AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
検索結果3491件中 1301 1320 件を表示中

上田慎一郎が語る「カメ止め」旋風「『見たことある?』って聞かれました」
上田慎一郎が語る「カメ止め」旋風「『見たことある?』って聞かれました」 上田慎一郎さん(右)と林真理子さん (撮影/写真部・松永卓也) 「カメラを止めるな!」で一躍脚光を浴びた上田慎一郎監督。作家・林真理子さんとの対談では、独学で監督を目指した「カメ止め」以前のこと、社会現象を自覚したヒット後のことなど盛りだくさん。 【前編/上田慎一郎・最新作は男性器が飛ぶ? 制作のきっかけは“妻の言葉”】より続く *  *  * 林:私、「カメ止め」は映画館で見たんですけど、前の上映回が終わって人がぞろぞろ出てきたら、向こうから「ぴあ」の社長(矢内廣氏)が来たんです。「おもしろかったですか?」って聞いたら、「いやあ、おもしろかったよ」とおっしゃるので、こういうのが社会現象ってことなんだな、と思いましたよ。映画館で知り合いとすれ違うってめったにないし。 上田:僕、「『カメ止め』って映画、見たことあります?」って聞かれたことありますよ。 林:えっ、そんなことが。 上田:「あります!」って言いましたけど、「これが社会現象なんやな」と思いました(笑)。 林:それはすごくうれしいですよね。最高ですよ。私もそんな目にあってみたいな。 上田:僕、子どもがいるんですけど、壁に「カメ止め」のキーホルダーがかかってるのをベビーシッターさんが見て、「上田さん、『カメ止め』好きなんですか? 私、3回ぐらい見に行きました」って言われて、「僕がつくったんです。ここで撮影したんです」って(笑)。 林:あれ、ご自分のおうちなんですか。ちょっとショボい1LDKぐらいの……。 上田:そうです。ショボい1LDKです(笑)。 林:今は引っ越しました? 上田:引っ越しました。都心のほうへ。 林:よかったですね(笑)。いまもちゃんと結婚指輪をしていて、すてきです。 上田:妻も映画監督をやっていて、「カメ止め」のときはポスターなんかをつくってくれました。 林:そうなんですか。そういえば、「あの主演女優さんが上田監督の奥さんだよ」って、間違えてる人がけっこういましたよ、当時。 上田慎一郎 (撮影/写真部・松永卓也) 上田:虚実がないまぜになっているところがあって、監督の役をやった濱津(隆之)さんを本当の監督だと思ってる人が、けっこういるんですよ。映画を見終わったあと、濱津さんに「監督、おもしろかったです」みたいに言う人がいて(笑)。 林:「俳優さんにギャラを払えたのがいちばんうれしくて、みんなが人気者になったのもうれしい」とおっしゃってましたね。 上田:うれしいですね、それは。 林:どんぐりさん(竹原芳子)という方、すごいじゃないですか。私、「カメ止め」でどんぐりさんを見たときに、すごいインパクトだな、と思いました。あの方、今や引っ張りだこで、ドラマ「ルパンの娘」でもおばあちゃん役で出てましたよね。 上田:そうなんですよ。どんぐりさん、ほんとにパワフルな方で、50歳を過ぎてから俳優を始めたんです。裁判所の事務をやっていて、NSC(吉本総合芸能学院)という吉本のお笑いの養成所に入って、そこに何年かいて、それから俳優を志したそうで、映像演技はあれが初めてだったんです。 林:そういう人を見つけてくるところがすごいですよ。上田監督は昔から映画を撮ろうと決めてたんですか。 上田:中学校のころからハンディーカメラで映画を撮ってました。 林:スピルバーグみたいじゃないですか(笑)。 上田:放課後、友達と集まって、その場の思いつきで毎日撮っていたような感じです。撮るのが楽しいから撮ってただけで、映画監督になろうとは思ってなかったんですけど、高校に進学するときにはじめて、職業として映画監督を意識しました。 林:日芸(日大芸術学部)とか、日本映画学校(現・日本映画大学)とかに行こうとは思わなかったんですか。 上田:僕、お笑いがすごく好きだったので、将来は映画監督かお笑い芸人かで迷ったんですよ。高校のときは演劇をやっていて、近畿で2位ぐらいになったんです。それで大学からオファーをいただいて。 林:あ、演劇もオファーがあるんですね。スポーツだけじゃなくて。 上田:「うちの大学で劇団をやらないか」というのが来たんです。でも、生意気だったんで、ハリウッドに行こうと思ってそれを蹴って、1年間英語を学んでからハリウッドに行こうと思って英語の学校に行ったんです。でも、そこでなじめなくて中退して、そこからは完全に独学で映画を撮るようになりました。 林:独学ってどうするんですか。カット割りをメモしながら映画を見てたって、誰かから聞いたことがありますけど。 上田:とにかく浴びるように見て撮って、見て撮って、体で学んでいった感じです。そして20代半ばで初めて映画制作団体に加入して、大きいカメラでの撮り方とか、音声の録り方とかを学んだんですよ。でも、ここでも生意気なところが出ちゃって、「自分でできる」と思って、自分の制作団体を立ち上げたんです。そこで10本ぐらい自主映画をつくったあとに「カメ止め」をつくったという感じですね。 林:失礼だけど、その間の生活はどうしてたんですか。 上田:バイトをしてました。長かったのは携帯電話ショップの店員で、最後はその店の副店長になりました。 林:そうなんだ。けっこう社会生活に参加してるんですね(笑)。 上田:そのあと保険のコールセンターの深夜受付をやったんですけど、そこは役者とか歌手とかのタマゴが多かったので、自主映画の主題歌を仲間につくってもらったりしてました。 林:へぇ~、おもしろいですね。顔が見えないところに、俳優のタマゴ、歌手のタマゴ、そして監督のタマゴがいるんですね(笑)。 上田:今でもつながってる人が多いです。そこは時給がすごくよくて、月40万ぐらい稼いでましたね。一時、講演会とか結婚式を撮って、編集したりする仕事をしてたんですけど、それはすごくしんどくて。自分が好きなものだけ撮って、好きなように編集すればいいわけじゃないですからね。だから、ちゃんとバイトして、生活の地盤があったうえで、自分の好きなものだけを撮るほうが性に合ってるなと思って。 林:そのときはもう結婚されてたんですか。 上田:えっと、結婚はいつだったか……。5、6年前かな。 林:忘れちゃった? 奥さんに怒られちゃいますよ(笑)。いずれにしても「カメ止め」を撮る前ですよね。家庭を持ったタイミングって、売れないお笑い芸人とか役者の人が夢をあきらめて、ふつうの会社に入るってパターン、よく聞きますけど、なんで監督は家庭を持っても「映画をやるぞ!」と思えたんですか。 上田:妻も映画監督だったことは大きいですね。それと、僕は妻と出会ってから、いろんなことがうまくいき始めたんですよ。だから、妻には感謝というか。 林:それはよかったですね。いつまでも仲良くして、これからも見た人が度肝を抜かれるようなおもしろい映画をたくさんつくってください。 上田:はい、頑張ります! (構成/本誌・直木詩帆 編集協力/一木俊雄) 上田慎一郎(うえだ・しんいちろう)/1984年、滋賀県生まれ。中学生から自主映画を撮り始め、高校卒業後も映画を独学。2009年、映画制作団体を結成、代表を務める。18年、劇場用長編映画デビュー作「カメラを止めるな!」は興行収入31億円を突破、国内外の映画賞を多数受賞した。その後も「イソップの思うツボ」(19年、共同監督)、「スペシャルアクターズ」(19年)、「100日間生きたワニ」(21年、共同監督)など、話題作を監督。1月14日から、脚本・監督を務める映画「ポプラン」が、全国ロードショー。※週刊朝日  2022年1月21日号より抜粋
遠藤憲一がパンダにハマった理由「シャンシャンはかわいい暴れん坊」
遠藤憲一がパンダにハマった理由「シャンシャンはかわいい暴れん坊」 遠藤憲一さん(本人提供)  その強面を活かし、名俳優として活躍する遠藤憲一さん。遠藤さんがパンダにハマったきっかけとは? *  *  *  ある日、妻が神戸に行きたいと言いだしたんですよ。時間ができると、よくふたりで旅行に行くんです。そのときは大河ドラマで勝海舟の役を演じることが決まっていたので、ゆかりの地を巡るのもいいなあと思っていました。すると新幹線の中で王子動物園にまず行くと言うんです。なんで?と聞いたら、パンダに会いに行くと。4年前くらいのことですね。  上野動物園のシャンシャンは、立ち止まって見てはいけないとかで、神戸ではどれくらい見られるのかなと思っていたら、それほど人も多くなくてゆっくり見られたんです。ちょうど、えさの時間だったらしく、タンタンは飼育員さんが出てくるところを行ったり来たりして、その姿がいじらしくてかわいかった。クッキーみたいなえさ(ペレット)を食べているしぐさがすごくゆっくりしてて品があって、一気に夢中になりました。  写真を撮りまくって30分くらいそこにいました。アップで写真を撮ったので、妻から「パンダは、動きがかわいいので全身を撮らなきゃ」とダメ出しをされて、またパンダのところに戻って、結局1時間くらいパンダを見ていました。  実は小学生のとき、動物愛護協会に入り、カンカン、ランランをよく見ていたのですが、それ以来で、パンダってこんなにかわいいのかと再認識させられました。  上野のシャンシャンも見に行きましたよ。シャンシャンは笹を食べている姿が豪快でした。タンタンは貴婦人という感じだけど、シャンシャンはかわいい暴れん坊かな。  王子のタンタンは去年中国に帰るはずでしたが、コロナ禍で延期になってまだ決まっていないんですね。 遠藤家のパンダグッズ。家中にパンダ、パンダ、パンダ(本人提供)  もしも1回だけ魔法が使えるなら、タンタンに中国語で「帰りたくない!」と話せるようにします。いざ帰るとなったときに中国側の担当者に電話をかけて、「タンタンが話があるので、代わりますね」って、それでタンタンが「帰りたくない!」って言うんです。さらに一言付け加えて「もう、年だから……」と。シャンシャンと違って、タンタンはもうおばあちゃん(26)ですし、日本でゆっくりすればいいんじゃないですかね。移動で体に負担がかかるのもよくないかもしれないし。身勝手な話かもですが。  そんななかでシャオシャオ、レイレイの双子が生まれてよかったですね。二人には「もうすぐ、おいしい笹が食べられるようになるよ、今を大事に二人仲良くね」と声をかけてあげたいですね。  パンダは動物という感じがしないです。野性をあまり感じない、着ぐるみみたいでキャラが立っています。だから人の心を平和にしてくれます。  中国は今、いろんな国と関係がよくないようですが、パンダを介してもっと穏やかになればいいのになと思います。パンダを通じて世界が平和になればいいですね。 (構成/本誌・鮎川哲也)※週刊朝日  2022年1月21日号
高橋大輔は「まだ超進化中」 北京五輪は逃すも「世界選手権で日本2枠を」
高橋大輔は「まだ超進化中」 北京五輪は逃すも「世界選手権で日本2枠を」 フリーダンスで村元哉中、高橋大輔組は小松原美里、尊組に2.95点差をつけて追い上げたが、総合では1.86点及ばず五輪代表に届かなかった  アイスダンスの北京冬季五輪代表は逃したものの、村元哉中、高橋大輔組は世界選手権代表に選ばれた。AERA 2022年1月17日号の記事を紹介する。 *  *  *  1枚の北京五輪切符をめぐり、二つのドラマが紡がれた昨年12月の全日本選手権だった。アイスダンス2季目の高橋大輔(35)は村元哉中(かな・28)との進化を胸に、五輪代表になるため国籍変更した小松原尊(30)は妻の美里(29)との絆を信じ、その舞台に立った。 ■「エンジョイ・ライフ」  昨年11月、村元、高橋組はNHK杯で日本歴代最高の179.50点をマークし、小松原組を抑えて6位に。さらにワルシャワ杯では日本歴代最高を塗り替える190.16点で2位に入り、一歩リードした状況で全日本選手権を迎えていた。  だが、気づかぬうちに「追われる側」になっていたことが盲点となった。  リズムダンス(RD)は滑り出しから、やや動きが硬かった。パターンダンスの途中で足が絡み合い、ともに転倒。63.35点で2位発進となった。 「練習でもしたことがないミス。北京五輪が頭のどこかにあり、今季2戦を良い形で終えた気負いもありました。色々なことが重なり、緊張感が高かったです」(高橋) 「私が読み間違えてしまって、2人が離れたら減点になると思ってグッと中に入ったら、足が絡んでしまいました」(村元)  そんな2人にフリーダンス(FD)の朝、マリーナ・ズエワ・コーチはこう言葉を贈った。 「エンジョイ・ライフ」──。  FDは昨季から継続の「ラ・バヤデール」。かれんな世界を作り出す作品だ。演技面では「構成」は8.50点、「音楽解釈」は8.55点と高評価で、FDは1位に。総合は176.31点で2位となった。 「今日は何も考えずに『カナダイ』の世界を思う存分出したいなという気持ちが強くて、気持ち良く滑れました」(高橋) 「2季目でここまでこられたのは本当にすごいこと。大ちゃんはまだ超進化中です」(村元)  一方の小松原組は、必死に食らいついていった。RDは冒頭のツイズルで美里がミスをしたものの「怒りで元気になった」と言い、首位発進した。  そしてFDの「SAYURI」はNHK杯後に曲のアレンジを変更し、勝負に出た。英語のナレーション部分を「日本の観客の前では日本語のほうが伝わる」と考え、俳優の夏木マリさんに吹き替えを依頼。また歌舞伎役者の片岡孝太郎さんからの助言で演技面も磨き直した。 AERA 2022年1月17日号より  FDは110.01点で、総合178.17点。優勝が分かった瞬間、美里は「やった」と跳びあがった。 「NHK杯よりも点数を出せて成長できました。(村元、高橋組がいたことで)ここで練習を終わっていいかなという時に、『いやもう少し』という起爆剤になり成長できました」(美里)  尊も涙ぐんでこう語った。 「美里と一緒だったから、ここまで強くなれました」 ■もう1回世界と戦える  翌日、五輪代表が発表された。名前を呼ばれたのは小松原組で、真摯(しんし)な表情で受け止めた。一方、1月の四大陸選手権(エストニア)と3月の世界選手権(フランス)は、村元、高橋組の名前が読み上げられた。 「名前を呼ばれた時にはガッツポーズ。もう1回世界と戦えるチャンスをいただけました」  村元はそう喜んだ。高橋も、こう宣言した。 「五輪という結果は出せませんでしたが、4年前はこの年齢になって違う競技をしているとは想像すらしていませんでした。まだまだ良い景色を見たいという気持ちがあります。世界選手権で日本2枠を持ち帰れたら、2023年は(小松原組と)一緒に立てるかもしれない。そういう意味でも、僕たちは精いっぱいやっていきます」 (ライター・野口美恵)※AERA 2022年1月17日号
ツイッター・デビューから1カ月で大人気の泉明石市長が語る「これはあかん、失言や」
ツイッター・デビューから1カ月で大人気の泉明石市長が語る「これはあかん、失言や」 明石市の泉房穂市長(撮影・今西憲之) 「今まで家族や役所からツイッタをして失言、炎上したらと羽交い絞め、止められていたんです。こうしてはじめてみると、市政運営をする上で勉強、参考になることも多々あり、よかったです。今のところ大炎上はありませんね、プチ炎上くらいか」  こう苦笑しながら話すのは、兵庫県明石市の泉房穂市長だ。  子どもや高齢者など社会弱者に寄り添った政策で、全国から注目を浴び、中核都市人口増加率全国1位、全国戻りたい街ランキングでは全国1位と結果も出している。  知事や首相、相手がどんな大物でも、舌鋒鋭く迫ってきた泉氏だが、SNSで自ら発信することはなかった。昨年12月21日から突然、はじめたのがツイッターだ。  アカウントを開設し、1カ月にも満たないうちに、泉氏のフォロワーは8万5千を超えた。2013年からツイッターをはじめている立憲民主党の泉健太代表のフォロワーは2万3千。(明石市長の)泉氏の方が3倍近く多いのとツイッターなどで話題になった。 「正直、まだツイッターの仕組みがわかっていないのですが、注目をいただいているのはうれしい。フォロワーの皆様には感謝です。8万5千が多いか少ないか、よくわかりません。しかし、弁護士時代の司法修習生同期の橋下くん(橋下徹元大阪府知事)は、270万でしょう。それとくらべたら全然です。まあ、芸能人ではないので、そんな気にはしてませんけどね」  なぜ、ツイッターをはじめたのか。理由を聞いてみると泉氏は以下の3点をあげた。 1 市長としての説明責任 2 明石市の政策を広く知ってほしい 3 自分も楽しみたい  1~3の理由を泉氏はこう説明する。 「1についてですが、市長としていくら説明してもすべて市民に真意、詳細な点まで届けることは難しい。その点、ツイッターは短くコンパクトに訴えられる。スマートフォンで手軽に見ることもできます。ツイートすると、コメントがつき、すべて読みます。市民の反応、意見もあるので参考にできます。2は、ツイッターをはじめた日、旧優生保護法で不妊や中絶の手術を強いられた市民とその配偶者を支援する条例を全国で初めて可決した。これを広く伝えたいという思いがありました」   きつねうどんを食べる泉市長(撮影・今西憲之)  明石市では子どもや高齢者の政策で全国初というものが数多くあるという。 「明石市でなくともできることばかりです。例えば、18歳以下の子供に配られる10万円の特別給付金。離婚して家庭で実際に子育てしているひとり親が受け取れず、元配偶者に渡ってしまう。または二重取りになる可能性があることがわかった。それを防ぐために、離婚した家庭にお知らせを送付し、対応したとツイートすると、徳島市や愛知県一宮市も追随してくれました。明石市は国の定める所得制限も撤廃したところ、これもたくさん支持するお声をいただきました。ツイッターの発信力を実感しましたね」  3については、日常のトピックや昔話をツイートして自分が楽しむのだという。 「先日も東大時代に駒場寮にいた思い出話をツイートすると、昔の仲間がいいねをしてくれました。あいつ元気なんや、よかったなと」  最初はツイートを自ら投稿せず、秘書にテキストデータを送って、チェックを受けていたそうだ。その背景には、2019年2月の「大炎上」騒動がある。  泉氏が部下に「火付けてこい」などと叱責している音声が流出し、ツイッターなどで拡散し、パワハラが問題になり市長辞任に追い込まれた。その後、同年3月の出直し選挙で当選した。 「最初はツイートの方法もよくわからず、秘書らがチェックし、炎上しないように気をつけていた。ツイートの反応がいいと、見ていると楽しいし、市政にも役立つことが多い。リツイートは必ずしも明石市民ではないことも理解しています。ツイッターを始めた週末の12月25日は土曜日で秘書らも休みだったので、やり方を教えてもらい、自分でツイートした。すると、ますます面白い。それ以来、自力でやっています」  火付けてこいなど過去の失言が再燃する危惧もあったが、杞憂だったという。市役所にツイッターに関する苦情もなく、激励がくることもある。 「おかげでまだ妻には止められていません。以前、ある知事さんが『政治家は揚げ足をとられないようにすべきだ』とお話されていた。炎上しないように、丁寧にやっています。朝の仕事前はランチのネタとか日常のトピック、昼間は市政に関する内容、夜は昔話、故郷・明石市のことなどを念頭に書いています。1日15前後、ツイートできるようにと心がけています」  最近のツイートで注目されたのが、泉氏のランチメニューだ。市役所の食堂の明細を公開し、連日、きつねうどんを食べているという内容だ。  1月11日のツイートにはきつねうどんの写真とともに<ツイッターを始めて22日目の朝(1月11日)。朝食の前なのに、すでに昼食のことを考えている自分がいる。#明石市 #明石市長 #きつねうどん #きつねラーメン>と書き込むと【いいね】が3500以上もついた。 「朝、市役所に出てきて仕事をはじめる。昼くらいはちょうどエンジン全開です。昼ご飯を何にしようかなどと考えるより仕事。そこでいつしかヘルシーなきつねうどんが定番になりました。まれにスパイスをきかせてと、カレーライスを食べることもあります。12時になると市長室の机にきつねうどんが置かれているのですが、たまに仕事に没頭しすぎて、麺が伸びてしまいってこともありますわ」  取材した日、記者がランチに同行すると、食堂できつねうどんが出てきた。3分ほどで泉氏はたいらげた。 「おいしいですよ、サッと食べれるのもいい」  ツイッターなどSNSは重要な選挙でも大きなツールとなっている。泉氏のツイッターが注目を集める中、今夏の参院選挙に泉氏が転身して出馬するのではないかとの噂も地元では広がっている。  1月8日に泉氏も<神戸市長選の記事に目が止まる。明石生まれ・明石育ちの私だが、国会議員時代の選挙区は神戸市だった。そういう事情もあり、これまでに二度(2005年、2009年)、政党や市民団体から神戸市長選への出馬要請を受けたことがある。即答でお断りしたが、神戸のことは、やはり気になってしまう。>と書いたことで、憶測が広がっている。 「よく市長から転出して赤じゅうたん踏みたいっていう方もいますわ。私はすでに衆院議員を1期やらせていただいているので、そんな気持ちはないです。明石市長として頑張ります。しかし、他の国のように大統領制度があれば…。日本は大統領制ではない。あ、これはあかん、失言や。明石市長として市民目線、市民感覚の政治をやっていきます」 (AERAdot.編集部 今西憲之)  
今週の「週刊朝日」はまるっと1冊パンダ号! グラビアは双子パンダ(シャオシャオ&&レイレイ)成長アルバム
今週の「週刊朝日」はまるっと1冊パンダ号! グラビアは双子パンダ(シャオシャオ&&レイレイ)成長アルバム  今週の週刊朝日は、上野動物園の双子の赤ちゃんパンダ、シャオシャオとレイレイが1月12日から一般公開されることを記念して、まるっと一冊モフモフまみれになれるパンダ号をお届けします。上野動物園の前園長が語る、ランランとカンカンからの「パンダ愛50年物語」、パンダの可愛さの秘密を専門家が分析した「パンダに学ぶ“カワイイ”の生存戦略」、遠藤憲一、山田パンダらが語るパンダ愛、知られざる日中パンダ外交秘史など、特集も大充実。双子パンダの成長アルバムに加え、「パンダの楽園」和歌山アドベンチャーワールドの撮りおろしなど、グラビアもパンダだらけです。通常記事も、大好評・性のすれ違い特集の第3段「妻とできない夫の深い事情」や、「アラウンド卒寿」の7人に90歳でも現場で働く秘けつを聞いたインタビュー集、新作歌舞伎「プペル」で親子共演に臨む市川海老蔵さんへのインタビューなど、豪華なラインナップでお届けいたします。 週刊朝日1/21号 表紙はシンシン&シャオシャオ&レイレイ※アマゾンで好評発売中  日本中に愛される上野動物園のパンダ。その愛くるしさとは裏腹に、種の保存という過酷な宿命も背負っています。繁殖は難しく、生後すぐの死という悲劇もありました。上野動物園の前園長で、現在は日本パンダ保護協会会長を務める土居利光さんへのインタビューでは、パンダ飼育に込められた思いや、繁殖を成功させるための人知れぬ苦労を語っていただきました。2012年、上野動物園のパンダ、リーリーとシンシンの間に待望の第1子が生まれますが、わずか6日後に死亡してしまいます。この時、記者会見で涙を流した土居さんは、当時の思いを「涙の本当の理由は悔しさからだった」「一言では表せない感情がその瞬間に湧き上がって……」と振り返りました。1972年、上野に初めてパンダがやってきて以来、紡がれ続ける「物語性」で、日本人の心を揺さぶり続けるパンダ。その魅力をたっぷり語っていただきました。  その他の注目コンテンツは、 ●なぜあんなに愛らしいのか…パンダに学ぶ「カワイイ」の生存戦略パンダの印象を聞けば、大半の人は「かわいい」と答えるのではないでしょうか。ネット上のパンダ動画にはかわいさに悶絶する人たちのコメントがあふれ、CMや菓子のパッケージなどにもあちこちにパンダキャラが溶け込んでいます。パンダのかわいさの正体について、動物学者、心理学者やキャラクターデザイナーなど様々な専門家たちに、独自の視点から分析してもらいました。 ●「妻とできない夫」の深い悩み「したいけど…」はLOH症候群かも? 男性更年期チェックリスト付き「妻に迫られても体力気力が追いつかない」「50代なのに、最近は“その気”になれなくなった」。そんなお悩みを持つ男性が多いようです。そんなときはまず、加齢男性性腺機能低下(LOH)症候群=いわゆる男性更年期を疑ってみる必要があるといいます。LOH症候群になる背景と、治療法とは。妻とだけできない「妻だけED」が多い理由とは。中年男性の性の悩みに正面から迫りました。 ●「アラウンド卒寿」の星たちに聞く 90歳でも現場で働く秘けつ世は人生100年時代。とはいえ、90歳という年齢で仕事を続けている人というのはそう多くは聞きません。90歳前後でありながら今も第一線で活躍を続ける「アラウンド卒寿」の人たちは、どうやってエネルギッシュな生き方を実現しているのでしょうか。俳優の中村メイコさん(87)、狂言師の野村万作さん(90)、政治評論家の森田実さん(89)、料理人の道場六三郎さん(91)ら「アラ卒の星」7人に、働き続ける理由や、元気でいられる秘けつなどをうかがいました。 ●市川海老蔵・新作歌舞伎「プペル」での“親子共演”を語る 「麻央のことを思いながら亡き父親役を演じる」キングコングの西野亮廣さんが手がけ、映画化もされた絵本『えんとつ町のプペル』が歌舞伎に生まれ変わりました。演じるのは市川海老蔵さん。愛娘、愛息子と共演する舞台には、5年前に亡くなった妻・麻央さんへの思いも込められています。舞台化のいきさつや、「麻央のことを思い出しながら演じる」という役への意気込みなどを語っていただきました。稽古から舞台に立つまでの一家の様子をカメラが追った特別カラーグラビアも必見です。 週刊朝日 2021年 1/21号発売日:2022年1月11日(火曜日)定価:440円(本体400円+税10%) ※アマゾンで好評発売中!
「決して“嘘”があってはいけない」坂東龍汰がトランスジェンダー役 監督に打ち明けたコンプレックス
「決して“嘘”があってはいけない」坂東龍汰がトランスジェンダー役 監督に打ち明けたコンプレックス 坂東龍汰(ばんどう・りょうた)1997年生まれ。2017年俳優デビュー。映画「弱虫ペダル」「スパイの妻」などに出演。ドラマ「ソロモンの偽証」(WOWOW)にも出演/飯塚花笑(いいづか・かしょう)1990年生まれ。映画監督・脚本家。大学在学中から映画を学び、「僕らの未来」がぴあフィルムフェスティバルで審査員特別賞受賞(photo 写真部・戸嶋日菜乃 hair & make up 浅井美智恵)  トランスジェンダーの真也と恋人ユイの10年間を描いた映画「フタリノセカイ」。飯塚花笑監督が見たかった世界を描いたという。主演のひとり、坂東龍汰さんとは、“嘘のない演技”をめざして、議論を重ねた。AERA 2022年1月3日-1月10日合併号の記事を紹介する。 *  *  *  ――2022年1月14日公開の映画「フタリノセカイ」で、トランスジェンダーの役を演じた坂東龍汰さん(24)。最初は演じることができるのか不安が大きかったという。撮影前に、やはりトランスジェンダーである飯塚花笑監督(31)と、何度もディスカッションを重ねた。 坂東:僕が演じた小堀真也は、体は女性として生まれたけど、自分は男性として認識しているトランスジェンダー。このお話をいただいたとき、正直びっくりしましたし、演じられるのかという不安も大きかったです。 飯塚:脚本を書いてるときは、真也を演じるのはトランスジェンダーか、トランスジェンダーをよく理解している人がいいと思ってたんですけど、会ったときに、坂東君は真也にぴったりだと思った。 坂東:トランスジェンダーでない僕が演じるうえで、そこに決して“嘘”があってはいけないと思って。それでディスカッションの時間をたくさん設けてもらいました。ある意味、小堀真也は監督自身でもあると思ったんで、分からないことは監督に聞くのが一番早い、と。 ■芝居に“嘘”をなくす 飯塚:コロナ前だったし、しょっちゅう会ってたよね。実際にトランスジェンダーの方がやっているバーに一緒に行ったり。 坂東:僕、結構赤裸々に、自分のコンプレックスを監督に話しましたよ。 飯塚:結局、真也というのは、男として生きていくと決めているけれども、自分の体にコンプレックスを抱えている。それがブレーキになって、一歩、恋愛に踏み出せないんです。だから、坂東君の中にある個人的なコンプレックスが、人生における何かの障害を引き起こしているんだと感じて演じてもらえたら、お芝居として“嘘”はなくなるんじゃないかなと思ってた。 劇中のワンシーン。2022年1月14日から東京・新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー(c)2021 フタリノセカイ製作委員会 坂東:あと、映画で僕がつけるために、特殊造形で実際に胸を作ったじゃないですか。あのとき、自分の体におっぱいがついたわけですけど、そのとき、これは隠せないよなあ、と。 飯塚:しかも、坂東君の体格に合わせて作ったからちょっとでかすぎたんだよね(笑)。 坂東:そうそう! でも、これを実際に隠すのかと思うと、すごく不安に思った。生まれた時からある体と、真也がどう向き合って生きてきたかを、できる限り自分の体に浸透させていきたいとは思っていました。それはある意味、坂東龍汰を一回捨てることだった。  ――映画は、実家の弁当屋で働く真也と、保育園に勤める今野ユイ(片山友希)の10年にわたるラブストーリー。出会ってすぐに恋に落ちた真也とユイ。子どもを望むが、トランスジェンダーである真也とは結婚すらできない現実が横たわる。 飯塚:坂東君は「とにかくユイが好き」って言ってたね。 坂東:そう、愛とコンプレックスの2本で考えていったんですよ。真也のユイへの気持ちは、僕が恋愛して人を好きになる気持ちと何も変わらない。ふたりの間にある愛は無償の愛で、切っても切れない愛が存在している。それさえ忘れなければ大丈夫だと思ったんです。この映画って、普遍的な愛がテーマですよね。監督は強い愛を描きたかったのかなと思ったんですけど。 ■愛は持続できないのか 飯塚:おっしゃる通りで、この作品を作ったのは20代後半だったんですけど、周りが出産や結婚を経験するようになってきてたんです。トランスジェンダーに限らず、子どもができなくて夫婦が不仲になってしまう人もいた。結婚や子どもができないと、愛とは持続できないのかという疑問がわいてきたし、僕自身もその問題に直面していた。 坂東:そうだったんですね。 飯塚:だからこの映画は、僕自身が一番見たかった世界でもある。結婚もできない、子どももできない、それでも貫ける愛は存在するのか、というのがテーマ。答えとしては、そういう愛は存在する、と。 坂東:映画のエンディングも、希望がありますよね。 飯塚:でも、絶望と取る人もいまして……。子どもを作るために、真也はそこまで頑張らないといけないのかって。いろんな捉え方があっていいと思っているので、それでいいんですけど。 坂東:ああ~。確かにびっくりはしましたよ。台本読みながら、最後のページをぺらっとめくったときに、「おお!」って。最後のシーンは、衝撃的ではありますよね。 飯塚:多分ね。見たことない映画だとは思う。 坂東:僕自身は、目の前には光があって、その方向に歩いていけば希望につながるんだよ、というのを、この映画は伝えられるんじゃないかと思ってます。 飯塚:ソウル国際プライド映画祭でこの映画を上映したんですけど、韓国の、おそらくセクシュアルマイノリティーの方から、「とても希望を感じた。ありがとうございます」ってメールをもらって。この映画を作ってよかったなと思いました。 ■ハッピーしかない世界 坂東:そもそも、何がマイノリティーで、何がマジョリティーなのか。多い、少ないで分けるのもおかしいですよね。それを決めた条件と基準は、結局お前だけの価値基準だろうって。 飯塚:究極的には、セクシュアルマイノリティーとか、マジョリティーとか、そういうことすらなくなってしまえばいいとは思いますね。誰もが人と違う部分や特徴を持っていて、みんなマイノリティーの部分がある。カテゴライズせず、一人一人の形が認められる社会になったら、どんな人でも自分の形で生きていけるし、楽しい世界になる。 坂東:その先にはハッピーしかないですよね。結局、決めつけたり、カテゴライズしたり、差別したりすることでアンハッピーが生まれるわけで。この作品がきっかけになって、それに気がついて、時代がもっといい方向に変わればいいなと思いました。誰もが「これが本来の自分だ」って言える世界になってほしいし、周りもそれを肯定できる人が増えればいいと思う。 飯塚:うん、そうですね。そしてシンプルに、一緒にいたいと思う人が一緒にいられるようになればいいなと思う。まだ日本では、同性婚すら認められていないですから。そんな世界を僕は見てみたいです。 (構成/編集部・大川恵実)※AERA 2022年1月3日-1月10日合併号
「挿入にこだわらない」セックスレスを改善するヒント
「挿入にこだわらない」セックスレスを改善するヒント ※写真はイメージです (GettyImages) 「最近、妻が触らせてもくれないんだよね」。そう嘆いているアナタ、なぜだかわかっていますか? 「女性は閉経すると性欲がないからでしょ」。違う。夫との関係がよければ、性行為はなくても触れ合うことは妻も望んでいる。人肌は心地良く、癒やされ落ち着く。それでも触れられたくないのは……。フリーライターの亀山早苗さんが調べた。 *  *  * 「2年がかりでセックスが復活しました!」  満面の笑みを浮かべてそう言うのはタカシさん(56歳・仮名=以下同)だ。結婚して27年、40代後半からセックスレスだった。だが50代に入り、下の子が巣立ってふたり暮らしになったのを機に、夫婦関係を立て直したいと切実に感じたという。 「妻は『もう更年期だから体がついていかない』って。でも残りの人生を考えると、ふたりきりになった今こそ、もう一度恋人時代を過ごしたいと僕は思った。何度も誘ったら、妻はニヤリとして『じゃあ、挿入なしで感じさせて』と。チャレンジでしたね。ただ、がんばっても妻の反応は薄かった。僕の愛撫が下手だからだそうです」  そこが問題なの、わかった? 妻のその言葉に彼は目からうろこが落ちた。夫婦仲に問題があるとは思っていなかったが、セックスのみならず、日常生活においても妻からの信頼度が非常に低いとわかったのだ。 「子育て中に僕に思いやりがなかったとかひどいことを言われたとか、昔のこともさんざん出てきた。『セックスだってずっと自己中だった。痛いと言っても無視された』と。自分は大事にされていないと痛感したそうです。男は射精することしか考えていないと非難されました」  タカシさんは妻に聞きながら、どこをどうしたら妻が感じるのか、とにかく丁寧に愛撫するようになった。  妻がセックスを拒否する。それはもしかしたら、夫のすべてがイヤになりかけている兆候かもしれない。 「ジャパン・セックスサーベイ2020」(避妊具や育児用品などを製造するジェクスの依頼で、一般社団法人日本家族計画協会が、全国20~69歳の男女約5千人に実施した調査)によれば、「セックスしたいか」という問いに、50~60代の男性の7、8割がイエスと答えているのに対し、女性は2、3割しかイエスと答えていない。アバウトな言い方だが「したい男としたくない女」は年齢を経るにつれ顕著になるのだ。  よしの女性診療所院長で産婦人科医・臨床心理士の吉野一枝さんは、女性の体は年齢とともに複雑に変化すると言う。 「個人差はありますが、女性の多くは閉経すると性欲自体が落ちます。性欲は男性ホルモンと関係します。女性がもっている男性ホルモンのピークは25~26歳で、年齢とともに少しずつ下がっていき、さらに閉経後は女性ホルモンも激減しているので分泌液も減り、性交痛が出てきます。性欲がわかない上に痛いとなればする気はなくなりますよ。早いと40代からまったくしたくないという人もいます」  更年期症状はホルモン補充療法、性交痛はゼリーやローションの使用、レーザー治療などで緩和することはできる。だが、それ以前に男性側の姿勢が問題だ。夫たちはいつまでたってもろくに愛撫もせず、「挿入・射精」を目的とした性交を女性に押しつけてくる。だから女性はセックスそのものを回避したくなるのだ。  挿入・射精だけではなく、全身の性感帯を刺激し、愛のある言葉を交わしながらお互いを慈しむ楽しい行為が本来のセックスだと吉野さんは言う。 「男性には、“膣(ちつ)ペニス性交”にこだわるな、それ以前に女性の体をよく知りなさい、と言いたい。ただ、男性が一方的に悪いわけでもないんです。つまりはコミュニケーション不足。女性だって、痛くても痛いと言わない人が多い。『どうせわかってくれないから、自分が我慢すればいい』と考えたり、さっさと終わってもらうために感じているフリをしたりする女性は、すごく多いんです。だから男性はそれでいいと思ってしまう」  そういう状態が続き、50代になると、「もう我慢できない、と女性が拒否する。男性が、どうして急に……となるのもわかりますよね。お互いに自分をさらけ出してコミュニケーションを図ってこなかったから、50代になってすれ違いが顕著になってしまうんです」。  女性がセックスを拒否するのは大きく分けて、 ▽それまでの関係性により精神的にパートナーを受け付けない▽性交痛がある▽性欲自体が減退している──の三つが関与しているようだ。 ※写真はイメージです (GettyImages) 「年齢的にこれらは仕方のないことだと思うのですが、さらに追い打ちをかけるのが男性の言動なんです」  そう話すのは男女の性に詳しい文筆家の神田つばきさんだ。 「ろくに女性の体を知らないのに、性交痛があると言うと『セックスすれば治る』と言い張ったり、『セックスすればいくつになってもきれいでいられる』と決めつけたり、勝手な言い分ばかり」 ◆コロナ禍で在宅 妻にマッサージ  さらには、こんな行動も最低だという。 「ゼリーやローションの成分を確認せずに買ってきて勝手に使おうとする。膣の吸収率は上腕内側の皮膚の40倍も高い。だから安心安全な成分のものを使わないとかえって危険です。使えばいいというものではありません。さらに痛いと言っているのに挿入するやいなやピストン運動を繰り返す。挿入したらまずはじっとしていてほしいという女性は多い。話そうとしても聞く耳をもたない男性が多すぎます」  女性たちの怒りを代弁するように神田さんの語気は荒い。女性の「パートナーへの不信感」はなかなか払拭(ふっしょく)することはできない。  では、中高年はセックスにどう向き合ったらいいのだろうか。まずは「セックス以外の時間で、相手を異性として大切にするところから始まる」と神田さんは言う。  50代になったら、夫婦関係を見直すことが最重要なのだ。現在の平均寿命は男性82歳、女性は88歳。セックスを取り戻せるかどうか以前に、残り30年以上におよぶふたりの生活のベースを再構築することを優先したほうがいいようだ。 「コロナ禍で在宅勤務が増えたとき、妻が更年期症状に苦しみながら仕事をしているのを初めて知りました。どうせ自宅での時間が長くなったのなら、僕が家事をやってみよう、それも気分転換になるかもと、まずは料理を始めてみました」  そう話すのはケイスケさん(58歳)。 「ネットで検索しながら見よう見まねで作ったら、妻が喜んでくれるわけですよ。『おいしい』と言われるとうれしい。オレは妻の料理にちゃんと言葉でお礼を言っていたかと省みました。しみじみと『今までごめんね、ありがとう』と言うことができました」  3歳年下の妻とは結婚して28年経つが、心からお礼を言ったのは初めてかもしれないという。 「今までのおわびもこめて、肩こりがひどい、腰が痛いという妻にマッサージをしました。本を買ってきてちゃんとコツをマスターして。もう10年以上セックスレスだったんです。だから妻は最初、触れられるのさえ嫌がっていた。でも、足のマッサージから始めて、毎日寝る前に少しずつ体に触れるようになったら、あるとき妻が僕を抱きしめてくれたんです。妻は『抱き合っているだけで気持ちいい』と。僕もそう思いました。そして最近、ようやく関係が復活。マッサージをすると妻のほうから『来て』と言ってくれるようになりました」  時間はかかったが、妻の心が徐々に柔らかくなったのだ。最近はベッドの中で、恋人時代の話をしたり、子どもたちが小さいころの思い出話をしたりしているという。それもまた、関係性を深めることに役立っているようだ。  夫婦には歴史がある。その歴史を振り返りながら、相手へのいとおしさを取り戻しているところだという。 ◆他人から見れば妻もひとりの女  ほかにも、60代になって初めてセックスについて話し合い、ドラスティックな方法で性を取り戻した夫婦もいる。 「10年近くセックスレスだったんですが、4年ほど前、夫婦のセックスをもう一度考えたいと妻に問いかけたんです。妻は『あなたは大事な家族。だからこそ家族とするのは気が引ける』と。僕も同じように思っていました。だから第三者を入れて刺激をつくるのはどうかと提案したんです」  64歳のタカノリさんはそう言う。 「妻は『そうまでしなくても』と嫌がっていましたが、僕は計画を強行、スワッピングを楽しんでいる同年代の夫婦を知人に紹介してもらいました。実は若いときから興味があって、いつか妻と一緒にしてみたかった」  最初、妻はまったく受け付けなかったが、相手夫婦の妻がじっくり話をしてくれた。3度目に相手の夫と手をつなぎ、その次には触れられて身をよじった。快感を覚えたのを見てとってタカノリさんは興奮したという。 「嫉妬がわき起こってきて、その場で自分から妻に覆いかぶさりました。そのうち妻は慣れて、他の男性ともするようになりました。お互いに嫉妬がスパイスとして利いてきた。ひとりの男と女として相手を見られるようになったんです。過激な方法かもしれませんが、家族として慣れ親しんではいても、他人から見ると自分の妻も“ひとりの女”なんです。それをわからせてもらったのは新鮮でした」  コロナ禍前まで、ふたりはさまざまな夫婦と出会ってきた。中には70代の夫婦もいたという。 「個人差はあるでしょうけど、女性はいくつになっても感じるんですね。僕は妻の感じている顔を見て、きれいだなと素直に思うし、いとおしさも増しています」  妻がセックスを拒否する場合、夫の努力によって“取り戻せる”ことは多い。男女として自分たちを見直し、正直に話し合うことは大切だ。  人生100年時代。夫婦として、すべてすれ違ったままあと数十年を生きていくのか、ふたりで話し合い、後半生をより楽しいものにしていくのか。今まさに岐路にいるのかもしれない。 ※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
住宅街の一角に驚くほどの行列が! 40歳で車屋からラーメン店主に転身した男の半生
住宅街の一角に驚くほどの行列が! 40歳で車屋からラーメン店主に転身した男の半生 「麺響 万蕾」の全乗白醤油らーめんは一杯1100円。豚チャーシュー、鶏チャーシュー、味玉、メンマ、青ネギがのった一杯(筆者撮影)  日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、名店店主が愛する一杯を紹介する本連載。松戸・みのり台でハイクオリティーなラーメンを繰り出す店主が愛する名店は、車屋から開業資金70万円でラーメン屋に転身した男のDIYな名店だった。 ■コロナをきっかけに売り上げが安定  千葉県松戸市稔台、新京成線みのり台駅から徒歩1分のところにある「麺響 万蕾(めんきょう・ばんらい)」。魚介を巧みに使ったハイクオリティーなラーメンで、「TRYラーメン大賞」の新人大賞煮干し部門3位、「ラーメンWalker」の新店部門2位を受賞し、開店3年目ながらエリアを代表する人気店となっている。 麺響 万蕾/〒270-2231 千葉県松戸市稔台1-1-17/火曜~土曜11時30分-14時30分、18時00分-21時00分、日曜11時30-14時30分、月曜定休/筆者撮影  看板メニューは「白醤油ラーメン」。シジミ、アサリの印象的なうまみに4種類の煮干しを合わせ、まろやかな白醤油でまとめた一杯だ。全体的なバランスがうまく取れていて、複合的なうまみが広がり、オリジナリティーあふれる一杯になっている。  店主の高野翼さんは、かつて友人と藤沢で食べた「RAMEN 渦雷(うずらい)」のラーメンに衝撃を受け、32歳でラーメンの世界に入る。「渦雷」での修業を経て、その後独立。親戚が松戸で営む居酒屋の営業時間外の“間借り”で「麺屋 GONZO」を始めた。この店が好評だったことを受けて、場所をみのり台に移し、改めて2019年12月、「麺響 万蕾」をオープン。土地勘もなく勢いで店を開いたが、口コミや賞の受賞もあり、徐々にお客が増えていった。 「麺響 万蕾」店主の高野さん。ラーメンの経験はゼロで業界に飛び込んだが、今や街の人に愛される存在になった(筆者撮影)  その後、新型コロナウイルスの影響で飲食店は大きな打撃を受ける。「万蕾」も同様、経営が厳しくなると思われたが、その心配と裏腹、コロナ禍で客足は増えていった。 「家でのリモートワークが増えて、みのり台に住んでいる方々にたくさん食べに来ていただけるようになったんです。ベッドタウンということもあり、コロナ禍で逆にお客さんが増えた形ですね」(高野さん)  都心ではないエリアの店は地元に根付くことが重要だ。「万蕾」はコロナをきっかけに地元のお客さんが増えたことで、売り上げが安定していった。 「今のところラッキーでここまで来た感じはありますが、お店を継続することでだんだんクオリティーを上げていきたいと思います。これからは言い訳を無しにして、コンスタントに杯数を出せるようにしていきたいです」(高野さん) 麺は細めストレート。味わいはしっかりまとまっていておいしい(筆者撮影)  地元に根付いた店として「万蕾」の第二章が始まる。そんな高野さんの愛する名店は、車屋から転身した店主が開業資金70万円でオープンした手作りの店だ。 「The Noodles & Saloon Kiriya」のkiri_Soba(潮)は一杯850円。2種のチャーシューがおいしい(筆者撮影) ■住宅街の一角に驚くほどの行列 車屋から転身したラーメン店主  東武アーバンパークライン(東武野田線)の初石駅から徒歩4分。住宅街の一角に驚くほどの行列を作る人気店がある。「The Noodles & Saloon Kiriya」だ。看板メニューの「kiri_Soba(潮)」は、鶏の淡麗のうまみに魚介系を巧みに合わせ、ダシの分厚さと複合的な味の構成で、口に入れた後の味の広がりが素晴らしい一杯だ。  ウッド調でカフェのようなおしゃれな店だが、なぜか店のテントには「造って売る店…! 和菓子おおつき」と別の店の名前が書いてある。以前入っていた和菓子屋の看板が残るこの店は、店主の青木成憲(よしのり)さんが開業資金70万円で作った手作りの店だという。  青木さんは幼い頃から千葉県流山市の初石で育った。先祖代々からこのエリアにゆかりがあり、昔は広い農地を持つ農家だった。その後、森や畑だった場所が住宅街になり、街が栄えていく。  両親がラーメン好きで、母がよく車でラーメン屋に連れて行ってくれた。親が共働きだったこともあり、家では1人でインスタントラーメンをよく食べていた。この頃、サッポロ一番に納豆をかけて食べていたのがヒントになり、現在は店でもメニュー化している。 幼い頃に食べたラーメンをヒントにした「煮干納豆」ラーメンもある(筆者撮影)  大人になり、車の整備士として働いていた青木さんは、20歳の頃からラーメンの食べ歩きを始める。21歳で出会った妻の父が東京都江戸川区の名店「ちばき屋」店主の千葉憲二さんと同級生だったこともあり、「ちばき屋」が2人の思い出の味になる。他にも、「和風らーめん夢館」(柏市)、「一三湯麺」(松戸市)、「元祖一条流がんこ十三代目」(松戸市)など千葉県のラーメン店によく通っていたという。  27歳で実家の車屋を継ぐことになり、仕事をしながら、口コミサイト「ラーメンデータベース」でレビューを書いていた。発信を続けていると、徐々にラーメンの仲間が増えていった。一方で、本業の車屋では不景気もありディーラーからの仕事が激減。車屋を続けるのは厳しいだろうと判断する。このとき、青木さんは一生続けられる仕事とは何なのか考え始めたという。 「年をとって1人でもできる仕事と考えて、パッと出てきたのが大好きな“ラーメン”でした。自作ラーメン仲間も多かったですし、レシピを参考にラーメンを作ってみようと思い立ちました」(青木さん) 「The Noodles & Saloon Kiriya」店主の青木成憲さん。40歳でラーメン店主に転身した(筆者撮影)  このとき既に40歳。家族もいるし、年齢を考えても今から修業に出る時間もない。独学でやるしかないと、煮干しラーメンのレシピを入手し、作ってみると何とかおいしいものができた。こうして「永福町大勝軒」(東京都杉並区)のような煮干しの効いた一杯が完成した。  場所は長年住み続ける地元でやると決めていて、野田、松戸、柏エリアの物件を探していた。すると、西初石にある和菓子屋さんの物件が出てきたという。 「自分も昔から通っていた和菓子屋さんで、ここが空いたのは運命的でした。ただ、実家の借金や子どもの学費など大変な時期だったこともあり、開業資金が70万円しかなかったので、和菓子屋さんの店名の入ったテントを付け替える予算もありませんでした」(青木さん)  和菓子屋の店名がデカデカと書かれたテントは残したまま、2016年12月「Kiriya」はオープンした。車屋のあった流山市「桐ヶ谷」の魂をこの店に持ってくるという意味で名付けた。オープンに合わせて買ったのは冷蔵庫とコンロのみ。ゆで麺機も買えず、コンロの上に鍋を置いてゆでることにした。テーブルや壁などはDIYで作り、厨房(ちゅうぼう)も知り合いが中古のものを安く工面してくれた。内装はラーメン店っぽくせず、カフェ風を目指した。 The Noodles & Saloon Kiriya/〒270-0121 千葉県流山市西初石4-475-1/水曜~金曜11~15時、土曜~日曜日9~15時、月曜、火曜日定休。営業情報は店のツイッター(@ns_kiriya)にて/筆者撮影  告知も宣伝もせずオープンしたが、地元だったこともあり、仲間の応援でたくさんの人が食べに来てくれた。口コミも瞬く間に広がり、お客がいなくて困ったということは今まで一度もないという。  煮干しのラーメンで始めたが、2年目にはのちに看板メニューになる「kiri_Soba」が完成する。しかし、常連さんはみんな煮干しを注文し、kiri_Sobaはなかなか食べてもらえなかった。 「kiri_Sobaは自信作でしたが、一般のお客さんには分かりづらいラーメンだったかもしれません。お客さんはプロではないので、どこに向けてラーメンを作るかというのが大事だということが分かりましたね。自分が好きな方向性のラーメンを作りながら、お客さんの方もしっかり見ていくことが重要です。徐々にブラッシュアップしながら人気のメニューに仕上げていきました」(青木さん) 看板メニューの「kiri_Soba(潮)」(筆者撮影) 「食べログ」百名店に選ばれ、メディアでの紹介も増えてきた2018年ごろからブレークし、現在に至る。東京から少し離れ、一見へんぴな場所にも思えるが、「Kiriya」のある流山市は06年につくばエクスプレスが開業し、都心に直結になったことで人気が急上昇。人口増加率は全国792市で5年連続1位で、ここ15年で人口は5万人も増加しており、「住みたい街」の常連にもなっている。  そんな大人気の流山エリアで、「Kiriya」は一、二を争う人気店に成長。今では毎日大行列を作る盛況ぶりだ。 「万蕾」高野さんは、青木さんのことを「ボス」と慕う。 「『万蕾』のオープンの頃にお店の常連さんに『Kiriya』に連れて行ってもらい、それ以来プライベートでもお世話になっています。ボスはとにかく勉強家で、とことんこだわり抜くところがすごい。特に『kiri_Soba(潮)』は傑作です。ダシのうまみをタレで引っ張っていく味の構成は見事です」(高野さん) 「Kiriya」青木さんは高野さんのセンスに脱帽する。 「とにかくセンスがいい。彼のことを“天才”とはじめに言い始めたのは私です。もともとのバックボーンに加えて、彼独特のセンスの良さでいいラーメンを作っていますね。ベッドタウンの中での戦い方もよくわかっていて、いい店作りをしています」(青木さん)  地元に根差しながら独自のラーメンを追求し続ける。濃厚なラーメンが全盛の今、淡麗系で地元に愛されているのは、そのクオリティーの高さあってこそだ。(ラーメンライター・井手隊長) ○井手隊長(いでたいちょう)/大学3年生からラーメンの食べ歩きを始めて19年。当時からノートに感想を書きため、現在はブログやSNS、ネット番組で情報を発信。イベントMCやコンテストの審査員、コメンテーターとしてメディアにも出演する。AERAオンラインで「ラーメン名店クロニクル」を連載中。Twitterは@idetaicho ※AERAオンライン限定記事
映画監督・森田芳光さん没後10年 役所広司、鈴木京香が振り返る
映画監督・森田芳光さん没後10年 役所広司、鈴木京香が振り返る 「失楽園」(c)1997「失楽園」製作委員会 「家族ゲーム」「失楽園」「武士の家計簿」など数々のヒット作を生み出した映画監督の森田芳光さんが61歳の若さで亡くなってから10年。斬新でユーモアあふれる視点と、あふれる編集センス。昭和、平成の日本映画史に大きな足跡を残した名監督の軌跡を、今一度振り返る──。 *  *  * 森田芳光さん  森田芳光さんの没後10年、生誕70年となる節目の年だった2021年。“森田芳光70祭”と銘打ち、森田作品をめぐるさまざまな動きがみられた。  ゆかりのある映画館や映画専門チャンネルで特集上映・特集放映が組まれ、12月20日には商業映画デビュー作品「の・ようなもの」から、遺作となった「僕達急行 A列車で行こう」まで、26作品を収めたブルーレイボックスが発売されたばかり。全作品の解説と、豪華な顔ぶれの出演者や関係者たちによる寄稿やインタビューも掲載された550ページ超の豪華本『森田芳光全映画』(リトルモア刊)も発売された。  同書は森田作品に大きな影響を受けたというラッパー・ラジオパーソナリティーの宇多丸さんと、森田さんの妻であると同時にプロデューサーとして多くの作品に携わってきた三沢和子さんによる作品解説トークショーをもとに構成されている。 森田さんの妻でプロデューサーの三沢和子さん  早稲田大学在学中にジャズピアニストとして活動していた三沢さんは、アマチュア映画を撮影していた森田さんに出会い、そのまま宣伝や製作に携わるようになり、後に結婚した。最も身近で森田さんに接し続けた三沢さんは、とんねるず主演で1986年に公開された「そろばんずく」を例にこう語る。 「松田優作さん主演の『家族ゲーム』で多くの映画賞をいただき、夏目漱石の作品を映画化した文芸的作品の『それから』でも高い評価をいただき、30代で“若き巨匠”と呼ばれたりもしました。そんなとき、それらを一度壊したくなるところがある。常に自己変革を続けるのが(森田の)特徴です」  全編にギャグがぎっしり詰め込まれたスピード感あるシュールなコメディーに、当時は面食らった人も多かったという。 「39 ―刑法第三十九条―」(c)光和インターナショナル/松竹 「のちにオファーをいただくときに、『「そろばんずく」みたいにはなりませんよね?』と言われたこともありました(笑)」  しかし、それこそが森田芳光らしさなのではないかと三沢さんは言う。 「時代より早すぎることがよくある点と、ひとつの作品に全て出し切るので、同じことを続けてはやらないのも彼の本質です。俳優さんに関しても同じで、『蘇える金狼』などでハードな役柄のイメージが強かった松田優作さんに『家族ゲーム』では家庭教師役を、というように、それまでと違う雰囲気に演出するのも好きでした」  女優の鈴木京香さんは、89年に石田純一さん主演で公開された「愛と平成の色男」が女優としてのデビュー作となった。当時、地元の宮城から東京に通ってモデルの仕事をしていた鈴木さん。オーディションを受けた当時のことをこう振り返る。 「オーディションは初めてでしたが、森田監督は私が緊張して身がすくんでしまうことがないように、明るくやさしく、とてもフレンドリーに接してくださる方でした」  それから10年。押しも押されもせぬ大女優となった鈴木さんは、「39 −刑法第三十九条−」の主役として森田作品に帰ってきた。 「樹木希林さん、岸部一徳さんといったベテランの方々に、やってほしいしぐさやセリフの言い方、衣装の着方などを監督自らが事細かに伝え、大先輩であるみなさんがそれをきちんとこなされていたのがとても印象的でした。はっきりとした場面のイメージが、頭の中で全部できている方という印象です」  緻密に練り上げられた構想に基づいて撮影に臨んだためか、森田作品は同じシーンでの撮り直しが極端に少ないと言われた。前出の三沢さんはこう語る。 「真面目な性格でしたから、予算とスケジュールをオーバーしたことはほぼありませんでした。編集が頭にあってその逆算で撮るので、余分なカットは回さず、回すまでの空気を完璧にして、完璧なところで一回撮る。『キャストとスタッフの雰囲気を本番で最高潮に持っていくのが監督の仕事だ』と言っていました」 (週刊朝日2022年1月7・14日合併号より)  キャストやスタッフの力が合わさって自分が思っていたようなシーンが撮れたときが、何よりうれしい瞬間だったという。  製作中は常に楽しそうだったという森田さんだが、もう一つ、真面目で繊細な人間性を示すエピソードがある。いざ作品が完成して公開を迎えるとき、観客の入り具合を知るのが非常に怖そうだったと、三沢さんは言う。 「公開初日に満員での舞台挨拶があっても、『2回目の入りを見ないと、本当にヒットしているかどうかわからない』と言って帰らなかったり、次の日も、『今日はどのぐらいか調べてくれ』と言ったりしていました」  森田さんはいくつものヒット作を世に出した。中でも興行収入44億円、その年「もののけ姫」に次ぐ日本映画第2位を記録する大ヒットとなった作品が、97年公開の「失楽園」だ。社会現象化したこの作品で主演をつとめた役所広司さんは、 「ご自分で『俺は助監督経験がないから他の映画の現場を知らない』と仰ってましたが、そのせいなのか分かりませんが、森田監督の現場は独特で自由で和やかな学生映画の雰囲気がありました」  と、当時を振り返るコメントを本誌に寄せてくれた。「失楽園」の撮影時には、こんな撮影手法が印象に残ったという。 「久木と凛子が美術館で出会い、外に出た時の雨にはブルーの染料が微かに足されていて独特の世界を感じました。もう一つ、『失楽園』がヒットした時、森田監督は角川社長に、チーム全員にボーナスを出してくれないかと掛け合い、お陰でスタッフ、キャストはボーナスを戴きました。森田監督はとてもスタッフを大切にする方でした」  森田作品の魅力については、こう証言する。 「同じ監督の作品だろうか?と思うくらいそれぞれが独創的で実験的な作品を残されていると思います。映像も美しく、ユーモアもあり、表現も自由で予測がつかない魅力があります」(役所さん) 「失楽園」は初日から多くの観客が劇場に詰めかけた。このときの思い出を、三沢さんはこう語る。 『森田芳光全映画』(リトルモア) 「劇場は立ち見でいっぱいで外にも行列ができていましたが、行列は夕方まで途切れず、森田に見せようと電話をかけたら、『ガラガラになるのが怖くて、函館まで逃げてきた』と(笑)。読まなきゃいいのにネットでの酷評も全部見て、ものすごく落ち込む。ただ、落ち込みは深いけれど立ち直りも早かったですね。次に向かうものさえあれば」  デビュー以来約30年間にわたって日本映画の第一線で活躍した森田さんは2011年、急性肝不全により突如、世を去った。その早すぎる死は、多くの人に衝撃と哀しみを与えた。それからの10年を、三沢さんは「あっという間でした」と言う。 「私自身が“森田組”の一員であり、友達のような存在でもありましたし、周りの人にすごく恵まれたのだと思います。ブルーレイボックスや本を自分たちだけの思い出に残る存在ではなく、次の世代にまで森田の作品をつなぐ。“残す”ということが私たちの使命だと思っています」  誰よりも映画に真摯に向き合い、温かく仲間思いだったその人柄は、関わった多くの人の心に今も深く刻まれている。その一人である鈴木京香さんは、こう語った。 「“森田組”のみなさんは、森田さんがいなくなったことを悲しむというよりも、監督のおもしろさを、思い出話としていつもお話しされていて、本当にみなさんに愛されていたんだと感じます。いつかみんなそっちに行ったときに、また森田組でおもしろいものを一緒に作りましょうと。それはきっと、すごく興味深い作品になるのでしょうね」 (本誌・太田サトル)※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
僕が「運がいい」といわれる理由とマンボウやしろ君からの一本の電話 鈴木おさむ
僕が「運がいい」といわれる理由とマンボウやしろ君からの一本の電話 鈴木おさむ 放送作家の鈴木おさむさん  放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、「運」について考えます。 *  *  * 僕は運がいいと言われます。確かにそうです。いろんな人との出会いがとても多い。  昨年もたくさんの出会いがあった。「縁」をつなげて「円」にするが僕が大事にしていること。  僕の高校の後輩でマンボウやしろという男がいます。彼はカリカというコンビで芸人をやっていて、解散してから今は、東京FMの「スカイロケットカンパニー」という帯番組の司会をやっていてとても人気です。彼は脚本を書いたり、舞台の演出もたくさんしています。  僕が30歳。放送作家を始めて10年たった時に、高校の後輩である彼から久々に電話が来ました。芸人を始めて数年たち、ようやく自分たちの単独ライブを出来るようになったと。なので「久々に会いませんか?」という電話だった。  それまでの僕はもう、仕事だけで時間が過ぎていく。外に出ることもない。息苦しい毎日。その年にやったドラマがヒットはしたけど、自分の能力のなさを痛感し、これからどうやって仕事をして行こうかと悩んでいる時に、やしろ君から電話があったのです。  やしろ君と久々に会い、彼らと年の近い芸人さんをたくさん紹介してもらいました。その時に、才能はあるけど売れない芸人さんってこんなのいるのかと驚きました。  そこからそんな芸人さんたちと毎週、飲みに行くようになり、その流れで、うちの妻と出会って結婚するわけです。あの時、やしろ君が誘ってくれなかったら、外に出てなかったら、  妻と出会うことはなかったんだなと思います。  あれ以来、外に出て人と会うことを積極的にしています。そこから好奇心という能力が鍛えられていった気がします。  昨年末、仕事で大阪に行きました。夜、ご飯を食べて、梅田のホテルに戻ろうと思ったのですが、ちょっとだけ飲みに行こうという話になり、一緒に仕事をしていたスタッフA君と梅田の街に。ただ、街に詳しくないので、思い切ってGoogleで「Bar おもしろい」と検索したら、すぐ近くのお店がヒット。その名前は「ドン釜ワールド」と書いてあるじゃないですか。すごい名前。HPには「私たちドン釜ワールドは、大阪梅田のショーハウスにてニューハーフたちが美しくきらびやかに舞うショーを皆様にお届けしております」と書いてある。僕の好奇心の虫がうずく。せっかくだから行ってみようということになる。  ドキドキしながら入っていくと、とても広くてきれいな店内。お姉さまたちが接客してくれる。すると、そこの一人のスタッフさんが僕の前に座り、言ったのです。「私、同郷よ」と。  僕は千葉県南房総市出身。お店は大阪の梅田。そのお店になんと同郷がいるなんて。なんて偶然。そして話していくと、そのスタッフは言ったのです「カリカのやしろって芸人知ってる?」と。僕が「高校の後輩ですし、一時期はうちの事務所の下にも住んでました」というと、なんと「私ね、彼とハトコなの」と。「えーーーーーーー!??」  たまたま入った店に同郷で後輩の親戚が働いてるーーーー?こんなことあるーーー?と驚きました。そこから話は弾み、とてもとても素敵なショーを見せていただき、話しているうちにドラマの大きなヒントをもらったりして。刺激的でいい一夜になりました。  あの時、30歳の僕に外に出ることの楽しさを教えてくれたやしろ君。彼のおかげで、外に出るようになり、まさか大阪のニューハーフさんがショーをするお店で彼のハトコに会うなんて。  僕はよく運を雨に例えます。運という雨が降っていたら、家の中にいただけではその雨に当たれない。外に出ている人にしかその雨の恵はないと。  2022年。好奇心という能力を武器に、たくさん外に出ていろんな縁を作りたい。 ■鈴木おさむ(すずき・おさむ)/放送作家。1972年生まれ。19歳で放送作家デビュー。映画・ドラマの脚本、エッセイや小説の執筆、ラジオパーソナリティー、舞台の作・演出など多岐にわたり活躍。パパ目線の育児記録「ママにはなれないパパ」(マガジンハウス)が好評発売中。毎週金曜更新のバブル期入社の50代の部長の悲哀を描く16コマ漫画「ティラノ部長」と毎週水曜更新のラブホラー漫画「お化けと風鈴」の原作を担当し、自身のインスタグラムで公開中。コミック「ティラノ部長」(マガジンマウス)は発売中。「お化けと風鈴」はLINE漫画でも連載スタート。YOASOBI「ハルカ」の原作「月王子」を書籍化したイラスト小説「ハルカと月の王子様」が好評発売中。長編小説『僕の種がない』(幻冬舎)が発売中。作演出を手掛ける舞台「怖い絵」が2022年3月に東京・大阪にて上演。
「家から死人を出したくない」家族も 森鴎外の孫・小堀医師が語る“在宅死”の課題
「家から死人を出したくない」家族も 森鴎外の孫・小堀医師が語る“在宅死”の課題 小堀鴎一郎(こぼり・おういちろう)/1938年、東京都生まれ。医学博士。東京大学医学部医学科卒業後、東京大学医学部付属病院第一外科、国立国際医療研究センターに外科医として約40年勤務。定年退職後の2005年から、埼玉県新座市の堀ノ内病院に赴任し訪問診療に携わり、多くの看取りをおこなってきた。母は小堀杏奴、祖父は森鴎外(本人提供、撮影/磯村健太郎)  70歳まで外科医としてメスを振るっていた小堀鴎一郎医師は2005年に外科医から、活動の場を在宅医療に移した。以来16年、400人近い患者の最期の日々に寄り添った。その実例から、在宅死の現場の実情や課題を考えてみる。 *  *  *  文豪・森鴎外の孫でもある小堀医師は、著書『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』で1965年に亡くなった作家・中勘助の随想「母の死」の一部を引用した。1934年に亡くなった母の死に際が描かれている。 <いよいよ最後の時が迫ってきたようだ。ときどき見えそうな目をあいて見まわしたり、人の顔に視線をとめたりするがわかる様子もない。なにをきいてもうなずくこともしない。ただ反射的に手足を動かしてるらしい。苦痛もない。おそらく苦痛を感ずる力もないのだろう。私との感情関係は母のほうからはもう断たれてしまった。(中略)夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている。母の臨終が精神的にも肉体的にも安らかなのが嬉しい>  自宅で親を看取り、死にゆく母の枕もとで安らかな死を喜ぶ。そんな死の場面が当たり前だった時代は消えゆき、今では家族の死の大半は自宅ではない“外部”で迎えられる。  厚生労働省の人口動態統計によると、1950年代には80%以上だった「自宅死」の割合は2000年代に入って10%台まで落ち込んだ。代わって80%近くにまで増えたのは「病院死」である。この大きな変化の原因は、交通網の発達で病院へのアクセスがよくなったことと、在宅と病院との医療レベルの格差が広がったことにあると言われている。  こうした時代の変化を見てきた83歳の小堀医師は、在宅医療を始めて、ある問題に気付いた。 「病院死が増えた結果として、自宅で病人を看取る記憶が失われ、自分や家族がいずれ死ぬという実感がなくなってしまっていると痛感したのです」  小堀医師はそう言って、自分の死を認められない人々の事例を紹介してくれた。 ■事例1(83歳男性・胆管がん)  妻と2人暮らしのこの男性は、病院で化学療法を行ったが効果が認められず、退院を勧められた。胸水・腹水がたまり、足のむくみもひどく、妻は在宅看取りを希望していた。しかし本人は「栄養をつけ元気になる」と入院を希望。自分の死を予感できず、入院時には退院後のスケジュール調整のために、妻にスマホを持ってくるように頼んだが、入院4日目に亡くなった。  死を認めたくない、自分が死ぬとは思ってもいない意識が、死を「タブー視」する気持ちにつながる。小堀医師は家族の死を恐怖する事例も目の当たりにした。 ■事例2(80歳男性・前立腺がん)  前立腺がんは末期で骨にも転移しており、本人も介護する妻もその病状はしっかり認識している。患者は自宅で最期の時間を過ごす意思を表していたが、妻は「本人は自宅で逝くことを望んでいるが、私は家から死人を出したくない」と言明。その2週間後、大量の下痢を契機にして夫が傾眠傾向になると、妻は「正月明けまで家でみる」と言ったが、その2時間後「息子と話して、そんな状態ならすぐ入院させてほしい」と気持ちが変わり、緊急入院。男性はその1カ月後に死亡した。  本人や家族だけでなく、社会的な死へのタブー視も強い。  小堀医師は自分の母を自宅で看取っている。本人が病院は嫌だというのを尊重した。 「母は自分で新聞を取りに行ったときに玄関で倒れ、亡くなりました。するとご近所から『お医者さんのお宅なのに入院させなかった』と言われてしまったことがあります。やはり、死はネガティブな目で見られてしまうのだなと感じました」 もっと露骨な社会からのタブー視もあった。 ■事例3(71歳男性・直腸がん)  手術不能の末期直腸がんと診断され入院。他の臓器への転移も見つかるが、本人の強い希望で退院し、訪問診療に切り替える。緩和ケアが奏功し、ADL(日常生活動作)が一時的に改善。しかし訪問診療後、待ち受けていたアパートの大家に「このアパートで死なれては困る。死ぬときは入院させるという約束でこの部屋を貸した」と主張された。そこで家族を同伴して家主と話し合いを重ねた結果、大家から「この部屋で息を引き取るのはやむを得ないが、ここから出棺するのは避けてほしい」と懇願され、遺体は寝台車にのせて搬送した。 小堀鴎一郎医師(撮影/写真部・張溢文)  小堀医師は言う。 「家主からすれば事故物件扱いになると、家賃を下げないと借り手がつかなくなるという意識があるのでしょう。在宅診療を始めて、そうした事例を見ることで感じたのは死へのタブー視が社会にはあるということでした。そのいい例が、令和元年に『神戸新聞』が報じた、須磨区の“看取りの家”建設断念でしょう。余命の短い人に最期の場所を提供しようという試みが、近所の反対で潰れてしまいました」  8割が病院で死を迎えている現実の背景にはこうした理由があると考えられる。しかし、「できることなら在宅で死にたい」と考える患者の割合は7割近いという調査もある。小堀医師が現在在宅医として勤務する堀ノ内病院に移ってきた当初、少なくとも約半数の患者は在宅での最期を希望していた。 「予備知識もないまま在宅医療の世界に足を踏み入れた当初から3年間ほど、私は往診時に患者の容体が急変した際、そのまま自宅で死を迎えるか、救急車を要請して病院に向かうかという判断の岐路に立ったとき、往診医として意見を述べることはせず、本人と家族の意向に100%従うことにしていました。その結果、当時は在宅死と入院死がほぼ同数になったのです」  患者と家族の希望をかなえると約半数が在宅死となるのに、現実は約8割が病院死しているのはなぜか。希望どおりの最期を迎えていない患者が多数いるということではないのか。  小堀医師はある事例を契機に、自身の考えを患者や本人に説明するようになったという。 ■事例4(101歳女性・老衰)  それまで長男夫婦と通常の生活を送っていた女性が、ある日突然、寝たきりになってしまい、訪問診療を開始。半月後に食事量が低下し、眠ったまま2日間目を覚まさなかった。在宅看取りの方針であったが、3日目になって患者が息を吐くときに発するかすかな息遣いを聞いた長男が「母が可哀想で耐えられない」と急遽(きゅうきょ)入院を要請。堀ノ内病院に救急搬送した。入院直後は頻繁に見舞いに来ていた長男夫婦の足は次第に遠のき、患者はその後10カ月余りを集中治療室で一人生き続けた。ある夜、夜勤看護師がモニターを見て気づき、死亡が確認された。  小堀医師はこう述べる。 「この女性が本来迎えるはずだった101歳の老衰死と、現実に迎えることになった入院死という名の孤独死の格差は大きい。彼女にとっての“望ましい死”とは家族や主治医らに囲まれて自宅で迎えるはずだった10カ月前の死だったのではないかと」  これ以降、小堀医師は400人近い人々の臨終に関わったが、在宅看取りをおこなった割合は75%を超えている。 「闘病生活は長いので、ご本人やご家族との付き合いも長くなります。自然に、死ぬときはどうしたいかについても話し合うようになり、僕の考えも伝えられる。あくまで本人の意思が基本。それに家族の応援と、医者の後押し。それが在宅死のキーポイントになります。話し合っているうちにご家族が持っていたタブー視を変えることができると思えるようになりました」  もちろん、在宅死が善で、病院死が悪というわけではない。その家族にとっての最も望ましい死は何かを考えることが重要だ。 ■事例5(89歳男性・間質性肺炎)  長男夫婦と3人暮らしをしていたが、夫婦は早朝から仕事に出かけ、日中は独居状態。体重の減少、食欲の減退が続き、デイサービスにも行かなくなったため、訪問診療が始まった。1カ月もすると傾眠状態の日が増え、長男夫婦は入院を望んだが、本人は「気楽に過ごしたいので入院はしたくない」と自宅療養を希望。2週間後に、帰宅した長男の妻が廊下で倒れている患者を発見。以降、寝たきり生活になる。長男夫婦が不在のときに、患者と2人だけで話し合い、「最期のときは短くても1~2週間、長ければ数カ月も続く。その間、長男夫婦が仕事を休むダメージは計り知れず、特に長男の妻が18年勤務している福祉施設は人手不足で介護休暇は無理」と説明すると、患者は「私は先生と嫁の言うとおりにする。どうせ長くは生きないし、向こうで母ちゃんも待っている」と入院を承諾。入院中に私は毎日患者のベッドを訪れたが、昏々と眠っており、最後まで言葉を交わすことはなかった。10日ほど過ぎたある朝、彼は静かに息を引き取った。  小堀医師は言う。 「実は患者と2人きりで話しているとき、勤務中の長男の妻から私の携帯に電話がかかってきました。長男の妻は『今、義父と一緒にいるが、衰弱が激しいので明日にでも入院させてほしい』と嘘の電話をかけてきたんです。それほど追い詰められていたということですね」  小堀医師は、入院したことでこの患者は“人間らしい死”を迎えられたと思ったという。  こうして患者たちと接してきた小堀医師は、これまでタブー視されてきた死への意識が徐々に変わりつつあるとも感じている。 「ひとつはコロナで病院にお見舞いに行けなくなったこと。面会できないのは嫌なので、家にいてほしいという人が何人もいました。それと格差の問題もある。介護してくれる人がいない独居なので入院したいと思っても、お金に余裕がなく在宅死しか選べない人も増えています。そういう人にとっては病院のほうが安住の地になる可能性が高いのに」  さらに、約800万人といわれる団塊の世代が後期高齢者になる2025年問題への対応は、在宅医療の大きな課題になると指摘した。 「国は在宅診療を推進していますが、はたして高齢者の人口爆発を迎えたときに医師は気軽に在宅診療に応じてくれるのかというのが大きな問題になる」  06年に国は在宅療養支援診療所を創設し、診療報酬を高くした。これに予想を超える数の医療機関からの届け出があった。 「ところが、ちゃんと往診をしている在宅療養支援診療所は決して多くない。年間50人以上の在宅診療をしている診療所はわずか3%しかない。しかもその3%の医療機関が訪問診療全体の75%をカバーしているのが現状です。特に地方部での医師不足は深刻です」  中でも大きな課題は夜中に容体が急変したときだと小堀医師は指摘する。 「日中なら来てくれる医師も、夜中には電話をかけても出てくれない診療所が多くある。そこで仕方なく救急車を呼ぶことになるのですが、亡くなってしまった場合には救急車は対応できないので、警察マターになる。つまり、検視が行われる事態になってしまう。地域によっては病院外での死の約70%が検視となっており、これが是正されることが重要になってくると考えています。在宅での看取りの際には医者が来てくれないとどうにもならない。つまり鍵を握るのは医者の確保ということになるのですが、数が足りるだけではなく、患者それぞれが“かかりつけ医を持つこと”が大切になってきます」 ■事例6(87歳男性・慢性呼吸不全)  認知症の妻、次女との3人暮らし。次女は介護に熱心で、父親の住み慣れた自宅での看取りを強く希望しているが、日中は仕事があり不在。ある日、所用で訪れた民生委員が患者の急変に気付き、緊急連絡を受けて往診。まさに「穏やかな最期」に近い状態だったが、次女の携帯電話がつながらない。認知症の妻は事態を全く理解していない。そこで堀ノ内病院に救急搬送し救命。1カ月後に退院したが、退院7日目に亡くなった。次女が看取りに専念するために退職した直後のことだった。  小堀医師は言う。 「私が救急車を要請したのは熱心に父の介護をしてきた次女が不在の間に父親を死なせたくなかったからでした。私が患者家族の状況を熟知している“かかりつけ医”だったからできた判断だったと思っています」  小堀医師は患者とその家族が望む最期の時間を実現する後押しをするのが自分の仕事と考えるようになったという。 「事例1で紹介したスマホを持って入院した男性についても、今はそれが本人の望んだ死に方だったと受け入れられるようになりました」 (本誌・鈴木裕也)※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
重度自閉症の20歳芸術家GAKUさん 才能を花開かせたのは父の人生をかけた決断だった
重度自閉症の20歳芸術家GAKUさん 才能を花開かせたのは父の人生をかけた決断だった GAKUさん。アトリエにて(写真提供)  川崎市の雑居ビルにある小さなアトリエに入ると、椅子に座ってハンバーガーにかぶりつく青年がいた。バンズを手でちぎってはそばのゴミ箱に捨て、肉をかじる。  直後、いきなり振り返り、1枚の動物の絵を見て叫んだ。 「タイガー!」  彼は重度自閉症のGAKUさん(20)。時に1枚の絵が数百万円で売れるアーティストである。その才能が花開いた背景には、ともに歩む父の大きな決断と、偶然の出会いがあった。  GAKUさんの本名は佐藤楽音(さとう・がくと)という。見た目は髪形も服もおしゃれな今どきの若者という印象だが、3歳のときに重度の自閉症と診断された。  IQは暫定で25。質問に答えずに走り去ってしまうため、測定不能なのだ。父の典雅さん(50)によると、言葉を発することはほとんどなく「言語能力は幼稚園児以下」。4歳から米国に9年間居住したため、英語と日本語の簡単な単語をたまに口にする。  自閉症は、落ち着きなく動き回ってしまう状態をいう「多動」や、極端なこだわりの強さなどが特性とされるのだが、GAKUさんも多動の特性が強く、5分としてじっとしていることができない。移動はいつも小走りだ。こだわりも半年ごとくらいに変わる。今は毎日5回のシャワーと、アトリエ近くの喫茶店に手を洗いに行くこと。テーブルに汚れを見つけると、母に拭きつづけるようにせがむのが“マイブーム”である。 父の典雅さん(左)とGAKUさん(写真提供)  典雅さんによると、通っていた中学の支援学級では時間割り通りの行動は取らず、教室で寝そべったり校舎を飛び出してしまったりすることもあった。あまりにも突拍子もないことをするが、注意したぐらいでは治らなかったという。 「やらないと気がすまないんです。他人に害を与えかねない行為だけは厳しく接してやめさせますが、その他は止めません。止めたとしても、別のこだわりが生まれるだけだと親も学びました。以前はトイレを流し続けたり、書類を大量にシュレッダーにかけ続けたりしたこともありました。幼少期はピザを天井に向けて投げたり、車の中や部屋の真ん中で用を足し続けたりしたこともありましたね」 300万円で買われた絵(写真提供)  典雅さんは、そう笑う。そんなGAKUさんだが、絵を描くときだけはアーティストとしてのスイッチが入る。このアトリエで年間200以上の絵を仕上げており、数十万円から、高いものでは300万円で買われた作品もある。個展も多く開催し、来年早々にも蔦屋代官山などでのコラボレーション企画が決まっており、この他にも調整中の企画があるという。 ■成長期に大きく荒れる  GAKUさんが絵に目覚めたのは16歳の時だ。転機の伏線はその少し前、GAKUさんが中学生時代の典雅さんの決断にあった。  背が伸び、大人の身体へと成長していく年頃。GAKUさんはとても荒れていた。 「身体が大人へと変化していく中で、自分の今後に不安を抱いたのだと思います。家では毎日のようにパニックを起こし、椅子を投げたり妻の腕に噛みついたりと激しく暴れていました。『大きくなったね』など、成長を喜ぶ言葉をかけることは特にNGでした」(典雅さん)  息子のこれからをどうするか。  典雅さんの脳裏にはある記憶が焼き付いていた。米国から日本へ帰国した時、GAKUさんを近所の福祉施設に預けようと見学に行ったのだが、その時に感じたのは福祉の現場の強い閉塞感だった。  その経験と、息子の現実。典雅さんの心には、ひとつの思いが浮かんだ。 「息子の成長に合わせて、彼が生きやすい環境を作っていきたい」 GAKUさん(写真提供)  福祉の分野とはまったく違う仕事をしてきた典雅さんだが、GAKUさんのために大きな決断をした。自らの手で発達障害児を対象とした「放課後デイサービス」を立ち上げ、障害者福祉の仕事へと完全に道を変えたのだ。さらに中学卒業に合わせてフリースクールを作り、GAKUさんはそこに入学した。  大切にしたのは、障害児たちができないことを正すのではなく、その人なりの可能性を模索する居場所作りだ。 「やりたくないことをねじ込もうとするのではなく、何か可能性が見えたらそこに集中してみようと。時間割りも設けませんでした」(典雅さん) 古田ココさんとGAKUさん(写真提供) ■運命を変えたデザイナーとの「出会い」  施設で働きたいと現れたのが、ファッションデザイナーとして活躍した経験を持つ古田ココさんだった。赤い髪に真っ赤なマニキュア。福祉の世界では異色であろう彼女との出会いが、GAKUさんの運命を変える。何事にも興味を示さず、教室をすぐに飛び出してしまうGAKUさんを美術館に連れて行くようになったのだ。  16歳になって間もない頃、川崎市にある「岡本太郎美術館」に連れ立ったココさんから、典雅さんにメッセージが届いた。 「がっちゃん(GAKUさん)が同じ絵を見ながら5分以上、立ってましたよ」  両親ですら一度も見たことがない出来事が、ココさんの目の前で起きたというのである。翌日、GAKUさんが発した言葉に、2人はさらに驚かされた。 「GAKU、Paint(がく、絵を書く)」  絵の具と紙を渡すと、円形の模様をいくつか書ききって「GaKu」と名前まで入れて、こう言った。 「たいよー!」  岡本太郎と言えば「太陽の塔」があまりにも有名だが、GAKUさんにその知識はなく、美術館の展示物の説明書きも理解することはできない。何から太陽だと感じとったのか、典雅さんもココさんもいまだに分からないという。 GAKUさんが初めて書いた太陽の絵(写真提供)  GAKUさんが絵を描き切ったこと自体が驚きだったが、画家を目指したこともあるココさんは、その一枚の絵に才能を確信。絵に集中してみようと典雅さんに提案した。 「どこまで続くか見てみようと、まずは画材を揃えました」(典雅さん)  その日以来、GAKUさんは毎日絵を描くようになった。描く時だけは、なぜか多動が消える。  どんな描き方が得意かを知るために画材を増やすなど、それとないサポートはした。ただ、絵はすべてGAKUさんの我流。最初はカラフルで抽象的な絵が中心だったが、いつしか笑顔の動物の作品が加わり、たまにダークな色の渋い絵も登場するようになった。  気が付くと、中学時代の大荒れだったGAKUさんはいなくなっていた。 「ミュージアム、飾る」。そう言い出したGAKUさんのために1年後、都内であいている美術館を探し初の個展を開いた。どうせならと価格を付けたら、15万円の絵が10枚売れた。  GAKUさんが次に口にしたのは、なんと「NewYork」。あまりに無謀と思いきや、クラウドファンディングに挑戦するとお金が集まり、2019年にニューヨークで個展が実現。これをきっかけに有名バッグブランドとのコラボ企画も生まれた。 ■会場では「営業スマイル」も  アーティストとして徐々にその名が広まっているGAKUさん。とはいえ、両親は多動とこだわりに合わせて暮らしているため、家では毎日バタバタだ。GAKUさんが生まれて以来、途切れることはない。それでも典雅さんは、「親は本当に大変ですよ。ただ、大変と不幸はイコールではないですよね」と笑う。  GAKUさんが絵を書き始めて4年。旅行先で雨が降ったことがあったが、帰った後に雨粒をイメージした絵を初めて書いた。様々な場面で何かを吸収し表現する姿に、何度も驚かされてきた。  個展の会場では「営業スマイル」を作るようになった。お客さんに近づいて、笑顔で何かを話しかけるのだ。 「『みやまえだいらにちゅー!』って、通っていた中学の名前を言ったりするだけですが、それが自分の仕事だとちゃんとわかっているんです」と典雅さん。息子なりの自立を、親として感じ取っている。  GAKUさんのアーティストとしての活動が本格化する中で、障害をどこまで明かすか、周囲と話し合ったこともあったという。結果、何も隠さないことに決めた。 「自閉症は、まだまだ知られていません。奇妙な人がいると思われてしまうだけのこともあります。息子を通じて、自閉症にどのような特性があるかを知ってもらえたら、他の自閉症の当事者や家族の生きやすさにつながるんじゃないかと思うんです。そして、障害当事者にもその人なりの可能性があるということ。その大切なことを息子の姿と作品から感じ取ってもらえたらと考えています」  言葉をほとんど持たないGAKUさんのありのままの姿とその絵が、何かをつなげる。アーティストとしてだけではなく、もう一つの可能性も典雅さんは信じている。 (AERAdot.編集部・國府田英之)
「言葉の人」美智子さまはいま何を思われるのか 空気と向き合い続け
「言葉の人」美智子さまはいま何を思われるのか 空気と向き合い続け 98年、国際児童図書評議会世界大会に向けてビデオメッセージで語る美智子さま(宮内庁)  皇室をめぐって揺れた2021年が終わる。さまざまな騒動が浮き彫りにしたのは、美智子さまという女性皇族が、どれほど稀有な存在だったかではないか。コラムニストの矢部万紀子氏が「言葉の人」美智子さまの静かな迫力としなやかな強さを読み解く。 *  *  *  昭和の終わりから平成にかけて新聞記者をしていた。「元旦の1面トップで特ダネを飾るのが、記者の誉れ」といった話を先輩記者から時々聞いた。  1959(昭和34)年1月1日、朝日新聞朝刊の1面トップは「三十四年度予算案きまる」だった。総額は「一兆四千百九十二億」と見出しにある。特ダネ、ではない。  でも別な目玉記事が、ちゃんと用意されていた。国民的大関心事。それは<“よい家庭”をつくりたい 正田美智子さんにアンケート>。「予算案」の隣に載っていた。  そう、上皇后美智子さまだ。前年11月に皇太子さま(当時、現在の上皇陛下)との婚約が発表され、たちどころに国民を魅了した。宮内記者会がアンケートを送り、回答が31日に寄せられた、とある。お二人の写真(正田さんは振り袖)も添えられ、華やかだ。  見出しの「“よい家庭”をつくりたい」は、以下の回答文に由来する。 <よい家庭がつくれて、それが殿下のご責任とご義務をお果しになるときのなにかのお心の支えになり、間接的な、ちいさなお手伝いとしてお役に立てばと心から望み努力をしたいと思っております>  62年経って読み返すと、美智子さまスタイルの源流を感じる。常に上皇さまを立て、一緒に歩く時は必ず少し後ろだった。果たした役割は決して「ちいさなお手伝い」ではなかったが、美智子さまの心のありかがわかる。  実はこの回答、前段がある。それと問いとをあわせて読むと印象が変わる。問いは「国民はこんどのご婚約によって、古い皇室に新風が吹きこまれるものと期待していますが、これに対するご感想は……」で、答えはこうだった。 2021年10月、結婚会見時の小室眞子さん(右)と圭さん(代表撮影) <どんな結婚の場合でもその当初には「家庭」をつくるという大きな課題があると思います。(略)こん度の場合、その最初の課題をとびこしてすぐにそれ以上の問題と結びつけてたくさんの期待があるとしたらこわいことだと思います>  この後に先ほど紹介した文が来る。つなげて私なりに翻訳するなら、「皇室に与える影響と言われても困る。『家庭』をつくり、夫を助けるよう努力するのが先決」となる。「こわいことだと思います」という表現で、社会の空気に釘を刺した。正田さん、すごい。  と思ったのは、小室眞子さんのことがあったからだ。その結婚は、皇族の「公」と「私」という問題を提起した。相手の家族の「借金問題」をきっかけに、眞子さんの愛は大きな批判を浴びた。公と私、そのバランスが少しでも崩れたとみなすと、バッシングに転じるのが国民。結果として眞子さんは「複雑性PTSD」と診断された。  結婚前の正田さんは、すでに「空気」との付き合い方を心得ていた、と言ってもよいと思う。もちろん正田さんへの「期待」と眞子さんへの「バッシング」はまるで違う。だがそれにしても、自分の意見を表明する強さと表現の巧みさには感銘させられる。  放送大学教授の原武史さんはこの11月、TOKYO FM「未来授業」に4回出演、「令和の皇室を考える」と題して多面的に語った。初回のタイトルは「眞子さんを追い詰めたもの」。コロナ禍で皇族が直接国民と会えなくなったことが、眞子さんにとって大変な不運だった、と述べた。  お濠の内側に幽閉状態のようになり、国民の考えを実感できないまま、SNSの情報だけが眞子さんの中で肥大化し、それが眞子さんを追い詰めたのではないかと指摘、63(昭和38)年の美智子さまと比較していた。  同年3月、美智子さまは第2子を流産。危機に直面したが、葉山御用邸などでの静養を経て、立ち直る。外に出たからだと、原さん。「皇太子(当時)と地方に出かけ、普通の人たちと対話をし、『手応え』を感じていく。それが大きなきっかけとなった」。眞子さんにはそれがなく、非常に気の毒だった、と述べた。 2018年12月の天皇誕生日の一般参賀  地方での対話については、原さんの著書『平成の終焉──退位と天皇・皇后』に詳しい。地方紙を丹念に読み込み、2人が地方で開いた「懇談会」についても詳述している。公務に合わせ、自分たちより若い世代を中心に、農民、漁民、学生などと1~2時間、意見を聞いたり質問をしたり、そんな会だったという。  63年9月、山口県での国民体育大会夏季大会開会式への出席は流産での静養後、初の公務。そこでも懇談会は開かれた。それを伝える「防長新聞」(9月18日)が紹介されている。  美智子さまが「農村に女性をおヨメにやりたくないとか、行きたくないという話をききますが、どういうわけでそうなるのか調査したものがありますか」と質問したところ、23歳の男性が「(これからの農村青年は)ヨメに合わせて経営改善をしていくべきだ」と答え、24歳の男性が「女を養ってやるという考えがそもそもおかしいのであって、ヨメといっしょに働くのだという考えをもたねばウソだ」と答えたという。 ◆国民と接して感じる手応え  美智子さまは、23歳男性の意見に「ことのほかお喜び」になり、24歳男性の意見には「ご夫妻とも声を立ててお笑いになるなごやかな一コマもあった」と記事にある。  これは、昭和30年代に語られた農村におけるジェンダー平等ではないだろうか。原さんはこう書いている。 <一人で引きこもらず、人々との対話を続けることで危機を乗り越えた皇太子妃は、どこまでも「言葉の人」でした> 「言葉の人・美智子さま」を表すエピソードは数多あるが、75(昭和50)年から美智子さまが参加している「東京英詩朗読会」を紹介する。  その前年、白百合女子大英文学部教授のマリー・フィロメーヌさんが始めたもので、美智子さまもメンバーの一人として英語の詩を訳し、日本語の詩や和歌を英訳し、朗読した。平成になってからも、年に1度は参加していたという。  この会のことを「文藝春秋」(2015年1月号「美智子さまが訳された英詩のこころ」)で紹介したのは、渡邉允・元侍従長。美智子さまの40年にわたる取り組みを「才能と絶えざる努力の統合」とした上で、こう書いた。<ご苦労があっても、そこに楽しみを見出されるという皇后さまのご性格が現れていて、それはもしかすると科学者としての天皇陛下のご性格とも響き合うものではないかと拝見している> 58年、軽井沢でテニスを楽しむ結婚前の美智子さま  美智子さまが取り上げた詩人の一人に、新川和江さんがいる。産経新聞「朝の詩」の選者だった新川さんの詩で美智子さまが訳したものに「わたしを束(たば)ねないで」がある。『降りつむ 皇后陛下美智子さまの英訳とご朗読』に収められているが、読んだ時の衝撃は忘れられない。こう始まる。 <わたしを束ねないで あらせいとうの花のように 白い葱のように 束ねないでください わたしは稲穂 秋 大地が胸を焦がす 見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂>  以後、わたしを「止(と)めないで」「注(つ)がないで」「名付けないで」「区切らないで」と続き、こう終わる。 <わたしは終りのない文章 川と同じに はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩>  女性が女性であることの苦しさから立ち上がる。その宣言を柔らかく、力強くうたっていると思った。美智子さまがこの詩を選んだ意味を今、改めてかみしめる。皇室の現在と重なる。  12月22日、「安定的な皇位継承のあり方を議論する政府の有識者会議」の報告書が岸田文雄首相に提出された。女性皇族が結婚後も皇室にとどまる、旧宮家の男系男子が養子として皇族復帰する。その2案を政府が検討、国会に報告するという。皇室における「人手不足」対策で、これが喫緊の課題。とは、とても思えない。  眞子さんの結婚から見えてきたのは、女性皇族という存在の曖昧さだと思っている。「男系男子による継承」を定める皇室典範は、女性皇族を「天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とだけしか定めていない。最初から「男性でない」存在で、公務を懸命にしてもその先が見えない。ここが曖昧なままでは「第2の眞子さん」が出ても、ちっともおかしくないと思う。  だから「わたしを束ねないで」を思う。女性の内なる叫び。女性皇族も女性。そのことを思う。  美智子さまの「言葉の人」を語る上で外せないのが、平成への代替わりに伴って起きた一部メディアによる「皇后バッシング」のことだろう。 1994年、父島での天皇、皇后両陛下(写真中央、肩書は当時)  93(平成5)年10月のお誕生日に美智子さまは倒れ、言葉を失った。だが2週間余り後に、陛下と共に四国へ行く。声を取り戻したのは94年、硫黄島訪問の翌日に訪れた父島で、アオウミガメを放流する地元の子供たちに声をかけた時だ。  原さんがラジオで語った「国民と接することで感じる手応え」が美智子さまを再び助けた。特筆すべきは、倒れる前に美智子さまが記した誕生日の文書だ。静かな迫力に満ちた「言葉の人」そのものの文章だ。以下、引用する。 <どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。(略)しかし事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません>  美智子さまは時に、具体に踏み込む。『平成の終焉』の中で原さんは、美智子さまが拉致問題に2度言及したことに触れている。最初は小泉訪朝のあった02(平成14)年の誕生日。「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません」 ◆美智子さまがいま語るのは  2度目が18(平成30)年、皇后として最後の84歳の誕生日。「陛下や私の若い日と重なって始まる拉致被害者の問題などは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません」  政治性を指摘されかねないこれらの言葉の裏には、「上皇さまと共に、国民と触れ合ってきた」という自負があるのではないだろうか。陛下も退位をにじませるビデオメッセージ(16年)の中で、こう述べている。 「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」  寄り添う。これこそお二人のテーマだろう。美智子さまの拉致被害者についての2度目の記述は、こう続く。「これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います」  皇室はいま、国民と触れ合えないという大問題に直面している。コロナ禍がつれてきた事態で、当分解消されないだろう。天皇陛下と雅子さまは「オンライン行幸啓」をし、専門家を招いての進講に熱心に取り組んでいる。が、国民にはなかなかその活動が見えない。  美智子さまなら、今何を語るだろう。そう思ってしまう。結婚する前から世の「空気」と向き合い、荒れる言論にも正々堂々と意見を述べた。“ジェンダー平等”を何十年も前に語り合い、女性が女性であることの苦しみを拾い上げた。そういう「言葉の人」だから、今の思いが知りたくなる。  18年の誕生日には、代替わりを控えての感慨がさまざま語られた。次の時代についての言及は短く、ご自身についてはこう述べた。 「私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これから皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います」  令和の、そして未来の皇室を考えるのは、陛下と雅子さま、そして今を生きる国民。それが美智子さまからのメッセージなのだと思う。※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
愛子さまが担う“将来と決意” 黒田清子さんとの共通点は「控えめな星が好き」
愛子さまが担う“将来と決意” 黒田清子さんとの共通点は「控えめな星が好き」 2021年12月、成年の行事に臨む愛子さま  美智子さまをはじめ、これまでの皇室を支えてきた女性皇族。その将来を象徴するのが、このほど成年皇族となった愛子さま。自然を愛し、勉学に励みつつ、女性皇族の宿命をも背負う。黒田清子さんとの共通点と、愛子さまの将来、そして決意とは。ジャーナリストの友納尚子氏がレポートする。 *  *  *  成年を迎えられた愛子内親王殿下は12月5日に無事に行事を終え、毎冬楽しみにされている天体観測を天皇、皇后両陛下とご一緒になさった。 「見つけた!」。愛子さまは、御所の大きな窓からプレアデス星団、通称「すばる」を見つけて、喜ばれたそうだ。 「すばる」は平安時代に清少納言が書いた随筆「枕草子」にも登場する星で、明るさは控えめながら、青白い美しさで知られている。  幾つもの星が集まっていることから“結ばれる”などの意味も持つともされるが、見方によっては仲良く楽しそうにも映る。  愛子さまはこの星たちを見ていると、希望が感じられるという。成年皇族となって初めての天体観測は、これまでとは違って見えたのだろう。輝き続ける星々を見つめられるお姿からは、成年皇族としての決意が感じられたそうだ。  愛子さまが星を好きになったのは、天体観測をよくなさる陛下の影響だった。皇太子時代から妹の清子内親王殿下(黒田清子さん)ともよく望遠鏡や双眼鏡で夜空の星を眺められたという。 「紀宮さまも愛子さまと同じように、明るい光を放つ星よりも少しぼんやりとした光だけども美しい星が好きだといわれました。皇太子さまとは仲が良かったため互いに星の名前を言い当てたり、探されたりしながら楽しい時間を過ごされた思い出がおありになるそうです」(元宮内記者)  愛子さまが成年の行事で着けたティアラは、清子さんからの快諾を得た借用というだけでなく、ともに天皇家の長女として生まれ、お育ちになったお二人の「歴史の継承」でもあった。  祝賀にご夫妻で出席なさった清子さんは、愛子さまの佇まいをしっかりと見届けられていたそうだ。優しさの中に皇族というものへの思いが託されていたのかもしれない。 05年、朝見の儀の紀宮さま(当時) (代表撮影)  紀宮(当時)は、皇太子同妃両殿下(同)の、徳仁親王殿下(同)、文仁親王殿下(同)に続く3人目のお子さまとして、1969年に誕生された。  その年は、アメリカの宇宙船「アポロ11号」が人類で初めて月面に着陸し、日本は学生運動に揺れ、高度経済成長の最盛期を迎えるという激動の時代だった。  当時の皇太子は紀宮の教育方針について「何よりも本人の意思が大切でしょうが、将来は結婚して身分を離れるのだから、例えば社会福祉に役立つような皇族としての教育と、一般市民になった時のための教育とを調和を取りながら進めたい」と述べられている。 「いずれは皇室を離れる身」という将来を見据えたものだった。時代の考え方と母親の美智子さまが社会に出ずに皇室入りしたことが背景に窺(うかが)えた。  一方の愛子さまが生まれた2001年は、米同時多発テロなどの影響もあり景気は後退、暗い話題が多い中での愛子さまご誕生の報は、国民から大きな祝福を持って迎えられた。  皇太子(同)はご誕生の会見で、 「子どもには陛下をお助けして、そして、国や社会のために尽くす気持ちを養って欲しいというふうに思います」  と希望を述べられた。  美智子さまと雅子さまはともに、お子さまに合った良い環境を求めて幼稚園選びをされた。  結果、紀宮は3歳で民間の「柿ノ木坂幼稚園」に1年間通園した後に学習院幼稚園へ。愛子さまは、両殿下が民間の幼稚園のパンフレットを多く取り寄せ検討の末に学習院幼稚園に決まった。  プライベートでは、ともにご家族で水族館や動物園などに出掛けられた。  注目すべきは、紀宮が学習院初等科2年生の時から美智子さまと二人で旅行をなさるようになったことだった。 ◆清子さんの自立促す教育  皇室を離れる日まで見聞を広めるためにも多くの体験と思い出を、という親心だったのだろう。  お二人は、毎年のように箱根、愛知県の熱田神宮、和歌山の白浜などを訪れて、紀宮が12歳の時には京都の修学院離宮、大宮御所を回られた。紀宮が時代劇ファンだったことから東映の太秦映画村へも足を運ばれて、江戸の古き町並みのセットに、感激なさったといわれた。 1975年、即位50年の新年を迎える昭和天皇ご一家(当時)  88年の18歳の時には、岐阜県美濃地方のパイプオルガン工房にも宿泊されている。  後に紀宮はここに親友とやお一人でも泊まられて、家庭の味や暮らしを知ることになったという。こうしたことも美智子さまの、自立を促す教育だったのかもしれない。  愛子さまは雅子さまがご療養中ということもあり、いまだに母娘二人旅は実現していない。愛子さまはご一家でスキーや雅子さまの妹親子とご一緒に近郊に出かけられることはあったが、それだけでも「雅子妃は公務を休んで遊んでばかりいる」とメディアから批判を受けてきたので、療養中である限りたとえ旅行をなさったとしてもリラックスできないかもしれない。 「愛子さまは、それでもお友だちとボウリングをしたり、水族館へ行ったりして楽しい時間をお過ごしになってきたので、不満を漏らされるようなことはなかったそうです。『急がなくても行こうと思ったら、いつでも行けるから』とおっしゃって、雅子さまを庇(かば)うようにも感じました」(ご一家と親交のある人物)  紀宮も愛子さまも、幼い頃からご両親に命の大切さを教えられて、たくさんの生き物に囲まれて育ってきた。  紀宮は12歳の誕生日に、かねて飼いたいといっていた犬を両殿下からプレゼントされた。犬種は紀州犬で、名前は「千代」。学習院初等科の卒業文集に将来の夢は「盲導犬の指導員になりたい」と書かれるほどだった。 ◆動物保護にも興味と関心  紀宮は「千代」にも盲導犬の訓練を受けさせていたが、92年に紀宮が海外訪問中に預けられた施設から脱走してしまい、そのまま行方知れずになってしまったという。  その後も紀宮の犬に対する愛情は変わることはなく、学習院女子高等科から盲導犬の指導を始められている。  愛子さまと犬の関わりも深いものがある。既にご誕生された時には、家に両陛下が可愛がってこられた2匹の雑種犬「ピッピ」と「まり」がいたことから、家族のような存在だったという。 02年、栃木の湿原を散策する皇太子ご一家(当時)  赤坂御用地に迷いこんだ犬が産んだ10匹のうちの2匹で、後は職員が引き取った。  今でこそ保護犬や殺処分問題に注目が集まるが、当時はまだあまり知られていなかった。犬を含めた小さな命を守ることを両陛下が大切になさってきたからこそ愛子さまにも教えられてきた。  愛子さまの幼稚園の通園バッグには、雅子さまが愛犬2匹の刺繍を施されていたり、愛子さまも学習院初等科になってから、犬の首に巻くバンダナを手作りされた。 「宮さまは、『ずーっとずっと だいすきだよ』という絵本が大好きで、妃殿下(雅子さま)もお好きだったことからよくご一緒に読まれていたようです。物語には、愛するペットとの触れ合いや別れなどから教えられることがあるそうで、教科書にも載るほどの作品だと妃殿下はお話しになっていました」(元東宮関係者)  その後、2匹は老衰で亡くなり、動物病院に保護されていた生後2カ月の3代目となる犬を引き取られた。愛子さまは「まり」に寄せて「由莉(ゆり)」と名付けて、きょうだいのように可愛がられてきた。  12歳となった由莉は、愛子さまの20歳のお誕生日の写真にも凜として一緒に写っていた。  愛子さまも学習院初等科の卒業文集には、紀宮と同じ犬がテーマで「犬や猫と暮らす楽しみ」を書かれている。  紀宮と同じ初等科5年生の時から盲導犬活動にもご関心が高かった愛子さまは、毎春、学習院大学で行われるイベント「オール学習院の集い」で「アイメイト協会」が主催するブースにも必ず立ち寄られてきた。  雅子さまと愛子さまは動物介在療法にもご関心が高い。 「お二人やご一家で、動物介在療法のセミナーや実際に病院などに出向かれて、犬と患者との触れ合いを見学なさってこられました。犬によって、患者さんの表情が明るくなる様子に感動なさっておられました」(宮内記者)  今後は愛子さまも紀宮と同じように、公務で盲導犬の活動を見学、体験なさるかもしれない。  お二人の共通点はまだある。愛子さまが学ぶ学習院大学文学部日本語日本文学科(旧・文学部国文学科)は紀宮と同じ。  お二人とも、幼い頃から、独自の歌やお話を作られるのが好きだったという。学校で学ばれるようになると、日本で生まれた短歌や詩、戯曲といった文学作品を通じて、時代背景や作者の見方を究めていかれた。  紀宮は、美智子さまの文学に対する捉え方のセンスや文学の才能を受け継いでいるといわれる。中等科2年の時の詩「母の日に」は次のようなものだった。 <母の日に夕焼けの絵を書いた 夕焼けはどこか母に似ているから 夕焼けの絵を書いた ただそれだけの絵なのに 母は大事にたなの上に かざってくれた 夕焼けのよく見える 窓の近くにかざってくれた>  紀宮は大学では、和歌を学ばれて、卒業論文は「八代集四季の歌における感覚表現について」。古今和歌集から新古今和歌集までの歌を五感に分類したものだと言われ、歌会始の歌にも役立つほど研究されているという。  愛子さまも幼稚園のご入園前から文字の成り立ちなどを学び、五七調の歌や俳句、詩などを作られてきた。初等科卒業前の文集に歴史研究レポート「藤原道長」が掲載されている。  大学はコロナ禍で、これまで1回しか通学していないが、オンラインで課題と授業に取り組む日々を送られている。  今後は学業を優先されながら、社会福祉、慈善事業などの公務にもご出席されることだろう。卒業後はどのような仕事に就きたいと願われているかは分からないが、陛下と同様、ご興味のあるテーマについて継続して研究なさる仕事を選ばれるのではないだろうか。 ◆公務と研究を両立する働き  愛子さまにとって、母親の雅子さまは理想の女性であり、理想の働く女性でもある。  それは、紀宮にとっての美智子さまも同じ存在であっただろう。  紀宮は卒業後、「公務に差し支えのない範囲で」(会見)、「山階鳥類研究所」の非常勤研究助手となった。同資料部に配属された時には、お茶くみなどもする配慮をされていたという。内親王が4年制大学を卒業して働かれるのも給与を得られたのも初めてのことだった。皇居や赤坂御用地でのカワセミの生態を研究しながら、専門書にもレポートを寄せられている。 2005年、アイルランドのメアリー・マッカリース大統領(中央)と話す紀宮さま(当時)  同時に公務も本格化していった。宮中の儀式を始め、式典や大会へのご出席、盲導犬の育成や社会福祉施設への訪問など成年皇族としての約15年間で、740回の公務と14カ国を公式訪問なさった。  まさに公務と研究活動を両立される働きぶりは、男女雇用機会均等法世代の女性を体現されてもいた。千葉県我孫子市にある研究所にもご結婚前まで、週に2回、片道1時間以上をかけて車で通勤されていた。  33歳の誕生日に際し、「継続的な責任ある立場に就いたりすることは控えてきた」と女性皇族としての公務について述べられた紀宮。皇籍を離れ黒田清子さんとなった後も、元皇族として伊勢神宮祭主のご活動を続けている。  愛子さまは、どんな女性皇族を目指すのだろう。 「愛子さまは成年の行事の際、清子さんがこのティアラを着けて、皇族としての務めを大切に行ってこられたことを両陛下から聞いておられただけに、身が引き締まる思いで行事に臨まれたといわれています」(宮内庁関係者)  愛子さまの公務への取り組み方は、清子さんと同じように、緩やかなものから本格化していくことになるだろう。注目されるのは「継続的な責任ある立場」に就けるかどうかだ。時代は変わり、やがて愛子さまが初の責任ある公務に取り組むことができるか期待が寄せられている。※週刊朝日  2022年1月7・14日合併号
シリア武装勢力拘束された安田純平・特別寄稿【後編】「身代金」報道はなぜ、流布されたのか?
シリア武装勢力拘束された安田純平・特別寄稿【後編】「身代金」報道はなぜ、流布されたのか? 安田純平さんが解放について、取材に応じる安倍晋三首相(2018年10月24日)  中東シリアで武装勢力に3年以上、拘束された後、2018年10月に解放されたジャーナリストの安田純平さん。釈放から3年あまりの歳月が過ぎたが、今も多くの謎が残されたままだ。帰国した安田氏は政府、支援団体など「釈放」に関わった関係者を徹底取材。知られざる人質交渉の闇を追う。【前編から続く】 ***  2015年6月にシリアに入って拘束された私の家族に2016年1月1日、拘束者側からとみられるメールが届いた。私が拘束者に個人情報を書かされた文書が添付されていた。  メールには「拘束者は、日本政府は彼の件を非常に悠長に考えていると言っている。彼らは様々な方法で日本政府に連絡を入れているが、現在まで何の進展もない」などと英語で綴られていた。  送信者は自らを「仲介者であるアブワエルに頼まれた際に日本政府に連絡を入れている」とし、「アブワエル」の電話番号とネット通話サービス「Skype」のアカウント名が記されていた。妻はこのメールをすぐに外務省の担当者に転送した。  シリアで発生した人質事件ではほとんどの場合、家族に金銭等を要求するメールが届く。しかし私の場合はこのメールだけで、「殺す」といった脅迫も金銭等の要求も一度もない。 「アブワエル」は当時、多くのメディア関係者が接触していたトルコ在住のクルド系シリア人だ。取材したジャーナリストの藤原亮司さんは「シリアで人質にされたイタリア人女性の解放に立ち会ったといい、女性の隣に札束が山積みにされている画像を見せられた」という。私が書かされた文書をメディアに提供していたのもこの人物だ。私が映った動画や画像をネットやメディアに公開していた自称シリア人ジャーナリストは、英語のできない「アブワエル」からそれらを受け取って代弁していたにすぎない。  日本政府はこの「アブワエル」を一貫して無視し続けた。外務省邦人テロ対策室の歴代担当者は、私の妻に「アブワエルは相手にしていない」と繰り返し語っていた。彼は2016年6月に「日本政府が拘束者の要求に反応せず、仲介に失敗した」として事件からの「撤退」を表明し、当時の萩生田光一官房副長官は記者会見で「機微な内容。仲介者と称する人も大勢いる。詳細は控えたい」と述べている。 「アブワエル」と接触すれば必ず身代金の交渉になる。「テロに屈しない」と公言してきた日本政府が彼を無視したとしても矛盾はない。2015年1月にイスラム国(IS)に殺害された後藤健二さん、湯川遥菜さんの事件でも、当初は後藤さんの家族に脅迫メールが来たが、日本政府はやり取りに関与しなかったことが内閣の「検証報告書」などで明らかになっている。 国会で答弁する萩生田官房副長官(当時)   後藤さん、湯川さんの事件では、家族が対応している間に当時の安倍晋三首相が外遊先のエジプトで「ISIL(IS)と闘う周辺諸国を支援する」として2億ドルの人道支援を発表。3日後にISが同額の2億ドルを要求する動画を公開し、その3日後に2人は殺害された。私の事件でも拘束者からの接触を無視すれば同様の展開になり得ると容易に予想できるはずだ。  つまり日本政府は、拘束者である可能性のある者からの接触を無視した時点で、「殺されても仕方ない」と結論づけていた、としか考えられない。  萩生田氏の「仲介者と称する人も大勢いる」との発言は事実そのとおりで、私の家族には多数の自称仲介者や自称事情通が殺到した。人質事件が報道されると必ず起きる現象だ。「アブワエル」についても、外務省の担当者は私の妻に対し「添付されていた文書はコピーされて出回っているものを送ってきただけかもしれない」として、彼が本当に拘束者につながる人物であるかは「分からない」と述べていた。 「アブワエル」が私が書かされた文書を持っている以上、政府に救出する意思があるならば彼が本物の「仲介者」であるか確認したはずだ。 「アブワエル」はアルカイダ系の反政府側組織「ヌスラ戦線」の元メンバーとされていることなどから「拘束者はヌスラ」とする報道が定着したが、シリアでは現地人の人質事件が多発しており、仲介するブローカーのネットワークも存在する。「元ヌスラ」が「ヌスラ」の案件だけ扱っているとは限らない。もしも拘束者が「ヌスラ」でないのに「ヌスラ」に金を払えば、救出できず「ヌスラ」に金がわたるだけという惨事になってしまう。人命のかかる人質解放交渉はそのような推定や想像で行なわれるものではない。  日本政府はその「拘束者を確認する手段」を持っていた。ただ使わなかっただけである。  外務省の担当者に妻が初めて面会したのは、私が拘束されてから約2カ月後の2015年8月26日、妻の実家がある鹿児島市内だった。このとき担当者は妻から「本人(私)しか答えられない質問」として以下の5項目と解答を得ている。 (1)「小さい頃飼っていたひよこの名前」 (2)「家で妻に呼ばれている名前」 (3)「結婚式を挙げた場所」 (4)「婚姻届の証人」 (5)「夫婦でよく行く餃子屋さん」 2018年10月に成田空港で会見した安田純平さんの妻の深結(みゅう)さん  担当者は妻に「身元確認のための質問」と説明したが、これは「生存証明」を得るためのものである。本人しか答えられない質問を相手側に送り、正解が返ってくれば本人が答えたということであり、質問を送った先が本当に本人を拘束しており、回答した時点まで本人が生きていたと証明することになる。  外務省は「海外における誘拐・脅迫Q&A」という44ページからなるパンフレットを公開しており、「生存証明」の重要性を強調している。その中で「誘拐の事実が報道されている場合、嫌がらせや脅迫電話、偽犯人や偽仲介人からの接触もあり得るので、真犯人のみが知り得る被害者の特徴や経歴(巻末の証拠質問リスト参照)を先方に質問し、真犯人かどうかを見究めます」(30ページ)と説明している。  参照先の「証拠質問リスト(参考例)」(40ページ)には9項目の質問例が並び、「犯人は被害者のことを事前に相当調べている可能性が高く、ありきたりの質問では、目的を達せられない場合も考えられます」「なお、写真は様々な偽装手段があるため、必ずしも被害者の生存の証拠にはなりません」と解説している。解放交渉のために「生存証明」が必須であることを外務省自身が認識し、国民に周知しているわけだ。  しかし、私が上記の質問をされたのは解放翌日の2018年10月24日、トルコの入管施設の事務所で目の前にいる在トルコ日本大使館員によって聞かれたのが最初である。外務省は2015年8月に質問項目を用意していながら、拘束中には一度もそれを使用していないか、使用していても私には届いておらず、正しい回答を得ていない。つまり、日本政府は交渉に必須である「生存証明」を拘束中に一度も取得していない。  私がシリアからトルコへ解放された23日の日本時間午後7時ころに「解放の情報」を得た日本政府は同午後11時に当時の菅義偉官房長官による緊急記者会見を開いたが、あくまで「解放の情報」の範囲だった。24日に日本大使館員が私にこれらの質問をして正解を得て初めて解放を確認でき、ようやく「解放を確認」と発表した。  日本大使館員の目の前に私がいてもこれらの質問をしなければ本人と確認できないのに、拘束中に一度も質問をしていない。これで交渉をするなどあり得ないことだ。  2013年にシリアでISに拘束され、半年後に解放されたスペイン人記者のハビエル・エスピノサ氏は、「私には拘束中に1カ月に1回以上の頻度で質問が来た。生存証明を一度も取っていないなら身代金は払っていないだろう」と2019年に来日した際に私に語った。 安田純平さんとみられる男性の動画の一場面  ISは多数の人質を同じ部屋に監禁しており、互いの状況が分かったという。フランス人やスペイン人は「生存証明」の質問がされた後に解放されていったが、米英人は質問が来ないことから交渉が行われていないと察し、無理な脱走を図ったが失敗して激しい拷問を受けている。ISに人質にされた米英人はいずれも殺害されたか行方不明のままだ。 「ヌスラ戦線」にシリアで22カ月拘束され2014年に解放された米国人記者ピーター・テオ・カーティス氏は、身代金要求の脅迫を受けた家族とその支援者が中東・カタールの情報機関のトップに面談して協力を取り付けたことで「生存証明」の質問を送って回答を得ることができ、約1カ月後に解放されている。  2018年10月に私が解放された直後に「カタールが身代金を払った」と報道された。各社とも根拠は在英シリア人NGO「シリア人権監視団」のコメントだけだが、同NGOはウェブサイトに「実は4日前に解放されていたが政治的な理由で発表が遅れた」「安田は記者会見でISに拘束されていたと明らかにした」などと虚偽情報を掲載しており、「身代金」だけは虚偽ではないと信じるに足る理由がどの報道にも見当たらない。各社ともこれらの虚偽については全く報道しておらず、都合のいい情報だけを拾っただけとしか受け止めようがない。  同NGOは多数の通信員を反政府側地域に配置し、空爆被害などの目撃情報を集めて報告してきたことが評価されているのであり、「身代金を払った」という特定組織の内部情報とは全く性質が異なる。通信員自身が証人となり得る目撃情報と違って、内部情報は同NGOが拘束者自身でない限りあくまで「誰かから聞いた話」でしかない。私と同じ施設に拘束されていたイタリア人はさらに半年後まで解放されておらず、私の解放の際に「身代金を払わなければ解放しない」と拘束者側が吹聴するのは当然で、そのまま信じるのは軽率すぎる。 「カタールが仲介した事例がほかにもある」ことから「可能性が高い」とする研究者やジャーナリストもいる。しかし、カタールが仲介するのはあくまで救出の依頼があった場合で、偽犯人や偽仲介人が殺到する中から本物の拘束者を特定しなければならないのはカタールも同じであり、生存を確認しなければ身代金を払うわけにはいかないのも同様だ。 安田純平さんが保護されたトルコ・アンタキヤの入国管理施設を囲む報道陣  カーティス氏の家族には、解放前日にカタール情報機関から「交渉成立」の連絡が入り、事前に受け入れ体制を整えていた。私とほぼ同じ2015年7月にシリアで拘束され、10カ月で解放された3人のスペイン人記者の事件にもカタールの協力があったとされるが、やはり「生存証明」を取られているし、スペイン側は解放を事前に知らされている。  私の場合、カタールから日本政府に解放情報が入ったのは解放された日の日本時間午後9時(現地時間午後3時)頃で、私はすでにトルコにいた。  トルコの入管施設に監禁されて家族に連絡することも許されず、日本政府は翌日まで解放を確認できなかった。カタールが日本政府からの依頼で救出したなら、この扱いは他の事例とはあまりに違っているし、日本政府に対して無礼であり、異常である。  カタールは「過激派」への支援などを非難され、2017年からサウジアラビアやエジプトなどから断交されて孤立していた。そこへ2018年10月にトルコでサウジアラビア人記者が暗殺される事件が起き、同月末に私が解放されたため、「サウジアラビアが記者暗殺で非難されているときに日本人記者を救出することでカタールが外交的にプラスになるアピールをした」という解説が流布された。  しかし、前出のカーティス氏は2018年5月、ドバイに本部のある衛星放送アルアラビアのインタビューで、自身の解放について「カタールが身代金を払った」と述べ、「他国の人質を身代金で救出して感謝されるという手法でアルカイダに資金援助をしていた」と指摘している。「身代金で記者を救出」という手法がすでに非難の材料になっているのに、全く同じ方法が「プラスのアピール」になどなるわけがない。  カーティス氏の解放についてはカタール情報機関が欧米メディアの取材を受けて「協力の成果」をアピールしていたが、私の件では全くしていない。外務報道官は時事通信の取材に対し「情報活動で支援してきたが、解放交渉には直接加わっていない」と強調し、「カタールが人質解放などの努力を試みるとその意図は常にねじ曲げられ、忌まわしい行為として見られる」と不満を表明している。  解放後、外務省の担当者は私に「身代金は払われていない。払ったと言われていることについてカタールから『非常に悲しい』とのコメントが来ている」と語っている。外交の場でこの表現はほとんど抗議ではないか。  人は、同じ時期に印象の強い出来事が起きると関連があるように錯覚しがちである。「地震の前にナマズが騒いでいた」と関連付けて錯覚する宏観異常現象のようなものだ。人質解放にそうした背景が必要だというならば、その他の人質解放についてもそれぞれの背景を解説したらどうかと思うが、結論が決まっていれば何とでも想像はできてしまう。宏観異常現象には歴史の積み重ねはあるが、それすらない“ナマズ以下”の連想ゲームに惑わされてはいけない。 安田純平さんとみられる人物について2018年10月、声明を出したトルコ南部のハタイ県庁  解放の背景として考えられるのは、「イスラム過激派」の“穏健”路線への転換だ。ISの残虐ぶりがイスラム教徒からも嫌悪され、米軍などの攻撃を受けるのを横目に、ISと対立しつつ「欧米を攻撃しない」という意味の“穏健”アピールで「テロ組織認定からの脱却」を狙い、生き残りを図るようになった。これは2021年8月に復権したアフガニスタンのタリバンがIS-Kと争い、「われわれは自国領土をいかなる者の攻撃にも使わせない」と強調して国際承認を求める姿勢にも通じている。  2015年5月には「ヌスラ」の指導者が「シリアから欧米への攻撃をしないようアルカイダ指導者から指示を受けている」と表明。他の組織からも要求され、2016年にはアルカイダからの離脱を宣言している。  2017年に「ハイヤト・タハリール・シャム(HTS)」に改組してからは、2018年2月に私と同じ施設にいたカナダ人を1カ月弱で解放し「スパイでないので人道的な見地から貴国に引き渡す」と証明書まで与えている。  外務省の担当者はカナダ人の解放について当時、私の妻に「身代金ではない解放。お金でなくても解決している」と紹介し、励ましていた。HTSは2019年5月にはやはり私と同じ施設にいたイタリア人を「他のギャングから救った」と強調して約3年の拘束から解放した。身代金を取れなかった場合に、ISが殺害映像を流して宣伝に利用したのとは対象的に、「救けてあげた」などと“穏健”アピールをしているわけだ。私を拘束していた組織もこうした路線の中にいたHTSの関連組織だったと思われる。  2019年12月には南アフリカ人記者が約2年ぶりに解放された。米国のシリア問題の特使を務めていたジェームズ・ジェフェリー氏は2020年2月、記者会見で「HTSとして、外国へのテロ攻撃を実施も計画もしているとは見受けられない」と述べている。「ヌスラ」の後継組織としてHTSも「テロ組織」と認定されているが、外国人記者の命と引き換えに身代金を取っていたという認識を米国がしていたら、このような発言をすることはないだろう。  では日本政府は何をやっていたのか。外務省の歴代担当者が私の妻に強調していたのは「信頼できるルート」の存在だ。その相手と「なかなかアポが取れない」「ようやく連絡がついた」などと、いつ殺されるか分からないという緊急事態とはおよそ思えない空白期間を置きながら、私の拘束状況について「閉じ込められている状況ではなく、大きな家で軟禁されてアラビア語の勉強をしている」「民家の2部屋を使っている。最近、周囲の塀が高くなってナーバスになっている」などと妻に知らせていた。   安田純平氏(提供)  しかし、どの情報も実際とは全く異なっており、そのことを帰国後の記者会見で指摘すると、外務省の担当者から「そのことは言わないでほしい。信頼できるルートとの信頼関係に影響する」と口止めされた。誤った情報ばかりもたらしたのに今後も信頼し、関係を続ける相手といえば外交ルート以外にないだろう。 「信頼できるルート」を通して「生存証明」の質問を送っていれば、その情報源が本物の拘束者につながっているかどうか確認できたはずだが、事実として私には質問が届いていない。送ったのに回答がないなら明らかに誤った情報源であり、直ちに関係を切らなければならない。しかし日本政府が「信頼」し続けているのはそもそも「生存証明」を取ろうとしなかったからであり、「信頼できるルート」が厳密な拘束者特定の必要な救出のためではなく、ざっくりとした情報収集のための相手にすぎなかったことを示している。  邦人テロ対策室の担当者は「生存証明」すら取ることを許されない制限の中でできる限りの救出方法を探ったと思うが、当初から「殺されても仕方ない」と結論付けていた日本政府として行っていたのは、私の事件をきっかけとした情報収集のための他国との関係構築だったということだろう。  外国で起きる人質事件において、日本政府ができるのはその国の政府に協力を要請するところまでであって、シリアの反政府側地域のような、どこの政府の統治下にもない紛争地では全く機能しない。できるのは家族の精神的な支援で、周囲に話すこともできず孤立してしまう家族としては、結果として誤った情報だったとしても、頻繁に連絡をくれて共有してくれたことで落ち着きを取り戻せた場面も多々あったという。そうしたことは私も承知しており、解放された翌日に身元確認に来た日本大使館員には第一声で謝意を述べた。  拘束者側からの接触をことごとく無視し、一切の交渉も譲歩もせずに解放に至ったのは日本政府の“完全勝利”だが、決して政府として狙ったものでも期待したものでもないただの結果だ。  一人の命を救うことで多数への影響が出る可能性があるとき、その一人の保護をどこまで試み、その影響をどこまで許容するかは、本来は国家・社会のあり方の根幹に関わる問題である。シリアのような場所だけで起きることではなく、行かなければいい、ですむ話ではない。私の経験がそうした議論に広がる材料となるならありがたいと思っている。 ◆やすだ・じゅんぺい 1974年生まれ。一橋大学卒業後、1997年信濃毎日新聞入社、脳死肝移植問題などを担当した。 …… 2003年に退社し、フリージャーナリストに転身する。山本美香記念国際ジャーナリスト賞・特別賞受賞。近著に『自己検証・危険地報道』 (集英社新書)など。
シリアの武装勢力拘束事件で政府が動かなかった本当の理由 安田純平・特別寄稿【前編】
シリアの武装勢力拘束事件で政府が動かなかった本当の理由 安田純平・特別寄稿【前編】 安田純平氏(提供)  中東シリアで武装勢力に3年以上、拘束された後、解放されたジャーナリストの安田純平さん。釈放から3年あまりの歳月が過ぎたが、今も多くの謎が残されたままだ。安田氏は帰国後、政府、支援団体など釈放に関わった関係者を丹念に取材、事件の真相に迫った。 ***    内戦の続く中東シリアでの3年4カ月にわたる拘束から帰国して3年が過ぎた。「身代金が払われた」との報道が流れ、何の検証もされないまま既成事実のようになっているが、日本政府は実際には何をしていたのか。当事者の視点から振り返った。  2018年9月13日の夕方、私の妻の携帯電話がなった。妻が8月に行った記者会見に同席したI弁護士からだった。私が解放される40日前のことである。 「トルコの人道支援団体IHHが安田純平さんの解放に向けて動いていて、家族の依頼というかたちにしたいそうです。身代金の話はなく、数日のうちに解放の可能性があるそうです」  人道支援団体「人道支援復興基金(IHH)」はトルコ最大の人道支援団体で、2011年に始まったシリアの反政府運動とその後の内戦では反政府地域への支援物資の供給を続けている。世界各地の紛争地帯で活動実績があり、エルドアン政権に近い立場にあるとされている。  日本でも2011年に東日本大震災の被災地への援助を行っており、その際に日本での窓口となった在日トルコ人男性K氏から私の「解放に向けた動き」の情報はもたらされた。K氏の妻は日本人で、I弁護士も知る人権団体の活動に関わっており、K氏の妻からの電話を受けたI弁護士は「信頼できる相手」と判断してK氏とのやり取りを始めたという。  私がシリアに入った2015年6月23日の朝に携帯電話から妻にメッセージを送って以来、音信不通になってすでに3年3カ月が過ぎていた。その間に拘束者が撮影した動画や画像が公開されていたが、事態が進展する気配は全くなかった。妻は藁にもすがる思いで「家族の依頼」とすることに同意した。  しかしこのとき、妻はI弁護士から気になることを告げられた。IHHは解放の手続きを進めるにあたって日本政府か家族の同意を求めており、K氏はまず私の件を直接担当している日本の外務省邦人テロ対策室に連絡を取ったが、同意を得られなかったために家族に打診したのだという。  何があったのか。 釈放後、両親と妻と会った安田純平氏(提供)  K氏は2018年8月、日本の公安調査庁の男性職員S氏から「日本国内のテロ関連の情報について話を聞きたい」との電話を受け、埼玉県内で面会している。初対面だった。  話はあくまで日本国内についてだったが、「話の流れ」(両氏)で2015年にシリアでイスラム国(IS)に殺害された後藤健二さん、湯川遥菜さんの話題になった。「IHHは2人を救けようと動いたんですよ」と言うK氏にS氏は「実はもう1人シリアで拘束されている。どうにかできませんか」と私の名前を伝え、「捕まえている組織は分からないが、ヌスラ戦線ではないかという話が…」と続けたという。  K氏は私の件を知らなかったというが、これをS氏からの「依頼」と受け取り、すぐにトルコのIHH本部の人道外交担当理事に連絡を取った。後藤さん、湯川さんの件では、報道で事件を知ったK氏が自身の判断でIHHに相談したが、「ISに人脈がないので難しい。やってはみるが確率は低い」という反応で、その後、IHHから何も情報がないまま2人は殺害された。しかし私の件では「ISでないなら何とかできるかもしれない」と前向きな回答を得たという。  S氏が挙げた「ヌスラ戦線」はアルカイダ系組織で、2013年にISと分裂してからは交戦状態となった。2016年にはアルカイダからの離脱を宣言。2017年に他の組織と統合して「ハイヤト・タハリール・シャム(HTS)」へと改組している。  K氏が同理事からのメッセージを受け取ったのは2018年9月12日の午後10時過ぎだった。「どこにいるのかが分かった。身代金なしで2日後には解放される。日本政府か家族の許可がなければ話を進められないので、すぐにもらってほしい」というものだった。  翌13日、K氏が電話でその旨を伝えるとS氏は「頼んでいませんが」と言った。K氏は「頼まれたから動いたんですが」と食い下がった。S氏は「分かりました。上司に聞いてみます」と述べて電話を切った。しかし2~3時間たっても連絡がなく、K氏が再び電話するとS氏は「この件は外務省が担当しており、公安調査庁の仕事ではないので外務省に聞いてくれますか」と告げた。  埒のあかない押し問答になった。 「そちらからお願いしてきたのだから、そちらから外務省に聞いてください」(K氏) 「お願いはしていません。話の流れで言っただけで、救けてくださいと言ったわけではありません」(S氏) 「なぜそんなこと言うんですか」(K氏) 「お願いしていませんから」(S氏) 「では外務省のどこに連絡すればよいのですか」(K氏) 「分かりません。ご自分で調べてください」(S氏) 安田純平さんとみられる男性の動画の一場面  電話を切ったK氏は、思いもしなかったS氏の反応に途方に暮れた。  S氏は私の取材に対し、「公安調査庁は関連情報を集めるのが業務で、国際機関などがどう動いているのかを知りたかった。救出できるかどうかではなく、IHHの情報を何か聞けるかと思った。K氏が誤解したようで、『お願いされた』と言われてこちらが寝耳に水だった。それでもK氏が『頼まれたから動いた』と言うので無理だろうと思ったが上司に話し、やはり外務省以外は動くなということなのでそのとおりK氏に伝えた」と説明している。 「3年以上も進展がなかった事件でIHHという有力な組織から無償解放の話が来たのだから、そのまま進めることはできなかったのか」との私の問いに、S氏は「お気持ちは分かりますが、邦人保護には外務省以外はタッチできないので」と語るのみだった。  K氏にとっては“はしごを外された”状態だったが、「IHH本部には自分が連絡したので、S氏が『頼んでいない』と言っているなんて話をIHHにするわけにはいかない」と外務省の電話番号を自分で調べてその日のうちに電話をかけた。  K氏は外務省邦人テロ対策室に状況を説明し、「2日後にはIHHに引き渡されるが、そのために日本政府の許可がほしいという話です。私が誰なのか分からないだろうから、在日本トルコ大使館に問い合わせてもいい」と打診し、電話口の外務省職員は「上に聞いてみます」と答えたという。しかし3時間ほど過ぎても音沙汰がなく、K氏が再び電話したが「上に聞いてみます」と同じ回答をするだけで、その後も連絡はなかった。  K氏は「時間がないのに」と困惑しながら当時の在日トルコ大使に電話で事情を説明すると「日本の外務省に聞いてみる」とのことだったが、その後は「大使に電話が繋がらなくなった」という。  「頼まれて始めた話なのに、なぜ自分がこんなことをしなければならないのか。もうやめようか」とも思ったK氏だったが、「これで本当に解放される可能性があるならできるだけのことをやろう」と考え直し、私の妻の記者会見の報道で隣に立つI弁護士の姿に気づいていたK氏の妻がI弁護士に電話を入れた。ここまでが私の妻が「同意」するまでの経緯である。  この間、K氏から日本政府の反応を聞いたIHH本部の人道外交担当理事は、「なぜ悪いことでもしているかのように扱われなければならないのか、とがっかりしていた」(K氏)というが、I弁護士が13日午後11時に送った感謝を伝えるメールへの返信では、IHHの過去の解放交渉の実績や後藤さん・湯川さんを救えなかったことを述べ、「そうした経験を経て、安田氏の解放に向けて努力している。拘束者からは、本人の健康状態はよく、何の条件もなく交渉を受け入れると連絡が来ている。すぐに解放されて安全に帰れるよう望んでいる」と記している。   安田純平さんとみられる人物について声明を出したトルコ南部のハタイ県庁(2018年10月)  しかし翌14日、トルコ大使館が運営しているイスラム教礼拝所「東京ジャーミィ」(渋谷区)の関係者からK氏に電話があり、「その件には手をつけないほうがいい」と釘をさしたという。  同日午後4時45分、I弁護士からの私の妻へのメールには「先ほど、K氏から電話があり、トルコ大使館や外務省から動かないでくれとのメッセージが届き、公安警察らしき車に監視されるようになったとのことです」とある。  「外務省」とは日本の外務省のことである。「公安警察らしき車」はK氏が受けた印象でしかないが、K氏はその後はI弁護士にもこの件について口を閉ざすようになったという。  私の妻は、13日にI弁護士に「家族の依頼」の同意を伝えてすぐに、外務省邦人テロ対策室の担当者に電話で事態を話し、「なぜこんな大切なことを教えてくれなかったのか」と問いただした。K氏が途中で諦めていたら、この件を家族が知ることすらできなかったからだ。これに対し外務省の担当者は「これまでにも不確かな情報があり、すぐに知らせるのではなく調べていた」と説明している。  3年余りの間に「不確かな情報」が無数に飛び交ったのは事実だった。仲介役になろうとしたスウェーデン人コンサルタントは「すでに死亡しました」とメールを送ってきて私の妻を半狂乱にさせ、やはり仲介役を買って出た在日シリア人は「拘束者は(高級大型クロスカントリー車の)ランドクルーザー4台を欲しがっている。そのための金がないなら家を売ればいい」などと現物支給という異常な要求を何の裏付けも示さずに次々に送ってきた。そうした「不確かな情報」に私の家族が翻弄されてきたことを外務省の歴代担当者も知っていた。  しかし、IHHは実体のある著名な団体である。K氏が実際にIHHの窓口という立場なのかはIHHに問い合わせれば分かることだ。IHHがやり取りしている「拘束者」が本当に私を拘束している本物の拘束者なのかどうかは、私しか答えられない質問をIHHを通して拘束者に送り、正解が返ってくるかどうかで判断ができる。これを「生存証明」というが、私は「生存証明」は一度も取られておらず、外務省が本気で「調べていた」とは思えない。「2日後には解放」という期限が迫っていたにもかかわらずK氏への回答をせず、家族にも伝えなかった理由として「調べていたから」は説得力に欠ける。  結局、数日が過ぎても私が解放されることはなかった。K氏によると「15日ころにはIHHも拘束者と連絡が取れなくなってしまった」という。 安田さんの解放について、取材に応じる安倍晋三首相(2018年10月24日当時)  私は2018年3月末以降、中国新疆ウイグル自治区から来たというウイグル人だけで運営されている施設に拘束されていた。2018年9月上旬には看守から「我々のリーダーが今、トルコのイスタンブールに行ってお前の話をしている。きっともうすぐ解放だ」と言われていたが、同月半ばころにはそうした話はされなくなり、私がたずねても気まずそうに黙り込むだけになった。同29日にはそれ以前に監禁されていたアラブ人運営の巨大収容施設に移された。IHHはトルコと言語や文化につながりがあるウイグル人の支援をしてきた。IHHの動きと私の周囲の様子の関連性は全く不明だが、この時期にIHH以外に具体的な動きが何も表面化していないのも事実である。  IHHの言う「数日」が過ぎても私が解放されなかったことから、私の妻は外務省の担当者に改めて「なぜIHHの話を進めてくれなかったのか」と問うている。担当者はこれに「我々は信頼できるルートを通して対応をしており、同時に複数のルートを使うのはよくない」と説明している。「それでもIHHのルートで先に解放になるならそれでよいのではないか」とさらに問うと、「そうなっても対応できるように準備はしている」と述べたという。つまり、それまで否定してきた「不確かな情報」よりも確度の高い情報とみなしていたということだ。  その「準備」とは具体的に何だったのか、外務省をはじめ日本政府は一切明らかにしていない。しかし、私の手元にある「帰国のための渡航書」から垣間見ることができる。拘束者に旅券を奪われた私を帰国させるために臨時に発行された片道用の「渡航書」だが、その発給日が「2018年9月14日」になっているからだ。  外務省はその日に「渡航書」を発給した理由も明らかにしておらず、明らかになっている事実をもとに考察するしかない。  解放につながる何らかの情報がなければ「渡航書」を発給しても無駄である。トルコへ解放された翌日に身元確認に来た在トルコ日本大使館員は私に「すぐ帰国してもらいます。渡航書は過去の旅券申請時のデータを使います」と言っていた。すでに発給されていたことを知らなかったのだろうが、一般論として、何の根拠もなく用意しておくようなものではないということは分かる。発給の日付や、ほかに具体的な「解放」の動きが何もなかったことから、外務省が「IHHによる解放」を視野に入れて発給したと考えるのが自然だ。 「複数のルートを使うのはよくない」と言いながら「IHHによる解放」にも備えたのは、外務省が頼っていた「信頼できるルート」による具体的な交渉が進んでいなかったからだろう。  3年3カ月も解決していなかったにもかかわらず、それなりの確度があると外務省自身がみなした「IHHによる解放」の可能性を無視どころか制止したのは、「信頼できるルート」への配慮に加え、邦人保護の“部外者”である公安調査庁による解決は外務省のメンツにかかわる問題になるため、正式に認めるわけにはいかなかったからではないか。  私を救出できる可能性を探ることよりも、「信頼できるルート」への配慮や自らのメンツを優先させた外務省は、実際には何をしていたのか。  メディアは「身代金が払われた」と盛んに報道し、それをもとに様々な批判が巻き起こったが、現実には身代金支払いどころか、交渉すら行われていないという実態がわかってきた。【後編】はその詳細を報告する。 (安田純平) ◆やすだ・じゅんぺい 1974年生まれ。一橋大学卒業後、1997年信濃毎日新聞入社、脳死肝移植問題などを担当した。 …… 2003年に退社し、フリージャーナリストに転身する。山本美香記念国際ジャーナリスト賞・特別賞受賞。近著に『自己検証・危険地報道』 (集英社新書)など。
小室眞子さんの結婚で皇室の危機は本当に去ったのか?「庶民化の矛盾」を上皇さまの同級生が指摘
小室眞子さんの結婚で皇室の危機は本当に去ったのか?「庶民化の矛盾」を上皇さまの同級生が指摘 2016年に来日したベルギーのフィリップ国王夫妻を歓迎する宮中晩餐会に臨んだ内親王時代の秋篠宮ご夫妻の長女眞子さん  平成の終わりから令和にかけて皇室は、秋篠宮家の長女、眞子さんの結婚問題に揺れた。それは、皇室を長く支えてきた人たちにどう映ったのだろうか。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた陸軍情報将校、明石元二郎の孫であり、上皇さまの同級生の明石元紹さん(87)。学習院の幼稚園で明仁親王に出会い、戦時下では明仁皇太子とともに日光で疎開生活を送り、高等科ではともに馬術部で青春を過ごした。上皇さまの退位問題の際には、届かぬ上皇さまの声を官邸や世間に伝えようと橋渡し役を担いもした。その明石さんに今後の皇室のあり方について思いを聞いた。 *   *   * ――海外メディアに撮影された画像を見る限り、眞子さんは、自由なニューヨーク生活を満喫しているようです。その様子に国民は安堵を感じる一方で、結婚問題で生まれた皇室への不信感や行き場のない感情は「わだかまり」としてくすぶったままです。 明石さん:眞子さんが結婚会見で発信した言葉や宮内庁や秋篠宮家による金銭問題への対処の仕方は、皇族に相応しいとは言い難いものでした。  僕ら80年近く皇室を見守り続けてきた学習院の仲間のあいだでも、「これではもう、皇室はなくなっていいのではないか」と、嘆いた人間もいたほどでした。  結婚問題で顕在化した「皇室の危機」。それは、眞子さんひとりに、「責任」をかぶせて蓋をすればいい、というものではありません。  眞子さんが民間人となって日本を離れたから、「終わった」わけでもありません。  何が眞子さんの結婚問題を引き起こしたのか、現在の皇室の抱える矛盾や限界を振り返り、背景を理解する必要があります。  その根底にあったのは、極端なまでの「皇室の庶民化」にあったのではないかと感じています。 ――それはどのような意味でしょうか。 明石さん:皇室はいまだに、日本で唯一、「生まれながらに特権的な身分を持つ」存在です。  第2次世界大戦のなかで、私は疎開した明仁親王とともに日光に疎開し、そこで玉音放送を聞きました。 1971年 昭和天皇、香淳皇后の訪欧を前に、白ヘルの過激派学生が皇居に乱入し発炎筒を投げつけた。坂下門を警備する機動隊員  戦争と敗戦で皇居は焼け、皇室解体の危機に直面しました。  1947年に、日本国憲法が施行されると、身分制度を作りあげていた華族制度は廃止され、天皇は「象徴」となりました。しかし、皇室典範によって皇室だけは、「生まれながらによって特権的な身分制度」を維持し続けることになったのです。  戦後の日本においては、ある意味で異質であり、憲法に矛盾した存在でもあります。  そうしたなかで過激派などが反皇室闘争を掲げゲリラ事件が頻発します。皇室がどうなるのか、先が見えない時代が続きました。 ――昭和の後半にかけては、「天皇の訪欧・訪米反対」、「皇太子の訪沖反対」、「天皇の戦争責任追及」などを掲げる過激派勢力が、皇居内に乱入して火炎瓶を投げ、原宿の皇室専用ホームに発煙筒を投げ込み、さらには天皇の特別列車の爆破未遂事件など、皇室に対するゲリラ事件が頻発しました。  平成の前半は、政府の外交に巻き込まれた時期でもありました。  天皇は、政治の意思は受け止めざるを得ない立場にある。その一方で、天皇訪中など国論が割れるような問題については、『日本国民の総意に基づく』地位にある者として、国民が納得する訪中にしなければならない。  難しい状況のなかで、平成の天皇は国の象徴としての姿勢を保ち、その責務を遂げました。 明石さん:戦争と敗戦で皇室解体の危機を目のあたりにした上皇さまは、皇太子時代から象徴とはどうあるべきか、と考え続けた。  そして上皇ご夫妻は、命がけで皇室を守ろうとなさってきた。  国民と皇室との垣根を取り払い、信頼を築きあげてきたのが、おふたりでした。  そのひとつが、国民と同じような私生活を送り、「開けた皇室」であり続けることでした。国民と同じ生活をすれば、人びとの気持ちをよりいっそう、理解できる。それは、分かります。 ――ロイヤルファミリーの庶民化は、世界的な流れです。たとえば、英国のキャサリン妃は高級なファッションブランドと同時に「ザラ」などのお手頃価格の服を着こなす。このように庶民感覚をうまくアピールしている点も人気につながっています。一方、日本の皇室はどうでしょうか。 2021年10月26日 宮邸を出る眞子さんを抱きしめる佳子さまと見守る秋篠宮さま 明石さん:相互理解は大切です。ただ、日本の皇室の場合は、「国民を理解しよう」という思いが強すぎたのだと感じます。  天皇は人びとのために祈りを捧げる祭祀王でもある。また神武天皇祭など「万世一系」に根ざした先祖祭を続ける祭祀を行う皇室は、神秘性を合わせ持つ存在でもあります。神秘性や国民と隔絶された部分があるからこそ、「生まれながらにして特権的な身分」を持つ皇室が敬愛の対象になってきた側面もあるでしょう。  一方で、国民と同じ生活や感覚を持ち続けた皇族は、「公」に生きるという覚悟よりも、「ひとりの人間として生きたい」という自我が強くなるのは、自然な流れです。 ――眞子さんの結婚問題では、世間からは、「皇族もひとりの人間だ」「自由に生きる人としての権利を尊重すべきだ」といった声が強くあがりました。今の社会には、生身の人間に「公」を最優先する人生を強いるべきではないという空気があります。 明石さん:皇室メンバーが普通の人間であることを認めれば認めるほど、同じ人間の中に皇室という「特権的な身分」が存在する、制度の矛盾が膨らんでいきます。  いまの皇室は、国民の気持ちを理解するために、国民と同じ私生活を送ってきた。それは長い歳月をかけて、ねじれを生み、「公」よりも「私」を優先させた眞子さんの結婚問題につながったともいえるでしょう。  前にも言いましたが、学習院の仲間でさえ、「皇室はもう無理ではないか」と口にする人間が出てきた。とういことは「もはや皇室は、なくてもいいのではないか」と考える国民は、確実に増えているはずです。  まさに、皇室の危機です。  ただ、それに上皇さまやいまの天皇陛下が気づいておられるのか。どう、お考えなのかも、私には分かりません。 ――天皇が「現人神」であった戦前と「象徴」にかわった戦後の昭和、そして平成、令和。明石さんは、皇室を見守り続けてきました。 明石さんの目に、皇室の未来像はどう映りますか。 12月5日 成年行事に臨む愛子さま 明石さん:厳しい意見を言えば、皇室存続の鍵は、「国民と同化し過ぎた皇室」から脱することができるかどうかだと私は思います。  たとえば、常陸宮妃の華子さまは、車から国民に対して車の中から気軽に手を振ることは、ほとんどなさらない。華子さまは、旧伯爵の令嬢として生まれた方です。  香淳皇后さまも、そうでした。明治天皇や大正天皇、昭和天皇は、国民と一線を引く「我慢」をなさってきたのだと思います。 ――つまり、以前は一線をひくことで皇室を守り、国民との信頼関係を守っていたわけですね。しかし、この時代に皇室が、「国民と同化せずに」、神秘性を保ち続けることは可能でしょうか。現在のネット社会は、秘匿したいと思うことでも、一瞬で情報が拡散する世の中です。 明石さん:確かに、いまの皇室が「菊のカーテン」に閉ざされ、謎めいた存在であり続けることは難しい。  眞子さんの結婚問題では、お相手であった小室さんの家族の過去のトラブルまで、すべて露わにされました。  お相手と皇族自身も、心身共にうけた傷の深さははかり知れません。 ――古くは皇室に入りご苦労をされた上皇后美智子さま。そして、2004年に適応障害と診断されてから18年近く体調が戻らない皇后雅子さま。して眞子さんも、結婚問題によって、複雑性PTSDと診断されました。 明石さん:国民と同化し、開かれ過ぎた皇室の“弊害”が、浮き彫りになったのだと感じます。  報道はもちろん、ネットの書き込みも含めて、皇族もお相手もすべてのプライバシーが露わになり、執拗な攻撃を受けかねない。  眞子さんの結婚問題は、皇室に関わればプライバシーなどなくなると日本中が思い知った出来事でした。「皇室と関りを持つことはリスクである」という印象が、世界中に広がってしまいました。  眞子さんの件では、極端な「庶民化」と「自由意志の尊重」が、お相手選びを含めて問題を引き起こしたのだと思います。 15歳の誕生日を迎えた秋篠宮家の長男、悠仁さま ――次世代の皇室を担うのは、秋篠宮家です。秋篠宮家には、皇位継承順位1位の皇嗣である秋篠宮さまと、2位の悠仁さまがいます。悠仁さまは22年4月には、高校に進学します。将来の天皇となる悠仁さまには、今後、ますます国民の関心は高まっていくことでしょう。 明石さん:いまは悠仁さまの進学先に注目が集っていますが、ご結婚も、そう先のことではありません。お相手とどちらで出会い、ご結婚をなさるのか。そうしたことが、問題なく進むのか……。   ある意味、「矛盾した存在」となりつつある皇室と関わってもいいと手を挙げる人間がいるのか。それは、皇室に対して、適切な距離を保ことのできる人物なのか。 「もう皇室は無理だーー」。  そんな失望を抱えた国民によって、皇室の時代は終わりを告げるかもしれない。  コロナ禍は続いています。お金の面でも生活の面でも、国民の苦しみが続いているなかで、皇室は新年の祝賀行事を執り行うことを、自身でどうとらえるのか。  皇室は、国民と真摯に向き合い、襟を正していただきたいと思い。  僕は上皇さまとの長い間の接点を持って、皇室を見てきました。  いま皇室が直面している危機は、そばにいた僕らの責任でもあります。  しかし、その一方で、今の皇室も相当の覚悟を持って、揺り戻しをはかる必要があるのではないでしょうか。 2019年5月 即位後の一般参賀 (構成 AERA dot.編集部・永井貴子)
2021年「歴史・時代小説ベスト3」決まる 珠玉の3作品とは?
2021年「歴史・時代小説ベスト3」決まる 珠玉の3作品とは? ※写真はイメージです (GettyImages)  週刊朝日恒例「歴史・時代小説ベスト3」。歴史・時代小説好きが選んだ2021年の3冊は?  *  *  * ★1位『黒牢城』米澤穂信 ■城内の謎解きミステリー  織田信長に反旗を翻し、摂津国の有岡城に籠もっていた荒木村重は、織田の使者として訪れた黒田官兵衛を幽閉した。その間、城内では不可解な出来事が次々に起きていた。織田に通じている者の仕業なのか? 人心の動揺に直面した村重は、官兵衛の知恵を借りようと地下牢への階段を下りていく……。 「有岡城の戦いと城内で起こる数々の事件が絡み合いながら、歴史の謎が紐解かれるストーリーの妙が衝撃的」(正文館書店本店・鶴田真)。「有岡城に囚われた黒田官兵衛を安楽椅子探偵にするというアイデアに脱帽。しかも村重という人物の謎も解いている」(月刊「歴史街道」編集長・大山耕介) ★2位『塞王の楯』今村翔吾 ■最強の矛と楯 宿命の対決へ  戦国時代末期の近江。石垣造りの職人集団「穴太衆」に育てられた匡介は「絶対に破られない石垣」を造れば、戦をなくせると考えていた。一方、鉄砲作りの集団「国友衆」の彦九郎は「どんな城も落とす砲」を造ることこそ戦の抑止力になると信じていた。  大津城の城主は匡介に石垣造りを頼み、攻め手の石田三成は彦九郎に鉄砲作りを依頼。宿命の対決が幕を開ける。 「城の攻防は石垣(楯)でも大筒(矛)でもなく人の心が決めると、人の心の矛盾に思いを馳せる匡介の内面の動きがとらえられていく」(文芸評論家・清原康正)。「技術の凄さとそこにこめられた志と、それを律する哲学にこそ、戦乱や閉塞的な現状を打ち砕くパワーがあることを教えてくれる」(文芸評論家・菊池仁) ★3位『高瀬庄左衛門御留書』砂原浩太朗 ■地方の小藩の老いゆく武士  江戸時代、地方の小藩・神山藩(架空)で長年、郡方を務めて隠居した庄左衛門が主人公。50歳を前に妻と一人息子を亡くし、実家に戻した嫁が絵を習うために通ってくる。そこに藩の政争が起こり、巻き込まれていく。仲間に慕われ、強くはないが清貧で矜持がある初老の武士の姿が魅力的だ。 「自分を抑え、悔いばかり重ねてきたと自嘲する男の残り少ない人生から、武士の矜持や残り火のような熱情を浮かび上がらせた傑作」(書評家・西上心太)。「さまざまな制限の中でいかにして生きていくのかを迷いながらも歩み、少しずつではあるが心が穏やかになっていくところに魅力を感じた」(有隣堂横浜駅西口店・加藤ルカ) 【ベスト3選出方法と総評】  歴史・時代小説ベストは前回から上位3冊だけ順位を付けるベスト3に衣替えした。13回目となる今回は例年同様、文芸評論家や書評家、新聞・雑誌の書評担当者、編集者、書店員ら“本読みのプロ”にアンケートを送る形式で実施した。2020年11月から21年10月までに刊行された歴史・時代小説の中から、1人3作品ずつ推薦してもらって集計した。  1位の米澤穂信はミステリー界で数々の賞を受け、『黒牢城』で山田風太郎賞を受賞した実力者。2位の今村翔吾は前回『じんかん』(山田風太郎賞)が1位に輝いたのに続いて上位に入った。3位の砂原浩太朗はデビュー2作目で舟橋聖一文学賞、本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞している。ベスト3に続く注目作として編集部が4作品を選んだ。『つまをめとらば』で直木賞を受賞したベテランの青山文平。怪奇やホラーも手がける朝松健。『信長の原理』など独自の視点が冴える垣根涼介。歴史と伝奇を書き分ける武内涼を推した。※週刊朝日  2022年1月7・14日号より抜粋
眞子さんのNY目撃談相次ぐ「バイバイと両手で手を振る姿」も キャロライン・ケネディ氏宅へ?
眞子さんのNY目撃談相次ぐ「バイバイと両手で手を振る姿」も キャロライン・ケネディ氏宅へ? 日本を出発したときの小室眞子さん(写真部・松永卓也)  米ニューヨークで新生活を送る秋篠宮家の長女、小室眞子さんと夫の小室圭さん。ニューヨークに到着した11月14日から、およそ1カ月半を迎えた。眞子さんはニューヨークの街を一人で歩く姿が何度か、海外メディアに写真や動画を撮られてきた。今回はAERAdot.が独自で現地在住日本人の目撃情報をキャッチした。 *  *  * 「街歩きの眞子さんを目撃した」と言うのは、長年の間、ニューヨークに住む50代の日本人男性。12月22日と23日の2回、見たという。  まず22日午後3時から4時頃、場所はマンハッタンにある公園「セントラル・パーク」だ。 「私がちょうど犬の散歩でセントラル・パークの5番街辺りにいました。眞子さんに何となく似たシルエットの女性がペディ・キャブ(自転車タクシー)の男性運転手と話していたので、しばらく様子を見ていました」  その女性は男性運転手と10数分間、立ち話をしていたという。 「女性が立ち去った後に男性運転手に聞いたら、『彼女から道を聞かれた。(自宅のある)西の方へ行きたいと言っていた。マコと名乗っていた』と話してくれました。ちょうど、その地点から西へ抜けると、ダコタ地区。ジョン・レノンの妻のオノ・ヨーコさんの住まいでも知られています。その周辺を通って、ご自宅のあるヘルズキッチンへ向かったのではないでしょうか。女性は帰り際に茶目っ気たっぷりに両手でバイバイと別れの挨拶をしていました」 ■水色のハンドバッグを肩からかけて  翌23日にも、眞子さんとおぼしき女性をパーク・アベニューで目撃した。 「今度はパーク・アベニューの通りを、眞子さんが歩いていたんです。ちょうど交差点のところで、一緒にいた妻が『あっ、眞子さんじゃない』と言ったので、パッと見たら彼女と目が合ったんですよ。1メートルくらいの近さでした。眞子さん一人でしたね。その後、足早に自宅のある方向へ歩いていきました」 記者会見した小室圭さんと小室眞子さん  この日本人男性はとっさにスマホで撮影。それを見ると女性は長い髪、黒いコート、水色の長い紐のハンドバッグ、紙袋を持って歩いていた。英デイリーメールが12月25日に報じた、眞子さんの数枚の写真と酷似していた。  デイリーメールによれば12月23日、眞子さんはクリスマスの贈り物が入っていると見られる紙袋を持って、1人でニューヨークの街を歩いていたと、数枚の写真入りで報じた。その時、紐の長い水色のハンドバッグを肩からかけていた。  同紙によると、眞子さんはアッパーイーストサイドに住まいがある米国外交官のキャロライン・ケネディさんが住む高級アパートを訪れたという。キャロラインさんの住まいは2500万ドル(約28億5000万円)する住まいであることが知られていて、眞子さんは午後1時から約3時間滞在したという。前出の日本人男性が目撃したのは同日午後4時頃。眞子さんが用事を済ませ、帰路につく時間帯だった。 ■キャロラインさんとの交流  また、同紙によれば眞子さんはキャロライン・ケネディさんが住むアパートに入ったが、「キャロライン氏宅を訪ねたかは不明」としている。  キャロラインさんは今年秋の叙勲で、「旭日大綬章(きょくじつだいじゅしょう)」を授賞。12月8日には、ニューヨークの総領事・大使公邸で叙勲伝達式が行なわれた。  皇室ジャーナリストの神田秀一氏はこう見る。 「もし、眞子さんがキャロラインさんの自宅を訪れたのなら、叙勲のお祝いをしたかもしれませんね」  キャロラインさんは暗殺された元大統領のジョン・F・ケネディさんの長女。キャロラインさんは80年にメトロポリタン美術館に勤務。美術館勤務中の86年に結婚、1男2女をもうけた。日本にとっておなじみになったのは、オバマ政権下の2013年11月から17年1月まで、女性として初の駐日大使を務めたことから。当時、外相だった岸田文雄首相とも交流があったという。  バイデン大統領は12月15日、キャロラインさんを新しいオーストラリア大使に指名、今後、上院での承認が得られれば正式に就任する。 「キャロラインさんが駐日大使として東京にいた時、眞子さんがもう成年皇族になられていたのがポイントですね。成年皇族であれば、キャロラインさんと会う機会はいくらでもあります。たとえば、1月1日の新年祝賀の儀では全ての海外外交官が皇居に集まりますからね。宮殿にあるすべての部屋を開放して朝早くから午後まで目一杯時間を使って新年を祝います。そこに皇族も出ますから。他にも宮中晩餐会などでも会う機会はあります」(神田氏) ■小室夫妻へのアドバイス可能な人  キャロラインさんは環境保護などに強い弁護士としても活動していたことがある。眞子さんの就職先の一つとして、女性誌はメトロポリタン美術館を上げていたことがある。しかも、夫の圭さんは来年2月に司法試験の再受験を控えている。 「キャロラインさんはメトロポリタン美術館に勤務した経験があるわけですから、もし、眞子さんから聞かれれば、何でも答えられるのではないでしょうか。弁護士資格も持っているので、小室夫妻のどちらにもアドバイス可能な人ですね」(同前)  眞子さんの妹の佳子さまは12月29日、27歳の誕生日を迎えた。眞子さんのしていた公務を引き継ぐ予定だという。  小室圭さんが来年2月の弁護士試験にもしも落ちた場合、早期帰国説も取り沙汰されている。 「ニューヨークにいたいというのが2人の希望。皇室から開放されて、異国の地で過ごそうというわけですから、2人とも、就職先を見つけることが大事。そうしないと長続きしないと思います。お金もない、仕事もないからやっぱり日本に帰るということがないように、進もうとしている道を切り開いて下さい。ニューヨークの冬は厳しいので、お体にくれぐれも気をつけてお過ごし下さい」(同前) (AERAdot.編集部・上田耕司)
愛子さまが借りるティアラ、清子さんからの理由は「格」の違い 秋篠宮家へは逆風やまず【2021年下半期ベスト20】
愛子さまが借りるティアラ、清子さんからの理由は「格」の違い 秋篠宮家へは逆風やまず【2021年下半期ベスト20】 皇居に入る天皇、皇后両陛下の長女愛子さま  2021年も年の瀬に迫った。そこで、AERA dot.上で下半期に読まれた記事ベスト20を振り返る。4位は「愛子さまが借りるティアラ、清子さんからの理由は「格」の違い 秋篠宮家へは逆風やまず」(11月19日配信)だった。(※肩書年齢等は配信時のまま)  天皇・皇后両陛下の長女、愛子さまが12月1日に20歳の成年を迎える。  とくに話題を集めたのは、愛子さまがティアラを新調せず、叔母の黒田清子さんのティアラを借りて祝賀行事にのぞむ、異例の成年式となることだ。宮内庁は、「コロナ禍で国民生活に影響がでていることに配慮した愛子さまが、両陛下と相談した決めた」と説明している。 「どうも、何をとってもタイミングが悪く秋篠宮家への逆風になってしまう」  そうため息をつくのは、皇室に長く仕えた人物だ。秋篠宮家の長女、眞子さんが小室圭さんと結婚したのちに渡米したばかり。  渡米前に国内で滞在したのは、渋谷区の東京メトロ外苑前駅近くにある長中期滞在者向けの高級サービスアパートメントだった。結婚によって皇籍から離れたばかりの元内親王に、所轄する警察の警備がつくのは当然のことだ。とはいえ、外出の度に報じられた結果、特別な警備体制に注目が集まった。  そしてNYでの新居の豪華さも報じられている。英タブロイド紙のデイリー・メールなどの海外紙によれば、小室夫妻の住まいは、セントラルパークやタイムズスクエアに近いヘルズ・キッチン地区にあるタワーマンションだ。2017年に建てられたばかりで、24時間対応のロビーやフィットネスルームにヨガスタジオ。スパやゴルフシュミレーションセクションなどを備えた豪華な仕様だという。  小室さんのLawClerk(法務助手)の年収は600万円程度と見られている。一方で、海外紙によれば、ワン・ベッドルームとはいえ家賃は、月額約4800ドル(55万円)と安くはない。  宮内庁関係者の間でも、眞子さんの結婚と米国移住が無事にすんではればれしたという空気と同時に、小室夫妻の先行きを案じる声もわずかに漏れてくるようだ。  そんなタイミングで宮内庁が公表したのが、愛子さまが「借りたティアラ」で祝賀行事に臨むというニュースだった。  女性皇族にとって、成人を迎えた誕生日は宮殿行事デビューの日でもある。まず皇室の祖神・天照大神などが祭られる宮中三殿に参拝し、宮殿で天皇陛下から宝冠大綬章が授与される。 ローブデコルテの正装に新調したティアラとネックレス・ブレスレット・イヤリング・勲章どめの宝飾品5点を身に着け、両陛下にあいさつするのが恒例だ。 2004年デンマークのマルグレーテ女王夫妻をお迎えした宮中晩餐会に出席した紀宮さま(当時)  内親王だった眞子さんの場合、ティアラと宝飾品は「和光」で2856万円、佳子さまは「ミキモト」で2793万円をかけて制作された。大正天皇のひ孫にあたる三笠宮家や高円宮家の女王方の場合は、1500万円前後だ。  ティアラなどの宝飾品は、ぜいたくをするために制作するわけではない。成年皇族は公務を担うようになり、宮殿行事や外国からの国賓や賓客を接遇する晩さん会など国際親善の場では、勲章とともに正装を持って迎えるのが礼儀だからだ。  皇后や皇太子妃は代々受け継がれるティアラなどを所有している。そのなかには、平成の時代に皇后が故・秩父宮勢津子さまから譲り受けたティアラなどもある。つまり、他の宮妃や最近では眞子さまのティアラも宮内庁に預けられている。  女性皇族の所有していたティアラもあるなかで、なぜ愛子さまは清子さんより「借りる」形になったのか。   眞子さんをはじめ、最近の女性皇族が成年を迎えた際に新調したティアラは、いずれも宮内庁が管理する公金で制作されている。そのため、公金で作られた眞子さんのティアラは、離脱とともに宮内庁に預けられた。  一方で、黒田清子さんが成年を迎えた時に、新調されたティアラと宝飾品は、天皇家の私的なお金であるお手元金で制作された。  元宮内庁関係者は、ティアラを公金で支払うようになったのは、三笠宮家の彬子さまのときからではないか、と話す。 「明治以降の近代皇室においては、天皇家も宮家も相応の財産を持っていたこともあり、宝冠など装身具は私的な費用で賄っていました。黒田清子さんのティアラもその流れだったと記憶しています。日常費で制作したものは、扱いがあいまいなところもある。昔の皇族のように、『娘に持たせてあげたい』、と結婚先で大切に保管されているものもあると聞きます」  お手元金で制作した黒田清子さんのティアラは、ご本人のものだ。そのため、「借用」という形になった。 2004年デンマークのマルグレーテ女王夫妻をお迎えした宮中晩餐会に出席した紀宮さま(当時)。頭上に輝くティアラにはダイヤモンドがちりばめられている  さらには、前述したように、内親王と女王というご身位の違いによって、ティアラの金額も異なる。 「眞子さんの結婚のタイミングは、ギリギリまで読めませんでした。加えて、同じ内親王でも、天皇家の娘である愛子さまと、皇嗣家の眞子さんと佳子さまでは立場も異なる。同じ皇女である清子さんのティアラが格という点でも、相応しかったのでしょう」(皇室の事情に詳しい人物)   異例続きとなったのは、ティアラだけではない。  女性皇族、特に内親王は、二十歳の成年を迎えた際と結婚して皇籍を離れる際に会見を開き、記者の質疑に答えるのが恒例だった。  いまのところ、愛子さまの記者会見は、日程が決まっていない。成年の会見は、その成長を国民が感じる大切な機会でもある。  眞子さんが皇室を離れたいま、愛子さまへの期待は、高まっている。 (AERAdot.編集部 永井貴子)

カテゴリから探す