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「子どもの進学費用が…」37歳で手取り20万円 首相は保育士の悲鳴が聞こえているか
「子どもの進学費用が…」37歳で手取り20万円 首相は保育士の悲鳴が聞こえているか 保育の現場からの声は届くのか(写真と本文は関係ありません)  岸田文雄首相が保育士に対し、平均給与の3パーセントに当たる月9000円の賃上げ方針を掲げている。ただ、現役保育士たちからは「9000円では焼け石に水」と冷ややかな声も聞こえる。薄給の上、ギリギリの人員配置に疲弊する保育士たちの現実が、首相は見えているだろうか。 *  *  * 「毎月、生活はかつかつですよ」  都内の保育園に勤務する保育士・三枝健太郎さん(37=仮名)は給与明細を見ながら言葉をしぼりだした。  月約40時間の残業代込みで、手取りは20万円をやっと超える程度。2児の父で、都内の賃貸住宅に妻と4人で暮らす。都心ほどではないが家賃相場は低くない。家賃と光熱費だけで10万円を軽く超える。  7年間の幼稚園勤務を経て、今の保育園は5年目。経験を生かし、リーダー職を担う立場だ。三枝さんはこの園で勤務を始めた後、労働組合「介護・保育ユニオン」に加入。団体交渉によって保育士全員の月給が2万円上がった。さらに、横行していたサービス残業も一定の改善があり、残業代もつくようになった。それで、この手取りである。 「今後も給与はほとんど上がりません。50歳まで頑張っても年収は400万円に届かないでしょうね。子どもの進学費用をどう工面していくか…」 ■「天の声」に保育現場は疲弊  お金だけが問題ではない。職場にも“ブラック”な現実が垣間見える。  株式会社が経営する保育園なのだが、現場の声は上に届かない。そればかりか、突然降ってくる“天の声”に現場は疲弊する。 「教材が全然売れていない。何をやっているんだ!」  2年前、三枝さんたち保育士は、会議の席で運営会社の社員からこう詰め寄られた。  会社が突然決めた、ある教材の採用。それを、園児の親全員に売るように圧力をかけられたのだ。 「保育士はみんな子どもが大好きで、子どもの成長を一生懸命考えています。なのに、使う意義すら分からない教材の販売をなぜ一方的に強いられるのか。本当に悔しかったし、辛かったですよ」  同僚たちも憤ったが、会社からの圧力で次第に心を病むようになり、一気に5人が退職した。職場の保育士の2割もの人員、しかもみんな20~30代の若者だ。  会社の方針転換で、その教材は1年もたたずに扱わなくなった。 「さらに問題なのは、その後の人員補充がないこと。薄給のため、募集しても人が来てくれない。現場が少人数で疲弊していくなか、それでも会社は給料をあげようとせず、人員補充に本気の姿勢を示さないんです」(三枝さん)  本来は4種類のシフトがあるが、今はなし崩し。保育士同士で時間を融通しあい、ギリギリの状況で仕事を回しているという。 ■人件費を削って会社が潤う現状  給料が低すぎるといわれ続けている保育士。岸田首相は、保育士の月給を9000円上げるとうたっている。だが、現状は国の制度の運用に大きな欠陥があり、その9000円ですら保育士に届く保証はない。  私立の認可保育所には、市区町村から毎月、国の「公定価格」に基づき、運営に関する「委託費」が支払われており、これが主たる財源だ。この公定価格自体が低すぎるという指摘はかねてあった。さらに2000年までは「人件費が全体の8割」と使途が定められていたが、同年に国が待機児童解消を名目に株式会社の保育参入を解禁し、同時に委託費の「弾力的運用」を認めた。  この「弾力的運用」をいいことに、保育士の人件費を削り、経営者や会社ばかりが潤っている保育園がある。委託費の恣意的な運用が許され続けているのだ。  会社の姿勢に疑問を募らせた三枝さんは労働組合を通じ、会社に運営費の書類を開示するよう求めたが、当初は拒否された。最終的に開示に応じたが、ほとんどの数字が黒塗りされ、人件費の割合はおろか、経営実態はなにも分からなかったという。  三枝さんは、「会社は保育士たちに『本当はもっと給料をあげたいんだけど』などと不可抗力かのように言うのですが、まったく信用できません」と憤り、疑問を口にする。 「委託費の運用にルールを作らないと何も変わらないと思います。それと、保育士の平均月収が30万円ちょっとで、その3パーセントで9000円だそうですが、ボーナスを入れても月収30万円に達している保育士は少ないと思いますよ。この平均月収はどういう計算で出したものなのか」 ■「休憩つぶしたのは勝手な判断」と言われ  東京23区内の保育所に勤める吉岡明美さん(50代=仮名)。5年前、まったく別の仕事から転職を果たした吉岡さんが見たのは、薄給と激務に希望を失い、息子や娘のような若者たちが次々と職場を去っていく、むごい現実だった。 「保育士がみんな20代で辞めていく。2年前には、職場の半数に当たる保育士が一斉に退職しました。キャリアを積んだ中堅の保育士が、ただの一人もいません」  約30時間の残業代込みで、手取りは20万円代。年2回のボーナスも手取りで数万円だ。昇給はほとんどなく、サービス残業も横行している。 「保育士の仕事は、日誌や個々の園児のようすの記録など、書類の処理業務が非常に多いんです。やむなく休憩時間をつぶしてそれをこなしていましたが、会社側は『休憩は取ってください』の一点張りでした」  昨年、運営会社に異議を訴えたところ、幹部はこう言い放った。 「休憩時間をつぶしたのは、あなたの勝手な判断でしょ?」  離職する保育士が相次ぐ現状に、 「ギリギリの人数では、安全で安心な保育はできませんよ。ずっとこのままでいるつもりですか」と問いただしたが、幹部の対応はそっけなかった。  若い労働者が辞めていく前提で、薄給で使い倒す。まさにブラック企業と似た構図である。 「10年、20年とキャリアを積んだ質の良い保育士がいた方が、園児の成長にもつながりますし、預ける親たちだって安心です。この当たり前のことを会社は考えようともしない。社会経験が長いと会社に意見するようになるので、ベテランがいない方が好都合なんでしょうね」  12月19日の日曜日、「介護・保育ユニオン」が東京・新宿で保育士たちによるデモを行なう。 (1) 委託費の使い道のルール化(2) 国が定める保育士の人員配置基準の改善(3) 上の(1)(2)を実現したうえでの公定価格の引き上げ  の3つの柱を訴える。  三枝さんも吉岡さんもこのデモに参加するという。 「委託費や人員の問題が全然改善されない。保育士らの待遇改善を岸田首相自らが打ち出した今がチャンスだと思って、声を上げる決意をしました。野党も文句だけを言うのではなく、新しい仕組み作りにしっかり動いてほしい」(三枝さん)  吉岡さんもこう強調する。 「保育士に転職して、若い保育士たちが、子どもたちの成長をどれほど真剣に考えているのかを身をもって知りました。その子たちが希望を失い去っていく現状を何とか変えたい。年上の私が、行動しなければと思ったんです」  岸田首相と与党だけではなく、野党も知恵を絞り動かねばならない。彼らの苦しみを知らず、文通費などを“ごっちゃん”してる場合ではないのだ。(AERAdot.編集部・國府田英之)
「看護師の愛子」に「ごきげんよう弁当」まで 愛子さまが継いだ文才と“孤高”
「看護師の愛子」に「ごきげんよう弁当」まで 愛子さまが継いだ文才と“孤高” ティアラや勲章を着用したロングドレス姿で成年の行事に臨む天皇、皇后両陛下の長女愛子さま/2021年12月5日、皇居  愛子さまが成年を迎えた12月1日、成年にあたってのご感想の文書が公表された。この文書に加え、これまでに書かれた作文などから見えてくるのは、確かな文才とぶれない姿勢、そして人柄だ。AERA 2021年12月20日号の記事を紹介する。 *  *  * 「愛子内親王殿下ご成年に当たってのご感想」が12月1日に公表された。愛子さまは、ぶれない。読んでわかったことだ。  20年を振り返り、多くの人々への感謝を綴(つづ)った愛子さま。これからのことは、こうあった。 <成年皇族の一員として、一つ一つのお務めに真摯に向き合い、できる限り両陛下をお助けしていきたいと考えております。そして、日頃から思いやりと感謝の気持ちを忘れず、小さな喜びを大切にしながら自分を磨き、人の役に立つことのできる大人に成長できますよう、一歩一歩進んでまいりたいと思います> ■通底している価値観  愛子さまらしいな、と感じた。言葉遣(づか)いやトーンに見覚えがあったのだ。少し考え、学習院女子中等科の卒業記念文集に愛子さまが書いた作文「世界の平和を願って」を思い出した。  修学旅行で訪れた広島を書いたものだが、「感想文」ではなく、「平和論」になっている。「ご感想」と特に重なると感じたのは、ほぼ最後のこの一節だ。 <空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか> 「空が青い」は作文の書き出しを踏まえていて、巧みな構成なのだが、ここでは「ご感想」との重なりを見てみる。文字遣いはやや違うが、共通する言葉がある。「一つ一つ」「感謝」「思いやり」だ。「日常の生活一つひとつに感謝し」という表現は、「ご感想」の「小さな喜びを大切にしながら」に重なる。  通底しているのは、「小さなことを大切にし、互いを思いやり、努力を積み重ねる」といった価値観だと思う。そういう営みへの信頼感がトーンとなっている。それが平和への道で、成年皇族の日々。言い換えるなら、成年皇族の道は、平和に通じる。愛子さま、深い。 皇太子ご夫妻(当時)と共に学習院女子中等科入学式場に向かう愛子さま/2014年4月6日、東京都新宿区 ■人柄がにじむ記述  この作文、昨年8月12日に中満泉(なかみついずみ)国連事務次長がツイッターで紹介している。前日、陛下と雅子さまに核軍縮について話をした席で渡されたという。進講に関連して娘が立派な作文を書いていたら、ついつい渡したくなる。そんなお二人の親の気持ちが伝わって、ほっこりしたことも思い出した。  ところで愛子さまの「言葉の力」だが、「世界の平和を願って」に限った話でない。学習院女子高等科の先生が、太鼓判を押しているのだ。成年にあたり宮内記者会が「在学中で印象深かった思い出」を中学、高校時代の恩師に尋ねた中で、高3のクラス担当教員がこう答えている。 <現代文の授業の感想では人生は有限だということを再認識され時間は戻らないものなので今を充実させたいということ、休み時間に学内で販売されている「ごきげんよう弁当」を注文して楽しみにしていること、高3になるまで無欠席であった友人の急な欠席を非常に心配していることなど、お人柄がうかがえる記述が思い出されます>  きっと作文の話だろう。人生の有限性からお友だち、そして「ごきげんよう弁当」。幅広く、具体的な記述から人柄がにじむとは、まさに「文才」だ。  ということをお誕生日当日の朝に報じたのが、「めざまし8」(フジテレビ系)。皇室担当解説委員も出席、紹介したのが中学1年時に執筆したという“短編小説”だった。学習院女子中等科・高等科「生徒作品集」(2014年度版)に掲載されたものだそうだ。 ■看護師愛子を包む空気 「私は看護師の愛子。最近ようやくこの診療所にも患者さんが多く訪れるようになり、今日の診療も外が暗くなるまでかかった」と始まる。  待合室で居眠りをしてしまった愛子が気づくと、診療所は海の上。流されたのか、町が海に変わったのか。助けを呼ぶにも電話が通じない。翌朝、扉を叩く音がする。片足を怪我したカモメだ。手当てをしたら、それから次々と海の生き物が来るようになる。治療するうち、愛子の名は海中に知れわたる。そして、話はこう終わる。 <そう。愛子の診療所は、正に海の上の診療所となったのだ。今日も愛子はどんどんやって来る患者を精一杯看病し、沢山の勇気と希望を与えていることだろう> 「塩山蒔絵(まきえ)十種香道具」を眺める愛子さま/2021年11月22日、三の丸尚蔵館  愛子さまは「ご感想」で、「人の役に立つことのできる大人に成長できますよう、一歩一歩進んでまいりたいと思います」と綴っていた。海の上の診療所における「愛子」そのものだ。愛子さまはぶれていない。冒頭でも書いたが、また書いた。  この小説を読んで、もう一つ感じたことがある。愛子さまも看護師愛子も、落ち着いているのだ。全体が、しーんとした空気で包まれている。そこはかとない寂しさと言い換えてもよい。この感覚を表すにふさわしい言葉を探してみた。浮かんだのは「孤高」だった。 ■美智子さまから継いだ  愛子さまの文才はどこから来たのかと聞かれたら、「上皇后美智子さまから」と答えたい。美智子さまが語り、書いた美しい言葉は枚挙にいとまがないのだが、中から『新・百人一首 近現代短歌ベスト100』に収録された御歌をあげることにする。 <帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず>(12年歌会始)  お題は「岸」。前年に起きた東日本大震災を詠んでいる。亡くなった人々を岸で待つ人々に、思いを致す。「岸」が歳時記にないというのは、つまり待つ人の心は季節を問わないということ。とは、選者で日本を代表する歌人、故・岡井隆さんの解説からの受け売りだ。岡井さんは美智子さまを「技芸すぐれた歌詠みでいらっしゃる」と書いている。  この才能をまず受け継いだのは、娘の黒田清子さん。愛子さまが今回ティアラを借りた、叔母にあたる人だ。清子さんの才は結婚直前に『ひと日を重ねて 紀宮さま 御歌とお言葉集』という本が出版されたほどだが、中からある短歌を紹介する。 <遠い海今は見えないこの目でも波の音しかきこえない海>  小学校2年生の清子さんが初めて歌会始に詠んだものだと、元東宮女官の和辻雅子さんが巻末で紹介している。すぐに「海の上の診療所」を思い出した。題材が同じだという以上に、そこはかとなく漂う寂しさのようなものが共通しているのだ。  清子さんも愛子さまも、「皇太子の長女」として生まれ、「天皇の長女」として成年した。2人がまとう、孤高の空気。皇室に生きる厳しさを幼い頃から感じているのだろうか。  来年の歌会始には、愛子さまの歌も披露される。お題は「窓」だ。(コラムニスト・矢部万紀子)※AERA 2021年12月20日号
加藤雅也 “イメージが二枚目役に定着“していた頃を振り返る
加藤雅也 “イメージが二枚目役に定着“していた頃を振り返る 加藤雅也 [撮影/小黒冴夏、ヘアメイク/結城春香]  子供の頃から、映画が大好きだった。 「遠い親戚が、地元の奈良で映画館をやっていて、そこの子供が幼稚園の同級生だったこともあって、夏休みになると、『ゴジラ』なんかの怪獣ものを見るのが楽しみでした。少し大きくなると、山口百恵さんと三浦友和さんが主演した文芸作品や、松田優作さんのアクションもの、菅原文太さんの『トラック野郎』……。そこから、角川映画にも夢中になった。外国映画も、スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)が公開されるまでは、どちらかというとフランス映画のほうが人気だったように記憶しています」  63年生まれの加藤雅也さんが、大学進学のために横浜に出てきてしばらくすると、世の中にはビデオデッキが普及し始めた。 「それからは、貪るようにいろんな映画を見ました。子供の頃は、いくら映画が好きでもなんでも見せてもらえるわけじゃなくて、自分でお小遣いをやりくりして、『今回はこれを見よう』と決めた。そのときに、だいたいお小遣いが足りなくて泣く泣く諦めた映画があったんです。ビデオが普及してからは、その、子供の頃に見逃した映画を片っぱしから、本当に、貪るように見ました」  大好きだった世界に足を踏み入れるようになって30年余り。20代の頃から今の今まで、「いい映画に出たい。いい役に出会いたい」と、その二つだけを願って生きてきた。今月10日に公開される映画「軍艦少年」では、最愛の妻を失って失意の中にいる主人公の父・玄海を演じた。長崎・軍艦島の見える街で暮らす父と息子の、喪失と再生の物語だ。 「今まで自分がやったことがないような役のオファーが来たときには、猛烈に『やりたい!』と思いますね」と加藤さんは話すが、今回の役はまさに、一般人の多くが加藤さんに抱いている知的でカッコよくて渋いイメージを覆すようなキャラクターである。 「実は、知られていないだけで、案外こういうダメな父親の役もやっているんですが、そういう作品というのは大体が公開規模も小さかったりして、あまり大勢の人に知られないものなんです。だからどうしても、何か新しいことにチャレンジしたいとなったら、インディペンデントの作品や短編になってしまう。そういう仕事をやる役者とやらない役者がいると思うんですが、僕の場合は、常にチャレンジできる役を選びたいほうです」  あまり固定観念を持たずに、「面白い」と思った作品には出るようにしているという。「チャレンジする気持ちを忘れたくはないのですが、一方で、『〇〇と言ったらこの人だよね』と誰もが思うような定番の役があるのも、役者としては素晴らしいこと。ただ、僕自身の目標として、『この人に“こんな役をやらせたい”と言われるような役者になること』というのがあったので。年齢的にも、いろんな役をできる準備が今やっと整っているということかもしれない」 映画「軍艦少年」は、10日からヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国公開 (c)2021『軍艦少年』製作委員会 「イケメン」などという言葉がなかった時代。その端正なルックスは、加藤さんの俳優としてのイメージを二枚目役に定着させてしまった。 「駆け出しの頃はとくに、『こういうものしかやれないでしょう?』という固定観念からきた役が多かったと思います。ただ、演技力のこともあり、いくら『変わった役がやりたい』と主張したところで、やれないことも多々あったはず(笑)。それが最近は、突然70歳の役が来たりするようになった。ありがたいことではあるんですが、『70歳の役』なんて言っても、見る人は僕を『この人70歳』と思って見ていないですからね。大体、舘ひろしさんも奥田瑛二さんも70過ぎなんですから、年齢なんてあくまでも物理的な記号に過ぎないことがわかるでしょう? 僕はとにかく、『若い』とか『かっこいい』と言われるよりも、役者として『面白い』と言われるようになりたい。年齢に関係なく、この人にこれをやらせたら面白いと思われる役者に」  自分のイメージから脱却するために、ある時期から、積極的に映画やドラマのクリエーターと会うようになった。映画監督を紹介されて、「もっといろんな役をやってみたい」とアピールしたこともある。 「(『軍艦少年』のYuki)Saito監督も、何年か前にショートフィルムフェスティバルで出会ったときからのご縁です。撮影は1カ月足らずでしたが、この映画は、『軍艦島が見える街』というロケーションに、ものすごい説得力があったと思う。役者って毎日をどう過ごすかがすごく大事。人として、普通の暮らしをしていなければ、普通が演じられないように、ロケーションが醸し出してくれる雰囲気っていうのがあるんです」 (菊地陽子 構成/長沢明) 加藤雅也(かとう・まさや)/1963年生まれ。奈良県出身。ファッションモデルとして活躍後、88年主演映画「マリリンに逢いたい」で俳優デビュー。95年にLAに拠点を移して英語での演技、メソッド演技の勉強をする。帰国後、映画、テレビ、舞台などで活躍。海外の監督の映画に積極的に参加。国際交流基金アジアセンター事業諮問委員、なら国際映画祭特別顧問、奈良市観光特別大使なども務める。※週刊朝日  2021年12月17日号より抜粋
限界を「出来ること」へ変える 視線入力でデザインにも挑戦 WITH ALS・武藤将胤
限界を「出来ること」へ変える 視線入力でデザインにも挑戦 WITH ALS・武藤将胤 創造の力で世界に希望を届けることが使命。「(パラ開会式で)デコトラから見渡した光景は一生忘れない」(撮影/関口達朗)  一般社団法人WITH ALS代表理事、武藤将胤。27歳のとき、ALSと診断された。仕事もプライベートも絶頂期のとき。一瞬も無駄にしないように生きようと決めた。テクノロジーと人の共創でコミュニケーションの仕組みを変えれば、ALS患者の失われゆく機能が補完できる。武藤将胤は、自分の身体をテクノロジーで拡張しながら、力強く自由に生きる。それが身体に制約を抱えた人の希望になっていく。 *  *  *  自宅の居間で、武藤将胤(むとうまさたね)(35)の髪に妻の木綿子(ゆうこ)(37)がジェルをなじませると、スーッと直線を引くように念入りに髪を梳(と)いた。髪を団子にして留めたところで、彼女が鏡を差し出す。武藤が入念に仕上がりを確かめていると、ヘルパーが武藤の目の前に、ひらがなの配された文字盤を差し出した。目の動きに合わせて文字盤を動かして武藤が言いたいことを読み取り、代読する。 「す、こ、し、だ、け、ひ、ひだり」  木綿子は、「ああ、髪の流れを左にするのね」と髪を梳き直して、もう一度鏡に映す。武藤は満足げな表情を浮かべる。 「よかった。今日は、直し1回でOKが出た」  木綿子が笑った。  27歳のとき、武藤は難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された。筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経だけが変性して徐々に動かなくなっていく病気。多くが60代以上で発症し、20代で発症するのは稀(まれ)だ。2019年に人工呼吸器を装着するため、気管切開手術を受けた。さらに、昨年は食べ物と空気の通り道を「分離する手術」を受け、声を失った。  現在は自力で立ち上がるのは困難で、上背のある彼をベッドから車いすに移乗するのは、木綿子とヘルパーの2人がかり。けれども、顔の筋力は残っていて、表情は豊かだ。ゆっくりとうなずくこともできる。わずかに動く指先で車いすを駆使し、仕事の熱量もスタイルも、昔と変わらない。東京パラリンピックの開会式で登場したまばゆいばかりのデコトラの先頭で、原色づくしのピカピカ光る衣装を身に纏(まと)っていた人物を覚えている人も多いだろう。その人物こそ武藤だ。武藤は言う。 「目指すのは、コミュニケーションとテクノロジーで社会を明るく変革すること。挑戦こそ、最大のエンターテインメントだと思っているんです」 ヘルパー経験のあるスタッフが、武藤のおなかに入れる栄養剤のチューブを消毒する脇で、イベントのミーティングは続く。介護というより、自然と手が出ている。スタッフは、「私たちは、チームMASA」と笑う(撮影/関口達朗) 原色の服にシルバーの靴洋服が自己表現だった  武藤はボーダーレスな社会への仕掛けを次々と世に放ち、ALSの闘病のイメージを変えてきた。テクノロジーを駆使して誰も思いつかないアイデアを形にし、世に広め、人の意識をガラリと変える。そんな彼の姿に心打たれて、まだ自力で発話できる段階から、私は彼に取材を重ねてきた。  米国のロサンゼルスで生まれ、邦人の少ない地域で暮らしていた。実父は銀行員で、MBA取得のためにUCLA経営大学院で学んでいた。取得後に邦銀の現地法人に残り、駐在員に。父は早朝に出勤し、母・雅葉子(かよこ)(59)と2人で過ごす時間が長かった。武藤はディズニーアニメのDVDと、英語のテレビアニメを繰り返し見る日々だった。 「将胤は、言葉が遅かったんです。幼稚園では英語の世界。帰宅したら、日本語で会話する相手は私だけ。英語でもアニメなら動きがあってわかるから、映像作品を通じて言葉とイマジネーションの世界を広げていたんでしょうね」(雅葉子)  武藤がハマったのは、現地でテレビ放映され、個性的なカメたちが空中戦を繰り広げるSFアニメ「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」。物語の続きを「妄想」し、机の下や扉の陰から銃声音を「プシュプシュ」と口マネしてキャラクターの人形を操るのに夢中になった。  4歳半の時に両親が別居し、日本に帰国後に離婚。小学校入学と同時に母が再婚して、港区の赤坂で暮らし始めた。武藤は言う。 「アメリカから離れ、父親と離れることは寂しかった。母親に心配をかけたくなくて、その感情を表に出さないようにしていた記憶があります」  義父・真登(まさと)(61)は電通を経て広告畑で起業しており、武藤は幼少期からCM撮影の現場などに遊びに行く機会が多かった。「出会ってきたカッコいい大人たちが広告マンばかり」で、人と人のコミュニケーションを創発する場の熱気に触れた。  とはいえ、思春期に壁にぶつかる。母によれば、「こだわりの強さと自己表出のギャップ」だ。中高時代、友だちは多かったが、ぶつかることも多かった。愛情が深い分、子育てにも厳格だった真登ともぶつかった。 「もともと、将胤は人一倍こだわりがあるんですよ。私と口げんかしても、もう、絶対折れない。幼い頃は、こだわりをうまく表現できないジレンマがあったようですね。思春期には自分の『こうしたい』という気持ちが空回りして、うまく折り合いが付けられなかった感じでした」(雅葉子)  自己表現の扉を開けたのが、ファッション。高校時代から、古着屋やブランド店を巡っていた。國學院大學に入学すると、服の個性を全開にした。大学の同級生の小田切彰子(34)は、当時の武藤のいでたちが脳裏に刻まれているという。 「髪はツンツン、服は原色で、靴はシルバー。正直、マサがパラの開会式で、ド派手な衣装で現れても驚かなかった。マサっぽいなって(笑)」  神道精神に基づく同大学で、武藤は「世の中を明るくするideaを形に」をモットーに、当時人気だったミスコンなどの企画を行うイベントサークルを立ち上げた。「保守的な大学のイメージを変えたい」と小田切を始め、仲間を引き入れていった。全ての先生が顧問を断っても、武藤は何度でも頼みに行く。一人の先生が根負けして顧問を引き受け、設立に至った。小田切は言う。 「マサは昔から『諦めの悪さ』が尋常じゃないレベルだった(笑)。時に人を困らせることもあるけれど、その行動力で物事が前に進んでいく。病気になって、彼は今『限界を作らない生き方』を打ち出しているけれど、あの頃と変わってない」  武藤も「諦めの悪さ」は自認していて、「たとえ理解を得られず諦めるにしても、やれることをやり尽くしてからジャッジしたい」のだという。  新卒で博報堂に入社。当時の上司で現在はグーグルに勤める岡村有人(38)は、武藤を「熱量150%の男」と呼ぶ。 「客先や先輩には礼儀正しく、後輩の面倒見もよく、熱量を向ける先は全方位。マサは早朝から深夜まで、熱量のレベルが全く落ちないんですよ」  外資系の広告主を任され、仕事の醍醐味(だいごみ)を感じていた。13年には木綿子と出会う。まさに人生の絶頂期だった。だがその年の秋になると、手に痺(しび)れを感じるようになり、やがて手が震えて文字も書けなくなった。病院を転々として、長い検査入院をしてもなお診断がつかず、焦燥感が募った。翌年10月に東北大学病院でセカンドオピニオンを受け、ALSと診断された。 (文・古川雅子) ※記事の続きは2021年12月13日号でご覧いただけます。
自民党の泉田裕彦議員の裏金告発の行方 選挙コンサルタントが明かす「暗黙の相場」
自民党の泉田裕彦議員の裏金告発の行方 選挙コンサルタントが明かす「暗黙の相場」 2017年衆院選で当選し、バンザイをする泉田裕彦氏(中央)と星野伊佐夫氏(左)  自民党の泉田裕彦衆院議員(比例北陸信越ブロック)が同党の星野伊佐夫新潟県議から「裏金を要求された」と主張する問題が泥沼化している。  自民県連は12月10日、第三者の弁護士が2人の意見を聴取し、違法性などを調査すると発表した。県連は星野氏の除名を求める申立書も泉田氏から受領。星野氏(長岡支部長)からの新潟5区支部長を泉田氏から交代するよう求める要望への対応も協議し、年内にも結論を党本部へ伝える方針だ。  ことの発端は、泉田氏が11月29日、発信した自身のツイッター告発だ。 <【総選挙の闇:新潟5区】 今回の衆議院総選挙で、2~3千万円の裏金要求をされました。「払わなければ選挙に落ちるぞ」という文脈でした。広島で事件があったばかりでよくやると思いましたが、違法行為はお断りしました。そうしたら、選挙は大変でした。。。> <高鳥県連会長に対応を求めたところ、相談するので証拠はあるのか聞かれ、YESと回答しました>  そして、泉田氏は9月4日に星野氏の自宅で会話した録音データを公表した。泉田氏が「星野氏である」と指摘している男性は新潟5区の選挙情勢を説明しながら、以下のように語っていた。 「このままなら、比例引っかからんから」 「とにかく必要経費を早くまこう、もう余裕がない。選挙がはじまってからなんて、バカはいない。今でも遅いくらいだ」 「2千万や3千万なんかね、もったいないなら人生終わるよ」 「悔いが残る、1億や2億の話ではなくなるから。2千万や3千万の金をね、惜しんで一生投げちゃいけない」  これらの会話は泉田氏により音声が録音されていた。  泉田氏は記者会見を開いて、こう訴えた。 「選挙でお金を要求する、民主主義の土台をゆがめてしまう。放置すべきではない」 「払わなければ選挙で落ちるぞという金銭要求がありました」  星野氏も記者会見を開いて、泉田氏が公開した録音データの声は「自分かどうか、よくわからない」と否定。「裏金をバラまくなど、そんな話はなかった。泉田氏の自作自演だ。まったく関係ない、作り話」「お金の話、政党活動費のことだ」などと反論した。 「星野県議から裏金要求」と主張する泉田裕彦議員  泉田氏は経産省出身の官僚で、2004年から2016年まで3期、新潟県知事を務めた。その後、衆院議員に転出し、新潟5区が地盤で当選2回。10月末の衆院選では森民夫元長岡市長が無所属で立候補し、保守分裂となり、小選挙区では落選、比例復活となった。  星野氏は新潟県議当選12回、田中角栄元首相の後援会「越山会」の元幹部、県議会議長も経験している。星野氏のことを「新潟のドン」と呼ぶ人もいるという。  泉田氏が県知事時代から2人は緊密な関係で、「泉田氏を衆院議員に」と強く後押ししたのも星野氏だった。自民党の新潟県議はこう話す。 「あの声は星野氏と似ている。政党活動費と星野氏は言っているが、ちょっと苦しい印象だ。『撒こう』とか2千万円、3千万円と具体的な数字を出しているからね。新潟5区は、田中角栄元首相の地盤でもあった長岡市などが含まれる。古い人に聞けば、当時はお金が飛び交ったという人はいます。しかし、今は時代が違うし、広島の公職選挙法違反事件もありましたからね。けど、結局、録音データはあってカネを要求されたが、動いていない。なぜ、泉田氏はここまで大騒ぎするのかな。次の衆院選で定数が減ることが関係しているのだろうか。騒ぐことで有利になると見ているのかな」  総務省は衆院小選挙区の定数是正について「国勢調査人口(確定値)に基づく計算結果の概要」を11月末に発表。新潟県も次の衆院選では、区割りが見直され、新潟県は6つの小選挙区から1減の5つとなる見込みだ。自民党は候補者調整が不可欠となる。 「自民党の公認争いは熾烈になるだろうね。選ぶのは自民党新潟県連が中心になるので、星野氏を追い落としたいと泉田氏は考えたのかな。それ以上に、泉田氏の記者会見があまりに強烈で騒動が大きくなり、事件になりかねないと心配している」(前出・県議)  泉田氏は記者会見で刑事告訴については言及していない。元東京地検特捜部検事で、自身も国政選挙に立候補した経験がある落合洋司弁護士はこう話す。 「2千万円、3千万円という数字を星野氏が泉田氏の前で具体的に言っているので、録音データを聞けば確かに怪しいカネの印象は強い。私も弁護に関わった広島県の河井克行、案里夫妻の公職選挙法違反事件で買収に使われたのは、約2900万円で約100人に撒かれた。市議、県議の相場が20万円から30万円なので、今回の2000万円から3000万円というと、地方の相場として金額的に符号する。しかし、録音データでは、何のためのカネか星野氏は具体的には語っていない。裏金で買収に使うのか、政治活動の資金なのか、わからないですね」 広島地検が公職選挙法違反(買収)容疑で家宅捜索したことを受け陳謝する河井克行元法相=2020年1月  落合弁護士によると、公職選挙法を鑑みるとカネの趣旨がポイントになるという。 「河井夫妻の事件は明らかに多くのカネの授受が買収目的だったが、今回の泉田氏や星野氏の会見を聞いていると、事件になる寸前で終わっている感はある。ただ、広島の事件があったばかりで、疑念を持たれかねないカネのことを持ち出すのは、いかがなものかと思いますね」(同前) ●多額の選挙費用 衆院5千万、参院1億が暗黙の相場  国会議員と地元議員の対立によって明らかになった政治とカネの問題は、新潟だけではない。自民党東京都連関係者の話によると、衆院選の小選挙区では5千万円、東京都全域が選挙区となる参院選では1億円の費用がかかることが暗黙の相場だという。  いったいどういった費用がかかるのか。ある選挙コンサルタントは、この相場は「表だけではなく裏のお金もあわせた金額」と見る。  例えば衆院選でかかる表の費用は2千~3千万円だと言われる。事務所費、人件費、車両代、印刷代、郵送代、電話代などが主な経費となる。その際、実際に動くのが地元の区議や都議などだ。市議や区議らの政治団体に寄付して費用を払うことで表のお金として処理されるという。  それでは裏のおカネとは何か。それは例えば政治団体を持たない民間人などに配るお金だ。地元には有力な自治会長や企業経営者などもいる。そういった人物にお金を配るとなると、費用が大きく膨らんでくるという。  先の選挙コンサルタントはこういう。 「表のお金は政治団体の懐に入り、これは政治資金収支報告書にも記載され、政治活動にしか使えない。しかし、裏金は領収書も出ないので収支報告書の記録には残りません。私的に使えるお金になります。公選法違反罪に問われた元法相の河井克行被告の大規模買収事件では、おカネを受け取った市議がパチンコやグアム旅行に使ったことがわかっています。コロナの助成金を受け取り批判を集めている石原伸晃さんではないですが、選挙は『最後は金目でしょ』という面もあります」 (AERAdot.編集部 今西憲之、吉崎洋夫)
皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは
皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは 「愛子天皇」待望論も根強い  コロナ禍で皇室全体が見えにくい状況が続く中、眞子さんの結婚騒動は、国民の皇室への不信感や、皇室内の「女性差別」といった問題を浮き彫りにした。今後、皇室はどうあるべきなのか。4人の識者に聞いた。 *  *  * ◆放送大学教授(政治学)原武史さん「男系男子は軍事国家の名残。戦後の価値観で皇室典範の見直しを」 原武史さん  飛鳥・奈良時代や江戸時代には女性天皇がいたのに、明治の皇室典範で皇位継承者を男系男子に限ったのは時代背景も影響しています。西洋列強から開国を迫られた日本は、植民地化を免れるため急いで軍事国家をつくる必要があり、天皇を軍事的なシンボルにしたのです。京都にいたときは中性的な姿をしていた天皇が、ひげを生やし、軍服を着て馬や軍艦に乗るなど、男性化していった。女性天皇についても議論されましたが、結局除外されたゆえんです。  しかし、敗戦によってこの路線は破綻した。陸海軍を解体し、憲法を改正し、女性参政権を認めるなど、男女平等が進められました。  ところが、皇室については、根本の部分はまったく変えなかった。戦後の皇室典範でも依然として皇位継承者を男系男子のみに限っているのは、軍事国家の名残のようなものです。  このため、時間が経つにつれ、お濠の内側と外側の「ズレ」が拡大していきました。  いまや結婚しない自由や子どもを産まない自由はもちろん、LGBTの権利も認められるようになった。結婚した女性が必ず男子を産まなければならないというのは、もはや完全に時代遅れになっています。  さらに言えば、皇室制度自体を続けるのかという考え方が抜けています。憲法1条には「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」とあります。国民の総意がもう皇室はいらないと考えるのであれば、なくていいという話になる。こうした選択肢は考慮されていません。  とにかく今は存続が大前提になっていて、結婚後も女性皇族を皇室に残して女性・女系への道を開くのか、男系男子に固執して旧皇族の男子を養子に迎えるのかといった二者択一のような議論になっている。 小室夫妻  それだけでいいのでしょうか。今回の眞子さんの件で、特に女性にとって、お濠の内側がいかに窮屈で生きづらいかがわかってしまった。眞子さんだけでなく、現上皇后も現皇后も、失声症になったり適応障害に苦しんだりしました。  宮中にはいまなお、ケガレを避けるためのしきたりが厳然と残っています。その一つが女性だけに当てはまる血のケガレで、生理中は宮中三殿に上がれません。これは男女平等にも反しています。そこに手をつけず、ひたすら存続を前提にした議論ばかりが進んでいけば、今後も眞子さんのような女性皇族が出てくることは十分考えられます。  皇室制度の存続を望むなら、GHQが手をつけなかった戦前との連続性にあたる部分を、戦後の新しい価値観のもとで再検討することが必要です。皇室典範を見直すとともに、条文化されていないしきたりなどもタブーを排して見直すことが重要だと思います。 ◆東大大学院教授(憲法学)・石川健治さん 「女性皇族が皇室から離脱する権利を封じるならば女性天皇を認めなければならない」 石川健治さん  眞子さんの結婚騒動は改めて考えると、皇室からの脱出劇だったのだと捉えるべきだと思います。  憲法学者の奥平康弘先生は生前、天皇の退位について「脱出の権利」を説いておられました。その考えの元は、米国の政治哲学者エイミー・ガットマンの著作です。  ガットマンは、人間を強く突き動かしているのは信仰で、宗教団体は公共圏を支える原動力となっており、宗教団体を民主制の中で積極的に評価すべきだと説きました。  しかし、宗教団体はその信仰ゆえに、男女差別を典型とした差別構造を持つことがあり、宗教団体の積極評価は、たとえば男女差別を国家がサポートする結果をもたらし得ます。にもかかわらず、それを正当化しようとするなら、女性が個人として、納得ずくで人権を放棄していることに求めるほかはない。が、この正当化は、いざとなったら団体から抜ける可能性があることが前提です。裏から言えば、脱出の権利だけは、放棄できない人権だということです。 眞子さんの結婚などについて会見で語った秋篠宮さま  皇室を、皇室祭祀を軸とした、祭祀共同体だと捉えると、同様に、男性中心の皇室のあり方は、女性皇族の脱出の権利が確保されることによってのみ、正当化されることになります。憲法第3章の「国民」の権利条項は、天皇・皇族には適用がないと考えるべきですが、そうした憲法の定めによっても、脱出の権利は奪われないと考えることは、論理的に可能です。その意味で、女性皇族が皇室から離脱することができる現行の皇室典範は、理にかなっているのです。ただし、認められた脱出路は、婚姻だけでした。  眞子さんが「結婚は生きていくために必要な選択」と発言されたのは、皇室からの脱出を求める心の叫びとして理解することができるでしょう。彼女の主張は脱出の権利に裏づけられたものだったが、小室(圭)さんとの結婚以外に脱出路がなかった。  皇室典範の立法政策論として言えば、現状を維持して不平等を認めるためには、脱出の権利の保障が必要になる。それを封ずるのであれば、逆に男女平等を実現して、女性天皇を認めなくてはいけない。そういう論理構造になっているのです。その意味で、眞子さんの婚姻を認めるか、認めないかという問題は、女性天皇論議と深いところで連動しているわけです。  ただし、ここで眞子さんによって、婚姻にまつわる皇室の儀礼をも吹き飛ばして強行された脱出劇は、家族としての秋篠宮家だけでなく、制度体としての皇室に対しても大きなダメージを与えたことは確かでしょう。  大きな犠牲を払いつつ遂行された脱出劇が、「人権」を求めた眞子さんによる脱出の権利の実践だったと考えれば、彼女の一貫した悲壮さも腑に落ちる気がしています。 ◆歴史学が専門の河西秀哉・名古屋大学大学院准教授「SNSで発信する英王室が見本。皇室側から積極的に情報発信を」 河西秀哉さん 「皇室不要論」が聞こえてくるようになった要因として、コロナ禍の影響は大きいと思います。  上皇ご夫妻は、東日本大震災での被災地訪問に代表される、目に見える公務の印象が非常に強く、被災者の心に寄り添う姿が象徴天皇への敬意を集めました。  今は目に見える公務が減り、皇室は何をやっているんだろう、という疑問が出てきています。そこに今回の小室眞子さんの問題が重なりました。上皇ご夫妻には、実社会とは離れた特別な存在としての皇室という感覚がありました。 天皇陛下が描く令和の皇室像とは  一方、眞子さんは「公」と「私」で言えば、「私」を優先させたように見えました。小室圭さんとの結婚問題では、これまで国民の多くが持ち続けてきたであろう「皇室とは清廉で道徳的な人たち」といったイメージが崩れてしまったのです。  こうしたことが起きるのは、皇室が社会の変化のスピードに追いつけていないことも背景にあると思います。  情報発信という点で言えば、宮内庁の方針は、従来のオールドメディアに伝え、メディアを通して国民が知るというものです。ホームページを見にいくという能動的な行動でしか皇室にはアクセスできません。  そうではなく、常に皇室側から情報を発信していくということが大事です。「私は普段こういうふうに考えている」「こういうことがあったんだ」といった何げない発信があってもいいと思います。私たちも、この人はこういう人なんだ、とわかっていれば、眞子さんの問題に対する捉え方も違ったかもしれません。  見本になるのは英王室でしょう。ダイアナ元妃が亡くなったとき、王室は無視を続けたことで国民から反感を買い、王室廃止論が出たのです。その反省を踏まえ、広報を重要視する方向にかじを切りました。いまや英王室はSNSで積極的に発信しています。ツイッターやフェイスブックであれば勝手に情報が流れてくる。受動的に王室の発信に触れることができます。  日本の皇室も、国民にとってより身近な存在である、ということを見せるほうが時代には即しています。ある程度の節度を保ちつつ、どんな人なのかを広く知ってもらう、本音を隠し続けるのでなく吐露する、といった姿勢が大事になってくるのではないでしょうか。  瓦解した「国民に寄り添う皇室」像をふたたび取り戻せるかは非常に難しい問題です。平成期も最初からうまくいっていたわけではありません。紆余曲折があって、皇室への敬意が高まるまで20年ほど要したのですから。 ◆麗澤大学教授(憲法学)・八木秀次「男系を守ってこその特別な存在。天皇とは、皇室制度とは、広く議論を」 八木秀次さん  個人の自由意志を貫いて結婚した小室眞子さんをめぐる騒動は、天皇制の維持など、皇室のあり方に非常に大きな影響を与えたと思います。これが前例になることにより、他の内親王、女王の結婚にあたっても同じ形態がとれるようになりました。 若き悠仁さまの胸中は  一番懸念されるのは、悠仁親王の即位拒否に道を開いたことです。姉が自由意志を貫いたことが前例となり、即位拒否を主張されてもだめだとは言えなくなった。悠仁親王が皇太子になられるのもそう遠い話ではありません。皇室典範上、皇太子になると皇籍離脱はできませんが、なったとしても特例法という「逃げ道」があるのです。  こうした道を開いたのは、上皇陛下の生前退位にあったと考えています。皇室典範には退位の規定はなく、むしろ解釈として禁止されていると考えられてきました。それを、当時の天皇陛下の思いを優先するという形にしました。結果として、皇族が自分の思いを貫くことを可能にしてしまった。その論理が提供され、眞子さんが自由意志を貫く結婚につながってしまったと考えるべきです。  特例法について、私は反対でした。制度として捉えると、退位を認めた瞬間に皇位安定性は一気に揺らぎ、不安定になります。当時、私は「退位を認めることが、即位拒否や、即位後まもなくの退位を認めることになる。これが何度か続けば、皇室は継承できる天皇が誰もいなくなってしまう」と指摘しました。  特例法でパンドラの箱が開きかけ、眞子さんの結婚が箱のふたをより広げたといえます。  天皇は国民との絆を重んじる精神的なよりどころとして存在してきたなかで、こうした経緯のある秋篠宮家に将来、皇位が移ることを危惧する人もいます。しかし、代々続いてきた男系の継承は守るべきです。  皇族の数が減り、皇位継承資格のある男系男子の皇族も数えるほどの人数となるなかで男系継承は行き詰まっているとの指摘もあります。しかし、歴史の連続性の重みは無視できない。継承者が男系から外れると正統性がなくなるからです。  天皇や皇族と国民との違いは、歴代天皇の男系の血統に連なるか、それ以外かです。女系は一般国民となる血筋であり、女系継承を認めれば、国民との間に質的な違いはなくなります。血統によって区別され、代わりがいないからこそ特別な存在として、敬愛の念を抱くのです。  天皇とは何か。皇室制度にはどんな意味があるのか。今回をきっかけに広く議論されればいいと思っています。(構成 本誌・秦 正理、矢崎慶一)※週刊朝日  2021年12月17日号
「なぜ私は壁を向いて料理を作っているの!」 妻の鬱憤が事業のヒントになった夫婦
「なぜ私は壁を向いて料理を作っているの!」 妻の鬱憤が事業のヒントになった夫婦  AERAの連載「はたらく夫婦カンケイ」では、ある共働き夫婦の出会いから結婚までの道のり、結婚後の家計や家事分担など、それぞれの視点から見た夫婦の関係を紹介します。AERA 2021年12月13日号では、藤岡木工所でオーダーキッチンの製造・販売を担当する藤岡功さん、藤岡木工所でショップ&カフェ運営を担当する藤岡嘉奈子さん夫婦について取り上げました。 *  *  * 夫27歳、妻22歳で結婚。長男(27)、次男(24)、長女(22)の5人家族。 【出会いは?】友人の紹介で焼き肉屋での集まりで出会う。服飾専門学校出身でセンスのよい妻を「かわいいなあ」と思った夫が交際を申し込んだ。 【結婚までの道のりは?】11カ月の交際を経て1993年に結婚。結婚後、妻は3人の子育てに加え、同居していた父母や親戚など最大で9人家族の台所を担った。 【家事や家計の分担は?】家事はかつてほぼ妻の分担だったが、オーダーキッチンを手がけるようになり夫も台所に入るように。最近は皿洗いや料理をする。夫婦の財布は別々。 夫 藤岡功[55]藤岡木工所 オーダーキッチンの製造・販売 ふじおか・いさお◆1966年、岐阜県山県市生まれ。県立岐阜工業高校土木科卒業後、地元の建設会社に就職。22歳で藤岡木工所に入り、2008年ごろからオーダーキッチンの製造・販売をスタート。20年に東京・清澄白河にショールームをオープン  岐阜県の山間で祖父の代からの木工所を継ぎました。しかしリーマン・ショックで仕事が減り「やばい」と思った。何か専門に特化しないと生き残れない。それでオーダーキッチンを思いついたんです。  大きなきっかけは妻でした。彼女は古い家の台所で、ずっと大家族の料理を作り続けてきた。あるとき「なぜ私は壁を向いて料理を作っているの!」と爆発されたんです。そこで家を建て替えるとき「好きなようにやってみて」とキッチンを任せた。彼女は鍋のサイズを測り、動線も考えて設計。結果ものすごく快適なキッチンになったんです。 「これやな」と思いました。手間がかかるので大手メーカーはやりたがらない。でも木工所として培った技術を生かして、確実にお客さまを喜ばせることができる。なにより子どもたちが笑顔で台所に集まるようになったんです。以前は台所に寄りつきもしないダメ男だった僕も、料理を作るようになりました。妻との体験がいまのすべてを作っていると感謝しています。 妻 藤岡嘉奈子[51]藤岡木工所 ショップ&カフェ運営 ふじおか・かなこ◆1970年、愛知県知多市生まれ。90年に服飾専門学校を卒業。3人の子育てを経て、藤岡木工所を手伝うようになる。現在は木工所に隣接するショップとカフェを運営  もともと服やインテリアが好きだったんです。でも夫の実家の台所は何一つ自分仕様ではなく、暗くて動線も悪かった。体も疲れるけれど、気分が落ち込んでたまりませんでした。家の建て替え時に自分の理想のキッチンを一から設計させてもらい、いままでの不満や思いを全部出しました。この経験がいまにつながっていると感じます。  小さな木工所のオーダーキッチンを知ってもらうために、まずはキッチンを使う人たちが集えるようなイベントをしようと、隣接する空き地でマルシェを開催し、ショップやカフェもオープンしました。物を売るだけではなく「暮らし」を提案できるような会社になればと思っています。  夫の行動力や決断の速さ、時代を読む目はすごいと思います。かつて「男は外、女は家」で家事も育児も完璧なワンオペでしたけど、いまは変わってきたと思います。なにより休みの日に台所にいるようになった。オーダーキッチンを扱う人が料理をできない、では困りますからね(笑)。 (構成・中村千晶)※AERA 2021年12月13日号
日大不祥事で「日東駒専」の大学序列に地殻変動はある? 2022年入試への影響「避けられない」と識者
日大不祥事で「日東駒専」の大学序列に地殻変動はある? 2022年入試への影響「避けられない」と識者 田中英寿前理事長(日大HPから)  5期13年にわたり実権を握り続けた「日大のドン」こと田中英寿前理事長(74)が脱税容疑で逮捕されてから1週間。大学トップの逮捕に、日大関係者のみならず、受験生やその保護者のなかにも衝撃を受けた人は多いだろう。今回の不祥事は、日大の志願状況や受験業界にどの程度影響を与えるのか。入試難易度にも変化が生じる可能性はあるのか――。受験や大学に詳しい識者に聞いた。 *  *  * 日大は、7月に現職理事が逮捕、11月に理事長逮捕と不祥事が相次いでいる。大学通信常務取締役の安田賢治氏は、一連の事件が受験業界に及ぼす影響について、こう見通しを語る。 「これまで大学の不祥事といえば、わいせつ系や学生の大麻使用などが多く、理事長が脱税で逮捕される今回のようなケースは、あまり前例がありません。2018年の悪質タックル騒動も過去に例がなかったなかで、翌年の志願者を1万5000人近く減らしました。脱税や贈収賄と言われてもピンとこない受験生も多いでしょうが、保護者には納得できない人もいるでしょうし、不安を募らせるかもしれません。ただ今回の一件が、どの程度影響を及ぼすのかは非常に読みづらい」  教育ジャーナリストの小林哲夫氏は「志願者数の増減などは、入試方法や科目、日程などが大幅に変わった際に生じるもの。過去、不祥事で志願者を減らした大学はあまり聞かない」としつつ、不祥事をきっかけに志願者減少に転じた数少ない例として、安田氏と同様、日大アメフト部の悪質タックル騒動を挙げる。騒動前の18年度の志願者数は11万4316人だったが、翌年は9万9972人(前年比87%)となった。 「受験者が暴力的な体質を嫌うのは当然です。悪質タックルのシーンをテレビで何回も見せられれば、『日大は怖い』とすり込まれ、進学したいと思わなくなる。それが大幅減少の原因です。また、この騒動は特に、スポーツ学生の進学状況に大きな影響を与えました。騒動を機に、高校時代のトップアスリートが青学、中央、明治、法政、東洋、日体大、駒澤、専修などに流れたのです。高校の部活顧問や体育教師が日大を薦めなかったケースも実際にあります」 日大本部が入る建物  小林氏は今回の不祥事について、「理事長の逮捕でかえって膿が出されて評価する人もいるのでは」とし、悪質タックル騒動と比べて影響は「限定的」とみる。  一方、次の入試で「志願者数が大幅に減るだろう」と予測するのは、大学ジャーナリストの石渡嶺司氏だ。 「アメフト騒動の時は、タックル指示のあった試合が5月で、報道の収まった時期が8月前後でした。一般入試の頃にはほとぼりが冷めていたわけです。それに対し今回の背任事件と脱税容疑は、報道され始めたのが9月ごろから。そして、保留状態になっている政府からの助成金交付の最終決定が来年1月ですので、今後も注目を集めるでしょう。9月~1月という時期は、受験生にとっては一般入試の志望校を最終決定する時期にあたります。この時期にネガティブなニュースが断続的に流れ続けるのは、どう考えても悪影響。今回の事件は前回のアメフト騒動以上の影響を及ぼすだろうと思います」  時期に加え、「お金の問題」が絡んでいることも大きいという。 「理事長の自宅から札束がゴロゴロ出てきて、脱税のトンネル会社として学生の教育用品を扱う会社が使われたとなれば、あまりにもイメージが悪い。今回の事件では日大事業部が絡んでいて、学生が購入する物品にも影響があった可能性がある。そうなると、受験生及び保護者にとっては他人事ではなく、自分事になります。アメフト問題は一般入試の受験生にとってはあまり馴染みのない世界でしたが、今回の事件では遠い世界の話ではなく、すごく身近な話になる。影響は大きいと思いますよ」(石渡氏)  今回の不祥事は、入試の難易度にも影響するのだろうか。  日大は、東洋大・駒澤大・専修大とともに「日東駒専」と呼ばれ、首都圏の中堅私大グループの一つとみなされている。石渡氏によれば、2000年代までは「日東駒専」の中でも日大の難易度がトップで、2番目以降をほかの3大学が争う構図だったが、10年代以降、東洋大が躍進しているという。河合塾の17年度と21年度の偏差値データを比べると、東洋大は8割以上の学部・学科で伸長。看板学部の一つである文学部哲学科は、2017年度の50・0から21年度は57・5まで伸ばしている。一方の日大は、一部学部で上昇がみられるものの、横ばいか下降傾向の学部が目立つ。東洋大は日大のタックル騒動の翌年に志願者数を約6500人伸ばし(前年比106%)、偏差値も上昇傾向にある。 田中英寿容疑者の自宅 「アメフト騒動以降は、東洋大が逆転している状態です。これはアメフト騒動の悪影響があったというよりは、東洋大が積極的に新設学部を作り、キャンパスの都心回帰を推し進めたところが大きい。日大も2000年代以降に2学部を新設したのですが、スポーツ専門の学部と危機管理学部で、規模が小さくメジャーな学部とは言いづらい。一方の東洋大は情報系や観光系の学部など、社会のニーズにあった学部学科を都心に次々と新設している。受験生からすれば、ニーズにあった新設学部があって通いやすいとなると、志願しようかという話になる」(石渡氏)  一連の日大不祥事と東洋大の躍進によって、今後「日東駒専」のグループ分けに変化が生じる可能性はあるのだろうか。石渡氏は次のように指摘する。 「『日東駒専』というクラス分けから日大が落ちて、その次に位置づけられる『大東亜帝国』と同ランクになるというのは、すぐには考えづらい。ですが、今回の事件を受けて、『日東駒専』の中で日大と東洋の立場が完全に逆転し、東洋が1番手、日大が2番手以降になっていくのはまず避けられないことだと思います」  近年は「日東駒専」のうち上位2校である日大・東洋大を、より難易度が高い成蹊大・成城大・明治学院大と合わせて『成成明日東』とくくる呼び方もあり、一部予備校などで使われ始めている。 「『成成明日東』のくくりでいうと、日大が外れていく可能性はあるかと思います。『成成獨國武』(成蹊・成城・獨協・國学院・武蔵)に明治学院と東洋を加えたあたりが、MARCHクラスのやや下の位置づけになっていき、次が『日駒専(日大・駒澤・専修)』になる可能性も否定できないかなと思います。今回の不祥事を引きずったまま日大が再生の姿勢を示すことができないとなると、志願者がどんどん減っていき、今後、結果として偏差値が下がっていく可能性は考えられます」(石渡氏)  一方で安田氏は、大学グループの“地殻変動”の可能性は低いとみる。 通称、許永中神社といわれる「西向不動尊」の石碑には田中前理事長夫妻の名前が(撮影・今西憲之) 「大学のグループに関しては入れ替えのないリーグ戦のようなもので、何があろうとメンバーが入れ替わることはあまりない。高校の教師の間でもすっかり浸透していますし、進路指導の際、たとえば明治が第一志望の生徒に『滑り止めに日東駒専おさえておけよ』といった指示を出す流れが当たり前になっています。予備校でも、実績を出す際に『MARCH』や『日東駒専』でくくる慣習が根付いています。今後、グループの総称が変わる可能性もゼロではないとは思いますが、数十年の間ずっと変わっていない呼び方なので、そう変わらないような気はしています。ただ、これだけ東洋大に負けるとなれば、すでに日大ブランドには翳りがあるのでは。理事長がおやめになったからといって、今後、ブランドが回復するかどうかはわかりませんね」  7万3000人の学生と、約120万人のOBを抱えるマンモス私大・日本大学。その浮沈がかかった重要な舵取りを担うのは、残された経営陣たちだ。日大自身による“危機管理”が求められている。(AERA dot.編集部・飯塚大和)
雅子さまは愛子さまのお手本「出しゃばらず、“絵”になる気品」 果たした5つの貢献とは?
雅子さまは愛子さまのお手本「出しゃばらず、“絵”になる気品」 果たした5つの貢献とは? 58歳を迎えられた雅子さま(宮内庁提供)  皇后陛下、雅子さまは12月9日、58歳の誕生日を迎えた。外務省のキャリア官僚としてバリバリ働いていた生活から、皇室に入った雅子さま。その歩みは平坦ではなかったものの先日、長女の愛子さまが成人を迎えられた。令和の皇室における雅子さまの存在の大きさと役割について、皇室ジャーナリストの神田秀一氏に聞いた。 *    *  * ふりかえれば、雅子さま(当時・小和田雅子さん)が天皇陛下(当時・皇太子)との婚約会見を行なったのは1993年1月19日のこと。雅子さまは婚約会見で「6年近く務めた外務省(北米2課)を去ることに、寂しさを感じないと申しましたらうそになると思います」と率直に語った。半年後の6月9日に結婚の儀をあげた。  神田氏は、当時の様子をこのように語る。 「雅子さまが結婚した頃、私は宮内記者会の一員でした。東京都目黒区の小和田邸にもちょくちょく出向いて、取材したものです。たくさんの取材陣や見物人が黒山のようにいましたね」  婚約会見から28年11カ月の歳月が流れた。神田氏によると、雅子さまは皇室に「5つの貢献」を果たしてこられたという。 トランプ前米大統領来日の際に、メラニア夫人と談笑する雅子さま  まず、国賓を日本に招いた時の雅子さまの貢献。 「雅子さまは外務省の外交官として通訳官もしていたほどに英語が堪能ですから、海外から国賓を招いた時、言葉に不自由しないんですね。宮中晩餐会が催されても、国賓と心が通った会話できる。その国との絆が強くなり、見えない“外交”で貢献なさったと思います。さらに、相手に通訳がついている時は、雅子さまは出しゃばらず、目で合図して通訳に任せるんですね。そうやって気を配る人なんです」  2つ目の貢献は、皇室の人気や気品を保ったこと。 「雅子さまがご結婚した頃は、英国のダイアナ元妃が日本でもプリンセスとしてお茶の間で話題になっていました。雅子さまもプリンセスのイメージがあって、追っかけ主婦が登場するほどの人気となりました。雅子さまが車の窓を開けてお手ふりする姿が“絵”になるんですね。気品があり、海外のどこの国に出しても安心できる皇后だと思います」  体調がすぐれない時期もあったが、令和の時代になると国民の人気は復活。平成から令和へのお代替わりで行われたパレードでは、沿道につめかかけた多くの国民が「雅子さま~」と熱心に呼びかけた。雅子さまも感極まって、目がうるみ、そっと手を添える印象的なシーンもあった。 うるんだ目元に手を添える雅子さま  3つ目の貢献は「適応傷害」に苦しみながらも、女性皇族のトップとして公務をこなしていること。雅子さまは2004年6月、適応障害の診断を受け、長い療養生活に入った。天皇陛下は当時の記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した。天皇陛下が雅子さまを温かく守っていることも垣間見えた。 「皇室に入って苦しんで病気になられた。美智子上皇后も一時期、声が出なくなったことがあった。皇居の中は古くて、息苦しい世界なのです。天皇家には姓がなく、名前しかない。これ一つ取っても 一定の縛りの中で生活しているということです。結婚した女性は男子を生むことを期待される。皇室典範によってふるまいなどさまざまな制約を受け、勝手なことができないようになっています。雅子さまは日本国民として生まれながら、一般国民とは全く違う生活を送らなければならないのです」  なぜ雅子さまが体調を崩したのか、だれかが雅子さまをイジメるようなことがあったのか、神田氏も取材でかけずり回った覚えがあるという。 「具体的な推測をする記者もいました。体調不良の原因となったことはわからずじまいです。だけど、女性皇族はかくあるべしというものは変えられずに依然として残っていますね。ティアラやローブ・デコルテの正装も明治天皇の時代でできあがったものなんですよ。皇室のしきたりは、時代に合うようにそろそろ見直してもいいのではないかと思います」  4つ目の貢献は保護犬を育て、ご養蚕の伝統を守るなど、生き物を大事にされていること。 「天皇ご一家は動物好きで、赤坂御用地に迷い込んだ犬が産んだ子犬2匹も飼っていました。現在の愛犬・由莉(ゆり)も、保護犬。ご養蚕については明治天皇の妻である昭憲皇太后から始まり、歴代皇后の伝統として引き継がれてきた“私的行為”。 美智子上皇后から引き継いで伝統を守っていますね」  5つ目の貢献は、愛子さまを成人皇族に育て上げたこと。 「愛子さまがあんなに立派に成長し、20歳を迎えられたのは、雅子さまがいつもそばにいて大切に育て、女性皇族としてのお手本を示して来られたからだと思います。女子が生まれたことで、『女性天皇』『女系天皇』の皇位継承の議論にも火がつきました。小泉政権の時には女性・女系が容認する方向となりましたが、その後、気運はしぼんで、流れてしまいましたが」 三権の長からの祝辞を受けるため、皇居・宮殿「梅の間」に入る天皇、皇后両陛下と愛子さま  現政権下では、政府の有識者会議が皇位継承のあり方を議論し、年内にも報告書をまとめて、政府が国会に報告する予定だ。 「だけど、あまり期待できなさそうですね。皇族が減少しており、手を打つことは必要だと思います」  神田氏は雅子さまがバースデイを迎えたことをこう祝福した。 「一国民として、誕生日おめでとうございますと申し上げます。もしも、どうしても解決できない問題があったら、リモートの時代ですから、スマホやPCなどを使って、ヨーロッパの王室の方々とも意見を交わしながら、日本の皇室のために力を尽くしていただきたいと思います」  来年1月2日の恒例の皇居の一般参賀は密を避けるため、残念ながら中止。雅子さまはコロナ後の皇室の「ニュースタンダード」をどのように作ろうとしているのだろうか。多くの国民が期待している。(AERAdot.編集部 上田耕司)
80歳目前まで住宅ローン返済?駅近マンションに住み替えた54歳の後悔
80歳目前まで住宅ローン返済?駅近マンションに住み替えた54歳の後悔 ※写真はイメージ(GettyImages)  家を買うときに「繰り上げ返済すればいい」「退職金を充てればいい」と考えて、定年退職後に完済予定となるローンの組み方をする人は少なくありません。しかし、年金生活に入ってからも返済しなくてはいけないローンには注意が必要です。(家計再生コンサルタント 横山光昭) 住宅ローンの返済が予定通り終わらない  老後の生活を考えた時、「住まい」が問題になる方が比較的多くいらっしゃると感じています。問題の多くは、住宅ローンの返済が終わらない、長引いているということなのですが、その原因は「繰り上げ返済が思うようにできなかった」「住み替えをしたら計画が狂った」などが多いようです。  住宅ローンを組む時は、定年後に完済予定となる予定を立てても、「繰り上げ返済をすれば、きっと退職するころには完済できるはず」「いざとなれば退職金で返せばいい」などと考えがちなもの。住宅販売の場面で、そういったアドバイスを受けることもあるようです。  しかし、定年が見えてきた時に見直すと、繰り上げ返済も退職金からの返済も難しく、当初の予定通りに70歳、80歳ごろに完済の見込み。そうする予定ではなかったのに、老後資金作りと住宅ローンの返済の両方に取り組むのは難しく、結果的に返済のスピードアップが難しくなってしまうのです。  老後資金が返済分を含めて作ることができた、または完済する年齢までの収入が見込めるという場合は返済可能な場合も多いのですが、このような対策を講じないままに年金生活に入ると、住宅ローン返済負担の重さに、家計が立ち行かなくなってしまうのです。 50代で郊外の自宅を売却し、駅近のマンションに住み替え  郊外の自宅を売却し、4年ほど前に駅近のマンションに住み替えた会社員のTさん(54)は、「住宅ローンの返済をしながら、老後、暮らしていけるのだろうか」と不安に思われています。  住み替えを決めたきっかけは、3人いる子どもの末っ子(18)が大学に進学したこと。妻(51)と2人で暮らす日を迎えるのもそう遠くはないだろう、あと数年で独り立ちする末っ子も通学に便利だろうと思ったのです。  ローンを組む前は、自宅を売却した代金と今までの貯金を合わせ、1000万円を頭金として入れて借入額を減らして早期完済してしまえば、老後資金が十分作れなくても、Tさんの退職金と年金で何とか老後生活を送れるだろうと計画していました。  いざ、ローンを組もうと調べ始めると、今は年末のローン残高の1%が税金から戻ってくる「住宅ローン控除」が受けられると分かりました。利用する住宅ローンの利率は約0.68%。払う利息よりも、戻ってくる税金の方が多いことに気が付いたのです。そのため、頭金用の1000万円は10年後の繰り上げ返済に使うことにし、借入額3600万円を25年返済で、フルローンで借り入れることにしました。 マンションはローン返済のほかに、管理費、駐車場代もかかる  借入金額が予定より多くなったので、毎月の返済額は頭金を入れる予定の時よりも3万6000円ほど増えてしまいました。以前の自宅では、住居費は全くかかっていませんでしたが、マンションのローン返済が始まると、ローン返済(約13万円/月)と管理費、駐車場代で、毎月の住居費は総額18万円ほどになったのです。計画していたことだったはずなのに、実際返済が始まるとその負担は重く、返済開始後1年もすると、この住み替えは間違いだったのではないかと思うようになったそうです。  妻もパートに出て、収入を増やすようにしていますが、家計は毎月、赤字傾向。ボーナスで補填しながら何とかしてきましたが、今では貯金からの補填も必要となってしまいました。今はその貯金が減るスピードはさほど速くないものの、Tさんは来年、役職定年。収入が2割ほど減る予定です。今後ますます住宅ローン返済が厳しくなり、10年後の繰り上げ返済も予定通りにいかないかもしれません。 80歳目前まで住宅ローンを返済することに……  繰り上げ返済で早期完済すると思って住み替えをしたのに、80歳目前まで住宅ローンを返済し続けることになりそうな見込みです。「年金生活に入っても返済できるだろうか」「老後も暮らしが困窮したものになるのではないか」などと、口から出るのは不安ばかりです。  相談に来られた時から「不要な支出の削減をし、住宅ローン返済に充てる、または貯金に回す」ということを、改善策の一つとしてお伝えしているのですが、転居して少し膨らんでしまった支出はなかなか減らすのが難しく、削減方法を行動に移していくこともできず、先行きが暗い雰囲気のなか過ごされています。 「きっと~できるだろう」は禁物  なるべくしてなった状態ともいえますが、まだ50代。改善の余地はあると思います。見通しが甘く、住み替えをしてしまったのは悔やまれることかもしれませんが、収入増、支出減に取り組むなど、まだできることはあります。また、駅近物件ということで、将来的には物件を担保にお金を借りることができる「リバースモーゲージ」が利用できるかもしれませんし、物件を売却しつつもその物件に住み続ける契約をする「リースバック」を利用できるかもしれません。物件を活用して生活資金を用意する手立てに関する知識は、持っていたほうがよさそうです。最悪、単に手放すことになる可能性もあるかもしれませんが、こうなってしまったら、できることに取り組み、万が一の時の対策などの情報を入手して、備えていくしかありません。  長期間のローンが伴う大きな買い物に、「きっと~できるだろう」は禁物です。特に定年後、年金生活に入ってからも返済が伴うようなローン、もしくは現役時代に貯金さえできないような負担の大きいローンほど、慎重に組まなければいけません。くれぐれも、甘い見通しは立てないことです。
「安楽死」の法制化は認められるべきか? 欧州で目立つ合法化の動き
「安楽死」の法制化は認められるべきか? 欧州で目立つ合法化の動き ※写真はイメージです (GettyImages)  人に迷惑をかける前に尊厳死を──。そう考える人は多い。海外に目を向ければ、安楽死を法的に認める国も増えている。日本でも法制化に向けた動きはあるが、反対意見も根強い。人生の最期をどう迎えるか。誰にでも訪れる死について考えた。 *  *  *  11月9日に亡くなった瀬戸内寂聴さんは、本誌1月22日号の連載「老親友のナイショ文」で、「私はたぶん、今年、死ぬでしょう。(数え年で)百まで生きたと、人々はほめそやすでしょう」と記していた。死を意識していた一方で、2月26日号のインタビューでは「死ぬまでにもう一本、長編小説を書きたいのよ」と抱負を語っていた。  長編小説執筆の願いはかなわなかったが、死の間近まで“現役”として活動を続け、安らかな眠りについた。  瀬戸内さんのような最期を望む人が多いだろうが、現実にはなかなかそうもいかない。病院で全身に管をつながれ、なかば植物状態で長期間の延命がなされた末に、ようやく死が訪れるケースもないわけではない。 99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さん  尊厳を保ったままに逝きたいという願いから、安楽死を求める人もいる。しかしオランダ、スイス、ベルギーなど限られた国以外では非合法である。  日本では昨年7月、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)で苦しむ女性から依頼を受け、京都市のマンションで薬物を投与して殺害したとして、2人の医師が嘱託殺人の疑いで逮捕=同罪で起訴=された。彼らは女性の主治医ではなかった。  たとえ本人から依頼されても死に至らしめるのは、日本では殺人だ。  では近年、耳にする機会が増えた尊厳死は、安楽死と何が違うのか。  これについては、東海大学安楽死事件での判決理由が参考になる。  1991年、東海大学医学部附属病院の内科医が、末期がんの患者に塩化カリウムを投与して死に至らしめた。横浜地裁は被告を懲役2年、執行猶予2年の有罪とした(後に確定)。  裁判官は、安楽死について三つの種類があると示した。(1)延命治療を中止して死期を早める不作為型の消極的安楽死(2)苦痛を除去・緩和するための措置を取るが、それが同時に死を早める可能性がある治療型の間接的安楽死(3)苦痛から免れさせるため意図的積極的に死を招く措置を取る積極的安楽死である。 「このうちの消極的安楽死が、私たちのいう尊厳死のことです」  そう語るのは、公益財団法人日本尊厳死協会の岩尾總一郎代表理事だ。  同協会は、自分の病気が治る見込みがなく死期が迫ってきたときに、延命治療を断って死を選ぶ権利を社会に認めてもらうことを目的に、76年に設立された。  現在、会員数は約10万人。それぞれ死期が迫ったときに延命治療を断る「リビング・ウイル」と呼ばれる事前指示書を作成している。(1)無意味な延命措置の拒否(2)苦痛を和らげる措置は最大限に実施(3)回復不能な植物状態に陥った場合は生命維持措置を取りやめてほしい──という願いを医師に伝えるのだ。  岩尾氏が説明する。 「医師の中には、治らないということは敗北であると考える人が多いのです。でも治すことだけではない。30~40代の人を治すために一生懸命頑張るのと、80代の人が病気になって治療をするのとは違います。仮に治らなくてもQOL(生活の質)を上げられるはずです。今は何が何でも治すことに主眼が置かれ、患者に負担がかかっています」 「何が何でも」という医者側の強い思いが、患者を管だらけにして尊厳を損なうことにつながりかねないというのだ。  もっとも、医師の立場ながらも尊厳死を認めるべきだと主張する人もいる。同協会の副理事長で長尾クリニック(兵庫県尼崎市)院長の長尾和宏氏は、『小説「安楽死特区」』を出版。在宅医療に取り組み、昨年も150人の死を看取った長尾氏は、こう説明している。 「皆さんが憧れてるのは、安楽死じゃなく“安楽な死”。痛くない苦しまない死に方ですよね。それなら、もっと自然に逝ける尊厳死がある。(略)私はこれまで、在宅医療で1200人以上お看取りした。みんな尊厳死です。尊厳死ならより長く生き、最後まで食べられてお話しができて、苦痛も少ない」(東洋経済オンライン2020年2月16日)  同協会専務理事で日本医科大学特任教授の北村義浩氏は持論を説明する。 「どこの国で、どの親で、どうやって生まれるかは選べません。でも死に方は選べるでしょう、という考えです。どこで何を食べ、どこに住むかを選ぶように」  もちろん尊厳死に対しては反対意見も多くある。  では、世界各国ではどのような状況なのか。イギリス、オーストリア、クロアチア、スペイン、ハンガリー、フィンランド、ポルトガル、ドイツ、フランスなど欧州では、比較的早い段階で合法化されていた。  近年ではイタリアが17年12月に法律を制定し、翌18年1月に施行した。法制定の背景には、交通事故の後遺症に苦しむ男性ディスクジョッキーがスイスで安楽死を選んだことなどで、世論が動いたからといわれる。  韓国では16年に「延命治療決定法」が成立し、患者の意思で延命治療を中断できることになった。同法が18年2月に施行されるや、4カ月間で8500人が延命治療を取りやめたと報じられた。  日本でも議員立法による法案提出に向けた動きがある。超党派の「終末期における本人意思の尊重を考える議員連盟」の増子輝彦参院議員が語る。 「あくまで本人が尊厳ある死を選択できるように、と。本人の意思が第一です。リビング・ウイルを提出し、主治医とそれに準ずる医師、2人以上の同意が必要だと、法案作成に関して内閣法制局と何度も議論しました。死生観は個人の問題だから、法律を当てはめるのはけしからんという意見もありますが、静かに尊厳ある死を迎えようとする人の意見も尊重すべきであると私は考えます」  もちろん、こうした法制化に対しても、ALSの患者などは、「難病患者や障害者の生命を脅かす」などとして反対している。緩和ケアなどの充実が先とする意見や、延命措置を中止するかどうかを法律で規定すべきではない、という医師や学者も多い。  法が整っていても解決する問題でもない。  消極的安楽死が認められているフランスで19年7月、交通事故で全身まひになり10年以上になる男性が、延命措置の停止により死去した。男性の妻は13年以降、延命の停止を訴え続けてきたが、男性の母は「息子は終末期でもないし植物状態でもない」と主張。そのため尊厳死の肯定派と否定派が激しく争う事態となったのだ。  一人ひとりが家族と話し合うことが大切だと説くのは、早期緩和ケア大津秀一クリニック院長で、『死ぬときに後悔すること25』などの著書がある大津秀一氏だ。  大津氏は、脳梗塞(こうそく)で倒れた70代の男性が、半身まひと失語の後遺症が残り、認知機能も低下、本人の意思を正しく確認することが難しい状況になったことを例に挙げる。 「お子さんには何度か『俺は、人らしい生活ができなくなったら、何もしなくていい』と言ったことがありました。彼は嚥下(えんげ)機能障害が深刻で、胃ろうなどの栄養法を行うことが医学的には良いと考えられましたが、そこで息子と娘とで意見が割れました」  息子は「人らしい生活ができなくなったら」という言葉から、望んでいないのではないか、と。一方、娘は、さすがに何ら栄養を摂取しなくて良い、積極的に死にたいとまでの意思ではないのではないか、との考えだったという。 「人の終末期にどこまで治療を行うのが良いかは難しい問題です。自分にとっての尊厳死というものについて、家族や周囲の人とよく話し合い、自分の望む最後の姿について明らかにし共有しておくことが大切です」  終活がブームとなっているが、まずは死そのものについても考えてみる必要がある。(本誌・鮎川哲也、菊地武顕、秦正理)※週刊朝日  2021年12月10日号
「富士山に見守られながら暮らしている」ささやかな幸せを作品に写し込む写真家・鈴木賢武
「富士山に見守られながら暮らしている」ささやかな幸せを作品に写し込む写真家・鈴木賢武 撮影:鈴木賢武  写真家・鈴木賢武さんの作品展「きょうもお山が見える」が12月7日から東京・新宿のニコンプラザ東京 ニコンサロンで開催される。鈴木さんに聞いた。 *   *   * 鈴木さんは日々の暮らしのなかで富士山が見えると、ささやかな幸せを感じるという。 「富士山は自分が見ると同時に、向こうからも自分が見られているんじゃないか、と思うんです。富士山に見守られながら暮らしているというか、そんな感じがします」  静岡市の中心部、駿府城公園から北に伸びる尾根の裾野には今川家の菩提(ぼだい)寺で、竹千代時代の徳川家康が人質として預けられていた臨済寺がある。  そこからさらに北へ2キロほど離れた岳美地区に鈴木さん夫妻が終の棲家を建てたのは25年ほど前。 「2人とも清水市(現静岡市清水区)の出身で、富士山を見て育ったものですから、『富士山が見えるところに住みたいね』って、ここに家を建てたんです」 撮影:鈴木賢武 ■富士山とともに生活してきた  毎朝、鈴木さんは家の屋上に上がり、低い山の連なりの向こうに見える富士山を向いて一礼する。晴れた日も、曇りの日も、あいさつを欠かさない。 「今日は見えるよ」と、妻に報告してから朝食の箸をとる。  カメラを持って散歩に出かけるのは朝食の後と、夕食の前の1時間ほど。 「歩くのは家から半径3キロくらい。今日は東に行こうか、西にいこうか、という感じで、その日の気分で道順を変えて、よほどの雨でないかぎり、毎日歩きます」  鈴木さんが引っ越してきた当時、岳美地区は新興住宅地だった。 「今川さんのころ、このあたりは全部、沼だったと思うんです」  かつての麻機(あさばた)沼の名残で、周囲には名産の「麻機レンコン」をつくるハス沼が点在する。  そんな新興の土地で住民は「今日はよく見えるね」「真っ白だね」と、あいさつ代わりに富士山の姿を口にする。 「振り返ってみますと、私と富士山との付き合いは、生まれたときからで、生きる支えとして肉親や友だちのように、いっしょに生活してきた気がします。会社員だったころ、転勤で静岡を離れたとき、富士山が恋しくて、何度、帰りたいと思ったか、わかりません」 撮影:鈴木賢武 ■始まりは「やさしい写真教室」  鈴木さんが写真を撮り始めたのは1996年、56歳のときだった。 「若いころは実業団のバスケットボールの選手だったんですよ。写真は家族の記念写真くらいしか撮っていなかった」  そんな鈴木さんが写真を始めたきっかけは、近づいてきた定年だった。 「定年後は毎朝、散歩をしようと考えたとき、手ぶらでは面白くないので、カメラでも持って歩こうと思ったんです」  そんな軽い気持ちで地元の「やさしい写真教室」に参加した。 「木村仲久さんという方が講師を務めていて、そこで3カ月ほど写真を学びました」  静岡県は全国的にもアマチュア写真家の活動が盛んな地域で、実力のあるリーダーが写真クラブを立ち上げ、活動を引っぱっていた。木村さんもその一人だった。  鈴木さんは木村さんが主宰する写真クラブの一員となり、カメラ誌の月例写真コンテストに応募して腕を磨いた。 撮影:鈴木賢武  実は、筆者は「アサヒカメラ」の編集部員時代から鈴木さんの作品を見続けてきた。  鈴木さんの作品は、日常目にする何げないものを写しただけなのに、それが何か不思議なもののように見え、強く印象に残った。  入選者の常連となった鈴木さんは月例写真コンテストのなかでも特に強豪が競う「組み写真」の部で、2004年度賞1位を受賞する。 「私が撮ったのは、ほかの人に『えっ、そんなものを撮るの?』と、言われるようなものだったんです。何でもない石ころにもなんとなく愛着を覚えて、『あなたも生きているね』という感じでレンズを向ける。そんなことを人に言うと、笑われるんですけれど、自分としては、それが面白いんです」 ■富士山を「お山」とした理由  ところが、8年ほど前から鈴木さんはコンテストの写真から距離を置き始める。 「コンテストに入選するために撮っていると、どうしても、何かを見つけて撮ろう、という意識が強くなってしまった」  そんな気持ちを当時「アサヒカメラ」でコンテストの選者を務めていた写真家・宮嶋康彦さんに相談した。 「そうしたら、『もっと身近なものを素直に撮ったらどうですか』と、アドバイスされたんです。それから、自分の目に、ぱっと映ったものをありのままに撮る、というふうに切り替えた。それで、いまのような写真になったんです」 撮影:鈴木賢武  鈴木さんの「ご近所シリーズ」は今回で3作目。  前作の「沼の婆さんの言い伝え」(18年、ニコンサロン)では、麻機沼にまつわる伝説に、いまの風景を写して重ね合わせた。  以前から富士山は時おり写していたが、この個展の終了後、富士山にテーマを絞った。 「今回は『お山』を中心にした、ささやかな幸せ、そんなものを表現したいと思って」  タイトルを「富士山」ではなく、「お山」とした理由をたずねると、「『富士山』とすると、重すぎちゃう、というか、威厳がありすぎちゃう」と、説明する。 「身近に感じる『お山』だから、ちらっと見えたときは、うれしいんですよ。今日はなんかいいことがありそう、とか思っちゃう。そんな気持ちになるんです」 撮影:鈴木賢武 ■富士山は見えなくてもそこにある  作品に写るランドセルを背負う子どもたち。横断歩道を渡るその姿の向こうに小さく富士のお山が見える。立ち並ぶ真新しい住宅の屋根の上や、工事現場のパーショベルの奥にも白い山がそびえている。  一方、富士山が写っていない写真もある。新静岡と新清水を結ぶ静岡鉄道の駅を降りる人々を西日が照らしている。 「晴れた日はここから電車の上に富士山がちょこっと見えるんですよ。でも、この日は雲がたくさんで見えなかった。でも、この写真がいいな、と思って」  すっぽりと霧に覆われた水田のなかの道を自転車通学する中学生たちを写した写真もある。 「富士山が雲で見えなくても、山の姿はその向こう側にあります。お星さまは昼間の空には見えないけれど、そこにある。それと同じ。曇りの日でも(ああ、あそこに富士山があるな)と思って撮れば、撮れないことはないんじゃないかと思うんです」  展示作品は基本的にカラーだが、2枚だけモノクロ写真が混じっている。 「富士山がバックに大きく写っているのは、私が20代のころの写真。もう1枚は、松林で有名な清水の三保で生まれ育った妻の中学時代の記念写真。まあ、私たちの富士山との関わりという意味もあって入れたんです。夫婦で1枚ずつ」 ■お山が見える場所に眠りたい  鈴木さんは81歳。この世を離れるとき、思い浮かぶ風景について、写真展案内に書いている。 <低山の連なりとその稜線の向こうに見える富士の嶺が、まなこの裏に懐かしい気持ちで浮き立つのではないだろうか>  そして、文章をこう結んでいる。 <「お山が見える場所に眠りたいわね」。妻の希望である> (アサヒカメラ 米倉昭仁) 【MEMO】鈴木賢武写真展「きょうもお山が見える」ニコンプラザ東京 ニコンサロン 12月7日~12月20日
草間彌生がイスラエル人に大人気の3つの理由
草間彌生がイスラエル人に大人気の3つの理由 Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)  イスラエルのニシム・オトマズキン教授によるコラム「金閣寺を60回訪れたイスラエル人教授の“ニッポン学”」。今回は、イスラエルで人気の草間彌生について。 *  *  *  11月15日から、イスラエルのテルアビブ美術館で、日本のアーティスト、草間彌生(92)による展覧会が始まりました。コロナの流行以来、最大となるこの展覧会は来年4月まで続きます。すでに10万枚以上のチケットが売り切れています。 過去にイスラエルの美術館で、これほどの人が押し寄せたのはいつだったか、思い出すことができません。  草間彌生の作品を一堂に集めたこの展覧会では、これまでに展示されたことのないものを含む200点以上の作品が見られます。また、彼女のカラフルな水玉作品を展示したミラールームも4つあり、観覧者が写真を撮り大人気のようです。  草間彌生がこれほど人々を夢中にさせる理由は何なのでしょう? なぜ、イスラエルの人々は日本の現代アートに興味を持っているのでしょうか?  一つには、多くの中産階級のイスラエル人が日本に興味を持っているということがあります。コロナが発生するまで、日本はイスラエル人観光客のお気に入りの旅先でしたし、テルアビブ―成田間の直行便も開通されようとしていました。イスラエルの若者の多くは日本のアニメや漫画が好きで、日本に対して全般的に良いイメージがあります。また、ホロコースト時代に、ユダヤ難民がヨーロッパから逃れる際に彼らにビザを発行した日本の外交官、杉原千畝の名前は、おそらく全てのイスラエル人に知られています。  二つ目の理由に、草間彌生という人の生きざま、特に彼女が人生で経験した困難が、彼女の作品に対する大きな共感を生み出しているということがあります。 彼女の特異な生きざまに、多くのイスラエル人が共感を覚えるのです。彼女は幼いころから幻聴や幻覚に苦しんでいます。彼女の作品には無数の水玉が描かれますが、これは彼女が小さい頃から執拗に描いてきたモチーフです。彼女は幻覚や幻聴を描くことでアートの世界に入ったのでした。この有名な水玉は彼女が恐れる幻覚や幻聴から身を守るものだと言われています。大変だった幼少期と人生の困難を克服し、彼女は世界で最も有名な現代アーティストの一人になりました。 テルアビブ美術館の草間彌生展(ニシム・オトマズキン提供)  草間彌生は、いわゆる日本女性のイメージとはかけ離れた存在です。1929(昭和4)年に長野県松本市で生まれ、京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)などで日本画の訓練を受けた彼女は、間もなくアヴァンギャルドやプロテスト・アートに熱中します。西洋で有名なもう一人の日本人アーティスト、ヨーコ・オノと同じように、 彼女は男性中心のタフなアートの世界で自らの道を切り開いたのでした。これは欧米人の多くが日本女性に対して抱く「良妻賢母」のイメージとは大きく異なります。  彼女は若い頃から、世界的なアートの力関係に挑むことを決めていました。1957年に渡米。ニューヨークでの個展が話題となり、絵画だけでなくインスタレーションや過激なパフォーマンスも行いました。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレには招待されず、自主的にゲリラ参加を決行し、メイン会場の外で作品を展示しました。しかも、彼女はビエンナーレの警備員に追い出されるまで、1500個の銀色の球体でできた自らの作品の一部を観覧者に売ることさえしていたのです。  彼女はニューヨークを本格的な活動拠点にしましたが、そこには頑迷なギャラリーや美術館との大変な「戦い」が待ち受けていました。ニューヨークでは、同性愛者の結婚をめぐる闘いや、ベトナム戦争など、当時の政治的・社会的闘争と相まって彼女の作品が有名になりました。彼女が「前衛の女王」と呼ばれたのもこの頃です。このような不屈の精神や、形式にとらわれない態度をイディッシュ語では「フツパ」と言いますが、これは多くのイスラエル人が高く評価する心意気です。  最後の理由として、草間彌生の芸術は、有名な日本の「わびさび」美学とはかけ離れていることが挙げられます。欧米で大成功を収めている日本の建築や禅的志向の芸術は、ほとんどがシンプルな黒、白、グレーを前面に押し出したものですが、彌生作品はカラフルで楽しい。イスラエルの子どもたちにアートを教えている私の姉のナオミは、草間彌生のアートを見た子どもたちが笑顔になったと言っています。姉の話では、色彩に溢れ、想像力をかき立てる絵であることが、子どもたちに彌生作品が好かれる理由だということです。  数年前にナオミが日本に遊びに来たとき、どうしても彌生の作品を見に行きたいと言うので、私たちは彌生の故郷にある松本市美術館を訪れました。そして来月、私は再び姉と一緒にテルアビブの展覧会を見に行きます。 ○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレム・ヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレム・ヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。
偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生
偏差値38、文系卒だった会社員が29歳で国立大医学部へ 心臓外科医になるまでの半生 菊名記念病院・心臓血管外科部長の奈良原裕医師 (撮影/写真部・張溢文) 「会社の上司ではなく、目の前にいる人のためになる仕事をしたい」――私立大文系卒の営業職だった27歳男性が、仕事に疑問を感じてめざしたのは医師だった。現在、神奈川県横浜市の菊名記念病院で心臓血管外科部長を務める奈良原裕医師(51)。大手企業での安定を捨て、1年半の浪人生活で会社員時代の蓄えをほぼ使い切り、29歳で高知大医学部に合格。6年間の勉強の末に医師免許を手にした後も、年齢的に厳しいとされる30代後半で心臓血管外科医の道を選んだ。奈良原医師はどのような思いで勉強をしてきたのか。その半生を語ってもらった。<<後編・1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは>>に続く *  *  * 私は中央大学法学部を卒業後、石油会社に勤めていました。医師になる道を考え始めたのは社会人4年目になったころです。東京・品川のオフィスで深夜11時ごろに残業を終えた私は、同期と一緒に近くの牛丼屋に入りました。そのカウンターで、「医者になりたいな」という言葉がポロッとこぼれたのです。  仕事は評価されていました。任された業務の範囲は広く、支店長室のソファをベッド代わりにして何日も会社に寝泊まりしていました。上司からは一番上の評価をもらっていたと聞いています。けれども、そんなワーカホリックな日々の中で、いかに上司から褒められるかを目標にする生き方に、次第に違和感を覚えるようになりました。  石油は社会や経済を支える基盤となる重要なエネルギーです。もちろん、それを取り扱う仕事の社会的使命はとても大きい。しかしその一方で、自分がやっているのは、目の前のお客さんに少しでも高い金額を提示して商品を販売し、利益を出すということでした。自分の目の前にいる人ではなく、自分の後ろにいる、自分を評価する人の方向を見て仕事をしていることに、疑問をもち始めたのです。  結局自分は、中学・高校生時代にやっていたことを繰り返しているのだと思いました。学生時代は一生懸命勉強しました。でもなぜ数学の公式を使えるようにならなければならないのか、なぜ歴史を覚えなければならないのか、その理由までは考えなかった。仕事も同じでした。意味や背景まではそこまで深く考えず、とにかくやっていた。大学では法学部に進みましたが、付属校時代に勉強した結果として偏差値の高い学部に内部進学できたというだけで、法律の勉強をしたいという気持ちからではありませんでした。その延長戦が社会に出てからもずっと続いていたのです。 退職して最初に受けた模試の結果。物理は100点満点で4点、数学の偏差値は37.9だった (写真提供/奈良原医師)  それでも自分は間違ってはいないと思っていました。しかし、そんな毎日が続いていたある日、兄が自殺しました。その理由を私はまったくわかりませんでした。というよりも、兄のことが何もわかっていませんでした。いや、兄だけでなく父、母、祖母のことも。目の前の一番大切な家族のことを気にしない生き方になっていること気がつき、27歳の9月、新卒で4年半勤めた三菱石油(現ENEOS株式会社)を退職しました。  目の前の人のためになるような、そんな仕事をしたいと思いました。そこで行き着いたのが医療従事者です。医師、看護師、介護士……そのなかでも指揮官である医師をめざしました。学費が比較的かからない国立大の医学部を目標にして予備校に入ったのですが、私が置かれたのは8クラスあるうち下から2番目のクラスで、国立の医学部に受かる人はほぼいないと言われていました。 ■模試は「E判定」、偏差値は38  そもそも私は付属校からの内部進学組だったので、受験というものを知りませんでした。過去に大学受験をしたことのない社会人からすると、センター試験の出願の仕方すらわかりません。また、学校の教科書も持っていないので、出題範囲もまったくわからない。まず大学受験の仕組みを知るのに3、4カ月はかかったと思います。  10月に受けた模試は当然E判定。数学の偏差値は38。その年の受験は、センター試験も6割程度しか得点できず、医学部には箸にも棒にも掛からぬ結果でした。そこからまた浪人生活が始まりました。ただ、受験は2回までにしようと思っていました。1年間かけて受からなかったら医師はあきらめて、別の医療従事者をめざそうと思っていました。  後にも先にも、この時が一番勉強したと思います。会社員時代はデータを使って顧客分析や商圏分析をしていたので、それにならって受験勉強も分析していました。細かい勉強計画表を作り、どの科目を何時間勉強したのか、1週間ごとに計画と実績の差をチェックしていました。 浪人中の勉強計画表。科目別の勉強時間を毎日記し、週末に「計画」と「実績」の差を出し達成度を測っていた  部屋中には物理の公式や化学式などを書いた紙を貼っていました。トイレにも貼って、そこにこもって暗記をしたり。勉強は受験に向けて追い上げていくといったものではなく、最初から限界ぎりぎりのスケジュールで取り組んでいました。集中力を保ちながら勉強できるのは一日最大16時間。これを続けるのは本当に大変でした。当時のノートを見ると、文字がびっしり書かれていて、ちょっと狂気じみているようにも感じます。  同棲していた妻は、ピリピリしていた私を横目にいつも長いコードの付いたヘッドホンをしてテレビを見ていました。お笑い番組を見ながら、私の勉強を妨げないように笑いを押し殺していたのを覚えています。妻とは会社を辞めて医学部浪人を始めると決めたころに付き合い始めました。よくそんな人と付き合ったものですね(笑)。  志望校は高知大医学部に決めました。一番の理由は学力的に合格が狙えそうだったからですが、理由はそれ以外にもありました。予備校の友人の兄が高知大医学部出身で、新聞販売店に住み込みで働きながら勉強して合格したというのです。その話に感銘を受け、第1志望が決まりました。 ■「受かるまで外さない」つけた腕時計  浪人中はずっと、トライアスロンの人がよく使っているタイマー機能付きの腕時計をつけていました。お風呂や休憩も時間を区切るために、「受かるまで外さない」と決めたのです。当時27、8歳で、10個下の現役高校生よりはメンタルも落ち着いている。そんな私が重い決意で勉強をすれば受かるはずだ、という妙な自信がありました。  しかし模試は最後までE判定で、これで医学部に受かるのは奇跡でした。ところがその年のセンター試験は数学が難化したり、難解な現代文で大量失点する人が出たりして「荒れた」のです。その結果、8割ちょっとの得点でなんとかボーダーラインを超えることができました。2次試験を受験し、妻と一緒に合格の通知を受け取ったときは、正直、信じられませんでした。何か採点ミスなどが発覚して、合格が取り消されるのではないか……医学部合格から22年が経ち手術を執刀している今ですら、そう思うことがあります。  4月からはすぐに高知での生活となるため、アパートや中古車などを1日で準備しました。妻は高知についていくことになんのためらいもなかったようです。その後、学部1年生の時に結婚することになりました。 「開心術(心臓手術)の緊迫感は自分でも驚くほどの集中力を発揮させてくれます。開始から初めて顔を上げたら3時間半経過していたことも」(写真提供/奈良原医師)  高知大の医学部には他に再受験生が2人いましたが、私が一番年上でした。でも基本的には、ごく普通に周りの同級生と同じように過ごしていました。空手道部に入りましたが、中では当然、先輩後輩の関係がありました。会社員時代の蓄えは受験生時代に底を突きかけていたため、朝は新聞配達のアルバイトをし、学校に行って勉強や解剖の実習をし、夕方は酒屋さんで配達のアルバイトをしていました。妻も喫茶店でアルバイトをしていました。  進級試験、卒業試験、そしてそのあとの医師国家試験など、勉強は1回目の大学時代よりずっと大変だったと思います。しかし、仕事を辞めて挑戦した医学部受験のときのほうがもっと大変でした。  研修医としての2年間も楽しく過ごしました。目の前にいる患者さんに感謝されるのは本当にうれしいですね。当時、主治医として診療に当たっていた患者さんのなかには、いまでも年賀状やお手紙をやりとりしている人もいます。外科の後期研修医として行った横浜の病院も、1年だけではありましたが思い出深いものでした。 ■「30歳以下が望ましい」心臓血管外科に転身  医学部時代、私が一番好きだったのは心臓手術だったので、心臓血管外科医をめざしました。しかし日本心臓血管外科学会では、心臓血管外科医になるのは30歳以下が望ましいと言われています。体力的な問題もありますし、比較的、一人前になるまでの階段が長いという要因もあると思います。そのため、一度は心臓血管外科医をあきらめました。しかし外科の後期研修をしていく中で、その気持ちが抑えられず、研修先の病院を変えました。  38歳だった私は、現役医学部生から心臓血管外科医になった人と比べると10歳も年上ですが、上司は私を現役同様の新人として扱ってくれました。これまでの経験が生かせる職場ではまったくなかったので、教えを請う立場であることをわきまえるのは極めて大切なことだと思っています。  実は、会社を辞めて医師をめざすときも、研修医後に外科へ進むときも、そして心臓血管外科医を目指すときもすべて、家族・友人・知人の皆に反対されました。今さらそんなこと出来るわけがないだろうと思われたのだと思います。私はこれまで、みんなが右を向いたら右を、左を向いたら左を、少しでも早く向こうとする人間でした。でもあるときから、人が右を向こうと左を向こうと自分の見たい方向を見るようになりました。会社を辞めて、医師をめざそうと思ったところが、人生の転換点だったように思えます。 (構成/白石圭) <<後編・1年に3日しか休めなかった心臓外科医が、働き方も診療の質も劇的に改善させた「業務改革」とは>>に続く
ポールが涙目で口にした「ビートルズ解散」と最後の挨拶
ポールが涙目で口にした「ビートルズ解散」と最後の挨拶 デビュー時(奥)と、1969年5月(手前)の4人。どちらもロンドンのEMI本社で撮影されたものだ。ドキュメンタリー作品「ザ・ビートルズ:Get Back」はディズニープラスにて全3話を独占配信中。加入すればいつでも好きな時間に視聴できる (c)2021 Disney (c)2020 Apple Corps Ltd.  ドキュメンタリー作品「ザ・ビートルズ:Get Back」3部作の配信が、11月25日からディズニープラスで始まった。一足先に視聴したビートルズファン歴45年のライターが、レビューする。 *  *  *  50年前の出来事を、当時撮影した映像を編集してよみがえらせた計3部、8時間の大長編が、こんなにスリリングなドキュメンタリーになるなんて、やはりザ・ビートルズのマジックなのだろうか。  ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター。英リバプール出身の若者4人で結成され、1962年にレコードデビュー、自作自演の斬新な楽曲と言動でポピュラー音楽の歴史を変えた奇跡のバンド。70年4月に解散したが、半世紀たつ今も、怪物的な人気を持つ。  ことの始まりは、妻のシンシアと別れヨーコ・オノと愛し合うようになったジョンのソロ活動がバンドの枠を越え、「解散説」が飛び交うほど活発化、それにポールが危機感を持ったことだった。「ヘイ・ジュード」のプロモーションビデオを制作したマイケル・リンゼイ=ホッグ監督と組み、69年1月18日にビートルズが新曲を披露するテレビショーを企画、新曲を練り上げる様子も盛り込むことにし、撮影班がスタジオでメンバーに密着することになった。  セッションは69年1月2日に始まり、テレビショーはジョージの大反対で中止されたものの、撮影は最終日の31日まで続けられた。「ゲット・バック」「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」などのリハーサルやレコーディングを撮影した映像は57時間、音源は150時間。これを素材にリンゼイ=ホッグ監督がつくったのが70年5月公開の映画「レット・イット・ビー」(80分)だ。 「ロード・オブ・ザ・リング」で米アカデミー賞を受賞した、筋金入りのビートルズファンであるピーター・ジャクソン監督が、この膨大な映像と音源を使って新たに編集したのが今回の「ザ・ビートルズ:Get Back」である。前の映画「レット・イット・ビー」の映像はほとんど使われていないようだ。 撮影は、1969年1月2~31日のうち、休日やセッションの中断を除く22日間に及んだ (c)2021 Apple Corps Ltd. All Rights Reserved.  前書きが長くなったが、ビートルズものの本や映像をあさってきた長年のファンとしては、「こんな宝の山が残されていたのか」と驚きだ。  順調にスタートしたかに見えたセッションだったが、映画撮影用のスタジオで朝から新曲に取り組むことになったジョンやジョージは不満を募らせる。セッション3日目の4日、ギターの弾き方を指示するポールにジョージが激怒、「君が弾けというようにやるさ、弾くなというならプレイしない」と怒りをぶつけた。10日には、自分の曲がまともに取り上げられないことなど積年の不満が爆発、スタジオを飛び出してしまう。  ジョンは「ジョージが戻らないならエリック・クラプトンを後釜に入れようぜ」と皮肉るが、4人がそろってこそのビートルズ。だが週末にジョージの家で行われた話し合いもうまくいかなかった。  ジョンとポールの心のうちが赤裸々に描かれる。  13日、ポールはジョン不在のスタジオで、リンゴや恋人リンダ(2カ月後に結婚)、リンゼイ=ホッグや親しいスタッフらに疲れた様子で語りだす。グループそっちのけで、スタジオでも片時も離れないジョンとヨーコのことだ。 「ジョンはヨーコとずっと一緒にいたいんだ。ヨーコとビートルズのどちらを取るかと迫ればジョンは彼女を選ぶだろう」  ツアーでいつも一緒だった時代はジョンと曲を熱心に共作していたが、ツアーをやめて離れて暮らすようになると、親密さが失われたとポールは言う。 「ジョンとヨーコはやりすぎだが、もともとジョンは極端だろ。分別を取り戻せと言っても無駄さ。口をはさむことじゃない。たぶん僕らには(規律を正してくれる)父親のようなまとめ役が必要なんだ」  テレビショーは延期したいというポールは、ショーの新たなアイデアとして、ビートルズの曲の合間に最新のニュースを放送することにし、最後に「ビートルズ解散」を速報で流すのはどうかと言って笑った。  ポールは目を潤ませていた。  ジョンが電話に出ているというので、ポールは席を立った。 かつて見たことのない、半世紀ぶりによみがえる4人の姿に心が震える (c)1969 Paul McCartney. Photo by Linda McCartney.  その日(1月13日)の昼食時、スタジオに遅れて来たジョンは、食堂でポールと二人だけで話す。映像はないが、花瓶に録音マイクが仕掛けられていた。  ジョンが舌鋒鋭く言う。 「ジョージは(ビートルズでは)満足感が得られないと言っている。僕らが彼の傷が膿むのに任せ、さらに傷つけたからだ」 「君は僕にも指示する。後悔してるのは、君が曲を違う方向にもっていくのを許したりしたことだ」  それに対しポールは、 「そこが問題なんだ。君は自分の曲で指示できる時も何も言わない」  と反論。  ジョン「君の提案を断る自由をくれ。いい提案は頂くから。曲のアレンジもそうだ。嫌なんだ。うまく言えないが」「君はポール様だからな。正しいときもあるが、間違える時もあった。みんなも同様だ。もうビートルズはただの仕事になっちまった」  ポール「僕はジョージが戻ってくると思う。もし戻らなければ新たな問題発生だ。年を取れば、みんなで歌えるさ」  2人はまたジョージと話し合うことにし、15日に会合を持った。ジョージはテレビショーの中止とアルバム制作を復帰の条件に挙げ、他のメンバーはそれを受け入れた。  このころ、ジョンがひどいヘロイン依存になっていたことが、今では知られている。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンらロック史に残る多くの面々が薬物で命を落とした。薬物が原因かはわからないが、ジョンがカメラの前でおかしな言動(「マスターベーションをやれば近視になる」などと口走る)を見せ、ポールがハラハラした様子で「君はまともじゃないぞ」とささやく場面も。  もともとビートルズの実質的なリーダーはジョンだった。ジョンはポールより二つ、ジョージより三つ年上(最年長のリンゴはデビュー直前に加入)で、10代半ばのジョンのバンドにまずポールが、次にジョージが入り、バンドとして整っていく。ビートルズと名付けたのもジョン。下積み時代、 「俺たちはどこまで行くんだ?」  とジョンが叫ぶと、 「トップのトップだよ、ジョニー」 とポールやジョージが応じて励まし合った。何と言ってもジョンは頼れる兄貴分だったのだ。デビュー初期はジョン主導で作られた曲や、ロック歌手として抜群の力を見せつけた曲が多かった。  ところが中期になると弟分のポールが才能を開花させ、一方でジョンは曲作りに苦しむようになる。後期のシングルの大半はポールの曲で、69年1月のこの映像でも、スタジオに来たポールが毎日のように新しい珠玉の楽曲の数々をピアノで披露している。この時期、彼は質量ともに恐ろしいほどの、創作力の絶頂にあったのだ。 伝説として名高いアップルビル屋上でのライブ。ビートルズ最後のライブ・パフォーマンス (c)2021 Apple Corps Ltd. All Rights Reserved.  何より音楽が好きなキュートな仕事師と、その思うようにやりたがる傾向を押しつけがましいと感じるようになったカリスマ的兄貴分。二人の関係は強いきずなで結ばれつつも、微妙で難しい水位に達していたのだ。  20日、ビートルズはだだっ広くて寒そうだった映画撮影スタジオを離れ、本拠地アップルビルの地下スタジオに移り、レコーディングに着手する。バンドは一気に活気づき、ジョンのはつらつぶりは見違えるようだ。メンバー個人が作ってきた曲がスタジオに持ち込まれ、みんなでやりとりしながら歌詞やメロディーを仕上げていく。見ているだけで心躍る光景だ。  自分の意見を通して復帰したジョージも積極的に関わる。28日、自身の代名詞となる名曲「サムシング」を披露。思いつかなくて半年も苦労しているという歌詞の一部をジョンとポールに相談した。29日にはジョンに、 「曲がたくさんできたので、ソロアルバムを出したい。ビートルズとしての活動も、その方がやりやすくなる」  と意欲を伝えた。ソングライターとして大きく開花しようとしていたジョージ。ジョンとポールの弟分に甘んじることは難しかったようにも思える。  グループ解散に決定的な影響を及ぼす人物の影を、ピーター・ジャクソンの編集は忘れない。ニューヨークのビジネスマン、アラン・クライン。22日夜に会い、深夜まで語り合ったジョンはクラインにほれこみ、28日、「本当にすごい男だ」とジョージに伝える。「これからクラインが来るぞ」とジョンはワクワクしている。  29日、現場でセッションを仕切った一人、グリン・ジョンズがジョンとヨーコに「クラインは頭がいいが変わった男」なので警戒するようアドバイスするが、ジョンは沈黙。後にセッションの音源を素材にジョンズがつくったアルバム「ゲット・バック」が2度にわたり棚上げされたのも、このときのことが影響したのではないかとの説もある。  クラインは5月、ビートルズのビジネス管理を担う契約を結び、ビートルズの会社アップルの経営を事実上握る。ただ一人拒否したポールは孤立し、グループは修復困難な内紛に突入していくのだ。  8時間のドキュメンタリーは、1月30日のアップルビル屋上でのライブ演奏でクライマックスに達する。42分間、ノーカットで4人の姿を見ることができる。それまでの不和や対立、争いの数々も、すべて洗い流したような(そんなことはないだろうが)圧倒的なパフォーマンス。年季の入ったビートルズファンなら、 「生きててよかった」  と思わずにはいられまい。目と目を見合わせ、ニヤッとうなずき合うジョンとポール。見ているこっちもうれしくなってくる。  ドキュメンタリーの終わり、ジョンが「おやすみ、ポール」と声をかけると、ポールが「おやすみ、ジョン」と返す。別なカットを組み合わせて構成されたこのシーン、不世出の奇跡のバンドをけん引した二人への敬意と愛情を、ピーター・ジャクソンが表しているかのようだ。  ワイングラスを手に微笑むジョージの映像も。ジョンとジョージはもうこの世にいない。(ライター・小北清人) ※AERAオンライン限定記事
過去への感謝と将来の希望と共に 大切な人へ思いを込めた贈り物を
【PR】過去への感謝と将来の希望と共に 大切な人へ思いを込めた贈り物を 43mmの大型ケースに“タキメーター”“テレメーター”“パルスメーター”のクロノグラフの3機能を集約させた「スピードマスター クロノスコープ」。1940〜50年代のクロノグラフに多く見られる古典的な“スネイル(巻き貝)”と呼ばれる渦巻き形のスケールが特徴 人生における節目の時に、人は感謝と希望を込めて贈り物をする。誕生日や結婚記念日、あるいは入学、入社、転職等、人生に何度か訪れる記念すべき通過点の時だ。花などささやかな贈り物もあるが、ここぞという時にはやはり真心を込めた逸品を贈るのが、人生に美しい思い出を残すだろう。時代は移っても感謝という人の気持ちだけは変わらない。その真心を表すささやかな提案をオメガからお届けする。 ■あなたが選ぶ“賢者の贈り物”とは?  オー・ヘンリー作の『賢者の贈り物』といえば、贈り物をテーマにした小説では有名な作品。これは貧しい夫妻がそれぞれ相手には秘密にしながら、愛する人への贈り物を工面する愛情物語だ。相手が一番大切にしているものに花を添えようと、貧しいが故に苦肉の選択をして求めた贈り物とは? この結末が、すれ違いの悲しさ以上に夫妻の愛情の深さを知る名作。  決して大げさな表現ではなく、洋の東西を問わず自分自身の思い出や他者への感謝を込めた贈り物の筆頭に上がるのが時計である。例えば前者では、退役軍人が一堂に会する記念式典に、多くの元軍人が制服と共に記念の金時計を着用したものだ、とは今は故人となったスイスのある時計会社の会長から昔聞いた話である。21世紀になっても令和の時代に入っても、時計という存在は贈り物には最高の選択肢なのではないだろうか。 ■時計を普通の人々へもたらしたオメガ  1848年に創立したオメガの数多くある功績のひとつは、それ以前ではごく一部の特権階級の所有物であった時計を一般の人々にもたらしたことである。精確・高品位な時計をシステム化された工場で大量生産することで製造コストを下げ、よって普通の人々が購入可能なまでに時計の大衆化をもたらした。彼らにとって入手可能な存在になったことで、時計は贈り物としての最高の地位が与えられた。20世紀初頭のアールデコ時代のオメガの広告を見ると、“精確な時計をエレガントに贈りましょう(DONNE ÉLÉGAMMENT L’HEURE EXACTE)”というキャッチコピーが見られる。 ■人生の時を刻む伴侶としての時計  1932年のロサンゼルス・オリンピックで初めて公式計時を担当したオメガは、すでにこの時、懐中時計型の大型スプリットセコンド・クロノグラフを用意。また1942年には現代のスピードマスター プロフェッショナルへと続くクロノグラフ・ムーブメント、Cal.27 CHROを開発する。このような歴史を築いたオメガから贈り物を選ぶとすれば、やはりクロノグラフが真っ先に思い浮かぶ。 スピードマスター クロノスコープ[左]マスター クロノメーター取得の新型ムーブメントCal.9908搭載(他2モデル共通)。シルバーとブルーのコントラストが爽やかな印象を与えるモデル。ステンレススティールケース、ケース径43mm、50m防水、手巻き、Cal.9908。979,000円(税込み)[中]メインダイヤルに深みのあるブルーを採用。ブレスレットのバックルは2.3mmまで2段階の調整可能。ステンレススティールケース、ケース径43mm、50m防水、手巻き、Cal.9908。1,023,000円(税込み)[右]オメガ開発の唯一無二のブロンズ合金をケースに採用し、そこに酸化処理で特別な風合いに仕上げたブロンズダイヤルを組み合わせたモデル。ブロンズゴールドケース、ケース径43mm、50m防水、手巻き、Cal.9908。1,661,000円(税込み) 「スピードマスター クロノスコープ」は時間を意味する“クロノス(Chronos)”と、観察を意味する“スコープ(Scope)”から成る造語。特徴は代表的な三つのクロノグラフ機能、“タキメーター”“テレメーター”“パルスメーター”をひとつに集約した点にある。走行距離を元に速度(特定の2地点間の平均移動速度)を計測するタキメーターはアルミニウム製ベゼルに、現地点と目視かつ可聴できる対象物(雷など)との距離を計測するテレメーターはダイヤル中央部の外周に、その内周部の簡易脈拍計であるパルスメーターは脈拍30回目の指針先を見れば1分間の脈拍数が計測できる機能だ。ムーブメントはスイス連邦計量・認定局(METAS)の厳格なテストに合格した、新型の手巻きコーアクシャル マスター クロノメーターCal.9908を搭載。記念の品としては最良の選択だろう。 ■華やかな時の演出者としての時計  オメガはレディスウォッチにおいても先駆者であり、その製造は1902年に始まる。特に腕時計の量産化が始まった20世紀初頭、1920〜30年代のアールデコ時代に華やかさを増した。当時のカタログには時代の流行である幾何学的なレクタンギュラー(角型)モデルが、紳士用腕時計と共に多数掲載。“The perfect gift(完璧な贈り物)”のキャッチコピーに当時の勢いがうかがえる。 オメガが開発した18Kムーンシャイン™ゴールドは、従来のイエローゴールドをより淡く仕上げた控えめな風合いで、経年変化による退色も起きにくい。ホワイトラバーストラップを備えた「トレゾア」の36mmケースは、華やかさの中にも可憐さと清楚さを兼ねた気品ある一本  オメガに“トレゾア(TRÉSOR。宝物の意)”が登場したのは1949年。レディスウォッチ誕生100周年を記念して2018年に発表された「トレゾア レディス コレクション」は、“クラシックとコンテンポラリーの出会い”というテーマどおり、縦長のローマ数字インデックスがアールデコ時代を彷彿とさせ、ケースの左右非対称にレイアウトされたダイヤモンドセッティングがモダンな装いを演出する。  コレクション自体は36mmと39mmのケースサイズが用意されるが、特に36mmのホワイトダイヤルの18Kムーンシャイン™ゴールドケースに注目。両サイドにセットされた38石のフルカットダイヤモンドと、ケースと同素材のダイヤモンドポリッシュ仕上げの時分針が、白地のダイヤルに映えて幻想的な月の光をイメージさせる。また一粒のダイヤモンドが光る五つのオメガロゴでデザインされた赤いフラワーモチーフのリューズは、あたかも腕を飾る一輪の花のような気品さにあふれている。 トレゾア[左]月光にインスパイアされたオメガ開発のムーンシャイン™ゴールドケースが可憐な清楚さをたたえる36mmケース。ムーンシャイン™ゴールドケース、ケース径36mm、30m防水、クォーツ、Cal.4061。1,111,000円(税込み)[中]インデックスとストラップの鮮やかなレッドとホワイトダイヤルの対比が印象的。ケース両サイドの38石のダイヤモンドやカボションリューズは全モデル共通仕様。ステンレススティールケース、ケース径36mm、30m防水、クォーツ、Cal.4061。528,000円(税込み)[右]白蝶貝から削り取られる乳白色のマザー・オブ・パールのダイヤルに、ソフトピンクのインデックスを組み合わせた36mmのステンレススティールケース。ケース径36mm、30m防水、クォーツ、Cal. 4061。583,000円(税込み)  時計は至高の贈り物、そこにあなたの感謝の気持ちが込められていたら、それこそ素晴らしい“賢者の贈り物”になる。 お問い合わせ/オメガお客様センター 03-5952-4400 提供:スウォッチ グループ ジャパン 株式会社 オメガ事業部
正社員は「建前」使い捨てされる商品扱い 40代男性が語る「無期雇用派遣」の実態
正社員は「建前」使い捨てされる商品扱い 40代男性が語る「無期雇用派遣」の実態 「安定」の代名詞だった正社員。しかし、近年は低賃金で雇用も安定しない「名ばかり正社員」が増えている(撮影/写真部・張溢文)  正社員であっても、低賃金で働くことを余儀なくされている人もいる。最善策は最低賃金のアップという。中小企業の負担を解決するためにも政治の力が求められる。AERA 2021年11月29日号から。 *  *  *  制度の隙間を突いた問題も浮上している。 「名ばかり正社員です」  と話すのは関東地方に住む40代の男性。2年前から無期雇用派遣として派遣先の大手メーカーのIT部門で働いている。  無期雇用派遣とは常用型派遣とも呼ばれ、一般的に派遣会社の正社員となり様々な派遣先に派遣される雇用形態だ。2015年に改正労働者派遣法が施行され、同じ職場で働ける期間は3年と定められた。  雇用の安定化を図るためにつくられたのが無期雇用派遣で、18年以降、大手派遣会社が続々と取り入れるようになった。無期限に働け、次の派遣先が見つからない場合も派遣会社から給与が出る。会社によっては賞与や退職金も支給されるというメリットがある。  先の男性は、元々10年以上、別の会社の正社員として働いていたが、転職で失敗。退職し、契約社員となった。少しでも条件のいい就職先を探していたところ、登録していた今の派遣会社から誘いがあって入社した。月収は手取り22万円程度。年収で前職より15万円近く上がることなどが魅力だった。 「けれど、実情は使い捨て要員です」 派遣先がないと解雇  派遣先との契約は3カ月更新で、仮に契約が終了し次の派遣先がない待機期間中は手取りで月15万円程度しか支給されない。さらに、次の派遣先が一定期間確保できないときは解雇になるとも知った。派遣会社にマージンとして月16万円程度抜かれるため、派遣先の正社員とは倍近く違うともいう。  7歳の長女を頭に3人の子どもがいる。妻(40代)は障害があるため、働きに出られない。生活はカツカツで、何よりつらいのは今の収入状況では子どもにお金をかけられないことだ。その結果、子どもたちの可能性の芽を摘んでしまうことになるのでは、と悲観する。 「正社員というのは建前だけ。派遣会社の商品として、いつ使い捨てられても仕方がない存在だと考えています」  派遣ユニオン書記長の関根秀一郎さんは、次のように話す。 AERA 2021年11月29日号より 「本来、無期雇用派遣は契約期間が決まった有期雇用から、無期限に働けることになるので安定して収入を得ることができる非常にいい仕組みでした。しかし、次の派遣先が一定期間紹介できない場合は、一方的に解雇するケースが目立ちます。明らかな労働契約法違反。次の派遣先を紹介できないだけで、解雇が認められるはずはありません」  さらに関根さんは、派遣会社が多額のマージンを取るため、無期雇用派遣労働者の賃金水準が低くなっているのも問題と指摘。派遣先が変わるとき、一方的に賃金を下げられるなどするケースも非常に多く、これも労働契約法違反だと批判する。 「無期雇用派遣労働者は、派遣会社にとってまだ都合のいい調整弁のように使われています。国はしっかり指導するべきです」 最低賃金引き上げ必要 賃金に詳しい都留文科大学名誉教授の後藤道夫さんは、全体的に賃金アップするには最低賃金を引き上げることが最も効果があると語る。 「最低賃金の全国平均は930円ですが、これを1500円に上げようという運動が高まっています。現在1500円以下の正社員は男性が28%、女性は50%います。この人たちの最低賃金が1500円になれば、連動して元々1500円付近にいた人たちの賃金も上がるので賃金の底上げになります」  ただ、最低賃金の引き上げは、日本ではまだ体力の弱い中小企業の重荷となる。それを解決するには政治の力が求められると後藤さんは説く。 「例えば、中小企業にとって大きな負担となっている社会保険料率を下げたり、中小企業への援助を積極的に行ったりすることが重要です。最低賃金は都市ほど高く地方ほど低くなっていて、若者の都市への人口流出を招く原因にもなっています。最低賃金を引き上げることは地方の衰退を防ぐことにもなります」 (編集部・野村昌二)※AERA 2021年11月29日号より抜粋
東京23区「家を買うなら港区」40代夫婦のブランド志向 狭小住宅も悪くない選択?
東京23区「家を買うなら港区」40代夫婦のブランド志向 狭小住宅も悪くない選択? 写真はイメージです(Getty Images)  首都圏の新築マンションの価格は上昇し、中古のいい物件はめったに売りに出ない、出てもあっと間に買い手がつくーー。東京で家を買うのは、なんとも大変な時代になったが、共働き夫婦の購入意欲は高いという。最近の不動産事情を探った連載「それでも夫婦は東京に家を買う」。子育て世代は何を重視して、23区のどこにマイホームを購入しているのか。リアルなケースを取材した。まずは「ブランド志向」の是非について。  *      *  *「家を買うならやっぱり港区。それも、高級住宅街じゃないとね」  都心のIT企業に勤めるAさん(40)は、周囲に得意げに力説する。現在、2歳年上の共働きの妻と、二人の子ども(5歳、3歳)とともに、3年前に建てた新築戸建で暮らしているのだ。  夫婦ともにブランド志向が強く、「子ども服は、この海外ブランドじゃないと」「宿泊するなら一流ホテルじゃないと」「iPhoneは常に最新機種を持っていないと」といった具合に、夫婦間での“暗黙のブランドルール”は数知れず。とにかく見栄っぱりなのだ。  そんなAさん夫妻が都内で家を買うとなったとき、真っ先に考えたのが、「どのエリアに住むか」。夫婦で導き出された答えは、いわゆるブランドエリアの筆頭格として名高い、港区の高級住宅街だった。   Aさん夫妻にとって決め手になったのは、ブランド志向を満足させるエリアだったことだけではない。購入の大きな後押しになったのが、子どもの育つ環境という視点だ。「教育水準の高い学校に通わせたい」という点だけでなく、成長とともに自然とつながる子どもの交友関係がお金に代えがたい価値に思えたからだ。子どもがのちのち人生に役立つ人脈を築くことができるならば「一定以上の収入の裕福な世帯がいるエリアを選ぶべき」だと考えたという。  しかし、問題は資金計画。夫婦共働きで収入は安定しているが、港区は都内でも有数の地価を誇るエリアだ。のちのち教育にも力を入れたい方針を鑑みれば、教育費も人並み以上にかかってくるかもしれない。こうした条件を踏まえ「これなら何とか払っていけるだろう」と予算から割り出したのが、敷地面積が約13坪という小さな土地だった。面積は小さいが、3階立ての家を建てたら延床面積を60平米前後に広げられる。こうして都心に多い3階建ての“狭小住宅”を建てることで、念願の港区に城を持った。  近所に住む子どもの友達が家に遊びに来ると、「◯◯君の家って、すごく小さいね」と無邪気に言われることは思わぬストレスだというが、そこは仕方がないと目をつむっている。  Aさん夫婦のように「ブランド」で選ぶ住宅購入は吉と出るのか、凶と出るのか。不動産のプロに意見を求めてみた。 写真はイメージです(Getty Images) 「Aさん夫婦は、プライドが高い人に見られる家の選び方。ですが、自分なりに優先順位をつけ、『立地を取る代わりに狭さを我慢する』と折り合いをつけた結果なのであれば、悪くない選択だと思います」   不動産コンサルタントの午堂登紀雄さんはこう話す。  「悪くない選択」のもう一つの理由は、ブランドエリアと呼ばれる人気の街であるがゆえに、資産価値が下がりづらいことにある。国立社会保障・人口問題研究所の調査(「日本の地域別将来推計人口」2018年)によれば、港区の人口は、今後2030年に東京の人口がピークを迎えて減少に転じた後もなお増え続けることが予想されているエリアだ。都心立地である港区内の人気エリアは稀少性があり、資産価値が下がりづらい場所が多いという。狭小住宅であっても、それなりに需要が見込める場所を選んでいるという意味で、選択自体は間違っていないという。  「ただし」と午堂さんは続ける。 「注意点を挙げるなら、“見栄=コスト”という意識を持つこと。ブランド意識が強くプライドが高い人は、家を始め、他人の目に触れるところは全方位的にお金をかけがちで、目に見えるものにお金をかけることで安心感を得る傾向がります。つまり、どうしても家計に負担がかかってくるのです」   住宅購入がモチベーションにつながり、ひいては収入アップにつながればいいだろう。 「仮に無理をしてブランドエリアに家を買ったとして、それが『もっと仕事を頑張ろう』など前向きにいられる要素になるなら良いのです。ただ、何か想定外のことが起こった時に資金的な余裕がないと、『こんなはずじゃなかった』と想像以上に苦しくなってしまうこともあります」   意識の高い夫婦は家を買うときに「エリアステイタス」にこだわる傾向にある。それは、環境から得られる目に見えない恩恵は無視できないとわかっているから。Aさんのように子どもの教育環境を考え、学区を意識して選ぶ子育て世帯は少なくない。こうした動きが特に活発なのが、都内屈指の文教エリアとして知られる文京区だ。  >>【後編:子育て世帯は東京・文京区の「住所」がほしい 公立名門小「3S1K」狙いで家を買う】に続く
なぜ我妻善逸は猗窩座戦に参加しなかったのか――善逸が「ひとりで戦う」理由 植朗子
なぜ我妻善逸は猗窩座戦に参加しなかったのか――善逸が「ひとりで戦う」理由 植朗子 我妻善逸(右)画像はコミックス「鬼滅の刃」3巻のカバーより 【※ネタバレ注意】以下の内容には、今後放映予定のアニメ、既刊のコミックスのネタバレが含まれます。 28日、アニメ「鬼滅の刃」無限列車編が最終回を迎えた。フィナーレでは上弦の鬼・猗窩座と炎柱・煉獄杏寿郎が文字通りの死闘を演じた。この“炎柱の最後の戦い”を炭治郎と伊之助がすぐそばで見届けたのに対して、善逸だけはその場にいなかった。なぜ善逸は“ひとり”別の場所にいたのか? そこには、善逸ならではの“戦い方”の流儀があった。<本連載が一冊にまとめられた「鬼滅夜話」が即増刷され、好評発売中です> *  *  * ■善逸は弱虫?  我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)は、騒がしく、訓練をサボりがちな、お調子者の「弱虫キャラ」である。鬼殺隊の入隊試験時には誰よりもおびえた様子を見せ、「鼓の鬼」がひそむ屋敷では、鬼の恐ろしさにふるえながら炭治郎(たんじろう)に助けを求めた。 <炭治郎 なぁ炭治郎 守ってくれるよな? 俺を守ってくれるよな?>(我妻善逸/3巻・第21話「鼓屋敷」)  やがて「鼓の鬼」の血鬼術(けっきじゅつ=鬼の特殊能力)によって、善逸は炭治郎と引き離されてしまった。善逸はたったひとりで、「正一くん」という名の一般の少年を守らねばならなくなった。 ■善逸の真の姿  自分の強さに自信がない善逸は、緊張が極限まで高まると昏倒(こんとう)してしまう。しかし、彼はこの「昏倒」によって、真の強さを発揮する。 <雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃(へきれきいっせん)>(我妻善逸/3巻・ 第23話「猪は牙を剥き 善逸は眠る」) 「本当の善逸」は強い。雷鳴を思わせる爆音をたてながら地面を踏み切り、稲光を思わせるようなスピードに乗って、強烈な威力の剣技を放つ。善逸は「雷の呼吸」の後継者のひとりで、すさまじい必殺技を持っていた。しかし、本当の意味での「善逸らしさ」は、実はこの必殺技の前のコマで描かれている。  緊張から眠りに落ちた善逸は、意識を失っているにもかかわらず、正一くんの悲鳴に反応し、彼を襲う鬼の前に立ちふさがった。「霹靂一閃」を放つための抜刀直前、正一くんをかばうように広げられた善逸の左手。“守る”という強い意志。このたった1コマから、善逸の優しさが伝わってくる。鬼におびえて泣いていた正一くんの涙が止まる。 ■善逸の戦いの動機  かつて善逸は何度も泣いて剣術訓練の邪魔をしたために、兄弟子である獪岳(かいがく)に厳しく叱責されていた過去があった。 <なぜお前はここにいるんだ!!なぜお前はここにしがみつく!!>(獪岳/4巻・第34話「強靭な刃」)  当時の善逸は獪岳の問いにうまく答えられなかった。しかし、善逸には夢があった。 <幸せな夢なんだ 俺は強くて 誰よりも強くて 弱い人や困っている人を 助けてあげられる いつでも>(我妻善逸/4巻・第34話「強靭な刃」)  表面上は鬼殺の任務を嫌がる善逸であったが、弱音を吐きながらも、彼は他者のために懸命に戦っていた。恐ろしい鬼と、弱い自分の心と向き合いながら。善逸は誰かを助けられる自分になりたかったのだ。 ■無限列車での善逸の戦い方  こんなふうにアンバランスな「優しさと強さ」を抱えた善逸は、無限列車編ではまだまだ“責任感”が足りていない。炎柱・煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)から、無限列車には鬼が出ると聞かされると、「降ります!!」と堂々と叫んだりしている。  しかし、下車する間など当然なく、すぐに「下弦の壱」の鬼・魘夢(えんむ)との戦闘へ突入することになった。高速で走る8両編成の列車内という細長い空間、守らなくてはならない一般市民200人という過酷な状況によって、炭治郎たちは戦力を分断されてしまった。  炭治郎は禰豆子の戦闘力を信じて、彼女をその場に残し、自分は離れた場所で戦い始めてしまう。列車内の乗客を守る奮闘の中で、禰豆子は四肢をもがれそうになった。そんな彼女の危機を救ったのは、兄ではなく善逸だった。 「禰豆子ちゃんは 俺が守る」(我妻善逸/7巻・第60話「二百人を守る」) ■禰豆子を「守る」善逸  禰豆子は以前も善逸に「守られた」ことがあった。まだ事情を知らない伊之助(いのすけ)から、「鬼だから」という理由で攻撃されたことがあったのだ。それを助けたのも善逸だったが、その時、禰豆子は「箱」に入ったままだったので、善逸の姿を見てはいない。  それに対して、無限列車内の救出シーンでは、禰豆子は戦闘中の善逸の姿をかなり間近で見ることができた。善逸の強さと、自分を「守る」という言葉に、禰豆子の心が動く。  禰豆子は鬼だ。ともすれば、炭治郎に匹敵するほどの強さを持ち、傷の修復力は鬼殺隊の隊士よりはるかに上だ。しかし、そんなふうに強い「鬼の禰豆子」を見ても、善逸は彼女のことをまるで「か弱い人間」のように扱った。善逸にとって禰豆子は、守らねばならない人のひとりなのだ。陽光という弱点、鬼を滅殺する集団の中での危険な戦闘、長時間の睡眠の必要性など、禰豆子のパワーの”不安定さ”を考えれば、善逸の判断は正しい。 ■なぜ善逸には“ひとり”で戦う場面が多いのか 「鼓屋敷」で正一くんを守った時、伊之助に攻撃されそうな禰豆子を守った時、「那田蜘蛛山編」で炭治郎と禰豆子が危険な鬼の住処に入山してしまった時など、自分が誰かを守らなくてはならない時、善逸は“強くなる”。そうした場面で善逸は単独で戦い、その「強さ」を発揮してきた。この特性のため、善逸の初期の戦闘シーンは“ひとり”なのだ。  無限列車編でもそうだった。煉獄と猗窩座の死闘の最中、その場から離れることができない炭治郎と伊之助の代わりに、車両のけが人たちをフォローし、日光が弱点である「鬼の禰豆子」を太陽から守った。炭治郎が戦いに集中し、禰豆子への注意が散漫になってしまった時、善逸は身を挺して彼女を守り続ける。善逸の集中力と戦闘力は、「誰かを守る時」に飛躍的に上昇する。無限列車の戦いで、善逸のフォローがなければ、禰豆子はかなり危険な状態にさらされていたはずだ。激しい列車の横転と、上弦の参ですら逃走する陽光から、善逸はたったひとりで禰豆子を守った。個人で柔軟に状況に対応できる善逸の機転が、この後の戦いでも生かされていく。「孤立」した状況と、「他者への愛」が善逸を強くする。 ■ひとりで戦う善逸  無限列車編後、善逸は任務に出かけることを嫌がらなくなる。煉獄の死が、そして“煉獄の死”に胸を焼かれる仲間たちの悲嘆が、善逸を大きく成長させた。この後の「遊郭編」では、善逸は仲間たちと「連携しながら戦う姿」を徐々に見せるようになる。  そうして皆と戦えるようになった善逸だったが、最終決戦では、再び“ひとり”で戦うことになる。今度は「眠る」ことさえ許されない。最大の悲しみが善逸を襲い、その苦悩に善逸はたった1人で向き合うのだ。勝利というにはあまりにもつらい「決戦」が、彼を待ちかまえる。 「無限列車編」は、善逸の大きな転換期のエピソードでもあった。「遊郭編」では、善逸の姿に新たな成長をさらに感じることができるだろう。 鬼滅月想譚 『鬼滅の刃』無限城戦の宿命論 商品価格¥1,650 詳細はこちら ※価格などの情報は、原稿執筆時点のものになるため、最新価格や在庫情報等は、Amazonサイト上でご確認ください。   ◎植朗子(うえ・あきこ) 1977年生まれ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。専門は伝承文学、神話学、比較民俗学。著書に『「ドイツ伝説集」のコスモロジー ―配列・エレメント・モティーフ―』、共著に『「神話」を近現代に問う』、『はじまりが見える世界の神話』がある。AERAdot.の連載をまとめた「鬼滅夜話」(扶桑社)が11月19日に発売されると即重版となり、絶賛発売中。
動線を見直しながら片付けたら、娘の部屋の床から洋服が消えた
動線を見直しながら片付けたら、娘の部屋の床から洋服が消えた 動線を見直す前はテーブルへのアクセスが悪く、家族全員のストレスになっていました/Before  5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 *  *  * case.13 家族関係は動線を意識するとうまくいく(夫+子ども2人/教育関係) 「夫には笑いながらですけど『結婚詐欺やな』と言われていました。ふだんの私とイライラが爆発した私が違いすぎて、もっと穏やかな女性がよかったって。そうは言うけど自分はこういう人間やし、ほんまに仕方ないと思っていたんです」  関西の若い夫婦らしい冗談まじりのやりとりをテンポよく話す彼女は、2人の子どものお母さん。若い学生に専門技術を教える仕事熱心な女性です。  家を片づける前をこう振り返ります。 「コロナで撮影や資料づくりといった家での仕事が増えました。リビングに小さい机を出して仕事をしはじめたらますます散らかりました」折しも外出が制限され、大型の不用品や洋服を売りに行くこともままならず、家に不要な物や資料がたまっていきました。  家族との関係はどんなだったか聞くと、 「夫は家事と子育てに協力的で最高です。ただ多少の散らかりは気にしない人。高校生の娘は散らかしの天才。仲は悪くないけど反抗期なので片づけをめぐる衝突もよくありました」 家族も片づけが苦手。だから結局は自分が片づける。片づけたところでリバウンド。そのループから抜けられず、心中はつねに穏やかではなかったそうです。 「家族で楽しく会話していても、仕事や用事を思い出すと切羽詰まってくるんです。イライラしたあげく『部屋が汚い!』って当たり散らしてました。急に雰囲気が悪くなってみんながリビングから散って終了。リビングにあるのはほとんど私の物なんですけどね」  裏には、あれもこれもやらねばと追われながら、行動できないジレンマがありました。何もしていないのに「やっている感」だけ出す罪悪感も。家族が起きている時間はなぜか仕事に手がつかず、深夜から動き、寝不足で翌朝仕事へ行く日もあったとか。 使いやすく、仕事もしやすくなったダイニング。テーブルに着くと家族が笑顔になります/After  行動が遅いのもイライラも自分の性格のせい。諦めかけていた折、家庭力アッププロジェクトが目に留まったのでした。  プロジェクトではまず家全体の物を整理し、課題のひとつとして家族の家での動線を観察してもらいます。この「動線検証」が片づけをあと押ししました。 「引っ越して10年、家具はそこにあるものだと思っていました。動かすとか捨てる感覚もなくて。でも動線を意識したら『ここに置いたらスムーズに動けるんちゃう?』ってアイデアが降りてきたんです。固定観念から外れて考えられたとき、片づけがめちゃくちゃ楽しくなりました」ダイニングテーブルの向きを変え、棚とともに移動すると人の流れができた。すると不思議とイライラが減ったのだとか。  いきおいでキッチンも仕上げていきました。料理をする夫にもヒアリングしながら進めました。 「これまで家族の意見はぜんぶ却下。はじめて夫に相談したらびびってましたね。夫はふりかけが大好きで見える所にたくさん置くけど、私はどうも嫌。聞くと夫はお弁当づくりにはここがいいと言う、じゃあどうしようか。細かい問題から一緒に考えました」  妻とふつうに相談ができる。“鬼嫁”の変化を一番喜んだのは夫でした。キッチンの“コックピット化”を目指して二人三脚で収納の型をつくりました。  娘の意見も聞きました。娘は部活やバイトへ行くとき靴下を履き替えたいけど忘れ、玄関と部屋をバタバタ往復することがありました。 「靴下どこに置きたい?って聞いたら玄関と言うんです。玄関の収納がうまく使えていなかったので思い切って靴下をそこへ入れました。すると娘も下の子も出発前のバタバタがなくなりました」  ほかにも、却下していた娘のアイデアを参考に収納をつくると、娘は洋服を元に戻すようになりました。リバウンドさせないコツは家族の言葉にありました。  45日間で家具のレイアウトも収納も見直したら、彼女は家で怒らなくなりました。お母さんの変わりように家族は驚き、笑顔も増えました。 ソファとテーブルの間もちゃんと通れるようにしました。これで、朝のバタバタが激減/After  彼女の中でどんな変化があったのでしょうか。 「家事も仕事もすぐやる習慣が身につきました。時間通りにやれるからゆっくりする時間の罪悪感がなくなりました。先にやる気持ちよさがわかったので継続できています」  小さい机はやめて、落ち着くダイニングで仕事。集中できて、「夜行性だと思っていた」日々は一変。早く寝る生活が訪れたのです。「1日が48時間やったらええのに」が口癖だったのが今は、時間が増えたように感じるそうです。  変わったのは彼女だけではありません。娘にも、奇跡が起きました。 「どれだけ床に物を置くなと言っても翌朝には脱ぎ散らかして学校へ行き、脱ぎ散らかして部活へ行き、脱ぎ散らかして寝ていたんです。それが今は、荷物、靴下、ペットボトル、娘の部屋の床には何もないんです」  娘はプロジェクト中にお母さんと自室を片づけました。ビフォーアフターの写真を見たとき娘は何かを感じたみたい。 「これまで朝はギリギリに起きて、ぶすーっとして朝食を食べて、聞こえるか聞こえないかの声で『いってきます』とつぶやいて家を出るのが日課でした。それがある朝、『行ってきまーす!』って大きな声で家を出たんです」  その日娘から来たメッセージには「もう脱ぎ散らかさない 変わろうと思う」とありました。娘は片づけられた自分が誇らしかったのです。難しいはずの思春期、母と娘の関係は今が一番良いそうです。  正体不明のイライラを乗り越えた彼女は、新しい自分に出会えたと言います。 「あかんと思うけどイライラの時代は、夫が『腰が痛い』と言うときに、大丈夫?って言えなかったんです。大丈夫で治ったら病院なんかいらんと。でもある時ふつうに大丈夫?って言葉が出て自分が一番驚きました」 “鬼嫁”は本当の自分じゃなかった。脱皮できたと言う彼女は、これからが楽しみだと感謝の気持ち伝えてくれました。 ◯西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・夫婦間のコミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト®」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。ラジオ大阪「西崎彩智の家庭力アッププロジェクト」(第1・3土曜日夕方)が2021年5月1日からスタート。フジテレビ「ノンストップ」などのメディアにも出演 ※AERAオンライン限定記事

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