古田真梨子
号泣必至の卒園ソング「さよならぼくたちのほいくえん」 新沢としひこの歌が大人にも響く理由
東京・下北沢の自社スタジオ屋上で。つながる空の下、今日も誰かが新沢の歌を歌っている(撮影/山本倫子)
新沢としひこの名前を知る人は、たぶんそう多くない。けれども歌を聞けば、ピンとくる人はたくさんいるだろう。たとえば「さよならぼくたちのほいくえん」。多くの幼稚園、保育園の卒園式で歌われ、その歌詞に、姿に、親は涙する。新沢が作る子どもの歌は、大人をも夢中にさせてきた。いつの時代も変わらない子どもたちのために、思いを込めて歌う。AERA 2024年3月18日号「現代の肖像」より。新沢が歌うオリジナル動画も一緒にお送りする。
* * *
1月28日の日曜日は、時折吹く風は冷たいものの、よく晴れた一日だった。
シンガー・ソングライターの新沢(しんざわ)としひこ(61)は、東京・渋谷の伝承ホールの控室で、
「僕が着るとパジャマみたいって言われるんだよね(笑)」
と冗談を言いながら、パステルカラーの衣装に袖を通していた。まもなく、自身が社長を務める音楽事務所「アスク・ミュージック」の所属アーティストが総出演するファミリーコンサートが始まる。約350席のチケットは完売。開演を待つ客席は、幼い子ども連れの親子が目立ち、とてもにぎやかだ。
午後2時、開演と同時にステージに飛び出した新沢は、他の出演者とともにノリの良い曲を次々に披露し、一気にテンションを上げていく。そして、会場がすっかり温まった頃、客席に向かって穏やかな声でこう語りかけた。
「今年は、お正月から地震がありました。いま、戦争をしている国もあります。文字通り世界中の子どもたちが一度に笑っていてくれたらいいな、と思って作った歌を、願いを込めて歌いたいと思います」
歌ったのは「世界中のこどもたちが」。客席にいる子どもも大人も、誰もが自然に身体を揺らし、歌声を重ねていく。
日本大学幼稚園でのコンサート後、楽屋を訪ねてくれた園児とハイタッチ(撮影/山本倫子)
子どもの歌は詠み人知らず 僕の持ち歌じゃない
多くの人が一度は耳にしたことがあるであろうこの歌は、37年前の1987年、当時24歳だった新沢が作詞し、元保育士で絵本作家でもある中川ひろたか(70)が曲をつけて、幼児音楽教育の総合月刊誌「音楽広場(現・クーヨン)」(クレヨンハウス)に発表したものだ。
まだYouTubeはもちろんのこと、インターネットも普及していなかった時代。「発表」といっても楽譜が掲載されただけだったが、現場の保育士たちがピアノで弾き、子どもたちが歌い、それを聴いた親たちの評判を呼ぶというサイクルを繰り返しながら、じわじわと広がってきた。
全国区の人気を獲得している歌だが、マネジャーの田辺泰彦(50)は、営業先で「作詞した新沢さん、まだ生きてるんですか?!」と驚かれたことが何度かあると笑う。新沢も楽しそうに、こう話す。
「子どもの歌は“詠(よ)み人知らず”の雰囲気が強くて、無名性が高い。保育園などに歌いに行くと、目の前に座った子どもたちに『おじさん、どうして僕たちの歌を知ってるの?』と言われることがよくある(笑)。子どもの歌は、僕の持ち歌じゃない。みんなが歌うもの。我ながら不思議な仕事だなと思います」
この日のファミリーコンサートでは、同じく新沢が作詞し、中川が作曲した「にじ」(90年)や、新沢が作曲し、原作者のエリック・カールから公認をもらった「はらぺこあおむしのうた」(2000年)なども披露された。どちらも育児雑誌に楽譜が載った日をスタートとして、数十年かけてほぼ口コミで広がり、子どもたちの世界にすっかり溶け込んでいる名曲だ。
栃木県小山市から2人の娘を連れてコンサートにやってきた本橋あずさ(37)は、
「新沢さんの歌は、子ども自身がちゃんと意味をわかった上で歌っている。だからより温かく感じるし、私は号泣してしまうことがあります」
と話す。赤ちゃんの歌では物足りない。アイドルが歌う流行(はや)りの歌は、歌えたとしても理解は難しい。そんな世代に、新沢の歌は見事にはまっている。
所属アーティストが総出演したファミリーコンサート。「一番、出たがりが僕。みんなの演奏で歌っている時が一番幸せ」(新沢)[撮影/山本倫子]
94年から約10年間、公立幼稚園で保育士として働いた経験のある淑徳大学准教授の松家まきこ(幼児教育)は、当時、保育現場に新沢の歌が浸透していくことをリアルに感じていたという。
「それまでの童謡とは全く違って、アップテンポで華やか。大人の心にも届く言葉で綴(つづ)られていて、子どもたちに聴かせる前に、現場の保育士たちがみんなファンになっていました」(松家)
それは、日本の子どもの歌の世界における大きな変化だった。日本童謡協会常任理事で、作曲家のアベタカヒロ(43)は言う。
「『ぞうさん』『サッちゃん』に代表されるように、童謡とは、ゆっくりとした調べと癒やしが持ち味でしたが、いつか“卒業”してしまうものでもありました。そこに新しい風を吹かせたのが新沢さんです。大人は誰でも子どもの部分があるし、心に子どもが住んでいる。その感覚を具現化し、大人から子どもまで気兼ねなく歌える全く新しい童謡を開拓してくれた。本当にすごいことだと思います」
新沢は1963年、クリスチャンの両親の下、東京都江東区の下町で生まれた。年子の姉のいずみと四つ下の弟の拓治との三姉弟。昨夏、88歳で亡くなった父の誠治は、同区内にあるキリスト教系の神愛保育園の園長を40年間務め、夜間保育や延長保育の実施、給食内容の改善など、戦後の保育運動の先頭に立っていた人格者で、母の智恵子(89)はその保育園で働く保育士だった。
僕の中に悪魔もいる感覚が 詩を書くのに役立っている
共働き家庭の慌ただしさはあったものの、父の誠治は、お気に入りのレコードをかけながら、家族で食卓を囲むことを楽しみにしている愛情豊かな人だった。井上陽水の「断絶」や小椋佳の「ほんの二つで死んでゆく」など、家族だんらんにはそぐわない選曲も時々はあったものの、それが新沢家の日常だった。
映画にもよく連れていってくれた。「メリー・ポピンズ」や「クリスマス・キャロル」、「サウンド・オブ・ミュージック」にチャップリンの映画など、話題の作品を逃すことはなく、「男はつらいよ」は新作が出る度に家族みんなで観にいった。芸術が注がれる環境の中で、新沢の感性は磨かれていった。
手話通訳士の中野佐世子と歌う(撮影/山本倫子)
小学6年生だった時、こんなことがあった。
12月のある日、クラスのみんなで「よみうりランド」にスケートに行くことになった。朝、近くの都営住宅に住む友だちを迎えに行ったら、寝坊したようで、なかなか出てこない。冬空の下、玄関の前でぼんやりと待っていた新沢は、ふと歌いたくなって、思い浮かんだ情景にそのままメロディーをつけて歌ってみた。そうしたら友だちが玄関を出てくるより早く、1曲がほぼ完成してしまったという。ソワソワした気持ちのままスケートに行った新沢は、帰宅後の夕方、お風呂の湯舟の中で、朝に作った歌を思い出しながら大声で歌った。
「なにを歌ってるの? 上手だね」
お風呂場のドアをガラガラと開けた姉のいずみは、自作の歌だと聞くと、驚いて自分の日記に「1974年12月9日」という日付とともに、歌詞を書き留めてくれた。タイトルは「何も言わないで」。歌詞には、小学生とは思えない感性が光る。
♪何も言わないでね
涙が止まらないわ
けして 見つめないで
ふりむきたくなるから
いずみは言う。
「本物の歌謡曲みたいで驚きました。この子は何かが違うな、と。口には出さないけれど、才能を感じ、あの頃から尊敬していました」
新沢と姉、弟の3人は仲の良い姉弟だ。新沢は優しい姉が大好きで、放課後は姉が友だちと遊ぶのに交ざって、一緒にままごとや折り紙をしたり、人形ごっこをしたりして過ごした。忙しい両親に、良い意味で“放置”されていたので、時間はたっぷりあった。
「姉はソウルメイトのような存在で、2人でひとつ、一心同体だと思っていました。幼い頃から、僕は自分の中にとても邪悪で汚れた部分があることに気づいていたけれど、姉が本当に優しくてきれいなものを持った人だったから、大丈夫、僕は僕のままでいいんだ、と信じることができた」(新沢)
子どもの頃から、自分を客観的に俯瞰(ふかん)して見ていたことに驚かされるが、新沢は、こう続ける。
週1回、トレーナーの佐藤竜矢(35)のセッションを受ける。新沢は「僕はストイックじゃないから」と謙遜するが、佐藤は「どんなに疲れていても必ず来てくれる。努力の人だと思います」と話す(撮影/山本倫子)
「誰だって善意はあるけど、悪意の粒だって持っているよね、と思うんです。だから、いい人でいなくちゃいけないとは思わないし、僕の中には悪魔もいるよね、でもそれでいいよね、という感覚が幼い頃からある。その感覚は、詩を書く上ですごく役だっているし、そういう意味でも姉の存在はとても大きかった」
そんな新沢の才能がより多方面に大きく伸びたのは、高校時代だ。
もともと都立高校への進学を考えていた新沢に、ある日、母の智恵子が、自宅からほど近い東京都小金井市に国際基督教大学(ICU)高校が開校することを教えてくれた。1学年約240人のうち、3分の2が帰国生。約80人の「一般生枠」には受験者が殺到したが、母に背中を押された新沢は見事、合格。1期生として入学した。
新設校だから、生徒会もない、部活もない、上級生もいない。後に「伝説の1期生」と呼ばれることになる個性あふれる同級生と先生たちでゼロから学校を作っていくという稀有(けう)な経験を重ねる日々。新沢は、同級生と一緒にギターを弾き、学校祭のパンフレットに絵を描き、初代生徒会に立候補して書記として「生徒会だより」を発行した。「将来は、歌や絵、文章を多くの人に届ける仕事がしたい」と具体的なイメージを膨らませるようになったのも、この頃だ。当時を振り返り、
「夢のような3年間でした。毎日がお祭りみたいで、全ての選択が自由。母は、そんな雰囲気が僕に合うと思ってたんでしょうね。僕は幼い頃から、絶対にちょっと変わった子だったけど、家族は抑圧することなく、いつも見守ってくれた」
と話す。友だちにも恵まれたという。
学生時代に保育園でバイト 超絶悪ガキ集団から学んだ
その一人、藤田敦子(61)は高校2年の夏、1年間の米国留学へ出発する時、新沢から贈られたカセットテープを今も大切に持っている。新沢が作詞・作曲した「サヨナラをした君に」など16曲と応援メッセージに加え、通学で使っていた京王線の電車が走る音が時折混じるそのテープを、藤田はホームステイ先で何度も何度も聴いたという。
♪サヨナラなんて聞かなかった
君はまだそこにいるのさ
たったひとりの君に
たったひとつの心をあげよう
いつまでもいつまでも 忘れはしない
独身。「プライベートを大事に保存したいという想いがある」と話す。30年来の付き合いの東京大学教授の高橋孝明は、新沢を「自分を演じているところがある」と評す(撮影/山本倫子)
「留学中は大変なこともたくさんあって、やっぱり寂しかった。ピーマン(新沢の愛称)は、すごく多才でいい人だけど、それだけではなくて、いろんな感情を理解する心を持ち合わせている。だからこそ、歌詞のひとつひとつが沁(し)みたのだと思います」(藤田)
ICU高校卒業後、新沢は明治学院大学社会学部社会福祉学科に進学した。高校3年の時、担任の女性教諭に、
「新沢くんは浪人しちゃダメよ。浪人しても遊んじゃって伸びないから。内申点は悪くないんだから、推薦で入れるところに行きなさい」
と言われて決めた大学だったが、キリスト教系の大学の社会福祉学科であり、両親は大喜び。新沢が歌ったり、絵を描いたりすることを「音楽と芸術は、保育に役立つからね」と言って応援していた誠治は、新沢に自分の勤務先を含めていくつかの保育園でのアルバイトを勧めた。
新沢は、
「歌うことも絵を描くことも、そのためじゃないんだけどな(笑)」
と思いつつ、子どもは大好きだったから、二つ返事でOKして、軽い気持ちで出かけたという。
だが、現実は甘くなかった。天使のような子どもたちが若いお兄さんを大歓迎してくれると思っていたら、目の前に現れたのは、超絶悪ガキ集団。ちょうど節分の準備をしていた年長クラスでは、鬼退治をするための紙の棒でバンバンぶたれたり、けんかが起きたり。新沢は言う。
「びっくりしたけど、すっごく面白かった。子どもだって人間で、大人と何ら変わらない。そのことに気づくことができたのは、大きかった」
東京都豊島区の千早子どもの家保育園では「創作あそびうた」の第一人者であり、副園長の湯浅とんぼ(故人)と、後に多くの歌を一緒に作ることになる中川ひろたかと出会った。湯浅のアシスタントとしてギターを持ってあちこちの講演会に同行したり、中川と曲づくりをしたり。高校生の頃に抱いた「歌や絵を多くの人に届ける仕事がしたい」という想いと、いくつもの縁が掛け合わさって、自分だけの道が拓けつつあった。就職活動はしなかった。
冒頭の「世界中のこどもたちが」を発表した翌88年、25歳の新沢は「さよならぼくたちのほいくえん」を作詞した(作曲は島筒英夫)。保育園で働いた経験と、新沢ならではの感情をちょっと俯瞰してみる感覚で書かれた詩は、聴く人の心にすっと入っていく。
「保育園」を「幼稚園」や「こども園」に変え、いつからか毎年春の卒園シーズンを席巻するようになったこの歌。新生活に思いをはせながら元気いっぱいに歌う園児とは対照的に、見守る大人たちはいつも泣いている。
いま新沢は、シンガー・ソングライターとしてのソロ活動やコンサートに加え、現場の保育士向けの研修会や講演会のために全国各地を飛び回り、多忙な日々を送っている。自治体や保育園などのテーマソングの依頼も途切れず、19年と20年には「にじ」が立て続けにテレビCMに採用された。保育現場で浸透した歌がテレビでも使われるという“逆輸入”現象は、とても珍しいことだという。
園や小学校で歌われ こんな豊かな人生はない
新沢が子どもに関わる仕事をするようになって、約40年。子どもは変わりましたか──。
「僕は、どんな時代も変わらないと思うんです。布おむつだったのか、紙おむつだったのか。空調が整っていたのか、いないのか。取り巻く環境は時代によって変わっていくけれど、何かを感じる心までは変わらないからです。そして、人間の脳の仕組みは同じだけど、全員ちょっとずつ違って、それでいいことも変わりません」
そう即答した新沢は、子どもの歌の世界に若手のスター作家が登場してくれることを願っているという。「僕らがもっと頑張って、憧れてくれる世界にしなきゃいけないですね」と言ってから、しみじみと言った。
「僕は、いわゆる大スターではないし、子どもたちは僕のことを知らないけれど、全校児童が『にじ』を歌っている様子を見たり、卒園式で『さよならぼくたちのほいくえん』の大合唱があったと聞くと、ああ幸せだなと思います。こんな豊かな人生はないですよ。これからも変わらぬ想いで歌を作り続けます」
(文中敬称略)(文・古田真梨子)
※AERA 2024年3月18日号
AERA
2024/03/15 18:00