
江戸時代にはタブーとされた明智光秀の「信長討ち」 はたして裏切りと呼ぶのは正しいのだろうか?
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秀吉との決戦に敗れ、失意の中落ち延びた光秀。その胸に去来したのは死に場所か、再起への決意か……。諸説ある最期と、死してなお日本人に遺した光秀の思いとは? 週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』から、戦国武将の生き死にを見つめ続けてきた歴史・時代小説作家の江宮隆之による読み解きを前後編に渡ってお届けする。この後編では、光秀の死が後世に遺したものを読み解く。
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勝龍寺城を脱出して本拠地・坂本城を目指した光秀主従は、六月十三日深夜、山科付近を抜けて近江との国境に近い小栗栖(現在の伏見区小栗栖)に至った。一般に知られている光秀の最期は『太閤記』(小瀬甫庵)によるものであろう。
光秀主従が乗馬で小栗栖付近を通過中に、藪の中から突き出された鑓で右脇腹を突かれ落馬。重傷を負った光秀は家臣の溝尾庄兵衛に「我が首を打って知恩院で火葬せよ。胴は田に隠せ」と命じて自害。庄兵衛が首を打ったという。光秀の死は、場所も小栗栖の他に「醍醐の辺り」「山科」など諸説ある。また、死の状況も落人狩りに遭って撲殺された、とか一人で逃げ迷った挙げ句に殺された、など諸説ある。ただ現在でも、光秀が討たれたという一帯は「明智藪」と呼ばれ、鬱蒼とした竹藪が残されている。
いずれにしても光秀の遺骸は首と胴を繋ぎ合わされ本能寺の焼け跡に晒された後に、三条粟田口で改めて磔刑に処せられたという。
光秀の享年にも諸説がある。『明智軍記』という軍記物には、光秀の辞世があり、その中に「五十五年の夢」という一節がある。ここから光秀の五十五歳享年説が生まれた。だが他にも、六十七歳説(『当代記』)・六十三歳説(『織田軍記』)などがあるが、人生五十年といわれた時代に、いくら何でも六十七歳でのクーデターは考えにくいのではないか。光秀の生年を享禄元年(1528)とすると、五十五歳になる。信長とは6歳年長になるのだが、どうであろうか。
光秀の謀反と死が後世に遺したものとは?
光秀の信長討ちを、謀反とか裏切りとか呼ぶのは正しいのだろうか。戦国時代の倫理観には「下剋上」はあった。それ以上に光秀が信長を討ったことは「正しい道理」と受け止められていた観がある。前述したが、本能寺の変の数日後に朝廷が光秀に京都の護衛を任せたということは光秀を「不義の人・謀反人」と朝廷が見なしていなかったことを示す。朝廷ばかりでなく、上賀茂神社・興福寺などの寺社も慶賀の使者を光秀に送っている。「本能寺」的な行為が、謀反とか不忠とか呼ばれるようになるのは、これ以後(主に江戸時代に入ってから)のことになる。つまり光秀は、江戸時代には禁忌行為(タブー)を犯した人間ということにされた。「五常の徳(道)」という儒教の徳目がある。人間が行わねばならない徳目をいう。「仁・義・礼・智・信」の5つであり、最も重視されていた「仁」は他への慈しみを示す気持であるという。「信」は「誠」にも通じて、武士道では「信なくば立たず」というような使われ方をした。しかし、ここには後に武士の生き方として最重視されてくる「忠」や「孝」という概念はない。
特に「忠」は、徳川時代に入って朱子学が官学となってからの概念となった。徳川家に忠実であれ・徳川家に弓を向けるのは謀反である、という考え方で武家社会を統制しようとしたからだ。江戸時代は、この「忠」に最も反したのが「光秀」という捉え方をしたのである。
一方で、有職故実を知る光秀には鎌倉時代の『貞永式目』の内容が頭にあったとも思われる。この法令には「器量(能力)の劣る支配者への謀反・下剋上はあってもよい」という考え方がある。光秀はこうした古典(武士の法令)をも、信長討ちに当たって自らの行動の正当化に使ったであろう事は十分に考えられる。つまり、光秀には信長討ちは「悪」ではなく「正義」だという意識があったと思われる。(これは本能寺の一因「信長非道説」を裏打ちする考え方であろう)。 だが、その後に来る秀吉・家康の天下では、光秀の信長討ちは「悪」と規定される。いわゆる「本能寺の変」は、下剋上が当たり前の世の終焉を告げる出来事でもあったといえよう。
武士にとっては謀反人なれど江戸の庶民には愛された光秀
江戸時代になって、光秀は謀反人という見方をされるようになったが、それは(江戸時代の)武士道の世界での見方であった。 これが庶民・一般町人の世界になると、「謀反人・光秀」を取り巻く景色が変わってくる。現代のテレビ・映画・小説などに当たる庶民文化は、人形浄瑠璃・歌舞伎・絵草紙などの類であり、こうした「媒体」によって、江戸の庶民文化は芽生えた。「明智光秀」への一般市民の思い入れは、これら媒体によって増幅した。光秀を扱った浄瑠璃は『本朝三国志』(近松門左衛門)『祇園祭礼信仰記』『三日太平記』(近松半二)など10作品以上に上る。また後に歌舞伎の当たり狂言になる浄瑠璃『絵本太功記』(近松湖水軒など合作)は、タイトルこそ「太閤記」だが、本当の主人公は光秀である。また『時桔梗出世請状』(鶴屋南北)は通称「馬盥の光秀」といい、現代でも演じられる歌舞伎の名作である。
これらは謀反人光秀というよりは、光秀の人間性に着目した芝居であり、光秀を「悲劇の人」と捉えている。歌舞伎の世界は、元来「忠臣蔵」「曾我物語」「平家物語」など悲劇を扱う趣向になっており、民衆はこうした悲劇を好んだことから「光秀の悲劇」も生まれた。
光秀の悲劇とは、敵役の信長(小姓・森蘭丸)に徹底的にいじめ抜かれ、最後に堪忍袋の緒が切れて本能寺の変に至るという描き方から来る。民衆には、光秀の我慢・忍耐・耐える力が好まれた。そして信長と蘭丸を討つ場面では、興奮し、涙を流して光秀を声援したというのである。 因みに歌舞伎の世界は本名を使うことを禁じられていて、信長は「小田春長」秀吉は「真柴久吉」光秀は「武智光秀」という役名であった。そして信長は、秀吉・光秀の単に主君で、しかも敵役といった立場で演じられた。
このように江戸時代は、浄瑠璃・歌舞伎・絵草紙ばかりか俳句・川柳・狂歌でも光秀は人気の対象になっていた。江戸の民衆は「時は今」「三日(天下)」「桔梗」「(明智)藪」という言葉は全て光秀に関連する事柄と知っていた。
俳人・芭蕉にも良妻賢母といわれた光秀の妻を詠んだ俳句がある。貧しい弟子の妻の心尽くしに感動した芭蕉が詠んだ句だが、光秀の妻が自らの髪や着物を売って光秀主催の宴に心を尽くしたという逸話を例に引いている。「月さびよ明智が妻の咄せむ 芭蕉」という句である。「光秀の江戸時代」は、こうして民衆人気の中に溶け込んでいたのであった。
◎監修・文/江宮隆之(えみや・たかゆき)1948年山梨県生まれ。歴史・時代小説作家。『経清記』で第13回歴史文学賞を、『白磁の人』で第8回中村星湖文学賞を受賞。『明智光秀「誠」という生き方』(KADOKAWA 新人物文庫)、『満州ラプソディ 小澤征爾の父・開作の生涯』(河出書房新社)他、著書多数。
※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』から