検索結果2072件中 401 420 件を表示中

瀧内公美が語る下積み時代 舞台挨拶後はバイトで必死に皿洗い【前編】
瀧内公美が語る下積み時代 舞台挨拶後はバイトで必死に皿洗い【前編】
瀧内公美(たきうちくみ)/ 1989年生まれ。「彼女の人生は間違いじゃない」(2017年)で映画初主演。「火口のふたり」(19年)でキネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、「由宇子の天秤」(21年)でラス・パルマス国際映画祭最優秀女優賞を受賞。近年の舞台出演作に、イキウメ「天の敵」、ミュージカル「INTO THE WOODS」。ドラマでは「リバーサルオーケストラ」などがある。(撮影/小黒冴夏 ヘアメイク/森下奈央子)  ドラマや映画、舞台で引っ張りだこの俳優・瀧内公美さん。下積み時代に感じた俳優としての決意、そして確固たる「芯」を持てるようになったある監督とので出会いを振り返る。 *  *  *  子供の頃、祖父に連れられて、富山市にあるオーバード・ホールに何度か足を運んだことがある。富山が誇るスター・立川志の輔さんは、地元で開催される「志の輔らくご」に限り、富山弁で落語を披露した。そのチケットは毎年申し込みが殺到した。志の輔さんの大ファンである祖父が運よくチケットを入手すると、孫を連れて劇場に向かった。 「豪華な劇場空間で、富山弁で聞く落語は、子供心にもとても楽しいものでした。行きの車の中でもワクワクして、帰りは帰りで余韻に浸って。当時はオーバード・ホールでお芝居は見たことはなかったのですが、劇場に足を運ぶ行為には、心が浮き立つような思い出しかありません」  子供の頃から、演じることに憧れはあった。ただ、富山にいた頃は、芸能イコール華やかできらびやかな世界という印象。中学生のときに地元にシネコンができてから、話題の映画は観ていたものの、ミニシアターというものがあることは、上京するまで知らなかった。 「渋谷のユーロスペースでは、自分の知らない国に、こんな監督がいて、こんなアート映画があって、生活環境が良いとは言えない同い年くらいの子が一生懸命生きていることに衝撃を受けたりして。耳で聞いていても何を言っているかわからないのに、字幕を追っているうちに、登場人物と一緒に泣いたり笑ったりしていて。『映画って本当に世界の共通言語なんだ』ってことに、すごく感動しました」  映画好きの友人たちが、一緒に観た映画について感想を伝え合うことも新鮮だった。 「私自身は語れることなんてないんですが、みんなの話を聞いているのが面白かったです。それぞれが、自分の感じたことを素直に言葉にしているのを見て、『イキイキしてるなぁ』って思ったし、すごくキラキラして見えました。当時の私の中には、まだ『自分はこれが好き!』って言えるものが何もなかったので、以来いろんなことを吸収したくて、『面白い映画ない?』と聞きまくって」 撮影/小黒冴夏 ヘアメイク/森下奈央子  そうこうするうちに、次は小劇場と出合う。 「ハイバイの岩井(秀人)さんの舞台で、前説かと思ってたらそのまますっとお芝居が始まったりするような体験をしたとき、距離の近さに心を奪われました。声と言葉のチョイスで、100人とか200人の人たちを、一つの世界に引き寄せられるなんてすごいなって」  大学を卒業する少し前から、本格的に芸能の道に進むが、最初の数年は、俳優の仕事だけでは食べていけなかった。映画の舞台挨拶が終わった後に、飲食店のアルバイトに行くと、一緒に働いていた外国人に、瀧内さんの会見のネットニュースを見ながら「出てるよ、すごいね」と言われたことも。 「何時間か前までは、舞台上でたくさんのフラッシュを浴びていたのに、夜は配膳とか、皿洗いに必死になっていた。そのときに思ったんです。私がキラキラした現場にいたことは確かだけど、俳優をやる上で、本当の価値は自分で探さなければいけないんだって。自分の大事なものは自分で見極めないとダメだって実感したし、チームでものを作っていく上で、いろんな意見が飛び交うのは当然だけれど、『私はこれが大切だと思う』っていうものは、ちゃんと持っていよう、と」  自分の中に、確固たる「芯」を持てるようになったのは、ある映画監督との出会いもきっかけになった。2017年に公開された映画「彼女の人生は間違いじゃない」で、瀧内さんは主人公のみゆきを演じたが、そのとき廣木隆一監督に、とことんしごかれたという。 「監督からは、『自分が感じたことをそのまましゃべればよくて、言葉が出るまで別にセリフを言わなくてもいい』『カメラに向かって芝居をするな。大切なのは、“演じる”ことじゃなくて、“演じない”ってことだよ』『演技がうまいなんて言われたら終わりだなと思いなさい。うまい下手で評されるのではなく、役としてその場にいなさい』とか、いろんなことを教えてもらいました。監督の小説を映画化していて、ドキュメンタリーのような撮り方だったり、説明のト書きもすごく少なくて。『あなたの“生きる”とは何ですか?』と問われているような感覚でした」  追い込まれて、瀧内さんは7キロも痩せた。でも、その作品との出合いが自分の感性を目覚めさせてくれたと、今は自信を持って言える。 (菊地陽子、構成/長沢明) ※記事の後編はこちら>>「瀧内公美『自分のお芝居に飽きていた』 苦手な“音”を鍛える今」※週刊朝日  2023年5月5-12日合併号
週刊朝日 2023/04/27 11:00
全身の筋力が低下する難病「重症筋無力症(MG)」を知っていますか? MGへの正しい理解を広め、患者さんが暮らしやすいやさしい社会を
【PR】全身の筋力が低下する難病「重症筋無力症(MG)」を知っていますか? MGへの正しい理解を広め、患者さんが暮らしやすいやさしい社会を
座談会の司会進行を務めたフリーアナウンサーの小島奈津子さん。自身の父親が血液の希少がんと診断されたのを機に、難病と闘う患者や家族の苦労を知ったという。  全身の筋力が低下する難病「重症筋無力症」(Myasthenia Gravis、略称「MG」)。その症状については、詳しく知らない人のほうが多いのではないだろうか。だからこそ、誤解を受けることもあるなど、MG患者には特有の苦労があるという。 フリーアナウンサーの小島奈津子さんを司会に、MG治療に尽力する総合花巻病院脳神経内科部長の槍沢(うつぎさわ)公明先生、一般社団法人「全国筋無力症友の会」代表理事の山崎洋一さん、MG患者で声優の野下真歩さんが、患者さんの置かれている状況や治療の課題について話し合った。 ■全身のあらゆる筋肉に影響が及ぶ自己免疫疾患 小島:重症筋無力症(以下、MG)は、まだ広く知られていない疾患だと思います。どのような病気なのでしょうか。 槍沢:ひと言でいえば、神経と骨格筋のつなぎ目である神経筋接合部の伝達がうまくいかなくなって、骨格筋の筋力低下が起こる病気です。難病法が定める国の指定難病で、患者さんは約3万人と推計されています(2018年の全国疫学調査から)。 MGについて正しく知るために、まず、筋肉が動く仕組みを説明しておきましょう。神経筋接合部では神経と筋肉が直接つながっているわけではなく、隙間が存在します。脳が体を動かそうと命令を発すると、脊髄を経て末梢神経に伝わり、アセチルコリンという物質が神経と筋肉の隙間に放出されます。筋肉側には「アセチルコリン受容体」があり、ここでアセチルコリンが受容されると、筋肉を収縮させる命令が伝わり、これによって筋肉の収縮が起きるという仕組みです。 しかしMGは多くの場合、アセチルコリン受容体が機能不全になったり、機能する受容体の数が減ったりして、神経筋接合部の伝達がうまくいかなくなってしまうのです。 小島:アセチルコリン受容体の機能が働かなくなってしまうのは、なぜでしょうか。 槍沢:私たちの体には、細菌やウイルスなど外から入ってくる有害なものに対して免疫系が抗体を作って体を守る働きが備わっていますが、何らかの原因で免疫の異常が起こると、自分の細胞や構成するタンパクを敵だとみなす抗体が作られてしまいます。これを自己抗体といい、自己抗体によって起きる病気を自己免疫疾患といいます。 MGの場合は、自分の体を構成するアセチルコリン受容体に対して間違った抗体が作られており、アセチルコリン受容体の機能低下や破壊が生じている状態なのです。ただ、そのような自己抗体が作られてしまう原因については、まだ不明な点が多く、現時点ではこの病気を予防したり、完治したりすることは難しいのが実情です。 小島:MGには、どのような症状があるのでしょうか。 槍沢:筋肉を繰り返し使っているうちに、筋肉が疲れて力が入らなくなる。これが大きな特徴です。そのため、朝起きたての時よりも夕方から夜にかけて症状が悪化しやすくなる「日内変動」をはじめ、症状の波があり、個人差も大きい。 また、あらゆる骨格筋に影響が及ぶため、体の様々な部位に症状が出てきます。ものが二重に見える「複視」や、まぶたが下がる「眼瞼下垂(がんけんかすい)」など、目やまぶたのみに影響が及ぶ眼筋型MGは約20%。手足やノドなど目以外の全身にも及ぶ全身型MGは約80%。全身型の場合は、手足や体幹筋力の低下によって姿勢を保ったり、シャンプーの時に手を上げっぱなしの状態にしたりするのもつらいこともありますし、食事中にむせやすくなる「嚥下(えんげ)障害」や、ノドの筋肉が機能せずに声が不明瞭になったり、呂律がまわらなくなったりする「構音障害」が見られることもあります。 公益財団法人 総合花巻病院 脳神経内科部長槍沢公明先生長年にわたり、MG患者の診療に注力。日本神経学会「重症筋無力症/ランバート・イートン筋無力症候群診療ガイドライン2022」作成委員会副委員長を務める。 ■20までの数字を数えるのもつらいほどの構音障害 小島:様々な症状があるのですね。声優の野下真歩さんは、2018年にMGの診断を受けたそうですが、最初はどのような症状で受診されたのですか。 野下:受診の1年ほど前から体調を崩しやすくなり、さらに声が鼻に抜けるような感じが続いて、仕事柄とても気になり始めたんです。耳鼻科などを受診したのですが、「アレルギーでは?」という診断で、治療しても改善しなくて……。そのうちに、体の他の部位も動かしにくくなっているのに気づいて脳神経内科を受診し、MGの診断を受けました。 その後、4カ月程度の入院を経て退院。今も、症状が悪化したら入院して集中的に治療し、体調が良い時は2~3カ月に一度のペースで通院しながら、仕事を続けています。 小島:日常生活で大変だと感じるのは、どのようなことですか? 野下:私の場合は特に構音障害が重く、1から20までの数字を数えようとしても途中で話す力がなくなってしまうほどでした。それは仕事柄、致命的で、「二度と声優の仕事には戻れないのでは」と絶望的な気持ちになったこともあります。 また、まぶたが下がったり、顔の筋肉が動かしづらかったりするなど、見た目の変化もつらかったですね。治療で免疫抑制剤を飲むため、新型コロナウイルス感染症をはじめ感染症にはかなり気を使うといったこともあります。 東京・岩手・秋田をつなぎ、オンラインで行われた座談会。距離を超えて活発に意見が交わされ、互いに共感し合ったり新たな発見を得たりするなど、有意義な時間となった。 ■家族からでさえ「怠けている」と誤解されることも 小島:山崎さんは一般社団法人「全国筋無力症友の会」の代表理事を務めていらっしゃいますが、会員の方々からはどのような悩みが聞かれますか? 山崎:症状による肉体的、精神的な負担はもちろんですが、経済的な負担もあります。まず、医療費の負担が大きい。指定難病の受給者に認定されれば医療費の一部助成が受けられますが、認定を受けられないMG患者もたくさんいます。 また、MGに詳しい医師がいる病院はどこにでもあるわけではないので、何十キロもの道のりを通院している患者も多くいます。そのため電車代、タクシー代などの交通費も無視できません。加えて、就労に関する悩みも多く聞かれます。症状が安定せずに仕事を辞めざるを得なかったり、求人に応募しても病名を話したら採用してもらえなかったり、という人もいます。 障がい者の法定雇用率の算入にあたり難病患者は対象になっていないため、雇用する側が難病患者の採用に関心が低く、能力や意欲があってもMG患者の就労はなかなか進んでいないのが実情なのです。 槍沢:先ほどお話ししたように、MGは日内変動をはじめ、症状の変化が大きい病気です。「昨日はできたことが今日はできない」ということが頻繁に起きるため、職場のみならず、家族や友人からも「怠けているのではないか」と誤解されるなど、精神的にもつらい思いをしている患者さんがたくさんいるのです。 小島:MGへの理解が社会に広がっていないことが、患者さんの負担を増大させている側面があるのですね。 山崎:そのため友の会では、患者自身が病気を正しく知るための活動だけでなく、病気を克服する社会的な条件を作り出すための国や自治体に対しての要望活動も行っています。また、講演会や相談会の開催をはじめ、会員同士が情報交換や交流を図れる場も設けています。 小島:悩みや経験を共有できる仲間がいるのは、心強いですよね。さきほど、MGは完治が難しいというお話がありましたが、症状を緩和するための治療法はあるのでしょうか。 フリーアナウンサー小島奈津子さん1992年フジテレビ入社。2002年に退社後は、フリーアナウンサーとして活躍。「噂の!東京マガジン」(BS-TBS)などにレギュラー出演中。 槍沢:基本的には、免疫に作用する治療を行うことになります。約50年前にMGが自己免疫疾患だと判明したのに伴い、高用量経口ステロイド療法が普及しました。これにより、重症例や死亡例は大幅に減少しましたが、経口ステロイドを大量かつ長い期間服用することで、様々な副作用が生じ、患者さんのQOLを悪化させていることが分かりました。 そのため現在の診療ガイドラインでは、漫然とステロイド投与を行うのではなく、なるべく早く十分なQOLが担保できる状態にすることを目指しています。 現在の代表的な治療法は、「血液浄化療法」、自己抗体の作用を減弱させる「免疫グロブリン静注療法」、ステロイドの大量点滴注射を短期間(1日から3日間)のみ行う「ステロイドパルス療法」の三つです。最近では、免疫系疾患のカギとなるような分子をピンポイントでたたく新薬も使われ始めており、今後、治療の選択肢はさらに広がっていくと期待しています。 ■日々の記録をつけて、医師とスムーズなコミュニケーションを 小島:治療の改善や選択肢の広がりがある一方で、課題だと感じていることはありますか? 槍沢:「アンメット・メディカル・ニーズ」といって、患者さんの要求や満足度が満たされていないケースがあることです。たとえば患者さんは、症状や薬の副作用で困っていてQOLが不十分であると感じているにもかかわらず、それを主治医が把握できないまま治療を続ける……という状況では、適切な治療目標の設定は難しいのが実情です。 小島:野下さんは、主治医の先生との認識のずれを感じたことはありますか。 野下:複視などの症状は見た目では客観的に判断できないため、自分が感じているつらさのレベルがきちんと伝わっているのか不安に感じることはありますね。 声優野下真歩さんMG治療を続けながら声優や役者、ラジオパーソナリティーとして活躍。ブログでMGについて発信している。現在、84.0MHz 発するFM 「午後も発する」に出演中。 小島:友の会の会員の方々からは、主治医とのコミュニケーションについて、どのような悩みが聞かれますか? 山崎:「主治医に相談したり、今後の治療法の説明を受けたりしたいけれど、なかなかできずに信頼関係を築けていない」という声は多いですね。病状への認識のずれが生じる背景には、MGの日内変動も関係しているでしょう。午前中は調子がよくても夕方にかけて症状が重くなってくることは多いのですが、大きな病院での外来受診は午前中であることが多く、症状が主治医に伝わりにくいのです。 一般社団法人 全国筋無力症友の会 代表理事 山崎洋一さん3歳でMGを発症。900人ほどの会員を抱える全国筋無力症友の会で、患者同士の交流の場づくりや情報発信などに尽力している。 小島:医師の側としては、スムーズにコミュニケーションをとるために患者さんに心がけてほしいことはありますか? 槍沢:患者さん一人ひとりにかけられる診察の時間は限られているため、情報を共有しやすい工夫が必要だと思います。 大前提として、今服用している薬の名前や量は、正確に把握しておいてほしいですね。調剤薬局でもらう薬剤情報提供書に書いてあるので、きちんと読んでおくことをおすすめします。また、ご自身が受けた治療がどのような効果があり、どのような点に問題を感じているのかも説明できるように準備しておきましょう。たとえば「グロブリン静注療法を受けたあと、1カ月ほど体調が良かったが、その後はまた症状が出てきた」といったように変化を記録し、診察の際に具体的に説明できるといいですね。 小島:症状の度合いをスムーズに説明する方法はあるのでしょうか。 槍沢:はい。MGには、「MG-ADLスケール」や「QMGスコア」といって、日常生活や症状を点数で記録する独自の基準があります。これを利用して症状の度合いを記録しておくと、非常に医師に伝わりやすく、治療計画が立てやすい。結果的に、患者さんの治療満足度も上がるのではないかと思います。「MG-ADLスケール」や「QMGスコア」は、主治医にもらうこともできますし、インターネット上にも載っていますので、ぜひ活用していただきたいですね。 小島:野下さん、山崎さん、今のお話を聞いていかがでしょうか。 東京の会場から座談会に参加した小島さんと野下さん。野下さんはMGによる構音障害などの苦しみについて明かしてくれた。 野下:MGは症状が自分でも予測できないことが多く、日によって差が激しいのですが、できるだけ記録して具体的に説明できるようにしたいと感じました。また、みなさんにもっとMGのことを知ってもらえるよう、SNSなどを通じて発信をしていけたらと思っています。 山崎:友の会としても、これからは啓発活動に重点的に取り組みたいですね。重症筋無力症の日「MGデー」を制定したいと考え、6月2日を記念日として登録申請をしていたのですが、このたび正式に認められたのです。記念イベントの開催や街頭キャンペーンなどの取り組みの計画を話し合っているところなんですよ。こういった活動を積み重ねることで、MG患者が少しでも暮らしやすい環境づくりにつなげていきたいです。 小島:今回の座談会も、MGへの正しい理解が広がる一助になることを願っています。 詳しくはこちら > 提供:アルジェニクスジャパン
2023/04/26 00:00
映画「プーチンより愛を込めて」監督が語る プーチン大統領「良い人」演出の後悔
古田真梨子 古田真梨子
映画「プーチンより愛を込めて」監督が語る プーチン大統領「良い人」演出の後悔
Vitaliy Manskiy監督/1963年生まれ、ウクライナ出身。全ソ国立映画大学卒。モスクワ・ドキュメンタリー映画祭ARTDOKFEST会長 (c)Vertov, GoldenEggProduction, Hypermarket Film-ZDF/Arte, RTS/SRG, Czech Television2018  ドキュメンタリー映画「プーチンより愛を込めて」が4月21日から公開される。制作したのはヴィタリー・マンスキー監督。初めて大統領に就任した当時のプーチン氏のイメージを、映像で「親身」に変えた人物に今の思いを聞いた。AERA 2023年4月24日号の記事を紹介する。 *  *  *  ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアのウラジーミル・プーチン大統領(70)は、戦局が長引くほど「冷徹な独裁者」という印象が増す。その素顔をとらえた貴重な映像で綴(つづ)るドキュメンタリー「プーチンより愛を込めて」が4月21日から、東京の池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺などで順次公開される。なぜ大国・ロシアで20年以上にわたり実権を握っているのか。どのようにして現在の統治体制を築き上げたのか。その原点が映し出されている。 ■常に控えめで紳士的  撮影したのはプーチン氏が初めて大統領に就任した2000年当時、国立テレビのドキュメンタリー映画部の部長だったヴィタリー・マンスキー監督(59)だ。  映画は、1999年12月31日から始まる。  ソ連を崩壊に導き、新生ロシアの初代大統領を務めていたボリス・エリツィン氏(07年死去)が、テレビ演説で高らかに宣言した。 「憲法にそって辞任し、大統領代行にウラジーミル・プーチン首相を就任させます。幸福であれ。良いお年を! 良い新世紀を!」  この時、大統領選挙まで3カ月。後継者として指名された当時47歳のプーチン氏は、立候補表明も公約発表もしないまま、ロシア全土をくまなく巡り始める。  カメラに映るプーチン氏は、常に控えめで紳士的だ。織物業が盛んなイヴァノヴォでは働く女性たちの声に耳を傾け、クズネツク炭田を訪ねた時は労働環境を熱心に視察する。ロシア入りしたトニー・ブレア英首相(当時)と談笑し、西側諸国からの支持をしっかりアピール。仕事の合間には、真っ赤なバラの花束を抱えて小学校時代の恩師である女性教師を訪ねている。これは、マンスキー監督の提案だったという。 「調子はどうですか?」  にこやかに言ったプーチン氏は恩師との再会を祝ってシャンパンで乾杯し、記念撮影した。部屋に和やかな空気が流れたシーンは、後日、大統領のPR映像のラストに使われたという。  プーチン氏は首相時代の99年、2度目のチェチェン進攻を行った。そうした「強硬」のイメージが、映像を通じて「親身」に変化していった。それが奏功し、00年3月26日の大統領選第1回投票で、52.94%の得票率で当選を果たした。 2000年のロシア大統領選直前、小学校時代の恩師を訪ねたプーチン氏。「忘れん坊だから気を付けてね」と声をかけられ、優しい笑顔で応じた (c)Vertov, GoldenEggProduction, Hypermarket Film-ZDF/Arte, RTS/SRG, Czech Television2018 ■期待したエリツィン氏  その夜、カメラは家族とのんびり過ごすエリツィン元大統領の姿を映し出す。幼い孫を呼び寄せ、ひざにのせ、ゆったりと食事をしている。テレビの選挙特番にミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領(22年死去)がゲスト出演すると、 「うんざりだ! いつまで聞かせるんだ!」  と苦々しそうに吐き出し、チャンネルを変えた。だが、インタビューには終始穏やかな表情で応じた。 「自身の後継者を20人の候補者の中から4カ月かかって選んだ。難しい決断だったが、一度決断したら楽になった。重荷はプーチンが引き継いだ。半年間の助走期間をあえて与えたのだから、大統領代行としての経験を元首として生かせるだろう」  周囲の映像スタッフにも、 「プーチンの当選で報道の自由は確かなものになる」  と語りかけ、新時代の幕開けに期待を寄せた。  一方のプーチン氏は投開票日の夜、支援者らと談笑し、記念撮影に応じている。後日には、執務の合間にプールで泳ぐ姿や「気軽にビールを飲みに行けなくなってしまった」と残念そうに話す姿も記録されている。それらからは、ごく普通の50代を前にした働く男性としての側面が伝わってくる。  だが、マンスキー監督は複雑な思いを抱える。 「私が恩師と再会することを提案したことで、PR映像でプーチンが良い人であるかのような印象の演出につながってしまったことは私の責任であり、悔いている」 (編集部・古田真梨子) ※AERA 2023年4月24日号より抜粋
AERA 2023/04/21 10:30
手配書や怪文書をまかれたことも……それでも20年間カルト問題に立ち向かえたのはなぜか ジャーナリスト・鈴木エイト
古田真梨子 古田真梨子
手配書や怪文書をまかれたことも……それでも20年間カルト問題に立ち向かえたのはなぜか ジャーナリスト・鈴木エイト
教団関係者の尾行をまきながら家路を急いだことが何度もある。「絶対におかしい」という信念だけが支えだった(撮影/倉田貴志)  旧統一教会の2世問題や政治家との癒着を20年間追い続けてきたジャーナリスト、鈴木エイト。元首相銃撃事件以降、取材が殺到した。カルト宗教の問題は、報じれば執拗な抗議を受けることが多く、多くのメディアが取材を避けるなか、鈴木はそこに切り込むことを諦めなかった。妨害に負けず、怯まず、ときに面白おかしく。積み上げた膨大なデータと貴重な資料を手に、カルト宗教と政治家の黒い関係を明らかにしてきた。 *  *  *  1月21日夜、横浜市のライブハウス「ネイキッドロフト横浜」。約30席の客席はぎゅうぎゅう詰めで、同時配信のチケットもよく売れていた。この日のイベントは、「『宗教2世』問題を考える ~『宗教2世』の体験共有とこれからの話~」。2018年からロフト主催で不定期で開催されてきたテーマだが、この日は特に盛況だった。  登壇者の中に「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)を追い続けているジャーナリスト、鈴木(すずき)エイト(55)の姿があった。イベント開始早々、鈴木が壇上から注文したのは、旧統一教会の関連企業が製造している炭酸飲料水「メッコール」。共に登壇した宗教2世の漫画家・菊池真理子らと「久々に飲むと美味しい」「悪くないね」などと言いながら一口飲んで、飄々(ひょうひょう)と話し始めた。 「20年前に旧統一教会を追い始め、2世の存在に気づいた。彼らの内面に目が向いて、問題の根深さを知り、何とかしなければと思ってきた。当事者をなるべく矢面に立たせたくない一方で、僕には何もできない時期があった。暗黒時代でしたね」  イベントの企画者であり、自身も宗教2世である会場スタッフの幸進伍は、音響をいじりながら、壇上にいる鈴木を見つめて感慨深そうに言った。 「妨害に負けず、怯(ひる)まず、時に面白おかしく、そして楽しく、ずっと取材を続けてこられた。誰にも注目されず、どこにも書けない時期もあったのに。本当にすごいことだと思います。この人がいなかったら、どうなっていたことか……」  鈴木の名が全国区になったきっかけは、言うまでもなく、昨年7月8日の白昼に起きた元首相・安倍晋三の銃撃事件だ。現行犯逮捕された元自衛官の山上徹也(42)=殺人などの罪で起訴=が奈良県警の調べに、「母親が宗教にはまっていて、恨んでいた。(韓国発祥の)教会を日本に入れたのは安倍の祖父の岸信介(元首相)で、本人もつながりがあると思った」と供述。その宗教が旧統一教会であったことから、長年にわたって教団を追い続けてきた鈴木に取材が殺到。以来、テレビ、ネットニュース、雑誌などに出ずっぱりになった。 硬派な報道番組から、サンジャポ(TBS)まで無色透明な存在感で、場に溶け込んでいく。テレビ映えする長身で細身。ZARAのスーツをさらりと着こなす(撮影/倉田貴志) ■#鈴木エイトを出せ 語れるのは自分しかいない  とはいえ、事件発生直後の鈴木の周辺は静かなものだったという。  事件があった日、鈴木は家族と週末ステイを楽しもうと、以前から予約していた都心のホテルにチェックインしていた。銃撃事件を伝えるニュースに愕然(がくぜん)とする中、奈良西警察署に詰めていた知り合いの記者から、銃撃犯の母親が入信していた宗教が旧統一教会だと連絡があった。 「反射的にこれは大変なことになるな、と。自分も渦に巻き込まれていくと思いました」  と振り返る。それは、政治家と旧統一教会の関係を誰よりも深く知っているという自負があったからに他ならない。教団との関係追及の本丸だった安倍が亡くなり、自棄になりそうだった気分はあっという間に吹っ飛んでいったという。  だが、テレビ番組などからのオファーは一向にこない。鈴木と長い付き合いのあるノンフィクション作家の菅野完は言う。 「事件直後のテレビの解説と論調は酷(ひど)いものでした。合同結婚式や霊感商法の話題も1990年代の認識で止まったまま。政治との関係には一切踏み込まず、中には『個人的な恨みを買ってしまっただけ』と矮小化する人まで現れる始末。鈴木エイトに語らせなきゃダメだと、知り合いのディレクターらに片っ端から連絡を入れた」  そんな菅野の後押しも受け、事件から4日後の7月12日、鈴木は自らのツイッターに「#鈴木エイトを出せ」というハッシュタグをつけ、こう書き込んだ。 「皆さんにお願いです。統一教会と安倍晋三元首相のズブズブの関係を明確な論拠で語ることができるのは私以外にいません。私のアカウントをフォローし、ツイートをリツイートしてください」  プロフィール欄には携帯番号をそのまま載せ、どんな電話にも出た。 「このままでは、旧統一教会の被害者が救われない。政治家との癒着の構図も葬り去られ、銃撃事件の核心もわからなくなってしまうという危機感からの行動でした」  ぽつぽつと連絡が入り始めたものの、当初は相手が警戒しているのがわかったという。胡散臭(うさんくさ)い暴露系のユーチューバーではないのか。放送禁止用語を叫ぶのではないか。ちゃんと取材しているのか。「鈴木エイト」は実名なのか。そもそも、あなたは一体何者なのか。 1月4日、阿佐ケ谷ロフトの「カルト新年会」に藤倉、菅野らと登壇。藤倉が「昨年のエイトさんの活躍に乾杯! エイトいっぱぁつ!」と音頭を取った。鈴木は「一発屋になることを一番危惧している」(撮影/倉田貴志)  いぶかしむ相手に鈴木は、ペンネームであることを伝え、独自に調査してきた旧統一教会と関係のある政治家の100人を超えるリストや証言、教団の内部文書を惜しげもなく提供した。安倍が05年、教団の友好団体「天宙平和連合(UPF)」の創設大会に祝電を打った頃から、教団との関係が親密化していたこと。自民党の政調会長・萩生田光一が教団のイベントに積極的に参加していたこと。地道な取材で得た蓄積は圧倒的だ。信頼を得て、テレビで発言する場を得られるようになったのは、事件から3週間ほど過ぎた7月下旬からだった。 「ずっとサブカル的な立ち位置にいた自分が急にメインストリームに出ていくことへの戸惑いはあった」  とこぼすが、テレビなどに出るたびに、鈴木の控室を報道関係者や著名なジャーナリストたちが続々訪ねてきて「よく頑張ってきたね」と声をかけてくれるという。報じれば、執拗(しつよう)な抗議を受けることが多いカルト問題。そこに切り込むことを諦めなかった鈴木に、同業者からも畏敬の念が集まる。  カルト問題や宗教と政治の問題を研究する上越教育大学大学院の准教授・塚田穂高(宗教社会学)は、「問題意識があっても『危うきに近寄らず』という判断から及び腰になるメディアは多い。そんな中、とにかく現場に行き、身体をはった取材をしぶとく、かつクールに続けてきた。売れてやろう、ではなく、ただ『これはおかしい』という直感を信じて食らいついていった」と評価。17年に塚田が編著『徹底検証 日本の右傾化』をまとめた際には、旧統一教会が政界に浸透している点について、鈴木に執筆を依頼している。  鈴木の教団追及活動の始まりは、唐突だった。02年6月。初夏の匂いがする夕刻、仕事帰りに渋谷駅の改札を出たら、目の前に勧誘活動をしている信者数人と、立ち止まって話を聞いている女性がいた。 「考えるより先に身体が動きました。あの時の感覚は今も覚えています。割って入り、勧誘をやめさせた」  ちょうどその前日、テレビの報道番組が旧統一教会の偽装勧誘の実態をレポートしていたのを観たばかりだった。初めて知った悪質性と、実際に目にした勧誘活動が掛け合わさって、鈴木の中でスイッチが入った。  以来、連日のように街に出て、勧誘を阻止する生活が始まった。平日は仕事が終わってから、週末は朝から、山手線に乗って池袋、新宿、渋谷をぐるぐる回った。雑踏に目が慣れるに従って、勧誘現場はいくらでも見つけられるようになった。「手相の勉強をしています」「アンケートにご協力ください」。そんな偽装勧誘をしている信者を論破していくのが楽しかったという。  街頭で対峙(たいじ)する信者に「なぜ邪魔をするのか?」とよく聞かれた。「趣味です」と答えると、相手に「悪趣味ですね」と言われ、睨(にら)まれた。帰宅はいつも終電だ。教団の尾行をまきながら、路地裏を走って帰ったことが何度もある。 週末は、地元の友人たちとサッカーで汗を流すようになって20年近くがたつ。鈴木はグラウンドの手配を引き受けているが「仕切ってくれているけれど、穏やかな人柄でリーダー風情ではない」(友人談)(撮影/倉田貴志) ■志を同じくする仲間増え問題を発信し始める  この頃の鈴木は、30代半ばのごく普通のサラリーマンだ。学生時代に始めた音楽活動を、大学卒業後もアルバイトをしながら続けていたが、区切りをつけて働いていた。教団の勧誘活動の実態についてどこかに訴え出たり、記事を書いたりしていたわけではない。インターネットもSNSも今ほど普及していない時代。グループに属することもなく、アウトプットをすることもせず、たったひとりで勧誘阻止のために街に出た。 「そのエネルギーは、どこから湧いたものか? うーん。最初に渋谷で勧誘現場を見た時の『絶対におかしい』というモチベーションがずっと続いていた感じです。当初は、ただそれだけでした」  活動を始めたばかりの頃、信者ではないと言い張る青年に、教団創始者の故・文鮮明の写真を踏めるはずだと迫ったことがあった。 「若気の至りで反省してます。宗教にはまるということは、ずっと自己責任だと思ってたんです。でも違った。活動を続けるうちに、信者たちもまた被害者であることがわかりました。東京という大都会の片隅でこんなにも人権が侵害され、人生が失われていっている。カルト問題の複雑さに気づいてからは、よりのめり込むようになりました」  ビデオセンターの前で張り込みをして、出てきた人に施設の実態を教えたり、教団の合宿所から逃げ出した若者を匿(かくま)ったり。次第に、霊感商法などの被害者救済で知られる弁護士の紀藤正樹らが参加する「全国霊感商法対策弁護士連絡会」や「日本脱カルト協会」などとつながりができ、志を同じくする仲間が増えてきた。同時に、教団と信者の関係の先にある、教団と政治家たちの関係に疑問を抱くようになった。  国政選挙、市議選に区議選。選挙のたびに若い信者が選挙事務所の手伝いや街頭演説の運動員として動員され、当落線上にいる候補に教団の組織票が投じられる。その見返りはいったい何なのか──。鈴木は06年、ブログを開設。新たな問題意識を元に、旧統一教会について知り得たこと、疑問に思うことについて発信を始めた。そして09年、カルト問題や宗教を中心に取材を続けていたジャーナリストの藤倉善郎(48)との出会いがあった。藤倉はユーモラスな調子で言う。 「エイトさんに初めて会ったのは、どこだったっけ。熱心な人だな、と。そして、まともでさわやか。カルト問題を追及する仲間の中に入ってくれると、毒が薄まるようだった(笑)」  同年、藤倉はニュースサイト「やや日刊カルト新聞」を創刊。鈴木は副代表として参画した(現・主筆)。「ライター」と名乗り始めたのも、この頃だという。  藤倉の信条は「カルト問題を堅くまじめな調子で論じても、幅広い人々には届かない。皮肉や風刺、面白おかしい調子が大切だ」。鈴木は一緒になって、紙刷り版の「やや日刊カルト新聞」を創価大学の正門前で配ってみたり、カルト団体のイベントに出向き、1人が受付でもめている間にもう1人がするりと中に入ってみたり。「おかしいものはおかしい」という信念で取材を続けた。ライター業での収入は微々たるものだったが、鈴木は、 「今後の自分の人生で何かひとつはじけるとしたら、ライターだな」  と考え、自由な時間を確保するために、勤めていたビル管理会社から独立。個人で不動産業をしながら、言論活動に軸足を置いた生活を始めた。家族がいる中、向こう見ずな行動にも映るが、幼い頃から、母親に「あなたは大器晩成型」だと言われて育ち、「人生のピークをどこに持っていくか」をずっと考えていたという鈴木にとっては、ごく自然な決断だったのかもしれない。  一方で、外圧は強くなりつつあった。11年には、教団広報局から「要注意人物」として顔写真入りの“手配書”が作成され、全国の教団系施設に貼り出された。教団関係者から面と向かって「拉致ってやろうか」と言われたり、自宅の周辺を妙な男たちがうろついたりすることも増えた。怪文書をまかれたこともある。だが、 「不思議と怖いという感覚はなかった。藤倉さんのせいですよ。いや、おかげかな(笑)」(鈴木) (文中敬称略) (文・古田真梨子) ※記事の続きは4月17日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/04/14 18:00
血圧180、体重103キロでマジのダイエットを決意した鈴木おさむ 1週間での成果は
鈴木おさむ 鈴木おさむ
血圧180、体重103キロでマジのダイエットを決意した鈴木おさむ 1週間での成果は
放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、ダイエットについて。 *  *  *  今年で50歳。帯状疱疹を始め、色んな病気にかかっていて、50歳になると本当に体が弱ってくるんだなと感じています。  帯状疱疹の後遺症で、舌がずっと痺れていて、味覚に異常があります。コロナにかかったあと、半年以上味覚異常があって、最近でもたまに味覚がおかしくなる時があり。だから帯状疱疹とコロナってなんか関係あるのかなとかも思ってしまったり。ネットを見ると色んな情報やうわさが出てくるし、お医者さんによっても意見が違う。何をチョイスするのか難しい時代です。  そんななか、先日、舌の診察で病院に行った時に、病院にあった血圧計で血圧を測ったら、なんと上が「180」もあったんです。母も高かったし、血圧が高めなのは自覚していましたが、ここまでとは。  怖い! 血圧は脳系の病気もなりやすくなるし。なので、ずっとやろうやろうと思っていたダイエットをやることにしました。  初日。体重計に乗ると103キロ。100キロ超えてやがりました。血圧は上が159の下が100、脈拍は83。うん、上も下も高い。  今まで何度かダイエットをしたことはありますが、今回はマジのマジです。痩せることが目的と言うよりも、血圧なので。  だからちょっと本気になっています。2011年に、「金スマ」という番組で、僕ら夫婦はタニタのダイエットに挑戦しました。食事のカロリーを一日1500キロカロリーにおさえてタニタのレシピの食事を食べていくのですが。その時、分かったことは、歯ごたえのある物を食べるということと、旬のものを食べるということ。 妻・大島美幸さんとのツーショット  ダイエットにはストレスが一番の敵だと思っていたので、夜はハイボールの飲酒はOKにしてもらっていました。その結果、1カ月で15キロ近く落ちまして。  その時の、自分の中の「HOW TO」があるので、それを自分なりにやることにしました。  一番頼っているのは味噌汁です。味噌汁に野菜を沢山いれる。具沢山味噌汁で、歯ごたえをよくして食べ応えを感じる。ちょっとずつ体重は落ちていますが、1週間がたち、まだ100キロは切りません。  そして血圧。これが難しい。日によって違うんですが、僕は前の晩にお酒を飲んでいる方が翌朝下がっていることが多い。良く寝れるということなのか。血圧を下げる薬はまだ飲んでいません。血圧を下げることに関しても薬を飲む派、飲まない派、あれがいい、これがいいと色んな情報が届きます。  でも、結局、その人に合っているかどうかだと思うんです。ダイエットにしても、「夜食べなきゃいいんだよ」と言う人もいますが、僕は夜食べないのは仕事柄、無理なので、その分、朝と昼を気を付けます。  人それぞれの生活サイクルというものがあり、そのなかで、様々な情報から自分に合ったものをどうやって取捨選択するか。  病気に対して、一番慎重にならなきゃいけないのは「情報」のチョイスの仕方だなとあらためて思いました。  体重・血圧報告。ここでも、たまにやっていきますので! 自分なりの情報、お届けします。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)、長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が好評発売中。漫画原作も多数で、ラブホラー漫画「お化けと風鈴」は、毎週金曜更新で自身のインスタグラムで公開、またLINE漫画でも連載中。「インフル怨サー。 ~顔を焼かれた私が復讐を誓った日~」は各種主要電子書店で販売中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)が発売中。
ダイエット血圧鈴木おさむ
dot. 2023/04/13 16:00
野田秀樹、つかこうへいから成河が得たもの「それから復讐劇が始まった(笑)」【後編】
野田秀樹、つかこうへいから成河が得たもの「それから復讐劇が始まった(笑)」【後編】
成河(ソンハ)/ 1981年生まれ。東京都出身。法政大学在学中に、東京大学駒場キャンパス内の演劇サークルで演劇を始める。「★☆北区つかこうへい劇団」10期生。平成20年度文化庁芸術祭演劇部門新人賞、第18回読売演劇大賞・優秀男優賞、第57回紀伊國屋演劇賞個人賞など、受賞歴多数。(撮影/戸嶋日菜乃 ヘアメイク/大宝みゆき)  ミュージカル、会話劇、コメディーとさまざまなジャンルがある舞台。各ジャンルを得意とした俳優は多いが、既存のジャンルだけでなく、今までになかったジャンルや奇抜な作品にも呼ばれる俳優が、成河さんだ。成河さんが巨匠らから学んだことを振り返る。 *  *  *  舞台がメインだと、映像が主戦場の俳優と違い、とても規則正しい毎日が待っている。一年中、出演舞台が途切れない成河さんでも、「忙しくて死にそう」などと思ったことは一度もないらしい。 「だって、稽古期間中はお昼に稽古して夜に帰る生活、本番も、昼公演と夜公演でちゃんと時間が決まっていますから。もちろん、代わりの利かない仕事なので、体調管理やメンタル管理は大変ですけど、でも仕事って、どんな仕事であってもそういうものじゃないですか。俳優の仕事は特殊に見られがちですが、僕は常々、『与えられた役割を全うするという意味では、普通の仕事と変わらない』と思っています」  とはいえ、成河さんの舞台を観たことがある人なら、芝居のうまさはもちろんのこと、その声の通り方、身体能力の高さ、歌うときの声の良さなど、超人的なスキルの高さに驚かされたことがあるのではないだろうか。「面白いことがしたい」と考える演出家やプロデューサーが彼を起用したくなるのは、演劇に対する無尽蔵のエネルギーのほか、その独特の感性や、圧倒的な芝居のスキルがあってこそのはず。それでも、成河さん自身は、「謙遜でもなんでもなく、僕の基礎運動能力は人並み以下です」と断言する。 「学校に通っていると、毎年体力測定みたいなのがあって、握力とか反復横跳びとか、そのつどそのつどきちっと測っていくじゃないですか。僕は毎回、超みそっかすでした(笑)。スポーツ科学的には、僕は運動音痴の部類だと思います。でも、そのことと、舞台上で躍動的かどうかは別だということを、僕は野田秀樹さんに教わるんです。演劇においては、足が速いかどうかは問題じゃなく、速く見えるかどうかが大切だということを。たとえば、ウサイン・ボルトがステージの上を本気で走っているところを、彼を知らない人が見て、『速い』と思うかどうか。100人が100人『速い!』って感じるかどうかは怪しいんです。人間が速さや高さを認識するのは、差異がなければ無理なので。それよりもゆっくり歩いてる人が横をしゅん、って追い抜いたとき、それがマッハの速度のように見える」 撮影/戸嶋日菜乃 ヘアメイク/大宝みゆき 「そうか、舞台上で見せるものは差異なんだ」と知った成河さんは、それから舞台で体を動かすことが楽しくなった。 「以来、それまで自分をスポーツで負かしてきたやつらへの復讐劇が始まるんです(笑)。その考え方を教わったのは20代後半でしたが、演劇ではいろんなトリックが使えることで、さらに演劇が楽しくなりました」  では、発声や音楽のスキルはどうなのだろう?  地声の大きさを自認する成河さんだが、そこにも演劇にのめり込んでいくきっかけとなる出会いがあった。 ■つかさんに野性的に鍛えられた 「そこは、つかこうへいさんに鍛えられました。もう血へどを吐きながら、喉をガラガラに壊して強度を増していったんです。これからの時代は、もうあんなやり方は通用しないと思いますけど……」  そんなスパルタな洗礼を最初に受けたのが、「北区つかこうへい劇団」のオーディション。 「ステージの上に、100人ぐらい並ばせて、『自分の名前を大声で叫べ』って言われるのですが、何度も何度もひたすらに自分の名前を叫んでいる最中、劇団の重鎮の先輩が叫ぶ『聞こえねーよ!』という一声が、その100人の声をかき消すんです。そこにも、実はトリックがあって、先輩だけは、声が通る方法を実践しているんだけれど、こっちは、『なんであんな声が出せるんだろう』って打ちのめされて。理屈じゃなく、野性的に鍛えられていきましたね」  6~7月に上演される舞台「ある馬の物語」では、主人公の馬の役を演じる。ロシアの文豪トルストイの小説の舞台化で、人間という愚かな生き物と思考する聡明な馬とを対比させ、人間の飽くなき所有欲に焦点を当てる。 「トルストイが1880年代に書いた小説を、1975年に舞台化したものを、白井(晃)さんが新演出で立ち上げてくださるんですが、最初に脚本を読んだときに、現代の僕たちにとって所有とは何かということを、すごく考えさせられました」  実は、この舞台は3年前に上演されるはずだったのが、コロナ禍での緊急事態宣言により、やむなく上演を断念。3年の歳月を経て、ようやく上演の運びとなった。 「今の僕たちは、所有の感覚が無意識化しています。でも、今こういった作品を上演することで、舞台上と観客席で、『所有』について話し合えるとしたら、それは素晴らしいことじゃないかと思うんです。演劇の魅力の一つは、難解で深遠なテーマであっても、生身の人間が演じることで、劇場が生命力と躍動感で満たされていくこと。僕ら自身も、観てくださった人も、何らかの形で視界が開けていく。そんな演劇になりそうな予感がしています」 (菊地陽子 構成/長沢明) ※記事の前編はこちら>>「演劇界の総合格闘家・成河が語る悔しさ “修業の場”扱いされる舞台」※週刊朝日  2023年4月21日号より抜粋
週刊朝日 2023/04/13 10:30
「常盤貴子」4年ぶり連ドラ出演にSNSも騒然! かつての“連ドラ女王”の人気がいまだ衰えないワケ
丸山ひろし 丸山ひろし
「常盤貴子」4年ぶり連ドラ出演にSNSも騒然! かつての“連ドラ女王”の人気がいまだ衰えないワケ
常盤貴子  俳優の常盤貴子(50)が久しぶりの連ドラ出演で話題になっている。4月スタートの芳根京子主演ドラマ「それってパクリじゃないですか?」(日本テレビ系)に出演する。地上波の連続ドラマは約4年ぶりとなる。同作は飲料メーカーで働く主人公が、知的財産をめぐる問題に奮闘する姿を描いたストーリーだが、常盤は開発部の部長という役どころを演じる。  1990年代半ば~2000年代前半にかけて、「愛していると言ってくれ」(TBS系)や「Beautiful Life」(同)、「カバチタレ!」(フジテレビ系)など、数々の高視聴率ドラマで主演を務め、“連ドラの女王”といわれた常盤。今回は久々の連ドラ出演となるが、SNS上では「常盤貴子さん出るのか!」「いつまでたってもかわいい、きれい」などの声も目立っており、まだまだ人気は衰えていないようだ。 「00年放送の『Beautiful Life』では、車いすの図書館司書役で、木村拓哉さん演じる美容師と切ないラブストーリーを演じ、最高視聴率41.3%を記録しました。すでに実績も実力も十分にありますが、今でも俳優業に向かう姿勢はプロフェッショナルそのものです。昨年のインタビューでは『映画は監督のもので俳優はコマに徹する』とキッパリ。『俳優のプライドは?』と思った時期もあったが、監督からの想定外の演出や、現場に予期せぬ事態が起こったときにどう対応できるかが、腕の見せどころだと考えているそうです。また、おととし放送されたトーク番組では、夫である演出家・俳優の長塚圭史さんが演出する舞台への出演について言及。稽古場では演出家に従い、演出家がやろうとしていることを実現するのが俳優の役目なので、『自分にとっては、そのときは夫ではない』と語っています。信念を持って演技に徹する常盤さんが好きという人も多いと思います」(テレビ情報誌の編集者)  一方で、常盤はユニークな趣味を持っていることでも知られており、ストイックな姿とのギャップも魅力のひとつだろう。 「笑神様は突然に…」(日本テレビ系、23年1月29日放送)では、中川家の礼二ら4人による鉄道好きユニット「鉄道BIG4」と楽しそうにロケに参加。素材としての“鉄”そのものが好きという常盤は、長い鉄のレールを見るのも好きで、車内からレールを撮影し「めっちゃいいの撮れた!」と喜んでいた。  また、「櫻井・有吉 THE夜会」(TBS系、20年11月26日放送)では、“裁判の傍聴”が趣味と明かし、もともとは弁護士の役作りのためで、実際に行ってみるとテレビや映画で描かれている雰囲気とは違ったと語っている。 「飛行中の航空機の位置をリアルタイムで表示する『Flightradar24』というアプリについて、ラジオ番組で熱く語っていたこともあります。外国の大統領が来るときや、政治的に大きな動きがあるときに見て、『こんなに(ヘリが)出るんだ!』『こんなところからも飛んでくるんだ』と、見ていて燃えるそうです。そうした少し変わった趣味の話を聞くと、フレンドリーな印象も受けますよね」(同) ■老後は平屋に住みたい  また、「大女優だが派手なセレブ感がないところも好印象」と言うのは週刊誌の芸能担当記者だ。 「コロナ禍の20年6月、電車で移動中に車内の除菌作業に遭遇し、その丁寧な仕事ぶりに感動して泣きそうになったことを自身のインスタグラムで告白していました。さらに、『移動が自由にできるようになったら、電車に乗って、また色々なところに行きたいな、と思った』と記していました。大女優である常盤さんが電車に乗ることに驚いた人も多かったと思います。また、20年のインタビューでは、『老後は平屋に住みたい』と明かしています。年を取ると階段を上るのが大変なので、『老後は平屋に住みたいね、平屋って素敵だよね』と夫と話をしていたとか。生活自体が楽しそうですし、そんな飾らないところに好感を持っている人は多いと思います」  芸能評論家の三杉武氏は、常盤についてこう述べる。 「常盤さんというと、やはり『愛していると言ってくれ』での水野紘子役や『Beautiful Life』での町田杏子役など、テレビが元気だった時代の人気ドラマのヒロイン役という印象を持つ人も多いでしょう。若いころから美貌は際立っていましたが、女優然とした気取りがなく、かわいらしさもあって世代や性別を問わず、多くの視聴者から人気を集めました。実は下積み時代も長く、そのころの経験が演技力や人間性の高さにも影響しているのではないでしょうか。年齢を重ねてもその美貌やプロポーションは健在で、そうした美意識の高さも同性から高い支持を集めているのだと思います」  最近は映画での活躍が目立つ常盤だが、また連続ドラマでも彼女の姿を見たいファンは多いはずである。 (丸山ひろし)
常盤貴子
dot. 2023/04/12 11:00
人権が守られる現場のために インティマシー・コーディネーター・西山ももこ
人権が守られる現場のために インティマシー・コーディネーター・西山ももこ
14歳で盲目の愛犬「ブー」と。犬の保護活動に関わり、かみ癖のある老犬を受け入れた(撮影/鈴木愛子)  インティマシー・コーディネーター、西山ももこ。2022年の流行語大賞にもノミネートされたインティマシー・コーディネーター。性的なシーンの撮影で俳優の権利を守る仕事だ。まだ日本には2人しかいない。そのうちの一人が西山ももこだ。声をあげることが難しい俳優のために、監督との間に入り調整する。映像業界で性被害の訴えが相次ぐが、古い価値観が浸透する業界でもある。そんな業界を女性たちと一緒に変えていきたい。 *  *  *  映像制作の現場で、性被害の訴えが相次いでいる。昨年は映画監督の園子温や榊英雄、俳優の木下ほうかに被害を受けたと女性たちが声を上げた。映画業界の環境改善に向け提言を行う団体「Japanese Film Project」が、今年3月に発表した性被害に関する調査結果にも「(ある監督から)性交渉することで、君を理解したいと説教をされ(中略)性被害を受けた」「台本のト書には具体的な動きが書かれておらず、想像したより過激なシーンで(中略)震えてしまった」などの声が多数寄せられている。俳優の水原希子も昨年、雑誌「週刊文春」へのコメントで被害を明らかにした上で、俳優の権利を守る「インティマシー・コーディネーター(IC)」を積極的に採用するよう要望した。  ICは性的なシーンに関して、出演者が安心、安全な環境で演技できて、監督ら制作陣も満足できるシーンを作れるよう、両者の仲介や調整を担う。  日本に2人しかいないICの一人が、西山(にしやま)ももこ(43)だ。今年1月、西山が参加した朝日放送テレビのドラマ「アカイリンゴ」の撮影に同行した。この作品は性が大きなテーマとなっており、キスやセックスといった性描写も多い。  真っ暗な広い空間に、ベッドがぽつんと置かれたセット。窓には暗幕が引かれて日が入らず、凍えそうに寒いが、主人公には上半身裸で演じるシーンもある。西山は言う。 「極寒のセットで、若い役者は頑張っています。だからこそ出演者が後に作品を見た時、撮影で嫌な思いをしたという、苦い記憶がよみがえるようなことはなんとしても避けたい」  多くの撮影現場はスケジュールに追われており、俳優たちは「本当はいやだけど……」といったモヤモヤを抱えつつ、流されるように撮影に応じることもある。特に若手は、年上ばかりの現場で「嫌」とはなかなか言えない。無理をして演じ、精神的なダメージを受けることもある。 「アカイリンゴ」のロケ現場で。主演の小宮璃央は「西山さんがいると、現場の空気が変わる。彼女が『私はこう思う』と監督に積極的に話すので、全体に話し合う雰囲気ができるんです」と語る(撮影/鈴木愛子) ■うるさいと思われても言うべきことは言う  ICの仕事は、撮影前から始まっている。西山はロケに入る前、主演の小宮璃央(20)やヒロインの川津明日香(23)と一対一で話し、性的なシーンの内容を説明するとともに「性的な演技をどこまで許容できるか」をヒアリングした。川津は「撮影の時はまず『今日はももさん来る?』と確認し、来てくれるとほっとします」という。 「監督に『そのシーン、そこまで脱ぐ必要はありますか?』など、ももさんがプロの意見として言ってくれて、とても心強い。仮に私がそう思っても、わがままと受け取られそうで言葉をのみ込んでしまうと思います」  昨年12月には、西山やプロデューサー、監督らによる性的なシーンの打ち合わせが行われた。西山は台本を見ながら一つ一つの場面について、俳優はどの程度肌を露出するか、体の接触はあるかなどを確認していく。  複数のカップルが映るシーンでは「男性同士、女性同士のカップルがいてもいいのでは」と提案し、男性が女性のストッキングを破るシーンでは「男性目線のファンタジーだよね。お金がかかるから、いちいち破かないでほしい」と苦笑。主人公がスカートの中を盗み見て興奮するシーンについては、はっきり「私個人としては、不適切だと考えます」と表明した。 「やっと盗撮や痴漢は犯罪だという認識が社会に浸透し始めたのに、ドラマでそれらを連想させる表現が許されると、加害に免罪符を与えかねない。SNSの炎上リスクもあります。この作品は思い切った性描写に挑む分、不用意な表現で傷つくのはもったいない」  ICの西山は、現場で監督やプロデューサーに「ものを言える」数少ない女性でもある。だからこそ「うるさいと思われても、言うべきことは言う」ことを自分に課している。  異性愛にばかり焦点を当てることで「やはり同性愛は社会に認められない」とLGBTQの当事者を取り残してしまわないか。痴漢や盗撮、同意のない性行為を助長しないか。「強いヒロイン」の設定なのに、性描写だけ受け身になるのはあまりに男性目線ではないか。ストーリーに集中しがちな制作陣に、性犯罪などの社会情勢も踏まえた視点を提供するのも、役割の一つだと考えている。ただ「ICの一義的な仕事は、俳優の尊厳が守られ、安全な環境で撮影されているかを確認すること。意見はしますが、最終的な判断は作り手である監督にお任せしています」とも語った。 「アカイリンゴ」の監督の一人である桑島憲司によると、従来、性的なシーンは「キスをする」といった台本の簡単なト書きと監督の大まかな指示を頼りに撮影されることが多かったという。ICの導入によって、ようやく俳優自身と制作陣が、丁寧にお互いの意思をすり合わせるようになった。 「ももさんが我々と俳優の仲介をして、お互い理解しあった上で現場に入れるのはとても助かる。『男性同士のカップル』など僕には発想すらできない視点を提供してくれるのも、確実に作品のプラスになります」(桑島)  西山が映像制作に本格的に関わるようになったのは2009年、アフリカロケ専門の撮影コーディネーターの会社に入社してからだ。  幼稚園の時からモダンダンスを習い、高校卒業後は約10年間、アイルランドのカレッジとチェコのプラハ芸術アカデミーでダンスを学んだ。アカデミーでは実力が認められ学費免除の本科生となったが、卒業の時ダンスで身を立てることに限界を感じ、日本に帰国して新たなキャリアを築くことにしたのだ。チェコでアルバイトとしてCM撮影に関わったことがあり「働くならメディアの世界に行きたい」と考えた。 ■無理を通すとやらせを招く 現場でのけんかが増える  コーディネーターは撮影許可の取得に加え、ビザや航空券、宿泊先の予約、移動車両や現地エキストラの手配など、膨大な裏方仕事を担う。突然撮影が不許可になったり、雇ったダンサーが来なかったりといったトラブルも多く「常にメールをチェックしながら『やばいやばい』とドキドキしていました」。  10年のサッカーワールドカップ南アフリカ大会のほか、人気バラエティー番組などの撮影コーディネートを次々と担当。元来の世話好きな性格に加え「要望をすべて叶(かな)えるのが優秀なコーディネーター」と考えていたこともあり、クライアントの希望は何でも聞き入れた。その結果、指名で仕事が入るようになり、数年で会社の稼ぎ頭に。ドキュメンタリー映画の監督で、西山の友人でもある和田萌は「西山さんは、コーディネーターとしてすごく優秀」と評した。 「現地事情に詳しいし段取りも良く、急な予定変更にもすぐ対応してくれる。ドライバーが道を間違えて危険地域に入り込んだ時も、日本人クルーには少しも動揺をみせず、『絶対止まらず走れ』と指示していて『肝の据わり方が半端じゃない』と思いました」  16年に独立した後も仕事は順調だったが、次第に「要望を全て叶えるのが優秀」という考えは、自分の勘違いだったと悟り始める。取材先やスタッフを犠牲にしてでも、番組のために無理を通そうとするクライアントがいたのだ。例えばオーロラや希少生物を見に行くといった、運に左右されやすい企画でも、見られなかった時の代替案は考えず、「何としてでも撮れ」とごり押しする。しわ寄せを受けるのは、西山や末端のスタッフだ。 「この場面を撮れなければ番組が成立しない、という状況は、スタッフに過剰なプレッシャーを与える上に、撮れなかった時に過激な演出ややらせを招きやすいのです」  あるプロデューサーは、番組で取材していた老夫婦から「知らせたいことがある」と言われた時、「悪いニュースだったらいいな」とつぶやいた。その方が番組が盛り上がると思ったのだろう。西山はこうした制作者の態度がどんどん許せなくなり、現場でけんかばかりするようになっていた。  そんな中で、西山がコーディネーターとして関わったある番組に「やらせ」が発覚。番組は放映休止となり、テレビ局側が陳謝した。しばらくすると、番組は何ごともなかったかのように復活したが、西山も含め、やらせの責任を取る必要のないスタッフは外されていた。  20年2月のある夜、タクシーに乗ると、運転手にこう話しかけられた。 「今日で引退するので、あなたが最後のお客です」  西山が「仕事はどうでしたか?」と聞くと、運転手は「すごく楽しかったです」。  私は今の仕事を続けて、引退する時「楽しかった」と言えるだろうか──。  西山は翌日、クライアントに休業宣言を出した。奇しくもコロナ禍が始まり、海外ロケはすべてストップ。そんな時に友人から、ICの資格取得を勧められた。 ■ICという新しい仕事 気を遣うあまり及び腰に  ICについての知識はまったくなかった。調べていくうちに、性的なシーンで不本意な演技を強いられる俳優と、理不尽な要求を突き付けられる取材先やスタッフは、人権を蔑(ないがし)ろにされる点が共通していると気づいた。 「ICの知識を得ることで、自分の中にあるさまざまなモヤモヤを整理できるのではないかと感じたんです」  ICになるためには、専門機関でのトレーニングが必要だが、まだ日本にはその団体がない。米国のIPA(Intimacy Professionals Association)に登録し、トレーニングを受けた。約3週間、午前中はオンライン講義を受け、午後は講義を復習して宿題の小テストをこなす。膨大な課題図書も読みこなし、無事資格を取得した。  ICの仕事を始めた当初は、この新しい仕事を現場に受け入れてもらわなければ、という気持ちが強かった。あまりしつこく意見すると、「面倒くさい」と疎まれるかもしれない。忙しい監督や俳優を煩わせてもいけない。気を遣うあまり、関わり方が及び腰になった。すると、ある俳優がぽつりと言った。 「ICが入っても、やりたくないことはやらなきゃいけないんだね」  西山はこの言葉に「自分はICとして、なすべき仕事を半分もできていない」と痛感する。それからは現場で堂々と自分の意見を言い、監督や俳優とも、時間をかけて積極的に関わるようになった。すると相手からも「こういう話をしたかった」と喜ばれたという。監督も俳優も実際は、良い作品を撮るための話し合いはいとわなかった。 (文中敬称略) (文・有馬知子) ※記事の続きはAERA 2023年4月10日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/04/07 17:30
NHKから“カレーアナ”に転身 内藤裕子「カレーは食べた人が元気を受け取るラブレター」
NHKから“カレーアナ”に転身 内藤裕子「カレーは食べた人が元気を受け取るラブレター」
内藤裕子(ないとう・ゆうこ)/1976年生まれ。99年、NHKに入局。「あさイチ」リポーターなどを担当。2017年に退局、18年にカレー大学院卒業(撮影/高橋奈緒)  仕事を選ぶうえで、やりがいや働きやすさなども大事な要素だが、「好きだから」というのも忘れてはいけないポイントだ。自分の「好き」に向かって飛び込んだ、元NHKアナウンサーの内藤裕子さんが語った。AERA 2023年4月10日号の記事を紹介する。 *  *  *  情報番組「あさイチ」の初代リポーターだった元NHKアナウンサーの内藤裕子さんは、フリーに転身した今、「カレーアナ」と呼ばれている。  40歳でNHKを退局後、カレーの勉強を始めたが、趣味で終わらなかった。  よく食べるときは、朝、夜、そして翌朝。最近も2日に1回は食べる。食べたカレーの写真は、必ず「おつカレー!」と書いてインスタグラムに投稿している。投稿を始めて今年で5年。記録のつもりだったが、そのカレー愛が、テレビ朝日の料理番組「家事ヤロウ!!!」のスタッフの目に留まり、番組内でカレーの作り方を紹介するように。そして、レシピ本を出版するまでになった。カレー関係のイベントや番組にたびたび呼ばれて、カレーの魅力を伝えている。 「右手にスプーン、左手にマイクのカレーアナウンサーです」  もともと思い切りがよくて、元気がいいほう。でも、カレーの話をするときは「いつもより前のめりだね」と言われる。  内藤さんは取材に、いつものカレー用のスプーンを持ってきた。そして、食べ歩きしやすいデニムに靴、カレー愛を込めた赤と金のカレーコーデで登場した。  お気に入りのカレーを紹介してくれた。東京・渋谷ヒカリエの「コスメキッチン アダプテーション」のレモンとココナッツミルクのチキンカレーだ。 「ん~さわやかな香り! レモンの酸味が利いて軽やかでおいしいんですよ」 アイスで簡単!「バターチキンカレー」(撮影/原ヒデトシ) ■母の生きた証し  でも、なぜカレー? “カレー道”にのめり込んだ背景には、40歳を目前にした迷い、そして九死に一生を得る事故があった。  思えば、カレーがよく出る家庭に育った。父は週末にスパイスの香るカレーを作った。母はなすとひき肉のキーマカレーをよく作ってくれた。 母から教わった「なすとひき肉のキーマカレー」(撮影/原ヒデトシ)  新人時代、給料日は、配属先のNHK熊本放送局の近くにある洋食屋で、カレーを食べるのが楽しみだった。肉は柔らかく、バターライスとの組み合わせが最高。 「おいしいし、体は温まるし、ハッピーホルモンがわいてくるんです。焼き肉を食べるのに似た感じで、元気が出ました」  2010年、「あさイチ」のリポーターに抜擢(ばってき)された。だが、初回の出演の1週間前、母がすい臓がんで亡くなった。  どうしたら母を感じられるだろう。いろいろ試すうちに、よく作ってくれたなすとひき肉のキーマカレーに行き当たった。何度も母のカレーを作ってみた。 「当たり前の味だと思っていましたが、自分で作っても母の味には近づけられなかったんです。カレーに母の生きた証しが詰まっていたんだと思いました」  作ってみて気づいた。その時によって味が違う。少しずつ上達していく実感もあった。もう少しカレーのことを知りたい。時間を見つけては作るようになった。  決定的な転機は、36歳のとき。交通事故に巻き込まれた。信号待ちをしていたところ、交差点でバイクと車が衝突、バイクが内藤さんの目の前に飛んできた。バイクはポールに当たって跳ね返されたため、内藤さんは直撃を免れて、足の打撲で済んだ。  警察官から「もしポールがなかったら、バイクに当たって即死か大やけどだったでしょう」と言われて、こう思った。 「いつ人生に幕が下ろされるかわからない。たった一度きりの人生を思いっきり生きたいって、自分が変わった気がしたんです」  アナウンサーの仕事は大好きだった。毎日、新しいことの連続だった。 「40歳を前にして、いろいろ考えさせられたんですよね。50歳の時、10年後の自分はどうしてるんだろうって」 ■「カレー好きだよね?」  若い頃は、自分のことを考えて、好きなことをしていればよかった。でも、母が亡くなった今、父には元気でいてほしいし、そばにいたい。全国転勤があり、多忙な生活を続けていいのだろうか。  それに、いつまで現役のアナウンサーでいられるだろう。 「一回ちょっと違う景色を見てみるのもいいのかな」 カフェ風「チキンカレー」(撮影/原ヒデトシ)  数年悩んだ末、18年勤めたNHKを辞めた。  ただ、辞めてすぐに、カレーのことが頭に浮かんだわけではない。いままで家族に迷惑をかけた罪滅ぼしをしたい。主婦業を始めた。  一方で、NHK時代の同僚から少しずつナレーションなど声の仕事を依頼されるようになり、語りの仕事の奥深さを改めて実感した。「細々でもいいから語りの仕事をしていきたい」と強く思うようになっていった。  そんなときに知人から連絡があった。 「どうしてる? カレー好きだよね?」  まもなく開校する「カレー大学院」の存在を教えてくれた。カレー作りからカレーの社会学まで勉強できる。「何それ。面白そう」と申し込んだ。 「今までと違う筋肉を鍛えられるかなって」 スパイスを重ねた「メカジキとエビのカレー」(撮影/原ヒデトシ) ■自分の言葉で伝える  仕事を辞めて、カレーの学校に踏み出した。夫は「何を考えているんだ。お花畑はやめてくれ」と反対したが、あきらめなかった。 「自分を輝かせられるのは、自分だけだから。好きなことをしよう」  授業は半年間、月に1回。朝から夕方まで。課題が毎回出された。課題のために、カレーについて調べた。例えば、1960年代の高度経済成長期までは、日本のカレーは辛く、大人の食べ物だった。だが、子どもたちが食べられる甘いカレーを作れないか。そんな声に応えたメーカーは、努力の末、甘口カレーを生みだした。先人たちの思いを感じると、カレーがよりおいしくなった。 「カレーは食べた人が元気を受け取るラブレターだと思うんです。作った人たちの思いをみんなにシェアしたくなりました」  筆記試験と卒業論文の結果、カレー大学院を首席で卒業し、芸能事務所に所属した。早速、ラジオ番組へのレギュラー出演が決まり、チャンスが巡ってきた。 「でも、カレーアナとしての活動は、ゼロからの再出発でした。まるで温室からジャングルに出たようでした」  NHK時代とは、違う能力を求められた。データや歴史を紹介するだけではない。 「あなたがどう感じたか話してください」とダメ出しされた。自分の言葉で、視聴者が共感するようなエピソードを話さなければならない。脱皮しよう。ダメな自分と向き合った。  スパイスは、ピリッと引き締めるだけではない。とろけるような甘み、個性的な香りをかもす。今はこう感じている。 「カレーにも人生にも、スパイスが必要だと思うんです」 (構成/編集部・井上有紀子) ※AERA 2023年4月10日号
AERA 2023/04/07 11:00
ベテラン俳優が直面した70歳の壁 医者の「お年ですから」にショック【前編】
ベテラン俳優が直面した70歳の壁 医者の「お年ですから」にショック【前編】
田山涼成(たやまりょうせい)/ 1951年生まれ。愛知県出身。76年文学座研究所卒業。劇団夢の遊眠社を経て、映像・舞台に幅広く活躍。近年の主な出演作に、舞台「ウエスト・サイド・ストーリー」Season2、映画「劇場版 きのう何食べた?」「仕掛人・藤枝梅安」第一作、ドラマ「無用庵隠居修行」「最高のオバハン 中島ハルコ」など。(撮影/写真映像部・高橋奈緒)  2年前までは、「舞台の上では、まだまだなんでもできる」と思っていた。そう話すのは、71歳になった俳優・田山涼成さんだ。18世紀のフランス・パリに生きた稲垣吾郎さん演じる実在の死刑執行人が主人公の舞台「サンソン─ルイ16世の首を刎ねた男─」が幕を開けたのが、2021年4月23日。その舞台で田山さんは、ギロチンの発案者であるギヨタンを演じながら、勢いよくセリフを言い、ときに跳ねたり足を上げたりしていた。  ところが開演から4日間上演された後、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、以降の舞台が中止になってしまった。その1年前も、ステイホームで一日をどうやって過ごしたらいいかわからない状況に置かれていた。あの日常をまた繰り返すのか。目の前が真っ暗になった。 「コロナ禍で、初めて自宅にこもったときは、普段読まない本を読んだり、それがつらくなると、今度は昔の映画なんかを見始めた。でも、僕は会社勤めをしたことがなく、若い頃からずーっと芝居を続けてきたので、『現場に行かない』という日常にまったく慣れていなかった。そのせいか何をやってもすぐ飽きてしまったんです。しかも、毎日のスケジュールが空っぽだから、時間の感覚を確認するのが食事だけになってしまう。妻も、食事しか変化がつけられないことがわかっているせいか、『朝ごはん、何にする?』って聞くようになって……」  この日、田山さんはとても粋なジャケットにネクタイ、メガネにハットを被って、取材現場に現れた。「決まってますね」と言うと、「スタイリングはすべて妻が」と照れ臭そうに答える。田山さんといえば、知る人ぞ知る愛妻家。劇団時代に知り合った妻は、結婚を機に劇団を辞め、アルバイトをして家計を支えた。 「僕がプロポーズして、芝居が終わって数日後に結婚したんです。あのとき妻が働いてくれなかったら、俳優として芽の出なかった30代を乗り越えられたかどうか」 撮影/写真映像部・高橋奈緒  妻には頭の上がらない田山さんも、コロナ禍で夫婦のコミュニケーションが「食」に集約されていく中では、それなりにヤンチャもしていた。 「朝だけでなく、夜も『何食べたい?』って聞かれるものですから、普段、健康のことを考えてあまり油物を出さない妻に、油物をリクエストしたり。そうすると、すごく量が少ないんですよ。しかも、食べ終わって時計を見ると16時半ぐらいだったりして(笑)。ここからどうやって過ごすのって話ですよね。テレビを観て、お風呂入って、出てきてちょっとウイスキーを飲んで、時計を見たら23時。その頃になると無性に汁物が食べたくなる。でも、妻に汁物が食べたいなんて言えないから、ひたすら彼女が寝るのを待って。コンビニで、5分20秒ぐらいチンするだけでできるラーメンがあるので、それを夜中の2時ぐらいに食べるんです」  妻に隠れての悪事は、食べるところまではうまくいった。問題は、プラスチックのどんぶりをどう処分するかだ。 「そのままゴミ箱に捨てるわけにはいかないから、細かく切って……。そんなことをやっていたら結局すぐばれて、『やめてね』と軽く言われました」  徐々に舞台や映像の仕事が復活したところで、せっかく幕を開けた舞台が休止になってしまった。 「70歳になる少し前、実はちょっと膝を痛めて。当時はまだ『何でもできる!』って思ってたから、ジョギングなんかしちゃったら、余計に膝が痛くなってしまった。整形外科の先生に『お年ですから、やめてください』と言われてショック(苦笑)」  初めて自分の年齢を意識し、70歳になることが怖くなった。 「それで、年齢に関する本を読んだりするようになると、今度は、和田秀樹先生の『70歳が老化の分かれ道』っていう本に出合うんです。本の中では、僕が年齢に逆らっていろいろやろうと思っていたことが全部否定されていた。要は、『何もしなくていい』という内容だったので、『あ、バタバタあがかなくても、このままでいいんだ』って開き直ったんです(笑)」 (菊地陽子 構成/長沢明) ※記事の後編を読む>>「俳優・田山涼成が新たな演じ方に挑戦『70を過ぎての課題がうれしい』【後編】」はコチラ ※週刊朝日  2023年4月14日号より抜粋
週刊朝日 2023/04/06 11:00
3人の子どもに「お母さんはやっぱり勉強したい」 主婦から大学教授になった石川幹子さんの分岐点
高橋真理子 高橋真理子
3人の子どもに「お母さんはやっぱり勉強したい」 主婦から大学教授になった石川幹子さんの分岐点
衰退したルール炭鉱地帯の再生プロジェクトで訪れたドイツのデュイスブルグで。69歳のとき=2018年7月、石川幹子さん提供  東京の明治神宮外苑に根をおろした約1000本の樹木を伐採する開発計画に、学者として敢然と異を唱えた中央大学研究開発機構教授の石川幹子さんは、26歳で結婚した。義父母と同居して「嫁」の役割を果たしつつ3人の子を産んでから、学者になろうと志す。  42歳にして母校東京大学の博士課程に入り、誰もが自由に利用できる「コモンズ」としての緑地の歴史と価値を研究して博士号を取得。その3年後、夫が心臓発作で倒れた。1年3カ月後に51歳で他界。一家の生活を背負う立場となり、大学教授として理論と実践の両面で次々と大きな仕事を手掛けて各種の賞を受賞してきた。設計した公園、守った緑地は国内外に数多い。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) >>【前編:神宮外苑再開発に「何かおかしい」と図面を片手に学術調査、女性都市環境学者の原点 中国、ブータン、東日本大震災復興でコモンズ再生を実践】から続く *  * *――学者になる前は主婦だったとうかがいました。  そうなんですよ。子どもを3人育て、夫の両親と同居して、みんなのごはんを作っていました。東大農学部の大学院博士課程に入ったのが42歳のとき。一番下の子が小学校に上がるタイミングで、3人の子どもを集めて「今までお母さんはあなたたちのために一生懸命やってきたけど、お母さんはやっぱり勉強したいから大学に入る。反対してもダメよ」って言ったら、子どもたちは顔を見合わせて「誰も反対しないよ」って。私は悲壮な覚悟をして言ったんだけど、あれは面白かったですね。 ――卒業された学科の博士課程に入られたんですか?  そうです。東大に入ってから「理不尽な開発をなくす学問」はないかと調べたら、農学部農業生物学科に緑地学研究室というのがあった。そこを卒業して不動産会社に就職しました。ニュータウン開発とかがすごかった時代で、私はものすごく大きな仕事を任され、設計事務所や現場の職人さんたちに発注者として指示しないといけない。現場のおじさんに、学校で教えてもらえなかったことをいろいろ教えてもらったりしながら、「自分はもっと勉強すべきだ」という思いが募り、2年後に米ハーバード大学デザイン大学院の修士課程に入りました。 ――入学試験に受かったんですね?  はい。会社に内緒で夜勉強しました。ただ、英語については中高の教育がとても良かったので、あまり苦労しませんでした。数学は簡単で、おそらく満点だったと思います。ランドスケープアーキテクチャー(景観設計)を専攻し、もちろん大変でしたけれど、満足いくまで勉強ができた。最高の教育を受けました。世界中に同級生がいます。 経済学者の石川経夫氏との結婚式=1975年6月、米国ハーバード大学内のチャペル、石川幹子さん提供  入学して半年後に出会ったのが、隣の研究所にいた夫です。東大の宇沢弘文先生の弟子で、経済学部を卒業したら紛争で大学院に行けず、宇沢先生が推薦状を書いてくれてジョンズホプキンス大学に行って3年間で博士号を取っちゃったんですよ。それですぐにハーバードの先生になっていました。純粋を絵に描いたような人で、3日目に結婚を決意し、3週間で婚約、3カ月で結婚式をあげました。26歳でした。 結婚式当日の披露パーティーでは着物を着た=石川幹子さん提供  夫が東大から呼び戻されたので、私はしばらく米国に残り、修士号を取ってから帰国しました。長女を身ごもっていたので、帰ったときは主婦をやるしかなかった。諦めの境地です。私の時代は赤ちゃんがいたら諦めるしかなかった。いまは、本当に良い時代になったと思います。 ――東京ランドスケープ研究所というところでお仕事をされていましたよね?  ここは恩師が顧問をしていた会社です。主婦をしながらでも、毎年1つぐらいならできると、帰国直後から細々と設計の仕事を始めました。だって、何もしなかったら、そのまま終わりですからね。 私が働くことに夫の両親はものすごく反対だったと思います。いい顔なんてされませんでした。「嫁が子どもをほったらかして働くなんてことは許されない」と思っていたと思います。  この時期に私が設計したのが、新宿御苑トンネルの整備に伴う樹林地保全と再生、お台場海浜公園などです。でも、設計事務所は下請けみたいなものだったので、自分がこうしたいと思ってもノーと言われたらおしまいです。自分のやりたいことをやるんだったら、自分が意思表示して受け入れられないとダメだと思って、大学院に行こうと思いました。 ――それで冒頭のお子さんたちの話につながるわけですね。  夫は「学者でやっていくなら論文をいっぱい書かないとダメだよ」とアドバイスしてくれて、学者になることを応援してくれました。  当時、42歳で大学院に入りたいなんていう人はいなくて、まず卒業した学科の教授に相談に行ったら「3年でちゃんと博士号を取るなら受け入れてやる」と言われました。農学部では私のような分野を学問的にやっている人が少ないので、博士号を出してもらいにくい。それなら、他の分野で認められれば農学部の先生もダメだと言えないだろうというのが私の戦略でした。  3年間は都市計画学会、造園学会、土木学会の3つに毎年1本ずつ論文を出すことを目標にしました。1年を3つに分けて、4カ月ごとに論文を仕上げていくことにして、必死で書いた。結局、3年間で11本の論文を書いて、無事に博士号をいただけました。  それでも就職先はありませんでした。本を書いて賞をとれば、きっとどこかにひっかかるだろうと論文を集大成した本を出そうと思ったんですが、その前に夫が職場で心臓発作で倒れたんです。意識不明の状態が1年3カ月続いて、1998年に51歳で亡くなりました。倒れたとき、私は工学院大学で特別専任教授というパートタイムの仕事をし始めたばかり。収入は微々たるものでした。なのに、子ども3人と夫の両親と合わせて5人の生活がいきなり私の肩にかかってきたんですよ。 ――「働くのは許さない」などと言っていられない状況になった。  そうです。幸い、慶應義塾大学の湘南藤沢にある環境情報学部が教授として呼んでくださいました。慶應の先生になってから、義父の対応が変わりました。それまでは「嫁」だったのが、人権を回復した感じ。義父も学者で、「学問をしたい」という私の思いをわかってくださり、その一点でつながりができたんだと思います。その後はとてもいい関係になりました。夫の両親は92歳と94歳で天寿を全うし、私はちゃんとお見送りしたので、心は安らかです。 ――2007年から東大の工学部都市工学科の教授になられた。  農学部ではなく工学部から、私がやっていることは面白いっていうんで、「環境デザイン」という講座を新たにつくって呼んでいただきました。私のような者を呼んでくださった先生方に今でも感謝しています。最初は、私の代だけのつもりだったようです。いや、この分野は重要だから都市工学科の永久講座にしないといけないと思って、私は懸命に努力しました。設計競技(コンペ)では、内外で第1位を取り、毎年のように立派な賞をいただきました。岐阜県各務原市の「水と緑の回廊計画」には日本都市計画学会計画設計賞(2007年度)と土木学会デザイン賞最優秀賞(2008年)、同じく優秀賞(2010、2012年)をいただき、2008年には内閣府から私の仕事全体に対して「みどりの学術賞」を授与された。おかげで、永久講座になりました。ですから私は環境デザイン講座の創設者です。  論文を集大成した本は、2001年に岩波書店から出しました。これは、日本都市計画学会論文賞をいただきました。 石川幹子さん=2023年3月、中央大学の隣にある文京区立礫川公園 ――まちづくりや景観設計の実践活動も多いですね。  神奈川県の鎌倉市や川崎市など自治体の環境審議会や都市計画審議会の委員を数多く務めてきました。鎌倉では開発業者と闘い、川崎では緑地のカルテというのを作ってコツコツ小さな緑を守ってきました。20年ぐらい奉仕しました。横浜は10年ぐらいかな。一番長いのが東京都新宿区で、将軍家の鷹狩りの場だった「おとめ山公園」の再生は、地元の皆さんとの協働で武蔵野の自然を再生したコモンズです。新宿区という大都会で、蛍が群舞しています。  ただ「緑を守りましょう」と言っても全然ダメ。きちんと調査して、計画にしないと守れません。それはサイエンスなんです。なぜ、賞をいただけるのか、長い間わかりませんでしたが、私の場合はサイエンスの土台があるからだということに、最近、思い至りました。  私の設計は、科学的な調査をがっちりやって、それに基づいてデザインするんですけど、デザインは設計者が勝手に描かないで、集まった市民の意見を聞いてみんなで考える。「私が決めない」のが私の原則です。設計者は、縁の下の力持ちに徹することが大事です。  最近取り組んだのが、東京都中央区の兜町のど真ん中にある坂本町公園という小さな公園のリニューアルです。ここは明治時代に東京府が「密集した市街地には新鮮な空気を提供する空地と緑が衛生上必要だ」と考えて、コレラ患者を収容した病院を取り壊してつくった公園です。隣接する小学校の建て替えのため取り壊され、区の案ができていたのですが、町会の皆さんが「納得できない」と訪ねてこられた。それで、子どもたちの意見を取り入れて、広い芝生と小川のある公園にしました。(写真を見せながら)ほら、子どもたち楽しそうでしょ? 遊具を置くより、原っぱで友だちと一緒にトンボを追いかけるほうが楽しいですよね、きっと。  神宮外苑の当初計画には、あんまり注目されていませんが、青山の入り口に子どもの遊び場があったんですよ。一等地が子どもの遊び場なんです。信濃町の入り口も子どもの遊び場でした。いまでも不思議な山があります。一番入りやすい一等地です。どれだけこの時代の人が子どもを大事にしたかっていうことがわかります。今は駐車場とかになっていますけどね、あの場所を「子どもに返して」って私は思うんです。 石川幹子(いしかわ・みきこ)/1948年宮城県岩沼市生まれ。1972年東京大学農学部卒、1976年ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了(M.L.A)、1976~1991年東京ランドスケープ研究所・設景室主幹。1994年東大大学院農学生命科学研究科博士課程修了(農学博士)。工学院大学特別専任教授、慶應義塾大学環境情報学部教授を経て2007年から東大大学院工学系研究科都市工学専攻教授、2013年から中央大学理工学部人間総合理工学科教授・学科長。2019年から中央大学研究開発機構教授。中国の四川大地震復興支援に対し、2020年に四川省都江堰市から最優秀人材栄誉賞を、2022年に成都市から公園都市建設を先導した貢献をたたえるメダルを受けている。
女性科学者石川幹子神宮外苑再開発高橋真理子
dot. 2023/04/04 17:00
学童の待機児童1万5千人で親たちから悲鳴 需要に供給が追いついていない縦割り行政が背景に
野村昌二 野村昌二
学童の待機児童1万5千人で親たちから悲鳴 需要に供給が追いついていない縦割り行政が背景に
埼玉県の女性のもとに届いた、学童の「保留通知」の案内。保留の理由として、「必要性を指数化し、高い方から利用許可を出させていただきました」とあった(写真:女性提供) 「保育園落ちた日本死ね」から7年。学童に入れない子どもが増えている。背景には何があるのか。「異次元の少子化対策」には学童のサービス拡充とあるが……。AERA 2023年4月10日号の記事を紹介する。 *  *  * 「頭が真っ白になりました」  埼玉県内に住む40代の女性は振り返る。春から4年生になる息子の学童への利用を申し込んでいたが、1月に「保留通知」の案内が市役所から届いたのだ。  共働きやひとり親家庭の小学生を預かる学童(放課後児童クラブ)。女性はパートで働くが、職場が遠く、朝早くから夕方まで家にいない。夫も協力してくれているが、息子を一人で留守番させるのはまだ不安。近くに預ける人はおらず、民間学童は経済的に無理。仕事を減らしたりするしかないのか。 「不安で夜中に目が覚めることもありました」 ■縦割り行政が背景に <#学童落ちた>  3月中旬、SNS上で、こんなハッシュタグをつけた投稿が相次いだ。  厚生労働省の調査では、昨年5月1日時点で、学童への入所を希望しても断られた児童は1万5180人と、前年と比べ1764人増えた。SNSには<子育て支援してよ><国なんてクソくらえよ>など、学童に落ちた親たちの悲鳴や怒りが次々と上がった。  思い出すのは、<保育園落ちた日本死ね!!!>のブログだ。2016年、「保活」で苦労した保護者が匿名で、保育園の待機児童問題の切実さを訴えた。これを機に保育園の待機児童問題対策が国の最大の争点になり、対策で待機児童数は減少した。  待機児童問題に詳しい、東京大学大学院の山口慎太郎教授(家族経済学)は、かつての保育園の待機児童問題が学童に及んでいると指摘する。 「共働きが増え学童へのニーズが増えているにもかかわらず、その需要に供給が追いついていません」  要因の一つに「縦割り行政」があると話す。 「学童の管轄は厚労省ですが、学童の設置場所の大半が小学校内になります。そうすると学校や教育委員会の協力も必要になり管轄は文部科学省です。互いに協力する体制を築くことになっていますが、学校側にとって学童は本来の業務ではないため、設置にあまり熱心でありません」 ■指導員の不足も深刻  もう一つ、供給が追いつかない理由が子どもたちを支援する指導員の不足だ。民間団体「全国学童保育連絡協議会」の調べでは、勤続年数が3年未満の指導員は約3割を占める(18年)。背景には指導員の処遇がある。同協議会の調べでは、年収150万円未満は約48%だ。都内の学童で働く指導員の女性(40代)は、若い指導員が2、3年で辞めていくと嘆く。 「若い人が安心して長く勤められる環境になっていません」  学童の待機児童問題は、さまざまな弊害をもたらす。山口教授は、次のような懸念を示す。 「子どもが学童に入れなくなると、母親が仕事を犠牲にすることが多くなります。日本の企業はフルタイムで働かなければ昇進できないケースが多く、時短勤務で働くようになったりすると、女性の管理職がますます増えにくくなります」  キャパシティーが足りなくても、働く親たちのために子どもを受け入れる学童も少なくない。狭い教室に何十人も子どもがいる状況は子どもが発達する上で決してよい環境ではないと話す。 「まず、『縦割り行政』を解消し、厚労省と文科省は連携して学童の設置に取り組むことが大事。同時に、国は十分な予算をつけ、指導員の待遇をよくすることも重要です」(山口教授)  学童は、親が日中家にいない小学生にとって大事な「居場所」だ。その環境を整えることは緊急の課題で、岸田政権が打ち出す「異次元の少子化対策」も、学童を含めた保育サービスの拡充を挙げる。  冒頭の女性の息子は2次選考後、学童の利用許可通知が届いた。女性は今、こう訴える。 「安心して仕事ができるよう、希望する人みんなが入れるようにしていただきたいです」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2023年4月10日号
AERA 2023/04/04 07:30
有名建築家が設計した施設も!旅行先のメインをはれるぐらいステキな図書館5選
有名建築家が設計した施設も!旅行先のメインをはれるぐらいステキな図書館5選
1872(明治5)年4月2日、東京の湯島に日本初の官立公共図書館である「東京書籍館」が開設されました。これを記念して毎年4月2日は「図書館開設記念日」となっています。“図書館”と聞くと、水を打ったような静けさの中で調べものをしたり、勉学に励む場所というイメージが強いですよね。でも最近は有名な建築家が設計した図書館や、カフェが併設されたオシャレな図書館が増えているんです。今回は、旅行の際に時間を割いてでも立ち寄ってみたい全国のオススメ図書館をご紹介します。イメージ画像 1.富山市立図書館(富山県) 富山県は富山市西町にある複合施設「TOYAMAキラリ」内に構える「富山市立図書館」。館内には一般図書や児童図書など約45万冊の蔵書に加え、気軽に読めるファッション誌やビジネス誌、芸術誌までが豊富にそろいます。 TOYAMAキラリの最大の特徴はそのデザイン性。国立競技場を手掛けた世界的建築家の隈研吾(くまけんご)氏が設計し、アルミやガラス、石を組み合わせた外観はとても目を引きます。施設内は2階から6階までが斜めの大きな吹き抜けとなっており、南からの自然光がたっぷりと射し込む造りに。壁には富山県産の杉材の板をふんだんに使用することで、やわらかくあたたかい空気感をつくりだしています。 また、ガラス製造の街として発展した富山市だけあって、建物内には「富山市ガラス美術館」が併設されており、ガラスの芸術作品や工芸品を観賞することもできます。イメージ画像 2.金沢海みらい図書館(石川県) 金沢駅の近くからバスに乗って20~30分ほどの場所にある「金沢海みらい図書館」。こちらの建物は、外壁に約6000個の丸窓を配置する斬新なデザインとなっており、昼間は読書に適した自然光を内部に採り入れられる造りになっています。また、夜は逆に内部からの光が洩れ出るようになっており、建物全体が光る姿はとっても幻想的。2012年には「世界で最も美しい公共図書館25選」にも選出されました。 江戸時代は北前船の寄港地であったほか、醤油や機械工業などのものづくりが盛んな土地であることから、それらの地域情報に関する蔵書が充実しています。イメージ画像 3.岐阜市立中央図書館(岐阜県) 長良川のほど近くに2015年にオープンした「みんなの森 ぎふメディアコスモス」。その中核にある「岐阜市立中央図書館」は約53万冊を超える蔵書を誇ります。 建築家の伊東豊雄(いとうとよお)氏が設計したという建物内は特に天井が特徴的。東濃ヒノキを使用した波打つ木製格子屋根となっていて、その天井からは大きな傘のようなグローブが吊られています。吊り下げられたグローブは全部で11個。それぞれの柄は異なったデザインになっていて、各々を見比べているだけでも楽しい時間が過ごせます。 また、こちらの図書館で特筆すべきはその座席数。テラス席を含む他の追随を許さない約900もの座席数は『ここにいることが気持ちいい』、『ずっとここにいたくなる』、『何度でも来てみたくなる』の3つの合言葉を体現。晴れた日には金華山に面してつくられた「金華山テラス」や「ひだまりテラス」、「並木テラス」といった3つのテラス席でゆったりと読書を楽しめます。 市民と共に成長する複合文化施設のモデルとして高く評価されており、2022年には、先進的な活動を行っている図書館に対して毎年贈られる「Library of the Year」に輝いています。イメージ画像 4.ゆすはら雲の上の図書館(高知県) 標高およそ1,455m。雄大な四国カルストに抱かれた梼原(ゆすはら)町にある「ゆすはら雲の上の図書館」は「富山市立図書館」などを手掛けた隈研吾氏が設計した図書館です。 こちらは入口で靴を脱いでから入館するという公設の図書館としては珍しいスタイル。外壁や内装には梼原町産の木材がふんだんに使われており、床は棚田を想起させるような起伏に富んだ梼原の大地をイメージした造りになっています。館内には木の床のぬくもりを感じながら寝転んで本を読むスペースがあるほか、ボルダリング設備やカフェも併設。知の拠点として学びの場であるとともに世代間交流ができる憩いの場となっています。 なお、隈研吾氏と梼原町は深い関係性にあり、町内には「雲の上のギャラリー」やまちの駅 「ゆすはら」など隈氏が設計した建築物が点在しています。建築美を巡る周遊を楽しみつつ図書館で一休み、疲れが癒えたらまた町内散策へ・・・といった周遊パターンもオススメです。 ※ボルダリング設備はコロナウイルスの感染拡大状況により閉鎖される場合があります。利用したい場合は訪問前に必ず状況を確認してください。イメージ画像 5.武雄市図書館(佐賀県) オシャレな外観と足を踏み入れた瞬間、2階天井まで届く書棚に圧倒される「武雄市図書館」。「TSUTAYA」を運営する「カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)」が運営を受託しており、館内には約25万冊の貸出用蔵書と3万冊の販売用書籍があります。コーヒーチェーンの「スターバックス」が併設されていることでも知られ、図書館で見つけた気になる本や販売用の書籍、雑誌などをカフェに持ち込んで寛ぐことができます。 また、コーヒーを飲みながらパソコンで仕事をする人や、喫茶店感覚で図書館を利用する近隣住民もいるため、堅苦しい図書館のイメージは皆無。図書館と書店、カフェが違和感なくつながるオープンな空気の中で思い思いの時間を過ごせます。 隣には約2万冊の絵本に囲まれた「武雄市こども図書館」もあって、ハンモックや砂場を使って親子で過ごせるようになっています。お腹が空いたら「九州パンケーキカフェ 武雄市こども図書館店」で、九州素材で作ったパンケーキが食べられるのも嬉しいポイントです。イメージ画像 旅行の際に時間を割いてでも立ち寄ってみたい全国のオススメ図書館の数々、いかがでしたか?今回紹介した図書館は比較的規模が大きな図書館ばかりでしたが、全国には小さいけれど独自の取り組みを行っている図書館やユニークな蔵書ばかりを集めた私設図書館などがたくさんあります。仕事の出張先や旅行先、ふらっとドライブ中に立ち寄った街などで、自分好みの図書館を探してみるのも面白そうですね。岐阜市立中央図書館の木製格子屋根
tenki.jp 2023/04/02 00:00
ホラー漫画家伊藤三巳華が巡る金運爆上げスポット 宝くじに当たった寺の住職の教えとは
ホラー漫画家伊藤三巳華が巡る金運爆上げスポット 宝くじに当たった寺の住職の教えとは
   伊藤三巳華(いとう・みみか)/ホラー漫画家。現在『HONKOWA』で『金運スピ散歩』を連載(写真・戸嶋日菜乃/朝日新聞出版 写真映像部) 本書内には、すぐに実行できる「金運アップの4つのコツ!」も  宝くじを買ったときに想像すること、それは「もし1億円が当たったらしたいこと」。マンションを買いたい、高級車に乗り換えたい、まずは貯金をして使い道をじっくり考える……。そんな期待を軽く裏切る、抽せん会のライブ中継と当せん番号決定の記事。  2004年からホラー漫画家として「HONKOWA‐ほんとにあった怖い話」に執筆している伊藤三巳華さんが、“金運スピ散歩”と称してご利益のあるスポットを訪れ、「金運」について徹底調査しました。 「金運吉日」に全国の有名金運スポットを参拝し、何と毎回自腹で宝くじも購入。その結果は、いかに? 新刊『金運スピ散歩』(朝日新聞出版)から抜粋・改編し、取材の裏話を紹介します。 *  *  * ■宝くじ1等前後賞に当選した人は、ある共通点が!?  福岡県にある「南蔵院」をご存じだろうか。  そこには、宝くじで一等前後賞を当選した林覚乗住職がいる。しかも、林住職は宝くじを当てた後も、高額当選を何度も果たしているという。 『金運スピ散歩』の一番目の取材先にこの寺院を選んだのは、住職にこう聞きたかったからだと伊藤さんは話す。「なぜ、当たるんですか?」と。 「霊感があることから、普段は勝手に人を視たりはしないのですが、初めてお会いした林ご住職の肩から太陽のように明るい発光体が視えたのには驚きました」  もっと驚いたことがある。宝くじが当たった人には“共通点がある”と林住職から教えられたことだ。 「事故に遭遇している方が多いのだそうです。林ご住職も当選の2週間前に事故に遭っていたのだと話してくださいました。そんなご住職が一番大切にしていることは、“小さいことでも一日一善行うこと”。ご住職は、当選金で寄付をしたり社会奉仕したりしています。実際にお会いして、ご住職にお金が集まってきていることを納得しました」  林住職の教えを聞き、宝くじに当たる気分になった伊藤さん。次に、福岡の神社をお参り先に選んだ。そこで気づいたのは、神社にいる存在が考える「金運」のことだそう。それからは、お参りをする神社に「金運って何でしょう?」と心の中で聞いて、視るようにしてみた。 「視えてくるのは、その土地のパワーだったり、由緒から考えられるご神体の記憶だったり、土着の商売のものだったり。2年前、長年住んでいた千葉から九州に移住したのですが、佐賀県の“宝当神社”にお参りする途中で、雨の予報がなかったのに突然の霰に見舞われたりしました。大きなエネルギーの動きを感じる不思議な体験を、今回の『金運スピ散歩』では、何度か体験しました」 ■予約殺到の占い師! 氷室奈美先生に教えられたこと  宝くじ高額当選者や常に当たってしまうくじ運の持ち主を、数多く鑑定してきた占い師も漫画の中に登場している。オーラドローイングやタロット占いで予約殺到の占い師! 氷室奈美先生だ。 「金運が上がるにはどうしたらいいのか」「金運のオーラがいい人っているんですか」と聞いてみたところ……。 「当たる人の特徴は“常に善行ができるチャンスを探している人”と教えてもらいました。善い行いをしたら、それは巡って自分の元に戻ってくる。これは南蔵院のご住職と同じだと強く思いましたね」  運がいい人は、お金を回して止めないという。元からお金を持っている人でも、ちゃんと循環させているともいう。  そして、善行といっても難しいことではないようだ。路上にゴミが落ちていたら拾ってゴミ箱に捨てたり、バッグの中に小さなゴミ袋を常備しておいて、ゴミ箱が見つからなかったときにはそっと入れて、自宅で捨てたりもいい。 ■普通の人には視えないものが、視えてしまうこと  千葉にずっと住んでいた伊藤さんだったが、鹿児島に移住した。本当は海外に住みたかったが、コロナ禍で断念した。そして鹿児島に知り合いは、誰もいなかったという。 「私、寒いのが嫌いなんです(笑い)。暖かいところがよかったのだけれど、仕事がら書類の受け渡しとかあるし、島国まで行ってしまうと原稿のやり取りとかに発送代がかかってしまう。実は以前、絵を売って東京に向かう旅をするテレビ番組に出演したことがあるのですが、スタート地点が鹿児島だったこともあり、自分の中で一番思い出に残っていたんです。どこに住もうかなって考えた時に最初にぽんと浮かんできたのが、鹿児島でした」  今でも取材や撮影のため、たびたび東京に来る機会がある。何か視てしまったり、ざわざわしたりすることなどはあるのだろうか。 「人が多い(笑い)。漫画家としては、どうしても東京にいた方が仕事をもらえるので、若い時は私も東京に憧れて住んだりもしました。でも生活するうえで、人混みに向いてないことに気づきました。霊感についてですが、最初は普通の人には視えないものが視えてしまうことを、恥ずかしいと隠していました」  霊感があるのが、陰キャと思っていた時期もある。一般の人に「視えること」を伝える時に、どうしても「気持ち悪いでしょアピール」から入っていたこともあるという。 「友達は楽しく『心霊スポット行こうぜ!』って言うけれど、 私は視えてしまうし。でも、視えていても黙っていましたけれども、黒歴史みたいに思っていた時期は、過ぎました。漫画にして公言してもいますしね。仕事のために、視える感覚を漫画にして描こうというスタンスで、自分を納得させたのかもしれません。  霊感があることを知っている友達と一緒にお化け屋敷に行ったときに、私が“キャー”って言おうものならば、友達が大パニックになって逃げちゃうんです。だから、怖くてもあんまり騒がなくなりましたね。何かあっても黙っている。ハートが鍛えられました」  霊感があると伝えたら「嘘つき」というレッテルが貼られるかもしれない。でも、「霊感がある=クラスにいる足が速い子」ぐらいの感覚で思ってくれたらとも思う。 ■地方取材では、ホテル選びで恨んだことも  地方取材の場合、ホテル選びは出版社の担当編集者が予約することが多い。その際、ホテルの外観を見て「あっ、失敗したな」と感じた瞬間、必ず視えて(出て)くるという。でも最後には「しょうがない。電気をつけて見えないようにしよう」とやり過ごしている。 「チェックインをして宿泊する階の廊下を見た瞬間に“あそこの部屋だな”ってわかるんです。私の部屋のところだけ真っ暗なの。“どうしてここを選んだの”と編集者を恨みながらドアを開けたこともありましたね。実際、ホテルに着いた瞬間から“死亡フラグが立っている”みたいなところもありました」  先日泊まったホテルで寝ていたときのことだ。夜中なのに、廊下で大騒ぎしている男女の声がした。女の人がギャーギャーいうような叫び声を、男の人が一喝したなと思った瞬間、すぐに“バーン”と部屋のドアに何かを打ち付けたような大きな音がした。そしてすぐに、静寂に戻った。 「ああ、よかったと思って眠りにつこうとしたときに、私のドアがガチャガチャ鳴ったんです。あっ、部屋を開けようとしているな、と。もしかして、部屋を間違えている?と焦っていたら、ホテルなのにドアが開いて人を引きずる音がしてきた。それが視えた瞬間に、男女が消えて、金縛りも解けたからよかったんですけれど」  調べたら、近くのホテルでそのような殺人事件が数年前に起こっていたという。 ■悲観していた、子ども時代……能力を信じられないときも  普通の人が体験しないことを何度も経験していることで、こんな能力、いらないと思ったりしたこともあったという。 「子どもの時は、悲観していました。自分の能力を信じられませんでしたしね。視える能力を捨てようとした時が、一番へこんでいたかな。そして、普通の友達に馴染まなきゃって思っていた時に、視えなくなるわけじゃないんですけれど能力が低くなったと感じたことがありました。でも大人になってこういう話をしたりすると、周りが興味を持って聞いていてくれるようになりました。そう感じたときから、少しラクはなりましたが」  伊藤さんの話を聞いていると「本当だろうか?」「とっつきにくいなぁ」という感想を抱く読者もいるかもしれない。でも、伊藤さんは小さいころからその能力を持ったまま、過ごしてきたのだ。 「神社や仏閣を参拝してきた知識とか助言やアドバイス、生活で癒しになるパワースポットのことなどをスピ散歩で描いてきました。漫画を読みながら神社を巡るのもいいですよね。聖地巡礼の気持ちが、漫画で追体験できるように私の目線から視たものを丁寧に描いています」  地方の神社だけでなく、東京にある強運厄除け神の東京銭洗い弁天を祀る「小網神社」にも参拝している。「知っておきたい金運吉日」「金運が上がる宝くじの買い方」など、タメになる情報も多い。  なんと言っても、自腹で購入した宝くじの結果が細かく載っていて、エピソードも面白い。  恋愛成就や仕事運も大切だが、私たちが一番に願い たくなる生活に直結する金運にスポットを当てた漫画に夢中になった。4月から、全国にある宝くじがよく当たるというスポット巡りを始めたい。 (文・長谷川拓美/朝日新聞出版) 【プロフィール】 伊藤三巳華(いとう・みみか):巳年生まれ。2000年講談社でデビューした後、04年からホラー漫画家として執筆開始。現在、『HONKOWA‐ほんとにあった怖い話‐』で『金運スピ散歩』を連載。神社、仏閣、パワースポットを取材して漫画にしていたが、『金運スピ散歩』は、金運に特化した取材を続ける。祈願をしながら、自腹で宝くじを購入する体当たり検証のエッセイだ。
スピ散歩伊藤三巳華南蔵院善行宝くじ氷室奈美金運
dot. 2023/03/31 11:00
写真作品の「芥川賞」受賞作品はサハリンがテーマ 「様々な人間の感情や繊細さを素直に受け止め歴史を編んでいく」と選考委員
写真作品の「芥川賞」受賞作品はサハリンがテーマ 「様々な人間の感情や繊細さを素直に受け止め歴史を編んでいく」と選考委員
木村初子さんは血圧が高く退院したばかりだった。用事を済ませる姿を自宅の窓からそっと見守った。アニワ(旧留多加)で  今年度で第47回を迎える木村伊兵衛写真賞はノミネート選出した5人の作家から新田樹さんを選出した。賞状と賞牌、副賞100万円が贈られる。現在56歳の新田さんは木村賞の歴史の中で最年長の受賞となった。AERA 2023年4月3日号の記事を紹介する。 *  *  * 「木村伊兵衛写真賞」は写真作品の「芥川賞」とも称され、その年、もっともすぐれた作品をあらわした新人に贈られる。今回受賞した新田樹さんは56歳。歴代受賞者の最高齢、まさに遅咲きの新進写真家だ。対象作『Sakhalin』(サハリン)では、日本の統治後、ソ連領になった後も帰郷することができず彼の地で現在まで暮らす韓国・朝鮮系の人びとの姿を丹念な取材によって追いかけた。  選考委員の平野啓一郎さんは、 「人物の皺の一本一本に刻まれた複雑な時の流れを、その社会と自然への大きなスケールの視点を背景に活写している」(選評から抜粋)と評価する。 ■歴史が目の前に  新田さんは福島県会津地方で育った。少年時代、深夜にモスクワ放送を耳にしたきっかけから、いつかロシアへ旅することを長年思い描いていた。実現したのはアシスタントから独立した1996年。ウラジオストクからシベリアを渡り、コーカサス地方まで長い旅をした。その旅の入り口で、サハリンに初めて滞在した。 「街を歩いていて日本語がふつうに聞こえてきて、ものすごく驚きました。『話せること』と『使われていること』はまったく違いますよね。なぜ日本語が話されているんだろう? 何よりそこが知りたかったんです」  歴史そのものが眼前にあるかのようで、強い衝撃を覚えた。しかしその頃の新田さんは、人びとと真正面から向き合う覚悟が持てず、知識もなかったと述懐する。  その後、いつしか新田さんの関心はアフリカへ移っていた。エチオピアの南の辺境の地へ旅し、民族の坩堝のなかで、しゃにむに肖像写真を撮り続ける。30代の新田さんはそこに没入していた。 「半年稼いで半年はアフリカへ行きっぱなしということを何度も繰り返していました。生活や仕事とのバランスは、滅茶苦茶でしたね(笑)」 背伸びをしてお茶菓子の缶を開けてくれる金公珠さん。キリストの肖像とキムチを漬けるバケツが見える。ユジノサハリンスク(旧豊原)で ■自問自答を繰り返して  技術は確かなのだが、広告やメディアの場で写真を撮り生きることに馴染めず苦労した。40代になり、行き詰まり挫折を自覚していた頃、秋葉原無差別殺傷事件(2008年)が起こる。 「あの事件が起きて人として社会とつながることは、本当に重要なんだとあらためて思ったんです。自分が何をすれば社会とつながることができるのかをすごく考えて。やがて若い人たちに声を掛け、ポートレートを撮っていくことにしました。タイトルは『鏡』。カメラマンとしての挫折を経たら、いい写真でなくても、引きつった顔をされてもいいじゃないかと。それこそ少年少女らの瞳に映る自分です。これがなかったら、その後、サハリンに向き合うことができなかったと思います」  かつてアフリカで心酔したのは人間のすさまじい存在感や野性だった。 「彼らが大地に立っていること。それだけで圧倒されていましたね。彼らがとても大切にしている素朴な闘いの儀式にもとても興味がありました。いま自分が撮っておかなければ、そんな暮らしも失われてしまうのではないか。それであれば自分の人生の時間を注ぎ込めばいいと、若い自分は勝手に思い込んでいましたね」  その後、東京の夜の街に蠢く人びとを追いかけたこともある。強烈な個性を探し求めていた。 「エキゾチックなもの、見たことがない人には、とくに若い頃には惹かれるし、でも本当に興味があるのかと自問自答すれば、至ってノーマルな自分がいて、撮り続けていても結局誰かの真似事になる。僕が向きあうべき人たちは他にいると考えるようになったんです」  自分らしい写真への強い自覚と、大きなテーマが交わり、やがて2010年再びサハリンへ。以後20年まで丹念に撮影を重ねていった。 「10年越しのまなざしは、そこに生きた人間の『消息』と私たちのそれを『国境』を越えてしっかりつなげていくものになっている」(大西みつぐ氏・選評から抜粋)  やがて自分の母親の世代とも近しい女性たちを深く見つめるようになっていた。「どうして今でも日本の言葉を話すのですか?」。その向こうに横たわる人生の重さ、民族や国境の複雑極まりない相克に裸の眼で近づいていった。 にった・たつる/1967年、福島県生まれ。東京工芸大学工学部卒。麻布スタジオを経て半沢克夫氏に師事。96年独立。個展に「SURUMA」ほか(撮影/写真映像部・松永卓也) 「きれいも汚いも希望も諦めも様々な人間の感情を、触れたら壊れてしまいそうな繊細なところを新田さんは純粋に素直に受け止めて歴史を編んでいくのです」(澤田知子氏・選評から抜粋) ■写真が「人」を伝える  新田さんの手法はきわめてオーソドックスだ。中判の一眼レフカメラとカラーフィルムを使う。写される人と長い時間を過ごし、何げない瞬間を待ちシャッターを切る。その写真はけして目新しいものではないが、この後長い年月を経ても色褪せることはないだろう。そこにははっきりと人間の営みが写っている。 「SNSで遠くの他者と安易に『論争』ができてしまう時代になり、その傾向は新型コロナウイルスの流行以降、加速しているようにみえる。新田さんの写真は、ともすれば見過ごされてしまうほど些細ではあるが、どんなに便利になっても、生きている以上は決して省略することができないなにかを、静かにわたしたちに見せてくれる」(長島有里枝氏・選評から抜粋)  写真の現在地点を意識し多くの先鋭を称揚してきた木村伊兵衛写真賞だが、いま新田さんを選出するのは意外な回帰ではなく、必然とも言えるだろう。(写真編集者・池谷修一) ※AERA 2023年4月3日号
AERA 2023/03/31 10:00
「誰にもないキャリア」を作る NTT・チーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジスト・松原実穂子
「誰にもないキャリア」を作る NTT・チーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジスト・松原実穂子
留学し、今でも年に何度も訪れる米国ワシントンDCで。第二の故郷といってもいいかもしれない(撮影/ランハム裕子)  NTTのチーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジスト、松原実穂子。サイバーセキュリティについて分析、情報収集、発信し、世界を駆け回る。国際会議に登壇し、内外のメディアに登場。ウクライナ戦争や安保三文書の改定で時流に乗り、今や講演は年100回。華やかな活躍は、ストイックに努力を続けてきた結果だ。勉強を積み重ね、人の縁を大切にする。自分に投資し、チャンスは必ずものにする。安住しない向上心が今の地位へ導いた。 *  *  *  今年1月13日の金曜日、米国ワシントンDCの財団。サイバーセキュリティをテーマにしたシンポジウムで、松原実穂子(まつばらみほこ・46)は、流暢(りゅうちょう)な英語で話し出した。 「安保三文書を含め、日本のサイバーセキュリティの取り組みを形作った出来事がこの2年の間に三つあった。一つ目の2021年5月に発生した米コロニアル・パイプライン社へのランサムウェア攻撃……」  身ぶり手ぶりを豊かにまじえて、視線は泳ぐことなく聴衆の誰かを確実にとらえ、様子を見る。聴衆が自分の言うことに満足しているだろうか? 下を見てスマホをチェックしていないだろうか? もしそうであれば、話す内容を変える必要がある。プレゼンをするときには必ず、「聴衆と伴走するように」ていねいに反応を見て、相手の求めるものを提供するように心がける。  この日は、別のシンクタンクでもイベントに出演。翌土曜日は日本メディアの取材対応、日曜日は朝からロサンゼルスに向かい、国際会議に登壇。火曜の夜に深夜便で再びDCへ。水木と日米メディアの取材、金曜日は日帰りのニューヨークで米メディアの取材。土曜の朝5時の便で日本へ。  NTTの「チーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジスト」として日本はもちろん、グローバルなサイバーセキュリティ(CS)について情報を収集、分析して発信する。ウクライナ戦争、さらには安保三文書の改定でCSへの関心が高まったこの1年は特にひっぱりだこで、講演は年に約100回、22年は米国3回をはじめ、イスラエル、シンガポールなど海外に7回出張。文字どおり世界を駆け回る。ここまでに至ったのは、内外情勢の変化もあるが、「誰にもないキャリアを築きたい」と、ストイックに努力を続けてきた結果だ。 米国ワシントンDCのシンクタンクでのオンラインイベントで。プレゼンの技術は外資系企業時代に徹底的に鍛えた。身ぶり手ぶり、目線、話し方……。「言う中身も大事だけれど、言い方もとても大事」(撮影/ランハム裕子) ■佐島直子の本を読み米国大学院への留学を決意  東京出身。父が本好きで、家に本が大量にあった。父の前で正座をして日本文学の名作を何度も音読し、書き取りをするのが日課だった。森鴎外の「山椒大夫」、志賀直哉の「小僧の神様」、国木田独歩の「武蔵野」、芥川龍之介の「杜子春」……。 『赤毛のアン』が大好きで、小さい頃はアンのように夢見がち。小1の授業参観の時のこと。先生の「教科書を開いて」の声に、彼女は下を向いて固まったまま。しばらくして、はっと気がついたように周囲をきょろきょろ見回して教科書を取り出した。「何をしていたの?」と後で両親に聞かれ、「赤毛のアンの続きを考えていたの」と答えた。  父の本の中の、トロイア遺跡を発見した19世紀の考古学者、シュリーマンのことを書いた『夢を掘りあてた人』を読んで考古学者に、そして塩野七生を読み、歴史家になりたいと願う。  大学では史学を専攻し、サークルにも入らず、ひたすら勉強した。博物館の仕事にも興味があったので学芸員の資格を取得、「2回卒業できるくらい」の単位を取った。卒論は、ルネサンス期のベネチアの経済発展と文化史がテーマ。大学院に進んでイタリア史の研究者になるつもりだった。  ところが、家族が体調を崩して状況は一変。進学はやめて、急遽(きゅうきょ)就職することにした。すでに一般企業の就活の時期は過ぎていた。公務員を受験しようと決めたが、1カ月しか時間がない。国家一種は難しく合格は厳しい。二種や専門職に焦点を定めたが、さてどこにするか。ちょうど、北朝鮮による拉致事件が問題になっていた。「横田めぐみさんが拉致された時は自分に近い10代。こんな理不尽なことが許されてはいけないと憤りを感じていた」。官庁訪問もして、安全保障や防衛問題に興味を感じて防衛庁(当時)を受けることに。猛勉強して語学の専門職に採用される。  防衛省の仕事は面白かったが、定期的に人事異動がある。「これから働き続けて40年たった時に、自分は何をやったんだろうと振り返ったら、このままでは『いろんなことをやりました』になってしまう。一本筋を通した専門家になりたい」。焦りが募った。そんなときに佐島直子の『誰も知らない防衛庁』という本に出会う。防衛官僚から研究者になった女性が書いたものだ。リヤカーを引いて自衛隊の装備品を配る仕事から、仕事の合間に大学院に通い、防衛研究所の研究職となって道を切りひらいていった様子を描いていた。 「彼女はキャリアに行き詰まっていた時に大学院に行って人生を立て直した。そうか、その手があったか、勉強すればいいんだ」  自分の未来に光が差してきたようだった。国際安全保障の専門家になろう。世界最高の安全保障を勉強できるところ、米国の大学院に行こう。省の制度を利用して留学するのは難しく、退職して留学することを決意した。大学の時に米国を旅行して英語が全然通じないことにショックを受けてから、TOEICの勉強を続けていた。 「米国の大学院への留学って、2千万円分の投資」だからと、入念に準備を重ねた。候補を八つに絞ったが、詳しい授業内容が書いてあるウェブサイトは学生でないと閲覧できない。そこで「私は学校に関心があるが、授業内容を見たいのでウェブサイトを閲覧させてください」と事務局にメール、アクセス権を得た。フルブライト奨学金に応募しようと説明会に出かけ、1列目に座り、フルブライトの経験者のプレゼンが終わるやいなや「私もフルブライトで留学したい。応募書類を見てもらえませんか」と押しかけた。 ■アジアのCSの論文 睡眠を削って書き上げる 「アメリカはほぼ全てが交渉可能。努力して達成しようとすれば応援してくれる」。ひたむきな努力と共に、彼女を貫く生き方だ。並行してそれら大学院の同窓会に「在校生の日本人で安保を勉強している人を紹介して」と依頼、30人ほどにメールした。「返ってきたメールで一番幸せ度数が高く感じられた」のがジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係大学院(SAIS)だった。  SAISに無事合格し、フルブライト奨学金も得て渡米。ところが、大学院の高度な授業の英語は段違いに難しく、大量の読書の課題にも追いつけない。我こそはと競って質問する同級生たちに割り込むのも大変だ。緊張感に満ち、追い立てられるような日々。何とかついて行こうと教授たちに「授業では一番最初に質問させてほしい」と頼み、まじめにノートを取っている人を見つけて「ノートを交換しよう」と持ちかけた。  CSとの出会いは偶然だった。2010年、授業でたまたま隣席に座った友人が、外交関係の学術誌の編集者だった。「今すぐCSの論文書ける人いないかな」と話しかけられた。「私じゃだめ?」。思わずそう答えていた。 「今話題になっているのはアジアだし、それなら私にも強みがあるかもしれない。国際安全保障のテーマで、本能的にこれはチャンスと思いました」  アジアのCSをテーマに執筆することになった。ただでさえ授業の準備で忙しいのに、「引き受けたのを後悔した」が、新しいCSという分野を調べるのは面白くて、没頭した。睡眠時間を極限まで削って書き上げた。英語は友人が直してくれた。「安全保障で、自分にしかできないこと」をついに見つけたのだった。  就職先を見つけるのにも苦労した。シンクタンクに勤務したいと思ったが、奨学金の条件で、留学後の米国滞在は1年しかできない。「せっかく米国に来たんだから働いてみたい。でも1年しか働かない人なんて雇ってもらえない」。DCのシンクタンクでアジア研究をしているところには片っ端からメールをした。「私はあなたの研究に関心があります。お茶してもらえませんか」。お茶を何十杯とのみ、手書きのお礼状を書いた。とにかく今自分にできる最大限のことをやろう。「同級生のなかで、私よりもネットワーキングに力を入れた人はいない。それは自信を持って言える」  その思いが通じたのか、ハワイに拠点を置くシンクタンクからサンフランシスコでの日米安全保障に関する会議の招待状が来た。出席して全ての会議で手をあげて質問をするよう努めた。その様子がシンクタンクの幹部の目にとまり、短期の研究員に応募して採用された。テーマは「日米のCS研究」にした。機会は必ずものにして、次に生かす。これもまた、彼女の生き方を貫いている。  ハワイに滞在中、所属するシンクタンクを日本記者クラブの一行が視察に訪れたことがあった。所長へのインタビューに同席したときに、通訳が安全保障の専門用語に詳しくなく、言葉に詰まってしまった。とっさに助け舟を出すと、視察後、記者から電話がかかってきた。「明日の通訳をしてくれないか」。その記者の一人、共同通信の特別編集委員、杉田弘毅は「通訳も的確、安全保障の知識も豊富で、ポイントを押さえていた」。 ■身銭を切って学んだ 国外で通用するプレゼン力  12年に就職先は決まらないまま帰国。だが、人脈作りの努力が生きた。知人の紹介で会った人のなかに、日本の日立システムズの社員がいた。「帰国したら遊びに来なさい」。その言葉を思い出して、訪ねたら「一緒にやりましょう」。11年9月に三菱重工がサイバー攻撃を受けたことが報道され、CSへの関心が日本でも高まっていた。「サイバーセキュリティアナリスト」の誕生だった。 (文中敬称略) (文・秋山訓子) ※記事の続きはAERA 2023年4月3日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2023/03/30 18:00
「たまむすび」沼にハマった人たちは放送終了ロスどう乗り越える?
「たまむすび」沼にハマった人たちは放送終了ロスどう乗り越える?
タモリさん  春は出会いと別れの季節。それにしても今年は強烈なお別れが多すぎる。サービスの終了や老舗の商業施設の閉店によるお別れのほか、とくに目立っているのが、長年人気のあったレジェンド級の番組とのお別れだ。「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)の終了は世間を驚かせたが、ほかにも多くの番組が消えていく。 *  *  *  テレビ番組では3月25日、27年の歴史を誇る巨星が消えていった。以前は全国のテレビ東京系列局で放送、13年からはBSジャパン(現BSテレ東)で放送されていた「サブちゃんと歌仲間」だ。  北島三郎(86)をホストに演歌を中心にしたスターたちがゲスト出演。歌とサブちゃんとのほのぼのトーク、お便り紹介などで構成されていた貴重な演歌番組だった。放送回数は1377回、延べ6千組以上のゲストが出演した、演歌界にはなくてはならない番組としても知られていた。  BSテレ東での放送は、毎週土曜の朝5時半から30分間。SNSを見ると、ゲストで出演する推しの若手歌手の姿をいち早く見たいと早起きしたり、夜のお仕事から帰って番組を楽しんでからゆっくり眠るというファンも少なくなかった。  だが、芸歴60周年を機に幕を下ろしたいという北島の意向で、終了することになったといわれる。またこの番組終了とともに、北島音楽事務所からもうひとつのお別れの発表もあった。  1972年設立された「北島音楽事務所」から、原田悠里、北山たけし、山口ひろみ、大江裕の4人が独立。石原裕次郎軍団の石原ファミリー、脚本家橋田壽賀子の橋田ファミリーに続いて、演歌界の大手、北島ファミリーも「実質的解体」との声があがっている。  TBSラジオの昼の人気番組「赤江珠緒たまむすび/金曜たまむすび」(以下、「たまむすび」)も3月末で終了が決まった。フリーアナウンサーの赤江珠緒が月曜から木曜のパーソナリティーを務める午後の帯番組だ(「金曜たまむすび」はTBSアナウンサーの外山惠理がパーソナリティー、パートナーは玉袋筋太郎)。 「サブちゃんと歌仲間」1千回記念番組の収録で。前列中央が北島三郎さん=2015年  昨年9月におこなわれた放送10周年記念イベント「たまむすび in 武道館~10年の実り大収穫祭!~」では、武道館に8千人以上のリスナーを集めた人気絶頂期の終了となる。  終了理由として赤江は、放送中心の生活のなか、子どもとの時間を取りたいと番組内で語ったこともあった。  3月20日には、裏番組の文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」とのコラボ企画も実現。文化放送にいるはずの大竹まことがTBSの「たまむすび」のスタジオに乱入。 「赤江珠緒の前に赤江なく、赤江珠緒の後に赤江なし」といった赤江への手紙を読み上げた。毎日放送を聞いているディープなファンのなかには、終了後を思い、早くもロスを感じている人も多い。  テキスタイルデザイナーの高橋真紀さん(58)は、5年ほど前から「たまむすび」漬けの毎日を送るようになった。 「最初、町山智浩さんを聞くようになり、さらに語りがおもしろい土屋礼央さん(RAG FAIR)がレギュラーになってからは、家にいるときはリアルタイムで聞いて、聞き逃したらradikoのタイムフリーで。さらにリアルタイムで聞いたおもしろかったところは、タイムフリーでリピートして聞くほどのヘビーリスナーになりました」  仕事は自宅で、パソコンに向かって行うことがほとんど。そんな“ながら聴取”に、アナウンサーの訓練を受けた赤江の明るい声が心地よかった。 「それでいて、普通のアナウンサーのように聞き役に徹するわけじゃない。だからといって笑わせてやろうという気負いもないんですよね。まじめにしゃべっているのに、どこか気が抜けた赤江さんの語りで、聞いている空間そのものが軽くなる感じも好きでした」  高橋さんにとって、「たまむすび」は「仲のいい中学2年3組のクラス」みたいなもの。 「今感じているロスは、大好きだったそのクラスが組替えでなくなってしまうさみしさに似ています。今回は後番組の『こねくと』に土屋さんが出るので、新しいクラスにも愉快な土屋クンがいる、感じ。新番組がロスを癒やしてくれることを期待しています」(同) 週刊朝日 2023年4月7日号より  もうひとり50代のソフトウェアエンジニアの石原安浩さんの「たまむすび」との出会いはコロナが流行してから。リモートワーク中のランチ時、偶然radikoで出合ったのが始まりだった。 「赤江さんが自宅から電話で出演していて、ディレクターからのファクスを待っているのに届かないと言っていた。と、スタジオから『赤江さんが電話使っているから、今ファクス送れないよ』との声が。爆笑したのを覚えています」  赤江とパートナー陣との会話が心地よく、毎晩寝る前にベッドで聞く。 「魅力ですか? とくに有益な情報があるわけでもなく(笑)。寝落ちするような番組なのに、気がつけば毎日聞かずにはいられなくなり、去年の武道館イベントにも、わざわざ名古屋から夫婦で参加しているんですよね」  番組を例えるとすると、通勤電車の中から毎朝見ている小学校。名前も知らない学校ながら、校庭で遊んでいたり、運動会の練習をしていたり。そんな子どもたちの様子を見るのが楽しみになった。 「今の時代、身の回りには、『ほら、役に立つでしょ?』という情報であふれている。でも、『たまむすび』という番組は、ただ存在しているだけで毎日心に小さなカイロを入れているような感じ。推しを推すのともちょっと違うんですよね」  よく言われるように、聞き終わったら内容をキレイさっぱり忘れるような番組ではあるものの、その存在に大きな意味があったことを、あらためて感じているという。  最初は何かの冗談かと思ったのに、本当だったことを知って驚いたという終了の告知。 「終了ロスを乗り越えるのはなかなか難しい。数年ぐらいは、録音した過去番組や武道館のDVDを見返していると思う」  そうして、いさぎよく消えていく番組たち。週刊朝日も、すぐ行きます。(福光恵)※週刊朝日  2023年4月7日号より抜粋
週刊朝日 2023/03/30 11:00
中国留学中の日本人が語るコロナ禍の生活 「ある日突然、寮がロックダウン」して今は
中国留学中の日本人が語るコロナ禍の生活 「ある日突然、寮がロックダウン」して今は
にぎわう清華大学の学生食堂。政策緩和後もパーティションは残っている(佐藤さん提供)  中国は「ゼロコロナ政策」を2022年12月に大幅緩和。市町村の封鎖を解除し、海外からの入国者に義務づけていた検査や隔離措置も撤廃した。めまぐるしく方針転換がなされるコロナ禍の中国で、日本からの留学生はどのような大学生活を送っていたのだろうか。清華大学で語学留学中の佐藤春香さん(仮名)と、長年中国の大学で教鞭を執り、現地の状況をよく知る加藤隆則氏に話を聞いた。  佐藤さんが中国留学への準備を始めたのはコロナ禍のまっただ中だった。 「それまではユーチューブを見たり、推しの俳優さんの動画を見たりして中国語を勉強していました。でもやはり独学では限界があると感じ、語学留学を検討しました」 ■奨学金を得て、アジアトップ大学へ  佐藤さんが見つけたのは語学留学ができる日中友好協会の奨学金。しかし当時は留学ビザの発給も中止されており、渡航はままならない状況だった。 「ただ、韓国人には留学ビザが下りていたんです。22年になってから日本人にもビザが発給されるといううわさが流れ、思いきって志願することにしました」  大学の成績や論文、学習計画などの書類を提出し、面接に臨み無事合格。受け入れ先も第一志望の清華大学に決まった。英教育誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)による2023年版の世界大学ランキングで、アジア圏トップに躍り出た名門大だ。  会社を辞め退路を断っての決断だったが、2月に内定がでているのになかなか受け入れを許可する通知が届かない。22年の8月末にやっとビザ発給の通知が届き、9月にあわただしく中国に旅立った。政府が手配した隔離施設での10日間の隔離に加え、清華大学のホテルで4日間、寮の個室で7日間、計3週間に及ぶ隔離生活をおくる。 「隔離施設に比べて、大学のホテルや寮は食事などの待遇がかなり良かったですね。部屋に着いたらウェルカムのお菓子が置いてあり、サポートも充実していて孤独を感じずにすみました」  中国のキャンパス事情に詳しい加藤氏はこう話す。  中国各地の主要大学は広大で学生は全国から集まりますから、ほとんどの学生がキャンパスにある寮で生活します。朝8時から始まり夜9時まで続く授業もあるので、学生にとってもそのほうが都合がいい。友人とのつながりも宿舎で生まれることが多いです」   キャンパスにはスーパーやコンビニ、美容院や病院もあるので、キャンパスが封鎖されたとしても、十分生活はできるという。 清華大学の学生食堂内には火鍋屋も(佐藤さん提供)  佐藤さんが合わせて20日間余りの隔離を終えいよいよ教室に行くと、誰もマスクをしていないことに驚いた。 「北京ではまだはやっていなかったですし、隔離された状態で、感染者がいないのならマスクをするまでではない、という考え方なんです」  佐藤さんは、韓国人留学生のルームメートとすぐに仲良くなった。週に4回、1コマ100分の授業を2コマ受け、その後は同級生たちと食堂へ行ってランチをしたり、図書館で一緒に勉強したりして過ごす。日本語を学ぶ中国人学生を紹介され、一緒におしゃべりをしたり、お互いの文章を添削したりして語学力を磨いた。 「やはり対面授業は充実しています。発音の間違いをすぐその場で教師に直してもらったり、気軽に友達とコミュニケーションをとったりできました」  当時、北京市内は自由に行動できたため、繁華街に出かけてお茶を飲んだり、ちょっとした買い物を楽しんだりしていたという。 ■突然の寮ロックダウンでも、大学のサポートは充実 ロックダウンが始まったとき、寮の部屋の前に置かれていた隔離セット(佐藤さん提供)  しかし11月中旬から風向きが変わってきた。北京でもぽつぽつと感染者が出始め、キャンパスからの外出が禁止に。 「5~6月ごろの政策が一番厳しい時期のロックダウンを経験した同級生がいて、またそういう事態になるかもしれない、と不安がっていました」  同時期に大学でも感染者が出て、教員やスタッフ、学生ごとに区画や食堂が分けられ、キャンパス内でも移動が制限されるようになった。11月下旬には対面授業からまたオンライン授業に。12月に入ると、佐藤さんの寮の学生にも感染者が現れ、その日は棟から出ることが禁止された。 隔離セットの中身。これらに加え各自に四つずつ抗原検査キットが届いた。水はひとりにつき4本(佐藤さん提供) 「ある日突然、寮が騒がしくなり、どうやら隔離が始まったようだぞ、と。部屋の前に隔離グッズが配られていました。医療用マスクやゴム手袋、抗原検査のキット、水、カップラーメンなどが入っていましたね。大学のスタッフの方がZoomで相談に乗ってくれたりして、清華大の支援はかなり手厚かったです。ここにいれば最悪コロナになってもサポートが受けられるだろうという安心感はありました」 清華大学の図書館。空き時間はここで勉強して過ごした(佐藤さん提供)  最初の感染者が出た後は、またたく間にキャンパスに感染が広がった。クラスメートの8割以上が感染。教員もほとんど罹患し、連日400人あまりの感染者が出ているという情報も流れた。 「私自身、感染しなかったのが不思議なくらいです。ただ大学のサポートがあったのと、軽い症状の人が多そうだったので、あまり悲壮感はなかったですね。むしろ、かかったら仕方がないというあきらめに似たような気持ちでした。このあたりは、日本と空気感が似ているかもしれません」  秋学期の授業は最後まで対面に戻ることはなく、オンライン授業のまま12月末に終了。一方で政策は緩み、都市の封鎖もなくなってどこでも自由に行けるようになった。学内の感染者数も落ち着き、生活は元に戻っているという。  大学の授業は23年の6月までだが、佐藤さんはその後も中国に残ろうと思っている。佐藤さんが芸術大学に在学していた時の研究テーマは、中華圏のファッションだった。  「中国の文化が好きなんです。長い歴史があるので、物事をひもとこうとすると次々といろんな発見があります。ファッションも時代が変わるとガラリと様変わりし、日本にはない面白さがありました」  18年に大学を卒業しアパレル業界に就職。仕事をするなかで、アパレル業界の重要なステークホルダーである中国のことをより理解するためにも、大学までの学びをさらに深めるためにも、中国語を習得する必要性を感じての留学だった。 「清華大は理系のイメージが強いかもしれませんが、実はファッション研究が盛んな大学でもあるんです。コロナ禍の留学生活でしたが、キャンパス内には大きな図書館が8棟あったり、オンラインシステム上でもジャーナルが読み放題なので関心のあるファッション関連の文献を読み漁ったりと、それなりに充実した環境で過ごせていると思います。ただ、中国語の習熟度はまだまだ足りません。もう少しこちらにとどまり、語学をもっと鍛えようと考えています」 加藤隆則(かとう・たかのり)さん1962年東京生まれ。86年早稲田大学卒業後、北京言語学院大学院に留学。88年読売新聞社に入社。2005年から10年間中国に駐在し中国総局長上海支局長、編集委員を歴任。16年から汕頭大学ジャーナリズム・コミュニケーション学部の教授に就任。定年退職後22年から昆明分離文理大学院外国語学部で日本語の教師を務める。 (文・柿崎明子)
中国海外留学
dot. 2023/03/30 06:30
内田樹「哲学者・鷲田清一氏はともに革命ができ、『革命は楽しい』と思わせてくれる人」
内田樹 内田樹
内田樹「哲学者・鷲田清一氏はともに革命ができ、『革命は楽しい』と思わせてくれる人」
哲学者 内田樹  哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。 *  *  *  ある雑誌が「鷲田清一特集」を組むことになって寄稿依頼が来た。鷲田さんとは何度もお仕事をしたし、一緒にいてあれほど楽しい人はなかなか見出し(みいだ)がたい。原稿には鷲田さんの哲学の独創性について書いた。書きたいことは一通り書いたが、途中で紙数が尽きて鷲田さんの人柄については筆が及ばなかった。そこでこの欄を借りて(公器を私事に用いるようだが)印象的なエピソードをご紹介したいと思う。  鷲田さんが阪大副学長だった頃にお会いした時「内田さん、副学長になってまず何やったと思う?」と訊(き)かれた。さあ、見当もつかないと答えたら、「天神祭の船渡御の船」と笑いながら教えてくれた。  大阪の人でないと分からないと思うが、大阪天満宮の天神祭の本宮の夜、神霊をのせた奉安船が大川を渡御する。無数の船がそれに付き従い、奉納花火の下、船上で歌舞音曲を楽しみ飲食する。宗教と娯楽を融合させた素敵なイベントである。 「懐徳堂以来のご縁がある大阪大学が船を出さなくてどうします」と鷲田さんは言う。別に大学の予算を使うという話ではない。同窓生たちが身銭を切って「大阪大学」の旗を大川の上に翻すのである。「地場の学舎」の建学の志を祝祭的に確認するという鷲田さんのアイデアに感服した。  総長の退職パーティーに呼ばれた時、友人代表としてスピーチを頼まれた。その少し前に桑原武夫学芸賞の授賞式で杉本秀太郎先生から伺った逸話が印象深かったので、それを紹介した。あるとき杉本さんが新進気鋭の学者の評価を問うたら桑原武夫はこう答えたそうである。「賢い人やね。でも、僕、あの人と一緒に革命しようとは思わん」  人間の評価はともに革命ができるかどうかで決まるというのは一つの見識である。鷲田さんは「ともに革命ができる人」だと思う。革命闘争というのは官憲に追われ、貧しい資源をやりくりしながら行うものである。そういう時に傍らにいて欲しいのは「革命は楽しい」と思わせてくれる人である。革命成就後の自由で優しい未来社会を今ここで先駆的に見せてくれる人である。鷲田さんはそういう人だという話をした。 内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数 ※AERA 2023年4月3日号
AERA 2023/03/29 07:00
「恋愛は頭の良くない子たちがするもの」 親からの“いい子の呪縛”から抜け出した女性たちの闘い
「恋愛は頭の良くない子たちがするもの」 親からの“いい子の呪縛”から抜け出した女性たちの闘い
※写真はイメージです。本文とは関係ありません(写真:Solovyova / iStock / Getty Images Plus)  婚活アプリをとおして出会った架(かける)と真実(まみ)。挙式を目前に控え、すでに生活をともにしている。しかし真実は婚約指輪を残して突然、消えた――辻村深月著『傲慢と善良』(朝日文庫)は、多くの謎とともに幕を開ける。  架は真実を探す。なぜ失踪したのか、いまどこにいるのか、ストーカーに狙われていたというがそれは誰なのか。そして、真実とはどんな女性で、これまでどのように生きてきて、何を思って架と結婚しようとしていたのか。過去の真実を知るたびに明らかになる衝撃の事実とは……。  真実を“いい子”だと思っていた架。本人にそう伝えたこともあるし、友人に会わせても「いい子じゃないか」といわれた。婚活アプリで知り合ったこともあり、ふたりの生い立ちに共通点は少なく、架は真実の過去を詳しく知っているわけではない。  親きょうだい、元同僚、そして真実が婚活で出会った男性たちにまで話を聞きにいき、架は自分と出会う前の真実を知っていく。そこには、“いい子”として生きてきたからこその善良さがあり、同じく“いい子”として生きてきたからこその傲慢さがあった。  真実と同じく“親にとっての”いい子として育ってきた女性たちに、これまで行き当たってきた壁について話を聞いた。親も年をとり、自分も社会的には“いい大人”になってもなかなか解けないのが“いい子の呪縛”のようだ。  両親ともに中学校の教師で、母親からの抑圧を強く感じながら育ったミフユさんは、「物理的な距離を取るしかないと思うんです」と語る。親元を離れるきっかけとして多いのは、まず進学や就職だろう。 「私は大学進学を機に、実家を出ました。ものすごい開放感でしたね。これでやっと自分をはじめられる、という気持ちでいっぱでした」  日本では、30、40代になっても子どもが未婚のうちは親と同居する率が高い。作中の真実も、そうだった。社会人になっても実家から職場に通った。それが30歳を過ぎてから唐突に、仕事を辞め、地元を離れて東京でひとり暮らしをはじめ、架と出会う。  失踪した婚約者の半生をたどる架は、「なぜ彼女は親元を離れたのだろう」と考える。そのことと、後の失踪とは何かつながりがあるのではないか?  とくに女性にとっては親と物理的、心理的な距離を取る大きなきっかけとなるのは、結婚だ。しかし、人間関係でつまづく“いい子”は、恋愛でも苦戦する。真実のように、「奥手」な女性も多い。  ユウナさんの例を見てみよう。 「私はずっと恋愛やセックスを、悪いことだと思っていたんですよね。家族でテレビを観ていてキスシーンが出てくると気まずい……っていうのはどこの家でもあると思いますが、うちでは恋愛映画は低俗なものという空気がありました。両親はSF映画が好きで、その様子を見て私もSF映画は恋愛映画より高尚というイメージを持つようになり、ひいては恋愛って、言葉が悪いんですけど、あまり頭のよくない子たちがするもの、と思っていました」  10代のころユウナさんは、「メイクやファッショにはまるで興味なく、メガネに短髪で、まるでのび太くんのようだった」そう。両親は、一般的に「カタい」といわれる仕事に就き、教育熱心。思春期まっただ中で恋愛に一喜一憂したりラブコメ映画の話題で盛り上がるクラスメイトのことを、ユウナさんは冷めた目で見ていた。  しかし20代半ばになったころ、両親から急に「いい人はいないの?」と尋ねられる。 「話には聞いていたんです。恋愛の話がタブーだった家でも、子どもが20代になると親は突然結婚を急かすようになるって。本当だったんだ~、と思いましたね。そんなこと急に言われても、恋愛も結婚も自分とは無縁で一生しないという気持ちは変わらない。でもそのときに、私のなかで親への反発心がむくむくと大きくなったのを感じましたね」  ユウナさんがそれまで恋愛経験がゼロだったのは、親がそう望んだ結果でもある。  作中の真実も、同じだ。交際経験も、セックスの経験もほぼゼロ。なのに、30歳前後になると母親が結婚の話題を持ち出すようになり、真実自身も焦りはじめた。「突然、そんなこと言われても」という、真実と同じ戸惑いを抱えたことのある女性は、日本に数え切れないほどいると見て間違いない。それが本書への共感の嵐にもつながっている。 辻村深月著『傲慢と善良』(朝日文庫)※Amazonで本の詳細を見る  結婚に向けて背中を押されても、“いい子”は何からはじめればいいかもわからない。そこで真実は親の伝手を頼り、お見合い相談所に登録するのだった。  マイさんの両親は、早く結婚することが女性の幸せという考えの持ち主だった。だから大学卒業後、大手企業の関連会社への就職をことのほか喜び、「すぐに大企業の男を捕まえてこい!」とけしかけた。しかしマイさんも恋愛経験ゼロ。自分に自信がなく、ちょっとでも好意的な態度を見せてくれる人のことをすぐ好きになった。 「別の部署の、29歳独身の先輩とデートするようになり、交際に発展……と私は思っていたのですが、同僚から『あの人、36歳で3児の父親だよ』と聞かされました。ひどい嘘だとは思うけど、気づかない私も私ですよね。しかもモラハラ気質なので、すぐには別れられずにずいぶんこじれました」 “いい子”は処世としての嘘や計算に慣れていない。それは、恋愛していくうえであまりに不利だ。いうまでもなく、結婚相手を探すうえでも。  本作のもう一人の主人公・架は、個人で結婚相談所を営む小野里という女性を訪ねる。真実が親の伝手で登録していた紹介所で、架の目的は真実がそこから紹介されて出会った男性たちのことを知ることだったが、小野里の口から語られる真実の話に、また知らない一面を見た。  話を、“いい子”の結婚に戻す。マイさんは幸運な例だろう。  ネット通信を通じて現在の夫と知り合う。彼は、マイさんの親が過干渉であることを早々に見抜き、「嫁入り前の娘がひとり暮らしするのはダメと親からいわれている」と伝えると、「じゃあ結婚しよう」と話はとんとん拍子に進んだ。出会ってから結婚を決めるまで半年もかからなかった。新居に移ったマイさんにとって、毎日が驚きの連続だった。 「夜になっても、友だちと遊んでいいんですよ! 朝までカラオケをしても怒られない、というのが何より新鮮でした。親からはしょっちゅう電話がかかってきましたが、それを無視したり、小さな嘘をついてごまかしたりといったことも覚えていきました」  結婚して親離れし、はじめてひとりの人として認められたと感じていたマイさんだが、数年前にメンタルの調子を崩し、精神科にかかる。そこで親からの抑圧による影響を指摘され、現在はカウンセリングを受けながら子ども時代のことを振り返り、整理をしている。  作中の真実は、自分の意志で実家を出て上京した。架との結婚も決まった。ある意味、理想的な形で親離れできるかに見えた。そんな矢先の失踪だけに、架も真実の両親も「なぜ?」という疑問がことさら強く出てきたのではないか。  さて、「いい人いないの?」を機に、親への反発心がむくむくとわいてきたユウナさんの話に戻る。ユウナさんは成人した後、意外な行動に出る。 「就職してから、美容整形をはじめました。最初は歯の矯正からスタートして、お給料を貯めては手術を受けました。高校時代までは容姿に一切構わなかった私ですが、大学生になり、そして社会人になってルックスがいい女性のほうがていねいに扱ってもらえるということにやっと気づいたんですね。普通は10代で気づくものなんでしょうけど」  歯の矯正とはいうが、何本も抜歯するという大掛かりなものだった。ダウンタイムが6カ月かかる顎の手術を前に、会社を辞めた。 「親は、『なんで整形なんかするの?』『お金がもったいない』とはいいましたが、私のなかでは親が反対することをなんとしてでも成し遂げないと、自分の人生は生きられないという気持ちが強かったんです」  希望していた手術をひと通り終え、ユウナさんはいまの自分の顔に満足している。「のび太くん」の面影はもうどこにもない。そうすることで得たものはあるのだろうか。 「いい子って、ずっとマウントされている状態だと思うんです。親からはもちろんだし、どこにいてもマウントされる側に自分を置いてしまう。人が作ったルールに合わせて生きていくんです。それを楽だと感じていたときもあるけど、次第に世界が怖く感じられるようになりました。自分自身を生きていないから。それが、整形をして変わったんです」  整形完了後、ユウナさんはオンラインでつながった趣味の集まりによく顔を出した。会場に入ると、参加者の視線が自分の顔に集まるのがわかる。容姿がいいと、その場を支配できるのだとわかった。 「ルールに合わせる側じゃなく、ルールを与える側になれた、と思いました。マウントされている状況から抜け出すには、人によっていろんな方法があると思いますが、私にはそれが整形だった。いまはもう“いい子”じゃありません」 “いい子”が親離れするには、ドラスティックな方法が必要な場合もある。ユウナさんはそうだったのだろう。“いい子”の呪縛が断ち切る方法は、人それぞれだ。『傲慢と善良』の真実はどうだったのだろうか。  本作は、再生の物語でもある。真実は“いい子”として生きていくことの限界がきたから、すべてを投げ出して失踪したのではないか。さらにすべてを投げ出した真実が自分自身を生きられるようになるには、何が必要だったのか。  親と物理的、心理的な距離ができることで、親へのまなざしも変わる。母親は思ったよりダメな人だと気づいたと語るのは、ミフユさんだ。 「30代半ばをすぎたいま、母親とは壁を感じずに話せています。末っ子の私が独り立ちしてからは、母も荷が降りたのでしょう。私も母の重みを少しずつ感じなくなってきました。そうすると、あんなに立派で威圧的に見えていた母の、ダメなところが見えてくる。実は意外と社会性がないんだな、とか。親は親というだけで自分よりすごいと思っていたけど、そんなことなかった。よくも悪くも、母って普通の人だったんです」  本作は二部編成となっており、前半は架の目を通した真実が描かれ、衝撃的な事実が明らかになる。追い詰められた真実がとった驚くべき選択と、開放された真実が選び取った未来。“いい子”として生きてきた人にとっても、そうでない人にとても、人生で一番刺さる一冊になるだろう。 (取材・文/三浦ゆえ)
いい子の呪縛傲慢と善良婚活書籍朝日新聞出版の本読書辻村深月
dot. 2023/03/24 17:00
更年期をチャンスに

更年期をチャンスに

女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

更年期がつらい
学校現場の大問題

学校現場の大問題

クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

学校の大問題
働く価値観格差

働く価値観格差

職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

職場の価値観格差
カテゴリから探す
ニュース
斎藤元彦氏はSNS展開の「石丸方式」で出直し知事選に 候補者乱立で“漁夫の利”当選の可能性も
斎藤元彦氏はSNS展開の「石丸方式」で出直し知事選に 候補者乱立で“漁夫の利”当選の可能性も
斎藤元彦
dot. 10時間前
教育
【祝アニメ化!】危機を生き抜くヒントが満載 実は大人も楽しめる「科学漫画サバイバル」
【祝アニメ化!】危機を生き抜くヒントが満載 実は大人も楽しめる「科学漫画サバイバル」
科学漫画サバイバル
AERA 8時間前
エンタメ
〈アナザースカイきょう出演〉「山本舞香」破局報道直後にHiroと熱愛 強気女優の意外な“恋愛遍歴”
〈アナザースカイきょう出演〉「山本舞香」破局報道直後にHiroと熱愛 強気女優の意外な“恋愛遍歴”
山本舞香
dot. 4時間前
スポーツ
阪神・大山、DeNA・佐野は「FA行使」の予感も 獲得に動くのは? オフの移籍は“活発化”するか
阪神・大山、DeNA・佐野は「FA行使」の予感も 獲得に動くのは? オフの移籍は“活発化”するか
プロ野球
dot. 9時間前
ヘルス
美輪明宏「つらい出来事の後には、必ずうれしいことが訪れる。70年の芸能生活もまさに『正と負』の繰り返し」
美輪明宏「つらい出来事の後には、必ずうれしいことが訪れる。70年の芸能生活もまさに『正と負』の繰り返し」
美輪明宏
dot. 18時間前
ビジネス
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
家事・育児は重要な経済活動 なのに評価は置き去り 紙幣経済のみを“経済”と呼ぶようになった弊害
田内学の経済のミカタ
AERA 11時間前