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原田泰造が「おっパン」で感じた原作者の深い愛情 「演じさせていただいてるという気持ち」「本当にありがたかった」
太田裕子 太田裕子
原田泰造が「おっパン」で感じた原作者の深い愛情 「演じさせていただいてるという気持ち」「本当にありがたかった」
「俳優」を語る原田泰造/撮影・写真映像部・松永卓也    放送中の土曜ドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」(東海テレビ・フジテレビ系/毎週土曜午後11時40分)が好調だ。主演を務める原田泰造は、トリオ「ネプチューン」のひとりとしておなじみだが、俳優としてのキャリアも着実に積んでいる。   *  *  *    主演ドラマ「おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!」が、好調だ。家族からも嫌がられる古い価値観を持った堅物の「おっさん」の沖田誠(原田泰造)が、ゲイの青年・五十嵐大地(中島颯太・FANTASTICS)との出会いによって、これまでの「自分の常識」をアップデートしていくホームコメディー。    練馬ジム氏によるLINEマンガの実写化で、原作は国内累計閲覧数7,500万回(2024年2月時点)という話題作だ。幅広い読者から共感を呼び、「おっパン」の略称で親しまれている。   原作者がドラマの現場に「ありがたい」   「練馬ジム先生もドラマを本当に応援してくれていて、第4話では先生自身のX(旧Twitter)で、ご本人が、ドラマを見ながら“ここいいよね”とか語っている音声がアップされていたの。    原作者ご本人がドラマについて語ってくれるなんて、作品に対するものすごい愛情だなと思った!     もちろん、この作品のオファーをいただいたときに原作はすぐに読ませていただきました。     練馬ジム先生の作品に対する愛情を感じて、改めて 演じさせていただいているという気持ちになった。現場にも何回か応援しに来てくださって、本当にありがたかった」    現場には、原作漫画家の練馬ジム氏も何度か来てくれたという。     原作の人気もあり、ドラマの第1話の見逃し配信の再生回数は、東海テレビ制作のドラマ初回放送としては歴代1位を記録した。 時折真剣な眼差しで「俳優」について話す原田泰造/撮影・写真映像部・松永卓也    俳優としての話が聞きたい。そう伝えると、開口一番こう答えた。   「“役者さん”って言われても、おそれおおいやら恥ずかしいやらで仕方なく、“はい、はい”って顔してる(笑)。俳優って言われても、うーんなんかしっくりこないというか……」    俳優としてはNHK大河ドラマの出演歴も、主演作もある。かなり活躍していると思うのだが……。   職業欄に「ネプチューン」!?   「“芸人”って、肩書に書くのもおこがましい感じ。結構、職業欄に書くときって難しい。”ネプチューン”って書ければいいんだけどね! 自分で何をやっているかイマイチわかっていないんだよね」    インタビューを行った1月29日時点で、「おっパン」の撮影は全て終了しているという。撮影中に大変だったことを聞いてみた。   「結構、なかったかな……セリフを覚えるのだけが大変。一番大変」 撮影・写真映像部・松永卓也  謙遜しているのか、はたまた、はぐらかしているのか。撮影当時を回想するように微笑みながらこう答えた。   「セリフは僕に付いてくれている人と、ひたすら掛け合いで覚えていく。セリフを覚えているときは、不思議と睡眠時間が長く取れなくなっちゃう。セリフが頭に入っていると、夜中にトイレで起きちゃう感じに近いかも」    夜中にトイレ!? 強烈なたとえに現場にいたスタッフたちは大爆笑。自身も楽しげに笑い、こう続けた。   「よくわかんないでしょ!? 僕もよくわかんないんだけど(笑)、睡眠中に途中で起きる時間が多くなるの。寝ててもパッと目が覚めちゃう。    逆にドラマの撮影が終わると、だんだん睡眠時間が長くなるの。撮影中は“セリフを忘れてはいけない”って、緊張感があるのかもしれない。うん、たぶん、そうだと思います(笑)」 スタイリスト/上井大輔(demdem inc.)衣裳提供/株式会社エクスプローラーズトーキョー プレスルーム(03-6851-4604)撮影・写真映像部/松永卓也  個別のインタビューに答える機会はほとんどないという。だが、とにかく気さくで、会話のテンポが軽快で、人との距離の縮め方が絶妙だ。    底抜けに明るい印象だが、10代の頃から本人を突き動かしていたものがある。それは、「なんでもいいから、テレビに出たい」。この一心でオーディションに応募したり、自分自身でチャンスを引き寄せたりして、芸人になった。   「昔から本当にテレビに出たかった。そして、いまもこうしてテレビに出られているでしょ!? 本当にずっと楽しいのが続いている感じ。芸人を始めて、売れなくて食べれていないときでも、なんだかんだ楽しかった。苦労だと感じたことが無いと思う。本当にあっという間の芸能生活で、今、ここにいるみたいな感じだから」   松下由樹や富田靖子との共演に感激!    芸人であること、俳優であること以上に、とにかくテレビに出ることが楽しいのだという。   「ドラマでは五十嵐美穂子役の松下由樹さん、僕の妻・沖田美香役の富田靖子さんと共演していますが、松下由樹さんと富田靖子さんは『アイコ十六歳』に出ていたふたりでしょ!     僕は同世代だからそれをリアルタイムで見てきて知っているわけで、そんな人たちと共演できているなんてうれしいよね!    俳優として、お二人はとても柔軟なんだよね。“私が準備してきたのはこれだから、これ以上できません”というのは全くない。頑固じゃない。   “どんな感じでもやってみましょう”という人たちだから、もう~楽しくて! 撮影現場では、もちろん台本に沿って、監督さんと話し合って進めていくんだけど、その“枠”みたいなものの中でもとっても柔軟なの」    その口ぶりからは、ドラマを見ている視聴者サイドのような、ピュアな好奇心と感激が伝わってくる。いまが楽しくてたまらない、という感じだ。共演したい人はたくさんいる。 撮影・写真映像部・松永卓也   「小さいころからテレビっ子だったから、尊敬している俳優さんや共演したい俳優さんはいっぱいいますよ! 西田敏行さんとか武田鉄矢さんとかのドラマをずっと見ていたからね。その人たちにいま会えているのがすごいことだよね! 会えるだけじゃなくて共演できる機会もあるわけでしょ! なんていうのかな……夢の中にいる感じだよ」    テレビを見ていた子どものころ、憧れていた人たちに会えるだけでなく、肩を並べて仕事ができる。「夢の中にいる」と表現した。   素敵な俳優との新たな出会いも    自分以外の俳優の話になると、ひときわ熱っぽく語った。   「“こうやって演技するんだ!”とか、“これ、どうやって撮影したんだろう?”って、普段からドラマや映画を見ちゃう。沖田誠の会社の先輩役の俳優・渡辺哲さんも本当に素晴らしい役者さんでした! かっこよかったですよ! 立ち振る舞いはとても良い勉強をさせていただきました。    とにかく柔軟で、監督さんから指示が出ると“はい”って言って、まず演技してみるの。指示された演技は、渡辺さんの頭の中でその姿をイメージするのは難しいと思っていても、やってみようっていうスタンス。   指示されたことに、“やりますよ!”それが素敵だなと。60代になっても70代になっても自分もこういう気持ちの役者さんになれたらいいなと思いました」   「おっぱん」の沖田家で飼っている犬・カルロスの話も飛び出した。 撮影・写真映像部・松永卓也 「自分で自分のドラマを見ていて、カルロスとの撮影のときの雰囲気とか思い出すんだけど、かわいいよね~」と、突如メロメロに。   「僕が“ボールを捕ってきな”っていっても、捕りに行かないシーンでの、カルロスのあの演技! 見ていて本当にいじらしくなってしまう。“カット”の声がかかるまで、カルロスは僕の言うことを聞かないでツーンとして、じっと我慢しているわけでしょ。    よし、動かなかった! って、カルロスの名演技には、頑張ったな、かわいい~って、お菓子あげたくなるね!」   ドラマはまだまだ山が何個も    ドラマもそろそろ終盤だ。だが、「新キャラがいっぱい出てくる」という。何より、原田演じる“誠”だ。誠はどんな運命をたどるのか。原田本人は、誠に優しいまなざしを送る。   「僕が演じる“誠さん、頑張ってるな!”って、本当に思う。誠さんはまだまだ失敗するし、山が何個もある。もうこれで大丈夫だと思ったところにまた落とし穴がある感じです」    令和の堅物おやじ誠が、引きこもりの息子・翔(城桧吏)が好きそうなかわいいパスケースを見つけ、“翔に買って帰れば喜ぶのでは?”と考えるシーンがあった。しかし、店員に声を掛けられて逃げ出してしまう。    あの瞬間の誠は頑張っていましたね、と語りかけると「あ、第3話だ! まだまだ大変なの」と笑う。   “楽しい”は、人に伝わる。現場を、仕事を、とことん楽しむ原田泰造の情熱が、画面を通じて視聴者にも伝播しているのかもしれない。(AERAdot.編集部・太田裕子)   ◎原田泰造(はらだ・たいぞう)1970年3月24日生まれ。「ネプチューン」のメンバーとして活躍する一方、俳優として多数のドラマ・映画・舞台に出演。『編集王』(フジテレビ)でテレビドラマ初主演、2004年『ジャンプ』(竹下昌男監督)で映画初主演。主な出演作にドラマでは、NHK大河ドラマ『篤姫』『龍馬伝』『花燃ゆ』、NHK 連続テレビ小説『ごちそうさん』、NHK特集ドラマ『生理のおじさんとその娘』、『サ道』(テレビ東京)、『祈りのカルテ』(日本テレビ)、『はぐれ刑事三世』(テレビ朝日)、映画では『ミッドナイト・バス』(竹下昌男監督)、『スマホを落としただけなのに』(中田秀夫監督)など。1月スタートの主演ドラマ『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』が好調。
原田泰造おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!
dot. 2024/02/19 11:00
小児がんケアする親は“透明人間” 24時間の付き添い必要でも「疲れた」言えない事情
古田真梨子 古田真梨子
小児がんケアする親は“透明人間” 24時間の付き添い必要でも「疲れた」言えない事情
小児病棟では、隣のベッドの子が亡くなることもある。付き添い入院を経験した女性は「胸が締め付けられるような日々でした」(写真:gettyimages)    24時間の付き添い、オムツ交換、食事の世話──。小児がんの子どもを持つ親の生活は過酷極まりない。病院の人手不足により重要な戦力とみなされているからだ。親の負担はきょうだい児にも影響する。サポート体制の整備が急務だ。AERA 2024年2月19日号より。 *  *  *  大阪府で暮らすパート勤務の女性(48)の長男(12)は1歳半の時、小児がんと診断された。腫瘍を摘出するため、すぐに手術が必要と言われ、自宅から車で約1時間半のところにある病院に入院することになった。手続きの時、最初に言われたのは「24時間の付き添いが必要です」という言葉だったという。女性は、 「まだ幼いから一緒にいたいと思う一方で、付き添う以外の選択肢がない状況に『どうして?』と疑問に思う気持ちがありました。でも、病院は保育園ではないから、仕方ないのかな、とも思っていました」  と打ち明ける。会社員の夫(49)は出張が多く激務だったため、当時まだ3歳だった長女は、九州から呼び寄せた実母に預けた。 子ども用ベッドで眠る  そこからの日々は過酷を極めたという。病院では、長男の検査や点滴の見守り、オムツ交換、食事の世話などに追われ、気が休まる時間はほぼゼロ。自分の食事は、わずかな空き時間に院内のコンビニのおにぎりや持ち込んだカップラーメンを大急ぎで食べた。  簡易シャワーは一つしかなく、病院職員と兼用の予約制。他の保護者らも利用するため、なかなか空きがなく、ようやく取れた予約時間に長男の治療が入ってしまい、数日間シャワーを浴びないことも度々あったという。夜は、長男が眠る子ども用ベッドで丸くなって一緒に眠った。帰宅できるのは、夫と交代できる週末のわずかな時間だけだったという。女性は、 「長男の病状が心配だったことはもちろんですが、長女に思うように会えないことや、すでに70代だった母の負担も気になりました。私自身もよく眠れていないので、疲れきっていました」  と振り返る。 子どものベッドで一緒に寝る人は多い。こども家庭庁と厚生労働省は今年度、小児の入院医療機関を対象に実態調査に取り組み、対策を検討する予定だ(写真:NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」提供)    ちょうど長女の3年保育の幼稚園の入園試験の時期だったが、準備をする余裕が全くなく、希望していなかった2年保育の幼稚園に通わざるを得なくなったことも心にずしりとのしかかった。長男は1年半の入院を経て退院。現在は再発の不安を抱えながらも元気に学校に通っているが、女性はこう話す。 「当時を思い出すと今も涙が出ます。苦しくて悲しくて、誰も助けてくれないような孤独感が強かったですね」  国立がん研究センターの「がん統計」によると、15歳未満のがんである「小児がん」と診断される子どもは年間2千~2500人。「子ども約7500人に1人の割合」と聞くとピンとこないが、15歳未満人口が約105万人の神奈川県の場合、年間約140人という計算になる。決して、他人事でも珍しい病気でもなく、内訳は白血病が3割強で最も多く、次に脳腫瘍が約2割。リンパ腫、胚細胞腫瘍、神経芽腫と続く。現在は、医療技術の進歩により、7~8割が治癒できるようになっているという。 「疲れた」と言えない  だが、治癒のためには、半年から1年程度の非常に長い入院治療が必要になる。退院後も度々検査などでの通院と入院が必要だ。院内学級や病棟保育など、子どもに特化した療養支援体制が整っていたり、近くに家族向けの宿泊施設を完備している病院は全国を見渡しても、ごくわずか。多くの病院が、付き添う時間帯にバラつきはあるものの、親の付き添いを必須としていて、親の全面的なサポートが必要になるのが現状だ。 NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」では飲食店のお弁当を届ける事業も展開。この日は東京・銀座の「天ぷら やす田」が調理指導した(写真:NPO法人「キープ・ママ・スマイリング」提供)    病児を育てる家族を支援するNPO法人「キープ・ママ・スマイリング」理事長の光原ゆきさん(50)は、 「医療が進み、小児がんは治る病気になる一方で、ケアをする親は“透明人間”のまま。子どもが第一なのはもちろんなので、親自身も『疲れた』と声をあげづらく、ましてやその余裕もない状況が何十年も続いています」  と指摘する。 「親は重要な戦力」  光原さんは14年、先天性疾患のあった次女を生後11カ月で亡くした経験がある。長女も出産直後から入院が必要だったため、2人の看病で計六つの病院を渡り歩き、ずっと付き添ってきた。 「どの病院でも、親は重要な戦力とみなされていました。看護師1人で10人近くの子どもたちをケアしているケースが多く、泣いていても放置されていたり、脱水症状が見逃されていたり。病院に対する怒りというよりは、スタッフがあまりに大変そうなので、親がサポートするのもやむなし、という感覚でした。その状況は今も、ほとんど変わっていません」(光原さん)  けれど、それでは子どもが治る前に家族が倒れてしまう。光原さんは「せめて美味しい食事を」と、14年に同NPOの前身となる団体を立ち上げると、国立成育医療研究センターに隣接する家族滞在施設で食事作りを始めたほか、聖路加国際病院などに手作りのお弁当を届けるサービスをスタートさせた。ある病院から「衛生面の不安があり、受け入れが難しい」と言われ、野菜不足を補う缶詰も独自開発した。付き添い生活に必要なレトルト食品やマスクなどの日用品の無償提供も続けている。  入院中は、きょうだいへのサポートも悩みの種だ。  神奈川県立こども医療センターで小児がん診療に携わる医療スタッフが運営する支援チームの「ちあふぁみ!」が、入院する子どもの家族にアンケートをしたところ、目立ったのは「病院の近くできょうだいを預かってくれる施設がほしい」「きょうだいと大学生ボランティアらが一緒に遊んでくれるとうれしい」といった意見だった。医師の栁町昌克さんは、 「小児がんは重篤な疾患であり、その入院生活は長期にわたり大変です。疲れ切ってベッドに突っ伏すお母さんやお父さんをたくさん見てきました。きょうだいのサポートまで手が回らないと悩む家族の皆さんに、何かできないかとずっと考えてきた」  と話す。 出費が家計を圧迫  20年8月、同じ想いを抱える同僚で医師の横須賀とも子さん、看護師の岡部卓也さんとともに「ちあふぁみ!」を立ち上げた。寄付を募り、きょうだい児への絵本のプレゼントを続けているほか、長期宿泊を余儀なくされている家族への補助金や検査の自費部分を援助したり。その活動は地元企業にも少しずつ伝わり、昨年は家具メーカー「オカムラ」(横浜市)から病室で使える勉強机とイスの提供を受けた。 「『家族の支援』という観点が広まっていくことで、長期入院する子どももその家族も笑顔になる。今後も現状を知ってもらうことが重要だと感じています」(横須賀さん)  子どもが小児がんをはじめとする長期入院が必要な病気になった時、親が直面する問題で無視できないのが、経済的な負担だ。  前出の「キープ・ママ・スマイリング」が22年11~12月に実施した「入院中の子ども(0~17歳)に付き添う家族の生活実態調査2022」(有効回答数3643人)によると、付き添い中に経済的な不安を感じている人は全体の7割にのぼった。「冷蔵庫や簡易ベッド、洗濯機。全て使うたびにそれぞれ数百円かかる」「病院への交通費だけで毎月5万円の負担」「親の食費がかさむ」──。積み重なっていく出費が家計をじわじわと圧迫していくのだ。  また、短期の入院であれば有休や看護休暇で対応できても、長期化した場合に仕事をやめざるをえなかった人は318人(8.7%)にのぼり、転職した人は43人(1.2%)いた。中には、生活保護を申請する人もいるという。子どもの入院により、家族全員の生活と描いていた未来が大きく変わってしまうのだ。 「仕事をやめるしかないのか、と思った時、不安はマックスに達し、絶望に追いやられるような感覚がありました。怖かったです」  と話すのは、大手広告会社・電通で働く田中浩章さん(47)だ。21年2月、当時4歳だった長男(7)が39度の高熱を出した後、鼻血が止まらなくなった。かかりつけ医で血液検査をしたところ、血小板が異常に少なくなっていて、2カ月過ぎても改善しない。総合病院での検査を経て、同年6月、大学病院で原因不明の再生不良性貧血と診断された。 病院を就業場所に  当時、田中さんは大阪勤務で家族とともに大阪で暮らしていたが、長男の入院先は小児の専門医がいる名古屋市内の病院に決めた。妻が付き添い、田中さんは病院の近くに家賃3万2千円のアパートを借りて、食事を届けたり、洗濯物を受け取ったりしながら、1年半に及んだ入院治療生活を支えたという。  コロナ禍でもあり、リモートワークが可能だったことに救われていたが、家族の入院を理由にした有給休暇は年間最大20日間。貯蓄もどんどん減っていく。意を決して、五十嵐博社長(当時)のメールアドレスに制度改革を訴える70秒の動画メッセージを送った。返信はすぐに届き、その日のうちに社内で制度改革の検討が始まったという。  今年1月、電通は配偶者・パートナーの3親等内相当の親族の介護や介助をするにあたり、就業場所に「病院やホスピス等」を指定できる画期的な制度を新設した。田中さんは言う。 「本当にありがたいことです。働く場所があるということは、親の心を支えている」  前出の光原さんは、電通の取り組みを、 「収入の多い少ないに関係なく、誰もが収入が『減る』ことに恐怖を感じます。働くことは、個人の重要なアイデンティティーでもあり、それが保障されることはとても重要なことです」  と評価し、こう話す。 「子どもが病気になった時、親が安心して向き合える社会になってほしい」  子どもが小児がんなどの長期入院が必要な病気になったら──。  誰もが当事者になる問題として、親を取り巻く現状を知り、サポート体制を整えていく時にきていることは間違いない。(編集部・古田真梨子) ※AERA 2024年2月19日号
がんと生きる
AERA 2024/02/19 10:30
事務所独立「広末涼子」恩人への“不義理”で批判殺到 海外志向強く“パートナー”と移住の現実味
立花茂 立花茂
事務所独立「広末涼子」恩人への“不義理”で批判殺到 海外志向強く“パートナー”と移住の現実味
広末涼子    女優・広末涼子(43)の事務所独立が大きな話題となっている。  昨年6月に人気シェフの鳥羽周作氏(45)とのW不倫を報じられ、無期限活動休止処分を受けて謹慎していた広末。この処分をめぐって事務所サイドと対立しているとも報じられていたが、16日、約26年間所属していた所属事務所「フラーム」を退社し、自身が代表を務める個人事務所「株式会社R.H」を設立し芸能活動を再開することを発表した。  広末は同日に開設した「株式会社R.H」の公式サイトで「昨年の私事の問題では多くのご心配及びご迷惑をおかけしたことを改めて心よりお詫び申し上げます」と謝罪。そのうえで、「今後も引き続き俳優業に邁進(まいしん)し、お芝居と真摯(しんし)に向き合っていきたいと考えております」とコメントした。  同社の公式インスタグラムではスタジオで撮影する写真とともに「よろしくお願いします」と投稿するなど復帰に向けて意欲をみせている。  この動きについて、さる芸能事務所のマネジャーはこう話す。 「かねて広末さんと『フラーム』との間での不協和音があるとは漏れ伝わっていました。それでも、『フラーム』の社長は広末さんが10代のころから二人三脚でともに歩んできた勝手知ったる仲で、若いころから自由奔放な広末さんをずっと支え続けて来た恩人でもあります。以前、広末さんはイケメン俳優との不倫岩盤浴デート疑惑を週刊誌に報じられましたが、その後もドラマやCMなどで変わらぬ活躍が続けられたのは所属事務所の強力なバックアップがあってのこと。今回の件では広末さんも一度は無期限活動休止処分を受け入れていましたし、さすがに独立はないだろうという見方も多かっただけに驚きました」 広末涼子   弁護士がコメントを出した理由  実際、世間の反応もお世辞にも芳しいものとは言えない。SNSでは「謹慎処分中の独立というのはあまりにもイメージが悪すぎる」「本当に反省しているならこういう行動には出ないよなあ」「若い頃からずっと事務所がスキャンダルの尻拭いしていたみたいだし、仕事のオファーは来るのかな」など厳しい意見も目立つ。  その背景には、幾度もの不倫騒動や古巣に対する不義理ともとれる独立に加えて、出演CMの放送取り止めなどの損害賠償金の支払い負担を拒否しているといった一部報道の影響もあるようだ。  そうした中、広末の代理人弁護士は同日夜にコメントを発表。 「本日、広末涼子氏から別途ご報告させていただいた通り、同氏は、芸能事務所フラームと話し合いを行った結果、双方合意の上、同事務所を退所いたしました。この点に関して、一部週刊誌においては、広末涼子氏が芸能事務所フラームに対し損害賠償の分担を拒否している、芸能事務所フラームが広末涼子氏に対してカウンセリングの受診を勧めている等の報道がなされていますが、このような事実は一切ございません」と報道を否定した。  独立に際して、広末側も世間が抱くネガティブなイメージの払拭に務めているようだが、前出の芸能事務所のマネジャーは極めて懐疑的だ。 「損害賠償の分担に関する言い分は世間に伝わったとしても、『お騒がせ女優』というう印象は払拭されるどころか、かえって強まっていると思います。トラブルメーカーのイメージからギャラの良いCMの仕事はもちろん、民放キー局のテレビドラマなどのオファーも当分は期待できません」 金髪になった鳥羽周作氏(撮影/上田耕司)   もともと海外への関心が高い  となると、気になるのは“パートナー”との未来だろう。  鳥羽氏は、昨年11月に長年連れ添った妻との離婚が成立したとされ、今年元旦には年内に広末と再婚する予定との報道も出た。さらに、その鳥羽氏が以前から海外を拠点にした活動にも意欲をみせていたことから、2人は再婚後に家族とともに海外に移住するのではないかといった見方もある。 「可能性は低くはないと思います。鳥羽さんだけでなく、広末さんも海外への関心はもともと強いようで、2015年に日本人女優として初めて『ハワイ国際映画祭キャリア功労賞』を受賞した際には、現地で行われた授賞式に駆けつけて喜びをあらわにしていました。長男は海外に留学していますが、それも広末さんの提案だったそうです。正直、日本での現状を考えると、海外の方が女優活動はうまくいくかもしれません」(前出のマネジャー)  荒波の中で新たな船出を迎えた広末。かつての国民的アイドルの帆先はどこに向かっているのだろうか。 (立花茂)
広末涼子鳥羽周作フラーム
dot. 2024/02/17 11:32
「レジの行列が早く進む方」を見分ける意外なコツ 行列の長さだけを見て並んではいけない理由
「レジの行列が早く進む方」を見分ける意外なコツ 行列の長さだけを見て並んではいけない理由
写真はイメージです(gettyimages)   早く行きたいのに赤信号に引っかかってしまう、エレベーターで降りようとしたらちょうど自分の階にエレベーターが来てすぐに乗れた、コピーしようとしたらインクが切れた……なんかツイてるツイテていない、そんな日常にあふれる不思議な現象や「なんで?」とつい思う軽い疑問はありませんか。 そんな疑問をYouTubeチャンネル『謎解き統計学』で、「確率・統計」の事例とともに優しく解説するしている"統計のおねぇさん"ことサトウマイさんの書籍『はじめての統計学 レジの行列が早く進むのは、どっち!?』より一部抜粋・再構成してお届けします。 早くレジを通過するためのポイント  スーパーのレジ、病院の診察室、銀行のATM、空港の搭乗手続きなど、世の中のいたるところで順番待ちをする人の行列(待ち行列)が見られます。  一生のうちに、レジに並んでいる時間はどのくらいでしょうか。まずは、レジに並ぶ回数を計算します。寿命を80年として、20歳から毎日なんらかの買い物をしてレジで会計をすると仮定すると、(80−20)年×365日=2万1900回ということになります。  一生でレジに並ぶ回数2万1900回のうち、半分が「前の人の会計を並んで待っている状態」で、平均3分待つとします。すると、次のような計算式になります。  21,900回×1/2×3分=32.850分=547.5時間=約23日間  成人してからの人生の中で、約23日間も「ただ並んで待っているだけの時間」(自分が会計をしている時間は含まない)があるということです。  移動時間であれば、本を読んだり音楽を聴いたりできますが、商品を持ちながら並んでいてはそうもいかないでしょう。だとすると、なるべくこの時間を短縮したいと思うのも当然です。  迎える側の企業としても、お客さんの待ち時間が少なくなることで、お客さんの満足度が向上し、業績のアップにつながるはずです。  そんなときに役に立つのが、「待ち行列理論」です。この理論を使って、なるべく待ち時間の少ないレジに並ぶ、レジ戦争を勝ち抜く方法を紹介したいと思います。  みなさんは、「混んでいる時間帯のスーパーで、どのレジに並ぶのか?」をどのようにして決めていますか?  待っている人数が少ない  待っている人のかごの中身が少ない  レジ係の手際の良さ  一番多い回答は、「待っている人数が少ない」ではないでしょうか? しかし、この選び方は、あまりおすすめできません。のちほど説明しますが、待ち人数よりも「そのレジがどれだけスムーズに流れているか」のほうが、レジ戦争では大事だからです。飲食店などでは、このことを「回転率」といいます。 立ち食いそば屋は回転率がいい  お昼時の立ち食いそば屋さんは、行列ができていたとしても、案外すぐに食べられます。これは回転率がいいからです。レジにも、この回転率なるものが存在します。正確には、回転率ではなく「そのレジの混み具合」を計算します。  混み具合は、「そのレジにお客さんがどのくらい頻繁にくるか(A)」「レジ係の手際の良さ(B)」で決まります。  もう少し正確に表現すると、  A:1時間のうちにお客さんが何人くるか  B:1時間のうちに何人のお客さんの会計ができるか  この2つの変数を使って、推定待ち時間を計算するのが待ち行列理論です。  A:1時間のうちにお客さんが何人くるか / B:1時間のうちに何人のお客さんの会計ができるか   =レジの混み具合(稼働率)   お客さんをさばける数(B)に対して、それを上回るお客さん(A)が並んでいると、A/Bは1を超えます。これを、その「レジの稼働率」ともいいます。稼働率が100%のとき、1時間レジが休みなく動いている状態ということになります。  これが100%を超えると、レジでいくらお客さんをさばいてもさばいても行列が長くなっていく状態、ということになりますが、普通はこの稼働率は100%未満になっているはずです。 あるスーパーマーケットの稼働率を想定  例えば、以下のような状況を想定します。  あるスーパーマーケットの夜8時台では、平均5分間隔でランダムにお客さんが会計にくる。稼働しているレジの台数は1台であり、1時間で30人の会計ができる。この状況のときの稼働率はいくつでしょうか?  A:1時間のうちに、お客さんが何人来るか→60÷5=12人  B:1時間のうちに、何人のお客さんの会計ができるか→30人  この時の稼働率は、 A/B=12/30 = 0.4  稼働率は、40%[夜8時台では40%(24分)レジが稼働している状態]ということになります。稼働率が100%未満ということは、お客さんが並ぶペースよりもレジの処理能力のほうが高いので、一時的に2人以上並んでも「いずれ、行列は収まる」という状態です。  あなたはそのスーパーの常連で、仕事帰りに夕飯を買って帰るのが日課です。「夜8時頃に買い物に行くと、レジには1人並んでいるかいないかくらいで、空いていて快適だな」と思ったとします。この感覚は、正しいかどうか調べてみましょう。  待っている人の人数は、  (A/B)/ {1−(A/B)}[人]   で、計算できます。  先ほどの計算で、A/B=0.4というのがわかっているので、それを代入すると、  =0.4 /(1−0.4)  =2/3[人]  となります。  「どうしてこういう計算をするのか?」ということは、今は置いておきます。2/3[人]は「自分の前に何人待っているか?」を表します。「この時間帯にスーパーのレジに行った場合、1人並んでいるかいないかくらいの混み具合」ということになります。 レジを待つ時間はどう計算する?  そして、このときのレジを待つ時間は、「待っている人の人数×平均レジ通過時間」で計算できます。  平均レジ通過時間は、 (1[時間])/(B:1時間のうちに、何人のお客さんの会計ができるか) で計算できますので、  1/B=1/30[時間]=2[分] 「待っている人の人数×平均レジ通過時間」に当てはめると、レジ待ち時間が計算できます。  2/3[人]×2[分]=4/3[分]=80[秒]  「夜8時台にこのスーパーに行くと、レジに1人いるかいないか(2/3人)くらいの待ち人数で、自分の会計をしてもらうまで平均80秒待ち」 という解釈で、先ほどの感覚は合っているといえるでしょう。  レジ待ち時間を決めるのは、「そのレジにお客さんがどのくらい頻繁に来るか(A)」「レジ係の手際の良さ(B)」ということがわかりましたが、多くの人は「どのレジに並ぶか」を考えるとき、まずは「そのレジに並んでいる人数(列の長さ)」を見て、どこに並ぶかを決めていると思います。  しかし、大抵は「待ち行列はどこも大差ない」はずです。レジの処理速度が早ければ、その分待ち人数は減っていくため、たくさんの会計処理ができるところほど人が流れて頻繁にお客さんが来ます。  つまり、「そのレジにお客さんがどのくらい頻繁にくるか(A)」ということも、「レジ係の手際の良さ(B)」に依存しているといえるでしょう。その時点での「レジごとの待ち行列の長さ」を見るよりも、「どこがスムーズに回転しているか」を見極めたほうが、早くレジを通過できます。
東洋経済オンライン 2024/02/16 16:00
〈受験シーズン〉現役東大大学院生・磯貝初奈アナの勉強法 中学受験は「効率」より「興味」優先
〈受験シーズン〉現役東大大学院生・磯貝初奈アナの勉強法 中学受験は「効率」より「興味」優先
優先したのは「効率」より「興味」。 正解した問題も、納得いくまで考え抜くことだったと語る磯貝初奈さん(撮影/写真映像部・東川哲也、スタイリング/青柳裕〈Azzurro〉、ヘアメイク/かんだゆうこ)  大学受験が本格的なシーズンに突入した。過去に話題となった記事を再配信する。(この記事は、2023年8月14日に配信した内容の再配信です。肩書、情報等は当時) *   *   *  フリーアナウンサーの磯貝初奈さんは、桜蔭中学校高等学校の出身。現在は仕事を継続しながら、東京大学の大学院に通っています。AERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2024』(朝日新聞出版)では、「勉強が楽しい、大好き」と語る磯貝さんに、中学受験の思い出について、語ってもらいました。 「興味あることを調べ、疑問を解決するのが大好き」  今年4月、自身の母校である東京大学の公共政策大学院に進学した、フリーアナウンサーの磯貝初奈さん。現在は7年ぶりの学生生活を送りながらクイズ番組やトーク番組に出演するなど、多忙な日々を送っている。  中高時代を過ごした桜蔭学園は、東京大学合格者数ランキングの上位に毎年名を連ねる名門女子校だ。 磯貝初奈さん(撮影/写真映像部・東川哲也、スタイリング/青柳裕〈Azzurro〉、ヘアメイク/かんだゆうこ)   「私の母も桜蔭の出身です。卒業後、年月を経ても当時の同級生と仲良くしている母の様子を見て、楽しそうだなぁと感じたことが、中学受験をしたいと思ったきっかけです」 「帰宅が遅くなると十分な睡眠が取れない」との心配から通塾を反対する母を説得し、受験塾に通い始めたのは小学5年生の秋だ。幼少期から「何かに夢中になると、周りが見えなくなる」性格。塾に通い始めてからは、鉄棒の練習や『ハリー・ポッター』に夢中になったのと同じ集中力で、勉強に取り組んだ。 母の方針で夜9時就寝 勉強方法は人それぞれ  興味を持ったこと、疑問に感じたことは、とことん追求するのが磯貝さんの学習スタイル。正解した算数の問題も、なぜその解法で正答が出るのかがわからなければ、納得いくまで考え、質問した。新しい知識を得ること、断片的な知識がつながり、大きな流れとして理解できるようになることの楽しさは、受験勉強にも感じることができた。  その一方で、塾に通い始めてからも母の方針は変わらず、塾のない日は夜9時に就寝する生活を継続した。 「たくさん問題を解くことで力を伸ばせる人もいれば、基本問題を5問完璧に理解して、そこから応用力を身に付ける方法が合っている人もいる。私は間違いなく後者。あのとき睡眠時間を削って無理をしていたら、勉強が嫌いになっていたかもしれません」 「中高時代の友人こそ受験で得た最高の財産」と語る磯貝初奈さん(撮影/写真映像部・東川哲也、スタイリング/青柳裕〈Azzurro〉、ヘアメイク/かんだゆうこ)   前日に押し寄せた不安。塾の仲間に救われた  志望校は桜蔭と、文化祭を見て気に入った共学校の2校に決めた。成績は合格ラインを上回っていたが、桜蔭の入試前日、弟から「初奈ちゃん、明日大丈夫なの?」と聞かれた途端、なぜか一気に不安が押し寄せた。そんな磯貝さんを救ったのは、一緒に桜蔭を受験した塾の友人と、受験生を励ますために桜蔭の校門前で待っていた塾の先生だった。みんなで円陣を組み声を掛け合うと、いつしか気持ちは前向きに。無事に入試を終え、出願した2校ともに合格を果たすことができた。 「私は興味を抱いたことを調べ、疑問を解決する作業が大好きなんだと、中学受験で改めて実感しました。途中、学習意欲が下がった時期もありましたが、楽しさより苦しさが上回る受験勉強にはならなかったと思います」  さまざまな情報をわかりやすく伝えるアナウンサーの仕事に興味を抱いたのは、中学生のころだ。「将来アナウンサーになったときの強みにしたい」と、1日10時間の猛勉強の末、高1の夏休みには気象予報士試験に合格。そのことが、大学在学中に抜擢されたお天気キャスターの仕事や、後のキャリアにつながった。 中高時代の友人こそ受験で得た最高の財産  中学では英語劇部、高校では料理部に所属。自由登校となる受験直前期も学校に通い詰め「一番、学校生活を満喫した生徒かも」と笑う。 磯貝初奈さん(撮影/写真映像部・東川哲也、スタイリング/青柳裕〈Azzurro〉、ヘアメイク/かんだゆうこ)   「今も同級生と会えば、話は尽きません。今後の人生でもずっと仲良くできるであろう友人と出会えたことが、中学受験で得た一番の財産です」  わからないことは徹底的に調べる性格は、今も変わらない。大学は理系専攻だったが、政治学、経済学といった文系科目を学ぶ大学院に進学したのは「ニュースとして報道される出来事の背景を理解できるようになりたかったから」と語る。目標は「百知った上で、一を語れる」ニュースキャスター。磯貝さんの学びの日々は、続く。 (文=木下昌子) ※AERAムック『偏差値だけに頼らない 中高一貫校選び2024』より いそがい・はな/フリーアナウンサー。中学受験で桜蔭学園に進学。15歳で気象予報士試験に合格(当時の女子最年少記録)。東京大学理科一類在学中にニュース番組のお天気キャスターを務め、大学卒業後、中京テレビを経てフリーに。現在は「サンデーLIVE!!」(テレビ朝日系列)に出演するほか、今年4月から東京大学公共政策大学院在学中。
東大磯貝初奈中学受験中高一貫校選び
dot. 2024/02/12 17:00
辻希美「5人目ほしい」と堂々宣言 “炎上ママタレ”から進化していた子育てスキルと経済的余裕
丸山ひろし 丸山ひろし
辻希美「5人目ほしい」と堂々宣言 “炎上ママタレ”から進化していた子育てスキルと経済的余裕
辻希美    タレントの辻希美(36)が1月19日に更新した自身のYouTubeチャンネルでの発言が話題となっている。なんと“5人目”の子どもの可能性について語ったのだ。2007年に俳優の杉浦太陽と結婚し、すでに4人の子どもがいるだけに、この発言には視聴者も驚いたようだ。  動画では「5人目は考えていますか?」というファンからの質問に、「もう1年半くらい前からずっと考えているんですけど、欲しいと思ってるときにやっぱりできないもの」と返答し、「授かるっていうのは本当に奇跡なんだなって思ってます」とコメント。子どもに手がかからなくなりつつある一方、「寂しさがやばいんですよ」と心境を明かしていた。SNSでは「5人目も考えてるとかすごい」「尊敬しかない」など、リスペクトする声もあがっていた。  辻は現在、高校生の長女、中学生の長男、小学生の次男、5歳の三男と、幅広い世代の子どもを育てている。そのうえ5人目も出産したいと宣言するのだから、無類の子ども好きなのだろう。その子育てぶりはいかなるものなのか。 「SNSでは辻が子どもに豪華な誕生パーティーを開いたりすると話題になりますが、実は子育て観はしっかりしている。昨年12月に配信された女性誌のWEB連載では、子どもの叱り方について持論を展開。叱り方は子によって違い、あえて怒りをぶつけたほうが良い子もいれば、冷静に話し合うことで耳を傾けてくれる子、お母さんは悲しいというスタイルが効果的な子など、さまざまだと語っていました。さらに、子どもたちの心のコンディションによっても違うので、見極めながら自分の思いを伝えるようにしていると明かしていました。ブログが炎上しまくっていたのはもう10年前。それを知らない今の若いママたちは、辻を子育て上手として好意的に見ている人が圧倒的に多いのです」(テレビ情報誌の編集者) 【こちらも話題】 加護亜依が夫も知らない悩みを激白「詐欺サイトから請求が…」 https://dot.asahi.com/articles/-/113951 東京おもちゃショー2022でJKのコスプレ姿を披露した辻希美(写真:つのだよしお/アフロ)   子どもへのSNS教育は特に熱心  昨年7月に公開された自身のYouTubeチャンネルでは、長男がテストの10日前に徹夜で勉強すると言い出したが、10日前に徹夜しても絶対に忘れるため、毎日少しずつ勉強するように助言したことを告白。さらに、自身の学生時代について、仕事をしていたので成績はオール1で、事務所の人から「成績が上がらないと仕事をさせない」と言われたと回想。そんな中、テストの前日に徹夜で数学だけ勉強し97点を取り、成績が2に上がったという。その上で、「結果がどうであれ頑張りゃいいのよ。とりあえずやって無理ならしょうがない。けど、やらずに無理は、それはダメ」と、思いを語っていた。そんなところからは、わが子と周りの子を比べない姿勢も垣間見える。  一方、これまで何度も炎上を経験してきた辻だけに、子どもへのSNS教育にはかなり力を入れているようだ。 「子どもたちがYouTuberをやりたいと言っているそうで、良い勉強だなと思って『自分で動画を作ってごらん』とやらせているとインタビューで明かしていました。また、世間からの反応についても『こういうコメントも来るよ』とか『良いコメントのほうが少ないと思っていたほうがいい』などのアドバイスもしているようです。また、動画への映り込みや反射にも気を付けさせているそうです」(同) 夫の杉浦太陽とは今でも夫婦円満(写真:つのだよしお/アフロ)   推定年収2億で経済的にも盤石  さて、5人目ともなると経済的な面での心配はないのだろうか。2022年に3億円ともいわれる豪邸に引っ越したことが話題になったが、「ダウンタウンDX」(日本テレビ系、23年5月18日放送)では、大型スーパーに行くと「1回で6~7万円分は買います」と明かしていた。4人の子どもの教育費や遊興費を含めると、相当な支出になるだろう。 「収入については、ブログだけで月間約700万円の収入があると、以前週刊誌で報じられたことがあります。その記事によれば、さらにYouTubeで月500万円以上の収入になり、CMやテレビの出演料を合わせると年収は2億円近いとも。正確な年収は不明ですが、金銭的な不安はなさそうです。一方、もし5人目を出産すれば現役タレントとしては前代未聞で、注目度が大きくアップすることは間違いない。経済的にはさらに盤石になると思います」(女性週刊誌の芸能担当記者) 「週刊SPA!」元副編集長で芸能デスクの田辺健二氏は辻の今後をこう分析する。 「以前は、おでんの写真をアップすれば『練り物が多い』と批判され、リビングでテレビを見ている子どもの写真をあげれば『テレビと子どもの距離が近すぎる』と、とにかく何をしても突っ込まれる時期がありました。それでも持ち前のアイドル性を発揮して巧みに受け流し、トーク番組の持ちネタとして披露するまで昇華。最近ではママぶりにも安定感が出てきて、豪邸で家族と仲良く暮らす幸せオーラが板についてきたことで、アンチも少なくなったように思います。これはもう辻ちゃんの寄り切り勝ち。もし5人目が生まれてより幸せオーラに拍車がかかれば、もはや無双状態でしょう」  子だくさんのベテランママとしての需要もますます高まりそうだ。 (丸山ひろし)
辻希美
dot. 2024/02/12 11:00
〈朝ドラいよいよ20週〉伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ
高梨歩 高梨歩
〈朝ドラいよいよ20週〉伊原六花「ブギウギ」ハマり役でブレーク必至 元“バブリーダンス女子高生”が一気に売れたワケ
伊原六花(写真:Pasya/アフロ)  朝ドラ「ブギウギ」もいよいよ20週を迎える。さまざまな俳優たちが出演、ドラマを盛り上げてきた。(この記事は「AERA dot.」が2023年11月10日に配信した記事を再編集したものです。肩書年齢等は当時のまま) *  *  *  NHK連続テレビ小説「ブギウギ」がスタートして約1カ月。物語の舞台は大阪から東京へと移ったが、前週の大阪時代に“二本柱”として、主人公・スズ子と梅丸少女歌劇団を盛り上げる秋山美月を演じた伊原六花(24)に注目が集まっている。タップダンスの名手としてキレのある踊りを披露し、凛とした男役を演じて芸達者な一面を見せつけた。SNSでも「タップダンスかっけー」「目線、姿勢、指先、ちゃんと男役だった」など、賛辞の声が多く上がっていた。  同作で男役の先輩・橘アオイ役として出演しているOSK日本歌劇団の翼和希も伊原の実力を高く買っている一人。情報番組で「私らは普段、お稽古を何年もやって舞台に立つんですけど、(伊原は)数カ月で仕上げてきはって。根性が素晴らしいと思います」(カンテレ「よ~いドン!」10月25日放送)と絶賛。「ホンマに自分らも見習わなアカンなと思いました」と刺激を受けていることを明かしていた。 「ドラマの制作統括者はインタビューで『お芝居もステキですし、度胸もあるので舞台でも映えるなと思いました』と起用理由を話していました。ドラマ公式のインスタグラムでは、舞台シーンの撮影時、舞台に足を踏み入れる前に立ち止まって、一礼していたというエピソードも。俳優としてのプロ意識がとても高く、まだ24歳とは思えません。これからドラマは東京に舞台が移りますが、新たなステージシーンもあるようなので、今まで以上に輝く秋山を楽しみにしている視聴者も多いのでは」(テレビ情報誌の編集者) 【こちらも話題】 菊地凛子「ブギウギ」ライバル役も好評 本格再始動で“悪役”の第一人者に躍り出るか https://dot.asahi.com/articles/-/205577 高校野球について語る伊原六花   小悪魔の女子大生役も好演  朝ドラで一気に名を上げた伊原だが、実は10月にスタートしたドラマ「マイ・セカンド・アオハル」(TBS)にも出演中だ。こちらの作品では、朝ドラとは真逆で、小悪魔的な女子大学生を演じている。放送後はドラマの関連ワードがX(旧Twitter)の世界トレンド1位になるなど、注目度が高い作品で存在感のある演技を披露している。 「『マイ・セカンド~』では、なにわ男子・道枝駿佑さん演じる主人公との近すぎる距離感や彼を翻弄する演技に、広瀬アリスさん演じるヒロインだけでなく、視聴者もドギマギさせられます。今までの役柄と違った伊原さんの演技はとても新鮮で、こんな役もできるんだと驚きました。髪をショートにしてから、大人っぽさも増してさらに役の幅が広がった気もします。伊原さんは10月公開のホラー映画『リゾートバイト』にも主演しているのですが、劇中のエビ反りシーンで見せた身体能力の高さが絶賛され、『CGだと思った』と共演者もうなったそうです」(同)   俳優の伊原六花=2021年6月、大阪市福島区    それもそのはず。実は伊原は全国優勝の実績があるダンスの強豪校・大阪府立登美丘高校ダンス部の元キャプテンなのだ。2017年「日本高校ダンス部選手権」で披露した、バブル時代を想起させる衣装とメークで、ヒット曲「ダンシング・ヒーロー」にのせて踊る“バブリーダンス”が社会現象になったことは記憶に新しい。これをきっかけに、出演オファーが舞い込み、同年末には、郷ひろみとの共演という形で紅白歌合戦にまで出場した。その後、大学進学を考えていたが、高校在学中に芸能事務所にスカウトされ芸能界の道へ進むこととなった。 【あわせて読みたい】 CM起用快進撃の今田美桜 人気のワケは「ちょうどいい」普通さ https://dot.asahi.com/articles/-/87841 和服姿もさまになる伊原六花(写真:つのだよしお/アフロ)   ゆくゆくは紅白の司会に!? 「伊原さんは実は子役出身。4歳からバレエを習い始め、子供ミュージカルにも出演していました。場慣れしているのはその影響もありそうですが、やはり高校時代の努力が生きているように思います。彼女が高2のとき、大会の出場メンバーに選ばれず、『初めて死ぬほど悔しい気持ちになった』とインタビューで回想していました。それから、1人でもひたすら練習をして、死ぬほど努力をしたと話していました。悔しさをバネに努力を惜しまなかったからこそ、今は芝居やダンスなどで豊かな表現力を発揮できているのだと思います」(週刊誌の芸能担当記者)  努力家で才能も確かな伊原だが、映画やドラマ以外でも需要が高まっているようだ。 「最近ではバラエティーでの活躍も目立ちますね。『ラヴィット!』では芸人顔負けの体を張ったロケにも挑戦して、『好感度上がった』という意見も多くありました。先日、『櫻井・有吉THE夜会』に出演した際も、キレキレのバブリーダンスを披露し、スタジオを盛り上げていました。大阪出身でノリもよく、すでにバラエティー班からも重宝される存在になっていますね。一方、10月末にNHKの歌番組『わが心の大阪メロディー』の司会を今田耕司さんとやっていたのですが、場回しが堂々としていたのも印象的でした。SNSでは『紅白の司会いけるんやないか』との声もあったほどです。昭和のアイドルのような顔立ちで、愛嬌(あいきょう)もあるので、年配層からの好感度が高いところもポイントです」(同) 芯にあるのは「体育会系」の強さ  伊原にインタビューをした経験のあるドラマウォッチャーの中村裕一氏は、彼女の魅力についてこう分析する。 伊原六花さん=2022年10月、東京都   「現在出演中の『ブギウギ』は、得意のダンスを生かせる、うってつけの役柄とあって、本人もかなり気合が入っているのではないでしょうか。主人公のスズ子の明るさとは対照的に、情熱を内に秘めたクールな表情がとても印象的です。また、かつて本木雅弘主演で大ヒットした映画の続編としてDisney+で配信中のドラマ『シコふんじゃった!』では相撲部の主将を演じ、元気でハツラツとした演技を見せています。3年ほど前の取材では、『ローストビーフ丼と親子丼が好き』と屈託のない笑顔で話してくれましたが、笑顔の中にも元キャプテンならではの凛とした芯の強さを感じました。ダンス部は一見、華やかに見えますが、たゆまぬ努力と積み重ねが求められる世界。彼女もそんな体育会系の雰囲気の中で、実直さや堅実さを身につけていったのでしょう。俳優としてまだまだ大きく飛躍する可能性を秘めていることは間違いありません」   持ち前のガッツと仕事に対するひたむきさで、24年は伊原の“おったまげー”な躍進が期待できそうだ。 (高梨歩) 【こちらも話題】 “行先不明”だった朝ドラ「ブギウギ」 蒼井優さんで見えてきた“笠置シヅ子”への道 https://dot.asahi.com/articles/-/203855
伊原六花ブギウギ
dot. 2024/02/12 08:00
〈ベストセレクション〉東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生
高橋真理子 高橋真理子
〈ベストセレクション〉東大卒業まで7年、今はシングルマザー ラフなTシャツ姿の女性都市工学者39歳の紆余曲折人生
博士課程修了式の日に息子とともに(小野悠さん提供)  科学ジャーナリストの高橋真理子さんが、女性科学者の仕事へのこだわりと熱意を引き出しながら人生に迫った人気連載「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」。その道を切り開いた人たちの言葉は多くの読者をひきつけた。中でも反響の大きかった回を大学受験シーズンで学問への関心が高まるいま、ベストセレクションとしてお届けする。今回は都市工学者の小野悠さん(この記事は、2023年2月7日に配信した内容の再掲です。年齢、肩書等は当時)。 * * * 「日本の科学を、もっと元気に!」を合言葉とするNPO法人「日本科学振興協会(JAAS=ジャース)」が昨年、誕生した。官製やお仕着せではなく、日本の科学の活性化に関心を持つ人たちが自主的に集まった組織である。昨年6月には熱気あふれるキックオフ会議を東京・お台場の東京国際交流館で催した。オンラインを含めた延べ参加者は3000人超。その開会式の壇上に第1期代表理事として、ラフなTシャツ姿で現れたのが都市工学者の小野悠さん(39)だ。豊橋技術科学大学(愛知県)の准教授で、研究室ホームページを見ると「学生時代にアフリカ、アジア、南米など約70カ国を旅し、博士課程在学中にナイロビのスラムで暮らす」とある。一体どんな人なんだろう。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) ――どういう研究をされているのでしょう?  対象にしているのは、インフォーマル市街地といって、法律や制度の外側で自然発生的に形成される都市です。こういうところは衛生環境や貧困などの課題を抱える一方で、日本の都市にはない魅力を見せるんです。住む人たちがどういう視点で空間を形成し、ルールを維持しているのかを調べることで、そうした魅力の要因を探り、今後の都市計画に生かしていけたらと考えています。調べるには現地に行って住民と信頼関係を築くことが不可欠で、アフリカやインドでフィールドワークをしつつ、一方で日本の地域づくりプロジェクトにも関わってきました。  こういう体験が、何もないところから新しい組織をつくるのに役立つかなと思って、準備委員会(*)をつくるときに「委員長やる?」と聞かれて「やろっか」と答えてしまいました。 (*)「日本版AAAS設立準備委員会」は2021年2月に発足。「AAAS(トリプル・エー・エス)=アメリカ科学振興協会」とは、1848年に創設された全分野の科学者が集う米国の組織。雑誌「サイエンス」の発行母体でもある。  私は2017年に豊橋技科大に着任し、そのころに日本学術会議の連携会員になって、情報が入ってきた。最初の集まりは東大で開かれたので参加できなかったんですが、コロナ禍になってオンライン会議が頻繁に開かれるようになり、こちらもコロナで時間ができたので、積極的に参加しました。 日本科学振興協会キックオフミーティング開会式で壇上に立つ小野悠さん(JAAS提供) ――委員長を引き受けて、どうでした?  大変でした(笑)。その当時、みんなで決めたことがいつの間にかなかったことになって誰かの意見が通っているみたいなことがよくあって、すごくもめた。それで、まず最低限のルール、何をもって決定とするのか、その決定事項を変えたいときはどうすればいいのか、といったことから決めていきました。  集まっているのはいわゆる自然科学系の人ばかりで、こういう経験があまりない人が多かった。 ――それで見事に任務を果たしたのは素晴らしい。準備委員会委員長からそのまま代表理事になって、でも1期だけで退いたんですね。  かなり悩みました。代表理事は男女2人で務めることになっていて、女性でやってくれる人はあまりいないだろうと勝手に責任感みたいなものを感じていたんですけど、コロナが落ち着いてきて、海外出張も入ってくるだろうし、学術会議も忙しくなる時期で、とても無理かなあと思って。「何で立候補しないんですか、困ります」みたいなことは言われましたが……。 ――なんだか、いつも自然体でいらっしゃる。  私は計画しないタイプで、これまでの人生けっこう紆余曲折あったんです。父親は東大卒ですが、やっぱり紆余曲折あって。私は小さいころから父によく似てると言われていました。私、いまはバツイチのシングルマザーです。 ――え! いきなりそこに行かないで順番にお伺いしましょう。お生まれは?  岡山市です。両親と2学年下の弟の4人家族で、母は県庁の総合職で定年まで勤めました。父は小児科医です。最初はロケットを作りたくて阪大を目指したらしいんですけど、1浪している間に社会に関心が出てきて東大の経済に進んだ。入ってみたら学生運動末期で、それに少し関わり、卒業後は岡山に戻って県庁に就職し、母に出会って私と弟が生まれた。  それから、私が病弱だったこともあり、働きながら受験勉強して岡山大の医学部に入りました。私が保育園のころです。医者になってしばらくして開業し、今は全部後輩に譲って、趣味とかやりたかったことをやっています。 ――へ~。  子ども心に「変わった親だな」と思ってました。うちには車がなく、テレビもなかった。テレビがないことにしんどい思いはありました。劣等感というか。小学校では、みんなの話についていけない。SMAPも見たことなくて、なんか5人いるらしい、ぐらいしか知らない(笑)。両親に「何でテレビがないの?」って聞いたんですけど、「うちに必要ないから」って。  海外旅行には保育園のころからよく連れて行ってもらいました。どこだったかパッと出てきませんが、アジアの島に4、5回かな。中1のときにフィリピンに行ったのが家族での最後の海外旅行でした。  それで小学生くらいから世界の貧困問題とか紛争とかに関心を持ち、図書館で「国連で働くには」とか「外交官の仕事とは」みたいな本を借りて読んでいました。そのうち、現場の状況と国際的に決まる政策とはかなりギャップがあるとわかってきて、自分の目で見て自分で判断できるようになりたいと思うようになった。 ――それ、小学生のときに思ったんですか?  そうですね。ちょっとませてたかもしれない。 高校2年生のときに行ったトルコの自給自足の村で搾りたての生乳で作ったチーズを食べる(小野悠さん提供)  中2で1カ月ぐらいオーストラリアにホームステイして、中3では中国の洛陽に1カ月弱ホームステイしました。高1のときは高校のプログラムで英国に1カ月行き、高2ではトルコに行きました。これはプログラムでも何でもなく、知り合いのつてでホームステイできるというので行ってみたらおばあちゃん3人暮らしの家で、同世代の子どももいないし、ここにずっといてもなあと思って1人でトルコを1周しました。お金がなかったので、宿代を浮かせるために夜行バスを乗り継いで、バスがないと町で出会った人に「すみません」みたいな感じで家に泊めてもらいました。 ――えっ、トルコ語でしょ、そこ。  トルコ語です。どうしてたのか。多分、通じてはいなかったと思うんですけど。  そのうち自給自足の生活をしているようなところに行きたくなって、途中で出会った人がうちの親戚はそういうところに住んでるよと教えてくれたので、バスで行きました。あとあと調べると、トルコの一番東のクルド人エリアだったんじゃないかと思うんですけど、どうやって連絡をとって行ったのかもはやわからない。親にも1カ月全然連絡してなかった。 ――基本的に夏休みに行ったわけですよね。  はい。終業式の前から宿題をやって、3日くらいで片付けて行ってました。 ――そうすると、クラブ活動はやらなかったの?  スポーツ少女だったんですけど、学校の部活は合わなかった。スポーツクラブで小学生のときは水泳、中学時代は硬式テニスをやっていた。高校に入るとき、Jリーグが盛り上がっていて、弟ともよくサッカーをやっていたので、男子サッカー部にちょっと入れてもらった。そうしたらすごく体力差っていうか体格差を痛感して、そのとき初めて女性と男性の違いを認識させられて、かなりショックな出来事でした。  で、バスケ部に入りました。と同時に、中3ぐらいからマラソンにはまってて……。マラソンはもともと両親がやっていて、朝に1時間とか走り込んでそれから高校で朝練、また夕方練習みたいなことをしていたら、膝を壊しちゃって。整形外科に行ったら、どっちかにしなさいって言われて、バスケは高2ぐらいでやめました。  高校のときにもう一つやっていたのが料理です。母親は休日にはボルシチやピザなど当時としては家庭であまり出ない料理を作ってくれることもありました。でも、ファミリーレストランとかに行かない家だったから、オムライスとか明太子クリームパスタとかに憧れがあって、それを食べたいと思ったら自分で作るしかない。他にも、粉からパンを作ったり、お菓子を作ったり、麺を作ったりするのがすごく面白くて。  それで、料理人になりたいと思って、調理師学校の入学資料を取り寄せて、どうしようか悩んでいた。そういう相談はよく父親にしていたんですけど、父は決して否定せず聞いてくれました。  結局、決断できずに高3の秋にひょんなことから東大に行こうと決心した。それから勉強しても1年目は普通に落ちました。それで東京の予備校へ。それまで勉強していなかった分、成績はどんどん伸びて、数学と物理が好きで理I(工学部・理学部進学コース)に入りました。  ところが、受かってから目標がなくなってしまって総崩れしたというか、学部を卒業するのに7年かかっているんですよ。 ――まあ!  いま考えると、かなり鬱っぽくなっていた。過食症だと思うんですけど、全然自分をコントロ―ルできない状態で、体重も倍ぐらいになった。ただ、大学では部活をちゃんとやりたいと思って、ビッグバンドジャズのサークルに入りました。子どものころからピアノはやっていたんですけど、先輩に勧められてあまり人気のないトロンボーンをやることにしました。 ――トロンボーンって難しいでしょう?  そうなんです。後から失敗したと思った(笑)。でも、最初に「やめない」というのを目標にしたから、居座ったっていう感じで、3年目にはバンドマスターをやって。大学には来ていたし、孤立していたわけではないんですけど、授業にはあまり行かなかった。  で、1年留年して、そのあと休学にしたのかな。サークルが3年目の12月で終わりなんです。もともと大学に入ったらバックパッカーをやりたいってずっと思っていたので、サークルを引退したらすぐ旅に出ました。  中国から入って、その後、アラビア半島に飛んでUAE(アラブ首長国連邦)、オマーン、イエメン、それからエジプトで高校時代の友達に会って、いったんイエメンに戻って現地で仲良くなった友人の結婚式に出た。そこから今度はアフリカに飛んでエチオピアとケニアを回って帰国しました。だいたい半年くらい。 ――お金はどうしたんですか?  アルバイトで稼ぎました。中東やアフリカはアジアと比べると物価も高いので、お金がすぐなくなる。なくなったら帰国して、またバイトして、お金をためて行く、というのを続けていました。 ――大学は全然ご無沙汰?  はい。家族には、もう辞めたいとか、やっぱり料理人になりたいとか話していました。 ――お父様は何と? 「今すぐ決めなくてもいいんじゃないか」みたいな感じ。それで、西アフリカのベナンという小さな国に行ったときに、大学に戻ろうと思う出来事があったんです。 【後編:東大在学中「恵まれた自分を卑下」して70カ国を放浪もフッと悟る 女性都市工学者39歳が向かう先】に続く。 都市工学者の小野悠さん 小野悠/1983年、岡山市生まれ。東京大学卒、工学博士(東京大学)。愛媛大学防災情報研究センター特定准教授、松山アーバンデザインセンター副センター長などを経て2017年に豊橋技術科学大学大学院工学研究科講師、22年1月から准教授。同年4月からは学長補佐も務める。インフォーマル市街地の研究で日本都市計画学会論文奨励賞や日本建築学会奨励賞などを受賞。日本学術会議連携会員(第25期若手アカデミー幹事)。日本科学振興協会(JAAS)第1期代表理事。
小野悠女性科学者東大
dot. 2024/02/11 15:00
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
高橋真理子 高橋真理子
〈ベストセレクション〉「専業主婦になる覚悟がなかった」 最高の名誉を受けた女性数学者72歳が結婚を経て「ものになる」まで
数学者の石井志保子さん  科学ジャーナリストの高橋真理子さんが、女性科学者の仕事へのこだわりと熱意を引き出しながら人生に迫った人気連載「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」。その道を切り開いた人たちの言葉は多くの読者をひきつけた。中でも反響の大きかった回を大学受験シーズンで学問への関心が高まるいま、ベストセレクションとしてお届けする。今回は数学者の石井志保子さん。(この記事は、2023年1月17日に配信した内容の再掲です。年齢、肩書等は当時) *    *  * 「日本学士院賞」は、日本の研究者にとって最高の名誉とされる賞である。その中からさらに選ばれた人だけに「恩賜賞」が授与される。明治43(1910)年に創設され、翌年に授賞式が始まって以来、初の女性の単独受賞者が誕生したのは2021年、実に111年目のことだった。その栄誉に輝いたのが数学者の石井志保子さんだ。  富山県高岡市の開業医の家に生まれた。地元の小中高を経て東京女子大学に進学、そこで数学に魅せられ、早稲田大学と東京都立大学の大学院で勉強を続けた。東京工業大学、東京大学で数学教授となり、定年退職した現在も東大大学院数理科学研究科特任教授である。  一直線に数学だけを究めてきたと想像されがちだが、実際は、結婚、子育てとライフステージの変化とともに柔軟にやりくりしながらの研究生活だった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) ――小学生のころから算数が得意だったのですか?  いえいえ、私は計算が遅くて、算数ができない子でした。数の感覚がすごく鈍いんです。そういう数学者は他にもいらっしゃいますよ。小学校時代はいじめられっ子で、よく泣いていました。学校にいるのが嫌で、早退したり、仮病を使って休んだり。 ――高校生のときに相対性理論に惹かれたとか。  相対論にはローレンツ変換という式が出てきますね。それを見てなんかすごく感動したんです。一つの式ですべてのことが記述できるというところに。たぶん物理の感動とは違うと思いますね。でも、そのころは物理が好きだと思って、物理の偉い人のいる大学に行きたいと、京大志望でした。  ところが、学園紛争で東大の入試がなくなった年で、それで他の入試も難しくなって、結局、志望校を変更して受けたんですけど、国立大はダメでした。東京女子大と津田塾大は受かりました。東京女子大のほうが都心に近くて格好よく見えた(笑)。 ――浪人は考えなかったのですか?  ええ。受験数学はあんまり好きでなかった。 ――どんな大学時代でしたか?  お友達がたくさんできて、楽しかった。クラスが四十何人かいるんですが、みんなと仲良しになって。私自身は空気が読めないほうだったんですが、それをみんなちゃーんと受け入れてくれるような感じ。サークルは、もともとバレエを6年間習っていて踊るのが好きだったので、競技ダンスをやりました。社交ダンスを競技としてするんです。  衝撃を受けたのは、これは男性が主体だとわかったこと。踊りを作るのは男性で、女性はそれに華やかさを加える役割です。上体を大きく反らしたり、猛スピードで走ったり、とてもきついんですが、2年間がんばって学年別戦で3位という成績を取れたので「卒業」しました。 ――女子大には男性がいませんよね?  東大と組むんです。 ――おそらく向こうには彼女探しという魂胆があったのでは。  だとしたら、私が非常に空気が読めないんだとよくわかる(笑)。私はその気は全然なかった。 ――物理より数学のほうがいいと思うようになったのはいつごろですか?  それは大学に入ってすぐ。極限を定義するε-δ(イプシロン・デルタ)論法に触れて感激して、これが本当の数学だと思った。そのあともこれが本当の数学だと思えるような経験がいくつか積み重なって、大学院に行きたいなあと。  ただ、東京女子大の授業は大学院入学を想定していないので、自分で勉強するしかなく、過去問を見たりしたんですが、やはり自分が受けた授業ではカバーしきれないところがありました。3校受けて、かろうじて1校受かり、早稲田大の大学院に進みました。  大学院では代数幾何ばかりやっていました。なんか自分自身が変わっていくのが面白かった。下宿先で朝起きてご飯を食べて研究し始め、それで夜にお風呂の中で朝起きたときの自分と違っているような気がしました。  そういう経験ってそのときだけですね。あとにも先にもない。何か新しいものをすごく貪欲に吸収する時期だったのかなと思います。 ――修士から博士に行くところでちょっと間があいていますね。  実は修士が終わった時点で、ものになるか心配になって、結婚したんです。 ――えーっ、そうなんですか。お相手は同じ富山県出身で、自治省(当時)を経て富山県知事を2004年から4期16年務めた石井隆一さんと承知しています。  私が大学生のときに知人が紹介してくれたんです。でも、そのときは結婚する気がなくて、「大学院に行きたい」と言ったら、「じゃあ、がんばりなさい」という感じでした。  それから2年ぐらいの空白があって。連絡をしてみたらまだ独身でした。そのあと、金沢転勤が決まったというのです。この人を逃したら、もう先はないという気がしてきて、私が追いかける形で金沢に行きました。そこで結婚式を挙げました。 ――そのときはいわゆる専業主婦になろうと?  いえ、その覚悟はできていなかった。あわよくば復帰してやろうと。  それを夫はわかっていたと思う。その証拠に、媒酌人に渡した自分たちの紹介文に、「志保子はこれこれこういう数学の仕事をしていて、できれば博士課程に進みたいと思っている」と書いたんですよ。媒酌人はその通り読み上げて、その後に「もちろんこれは冗談ですが」って(笑)。真面目な方だから、こんな嘘くさいこと言えないって思われたんでしょうね。 息子さんを抱いて(提供) ――新婦が博士課程に進むって、それも数学をやるって、冗談にしか聞こえなかったわけですね。  そうでしょうね。夫も半信半疑だったのでしょう。私が家で英語の論文を読んでいたら、「それ、お前わかるのか?」なんて言っていた。  でも、だんだん協力的になって、金沢から東京に転勤になったときに博士課程に行きたいといったら「いいよ」って。東京都立大の大学院に入ったのは1977年ぐらいかな。在学中に長男が生まれました。当時は博士号を取るには専門誌に掲載された論文が数本必要とされていました。 ――論文は一人で書いたんですか?  もちろんです。若いころは単著(一人で書いた論文のこと)を貫いたんです。女性が男性の先生と共著論文を出したら、「あれは先生が書いた」というような話が、たとえ事実でなくても出てくる。そういう実例を知っていましたから、警戒して、自分は絶対単著でやると決めていました。  あ、ちょっと待ってください。私は最初の論文を金沢にいるときに書いたんです。どこにも所属しておらず、指導教官もいませんから、論文の最後に入れる所属先の欄には金沢市の自宅の住所を書いた(笑)。  最初の論文ですから、英語なんてめちゃくちゃなんですが、名古屋大学の浪川幸彦先生が以前から励ましてくださっていたので、先生に原稿を送りました。そうしたら、指導教官代わりに英語を直してくださったうえにドイツの数学専門誌への投稿を勧めてくださって。投稿したら幸いにも掲載されました。  ああ、私ってなんと恩知らずなんだろう。浪川先生の御恩を忘れてしまって。今まで、この話をしたことはありませんでした。 ――修士を出たあとに家で一人で論文を書いたとは驚きました。数学者としてやっていけると思えるようになったのはいつごろですか?  博士課程で論文をいくつか書いてからですかね。 ――書いた論文がすごく褒められたりしたのですか?  いえ、特には。論文誌に投稿してアクセプト(掲載許可)されると「良かったですね」と言っていただくぐらいで。数学者はそういうことは表に出さない人が多いです。  ただ、博士号を取ってから、なかなか就職できずに苦労しました。アプライ(応募)はもう常にしていました。トータルで三十いくつしたと思うんですけれども、25ぐらいまで数えてあとはわからなくなってしまった。 ――ようやく1988年に九州大に採用されたんですね。  子どもが4歳か5歳のころ、1984年か85年あたりに夫の転勤で北九州市に行きました。2年ぐらい住んで、九大の先生たちとセミナーをやってすごく楽しかった。そのあと、東京に戻ってから、助手を募集するから応募しませんかと連絡が来たんです。  最初は迷いました。「遠いからちょっと無理だよねえ」と夫に言うと、「まず最初のポジションをゲットするのは大事だよ。そのあと異動するということもできるんじゃないか」って言うんです。子どものことは何とかなるみたいなことも言って、でも自分でやるわけじゃないのに、どうしてそんなことを言えたんでしょうね。 富山の日枝神社へ家族で初詣=1985年ぐらい(提供) ――実際にはどうされたんですか? ご実家も遠くて頼れなかったと思います。  結局、私が考え出したんですよ。私が大学院生時代にお世話になっていた下宿の息子さんがそのとき大学生になっていて、彼が泊まりに来てくれて子どもと一緒にご飯を食べてくれて、朝ご飯は夫の分も作ってくれて。家庭教師兼お兄ちゃんみたいな感じで。  毎週、東京と九州を飛行機で行ったり来たり。助手という職階だから、何とかなったんだと思います。それにしても、良く採用していただけたと思います。当時は女性の数学者がいない時代でしたから、数十人の応募者の中から私を選ぶのは簡単ではなかったようです。私を推薦してくださった何人かの先生がたが大変苦労されたと聞きました。九大には1年7カ月いて、そこで東工大の公募があったので、応募したら採用されました。仕事に行ってその日のうちに家に帰れるのが嬉しかったですね。 ――まさに夫の隆一さんのアドバイス通りになったわけですね。  そうですね。ただ、九州から戻ってしばらくしたら夫が静岡に転勤になって、静岡は近いので私も一緒に行きました。今度は静岡から遠距離通勤です。  こどもが6年生になって、静岡の塾に通って中学受験しました。首都圏の私立中学に合格したので、私と息子だけ一足先に東京に帰ってきて、息子は東京から中学高校に通いました。 ――働く母にとって中学受験は大変な難関なのに、お見事ですね。  いや、もうほとんど全滅なんですよ。1校だけ受かった。  ところが、息子は高校でほとんど勉強しなくて、すごく能天気な男だから模擬試験では志望校を堂々と書くのだけれど判定はいつもEでした。3年生の10月からは自由登校で学校に行かなくてよくなって、家で勉強をし始めた。でも「お母さん、英語の勉強って、問題集を買ったほうがいいかな」なんて聞いてきて、もうこの時期に何言ってんの、という感じ。ところが、自分で計画を立てて勉強するのが合っていたみたいで、第1志望に合格しちゃった。  今まで、あれしなさい、これしなさいって言っていたのは何だったんだろうと思いました。私はほとんど自分のことで頭がいっぱいで、ほったらかしていたんですけど、ふと見ると遊んでいるから「勉強しなさい」っていっぱい言った。悪いパターンですよね。 ――息子さん、数学は得意でしたか?  私が苦手意識をつくったかもしれない。息子の言によると、私に数学の質問をすると、私の人格が変わるんだって。自分の子どもだと、いい加減なことをされるとちょっと許せない。「自分の間違いが許せない」の延長線上にあるのでしょう。  やっぱり自分の子どもを教育するのは難しい。 ――夫の隆一さんは子育てにどのくらい関わったのでしょう?  精神的なアシストだけです。  夫の実家はふとん屋さんだったので、女の人が働くのは普通だとは思っていたんでしょうね。とはいえ、価値観は古かったんじゃないかなあ。結婚するときは、僕は自分の目標が妻の目標であってほしい、みたいなことを言っていた。途中から変わってきたんですよね。二心連帯って言うようになった。一心同体ではなく、という意味です。 ――いい表現ですね。  夫がラジオ番組に出たことがあって、それを聴いて私は初めて知ったんですけど、九州に引っ越したときに、自分は用があって外出して戻ってきたら、ダンボールの箱がいっぱい置いてあって、妻がダンボール箱を机にして何か計算していた。それを見て、こんなにひたむきに頑張っているんなら、この人の目標を取り上げてはいけないと思った、と。なんか思い出すと今でも涙が出てきます。  どこでもドアじゃなくて、どこでも机、だった。でも、夫がそんなふうに見ていてくれたんだなと、ジーンときてしまう。  私が何でここまで続けてこられたかというと、サポートしてくれる人に恵まれたということと、自分自身の執着心がかなり強かったということがあると思います。でも、執着心が強すぎるぐらいでないとできないという社会はどうなのでしょうね。才能に応じてその才能が開花できる社会であってほしい。数学は家でも研究ができますから、女性にとってはやりやすくて、一番伸びしろのある分野だと思うんですよ。  それなのに、理系のほかの分野よりも伸び方が少ない。そこが何とかならないかなと思っています。 スウェーデンのミッタク・レフラー研究所での研究集会で講演=2017年(提供) ――最初は単著ばかり書いていたとのことでしたが、恩賜賞の受賞理由に取り上げられている業績の中には共著論文もありますね。1968年に出された「ナッシュ問題」というものを、米国プリンストン大のヤノシュ・コラー教授と一緒に2003年に解決された。4次元以上では成立しないこともあるという結果は世界に衝撃を与えたそうですね。  年を取ってから共著論文を書く楽しさを知りました(笑)。この問題は2次元でばかり研究されていたので、4次元以上では成り立たないこともあるという結果には確かに皆さんが驚いて、大きな反響がありました。国際研究集会に招待される回数も増えましたし、基調講演を任されたこともあります。  国際的な研究の場では、女性であることはあまり気にならないし、気にもされませんね。男性か女性か、あるいはそれ以外なのか、とにかくほとんど関係ありません。日本の女性には、ぜひ数学の世界に飛び込んでみて、と伝えたいです。 石井志保子/1950年、富山県高岡市生まれ。東京女子大学卒。早稲田大学大学院理工学研究科数学専攻修士課程修了、理学博士(東京都立大学)。九州大学助手、東京工業大学助手、助教授、教授を経て2011年から東京大学大学院数理科学研究科教授。現在は同特任教授。2021年に「特異点に関する多角的研究」(※)で恩賜賞・日本学士院賞受賞。 ※特異点とは何か。小学校の算数では必ず「0で割ってはいけない」と習う。その「いけないこと」を無理にやったときに生まれるのが「特異点」――というのが、一番簡単な説明だと思う。この私の説明を石井さんに伝えると、「複素関数の特異点」としては正しいのだが、自分が研究しているのは違う、とのこと。研究対象は「多様体の特異点」で、そちらはx²ーy³=0を満たす(x、y)の集合の原点のように「滑らかでない点」(つまり、とんがっている点)のことだそうです。 特異点が入ったグラフ
石井志保子女性科学者数学者
dot. 2024/02/11 14:00
天龍さんが語る“女傑” ジャイアント馬場夫人VS.ジャンボ鶴田夫人の壮絶バトル!?
天龍源一郎 天龍源一郎
天龍さんが語る“女傑” ジャイアント馬場夫人VS.ジャンボ鶴田夫人の壮絶バトル!?
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)   「環軸椎亜脱臼(かんじくつい・あだっきゅう)に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」と「敗血症性ショック」で長らく入院生活を続けていた天龍源一郎さん。今回は自宅療養中のところ、これまでに出会った印象的な女性たちについて語ってもらいました。   * * *    俺のお袋は18か19歳で嶋田家へ嫁に来たんだけど、もとは大きな農家の長女で、いいところのお嬢さんだった。嫁いできてからは畑仕事に一生懸命だった。うちの親父は専売公社で葉タバコの栽培の指導をしていて、福井県内だけでなく、石川県まで出向いて仕事をしていたんで、お袋は大切な労働力だったんだよ。    ちなみに、馳浩の実家も葉タバコ農家でうちの親父も指導に行っていたんだ。お袋は親父とそりゃまぁ壮絶なケンカをしていたね。お袋も長女で気が強いから言いたいことを言うし、親父は力任せに投げ飛ばしたり、ちゃぶ台をひっくり返したりして、お袋が耐えかねて裸足で外に逃げていくと、俺もよく一緒に探しに行ったもんだ。    夜空の星を見ながら「俺は絶対この家の子どもじゃない。こんな気性が荒い親から俺が生まれる訳がない」と思っていた。とにかく激しいケンカが絶えなかった二人だが、俺の後に二人の子どもが出来ているのは不思議だね(笑)。まあ、二人とも若かったってことだ。   お袋はよく働く人    お袋はよく働く人で、家の田畑の仕事はもちろん、俺が相撲に入ってからは町工場で働いてずいぶん稼いでいたようだ。福井は織物が盛んで、その工場も景気がよかったのかな。   「あんちゃん(俺のこと)の手が離れて自立できたし、妹と弟が大学に行くまでのお金が稼げてよかった」と言われたことがあるんだけど、親父の稼ぎはどこに行ったんだろう? その辺の真相はよく分からないけど、とにかくよく働いていた。    その一方で、料理はまずかった(笑)。味噌汁なんてお湯が沸いたら味噌を入れておしまい。俺も相撲に行って料理を覚えたから「お袋、味噌汁はちゃんとダシをとって、こうやって作るんだ」って教えても「そうかい」なんて言って、ちっともうまくならない。    実家から離れてみて「これじゃあ、親父も怒るなぁ」って同情したもんだ。カレーだって、俺はちゃんと肉が入っていたもんだと思い込んでいたけど、60歳過ぎてからその話を妹としたら「なに言ってるのよ! ちくわしか入ってなかったわよ!」だって(笑)。 【前回の記事はこちら】 天龍さんが語る“へそ曲がり” 相撲界のへそ曲がり、北尾光司に手を焼いた理由 https://dot.asahi.com/articles/-/212570 2023年2月の誕生日ショットはこちら!(天龍源一郎オフィシャルInstagramより)/■2024年2月19日 『STILL REVOLUTION』Vol.10■天龍源一郎&スタン・ハンセン『龍艦砲』が集う、スペシャルイベント開催決定!/日時:2024年3月11日(月)開場18:30/開始19:00◆大会情報、チケットのお求めは天龍プロジェクト各種SNS、HPなどでご確認いただけます。◆天龍プロジェクト公式Webショップhttps://www.tenryuproject.jp/    そんなお袋は子どもたちには優しくて、親父が付き合いで飲みに行ってるときは、母子で和やかに過ごしたことを覚えている。親父のバイクの音が聞こえると、それまで見ていた民放の番組をパッとNHKに替えてね。親父は民放を見ていると「くだらないものを見やがって!」と怒るんだ。    お袋の料理がまずいと言ったけど、お袋は朝起きたらご飯だけ炊いてすぐに畑に行って、昼はお茶づけで済ませて、すぐに畑に戻って、朝から晩まで働いていたんだからしょうがない。まだお袋のおっぱいを吸っていた頃、乳がうっすら葉タバコの匂いがしたのを覚えている。その記憶があるから、俺はタバコを吸わなかったのかもしれないな。お袋のことは聞くも涙、語るも涙だよ。    俺が田舎から出てきて、最初に出会った女性は二所ノ関部屋の女将さんだ。相撲の世界に来たら、どの部屋の女将さんも女優みたいにきれいだから、相撲取りはいい女房をもらうんだと思った。   女将さんに世話になったのは前借    その女将さんに一番世話になったことといえば、端紙(はがみ)だ。いわゆる、給料の前借で、下っ端の力士は十両に上がるまで給金も少ないし、住む場所と食事は用意されてるとはいえ、「いいわ、いいわ」で使っちゃうから、いつも金欠だ。相撲取りは、先輩から使う金ばかり教えられて余計なことばっかり覚える。錦糸町のクラブに行ったりね。あの頃は錦糸町が大繁華街で、その先の平井や小岩はちょっと田舎だったね。    金が無くなると女将さんのところに行って「端紙お願いします」って3~5万円くらい金を借りるんだよ。その借金は次の給金からしっかり引かれるし、女将さんがそれを忘れたことは一度たりともなかった。しっかりしてるよ(笑)。    給金から引いておかないと返せないだろうし、いついなくなるかもわからないからね。それに、当時は若い衆がたくさんいたから、毎月の端紙の額もバカにならなかっただろう。女将さんはお目付け役として、俺らの生活を見ているから、端紙して「ごっちゃんです」って言うと、なにげなく「使い過ぎてるんじゃない?」ってよく聞かれたもんだよ。    俺は女将さんの女学生時代の友達の伝手で入門したもんだから、女将さんにもずいぶんよくしてもらっていた。雑用をしていると親方と女将さんが食事している部屋に呼ばれて「嶋田君、これ食べなさい」っていろいろ食わせてくれたり。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“モテる”大横綱が口説いていた女性を落としたイケメン力士は? https://dot.asahi.com/articles/-/208567  ほかの力士にはしないようなことで、すごく目をかけてくれていたのがわかったよ。親方も俺に期待をしていろいろと稽古をつけてくれたし、親方から俺のことをいろいろ聞いていて、余計によくしてくれたんだと思う。    でも、そんな女将さんとの関係は、大麒麟が謀反を起こした「押尾川騒動」で一気に切れちゃった。女将さんに恨みはないし、本来なら俺を育ててくれた二所ノ関部屋に恩義があるはずなのに、部屋を継ぐときの金剛の言動で義憤に駆られてね。    最後に女将さんに部屋に残ってくれと言われたときも「女将さん、話はそれだけですか」ってずいぶんテンパったことを言ってしまったよ。今になってやっぱりお世話になった女将さんのもとに残るべきだったと思う。あの頃は自惚れて、意固地になって、正義感を出しちゃって、新選組みたいな気持ちだったなあ。    そうやって女将さんとの関係もぷっつり切れてしまったけど、プロレスに転向してなかなか芽が出ない時期に、シンガポールに遠征した帰りの飛行機でばったり女将さんに会ったんだ。「お久しぶりです」って声をかけたら「嶋田君、久しぶりね」って、なんのわだかまりもなく話をしてくれた。    どっちからどうということもなく3時間くらい話し込んだよ。「あのときは生意気なことを言ってすみませんでした」って謝ったら、女将さんも女将さんで「最後に偉そうなこと言って、あの頃はテンパっていたわよね」って(笑)。プロレスに転向して一年くらいの頃で、全然上手くいかなくて、身の程を知ったときだったから、以前と変わらず接してくれた女将さんにはずいぶん救われた思いがしたよ。   ジャイアント馬場さんの妻・元子さん    プロレスに転向してから出会ったすごい女性といえば、やっぱりジャイアント馬場さんの奥さん、元子さんだ。元子さんはいい評判も悪い評判もあるけど、ジャイアント馬場をジャイアント馬場たらしめんとするために、自分が矢面に立って守っていた人だ。    馬場さんを守るために最前線に立って憎まれ役をやっていた。俺も全日本プロレス時代は、元子さんに何か聞いたり、意見したりしても「そんなことはいいの。あなたたちは知らなくても」って感じで。天龍革命のときに本体のバスとは別で移動していたから「レンタカー代を会社で出してくれ」って頼んだら「レンタカーを借りるのに、チケットを何枚売らなきゃいけないと思ってるよ!」って突っぱねられて、頭に来たこともあった。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“入院生活” 突然死の宣告で重篤の中「三途の川」を見た体験とは? https://dot.asahi.com/articles/-/203249    でも、それを馬場さんが言うと馬場さんの格が落ちるから、いつもそういう憎まれ役になるのは元子さんだったんだよね。元子さんに言われる分には「この野郎」で終わるけど、馬場さんに言われたら、馬場さんの威厳も無くなってしまうからね。    どこでも「元子の野郎!」っていう文句は聞いていたけど、それも全部全日本プロレスの質を落とさず、馬場さんを高みに持っていくためにやっていたことで、社員でも生意気だと「あなた嫌いよ、明日から来なくていいわ」っていう調子だったからね。    だから、元子さんのことはハッキリして付き合いやすいという人も多かったよ。元子さんは嘘はつかないからね。元子さんはたったひとり、馬場さんにぴったり寄り添って、最後まで馬場さんだけの味方で、ほかの選手に近づいて、美味しいことや調子のいいことを言ったりはしなかった。   馬場さんにとっていい右腕    普通だったら、馬場さんや会社や選手の間に入って、裏で選手の根回しとかするもんだけど、絶対に馬場サイドからしか物を言わないし、根回しもしない人だった。馬場さんにとってはいい右腕だったわけだ。    かといって、ビジネスパートナーというわけでなく、周りに人がいないときは「馬場さん、馬場さん」と甘えるのが上手くて、見ている俺の脇から冷や汗が出るくらいの甘えぶりだったよ。馬場さんにしても信頼しているし、可愛くてしょうがない女性だったからね。    二人は大恋愛で結婚したし、元子さんは50歳になっても可愛らしさを持っていたし、少女みたいな一面があったからね。それが男社会のど真ん中にいて大変だったと思うし、誰に対しても平気で物を言う性格だったけど、うちの女房とはフラットに接してくれていたから馬が合ったのかな。一方で、ジャンボ鶴田の奥さんとはイマイチ合わなかった(笑)。    全日本の選手とその家族で海外に行ったとき、現地の空港スタッフに元子さんが英語で話しかけたら聞き返されて、そこで元スチュワーデスのジャンボの奥さんがペラペラの英語で話したら、元子さんの機嫌が悪くなったこともあったね。    それから、元子さんとうちの女房とジャンボの奥さんの3人でテレビに出るときに、元子さんとジャンボの奥さんの衣装の色がかぶって、俺の女房が間に挟まって大変だったこともあったよ。 【こちらも話題】 天龍さんが語る“ファン” 馬場さんが「うるさい!」とジャンボ鶴田のファンにやきもち!?  https://dot.asahi.com/articles/-/41091    元子さんも負けん気が強いから、よくぶつかっていたよ。エネルギーがあるなって思っていたけど、それで腹が減ってキャピタルホテルでいい飯を食べていたんだろうね(笑)。馬場さんにとっては、アントニオ猪木さんの次に、いいパートナー、コンビだったんじゃないかな。    女子プロレスラーでいえば、長与千種が思い浮かぶね。クラッシュギャルズで一世を風靡していたとき、あるパーティーで俺とジャンボが彼女らを抱っこさせられたりもしたが、当時は「男のプロレスの真似しやがって」という感じで見ていたのが正直なところだ。    それが俺の引退前に6人タッグで一緒に試合をしたときに、タイミングとか間とか、プロレスというものをよく知っているなという印象を受けたんだ。プロレスは妙に節回しとかテンポが合うレスラーがいて、それは練習である程度まではいくけど、それ以上は教えてもできない。持って生まれたセンスであり、ムーブメントが時代とマッチするかしないかという要素もある。    長与のそのセンス、プロレス脳に唸って、試合後も娘相手に長与のことをずっと褒めたことを覚えている。   神取忍もがんばっていると思えた    その長与とタッグを組んだときに、対戦相手にいたのが神取忍だ。彼女は柔道日本一を背負って、よくあそこまでプロレスに同化できたなって感心するよ。そういう看板を背負ってるとプロレスというショービジネスに溶け込めないものだけど、長与の後でがんばっていると思えるのは神取だ。    なんてたって、参議院議員だからね。それでしっかり金を貯めて残したのも偉いね。秘書なんかは次の選挙のために金を使った方がいいとアドバイスしていたらしいけど、次の選挙に出るつもりもなく、しっかり金を残して、堅実で人生設計もしっかりしている。そういえばプロレスも堅実なスタイルだもんね。    女子プロレスラーで印象深いのがもう一人、アメリカのファビュラス・ムーラだ。俺が30歳くらいのときに、アメリカで50代の女子プロレスのチャンピオンだったのが彼女だ。    いまでこそ50歳の女子プロレスラーはいるけど、当時は珍しかったんだ。彼女をトップに20人くらいの女子選手を抱えていて、ムーラはプロモーター兼選手で、試合に女子選手を出したいときは彼女が一手に引き受けていたからね。    なかなかのやり手で、男のレスラーも気を遣っていたりするのを見て、この人は本物なんだと思ったよ。試合も見たけど、もう50代ということもあって、まあ、晩年の天龍みたいなもんだったけど。 【こちらも話題】 日本女子プロレスラー、本場アメリカのWWEで大人気なワケ https://dot.asahi.com/articles/-/102267    そして、最後はやっぱり、俺の人生に一番影響を与えたのは間違いなく女房のまき代だね。俺の三角だった性格を楕円形にしてくれた。人生を教えてくれた人だ。関西人だから話をうまく丸くまとめるのが上手だったよ。    その女房の血を受け継いだ娘も年々似てきて、まだちょっと角があるけど、もう少しすれば女房にそっくりになるよ。こんなジジイの面倒なんかみなくてもいいのに、ちゃんとやってくれているし、たまに衝突することもあるけど、俺のことを理解してくれているという意味でも、本当に感謝している。これもまき代の育て方の賜物だろうと思うよ。これが娘だからうまくやれるのかな? 息子だったらぶつかっていただろうなあ。   最後にあげる女性はやはり女房    振り返ると、今回挙げた人以外に、付き合ってきたおネエちゃんもふくめて、俺は女性でババを引いたことはないなあ。プロレスで名が売れてくるといろいろな女性も寄ってきたけど、そこはちゃんとしていたよ。うまく料理してこその一流だ!    男がちゃんと思いやりを持って付き合っていたら相手も理解してくれるし、結婚してんだったらその先、壁があるのは分かっているだろう。そこはお互い妥協をしなけりゃいけない。ねんごろになって、そこから二進も三進もいかなっくなりそうなとき、ちょうどプロレスのシリーズが始まったり、アメリカ遠征が始まったりで、連絡とれなくなったりして、うまい具合に収支がついたことも大きかったね(笑)。    まあ、女房よりもほかの誰かを選ぶことは絶対になかったよ。最近になって特に思うよ、あんないい女性をうまいこと引き当てたもんだってね。なんで結婚してくれたのか真相はわからないけど、女房はよく「初めてのデートで行ったふぐ屋で、ふぐの毒に当たって惚れちゃったのよ」と言っていたけどね(笑)。 (構成・高橋ダイスケ)
天龍源一郎プロレス相撲
dot. 2024/02/11 07:00
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唐澤俊介 唐澤俊介
CMキング「ダンディ坂野」の意外な子育て 小学生の息子は全国模試3位の“秀才”
ダンディ坂野さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    2000年代、「ゲッツ!」のフレーズで一世を風靡したお笑い芸人のダンディ坂野さん(57)。【前編】では、ブレーク当時の裏話やテレビから“消えた”時代、今は“氷河期”の真っただ中だという「一発屋芸人」の特殊事情などについて語ってもらった。【後編】では、CMが途切れない理由、あまり知られていない家庭生活や子育てについて聞いた。 ※【前編】<一発屋の星だった「ダンディ坂野」が“今は氷河期”と話す理由 「ブームはここ10年で終わりました」>より続く *  *  *  バラエティー番組で見る機会は減り、世間では「消えた」とまで言われていたダンディさんだが、その間もCMのオファーは絶えることがなかった。現在でも十数本のCMに出演しており、クライアント受けはすこぶる良いようだ。ブレークのきっかけを作ったのも、CMだった。 「初めて出演したCMが、マツモトキヨシさんのものだったんです。マツモトキヨシさんの色だから、それまでと違った黄色のスーツを着ました。それがトレードマークになったので、何が起きるかわからないですよね。広告からブレークするっていう珍しいお笑い芸人だなって思います」  なぜこんなにもCMオファーが途絶えないのか。その理由を尋ねると、「正直、わからないです」と笑いながらこう話す。 「記事のコメントとか見てると、『人柄がいいから』とか『真面目だから』とかって書いてあるんですけど、そんなことはなくて……。人柄も性格も普通なんですよ(笑)。ただ、『ゲッツ!』って短くてキャッチーだし、何かをゲットするとか前向きな感じですよね。そこが良かったのかもなって思います。ネガティブなフレーズだとCMでは使いづらいですよね。『春の〇〇キャンペーン実施中! チクショー!!』とか(笑)」 営業で大人気のダンディ坂野さん(事務所提供)   時間ができて幼稚園の送り迎えも  一方でテレビの露出は減り、週末は地方営業に飛び回る日々となった。本人のなかでは、ブレーク時と今はどちらが充実しているのだろうか。 「僕のなかでは、全盛とまではいかないですけど、今、結構いいなって思ってるんです。営業もがっつりやって、CMも頑張って。殺人的なスケジュールをこなしていたときって、『自分って何もできないな』って思うことが多かったんです。それまでお笑いライブに出て、『ゲッツ!』しかやってなかった30過ぎのおじさんがテレビに出てもやっぱり対応できないんですよ。それで、『うわぁ……』って頭抱えてましたね。今のほうがモチベーションを保って仕事に取り組めている気がします」  ブレークから数年すると仕事も落ち着き、余裕ができたことで、夫婦で過ごす時間も出てきたという。 「忙しかったときは、妻とどこにも行けなかったんです。当時、子どもはまだいなかったんですけど、せっかく一緒に暮らしていたのに、妻との時間がとれなくて寂しかったですね。ずっと仕事で家を空けてて、夜中に帰宅して、少し寝て、翌日、すぐに仕事に向かう生活でした。でも、ブレークから数年経つと休みも増えて、予定が立てやすくなりました。お正月にはハワイに1週間行ったりできたので、妻もとても喜んでいました。子どもが生まれてからは、幼稚園の送り迎えや育児もできてますし、妻も今の僕のスケジュールが一番いいみたいです」 営業の風景(事務所提供)   息子は塾で成績がトップクラス  ダンディさんは今後について、「とりあえず65歳になったときに、経済的に困ってなければいいかなと思っています」と話す。 「僕としては、好きで始めたお笑いで、ブレークもできて、もう既に目標を達成できたなって感覚があるんです。競争の激しい芸能界で、あるときからずっと食べてこられて、家族も養えて、都内にも住んで。もう望むものはないかなって思います。理想の人生を歩めているなって」  いま長女は中学生、長男は小学生。子どもたちは、将来、ダンディさんのようにお笑い芸人を目指す、とは言わないのだろうか。 「絶対に言わないです(笑)。上の娘は、絵とかソフト開発に興味があるみたいです。なので、将来はコンピューター系とか美術系の学校に行くとか考えるかもしれませんね。パソコンでイラスト描いているのをよく見ます。で、下の息子は、『僕はちょっと面白いYouTuberになりたい!』ってよくわからないこと言ってます(笑)。まあ、小学生なので。僕も同じくらいのときはピンク・レディーになりたい、とかって言ってましたから(笑)」  しかし、そんな長男は「もしかしたら秀才かもしれない」のだとか。 「全国模試で、1教科だけではあるんですけど、全国3位をとったことがあるんです。塾内でも成績がトップクラスみたいで。そんな感じに見えないんですけどね。帰ってきたら、帽子脱いで、ランドセル、バーンって置いて、すぐテレビ見ようとするから、いつも『勉強しなさい!』って妻に怒られて。そんな姿を見て、『こいつ、これで塾で1位か2位の成績なのか』って不思議に思ってます(笑)」 ダンディ坂野さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   マクドナルドのCMに出演できたワケ  これまで芸能界の浮沈を経験してきたダンディさんに、最後に「人生で一番記憶に残っている一日」を聞いた。 「忘れられない仕事はたくさんありますけど、マクドナルドのCMが決まったときですね。LINEで連絡が来たんですけど、めちゃくちゃうれしくて。実は僕、売れてなかった時代に10年間くらいマックでアルバイトしていたんです。妻ともそこで出会っていて。広報誌にも出たことがあります(笑)。バイト初日にもらう手帳に、『ファーストイン』っていって、初出勤の日付が書いてあるんですけど、その日が娘の誕生日と同じなんですよ。そんなことは忘れていたんですが、あるとき引き出しの整理をしていて偶然、それを目にして。マクドナルドとはものすごい縁があるんですよね」  1時間に及ぶ取材を終えたあと、一つ聞き忘れたことがあったと思い出した。席を立ち上がり、帰ろうとしていたダンディさんを呼び止め、聞いた。  マックのCMに起用された理由はなんだったんですか? ダンディさんは、振り向きこう答えた。 「キャッチコピーが、『チキンマックナゲッツ』だったんです」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●ダンディ坂野(だんでぃ・さかの)/1967年、石川県生まれ。田原俊彦に憧れて、93年に上京するが、お笑い芸人の道を志す。2002年、マツモトキヨシのCMに出演したことで、翌年から「ゲッツ!」のフレーズで大ブレーク。「新語・流行語大賞」にもノミネートされた。その後も、テレビやCM、営業などで活躍を続ける。また、昨年公開の映画「ミステリと言う勿れ」での演技が話題を集めた。
ダンディ坂野一発屋芸人
dot. 2024/02/10 11:00
『であすす』著者・花田菜々子が、話題の書店「蟹ブックス」を立ち上げるまで
『であすす』著者・花田菜々子が、話題の書店「蟹ブックス」を立ち上げるまで
新たな「場」となった蟹ブックスで。「結果論だけど、この店がちょうど良かったと思う」(撮影/関口達朗)    小さな独立系の書店が人気だ。「蟹ブックス」もその一つ。2022年に花田菜々子が東京・高円寺で開店した。人の話を聞くのが好きで、場の空気をとらえるのもうまい。それでも、居心地のいい場所が見つかりそうになっては失った。未知なる出会いを求めて、世界を広げていく花田が、ここからどんな道を進むのか。誰も分からないから楽しい。 *  *  * メールで取材を申し込んだ時、蟹(かに)ブックス店主の花田菜々子(はなだななこ・44)はひどく戸惑っていた。最初の返信には「正直に申し上げまして、どうして自分にと思いますし、荷が重いような気もしております」とあった。その答えに驚いた。著書『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(以下、通称『であすす』)は6万部を超えるベストセラー。2022年9月に開いた東京都杉並区高円寺の書店「蟹ブックス」も人気書店となっていた。私の目には〈現代の肖像〉へ登場するのにぴったりの人と映っていたからである。  一度私に会ってから決めたいと言われ、暑さの残る9月、蟹ブックスへ出かけた。1時間ほど話をした3日後、OKが出た。なぜ花田はあれほど取材を受けることに慎重になっていたのか。何度か取材するうちに、幼い頃からまわりに対して抱いていた違和感と自己肯定感の低さにたどり着く。  花田は東京都足立区生まれ。家は自営業で、祖父母と両親、妹の6人家族だった。自宅に帰ればいつも家族のいる環境。花田は初めての子としてとても可愛がられて育った。 「小さい頃から本当に字を覚えるのが早くて、教えられる前から看板を読んで驚かれました。絵本も字だけの本も、早くから読んでいましたね」  両親は特に本好きというわけではなかったが、娘が本好きなことを喜び、父は「字の本なら好きなだけ買っていい」と言ってくれていた。文章を書くことも好きで、小学校3年の時にできた友だちとは大人になるまで交換日記を続けた。当時は少女小説がはやっていたが、早熟な花田はだんだんそれに飽き足りなくなっていく。小6の頃、書店の平台に積まれていた山田詠美(えいみ)や吉本ばななの作品に出会い、強い衝撃を受けた。 「山田さんはすごく格好良かった。あんなに素敵なのに、黒人とつきあっていることで中傷されたり、性のことを書いて攻撃されたり。でも私には『彼女たちの言っていることの方が本当なんだ』と思えたんです。ほかにも江國香織、川上弘美、銀色夏生(なつを)などは全部読みましたね」 埼玉県さいたま市大宮区に新たにできたシェア型書店「本と喫茶 夢中飛行」のオープン記念イベントに招かれ、これまでの書店での経験や蟹ブックスのこと、『であすす』のことなどを話す。イベントの仕事も多い(撮影/関口達朗)   意味のない校則に反発 仲間外れは日常だった  思春期が女性作家の充実期と重なったのである。大人になればこういう世界が待っているのだ! だがこのような自我の芽生えは学校や家庭への疑問も育てていく。両親は門限に厳しく、服装にもいちいちチェックが入った。友人と渋谷へ出かけることすら許されない。「このままだと『山田詠美』になれない!」と思った。小学生の頃から痴漢などの性被害に遭うこともあり、両親は娘が未知の世界に出ていくことが心配だったのだろう。 「でも、自分としては守って欲しいなんて思ってない。それよりいろんな街へ出ていろんなものを見たい。今に続く根っからの性質です」  学校では意味のない校則や制服に反発するようになった。靴下は白に限ると言われれば、教師に対して「なぜそうなのか」と問いたださずにはいられない。そんな花田はクラスで浮いていく。いじめ、仲間外れは日常だった。人生でいちばんつらかった時期である。『完全自殺マニュアル』がベストセラーになった時は早速手にとった。 「自殺を図ったことはありません。ただ、いつでも死ねると思えば生きていける。『死んでもいいんだよ』と言い続けることで、死ぬことの〆切を先延ばしにするようなもの。あの本で救われた人は多いはずです」  中2の時、コンビニで手に取った雑誌「CUTiE(キューティ)」で岡崎京子の漫画に出合う。数ページ読んだだけで「ここですごいことが起きている」と感じられた。ストリートファッションやサブカル中心の記事も新鮮だった。 「当時の『CUTiE』には自分の夢の世界があった。よし、こっちへ行くぞと思いました」   高校は「制服がない(当時)」という理由で都立上野高校へ進学。高校ではサボれるだけサボった。写真家の蜷川実花(にながわみか)やHIROMIXが活躍し始めた頃で、「こういうことが表現なんだ!」と刺激を受け、写真も撮り始める。文章も書き続けており、作家になりたいという淡い希望を持っていた。両親は良い大学から良い会社へ入ってほしいと強く願っていたが、学校へまともに行けないのにきちんとした会社勤めなんてできるわけがない。何より自由に生きたかった。最終的に「なんとか大学には行ってほしい」という親との折り合いをつけ、日本大学芸術学部文芸学科へ進む。 「ここで身の程を知るんです。文芸学科ではみんな小説を書いていて、それを集めた冊子を10人くらいで作るのですが、読んでみたら全員才能がなかった(笑)。文章を世に発表したいという気持ちがゼロになってしまいました」 ペットのインコ「たいペー」と。「人生のあらゆる不幸や災難の中でインコの死がいちばんおそろしい」というほど可愛がっている。「たいペー」は出勤する時に連れてこられ、レジのそばの鳥籠で過ごす(撮影/関口達朗)   工夫した手書きのPOPで 本や商品が大ヒット  家には終電で帰るか、友人のところへ泊まるなどして帰らない。親に抑圧されていた期間が長かったので夜中に行動することが嬉しかった。アルバイトもたくさんした。中でも銀座にあったSM系バーでの仕事はおもしろかった。客との行為が伴うわけではない。エナメルの服、網タイツ、膝上のブーツなどをまとい、変わった性的嗜好のある客の話を聴くだけ。ある種の後ろ暗い秘密を抱える男たちがただゆっくり酒を飲み若い女の子と話せる場として、高い金を払い店に通ってきた。 「私にとってはサブカルの世界でした。大学の同級生とは全然違う世界に生き、人との会話を深めていく楽しさをこの時期に知った気がします」  大学を出て飲食の会社に就職したが、3カ月で退職。翌年、書店「ヴィレッジヴァンガード」へアルバイトとして入社する。セレクトされた本や多彩な雑貨を並べ、POPで埋め尽くされたサブカルの発信地として人気を集めていた「ヴィレッジヴァンガード」下北沢店は、学生時代から足繁く通った大好きな店だった。最初に入った六本木ヒルズ店では「その他大勢としての入社」だった。当時の店長だった吉田亮(48)は、 「会社にはそれまで女性がほぼいなかったのですが、さすがにこのままではまずいと募集したら入ってきたのが彼女です。女性としての先駆者的な存在で、社内的には果たして女性がヴィレッジヴァンガードでやれるのか、やれるとすれば何ができるのか注目されていました」  と話す。最初のうちは雑貨を中心に担当した。この時期花田は独特の嗅覚を発揮する。たとえば若い女性向けのノーブランドの香水を、POPを工夫することで何百個も売って話題になった。その時彼女が書いた言葉は「抱きしめたくなる香り」。 「POPで売れたことは一目瞭然。そのうち全店舗で彼女の真似をして売り始め、結果的には数万個売れる大ヒット商品になったんです」(吉田)  売ったのは香水だけではない。売りたい本や商品に手書きのPOPをつけ、次々にヒットさせた。自分にないものだと一時は諦めていた「書く才能」がここで発揮されたのである。 「彼女は自分の思い入れだけで書いているわけじゃないんです。届くべき人のところに届くような、橋渡しをするような、ちょっと距離のあるPOP。相当手間暇がかかっていたと思います」(同)  それまでは社会と適合できないという劣等感が強かったのに、小売りがおもしろくて自分の能力を発揮できる場だと気づいた花田は仕事が大好きになった。やがて店長に昇進。社員にもなって、首都圏ばかりか宇都宮や京都で店を任された。スーパーバイザー的に店を横断してアドバイスする立場になると出張で全国をまわった。忙しかったが好きな本は常に傍にあった。いつも何かを吸収したい一心だったのである。 (文中敬称略)(文・千葉望) ※記事の続きはAERA 2024年2月12日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/02/09 18:00
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感
体育館に「おうち」ができた…能登半島地震で大活躍する「1棟1万円」の簡易住宅を作った大学教授の使命感
屋外用の「インスタントハウス」。一人でも1時間で組み立てられる    能登半島地震で段ボール製の簡易住宅「インスタントハウス」が大活躍している。組み立ては15分、原価は約1万円で、屋根と扉、窓もついた小さな「家」だ。被災地の子供は「体育館におうちができた」と話しているという。インスタントハウスはどうやって生まれたのか。開発した名古屋工業大学の北川啓介教授に、フリーライターの川内イオさんが取材した――。 絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感  元日に起きた大地震の影響で、およそ600人の被災者が身を寄せる石川県輪島市の市立輪島中学校。雪が積もるその中庭に、不思議な形の建物がたたずんでいた。モンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居「ゲル」のようにも見えるし、卵の卵白を泡立てたメレンゲのようにも見える。 この建物は、「インスタントハウス」という。考案したのは、名古屋工業大で教授を務める建築家、北川啓介さん。1月2日から被災地で被災者支援にあたっている彼が建てたものだ。  インスタントハウスは、空気を送り込むと風船のように膨らむよう設計されたテントシートの内部に、断熱材として一般的に使用されている発泡ウレタンを直接吹き付けている。直径は5メートルあり、床面積は20平米、高さは4.3メートル。原価は15万円、北川さんひとりで施工しても、わずか1時間で完成する。  インスタントハウスに足を踏み入れた時、思わず「あっ」と声をあげてしまった。外はダウンジャケットが欠かせない気温なのに、内部は小型のファンヒーター一台で、上着を着ていると汗ばむほどに暖かい。発泡ウレタンのなかにある無数の気泡が空気のバリアを作って、冷気を遮り、ヒーターの熱を留めているのだ。壁から天井まで全体が白くモコモコしているせいか、絵本に描かれた家のなかにいるような非現実感もある。 屋内用は15分で組み立てられる  輪島中学校のアリーナには、屋根と扉、窓がついたダンボール製の小さな家が置かれていた。これは、北川さんが編み出した室内用インスタントハウス。大人と一緒なら子どもでも組み立て可能で所要時間15分、要望に合わせて形状を変えられて、ハウスとハウスの連結も可能というすぐれもので、原価は約1万円。 「屋根がついている避難所のブースって、ほぼないんですよ。でも壁だけより、天井とか屋根があった方が保温性も高いし、心も休まるし、家に帰ってきたという感じになりますよね。子どもでも作れるようにしたのは、避難所に身を寄せられてる皆さんが、みんなで手を動かしてインスタントハウスを作れるようにしたかったから。形も変えられるので、自分がほしい家の形にして、未来に向かっていく気持ちが少しでも湧いてきたらいいなと思ったんです」  明るい話題が少ない被災地で屋内用、屋外用のインスタントハウスは脚光を浴び、さまざまなメディアで報じられた。その存在が知れ渡るにつれてニーズも拡がり、今、被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いているそうだ。  寝る間も惜しんで被災地を駆け巡る男は、「建築家になるつもりはなかった」と苦笑する。彼が目指したのは、和菓子職人だった。 学生時代に振る舞った「和菓子の家」  北川さんは1974年、名古屋市で3人兄弟の末っ子として生まれた。父は和菓子の職人で、母と一緒に「尾張菓子きた川」を営んでいた。瑞宝単光章を受章した父の腕は確かで、2022年には『マツコの知らない世界』でも紹介されている。  幼い頃から店頭に立って売り子をしていた少年は、いつの頃からか、和菓子職人を志すようになった。修行先を探すため、高校時代は全国の和菓子店を訪ね歩いた。その際、堺市の和菓子屋に惚れ込み、高校を卒業したらそこで働くつもりだった。  ところが、「友だちが受けるから」と気まぐれで受けたセンター試験で、名古屋工業大学の工学部に合格。両親の希望もあって入学した。もともと建築に思い入れはなかったから、大学の外で学生生活を謳歌した。  唯一、「めっちゃ楽しかった」のは設計の課題。北川さんはいつも、曲面が多く、ぐにゃぐにゃと柔らかな「和菓子のような建築物」を構想し、「自分の頭のなかをアウトプットしやすいし、一番慣れている」という理由で、和菓子の素材で模型を作った。講評会の後の打ち上げでは、同級生や教授に「和菓子の家」を振る舞った。  最終学年になっても、卒業したら和菓子職人に、という思いは変わらない。しかし、父親に「そろそろ、和菓子職人に……」と相談すると、毎回「まだ早い」と説得された。 「建築を深めれば、もっと人に求められる和菓子ができるようになる」 「洋菓子を学んだら、もっと面白い建築のような和菓子ができるかもしれないぞ」 暗中模索の教員生活  そのたびに、「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じて大学院の修士課程、博士課程と進んだ。博士号を取得して「これでようやく……」と思っていたところ、親身に指導してくれた名古屋工業大名誉教授、若山滋氏に声をかけられて、2001年、助手として名工大で働き始める。  ここで自分でも意外に感じるほど学生に教えることにやりがいを感じるようになり、2007年には准教授に。傍から見れば順調すぎる教員生活ながら、「ずっと暗中模索でした」と語る。 「若山先生は、とても高尚に背筋が伸びるようなハイカルチャーのことを語られるんですよ。狂言の話をしたり、源氏物語や徒然草から引用したり。僕は29歳の時(2003年)から自分の研究室を持たせてもらったけど、若山先生のようにはなれないし、どうしようかなと悩んでいました」 「サブカルに詳しい建築の人」を揺さぶった言葉  霧のなかを抜け出すきっかけをくれたのは、元AKB48の篠田麻里子だった。2005年に秋葉原を訪ねた際、当時まだAKB48劇場内のカフェ「48's Cafe」のスタッフだった篠田麻里子が路上でチラシを配っていた。それを受け取った北川さんは、吸い込まれるように劇場に足を運んだ。そこには、熱狂的に声援を送る男たちがいた。 「なんだ、これは……」初めて見る光景に圧倒されながらも、北川さんは「秋葉原って面白い」と感じたそうだ。ちなみに、2005年は秋葉原のメイド喫茶が話題を呼んだ年で、新語・流行語大賞には「萌え~」がトップ10入りしている。秋葉原独特の熱気に触れた北川さんは、マンガ喫茶の研究を皮切りに、サブカル路線に舵を切った。研究対象は、出会いカフェ、ラブホテル、パチンコなどに広がっていった。そのうちに、「サブカルに詳しい建築の人」として知られるようになっていった。  北川さんが着目していたのは、「家以外のスペースで、人はどういう生活をしているのか」。それが、意外な依頼を引き寄せる。2011年4月15日、北川さんは宮城県の石巻中学校にいた。前月に起きた東日本大震災により、石巻中学校は被災者の避難所になっていた。「家以外のところでの生活」に詳しい北川さんの意見が聞きたいと、朝日新聞から同行取材の申し入れがあったのだ。  現地に到着したのは夜で、冷え冷えとした体育館のなかを1時間ほど案内してもらった。その間、ずっと北川さんについてまわるふたりの男の子がいた。小学校3年生と4年生のふたりは、視察を終えた北川さんが「それでは失礼します」というと、近づいてきてギュッと人差し指を握り、「ちょっといい?」と引っ張り始めた。ふたりは北川さんを校庭が見える場所まで連れていくと、校庭を指さした。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  北川さんは、黙り込んだ。数秒経ってから出てきた言葉は、「ちょっと待っててね」。それしか言えない自分が、歯がゆかった。 「ホイポイカプセル」のアイデア  翌日、岩手の花巻空港から名古屋に向かう飛行機の機内でも、前日のやりとりが頭から離れなかった北川さんは、そもそもなぜ仮設住宅の建設に何カ月もかかるのか、思いつく限りの要因をノートに記した。「(部材が)重い」「部品数が多い」「いろいろな職能の人が必要」など、数えてみると、ちょうど40個になった。  今度は、「重い」なら「軽い」という具合いに、40個すべてに対義語を書き出した。そのすべてを実現すれば、もっと早く仮設住宅を建てることができるという仮説が成り立つ。どうすればいい? と考え込んでいるうちに、名古屋空港に着いた。外はまだ肌寒く、カバンにしまっていたダウンジャケットを取り出して羽織った瞬間、脳内に電流が走った。 「カバンの中に小さく収まって、着た瞬間にもう暖かい。これってなんかあるなと思ったんです。『ドラゴンボール』のなかで小さなものがポンっと大きくなるアイテムが『ホイポイカプセル』として出てくるんですけど、そのメカニズムって誰もやっていなかったんですよね。そのメカニズムを建築に応用して、なにかできるんじゃないかと思いました」  名古屋での日常に戻ってからも、40個の対義語をどうクリアするかを考え続けた。そうして、最も重要なポイントは「空気」だと気づく。 「普通の建築って硬い、重い、(価格が)高いでしょう。硬くて重いものを使えば手間がかかって値段が上がるし、時間をかければそれだけ価値のあるものだと思って、お客さんもお金を払う。でも、被災者が使う仮設住宅もそれでいいのか。だから僕は、基本的に人が生きる際にどこにでもあって無料で使える空気を使おうと思ったんです」  空気は、トップレベルの断熱材として知られる。軽くて薄いダウンジャケットが温かいのは、羽毛や化学繊維が空気の層を形成するからだ。 閃きをもたらしたフランスパン  北川さんは、サブカルから急ハンドルを切って「空気をまとう住宅」の開発に乗り出した。風船、布団、食器洗い用のスポンジ、シャボン玉など「空気」に関わるいろいろな素材で実験を繰り返した。失敗続きだったが、それを重視した。 「多くの人は、失敗するとわかっていることはやらないと思います。でも、失敗して初めてわかることもあるんですよ。失敗しないと現場的な感覚も改善のポイントもわからない。失敗の先に、なにかあるはずなんです」  5年間、たくさんの失敗を重ねた北川さんは、2016年10月のある日、地元のイオンモールのパン屋さんでフランスパンを目にして、閃いた。 「フランスパンって外側は硬いのに、中身はフワフワで芳醇ほうじゅんだ。しかも、オーブンに入れたら自然に膨らむ。この構造を使えないか?」  にわかに頭が高速回転を始める。パズルのピースがカチカチとはまっていくように、テントシートに空気を送り込んで、内部に断熱材を吹き付けるというアイデアが思い浮かんだ。  数日後、北川さんは大学の運動場にそれまで協力してくれていた建築学の先生、断熱材メーカーの担当者、大工、学生など関係者を集めて実験を行った。そこにいる全員が「できないだろう」と考えていたし、北川さんも大きな失敗でいいと思っていた。  ところが実験開始から15分、そこにはインスタントハウスの原型ともいえる2畳ほどの空間ができあがっていた。予想外の展開に、周囲から「うわーっ!」と歓声が上がる。近くにいた4人がそれをヒョイッと持ち上げるのを見た時、北川さんは鳥肌が立った。 「ついに40項目をクリアした!」 安心できる住まいを提供したい  そこからは、改良を重ねていく日々。安くて、快適で、早く簡単に建てる技術が確立されてくるにつれ、仮設住宅に限らず、土地さえあればどこにでも置けて、簡易な住まいとして使えることがわかってきた。それは、世界の経済格差や貧困問題にも貢献できる可能性を示す。 「2000年の段階で、世界の10人に1人が壁のある家に住めていないと国連の統計で出ています。建築の専門家として、そういった人たちに、ひとつでも安心できる住まいを提供してからこの世を去りたいと思うようになりました」  2018年、名工大の大学院工学研究科教授に就いた北川さんは翌年、産学連携していた株式会社LIFULLと共同で、名工大発ベンチャーの「株式会社LIFULL ArchiTech」(ライフル アーキテック)を設立。インスタントハウスを世界に広めるために、本格始動した。  Sサイズ(5平米)110万円、Mサイズ(15平米)187万円、Lサイズ(20平米)258万円で、施工に要するのは3~4時間。断熱性が高く、夏は小型の冷風機、冬は小型のファンヒーターひとつで快適に過ごせる画期的な「家」だ。太陽光発電を活用すればオフグリッドで生活可能で、例えば学校の校舎などにも応用できるという。  多様な環境で利用できるように設計されており、屋根には雪が滑り落ちやすい45度の傾斜をつけている。また、風速80メートルの台風にも耐える強度を誇る。  発売から間もなくして新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、アウトドアブームが来た。その風に乗ってインスタントハウスは主に全国のキャンプ場で導入され、北海道から沖縄まで100棟以上販売してきた。これは図らずも、酷寒でも酷暑でも使用に耐えるという証明になった。 大地震が起きたトルコへ  2023年2月6日、ついに研究成果を見せる時が来た。トルコ南東部のシリアとの国境付近で、大地震が発生。日本赤十字の発表によると、倒壊した建物の数は数十万棟、トルコ、シリア両国で約6万人が犠牲となった。 「町がゴーストタウンに」というニュースを聞いて居ても立ってもいられなくなった北川さんは、以前から知り合いだったJICA職員の田中優子さんに連絡。トルコ事務所長の田中さんが被災したトルコ南部ガジアンテプ県アンタキヤ、ハタイ県ヌルダーの県知事や市長とつないでくれることになり、すぐ現地に飛んだ。  最初にヌルダーの町を訪ねてインスタントハウスの話をすると、すぐに具体的な話になった。担当者に100棟建てるのにどれぐらいの土地が必要かと尋ねられ、目安を示すと、「100棟分の土地を用意する」と確約してくれた。次に訪れたアンタキヤでも、歓迎された。  問題は資金。現地で断熱材の発泡ウレタンを入手するとしても、Lサイズのものを100棟建てるには1億円以上必要になる。それだけの資金調達は難しく、最終的に現地で支援活動をしていた国際協力NGOピースウィンズ・ジャパンが購入するという形で、アンタキヤに3棟寄贈された。  北川さんは4月、アンタキヤに飛び、その3棟を自ら完成させた。政府職員や被災者の住居、倉庫として使われ、「涼しい」「快適」と絶賛された。しかし、100棟建てたいと言ってくれたヌルダーのことを思うと、すぐにすべてを届けられないことがもどかしかった。 「東日本大震災以来、安くて、快適で、早く建てられる住宅を目指していたのに、インスタントハウスはトルコの仮設住宅より高価で、お金が理由で建てらなかった。自分はなんのためにやってきたんだろうと思うと、悔しかったですね」 被災した子供たちを見て発した妻の一言  同年8月下旬、北川さんは妻と一緒にインドネシアのチカランにいた。トルコでの反響から、海外でもニーズがあると確信。いざというときに自分が現場に行かなくても住民が自力でインスタントハウスを建てられるように、ノウハウの伝え方や住民による作業の検証に行ったのだ。  その際に燃焼実験や耐久性の実験も行い、想像以上に構造物としての強度があることがわかり、新たな手応えを得たその帰り道。名古屋へ向かう飛行機のなかで夫婦の話題にのぼったのは、現地で目にした、手を差し出し、お金や食べ物を求めてくる子どもたちだった。同じような貧しい子どもたちの姿は、発展途上国だけでなく先進国でも見てきた。  建築学科の後輩で、北川さんの試行錯誤を一番そばで見守ってきた妻から「本当は、ああいう子たちのためにインスタントハウスを使いたいんでしょう」と聞かれた北川さんは、「そうなんだよね」と頷いた。そして、「じゃあ、やってみようか」とふたりで話し合ってから間もない翌月8日、モロッコ中部の山間部で大地震が起きる。  調べてみると、モロッコでは仮設住宅1棟が100万円弱することがわかった。トルコの時と同じ思いはしたくない。北川さんは思い切って10分の1の価格を目指した。  市販しているインスタントハウスは10年程度の利用を想定し、その間、不具合が起きないようハイスペックになっているが、仮設住宅はそこまで必要ない。テントシートの素材を変え、発泡ウレタンも高度な吹付技術が必要で価格も高いもの(独立気泡の発泡ウレタン)から、海外でも簡単に入手できるもっと安いもの(連続気泡の発泡ウレタン)に変えた。  これで、施工1時間、原価15万円の人道支援用インスタントハウスが完成。大学で実験して十分な強度があるとわかると、北川さんはモロッコにいる知り合いに連絡。「夜はとても寒い。お願いしたい」という声を聞き、スーツケースにテントシートだけを入れて現地に飛んだ。  現地で連続気泡の発泡ウレタンを調達し、ひとりで施工したところ、想定通り1時間で完成した。その様子がモロッコのテレビ、ラジオで放送されたこともあり、後日、モロッコ政府から接触があった。現在、インスタントハウスの導入について、政府関係者とやり取りを重ねているそうだ。 二度目のトルコで悔しさを噛みしめる  その2カ月後、北川さんは再びトルコにいた。防災を担当する省庁から、災害時の仮設住宅としてインスタントハウスを導入したいと招かれたのだ。その際、副大臣との話に上がったのは、ヌルダー。そう、地震直後に「インスタントハウス100棟分の土地を用意する」と言ってくれた町だ。震災から9カ月が経ち、まだ復旧作業が続く町なかには無数の仮設住宅が立ち並んでいた。そこを副大統領と視察した北川さんは、目を疑った。 「町のメインストリートに面した一角に、100棟分の土地がきれいに整地されたまま残っていたんです。いい場所だし、もうなにかに使われているだろうと思っていたのに……」 脳裏に蘇ったのは、東日本大震災の記憶。 「仮設住宅が建つまで、なんで3カ月も6カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ」  トルコ政府は北川さんを歓待し、この訪問以降、人道支援用インスタントハウスの正式採用に向けて本格的に動き出した。しかし、北川さんは悔しさを噛みしめながら帰国した。  その後悔が、新たなアイデアをもたらしたのかもしれない。北川さんはコロナ禍に、感染症対策として使えるのでは、と屋内用のインスタントハウスを作り始めた。当初は屋外用のインスタントハウスを小型化したものを想定していたのだが、用途を考えると手間と時間がかかり過ぎているように感じて、開発が止まっていた。  トルコから帰った後、北川さんは「原点に返ろう」と、「宝物」というノートを開いた。それは、石巻中学校に行った翌日、飛行機のなかで「40項目」を書き記したノートだ。そのノートを見返しているうちに、閃いた。 「ダンボールで作ろう!」  思いついたら、一直線。1カ月もたたないうちにダンボール製のインスタントハウスが完成し、12月6日、7日に名古屋で開催された防災展で展示した。そして2024年1月1日、能登半島地震が発生した。名古屋の自宅にいた北川さんは展示の際に用意していた10棟分の屋内用インスタントハウスをレンタカーに積み込み、翌日には卒業生の山田さんとともに石川県に入った。 子どもたちと建てたインスタントハウス  いくつかの避難所を巡ったなかで、最も過酷な環境だったのが輪島中学校だった。  特にアリーナは2階のガラスが割れ、凍えるような冷たい風がアリーナのなかに吹き込み、冷蔵庫のようだった。避難所の職員にインスタントハウスの話をすると、「ありがたい」ということだったので、着替えやオムツ交換、授乳スペースとして屋内用インスタントハウスを建てることにした。  1月4日、ダンボールをアリーナに運び入れて作業を始めると、物珍しそうに被災者が近寄ってきた。最初の1棟に屋根を上げた瞬間、アリーナ全体から少しずつ拍手が起きた。「これなに?」と聞く子どもたちに、「みんなのお家だよ」と答える。 「一緒に作っていい?」 「いいよ」  その場にいた数人の子どもたちが、手伝ってくれた。2棟目が完成した瞬間、3歳の女の子が大きな声で「お家ができた!」と叫んだ。隣りにいた母親から、今回の地震で自宅が全壊してしまったと話を聞いた北川さんは、アリーナの外に出た。そこで堪えきれず、涙を流した。  その後、子どもたちは屋内用インスタントハウスに絵を描いて遊ぶようになった。そこには、「ちょっとせまいけど いえかんせえ」と書かれていた。この絵と文字は、3歳の女の子と小学校1年生のお兄ちゃんが描いたものだ。取材の日、その子たちのお母さんに話を聞いた。 「初めて見るデザインで最初はなんなのかなと思ったのですけど、メルヘンチックな感じですごくいいと思います。子どもたちも一緒に作ったりして、楽しそうでした。かわいい家が完成した後も出たり入ったりして遊んでいましたよ」  その後、校舎の1階と2階、屋内型広場などに計10棟を建てた北川さんは、翌日、名古屋に戻った。その際、ダンボール業者やテント屋、断熱材メーカー、運送会社と協議し、屋内用インスタントハウス110棟分の資材を調達。屋外用インスタントハウス3棟の資材と合わせて、再び輪島中学校に向かった――。 「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた  この記事を書いている1月22日時点で、北川さんが拠点をおく輪島中学校ではアリーナに屋内用インスタントハウス250棟を建てる準備が進められており、2棟の人道支援用は、被災直後から狭い職員室での雑魚寝を強いられていた教員が寝泊まりするようになった。  今現在も支援の輪は広がっており、インスタントハウスの実費調達のために開かれた名古屋工業大学基金に寄せられた寄付は1650万円。屋内用インスタントハウス440棟分と人道支援用インスタントハウス13棟分が、主に輪島市各町の避難所に届けられる準備が整った(1月22日時点)。  冒頭に記したように、すでに被災地全域から屋内用インスタントハウス2000棟、屋外用インスタントハウス100棟の要望が届いており、これから能登半島にたくさんのインスタントハウスが建てられる。それはまさに、東日本大震災以来、「家に困っている人を助けたい」と走り続けてきた男が思い描いてきた光景だ。  しかし、まだ足を止めるつもりはない。北川さんの頭のなかには、さらに進化した人道支援用インスタントハウスの構想がある。世の中には、廃棄される農作物も多い。それらを使って、100%生分解性の断熱材とテントシートを作ろうとしているのだ。  北川さんが思い描くのは人間、動物、昆虫が食べられるエディブル・インスタントハウス。この話を聞いて、北川さんが学生時代に和菓子の素材で模型を作っていたことを思い出し、「お菓子の家と同じ発想ですね」というと、北川さんはいたずらをたくらむ子どものような顔で笑った。 「お菓子の家っていう人もいれば、おかしな家っていう人もいるんですけどね」  誰も想像しなかった膨らませる家を生み出した北川さんは、「おかしなお菓子の家」の実現も信じて疑わない。詳しいことは書けないが、アメリカの政府機関も、この男の創造力に注目している。北川さんはこれからも、世界の被災地を飛び回るのだろう。しかし、終着駅は決まっている。 ――まだ、和菓子職人になりたいんですか? 「はい! あんな楽しい仕事、ないですから」 (川内イオ フリーライター)
プレジデントオンライン 2024/02/09 17:00
「ゴミ屋敷の住人」に絶対言ってはいけない言葉 祖母、父、母、妹を亡くした依頼者が見た希望
「ゴミ屋敷の住人」に絶対言ってはいけない言葉 祖母、父、母、妹を亡くした依頼者が見た希望
モノが押し込まれている状態(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)    祖母、父、母、妹が次々と亡くなり、家に残されたのは大量のゴミだった。依頼者の女性(姉)が、一人で始まる新生活を明るいものにするため、家族で住んでいた7LDKを片付ける。  本連載では、さまざまな事情を抱え「ゴミ屋敷」となってしまった家に暮らす人たちの“孤独”と、片付けの先に見いだした“希望”に焦点をあてる。  ゴミ屋敷・不用品回収の専門業者「イーブイ」(大阪府)を兄の二見文直氏とともに営み、YouTube「イーブイ片付けチャンネル」で多くの事例を配信する二見信定さんと、依頼者の女性が、モノ屋敷に住むことの苦労を語った。  動画:『父の死に母親の介護「気が付けば家の中がゴミや不用品だらけ」』、『父の死に母親の介護「片付けを説得できず親と摩擦が」』 両親の死後、妹も他界し、気力がなくなってしまった  関西某所にある2階建ての一軒屋。片付けの依頼者である50代の女性は7LDKのこの広い家に、祖母、父、母の4人で暮らしていた。ずいぶん前のことではあるが、祖母が他界。もともとモノを溜め込む性格だった祖母の荷物が残ったまま、次はパーキンソン病を患っていた母親の介護に突入した。依頼者の女性が話す。 「私も勤めているものですから、昼間は父が母の面倒を見てくれていました。夜は私が母の面倒を見るという忙しい生活が続いていたんですが、しばらくして母が亡くなりました。祖母のときと一緒で、母の遺品整理ができないまま、今度は父の介護が始まりました」  その後、父も他界。亡くなった3人分の荷物を少しずつ一人で片付けていったが、仕事が多忙なこともあって作業に限界を感じていた。そして、父の一周忌を迎えたのを機に、業者へ片付けの依頼をすることにした。だがその矢先、妹ががんで帰らぬ人となってしまった。 「突然というか、入院して3週間で亡くなってしまったんです。落ち込んで業者に電話もできなかったんですが、少し元気になってきたので依頼をさせてもらいました」  依頼者本人は片付けが苦手なわけではない。ただ、祖母、父、母の3人とも、モノが捨てられない性格だったという。 片付けの開始時点の状態(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より) 片付く前の小部屋(写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   7LDKのうち2部屋がゴミだらけの状態に  7LDKの間取りは少し特殊で、部屋が縦一列に並ぶ形になっている。1階、2階ともに突き当たりの奥にある部屋にいらないモノたちが押し込まれ、計2部屋と物置が、不用品の倉庫のような状態になっていた。  本棚、マッサージチェア、掃除機などの家具・家電に、マットレスや布団など寝具も数組、破れた障子にダンベルに地球儀と、不用品が無造作に積み上げられている。奥に何があるのか確認しようと思っても、まず前にあるものをすべて部屋から出さないといけない。そうなると、一人での作業はまったく進まなかった。 「グチャグチャになった包装紙でさえ畳んでとっておくみたいな状態で。本当にゴミだらけで、どうしようもないモノだけ押し込んで。部屋はいつも閉めているので、誰に見せるわけでもないんですけど。ただ、窓も開けられないし、掃除もできないので、ネズミとゴキブリの温床になるんじゃないかと思って」  父は写真が趣味だったという。現像された写真が大量に保管されていたが、それも女性がほとんど処分した。洋服も山のようにあったが、すべて仕分け済み。残っているモノは不用品のみとなるので、倉庫となっている2部屋と物置は完全に空にしてしまっていいそうだ。  現場に入ったスタッフは5名。予定の作業時間は4時間。縦に長い間取りのため運び出しに時間がかかるが、ひたすら不用品を家の外に出していく。 モノが捨てられない人を説得するには  生ゴミなどの生活ゴミがないこういったモノ屋敷の特徴は、住んでいる人やモノを増やしている本人には「モノが多い」という自覚がないことだ。ほとんどのケースが張本人からではなく、ほかの親族からの依頼だと、現場で運び出し作業をしている信定さんが言う。 「モノを増やしている本人は困っていないのですが、それによって別の家族が困っていることが多いんですよね。本人から依頼が来ることは、引っ越しや退去などで急遽片付けなければいけない理由ができたときくらいですね」  イーブイのスタッフ自ら、現場で住人を説得することもある。信定さんいわく、説得するうえで重要なのは、「一気に片付けようとしない」ことだ。 「頭ごなしに“全部いらんやろ”と否定してしまうのはよくなくて、勝手にモノを手に取ろうものなら“全部いるねん、何も触らんといて”と片付けがストップしてしまいます。本や小物が使わないまま入った本棚があっても、はじめから全部捨てようとしない。ひとつひとつ、いるモノかいらないモノなのかを一緒に確認していくことです。時間と労力はかかってしまうけど、根気よく説得するしかありません」  まず、ひとつモノを捨てることで、捨てることに慣れてもらうことが必要だという。モノを捨てることに慣れている人からすれば当たり前のことかもしれないが、目の前にいるのはそれが何十年もできてこなかった人だ。今すぐにモノを捨てられるわけがない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   生きているうちに片付けるのが一番いい 「使いもしないのにね、ゴミ同然なのに。モノを大事にしろと言われて育ってきたからしょうがないんですけど」  依頼者の女性がそう言うように、両親との衝突は避けられなかった。他人からすればゴミでも、本人からしたらゴミではないからだ。ただ、「ときにはハッキリ言うことも必要」と、同じく現場で作業をするスタッフのユウキさんは話す。 「今まで放置していたのにいざ片付けるときに、“懐かしい、どうしよう”と悩んで捨てられない人が多いんですよ。でも、何年も見ていないモノはやっぱり必要ないモノだと思うんですね。やっぱり、しんどい思いをするのって残された人だと思うんです。だから、僕は本人が生きている間に片付けるのが一番いいと思っています。片付けの費用は誰が払うねんっていう話にもなってきますし、業者を探したり、多少なりとも手伝わないといけないので」  この依頼者のように、身内同士だけだと衝突してしまいがちである。そんなとき、第三者である業者を間に入れることで、説得が円滑に進むこともある。ユウキさんが続ける。 「ちょっと冷たい言い方になるかもしれませんが、“これ思い出あるのよ”って言われても正直僕らにはわからない。そのモノに思い入れはないので。だからこそ、冷静に判断できるっていうのはあるはずです。そうやって捨てていく中で、スピードに乗ってきて、“もうガンガン捨ててください”って考えが変わる人も結構いるんです」  信定さんが話した「ひとつひとつ確認すること」を忘れずに、「それ、本当にいる?」とハッキリ聞いてあげることが大切かもしれない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)   物置にあるものは基本的にいらないモノ  この家もそうだったが、物置という場所は基本的にいらないモノの集合体だ。また、物置に限らずそもそも収納スペース自体が不用品だらけになりがちだ。 「片付けが苦手な人の場合、収納スペースはいらないモノをいったん押し込んでおくだけの場所になってしまうんです。だから、何が入っているかもわからなくなるし、そうなると片付けたいと思っても手が付けられない。逆に、自分がいま何を持っているのか把握できていれば、収納スペースを有効活用できるんだと思います」(信定さん)  片付けが苦手だからこそ収納スペースの多い物件を選んでしまいそうだが、それはいい結果を生まないかもしれない。 (写真:「イーブイ片付けチャンネル」より)    倉庫となっていた2部屋と物置はものの4時間で空っぽになった。依頼者の女性も安堵した様子の声で感謝していた。 「何年かぶりなんですよ、窓開けるのも。いやぁ、よかったです、本当にすっきりしました。ありがとうございます」  現在はきれいになった7LDKの家で一人、新生活を満喫している。 (國友 公司 : ルポライター )
東洋経済オンライン 2024/02/09 14:00
取り残されたくない…「篠田麻里子」があえて不倫妻役で“地上波ギリギリ“の濡れ場に挑むワケ
雛里美和 雛里美和
取り残されたくない…「篠田麻里子」があえて不倫妻役で“地上波ギリギリ“の濡れ場に挑むワケ
篠田麻里子(撮影/写真映像部・東川哲也)    昨年勃発した不倫疑惑をきっかけに泥沼の離婚劇を繰り広げて以来、表舞台から遠ざかっていた元AKB48の篠田麻里子(37)。その復帰作が、深夜ドラマ「離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―」(テレビ朝日系)で、不倫に溺れる妻役を演じていることから、世間が騒然となっている。 「このドラマは、30年あまりの放送作家・脚本業に今春で終止符を打つことを発表した鈴木おさむ氏による地上波連ドラ最後の脚本。鈴木氏は『最後にバズるドラマを作りたい』と気合を入れて臨んでいるようです。鈴木氏がスキャンダルで炎上した篠田に私生活を彷彿とさせる不倫妻役をキャスティング。地上波としては放送コードギリギリの攻めた表現が満載のハイテンションドラマになっています。篠田も自分のために新たな設定を加えて当て書きされた脚本に心打たれたようで、番組スタート数分で不倫相手との濃厚な濡れ場を披露するなど、熱の入った体当たりの演技を繰り広げています」(テレビ情報誌の編集者)  ひたすらバズらせることを目指した鈴木氏の脚本に、篠田をはじめとする役者人の熱演も相まってドラマは好評。見逃し配信では、テレ朝の全番組歴代トップの350万再生を突破する記録を打ち立てた。 篠田麻里子   不倫妻役に「共感できた」  原作となったマンガ「離婚しない男」は、男親には困難とされる娘の親権獲得を目指す男性を主人公とするブラックコメディー。ドラマでは伊藤淳史が主人公を演じ、妻の不倫に気づかないふりをしながら証拠集めに奔走する様が描かれる。 「実はこの原作は、篠田の不倫騒動の際にSNSなどで共通点を指摘する声もあった作品です。篠田の不倫騒動は真相がわからぬまま離婚へと至りましたが、その彼女が私生活でのトラブルをなぞるような役で復帰したのだから、話題にならないわけがない。篠田も最近、インタビューでシングルマザーとして1人で育児をすると『社会に取り残されたような気持ちになる』と語っており、自分が演じる役の女性について共感を寄せていました」(女性週刊誌の芸能担当記者)  今回の不倫妻役に、篠田はよほど共感しているらしく、ドラマ公式サイトでも「母として共感できた、出産後の不安や寂しさ、社会から取り残されたような感覚、綾香としてはまっすぐに生きること、そして、とことん振り切ることを意識して演じました」とのコメントを発表している。 篠田麻里子   鈴木氏は「女優再生」の請負人 「鈴木氏は、プロデューサーに今までにないキャスティングと豊富なベッドシーンを求められ、思いついたのが不倫騒動で活動自粛中の篠田だったとラジオ番組で話しています。鈴木氏としては、昨今のキャンセルカルチャーに対するアンチテーゼという意味もあったようです。ドラマ初回放送を控えた座談会では、AKB48の篠田しか知らない人に、彼女の芝居もいいかもと思ってほしい、女優として大ブレークしてほしいという思いがあると語っています」(前出のテレビ情報誌編集者)  鈴木氏には、これまでも、東出昌大との不倫騒動で干されていた唐田えりかをNetflixドラマ「極悪女王」に起用し、新境地を開拓させた実績もある。スキャンダルからの復活を目指す篠田にとっても、今回の登板は願ったりかなったりだっただろう。 「鈴木氏は『奪い合い』シリーズ(テレビ朝日系)でも水野美紀を怪演女優として再ブレークさせ、『M 愛すべき人がいて』に出演した田中みな実を“イロモノ女優”として印象付けることに成功しています。特に田中は女優としては駆け出しでしたが、ケレン味たっぷりの鈴木脚本のおかげで演者として大きな爪痕を残しました。その後、彼女は本人の努力もあり細やかな演技もできる女優へと成長しましたが、きっかけを作った鈴木氏の功績は小さくない。篠田は以前、吹き替えを担当したハリウッド映画で、演技のひどさが話題になりましたが、自らも演技が苦手だと語っています。最近、女性誌が行った『演技がイマイチだと思う“アイドル出身女優”ランキング』でも元同僚の前田敦子を抑えて1位になってしまいました。そんな篠田がどう化けるのか、非常に楽しみですね」(前出の女性週刊誌記者) CAに扮した篠田麻里子   吹っ切れたような演技  芸能ジャーナリストの平田昇二氏は篠田についてこう述べる。 「篠田さんはAKB48卒業後にベストマザー賞を受賞するなど、結婚と出産を経て人気ママタレントとして活躍していました。それだけに離婚に至る一連の騒動や疑惑の影響は大きく、ママタレとしての活動に逆風が吹いていたわけですが、今回のドラマではある種吹っ切れたような迫真の演技を見せています。女優業に関してはAKB48在籍時から月9ドラマ『大切なことはすべて君が教えてくれた』などに出演し、卒業後も映画『ビジランテ』で濡れ場にも挑戦しましたが、大きな話題にはなりませんでした。しかし今作では、そのセンセーショナルな作品の内容も含めて、女優として新境地を開いたと言ってもよいのでは。シンママとして懸命に育児や仕事に励む姿を見せ続けることで世間の“風向き”が変わることもあるでしょうし、今後の女優活動も注目されるでしょう」  篠田にとって、新境地となった今回のドラマを機に、再ブレークのきっかけをつかめるか。 (雛里美和)
篠田麻里子離婚しない男不倫
dot. 2024/02/04 11:00
〈中居正広の金スマ最強ママタレSPきょう出演〉藤本美貴に聞く3人育児の楽しみ方「洗濯物も山盛りなのに、毎日30分顔を揉んでなんていられない(笑)」
〈中居正広の金スマ最強ママタレSPきょう出演〉藤本美貴に聞く3人育児の楽しみ方「洗濯物も山盛りなのに、毎日30分顔を揉んでなんていられない(笑)」
ミキティこと藤本美貴さん 撮影/植田真紗美、ヘアメイク/太田年哉(maroonbrand)  2日放送の「中居正広の金曜のスマイルたちへ」(TBS・毎週金曜)は「ママタレ波瀾万丈~令和の最強ママタレ大集結!2時間SP!」と題し、昨年のテレビ出演総本数1293本&SNS総フォロワー数約376万人を誇る最強ママタレ軍団が勢ぞろいする。そんなママタレたちが「夫にムカついた瞬間」を再現ドラマ化するのが話題だが、ゲストのひとり藤本美貴も最強ママタレとして日々奮闘している。過去の記事から振り返る。(「AERA dot.」2023年10月29日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時)   *  *  *  ミキティの愛称で親しまれる、歌手でタレントの藤本美貴さん。夫でお笑い芸人の庄司智春さんや子どもたちとの様子をYou Tubeで発信するなど、円満家族としても注目を集めています。そんなミキティに、仕事に育児にと多忙ながらも毎日を楽しみつくす秘訣を聞きました。発売中の小学生のママパパ向け子育て情報誌「AERA with Kids2023年秋号」から抜粋してご紹介します。   親が忙しくても「ごめん」は言いません  現在、11歳の長男、7歳の長女、3歳の次女がいて、もうバタバタの毎日です! 夫も私も仕事柄、スケジュールが読みづらいんですよね。急な仕事が夜に入ったりすると、「明日、どうしてる?」って、夫婦でお互いの予定を確認しながら、家で子どもたちの面倒を見られるほうが見るようにしています。もちろん、夫がひとりで子どもたちに夜ごはんを食べさせてくれる時もあれば、3人をどこかに連れ出してくれることもあります。ときには近くに住む私の母に家に来てもらったりもして、臨機応変に、家族フル稼働で乗り切っています。   でも、私は忙しいのが嫌いじゃないんですよね。仕事は好きだし、休みがあれば必ず子どもたちと遊びに行く予定を立てたりして、何かしら動き回っています。子どもたちも生まれた時からそういう環境なので、もう慣れているみたい。お留守番をしてもらう時もあるけど、誰かしら大人がいて安全な場所にいるのだからOK! 「忙しくてごめんね」なんて絶対言いませんよ。だって、これがわが家の生活ですから。「この中で、楽しくやっていきましょう」と伝えています。 細かいことをルーティン化しない  日頃、私が気をつけているのは、あまり細かいことをルーティン化しないことです。  例えば、子どもたちが寝る前に絵本を読んであげるご家庭も多いかと思うのですが、私は、逆に、「寝る前の絵本タイム」は作らないと決めているんです。   【こちらも話題】 「結婚はあまりお勧めしません」鈴木おさむが結婚16年目に思うこと https://dot.asahi.com/articles/-/115846 藤本美貴さんInstagram(@mikittyfujimoto)より      習慣にしちゃうと、子どもも「この絵本を読むまで寝ない!」ってなるでしょう? 早く寝てほしい夜もあるのに、「まだ絵本を読んでないよ」なんて言われると、本当に困っちゃう。だから寝る時は部屋を真っ暗にして「はい、おやすみ〜!」って感じです(笑)。  もちろんその代わり、昼間、ゆっくりできる時に、絵本を読んでと言われたら、「いいよ」って読んであげます。  私自身のことでも、「お風呂上がりに30分間美容マッサージをする」などの決まり事は一切作りません。それより早く寝たいもの! 洗濯物も山盛りなのに、毎日30分、顔を揉んでなんていられないじゃないですか(笑)。  日々、時間に余裕があるわけじゃないから「必ずこれをする」と決めてしまうと苦しくなってしまう。基本的に私は、「今、何ができるか」がすべてだと思って、行動しています。 家族って助け合い  子どもたちにも同じように、その時に彼らにできることがあれば、家事もお願いします。自分の洗濯物は自分で片付けたり、一番下の妹はまだできないから手伝ってもらったり。上の二人は「なんで僕ばっかり、私ばっかり!」って言うこともあるけど、「そんなことを言い出したら、私は毎日みんなの洗濯物を洗ってますけど⁉」って。そうしたらみんな、「はい、やります」って素直に動いてくれます(笑)。  家族って助け合い。基本的には、自分のことは自分でしつつ、「今やれない人のことをやれる人が助けてあげるのが家族でしょう」っていう話は、いつもみんなにしています。あまり子どもたちを、子ども扱いしていないところがあるのかもしれないですね。  例えば、子どもが学校のことで悩んでいたりしても、しっかり話は聞くけれど、最終的にはその子自身が乗り越えなくちゃいけないことかなと思って見守るほうです。  友達との付き合い方ひとつとっても、それぞれの性格だったり、学校でのポジションだったり、いろいろあるし変わっていくから、何パターンかヒントを出してみて、あとはその子がどう行動するかに任せますね。   【こちらも話題】 NHK退職の報告に「まじ?」 武田真一アナが「なめるように可愛がって」きた息子たちに見せた姿 https://dot.asahi.com/articles/-/197860 藤本美貴さんInstagram(@mikittyfujimoto)より    夫が私とはまた違うアドバイスをしてくれることもあって、「それもいいね!」という感じ。子育てもそうで、夫婦で意見が違っても「あ、そういう子育てのやり方もあるよね」と素直に受けて試してみます。お互い「こうしなくちゃいけない」みたいなのが少ないのかもしれないですね。 楽しいスケジュールはみんなで立てる  普段は忙しいからこそ、長期でお休みが取れる時は、家族で一緒に過ごす時間をとても大切にしています。「お休みに、なにをしたい?」ってそれぞれの希望を聞いて、できるだけ叶えます。  見たい映画がそれぞれにあれば絶対に連れて行ってあげたいし、旅行の行き先も子どもたちと話し合って決めます。楽しいスケジュールはみんなで立てていますね。旅行や遊園地、夏はプールも休みが合えば必ず行きます。楽しいことは味わい尽くそうというタイプの家族です。  そして、子どもたちのやりたいことを叶えたら、次は親がやりたいことも叶えます。旅行先でも「ここからは大人の時間です!」と言って、買い物に付き合ってもらうとか。昔から「自分たちだけが楽しいのが旅行じゃないですよ」って伝えているんです(笑)。 ※「AERA with Kids2023年秋号」から一部抜粋 (取材・文/玉居子泰子)  撮影/植田真紗美 ヘアメイク/太田年哉(maroonbrand) 〇藤本美貴(ふじもと・みき)/2002年歌手デビュー。09年、お笑いコンビ「品川庄司」の庄司智春さんと結婚。現在も歌手・タレントとして幅広く活躍しながら、3人の子育てに奮闘中。インスタグラムやブログ、YouTubeチャンネルが人気。 YouTubeチャンネル 「ハロー!ミキティ」/ミキティが、家族との日々や夫婦のデート風景、視聴者からのお悩みに答える相談コーナーなど、バラエティー豊かなコンテンツを配信! チャンネル登録者数55万人超えの大人気チャンネル。   【こちらも話題】 夫も「子育て熱心」なのに、夫婦ともに時間がなさ過ぎるのはなぜ? 3兄弟の母が嘆く令和の子育ての“憂鬱”” https://dot.asahi.com/articles/-/195791
藤本美貴AERAwithKids中居正広の金曜のスマイルたちへ金スマ
AERA 2024/02/02 20:00
2割が外国籍の群馬県大泉町の町長・村山俊明 票にならなくても外国籍の住民のために奔走する理由
2割が外国籍の群馬県大泉町の町長・村山俊明 票にならなくても外国籍の住民のために奔走する理由
町で毎月開催される多国籍屋台のイベント「活きな世界のグルメ横丁」の会場で(撮影/今村拓馬)    群馬県大泉町。群馬県でもっとも小さい自治体が注目を集めている。人口の2割、5人にひとりが外国籍で、51カ国の人が暮らす。そんな町を「俺の町」と呼び、票にならない人のために走り回る町長がいる。村山俊明だ。一筋縄ではいかない多文化共生と地場産業の活性。賛否両論ありながらも、自らの信念で刺激的な政策を進めている。 *  *  * 「初めて町議選に出た動機ですか? 34歳のときでした。私、実は2回離婚していて、前々妻との間に息子がいるんです。離婚の際に面会する約束をして養育費も払っていたんですが、会わせてもらえなかった。せめて顔だけでもと思って幼稚園に行っても追い返された。前々妻に三行半叩(たた)きつけられて、世間様からも相手にされず、『これじゃいけない』と自分が情けなくなったんですよ。それでせめて世間様から認められるようになろうと考えて、町議選に出ることにしました。父親に『俺はこのままじゃ生きていけない。子どもの親として立派な姿を見せたい』というと、『へんな薬でもやってるのか』と疑われましたよ。本当なら地域のためとかなんとか言えばいいんでしょうが、そういうことは言いません。半分やけくそみたいなもんですよ」  群馬県大泉町(おおいずみまち)の町長の村山俊明(むらやまとしあき・61)は笑いながら、自らの政治人生のスタートをそう説明した。  新聞・テレビなどとにかくメディアの注目を集める人である。人口4万人少し、群馬県でもっとも小さい自治体だ。だが人口の2割、5人にひとりが外国籍の住民という、日本有数の外国人率という町の特殊性がある。「共生社会」「外国人労働者」といった社会的論点がクローズアップされるなか、この小さな町はこういっては悪いが、日本の先行きを占う「実験室」のように見つめられている。  そしてそこで行われる村山の政策が刺激的なのである。  町長になったあとの2017年に「あらゆる差別の撤廃をめざす人権擁護条例」を施行。19年には、性的少数者のカップルを婚姻とみなす「パートナーシップ宣誓制度」を全国の町村で初めて導入した。さらに昨年の12月には、町職員の採用試験で国籍条項を撤廃し、永住者・特別永住者の外国籍住民に門戸を開くと発表した。 とにかくどこでも人気。町内のブラジルレストランで、他県に住む日系ペルー人たちから「町長さん?」と声をかけられた。口コミで評判が広がっているらしい(撮影/今村拓馬)   自由奔放な青年時代を送り 高校も大学も中退した  もちろん賛否両論ある。だが政策の是非の前に不思議なのが、本人のキャラクターとやっていることのギャップである。冒頭の発言のように相当にフランクで、その人生も順風満帆とは言い難い。彼はいったい、どのような経緯で現在の政治姿勢に至ったのだろうか。  村山は1962年に大泉町で鉄工所を営む家に生まれた。父親は特攻隊帰りで、終戦は特攻隊の出撃基地があった鹿児島県・知覧で迎えたという。 「父親は非常に厳格な人で、愛情を受けたという記憶がありません」  と、村山はいう。一方、母親は地元で長く民生委員を務めており、世話好きで優しい人だったらしい。  ちなみに大泉町は戦前・戦時中と「ゼロ戦」で有名な中島飛行機の工場があった。現在も大泉町に味の素、スバル、パナソニック(旧・三洋電機)などの大規模工場があるのは、そのなごりである。  そうとう自由奔放な青年期だった。地元高校に進学し、2年生のときに「学校内の代表取締役に就任しました」。しかし修学旅行の2日前に「旅先でトラブルを起こしかねないから」と校長らに頼まれて退学。そのまま町内で住み込みのアルバイトをして暮らしていたが、当時付き合っていた彼女の父親から「高校も出てない奴と娘を付き合いさせられない」と言い放たれて、私立高校の2年生に編入。そこは無事卒業して北海道の大学に進学するが、大都会・札幌の街は村山青年には刺激が強すぎた。勉学に身を入れることができず、ここも2年生で中退。さすがにすぐ地元に帰れず、成田空港内にある貨物の管理会社で2年間働いた。  23歳のときにようやく地元に戻り、実家の鉄工所を手伝い始める。このころ、村山は自分には冷たい父親のもうひとつの顔を知る。 「家にどこの国出身かわからない人がしょっちゅう来て、飯を食っていくんですよ。父も嬉しそうに相手してね。なぜ父がそういう人たちに親切にしていたのかわからないですけれどね」 町内のイベントでは2ショット大会に(撮影/今村拓馬)   在日韓国人の「兄貴」との付き合いでわいた疑問  知人の連帯保証人になって大借金を負ってしまったのもこのころだ。家業の手伝いだけでは間に合わず、自動車運転代行業も始めた。昼は鉄工所で汗をかき、夜は酔漢を乗せて車を走らせる。先行きの見えない苦しい時代だった。  ふとある日、近所に高級車が止まっている家を見つけた。「あれは誰の家?」と訊(たず)ねると、両親は答えずに「村山の息子だといえばわかるよ」という。夜に居酒屋でその家の人に「村山の息子です」と挨拶すると、ひどく驚かれた。  その人物は在日韓国人で、すでに亡くなっていた村山の12歳年上の兄の友人だった。よく村山の家にも遊びにきていたという。 「自分たち在日の子どもが遊びに行っても、他の友だちの家は中にも入れてもらえなかった。でもお前の家だけは上がらせてくれたり、ご飯を食べさせてくれたり、よくしてもらったよ」  彼はそう言って懐かしんだ。それは恐らくさまざまな国の人間の出入りを許していた父親、民生委員だった母親の気質だったのだろう。彼はそれから以降、「飲みに行こうよ。トシちゃんは煙草(たばこ)とライターだけ持ってくればいいよ」としばしば誘ってくれた。村山も彼のことを「兄貴」と慕うようになる。80年代後半、外国人登録証明書に指紋を押捺させる制度が、「まるで犯罪者扱いではないか」と反対運動が全国に広がっていた。村山もその抗議運動で東京・霞が関でのデモに参加している(現在この制度は廃止)。 「同じ町内で暮らしているのに、日本人とそれ以外って区別するのはおかしいんじゃないか。みんな助け合って暮らしていけばいいのに」 「兄貴」との付き合いの中で、そんな極めて素朴な疑問が村山の中にわき起こる。「外国籍の住民でも等しく町で暮らしていくべき」。本や教室で学んだ理念ではなく、過去の体験からくる信念である。信念だから叩かれてもへこたれない。  1997年、34歳のときに大泉町議会議員に初当選。以後、町議選を重ねるごとに当選順位を上げていき、議長就任。そのころには支援者も増えて、13年に町長になった。17年に施行した「人権擁護条例」についてこう説明する。 村山は子どもにも名刺を渡す(撮影/今村拓馬)   「いわゆる『デカセギ』の外国人労働者が多かったころは飲酒運転などのトラブルも多かった。でも彼らの中から永住・定住する人も増えてきて、そういうトラブルが少なくなり、逆に仕事や住まいの悩みや相談が増えてきたんですね。そういう『住民』への配慮として考えました」  22年には、導入していた「パートナーシップ宣誓制度」を申請した日系ブラジル人女性カップルのために、議場で「結婚式」を行った。式場のような飾り付けは職員たちが行ったという。 「申請者に私が証書を『ハイ』って渡せば済むことなんだけれど……なんかそれだけだと可哀想じゃない。親とか反対された経験もある人だろうし。議場を式場代わりに使う制度は以前からあるので、それで結婚式をやったまでですよ」  村山が通うスポーツジムを営む宮城ユジ(27)は、両親はブラジル国籍の日系3世だが、自身は日本生まれの日本育ち。 「町長が来てくれるようになって、今は会員の半数が日本人になり、経営が助かりました。彼はそういうチャンスをくれる人」  律儀(りちぎ)な性格とたくましさもあってか、宮城は大泉警察署の一日署長にも選ばれている。ジムに飾られた制服姿の写真が誇らしげだ。  そんな町の姿勢に憧れて、違う自治体出身なのに大泉町に就職した町職員がいる。  湯浅帆乃花(24)は高校時代に短期留学したアメリカで日系人の歴史に興味を持ち、上智大学外国語学部ポルトガル語学科に進学。商社か外交官かといった華やかな就活をせず、「現場で日系ブラジル人たちと関わる仕事がしたい」と、大泉町に就職し、現在は企画部多文化協働課に勤める。 「就職面接でフランクな口調でポンポン質問してくるおじさんがいたので誰だろう?って思ってたら、町長でした」  と、笑う。入職して2日目、村山から呼ばれた。 「君はたしかブラジルの担当をしたかったんだよな。これからブラジル関係の会合にはどんどん同行してもらうから」  そして実際、領事館での重要なミーティングにも参加させてもらえるようになった。湯浅は町で作成しているポルトガル語の広報誌をレストランなどに手配りしている。 「災害時にボランティアをお願いすることもあるので、郵送するだけでなく顔と顔の関係をつくっておくのが大事なんです。希望していた草の根の細かい仕事ができて、やり甲斐を感じています」 町内にあるジムで汗を流す村山。早いときは朝5時から来てトレーニングをしているそうで、たしかに筋肉質な体形をしていた。村山が通うようになってジムに日本人会員も増えた(撮影/今村拓馬)   「外国人ばかり優遇」 批判には理屈で説明する  町では現在51カ国の外国籍の住民が暮らしている。もっとも数が多いのがブラジル国籍だが、最近急増しているのが、技能実習制度で来日しているベトナム人だ。大泉国際交流協会の副会長、月橋章(71)は元家電メーカーのエンジニアとしてベトナムに駐在した経験を持つ。その縁で、協会内でベトナムの国と人を紹介する講座を開催してきた。20年の秋ごろ、突然村山から町内に住むベトナム人たちに町長室への招集がかかった。不思議に思いながら同席した月橋は、村山の発言に驚かされた。 「いま日本国内のあちこちで、罪を犯したベトナム人が逮捕されるニュースが相次いでいます。その影響でみんながいじめられたり、差別されたりしていることはないか? なにか困ったことがあれば町が協力するから、なんでも言ってくれ」  当時、農作物の窃盗などベトナム人がかかわる犯罪報道が続いていて、月橋も胸を痛めていたときだった。 「集まったベトナム人は20人くらいだったと思います。わざわざそんなことをいってくれて、びっくりしたし、感心もしました」  外国籍住民に対しての融和的な政策に、町の内外から批判も当然ある。 「外国人ばかり優遇しているのでは」 「これ以上外国人を町に入れるな」  メールもあれば、直接面と向かって言われたことも多い。そのたびに村山は、 「優遇しているのでなく、日本人と同じ税金を納めている住民として、公平な行政サービスを提供しているだけです」 「群馬県一小さな町で民族も宗教も違う51カ国の人が大きなトラブルもなく暮らしている。平和に住んだ方がみんな得だと知ってるからだよ」(撮影/今村拓馬)   「転入届を正しく記入して持ってこられたら、町に引っ越しを拒否する権限なんてないんですよ」  と理屈で説明するが、どこまでわかってもらえたかわからない。  トラブルも相変わらずなくならない。夜中まで大音量で音楽をかけていた外国レストランに警官が駆けつけたときは、スタッフとの間に割って入り、「飲んだら騒がない。騒ぐなら飲まない」とお説教をした。  外国籍の住民から「会社の寮から追い出されそう」とSOSが来た。住民と会社の双方によくよく事情を聴いてみると、その住民が転職したのに前の会社の寮に居座っているだけ、ということだった。「なんだそりゃ、ですよ」と村山は笑う。 「反発をもっている住民は多いですよ。アンケートを採ると、外国籍の住民で『もっと日本人と仲良くなりたい』というのは七十数%あるのに、日本人住民で『もっと外国籍住民と仲良くなりたい』という人は十数%です。このギャップをいかに埋めるのかが課題です。防災活動訓練などで一緒に地域のために働いている姿を見せるとか、時間はかかるけれどやるしかない。多文化共生と簡単にいいますが、それが一筋縄ではいかないことは、大泉町を見てもらえればわかると思う」 (文中敬称略)(文・神田憲行) ※記事の続きはAERA 2024年2月5日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/02/02 18:00
「セクシー田中さん」脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も
板垣聡旨 板垣聡旨
「セクシー田中さん」脚本トラブルで見えた実写版ドラマに生じる違和感の“正体” 芸能事務所との関係も
   漫画「セクシー田中さん」の原作者、芦原妃名子(本名・松本律子)さん(50)が亡くなったことに追悼と驚きの声があがっている。自殺とみられるが、原因はわかっていない。ただ、セクシー田中さんのドラマ化の過程でトラブルがあったことが、死亡が確認される数日前のSNSの投稿内容からうかがえた。原作とドラマで内容が変わるのはなぜなのか。そこには演出上の問題や、芸能事務所とテレビ局との関係性といった事情が影響しているようだ。出版社の編集者やテレビ局のドラマ担当者らに聞いた。 「ドラマ化の際に、原作者と脚本家がもめることはよくあります」  都内の出版社で漫画の編集者として勤務する30代男性はこう語る。  今回のセクシー田中さんのケースでも脚本をめぐり、芦原さん側とテレビ局、脚本家側との間でもめたようだ。 脚本家の存在意義を考えさせられた  セクシー田中さんは、累計発行部数が100万を超える人気漫画で、「姉系プチコミック」(小学館)で連載している。主人公の「田中さん」は、昼間は一般企業の経理部で働く地味なアラフォーOL。一方、夜はセクシーな衣装で踊るベリーダンサーの顔を持つ。そんな田中さんを中心に、まわりの個性的なキャラクターとの人間模様が描かれている。  日本テレビ系でドラマとして実写化され、昨年10月から全10話が放送された。主人公は俳優の木南晴夏(38)が演じた。  テレビドラマ版の脚本を1~8話まで手がけていた脚本家の相沢友子さん(52)は、ドラマの最終回が放送された12月24日、自身のインスタグラムで、 「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」  と報告。28日には、 「私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように」  などと更新した。 【あわせて読みたい】 「セクシー田中さん」の件で漫画原作について考えた鈴木おさむ 感謝を感じながら作ることしかない https://dot.asahi.com/articles/-/213013?page=1 ドラマ「セクシー田中さん」で“伝説のベリーダンサー”を演じた未唯mie    脚本家にとっても「苦い経験」として大きな出来事だったことが文面から伝わってくる。  一方、芦原さんは1月26日に自身のX(旧ツイッター)で、 「色々悩んだのですが、今回のドラマ化で、私が9話・10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、小学館とご相談した上で、お伝えする事になりました」  と前置きした上で、今回ドラマ化する際の条件について、 ▽必ず漫画に忠実に。忠実でない場合は加筆修正する ▽原作が未完のため、今後に影響を及ぼさないようドラマオリジナルとなる終盤は、原作者があらすじからセリフまで用意する ▽これについては、原則変更なし。場合によっては芦原さんが脚本を執筆する  といったことを条件に出したという。また、これらの条件が脚本家や監督、制作スタッフらに失礼なことであることも理解していたため、 「この条件で『本当に良いか』ということを小学館を通じて日本テレビさんに何度も確認させていただいた後でスタートした」  と経緯を書いている。 キャラクターのアイデンティティーの変更は絶対に許せない  前出の編集者がこう語る。 「漫画がテレビや映画などで実写化される際に、セリフや原作にないシーンが追加されることがあります。それを、原作とは全く異なる作品、として割り切ったり、まあまあ許せたりする漫画家がいる一方で、原作の再現にこだわる方もいます。キャラクターのアイデンティティーが変わるなどは絶対に許せないでしょう」  ところが、今回の芦原さんのXでは、ドラマ化が決まって以降、 「毎回、漫画を大きく改変したプロットや脚本が提出されていました」「個性の強い各キャラクターが原作からかけ離れた別人のように変更される」  などがあったとし、何度も脚本の加筆修正を繰り返したと書いている。  9~10話はもめた末、芦原さん自身が脚本を書くことで解決したという。  原作と映像化された作品に違いが出てくるのはなぜなのか。  大手テレビ局のドラマ監督が説明する。 【こちらもおすすめ】 “セクシー田中さん”効果でブーム再来? 「ベリーダンス」に主婦やシニアが熱中 https://dot.asahi.com/articles/-/207085?page=1 「原作のストーリーを、そのまま1~2時間の尺(時間)には落とし込めないんです。漫画のコマで面白いものでも、映像となるとその面白さが通じないこともしばしばあります。漫画とテレビでは伝え方が違いますから」  そして、出演者の所属事務所との関係性も影響するという。 「芸能事務所との関係で、こっちの俳優の尺はこれ以上削れない、といった問題が出てきます。必ずしも原作者の希望通りに現場が動けるとは限らないんです」  と打ち明け、こう話した。 「脚本家やテレビ製作陣らの仕事は、原作者と話し合って、盛り上げどころを決めたり、尺に合わせて取捨選択をしたりすることです」  原作者と制作側とのこうしたトラブルを避けるために、契約時に大きな役割を担うのがライツ業務だ。出版社側が、原作を映像化・商品化するときの窓口業務を担い、契約交渉や著作物の複製や販売についての権利などの管理を担う。 原作者が脚本を書くのは異例中の異例  都内の出版社でライツ業務を担当する男性(40代)は、 「原作者が脚本家に修正の依頼をすることは多々ありますが、ドラマの途中から脚本家の代わりに原作者が脚本を書くというのは異例中の異例。これまで聞いたことがありません」  と指摘する。  漫画が実写化される際、出版社が原作者の代理人としてテレビ局などと契約書を結ぶ。前出のライツ担当の男性によると、契約の際に最も注意を払うのは「著作者人格権」だという。著作者人格権とは、著作権の一部であり、著作物で表現された内容、キャラクターに対しての名誉権などを指す。  原作者の思い入れなども対象となり、作品内の登場人物のキャラクター性なども含まれる。例えば、原作ではおとなしい性格のキャラクターが活発になっていたり、派手になっていたりした場合などは、その権利が侵害されたということにもなる。そのためライツ担当者は、契約時に著作者人格権が侵害されていないか特に注視するという。  また、原作者と脚本家との間には、漫画の担当編集者やライツ担当、テレビ制作陣や脚本マネジャーら多くの人が介在する。そのため、互いの主張が伝言ゲームとなり、適切に伝わらないこともしばしばあるという。 「映像化を円満に進めるため、原作者と脚本家がひざを突き合わせて話し合うこともあります。直接の話し合いの場は、トラブルを回避するための有効な手段です」(前出・ライツ担当者)  しかし、芦原さんのXによると、 「私達は、ドラマの放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることはありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマの制作スタッフの皆様とも、ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります」  と説明している。 小学館と日本テレビは説明責任がある  前出のライツ担当者は、 「脚本の修正依頼も多くきているなかで、トラブルに発展する可能性を減らすという意味で一度は話し合うべきでした。テレビスタッフや脚本家ら制作陣営が、原作者の気持ちに沿えるかどうか。その点のリスペクトは必要不可欠で、そのための場は設けなければいけません」  と指摘し、こう続けた。 「なぜこのような問題が起きたのか、小学館と日本テレビは説明する責任があるはずです」  日本テレビは1月29日、ドラマの公式サイトで、芦原さんへのお悔やみの言葉を述べた上で、 「『セクシー田中さん』につきまして、日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております」  とコメントしており、芦原さんの主張とは少し食い違いがあるようだ。  小学館は1月30日、プチコミックの公式サイトで、 「先生の生前の多大なご功績に敬意と感謝を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。先生が遺された素晴らしい作品の数々が、これからも多くの皆様に読み続けられることを心から願っております」  などとするコメントを発表した。脚本をめぐるトラブルについての言及はなかった。 (AERA dot.編集部・板垣聡旨) 【あわせて読みたい】 個性派女優「木南晴夏」が封印していたセクシー路線“解禁”の理由 https://dot.asahi.com/articles/-/200317?page=1
芦原妃名子セクシー田中さん日本テレビ小学館
dot. 2024/02/01 18:00
時間外労働200時間、休日3カ月なしで過労死も 医師が“定額働かせ放題”になるワケ
野村昌二 野村昌二
時間外労働200時間、休日3カ月なしで過労死も 医師が“定額働かせ放題”になるワケ
過労死した神戸市の男性医師の遺族らは、昨年12月に「医師の過労死家族会」を発足させ、医師が健康的に働ける環境づくりを目指す    現代日本の社会問題の一つといわれる過労死。働き方改革により、労働環境の改善が進められてきたが、過重労働が原因で、健康を損ね、命を失う人は後を絶たない。誰もが安心して働ける職場を実現するには、どうすればいいか。AERA 2024年2月5日号より。 *  *  *  今、問題になっているのが医師の過労死だ。  22年5月、神戸市の病院に勤務していた男性医師(当時26)が自ら命を絶った。長時間労働でうつ病を発症したのが原因として、労災認定された。男性医師は亡くなる直前1カ月の時間外労働が200時間を超えていた。休日も約3カ月なかった。 「自己研鑽」や「宿日直」で、“定額働かせ放題”の状態  医師の労働問題に詳しい荒木優子弁護士は、「医師の労働時間は、事実上青天井」と指摘する。 「医師は、適切に労働時間管理がされていないケースも多く、長時間労働を前提で働いています」  特に問題とされているのが「自己研鑽」だ。医師は、医療行為以外にも、日々進化する医学の勉強や学会での発表など、付随的な業務が多岐にわたる。しかし、それが「上司の指示でなかった場合」は自主的に勉強する「自己研鑽」として扱われ、労働時間に該当しないとされてきた。  神戸市の男性医師が自死したケースでは、病院側は月約200時間の時間外労働には自己研鑽の時間も含まれ、実際の残業時間は約30時間だったと主張している。荒木弁護士は言う。 「真面目で向上心が強い医師ほど自己研鑽が多くなる傾向があり、病院は、医師に給与を支払わないロジックとして自己研鑽を用いています」  あと一つ、「宿日直」も医師の長時間労働に直結していると荒木弁護士は指摘する。夜間や休日に医師が院内で待機する「宿直」や「日直」は、本来は「病室の巡回」程度で「ほとんど労働する必要がないこと」が前提で、睡眠時間も十分とれることになっている。 「しかし実態は、救急患者が運ばれたり入院患者の容体が急変したりすると対応しなければいけません。そして、病院が労働基準監督署から『宿日直許可』を取得していれば、実際に業務に従事した時間を除いて労働時間にカウントされません。こうして、医師の労働時間は『定額働かせ放題』の状態になっています」(荒木弁護士) AERA 2024年2月5日号より    これまで医師は、医療の「特殊性」から時間外労働の上限適用は5年間猶予されていた。それが今年4月から「医師の働き方改革」が始まり、原則年960時間(月80時間相当)の上限が設けられる。だが荒木弁護士は、「実質的な労働時間を減らす改革にならない」と警鐘を鳴らす。 「医療の需要は増していますが、医師の数を増やすことは困難です。そうなると、病院は働き方改革の名の下、年960時間をクリアするため自己研鑽や宿日直許可を増やすことで乗り越えていこうとし、すでに多くの病院では宿日直許可を増やしています。その結果、外科や脳神経外科、救急科、産婦人科といった長時間労働になりがちな診療科に進む医師が減っていきます。医師の長時間労働をいかに減らしていくかは、喫緊の課題です」  誰もが安心して働ける職場をどうやって実現すればいいのか。 一番大事なのは、労働者が声を上げられること 「過労死弁護団全国連絡会議」幹事長の玉木一成弁護士は、「何より経営層が変わる必要がある」と強調する。 「長時間労働を減らす根本的な対策は、仕事量を減らすか、人を増やすかしかありません。しかし人手不足の中、できるのは仕事量を減らすことです。仕事量を減らすのは、経営層の役割。無駄な仕事を効率的に減らし、労働時間が短くても利益を確保できる仕組みをつくることが求められます」  労働問題などに取り組むNPO法人「POSSE(ポッセ)」代表の今野晴貴さんは、「一番大事なのは、労働者が声を上げられることだ」と言う。 「いま国は、経営者を啓発し、労働者に医学的な知識を普及させようとしています。これは決して悪いことではありませんが、何かあった際、健康管理ができていなかったとして労働者の責任が強調される側面もあります」  そうならないためにも、労働者自身が声を上げ、過重労働や過労死した際の責任を会社に追及できるようにならなければ状況は変わらない、と今野さんは説く。 AERA 2024年2月5日号より   「ただ、個人で会社に要求しても、応じてもらえなかったり取り合ってもらえなかったりします。個人で会社と交渉するのは難しいので、労働組合に加入し、団体交渉によって『長時間労働を是正してほしい』などと要求するのが、最も有効な方法だと思います。今は私たちのようなNPO法人や労働組合など、一人でも加入できる労働組合もたくさんあります」  夫の彰さん(当時49)を過労死で亡くした寺西笑子(えみこ、75)さんは、彰さんの死後、責任を取ろうとせず保身に走る会社に怒りを覚えた。だが、彰さんが亡くなった96年、過労自殺の労災認定基準はなかった。約1年後、藁にもすがる思いで電話相談「過労死110番」に連絡し、労働問題に詳しい弁護士とつながった。約2年がかりで内部資料や同僚の証言を集め労災を申請し、2001年に労災と認定された。さらに、会社と当時の社長を相手に起こした民事訴訟でも謝罪を引き出し、06年に和解に至った。  今、寺西さんは「全国過労死を考える家族の会」の代表世話人として、「過労死ゼロ」を掲げ、過労死防止の啓発の講演など活動を続ける。夫が亡くなった28年前と比べ、利益優先の経営者側の考え方は今の方が悪質になっていると感じている、という。 「企業にとって労働者は一つのコマかもしれませんが、人はロボットではありません。意思を持った人間であり、家族にとってかけがえのない大切な命です。経営者は、職場環境を改善し、労働者が健康で安心して働ける仕組みをつくってほしい」  労働者は、一旦精神疾患になると仕事への復帰が難しくなる、死んでからでは遅いので、違法な働かせ方に気づいたらすぐ専門窓口に相談してほしいという。そしてこう呼びかける。 「命より大事な仕事はありません」 (編集部・野村昌二) ※AERA 2024年2月5日号より抜粋
AERA 2024/02/01 16:00
〈ホンマでっか!? TVきょう出演〉56歳「君島十和子」が若者の憧れに? 最近テレビ出演が増えているワケ
高梨歩 高梨歩
〈ホンマでっか!? TVきょう出演〉56歳「君島十和子」が若者の憧れに? 最近テレビ出演が増えているワケ
君島十和子  31日放送のバラエティー番組「ホンマでっか!? TV」(フジテレビ系毎週水曜午後9時)に美容家でモデルの君島十和子が出演する。今回の放送は、ほうれい線、口角、お腹などのたるみのお悩みを評論家集団が解決するという内容。君島が「美の秘訣」を披露した過去の記事を振り返る。(2022年9月14日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時) *  *  *  美容家でモデルの君島十和子(56)が8月31日、バラエティー番組「ホンマでっか!? TV」(フジテレビ系)に出演。同日の企画は「奇跡の50代!汗と涙の美の努力ぶっちゃけSP」というもので、飯島直子、武田久美子、田中律子など50代の美女たちが勢ぞろい。「美の秘密」を惜しげもなく披露した。 「同番組では君島さんの『炊飯器は捨てました』発言が話題になりました。健康のため白米は食べないという理由です。他にも、たとえばラーメンなどを食べた際は、直後に水を2リットル飲んで体内から早く排出させるそうです。『早くお帰りいただく』と話していましたね。また肌のために日焼けは絶対にしたくないそうで、自らを『日陰の女』と呼んでいると明かし、日傘にマスク、アームカバー姿で外出し、日陰を渡り歩く君島さんの動画が流されました。その姿に『怪しすぎる』とスタジオからは突っ込みが入っていました」(テレビ情報誌の編集者)  君島は8月10日放送の「上田と女が吠える夜」(日本テレビ系)にも出演し、「衣をすべて剥がしてから天ぷらを食べていた」というエピソードを披露していた。最近では「ポップUP!」(フジテレビ系)にも定期的に出演しており、テレビ露出が増えている印象だ。  君島は中学時代にモデルデビュー。高校生で航空会社のキャンペーンガールに選ばれ、ファッション誌の専属モデルをへて女優に転身した。1995年に結婚し、芸能界を引退。しかし直後に夫側の相続をめぐる骨肉の争いが勃発。連日ワイドショーで報じられていたこともあり、雲隠れするように表舞台から去っていった。その後、2人の娘の母となり、家事や育児をこなしながら、夫が代表を務める高級ファッションブランド「君島インターナショナル」のスーパーバイザーも務めるなど実業家に転身。2005年に美容知識を活かし、コスメブランド「FELICE TOWAKO COSME」(現FTC)を立ち上げて多くの女性ファンを獲得。美容誌や女性誌では「美のカリスマ」として、たびたび特集が組まれるようになった。 「06年に発売された、スキンケアやメーク術をまとめた『十和子塾』は発売1カ月で10万部を売り上げ、50歳を機に16~17年に発売した『十和子道』、『私が決めてきたこと』の2冊も重版がかかるほど売れました。彼女を支持するコアなファンは同世代が多い。バブルを経験し、美意識が高く、SNSよりは雑誌や本から情報を得るのが習慣となっているいわゆる“最後の金持ち世代”。君島さんは家事も仕事もこなし、長女は宝塚歌劇団を卒業したタカラジェンヌ。多忙でも美しさをキープし、夫婦仲もよい。雑誌やウェブ連載、SNSからはセレブな日常があふれ出ており、彼女の生活に憧れる女性たちが人気を支えています」(女性ファッション誌のライター) 引きの強いレアなセレブキャラ  一方、最近では20代の働く女性をターゲットとした「with online」などでも連載を持っており、若い女性にも共感されているようだ。「こんな50代になりたい」という憧れの先輩という立ち位置も獲得し、ファンの年齢層が広がりをみせている。 「外見と内面のギャップも彼女の魅力です。『高根の花』のように見えるのに、飾ることなくあけっぴろげに私生活を話したりもする。仲良しだという作家の林真理子さんも君島さんについて『話が面白い』とその魅力を明かしていました。さらに、意外と言うと失礼ですが、かなりの読書家なのです。著書『十和子道』では、寝る前にかならず本を読むことや、『本は人生の一生の相棒』とつづっており、いろんなジャンルの本をたくさん読んでいる様子がうかがえます。インタビューや著書などで使う言葉の豊富さや的確さ、センスのよさは、その読書量に裏付けられているのかもしれません」(同)  一方、女優時代から彼女を知る大手キー局の関係者はこう述べる。 「結婚前の君島さんは、控えめで、おとなしい印象でした。女優としていまいちブレークしきれなかったのも、ハングリー精神に欠けていたんだと思います。なので、最近の活躍を見て『こんなにしゃべれるんだ』とびっくりしています。美容界のドン的な貫禄もあって、昔のイメージとは大違い。幸か不幸か、君島家の“お家騒動”で窮地に立たされた結果、彼女自身が強くなり、秘められた能力が開花したのかもしれません」  芸能評論家の三杉武氏は、君島が支持される理由をこう語る。 「君島十和子さんといえば、華やかな結婚と、その後の君島家に関する騒動がワイドショーや女性誌で大きな話題となりましたが、あれから25年以上たち、そうした騒動もすっかり風化しました。近年の君島さんは美容家として多くの人に支持され、確固たるポジションを築き、お子さんたちも立派に成人した。だからこそ、これまで縁の薄かったバラエティー番組や情報番組などからのオファーも積極的に受けるようになったのでは。番組に出演することで、自身のブランドの新たなファン層の開拓にもつながりますからね。テレビ局にとっても、君島さんは“レア感”があり、それでいて一定の年齢層には知名度も高い。テレビ画面越しにもキャラが立ち、トーク力もあるので『視聴者からの引きが強いセレブキャラ』として今後もオファーが増えていくでしょうね」  キャラが浸透すれば、第2の「十和子ブーム」が来る日も近いかもしれない。 (高梨歩)
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dot. 2024/01/31 21:00
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