、教団の関連会社の運営費のほか、一部は国会議員や政治団体に流れたという。 ニューヨークで行われた旧統一教会の国際合同結婚式/1982年  この行為は違法ではないのか。憲法20条と89条には「政教分離」の原則が記されている。上越教育大学大学院の塚田穂高准教授(宗教社会学)は、 「国が特定の宗教に結びつくことを禁じているものであり、宗教団体側から政治や選挙に関わることは、現状では憲法違反とは言えない。国の見解として1946年の国会答弁以来、現在まで引き継がれている概念です」  と指摘。宗教者や宗教団体が自らの理想を基に国家や社会をより良くしようと政治的な活動を行うことは広くあり、それ自体は原則として制限されるべきではないという。塚田准教授は、 「ただし、旧統一教会の場合は、教団を追及や捜査から守ってもらうために政治に近づき続けた面も強い。また、その活動を支えたのは、霊感商法や高額献金などで収奪された資金でした。その社会問題性は顕著で、政治家が『よくあるつきあい』で済ませてよい相手ではなかった」  と、厳しく批判する。(編集部・古田真梨子)※AERA 2022年8月1日号より抜粋
銃撃事件
AERA 2022/07/27 11:00
ウタ(Ado)×折坂悠太、『ONE PIECE FILM RED』の劇中歌「世界のつづき」ティザーMV解禁
ウタ(Ado)×折坂悠太、『ONE PIECE FILM RED』の劇中歌「世界のつづき」ティザーMV解禁
ウタ(Ado)×折坂悠太、『ONE PIECE FILM RED』の劇中歌「世界のつづき」ティザーMV解禁  ウタ(Ado)×折坂悠太による『ONE PIECE FILM RED』の劇中歌「世界のつづき」のティザーMVが解禁された。  本作のメインキャラクターであるウタは劇中で様々な楽曲を歌唱しており、ウタの歌唱を担当するのはAdo。そんなウタが歌う楽曲を提供するのは、中田ヤスタカ、Mrs. GREEN APPLE、Vaundy、FAKE TYPE.、澤野弘之、折坂悠太、秦 基博という総勢7組の豪華アーティストたち。各楽曲のMVをそれぞれ別のアニメーターやイラストレーターが手掛けるウタMV企画も進行中だ。  第5弾として今回解禁されたのは、折坂悠太が楽曲提供した劇中歌「世界のつづき」のティザーMV。本楽曲は暖かさの中に少し寂しさを感じさせるような雰囲気を持つ、ウタのバラードソングとなっている。  MVを制作したのは、ずっと真夜中でいいのに。『Dear Mr「F」』MVの制作をはじめ、絵本、ゲーム制作など、幅広いジャンルの作品を手掛けるイラストレーター・すとレ。「世界のつづき」フルMVは、8月10日20時にYouTube【Adoチャンネル】にて公開。楽曲に紐づくショートエピソード【ウタ日記#5】もONE PIECE公式Youtubeにて配信される。 ◎折坂悠太 コメント アニメ作品のお仕事は初めてだったのですが、『ONE PIECE』という子供のころから慣れ親しんできた作品と自分の表現が交わることができて非常に嬉しかったです。自身の持ち味を出しながら、自分が作る意味や曲が流れるタイミングでウタが何を伝えたいのかを考えて「世界のつづき」という曲を制作しました。聞きなじみのあるメロディーから始まるバラードなのですが、曲調に変化をつけることで現代っぽさやウタの心情を表現するよう意識しました。楽曲によって多彩な歌声を魅せることのできるAdoさんの素敵な歌声と相乗効果を生みだし、素晴らしい楽曲に仕上がったと思います。 『ONE PIECE FILM RED』は『ONE PIECE』の世界にだけでなく、今の私たちに向けられているものや明日を生きるヒントが沢山ある作品だと思います。ぜひ劇場でご覧ください! ◎映像情報 YouTube「【ウタ】『世界のつづき』ティザームービー /『The World's Continuation』teaser clip【UTA】」 https://youtu.be/vMLUYXlwPww (C)尾田栄一郎/2022「ワンピース」製作委員会 配給:東映 
billboardnews 2022/07/27 00:00
杉野遥亮「あのときの記憶がない」ほどがむしゃらに演じた作品とは
杉野遥亮「あのときの記憶がない」ほどがむしゃらに演じた作品とは
杉野 遥亮(すぎの・ようすけ)/1995年、千葉県生まれ。2015年、大学在学中にFINEBOYS専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界デビュー。俳優として、ドラマ「恋です!~ヤンキー君と白杖ガール~」(21年)、「妻、小学生になる。」(22年)など出演多数。若きCEOを支えるビジネスパートナー役で出演しているドラマ「ユニコーンに乗って」(TBS系、火曜22時~)が放送中。23年NHK大河ドラマ「どうする家康」に出演予定。撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  ドラマや映画へ途切れることなく出演し、人気俳優への階段を駆け上がった杉野遥亮さん。2015年、大学在学中にモデルデビューし、その後は話題作に次々と登場した。7月からは、ドラマ「ユニコーンに乗って」に出演中と、オファーが絶えない役者の一人だ。杉野さんが、いま思う「演じること」とは。 *  *  *  1995年、千葉県生まれ。185センチの長身で、学生時代はバスケットボールに打ち込んだ。2015年、大学在学中に「FINEBOYS」専属モデルオーディションでグランプリを獲得し、芸能界デビュー。以降、映画、ドラマと話題の作品に出続けている。今年に入ってからもすでにドラマ「妻、小学生になる。」に出演し、映画「やがて海へと届く」が公開された。現在はドラマ「ユニコーンに乗って」(TBS系、火曜22時~)が放送中だ。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  役者として多忙を極める杉野さんだが、俳優としての意識が大きく変わったのは、21年6~7月に出演した舞台「夜への長い旅路」だという。“アメリカ近代劇の父”としても知られる劇作家ユージン・オニールの遺作で、モルヒネ中毒の母、お金に異常な執着を見せる父、アルコールに溺れる長男を家族にもつ次男・エドマンド役を演じた。  舞台はこのときが初めてで、お客さんを目の前にして演じるっていうのが、カメラの前とは全然違いました。自分のとらえ方だったり、自分の身をどこに置くかだったり、意識の仕方だったり……。初めての舞台で、怖さはむちゃくちゃありました。でももう、途中から怖いと感じている余裕もなかったですね。「早く30公演が終わらないかな」ってそればっかり考えていました。追い詰められる感じ? そうです。もう、自分がどこにいるのかわからない!みたいな(笑)。  せりふを覚えるのも大変でした。あのときの記憶はあんまりなくて、どうやって過ごしていたんだろう……。というのも、実はあのとき、舞台と、「僕の姉ちゃん」というドラマと、「やがて海へと届く」という映画の撮影をいっぺんにやっていたんです。半年間ギュギュッといろいろな作品をやって、当時は夢中で、というか単純に追いついていなくて、詳しいことは思い出せないけれど、振り返ったときに、「ああ、頑張ったな」って思えるものになっていました。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor)  21年は、舞台以外に10もの作品が公開・放送された。さまざまな役をこなす杉野さんだが、舞台をきっかけに、「演じ方」に変化が生まれたという。  年を追うごとに俳優としてのスタンスみたいなものが変化しているんです。自分がそう気づけたのは、舞台が終わってからです。舞台後は少しゆっくりと作品に取り組めたので、芝居の向き合い方を模索するようになりました。  例えば、台本のせりふに寄り添って演じるっていうやり方もあるし、自分のなかにその役の核みたいなものを作って、自分なりに言葉を紡いでせりふに入れていく作業をするときもある。一概にどれがいい、というのは言えないですが、ただ、その役に何か強烈なバックボーンがあると、演じやすいと感じます。その人の痛みとか心の傷が一つあると、気持ちを入れる作業がしやすい。  あと、役柄と自分自身とが、かけ離れていて、その人を想像しながら役に入っていくほうが、プライベートとの切り替えがしやすいです。今回のドラマ「ユニコーンに乗って」の須崎功は、両面あります。仕自分の心に素直で、何事も一生懸命なところは自分と似ていると思います。 「ユニコーンに乗って」第4話のワンシーン(C)TBS/撮影:加藤春日  須崎は、誰かの夢を応援するために人生を懸けることのできる役どころだ。  僕もそういうことができるか? 自分が信頼している人、好きだなと思う人にはできると思います。そこは須崎に共感できます。須崎は毎日懸命に生きて、親友の夢をサポートする。作品を見てくださる皆さんが、夢を追う姿に自分自身を重ねたりして、このドラマが何かに挑戦するエールになったらいいなと思っています。  ところで、役の演じ方だけでなく、現場に入るスタイルにも最近変化があったとか――。  今までは、すぐに着替えてしまうからと、撮影現場にはサンダルに、どこかの現場でもらったTシャツみたいな格好で行っていましたが、今はおしゃれをするようにしています。理由? 単にそっちのほうがかっこいいからです(笑)。 撮影/ハービー・山口、ヘアメイク/HORI(BE NATURAL)、スタイリング/伊藤省吾(sitor) 衣装協力 ジャケット¥42,900・パンツ¥53,900/ともにダイリク、シャツ¥27,500/セブン バイ セブン(サカス ピーアール)  今日の私服は、白いTシャツにベスト、それにジーパン。靴はローファーかな。想像できますか? 現場に必ず持っていくのは台本くらい。だいぶ身軽です。あとスマホとペンと財布。だいたいそのくらいです。  あとは、実際そんなにやれてないですが、自分で料理することを心がけるようになりました。自分で何か作ったりして体に火をともしたほうが、自分が元気になる。でもそれをやる体力がなかったりするんですが……。  休みの日は、だいたい家で休んでいます。「ワンピース」のアニメを見たりとか。外はあんまり出ないです。家は、家具などこだわりのものを置いて落ち着く空間をつくれたらなって思っているけれど、最近全然ものを買っていなくて。買う時間や、そこに意識をはせる時間がない、という感じです。  今後は、ドラマ「僕の姉ちゃん」(テレビ東京系)が7月27日深夜 1 時~放送予定で、8月19日には映画「バイオレンスアクション」の公開も控える。さらに、23年にはNHKの「どうする家康」で大河ドラマに初出演する。今後やってみたい仕事はあるのだろうか。  今後やってみたい仕事というのは、特に考えていません。自分がこうなりたいとかって今はあんまりないんです。行く先に何かがあるというスタンスでいます。でももし今後、何か自分でつかみ取りたいと思うことがあったら、迷わず行くと思いますね。 〇ドラマ「ユニコーンに乗って」/成川佐奈(永野芽郁)は23歳で教育系アプリを手掛けるスタートアップ企業「ドリームポニー」を、親友の須崎功(杉野遥亮)らと起業。設立から3年を迎え、売り上げが行き詰まるなか、中年おじさん・小鳥智志(西島秀俊)が入社し、会社の環境が大きく変わっていく。仕事と恋に葛藤する大人の青春ドラマ。火曜22時~、TBS系で放送中。 【杉野遥亮さんのチェキ、サイン色紙が当たる!プレゼント企画実施中です】詳細はこちら (構成/AERA dot.編集部・平井啓子)
ユニコーンに乗って杉野遥亮
dot. 2022/07/26 21:30
夏休み、子どもとどう過ごす? お金が必要なアメリカ、時間が必要な日本
大井美紗子 大井美紗子
夏休み、子どもとどう過ごす? お金が必要なアメリカ、時間が必要な日本
アメリカにも、屋外プールや野外映画など無料で楽しめるアクティビティはあるのですが……(画像/筆者提供) 「もうすぐ夏休みね。あなたのところはどう過ごす予定?」  アメリカの夏休みは、早いところで5月下旬から始まります。それから8月頭まで、あるいは9月頭まで、たっぷり2カ月半から3カ月もの長い休暇です。子持ち家庭の間では、5月に入る頃には決まってこんな質問が飛び交います。「夏休みはどうする予定?」。わがやは最近までアメリカのアラバマ州に住んでいたのですが、休み前にこの質問をされるのが憂鬱でなりませんでした。なぜなら、休みの予定がなかったからです。  アメリカの夏休みは長い。対して宿題は少ない。よって子どもたちはサマーキャンプへ出かけ、親から離れて羽根を伸ばす――。アメリカの夏休みは、このように語られることが多いのではないでしょうか。確かに間違いではありません。アメリカには長期から短期、内容もアクティブ系からアート系、お勉強系まで、実にさまざまなサマーキャンプが存在します。牧場で牛の乳搾り体験とか、湖畔のキャビンに泊まってカヌーの練習とか、NASA のスペースセンターで宇宙飛行体験とか、もう聞いているだけでわくわく心躍り、わが子の将来がぐんぐん開けていく気がしてくる。全てのサマーキャンプに子どもを参加させたくなります。お財布さえ、許せば。  サマーキャンプは、お金がかかります。具体的には、先に上げた牧場体験のキャンプが4泊5日で250ドル(約3万5千円)、湖畔のキャンプが5泊6日で625ドル(約8万6千円)、NASAのキャンプは5泊6日で1499ドル(約20万円)也。アメリカの中でも物価が低いアラバマ州でこうだったので、いわんやニューヨーク、ベイエリアにおいてをや。わがやは結局、どこにも参加させられませんでした。  サマーキャンプの代わりに、夏季限定で催されるファーマーズマーケットや野外映画、屋外プールの情報をせっせと検索し、子どもを連れていきました。猛暑日は涼しい公立図書館で本を読み、美術館や博物館の入場料が無料になる日にはここぞとばかりに足を運びました。アメリカにだって、お金をかけずに夏を楽しむ方法はある。でも、ママ友だちにサマーキャンプに誘われても(うちはそんなお金出せないや)と断らなければいけない悲しさ、手の届かない多種多様な教育プログラムを横目に(こうして幼少期から差が開いていくんだな)と親の経済力と子の学力の相関関係を、身をもって感じる虚しさ、子どもへのそこはかとない罪悪感は、どうすることもできませんでした。  そんなアメリカから居を移し、今年の夏は日本で過ごします。日本に来て驚きました。なんてたくさんの、楽しく学びにもなるような催し物が、信じられないくらいの安価で提供されているのだろう! 特に今年は、コロナ禍になって以来3年ぶりに開催されるお祭りやイベントが多いですよね。大学のキャンパスでは自由研究相談会、植物園では草花の観察会、子ども向けのコンサートや演劇、展覧会もいつも以上にあって、目移りしてしまう。全ての催し物に親子で参加したくなります。時間さえ、許せば。  夏休みだからか、イベントは土日だけでなく平日の昼間にも開催されます。私はカレンダーなど関係ないフリーランスだからいいものの、会社員の夫は一緒に行けません。そこで土日開催のイベントを選ぶも、平日くたくたになるまで働いた夫はわざわざ人混みに行くのを好まない。というか週末は夫婦でたまった家事をしなきゃいけないし翌週に向けて買い出しや作り置きもしたいし……と、ただでさえくたくたの夫婦の足はどんどん催し物から遠退きます。イベントは親子で参加するものが大半で、特に子どもが小さいうちは必ず親が連れて行かなければいけません。  親がちょっと頑張れば子どもを連れていける、そんな楽しみと学びの機会が目と鼻の先でぽこぽこ生まれているのに、連れていけないやるせなさ。わがやでさえこうなのだから、共働き家庭のジリジリもやもやはいかばかりかと切なくなってしまいます。夏休み中、学童や保育園に毎日通う子も多いのではないでしょうか。  わがやの長女は、町内会主催の日帰りキャンプに参加することにしました。朝9時から夜7時まで子どもだけで過ごし、お昼ごはんも付いて参加費200円。アメリカのお高いサマーキャンプにやられた後遺症がある私は、桁がひとつかふたつ違うんじゃ? それともなにかの罠? といぶかしみながらも娘の意思を確認し、即申込みの電話をかけました。電話口で聞くと、確かに参加費は200円だそう。ただし、参加する子と保護者は事前に開かれる講習会に出席するべしとのことでした。講習会があるのは、平日の夜。私は喜んで行くつもりですが、仕事で行けないおうち、平日夜の時間が惜しいおうちもあるだろうなと思います。お金さえ出せば何でもできるアメリカと、時間さえ費やせばどうにかなる日本。果たして、どちらがいいのでしょう。 〇大井美紗子(おおい・みさこ)/ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定
AERA 2022/07/26 07:00
都心で優雅にアフタヌーンティー 肩ひじ張らずに楽しめる「ヌン活」でセレブ気分
中村千晶 中村千晶
都心で優雅にアフタヌーンティー 肩ひじ張らずに楽しめる「ヌン活」でセレブ気分
【ホテル椿山荘東京/ル・ジャルダン】(photo 写真映像部・高野楓菜)  午後のひとときを紅茶とともに。手の込んだ軽食やスイーツを味わえば、心も贅沢に。辛党の記者が初体験。AERA 2022年7月18-25日合併号より紹介する。 *  *  *   まずはアフタヌーンティーの先駆け、ホテル椿山荘東京へ。  優雅なひとときを過ごせるのはロビーラウンジの「ル・ジャルダン」。初夏にはホタルが飛び交う広大な庭が見渡せる贅沢(ぜいたく)な空間だ。1952年にガーデンレストランとして開業。92年に敷地内に「フォーシーズンズホテル椿山荘 東京(現ホテル椿山荘東京)」がオープンしたのをきっかけに、アフタヌーンティーを始めた。マーケティング部門の中野佑美さん(27)によると、もともと安定した人気があったが、「ヌン活」熱を実感したのはコロナ禍だという。 「外出や外食を自粛する空気のなかで『ホテルだったら安心』と感じる方が多かったようです。スタンドで提供し、完全予約制で密を避けられる、という利点もあったのだと思います」  こんもりした緑の森を眺めながら、エリザベス英女王在位70年を記念した「プラチナ・ジュビリー アフタヌーンティー」をいただく。3段のプレートが重なったスタンドに、下段がサンドイッチなどのセイボリー(塩味の食べ物)、中段にスコーン、上段にスイーツがのっている。ピンクのプチケーキは女王の帽子そのままで可愛らしい。 【ホテル椿山荘東京/ル・ジャルダン】四季折々の風景にあわせて変化するメニューがリピーターを魅了する。「プラチナ・ジュビリー アフタヌーンティー」はウェブ予約で税込み5450円。月末まで満席だが、キャンセルがあれば予約できる (photo 写真映像部・高野楓菜) ■繊細な細工もお見事  花束をイメージした「スモークサーモンのムース」は、ディルとケッパーの風味が利いている。繊細な細工と味わいはさすがホテルメイド。2時間制で、約20種類の紅茶とコーヒーのおかわりは自由だ。  メニューは1カ月半~2カ月で替わる。「プラチナ・ジュビリー」は7月末までで、8月からは夏向けの「ピーチ アフタヌーンティー」がスタート。秋はマロン、春はストロベリーなど四季を感じさせるテーマを掲げ、内容は毎年変わるという。予約は新メニューが登場する約2カ月前から受け付けている。 「アフタヌーンティーを取材するなら、ここははずせません」と、その道に詳しい知人に薦められたのが、東京・目黒の「スリーティアーズ」。築85年の洋館で正統派英国式のアフタヌーンティーが楽しめるという。 【スリーティアーズ】(photo 写真映像部・高野楓菜)  オーナーの新宅久起さんは、英国大使館の広報誌や英国専門誌の編集を30年務め、現地のアフタヌーンティーやティールームを100以上も訪ねた。  そんな本場を知り尽くした新宅さんが2019年にオープンした店には、こだわりが詰まっている。「正統派」のムードにやや緊張しつつ店を訪ねると、ニッコリと出迎えてくれた。 「うちに初めていらっしゃるお客さんは、みなさん『いままでのアフタヌーンティーはなんだったの?』とおっしゃいます」  それもそのはず。店では週の2日を仕込みに費やし、営業は金、土、日のみ。スコーンはもとよりスイーツ、ジャムもすべてホームメイド。食材はできるだけ英国産を使っている。 【スリーティアーズ】 アンティークな一軒家でいただく正統派アフタヌーンティーは税込み7920円。予約は8月末まで埋まっている。ネット予約はすぐに完売するので、こまめにウェブをチェック(photo 写真映像部・高野楓菜) ■ペアリングで味わう  さっそく正統派の料理から味わっていこう。  1953年に開かれたエリザベス女王の戴冠式の昼食会のメニューとして考案された「コロネーションチキン」を挟んだサンドイッチは、カレー風味のクリームソースで和(あ)えた鶏肉と、レーズンの甘みとのバランスが見事! 自家製ジャムは自然な甘さがたまらない。「エルダーフラワーのゼリー」は酸味のあるリンゴのゼリーがアクセントでペロリ。ローズクリームが香る「バッテンバーグケーキ」の濃厚な甘さも本格的だ。  自慢はなにより紅茶だ。新宅さんは「おいしい紅茶とおいしいティーフーズが組み合わさると、ティータイムが満足度の高いものになります」と胸を張る。  日本紅茶協会認定のティーインストラクターが淹(い)れる紅茶は、品種によって茶葉はグラム単位、蒸らし時間を秒単位で変化させる。おすすめの7杯をサンドイッチに合うもの、スコーンに合うもの、と順に出してゆく。まるで料理とワインのペアリングのよう。店にお酒はないが、英国ではアフタヌーンティーにシャンパンが出ることも多いという。 「アフタヌーンティーは1840年代前半、第7代ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアが考案しました」と新宅さん。夕食までの小腹を満たすため、ご婦人仲間とこっそり軽食を楽しんだのが始まり。ヴィクトリア女王のお気に入りだった夫人の影響力は大きく、あっという間に貴族の間に広まったそうだ。 ■厳格なマナーは不要 「貴族の習慣としてはじまったアフタヌーンティーですが、3段スタンドのスタイルになったのはホテルで提供され始めてから。なので、現代のアフタヌーンティーでは厳格な貴族のマナーを意識する必要はないです」  新宅さんに基本マナーを教えてもらった。とはいえ、かしこまりすぎても楽しめない。マナーを守りつつも肩ひじ張らずに、優雅に過ごしたい。  さて、本場の欧州に倣って、お酒も楽しめるお店はないだろうか。見つけたのが「プルマン東京田町」。2018年にオープンしたスタイリッシュなホテルで、ロビーラウンジの「JUNCTION」で午後2時半から「ハイティー」が楽しめる。 【プルマン東京田町JUNCTION】 辛党にもおすすめのハイティー。ハイティーは午後5時以降のスタートが多いが、ここでは午後2時半から楽しめる。「スパークリングワインのフリーフロー付き」は税込み6千円、「シャンパンのフリーフロー付き」は同8千円(photo 写真映像部・松永卓也)  ハイティーとはアフタヌーンティーより遅い夕方から夜にかけて開く食事を兼ねたお茶会のこと。紅茶だけでなくアルコールもたしなむのが定番だ。 ■次は「ハイ活」がくる  この店では、スパークリングワイン、イタリアをテーマにした白&赤5種類ずつのワイン、ドイツの「ロンネフェルト」の紅茶など16種類とコーヒーが自由に飲める(2時間制)。  食事類も充実しており、オリエンタルな木製スタンドには、チーズ3種やジュレをのせたカツオのたたきなど、お酒に合うおかず系がそろう。名物のステーキサンドイッチは美味(おい)しいうえにボリューミー! 【プルマン東京田町JUNCTION】(photo 写真映像部・松永卓也)  ハイティーを始めたのは今年3月。仕掛け人は料飲部長の佐藤一徳さん(38)だ。自身が辛党で「午後から『ちょっと一杯』ができる、雰囲気のいい店がない」と発案した。コロナ禍でホテルの稼働率が下がり、新しい集客のアイデアも求められていたという。「貴族が始めたアフタヌーンティーと違い、ハイティーは労働者階級が発信した文化といわれています。仕事終わりにパブで一杯、のような感じですね」(佐藤さん) 【プルマン東京田町JUNCTION】(photo 写真映像部・松永卓也)  実際、仕事帰りに一人で来る女性客、男性客も多いそう。7月からはワインのテーマが変わり、白はリースリング、赤はピノ・ノワールを産地別に5種類ずつそろえる予定だ。当日予約も可能だそう。  ヌン活の次は、「ハイ活」にハマりそうだ。(フリーランス記者・中村千晶)※AERA 2022年7月18-25日合併号
AERA 2022/07/23 11:00
「山に埋められたことがある」チャンス大城が明かす驚愕の実話! 悲惨なのになぜか笑える顛末とは
「山に埋められたことがある」チャンス大城が明かす驚愕の実話! 悲惨なのになぜか笑える顛末とは
チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  芸歴32年、いま、お茶の間の記憶に残る男として、TV出演急増中の芸人・チャンス大城(本名:大城文章)さん。そんなチャンス大城さんが自らの半生を赤裸々に語り下した『僕の心臓は右にある』から、バラエティでも時々話題にする高校時代に山に埋められたエピソードを、本文から抜粋、編集して紹介します。 *  *  * 定時制高校時代のことで、どうしても語っておかなくてはならないことがあります。それは本当にえげつない事件でしたが、尼崎という町のリアルな一面を象徴する話でもあるのです。  あれは、高校3年のことでした。  事件の発端は、ブラジャーのホックの外し方を僕のおとんから一緒に教わったサイトウが、力仕事のバイトを一緒にしていたMという同級生を、僕とワダの前に連れてきたことにありました。  M自身はそんなに怖いやつではありませんでしたが、Mのバックにいたグループがとてつもなく怖い人たちの集団だったのです。  やがて僕は、サイトウとMと一緒に力仕事のバイトに行くようになったのですが、僕たちが稼いだ日当でMのバックにいる先輩たちが朝まで遊びまくるのです。どういうことかというと、僕らを連れて飲みに行ったり、カラオケに行ったりして、その代金を全部僕らに払わせるのです。  昼間働いた日当は、最終的にすべて巻き上げられてしまいました。そして、朝六時にはまた力仕事に出かけなくてはならないという、あまりにも過酷な日々を僕らは送るハメになってしまったのでした。  そのとんでもなく凶悪なグループの親玉は、やはりとんでもなく凶悪な人でした。一応高校生でしたけれど、ゾッとするような冷たい目付きをして、チリチリのパンチパーマをかけていました。その人は、公園でカップルにナイフを突きつけてお財布を奪う、いわゆる「カップル狩り」をやっていて、当時、すでに逮捕状が出ているという噂でした。  僕は連日のようにその親玉から暴力を振るわれて、逮捕状の噂も聞いていたので、さすがにヤバイと思ってなるべく関わらないようにしていました。 チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  ところが、マズイことが起こってしまったのです。  ある日、僕の家にMがやってきました。 「オオシロ、おまえ、俺らからなに逃げまくってんねん。原チャリ貸せや」  Mはひとことそう言うと、僕の原チャリに乗って行ってしまいました。案の定、何日たっても原チャリは戻ってきません。  サイトウに相談すると、彼はキッパリとこう言いました。 「俺たちが平和な日々を送れるようになるために、やつらは鑑別所に入った方がいいんや。だから盗難届け出しや」  僕はサイトウの勧めに従って、警察に盗難届を出しました。するとMは、僕の原チャリに乗っているところをあっさり捕まりました。Mは「オオシロから借りた」と言い張ったそうですが、警察の人が「オオシロ君から盗難届が出てる」とMに言ってしまったらしいのです。  僕は報復を恐れて、家の電話線を引き抜いて布団をかぶって寝ていました。ところがたまたまおかんが電話線をつないだ時に、親玉から電話が掛かってきたのです。おそらくずっとダイヤルを回し続けていたのでしょう。 「サイトウもワダもおるから、おまえも来い」  受話器の向こうから、冷たい声が響いてきました。  ワダはサイトウと一緒にいるところを、セットで拉致されてしまったらしいのです。僕だけ逃げるわけにはいきません。  僕は覚悟を決めて、親玉が住んでいる団地の一室に向かいました。部屋には親玉の他に仲間が3人いて、親玉の嫁さんもいました。嫁さんはものすごい美人で、妊娠中らしくお腹がぽっこりと膨らんでいました。  グチャグチャに散らかった部屋の中、凶悪な5人組がサイトウとワダを取り囲んでいます。僕が部屋に入っていくと、親玉が言いました。 「Mを売ったんは、おまえらか」「いいえ、違います」「おまえらやろ」「違います」  僕は嘘をつき通しました。認めてしまったら、何をされるかわかりません。  これはマズイ……。 「逮捕状出てんねん。おまえら……逃亡資金出せや」  やはり逮捕状の噂は本当だったのです。 大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)※本の詳細をAmazonで見る 「おまえら、いくら持ってんねん」「お金なんて、持ってません」  その時、ものすごい美人の嫁さんがこう言ったのです。 「こいつら、絶対金持ってるわァ」  僕は、この言葉を聞いてびっくりしてしまいました。うまく言えませんが、お腹に子供を宿している女性がこんなことを言うのか、と思ったのです。いや、妊娠しているからこそ必死だったのかもしれません。部屋の襖に大きな穴が開いていましたが、それは、もしかすると彼女が親玉にしばかれた痕跡かもしれません。  親玉がおごそかに言いました。 「これから毎日、俺たちにしばかれて、お金を渡しますと契約書に書け」  冷静に考えるとアホみたいな内容ですが、僕たち3人は本当に手書きで契約書を書かされたのです。  契約書 私は毎日●●さんにしばかれて、いつでもお金を渡します。                       大城文章 「おまえら、ハンコ持ってるか」  そんなもの、いま持ってるわけがありません。すると親玉が嫁さんに向かって、 「おい、包丁持って来い」  と言いました。嫁さんがかいがいしく台所から包丁を持ってきました。 「おまえら、ひとりずつ手ぇ切って血判押せや」  最初に包丁を渡されたワダは、うっ、うっ、うっ、と変な声を出すだけで、まったく切ることができませんでした。極限状態だというのに、僕はワダの姿を見ていたら、なぜか急にへらへら笑いがこみ上げてきました。  すると親玉が、 「こうやるんじゃー」  と、お手本に自分の指を切ってみせました。  ワダは手をつかまれて、無理やり人差し指に包丁を当てられました。ワダは悲鳴を上げました。 「痛てー」  僕は、一発でシュッと切れました。  サイトウも無理やり切らされましたが、血判を押した瞬間に気絶してしまいました。僕は一瞬芝居じゃないかと思いましたが、サイトウはその後もずっとピクピク痙攣していました。  親玉が僕とワダに向かって言いました。 チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也) 「おまえら、別々に車に乗れ。こいつ(サイトウ)は後でゆっくりしばいたるわ」  サイトウは、突撃に加われない傷病兵のようなものでした。  時刻はちょうど夜の10時頃です。僕は車に乗せられたとき、「これから本当に殺されるんだ、このまま死んでしまうんだ」と思いました。短い人生だったなと思ったら、もっと勉強して私立に行けばよかったなとか、危ないバイトなんかするんじゃなかったなとか、後悔が次々と頭に浮かんでくるのです。  車で連れていかれたのは、六甲山にある心霊スポットとして名高い、すでに閉鎖された宿泊施設でした。車から降ろされると、宿泊施設の前で僕ひとりだけスコップを渡されました。  親玉が言いました。 「穴掘れー」  僕はひとりで穴を掘り続けました。メチャメチャ掘ったと思っても、ぜんぜん許してもらえません。 「まだやー、もっと深くやー」  1時間以上、最後は穴の中に降りて掘り続けました。僕はもう汗だくです。ワダは僕が穴を掘っている間じゅう、ずっと泣き続けていました。  ようやくOKが出たと思ったら、 「入れー」  と言われました。  僕は自分の掘った穴に首まで埋められて、首の周囲を工事用の凝固剤みたいなもので固められてしまいました。まったく身動きが取れません。  こうしておいて顔面を蹴りまくるのだろうと思っていたら、親玉たちは、 「じゃあなー」  と言って、ワダを連れて立ち去ろうとするのです。思わずワダが言いました。 「オオシロ、俺、どうなんのやろ」  ワダを乗せて、2台のヤンキー車がさっき上ってきた道を下りていく音が聞こえました。 「えーっ、埋められんの、俺だけなん?」  車が去ってしまうと、あたりは完璧な暗闇でした。まったく何も見えません。僕は恐ろしくて恐ろしくて、半泣き状態でした。  やがて、山道を上がってくる車の音が聞こえました。車は僕が埋まっている施設のそばまで来て、止まりました。 チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也) 「なんや、戻ってきたんかいな。ただの脅しやったんか」  僕が淡い期待を抱いていると、車の中から懐中電灯を持った2人組が降りてきました。親玉たちではなく、どうやら肝試しにきたカップルのようでした。僕は声をふりしぼって懇願しました。 「あの、あの、すみません、すみません……」「なんか、声するやん」  女の子の声が言いました。 「やめろやおまえ、脅かすなや」  男が言いました。 「あの、あの、すみません、すみません……」  もう一度呼びかけると、ふたりはパタリと会話をやめました。  男の方が懐中電灯であたりを照らし始めました。やがて、懐中電灯の光が僕の顔にピタリと当った瞬間。 「ギャーーーーーーーーーっ! 出たーーーーーーーーーーっ!!」  この世のものとも思えない絶叫をあげながら、カップルはカール・ルイス並みの速さで車に駆け戻りました。間もなく、あわてて山を下りていく車の音が聞こえてきました。きっと彼らは、生首を見たと思ったのでしょう。 「待ってくれー、違うんやー、待ってくれーーーーーーーっ……」  あのカップルは、山を下りてから友だちに「六甲山で生首を見た」と触れて回ったに違いありません。でも、違うんです。あれは僕なんです。  それからずいぶんたって、空がだんだん明るくなっていき、やがて太陽が昇ってきました。  僕は恐怖の連続でアドレナリンが出尽くしてしまったのか、体はヘトヘトでした。脱水症状で喉もカラカラでしたが、頭は焦りで高速回転していました。このまま黙っていたら、本当に死んでしまいます。 「助けてくれーっ」  力いっぱい叫びました。 「助けてくれーっ」  これでもかというぐらい、叫びました。  すると、 「タスケテクレーー」 と木霊が返ってきました。  でも、返ってくる「タスケテクレーー」という声が、どうも僕の声とは違うのです。 「!!」「ワダーーーーーーーーーーーっ」「オッ、オオシローーーーーーーーーーーーっ」  ワダはどうやら、向かいの山に埋められているようでした。ワダに質問してみました。 絵:チャンス大城 「どないやー」「埋められとるー」「いま助けに行くー」「無理やろー」「そやなー」「いろいろ、後で考えよー。しばらく仮眠するわー」「ワダー、寝るなー、死ぬぞー」  この交信を最後に、ワダの声は途絶えてしまいました。  ワダとの交信が途絶えてから一時間ほどたったとき、僕が埋まっている施設に向かって1台の軽トラが走ってきました。作業着を着たおっちゃんが乗っています。施設の管理人に違いありません。軽トラを降りたおっちゃんが、僕の方に近づいてきました。 「お兄ちゃん、何してんのや!」「いろいろあって、埋められたんです。助けてください」  他に表現のしようがありません。僕は心の中で叫びました。 (助かった! これで助かった!)  無人島に漂着した人が救助船を発見した瞬間は、きっとこんな感じだと思います。  おっちゃんは軽トラからバールを持ってくると、首の周りの凝固剤を剥がして、スコップで僕を掘り出してくれました。 「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます……」  僕はこの時以上に、人に感謝したことはありません。  おっちゃんは服についた土まで払ってくれて、こう言いました。 「車乗れー、駅まで送ったるわ」  僕は軽トラの助手席に乗せてもらいました。少し山道を下ったところで、僕はおずおずと切り出しました。 「あのう、ひとつよろしいでしょうか……。もうひとり埋まってるんですけど」「ええっ、まだ埋まってるやつおるん?」「はい。助けたってください」  おっちゃんは、ちょっとびっくりしながらこう言いました。 「なんで同じ場所に埋まってへんねん」  どう返事をしていいのかわかりません。 「たぶん、目の前の山やと思います」  軽トラはもう一度、山道を上り始めました。僕は窓を開けて叫び続けました。 「ワダー、起きろー、おまえ、まだ女の子とデートしたことないやろーー! ドウテイやろーー!」 チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  しばらく叫び続けていると、山頂付近の雑木林の中からふり絞るような声が聞こえてきました。 「オオシローーーーーっ!」  ワダは山林の中に、僕と同じスタイルで埋められていました。軽トラのおっちゃんと僕とふたりがかりでワダを掘り出して、おっちゃんに近くの駅まで送ってもらいました。 それにしても、世の中には親切な人がいるものです、軽トラのおっちゃんは、 「君ら腹減ってるやろ、飯おごったるわ。体力つけなあかんで」  と言うのです。  僕もワダも腹が減って疲れ切っていたので、おっちゃんに甘えてご馳走になることにしました。  さて、例の凶悪な親玉はどうなったかというと、結局、逮捕されて半年間鑑別所に入っていたそうです。鑑別所を出たら僕の家に「挨拶」に来るんじゃないかとビビッていたのですが、ある日、本当に挨拶にやってきました。 「もう、臭い飯食いたないからなー、いままでのこと、1万円で全部チャラにしたるわ」 親玉が来たとき、僕は1万円なんて大金は持っていませんでした。おかんは居間で『笑っていいとも!』を見ながら、ゲラゲラ笑っています。 「おかん、お母さまー、あのー、1万円貸してもらえませんでしょうか?」  普通だったら絶対に、「なんであんたにそんな大金貸さないかんの」と言われてお終いです。 でも、神様って本当にいるんですね。 「あははは、ええよー、あははは」  おかんは、笑いながら1万札を渡してくれたのです。  親玉にその1万円を渡すと、 「ほな、またな」  と言って引き揚げていきました。 「自由や、これでやっと自由を手に入れたんや……」  僕は、親玉が立ち去った後、ひとりで家の外に飛び出して大声で泣きました。
チャンス大城書籍朝日新聞出版の本読書
dot. 2022/07/22 11:30
働きながら学ぶ社会人大学院生の生活は? 論理的な考え方や広い視野は仕事に必ず生きる
働きながら学ぶ社会人大学院生の生活は? 論理的な考え方や広い視野は仕事に必ず生きる
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  働きながら大学院で学ぶ人たちは、どのように仕事と研究を両立させているのだろうか。大学院も平日夜や土曜開講、オンライン授業などで社会人が学びやすい環境を整えている。好評発売中の『大学院・通信制大学2023』では、実際に大学院へ通っている社会人と、積極的に社会人大学院生を受け入れている大学院の取り組みを取材した。 *     *  *  筑波大学大学院で会社法を研究する下村侑子さん(26歳)は大学卒業後、都内の印刷会社に就職して5年目になる。入社3年目に博士前期課程に進学し、現在2年目を迎え、社会人と研究者の一人二役をこなす日が続く。 ■法律を体系的に学び直して成長しながら仕事に生かす  同社は株式上場申請や株主総会の招集通知、金融商品取引法や投資信託法などの書類に関するサービスを提供している。下村さんは招集通知文書の業務で関連法規の会社法に興味を持った。 「仕事では会社法の一部にしか触れる機会がなく、もっと幅広い知識が必要ではと感じていました。上司に相談したところ、部署でも応援するから大学院に通ってみてはと勧められて、大変かもしれないけれどせっかくのチャンスだと思い挑戦しました」  会社としても社員を大学院に通わせるのは初めてのことだった。受験準備を始めたのが願書提出締切の1カ月前で時間がなく、業務時間中に研究計画書を作成し、会社の顧問弁護士からもアドバイスを受けて入試に臨んだ。 「面接試験では株主総会の招集通知で、実務経験で感じていた情報開示の問題点を話すと、面接官の先生に共感していただいて話が盛り上がりました。緊張することなくむしろ楽しい時間でした」(下村さん)  2021年4月に法学学位プログラム博士前期課程の大学院生となった下村さんは、午前中を授業の準備やレポートの作成にあて、昼の12時半に出社。夕方18時20分まで仕事をしてから大学院のリモート講義を受けた。 「1年次の授業はほとんどがオンラインで、金融商品取引法演習のゼミは私の希望で対面にしてもらいました。社会人経験の長い人と一緒でレベルの違いに苦労しましたが、いろいろ教えてもいただいて、大学院での学びを実感しました」(同) アエラムック『大学院・通信制大学2023』  1年次で必要な単位がほぼ取れたので、2年次には朝9時からの通常勤務に戻った。授業は金曜日だけだが修士論文の準備が大変だと下村さんは話す。 「文献を収集し、たくさんの情報から必要なものを拾い上げて論理的に構成することが求められます。論文指導の木村真生子先生からは、論理的な考え方や広い視野を持つためのヒントをいただいています。修士論文に何年もかかる人もいると聞くので、早めに進めるようにしています」(同)  たまに大学時代のバンド仲間と集まり、キーボードを弾いたりするひとときが唯一の息抜きだ。 「レポート1本書くだけでも資料調べから始まり時間がかかります。私の場合は会社に支援してもらえるので感謝していますが、そうでないとメンタル面も含めてかなり大変です。それでも苦労しただけ力がつき、視野が大きく広がります。若いうちに大学院に行くことは、仕事やキャリアに必ず生きてくると思います」(同)  下村さんが学ぶ筑波大学大学院の法学学位プログラムは、社会人専門の博士前期及び後期課程の大学院だ。木村教授は下村さんを、「開示制度を研究しているとても真面目な学生です。株主総会などにおける情報開示が、経団連や全国株懇連合会の書式をもとに画一的に行われる傾向があり、株主や投資家のためにならないのではという問題意識を持っています」と評価する。  木村教授は1年次から論文作成について相談を受けながら、仕事と大学院生活の両立のためにワークライフバランスもアドバイスする。2年次になると論文執筆のスケジュールを立て、下書きの添削をし、参考文献を示すなどしてサポートする。  法学学位プログラムの定員は33人で、仕事がきっかけで学び始める人が多い。 「私自身も契約書作成の業務をしていて、法律を体系的に学んで仕事に生かそうと考えて大学院に入りました。仕事に自信が持てるようになるとともに法律の世界がおもしろくなり、修士論文の指導教授に勧められて博士号も取り、今は教える側になっています」(木村教授)  企業の法務部門の管理職者が仕事への見方を新たにしたり、弁護士のような専門家が法律について改めて理論的に考え直す場になっていると木村教授は話す。少人数の学生同士の交流で刺激を受け、会社での悩みを相談しあえる。社会人は学びを生かしたいという気持ちが強く知識の吸収も早いという。  「自分が決めたテーマについて納得のいくまで調べ、6万字に及ぶ長文の修士論文を論理的に構成する、という機会はなかなかありません。この経験は思考力を身につけるトレーニングになり、ビジネスの世界でも生きてくるのではないでしょうか」(同)  自分自身で道筋を立てものごとを考えるためにも、大学院という場を活用することを勧めたいと木村教授は語る。 ■1年間で修士号を取得してアーキビストの資格もめざす  1年で修士号を取得できるコースを開設する大学院も増えている。ただ通常は2年かかる単位取得と論文執筆を半分の期間でこなさなければならない。  静岡県の私立加藤学園暁秀高等学校で国語を教える山下裕美さん(50歳)は、22年4月から昭和女子大学大学院のアーキビスト養成プログラムで学んでいる。1年間で修士号とアーキビストの資格を得るための知識や技能を取得できるプログラムだ。アーキビストは公文書管理の専門職で、国立公文書館が21年1月に認証を始めた新しい資格だ。  山下さんは隔週で土曜日に静岡県沼津市の自宅から新幹線で東京のキャンパスへ通う。リモートが基本の平日の講義も、時間が許せば大学院に行く。 「先生やほかの学生のみなさんとの交流で得るものがあると思うからです」と山下さんは話す。  アーキビスト関連科目のほか、古文書解読や近世歴史文化を履修している。 「大学の卒論のテーマが樋口一葉で、歴史にも興味がありました。以前から大学院で学び直したいと思っていましたが、入学してみて学部の延長ではなく本格的な研究をする場だと知りました。大学院では自分も研究者の一人で、研究する姿勢や倫理観も問われます」(山下さん)  帰宅後は課題や研究、仕事の準備で夜遅くまでかかるが、24時前には寝るようにしている。無理をして資料を読んでも頭に入って来ないし、翌日の仕事に支障があってはいけないからだ。休日も調べ物で図書館などに出かけることが多い。ペットの猫とたわむれるのが少ない癒しのひとときだ。 「大学のときは親に学費を出してもらって、なんて幸せだったのだろうと思います。今も家族には好きなことをさせてもらって感謝しています。学びたいときがチャンスだと思います。論文指導の野口朋隆先生にいただいた、学びに年齢は関係ないという言葉は心の支えになっています」(同)  昭和女子大学は女子大学だが、大学院は男女共学だ。21年4月、社会人が1年でも修了できる大学院を立ち上げた。50人が在籍し、うち35人が翌22年3月に修士号を取得した。生活機構研究科福祉社会研究専攻の粕谷美砂子教授は「みなさん本当に熱心で、1年間で充実した論文をまとめられました」と振り返る。  福祉社会研究専攻には2つのコースが設置されており、福祉共創マネジメントコースは社会福祉法人や病院、保育園の経営者や職員、スクールソーシャルワーカー、介護支援専門員や自治体勤務といった人たちが受講する。もう一つの消費者志向経営コースは消費生活アドバイザー、メーカー、消費生活センター、起業家支援と職種は多様だ。それぞれが現場で感じた問題をテーマに研究している。授業では興味深い話が次々に出てくる。 「私も生の声を聞いて、何が現場で今問題になっているかということと、理論が実際にどう使えるかを知ることができます。学生からは課題を整理して論理的に検討することで解決法が見え、仕事に生きてくると言われます」(粕谷教授)  22年4月には、新たに2つの1年制の大学院修士課程が開設された。文学研究科言語教育コミュニケーション専攻の英語教育専修コースと、山下さんが学ぶ生活機構研究科生活文化研究専攻のアーキビスト養成プログラムだ。山下さんの論文を指導する野口朋隆准教授は日本近世史が専門で、アーカイブス学とも研究分野が重なる。 「社会人がそれまでできなかった経験をして知識をインプットできることは、大学院で学ぶメリットです。知識は世界を広げ、新たなチャレンジをするきっかけになります」(野口准教授)  アーキビストをめざすのは、大学教員や博物館職員、図書館司書など文書に関わる社会人が多い。過去の史料の保存管理や、行政や企業が作成した文書をいつまで保存するかなどの学びが実務に直結する。  野口准教授は「アーキビストは今私たちの政治や社会が何を根拠にして動くのかを未来に残していく大事な職業です」と強調する。「その意味で、民主主義の根幹で支える仕事でもあります。本大学院をきっかけにアーキビストについて広く知ってもらいたいと思います」(同) 大学院で学び直すのは決して楽なことではない。しかしその分得るものは多く、人生を豊かにしてくれるはずだ。 (取材・文 福永一彦) ※アエラムック『大学院・通信制大学2023』より
大学院
dot. 2022/07/22 07:00
チャンス大城が定時制高校時代に体験した、熱血教師によるとてつもない「夜のプール授業」
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チャンス大城さん(撮影/写真映像部・東川哲也)  芸歴32年、いま、お茶の間の記憶に残る男として、TV出演急増中の芸人・チャンス大城(本名:大城文章)さん。そんなチャンス大城さんが自らの半生を赤裸々に語り下ろした『僕の心臓は右にある』から、定時制高校に通っていたときの、愉快なクラスメートとのエピソードを、本文から抜粋、編集してお届けします。 *  *  * 定時制高校には、定時制専門の先生がいます。  僕らのクラスの担任はタキ先生といって、4年間変わりませんでした。タキ先生は当時50代の半ばぐらい。元水泳選手の熱血教師でした。  定時制の先生には、どうしても勉強したいという生徒になんとか教育を授けてあげたいという熱い思いを持った人が多かったのですが、50歳を超えているコダマさんを除けば、僕のクラスにはそういう生徒はほとんどいませんでした。だから、「なんだこのクラスは。勉強したくて来てるんじゃないのか!」と怒る先生が何人もいました。  コダマさんだけは最後まで熱心で、卒業するまで教室の最前線で授業を受けるタイタニック・スタイルをやめませんでした。 大城文章著『僕の心臓は右にある』(朝日新聞出版)※本の詳細をAmazonで見る 「家が貧乏で勉強できなかったから、生きているうちに勉強したいんや」  と、いつも言っていました。  コダマさんは「薄毛の方」でした。身長160センチ、細身で銀縁眼鏡をかけていました。工場で何の仕事をしていたのか知りませんが、体を鍛えていて、サッカー部ではセンターフォワードをやっていました。  そうです、定時制にも部活はあるんです。ただし、高校のサッカー部のセンターフォワードが50代なんて、たぶん前代未聞のことだったと思います。  定時制高校には、部活はありましたが、プールの授業はありませんでした。みんな、プールに入りたがったのですが、高校の屋外プールには照明設備がありません。照明なしに、夜、プールに入るのは危険なのです。  しかし、元水泳選手のタキ先生が、「なんとかしてキミたちの願いを叶えてあげたい」と言って、校長先生と交渉してくれました。すると、体育館から延長コードで電源を取って照明をつけることを条件に、校長先生がプールの授業を許可してくれたのでした。 絵:チャンス大城  プールの授業当日、僕は5、6台の照明器具が設置されているのを想像していたのですが、プールサイドに行ってみると、文化祭なんかで使うスポットライトが1台あるだけでした。とてもプール全体を照らす能力はありません。 「ダメだ。危険過ぎる」、真面目なタキ先生が言いました。 「ええやんけー」、不真面目な僕たちが言いました。 「ダメだ!」「ええやん、プール入りたい!」  この話、誰にしても信じてもらえないのですが、僕たちがプールに入りたいと激しく主張すると、タキ先生がとてつもない方法を考案したのです。  それは、生徒をひとりずつ順番に泳がせ、タキ先生がスポットライトで泳いでいる生徒を照らしながら、プールサイドを一緒に移動していくという方法でした。 「スズキ、行けー」  スズキ君が飛び込むと、タキ先生がスポットライトを当てながらプールサイドを移動していきます。もしもこれでサイレンが鳴っていたら、照明を当てられた生徒は映画『大脱走』の脱走犯そのものです。タキ先生はさしずめ、サーチライトで脱走犯を追跡する刑務官といったところでしょうか。  3、4人が飛び込んだところで、いよいよコダマさんの番がやってきました。  コダマさんは飛び込み台からプールにどぶんと飛び込むと、何を思ったか、真っ暗なプールの中で立ちあがりました。そして、両手を高く上げると、こう叫んだのです。 「私にも光を!」  僕は、コダマさんの心の叫びを聞いたように思いました。
チャンス大城書籍朝日新聞出版の本読書
dot. 2022/07/21 11:30
更年期をチャンスに

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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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