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学生のモチベーションを上げる一手とは? プログラミング教育の次なる課題は「教員養成課程」
福田晴一 福田晴一
学生のモチベーションを上げる一手とは? プログラミング教育の次なる課題は「教員養成課程」
福田晴一(ふくだ・はるかず)/昭和31(1956)年、東京都生まれ。みんなのコード学校教育支援部主任講師、元杉並区立天沼小学校校長。約40年の教員生活を経て、2018年4月NPO法人「みんなのコード」に入社。61歳で新入社員となる。2020年度からの小学校におけるプログラミング教育必修化に向け、指導教員を養成すべく、全国を東奔西走中 女子大でのプログラミング研修(写真:著者提供)  61歳で公立小学校の校長を定年退職した福田晴一さんが「新入社員」として入社したのはIT業界だった! 転職のキーワードは「プログラミング教育」。全国を教員研修で回っているうちに63歳となった。小学校プログセミング教育の全面実施まで5カ月、果たして大学の教員養成課程は準備万端なのだろうか。 *  *  *  私が所属する特定非営利活動法人「みんなのコード」は、「全てのこどもがプログラミングを楽しむ国にする」をミッションに、教員研修会等の「人へのアプローチ」と、授業等で使用できる無償のウェブコンテンツ(プログル)による「テクノロジーへのアプローチ」の両輪で、プログラミング教育の普及活動を推進している。 「人へのアプローチ」は小学校教員の研修がメインだが、その推進の後押しとなる管理職研修会も増えつつある。また最近は親御さんの関心の高まりもあってかPTAからの研修会の依頼もある。  そのような中、我々は、もう一つ新たなフィールドにアプローチすることになった。これから教員を目指す学生たちのための「教員養成課程」である。一口に教員養成課程と言っても幅が広いので、我々は、小学校教員養成課程を対象に絞り込んだ。  日本には、小学校教諭免許を取得できる大学は、各都道府県の国立大学と私立大学を合わせると250以上もある。  教員養成を主とする何百名という学部生を抱える大学もあれば、定員が10名という地方の私立大学もある。しかし、教員志願者数は年々減少し、競争倍率が下がり教員の資質を懸念する声もある。現に今年度の東京都の競争倍率は2.7倍で、昨年度を0.9ポイント下回っている。一次試験、二次試験と進める中で、他府県の教員採用への移行や、企業等への転換等の辞退者を鑑みると、実質2倍を切っているのではないかという声もある。  私たちは、このような現状から、全面実施される小学校プログラミング教育に関する授業が、どのように展開されているのか疑問をいだいた。そこで、首都圏の複数の大学に現状を問い合わせてみた。すると、 「何に取り組んで良いのかわからない」 「現場でまだ実施されていないのでイメージが湧かない」 「盛り込む時間がない」  等々、実際には授業が行われていない状況であったのだ。そこで、「みんなのコード」でトライアル的ではあるが、大学の1単位時間で取り組めるプログラムを作成。今年、神奈川県の女子大学に勤務する先輩に頼み込み、正規枠ではなく希望者による「特別出前授業」として、このプログラムを実施してみた。  我々も何名の参加希望があるか不安もあったが、募集の結果、1年生から4年生の各学年からの応募で23名の学生が参加した。  我々も学生対象は初めての取り組みだが、教員養成課程の学生を対象としているので「何故、プログラミング教育が導入されたのか」から入り、体験重視(算数・理科・総合)のプログラムを組んだ。  学生たちの真剣な眼差しと笑顔が多い授業となり、学生から、 「プログラミング=難しいというイメージが変わりました」 「学校での授業の中で、プログラミングが大切だということをすごく感じました」  等々、嬉しい感想を多くいただいた。  このトライアル授業をベースに、今年度は教員養成課程の正規枠の授業にも着手した。正規枠での実施は容易なものではない。大学のシラバスに位置付け、評価も付いてくる。となると、実施の観点は2点である。  一つは新学習指導要領に新たに示された観点を理解する授業としての「プロクラミング教育」、もう一つは「算数・理科・総合」の解説書に新たに示された体験を通した授業としての「プログラミング教育」である。  正規枠での実施は、それらを担当されている大学の先生のご了解を得ないと厳しい。9月に新学習指導要領に示された新しい観点としての授業を都内の大学で実施した。対象は3年生70名ほどである。  授業は無難に終えたが、前回のトライアル授業のような達成感は我々にはなかった。授業後に大学の先生方と意見交換をしてその理由がわかった。 「今日の学生は3年生で、まだ教員採用の現実味がないので、学習指導要領の意識は薄い。体験重視の方が良いかも」とのアドバイスをいただいた。  そこで、10月の4年生対象プロクラムを体験重視に練り直したところ、4年生というモチベーションの後押しもあったと思うが、指導者・受講学生ともに満足できる結果を得た。これらの大学への出前授業で、確かな手応えと共に教員養成大学のニーズを強く感じている。12月には「小学校理科教育」に位置付けた、正規枠授業を別の大学でも行う予定である。  現場でプログラミング教育を指導できる先生は、圧倒的に少ない。そのような現状の中、教員採用面接で「大学で学んできました」と言えれば、採用の加点にもなるかもしれない。 「教員採用試験の強みになる」とは邪道かもしれないが、プログラミング教育を普及させる視点から考えると、何も動かないよりはいい。  本来、文部科学省として「小学校プログラミング教育」を導入し、政府として情報教育を広く取り組んでいく方針を示しているのだから、教員免許状取得に関する単位取得のカリキュラムの見直しもしっかり図ってもらいたいのだが、今の大学教育改革のゴタゴタを見るにつけ、このカリキュラムの見直しも早急に行うことは難しいのかもしれない。  いつまでも現場主義に支えられる日本の教育観は変わらないと痛感する。  とは言え、待った無しの全面実施までの5カ月。1大学でも視野を広げて大学の授業に「プログラミング教育」を取り入れていただきたい。要請があれば、大いに支援していきたい、将来の子供達のためにも。
福田晴一
AERA 2019/11/13 16:00
本当に歌のうまいアイドルは誰だったのか 聖子、あやや、AKB48は?
宝泉薫 宝泉薫
本当に歌のうまいアイドルは誰だったのか 聖子、あやや、AKB48は?
荻野目洋子(左上)、松田聖子(右上)、岩崎宏美(右下)、松浦亜弥 (C)朝日新聞社  アイドルの歌唱力。これを論じるのは難しい。芸能や芸術の巧拙なんて、しょせんは好みによるところが大だし、そもそも、アイドルの魅力において「歌のうまさ」がどれほどの意味を持つのか、よくわからないからだ。  ちなみに、メリー喜多川さんはアイドルのライブについて「何か鳴ってりゃいいのよ」と言い放ったという。男性アイドルの場合「ヘタなほうが女の子の母性本能をくすぐる」として事務所が歌の練習をさせないケースもあるようだ。これは、女性アイドルにも通じる話だろう。歌のうまさはともすれば「可愛げのなさ」につながるから、両刃の剣でもある。  そんななか、歌唱力と可愛げとを高いレベルで両立させたのが、松田聖子と松浦亜弥だ。ふたりとも、可愛い歌を聴かせるとともに、自分を可愛く見せる天才だった。それゆえ、歌のうまさが嫌味にならず、いわば「歌ウマ」アイドルの理想型となれたのである。  という意見に、同意してくれる人はかなりいるのではないか。そして、このふたりとは違うタイプの、山口百恵や中森明菜という「歌ウマ」アイドルの理想型もある。ただ、理想型というのは容易に生まれるものではない。アイドルがまず可愛い存在でなくてはならない以上、歌のうまさは二の次になりがちだし、それゆえ、歌のうまさだけで成功するアイドルなど皆無だ。  それでも、歌唱力が特別に評価されつつ、アイドルとしても人気が出る人がまれにいる。世間がいう「歌のうまいアイドル」とは、聖子やあややより、むしろこういうタイプだろう。 ■「スタ誕」出身の岩崎宏美  たとえば、70年代の第一次アイドルブームでは、岩崎宏美がいた。素人オーディション番組「スター誕生」の出身だが、その審査員でもあったソプラノ歌手・松田トシに声楽を学んだ本格派として、最初から歌唱力は折り紙つきだった。デビュー時のキャッチコピーは「天まで響け」。その言葉どおり、2曲目の「ロマンス」(75年)で大ヒットを飛ばしてトップシーンに躍り出ると、82年の「聖母たちのララバイ」では日本歌謡大賞に輝くことになる。  その歌唱力を何より堪能できるのが「ロマンス」のB面「私たち」だ。全体で3回出て来る「愛しています~」の高音の伸びがとにかく絶品で、マニア向け評論誌「よい子の歌謡曲」10号には「血液中の二酸化炭素が全て消え去っちゃうようなスガスガしさ」(波田浩之)という評がある。これに比肩するものがあるとしたら、あややのデビュー曲「ドッキドキ!LOVEメール」のサビの高揚感くらいだろう。 ■高田みづえ、荻野目洋子、そして本田美奈子  70年代にはもうひとり、高田みづえもいた。こちらはデビュー曲「硝子坂」以来、カバー曲を得意にしていて、それ自体、高い歌唱力の証しである。特に彼女はどんな音楽も歌謡曲にしてしまう異能の持ち主だった。なかでも「潮騒のメロディー」はカナダのピアニストによるインストゥルメンタルに日本語詞をつけたもの。彼女の力業なくして、ヒットは覚束なかったはずだ。  続いて、80年代の第二次アイドルブームでは、荻野目洋子を挙げたい。「ちびっこ歌まねベストテン」で注目され、小学生女子3人のグループで2枚レコードを出したあと、15歳で本格デビューを果たした。最初のブレイク、かつ最近の再ブレイクにもつながった「ダンシング・ヒーロー」が有名だが、そこにいたる前のアイドルポップスにも佳作が多い。いずれにせよ、ちびっこのど自慢的なところから出発しながら、ユーロビートのダンスナンバーという当時の流行りモノにも適応できたという、間口の広い歌唱力が彼女を一流にしたのである。  そして、80年代ではもうひとり、本田美奈子(のちに本田美奈子.)がいる。ある意味、本稿の主役的存在だ。というのも、彼女ほど「歌唱力」が両刃の剣となったアイドルはいない。11月6日で死後14年がたったが、もっと別なかたちのアイドルになれたのではと今なお惜しまれるくらいだ。  彼女に直接聞いた話では「声を出すために使う喉の筋肉」が特別に発達していたとのこと。生まれつきか、歌好きな母といつも一緒に歌っていたおかげかは不明だが、歌手になるべくしてなった少女だった。ただ、本人が演歌志望だったにもかかわらず、事務所にそのノウハウがなかったことからアイドル歌手としてスタートすることに。しかし、彼女がデビューした月には、おニャン子クラブが誕生するなど、実力派アイドルに追い風が吹いている時期ではなかった。  それでも、彼女は歌唱力で勝負に出る。デビュー曲「殺意のバカンス」や賞レースの勝負曲「Temptation(誘惑)」は実力がないと歌えない大人っぽい歌謡ポップスだった。が、日本レコード大賞の最優秀新人賞を中山美穂にさらわれ、大荒れに荒れたという彼女は翌年以降、別の攻め方に転じる。洋楽&ロック志向だ。  マドンナのようなへそ出しルックで「1986年のマリリン」を大ヒットさせ、ゲイリー・ムーアやブライアン・メイといった海外の一流アーティストの作品を歌った。ついには「MINAKO with WILD CATS」というバンドまで結成。ただ、それはアイドル的な可愛げから遠ざかることでもあり、エスカレートするにつれ、普通の歌謡曲ファンには馴染めないものになっていった。  その頃について、彼女はこう振り返っている。 「きっと背伸びをしてたんだと思うんです。仕事は楽しかったし、あの頃があるからこそ今の私があるんだけど、目指しているものに私自身の中身が届いていなかったから。ただのワガママ娘でね」  ちなみに、彼女には他にもデビュー曲候補があった。セカンドシングルとなった「好きと言いなさい」がそれだ。キュートなアイドルポップスで、こちらを好きな人も多かった。実際に会った印象でも、前者より後者が似合う感じだったし、こういう路線で押していったほうが、等身大の素の魅力を発揮できたのではないか。  おそらく彼女の歌唱力が平凡だったら、和製マドンナやらロックバンドといった路線は選択されなかっただろう。両刃の剣たるゆえんだ。  そういう意味で、彼女がその後、ミュージカルだったり、クラシックとのクロスオーバーだったりという展開に行けたのはよかったと思う。それらの世界では「歌がうまい」のは当たり前で、嫌味にもならないからだ。一方、容姿については美形ばかりでもないから、その分、彼女の抜群の「可愛げ」がひときわ輝くことになる。  病気のため、38年の短い生涯に終わったが、彼女は「オーケストラの人と共演すると、鳥肌が立つんですよ」と嬉しそうに話していた。歌手として、そういう居場所にたどりつけたのは幸せなことだ。 ■“歌う天才子役”SPEED島袋寛子  さて、90年代になると、アイドルシーンではソロからグループへという流れが加速していく。個人の歌唱力についてはわかりにくくなったが、そのなかでも強烈な「歌ウマ」オーラを放ったのが、SPEEDの島袋寛子だ。12歳でデビューし、歌う天才子役の趣きで国民的グループを引っ張った姿はなかなかのものだった。  ただ、歌のうまさはときに嫌味やアクにもつながる。その点、このグループには上原多香子という、90年代有数の「歌が覚束ないアイドル」がいたことにも注目したい。これにより、絶妙のバランスが生まれていたのだ。  こうしたバランスは、そのあとに続いたモーニング娘。やAKB48などにも受け継がれている。が、よりいっそうの大所帯で激しく複雑なダンスをしながら歌うパフォーマンススタイルは、全体のバランスはともかく、個人の歌唱力をますますわかりにくくした。  それでも、歌のうまい子は必ずいるからそこがクローズアップされることもある。ただ、気になるのはその歌唱力がアイドル的なうまさとはズレがちだったりすることだ。山本彩(元NMB48)の場合、もともとバンドをやっていたというだけあって、ロック系のテイスト。生田絵梨花(乃木坂46)の場合は、ミュージカルをやるうちに歌い方もそれ仕様になっていった。  そのなかにあって、AKB48の最新シングル「サステナブル」で初のセンターを務めた矢作萌夏は世が世なら王道的な「歌ウマ」系アイドル歌手になれそうな素材だ。しかし、来年2月での卒業が決まった。ぜひ、ソロで歌手活動も行なってほしいが、はたしてどうなるだろうか。  ところで「歌ウマ」とは逆に「歌ヘタ」いや「ヘタウマ」系というべき人たちもいる。もしかしたら、そちらのほうがアイドルらしいのかもしれない。そのうち、そういうアイドルについても考えてみたいものだ。とりあげても、本人に喜ばれるとは限らないが!? ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
dot. 2019/11/12 11:30
大正期「首里城取り壊し」の危機を救った美術研究者 復元のカギを握る重要資料の中身
渡辺豪 渡辺豪
大正期「首里城取り壊し」の危機を救った美術研究者 復元のカギを握る重要資料の中身
「寸法記」に収められている首里城正殿の唐獅子や牡丹、昇り龍の図柄。配色も細かに指定されている(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵) 1991年5月、復元の整備を進めていた首里城跡。沖縄戦で破壊される前は国宝に指定されていた。80年代末から復元が行われ、総事業費は33年間で約240億円に上った(c)朝日新聞社  一夜にして正殿などが焼失した沖縄の首里城。その文化的価値に注目し、保存や復元にかつて尽力したのは沖縄の人たちだけではなかった。首里城が「人類共通の遺産」であることをあらためてかみしめたい。 *  *  *  東京・神保町駅近くの岩波書店。  雑然とした編集者の机の傍らに、古びた大学ノートが無造作に積み上げられていた。その資料の山を前に、目を輝かせる大学院生がいた。 「これは宝だ」  首里城に隣接する沖縄県立芸術大学(以下、県立芸大)で約30年にわたって鎌倉芳太郎研究に身を捧げてきた波照間永吉名誉教授(69)は、初めて「鎌倉資料」に接した35年前の興奮を感慨深く振り返った。  美術研究者で人間国宝の鎌倉芳太郎(1898-1983年)が、琉球・沖縄の芸術研究の集大成として83歳のときに上梓した『沖縄文化の遺宝』(82年、岩波書店刊)。首里城とその周辺の寺院や工芸品などの写真と、琉球王朝ゆかりの古文書などをもとに沖縄文化に対する論考が収められている。  この著作が世に送り出されるのを見届けるように、鎌倉は10カ月後に東京で息を引き取る。波照間さんはその翌年の84年、恩師である「沖縄学」の第一人者、法政大学教授の外間守善(ほかま・しゅぜん)(1924-2012年)の指示を受け、後輩の大学院生たちとともに、大正末期から昭和初期にかけて鎌倉が沖縄で収集した「鎌倉資料」の目録づくりに当たった。  86年に開学する県立芸大に「鎌倉資料」が寄贈されることが内定し、あらためて整理する必要に迫られていたのだ。これらの資料は『沖縄文化の遺宝』の刊行に当たって担当編集者の手元に集められていた。大正末期の「琉球芸術調査」に際して作成された手書きの81冊のノート(鎌倉ノート、国重要文化財)をはじめ、約3千点の写真など膨大な資料をわずか20日間でチェックする突貫作業だったという。波照間さんは鎌倉の功績をこうたたえる。 「鎌倉先生は、日本と中国のすぐれた面を採り入れた琉球芸術への造詣を深め、大正期に首里城の文化的価値を最初に見いだした研究者です」 ■修復費を捻出できずに荒廃が進む首里城に関心  鎌倉は大正末期の首里城取り壊しの危機を救っただけでなく、今回の火災で焼失した正殿などの戦後の復元に多大な貢献を果たした、首里城を語る上で欠かせない人物なのだ。  鎌倉の足跡をたどろう。  香川県出身の鎌倉が東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業し、沖縄県女子師範学教諭兼同県立第一高等女学校の美術教師として沖縄に赴任したのは1921年。22歳のときだ。首里の王家を始祖とする座間味家に下宿した2年間、琉球王朝が築いた文化・芸術研究に没頭。首里の人たちが日常使う「首里言葉」も体得した。  鎌倉は、修復費を捻出できずに荒廃が進む首里城にも強い関心を寄せる。波照間さんは当時の沖縄の状況をこう解説する。 「日清戦争(1894~95年)以降は特に、沖縄で中国的なものを排除し、純日本的なものの価値を称揚していく流れが顕著になりました。そうした中、首里城も残念な評価を受けることになったのです」  明治期の「琉球処分」(1872~79年)によって日本に組み込まれた沖縄では、日本との一体化を推進する政策が図られていた。明治末期以降は、首里城内に沖縄県社を創設する案が浮上するとともに正殿の取り壊しが検討されるようになる。  1923年6月、いよいよ首里城の取り壊し作業が始まった。東京でこの動きを知った鎌倉は、師であり共同研究者でもある東京帝国大学教授の伊東忠太(1867-1954年)に報告。伊東は内務省に保存の重要性を訴え、取り壊しの中止を要請。内務省の「取り壊し中止命令」の電報が沖縄県庁に届き、本格的な取り壊しは寸前で回避された。  鎌倉は大正末期の24年4月、財団法人啓明会から「琉球芸術調査」の補助を受け、再び沖縄に赴く。東京美術学校助手として1年半近く、琉球国王だった尚(しょう)家ゆかりの所蔵品などを調査、撮影した。このときの調査と1926~27年にかけて行われた第2次調査によって収集されたのが、冒頭の「鎌倉資料」だ。  鎌倉が東京に持ち帰った資料は戦時中、都内の自宅敷地内の防空壕や東京美術学校に保管し、焼失を免れた。この資料が、沖縄戦でほとんどの資料が灰燼に帰した戦後の首里城復元に決定的な役割を果たす。  とりわけ大きな力になったのが、1768年の正殿大修理を記録した「寸法記」だ。A4サイズほど(19.7×27.4センチ)の和紙をとじた冊子には、柱や壁の位置を記した平面図や細部の寸法、瓦のふき方に至るまで詳細に記録。今回の火災で焼失した正殿の向拝前面にあしらわれた唐獅子や牡丹、柱の昇り龍の図柄だけでなく、色の指定も事細かに書き込まれていた。  岩波書店で初めて「寸法記」を開いた際、波照間さんは『沖縄文化の遺宝』に収録された正殿のモノクロ写真からは想像もつかない、朱や金で彩られた首里城の姿に思いをはせ、「この資料があれば復元できる」と確信したという。 ■賛美だけとは限らない首里城への複雑な思い  波照間さんはその後、寄贈資料を扱う県立芸大附属研究所所長として、「鎌倉ノート」を編纂した『鎌倉芳太郎資料集』全4巻を刊行。大学ノートに万年筆でびっしり書き込まれたページを一枚一枚めくり、その正確さと細かさに感嘆したという。筆写は何度も校正され、1字、1画に至るまで朱の直しが入れられていた。  1992年。ベンガラ漆で朱色に塗り上げられたきらびやかな正殿がお披露目されると、石垣島出身の波照間さんには、研究者としての感慨とは別に、複雑な思いもよぎったという。  石垣島を含む沖縄県の宮古・八重山地方は琉球王朝時代、差別的な税制に苦しめられたからだ。1500年には八重山地方の当時の首領オヤケアカハチが貢租を拒否し、首里王府に討伐された。石垣市内にはオヤケアカハチを英雄とたたえる碑も建立されている。波照間さんは「子どものころから、首里王府に何百年も虐げられた歴史を聞かされて育っているので、首里城を見る目は単なる賛美の視線だけではありませんでした」と当時の思いを語る。  ただ30年近く、毎日のように職場から首里城を眺めるうち心情に変化が生じたという。 「首里城は単なる王権の象徴というレベルを超え、ウチナーンチュ(沖縄の人)のアイデンティティーを象徴する存在だととらえるようになりました。これは私だけではない、と思います」  今年2月、波照間さんは首里城全域の整備完了に伴う記念式典に出席。火災はそれからわずか8カ月後におきた。 「完全な姿が見られるようになった、と喜んだのも束の間でした。30年近くかけてつくられた施設が一夜で焼け落ちるなんて……」  首里城から数キロの西原町に住む波照間さんは、10月31日早朝のテレビニュースで火災を知った。その4日後に話をうかがった際、波照間さんは火災後、首里城にはあえて近寄らないようにしている、と明かした。 「喪に服するような思いがあり、心の準備が整わない、というのが正直な気持ちです」  ただ、失望に打ちのめされているだけではないという。 「沖縄の人たちは今、首里城復元に向けて力強く立ち上がっています。これも、自分たちの文化に対する誇りを首里城が根付かせてくれた、この30年の成果だと思います。不幸の中にあって希望だと感じています」 ■琉球のシンボルだったが沖縄だけの宝ではない  1924年に沖縄を訪れた伊東忠太は、首里城保存の意義について「実に我が国の……否世界の学術の為の重要問題」と唱えた。そして今、波照間さんのもとには、海外の研究者仲間からも首里城焼失を惜しみ、復元を切望する声が相次いで寄せられているという。波照間さんはこう確信している。 「首里城は沖縄だけの宝ではない。そのことは、次に復元するときも決して忘れてはいけない」  那覇市が首里城再建支援のため、火災翌日の11月1日からインターネットを通じて始めた寄付額は8日時点で4億円を超えた。  こうした支援の広がりについて、鎌倉芳太郎の評伝『首里城への坂道』の著者であるノンフィクション作家の与那原恵さん(61)はこんな感慨を示す。 「首里城はいろんな意味で琉球・沖縄のシンボルだったと思いますが、沖縄の人々だけのものではなくなっていた、ということを今回あらためて実感しました」  正殿などの一般公開が始まって以降、多くの観光客が首里城を訪れ、00年の九州・沖縄サミットの晩餐会も開かれた。首里城が広く知れわたるにつれ、アジアの国々と交易し、約450年間にわたって独自の国際的地位を築いた琉球王国の足跡も国内外で再認識されるようになった。与那原さんは言う。 「首里城再建に支援が集まっているのは、単に一地方の文化財の再建という位置づけだけではなく、小国でありながら英知によって外交を展開し、アジアの多様性を採り入れた独自の文化をはぐくんだ琉球王国のあり方への共感の表れのように感じています」  かつて首里城正殿に掲げられた大鐘には、「万国の津梁(しんりょう)となり……」と琉球が世界の架け橋となる決意が刻銘されていた。大国に翻弄され続ける沖縄が希求する平和のシンボルとして、首里城は再び復元される日を待っている。(編集部・渡辺 豪) ※AERA 2019年11月18日号
AERA 2019/11/11 07:00
若者のジーンズ離れの理由は? 売り上げが20年前の半分まで低迷する店も
若者のジーンズ離れの理由は? 売り上げが20年前の半分まで低迷する店も
ジーンズショップ・スズヤのジーンズ売り場。店主の青山さんは「ジーンズ好きな若者が減った」と話す(撮影/編集部・小田健司) ジーンズの売れ行きの変化(AERA 2019年11月11日号より) 1世帯(2人以上世帯)あたりの洋服にかける年平均のお金(AERA 2019年11月11日号より)  若者を中心にジーンズの売れ行きが落ちている。中でも、最もメジャーな価格帯の1万円以下が売れないという。かつて「若さ」や「自由」の象徴だったジーンズの人気が低迷しているのはなぜか。AERA 2019年11月11日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  * 「全国のユニークな顔をした芸能人のみなさん、ユニークな体形をした芸能人のみなさんに、夢と希望を与えられた」  10月15日に東京国際フォーラムであった今年の「ベストジーニスト賞」の発表。オーバーオール姿で登場した出川哲朗さんは冗談交じりにこう話し、拍手を浴びた。受賞したのはほかに、長谷川京子さんや山本美月さんら。毎年恒例のにぎやかなイベントで盛り上がったが、実はジーンズ業界は今、危機にある。  東京都品川区の中延商店街。青山智紀さん(46)は、この商店街にある「ジーンズショップ・スズヤ」を26年前に父から継いだ。 「一番買いに来るのはジーンズブームを経験している70歳前後の男性。一番買いに来ないのは、30代より下の学生を中心とした層でしょうか。一昔前と比べても、全然来ないですね」  スズヤで扱うのはメンズでエドウイン、リー、リーバイスの3ブランド、レディースではスウィートキャメル、ミスエドウインの2ブランド。購入しやすい7千円前後の商品を中心にそろえている。しかし、ジーンズの売れ行きは順調ではない。  先代の父親のころはほぼジーンズだけの商売だったが、今はアロハシャツやTシャツなども取りそろえて店を維持している。ジーンズに限って言えば、売り上げは20年ほど前に比べて半分程度になっている。  ジーンズは、ゴールドラッシュにわく19世紀の米国で生まれた。当初は主に作業着として使われていたと言われるが、徐々に若者のファッションとして定着。ハリウッド映画の影響も大きかったようだ。  映画「乱暴者」(1953年)で暴走族のリーダーを演じたマーロン・ブランド。映画「理由なき反抗」(55年)で屈折した若者を演じたジェームス・ディーン。2人のジーンズ姿は、ジーンズを「若さ」や「自由」の象徴とする空気感を作り出した。  国内で生産が始まったのは60年代になってから。70年代にはすそが広がる「ベルボトム」が大流行。80年代には、「ケミカルウォッシュ」と呼ばれるまだら模様もはやり、ジーンズはすべての世代に愛されるアイテムの一つになった。  だが、売れ方をみると現在は少し事情が違うようだ。前出の「スズヤ」での話はこの店に限ったことではない。  ベストジーニスト賞を主催する日本ジーンズ協議会(本部・岡山県)が行った調査によると、国内のブルージーンズと、青以外のカラージーンズを合計した販売数は、2000年ごろには約7千万点前後で推移していた。しかし徐々に減少傾向にあり、10年には4千万点を割り込んでいる。調査はすでに行われていないが、18年の推計値では5千万点前後とみられるという。いずれにしても、かつてのジーンズ黄金期から比べると、大きな落ち込みだ。中年以上の女性向けと子ども向けは比較的安定しているが、それ以外の消費が低迷しているようだ。  調査は、エドウインをはじめとした協議会の会員企業からの情報に加えて、ユニクロ、無印良品などの非会員の企業の販売数を推計している。イタリアの「ディーゼル」や「リプレイ」、オランダの「デンハム」などの一部の外国製品は除外しているが、協議会の浅野友城専務理事(72)によると「価格が高いこれらのジーンズは全体の数字に大きく影響するほどの売れ方はしていない」という。国産ジーンズに代わって、統計に入らない外国製の高級ジーンズが売れているわけではないようだ。  なぜ売れなくなったのか。  ジーンズ業界に詳しいえい(木へんに「世」)出版社の常務、松島睦さん(47)は国内ジーンズ市場をこう分析する。 「業界はいま、高いものと安いものの両極化と言われていて、中途半端な価格帯のものが以前ほど売れなくなった。業界の地図を変えたのはユニクロさんでしょう」  もともと国内メーカーがつくってきたジーンズは1万円以下の商品が主力だったという。 「それが、さらに安い価格でそうしたジーンズに匹敵するような品質のものをユニクロさんが提供し始めたことで、1万円以下のメーカーはかなり苦労してきた」(松島さん)  一方で、1本5万円以上もするような、職人がつくった国内産の高級ジーンズも売れている。その結果、かつて「ナショナルブランド」と呼ばれた国内メーカーの多くは苦戦を強いられているというわけだ。 「特に若い女性の着用率が落ちていることが、業界では指摘されています」(浅野さん) 「若者がジーンズ一辺倒だった時代はとっくの昔に終わった」(前出スズヤの青山さん)  若者にさまざまな選択肢がある中で、ジーンズは毎日のように着用するものではなくなり、結果的に「かつてほど売れなくなった」ようだ。  東京・代官山で、女子大学生(21)に話を聞いてみると、こんな答えが返ってきた。 「持っているジーンズは1本。月に何度かはいています。動きやすいので好きですよ」  そもそも洋服にあまりお金をかけられなくなっていることを示すデータもある。  総務省の統計によると、2人以上の世帯では、00年は男性用洋服にかけた1年間の費用が平均2万5040円、女性用洋服が4万4517円だったのに対して、18年には男性が1万7458円、女性が3万603円と、それぞれ約3割ほど減っている。加えて、今は人口が減っている。「昔は作れば作っただけ売れた」(浅野さん)というジーンズが、再びかつてのように売れることはあるのだろうか。  ジーンズ復権のきっかけの一つとして青山さんが挙げたのは、IT業界などを中心にした服装のカジュアル化だ。イッセイミヤケの黒いタートルネックにリーバイスのジーンズをはいたアップル創始者のスティーブ・ジョブズの姿を覚えている人も多いだろう。  カジュアル化は、IT業界以外にも波及しつつある。  パナソニックは昨年4月に工場などをのぞいた職場で服装を自由化し、少しずつ対象の職場を広げているという。伊藤忠商事もジーンズなどで出勤しても構わない「脱スーツ・デー」の取り組みを始め、TPOに合わせてではあるが、現在は火曜~金曜の週4日は「脱スーツ」が認められている。  ユニクロが20~50代の男女1千人を対象に17年に行ったビジネスシーンでのジーンズに関する意識調査でも、47.3%が職場にジーンズで出社したいと考え、75.6%が職場でジーンズをはいても構わないと考えているという結果が出た。  ビジネスシーンでのジーンズ着用に業界は「大いに期待している」(浅野さん)。加えて、前出の松島さんは「もしかしたら」と考えることが一つある。  今、松島さんら団塊ジュニア世代の家庭では、中高生くらいの子どもがいるケースが多い。「僕らの世代ってジーンズ好きがたくさんいる。興味を持ち始める年頃の子どもたちにジーンズのうんちくや格好良さを教えてあげれば、ちょっとしたブームの可能性だってあると思います」 (編集部・小田健司) ※AERA 2019年11月11日号
AERA 2019/11/10 11:30
【現代の肖像】世界はいつだって生きづらい 脚本家・森下佳子 <AERA連載>
【現代の肖像】世界はいつだって生きづらい 脚本家・森下佳子 <AERA連載>
漫画とテレビがあれば何日だってこもっていられる。「私が書くのは基本、普通の人です」(撮影/篠塚ようこ) シナリオ学校で講師を務めても、人前で話すのは苦手だ。「世界の中心で、愛をさけぶ」の顔合わせのとき、ブルブルと震えが止まらず、主演の山田孝之に「あの人、病気ですか」と心配されたこともある(撮影/篠塚ようこ) シンポジウムの服装は、近所のセレクトショップで見つけたフランス製のワンピに、15年前の記者会見ではいたGUCCIのヒール、向田邦子賞の賞金で買ったヴァンクリのイヤリング。誰もが認めるお洒落好き(撮影/篠塚ようこ) 今でも、家族だけが味方だという感覚から抜けきれない。「でも、拗ねたくないので、世界は私を嫌いかもしれないけれど、私は世界を愛するよう頑張ろうと思ってますよ」(撮影/篠塚ようこ) ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。 「直虎」に「JIN」「世界の中心で、愛をさけぶ」「ごちそうさん」。最近手掛けた「義母と娘のブルース」もまた、大ヒットのドラマとなった。  売れっ子脚本家の作品を挙げていけば、枚挙にいとまがない。森下佳子という名前で、視聴者がついてくる。  それなのに、「次はダメかもしれない」と考える。自信と不安、小心と大胆のはざまで言葉が生まれる。  その話が森下佳子(もりしたよしこ)(48)から出たのは、彼女が書いた大河ドラマ「おんな城主 直虎」(以下「直虎」)について触れたときだった。 「あれはベルばらへのオマージュなんですよ」 「直虎」の主人公は、乱世の時代に井伊家を守るために城主となった少女おとわ。確かに、池田理代子が描いた少女漫画の金字塔「ベルサイユのばら」のオスカルだ。女性たちをキュンキュンさせた幼なじみ政次のおとわへの献身は、まさにアンドレのオスカルへのそれ。 「目標に向かって散るという2人の関係性もあるんですが、私の中のベルばらの真骨頂は、オスカルが自分を男の子として育てた父に人生に悔いはないと告げるところ。あそこが大好きで、『井伊谷のばら』の回でそのままいただきました」  都心の駅から徒歩5分圏内にある洒落た一軒家。自ら「ごちそうさん御殿」と呼ぶ家は朝ドラを書き上げた翌年に建てたもので、森下の仕事場でもある。夫と兼用の書斎もあるのに、彼女が小さなMacに向かうのはもっぱらダイニング。いや、中学1年になる一人娘・薫に言わせれば、「ママが書くのは布団の中、寝ころびながら」らしい。 「そうなんです。私、どこででも書くんです」  話し言葉に大阪弁が交じる森下は、その名で視聴者を呼べる脚本家の一人である。血のつながらない母娘のかけがえのない関係を描いた「義母と娘のブルース」などテレビ雑誌が選ぶ脚本賞の常連で、「ごちそうさん」では向田邦子賞と橋田賞をダブル受賞。徹底した取材に基づく破綻のない構成、平易で心打つ台詞、「天才的」と言う人もいて、誰もがその力量を評価する。 ■登場人物の心臓の音がドクドクと聞こえてくる  だが、本人はいたって謙虚。5月に静岡で行われた今川義元公生誕五百年祭のシンポジウムで、「直虎」の監修を務めた小和田哲男の対談相手に呼ばれたその折のこと。客席を沸かせたあとの挨拶が「私なんかの話を聞いてくださって、ありがとうございました」だった。当人としては「最終生産物を作っているのではないので」作家というより職人のつもり。1話につき7、8稿もザラで、いつまでも直していたい「直しフェチ」。 「なんで私が作ったものをそのままやらないんだー!は、1ミリもないんですよ。むしろダメ出しがない方が怖い。私、チキンなんです。クソほどマークシートやってきた受験勉強世代だから、与えられた課題をこなすのは得意なんですよ」  宮藤官九郎と同じ学年の森下は、団塊ジュニア世代の入り口の生まれでもある。が、3歳下のTBSの石丸彰彦は、「それは、いい格好言ってるんですよ。脚本をけなしたら怒ります」と、笑う。  綾瀬はるかを人気者にした「世界の中心で、愛をさけぶ」から「義母と娘のブルース」まで森下と組んでヒット作を連発したプロデューサーで、現在、編成部長の席にある石丸は、自他ともに認める森下の盟友だ。15年間、打ち合わせの度に大喧嘩を繰り返してきた。森下が社内電話を投げようとしたのを、「それだけはやめてくれ」と止めたことも。しかし、最終話の決定稿は、2人して「これだよね」と泣きながら読むことになる。 「彼女の台詞は生きていて、登場人物の心臓の音がドクドクと聞こえてくる。同じ時代を生き、一番最初に彼女の脚本が読めるのは幸せです」  と、石丸にこうまで言わせても、森下の鼻が高くなることはない。 「自信なんて全然ないですよ。次はダメかもしれないって、毎回、そんなんですよ。私は原作ものが多くて、原作に恵まれてるんです」  カズオ・イシグロ、重松清、東野圭吾、村上もとか……、森下作品の原作にはきら星の如く作家名が並ぶ。だが、朝ドラはオリジナルだし、史実がほとんど残されていない人物を主人公にした大河もオリジナルのようなものだった。両作のプロデューサーであるNHKの岡本幸江(現・編成局)は、書き直しの度に全編ダイナミックに書き換えてくる森下に心底感心した。 「物語が湧いてくる人で、原作ものをやってるのが不思議でした。でも、森下さんはテーマは人から与えられた方がラクだと言う。大河の執筆にかかった1年半、書く苦労は見せませんでした」  気さくなくせに怜悧なしゃべりっぷりで、初対面の人にも持ちネタを披露して笑わせ、たちまちのうちに心を掴んでしまう。頭がよくて大酒飲み、武勇伝と酒の上の失敗には事欠かない愛されキャラとは、周囲の森下評。小心と大胆の振れ幅が大きい脚本家を物語の世界に向かわせたのは、物心つく頃には心にすみついていた「世界は私を愛していない」という感覚だった。 「自己承認欲求というか、私が期待しているものが世間から返ってこないという感覚です。生まれたときから、親以外から優遇された覚えもないし、うまく世の中とコミュニケートできてない感じがずっと続いています。味方は家族だけ」 ■成績優秀でも反抗的、何度も学校から呼び出し  万博の翌年に大阪のベッドタウン、高槻市で生まれた長子。父・雅雄は発電所をつくる技術者にして猛烈サラリーマン。ローンという枷がなければ会社をやめたくなると次々に家を買い、自分で塀まで作ってしまう、娘の目にも「変わった人」だった。母の尚子はピアノ教師で、家にはグランドとアップライトの2台のピアノがあった。本と食べ物は潤沢に与えられたが、『赤毛のアン』のマリラのような母はフリフリの服を欲しがる娘にファミリアの紺やグレーの服しか着せなかった。母の教育方針はときに手も出るスパルタで、「出ていけ!」と言われても、「その言葉を待ってた。出ていく!」と娘も負けてはいなかった。  ピアノの発表会で先生に花束を渡すと、そのまま動かずに客席を見渡すような少女だった。小学校では演劇部に入り、5年になると宝塚の卒業生が主宰するミュージカルの学校へ通ったが、子ども心にも自分に才能がないのはすぐにわかった。世界との親和性を疑う決定打は、3歳から始めたピアノだった。週に1度近所の先生のレッスンを受け、月に1度母の先生に習い、その上、母の「鬼のような」指導が毎日2時間。一瞬ピアニストを夢みたが、練習は地獄の苦しみだった。  大阪の実家で迎えてくれた尚子は明晰な話しぶりで、面立ちが娘によく似ていた。子どもの習い事に家族で入れ揚げるのが流行(はや)っていた頃で、娘をプロにしようとしたわけではないという。 「でも、私の子どもができないと思われるのはプライドが許さないものだから、すごく厳しく怒りました。その可哀想さはわかっています」  後悔を見せる母の横で、娘は「あれもいい経験やったよ」と、おとわのようなことを言う。 「あれほど報われないことはなかった。でも、おかげで大抵の苦労がそんなに苦労と思えないところがありますからね」  ピアノをやめたのは、中学2年の発表会のあと。ステージでショパンのソナタを弾いているときに突然、左手が動かなくなったのだ。舞台から降りて「ピアノやめる。勉強するわ」と告げると、母は「やめなさい」と言っただけだった。  だが、どこまでも世界は生きづらい。小5で引っ越した茨木市の中学が荒れに荒れていた。ヤンキーといかに付き合うかという死活問題がある上に、成績優秀でも反抗的な生徒を教師は目の敵にした。何度も学校から呼び出された母は形だけ謝り、娘を叱ることはなかった。学年主任から「授業中に寝るわ喋るわ、言うことはきかないわ。そのくせ当てたらちゃんと答えて憎たらしい。森下さんみたいな生徒大嫌い!」と電話がかかった夜も、「あの先生、アホや」と言い捨てただけ。 ■27歳でシナリオ学校へ、「平成夫婦茶碗」がヒット  こんなクソみたいな地元の高校に行くか。塾に通い、のめりこむように深夜まで勉強した。授業中に居眠りしながら100点をとり続けた生徒は、卒業式の日、「その性格直さないと後悔する。これ読みなさい」と学年主任から渡された三浦綾子の『塩狩峠』を焼却炉に投げ込んで、中学を出た。  選んだ高校は大阪のトップ校、大阪教育大学附属池田。尚子曰く「くいだおれの人形のような服」を着て入学式に臨んだ森下は、家に帰るなり「しっかり目立ってきた! 本望や」と満足げなため息をついた。世界は微笑み出した? が、自由自律を校是とする高校は居心地がよすぎて、早々に成績競争から離脱。世はDCブランドブーム、服作りに夢中になる一方で、子どもの頃から好きだった少女漫画に耽溺する。萩尾望都、青池保子、木原敏江、吉田秋生らの作品をむさぼるように読みながら栗本薫の書くBL小説にハマり、「JUNE」に自作を投稿するほど夢中になった。 「その言葉はなかったけど、腐女子ですよね。ずっと創作物の世界はいいなと思っていました」  天才少女漫画家たちの思索と言葉を血肉とした森下は、やがて自らも創作の世界へ向かうのだが、1浪して入った東京大学では脚本家としての主軸を見つけている。宗教学のゼミ、名前も覚えていない先生の「古今東西人間の行動様式は変わらない。信じているものが違うだけ」という言葉だ。 「私とあなたの考えが違うのは信じているものが違うだけで、どちらが悪いわけでもないんだってすごく納得した。『直虎』では、どの家も家が生き延びるための正義で動いている。敵味方イコール善悪ではないと、そこは留意して書きましたね」  といっても森下が、東大で勉強に励んだわけではない。むしろ勉強した記憶はない。時は小劇場ブーム、場所は野田秀樹を生んだ聖地・駒場となれば、彼女が目指す場所は決まっていた。  入学してすぐ演劇サークルに入って役者をやってみたものの、華のなさはどうしようもないと痛感。作・演出をやるために3年のときに仲間とプロデュース集団「パンパラパラリーニ」を立ち上げた。仲間にして親友の長谷井涼子は、森下はいつもとっちらかっていた、と苦笑した。 「粗削りでしたが脚本のセンスは最初からありました。難しい言葉を使わずに、人の心に残る台詞を紡ぐことができた。それは今も変わらない」 「アホみたいに楽しい日々」にも卒業という終わりはやってくる。長谷井に言わせれば、森下はリアリストにして東大女子。貧乏してまで演劇という夢を追いかけることはなく、茶色のスーツを買い、とりあえず有名なテレビ局と出版社、広告会社を受けてはみたが、就職氷河期に突入して全滅。社会から拒絶される不幸を全身で味わっているときに、リクルートへの就職が決まった。 「住宅情報」の編集部に配属された森下には、さまざまな伝説が残っている。「あなたのお部屋でヘアヌード」という企画を出した。「やめてやる!」と自分の名刺を破り捨てた翌日に、「名刺作ってください」と庶務に頼んだ。キャミソール姿を注意され、「乳首が見えないからいいじゃないですか」とキレた。などなどだが、極めつきは入社1年で、芝居をやりたいからと「査定は最低でもいいので、年に1カ月休みをください」と申し入れたことだ。女性上司は拒絶した上で、その有能さを認めて「バイトになれば」と勧めた。  森下が正社員の座を手放せたのは結婚が決まっていたからでもある。入社した年の秋、芝居仲間の結婚式で3次会の費用3千円を借りたのが縁で3歳年上の俊と意気投合し、3日目に同棲を申し込んだ。銀行マンの彼は「職業柄難しい」と躊躇したものの、「じゃあ結婚して」と言うと「いいよ」。翌95年、同期の先頭を切って24歳で結婚。物心両面の安定を得た森下は、妻の野心を歓迎する俊に「やりたいことがあるなら勉強したほうがいい」と背中を押され、フリーのライターとなって27歳でシナリオ学校に通い始めるのである。  チャンスはすぐにやってきた。まだ勉強中にプロットライターの仕事が入り、そこで出会った脚本家・遊川和彦の企画プロデュースで脚本家デビューを果たすことになる。すでにヒットメーカーだった遊川は、28歳の森下を抜擢した理由をよく覚えていた。 「あの時は数人でコンペをやったんですが、一言で言えば生意気だったから。目茶苦茶なシーンを書いてくるかと思えば、美しいナレーションや台詞を書く。自信と不安がないまぜで、成り上がるぞという気迫に満ちていました」  遊川は、「観ている人のことを考えろ」と手取り足取り脚本の書き方を教えてくれた。激しく叱られ、手放しで褒められた。そうして書いた「平成夫婦茶碗」はヒットし、すぐに遊川との次の仕事が決まった。脚本家になれた森下は、編集者時代の経験が自分の強みだと気づく。締め切りを守るのは当たり前、自尊心をなだめて譲れるものは譲るという現実的な選択ができた。それは、ドラマ作りというチームワークには向いていた。  けれど、世界はまだ優しくはない。2年後、独り立ちして書いた脚本が散々な結果に終わると、仕事の発注はパタリと止まる。ちょうど香港に単身赴任していた俊が日本に帰国した時期。落ち込み、「下げチン!」と夫に八つ当たりした。 ■家族でご飯を食べながら、「ママのドラマ」を見る  起死回生の作品となったのが、2004年放送の「世界の中心で、愛をさけぶ」だった。会社に反対されながら石丸が強引に起用した森下の脚本はわかりやすく、台詞に強さがあった。この作品で森下は、書いた以上のものがそこに生まれるドラマ作りの醍醐味を味わい、以降、売れっ子の仲間入りをする。そして06年、石丸と組んだ2本目の「白夜行」を書き終えると、それまで怖くて作れなかった子どもを産もうと決める。 「私がやりたいと出した原作で、苦労しましたがものすごく達成感があった。中途半端なままで産んだら、きっと『あんたのおかげで』と子どもに当たってしまうと思ってたので、これで産めるなって。脚本家、やめるつもりでした」  もちろん、書ける脚本家を世間がほうっておくわけはない。「JIN」の完結編を執筆中、娘の薫を迎えに行った保育園で、園児たちがライバル番組「マルモのおきて」で人気のダンスを踊っていたのに激怒した、など森下らしいエピソードを折々に残しながら、良質のドラマを次々生んできた。  取材最後の日、自宅で俊に会った。彼は料理が苦にならないようで、食事の最後にデザートを用意するためにそっと席を外した。薫によれば「うちはママファースト。パパはママに怯えてる」。妻の才能を愛し、その成功をわが事のように喜び、森下の両親や友人に「よく見つけた」と絶賛される夫である。渡部篤郎によく似た俊は、言う。 「いえいえ、僕があのとき、3千円でベンチャーに投資したんです」  作品が放送される時期は、家族でご飯を食べながら「ママのドラマ」を見るのが習慣だ。「公開処刑のようなもんですよ~」と森下はテレるが、石丸は「あの家族はドラマの話ばかり。2人で散々飲んだあと、森下の家に行って夫と娘も交えてまたドラマの話をするんですよ」と呆れる。なんと恵まれた環境か。それでもまだ世界が微笑んでいるとは思えないのだ。ネットでたたかれると、「家族だけが認めてくれればいい」「薫さえ幸せなら後はどうでもいい」と口にしてしまう。何かあると、漫画とテレビを相手に閉じこもる。 「自分の存在を認めてもらいたいという気持ちは、人間どれだけ逃げても、どれだけ達観しようとも、どうしようもなく追いかけられてしまうもの」  なぜ生きづらいのか。自身にもわからない。ただ、それはこの時代を生きる女たちがどこかに抱える共通した感覚ではないか。だからこそ、森下佳子の言葉は届いていく。(文中敬称略) ■森下佳子 (もりした・よしこ) 1971年/1月、大阪府高槻市生まれ。2歳下に弟。父の方眼紙が転がり、母のピアノが2台あるような家だったが、「うちは貧乏だった」。ボロボロの車で河原にキャンプに行くのが、一家のレジャー。楽しみは漫画を読むことで、自分も描き、物語を作っていた。小学校から成績はほぼオール5。 81年/小5で茨木市へ。家が小さくなるなどいいことのない引っ越しは、父の恩師が校長になった小学校へ転校するため。横並びの教育を推進する高槻市よりもいいと、母も賛成。「子どもにしてやれることは教育を受けさせてやることだけ」と、両親の考えは一致していた。 86年/大阪教育大学附属池田高校に入学。同級生に、「向上心を絵に描いたような」丸川珠代。 90年/東京大学文学部入学。栗本薫が出た早稲田の一文に進学したかったが、「金がない」と父に懇願され断念。芝居に明け暮れ、オフィーリアを演じたことも。仲間と立ち上げた「パンパラパラリーニ」の旗揚げ公演は、シェアハウスで暮らす5人の女性の物語。 94年/リクルート入社。超多忙な編集の仕事は、性に合った。「あそこは私を真人間にしてくれました」。9月の連休に俊と出会い、その日から3日飲み続けてプロポーズ。 95年/6月に結婚。その後、2本芝居をつくり、俊も出演した。 98年/フリーになって、「シナリオ・センター」に通い始める。習作をボンボン出して褒められる。 2000年/遊川和彦の指導のもと、1月から放送の「平成夫婦茶碗」で脚本家デビュー。第1話の視聴率22.2%を「ゾロ目だ」と喜んだ。 01年/「お前の諭吉が泣いている」、映画「プラトニック・セックス」。 02年/独り立ちして書いた「東京庭付き一戸建て」の数字がとれず、フリーライターに戻る。 04年/「金スマ」のミニドラマを書いているときに声がかかったのが、「世界の中心で、愛をさけぶ」。「やれることは全部やろう」と覚悟して書いたドラマは当たった。 06年/東野圭吾原作「白夜行」を書き終えて、長女薫を出産。 09年/村上もとか原作「JIN-仁-」 13年/重松清原作「とんび」。朝ドラの「ごちそうさん」は、大和和紀の『はいからさんが通る』へのオマージュ。 15年/「天皇の料理番」 16年/カズオ・イシグロ原作「わたしを離さないで」 17年/「おんな城主 直虎」、映画「花戦さ」 18年/「義母と娘のブルース」 ■島崎今日子 1954年、京都市出身。ジェンダーをテーマに、人物・時代・メディアなど幅広いジャンルで取材・執筆活動を続ける。著書に『安井かずみがいた時代』など。最近刊は『森瑤子の帽子』。 ※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。
AERA 2019/11/07 18:00
「日本の校則はなぜ厳しいのか」19歳の問いに鴻上尚史が明かした高校時代の闘争
鴻上尚史 鴻上尚史
「日本の校則はなぜ厳しいのか」19歳の問いに鴻上尚史が明かした高校時代の闘争
作家・演出家の鴻上尚史氏が、あなたのお悩みにおこたえします! 夫婦、家族、職場、学校、恋愛、友人、親戚、社会人サークル、孤独……。皆さまのお悩みをぜひ、ご投稿ください(https://publications.asahi.com/kokami/)。採用された方には、本連載にて鴻上尚史氏が心底真剣に、そしてポジティブにおこたえします(撮影/写真部・小山幸佑) 写真は本文とは関係ありません(※イメージ写真/iStock)  鴻上尚史の人生相談。高校時代に校則改革をすべく生徒会長になった経験をもつ19歳の大学生。「学校の先生はなぜ校則に頑なか」と問う相談者に、鴻上尚史が語った自身の高校時代の校則との戦い。 【相談47】日本の校則が厳しいのはどうしてですか?(20歳 男性 ピック)  鴻上さんの校則についてのtwitterをみて、高校時代の古傷を思い出し、投稿しています。元・私立共学の生徒会長、現在は大学生です。  生徒会長の選挙時の公約は「マフラー禁止」「靴下と鞄の指定」「男子の長髪禁止」「女子の髪のリボンの黒、紺、茶指定」の撤廃で、そのときはけっこう盛り上がり、支持されて生徒会長になりました。  ・あたりまえですが防寒にマフラーは必要  ・「靴下と鞄」については、学校指定のメーカーは高額。それぞれ生徒が選んだほうが合理的(これは言いませんでしたが、学校がこれで利益を得るという私立のあるある話のようです)  ・男子の長髪の禁止、女子の髪のリボンを黒、紺、茶に指定している意味がわからない。好きな髪形、リボンの色を楽しみたいと訴えて、けっこう支持されて生徒会長になりました。  生徒会長に決まったとき、学年主任には、廊下で通りすがりに「やりすぎるなよ」と釘をさされました。でも、公約なので、行動しないわけにはいきません。  そこで、まずは、先生たちと生徒で校則についてのディスカッションの場を作りました。  先生側の言い分はだいたいが、  ・マフラーは、以前に引っ張り合って遊んでいた生徒が気分を悪くしたという問題があった  ・靴下も鞄も学校の制服と同じこと  ・女子のリボンの色は制限を設けないと風紀が乱れる。男子の長髪は清潔感がなく、高校生に似合わない  話し合いは並行線で、副会長が「それならばリボンは白だと風紀が乱れるのですか」と言ったら「線引きの問題だ。どっちにしても白なんてちらつくし、教える側の集中力もそぐ」などと理由にならない理由を返され、あと昔、すごく学校が荒れた時代があり(昭和のことらしいですけど)、近所にもこの学校の評判が悪い時期があり、校則を変えて生徒を指導して、いまのいい雰囲気が保たれ、いい学校(たぶん偏差値があがったという意味)になったのだそうです。  そして学年主任は「そういう校則だと理解して入学したのではないか」とも。  結局そのディスカッションは、僕が「学校は生徒が作り上げるものではないですか。必要なら校則も変更したいです」と返したところで時間切れになりました。  とりあえず、そのディスカッションははじめの一歩でしたが、発言したのは生徒会の人間ばかりで、参加した他の生徒は拍手はするけど自分から手を挙げて発言してくれる人は少なかったです。  そういった生徒側の中途半端な雰囲気があり、その後、いろいろ学校側の妨害工作とか紆余曲折あり、もめにもめ、結局僕らは戦いに敗れました。本当に情けなく苦い思い出で、高校時代のことは全部忘れたいとすら思いました。  でも、思うのです。そもそもなんで日本はこんなに校則が厳しいのでしょうか。当時アメリカにいた高校生のいとこに、僕の学校の話をしたらびっくりされ「リボンの色? 時々そういうの聞くけど本当なんだね、日本の高校、Crazy!」と言われました。いとこの高校の服装は、制服がないどころか服装も髪も自由。まあ、アメリカの高校と比較してもしょうもないですが。  鴻上さんが校則についてtwitterで書いているのをみて、びっくりしました。鴻上さんと同じくらいの昭和のうちの高校の先生と、なんでこんなに考えが違うんだろう。  そもそもが知りたいのですが、日本の高校の校則が厳しいのは、やっぱり昭和に学校が不良ばかりですごい荒れた時代があったからなんですか?  学校の先生たちの、あのかたくなな校則への執着が、今でも謎です。 【鴻上さんの答え】  ピックさん。少し、僕の高校時代の話を聞いて下さい。僕は、昭和の時代、公立高校の生徒会長をしていました。  立候補した時の公約は「校則の自由化」でした。  僕の時代も、ピックさんの高校とあまり変わってなくて、女子の「リボンの色」や男子の「髪は耳にかぶさらない」などの他に「女子のストッキングの色は黒」なんていう「どう考えても無意味としか思えない」校則がたくさんありました。  ピックさんと同じように廃止を訴えて、それなりの支持を得て、当選しました。すぐに、なくすために先生達に働きかけましたが、生徒指導の先生に「お前はこの高校を荒れた高校にしたいのか」ときつく抑えられました。  僕は、「無意味な校則を無くすことこそ、学校を健全にすること。無意味な校則を押しつけられることが、学校と教師に対する不信感を生み、生徒の心を無気力・無関心にしている」と感じていました。  僕は、先生達と話すだけではムダだと考えました。僕は愛媛県出身なのですが、「愛媛県全体の高校生徒会がまとまらないと力を発揮できない」と決意しました。  生徒会が集まり、情報を交換し、知恵を出し、共に戦うことでしか、この状況を打開する方法はないと考えたのです。  ただし、学校側はそんな集まりは絶対に許さないだろうと思いました。すべては、先生に知られないように秘密に進めなければいけないと考えたのです。  その当時、愛媛県には公立高校が52校、私立が11校ありました。僕は、友達を頼ったり、友達の友達を頼ったりしながら、各地の生徒会長と連絡を取り、土日を使って会いに行き、『愛媛県高校生徒会連合』を作らないかと提案しました。  愛媛県は、東西に細長く広がり、東予、中予、南予と三つの地域に分かれています。僕の住む新居浜市は、東予にありました。松山市がある中予と八幡浜市がある南予は、それぞれに電車で数時間かかる距離で、頻繁に会議をするのは、高校生の立場では不可能でした。  僕は、中予と南予の生徒会長を一人選び、それぞれの地域で『愛媛県高校生徒会連合』を進めてくれないかと熱く頼みました。  そして、自分達の東予地区18校の生徒会長と何度も会いました。  14校の生徒会長が賛同してくれて、『愛媛県高校生徒会連合 東予支部』を発足させました。  全員で学校に無届けで合宿し、14校が「各学校で校則がどれぐらい違うか?」を話し合いました。  僕の学校では黒色のストッキングが指定で、ベージュのストッキングは「華美である」という理由で禁止されていました。  隣町の高校では、ベージュが指定で、黒色は禁止でした。その理由を尋ねた生徒会長に、生徒指導の先生は「黒色は娼婦っぽいだろ」と答えたと教えてくれました。ということは、僕の高校の女子生徒は、みんな娼婦っぽいのかと、僕は怒りを通り越して笑いました。  東予地区14校の校則を比べるだけでも、いかに「校則に根拠がないか」がよく分かりました。  僕は、生徒会名義の学校新聞を配布して、他の高校との比較を載せました。データに基づいた反論ですから、校内ではかなりの反響が起こりました。その行動に先生達は怒り、締めつけはさらに厳しくなりました。  そのまま、どうにもならずに、任期は終わりました。公約だった校則がなんにも変わらなかったじゃないかと、僕は何人かに責められました。「お前は嘘つきだ」と。  僕は、『愛媛県高校生徒会連合』を作ったんだ、着々と力を付けているんだ、もう少ししたらなんとかなると思うと言いたかったのですが、発表してしまうと、学校側は間違いなくつぶしにかかると考えて、黙っていました。  そして、高三の冬、何人かで協力して、東予地区14校の校則をまとめ、比較した本を『愛媛県高校生徒会連合東予支部』名義で300部ほど作りました。  記録として『愛媛県高校生徒会連合』の二期目のメンバー達に残そうとしたのです。  僕の高校では、僕が頼んだ後輩が立候補して、生徒会長に当選していました。彼は、『愛媛県高校生徒会連合』を引き継ぎ、発展させると約束してくれていました。  卒業式の日、突然、生徒指導の先生に呼ばれました。そして、「鴻上は、生徒会連合って知ってるのか?」と聞かれました。僕は全然、知りませんと答えました。すると、「××高校の生徒会長が、『生徒会連合』の会合に出ていいかと生徒会顧問の教師に聞いてきたんだ。どうやら、『生徒会連合』なるものがあるみたいじゃないか」とさらに聞かれました。僕は「全然、知りませんねえ」と答えました。生徒指導の先生は、「大人が平気で嘘をつくから、若者も嘘をつくようになったのかねえ」と僕をじっと見ました。  ロッキード事件という世界的な汚職事件が社会問題になり、「いっさい、記憶にございません」という言葉が流行語になった時期でした。  それからはあっと言う間で、各高校で「絶対に『生徒会連合』に関わってはならない」という厳しい指導がされて、一年弱で、『愛媛県高校生徒会連合』は無くなりました。  その時、作った本は結局、どこにも配れないまま、今でも、ある高校の生徒会の書記だった女性の家にあります。  さて、ピックさん。長い話をしてしまいました。  僕はこの時から今まで、ずっと無意味としか思えない厳しい校則に対して怒っています。  日本の校則に根拠はないのです。リボンが「白なんてちらつくし、教える側の集中力もそぐ」なんて言葉は、正気の大人が言う言葉ではありません。  もし、民間の会社で「女子社員のリボンの白は、ちらつくし、集中力をそぐ」と発言した上司がいたら、「疲れているんだね。休んだ方がいいよ」と心配されるでしょう。  アメリカにも、もちろん校則というかルールはあります。でも、それは「銃、ナイフは学校に持ち込んではいけない」とか「下着姿で学校に来てはいけない」というものです。銃やナイフを持ち込むとケガ人や死人が出る可能性があるし、下着姿で教室にいると、あきらかに男子生徒は困ります。ちゃんと根拠があるのです。  でも、リボンの色が白になっても誰も困りません。なのに、先生達は「かたくなな校則への執着」を見せるのです。ピックさんが疑問に思うのももっともです。 「やっぱり昭和に学校が不良ばかりですごい荒れた時代があったからなんですか?」とピックさんは聞きますが、違います。 「生徒指導困難校」とか「教育困難校」と呼ばれたりしますが、こういった高校は昭和の時代も令和の時代もあり、全体から見ると少数派、一部です。  けれど、無意味に厳密な(場合によっては、「ブラック校則」と呼ばれる)校則は、日本の高校、ほとんどすべての高校にあります。厳しい校則が荒れた結果なら、日本のほとんどすべての高校に荒れた過去があることになります。そんなバカな、です。  一般的に偏差値の高い高校ほど、校則が自由になる傾向があります(もちろん、例外もありますが)。  そして、荒れている高校は厳しく指導されます。僕が問題にするのは、特別荒れてもいない、平均レベルの高校でも、無意味な校則が多いということなのです。  そして、無意味な校則は、「高校生らしい」「中学生らしい」という、じつに何の根拠もない言葉で「思考停止」を強制します。  少し前、ツーブロックという髪形が「高校生らしくない」という理由で禁止だと報道されていました。すぐに、「ホテル業界では、ツーブロックは清潔感ある髪形とされています」とか「『サザエさん』に出てくる中島君はツーブロックだぞ」とか(笑)、いろんな反応が出ていました。  僕が危惧するのは、比較的真面目で優秀な生徒こそが「高校生らしくない」という根拠のない言葉で、「思考することをやめる」習慣に染まることなのです。  真面目な生徒は、根拠のないことを几帳面に受け入れるのです。そして、思考しても答えがないと予感するから、思考することをやめるのです。  もし、中年の先生が「ツーブロックは私の高校時代にはなかった。私の高校時代になかったものは、すべて、許せない」と言うのなら、その正しさは別として議論ができます。 「先生の高校時代になかったものは、なぜダメなのか?」と、思考を続けることができるのです。 「なぜ?」という疑問を追及することが「思考すること」の原点です。たくさんの「なぜ?」を考え、それをひとつひとつ、自分で解決していくことが教育だとも言えます。  でも、「ツーブロックは高校生らしくない」という断定は、議論をするきっかけがありません。なんの論理もないので、思考を停止するしかないのです。  今の子供達は、中学生の時から、「なぜ?」という疑問を追及することではなく、「そういうものだ」という思考停止を受け入れることが日常になっていると僕は思っています。  そして、(説明が長くなってしまうのでいきなり論理が飛んだと感じるでしょうが)ソニーとか任天堂とか、かつて、グローバル企業を生んだ日本ビジネス界が、現在、まったく創造的な世界的カンパニーを生み出せていないのは、優秀な生徒ほど、子供の頃から「思考停止」を受け入れてきたからだと僕は思っているのです。  さて、ピックさんの疑問です。なぜ、学校の先生達は、「かたくなな校則への執着」を続けるのでしょうか?  僕の考えは、学校というのは、日本に数少なく残っている強力な「世間」だから、ということです。  この連載で、何度か日本特有の「世間」について説明しました。  自分と関係のある人達で作っている集団が「世間」です。無関係な人達を「社会」と呼びます(詳しくは、ニュースサイト「AERA dot.(アエラドット)」に掲載されている【相談2】「帰国子女の娘がクラスで浮いた存在に… 鴻上尚史が答えた戦略とは?」、【相談4】「鬱の妹を隠そうとする田舎の家族… 鴻上尚史が訴える30年後の悲劇」を読んで下さい)。 「世間」の特徴は、「所与性」と言われるものです。これは、「今のままでいい。大した問題が起きてないのだから、わざわざ変える必要はない。昔からある、与えられたシステムを続けよう」という考え方です。  長い時間、日本の「世間」は変わらないまま、あり続けることができました。変えることより、今までのやり方を続けた方がうまくいく、と思われてきました。事実、昭和の真ん中ぐらいまでは、それでなんとかやってきました。  わざわざ、別なやり方をやることは、失敗の可能性の方が大きいと思われたのです。  けれど、今までのやり方では、はっきりと通用しない時代がやってきました。価値観が多様化し、グローバル化が変化を加速しました。  気付いた企業は、試行錯誤を続けながら、生まれ変わろうとしました。けれど、「今までのやり方でいいじゃないか」と思ってしまった企業は、どんどんと傾き始めました。まさかと思われるような大企業が倒産したり、合併したりしています。  学校は完全に取り残されました。世の中がどう変わろうと、「今までのやり方でいいじゃないか」と思っています。そんなことはない、日々、努力していると反論する人もいるでしょうが、今までの枠組みの中での努力です。枠組みの根本的な問い返しをしている人は本当に少数派です。  と書くと、「お前は学校の何を知っているんだ?」と突っ込まれます。  ですから、学校の当事者が書いた一冊の本を紹介します。 『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(千代田区立麹町中学校長 工藤勇一著 時事通信社)です。  工藤さんは、さまざまな学校の当り前をやめました。 「服装頭髪指導を行わない」はもちろんのこと「宿題を出さない」「中間・期末テストの全廃」「固定担任制の廃止」などです。  驚くと思いますが、全部にちゃんと理由があります。そして、麹町中学校の生徒達の成績は下がるどころか、上がっています。  工藤さんは学校では「手段が目的化」してしまっていることが一番の問題だと指摘します。  なんのために「服装指導しているのか?」という「目的」がよく考えられないまま、服装指導という「手段」が目的化している。学習指導要領や教科書という「手段」でしかないものが、絶対的基準の「目的」となって、消化してこなす対象になってしまっている。  そもそも学校の「目的」とはなんなのか?と、工藤さんは問いかけます。  それは「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことではないのか。そのために考えられたいろいろな「手段」なのに、それを厳密に実行することが「目的」になっていないか。  1ページ1ページ、本当に発見と感動がある文章で、僕は思わず涙ぐんでしまいました。僕が中学の時、この文章に出会っていたら、どれほどムダな怒りと痛みを避けられたことか。  多くの人にぜひ、読んで欲しいのですが、工藤さんの書く「手段が目的化」している状態というのは、じつは、「所与性」の大きな特徴です。 「今までのやり方でいいじゃないか」と思って倒産した大企業は、利益を追求するという「目的」ではなく、今までのやり方という「手段」を一番の「目的」としたのです。「目的」ではなく「手段」を一番に考えるのは、「とにかく今までのやり方を続けよう」と思う「所与性」です。 「クラスのまとまりを大切にしよう」とか「絆」「団結」なんて「目標」が、学校では盛んに語られます。  けれど、これらは、「何かをするため」の「手段」です。「何かをする」ためにまとまり、団結するのです。ですが、何をするかという「目的」は語られず、ただ、まとまろうという「手段」が声高に語られ、「目的」にされるのです。  工藤さんは書きます。 「『みんな仲良くしなさい』という言葉があります。この言葉によって、コミュニケーションが苦手な特性を持った子どもたちは苦しい思いをしているのではないでしょうか。よかれと思って、多くの教師が使っている言葉で、結果として、子どもが排除されることになってはいけません。『人は仲良くすることが難しい』ということを伝えていくことの方が大切だと私は考えています」  これが、教育評論家ではなく、民間人校長でもなく、教育界プロパーで育った、現場の中学の校長先生の言葉であることに僕は心底、感動します。  工藤さんは「手段の目的化」以外に、もうひとつ、「より上位の目的」を忘れてしまうことが問題だと書きます。  買い食いをした生徒を厳しく叱っている先生に対して、「どうでもよいことと、どうでもよくないことを、分けて叱りませんか」と提案します。  より上位の目的、最上位目標は何か?と常に問いかけることは、「所与性」の対極に位置します。  ワークショップをしていると、参加者がいつのまにか床に「体育座り」をしている風景をよく見ます。足を折り曲げて、手を足の前側で抱えるように組んで座る「体育座り」は、小学校低学年から指導されます。大人になっても無意識にやっている姿を見ると、本当に日本人の身体に染み込んでいるんだなと感じます。  でも、この座り方は、曲げた太股が下腹部を圧迫し横隔膜を下がりにくくするので、呼吸が浅くなり、身体に良い影響は与えないのです。特に、運動する前、深く呼吸して気持ちを落ち着け、身体に酸素を行き渡らせるという大切な目的に対して正反対の座り方で、運動する時には最も不適切な座り方なのです。  けれど、ずっと「体育座り」の指導は続いています。  どうしてでしょうか? それは、「体育座り」の目的が「子供達を秩序よく座らせる」ということだからです。足を閉じて手を前で組むことで、手遊びを防止し、ヨロヨロウロウロする余計な動きを防ぐことが目的です。  体育という教科の一番大切なことは、「秩序を作ること」でしょうか? 僕は、体育の最上位の目的は「子供達を健康にすること」だと思います。 「所与性」は「何が一番大切か?」と問いかけません。今あるシステムを続けることが目的ですから、「何がより上位の目的か?」と問いかける必要がないのです。  もちろん、常に「より上位の目的は何か?」と問い続けることは、タフな精神とエネルギーを必要とします。でも、それが結局、よりよい結果を生むのです。  工藤さんは書きます。 「校長が覚悟を持って、自らの学校が置かれた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができれば」学校は変われると。「覚悟」という言葉が素敵です。  ピックさん。  長い文章になりました。「校則」の問題は、言いたいことがたくさんあるのでヒートアップしてしまうのです。でも、同時に、こんなに長く長く書いたのは、あなたの戦いは無駄ではなかったと言いたいからです。  僕は、ずっと高校時代の自分の戦いが自分を支えていると感じています。『愛媛県高校生徒会連合』は、政治党派や宗教団体、あらゆる組織と一切関係なく、純粋に「無意味な校則に怒った生徒達」が集まりました。一年弱で潰されましたが、その時の怒りは本物で貴重だと思っています。  大きな目で見れば、世界は、じつは「個人の自由・権利」がより守られ、拡大する方向に動いています。そんなバカな?と思うかもしれませんが、LGBTQ+への理解や、反ヘイトの潮流、同性婚の拡大など、世界的規模で見れば、「個人を尊重する」方向に時代は動いています。私達は、希望の時代を生きているのです。  もちろん、世界的視点ですから、地域によっては、逆行している人達もいます。生まれつき茶色の髪を染めろと女子生徒に命令した大阪の高校は、生徒の代理人弁護士に「たとえ金髪の外国人留学生でも規則で黒く染めさせる」と豪語しました。本当に実行して、世界的な問題になればいいなと僕は本気で思いました。  ピックさん。「本当に情けなく苦い思い出で、高校時代のことは全部忘れたいとすら思いました」なんて思わないで下さい。あなたの体験は、きっと将来、役に立ちます。「所与性」に安住した大人達と戦ったこと。「手段」を「目的」にしないこと。「より上位の目的」は何か?と常に考えること。そんなヒントをくれたのです。  とても素敵なことだと思います。高校時代の戦いを胸に、どうか素敵な人生を歩まれることを祈ります。 【書籍『鴻上尚史のほがらか人生相談』発売のお知らせ】 『鴻上尚史のほがらか人生相談』をご愛読くださり、ありがとうございます。たくさんの皆さまから本連載への反響の声、ご要望をいただき、このたび『鴻上尚史のほがらか人生相談』を書籍化しました。★Amazonで発売中!
鴻上尚史
dot. 2019/11/05 16:00
“水泳ニッポンを築いた男”「いだてん」主人公・田畑政治の突破力
“水泳ニッポンを築いた男”「いだてん」主人公・田畑政治の突破力
[左]青木剛(あおき・つよし)/1947年生まれ。日本水連会長。早大卒業後、東京SCで選手指導にあたる。2000年シドニー、アテネ両五輪水泳監督。元JOC専務理事。15年から現職。[右]中村礼子(なかむら・れいこ) 1982年生まれ。北京五輪女子200メートル背泳ぎで出した2分7秒13は今も日本記録。東京SCに所属し、講演活動などをしている。(c)朝日新聞社 49年の日本選手権で昭和天皇に選手を紹介する田畑政治(手前左)(c)朝日新聞社 国立競技場を訪れた田畑政治=田畑家提供(c)朝日新聞社 「水泳ニッポン」の礎を築いた田畑政治(まさじ)が主人公のNHK大河ドラマ「いだてん」は、1964年東京五輪の招致に向けて山場を迎える。日本水泳連盟の青木剛会長、競泳女子200メートル背泳ぎで五輪2大会連続銅メダルの中村礼子さんを招いたトークショー「水泳ニッポンを築いた男 田畑政治」(朝日新聞社主催、浜松市共催)を誌上再現する。コーディネーターは早稲田大学水泳部出身で本誌編集長代理の堀井正明。 *  *  * ──青木さんは、東京スイミングセンター(SC)で田畑さんと一緒に仕事をされていました。 青木:大学を卒業してすぐ東京SCへ入りました。69年、設立の翌年です。東京SCは64年東京五輪で結果を出せなかった日本水泳の再建のために、田畑さんが働きかけてできたと考えていいと思います。東京SC会長の田畑さんの下で、指導者として選手育成に努めました。田畑さんは、とにかく早口でした。私が半分くらいしか理解できなくて、先輩におしかりを受けたことがあります。「ところで先輩はどのくらいわかりますか」と聞いたら、「俺も7割ぐらいだ」と(笑)。当時すでに70歳を超えていましたが、非常にエネルギッシュで、「いだてん」に出てくる若い頃のイメージは、まだ残っていました。 ──中村さんは世代が違うわけですが、田畑さんのことはご存じでしたか。 中村:2004年アテネ五輪の前年から東京SCにお世話になりました。東京SCでは11月に招待記録会という大会があって、最優秀選手に贈られるのが田畑杯なんです。「いだてん」のドラマを見て、田畑さんの業績がわかってきました。東京SC相談役の岩井孝雄さんにお聞きしたら、水泳に対して純粋で熱い思いをお持ちだったと。プールは明るいほうがいいという田畑さんの意向を受けて、東京SCのプールは設計されたそうです。施設にも田畑さんの思いが込められているのだな、と実感しました。 ──田畑さんは1898(明治31)年に浜松市の造り酒屋に生まれました。現在の東京大学を卒業し、朝日新聞社に入社して政治記者になります。休みのたびに浜松に帰り、水泳指導にあたっていたようです。 青木:浜松は昔から本当に水泳が盛んなところで、遠泳もよく行われていました。田畑さんをはじめとする多くの水泳の指導者が輩出して、選手では32年ロサンゼルス五輪男子100メートル自由形金メダルの宮崎康二さん、戦後に男子自由形で世界記録を連発した古橋広之進さんらが生まれたところでもあります。 ──田畑さんの水泳の業績について三つの柱を考えました。戦前の栄光の時期、戦後の復興期、64年東京五輪惨敗からの立て直しの時期です。田畑さんが水泳総監督として参加した32年ロサンゼルス五輪は男子6種目中5種目で金メダルを取ります。戦前の日本の水泳は、どうしてこんなに強かったのでしょう。 青木:日本が最初に五輪の水泳に出場したのは、ロサンゼルス大会の12年前、20年のアントワープ大会です。2人の選手が出て、日本泳法で泳いで歯が立たず、途中から見よう見まねでクロールを泳いだそうですが、予選落ちしてしまった。それから、12年間で世界一になるわけです。田畑さんをはじめ、当時の人のものすごい研究がこの結果を生んだのです。私はそのベースに日本泳法があったと思っています。 ──クロールなどの近代泳法が伝わる前に盛んだった日本古来の泳法ですね。 青木:日本泳法は形を競い、近代泳法は速さを競います。日本泳法は400年も続いていて、日本人は水の中で泳ぐ形を習得する訓練ができあがっていたわけです。その形を速く泳ぐ形に切り替えた。従って、12年間という短期間で世界一になれたのではなかろうか、と考えています。 ──田畑さんは日本泳法の達人だったそうですね。 青木:当時の人たちは日本泳法を身につけた上で近代泳法に切り替えていました。その先頭に立っていたのが、たぶん田畑さんだったと思います。 ──田畑さんが戦前のロサンゼルス五輪の世界一を目指して立てた四つの戦術があります。(1)組織の一本化(2)専用プールを造る(3)信頼できる監督を早く決めて全面的に責任を与える(4)当時世界一の米国チームを日本に呼んで地の利を生かして負かす──。これは日本水連に受け継がれているような気がします。 青木:組織の一本化については田畑さんの功績が非常に大きいと思います。各地にあった協会や連盟、力を持っていた日本学生連盟などをまとめました。後の古橋会長も受け継いで、初心者から頂点まで一貫して選手養成ができるシステムができあがっています。 ──専用プールについては、いかがでしょう。 青木:30年に神宮プール(明治神宮水泳場)ができました。今はもうないのですが、このプールを造るときも田畑さんが各方面に働きかけています。戦後の古橋さん、橋爪四郎さんの活躍も、このプールがあったからこそです。 ──戦前の日本の水泳の栄光は長くは続きません。戦争で選手強化もままならない時期が続きます。戦後の48年ロンドン五輪に敗戦国の日本は出場できませんでした。それでも、田畑さんはめげません。五輪と同時期に神宮プールで日本選手権を開きます。古橋さんはこの大会の1500メートル自由形で世界新記録(国際水泳連盟未加盟だったため未公認)で泳ぎ、ロンドン五輪の優勝記録を40秒以上も上回りました。 青木:古橋さんがロンドン五輪に出ていれば金メダルだったと思います。 ──敗戦直後の日本に大きな元気を与えてくれた大会だと言われています。 青木:古橋さんには五輪の金メダルはありませんが、スポーツを超えた社会の英雄に、この時点でなったと私は思うんです。非常に厳しい時代の中で、明るい光をともしてくれた。翌49年の全米選手権に古橋さんとともに出場した橋爪さんが話してくれたのですが、当時は反日感情が強くて、ジャップという言われ方をしていたらしいです。古橋さんが全米選手権でも驚異的な世界記録を出したことで「フジヤマのトビウオ」と現地のメディアが名付け、そのときに初めて、ジャパンになった。「ジャップからジャパンにしたのは古橋だ」と。 ──ロンドン五輪にぶつけた日本選手権や全米選手権への派遣をプロデュースしたのが、当時日本水連会長だった田畑さんです。田畑さんは朝日新聞社で49年に常務取締役、52年に退社して64年の五輪招致に尽力します。しかし、東京五輪で日本の競泳は男子800メートルリレーの銅メダル一つに終わります。敗因はどこにあったのでしょう。 青木:64年の東京五輪は、我々水泳関係者にとって苦い思い出です。このときに活躍したのが米国選手です。米国はその10年前から、小学校の低学年から年間を通して泳ぐ、いわゆるエイジグループシステムに取り組んでいました。日本もそれに気付いて、東京五輪以降、スイミングクラブという形で低年齢から年間を通して泳ぐシステムを作る方向に進んでいきます。日本水泳の再建をかけてつくった東京SCで田畑さんが陣頭指揮を執って会長をされて、そこでまた大きな力を発揮するわけです。 ──田畑さんは84年、85歳でお亡くなりになりました。その20年後の04年アテネ五輪で、初めて東京SCから金メダリストが誕生します。男子平泳ぎの北島康介さんです。中村さんも同じ平井伯昌コーチの指導を受けて、アテネ、08年北京両五輪の女子200メートル背泳ぎで銅メダルに輝きます。日本競泳女子で2大会連続メダルは、平泳ぎの前畑秀子さん以来、72年ぶりでした。平井コーチの練習には、どういう特徴があるのでしょう。 中村:たくさん泳ぐというよりも、内容が濃くて、練習の中で本番のレースを意識したメニューがあります。ただ練習を頑張るというのではなく、試合のために頑張るという意識を選手に持たせる内容です。当たり前のようですが、私の場合、できていなかったところがありました。平井コーチは五輪のメダリストを出すんだという気持ちが強くて、常日頃から、それを感じながら練習していました。「いだてん」の田畑さんが世界を狙う熱い姿は、平井コーチと似ていると思います。 ──田畑さんと平井コーチに共通点があると? 中村:私には一緒にしか見えません。「いだてん」の田畑さんと同じように、平井コーチも五輪にかける熱い思いがあります。アテネ五輪で北島さんが金メダルを取ったとき、「俺は、ここを最高の日にはしないんだ」と話していました。だからこそ、今も日本代表のヘッドコーチをされていると思います。決して現状に満足はしない、上をどんどん目指していくという部分が、田畑さんとすごく似ているなあと思います。 青木:田畑さんが東京SCをつくらなかった場合、おそらく北島さんが金メダルを取るのは無理だったでしょう。平井コーチも北島さんと出会って、結果を出すことによってコーチとして大きな財産を得た。すべては田畑さんにつながっていると思います。田畑さんが全部をつなげているという印象を持っています。 ──最後に来年の東京五輪への思いを、お二人にお聞きしたいと思います。 中村:勝負は始まっています。どの選手も今までやってきたものを東京五輪にぶつけようと、すごいプレッシャーの中で頑張って練習しています。田畑さんの思いと一緒に日本チームを一生懸命応援したいと思います。 青木:水泳界としては「センターポールに日の丸を」というのをスローガンに掲げています。この目標に向けて全力で取り組んでいきます。水泳連盟の目標はもう一つ、普及です。普及と強化は別物ではありません。国民皆泳を目指す普及をベースに泳ぐ人を増やし、そのことが選手の底辺を広げ、頂点につながっていく。こういったことが促進できる東京五輪にしたいと考えています。 (構成/朝日新聞・金谷智美、本誌・堀井正明) ※週刊朝日  2019年11月8日号
2020東京五輪
週刊朝日 2019/11/03 17:00
しいたけ.さんが考える、今の時代に「自分の中にいろんな性別を持つ」ことの意味
しいたけ. しいたけ.
しいたけ.さんが考える、今の時代に「自分の中にいろんな性別を持つ」ことの意味
しいたけ./占師、作家。早稲田大学大学院政治学研究科修了。哲学を研究しながら、占いを学問として勉強。「VOGUE GIRL」での連載「WEEKLY! しいたけ占い」でも人気 ※写真はイメージ(gettyimages)  AERAの連載「午後3時のしいたけ.相談室」では、話題の占師であり作家のしいたけ.さんが読者からの相談に回答。しいたけ.さんの独特な語り口でアドバイスをお届けします。 *  *  * Q:自分の心の性別がわからず恋愛ができません。男女どちらか、がはっきりせず服も言葉も一人称も中性的なものがしっくりきます。恋愛や結婚をしたくないのではなく、身体は女性なので、男性と結婚するのだろうと考えながら、自分の中身の性別を明かせるほど親しくなるまで、女性として振る舞うのがつらいです。(女性/営業事務/28歳/おうし座) A:ご相談ありがとうございます。メールを読んで、いちばん最初にお伝えしたいなと思ったのは、今の時代って自分の中にいろんな性別を持っていてもいいんじゃないか、ということです。これ、すごく大事なことだと思うんです。  例えば僕は普段、男性として生きています。でも占いをするときって、どちらかというと女性になっているんです。おばちゃんみたいな感じ。男性として占いはできない。男性だったら、もっとこうしたほうがいいとか、相手に余計なアドバイスを伝えたがると思うんですね。おばちゃんになってるから「あー、そうなんだ、大変だったね」って聞くモードになれるんです。  もちろん完全に女性の気持ちがわかるかというとそうではないけれど、自分の中の男性モード・女性モードを行き来できるのは、ものすごくおもしろいんですよね。これがもし、男性性だけ、いわゆる「男らしく、ロジカルに、目的意識を持って」みたいなものだけで生きていると、女性の悩み事を聞くのは苦痛かもしれない。でもおばちゃんになれると、女子会みたいなノリを楽しめるし、そういうバリエーションを持っているほうが、生きてておもしろい。  だから生まれもった性に留まりすぎる必要は、今の時代にあんまりないと思うんです。もちろん社会的な問題とか宗教の問題はあって、それはこれから少しずつ変えていかないといけないところ。  28歳だと、恋愛しなきゃ、結婚しなきゃっていうプレッシャーもあるかもしれません。  性の問題ってすごくデリケートです。女性として生まれたら男性と恋愛関係にならなきゃいけない風潮が今のところはあるわけですが、女性は男性から性の対象にされることにすごく恐怖を感じることもあると思います。  もちろん価値観はいろいろだから、何言ってんの、って軽く流す人もいると思うんですよ。でも、あなたは女性の性別として生まれてきたけど、自分の中に男性性も、女性的なものも持っている。自分なりに一つひとつ向き合っていってみてください。  僕の友達でもLGBTの人たちがいます。外見は男性でも女性的観点を持っていて、男同士なら気づかない部分を、きめ細かく気づいてくれる。美意識にもこだわりがある。  漫画家や小説家の人たちも性別や年齢をたくさん持っていますよね。いろんな登場人物がいて、男の人にも、小さい女の子にも、おばあちゃんにもなれる。そういう人と一緒にいると、僕はとても刺激されるし、安らぎます。 ※AERA 2019年11月4日号
しいたけ.
AERA 2019/11/03 11:30
ゼネコンを定年後、1万冊をそろえる古本屋を開店した69歳男性の現在
ゼネコンを定年後、1万冊をそろえる古本屋を開店した69歳男性の現在
BGMにボブ・ディランがかかる「モンガ堂」にて、富永正一さん (撮影/写真部・小黒冴夏)  定年後、関連会社等に希望したポストを得られるのは一握り。「再雇用で、元部下に使われるのはイヤ」「会社は“卒業”したい」といった声もよく聞く。かといって、現役時代の社内階級など“売り”にならない。今さら他の業界のことなど分からないし……と悩むことなかれ。何歳からでもスタートは切れる。 * * *  東京都杉並区の古本屋「モンガ堂」。古今東西の小説、エッセー、ミステリー、思想など約1万冊がびっしりの10坪の店内で、入店客に「いらっしゃいませ」とおっとりと声をかける店主の富永正一さん(69)が、定年までゼネコンに勤めていたとは意外だ。なぜ古本屋に? 「10年前に、岡崎武志さんにだまされちゃったんですよ(笑)」  岡崎さんは、『女子の古本屋』『人生散歩術 こんなガンバラナイ生き方もある』などの著作のある作家。杉並区内で「西荻ブックマーク」という本に関係するトークイベントが不定期開催されていて、当時大学生だった長女が何度か聞きに行っていた。週末に単身赴任先の千葉から戻って家でごろんとしていた富永さんに「お父さんも暇なら行ってみたら」と何げなく勧められたのが、岡崎さんが話す回だった。 「内容? たぶん古本の面白さを話されたのだと思いますが、忘れちゃった。何にせよ、岡崎さんのトークを聞いて“古本病”にかかってしまったんです」  ずっと勤め人だった身に、古本屋が「自由」の砦のようにも思えたという。  ゼネコンでは建築物件の見積もりや現場監督の統括を担当し、多忙続きだったため、定年後については「ノープラン」だった。何しろ理系。「古本屋に行ったこともなかった」のに、岡崎さんとの出会いを機に、夏目漱石の小説を読み始め、ハマった。「漱石と同じ時代を共有した作家は?」と調べ出したら面白く、古本屋を回って近代文芸の作家の本を次々と購入。  単身赴任が終わり、期間中に買った家財道具を保管しておこうと借りたトランクルームが本で埋まっていく。本好きの若い仲間たちとも知り合い、古本屋開業の夢が大きく膨らむまで時間はかからなかった。 「妻は『バカじゃない?』と大反対しましたが、『手伝わなくていいなら』と折れてくれ、退職金の多くを開業資金にあてました」  他店に勤めて修業するという一般的な古本屋開業のステップを踏まなかった。行きつけの古本屋の主に多少のアドバイスをもらっただけで、やみくも的に開業にこぎつけたのが定年の2年後、62歳の時だ。 「古本は捨てられるより、次の読み手に届ける方がいい。自分の居場所が、社会に少し貢献できる場になればなあ、という気持ちもありました」  と、富永さんは訥々と振り返る。以来7年。赤字になる月もあり、経営は楽でない。だが、業界の組合団体には属さず、主に客からの買い取りで古本を仕入れて売る。身の丈を超えない運営をおおらかに続けている。「この図録、少部数しか出ていないので、高くても欲しい人がいるんですよ」  そう言って、棚から現代美術作家の図録をひょいと取り出し、見せてくれたが、それは富永さん自身の興味が広がった分野だ。店内に設けた「貸し棚」は、以前の自分のような本屋開業に憧れる人たちに貸して応援する棚だ。「お金は要らないです、どうぞ」と蔵書を持ってくる同世代の常連もいるそうだ。継続は力なり。この店が、常連さんの居場所にもなり得ているんですね──と言うと、富永さんは「いえいえ、まだまだです」と照れた。 (ノンフィクション・ライター 井上理津子) ※週刊朝日  2019年11月8日号
シニア仕事
週刊朝日 2019/11/03 08:00
<現代の肖像>村上絢 子どもと母親が生きやすい社会へ投資を
<現代の肖像>村上絢 子どもと母親が生きやすい社会へ投資を
投資家として市場の動きに目を凝らしながら、2児の母としてシンガポールを拠点に子育てに奮闘中/今祥雄撮影 1年のうち日本に帰るのは数回。今は仕事以外の時間は子育てをしているが、楽しくて仕方がない/今祥雄撮影  投資家であり、村上財団代表理事の村上絢さん。父は「村上ファンド」で名前を知られた村上世彰さんだ。普段はシンガポールで暮らし、子育てをしながら投資家としての仕事をこなす。同時に、ソーシャル・ビジネスへの支援も欠かさない。絢さんが社会貢献の道を選んだのは、ある悲しい出来事を経験したからだった。AERA 2019年11月11日号に掲載された「現代の肖像」から一部紹介する。  アジアの経済の雄・シンガポール。この国に生活の拠点を置く投資家・村上絢(31)の朝は早い。毎朝起床は6時。お弁当を作り、2人の子どもたちを幼稚園に送り出す。一息つけるのが7時。ここから部屋に移動してニュースやメールのチェックをする。絢が手がけるのは9割、日本株だ。時差の関係で、日本のマーケットが開く午前9時は、シンガポールの午前8時。そこからマーケットが開いている間、絢はパソコンの前を離れない。昼食もデリバリーで済ますことが多い。投資家の日常は意外と地味なのだ。 「全盛期の父は、企業の株を買って、買って、買いまくることをしなければ経営者に、健全な経営を促すことができない時代でした。けれども、今ではガバナンスの遵守は当たり前です。ただ、変わりたいけれども変わる手法が分からないというのが経営者の本音。変革したいけれども、自らの力では変革できない割安の会社を見つけて投資するのが私の流儀です」  この父というのが、かつて「村上ファンド」の名で日本社会を席巻した村上世彰(60)だ。大株主となった企業に対し厳しい態度で経営の変革を迫る「物言う株主」として恐れられた。しかし、2006年、世彰はインサイダー情報を元にニッポン放送株を買い増した証券取引法違反の罪で東京地検特捜部に逮捕、起訴される。そして11年、最高裁で懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が確定する。世彰は活動の拠点をシンガポールに移し、その後の動向はしばらく謎めいていた。現在は投資家から資金を預かり運用するファンドマネジャー業からは一切手を引き、個人投資家として活動している。  世彰は16年、社会貢献に特化した村上財団を創設し私財を投じた。絢はその理由をこう語る。 「父は投資をした先の企業が健全な経営をしているか、株主が企業を監視・監督する『コーポレートガバナンス』を提唱してきました。株主と経営者が建設的な緊張関係にあってこそ、健全な投資や企業の成長が担保でき、株主はリターンを得て社会に再投資できる。しかし、この日本の上場企業が抱える資金循環の問題が解決するだけでは、日本経済の持続的な成長は見込めない。企業の取り組みだけでなく、非営利活動法人やソーシャル・ビジネスへの支援を通じて、どんな立場の人にもセーフティーネットがあり、必要な支援を受けられ、安心して暮らしていける社会環境が必要だと実感したのだと思いますし、私もそう思います」  世彰は投資家の資質というのは「3割がDNA的に受け継ぐもので、7割は経験」と言い切る。そして、自分は、その3割を占めるDNA部分を父(絢の祖父)から受け継いだと語る。絢が幼い頃から、村上家では家族で食事に出かけると、最後に今日の食事代がいくらだったか当てるゲームをするのが習慣だった。食事の値段と、それに対する料理やサービスの質とを、常に頭の中で天秤にかけて考えるためだ。  絢が11歳の時。父が官僚を辞め独立。後に「村上ファンド」と呼ばれる投資会社を設立した。その後、自宅が「六本木ヒルズ」に隣接するマンションに変わるなど、今まで以上に裕福な生活環境になった。この時、絢はこの先、本当に大丈夫だろうかと不安を覚えたと回想する。官僚時代から父は働きづめで学校や勉強のことは母まかせ。それをいいことに絢は自由に、伸び伸びと育った。ただ、当時、通っていたカトリック系の女子校は規律が厳しく、思春期を迎えた絢には窮屈な場所だった。中学時代の同級生・堀越理沙があるエピソードを教えてくれた。 「エネルギーが有り余っていたんですね。やりたいことがたくさんあって、保守的で規則や伝統を重んじる先生を困らせていました。自由な環境を求めて授業中に『liberty(自由)』と叫んだりしていましたね」  ある時、絢と仲が良かった友だちの一人が、学校をやめさせられる出来事があった。問題を起こしたことは確かだったが、校則を犯したわけでもなく、絢らの目には学校側の決定がとても理不尽に映った。どうすれば事態を変えられるか。夜中も親に内緒で長電話をしたという。堀越は笑いながら打ち明ける。 「校長室に立て籠もるって言い出し、本当にやってしまったんです。絢は正義感と他人への愛情が普通じゃない。とにかく、おかしいと思ったことは、大人に対してもはっきり言うし行動で示す。そして、決して怯まないから頼もしい。その性格は今も変わらないと思います」  この、おかしいと思ったことには敢然と態度を表明し、行動に移す「正義感」は、間違いなく父からの遺伝だと絢は自認する。中学卒業後、絢は日本を離れ、スイスの寄宿学校で高校生活を送ることになる。この絢のいない3年間に、父は時の人になっていた。「村上ファンド」の台頭である。絢がその事実を目の当たりにしたのは高校3年生の時。スイスから日本へと一時帰国する飛行機の中だった。 「気がつくと目の前のスクリーンにメディアに囲まれた父親が映っていたんです。テレビの国際ニュースだったと思います。スイスの学校はテレビもインターネットもなかったので、父に何が起きているのかわかりませんでした。ただただ驚いたのを覚えています」  そして、スイスから日本に帰国した絢が、大学受験を控え準備を進めていた06年6月5日。父が突然逮捕される。その日、自宅前には数え切れない数の報道陣が詰めかけ、ヘリコプターが旋回する音があたりに轟いていた。 「私は高校生だったので、何が起きたのか全く理解できませんでした。母は4人きょうだいの末っ子の弟を産んだ直後で、気が動転していました。残された家族の中では、私が一番、大人に近かったので弟と妹の面倒をみないといけない。しっかりしなければと自分に言い聞かせました」  翌年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学。何もかも自由なスイスの高校と比べると、大学生活は退屈だった。逮捕された父の裁判が始まると、絢はその全ての裁判を傍聴した。父が何をしようとしたのか。何が間違っていたのか。絢は初めて知ることになる。大学で「あれ、村上ファンドの娘じゃない」と陰口を叩かれたこともあった。 (文/中原一歩) ※記事の続きは「AERA 2019年11月11日号」でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2019/11/02 12:00
なぜ細長い試合場なの? フェンシングのうんちく5連発
なぜ細長い試合場なの? フェンシングのうんちく5連発
東京五輪で輝け! 東晟良選手/1999年、和歌山県生まれ。元選手の母の影響で、小4から競技開始。2017年の全日本選手権で女子フルーレでは史上最年少の18歳で初優勝。18年アジア大会団体優勝、同年ワールドカップアルジェリア大会2位。1歳上の姉・莉央とともに東京五輪出場が夢 (c)朝日新聞社 東京五輪で輝け! 加納虹輝選手/1997年、愛知県生まれ。小6でフルーレを始めたが、高校時代に遊び半分で出たエペの大会で優勝し、同種目に転向。フットワークと素早い剣さばきを強みとし、2018年アジア大会3位、19年ワールドカップカナダ大会で優勝 (c)朝日新聞社 東京五輪で輝け! 江村美咲選手/1998年、大分県生まれ。両親ともフェンシングの日本代表選手。小3から競技を始め、中学入学直前、賞品のパズル欲しさに出たサーブルの大会で優勝し、フルーレから転向。2014年アジア選手権2位、18年ワールドカップアメリカ大会2位 (c)朝日新聞社  話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』では、毎号、一つのスポーツを取り上げて、やっても見ても楽しくなるうんちく(深~い知識)を紹介するよ。11月号では、フェンシングを取り上げました。 *  *  * <競技の内容>  西洋式の剣術から発達したスポーツ。競技はピストと呼ばれる細長いコート上で行われる。1対1で互いに剣を片手に持ち、定められた有効面を突き、斬ることによって得点となる。競技用の剣はフルーレ、エペ、サーブルの3種があり、使用する剣の名がそのまま種目名となっていて、それぞれ有効面などに違いがある。 <フェンシングのうんちく5連発> (1)掛け声はフランス語  フェンシング用語の多くはフランス語だ。「プレ(prets=用意)」「アレ(allez=はじめ)」の号令で試合を始め、「アルト(halte=やめ)」で中止される。試合中、例えば防御後に返し技の「突き」が決まると、「パラード(parade=防御)」「リポスト(riposte=防御の後に行われる攻撃)」「トゥシュ(touche=突き)」と続けて言う。 (2)細長い試合場は城内の廊下がルーツ  試合はピストと呼ばれるコートの上で行われる。ピストとはフランス語で「滑走路」の意味で、幅1.8メートル×全長14メートルととても細長い。これは、フェンシングのルーツである騎士の決闘が、城内の廊下で行われていたからだといわれている。 (3)フルーレ、エペ、サーブルの3種類  フルーレとエペは剣の形が似ているが、エペのほうが少し重くてつばが大きい。サーブルはつばが手の甲を覆うような形をしているのが特徴。有効面(攻撃したら得点になる体の部分)も異なり、エペは全身すべてだが、サーブルは上半身のみ、フルーレは手を除いた胴体だけだ。また、フルーレとサーブルは、先に剣先を相手に向けたりして「優先権」を獲得してからでないと得点は認められない。 (4)剣先にはボタンがある!  判定には電気審判機が用いられ、剣が相手の有効面を攻撃するとランプがつく。フルーレとエペは剣先を使った「突き」しか得点と認められないので、剣先についたボタンが押されないと電気が通らないしくみになっている。サーブルは剣先以外を使った「斬り」も得点と認められるので、剣先にはボタンがない。 (5)車いすフェンシングでスカートをはくのはなぜ?  車いすフェンシングでは一般のフェンシングと同じ電気審判機を使う。ただし、車いすのエペは一般と違って上半身だけでポイントを判定するため、剣で突いても反応しないよう、金属が使用されたスカートを下半身全体に装着している。 【車いすフェンシング】 ピストに固定された競技用車いすに座り、上半身だけで競技する。ルールは立って行うフェンシングとほぼ同じで、フルーレ、エペ、サーブルの3種目がある。ただし、フットワークが使えないため、剣さばきのテクニックやスピードがよりいっそう重要になる。 ※月刊ジュニアエラ 2019年11月号より
ジュニアエラ朝日新聞出版の本東京五輪読書
AERA with Kids+ 2019/11/02 11:30
高岡早紀が“ぶっ壊れ”看護師を熱演? ドラマ「リカ」の見どころ
カトリーヌあやこ カトリーヌあやこ
高岡早紀が“ぶっ壊れ”看護師を熱演? ドラマ「リカ」の見どころ
カトリーヌあやこ/漫画家&TVウォッチャー。「週刊ザテレビジョン」でイラストコラム「すちゃらかTV!」を連載中。著書にフィギュアスケートルポ漫画「フィギュアおばかさん」(新書館)など イラスト/カトリーヌあやこ  漫画家&TVウォッチャーのカトリーヌあやこ氏が、「リカ」(フジテレビ系 土曜23:40~)をウォッチした。 *  *  * 「余暇を楽しむ大人のためにおくる本格派ドラマシリーズ」とかいう「オトナの土ドラ」枠。  しかし「絶対正義」の山口紗弥加の印象が強すぎて、やばい「オトナ女子」(穏便な言い回し)がものすごい勢いで圧迫してくるイメージしかない。  なんたって今回のヒロイン・雨宮リカ(高岡早紀)のぶっ壊れ具合も相当だ。とある病院の看護師募集の面接に現れてニッコリ。 「雨宮リカ、28歳です」  うそつけーッ! 余暇を楽しむどころじゃない、大人の高岡早紀46歳。無慈悲に顔面に寄るカメラが、その目じりの小じわをくっきりと映し出す。 「年より落ち着いて見える」と、こんな年齢詐称モロバレ女を雇ってしまう病院もかなりやばい。  外科医・大矢(小池徹平)にロックオンしたリカは、「私が運命の相手だときっとわかるはず」とドリームをゴリ押ししつつ、邪魔者を次々と排除していく。  彼女をやめさせようとした看護師長は、階段から転落して植物状態に。さらに年齢&経歴詐称を疑った後任の師長は、自殺と見せかけて殺害。  そして大矢を医療ミスで追い詰めるため、術後の患者を再び開腹、ペアン鉗子(かんし)を投入、瞬時に縫合してしまうリカ。お前はスーパードクターか。むしろリカに言ってほしい、「私、失敗しないので」。  そんな彼女の趣味はハーバリウム。これ本来は、ドライフラワーなどをガラス容器に入れ、オイルで漬けこんだ、何やらおしゃれ~なしろもの。  でもリカが漬けこんでいるのは、大矢が持っていた花束からこぼれ落ちたバラの花に、大矢の使用済み手術用手袋だ。  彼女の部屋には、なんだかよくわからないモノが漬けこまれたガラス容器が、ここは目黒寄生虫館?ていうくらい整然と並べられている。  オイルの中、ユラユラ~と揺れるゴム手袋をうっとりと見つめるリカ。 「私たち、見えない赤い糸でつながっているの」  ホラーとコントは紙一重だが、ゴム手袋とうっとりを成立させてしまう、高岡早紀46歳さすがです。  何かと漬けこむリカという女。やっぱりこりゃ20代の女じゃ無理不可能。高岡早紀の内部でじっくり漬けこまれ、醸されたオトナの狂気があってこそ。 ※週刊朝日  2019年11月8日号
カトリーヌあやこ
週刊朝日 2019/11/01 11:30
渋野日向子は「なる早」で米ツアーに参戦すべし! 「行ける時に行く」が得策だ
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渋野日向子は「なる早」で米ツアーに参戦すべし! 「行ける時に行く」が得策だ
渋野日向子が米ツアーで戦うベストのタイミングは? (c)朝日新聞社  渋野日向子が、現地時間31日からスタートする米女子ツアーのスインギング・スカーツLPGA台湾選手権(台湾、美麗華ゴルフCC)に出場する。渋野の米ツアー参戦は、日本人2人目となる海外メジャー制覇の偉業を達成したAIG全英女子オープン以来。渋野はメジャー優勝で米ツアーメンバーとなる権利を得たものの、現在も行使はしておらず、今回は主催者推薦でのプレーとなる。  全英女子で優勝した後の渋野は、第50回デサントレディース東海クラシックで8打差を大逆転して国内3勝目をマーク。それ以外にもNEC軽井沢72ゴルフトーナメント3位タイ、ニトリレディスゴルフトーナメント単独5位などトップ10に4回入り、ここまで約1億1,741万円の賞金を獲得(27日現在)し賞金ランク2位と、ルーキーながら賞金女王を射程に捉えている。  渋野の活躍によりツアー会場には多くのギャラリーが押し寄せる「シブコフィーバー」が巻き起こっているが、これは宮里藍が活躍した当時、社会現象にもなった「藍ちゃんフィーバー」を彷彿させるほど。現在女子ツアーは黄金世代が席巻しているが、渋野はその代表格として、もはやツアーになくてはならない存在となっている。  そこで気になるのが、渋野がいつまで国内に留まるのかということ。全英女子優勝ですでに米ツアー行きの切符をつかんでいるが、米ツアー本格参戦のタイミングが注目される。  メジャー制覇当時の渋野は、「英語が話せない」などと米ツアーには興味もないようだった。しかし、日本女子オープンで優勝した畑岡奈紗と一緒にラウンドし、畑岡のハイレベルなゴルフを間近で感じたせいか、最近は渡米への意欲を示す言葉を口にするなど気持ちに変化が生じたようだ。  米女子ツアーの来季のメンバー登録期限は現地時間11月18日となっている。全英女子を制したことで同大会は今後10年間、そのほかのメジャーは5年間の出場権があるが、来季に関しては国内ツアーを拠点に戦うことを表明している。  もし、渋野がグランドスラムや世界ランクNo.1などゴルファーとしてさらなる高みを目指すのであれば、なるべく早い段階で渡米すべきだろう。ツアーのトーナメントに出場するには各大会の主催者推薦をもらうか、シード権を得るための予選会で上位につける必要があるが、渋野は申請さえすれば年間を通じて世界最高峰の舞台でプレーできるからだ。  国内でこのまま過ごし、いずれ米ツアーにチャレンジしたくなった場合は、予選会などで出場権を獲得しなければならず渡米へのハードルは上がる。「行きたくなった時に行きにくい」よりは、「行ける時に行く」方が得策だ。  また、渋野は東京五輪出場を目標にしているが、そのためには現在12位につけている世界ランクを今の位置でキープしておく必要がある。今回のスインギング・スカーツLPGA台湾選手権でプレーするのも、世界ランクのポイントをできるだけ稼ぎたいから。もちろんそれなりの成績を収める必要はあるが、国内にいるよりも米ツアーの大会に出場する方が高ポイントを獲得できるのは明らかで、オリンピックの舞台に立つためにも米ツアーでの戦いは効果を持つ。  そして何よりも渋野には、畑岡という参考にすべきライバルがいる。宮里藍という先人は米ツアーで戦い抜き世界ランクでトップに上り詰めたし、これまでにも宮里美香などがツアーVを手にしてきたが、同じく黄金世代の畑岡はツアー3年目ですでに3勝を記録。帰国すれば国内メジャーで他を圧倒する強さを発揮するプレーヤーになった。つまり渋野にもそうなる可能性は十分にあるということだ。  慣れない海外での生活はメンタル的に大きな負担になる。近年の米ツアーは米国内だけでも大変なのにアジアでのトーナメントも増えており、移動だけ考えても肉体的な負担も相当なものだ。慣れた国内でゴルフに集中する方が良いという意見もあるだろう。  しかし、渋野はまだ20歳。コース内外のことや米国での生活、言葉など様々なことを、スポンジのように吸収できる年代で味わった方が、ゴルファーとしてだけではなく一人の人間としても、大きく成長するはずだ。  今後、渋野がどんな選択をするのか注目したい。
dot. 2019/10/31 16:00
中2からパパ活で200人と会った25歳OL「まともな恋愛できない」 就職してもやめられない深刻な理由
中2からパパ活で200人と会った25歳OL「まともな恋愛できない」 就職してもやめられない深刻な理由
※写真はイメージです(写真/Getty Images)  清潔感のあるシャツにパンツスタイル、肩まで伸びた茶色の髪。明るく好感が持てる雰囲気の営業女子(25)は、聞けば11年前から200人以上の男性にお小遣いをもらってきたパパ活女子だった。  女子中高生がSNSなどで知り合った大人とデートをして金銭を受け取るパパ活は、児童買春や詐欺、そのほかの犯罪に巻き込まれるケースが相次ぎ、警察や市民グループなどがツイッターをパトロールするなど、犯罪を防ぐための取り組みが始まっている。  身の危険があるパパ活に、彼女はどうして手を出したのか。普通の会社員として働き始めた現在も、なぜパパ活をやめないのか。語られたのは、深刻な家庭の事情と意外と知られていないパパ活後のリスクだった。 *  *  * 「当時の記憶があまりないんですよね……。家がごちゃごちゃで、辛すぎて」  都内に住む会社員のサキさん(仮名、25歳)は、パパ活を始めた中学2年生のころのことを聞くと、軽い口調でそう話し始めた。仕事が続かない父と、アルコール依存症の母。両親の激しい言い争いは離婚後も電話ごしに続き、母の怒りはサキさんにも向けられた。酒を飲んでは暴言を吐く母とこれ以上一緒にいたら頭がおかしくなると思い、家を出た。  所持金2万円。バイトができる年齢でもない。友だちの家に泊まらせてもらうのも限界があり、野宿は嫌だ。追い詰められて手を出したのが、当時から社会問題となり、ニュースでも度々報じられていたパパ活だった。行政や市民団体から支援を受けるほうが、ハードルが高いと感じていたという。  ネット上の掲示板で出会った40代半ばぐらいの小柄な男性と、昼間のカフェでパスタを食べ、2万円を受け取った。それからはいくつかの出会い系サイトに登録し、3日に1回ほど1人の男性と会って1~2万円の「お手当」をもらい、月10万円程度を手にした。カラオケや漫画喫茶で寝泊まりしながら、母がいない時間にたびたび自宅に戻り、着替え数着をかばんに押し込んで家を出る日が1年ほど続いた。下着を使い捨てにしてしまうのは、当時からの癖だ。  高校生になり自宅に帰るようになっても、定期的に会う“太(ふと)パパ”を4~5人つないで収入を維持し、小学生から続けていた子役やモデルの仕事で稼いだお金で、国公立大学の授業料なども賄った。これまでに会った“パパ”たちは、普通のサラリーマンや医師、中小企業の経営者、アニメや音楽関係のプロデユーサー、メディアや芸能事務所の関係者など200人以上。一時はキャバクラやラウンジバー、風俗店などでも働いてみたが、続いたのはパパ活だけだった。交際クラブへ場所を移し、会う人の地位や役職が上がっていくと、食事する場所もホテル最上階のレストランや誰もが知る芸能人らが通う会員制の料亭などへと変わっていった。知らない業界の仕事、ニュースの裏側、政治家の素顔など、パパたちから聞く話は知らないことばかりで新鮮に感じていたという。 「きれいな場所できれいにしていられること、普段は会えない人に会えること、面白いねって認めてもらえることが嬉しかったですね」  自慢話や説教をしてくる人はブロックしたが、あくまでも「女の子は選ばれる側」だという。体の関係を持たないため、相手は自分と過ごす時間にお金を払ってくれる。選ばれるために気をつけていたことはいくつもあった。  いつも身ぎれいにする。会話の中でさりげなく相手を褒める。悩みや愚痴をちゃんと聞く。「ごちそうさま」は食事の後と会計後、帰り際の3度言う。疲れているようなら栄養ドリンク、旅行やディズニーランドなどどこかに行く予定を話したらお土産を持っていく。会話を途切れさせないのは、いい雰囲気になってホテルなどに連れ込まれないための術でもあると話す。そして、大事なのはキャラ設定だという。 「私はウソがつけないので、パパ活女子には少ないサバサバした快活なキャラにしています。誕生日を覚えておいて、日付が変わる瞬間にメールする子もいますが、そんなマメなことはできないので、最初から『誕生日とか覚えられない!』と言っておくんです。そういうキャラならガチ恋(本気で恋)されることもなく、身の危険も少ないと思って。お手当の額を上げると言われたら、断わるようにしてますね。その方が、いい子だな~と思われる。私は薄利多売主義です」  知人には太パパにマンションを買ってもらったり、月70万円ももらうようないわゆる愛人業に移行する子もいるが、相手をつなぎとめるために狂言自殺などあらゆる駆け引きをしているのを見ると、「私にはムリ」と断言する。さらに愛人に求められるのは、連れて歩きたくなるような高身長と美しいビジュアル。年齢の問題も出てくる。だからこそ就職活動をして、今年の春から正社員として働く道を選んだ。 「セレブな生活をアップしている人気のインスタグラマーでも、オジサンの影を感じる人は多いです。でもパパ活をやっている女の子で、楽して稼げてラッキー!って思っている人はいないと思います。時給にすると5千~1万円なので昼職(水商売以外の昼間の仕事)より拘束時間は短いですが、リスクもあるし、お酒とおしゃべりで喉を壊すこともある。お腹いっぱいでも出された物は食べなきゃいけない。はたから見ると、若くて自分には高給をもらう価値があると勘違いしていると思われているかもしれませんが、お手当は努力への対価と迷惑料ですから」  新卒で配属されたのは営業。そこにはパパ活経験者が陥るであろう、意外な落とし穴があったという。 「若手の女性社員は接待要員として得意先との飲み会によく連れて行かれるんですが、お金ももらっていないのにどうしてニコニコしておしゃべりしなきゃいけないんだろうと思ってしまうんです……。もちろん次の仕事につながるという意味はわかりますが、相手に楽しい気分になってもらうためにこちらがすることはタダじゃない。時給1千円ぐらいで愛想良くしなきゃいけないコンビニ店員や飲食店のウエイトレスも、私にはもうできないですね。  それに、パパ活では嫌な人をブロックできるし、こっちにも選ぶ権利があります。でも職場の人たちは1年、2年どころか、下手すると一生の付き合いになるかもしれない。嫌なことがあったとしても、相手が上司なら笑顔で接し続けなきゃいけない。それは理不尽だと思ってしまうんですよね……」  コミュニケーションを売り物にしてきたからこそ生まれる、社会の“普通”とのギャップ。さらに「男の人が嫌いになる」というから、若いころから業界の常識に染まるリスクは想像以上に大きい。 「飲み物に薬を盛られて意識を失ったり、食事代もお手当も払わずに逃げられたり、男の人の汚い面をたくさん見てきたので、もう男の人という存在自体が嫌いになっています。お金をもらわないと喋りたくないぐらい……。好意を向けられるのも気持ちわるいし、このままじゃ、まともな恋愛ができないかも」  それでも、「安定のため」しばらくは4~5人のパパを手放すつもりはないという。中学生からその日暮らしを経験してきた彼女は、毎月の手取り25万円以上という社会人1年目にしては高水準の給料を得ても、最悪の想定から抜け出せないのだ。性犯罪、詐欺被害、あらゆる危険をくぐり抜けてもなお、大きな犠牲がパパ活女子たちを待っている。(AERA dot.編集部・金城珠代)
働く女性女子貧困
dot. 2019/10/30 11:30
祝23歳!Sexy Zone佐藤勝利、演技力の幅の広さを証明した『ブラック校則』新場面写真が公開
祝23歳!Sexy Zone佐藤勝利、演技力の幅の広さを証明した『ブラック校則』新場面写真が公開
祝23歳!Sexy Zone佐藤勝利、演技力の幅の広さを証明した『ブラック校則』新場面写真が公開  2019年11月1日より全国公開する映画『ブラック校則』で、初の映画単独主演を務めた佐藤勝利が10月30日に23歳の誕生日を迎え、これを記念して、佐藤の新場面写真が初解禁された。  『ブラック校則』は、ブラックな校則に縛られ不登校気味になっていたある女子生徒を救うため、そして本当の自由を手に入れるために、ブラックな校則と戦う男子高校生たちの笑って泣ける青春ストーリーだ。ブラックな校則に立ち向かう主人公・創楽(そら)をSexy Zoneの佐藤勝利、創楽の親友・中弥(ちゅうや)を本作が映画初出演のKing & Princeの高橋海人が演じ、ヒロインの希央(まお)役にモトーラ世理奈、田中樹(SixTONES/ジャニーズJr.)、箭内夢菜、堀田真由ら、旬の人気若手俳優が集結した。  佐藤は過去に、事故で亡くなった父親の魂が入った高校生役を演じたドラマ『49』と、青春小説の実写化で橋本環奈とW主演を務めた映画『ハルチカ』(2017)などで主演を務めてきた。『49』では、あどけなさを残しながらも、「父親の魂を持った高校生」という複雑な役を演じ、『ハルチカ』ではナイーブな性格で少し弱気で頼りないが、所属する吹奏楽部の顧問に密かに想いを寄せる高校生を熱演した。そのほかにも、窃盗事件の容疑をかけられ心を閉ざしてしまった青年役(ドラマ『99.9 -刑事専門弁護士-』)や、懸命に上司とのバトルを繰り広げる新入社員役(ドラマ『Missデビル 人事の悪魔・椿眞子』)などを演じ、Sexy Zoneとしてみせる“アイドル・佐藤勝利”とは違った別の顔を見せ、ステップアップを続けてきた。  そんな佐藤の2年振りの主演、かつ初の映画単独主演となった映画『ブラック校則』は、映画だけでなく、ドラマ、Huluも並行して放送・配信される大プロジェクトだ。撮影は約2か月で3メディアすべての撮影を敢行。クランクインで佐藤は「久しぶりの学園ものでお芝居が楽しみ」と語っていたが、実際の撮影での様子を本作の河野英裕プロデューサーは、「(佐藤が演じる)創楽は内向的で自分に自信がなくて、枠からはみ出すことができないキャラクター。クライマックスのシーンまでキャラクターに忠実に『じっと我慢する芝居』をしてね、と伝えていた。反対に(高橋が演じる)中弥は、自由なキャラクターなので、自由にやってと伝えていたこともあったため、彼(高橋)がアドリブをやってきても(佐藤は)じっと我慢する芝居をしなければならなかった。佐藤に『大変でしょ?』と聞くと、やっぱり『大変です……』と返ってくるぐらい大変だったと思う」と語る。  確実に演技の幅を広げてきている佐藤。本作のクライマックスシーンでは、決意を固めた力強い眼差しとともにじっと我慢していた想いを一気に溢れさせる場面があり、その思い切りのよさと、感情の爆発するさまに、公開前に行われたマスコミ向け試写会では絶賛の声が相次いだ。佐藤自身が持つ実直・真面目さと、創楽のキャラクターがぴったりと合い、「座長」として後輩である高橋ら共演者を引っ張りながら奮闘し、絶賛の声を得た演技はまさに、「俳優・佐藤勝利」としての顔を確立させたといえる。  先日行われた完成披露試写会にて佐藤は、「(初単独主演の作品が)『ブラック校則』でよかったなと思う」と語り、ブラック校則に立ち向かう創楽と中弥を中心に映し出されるストーリーながらも「学校のことだけじゃなく、社会の理不尽なことも描かれているので、高校生だけじゃなく大人も楽しめる作品になっている。余白がある映画だと思うので、じっくりと感じ取って色々な想像をしながら観てほしい」と、作品への強い想いを語った。Sexy Zoneとして、そして役者として、常に進歩を続ける佐藤。23歳になった彼の新たな表情やこれからの活躍に目が離せない。  映画公開に先駆けて、ドラマとHuluが展開中の本作では、SNSを中心にセリフの裏に隠された謎や今後の展開に対する関心が日に日に高まっている。これに応えて、無料配信サービス「TVer」と「日テレTADA」では、ドラマ『ブラック校則』第1話~第3話を特別に配信(11月4日まで)。Huluで独占配信中のオリジナルストーリーと合わせてチェックしよう。 ※高橋海人の「高」ははしごだか ◎公開情報 映画『ブラック校則』 2019年11月1日(金) より、全国ロードショー 監督:菅原伸太郎 出演:佐藤勝利(Sexy Zone)、高橋海人(King & Prince)、モトーラ世理奈、田中樹(SixTONES/ジャニーズJr.)、箭内夢菜、堀田真由、葵揚、水沢林太郎ほか 配給:松竹 (C)2019日本テレビ/ジェイ・ストーム
billboardnews 2019/10/30 00:00
「五輪まであと少し」と語る体操女子・村上茉愛の天国と地獄
「五輪まであと少し」と語る体操女子・村上茉愛の天国と地獄
8月の全日本シニア選手権で、平均台の演技を終えてガッツポーズする村上茉愛  (c)朝日新聞社 父・仁さんと鉄棒の練習をする幼少期の村上茉愛=母・英子さん提供  (c)朝日新聞社  2020年東京五輪で活躍が期待される選手を紹介する連載「2020の肖像」。第5回は、18年11月の世界選手権(カタール・ドーハ)で個人総合銀メダルを獲得した村上茉愛(23)。「体操ニッポン」と言えば、世界で数々の金メダルを獲得した男子の歴史ばかりが語られる。だが、2020年東京五輪は女子にも注目だ。今年はケガに悩まされたエースが、五輪イヤーに復活を期す。朝日新聞社スポーツ部の山口史朗氏が、波乱の競技人生と五輪へ賭ける想いを聞いた。 *  *  *  村上に笑顔が戻ったのは、8月末の全日本シニア選手権だった。 「ここからがスタート、という演技ができた。来年に向けて頑張ろうと思える試合になった」  2位に1.5点の大差をつけての優勝も、ワールドクラスの実力を持つ村上にしてみれば、驚きはない。結果的には、 「さらっと優勝して、さらっと帰りたい」  という試合前日の言葉を有言実行する形となったが、ここまでの道のりは決して平坦(へいたん)ではなかった。  天国と地獄。村上はこの1年で両方を味わった。  昨年の世界選手権では個人総合の4種目をほぼノーミスで演じきり、この種目で日本人初となる銀メダルを獲得。種目別ゆかで、日本女子として63年ぶりの金メダルに輝いた17年世界選手権(カナダ・モントリオール)に続く快挙だった。  さらなる飛躍を誓い、 「攻める」  をテーマにした今年。4月の全日本個人総合選手権では2位とまずまずの出足だったが、5月のNHK杯で暗転した。  大会の約1週間前に腰を痛めたのだ。痛み止めを打って強行出場するつもりだったが、当日の直前練習で痛みが強くなった。 「1年で一番大事な試合。出たいという気持ちしかなかった」  涙を流しながら、腰に手を当て、棄権を決断。NHK杯の3連覇とともに、世界選手権代表も逃した。  振り返れば、全日本選手権の前から、心身ともに乗りきれていなかった。  この春、日体大を卒業し、企業の支援を受けながら活動することになった。練習拠点は変わらず日体大だが、授業がなく、学生のときとは違う練習のリズムに戸惑った。 「一番は同期がいなくなってしまったこと。相談したり、気持ちをはき出したりする相手がいなくなって。同期のみんなが退寮した後が苦しかった」  実際、全日本でも「気持ちを作りきれなかった」と認める。なんとなく、日々の疲れが抜けきらない。やはりというべきか、そんなときに襲ってきた、腰の痛みだった。 「ケガ」と「気持ちの沈み」。  村上は体操人生で幾度となく、この二つと闘ってきた。  体操を始めたのは物心がつく前のこと。四つ上の兄・雄人さん、二つ上の姉・美由紀さんに続き、次女の茉愛も、 「2歳から体操場にいた」  兄と姉が通う体操スクールに保育園から直行する日々。スクールのコーチが父の仁さんという環境で、 「トランポリンでぴょんぴょん跳ねるのが好きだった」  体操にのめり込むのも、自然の流れだった。 「おむつを替えていて、股関節が柔らかいなと。かけっこも速いし、つまずいても転ばない。身のこなしがいいなと思った」  とは母の英子さん。期待通り、14歳で全日本種目別選手権のゆかで優勝するなど早くから頭角を現したが、そこからが我慢の日々だった。  中学3年で左ひじを手術する大けがを負うと、高校生では体の変化に悩まされた。  高校2年だった13年には世界選手権(ベルギー・アントワープ)の代表に初選出され、ゆかで4位に入る躍進を見せたものの、その後はプレッシャーと体重の増加で思うような結果が出せない。それどころか、練習にも集中して打ち込めない毎日が続いた。  英子さんが振り返る。 「高校3年は、練習よりダイエットをする時間が長かったと思います。帰ってきたら、サウナスーツを着て走りに出る。ご飯も『食べない』って言う。そんな日々でした」  ご飯は食べなくても、英子さんは村上の部屋のゴミ箱から、お菓子の包み紙を何度も見つけた。元々、甘い物が大好きな娘。「やせなさい」とか「食べるな」とは言えなかった。走りに出る村上に、「一緒に走ろう」と声をかけて寄り添った。30~40分間、隣で走ったり、歩いたり。 「逆に『大丈夫?』って心配されましたけどね」  と笑う。  切れそうになる村上の気持ちをなんとかつなぎとめたのは、母のそんな気遣いだった。  モチベーションが上がりきらない日々に終止符を打ったのは、日体大に入学した直後の15年4月に出場した全日本個人総合選手権だった。  腰に痛みを抱えていた村上は、決勝のゆかで最後に予定していた技をやらず、演技を終えた。24選手中、21位という散々な結果。学校に戻ると、瀬尾京子監督から言われた。 「考えを改めなさい」  瀬尾監督が振り返る。 「本人は腰痛を言い訳にしていましたけど、我慢すればできた。要するに、気持ちが未熟だったんです」  村上も自分の甘えを分かっていた。 「ついに言われてしまったかという感じだった」  だから、心に響いた。気持ちを入れ替え、体操に再び集中すると、才能がようやく開花した。翌年にはリオデジャネイロ五輪に出場。17、18年の世界選手権での躍進へとつながっていった。  今も村上は瀬尾監督から言われた「考えを改めなさい」という言葉を大事にしている。そして、今の自分は4年前とは絶対に違うと信じている。  リオ五輪で満足な結果が残せず、引退を先延ばしして目指す東京五輪。NHK杯の後、 「仲間っていいなとか、一人でやっていけるかなとか、2、3カ月はネガティブな気持ちしかなかった。何を目標に頑張ればいいかなとか考えていた」  ともやもやしながらも、走ること、動くことをやめなかった。  シニア選手権の村上の体は、5月よりも格段に締まっていた。 「人よりも一回多く」 「疲れてもあと一回」  と動き続けた成果だ。 「頂点に行ったり、どん底に行ったり、波が激しすぎて、気持ちを作るのがすごく疲れる。でも、五輪まであと少し。乗り越えたらいいことがあると信じている。そこへ向けて頑張ることしか、考えていません」  ゆかで見せるH難度の大技「シリバス(後方抱え込み2回宙返り2回ひねり)」は、世界で数人しかやらない、彼女の代名詞だ。この技を武器にして、女子の体操ニッポンを引っ張っていく。 ※週刊朝日  2019年11月1日号
週刊朝日 2019/10/25 08:00
木下優樹菜「タピオカ」騒動でわかった、ヤンキー系女性アイドルの存在意義
宝泉薫 宝泉薫
木下優樹菜「タピオカ」騒動でわかった、ヤンキー系女性アイドルの存在意義
ママタレには大きなダメージ? ユッキーナ (c)朝日新聞社 ツッパリ感満載だった頃の三原じゅん子参議院議員(1988年撮影) (c)朝日新聞社  木下優樹菜の「タピオカ」騒動。彼女が実姉の勤務していたタピオカ店の経営者に恫喝めいたDM(ダイレクトメッセージ)を送っていたという一件は、この人のやんちゃぶりを改めて浮き彫りにした。 「出方次第でこっちも事務所総出でやりますね」「いい年こいたばばあにいちいち言う事じゃないと思うしばかばかしいんだけどさー」「謝るとこ謝るなり、認めるとこ認めて、筋道くらいとおしなよ」などなど、その文面にはヤンキー感が満載。ただ、彼女がこれほどの人気者になれたのも、そのヤンキー感のおかげである。  というのも、芸能界ではいつの時代もヤンキー系の女性アイドルが幅を利かせてきた。古いところでは、三原じゅん子。79年に「3年B組金八先生」でツッパリ役を演じ「顔はやばいよ、ボディやんな」の名台詞でブレイクした。その勢いで歌手デビューして「紅白」出場も果たしたが、87年には写真誌『フライデー』のカメラマンに暴行して逮捕されるという武勇伝も残している。  また「金八」では卒業後、美容師になったが、実人生ではカーレーサーや介護施設経営のあと、政界に進出。いまや安倍晋三首相とともに政見放送をやるほどの大物だ。彼女は横浜銀蝿とも組んだりしたが、嶋大輔が挫折したのとは対照的に、堂々たるセンセイぶりである。 ■最強のヤンキーアイドル工藤静香  そんなヤンキー系女性アイドルの定義はいろいろあるが、何よりわかりやすいのは「ヤンキーにモテる」ということ。そういう意味で、史上最強の存在は工藤静香だろう。テレビでは、コンサート先でのこんなエピソードも披露した。 「暴走族と暴走族が、どちらが私の車を駅まで先導するかでケンカになったんです。途中でチェーンとか出てきちゃって『これは止めなきゃ!』と思ったから、窓を開けて『ダメよ~』って言ったんですけど、事務所の社長に止められました(笑)」  そういう工藤自身、ヤンキーが好きだ。浮名を流した相手も、諸星和己にYOSHIKIだし、結婚した木村拓哉も系列としてはそれっぽい。また、ジャニーズの壁を「でき婚」で突破したあとは、家族思いで料理上手な持ち味を活かして、夫のやんちゃを抑え込んできた。SMAPの解散騒動では夫の独立を思いとどまらせたとされる。  これは彼女がヤンキーというものを熟知しているからだろう。こうして彼女は、最も成功したヤンキー系女性アイドルとなったのである。 ■飯島直子、飯島愛、鈴木紗理奈らも同系列  しかし、工藤のようになるのは難しい。その一例が、飯島直子だ。ヤンキーデビュー(?)はじつに小学校4年のときだった。 「コンサートに行っておまわりさんに見つかったんです。それが、初めての補導でした」  彼女は当時、ロックバンド・レイジーの大ファンだったという。これはまだ可愛い武勇伝だが、芸能界入りして「癒し系」「やすらぎ系」のタレントとして人気者になってからも、かつてイジめられたという人がそれをテレビ誌の読者欄で告発したりしていた。  恋愛関係では、木村一八とつきあい、破局後、ロックバンド・TUBEの前田亘輝と結婚。ミニスカのウエディングドレスがいかにも元ヤン風だった。ただ、4年後に離婚して、ホストに入れあげたあと、会社経営者と再婚。来年1月公開の映画「太陽の家」では主役の長渕剛の妻を演じ、夫を平手打ちする場面もあったりと、イメージは51歳の今も健在だが、失速した印象は否めない。  同時期に世に出て「W飯島」として並び称された飯島愛も、タイプは違うが元ヤンである。セクシーアイドルとしてブレイクしたあと、2000年に出版した『プラトニックセックス』のなかで、不良経験を告白。 「深夜徘徊、ドラッグ、売春、夜の歌舞伎町にはあらゆる非行への誘惑があった。倫理やモラルを押しつける大人たちや世間がたまらなく嘘くさくてうっとうしかった」  などと赤裸々に綴り、こちらはメンヘラ系の女子から高い支持を受けた。病気を理由に引退し、翌年、36歳で亡くなってしまったが、彼女のようなヤンキー系女性アイドルはその後、出現していない。  そして、このふたりのあと、こうした路線の芸能人は小粒化していった。  たとえば、鈴木紗理奈の場合、子供の頃に「ターミネーター」を観て自衛隊に憧れたとか、好きなタイプは「革命家」とか、若手俳優ふたりのケンカを体を張って止めた(服を脱ぎ「お前らケンカすんな! とりあえず私の胸を見ろ」と叫んだらしい)など、面白いネタの宝庫だったりする。が、ネタとして消費され、アイドル的な共感や支持にはさほどつながらなかった。  また、あびる優にいたっては、集団での倉庫荒らしという「犯罪」を悪びれることもなくネタとしてテレビで告白。テレビ局が謝罪する事態となってしまった。  ほかには、佐々木希がデビュー前のヤンキー歴を盛んに取り沙汰されてきたが、本人にそのイメージを利用する意識がまったくなさそうに見える。こういう人がヤンキー感を出してきたら、魅力的なギャップが生まれるだけに、ちょっと惜しい感じだ。せめて、同郷で親交もある演歌界きってのヤンキー好き、藤あや子(この人も木村一八とつきあった)とのそれっぽいトークなど聞いてみたいものだ。 ■ギャルよりヤンキー感で成功したユッキーナ  とはいえ、ここ30年くらいはヤンキーがウケる時代ではない。ちょっと目端が利く子なら、それよりはギャルを目指したからだ。そんななか、ギャルよりヤンキー感で成功してきたのが、ほかならぬ木下優樹菜だったのである。  工藤静香同様、家族思いで料理上手だったり、また、ちょっと頽廃的な色気やざっくばらんなしゃべり方、2女の母といった共通点もある。夫の藤本敏史もそこそこのランクの芸能人だ。おバカ系からママタレへとうまくシフトして、最近はインフルエンサー的な支持も得ていた。工藤のようなポジションを狙える位置にいたわけだ。  それだけに今回の騒動は痛手になりそうだが……。これくらいでメゲるようでは、ヤンキー系失格だろう。友人でもある先輩・鈴木紗理奈は、 「反省して、また次! みんな応援してるよーー!」  とエールを送ったし(ただし、即炎上)、あびる優だって芸能界の「クイーン・オブ・ヤンキー」和田アキ子の庇護により「アッコにおまかせ!」などでしぶとく生き延びている。  逆境に強いというか、向かい風上等と立ち向かうのがヤンキー魂だとしたら、ここからどう巻き返すのか。まさに真価が試されるところである。 ●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。
dot. 2019/10/24 11:30
セレブも注目! ヘアセット専門の新美容スポット「シャンプー・バー」
山田美保子 山田美保子
セレブも注目! ヘアセット専門の新美容スポット「シャンプー・バー」
山田美保子(やまだ・みほこ)/1957年生まれ。放送作家。コラムニスト。「踊る!さんま御殿!!」などテレビ番組の構成や雑誌の連載多数。フジテレビ系「Live News it!」などのコメンテーターやマーケティングアドバイザーも務める 『シャンプー・バー(shampoobar)』は、『六本木美容室』が展開する新しいスタイルのヘアサロン。カットはせず、シャンプー・セット・メイクアップを専門とする。お出かけ前のセットや一日の終わりのリセットに利用できる。女性のシャンプードライ&ブローは2500円(税別)~で、要予約(火~土11~20時営業、日・月定休)。東京都渋谷区広尾5-17-10 EastWest Bldg.地下1階B号  放送作家でコラムニストの山田美保子氏が楽屋の流行(はや)りモノを紹介する。今回は、「六本木美容室」の「シャンプー・バー」。 *  *  *  アラフィフにはとても見えないキュートな松本伊代さんや、女優としても引っ張りだこな好感度ナンバーワン女子アナ、八木亜希子さん。最近では、奇跡の68歳、由美かおるさんが“飛び込み”で顧客になるなど、美を知り尽くした芸能人に愛され続けているのが『六本木美容室』だ。  白金店が移転し、さらに居心地のいいサロンに生まれ変わったことに加え、広尾商店街に『シャンプー・バー』なる新形態のサロンをオープン。若いスタッフらが中心となって、海外で流行しているシャンプー、セット、メイクアップのみの、文字通り、「バー」のような店舗を本格始動させた。『六本木美容室』主宰の小松比奈恵先生は、70年代アイドル、麻丘めぐみさんの「お姫様カット」を皮切りに、女性歌手や女優のヘアスタイリングを次々提案し、時代をリードしてきた方。  美容商材の展示会や新製品発表会に自ら足を運び、アンテナに引っかかったモノは、たとえ無名でも、日本初進出のメーカーでも、すぐさま取り入れてきた。  そんな小松先生が欧米でトレンドとなっている新形態に目を付けたのだ。  コンセプトは「ショーのバックステージ」で、バーのようなシンプルなカウンターと、まさにショーやイベントの楽屋で見かけるようなミラーを使用。  ラグジュアリーな空間として定評がある他店舗とは異なるシンプルなスペースで、小松先生やトップスタイリストらからみっちり教育を受けた若手が、カットやカラーリングはせずに、シャンプー、セット、メイクだけをしてくれるのだ。  もともと『六本木美容室』は、女優や俳優、女子アナらが「お仕度」のため頻繁に訪れるサロン。『シャンプー・バー』も、「お出かけ前のセット」や、「一日の終わりのリセット」に「気軽に利用してほしい」といい、既に、近隣に住むセレブや、スポーツジム帰りのマダムらから注目されている。オープン時、顧客らに配布された数種類の洒落たショップカードは、若手がアイディアを出し合って作ったそうで頼もしい限り。 『シャンプー・バー』の顧客の中には、そんな若手スタッフらと同世代で、まだ専属メイクさんが付かないアイドルや女優の卵も増えているという。オーディションや本番を前に、ここで「お仕度」して臨むのだ。  専属ならずとも、芸能人や有名人に慣れているプロに担当してもらえるうえ、有名芸能人の顧客を多数もつ『六本木美容室』のパワーも注入してもらえる新美容スポットなのである。 ※週刊朝日  2019年10月25日号
山田美保子美容
週刊朝日 2019/10/20 11:30
33私大、淘汰されないのは? 純利益は東洋、ROEは日本女子が早慶抑えトップ
33私大、淘汰されないのは? 純利益は東洋、ROEは日本女子が早慶抑えトップ
日本女子大学(撮影/写真部・小黒冴夏)  大学を選ぶ基準は様々だ。偏差値。教育内容。研究成果。もう一つ、大学が存続し続けるために重要なのが「経営力」だ。有名私大を「売上高」「純利益」「収益性」「純資産の増減率」で比較した。淘汰の時代を生き残る大学はどこだ。AERA 2019年10月21日号に掲載された記事を紹介する。 *  *  *  大学の淘汰が始まっている。18歳人口はピークだった1992年から4割減ったのに、大学数はほぼ同じ期間に1.5倍に増加。一方で5月に募集停止を発表した広島国際学院大学など、2000年代に入り10を超える大学が募集停止や廃校に追い込まれた。つぶれないまでも、経営が厳しくなり教育や研究の水準を維持できなくなる大学は増える可能性が高い。問われるのは、これまであまり重視されてこなかった「経営力」だ。  今回、アエラは国内33の有力私立大学について、企業分析で一般的に使われる7項目の指標で比較した。  各指標は、アエラ9月16日号の特集「早稲田vs.慶應最終決戦」でも協力していただいた専修大学商学部の小藤康夫教授(65)が、各大学が公表した「事業活動収支計算書」と「貸借対照表」から算出した。18年度の、系列の高校などを含む法人全体の連結ベースで、純資産の増減率だけは、11年度と18年度の比較となっている。対象とした大学には9月下旬から10月上旬にかけて、対面の取材やアンケートでその背景を聞いた。  また「大学ランキング2020」(朝日新聞出版)のデータでは、経営力が科研費、教員数などに直結していることが見てとれる。  項目ごとに見ていこう。まずは規模。特に売上高は学生数が大きく影響する。トップは日本大学で1927億7400万円。単純比較はできないが東京都江東区の18年度一般会計予算とほぼ同水準だ。4位の近畿までを医学部を持つ大学が占めており、大学病院の収入が含まれる。  純利益は84億5千万円の東洋をトップに、慶應、法政の順になっている。売上高で3位の東海は純利益では20位(15億3500万円)だった。引き下げ要因の一つは医学部付属病院だ。 「診療報酬の実質マイナス改定により収入増が見込めないなか、高額医薬品や償還のない医療材料の使用増加など、コストの増加が収支を圧迫する一因となっている」(財務部)  東海は16年に起きた熊本地震で阿蘇キャンパス(熊本県南阿蘇村)が被災しており、18年度も関連の損失を5億円計上するなど、影響が続いている。  同じ医学部関連の影響がみられたのは近畿。売上高は4位だったが、純利益では9位とやや落ちた。18年度に大阪府堺市内の病院を経営譲渡したことによって除却損を39億円計上したことが影響したという。  キャンパスの拡大や学部の新設など拡大路線を歩んできた近畿。關戸智好理事(60)は「医療については収入を上げる努力をしているので、今後増えていく要因になる」。ここ数年では学費の7%値上げや、既存学部の定員増もあったほか、今後も新学部の計画があるという。  小藤教授は「規模が大きい大学ほど学生1人あたりの教員や職員が充実していたり、蔵書が多かったりする傾向がある。規模の拡大は大学経営安定化の大きな要素だ」と分析する。医学部と付属病院は規模を押し上げる効果が大きい一方、利益を食いつぶす「金食い虫」の側面も持つ両刃の剣と言える。  どのぐらい効率よく収益を上げているかを示す「ROE」は、企業で言えば10%程度が優良企業の目安だ。大学は営利の追求が目的ではなく、高いほど良いとは言えないが、小藤教授は「ROEが高い大学は経営に対するトップやスタッフの意識が高く、無理な投資で大失敗するリスクが小さいと言える」と分析する。上位をみてみよう。  1位は日本女子で5.01%。21年に創立120周年を迎えるにあたり、記念事業に向けて18年度にPTA組織から受け取った寄付金が影響した。規模が小さいこともあり、臨時収入の影響が大きく表れた。  2位は東洋で3.82%。長谷川浩則経理部長は「資産運用の体制の見直しを行い、これまで持っていた有価証券や金銭信託を一回きれいに売却した。それで大きな利益が出ています」と説明する。東洋は今年度、資産運用を専門の会社への委託契約の形に変更し、収入源の確保に本格的に乗り出した。  3.73%で3位に入ったのは立教だ。平井雪恵財務部長は「選択と集中で今やらなければいけないところに財源を集中し、他のところは抑制するというメリハリを利かせた効果が上がった」と説明する。  また、立教ではこの十数年で異文化コミュニケーション学部など新たな学部の設置や改組などに取り組んできた。戸井田和彦常務理事は「思い切った投資で、借り入れも積極的にしていた。指標の点数は上がらない状況が続いたが、今になって投資が返ってきている構造だと思います」と話す。 続いては純資産の増減率だ。小藤教授は「7年という期間をとってみているので、この増減率で各大学が置かれている現在の状況がだいたい分かる」という。経営の成否が見える重要な指標と言えるだろう。  1位は上智で、断トツの47.74%だ。「この理由は明確です」と話すのは、上智学院の引間雅史理事(64)だ。  上智は16年度、同じイエズス会系の中高一貫校を運営する四つの学校法人と合併した。19年の東大合格者数トップ10にも入っている神奈川の栄光学園、兵庫県の六甲学院などで、4校ともに上智の付属校とはならずに教育の独自性を保つ。イエズス会日本管区が学校に配置する神父が不足していたという事情もあったという。  2位の駒澤も30.4%と大きな伸び。リーマン・ショック時、資産運用で154億円の損失を計上し、大幅に減額したところからV字回復した。広報課は(1)資産運用の損失後、大学全体で経費支出等全般に抑制政策に取り組んだ(2)保有有価証券の利金が発生した(3)周年事業寄付金、の三つの理由を挙げている。  3位に入ったのは、日本女子だ。前出のPTA組織からの寄付金に加え、12年度には道路拡幅によって校地の一部を売却した収入が計上されたことから、純資産が大きく増えた。「通常の年度における増加率は他大学と比べて特別に大きいわけではありません」という。  一方、純資産を減らした大学も三つあった。  最も減り幅が大きかったのは6.95%減の東京理科だ。対象とした期間中に諏訪東京理科大学(長野県)と山口東京理科大学(山口県)を公立化し、土地建物などを地元に無償譲渡して、資産を除却したことが影響した。過去に決めた地方進出がうまくいかず、大きなマイナスを招いた形だ。(編集部・小田健司、小柳暁子) ※AERA 2019年10月21日号より抜粋
受験
AERA 2019/10/18 08:00
“週末に寝だめする子”は肥満傾向に 適切な「子どもの睡眠」とは?
森田麻里子 森田麻里子
“週末に寝だめする子”は肥満傾向に 適切な「子どもの睡眠」とは?
○森田麻里子(もりた・まりこ)/1987年生まれ。東京都出身。医師。2012年東京大学医学部医学科卒業。12年亀田総合病院にて初期研修を経て14年仙台厚生病院麻酔科。16年南相馬市立総合病院麻酔科に勤務。17年3月に第一子を出産。小児睡眠コンサルタント。Child Health Laboratory代表 写真はイメージ(Getty Images)  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを、2人の女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は、自身も1児の母である森田麻里子医師が、「子どもの睡眠と健康の関係性」について「医見」します。 *    *  *  睡眠不足というと大人の問題を思い浮かべがちですが、日本では、子どもたちもかなりの睡眠不足です。アメリカ国立睡眠財団が推奨する睡眠時間は、6~13歳で9~11時間、14~17歳で8~10時間です。しかし2016年の国民生活基礎調査によると、日本の12~19歳の若者のおよそ9割は、睡眠時間が8時間を切っています。  子どもの睡眠不足が健康に及ぼす影響については、たくさんの研究が行われていて、肥満が増えたり、問題行動を評価するテストのスコアが悪くなったりすることがわかっています。  そして近年では、睡眠時間の不足だけでなく、睡眠をとる時間帯についても研究が進んでいます。大人では、生活が夜型になっていたり、週末に朝寝坊をしたりしているような場合、生活習慣病などのリスクが高まることがわかっていますが、子どもでも同様に健康への影響があることがわかってきているのです。  例えば、2012~2016年にかけて、12~17歳の中高生804人を対象に行われたアメリカの研究があります(※)。この研究では、5日間にわたって活動量の測定を行うと同時に、体脂肪率の測定、そして食事や生活に関するアンケート調査を行いました。すると、女子では、夜型の生活をしていたり、平日に比べて週末に朝寝坊したりしているほど肥満傾向にあり、その傾向は週末の遅起きの場合のほうが強いことがわかりました。  睡眠時間が短いことでも肥満は増えることがわかっていますが、今回の結果は、睡眠時間の長さによる影響を取り除いて調整したものです。男子では明らかな差は認められなかったものの、夜型や週末の遅起きでやはり肥満が多い傾向がみられました。 睡眠を取る時間帯は、人間の体が刻む1日のリズムである体内時計と関係しています。この体内時計が乱れていたり、社会生活のリズムと合わなくなっていたりすると、日中のパフォーマンスや健康に問題がでてきます。  10代の子どもたちの多くは、学校に通うため、朝それなりに早く起きなければいけません。部活の朝練などがあれば、さらに朝早く家を出発することになります。しかしだからといって、早く寝られるわけでもありません。夜は受験のため塾に通い、帰宅後にさらに宿題や自宅学習をする子もいます。または、スマートフォンを使って、SNSで友人とのやり取りを延々としていたり、動画の視聴に熱中して、いつの間にか深夜になっていたりする場合もあるかもしれません。  このように蓄積した睡眠不足は、どこかで解消する必要があります。そこで休日には朝遅くまで寝ているようになるのですが、そうすると、今度はさらに早寝ができなくなります。体内時計はどんどん夜型にずれていき、体にとってまだ「夜」のタイミングで起床時間になってしまい、時差ボケのようなぼーっとした状態で登校することになります。このような状態は、社会的時差ボケとも呼ばれています。  こうした体内時計の乱れは、健康にも問題を引き起こします。今回ご紹介した論文では肥満の増加が指摘されていましたが、これは体内時計の乱れにより、ホルモンの分泌や血糖値の調整が乱れることが主な原因と考えられています。  体内時計にはもともと個人差があり、朝型の人もいれば、夜型の人もいます。さらに、実は年齢や性別による差もあります。赤ちゃんや高齢者は朝型ですが、思春期の若者はちょうど夜型になりやすい年代です。ちなみに、10代後半以降は、男性の方が女性より夜型になる傾向があります。女性の方が夜型の生活に「弱い」傾向があり、悪影響を受けやすいのかもしれません。  なぜこのような差が起こるのかは、はっきりしていません。特に年齢差については、身体的成長・変化だけでなく、例えば若者であれば、学業や交友関係など、社会的な面が影響している可能性もあります。いずれにしろ、夜型になりやすい年齢にあたる中高生は、意識して、朝型の生活に整えていく必要がありそうです。  いきなり早寝をするのは難しいので、まずは休日も平日と同じ時間に早起きすることからはじめると良いでしょう。昼夜逆転など日常生活に問題が出てきていたり、ご家庭で努力してみても効果が見られなったりする場合など、専門の医療機関で相談する手もあります。少しずつ、良いリズムで十分な量の睡眠をとれるようにしていきたいですね。 (※)Cespedes Feliciano EM, Rifas-Shiman SL, Quante M, Redline S, Oken E, Taveras EM. Chronotype, Social Jet Lag, and Cardiometabolic Risk Factors in Early Adolescence. JAMA Pediatr. 2019. ○森田麻里子(もりた・まりこ)/1987年生まれ。東京都出身。医師。2012年東京大学医学部医学科卒業。12年亀田総合病院にて初期研修を経て14年仙台厚生病院麻酔科。16年南相馬市立総合病院麻酔科に勤務。17年3月に第一子を出産。小児睡眠コンサルタント。Child Health Laboratory代表。
病気病院
dot. 2019/10/16 07:00
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