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「だが、情熱はある」オードリー・若林の“暗黒の20代”がエグい 本人は「思い出したくもない」
藤原三星 藤原三星
「だが、情熱はある」オードリー・若林の“暗黒の20代”がエグい 本人は「思い出したくもない」
オードリーの若林正恭  King & Princeの高橋海人とSixTONESの森本慎太郎のダブル主演ドラマ「だが、情熱はある」(日本テレビ系)の公式YouTube総再生数が1億回を突破した。同ドラマは、お笑いコンビ「オードリー」と「南海キャンディーズ」がもがき苦しみながらブレークしていく過程を圧倒的な再現度で描いた作品。若林正恭(44)を演じる高橋や、山里亮太(46)を演じる森本の、モノマネを超えた憑依っぷりも見どころとなっている。 「現在では単独で番組MCが張れるほど大活躍中の若林さんですが、コンビでブレークした直後は相方の春日俊彰さんが日本中の注目を集めたため、若林さんがいわゆる“じゃないほう芸人”だったことに驚いた人も多いでしょう。ドラマを見ていると、コンビ結成後、9年間もテレビに出られなかった“暗黒すぎる20代”の日々が想像以上にどん底で、オードリーが“ズレ漫才”を発明してブレークしたのが奇跡と思えるほどリアリティーがあります」(お笑いに詳しい放送作家)  もうひとりの主人公・山里もブレーク直後はしずちゃんのほうがクローズアップされたため、自他ともに認める“じゃないほう芸人”だった。しかし、南海キャンディーズはコンビ結成1年目でブレークしたので、ドラマでは若林のほうにより悲壮感が漂っていた。 「どん底の日々の中でズレ漫才というスタイルを確立させ、それを武器に2008年の『M-1グランプリ』で敗者復活から決勝に初進出。1位通過で最終決戦に残るも、同期のNON STYLEにまくられて惜しくも準優勝で終わりました。M-1で初めて結果を残すと、賞レースからは潔く撤退し、テレビタレントに専念するというシフトチェンジもお見事でした。しかし、当時のオードリーは春日さんのキャラが強すぎて完全にイロモノ扱いだったため、『1年で消える』と言われていました。そこで若林さんはバラエティーの現場を研究し尽くし、大喜利やトーク力にも磨きをかけつつ、春日さんという武器をうまくコントロールしてここまで成功を収めたのです」(同)  オードリーは10年の「タレント番組出演本数ランキング」(ニホンモニター)で、コンビで507本の番組に出演し1位を獲得。12年以降は各個人の出演本数で毎年のように上位にランクインしている。 「『タレント番組出演本数ランキング』は本来なら帯番組をやっている人が上位になるのですが、オードリーは帯番組をやっていないのに毎年上位にランクインしている。これは本当に売れている証拠ですし、特に10年代は彼らが最も稼いだといわれています。また、非吉本芸人としては珍しく、コンビの名前を冠した“冠番組”を持てるのもすごいこと。それだけテレビ制作者の中に『オードリーと仕事をしたい』と思っている人が多いという表れでしょうし、視聴率も安定している。加えて、M-1でブレークした翌年に始まった『オードリーのオールナイトニッポン』で培った固定ファンの存在も大きい。やはりオールナイトニッポンを10年以上やっているという時点で芸人としてのランクは上がりますし、実際にラジオ聴取率調査でもオードリーは土曜深夜の1~3時で首位を41回連続もとっています」(民放バラエティー制作スタッフ) ■春日の浮気報道にブチギレ  今やニッポン放送の看板番組にまでなった「オードリーのオールナイトニッポン」は、来年2月に東京ドームでライブを行うことも決定。4万5000人の会場を満席にすべく、YouTubeでの活動もスタートさせた。ラジオ番組のディレクターはこう明かす。 「山里さんとのユニット『たりないふたり』の解散漫才を披露した配信ライブは5万5000枚が売れたといわれているので、おそらく今のオードリーなら、東京ドームの満席は容易だと思います。それほど“リトルトゥース”と呼ばれるリスナーは定着しています。若林さんはラジオで『20代のころは一日も思い出したくない』と発言していましたが、そんな暗黒の20代に戻りたくないからこそ、30歳でブレークしたときに徹底的に戦略を練り、人見知りもキャラに昇華した。それにより、春日さんを上回るテレビスターになれたのだと思います。思い出したくないと言いつつも、ラジオで頻繁に暗黒の時代の話を披露して爆笑を取るのも戦略家たるゆえんでしょう」 「週刊SPA!」元副編集長・芸能デスクの田辺健二氏は、若林のすごさをこう分析する。 「オードリーといえば、『奇人の春日』と『人見知りの若林』というイメージが根強くあり、飲み会とか女性遊びには縁のないイメージ。だから、春日さんがプロポーズ成功直後に別の女性との密会を週刊誌にスクープされたときはファンも落胆しましたが、オールナイトニッポンの生放送中に『イカれてんぞお前』『わかりやすく芸能界に染まりやがって』などと若林さんがブチギレたことが強く印象に残っています。奥さんやファンの気持ちを代弁しつつも、一般人の目線で春日さんに説教を食らわすことで笑いに変え、事態を悪化させなかったのは見事なコンビ芸だと思いました。若林さんはブレーク直後から芸人色をあまり押し出さないイメージでしたが、ここ数年は『あちこちオードリー』で芸人と真っ向勝負でお笑い論を戦わせたり、芸人としての哀愁を吐露したりもしています。彼らは売れっ子芸人が多い豊作の年にデビューしましたが、気づけば同じ世代の中で代表的なコンビになりました。本当の黄金期を迎えるのはこれからかもしれません」  売れなかった暗黒の時代を「思い出したくもない」と否定しつつも、ドラマではそれを克明なまでに世間にさらす。これも若林の緻密な“戦略”のひとつなのかもしれない。 (藤原三星)
だが、情熱はある若林正恭
dot. 2023/06/25 11:00
天龍さんが語る“夜の付き合い” 一触即発の宴席! ナメられたら終わりのプロレス界での処世術
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍さんが語る“夜の付き合い” 一触即発の宴席! ナメられたら終わりのプロレス界での処世術
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子) 「環軸椎亜脱臼(かんじくつい あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」であるということがわかり、長らく入院生活を送っていた天龍さん。6月22日に退院し、すでにイベント出演などの予定あり、精力的に活動を再開される。今回は“酒豪”として知られる天龍さんに、相撲時代やプロレス時代の夜の付き合いにまつわる思い出を語ってもらいました。 *  *  *  相撲もプロレスも夜の付き合いは切っても切れないが、振り返ってみると、その形はまったく違うものだったんだなと思うよ。  まず、相撲取りの自慢話は「スポンサーに連れて行かれてどこそこで飲んだ」とか「銀座の旦那のつけで飲んだ」とか「俺にはこういうスポンサーがいる」とか、そういう話ばっかり。「俺は10円あれば朝まで飲める」とか言って、10円でスポンサーに電話して、飲みに連れて行ってもらうんだ。スポンサーにゴマすって飲んでいる力士も多かった。そういう奴は歌ったり、相撲甚句をやったりして、座持ちがいいからよく声がかかるんだ。  だから、スポンサーがいなくて、毎晩相撲部屋で飯を食う俺みたいなやつは若い衆に馬鹿にされる。逆に晩飯時にいない力士はどこかでお座敷にかかっているんだって、若い衆はうらやましがるし、付け人としてお座敷について行ってそのおこぼれにあずかるなんてこともできるからね。  上の力士がいなくなれば、その分、自分たちが食べるいい肉やおかずが回ってくるから、俺がずっといると「また天龍関がいるのかよ……」って嫌がられるんだ(笑)。あの頃は後輩の金剛や麒麟児もよく声がかかっていたけど、俺は本当にスポンサーがいなかったからね……。  俺にスポンサーがいないというのも、ただ人気が無かったからじゃないぞ! 以前にも話したことがあると思うが、若いころに一度、東京・錦糸町で金持ちそうな人から「飲みにいくぞ」と声をかけられて、「おお、これがタニマチ(スポンサー)か」と思って、ついて行ったことがあった。それで一緒に飲んでいたら、そいつが金を持っていなくて飲み逃げしようとしたんだよ。仕方なく俺たちが飲み代を払って、タクシーで帰ろうとしたら「金がないんで、今晩相撲部屋に泊めてください」なんて言ってきた! 退院後、初イベント開催決定!『天龍源一郎 サイン&撮影会』2023年7月17日(月・祝)/▼一部:14:00~14:45の回先着20名様▼二部:15:00~15:45の回先着20名様※本イベントは2部制/※チケット購入時に選択/会場:東京・北沢タウンホール・12階スカイサロン内/チケット料金:4,000円 (サイン会&撮影会参加権付き)チケットはこちらから⇒https://www.tenryuproject.jp/product/647  後から知ったけど、そういう奴が結構いるんだよ。相撲部屋は誰も知らない奴が寝ていたりするのはしょっちゅうなんけど、若い衆は「誰か、関取の知り合いだろう」って思って、何も言えないんだ。そんな体験があって「みっともないことになるから、人を頼って、ご馳走になることはやめよう」と、幕下になってから頑なに誓ったことを覚えているよ。自分の払える範囲で飯を食うことにしていたから、俺の付け人はあんまりいい思いをしてなかったね……。  相撲時代の付け人にはいい思いをさせてやれなかった分、プロレスに転向してすぐ、ギャラが入ったら彼らを呼んで、大盤振る舞いだ! あの当時は、2シリーズ分のギャラ、約60万円が支払われたんだけど、会計のときに「これで払っておけ」と全額渡したら、付け人も「こんなに!」と驚ていたね。俺もプロレスは儲かるってことを示したくて「おう、こんなもんだよ」って、カッコつけて支払わせたんだけど、それ、2カ月分の俺の生活費だったんだよね……いやあ、あのときは大変だったよ(笑)。  プロレスに転向してからは、物事の加減がわかるようになって、適当に柔らかく付き合うことも覚えた。だって、あの気難しいジャイアント馬場さんだって、夜の付き合いもこなしていたんだからね。そりゃあ、俺もできるようにもなるよ。  ただ、馬場さんは見世物みたいにひっぱり回されて「馬場!」とか「馬場ちゃん」なんて呼ばれるのは、アメリカでトップを取ったプライドがよしとさせなかったんだよね。そんな馬場さんの代りを務めていたのがグレート小鹿だ。  プロモーターとかチケットを大量に買ってくれた人とのお付き合いだね。よく俺にも小鹿さんから「源ちゃん、今日ちょっと付き合ってよ」と言われて、そんな席に行ったもんだ。ジャンボ鶴田は自分の分は自分で払う代わりに、人にご馳走になることはなくて、じゃあそういう席に出られるのは天龍ってことになるんだ。ほかにも大熊元司さん、ロッキー羽田とか、面子は相撲上がりのレスラーが多かったよ。  それで、付いて行って一番思ったのが「プロレスはスポンサーの規模が小さいなあ」ということだった。相撲のときはお座敷がかかったら、芸者を呼んで、飲めや歌えやだったけど、プロレスではおネエちゃんがいるクラブに行くとか、それくらいだったからね。「やっぱり相撲界はすごいな」って思い直したくらいだ。  プロレスは興行の世界だから、当時はその筋の人間との付き合いも避けては通れない。筋を通さないと会場に直接来て「誰の許可を得てやっているんだこの野郎!」と、試合をぶち壊されるからね。そういった人たちとの夜の付き合いを引き受けていたのも小鹿さんだ。少しは顔が知れているレスラーが来れば向こうの顔も立つだろうって俺にも声がかかったけど、本当は向こうも馬場さんに来てほかったんだろう。  でも、馬場さんはそんな席に「なんで俺がそんなことしなきゃならないんだよ」って感じだったし、馬場さんがそういう席に行くと、あっちはすぐに上下関係を作りたがるから、馬場さんの葉巻を「1本よこせって」って、馬場さんの頭の上で吸うような世界で、馬場さんも嫌っていたと思う。お互いにナメられたら終わりの世界だからね。一方でアントニオ猪木さんはビシっと着飾って、山本小鉄さんをボディガードにつけて、うまく付き合っていたようだ。猪木さんにはそういう処世術のうまさもあったよね。  俺がいった席ではもちろんその筋の人間もいたけど、分かりやすく毒々しいのはそんなにいなかったね。もちろん、中には分かりやすいのもいたよ(笑)。あの頃は「プロレスなんて八百長だろう」っていうのがやかしましい時代で、そういう奴らもそんなことを言ってくるから面倒くさかったなあ。 「どうせプロレスラーなんか」ってすぐにランク付けしたがるし、俺もカチンときて「なんだてめえ」ってへそ曲げて、一言もしゃべらなかったり。今じゃあほとんどの人が八百長に結びつけないで「プロレスはケガをさせないようにやっている、スポーティーなショー」だと理解してくれているからラクだろうね。  WAR時代も「天龍さん、〇〇さんがチケットを50枚買ってくれました」って言われると「そうか、じゃあちょっと顔を出さないといけないな」って、よく夜の席に顔を出したもんだ。馬場さんくらいの金持ちになると「なんで俺がそんなことをしなきゃならないんだよ」ってなるけど、俺くらいの中途半端な金持ちじゃあそうはいかない(笑)。  それも団体トップの役割だからね。一方、SWSのときはザ・グレート・カブキさんと筋を通しに行ったことが何度かあるくらいで、ほとんどが会社の方で根回しをしてくれていたようだ。大きなスポンサーがついて、大きな興行をやるってなったんで、会社にもその筋がたかってきて大変だったと思うよ……。今はずいぶん大人しくなったよね。筋ものがプロ野球を観戦しに行っただけで逮捕される時代だからね。  プロレスの記者たちともよく飲んだもんだ。彼らも仕事で俺との夜の付き合いをしてくれたし、俺も馬場さんに代って全日本プロレスの記事を書いてくれる記者たちを接待したつもりだ。自分のポケットマネーだったし、足りなくなると若い衆に「馬場さんのところに行って、お米(お金)をもらって来い」と言って、もらってこさせてね。  そんなことがあるから、馬場さんはいつも起きているんだ。そのことについて俺は馬場さんにお礼を言ったことは一度もないし、馬場さんからも「礼ぐらい言え」と言われたことも一度もない。馬場さんに代って、記者をねぎらっていると分かってくれたし、それが必要経費だと考えていたからだろうね。夜の付き合いは嫌いだったけど、必要性は認めている、馬場さんらしい気遣いだったよ。夜の付き合いも今となっては懐かしい思い出だ。いやあ、あの頃は本当によく飲んだね! (構成・高橋ダイスケ) 天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。
プロレス天龍源一郎相撲
dot. 2023/06/25 07:00
元おニャン子・渡辺美奈代が明かすアイドル時代 「スキャンダルで追いかけられたのは1度だけ」
上田耕司 上田耕司
元おニャン子・渡辺美奈代が明かすアイドル時代 「スキャンダルで追いかけられたのは1度だけ」
渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  政治からバラエティー番組まで多岐にわたる活躍で、元おニャン子クラブのメンバーに再びスポットライトが当たる機会が増えている。会員番号29番だった渡辺美奈代(53)は、歌手、女優を続ける一方、YouTuberや実業家としても活躍しているが、その美貌は今も健在。SNSに写真をアップすると、若々しさを称賛するコメントが集まる。そんな渡辺がAERA dot.の取材に応じ、16歳で受けたオーディションから結婚、子育て、そして現在の生活に至るまでたっぷりと語った。 *  *  * 「あーかわいい」 「最高です! めちゃめちゃすてきです」  カメラマンがシャッターを切りながら盛り上がると、渡辺もノリにノッて、次々にポーズを変えていく。ポニーテールの髪を揺らしてクルクルと変わる表情は、アイドル時代をほうふつとさせる。 「(17歳の)デビュー時もポニーテールだったんですよ。きょうのワンピースはちょっとシースルーが入っていて肌が透けていますが、どうぞ見てください(笑)」  そう言いながら、渡辺は屈託なく笑う。記者が「ポニーテールは好きな髪形です」と答えると、気さくに「あら、じゃあ、今日はヒットじゃないですか」と愛嬌(あいきょう)もたっぷりだ。 「おニャン子クラブ」は、1985年4月1日から放送を開始したバラエティー番組「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)で誕生した。同番組は月曜から金曜まで午後5時から放送され、日本中の視聴者をくぎ付けにした。渡辺は当時をこう振り返る。 「『夕ニャン』が始まる前、私は実家の愛知県に住む普通の中学生でした。中学を卒業して高校へ入るまでの春休み中に、新聞の片隅に『タレント養成所の募集』の広告を見つけたので、それに応募してみたのがきっかけです。その後、社長さんから直接電話を頂いたのですが、実はもう応募期限が過ぎていたんです。だけど、社長さんから『東京の事務所やレコード会社にあいさつ回りに行くので、一緒に行きませんか』というお誘いをもらって、受けてみようと思ったんです」 渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  渡辺は、社長について東京へ行くことを決意したという。 「あいさつ回りがひと通り終わった後、帰り際にソニーのスカウトの方とお会いしました。すると次の日、ソニーの方から『おニャン子のオーディションがあるんですが、受けてみませんか』というお話を頂いたんです。せっかくなのでチャレンジのつもりで受けたら、それからは本当にあれよあれよという感じで話が進んでいきました」  当時、渡辺はまだ高校1年生。地元の愛知と東京を何度か往復し、翌年春から堀越学園高校に1年生として転入した。つまり、高校1年を2度繰り返すことになったのだ。 「愛知県の高校では学校やスクールバスのポスターのモデルをやっていたんです。そのため急に辞めることはできず、地元の高校を自主退学し、堀越高校に1年から入ったという経緯なんです」  おニャン子クラブは85年7月にデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」を発売すると、たちまち大ヒットして、社会現象となった。渡辺がおニャン子の一員になったのは、同年11月頃。追加メンバーの1人だった。  住まいはソニーの社員寮に引っ越した。やはり、ソニーにスカウトされた国生さゆり、河合その子らも入れ代わり立ち代わり、同じ寮に入ったという。 「すごくきれいな寮でした。6畳のワンルームのお部屋だったかな。城之内早苗ちゃんが先に寮に入っていたのは覚えています。お風呂は、とても大きな共同風呂でね。冷蔵庫に入っているドリンクには寮生の名前が書かれていて、寮母さんが常に私の名前の書いたドリンクを2本入れておいてくれた。寮母さんは御夫婦で住んでいたんですが、寮を出てからも、しばらく年賀状のやりとりをしていました。すごくかわいがって頂いたことを今でも覚えています」  渡辺が寮にいたのは1~2カ月間だったという。事務所が用意したマンションが決まると寮を出た。 「昔の芸能界では、未成年のタレントは事務所の社長さんのご自宅に住むというのが普通でした。社長が親代わりだったんですね。でも、私の場合は東京には親戚がおらず、まだ16歳だったということもあって、4つ上の姉が親代わりということで、姉と2人で住むことになりました。そのマンションは2LDKくらいで、フジテレビのプロデューサーさんのご両親がオーナーでした」 渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  それからは、仕事漬けの毎日だったという。 「東京の空をゆっくり見上げる時間もなかったですね。本当に仕事ばっかりしていました」  プライベートでは、おニャン子の会員番号19番で「ゆうゆ」の愛称で親しまれた岩井由紀子と仲良しだった。 「年齢はゆうゆの方が1つ上。おニャン子に加入した時期もわりと近かったので、地方のツアーで泊まりになると、ホテルの部屋はいつも2人一緒でしたね。松田聖子さんの話をしたり、2人ともまだ高校生だったので、ベッドの上で一緒に宿題をしたりしたのを覚えています」  岩井は高井麻巳子と85年9月にアイドルユニット「うしろゆびさされ組」を結成。渡辺が加入する前に既に売れっ子だった。ただ、ソロデビューしたのは渡辺の方が8カ月ほど早い。渡辺はおニャン子在籍中の86年7月、「瞳に約束」でソロデビュー。このデビュー曲から5曲連続で、オリコンシングルヒットチャート1位を記録した。驚異的な記録だった。 「ありがたいことですね。それは私の力ではなく、ファンのみなさんの力だと思います」  おニャン子の曲の作詞は秋元康氏、作曲は後藤次利氏が手掛けることが多かった。 「秋元さんはおニャン子の生みの親ですが、たまにコンサートやレコーディングに顔を出すくらいでした。レコーディングの時は、次から次へと変更になる歌詞がファクスで流れてきていましたね」  後藤次利氏とはスタジオでいつも顔を合わせていたという。 「後藤さんは、レコーディングの時、必ずといっていいほどスタジオに来てくれて、私の隣でハモってくれることもありました」  おニャン子は87年に解散。それからの渡辺は一時期、女優としての活動が目立つようになる。  ドラマでは片岡鶴太郎とドラマ「季節はずれの海岸物語」(フジテレビ系)で共演した。 「年1~2本くらい放送されて、4年くらい共演しましたね。片岡さんは、私の子どものころはマッチさん(近藤真彦)などのモノマネでブレイクしていましたけど、共演したころはすてきでダンディーな男性に変わっていました」 渡辺美奈代(撮影/門間新弥)  一方、バラエティー番組では志村けんとの共演が多かった。 「ドリフターズの番組や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』『志村けんのバカ殿様』『志村けんはいかがでしょう』などに出させていただきました。『バカ殿』には数年間、腰元として出ていました。カツラと着物を一日中、つけっぱなしだったのはちょっとつらかったですね」  アイドル時代の渡辺は、マスコミに追いかけられるようなスキャンダルはなかったような気がするが、それを伝えると、渡辺はこう話した。 「スキャンダルで追っかけられたのは夫との結婚が決まる前、1回だけです。私はスタッフの方にも恵まれていたので、本当に守られていたと思います。お酒が飲めないし、酔っている人がちょっと苦手だったので、夜遊びするところには本当に行ったことがなかったんですよ」  そもそも、自由な恋愛はできない状態だったという。たとえば歌番組の「ザ・ベストテン」(TBS系)や「歌のトップテン」(日本テレビ系)に出演する際は歌手たちはひな壇に座るが、そこで他の歌手と話すこともままならなかった。 「私がひな壇に座っていて、ちょっとでも隣の誰かとしゃべっていると、事務所の社長からチェックが入って、『次からは座席交換してもらえ』という指示が出ていました。だから、お隣の方は常に変わっていました。美容院へ行くときも、スーパーへ行くときも、常にマネジャーがついてきました。だから、お財布を持ったこともありませんでした。マネジャーは男性でしたが、お手洗いでも、女性トイレの前で待っていましたから。帰りは自宅の玄関先まで必ず送ってくれました。でも、私はそれが普通だと思っていたんです」  そんな鉄壁のガードの中、渡辺が夫と知り合ったのは21歳ごろ。当時、夫は歌手の郷ひろみの付き人をしていた。後編では結婚に至るまでのエピソードなどを明かす。 (AERA dot.編集部・上田耕司) ※【後編】<渡辺美奈代が今だから語れる結婚秘話 「1度だけ口頭で伝えた電話番号を夫が覚えていたんです」>に続く
おニャン子クラブ渡辺美奈代
dot. 2023/06/22 11:00
【社会人の学び直し】一橋大院「観光MBA」プログラムを観光業者が学ぶ 法政大院ではサステイナビリティ学
【社会人の学び直し】一橋大院「観光MBA」プログラムを観光業者が学ぶ 法政大院ではサステイナビリティ学
※写真はイメージです(写真/Getty Images) 社会人になってからも教育機関でスキルや知識を身につける。そんなリカレント教育が注目されている。なかでも2年間しっかり研究に打ち込む大学院修士課程ではどんなことを学べるのだろうか? 成長産業と期待される観光業界の経営人材を送り出す「観光MBA」と、国連が提唱するSDGsも課題として取り上げる「サステイナビリティ学」について取材した。 *  *  *  大学院は、知識の量を増やすだけの場ではない。未知の分野やさまざまな考え方に触れながら、仕事で直面する問題や、社会の課題を解決していく方法論を学び、論理的な思考能力が鍛えられる。一橋大学大学院のホスピタリティ・マネジメント・プログラムと、法政大学大学院のサステイナビリティ学専攻を紹介する。 ■観光業界の課題を解決する経営人材を育成する  一橋大学大学院経営管理研究科経営管理専攻経営学修士コースのホスピタリティ・マネジメント・プログラムは、観光業界の高度経営人材の育成を目的として2018年にスタートした。経営学修士の中でも観光業界に特化した「観光MBA」のプログラムだ。  これまでの修了者は旅行会社、宿泊業、鉄道業、テーマパークといった観光業界の経験者が約7割を占める。執行役員や部長クラスからマネージャー、主任クラスなど役職は幅広く、年齢は30代から40代が中心だ。  専門科目のホスピタリティ・マネジメントを担当する福地宏之准教授は「成長が期待されている観光業ですが、日本では収益性が低いのが現状です」と話す。 「一番の理由は日々のオペレーションを回すことを重視して戦略的な経営をしてこなかったからでしょう。長年の慣行や、勘と経験に頼る企業が多く、国際的な競争でも戦える経営層の人材が不足しています」  旅行予約サイトをはじめグローバルに事業展開する企業と取引したり、ホテルの運営を外資系に委託することも多い。すると日本の企業の常識が通じない事態に直面する。 「仕事を進めるうえで考えなければならないことが多くなっており、OJT(業務を通じた社内トレーニング)では仕事で抱えた疑問を解消しきれなくなっているのでしょう。社内では学べないからという理由で多くの人に志願していただいています」(福地准教授)  やはり専門科目のホスピタリティ・マーケティングを担当する鎌田裕美准教授も「外資系の経営層はMBAを取得しているのが当たり前。観光業界も同じだと聞いています」と現状を説明する。 「指示を出す立場の管理職になり、経営学を勉強する必要性を感じて入学する人が多いです。MBAで学んでみて、これまでの会社での経験について、うまくいかなかった理由やある事態が生じる理由がわかった、という声をよく聞きます。他業界にいるほかの学生も自分と似たような悩みを持っていることにも気づくようです」 ■新たな問題にぶつかっても対応できる創造的思考力を鍛える  このプログラムでは、経営戦略、マーケティング、会計、ファイナンスなどの一般的なMBAである経営管理プログラムと共通する科目に加えて、ホスピタリティ関連の専用科目や演習科目のワークショップで学ぶ。そのほかに現場をよく知る実務家などによる特別講義も行っている。  特別講義では、地域活性化のためのマーケティング理論を使った事例紹介が好評だ。このようなデスティネーション・マーケティングも消費財と枠組みは共通する。理論を知って現実に生かし、実際にやってみて適切だったかを振り返るという「理論と現実の往復運動」が大事だと福地准教授は説明する。 「自動車修理に例えると、自動車の動く原理を理解することは自動車修理をするうえで重要ですが、その原理を知ったからといって自動車修理ができるようになるわけではありません。理論は現実を理解するうえで有意義ですが、理論を用いて現実の問題を解決するにはトレーニングが必要です。単に知識を得るだけではなく、それを自分が向き合う現実に落とし込んで応用するための創造的思考力を鍛えるのがこのプログラムです。2年間の学習で、新たな問題にぶつかっても自分で解決法を見つけられるようになることを目指しています」  鎌田准教授は「仕事で直面している問題への意識だけでは、そもそもなぜその事業をやるのかというところまで目が向きません。しかし大学院で議論をするうちに、自社は何のために事業をしているんだろう?という疑問を持ち、会社や経営といったことを深く考えるようになります」という。  1学年約10人という少人数制で、学生同士の仲がよいのも特徴だ。修士論文となるレポートを書くにあたっては、1、2年次の学生と先輩の修了生を交えた中間報告会、提出後に合同報告会を開く。1年生も課題を提出するため2年生からアドバイスを受ける。修士論文は担当教員から真っ赤になるほど直され、論理が飛躍していないか、あいまいなところはないかなど考える力を徹底的に鍛えられる。修了生は実務に戻ると忙しさに流されがちだが、現役の後輩たちから刺激を受けて学びの意欲を取り戻す。 「修了生の活躍がこのプログラムの成果の一番の証明になります。観光業界にいる人が目指して来てくれるプログラムになるようにしたいですね」(福地准教授) 【一橋大学大学院 経営管理研究科経営管理専攻経営学修士コース ホスピタリティ・マネジメント・プログラム】 対象/実務経験3年以上の社会人 入学定員/10人 開講日時・場所/平日夜間・土曜 千代田キャンパス(東京) 観光・ホスピタリティ産業の将来を担う高度経営人材を育成する MBA(経営学修士)の学位とホスピタリティ・マネジメント・プログラム修了証を授与 福地宏之 准教授(ふくち・ひろゆき) 一橋大学大学院経営管理研究科経営管理専攻 2003年一橋大学商学部を卒業。09年同大学院商学研究科博士後期課程修了。同大学院商学研究科特任講師、東洋学園大学現代経営学部専任講師、准教授を経て17年から現職。現在の具体的な研究テーマは、組織構造とマーケティング戦略の関係、新興国市場への参入戦略と組織マネジメント、経営指標の組織的利用と戦略的意思決定の関係など。 一橋大学大学院経営管理研究科経営管理専攻 福地宏之 准教授 鎌田裕美 准教授(かまた・ひろみ) 一橋大学大学院経営管理研究科経営管理専攻 2007年一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了。同大学院商学研究科特任講師、国土 交通省国土交通政策研究所研究官、西武文理大学サービス経営学部専任講師、淑徳大学経営学部専任講師を経て、17年から現職。主な研究テーマは、観光客のリピート動機およびリピート行動の分析、観光地の住民態度研究。 一橋大学大学院経営管理研究科経営管理専攻 鎌田裕美 准教授 ■社会問題の解決のためにサステイナビリティを学ぶ  法政大学大学院公共政策研究科は、2012年に公共政策に関わる研究科や専攻を改組して誕生した。修士課程だけでなく博士後期課程も含めた社会人教育に力を入れている。公共政策研究科長の高田雅之教授は設立の経緯をこう説明する。 「日本ではかつて公共政策の実務において、学問の専門性が十分に生かされない時期がありました。ところが環境問題をはじめ近年の多くの社会課題では、その解決のため学問に裏づけられた公共政策が求められています。そこで学問と実務をひとつのものとしてとらえる研究科としてスタートしました」  高田教授は、民間企業を経て公務員から国立環境研究所に出向したのをきっかけに学問的アプローチに興味を持ち、大学院に入ると51歳で博士号を取得した。リカレント教育で新たなキャリアへと歩み出した先駆けといえる。  2016年にはサステイナビリティ学専攻が設置された。やはり社会的な課題の解決を目指していると高田教授は言う。 「国連が持続可能な世界のための目標として掲げたSDGsが、今の社会の多様な課題を示しています。しかも環境の持続性と経済の持続性といった一見相反する課題を同時に解決していかなければなりません。それをどうすればいいかを突き詰めると、どんな社会の中で自分自身がどう生きるかを考えることにつながります」  すべての人がそれぞれの立場から、持続可能な社会に向けてできることがあるはずだと高田教授は話す。そうした思いを持つ人たちがこの公共政策研究科で学んでいる。学生は大半が社会人で、勤務先は官公庁から公益法人、NGO、自治体、シンクタンク、民間企業とさまざまだ。男性と女性が約半々で、修了者には70代の会社経営者もいた。 「社会人としての自分の経験を学問的に見直し、知らなかった世界を知ることで新しい扉が開かれ、そこから可能性がさらに広がります。そしてそれで終わりではなく、学んだことを仕事や社会活動へフィードバックするための行動につなげることに、社会人が再教育を受ける大きな意味があります」(高田教授) ■履修証明プログラムも開設し大学院の正規課程に進む人も  公共政策研究科は、さまざまな分野の科目でカリキュラムが構成されている。サステイナビリティ学専攻の教員は19人で、高田教授が専門とする自然環境のほか、行政学、法律学、経済学、環境科学、倫理学、文化人類学、理工学、医学、社会学、国際協力など文系・理系を問わず幅広い。そのなかから分野を超えて学べるのが特長だ。導入科目のサステイナビリティ研究入門では、毎回異なる教員の授業を受けることができる。 「1回の講義を受けるだけで何冊もの本を読むに等しく、100分の講義で膨大な知識を得ることができてお得だと思います。社会人のみなさんはいろいろな目的で入学され、仕事が終わってお疲れのなかで受講されていますが、とても高いモチベーションを感じます。鋭い質問も多く、私たちも違う角度からの問題意識に気づかされます」(同)  2019年からは公共政策研究科で「SDGs Plus履修証明プログラム」も開設している。大学院生でなくても研究科正規課程の科目が受講できる1年間のプログラムだ。22年度は約20人の社会人が受講した。 「大学院受験よりもハードルが低く、SDGsのような社会課題の解決のために専門的に学ぶための門戸を広く開く役割も果たしています。履修証明プログラムの修了後、修士課程に進む人も一定数います」(同)  学問の方法論を学ぶなかで、データの取り方やまとめ方、論文の書き方を身につけ、個人情報の扱いや協力者への配慮が必要なことも修得できる。 「研究活動で得たものを自分の立場で社会に生かしていきたいという強い意欲を持っている人に、ぜひ学びにきてほしいと思います」(同) 【法政大学大学院 公共政策研究科サステイナビリティ学専攻】 対象/社会人、学部卒業生 入学定員/修士課程15人、博士後期課程5人 開講日時・場所/平日夜間・土曜 市ケ谷キャンパス(東京) 環境・社会・経済分野の複雑で長期的な問題に、俯瞰的・統合的な解決方法を見いだす サステイナビリティ学修士/博士を授与 履修証明プログラム(1年間)も開設している 高田雅之 教授(たかだ・まさゆき) 法政大学大学院公共政策研究科長 1981年宇都宮大学工学部環境化学科を卒業。2004年北海道大学大学院地球環境科学研究科修士課程修了。2009年北海道大学大学院農学院博士後期課程修了。北海道庁、環境庁、国立環境研究所、北海道立総合研究機構などを経て、2012年から法政大学人間環境学部教授(現職)。主な研究テーマは自然環境政策、生物多様性、自然再生、湿地生態系、景観生態学など。 法政大学大学院公共政策研究科長 高田雅之 教授 (取材・文 福永一彦)
大学院
dot. 2023/06/21 08:30
いつも見守ってくれた上司 教わった達成感 DeNA・南場智子会長
いつも見守ってくれた上司 教わった達成感 DeNA・南場智子会長
いまは車窓からみているだけの日比谷の街。新人時代は昼食に先輩たちとよくいった。古い縁をたどることはほとんどしないが、来ればやはり懐かしい(撮影/狩野喜彦)  日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年6月19日号の記事を紹介する。 *  *  *  1999年11月29日朝、DeNA初のサービスとなったネットオークション「ビッダーズ」が起動した。システム開発が進まず、予定よりも約1カ月遅れての誕生。しかも、ネットでの出品機能を欠いたままという、片肺飛行での離陸だ。  それでも、東京都渋谷区神山町の本社内に、起業の苦労をともにした仲間たちから歓声が上がった。つい1カ月前に借りた小さなビルの2階の部屋。ここで、「ゴールに達したときの喜びがチーム全員に共有され、その力強い高揚感でシンプルにドライブされていく組織をつくろう」と、自らに言い聞かせる。  この「全員での達成と喜び」は、大学を出てDeNAを起業するまでいた米コンサルタント大手マッキンゼーの日本支社で「恩人」と言える上司の千種忠昭さんにさせてもらった達成感に、重なる。南場智子さんがビジネスパーソンとしての『源流』として挙げる体験だ。 ■「力を貸してくれ」2度目の退職を止めた言葉  90年代初め、「私にはコンサルタントの仕事は無理だ」と、転職を決めた。退職は2度目。1度目は入社して2年が過ぎたとき、仕事に自信が持てずに米ハーバード大の大学院への留学に「逃亡」した。2度目は結果として7、8年、延期となる。  転職先を決めたころ、千種さんに呼ばれて新しいコンサル案件を切り出され、退職の話をして断った。なぜ辞めるのかと問われ、失敗の数々、周囲にかけた迷惑などを説明する。30分ほど、千種さんは黙って聞いていた。こちらの話が終わると、言った。「わかった、辞めろ。辞めていいが、最後に俺の案件をやっていってくれ。せっかく獲った案件だ、力を貸してくれ」  相手は、一般企業の役員のような「パートナー」。そんな人が「力を貸してくれ」と言う。引き留めるためか、辞めるにしても成功体験を持たせたいと思ってくれたのか、分からない。いずれにしても、失敗続きの自分を、大事な案件に誘ってくれた。「いや、やはり辞めます」とは、言えない。 解放感があった留学時代(写真:本人提供)  依頼企業は通信の大手で、割り当てられたテーマは固定電話の収益改善策。それまであった「自分は周囲にどう評価されているのか」とか「コンサルとして通用するだろうか」といった不安は、消えた。この仕事が終われば辞めるのだから、そんなことはどうでもいい。そう思うと、肩の力が抜けた。詳細は省くが、500億円の収益改善の可能性をみつけて、提案する。チームの面々も、後に続く。  相手の企業は喜び、その後も仕事を指名してくれた。チームで同じ目標に向かって力を尽くし、達成する喜びを、生まれて初めて体験した。自信もつく。さらに、日本支社でパートナーにもなれた。そして、DeNAの起業もできた。千種さんがいなかったら、転職癖がついて、いまごろどうなっていたか。感謝の言葉も言い切れていないのに、今年1月に突然、亡くなってしまった。でも、『源流』は途切れさせない。 ■東京の大学選び 父に迫られた二つの「約束」  1962年4月、新潟市で生まれる。父は会社を経営し、母は専業主婦。母は海が好きで、姉と3人でよく泳ぎにいった。81年4月に津田塾大学英文学科へ進むとき、地元に置いておきたがった父に「ボーイフレンドをつくらない」「卒業したら言う通りに、新潟の企業に就職する」と二つ、約束させられる。  女子寮で過ごし、4年のときに姉妹校だった米ペンシルベニア州のブリンマー大へ留学し、近代経済学に触れた。1年後に帰国し、マッキンゼーにいた先輩に誘われて東京・日比谷の支社であった会社説明会へいく。階段を上って進む劇場のような会場に、説明会が終わって始まった立食パーティーで「食べたいだけどうぞ」と言われた、小さくて美味しそうなオードブルの列。「何と格好いいことか」と思っただけで、入社を決めた。父は、反対しなかった。  コンサルの仕事に興味があったわけではない。どんな仕事をするのかも、わかっていない。「ともかく、がむしゃらに働こう」という気持ちだけだった。  だが、86年4月に入社して、空回りが続く。最初に手がけた調査は、海外拠点からきた「日本のモーゲージのセキュリタイゼーションの市場性を調べてほしい」との依頼。モーゲージもセキュリタイゼーションも市場性も、意味が分からない。分かったのは「日本」という2字だけだった。結局、よくわからないような回答を送るしかなく、落ち込んだ。 ■プレゼンに寝坊 窮地を救ったあのひと言  入社して4カ月、コンサルのチームに入った。でも、失敗は続く。最大の出来事は、電機メーカーのトップへのプレゼンテーション(提案の発表)のときだ。自分の仕事は、各部署からの聞き取りと数字の集計。プレゼンの前夜は、チームの面々が書き上げた提案をコピーし、必要な60部に製本する役だった。でき上がったのは午前4時。連日、徹夜のような日々だったので、自宅へ持ち帰って仮眠し、朝9時からのプレゼン前に依頼企業へ届けるつもりだった。  電話が鳴って目が覚めると9時半だ。パニック状態となり、寝ぐせがついた頭髪を直しもせず、60部を持って駆けつけた。会場のドアを開けると、チームの面々も依頼企業の人たちも、ちらっと眼(め)を向けただけで、話を続けた。チームメートは下書きをコピーして配り、プレゼンしていた。やがて終わり、チームの反省会が始まる。リーダーたちに、こっぴどく叱られた。  そこへ、依頼案件を仕切っていた千種さんが現れた。イスに座ると、ゆっくり口を開く。 「みんな、ここまでいいプレゼンができたのは、南場の頑張りがあったからだよ。今日のことはもういいから、この話はあまり言うな」  ただ、うつむいて聞いているしか、なかった。  2021年6月、日本経団連の副会長とスタートアップ委員長に就いた。先端的な技術やビジネスモデルを擁した起業家を支援していく活動の、先頭に立つ。いくつかの大企業のトップの賛同を得て、100億円規模の投資基金「デライト・ベンチャーズ」を設立した。まずは、DeNAを超える企業が出てほしい。もちろん、DeNAも負けていない。いまの8倍、1兆円企業の仲間入りを目指す。  振り返れば、千種さんは自分を「こいつには何かあるのではないか」と、ずっと見守ってくれていた気がする。それで、チャンスが広がった。スタートアップ企業が成功していけば、同じようにチャンスを広げて「チーム全員での達成感と喜び」を知る人々が増える。千種さんが、喜んでくれるに違いない。自分の『源流』が流れていく先も、続いていく。(ジャーナリスト・街風隆雄)※AERA 2023年6月19日号
AERA 2023/06/17 19:00
「ホームレス過去最少」のなぜ? 寝られる場所の激減、ネットカフェ転々 可視化されづらくなった若者の貧困
「ホームレス過去最少」のなぜ? 寝られる場所の激減、ネットカフェ転々 可視化されづらくなった若者の貧困
毎週土曜日に新宿都庁下で行っている食料品配布の様子(提供/認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい) 厚生労働省によると、全国のホームレス(路上生活者)の人数は2023年1月時点で調査開始以降最少に。しかし、相次ぐ物価上昇、貧困の深刻化を多くの人が実感できる現状で、この数が実態を反映しているのかは疑問が残る。福祉の現場では、一体何が起こっているのだろうか。 *     *  *  Aさん(20代男性)は定住先をつくらず、インターネットカフェなどに寝泊まりする、いわゆる「ネットカフェ難民」だ。だが、街を歩く若者と変わらない、清潔感ある服装に身を包んだその姿からは“住所不定の人”であるとはとても想像しがたい。  Aさんは派遣会社に登録しており、週3日勤務で月額12万円前後を稼ぐ。臭いや汚れは上司や同僚との関係を悪化させかねないほか、そもそも面接を通過することすら困難になる。彼らにとって清潔感のある身なりはまさに“命綱”。いくら生活が困窮していようとも、費用を捻出せざるを得ない。  こうしたAさんのような人たちは、ホームレスに数えられない。 ■路上で寝られる場所は激減。多様化するホームレスたち  厚生労働省はホームレスの実態を把握するため、2003年から全国調査を実施。23年1月時点で全国のホームレスの人数は3065人(前年比11.1%減)が確認され、調査開始以降最少となった。  しかし、調査方法は日中に自治体の担当者が路上や公園、河川敷などを「目視」で確認しており、調査時にその場に居ない人は含まれない。そのため実際の数はもっと多いといわれており、実態を正確に反映しているのか、疑問が残る部分もある。  認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの代表理事、大西連氏はこう話す。 「我々のようなホームレス・生活困窮者の支援団体が夜間に調査すると、路上生活者の数は2、3倍に膨れ上がることは長年指摘されてきました。ただし、それを差し引いても、路上生活者の数が年々減っていることは肌で感じています」 毎週土曜日に新宿都庁下で行っている相談会の様子(提供/認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい)  大西氏によると、路上生活者の数が減少した一つの要因は、自治体による取り組みの成果だ。巡回相談や生活保護制度のほか、民間団体の活動といった支援の輪が少しずつ広がっていると考えられる。  ただし、これはポジティブな見解であり、一方でネガティブな見方もできる。 「単純に、公園や駅、河川敷などで寝られる場所が激減しているとも言えます。特に都市部では夜間は施錠する公園も多く、また盛んに再開発が行われているので、結果的にホームレスの人たちがその場所に居られなくなった……という側面はかなり大きいでしょうね」  もう一つは、若者を中心とした新たな貧困層の広がりだ。東京都が2018年に発表したアンケート調査によると、住居不定でインターネットカフェや友人宅などを転々とする人は、都内で1日当たり約4000人に上るとみられる。 「住む場所や仕事を自分で探すため、ホームレス状態でもスマートフォンの所有は不可欠。ネットカフェのほか、SNSで知り合った人の家に泊めてもらうなど、事態はより多様化していると考えられます」  典型的な路上生活者が減る一方、若者のホームレスはますます可視化されづらくなっていると考えられる。身だしなみに気を使う若者はひと目で「貧困状態にある」とは判別しにくいため、支援のハードルも上がっているという。 ■若者が声を上げづらい不寛容な社会  ネットカフェでの宿泊の相場は1泊1500~2000円。1カ月滞在した場合は約6万円かかる計算だが、その予算があれば安いアパートを探せなくもなさそうだ。しかし、貧困に陥った若者の場合、敷金・礼金を払えるほどの貯蓄がなかったり、人間関係・精神疾患などが原因で仕事を転々としたりしていることで入居審査や保証会社の審査に通らない人も。 「客観的に見たら生活が破綻しかけている、もしくは破綻している状況でも、月10万~15万円程度を稼いでいて、本人が『自分は頑張っている』と思っているとなかなか相談には来てくれません」  と大西氏は話す。  声を上げづらくしている背景には、「若いんだから働けるだろう」「なぜ働かないのか」という社会的な風潮もある。こうした“分断”がホームレス状態の人をより見えづらくしていると大西氏は指摘する。 「若者がホームレス状態に陥る背景には、失業・倒産、過酷な家庭環境、病気など、さまざまな事情が複雑に絡み合っていますが、失敗が許されにくい不寛容な社会では『自己責任である』と捉えられがちです。しかし、失敗は誰もがするものであり、自助努力には限界があります。さらに日本社会には『家族の問題は家族が支えるべき』という価値観が根底にあり、それが社会政策の進展を遅らせる一つの要因にもなっています」  ホームレスの人数が統計以来過去最少となったことから、自治体による生活困窮層の自立支援には一定の成果が見られるようだ。その一方で、多様化・複雑化するホームレス状態の人々に対する個別の施策はまだ十分とは言えない。若者をホームレスにさせないために、社会的分断を超えた議論が求められている。 (文/酒井理恵)
ホームレス貧困
dot. 2023/06/17 08:30
夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなった 米国での別居婚から9.11を機に夫の故郷・インドへ移住した夫婦
夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなった 米国での別居婚から9.11を機に夫の故郷・インドへ移住した夫婦
アルヴィンド・マルハンさんと坂田マルハン美穂さん(撮影/岡田晃奈)  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2023年6月19日号では、プライベート・エクイティ投資家のアルヴィンド・マルハンさん、ライターでNGO団体ミューズ・クリエイション主宰の坂田マルハン美穂さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫28歳、妻35歳で結婚。南インドのベンガルール(バンガロール)で猫4匹と暮らす。 【出会いは?】1996年の七夕の夜、ニューヨークのマンハッタンで語学学校の宿題をしようとスターバックスに入った妻が、唯一空いている席を見つけて相席を頼んだ相手が、夫だった。ともに翌8月が誕生日で、互いの誕生日を祝ううちに交際スタート。 【結婚までの道のりは?】交際開始から5年後の2001年に挙式。互いの仕事の都合でニューヨークとワシントンでの別居婚をスタートさせたが、2カ月後に米同時多発テロが発生。妻は「人生を見直そう」と考え、同居することに。05年に夫の故郷インドへ移住。 【家事や家計の分担は?】家事は妻と使用人が99%。夫は1%(猫のエサやり)。財布は一緒。 夫 アルヴィンド・マルハン[50]プライベート・エクイティ投資家 ある・ぃんど・まるはん◆1972年、ニューデリー生まれ。マサチューセッツ工科大学(MIT)卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに就職。ペンシルべニア大学でMBA取得。ベンチャーキャピタルを経て、投資会社パートナー  ミホに初めて会った時、とてもチャーミングなエナジーを感じました。優しくておっとりとした話し方はまさに「大和撫子」。後々、それは英語力がまだ乏しかっただけだとわかるのですが(笑)。  海外で学び、働くことを当然とする家庭で育ち、1990年に渡米。MITなどで学び、当時の米国で最も力のある企業に入りました。転職など紆余曲折はありましたが、日々が充実していたので、9.11後に故郷へ戻る選択肢が出てきた時は、すぐに決断できませんでした。積極的だったのはミホの方。すんなりとインドになじみ、新生活の基盤を整えてくれました。  ミホは仕事の傍ら、社会貢献活動も始め、コロナ前は週に一度自宅をメンバーに開放。手作り菓子で歓迎し、歌や手芸の場を提供していました。僕も一緒に慈善団体を訪問し、新鮮な経験ができました。  インドに戻り、人生がリッチになりました。急成長するインド市場での仕事も面白い。ミホが人生のパートナーである幸せを感じています。 アルヴィンド・マルハンさんと坂田マルハン美穂さん(撮影/岡田晃奈) 妻 坂田マルハン美穂[57]ライター、NGO団体ミューズ・クリエイション主宰 さかた・まるはん・みほ◆1965年、福岡県出身。梅光女学院大学(当時)を卒業後に上京し、旅行誌の出版・広告関係の仕事を経て独立。渡米後、出版社を起業。現在は日印の相互理解を促す仕事に力を入れている  20代の頃、夢を追って上京しましたが、仕事に追われ、男運もなく、未来が見えませんでした。30歳の時、「仕事に生きよう」と腹をくくり、仕事の幅を広げるためにニューヨークへ語学留学しました。  でも、渡米3カ月後にアルヴィンドに出会い、人生が思わぬ方向に動き出しました。不思議と気が合って、映画や食事を楽しんだり、ドライブ旅行をしたり。ケンカは日常茶飯事だし、子どもができず悩んだ時期もありましたが、出会うべくして出会い、インドにたどり着きました。  日本を離れて27年。日本にインド事情を伝える仕事が主でしたが、最近はインドに日本の魅力を伝える仕事を増やしています。今回の撮影で着た「京友禅サリー」のプロモーターもそのひとつ。日米印3カ国に暮らし、世界中を旅した経験を生かせる気がしています。振り返ってみると「よくぞ、ここまで漕ぎつけた」という想いが強いですが(笑)、夫と出会えたおかげで人生が何倍も面白くなったのは、間違いありません。 (構成/編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年6月19日号
はたらく夫婦カンケイ
AERA 2023/06/16 18:00
「子どもたちに大きな不自由を強いている状況を見過ごせなかった」 UDデジタル教科書体を開発した書体デザイナー・高田裕美
「子どもたちに大きな不自由を強いている状況を見過ごせなかった」 UDデジタル教科書体を開発した書体デザイナー・高田裕美
文字が読めないせいで学べない。そんな「社会の穴」を埋めたいという決意が、画期的な書体を生んだ(撮影/岡田晃奈)  書体デザイナー、高田裕美。明朝体、ゴシック体、教科書体。格調高いものからカワイイものまで、社会には無数の書体が溢れている。だが、書体によって文字の「読みやすさ」が大きく変わり、学習に不自由を強いられている子どもたちもいる。実情を知った高田裕美は、「文字のユニバーサルデザイン」に奮闘する。目指したのは、誰一人取り残さない書体の開発だ。 *  *  *  2136。小中学校の義務教育課程で、私たちはこれだけの常用漢字を習う。ここに平仮名、片仮名、数字、アルファベット、さらに!や@といった50近くの記号が加わり、日常的に使う「日本語」は生成されている。社会生活を支障なく営むためには、少なくとも2500近くの文字や記号を瞬時に判別できなければならない。  だが例えば、全く度数が合わない眼鏡をかけて街に出たらどうなるだろう。あるいは、米粒に書かれた文字を虫眼鏡で拡大しながら勉強しなければならないとしたら……?  日本の識字率は100%近い。しかし文字や言葉は理解できても、環境のせいで読み書きの学習に不自由を強いられている子どもたちがいる。  16年前、書体デザイナーの高田裕美(たかたゆみ・59)は、ユニバーサルデザイン(UD)の書体を開発する過程で、視覚に障害のある子どもたちが通う特別支援学校を訪れ、初めてその事実を知った。 「『これは社会の穴だ』と思いました。世の中には無数の書体があるのに、ロービジョン(弱視)の子どもたちが安心して読み書きできる書体がない。そのせいで思うように学べない状況が放置されていたからです」  デザイナー歴32年。新聞、テレビ、ワープロ、絵本、食品パッケージから電車の車内表示に至るまで、さまざまな物や場所で使われる文字を開発してきた。高田は文字の職人として、デザインの力で「この穴を埋めたい」と考えた。  そして8年の歳月をかけて完成させたのが「UDデジタル教科書体」だ。書体は、筆文字のような筆順の流れを残しつつ、フェルトペンで書いたように線の太さが均一で柔らかい。健常者だけでなく、視界がぼやける、眩(まぶ)しさを感じるといったロービジョンの人々や、文字を早く、正しく読み書きすることに困難があるディスレクシア(発達性読み書き障害)の人々にとっても、読みやすく、学びやすいように設計されている。 現在は、モリサワのブランドコミュニケーション部広報宣伝課に所属。UDや障害に対する社会の理解を深めるため、セミナーやワークショップも積極的に行う(撮影/岡田晃奈) ■美大で書体に興味を抱き憧れのデザイナーに直談判  高田の上司であり、大手フォントメーカー株式会社モリサワの営業部門シニアディレクター兼東京本社統括を担う田村猛は、「UDデジタル教科書体は、フォントによる社会貢献の一つの方向性を示した」と話す。 「ほぼ全てのフォントが、クリエイターに選ばれるデザインを意識している中で、UDデジタル教科書体は、より多くの子どもたちに読みやすく、学びやすいという機能にこだわって開発されました。読み書きに困難を抱える当事者にヒアリングを行い、実証実験によるエビデンスを基に設計されたフォントは、いまだ類例がありません」  現在、UDデジタル教科書体は、教科書、教材、辞典のほか、一般書や広告物などさまざまな媒体で採用されている。2017年からWindows10以降のOSに標準搭載されたほか、18年にはキッズデザイン賞審査委員長特別賞を受賞した。 「よく言われることですが、書体は水のようなもの。あまりにも当たり前で普段は意識しないけれど、社会で生きていくためには欠かせません。だからこそ、書体を求める人の声に耳を傾けると、社会のどこに困りごとがあるのか見えてきます」  幼い頃から、文字に対する感覚は鋭かった。生まれは東京・池袋。父は小中学校の用務員、母は保育士で、二人とも教育熱心で読書家だった。2歳の頃には、牛乳配達をしていた父親におんぶ紐(ひも)で背負われ、バイクで住宅街を走りながら「あ!い!う!え!お!」と五十音の練習をしていた。  幼い頃の高田について、母親のはつはこう語る。 「裕美は保育園で、よく友達に絵本を読み聞かせしていたんです。そのせいか、同じクラスの子は皆、すぐに平仮名を読めるようになりました」  気になることは納得のいくまで調べ上げる学者肌でもある。小学校の社会科の授業で「市長さんの仕事を調べよう」という課題が出されたときは、市長に話を聞くため友達を誘って役所を訪ねた。 「疑問を突き詰める性分は父譲りかもしれません。戦前と戦後で社会の価値観が180度変わる経験をした父は、『大人の言うことを鵜呑(うの)みにせず自分で考えなさい』とよく話してくれました。だから子どもだからとか、周りもそうしているからといった理由で指示されるのが昔から苦手なんです」  書体デザインの仕事を初めて意識したのは大学生のときだ。美術系の高校に進学した高田は、絵本作家を目指して女子美術短期大学に入学。そこでレタリングやロゴ制作、誌面レイアウトといったエディトリアルデザインを学ぶ中で、書体の構造、配置、効果に強く惹(ひ)かれるようになる。  大学からの友人でイラストレーターのくどうのぞみは、「好きなことにはとことん一途」と話す。 「当時、ほとんどの子がイラストレーターを目指していた中で、高田さんはレタリングやビットマップフォントの作品を熱心に制作していました。人と異なることを恐れないし、気になる人には臆せず会いに行く。芯がすごく強いんです」  卒業後は、より書体の研究を深めるため、同大学の専攻科に進学。日本タイポグラフィ協会が主催する夏季講習に参加し、そこで講師を務めていた書体デザイナーの林隆男と知り合う。 「林さんは、1970年代に“新書体”として一世を風靡(ふうび)した『タイポス』の開発者の一人で、私がずっと憧れていた人。会ったその日に、自作したフォントのサンプルを渡して、『今度作品を見てください!』と直談判しました」 ■特別支援学校で知った 本が読めない子どもたち  林の知遇を得た高田は、専攻科を卒業後、林が代表を務めるタイプバンクに入社。新人時代は、写植の原字(写植機の文字盤の元になる字)を精密に仕上げるため、烏口(からすぐち・製図用のペン)でわずか1ミリの間に10本の線を重なることなく引けるように練習を繰り返した。その後、ワープロの普及とともにビットマップフォント(ドットの集まりで表現された文字)の需要が急拡大すると、担当デザイナーとして1日に200~300を作字するなど、昼夜を問わず仕事に没頭する。  さらに80年代後半になると、現在も使われているアウトラインフォントが登場する。文字の輪郭線を指定するアンカーポイント(固定点)の配置を研究するなど、技術の発展に応じて高田の仕事内容も目まぐるしく変わった。  転機が訪れたのは2007年。ある鉄道車両メーカーから「高齢者でも見やすい表示パネルの文字をデザインしてほしい」という依頼が舞い込む。これを契機に、高田は「文字のユニバーサルデザイン」の研究にのめり込むようになる。 「その前年に、書体メーカーのイワタが国内初のUDフォントを発売して話題になっていた。そこでどうせなら高齢者だけでなく、視覚障害の方にも見やすいUDフォントを作ろうとなりました」  UDの本質は、人を選ばないこと。年齢も性別も国籍も障害の有無も関係なく、あらゆる人が利用しやすいように設計することにある。だがはたして、遠くからでも見やすいように線を太く、字面を大きくしただけでUDと言えるのか。  疑問が残るなら聞けばいい。高田は専門家の協力を仰ぐため、ロービジョン研究の第一人者である慶應義塾大学教授の中野泰志の研究室を訪ねる。  だが、中野の反応は鈍いものだった。試作したフォントを見せてもアドバイスがもらえない。何がだめなのか。肩を落とす高田に、中野は言った。 「高田さん、僕は“見えている”んですよ。視覚に障害のある方がどのように見えているかなんて、簡単には答えられません。本当に話を聞くべきなのは、困っている当事者の方々ではないですか?」  はっと目が覚めた。それ以降、高田は中野に同行し、特別支援学校や拡大教科書の制作現場、盲導犬の訓練所まで、当事者の話を聞きに回った。  実際の教育現場で見た光景は、予想だにしないものだった。ロービジョンの子どもたちは虫眼鏡や拡大読書器を使いながら、途方もない時間をかけて文字を読み書きしていた。そこで気づいたのが、書体によって読みやすさに違いがあることだ。  教科書に使われている「教科書体」は、筆文字をベースにしており線の太さに強弱がある。ロービジョンの子には、線の細い部分が消えたように見え、文字全体の形が正しく捉えられないのだ。  一方で、線の太さが均一な「ゴシック体」ならばロービジョンでも読みやすい。高田らが試作したUDフォントもゴシック体を採用していた。 「ところが、先生方に試作を見せたところ、『これじゃあ使えないよ』と言われてしまいました」 ■UDフォントに心血注ぐも会社売却で開発は頓挫  理由は、ゴシック体の字形にある。例えば、ゴシック体の「山」は、2画目の縦線が下に突き出ているため、本来3画で書くところが4画で書かれているように見える。また、「令」や「心」は字形そのものが教科書体とは異なる。そのため字形や画数、書き順を教えるうえで、子どもたちを混乱させる恐れがあったのだ。  そこで特別支援学校では、驚くことに教員がゴシック体を教科書体の形や画数と同じになるようにホワイトペンで修正したり、ボランティアが教科書の文字を全てフェルトペンで大きく書き直したりして、子どもたちに読み書きを教えていた。 「愕然(がくぜん)としました。学ぶ力も意欲もあるのに、適切な書体がないばかりに子どもたちや先生方に大きな不自由を強いている。書体デザイナーとして、この状況は見過ごせませんでした」  こうして高田は、試作していたUDフォントとは別に、教科書でも使える学習指導要領に準拠したUDフォントの開発に乗り出す。  完成までの道のりは紆余(うよ)曲折の連続だった。 (文中敬称略) (文・澤田憲) ※記事の続きはAERA 2023年6月19日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/06/16 18:00
ジェーン・スー「50代だから苦手にトライ! 素晴らしい経験に気づくことも」
ジェーン・スー ジェーン・スー
ジェーン・スー「50代だから苦手にトライ! 素晴らしい経験に気づくことも」
50代だから苦手にトライ!(イラスト:サヲリブラウン)  作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。 *  *  * 「私の記憶が確かならば」という名台詞が生まれたのはフジテレビの名作番組「カノッサの屈辱」だったか「料理の鉄人」だったか。鹿賀丈史さんの記憶があるから「料理の鉄人」だったのでしょう。  もとい。私の記憶が確かならば、およそ5年ぶりにテレビの地上波番組に出ました。先日のNHK「インタビューここから」の話ではありません。なんと、もうひとつ出演したのです。人生初の生放送、NHKの「あさイチ」! 観てくださった方、ありがとうございました。  くり返しになりますが、私はテレビ出演が苦手です。ラジオにはスッとなじめたものの、テレビにはなかなか。苦手なことをやらない理由はいくつでも挙げられると相場が決まっています。だから今回は、「じゃあ、なんで出たのよ?」を語りたい。  おかげさまで、ラジオやポッドキャストでしゃべる仕事も、書く仕事も十分にいただいています。スタッフにも恵まれ、大事にしてもらっています。まるで我が家のようにくつろいでいると言っても過言ではありません。  ということは、チャレンジングな仕事はあっても、慌てふためいて冷や汗をかくことはなくなったってこと。つまり、新しい自分にも出会えないってこと。  だから、いま一度苦手と向き合おうと思ったのです。20代はなんでもチャレンジ、30代前半は食わず嫌いをやめ、30代半ばからは「好きなことより得意なこと」を。40代もそうやって過ごし、50代に入りました。やるか、苦手。 イラスト:サヲリブラウン  別の言い方をするならば、うまくできなかったとしても、立ち直れないようなダメージは受けなくなったということ。  結果、どこを見てよいかわからずキョロキョロしながらも、鈴木奈穂子アナウンサーや博多華丸・大吉さんのサポート、そして担当ディレクターさんを始めとするスタッフの細やかな配慮のおかげで、約1時間半の生出演を楽しく過ごせました。  またしても、ラジオリスナーや読者のみなさんは、自分の親戚がテレビに出演したときのように喜んでくれました。普段からこんなに温かく迎えられていたとは、テレビに出演しなければ、気づけませんでした。  きゅうりや納豆のように苦手克服とまではいきませんでしたが、素晴らしい経験になりました。苦手にトライ、またいつか! ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中 ※AERA 2023年6月19日号
ジェーン・スー
AERA 2023/06/15 19:00
医学生の元・人気YouTuberが語る 独学で現役合格した無駄のない勉強法とは?
医学生の元・人気YouTuberが語る 独学で現役合格した無駄のない勉強法とは?
藤白りりさん(撮影:今 祥雄) 医学部の受験情報などを発信してきた元・人気YouTuber藤白りりさんは、独学で現役合格をつかんだ医学生だ。難関を突破した極意を、週刊朝日ムック『医者と医学部がわかる2023』(2023年1月発売)から抜粋して紹介する。 *   *  *  藤白りりさんは、東京医科歯科大学医学部医学科の5年生。日々授業や実習で多忙な中、自身のYouTubeチャンネルで受験生に向けたアドバイスや医学生の日常を紹介する動画を配信し、人気を集めてきた(2023年3月末終了)。 難問よりも基礎固め計画を立てて効率化 「今はちょうど初期研修先を探すマッチングの時期なので、病院見学にも行っています。興味があるのは、循環器科や産科、消化器内科です」  人の健康を守る医師という仕事に魅力を感じるようになったのは高校時代。小学校から高校まで通った母校、智辯学園和歌山高等学校は、毎年、現役で50人前後の医学部合格者を出す進学校だ。  高校2年から受験勉強を始めた際は、両親から通塾を勧められたが「自分に合う勉強法は、自分が一番よくわかるはず」との思いから、季節講習以外はほぼ塾に通わず、独学メインの学習を貫いた。  塾に通わない代わりに、学習に使う参考書選びにはこだわった。選択の基準は「自分を成長させてくれるか」と「自分の苦手な項目のページを読んで、わかりやすいと感じるか」。1教科につき2冊程度を厳選し、徹底的に使い倒す。もちろん、そのようなやり方に行き着く前には、失敗もあった。  高校2年の終わりごろ、インターネットのレビューにひかれて、難問ばかりを集めた問題集を使い始めたところ、成績が伸び悩んだ。難しい問題を解くことに気を取られ、基礎の理解が疎かになっていたことが原因だった。 「医学部が難しいのは、難問が多く出題されるからではなく、受験生のレベルが高いからです。重要なのはほかの受験生が正解する問題を、絶対に落とさないこと。そのためにもまずは基礎固めをすべきだと、このとき気付きました」 藤白りり流・現役合格できた理由   基礎固めに必要な学習とは、数学や物理ならば、なぜこの問題でこの定理を使うのか、なぜこの理論が成り立つのか、その理由まで理解すること。解けなかった問題、間違えた問題については、なぜ正解にたどりつけなかったかを検証することだ。 「復習する問題はルーズリーフにまとめ、その日の夜と週末に繰り返し見直します。地道な作業ですが、こうしない限り一度間違えた問題は永遠にできないまま。解説を読んだ時間も、無駄になってしまいます」  さらにもう一つ重視したのは、受験勉強の計画作り。藤白さんの計画は「高3の夏までに必要な範囲を一通り終え、そこで見つけた苦手分野を秋以降に集中学習、直前期は復習を重点的に行う」というものだった。 「まず志望校に合格するために必要な学力を考え、そこから逆算して夏休み前、夏休み、夏休み以降に取り組むべき内容や参考書をリストアップしました。受験勉強は、どうしても時間が足りなくなるもの。できるだけ完璧に近づけるためには、計画作りが欠かせません」  受験生時代、平日は学校が終わると一般利用が可能な自習室へ直行し、毎日夜10時まで勉強した。息抜きは、ボーイズグループのオーディション番組。分野は違っても、狭き門を目指してストイックに努力する候補者たちの姿が、励みになった。 出願は1校のみ 入試本番では焦りも  3年生になってからはスランプもなく、共通テストでも高得点を取得。その点数を受けて、最終的な出願校を検討した。東京の大学へ行くことは決めていたものの、前期で東大、後期で医科歯科大を受けるか、前期で医科歯科大を受けるか。悩んだ末、より確実性の高い後者のプランを選択。私立大受験は、日程が合わず、見送った。 「医科歯科大の入試では、数学の大問1がわからず、焦りました。でも試験では実力の120%ではなく100%を出すことが大事。すぐ気持ちを切り替え、残りの問題に全力で取り組みました」 「本来、飽きっぽい性格だから、勉強に集中できる環境作りを工夫しました」と藤白さん(撮影:今 祥雄)  合格を知ったときは「うれしいというより、ほっとした気持ちが大きかった」と語る藤白さん。YouTubeチャンネルを立ち上げたのは、かつての自分と同じように、不安や焦りを抱いている受験生の力になりたかったから。 「長い人生、誰でもどこかで頑張る必要がある。ならば受験で頑張ってみるのもいいと思います。直前まで自分の成績を1点でも上げることを目指し、本番では『絶対に合格する』というモチベーションを忘れずに。1人でも多くの受験生が希望をかなえられることを、願っています」 ●藤白りり 1999年生まれ、和歌山県出身。智辯学園和歌山高等学校を卒業後、東京医科歯科大学医学部医学科に進学。大学では軽音楽部に所属。 (文・木下昌子)
YouTuber医者と医学部がわかる2023大学受験
dot. 2023/06/14 06:30
料理研究家・枝元なほみさんが始めた「夜のパン屋さん」「なめんなよ!と怒るより、内側から溶かしたい」
料理研究家・枝元なほみさんが始めた「夜のパン屋さん」「なめんなよ!と怒るより、内側から溶かしたい」
枝元なほみ/料理研究家、認定NPO法人ビッグイシュー基金共同代表。横浜生まれ。明治大学卒業後、劇団員時代に無国籍レストランでシェフとして働く。1987年に料理研究家として活動を始め、テレビや雑誌などで活躍。食を考えるには農業や漁業などの生産の現場を支えることが必要と、「チームむかご」を設立し、農業生産者のサポート活動も行う(写真は本人提供)  現在、日本の全人口の6人に1人、ひとり親家庭の半数以上が相対的貧困の状態にある。相対的貧困とは、同じ国・地域に住むほかの人と比べ収入が少なく貧しいこと。日本は、年間500万トン以上の食品を廃棄している一方で、満足に3度の食事ができない子どもも多い。  料理研究家の枝元なほみさんが企画し、有限会社ビッグイシューとともに運営する「夜のパン屋さん」。2020年にはじまったこの取り組みは、売れ残ったパンを買い取り、夜に販売している。パンの回収と販売はホームレスの人や生活に困窮する人が仕事として行う。発売されたばかりの『やるべきことがすぐわかる 今さら聞けないSDGsの超基本』では、枝元さんに取材。新たな雇用を生みフードロスも同時に解消できる「食の循環の仕組み」について聞いた。一問一答を公開する。 *  *  * ――「夜のパン屋さん」(以下、夜パン)を始められたきっかけは? 「何か社会で循環することに生かしてほしい」とコロナ禍が始まる前に寄付をくださった方がいて、食に関する循環の仕組みを作れないかと考えていました。そんなとき北海道のパン屋・満寿屋さんが各店舗で売れ残ったパンを本店に集めて夜間に売っていると聞き、「やってみよう」と思い立ったんです。  パンの回収や販売の仕事も作ることができ、フードロスも減らせる、合理的で誰もがハッピーになるアイデアだと思いました。移動販売車ならパンの回収や販売にも使えると勇み足で車を購入しましたが、実際は協力してくれるパン屋さんを探すほうが大変でした。それでもコロナの影響が深刻化する中2020年の10月16日、世界食料デーに合わせてオープンしました。  現在は東京・神楽坂のかもめブックス前をはじめ都内3カ所で、夕方から夜にかけて定期的にパンを販売しています。渋谷や新宿などの人混みではなく、夜道にぽつんと明かりが灯って、道ゆく人が「なんだろう」とふらりと立ち寄れるような場所です。まさに大量生産・大量消費とは真逆のスタイルですね。 ――オープンまでに一番苦労されたことは?  当初、製粉会社やスーパーなど大手企業の協力を得ようと各社を回りましたが、日本のシステムの限界を感じて挫折しました。私の知人でオリンピックの選手食堂のフードロス解消に取り組もうとした人が、やはり同じ壁にぶつかって諦めています。 かもめブックスの軒先を借りて、火曜・木曜・金曜にオープンする「夜のパン屋さん」(撮影/写真映像部・高野楓菜)  そのときも必ず出てくるのが「ブランド力の低下」という言葉。「ブランド力」とは一体なんなのでしょう。海外ではSDGsの取り組みをする企業ほどブランド力がアップするのに、本当に不思議です。 「夜パン」で働くビッグイシューの販売者さんは、1990年代後半~2000年代前半に社会に出た就職氷河期世代、いわゆる「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代の方も多く、売れなかったパンも「ロスパン」。この「ロス」は人間の都合で生み出されたものであり、利益優先など勝手な都合で捨てられるものがあってはならないと心から思います。 ――「夜パンB&Bカフェ」というイベントも主催していらっしゃいますね。  練馬区にある築150年の古民家を借りて、定期的に実施しています。パンや野菜の販売、本の交換会、余った食品を交換できるフードドライブなど、食事をしても1日ぼーっと過ごしてもいい、のんびりしたイベントです。ここでは「支援を受ける方、どうぞ」というスタンスではなく、主催者も支援する側もされる側も、参加者も出展者も誰が誰だかわからない最高の「ごちゃまぜの場」です。  先日マッサージコーナーのスタッフが、「子連れのお母さんが来て、“私、お金ないので『福分け券』で、ってすごく凛とした笑顔で言ってくれたの」と嬉しそうに報告してくれました。福分け券は、先に来た人が後の人のためにお金を支払う、このイベントのシステム。払うも使うも自由な券です。今は生きることが大変でも、それは一時的なこと。支援する側もされる側も、混ざり合って垣根がない。サポートしてもらう人が肩身の狭い思いをしない場が大事だと思います。  ビッグイシューは「雑誌を渡して売ってもらう」のではなく、販売者は個人商店として仕入れて販売するという対等でフラットな関係なのですが、これがとても大事だと思います。 幕末期に建てられた築150年の古民家は、日当たりがよい広い庭もあり、イベントには最高のロケーション(撮影/写真映像部・高野楓菜) ――今後取り組んでいきたいことはありますか。  ビッグイシュー基金では、「おうちプロジェクト」という空室を活用する取り組みを始めています。また、「食」の分野からサポートできないか、食に関わる私だからこそできることはないかを考えたいです。「夜パン」もそうですけど、食べ物が真ん中にあると「おいしいね」「どうやって作るの?」と会話が生まれやすくほっこりします。貧困もフードロスも深刻な問題ではあるけれど、「あら、おいしそう」という言葉から始められれば、その関係は温かく誰もが関わりやすくなります。  岩合光昭さん撮影の猫の写真とともに各地の方言で憲法前文を紹介した本をご存じですか。「誰ぁれも飢えることがねぇように」と、各地のお国ことばが温かくて大好き。自分の幸せや人の幸せを願う、温かい気持ちこそがSDGsの基本かな、と。私はいろいろなことに怒りを感じて、「お金はないけどなめんなよ」と思って生きてますけど(笑)、対立構造では問題解決はできない。力で壊すのではなく、内側から溶かしてワームホールを作るように変化させられないかといつも考えています。 (構成/生活・文化編集部 上原千穂)
dot. 2023/06/12 06:00
だから沼袋 2023年5月、「これといったものがない」東京都中野区沼袋のスケッチ
だから沼袋 2023年5月、「これといったものがない」東京都中野区沼袋のスケッチ
撮影/写真映像部・馬場岳人  開高健の「ずばり東京」は1964年の東京五輪を前に変わりゆく東京を活写したルポルタージュで、週刊朝日に63年から64年まで連載されました。「ずばり東京2023」は、2度目の五輪を終えた東京を舞台に気鋭のライターが現在の東京を描くリレー連載です。今回は和田靜香さんによる「沼袋編」です。 *  *  *  西武新宿線の上り電車が西武新宿駅に着くと、そこはどんづまり。電車は、「車止め」の数メートル手前に止まる。住所は東京都新宿区歌舞伎町1丁目。  そこからまた下りの各駅停車に乗れば高田馬場、下落合、中井、新井薬師前と来て、沼袋に着く。東京都中野区沼袋。って、どこよ、それ? 知らなくて当然だ。おおよそ東京の町を描いたストーリーに、沼袋が登場するのを見たことがない。ああ、是枝裕和監督の映画「誰も知らない」(2004年)は沼袋周辺で多くの場面が撮影されていたものの、匿名の場所が舞台であって沼袋ではない。開高健の「ずばり東京」にはかすりもしていないが、開高さんは沼袋から5つ目の井荻に住んでいた。どんづまりの駅に降り立っていたのだ、開高さんも。  そして2023年現在の沼袋は線路の地下化工事と、駅から北へ江古田方面に伸びる道の拡張工事が行われている。気づいたら始まっていて、少なくとも2027年までは続くらしい。常に何かしら重機の音がしている。その駅前に一軒のタバコ屋があり、奥は今どき珍しい、紫煙たなびく喫茶店だ。  そこに私と向かい合って座った町内会長のOさんは、「沼袋はお寺と商店の町で」と言い、「これといったものは」と私が言うと、Oさんが「ないねぇ」と続け、同時に笑う。笑ってから、「これ」って何だろう?と思った。「これ」があるといい町なのか。沼袋にはずっと「これ」はないのだろうか。  昭和20年8月15日、終戦の日に生まれたOさんに、沼袋の「これ」の記憶をたどってもらう。 「今、イオンがあるとこには家具屋さんがあって、今もあるおせんべい屋さんの隣は自転車屋だったんだよ。駅前の工事中のとこは、日活の映画館だったね」って……。他には何かありませんでした? 撮影/写真映像部・馬場岳人 「東京オリンピックのとき、新宿の甲州街道沿いでマラソンを見てたら、アベベが単独で走ってきてねえ。新幹線が開通した日には東京駅に行ったら車内にも入れて、座席に置いてあったパンフレットだけもらってきました」  それ、沼袋じゃなくて、新宿とかですねって、また笑い合う。昭和の風景の中に暮らす、当時大学生だったOさんがモノクロもしくは日焼けしたカラー写真の中に浮かんだ。するとやにわにOさんが「私はこちらもやっていて」と一枚の名刺を取り出し、「中野区社会福祉協議会」と書いてある。ああ、そういうことか。  Oさんを紹介してくれたのは、沼袋に2014年から事務所を置いてホームレス状態の人など、生活に困窮する人を支援する「一般社団法人つくろい東京ファンド」(以下、つくろい)のスタッフ、小林美穂子さんだった。  私が沼袋に深く縁が出来たのは、「つくろい」が沼袋駅から歩いて11分の所で営む「カフェ潮の路」に通うようになったことからだ。不安定なライター生活をバイトで支え、「私はどうしてこんな人生なんだろう?」と悩んでいた頃、元路上暮らしの方と地域の人が同じテーブルを囲んでおしゃべりを楽しむそこへ行くと、人の生き方はそれぞれ、こうあるべきなんてひとつもないと感じられてホッとして元気になれた。  それで小林さんが「沼袋を書くなら、Oさんに会えば?」と言って、いっしょにお宅を数日前にピンポ~ンしていた。Oさんは社協の一員として、中野区内でフードパントリー(無償の食糧支援相談会)に関わり、小林さんたち「つくろい」も参加しているという。町内会長がフードパントリーを開く社協の人って、それが「これ」じゃないの?と思ったけど、その話はあまりしないまま、「沼袋は道路拡張工事の真っ最中で、商店街がどう変わっていっちゃうんだろうねぇ」と心配そうに言うと、Oさんは店を出て行った。 ◆  残された私は、工事にザワつく「これといったものがない」町をふらふら歩いて、「今もあるおせんべい屋」に入ってみた。「みそせんと、揚げせんと……」1枚60円とか80円。何枚か買うと、店番をする高齢の男性が360円だという。きっかり小銭を出すと男性はレジに360と打ち込んで、消費税が付いて389円になったレシートを私に見せ、「いくら?」と聞くから、「389円になるんですね」と自分で言って、改めて千円を出した。「お釣りはいくら?」と私にまた聞くから、指を総動員して計算し、「611円」と言うと、レジの中からゆっくり釣り銭を出して「合ってる?」とまた聞かれた。合ってると答え、せんべいを受け取って店を出た。私には、こういうやりとりが好ましい。せんべいは手焼きで素朴、今日も明日も食べたい。  店を出て、さらにぶらつく。目に入ったのは、一軒の古書店。そういえば以前、「つくろい」のシェルターに仮住まいする本好きな男性が入院することになって、ここで2~3冊見つくろって送ったっけ。久しぶりに店先の棚をのぞき込む。1冊選び、ぎっしり両棚に本が並ぶ店内に入って奥に座る女性に渡すと、280円と書いてあったのに「100円でいいです」と言うから、ありがたく100円を支払う。それから「ここらはみんな、拡張工事でお店がなくなっちゃうんですかね」と聞くと、「どうでしょうか、そうそう簡単にみなさん、建て替えるとは思えないですけど」と言う。敷地が狭くなるとか、営業上の問題が大きい。「そうですよねぇ」と少しホッとして答えながら棚を見回すと、哲学書や、タイトルだけでは何の本か判断しかねる学術書がぎっしり並ぶ。すると女性が「うちはそれとは別におしまいにするかもしれません」と言う。どうして? 「ここは夫がやっていたんですが、去年の暮れに亡くなったんです」  ええーっ、なんてことだろう。「これだけの本があって、もったいないです」と答えて、また棚をぐるり見回した。 「でも、お客さんに本のことを聞かれても私は分からなくて、もうしわけない。大学の先生や、その生徒さんたちが多くいらして、夫はその方たちと話し込んでました」  ああ、そうか。でも……。 「そこにある椅子、そこにみなさん、腰掛けて話されていたんです」  言われて初めて椅子に気がついた。小さな木製のスツール。その脇には古いこけしがいくつも並ぶ。「本の買い取りに行くと、『いっしょに持って行ってほしい』と預かって、いつの間にか増えました」  以前に文庫を買ったときに見かけた、亡くなった店主の姿を思い出し、「これといったものがない」町での、お客さんたちとの濃密であったろう本を巡る時間を思う。でも、女性もまたおしゃべり好きで、あれこれ思い出を語ってくれる。そうやってお客さんと、もうしばらくここで思い出語りをしてくれやしませんかね。 「また来ます」  そう言って、店を出た。 ◆  それとはまた別の日の、日曜日。沼袋を目指して歩いていたら目の端っこに、植え込みに座り込む男性が映った。ん? スタスタと近寄って、「おじさん、ダイジョブですか?」と聞いてみた。顔を上げた男性は、「歩けなくなりました」と答える。「お水飲みます?」と聞くと「はい」と言うので、「コンビニで買ってくるから、待っててください」と言って小走りに踏み出すと、私の背中に向けて男性が、「おにぎりを1つ買ってください」と、思ったより元気な声で言う。「わかりました」と叫んで、コンビニでおにぎりや水を買って渡した。それから隣に座って話を聞けば、救急車で運ばれた病院から出て来ちゃったことが分かった。どうしたらいい? 「つくろい」の小林さんに電話を入れて相談すると、病院へ連れて行ってほしいと言われて正直なとこ、面倒に思った。とはいえ、置き去りには出来ない。なんとかお連れすると、事情がちょっと違った。宿直医なのか若い男性が「何も問題ないって、さっき言ったでしょう」と、冷たくあしらう。「座り込んでいたから、診てやってよ~」と私が言うと、医師らしき人はちょっと困った顔をした。だけど私自身もこれ以上はどうしたらいいか分からず、「じゃ!」と帰ろうとしたら、「帰りのタクシー代を千円貸してください」と男性がまた私の背中に言うから、振り向いて千円を渡し、ひとり沼袋に向かった。  そして翌日、「つくろい」の小林さんが男性の家を訪問するという。生活困窮者支援というと公園での炊き出しが思い浮かぶだろうけど、「つくろい」の支援は家を失くした方などをシェルターにまず保護し、生活保護利用につないでアパートに転宅を出来るよう手伝う。人が生きる基本には住まいがあり、住まいは人権、という考え方だ。その後もアパートにぽつんと孤独にならないよう、訪問を続ける。小林さんが「この方も訪問リストに加えてほしいか聞きに行く」と言うから、「一緒に行ってもいい?」と私も同行することにした。  前日に男性から聞いた「マンション」の住所に着くと、そこはこぢんまりとしたアパートで、残念ながら留守だった。仕方なく手紙をドアに挟み、帰ろうとするとアパートの横の木に小さな花が咲いているのを小林さんが見つけ、「わぁ、夏みかんの花。香りがいいよ、ほら」と言う。私も嗅いで、「癒やされる~!」とおよそ癒やされている風ではない叫びをあげた。 ◆  沼袋にある「つくろい東京ファンド」に戻ると、わいわいとにぎやかだ。専従スタッフは基本5人いて、ほかに経理のユミさんやボランティアの人たちがいる。コロナ禍になって大忙しで、新たに専従スタッフとなった村田結さんに、男性に会った話をする。 「立派なマンションに住んでるって言ってたんだけどね」 「男性はそういう方が多いです。自分が困ってることを伝えるのが苦手な方も多く、昔はこんなだったんだぞと大きく言ったり、鬱っぽく、怒りっぽくなる人もいます」 「そういうのを聞いてあげるの?面倒にならない?」 「基本的に興味がありますから」  30代初め、若い村田さんがどうしてそう出来るんだろ? 「小学校からピアノを始めて音楽が好きだったんですけど、精神的に具合が悪くなって、行くところがなくなっちゃったんです。18歳でした。それで、テレビで見たホスピスで傾聴ボランティアを始めました。人生の残り時間を好きなように過ごさせてくれるそこで、昔社長さんだった方が自分には『氷結』のロング缶を、私にはお菓子を買ってくれ、『昔は愛人が何人もいて、当時は高かった携帯をみんなに持たせてさぁ』とか話してくれるんです。私はふむふむ聞いてました。みんな往生なことがあっても一生懸命に、好きなように生きてるんだなぁと思って、私も自分の好きなことをやろうと、あきらめていた音楽をまたやることにしました」  小柄な村田さんが「つくろい」が支援するお年寄りの背中にソッと手を添えるように病院に連れて行ったり、外国の人の荷物を運ぶのを手伝っていたりする姿を、沼袋でよく見かける。その姿も「これ」だよなぁ。村田さんの音楽、今度ゆっくり聞いてみたい。  それから外に出て、駅前にある100均に寄る。靴を洗うたわしを買って、気になってたことを、レジを打つ男性に聞いてみた。 「ここって、もしかしなくても、おじさんが経営してるんですか?」  いきなり尋ねる変な人だ、私。でも男性はためらいなく答える。 「はい、そうですよ」  やっぱり。 「仕入れ問屋があって、そこから自分で仕入れてます」  へ~、と思ったらお客さんが来て会話はおしまい。ここは沼袋の人気店。小さな店内にすきまなく物が並び、「沼袋のドンキ」と勝手に呼んでいる。ないものは、ない(はずだ)。ないと思って「あります?」と尋ねると、たいてい出てくる。「ドラえもんいます?」と聞いたら、出てきそうな勢いだ。  沼袋にはもう一軒、人気の店がある。Sという床屋で、格安カットの昭和版といったところ。何がどう昭和かって、店構えもだけど、切ってくれる理容師さん3人が88歳を筆頭に皆、後期高齢者だ。私も行くたび長老88歳に切ってもらうけど、一時期ちょっと疲れてるかな?と見え、左右のバランスが悪かったり、短く切りすぎて、「ちょっとちょっと」と私があたふた止めた。「なのに何故、行く?」と友達に聞かれるが、長老も元気が戻れば大丈夫。左右の長さもしつこいほど(笑)チェックして、「何かあったら、いつでも直すから」って言う。  店には用もない近所のおじさんがおしゃべりをしに来ていたり、「長崎で原爆に遭った」話なども聞かせてくれる。どうしても短く切りたがりなのは、「おねえさん(←私のこと)切ってると、娘を子どもの頃に切ってたのを思い出すの」って言う。娘は私とさほど年が変わらなく、子どもの頃は短く刈り上げていたらしい。それを聞いたら、まぁ、短くても伸びるよね~って思っている。長老の口癖は「若くなりたい」で、若くなったら何するの?と聞くと、「仕事をしたい」と言う。それなら、私もずっと切ってもらわなきゃ。 ◆  さて、「つくろい東京ファンド」が営む「カフェ潮の路」ではコロナ禍になってお弁当を配布/販売している。そこにエプロンをつけて立つ代表の稲葉剛さんになんで沼袋なんですか?を聞いた。 「2013年の末にビルのオーナーさんからワンフロア丸々、安価で貸して下さる申し出を受けました。当時はホームレス状態の人が都内で生活保護申請をすると、大人数の相部屋の施設が紹介され、いじめられたり、お金をたかられ、また路上に戻ってしまう負のサイクルが続いてました。そこで個室型のシェルターを沼袋に開設し、その運営のために『つくろい』を立ち上げたんです」 撮影/写真映像部・馬場岳人  沼袋で良かったですか? 「はい。生活保護で1人世帯の家賃扶助の上限が、東京では5万3700円。沼袋ならマンションみたいな所も借りられたりします。駅前のN不動産のおかげですが」  N不動産? 気になって訪ねたら、社長さんが話に応じてくれ、「私がここを始めた20年前、この地域は留学生が多かったんです。そこからおじいちゃん、おばあちゃん、次は福祉の方と、だんだんお客さんが広がりました。みなさん、いい人だなぁって純粋にそう感じています」と言う。そして、「お知り合いがお知り合いを呼んでくれた感じですかねぇ」とゆっくり、感慨深げに、生活保護を使う人たちに寄り添うことを話してくれた。フリーランスの私自身、家探しにはいつも苦労する。頂いた名刺を大事にしまった。  で、稲葉さんの沼袋談に戻る。 「入居する方は当初、新宿や池袋の路上で長く暮らしていた高齢男性が多かったんで、『つくろい』の屋上にあがって、『あっちが新宿で都庁があって、あちらが池袋でサンシャインがあって』と案内をすると安心してもらえましたね」  沼袋はちょうどいい場所にある。こんな話をしてる間にもカフェにはお弁当を求める人が続々来て、「オムレツって何が入ってるんですか? 卵?」なんて小林さんに聞いてるから、ついつい笑う。  そして、「つくろい東京ファンド」という名前について聞いた。 「セーフティネットが整備されてきてもほころびがまだあちこちにあって、それをつくろうという意味と、ファンド(基金)には、スタッフがそれぞれアイディアを出し、その時々のニーズに合った活動をしようという意味なんです」  それを聞いて、事務所で話をしたスタッフの佐々木大志郎さんと、大澤優真さんを思い出す。コロナ禍にあって最初の緊急事態宣言が出された頃、休業となったネットカフェから人が路上にあふれ出て、その支援に「つくろい」はてんてこまいだったが、貧困の形も多様化してきたと二人は話す。 「路上に出てしまう、二歩手前の人が増えてるんです。バイト・アプリで仕事を得て日雇いで働き、入金サイクルの都合でお金がなくて今夜は泊まるところがないけど、明日もアプリで仕事は得られる。そういう人たちは生活保護に即つなげるより、ゆるくつながり、何を支援したらいいかを考えないといけない」と佐々木さん。  一方で大澤さんは、仮放免者や難民の人たちの支援にあたる。 「外国人支援を『つくろい』で本格的に始めたのはコロナ禍になってからで、怒涛の2年です。仮放免の人たちがコロナで入管の施設から出てきてからのたいへんさは継続していて、今はそれに加えて入国制限が緩和され、新規の難民の人たちが大勢、日本に来ています。もう限界ばっかりで出来ないことだらけ。他の団体の人たちから『大澤さんは支援するとき、お金はどうするんですか?』と聞かれるんですが、『(事務所に)連れてきちゃえばいいんです』って答えてます」  そう話す向こうで、稲葉さんの耳がピクピクッとしていたのを見逃さなかった。  そしてコロナ禍に、支援者も変わった。佐々木さんは、「小説家を目指してきたのが、34歳ぐらいからなりゆきでこの仕事を10年やってきて、ずっとやるんだなと、つい最近思うようになりました」と言う。「生活保護おじさん」という芸人キャラに扮し、TikTokで啓蒙活動も始めた。小林さんは「コロナ禍に自分で原稿を書いて発信を始め、さらに忙しくなった。でも現場を知ってもらわないと、変えようがない」と話す。貧困は一過性のものではなく、終わりのない支援はずっと続く。そう言えば、沼袋に向かう途中で会った男性も「昔、稲葉さんに助けてもらったことがある」と何度も言っていた。助けられた人は、ずっと忘れないよね。 ◆  これが2023年5月の、これといったものがない東京都中野区沼袋、そのスケッチである。4年後に線路が地下に潜って道が広くなったこの町を歩いたら、私は今を懐かしむのだろうか。それとも「ここ、何があったっけ?」などとシレッと言い、無人でAIなお店であたりまえの顔をして買い物をするのか。それはイヤだ。私は面倒をかけたりかけられたりしながら、叫んだり、笑ったり、浮いたり沈んだりして東京の熱と埃と響きの中に暮らし続けたい。そう願っている。(了)※週刊朝日  2023年6月9日号
沼袋
週刊朝日 2023/06/11 16:00
6月11日は、暦の上での「入梅」。「雑節」は、天文現象に基づいた暦日です
6月11日は、暦の上での「入梅」。「雑節」は、天文現象に基づいた暦日です
気象上の梅雨入りとは別にある、暦の上の「入梅」をご存知でしょうか。 入梅の日が重視された理由とは? 今回は、日本ならではの風土からうまれた「雑節」についてご紹介します。 日本ならではの季節の変化を反映した「雑節」 太陽黄経とは、太陽が天球上を通る経路(黄道)を等角に分割した座標のこと。スタート地点の春分点を0度として、360度に等分されています。 太陽黄経が80度となる6月11日は、暦の上での「入梅」の日です。古くは二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」に入ってから最初の壬(みずのえ)の日とされていましたが、江戸時代の「天保暦」以来、太陽の運行に基づいて入梅の日が定められました。入梅の日を知ることは、田植えに水が必要なために重要だったのです。 暦の上での「入梅」は「雑節(ざっせつ)」にあたります。日本独自の季節の変化をより的確に捉えるために、中国から伝わった「二十四節気」に加えられました。 太陽の運行が導く、暦の上での「入梅」 「雑節」は、国立天文台の「暦要項(れきようこう)」にも記載された天文現象に紐付いた暦日です。 主な雑節は、「節分」「土用」「彼岸」「八十八夜」「入梅」「半夏生」「二百十日」など。太陽黄経が当てられているのは、春土用(27度)、夏土用(117度)、秋土用(207度)、冬土用(297度)、入梅(80度)、半夏生(100度)の6節になります。 それ以外の雑節は立春に紐付いており、節分は立春の前日、田植えや茶摘みの時期を知らせる八十八夜は立春から数えて88日目、台風などの自然災害が多いとされる二百十日は立春から210日目の日が当てられています。 梅雨は梅が熟す季節。気軽に梅仕事を楽しもう 6月16日からは七十二候の「梅子黄(うめのみきばむ)」に入ります。梅の実が黄色になる頃。一説には「梅雨」は、梅の実が熟す頃の雨を意味します。7月2日は梅雨明けを控えた「半夏生」。この日は、田植えを終える目安とされていました。折々の季節の節目として重視にされてきた「雑節」には、古の人々の知恵と経験が息づいています。 1か月半ほど続く雨の季節。「入梅」は梅が色付く頃でもあります。梅雨時は、梅仕事も楽しみのひとつですね。梅干はもちろんですが、ジャムやコンポートなど、果物として気軽な梅仕事を楽しんでみてはいかがでしょうか。 ・参考文献 岡田芳朗・松井吉昭著 『年中行事読本』 創元社 ・参考サイト 国立天文台「暦Wiki雑節とは?」
tenki.jp 2023/06/11 00:00
岩合光昭×ねこまきが語り尽くすネコ愛「裏切られても愛さなきゃ」
岩合光昭×ねこまきが語り尽くすネコ愛「裏切られても愛さなきゃ」
岩合光昭(いわごうみつあき・写真右)/ 1950年生まれ、東京都出身。80年に「海からの手紙」で木村伊兵衛賞を受賞。日本人として唯一、「ナショナル・ジオグラフィック」の表紙を2度飾る。ネコの撮影がライフワークで、『日本のねこみち』『岩合光昭 写真集 猫にまた旅 フィルムカメラ編』など著書多数。(撮影/写真映像部・高野楓菜)ねこまきさんの愛ネコ、ノルウェージャンフォレストキャットのマロン(左、7歳)とみかん(5歳)。兄貴分のマロンは普段あまり甘えないが、みかんがいなくなった途端、「にゃー」とそばにやってくる(写真:本人提供)  5月末で休刊した「週刊朝日」の“オアシス”といえば、岩合光昭さんの「今週の猫」と、ねこまき(ミューズワーク/夫婦で活動中)さんの「しっぽのお医者さん」。愛らしいネコの姿をとおして読者の心を潤し続けてきた連載筆者が語りあった。休刊の寂しさも吹き飛ぶ、超弩級のネコ愛をお届けするにゃ。 *  *  * ──みなさんの出会いは、ねこまきさんが原作、岩合さんが監督を務めた映画「ねことじいちゃん」(2019年)ですか? ねこまき妻(以下、ねこ妻):実はその前からお仕事をいただいていて。 岩合:そうそう。何かでねこまきさんのイラストを見たとき、「このかわいい絵を描いたのは誰?」ってなって、NHKの「岩合光昭の世界ネコ歩き」の本にイラストを描いてもらったんです。「ねことじいちゃん」の漫画もすごく気に入ったので、監督をお引き受けして。 ねこ妻:いやー、大喜びしましたよね。 ねこまき夫(以下、ねこ夫):ま、まさか!って。 ──映画を機に、岩合さんの担当編集者がねこまきさんを知り、同年から「しっぽのお医者さん」を連載していただくことになりました。 ねこ夫:ずっと聞けなかったからもやもやしてたんですけど、タイミング的に映画とちょうど一緒だったので、あ、これ、岩合さんのご縁だろうなと。 ねこ妻:本当にありがたいことです。 ねこ夫:動物を描くのが本当に好きなので、ネコにこだわらずいろんなのを描かせてもらってます。トカゲとかオウムとか出てくるのは、もう描きたいから描いてるだけみたいな(笑)。 岩合:(「しっぽのお医者さん」の単行本を手に取りながら)ねこまきさんだからネコがかわいいのは当たり前なんだけど、特にトリの表現の仕方がすごくお上手ですよね。たとえばこのキバタンってどうやって観察して描かれたんですか? ねこ妻:知り合いが飼っているインコを参考にしたり、あとはYouTubeを見たりとか。 岩合:ウサギのあくびもすごい。この鼻!(笑) ねこ妻:ウサギは飼っていたことがあって、ちょいちょい思い出しながら。でも岩合さんみたいに本物を追いかけられる方とは観察できることが全然ちがう。行ってみたいとは思うんですけど。 ──岩合さんは、週刊朝日やアサヒカメラなど様々な媒体で長年連載陣を務めてくださいました。 岩合:一番初めは「アサヒグラフ」で「海からの手紙」を連載させていただいていたから、もう70年代後半からですよ。あのときは、取材費をもらえると思ったらフィルム代しかくれなくて……。 ねこ夫:ありゃ(笑)。 岩合:でも驚いたことに銀行が貸してくれて。28歳から30歳ぐらいまでの3年間の連載でしたけど、写真家としてすごく自信を持つきっかけとなった作品でした。若いときは、当時の写真界で神のように言われていた編集者の方に、「ピントも合ってないし、眼医者行ったらいいんじゃない?」とかさんざん言われましたね。動物が写ってるだけじゃない写真が撮りたくて、10年間模索して。で、10年経ったとき、僕をけなしていた編集者がアサヒグラフの連載を見て、「お前は写真が撮れるようになったな」ってポストカードをくれて。すごくうれしかったです。 ──映画「ねことじいちゃん」は岩合さんの初監督作となりましたが、原作となる漫画が生まれた経緯は? ねこ妻:うちの母が亡くなったのがきっかけなんです。家族で母の思い出を語ったときに、山口県の母の実家から見える海がずっと忘れられないなと思って。それで、海に面した昔の日本の風景を舞台に描こうと。 岩合:瀬戸内海と、山と、のどかな空気。僕も背景は大切にするので、それがすごくよかった印象がありますね。 ■“ハル院長”は○○に似ている ねこ妻:ロケハン大変だったってお聞きしました。 岩合:制作プロダクションの社長と一緒に愛知県の島に行って、ここじゃないな……とか。 ねこ夫:想像も入っているからぴったり合うとこなんてないと思います。一応、愛知県の篠島、日間賀島、佐久島がモデルになっていますけれど、瀬戸内海だろうが、九州だろうが、それぞれの記憶のなかにあるネコがいる場所、みたいな感覚で捉えてもらえればいいのかなと。映画のオープニングで、セリフがほとんどなしで、島の雰囲気を伝えていく場面が続いてたと思うんですけれど、 岩合:ネコに島を案内させていますからね。 ねこ夫:誰かにしゃべらせなくてもカメラワークだけで見せることができるんだって学んで、9巻あたりからはかなり影響を受けていると思います。 ねこ妻:「しっぽのお医者さん」も影響されてるかも。ハル院長(主人公である動物病院の看板ネコ)って、映画で主役のタマを演じたベーコンに近いものがあるなと。オスで顔が大きくて。 岩合:僕好みのネコです(笑)。 ──映画を撮るうえで大事にしたことは? 岩合:全シーンにネコを出したい(笑)。どこを切ってもどこかにネコがいる映画にしたくて、プロダクションから40匹ほど連れてきてもらって。 ねこ妻:とにかくネコがいっぱい出てきて楽しめましたよね。しかもすごく生き生きしていて、さすがだなーと。 岩合:でもプロダクションのネコだから木にも登ったことがなくて、木登りのシーンは大変でした。 ねこ妻:箱入りネコちゃんだ(笑)。 ねこ夫:ベーコンもいい演技してましたよね。 岩合:“じいちゃん”こと大吉を演じた立川志の輔さんが、息子役の山中崇さんから「東京で暮らそうよ」って言われるシーンを撮影していたら、志の輔さんが抱いているベーコンがポーンってはねて庭に下りてしまったんです。そのままカメラは回していたんですけど、山中さんが「タマも東京で暮らせるよ」って言ったら、ベーコンが振り返って山中さんの足元に行って、手水鉢にたまっていた水を飲んでくれて。ベーコンのアドリブなのですが、鳥肌が立ちました。この映画の重要な意味がそこで表現できた。島で生まれて育って果てていくっていうのは、ずっと島の水を飲んで暮らしているわけですよ。だから水を飲むことで、この島で生きていくということを表せたんじゃないかなと。 ──ねこまきさんも撮影現場を見学されたとか。 ねこ妻:ロケハンのときに一回お邪魔させていただいて。でも本番を撮影されているとき、夫の母親が、私たちになにも言わずにロケ現場に突撃してまして。 ねこ夫:すみません、勝手に行ってたんですよ。 ねこ妻:それなのに、「こう撮ってるんですよ」ってすごく親切に教えてもらったって、大喜びで帰ってきて。あの後も味を占めて、何回も行ってたよね。「トマト持って行くから」って。 ねこ夫:そうそう。新鮮な野菜が手に入らないという話だったので、島に渡る前の市場で買って行ったはいいけれど、(スタッフの)人数がめちゃめちゃ多いもんだからあっという間になくなっちゃったみたいな(笑)。 ──岩合さんもねこまきさんも、2匹のネコと暮らしています(岩合家:玉三郎と智太郎、ねこまき家:マロンとみかん)。 ねこ夫:やっぱり家の中を走りまわってます? 岩合:走りまわってます。 ねこ夫:あー、傷だらけになりそうですね。 岩合:ネコのための家を建てたので、地下1階から3階まですべての扉にキャットドア、リビングにはキャットウォーク、柱には爪とぎがあります。前に住んでいたマンションはカーテンとかボロボロにされたんですけど、今はまったくしなくなりましたね。 ねこ妻:幸せなタマトモちゃん。 岩合:タマトモのためのローンですよね。借金を返すために一生懸命働いてます(笑)。 ねこ夫:あと、2匹で走りまわってジャンプして、空中でぶつかりあうんですけど、あれもやるもんなんですか? 岩合:やります。テレビで「笑点」とかを見ている前をパーンって飛び交ってて、「野性すごいね」って(笑)。プレイファイトというか、どっちが高く飛べるかとか彼らのルールがあると思います。 ねこ夫:そうなんですね、初めて見たときはなにやってんのかなと思って。 岩合:すっごい激しいですよね。うちは窓の近くの椅子を倒しそうになるときがあって、窓割れる!みたいな。 ──2匹の仲は良い? 岩合:うちは兄弟ということもあって、仲が良いです。夜とかひとりで急に寂しくなったとき、家族が居間にいるのに、わざと廊下から呼ぶんです。で、僕らが行かないと、もうひとりが行ってあげるんですよ。あの絆には入れないですね。 ねこ妻:うちも、どっちかがひとりぼっちのときは、もうひとりが行ってあげる感じで。 ねこ夫:オス同士で、2歳離れてるんですけどね。 岩合:寝るときは一緒ですか? ねこ妻:別々です。 ねこ夫:高いところの取りあいをしたりとか。 ──みなさんのベッドに入ってきたりは……? 岩合:うちは足もとに。 ねこ妻:私はないんですけど、夫のほうには。 ねこ夫:入ってます(笑)。 ──2匹の存在は、作品づくりに影響している? ねこ妻:ネタは、自分のところのネコのことばっかりです。 岩合:僕も影響は多大ですね。すごく近しい人だけに見せる一瞬の表情を、うちのネコは当然見せる。一期一会のネコたちであっても、なるべくカメラを意識させないでこういう表情を撮りたいなって、日々感じています。 ねこ夫:朝、ただ「にゃー」って言ってるだけなんですけど、「おはよう」って聞こえるんですよね。表情からいろいろ読み取って、なんかしゃべりかけてきてる気がするよな、みたいな。でも、夫婦でも話しかけられ方がちがうよね。 ねこ妻:うちは夫にべったりです。 岩合:ネコって表情がないみたいに思われがちなんですけど、めちゃくちゃあるんですよ。ねこまきさんの漫画を見ると、子ネコを舐めるときの顔と、授乳をしている顔と、甘えている顔と、全部ちがうんですね。すごいです。ちょっとした線の描き方で、これだけ表現できるんだと。これを映像でできたら最高です。 ■裏切られても愛さなきゃ ──ネコを愛らしく描く、撮るうえで心がけていることは? ねこ妻:ネコって思いどおりにいかないじゃないですか。言うこと聞かないし、呼んでも来ないし、触りたいときには触らせてくれないのに、甘えるときは一方的に甘えてくるとか。みんなが「あー、そういうとこあるよね」って思ってくれるようなところを描くように気をつけています。 岩合:愛らしい姿を撮ろうと思ったら終わり。それはこちらの思いなんですよね。ネコは自分では決して愛らしいと思っていないわけで、僕は私は愛らしいって顔をされたら、それは限りなくイヌに近くなるんですよ。キミ、それはネコとしてどうなのよ?って(笑)。 ねこ妻:たしかに。 岩合:世の中的には今、イヌ化したネコを求めつつあって、なんでもこちらが思うとおりに動いてくれるネコを求めてしまう。でも、それが裏切られるのがネコであって、そこを愛さなきゃいけない動物だと思います。 ──岩合さん/ねこまきさんのこんな作品を見てみたい!という夢はありますか? ねこ妻:私、「世界ネコ歩き」で、岩合さんの心の声がポロッと出ているときが本当に好きで。こちらも思うことを咄嗟に発せられるのが面白くて。 岩合:下手なこと言えないんですよ、使われちゃうんで(笑)。 ねこ妻:「ここまでがきみのテリトリーかい?」とか、すごく優しいんですよね。それで、ちょっと見てみたいなと思っていたのが、岩合さんがネコを撮影している状態を撮影している作品。 岩合:それは却下します(笑)。視聴者の方はネコを見たいんです。僕も、こういう素晴らしい動物が我々のすぐ間近にいるんだよ、心がポッと温かくなる動物なんだよっていうことを知っていただきたいので、主役はネコであることが大前提。僕はおつまみで出てくるくらいでいんです。出たがり屋ではないのに、なぜか出させられる……。 ねこ妻:みなさんが望まれるから。 岩合:僕、昔、アフリカで作家の山崎豊子さんに言われたことがあって。「岩合さん、カメラマンである以上カメラの前に出てきちゃだめだよ」って。ちょうど『沈まぬ太陽』を書かれていたときですよ。 ねこ妻:わぁ……。 岩合:(作中に)岩合っていう人物が出てくるんですけど、なぜか悪徳企業の社長で。僕、山崎さんに悪いこと一つもしてないのに(笑)。でも本のカバーの太陽の写真は、全部僕の写真なんですよ。あれ印税にしときゃよかったなー、本当に。 一同:(笑) 岩合:あ、僕が見てみたいねこまきさんの作品は、もう単純に、人物が登場しないネコだけの……。 ねこ妻:私もできるならやりたいですよ。 岩合:ヒト抜きの「猿の惑星」みたいなものです。 ねこ妻:ネコの惑星。いいですね、そしたら岩合さんにまた長回しで映画を撮っていただいて! (構成/本誌・大谷百合絵)※週刊朝日  2023年6月9日号
ねこまき岩合光昭
週刊朝日 2023/06/10 11:30
ジェーン・スー「求む!下戸でも隙をつくる方法! あるとないとでは、大違いなのです」
ジェーン・スー ジェーン・スー
ジェーン・スー「求む!下戸でも隙をつくる方法! あるとないとでは、大違いなのです」
求む!下戸でも隙をつくる方法(イラスト:サヲリブラウン)  作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニストとして活躍するジェーン・スーさんによるAERA連載「ジェーン・スーの先日、お目に掛かりまして」をお届けします。  *  *  *  こう見えて、私は下戸です。私の姿かたちを見たことのない人にとっては何のことやらと思いますが、どうやら私は酒が強そうに見えるようです。言いたいことはわかる。  父親が極度の下戸なこともあり、我が家ではアルコールが食卓に上ることはありませんでした。だから、飲みたいとも思わなかったのです。  飲めない体質だとわかったのは、リキュール入りのチョコレートボンボンを食べたときでした。味は苦いし、なんだか胸が苦しくなるし、いいことなし。大学時代の飲み会ではウーロン茶ばかりでした。  社会人になり、今度は仕事の付き合いで飲みの席に参加することが増えました。お酒が飲めたほうがよい場面もありトライもしましたが、一口二口でも毎度気分が悪くなるだけ。これは私には無理だと悟りました。以来、食べる専門です。  つい先日、そんな私の口のなかにアルコールが入ってきました! デザートのシャーベットに、うっすらリキュールが含まれていたのです。普段ならアルコール探知機の如く即座に気づくのですが、甘くて冷たくておいしくて、ついついペロリ。  同席していた友人と会話を続けているうちに、心臓がバクバクしてきました。呼吸も浅く なり、なにかおかしい。こりゃアルコールが入っていたな?  いやあ久しぶり! こんにちはアルコール! 体調に変化はあれど、幸い「悪化」というほどでもなく、結果、普段の自分では決して解除できない備え付けの警戒網のようなものが、自然にほどけていくのを感じました。  俯瞰の自分がアルコール入りの自分を見下ろして思うことはひとつ。いまの私には、隙がある! お金を払ってでも手に入れたいと常々熱望している隙が!  色恋の話だけをしているのではありません。人付き合いにおいて、相手を緊張させずに済む「間」のようなものが隙です。これがあるとないとでは、大違いなのです。 イラスト:サヲリブラウン  私は隙がなく威圧的に見えるようです。それで助かる場面もありますが、隙があるほうがうまくいく場面も数多い。年齢を重ねるとますますそう。  普段からは想像できないほど、わけもなく自分がニコニコしているのがわかります。いつもこうだったら、いいのにねえ。お酒の力を借りずに隙を手に入れる方法、改めて探してみます。 ○じぇーん・すー◆1973年、東京生まれ。日本人。作詞家、ラジオパーソナリティー、コラムニスト。著書多数。『揉まれて、ゆるんで、癒されて 今夜もカネで解決だ』(朝日文庫)が発売中※AERA 2023年6月12日号
ジェーン・スー
AERA 2023/06/08 19:00
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識
体重83キロが124キロに 知の巨人・佐藤優が語った「過食」と「病」への当事者意識
佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ 撮影/飯田安国  週3度の透析、前立腺癌、冠動脈狭窄――。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、自身の病に向き合う『教養としての「病」』を主治医と共に上梓した。病における教養とは、当事者意識とは何か。一部を紹介する。  透析導入に至るまでの私と病気の関係について振り返っておきたい。私は慢性腎臓病になった最大の原因は、生活習慣によるものだったと考えている。特に過食による肥満だ。  1979年4月に同志社大学神学部に入学したときの私の体重は62キロだった。身長が167センチメートルだったので、ごく標準的な体重だ。それが大学院を出たときには83キロに増えていた。修士論文を書く過程で机に向かって本を読み、文書を書くのと、外交官試験の勉強が重なり、ほとんど運動をしなくなったのでそうなった(もっとも小学校のときから体育は苦手科目で、運動は嫌いだ。今でも大学の単位で体育を落としそうになる夢を見ることがある)。  1985年に外務省に入省し、86年から1年間、イギリスに留学しているときにだいぶ痩やせて体重は65キロになった。87年にモスクワに異動してからもこの体重を維持していたが、88年6月にモスクワ大使館の政務班で勤務し、89年頃からロシア人と会食をしながら情報を取るようになってから急に太り始めた。場合によっては、昼食と夕食をそれぞれ2回ずつとることもあった。  1日の摂取カロリーは5000キロカロリーを軽く超えるので太るのも当然だ。90年には100キロを超えるようになった。ときに110キロくらいになることもあったが、絶食をして100キロまで体重を落とした。  中学生時代からショートスリーパーで睡眠時間は3時間台だった。それがモスクワ勤務時代も日本の外務本省で働いているときも続いた。2002年5月14日に鈴木宗男事件に連座して、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に勾留されると夜9時から朝7時半まで床に入っていることが強制されたが、なかなか寝付けずに辛い思いをした。拘置所から保釈されるとすぐに3時間台の睡眠に戻り、それが透析を導入するまで続いた。透析導入後は、疲れやすくなり毎日6~7時間は眠るようになった。  モスクワ時代には、年に2回くらい扁桃腺を腫らし、41~42度の熱を出すようなことがあったが、本格的な対症療法で済ませていた。今になって思うとこの扁桃腺炎が腎臓に悪影響を与えていたのだと思う。 ■健康よりも北方領土交渉を選ぶ  7年8ヵ月のモスクワ勤務を終えて、1995年4月から外務本省の国際情報局で勤務することになった。ロシア情報の収集や分析、北方領土交渉で、土日を含め毎日働くような状態が続いた。ロシアにも年に十数回は出張した。月の超勤時間が300時間を超えることも珍しくなかった。体重は100~120キロの間で変動した。  1996年秋、急性扁桃炎で高熱が続き、喉に激痛が走ったので、外務省の官舎のそばにあった船橋済生病院に入院した。その際に尿たんぱくがかなりでていてIgA腎症の疑いがあるということで、専門医を紹介されたが、一度診察を受けただけで、受診しなくなってしまった。当時の私には、健康よりも北方領土交渉のほうがはるかに重要だった。1998年5月の連休に再び扁桃腺炎で高熱が続き、喉に激痛が走った。このときに東京女子医大病院の耳鼻科に入院した。このときに東京女子医大病院との縁ができる。  それからしばらくは病院とはほとんど縁のない生活をしていた。  鈴木宗男事件の渦に巻き込まれたストレスで、2002年1月には105キロだった体重が5月14日の逮捕時には70キロに激減していた。2003年10月に保釈されたときは若干太り、75キロになっていた。 ■丸茂医院から女子医大へ  人工透析を行う透析室の例 提供:つくば腎クリニック  2004年春からは婚約者(現在の妻)と国分寺市に住むようになった。裁判を抱えながら、2005年3月にはデビュー作『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を上梓し、作家として第2の人生を始めた。  ときどき扁桃腺を腫らし、西国分寺駅そばの丸茂医院に通院するようになった。丸茂菊男先生は慶應義塾大学医学部の卒業で、当時80代だったが、頭脳も明晰で手先も器用な名医だった。私と妻は2005年5月に入籍し、2009年春には新宿に引っ越した。ただし、かかりつけ医は丸茂先生のままだった。  2010年1月に丸茂先生から慢性腎臓病が進行している可能性があるので、大学病院で診てもらうといいと言われた。丸茂先生が書いた同年1月21日付の診断書から1部を引用する。 === 傷病名:(1)高血圧症、(2)高脂血症、(3)高尿酸血症、(4)肥満、(5)糖尿病、(6)ネフローゼの疑い、(7)尿崩症の疑い 紹介目的 平成16(2004)年5月より上記(1)~(5)を治療中でしたが、21(2009)年夏より下肢浮腫、尿蛋白強くなり、24時間蓄尿検査にて(6)(7)が疑われますので御高診宜よろしくお願いします。 症状経過及び検査結果 平成16(2004)年5月、上気道炎症状により来院、血圧150/110、肥満85キロ、身長167センチメートル、血液検査により(2)(3)判明 === こうして私は東京女子医大病院腎臓内科にお世話になるようになった。片岡浩史先生は腎臓内科3代目の主治医だ。  片岡先生との関係については、対談でも触れるので重複を避けるが、医学的見地からだけでなく、私の人生設計を考えて、最適のアドバイスをしてくださった。 ■当事者意識を持つ  それでも作家としての仕事が忙しくなるにつれて会食が増え、体重が増加していった。2010年時点では83キロだった体重が2020年には124キロになってしまった。  肥満患者の特徴は、過食の事実を否認することだ。この年の11月、片岡先生から急速に腎臓が崩れているので、減量とたんぱく質制限、塩分制限をしないと数ヵ月以内に透析になると警告された。  同時に片岡先生は、病院の栄養士の石井有理先生を紹介してくださった。  ここでようやく私も当事者意識を持つようになり、石井先生の指導を受けながら食餌療法と運動療法を併用し、約1年で79キロまで体重を落とすことに成功した。一時、10キロ近くリバウンドしたが、再び減量に取り組んで、この2ヵ月で3キロほど体重を落とすことができた。当面は70キロを目標にして減量に取り組んでいる。  検査結果からだけで判断するならば、半年から1年前に透析導入になってもおかしくなかった。片岡先生は私の全身状態と意思を総合的に判断し、透析導入のタイミングをできる限り後ろ倒しにしてくれた。その結果、3年分くらいの仕事を1年で処理することができた。  私はキリスト教徒(プロテスタント)なので生命は神から預かったものと考えている。神がこの世で私が果たす使命が済んだと思うときに、私の命を天に召す。この世界に命がある限り、私にはやるべきことがあると考え、仕事と生活に全力を尽くすようにしている。  現時点で腎移植まで進むことができるかどうかは、分からない。腎移植が成功すれば、そこで長らえた命を自分のためだけでなく、家族と社会のために最大限に使いたいと思う。  そこまで進めないのならば、透析という条件下で、できる限りのことをしたいと思っている。 『教養としての「病」』 (1034円<税込み>集英社インターナショナル新書) 佐藤優(さとう・まさる)/作家、元外務省主任分析官。1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2005年に発表した『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』で第59回毎日出版文化特別賞受賞、06年『自壊する帝国』で第5回新潮ノンフィクション賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。 (AERAオンライン限定記事)
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AERA 2023/06/08 11:00
ロバート・グラスパーが若手にダメ出し 現代ジャズ最高峰ミュージシャンにインタビュー
森朋之 森朋之
ロバート・グラスパーが若手にダメ出し 現代ジャズ最高峰ミュージシャンにインタビュー
最新作で5度目のグラミー賞を受賞したロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬)  アルバム「ブラック・レディオIII」で5度目のグラミー賞(第65回グラミーション/ベストR&Bアルバム)を受賞したことも記憶に新しいロバート・グラスパー。5月に来日公演を行った世界的ジャズミュージシャンへの単独インタビューが実現した。 *  * * ■来日公演は連日ソールドアウト  5月29、30日にBillboard Live東京で行われた来日公演は、全ステージが発売早々にソールドアウト。日本での人気ぶりを改めて証明した。  まず登場したのはDJのジャヒ・サンダンス。先鋭的なヒップホップがプレイされるなか、ロバート・グラスパーとバーニス・トラヴィスII(ベース)、ジャスティン・タイソン(Dr)がステージに上がり、演奏がはじまった。ジャズ、R&B、ヒップホップ、オルタナティブ・ロックなどを融合したアンサンブル、メンバー個々のセンスと技術を活かしたインプロビゼーション。ジャズの伝統と革新を同時に感じさせる演奏で満員の観客を惹きつける、最高のステージだった。  2010年代以降の世界のジャズシーンを牽引し、多くのミュージシャンに影響を与えているロバート・グラスパーは、日本でも頻繁にライブを行ってきた。昨年12月、コロナが少し収まりかけていた時期にいち早く来日し、カウントダウン・ライブを行ったことも印象に残っている。 「自分のスタジオを作って、娘が誕生して。パンデミックの時期も良いことはたくさんありました」というロバート・グラスパー。昨年からはツアーも再開し、度々日本を訪れている。 「日本には20年くらい前から何度も来ています。日本の文化やファッションが好きだし、何より音楽を好きでいてくれる日本の人たちが大好きなんです。私にとって日本は、平和を感じられる場所。その雰囲気を吸収した状態で曲を作るのは、すごくいいことだと思います。とにかくずっと旅をして、演奏しているので、無意識のうちに何かに影響されたり、受け取っているものがあるんでしょうね。日本に来たら必ず買うもの? 僕は日本のファッションが好きだけど、残念ながら自分には合うサイズがない(笑)。妻や子どもは着物がほしいと言っています。必ず買うものはキットカットかな。いろんな味があるのは日本だけだから(笑)」 Billboard Live TOKYO でのライブ直前にインタビューに応じてくれたロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬) ■音楽シーンを席巻した『ブラック・レディオ』  00年代前半からジャズミュージシャンとして音楽活動をスタートさせたロバート・グラスパー。彼の名が世界中に届いたきっかけは、「ロバート・グラスパー・エクスペリメント」名義で2012年に発表した『ブラック・レディオ』だった。ジャズ、R&B、ヒップホップなどを自在に取り入れた音楽性は当時の音楽シーンに衝撃を与え、史上初めて4つのジャンルのチャート(ヒップホップR&B、アーバン・コンテンポラリー、ジャズ、コンテンポラリー・ジャズ)で同時にトップ10入りしたアルバムとなった。 「『ブラック・レディオ』は当時の音楽業界にとても大きなインパクトを与えたし、本当に多くの人たちをインスパイアした作品だと自負しています。今となってはクラシック・アルバムですが、自分でも誇りを覚えますね。あのレコードによってジャズはいろんなジャンルと融合できることを証明できたと思うし、いろんなタイプのミュージシャンとコラボすることが増えた。自分の活動が広がったんですよね」 『ブラック・レディオ』以降、ジャズの姿は大きく変わった。アメリカ、ヨーロッパ、そしてここ日本でもジャンルの交流が進み、優れた作品が次々と発表されたのだ。ロバートは長い間止まっていたジャズの時計を再び動かしたと言っていいだろう。 「音楽は同じ場所に留まっているのではなく、動き続けるべき、進化するべきだと思っています。それを私に教えてくれたのは、トランペット奏者のロイ・ハーグローヴ。ヒューストンの芸術系の高校に通っているとき、学校に教えてきてくれて、その後、ツアーにも帯同したんです。ジャズを進化させようとする彼にインスパイアされて、“次は自分がその役割を担わなくてはいけない”と思うようになりました」 ■目指すのはコミュニティを作ること  ロバートは、数多くのミュージシャンとの共演やコラボを繰り返していることでも知られる。最近ではカマシ・ワシントン(サックス)、テラス・マーティン(サックス/プロデューサー)――いずれも現代のジャズを象徴する存在だ――と“ディナー・パーティー”を結成。LAのフェス<コーチェラ2023>に続き、5月に埼玉県・秩父で行われたジャズフェスティバルにも出演を果たした。 「才能のあるミュージシャンと一緒に音楽を生み出すことは本当に刺激的だし、これからも続けたい。ただ、基本的には“自分が好きな音楽を作る”ということがいちばん大事だと思っています。自分のやり方で自分がいいと思う音楽をクリエイトし、みなさんがそれを気に入ってくれたらいいな、と。私の音楽を通して初めてジャズを知り、ジャズクラブに来てくれる人も多いですからね。ただ、それは自分のゴールではなくて。私が目指しているのは、いろいろな世代、いろいろなジャンルのミュージシャンが集まるコミュニティを作ることなんです。日本人のミュージシャン、BIG YUKIもその一人です」 「私にとってのスーパーヒーロは母親」と語るロバート・グラスパー(撮影/今村拓馬) ■若い世代に言いたいこと 「下の世代のミュージシャンから刺激を受けることも多いです。“トラップ・ハウス・ジャズ? なんだそれは?”と新しいジャンルについて教えられることもあるので」という笑顔で語るロバート。一方で彼は、「“若いミュージシャン、ラクしてないか?”と思うこともある」と苦言を呈する。 「音楽大学の学生から、インスタのDMなどで“あなたの楽曲の楽譜を見せてくれませんか?”と言われることがあるんですが、そういうときは“自分で聴いて、譜面に起こして、練習しろ”と返します。私が若いときは、ハービー・ハンコック、チック・コリアといった素晴らしいミュージシャンの作品のCDやカセットテープを聴き、譜面を書き、ひたすら弾いた。そうやって耳と身体と感覚を使って音楽をやってきたからこそ、今の自分があると思っています。筋肉はトレーニングで鍛えるべきで、簡単に身に付けることはできない。怠け者になるな!と言いたいですね」  2022年にリリースされた『ブラック・レディオ3』は、コロナ渦の真っ只中で制作された作品だ。しばらくは「ずっと家のカウチに座っていなくちゃいけなくて、退屈でした」という状態だったが、つながりのあるミュージャンたちとリモートでやりとりし、遠隔的なセッションをスタートさせた。また、パンデミックの最中にアメリカで起こったさまざまな出来事も、彼に大きな刺激を与えたという。 「ジョージ・フロイドの死、それに伴う抗議運動。LAの自分の家の近所でビルが燃えたこともあったし、あの時期、アメリカで起きていたことは『ブラック・レディオ3』に強く反映していると思います。このアルバムに収録した『ブラック・スーパーヒーロー』という曲は、若者、特に黒人の若者に向けています。彼ら、彼女らにとって大切なのは、尊敬できるヒーローのような存在の人がいるということ。何が正しくて、何が間違っているか。夢を持つことの大切さ、そして、それを叶えることが可能なんだと教えてくれる人ですね」  あなたにとってのヒーローは?と訪ねると答えは「母親」だという。 「私にとってのヒーローは、母です。昼はオフィスで仕事をして、夜はクラブで歌って、私のためにすごくがんばってくれた。母のおかげで自分は音楽に囲まれて育ったし、影響はとても大きいです」 (森朋之) ロバート・グラスパー(Robert Glasper)/ジャズ/ゴスペル/ヒップホップ/R&B/オルタナティブ・ロックなど多様なジャンルを昇華したスタイルで、次世代ジャズの最重要人物として注目を集める現代最高峰のピアニスト。2012年、“エクスペリメント”名義でリリースした『ブラック・レディオ』が第55回グラミー賞「ベストR&Bアルバム」部門を受賞。ピアニストとしては初の受賞という快挙を達成する。20年にはH.E.R.とミシェル・ンデゲオチェロをフィーチャーした「Better Than I Imagined」で第63回グラミー賞最優秀R&Bソングを獲得。22年2月にリリースした『ブラック・レディオ3』は、第65回グラミー賞で「最優秀R&Bアルバム賞」を受賞。 *取材協力:ビルボードライブ
dot. 2023/06/07 18:00
謎多き廃墟、冷凍保存された「ピラミデン」 北極圏に眠る社会主義国家を佐藤健寿がとらえた
佐藤健寿 佐藤健寿
謎多き廃墟、冷凍保存された「ピラミデン」 北極圏に眠る社会主義国家を佐藤健寿がとらえた
(C) KENJI SATO  写真集『奇界遺産』『世界』やTV番組「クレイジージャーニー」で知られる写真家・佐藤健寿さん。これまで世界120カ国以上をめぐり、「人間の<余計なもの>を作り出す想像力や好奇心が生み出したもの」をはじめ、さまざまな奇妙な光景や文化を撮影してきました。最新作『PYRAMIDEN(ピラミデン)』は、北極圏に眠る廃墟をとらえた貴重な写真集。刊行を控えた写真家・佐藤健寿さんに話を聞きました。 *  *  *■冷凍保存された20世紀の“ピラミッド”の正体とは ――今回撮影したピラミデンとはどのような場所なのでしょう。佐藤さんが興味をもった理由を教えてください。  ピラミデンはノルウェー領のスヴァールバル諸島の中心部にあって、北緯でいうと78度、北極点までは1000kmほどです。もとはスウェーデンの探検家が石炭を発見して、山の形になぞらえてピラミデンと名付けました。その後、スウェーデンからロシアが買収し、第二次大戦以降から炭鉱都市として栄えていました。それが1991年のソビエト連邦崩壊後、徐々に人々が姿を消してゴーストタウンとなりました。 (C) KENJI SATO  ピラミデンという名前そのものもそうですが、北極、社会主義と面白いキーワードが並ぶ場所なので、いつか必ず訪れたいと思っていました。ただ北極圏にあるため、極夜だったり、雪が多すぎたりするとアクセスができない。だからずっと行けるタイミングをはかっていて、コロナが収まってきた2022年にやっと行くことができたんです。どうしてこういう場所が生まれたのか、複雑な歴史や時代背景も非常に面白いんですが、ここで説明しきれないので詳しくは年表と解説にまとめたので写真集の方でご覧いただければと思います。写真集ながら、ロシア語の資料もあたって歴史を調べたので、多分ここまでピラミデンについてまとまっているものは、少なくとも日本語では初めてだと思います(笑) ――これまで多くの廃墟を撮影してきた佐藤さんですが、ピラミデンの特徴はどのようなものだったのでしょう。  今まで行った中ですごい廃墟というと、軍艦島やチョルノービリに隣接したプリピャチがありますが、こうした世界的に有名な廃墟に全く引けを取らない壮大なスケールの場所でした。ただ特異なのは、それらの場所と違って建物や街がほとんど劣化していないことです。 (C) KENJI SATO  普通、多くの廃墟は廃棄されたあとで誰かが入ってイタズラしたり、自然に侵食されていくんですが、ピラミデンに関していえばそういうことがほぼ起こっていない。まず場所柄、特殊な移動手段を使わないと普通にはいけない場所ですし、北極なので当然近くに街もない。またそもそも植物もほとんど生えていないような場所なので、植物に侵食されることもないんですね。だから比喩ではなく、本当に「冷凍保存された街」という表現がしっくりくるくらい、廃棄されたままの姿で眠っているような、不思議な光景でしたね。 ――街の中の様子はどんな感じだったんでしょうか。  旧ソ連の世界がそのまま残っていました。表紙にも使っているレーニン像に象徴されますが、合理化された住宅設計と無駄のない計画都市で、街全体がひとつのシステムのような感じです。そもそも人がいたとしても、どこか架空都市っぽい場所なのに、それが廃墟となっているので、まるでかつて映画撮影で作られたセットの街のような虚構感というか。 (C) KENJI SATO  面白かったのは、冷戦時代、ソ連本土では西側諸国の映画や音楽といった娯楽はほとんど禁止されていたのにも関わらず、ピラミデンでは割と寛容だったそうです。だからマンションの部屋などに入ると、大っぴらにビートルズとかシュワルツェネガーのポスターが貼ってあったりして。それは当時のソ連の典型的な暮らしとはだいぶ違っていた。現地でガイドに聞いた話では、そうした音楽とか映画はピラミデンを訪れる西側諸国の人々から入手していたものだそうです。  一方で、ソ連当局としては、ピラミデンはそもそも冷戦時代にあって、西側諸国の領土にあるソ連にとっては例外的な「飛び地」だった。ある意味では冷戦の最前線でもあったわけで、ソ連にとってみれば西側諸国に社会主義都市の完成度を見せつけるためのショールームでもあったそうです。だからある程度は文化的にも自由さを許容することで、西側に全く遅れていないことを見せつける必要もあったのかもしれません。写真集の中では内部の写真も多数掲載しているので、そのあたりのディティールも見ていただけると面白いのではないかと思います。 (C) KENJI SATO ■世界の“特異点”にフォーカスする旅 ――ピラミデンはどのように訪れるのでしょうか。  日本はスヴァールバル条約の原加盟国なので、島自体はビザなしで訪れることができます。ただ当然直行便はないので、まず日本からオスロ(ノルウェーの首都)へ行って、そこからスヴァールバル諸島の中心にあるロングイエールビエンに飛びます。そこから大体船で3時間ほどでピラミデンに着きます。ルートそのものは特に難しいことはないんですが、誰でもアポ無しで行ける場所では当然ないので、バレンツブルグにいるロシア人ガイドなどを雇っていくしかないですね。  ただし、自分が訪れたのは2020年の8月なんですが、その2カ月後に、ノルウェーが主導するスヴァールバルの観光局がウクライナ戦争に対する人道的処置を理由に、ロシアとの提携を打ち切りました。だから現在は多分アクセスがさらに難しくなっていると思います。 (C) KENJI SATO ――そういう意味でも貴重な撮影となったわけですね。撮影で特に記憶に残っていることはありますか。  一番驚いたのは、白熊が出没したことですかね。スヴァールバル諸島自体、人間より白熊の方が多いと言われているくらいで、人間のいる場所にもよく迷い込むので、例えばロングイエールビエンでも街から一定以上離れる場合は猟銃の所持が義務付けられています。ピラミデンでも白熊がでるかもということだったので、ガイドはずっと猟銃を持っていたんです。それで撮影途中で本当に白熊が3頭現れて。結局街の中心部までは入ってこなかったんですが、すぐに建物の中に避難させられて、その時は異様な緊迫感がありましたね。  あとはピラミデンには3日間滞在したんですが、ちょうど白夜の終わりだったので、午前1時頃まで日が沈まない。それでまた朝5時くらいには日が昇るので、撮影しようと思ったら深夜12時頃まで全然できてしまうんです。だから明るい室内で撮影していてふと時計を見たら午後11:30だったりして、時間の感覚が狂いました。インターネットはもちろん使えませんし、携帯電話のローミングも含めて電波も入らないので、外部からも一切遮断されていて。もともと地理的にも世界の果てのような場所にあって、しかもタイムトラベルしたかのような不思議な景色で、さらに時間感覚もおかしいので、ずっと夢の中にいるような奇妙な撮影体験でしたね。 佐藤健寿『PYRAMIDEN(ピラミデン)』※本の詳細をAmazonで見る ――今回の写真集の特にこだわった部分を教えてください。  造本という部分では、今回デザインは大島依提亜さんにお願いしています。大島さんといえば映画のポスターデザインなどでとても有名ですが、自分も映画が好きなので、大島さんとはいつかお仕事をしてみたいと思っていました。それでピラミデンの情景がどこか映画っぽい気もしたので、依頼させていただきましたが、おかげさまで本当にかっこいい本にしていただいたと思います。 佐藤健寿『PYRAMIDEN(ピラミデン)』  本全体もぱっと見はとてもシンプルなんですが、ところどころにマニアックな意匠を凝らしています。印刷は多くの写真集を手がける京都のサンエムカラーさんにお願いして、普通の印刷ではあまり使われないちょっと凝った工夫もしています。廃墟というとやはり陰影がポイントになるんですが、北極の廃墟という独特な場所の冷たさとか暗さだったり、空気感の再現含めて、全体にとても良いトーンで出ていると思います。 ――最後に本書は「Lens of Wonder」シリーズと冠されています。このシリーズについて教えてください。  まだ具体的なシリーズのテーマを考えているわけではないんですが、とりあえずは世界の「特異点」といいますか、今回のピラミデンのように絵力だったり、歴史的に興味深い場所に、ワンテーマ一冊でフォーカスした写真集のシリーズとして出せていければ良いなと思っています。続刊としてすでにバヌアツのカーゴカルト編も刊行を予定していますが、そのあとどうなるかは、まだ全然未定です。 佐藤健寿さんによる写真集『PYRAMIDEN』は、いよいよ2023年6月7日(水)に全国書店で発売。また、「PYRAMIDEN」のカットも展示した「佐藤健寿展 奇界/世界」が6月11日まで山口県立美術館で開催中。2023年7月15日からは群馬県立館林美術館で開催予定です 佐藤健寿写真家。世界の民俗から宇宙開発まで、世界120カ国以上を巡って幅広いテーマで撮影。代表作『奇界遺産』『世界』ほか多数。写真展「佐藤健寿展 奇界/世界」(山口県立美術館他)、「世界 MICROCOSM」(ライカギャラリー東京他)ほか各地で開催。instagram:@x51
PYRAMIDENクレイジージャーニーピラミデン佐藤健寿書籍朝日新聞出版の本読書
dot. 2023/06/07 17:00
五月病、六月病にも効く「心の予防注射」とは? うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル【後編】
五月病、六月病にも効く「心の予防注射」とは? うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル【後編】
※写真はイメージです。本文とは関係ありません  4月から新しい環境で生活をスタートさせた人も多いでしょう。新生活に慣れた頃にやってくるのが、五月病。最近では六月病という言葉も使われます。  元陸上自衛隊のメンタル教官で、定年退官後はNPO法人メンタルレスキュー協会理事長を務め、数多くのカウンセリング経験を持ち、新書『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』の著者の下園壮太さん。陸上自衛隊の幹部自衛官だったときに、上司のパワハラでうつとなり地獄を見て、その後、退官して現在は航空業界で働くわびさん。その際の経験を記した著書『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』は、各方面で反響を呼びました。  自衛官の先輩、後輩でもある二人が、本当に役に立つメンタルスキル、バーンアウトしてしまう前に知っておいて欲しい「心の予防注射」について、語りあいました。 ※前編「屈強な自衛官でも、心は壊れる。うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル」よりつづく *  *  *■「我の健在」──まずは自分が生き残ることが大事 下園:自衛隊の幹部候補生は、戦場で自分たちが生き残ることが大事であることを基礎の基礎として必ず学びます。わびさんの著書でも「我の健在」という表現を紹介してますよね。 わび:おっしゃるとおりです。 下園:戦争というと、敵を倒すことだけが目標であるとイメージする人も多いでしょう。しかし、実際は違います。敵を倒すことだけでなく、その戦いで自分たちが消耗しつくさないようにすることも重視するのです。仮に戦闘で負けても、自分たちが生き残っているかぎり、リベンジのチャンスがあるわけです。  わびさんもそれを習ったはずだと思うのですが、「意識高い系」の志がそれを忘れさせてしまったのでしょうね。 わび:仕事をとにかく全力でと思っていて、その後のこと考慮せずに行動をしていました。だからこそ、精神を激しく消耗してしまったのだと思います。  その後、カウンセリングやメンタルヘルス関連の書籍を読むことなどからも「我の健在」の大切さを再確認し、今でも考え方の礎においています。 下園壮太著『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』(朝日新書)※Amazonで本の詳細を見る 下園:人生は長期戦です。なおさら「我の健在」を重視する戦略が必要となるわけです。自分が犠牲になってもいいから、与えられた課題をとにかく完遂する(したくなる)のが日本人のメンタリティですが、それは短期決戦の考え方です。長期戦の場合、過重なミッションを果たした後は、しっかりとリカバリー期間を設けていかなければいけません。 わび:同感です。戦争でも、相手を倒す「決戦」と、一挙に決着をつけずに戦況を維持する「持久戦」を明確に分けています。現在の私はこの考え方を応用し、スケジュールの全体を把握して、「全力を出すべきポイント」と、「手を抜いて心身を休めるポイント」を見極めて仕事をしています。 ■「二正面作戦の否定」と「7~3バランス」 下園:自衛隊で学んだことが役に立っているわけですね。 わび:そうですね。だから、同じ自衛隊出身である下園先生と自分の考え方に共通点が多いように感じています。  例えば、私はベクトルの異なる目標を立てる「二正面作戦」を否定しています。かけ離れた目標は、両者が足を引っ張り合ってしまうからです。また、自分の人生の中で主となるものをしっかりと決めておけば、さらなる選択肢が現われた時にも迷子にならず、重要度が低いほうを切り捨てやすくもなります。  下園先生が提唱する「7~3バランス」がこれに近いなと思ったんです。 下園:そうですね。「7~3バランス」とは、無意識が望む「今の自分」を“0”、意識が望む「新しい自分」を“10”としたときに、“3~7”になるように目標を設定することです。多くの人は、「今の自分」と「なりたい自分」のギャップにイライラしてしまいがちです。分かりやすい例で言うと、ダイエットですね。「なりたい自分」に向けて完璧を目指して10頑張ってしまうと、どこかで無理が来て、リバウンドして「今の自分」に戻る0の状態になってしまいます。  0か10かの極端な方向を目指すのではなく、「3~7」の間に入るバランスの良い目標や、「3~7」の間の行動をしていたらOKと自分を評価する考え方で、わびさんの「二正面作戦の否定」と通じるものがあります。 わび著『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)※Amazonで本の詳細を見る ■先を読み過ぎず「今」に集中 わび:私は“今”に集中することも大事にしています。私の悪い癖のひとつとして、先のことを心配したり、過去のことを振り返ってくよくよ後悔したりすることがあります。そうするとメンタルがどんどん疲れていくんですね。  対策として、思考を“今”に戻すようにしています。心配や後悔を断ち切って心に平穏を取り戻せるからです。私の場合は、筋トレや神社やお寺のお参り、ハーゲンダッツを食べることが思考を“今”に戻すスイッチです。 下園:自衛隊でも、そういう考え方はありますよね。戦場では、いつ何が起こるかわかりません。だから、不安に駆られて先の先まで読んでいくと、戦いの前に疲れ切ってしまいます。そこで“読まない”訓練をします。大きな計画ほど、当初だけを詰め、後はざっくりとした案にとどめておくのです。後半部分は、その時になって考えればいい、“今”に集中するというわびさんの考え方に近いですね。 わび:そのとおりですね。 下園:強大な敵が目の前にいるとき、正面から挑むことを自衛隊では「突破」と言います。一方で、正面の敵と戦わず、その後方に回り込み、戦わないで勝利する方法を「迂回」と言います。戦術セオリーとしては後者が圧倒的に有効とされているんです。  わびさんも、自衛隊生活では「突破」を繰り返して消耗してうつになってしまいましたが、その過程で得られた考え方も多いと思います。その結果、目の前の自衛隊という課題から離れることになったのですが、これは迂回しているものと考えることができます。戦術のセオリー通り、最も有効なルートを進み始めているのです。今、わびさんは重要な目標に向かって邁進しているなとお見受けしました。 わび:ありがとうございます。おかげさまで、現在携わっている仕事は大変なのですが、消耗せずに取り組むことができています。もし、これを読んでいる方のなかで心が弱っている方がいたら、「我の健在」を意識して、仕事への向き合い方を見直してみてはどうでしょうか。  そして疲れたときは、下園先生が仰る「おうち入院」も実践しています。病院に入院したつもりで、例えば週末の2日間、とにかくごろごろと寝るようにする。家族の理解が欠かせませんが、これでもかなり回復します。 【図版】ライフイベントのストレス ■「心の予防注射」──知っていることは力になる 下園:わびさんがやっているような、戦略的に仕事を見て、いつ「休める」かを先に考えておくのも大事ですし、疲れたときは「おうち入院」も有効です。ライフイベントのストレス表を見て、仕事だけでなく、家族関係で色々あったときは、自分がいつもより疲れていると知っておくことも大事です。 わび:人は仕事をしているだけでなく、家庭生活も含めて、トータルで生きているわけですから、全体を見て、自分の疲れ具合を確認しておくことも大事なんですね(ライフイベントのストレス表参照 ※外部配信先では図版などの画像が全部閲覧できない場合があります。図版をご覧になりたい方は、AERA dot.でご覧ください)。 下園:うつの一番わかりやすい兆候は、眠れなくなる、食べられなくなることです。この二つが出てきたら、迷うことなく精神科医やカウンセラーなどの専門家に速やかに相談してください。 わび:私もうつになったときは、まさしくその状況でした。 下園:自衛隊の災害派遣のときに、私が隊員に教えているのもそのことなんです。災害派遣では多くのご遺体に接したり、非常につらい現実を目の当たりにします。そうしますと、誰でもご飯が食べられなくなったり、眠れなくなったりします。それは当然の反応ですし、やがて時が経てば、それも収まってきます。  ところが、そのことを知らない隊員は、「こんなことで食べられくなったり、眠れなくなったりするなんて、自分はなんて弱い人間なんだ」「とても、こんなことは人には言えない」と思い、挙げ句には「こんな自分では自衛隊は務まらない」とまで思い詰めてしまう。  だから事前に、その反応は当たり前で、誰もがなることなんだよ、と伝えておきます。私はそれを「心の予防注射」と言っていますが、知っていることで救われることはたくさんあるんです。 わび:「心の予防注射」に私も深く共感いたします。私もうつというつらい経験をして、それを乗り超えた今だからこそ、もっと早く知っておいたほうが良かった、と思うことがたくさんあります。  つらいときは、逃げてもいいし、うつでつらい思いをする人がもっと減って欲しいと思い、『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)という本も出版しました。  下園先生の『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』(朝日新書)も「心の予防注射」として多くの人に読んで欲しいと思います。 下園:知っていることは力になりますからね。人間は誰でも疲労するし、疲れ切るとまともな判断もできなくなる。そのことを多くの人が知って、適切に休みを取りながら、それぞれの人生を楽しんで欲しいと心から願います。 (構成/星政明) 下園壮太さん 下園壮太(しもぞの・そうた)1959年、鹿児島県生まれ。NPO法人メンタルレスキュー協会理事長。元・陸上自衛隊衛生学校心理教官。1982年、防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊入隊。筑波大学で心理学を学び、1999年に陸上自衛隊初の心理幹部として、多くの自衛隊員のメンタルヘルス教育、リーダーシップ育成、カウンセリングを手がける。2015年に退官し、講演や研修を通して、独自のカウンセリング技術の普及に努める。惨事ストレスに対応するMR(メンタル・レスキュー)インストラクターでもある。主な著書に『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』『自衛隊メンタル教官が教えるイライラ・怒りをとる技術』(以上、朝日新書)など多数。 わび航空業界で働く危機管理屋。某国立大学卒業後、陸上自衛隊幹部候補生学校に入隊。高射特科大隊で小隊長、その後、師団司令部や方面総監部で勤務。入隊後10年間は順風満帆だったが、早朝から深夜までの激務と上司によるパワハラが重なり、メンタルダウン。第一線からの異動を経て、「出世ばかりが人生ではない」「人に認められるためではなく、もっと楽しく生きたい」と思い、市役所に転職。激務だった自衛隊時代に比べると天国のような場所だったが、自らの成長の機会を得るため、転職後1年半で航空業界にキャリアチェンジ。給料は市役所時代の倍に跳ね上がった。自衛隊などの社会人経験で身につけたメンタルコントロール術、仕事や人間関係に対する向き合い方などを中心にツイッターで発信を開始。普通の会社員にもかかわらず、開始して2年で8万人フォロワー突破。ツイートはネットニュースにも取り上げられ、人気を博している。著書に『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)。
うつわびメンタルダウン下園壮太書籍朝日新聞出版の本自衛隊メンタル教官読書
dot. 2023/06/06 16:00
屈強な自衛官でも、心は壊れる。うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル【前編】
屈強な自衛官でも、心は壊れる。うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル【前編】
屈強な自衛官だからといって、メンタルが強いわけではない ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(Mehmet Ozkan / iStock / Getty Images Plus)  4月から新しい環境で生活をスタートさせた人も多いでしょう。新生活に慣れた頃にやってくるのが、五月病。最近では六月病という言葉も使われます。  元陸上自衛隊のメンタル教官で、定年退官後はNPO法人メンタルレスキュー協会理事長を務め、数多くのカウンセリング経験を持ち、新書『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』の著者の下園壮太さん。陸上自衛隊の幹部自衛官だったときに、上司のパワハラでうつとなり地獄を見て、その後、退官して現在は航空業界で働くわびさん。その際の経験を記した著書『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』は、各方面で反響を呼びました。  自衛官の先輩、後輩でもある二人が、自身の自衛官時代のうつ体験、そしてそこからの回復の道のりについて、語りあいました。 *  *  *■自衛隊でまず、叩きこまれること わび:下園先生は防衛大学を何期に卒業されたのですか。 下園:26期です。 わび:私は一般の大学を卒業してから陸上自衛隊に入隊したのですが、下園先生の25年ほど後輩になります。 下園:わびさんも、入隊後に「陸上自衛隊幹部候補生学校」で学んだんですよね。鍛えられる場所だったでしょう。 わび:のんびりとした大学生活を送っていたので、幹部候補生学校の規律の厳しさには面食らいました。起床ラッパで目を覚ましたら3分以内に着替えて外で整列しないといけないわけですから。印象的だったのが半長靴(はんちょうか)という隊員用のブーツを毎日ピカピカに磨かなければならず、できなければ何度でもやり直しになることでした。 下園:大学時代から全寮制の生活を送ってきた防大卒でも厳しいと感じるので、一般大卒の方にはなおさらだったでしょう。そうしたしきたりを通じて、それまでの価値観をいったん壊し、自衛隊の流儀をたたき込みながら、メンタルの強さを育んでいくのが自衛隊の流儀ですね。戦場にいることを想定した組織ですから、普通の日常生活とは違う感覚、意識を植え付けます。 下園壮太著『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』(朝日新書)※Amazonで本の詳細を見る  戦場にいるときに、上官の命令にいちいち、「これをやる意味はあるのですか?」などと反論していたら、その間に敵にやられてしまうかもしれないので、まずは上官の命令に即座に動けるような訓練をするわけです。 わび:自衛隊で教わったことで今も役に立っていることはたくさんありますが、「簡明を基調とせよ」というのも心に刻まれています。上官に報告するときに、モタモタと話していると、「結論から言え。グダグダ話して、結論を言わないうちにお前が敵にやられたら、他に報告する人間はいないんだぞ」と叱られました。  極端に聞こえるかもしれませんが、言われてみれば、これが戦場の現実です。それ以来、口頭の報告でも文章でも、簡明を基調とし、結論から伝えることを習慣にしています。 下園:その考え方は、自衛隊以外の会社でも当てはまるものですね。自衛隊というのは、シビアな戦場を生き抜くことを基本とした行動や考え方が蓄積されていますので、その他の世界でも有用なことがたくさんあります。 ■屈強な自衛官だからといって、メンタルが強いわけではない わび:本当にそう思います。ただ、だからといって、自衛官がみんな絶対に壊れない強靱なメンタルを持っているのかというと、そういう訳ではありません。 下園:そうですね。自衛官は、自分の身体に自信を持っている人が多いです。だからこそ、ちょっとした病気をしたり、ケガで思うように動けなくなったりしたときに、ズンと落ち込んでしまうことがあります。  有名な人でいえば、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉さん。陸上自衛隊の幹部候補生学校の登山走大会では、彼が残した記録が今でも破られていないはずです。  そんな円谷さんも、持病の腰痛が悪化し、理想となる走りができなくなり、メキシコ五輪に向けての訓練中に自死してしまったわけです。  そこから読み取れるのは、1つのことに全集中してしまうよりも、複数のより所を持つべきであるということ。それも、「静」と「動」、身体を動かすことと、静かにできることの両方を持つことをオススメしています。 わび著『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)※Amazonで本の詳細を見る わび:私自身もメンタルを壊したことがあるので、よくわかります。「剛健」であれという幹部候補生学校の理念に染まった私は、学級委員的なポジションである「自律実践係」に立候補します。幹部のあるべき姿を追いかけ、「意識高い系」の幹部自衛官としてキャリアをスタートしました。  その後、師団司令部から幹部上級課程(AOC)を経て、方面総監部へと異動したのですが、そこでうつになったんです。 下園:師団司令部と方面総監部、それに陸上幕僚監部を加えた3つの部署は業務内容の高度さや多忙さ、緊張感などで過酷な部署なんですよ。私も師団司令部で任務に当たっていたときは辞めたくなりました(笑)。 わび:師団司令部の仕事は非常に高度で緊張感もありましたが、人間関係に恵まれ、明るく前向きに取り組むことができました。私生活も順調で、AOCを修了したころに双子に恵まれました。転落のきっかけとなったのは、方面総監部への転属です。そこで、パワハラにあったんです。 ■パワハラで身も心もぼろぼろに 下園:どんなパワハラでしたか。 わび:嫌がらせと理不尽な叱責です。報告や連絡を後回しにされるのは当り前。仕事のことばかりでなく、弁当の中身や子どもの名前などのプライベートについても言いがかりをつけられました。  常に「怒られる」ことが頭から離れず、缶コーヒーの種類も選べないほどになってしまいました。どの缶コーヒーなら怒鳴られずに済むのかなって考えてしまって……。  覚えていないのですが、ある日、職場で叫びながら自分のデスクの中に潜っていたようで、そのまま病院に運ばれました。「過労状態」「うつ病」「不安神経症」と診断を受け休職することになりました。 【図版】ライフイベントのストレス 下園:アメリカの学者であるホームズとレイがまとめた、ライフイベントのストレス表があります。様々なライフイベントが心に与えるストレスを数値化して評価するものです(表参照 ※外部配信先では図版などの画像が全部閲覧できない場合があります。図版をご覧になりたい方は、AERA dot.でご覧ください)。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません  お子さんが生まれたとわびさんはおっしゃっていましたが、家族が増えるという幸せな出来事も、実は心に重圧を与えるものなんです。さらに異動による新しい仕事と労働環境の変化があった。そんな状態の時に、たまたま強烈なパワハラのストレスが加わって、心が悲鳴を上げてしまったのでしょうね。 わび:追い込まれすぎてしまっていて、別の上司に助けを求めたり、担当窓口に相談したりする気力もありませんでした。 ■メンタルを指導する教官自身がうつになる 下園:私も在職中にうつになったことがあります。でも、言葉は変ですが、わびさんに比べると“恵まれた”うつでした。  1996年に自衛隊初の心理幹部に就任してから、色々な場所に派遣されてカウンセリングをしたり、講演をしたり、最初の著書を執筆したり、家を建てたり、新しい車買ったりと、私も、多数のライフイベントが重なっていたんです。  そんな折、アメリカで「9.11」テロが発生し、よりメンタルヘルスの重要性が認知されるようになりました。張り切った私はより精力的に仕事をしていたのですが、ある講演のときに急に吐き気がして話せなくなって講演を中止して、そのまま倒れてしまったんです。 わび:それは大変ですね。 下園:講演では「誰でもうつになる」と言いながら、自分は絶対にならないという変な自信がありました。でも、まんまとそうなったわけです。  翌日には師団等の幹部約500名を集めた重要な講演があったのですが、それもドタキャンさせてもらいました。私がラッキーだったのは、それを許容できる職場だったことですね。講師役を変わってくれる勇気ある同僚もいたし、メンタルヘルスを担当する部署だったので、休める雰囲気もあったのです。信頼できる精神科のドクターと一緒に活動していたので、すぐに受診し、うつの診断をもらいました。  休養のため1カ月は完全に休みを取り、休み後も業務量を絞って勤務をするうちに、1年ほどで元の状態に戻ることができました。「また壇上で喋れなくなったらどうしよう」という恐怖のあった講演の仕事も、復帰から1年経った頃には再びできるようになりました。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません ■うつからの回復には「自信」がポイントになる わび:復活するきっかけはあったのですか? 下園:やはり「自信」を回復したことでしょう。自信とは、成功を重ねて、「もう失敗しないだろう」という予測ができるようになることだと思うんです。  私の場合は、先ほども言ったように周りの理解のもとに少しずつ仕事をできたことにあると思います。カウンセラーとしてクライアントと面談をする際にも、回復を焦らないように抑えつつ、ある段階からは1歩ずつ挑戦して、「できた」という達成感を積み重ねて自信にするように伝えています。 わび:私の場合も、小さな達成感の積み重ねでメンタルダウンから回復しました。医師の指示に従いながらトレーニングをしたり、神社の御朱印巡りをしたりすることで、職場復帰への自信をはぐくむことができたんです。 下園:それはよかった。 わび:復帰後には、陸上自衛隊のある学校へと異動になるのですが、そこでの自衛官との出会いが私を大きく変えました。「自衛官はかくあるべき」と凝り固まっていた思考から、人生という物事を戦略的、大局的に見る術を獲得できたのです。  その方は高度な知識を持っていましたが、いわゆる出世コースからは外れた人でした。以前の自分でしたら、自分の目標とする自衛官ではないとたいして気にもしなかったかもしれませんが、その生き方は爽快で、組織にとって本当に必要だと思うことは、上司に忖度することなく意見していました。  この方の「人生戦略」とも言える生き方、考え方は、私のメンタルを回復する土台となりました。 下園:わびさんのキャリアを拝見していると、今の言葉は非常に納得できます。AOC(幹部上級課程)では戦術・戦略についても学びます。ただ、一般的な自衛隊幹部は、AOCで学んだことをきちんと理解できる人はそれほど多くないと思っています。なぜなら、現場での経験が少ないから。また、戦場では当たり前の「人の極限の心理状態」を知らないから。 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(francescoch / iStock / Getty Images Plus)  でも、わびさんはAOC入校前から師団司令部に所属し、宮崎県の口蹄疫問題や東日本大震災などの災害派遣の実績もある。さらに幸か不幸かメンタルダウンを経験した。だからこそ、その戦術的・戦略的な考え方を自分のものにできたのだと思います。その知識を生かし、退官後も異なる職場で活躍できている。しっかりとレジリエンス(しなやかな回復力)を身に付けられたのとだと思います。 わび:ありがとうございます。 ■うつからの回復は慎重に、でもどこかで勇気も必要になる 下園:もうひとつ、わびさんのキャリアで良いチョイスだと思ったのが、メンタルヘルス回復期の熊本地震の災害派遣です。 わび:私も運命的な出来事だったと考えています。職場復帰から3年ほどの時間が経っていましたが、薬は手放せず、メンタルダウン以前の自信を取り戻せてはいませんでした。その頃に熊本地震が発生しました。  災害派遣に参加することに周囲の人は反対しましたが、熊本は幹部候補生学校を出た後に最初に配属されたところであり、東日本大震災での活動経験もある私にとっては、なかば使命感のような思いから志願したんです。  災害派遣先の南阿蘇司令部は、師団長自らが指揮をとる緊張感のある現場でした。まったく知り合いもおらず、手探りの任務でしたが最終的に「来てもらってよかった」との言葉をいただけたのです。それがすごく自信になりました。 下園:うつからのリカバリーは、とても難しいことです。沈んでしまった心をなんとか引き上げて現実に向き合えるまで持ってこなければならないのですが、どのステージで挑戦するのかのチョイスが大事です。私もカウンセリングで、「焦らないで復帰しよう」と伝えながら、どこかのタイミングで、「勇気を出してやってみよう」と背中を押すようにしています。周囲が反対したにもかかわらず、飛び込んでいったわびさんの勇気は素晴らしいと思います。 ※後編「五月病、六月病にも効く「心の予防注射」とは? うつで地獄を見た元自衛官2人が話す、本当に役に立つメンタルスキル」へつづく (構成/星政明) 下園壮太さん 下園壮太(しもぞの・そうた)1959年、鹿児島県生まれ。NPO法人メンタルレスキュー協会理事長。元・陸上自衛隊衛生学校心理教官。1982年、防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊入隊。筑波大学で心理学を学び、1999年に陸上自衛隊初の心理幹部として、多くの自衛隊員のメンタルヘルス教育、リーダーシップ育成、カウンセリングを手がける。2015年に退官し、講演や研修を通して、独自のカウンセリング技術の普及に努める。惨事ストレスに対応するMR(メンタル・レスキュー)インストラクターでもある。主な著書に『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』『自衛隊メンタル教官が教えるイライラ・怒りをとる技術』(以上、朝日新書)など多数。 わび航空業界で働く危機管理屋。某国立大学卒業後、陸上自衛隊幹部候補生学校に入隊。高射特科大隊で小隊長、その後、師団司令部や方面総監部で勤務。入隊後10年間は順風満帆だったが、早朝から深夜までの激務と上司によるパワハラが重なり、メンタルダウン。第一線からの異動を経て、「出世ばかりが人生ではない」「人に認められるためではなく、もっと楽しく生きたい」と思い、市役所に転職。激務だった自衛隊時代に比べると天国のような場所だったが、自らの成長の機会を得るため、転職後1年半で航空業界にキャリアチェンジ。給料は市役所時代の倍に跳ね上がった。自衛隊などの社会人経験で身につけたメンタルコントロール術、仕事や人間関係に対する向き合い方などを中心にツイッターで発信を開始。普通の会社員にもかかわらず、開始して2年で8万人フォロワー突破。ツイートはネットニュースにも取り上げられ、人気を博している。著書に『メンタルダウンで地獄を見た元エリート幹部自衛官が語る この世を生き抜く最強の技術』(ダイヤモンド社)。
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