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元日経記者・後藤達也 日銀キャップ退職に「会社員の立場を捨てることに家族のほうが前向きだった」
中島晶子 中島晶子
元日経記者・後藤達也 日銀キャップ退職に「会社員の立場を捨てることに家族のほうが前向きだった」
「日経の退社に関し妻は『辞めろ』に近い勢いだった」と後藤さん(撮影/小山幸佑)  後藤達也さんが日本経済新聞社を辞め、会社員からフリーランスに転じたのが2022年4月。今の仕事状況は? 普段見せないプライベートは? アエラ増刊「AERA Money 2023春夏号」より5ページのインタビューを抜粋してお届けする。  ツイッターのフォロワー数50万人超(2023年4月20日現在/以下同)、ユーチューブのチャンネル登録者数約25万人、noteの有料読者約2万人といった驚異的な数字を、経済系インフルエンサーでは史上最速レベルで達成した。  フリーランスへの理想形のような転身に成功した後藤さんだが、インタビューでお会いしたときは濃紺のスーツにネクタイ姿。絵に描いたような「大手企業に勤めるエリートビジネスパーソン」に見えた。  実際、エリートだったことは間違いない。文春オンラインが2022年3月、実名こそ伏せたが「精緻(せいち)な解説で人気だった日銀キャップが退職届を提出」したことを報じたとき、業界に衝撃が走った。  日銀記者クラブは報道各社が精鋭記者を投入する経済報道の主戦場。現場責任者である「キャップ」は出世コースに乗った人が通る道だ。  後藤さんは妻と子どもの3人暮らし。日経を離れることに家族の反対は全くなかったという。本人の気持ちはどうだったのか。 「辞めたくて仕方がないほど嫌気が差していたわけではありませんが、仕事は過重気味で窮屈さはありました」  退社直前、ニューヨーク特派員時代にはじめたツイッターのフォロワー数は30万人を超えていた。独立にあたってこのアカウントは閉じ、イチから再スタート。 「情報発信で生計を立てられるほど世の中に求められているか……。不透明でしたが、試してみたい気持ちが強まりました」  迷う心境を妻に話したら「『辞めろ』に近い勢いで強力に背中を押してもらいました(笑)。もしかしたら日経にずっと残るほうがリスクなのではないか、と」。 「妻はシンクタンクで働いていて、収入があります。少しは貯金もあったので、1年働いて100万円しか稼げなくても、すぐに生活に困るわけではないだろう、と。全然食えないとなったら、また職を探せばいいと楽観的に考えていました」 「ツイッターなどのSNSで経済に関し『断言』する人は信じないほうが」  後藤さんは慶應義塾大学経済学部を2004年に卒業し、日経入り。金融市場全般と日銀、財務省、企業調査を主なフィールドにニューヨーク特派員も経験し、取材や執筆の幅を広げてきた。  記者の仕事は情報入手で競う面が強いが、後藤さんは日経在職中に米国コロンビア大学留学も経験している。シンクタンクのCJEB(日本経済経営研究所)で2年、エコノミストとしての修業を積んだ。  独立して、暮らしはどう変わったか。 「気が向いたとき、働きたいときに働いています。夜9時に寝て深夜2時に起き、執筆することもある。午前3時に寝ることも」  どんなに忙しくても1日6~7時間の睡眠は確保する。寝不足は大敵。 「家では自室に行けばいつでも仕事ができてしまうので、オンとオフの境目があいまいになった感じはあります」  後藤さんとマーケットとの接点は学生時代にさかのぼる。 「2000年夏のマネックス証券上場直前、創業者の松本大(おおき)さんの講演を聞いて株に興味を持ちました。当時は大学生でしたが、なけなしの貯金でマネックスの株を買ったのが最初です。  その後20年以上も経って松本さんと対談(2022年12月28日「マネクリ」<マネックス証券のマネー情報メディア>)したときはうれしかった」  一口にお金や経済の情報と言っても、ツイッター、note、ユーチューブ、テレビ番組と各媒体に適した伝え方がある。 「noteは日本経済新聞に近いかもしれません。月500円の課金をしてでも勉強したい人たちが読んでくださっているので、『つみたてNISA(少額投資非課税制度)って何?』みたいな超初心者向けの内容はマッチしづらい。  ツイッターのフォロワーも金融リテラシー(お金や経済の知識と判断力)が高めの人が多いように感じます。ユーチューブは視聴者の視聴結果を元におすすめ動画が表示されることもあり、少し受け身。  とはいえ経済に興味のある人が見る前提ですから、わかりやすいグラフを自作し、視聴してくれる層を探っています。 「正直にやる。小金目当てに読者の信頼を失うほうが怖い」  テレビは『関心はなかったけど、たまたま(後藤が)出ていたから見た』という人も多いでしょうから、金融の知識ゼロの人にもわかるような解説を心がけています」  お金についての興味や勉強の熱意は千差万別。だからこそ一律に同じ情報を発信するのではなく、伝えるべきポイントや話し方も変えていく必要がある。  後藤さんファンにはどんな人が多いのだろう。なぜここまで支持されているのか。 「金融機関も大手メディアも相手にしてこなかった『カネにならない人たち』がついてきてくれている気がします」  証券会社や銀行では、高い手数料を払ってさまざまな金融商品を買ってくれる人が「いい顧客」だ。買わせるために、あの手この手で新商品の紹介をする。  相場解説もどちらかといえば「上昇期待」に寄る傾向にある。大手ウェブメディアや雑誌はクライアントの絡みもあり、いいものは褒めるが悪いものには触れない(けなさない)ことが多い。  テレビは「年金の運用成績が悪い」「投資で損した」など悪い話のほうが視聴率を稼げるので、民放が大きく報じるのはネガティブな話題——。 「日経新聞の読者は数百万人。その読者には、金融や経済を知り尽くしたプロもいます。その対極に『消費者物価指数やFOMC(米連邦公開市場委員会)などという言葉を見かけるけど、実はよくわからない』『NISAなどで資産運用をしたいが知識ゼロ』という人がいて、こちらが数的には圧倒的に多い」 「NISAって何?」「投資信託はどれを買えばいいの?」という情報はあっても、経済の流れを自分で判断できるようになる力が養える場はなかった。  後藤さんの言う通り、この層を鍛えてもカネになりにくいのである。NISAで低コストなS&P500の投資信託を買う「だけ」の人は、証券会社の利益にはほとんど貢献しない。  複雑に絡み合う経済動向をわかりやすく解説するのはプロでも難しい。そして経済の知識が豊富な人が、初心者に理解させるスキルを持っているわけではない。 「SNSなら忖度(そんたく)なしに情報発信できます。ネットのおかげで、これまで情報が届かなかった人たちにアプローチできています。  経済を知らなくても生きていけるし、興味がなければ調べなくてもいい。でも、よほどの富裕層でない限り、預金以外での資産形成は避けて通れない問題でしょう」  わかりやすく、おもしろく、偏りなく。後藤さんの情報発信に共通する3カ条だ。ツイッターでもnoteでもユーチューブでも、読者数や再生数を稼ぎたいための過激な「釣り見出し」コンテンツはない。  ネット上には有料無料を問わず、情報があふれている。大げさなもの、間違っているものも多々ある。 「特定のインフルエンサーの1人か2人だけを信奉することは勧めません。『この人に聞けばすべて完璧』なんて、ありえないからです。  また、断定口調を連発する人は危険かもしれない。株価や為替の見通し、買うべき金融商品を断定的な言葉で語られると、インパクトがあって『この人の言うことはすごい』と思ってしまうかもしれませんが……ご注意ください」  金融機関やきちんとしたメディアは基本的に断定口調を使わないので、特に初心者は「言い切られると新鮮に感じる」のだ。言葉のマジックである。 「マーケットと長年向き合っていると、断定口調で話すことが恥ずかしくなってくるものです。世の中は複雑ですから。明日は何が起こるか、誰にもわからない」  ツイッターもユーチューブも、怪しいもののほうが多いと思うぐらいでちょうどいい。発信するのに資格は不要だし、過激なことを言うほど注目され、フォロワーも増える。  大手金融機関に勤めていたことを信頼性の担保にする人もいるが、どの部署にいたかで知識の程度は変化する。正確な情報を丁寧に発信している人ほど目立たない(後藤さんを除く)。  最近はSNSだけでなく、書籍も見極めないと危ない。フォロワー数の多さに目をつけた版元から声がかかり、付け焼き刃の知識しかない人が出す「トンデモ本」が存在する。  証券会社のレポートや新聞にも、それぞれのバイアスがかかっている。  そういえば後藤さんのSNSには、アマゾンアフィリエイトのリンクすらない。アマゾンアフィリエイトとは、読者がリンクを踏んでから一定時間内に何か買い物をすれば、アカウント保有者に売り上げの一部がバックされる形のネット副業の定番だ。 「そもそもツイッターのリンクを踏んでもらうことで直接稼ぐ気がありません。自分が本を出したらお知らせしますが、そのリンクにさらなる収益の仕掛けは入れない」  自分の本なら、本を買ってもらうだけで多少なりとも収益につながるから、そこにわざわざアフィリエイトは仕込まないというわけだ。何かと正直な人なのである。 「自分の小金稼ぎのために、フォロワーにとって重要じゃなかったり、時には有害だったりする情報も発信すると思われたら、信頼度が下がってしまう。アフィリエイトで得られる目先の利益を優先して信頼を失うほうが、よっぽど損だと思います」  政府は2024年、値上がり益や配当が非課税のNISAを拡充。年間投資枠を最大360万円、非課税保有限度額を1800万円に広げる。後藤さんはどんな資産運用を勧める? 「NISAに工夫なんて、必要ないです。他の人が知らない裏ワザもありません。よくわからなければ、米国主要企業を網羅するS&P500や全世界株式に連動する投資信託をつみたてればいいと思います」  この1年で1ドル=一時150円超えまで円安が進み、全資産を円だけで保有することのリスクに気づいた人は多いはず。 「日本の円預金以外に、米国株などの海外資産をある程度保有することは必要でしょう。儲けるためではありません。自分の資産や生活を守るためです」  後藤さんは高校や大学で金融教育の出張授業も行う(2023年5月末まで募集、予定が埋まり次第終了)。謝礼どころか交通費も不要という。現在、はじめての著書を執筆中。日経BP社から発売予定だ。  最後に素顔をのぞくべく、お酒について。 「ウイスキーが好きです。『マッカラン12年』などのスタンダードな銘柄。あとは日本酒。吟醸香や甘味の強いものより、すっきりした味のものを選びます」 ◯後藤達也(ごとう・たつや)/経済ジャーナリスト。1980年生まれ、大阪府出身。慶應義塾大学卒業後、日本経済新聞社入社。金融市場全般、日銀、企業取材などの記者になる。その後、シンクタンク系の部署を経て2016年よりコロンビア大学ビジネススクールの付属機関、日本経済経営研究所(通称CJEB=Center on Japanese Economy and Business)へ。2019年4月~2021年9月、ニューヨーク特派員。このときツイッターによる経済情報の発信をスタートし、フォロワー数30万人超に。2022年3月に日本経済新聞社を退社、ツイッターアカウントも改めて新規で立ち上げ、現在のフォロワー数は50万人超。現在は「note」で月額500円のメンバーシップマガジン(会員数約2万人)やツイッターで情報を発信。YouTubeやテレビなどにも出演し、ファンを増やし続けている。“経済をわかりやすく、おもしろく、偏りなく”がモットー。既婚、子ども1人。好きな食べ物はすし、好きな酒はウイスキーと日本酒 編集/綾小路麗香、伊藤忍 ※『AERA Money 2023春夏号』から抜粋
AERAマネー
AERA 2023/05/20 17:00
「夫は私の人生をより楽しくする最強の結婚相手」 慎重な性格の妻と行動が早い夫
「夫は私の人生をより楽しくする最強の結婚相手」 慎重な性格の妻と行動が早い夫
北野智大さんと北野文香さん(撮影/高橋奈緒)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年5月22日合併号では、ミクステンド代表取締役の北野智大さん、取締役の北野文香さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫28歳、妻26歳のときに結婚。その2年後に長男誕生。 【出会いは?】夫も妻も大学を休学し、リクルートの新規事業部のインターンに。朝から終電まで一緒にいることが多く、意気投合。 【結婚までの道のりは?】自分が自分らしく、相手も相手らしくいられる存在だった。出会ってから1年後に交際スタート、3年後に結婚。 【家事や家計の分担は?】料理や風呂掃除は妻。食器洗い、洗濯、掃除など家電を利用する家事は主に夫。家計は振り込まれた給与を、それぞれの口座に一定額“お小遣い”として残し、残りはすべて共通口座に貯金。食費・生活費はそこから支払う。 夫 北野智大[32]ミクステンド 代表取締役 きたの・ともひろ◆1990年、大阪府出身。関西学院大学理工学部在学中にウェブクリエーターとして活動開始。インターンとしてリクルートの新規事業部門で関わった「調整さん」などの関連事業を譲受し2018年に現在の会社を創業  夫婦で意見が違ったり、疑問に思ったりしたら、しっかり話し合います。察してもらう期待は無意味だというのが、共通認識。もちろん相手に敬意を持つ対話で、敵対はしません。だって最終ゴールは、二人のいい暮らしですから。  子どもができて変わったのは、仕事と家庭を両立させる意識を持つようになったこと。  仕事の大切なパートナーである妻に負担はかけられないし、僕も子育てをしたい。一方で会社が運営するサービスを、よりよくしたい情熱も常にある。そこで家では、便利家電や時短アイテムなどを、徹底的に研究して導入。最近、大正解だったのは、外食時用のベビーチェア。旅行にも持って行くほどの必需品です。  働く時間が制限された職場は、誰もが生活を楽しめる環境に整えました。今は週4日5時間勤務の母親や、海外を旅してリモート勤務の同僚がいます。すると最近、優秀な人材が集まって、会社がよくなってきた実感がある。こうした働き方で、業績アップができればうれしいですね。 北野智大さんと北野文香さん(撮影/高橋奈緒) 妻 北野文香[30]ミクステンド 取締役 きたの・あやか◆1993年、千葉県出身。筑波大学理工学群卒業後、新卒で日本オラクルに入社。データベース、サーバー等を中心としたクラウド製品のインサイドセールスを担当。2019年6月に現在の会社に参画  担当する業務がハードでも私が頑張ってなんとかなるなら、わざわざオペレーションを変えないことが多いかも。一歩踏み出すことへのハードルが高い、慎重な性格です。子育て用品を買う時ですら、使用頻度や後のことを考えて躊躇します。おやつが食べたくても、ご飯に響くかもと、よく考えて我慢したり(笑)。  一方で夫は大きいことも小さいことも悩まず、行動が早い。私が困っていると、いつも本気で「より、よくしよう」と、背中を押してくれます。  育ってきた環境が随分違うので、考えが一致しないことも。でもその分、話し合い、強みや弱みを理解して公私ともに補える。ちなみに彼が自覚する弱点はすぐ行動すること。長所でもありますが、ときどき優先順位を考えないかな。先日は寝ていたはずが、急にドタン、バタンと音がして夜中に何をしているのかと思ったら、絵本棚を組み立てていました。「それ、今?」って笑うと、素直に納得。そんな夫は、私の人生をより楽しくする最強の結婚相手です。 (構成・三宮千賀子) ※AERA 2023年5月22日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2023/05/19 18:00
60代はまだ若手 カツオ漁の町の暮らしでわかった生涯現役の秘訣
松岡かすみ 松岡かすみ
60代はまだ若手 カツオ漁の町の暮らしでわかった生涯現役の秘訣
名物のカツオのタタキ  65歳で「若手」と言われる生涯現役の町がある。高知県西部に位置する海辺の漁師町を訪ねた。400年以上前から“カツオの一本釣り”が盛んだ。気張らず自然体に、現役で働き続ける秘訣とは。その暮らしぶりに迫った。 *  *  * 「ここは定年という概念がない。70代、80代でバリバリ働きゆう人がどっさりおるし、90代でも働きゆう人がおる。だから60代っていったら、ヒヨッコみたいなもんよ」  高知市から車で約1時間ほどの場所にある、海辺の漁師町、中土佐町・久礼(くれ)。港で水揚げされたばかりの新鮮な魚が並ぶ久礼大正町市場を中心に、昔ながらの街並みが続く。市場では、その日とれたばかりの生のカツオが食べられるとあって、県内外から多くの人が訪れる。  初鰹の時期を迎え、市場が特に活気付くこの季節。市場の食堂で刺し身に舌鼓を打っていたら、冒頭の会話が聞こえてきた。  確かに周りを見渡せば、生き生きと立ち働くシニア世代の姿が目立つ。みんなテキパキとよく動き、よくしゃべり、よく笑う姿が印象的だ。働く人々に、現役の秘訣を聞いてみたくなった。 「健康の秘訣? そりゃカツオとニンニクやろ」  こう言って笑うのは、地元の味を全国に届けようと2007年に久礼大正町市場の商店主ら4人で企業組合を立ち上げ、現在組合の会長として商品作りや販売などを行う川島昭代司さん。企業組合の名称は「企画・ど久礼もん企業組合」。土佐弁の「どくれもん」(素直じゃない人の意味)に、町の名前である久礼をかけたネーミングで、カツオのたたきや加工品などをネットで販売するほか、食堂も切り盛りする。これら加工品や食堂のメニューなどを考案し、76歳にして今も現役で組合を引っ張るのが川島さんだ。  川島さんは、中学卒業後、15歳で漁師の道に入り、28歳までカツオ一本釣りの船で漁師をしていた。釣り上げた20キロのマグロが目に直撃するという災難を機に、漁師の道を断念せざるを得なくなった。しかし、漁師をやめた後に「大酒飲みという趣味と実益を兼ねて」夫婦で始めたスナックは、今も町の人に愛される大切な場所だ。川島さんは企業組合の仕事と並行し、夜7時から夜中0時ごろまでスナックを開ける。 企業組合会長の川島昭代司さん(76)  加工品の仕込みがある日の川島さんの朝は、それから2時間後、夜中の2時というから相当早い。主力商品の一つが、カツオの焼き節にニンニクを利かせた「漁師のラー油」だが、これらの仕込みは今も、川島さんが自ら行う。朝9時ごろから行う瓶詰め作業までに焼き節を冷ましておく必要があるため、大鍋を使った仕込み作業の開始は、必然的に夜中からとなる。まとめて千個分ほど仕込むときには、大鍋で何度も繰り返し、仕込みを重ねる。 水揚げされたカツオ 「昔、カツオ船に乗りよったときから料理が好きで、コック長の代わりに食事を作ったこともけっこうあった。カツオはダシがよく出るき、カレーとか八宝菜に、肉の代わりに入れてもうまい。そういうカツオの使い方が、組合の商品作りにもいきちゅうがよ」(川島さん)  過去には自分の音楽CDを出したこともあるほど音楽好き。仕事の合間には、パソコンで音楽を作ったり、ギターを弾いて歌ったり。ITスキルも高く、「趣味で専門学校の夏期講座で習った」というデザインソフトを使いこなし、ポスターやチラシも自分で作るから驚きだ。 「元気でおるには、目的があるというのが大事やと思う。これをやらな、あれをやらなと予定や段取りを考えゆううちが花やね」と川島さん。体の不調はほとんどないが、数年前から少し喘息が出るようになった。 「まあ、たばこを1日2箱吸いゆうき、喘息にもならあ(笑)。でも毎日、うまい魚を食べゆうき十分元気。漁師の友達からもらう、ほんの2~3時間前に釣れたばかりのビリビリのカツオをニンニクで食べるのが最高やね。まだまだ道半ばで続けていきたいき、元気でおらないかんね」(同) ■1日でも休むと相場感がずれる  お次は71歳にして、一年のうち、「休みは元日だけ」という驚異の営業スタイルを貫く松沢章夫さん。「八百虎」の屋号で、母親から受け継いだ青果店を営む。松沢さんの一日は、毎朝6時半ごろに、隣町にある市場に仕入れに行くことから始まる。毎日欠かさず市場に行くのが松沢さんの鉄則。無論、状態の良い青果を仕入れるためだが、仕入れ値の相場を常に知っておくためでもある。 青果店を営む松沢章夫さん(71) 「毎日、値段を確認せんと、自分の相場感がずれてくる。1日休んだだけでも、前日の値段がわからんなるき休めん。そうやって積み重ねて初めて見えてくるもんがあるがよ。それに毎日通う中でこそ、いいものを見極める目も養われるきね」(松沢さん)  店先には、旬の野菜や果物がずらり。4月はいちごや文旦、山菜類などが店先にひしめいていたが、今は初夏に旬を迎える柑橘・小夏の最盛期だ。朝10時から昼2時ごろまで、妻と二人で店を切り盛りする。全国に客を持つが、長い客は20年以上の付き合いだ。 「ちゃんとうまいのを選んで売ったら、また次につながって、なじみになってくれる。そうやって店の信用ができていく。信用を得るには、しっかりした物を扱わないかん」  瞳の奥をキラッとさせながら、楽しそうに語ってくれる松沢さんだが、好物の酒の話になると、さらに饒舌になる。 「休みやったら朝から酒ばっかり飲んで座りゆうき、店を開けちょき」と周囲から言われ、元日だけが休みという営業スタイルに落ち着いたとは本人談。新型コロナウイルスが広がる前までは、毎晩家で熱燗を5合飲んでから近所のスナックに飲みに行くのがお決まりのコース。外で酒を飲めなくなったコロナ禍を“酒量を減らす良いチャンス”だと捉え、今は毎晩の熱燗を3合にまで減らした。飲み方も、コップ酒でグイグイ飲むスタイルから、お猪口でちびちび飲むスタイルに変化した。 「体の不調もなく元気なのは、毎晩の“アルコール消毒”のおかげやね」(同)  魚を食べない日はないというのは、松沢さんも同様。いい魚が入ったら、市場の魚屋から声がかかる。今の時期は毎日、カツオ三昧。その日の鮮度や気分によって、刺し身で食べたり、タタキにしたりと“地の魚”を存分に楽しむ。 「ここの空気とか人の感じ、全てが自分に合う。真面目な話、本当の健康の秘訣は、“水が合う場所におること”やと思う。それに店を通じて、いろんな人との出会いがあるき、毎日退屈せん。このまま80歳までは続けたい」(同) 100年続く店の暖簾を守る本井友子さん(83) ■何かしてないと落ち着かない  久礼の名物としても知られ、暑い季節には店先に行列ができるのが、大正10年創業の“ところてん”の老舗店「高知屋」。ところてんといえば、地域によって食べ方が異なることでも知られる。関東は酢醤油+青のり+和がらしが一般的だが、関西では甘い黒蜜をかけてデザート感覚で食べるのが主流だ。  一方、ここ高知では、冷やしたカツオだしに地元産の生姜を添えて食べるのがお決まりだ。「高知屋」のところてんもしかりで、こだわりの鰹節にじゃこ、醤油、そして四万十川源流域の伏流水で作ったカツオだしのつゆは絶品。だしの利いたつゆごとザブザブッとかきこむ同店のところてんは、100年にわたる久礼の夏の風物詩としても知られている。  そんな同店の2代目で、83歳にして現在も店に立つのが本井友子さん。現在は3代目となる息子さんが店を継いで切り盛りしているが、本井さんも手伝いを続けている。 「じっとして、ようおらん(じっとしていられない)性分ながよ。今は腰が痛くて、立って仕事するのがしんどくなってきたけど、どれだけ腰が痛くても、何かしてないと落ち着かんき」(本井さん)  23歳で同店に嫁ぎ、夫の実家の家業である店を手伝い始めた。夫は漁師で、一度漁に出ると8~9カ月は帰ってこない生活。そこで近くに住む妹と一緒に、3人の子育てをしながら長年にわたって店を切り盛りしてきた。夏場の繁忙期は、夜中の1~2時から仕込みを開始。子育て中は、深夜から仕込み作業をして、夜が明けたら配達に行き、そのまま子どもの部活の試合を見に行って、店に戻って営業するなど、休む間もない生活だった。 「忙しかったけど、それが楽しかった。いっぱい働いて、いっぱい遊んで、いっぱい飲んで(笑)。昔は忙しい中でも、週4~5日は外で飲むのを欠かさんかったけど、今は自家製の果実酒をコップに1杯。とにかく体いっぱい動いてきたき、後悔はないね」(同)  今も少しでも隙間時間を見つけると、畑仕事をしたり外に出かけたり、何かを始めたり。80歳を過ぎた今も、じっとしている時間はほとんどない。 菓子を作る西村勝己さん(80)  一緒に店を切り盛りする娘さんも、「こっちが疲れるぐらい動きます」と苦笑する。本井さんに「ゆっくりしたいと思うことはないんですか?」とつまらぬ質問を向けると、「全然ない」ときっぱり。 「ゆっくりしよったらイライラするがね(笑)。とにかく仕事が好きやし、仕事ができゆううちが楽しい。今も腰さえ痛くなければ、もっともっとやりたいし、あれもこれもしたいという気力はある。死ぬまで動き続けたいね」(同)  大正町市場の入り口に位置し、半世紀を超えて愛されてきたのが1950年創業の手作り菓子の店「西村甘泉堂」。2代目店主の西村勝己さん(80)が、先代から受け継いだ味を守り、丹精込めて日々さまざまな菓子を作り上げる。特に夏場になると、秘伝の手作り蜜のかかったかき氷を求め、多くの人が訪れる菓子店だ。昔懐かしい手作り菓子は、店のみならずスーパーや道の駅などでも販売されている。 ■リラックスして一生懸命が大切  西村さんの朝は、まだ外が真っ暗い夜中の2時から始まる。毎日4時半ごろまで仕込みをし、その後朝食を食べて6時ごろから配達へ。7時ごろに帰宅し、1時間ほど新聞を読んでコーヒーを飲みながら一息つく。その後、9時に店をオープンし、夕方4時まで店に立つ。寝るのは夜8時。仕込みは80歳の今も、西村さんが一人で全て行っている。 「自分でも年齢を聞いたら気絶しそうになるけど、ありがたいことに全く体の不調がない。いまだにお客さんに呼ばれたら、走って出ていくもん。この80年間、一度も入院したことがないし、体を壊したこともない。特段、健康について考えたこともないし、歩いたり体操したりの健康法も特にしてないけどね。母も95歳まで現役で働いて、99歳まで生きたき、その遺伝もあるかもしれんね」(西村さん)  学校を出た後、18歳から47歳まで東京のホテルで洋食を作りながら働いた。初代にあたる父親が亡くなったのを機に、店を継ぐことに決めた。洋食一本でやってきたため、菓子については門外漢。そこで高知に戻ってからは、母親と職人の背中を見ながら必死に菓子作りを覚えた。今も新たな味を出すことはせず、昔ながらの味を徹底して守り続ける。  例えば高知の郷土菓子でもある「中菓子」。飴とセンベイの中間という意味から名付けられた菓子で、小麦粉、砂糖、水飴を配合して作られる、どこか懐かしい味わいだ。小麦粉のケンピも、今も同店で作り続けられる味の一つ。東京から高知に戻り、洋食から菓子の世界に転身して33年。「あのとき、継ぐ決心をして良かった」と満足げにほほ笑む。 「勤め人と自分の店をやるのと、両方を経験して思うのは、いい仕事をするには、ある程度リラックスすることが大事ということ。もちろん緊張感も必要やけど、気を使ってばかりやなくて、周囲の人と調和してリラックスした上で、一生懸命やる。それが何よりの長生きの秘訣で、仕事を続けていけるコツやないかな」(同)  年齢をものともせずに、淡々と、そしてイキイキと働き続ける“カツオの国”久礼の現役なシニアたち。そこには巷にあふれる健康法などに頼らぬ、それぞれの現役哲学があった。長い人生いろんなことがありながらも、「まだまだ、もっとやりたい」と明るく前を見据えるその姿には、コロナの影響など微塵も感じさせないエネルギーが満ち溢れていた。(フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2023年5月19日号
週刊朝日 2023/05/16 08:00
片づけたら、モノを捨てると怒る夫が少しずつ変わり始めた
西崎彩智 西崎彩智
片づけたら、モノを捨てると怒る夫が少しずつ変わり始めた
家の中で過ごす時間の長いキッチンもモノでいっぱい/ビフォー  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.46  自分の理想に向かって一歩を踏み出す勇気が大切 夫+子ども2人/養護教諭  たとえ家族であっても、他人は簡単には変わりません。そうやってあきらめて同じ生活を続けると、いつまでもそのままの状態が続きます。でも、1つだけ変えられる可能性があるとしたら、まず自分が変わることです。  優さんは、夫と5歳・1歳の男の子の4人暮らし。一人暮らしをしていたときは、鍋パーティーをするなど家に人を呼ぶことが大好きでした。結婚を機に引っ越すと、まわりの環境も自分の生活も一変します。  見知らぬ土地で自分の家族も友人もおらず、義実家の自営業を手伝う生活が始まりました。早く慣れようと必死だった優さんに、衝撃的な事実が判明します。 「夫がまったく片づけられない人だったんです」  優さんの夫は結婚前に一軒家を購入して、実家で暮らしながらその家にも自分の荷物を置いていました。2人が生活し始めたときには、家の中はすでにモノでいっぱい。引っ越しのときだけの一時的な状態かと思っていましたが、夫は一向に片づける気配がありません。 「目の前にモノを置いていないとわからなくなって、不安になっちゃうみたいで。私が片づけると怒るんです。夫のモノじゃなくて私のモノでも、捨てると『なんで捨てるんだ』と文句を言われて……」  優さんは人を呼びたくても散らかっていて呼べないのに、気にしない夫は「呼べばいいのに」と言います。家の片づけが原因で言い争いをすることは、一度や二度ではありません。片づけの問題は、常に夫婦関係の悩みでもありました。 「夫は何回も買い物に行くことを時間のムダだと考えて、トイレットペーパーやティッシュは箱買いするのでストックが山積み。でも、空きボトルとか明らかにいらないモノも捨てないんです」  モノは増える。でも捨てない。家の中のモノは増え続ける一方でした。 子どもが生まれてからは子どものモノも増えて、優さん1人では管理できなくなってしまい、さらに散らかるように。    夫に気をつかわずに納得いくまで片づけられました/アフター 「このままじゃ家がパンクしちゃう」と危機感を覚え、なんとかしたいと飛び込んだのが家庭力アッププロジェクト®でした。 「まず、“家庭力アップ”という言葉にひかれました。私は単に片づけたいだけじゃなくて、家族ともっと協力して快適に暮らす家庭を作りたい。片づけという言葉は簡単だけど、生活の基盤を整えることは家族の幸せにつながっていると思ったので、参加を決めました」  プロジェクトが始まり、片づけについて相談すると、夫は一言「興味ない」とバッサリ。優さんは、自分と子どものモノを片づけることに集中しようと決意します。 「夫のモノばっかりと思っていたら、生活する中で私のモノもけっこう増えていましたね。今まで“片づけ”ってモノを空いているスペースにしまうことだと思っていたんですけど、ちゃんと使う場所とか使いやすさとかを考えないといけないって気づきました」  優さんは、モノを使う人がどんな気持ちで使うのか、どうしたら使いやすいと感じるのか、家族の行動を観察して想像してみるようにしました。すると、あることに気づきます。 「箱買いした歯ブラシを寝室の棚に置いていたら、夫はそこから何本も持ち出して洗面所に保管していたんです。棚から直接持っていけばいいのにって思っていたら、夜は子どもたちと私が寝ているので起こさないようにしてくれていたんだとわかりました」  そこで優さんは夫に「ごめんね、今まで取りにくかったよね。洗面所にスペースを作ってストックを置くようにしよう」と伝えました。すると、夫は「ありがとう」と言ってくれたのです。 「片づけってモノを捨てるだけじゃなくて、生活しやすいように整えることだということが少しでも伝わるといいなと思って。“あなたのことを見て気づかっていますよ”っていうアピールにもなったかな」  あえて“片づけ”というワードを使わず、夫の動線上によく使うモノを配置することにしました。例えば、お酒とおつまみの場所を近づけたり、仕事する場所にゴミ箱を置いたりすると、夫は喜んでくれました。脱ぎっぱなしだったパジャマを入れるカゴを用意すると、そこにちゃんと入れてくれるように。    部屋の使い方がはっきりせずにおもちゃもたくさん置いていたダイニング/ビフォー  さらに、子どもの行動も観察して、おもちゃや幼稚園のカバンの置き場所も変更。子どもたちも自分で片づけられるようになりました。  優さんが変わることから始まった家族の変化は、今後も続きます。夫が仕事の繁忙期が終わる頃に、家を片づけてくれることを約束してくれました。 「片づけはコミュニケーションだとプロジェクトで教わりましたが、本当にその通り。相手の気持ちを考えて行動することは、家族の絆を深めることにつながるなって思いました。養護教諭として、子どもたちにも片づけを通したコミュニケーションの大切さを伝えていきたいです」  優さんは、家族が片づけられなくて悩んでいる人に向けて、こう話してくれました。 おもちゃなどを移動してごはんを食べることを目的とした場所に/アフター 「まず、自分のモノだけでも徹底的に片づけてください。引き出し1つだけでも、自分が心から快適だと思える空間ができると、自分の居場所ができて自信が持てます。小さなことでもやってみると、大きな変化が起こると思いますよ」  片づけていると、夫の「なんで捨てるの」という声が何度も頭の中に聞こえてきそうになったと言います。でも最後まで片づけられたのは、「私が決めたからやるんだ」という優さんの強い気持ちがあったから。  片づけられないことを誰かのせいにしても、自分の理想の生活には近づきません。まず一歩を踏み出すことの大切さを、優さんは教えてくれました。 「本当は『自分だけ片づけても変わるのかな』っていう不安もありました。でも、想像以上に変われました!」  やりきった優さんの言葉は、悩んでいる人の背中を押してくれる力強さがありますね。 ●西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。 ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定片づけビフォー・アフター西崎彩智
AERA 2023/05/15 07:00
激安・大容量から「愛の不時着」ロケ現場まで! カフェ大国・韓国6大カフェチェーンの歩き方 
激安・大容量から「愛の不時着」ロケ現場まで! カフェ大国・韓国6大カフェチェーンの歩き方 
こちらは韓国のカフェチェーンではなく、元劇場の建物をリノベしたSTARBUCKS京東1960店。レトロな店内に劇場の座席配置が残る  韓国は、「カフェ大国」とも言われる。ソウルを中心に、韓国の伝統家屋をリノベーションした韓屋(ハノク)カフェや世界観を作り込んだコンセプトカフェなど、趣向を凝らしたカフェが点在する一方、海外資本のものから韓国発のものまで、カフェチェーンがしのぎを削る。ソウルラバーたちにとってカフェは、旅のデスティネーション(目的地)にもなり得る場所だ。  4年ぶりに改訂された「&TRAVEL ソウル」は、ソウルの最新愛されカフェを大特集。この記事ではその特集から、「深夜営業」「激安」などそれぞれに特徴のある韓国発6大チェーンを紹介したい。 本格コーヒーが楽しめる「HOLLYS」  王冠のマークが目印のHOLLYSは、韓国初のエスプレッソブランド。深夜まで営業している店舗が多いことに加え、店内は落ち着いた雰囲気で広々しているので、休憩にはもちろん作業にも最適。実際、仕事をしたり勉強したりしている人も多い。メニューも豊富で、何度でも通いたくなるカフェだ。人気は、韓国産100%のサツマイモで作られた「サツマイモラテ」(6000ウォン)と「イチゴチーズケーキトゥンカロン」(2900ウォン)。 本格スイーツなら「A TWOSOME PLACE」  コーヒーはもちろん、ケーキやマカロンなどの本格スイーツを楽しめる、ケーキ屋さんも顔負けのデザートカフェ。チェーン店のクオリティーとは思えないスイーツがズラリと並ぶ。おすすめは「カフェアメリカーノ」(4500ウォン)と代表的メニューの「すくって食べるティラミス」(6500ウォン)。取材したソウルカフェラバーはこのティラミスに「ほっぺたが落ちた……!」。店内は洗練された雰囲気で、営業時間が長いのもうれしい。 A TWOSOME PLACEの「カフェアメリカーノ」と「すくって食べるティラミス」。ソウル市内にいくつもあるので、ぜひすくって食べてみて ドラマや映画に登場!「Angel in us coffee」 「JAVA COFFEE」という名前でスタートし、2006年に現在の名前になったロッテグループ運営の超大手カフェチェーン。店内のあちこちにある天使の羽がかわいい。ドラマや映画に登場することも多く、コロナ禍の日本でも大ヒットしたドラマ「愛の不時着」の撮影にも使われた。豆選びにこだわった「アメリカーノ」(4500ウォン)では豆本来の味を楽しめる。「バインミーオリジナルプルコギ」(7400ウォン)もおすすめ。 大きくておいしい!「MEGA COFFEE」  名前の通り、ビッグサイズが特徴のカフェ。何しろ、たっぷり大容量の「アメリカーノ」が1500ウォン(日本円で150円ほど)というから驚きだ。本格コーヒーから甘いフラペチーノまで、豊富なメニューを制覇して、毎日飲みたいドリンクを見つけよう。ラテやフラペチーノももちろんコスパ良し。「スモアブラッククッキーフラッペ」(4400ウォン)や「プレーンポンクラッシュ」(3900ウォン)は見た目もかわいい。 激安フレッシュジュースの「JUICY」  大人気のフレッシュジュース専門店。約500ミリリットルの新鮮なジュースが2500W程度というコスパのよさが、韓国の学生たちはもちろん、観光客の心をつかんで離さない。真っ赤な「スイカジュース」(2500ウォン)やケーキみたいな「生イチゴラテ」(3500ウォン)は是非一度試したい。フレッシュジュースだけでなく、コーヒーやタピオカも同じように安い。 三拍子そろった「PAIK’S COFFEE」  セマウル食堂などの人気飲食店を多くプロデュースするペク・ジョンウォン氏が手掛けるカフェ。通称は「ペクタバン」。「安い」「大きい」「おいしい」の三拍子がそろい、ヘビーユーザーも多い。大容量で人気の「アメリカーノ」は1500ウォン。「ソフトアイスクリーム」(2000ウォン)や「ストロベリーバナナペクスチーノ」(4300ウォン)などの甘~いものももちろん人気。  韓国のカフェでうれしいのは、Wi-Fiとコンセントが使えること。Wi-Fiのパスワードはレシートの裏に書いてあることが多いので、ドリンクを購入した後も捨てないで。コンセントの形が日本とは違うので、変換プラグも忘れずに。 (構成 生活・文化編集部 清永 愛)
カフェ韓国
dot. 2023/05/14 13:00
重松清が語る開高健と司馬遼太郎 名作誕生は「週刊朝日」の夏休みのおかげ?
重松清が語る開高健と司馬遼太郎 名作誕生は「週刊朝日」の夏休みのおかげ?
司馬遼太郎 「週刊朝日」は一流の作家を取材に連れ出し、鮮やかな「いま」を読者に届けた。「『週刊朝日』を賑わせた文芸企画たち」第2回では、文学史に残る連載企画──開高健『ずばり東京』にはじまるノンフィクション文学の誕生秘話と、いまなお現役として輝く司馬遼太郎『街道をゆく』の魅力に作家の重松清さんが迫る。 *  *  * 「週刊朝日」は1922(大正11)年に、当初は10日に一度の旬刊誌として創刊された。その志について語った、初代編集長の言葉が残っている。 <『週刊朝日』は今日の時代に必要なる知識と慰楽とを最も消化しやすい形に整理して読者に提供するものであります> 「いま」を知り、「いま」を楽しむための雑誌ということだ。  確かに、最新の「いま」を伝えるニュースは、週刊誌の華である。「週刊朝日」の歴史も、数々のスクープ記事で彩られている。たとえば、作家・太宰治が情死した直後に発行された1948(昭和23)年7月4日号は、ほぼ全ページを使って心中相手の山崎富栄の手記を載せ、17万部を2時間で売り切ったという。  しかし、ニュースとはNEWS──翌週にはもう古びてしまい、新しいものへと不断に更新されなければならない。  もう少し腰を据えて「いま」と向き合うには、連載という長期的な器が必要になるし、切り口の工夫も欠かせない。  というわけで、前回に続いて、黒メガネのブラック氏のお出ましである。 * 『ブラック・アングル』の最終回が載った2021(令和3)年12月3日号には、山藤章二さんの近況を報告しつつ、連載当時を振り返る担当編集者の記事もあった。  それによると、山藤さんは、10年ほど前から「最近の政治家の顔を描く気がしないんだよ」と口にすることが増えていたのだという。  かつて大平正芳首相を岸田劉生の名作『麗子像』に仕立て、小渕恵三首相をイヌ型ロボットのAIBOに変身させた山藤さんである。昨今のヤワな面構えの政治家たちでは、もはや悪戯ゴコロは刺激されない。ずいぶんつまらない「いま」になってしまったのだ。 開高健  思えば、『ブラック・アングル』の連載が始まった1976(昭和51)年はロッキード事件の年、すなわち田中角栄の年だった。  のちに山藤さんは連載スタート時を振り返って、こう書いている。 <世紀の政界スキャンダルに大衆の耳目が集中した時に、ニュース漫画が始まったことは幸運だった。/政治漫画は登場人物が面白くないとどうにもならない。面白いとは、人間臭ふんぷんとしたアクの強さにある。(略)ロッキード事件、およびその周辺には、かの田中角栄氏を筆頭としてたくさんの“人物”が登場した>  新連載のタイミングと、すこぶる刺激的な「いま」との邂逅。これこそが、「いま」と切り結ぶ連載の醍醐味だろう。 ■部員の夏休みが開高健を変えた  さまざまな「いま」があり、さまざまな書き手がいる。だからこそ、この「いま」を、この書き手が描くという組み合わせの妙──ワインで言うなら料理とのマリアージュが、一期一会の味わいとなるのだ。  しかも、このマリアージュ、必ずしも計算ずくでコトが運ばれているわけではない。そこが面白いのである。  たとえば──。 「『週刊朝日』編集部員の夏休みが文学に与えた多大なる影響」というお話、ご存じですか? * 1964年の東京オリンピック閉会式を観覧する開高健  1963(昭和38)年10月から翌年11月まで連載された開高健の『ずばり東京』は、五輪開催を目前に控えた東京の「いま」をさまざまな文体を駆使して活写した傑作ルポルタージュである。  じつは、開高は同作が始まる直前までルポルタージュ『日本人の遊び場』を連載していた。一つの雑誌で同じ作家の連載がシームレスで続くのは、きわめて異例なのだが……その経緯は、『「週刊朝日」の昭和史』での編集長の回想によると、以下のとおり。  当時の「週刊朝日」は編集部員が交代で夏休みを取るために、夏場には社外筆者のページを増やすのが通例だった。  1963年に編集部が白羽の矢を立てた書き手は、1月に直木賞を受賞した山口瞳。しかし、氏は連載を固辞し、大江健三郎や石原慎太郎と並ぶ純文学の旗手・開高健を推薦したのである。 「ベトナム戦記」は「ずばり海外版」として始まった  短期連載の『日本人の遊び場』はたちまち評判となり、開高はノンフィクションの世界でも一躍注目株となった。「週刊朝日」も手放したくない。ならば、間を置かずに次の連載を……というわけで始まったのが、『ずばり東京』だったのだ。  五輪前夜の東京という「いま」と、文学の最前線に立つ作家とのマリアージュである。人気が出ないはずがない。  大好評のうちに1年間の連載が終わり、編集部が「お礼のボーナスを差し上げたい」と申し出ると(いいなア)、開高はすぐさま答えた。 「ベトナム戦争の実相を見てみたい」  連載終了の2週間後にベトナムへ旅立った開高は、現地でゲリラの襲撃を受けて九死に一生を得た。200人の部隊のうち生き残ったのは、わずか17人だったという。  その壮絶な体験が、1965(昭和40)年1月から3月にかけて「週刊朝日」に連載されたルポ『ベトナム戦記』を生み、さらには開高の代表作にして戦後文学史上に残る名作『輝ける闇』『夏の闇』へとつながった。 『ずばり東京』がなければ、ベトナム取材はなく、『輝ける闇』『夏の闇』も生まれなかった。さらに「もしも」をさかのぼっていけば、もしも山口瞳が夏場の連載を引き受けていたら……もしも「週刊朝日」が部員に夏休みなど取らせないブラックな職場だったら……。  この話には後日譚もある。こちらは『ずばり東京』の担当編集者による講演録から。 「週刊朝日」編集部は、ボーナスが仇になって開高健を命からがらの目に遭わせてしまったお詫びに、あらためての慰労を考えた(ホント、いい時代だったんだなア)。そうして始まったのが、カネのかかる釣り紀行『フィッシュ・オン』(1970年連載)だという。  それが、開高文学の後期の柱となった『オーパ!』などの世界釣り紀行につながるのだから、文学史とは、まったくもって人間臭いものではありませんか。 *  作家の仕事場は、もちろん書斎である。作家の作家たる所以は、創作、フィクションの作品を書くこと。これもまた言うまでもない。  そんな作家たちが書斎の外に出たら、どんな目で「いま」を見て、どんな足取りで「いま」をたどるのか。どんな人に声をかけ、どんな問いを放つのか……。 「書斎から出た作家」の魅力を、「週刊朝日」誌上で1960年代に教えてくれたのが開高健なら、1970年代以降は、間違いなく司馬遼太郎の独壇場になるだろう。 「街道をゆく」第1回、須田剋太による司馬遼太郎の肖像画 ■動詞の小説家 司馬遼太郎  1971(昭和46)年1月に連載が始まった『街道をゆく』は、1996(平成8)年2月の作家の急逝によって、終わりを告げないまま、終わった。文字どおりのライフワークである。 『竜馬がゆく』と響き合う現在形の動詞のタイトルにふさわしく、司馬遼太郎は、連載第2回でこう書いている。 <この連載は、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅(か)げるならばというかぼそい期待をもちながら歩いている>  現在形の動詞の<歩いている>。そこがいい。 『街道をゆく』は、哲学者・鶴見俊輔の言葉を借りれば、<道端に井戸を見つけてる感じなんですね。その井戸のなかから、明治維新以前のものが流れて出てきてるのを汲んでる>という紀行文──街道の「いま」を歩きながら、遠い過去へと思いを馳せる旅である。  おのずと思索する時間は増え、学術的な記述も多くなるはずなのだが、司馬遼太郎は「論」の隘路に陥ることなく、飄々と街道を歩きつづける。  動詞なのだ。常に動いている。文章はどこまでも平明で、簡潔。随所で用いられる現在形が、古文書や碑文に寄り道していた筆者と読者を、よきタイミングで「いま」に引き戻してくれる。  このきびきびとした軽やかなスタイル、単行本や文庫本でもいいが、最も活きるのは、新聞や週刊誌のように一段あたりの文字数が短いレイアウトのときだろう。  さくさく読める。歩くように読める。そして、名調子に導かれて歩いているうちに、読者は「日本人とはなにか」という問いが自分の胸にも芽吹いていることに気づかされるのだ。  さらに、判型の大きな週刊誌には、挿絵や写真を(時にはグラビアとも連動しつつ)効果的に使える強みがある。 『街道をゆく』も、そう。歴代の挿画家は、須田剋太、桑野博利、安野光雅の3人だが、連載開始から1990(平成2)年2月まで20年近くコンビを組んだ須田剋太の絵が、読者には最も馴染み深いだろう。  なにより、このコンビ、相手への深い敬愛と信頼とともに長い旅を続けてきたのだ。 『司馬遼太郎の現在地』と『ベトナム戦記』は、いずれも小社刊  司馬遼太郎が<須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、山襞(やまひだ)に入りこんだり、谷間を押しわけたり、寒村の軒のひさしの下に佇んだりする旅をつづけてきた>と書けば、須田剋太もそれに応えるように、17歳年下の作家について語る。 <道元に、同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、心が深い所で響きあって、自他の区別がなくなる、そういう瞬間を、おこがましいけど司馬さんにある時ふっと感じるんです>  作家と画家──これもまた、週刊誌ならではの味わい深いマリアージュである。そういえば、『新・平家物語』の吉川英治も、挿画の杉本健吉を<思えば、よい女房を持ち当てたものです>と讃えていたのだった。 ■いまなお現役の『街道をゆく』  ちなみに須田剋太の訃報を受けた1990年8月3日号の『ブラック・アングル』は、画伯の筆致を真似て描かれた。絵師ならではの追悼である。  登場したのは、共産党中央委員会議長の宮本顕治──80歳を超えてなお議長職を続けることに、山藤さんはチクリと<居座り街道をゆく>。あはは。しかし、須田剋太の力強いタッチで描くに価する政治家、最近はもう、いるのかどうか……。 *  没後27年たっても、司馬遼太郎は「週刊朝日」の看板作家である。  なにしろ、データベースで調べられる2000(平成12)年以降だけでも、本文と見出しで「司馬遼太郎」を検索すると、1077件もヒットする。同じ条件で検索をした「松本清張」が53件だから、その現役感のスゴさがおわかりになるはずだ。  実際、『街道をゆく』にまつわる連載が切り口を変えつつ連綿と続き、それがまとめられたムックも、書店の新刊コーナーをにぎわせている。『街道をゆく』の現在形はダテではない。やはりこれは、永遠に「いま」の連載なのだろう。  さて、こちらの短い連載は、次号で最終回である。締めくくりには、山藤章二さんのもう一つの大事な連載『似顔絵塾』にご登場いただくことになる。乞うご期待──。  残り1回。編集部から「お礼のボーナスを」との申し出はない。そういう「いま」なのである。ベトナム料理でも食って帰ろう。※週刊朝日  2023年5月19日号
週刊朝日 2023/05/13 11:30
【下山進=2050年のメディア第40回】女性活躍が進むとどんな変化があるのか? そこを書いてほしい
下山進 下山進
【下山進=2050年のメディア第40回】女性活躍が進むとどんな変化があるのか? そこを書いてほしい
『男性中心企業の終焉』  たまたま、日本記者クラブに用事があって、そこにあった新聞協会発行の月刊誌『新聞研究』の3月号を手にとった。「新人記者に向けて」という大特集があり、読売の専務や、共同通信の社会部長など、現役の記者、管理職がおのおの4ページほどの原稿を書いていた。その中で唯一フリーランスのジャーナリストとして、元アエラ編集長の浜田敬子さんが、一文をよせていたのに気がついた。  この「新人記者に向けて」という各社の幹部の文章は、そのまま、今新聞が抱えている問題を映し出しているような気がしたのだけれど、解決策のヒントは浜田さんの文章に書かれてある。  浜田さんは、新聞記者にむいていなかった。朝日新聞に入社し、地方支局に配属され、夜討ち朝駆けの生活を続けているうちに、<数カ月でポケベルの音が常に耳に残っている感覚になりました>。  で、秋には、体調を崩し戦線を離脱するという経験をしている。  行き止まりになったように見えたキャリアの愁眉を開くことになったのは、<自ら希望して週刊誌に移ったことだった>と書いている。 <週刊誌で身についた“能力”が、その後のキャリアを支えてくれました。それは「企画を立てる」という力です>  地方支局時代の仕事のしかたは、自分で考える必要はなく、ただサツカンや県庁の役人がもっている情報やペーパーをとってきて書くこと。が、週刊誌の場合は、自分の興味で題材をひろい、仮説をくみたてて、それを自分で確かめ記事にしていくという過程をたどる。 『新聞研究』3月号の「新人記者に向けて」といういくつものメッセージの中ですっと頭に入ってきて、わがことのようにとれる文章は浜田さんのものだったような気がする。  そんなことがあって浜田さんが新著『男性中心企業の終焉』を半年も前に送ってきたことを思い出し、ようやく読み終えた。  この本でも面白いのは、やっぱり自分のことを書いたところですね。一世代前の他社の女性役員が浜田さんに「政治力を身につけなさい」とアドバイスするところ。その女性役員は、ゴールがその企画やプロジェクトを実行することなら、「そのためにどうすべきか考えるのは戦略」と浜田さんに説いたのだ。 共同配信のジェンダー・ギャップ指数を掲載する信濃毎日新聞。信濃毎日新聞は、共同の記事をそのまま掲載するのではなく、地元長野にひきつけて各分野の記事を書いていた。 <当時の私は男性社会のルールにおもねるようにも思えて、すんなり理解した訳ではなかった>。が、しかし次第に会社側に立って考え、会社がゴーサインをだしやすいようなロジックを組み立てるようになった、と書いている。  女性役員が従っていたのは「男性社会のルール」ではなく、「駄目な組織のルール」だろう。やっぱり中身の結果で、周囲を説得させていくことができるのが、この仕事の素晴らしさだ、と言いたくなったんだけど、大所高所にたった論よりはずっと面白かった。  浜田さんは独立してから、女性の地位向上をテーマのひとつとして活動している。そこでひとつ元編集者として提案したい。  それは女性の地位が向上すると、どのような変化が組織や社会にあるか、そこを書いてほしいということだ。 「新人記者に向けて」という特集の中で共同通信の女性の社会部長が、「全国の地域ごとの男女平等の度合いをデータで可視化する」という「都道府県版ジェンダー・ギャップ指数」を記事配信する試みについて紹介している。  このジェンダー・ギャップ指数というのは、たとえば政治だと、議会の女性議員の数を男性議員の数で割る、つまり1に近いほうが男女平等だ、というわけだ。  実は、私はこの報道には不満だった。というのは、私が地方で読んだその記事は、女性議員の数や各分野の指数を数字として報道するだけで、なぜそのようになっているのか、が書かれていない。男性のほうが優れていると思っている人々が、いくらこうした記事を読んでも動かされることはないのではないか、と思ったのだ。  あとでその社会部長に確かめると、数字の意味を読み解いたものも4本出稿していたが、使った社は少なかったようだ。その4本をまとめたネットの記事も読んだが、そもそも女性比率が高いことで、どのような変化がその地域社会にあるのか、そこをデータ報道と足を使って独自にほりさげてほしいと思った。  日経電子版の「データで読む地域再生」(2021年5月14日付)では、全国の自治体別に管理職の女性割合の変化を、2010年から2020年まで地図上でクリックするとわかるようにしたうえで、女性管理職が増えた自治体というのは、実は人口減との相関関係があることを明らかにしている。<地方では若い女性が東京など大都市圏に流出、人口減と経済低迷に拍車をかける悪循環になっていた>  確かに男女同権は憲法でも定められている。しかし、そこをいまだ納得していない人がいるから、浜田さんが本で指摘しているような差別事案が繰り返されるのだと思う。  たとえば、女性の管理職比率と、企業の業績の相関関係を調べてみるというプロジェクトはどうだろうか? 仮に、女性の管理職比率が上がると、業績が下がるという相関関係が結果として出てきても、そこから問題を考えることができると思う。  自分で企画をたてることの素晴らしさはそこにあり、今の新聞が袋小路になっているのは、SDGsにしても女性活躍にしても、歌舞伎の定番のように前提を疑わない企画がパターン化しているからだと思う。絶対正義というものはない。そこを疑うことで新たな進歩も生まれてくる。   下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。メディア業界の構造変化や興廃を、綿密な取材をもとに鮮やかに描き、メディアのあるべき姿について発信してきた。主な著書に『2050年のメディア』(文春文庫)など。 ※週刊朝日  2023年5月19日号
下山進
週刊朝日 2023/05/10 07:00
吉原の殺人事件に元風俗嬢のリアルな声 求人媒体が性産業の入り口を明るく広く軽く前向きにした
北原みのり 北原みのり
吉原の殺人事件に元風俗嬢のリアルな声 求人媒体が性産業の入り口を明るく広く軽く前向きにした
写真はイメージです(Getty Images) 作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、性産業について。 *   *  *  ♪バーニラバニラバーニラ、キュージン!  バーニラバニラ、コーシューニュー♪  原宿や新宿などの都心で高い確率で出合ってしまう「バニラカー」。バスなどを丸ごと広告でラッピングした広告車で、耳に残るテンポの歌を高音で鳴り響かせ走るアレだ。「もっと稼ぎたい!お金超大好き!」といった身も蓋もない文句や、「10億円くばります」「15億円還元」などといったキャッチコピーがデカデカと書かれた車体から流れる「高収入~!」の甲高い歌声は、街の風景を一瞬に支配する。強烈だ。  いつの時代も……というか私が知る限り、特に1990年代以降に、性産業の入り口は明るく広く軽く前向きであり続けていると思う。その役割を果たしてきたのが、バニラをはじめとする風俗と女性たちをつなぐ風俗求人媒体だ。  昔、「てぃんくる」という女性向けの風俗専門求人情報誌があった。1992年創刊、その手の求人情報誌としては日本初ということもあり、大きく話題になった。コンビニではたいてい売られていたし、求人だけでなく人気作家の連載があったりと、ちょっとした性の情報誌の役割も果たしていた。私も何度か購入したことがあるが、当時タクシーに乗れば、「てぃんくる」の広告シールが窓に貼られていたりなど、まるで一般雑誌のように「てぃんくる」は認知されていた。  今にして思えば、「てぃんくる」が果たした役割は大きかった。女性には隠されていた(入らなければ見えなかった)性産業に、どのような仕事があって、どのくらい給料がもらえるのかが具体的に見え、どうやったら就職できるのかというガイドにもなった。求人情報誌が性産業の門になったのだ。なにより、「てぃんくる」は今のバニラに負けず劣らず、にぎやかで前向きだった。風俗も女性にとっての選択肢の一つだし、怖くないし、若いうちにしかできないチャンスだよ!と「てぃんくる」が放っていた前向きなメッセージは、確実に性産業の入り口を女性たちに広げたことだろう。  先日、デリヘル経営者に話を聞く機会があった。彼が言うには、女性の多くが「バニラを見てきた」と言うそうだ。街に立つスカウトが連れてくる女性のほうが多かった時代もあるが、スカウトへの規制が厳しくなった今は、バニラの役割は大きいという。そのデリヘルでは毎月20万円をバニラに支払っているというが、多くの業者がバニラと無関係でいられない今、バニラが得る収入は莫大なものだろう。  東京都は、公益社団法人「東京屋外広告協会」がラッピング車のデザイン審査をし、承認した車の走行を認めてきた。バニラは東京都の承認を受けてはいないが、都外のナンバーであれば「東京都を横切っている」という名目で走行できたのだ。今年、東京都は都外ナンバー車も審査対象にする方針を固めたというので、今のままのバニラカーが走り続けるのは難しくなるといわれている。そのためバニラカーがなくなることを惜しむような声も聞かれるが、そもそもバニラカーが風景になっていた街は、どれだけ多くの人々の意識を変化させたことだろう。1992年から今にいたる30年のあいだ、性産業は昭和時代よりもさらに細分化し、働く女性たちはさらに若年化し、性産業そのものは風景化し続けている。  昼でも夜でもいつでも、子供たちもフツーに歩く街中で「性産業にいらっしゃーい」と、バニラは女性たちに呼びかける。バニラを通してお店に入ったら、入店お祝い金が出るよ、出勤ボーナスも出すよ、最大2万5000円あげちゃうよ! 抽選で10万円もあたるよ! とバニラはあま~い話をもちかけてくる。それは風俗と女性たちをつなぐ大きな門だ。常に新しい「商品」「在庫」が必要な業者にとって、それは命綱ともなる門だろう。そして、キラキラとコーティングされた巨大なその門がある限り、買春する男たちは「ここは女性たちが自ら選んだ金になる世界」として安心して買い続けられるだろう。実際、買春男たちはのんきだ。女性と恋愛し、まるで彼女の人生を金銭で応援しているような気分の男性は珍しくない。「いいことしている」気分も味わえたうえに射精もできる、夢のようなエンタメスペースのようだ。  近年、性産業で働いてきた女性たちから、「あれは『仕事』ではなかった」という声があげられてきている。「仕事だから頑張らねば」「仕事なのだから、これくらいの理不尽は我慢しなければ」、そういう思いで必死に頑張ってきた「仕事」が、実は金が支払われたことで免除される性搾取と性暴力だったのではないか、という一石を投じる声だ。そういう声にどのように向き合うかが、これから問われていくだろう。  このゴールデンウィークの最中、一人の女性がその仕事場で殺された。  性産業は店舗型のほうが安全、お店の管理がしっかりしているから安全といわれていたが、そんなことはない。個室で見知らぬ男とたった2人きりで裸になる。妊娠や性感染症のリスクは高いうえ、たとえ怖い思いをしても相手の男の機嫌を損ねないように「対処」するのがプロとされている。今回の事件を受けて、買春する男性たちに「吉原の事件のことを気軽に嬢に話さないで! みんな怖い思いをしているから」と呼びかけ、入り口で荷物検査をするような提案をする声は無数にある。そういう“やさしい”配慮の声に対し、「こういう事件の後に勃起できる神経が怖い」ということを書いていた元風俗嬢の女性の声のほうがリアルだと私は思った。  被害者の冥福を心から祈ります。
北原みのり
dot. 2023/05/09 16:00
「中国は攻めてこないよ」 台湾の離島「金門島」が抱える複雑な事情を表す朝食の広東粥
下川裕治 下川裕治
「中国は攻めてこないよ」 台湾の離島「金門島」が抱える複雑な事情を表す朝食の広東粥
金門島の中心街。かつての金門島と比べると、街並みは台湾っぽくなった。看板の密度が教えてくれる  中国の台湾周辺での軍事力強化が進み、世界的に台湾有事への関心が高まっている。4月には中国の習近平政権が、台湾の蔡英文総統の訪米に反発し、台湾周辺で軍事演習を行った。台湾が実効支配する東沙諸島や中国沿岸の金門島など、離島への進攻というシナリオはこれまでも議論されてきた。実際、“最前線”で中国と向き合っている離島の現状について、旅行作家でジャーナリストの下川裕治氏がルポした。  *  *  *  今回、最初に訪れたのは、台湾からは200キロ以上離れているが、中国・福建省アモイからは10キロにも満たない金門島。  1949年、国民党との内戦に勝利した共産党によって中華人民共和国が成立すると、国家指導者となった毛沢東氏は、台湾に逃れた蒋介石氏率いる国民党政府に対して断続的に武力攻撃を仕掛けた。58年には金門島の攻略を試み、砲撃などの武力攻撃を仕掛けたが、台湾支援に動いた米国が艦隊を送り、第2次台湾海峡危機が起きた現場でもある。今はそのとき以来の緊張関係とも言われる。  台湾有事――。大陸の喉に刺さったようなこれらの島は、最前線になるのだろうか。そんな不安を胸に、台北の松山空港経由で金門島に向かった。  プロペラ機に乗り、約1時間で金門空港に着いた。そこから路線バスで島の中心街、金城鎮へ。  ●もしもの際は防空壕に   バスターミナルに到着し、バスを降りるとにぎやかな雰囲気が漂う。カフェ、レストラン、ホテルや銀行、土産物屋などがぎっしりと立ち並んでいる。台北の繁華街のようだ。  そんなかに、「金城民防坑道」という表示がバスターミナルの壁にあるのが見えた。坑道の入り口がここにあるようだ。  金門島やその周辺の島では、中国からの攻撃に備え、1968年から盛んに坑道が掘られていた。金城民防坑道もそのひとつだ。ほかの坑道と違い、中心部にあるため、戦時には金門島の政治や経済機能を移す役割があった。そのため25ものシェルターがつくられているという。 金門島のバスターミナル。この左に階段があり、その先が金城民防坑道の入口  現在、1日に数回、ガイド付きの無料ツアーが行われている。さっそく申し込み坑道の入り口で待っていると、ガイドが現れてヘルメットを渡された。  僕と同行カメラマン、そして台湾人3人がガイドの後について坑道に入った。坑道といっても鉱山のそれとは違い、避難路を兼ねた防空壕である。街の中心の地下5メートルほどの深さに、狭く、暗い通路が続く。 金城民防坑道。坑道内は照明がないところもある。手探りならぬ足探りで進む  しかし明かりをとる小窓もない坑道は、見るものがなにもない。わずかな照明を頼りにただ歩く。つい早足になってしまう。途中では爆撃の音が響く。見学者に警戒を促す演出だ。しかし暗い坑道のなかで聞くと息が詰まる。20分ほど歩いただろうか。最後には戦闘意識を鼓舞するような歌が流れた。ガイドに聞くと、「英雄歌」だと教えてくれた。 坑道に沿ってこんな小部屋がいくつもある。武器や弾薬、食糧の貯蔵用スペースだ  長さ約2・5キロの坑道の出口は、金門高級中学の近くだった。息苦しさから解放された。強い太陽の光が目を射る。もし中国からの攻撃がはじまったら、金門島の繁華街にいる人々はこの坑道に逃げ込むことになる……。 ここが金城民防坑道の出口。周囲に広がる金門島の日常と坑道内の戦争の折り合いはつかない  地上の道を歩いてバスターミナルに戻った。道に沿って並ぶおしゃれな飲食店などを眺めながら、そこに流れるいたって穏やかな空気と、この地下に掘られた坑道の差がどうしても埋まらない。 金門島の商店街の下を坑道が走っている。この道の下にも  テイクアウト専門のコーヒーショップの前にいた店のオーナーのLさん(35)に声をかけた。 「日本から? 早くきてほしいのは中国人なんだ。彼らがやってきてくれないと商売はあがったり。この店だっていつまでもつかわからないんだよ」  中国への思いを聞こうと思ったのだが、その前に中国人観光客を期待する声が機関銃のように耳に届く。以前は、台北郊外で兄と一緒にコーヒーショップを開いていたという。 「金門島は中国人バブルで儲かると聞いて借金をして店を出したけど、新型コロナと中国との緊張関係で中国人観光客は台湾にくることができない状態がつづいた。今も資金繰りに四苦八苦している」  混乱してしまう。金門島の人々は、攻撃してくるかもしれない中国からの観光客を渇望している。折り合いがつかない。  実は、僕が金門島に訪れたのは今回が初めてではない。20年ほど前にも一度来たことがある。そのとき目にした光景は、今とはまったく違った。店などはほとんどなかった。   第2次大戦が終わり、中国は国共内戦に陥る。中国国民党と中国共産党の内戦だ。1949年に台湾に拠点を移した国民党が大陸の共産党と対峙(たいじ)したのが金門島だった。大きな戦闘が何回かあり、金門島には10万人規模の兵士が駐留し、“軍事島”と化していく。兵士の数は島民の人口より多かった。  島全体が要塞化への道を進んでいく。そのなかで金門島の人々は、産業を興すこともできなかった。台湾本島からの行き来は制限され、島の発展は止まった。人々は兵士の世話をするような仕事で生きのびるしかなかったという。  しかし台湾と中国の間の緊張は少しずつ緩んでいく。1987年、台湾本島に敷かれていた戒厳令が解除され、金門島もそれから5年後に解除された。金門島は軍事公園として観光地の道を進みはじめた。台湾本島から観光客が訪れるようになっていた。  僕がはじめて金門島を訪ねたのはそうした時期だった。観光地への展開は道半ばで、島は軍事島時代の緊張をまだ保っていた。  ●年々増える中国人観光客  金門島を本格的に活気づけさせたのは、2001年からはじまった「小三通」だった。ビジネス、交通、通信のことを中国語で三通という。通商、通航、通郵の自由化という意味を含んでいる。その小規模な交流が、金門島と対岸のアモイ、泉州との間にはじまったのだ。この交渉をまとめたのが、いまの台湾総統の蔡英文氏である。  連日、何便ものフェリーが中国側からやってきた。アモイから金門島へは高速フェリーに乗れば30分で着いてしまうから日帰りも可能だった。金門島にやってきた中国人は、年を追って増えていく。交流が始まった2001年は千人に満たなかった中国人客は、2010年代の後半には30万人を超えるまでになった。 「金門島バブル」という言葉が生まれ、中国人観光客をターゲットにした店が次々にできていく。 金門島の繁華街には、金門島バブルを聞いて台北から進出した店が多い  そこを襲った新型コロナとそれにつづく台湾、中国との緊張状態。金門島の中心街では一時、一気に店が増えたが、その多くが経営難を強いられることになる。ホテルのなかには休業しているところもあった。  金門島の中心街を歩くと、ドラッグストアが多いことに気づく。日本でも同じだが、中国からの観光客がこの種の店に落とすカネは大きい。大きな店舗を構える康是美(コスメド)に入ってみる。台湾の大手ドラッグストアチェーンだ。客はまばらで、並ぶ化粧品の前で店員が暇そうに立っていた。  路線バスに乗って島内の山外にある昇恒昌金湖広場を訪ねてみた。ここは2015年にできた大きな免税店で、完成したときはアジア最大規模という宣伝文句が躍っていた。もちろん狙いは大陸からの観光客だ。しかしそのフロアは閑散としていた。  金門島は中国と台湾の緊張を左目で眺めながら、右目では往来の活発化をにらんでいる。そんな空気が伝わってくる。  ●朝食は「島名物」のはずなのに?   島内の民宿に泊まった。客はほとんどいない。朝食つきの宿で、オーナー(58)からは、「金門島の名物朝食を用意します」といわれた。  翌朝、食堂に置かれていたのは広東粥だった。台湾の朝食といったら、揚げパンなどが入った塩味の豆乳やもち米のおにぎり、卵入り台湾風クレープやハンバーガーだ。しかし金門島の朝食は昔から広東粥だという。  前夜に入った食堂の主人の言葉がよみがえる。 「台湾有事っていうけど、中国は金門島には攻めてこないよ。この島の大多数は大陸の福建人と同じ意識というか、大陸の福建省と一体化しているから。領土的には台湾だけど、意識は中国。“本省人”主体の台湾とは違う」  本省人というのは台湾で生まれ育った人たちのことをいう。  たしかに、対岸にはアモイの高層ビル群が見え、そこから多くの中国人が訪れてきた。島も経済的な恩恵を受けたとあれば、昔の意識とは違ってきても不思議ではない。 金門島に撃ち込まれた砲弾の弾殻からつくられた包丁は島の名物。材料の弾殻はまだまだあるという  しかし、先の大戦後、中国の共産党は金門島に攻め込んだと水を向けると、 「それは台湾に逃れた国民党の軍隊が金門島に駐留したからこの島が戦場になった。私たちは犠牲者。当時とは構造が違う。いまの緊張は本省人の台湾と中国との間に起きていること。昔は国民党と共産党の内戦だったから」  このあたりの感覚が難しい。金門島の中心部にある金城民防坑道から伝わる戦闘と、いまの台湾有事は構造が違うというのだ。金門島は台湾ではなく中国だと、あまりに自信ありげな主人の面もちだった。  金門島の人々が広東粥を毎朝食べていたのは、そういうことだった。民宿で広東粥を食べながら、その意味が少しわかった気がした。 民宿の朝食に出された広東粥。とろりとした舌ざわり。香港で食べたという人は多い (下川裕治) ■しもかわ・ゆうじ 1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)。
台湾有事金門島
dot. 2023/05/09 06:30
先輩社員から聴いた「遺言」 青山で思い出す アサヒグループホールディングス・小路明善会長
先輩社員から聴いた「遺言」 青山で思い出す アサヒグループホールディングス・小路明善会長
アサヒグループホールディングス 小路明善会長/物質的な豊かさと共に心の豊かさや幸福感も大切にするべきとして繰り返し口にしている「Well-being」。経済界で同調者が増え手応えを感じている(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年5月1-8日合併号では、前号に引き続きアサヒグループホールディングス・小路明善会長が登場し、思い出の地・青山を訪ねます。 *  *  *  東京・青山に、青山学院大学法学部で4年、朝日麦酒(現・アサヒビール)の労働組合本部の専従役員で10年弱、毎日のように通った。計14年。故郷の長野県松本市で高校を卒業するまで過ごした年月に次ぐ長さで、第2の故郷のようだ。  ことし2月、労組本部の事務所が入っていた南青山のビルがあったところを、連載の企画で一緒に訪れた。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れて多様性に触れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。 ■「夕日ビール」と揶揄されたころ 苦難続いた10年  国道246号(青山通り)の表参道交差点から東の赤坂方面へ歩き、すぐ右折して路地に入り、ほどなく足を止めた。 「ここに、朝日麦酒労働組合の本部が入っていた3階建ての小さなビルがありました」  1980年3月、28歳で休職し、労組の専従役員になった。翌年、ビジネスパーソン人生で『源流』になった出来事に、出遭う。  辛口生ビール「アサヒスーパードライ」が発売され、大ヒット商品となる6年前。朝日麦酒は市場シェアが落ち、酒販店や飲食店で「朝日ならぬ夕日ビール」と揶揄され、悔しい思いが続いていた。経営が苦しいなか経営陣は人件費の削減に、約530人の希望退職者の募集に踏み切った。会社の苦境を知る労組も受け入れ、本部役員らが対象となる年長の社員たちに会って、退職を促すような会話を重ねる。自分も、青山から職場を巡った。  忘れることのない言葉を聴いたのは、東京・隅田川にかかる吾妻橋の脇にあった会社で最も古いビール工場だ。相手は50代の従業員。会社の苦境と希望退職に伴う恩典を説明したが、退職を促すような口調になっていたのかもしれない。静かに聴いていた相手が、真っ直ぐ目を向けてきて、口を開く。 「分かった、私は辞めていく。でも、声の大きい人の話を聴くだけではなく、声なき声、コツコツと真面目に仕事をしてきたのに辞めていく人たちの声を聴いてくれ。これは俺の『遺言』だ」 母校へ来るたびに思い出す幼稚園。賛美歌を歌ってキリスト教に触れクリスチャンにはならなかったが、それからの人生の大事な一歩だった(撮影/狩野喜彦)  胸の奥まで染み込んで、『源流』が生まれた。その通りだ。多くの場合、どうしても声の大きい人たちに耳目が集まり、その言い分だけが残る。でも、多くは語らなくても真面目に仕事をしている社員によって、会社は成り立っている。その声を、大事にしなければいけない。社長になったときに「社員は会社の命だ」と言い切ったのも、その思いからだった。 ■社長に教わった「熱気球論」の人材育成の秘訣  33年ぶりに労組本部があったところを訪れ、振り返ると、樋口廣太郎さんが浮かんでくる。主取引銀行で副頭取を務め、朝日麦酒の社長になったのは86年3月、労組の書記長だった。樋口さんは経営再建の一環として新製品に力を入れ、在庫期間が長くなったビールは引き上げて廃棄する、と決めた。それを労使協議の場で「億円単位のコストがかかるし、業界に例がない」と指摘すると、「市場をよくするための経営判断に、何を言うか」と激怒された。  退かずにやり合った相手が、終わるとそばにきて肩を叩き、「きみも私がやりたいことの意味をわかっていながら、書記長の立場として言ったのだろう。理解してくれよ」と言う。烈火の如く怒るが、それ以上にフォローするトップ。ファンが多かった。  その樋口さんから、三つの言葉を教わる。一つは「前例踏襲をするな」だ。古くなってきたビールの廃棄ではないが、それまでのやり方を続けていてはダメ。常に新しいやり方で進めるのが、変化する社会への対応だとの趣旨で、「前例は自らがつくるもの」とも言われた。  二つ目は「人間熱気球論」。人間は心の奥に「向上したい」という気持ちがあるから、経営者や管理職はその気持ちを阻害している要因を取り除いてあげれば、気球のように自然に上がって成長していく。そう説かれ、「なるほど」と頷いた。  もう一つは「チャンスは貯金できない」で、聞いて「貯めることもできるのでは」と首をひねった。でも、樋口さんは「偶然は人生で二度とこないから、貯金はできない。大事なのは、チャンスがきたらいかにものにするか、常に考えていることだ」と言った。アサヒグループホールディングス(HD)の社長になって、5年間に2兆5千億円を投じて欧州、中東、豪州のビール事業を買収した胸中に、この言葉があった。 ■変わらぬ街と変わらぬ母校に口ずさむ賛美歌  母校の青山学院大学は、表参道交差点の労組本部と反対側、渋谷の方へ歩くと左にある。周囲のビルはいくつか建て替えられたが、街の雰囲気は変わっていない。一昨年に学院の理事になり、30年ぶりくらいに訪れた。以来、月1回の理事会に出ている。人生のキーワードになった「青山」との縁は、続く。  学校の正門から続く並木道も、変わっていない。キリスト教プロテスタント系の学校で、歴史的な建物が2、3あり、神学部の校舎だった建物にツタがからまっている。ペギー葉山さんが歌って大ヒットした『学生時代』の歌詞「ツタのからまるチャペル~」のモデルとされ、大学の本部事務所になっていた。  1951年11月に松本市で生まれ、キリスト教系の幼稚園へ通い、賛美歌に触れた。クリスチャンにはならなかったし、大学で礼拝堂にいかなかったが、賛美歌が耳に入った。自らの歩みでキリスト教の存在は、小さくない。最近、「社員が幸せでないと経営ではない」という立ち位置にいるのも、それが背景にある。たまに賛美歌を口ずさんでいる自分に、気づく。  入学した71年は学生運動が激しかった時期で、キャンパスは学生にロックアウトされ、登校するのは週2日くらいだった。部活は武道に興味があって合気道、アルバイト先は大学から歩いていけるスペイン料理店。週に2、3度は夜に働き、楽しみは仕事の後の食事。シェフが客に出すのと同じ食材や調理で、「パエリア」などを食べさせてくれた。下宿生活だったので、大いなる魅力だった。  順風満帆のように映るかもしれないが、思い悩んだこともある。とくに95年秋から7年、課長から部長、担当執行役員まで務めた人事部門のときだ。人事制度の改革を進める陰で、「自分は将来どういうビジネス人生を送っていけばいいのか」と悩み続けた。営業部門で始まり、労組という全く違う世界へいき、どちらもたくさんのことを学び、充実感があった。  ところが、突然の人事課長という辞令に「人事とは何か?」との疑問から悩みが始まる。ある日、自宅近くの書店でデール・カーネギー著の『人を動かす』と『道は開ける』の2冊が目に入り、買ってみた。読むと、『人を動かす』に「人を非難する代わりに理解するように努めると、人は動くよ」とあり、気が晴れた。「Again」で寄ったスペイン料理店の跡のバーで、そんな日々を思い出す。  事業子会社のアサヒビールの社長を4年8カ月、持ち株会社のグループHD社長を5年、そして会長3年目のいまも、社内で行き交う社員たちに何気なく話しかける「声かけ」が続く。相手の反応から、社内の不満や悩みを探っている。『源流』となった「声なき声を聴く」の言葉から、身に付けた一つだ。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2023年5月1-8日合併号
AERA 2023/05/08 07:30
芸人の面白さを引き出す「令和のラジオスター」 お笑い芸人・向井慧(パンサー)
芸人の面白さを引き出す「令和のラジオスター」 お笑い芸人・向井慧(パンサー)
忙しくても時間を見つけて映画館に行き、本を読む。一人で過ごす時間が好きだという(撮影/品田裕美)  お笑い芸人、向井慧。お笑いトリオ「パンサー」のツッコミとしてテレビで活躍しているが、向井慧の代名詞とも言えるのが、ラジオのパーソナリティーだ。四つのラジオ番組でレギュラーを持ち、「令和のラジオスター」ともささやかれる。芸人からの評価も高い。それは、常にどうしたら芸人として生き残れるか、葛藤してきた賜物でもある。天才ではないからこそ、もがいてきた。 *  *  *  直前までココリコの田中直樹と談笑していた向井慧(むかいさとし・37)の顔が一瞬ひきしまった。黒いイヤホンを耳に入れ、「パンサー向井の、ふらっと」とマイクに向かってタイトルコールをする。  3月28日午前8時30分、東京・赤坂のTBSラジオのスタジオで「パンサー向井の#ふらっと」の生放送が始まった。番組開始から1年を迎え、スタジオには和やかな空気が流れている。 「ふらっと」は月曜から木曜の午前中2時間半のラジオ番組だ。曜日ごとに田中直樹、滝沢カレンらがパートナーを務め、その日の話題、ゲストの話、芸人の現場リポートなどをニュースや天気予報を挟みながら放送している。  テレビと違ってラジオは午前中がゴールデンタイムだ。通勤通学、家事、仕事中の人など、聞いている人が最も多い。1年前、その大事な枠を任されたのが向井だった。  もともと、この時間帯には「伊集院光とらじおと」が放送されていた。話術に長(た)けた伊集院はラジオでカリスマ的な人気がある。6年続いた番組が昨年3月に終了することになり、次を誰に託すのか、局内でパーソナリティー選びが始まった。営業、編成、制作が話し合う中で向井の名前が浮上する。  向井は既に三つのラジオ番組に出演していた。「ふらっと」のプロデューサー大谷正美は、このとき初めて向井の番組を聞いた。 「自分が考える朝のラジオにこんなにしっくりくる人は他にいないと思いました」  理由の一つは、ずっと聞いていられる話し方だ。速度がゆっくりで、スッと耳に入ってくる。聴く人の年齢を問わない。二つ目は誰も置いてきぼりにしないところ。ゲストやパートナーの言葉がわかりにくいときは、さりげなく説明を加える。もう一つは幅広い人と話せる雰囲気だ。ゲストがどんな人でも同じテンションで話すことができる。 「向井さんは最初の週からイメージ通りにうまくやってくれて、こちらから言うことがないくらいでした」 番組スタートから1年を迎え、「パンサー向井の#ふらっと」のスタジオにもなじんできた。コロナでできなかったスタッフとの食事会も開かれ、コミュニケーションがより円滑に(撮影/品田裕美) ■新番組でストレスをためる 楽しくなくちゃ続かない  しかし、向井にとって曜日を通して担当する帯番組は初めて。今までやってきたラジオはスタッフが数人だったのに対して、「ふらっと」は曜日ごとにチームが変わり、総勢50人ほどが関わる。それだけでもプレッシャーだった。内容も自分の好きな話をする夜の番組とは異なり、台本に沿って企画やゲストコーナーを進めていく。違いに戸惑い、ストレスをためていった。 「結構苦しかったのが夏ぐらいですね。何十年も続くTBSラジオの朝の番組という看板みたいなものを勝手に背負っちゃって、何か含蓄のあることを言わなきゃと思っていたら、しんどくなってしまった。このままじゃ無理だなって」  追い詰められていた7月にコロナウイルスに感染する。しばらく番組を休むことになり、自宅で療養しながら自分の代打のパーソナリティーによる「ふらっと」を聞いた。楽しかった。自分も楽しくなければ続けられないことに気づき、肩の力が少し抜けた。  向井は学生時代にお笑いの世界に入り、2008年からお笑いトリオ「パンサー」のツッコミとして活動。13年に「笑っていいとも!」の週替わりレギュラーにもなった。「有吉の壁」(日本テレビ)、「王様のブランチ」(TBSテレビ)など、向井をテレビで見ない日はない。  特筆すべきはラジオだ。「#むかいの喋り方」(CBCラジオ)、「パンサー向井のチャリで30分」(ニッポン放送)、「又吉・児玉・向井のあとは寝るだけの時間」(NHKラジオ第1)、そして「ふらっと」と、ラジオで四つのレギュラー番組を持つ人は全国でも珍しい。「令和のラジオスター」ともささやかれている。  芸人仲間であり、友人のハライチ・岩井勇気(36)は、「芸人だったら向井くんのすごさはみんな分かる」と話す。 「向井くんがいると助かるんです。ほしいつっこみをくれるし、ボケがわかりにくければ、さりげなく説明しながらつっこんでくれる。面白いところを引き出してくれるから、すごいやりやすくなる。サッカーでいうとミッドフィールダー。ストライカーにシュートを打たせる立ち回りがすごい」 ■要領は昔からすごくいい 無駄なことはしたくない  芸人の又吉直樹(42)の評価も高い。 「あいつの前だとふざけたくなるんです。何でも無視せずに何か言ってくれる。だから、いろんなタイプのボケがみんな向井に寄っていくんじゃないですかね」  芸人だけでなく、「王様のブランチ」のプロデューサーである寺田裕樹も、向井に信頼を寄せる。 「多方面に気を使えて柔軟に対応できる人。場の整え能力が半端ない。映画やドラマについて語るアウトプット能力も高く、咀嚼(そしゃく)して自分なりに表現できる」  向井は芸人になった瞬間から、この世界に居続けるにはどうすればいいかを考えてきた。そこで磨かれたのがストライカーにシュートを打たせるための技術だった。 「天才に憧れていたけど、準備しないで身一つで行って結果を残せるタイプじゃないことはよくわかっていました」  小さい頃からお笑い好き。小学校高学年のときにはすでに芸人を目指していた。4歳上の姉、佑子は幼少期の向井についてこう話す。 「ひょうきんな子で、夏休みに祖父母の家に行くと、きんさん、ぎんさんや光GENJIの真似をしてみんなを笑わせていました。負けず嫌いで、ゲームをして私が勝つと泣きだしたり怒ったりしていましたね」  小学校では生徒会長、サッカー部のキャプテン、中学でも生徒会長を務めた。親から勉強しなさいと言われたことはない。お笑い番組が好きで、中学に入ると、ナインティナイン、海砂利水魚(現・くりぃむしちゅー)、ココリコらのラジオ番組を夢中で聞いた。  進学校の愛知県立瑞陵高校に入学するが、2年生のときに学校に行かなくなる。松本人志の『遺書』を読んだことが原因の一つだ。「おもしろい奴」の条件に「クライ奴」と書かれていて、このまま友だちと楽しく遊んでいては芸人になれないと思った。だんだん友だちとの距離がうまくとれなくなり、学校から足が遠のいた。父の清史はそんな向井を「行かなくてもいい」と見守ってくれた。数カ月もすると次第に落ち着き、また登校できるようになった。  高校を出たら吉本総合芸能学院(NSC)東京校に行って芸人になる、と父親に告げたのは、高校3年の秋の三者面談のときだ。落語好きの清史は息子が芸人になることに抵抗はなかったが、リスクが高すぎると思い、大学を卒業すること、30歳になっても芽が出なかったらやめること、の二つの条件を出した。清史の頭の中にあった芸人像は横山やすしだった。 「ハングリー精神とか人を押しのけて出ていくようなタフさが必要な世界だとしたら、彼はついていけるだろうかという気持ちが心のどこかにありました。大学を出ていれば再就職しやすい」  向井はその条件を受け入れ、受験勉強を始める。入試は3カ月先に迫っていた。家だと気が散るからと、大学の教員をしていた清史の研究室へ一緒に行き、一日勉強をする。帰宅してからも勉強漬けという努力が実り、無事に明治大学政治経済学部に合格。2004年に上京した。 「要領は昔からすごくよかったと思います。なるべく最短距離で行きたい、無駄なことはしたくないというのは今の仕事でも同じです」(向井)  最初にコンビを組んだのは、小中学校の同級生の近藤裕希だった。近藤が東京の大学に受かった05年に二人はNSC東京校の11期生となり、「あじさい公園」を結成。600~700人の生徒の中から、20組、30人ほどが選ばれる選抜クラスに早々に入ることができた。選抜クラスになると先生の指導時間も長くなる。入れなかった人はどんどんやめていった。  選抜クラスに入ったものの、向井は内心では挫折を感じていた。同期にいたシソンヌ、後にチョコレートプラネットを組む長田庄平と松尾駿の面白さはレベルが違った。自分がやっていることでは勝てないとすぐに悟る。では何だったら勝てるのか。考えたのは「若さとビジュアル」だった。 ■焦りから厳しく当たり2度の解散を経験する 「彼らは僕たちより年上だったから、若さとビジュアルでは勝てる。でも、若いうちに売れないと負けるから、あと1、2年が勝負だなと」  時間がないと向井は焦っていた。近藤に「もっとこうしてくれ」「こうしないと負けるよ」と、きつく当たってしまうことが増えた。ある日、向井は近藤から告げられる。 「楽しくないし、お前ともうできないわ」  子どもの頃から一緒にお笑いを目指してきた近藤とのあじさい公園は解散。ナインティナイン、ココリコのような中学や高校からの友人コンビのラジオに憧れていた向井の失望は大きかった。  その後、近藤と話し合い、3人ならバランスが変わるのではないかと、06年にNSC同期のりゅーじを加えたトリオ「ブルースタンダード」を結成する。20歳前後の若さと見た目から、すぐに人気が出た。渋谷のヨシモト∞ホールのライブに、毎週レギュラー出演した。  しかし、その人気とは裏腹に、向井は再び焦り始める。同じ曜日に出ていたチョコレートプラネットが格段に面白かったからだ。彼らは結成してまだ日が浅かった。彼らの面白さが客に伝わる前に自分たちが売れないといけない。焦りを抱えた向井の厳しさに、今度はりゅーじが音を上げる。「もうできない」と言い出し、2008年春、ブルースタンダードは解散した。 「僕が同じミスをしてしまった。楽しくできなくなっちゃって、もうおまえとはできないと言われる側を2度やっている。ここで芸人をやめようと思いました」  一人になった向井を心配していたのが又吉だ。なんとか芸人を続けてほしかった。 「出てきただけで笑われる芸人と違って、向井は見た目も悪くないし常識もある。それは芸人としてはめちゃくちゃ大変で、あいつは30キロぐらいの重りを背負ったままお笑いをやってきたんです。そこで鍛えられた筋肉は半端じゃない」  又吉は、向井の「お笑い勘」がなくならないように、遊んでいてもお笑いの話を交ぜた。この時期、向井にとっては又吉が芸人との唯一の接点だった。 「又吉さんがいなかったら、僕は今のようにはなれていなかったところが多分にあります。又吉さんのおかげでなんとかギリギリ、芸人やめないでいいのかな、ぐらいの感じにとどまっていられた」  お笑い以外にやりたいことがなかった向井は考えた末、2008年6月にNSCの先輩の菅良太郎、尾形貴弘とパンサーを結成する。 (文中敬称略) (文・仲宇佐ゆり) ※記事の続きはAERA 2023年5月1-8日合併号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/05/05 18:00
ジェーン・スー「『将来の夢』とは違うところにいるけれど、この先も楽しい気持ちを大切にしたい」
ジェーン・スー ジェーン・スー
ジェーン・スー「『将来の夢』とは違うところにいるけれど、この先も楽しい気持ちを大切にしたい」
「将来の夢」とは違うところにいるけれど(イラスト:サヲリブラウン)  作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  *  おかげさまで、最初の本を出版して今年で10年になります。アエラの連載はマッサージ放浪記「今夜もカネで解決だ」(文庫タイトルは『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』)になり、ありがたいことに年に1冊か2冊のペースを続けられています。本にまとめるのは楽な仕事ではありませんが、楽しいです。  文章を書く。幼い頃はおろか、30歳過ぎたあたりを振り返っても、想像もしなかった仕事です。「自分が書いた文章を人が時間とお金を費やして読んでくれる」という、大変恵まれた状況が続いていることが夢のようです。  と同時に、「将来の夢」として挙げたことが一度もない肩書が自分についていることも不思議に思います。  会社員時代、私は宣伝や販売促進の仕事をしていました。業務はおおむね楽しく、当時学んだことを現在も生かして働いています。しかし次のステップとして、私はマーケティングやコンサルティングのような仕事に就きたかった。異業種転職を試みた際にセミナーへ行ってみたり、そういった職種に応募してみたりもしましたが、セミナーでは賢そうな人たちに囲まれて気後れしてしまったし、就活では箸にも棒にも掛かりませんでした。あれは楽しくなかった。 イラスト:サヲリブラウン  あの夢が叶っていたら、私は今頃どうなっていたのだろう? 危機管理能力に乏しいという意味も含んだ楽天家ですから、それなりに楽しくやっていたとは思います。  ああ、そうか。突然腑に落ちました。私は「楽しいかどうか」がすべてなのだな。楽をしたいわけではなく、楽しくないのが受け容れられない。  楽しくなくとも続けることに喜びを感じる人もおりますし、出世やお金に喜びを感じる人もいるでしょう。他者に迷惑を掛けない限りそこに善悪はなく、どんな状態にあることが自分にとっての幸せなのかを、模索しながら見つけられたことが嬉しい。見つけたというより、自分に正直にやってきたことで気づけたと言うほうが的確かも。  5月で50歳になります。想像していた50歳とはかなり異なる姿なれど、私はいま楽しく毎日を過ごせています。馬鹿みたいに忙しいし、イライラすることもあるし、毎日満身創痍。でも、楽しい。  人生100年時代だそうです。私は残りの50年を、どう楽しんでいくのかしら。それを想像するだけで、少しワクワクしてきます。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2023年5月1-8日合併号
AERA 2023/05/04 19:00
NHKの若手俳優の“養殖力”とは? カトリーヌあやこ×山田美保子「推し」対談
NHKの若手俳優の“養殖力”とは? カトリーヌあやこ×山田美保子「推し」対談
山田美保子(左)とカトリーヌあやこ(撮影/写真映像部・上田泰世) 「週刊朝日」休刊まで残り約1カ月。本誌で「楽屋の流行りモノ」を連載する放送作家・山田美保子さんと「てれてれテレビ」を連載するTVウォッチャー・カトリーヌあやこさんが、お互いの「推し」やNHKドラマのキャスティング力について語り合った。 *  *  * 山田美保子(以下、山田):やっぱり今、話題は木村拓哉さん主演の月9ドラマ「風間公親-教場0-」(フジテレビ系)ですね。キムタク演じる風間公親、いいですよね。 カトリーヌあやこ(以下、カトリーヌ):「教場」、「教場II」では義眼に白髪で、キムタクのアピールポイントだった「イケメンさ」と「ナチュラルさ」が全部封印されたことが逆に良かったのかなと。「何をやってもキムタク」と言われてきましたが、完全に払拭しましたね。 山田:風間公親は絶対に、「ちょ、待てよ」とは言いませんもんね(笑)。教場シリーズは他の出演者も注目株ばかりで、一昨年の「II」では、今や「第2のキムタク」的になっている目黒蓮君はじめ、岡崎紗絵さん、杉野遥亮さん、重岡大毅君、三浦貴大さんらも出ていました。 カトリーヌ:すごいですよね。舞台が警察学校だったから、良い若手をいっぱい出せた。 山田:「金八先生か!」というくらい豪華でした。今回は教官になる前日譚ということで警察学校が舞台ではありませんが、新人刑事役の赤楚衛二さんはじめ、出演者たちの演技にも注目です。 ──お二人が今「推し」ている芸能人は誰ですか? 安田顕 カトリーヌ:私はヤスケン(安田顕)さんですね。 山田:チームナックスといえば大泉洋さんのイメージが強いけれど、安田顕さんもいいよね。カメラのキタムラのCMとか、いい味出している。 カトリーヌ:私、目の光を「オン」、「オフ」できる人が好きなんです。ヤスケンさんはドラマ「逃亡医F」(日テレ系)の変態的な医者のように目が死んでいる人物を演じることもできるけれど、「下町ロケット」(TBS系)では阿部寛さんの隣でキラキラした目でロケットの打ち上げを見つめることもできる。そこに惹かれます。 山添寛 山田:2番目は? カトリーヌ:お笑いコンビ「相席スタート」の山添寛さんです。 山田:意外ね!(笑) カトリーヌ:ギャンブル好きで借金をつくってしまうとか、「クズ男」ぶりがすごいんですが、それが「ラヴィット!」(TBS系)でMCの川島明さんにうまく引き出されてきた。相方の山崎ケイさんにも借金をしていたそうなんですが、山崎さんが「彼にお金を貸すと、良いことをしている気持ちになる」って言っていて。 山田:運気が上がる、みたいな? そういえば、いつもキレイな格好をしているね。美容芸人として売り出していますし。 カトリーヌ:そうそう。同じギャンブル好きの「クズキャラ」として空気階段の鈴木もぐらさんやザ・マミィの酒井貴士さんと並ぶことも多いんですが、彼だけ身なりがきれい(笑)。「リアルクズ」と「ビジネスクズ」のバランスがいい塩梅(あんばい)な、「さわやかなクズ」というか。 山田:なるほど! さすがお目が高い。 カトリーヌ:ところで山田さんの「推し」は? 若葉竜也 山田:今本当にかっこいいなって思うのが、大衆演劇「若葉劇団」で「チビ玉三兄弟」の三男として知られた若葉竜也さん。 カトリーヌ:NHKの朝ドラ「おちょやん」にも出演していましたよね。 山田:私、CMコンテストの審査員もやっているんですが、若葉さんが出ているAmazonプライムのCM、仕事で色々あった青年が白い犬と一緒に森林浴に行くっていうあれが大好きなんです。ところがですね、昨秋、私が昔から大好きな稲垣吾郎ちゃんの主演映画「窓辺にて」にも出演していて。「どっち見りゃいいの~」みたいな。 カトリーヌ:推しと推しがバッティング(笑)。 藤原季節 山田:そういうの、ほんと困っちゃうの(笑)。その話で言うと、去年、杉咲花さん主演のNHKのドラマ10「プリズム」に出ていた藤原季節さんも大好きになっちゃって。彼も吾郎ちゃん主演の舞台「サンソン-ルイ16世の首を刎(は)ねた男─」の初演の時に出ていて。 ステファン・ランビエル カトリーヌ:困りますね(笑)。 山田:あとは寺西拓人君。ちょっと韓流スターみたいなお顔立ちなんですけど、演技もうまくて、ドラマ「ボイス 110緊急指令室」(日テレ系)ではゲスト出演なのに「あ~寺西君だ~」って(笑)。イケメンはちょっとの出演でも見逃しません! ■「推し」を育てるNHKの上手さ ──ところで、お二人の「生涯一推し」はどなたですか? カトリーヌ:私はフィギュアスケート選手、ステファン・ランビエルさんですね。 山田:2006年トリノ五輪で銀メダルをとったスイスの選手ですね。どうしてですか? カトリーヌ:彼が現役だった時代って、ジョニー・ウィアーとか、エフゲニー・プルシェンコみたいな、本当に「王子様」みたいな雰囲気の選手が多くて、あらゆるジャンルの音楽に調和した演技で観客を魅了してくれた。若手の頃「30代ヤモメに見える」なんて言われていたステファンですが、年齢を重ねたらさらにチャーミングで私の「生涯の推し」です。 森本レオ 山田:私の「生涯推し」は森本レオさん。 カトリーヌ:ナレーションでの声が素敵ですよね。 山田:私は小学4年生からラジオの深夜番組でハガキ職人をやっていたおませな子どもだったんですが、東海ラジオにレオさんが出ていて。当時あった深夜ラジオの雑誌でレオさんの写真を見て「キャーッ」ってなって。「愛という名のもとに」(フジテレビ系)に出演された時に、初めてインタビューでお会いしました。 カトリーヌ:その時はどんな印象でしたか。 山田:好きすぎて、インタビューどころじゃなくって。「見てます」みたいな、ファンであることの発表みたいになって終わってしまった(笑)。ちなみに、稲垣吾郎ちゃん、キスマイ(Kis-My-Ft2)の北山宏光君も殿堂入りです。 カトリーヌ:ところで、さっきからちょいちょいNHKのドラマが出てきますけど、NHKって良い俳優を上手に見つけてきますよね。 山田:「半分、青い。」の中村倫也さん、「あまちゃん」の松岡茉優さん、「ひよっこ」の伊藤沙莉さん……朝ドラの主役級以外に、これから伸びる若手俳優を上手に配置して。あのキャスティング力は本当にすごい。 カトリーヌ:一度、主人公などの妹役をやってから、後の作品でヒロインになるパターンもありますよね。「ごちそうさん」の高畑充希さんとか、「とと姉ちゃん」の杉咲花さんとか。 山田:清原果耶さんもそうですよ。「あさが来た」の女中役で俳優デビューして、夜のドラマ10「透明なゆりかご」でドラマ初主演。「なつぞら」では主人公の妹を演じ、朝ドラ3作目となる「おかえりモネ」でついにヒロインになりました。 カトリーヌ:朝ドラの脇役で顔を売って、朝ドラ以外の枠で主役をやらせてテストして、満を持して朝ドラのヒロインに。ちゃんと「養殖」しているというか(笑)。 山田:矢本悠馬さんも、「花子とアン」でカンニング竹山さんの息子役で出ていた時から好きだったな。 カトリーヌ:彼はその後、BSプレミアムの「京都人の密かな愉しみ Blue修業中」にも出演していましたよね。 山田:そうそう、BSでも囲い込む(笑)。 カトリーヌ:私はひそかに、NHKの人はテレ朝の特撮ヒーローものを見ているんじゃないかと思っています。よくそこからイケメンを引っ張ってきますから(笑)。 山田:なるほど、そうかも。 カトリーヌ:大河ドラマ「おんな城主 直虎」や朝ドラ「なつぞら」などに出ていた山田裕貴さんも、「海賊戦隊ゴーカイジャー」(テレ朝系)で目をつけたのではないかと。 山田:彼は売れましたねぇ。私たちこの業界長いから、タレントさんの変遷を見るのが楽しいよね。 カトリーヌ:あの時ここに出たこの人がこんなふうになって、みたいな。特に朝ドラを見ているとよく思いますね。 (構成/本誌・大崎百紀)※週刊朝日  2023年5月5-12日合併号より抜粋
カトリーヌあやこ山田美保子
週刊朝日 2023/05/03 11:30
月経による女性の日常生活に及ぼす不都合 寝込むほどの激しい月経痛に襲われた女医が考えたこと
山本佳奈 山本佳奈
月経による女性の日常生活に及ぼす不都合 寝込むほどの激しい月経痛に襲われた女医が考えたこと
山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを、女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は「月経が女性の日常生活に及ぼす影響」について、NPO法人医療ガバナンス研究所の内科医・山本佳奈医師が「医見」します。 *  *  *  先月のある日の夜ことです。「これ以上我慢できない……」と思ってしまうほどの下腹部痛に襲われました。10数年ぶりに経験した、ひどい月経痛です。  その日の午前中から月経が始まり、次第に月経に伴う下腹部痛、つまり月経痛がひどくなっていきました。薬局で購入した痛み止めを内服するも効かず、座っているのが辛くて寝込んでしまう程でした。  そもそも、月経痛はどうして起きるのでしょうか。月経中に増殖する子宮内膜には、子宮の収縮を促すプロスタグランジンという物質が含まれています。このプロスタグランジンの分泌過剰によって子宮収縮の増強がもたらされる結果、痛みを引き起こしてしまうと言われています。  月経痛をはじめとした月経にまつわる不都合についての調査報告があります。ヨーロッパ 6カ国 (オーストリア、ベルギー、フランス、イタリア、ポーランド、スペイン) の 18 歳から 45 歳までの女性 2883 人を対象に行ったオンライン調査によると、対象者のうち45.8%がホルモン配合避妊薬を使用しており、54.2%がホルモン配合避妊薬を使用していませんでした。そして、ホルモン配合避妊薬を使用している女性群に比べて、使用していない女性群では、月経期間がより長く(5日vs 4.5日)、月経量がより多い(16% vs 8%)ことがわかりました。  また、ホルモン配合避妊薬を使用している女性群も、使用していない女性群も、どちらも骨盤痛、腹部の膨満感やむくみ、気分の落ち込みやイライラを訴えていましたが、その割合はホルモン配合避妊薬を使用していない女性群で有意に高かったといいます。そして、選択できるのであれば、両群の57%の女性が、月経間隔を長くすることを選ぶと回答しました。そう希望する理由として性生活、社会生活、仕事、スポーツ活動などが挙げられたといいます。 (写真はイメージ/GettyImages)  実は、14年前(20歳を過ぎた頃)にも、同じようなひどい月経痛に襲われたことがあります。その時も、起き上がることができなくなるほどの痛みに襲われました。藁にもすがる思いで婦人科を受診し、その時に初め低用量ピルの存在を知りました。教えてくださった婦人科の先生の勧めもあり、内服を始めました。  低用量ピルを内服して数カ月には生理痛は消え、月経に伴う倦怠感や胸の張りなどもほとんど感じなくなりました。低用量ピルは、21日間毎日飲み続け、7日間休薬しなければなりません。毎日内服するということは、想像以上に難しいもので、特に、社会人になってからは、飲み忘れてしまう頻度が次第に増えていきました。  4年ほど前のある日のこと。毎日飲まないといけないという大変さに加え、2500円ほどの低用量ピルを購入するための毎月の出費と生理用品代が、あと10年以上も続くと思うと、なんだか嫌気がさしてしまい、10年ほど続けていた低用量ピルの内服をやめてしまったのでした。  生理用品も数百円から手に入るものではありますが、初潮から閉経までに必要な生理用品代を考えると、結構な出費になることは間違いありません。2022年3月23日に発表された厚生労働省の調査によると、8.1%の女性が、経済的理由などで生理用品の購入・入手に苦労した経験があると回答し、20代以下では12.9%が苦労したことがあると回答したことがわかりました。理由としては、自分の収入が少ない(37.7%)、自分のために使えるお金が少ない(28.7%)といった回答が多く、生理用品を入手できなかった際の対処として、交換頻度や回数を減らす(50.0%)、トイレットペーパーなどで代用する(43.0%)という回答だったといいます。  生理に関する貧困問題は、最近始まったものではありません。しかしながら、コロナパンデミックが生理的な貧困を悪化させた可能性があることが、近年の調査により明らかとなっています。  2022年11月に掲載された米国のセントルイス大学のHunter氏らが、18 ~ 49 歳の女性1,037 人を対象に行ったオンライン調査によると、対象者の30%が新型コロナウイルス感染症の流行によって生理用品を入手するのが難しくなったと回答し、29%が過去1年間に生理用品の購入に苦労し、18%が生理用品がないために仕事を休んだと回答していたといます。 「月経なんて来なかったらいいのに……」と久しぶりに思ったものの、まだ10年以上、私は月経痛と付き合っていかないといけません。低用量ピルの内服を再開するか否か、考え直さないといけなくなった今日この頃です。 山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師。医学博士。2015年滋賀医科大学医学部医学科卒業。2022年東京大学大学院医学系研究科修了。ナビタスクリニック(立川)内科医、よしのぶクリニック(鹿児島)非常勤医師、特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所研究員。著書に『貧血大国・日本』(光文社新書)
月経月経痛病気病院
dot. 2023/05/03 06:30
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々
高橋真理子 高橋真理子
「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々
大竹淑恵さん=理化学研究所(埼玉県和光市)の自室のデスクの前で  理化学研究所(理研)に勤める物理学者の大竹淑恵さんは、中性子(ニュートロン)という粒子を使って、橋や道路などのインフラの内部を「透視」する技術の開発をリードする研究者だ。自ら「遅咲き」という。30代後半から心身の不調に悩まされ、研究が軌道に乗ったのは50代に入ってから。60歳になって2度目の結婚に終止符を打ち、食生活を一新し、トレーニングにも励むようになった。これからも大好きな物理の研究を元気に続けたいからだ。今は仕事に、趣味に、充実した日々を送る。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編:「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野】から続く *  * *――小型の中性子線装置をつくるプロジェクトはいつ始まったのですか?  2008年ぐらいから検討が始まりました。その前の2004年に私は肺塞栓を起こして死にかけたんです。そのとき「苦しい」と電話をかけたのが17歳年下のネットで知り合った男性で、すぐに彼が救急車を呼んで病院まで付いてきてくれたので死なずに済んだ。それで、彼と2度目の結婚をしました。事実婚でしたけど。 ――ちょっと待ってください。1度目の結婚はいつでしょうか?  早稲田の同学年の人と博士課程2年のとき。私は女子学院の出身で、早稲田の理工学部は男の子ばっかりだったので過ごしにくかった。入学早々に付き合う人ができて、大学生活がラクになりました。彼は建築史を専攻し、大学院から東京大学に進みました。美術のこととか、文学のこととか、たくさん教えてもらいました。  2人とも学生のときに結婚したので、健康保険はお互いの親の保険でした。茨城高専に就職したのは、とりあえず健康保険を持てる身分を得なきゃと思ったこともあるんです。 ――へえ~。  就職したらすぐ夫を扶養家族にしました。だけど、向こうはどうも博士号を取らない様子。短大などで教えたりしていましたが、私が国際会議に行ったりすると、もうバランスが取れず、というか彼の精神的安定が得られず、家庭内がひどい状態になりました。  私は日本の男性社会の中にいるよりヨーロッパで実験したり議論したりしているほうがよっぽど楽しいと思っていましたが、彼は私が海外出張するのをとても嫌がった。子どもはできなかったし、彼が東京から遠い大学で職を得たのをきっかけに別れました。そのあと、割とすぐに彼が結婚したので、私はホッとしました。  でも、よく考えたら、何も健康保険のことを私が考えなくてもいいんですよね。「自分で考えろ」でいいはずなのに。私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃう。2度目も同じことをやったんですね(笑)。 ――2度目の結婚はいつですか?  45歳ぐらいです。ぜん息で夜眠れなくて、明け方からパソコンで論文を読み、合間にチャットをしていて知り合ったんです。たまたま彼は埼玉県の所沢市に住んでいた。「近いね」と言って会うようになり、2004年に救急車事件が起きた。運び込まれた病院の先生が母に連絡を取り、「彼氏っていう人と運ばれてきました」と伝えたそうです。  肺塞栓で酸素が足りなくなって心臓が相当に肥大していたようですが、薬だけで治っていきました。ところが、今度は母に進行した乳がんが見つかり、私が退院した次の次の日に手術をした。それで母の付き添いでまた病院通いです。 ■母と祖母、兄の看護と介護で駆け巡った ――お母さまは仕事をされていたのですか?  はい、高校の英語教師でした。父は高校の数学教師でした。母は一人っ子で、私たちは東京の初台で母の両親と同居し、私と兄は祖父母に育てられた。兄は子どものころにリウマチ熱にかかって、体が丈夫でなく、就職しても長続きしませんでした。  両親は私が高校生のころに我孫子に家を建てて祖父母の家から出ましたが、兄は初台に残った。祖父が亡くなったあとは、祖母の面倒を独身の兄が見てくれた。でも、収入がないので、一時期、私がその家の地代を払っていました。  2009年の1月に祖母が103歳で亡くなり、同じ年の9月に母が77歳で亡くなりました。その2年余りあと、兄が54歳で亡くなった。兄は病気がちだったので、私が大学病院に連れていったりしていましたから、母のがんがわかってからの数年は母と祖母、そして兄の看護や介護で大変でした。一番ひどいときは、3人が別々の病院に入って、3カ所を駆け巡った。  正直に言うと、2012年に兄が亡くなったとき、これは仕事に専念しなさいと神様に言われたなと思いました。 ――何とも言葉がありません。大変な苦労の連続でしたね。  いやいや、周りの人にすごく恵まれていました。だから仕事を続けることができた。  17歳年下の彼は受けた教育も家庭環境も全然異なる人でしたが、ものすごくよく本を読み、勉強する人でした。母は結婚にずーっと反対していましたけど、私は2005年から一緒に住み、2006年に教会で結婚式を挙げました。  私はクリスチャンなので、1度目も教会です。最初の離婚のとき、名字が変わることで論文の著者として嫌っていうほどの面倒な経験をしました。それもあって、2度目は事実婚を選んだ。でも、自分が信じている神様の前で誓ったので、私にとっては「結婚」です。 ■60歳を超えてようやくわかったこと ――まあ、命の恩人だったわけですからね。  そうなんです。それは大きいですね。あと、何だろうなぁ。あんまり皆が寄ってきてくれないんですよ。大学院のころから、「物理をやっています」と言うと途端に男性は2、3歩奥に行っちゃう。  先日、理研で昔秘書をやっていた年配の方に言われたんですけど、「先生はさぁ、男の人の前で甘えるとか、抜けをつくるとか、可愛く見せるとか、そういうことを覚えなさい」って。今更そんなこと言われてもねぇ(笑)。 ――それで2度目の「結婚」はどうなったのですか?  家族が亡くなってから、祖父母の家と実家を手放して中古マンションを買ったんです。私が研究者になることを後押ししてくれて、研究者であることを喜んでくれていた家族が残してくれたものだから、肉親すべてを失った私の生活がスムーズになる形にしたくて。  彼はIT関係の仕事をしていました。でも、根本的な価値に関わるいろんな話は合わなかった。車が欲しいと買って、ローンが払えなくなって代わりに私が払ったこともあった。結局、生活に必要なお金のほとんどを私が払っていました。駄目なんですよね、こういうことをしちゃ。60歳を過ぎてようやくわかりました(笑)。  コロナ禍になって一緒にいる時間が増え、家事の負担が私に集中してきて、「理不尽だ」という思いがようやく膨らんできた。それに2020年に60歳になったことも大きい。理研は60歳が定年で、その後は雇用形態が変わる。そのタイミングで「もう人の面倒を見るのはいいや」と思ったんです。 ――別れようと決意した。  ええ。中学時代からの友人でマンションを買うときもお世話になった司法書士に相談し、教会の牧師にも相談しつつ、行動方針を決めて、直接彼に話をしました。祖母、母、兄が逝ったときにはパートナーとして支えてくれた人でしたが、出ていってもらいました。 ――理研の契約は60歳を超えると1年ごとですか?  いえ、プロジェクトリーダーとして5年契約を結びました。5年でさらに使いやすい、できれば「世界初の可搬型」を開発し、社会の役に立てるようにしたい。それだけでなく、サイエンスの研究も展開したい。宇宙や量子コンピュータ―につながる物理の基礎に関わるサイエンスです。その研究に小型中性子源システムでアプローチするのは私の念願で、2年前から始めました。これで成果を出すのが私の悲願です。 勢ぞろいした理研の中性子チームのメンバー=2022年12月、大竹さん提供  そう思ってくると、別の課題に気づきました。それは私自身の「体力」。研究開発を加速させるには「老化」という足元の課題を克服しなければならない。何かしたいと思い、パーソナルトレーナーを探しました。非常にいい先生が見つかって、トレーニングを受けながら食生活も変えました。  それまでは、時間が取れないから食に対する時間と労力を極力省き、99%外食かコンビニかレトルト食品でした。60歳を過ぎてから、人間、ちゃんと食材を調理して食べて、体も大事にして、という基本を教えてもらって、実践しているところです。今やこのトレーナー先生の週2回のトレーニングがストレス軽減となり、すべての生活リズムの要になっています。 ■物理と音楽、根本的に好きなことを ――良かったですね。  はい。良かったといえば、私は両親が高校教師で良かった。高校時代、聖歌隊の隊長をやりませんか、という話があったとき、音楽を専門に勉強していない私がやると大学に現役合格できないと悩んだんですが、2人とも「10代のこの時期でないとやれないことがある」と背中を押してくれた。それで高2のときは音楽ばっかりやって、とても楽しかった。  お陰で浪人して、物理が好きでしたけど、受験勉強ではない物理ばかりやってしまったので、早稲田に合格したときは一生分の運を使ったと思いました。その後に出会った早稲田の先生も素晴らしかった。  実は6年ぐらい前から、高校時代の後輩が聖歌隊のときの先生に習いたいと言ってきて、私も月に1回、一緒にレッスンを受けるようになりました。コロナで中断しましたけど、再開したところです。  物理と音楽、これが私の根本にある大好きなことです。物理研究を進めて工学分野の多くの方たちと一緒に共通の目標に向かって仕事を進めつつ、サイエンスの研究に自分たちの装置で取り組めて、さらにプライベートでは音楽も再開できて、恵まれているなぁ、と実感しています。 大竹淑恵(おおたけ・よしえ)/1960年東京都生まれ。1989年早稲田大学大学院理学研究科素粒子・原子核理論専攻博士課程修了、同年茨城工業高等専門学校就職。1993年から1年間京都大学大学院・素粒子物性研究室研究員、1995年3~8月フランス・ラウエランジュバン研究所研究員、1996年から理化学研究所研究員。播磨研究所、和光キャンパス延與放射線研究室、社会知創成事業ものづくり高度計測技術開発チーム副チームリーダーを経て、2013年から光量子工学研究領域光量子基盤技術開発グループ(2018年より改組し、光量子工学研究センター)中性子ビーム技術開発チームチームリーダー。2020年からニュートロン次世代システム技術研究組合T-RANS理事長。2023年から日本中性子科学会会長。
中性子女性科学者理研高橋真理子
dot. 2023/05/02 17:00
「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野
高橋真理子 高橋真理子
「遅咲き」の女性物理学者62歳 「心身がガタガタだった」30代後半からの十数年を越えて挑んだ新しい分野
小型の中性子線装置(RIKEN Accelerator-driven compact Neutron Systems=RANS)2号機の前で説明する大竹淑恵さん  理化学研究所(理研)に勤める物理学者の大竹淑恵さんは、日本中性子科学会の学会賞を2022年に受けた。中性子(ニュートロン)という粒子を使って、橋や道路などのインフラの内部を「透視」する技術の開発をリードする。標準化を目指す「ニュートロン次世代システム技術研究組合」の理事長でもある。  自ら「遅咲き」という。研究が軌道に乗ったのは50代に入ってから。30代後半から心身の不調に悩まされ、家族の看護と介護に翻弄された時期もあった。最初の結婚は6年間で終わり、40歳を過ぎて踏み切った17歳年下との事実婚は2年前に解消。「私はいつも男の人を養っちゃう。それで、相手が駄目になっちゃうんですね」。最近それに気が付いたと、豪快に笑うのである。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) *   *  *――自然科学の総合研究所として、あの渋沢栄一らが1917年に創設したのが理研です。研究成果の社会への普及を当初から重視してきました。大竹さんがなさっているのも、一般には馴染みの薄い中性子線を社会に役立てる活動ですね。  理研でチームリーダーになったのは52歳のときです。その前から中性子線を出す小型装置、といっても長さ15メートルありますから一般的な感覚では大きな装置ですが、その開発に取り組み、コンクリートや鉄鋼材料の中を見る実験を重ね、新たな計測技術の開発に成功しました。この技術の実用化につながる長さ5メートルの2号機も開発し、現在は車に積めるぐらいの大きさの3号機を開発中です。  中性子は名前の通り「中性」ですから、物質の中をかなり通り抜けることができる。その先に計測器を置くと、物質の中の構造が見える。道路の場合は、地中に計測器を置けないので、中性子がぶつかって出るガンマ線や散乱中性子線を道路の上でキャッチするという、まったく新しい発想の計測技術を開発しました。現場で使える装置も開発しています。これで、コンクリート内部の塩分濃度や、吊り橋のケーブルの内部に水がたまっていることなどがわかります。つまり、社会インフラの劣化の程度を知ることができる。社会の安全を守るために、壊さずに内部の様子を知る方法が求められているのです。 日本中性子科学会の学会賞表彰状とメダル ――そうした業績が評価されての学会賞ですね。  正直に言って、びっくりしました。中性子の研究は大きな加速器や原子炉を使うのが王道だったところへ、なるべく小型の装置をつくって社会インフラの保守点検やものづくり現場での非破壊計測に使おうという、まったく新しい分野に挑み、実際に使えるところまで持ってきた点が評価されたと聞きました。  大学院での専門は理論物理でした。博士号を取ったあとに中性子の実験を始めたのですが、最初はもっぱら(現代物理学の基本である)量子力学の基礎に対する関心からでした。34歳のときフランス・グルノーブルにある世界一の中性子線施設で実験しましたが、本当に楽しかった。そのころから、まずは基礎科学の研究をし、50歳ぐらいから社会に貢献する研究をしようと思っていたんです。 ――へえ、きちんと人生設計をされていたんですね。理研に入ったのは35歳のときですね。  早稲田大学の博士課程を修了してすぐ、茨城県ひたちなか市にある国立の茨城工業高等専門学校(茨城高専)に就職しました。「量子力学を教えられる人を探している」というので応募しました。  学科主任の先生は「若い人は外に出そう」という方針で、研究を奨励する方でした。高専には週に4日行けばよく、1日は研究に専念する時間と費用を確保してもらっていたので、母校や近くの筑波大学に定期的に通いました。 東海村にある原研3号炉(JRR3)で実験していたときの大竹淑恵さん=大竹さん提供  一方、東海村が近かったので、原研(現・日本原子力研究開発機構原子力科学研究所)の3号炉で実験も始めました。大学院最後のころから共同研究を始めた京都大学の実験グループが中性子干渉を観測する設備をゼロからつくるところで、「近くにいるならちょっと手伝って」と言われ、京大の院生さんと一緒に床に線を引くところから始めた(笑)。実験は無理だと思っていましたけど、一つひとつ教えてもらって、だんだんのめり込んでいきました。  1993年には京大大学院の物理の研究室に1年間、内地留学しました。文部省(当時)にそういう制度があったんです。もっと研究したくなって中性子研究の中心地フランスに行き、このときは半年休職しました。帰国して半年後に理研に入りました。 ――きっかけが何かあったのですか?  原研3号炉で実験をしていた東京大学物性研究所の先生が、兵庫県の播磨科学公園都市に理研が建設した放射光施設「スプリング8」にも関わっていらして、「チャンスがあるかもよ」って教えてくださったんです。 ――スプリング8は、加速器から出てくる強力な電磁波を物質の解析や分析に利用するための巨大な施設です。和歌山カレー事件で分析に利用されて有名になりました。  そうですね。内地留学でお世話になった京大の先生も応援してくださり、ちょうどスプリング8が立ち上がる時期で、とてもラッキーでした。でも、私はこのとき体調を崩して、ガタガタの状況でした。 ■精神的に壊れてしまった ――どんなふうに?  半年の休職を取り戻すために帰国後は高専生の卒業指導にものすごく頑張ったんです。食事もろくにとらずに学生指導をし、睡眠時間も2、3時間といった生活を続けたら、小学生のときにかかった腎盂炎が本格的に再発してしまった。卒業研究発表が3月8日で、終わったら病院に行ってそのまま入院です。40度、41度の高熱が続き、薬を点滴しても下がらなかった。  採用面接がその1週間後ぐらいにあって、医者に頼み込んでこの日だけは東京に行かせてもらった。退院できたのは連休の直前でした。いったん千葉県我孫子市の実家に行きました。そのとき、父が倒れたんです。もともと心臓が悪く、見つけたときは相当危ない状態で、電話で医師の指示を受けて私が車で東京の病院に運んだ。運よく名医に手術をしていただけて、一命をとりとめたんですが、その間に実家が漏電で火事になったんですよ。 ――え~!  母も見舞いに出ていたので、家には誰もおらず、誰も死ななかったんですけど、全焼でした。結局、播磨に行けたのは5月も中旬でした。  でも、その後、私は精神的に壊れちゃった。朝起きられなくて夜寝られないとか、頭が発散しちゃう感じで。そもそも私は自己評価が低いんです。低いから頑張るんですけど、自己評価が低い人がうつ状態になると、本当に生きているのが大変になります。ものすごくつらかったですね。  薬を飲んで、ある程度持ち直して、仕事はしていました。ところが2000年に私が実家に行ったとき、母の不在中に父が亡くなりました。72歳でした。さまざまな後始末が一段落すると、ひどいぜん息になりました。  ぜん息のひどいのって、横になれないんですよ。横になると呼吸ができなくなる。3カ月ぐらい、夜中もずっと座っている状態になりました。それで体調が完全におかしくなって、そのころのことはあんまり記憶がない。播磨の近くには大きな病院もないし、和光に異動することになりました。 ■遊牧民のように装置を持って旅をする ――埼玉県和光市は理研の本拠地ですね。  ええ。すると、理研に導いてくれた物性研の先生が「和光に戻ったのなら、東海村の装置の面倒を見てくれないか」とおっしゃった。ご自分は放射光に専念したいから、と。もともと、それほどユーザーのいる装置ではなかったので、ゆっくりのペースで仕事ができた。その後、北海道大学の先生がここに新しい装置をさらに加える3年間のプロジェクトを立ち上げて、私もその下に入って元の装置の高度化に取り組みました。これで本格的に研究開発に戻れたっていう感じでしたね。 ――東海村って、和光から遠いですよね。  外環を走ったらすぐですよ。中性子実験をする人は、中性子線のあるところならどこだって行きます。フランスでもアメリカでもオーストラリアでも、それこそ遊牧民のように、自分のサンプルなり装置なりを持って旅をするんですよ。  >>【後編:「いつも男の人を養っちゃう」女性物理学者が2度の離婚を経て手に入れた「恵まれているなぁ」と実感する日々】に続く 大竹淑恵(おおたけ・よしえ)/1960年東京都生まれ。1989年早稲田大学大学院理学研究科素粒子・原子核理論専攻博士課程修了、同年茨城工業高等専門学校就職。1993年から1年間京都大学大学院・素粒子物性研究室研究員、1995年3~8月フランス・ラウエランジュバン研究所研究員、1996年から理化学研究所研究員。播磨研究所、和光キャンパス延與放射線研究室、社会知創成事業ものづくり高度計測技術開発チーム副チームリーダーを経て、2013年から光量子工学研究領域光量子基盤技術開発グループ(2018年より改組し、光量子工学研究センター)中性子ビーム技術開発チームチームリーダー。2020年からニュートロン次世代システム技術研究組合T-RANS理事長。2023年から日本中性子科学会会長。
中性子女性科学者理研高橋真理子
dot. 2023/05/02 17:00
<インタビュー>人気急上昇中のブロンドシェルを知るための9つのこと
<インタビュー>人気急上昇中のブロンドシェルを知るための9つのこと
<インタビュー>人気急上昇中のブロンドシェルを知るための9つのこと  ここでは、米ビルボードによる2023年4月の<インディー・アーティスト・オブ・ザ・マンス>に選ばれ、自分の気持ちを率直に表現することで人気が急上昇中のアーティスト、ブロンドシェル(Blondshell)を紹介する。 <最新プロジェクト> ブロンドシェルによるセルフ・タイトルの1stアルバムは、<パルチザン・レコード>より2023年4月7日にリリースされ、2022年のデビュー・シングルでブレイク曲「Olympus」が収録されている。 <原点> 米マンハッタンで幼少期を過ごしたブロンドシェルことサブリナ・タイテルバウムは、子供の頃からシンガーになりたいと思っていた。2015年、彼女は南カリフォルニア大学のポピュラー・ミュージック科に通うために米LAに拠点を移し、やがてバウムというソロ・ポップ・プロジェクトを立ち上げた。彼女のキャリアが定まったのは、ブルージーでスローな「Olympus」を書きあげた時で、そこからブロンドシェルが誕生した。プロデューサーのイヴ・ロスマンが、同じような生々しいロック風のスタイルでもっと曲を書くよう彼女に勧めたそうだが、彼女は当初“怖かった”と振り返っている。その後、アルバム『ブロンドシェル』を構成するほとんどの曲がすぐに生まれた。「この作風が自分らしいということは明白だった」と彼女は話す。 <サウンド> ザ・ローリング・ストーンズのようなロックの巨匠を聴いて育ったタイテルバウムは、ザ・ナショナルの大ファンだ。自身のデビュー作のアートワークは、バンドの6thアルバム『トラブル・ウィル・ファインド・ミー』のモノクロのジャケットにインスパイアされていると彼女は語る。2000年代に育った彼女は、同時にクリスティーナ・アギレラ、ケリー・クラークソン、グウェン・ステファニーなどのポップ・アイコンを聴いていたそうだ。“音域が広いシンガーたちばかりだった”と彼女は当時を振り返り、長い間、自分も同じように歌わなければならないと考えていたと付け加えた。 彼女がこのアプローチを考え直すきっかけとなったのは、ライブで披露するのが好きな曲の一つである話す、告白的な「Sepsis」のような曲だ。「私の声にうまくあった曲です」と彼女はこの曲について語り、「アルバムのために曲を書き始めた時、特に“Sepsis”が、“ああ、あんな風に歌わなくてもいいんだ。自分が一番気持ちいいと思う音程で歌えばいいんだ”と思わせてくれました。あの曲を歌うのは楽しい、なぜならいとも簡単にできるから」と話している。 <アルバム> ニュー・アルバム『ブロンドシェル』のリリースは“リラックスしながら祝った”そうで、発売日の夜にアメーバ・ミュージックでインストア・ライブを行い、翌日ビーチを訪れたそうだ。アルバムは、米ビルボードの“Top Current Album Sales”チャートで88位にランクインし、彼女にとって初チャートイン作となった。インディー・レーベルと契約したことについて、彼女は「“これが今後ずっとあり続けたい姿だ”という判断を下したくなかった。常に変化する自由がとにかく欲しかったんです……“このアルバムを制作する上で、何を参考にしたのか”ということをずっと考えていました。主に90年代のギターを中心とした音楽だと気付きました。私はいつもそれを参考にし続けるつもりです。なぜなら自分が大好きな音楽だから」と話している。 <ブレイクスルー> 2022年にデビューしたばかりのブロンドシェルだが、ここ数か月でお気に入りのライブ会場であるフォンダ・シアターで演奏し、米トーク番組『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン』への出演で、深夜トークショー・デビューを果たした。だが、そこに至るまでは、長年の努力が必要だったと彼女は語る。「最初は、“どうやってSpotifyに曲を登録すればいいんだろう?、どのようにプロデューサーに出会い、どのようにセッションに参加すればいいんだろう?“という感じで、何年もかけて、一歩一歩進んできました。そこから、“どのようなパフォーマーになりたいんだろう?どんなショーがやりたいんだろう?”というぐあいに」 「ここ数年間は、“音楽でなければ、長期的に何をしたらいいのかわからない”という感じで、ちょっと怖くなっていました」と彼女は振り返り、「世間は、ミュージシャン、特に女性ミュージシャンに、若いうちから自分がどのようなアーティストかを自覚し、成功を掴まなければならないというプレッシャーをかけます。“25歳までに成功しなければ、一生無理だ”など、私が成長する過程で刷り込まれてきたこれらのメッセージは、長らく私を不安にさせました」と続ける。 転機となったのは、昨年の夏、ブロンドシェルとして初めてライブを行った時だと彼女は言う。「非常に大きな瞬間でした。“Olympus”をリリースした時、人々はあのような音楽を(私から)聞いたことがなかったと思います。私の友人や一緒に仕事をしてきた人たちですら。そして、“ほら、音楽に一生懸命取り組んで、ライブの準備をしてきたんだよ”と、みんなに証明することができたんです」 <未来> ロックに根ざしつつも、より実験的な作品を作りたいと言うブロンドシェルはすでに次のアルバムの構想を始めている。彼女は、成功しながらも“より奇妙でプログレッシブな”インディー・ロック・アルバムをリリースしてきたアーティストとして、PJハーヴェイを挙げている。「様々な曲構成などで実験してみたいんです」と彼女は言う。 彼女はまた、自身が素晴らしいボーカリストと思うアーティストたちにも注目している。「最近、ライブが上手なアーティストがより増えてきているように感じます」と彼女は話し、「その部分で、自分の先をいっている、あるいはキャリアを積んでいる他のアーティストに関心を持っています」と明かす。特にエセル・ケインとウィローについて言及しており、両者の【コーチェラ・フェスティバル】でのパフォーマンス映像をネット上で繰り返し見ているそうだ。加えて、子供の頃からインスパイアされてきたスーパースター、マイリー・サイラスの名前も挙げた。「彼女が大好きなんです」と言うと、「昨日、彼女が歌う動画を見ていたんですが、あれほど安定した素晴らしい声で歌うのは、とても大変なことなんですよ」と続けた。 <新人インディー・アーティストが心に留めるべきアドバイス> 「音楽を作っている最中は、それをどのようにリリースするかについて考えてはいけない。ビジネスの要素を実際のソングライティングに持ち込んではいけない。そういったこと、そして人々が曲に共感してくれるかどうかという期待も無視したほうがいいと思います」 <今、夢中になっているインディー・アーティスト/バンド> 「ウェンズデイが結構好きです。“Formula One”を聴いてみてください」 <今、音楽シーンで最もエキサイティングなこと> 「ここ最近、多くのシンガーソングライターが、インディーをよりメインストリームに感じさせています。ギター音楽の人気が再熱しているのも、その一環だと思いますね。また、インディー・スリーズ(Indie Sleaze)が復活の兆しを見せているような気もします。そのエネルギーを人々が渇望しているのだと思いますね。どうでしょう、現在は様々な種類の音楽がよりメインストリームで流行する余地があるように感じています」 「でも、もっと重要なのは、一握りのジャンルだけでなく、他のタイプの音楽を受け入れる余地があることです。そして、自分のレファレンスが全く異なっていてもいいと知ることです。私がマイリー・サイラスの大ファンであることに驚く人もいるかもしれません。かなりインディーなアーティストで彼女のことが好きな人はたくさんいます。以前、きょうだいの犬を連れていた時に、彼女を街で見かけたことがあるんです。彼女に“犬に挨拶していい?”って話しかけられたので、私は、“マイリー・サイラスですよね”って感じで。その時、私は家族と一緒にいたんですが、父に“あれ誰だ?顔が赤いよ”って言われました。“マジで言ってるの!?マイリー・サイラスだよ、そう、赤面してる。いちいち言わなくてもいいじゃん”って感じでしたよ。実に彼らしい反応でしたね」 ◎リリース情報 アルバム『ブロンドシェル』 2023/4/6 RELEASE PTKF3033-2J 2,500円(plus tax) Interview:Lyndsey Havens / Billboard.com掲載
billboardnews 2023/05/01 00:00
「常識のないまま始めてしまった」 つけ麺のスープ割りも知らなかった店主が五つのラーメン店を成功させるまで
井手隊長 井手隊長
「常識のないまま始めてしまった」 つけ麺のスープ割りも知らなかった店主が五つのラーメン店を成功させるまで
「喜九家」の特製中華。鴨チャーシュー、豚チャーシュー、味玉、もみ海苔、ナルト、メンマ、三つ葉、ネギがのっている(筆者撮影  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。極上の自家製麺が光る埼玉・北浦和の名店の店主が愛するのは、和食出身の弁当屋から転身した店主が長年の失敗の後にたどり着いた一杯だった。 ■天ぷら屋の黒舞茸に一目ぼれ「他店と似ているものは作りたくない」  JR京浜東北線・北浦和駅の西口から徒歩3分。「柳麺 呉田-goden-」は浦和を代表する大人気店だ。極上の自家製麺のファンが多く、「ざるチャーシュー」や「黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺」などここでしか食べられない独創的な一杯を提供している。  神戸市出身の店主・中野憲さんは地元の老舗「もっこす」からラーメンのキャリアをスタート。その後上京し、護国寺に当時あった名店「ちゃぶ屋」の森住康二さんに師事。4年修業をした後、横浜家系ラーメンの名店「六角家」でさらに修業を重ね、2015年に独立した。バラエティーに富んだキャリアで、それがそのまま中野さんの作るラーメンの独創性につながっている。 「柳麺 呉田-goden-」店主の中野憲さん。神戸の名店「もっこす」で修行した経験も(筆者撮影) 「呉田」のラーメンは常に変化し続けていて、全てのメニューが創業当時と違う。同じものを愚直に追い求めていくよりは、常に新しくしていくのが「呉田」流だ。 「新しい食材が入ってきたらすぐに試したいタイプなので、いいものはどんどん取り入れていきます。変わり続けるのがうちのスタイルですね。変わり続ける中で、いつか自然と普遍的な一杯に行き着けばそれがベストかなと考えています」(中野さん) 柳麺 呉田-goden-/埼玉県さいたま市浦和区常盤9-16-7/火曜から金曜昼11時~14時30分、夜17時30~21時30分L.O/土曜昼11時~15時、夜18時~21時30分L.O/日曜祝11時~16時、月曜定休。詳細はお店のTwitter(@godenken)にて/筆者撮影  とにかく好奇心旺盛な中野さんは、ラーメン店だけでなく他の飲食店で出会った食材でも自分のラーメンに落とし込めないかを常に考えている。「黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺」はある天ぷら屋で出会った黒舞茸に一目ぼれして作ったメニューだ。 「柳麺 呉田-goden-」の黒舞茸と近江黒鶏の昆布水つけ麺は一杯1200円。太め平打ちの自家製麺が特徴(筆者撮影) 「他の店と似ているものは作りたくないという考えが前提にあるんだと思います。常に何かを超えたいという気持ちでラーメンに向き合っているので。自分が思いついたアイデアでも、既に他の誰かがやっているということは本当によくあるんですが、諦めずに探し続けることで独創的なラーメンにたどり着けることがあるんですよね」(中野さん)  ラーメンは作る人によって十人十色。食べる側にも好き嫌いはある。その中で、中野さんは一人でも多くの人が好きと言ってくれる新しいラーメンを作ろうと日々試作を続ける。  そんな中野さんが紹介するのは、埼玉の和食出身の弁当屋の店主が始めた失敗の多すぎるラーメン店だ。 「喜九家」の特製中華。鴨チャーシュー、豚チャーシュー、味玉、もみ海苔、ナルト、メンマ、三つ葉、ネギがのっている(筆者撮影) ■3年間赤字続き、つけ麺の「スープ割」も知らなかった  東京都青梅市で2011年に創業した「喜九家」(「喜」は「七」を三つ並べたもの。以下、店名の「喜」はすべて同じ)。店名の「喜九家」は店主である大野喜久さんの名前「喜久」を旧字体で表現したものだ。  本店は青梅だが、「喜九八~garage~」、「拉麺 イチバノナカ」、「喜りん食堂」、「喜九八~エキチカ~」と埼玉県所沢市に四つの店を展開し、青梅、所沢エリアをリードする人気グループとなっている。  大野さんは所沢市生まれ。両親が共働きで、昔から自分で料理を作る生活だった。日々台所に立つのは当たり前で、将来の仕事として料理に非常に興味があったという。  ラーメンを好きになったのは、高校時代に東京・中野にある名店「青葉」に食べに行ったのがきっかけだ。その後高校を卒業し、大学進学に向けて浪人生活をスタートする。だが、親の会社が倒産寸前になったことで進学を断念。次の日には警備員のアルバイトを始めた。 「1年間お金をためて料理学校へ通って、料理の道を志そうと思いました」(大野さん)  もともとイタリアンがやりたくて料理学校に入ったが、バイト先の和食居酒屋で食べたアナゴの煮物にいたく感動し、和食にシフトした。その後、静岡県の東伊豆にある「稲取銀水荘」で3年半修業。その後、居酒屋やホテルなどを転々として、結婚。妻の実家が青梅で営んでいた弁当屋を継ぐことになった。27歳の頃だった。 「喜九家」店主の大野さん(右)(筆者撮影)  朝2時に起きて、弁当を作って配達し、夕方の4時頃に仕事が終わる生活。だんだんとそれに飽きてきて、弁当を作った後の時間でラーメン屋を開くことにした。これが「喜九家」である。2011年、34歳の頃だった。  イタリアンや和食、そして弁当屋とさまざまなジャンルを経験してきた大野さんだが、昔からラーメン屋をやってみたい気持ちがあった。いつか来るその日のために基礎作りをしていた。 「銀水荘では、まかないで勝手にラーメンを作って怒られたこともあります。でも、板長だけはその味を褒めてくれました」(大野さん)  念願かなって、いよいよラーメン店の開業。「喜九家」では、みそつけ麺と豚骨魚介の中華そばを提供した。  しかしその後3年間は赤字の日々が続くことになる。 麺は平打ちの手もみ風(筆者撮影) 「弁当屋をやっていなかったら確実につぶれていました。一日1万円の赤字を出していましたからね。そもそも、ラーメンに全く詳しくなく、みそつけ麺を最初に注文したお客さんに『スープ割りをください』と言われ、その瞬間にスープ割りが必要だということを知ったぐらいでした。常識のないままお店を始めてしまったんです」(大野さん)  メニューを何種類も作ったり、営業終了後には残ったスープも混ぜてみたりと正解を探し続けた。少しずつ味のブラッシュアップをしながらギリギリのところでお店を維持。3年目にブロガーの投稿とツイッターで火が付いて、徐々にお客さんが増えてきた。特に「鶏ポタつけ麺」が人気となり、これが大野さんの代表作となる。 「失敗の期間が長すぎる分、他店の味の研究などインプットの量はハンパではないことになっています。でも、パクらないのが私の信条です。あくまでお客さまに伝わる味なのかを意識しながらお店とメニューを増やしてきました」(大野さん) 喜九家/東京都青梅市今寺5-18-49/[平日] 11:30~14:30(L.O.)、[土・日・祝] 11:00~スープ切れまで/月曜定休※祝日の場合は営業。詳細はお店のTwitter(@wwwwinaka)にて/筆者撮影  今では5店舗を経営するオーナーとなった大野さん。お客さんのいない期間が長すぎたからこそ、お客に寄り添ったラーメンが作れるのだ。 「呉田」の中野店主は大野さんを“天才”と評する。 「大野さんは各地のラーメンを食べ歩き、その味をインプットし続ける探求心の塊のような人です。特にスープ作りについては天才。名店のスープを何でも再現できるぐらいの腕を持つすごい人です」(中野さん)  大野さんは中野さんを弟分としてかわいがっている。 「うちのお客さんが教えてくれて『呉田』に食べに行きました。今では腐れ縁のような関係です。『呉田』の麺は本当においしい。うちの店でも『呉田』の麺を使ってコラボさせてもらっていますが、麺がうますぎてそれに合わせるスープを作るのが本当に大変です(笑)。ファンも多いですし、良いお店作りをしていると思います」(大野さん)  常に新しいものを取り入れながらも自分の味を追い求める中野さんと、お客さんに伝わる味かを常に意識する大野さん。時代に合わせてブラッシュアップすることに変わりはないが、目線がブレないからこそそれぞれのラーメンがおいしくなり続けるのだ。(ラーメンライター・井手隊長) 「喜九家」店主の大野喜久さん。イタリアンや和食の経験もある(筆者撮影) ※AERAオンライン限定記事
AERAオンライン限定ラーメン井手隊長
AERA 2023/04/30 12:00
急激な少子化進む日韓の女性座談会 「経歴断絶しない」制度や社会の雰囲気作りを
急激な少子化進む日韓の女性座談会 「経歴断絶しない」制度や社会の雰囲気作りを
座談会参加者たち(通訳含む)。仕事と育児の両立の難しさや、結婚・出産に関する価値観の変化、都市と地方の差など、女性を取り巻く日韓共通の現状が見えてきた(編集部・深澤友紀)  少子化が進む日本と韓国。AERA4月10日号では韓国の出生率0.78の背景を紹介したが、教育費の高騰や大都市一極集中、男女の賃金格差など日本とも共通点が多い。日韓の女性たちが悩みを語り合った。AERA 2023年5月1-8日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  急激な少子化が、日本でも韓国でも「国家存亡の危機」と言われるほど喫緊の課題になっている。1人の女性が一生の間に産む子どもの数を示した合計特殊出生率は2022年、日本で1.27程度、韓国で0.78を記録した。様々な要因が指摘されるが、女性たちを取り巻く状況はどうなのか。4月上旬、20~40代の女性7人(日本4人、韓国3人)がオンラインで語り合った。 *    * ──司会の成川です。先日、日本を上回る勢いで少子化が進む韓国で、その背景を探ろうと取材を始めたところ、70代男性から「子どもを産んでいないあなたに少子化問題について書く資格はない」と言われました。少子化は女性の責任と思っている年配の男性もまだまだいるのかなと思います。私と同じ既婚で子どものいない2人から、子どもを産む、産まないについての考えを聞いてみたいと思います。 趙在順(チョジェスン)(43、ソウル):27歳の時に結婚し、当初から子どもを産まない計画だったわけではありません。当時の韓国は子どもを産むのが当然という文化だったので。夫の留学についてドイツへ行き、そこで過ごすうちに子どもを産むという選択が必須ではないと感じるようになりました。帰国して働きながら、子どもが病気の時も夜遅くまで職場から帰れず困っている女性を見て、「産んではいけない」という意識に変わりました。 齊藤仁子(45、横浜市):私は36歳と、結婚が遅かったのもあり、最初から子どもを産むかどうか夫と話し合っていました。私はアクティブな性格で、バイクに乗ったりキャンプをしたり、外に出ていくのが好きで、家庭的なタイプではありません。お互いに子どもは自分たちの人生には必要ないかもねという感じで結婚しました。  ただ、一度だけ子どもを産まなかったのを後悔したことがあります。昨年12月に義母ががんで亡くなる少し前、意識が曖昧な状態で「仁子、赤ちゃんできたのか」とうわ言を言ったんです。それまで何も言わなかったけど、本心は孫がほしかったんだと知って、申し訳ない気持ちになりました。 娘と夫と一緒に公園を散歩する李恩雅(イ・ウンア)さん。「子育てしながら働くことが社会的に認められる土台が必要」と話す(撮影/松沢美緒) ■働きながら子育ては大変、自然と2人目はあきらめる ──夫婦では子どもを産まないと納得していても、親は孫の顔が見たいというのはあると思います。子育て中の方々に聞いてみたいのは、日本でも韓国でも、出産を避ける理由として経済的負担が挙げられます。どういう支援があれば安心して子育てできると思いますか。 李恩雅(イウンア)(40、ソウル):9歳の娘が1人いますが、共働きで、両家の両親が私たちに代わって子どもの面倒を見てくれています。韓国は競争社会で、まだまだこれから母親(私)の手助けが必要だと思います。これから学業の競争に子どもが飛び込まないといけない時期で、育児に終わりはないと感じています。 ──韓国では子どもが大学を卒業するまでの養育費が1人当たり3億~4億ウォン(3千万~4千万円)というデータもあります。 李:働きながら子どものケアをするのはとても大変で、周りもそうですが、自然と2人目はあきらめる。日本や韓国では周りに迷惑をかけたくないという意識があると思います。育休や出退勤の時間を柔軟に調整できるような制度が整えばいいなと思います。 ヨウコ(40、横浜市):7歳の娘が1人いますが、共働きで、親も遠い所に住んでいるので助けは期待できない状態です。保育園などの公的支援はフル活用してきました。正直なところ、共働きなので出産費用などは経済的に負担にならなかった。だけど、子どもが大きくなればなるほどお金がかかります。娘がやりたいことは経済的にNOとは言いたくない。そのために夫と朝から晩まで一生懸命働いているのが現状です。学校に入ると、制服や体操服、書道道具などお金がかかるものはたくさんあって、そういうところで公的な支援があればいいなと思います。 ──今日の参加者の多くは首都圏在住ですが、直子さんは大阪出身、鹿児島在住で、首都圏とまた状況が違うのではと思いますが、どうですか。 直子(41、鹿児島県霧島市):鹿児島へは夫の転勤で引っ越したのですが、大阪にいた時は私もフルタイムで働いていました。地方と大阪の差を感じるのは、子どもの数です。私は子どもが3人で、大阪では驚かれますが、こちらでは普通です。4人いるのも珍しくない。お金がかかる習い事がそもそもなくて、塾や予備校が少ないからか、高校では1時限の前に0時限や、夏休みや冬休みに補講がある。教育にお金がかからないというのは、子どもが多い理由の一つだと思います。 ■自分一人を生かすのに必死、出産は考えていない ──塾や予備校に行かなくてもいいように学校でしっかり教えるという地方の例は、都市部でも変えていける可能性のある部分なのかなとも思いました。一方で日本でも韓国でもそもそも結婚しないという選択をする人も増えています。 金甫美(キムボミ)(40、ソウル):私は結婚もせず、子どももいません。20代前半から仕事を始めて、今も同じ仕事をしています。以前は30歳になる前に結婚して子ども2人を産むのがいいと思っていましたが、自分ひとりで働いて暮らしていけるという気持ちに切り替わった時から心が軽くなりました。結婚自体を恐れていた面もあります。近年は価値観が変わってきて、結婚しないという選択も一般的になってきました。韓国でタレントとして活動しているさゆり(藤田小百合)さんが、未婚の母となって話題になりましたが、そういう選択肢もあるんだと思いました。 田宮(29、東京都練馬区、仮名):私は演劇をやっているんですが、アルバイトしながらなので経済的には自分一人を生かすのに必死という状態です。結婚はまだしも、出産はまったく考えていません。役者仲間は30~50代が多いですが、結婚はしても、子どもとなると経済的に厳しいという状況です。表現をする立場としては、出産や子育ても経験したいという思いはあるけど、経験したいだけで責任は負えないので。私は山形出身で、正月やお盆に田舎に帰ると両親や親戚から子どもを産むことを勧められます。両親に孫の顔を見せてあげたい気持ちはありますが、今は自分のやりたいことで精いっぱいで、現実的には考えられません。 趙:先ほどの李さんの話に補足すると、韓国も日本も子どものために早退したり、休暇を取ることが周りに迷惑をかけると感じるところがある。心理的負担の部分で制度が早く変わってほしいと思いますが、女性に負担が大きくかかっているのでは、とも思います。子どものために男性が早退する姿は、私は見たことがありません。 ──少子化問題は男性の問題でもあります。 趙:十数年前、スウェーデンに行ったことがあります。下がっていた出生率が回復し始めていて、その理由を探るのが目的でした。例えば子どもが病気など緊急の場合、韓国ではまず母親に電話をかけますが、スウェーデンでは父親と母親、交互に連絡がいくようになっている。子どもを学校に連れていくのも父親だったり、すごく自然体で男性が子育てに参加していました。 ■仕事も育児もやるのは「欲深い人」に見られる 直子:スウェーデンの話、とても興味深いのですが、韓国では緊急時まず母親に連絡がいくというのは驚きです。日本では保育園や学校で第1連絡先、第2連絡先を提出し、私の場合は第1が私、第2が夫、第3が夫の両親となっていて、順番にかかってくる。スウェーデンのように交互に連絡がいくのはいいですね。 ──緊急の連絡を受けることはよくありますか? 直子:周りに頭を下げて帰った経験は少なくありません。私は一般企業を2社経験していて、両方フルタイムで働いていました。1社目は大手メーカーで時短勤務制度があったので早退しやすい代わりに、任される仕事は雑用が多くて、子どもが熱を出したときに、無理をして出社する仕事なのか、と働く意義を感じられなくなってしまって。2社目は教材会社でしたが、大きな仕事を任される一方、私がいないと誰かに負担がいってしまう。家族全員が胃腸炎になって会社を休んだら、同僚たちが残業することになり、申し訳ないでは済まない状況でした。 李:直子さんのように子どもが3人いたら、私も今の仕事を続けるのは難しかったと思います。韓国では仕事もうまくやって、育児もうまくやりたいと言うと、欲深い人のように見られるかもしれない。人目が気になって、がつがつせずに控えめにしています。制度の改善は必要だと思います。 ヨウコ:直子さんの気持ちはよく分かります。うちも家族3人がコロナに感染して、大変でした。私は今の勤め先が4社目ですが、理解のある職場に勤めてきたと思っています。今の会社はフレックス制度があって、1日何時間ではなくトータルで1カ月何時間というふうに調整しながら働ける制度があります。  子育てをしているといろんな時期があり、仕事をがんばれる時期と、割と子どもにつきっきりじゃなきゃいけない時期と、濃淡があります。子育てを空白の時間と捉えず、もっとキャリアを長い目で見てほしい。子育ての中から生まれるインスピレーションもあるはずです。キャリアが断絶してしまうとグーンと年収が下がるのが日本の課題で、韓国はどうなのか教えてほしいです。 金:韓国では「経歴断絶女性」という、出産育児でキャリアが途絶えた女性を指す単語がありますが、最近は「経歴保有女性」という単語を使い、経歴を保有している人なんだというふうに認識を変えようとしています。休職すると能力が落ちるという固定観念があって、自ら復帰をあきらめてしまう面もあると思います。私の会社では男性が100%育休を取っています。制度もそうですが、社会の雰囲気作りもすごく大事だと思います。 趙:韓国には世宗(セジョン)市という公務員が多く暮らす都市があります。国全体の出生率は0.78ですが、ソウルは0.59、世宗市は1.12です。なぜ世宗市が高いのかと言うと、育休が取りやすく、経歴が断絶しないからです。新都市なので保育施設も充実している。韓国の中でも地域によって違い、世宗市の例も知ってほしいと思います。 齊藤:私は、義母ががんで昨夏から在宅勤務で介護をしていました。結婚してもしなくても、介護に携わる時期は来ると思います。私は皆さんより一歩先に経験したのかなと思います。子どもがいてもいなくても仕事が一番大事な時期もあれば、家族やほかのことを大切にしたい時期もある。みんながどういう状況でも支え合える社会になればと思います。 (構成/ライター・成川彩=ソウル) ※AERA 2023年5月1-8日合併号
AERA 2023/04/28 11:00
本当はおもしろい「ノーベル文学賞作家の本」 高確率で読み継がれる作品に出合える
本当はおもしろい「ノーベル文学賞作家の本」 高確率で読み継がれる作品に出合える
早稲田大学教授 都甲幸治さん(写真:本人提供)  読書時間を確保できるゴールデンウィークこそ、なじみのなかったジャンルの作品を手に取るチャンスだ。識者が「ノーベル文学賞作家の本」「じっくり読みたい古典」を教えてくれた。AERA 2023年5月1-8日合併号の記事を紹介する。 *  *  * ■ノーベル文学賞作家の本、読み継がれる作品に出合える ○早稲田大学教授・都甲幸治さん  ノーベル文学賞は基本的に北欧的な価値観に沿って選考され、言語的な壁もあります。とはいえ、緻密(ちみつ)に選考され、一時の流行で選ばれることはほとんどありません。同賞作家の本を手に取れば、読み継がれる作品に出合える確率は高いでしょう。  同賞作家の本はちょっと引いて見られてしまうのかあまり売れません。本当はおもしろい作品がいっぱいあります。 『ジャングル・ブック』は孤独の中を生き抜いた著者の半生が反映されています。古い児童書ですが、圧倒的におもしろい。 『死者の奢り』は大江健三郎の初期の作品。現実にはあり得ないことの描写がものすごくリアルです。大江作品が熱心に読まれていたのは30年以上前ですが、やっぱりすごい! 『異邦人』は夢を失い、仕事だけをこなし、罪を犯す主人公の姿が今の社会にも通じて考えさせられます。平易な文体も画期的でした。『日の名残り』はストーリーがおもしろく映像も浮かびやすい。読み手を巻き込む仕掛けがちりばめられています。 『密林の語り部』はペルーの歴史的・政治的な実情をリアルに描き、文化人類学的な要素も持っている名作。同じ南米の作家の『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』は幻想的な雰囲気があって引き込まれます。『青い眼がほしい』は黒人女性初のノーベル賞作家のデビュー作。「差別は自分の外側ではなく内面にある」ことを書ききっています。 『ゴドーを待ちながら』は70年前のコントの掛け合いを見ているよう。『老人と海』は人生哲学があり、アメリカのアクション映画のような骨太さもあり、たくさんの読みどころが。フォークナーの短編は20~30ページくらいの中にものすごいストーリー展開があります。 (構成/編集部・川口穣) AERA 2023年5月1ー8日号より ■本当はおもしろい ○古い児童書だが圧倒的におもしろい 『ジャングル・ブック』/ラドヤード・キプリング/岩波少年文庫 ○あり得ないことの描写ものすごくリアル 『死者の奢り・飼育』/大江健三郎/新潮文庫 『異邦人』/アルベール・カミュ/新潮文庫 『日の名残り』/カズオ・イシグロ/ハヤカワepi文庫 『密林の語り部』/マリオ・バルガス=リョサ/岩波文庫 『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』/ガブリエル・ガルシア=マルケス/河出文庫 『青い眼がほしい』/トニ・モリスン/ハヤカワepi文庫 『ゴドーを待ちながら』/サミュエル・ベケット/白水Uブックス 『老人と海』/アーネスト・ヘミングウェイ/新潮文庫 『フォークナー短編集』/ウィリアム・フォークナー/新潮文庫 読書会「猫町倶楽部」代表 山本多津也さん(写真:本人提供) ■じっくり読みたい古典、読み返すたびに新たな発見 ○読書会「猫町倶楽部」代表・山本多津也さん   古典は簡単に理解できないものが多く、「ファスト教養」とは対極にあります。ただ、すぐには共感できない分、自分の生きる時代を相対化し、わからないことに対して考えを深められると思います。私も一読者として楽しんでいますが、読み返すたび新たな発見があります。 『源氏物語』は最初、「光源氏ってクソだな」と思っても、深く読み込み、そのころの価値観や時代背景を知ると違う見え方があるかもしれません。『平家物語』は内容も圧倒的におもしろいし、原文を声に出して読むと音韻の美しさが伝わってくる名文です。現代語訳と原文を併せて読みたいですね。 『罪と罰』は今を生きる私たちにもわかる部分と理解できない部分のバランスが絶妙です。 『百年の孤独』は神話的な世界観のある作品。比較的新しいですが、「古典」と呼んで差し支えないでしょう。 『城』は本当に難しい。迷宮に放り出された感覚すらあります。ただ、「わからないものに対する好奇心」が弱っている現代だからこそ読んでみたい。読書会などでもいろいろな意見を聞ける、多義性に満ちた一冊です。 『方法序説』は近代的な思考法のもとになる作品。『夜と霧』は自分が本当に追い詰められたときにどう考えたらいいかを教えてくれる、私のバイブルです。  何か得たいと思ったとき、代わりに差し出している何かがあることに気づかせてくれる『自由からの逃走』、太古の人間の意識から出てきた物語である『ギリシア神話』は、ともに今の時代に読む意味があるでしょう。『歴史とは何か』は「歴史とは現代との相互作用の中で浮かんでくる」ことが書かれた本で、古典を読むことの意味がよくわかる一冊です。 (構成/編集部・川口 穣) AERA 2023年5月1ー8日号より ■ファスト教養とは対極 ○現代語訳と原文を併せて読みたい 『新版 平家物語 全訳注(全4巻)』/杉本圭三郎/講談社学術文庫 ○ナチスの強制収容所生還した経験がもと 『夜と霧 新版』/ヴィクトール・フランクル、池田香代子(訳)/みすず書房 『潤一郎訳 源氏物語(全5巻)』/紫式部、谷崎潤一郎(訳)/中公文庫 『罪と罰(1)(2)(3)』/ドストエフスキー、亀山郁夫(訳)/光文社古典新訳文庫 『百年の孤独』/ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓直(訳)/新潮社 『城』/フランツ・カフカ、池内紀(訳)/白水Uブックス 『方法序説』/デカルト、谷川多佳子(訳)/岩波文庫 『自由からの逃走 新版』/エーリッヒ・フロム、日高六郎(訳)/東京創元社 『ギリシア神話(上)(下)』/呉茂一/新潮文庫 『歴史とは何か』/E.H.カー、清水幾太郎(訳)/岩波新書 ※AERA 2023年5月1-8日合併号
AERA 2023/04/27 18:30
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