中将タカノリ
沢田研二をスーパースターにした加瀬邦彦「一番苦手なことをしよう。踊るんだ!」
加瀬邦彦さん=2005年
グループサウンズ(GS)の頂点にいた沢田研二(ジュリー)を、日本全国津々浦々、老若男女を魅せる「スーパースター」にしたのは、希代のプロデューサー、加瀬邦彦だ。ザ・ワイルドワンズのリーダーでギタリストだった加瀬は1960年代後半に若者たちが巻き起こしたGSブームをどう生き、そしてジュリーをつくりあげたのか。
1966年6月、日本武道館。斬新な音楽性で世界中を席捲したザ・ビートルズの日本公演には、数多の若者が押し寄せた。その人波、25歳の加瀬の姿もあった。本来であれば、加瀬は寺内タケシとブルージーンズのメンバーとして前座を務めるはずだった。しかし出演者はビートルズと接触はおろか観覧さえできないことを知り、直前にグループを脱退。一観客として会場にいたのだ。
当時、日本の音楽シーンではビートルズや後続のザ・ローリング、ストーンズの影響を受けたミュージシャン達によってグループサウンズブームが盛り上がりつつあった。1966年3月にジャッキー吉川とブルー・コメッツがリリースした「青い瞳」は販売数50万枚といわれるヒットに。以前、加瀬が短期間所属していたザ・スパイダースも、いまだヒット曲はないものの着々と存在感を増してきていた。この頃の加瀬の置かれた特殊な境遇について、ザ・ワイルドワンズの島英二は語る。
「ブルージーンズを脱退した際、普通ならクビになるところを渡辺プロダクションから強く引き留められたそうです。それだけ加瀬さんは周囲から才能を期待されていたのでしょう」
ビートルズの武道館公演前後から、加瀬は渡辺プロからの期待に応える形でワイルドワンズの結成に向け動き出していた。まず加瀬の誘いに応じたのはドラマーの植田芳暁。
「当時、僕は早稲田の大学生になる前の浪人生で、アメリカンスクール在学中の友達とバンドを結成していたんですが、ある時、池袋のデパートの屋上で開催された『日米対抗バンド合戦』というイベントに出演しました。加瀬さんはイベントに協賛していたYAMAHAの方から『ドラムを叩きながら歌える珍しい奴がいた』という評判を聞いて連絡をくれたんです。『あの加瀬さんから誘いが来た!』と驚きましたが、日比谷で初めてお会いした時のアイビールックの洗練されたファッションと誠実な人柄にはさらにシビれました。条件もとても良かったし、すぐに加瀬さんと一緒にやっていこうと心に決めました」
植田に続き、加瀬は人づてに鳥塚しげき、島らをメンバーに抜擢。いずれも関東の学生バンドシーンではホープと目されていた面々だが、年齢は6、7歳年下。ミュージシャンとしてめざましい前歴があるわけではなかった。加瀬がワイルドワンズで目指していたバンド像について「加瀬さんはビートルズのようなグループを目指しながらも、音楽的にはアメリカ西海岸で流行っていたウエストコーストサウンド、たとえばバーズやママス&パパスのようなフォークロックを志向していました。また下積みのようなことはせず、初めからレコードデビューやその後のメディア露出を前提に活動していくとも言っていました。業界に染まった感じじゃなく、学生らしいさわやかさを前面に押し出したイメージを描いていたんですね。加瀬さんは学生時代から加山雄三さんと親交があったことが有名ですが、音楽界、芸能界だけじゃなく美術界、演劇界など交友関係が幅広く、当時から際立ったセンスとプロデュース眼のある人でした」と鳥塚。加瀬の戦略はみごと功を奏し、1966年11月にリリースしたデビュー・シングル「想い出の渚」は公称100万枚超の大ヒットに。爽やかなコーラスと加瀬の奏でる12弦ギターの響きは今も多くの人に愛されている。
結成間もないザ・ワイルドワンズ(左から島英二、加瀬邦彦、植田芳暁、鳥塚しげき)
その後も「愛するアニタ」(1968年)、「バラの恋人」(1968年)といったヒットをものにし、またザ・タイガースに「シー・シー・シー」(1968年)を提供するなど、ソングライターとしても注目を高めていった加瀬。1971年にワイルドワンズが解散してからは沢田研二付きの作曲家、音楽プロデューサーとして辣腕をふるった。当時、渡辺プロの社員として沢田のマネージャーを担当した森本精人は当時の加瀬について次のように語る。
「加瀬さんが関わるようになったのは『許されない愛』(1972年)からでしょうか。曲作りとビジュアル面やステージの演出を担当していただきました。印象的なのは、沢田が『シャボン玉プレゼント』(ABCテレビ)でポール・アンカの『ダイアナ』をカバーして歌った時。加瀬さんから『森本、沢田のダイアナはどうだった?』と聞かれ『とても良かったと思います』と答えたのですが、それからしばらくして出来上がってきたのがあの『危険なふたり』(1973年)でした。『ダイアナ』と同じく年上の女性への愛を歌った内容でロカビリー調。ご存じの通り大ヒットをおさめるわけですが、沢田の魅力を引き出すことにかけては加瀬さんの右に出る人はいませんでした」
1970年代から1980年代にかけ、加瀬は沢田という時代の偶像を通して日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしてゆく。
燦然と輝くジュリーのヒット曲の数々
「加瀬さんの功績は楽曲提供もさることながら、早川タケジさんをアートディレクターに抜擢したことです。当時はいち歌手にアートディレクターが付くなんて思いもしない時代でした」と森本。セツ・モードセミナー出身のイラストレーターで、当時、テレビCMのスタイリストとしても注目を浴びつつあった早川。彼の先進的なセンスを知った加瀬は、共通の知人を介して沢田のプロジェクトチームに加わるよう懇願したのだ。早川は当時の加瀬との仕事について「僕が加瀬さんとご一緒したのは『危険なふたり』の少し前から1980年代前半のEXOTICSの時期まで。メイクやボディーペイント、ギラギラの衣装、ずいぶん過激でアブノーマルな演出を提案したと思うんですが、加瀬さんはそれを全部面白がって実現してくれました。ロック以外に、ハリウッドミュージカルや宝塚など、レビュー全般にも強い興味をお持ちの方でした。私も歌舞伎や映画全般、ミュージカルにも興味がありましたので、仕事面では大変気が合いました。あんなに豊かなエンターテイメント観を持ったプロデューサーは後にも先にも加瀬さんしか知りません。おまけに人柄が良くて、器の大きい方でした。子供の頃から変わり者で対人関係の苦手な僕だけど、加瀬さんといて嫌な思いをしたことは一度たりともなかったです」と懐かしむ。
加瀬のプロデュース力は「勝手にしやがれ」(1977年)、「カサブランカ・ダンディ」(1979年)など自身が制作に関わっていない楽曲でも発揮され、1980年の「TOKIO」で大輪の花を咲かせた。貧しさを忘れ、経済大国となった日本の首都・東京の栄華と反面の孤独を、当時最先端のテクノポップサウンドに乗せて歌ったエポックメイキングな楽曲だ。「『TOKIO』のシングル盤は1980年1月1日リリース。流通の事情を考えたら普通あり得ませんが、『この曲で1980年代が始まるんだ』という意気込みで関係先に頼み込んで実現しました。この難プロジェクトを先導したのは加瀬さん。紅白歌合戦が終わった後、生放送番組「ゆく年くる年」(NHK)で沢田が大きなパラシュートを背負ってこの曲を披露した時は痛快でしたね。この曲以降、沢田はよりビジュアル重視にシフトチェンジしてゆくのですが、それに合わせバックバンドをデビュー以来の井上堯之バンドから若いバンドに切り替えるよう決断したのも加瀬さんでした」(森本)
沢田と並行してアグネス・チャンやアン・ルイスらにも盛んに楽曲提供し、作曲家としての地位を確立した加瀬。1981年にはワイルドワンズを再結成し、ふたたび自身の表現活動にも積極的に取り組むようになった。その後、徐々にマイペースな活動にシフトした加瀬だが、2010年に沢田研二とコラボレーションした「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」では久々に往年の辣腕プロデューサーぶりを発揮したという。
加瀬さんを偲んで歌う沢田研二=2015年8月17日
「突然言い出したのでびっくりしましたが、『渚でシャララ』(2010年)というシングルでオリコン1位を目指そうと。聞けば長年プロデューサーを務めた恩返しなのか、もう沢田君も了承してくれてると言うんです」(植田)「『ただ演奏するだけじゃつまらないから、俺たちの一番苦手なことをしよう。踊るんだよ!』と言われて『えーっ!』と。みんな覚えるのに一週間くらいかかったんだけど『SMAP×SMAP』(フジテレビ)に出た時、SMAPのメンバーたちは1時間もしないうちに完璧に踊っていたのを覚えています(笑)」(島)「結局、オリコン1位は獲れなかったんですが、2010年のライブツアーがミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞したんです。あの企画は僕たちがこれまで生きてきた中でも5本の指に入る印象的な出来事でしたね」(鳥塚)。
その後、70代に差しかかってもももいろクローバーZとコラボレーションするなど、精力的な活動を展開していた加瀬だったが、2014年に咽頭がんを発症。結果、手術で声帯を失ってしまったことは根っからの音楽人である加瀬の心に大きな穴をあけたに違いない。翌年4月20日、加瀬は自宅の洗面所で呼吸用のチューブをふさいだ状態で亡くなっているところを発見された。享年74歳だった。「実は亡くなる5日前にご自宅に会いに行ってたんです。その時はお元気で『俺も腰の手術したから、もし加瀬さんが歩けなくなっても背負っていけるよ』なんて言って笑い合ってたんですが、まさかあんなことになるなんて・・・。正直、今でも立ち直れていない部分があります」(島)
加瀬の死後、経営していたライブハウス「ケネディハウス」を受け継ぎ、ワイルドワンズに加入した次男の加瀬友貴(ともたか)は父についてこう振り返る。
現在のザ・ワイルドワンズのメンバーと加瀬の次男の友貴さん(右端)
「仕事でもプライベートでも、常に自分がワクワクできるなにかを探していました。子供の僕にたびたび『最近はどんな音楽やファッションが流行ってるの?』と尋ねてきて、その情報をちゃんと自分のものにしている柔軟な人でした。音楽やプロデュース業について『2歩先だと早すぎる。1歩先だとすぐ追いつかれるから1歩半くらい先に進んでるのがちょうどいいんだよ』と言っていたのが印象に残っています。亡くなってしまったことは残念ですが、今は残ったオリジナルメンバーと共に前向きに活動を続けてゆき、父の思いと音楽を後世に受け継いでいきたいと思います」
現在、YouTubeやTikTokなどのSNSでは10代、20代の若者を中心に昭和ポップスのリバイバルが起こっており、そこでは加瀬が奏で、プロデュースした楽曲たちも大きな人気を集める。身体は滅びても、時代を超えて音楽が残る……ミュージシャンとしてこれほどの幸福が他にあるだろうか。常に絶妙なバランス感覚で時代を先んじてきた加瀬の精神、人としてのありようは、今後の音楽人やクリエーターにとっても大きなヒントとなるに違いない。
(一部敬称略)
ザ・ワイルドワンズのメンバーと筆者(中央)
中将タカノリ(ちゅうじょう・たかのり)/シンガーソングライター・音楽評論家。2005年、加賀テツヤ(ザ・リンド&リンダース)の薦めで芸能活動をスタート。昭和歌謡、アメリカンポップスをフィーチャーした音楽性が注目され、楽曲提供も多数手がける。代表曲に「雨にうたれて」など。2012年からは音楽評論家としても活動。数々のメディアに寄稿、出演し、近年の昭和歌謡ブーム、平成J-POPブームに寄与している。今年5月10日にキングレコードから橋本菜津美とのデュエットシングル「夜間飛行~星に抱かれて~」リリース。
週刊朝日
2023/06/06 15:00