AERA with Kids+ Woman MONEY aerauniversity NyAERA Books TRAVEL
検索結果3494件中 1261 1280 件を表示中

57歳・貯金700万円の男性、1年後に早期退職したら夫婦で旅行や新車は楽しめる?
57歳・貯金700万円の男性、1年後に早期退職したら夫婦で旅行や新車は楽しめる? ※写真はイメージです(GettyImages) 1年後に早期退職し妻と老後を楽しみたい  今回は、2023年3月に58歳で選択定年を考えている男性、Nさんからのご相談です。退職後、年金受給の65歳までは月12万円程度の仕事に就きたいと検討していますが、老後の生活はどうなるのかお悩みです。 【家族構成とそれぞれの年齢】Nさん57歳妻54歳長女28歳次女22歳(大学4年) 【世帯収入(月額または年額)】Nさん1300万円/年・額面、賞与年間249万円妻80万円/年・手取り 【月間支出】合計:47万円(年間で564万円)Nさん小遣い:6万円住宅ローン:12万5000円夫婦保険:5万円家族携帯利用料:3万円ネット&TV&電話:1万円電気・ガス:2万円エネファーム:1万3000円食費:10万円ガソリン代:2万円新聞代:5000円ショッピング費用:3万円日用品:7000円 ・その他支出(年間、ボーナスより支払い):129万円住宅ローン:70万円固定資産税:8万円自動車税:4万円自動車維持費:24万円自動車任意保険:6万円犬維持費:10万円中元・歳暮:7万円 【貯蓄】120万円/年間 【資産】現金:700万円 【投資額】なし 【具体的なお悩み】仕事上のプレッシャーで心身共に疲弊しており、、2023年3月の58歳で選択定年をし、年金受給の65歳までは12万円程度/月の仕事につきたいと検討しています。妻もパートで6万円/月を60歳までと考えています。選択定年58歳で退職すると、退職金は4000万円程度となります。年金は、私と妻でどのくらい受給できるかは不明です。  可能ならば車をあと1回400万円程度で買い替え予定で、海外旅行も何年かに1回は行きたと考えています。また、次女は来年4月より社会人になりますので教育費は必要ありません。貯金は今まで子供の教育費用などでできませんでしたが、これからは貯めたいと考えています。住宅ローン残額が58歳退職時に650万円ありますが、退職金で一括返済を予定しています。 Nさん一家の収支でわかる使途不明金の恐ろしさ  早速、Nさん一家のキャッシュフローを確認しながら、老後の収支を試算していくことにしましょう。  Nさんの現在の世帯収入はNさん1300万円、妻80万円を合計した1380万円です。妻の収入は扶養の範囲内の金額なので手取額と思われますが、Nさんの収入は額面金額と思われます。そのため、Nさんの収入を手取り1000万円、世帯収入を1080万円として家計収支の試算を行います。  一方、支出は記載の項目を合計すると月47万円、年間564万円。ボーナスからの支出は129万円です。以上を合計すると、693万円になります。  キャッシュフローをまとめると、年間の手取収入が1080万円、支出が693万円ですから差額は387万円です。387万円のうち120万円は貯蓄しているので、267万円が使途不明金になっていると思われます。 2人の子どものうち長女は既に社会に出ており、次女も教育費は必要ないと書かれているので、267万円もの使途不明金は看過できない金額です。早期退職に向けてしっかり貯金をできるようにしましょう。 Nさんが早期退職した場合老後資金はいくらになる?  次に、Nさんの早期退職以降の、夫婦の老後資金を試算してみましょう。  Nさんの早期退職は1年後です。先ほどの使途不明金も含めて年間収支の差額387万円が貯蓄に回るとします。Nさんが現在保有している金融資産は、現金700万円だけなので、退職時の金融資産額は1087万円になります。  相談文によると、選択定年58歳の退職金は4000万円程度あるそうですが、退職金で住宅ローンの残額650万円を一括で支払う予定とのこと。退職金の4000万円も額面金額と想定して手取額を3600万円とします。すると、住宅ローン返済後の退職金の残額は2950万円です。早期退職の58歳時点の金融資産額(1087万円)に住宅ローン返済後の退職金を加えると、4037万円です。これが、Nさん夫婦の老後資金になります。 Nさん夫婦の老後、このままでは危険!早期退職はオススメできない  では早期退職時の58歳から、年金受給が始まる65歳までの収支を試算してみましょう。  収入はNさんが月12万円、妻が6万円の合計18万円、年間216万円です。額面で月12万円の収入の場合、社会保険や厚生年金を引いた手取額は、月9万5000円ほどでしょう。Nさんの手取り収入を月9万5000円とすれば、夫婦合計の月収は手取りで15万5000円、年間で186万円になります。 これに対して支出はどうなるでしょうか。早期退職後、住宅ローン(月12万5000円とボーナス払いの70万円)の支払いが無くなります。年間では220万円の減額、つまり年間支出は、693万円−220万円=473万円となります。  世帯収入が186万円、支出が473万円ですから、年間の赤字額は287万円です。  仮に赤字額287万円が65歳までの7年間続いた場合、287万円×7年間=2009万円が金融資産から取り崩されることになります。58歳時点の金融資産額である4037万円から2009万円を取り崩すと、残りは2028万円です。  さらに、Nさんは上記以外に一時的な支出も予定しています。相談文によると、車の買い替え400万円と、何年かに1回の海外旅行を希望しているとのこと。海外旅行は65歳までに2回行くと仮定しましょう。1回当り50万円の費用とすれば2回で100万円です。車の買い替え費用と合わせると、65歳までに500万円が追加で取り崩されることになります。  先ほど試算した通り生活費を取崩した後の金融資産額は2028万円ですから、2028万円−500万円=1528万円が65歳時点の金融資産額です。  次に、Nさんの65歳以降の収支の試算を行いましょう。まずは、受給できる年金について試算します。推測になりますが、妻が扶養範囲の収入なので夫婦の受給額は、2022年度の新規裁定金額に少し上乗せした月24万円とします。年間では288万円となりますが、手取額を255万とします。  65歳以降も支出額が変わらないと仮定すると、Nさん夫婦の年間収入は255万円、支出473万円です。つまり、218万円の赤字になります。  65歳時点の金融資産額1509万円から毎年218万円ずつ取り崩して行くと7年、72歳になる前に蓄えは底を尽きます。もし、希望している海外旅行へ65歳以降も行くとすれば、金融資産が底を尽く時期はさらに前倒しになるでしょう。  このような状況では、早期退職を後押しすることはとてもできません。 早期退職しても老後を楽しむための具体的な支出見直し方法  ここからは、具体的な支出の見直し方法をお話ししながら、試算も行っていきましょう。  相談文には「仕事のプレッシャーで心身ともに疲弊している」と書かれているので「58歳以降の収入を増やしましょう」とは言いにくい状況です。なので、支出を大幅に見直すことにします。 まずNさんの小遣いは6万円から3万円へ減額。次に家族の携帯利用料は格安プランなどに見直し、子どもの通信費用は子どもに負担させるとして3万円から1万円にしましょう。最後に食費は夫婦2人になるので10万円から6万円にします。この3つの見直しで月9万円の減額になります。  また、夫婦の保険が月5万円と書かれていますが、保障を得る目的なら子どもの教育費負担はないので不要です。解約返戻金を老後資金に回すために加入しているのかもしれませんが、保障は不要なので保険は払い済みにした方が良いでしょう。払い済みにすれば保険料の5万円も削減できます。  小遣いの減額、通信量の削減、保険の解約を合計すると、月14万円、年間で168万円も支出額を減額できます。  支出削減をした場合のNさんの58歳以降の収支を試算しましょう。  収入は186万円、支出は473万円−168万円=305万円。つまり、赤字額は119万円です。65歳までの7年間では833万円の赤字になります。  次に、65歳時点の金融資産額を試算しましょう。まずは、58歳時点の金融資産額から58~65歳の間の赤字額を差し引きます。4037万円−833万円=3204万円です。ここから、その他支出(車の買い替え、2回の海外旅行費用)を差し引きます。3202万円−500万円=2702万円が、65歳時点の金融資産額です。  65歳以降の収支を確認しましょう。収入は年金のみで255万円、支出は変わらず305万円とします。赤字額は50万円です。  金融資産額は2702万円あるので、海外旅行費用などの一時的な費用を考えなければ、毎年50万円ずつ取り崩す場合54年間もちます。年齢で言うと119歳まで蓄えはもつことになります。仮に、65歳以降に1回当り50万円の海外旅行を3~5回行ったとしても110歳までは金融資産が底を尽くことはないでしょう。  子細な家計データの記載がないため推測を交えた試算になりましたが、58歳以降の支出を大幅に見直しすれば、老後に過度な不安を持つ必要はないと思います。試算ではNさんが65歳のときに奥様もパートを辞める形としました。しかし、収入を減らしたとしても65歳以降も社会とのつながりを考えて働けば、支出の削減は少なくて済みます。その上で支出を大幅に削減すれば、収入増分はNさん夫婦の余裕資金になるため、老後の楽しみ費用として使うことができます。  簡単な試算になりますが、こちらをベースにして支出の削減や働き方、あるいは海外旅行などを楽しむ費用をどう考えればよいのかの参考にしてください。あと1年間は短いようで長いですから、体調面、特にプレッシャーやストレスなどでメンタル的なダメージを被らないように注意してください。 (ファイナンシャルプランナー 深野康彦) 深野康彦ファイナンシャルプランナーAFP、1級ファイナンシャルプランニング技能士。クレジット会社勤務を3年間経て1989年4月に独立系FP会社に入社。1996年1月に独立し、現在、有限会社ファイナンシャルリサーチ代表。テレビ・ラジオ番組などの出演、各種セミナーなどを通じて、投資の啓蒙や家計管理の重要性を説いている。あらゆるマネー商品に精通し、わかりやすい解説に定評がある。
お好み焼きの伝道師「オタフクソース」秘話 とろみは「あんかけ料理」から着想
お好み焼きの伝道師「オタフクソース」秘話 とろみは「あんかけ料理」から着想 「お好み焼体験スタジオOKOSTA」での体験風景  お好み焼きといえば、濃厚で甘みのあるソースが欠かせない。戦後、焼け野原から再出発したオタフクソースは、お好み焼きの食文化を広げ、今や世界50の国・地域で家庭用ソースを販売する。 *  *  *  お好み焼き用ソースの大手メーカーのオタフクソース。代表商品が「お好みソース」だ。オタフクホールディングス(HD、広島市)が、オタフクソースなどのグループ企業を傘下に持つ。  広島県内の店を訪ね歩き、ブログや地元のテレビ番組で、お好み焼きの魅力を紹介する、細井謙一・広島経済大学経営学科教授が言う。 「他社のソースよりも甘い。原料の一つに以前からデーツ(ナツメヤシの実)を使っている。砂糖より高価でもデーツにこだわり、食べる人の健康を考えている会社です」 創業当時の佐々木商店  会社の生い立ちは、佐々木清一氏が1922年に広島市内で酒の小売りや、しょうゆ類の卸販売をする「佐々木商店」を創業したことにさかのぼる。38年には醸造酢の製造を始め、「お多福酢」として販売した。オタフクHD広報部の大内康隆部長は名称の由来についてこう話す。 「創業者には酢を売るだけでなく、多くの人に福を広め、幸せを売りたいという思いがあった」  ところが、第2次世界大戦末期45年に、原子爆弾が投下され、工場や住宅は焼失。商売はできなくなったが、創業者夫妻や子どもたちは無事だった。46年には酒造蔵を借り、醸造酢の製造を再開した。  当時は小麦粉を水で溶き、刻みねぎなどをのせて焼いた「一銭洋食」が流行(はや)り、ウスターソースをつけて食べていた。これがのちに、お好み焼きと呼ばれるようになる。創業者は、取引先からのアドバイスを受け、50年にウスターソースの製造販売を始めた。  当時、お好み焼きは屋台で提供されていた。お店によって、ソースにいろいろなものを混ぜ、工夫をこらしていたという。あるとき、創業家の食卓に出たのが「あんかけ料理」だった。子どもたちから、ソースにもとろみをつけるとお好み焼きに合うのではという話が出た。これをきっかけに、ソースづくりを試行錯誤し、52年に、お好み焼き用ソースの販売にこぎつけた。 発売当初の瓶入お好み焼用ソース  とろみについて、大内さんは「塩分が強く、塩分を下げると酸味が立ってしまい、そのバランスが難しかった」と話す。塩分と酸味を落として甘みを立たせ、昆布のうまみを足すことにより、独自ブレンドのソースができた。  家庭用のお好み焼き用ソースができたのは57年のこと。お好み焼き屋にソースを納入していたが、頻度が短くなるのを不思議に思ったという。来客数と納入量が合わないことから、ソースを持ち帰る客がいるとわかった。それが家庭用ソースを販売するきっかけになったという。  その後も、お好み焼き用ソースづくりの試行錯誤は続いた。創業者はものづくりにこだわりがあり、防腐剤や保存料を使わないようにしていた。 「防腐効果のある塩分を低くすることで、発酵して瓶が破裂し、爆弾ソースと呼ばれることもあった」(大内さん)  瓶に入った菌を完全に死滅させないと発酵してしまう。この問題は75年、新しく用地を取得して建てた工場に、最新鋭の機械を入れた設備が稼働して解決した。  お好み焼き用ソースの販売の要望は地元の広島以外からもあり、このころから徐々に販路を広げていった。83年に大阪、84年には東京にそれぞれ駐在所を設けた。大阪にはお好み焼きを食べる文化がすでにあり、老舗のソースも多く、販売に苦労したという。一方、東京では、お好み焼き店の開業を目指す人たちに、つくり方の研修をするなどの支援をして、販路拡大に地道に取り組んだ。 「百貨店で催事があれば社員が出向き、食べてもらおうと、お好み焼きを焼いた」(同)  お好み焼きの食文化を広めていくことで、お好み焼き用ソースの販路を広げていく戦略だ。  広島の家庭では、お好み焼き以外にも、さまざまな料理にソースを使っているという。大内さんの家庭では、目玉焼きやコロッケ、ハンバーグなどにもかけている。大内さんによると、一般的に、とんかつソースはうまみと酸味が強くて揚げ物に合い、お好み焼き用ソースは甘みが際立ち、うまみもある。  オタフクのソースは、たっぷりの野菜や果実に約20種類の香辛料をブレンドしているのが特徴だ。デーツを加えてコクのある甘さとなり、まろやかさが際立っている。  広島県観光連盟のサイトによると、広島市の中心部には24店舗が入る「お好み村」がある。お好み焼きの殿堂ともいうべき存在だ。後発だったオタフクのソースは「お好み村に入れていなかった。そこで、メインよりも、周辺から攻めていった」(前出の細井さん)。  オタフクのソースが、ライバル社の商品からの切り替えに成功したのは、顧客の声を聞き、好みの商品に仕上げる「開発営業」にあると、細井さんはみている。 「お客さんの声を聞いて商品を出すのが上手な会社。お客さんの手間をはぶき、お客さんの狙った味を出している」(同)  オタフクのお好み焼き用ソースは、国内だけでなく、「海外でも販売が伸びている」(大内さん)。米国のロサンゼルスや中国の青島、マレーシアにも工場があり、家庭用は世界50の国・地域で販売している。  海外では、お好み焼きを焼くことが難しいところもあり、たとえば米国では冷凍のお好み焼きも販売し、ソースの販売拡大を図っているという。  大内さんは「ソースを売るより、お好み焼きを広めて売る」と話す。お好み焼き教室や、広島県内の小学校でお好み焼きをつくる体験をする小学校食育授業なども展開する。オタフクは、お好み焼きの食文化の伝道師のような存在として、ソースを売り続けている。(本誌・浅井秀樹)※週刊朝日  2022年3月4日号
在宅医療の現場はリスクだらけ「包丁やトンカチを振りかざす」患者も…身の危険を感じた看護師が激白
在宅医療の現場はリスクだらけ「包丁やトンカチを振りかざす」患者も…身の危険を感じた看護師が激白 1月29日、渡辺宏容疑者を乗せた車  埼玉県ふじみ野市で立てこもりが発生し、医師の鈴木純一さん(44)らが犠牲になった1月27日から約1カ月。事件日、渡辺宏容疑者(66)=殺人容疑で送検、18日に理学療法士への殺人未遂容疑で再逮捕=は、在宅クリニックの関係者7人を呼び出し、前日に亡くなった高齢の母親(92)に心臓マッサージを要求し、それを断られ、散弾銃を発砲。鈴木医師が撃たれて死亡、理学療法士の男性(41)が重傷を負った。病院や施設ではなく、家で最期を迎えたいと望む患者や家族に寄り添った在宅医療だが、事件により、在宅ケアに携わる医療・介護従事者に戦慄が走った。ある訪問看護師は「撃たれたのは自分だったかもしれない」と不安がこみあげ、在宅で行う医療で経験してきたリスクを取材で明かした。 *  *  *  都内で看護師をしているAさんは、7年前、60代の独身の息子が90代の母親を介護する家庭で訪問看護を請け負っていた。社会問題である「8050」がさらに高齢化した「9060」世帯だ。90歳を超えた母親は、脳梗塞と心不全を患っており、意識がほとんどなかった。看護師Aさんは、母親の心臓が止まったら「安らかに看取る」ことを事前の共通認識として息子と話し合っていた。だが、母親が息を引き取ると、その場にいた看護師Aさんに矛先が向けられた。 「息子さんから『医療ミスだったのではないか』と咎められ、裁判になりました。それも、母親が亡くなって2年程経ってからです。機能が低下している高齢者の心臓は、いつかは止まるとわかっていても、それがいつになるのかがわからない状況が続きます。ついに止まると、その状況が受け入れられなくて、その場にいた医療者のせいにしたくなったのだと思います」(訪問看護師Aさん)  息子は裁判で「最後に心肺蘇生をしてほしかった」と主張し、慰謝料2200万円以上を請求。最終的に在宅医療におけるインフォームド・コンセント(十分な説明と同意)ができていなかったことが看護師側の過失となり、5年間の話し合いの末、和解金約200万円で決着が付いた。和解金は賠償責任保険で賄った。  ふじみ野市で鈴木医師が撃たれた事件によって、自身の体験がよみがえったという。 「明日は我が身と思い、怖くなりました。母親の死を受け止められなかったのですから、もしあの息子さんも銃を持っていたら、私に向けて撃ってきてもおかしくなかったと思いました。息子さんは介護の仕方に独特の持論を持っており、医療として『こうした方がいいですよ』といっても聞く耳を持たない人で、とてもこだわりが強い人でした。病院であれば、家族に『離れていてください』といって治療に専念できるのですが、在宅医療では家主が主導権を握るので、私たちは言えなくなってしまうことがあります」(訪問看護師Aさん)  大往生の末、最期を家で家族と一緒に過ごし、看取られることを望む高齢患者やその家族が在宅医療を利用することが多い。最期の望みをサポートすることに意義を抱いていた看護師Aさんは、「患者・家族のためを思った医療なのに、看取りで訴えられたり、事件が起きたりすると、在宅医療をできなくなる」と嘆いた。 ■カメラで「監視されている」緊張感  別の訪問看護ステーションの看護師Bさんは、患者から刃物で脅されたことがあった。 「自分の思っていることを伝えられない病状の患者さんから、『どうして伝わらないんだ』という意思表示として、包丁やトンカチを振りかざされたことがあります。ちょっとイライラするとすぐ持ち出します」(訪問看護師Bさん)  看護師に対して自分の要望を理解してほしいがための表現方法だったようで、看護師Bさんが「しまってください」といえば、刃物などをしまう患者だった。 「病院であれば、刃物を持ってくる人はいませんが、一般の家庭では包丁は必ずあります。なかには日本刀をコレクションされている人もいます。今回の事件を受けて、いつまた同じような事件が起きてもおかしくないと思っていました」(訪問看護師Bさん)  病院なら他の看護師や警備員にすぐ助けを求めることができる。だが、在宅では看護師が1人か少人数で患者宅に訪問するため、想定外の危険に遭遇したら対処しきれない。さらに、最近では認知症の高齢者がいる家庭に、見守りのためのカメラを設置しているところも増えてきた。それにより、危機感だけでなく「監視さている」という緊張感にもつながっているという。 立てこもり事件があった現場付近 「看護師の監視目的ではなく、ご家族の安否確認のためだとは思いますが、視られていると感じることはあります。実際に、映像を基に『あの時、何をしていたんですか』とご家族から問い合わせをいただくことがあります。録音やスマホで動画を撮られることもあります」(訪問看護師Bさん)  他にも、看護師は入浴介助や血圧測定の時に男性患者からセクシャルハラスメントを受けることもしばしば。引火すると危険な酸素ボンベの横でタバコを飲む肺がんの患者もいた。ゴミ屋敷の家では、玄関を開けたらゴミ山を這い登って、物と物に挟まれたまま寝返りすら打てない患者のケアにあたることも……。  様々な家庭に踏み込むのだが、特に精神的に堪えるのは、患者家族による人格否定ともいえる言葉のハラスメントだと、前出の看護師Aさんは言う。 「気管切開した患者の痰を引いていると、『あんたそれで本当に看護師なの?』などと、ずっとクレームを言い続ける奥様がいて、メンタルをやられた看護師が退職してしまったことがありました。優秀な看護師でしたが、担当を変えると説得しても、もう続けられなくなってしまうところまで追い詰められてしまいました」(訪問看護師Aさん)  その妻は、夫が気管切開をした時にも病院に対して「なんで手術したのか」と怒っていたようだ。夫が気管切開により命をつなぎとめた――妻はこの“不満”を医療従事者に八つ当たりしていた。 「今までは、病院や施設で行ってくれていた食事や排泄の世話、吸引などを全て奥様が介助してやらなくてはならなくなり、時間の拘束感やプレッシャーなどから、看護師に八つ当たりのような言葉をぶつけて来たのかもしれません」(訪問看護師Aさん)  何人もの看護師が入れ替わった末、弁護士の介入で訪問看護の契約を解除した。 ■「優しすぎる」在宅医療・介護スタッフに懸念  30年以上にわたり在宅医療に携わる「いらはら診療所」(千葉県松戸市)の和田忠志医師は、「安全な職場環境を保障する議論が在宅医療には欠落している」と指摘する。 「国や専門職団体も在宅医療のポジティブな面だけを発信し、人材を増やそうとはするものの、労働者が危険な目に遇うことに対してはこれまで関心を払って来ませんでした。密室の在宅医療は、病院と比べて事故や被害に対するシステムが非常に脆弱。ヘルパーがインシュリン注射の針を踏む針刺し事故や犬にかまれることも珍しくなく、多くは泣き寝入りするのが実態です」  被害に直面した在宅医療や介護従事者が「優しすぎる」ことにも懸念を抱いている。 「介護の人なら包丁を振り回しても大丈夫だろうと思われていることがあります。それを訪れてきた宅配便や銀行員にやったら警察を呼ばれます。セクハラも電車の中で起きたら逮捕されること。ところが、介護の人は『怖かったですね』と、サービスの打ち切りで対処します。犯罪として立件する体質が在宅医療や介護にはほとんどないのです。これでは、次の事業所でも暴力や性被害が起きる可能性があるので危険だと思っています」(和田医師)  全国訪問看護事業協会が2018年に、3245人(うち9.5割女性)の訪問看護師から回答を得た調査では、これまでに利用者とその家族から身体的暴力を受けたことがあると答えたのは45.1%、精神的暴力は52.7%、セクハラは48.4%だった。有効な対策と改善の必要性が示された。  和田医師は、対策として、(1)セクハラ被害の報告がある所には同性のスタッフにする、(2)1人を避けて2名で訪問、(3)自治体の介護保険課に被害を報告、(4)危険な場合は警察の生活安全課に相談して警察官の同行を求めるなど、行政と連携した安全確保の手段を講じてほしいと訴える。 ■終末期のプランを十分に検討して  医師の鈴木純一さんが亡くなった事件を機に、在宅医療の専門職団体でも議論が始まっている。一般社団法人日本在宅ケアアライアンスの理事長、新田國夫医師は、高齢者の終末期医療を前もって検討する「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」をすすめる。 「80代、90代になると、多くは認知症や誤嚥性肺炎、転倒などによる骨折からADL(日常生活動作)が低下し、心肺機能が弱り、心不全、呼吸不全になります。人間の限界値に達する時をどうするのか。ACPとは、前もって本人の意思形成を促し、表明することです。家族とケアをする看護師や医師を含めて計画を立てることです」  ただ、あらかじめプランを立てていても、実際には自分の思いとは違う事が生じてくるという。 「患者本人と家族、ケアをする医療者との意見が一致しないことは多いです。本人の意思とは違って、家族の思い、医療者の思い、周りの人の思いが対立構造を示す事も頻回にあります。90歳を超えると、施せる医療は限られてきますが、本人、家族がどうしたいか過剰な医療の期待ではなく、生きがい、生活の満足度、いのちを視点として、もしもの場合を十分に話し合っておく必要があります」(新田医師)  日本在宅医療連合学会の代表理事である石垣泰則医師は、「在宅医療における医療従事者と、医療を受ける側の患者の双方が安心できるあり方を検討する」としている。 「在宅医療では、病院よりも人間性に突っ込んだ付き合いが患者・家族と医療者の間に生まれます。頼りにしている先生としてみる一方で、望まない状況で最期を迎えると、家族の感情が湧きあがってしまうことは、よくあることなのです」  鈴木医師を散弾銃で殺めた渡辺容疑者は、2016年ころにも母親の診療をめぐって別の医師を罵倒していたことが報じられている。あらかじめ、事情がわかっていたとしても、医療では患者を看なければならないジレンマがある。 「医師には医師法の中に応招義務があり、『診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならい』という義務を負わされています。看護師や介護の教育においても、患者は弱者であるから見捨ててはならないと教えられてきたことから、在宅医療においても問題がある家庭だからといって医療の提供を拒むことはできないわけです」(石垣医師)  超高齢化社会において、在宅医療は多くの人が選択する手段だ。それを担う人材の安全性に目を向け、具体的な対応が求められている。 (AERAdot.編集部・岩下明日香)
身内が後妻業にひっかかった 遺産を守るための対策とは?
身内が後妻業にひっかかった 遺産を守るための対策とは? ※イラストはイメージです  相続のトラブルは、身内ならではの思いも絡むだけに、なかなか厄介だ。そこで、とりわけワケありの人の相続事例を取り上げ、専門家からアドバイスをもらった。“争族”から学ぶ防御法とは──。  今回は「70代の叔父が後妻業の餌食に?」のケース。 *  *  *  首都圏在住の男性会社員Dさん(50代)は一人っ子で、17歳違いの母方の叔父を兄のように慕ってきた。Dさんが中学生のころに母親を亡くしたこともあり、叔父はDさんの受験や就職に際してもあれこれと世話を焼いてくれた。  Dさんはそんな叔父に恩義を感じ、独身の叔父が心臓病で入院したときに付き添ったり、入居した施設の保証人になったりしてきた。叔父はよく、「自分には家族がいないから、何かあったときにはお前に財産を受け取ってほしい」と話していた。叔父は大手企業の孫会社で役員まで上り詰めており、1億円近い蓄えがあるようだ。  5年前、その叔父から「結婚したい相手ができた」と60代の女性を紹介された。夫を亡くし飲食店で働いていたその女性は明るい性格で、初対面の印象は悪くなかった。女性には社会人の息子がおり、婚姻届は出さず事実婚の形を取ることにしたと聞かされた。  女性に不信感を抱くようになったのは、叔父を残して習い事や旅行に出かけることが多く、冗談交じりに「この人(叔父)は私のお財布だから」と話すのを耳にしてからだ。叔父は昨年から車椅子生活になってしまったが、その後、女性から正式な結婚と息子との養子縁組を求められ困っているという。 『ぶっちゃけ相続』(ダイヤモンド社)などの著書で知られる、円満相続税理士法人統括代表社員・税理士の橘慶太さんは、「この女性は悪質。Dさんは叔父に対して『叔父さんのことをお財布だと言ってたよ』としっかり教えてあげたほうがいい」と話す。  その上で、結婚や女性の息子との養子縁組は回避すべきと助言する。 「結婚しないままなら、独身で親もない叔父の相続人は姉のひとり息子であるDさんだけとなり、Dさんが叔父の全財産を相続する形になる。叔父が女性にも少しお金を残したいと言うのなら、例えば、財産の8割程度をDさんに、2割程度を女性に相続させるという遺言書を準備しておく手もある」 (ライター・森田聡子)※週刊朝日  2022年3月4日号
パパはウクライナ人、ママはロシア人の女性が語る“戦争”のリアル 「ケンカを煽り立たのは西側」
パパはウクライナ人、ママはロシア人の女性が語る“戦争”のリアル 「ケンカを煽り立たのは西側」 ロシアのプーチン大統領  ロシア軍がウクライナに侵攻し、各地で激しい戦闘が繰り広げられている。緊迫した状況の中、故郷から遠く離れた日本に滞在しているウクライナ人、ロシア人たちを取材した。その誰もが武力侵攻は望んでいなかった。その一方で、西側諸国の論理では説明できない、この“戦争”の複雑な背景が見えてきた。 *    *  *「私のパパはウクライナ人、ママはロシア人です。だから、親戚はウクライナにも、ロシアにもいっぱいいます。私の名前は、パパの名前からウクライナの名前がついています。だけど、国籍はロシア。私はロシア、ウクライナの両方の味方なんです」  赤い爪、くりっとした目でこちらを見つめながら話した。日本から直行便で2時間45分とアクセスもよく、日本人にも馴染みの深いハバロフスク出身のロシア人女性(38)だ。その潤んだ瞳は複雑な心境をよく表していた。  ロシアは24日、ウクライナに侵攻。翌25日には、ロシアの国防相がウクライナ軍の200人以上を殺害し、空港を制圧したと発表した。 「ショックです。みんな信じられなかった。戦争にはならないと思っていたから。政治と一般の市民とは別です。戦争が早く終って欲しいと祈っています」   ロシア軍は、ウクライナの市民や民間施設は攻撃しない、あくまで標的はウクライナ国内の軍事施設と説明した。 「その言葉を信じています」  だが、ウクライナ内務省によれば、ロシア軍はウクライナにある33の民間施設も爆撃し、2人の子どもが死亡したという。 「それはロシアのせいじゃない」  ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻に踏み切った理由を、彼女なりに解釈して、こう表現した。 「アメリカやヨーロッパが、お金をウクライナの玄関にわざといっぱい置いて、ウクライナとロシアの兄弟の国同士を喧嘩させようとあおっている」  プーチン大統領は2月22日、「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」の独立を承認。この2つの地域はドンバス地域と呼ばれるが、ドンバスの平和を維持するためにロシア軍をウクライナに派遣すると表明したのだ。 ウクライナの首都キエフ近郊で訓練する「領土防衛軍」の志願兵。普段は別の職業に就く民間人=2022年2月5日 「もし、ドンバスをロシアが取り戻さなかったら、そこにアメリカやヨーロッパの軍がやって来てベース(軍事基地)を置いてしまう。ロシアに近いところだから、ロシアがすごく危なくなる。取り戻さないとロシアが弱くなるから、守らなければいけないのです」  彼女のウクライナ人の友人はどう言っているのだろうか。 「ロシアは民間人を攻撃しないという約束を、本当に守るのか、守らないのか、すごく心配だと言ってました。いろいろ、心痛いが、私たちに何かできるわけではない。今は信じるしかないのです」  そしていまの心境をこう吐露した。 「今はロシアに帰りたい。いろいろ心配なので」  岸田文雄首相は25日、ロシアへの追加制裁として「ロシアの個人・団体の資産凍結と査証(ビザ)発給停止」を表明した。 「だから、ロシアと日本を行ったり来たりできない。みんな祈っています。早く戦争が終ってほしい。みんな戦争が怖い」  西側諸国はロシアを一斉に非難。ドンバス地域の平和維持を口実に国際ルールを無視して隣国領土を侵害したと報じている。ロシア人であるこの女性の言葉は、ロシア政府側の言い分を代弁しているだけかと思われるが、実は報じられているほど簡単な構図ではないようなのだ。  今度は、日本に住むウクライナ人たちの言い分を聞いてみた。  ウクライナ人の40代の女性は言葉少なに、こう言った。 「プーチンが悪い。私たちの国に戦車で入った。プーチンは頭おかしくなったんじゃないか」  しかし、ロシアという国が悪いわけではないという。こうも続ける。 「ロシアが悪いんじゃなくて、プーチン大統領とウクライナのゼレンスキー大統領と2人が悪い」  ロシアのウラジオストック出身の女性は、ロシアとウクライナ、両方の土地で育った。 「私のお母さんはウクライナのキエフで生まれました。私も子どものころはキエフにいたけど、お母さんの仕事の都合でロシアへ渡った。ロシア、ウクライナの両方に家族もいるし、私は1万円、2万円、3万円と仕送りしてます」 リビウ駅へと続く道は大渋滞  かつてはロシアとウクライナは、どちらもソビエト連邦に属していた。そうした歴史もあり、市民は互いに同胞であるという意識が強い。ただ、国同士ではいまは関係性がおかしくなったと女性は感じている。 「8年前から続いていること……」  8年前の2014年2月、ロシアがウクライナ南部クリミアに軍事侵攻。前後して、ウクライナでは親ロシア政権が倒れ、親欧米路線の政権が誕生した。東部ではロシアが支援する親ロシア派武装勢力が政権と対立。ドネツク州、ルガンスク州の勢力がそれぞれ名乗ったのが、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」だった。2つの人民共和国の「建国」以降、紛争が続いているのだ。  30歳前後のロシア人女性2人から、ビザの発給停止に関する日本語の文章を読んでくれと頼まれた。「ロシアの関係者に対して、日本への入国査証の発給を停止」と読み上げると、 「今、パニック。ウクライナからも4月に来る予定だった男性がいる。予定通りに来れないんじゃないか」  そして、ロシア人から見たウクライナの状況をこう語った。 「8年前から、ウクライナでロシア語を使うと差別されるようになったんです。だいたいウクライナ人はロシア語をしゃべるんですよ。でも、ロシア語しゃべると、差別されます。だから、ロシア語をしゃべれないフリをする」   報道によると、2019年に発足したウクライナのゼレンスキー政権は、ロシア語の使用を制限する政策を打ち出した。たとえば、ウクライナ語以外で書かれた広告を禁じる法律などだ。プーチン政権の情報戦に対抗するためだという。  そうしたウクライナ政権には反発を覚えるものの、彼女たちは今回のロシアのウクライナ侵攻には賛同できないという。スマホで、ウクライナの地下鉄の駅に人びとが防空壕のように避難している写真をひらいて見せた。 「ロシアが侵攻した24日からずっと、ツイッター、フエイスブックなどのSNSを開くと、戦争の映像ばかり。仕事でいつもラジオを聞いてますが、ラジオでも戦争について語っている。ロシア人は、プーチンに賛成の人も結構いますが、それよりもっとたくさんの人が反対しています」 リビウ駅構内の様子  支持率が高いはずのプーチン大統領についてはこう語った。 「プーチンは18年くらい大統領をやっている。今年10月で、もう70歳。たぶん、死ぬまで誰にもやらせないつもりではないか。彼は筋トレをしていて体を鍛えています。顔はビューティにしていて、昔より若くなった印象。奥さんとは10年近く前、離婚しました。女性との噂はたくさんありますよ」  そんなプーチン大統領は独裁者とも呼ばれる。 「ロシア国内では、政治の反対集会もダメと言われる。『あなたは悪い、警察に行きましょう』と言われることがあります」  戦争の意味についてはこう解釈した。 「ウクライナ人とロシア人は仲良くしたい。ロシア軍がウクライナ国内のすべてのベースを爆破したら、話し合いになるのでは。昔からNATO(北大西洋条約機構)は、すごくロシアのことをいじめた。ウクライナはロシアに近いから、もしたくさんベースがあったら、モスクワを攻撃するようになるでしょう。ロシアはそれは嫌なんです」  EU(ヨーロッパ連合)は輸入天然ガスの約4割を、原油供給の約2割をロシアに依存しているとされる。経済制裁合戦は経済混乱をも招きそうだ。 「ロシアのサハリンには、ガスがあるし、いろんな天然資源があります。全部ストップすると、ロシアとウクライナだけじゃなくて、世界中で戦争が起こる可能性があります」  今回の戦争について、焦点となったエリア、ウクライナ東部のルガンスク州出身者はどのように見ているのだろうか。日本人との間に2人の子供のある40代のウクライナ人女性から話を聞くことができた。  開口一番、「心痛いですね」と言って、こう続けた。 「私はルガンスクで生まれて、18歳のころまでいました。ドンバス地域(ルガンスクとドネツク)は労働者の街なんです。工場で働いたり、石炭を採掘したりするとか。ウクライナの中にいてもまったく不自由はなかった。ソビエト連邦の時は、言葉はロシア語だったんですよ。それが紛争状態になったのは8年前から……」  前述のとおり、2014年にウクライナで親米政権が誕生し、ロシアによるクリミア併合があり、東部で親露武装勢力が活発になった。重武装化し、ウクライナ軍と激しい武力紛争に発展。15年に「ミンスク合意」で停戦に合意したものの、散発的に衝突を繰り返してきた。 ロシア軍のウクライナへの侵攻に抗議する日本在住のロシア出身者ら 「ドンバス地域の人たちは8年間怖い思いしています。普通のマンション、道路、バス、学校とかにバンバン攻撃を受けてきた。いつ、どこで爆撃を受けるかもわからない。対してウクライナのキエフの人びとは、普通に遊んだり、お酒を飲んだり、外国へ遊びに行ったりしていた」  ドンバス地域では生活するのもままならないという。 「8年間、プーチンがこの地域の人びとを食べさせていたのです。食べ物を、ロシアからトラックで送っていたと聞いています。ウクライナからは全然ないんです」  2018年、彼女は伯母に会おうと、ウクライナへ向かった。 「キエフまでは行けたんですが、私は帰化して日本のパスポートになっているので、ドンバス地域まで行けなかった。国境警備隊がいて、通行許可証がいるので」  1カ月間キエフに滞在して、伯母とは電話でしゃべっただけで、日本に戻ってきた。伯母は病気で約40日前に亡くなったという。 「私はお父さんお母さんがいなくて、祖母と伯母さんに育ててもらったのです。お母さんがわりなので、いつも連絡していた。彼女の支えで私は生きてこれたんですよね。伯母は8年前に紛争が始まる前は、子どもの誕生日にも、私の誕生日にも、必ず誕生日にきれいなハガキを送ってきてくれていました。だけど、紛争が始まったら郵便も遮断されて来なくなったし、こちらからお金も送れなくなった」  彼女は今回の侵攻については、「プーチンも8年間我慢して、本当に頭に来たからだ」と話す。だが、プーチンについては独裁者だと言って、こう続けた。 「ロシアは白熊のイメージですよね。冬眠した熊は起こされて、お腹が空いていて、コントロールできなくなっている。それが今の状況」  その一方で、これまでのウクライナ政府のやり方には相当不満があるようだ。 「ドンバスでは毎日、ミサイルが飛んでいるんですよ。だから、今、ドネツクの人はこう言っている。『今、ウクライナの人は怖いんですか。私たちは8年間、ずっとそういう思いの生活でした。毎日,毎日、爆弾がどこに落ちるかわからなかった』」  爆弾はウクライナの軍隊から発射されてきたという。 「ウクライナは、ドンバスは自分たちのテリトリーだからロシア人を追い出したいと言っている。だけど、8年間のうちに、爆弾で街は半分もない。3分の1だけ残っている。あとは石だらけ」  西側諸国の経済制裁の影響については楽観的だった。 「ハッキリ言って経済制裁は怖くない。ロシア人は笑っている。逆に制裁のおかげで国はどんどん強くなっている。輸入に頼っていた農業は、頼らなくてもいいように農業を作り替えている。昔は、チーズをイタリアから輸入していましたが、チーズが入らなくなったら自分たちですごくおいしいチーズつくれるようになった」  そしてこういうのだった。 「ウクライナのドンバスで8年間ずっと戦闘が起きているのに、ほとんどニュースになっていない。今は、ウクライナはかわいそう、ロシアが悪いという論調ばかり。ロシアはウクライナをとるつもりはないと思います。ドネツクとルガンスクからウクライナの軍隊追い出したいだけ。ロシアの一部にならないけれども、2つは独立した地域になると思います」  ウクライナ人、ロシア人に話を聞いてみたが、誰も戦争は望んでいなかった。プーチン大統領の決断を積極的に支持する人もいなかった。しかし、市民の間にも複雑な感情が横たわっていたのも事実だ。なぜ、事態は戦争へとつながってしまったのか。今度、どうなってしまうのか。  ウクライナ人の妻がいる、元拓殖大学客員研究員で、歴史作家の田中健之氏は、こう指摘する。 「ロシアの極東地域は80%はウクライナ人なんですよ。お父さんがロシア人、お母さんがウクライナ人とか、その逆とかの人も多い。ロシア人は必ずウクライナに親戚がいるし、ウクライナ人は必ずロシアに親戚がいる。だから、ロシアとウクライナがケンカするように煽り立てていったのは西側の政治の責任ですよね」  最悪のシナリオも警戒しないといけないという。 「劣化ウラン弾による攻撃には注意が必要です。実際、イラン、イラク戦争でも湾岸戦争でも使われていた。へたに経済制裁をやり過ぎるとEUが分裂しますよ。経済制裁は西側にとってもロシアにとっても、コロナで景気が悪い時に打撃を受け、大恐慌が起こる可能性がありますよ」(田中氏)  誰も望んでいなかった“戦争”。解決の糸口はまだ見えない。 (AERAdot.編集部 上田耕司)
収容者が語る「アメリカを愛しているからこそ伝えたいこと」 日系人強制収容所で起きた事実
収容者が語る「アメリカを愛しているからこそ伝えたいこと」 日系人強制収容所で起きた事実 手前は、広島の小学校の同級生らとの写真。その下は、米国で編入させられた小学校の同級生で、黒人が多かったという(撮影/津山恵子)  真珠湾攻撃後の1942年2月19日、米国大統領が署名した大統領令は、約12万人もの日系人を「敵国人」として強制収容所に送った。同令から今年で80年を迎える。AERA2022年2月28日号の記事を紹介する。 *  *  * 「強制収容が、北朝鮮でもなく、愛するこのアメリカで起きたということを、多くの人に知ってもらいたい」  と米ニュージャージー州在住の古本武司さん(77)。潤んだ目で、手元にはベトナム戦争帰還兵のキャップがある。  1944年、カリフォルニア州トゥルレーク日系人強制収容所で生まれた。両親と姉4人の末っ子で、父親を除いては全員が米国生まれだった。父は戦前、同州で野菜を扱う商売で成功していた。しかし、42年2月19日の大統領令「9066」で、財産は没収、1人スーツケース1個というほぼ丸裸状態で収容所に運ばれた。 被爆直後の広島に送還  しかも収容中、母親の国籍が剥奪され、一家は日本に強制送還される。たどり着いたのは、父の家族がいる広島。原爆投下直後である。小学校同級生の多くが、広島原爆による火傷(やけど)を負っていた。  戦後、一家が苦労してカリフォルニア州に戻ると、ゼロからスタートする貧困に加え、住みたい場所にも住めない2度目の日本人差別に遭った。古本さんは、差別生活を抜け出すために士官学校に進み、ベトナム戦争に志願して従軍した。ところが、戦場で米軍が撒いた「枯れ葉剤」で負傷し、帰還後は、「誰にも会いたくない、何もしたくない」という心的外傷後ストレス障害(PTSD)も患う。  心を閉ざして家族から離れ、ニュージャージー州に移った。そこで日系3世の妻キャロリンさんの「看護」で立ち直り、古本不動産を創業。80年代の日本のバブル経済で多くの物件を扱い成功した。 「少し悲しい話になるので、休憩させてください」と、2時間超に及んだインタビューを中断し、古本さんは唇を結び、涙をこらえた。  それは、広島にいた終戦後、ニューヨークにいた叔母から送られてきた、しゃれたカウボーイハット、ブーツ、おもちゃの銃が付いたベルトの思い出だ。米国帰りで友だちができなかった古本さんは、近所で一躍「キング(王様)」扱いになる。しかし2日後、再び近所の子らに見せようとすると、3点セットは消えていた。 強制収容所で食料をもらうため、列に並ぶ古本さんの母と姉ら。米国に戻り、姉らは大学で学び、医師や教師になった(写真:古本さん提供) 「近所の子に見せると約束したのに! 母は何も言わなかった。一日中大泣きしましたよ」  母は、家族の胃袋を満たすため、闇市でおもちゃを売ってしまったのだった。 書簡に「不正」と明記  93年、クリントン元大統領は、強制収容された日系人に対し、謝罪の書簡を送った。 「日系米国人とその家族の基本的な自由を不当に否定したことに対し、私は心からのお詫びを申し上げる」  大統領署名の書簡を古本さんは額に入れて保管している。謝罪の言葉だけでなく、日系人が受けた戦時中のヘイトクライムを「不正」とはっきりと書いてあるためだ。  古本さんは、大統領令9066があったがため、日米両国で差別を受け、広島原爆の現実を目の当たりにし、ベトナム戦争の犠牲となった。しかし、学生向けのオンライン授業では、星条旗を背景に、ベトナム帰還兵のキャップをかぶって臨む。いつも若い人への証言をこう締めくくる。 「私は、アメリカンドリームを夢みて、それを生きた。アメリカを愛している。だからこそ、その国で日系人強制収容が起きたという事実を多くの人に知ってもらいたいんです」 (ジャーナリスト・津山恵子(ニューヨーク))※AERA 2022年2月28日号
小室圭さんNY州司法試験に再挑戦 合格でもビザは狭き門「抽選にハズれ、2、3年待った人も」
小室圭さんNY州司法試験に再挑戦 合格でもビザは狭き門「抽選にハズれ、2、3年待った人も」 小室圭さん  秋篠宮家の長女、小室眞子さん(30)と昨年11月からニューヨークで新婚生活を始めた夫・小室圭さん(30)は2月22日、23日、ニューヨーク州司法試験に再挑戦したとみられる。英デイリーメールが、試験会場を去る小室圭さんの姿を報じた。 小室さんは赤いスマホを右手に持ち、Uber(ウーバー)タクシーを待つ。眉間にシワを寄せて歩いている。小室さんはウーバータクシーに乗り込み、眞子さんと暮らすヘルズキッチンの自宅へと向かったという。 再び試験に失敗した場合、小室氏は7月まで年2回しかない再受験を待たなければならない。今回の結果が、気になるところだ。 現地の日本人も関心を寄せており、ニューヨークに30年以上住んでいる50代の男性は司法試験初日の22日、会場へ向かう姿をひと目見たいと、朝早くから電車で小室さんが受けたと思われる会場へ向かった。試験が始まるのは午前9時半からだったが、午前7時前には数10人の受験生の行列ができたという。 「試験会場の案内には、午前7時から開場し、先着順に荷物を預かることなどが書かれていました。座る席も決まっているわけではなく、早いもの順だそうです」 試験初日はエッセイなど論点を掘り下げる問題が6問。2日目は200問の選択式の問題で、解答のスピードが求められる。計400点中266点を取れば合格となる。 「200人くらいの受験生が建物の中に入っていきました」 小室さんは昨年5月、ニューヨーク市にあるフォーダム大を卒業し、7月に現地の司法試験を受験した。10月26日に眞子さんと結婚したが、その3日後に発表された試験の結果は不合格。11月14日、小室夫妻は渡米し、夫の圭さんは現地の法律事務所のロークラークとして勤務しながら、再挑戦に備えていた。 FNNプライムオンラインによれば、昨年のニューヨーク州司法試験では初めて受験した人の合格率は76%と高いが、2回目以降は23%に下がるという。 小室さんが司法試験に合格した場合、どういう展開が待っているのだろうか。まずはビザの問題だ。現地在住の日本人経営者の男性は、ビザについて次のように説明する。 小室眞子さん(30)と夫の小室圭さん(30)は2021年11月14日午前、羽田空港から米ニューヨーク州に旅立った(撮影/写真部・松永卓也) 「雇用主の企業にバックアップしてもらい、H-1Bという専門技術者として一時的に就労する場合のビザを申請します。基本的に日本人でこっち(NY)で働いている人たちはみんなH-1Bビザで働き始め、3年間の期限を1回延長して6年間のうちに、会社にグリーンカードの申請をしてもらうか、アメリカ人と結婚してステータス(社会的地位)を換える。6年間でステータスを換えないと、ビザが切れたら日本に帰らないといけなくなります」 ところが、H-1Bビザは申請しても抽選になることが多い。倍率は、実際どのくらいなのか。参考情報として男性は自身の会社の状況を明かした。 「うちの会社は昨年、3人申請して抽選をパスしたのは1人でした。抽選をくぐり抜けて、ようやく権利を得ます」 小室さんの場合も、司法試験に合格したからすぐにH-1Bビザが取得できるわけではなさそうだ。 前出の50代の日本人男性はこう話す。 「本人が申請する条件を満たしても、受からない場合というのは多々ありますよ。たとえば、私の知人はUSCPAという米国公認会計士の試験に合格しましたが、H-1Bビザを申請して抽選にはずれ、日本で2~3年待ってようやく抽選をパスしました」 雇用主の企業にはメリットがなかなか生まれないという。 「スポンサーになる企業は、外国から来た人たちでもこれだけ高額納税者になりますからということを補償するという意味では給料を高く払わなくちゃいけなくなる。申請するのにもお金がかかるし、労力もかかる。それくらいならアメリカ人を雇った方がいいわけで、そうまでしてH-1ビザを申請してくれるというのは相当、優秀な人材でコネも持っているということだと思いますよ。普通はビザの申請をしてもらえない。ビザをいつ取れるかわからない人に投資をして、失敗したら損失だけですからね」(同) 一方、現地では共和党のトランプ政権から民主党のバイデン政権に変わり、ビザはとりやすくはなったと感じているという。 「おそらく、トランプ政権の時は、外国人がたくさんアメリカに入ってくると、アメリカ人の雇用を奪うので制限していたんですね。だから、日系企業はどこもH-1Bビザがとりにくくなっていたんです。それがバイデン政権になって、うちも取れましたし、よその会社でもけっこう取れているという話を聞きます」(前出・ニューヨーク在住の日本人経営者の男性) 結婚の会見に臨む小室眞子さんと小室圭さん  ところで、小室さんはいま、どのようなビザで滞在しているのだろうか。この男性は「小室さんはフォーダム大を卒業した時に、OPT(オプショナル・プラクティカル・トレーニング)をとっているのでは」と推測する。 「OPTとは学生ビザ(F-1)の延長みたいなもので、専攻した分野を活かしてアメリカの企業でトレーニングを受けながら働くこと。通常は1年間の期限があります」(同) さて、小室さんが司法試験に合格したら、どんな仕事に就けるのだろうか。 「独立して自分の事務所を持つ人はまずいないです。ニューヨークには日本人の弁護士さんはたくさんいますけれど、たいていは日系の銀行や証券の法務、コンプライアンスなどで働いていますね。小室さんの場合は、まず今働いている法律事務所と相談することになるでしょうね」(同) もし、小室さんの再挑戦が不合格の場合はどうなるのか。 「OPTが切れると、一度、アメリカを出ないといけなくなりますが、OPTを延長できる場合もあります。私の知っているケースでは、どうしてもアメリカにいたいと、大学に舞い戻った人もいますよ。その場合は、また学生ビザとなります」(同) そうすると推定で月額約50万円とされる家賃のほかに、大学の学費までかかり負担が大きくなってくる。ただ、逆に言えば、お金があれば方法があるというもの。 「何の仕事のない人でも、おカネさえあればニューヨークには住めますよ。家賃は1年分前払いすればいいんですから」(同)  ビザと仕事とお金が何とかなったとしても、ついて回るのは安全面での心配だ。2月10日には、小室夫妻が住む、マンハッタンのヘルズキッチンのマンションの近くで銃撃事件が起きた。 市の衛生局に務める男性職員の15歳の娘が元カレとその兄弟に声をかけられたのがきっかけ。娘に呼ばれた父親と兄弟が口論となり、父親は太ももに銃弾3発を撃たれ、病院に搬送されたという。現地のテレビや新聞でも一斉に報じられた。 「小室夫妻が住んでいる場所というのはもともと治安が悪いところなんです。マンションの近くは川で、川沿いは倉庫が並んでいて、夜は人通りが少ない。ニューヨークはどこで何があってもおかしくない。発砲事件なんて普通にありますからね」(同) 眞子さんも仕事を探しているという。小室夫妻は幾多の試練を乗り切れるのか。圭さんの司法試験の結果は4月末ごろ発表される。(AERAdot.編集部 上田耕司)
芸能ネタだけではない「暴露系YouTube」の有用性とは
芸能ネタだけではない「暴露系YouTube」の有用性とは  最近、話題になっているYouTuberが東谷義和さんです。彼は、「東谷義和のガーシーch【芸能界の裏側】」というチャンネルを運営しており、初投稿から約1週間で登録者はすでに8万人を超えています。このチャンネルは、有名人や芸能人やYouTuberなどのプライベートな部分を暴露するという新しいジャンルです。  東谷義和さんが投稿した動画は、有名な芸人に遊び相手の女の子を手配した内容のLINEや、有名人との法外なレートでの賭博麻雀など、ショッキングな内容でした。東谷さんの動画により、違法賭博への参加が判明した人物の一人が、株式会社ライバーの飯田祐基さんです。さらに飯田さんは、ライバーに所属する人気配信YouTuberのコレコレ(登録者163万人)さんに違法賭博への参加を自ら認める発言を公開されました。この動画は、ある種の内部告発として機能し、大きな反響を呼びました。違法賭博の問題により、飯田さんは取締役と会長職を辞任しました。株主として残ることもないため、完全に株式会社ライバーとの関係を断ち切られました。  株式会社ライバーは大手YouTube事務所UUUMと資本提携しており、その代表が違法行為を行うことは投資間契約違反となる可能性があり、億単位の損害賠償が請求される可能性もあります。この賭け麻雀には、有名YouTuberも関わっているという話もあり、さらなる波紋を呼びそうです。まさに「東谷砲」とも呼べるすさまじい影響力を見せつけました。東谷さんは、まだまだネタがあるようで、芸能界や有名人や事務所は戦々恐々しているでしょう。  東谷さんのジャンルは、暴露系YouTuberと呼ばれるジャンルです。人気配信者のコレコレさんも、このジャンルに当てはまります。今回の一件で、コレコレさんが所属する事務所の社長であった飯田さんを告発したのは、とても意義があることだと感じました。おそらく、これまでにも様々な問題があったのでしょうが、東谷さんの動画をきっかけに、コレコレさんは今までお世話になったとはいえ、会社に不利益をもたらした飯田さんを糾弾する覚悟ができたのだと思います。  今回注目すべきは、YouTubeの動画が、内部告発として機能したという点です。この可能性は非常に興味深く、苦境に立たされている人々にとっては一つの糸口になりうると感じでいます。Twitterでは、時々会社の待遇やパワハラやセクハラについてのツイートが話題になります。少し前には、「一部上場企業に勤める夫が育児休暇をとったら明けて2日目で転勤の辞令。妻の復職まで2週間、2歳0歳の子供が転園入園したばかり、新居に引っ越して10日」という家族の事情を無視した辞令が出され、有給も転勤時期の交渉も受け入れてもらえなかったため夫は退職することになったという内容のツイートが話題になりました。男性が育児休暇を取ると、人事査定に響く可能性について内部告発したもので、大きな話題となりました。このようにSNSを用いて、一般の人が不当な待遇や理不尽な不利益、会社や学校で起こっている事態について、問題提起や内部告発できる時代になりました。このムーブメントが、YouTubeにも訪れたと言えます。  暴露系YouTuberというと、とても過激で、芸能人や有名人を狙い撃ちするようなイメージを持つと思います。実際に、現在話題になっているのは、有名人や芸能人を扱った動画です。しかしながら、このジャンルの可能性は、一般の人でも自分の発信を広く情報を拡散させることができる点です。例えば学校や職場でいじめられていたり、不当な扱いを受けていたり、セクハラやパワハラなどの被害にあっている人がいたとしたら、これをYouTubeの動画で告発することにより、状況を動かせる可能性があります。この意味では、プラスにも働くのが暴露系というジャンルだと考えます。YouTubeの動画がもつ影響力は非常に強くなっています。この影響力をどう生かすかは、動画の作り手次第と言えます。
プロレスラーの“肉体エリート”ぶりが凄い! 他競技でも才能を発揮した選手といえば?
プロレスラーの“肉体エリート”ぶりが凄い! 他競技でも才能を発揮した選手といえば? ブロック・レスナーは総合格闘技団体UFCでも活躍(写真/gettyimages)  プロレス界で一流になるためには様々な要素があるが、やはり人並外れた肉体が必要だ。圧倒的な身体能力を備え、他競技でもその力を発揮していた選手も多い。パワー、スピードなどアスリートとしての“飛び抜けたフィジカル”を持ったプロレスラーを振り返ってみたい。 *  *  * ■虎のマスクを被った佐山聡、三沢光晴  プロレス界でも最高の身体能力を持つと言われるのが初代「タイガーマスク」だった佐山聡だ。小学校で柔道を始め、高校時代にレスリングで国体出場。75年に新日本プロレスに入門し、公称172cmと小柄ながら瞬発力などは当時から飛び抜けていた。練習熱心で打撃技にも早くから取り組み、自らのスタイルを確立。メキシコ遠征で頭角を表し、帰国後に「タイガーマスク」として大ブームを巻き起こした。期間は短かったが、当時の四次元殺法は今だ語られる伝説ムーブだ。  2代目「タイガーマスク」の三沢光晴は中学では器械体操に没頭。公称185cmという大柄な体型ながら素早い動きや飛び技もこなせた理由の1つだ。高校ではレスリングで国体優勝するなどプロレスラーとしての素地を築き、81年に全日本プロレスに入門。「タイガーマスク」時代は初代との比較など苦悩もあったが、マスクを脱いでからも日本を代表するレスラーとして大活躍した。センスの塊のような男が09年の試合中に亡くなったのはいまだ信じ難いことだ。 ■元巨人軍のジャイアント馬場、甲子園全国制覇の田村ハヤト  他競技からの転身組で最大の成功を収めたのは元巨人軍投手のジャイアント馬場。公称209cm、体重135kgの日本プロレス界最大の身体を生かして多くのタイトルを奪取した。巨人には5年間在籍、1軍通算成績は3試合の登板で0勝1敗、防御率1.29。60年の大洋キャンプにテスト生として参加した際、風呂場で転倒したことが原因で野球選手を断念。力道山を訪ねて日本プロレスに入団したことが大レスラー誕生へとつながった。  野球では田村ハヤトのインパクトも強烈だ。群馬・前橋育英高3年時、高校野球で全国制覇を達成している。外野手のレギュラーとして3回戦と決勝戦で本塁打を放った。卒業後は総合格闘技を学び、19年にJUST TAP OUTに入団。ZERO1参戦時は世界ヘビー級王座挑戦、火祭り出場など破格待遇を受けていた。21年途中からGLEATマットを主戦場とし、9月に同団体へ正式入団している。 ■アメフト出身のWWEレスナー、ゴールドバーグ、レインズ  米WWEにはアメフト最高峰のNFL出身者が多くいる。“野獣”ブロック・レスナーはミネソタ大時代からレスリングの名選手として知られ、NCAAディビジョン1・オールアメリカンに2度選ばれた。04年にNFL挑戦のためWWEを退団、トライアウトを経てミネソタ・バイキングスと契約した。また“超人類”ビル・ゴールドバーグは90年ドラフト11巡目でロサンゼルス・ラムズから指名された。ケガでプレーできなかったが、その後アトランタ・ファルコンズでプレーし、拡張ドラフトでカロライナ・パンサーズから指名を受けている。  ローマン・レインズはバイキングス、ジャクソンビル・ジャガーズに在籍。フロリダ州出身で、昨年4月に同州タンパで開催されたレッスルマニア37でユニバーサル王座防衛戦を行った。その他、キング・コービンは学生時代にアメフト、ボクシング、総合格闘技、柔術などで結果を残し、09年にインディアナポリス・コルツと契約、アリゾナ・カージナルスにも在籍した。モジョ・ローリーも大学時代に様々な賞を獲得し、09年にグリーンベイ・パッカーズ入団、カージナルスでもプレーしている。  日本のアメフトでは健介オフィスに所属していた起田高志。大学からアメフトをプレー、社会人オービック・シーガルズで日本一も経験。また、中澤マイケルは東海大でプレーしただけでなく父・一成氏は同大監督を務めるなどアメフト一家として知られる。その他にも「ウルトラセブン」高杉正彦は日本大、大森隆男は城西大、中牧昭二は拓殖大のアメフト部OBだ。 ■ラグビー日本代表の阿修羅・原、大学日本一のKENSO  阿修羅・原とKENSOはラグビー界を代表する選手だった。  原は東洋大、社会人・近鉄で活躍し、日本代表キャップ17を獲得。76年には日本人選手初の世界選抜メンバー入りを果たす。翌77年にラグビー選手を引退、同年に国際プロレス入りを表明した。天龍源一郎との『龍原砲』はプロレス史に残るタッグチームとしてインパクトを残した。  KENSOは明治大2年からロックで活躍し、96年から2年連続で大学日本一。大学卒業後1度はサラリーマン生活を送るも、99年に新日本入団。在籍4年ほどだがアントニオ猪木への「明るい未来が見えません」発言でインパクトを残した。04年からは米WWEで妻・浩子とのコンビも注目を集めた。ハッスル、全日本などでファイト後、現在はテレビプロデューサー兼レスラーという立ち位置だ。  その他にも近藤修司は東海大第一高(現・東海大静岡翔洋高)時代に花園出場経験があり、国際武道大まで打ち込んだ。田中将斗は和歌山東高で国体出場、社会人・住友金属でもプレーしていた。米国でのアメフト同様、日本ラグビー界には素晴らしい素材が多いようだ。 ■バレーボールの長尾浩志、ヨットのカイリ・セイン  その他スポーツではバレーボールVリーグ・堺ブレイザーズでプレーした長尾浩志。196cmの長身と強靭なバネが目に留まり、22歳で新日本入団。レスラー転向1年で“帝王”高山善廣からタッグパートナーに指名されるなどしたが、デビュー戦直前に右ヒザ靭帯を断裂。半年後の再デビュー戦前には前腕部骨折とケガに泣かされた。06年に新日本退団、ハッスルに入団したが08年に現役引退した。  カイリ・セインとしてWWEで活躍する宝城カイリはヨット選手として日本を代表する選手だった。山口・光高、法政大ではジュニア世界選手権の日本代表も経験。今では米マット界でタイトル戦線に絡むほどの存在感を発揮している。  レスラーは自らの存在感、説得力を発揮しなければ生き残れない。そのために身体能力は大きな武器となる。そういう選手たちが集まってトップを目指すのがプロレスの世界。強さや巧さを競い合い見るものを納得させるストーリーを描く。プロレスが究極の戦いと言われる所以でもある。
歴代総理で人柄が一番いい人は? 田原総一朗が明かす
歴代総理で人柄が一番いい人は? 田原総一朗が明かす 田原総一朗氏  首相にズバッと切り込んできたジャーナリスト、田原総一朗氏の「宰相の『通信簿』」は今回、小渕恵三、森喜朗の両氏。親しみやすさは共通するも、かたや晩年苦しんで急逝、かたや内閣発足時から批判の的となり苦しんだ。(一部敬称略) *  *  * 小渕恵三(おぶち・けいぞう)/1937年、群馬県生まれ。早大大学院在学中の63年に初当選。官房長官、自民党幹事長、外相などを歴任し、98年に首相就任。99年には初めて公明党との連立政権を組んだ。2000年に脳梗塞により退任。約1カ月後に死去した。改元時に「平成」の元号を発表した官房長官としても知られる  官房長官として新たな元号を発表し、「平成おじさん」なんて呼ばれた小渕恵三が1998年に首相となった。僕は小渕に対し、三つのことを提言した。  まずは、日韓問題。かつて佐藤栄作と朴正熙時代の会談でケリがついたとされてきたが、全く違うと。会談があった当時、韓国は財政的に貧しかったから、日本の無理難題を聞かざるを得なかった。韓国は“反日感情”がずっとあった。それで小渕に「日韓で“対等”の首脳会談をやるべきだ」と言った。  そして、小渕と金大中大統領との会談が実現した。このときに金大中が初めて「和解」という言葉を持ち出した。まさにこれは、対等であるからこそだった。これで日韓関係が本当に良くなった。もともと朴政権下の73年、金大中氏が日本でさらわれ、殺されかけた。いわゆる「金大中事件」ね。僕は、彼を「救う会」のメンバーでもあったから仲がよかった。  二つ目は沖縄問題。米軍の普天間飛行場(宜野湾市)の移設先として、名護市辺野古の名前が浮上していた。移設先問題をめぐり、僕は小渕に「日本の在日米軍基地が沖縄にあまりにも集まりすぎている」と訴えた。沖縄県民の不満は多い。さらに問題だと感じていたのは、沖縄以外に住む日本の人たちは、沖縄を蔑視しているのではないかということだった。非常に良くない。これでは普天間問題なんかは解決できない。だから、「主要国首脳会議(サミット)を何としても沖縄でやるべきだ」と言った。  僕だけでなく、何人もの関係者が沖縄開催を提案した。すると本当に、九州・沖縄サミットが決まった。もちろん、沖縄での開催にはずいぶんと反対の声もあっただろうけど、小渕が“断固沖縄”にこだわったのね。だから「すごいな」と思ったわけ。押し切ったんだから。自分が「やらなきゃいけない」という強い思いがあったんだろうね。  もう一つは、財政再建。これは中曽根康弘内閣以後、好調だった経済が悪化していくわけだけど、小渕内閣のころは先進国の中でも極めて悪い状態だった。だから、「財政問題で思い切った改革をやるべきだ」と言った。これは、できないまま終わっちゃったね。  小渕は体調を崩して突然に入院し、病状悪化で亡くなってしまう。  小渕は大きな問題に苦しんだ。実は、連立政権を組む自由党(当時)の党首、小沢一郎から、党が一緒になるべきだと強く求められていた。自民党の中には当然、反対が強い。彼は困惑し、ストレスを抱えた。  そんなころ、テレビ番組で小渕と対談した。このときにね、どうも顔色が悪い。だから気になって、「元気がないね。夜、ちゃんと寝ているのか。5時間くらい寝ている?」と聞くと、小渕は「5時間寝るのは夢だ」と話していた。長期政権になっていたら、財政再建をやっていたことだろう。  自民党の歴代総理で人柄が一番いいのは、小渕だと思ったね。中曽根の場合は、僕がしゃべると、大学ノートにメモを書いた。小渕はね、メモ用紙にまさにメモしていた。さらにおもしろいのは、あとで電話がかかってくるの。メモの内容について「田原さんはああ言っていたけど、どういう意味?」などとね。世間でも、気さくに電話をかけてくる首相として親しまれ、名字をかけ合わせた“ブッチホン”は新語・流行語大賞になった。  家に帰ると、留守番電話に「もしもし小渕です……」と入っていた。首相時代は、会ったり電話したりとしょっちゅう話をしたよ。 ◆「次は加藤」明言 裏切り!?に激怒  小渕はこんなことを僕に言ったことがある。「自分は才能がないから、人の言うことを聞いて、聞くことで情報を得て、いろんな人から聞くことでどうすればいいか考えている」とね。  たしかに「真空総理」とも呼ばれたけど、実際、自分でそれを認めていたの。人の言うことを聞いて、どうすればいいかを考える。デモクラシーというのはそういうものだからね。小渕に似たタイプは、今の岸田文雄首相かもしれないね。彼もわりと、野党の言うことをちゃんと聞くよね。  そんな人柄の小渕が、カンカンに怒った出来事があった。99年の自民党総裁選。無投票再選を狙った小渕の思いに反して、加藤紘一が出馬したのね。  実は小渕は、僕に次期首相として「次は加藤でいく」とはっきり言っていた。加藤本人にも伝わっていたはずだけど、なぜか出ちゃった。僕も止めたんだけど、言うことを聞かなかった。  それで、加藤を買っていた小渕が激怒する。小渕からすれば「加藤はどうしても自分を潰したいのだ」と映った。裏切られたと。なぜかわからないが、加藤の“勘”が狂ったんだと思う。いまだによくわからない。 森 喜朗(もり・よしろう)/1937年、石川県生まれ。69年に初当選。83年、文相として初入閣し、その後、通産相、建設相を歴任。2000年に首相に就任するも、「神の国」発言やえひめ丸事故発生時のゴルフ続行などで批判を浴び、就任1年で退陣した。議員引退後は東京五輪組織委員会会長に就任した  2000年春、小渕が突然の病で亡くなると、自民党の幹部たちが、幹事長だった森喜朗で行くしかない、と決めた。森本人は全く想定してなかったのに、首相になった。  マスコミはこれを一斉に「密室談合」だと書き立てた。森も反論したいけど、反論する機会も与えられなかった。はじめから“ダメな首相”だと決めつけられてしまったのね。 ◆プーチンと良好 えひめ丸で失脚  首相になるなんて考えていなかった森は、それまで「滅私奉公」だと言っていた。もちろん大事な姿勢だけど、首相になったわけだから「『滅私奉公』と言うのはもうやめたほうがいい」とアドバイスした。森は「そうですね」と言っていた。  森はとにかく面倒見がいい。無所属で初当選したくらいだから、多くの人に慕われた。だけど、マスコミは首相としていかにダメかという理由を探し続けた。そして、森の発言がたびたび問題となった。  いわゆる「神の国」発言があった。それから、衆院選の投開票を控えた時期、(野党に票を投じやすいとされた)無党派層に対して「寝てしまってくれればいい」とも言った。とにかく森は批判の的となった。  森はね、ごまかしてしゃべっているわけでは全くないのね。東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会組織委員会の会長としても「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」と発言。批判を浴びて辞任した。 (週刊朝日2022年3月4日号より)  森夫妻と何度か食事をしたこともあるけど、奥さんに頭が上がらない。逆に「あなたが東京でいい格好をしているとき、私は地元で有権者に最敬礼して回っている」などと言われるわけね。僕も家族には頭が上がらないから、一緒だね。  森失脚が決定的となったのが01年、愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がハワイ沖で米国の潜水艦とぶつかり、沈没した事故。多くの高校生らが亡くなった。この時に森はゴルフをしていた。事故が発生していたのにゴルフを続けていた。けしからんと。これが致命傷となった。  大事故だから言い訳はできないけど、かわいそうな事情もあった。森はプライベートでゴルフをやったのね。秘書たちにみんな、久しぶりに休暇をとらせていた。  だから、秘書たちは事故をいち早く伝えなかった。森は事故を知ると、首相官邸に直行せずに服を着替えるため自宅に立ち寄った。これもまた批判された。  そんな森内閣だったけど、プーチン大統領とはウマが合った。人脈を持っていた自民党(当時)の鈴木宗男と森の仲がよかったためね。ところが当時、ロシアとの関係がうまくいくことは、日本国内では反対の声が根強かった。  森内閣が続いていれば、プーチン大統領は北方領土問題で「2島返還」を言っていただろう。 (構成/週刊朝日編集部) ※次回は小泉純一郎の予定です※週刊朝日  2022年3月4日号
なぜ、在宅死がいいのか? 専門医らに聞いた「病院にはない死のあり方」
なぜ、在宅死がいいのか? 専門医らに聞いた「病院にはない死のあり方」 小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科・岐阜在宅ケアクリニック院長)  在宅死を支える医師や看護師は、なぜその道を歩んでいるのか。職業観を掘り下げると、在宅死の本質的なメリットが浮かび上がってきた。病院にはない死のあり方について、看取りを支える5人に聞いた。 *  *  * ◆生まれるところは決められないが死ぬところは自分で決められる 小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科・岐阜在宅ケアクリニック院長)  在宅医療に携わり33年。これまで1500人を超える患者を在宅で看取ってきた。「在宅なんてやりたくない」から一転、半径500メートル以内の往診から始まった氏の在宅看取りは、全国へと広がっている。  私の信条は、どんな患者でも、最期まで自宅で朗らかに暮らし、満足して旅立てるようにケアすること。在宅医療は、病院ではできない方法で命のケアができると思っています。  私は僧侶の息子で、9歳で得度し、法事や葬式にも伺ってきました。祖父は網走刑務所の教誨師。そんな環境もあって、幼いころから死というものについて、人並み以上に考える環境で育ってきたと思います。  医者の道を志し、医学部を卒業してから16年半にわたって勤務医をしていたころは、在宅医療なんて全く考えていませんでした。それどころか、在宅医療はやりたくない、医学の進歩に寄与できない開業医は敗北だと思っていたんです。だから目を悪くし、勤務医を続けることが難しくなって開業医の道を選ばざるを得なかったときには、挫折感がありました。  1989年、小笠原内科を開業。開業前は往診しないつもりでしたが、妻から「断ると患者さんが可哀想だから」と言われて、開業当初から在宅医療と訪問看護を始めることに。患者の家に往診に行っても、最初は何をするのかもわからず、看護師にいろいろ教わりました。看護師は、在宅医療の要でキーパーソンだと思い知りました。それから数々の現場で、患者や家族から話を聞き、看取りの経験を重ねてきた中で今の僕があります。  私が本格的に在宅医療に開眼する転機となったのが、92年のこと。 (夫)「明日、旅に出るから、いつもの鞄と靴を用意してくれ」(妻)「どこに行くの? 私も連れてって」(夫)「今度は遠いところに行くから、君は家で待っていなさい」  これは末期がんで在宅療養していた70代の男性患者が、亡くなる前日に奥さんと交わした会話です。翌朝、往診を終えて帰ろうとする私に、奥さんが「男の人って最期までかっこつけるのね」と、この会話を教えてくれました。「夫が亡くなった」との電話が入ったのが、その2時間後。「すぐに行く」という私に奥さんは「主人はもう旅立ったから、目の前の患者さんを診てあげて。それから来てくださればいい」と朗らかに言うんです。その後、旅立った男性患者と対面すると、亡くなった顔がとても穏やか。夫を見守る奥さんの笑顔もまた、穏やかなものでした。病院での死は「死ぬときは苦しいのが当たり前」、遺族にかける言葉は「ご愁傷様」です。その世界しか知らなかった私は、この穏やかな死のあり方に「なんだこれは」と強い衝撃を受けたのです。  病院は安心できる場所のようで、実は病気と闘うストレス空間。患者の「暮らし」をみるのではなく「病気」だけをみる場所です。それと対照的に「住み慣れた暮らしの場所」は、癒やしの空間。生まれるところは決められませんが、死ぬところは自分で決められます。ところ定まれば、心定まる。その人らしい暮らしの中に、希望死・満足死・納得死があることを、数々の看取りを経験する中で実感します。 ◆なじみの中で迎える「いい仕舞い」一つでも多く支えられるように 小笠原望(大野内科理事長)  高知県南西部の町で、外来診療に加え、かかりつけ医として在宅医療で地域医療を支える。高知市から約100キロという、海・川・山の大自然に囲まれたこの土地では、死はタブーでも湿っぽくもないという。死の考え方にも、独自の捉え方があるそうだ。  医療の現場に立って45年。僕は研究歴のない根っからの臨床医で、大学在学中から「将来は田舎の医者になろう」と決めていました。医者がいない田舎で、人と人が丸ごと関わるような在宅医療をするのが夢で、早い段階から方向性が固まっていました。田舎の医者になるなら、どんな分野でも診られるようにならないといけない。それで修業のつもりで、高松赤十字病院で内科医として、20年ほど勤務しました。  当時の病院では、「患者の死は医療の敗北」という雰囲気がありました。助かる可能性のある命にはとことん頑張る、これは医療の大原則です。一方で、老衰と呼ぶべき症状にはどこまで何をすべきか。医療者の満足ではなく、患者の満足の質とは何か。いろんな患者や家族と接する中で、自分に問うてきました。  病院では患者さんが亡くなるときに、心電図のモニターをつけます。すると家族がモニターの波形ばかり見る。僕はそれが嫌で、思わず「命はそちらではありません」と家族に注意したことも。あの人工的な音が看取りの場面には不似合いのように思い、ある時期から僕の患者さんの看取りの場面には、機械を入れないようにしました。  45歳で現在の地に移り、田舎医者としてこの地に根ざして25年。ここに来てから「この患者に何をして何をしないか」を、より考えるようになりました。ここ四万十では、患者が自分の死に方を口にすることが多いのです。「家で死にます」と自分の意思をはっきり口にする人が少なくないのです。死がタブーでも湿っぽくもない。そのきっぱりした態度はどこから来るのか。それは医療が遠い田舎という環境で、自然を生で感じながら暮らしているからだと思います。「自然には勝てない」とわかっているから、生活の中に当たり前のように死がある。それを受け入れる強さと覚悟がある。自然の中での暮らしは、そういうことではないでしょうか。  田舎の不便さはもちろんあります。移動距離も長いし、時間もかかる。看護や介護の担い手も不足。都市部のような24時間巡回も難しい。それでも人と人の濃い関係性があり、ビジネスではない心の通ったやり取りがある。そして“非効率”を埋める自然がある。僕が看取った患者の家族が言った「鳥のさえずり、窓をたたく風の音、母が茶碗を洗う音、その中で父は最期を迎えました」の言葉は、田舎の在宅死の象徴とも言えると思います。  医療者はなるべくお節介をせずに、命の流れについていく。人の命も自然の中のもの。川の流れのように生きて死ぬ。ここの人は、痛まず、苦しまず、なじみの中で迎える最期を「いい仕舞い」と言います。僕は「いい仕舞いをありがとう」と言われるのが、最大の励みです。一つでも多く、いい仕舞いを迎えられるように、今日も患者と向き合います。 ◆死を病院から再び家に戻すべきじゃないかと考えるようになった 桜井隆(さくらいクリニック院長)  兵庫県尼崎市で30年にわたり、家での看取りを支援し続ける。家での看取りについて考える市民参加型のプロジェクトや演劇活動など、多方面に活躍中だ。なじみの高齢患者には「あと何年生きたいですか?」「どうやって死にたいですか?」といった“往生際談義”を通じ、最期の希望を明るく引き出す。  私は町医者の外来診療の延長として往診などの在宅医療に関わっていく中で、亡くなっていく患者を家で見送るようになりました。今でこそ、在宅看取りに関する活動をいろんな形で行っていますが、基本的には「呼ばれたら行く」という“出前スタイル”。当初はとりたてて「在宅ケアを支える」という理念があったわけではなく、「もう入院はしたくない」という患者を家で診ていたら、そのまま亡くなってしまったというあっさりした流れがスタートでした。  最初に家で看取った肝臓がん末期の患者さんのことは、今でもよく覚えています。「あれだけ入院を嫌がっていたのだから、畳の上で死なせてあげたい」という奥さんの固い意志のもと、家族に見守られながら、草花が枯れていくように、だんだんと息をしなくなる患者。「これが息を引き取るということか」と、病院では感じたことのなかった、死の自然な姿を初めて教えてもらいました。  その後、いろんな人をそれぞれの家でお見送りする中で、住み慣れた家で看取るということが、かけがえのないことに思えてきました。病院で亡くなる人がほとんどの今、死というものは病院の中、医療の中に閉じ込められ、得体の知れないものになっている。ですが本当は、医療は死の一部にちょこっと関わるだけでいいはず。昔の日本がそうであったように、死を病院から再び家に戻すべきじゃないかと考えるようになりました。  これまで多くの患者さんを看取ってきましたが、私は患者さんと住空間をセットで、景色として覚えていることが多い。阪神・淡路大震災の仮設住宅で看取った患者も何人かいます。誤解を恐れず正直に言えば、患者のことより先に、その家への道順や家の間取りやベッドの位置を思い出すこともあるぐらい。それだけ人の生活空間というものは雄弁で、患者の家に行って初めてわかることがたくさんある。  いろんな患者さんと関わる中で思うことは、人生のエンディングについてもっと考えてほしいということ。みんなおいしいものを食べに行くとなれば、どの店に行くか真剣に選ぼうとするのに、自分が死ぬことについては、場所や過ごし方も含めて、あまりに受け身。わからないからお任せするという「諦めパターン」ではなく、人生の最期をどう過ごすかという大切なことなのだから、もっと考えるべきだと思う。  そのきっかけになればと、同地域の医師である長尾和宏さんと共に、在宅看取りをテーマにした劇団も立ち上げました。医療・福祉に関わる多職種と市民からなるチーム活動も行っています。どの活動も、誰もが人生の最期をどう過ごすかは「あなたが選んで決めていい」ということを伝えたいから。無理せず、自分たちなりに納得できる往生際はどんなものなのか。それこそわがままも許されるときだから、自分本位に考えてみてほしい。こうした“往生際談義”を気軽にしようよ、と投げかけたいです。 ◆死後を考えるより、死ぬまでにどうしたいかをもっと考えるべき 中村明澄(向日葵クリニック院長)  これまで800人以上の患者を在宅で看取ってきた。病院での死のあり方に疑問を持ち、本格的に在宅医療の道を志す。「死後」についての議論が盛んな中、「死ぬまでのことをもっと考えて」と患者に寄り添う、その心は──。  私が在宅医療の現場に初めて触れたのは、大学5年生で経験した実習です。訪問診療に同行したお宅で、点滴や採血といった医療行為が病院と同じように行われているのを見たとき、「医療=病院で受けるもの」という概念が覆りました。個々の暮らしに溶け込んだ医療があること、それを必要としている人がいる現実を知り、在宅医療に興味を持つようになりました。  大学卒業後は病院に勤務しましたが、患者が病院で亡くなっていく姿を見る機会が増えるにつれ、「人生の最期を、病院という場所で迎えて本当に良いのだろうか」という疑問が深まっていったのです。  今でも忘れられないのは、研修医になったばかりのころに出会った、すい臓がん末期の患者。39歳と若くして病を患った方で、おなかに水がたまって歩くのもやっとという状態。その患者が「会社に行きたいので腹水を抜いてほしい。頑張って働いてお金をためて、苦労をかけた妻を海外旅行に連れていきたい」という。すでに余命1~2カ月という状態でしたが、主治医も奥さんも余命だけでなく、病名についても本人に伝えることを躊躇(ちゅうちょ)しており、結局本人は自分の症状を知らぬまま、あっけなく亡くなってしまったのです。「頑張っていれば、いつか旅行できる日が来る」と信じて、つらい治療に耐えていた本人があまりにかわいそうでした。今ではがんの告知はもっと一般的になっていますが、どんなにつらい事実でも、知っていたほうが納得のいく最期を送れるのではと強く思いました。  私が研修医だった20年前は、入院していると、いよいよ最期というときに、医療者が部屋に入って心肺蘇生が始まり、入れ替わりに家族は部屋の外に出されてしまうこともありました。もちろん、人は誰でも死ぬときには一人。それでも大切な人に手を握ってもらって、見守られながら最期を迎える選択肢がもっとあるべきではないかと思わずにはいられませんでした。  病院になくて自宅にあるもの、それは「生活」です。無機質な空間で、起床から就寝までスケジュール管理される生活、食べる楽しみとは程遠い食事──。病院という場所は、あくまで病気と闘う場所で、病気と“付き合っていく”段階に入ると、必ずしも適した場所とは言えません。自由に生活できる自宅で最期を迎えるということを、もっと多くの人が考えてもよいのではないでしょうか。  在宅医療を専門にすると決めたとき、いろんな先輩医師から「24時間365日態勢を一人でやるのは大変だぞ。よく考えろ」と言われました。確かに、常に患者の元に駆けつけられる態勢でいる必要があるため、風呂場にもスマホを持ち込み、旅行にも行けない日々です。それでも「家にいられてよかった」と言ってもらえるたびに、この仕事を選んでよかったと心から思います。  今、自分の死後を考えるエンディングノートがはやっていますが、それよりも「自分が死ぬまでにどうしたいか」ということをもっと考えてほしい。その上で、最期を迎える場所にも選択肢があることを知ってほしいと願っています。 ◆訪問看護に携わって初めて「寄り添えている」実感が持てた 大軒愛美(正看護師、看取り士)  看護歴16年目の正看護師。大学病院や個人病院などで勤務する中で、病院での死のあり方に疑問を持つように。現在は「より良い最期」を迎えるため、患者に寄り添うことを心がけて終末期医療に力を注ぐ。 「最期をどこで過ごしたいか」と聞かれると、多くの人が自宅と答えます。にもかかわらず、望んでいない病院で最期を迎えている人が圧倒的に多い。私は病院での勤務経験を踏まえて、「それで本当に良いのか」と問いたいのです。  病院という場所は、あくまで“仮の場所”であるため、個人のプライベートについて細かい配慮がなされていません。その象徴とも言えるのが、入院中に過ごす部屋。多くの場合、複数人での部屋で過ごすことになりますが、隣の患者さんとはカーテンで仕切られるだけで音は筒抜け。気が休まらない方も多く、実際に入院中にストレスが蓄積されてしまい、鬱になってしまう人もいます。病院で最期を迎えるということは、最後までストレスを抱えたままの状態が続くとも言えるのです。  医師の言うことに疑問を持たず、鵜呑みにする人が多いことも懸念の一つ。例えば、治る見込みがかなり薄い患者さんを手術する例。医師に「治したい」という気持ちがあるのはもちろんですが、「自分の腕を磨きたい」「手術の症例数を上げたい」という思いもあるものです。日本は医師の言うことに従うのは当然という空気がありますが、治療をどこまでやるか、最期をどこで過ごすかといったことは、本来は自分が選択すべきこと。医師の言うことを聞くばかりではなく、自分の意思を持ってほしいと思います。  私は看護師として複数の病院に勤務してきましたが、慢性的な人手不足もあり、医療者は余裕がなくなりがちでした。患者さんと看護師との関わりはわずか数分。入院中の患者さんにとって最も身近な存在は、医療スタッフではなくテレビになるということも珍しいことではありません。  恥ずかしながら、在宅医療の中の訪問看護という仕事に携わるようになってから、きちんと患者さんに「寄り添えている」という実感を初めて持ちました。もちろん病院でも患者さんと向き合っているつもりでしたが、「寄り添う」ということは難しかった。満足している患者さんの姿を見られることが、在宅医療のやりがいです。  人生の最期が迫る中で今後のことを考える時間があるのなら、より良い最期を迎えられるように準備してほしい。多くの人が、よくわからないままに“何となく”病院で終末期を迎え、家族と切り離された慌ただしい場所で亡くなっていきます。自分の最期が本当にそれで良いのか、ぜひ考えてほしいと思うのです。 (フリーランス記者・松岡かすみ)※週刊朝日  2022年3月4日号
2000年以降の日本の衝撃 「Qちゃん」全盛、津波被災の「生死の境」
2000年以降の日本の衝撃 「Qちゃん」全盛、津波被災の「生死の境」 シドニー五輪の表彰式で金メダルを手にする高橋尚子  創刊100周年。長い間、国内外で起きた出来事を報じてきた「週刊朝日」。2000年代以降にもさまざまな印象的な出来事や衝撃事件が起きた。その記録を当時の記事から振り返る。 *  *  *  20世紀最後の年となった2000年、時代の寵児に躍り出たのが、シドニー五輪のマラソンで日本女子陸上界初の金メダルを獲得した高橋尚子だ。  本誌はレース直前の9月29日号「増田明美が解く、3代表『金メダル』への方程式 五輪女子マラソン」で、ロス五輪代表の増田明美さんによる展望記事を掲載した。 <高橋さんにとっていちばん大きいのは、自信です。(中略)以前の高橋さんには、ランナーとしてのもろさを感じるときがありましたが、今は本当にタフになりました>  と、高橋の実力に太鼓判を押した増田さん。この記事ではさらに、坂の多い難コースの勝負ポイントを現地入りしていた担当記者が実際に自転車で完走して確かめた。 <三十五キロ付近から丘にある住宅街を走る。アップダウンの連続は、試走した選手の「ゴールに近づくほどタフになる」「まるでジェットコースター」という表現がぴったりだ。記者もバテてきて、上りで何度か自転車を押して歩いた>  実際のレースでは、高橋は34キロ地点でサングラスを投げ捨ててスパートし、ライバルを突き放して勝利。「Qちゃんスマイル」で国民的な人気者となった。あれから22年。増田さんはこう振り返る。 「日本のお家芸マラソンで、ついに世界の頂点に立った!という大きな感動がありました。高橋さんはスタート前に(歌手の)hitomiの歌を聴いて踊り、レース後は『楽しい42キロでした』と満面の笑みで振り返った。マラソンの『耐える』イメージが『明るく楽しい』ものに変わり、市民ランナーの増加にもつながったと思います。レース前に(監督の)小出義雄さんと高橋さんは『タンポポの綿毛のようにふわふわと42キロの旅に出る』という歌を詠んだ。そのとおりのレースでしたね」 世田谷一家殺害事件の被害者となった宮澤みきおさんの家族写真  この年の暮れには、現在も未解決の陰惨な事件が起きている。12月30日夜から翌大晦日にかけ、宮澤みきおさん(44歳=当時、以下同)、妻・泰子さん(41)、長女・にいなちゃん(8)、長男・礼君(6)一家が自宅で何者かに惨殺された世田谷一家殺害事件だ。犯人は犯行前後11時間以上も家の中にとどまり、冷蔵庫を開けてアイスクリームを食べたり、被害者のパソコンを操作したりするなど奇異な行動を取ったことが判明している。  07年1月5・12日号「『真相を教えて』被害者の父が初手記『6年目の新事実』」では、みきおさんの父である良行さんが心境を明かした。  事件発覚後、親族からの電話で現場に駆け付けるも、前夜の行動を聞かれるなど矢継ぎ早に質問を浴びせられたこと。遺体確認の際に孫の後頭部に触れようとすると「触らないで!」と強い口調で注意されたこと。警察の冷淡で事務的な対応には違和感があったという。 <私たち遺族にとって、殺人という非現実的な出来事は受け入れがたい大きな衝撃でしたが、警察の人々にとってはありふれたひとこまにすぎないのかと、やりきれない思いが込み上げました>  事件から6年を経てもなお、犯人逮捕に至っていないことについては、こう綴っている。 <発生当初から、私は自分が生きている間に犯人が捕まらないこともあるかもしれないという心の準備を常にしてきたつもりです。最悪の結果も予想し、そうなったとしても仕方がないと、いつも自分に言い聞かせています>  良行さんは12年に肺炎で亡くなった(享年84)。事件は未解決のままだ。  津波による大きな被害などで1万8千人を超える死者・行方不明者を出したのが、11年3月11日に起きた東日本大震災だ。  地震発生直後の被災地を本誌記者5人が取材したのが、3月25日号の「大震災『奇跡の生還』 本誌記者が被災の現場で見た、聞いた 福島・宮城・岩手・青森踏破ルポ」だ。 東日本大震災の津波で船や家屋が押し流された宮城県気仙沼市の市街地  現地入りした一人の藤井達哉(現・朝日自分史編集長)は地震発生時、北海道で取材中だった。東京から東北へ向かう便が運休となる中、新千歳空港から福島に飛び、取材を始めた。  記事では福島県相馬市で、間一髪で津波から逃れた60代男性の、こんな証言を掲載している。 <「津波だ。逃げろ!」  すぐに車に飛び乗った。道端には近所の人たちが20人ぐらい固まっていた。 「早く逃げろ!!」  車窓から叫び、走り続けた。バックミラーに、真っ黒い波が家の残骸とともに塊となり、ものすごい高さで押し寄せるのが映った。後ろに車が5台ほど続いていた。濁流はどんどん近づいてくる。無我夢中で車を飛ばし、高台のバイパスにたどりつくと、後続の車両は3台になっていた。 「おれの後ろはダメだったんだ。おれもあと少し遅れたらダメだった」>  津波の被災現場は高圧電線の鉄塔すらひしゃげて倒れ、何もなくなっていた。翌日には福島第一原発で水素爆発が発生したが、知らぬまま現場で取材を続けた。藤井は当時の取材をこう振り返る。 「ぎりぎりで生き延びた人もいれば、目の前で家族を失った人もいた。話を聞いたすべての人が、ものすごい体験をしていた。多くの人が見ず知らずの記者である私に話をしてくれたのは、誰かに話さないと気持ちの整理がつかなかったせいかもしれません」 (本誌・大崎百紀) 週刊朝日2022年2月25日号より) ※週刊朝日  2022年2月25日号
アンアンの名物特集 「男が作るからエロくなる」敏腕編集長の見出しの妙
アンアンの名物特集 「男が作るからエロくなる」敏腕編集長の見出しの妙 延江浩(のぶえ・ひろし)/TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー (photo by K.KURIGAMI)  TOKYO FMのラジオマン・延江浩さんが音楽とともに社会を語る、本誌連載「RADIO PA PA」。淀川美代子について。 *  *  *  昨年亡くなった伝説の編集者、淀川美代子の足跡を辿り、東銀座のマガジンハウスを訪ねた。  元社長で日本雑誌協会理事長を務め、現在取締役相談役の石崎孟(つとむ)は、江戸期から麻布十番で布団屋を営む大店の息子である。立大アメリカンフットボール部出身の「バリバリの体育会系だった」彼が販売部から編集に移った際、アンアン編集部で淀川と同じ班になった。 「特に美形でもないんだけど、可愛くてオシャレな人だなーって」。印象的だったのはマニキュア。「爪をあずき色に塗っていたんです。同じ班だったから、マニキュアを眺めながら『君、どんなことやっているの?』って気軽に聞いたら怒られた。『ヘンなこと、聞かないで!』。そこから一挙に仲良くなってね(笑)」  可愛い顔をして生意気だった淀川は、いつもどこからか可愛らしいものを見つけてきた。 「ワークブーツってあるでしょ。それを女用に作り替えたらどうなるか?って、(KISSAの)高田喜佐さんにお願いして、見開き2ページでパーンとやる。高田さんもだけど、淀川にはシンパがいた。ピンクハウス金子功さんの奥さんの立川ユリさん、小泉今日子さんとか。有名、無名じゃなくて、生き方、厳しさ、オシャレ具合がほどよい仲間たちが」  ルイ・ヴィトンも淀川に教わった。こんなビニールのバッグが何十万?と思ったが、「彼女がパリで買ってきた。で、タレントの大辻伺郎さんのコレクションを4ページでずらりと紹介、日本でルイ・ヴィトンをメジャーにした最初の記事になりました。淀川もサラリーマンだったから、給料を使い果たしたんじゃないかな」  石崎が広告タイアップの制作部署に異動した際、日本で一番儲かっている雑誌ランキングを見せられた。雑誌黄金期の90年代、淀川が編集長のアンアンがトップだった。部数のみならず広告量も桁違い。2番めが女性自身で、ノンノ、クロワッサンと続く。 セックスを大特集した「アンアン」の1989年4月14日号(協力:マガジンハウス)  淀川には思い切りの良さと、もう一つ、タイトルの妙があった。「セックスを扱うのはそれまで古いタイプの週刊誌だった。男が作るからエロくなる。淀川は『セックスで、きれいになる。』とタイトルをつけ、それでまたパーンと売れた。編集長としての凄みを感じました。難しい言葉は使わない。わかりやすい言葉で読者をドキッとさせ、心を掴んでいったんです」  石崎の自宅にも遊びに来て、妻とトランプに興じていた。義理堅く、石崎の父が亡くなった時も、子供が生まれた時も優しい気遣いを忘れなかった。  泣く子も黙る淀川だが、編集者は叱られるのが嬉しく、逆にそれを自慢した。淀川に遠くから憧れる他社編集者も多かった。 「男のファッションにもうるさかった。自分のセンスと違う人には、ちょっとイカさないんじゃないのって」  そんな淀川美代子が風のようにこの世を去った。遺言には「病気のことは一切言わないでください。葬式も不要です」 「コロナでめちゃくちゃになった。人の最期も訳がわからない。でも、彼女にとってはそれがよかったのかもしれない。黒衣に徹した人だったから」  石崎孟がしみじみと言った。 延江浩(のぶえ・ひろし)/1958年、東京都生まれ。慶大卒。TFM「村上RADIO」ゼネラルプロデューサー。国文学研究資料館・文化庁共催「ないじぇる芸術共創ラボ」委員。小説現代新人賞、ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞など受賞※週刊朝日  2022年2月25日号
男性の性機能低下は更年期障害のサイン? テストステロン減少で起こる症状
男性の性機能低下は更年期障害のサイン? テストステロン減少で起こる症状 ※写真はイメージです  最近、気力、体力が落ちてきて、勃起力も……。それ、更年期障害かも。男性ホルモンのテストステロンが減っているのかもしれない。ライターの亀山早苗さんが、その実態と改善法を取材した。 *  *  * 「50の声を聞いてから、どうもやる気が失せてきたんですよね」  力ない声でそうつぶやくのは53歳のユウイチさん(仮名)。コロナ禍で在宅ワークが増えたのもあり、生活にメリハリがなく、集中力も続かないという。同世代の妻は更年期をものともせず、パートに趣味にと出かける。 「あなたもしっかりしてよね」。そんな妻の声を聞くと、ますます気力がなえていくと彼は苦笑した。 「そういえばと思い返したら“朝勃(だ)ち”とか、ほとんどしなくなっている。セックスレスになってからも長いなあと考えると、鬱々(うつうつ)としてしまって」  女性特有と思われがちだが、男性にも更年期障害は起こりうる。男性ホルモンであるテストステロンの減少によるもので、正式には加齢男性性腺機能低下症候群(LOH症候群)という。  テストステロンは30代から少しずつ減っていく上、個人差が大きいので自覚しづらい。気づいたら、ユウイチさんのように「気力のない自分」になっているというわけだ。そもそもテストステロンとはどういうホルモンなのか。獨協医科大学埼玉医療センター・泌尿器科の井手久満教授に聞いた。 「男性における主要な性ホルモンといっていいでしょう。脳の視床下部からの指令で、主に精巣で作られます。量は少ないものの、副腎や筋肉、脂肪、脳の記憶をつかさどる海馬でも作られています。テストステロンの98%がたんぱくと結びつき、実際には残り2%のフリーテストステロンと呼ばれるものが体の中で働いているんです」  テストステロンは、精巣を成長させて精子形成を促進し、勃起、性欲、造血、筋肉や骨の強化、認知など、さまざまな機能に作用する。体中のほぼすべての臓器で働いているといってもいい。 (週刊朝日2022年2月25日号より) 「肉体面だけでなく、メンタル面にも影響を与えます。テストステロンにはドーパミンの分泌を高める働きがあるので、テストステロンの値が高い人は活動意欲が強くなる。また、社会貢献をするようになる、嘘をつかなくなるなどの実験結果もあります」(井手教授)  興味深いのは、テストステロンは、恋をしたり結婚したり、あるいは子どもと添い寝をしたりすると低くなる。これはテストステロンが「社会参画・積極性」と緊密なホルモンだから。ドメスティックな感情が濃くなると一時的に下がるのだ。  井手教授によると、ストレスに弱いのもテストステロンの特徴だという。50代は仕事でも家庭でもストレスを抱えることが多い年代。そのため、「加齢以上にテストステロンが落ちてしまう人もいるわけです」。  LOH症候群でも気力の低下が認められるため、「うつ状態」になりがちだ。ところが抗うつ剤を飲むと、さらにテストステロンは減少するという。井手教授が続ける。 「だからうつ病と診断されて薬を服用してもよくならない場合は、一度、LOH症候群を疑ったほうがいいかもしれません」  精神疾患なのか、LOH症候群なのかで、受診先も精神科、泌尿器科などと変わってくる。  さまざまな機能に作用するテストステロンだが、その減少が前出のユウイチさんのように性欲低下や、「朝勃ちしない」原因ともなり得る。そして、朝勃ちがないのは、実はもっと大きな病気が潜んでいる危険性がある。 「いわゆる朝勃ちというのは生活習慣病のバロメーターです」  そう指摘するのはアンチエイジングに特化した治療をするDクリニック東京の安田吉宏院長だ。  男性の性器にあたる陰茎海綿体は、刺激を受けると血流が増し、体積が増大する。これが勃起である。夜間の睡眠には、「ノンレム睡眠(深い眠り)」と「レム睡眠(浅い眠り)」があり、交互に繰り返しながら朝を迎える。レム睡眠は、「体は休んでいるが、頭は働いている」状態。自律神経の働きも活発になるので勃起という生理現象が起こる。つまりレム睡眠中に目覚めれば「朝勃ち」が起こっているのだ。  ところが動脈硬化が進行すると、その生理現象が起こりづらくなる。陰茎は心臓や脳などと比べて体表近くに存在しているので、好不調の自覚を得やすい臓器。もしも朝勃ちがないなら、他の部位でも進んでいることが疑われる。1週間のうちに1日も朝勃ちがない場合は要注意といえよう。  こうした動脈硬化を予防する上でもテストステロンを増やすのは効果的だ。肥満を防ぎ、運動で筋肉量を増やす。動物性たんぱく質や牡蠣(かき)など亜鉛を含む食材をとる(サプリもOK)。また、スポーツ観戦などで競争意欲を高めるのも上昇につながる。使わない器官は衰えるので勃起・射精もしたほうがいいという。  Dクリニックでは「男性力ドック」を行っている。男性更年期を疑うべき症状と、それを引き起こす要因を「身体」「精神」「性」の三つのカテゴリーに分け数値化。中年期からの男性のQOL(生活の質)をあげるための取り組みである。男性更年期が確認された場合は、ホルモン補充療法もする。 「注射と塗るクリームがあります。ホルモン値は個人差もあるし、1日のうちで変化もありますが、通常は月に1回程度、筋肉注射をします。そうするとテストステロン減少によるさまざまな症状が軽くなっていく。3回くらい打つと明らかに効果があったという患者さんが多いです」(安田院長)  クリームは皮膚が薄くて吸収が早いという理由で陰嚢に塗る。注射ほど高い効果があるわけではないが、「そこそこの量の男性ホルモンを持続的に補充できるのがメリット」という。 「普段はクリームを使っていて、調子が悪いなと思ったら注射をすることもできます。ホルモン補充療法というと怖がる人が多いのですが、抗加齢治療の一つとして検討してみてもいいと思います」(同)  ただしホルモン補充により前立腺がんのマーカーに影響が表れることがあるので、まずは健康診断が必須だ。また、外からホルモンを補充しすぎると、体内で作る必要がないと脳が判断し、作らなくなることもある。医師と相談の上、量の調整が重要だ。  テストステロンの重要性や増やし方についてはおわかりいただけただろうか。次に、朝勃ちに関連し、勃起不全(ED)についても対処法など触れておきたい。  まず、EDの具体的な症状としては次のようなことが挙げられる。 ・性欲や興奮はあっても、なかなか勃起しない・最初は勃起するけれど持続できない・自慰行為では問題なく勃起するがセックスだとなえてしまう・挿入できても途中でなえてしまう・勃起はしているのに明らかに硬さが不十分  浜松町第一クリニックの2019年の調査によれば、40代の中等度型ED、完全EDは2割弱なのに、50代になると3割以上、60代では4割以上になる。竹越昭彦院長は「EDの要因は、大きく分けて四つ」と話す。 (1)器質性 神経の障害や、動脈硬化の進行など(2)心因性 ストレスやプレッシャー、うつ病など(3)薬剤性 薬の副作用(4)複合型 原因が特定できない、あるいは前記三つの複合型  50代以上の男性であれば、どれもが当てはまる可能性は高い。そしてEDは男性の尊厳に関わる。実際、「妻とできなくなってしまった」と嘆き、日常生活に張りも活力もなくなってしまった男性が、EDが治ったとたん、生き生きとして仕事にも精力的に取り組むようになった話はよく耳にする。竹越院長が話す。 「力がつくものは年齢を重ねると衰えます。勃起力、運動能力、基礎体力、免疫力。生物としてやむをえないことです。ただ、50代以上の男性を見ていると、加齢にともなって友だちも減って内にこもるタイプと、加齢を気にせず、生活を楽しみながらパワーアップするタイプに二極化していくような気がしますね」  ではEDにはどんな対処法があるのだろうか。ホルモン補充療法もその一つだが、竹越院長はバイアグラやシアリスなどの薬を推奨する。ED治療薬は、併用禁忌薬を使用している人は服用できないが、多くの人が使えて手軽だ。ただし重度の糖尿病だと効果が得られにくい可能性がある。 ED治療薬のバイアグラ (GettyImages) 「必要なときだけ服用すればいいんです。バイアグラは投与後4~5時間、シアリスは36時間まで有効性が認められています。平日の必要時はバイアグラ、週末はシアリスと使い分けている方もいます。薬は相性もあるので、まずは試してみることが大事です」(竹越院長)  ただ、気をつけたいのは、非正規品のED薬を処方するクリニックがあること。実際に体調を崩す人もいるという。それを避けるためには、国内のED治療薬、医薬品メーカーの病院検索サイトで確認することが重要だ。  一方、ED薬が飲めない人、根本的な治療を望む人に人気の治療法もある。陰茎に特殊な衝撃波を与える医療機器を使う。陰茎幹や海綿体の全範囲で血管が揺すられるなどして、新しい血管が生まれ、そこに血液が流れ込むことで勃起能力を高めるものだ。 「新しい血管が成熟するまでに2、3カ月はかかりますが、施術3回目くらいから以前と違うという人もいますね。一度終了して、数年後にまた希望する人もいます。副作用報告もありませんし、高血圧や既往症のある方でも使えます」(安田院長) ED治療機器「レノーヴァ」(写真は治療する際のイメージです/Dクリニックで)  Dクリニックでは、治療は1回20分程度。週1回を4回で終了という。  実際、衝撃波を手の甲に当ててもらった。トントンとかすかに打たれている感覚はあるが痛みはまったくない。40代から70、80代も多いという。  高齢化が進み、定年後も仕事を始め社会参画が必須の時代である。いつまでも溌剌(はつらつ)とした男でありたい、女性にモテたいという気持ちは大事だ。そのためのQOLを考えていく時代になっている。※週刊朝日  2022年2月25日号
「週刊朝日」が報じた1920~50年代 「戦争」から新時代、“ミッチーブーム”へ
「週刊朝日」が報じた1920~50年代 「戦争」から新時代、“ミッチーブーム”へ 明仁親王(現在の上皇さま)と美智子さまの結婚パレード  100年前に誕生した日本最古の総合週刊誌・「週刊朝日」。多くの苦しみを生んだ悲惨な出来事も、国民みんなで笑顔になった素晴らしい出来事も、独自の視点で報じてきた。その長い歩みを、歴史に残る大事件を報じた数々の記事とともに振り返る。1920~50年代は何が報じられたのか。 *  *  *  本誌が1922(大正11)年に創刊されてから、わずか1年半後の23年9月1日。午前11時58分に関東大震災が発生した。  東京朝日新聞社は壊滅的被害を受けたが、当時は大阪朝日新聞社が東京に委嘱するかたちで編集していて、印刷は大阪でしていたことから、本誌は震災直後の9月9日に通常どおりに発行され、その甚大な被害についていち早く全国の読者に伝えることができた。 <地妖と云はうか、天變と云はうか、大地怒ると云はうか、總ては言語の外である。一切は恐るべき事實なのだ。私達は災害の前に、唯慴伏(しょうふく)するのみである>  当時、9人の男性記者は、それぞれが東京から自動車や列車を乗り継ぎ、時には川を泳いだり歩いたりしながら大阪に向かい、誌面を作ることができたという。  昭和に入り、日本の帝国主義化が進み、本誌の色合いも、時流に沿ったトーンに変化していく。  31(昭和6)年に満州事変が勃発すると、9月27日号では、「果然、日支兵戰を交ふ」という河野恒吉陸軍少将の手による記事を載せた。詳細がまだ分からないという前提のもと、<こゝに眞相らしい諸情報を綴つて見る>と、その顛末を掲載、<世間ではこの度の事件を直ぐ戰争々々と呼ぶが、これは戰争といふ程度のものではない>とし、今後の日中交渉を見守る姿勢をみせている。  翌32年に満州国が建国され、5月には海軍急進派青年将校らによる「五・一五事件」で犬養毅首相が殺害される。36年には皇道派青年将校らが首相官邸・警視庁などを襲い永田町一帯を占拠する。翌日には、戒厳令も公布された「二・二六事件」が起きた。  日本の歴史に残る衝撃的なクーデター事件であり、朝日新聞社も襲撃されたものの、本誌3月8日号での記事の扱いは、<逝去した人々>として、高橋是清大蔵大臣や渡辺錠太郎陸軍大将らの訃報を1ページ掲載、翌15日号では「二・二六事件日誌」という見出しで、<本日午前五時頃一部青年将校らは左記箇所を襲撃せり><戒厳司令部当局談の形式で、今次事變経過の概要を発表><廣田外相と寺内大将(軍部)などの折衝つゞく>など、事実を時系列でわずか3分の1ページほどのスペースに淡々と書き連ねただけだった。  これは当時、報道規制で当局発表だけに制限されていたためで、事件の背景や考察など、本来、報道機関が読者に伝えるべき事柄については触れられていない。  41年、12月21日号では「對米英宣戰の大詔」として、太平洋戦争の開戦の詔書をそのまま載せ、<十二月八日、ハワイは遂に爆撃された>と、真珠湾攻撃をリポートしている。そして「屠れ! 米英 われ等の敵だ! 進め一億火の玉だ!」とのスローガンや軍歌の歌詞と楽譜なども大々的に掲載するなど、戦争への士気を高揚させる記事を連発した。明るく華やかな話題は激減し、戦局をひたすら伝える記事がページを埋め、広告も戦争を意識したものが多数掲載される時代が続いた。  そして45年8月、終戦を迎えると、本誌は8月12・19日号で「ポツダム宣言の進路 忍苦よく皇國日本再建へ邁進せん」と、ポツダム宣言が今後の国の指針となるとして、具体的にこれから何が変わっていくかについて書いている。  その中で、日本の領土として<われらの決定する諸小島>という文言が、どこまでを指すのかについて分析、沖縄についても、<ポツダム宣言の謂ふ「われらの決定する諸小島」のなかに入るものであるか、どうか>と記している。  また、<武装解除と復員・戰争犯罪人の處罰><民主々義的傾向の復活強化の問題>などの戦後処理について触れ、<平和的傾向を有する政府の樹立>や、<占領期間の長短は一に我等の努力に>と、戦後不安だらけの中、日本が一歩を踏み出したことを感じさせる記事になっている。  戦後、奇跡の復興を遂げた日本は、サンフランシスコ講和条約(51年)、自民党誕生・55年体制のスタート(55年)などを経て、現在に続く国家の形を形成していく。やがて高度経済成長期に突入する中で、多くの国民が注目し、その行方を見守り、多幸感に包まれた出来事が、59年の皇太子さま・美智子さま(現・上皇ご夫妻)のご成婚だった。  初の民間人からの皇太子妃として選ばれた正田美智子さんの注目度は高く、世の中には“ミッチーブーム”が巻き起こり、本誌でも何度となくご成婚の特集が組まれた。  58年12月7日増大号では、<特集・皇太子妃決定>と銘打ち、その人物像に迫った。グラビアでは自室での写真や軽井沢のテニスコートでの皇太子さまとの仲むつまじいショットを掲載。そして、取材を担当した5人の記者による取材メモからその顛末を掘り下げた。  取材班は、皇太子妃として選ばれそうな女性は誰か、元皇族、元華族をはじめ、可能性のありそうな女性を次々に洗い出し、<そんなこんなで、われわれが当った家庭の数は六万を越えた>。そこから1500人を選び出し、<この千五百人を五十人くらいにしぼるという“作業”を始めた>。 <元皇族、華族をのぞいた民間出の中では、すでに正田美智子さんの名は、とびはなれて有力な一人として二重丸をつけられていた>として、その裏付けとなる理由、家柄や通っているテニスクラブの情報などを記している。  この時期の美智子さまの存在を、本誌編集部はじめ各マスコミよりもいち早く知っていたのが、美智子さまについての著作も多数ある皇室ジャーナリストで文化学園大学客員教授の渡辺みどりさんだ。  渡辺さんは美智子さまと同じ年齢。55年に読売新聞が成人の日特集として募集した作文コンテストに、美智子さまも渡辺さんも応募した。当時、聖心女子大学の2年生だった美智子さまは、このコンテストで堂々の2位入選だった。 「そればかりか、賞金の半分の千円を社会事業に、残りの半分は母校の奨学資金として寄付されたと新聞に書かれていました。もし賞金がもらえたらスキーに行こうなんて考えていた自分と比べて、同時代にすごい方がいらっしゃるんだとガツンと刷り込まれました」  59年、いよいよご成婚とパレードの日が近づく。53年に放送がスタートしたテレビが、58年に100万台が普及、そしてご成婚の盛り上がりも後押しし、その1年後には200万台に倍増するなど、マスコミ全体が活気に満ちた時代だった。本誌もご成婚・ミッチーブームに乗っかり、4月12日増大号の表紙は美智子さまだった。<皇太子さま、美智子さま、おめでとうございます>と、巻頭からご成婚を盛大にお祝いした号となった。 <敗戦は悲しい現実でしたが、いろいろのものを生み出しました。お二人もその意義の深さに思い至されたいと思います>と、敗戦を経た日本にとっての大きな明るい話題であったことがうかがえる。本特集では皇太子さまの生い立ちから美智子さんと出会うまでの半生を、8ページにわたり綴り、最後には、お二人が出会った軽井沢のテニスコートのエピソードを引き合いに、ドラマチックにこう記している。 <ここではしごく散文的に、昭和八年十二月二十三日に生れた一人の男の子と、そのあくる年の十月二十日に生れた一人の女の子が、初めてその日にめぐり会ったとだけしるして置こう。多分何ものかの力に導かれて……>  4月10日、ご成婚パレード当日。日本テレビに入社した前出の渡辺さんは、中継現場にいた。 「私は青山学院大学のすぐそばにいました。道路をへだてた側にはKRT(現TBS)の中継班がいました。お二人を乗せた馬車のどちら側で美智子さまをよりアップで映すことができるかという勝負でもあったんです」  渡辺さんには「秘策」があった。沿道で青山学院大学のグリークラブにハレルヤのコーラスを歌ってもらった。 「聖心出身でいらっしゃるので、反応してくださるかと考えたんです」  秘策は見事に当たった。 「歌声にハッとしたように美智子さまがクルッとこちらを向いてくださって。あふれんばかりの健康美のアップを長い時間お茶の間に届けることができました」  日本が明るい話題に包まれる時代の幕開けを象徴するような一日だった。(本誌・太田サトル) (週刊朝日2022年2月25日号より) ※週刊朝日  2022年2月25日号
東浩紀「多視点的な映画『ドライブ・マイ・カー』に感銘受け、希望を見た」
東浩紀「多視点的な映画『ドライブ・マイ・カー』に感銘受け、希望を見た」 東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役  批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。 *  *  *  遅まきながら濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を観(み)た。仏カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞し、米アカデミー賞で日本映画初の作品賞にノミネートされた話題の作品である。  大変な感銘を受けたが、同作については多くの評が出ている。ここでは原作との比較から見た魅力を記した。  同作の原作は村上春樹の同名短編である。妻に先立たれた50絡みの男性俳優が、亡き妻の浮気の謎について一世代下の女性と語りあう。そして一種の許しに至るという物語だ。  村上春樹は現代日本を代表する小説家である。当然の評価だが、他方で彼はきわめて男性的な作家でもある。村上文学に登場する女性は、男性に欲望や気づきを与える存在としてのみ描かれ、単体では生彩に欠けることが多い。原作も同じ欠陥を抱えている。一言でいえば、結局は主人公の孤独なダンディズムで終わる(とも読める)話になっているのだ。  けれども濱口は、多くの設定を加えることでその罠(わな)を巧みに回避している。映画版では妻の死因も浮気相手の年齢も変わっている。聞き手となる若い女性の内向的性格も背景が一段と深められている。そのことで物語が男性一人のものではなくなっている。  とくに決定的な改変は、主人公が国際演劇祭に出向き、演出家として日韓中フィリピンの役者とともに共同で舞台をつくるという設定が導入されていることである。一つの劇を演じながら言葉は通じない。それはむろん不実を隠しながら維持した夫婦関係の隠喩だ。だがそれは裏返せば、言葉など通じなくても一緒に劇は作れるという希望でもある。このような仕掛けによって、映画は実に多視点的な作品になっている。  村上版の男性は最後まで静かに思い出を語るだけだが、濱口版では泣きながら妻への怒りを叫ぶ。そしてその感情の爆発こそが、聞き手の女性に新たな人生を開くことになる。  私たちはみな孤独で傷ついているけれど、同時にその傷を通して繋(つな)がることができる。それはまさに現代世界が必要としている希望の形である。日本からこのような普遍的な作品が現れたことを喜びたい。 東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数※AERA 2022年2月21日号
グラビアが伝えた戦後日本 ビートルズ来日や山口百恵の結婚も
グラビアが伝えた戦後日本 ビートルズ来日や山口百恵の結婚も 山口百恵結婚(1980年12月5日号)  週刊誌のグラビアは、時代を映す鏡。戦後日本の大きなうねりを感じ取る。創刊100周年の「週刊朝日」が伝えた戦後の日本を紹介する。 *  *  * ◆東京五輪で金に輝く東洋の魔女(1964年10月23日号) 東京五輪開会式直後の号。カラーグラビアでは華やかな開会式などを、モノクロでは女子バレー日本代表の試合を掲載した。<日本対アメリカ戦は,“東洋の魔女”の小手調べというところ>。初戦圧勝 ◆ビートルズ来日(1966年7月15日号) <台風一過の朝空が東の水平線からほのかに赤く染まろうとするとき、航空会社から贈られたハッピに身をつつんでビートルズは日本の土を踏んだ>という来日直後の様子のほか、記者会見、日本武道館でのファンの熱狂など、カラーグラビア3ページ、モノクロ6ページの大特集 ◆スカルノ夫妻を独占取材(1965年12月24日号) インドネシアのスカルノ大統領とデヴィ夫人に独占取材。ムルデカ宮殿内の大統領執務室、プラブハンラトゥ海岸の砂浜、移動中のヘリコプターなどで撮影した仲むつまじげな写真を多数掲載した。なかには、別れ際に大統領が夫人の頬にキスをするシーンも ◆浩宮さま、学習院ご入学(1966年4月22日号) 4月8日の学習院初等科入学式、翌日の授業開始日の登下校の様子を取材。9日の登校は、東宮御所から正門までの約500mをゆっくりと歩いて10分かけてご到着。下校時は<美智子妃がつきそわれて車で。(略)手をしっかりにぎって, ほっとした面持ち> ◆川端康成、ノーベル賞受賞(1968年11月1日号) 受賞発表の翌日の川端に密着。自宅でフランスのニュースの取材を受ける様子も撮影。<ふだんはマスコミ嫌いの川端さんも(略)“タレント”ぶりを見せていた>。スウェーデン大使から授賞式招待状を受け、駆けつけた三島由紀夫と歓談。慌ただしい日だった ◆大阪万博(1970年3月27日号) カラーグラビアでは各国コンパニオンを紹介。モノクロは、<中央口を入ると シンボルゾーンの大階段 太陽の塔をバックに 入場者は まず ここでいっせいに記念撮影>というページで始まるルポ。米ソ宇宙関連展示が人気を集めているなどと報じた ◆東大安田講堂事件(1969年1月31日号) 前年から安田講堂を占拠していた全共闘と警察の攻防戦。機動隊が入った直後は火炎ビンや投石が襲いかかったが、彼らの抵抗もむなしく<七カ月ぶりに占拠が排除された講堂は、水びたしの廃墟であった。散乱するヘルメット、寝具、書類──>と、陥落した後の様子を伝えた ◆成田闘争(1971年10月1日号) 闘争のシンボルだった大駒井野城こと駒井野団結小屋。この撮影の直後に、クレーンで引き倒された。<巨大な機械の力をまざまざと見せつけた ぐにゃりと真中から折れた農民放送塔 倒れると同時に火炎ビンが発火し消火器の煙があたりをおおった>と報道 ◆石狩炭鉱ガス爆発(1972年11月24日号) 炭鉱事故が相次ぎ、72年11月2日の石狩炭鉱でのガス爆発では31人が亡くなった。<最初の遺体が坑内から搬出されたのは事故発生から百五十六時間ぶりという。炭鉱事故史上最悪の記録だ>。写真は坑内から遺体が運び出される様子。撮影は10日午後8時30分。爆発から9日目だ ◆白い妖精・コマネチ(1976年8月6日号) モントリオール五輪女子体操。ルーマニアの新星ナディア・コマネチ(14)は、次々に完璧な演技を披露。五輪史上初めて10点満点をたたき出した。とかく日本選手の報道にかたよりがちな中、本誌は彼女を<柔らかな筋肉を持った精密機械>と称えカラー5ページを割いた ◆山口百恵結婚(1980年12月5日号) 70年代を席巻したスター、山口百恵。79年10月20日に突如、三浦友和との交際を発表。翌80年3月には婚約と引退を公表した。本誌は11月19日の結婚式の模様を詳報。控室では普段どおり穏やかな表情で、<どこにもある、信じ合ったカップルの光景>と伝えた (構成・文/本誌・菊地武顕)※週刊朝日  2022年2月18日号
Netflixドキュメンタリーの魅力 評論家がすすめる“ベスト10”
Netflixドキュメンタリーの魅力 評論家がすすめる“ベスト10” 「汚れた真実」 Netflixシリーズ「汚れた真実」シーズン1~2独占配信中  Netflixといえば、ドラマに代表されるエンターテインメント系の作品が注目されがちだが、実は良質なドキュメンタリー作品も多い。そこで、選者に今観るべき“骨太ドキュメンタリー”を聞いた。 *  *  *  映画・海外ドラマ評論家の今祥枝さんは、ドキュメンタリー作品の充実ぶりを挙げる。 「アカデミー賞受賞作品や上映されにくい短編、潤沢な資金で制作されたオリジナルシリーズなど多彩。フィクションの世界にハマれない人は一定数いるので、ドキュメンタリー好きの層は厚く、Netflixがドキュメンタリーに力を入れるのも自然なことです」  ドキュメンタリーマガジン「neoneo」編集室代表の佐藤寛朗さんは、視聴機会が限られがちなドキュメンタリーがいつでもどこでも観られる良さを歓迎する。 「配信なら時間や場所を選びませんし、繰り返し観られるのもいい。作品の面白さが予算規模と比例しないことも多いので、大作、小規模作品、ゲリラ的に作られた作品が同列で楽しめるのも魅力」  その上で、ドキュメンタリーの面白さについてこう話す。 「ある現実に直面した人が放つリアクションを丁寧に拾っていくドキュメンタリーは生々しくて人間臭く、正直な部分も出ます。観る側にも同じで驚きや発見があり、感情移入もできますよね。ドキュメンタリーは、『事実は一つだから正解も一つ』と思わず、いろいろな解釈を面白がって観るとより楽しめるはず」 【今祥枝さんおすすめ】 ・「汚れた真実」  企業犯罪を扱ったテレビシリーズ。製作総指揮はアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞受賞のアレックス・ギブニー。 「1話完結なので、興味があるものから観られます。カナダのメープルシロップの覇権争いや、トランプの娘婿ジャレッド・クシュナーの不正まみれのえげつなさなど容赦ない。ドキュメンタリーが調査報道の役割を果たしていることを実感します」 ・「ジェフリー・エプスタイン 権力と背徳の億万長者」 「ジェフリー・エプスタイン:権力と背徳の億万長者」 Netflixシリーズ「ジェフリー・エプスタイン:権力と背徳の億万長者」独占配信中  政財界に広い人脈を持つ裏で、少女への性的搾取や虐待を続けた大富豪ジェフリー・エプスタインに迫るテレビシリーズ。 「性的暴行で女性から提訴されたイギリスのアンドルー王子は、エプスタインと親交がありました。綿密な証拠によって明らかになる、被害女性を計画的に陥れ続けてきた事実は説得力があります」 ・「ザ・ステアケース ~階段で何が起きたのか~」  階段下で発見された妻の遺体。有罪判決を受けた夫の作家マイケル・ピーターソンの裁判に17年間密着したテレビシリーズ。 「事件の真相に迫る犯罪ドキュメンタリーの先駆け的作品。番組は進行中で真相はいまだ闇の中。コリン・ファース主演でドラマ化も決まりました」 ・「監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影」  大手IT企業元社員による証言やドラマを交え、スマートフォンやSNSなどのテクノロジーの危険性に警鐘を鳴らす映画。 「SNSに踊らされている自分を見つめ直したくなります。サスペンス的な要素もあり。同じく配信中の『グレート・ハック SNS史上最悪のスキャンダル』もご一緒に」 ・「Seaspiracy 偽りのサステイナブル漁業」  人間こそが海洋生物の生態系を荒らす張本人で、持続可能であるとされる漁法に隠された陰謀や危険性を明らかにした映画。 「最近注目のサステイナビリティー(持続可能性)も聞こえはよくても、それが本当かどうかは自分で考えるべき。考える力を養ってくれるのも、ドキュメンタリーの良さ」 【佐藤寛朗さんおすすめ】 ・「i ─新聞記者ドキュメント─」  森達也監督が東京新聞社会部の望月衣塑子記者に密着し、日本社会が抱える同調圧力や忖度(そんたく)の正体を探ろうとする映画。 「米倉涼子さん主演のドラマが話題ですが、映画はガチなドキュメンタリー。ジャーナリズムに一石を投じるべく、森監督も官邸の記者会見に潜入を試みるなどスリリングな並走が続きます。首相は代われど政治やメディアは変わった?と、当時の状況をおさらいできます」 ・「なぜ君は総理大臣になれないのか」 「なぜ君は総理大臣になれないのか」 (c)ネツゲン  初当選から2017年の総選挙まで、立憲民主党の衆院議員、小川淳也氏の政治活動に17年間密着した映画。 「両親や取材者の大島新監督にまで『政治家に向いてない』とダメ出しされても前を向く小川さん。奥さまや娘さんは選挙戦が板についてくるのに、本人はあまり変わらない(笑)。でも、そんな彼が愛らしく見える。続編『香川1区』を観るなら、これはマスト」 ・「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 (c)2020映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」製作委員会  1969年に東京大学であった三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸にした映画。 「三島由紀夫が切れ味鋭く話す姿だけでも観る価値ありですが、議論を吹っ掛ける東大全共闘の学生にも注目を。インターネット上のSNS的な殺伐とした空気がないからこそ、今改めて考えたいテーマが詰まっています」 ・「娘は戦場で生まれた」  内戦のシリアで、ジャーナリスト志望の女性が生まれたばかりの子を抱えて、自らカメラを回した映画。 「監督兼主人公の女性がたくましい。死と隣り合わせの中で結婚して子を産み、日常生活を続ける彼女に、生き抜こうとする強い意志を感じる。ホームムービー的な要素もあり、日々を記録する大切さにも気づかされます」 ・「華氏119」  2016年11月9日に勝利宣言したトランプ大統領。マイケル・ムーア監督が見たアメリカの政界を描いた映画。 「突撃取材でおなじみのムーア監督が、トランプ政権を誕生させた“病めるアメリカ”を斬るのですが、彼の怒りの本気度を感じました。利権主義、差別、ポピュリズムなど、同じ現象が台頭している日本のことを考えると、笑うに笑えないのですが」 (ライター・吉川明子)※週刊朝日  2022年2月18日号
平野歩夢スノボ男子金メダル 72歳スノーボーダーが「まだまだ進化し続ける」
平野歩夢スノボ男子金メダル 72歳スノーボーダーが「まだまだ進化し続ける」 スノーボード男子ハーフパイプ平野歩夢選手  北京五輪スノーボード男子ハーフパイプ決勝で、2大会連続銀メダルの平野歩夢が、大技「トリプルコーク1440」を成功させ金メダルに。  平野歩夢は東京五輪ではスケートボードに挑戦し、“二刀流”と称されたが、五輪でも注目度が増しているXスポーツ(X系/エクストリームスポーツの略称)のスケボーやスノボーは、どちらかと言うと若者のスポーツのイメージが強いが、72歳のスノーボーダーがいた。  *    *  * 「各地で行われているスノーボードの草大会の優勝者って、10代後半から20代が中心で、中には中学生もいたりする。だから、20代後半ではもうおじさんですよ。大会で上位入ってくるのは大概若い子。そんな勢いのいい若い子たちから僕は刺激を受けています。20代の一緒にスノーボードをやっている子たちの5倍とか6倍の練習時間をかければ、僕もついていけるんですよ」  と、話すのは、長野県上田市に住む現在72歳11カ月の甲田康さん。今回の北京五輪のスノーボード男子ハーフパイプの決勝に進出した日本人選手の4人は、平野歩夢選手が23歳、戸塚優斗が20歳、平野流佳選手、平野海祝選手が19歳と若い世代だ。甲田さんは、これらの選手たちが生まれた頃、48歳からスキーを始め、スノボは55歳から始めたと言う。 「僕は平野歩夢選手が出場したハーフパイプの(グランド)トリック系はやらないでカービングです。長野県上田市で生まれましたが、スキーを始めたのは48歳でした。妻からは“スキーに連れて行ってくれない”と、ずっとボヤかれていましたね。息子がスキーをやるようになって、“行ってみようか”というのがスキーのきっかけで、かなり遅かった」  甲田さんが住む長野県の他、雪深い地域の人たちは幼い頃からスキーをやっている人も多いが、甲田さんはむしろスキーが好きではなかったそう。 「長野の人はみんなスキーをやっていると、思うでしょ!?(笑)そうじゃないですよ。子どもの頃、国道が家の前を通っていて、そこをスキー旅行の大型バスが何台も何台も上がって行っていました。小学校の頃、スキーのスクールに連れて行かれて“寒くて、嫌だ”っていう記憶しかなかったから、そのバスの列を見ながら“あぁ、バスで行って着いたら寒いだろうに……”と思いながら眺めていました」 見事なカービングを見せる甲田さん(写真提供/菅平パインビークスノーボードスクール)  そんな甲田さんは職場の人たちとスキーに行くようになり「若い連中と遊ぶならスノボもやってみるかな」くらいの気持ちで55歳からスノボを始めた。 「スキーも我流でやっていましたが、スノボも見よう見まねで、初心者用の本やレッスンマニュアルやDVDを買って、練習を始めました。それでも若い連中とコツコツ練習していて、そこそこ上手くなっていた。そんな時、2011年、SAJスノーボードデモンストレーターの河合美保さんと、たまたま、リフトで一緒になって、“この子、いつもカッコよく滑っているな”と思って、声をかけたんです。彼女もいつもいるおじさんだってわかっていたみたいで。“いつも滑っていらっしゃいますよね。一度、バッジテスト(スノーボードの滑走レベルをチェックする技術認定テスト)を受けたらいかがですか?”と言われました。それで、そのシーズンにバッチテストを受けました」  そこから、甲田さんの“進化”が始まる――。 「技術的に勉強していこうと思って、地元のゲレンデにある菅平パインビークスノーボードスクールでレッスンを受けながら、バッジテスト2級、1級を受けて、C級インストラクターの資格を取った。遊びじゃなくて、自分のための練習しようと思いました。スノボは遊びに行くという感覚は全くなくて、ひたすら練習です。菅平パインビークスノーボードスクール(長野県上田市)に出会えたのは良かったですね」  甲田さんは自身のYouTubeで華麗なスノボのカービングを披露しているが、「古い動画を見られるのは屈辱的」と言う。その動画を見てみると、雪面をまるでなでるかのようなカービングの滑走は、とても70代とは思えない。一体、なぜ屈辱的? 「2年前の滑りは恥ずかしくて見せられない(笑)。コツコツ、コツコツ練習していけば、今年よりも来年のほうが上手い、来年より再来年のほうが上手いんですよ。80歳になった時の滑りのほうが、72歳の今の滑りよりも上だろうなと思います。本当ですよ! 72歳というと、若い人からすると“あぁ~年寄り”って思われますけど、全然違いますよ! ちゃんと伸びしろがあるんですよ。今シーズンは雪質が良くて、コロナ禍のためにゲレンデに人がいなくて、練習するには最高のシーズンで、めっちゃレベルが上がっているんです」 1日おきに練習をしているゲレンデの甲田さん(写真左/写真提供・菅平パインビークスノーボードスクール)  ゲレンデには1日おきに出て、シーズン中は60日程練習をしているそう。北京五輪で躍進するスノーボードの日本人選手たちを見て甲田さんは「仲間」だと言う。 「完全に仲間ですよね。“みんな頑張って!”という気持ちです。スノボ女子パラレル大回転の竹内智花選手が銀メダルをとったソチ大会の直前に菅平に練習にきていたんですよ。だから仲間ですね、向こうは知らないだろうけど(笑)。今回の北京五輪のスノボ女子パラレル大回転の三木つばき選手は、菅平パインビークで彼女が子どもの頃から一緒に滑っていた。お母さんが三木選手を連れて、冬場はずっと菅平に来ていました。お母さんとお話しましたが、三木選手は面白い子でしたよ。そんな10代後半から20代の子たちを見ていて“あぁ~負けたくないな”って思います。だから、練習しているですよ!人の5倍練習して、5倍の密度をかけて、5×5で25倍かかるんですよ。でも、25倍かければ追いつく、何年か前の彼ら彼女らの滑りはできる!自分でからだの作り込みさえできれば、80歳でもスノーボードは滑れます。僕としては70代それがどうした? です」  甲田さんには年齢に対して“持論”があると言う。 「僕の持論を申し上げていいですか? 年齢というのは毎年律儀に取るもんじゃない。僕は50歳まで自分の年がわからないでいたんです。妻と19歳で結婚したんですが、“あ、19歳で僕の時計は止まっていたな”と、50歳の時に気付いたんですよ。だから、50歳の時に成人になったんです。それから、年は毎年取るものではなくて、自分で振り返った時に、“あ、この瞬間、1つ年を取ったな”という年の取り方をしているんです。去年の6月までは29歳。人生において、何か気づきがあったときに年を取ります。平野歩夢選手の決勝の結果の話から、僕のこんな話はパッとしないよね!?(笑)」  甲田さんの「孫と同い年」という平野歩夢選手は、予選後の会見で「完成度は極めたい」と語っていた。甲田さんもまた80代、90代……に向けて完成度を極めているようだ。(AERAdot.編集部 太田裕子)
「ゴゴスマ」石井亮次アナが今だから明かす独立を告げた時、上司の“神対応”
「ゴゴスマ」石井亮次アナが今だから明かす独立を告げた時、上司の“神対応” フリーアナウンサー・石井亮次さん  ワイドショー「ゴゴスマ」(TBS系)の看板MC、石井亮次アナが今の厳しい時代を生き抜く、「最強の処世術」を語り尽くした。東海ローカルから同番組を全国の人気ワイドショーへと押し上げた石井アナの話術とは? *  *  * ――CBC局アナからフリーに転身されていますが、きっかけは? 石井:2000年にCBCに入社しまして、2013年からゴゴスマが始まって、最初は愛知岐阜三重が放送エリアでした。2015年の4月から関東一都六県でも流れるようになりました。すると2018年のお正月に今、お世話になっている事務所から急に連絡がありました。『フリーになりませんか』とスカウトされても最初、その気はなかったですから『僕はゴゴスマを続けたいんで会社は辞めません』とお断りしました。すると、『フリーになってゴゴスマをやりつつ、他局の番組に出て、ゴゴスマを皆様に知っていただくきっかけになればいいんじゃないでしょうか』と。家に持ち帰り、絶対、妻は反対するやろなと思いながら相談したら、『やったらええやん』『人生一度きりや、あんただったらいける』と言ってくれた。2人の娘にも聞いたら、『大丈夫や。そっちのほうが面白そうや』と言ってくれ、僕が一番、弱気でした。二人の娘と妻に背中を押され、20年の3月末で退社をしてフリーになりました。 ――退社し、フリーになってゴゴスマをやりたいと申し出た時のCBCの反応は? 石井:上司から『13年から5年、ゴゴスマをやっているが、最初はゴゴスマの石井君だったのが、今や石井君のゴゴスマになりつつある。いや、もうなっている。だからゴゴスマを続けたいと言ってくれてありがとう』と言われ、すっごくうれしくて涙しました。だから今はゴゴスマを一生懸命やって恩返しできればと考えています。こう言うと、恩着せがましいですけど、とにかく番組を盛り上げていきたいという一心でやっていますね。 ―神対応のいい上司に巡り合えてお幸せですね 石井:上司の言葉はめちゃくちゃ嬉しかったですし、その分、頑張ろうという気になります。他の番組に出ても『ゴゴスマ石井です』と芸名みたいに言い続けています。フリーになって1年8か月あまり、怖いもの知らずみたいな感じでやってきた気がします。今はいろいろと考えるようになってきましたね。 ――1月に出版した『ゴゴスマ石井の なぜか得する話し方』(ダイヤモンド社)という本はビジネスマンにも結構、読まれるんじゃないですか? 石井:僕の弟は34歳で不動産会社に勤めているんですけど、10冊ほど送ったところ『アニキ読んだで。この本、営業マン必須や』とうれしいことを言ってくれました。  普通の生活の中で役に立てばいいなと思いながら書いたのでアナウンサーっぽい話はひとつもない。だから弟の感想はめちゃ嬉しかったんです。 ――印象深かったのが、挨拶をするという基本を強調されている点です。今の若い人はあまりしないじゃないですか。挨拶を返さなきゃいけないからうざいと思われると敬遠するらしいですけど、石井さんは大事と強調されています。  石井:挨拶からすべてがスタートします。なんか知らんけど無邪気に挨拶してきよるな、可愛いなと思われる。挨拶はゼロリスク、ハイリターンやということ。もっと言うと大物の方にこそ挨拶に行くべきですね。リアクションが怖いのでみなさん、行きたがらないじゃないですか。自分みたいな小物が挨拶していいのかなみたいな。しかし、この前、たけしさんがテレビで『最近、全然誰も褒めてくれないんだ』とおっしゃっていました。大物の方を褒めるのは失礼だとみんな勝手に思ってしまいます。だからこそ挨拶に行って褒めちぎる。僕は撮影現場で古館さんに挨拶へ行って、ほんまに好きですと褒めちぎったら、めっちゃ喜んでくださり、結果今のゴゴスマの縁に繋がっているんです。パーティーなどでもこっちから挨拶に行く。思い切っていくと何かが生まれるかもしれません。 フリーアナウンサー・石井亮次さん ――苦手な上司でも褒めるって書いてあります。なかなかできないことですね。できれば、会話を避けたいと思ってしまう自分がいます(笑)  石井:苦手な上司でも挨拶ぐらいはしようっていう感じです。苦手な上司に対してこっちがいやいや感を出していると必ず伝わるし、本当によくあるあるなんですけど、2年後とか3年後、結局その人の部下になるとかね、その人と一緒に仕事するようになったりするものです。絶対シャットダウンせず、ちょっとだけ窓は開けて会話はしといた方が自分のためにいいと思います。 ――本もそうですが、普段は大阪弁で話されるのですか。 石井:本音丸出し丸裸、自然に関西弁になっちゃいました。ここまで書くと石井ってこんなに計算高いやつなんや、本に書かれている会話術を俺に使ってきよると思われる可能性もあります。そういう意味では私にとってリスクのある本です(笑) ――この本の読者層は? 石井:書き終わって思ったのは、この本は就職活動にも使えるなと。就職活動する学生さんから、もちろん入社して8年ぐらい30歳ぐらいまでの人にも使えるし、上司になってからも使えるし、定年して近所の人とのコミュニケーションにも使えます。男女、年齢も関係なくどんな場面でも使えると思いますよ。 >>【後編/「ゴゴスマ」石井亮次アナが語る生放送のハプニングと反省「お前がイライラしてどうすんねん」】へ続く (構成/AERA dot.編集部・森下香枝) 石井亮次フリーアナウンサー1977年生まれ。大阪府東大阪市石切出身。同志社大学卒業。2000年、名古屋のCBCテレビにアナウンサーとして入社。2年間のスポーツ中継見習いを経て、バラエティ番組から報道番組まで幅広く担当。「ゴゴスマ~GOGO!Smile!~」の番組開始時からMCを務める。2020年3月にCBCを退社。日本民間放送連盟賞最優秀賞を2009年、2015年、2017年に受賞した番組でナレーションを担当。2019年の「週刊文春」の好きなアナウンサー企画では、在京キー局の有名アナに混じって異例の5位、2021年の「J-CASTニュース」の好きなワイドショーのMCでは断トツ1位を獲得、今もっとも注目されるアナウンサーの1人である。著書に「こんにちは、ゴゴスマの石井です」(ワニブックス)がある。

カテゴリから探す