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沢田研二をスーパースターにした加瀬邦彦「一番苦手なことをしよう。踊るんだ!」
中将タカノリ 中将タカノリ
沢田研二をスーパースターにした加瀬邦彦「一番苦手なことをしよう。踊るんだ!」
加瀬邦彦さん=2005年  グループサウンズ(GS)の頂点にいた沢田研二(ジュリー)を、日本全国津々浦々、老若男女を魅せる「スーパースター」にしたのは、希代のプロデューサー、加瀬邦彦だ。ザ・ワイルドワンズのリーダーでギタリストだった加瀬は1960年代後半に若者たちが巻き起こしたGSブームをどう生き、そしてジュリーをつくりあげたのか。  1966年6月、日本武道館。斬新な音楽性で世界中を席捲したザ・ビートルズの日本公演には、数多の若者が押し寄せた。その人波、25歳の加瀬の姿もあった。本来であれば、加瀬は寺内タケシとブルージーンズのメンバーとして前座を務めるはずだった。しかし出演者はビートルズと接触はおろか観覧さえできないことを知り、直前にグループを脱退。一観客として会場にいたのだ。  当時、日本の音楽シーンではビートルズや後続のザ・ローリング、ストーンズの影響を受けたミュージシャン達によってグループサウンズブームが盛り上がりつつあった。1966年3月にジャッキー吉川とブルー・コメッツがリリースした「青い瞳」は販売数50万枚といわれるヒットに。以前、加瀬が短期間所属していたザ・スパイダースも、いまだヒット曲はないものの着々と存在感を増してきていた。この頃の加瀬の置かれた特殊な境遇について、ザ・ワイルドワンズの島英二は語る。 「ブルージーンズを脱退した際、普通ならクビになるところを渡辺プロダクションから強く引き留められたそうです。それだけ加瀬さんは周囲から才能を期待されていたのでしょう」  ビートルズの武道館公演前後から、加瀬は渡辺プロからの期待に応える形でワイルドワンズの結成に向け動き出していた。まず加瀬の誘いに応じたのはドラマーの植田芳暁。 「当時、僕は早稲田の大学生になる前の浪人生で、アメリカンスクール在学中の友達とバンドを結成していたんですが、ある時、池袋のデパートの屋上で開催された『日米対抗バンド合戦』というイベントに出演しました。加瀬さんはイベントに協賛していたYAMAHAの方から『ドラムを叩きながら歌える珍しい奴がいた』という評判を聞いて連絡をくれたんです。『あの加瀬さんから誘いが来た!』と驚きましたが、日比谷で初めてお会いした時のアイビールックの洗練されたファッションと誠実な人柄にはさらにシビれました。条件もとても良かったし、すぐに加瀬さんと一緒にやっていこうと心に決めました」  植田に続き、加瀬は人づてに鳥塚しげき、島らをメンバーに抜擢。いずれも関東の学生バンドシーンではホープと目されていた面々だが、年齢は6、7歳年下。ミュージシャンとしてめざましい前歴があるわけではなかった。加瀬がワイルドワンズで目指していたバンド像について「加瀬さんはビートルズのようなグループを目指しながらも、音楽的にはアメリカ西海岸で流行っていたウエストコーストサウンド、たとえばバーズやママス&パパスのようなフォークロックを志向していました。また下積みのようなことはせず、初めからレコードデビューやその後のメディア露出を前提に活動していくとも言っていました。業界に染まった感じじゃなく、学生らしいさわやかさを前面に押し出したイメージを描いていたんですね。加瀬さんは学生時代から加山雄三さんと親交があったことが有名ですが、音楽界、芸能界だけじゃなく美術界、演劇界など交友関係が幅広く、当時から際立ったセンスとプロデュース眼のある人でした」と鳥塚。加瀬の戦略はみごと功を奏し、1966年11月にリリースしたデビュー・シングル「想い出の渚」は公称100万枚超の大ヒットに。爽やかなコーラスと加瀬の奏でる12弦ギターの響きは今も多くの人に愛されている。 結成間もないザ・ワイルドワンズ(左から島英二、加瀬邦彦、植田芳暁、鳥塚しげき)  その後も「愛するアニタ」(1968年)、「バラの恋人」(1968年)といったヒットをものにし、またザ・タイガースに「シー・シー・シー」(1968年)を提供するなど、ソングライターとしても注目を高めていった加瀬。1971年にワイルドワンズが解散してからは沢田研二付きの作曲家、音楽プロデューサーとして辣腕をふるった。当時、渡辺プロの社員として沢田のマネージャーを担当した森本精人は当時の加瀬について次のように語る。 「加瀬さんが関わるようになったのは『許されない愛』(1972年)からでしょうか。曲作りとビジュアル面やステージの演出を担当していただきました。印象的なのは、沢田が『シャボン玉プレゼント』(ABCテレビ)でポール・アンカの『ダイアナ』をカバーして歌った時。加瀬さんから『森本、沢田のダイアナはどうだった?』と聞かれ『とても良かったと思います』と答えたのですが、それからしばらくして出来上がってきたのがあの『危険なふたり』(1973年)でした。『ダイアナ』と同じく年上の女性への愛を歌った内容でロカビリー調。ご存じの通り大ヒットをおさめるわけですが、沢田の魅力を引き出すことにかけては加瀬さんの右に出る人はいませんでした」  1970年代から1980年代にかけ、加瀬は沢田という時代の偶像を通して日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしてゆく。 燦然と輝くジュリーのヒット曲の数々 「加瀬さんの功績は楽曲提供もさることながら、早川タケジさんをアートディレクターに抜擢したことです。当時はいち歌手にアートディレクターが付くなんて思いもしない時代でした」と森本。セツ・モードセミナー出身のイラストレーターで、当時、テレビCMのスタイリストとしても注目を浴びつつあった早川。彼の先進的なセンスを知った加瀬は、共通の知人を介して沢田のプロジェクトチームに加わるよう懇願したのだ。早川は当時の加瀬との仕事について「僕が加瀬さんとご一緒したのは『危険なふたり』の少し前から1980年代前半のEXOTICSの時期まで。メイクやボディーペイント、ギラギラの衣装、ずいぶん過激でアブノーマルな演出を提案したと思うんですが、加瀬さんはそれを全部面白がって実現してくれました。ロック以外に、ハリウッドミュージカルや宝塚など、レビュー全般にも強い興味をお持ちの方でした。私も歌舞伎や映画全般、ミュージカルにも興味がありましたので、仕事面では大変気が合いました。あんなに豊かなエンターテイメント観を持ったプロデューサーは後にも先にも加瀬さんしか知りません。おまけに人柄が良くて、器の大きい方でした。子供の頃から変わり者で対人関係の苦手な僕だけど、加瀬さんといて嫌な思いをしたことは一度たりともなかったです」と懐かしむ。  加瀬のプロデュース力は「勝手にしやがれ」(1977年)、「カサブランカ・ダンディ」(1979年)など自身が制作に関わっていない楽曲でも発揮され、1980年の「TOKIO」で大輪の花を咲かせた。貧しさを忘れ、経済大国となった日本の首都・東京の栄華と反面の孤独を、当時最先端のテクノポップサウンドに乗せて歌ったエポックメイキングな楽曲だ。「『TOKIO』のシングル盤は1980年1月1日リリース。流通の事情を考えたら普通あり得ませんが、『この曲で1980年代が始まるんだ』という意気込みで関係先に頼み込んで実現しました。この難プロジェクトを先導したのは加瀬さん。紅白歌合戦が終わった後、生放送番組「ゆく年くる年」(NHK)で沢田が大きなパラシュートを背負ってこの曲を披露した時は痛快でしたね。この曲以降、沢田はよりビジュアル重視にシフトチェンジしてゆくのですが、それに合わせバックバンドをデビュー以来の井上堯之バンドから若いバンドに切り替えるよう決断したのも加瀬さんでした」(森本)  沢田と並行してアグネス・チャンやアン・ルイスらにも盛んに楽曲提供し、作曲家としての地位を確立した加瀬。1981年にはワイルドワンズを再結成し、ふたたび自身の表現活動にも積極的に取り組むようになった。その後、徐々にマイペースな活動にシフトした加瀬だが、2010年に沢田研二とコラボレーションした「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」では久々に往年の辣腕プロデューサーぶりを発揮したという。 加瀬さんを偲んで歌う沢田研二=2015年8月17日 「突然言い出したのでびっくりしましたが、『渚でシャララ』(2010年)というシングルでオリコン1位を目指そうと。聞けば長年プロデューサーを務めた恩返しなのか、もう沢田君も了承してくれてると言うんです」(植田)「『ただ演奏するだけじゃつまらないから、俺たちの一番苦手なことをしよう。踊るんだよ!』と言われて『えーっ!』と。みんな覚えるのに一週間くらいかかったんだけど『SMAP×SMAP』(フジテレビ)に出た時、SMAPのメンバーたちは1時間もしないうちに完璧に踊っていたのを覚えています(笑)」(島)「結局、オリコン1位は獲れなかったんですが、2010年のライブツアーがミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞したんです。あの企画は僕たちがこれまで生きてきた中でも5本の指に入る印象的な出来事でしたね」(鳥塚)。  その後、70代に差しかかってもももいろクローバーZとコラボレーションするなど、精力的な活動を展開していた加瀬だったが、2014年に咽頭がんを発症。結果、手術で声帯を失ってしまったことは根っからの音楽人である加瀬の心に大きな穴をあけたに違いない。翌年4月20日、加瀬は自宅の洗面所で呼吸用のチューブをふさいだ状態で亡くなっているところを発見された。享年74歳だった。「実は亡くなる5日前にご自宅に会いに行ってたんです。その時はお元気で『俺も腰の手術したから、もし加瀬さんが歩けなくなっても背負っていけるよ』なんて言って笑い合ってたんですが、まさかあんなことになるなんて・・・。正直、今でも立ち直れていない部分があります」(島)  加瀬の死後、経営していたライブハウス「ケネディハウス」を受け継ぎ、ワイルドワンズに加入した次男の加瀬友貴(ともたか)は父についてこう振り返る。 現在のザ・ワイルドワンズのメンバーと加瀬の次男の友貴さん(右端)  「仕事でもプライベートでも、常に自分がワクワクできるなにかを探していました。子供の僕にたびたび『最近はどんな音楽やファッションが流行ってるの?』と尋ねてきて、その情報をちゃんと自分のものにしている柔軟な人でした。音楽やプロデュース業について『2歩先だと早すぎる。1歩先だとすぐ追いつかれるから1歩半くらい先に進んでるのがちょうどいいんだよ』と言っていたのが印象に残っています。亡くなってしまったことは残念ですが、今は残ったオリジナルメンバーと共に前向きに活動を続けてゆき、父の思いと音楽を後世に受け継いでいきたいと思います」  現在、YouTubeやTikTokなどのSNSでは10代、20代の若者を中心に昭和ポップスのリバイバルが起こっており、そこでは加瀬が奏で、プロデュースした楽曲たちも大きな人気を集める。身体は滅びても、時代を超えて音楽が残る……ミュージシャンとしてこれほどの幸福が他にあるだろうか。常に絶妙なバランス感覚で時代を先んじてきた加瀬の精神、人としてのありようは、今後の音楽人やクリエーターにとっても大きなヒントとなるに違いない。 (一部敬称略) ザ・ワイルドワンズのメンバーと筆者(中央) 中将タカノリ(ちゅうじょう・たかのり)/シンガーソングライター・音楽評論家。2005年、加賀テツヤ(ザ・リンド&リンダース)の薦めで芸能活動をスタート。昭和歌謡、アメリカンポップスをフィーチャーした音楽性が注目され、楽曲提供も多数手がける。代表曲に「雨にうたれて」など。2012年からは音楽評論家としても活動。数々のメディアに寄稿、出演し、近年の昭和歌謡ブーム、平成J-POPブームに寄与している。今年5月10日にキングレコードから橋本菜津美とのデュエットシングル「夜間飛行~星に抱かれて~」リリース。
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週刊朝日 2023/06/06 15:00
松下洸平「このワンシーンで人生が変わるかもしれないと思って臨んでいた」 心の支えと36歳の現在地
松下洸平「このワンシーンで人生が変わるかもしれないと思って臨んでいた」 心の支えと36歳の現在地
ドラマ撮影の合間を縫って、スタジオに到着。シックなスーツ姿に、写真家・蜷川実花も「かっこいいね」と声をかけた[撮影/蜷川実花、hair & make up KUBOKI(Three PEACE) styling 丸本達彦 costume EMPORIO ARMANI]  ドラマ、映画、バラエティーにエッセイの執筆。加えて、一昨年には歌手として再デビューを果たした松下洸平さん。才能の露出が多方面に広がり、注目と評価が高まる今の心境とは。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  * ――自らを表現するメディアが多方面に広がっているが、どんなに忙しくなっても、優しく実直な人柄にブレがない。 松下洸平(以下、松下):2019年のNHK連続テレビ小説「スカーレット」に出演させていただいて以降、仕事の量が変わりましたが、最終的に僕がやることは、芝居をすること。そこはずっと同じですし、周囲のスタッフは駆け出しの頃から僕を知っている人ばかりで、特別扱いされないことも、ブレずにいられる理由ですね。  多くの人に見ていただいているということを意識するようになりましたが、一方で、良い意味で力の抜けた部分もいっぱいあるんですよ。今までは、ひとつひとつの現場で、それがどんなに小さな役であっても、どんなに短いシーンであっても、どこにチャンスが待っているかわからないという思いが強くて。それはそれはもう、ぐわーっと全力でやってました。常に「このワンシーンで人生が変わるかもしれない」と思って臨んでいましたから。それが今は、もうそんなに力む必要はない。決して傲慢な意味ではなく、自分で言うのはおこがましいのですが、多少なりとも自信がついたということだと思います。  力の抜けたお芝居とは、より生身の人間に近づいていくことでもあるので、勇気がいるんですけど、ここまでやってきた自分の蓄積を信じなくてはいけないなと思っています。 ドラマ撮影の合間を縫って、スタジオに到着。シックなスーツ姿に、写真家・蜷川実花も「かっこいいね」と声をかけた[撮影/蜷川実花、hair & make up KUBOKI(Three PEACE) styling 丸本達彦 costume EMPORIO ARMANI] ■あの10年があったから  バラエティーは本当に楽しませてもらっています。先日は、大ファンだったジャルジャルさんとの共演が実現しました。好きな芸人さんとのお仕事は、僕にとってご褒美みたいなもの。ゲラなのでずっと笑ってますね。 ――2008年、21歳で「洸平」名義でCDデビュー。その後、俳優の道に進み、「スカーレット」に出るまでの約10年間を生き抜いたことが、今の支えとなっているという。 松下:あの10年がなかったら、僕は今ここにいません。思うようにいかない時期もありましたが、この仕事を続けたいという気持ちがあったし、何よりもその先にある成功を信じていました。いつかきっと光は差す、だから、やめないようにしなきゃ、と。具体的に出たい番組や共演したい方の名前、こんな仕事がしてみたい、と口に出してきました。言霊だけでやってきたわけじゃないですけど、とても大事なことだと思っています。 AERA 2023年6月5日号  もう終わってしまいましたが、ずっと「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出たかったんですよ。僕、ミーハーだから、旬な人が出るような番組に出たくて(笑)。タモリさんの横に座っている自分を想像してましたね。それと笑福亭鶴瓶さんがMCを務める「A-Studio+」。こちらは21年12月に念願叶って出演させていただきましたが、よく家でひとりで「今夜のゲストは松下洸平さんです」と言ってくれている場面を妄想してました。  もうひとつは「アナザースカイ」ですね。「ここが僕のアナザースカイ」と言うシーンをすでに何回も練習してますよ(笑)。トーンを変えながら、この言い方がいいかな、いや違うな、とか。僕のアナザースカイはどこか? それは、いつか番組に呼んでいただけるかもしれないから、まだ内緒です(笑)。 ■生身の自分に近い言葉 ――一昨年は「松下洸平」としてCDデビュー。全国ツアーも回った。 松下:お芝居の道に進んでからも、ずっと曲は書いてました。でも、書いても書いてもリリースできるわけはなくて。年に1回、ファンとの交流イベントで歌う機会があって、その時にお披露目するだけ。リリースできなくても形に残しておきたくて、自分でスタジオを借りて、自分でカメラを回し、家で編集して、YouTubeにアップしていました。今は発表できる場があることに感謝しています。  音楽をやっている僕は、自分の言葉を紡いでいる分、より生身の自分に近いんです。だから、自分勝手にならないよう、線を引いて、聴き手のことを考えながら曲づくりをしています。昨年末のライブでは、専門学校時代の信頼できる仲間と一緒にステージに立つことができ、ファンの存在を近くで感じることもできました。自分がどれだけたくさんの人に支えられて生きているかがよくわかりました。  歌手として再始動してまだ2年。俳優として芽生えたちょっとばかりの自信が、まだ音楽をやっている自分には備わっていないので、今後はそこを養っていきたいなと思っています。 ――幼い頃から、興味のあることにはとことん没頭するタイプだった。「歌手」という夢を見つけた時には、自信に加えて、迷いもあったという。 松下:歌手になろうと思ったのは、高校生の時です。美術科に通っていましたが、当初は進路が明確に決まっていませんでした。幼い頃から楽しいと思うことにしか目を向けないタイプで、中学から始めたダンスに引き続き没頭したり、友だちと遊んだり。心のどこかで自分の将来を探していた時、映画「天使にラブ・ソングを2」を観て、「これだ、歌手になろう」と。あの瞬間、どこからやってきたのか全くわからないですが、なんの根拠も無い己への絶対的な自信がありました。  もちろん絵を描くことも好きでしたし、美術の仕事ができればいいなとも思っていました。でも、そのためには大学受験をして、より専門的なことを学ぶ必要がある。……僕、勉強ができなくて(笑)。いま「映画を観て歌手を志した」と言いましたけど、オブラートに包まずに言ってもいいですか?(笑)。勉強よりもうちょっと楽しいことないかな、という思いがずっとあったところに、歌手という夢を見つけたというのが正確ですね。 「歌手になる」と母に伝えたら、びっくりしてました。母自身が、美術関連の仕事をしていて、自分のスキルでお金を稼ぐ大変さをよくわかっていたので、止めたかったんでしょうね。「なにか他にやりたいことないの?」と誘導尋問のように何度も言われました。 ■キャッチボールしたい  母から盲導犬の指導員の仕事をすすめられて、実際に見学に行き、迷ったこともありました。今でもたまに考えます。あの時、動物関係の道に進んでいたら、どんな人生だったのかな、と。  最終的に、やっぱり歌手になるための専門学校に行くと決めた時には、母はもうあきらめていて、「頑張りなさい」と言ってくれていました。専門学校に通った2年間は、もう本当にフリーダムでしたね(笑)。夢だけでおなかいっぱいで幸せで。これまでの人生で一番楽しかった時期かもしれないです。 ――今年8~9月、こまつ座40周年(第2弾)第147回公演「闇に咲く花」では伝説のエース投手として舞台に立つ。多方面で才能を発揮しているが、球技は苦手だ。キャッチボールができないという。 松下:井上ひさしさん原案の作品は「木の上の軍隊」「母と暮せば」をやらせていただきましたが、井上さんの戯曲は今回が初めて。太平洋戦争が終わって2年。飢えや悲しみがまだ消えない日々を生きる父親と、英霊として戻ってきた息子の会話劇です。演出の栗山民也さんとは10年以上前から一緒にやらせていただいていて、僕にとっては原点に返れる場所。成長を見ていただくというよりは、ここ数年で経験したことを武器にせず、何もない自分でぶつかって、「お前は変わらないな」と言ってもらいたいですね。  エース投手を演じますが、僕はキャッチボールができなくて(笑)。ボールを投げることはできますよ。どこに飛んでいくかわからないというだけで。そして、こちらに飛んできたボールは、キャッチする前に反射的に避けてしまう。今回は野球をするシーンはないのでよかったです(笑)。  でも、これを機に、ちゃんと練習しようかなと思っています。やっぱり、キャッチボールくらいはできないと(笑)。共演する浅利陽介くんは球技が上手なので、教えてもらう予定です。これまで番組の企画で何度か球技をして、お恥ずかしい姿を散々さらしてきましたが、それも今年で見納めになっちゃうと思います。たぶん、ですけど(笑)。 ■いつかは幸せな家庭を ――9月には映画「ミステリと言う勿れ」の公開も控える。その先もスケジュールがびっしり埋まっているが、思い描く未来とは。今年36歳。そのプライベートにも注目が集まる。 松下:映画では菅田将暉さんと初共演しました。淡々とすごいことをやってのける人でしたね。長いセリフが多かったですが、ミスが全くない。裏でとても努力されているんだろうな、と。年齢的には僕のほうが上ですが、学ばせてもらうことばかりでした。  菅田さんはご結婚されていて。僕もいつかは、とは思っています。「結婚しない」と決めていることはないですね。最近は周囲の友達がどんどん結婚していきます。焦りは別にないですけど、将来自分にとって理想的な家庭を築けたときのイメージをしたりすることはあります。妄想や想像は得意なんで(笑)。  30代半ばになり、少し遠い未来に思いを馳せることも増えました。昨年、ドラマ「アトムの童(こ)」でご一緒した風間杜夫さんが、撮影が深夜までかかった時にポツリと「オレ、明日2回公演なんだよ」とおっしゃって。連ドラと舞台を縫っておられるわけですが、それって20代の発言じゃないですか(笑)。バイタリティーあふれる姿を見ながら、自分が70代になった時、果たして同じことができるだろうかと。僕は最終的には、静かなところでのんびりと暮らしたい。  どのお仕事も好きなことなのですが、常に「自分にできるのか?」と問いかけながらやっていきたいと思っています。キャパを超えて無理してしまうと、体調を崩すなど周囲に迷惑をかけることにもなりかねません。この先も、いただいたお仕事と自分自身に丁寧に向き合っていきたいなと思っています。 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月5日号
じゅうにんといろ松下洸平
AERA 2023/06/05 11:00
動物虐待動画の背景に“快楽”と“承認欲求” エスカレートする恐怖とは
野村昌二 野村昌二
動物虐待動画の背景に“快楽”と“承認欲求” エスカレートする恐怖とは
残酷な動物虐待動画を見て精神的苦痛を受けたとして、動画をネットに投稿した男を訴えている女性。「私たちの訴えが、動物虐待動画を規制するきっかけになってほしいと思います」(撮影/編集部・野村昌二)  犬や猫を虐待する動画の存在が問題になっている。動画を見て心に深い傷を負う人もいるが、投稿を規制する法律はない。動物虐待動画に対する法規制を求める声が高まっている。AERA 2023年6月5日号から。 *  *  *  あまりの非道な行為に目を背けた。  2016年3月から翌17年4月にかけ、埼玉県の元税理士の50代の男が投稿したものとみられる動画だ。男は自ら猫を虐待する様子を撮影し、インターネットの匿名掲示板に投稿していた。17年8月、男は猫13匹を虐待し死傷させたとして動物愛護法違反容疑で警視庁に逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。だが、男が投稿した動画は拡散し、今もネット上に残る。  犬や猫の動画は人気コンテンツのひとつだ。だが一方で、犬や猫を虐待する動画も存在し、問題となっている。  今年3月には、猫の虐待動画をネット上に公開していた広島県の20代の男が、動物愛護法違反の疑いで逮捕された。 「無法地帯です」  俳優で公益財団法人「動物環境・福祉協会Eva」理事長の杉本彩さんは、ネット空間における虐待動画について、そう指摘する。  犬や猫などをみだりに殺したり傷つけたりした場合、動物愛護法によって5年以下の懲役又は500万円以下の罰金が科せられる。昨年1年間に全国の警察が動物を虐待したとして動物愛護法違反で摘発した事件は166件と、10年前の約6倍。166件のうち猫が91件、犬は53件で、犬猫で約9割を占める。だが、動画を撮影・投稿すること自体を規制する法律はない。文字通り「枠の外」だ。 「いくら削除されても、動画を動物虐待の愛好家がダウンロードし、コレクションとして持っていて、見たくない人の目にも触れさせるために掲示板に貼りつけることもあります。そもそも、一度アップされた映像をすべて削除するのは不可能です」(杉本さん)  杉本さんによれば、虐待動画を投稿する年齢層は幅広く、中学生もいるという。投稿者の目的について杉本さんは、「快楽と承認欲求にある」と話す。 「同じような感覚を持っている、愛好家たちから承認されたいという承認欲求です。内容が残酷であればあるほど、愛好家の間で注目され、『カリスマ』のように扱われます。それが心地よく快楽につながり、動画の内容がさらにエスカレートしていくこともあります」 AERA 2023年6月5日号より ■“残虐な動画”見るうちにエスカレート  このような動画は、見た人にどのような影響を与えるか。それを考えさせられる事件が起きた。  3月、埼玉県戸田市の中学校で男性教員が刃物で切りつけられ負傷する事件が起きた。殺人未遂容疑で現行犯逮捕されたのは、高校生の少年。少年は「誰でもいいから人を殺したかった」「“残虐な動画”を見ているうちにエスカレートした」などと供述。少年がどの動画を見ていたかは不明だが、事件前月、戸田市に隣接するさいたま市で切断された猫の死骸が相次いで見つかった事件への関与も認めているという。  重大事件の予兆として、動物を虐待するケースは少なくない。  犯罪心理学が専門の東洋大学の桐生正幸教授は、「動物への虐待が人間に向かうのは稀」だとして、こう述べる。 「ただし、動物への虐待行為が、先天的に自分の感情をコントロールできないなどの生物学的要因に加え、幼少期に親から虐待を受けるなどして精神的苦痛を抱えている動機の場合、エスカレートすることがあります。そして、動物では満足できなくなり、虐待することで性的な興奮に結びついたりするとブレーキが利かなくなり、対象が人間に向かうと考えられます」 “残虐な”シーンは、視聴者の心理にどのような影響を与えるのか。発達心理学が専門の法政大学の渡辺弥生教授によれば、暴力シーンや攻撃シーンを見ると攻撃的な行動が高まることは、1960年代から海外の研究でよく知られているという。 「『モデリング理論』と呼ばれるもので、人だけでなくアニメのキャラクターなどモデルとなる他者の行動を、観察し真似をしながら学んでいくというものです。例えば、暴力シーンで、モデルが動物に残酷な行為をしている場面を観察するだけで、同様の行動を真似る可能性が高くなります。ただし、これは攻撃行動だけではなく、思いやりの行動についても当てはまり、他人の行動を観察するだけで学ぶことができるという考えです」  さらに、暴力シーンが攻撃行動を喚起する理論に焦点を当てると、ストレスとの関係も指摘されているという。嫌なことなどがあったりしてストレスを感じると、アドレナリンダやコルチゾンというホルモンが分泌されたり脳の扁桃体が興奮したりする。本来、人間が生きていくために必要なホルモンだが、慢性的に生理的に不安定な状態が続くと、自制心が揺らぎ、ネガティブな感情が喚起され攻撃的な行動に出る場合があるという。 ■ショックで眠れない日も、損害賠償を請求  また、最近の研究では、普段体験できない生々しい体験をしてみたい、新しい刺激を求めたいという刺激希求性が強いかどうかということや、仮想空間でストレスを発散できるということが、暴力的コンテンツの好みと関係することも報告されていると話す。 「虐待動画の影響を受けるのは、その人の道徳性やパーソナリティー、家庭や学校環境などバックグラウンドによるところも大きいです。ただ、適切な規範意識や社会的経験が十分獲得されておらず、さまざまな問題でストレスを抱えている10代未満に影響しやすい傾向はあると思います」(渡辺教授)  動物が苦痛を受けるシーンを見て、心に深い傷を負う人も少なくない。 「あの場面がフラッシュバックして、夜、眠れない時があります」  東日本に住む女性はそう話す。  自宅で猫を飼っている女性は数年前、ユーチューブで猫の動画を見ていると、関連動画として猫が虐待されている動画が上がってきた。冒頭の元税理士の男が投稿した動画だった。  女性はショックで体調を崩し、仕事にも行けなくなった。精神科に行くと、抑うつ神経症と診断され、この動画を見たのが原因と考えられると言われた。  今も女性は、猫が怯え、鳴き叫ぶ様子が頭から離れない。ユーチューブを見ることもできず、眠れない日もある。通院し、抗うつ剤を飲みながら暮らしているという。  20年11月、女性は、元税理士の男が投稿した虐待動画を見て精神的苦痛を受けた女性計6人で、さいたま地裁に660万円の損害賠償を求め提訴した。女性は訴える。 「被告の男は、自分の欲求だけで虐待動画をアップし、その動画を見た人がどうなるかも考えていませんが、その神経が全く理解できません。私たち原告は意を決し表に出ましたが、日本全国に虐待動画を見たことで心を痛め、精神的苦痛を受けている人はいっぱいいると思います。私たちの訴えが、動物虐待動画や残虐な動画を規制するきっかけになってほしいと思っています」  今年3月に開かれた本人尋問で被告の男は、原告らが閲覧したのは第三者が加工し、転載した動画だと説明。原告らの損害については「責任を取りかねる」と因果関係を否定した。  これに対し、原告代理人で動物愛護なども扱う竹村公利(きみとし)弁護士はこう話す。 「インターネットに動画を上げれば、第三者が拡散し、それを見た人が被害を受けるであろうということは当然予測できたはず。原告の損害は法的に賠償されるべきです」  竹村弁護士は、罰則規定を設けた動物虐待動画に対する法規制の必要性を提唱し、動物虐待動画等規制法の「素案」をつくり、動物愛護団体と共に国会議員などに働きかけを進めている。 「動物虐待動画を見た人に精神的障害をもたらしたり、青少年の成長過程に大きなダメージを及ぼしたりすることなどを考慮すれば、早急に動物虐待動画に対して法的規制を設ける必要があります。表現の自由は極めて重要な人権ですが、無制限ではありません」(竹村弁護士)  Eva理事長の杉本さんは、こういった動画は動物虐待として厳正に裁かれるべきだと話す。 「快楽のために動物を殺傷するということは絶対にあってはならないこと。しかし、虐待を愛好している人たちの間では、動物を虐待し殺しても大した罪にならないとなめています。まずは、そう思わせてはいけません」  杉本さんによれば、今まで動物愛護法違反で訴えられたケースで、実刑がついた事例は一例もないという。 「不起訴になった場合は、検察審査会に異議申し立てを行うなど厳正に裁いてもらえるアクションを起こしていく。そうした積み重ねが、動物虐待に対する処分の量刑に影響を及ぼし、動画の投稿を抑えることにもつながっていくと考えます」(杉本さん) (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年6月5日号より抜粋
AERA 2023/06/04 11:00
悩みを吹っ切った壮大な自然、網走沖の流氷群 エステー・鈴木貴子社長
悩みを吹っ切った壮大な自然、網走沖の流氷群 エステー・鈴木貴子社長
いま「エアビズ」と呼び香り分野に力を入れる。自宅や職場だけではなくホテルや病院のロビー、駅の待合室などに流す居心地のいい香りで、社会を変えたいと思う(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年6月5日号の記事を紹介する。 *  *  *  1986年2月、日産自動車の海外事業本部で中南米への輸出営業の担当だったとき、同じ部署の1年先輩の女性と2人で北海道網走市へいって、海岸から流氷群を観た。24歳になる直前。大自然が創る壮大な風景に、心の中にあったもやもやは、一掃された。  入社して2年目の終わり。自動車は部品から製造工程までが複雑に映り、理解できず、どう販売戦略を立てるべきかで悩んでいた。車好きには程遠く、利用者がどんな気持ちで車を選ぶのか、想像も難しい。「いつか女性に照準を合わせた製品をつくり、長く愛されるブランドにしたい」との目標も、商品もお客も理解できなければ、遠い。「このままここにいて、やりたいことがみつかるのか」との思いが強く、もどかしかった。 ■やりたいことをやりたいように 生まれた貴子流  日常と全く違うところに身を置けば、新たな道がみえるかもしれない。そう思って、先輩を誘い、旅の計画を立てた。岸の近くまで押し寄せた流氷群は、非日常そのものだった。 「日本にも、こんなに大きくて素晴らしい自然がある。自分がくよくよしていることなど、どうでもいいくらい小さいな」  悩みは、吹っ切れた。プライベートで抱えていた問題も、重荷でなくなった。「これからは自分らしく、やりたいことをやりたいようにやろう」と、流氷群を前に心で誓う。これが、ビジネスパーソンとしての歩みの『源流』となった。雪の中にひざまで沈み、オホーツク海を背にした写真は、先輩が撮ってくれた。いまも、携帯電話に収めている。  実は、網走までいくのに、回り道をした。先輩とは羽田空港から別の飛行機で女満別空港へ行き、網走で合流する計画で、先輩は予定通りにいった。自分は出発時間の昼夜を間違え、夕方に羽田に着くと、乗るはずの飛行機はとっくに出ていた。一瞬、「もう終わりだ」と思う。  だが、何としてもいきたい。道があるはずだ、と探した。すると、夜を挟んで仙台経由でいく方法がある。「これだ」と思って上野駅へ向かい、東北本線で宮城県の白石駅にいき、朝を迎えてタクシーで仙台空港へ。女満別空港へ飛び、網走で合流できた。 流氷から「旅」が始まった(写真:本人提供)  最初につまずきながら解決法をみつけ出した時点で、「何だ、私はできるじゃない」とうなずく。その後の人生の基盤になった自信が、身に付いた。  プライベートな悩みからは立て直したが、仕事のほうはそう簡単ではない。ほとんどが、中南米からのテレックスとファクスで注文を受ける作業。攻めることもできないし、市場がみえない。そうではなくて、自分で市場の動きを肌で感じ、売れるものを見いだしたい。ついには新聞の求人広告をみて、女性が主な利用者の商品を手がける会社の仕事を、探すようになる。結局、日産に6年9カ月在職し、90年末に退社した。 ■経歴は要らない 出世など無用 ただ自分の道へ  そこから何度か転職した。立派とされる経歴を築こうという「キャリアビジョン」があったわけではない。出世したいとかトップになりたいと思ったことも、会社を持ってみたいと考えたことも、全くない。思いは一つ、「本当にやりたいと思うことを、やりたい」だけだった。  1962年3月、東京都練馬区で生まれる。父は海軍に入ってビルマへいき、終戦で帰国すると祖父が設立して防虫剤を手がけていたエステー化学工業所(現・エステー)のナンバー2になった。エステーは「Service & Trust」の頭文字からとった社名だ。父は消臭剤へと事業を広げ、社長となる。母と姉2人の5人家族。地元の小学校から、中高一貫の私立東洋英和女学院へ進んだ。  大学は、上智大学外国語学部イスパニア語学科。言葉を学ぶのが好きで、「自分が社会へ出るころには英語を話せるのは当たり前になっていて、武器にならない」と思い、スペイン語にした。就職では、父に小さいころから「子どもを会社に入れるつもりはない」と言われていたから、それは選択肢にない。日産の求人に、スペイン語を使って海外向けの仕事ができる、と応じた。84年4月に入社し、希望通り中南米担当に配属され、仕事の相手は各国の自動車販売店が中心だった。  男性と同様に、海外出張もした。年に1度くらい、カリブ海のリゾート地などに販売店を集める会合があった。これを企画し、販売店主らに販売計画を説明した。このころまでは、グローバルに働く夢もかない、充実感を覚えた。だが、冒頭で触れたような悩みが生まれていく。 ■叔父に頼まれたブランド構築で父の会社を継承  高級ブランドの外資系企業にいた2009年、父の弟でエステー社長だった鈴木喬氏(現会長)に「デザイン革命を手伝ってくれないか。コンサルタントになってほしい」と誘われる。4月に1年間の契約を結んだ。だが、「外様」の参入に壁は厚い。例えば販促担当マネジャーと話したくても、「忙しい」の一点張りで会ってくれない。みかねた叔父が相手に面談を促してくれて、ようやくデザイン革命のチームが動き出す。  芳香消臭剤などエステーの商品の購入者は、8割が女性だ。小さくて洒落たデザインの商品を好む女性も、多い。大きくて安い徳用品にも需要はあるが、容器の色も形も目立ち過ぎで、手を伸ばしにくい女性もいるはずだ。そうチームに説いたが、みんな、長く続けてきた路線はなかなか手放せない。  でも、諦めない。『源流』が背中を押す。舵を切り直し、二つの働きかけを始めた。まず、名の通ったデザイナーに見本をつくってもらい、チームの面々にみせながらデザインの狙いを説いてもらう。自分は言いたいことがあっても、黙って議論を聞く。もう一つは、チームの士気を高めるため、発言に「変化球」も混ぜた。何かいい点があれば、本人が驚くほど褒めた。  このころ、叔父に「社内に入ってみたらどうだ」と誘われ、翌10年1月に入社。「社外」の人間に立ちはだかる壁を「身内」になって突き破る決意だった。4カ月後、化学反応が始まり、デザインが納得できる新商品が生まれた。いきなり爆発的に売れることはなかったが、その延長で高付加価値を考えた製品も成功する。  13年4月、社長に就任した。叔父に打診されたとき、いったん断ったが、相手は聞く耳をもたない。当時は業績が停滞し、利益が落ちていた。「他の人がやってうまくいかなかったら、取り返しがつかないほど後悔するな」と思い直し、1週間で受けると答える。貴子流で言えば「自分が上向きにしてみせる。これは、やりたいことにぴったりだ」と思ったからだ。  在任10年、この6月20日に会長になる。社長になったとき、メディアに「どんな社長を目指しますか」と聞かれたが、「そんなの、やってみないと分からない」と答えた。今度も同じ。でも、本当にやりたいことを、やりたいようにやる。その貴子流は、別の道で続く。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年6月5日号
AERA 2023/06/03 19:00
沢田研二、元マネジャーが語る「美の表現者に目覚めた」瞬間
沢田研二、元マネジャーが語る「美の表現者に目覚めた」瞬間
「ジュリーはこれからも輝き続けます」と語る森本さん(撮影・中将タカノリ)  1970~80年代、芸能界の頂点に君臨したジュリーこと沢田研二の75歳のバースデーライブが注目されている。さいたまスーパーアリーナの“リベンジ公演”を前に、元マネジャー、森本精人さんにスーパースターの魅力の神髄を聞いた。 *  *  *  ここ数年、ライブツアーを活動の中心とする沢田研二。バースデーライブは、興行主との集客に関する契約トラブルで“ドタキャン”せざるを得なかった2018年のリベンジ公演となる。今回は既に2万枚以上のチケットを完売。折からの昭和歌謡ブームで、往年のファンのみならず若者からも熱いまなざしを浴びる沢田の、衰え知らずの人気の秘密とはいったい──。 中将タカノリ(以下、中将):初めて沢田さんと会った時の印象は? 森本精人(以下、森本):ジュリーを初めて見たのは、学生時代にニッポン放送でアルバイトしてたころ。まだザ・タイガースで、明治製菓がスポンサーの番組に出演していた時でした。芸能人は見慣れていましたが、ほかの人にないオーラを感じたのを覚えています。 中将:その後、森本さんは渡辺プロダクションに入社されるわけですね。 森本:はい、僕が入社したころにタイガースが解散。はじめザ・ピーナッツのマネジメントを担当したんですが、ほどなくジュリーの担当になりました。 中将:身近に接した沢田さんはどんな方でしたか? 森本:過密スケジュールだし、「ザ・タイガースを超えたい」というプレッシャーを感じていたのか、少しエキセントリックな部分がありました。コンサートで演出のタイミングがずれたりカーテンから灯りが漏れたりすると、激怒してマイクを放り投げて帰ってしまったりね。ファンの女の子たちは泣いてましたよ。完璧を目指すが故にスタッフに対しても厳しい。でもなぜかみんなジュリーのことが大好きなんです。これは実際に接した人でないとわからない感覚かもしれません。僕にとってもすぐに神様のような存在になりました。 中将:厳しい人だったとは聞きますが、沢田さんを悪く言う人はあまりいません。 森本:プロデューサーの加瀬邦彦さん、バンマスの井上堯之さん、作家さんたちもみんなジュリーのことが大好きでした。表現者としての欲求もあっただろうけど、損得を超えた不思議な魅力があるんですね。人柄の良さでしょうか。安井かずみさんの「危険なふたり」(1973年)なんて個人的な願望が含まれてたかもしれません(笑)。 中将:森本さんがマネジメントを担当したのは82年のシングル「麗人」のころまで。約10年間を振り返って印象的だったことは。 森本:いくつもありますが、「危険なふたり」のころ、加瀬さんが早川タケジさんを連れてきてからの変化はすごかったですね。スタイリストの範疇(はんちゅう)を超えて、アートディレクターとしてジュリーのビジュアル観を提案してくれました。それを受けて、それまでメイクが好きじゃなかったジュリーも美の表現者として目覚めたんですね。 「勝手にしやがれ」(77年)でレコード大賞を獲ったのもすごくいい思い出です。そしてその後、「もう一度ジュリーにレコ大を」とみんなで奮闘したのが「TOKIO」(80年)。年が明けてすぐ生放送で披露して元旦にリリースするというプロモーションも素晴らしいし、衣装や楽曲もいい具合に時代の先を行ってたんじゃないでしょうか。あんな大掛かりなセットでテレビ局は大変だっただろうけど、現場のスタッフたちはみんな面白がってくれました。  当時はテレビが面白いことを追求していた熱い時代。演出ひとつにしてもいろんなキャッチボールがあって、たとえば「サムライ」(78年)の時にスタジオで50枚の畳を敷いた上で歌う有名なシーンは「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)でディレクター、プロデューサーだった疋田拓さんのアイデアでした。実はジュリーは初め「西洋的な『サムライ』の歌なのになんで畳なんか……」と嫌がってたんですが、「嫌だったら外すからとにかく一度見てくれ」と。演出の方たちがジュリーと勝負してくれたいい時期でした。誰もやったことがない表現をみんなで実現していったあの快感は忘れられませんね。 芸能史に燦然と輝くジュリーのヒット曲 中将:森本さんが担当した期間は沢田さんがまさに絶頂に駆け上がる時期ですが、トラブルもありました。 森本:うん、やっぱり暴力事件で謹慎した時はつらかったですね。2回あったけど僕が居合わせたのは76年5月の「いもジュリー事件」。僕が新幹線で荷物を下ろしてる隙に「ジュリーがケンカしてる」ってなって、あわてて駆け寄ったら男が「こいつが殴りやがった」なんてわめいてる。聞けば、通りすがりに「いもジュリー」と言われついカチンときちゃったということで。もちろん手を上げちゃいけないんだろうけど、正義感の強い人だから理屈に合わないことをされたら黙っていられないんですね。1回目は僕はいなかったけど、あれも駅の職員がファンを「チャラチャラしやがって」となじったのをとがめたんでしょう。  いろいろありましたが、若い時にジュリーの仕事をさせてもらったおかげで、マネジメントの仕事は目をつぶっていてもできるくらい自信を持つことができました(笑)。 中将:沢田さんは85年に渡辺プロから独立しますが、特に2000年代以降の変化は大きいですね。 森本:反戦や反原発を歌うようになるとは思ってもみませんでしたね。渡辺プロのころはそういう主張は絶対NGだったんだけど、坂本龍一さんがそうだったように、ミュージシャンがメッセージを発信するのは当然のこと。自由になってそういうことに挑んでみたくなったんじゃないですかね。 中将:近年の沢田さんをどう思われますか? 森本:去年の映画「土を喰らう十二ヵ月」は今の素のジュリーの魅力が出ていていいなと思いました。さいたまのライブも素晴らしいと思いますし、若者からも注目されてると聞いてなるほどなと。力を抜かない全力のライブパフォーマンスや、頑なゆえににじみ出る人間的な魅力がそうさせるんじゃないでしょうか。でも僕からしたらそういった根本の魅力は昔と変わっていません。まだまだずっと活躍できる方だと思っていますし、そうであってほしいですね。この間も文春さんの取材に答えた後、「知りもしないことをベラベラしゃべるんじゃねえよ!」と笑いながら叱られたので、また叱られなきゃいいけど(笑)。 ◇  誰よりも身近で苦楽を共にした者だからこそわかる沢田の今。年を経ても“不変”のスターが織りなす極上の表現をこれからも長く楽しみたい。 (一部敬称略)(中将タカノリ)※週刊朝日  2023年6月9日号
森本精人沢田研二
週刊朝日 2023/06/03 16:30
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
岸部一徳かく語りき 瞳みのるとの和解、そして自身の「終わり方」
撮影/写真映像部・高野楓菜  芸事が好きだった父、熊本への夜逃げ、弟・四郎の不遇──。自分について考え続ける日々のなかで到達した境地。それは俳優としての代表作「死の棘」での小栗康平監督の教えとも繋がっていく。寄る辺なさに留まり続けること、そして自分自身の「終わり方」。いま、岸部一徳さんが考えていること。本誌編集長が聞く独占インタビューの第3回。 *  *  *  岸部には兄弟が多い。「全部で10人くらいいるんです。僕は男では下から2番目」  1969年、加橋かつみ脱退後のザ・タイガースに加入した四郎は、すぐ下の弟だ。  生まれ育ったのは京都市、京都御所の西側。父親の徳之輔は戦前、職業軍人だった。47年生まれの岸部に父親の現役時代の記憶はない。 「親戚の人に聞いたら、軍服で馬に乗って部下も付いて、京都の真ん中をばーっと行って、ちょっと知り合いのところに寄ったり。背も高くて格好よかったようです」  謹厳で頑迷な父親像が浮かんでくるが、 「全然違いますね」  公職追放も影響したのだろう、戦後は定職に就かなかった。  賭け事が好きで借金も多く、一家は常に経済的に逼迫(ひっぱく)していた。小学1年の時、伯母を頼って熊本へ夜逃げしたことを覚えている。  質草になる布団は、2階から母や岸部たちが階下の兄たちに投げて宙を舞った。小学校は4回転校した。  だが、岸部の父親への視線は温かい。 「趣味が多くてね、あれもこれもちょっとずつ好き。よく言えば面白くて子どもには好かれる父親でした」  明治生まれにして英語も少しばかり操った。碁は小学生のころからプロ棋士を目指して鍛えたという腕前で麻雀も強い。松竹新喜劇に足繁く通い、歌舞伎や新派も大好き。興が乗ると子どもたちに台詞を諳(そら)んじてみせた。浄瑠璃にも明るい。読書家で家には菊池寛をはじめ初版本がたくさんあった。酒は飲まない。 「芸事が好きなんだよね。だから僕が東京行くって時はうれしかったんですね。先頭立って親のまとめ役をやってました。まあ、ひょっとしたら子どもが人気者になれば自分も何かこう、楽しくなるのかもと思ったのかも(笑)」 岸部(右)と岸部の父(右から2番目)写真提供=(株)アン・ヌフ  骨董や美術品の目利きでもあった。 「買えるわけじゃないけど、でも、そういうものが好きっていうのは、弟(四郎)に行ったんだろうね」  3学年下の弟・四郎。69年3月、加橋かつみの脱退を受けて急遽遊学先の米国西海岸から呼び戻され、一夜にして日本一の人気者の一員になった彼もまた、ザ・タイガースによって大きく人生を変えられた一人だ。  71年のグループ解散後、飄々(ひょうひょう)とした佇まいと軽妙な話術で人気タレントとなり、ワイドショーの司会も長く務めたが98年、5億円に上る借金で自己破産し番組を降板。以降は不遇の日々が続いた。  2003年、脳出血に倒れ、後遺症で視野狭窄に。07年に愛妻が急死した。12年には身を寄せていた千葉の姉の家で、夜中にトイレに行った際に転び大腿骨を骨折。リハビリ病院を経て移った県内のグループホームへ、岸部はよく見舞いに訪れたという。 「身の回りの世話は一回り上の姉たちがよくやってくれた。僕も月に何度か行ってたかな。お年寄りに交じって体操を一緒にやったりして」  四郎は典型的な末っ子で淋しがり屋だった。 「何かあっても『誰かが何とかしてくれるやろ』と思うタイプね。リハビリも、もうちょっとがんばってほしかったんだけど……。でも、暗くなりすぎないのは性格だよね。僕が行っても、話すよりおみやげを気にしたりして。わらび餅なんか小さく切ってやると『おいしい』なんて言ってね。ただ、最後のほうは、食べることもできなくなった。それからの衰弱が早かったですね」  20年8月28日、四郎は旅立った。享年71。 ■苦手なことがあってもいい  岸部が今回のインタビュー依頼を受けたのは、本誌の休刊という節目に「そろそろ自分のことを話してもいいかな」と思ったからだという。普段はテレビのバラエティー番組はおろかインタビュー番組にも出ない。取材はほぼ新作映画の公開時に、雑誌や新聞など活字メディアに絞っているのだという。 ザ・タイガース。沢田研二(右)、岸部(左)写真提供=(株)アン・ヌフ 「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。 「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」  音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。 「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」  それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。  俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。  動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。 ■人生後半戦の坂どう下っていく  岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。  政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。 タイガース解散間近の岸部、自宅付近にて 写真提供=(株)アン・ヌフ  芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。  この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。 「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」  岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。 「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」  18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。 「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」  それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。 「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」  岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。 「笠智衆さんは『僕は電車のあるうちは鎌倉から通うんです。それが健康法です』とおっしゃって、送り迎えは断っていた。希林さんも『社会生活ぐらいできなくてよく俳優なんてやってられるわね』と」  最近、岸部は自分自身の「終わり方」も考えるようになったという。  京都時代からの生き方、たとえば、しゃべるよりも人の話を聴き、苦手なものをあえて克服せず、古希を過ぎて少しまるくなった自分。 「それでも、うまく言えないんだけど、たどり着かないなぁっていう。終わりが来た時に、ああいうやり方、考え方でやっぱり良かったんだと思えるかどうかは、また別問題だなと」  俳優になって半世紀。大きな賞も獲った。周囲からは十分すぎるほどの成功に見えるかもしれない。名脇役、いぶし銀と評されることも少なくない。 「でも、良い俳優さんですね、なんて言われると知らないうちに人の評価に自分を合わせようとする気持ちが生まれる。すごいですね、と言われて、自分がすごいと思ってしまったらその『すごい自分』に合わせた生活になってしまう。そこがなんとなく僕には合わない。歳を取って、少しずつ仕事が少なくなって、いつの間にか人が忘れてくれるくらいがちょうどいいのかな。でももう少し、好きな人たち、好きな監督と仕事はしたいですけどね(笑)」 「人生百年時代」と言われる。55年に男女ともに60歳代だった平均寿命はそれぞれ20歳近く延び、60~70代を昔のように老年期と呼ぶにはあまりに若い。緩やかに長く続く人生後半戦の坂をどう下っていくのか、若い世代も不安を抱えている。  岸部たち団塊の世代は、未知の時代を走る先頭集団だ。  ザ・タイガースと決別した瞳みのるとは08年、37年ぶりにメンバー同士で元マネジャー・中井国二の仲立ちによって再会、「長い別れ」は雪解けを迎えた。瞳はあの71年1月24日、有楽町のガード下での別離の後、猛勉強を経て大学進学し慶應義塾高校の漢文教諭に転身。定年を前に退職して現在は音楽活動とともに専門である中国語を生かして日中文化交流にも注力している。森本タローが定期的に開くライブはいつも盛況だ。森本のファンだけではない、沢田研二や瞳のファンも、誰もが楽しめる温かい雰囲気で溢れている。 「死の棘」がカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、記者会見する小栗康平監督(右から2人目)と主演の岸部(左)=1990年5月 写真提供=(株)アン・ヌフ 「タローは11月で喜寿(77歳)。12月には喜寿になって初のライブを考えていて、内容もいつもと少し違うみたいだし、楽しみだよね」  同じく音楽活動を続ける加橋かつみも4月、「THE G.S栄光のグループサウンズ」公演で元気な姿を見せたという。  6月25日は岸部と森本、瞳が参加する、さいたまスーパーアリーナでの沢田研二75歳“バースデーライブ”だ。6月に入れば、メンバーそろってのスタジオ練習が始まる。 「音楽はね、楽しい。(ザ・タイガース再結集は)13年でもやっているんだけど、しばらくベースから離れていて、練習するとまた弾けるようになる。そうするとやっぱり僕は音楽少年だったんだなって」  考えてみれば、ザ・タイガースのメンバーが集まってやれるのは最後かもしれない。願わくば、加橋にも参加してほしかった。でも、電話しても出ないから、そっとしておこう。 「タイガースのメンバーと出会えて良かった。うっかりしたら、良い俳優を最後まで通そうとか、そんなことになっていたかもわからない」  岸部はいま、そう思っている。(了/敬称略)(本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月9日号
岸部一徳
週刊朝日 2023/06/03 12:00
【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」
【追悼】上岡龍太郎さんが生前語った“隠居の極意”「食事は一日500円」
流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した  元タレントの上岡龍太郎さんが5月19日、肺がんと間質性肺炎のため死去した。81歳だった。  上岡さんは1942年、京都市生まれ。60年に横山パンチの芸名で、横山ノックさん、横山フックさんと「漫画トリオ」を結成。68年に解散後は、流暢な語り口でテレビ番組の司会者などとして活躍した。  2000年に芸能界を引退した後は、表舞台にはほとんど表れなかった。週刊朝日は2003年9月、独占インタビューを掲載。当時のインタビューから上岡さんの人生を振り返る。 ※ ※ ※  早いもんで、隠居してから3年ですか。遊んで暮らすのは、これでなかなか忙しいもんでしてね。  歌舞伎、お芝居、落語。神戸ポートアイランドにサザンオールスターズを見に行って、それから比叡山延暦寺の薪歌舞伎は、しつらえがよかったなあ。芝居では風間杜夫の「風のなごり―越中おわら風の盆」。舞台であれだけ三味線弾けるのは、大変なことです。  ゴルフは週に平均3回。9月は、マウイ島でマラソンするので、ジョギングもせなあかんでしょう。夜は女房とカラオケです。  現役時代は街を歩いていても、目で殺すという技術を持ってたんです。声をかけられそうになると、話しかけたらあかんよお、機嫌わるなるよお、いう電波を目で送ってた。いまはだいぶ楽になってきまして、心斎橋なんか歩いても、若い子はもう僕のこと知らんね。にこにこしながら歩けるようになりました。  隠居がこんなにたのしいとは、思いもよらなかったですね。仕事に戻りたい気持ちは、こっから先もないですもん。ましてや大阪市長選に出るんやないかとか、参議院やとか言われるでしょう。とんでもない話で。こんな楽な生活送ってんのに、なんでいまさら責任のある、しんどいことせないかんのかと思う。  隠居のための蓄財ですか?  そらゼロではダメでしょう。でも周り見るとね、ほとんどの人は、たのしい隠居暮らしができるんやないかと思いますよ。  服なんかは、働いているうちに、しっかりしたもんを買こうといたらええんです。スーツでも着物でも、ひとつ、ええもん持ってたら、何年でも着られる。車なんか、もう15年乗ってますが、まだ5万キロしか走ってないしね。お金のあるうちに人生のインフラ整備しとくんです。  家は買わんほうがいいと思う。苦労して建てて固定資産税払うてたら、国に賃料払てるのと一緒です。しんどいローン組んで、銀行のもんで終わる人も多いし。  食べもんは、粗食ほど、うまいもんはないですよ。ご飯とみそ汁、干物に漬物。計算すると一日500円ですむ。現役のころから、ご飯さえ食べられたら、というのがベースにありましたんでね。  仕事に未練がないのは、幸せなことに、もう満喫させてもらったという気持ちがあるんです。  そら「漫画トリオ」はすごかったですよ。でも横山ノックさんがすごかった。僕とフックさんは全然たいしたことない。横山ノックという芸の塊みたいな極彩色の存在を、鵜飼いというか猿回しというか、うまく操縦して、しかも若い僕らが年長のノックさんをたたく。ノックさん、あのときの若さ、社会状況があって、あれだけの笑いが起きたのであって、もう無理です。  僕は最後まで素人なんです。ものすご芸人ぶってる、芸人の擬態をしている素人。それで森繁久彌さんや小泉今日子さんと対談し、立川談志師匠や桂米朝師匠に「オイッ」て言われながら酒も飲めた。中村勘九郎さんと先斗町走り回ったり、片岡仁左衛門さんと韓国キャバレー行ったりもできた。最高に幸せな素人なんです。  18歳で、この世界にポンと入ってね、周りはすごい人ばっかりやったですから。(秋田)Oスケさんの突っ込みなんか見てたら、声の出し方、言葉遣い、迫力、すごいと思いますよ。あんな豪速球は投げられへん、と。  恐ろしいような気持ちも、ある意味でねえ、ありました。夢若師匠(浮世亭夢若、松鶴家光晴と組む)が自殺されたときです。大好きな師匠でね。おんなじ出番やったんです。  それが犬の投資話でだまされて、追い込まれてしもうて。楽屋で聞いてエーッてなってるときに、錚々たる師匠連が言うてるんです。「これがほんまの犬死にかあ」て。これはすさまじい世界やと思うてね、どっかに距離を置く気持ちもあったんですね。  もう、一緒に仕事したいなあと思う人も、あんまりいなくなりました。逆にね、後半、だいぶ感じてましたが、自分との接し方に若い芸人が困っているのがわかるんです。  とくに今田(耕司)と東野(幸治)ね。東京で一緒の仕事があって、新幹線に乗ったら、別の車両やったけど、あいさつに来てくれた。非常に礼儀正しい。  「明日はよろしくお願いします」言うから、「ああ、こちらこそよろしく」言うて。そっから、ほぐれない。どうしよう、何を話したらええんや、いう戸惑いが感じられた。ああ、もう、そうなんやなあと思いましてね。  テレビのバラエティーも変わりました。仲良し同士でしかやらないでしょう。藤田まことさんも言うてましたけど、「てなもんや三度笠」なんか、大変な緊張感があった。仲のいいことはええこっちゃと武者小路実篤も言うてますけど、番組としては、あんまりおもしろくないんですね。会話にも知性がなくなる。  昔の放送の世界には、なるほど、と思わせる会話がありました。菅原通済さんやの石黒敬七さんやの、だれやわからんけど教養あるいうおじんもいましたしね。そういうコメンテーター、ほしいなあ。私? いや私はやりません。  世の中には、おもしろいことがいっぱい転がってますよ。近鉄ファンになったので、電車で大阪ドーム行くと、乗客を見るだけで、おもしろい。あの人は、どんな人生送ってきたんかなあなんて想像すると、小説読むようやないですか。若い子が床にペタンと座ってても、怒るのやなしに、この子はどうしてこうなったんやろ、と考えてたのしむ。  思いどおりにならんことほど、おもしろいんです。「楽しむ」という字と「愉しむ」というのとあるでしょう。楽することを、たのしいことやと思うからいかんのですよ。すべてを愉しむ。苦しい、しんどい、不便、そういうことを選んでやると愉しなります。  たとえばゴルフね、悪いところに行ったわ、池越えなあかんわ、これ打つの難しいわと思うから愉しいんで、いつも楽に打てたらおもしろないでしょう。そもそも王侯貴族の遊びですから、すべてが思いどおりになる人たちが、これは思いどおりにならんと愉しむんですから。  現役の会社員がゴルフするのがわからんですよ。なにも休みの日にゴルフせんでも、会社に行けば、思いどおりにならん愉しみを十分に堪能できるやろ、と。  俳句もそう。ああ、ええ景色やという思いを、五七五で言いなさいというから苦しくて、おもしろい。だから僕は種田山頭火は認めない。  分け入っても 分け入っても 青い山  だからあ、それを五七五で言わなダメでしょ、と。やっぱり松尾芭蕉さんはすごいです。いい句ありました。  蛸壺や はかなき夢を 夏の月  明石あたりでしょうねえ、ツボん中で、夢見てるタコが急にうわあって引き揚げられるんでしょうねえ。ノックさんが、執行猶予があけて選挙に出るいうウワサがあるでしょ。もし本気やったら、この句を贈ったろと思ってます。
dot. 2023/06/02 17:48
漫画家・弘兼憲史「もし自分が入院したら『入院 島耕作』を描きます」 理想の最期とは
漫画家・弘兼憲史「もし自分が入院したら『入院 島耕作』を描きます」 理想の最期とは
「島耕作は隠居しません。僕も最期はペンを持ったまま原稿の前で迎えたいです」と語る弘兼憲史さん。75歳(撮影/写真映像部・高野楓菜) 漫画史に残る大ヒット長期連載「島耕作」シリーズをはじめ、数々の人気作品を生み出した漫画家の弘兼憲史さん。最近は自分の経験を踏まえたシニア向けエッセーが話題となっています。今回は、弘兼さんならではの、一生の仕事と年の取り方について伺いました。 *  * * ■今でも1日12時間仕事をしています 「島耕作」シリーズが始まったのが1983年、今年で連載40周年を迎えました。島耕作も僕も同じく、もう75歳。世間的には後期高齢者と呼ばれる年齢になりました。  昨年“初芝電器産業”の相談役を退任し、島耕作ファンやさまざまな方からは、「次は隠居するだろうか?」とか「ボランティア活動をするのでは?」、あるいは「ユーチューバーになれば面白い」など、ユニークなご意見もいただいていたようです。でも、その予想を裏切って『社外取締役 島耕作』として、僕と同じく現役で働き続けてもらっています。頭も体もクリアで元気な島耕作を引退させるのは早すぎると感じたからです。  僕自身は、20代半ばで家電メーカーを退職して漫画家になり約50年が経ちました。今でも月に70ページ以上のペースで漫画を描き続けています。50代のころまでは、月に170ページほど描いていましたから当時と比べればかなりペースダウンはしていますが、それでも今も週に3回の締め切りがあって、1日12時間くらいは仕事をしているという、相変わらず漫画だけでいっぱいの人生を送っています。  1日のスケジュールは、朝9時に起きてシャワーを浴びてから、ファミレスや喫茶店に行って漫画のアイデアを練ります。これは若いころからの習慣なんですが、誰にも邪魔されずアイデア出しに集中するためです。アイデアを考えている時間というのは、僕にとっては楽しくもあり、苦しくもある“たの苦しい”とても大切な時間なんです。  午後1時くらいに食べるものを買って仕事場に入り、だいたい深夜2時くらいまで仕事をしています。仕事を終えたらワインやビールなどお酒を飲みながらテレビや映画を見て4時くらいには寝る。そんな生活をずっと続けています。  睡眠時間はだいたい5時間ですが、もともとショートスリーパーの傾向があって、年齢とともに夜中にトイレに起きる回数も増えまして……(笑い)、あまり熟睡はできません。その代わり、仕事中も頭が疲れてきたり、まぶたが重くなってきたら、椅子に座ったまま15分ほど軽い睡眠をとっています。サラリーマンだったら上司にどやされるところですが、締め切りさえ守れば怒られることはなく自由なので、そこが漫画家のいいところですね。  こんな生活を続けているうえ、世間的には漫画家は不健康なイメージがあるかもしれませんが、僕はこれまで大きな病気をしたことはないんです。毎年人間ドックで検査を受け ていますが、悪い数値はありません。少し肥満気味ではありますが、自分なりに炭水化物を取りすぎないように注意したり、食べる量も腹七分目くらいに抑えています。  運動は月2~3回のゴルフと、毎朝シャワーを浴びながらのストレッチです。ただシャワーを浴びるだけだと時間がもったいないので、一緒にストレッチもするんですが、スクワットや柔軟など毎朝10分くらいやっています。ゴルフに本当は週1回は行きたいんですが、仕事があって難しいですね。 ■あと何回ゴルフができるだろう?と考えています  桜の季節になると「あと何回花見ができるんだろう?」とか「このうまい寿司を何回食べられるのか?」など、高齢になると、そんなことをふと考えたりしませんか? 僕の場合はゴルフと仕事。自分はあと何回ゴルフができるかな? と考えることもあります。日本人男性の平均寿命が81歳くらいで、健康にゴルフができるのは77歳か78歳くらいまでと仮定すると、月に2回行ったとしても年24回。今入会しているゴルフコースに100回出るには4年以上かかります。ほかのゴルフコースにも行きたいので、100回は難しいかなと思ったり。  漫画家の仕事も定年はありませんので、「何歳まで描き続けるのですか?」と聞かれることもあります。でも、漫画を描くことをやめてしまったら、第一にアシスタントたちが食いっぱぐれてしまうのではないかと心配なんです。みんな50代、60代と、もういい年ですからローンを抱えていたり、養育費がかかったり、それぞれの事情を抱えています。ひとりの漫画家であると同時に、社員を抱えるプロダクションの社長でもありますから、そう簡単に「もうやめた」と言えないものです。  もちろん、漫画を描くのが好きですから、やめてしまったら抜け殻になってしまうのではないかという思いもあります。社長としての責任感と漫画を描くのが好き、この2つが今でも漫画を描いている理由です。万が一、仕事としての漫画をやめてしまったとしても、きっと趣味で漫画やイラストは描き続けるでしょうね。そして月に2、3回はゴルフに行くでしょうし、けっきょく仕事をやめたところでスケジュールはあまり変わりませんね(笑い)。 ■ペンを握ったまま死ねたら本望です  僕には理想の最期があります。それは漫画を描いている途中でペンを握ったまま死ねたら本望ということ。病院のベッドの上でなく、ずっと元気なまま、普段どおりの生活を送り、突然倒れてしまうピンピンコロリが一番だと思っています。まあ、もし長期入院することがあれば、それを生かして「入院 島耕作」を描きますかね(笑い)。  藤子・F・不二雄の藤本弘先生は、家人が「ご飯ですよ」と仕事部屋に声をかけるといつものように返事があったのに、いつになっても出てこないので娘さんが見に行くと、机で漫画を描きながらそのまま突っ伏して亡くなっていたといいます。  僕はその話を聞いて、これこそ理想の死に方だと思うようになりました。好きな漫画を描くことに没頭して、ペンを握ったまま往生することができたらいいなと思っています。だから、そこまで「島耕作」を描き続けることができるのであれば、最終回は、「絶筆」で終わるというのがいいですね。 (構成・文/山下 隆) ※「朝日脳活マガジン ハレやか」(2023年6月号)より抜粋 ひろかね・けんし 1947(昭和22)年、山口県生まれ。早稲田大学卒業後、松下電器産業(現パナソニック)に勤務。74年に漫画家デビュー。「島耕作」シリーズなど数々の話題作を世に出し、のちに映画・ドラマ化される。小学館漫画賞、講談社漫画賞、文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、日本漫画家協会賞大賞、さらに2007年には紫綬褒章を受章。シニアの生き方に関するエッセーも多く手がける。近著に75 歳の今が一番楽しい人生を送れているという弘兼さんが、自らの経験も踏まえてつづった『弘兼流 好きなことだけやる人生。』(青春出版社)など。
島耕作弘兼憲史
dot. 2023/06/02 07:30
阿川佐和子と林真理子が語る“活字対談のよさ”「インタビューが苦手だと思ってた」
阿川佐和子と林真理子が語る“活字対談のよさ”「インタビューが苦手だと思ってた」
阿川佐和子(あがわさわこ)/ 1953年、東京都生まれ。TBS「情報デスクToday」「筑紫哲也NEWS23」「報道特集」でキャスターを務める。以降、作家、エッセイスト、俳優など、幅広く活躍。99年『ああ言えばこう食う』(檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、2000年『ウメ子』で坪田譲治文学賞、08年『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞、14年に菊池寛賞を受賞。近著に『老人初心者の覚悟』『母の味、だいたい伝授』がある。「ビートたけしのTVタックル」にレギュラー出演中。(撮影/写真映像部・東川哲也 編集協力:一木俊雄) 「週刊朝日」で28年間続いた、林真理子さんの対談企画「マリコのゲストコレクション」。最後のゲストは、「週刊文春」で対談をされている阿川佐和子さん。対談のホストとして互いを意識されてきたお二人。阿川さんの熟練された「聞く力」に、マリコさんも思わず口を滑らせ(?)ます。お二人の「対談哲学」も垣間見え、最後には阿川さんからまさかの提案が…… *  *  * 阿川:長いあいだお疲れさまでした。はい、これお祝い。(革の袋に入ったシャンパンを手渡す) 林:まあ! ありがとうございます。最後のゲストは誰がいいかなと思っていろいろ考えたんだけど、やっぱり阿川さんしかいないと思って。 阿川:光栄でございます。 林:最後だから、シャンパン飲みながらパーッと……(担当編集者があわててメニューを開こうとする)あ、冗談、冗談(笑)。 阿川:ねえ、ちょっと私から伺っていい? 林さんはこの対談とか、ギネス世界記録に認められた「週刊文春」のエッセー(「夜ふけのなわとび」)、マガジンハウスの「anan」のエッセー(「美女入門」)、その他にも、日本文藝家協会の理事長をなさって超多忙なのに、その上、日大の理事長なんて、なんでそんな大変なことを引き受けたんですか? 林:だっておもしろそうじゃないですか。阿川さんもどうですか、「母校の慶応の塾長になってください」と言われたら。 阿川:ダメ、そういう能力はない。 林:例えばもし今、つぶれかかったどこかの女子短大から「立て直してくれませんか。好きなようにやっていいですから」って言われたら、おもしろそうだな、やってみようかなって思わない? 阿川:思わない。「おもしろそう」のベクトルが林さんとは違うんだな。それよりも、アニメ映画でおばあさんの声をやってほしいって言われたら、おもしろそうだなって思う。 林:そうだ、女優業もなさってるんですよね。 阿川:ちょっとだけね。 林:ドラマ「陸王」見ましたけど、演技がうまいんでびっくりしちゃった。映画にも出てますよね。 阿川:いちばん最近は「エゴイスト」という映画で、鈴木亮平君と宮沢氷魚君がメインの物語。 林:すいません、私、見てないんですけど、どんな役なんですか。 阿川:宮沢君の母親役。「私、こんなきれいな息子を産んだ覚えありませんけど、大丈夫でしょうか」って申し上げたんだけどね(笑)。 林:セリフは多かったの? 阿川:母親役だから、主人公2人の端っこにいる端役だと思ってたの。ところが! 後半から、ラストシーンまで鈴木亮平君と二人だけのシーンが多くて、「えっ、こんな大事なセリフを私が言っちゃっていいんですか?」って、かなりビビりました。 林:へぇ~、見たいな、本格派女優、阿川佐和子の演技を(笑)。私も演技するの大好きなんだけど、オファーがないの。 阿川:昔、NHKの「朝ドラ」(「あぐり」)に出てらしたじゃない。 林:あれ以来まったくないんですよ。舞台女優になって蜷川(幸雄)さんにとことん演技指導してもらって、女優としての才能を導き出してもらうのが夢だったんだけど、蜷川さんにこの対談に出ていただいても、全くオファーもなく(笑)。対談のあと蜷川さんは埼玉のほうで55歳以上の人を集めて劇団(さいたまゴールド・シアター)をお作りになったけど、そのとき私はまだ年齢が足りなかったんです。あのとき足りてたら応募してたかもなあ……。 阿川:アハハハ。 林:ところで、「週刊文春」の阿川さんの対談(「阿川佐和子のこの人に会いたい」)はもう何年? 阿川:1993年からだから、今年でちょうど30年。林さんのこれは? 林:95年からだから28年。ゲストの取り合いというか、こっちがオファーしたら断ったくせに、阿川さんのほうはオーケーした人、私の脳内リストにちゃんと入ってますよ(笑)。 阿川:たとえば? 林:○△□さん。あ、実名出しちゃまずいか(笑)。 阿川:あら、私だって、そういう人たくさんいますよ。……お互いに嫉妬し合ってどうする(笑)。 林:うちの夫が「君も阿川さんみたいに誰からも好かれる人間になれ。そうすれば対談にも出てくれるよ」と言うんだけど、私が嫌いなのか、朝日が嫌いなのか。 阿川:林さんには林さんの、私には私のカラーがあるんだからしょうがないですよ。超過密スケジュールなのに、28年間、毎週、人に会ってインタビューするだけでエラい! けっこう負担じゃなかったですか。 林:吸い取られることありますよね。すごい疲れる。 阿川:疲れるし、事前に勉強しなきゃいけないし。 林:ゲストの映画を見ておかなきゃいけないし、本も読んでおかなきゃいけないしね。でも阿川さん、あまり資料を読まないって聞いたよ。 阿川:読まないというか、間に合わないの。スンマセン(笑)。私は、「週刊文春」のインタビューと、もう終わったけど、「サワコの朝」をやってたときは、月に最低8人会う計算になって、加えて単発のインタビューが入ったりすると、月に10人ぐらい会ってたの。それだけでもうヘロヘロ。 林:わかります。それも、知ってる人がゲストなら楽しくおしゃべりできるけど、初めて会うアイドルとか芸能人とかの場合は、ちょっと大変ですよね。 阿川:どんなに若い子でもお客さまだから、こっちがお迎えしなきゃいけない。向こうが憮然としてると、ご機嫌とるのに必死よね。 林:「まあステキ」「わっ、きれい」「お顔ちっちゃいのね」とかいうところから始めなきゃいけなくて、心を開いてくれるまで時間がかかります。某人気アイドルグループの人は、早く終わらないかなって感じで、対談中ずっと壁の時計を見てるからヤんなっちゃった。阿川さんはテレビによく出てるから、そういう若い子でも「阿川さんだ」ってわかるけど、私なんか「このオバサン誰だよ」みたいな感じで来る人も……。 阿川:そんな人いた? 誰? 最後だから言っちゃえば。 林:ほんとに感じの悪い人は2人だったな(笑)。若い芸能人は大変だけど、会いたいなとも思う。でも、映画とかドラマのパブリシティーじゃないと出てくれないじゃないですか。それがつまらない映画だったりしたときってどうします? 阿川:「撮影、寒かったでしょう?」とか「あのシーンはセリフ覚えるの大変だったんじゃないですか?」とか言う。「映画、感動しました」という言葉がどうしても出てこないときは(笑)。 林:そうよね。最近、芸能人の人って、原稿をチェックしてもらうと「なんであの話を削ってくるの?」と思うぐらいカットしてきませんか。あのときあんなに楽しくお話したのに、なんでカットするのかな、と思うことしょっちゅうある。 阿川:あれは事務所の判断なんでしょう。事務所の人がこの対談ページをどうとらえているか、理解があるかないかで大きな違いがあると思う。「この対談を愛読してるし、おもしろいと思うから、何でも聞いてやってください」というおおらかな事務所もあるし、担当のマネジャーさんって若い人がつくことも多いから、ボスから怒られないように「プライベートなことは一切聞かないでください」って断固、譲らないこともありますよね。 林:ああ、なるほど。 阿川:映画のプロモーションがらみで竹中直人さんがいらしたことがあるんですよ。映画を事前に見たら、それがすごくコワい映画で、この話をするのつらいなと思いながら「映画、コワかったです」と言ったら、「いいっす、映画の話は」っておっしゃるの。映画会社の人がいるのに。それで竹中さんの小さいころの話から始めたら、好きになった女の子の名前を全部フルネームで覚えてるって話をなさって。 林:まあ、フルネームで。 阿川:小学校1年のときは○山△子ちゃんで、5年のときは◇川▽江ちゃんで、中学1年のときは……って、その一人ひとりの物語を話してくれたんだけど、もうメチャクチャおかしくて。 林:へぇ~。 阿川:だけど映画会社の人は怒ってるだろうな、いいのかなこれでと思ってたら、後日、文春の担当編集者が竹中さんに電話で呼び出されたんだって。そのとき、彼、「ああ、来ちゃったよ」と思ったらしいのね。大々的な直しが入るんだろうなって、竹中さんのところに行ったら、「いやぁ、僕、もう一人好きな女の子を思い出してね。この人との話も入れたほうがおもしろいと思うんです」って、また話し始めたんだって(笑)。 林:素晴らしいです、竹中さん。 阿川:おもしろい記事にしましょうという気持ちがあふれてて、担当編集者、感動して帰ってきた。 林:だけど、映画とかドラマのプロモーションで、取材日というのがあって、メディアが1カ所に集められて、それこそ分刻みで順番にインタビューして、その中に私たちの対談も組み入れられることがあるじゃない。 阿川:ある、ある。 林:廊下で順番を待たされたりして。 阿川:日本で公開される映画のプロモーションで、ハリウッド女優のフェイ・ダナウェイさんに会ったの。でも、約束の時間がくるくる変わるのよ。当日になっても5分刻みで変わって、ようやく私たちの番になって部屋に入ったら、彼女、すごく横柄で。映画の話がひと通り終わって、小さいころの話を二つ三つ聞いたら、「はい、過去の話はこれでおしまい」って。 林:まあ。 阿川:そしたら、私の前に置いてあった時計を見て、「その時計いいわね」って言うの。「あげませんよ」と答えときました(笑)。で、まもなく「インタビューはこれでおしまい」って、30分いかないくらいで切り上げられちゃった。記事にならないからボツにしましたけど。 林:私もリチャード・ギアさんに映画のプロモーションで会ったけど、映画の話はすぐ終わっちゃって、「チベットの話をしようぜ」とか言ってチベットの話を始めて、でも、「私の83歳の姑があなたのファンです」と言ったら、喜んでプログラムにサインしてくれたの。それを姑に持っていったら、仏壇に置いて「私が死んだら棺桶に入れてね」って言うぐらい喜んでた。 阿川:いい人ねえ(笑)。初対面の人にインタビューするっていうのは得意ですか? 林:楽しい。会う前は緊張するけど、「こんな人なんだ。おもしろいな」と思ったり、私の知らない世界を教えてくれたりするとすごく楽しい。 阿川:私も会う前は「そんなにおもしろい人?」「コワそうじゃない?」とか思ってビビるんだけど、会っちゃうと、なんておもしろい人なんだ、と思うことのほうが圧倒的に多い。やっぱり世の中にある程度名前が知られてる人って、いいも悪いもパワーがありますよね。 林:一流の人はすごいですよね。でも、哲学者とか科学者とか宇宙飛行士なんか、会う前にいろいろ本を読んだり資料に目を通すんだけど……。 阿川:読んでもわかりませんよね。物理学の人、大変だった。わかんなかった。 林:私、はっきり言いますよ。「本を読んだり努力はしましたけど、ごめんなさい、たどり着けませんでした」って。 阿川:「でも、あなたには興味があります」という気持ちを伝えてね。私も、知ったかぶりしないほうがいいってことを、あるとき学習しました。だけど、最後まで何となくギクシャクしちゃったという人、いるでしょう? 林:養老(孟司)先生なんか最後まで話がギクシャクしちゃって、そのことを友達に言ったら、「ついに“バカの壁”を乗り越えられなかったのね」って(笑)。 阿川:養老先生は誰に対してもああいう方だから。でもご機嫌が悪いわけではないのね。 林:養老先生と波長の合う、たとえばヤマザキマリさんみたいな人だと、会った瞬間から盛り上がるみたいだけど、私たち、全方位アンテナじゃなかったのね。 阿川:そうそう。 林:つまらない質問だけど、いちばん楽しかった人は誰ですか。話が合って楽しくて楽しくて、という人。 阿川:楽しかったという意味では、(笑福亭)鶴瓶さんが出てくださったとき。その場にいる編集者もライターもカメラマンもみんな抱腹絶倒ゲラゲラ笑って、小咄を独占して聞いてるみたいな感じだったんです。 林:どういう話だったんですか。 阿川:あるときジョギングをしていたら、猛烈におなかが痛くなって公衆便所を探したんだけど、どこにもない。困ったなと思いながら走ってたら、やっと公園の公衆便所を見つけて、急いで入ってホッとして用を足したら、なんとトイレットペーパーがない。どうしようと思って見回したら軍手が落ちてた。「これしかない」と思ってその軍手を手にはめて拭き取ったという話をなさったの。そのころは速記の人がいて、速記の人って寡黙で、どんな話でもニコリともしないで黙々と書き取ってるんだけど、その話を聞いてたら、吐き捨てるように、「汚い!」って言ったの。 林:その話、おもしろい! 阿川:鶴瓶さん、大喜びだった。「速記の人にまでウケてよかったなあ」って。あれは忘れられない対談でしたね。林さんは、いままでで会っていちばん感動したとか楽しかった人って……? 林:そうですねぇ……、長嶋茂雄さんとかテノール歌手のドミンゴさんと会えたのが感動的でした。ドミンゴさんとお話したときの写真は、いまだに机の上に飾ってありますよ。 阿川:28年間続けてきて大変だったけど、でも、結果的にはやってよかった? 林:すごくよかった。日大でも「理事長、なんでそんなに人脈がすごいんですか」って言われる。対談で知り合って、気が合って親しくさせていただいてる人たくさんいますよ。阿川さんもいるでしょう? 阿川:いる、いる。和田誠さんなんかそう! 林:阿川さんは「インタビュー」とおっしゃるけど、私、「対談」というからには、相手と対等じゃなきゃいけないと思ってるんです。私たちがインタビューを受けるときに、自分のことを延々としゃべるインタビュアーがいるけど、それはちょっと違うんじゃないかと思う。でも、私たちのは対談だから、自分のことをしゃべってもいいんですよ。 阿川:でもね、「週刊文春」の対談が始まる前、私、テレビのニュース番組に出ていて、その中でインタビューの仕事がいくつかあったんだけど、「おまえはインタビューが下手だ」って怒られてばっかりだったの。だからインタビューが苦手だと思ってたのね。私、ものを知らないんですよ。 林:いやいや、とんでもない。 阿川:「賢そうな顔をしてる」って小さいころから言われてたんだけど、ほんとにバカなの。「野球はどれぐらい知ってますか」「えーと、セ・リーグとパ・リーグがあって、どっちがどっちだっけ?」とか、「じゃあ相撲は?」って聞かれても、横綱以外のランクがわからない。サッカーも何人で何分やるのって感じで。 林:でも、政治はテレビのニュース番組をやってたからいろいろ知ってるんじゃない? 阿川:多少なりとも接点はあったけど、だからといって永田町のことがわかってるわけでもない。経済もわかっているわけじゃない。だから「週刊文春の対談のホステスになれ」って言われたときに、「私、どのジャンルもわかりません」と言ったら、「じゃあ、タイトルは『阿川佐和子のこの人に会いたい』じゃなくて、『阿川佐和子の一から教えて』にしようか」と冗談で言った人がいたぐらい。 林:アハハハ。 阿川:それで私は「これは対談じゃなくて、限りなくインタビューだと理解してください。私の質問は2行以内におさめてください」って言ったの。だからそのころのライターの人、私がけっこうしゃべっても、ほんとに2行以上にしなかったんです。ゲストと対等にしゃべるほどの能力はないと思ってたから。 林:だけど、ゲストの人に興味を持ってもらうために、「実は私も」って自分のことを話さなかった? 阿川:たとえば俳優さんがゲストで来て、私が「監督さん、コワくなかったですか」って聞いて、うーんと考えて言葉に詰まったら、「実は私もちょっと演技の仕事をしたんです」と言ってしゃべると、「あ、そういえばぼくの場合は」と言って思い出して話し始めたり……。 林:呼び水ですね。 阿川:そう。でも、活字にするときに私の話は大部分をカットされますよ。 林:なるほど。テレビの場合は沈黙っていうのが許されないから、皆さんよくしゃべるけど、私たちは沈黙もあるから、その間合いが活字の対談のよさかもしれないですね。 阿川:昔、確か徳川夢声さんと、武者小路実篤さんの対談を何かの機会に読んだんですよ。 林:「週刊朝日」の対談? 阿川:そう。春先、どこかの料亭みたいなところでやってるんです。最初、お通しが運ばれてくると「ほう」とか言って、「お、ウグイスが鳴いてますね」「そうですね」とか、のんびりした話が延々と続くのね。「ああ、君ね」「ええ、なんでしょう」とか。 林:ええ。 阿川佐和子さん(手前)と林真理子さん 阿川:私、びっくりしちゃって。いまの時代だと、この部分は全部カットするだろうなと思ったんですよ。だって何もないんだから、ページのムダでしょ。だけど、年月がたってそれを読むと、その場の空気が伝わってくるようで、むしろ味わい深い。いまは中身を重視したり、対談のあらすじを重視したりするから、ムダなところはどんどん削っちゃうけど、話が飛んじゃっても、結論が抜けたとしても、そのときの空気のほうがおもしろいと思ったら、そっちを重視したまとめ方をしたほうがいいと思ったんです。 林:なるほどね。 阿川:誰かに何かを教えてもらうという対談より、ダラダラしたゆるいしゃべりを読者が求めている部分があるからね。たとえば政治家に「防衛費の中身はどうなんですか」って聞いて、「あれはこうで、これはこうで」という問答は必要かもしれない。でもその合間に、「入れ歯がはずれちゃった」と言って政治家が慌てたら、絶対その言葉は載せたいですね。 林:ずいぶん前に民主党(現・立憲民主党)の代表だった岡田克也さんにここに出ていただいたとき、私、ズボンに継ぎが当たってるのを見つけてびっくりしたの。「あ、継ぎが当たってる!」って言ったら、「気に入ってるズボンなので」と言って、べつに気にする様子もなかったので、大金持ちのおうち(父はイオングループ名誉会長の岡田卓也氏)なのにおもしろいなと思ったんだけど、これも対談のよさだなと思って。 阿川:そういうズボンの継ぎなんか見つけたとき、「やった!」という感じになりますよね。それ、活字になったんですか。 林:なりましたよ(04年9月17日号)。まあ、いろんなことがありました。 阿川:こんなこと言うのもなんだけど、昔むかし、私が初めて林さんにインタビューしたときは、警戒心というか、何となく距離を測ってるような感じで、ちょっと斜に構えてるみたいな様子に見えたの。だけど、この連載対談をなさったことでサービス精神が旺盛になられたというか、人なつこくなられた気がする。 林:ああ、そうかもしれない。 阿川:パーティーとかで「あら、こんにちは」と言ってみんなにあいさつなさってる様子なんて、初期のころはあんまり想像できなかった。 林:いろんなことをされたから、人に対してすごく用心深かったんじゃないかな。 阿川:いろいろたたかれもしたからね。だからこの対談を続けた成果はあったんじゃないですか。 林:ほんとに感謝してますよ。阿川さん、あと10年は頑張ってくださいね。「徹子の部屋」と並ぶブランドなんだから。 阿川:そんなの無理ですよ。もはや耳は遠いし、目は見えないし、記憶力はないしって状態だもん。あっ、そうだ林さん、「週刊文春」、私と隔週交代でやらない?(笑) (構成/本誌・唐澤俊介 編集協力/一木俊雄)※週刊朝日  2023年6月9日号
林真理子
週刊朝日 2023/06/01 11:30
【下山進=2050年のメディア第43回】週刊朝日の「夢十夜」。紙の雑誌の時代とともに生きた。
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第43回】週刊朝日の「夢十夜」。紙の雑誌の時代とともに生きた。
1922年3月15日号の「旬刊朝日」。創刊して3号目。このあと、第5号から「週刊朝日」となる。同日に「サンデー毎日」も創刊。  こんな夢を見た。  戦争の気運が遠のき、何やら世の中がかまびすしい。海軍は軍縮をせまられた。新聞が初めて100万部を突破した。そんな時代に、日刊ではなく、月に一度、あるいは10日に一度、様々な言論をのせる「雑誌」というメディアが誕生していた。  百年前の大阪にいる。  まだ大阪に社の中心があった朝日新聞社で、10日に一回発行される「旬刊朝日」の準備に自分はあたふたしている。たいへんな数の注文が、刊行前から舞い込み、35万部を刷ることになった。三百余人の男女の工員をやとって、三昼夜ぶっとおしで印刷した紙面を裁断し折った。  へとへとになって創刊号を送り出すと、女の声がどこかから聞こえてきたような気がした。  百年見ていてください。  これから百年の間こうして見ているんだなと、腕組みをしながらその題字を眺めていた。  そのうちに女の声のとおりに、あたふたと記者と編集者が記事をつくってゲラ刷りを点検し、「よし」の編集長の一言で校了し、雑誌がまた出た。  二つと自分は勘定した。  三つと勘定したときに京大の法学部の教授の書いた「貞操に関する婦人問題の法的考察」という記事が出た。裸婦の絵を中央に配したその記事では、「姦通罪が適用されるのはなぜ女性だけなのか」という問題を論じていた。  当時の刑法では、結婚している夫婦で不倫をした時、罰せられるのは妻だけだった。夫が他の女と通じても罰せられず、妻を寝取った男も罰せられない。これは不公平ではないのか、という議論について、教授の見解を、古今東西の姦通罪の歴史をひもときながら論ずるのである。 <古代メキシコに於ては、姦通せる妻の耳及び鼻を切り、ペルーに於ては妻及び相姦者を共に死刑に処し>たが、グアテマラにおいては、妻に対しては夫は何ら制裁を加えない権利があり、その権利を行使すると<非常に尊敬せられた>。  その教授は、男性に姦通罪をかすのではなく、そもそもこの姦通罪自体をなくして、不貞行為では、民法で、損害賠償を得られるようにすればよい、という結論をだしていたが、この2回の連載は、新聞では絶対にとりあげることのできない、「不倫」の是非について具体例をあげながら論じて、これがまた読者を増やすことになった。 2023年5月13日午後6時の週刊朝日編集部。校了日。この時間に出社していたのは、私の担当小泉耕平さんとあと一人の部員だけだった。天井から下がる中吊りは、2010年代前半でとまっている。 「旬刊朝日」は五つと数えた時に、「サンデー毎日」が創刊されるのにあわせて「週刊朝日」となった。  それからいくつ、自分は「校了」作業をみたかわからない。勘定しても勘定しつくせない「校了」があり、雑誌があり、人々の喜怒哀楽があった。  刊行日には、列車に中吊り広告がでるようになり、人々はそれで世の中の動きを知るようになる。  100万部をうかがう時代には「原爆が若し東京に投下されたならば」(1951年8月19日号)という、自分が前号でやるべしと書いた「大胆な予測報道」に取り組んだ号もあった。超能力ブームにわいた1974年には、写真部員が少年のスプーン曲げを連写し、そのトリックを明らかにしたりもした。  2023年5月13日の土曜日、その日も「校了」の声を聞きに、編集部にいった。  夕方6時なのに、編集部はがらんとしていた。多くの編集者はリモートで仕事をしているのだという。編集長も出社していない。  ふとみあげると、天井からは、いくつもの中吊り広告が下げられていた。が、その中吊り広告は色あせ、民主党政権時代のものを最後にとまっていた。 「百年はもう来ていたんだな」とこの時初めて気がついた。 ※  週刊朝日は紙の雑誌の草分けだった。その紙の雑誌の時代が終わりつつある。では雑誌というメディアの可能性がないかというとそうではない。このコラムでもとりあげた英『エコノミスト』誌(1843年創刊)、や米『ザ・ニューヨーカー』誌(1925年創刊)は、現在も部数を伸ばし続けている。『週刊朝日』との大きな違いは、電子有料版に成功したことだ。週刊朝日もウェブには対応したが、アエラドットという無料で記事が読めるサイトだけだったことに大きな違いがある。  部数という言い方はもうそぐわないかもしれない。月極めあるいは年間購読の契約者数で数える。英『エコノミスト』誌でいえば、1996年に50万部だった部数は、最新の数字で118万5000契約者数ということになる。  サンデー毎日で2020年3月に始まったこの連載は、週刊朝日休刊のあと、6月12日発売号からAERAに移る。ただし、当面の間は隔週での連載。回数はみたび「第一回」からということになる。  そこでしか読めないものを、今後も書き続ける。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※週刊朝日  2023年6月9日号
下山進
週刊朝日 2023/05/31 07:00
企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い?
井戸美枝 井戸美枝
企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い?
※写真はイメージです(Getty Images)  両親の介護は人生の中でも避けて通れないもののひとつ。だが、介護休業や介護休業給付金などの公的制度があるにもかかわらず、利用者は対象者の10%に満たない。その原因は、企業にも利用者にも「誤解」があるからだという。ファイナンシャルプランナーで社会保険労務士の井戸美枝氏が制度の正しい理解を解説する。(朝日新書『親の終活 夫婦の老活 インフレに負けない「安心家計術」』から一部を抜粋、再編集) *  *  * 【関連の記事を読む】 #1 「督促状」で発覚も…老いた親の金銭事情を知るべき理由と方法 #2 平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度 #3 企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い?  高齢社会白書(令和4年版)によると、75歳以上になると要介護認定割合が約32%と大きくなります。誰が介護をしているかは配偶者約24%、同居の子・子の配偶者約28%です。厚生労働省の雇用動向調査によると2020年に介護離職をした人は約7.1万人でした。男性は約1.8万人、女性は約5.3万人と女性のほうが多くなっています。性別・年代別に「介護・看護離職」の割合をみると、男性は「65歳以上」、女性は「55~59歳」で最も高くなっています。  50代にさしかかると、会社内での「着地点」も見えてきます。これ以上、出世する見込みがないのであれば、「60歳の定年退職時まで会社に居続けなくてもいい」と、離職に踏み切ってしまうケースもあるのですが、退職後も働き続ける場所、つまり再就職先が見つかっていないと、子ども自身が老後破綻に陥る可能性が高くなってしまいます。親を看取ってから40年、人によっては50年ぐらい自分の長い老後が待っています。  中高年の再就職は困難で、コロナ禍の今、サービス業などでは急に人手が足りなくなったと思ったら、感染者の急増とともにお客さんが激減して、人手が余るというように、不安定な状況が続いています。業種によっては労働力の需給バランスが安定せず、思うように仕事が見つからないこともあります。  60歳で定年退職を迎えてから再雇用で65歳まで働き続けたほうが、子どもの老後破綻のリスクは回避できます。 ■「要介護状態」の誤解  介護休業、介護休業給付金などの「家族介護者のための支援制度」がありますが、大和総研が2019年1月9日に発表した「介護離職の現状と課題」では、介護休業制度やそれ以外の時短勤務などの利用含めても8.6%しかありません。  原則として「要介護状態」の家族を介護する会社員などは、育児・介護休業法に基づき、「介護休業」を取得することができます。よく勘違いされる点はこの「要介護状態」のことです。  急に親が倒れたときなど、介護休業を申請して会社を休みたいと思う人も多いでしょう。そのとき「要介護認定」を受けていない、あるいは判定の結果、要支援だったので申請をあきらめてしまった、という人は少なくありません。  ここでの「要介護状態」は介護保険制度の要介護状態と連動していないのです。「要支援」または「自立」の状態でも、「負傷、疾病などにより2週間以上常時介護を必要とする場合」であれば、申請できる対象となっています。  また、主治医の診断書も不要ですので、もし上司から「取得するためには主治医の診断書が必要」「要介護状態でなければ取得できない」と言われたら、「それは違います」と言う勇気が必要です。以下、介護休業とその条件などについて説明します。 ■介護休業とはどんな制度か 「要介護状態」とは負傷、疾病などにより2週間以上にわたり常時介護を必要とする状態です。  取得できるのは対象家族を介護する労働者で、日々雇用はのぞかれています(入社1年以上であることの要件は、2022年4月以降はなくなりました)。  対象になる家族の範囲は、配偶者(内縁を含む)、父母、子、配偶者の父母、祖父母、兄弟姉妹、孫です。  休業できる期間は、対象家族1人につき、3回を上限として、通算93日までとなっています。必要に応じて3回に分けて、休業ができるということです。  休業開始予定日と休業終了予定日を決め、原則として開始日の2週間前までに、書面等により会社側に申し出て、手続きを行います。 ■介護休業給付金とは  介護休業を取得した雇用保険の被保険者(65歳未満の一般被保険者、65歳以上の高年齢被保険者)は原則、「介護休業給付金」を受給できます。給付額は原則として、休業開始前の給与水準の67%です。ただし、会社によっては休業中に給与(介護休業の期間を対象とする分)が支払われたケースもあります。その場合、給付金は減額・または不支給となる場合もあります。  休業中に給与が支払われた場合は、その給与の賃金月額に対する割合に応じて、以下の支給となります。  13%以下    休業開始前の給与水準の67%相当額を支給  13%超80%未満 休業開始前の給与水準の80%相当額までの差額を支給  80%以上    支給されません  介護休業給付金には、上限額および下限額が決められています。また同一対象の家族について介護休業給付金を受けたことがある場合でも、異なる要介護状態で再び介護休業を取得したときには介護休業給付金を受け取ることができます。ただし、同一の対象家族について受給できる日数は通算93日までです。  その他の制度として、以下のしくみがあります。 【介護休暇】  要介護状態にある対象家族が1人の場合は年5日、2人以上の場合は年10日を限度として、時間単位から取得できます(通院等の付添、介護サービスの提供を受けるために必要な手続きの代行等にも利用できます)。誤解されている方が多いですが、介護休業と介護休暇は別の制度です。申請方法や対象者も異なっています。 【勤務時間の短縮等の措置】  要介護状態にある対象家族1人につき介護休業とは別に、利用開始から3年以上の間で勤務時間の短縮の措置を2回以上利用可能とするなど、会社側は以下のうち少なくとも1つの措置を講じなければなりません(短時間勤務のほか、フレックスタイム制、始業・終業時刻の繰上げ・繰下げ、介護サービスの費用の助成)。 【法定時間外労働の制限、深夜労働の制限】  介護者が申し出た場合には原則、会社側は所定労働時間を超えて労働させることができません。また、申し出がある場合は1カ月24時間、1年150時間を超える時間外労働をさせてはいけません。  さらに、介護者が申し出た場合には、会社側は、深夜(午後10時~午前5時)に労働させてはいけません。  介護休業は通算で93日ですが、「自分が介護を行う期間」というよりは、「今後、仕事と介護を両立するために態勢を整えるための期間」です。  地域包括支援センター(高齢者の生活を支えるための総合機関として各市町村が設置)や、ケアマネジャー(介護支援専門員)などと相談し、前述の制度や介護保険のサービスを上手に利用しましょう。 【関連の記事を読む】 #1 「督促状」で発覚も…老いた親の金銭事情を知るべき理由と方法 #2 平均580万円かかる親の介護 お金に困らないために知るべき3つの制度 #3 企業も勘違いしている「介護休業」 意外とハードルは低い? ●井戸美枝(いど・みえ) CFP®認定者、社会保険労務士、国民年金基金連合会理事。生活に身近な経済問題、年金・社会保障問題が専門。「難しいことでもわかりやすく」をモットーに雑誌や新聞に連載を持つ。著書に『一般論はもういいので、私の老後のお金「答え」をください!増補改訂版』(日経BP社)、『お金がなくてもFIREできる』(日経プレミアシリーズ)など。
介護書籍朝日新聞出版の本終活
dot. 2023/05/31 07:00
AVアンプに機械式腕時計、ジーンズ…「修活」の沼にハマった人たち
AVアンプに機械式腕時計、ジーンズ…「修活」の沼にハマった人たち
テープデッキの修理が最も楽しいと言う 「修理を仕事にしている人」「修理してでも使い続けたい大切なもの」。週刊朝日で過去2回にわたり“修活特集”で紹介してきた。締めくくりの今回は「修理を趣味にしている人」を紹介しよう。対象や理由はさまざまだが、修理して使う楽しさを知り、その”沼“にハマってしまった方々だ。  現在、音が出なくなった30年ほど前の山水電気のAVアンプの修理に取り組んでいるのは神奈川県在住の河原聡さん(50代)。 故障箇所を入念にチェックする河原さん 「修理し始めると夢中になって、つい徹夜してしまうことがあるんです。徹夜はまずいと思って布団に入っても、直したい気持ちが収まらずに眠れなくなったりしてしまう。だから作業はいつも休みの前日にやってます」  部屋には自分で修理した古今東西のテープデッキ類が並ぶ。ほとんどがフリーマーケットやリサイクルショップに行って発見した元「壊れもの」だ。 「最近はネットオークションも利用します。ただ、そんな壊れ物でも今は値段が上がっててね。昔は100円、200円で買えたものが、今では数万円することもあるんですよ」  家族の目も当初は冷たかった。愛妻からは「また粗大ゴミを買ってきて……」「直していくらで売れるの?」などと言われたこともあったが、家の洗濯機や電子レンジが壊れた際に、河原さんが直してしまったところ妻は感動。今では妻公認の趣味となっている。先日は、変わった修理の依頼を受けたという。 「カミさんがボロボロに錆びた南部鉄瓶を拾ってきて、直してほしいって言う。直した経験はありませんでしたが、“わかった。やってやろうじゃないか!”って(笑)。けっこう楽しめました」  修理の技は独学で身に付けた。始まりは、高校に進学した時に手に入れたバイクだった。 作業机には修理の道具がズラリ 「もともと機械いじりは好きだったんです。プラモデルが好きで、お小遣いでニッパーとかヤスリとか少しずつ買いそろえてね。家のものを分解するのも好きで、分解して壊してしまって、よく怒られていました。そんな少年だったので、バイクのメカが面白くて。ただ、バイクをいじっているうちに限界を感じてしまったんです」  河原さんがぶち当たった限界は電気系統だった。普通科の高校だったので自力で学ぶしかなく、図書館などで本を読みあさり、電気系統の勉強をしまくったという。勉強したら、今度は学んだことを実践したくなる。 「壊れたバイクを見つけて、持ち主に泣きついて譲ってもらい、重いバイクを引きずって帰ったこともありました」  どんどん電気系統に詳しくなった河原さんの興味は、オーディオ系に移っていく。まずは秋葉原で本棚型スピーカーの組み立てキットを買いスピーカーづくりをしたのが始まり。興味は次第にスピーカーからテープデッキに変わっていく。 「オープンリールデッキもカセットデッキも。マイクロカセットデッキにも挑戦しました。試行錯誤の連続なので、修理している最中に煙が出てきて壊してしまったこともたびたびあります。これまで5台くらい潰してしまってます。でも、大変で難しいものほど修理しがいがあり楽しい。どうやっても届かないような故障箇所に手が届いて、部品がハマった瞬間なんて最高にうれしい」  修理好きが高じて、現在は都内のおもちゃ病院のドクターをボランティアでしている。 「子供のおもちゃの修理はテープデッキ以上に難しい場合がある。半導体が使われていたり、ふたを開けた瞬間に中の部品が吹っ飛んでしまう構造のものがあったり。これも楽しみながら直しています」  河原さんの元にはご近所さんから「エアコンが壊れてしまったんだけど、直るかしら?」といった依頼もあるという。 時計修理の繊細な技術を独学で見につけた白賀さん      精密機械の王様ともいえる機械式腕時計の修理を趣味にしているのは、都内在住の白賀太一さん(40代)。十数年前に職場で昇進した自分向けのお祝いに買ったロレックスがきっかけで機械式腕時計のメカに興味を持ち始め、腕時計のカスタム(改造)や修理にのめり込んでいく。 「もともとプラモデルやミニカーが好きだったので、腕時計も抵抗なくチャレンジできた」と白賀さんは言う。  初めはオークションサイトで安価で出品されていた古い国産腕時計を購入し、修理にチャレンジ。未経験だったが、ネット上で見つけた腕時計修理を趣味にしているサイトの書き込みを読み込み、学びながら挑戦した。 これまでに修理した時計は40本ほど 「初めのうちは部品ひとついじるのも怖かったのですが、ネットで勉強しながら少しずつできるようになっていきました。うまく動き始めた時にはうれしくて、さっそく次にチャレンジしたくなる」  オークションサイトでは3千円と破格に安い出物もあれば、ジャンク品なのに1万円を超えるものもあるが、初めは安く買えるオートマチックの腕時計で腕を磨いていった。作業は平日の夜、家族が寝静まってからと決めている。 「休日は子供のために使いたいので、自由に使える平日の夜だけです。だから家族にも認めてもらっています」  作業デスクの周りには工具がずらりと並ぶ。目にレンズをはめて時計の内部をのぞく白賀さんの手には、使い捨てのビニール手袋。手の脂が精密機械の時計には大敵なのだという。これまで40本以上の壊れた機械式腕時計をピカピカで新品同様に修理した。  この日、白賀さんの腕にあったのは機械式ではなく、クオーツ式の腕時計だった。 「クオーツの腕時計にも挑戦したくなって(笑)。今のお気に入りです。最近は忙しくてなかなか時計をいじる時間が取れないのですが、それでも出物がないかネットを探しています。最近は、これまでネットで見るだけだった時計修理が好きな同志と交流したいなとも思っています」 〝磨き〟は単調な作業だが喜びも大きい 修理に修理を重ね、杉田さんが30年履き続けているジーンズ     今年2月、週刊朝日の「修活」特集第2弾で、大切な器を金継ぎしてもらったエピソードを話してくれた神奈川県在住の杉田昌隆さん(50代)は、自身でも修活を実践している。たとえば愛用のジーンズ。穴が開くたびにダーニング(イギリス発祥の衣類補修法)をし、30年近く履き続けているという。ほかにも、手ぬぐいの端切れでTシャツをデコレーションしたり、虫食いで穴が開いてしまった風呂敷とシャツの袖を組み合わせて肩掛けバッグを作ったりする、リメイクの達人なのだ。 英国の修理技法「ダーニング」で補修する 「もともと物を捨てられない性分というのもありますし、母が洋服店を営んでいたので家で洋服のお直しをしている姿は子供のころから見ていました。10年ぐらい前に、セーターにひじ当てをつけたのが始まりでした。それが面白くて、次はジーンズでやってみよう!という感じで、今は楽しみながらやっています」  家にミシンはなく、すべて手縫いだ。しかも、誰にも補修方法を習ったことはなく、すべて見よう見まねの我流だという。 「リメイクが趣味になるとは思ってもいませんでした。私は運動が好きで、休日は自転車などほとんど屋外で過ごすタイプだったんです。ただ、アウトドア派には弱点があって、雨が降ると家で本を読むくらいしかない。でもリメイクの繕い物を始めてから、晴れたら屋外、雨なら繕い物と充実した。今では店に売っているものより、自分で自分のためにリメイクしたもののほうが好き。買いに行くのは端切れなどを売っているリユース店ばかりです(笑)」  杉田さんはほかにも、包装紙や紙バックのデザインを活かしたブックカバーも制作している。その本の内容からイメージしたデザインを選んで、その本だけのためのブックカバーを作る。この春には個展を開き、これまでつくったオリジナルのブックカバーを公開した。たとえば、遠藤周作の『深い河』には長崎銘菓の「クルス」の修道女の絵を使ったカバーを、多和田葉子の『雪の練習生』には2頭の白クマが後ろ向きに肩を組んでいるコカ・コーラのイラストのカバーをあしらった。 包装紙などで作ったオリジナルブックカバーで個展を開いた 「リメイクにもブックカバーづくりにも正解はないけど、間違いもない。楽しいからやっているだけです」  登場いただいた3人に共通するのは、不要になったものに手を加え、再び命を吹き込む楽しさを満喫していることだろう。修活とは、実はクリエイティブなことだったんだと実感させられた。 ※週刊朝日オンライン限定記事
週刊朝日 2023/05/30 11:00
岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」
岸部一徳、赤ん坊の世話もした「社会復帰」と「俳優修業」
撮影/写真映像部・高野楓菜  沢田研二に萩原健一といったスポットライトを浴びる主役を斜め後ろから見続けてきた岸部一徳さんの美学。それはのちに久世光彦、樹木希林との、人生を変える出会いからもたらされた俳優としての道で花開く。暗転、そして舞台転換。新たに目の前に広がった場所には、逡巡と雌伏の季節に岸部のうちに胚胎した感性を注ぎ込める映画やドラマがあった。本誌編集長が聞く独占インタビューの第2回。 *  *  * 「僕は主役の、やや後ろ気味に立って見ているのに慣れているから」  岸部は今回のインタビューで、何度かこんな趣旨の言葉を口にした。注目を浴びることが生業の芸能界にあって、前に出るよりも一歩引いて、観察しているほうが性に合っているのだという。  1971年2月、グループサウンズ(GS)の面々、沢田研二、萩原健一、大野克夫、井上堯之、大口広司と結成したPYGは、GSファンにもロックファンにも総スカンを食らい、デビューから一貫して苦戦した。 「俺はジュリーには勝てない」  萩原が岸部に電話でこう吐露したのは、コンサートで客席がガラガラという事態が続いたころだ。  萩原は電話口で岸部に言った。 「歌はやっぱりジュリーのほうが全然いい。俺はもうやめようと思う」  萩原はライブパフォーマンスを含めすべてが「カッコいい」、“ショーケン”だ。 「沢田も、自分にはないものをショーケンは全部持ってると感じていたんじゃないかなあ」と岸部。「でもショーケンには彼の思いがあったんだろう。映画の裏方をやってみたいと言っていたけど、『約束』(72年)で結局主役の岸惠子さんの相手役で出演することになった。それからショーケンの俳優人生が始まったんですね」  PYGの終焉を迎える。それは岸部にとって大きな転機だった。  その後は井上堯之バンドの一員として沢田のバックで演奏したり、「太陽にほえろ!」(72年~)や「傷だらけの天使」(74年~)のテーマも演奏した。充実して見える活動が却(かえ)って、「音楽をやめようか」という岸部の気持ちを後押しすることになる。  テクニックの問題ではない。レッド・ツェッペリンのベーシスト、ジョン・ポール・ジョーンズにも認められたと伝わるほどの腕前だ。 日劇の舞台でベースを弾く岸部(1975年1月12日)写真提供=(株)アン・ヌフ ■樹木との出会い 赤ん坊の世話も 「いや、それも別に直接会って言われたわけじゃないからね。大野さん、井上さんみたいに才能があるわけでもない。音楽に対して自分は何かやってきたかな、作曲とか、アレンジができるのか、そういう勉強をしてきたのか。考えてみれば自分は女の子にモテたいぐらいのところから始めたんだけどね」  たまたま運良く人気が出てここまで音楽を続けてこられたが、こんなことでいいのだろうか。 「気付かなきゃいいんだけど、気付きだすともう、やめたくなるのよね。『やめるんだったら、いつがいいのかな』なんて思いながら、1年ほどね」  逡巡の時代、演出家の久世光彦のすすめで出演したのがドラマ「悪魔のようなあいつ」(75年)だ。荒木一郎演じる冴えないバイク屋の主人の借金を取り立てるチンピラ・左川を演じた。  当時TBSの久世光彦の演出には瞠目した。 「左川たちが路地みたいなところで立ちションベンをする。すると『溜めといてくれよ』って。本当におしっこしながらセリフを言ってって言う。で、本番でセリフが終わって、出すものも終わって歩いていくって、確かにそうなんだけど、セリフとの寸法が合わないわけ。テストまで我慢して溜めた分だけ出ちゃう(笑)。それで終わるまで撮ってる。今では考えられないですよね」 「人前でしゃべるより黙っているほうが好き」という岸部が、この世界で60年ほどを過ごしてこられたのは、いつも人との縁があったからだという。  久世のすすめで樹木希林の事務所「夜樹社」に入り、俳優としてのスタートを切った。 「希林さんと大楠道代さんの面接を受けた。『あなたに合う役があったらお願いするけれど、うちは生活のために仕事取ってきたりは一切しない。それでも大丈夫?』『はい』なんて話をして。本当に何年か、ほとんど仕事はなかったですね」  結婚して、子どもも生まれたばかり。渡辺プロ時代は入っただけ使うような暮らしだったので蓄えも雀の涙だった。家賃の安い住まいに引っ越しを続け、「ぜいたくをしない、友だちとも会わない」と生活を切り詰めた。赤ん坊の世話もよくした。 「朝5時に起きてね。でも海の向こうではジョン・レノンも同じことをやってると思えばちょっとカッコいいかなと思ってましたね」 1971年8月 写真提供=(株)アン・ヌフ ■「社会復帰」と俳優修業の日々  当時、岸部を心配した沢田が、人づてに自分が使っていないマンションを無償で貸した逸話もファンの間で知られている。「できて間もない中野ブロードウェイの高級マンション。ガードマンが常駐していて、屋上にプールがあって、お隣は青島幸男さん。毎日毎日、プールで子どもとプカプカしたり、ブラブラブラブラ……。『タイガースのリーダーは優雅ね、やっぱり』なんて言われて。ただ、ちょっと管理費がねえ、月4万以上した。後で沢田に『高いよ』って言ったけど(笑)」  仕事に恵まれないこの時期が岸部にとって「社会復帰」の時でもあり、俳優としての土台にもなった。NHKのドラマ人間模様「続 事件 海辺の家族」(79年)に起用された時、「どうやって俳優の勉強をしたらいいか」と岸部が尋ねると、脚本家の早坂暁は「一日中バスに乗ってずっと人を見ていればいい。僕はそうしているんだ」と答えたという。 「久世さんは、ドラマの中で台所仕事みたいな日常を本当にやる人。新人の女の子がどうにも芝居ができないってなったら、ベテランの加藤治子さんが代わりにやって見せてくれたり。それをみんなも最初からずっと見ているので勉強になる。『技術的な芝居なんかしなくていい』って、まあ本当は僕ができないから言ってくれていたんだと思うけど、素のままで一生懸命やればいいんだと。そういう優れた人たちの中で出発できたのは恵まれていました」 「良質なドラマに出る」という樹木らの方針もあり、初期こそ数は少ないものの、久世を始め、深町幸男、和田勉ら名だたる演出家の作品に出演するようになり、少しずつ俳優としての地歩を固めていった。  大林宣彦監督とも縁が深い。「時をかける少女」(83年)以来、映画では一番多く起用された。余談だが、「時を~」で原田知世の相手役・深町一夫を演じた高柳良一は慶應義塾高校出身で、瞳みのるの教え子だ。  岸部のキャリアは、映画「死の棘(とげ)」(90年)をおいては語れない。日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した、メルクマール的な作品だ。 1971年8月 写真提供=(株)アン・ヌフ 1971年8月 写真提供=(株)アン・ヌフ 「映画は監督の作品なので。あれはもう本当に、個人賞、もう付録みたいなもので」  本作で小栗康平監督から「セリフに感情を乗せると浅いものにしかならないので感情を乗せないほうがいい」と言われ、内へ内へと向かい、掘り下げる表現を求められた。現場ではその意味を掴みかね、食事も喉を通らずノイローゼ状態に陥った。岸部にとって小栗は、今でも最も尊敬する監督であり、この時の経験が俳優という仕事の礎になったという。 「要するに、心の中をちゃんと作れないとダメだということですよね。日常生活でも、言葉で伝わらない、置き換えられない気持ちの動きみたいなものがある。言葉として、セリフとして発する前の、体の中に、心の中に残っている状態のほうが深いんだ、と。そこを大事にしないといけないよと言われたことは、今でも残ってますね」  90年代に入ると年4~6本のハイペースで映画に出演していく。今回のインタビューに際し、岸部の出演作を振り返ってみたが、筆者が過去に見て印象に残った作品の驚くほど多くに岸部は携わっていた。  オファーを引き受けるかどうかは、監督や脚本によるところが大きいという。 「でも、これは好みもあるんでね。自分の考え、思い、感性みたいなものでこれはいい作品だなと感じるかどうか。監督が何を撮りたいのか。それが当たるとか当たらないとかあんまり関係ないですね」 「死の棘」以来の主演作となった「いつか読書する日」(2005年)では青木研次の脚本に惹かれ、緒方明監督の「自分の撮りたいもの、自分の思ういい作品を誠実に映画にする」姿勢に敬意を抱いたという。 「顔」(00年)、「大鹿村騒動記」(11年)、「団地」(16年)など、阪本順治監督作品も多い。 「映画はやっぱり面白いと思う。テレビも向田(邦子)さんの『阿修羅のごとく』(79年~)とかね、好きなものがたくさんあるけれども。テレビは日常の延長線上で時代を映していますよね。映画は若いころに見たものを何年か経って見てみたら、違う解釈で見ていたことに気付く。それが面白い。新しい発見というか、そのころにはわからなかったことがありますからね」 樹木希林の事務所「夜樹社」のポストカード(写真提供=(株)アン・ヌフ) ■ひと癖ある役も市井の人の役も  映画愛を語る岸部だが、テレビドラマでの活躍ぶりも、改めて言及するまでもない。「相棒」には02年のシーズン1から9まで小野田公顕役で出演。「官房長」の呼称は、岸部の代名詞にもなった。 「『相棒』は最初のころはこんなに長く続くとは思わなかった。打ち上げのたびに水谷(豊)さんと『続けるために面白いことをやるのではなくて普通の刑事ドラマではない挑戦ってなんだろう』とか、『いちばん良い時に終わることもあるかもね』なんて話をしてましたね」  降板したのはなぜ? 「ある時プロデューサーとご飯食べた時にね、『僕、やめようと思う』って、ふっと言葉が出てね。なんでだろう」  演技派としての地位を固める一方、新進のクリエーターと組んだ仕事では、新たな一面も見せた。  大滝秀治との掛け合いもシュールなキンチョールや、木村拓哉と共演した富士通FMVのCMを覚えている人も多いだろう。  三木聡監督の「転々」(07年)は「岸部一徳」として出演。眼鏡屋の前で眼鏡を洗っている岸部一徳を見かけた福原(三浦友和)と文哉(オダギリジョー)の「あの人誰だっけ」「岸部一徳じゃない?」「岸部一徳を街で見かけると良いことがあるんだって」というやりとりがある。 「三浦友和さんはあの作品でキネマ旬報の助演男優賞に選ばれたから、やっぱり良いことあったよね(笑)」  12年から始まったドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」の神原晶役では手術代回収時にするスキップも有名になった。同作は7期まで続いている。最近、岸部が出演するドラマは長寿になるという業界内での「新伝説」が生まれたとか。  ひと癖ある役柄のインパクトが強いが、市井の人の役でも深い印象を残している。  06年からのNHK朝ドラ「芋たこなんきん」では、田辺聖子がモデルの主人公の祖父で、写真館を営む花岡常太郎を演じた。  仕事には厳しいが家族には優しく、浄瑠璃などの芸事も好きで温かみのある常太郎。 「僕の父に少し似ていたところもありますね」  岸部一徳の父、徳之輔は職業軍人で、終戦までは憲兵だった。 「戦争が終わってからは一度も定職に就かなかったですね。探偵の真似ごとをしたり、いろいろやったりしてましたけど。囲碁が好きだったから囲碁道場を開いてみたり。自分はお金がないんだけど、父の勝負に賭ける人がいて、勝つとすき焼きだったり。そういうのをいつもやってましたね」  岸部ら子どもたちも苦労は多かっただろう。 「どうなんでしょうね。みんな貧乏な時代だからねえ。うちは兄弟も多いんですよ。全部で10人くらいかな」  岸部はいったい、どんな幼少期を過ごしてきたのだろう。(次号に続く/敬称略) (本誌・渡部薫)※週刊朝日  2023年6月2日号
岸部一徳
週刊朝日 2023/05/28 11:30
愛猫への治療はどこまで… 腎臓病でも命尽きるまで「生きよう」とした姿に飼い主が出した答え
水野マルコ 水野マルコ
愛猫への治療はどこまで… 腎臓病でも命尽きるまで「生きよう」とした姿に飼い主が出した答え
洋服を着るのが好きだった「なな」(提供) 飼い主さんの目線で猫のストーリーを紡ぐ連載「猫をたずねて三千里」。今回ご紹介するのは、40代の看護師、瑞穂さんのお話です。学生時代からの長い付き合いだった愛猫「なな」は、シニア期になって何度も重篤な状態から力強く復活して瑞穂さんを驚かせ、そんな姿から動物医療に対する迷いもなくなったそうです。旅立って1年、今の心境をお聞きしました。 * * *  先月、5月6日は「なな」の命日であり、もし生きていれば5月22日で20歳でした。  なぜはっきり誕生日がわかるかといえば、私が(お産の時に)とりあげたからです。  私は大学時代を北海道で過ごしたのですが、初冬にたまたま雌のキジ猫と出会い、「雪が降るなかで外の生活は厳しいだろう」と保護しました。それが「なな」の母猫「のの」です。(何度か外に出てしまい)春頃に「のの」のお腹が大きくなり、私の部屋でお産をしました。 生後3週間の「なな」(手前)(提供)   生まれたのは5匹です。  母猫「のの」と雄の「なな」、妹の「ちっち」の3匹を飼うことにして、ほかの子猫は私と彼(今の夫)の実家で飼うことになりました。 「なな」は、自由な母猫や天真爛漫な妹猫とは違うキャラ。会ったことのない人の前では隠れるけど、飼い主にべったりな甘えん坊。特に離乳が早かったわけでもないのに、自分のおっぱいを吸って、モミモミしながら喉を鳴らしていたんですよ(大人になっても!)。男子だけど自分におっぱいがあると気づいて、丸まっていつも吸っているから一つだけおっぱいが大きくなっていました(笑)。  3匹いると賑やかでした。暖房の前で3匹で団子になったり、私の試験勉強を見守ってくれたり、いつも可愛い姿を見せてくれました。 妹「ちっち」といつも一緒の「なな」(左)(提供)  看護師として勤めてからも北海道にいましたが、2015年、猫たちと共に千葉に引っ越しました。「なな」と「ちっち」が12歳の時です。国内とはいえ、3匹連れての飛行機の移動はハラハラしました。みんなが無事に新居に着いた時は、ほっとしましたね。 母猫と妹猫と別れて、16歳でひとりっこに(提供) ■母猫、妹猫と別れてひとりっこに  不思議なことに、引っ越し後に「なな」と母猫「のの」との折り合いが悪くなり、(避妊去勢はしていたのに)壁にスプレーするようになりました。親子で格付けをしたかったのか、「のの」が年をとってぼけたのか。雌もスプレーをすると、その時はじめて知りました。  その「のの」が、引っ越しの2年後に体調を崩しました。食事が摂れなくなってきたのです。咳も少しでるようになりました。でも、病院がとにかく嫌いで連れて行かれることが大きなストレスのようでした……。結局、2018年の2月に推定17歳で亡くなりました。  翌年5月、16歳の誕生日を迎えた「ちっち」が、下痢をするようになりました。8月に腸管の悪性リンパ腫と診断が下り、抗がん剤治療をしたのですが、9月に旅立ちました。 ひとりっこになって、さらに甘えん坊に(提供)  母猫がいなくなり、妹猫がいなくなり、「なな」は16歳で“ひとりっこ”になりました。お転婆な妹に対して一歩引いて我慢するところがあったせいか、それからは甘え放題。1匹になって以降、私たちも「なな」に愛情を一心に注ぐようになりました。 (あっという間に逝った)「ちっち」のこともあったので、「なな」に健康診断を受けさせると、全身状態はよいものの、腎臓の数値が悪くなっていました。振り返ってみれば、落ち着いていたけれどおしっこの量が多く、水もよく飲んでいました。いわゆる多飲多尿、です。 洗面所の水を飲むのが好きだった(提供) ■慢性腎臓病(腎不全)ステージ4で余命宣告  2019年(16歳)の秋から「なな」に腎臓のための薬を飲ませ始め、食事も腎臓用の療法食に替えて、毎月通院するようになりました。薬を飲みはじめてから1年後の10月、急にぐったりして食事が摂れなくなりました。  膀胱炎も併発して、腎臓の数値も悪くなっていたので何日間か病院に通って点滴しました。その時から自宅での皮下捕液(皮膚に注射針で輸液剤を入れる)もはじめました。  看護師という職業柄、注射や点滴の扱いには慣れていましたが、可愛い「なな」に針を刺すとことに抵抗があり、私が抱いて夫に刺してもらうということが多かったです。その頃は1日1回の点滴でしたが、すでに慢性腎不全のステージ4で、「何があってもおかしくない」状態でした。 命の危機を度々脱し、強く生きた(提供) 「なな」が自分でごはんを食べなくなったので、(何でもいいので食べさせてと先生にアドバイスを受け)高カロリーのペーストを強制給餌しました。もし食べ物を受け付けなくなったら、「そのままお別れということもある」と、余命宣告をされながら……。  ところが「なな」は命の危機を脱し、自らごはんを食べるようになったのです!腎臓の値は高いままでしたが、先生もびっくりするくらい、体重が増えていきました。  2021年の春、コロナ禍になり私の在宅勤務が増えて、「なな」も家で落ちついた時期を過ごしていました。けれど8月に具合が悪くなり、2度目の命の危機に。暑い時期で脱水もあったので、10日ほど通院しました。  そこからは一進一退。9月になると腎機能が一気に悪くなり、今度は一日3回、家で点滴をしました。腎臓は老廃物をろ過するところで、そこが機能しないと汚いものが体中を巡る。人は透析で血液を入れ替えますが、動物はそれができないので点滴の量を増やし、おしっこから老廃物を少しでも出してあげるわけです。  猫の腎不全のお世話をした経験のある方は「1日に3度も補液?」と思うかもしれません。獣医さんも「あまりないケース」とおっしゃいましたが、「ななちゃんのような(末期の)子には適用でないけれど、やってみようか」と、考えてくださいました。夫婦でがんばって家で補液をし、「なな」もおとなしくそれを受けいれました。 酸素を吸入、病に立ち向かった(提供) ■治療はどこまでするもの?  2022年、新年を無事に迎えましたが、年明けすぐ、「なな」はだらんと脱力しました。  調べると貧血が進んでいました。病院で(体から足りなくなった)カリウムを点滴してもらいましたがが、うまく吸収されなくなり、腹水や胸水がたまって呼吸も苦しそうでした。先生と相談して「命の水」であった点滴を、ここで一回やめることにしました。  トイレにも自力でいかれなくなったので、初めておむつをつけました。体温も低くなってきて、「もう今日か明日か」とおっしゃった先生と一緒に病院で泣きました。  いよいよお別れ、と思ったのですが、「なな」はまた奇跡のような復活を遂げました。  胸水を抜くと、体が動くようになって。体重もがぐっと減って、高血圧で目も見えなくなっていたのに、2月下旬には、なんと自分で歩いたり、階段を上り下りしたり。さらにトイレにもまた自分でいき始め……。3度目の「まさか」です。本当に驚きました。 一歩ずつ懸命に階段を移動(提供)  でも正直なところ、私は「動物に医療をする」ことが、良いことなのか、悪いことなのか。さらに「どこまで」治療をすればよいのか、初めは判断がつきませんでした。  そんな私の迷いを消したのは、「なな」自身でした。  2020年の一度目の危機から復活した時、(妹の『ちっち』が、じゃあねバイバイとすぐに亡くなってしまったのに対し)「なな」はまだ生きる気だ!と感じました。その時、命尽きるまでは「医療の力を使ってでも命を繋ごう」と思ったのです。そのお手伝いはいくらでもするよというスタンスでした。主治医も親身になって『なな』を生かそうといろいろ提案してくださったので、「そこに乗ろう」と心を決めました。  そして、もうひとつ。積極的な治療をするとともに決めたことがあります。それは、「(治療以外は)すべて『なな』が望むようにしよう」ということ。  例えば、ふだんは2階の寝室で川の字で寝て「なな」に腕枕をしてあげるのですが。“今日は一階で寝たい~”と「なな」が主張したら、一階の部屋に布団を敷いて一緒に寝る。“ベランダでひなたぼっこをしたい”様子をみせたら、パソコンをベランダに持っていき、何時間でも付き合い、ご飯も食べられるようにしました。食欲がない時も、ベランダだとごはんを食べてくれました。 大好きなベランダでくつろぐ(提供)  コロナ禍で自宅でのグランピングが流行っていましたが、我が家もそんな感じで、ターフを張って日よけをして、「なな」とのんびりベランダで過ごしていたんです。医療は飼い主に任せてもらい、行動はすべて猫任せ……。「なな」が懸命に応えてくれたので、こちらも頑張れたのだと思いますが。 盛大に祝った18歳の誕生会(提供) ■最期の時を「なな」自身が選んだ  昨年のゴールデンウイークが始まる前、「なな」の腎臓の数値は測りきれないほど上がっていました。  そして5月4日、夜中についに動けなくなって、翌朝、痙攣しました。痙攣止めの薬はあげましたが、ここまでにするよ、という「なな」からの合図のように感じ、「病院にいかずこのまま看取ろう」と決めました。  連休だったので片時も離れず、夜は夫と交代で寝て……。6日、仕事に行くためいよいよ離れなければならなくなった早朝、「なな」は息を引き取りました。連休の終わり、まるで「その時」を「なな」が自分で選んだように思えました。  あと少しで19歳になるところだったので、そこは残念でしたが、「つくづくすごい子だ」と思いました。私が同じような闘病をしろといわれたら、できるかどうか。“あるがまま”を受け入れて命に向き合っていた「なな」の生きざまは、私の誇りです。  約2年、みっちり「なな」の介護に費やしたので、急に時間が空いて戸惑ったのも事実です。学生時代から猫が側にいなかったこともないし、猫ありきで建てた家も“しーん”となって。夫と二人で「暇だねぇ」とお散歩したりもしていたのですが……。 「なな」がいなくなって一カ月後くらいに、縁あって猫を迎えることにしました。生後二カ月ほどのキジ猫3きょうだいで、名前はそれぞれ、「のの」「なな」「ちっち」から一文字ずつもらって付けたんです。  ハイシニアの猫との生活から一転、「子猫ってこんなに大変だった?」と目が回りましたが、尊い経験を糧に、先代の子たちへの思いとともに、この1年過ごしてきました。 晩年は目も見えなくなっていた(提供) 「なな」は、治療からも療法食からも解放され、今は空でおいしいものを食べて、きっと「のの」と「ちっち」と走り回っていることでしょう。 (水野マルコ) 【猫と飼い主さん募集】「猫をたずねて三千里」は猫好きの読者とともに作り上げる連載です。編集部と一緒にあなたの飼い猫のストーリーを紡ぎませんか? 2匹の猫のお母さんでもある、ペット取材歴25年の水野マルコ記者が飼い主さんから話を聞いて、飼い主さんの目線で、猫との出会いから今までの物語をつづります。虹の橋を渡った子のお話も大歓迎です。ぜひ、あなたと猫の物語を教えてください。記事中、飼い主さんの名前は仮名でもOKです。飼い猫の簡単な紹介、お住まいの地域(都道府県)とともにこちらにご連絡ください。nekosanzenri@asahi.com
猫をたずねて三千里
dot. 2023/05/27 14:00
映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の劇伴で話題に 菊地成孔率いるギルド的なクリエイター集団とは?
森朋之 森朋之
映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の劇伴で話題に 菊地成孔率いるギルド的なクリエイター集団とは?
映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の劇中音楽を“菊地成孔/新音楽制作工房”として担当する菊地成孔さん(撮影/写真映像部・高野楓菜) 5月26日に公開された映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』(原作/荒木飛呂彦、監督/渡辺一貴、主演/高橋一生)。ドラマ版に引き続き、劇中の音楽は“菊地成孔/新音楽制作工房”が担当する。音楽家、文筆家、ラジオパーソナリティーとして才能を発揮している菊地。新音楽工房は、菊地の私塾である「ペンギン音楽大学」の生徒のなかで、特に優れたセンスや技術を備えたメンバーによるギルド的なクリエイター集団だ。菊地成孔が、“先生と生徒”“師匠と弟子”ではなく、フラットな関係の音楽制作集団を立ち上げた理由とは?   *  * * ■きっかけは、ドラマ『岸辺露伴は動かない』だった ――新音楽制作工房は、菊地さんが長年続けてきた私塾・ペンギン音楽大学の生徒のみなさんで構成されているそうですね。  はい。ペンギン音楽大学では、サックス、音楽理論などを教えているのですが、突然変異的にとんでもない才能を持った生徒が現れるんですよ。たとえばどちらも2003年にリリースしたDC/PRG(菊地が主宰していたバンド/2021年に解散)の「構造と力」、SPANK HAPPY(菊地と女性ボーカリストとによるユニット)の「Vendome,la sick Kaiseki」の打ち込みおよびマニピュレーターは同一人物で、ペン大(ペンギン音楽大学)の生徒です。 その後、基礎科ではなく、さらに高度な内容を教える“大学院”を作りました。モダンジャズの楽器演奏を教える「BBLS」(ビーバップ・ロー・スクール)、そしてDTM(デスク・トップ・ミュージック)に特化した「BM&C」(ビートメイキング&コンポーズ)です。後者は課題に沿った楽曲を提出してもらい、全員で批評し合うクラスなんですが、そこでも優れた才能を持った人が少しずつ現れてきた。日本初のタイプビートの制作サイト「MCKNSY」(マッキンゼー)を立ち上げたメンバーも、「BM&C」の生徒なんですよ。 当初は「20人のクラスに2人か3人、プロとして稼働できる人がいる」という割合だったのですが、3~4年前から突如として、「クラスのほとんどがすごい」という状況になった。異常値の要因はよくわからないのですが、「作風や考え方は全く違うけど、全員がプロ級のクオリティーを持っている」ということになったんです。和声理論やリズムに関して僕の薫陶を受けている人ばかりだから、当初は僕の作品の影響を受けている部分もあったんだけど、途中からそれもなくなって。そうなると先生と生徒の関係ではなくなるんですよね。ちょうどその時期に、ドラマ『岸辺露伴は動かない』の劇伴の依頼がきたんです。 「僕の活動には、インターネットを介したアイデアが入ってない」という菊地さん(撮影/写真映像部・高野楓菜) ドラマの制作チームからのオファーは、「“ペペ・トルメント・アスカラール”(菊地が主宰するバンド)の作風でお願いします」という内容だったんですよ。それで、こういうのは本当に偶然で、僕は偶然によってしか動かないんですけど(笑)、ドラマのエンディングテーマ曲の方向性を示す締め切りの日に、たまたま「BM&C」の授業があって。その日に生徒が提出してくれた楽曲をドラマの映像に合わせてみたら、何曲か「ピッタリだな」という曲があって。そのなかの1曲が、『岸辺露伴は動かない』のエンディング曲のリファレンス(参考音源)になったんですよね。  ■「生徒たちの作品は宝の山」 ――それが新音楽制作工房の設立につながった?  まず考えたのは、「この状況をもっと面白くするにはどうしたらいいだろう?」ということでした。生徒たちの作品は宝の山。それをリファレンスにして、「俺の作品だ」と言い張ることもできるだろうけど、そんなのは最悪じゃないですか。日本ではこうした事は当たり前にあったりするんですが、アメリカの音楽界は50年代から分業が進んでいて、作曲家の先生がメインのメロディーを書き、オーケストレーター(編曲家)がアレンジする、それを正規クレジットして報酬を出す、という形式が確立されていた。もっとさかのぼれば、ミケランジェロなども一人で描いていたわけではなく、すべて工房制作だった。 生徒は授業提出物が、僕の手によって完成し、作品にクレジットされれば喜ぶでしょうし、僕はすごい才能をチャージした状態になる(笑)。ただ、そのとき僕が思ったのは「それはつまらないな」だったんです。この状況をもっと面白くするためには、クラス全体を作曲家同士のギルドにするべきだなと。最初は僕に来た仕事を配分することになりますが、続けているうちに「新音楽制作工房」の名前が広まれば、工房のメンバーを1本釣りして、「あの人にお願いしたい」というケースも出てくるはずだと。そのことを生徒に伝えたら、全体が「やります」と言ってくれたんです。  ――才能のある生徒との出会いと、『岸辺露伴は動かない』の劇伴制作のタイミングが重なった。  先ほど言った通り、僕は計画性では動きません、全て偶然に任せています。博打打ちに近いかもしれないですけどね。「え? え? こいつらヤバくない?」という思いが高まった時と、『岸辺露伴は動かない』のシリーズ化が決まったのが同時でしたし、もう一つ、NFTが話題になったことも関係しているかもしれないです。僕自身NFTには興味がないし、クラウドファンディングすら抵抗があるんです。「舞台で演奏して、木戸銭をもらうのが音楽家じゃないの?」と思っている年寄りなので(笑)。つまり僕の活動には、インターネットを介したアイデアが入ってないんですよね。メンバーの音源を販売するためのカタログサイトは作りましたが、あとはLINEで連絡事項のやりとりをしているくらい(笑)。「新音楽制作工房」の実質はむしろ江戸時代の浮世絵師に近いというか、前近代的なんです。とはいえ、たとえば漫画家とアシスタントの場合、漫画家の先生の存在は絶対で、その関係性が転倒することはない。それもつまらないです。システムとして実際に現存するので。 菊地成孔さん(撮影/写真映像部・高野楓菜) ■芸術的な労働に対する人権の在り方 ――工房のメンバーとの関係はあくまでもフラットにしたい、と?  そうですね。僕には子供がいませんが、多くの人が子供に向ける夢があるじゃないですか。「俺以上の人間になってほしい」とかなんとか。僕の場合はそれが、若いミュージシャンと生徒に向けるしかないですね、構造的に。で、ミュージシャンに関しては、僕よりすごい人たちが次々と登場しているし、そこに関しては夢が叶ってるんですよ。新音楽制作工房のメンバーに対しても、同じような気持ちがあるんですよね。 年寄りというのは、才能のある若い世代が登場したときに、厳しく当たって潰してしまうようなタイプと「俺はいいから、どんどんやって」というタイプがいると思うんですが、僕は完全に後者なので。というか、どうやったら前者になれるのかすら分かりません(笑)。この記事が出るころには還暦ですからね。チャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンはとっくに亡くなっている年齢ですし、自分が尊敬しているクリエイターが60歳のときになにをやっていたか調べてみると、やってもやらなくても良いようなことをして時間を潰してるか(笑)、後進のために活動しているかのどちらかなんです。流れに身を任せているうちに「あ、オレ、ギルドを作るんだ」と思いましたね(笑)。  ――ギルドという形式は中世から存在していましたが、21世紀の音楽制作にも有効だと。  芸術的な労働に対する人権の在り方にも関わっていると思います。アメリカのヒップホップの楽曲のクレジットを見ると、10人くらい名前が並んでいるんですよ。フックになるメロディーを作った人、トラックを作った人から、ちょっとしたリズムのアイデアを出した人からドラムキットを組んだだけの人まで、関わった人の名前を全部乗せるのが当たり前になっている。日本は制作に携わっているのに、よっぽど主要な仕事をしないと名前が出ないというケースが一般化しています。まあ、徒弟制の歴史だとか、日本の情緒的なフィクスもあるとは思いますんで、人様のことはどうでも良い。それよりも何よりも、今は激動期なんです。Chat GPTをはじめとするAIの登場はMIDIより大きいかもしれないです。AIにディープラーニングさせ、曲を作らせるということが当たり前になると、著作権は誰が持つのかわからない。他にも実に様々な点で、インターネット、SNSによる音産変化の、数千倍はヤバい時期だと思います。この時期に「生身の接触があるギルドを作り、代表を名乗る」と言うのは、我ながら自分らしいなと思います(笑)。 ――「菊地成孔/新音楽制作工房」という名前が最初にクレジットされたのは、2021年12月に放送されたドラマ『岸辺露伴は動かない』(第4話~第6話)でした。  先ほども言ったように『岸辺露伴は動かない』の音楽には、2020年に放送された第1シーズンから新音楽制作工房のメンバーによるリファレンス使用がありました。そして、第2シーズン(第4話~第6話)からは劇伴全体に関わってもらうようになったので、「菊地成孔/新音楽制作工房」としたわけです。もちろん、今回の映画化(『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』)もそうですね。第一にテレビドラマや映画の劇伴は納品する曲の数が多いです。これこそ工房製作の力が発揮される現場なんですね。  菊地成孔さん(撮影/写真映像部・高野楓菜) ■プロデューサーではなく“セールスマン” その他、『almost people』という映画の劇伴も制作しています。これは先方からオファーを頂いた後に、僕のほうから「これが合うんじゃないですか?」とカタログサイトの音源を持っていったんですよ。生演奏の部分は僕がやるんですが、基本的には工房のカタログからピックアップして、それをお買い上げいただいた。黎明期はセールスマンをやらないといけない(笑)。セレクトショップの店員みたいで楽しいですけど(笑)。 もう一つは「Q/N/K」というプロジェクト。僕と元SIMI LABのQNによるコラボレーション・ユニットですが、半分は新音楽制作工房のビートメイカーが作り、半分はバンドセットという構成になっています。アルバムのためにビートを集めたら、アッという間に100トラックくらい出てきて。総じて高いクオリティーだったのですが、そのなかからQNと一緒に5曲を選んで。 そのほかにも映像作家の方が楽曲を購入してくれたり、webでのポッドキャスト番組のテーマ曲に使用されたり、少しずつ認知されてきたのかなと。とはいえ、まだ始まったばかりでヨチヨチ歩きなので、今は業務内容や実績をまとめたコーポレートサイトを準備しているところです。 ――菊地さんはメンバーのみなさんの作品をプロモーションしているというか。プロデュースしているわけではないんですね。  まったく違います。いくつかプロデュース業もやりましたけど、正直、向いてないんですよ。「売れるためにこうしろ」と強制できないし、アーティストから「こうしたいです」と反論されると、「いいよ」って言っちゃうので(笑)。それはプロデューサーとして市場で売るという責任を放棄しているとも言えるし、ダメな親みたいな状態になってしまうんですよ。アイドル産業のように「ここに入ってきたからには、上の言うことは聞かなきゃいけない」という現場は効率がいいし、クオリティーも上げやすいと思うんですが、僕には向いてない。自己プロデュースしかできないですね。僕がたどり着いた道はギルドだったんだなあと思いました。  ――なるほど。これまで通りの授業も行っているんですか?  月に2回集まって、楽曲を提出し、みんなで批評し合うことは今も続けています。その時間が1番楽しいんです(笑)。当たり前ですけど、クライアントから依頼を受けて音楽を作るのは大変じゃないですか。新音楽制作工房にはいろんなタイプの人間がいて、作風もそれぞれ違うんですが、とにかくクオリティーが高いし、もし将来、彼らが金儲けしたいと考えだすとしても、かなり先か、高い確率でそれは無いと思います。我々は既得権益がないので、どの業界に対しても格安でやっています。それよりも我々のブランディングと実力が理解され、日本のあらゆる、音楽を必要とする現場に音源を提供することで、何かが根底から変わる。例えばニュースショーのジングル一つとっても、低予算のアートフィルムに流れる劇伴一つとっても、アメリカと日本ではクオリティの差がありすぎます。生活に密着しているので、実際に変わるまで気がつくエンドユーザーはいません。 とまあ、理念は業界改革みたいな大袈裟なことにつながってしまうんですが(笑)。改革は目的格にはない。月2回の集まりはただただ楽しいです。僕はトラブルでも病気ですら、楽しく乗り越えないと気が済まない楽しい嗜好なんで(笑)。作品はアーカイブしているし、新作も常にカタログにアップしています。 「Uber Eatsよりも、電話をして出前をとることを選ぶ」という菊地成孔さん(撮影/写真映像部・高野楓菜) ――現在は音楽制作もミーティングもすべてオンラインで完結できますが、同じ場所に集まって批評し合う場があるのも興味深いです。  今は至る所でコミュニケーション障害が起きていますからね。上司と話ができない、恋人と痴話ゲンカが絶えない、家族もウザい、となると、人は絶対に嫌なことを言わないChat GPTとしかコミュニュケーション出来なくなります(笑)。生身の対人拒否傾向はずっと流れている線ですが、言語コミュニュケーションもやばい時代になっていますよね。僕の精神分析医だった医師も「人によってはカウンセリングもChat GPTのほうがいいかもしれない」と言っていました。 昭和では、回転寿司屋の寿司をロボットが握っているなんてディストピアでした。ただ、僕はまったく逆で、なるべく人と接したいんですよ。タクシーも手を上げて止めたいし、Uber Eatsではなくて、蕎麦屋に電話して出前してほしい。料理屋でも洋服屋でも必ず店員としゃべるし、二十世紀的なコミュニケーションの固まりなんですよ、僕は(笑)。コミュニュケーションの怪物だと言える(笑)。なので「新音楽制作工房」でも月に2度、みんなで会っているんでしょうね。 組織の運営も全員の合意で進めているし、著作権や印税などもすべてクリアにしています。もし何らかの受賞があったときは、僕一人ではなく、全員で受け取ろうと思っています。決まったメンバーで制作するわけだから、当然、音楽的な制限もあるんですよ。僕はSNSやらずのガラケー使いで、クリエーターがダメになるかならないかの人体実験中の音楽家です。見知らぬクリエイターとのコラボと言う冒険ではなく、わずか20名のギルドのメンバーと音楽を作って、「作品の質が下がった」ということになればそれは実験の失敗です。まずは映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の音楽がどう評価されるか、ですね。  (森 朋之)  きくち・なるよし/1963年千葉県出身。ジャズミュージシャンとしてそのキャリアをスタートし、現在は文筆家、作詞家、作曲家、音楽講師など多彩な活動を行う。1984年にプロデビュー。その後、山下洋輔グループやティポグラフィカ、などに参加する。2004年からは東京大学、東京芸術大学、慶應義塾大学などで教鞭を執り、主にジャズに関する講義を担当。実学の音楽講師としては、02年から就任のアテネフランセ映画美学校/音楽美学講座セオリー科主任講師業、社会人向けに夜学で音楽理論とサキソフォンを教える私塾「ペンギン音楽大学」の講師業を務めている。現在は、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール、ラディカルな意志のスタイルズ、菊地成孔クインテットのリーダーおよびペンギン音楽大学の塾生からなる「新音楽制作工房」の代表。22年には元SIMI LABのQNとユニット「Q/N/K」も結成し、23年7月にデビューアルバム「21世紀の火星」をリリース。 新音楽制作工房の音源はYou Tubeチャンネル(@shin-on-gak2556)で聴くことができる
岸辺露伴菊地成孔
dot. 2023/05/27 08:00
「石原良純」お坊ちゃんの“2世”と知らない若者からも大人気 還暦過ぎて大人気タレントになれたワケ
藤原三星 藤原三星
「石原良純」お坊ちゃんの“2世”と知らない若者からも大人気 還暦過ぎて大人気タレントになれたワケ
石原良純  5月8日放送の「証言者バラエティ アンタウォッチマン!」(テレビ朝日系)にタレントで俳優の石原良純(61)が出演し、知られざる秘話を公表して話題を呼んだ。同番組は活躍する芸能人をゲストに迎え、周辺取材で得た証言をもとにその人物を深掘りしていくという内容。もともとは深夜番組でゲストは芸人が多かったが、ゴールデン特番に登場したのは良純だった。 「父は元都知事で作家の石原慎太郎氏で叔父は俳優の石原裕次郎氏という超サラブレッドとして知られる良純さんですが、今やバラエティー界でなくてはならない存在になりました。『アンタウォッチマン!』の特番は、なぜ彼が重宝されるのかわかりやすい内容で、業界関係者の間でも評判になりました。サラブレッドとして映画に初主演した良純さんでしたが、やがて役者としての仕事が頭打ちとなり石原プロを出て個人事務所を設立。すると、父親とも親交のあった雑誌編集者の三原(栄子)氏がマネジャーとして身元を引き受け、二人三脚でバラエティー界に売り込んだのが今につながっているというストーリーでした」(放送作家)  マネジャーである三原氏はいつも良純の荷物を持ち、良純を伴ってテレビ局に売り込み続けたという。 「名物マネジャーだった三原さんは、良純さんに敬意を払わない共演者にはつねりに行くほど良純さんを溺愛していたというエピソードまで披露。また現役医師の夫人が証人としてVTRでテレビ初出演し、慎太郎さんから『2時間以上の長い結婚式は嫌だ』と言われ、帰らせないように披露宴であの手この手を尽くしたという裏話も語られました。最後は2019年に亡くなった三原さんが良純さんに残していた手紙が初公開され、涙と感動で幕を閉じました。証言者に中居正広さんが登場するなど、豪華かつ感涙必至の内容にSNSでも視聴者から絶賛されました。良純さんは今、ゴールデン特番のメインゲストに堪えられるほどの存在になったということでしょう」(同)  タレントとしての良純は、00年代に入ってから大きな転機を迎える。テレビ情報誌の編集者はこう振り返る。 「俳優デビュー後、『西部警察』や『太陽にほえろ!』に出演していたころは、演技力が未熟だったこともあり、2世タレントとしてあまり好かれていない部分もありました。転機になったのは04~13年に放送された『中井正広のブラックバラエティ』でしょう。同番組で“いじられキャラ”が開花しました。また、同じころにフジテレビのニュース番組で天気予報を10年以上担当したことも知名度アップに貢献しました。オリコンの『好きな天気キャスター/気象予報士』ランキングで3回連続1位になったこともあります。このころから親しみやすさが一気に増し、頭の良さもお茶の間に浸透していった。若者の間でも人気ですが、なかには2世であることを知らない視聴者も少なくないようです」(同) ■暴言を吐いても許されるワケ  一方で「切れキャラ」も良純の魅力のひとつ。ときに暴言を吐くこともあるが、なぜか許されてしまうから不思議だ。  先日も陣内智則が、後輩芸人のYouTubeチャンネルで「やりづらいと思った芸能人」として良純の名を実名で告白したことが話題に。「良純さんがYouTuberなんかと口論すんねんけど、俺が止めたら『うるせぇ! お前黙っとけよ!』って。カチンときて、俺も機嫌悪くなってしまって」と明かした。  前出の放送作家は良純の気性の荒さをこう説明する。 「陣内さんと良純さんは騒動後に別の番組で再会。良純さんから謝ることで和解したそうですが、口論になって『うるせぇ!』と言い返せるのは、彼ほどの育ちの良さだから成立するリアクションでしょう。長嶋一茂さんもそうですが、どれだけ暴言を吐いても、今のテレビ界で許されてしまうのが最大の強み。良純さんはギリギリでの口論芸が得意技で、いろんな番組でそれをやり続けた結果、テレビ朝日が誇る高視聴率バラエティー『ザワつく!金曜日』のメインキャストになっています。同番組は大みそかに特番をやるほどになり、若い視聴者層からの評判も上々。一方で、昭和のスターをオンタイムで見てきた60代以上にも根強い人気があります。秀才ぞろいの石原一家ですが、良純さんは実は石原家で最もIQが高いとも言われていますし、趣味や知識も豊富。タレントとしてあと10年は安泰でしょう」  芸能評論家の三杉武氏は、良純についてこう述べる。 「良純さんは華麗なる一族の出身ながら、どこか親近感も抱かせます。毛並みの良さだけでなく、慶応義塾大学卒のインテリでもあるわけですが、それでいて感情表現が豊かで、すぐにムキになったりといった子どもっぽいピュアさもある。若い視聴者には、熱くなってやたらと怒り出す頑固オヤジのような雰囲気も新鮮に映るのかもしれません。大物2世だから、エリートだからというだけでこれだけ長く第一線で活躍し続けられるほど、芸能界は甘い世界ではありません。俳優業と並行して気象予報士の資格取得をしたことからもわかるように、陰の努力家でもあります。年を重ねても、良純さんのようなキャラはニーズが衰えることはないでしょうし、今後も活躍が見られそうです」  あと10年は安泰、と言われるほど、テレビ界はまだまだ良純を必要としているようだ。 (藤原三星)
石原良純
dot. 2023/05/24 11:00
「直感で生きています」 女性神経科学者43歳が“超エリート”じゃなくても手繰り寄せたチャンスと成果
高橋真理子 高橋真理子
「直感で生きています」 女性神経科学者43歳が“超エリート”じゃなくても手繰り寄せたチャンスと成果
村松里衣子さん=国立精神・神経医療研究センターの研究室  東京・小平市にある国立精神・神経医療研究センター部長の村松里衣子さんは、大阪大学で働いていたときに関東地方で働く大学院時代の同級生と「遠距離結婚」をした。子ども2人をいわゆる「ワンオペ」で育てること約10年、それなのにインタビューの最中に「大変」という言葉は一度も出なかった。本人が自らを評して言ったのは「没個性」。いやいや、ほかの人と違う「個性」を十分にお持ちです。  脳やせき髄の神経回路が傷ついたときに修復させる力になるのは何か。その基礎研究で業績を重ね、今は約20人のメンバーとともに「神経難病を治す」という目標に向かう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *   *  *――ここは病院と研究所の両方があって、精神疾患や神経疾患などの治療や研究をするナショナルセンターです。敷地もとても広い。そこの神経研究所で神経薬理研究部の部長に2018年に就任されました。部長というのは、大学で言えば教授相当の職なんですね。   そうですね。私は博士号取得後10年間、大阪大学にいました。その間に結婚し、子どもを2人産みましたが、夫の勤務地は茨城県つくば市や東京でした。子どもたちが大きくなってきて、やっぱりお父さんが一緒にいたほうがいいかなと思って、関東で就職先を探しました。公募サイトで、「東京」をクリックして、職位は「教授」をクリックし、それと私の専門分野を入力して検索したら、パパーッと出てくるので、その中で場違いじゃなさそうなところにいくつか挑戦しました。 ――いくつ挑戦したのですか?  時期がちょっとずれるんですけど、5カ所ぐらい出しました。 ――それで最初に決まったのがここ?  いえいえ、ここが最後です。というか、ほかは大学に出したんですが、何でしょう、たぶん、求められる人物像ではなかったんです(笑)。その当時、上司に言われたのは「年齢」で、36歳とか37歳で大学の教授は「まだちょっと早い」と見られるって。でも、それでもあんまり気にせず応募しちゃうタイプなんですけど。  ただ、自分としても未熟だなというのは実感としてあった。教授職に応募しようと思ってみると、見えてくるものが変わってくる。たとえば、助教のときに伸び伸びと実験ができたのは、教授がいい環境をつくってくれていたんだなあということがわかってきた。実際、独立してみると、本当にそれはすごいことなんだなと痛感します。 ――この研究所は以前から知っていたんですか?  はい。学生時代にちょっと見学に来たことがあって、その後は阪大時代にここで開かれた研究会に何度か参加しました。知っている先生がいらしたから、安心して応募したというのはありました。とはいえ、面接のときはすごく緊張して、どんなことを話したか全然覚えていません。 ――現在の陣容は?  室長が2人、研究員が3人、研究補助員が2人、それから大学からの研究生が今は12人います。阪大時代に私は、すい臓が出すホルモンに神経回路を修復させる作用があることを見つけ、それから、いくつかの臓器から出てくる生理活性物質が老化で衰えた脳の修復力を回復させることも見つけた。脳の外にある臓器からの物質が神経回路に影響を与えることはそれまで明らかになっていませんでした。私の研究室には、こういう「臓器間ネットワーク」に興味を持っている人たちが来てくれているので、その基礎研究をもっと発展させていきたい。  最近は、それをどうしたら薬につなげられるかにも力を入れています。私個人としては、製薬会社の人や病院の先生たちとの共同研究に積極的に取り組んでいるところです。 勢ぞろいした研究室メンバー。最後列の右端が村松里衣子さん=2023年4月25日 ――薬学に興味を持ったのはいつごろですか?  父が福井大学医学部の教授をしていたので、医療系に行きたいという思いは漠然と持っていました。小中学校は福井大学附属でしたが、附属は中学までしかないので、高校は県立です。高校時代は成績もあまり良くなくて。  医療系というと医学部が第一選択肢になると思うんですけど、受験勉強が大変じゃないですか。たまたま模擬試験で志望校を東北大学薬学部って書いたらそのときの評価が良かった。それでいろいろ調べていくと、なんか素敵な大学だなと。大きな大学に行きたいとは思っていて、それに東京や関西は就職してから将来行くことはあるかなと思って、東北大に入りました。 ――面白い選び方ですね。  きっかけは模試の判定ですけど(笑)。仙台はいいところでした。薬学部は山の上にキャンパスがあって、4年生になって夜遅くまで実験していると、窓から見える星がすごく奇麗なんですよ。 ――日本海側は曇りの日が多いですからね。  そうなんですよ。それに、山だから少し標高が高いし、周りは暗いし。あの星空が卒業研究のときの思い出です。  そのまま修士に進んで、気管支の炎症、つまり免疫系の研究をしました。そのときの教授は、私の博士課程の途中で定年退官を迎えるということがわかっていた。薬学の場合は博士号をとってから企業に就職する人もかなり多いですし、私自身はどうしようか迷っていました。准教授の先生に相談したら、教授が変わると不安定になるかもしれないから博士課程は別の大学院も考えたほうがいいとアドバイスを受けて、それでいろんな分野の総説とかを見て、神経(の研究)が楽しそうだなと直感的に思ったんです。  現実的には入試に受からないといけない。全国の大学院入試の日程を調べたら、東京大学が一番早かった。だから東大を受けました。 ■業績はないが「第一印象」で声をかけられた ――ほかの大学でも良かった?  ほかの大学も見れば見るほど、ここいいな、と思うところはたくさんあったんです。だけど、決めかねるというか、たぶん、自分の性格的にはどこに行っても楽しい人なんです。  ただ、東大の先生たちは優秀すぎて、私は研究者として無理かなって思ったときも結構あった。ところが、博士2年で研究会でポスター発表をしたときに出会った山下俊英先生(当時は千葉大学大学院教授)が、その2カ月後の日本神経科学学会で「うちに来ませんか」と声をかけてくださったんです。  それまで何となく研究者になりたいと思っていましたけど、ふわふわしていた。声をかけていただいて、やっていこうという気持ちになったんだと思います。山下先生は、私が博士3年のときに阪大に異動され、それで私も阪大にポスドク(博士号取得後研究員)として行きました。 ――山下先生はどうして声をかけてくださったんですか?  それ、聞いたことがあるんですよ。「第一印象だ」って(笑)。そもそも私は博士課程から研究室を変えたから、業績ってなかったんですよ。「業績がないんですけど大丈夫ですか?」と聞いたのは覚えています。「大丈夫です」って言われて。 ――へーっ。ポスター発表の内容が良かったんですかね。  それは、覚えてないって(笑)。一生懸命発表していた様子は覚えていたみたいですけど。 ――なるほど。  阪大では特任助教から助教になり、居心地は良かったんですけれど、将来に対する不安は普通にありました。JST(科学技術振興機構)の「さきがけ研究員」には何度も応募しましたが、全然ひっかからなかった。4回目に分野を変えて「恒常性」について研究する領域に応募したら、2期生として採用されました。これは嬉しかった。いただいた研究費で、神経系と血管系の「臓器間ネットワーク」を研究しました。  私は何になりたいという強い意志があったわけではないんですけど、さきがけに通る(2013年)とか、文部科学大臣若手科学者賞を受ける(2014年)とか、その都度その都度、何か励まされるイベントがあって、何とかつないできた感じです。 ■同級生との結婚は「勢いですね」 ――結婚はいつですか?  阪大に来て2年後ぐらい。相手は、東大の博士課程時代の同級生です。そのときはただの同級生でしたが、すごくいろんな話をしました。私、自覚はないんですけど、「研究バカ」(笑)らしいので、どうしたらもっと面白い研究ができるか、みたいな話を周りの人にしょっちゅうしていた。それによく付き合ってくれました。  彼は博士課程を終えて製薬会社に就職し、茨城県つくば市で研究員をしていました。友人の結婚式で久しぶりに再会し、それで付き合うことになった。 ――はあん、よくあるパターンですね。でも、大阪とつくばと離ればなれですよね。どうして結婚することに?  勢いですね。アカデミア(学術界)って異動が結構ある職種なので、離ればなれでも将来的に私が関東に行けばいいかなと思った。あんまり考えずに決めましたね。  彼のご家庭は、お父さんが単身赴任を結構されていて、お母さんはニューヨーク生まれで多様性に対する理解がある方で、むしろうちの親のほうが「えっ」となっていました。ただ、アカデミアは異動があることは親も経験してわかっていたので、「あ、そうか」となりました。 ――結婚してまもなく1人目が生まれたんですね。  産休の間は実家に帰って、研究費の申請書をたくさん書いていましたけど、全部落ちました。一方で、産休を取る前に出した論文について、「追加実験をしたら掲載する」という返事が来て、復帰したらすぐ追加実験をしました。 ――子育てはどうしたんですか?  保育園のみで。 ――ワンオペで?  はい。実は子どもが寝たあとは自由時間になるんですよ。夜、心置きなく解析とかデスクワークとかができるんです。 ――え~、子どもってなかなか寝なかったりするでしょう。  いや、そんなに難しくなかったですね。「はい、寝るよ~」って言ったらすぐ。 ――信じられない。普通は夜泣きをするんですけどねえ。  うちも泣いていたと思うんですけど、私が寝てて気づかなかったんです、たぶん。 ――保育園はすぐに入れたんですか?  いや、待機児童が多かった時代で、ニュースでは私が住んでいた吹田市は「千人待ち」と言っていた。だから、出産前に無認可を探して「生まれたらよろしく」とお願いしておきました。認可保育園に入ったのは1歳の4月からです。 ――その状況で、大阪にいるときに2人目も産んだ。  そのときはさきがけ研究員になったあとで、たぶんそのおかげで准教授になっていました。ただ、肩書が変わっても、大学でやっていることはほとんど変わりませんでした。授業は解剖学の講義と実習を何人かで手分けして担当していたのですが、これは私自身の勉強にもなって良かったです。 大阪府箕面市の箕面大滝の前で撮った家族写真=2011年 ――夫は毎週、大阪に来てくれたのですか?  いえ、2、3週間に1度です。サンダル履きで新幹線に乗ってきました。子どもたちとは、パソコンのテレビ電話機能を使ってよく会話していました。 ――2018年に東京・小平市にあるこの研究所に異動して、ようやく一家が一緒に暮らせるようになったんですね。  それが、私の着任直前に夫の米国駐在が決まって。 ――え~っ!  だから、私はもし就職がうまくいかなかったら、米国に留学するのもいいかなと考えていました。 ――彼はいつ米国に行ったのですか?  私が4月に着任して、その前に行きました。状況を知る知人は「旦那に逃げられた人」って言う(笑)。学会のキャリアパス(進路)セミナーなどで話す機会もあるんですけれど、そこでこの話をするとウケる(笑)。 ――何年間米国に?  それはわかっていなかったんです。夫は研究員として入社しましたけど、知らないうちにビジネスの人になっていたんですよ。米国には駐在員として行った。最長5年という話で、だけど少なくとも私は何年か聞いていなくて、長くいそうな雰囲気が出てきたときに「ちょっとそれはどうなんだ」という話をしたら、帰ってきました。経緯はわかりませんけれど、東京勤務になりました。 ――初めて一緒に暮らすようになった。  はい。しかもコロナ禍でしばらくしたら彼は在宅勤務になりました。一緒にいなかった人が一緒にいるというのは、なかなかだなあと(笑)。 ――なかなか、なんですね。  たぶん、向こうも同じことを思っていた雰囲気はありますけど。 ――それでどうなりましたか?  ま、優しいんです、相手が。なので、向こうが努力をしたんじゃないかなあという気がします。 ――子どもたちに変化はありましたか?  大人の数が増えて、出かけやすくなった、ぐらいですかね。意外と子どもたちは変わらない。仲良くしてます。3人きょうだいみたいな感じ(笑)。 ――子育てでは「大変」という思いはなかったんですか?  そうですね。なんか、気にしていないかもしれないです。気づいていない、というか。大阪では2人が違う保育園に通っていた時期があって、大学から歩いて5分のところに住んでいたのに、2カ所送ってから行くと1時間かかった。車なのに。そういうのに慣れていたので、あんまり悲壮感はなかったですね。  東京に来てからの私の動線は、上の子を送り出す、下の子を保育園に送っていく、仕事に行く、下の子を迎えに行き、そのまま学童にいる上の子を迎えに行って帰る、でした。学童は夜7時まで預かってくれた。 ――今は給食でしょうが、この先、中学や高校ではお弁当が必要になるかもしれませんね。  どうしましょう。でも、自然解凍する冷凍食品、たくさんありますもん。 ――晩御飯は作っているんですか?  最近は全部、夫が作ってくれます。大阪時代は一応作っていました。出来合いをだいぶ買いましたけど。  このシリーズのこれまでの記事を拝見すると、特色がある方が多いですよね。私、自分の特色って何だろうとすごく考えたんですけど、「没個性」かなと。あんまり特殊なことがないと思うんです。いわゆる“超エリート”でもないし。でも、なんかそういう人でも生き残れるっていうのが大事だろうなと思います。 ――いや、「没個性」ということはないと思いますよ。何だろうな。一言で言えば「無計画」かな。  確かに無計画です。直感で生きています。 ――「研究バカ」という個性もある。  最近はちょっと大人になった。研究は好きだし、楽しいんですけど、それでそれぞれの人たちが育っていくほうが楽しくなってきた。それと、製薬会社の人をはじめいろんな方とお話しするようになって、世界がすごく広がった。それが楽しいですね。 村松里衣子さん=国立精神・神経医療研究センター神経研究所の建物の前 ――目標は神経難病の治療薬の開発ですね。  はい。すい臓からのホルモンは多発性硬化症の治療薬になりうると考えています。薬の開発は10年、20年とかかる。それを考えると、いま手元にあるものか、ここ数年で出てくる成果を自分が研究者をしている間に世の中に還元したいです。 村松里衣子(むらまつ・りえこ)/1980年福井県生まれ。2003年東北大学薬学部卒、2005年同大大学院薬学研究科修士課程修了、2008年東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了、博士(薬学)。2008年から大阪大学大学院医学系研究科に所属、特任助教、助教を経て2014年から准教授。2018年から国立精神・神経医療研究センター神経研究所神経薬理研究部部長。2014年文部科学大臣若手科学者賞、2021年第5回AMED理事長賞を受賞。
女性科学者神経科学者高橋真理子
dot. 2023/05/23 17:00
「密輸?もうありませんよ。中国は豊かになって」台湾有事の“最前線”の離島を歩いて見えた現実
下川裕治 下川裕治
「密輸?もうありませんよ。中国は豊かになって」台湾有事の“最前線”の離島を歩いて見えた現実
雙口海邊の海岸。前に見えるのは、アモイのビル群  5月19日から始まったG7広島サミットでも主要議題にあがる中国。念頭にあるのは台湾有事だ。EUもサミット前に、台湾情勢をめぐる緊張が大幅に高まる事態に備える必要があるとの見方を示した。一方、中国沿岸の目と鼻の先にある台湾管轄の離島には、ちまたで言われている“それ”とは、少し違う空気が流れているようだ。大陸に最も近い離島で何が起きているのか。旅行作家の下川裕治氏が“最前線”をルポする後編(前編はこちら)。  *  *  *  台湾から200キロほど離れた金門県(金門島)は、中国大陸からは10キロ程度の距離にある。この地政学的な位置が島の社会を翻弄させてきた。海を挟んでわずか10キロ程度で台湾と中国が向かい合っているのだ。両国の緊張が高まるなか、この離島に注目が集まっている。  金門県は、大金門と呼ばれる金門島、小金門島、大胆島など12の小島で構成され、中国大陸と至近距離にありながら台湾が支配を続ける島だ。  1949年10月に、共産党との内戦に敗れた国民党軍が台湾に撤退する際には、激しい戦闘の舞台となった。その後、58年にも砲撃を受けたがしのいだ。  2001年から中国・福建省南部のアモイとの船の往来が認められ、中国と直接つながるルートとなった。  今回の取材では、アモイをより近くで見たいと思っていた。金門島からも見えるのだが、小金門島からのほうがより近くに見えると聞き、行ってみることにした。  金門島と小金門島は金門大橋でつながっている。全長5・4キロの橋がかかったのは昨年10月と新しい。金門島を出た路線バスは金門大橋を渡り、小金門島のバスターミナルに着いた。 金門島と小金門島をつなぐ金門大橋  その入り口には、 「一国兩制統一中国」  という大きな看板があった。一国二制度という中国のスローガンだ。  バスを降りると、九宮坑道という案内板があった。金門島と同じで、往時をしのばせながら、有事にも備えているという坑道だ。入り口から石段をくだると、地下水路に出た。52隻の船が停泊できる地下の軍事施設だった。外部から見えないように、武器や食糧を運び込むために掘られた水路坑道だった。  そこからさらに、島のほぼ最西端の岬、沙渓堡に向かった。アモイがよく見えるという。  島の道を進むと八二三砲戦勝利記念碑が見えた。これは1958年8月23日の砲撃戦で、中国国民党が中国共産党の侵攻を阻止した記念碑だった。大きな砲弾型のモニュメントだ。その先に八達楼子という城郭を模した門があった。これは抗日戦争を記念した建物で、台湾の中国国民党が1963年に建てていた。  小金門島は太平洋戦争後の国共内戦の記念碑ばかりだった。こういう風景のなかを進んでいると、20年ほど前に初めて訪れた金門島の情景が蘇ってくる。あのころの金門島も戦跡ばかりだった。  当時の台湾では、金門島ツアーへの参加が勧められていた。台湾の国民党の軍隊が中国共産党の軍隊と対峙し、台湾を守ったのかを学習する島だったのだ。そのために戦跡は整備され、多くのツアーが企画されていた。このツアーに参加する公務員は有給扱いだったといわれる。  しかし金門島を訪ねる台湾の人の裡(うち)には別の思いもあった。  それは密輸と郷愁だった。  最初に金門島に泊まった日の朝のことをいまでも覚えている。朝、ホテル前の駐車場から聞こえてくる声で目が覚めた。そこには数台のワゴン車があり、100人は超えているであろう宿泊客たちが囲んでいた。なかをのぞくと、お茶の塊やカートンに入ったタバコ、果物などが積み上げられていた。  すべて中国からの密輸品だった。セブンスターの10個入りカートンの値段は、台湾で売られているものの2割ほどの値段だった。お茶はもっと安いのかもしれない。客のひとりが説明してくれる。 「セブンスターは中国内でつくられる模造品。闇タバコです。親戚から頼まれて。なにしろ安いからね」  夜、対岸のアモイから小船に載せられて金門島に運び込まれるのだという。  そういえば、昔、金門島に向かう飛行機のなかで、果物についてのこんなアナウンスも流れていた。 「大陸からの果物は危険な農薬が使われているので、絶対に買わないでください。発見された場合は没収されます」  しかし安いから、お茶、タバコ、果物……が飛ぶように売れていく。金門島ツアーの大きな目的は、この違法の買い物だった。台湾人の思いはねじれていた。  そのとき、台湾人の知人が同行していた。日本語が堪能で通訳もこなしてもらった。彼と一緒に、夕方、金門島の食堂に入った。隣のテーブルで、金門島の男たちが宴会を開いていた。テーブルには名物の高粱(コーリャン/もろこし)酒の壜(びん)がどんと置かれていた。 「あの高粱酒、おいしいけど58度ですよ。きっと彼らは金門島の公務員。あれを飲んだら、翌日は二日酔いで大変。公務員だから平日でも飲めるんです。中国共産党の公務員と同じですよ。金門島の暮らしは、中国スタイルだね。台湾は皆、仕事は忙しいから、強い酒は週末しか飲めない」  彼はビールを飲みながらそんな話をすると、こう続けた。 「でも、彼らの話を聞くとほっとする。昔の台湾語に近いですよ。懐かしい響き。子供のころに戻ったような気になる」  大陸から台湾に拠点を移した中国国民党は、台湾の人々に中国の標準語である「普通話」を強要した。北京の言葉に近い。学校は普通話の世界になった。大陸での共通語は普通話である。金門島も普通話ということになったが、台湾防衛のための軍事島では、文化や産業の優先順位は低い。昔からの台湾語、つまり福建語系の言葉がまだ色濃く残っていた。いまも金門島やその周辺の島々では、人々は福建語系の言葉を口にする。  その後、金門島は大陸と、物と人の交流がはじまり、一気に金門島バブルの軌道に乗る。しかし小金門島には、その波が及んでいなかった。  5キロちょっとしかない金門大橋だが、渡った先では時代が20年ほど遡ったような気持ちになるのだ。  沙渓堡に到着した。  歩道が整備され、絶景スポットになっている。大陸はもちろん、周囲の島を見渡せることもあり、かつては軍事的にも重要な地点だった。今も台湾の兵士がアモイ方面に目を光らせている。  その脇でアモイを眺めた。目と鼻の先にアモイの高層ビル群が並ぶ。 島のほぼ最西端の岬、沙渓堡。歩道が整備され、絶景スポットの観光地に    ここにも坑道があり、そこを抜けた海岸べりには、監視小屋があった。 沙渓堡にある監視小屋  ここから島を北上し、雙口海邊という海岸に移動した。もちろんここでも砂浜の向こうにアモイのビル群を眺められる。海岸に沿って鉄製の杭が並んでいる。中国からの船が浜に上陸することを防ぐ目的でつくられた。20年前、この杭が密輸船も防いでいるという話を聞いたことを思い出した。 雙口海邊の海岸。前に見えるのは、アモイのビル群  台湾からの観光客にその話を聞いてみた。 「密輸? もうありませんよ。中国は豊かになって、危ない密輸なんて誰もやらないんじゃないかな」  同じ20年で見違える風景になった対岸のビル群を眺めながら、その言葉にうなづいた。  小金門島を歩っていると、沖縄がだぶってしかたがなかった。気候が似ているためかもしれない。金門島と小金門島の関係は、宮古島と伊良部島とよく似ていた。この両島の間には伊良部大橋が完成した。金門大橋とよく似ている。  小金門島の中心街である東林街の食堂に入った。昼どきだった。開いている店が少ない。一軒の店で、カキが入ったそうめんを頼んだ。1杯60元、約270円。金門島に比べると20元ほど安い。 カキそうめん  「金門大橋ができて、島の人はどんどん金門島に移ってしまった。島は寂れる一方ですよ」  店の主人に元気がない。伊良部島も同じだった。橋は離島の過疎化を加速させる。  安全保障の観点からも世界的に関心が持たれている台湾海峡。有事の際はその最前線になるであろう小さな島には、その緊張感は何もなかった。  観光地として中国からの客を心待ちにする本島と、その経済的な恩恵を享受できない小島の風景。しかし小金門島を訪ねる観光客は増えている。橋ができ、簡単に小島に渡れるようになった。そんな観光客が求めるのは、静かな小島の空気……。金門島、そして小金門島の戦後は、いつも歴史の皮肉のなかに縁どられている。 (下川裕治) ■しもかわ・ゆうじ 1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)。
中国台湾有事
dot. 2023/05/21 16:00
春風亭一之輔、散歩で2万8千歩の日も 寄席まで時間があれば歩く習慣
春風亭一之輔 春風亭一之輔
春風亭一之輔、散歩で2万8千歩の日も 寄席まで時間があれば歩く習慣
春風亭一之輔・落語家  落語家・春風亭一之輔さんが週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は「散歩」。 *  *  *  普段、運動をしないので、唯一散歩をすることで「どうだ、オレだって身体にいいことしてるだろう」という気になっている。  たとえばこんな一日。昼から寄席の出番。家から最寄りの寄席までは、時間があれば歩く。弟子が着物のカバンを持っていってくれるから手ぶら。そういうとこだけは弟子がいてよかった。 「今日はアレをやってみようか」とその日やりたいネタをブツブツと口の中でさらいながら歩き始めるが、ものの15分で飽きてしまうのが常だ。代わりに変わった名前の表札を探しながら歩く。「工藤○一」を見つけた。別段変わってもないが、よく考えると名探偵コナンの本名と一緒。しかも旧江戸川乱歩邸から程近いところに! ちょっと嬉しい。寄席に到着、一席やって、電車移動で浅草へ。もう一軒寄席をやっつけ、そのあとは夜の仕事の会場までひたすらに歩く。  浅草は視界に入る8割は外国人観光客。つんつるてんの和服姿の把瑠都風ヨーロッパ系の巨漢オジサンを見つけると得した気分。上野へ出て昼から飲んでるお気楽な中年カップルを横目に、生魚と乾物の匂い漂うアメ横を抜ける。あの匂いは心地よくはないが懐かしい。黒門町の落語協会事務所でトイレを借りて、まだ寒そうに嫌々客引きをしているメイド喫茶の店員を数えているうちに秋葉原を越え万世橋に。右に曲がって、かんだやぶそば・鳥すきのぼたん・まつや……なんて老舗の名店周りをうろついて、靖国通りをズンズン進む。書店、カレー屋、スキー用品店、喫茶店、眺めるうちにあっという間に神保町の交差点。らくごカフェに顔を出し店長の無事を確認し、同じビルのボンディの大行列がまた伸びているのに驚く。シェア型書店「猫の本棚」には私の棚もあるので良かったらどうぞ。  俎橋は落語「お菊の皿」に出てくる昔は寂しいところだったんだそうな。武道館、靖国神社を左右に見て、内堀通りを左に曲がってお堀の向こうの大邸宅にお住まいのご家族の平穏を祈りながら、右手には英国大使館、ちょっと前にMXテレビがドローン飛ばしてお隣の庭に落っこって大目玉食らってたな、なんてことを思い出しながら「5時に夢中!」の生放送をガラス越しに観る。新宿通りを右に、ワコールにはやっぱりブラジャーやパンティーが山のように積んであるんでしょうな、なんて妄想しつつ幅の広い通りを歩く歩く。 イラスト/もりいくすお  疲れてくるころに上智大学を過ぎて四ツ谷駅、ここで電車に乗る誘惑にかられるも、あと少しだと心を奮い立たせて四谷三丁目。あえて新宿二丁目のど真ん中を突っ切って、世界堂でボールペンの替え芯とお礼状用のハガキを購入。紀伊國屋書店の1階で立ち読みしたら、JR新宿駅の信州そば本陣で天ぷらそばをたぐって、時間オーバー。ここらでいいか……と中央線に乗って中野駅、そのまま独演会に向かうのだった。  その日は2万8千歩くらい。どうだ、なかなかだろう。でもそんなに歩くとかえって身体に良くないらしい。どうしろって言うんだよ。オレは歩くのが好きなんだ。 春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)/1978年、千葉県生まれ。落語家。2001年、日本大学芸術学部卒業後、春風亭一朝に入門。この連載をまとめたエッセー集の第1弾『いちのすけのまくら』(朝日文庫、850円)が絶賛発売中。ぜひ!※週刊朝日  2023年5月26日号
春風亭一之輔
週刊朝日 2023/05/21 16:00
江頭2:50がTV出演オファーを断る理由「だからファンに愛される」エガちゃんねるディレクターが語る
今川秀悟 今川秀悟
江頭2:50がTV出演オファーを断る理由「だからファンに愛される」エガちゃんねるディレクターが語る
YouTuberとして絶大な人気を誇る江頭2:50  YouTubeで絶大な人気を誇るお笑い芸人がいる。体を張った破天荒な芸風でおなじみの江頭2:50だ。YouTubeチャンネル「エガちゃんねる」のチャンネル登録者数は371万人。配信される動画の再生回数は軒並み100万、200万回を超える。サブチャンネル「エガちゃんねる~替えのパンツ~」(登録者数92万人)を合わせると、チャンネル登録者数は460万以上で、ORICON NEWSのアンケート「好きなYouTuberランキング」で2021、22年と連覇を飾った。  動画を見て驚かされるのは、江頭2:50の秀逸なトークスキルだ。1人語りの「時効だから話せる話」だけでなく、素人と積極的に絡む「街ブラ」でも笑いを取る。相手を傷つけない笑いで、出演者やスタッフに「ありがとう」、「ごめんね」と声を掛けるなど細やかな気配りも目立つ。テレビでは大暴れする破天荒なキャライメージが強いだけに、ギャップのある素顔を新鮮に感じた視聴者も多いだろう。 「エガちゃんねる」のディレクター・藤野義明さんはこう語る。 「体を張った企画は、コアなファンにピンポイントに深く刺さるけどそれだけでは続かない。より広いマーケットで勝負できるコンテンツにしたいと考えた時、『B面の江頭さん』を出すことを意識しました。歌を熱唱したり、街ブラ企画に挑戦したり。江頭さんは撮影前に『1個も面白くないよ』って言っていたけど、この人が街ブラしたら絶対に面白いという確信がありました」  藤野さんはアシスタントディレクター、ディレクターを務めたテレビ朝日のバラエティー番組「『ぷっ』すま」で、番組に出演した江頭2:50と知り合った。 「あまり言うと怒られるけど、すごく礼儀正しくて恐ろしいほど腰が低い人なんです。アシスタントディレクターに話しかけるタレントはなかなかいない。一緒に仕事をしたスタッフはみんな江頭さんを好きになる。仕事に対しても真面目でストイック。他のタレントより1時間早く楽屋に入って準備をしていました」 「『世界の江頭』になることが目標」と語った藤野さん  だが、18年に風向きが変わる。「『ぷっ』すま」、「めちゃイケ」など人気のバラエティー番組が次々に終了。コンプライアンスが厳しくなったこともあり、江頭2:50の芸風が敬遠され、テレビでの出演が激減する。この時はパチンコの営業などでギリギリ食いつないでいたという。藤野さんは当時をこう振り返る。 「江頭さんは根っからの明るい人間でない。会ったら本当に落ち込んでいて…。これだけ魅力的な『変人』が、嫌われ者で芸能界を去るのが嫌だったし、もったいない。もう一度人気者にできないかなって。その思いだけでした」  テレビ局や有料チャンネルのバラエティー番組に、江頭2:50を売り込むための企画書を持っていくが、先方の反応は芳しくなった。「それなら自分たちでやるしかない」。藤野さんはYouTubeチャンネル「エガちゃんねる」を運営して勝負をしようと腹をくくった。  20年1月にチャンネルを開設。「1年で100万人のチャンネル登録者数」を目標に掲げたが、1本目の動画を配信して9日後に100万人に到達した。だが、順風満帆だったわけではない。「お尻習字」など1、2回目の動画は広告審査が通らず収益は0円だった。 「何がNGだったのか悩んで1カ月以上試行錯誤しました。今でも月に2,3本広告が付かない動画がありますけど、それでいいかなって。テレビだったらできないことをYouTubeならお金さえ諦めればできる。他の動画で収益を頑張ろうと考えるようにしました」  YouTubeは立ち上げ当初に人気を集めても、その勢いを維持するのは簡単ではない。「エガちゃんねる」がチャンネル登録者数を順調に増やし続けるためには、江頭2:50の個性を引き出すスタッフの能力が欠かせない。時には1本の動画を撮るのに10ページ近くに及ぶ台本を用意。江頭さんにはこの台本の内容を伝えず、藤野さんが動画に出演する「ブリーフ団」やスタッフたちと綿密に打ち合わせをする。 「他のYouTuberさんと共演する時、たいていこの台本に驚かれますね。ただ、テレビ時代から台本を作るのは当たり前だったので自然な作業です。『企画は大胆に、詰めは繊細に』を心掛け、どんな展開でも対応できるように準備する。江頭さんは僕らの想像を超えてくるんですけどね(笑)」  笑いは想定を超えるハプニングから生まれる。その典型的な動画が「初めてシリーズ」だ。江頭2:50がマクドナルドでフィレオフイッシュしか食べたことがないため、他のハンバーガーに挑戦する企画だったが、一切忖度しない。おいしいと感じたメニューは絶賛するが、そうでなかった場合は酷評して厳しい採点を下す。 「想定外中の想定外でした。そこまで言うか!って(笑)。芸能人って企業にマイナスのことは絶対に言わないじゃないですか。テレビで使ったらスポンサーにも怒られるのでカットする。実際にYouTubeで使うかどうかギリギリまで迷いました。でも、江頭さんと僕さえ怒られれば誰も迷惑を掛けないかなと腹をくくりました」  1本の動画の編集は4、5日間かけるという。藤野さんを含めてテレビでもトップクラスの編集技術を持つ4人のディレクターが、時には徹夜で作業する。 「江頭さんという価値をVTRの中で最大化させるために、突っ込みのテロップ、ワードセンス、カメラのアングルなど色々考えてどうやれば笑いが取れるか考えます。あとは動画の中での緩急ですね。ここで笑いを爆発させようとか、この場面は視聴者が飽きないようにテンポを上げようとか考え抜く。動画のコメント欄にもすべて目を通します。ありがたいメッセージが多いですが、批判的な意見は誤解されているケースも多い。その時は『思考の過程』を丁寧に伝えるように心掛けています」  藤野さんは、江頭2:50の「真面目じゃないとお笑いはできない」という言葉を肝に銘じているという。「江頭さんはストレッチでも大きい声で『1!2!3!』って数えるんです。なぜ大声で数えるのか聞いたら、『腹から声を出していないと、本番で声が出なかったらどうするんだよ』って。真面目に突き詰めている姿を見たら僕らが手を抜けるわけがない」と言葉に力を込める。  22年9月に渋谷公会堂で音楽と笑いの祭典「エガフェス」を開催した。大好物のアイスキャンディー「ガツンと、みかん」で赤城乳業にCM出演を逆オファーして実現するなど、全力で駆け抜けて夢をかなえている。  実は最近になり、テレビの人気番組から江頭2:50に出演オファーが殺到しているという。番組の内容はトークコーナーや街ブラ企画などが多い。江頭2:50は「エガちゃんねる以外は、体を張った江頭2:50のイメージをテレビで貫きたい」とすべて断っているという。 「不器用な生き方ですが、だからファンに愛されるのかなって。今は『世界の江頭』になることが大きな目標です。コロナも収束してきたので、いろいろな国でロケをして笑いを届けたい。現時点で詳細は言えませんが、皆さんを驚かす企画ができるかもしれません」  テレビでの仕事が激減して、落ち込んでいた江頭2:50はYouTubeを始めて人生に光が差し込んだ。「今が芸人人生で一番楽しい」と藤野さんに漏らしたという。 「江頭さんの楽しそうな姿を見るのはうれしいけど、調子に乗っていろいろな女の子を口説いているので気をつけないと。でも玉砕しているので、このまま玉砕し続けて欲しいです。これ全部書いてください」  笑顔で話す藤野さんの辛口のコメントに、愛情が詰まっていた。 (今川秀悟)
エガちゃんねる江頭2:50
dot. 2023/05/21 10:30
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
田内学の経済のミカタ
AERA 9時間前