下山進
【下山進=2050年のメディア第8回】沢木耕太郎は現代の「歌枕」か 『深夜特急』『天路の旅人』
沢木耕太郎
「沢木さんの『深夜特急』を読んだから」
2019年春に、慶應SFCで教えていた頃の話である。一人の学生が、アジアの国々への一人旅をくりかえしているので、理由を聞いたらば、そんな答えが返ってきた。
私が『深夜特急』の第一便と第二便を読んだのも、大学を卒業した1986年のことだから、なんという作品の寿命の長さなのか、と感嘆したことは以前書いた。
今回書きたいのは、なぜ、沢木耕太郎の旅は今なお、若い人を新たな旅へと誘っているのか、ということだ。
私が、『深夜特急』に触発されて、香港やシンガポール、マレーシアなどを旅していた1990年前後は、それでも、沢木さんが旅をした1970年代の空気をそれなりに感じることはできた。たとえば第一便で描かれた「毎日が祭りの街」香港。三重の屋台が無限に続く廟街(テンプル・ストリート)の猥雑な熱気や、60セントの豪華な航海と描写された香港島と九龍半島を結ぶスターフェリーの空気も当時とそれほど変わることはなかっただろう。
香港がまだ返還前だったということも大きかった。
が、2019年に香港を旅する彼女にとっては、香港は習近平の中国だ。
しかし、彼女にとっては、『深夜特急』に描かれた香港やマカオは、前号で紹介した「歌枕」のようなものなのだ。
たとえば、『深夜特急』ではアバディーンの水上生活者の少女と、沢木さんの交流が心あたたまるように描かれる。沢木さんがその少女とアドレスを交換しようとすると、最初その少女は意味がわからず、とまどった末に、走っていって交差点の標識をみてこう書いた紙を差し出す。
陳美華 湖南街
<彼女たちは水上生活者だった。住所を持っているはずがなかったのだ。彼女の明るい笑顔に胸を衝かれた>(『深夜特急』第一便)
1990年代から、香港政府による定住政策が進み、特に共産主義中国の一部になってからはそもそも水上生活者自体の存在が許されない。なのでSFCの彼女が香港を旅しても、陳美華に会うことはない。
新作『天路の旅人』は、「新潮」8月号、9月号に掲載された。単行本出版は10月の予定。『深夜特急』はこれまで単行本3巻で42万7500部、文庫本6巻で535万8000部を発行している。
「沢木さんが旅した1970年代の香港に行ってみたい」
そう彼女は言ったが、それでも一人で旅をしていると様々な出会いがある。『深夜特急』の中には、安宿にとまったら、そこは娼館だったというエピソードがある。クアラルンプールのびっくりするほど安い宿をネットで予約していったらば、『深夜特急』で書かれたような娼館だった、なんてことを彼女は楽しそうに話してくれた。
SFCの中では彼女はちょっと変わっていて、当時から「校閲者になりたい」と言っていた。私は、「出版社・新聞社は校閲採用がある。駄目だったらフリーという手もある」と励ましたものだった。
さて、沢木耕太郎は、今も「旅」について書き続けている。
文芸誌の「新潮」8月号と9月号に新作のノンフィクション「天路の旅人」を発表した。西川一三という第二次世界大戦末期に中国の奥地深くに潜入したスパイの旅について書いている。西川は、蒙古人「ロブサン・サンボー」としてラマ僧になりすましたまま旅を続け、1950年にインドで逮捕され、日本に送還される。
私がひきつけられたのは、本編の西川の旅に入る前のくだりだ。戦後は盛岡でひっそりと化粧品店をいとなんでいる西川に、沢木は、地元紙の記事から興味をもち、連絡をとって取材を始める。それが四半世紀も前のことなのだ。
<私の流儀として、かりにそれが仕事の場合であっても、最初に会ったときには、いわゆるインタヴューをしない>
こんな一文を読みながら、「焦るな」と沢木さんが言ってくれているような気がした。
そして西川も、1974年の沢木さんの旅に強く反応をするのだった。沢木さんが旅をした1974年というのは奇跡のような年で、パキスタンからカイバル峠を越えて陸路でアフガニスタンの首都カブールまで乗合バスで行くことができた。西川のころは印パ紛争によってアフガニスタンには入れず、1979年にはソ連軍が軍事侵攻をする。以降は戦火に踏みにじられ、一般の旅行者が旅することができるような国ではなかった。
『深夜特急』の中でアフガニスタンの荒野をバスがひた走るシーンがある。土埃をあげてバスが疾走していると、羊飼いの羊を守る犬が、突進してくる。ぎりぎりまでくると羊飼いの口笛で、犬は踵を返して羊の群れに戻っていく。26歳だった沢木はなぜか涙が流れてしかたなくなるのだが、これはとりわけ胸に迫るシーンだ。
そうした光景は「歌枕」のように、西川に話を聞いている1990年代も、今も、幻の中にしか存在しないのだが、西川も東チベットのカム地方を巡礼していたときに、同じ経験をしたと強く反応する。そしてインタビューが始まり、四半世紀の発酵の期間をへて、今回作品「天路の旅人」として結実した。
ところで、SFCの彼女は今ではプロの校閲者になっている。
そして現在も休暇の度にアジアを一人で旅している。彼女にとっては、『深夜特急』に描かれたアジアの街の情景は、今はもう存在しなくても「どうしたらそこにいけるだろうか」と想像力によって行くことのできる「現代の歌枕」なのだ。
西行の旅と芭蕉の旅、沢木の旅と西川の旅、そして我らの旅。旅は互いに呼応する。
下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文藝春秋)など。
※週刊朝日 2022年9月9日号
週刊朝日
2022/08/31 07:00