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号泣必至の卒園ソング「さよならぼくたちのほいくえん」 新沢としひこの歌が大人にも響く理由
古田真梨子 古田真梨子
号泣必至の卒園ソング「さよならぼくたちのほいくえん」 新沢としひこの歌が大人にも響く理由
東京・下北沢の自社スタジオ屋上で。つながる空の下、今日も誰かが新沢の歌を歌っている(撮影/山本倫子)    新沢としひこの名前を知る人は、たぶんそう多くない。けれども歌を聞けば、ピンとくる人はたくさんいるだろう。たとえば「さよならぼくたちのほいくえん」。多くの幼稚園、保育園の卒園式で歌われ、その歌詞に、姿に、親は涙する。新沢が作る子どもの歌は、大人をも夢中にさせてきた。いつの時代も変わらない子どもたちのために、思いを込めて歌う。AERA 2024年3月18日号「現代の肖像」より。新沢が歌うオリジナル動画も一緒にお送りする。 *  *  *  1月28日の日曜日は、時折吹く風は冷たいものの、よく晴れた一日だった。  シンガー・ソングライターの新沢(しんざわ)としひこ(61)は、東京・渋谷の伝承ホールの控室で、 「僕が着るとパジャマみたいって言われるんだよね(笑)」  と冗談を言いながら、パステルカラーの衣装に袖を通していた。まもなく、自身が社長を務める音楽事務所「アスク・ミュージック」の所属アーティストが総出演するファミリーコンサートが始まる。約350席のチケットは完売。開演を待つ客席は、幼い子ども連れの親子が目立ち、とてもにぎやかだ。  午後2時、開演と同時にステージに飛び出した新沢は、他の出演者とともにノリの良い曲を次々に披露し、一気にテンションを上げていく。そして、会場がすっかり温まった頃、客席に向かって穏やかな声でこう語りかけた。 「今年は、お正月から地震がありました。いま、戦争をしている国もあります。文字通り世界中の子どもたちが一度に笑っていてくれたらいいな、と思って作った歌を、願いを込めて歌いたいと思います」  歌ったのは「世界中のこどもたちが」。客席にいる子どもも大人も、誰もが自然に身体を揺らし、歌声を重ねていく。 日本大学幼稚園でのコンサート後、楽屋を訪ねてくれた園児とハイタッチ(撮影/山本倫子)   子どもの歌は詠み人知らず 僕の持ち歌じゃない  多くの人が一度は耳にしたことがあるであろうこの歌は、37年前の1987年、当時24歳だった新沢が作詞し、元保育士で絵本作家でもある中川ひろたか(70)が曲をつけて、幼児音楽教育の総合月刊誌「音楽広場(現・クーヨン)」(クレヨンハウス)に発表したものだ。  まだYouTubeはもちろんのこと、インターネットも普及していなかった時代。「発表」といっても楽譜が掲載されただけだったが、現場の保育士たちがピアノで弾き、子どもたちが歌い、それを聴いた親たちの評判を呼ぶというサイクルを繰り返しながら、じわじわと広がってきた。  全国区の人気を獲得している歌だが、マネジャーの田辺泰彦(50)は、営業先で「作詞した新沢さん、まだ生きてるんですか?!」と驚かれたことが何度かあると笑う。新沢も楽しそうに、こう話す。 「子どもの歌は“詠(よ)み人知らず”の雰囲気が強くて、無名性が高い。保育園などに歌いに行くと、目の前に座った子どもたちに『おじさん、どうして僕たちの歌を知ってるの?』と言われることがよくある(笑)。子どもの歌は、僕の持ち歌じゃない。みんなが歌うもの。我ながら不思議な仕事だなと思います」  この日のファミリーコンサートでは、同じく新沢が作詞し、中川が作曲した「にじ」(90年)や、新沢が作曲し、原作者のエリック・カールから公認をもらった「はらぺこあおむしのうた」(2000年)なども披露された。どちらも育児雑誌に楽譜が載った日をスタートとして、数十年かけてほぼ口コミで広がり、子どもたちの世界にすっかり溶け込んでいる名曲だ。  栃木県小山市から2人の娘を連れてコンサートにやってきた本橋あずさ(37)は、 「新沢さんの歌は、子ども自身がちゃんと意味をわかった上で歌っている。だからより温かく感じるし、私は号泣してしまうことがあります」  と話す。赤ちゃんの歌では物足りない。アイドルが歌う流行(はや)りの歌は、歌えたとしても理解は難しい。そんな世代に、新沢の歌は見事にはまっている。 所属アーティストが総出演したファミリーコンサート。「一番、出たがりが僕。みんなの演奏で歌っている時が一番幸せ」(新沢)[撮影/山本倫子]    94年から約10年間、公立幼稚園で保育士として働いた経験のある淑徳大学准教授の松家まきこ(幼児教育)は、当時、保育現場に新沢の歌が浸透していくことをリアルに感じていたという。 「それまでの童謡とは全く違って、アップテンポで華やか。大人の心にも届く言葉で綴(つづ)られていて、子どもたちに聴かせる前に、現場の保育士たちがみんなファンになっていました」(松家)  それは、日本の子どもの歌の世界における大きな変化だった。日本童謡協会常任理事で、作曲家のアベタカヒロ(43)は言う。 「『ぞうさん』『サッちゃん』に代表されるように、童謡とは、ゆっくりとした調べと癒やしが持ち味でしたが、いつか“卒業”してしまうものでもありました。そこに新しい風を吹かせたのが新沢さんです。大人は誰でも子どもの部分があるし、心に子どもが住んでいる。その感覚を具現化し、大人から子どもまで気兼ねなく歌える全く新しい童謡を開拓してくれた。本当にすごいことだと思います」  新沢は1963年、クリスチャンの両親の下、東京都江東区の下町で生まれた。年子の姉のいずみと四つ下の弟の拓治との三姉弟。昨夏、88歳で亡くなった父の誠治は、同区内にあるキリスト教系の神愛保育園の園長を40年間務め、夜間保育や延長保育の実施、給食内容の改善など、戦後の保育運動の先頭に立っていた人格者で、母の智恵子(89)はその保育園で働く保育士だった。 僕の中に悪魔もいる感覚が 詩を書くのに役立っている  共働き家庭の慌ただしさはあったものの、父の誠治は、お気に入りのレコードをかけながら、家族で食卓を囲むことを楽しみにしている愛情豊かな人だった。井上陽水の「断絶」や小椋佳の「ほんの二つで死んでゆく」など、家族だんらんにはそぐわない選曲も時々はあったものの、それが新沢家の日常だった。  映画にもよく連れていってくれた。「メリー・ポピンズ」や「クリスマス・キャロル」、「サウンド・オブ・ミュージック」にチャップリンの映画など、話題の作品を逃すことはなく、「男はつらいよ」は新作が出る度に家族みんなで観にいった。芸術が注がれる環境の中で、新沢の感性は磨かれていった。 手話通訳士の中野佐世子と歌う(撮影/山本倫子)    小学6年生だった時、こんなことがあった。  12月のある日、クラスのみんなで「よみうりランド」にスケートに行くことになった。朝、近くの都営住宅に住む友だちを迎えに行ったら、寝坊したようで、なかなか出てこない。冬空の下、玄関の前でぼんやりと待っていた新沢は、ふと歌いたくなって、思い浮かんだ情景にそのままメロディーをつけて歌ってみた。そうしたら友だちが玄関を出てくるより早く、1曲がほぼ完成してしまったという。ソワソワした気持ちのままスケートに行った新沢は、帰宅後の夕方、お風呂の湯舟の中で、朝に作った歌を思い出しながら大声で歌った。 「なにを歌ってるの? 上手だね」  お風呂場のドアをガラガラと開けた姉のいずみは、自作の歌だと聞くと、驚いて自分の日記に「1974年12月9日」という日付とともに、歌詞を書き留めてくれた。タイトルは「何も言わないで」。歌詞には、小学生とは思えない感性が光る。 ♪何も言わないでね  涙が止まらないわ  けして 見つめないで  ふりむきたくなるから  いずみは言う。 「本物の歌謡曲みたいで驚きました。この子は何かが違うな、と。口には出さないけれど、才能を感じ、あの頃から尊敬していました」  新沢と姉、弟の3人は仲の良い姉弟だ。新沢は優しい姉が大好きで、放課後は姉が友だちと遊ぶのに交ざって、一緒にままごとや折り紙をしたり、人形ごっこをしたりして過ごした。忙しい両親に、良い意味で“放置”されていたので、時間はたっぷりあった。 「姉はソウルメイトのような存在で、2人でひとつ、一心同体だと思っていました。幼い頃から、僕は自分の中にとても邪悪で汚れた部分があることに気づいていたけれど、姉が本当に優しくてきれいなものを持った人だったから、大丈夫、僕は僕のままでいいんだ、と信じることができた」(新沢)  子どもの頃から、自分を客観的に俯瞰(ふかん)して見ていたことに驚かされるが、新沢は、こう続ける。 週1回、トレーナーの佐藤竜矢(35)のセッションを受ける。新沢は「僕はストイックじゃないから」と謙遜するが、佐藤は「どんなに疲れていても必ず来てくれる。努力の人だと思います」と話す(撮影/山本倫子)   「誰だって善意はあるけど、悪意の粒だって持っているよね、と思うんです。だから、いい人でいなくちゃいけないとは思わないし、僕の中には悪魔もいるよね、でもそれでいいよね、という感覚が幼い頃からある。その感覚は、詩を書く上ですごく役だっているし、そういう意味でも姉の存在はとても大きかった」  そんな新沢の才能がより多方面に大きく伸びたのは、高校時代だ。  もともと都立高校への進学を考えていた新沢に、ある日、母の智恵子が、自宅からほど近い東京都小金井市に国際基督教大学(ICU)高校が開校することを教えてくれた。1学年約240人のうち、3分の2が帰国生。約80人の「一般生枠」には受験者が殺到したが、母に背中を押された新沢は見事、合格。1期生として入学した。  新設校だから、生徒会もない、部活もない、上級生もいない。後に「伝説の1期生」と呼ばれることになる個性あふれる同級生と先生たちでゼロから学校を作っていくという稀有(けう)な経験を重ねる日々。新沢は、同級生と一緒にギターを弾き、学校祭のパンフレットに絵を描き、初代生徒会に立候補して書記として「生徒会だより」を発行した。「将来は、歌や絵、文章を多くの人に届ける仕事がしたい」と具体的なイメージを膨らませるようになったのも、この頃だ。当時を振り返り、 「夢のような3年間でした。毎日がお祭りみたいで、全ての選択が自由。母は、そんな雰囲気が僕に合うと思ってたんでしょうね。僕は幼い頃から、絶対にちょっと変わった子だったけど、家族は抑圧することなく、いつも見守ってくれた」  と話す。友だちにも恵まれたという。 学生時代に保育園でバイト 超絶悪ガキ集団から学んだ  その一人、藤田敦子(61)は高校2年の夏、1年間の米国留学へ出発する時、新沢から贈られたカセットテープを今も大切に持っている。新沢が作詞・作曲した「サヨナラをした君に」など16曲と応援メッセージに加え、通学で使っていた京王線の電車が走る音が時折混じるそのテープを、藤田はホームステイ先で何度も何度も聴いたという。 ♪サヨナラなんて聞かなかった  君はまだそこにいるのさ  たったひとりの君に  たったひとつの心をあげよう  いつまでもいつまでも 忘れはしない 独身。「プライベートを大事に保存したいという想いがある」と話す。30年来の付き合いの東京大学教授の高橋孝明は、新沢を「自分を演じているところがある」と評す(撮影/山本倫子)   「留学中は大変なこともたくさんあって、やっぱり寂しかった。ピーマン(新沢の愛称)は、すごく多才でいい人だけど、それだけではなくて、いろんな感情を理解する心を持ち合わせている。だからこそ、歌詞のひとつひとつが沁(し)みたのだと思います」(藤田)  ICU高校卒業後、新沢は明治学院大学社会学部社会福祉学科に進学した。高校3年の時、担任の女性教諭に、 「新沢くんは浪人しちゃダメよ。浪人しても遊んじゃって伸びないから。内申点は悪くないんだから、推薦で入れるところに行きなさい」  と言われて決めた大学だったが、キリスト教系の大学の社会福祉学科であり、両親は大喜び。新沢が歌ったり、絵を描いたりすることを「音楽と芸術は、保育に役立つからね」と言って応援していた誠治は、新沢に自分の勤務先を含めていくつかの保育園でのアルバイトを勧めた。  新沢は、 「歌うことも絵を描くことも、そのためじゃないんだけどな(笑)」  と思いつつ、子どもは大好きだったから、二つ返事でOKして、軽い気持ちで出かけたという。  だが、現実は甘くなかった。天使のような子どもたちが若いお兄さんを大歓迎してくれると思っていたら、目の前に現れたのは、超絶悪ガキ集団。ちょうど節分の準備をしていた年長クラスでは、鬼退治をするための紙の棒でバンバンぶたれたり、けんかが起きたり。新沢は言う。 「びっくりしたけど、すっごく面白かった。子どもだって人間で、大人と何ら変わらない。そのことに気づくことができたのは、大きかった」  東京都豊島区の千早子どもの家保育園では「創作あそびうた」の第一人者であり、副園長の湯浅とんぼ(故人)と、後に多くの歌を一緒に作ることになる中川ひろたかと出会った。湯浅のアシスタントとしてギターを持ってあちこちの講演会に同行したり、中川と曲づくりをしたり。高校生の頃に抱いた「歌や絵を多くの人に届ける仕事がしたい」という想いと、いくつもの縁が掛け合わさって、自分だけの道が拓けつつあった。就職活動はしなかった。  冒頭の「世界中のこどもたちが」を発表した翌88年、25歳の新沢は「さよならぼくたちのほいくえん」を作詞した(作曲は島筒英夫)。保育園で働いた経験と、新沢ならではの感情をちょっと俯瞰してみる感覚で書かれた詩は、聴く人の心にすっと入っていく。 「保育園」を「幼稚園」や「こども園」に変え、いつからか毎年春の卒園シーズンを席巻するようになったこの歌。新生活に思いをはせながら元気いっぱいに歌う園児とは対照的に、見守る大人たちはいつも泣いている。  いま新沢は、シンガー・ソングライターとしてのソロ活動やコンサートに加え、現場の保育士向けの研修会や講演会のために全国各地を飛び回り、多忙な日々を送っている。自治体や保育園などのテーマソングの依頼も途切れず、19年と20年には「にじ」が立て続けにテレビCMに採用された。保育現場で浸透した歌がテレビでも使われるという“逆輸入”現象は、とても珍しいことだという。 園や小学校で歌われ こんな豊かな人生はない  新沢が子どもに関わる仕事をするようになって、約40年。子どもは変わりましたか──。 「僕は、どんな時代も変わらないと思うんです。布おむつだったのか、紙おむつだったのか。空調が整っていたのか、いないのか。取り巻く環境は時代によって変わっていくけれど、何かを感じる心までは変わらないからです。そして、人間の脳の仕組みは同じだけど、全員ちょっとずつ違って、それでいいことも変わりません」  そう即答した新沢は、子どもの歌の世界に若手のスター作家が登場してくれることを願っているという。「僕らがもっと頑張って、憧れてくれる世界にしなきゃいけないですね」と言ってから、しみじみと言った。 「僕は、いわゆる大スターではないし、子どもたちは僕のことを知らないけれど、全校児童が『にじ』を歌っている様子を見たり、卒園式で『さよならぼくたちのほいくえん』の大合唱があったと聞くと、ああ幸せだなと思います。こんな豊かな人生はないですよ。これからも変わらぬ想いで歌を作り続けます」 (文中敬称略)(文・古田真梨子) ※AERA 2024年3月18日号
現代の肖像
AERA 2024/03/15 18:00
Awichが語る人生で一番の挫折 あの時、「やってやりますよ」と一蹴できていたら…
Awichが語る人生で一番の挫折 あの時、「やってやりますよ」と一蹴できていたら…
Awich(エーウィッチ)/1986年、沖縄県那覇市生まれ。ラッパー・歌手。4月27日から全国7カ所をまわる自身最大規模のワンマンツアー「THE UNION TOUR 2024」を開催予定(撮影/蜷川実花 hair 木暮智大 make up 山田千尋 styling 服部昌孝 costume エトロ prop styling 遠藤歩)    夫の死を乗り越えて33歳でメジャーデビューした女性ラッパー・Awich。日本のヒップホップシーンの新時代を切り拓く覚悟を語った。AERA 2024年3月11日号より。 *  *  * 「自分の生き方はこう。どう生きるかは、あなた次第」と聞き手に委ねる姿勢は、2PACやケンドリック・ラマー、ローリン・ヒル、エリカ・バドゥら、尊敬するアーティストたちから学んだとAwichは語る。 「SNSの投稿一つにしても、それに対するコメントを読んでみないと自分の意見を決められないことってよくあると思う。映画や絵、音楽でも何でも。人のリアクションを見てリアクションを取ることより、自分はどう感じるのか、どんな行動をするのかというアクションを疎かにしたくないと思っています」  一度決めたことに迷ったり、自信を失ったりすることもあるのだろうか。聞くと、「もちろんあります」と拍子抜けするほど即答した。そんな時に戻る「指標」は日記だ。小学校高学年から書き始めた日記を読み返すと、自分のやりたいことや好きなことの輪郭がはっきり見えてくるという。 「10歳ぐらいの時に、音楽ってなんでこんなに胸が締め付けられるんだろうとか、なんで夜って怖いんだろうとか、太陽の力って電気とは違うなとか、書いていました。あとは、麻雀好きな父が家に帰ってこないことが多くて、それに対する怒りとか。大人になっても、モヤモヤすることは書き留めて、根っこを突き止めるようにしています」 人生で一番の挫折  夫の死という大きな悲劇が注目を集めがちだが、Awichを進化させるような出来事はきっと毎日の身近なところに転がっているのだろう。人が見逃して、忘れ去ってしまうような些細なことも、彼女はきっとしなやかに血肉に変えていってしまう。  自分磨きも怠らない。勉強も好きで、大学時代は米国で起業学やマーケティング学を学んだ。インプットとアウトプットのバランスを取るため、毎日の読書は欠かさない。インプットは本からと決めている。愛読書はメンタルトレーニングや睡眠に関する実用書のほか、取材時は琉球王朝を舞台にした池上永一の歴史小説『テンペスト』を読み進めている最中だった。 AERA 2024年3月11日号より    そんなAwichが、これまでの人生で一番の挫折だったと感じているのは「妊娠して音楽をやめたこと」だという。娘が生まれてくるという喜びと子育てへの強い気持ちはあったものの、音楽からは身を引いた。誰かに言われたわけでもなく、「デビュー間もない新人が妊娠してしまったら、音楽をやめるのが当たり前」と思っていたからだ。あの時、「やってやりますよ」と一蹴できていたら、こんなに時間はかからなかったかもしれないという後悔もある。 「私が男のラッパーだったらもっと早く、もっと売れていたと思う。私がめちゃくちゃかっこいいことを言っていても、女の歌だから聴かないという人は今もいます。20代の頃は、『自分が男だったら……』と思ったりもしました。でも、こんなに時間がかかったことにも意味があったのかもしれない。40代、50代、60代と年を重ねたときに、『女性だったからこんなにすごいことができた』って言えるようなことをいっぱい経験したい」  メジャーデビュー時のシングル「Shook Shook」では、「まさか女が来るとは」「君臨するとは」と歌った。それほど、ヒップホップの世界は男性アーティストの独壇場だったのだ。それは多くの女性たちが現在の日本社会で置かれている状況と似ているのかもしれない。 自分がどうしたいのか  当時の自分と同じように、キャリアを諦めたり無意識のうちに選択肢を狭めたりしている女性がいたら何を伝えたいか。 「自分の体調や精神のことを一番よく分かっているのは自分だと思うし、体が強くない人もいるはずなので、絶対に仕事も妊娠や子育てもできますと断言はできません。もちろん子どもを望んでいない人もいると思う。でも、これをやれば全員が楽になるはずだと感じているのは、自己理解。自分がどうしたいのか、なぜそう思うかを掘り下げていけば、揺るがないものがきっとあるはず。それを分かってあげることだと思います」  どう生きるかは、あなた次第。答えはいつも内側にあるのだ。(構成/朝日新聞出版・金城珠代) ※AERA 2024年3月11日号より抜粋
国際女性デー
AERA 2024/03/11 10:30
純烈リーダー・酒井一圭「あの時の俺は天才だった」 グループ結成のきっかけとなった大けが
大道絵里子 大道絵里子
純烈リーダー・酒井一圭「あの時の俺は天才だった」 グループ結成のきっかけとなった大けが
子役時代の宣材写真と偶然同じポーズになった。あばれはっちゃくは今も歌謡界で大暴れ中だ(撮影/工藤隆太郎)    純烈リーダー、酒井一圭。「あばれはっちゃく」で主演デビュー後、ガオレンジャーになり、プロレスラーになり、クラッシャーカズヨシになり、そしていま、スーパー銭湯アイドル「純烈」のリーダーとして年間300近いステージに立つ。運に流されるだけでなく、常に自分を客観的にプロデュースし、熱意で周囲を巻き込みながら裏方としても仕掛け続けている。 *  *  * 2023年12月、東京・港区にあるザ・プリンス パークタワー東京のボールルームには、さっきまで行われていたクリスマスディナーショーの興奮冷めやらぬままに、着飾った女性たちが長い行列を作っていた。CDを2枚買えば参加できるハイタッチ会。行列の先で待ち受けるのはムード歌謡グループ、純烈の4人だ。  リーダー、酒井一圭(さかいかずよし・48)は、どんどん流れてくるファンの指先をギュッと握り、笑顔を向けた。 「今年は何回もよう来たな~、ありがと!」 「お父さんも一緒? 今日は夫婦水入らずやね」 「プチ整形したって? マジ? 似合ってるわ」 「杖(つえ)、増えてるやん。お母さん、来てくれてありがと、またね」  わずかな時間でも温もりのある言葉を返していく。純烈のSNSなどに頻繁に登場する名物スタッフ、巨漢のマネージャー・山本浩光(50)、日本クラウンのプロモーター・新宮崇志(42)らにも駆け寄り「今年もお疲れさまでした!」とハイタッチを求めるマダムたち。新宮が「こっちはいいから、あっち(純烈)に集中して!」と言うとワッと笑いが起きた。人と人の距離が近い。どこか懐かしいような心地よさが、ここにはある。  小田井涼平(53)卒業後、新メンバー、岩永洋昭(44)が加入して第1弾となるシングル「だってめぐり逢えたんだ」は10万枚を突破し、グループ3枚目のゴールドディスク認定曲になった。NHK紅白歌合戦には6回連続出場中。そんな今でも、年間300近いステージに立ってCDを手売りする「スーパー銭湯アイドル」としての心意気は変わらない。酒井は、そんな純烈の生みの親であり、一切のプロデュース業も行っている。 競馬の借金は400万 破産寸前で戦隊ヒーローに  結成時は誰もが無謀だと言った。酒井は言う。 「そりゃそうですよ。演歌・歌謡界は何らかの歌のグランプリを獲った人だったり、誰々先生の弟子だったりする人たちの世界。何のツテもない僕らが勝手にムード歌謡を始めて、『夢は紅白、親孝行!』とか言ってるんだから。周りからしたら『いいかげんにしろよ』なんだけど……でも、俺はみんなが無理だと言うからこそ、これは絶対にイケると思った。成功したかったらみんなが反対することをやるのが一番早いんですよ。みんなが右にいけば左に行く。そしたら運がついてくる」 千葉の大江戸温泉物語浦安万華郷でのステージ。左から岩永、後上翔太(37)、白川、酒井。温浴施設でのコンサートは今やプレミアムチケット。残念ながらこの施設は2024年6月での閉館が決定した(撮影/工藤隆太郎)    大きな声でときに熱く、ときに漫談のように自在にトークを操る。気付けば、酒井の話を夢中で聞いている。こうして様々な人を巻き込んできた。異色のプロデューサー、酒井一圭の人生とはどんなものなのか。 「テレビに出てるやつらと戦いたい」。そう親を説得して児童劇団に入ったのは8歳の頃。3度目に受けたオーディションで、当時の国民的な人気ドラマシリーズ「逆転あばれはっちゃく」で5代目桜間長太郎役を射止める。一躍、有名子役となったが、5歳下の弟には障害があり、母は弟につきっきり。現場には一度も来なかった。望んだこととはいえ、半年間も学校に通えない。目立つことへのやっかみからか、イタズラ電話はしょっちゅう、家の窓ガラスまで割られる。このままでは大変だと芸能界から足を洗った。酒井は言う。 「母親は喜んだ。このまま続けたら天狗(てんぐ)になって、とんでもない人生を送って犯罪者にでもなるんじゃないかと思ってたみたい(笑)。実際、大人に揉(も)まれるなかで『大人って大変やな。思ってもないけど、立場的に言わなきゃいけないことあるもんね。俺にはそんなこと言わないでもいいよ、分かってるから』ってそんなことばっかり言ってた。よく目の奥をのぞき込まれてましたね」  10代後半に出た舞台でオファーを受け、「横浜ばっくれ隊」で芸能界に復帰するが、その後はパッとせず競馬にのめり込んだ。「東京競馬場があるから」と府中に引っ越したほどの競馬好き。同棲していた当時の彼女のヒモ状態で、気づけば競馬の借金は400万。とどめの一撃となったのは99年秋の天皇賞だ。ここらで「何か」来る予感がした。借金をして50万突っ込んだ。惨敗。立っていられないほどのショックで、人の肩を借りて家に帰りながら、こう思った。 「ってことは、競馬じゃなくて仕事か」  その予感は的中。破産寸前で、01年、東映のスーパー戦隊シリーズ「百獣戦隊ガオレンジャー」のオーディションで、5人の戦隊ヒーローの一人、ガオブラックに選ばれた。 不思議と人を巻き込む力 「酒井祭」で600人集客  しかし、ヒーロー卒業後も人気が続く役者はわずかだ。主役のガオレッド役に選ばれた金子昇も酒井同様に背水の陣でこの仕事に賭けていた。二人はタッグを組み、生き残りをかけ、ここからどう這(は)い上がるかを考え続けた。作品の質を上げようと大仰な芝居をやめた。宣伝ができる番組や雑誌があれば可能な限り顔を出し、「トゥナイト2」にも出演。2ちゃんねるに「酒井一圭本人だけど、何かある?」と降臨し、お祭り状態になったことも。特撮ファンの間では「久々に面白いやつが現れた」と評判になった。  そんな行動を温かく見守っていたのが同番組のAPを務めた東映の横塚孝弘(50)だ。 ザ・プリンスパークタワー東京のディナーショー後のハイタッチ会。純烈は「触れる」感覚を大事にしている。客席に下りて握手して回る純烈名物「ラウンド」はプロレスから思いついた(撮影/工藤隆太郎)   「東映はヒーロー像から外れた行動には厳しく、僕も本来ならやりすぎじゃない?とか諫(いさ)める側。でも彼らの気持ちも分かるので、黙認していました」  現場に行くと隣に来て裏方の話を聞きたがる酒井とはすぐに仲良くなった。お盆で1週間休みができたときは、一緒にトークイベントを企画した。 「手作りのイベントでしたが、酒井の仲間が会場を押さえたりチケットを売ったり、よく働いて。途中から私も楽しくなって、仕事が終わると手伝いに行った。酒井って不思議と人を巻き込む力があるんですよ。そのときの感覚があるから、年齢は下だけど酒井はリーダー。一緒にいると楽しくてその後もつるんでいる感じです」(横塚)  それは「酒井祭」と題し、パルテノン多摩で600人を集客。界隈では大きな話題になった。 「ガオレンジャー」は追加オーディションを経て入ったガオシルバー、玉山鉄二が大ブレイク。最高視聴率は11.5%、2000年以降の戦隊シリーズでは歴代最高となり、玉山や金子は人気俳優の階段を駆け上がっていく。しかし、酒井は翌年から再びヒマな日々に戻ってしまった。 「悔しかったでしょ、ってみんな言うけど、悔しくないんですよ。俺は肩を貸した。『行け!』って。思ったより行ったというだけで」  04年に結婚。子どもも生まれた。ロクに稼ぎもない息子を、母親は会えば「何年くすぶってんだ」「遊んでる場合じゃないだろう!」と罵倒したが、馬耳東風。酒井の中では、確かな手応えを感じるものがあったから。「酒井祭」は「しんじゅく酒井祭」と名を改め、サブカルの殿堂、新宿・ロフトプラスワンの人気イベントとなっていた。自身のパーソナルな部分までさらけ出し、お客さんもいじりながら笑わせる。トークの腕を磨きながら、自分でイベントを企画してブッキングするプロデューサーにも就任。顔の広さを生かし、特撮ヒーロー出身の俳優の待ち受け画面などを提供する携帯サイト「ビジュアルボーイ」のキャスティング業務も請け負った。「酒井一圭HG」としてレイザーラモンHGのような衣装で「マッスル」に参戦、プロレスラーにもなった。求められるまま流されるまま、あらゆるところに首を突っ込んだ。 「放送禁止芸人」の異名を持つレイパー佐藤(56)と出会ったのもその頃だ。佐藤は言う。 「夢は映画監督なんだと話すと、酒井さんは、俺は本物のガオレンジャーだ。特撮ヒーローを知ってる限りノーギャラで呼ぶから、俺を主役に映画を作らないか、と言ってくれて。じゃあ私は知る限りの芸人を呼びますと。すごい人数になって」 「ガオレンジャー」の仲間も駆けつけ、ラスボスは金子。その作品「クラッシャーカズヨシ」は評判になり続編が撮影されるが、その途中に酒井は足首を複雑骨折し、北里研究所病院に搬送された。 楽屋では競馬中継を見ている。「勝とうとは思ってない。負けた分、運が競馬を経由して純烈に返ってくる気がする。投資です」(酒井)。合間にメンバーを観察しながらセットリストを決める(撮影/工藤隆太郎)   朦朧とした意識のなかで クール・ファイブの夢  医師は「リハビリをやっても普通に歩けないかもしれない」と言う。背中からモルヒネを投与され、朦朧(もうろう)とした意識のなかで俳優がダメになったらどうしようと考え続けた。その夜、内山田洋とクール・ファイブの夢を見る。なぜ?と考える中で、直立不動で歌うメインボーカルの前川清と自分が重なった。でも俺は歌えないし……。そのとき、点と点がつながるような閃(ひらめ)きがあった。 「そうか、俺は前川さんの後ろでワワワワーとコーラスをするクール・ファイブさんをやればいい。じゃあ、メインボーカルとして白川(裕二郎)を口説かなあかんな、と。甘い歌声なのはカラオケに行って知ってたから。なんで前川さんだったのかは、俺は馬主になるのが夢で、芸能界にはどんな馬主がいるのかも調べていたんです。前川さんも馬主なので、それも理由の一つだと思う。あの時の俺は天才だった。純烈の司令塔はこのベッド上にいる俺。そのあとの俺は、この俺が考えたことを実行していく末端作業員です」(酒井)  白川は「忍風戦隊ハリケンジャー」でカブトライジャー役を務め、酒井と共演経験も多く、ロフトのイベントにもよく出ていた。白川は言う。 「リーダーっておかしな人だと思われてたんですよ。付き合いがあるのを知ると、大丈夫? なんか詐欺師みたいな人だよねってよく言われてた。でも実際に会う酒井くんはものすごく面白い人で、この人と一緒だったら未来が明るいものになりそうだなって。『紅白に出たら親孝行できる』と言ってくれたのが最後の決め手ではあるんですけどね」  07年、特撮ヒーロー出身の俳優を中心に、ムード歌謡グループ・純烈が始動。ボイトレを重ね、ついに10年、「涙の銀座線」でデビューした。  その挑戦を家族はどう見ていたのか。酒井の妻、美紀(44)はこう語る。  「やりたいことしか続かない人が、これだ、と見つけて始めたことだから、応援するしかなかった。それまで大変なときは中華料理屋でバイトしてくれてたんですけど、純烈を始めてからは『もうそれどころやないわ、やめる』って。『え、これで生活しろって言うの?』くらいは言ったと思うけど(笑)、強くは言わなかった。児童手当が入るたびに『よっしゃ!』でなんとか耐えてきました」  しかし、売れない。デビューしたユニバーサルミュージックは2年で契約が切れた。それでも酒井の自信は揺るがなかった。 「ええねん、ええねん。だってまだ実力伴ってへんねやからさ、成長期間です、今はって」(酒井)  だが、ツテを辿(たど)って歌わせてもらっていた東京・赤羽のキャバレー「ハリウッド」で演出家のテリー伊藤と出会ったことで風向きが変わる。「特撮ヒーローがムード歌謡って面白いじゃん」とラジオなどで紹介してもらううちに、12年、温浴施設から「うちで歌いませんか」と連絡が来た。これが転機となった。最初はムード歌謡に反応して施設に通う地元の高齢者が応援してくれた。さらに、客席に下りて握手して回るような距離の近いパフォーマンスは中高年マダムの心を掴み、やがて、あちこちの温浴施設にファンが詰めかける「スーパー銭湯アイドル」として話題になっていく。 (文中敬称略)(文・大道絵里子) ※記事の続きはAERA 2024年3月11日号でご覧いただけます
現代の肖像
AERA 2024/03/08 18:00
〈きょう国際女性デー〉酒井若菜が30代で「まつげエクステ」をやめた理由 「自分の加齢を見せていけるようにならなきゃと思った」
唐澤俊介 唐澤俊介
〈きょう国際女性デー〉酒井若菜が30代で「まつげエクステ」をやめた理由 「自分の加齢を見せていけるようにならなきゃと思った」
酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)  3月8日は国際女性デー。女性の働き方や生き方は多様になった。著名人に、それぞれの人生の選択をたずねた過去のインタビューを再掲する。(この記事は2023年12月16日に配信した内容の再配信です。年齢、肩書等は当時) *  *  *  グラビアアイドルから俳優、作家として活動の幅を広げ、芸能界でも独自の存在感を放ち続けている酒井若菜さん(43)。【前編】では、さまざまな分野で挑戦し続けることの苦労や、その過程でたどり着いた仕事への価値観などを聞いた。【後編】では、「毎日メイク。」や「40代になってやめたこと。」などで早くも話題を集めているYouTubeチャンネル開設の経緯や、これまでの人生で忘れられない一日などをうかがった。 ※【前編】<酒井若菜が振り返る「グラビアアイドル」からの転換点 「エキストラでもいいから演技の現場に」と決めた日>より続く  【前編】のインタビューで、仕事に対しては「履ける草鞋は何足でも履いたほうがいい」という考えだと話してくれた酒井さん。グラビアアイドル、俳優、作家などさまざまな仕事に挑戦してきた酒井さんだからこその価値観だろう。  そして、酒井さんは最近、もう一つの“草鞋”を履き始めた。それはYouTuberだ。  今年8月に自身のYouTubeチャンネル「酒井若芽チャンネル」を開設。撮影や編集など、ほとんどの作業を一人でこなしているという。 「コロナ禍あたりからYouTubeをいろいろ見始めたのですが、無理にキャラを設定したり、テンションを上げたりしている動画が多いなあという印象でした。私のような40代の女性が一人で静かに見られる“大人のチャンネル”ってあんまりなかったんですよね。それで、ないなら自分がつくればいいんだって思って開設しました」  YouTubeではコスメ紹介やモーニングルーティーン、視聴者との質疑応答など、さまざまな動画をアップしているが、どのような方針でチャンネルを運営しているのだろうか。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   意地悪なことや傷つけることを言わない 「40代の美容やライフスタイルに関する動画と、つらくて悩んでいる人たちに向けた動画、この2本をテーマにしていきたいと思っています」  具体的にどういうことなのか。酒井さんはこう続ける。 「私が考えた40代なりの生き方だったり、人生の楽しみ方だったり、他の人にも何か共有できることがあるんじゃないかなと思っています。私自身、40代になって、たとえば、雑誌とか、自分にしっくりくるものが見つからないという経験をしていて。同じように感じている人たちに向けた動画を投稿していきたいです」  また、精神の“安定剤”のようなチャンネルでもありたいという。 「文筆業でずっとテーマとして掲げているのが、『夜眠れない人に向けて文章を書く』ということ。それは言い換えれば、すごく悩んでいたり、つらかったり、傷ついていたりしている人たちに向けて、文章を書き続けてきたということです。そのなかで、私の『声』が好きと言ってくれる方もすごく多いなと感じていて、だったら、そういう人たちに向けて、声も楽しんでもらいたいなと。そのうえで、意地悪なことや傷つけることを言わないと保証するYouTubeチャンネルが一個でもあるといいなと思ったんです」  先月配信した「毎日メイク。」は早速話題を集めている。すっぴんの酒井さんがメイクをする、というシンプルな動画だが、再生回数は29万回(12月14日時点)を超えている。  実はこの動画、外出する前に慌てて撮ったのだという。酒井さんは「ラッキーでしたね」と笑いながら、こう振り返る。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   「すっぴん」に抵抗はなかった 「1週間に1本くらい動画をアップしたいなと思っているのですが、このときはただでさえ投稿のペースが遅れているのに、ネタや素材が何もない状況だったんです。それで、これから出かけるからどうせメイクするしと思って、急きょ、カメラを回しました。たまたまウケてくれたのでよかったです。すっぴんですか? (見せることに)抵抗はなかったです、まったく」  この後に出したのは、「40代になってやめたこと。」と題した動画だ。メイク動画とは毛色が違うが、これも18万回超再生されている(12月14日時点)。  動画内では、40代になったいま「何をやるかよりも、何をやらないか」を大切にするようになったと話し、仕事や人間関係などへの価値観の変化を率直に語っている。コメント欄には、「一人で誰にも言えなくてモヤモヤしてたことが、酒井さんが自然と言語化してくださっていって、心がフワッと軽くなりました」「今回の若菜さんの言葉、人付き合いが苦手な中年男性の私にはすごく響きました」など、共感の声があふれた。  40代でこのような考えに至ったのはなぜなのか。 「それまで自分のために生きてこなかったという後悔があります。どこで読んだのかは忘れましたけど、40代ってそれまで隠してた“子ども心みたいなもの”がパンって開いちゃう人が結構いるらしいんです。おそらく私はこのタイプで。40歳になったときにずっと我慢してきたネガティブな感情が、吹きこぼれるようにバーッて熱をもってあふれてしまったんです」 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   20代の自分は「抱きしめてあげたい」  そのとき、他人ばかりを優先するのではなく、自分自身にもっと目を向けたほうがいいと強く思ったのだという。 「『もし酒井若菜ちゃんって子がここに一人でいたらどうする』って考えてみたんです。いままでの私って、この『酒井若菜ちゃん』をずっとスルーして、他の人の世話を焼いていた状態だったと思ったんですよ。脳内でそういうイメージをすると、『この子のケアをしてあげなきゃいけない』とか、『この子をそろそろ楽しませてあげたい』とかっていう気持ちになったんです。それが40歳でした」  40代に入って、人生への考え方が変わったという酒井さんだが、10~30代はどのような年代だったと考えているのか。  10代は「まっすぐ果敢に、夢に向かって走っていた」という。 「とにかく俳優になりたいという思いが強かったですね。いまの私だったらこんなに頑張れなかっただろうなって。すっごくリスペクトしていて、『超カッコいい、10代の私』って思ってます」  20代はどうか。この年代は、「木更津キャッツアイ」や「マンハッタンラブストーリー」などの人気作品への出演が続いた。また、休業期間があったとはいえ、小説家としてのデビューも果たすなど、順風満帆な時期のように思える。  しかし、その裏では苦悩もあった。酒井さんはそんな20代を「一番抱きしめてあげたい」年代と表現する。 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   女であることよりも「女優」であることが大事 「『本当によく耐えたね、偉かったよ』って、褒めてあげたくなる年代ですね。苦しいなかでも意欲的に頑張った時期もあって、そのおかげで作家業もやれるきっかけになったので良いこともたくさんありました。けど、自分の本心を出さないというか、グッと堪えるみたいなことを本当によく頑張ってくれたんです」  30代は、「加齢」と向き合った年代だったという。 「エイジングサインが出てき始めて、その変化を自分で受け入れることに結構時間がかかりました」  30代半ばを過ぎてまつげエクステをやめたという。外見に注目が集まる俳優という仕事をしている酒井さんにとって、この決断は簡単ではなかったと話す。 「20代半ばくらいからつけていたんですが、『これいつまでやるんだろう』って思ったんです。当時、苦労している役を演じることが多かったのに、まつげエクステを外せなくなってる自分がいて。それで、『40代になっても続けるの?』『美よりも大事なものがあるよね?』って自分自身に問いかけてみたんです。俳優という職業をやっていくなら、自分の加齢をちゃんと見せていけるようにならなくちゃいけないなと思って、外しました。いまでは年齢を重ねることは進化することだと考えています」  それにより世間からの心無い言葉にもさらされたという。 「『劣化した』とかって、ネットですごく言われました。こんなに言われるならもう一回つけようかなって正直思ったんですけど、自分が受け入れてあげないと誰も受け入れてくれないような気がして、『はい、その通りです』って受け止めました。『私は“女”であることよりも、“女優”であることのほうが大事なんだ。正しい選択なんだ』って言い聞かせているうちにやっと受け入れられてきました」 酒井若菜さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀)   どんなトラウマも宝物になる  グラビアアイドル、俳優、作家と幅広い経験をしてきた酒井さんに、人生で最も記憶に残っている一日を尋ねた。 「あり過ぎて選べない……。でも、強いてあげるとすれば、鈴木おさむさんの舞台の初日を無事終えることができたときですかね」  その舞台とは、鈴木さんが脚本・演出を務めた「イケナイコトカイ?」(2014年)のことだ。酒井さんは休業を決めた際に舞台を降板しており、それ以降、舞台に上がっていなかった。そんななか、鈴木さんのオファーにより、8年半ぶりに舞台を踏むことになった。 「休業からの8年半は、身体的にも精神的にもしんどいことが多かったので、このときのことはトラウマになっていて、心のどこかの引き出しにしまって、二度と開けないようにしていたんです。ですが、この作品を作り上げるなかで、鈴木おさむさんが『その引き出し開けてみなー』『大丈夫だよ、俺が全部引き受けるよ』と言ってくださっている気がして。私が演じる役が自身のトラウマを告白するシーンを作中に入れてくださったりしていたんです。初演の幕が開く直前まで不安な気持ちでいっぱいだったのですが、無事、初日を終えることができたときに、どんなトラウマも宝物になるんだなって感じました。この日は人生でもスペシャルな一日だったなと思います」 (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●酒井若菜(さかい・わかな)/1980年、栃木県生まれ。俳優、作家。出演作に「木更津キャッツアイ」(2002年)、NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」(14~15年)、「透明なゆりかご」(18年)、「絶メシロードseason2」(22年)など。著書に『うたかたのエッセイ集』『心がおぼつかない夜に』、小説『こぼれる』、対談+エッセー集『酒井若菜と8人の男たち』などがある。毎週日曜日配信のWEBマガジン「&Q」では編集長を務めている。今年8月には自身のYouTubeチャンネル「酒井若芽チャンネル」を開設した。
酒井若菜国際女性デー
dot. 2024/03/08 16:52
〈上田と女が吠える夜きょう出演〉モテすぎて話題の女芸人「蛙亭イワクラ」人気急上昇中も女性ファン離れの懸念
丸山ひろし 丸山ひろし
〈上田と女が吠える夜きょう出演〉モテすぎて話題の女芸人「蛙亭イワクラ」人気急上昇中も女性ファン離れの懸念
お笑いコンビ・蛙亭のイワクラ  6日放送の「上田と女が吠える夜」(日本テレビ・毎週水曜午後9時)は「ポンコツすぎて生きづらい女」が大集合SPだ。ゲストの蛙亭・イワクラ、木嶋真優、島崎遥香、寺川綾、長井短、平井理央、紅しょうが(稲田美紀・熊元プロレス)たちがポンコツすぎるエピソードをぶっちゃける。ゲストのひとり、イワクラはなぜか出発直前に風呂に入る遅刻常習犯であることを打ち明ける。そんなイワクラの過去の記事を振り返る。(「AERA dot.」2022年7月25日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時) *  *  *  7月12日、ニッポン放送のポッドキャスト番組「蛙亭のトノサマラジオ[オールナイトニッポンPODCAST]」でお笑いコンビ・オズワルドの伊藤俊介との交際を認めた、お笑いコンビ・蛙亭のイワクラ(32)。かつて、伊藤を含めた男芸人3人とシェアハウスで共同生活を送っており、写真週刊誌「FLASH」(光文社)で伊藤とのお散歩デートが報じられていた。  昨年、「キングオブコント」(TBS系)で決勝に進出し、さまざまなバラエティー番組に出演するようになったイワクラ。独創的なネタ作りとシュールな芸風で知られるが、今回の熱愛報道に対してSNS上では、「イワクラちゃん熱愛ショックなので寝ます」「どの有名女優の熱愛報道よりも今回の報道が1番ショックかもしれん」など、落胆する声も多数あった。  こうしたなか、7月12日に放送された「ロンドンハーツ」(テレビ朝日系)のフィーリングカップル企画では、ニューヨークの嶋佐和也、男性ブランコの平井まさあきから求愛されるなど、芸人からも人気は高く、そのモテぶりがクローズアップされている。どんなところが男性の心をくすぐるのか。 「昔からネット上で『かわいい』と言われることはありましたが、内面的にもモテる要素が多々ある。例えば、世話好きなところ。大阪時代には霜降り明星・せいやの家事を手伝っていたことがあり、『やめてくれ』とイワクラに伝えても服を畳んでいたとせいやがテレビで明かしていました。といってもイワクラいわく、1ミリも好きではなかったそうで、『せいやさんをどう生かすかっていうのが私の課題』と言い、純粋な気持ちで世話を焼いていたそうです。また、イワクラの熱愛報道を受けてアキナ・秋山賢太が『すてきな子』『宮崎出身で僕らにチキン南蛮を作ってくれたことがある。タルタルソースも手作りでおいしかった』と、先日放送されたバラエティー番組で振り返っていました。料理上手で世話好きという母性的なところに惹かれる男性は多いでしょう」(テレビ情報誌の編集者)  相手に親身になれるということは、優しい人でもあるのだろう。サプライズのプレゼントをすることも多いようだ。「セブンルール」(フジテレビ系、2021年12月7日放送)では、買い物をしているとき「あの人が好きそうだなー」と思いながら買うのが好きで、何もないときでもプレゼントをすると明かしていた。また、「ぜにいたち」(ABEMA、2月28日放送)でも、売れてお金を持ち始めたことにより「“貢ぎ癖”が再発している」と告白。芸人になる前はバイトで稼いだお金を彼氏へのプレゼントに使っていて、再発してからもザ・マミィの酒井貴士にたばこを12個、一気に買ってあげたりしたという。相手の喜ぶ顔が見たいという気持ちもあるだろうが、これに勘違いしてしまう芸人もいるかもしれない。 お笑いコンビ・蛙亭のイワクラ(右)。左は相方の中野周平  イワクラを褒める芸人はまだまだいる。あの毒舌芸人からも絶賛されているのだ。 「『女芸人でいちばん、あいさつとか礼儀正しい』『見た目もかわいいのよ』と、鬼越トマホークの金ちゃんが7月に自身のYouTubeでベタ褒め。同動画は『同棲したい女芸人ランキング』という企画で、熱愛報道より前に収録したと思われますが、金ちゃんはイワクラを第3位に挙げてましたね。何かと世話をしてしまう母性や人を喜ばせるサービスに加え、いつもニコニコしていて愛嬌(あいきょう)もあるので、モテるのはうなずけます。恋愛をしていることで変に“女っぽさ”が出てしまい、芸が小さくまとまらなければ、まだまだ人気を集めるのではないでしょうか」(放送作家) モテ芸人だと認識している  ただし、彼女のこうした一面が知られるにつれ、一部から批判的な声があがっているのも事実だ。 「今回の熱愛に対し主に女性からは、男3人女1人のシェアハウス生活から恋愛に発展したということで『生々しくて笑えない』という声も見られます。テレビにはよく出ていますが、賞レースでは突き抜けた結果を残しておらず、お笑いもまだ修行中の身。それなのに、先日放送された『ロンドンハーツ』のお見合い企画では、最後までカップル不成立だったのに『この仕事をいただいたときに、イチ抜けやん! って思った』と他の女性芸人に対して上から目線でコメントし、SNSで不評を買っていました。本人はネタのつもりでも、こうしたキャラを続けると、やがてマイナスに働く可能性もあるでしょう」(同)  とはいえ、彼女の才能の高さは多くの人が認めるところ。お笑い評論家のラリー遠田氏はこう太鼓判を押す。 「蛙亭は、大阪で活動していた頃からコントの面白さに定評のあるコンビでした。ネタ作りを担当するイワクラさんは、相方の中野さんのキャラクターを生かしながら、ちょっと不思議で独創的なコントを作っています。女性芸人が作るネタは往々にして『モテる・モテない』『こんな女性は嫌だ』といった女性っぽい感覚が入ってきたりするのですが、イワクラさんのネタにはそういう要素が一切なく、独自の路線で純粋に面白いものを突き詰めている感じがします。しゃべり方はどちらかと言うとたどたどしく、おとなしそうに見えるところもありますが、実は芯の強さがあり、熱いものを内に秘めているようなタイプです。そういうところがバラエティー番組に出たときにも生かされているので、今後も活躍の場は広がっていくはずです」  恋愛がマイナスにならないよう、芸人としてますます独自の世界観を磨いていってほしい。(丸山ひろし)
イワクラ上田と女が吠える夜オズワルド蛙亭
dot. 2024/03/06 21:00
トイレに「2億円」は妥当? 大阪万博は「どんな仕事をしてもたたかれる」とつぶやく施工業者
今西憲之 今西憲之
トイレに「2億円」は妥当? 大阪万博は「どんな仕事をしてもたたかれる」とつぶやく施工業者
大阪府の吉村洋文知事=2024年2月27日、大阪市中央区    大阪・関西万博の「2億円トイレ」が話題になっている。「高すぎる」という意見と、規模を考えれば「妥当だ」という声も。このトイレについては他でも話題になっている。吉村洋文・大阪府知事は3月4日、自身のX(旧ツイッター)で、さまざまな「デマが流されている」として、「くみ取り式ではないか」との指摘について「水洗だ」と否定している。建設費増やパビリオン建設の遅れなどの問題が出てくる万博だが、今回はトイレだ。 《万博トイレが2箇所だけ、1日入場者16万人中8万人分が汲み取りになるとかデマが流されているので、説明します》  日本国際博覧会協会(万博協会)の副会長でもある吉村知事は4日、Xにそう投稿した。  吉村知事によると、万博のトイレは全体で40カ所、1日最大1万1千立方メートルの下水処理が必要と想定しており、これに対し、1日最大1万9千立方メートルの下水整備をするとしている。そして、「くみ取りではなく、全て水洗です」と強調した。 自見万博相「高額とはいえない」  そもそも、トイレがこれだけの話題になったのは、万博で設置される40カ所の公衆トイレのうち、8カ所がコンペで選定された若手の建築家が手掛ける「デザイナーズトイレ」となることからだった。このうち5カ所は落札済みで、万博協会の資料によれば、契約金額は便器13個の最小規模で約7千万円、便器50~60個の最大規模で約1億8千万~1億9千万円となっている。  万博はすでに、当初の1250億円から2350億円に建設費が高騰し、批判を浴びているなかでの「トイレに2億円」に、SNSなどでも「高すぎる」といった批判的な声が多く上がったり、野党の国会議員からも指摘されたりして大きく報道された。  自見英子万博相は、2月20日の記者会見で「2億円トイレ」について聞かれると、 「建築家が設計するので、アート、美しさも考慮している。8カ所のうち2カ所は約2億円で契約しているが、大規模な公衆トイレ施設で高額とはいえない」  と述べた。 【あわせて読みたい】 たかまつななが聞く「万博が赤字だったらどう責任を取るんですか?」 日本維新の会・馬場代表の答えとは https://dot.asahi.com/articles/-/214061?page=1 大阪ヘルスケアパビリオン(3月2日撮影)    さらに、コストカットについて問われると、 「コストも考慮した選定になっている。費用の適正性もモニタリングをしている。国民への説明責任もあり、政府として管理監督をしたい」  と説明するにとどまった。  吉村知事が同日、「建築家がトイレに魂も吹き込んでいます」と発言すると、立憲民主党の蓮舫氏は、 《吉村知事、大丈夫かしら。コスト単価、建設費用の比較表や必要性を明らかにして納税者を説得させるのではなく、精神論ですか》とXにつづった。  吉村知事は、 「8つのトイレは若手建築家の技術、価値観などの要素を採り入れたもの。2億円かかるというが、公共施設の平米単価でみれば大きく変わりません。2億円で1つのトイレというのであれば高いと思うが、便器が50~60個ある大規模なもの」  として適正価格との認識を示している。 業者はイメージダウンを心配  こうした動きに、大阪府のある幹部はこう打ち明ける。 「万博はパビリオンが目玉で、トイレを見に来るものではないなど、厳しい意見も府民から寄せられている。確かにデザイナーズトイレにしなければ、もっと予算が削減できるのは事実。これまでパビリオンの建設費や工期の遅ればかりがニュースになっていたので、トイレまでが批判の対象になるとは思いもしなかった。吉村知事もかなり気にしているようで、夜遅くまで新聞やネットニュースで2億円トイレの記事をチェックしています」 「2億円トイレ」を受注しているある施工業者の関係者に聞くと、 「パビリオンがどうなるのかと言われていたのが、今度はトイレ。こちらは万博協会や建築家の図面通りに建設するだけです。この規模でやれば2億円はかかると思いますよ。会社の幹部は『2億円トイレを受けたばかりにイメージが悪くならないか』と心配していました。正直、万博はどんな仕事をしてもたたかれるので、やりたくないですね」  と本音を漏らした。 【こちらもおすすめ】 大阪・関西万博の事業経費は「底なし沼」 関連インフラ整備だけで約10兆円、建設費は倍増 https://dot.asahi.com/articles/-/211631?page=1 工事が進む万博会場(3月2日撮影)    建築エコノミストの森山高至氏は、 「トイレに2億円と、万博は相変わらずコスト意識に欠けます。万博は半年だけの開催なのでレンタルでも十分ではないか。若手建築家にこそパビリオンの設計をやってもらうべきだ」  と指摘する。 「さすが日本というトイレに」  また、パビリオンの設計をしている建築家は、 「(トイレの設計に)選ばれた建築家の面々を見ると、かなりの腕利きがそろっている。吉村知事は『若手建築家』と言っていたが、実力派という表現のほうが的確ではないか。すでに公衆トイレで評価が高いものを世に送り出している建築家も含まれている。トイレなので、パビリオンのような斬新さや創造性などを優先してはいけない。いくらデザイナーズトイレといっても機能性、使い勝手が最も重視され、予算がかなり制約されるのは当然。かかった費用に見合うのかは、来場者が判断すればいい。日本のトイレがきれいなことは世界的にも有名なので、『さすが日本』というトイレができるかどうかではないか」  と話した。 (AERA dot.編集部・今西憲之) 【こちらも読まれています】 吉村洋文知事が絶賛する「5mで1億円」の大阪万博リング 大半は接着剤で貼り合わせた集成材 https://dot.asahi.com/articles/-/209963?page=1
吉村洋文大阪万博2億円トイレ
dot. 2024/03/06 12:19
怖かったエンジニアに転職。楽しく「人の役に立つ」世界が待っていた【かがみよかがみエッセイコラボ企画・優秀作】
怖かったエンジニアに転職。楽しく「人の役に立つ」世界が待っていた【かがみよかがみエッセイコラボ企画・優秀作】
   3月8日の「国際女性デー」にあわせ、Z世代の女性向けエッセイ投稿サイト「かがみよかがみ(https://mirror.asahi.com/)」と「AERA dot.」が、コラボ企画を実施。「ニュースとわたし」をテーマに、女性限定でエッセイを募集しました。多くのエッセイの投稿をいただき、ありがとうございました。  投稿作品の中から優秀作として5本のエッセイを選抜、「AERA dot.」で順次紹介していきます。記事の最後には、鎌田倫子編集長の講評も掲載しています。  ぜひご覧ください! *   *   *     2022年4月、奈良女子大学が日本の女子大学で初めて「工学部」を新設した。2年目の2023年夏、同校工学部長が設立の背景について語った内容をニュースで見かけたのだが、それが印象的だったのでよく覚えている。工学部長の藤田盟児氏は女性にとって魅力的な工学部のあり方について、男女比が半々である海外の大学の傾向から「人や社会をどうサポートするのかという視点から工学を学ぶスタンスが徹底しており、リベラルアーツ(教養)を重視している」と分析していた。 私はこのニュースを見たとき、大きく頷いてしまった。   ◎          ◎ 文系出身で得意科目は国語と英語だった私がエンジニアになったのは3年ほど前。そのときにいた会社でパニック障害になりかけながら、転職サイトを夜通し検索しながら私は考えていた。 私がいまできること、したいことはなんだろう。考えたとき、新卒で入社した会社でお世話になっていたエンジニアの方々の姿が頭に浮かんだ。システムを売る会社で上司に怒鳴られお客さんに怒られ、なにも分からないまま困り果てているときに助けてくれたのはエンジニアの方々だった。 私はエンジニアがなにをするのかもプログラミングがどんなものかもよく分からないまま、とあるエンジニアの求人に手を伸ばした。嫌な顔ひとつせず助けてくれた、その働きがなければ私たちは商品を売ることができない、表には出ないが必要不可欠な人たち。私は本当はずっとそんな存在に憧れていたのだと、そのときに気づいた。2度の面接と試験を経て倍率30倍超を突破し、私は晴れてエンジニアとなった。   ◎          ◎  それでも、応募した夜に涙が出たこと、入社式の朝の緊張や恐怖は今でもはっきりと思い出せる。 怖かった。 男性ばかりで常に怒声罵声、残業三昧、深夜も休日も出勤という悪いイメージばかり。家族からも友達からも心配された。でも、「人の役に立ちたい」と思った。 踏ん張るぞ、やってみせるぞ。そう歯を食いしばって出社した私の決意は、丁寧な研修3ヶ月、現場に出ても残業なし、いつでも休みはとれる、質問すればするほど褒められ出来ることが目に見えて増えていくというなんともホワイトな環境によって、少しずつ「なんとかなるかも……」という安堵に変わり、今では「こんなに楽しく人の役に立っていいの!?」という嬉しさになっている。     【こちらも話題】 お弁当を「夫が作った」と素直に言えない。差別しているのは自分かも【かがみよかがみエッセイコラボ企画・優秀作】 https://dot.asahi.com/articles/-/215877     ◎          ◎ 奈良女子大学の工学部と私の経験の大きな共通点は、「ハードルが高いものは未知なもの」であり、「人の役に立つ」ことが労働や学習のモチベーションになっている人は少なくないということだ。 女性にとって、もともと男性的なイメージが強いものに興味を持ち、学ぼうとするのはハードルが高い。それを打破するのに本当に必要なのは、キラキラとして色鮮やかな「女性らしい」イメージをPRすることではないと思う(もちろんこれらも必要な場面はあるだろう)。なにを学びどんなことに応用できるのか、それはいまなにに役立てられているのかという具体的な事例の提示と、手厚いサポート体制に尽きるのではないだろうか。 ニュースではモチベーションが「人の役に立つ」であることが女性の特徴としてあげられており私も合致する。しかしこれ自体は男女で分かれるというよりも、人によって目的が「技術を追求する」と「人の役に立つ」に分かれ、偏りがちなのではないだろうか。実際、現場でもとにかく目の前の技術に夢中な人が多く、そのような人はとても高い技術力を持っている。   ◎          ◎ しかし、「技術を追求する」人はその技術の先にいる人を見失ったり、それ以外が見えないこともある。実際にツールを作ったはいいが使いどころがなかったり、興味のないものに対しては放置したり。だから私は、そこでこぼれてしまったものたちを拾うことで、技術の先の人や目の前のものに集中したい仲間の役に立ちたい。そう思って日々働いている。これが、なかなか楽しいのだ。 女子大学の工学部も同じだと思う。エンジニアはもともと、誰かの役に立つものをつくる技術職だ。技術そのものだけを追求していては、本当に良いものは作れない。でももちろん、技術力は必要不可欠。だから、それを丁寧にバランスよく教える場があるのなら、女子に不人気とされる分野にも人が集まり、「人の役に立つ」ことを第一とした視点を持つ人が現場にもっと増えるのではないだろうか。 最後に。 「好きなことを仕事にするのと、できることを仕事にするの、どっちが正解なの?」と悩んでいた大学生の私に言ってあげたい。 どっちも正解だよ、自分で選んだ道なら。でもね。 できることを仕事にして、それを好きになれたら最高だし、最強なんだよ。 そこには男性も女性もなく、「楽しく働いて人の役に立つ」ことのできる世界が広がっているから。   「かがみよかがみ」での掲載ページはこちら(https://mirror.asahi.com/article/15184731)。   【著者プロフィール】 秋 写真を撮ったり料理をしたり。   「AERA dot.」鎌田倫子編集長から 私はこのエッセイを読んだとき、大きく頷いてしまった。 AERA dot.では理系大学、大学の理系学部に進む女性を後押しするような記事や連載を実は、数多く配信しています。 例えば、こんな記事。 「増える「工学部の女子枠」は男子学生に対する逆差別なのか?」(https://dot.asahi.com/articles/-/13001) また、女性科学ジャーナリストが一線で活躍する理系の女性研究者にインタビューした「科学に魅せられて~女性研究者に聞く仕事と人生」も、連載として配信していました。(https://dot.asahi.com/list/series/takahashi_m_series1) 一方で、果たして読者はどんなふうに受け止めているんだろうかと、配信した記事の「先」を常々知りたいと思っていました。 “女子に不人気とされる分野にも人が集まり、「人の役に立つ」ことを第一とした視点を持つ人が現場にもっと増えるのではないだろうか。” 「秋」さんがそのようにニュースを捉えていたことをうれしく思いました。 ニュースは他人ごとではなく、自分の職業観とつながっている。社会の変化を伝えるニュース記事を、手触りのあるものにしたエッセイでした。   「ニュースとわたし」への他の投稿エッセイはこちら! (https://mirror.asahi.com/features/newstowatashi)   【こちらも話題】 もう「世界が」と言う余裕はない?北海道の小さな学校で、頭を抱えた【かがみよかがみエッセイコラボ企画・優秀作】 https://dot.asahi.com/articles/-/215761  
国際女性デーかがみよかがみエッセイコラボ企画
dot. 2024/03/06 08:00
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山田昌弘 山田昌弘
求めるのは「イケメン・高学歴・高収入」 婚活がうまくいかない女性たちの事情とは
※写真はイメージです(Getty Images)    現代日本社会では、女性は誰と結婚するかによって、自分の人生が大きく変わる。中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は、だからこそ日本女性は、結婚に「愛情」と「経済的安定性」の二つを求めざるを得ないと指摘する。他方で欧米諸国では、「結婚」イコール「愛情」であり、そこに「経済的安定性」は含まれない。山田氏の新著『パラサイト難婚社会』(朝日新書)から、かつては「皆婚」が当然だった日本女性と社会の変遷について、一部抜粋・再編集して紹介する。 *  *  * 異種のゴールを同時に求められる難婚 「格差」が広がっている日本では、「結婚」も二極化していると感じています。日本が「皆婚」社会であった要因の一つは、当時の日本全体が好景気に沸き、高度経済成長期でもあったからです。その時代では人々が「結婚」に、「愛情」と「経済的安定性」の双方を求めても、多くの場合がそれに応えられたのです。もちろん皆が金持ちにはなれなくても、ほとんどの人が「昨日より今日、今日より明日」の方が豊かになると信じられたのです。どんな職業の男性(工場労働者でもサービス業者でも中小企業の社員でも)と結婚しようと、大抵の人は給与アップと、生活の向上を体感することができました。「結婚」が、多くの人にとって「経済的安定性」を約束することができた稀有な時代だったと言えるでしょう。 【こちらも話題】 ただの友達「ただトモ夫婦」増殖中 https://dot.asahi.com/articles/-/8475  しかし今、10年後、20年後どころか、数年先の生活も先行き不透明で、「子どもを生み育てられるのか」確信を持てない社会となった結果、人々は「愛情さえあれば、後は何とかなる」とは思えなくなっています。それこそが夢物語であり、「結婚」は「経済的安定性」がなければ持続可能ではないことを、「離婚が3組に1組の時代」だからこそ、若者は痛感しているのです。  心理カウンセラーの先生がおっしゃっていた言葉が、印象的でした。その先生によると、「人間は複数のことを同時に行うのが苦手」らしいのです。一つの要素だけなら集中して頑張れる、しかし、複数のことを同時に成し遂げようとすると、それは労力も心的ストレスもかかり、負荷が大きくなってしまうのだそうです。  そう考えてみると、まさに現代日本の「結婚」こそ、複数のことを同時に行おうとするような行為ではないでしょうか。  見た目のいい相手とロマンティックな恋愛をしたい。  だが、結婚後は安定した生活を営みたい。  子どもが生まれたら、夫婦生活も育児も仕事もしっかりやりたい。  現代人は、「選択の自由」という権利を手に入れた結果、「複数の選択を同時に考慮する」という、人間にとって実は非常に難易度が高いことをやり遂げなくてはならない事態に陥ってしまったのではないでしょうか。しかも、新自由主義的経済発展と同時に、あらゆる「選択」は「個人の責任」に帰すようになってしまいました。「自助・共助・公助」の順番で、個人の努力が徹頭徹尾求められる時代、「結婚」が成功するか失敗するかもすべてが「個人の責任」となったのです。 【こちらも話題】 30代美人姉妹 妹が先に結婚できた理由は「理想と現実」 https://dot.asahi.com/articles/-/119961  人生の情緒面を満たしてくれる「恋愛」。  人生の経済面を保障してくれる「結婚」。  本来、異なるベクトルを持つ異種のゴールを、同時に手に入れなくてはならない緊張感は計り知れません。どちらか一つならば専念して集中できるのに、両方同時は難しい。二兎を追うものは一兎をも得ず。どうしてもどちらかに比重を傾けざるを得ないのです。  ゆえに「恋愛感情はほどほどに、経済的安定性を重視する」とか、「恋愛を重視したいから、結婚後の生活の安定は気にしない」などと優先順位をつけられればいいのですが、現実には「顔が良くて背も高くて、高学歴で年収1000万円以上の男性と大恋愛して結婚したい」と、複数の異なる要素をすべて叶えようとしてしまう。ほぼ不可能な幻想を真剣に求める婚活現場が誕生してしまうのです。 選択の岐路に迷う「個人化ネイティブ世代」  戦中世代、戦後の団塊世代は、大いなる「制約」の中で青春を過ごしてきました。無我夢中で働き、国民全体が苦難の時を脱し、豊かな生活を目指して邁進してきたのです。そうした先に実現した豊かな社会では、1980年代のバブル期に「24時間戦えますか」というキャッチフレーズのCMも生み出しました。日中はモーレツ社員として働き、夜は同僚と飲んで騒いで、憂さを晴らす。今の若者からすれば一種異様に見えるかもしれませんが、同時に社会全体には活気がありました。 【こちらも話題】 「実家を出たくても出られない」経済的独立が困難な若者たち https://dot.asahi.com/articles/-/93867 「真面目に働けば、自分たちは親世代よりも豊かになれる。自分たちの子どもにはより豊かな生活を与えられる」という「夢」が、高度経済成長期以降の日本国民の原動力となっていたのです。  しかしそのバブル経済も終焉し、迎えた平成・令和の時代、人々は生活の豊かな成長を実感できなくなっていきました。とりあえず食うに困らない職はあるかもしれないし、住居や洋服、家電製品やスマホもある。しかし給料は一向に上がらず、非正規社員となった若者たちはキャリアアップも望めず、人生の向上を実感もできなければ、夢も描けなくなっていったのです。  生活にも、人生にも、キャリアにも、楽観的な夢や向上への期待を抱けなくなっていった日本人が、結婚生活にだけ夢を見いだせるわけがありません。むしろ「自分ひとりならどうにか生きていけるが、妻子を養うまでの給料は望めない」と多くの男性は冷静に見極めるようになり、女性も「結婚で一発逆転を狙えないなら、別に結婚しなくてもいい」と判断するようになります。  でもそれは、「結婚」に「愛情」を求めるのではなく、むしろより重要なファクターとして「経済的安定」を望むようになった結果の、日本特有の問題でもあるわけです。それは、韓国や中国などの東アジア諸国にも広がる兆しがあります。 【こちらも話題】 「安心して引きこもれる」仕組みづくりこそ、8050問題の解決策だ https://dot.asahi.com/articles/-/32820  西欧社会は、「結婚」から「子孫の存続」や「イエの存続」という前近代的要素を削ぎ落とし、さらに経済的相互依存という役割も求めなくなっていきました。その結果、人々に「結婚の純化」をもたらしました。「相手が好きだから一緒にいたい」=「結婚」というように、シンプルに考えるようになっていったのです。  もしかしたら日本人も、「結婚」の条件が「相手のことが好き」という愛情問題に絞られていたのなら、物事はよりシンプルだったかもしれません。しかし現実には、「愛情」+「経済的安定性」という本来真逆なベクトルを同時に達成しなくてはならない社会になった。その結果、「成婚」率そのものが低下して生じたのが今の日本の少子化社会です。 【こちらも話題】 50代ひきこもりと80代親のリアル 毎年300万円の仕送りの果て https://dot.asahi.com/articles/-/127449
パラサイト離婚社会パラサイトシングル離婚少子化朝日新聞出版の本
dot. 2024/03/05 16:00
渡米して風俗嬢になったら年収「約1740万円」 違法営業店で“綱渡り状態”だった日々
松岡かすみ 松岡かすみ
渡米して風俗嬢になったら年収「約1740万円」 違法営業店で“綱渡り状態”だった日々
※写真はイメージです(Getty Images)    日本経済停滞により「稼げる」海外に目を向ける人たちが増える中、海外で身体を売ることを選んだ人もいる。渡米して性風俗の仕事をしていたアイコさん(仮名・36歳)だ。どんなきっかけで“夜の世界”に飛び込み、そこで何を感じたのか。朝日新書『ルポ 出稼ぎ日本人風俗嬢』(著:松岡かすみ)から一部を抜粋、再編集して紹介する。  本書では、違法である性風俗業での海外出稼ぎの実体験のみならず、出稼ぎがはらむリスクやそこに至る社会的要因などを多方面から取材。個人の責任如何でなく、現代日本社会全体で考えるべき問題を提起している。 * * *  アメリカ・サンディエゴ在住のアイコさん(仮名・36歳)。現地にいる知人からの誘いがきっかけで、アメリカに飛んで性風俗の仕事をした後、現在は個人ライフコーチの起業家として活動している。  東北地方の出身。高校卒業とともに上京し、フリーターを経て、25歳でキャバクラやスナックでの水商売をスタートした。働いて稼いだらしばらく遊んで暮らし、お金が底をつきそうになったらまた働く。これと言ってやりたいことが見つからず、「あの頃は、どこか刹那的に生きていた」と振り返る。  そんな生活でも、心のどこかに漠然とあったのがアメリカに対する憧れだ。ハリウッド映画などで描かれる、アメリカの“夜の世界”にも強く興味を惹かれた。きらびやかな都会の夜の街に、ドレスアップ、お酒、カジノ、大人の男女の駆け引き、セックス……。いつか自分も、こんな経験をしてみたいと思った。 【こちらも話題】 性風俗の女性が海外に“出稼ぎ”のワケ 数こなすしかない日本に違和感 https://dot.asahi.com/articles/-/75  そうした影響もあり、学生の頃から「アメリカの大学に行ってみたい」という夢を持っていたが、どう動いたら実現できるのかわからなかった。アメリカに行きたいという夢に向かって勉強を頑張っていたわけでもなく、英語も話せない。家が裕福なわけでもない。だが「いつか」という思いを、遠くて淡い夢として、心のどこかで抱えたまま、東京で水商売をしていた。  突如アメリカが近いものとなったのは、都内のクラブに遊びに行った時に日本に住むアメリカ人男性と偶然出会って意気投合したことがきっかけだ。出会いから数カ月の交際を経て、結婚。図らずも、アメリカの永住権を手にすることとなった。 離婚、当てもなく渡米  結果的に、その男性とは価値観の相違などから数年で離婚することになったが、アメリカ人との結婚によって手にした永住権は、一度取得すると離婚しても取り消しにはならない。そこで「せっかく永住権もあるし、アメリカのほうが稼げそうだし、本当にアメリカに行ってみようかな」という思いが、離婚後にむくむくと湧き始めた。当時、勤務していたスナックの同僚がアメリカで風俗の仕事をした経験があり、「すごく稼げるよ」と話していたことも後押しになった。 「よし、私もアメリカに行ってみよう」  英語も話せず、働く先の当てもなかったが、思い切って渡米を決めた。 【こちらも話題】 海外出稼ぎ風俗嬢「ツアー」で約725万円稼ぐ 固定客は海外富裕層、相場は日本の3倍 https://dot.asahi.com/articles/-/215527  アメリカではネバダ州を除く全土で、売春行為が違法とされている。ゆえに性風俗営業を行う店も違法で、摘発の対象となることから、表向きには別の業態を名乗るなどして隠れて営業している。アイコさんは渡米後、現地の知人から風俗の仕事を紹介されたというが、水商売の経験があったからか、風俗で働くことに対して「そこまで高いハードルを感じなかった」という。もちろん「稼ぎたい」という気持ちが第一ではあったが、アメリカ映画などで描かれる“夜の世界”に対する憧れから、「自分も一歩踏み込んで経験してみたい」という好奇心も、性風俗の世界への背中を押した。 中国人女性がオーナーのマッサージ店  その後、アイコさんが5年間勤務した店は、表向きには“マッサージ店”を謳う、中国人女性がオーナーの風俗店だった。現地の風俗で働く日本人女性は少なく、オーナーからも歓迎された。  店にいる女性は、中国人、韓国人、ベトナム人が大半を占めていた。表向きにはマッサージ店を名乗っているため、勤務するにはマッサージの技術を学ぶ学校に通って免許を取る必要があった。そこで最初の2年は自費で通学しながら、主に週末に店で働いた。マッサージは学んで損はないと思ったし、学校に通って授業を受けることで「英語を習得できるかも」という期待もあり、特に疑問を持つこともなく学校に通ったという。 【こちらも話題】 「セックスが正直しんどい」変わる共働き時代の妊活 専用器具でストレス軽減 https://dot.asahi.com/articles/-/214183  アイコさんの働き方は、こんな具合だ。店に所属はするが、サービスの内容や金額は個人の裁量で決める。アイコさんが勤務した店は、客が場所代として店に1時間60ドル(約9千円〈1ドル=145円換算。以下同〉)を支払い、接客する女性にはサービス代として、客からチップが支払われる。そのチップが、アイコさんら店で働く女性の収入となる。店からは「なるべく頑張ってリピーターを作ってね」とは言われるものの、特にノルマなどを課せられるわけではない。  客は現地の男性がほとんどだが、なかには飛び込みでやってくる観光客もいた。マッサージ店だと思ってやってくる客には、「こんなサービスもできます」と個別に交渉することになる。最初はほとんど英語が話せなかったアイコさんだが、客との交渉によって自分の収入が大きく変わる環境に身を置くと、めきめきと英語力を付けていった。 「人って必要に駆られると、やらざるを得ないというのは本当ですね。とにかく早く英語を話せるようになって、コミュニケーション力を上げたいと必死でした」 警察のガサ入れと隣り合わせ  勤務時に稼いだ平均金額は、1日約千ドル(約14万5千円)。週4日勤務が平均だったというアイコさんは、一人につき平均200~500ドルを稼ぎ、月1万ドル(約145万円)前後、年間で12万ドル(約1740万円)が平均的な収入だった。 【こちらも話題】 "売春疑い"で「膣の中まで検査された」 日本人女性の入国拒否が急増する裏に審査官の情報網 https://dot.asahi.com/articles/-/205264 「収入から家賃や生活費などを除いて手元に残るお金も、日本よりアメリカのほうがずっと多かった。勤務日数を増やしたらもっと稼げたと思いますが、違法営業を行う店で働くいわば“綱渡り状態”が、思った以上に精神的にきつくて、私は週4勤務が精一杯でした」  違法営業を行う店で働く“綱渡り状態”─。それは、常に警察のガサ入れなどに気を配りながら接客せねばならない状態だ。ガサ入れ時には、オーナーが部屋の外から、あらかじめ共有されている合図を叫ぶが、警察が部屋に入った時にあたかも「マッサージのみを行っている店」のように、何事もなかった状態にしておかなければならない。服を着るのが間に合わなかったりすると、間一髪の差で現行犯逮捕されることもありうる。警察が突然、抜き打ちでチェックに訪れることもしばしばで、常に外の様子に神経を研ぎ澄ませながらの接客には、想像以上に疲労感が募った。近隣の店が摘発されたなどと聞けば、より緊張感が高まった。  だが、仕事そのものは嫌いではなかった。 「私には結構、合っていたんだと思います」  自分なりに試行錯誤しながら、接客やサービスを頑張ると、成果が目に見えて返ってくる。仕事を広げるために、豊胸手術もしたし、トーク力も磨いた。客に喜んでもらうために、サービス面でのテクニックもいろいろと学んだ。 「そうやって自分で努力したら、お金という形で目に見えて返ってくるのが楽しかった。だから仕事にやりがいも感じていました」   www.amazon.co.jp/dp/4022952571 【こちらも話題】 「1カ月300万円稼げる」 35歳女性が入国審査をくぐり“海外出稼ぎ”を繰り返す理由 https://dot.asahi.com/articles/-/205268
日本人風俗嬢風俗国際女性デー
dot. 2024/03/03 16:00
1日15分・わずか2週間でTOEIC 60点アップ! 大人が「英語アプリ」使ってみた
1日15分・わずか2週間でTOEIC 60点アップ! 大人が「英語アプリ」使ってみた
ウメハラさん/大手会計ファームなどを経て、現在はグローバルブランドを扱う日本法人に勤務。TOEIC受験は18年前が最後で610点をマーク。現在も、オンラインの英会話スクールなどで会話の勉強は継続中。小学生の女児3人の父(撮影/大野洋介)    昇進や昇格などの条件となっていることも多いTOEIC L&R。「時間がなくて勉強できない」と嘆く大人に、強い味方が現れた。いま利用者が次々にスコアを伸ばしていると聞く英語アプリの、2週間チャレンジの結果は? AERA 2024年3月4日号より。 *  *  *  英語アプリを「使ってみた」のは4人。TOEIC受験の経験はあるが、最後に受けてから10年以上が経ってスキルがさび付いている3人と、今回が初受験の1人が、TOEIC対策の人気アプリの有料コースで学習。月払いプランだと月額3千~5千円程度で、長期割引もあるアプリが多い。  今回は学習期間を、あえて短めの「2週間」に設定、『公式 TOEIC Listening & Reading問題集』収録の模試を解いて、アプリの「使用前」と「使用後」の参考スコアを比較した。 チャレンジしてくれたひとりが、会社員のウメハラさん(51)。日本人の父とスウェーデン人の母を持ち、初対面の人からは「日本語うまいね」と言われることもある。でも、生まれも育ちも日本のため、英語は一般的な日本人レベルとか。英語力を磨こうと、これまでも英語の勉強に取り組んできた。  TOEIC受験は2006年、610点だったのが最後。英語の書類のやりとりや会議などがある現在の仕事に転職してからは、オンライン英会話や会社の英会話クラスで、会話を中心にした英語の勉強を続けている。  そんなとき、「英語力をもっと上げるきっかけになれば」と本企画に参加。使ったアプリは、Globeeが開発、運営している「abceed」だ。 「TOEICの人気教材を横断して勉強できるアプリです。TOEICの予測スコアをオンライン模試で算出したのち、『おすすめの問題』を選ぶと、有名教材やオリジナル教材のなかから、AIが私に合う問題を選んで出題してくれます」(ウメハラさん)  このアプリで学べる既存の教材は800種類以上。『TOEIC L&R TEST 出る単特急 金のフレーズ』(通称金フレ)など、書店でも人気の教材とライセンス契約し、アプリで使えるようにしたものが多い。  同社社長の幾嶋研三郎さんによれば、このアプリのアイデアが生まれたのは、学生時代に運営していた英語塾で。英語のカリスマ講師などが書いた質の高い問題集や教材が世の中にはたくさんあることを知り、紙の教材とIT学習とを組み合わせることで、アナログとデジタルのいいとこ取りを目指すアプリが生まれた。 「人気教材を出している出版社と交渉して、サービスを開始したのが2016年。当時は、スマホの小さい画面で勉強なんて……と、1日のダウンロード数が数回くらいしかないことも。今は月平均10万近くのダウンロードをいただいています」(幾嶋さん) 弱点パートを重点的に  このへんでウメハラさんのチャレンジに話を戻すと、公式問題集模試の参考スコアは、「使用前」が490~635点。アプリ独自の模試結果から、英語の語彙(ごい)や文法などが問われるパート5と、単語が弱点ということがわかり、「おすすめの問題」から、その二つの部分を毎日15~30分解いた。ただし自転車通勤のため通勤学習はできず、主にやったのは夜の帰宅後。 「スマホを取り出したら深夜0時を過ぎてしまい、学習時間0になった日もありました。またパート5は短文穴埋め問題が繰り返し出題され、苦手意識もあって日に日に15分のレッスンが重荷に。間違いが多いと予測スコアも大きく下がってしまうので、つらいと思ったら、単語の問題に切り替えて気分転換していました」(ウメハラさん)  ところがそんな苦しみのトンネルを抜けた後半になると、問題がスラスラ解けることが増えてきた。例えば、この熟語のあとには名詞が来るはず……というように、ルールやコツが少しずつ蓄積された感じ。最後に公式問題集模試を解くと、“塗り絵”を余儀なくされた問題が減り、正解率も高くなっていた。参考スコアも550~700点までアップ! 「時間が足りないのは実力のうちですが、アプリを続ければ完答し800点以上も夢じゃないと信じています」(ウメハラさん) 1日15分の単語学習で約30点アップ  そしてもうひとり、編集部から「使ってみた」のが担当編集のM。過去にTOEIC900点超えを果たしたこともある強者だ。「使用前」の公式問題集を使った模試でも、865~965点の高得点。今回はabceedの人気教材で弱点である単語だけを集中的に学習したという。 「選んだのは、人気ランキングで1位の『金フレ』こと『TOEIC 出る単特急 金のフレーズ』。600~860点レベルの900語のうち、意味があいまいだった112語を、毎日 15分、アプリの音声でひたすら耳で聴いていました。2週間の「使用後」にやった公式問題集の模試には、そこで覚えた単語がたくさん出てきて驚きました」(担当編集M)  参考スコアも895~990点までアップ。「伸びしろはないだろうと思っていたのでうれしい。20年ぶりにTOEICを受けてみてもいいなという気持ちになりました(笑)」 abceedの「教材」タブを選択すると、利用者が多い教材の「人気ランキング」や、ユーザーそれぞれのレベルや弱点に合わせた「あなたにおすすめ」教材などの提案をしてくれる   ウメハラさん 大手会計ファームなどを経て、現在はグローバルブランドを扱う日本法人に勤務。TOEIC受験は18年前が最後で610点をマーク。現在も、オンラインの英会話スクールなどで会話の勉強は継続中。小学生の女児3人の父 使った英語アプリ:abceed 既存の英語の教材やドラマ、映画などを使って英語学習ができるアプリ。予測スコアを出すテストにも定評 Before→After Listening 69/100問→71/100問 Reading 51/100問→58/100問 計120/200問→129/200問 参考スコア490~635→550~700 左が、英語アプリabceed内『TOEIC 出る単特急 金のフレーズ』、通称「金フレ」 を使用して勉強する前の、『公式 TOEIC Listening & Reading問題集』収録模試の担当編集Mの正答率、右が使用後の同問題集別模試の正答率。「金フレ」で語彙力不足が補われたおかげなのか、全体的にスコアアップ   担当編集M 英語が苦手だった国文学科卒。海外旅行の楽しさに目覚めて週1で3年間英会話に通っていた20年前に1度だけ受験したTOEIC905点にすがってきた。「金フレ」で語彙力不足が補われたおかげなのか、全体的にスコアアップ 使った英語アプリ:abceed内 『TOEIC 出る単特急 金のフレーズ』 人気を誇るTOEIC本、通称「金フレ」をアプリ内で単品購入。600点から990点まで、目標スコア別の単語をスマホで学習することができる Before→After Listening  85/100問→92/100問 Reading 96/100問→98/100問 計181/200問→190/200問 参考スコア865~965→895~990 (ライター・福光恵) ※AERA 2024年3月4日号より抜粋
最強ビジネス英語
AERA 2024/03/03 16:00
ダンカンが最愛の妻と死別10年目に流す涙の理由 「妻孝行」できずに先立たれたのが悔いに 
國府田英之 國府田英之
ダンカンが最愛の妻と死別10年目に流す涙の理由 「妻孝行」できずに先立たれたのが悔いに 
阪神甲子園球場の外野席からグラウンドを見つめるダンカンさん(撮影/2010年8月)    タレントのダンカンさん(65)は、妻の飯塚初美さん(享年47)を病気で亡くしてから今年で10年目を迎える。よく飲んで遊んだ「昭和の芸人」と共に生きてくれた愛妻を失い、葬儀で号泣したダンカンさん。一人残されたその後と、今をどう生きているのか聞いた。  初美さんは2014年の6月に、乳がんで亡くなった。2人はお互いを「ママリン」、「パパリン」と呼びあっていた仲良し夫婦。ダンカンさんは葬儀を終えても、初美さんを失った現実が受け入れられなかった。 「夕方、家にいるとね。ドアが開いて、買い物袋を抱えた妻が『遅くなってごめんね』って言いながら帰ってくるんじゃないかって。毎日そんなことを考えていました」   でも、初美さんは二度と帰ってこない。   たまたま聴いた演歌歌手・山本譲二の「みちのくひとり旅」のワンフレーズに、胸が苦しくなった。  生きていれば、いつかは会えると歌った部分だ。  「生きていたならそうなんでしょうけど、僕はこの地球上のどこを探したって、もう妻に会うことはできないじゃないですか」   夜遅くに子どもたちの寝顔を見ていると涙があふれた。子どもたちには妻の血が流れている。でも、自分は妻とは“他人”でしかなく、残されたのは妻の記憶と、そのぬくもりだけだ。  「どうしてかはわかりませんが、妻の血が流れているのがうらやましく感じて……。子どもに嫉妬して、泣いてしまったんです」   配偶者やパートナーとの死別は「人生最大のストレス」と言われる。ダンカンさんは、仕事をする気力も失った。「がんばれ」という周囲の励ましがつらすぎて、人が嫌いになりかけた。  「がんばれって、幸せになるために人はがんばるんだよ。今の俺に何をどうがんばれっていうんだ!」  8歳年下の初美さんとの出会いは、テレビ番組のアシスタントのアルバイトに、20歳の彼女が応募してきたとき。芸人仲間がナンパしたのがきっかけだった。 【あわせて読みたい】 嘉門タツオが初めて語る“最愛の妻”との14年 がん末期の妻に用意した「花道」とその後も続く物語 https://dot.asahi.com/articles/-/13962?page=1 生前の初美さんと撮った家族写真     「細かい経緯は思い出せませんけど、この子と付き合うのは俺だって勝手に思って、電話番号を聞き出して電話しまくったんじゃなかったかなあ」   初美さんが生まれた1966年は、60年に一度めぐってくる「丙午(ひのえうま)」の年。丙午に生まれた女性は気性が激しいという迷信があるが、初美さんはそれを自認していた。   ダンカンさんが仕事の愚痴をこぼすと、“喝”が飛んでくる。  「じゃあ、やめなさいよ。あなたみたいに好きなことを仕事にしている人なんて、めったにいないんだからね」   落ち込んだ時は、「なーに深刻に考えてんのよ!」   幼少期から日本舞踊を続けてきたという一面があり、年下のしっかり者。きっぷのいい性格で、一生懸命に向き合ってくれる初美さんにほれ込み、ほどなく結婚した。   とはいえ、「遊びは芸の肥やし」といった言葉がまかり通っていた昭和の芸人の世界。20歳そこそこの若さで、その芸人を夫に選んだ初美さんが、芸人行きつけの居酒屋のママに、妻としてどんなふるまいをすればいいのかと相談していたことは、後になって知った。  「料理が上手だったんですが、それもそのママに教わっていたようなんです」   3人の子どもにも恵まれたが、ダンカンさんは家事も育児も初美さんに任せっぱなし。芸人仲間と飲み歩いては家に連れて帰り、そのたびに怒られた。   松村邦洋さんと酔ってじゃれあっていると、「松村! あんたが来るからふざけるのよ!」   風呂に入る金もなく、いつも足が臭い芸人がたまに家にやってくると、  「またあんたね! 外のバケツの水で足を洗うか、足首から下を切り落とすか、どっちかにして!」  酔客だらけの、やたらにぎやかな家。その輪の中にいた初美さんのお説教には、いつも愛とユーモアがあった。  「妻に任せっぱなしの夫でしたけど、芸人としてあえてそうしていた部分もありました。60歳だとか、そのくらいの年齢になったらちゃんと落ち着いて、妻を大切にする暮らしをしよう。そんな未来予想図を描いていたんです」  【こちらもおすすめ】 たとえ離婚した相手でも…“死別”のつらさは想像以上に 「遺族外来」の医師が語る壮絶な精神状態 https://dot.asahi.com/articles/-/42911?page=1  だが、初美さんは40歳を前に乳がんを発症。数年後に再発し、47歳の若さで旅立った。   仕事への意欲が湧かなくなったダンカンさん。でも、  「好きなことを仕事にしている人なんて、めったにいないんだからね!」   とまた初美さんに叱られている気がして、仕事に向かった。   育ち盛りの子どものために、ほとんどしてこなかった家事もしなければならなかった。  「ママリンが子どもにしたかったはずのことを自分がやろう」   そんな思いが湧き、本を買って料理を学んでみると意外にもハマった。子どもの弁当も、冷やし中華弁当、阪神弁当……、レパートリーがどんどん増え、前向きに楽しめるようになった。子どもが持ち帰った弁当箱が空になっていると、素直にうれしかった。  「保冷剤を入れた『刺し身弁当』を持たせたときは、生臭くてこんなの食べられないよって叱られちゃいましたけどね(笑)」   子どもの野球のユニホームは泥だらけで、いつも手洗いだ。仕事から帰った夜中に、ごしごしと洗って乾燥機にかけ、朝までに乾かしておく。最初はきついと感じていたが、ある時、気持ちが変わった。  「この泥を落とせば、息子が明日の試合でヒットを打つかもしれない。だから、少しでもきれいにしようって思うようになったんです。その時、同じことを考えながら一生懸命手洗いをしている妻の姿が思い浮かんで、妻と一緒になれたような、そんな感覚に包まれました」   初美さんが亡くなって5年が経った頃から、少しずつ心も変化した。  「ママリンは若くして亡くなったかわいそうな人ではなく、若くてきれいなまま、みんなの記憶に残り続ける。女性として幸せなことなんじゃないか」   自分の人生も、長生きできるに越したことはないが、突然ポックリ逝ったとしても、どのみち初美さんにまた会える。  「自分はいいポジションにいるんだなって。そんな風に思えるようになりました」 【あわせて読みたい】 夫・妻と死別したら…30~40代も参加する“没イチ”交流会 https://dot.asahi.com/articles/-/63339?page=1  毎月、家族で墓参りを続けているが、この2月は節分に合わせて鬼のお面を墓石に飾った。墓前で嘆き悲しむのではなく、初美さんと一緒にいる時間を明るく楽しむ。そんな墓参りを続けている。   そして墓参りの様子や、初美さんの誕生日祝いをブログにアップしたり、映画の舞台あいさつなどで、初美さんへの思いを語り続けたりしている。  「忘れられてしまうことが、本当の意味で人が亡くなったということだと思うんです。これからもずっとママリンとつながっているんだよ、ということ。そして、この家が何代か続いたとして、もし誰かが困った事態に直面したとき、ママリンがその人に語り掛けて、助けてくれるんじゃないか。そんな思いでブログに残しています」   夫婦やパートナーの形は、それぞれだ。それぞれに出会いからの物語がある。  40年近く前。8歳下の、まだまだ世間も知らない初美さんにひと目ぼれしてしまったダンカンさん。その猛アタックを初美さんは受け入れた。 「あの頃は、僕の周りには(同じたけし軍団の)ラッシャー板前とグレート義太夫くらいしかいなかったから、それよりは僕の方がいいって思ってくれたんじゃないですかね。消去法で、僕」   ダンカンさんはそう冗談めかして、こぼれた涙をぬぐう。   芸人仲間と新宿のディスコで飲みすぎてお金が足りなくなり、初美さんにタクシーで現金を持ってきてもらった夜は、そりゃ怒られた。   夫婦でお金を使い過ぎて、子どもたちに節約を誓った直後のこと。初美さんと街に出たら、大人気で品薄だったゲーム機がたまたま売っていて、夫婦で飛びついて買ってしまった。家に帰ると、当時小学生だった長男に「こんな家、出ていく!」と叱られ、「もっともだよね」と2人で反省した。   入院中の初美さんを見舞った日は、25回目の結婚記念日だった。だが、初美さんは体調が悪くて、楽しい会話はできなかった。   帰宅途中に、初美さんからメールが届いた。 【こちらも読まれています】 「僕の行く場所にマーツーあり」 俳優・佐藤二朗が30年連れ添う妻に言われた戦慄の一言 https://dot.asahi.com/articles/-/191261?page=1 「きょうは銀婚式だね」 「役に立たない私だけど、これからもよろしくお願いします」   初美さんが旅立ったのは、その約1年後のことだった。    一人残された側のその後も、人それぞれだ。10年目の今も、心にぽっかり空いた穴が埋まることはない。「妻孝行」をする前に先立たれてしまったことが悔いに残り、消えることはないという。  「恩返しできないままというのが、一番つらいんだよなあ」と、ダンカンさんは正直な胸の内を明かす。    それでも、ダンカンさんは父親として働き、妻に任せっきりだった家事を覚え、子どもを育て上げた。初美さんへの思いを文字やメッセージで発信し、彼女の存在を残し続けようとしている。   遊び大好き芸人夫と、共に生きたしっかり者の年下妻。  「ママリンは『戦友』だったと思っています。僕の妻であり、時にはきょうだいであり、母であり、子どもであり、同僚であり、先生でもあり。全部をひっくるめて『戦友』でした」   初美さんの姿を思い返しながら、ダンカンさんはまた涙をぬぐった。 (AERA dot.編集部・國府田英之)  
ダンカン死別国際女性デー
dot. 2024/03/03 11:00
ロマンス詐欺で300万円失った40代の女性「頼りにした弁護士からも100万円取られ」
今西憲之 今西憲之
ロマンス詐欺で300万円失った40代の女性「頼りにした弁護士からも100万円取られ」
写真はイメージです(GettyImages)    SNSなどを通じて知り合った女性に恋愛関係を抱かせ、金銭をだまし取る「ロマンス詐欺」の被害金回収をPRし、広告会社に弁護士の名義を貸して被害者の対応をさせていた疑いがあるとして、大阪地検特捜部が27日に弁護士法違反(非弁提携)の疑いで「G&C債権回収法律事務所」(大阪市北区)を家宅捜索した。事務所の代表を務める川口正輝(まさき)弁護士(38)に話を聴くなどして調べを進めている。  川口弁護士をめぐっては、1800人の相談を受任して、着手金として約9億円を受け取っていながら、対応は業務委託先の広告会社が派遣・紹介した事務員がしていたとして、昨年、大阪弁護士会が同会の綱紀委員会に懲戒請求していた。以前、川口弁護士に相談して被害を受けたという女性の話を聞いた。  大阪市内に住む女性のAさんは一昨年の夏ごろ、SNSを通じてアメリカ人の医師を名乗る、ジョンという男性と知り合った。 「日本が大好きなアメリカジンです。仲良くなりたい」 「日本をもっとスキになりたい」  Aさんのもとには、ジョンから突然SNSで送られてきたメッセージが今も残っている。 コロナ禍でつい返信を  40代後半で独身というAさんは海外旅行が趣味で、コロナ禍前までは20カ国ほど訪れたという。 「コロナ禍、在宅で仕事することも増えていました。はじめてメッセージがきたときはお昼を家で食べていたときでした。まったく知らない人だけど、人と会う機会も減り、海外旅行にも行っていない。そんなときに海外の男性からメッセージがきたので、つい、返信をしてしまいました」  Aさんは、インターネットの翻訳サイトを使い、自己紹介などを英語でジョンに返信した。するとジョンは、 「今、28歳、ウクライナで医師として支援活動している」 「こちらは戦争でとても厳しいが頑張っている。こちらの任務が終われば日本に行ってあなたに会いたい」  などと書かれたメッセージが届いた。 【あわせて読みたい】 国際ロマンス詐欺の対象ど真ん中な私 性搾取する日本人男性に諦めた今度はSNSの“甘い言葉”地獄 https://dot.asahi.com/articles/-/12684?page=1  日本とウクライナの時差は7時間。日本の夕方に毎日のようにチャットをするようになった。 「ジョンはすごく丁寧で、紳士に思えました。私の写真を送ると、彼からはウクライナの病院で撮影したような写真が届きました。すごく格好よくて、ほめるとポートレート写真など何枚も送ってくれて。長い間彼氏もいないし、すごくうれしかった。ジョンとのチャットが日課のようになりました。毎日、夕方の時間がくるのが待ち遠しかったです」  Aさんは会ったこともないジョンに恋心を抱くようになっていたという。  知り合って1カ月ほど経ったときだった。いつもは陽気なジョンが、元気なく、深刻そうな様子であることが感じられた。 「どうしたの? 心配ごとでもあるの?」  とAさんが尋ねると、 「ウクライナで医療品や薬が足りなくて、支援活動ができないんだ。病院に運ばれてきた人が助けられない」 「自分のいる病院も戦闘地域に近く、そろそろ退避したいがそのお金がない」  などというものだった。 3回、計310万円ほど送金 Aさんはジョンを助けたいと、 「お金、少しなら出せるけど」  とメッセージを返すと、ジョンから、 「ありがとう、助けてほしいんだ。必ず返すから」 「あなたのことを愛している。ウクライナを脱出すれば、日本に会いに行く」  Aさんはその言葉を信じ、指定された口座にネットバンキングで3回、計310万円ほど送金した。3回目の送金は9月だった。  するとその後、チャットにジョンが現れなくなった。 「ジョンの身に何かあったのでは」  Aさんは気が気でなかった。心配するメッセージを何度も送ったがまったく応答がない。  ある日、なにげなくSNSを見ていると、 「ロマンス詐欺というニュースがありました。私も引っ掛かったのかと思いましたが、もう40歳を過ぎて一人の私には相談相手もいない。思い返すだけでも恥ずかしくて仕方がない」  そこで、インターネットでロマンス詐欺を検索すると、川口弁護士のサイトにたどりついた。 【こちらもおすすめ】 若者の投資トラブルの入口はマッチングアプリ セミナー入会金100万円を学生に払わせる手口とは https://dot.asahi.com/articles/-/211226?page=1  ホームページに出ていた、 <私たちは国際詐欺対応の弁護士事務所です> <本気で返還請求するなら私に任せてください>  という言葉を信じ、Aさんはすぐに相談メールを送った。すると夜遅い時間なのに返信が届いた。 <お問い合わせありがとうございます。弁護士の川口です。今回の件に関しては、国際ロマンス詐欺の疑いがありますので、〇〇様がお望みのような返金請求もできます。(訴訟に関しましても、証拠次第では可能かもしれません。)> 着手金として100万円の支払い  何度かメールでやりとりをして、Aさんは川口弁護士と会い、ジョンに振り込んだ310万円を取り返してもらうように、委任状にサインし、着手金として100万円を支払った。 「川口弁護士と面談して窮状を訴えると、真摯(しんし)に耳を傾けてくれて『これまで数々のロマンス詐欺を解決し、お金を取り返した』と自信ありげで、この先生にお願いしようと即決した」  だが、その後、川口弁護士からの連絡は、 「証拠が足りない。海外とのやりとりになるので時間がかかる」  という言い訳めいた内容ばかりだった。そんなときに、川口弁護士の顔が映し出されたニュースが流れ、驚いたという。 「ジョンにだまされ、頼りにした弁護士にもお金を取られ、解決もできずでただ悲しい」  とショックから立ち直れないという。  大阪市在住のBさんも、川口弁護士の被害者だという。  Bさんは、インターネットのフリマサイトに催し物のチケットを出品。落札され発送したが、落札者から「チケットが届かない」とトラブルになった。  その後、落札者がBさんのアカウントIDや個人情報に薄いモザイクをかけてネット上に拡散した。フリマサイトに連絡をとって削除をお願いしても対応してもらえなかった。 「スマホで検索するとネットトラブルに強いと宣伝していた川口弁護士のサイトでみつけてメールで相談。昼は仕事が忙しく、夜遅いメールにも対応してくれたので一度、直接、面接をすると『必ず消すことができる』という。『個人情報がオープンになり怖いでしょう』と同情的で、涙が出るほど一生懸命な感じがしてすぐにお願いした」 【こちらも話題】 「国際ロマンス詐欺」被害7500万円! 漫画家・井出智香恵「長女が私を救ってくれた」 https://dot.asahi.com/articles/-/4481?page=1  Bさんは、 <業務妨害や名誉毀損等の疑いがありますので、〇〇様がお望みのような合法な抗議は十分に可能かと存じます>  との内容のメールを保存している。  個人情報がさらされ、相談できる相手もいなかったBさんは面接の翌日、川口弁護士名義の口座に着手金22万6千円を入金した。  しかし、落札者の書き込みはいっこうに削除されない。  川口弁護士に電話をしても「やっています」「訴訟が立て込んでいて」とのらりくらりと逃げ、放置されるばかり。川口弁護士に具体的にどんな交渉、措置をとっているのか問い合わせても返事がない。  1年以上が経過し、いつしか落札者のアカウント自体が消え、Bさんの個人情報も削除されていたという。 だまされた人を今度は弁護士がだます格好に 「川口弁護士は人の悩みにつけこんで、絶対に解決できるという言葉を繰り返し、お金を払うとごまかしに転じる。まさに弁護士の肩書を使った着手金詐欺だと私は思います。本当に腹が立つ」  国際ロマンス詐欺、投資詐欺などの事件を数多く取り扱う青砥洋司弁護士は、 「国際ロマンス詐欺は、5年前くらいは実際にロマンスがあった例も見受けられ、被害回復の可能性がゼロではなかった。しかし今は、被害金の振込先が個人口座ならまず回収できません。ネットトラブルの場合は、日本の大手の業者なら弁護士が手続きを踏めば解決できることもある」  と話した上で、 「私も消費者被害事件をよくやっているなかで、川口弁護士が何もやってくれない、着手金だけとられて、という話は入っていた。こういう弁護士は、広告業者などが間入り、実際には一度だけ話を聞いて放置することが多いとの被害を聞いている。被害に悩む人に寄り添うふりをして二次被害を生み続ける。弁護士としては、業者にカネを抜かれても実際にはほぼ何もしていないので、ちょっとでももうかればいいという考えです。だまされた人を今度は弁護士がだます格好になり、本当に許せない」  川口弁護士の懲戒請求をしている大阪弁護士会は、 <(川口弁護士の)広告表示は、これを目にした国際ロマンス詐欺又は国際投資詐欺の被害者に対して、一般にこれら事件の被害回復が現実には難しいにもかかわらず、あたかも対象会員へ事件処理を依頼すれば高額の回収が実現できる可能性が高いかのように誤認させる表示>  などと指摘し、 <国際ロマンス詐欺や投資詐欺等を取り扱う弁護士の広告にご注意ください>  と呼びかけている。 (AERA dot.編集部・今西憲之) 【あわせて読みたい】 シニア女性がハマる! 国際ロマンス詐欺の巧妙手口とは? https://dot.asahi.com/articles/-/116701?page=1
ロマンス詐欺
dot. 2024/02/29 17:06
「2次避難先」が見つからない災害弱者 高齢化率が約50%奥能登の避難所で見えた課題
「2次避難先」が見つからない災害弱者 高齢化率が約50%奥能登の避難所で見えた課題
輪島市「ウミュードゥソラ」福祉避難所での豆まき。ケアの担い手は、福井、神奈川、千葉、栃木の4県七つの民間団体が継続的に送り込んだ(写真:キャンナス災害支援チーム提供)    2月上旬、広域避難が進む石川県で、「1次」「1.5次」「2次」の避難所を訪ね歩いた。輪島市では、介護者が葛藤を抱えながらも福祉避難所を拠点に「つなぐケア」を展開。高齢化率が約50%という奥能登ならではの支援課題に迫った。AERA 2024年3月4日号より。 *  *  *  大広間には、段ボールベッドが並ぶ。少しでも私的な空間を確保できるよう、ベッドの間はスタッフが組み立てたついたてで仕切られている。  石川県輪島市の福祉施設「ウミュードゥソラ」。ここは1月1日の能登半島地震の発災直後から被災者を受け入れ、早くから「福祉避難所」として支援を続けてきた。  福祉避難所は、高齢者や障害者など一般の避難所で生活を続けるのが難しく、特別な配慮を要する要配慮者を受け入れる。ここに発災直後に駆けつけた、福井県「オレンジグループ」代表の紅谷浩之医師は、こう語る。 「ぎゅうぎゅうの避難所で2日間横になっていたお年寄りが、福祉避難所に運ばれてきた時には起き上がれないほど身体機能が落ちていた。1次避難所には自分で歩いて行ったというのに。高齢化が進む地域の支援には、介護や生活医療の目が必要だと実感しました」  阪神・淡路大震災時の日本の高齢化率(全人口に占める65歳以上の割合)が約15%。東日本大震災時は約25%。一方、2020年国勢調査では、奥能登の高齢化率は48.9%。  災害弱者支援において、奥能登特有の課題があったのではないか──。  2月上旬、筆者は石川県へ赴き、「1次」「1.5次」「2次」の避難所を訪ね歩いた。  輪島市に入った日は、災害派遣医療チーム「DMAT」が1次避難所から引き揚げる時期だった。全国から派遣されるDMATは通常、短期的に急性期の医療支援を担う。だが今回は異例なことに、能登半島地震発災から1カ月超の長期派遣となった。一般の支援者が入りにくい奥能登の道路事情も相まって、DMATの医療チームなどが高齢者や重症者の広域搬送支援にも携わっていたのだ。筆者が市内の1次避難所を回ると、外部から支援に入っていた医療スタッフが口々に言った。 「行政側から伝わる『空気』は、被災者をとにかく外へ送り出すんだと。避難所内のケアを手厚くするのはよくないの?と悩んだ時期もありました」 「避難者を(別の避難所に)出す出すという流れだったのが、途中から『出せない』と変わり、混乱もあった」 朝のミーティング。中心的な役割を果たすのは地元の看護師、中村悦子さん(中央)。自らも被災しながら福祉避難所と訪問看護ステーションの仕事は続けてきた(撮影/古川雅子)   ミステリーツアーのように行き先が把握できない  背景には、国や石川県が広域避難を呼びかけていたことがある。県は1月8日、生活環境の整った「2次避難所」に入るまでの一時的な避難先として大規模体育館などに「1.5次避難所」を開設。国は当初、2次避難所を北陸や三大都市圏で2万5千人分確保したと発表した。  だが、ホテルや旅館などの2次避難先では、ケアの必要な要配慮者は敬遠されがちだった。「高齢の要介護者ばかりが1.5次避難所にスタック(停滞)していた」と、輪島市在住で市内の別の地区に両親が住む小田原寛さん(55)は証言する。  小田原さんには80代の両親がいて、父はレビー小体型認知症。震災前は母が実家で父を「老老介護」していた。ところが震災で近くの小学校に両親が避難すると、環境の変化による不安や混乱などから、父の認知症が一気に進んだ。さらには、特有の症状から夜中に歩いたり、幻視で声を出したりするので、一般の避難所にはいられない。  1月中旬は、「1.5次避難がミステリーツアーのような実態があった」と小田原さんは振り返る。市の職員から、集団で移動するバスの行き先は「職員でさえ把握できない」と伝えられた。実際に両親が移動後、丸一日は「行方不明状態」で居所がつかめなかった。  ようやく産業展示館の避難所にいるとわかったが、介護が必要な父だけは、「家族でどこか施設を探してください」と避難先の担当者から告げられた。 「でも、金沢近郊の施設は輪島から避難してくる要介護者で満杯の状態。仕方なく当面は妹が住む埼玉の施設に短期入所させることにしました」  実際、2月4日に筆者が金沢市のいしかわ総合スポーツセンターの1.5次避難所を訪ねると、運営する県のスポーツ振興課の職員はこう話した。 「多い時は240人、今は約170人が入所しています。当初、滞在は1~2日の想定でしたが、高齢者で生活に介助が必要な方が多く、なかなか行き先が決まらない方もいらっしゃる。2次避難するまでに時間がかかっている状況があります」  こんな中、要配慮者を2次避難先へ「つなぐケア」は、実質的にどこが担っているのか? 2月上旬現在も断水が続く。衛生状態を保つため、口腔ケア後は吸収のいいナプキンに水を吐き出し、小袋で縛って捨てる(撮影/古川雅子)   1.5次避難所も兼ねるクッションのような避難所  輪島市の障害者福祉施設の「一互一笑」では福祉避難所として広く受け入れをしていたが、水や建物の心配から利用者を広域避難させると決断。障害事業部長の藤沢美春さんは、愛知県内の2次避難先はスタッフが探したと語る。 「断水などで普段のルーティン通りの生活ができないため、障害の重いお子さんはパニックになるんです。まとまった人数の障害者を新たに受け入れてくれるところは、ほぼ皆無でした」  1次避難所の要配慮者は、DMATなどの避難所巡回を担当する医療班や保健師がピックアップし、1.5次避難所への移動を促す。そこへの移動が難しい場合は、福祉避難所へも案内する。  支援体制の調整を輪島市の福祉課と担ってきた、厚生労働省DMAT事務局災害医療課の上吉原良実さんは言う。 「高齢者や障害者も、感染症に罹患(りかん)した人も、指定避難所での一般的な支援だけでは避難所生活が難しい人たちに対応しているのが福祉避難所。今回、市内に数カ所開設され、柔軟な受け入れをしてくれています」 輪島市の福祉課と支援体制の調整を担ってきた厚生労働省DMAT事務局災害医療課の上吉原良実さん(写真/本人提供)    今や福祉避難所は、「1.5次的避難所」として、クッションのような役割も果たしている。下水道が完全復旧するまでには年単位の時間を要すると言われており、いったん身を寄せても、さらに遠くへと避難する必要性が生じたのだ。行政に任せていたら2次避難先探しには時間がかかる。そこで「つなぐケア」として、福祉避難所のスタッフが次なる避難先探しをサポートする。  ウミュードゥソラの避難所で中心業務を担う中村悦子さんも被災者。かつて輪島病院に勤務していたベテラン看護師だ。「住み慣れた土地での暮らしを守ること」に使命感を燃やす。だが苦渋の思いで、広域避難も進める。  75歳の女性が、ウミュードゥソラのスタッフ部屋に顔を出す。ここで数日過ごした後に、福井県勝山市への避難を決めた。中村さんは、このおばあちゃんに病院勤務時代から関わってきた。 「優しくしてもらってありがとう。できれば輪島におれたらいいんやけど」  女性は不安を吐露しつつ礼を述べる。中村さんは、背中をそっとたたいて送り出す。 「勝山は私らとつながってる施設やけん、大丈夫。あっち行っても、みんなに『助けて』って言うて、一人で抱え込まんと助けてもらうんよ!」 平時からのつながりで、伴走型の広域支援体制を  女性が移ったのは、前出の紅谷医師が勝山市の協力を得て、1月末に開設した新たな2次避難所だ。輪島で支援に当たった看護師が、「また会えましたね」と勝山の避難所で出迎えるひとコマも。現地の利用者は、今では水の心配も要らず、湯上がりに利用者が首タオルでくつろぐ姿も見られる。  ウミュードゥソラ福祉避難所の運営に携わってきた介護福祉事業/NPO「ぐるんとびー」(神奈川県)の菅原健介代表は、顔なじみの関係を継続させながらの「伴走型広域支援」を目指す。こんな提案をする。 「高齢化が進む地域はもともとのケアの資源に余裕がない。今後は平時から、福祉施設が域外の施設と顔の見えるつながりを築いておくことがいちばんの防災策になると思っています」  次なる災害の備えとして、平時から福祉職同士がつながって、いざという時に伴走しながら支援できる体制を作っておくのも、一つの手だ。(ジャーナリスト・古川雅子) ※AERA 2024年3月4日号
AERA 2024/02/28 16:00
岡本太郎がノリノリで陣頭指揮 サザエさんで振り返る、令和と顕著に違う「大阪万博」の反応
岡本太郎がノリノリで陣頭指揮 サザエさんで振り返る、令和と顕著に違う「大阪万博」の反応
1970(昭和45)年、大阪万博に合わせて制作した「太陽の塔」を背に取材を受ける岡本太郎    昭和の価値観で令和をぶった斬るドラマが話題を集めているように、にわかに昭和にスポットライトが当たっている。果たして昭和とはどんな時代だったのか。AERA2024年3月4日号より。 *  *  *  阿部サダヲ演じる昭和の体育教師が令和の世界にタイムスリップ、昭和の常識で令和の人々をかき回すドラマ「不適切にもほどがある!」。筆者は50代だが、昭和を描いたドラマを見ているうちに、あんなに嫌だった昭和が、妙に「懐かしく」思えてきた。体罰やセクハラは論外だが、困った時には助け合い、徹夜もいとわず仕事に打ち込む人がそこら中にいたあの頃。令和の現在はコンプラコンプラ言うわりには、「勝ち負け」がすべて。格差も拡大し、ネットの世界では「自分がやられて嫌なことは人にはしない」という最低限のルールさえ守られない。それに比べれば、当時は窮屈に感じた社会の雰囲気も「むしろよかったかも」とさえ感じる。 社会を斬るサザエさん  そんな「古き良き昭和」を振り返りたい人、知りたい人にお薦めしたいのが、漫画「サザエさん」と当時の写真で昭和を振り返るムック「『サザエさん』の昭和図鑑」だ。アニメの印象が強い人には意外かもしれないが、「サザエさん」は新聞の連載漫画だった。そのため、作者・長谷川町子の社会に対する問題意識が随所に垣間見える。  ある時にはオリンピックの感動が忘れられず、事あるごとに胴上げをしてしまう磯野家の面々。またある時にはサザエの投げた焼き芋が発端で、大学内でゲバルト(闘争)が起きる──といった社会風刺の利いた漫画がたくさんある。“昭和”を生きた世代には当たり前の日常も、令和世代には信じられないことの連続だろう。 ノリノリの岡本太郎  昭和と令和の違いが顕著なのが「大阪万博」に対する国民の反応だ。2025年の万博は「パビリオンの建設が間に合わない」「インフレと円安で経費が膨れ上がった」「アンバサダーの松本人志が活動休止」など悪い話ばかり、国民の反応も鈍いままだ。一方、70年の万博は違った。 「サザエさん」には、万博期間中の大阪の宿を確保しようとやっきになっているカツオや、銭湯で「万博に行った」ことを自慢するご近所さんが描かれている。日本国民の大勢が、万博へ行きたいと夢見ていた。事実、入場者数は6422万人を記録。当時の写真や新聞記事を読み返してみても、芸術家・岡本太郎がノリノリでヘルメットをかぶって太陽の塔の建設を陣頭指揮している。政治家のみならず、あらゆる職種の人が懸命に協力し合った。来年の万博には当代一流の文化人がプロデューサーとして名を連ねているが、果たして岡本太郎のような後世まで語り継がれる功績を遺せるのか。そして国民は大阪・関西万博を見たいと熱狂し、大阪まで足を運ぶのか……毎週、万博について追及される吉村洋文大阪府知事の表情からはその予兆は見えてこない。ああ、昭和がうらやましい。(編集部・工藤早春) ※AERA 2024年3月4日号
AERA 2024/02/27 10:30
「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜
平尾類 平尾類
「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜
  多くの後輩芸人に慕われている(撮影/写真部・佐藤創紀)   ピン芸人・TAIGA(48)を慕う芸人は多い。オードリー、ぺこぱ、カズレーザー、ヒコロヒー、モグライダー……下積み時代に面倒を見ていた後輩たちが次々にブレークしていく一方、TAIGAはなかなかチャンスをつかみきれない。芸能活動だけでは生計を立てられないため、ウーバーイーツのアルバイトをしながら妻と2人の子どもを養っている。【前編】では愛する家族についての思いなどを語ってもらった。【後編】では芸人を何度も辞めようと思ったが踏みとどまった理由、イジメから救ってくれた父親とのエピソードを明かしてくれた。 ※【前編】<「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは>より続く ――TAIGAさんは多くの後輩芸人に慕われていることで有名ですが。  あいつらは売れているのに、気に掛けてオレの名前を出してくれる。感謝の思いでいっぱいです。後輩たちが売れていく瞬間を見るときは素直にうれしいですよ。ぺこぱは辞めそうな時期を知っていたので、M-1で決勝の舞台に立ったときは泣きました。ただ、こいつらが売れると思って付き合っていたわけではないです。純粋に一緒にいると楽しいなというだけで。だから先見の明があるわけではない(笑)。 人を惹きつける独特の魅力 ――売れている後輩たちの共通点はありますか。  人(ニン)が面白いですよね。自分が言うのもなんだけど、漫才や台本がみんな最初から面白かったわけじゃない。でも人を惹きつける独特の魅力がある。(オードリーの)春日(俊彰)も変わっているけど面白い。(ショーパブの)キサラで芸人をしながら、バイトで一緒に働いていたけど遅刻が多くて。あいつの立場が悪くなるから本気で説教したら、何度も謝って下を向いていた。反省しているんだなと思ったら、その後に賄いの食事へすぐに向かって、てんこ盛りのカレーを食べていて。仕事で取り返そうと思っていない(笑)。 2014年R-1で初めて決勝に進出したが……(撮影/写真部・佐藤創紀)   下積み時代に面倒を見ていた後輩たちが次々にブレーク   ――サラリーマン生活を経て、お笑いの世界に入って今年が24年目になります。  今まで大きなチャンスを4回逃しているんです。「爆笑レッドカーペット」「エンタの神様」「あらびき団」「R-1ぐらんぷり」……。R-1は2014年に初めて決勝に進出して「これで人生が変わる」と思ったけど、仕事が増えない。自分の力不足だけど、40歳前後が一番きつかった。 ――売れる芸人はごく一握り。厳しい世界ですね。  そうですね。本当に何度も失敗して……。ただ、「アメトーーク!」の21年1月に放送された「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」に出演して以降は仕事が少しずつもらえるようになりました。同じ番組に2、3回呼ばれると本当にうれしい。40歳を過ぎてアルバイトしながら2人の子どもを育てる芸人が求められることは何かなって考えます。自分のダメな部分を笑いにできるようにしないと。一個一個がチャンスだと思ってフルスイングしています。「一番きつい仕事は何ですか?」ってよく聞かれるんですけど、どんなに頑張っても仕事がないときが一番つらい。番組スタッフに「過酷な現場ですみません」って謝られるときがあるんですが、全然きつくない。仕事がないほうがはるかにきついですから。 「TAIGAさんは売れてほしい」って ――芸人を辞めようと思った時期はありましたか。  35歳から40歳にかけて何度も辞めようと思いました。「新ネタを3本作ってライブに出てダメだったら辞めよう」とか考えたりしたけど、辞められない。単独ライブで300人の小屋に8枚しかチケットが売れなかったのに満席にしてくれた友人に恩返ししたいし、オードリー、ぺこぱとか「TAIGAさんは売れてほしい」って名前を出してくれる後輩の期待に応えたいとか……。地元の友達と飲みに行ってもオレだけ一回もお金を払ったことがないんです。申し訳ない気持ちはずっと持っているし、「今日はごちそうするよ」と言えるようになりたいです。 「TAIGAさんは売れてほしい」と名前を出してくれる後輩の期待に応えたいという   TAIGAを慕う芸人は多い   ――お父さんも特別な存在だと聞きました。  小1のときにイジメられた時期があって。小6の男子2人にターゲットにされました。オレのランドセルを蹴飛ばして、前のめりに倒れているのを見てケタケタ笑っていた。1年生だから6年生は怖くて何も言えないじゃないですか。春にピカピカだったランドセルが秋にはボロボロになって。誰にも言えなかったんですが、親父が気づいて2人を呼び出して注意したら、「ごめん」と謝ってきてイジメが終わった。オレを守ってくれた正義のヒーローです。 ――カッコいいですね。  ただすごく厳しかった。オレは勉強ができないのでよく怒られました。親戚がみんな頭良かったので、自分の子どもだけ勉強ができないのが恥ずかしかったんでしょう。本人は覚えていないと思うけど酔っ払ったとき、「親戚中の恥だ」って言って。傷つきましたよ。でも芸人を続けていることには理解がありました。親父は実家の材木屋を継いでいたので、「おまえは好きなことをやれ」と。子どもに後悔させたくないという気持ちがあったのかもしれません。 父親は正義のヒーローだった 病院のカレンダーに ――お父さんは09年に逝去されました。  「親戚中の恥だ」と言った親父を見返したいという思いが、芸人を続ける大きなモチベーションの一つでした。親父が「うちの息子がテレビに出るから見てやってくれ」って病院のカレンダーに印をつけていたと亡くなった後に聞いたときは、ラジオ番組の本番前だったのに号泣しました。芸人としていいところを見せられなかったし、親孝行が何もできなかった。目標を失って胸にぽっかり穴が開いた感じになりましたね。 父親は「おまえは好きなことをやれ」と言ってくれた   勉強ができないので父親によく怒られたという ――生き方に変化はありましたか。  その後に芸人を辞めるか本気で考えた時期があって。続けると決めてから、お金持ちの人たちが集まる飲み会の前でネタをやる「ギャラ飲み」をやめました。「つまらねえよ」「一生売れねぇな」と罵声を浴び続けるんですが、愛想笑いを浮かべてその場をやりすごせば、2~3万円のタクシー代がもらえる。ネタから人格まで全部否定されて、こんな汚い金はいらないなって。笑いに真剣に向き合って、少ないかもしれないけどアルバイトで働いたお金で飯を食ったほうが幸せだと考え直しました。 座右の銘は「人生楽しんだもの勝ち」 ――芸人として大事にしているポリシーはありますか  ウケる、スベる関係なく、スベってもオレしかできないことをやろうとは思っています。自分に何を求められるかと言ったらその部分だと。ピン芸人は全員リスペクトしています。ハリウッドザコシショウさん、永野さんとか「芸人の間では面白いけど売れるのはどうかな」って言われていた人がちゃんと売れている。自分の生き方を貫いている人はカッコいい。古坂(大魔王)さんもすごい。若手のときから頭が良くて面白い人ですけど、ピコ太郎で世界を席巻して。あんな売れ方は想像できなかった。「PPAP」が大ブームになる前にライブで一緒になったとき、ネタを見たんですよ。これはすごいなって。ああいう発想ができない自分が悔しかった。 映画化されたら最高 ――今後の展望や夢を教えてください。  オードリーの番組に出演すると、お互いに売れていなかったころを思い出しますけど、今はゲストで呼んでもらっている身です。一緒に冠番組をやりたいですし、ラジオが好きなので自分の番組を持って後輩たちをゲストに呼びたい。あと、自伝『お前、誰だよ! -TAIGA晩成 史上初!売れてない芸人自伝-』(ワニブックス)がドラマ化、映画化されたら最高です。主演を一流の俳優さんにやってもらって、オレは「面白くないよ、やめちまえ!」っておしぼりを投げる「ギャラ飲み」のタニマチ役で出たい(笑)。座右の銘が「人生楽しんだもの勝ち」なんです。貧乏人も金持ちも与えられる時間は一緒。つらいことはたくさんあるけど、人生を楽しむ気持ちはこれからも大切にしたいです。 (平尾類) ●TAIGA/1975年11月20日生まれ。神奈川県出身。短大卒業後、サラリーマン生活を経て役者事務所へ。芸人に転向し、ピン芸人として活動する。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」「爆笑レッドカーペット」「あらびき団」などに出演するが、大ブレークを果たせず。2014年の「R-1ぐらんぷり」で決勝進出後も下積み生活が続く。21年に出演した「アメトーーク!」から仕事が増え、23年は「午前0時の森」で「TAIGAのウーバー人生相談」が話題に。特技は躰道で3段の実力者。全国高校生躰道優勝大会や全日本躰道選手権大会の法形競技、展開競技で準優勝・優勝した経験がある。家族は妻、2人の息子。
TAIGAピン芸人
dot. 2024/02/24 11:00
「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは
平尾類 平尾類
「僕もパパと一緒にウーバーやる」 ピン芸人TAIGAが息子に謝った出来事とは
テレビのバラエティー番組などに出演する傍ら、ウーバーイーツのアルバイトで生計を立てる  お笑いの世界に飛び込んで24年目。ピン芸人・TAIGA(48)はテレビのバラエティー番組、イベント、営業に出演する傍ら、ウーバーイーツのアルバイトで生計を立てている。芸人として人気が爆発する壁は高い。何度も挫折を味わっているが、心の支えになっているのは大好きな家族だ。妻の知永(ともえ)さん、長男(5)、次男(2)と4人で暮らす自宅に戻ると、幸せな気持ちになる。友人に馬鹿にされた出来事に涙を流して悔しがってくれた知永さん、2人の子育ての楽しさと難しさ、TAIGAの働く姿を見て抱いた長男の意外な夢とは。愛情あふれる言葉で語ってもらった。 「おもろないもん。こんなダメな男」 ――出演していたショーパブでアルバイトとして働いていた知永さんと知り合い、結婚したときが41歳でした。  一つの転機になったのは、短大時代の女友達Aの結婚式でした。大阪で式を挙げるので、東京からの往復の新幹線代、ご祝儀代、2次会への参加費を含めると8万円かかってしまう。売れない芸人が8万円を使ったら生活できなくなります。断るつもりでしたが、Aから「お金は全部出すから余興をやって」と言われて結婚式に参加しました。余興が終わって友人たちと話しているとき、別の友人が「この先、TAIGAは売れるかな?」って言ったら、Aに「売れるわけないやろ、おもろないもん。こんなダメな男」って吐き捨てられて。 大好きな家族が心の支えだ(撮影/写真部・佐藤創紀)   早く売れて「パパはお金持ちだよ」と息子に伝えたいという ――精神的にきついですね。  金を払わなかったオレが悪いんです。腹が立ってブチぎれそうになったけど、我慢して。東京に戻ってすぐにアルバイトを詰め込んで、Aに郵送で全額返金して携帯の連絡先を消しました。謝ってほしいとかではないんです。「面白くない」とかの罵声は飲み屋の営業で散々浴びせられてきましたから。ただ、大阪から戻った夜に妻にこの話を漏らしたら泣いていて。そのときに「オレは何をやっているんだろう。オレのことを一番面白いと信じて涙を流している人を幸せにできていない」って思って。それまでは売れない芸人が結婚しても彼女を幸せにできないとか、ショーパブをクビになった演者が元店員(アルバイト)と結婚したら、ショーパブを引きずっていると思われるんじゃないかとか、いろいろ考えてウジウジしていたんです。小さなプライドを捨てて、絶対に売れて幸せにしてやると覚悟が決まりました。 世界で一番大好きな存在 ――2021年1月に放送された「アメトーーク!」の「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」で、番組出演が決まったことをTAIGAさんが報告したら、知永さんが大泣きしていた姿が印象的でした。  あの姿は忘れられないですね。妻は一番の味方ですし、世界で一番大好きな存在です。こんな大切な人だと気づくのに何年もかかっちゃって。気づいてよかったと心の底から思います。 ――家族を持つことで仕事に取り組む意識に変化はありましたか。  バラエティー番組で「ここは前に出たほうがいいかな」と思ったときでも、独身時代は迷ってしまってやめることが多かった。だけど、今は子どものことを考えたら前に出ようと思える。守りに入らないのは子どもや妻がくれるパワー。家族を食わせるために何でもやると思えば怖いものはありません。 「アメトーーク!」の「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」にも出演   お笑いの世界に飛び込んで24年目になる ――子育てを経験していかがでしょうか。  わが子を初めて抱いたとき、ピカピカ光っていて。自分で言うのもなんだけど、若いときは遊んできたんです。クラブ、海外旅行、ダイビング、カジノ……世の中の楽しいことを知り尽くしてきたつもりだったけど、42歳で子育てを知って、「こんな楽しいイベントを知らなかったのか。一番楽しいイベントだろ」ってビックリした(笑)。もちろん、大変なこともたくさんあります。お母さんたちはすごいです。赤ん坊のときは夜泣きでイラっとすることもある。でも、子どもの笑った顔を見たら疲れが吹き飛ぶ。「パパが仕事行くの嫌だ」ってしがみついてくれたりする姿を見ると普段イラっとしている自分が情けなくなる。もっと大きな器を持たないといけないと思わされる。子育てで育つのは親のほうだなとつくづく感じます。 「パパが僕の気持ちを分かってくれたのがうれしかった」 ――「子育てで育つのは親のほう」は、深い言葉ですね。  後で振り返って失敗したなと反省することもあります。長男は優しくて慎重な性格なのですが、保育園で友達に顔をたたかれることが続いて。親からすればイジメられてないか不安になるじゃないですか。「やられたらやり返せよ」と伝えたら、ある日、保育園から呼び出されて。たたいてきた友達の頬を長男がたたき返したら傷ができてしまった。先生が「ダメだよ」って息子を注意したら、「〇〇くんにはやり返していいってパパに言われた」と答えたんです。息子からしてみれば親の言うことを素直に聞いた行動です。「やられたらやり返せ」って簡単に言うものじゃないし、言葉のチョイスに気をつけなければいけなかった。一緒に風呂に入ったときに、「たたかれたら痛いでしょ。だからこれから、友達をたたくのはやめようか。パパがそう言ったのが悪かった。おまえは悪くないよ」って伝えたんです。後で妻に聞いたら、長男が「パパが僕の気持ちを分かってくれたのがうれしかった」と言っていたと。どう伝えるのが正解か難しいのですが、それを考えることも親子で成長するために大事な経験だと思います」  バラエティー番組で「前に出たほうがいいかな」と思ったときでも、独身時代は迷いもあったという   世の中の楽しいことを知り尽くしてきたつもりだったが…… ――子どもは親が思っている以上に繊細かもしれませんね。  そうなんです。長男が3歳のときかな。コンビニでお菓子を2個買っていいよと伝えたら、「1個でいいよ、ウチはお金がないから」って。お金がないから買わないと言ったことは一度もないんですけど、いろいろ察知しているんでしょうね。小さい子にそんな思いをさせちゃって。気を使わせて申し訳ない。早く売れて、「そんなことないよ、パパはお金持ちだよ」って伝えたいです。 ――2歳の弟さんの性格は?  それが長男と全然違うんです!(笑)。暴れ者でメチャクチャする。長男はベビーカーに座らせるとおとなしくしていたけど、次男はベビーカーからすぐに抜け出す。食事中もじっとしない。ただ知り合いの親御さんに聞いたら、「長男がおとなしすぎるぐらいで、次男が普通だよ」って。これも経験することで子どもたちの性格が違うことを学べる。 「パパと一緒にやろうな」 ――TAIGAさんがテレビ番組に出演するとお子さんはどのような反応ですか。  長男はテレビに出ているオレより、ウーバーイーツで重いリュックを背負って自転車で颯爽と坂を下るオレがカッコいいと思っています(笑)。「将来はパパと一緒にウーバーやる」って。子どもの夢は変わるので、「そうか、パパと一緒にやろうな」って言いましたけど、その夢がかなったら怖い!(笑)。保育園の夏祭りで先生にお願いされて、ネタを披露したことがあったんです。R-1の決勝でもやったツイストを踊りながら、「お前、誰だよ!ロックンロール」をやって。「面白かったです!」って保護者の方に声を掛けてもらったけど、長男は「パパが踊るの恥ずかしかった」って(笑)。確かに、自分の親が「フゥ――!!」って踊りだしたら嫌だなと。笑われたんじゃなく、笑わせたんだよと伝えてもまだ分からないですしね。 クラブ、海外旅行、ダイビング、カジノ……若い時は遊んできたという   「マイホームが欲しいですね」(撮影/写真部・佐藤創紀) ――息子さんたちが芸人・TAIGAさんのカッコよさに気づくのは、もう少し先かもしれませんね。これからどんな家庭を築きたいですか。  難しいことは分かっていますが、マイホームが欲しいですね。年齢的にも職種を考えてもローンは通らない。一括払いをできるようにとにかく売れたい。今も共働きですが、妻には苦労を掛けたので楽をさせてあげたい。健康で長生きして、息子2人の結婚式に出られたらこんな幸せなことはないです。 (平尾類) ※【後編】<「つまらねぇよ」「一生売れない」 ピン芸人・TAIGAが愛想笑いで過ごしたつらい夜>に続く ●TAIGA/1975年11月20日生まれ。神奈川県出身。短大卒業後、サラリーマン生活を経て役者事務所へ。芸人に転向し、ピン芸人として活動する。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」「爆笑レッドカーペット」「あらびき団」などに出演するが、大ブレークを果たせず。2014年の「R-1ぐらんぷり」で決勝進出後も下積み生活が続く。21年に出演した「アメトーーク!」から仕事が増え、23年は「午前0時の森」で「TAIGAのウーバー人生相談」が話題に。特技は躰道で3段の実力者。全国高校生躰道優勝大会や全日本躰道選手権大会の法形競技、展開競技で準優勝・優勝した経験がある。家族は妻、2人の息子。
TAIGAピン芸人
dot. 2024/02/24 11:00
「勝つためだけだったスポーツが人生を豊かにするものに」 女子100mハードル・寺田明日香の強さ
「勝つためだけだったスポーツが人生を豊かにするものに」 女子100mハードル・寺田明日香の強さ
星野源のファン。音楽、芝居など複数の活動を行う姿に刺激を受ける。寺田の人生とも重なる(撮影/今祥雄)    女子100メートルハードルで日本選手権3連覇、元日本記録保持者でもあり、東京五輪出場も果たした寺田明日香。小学生のころから陸上選手として成績を残したが、心身のバランスを崩し、摂食障害、無月経、骨粗しょう症に。勝つためだけだったスポーツが、今は人生を豊かにするものへと変わった。寺田の真の強さはここにある。 *  *  *  横浜市にある慶應義塾大学日吉キャンパス。その一角にあるゆるやかな上り坂で、體育會(たいいくかい)競走部員たちが練習していた。その中を風のように走り抜けていく女性スプリンターがいた。道行く人は「速っ!」と驚いて振り向く。  100メートルハードルの選手、寺田明日香(てらだあすか・34)である。所属はジャパンクリエイトグループだが、コーチングする高野大樹(35)が同部ヘッドコーチを務める関係で、ここを練習拠点にしているのだ。  寺田のキャリアはかなり珍しい。19歳で世界ジュニアランキング世界一の13秒05を記録し、“陸上日本一”を決める日本陸上競技選手権大会(以下、日本選手権)で3連覇するなど活躍したが、摂食障害やケガにより23歳で引退。結婚・出産、大学進学をへて7人制ラグビーに挑戦するも、28歳で陸上に復帰。翌年、日本人女性で初めて12秒台を記録、東京オリンピックに出場した。  ラグビーに挑戦した理由や5年のブランクがありながら日本新記録をだせた秘密を聞いていくと、回り道も悪くはないことがみえてきた。  1990年、寺田は札幌市に生まれた。幼い頃は気管支が弱く、体力をつけるために体操や水泳など複数のスポーツをした。小学4年生から陸上を始めると、陸上選手だった両親のDNAを引き継いだのか、小学5、6年と100メートル全国2位に、インターハイではハードルで3連覇を達成した。興味深いのは、そんな絶好調の時でさえ、陸上をやめてからの人生を考えていたことだ。 「両親が離婚して、専業主婦だった母が働きに出た時、資格などを持ってなくて大変そうな姿をみていたからでしょうね。陸上をやめて次の人生を切り開く手札がないというのが怖かったんです。大学の教育学部に進学したいと考えたり、とにかく自立した女性に憧れがありました」 2023年7月1日、「実業団・学生対抗陸上競技大会」で12秒92、2位。レース前は一緒に走る選手と大声で話し笑っていた。これは緊張をほぐす方法。緊張は頑張ろうとしている証拠と認めることが大切とも(撮影/今祥雄)   体重の増加が怖く 拒食と過食を繰り返す  それでも高校卒業後は、福島千里、北風沙織といったトップスプリンターが所属していたクラブチーム、北海道ハイテクACに入る。北海道恵庭北高校陸上部に在籍中、寺田にハードラーとしての適性を見いだした名伯楽・中村宏之が、当時ハイテクAC監督を務めていたからだ。寺田は「オリンピックに行きたい」という思いが強く、その選択に後悔はなかった。  初年度から結果をだした。日本選手権3連覇、翌年は世界ジュニアランキング1位。ロンドンオリンピックはほぼ射程に入ったと思われた。  ところが2011年3月の沖縄・石垣島合宿で暗転する。トレーニングの一環でサッカーを楽しんでいた時、踏み切る右足を捻挫したのだ。回復が思わしくなく練習もままならない。結果、ロンドンオリンピックの出場を逃してしまう。そのショックなのか心身のアンバランスを招く。成長期の影響でふっくらし始めていたが、体重増の恐怖から摂食障害になる。少し太ると吐いたり下剤を飲んだり。すると身長168センチで約51キロだった体重が45キロ前後に。反動で過食になり2週間で58キロに。体重の乱高下を繰り返した。 「肌はボロボロで、生理もこなくなりました。栄養状態も悪いので骨折してしまって。摂食障害、無月経、骨粗しょう症。女性アスリートが注意するべき三主徴を不名誉にもコンプリートしてしまいました。もう練習どころではなかったですね」  クラブの同僚に相談しようにも、みな自分のことで精一杯の様子。立て直せないまま13年の日本選手権を迎える。結果は屈辱の予選落ち。直後、母親に電話をしている。「もう無理だわ」。泣いていた。「今まで頑張ったね、ご苦労さま」という母親の声を聞いた後、監督の中村を訪ね、「責任をとってやめます」と言い残しクラブを去った。 「あの頃は、スポーツは勝たなければ意味がないものという認識でした。自分にとってのスポーツの意味ってその程度でした。勝てなくなって、気持ちが折れちゃったんですね」  23歳といえば陸上選手としてはもっとも脂がのる時期。が、陸上に未練はなかった。 「23歳ならば、これから大学に入っても新卒とあまり変わらず社会にでられるかもしれない」  引退から3カ月後の10月に上京。簿記の資格も取得していたので、スポーツマネジメント会社で経理などの仕事をしつつ、大学入学の準備をしていた。そうこうするうちにおなかに新しい命を宿す。その父親で、当時日本陸上競技連盟の職員だった佐藤峻一(40)と、翌14年3月に結婚した。 レース後の取材。自分が口にした言葉で自分を縛ることがあるので、自分の中で温めておきたい未完成な感覚は記者会見では話さないようにしている(撮影/今祥雄)    4月、早稲田大学人間科学部人間情報科学科eスクールに入学するが、間もなく一人4役の毎日が始まった。8月に出産し、経理を在宅で数時間こなし、さらに家事も。幸い通信課程なので、子どもを寝かしつけてから講義を視聴できたが、1週間に10教科のレポートを書いたり、ゼミの研究発表の準備をしたりした。 ラグビーで五輪を目指す プロテイン飲みながら卒論  大学は3年課程。北海道ハイテクノロジー専門学校において2年間情報科で学んだのでその単位が認められたからなのだが、その最終年にさしかかった16年、大学院への進学も考えていた寺田に複数の知り合いからある提案が舞い込む。 「ラグビーで東京オリンピックを目指さない?」  実は同じ話は引退する13年にもあった。ラグビーには15人制と7人制があるが、誘われたのは後者。使用するグラウンドの広さは同じなので、7人制では“鬼ごっこ状態”。速く走ってトライできる選手が重宝され、当時は東京オリンピックを見すえて、陸上選手を積極的にスカウトする動きがあったのだ。ただ、引退当時は、「人に見られたり評価されたりするのは絶対嫌」と泣いて断ったのだが、今回は違う考えが浮かんできた。 「オリンピックを目指すチャンスを手にできるのは限られた人間なんですね。引退してからそのことに気がつきました。ましてラグビー未経験の自分にオリンピックを目指そうと言ってくれる人がいる。私はすごく恵まれていると思ったんです」  競技から離れてオリンピアンの価値にも気づかされた。陸上教室や講演会に呼ばれるのはオリンピアンが多い。自分の経験などを伝える時にもオリンピアンであった方がよいと思ったのだ。  ただラグビーに挑戦するとなると、練習や合宿、試合で家をあけることが多くなる。夫に相談すると、「応援するよ」と快諾してくれた。  16年8月、「東京フェニックス」に入団した。 「ボールより速く走る選手を初めて見た」  チームメートの村上愛梨(34)は、練習する寺田の姿をみて衝撃を受けた。もちろん課題はあった。その一つは体重が軽いこと。90キロ前後の選手にタックルされると、当時47キロの寺田の体は2メートルほど飛ばされた。「交通事故のレベル」と振り返るが、ケガ予防のためにも体を大きくする必要があった。村上に「ご飯を噛(か)まないで食べると太る」と教えられ、お代わりしては飲み込んだ。努力の結果か約3カ月で61キロまで増えた。 2023年10月9日、小学生向けの「調布市ジュニア陸上体験教室」で講師を務める。最初は表情が硬かった参加者だが、次第に活発に。「私が子どもなので一緒に遊んでもらう感じ」と寺田(撮影/今祥雄)    当時は大学最終学年。練習で疲れた体にむち打って、合宿所で夜遅くまで卒論を書いている姿を村上は覚えている。心配になった村上は「もう寝なよ」と言っても、プロテイン飲料を流し込みながらキーボードをうっていたという。  12月には日本代表練習生になり、翌年からは月の8割を合宿に費やす日々が始まる。選手としては充実していたが、母親としてはつらい思いもした。村上によると、「タックルの痛みより、子どもと一緒にいる時間が短い方がキツい」と泣いていたという。当時2歳半の娘・果緒(9)には「ママの仕事はラグビー。私の仕事は保育園。泣かないで」と言われていたが、厳しかったのだ。  それでも猛練習を積みトライを何度も奪えるようになっていた。だがその矢先、17年5月、公式戦で相手選手と交錯し右足腓骨(ひこつ)を骨折。治癒はしたが、半年のブランクは大きく、練習に戻ってもついていけず、オリンピックは無理だと悟る。 ハードルはタックルしない ラグビーで恐怖がなくなる  しかし、寺田はある手応えを掴(つか)んでいた。 「走るのがすごく楽しく好きになっていたんです。しかも速くなっている。今やらずに後悔することは何かと考えた時、それは陸上に戻ることだと」  その直感は正しいのか。寺田は複数の人に確かめた。ラグビーのトレーナーは「ありじゃないですか」。恩師の中村にも聞こうと北海道に飛んだ。18年10月のことだ。中村と一緒に寺田の走りをみた、元チームメートの北風(38、前出)は、「一歩一歩が地面に伝わる力、推進力がすごく強くなったな」という印象を受けた。肝心の中村は……。 「30歳前だったらいけるかもな。ただ、オリンピックは無理だぞ。そんな甘いもんじゃない」  陸上復帰の意思を固めた寺田は夫に報告。すると「自信あるの?」と尋ねてきた。「なければやらない」と寺田。夫は「自信家でない彼女がそこまでいうのは根拠があるのだ」と思った。  そこから寺田は「チームあすか」結成に動きだす。コーチやトレーナー、栄養管理などの専門家を集めアドバイスをうける体制をとったのだ。 「当時はそれらを監督やコーチ一人がやりくりするのが一般的でした。それではキャパオーバーになってクオリティーが下がる気がしていました」  こうしたチーム制は陸上選手としては当時かなり新しかったが、これはラグビーから学んだ。寺田自身、集団で取り組むのが好きだし合理的だということにラグビーを通して気づいたのだ。  練習も過去にこだわらない方針が立てられた。昔の寺田に戻すのではなく、「新しいハードラー・寺田明日香をつくる」という方向性を寺田自身が示した。また、東京オリンピックを視野には入れていたが、コーチの高野は試合日程から逆算して練習内容を決めないようにした。徹底的に技術的な課題を洗い出し、関連する筋肉、関節の柔軟性を最適な状態にするなど土台を積み上げた。地味な練習のようだが、寺田は楽しかった。 「23歳までの自分とは違って純粋に陸上が好きで好奇心が強くなっていたので、この練習をしたら自分がどうなるかとか、1本走ってどう感じたか、それをコーチに伝えて、次はどう走るか……みたいにアイデアがぐるぐる頭の中にわいてきて、わくわくしていた。練習の質も高くなりました」  練習をする中で発見があった。引退前はあったハードルへの恐怖感がないのだ。ハードルはタックルしてこない。タックルで吹っ飛ばされた経験がハードルの怖さを蹴散らしてくれたのだ。  19年4月、復帰レースに出場。緊張ぎみで13秒43だったが、レースのたびにタイムはよくなった。高野は「できる時はとんとんと全部うまく運ぶからそれを待っていた」というが、その時が訪れたのは8月。金沢イボンヌの日本記録13秒00に並び、翌9月には12秒97と日本人初の12秒台をマークした。(西所正道)
現代の肖像
AERA 2024/02/23 18:00
5歳までの乳幼児に習い事は必要ない…小児科医が「最初の5年間はこれだけでいい」と断言する親の唯一の仕事
5歳までの乳幼児に習い事は必要ない…小児科医が「最初の5年間はこれだけでいい」と断言する親の唯一の仕事
※写真はイメージ(gettyimages)    脳を育てるには5歳までに何をすべきなのか。小児科医である成田奈緒子さんは「いい教育を受けさせるのが子育てではない。最初の5年間はひたすら、早く寝て早く起きられる脳をつくることに専念すべきである」という――。 ※本稿は、成田奈緒子『子育てを変えれば脳が変わる こうすれば脳は健康に発達する』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。 脳が育たない子育ての典型  子供のためと思いきや、実は逆効果になっていることがあります。  たとえば、共働きのご夫婦は「子供に十分に手をかけられていない」という罪悪感から、休日にたくさんの「おけいこ事」をさせてしまうことがあります。 「専業主婦なら、私がもっと色々教えてあげられるのに」 「これでは小学校に入ったあと、勉強が遅れてしまうかもしれない」  と焦って、外注で脳育てをしようとするわけです。  しかし、これは「脳が育たない子育て」の典型例です。 子供はただ寝かせる、起こすだけでいい  からだの脳を育てるには五感を繰り返し刺激することが重要です。  朝の光を浴びる、夜は真っ暗にして早く寝る。  同じ時間に3度のごはんを食べる。  子供の顔を見て表情豊かに、明瞭な声で語り掛ける、など。  これらの刺激はすべて、日々の「生活」を通して行われます。  平日は保育園に任せるしかないとしても、週末や休日はお父さん・お母さんがそれを行えるチャンスです。その貴重な時間をおけいこ事に費やしてしまうのは、子供を疲れさせるだけで、何のメリットもありません。お金も時間も、非常にもったいないです。  我が家の場合、お金を払うのは塾や教室ではなく、ベビーシッターさんでした。  娘の幼少期は夫が単身赴任中で、私も仕事で多忙とあって、夜、なかなか早くは帰れない日がありました。そんなときはベビーシッターさんに面倒をみていただきました。  そのときももちろん、「夜8時就寝」は厳守。でもそれ以外に、娘に何かを学ばせたり、習わせたりしたことはありません。  5歳までの子供は、ただ寝かせる、起こす。これだけでいいのです。  わざわざ新しく用事を増やさずとも、むしろ増やさないほうが、からだの脳の成長が促されます。 教育熱心なお父さんたちの誤解  近年、育児に参画する男性が増えているのはとても喜ばしいことです。母親の負担が減ること、子供が父母双方と密なコミュニケーションをとれることなど、その効用は計り知れません。  しかし一方で、育児に積極的な「意識高め」の男性にはときどき、子育てを誤解している方がいます。  子育てを、「学習」「教育」とイコールだと思っているのです。  たとえば、先ほどお話しした「習い事のハシゴ」も、お母さんではなく、お父さんの方針で行っているケースをよく目にします。 「お受験」に熱心なお父さんも増えています。母親は「子供はのびのび育てればいい」と思いつつも、夫の熱量に押されてしぶしぶ従う、という構図もよく目にします。  教育熱心なお父さんたちは、子供が小さいうちから「知的なこと」に触れさせなくてはならない、と思いがちです。  1970年代の「早期教育ブーム」以来、日本では教育の開始を過剰に早く始めたがる親が、どの世代にも一定数います。「最初の5年で才能が決まる」といったフレーズに急かされ、子供を勉強やスポーツなどに駆り立てるのです。  そこにはしばしば、親が、自分が叶えられなかった夢を子供に託す「リベンジ」の心理が働いています。自分より良い大学に行かせるためにせっせと塾に通わせたり、自分が習いたくてもできなかったピアノをやらせたり。  ちなみに、高学歴な親でも「リベンジ」に走ることは珍しくありません。 一流商社で働いているお父さんのリベンジ  一流大学を出て一流商社で働いているお父さんが、「自分は、本当は医者になりたかったのになれなかった」「だから子供はぜひ医学部に入れたい」と、毎日会社から帰った後、子供の横に張り付いて猛勉強させていた例もあります。  これが、子供を無視した子育てであることは明らかです。子供に自分の希望を叶えてもらおうとするのは、子供に依存し、かつ子供を支配することです。  この手の「早すぎる教育」を強いられた子供は、幼児期~学童期ごろまではおおむね成績優秀で従順ですが、その後かなりの高確率で、うまくいかなくなります。思春期を迎えるころ、成績の伸び悩みや人間関係トラブルに見舞われ、引きこもりや非行に走ることが多いのです。親に対しても、通常の反抗期のレベルを超えた、「断絶」に近いほどの拒否反応を示す子もいます。 「教育」は、そのようなリスクをおかしてまで行うべきことでしょうか? 「いい教育を受けさせるのが『子育て』だ」という誤解から、一人でも多くの親御さんが抜け出すことを願うばかりです。 何代もの親子を振り回す「愛情」というワード  間違ったアプローチをする親に、もちろん悪気はありません。みな、子供のためを思ってしていることです。 「子供のために自分の時間を削るのが愛情だ」 「お父さんの帰りを待って、コミュニケーションを持たせるのが愛情だ」 「早くから教育を受けさせるのが愛情だ」  と、皆さん思っているのです。  この「愛情」というワードは厄介です。愛情自体は素晴らしいことですが、何をもって愛情とするかの解釈は、ひとりひとり違います。日本における子育て論は、かれこれ50年以上も、客観的な指標なしに「愛情を注ぐべし」と世の親に言い続けてきました。  その端緒は、1960年代にあります。イギリスの精神科医・ボウルビィの「愛着理論」を下敷きとした「三歳児神話」というものが、日本の親たちの間で熱く支持されました。3歳までは母親がつきっきりでスキンシップをとるべし、という「掟」を守って生きたお母さんたちが、「愛情」にとらわれた第一世代です。  彼女たちは、高度経済成長期における「モーレツ社員」の妻たちです。サラリーマンとして働く父親と、家事育児に専念する母親という組み合わせが、当時はもっともポピュラーな家族のかたちでした。  その子供たちは、現在40代~50代を迎えています。興味深いのは、2000年代以降にさかんになった、いわゆる「毒親本」の著者が、だいたいこの世代に該当することです。母親の愛情が重かった、何かにつけて束縛された、過保護にされて苦しかった、といった恨みつらみが、大人になってから噴出した形です。 子供たちがひずみを見せ始めている  一方でこの世代も、自分たちが思うところの「愛情」を子供たちにかけています。  彼らが親になった平成期は、お受験ブームに象徴されるように、教育と愛情が分けがたく結びついた時代です。しかし、教育熱心な親に育てられた子供たちが道を踏み外しやすいのはすでに述べた通りです。10代後半~20代となった子供たちがそのひずみを見せ始めたことで、教育偏重の育て方の弊害も顕在化しています。  では、これからの世代はどうすべきか。現在子育て進行中のお父さん・お母さんが注ぐべき「愛情」とは何か――ここまで読み進めてこられた皆さんなら、もうお分かりでしょう。 最初の5年間に必要なのは、大人の我慢と根性  私はよく、乳幼児の親御さんたちに「とにかく、我慢して待とう」と言います。  早くから「お勉強」の類を身に付けさせたいという思いをぐっと我慢して、最初の5年間はひたすら、早く寝て早く起きられる脳をつくることに専念しよう、という意味です。  最初の5年は、この本でお伝えするシンプルな子育ての中で唯一、「根性」が必要な時期です。「早く寝かせよう」と口で言うのはたやすいですが、実際に子供が生活リズムを身に付けるまでは、それなりに労力がかかります。  それは、生まれたての赤ちゃんという無力な存在を、「原始人」レベルに育て上げるプロセスとも言えます。 「原始人に育てる」とは、日の出とともに活動を開始し、日没とともに休息するという「昼行性動物」の基礎を備えさせることです。文字通り原始的ではありますが、これこそが生きる力の源。「人間未満」の状態からそれを備えさせるのは、かなりの大仕事です。  しかしこの時期さえ乗り切れば、もう根性は要りません。 「子育ては、後になるほどラクで、楽しくなる」。これも、よく親御さんに語っていることです。  こう言うと「逆では?」と感じられる方がいるかもしれません。  私は2014年より親子支援事業「子育て科学アクシス」を主宰し、子育てに悩む方々の「脳育て」をサポートしていますが、こちらに来られる親御さんからも、「昔はかわいかったのに、どんどん生意気になって」「5歳のころに戻ってほしい」と嘆く声をよく聞きます。  しかしそれは――厳しい言い方になりますが、子供を「ペット」のように見ているせいかもしれません。大人の思うがままに動いてくれることを「かわいさ」だと思っている親は、本人に自我が芽生えてくるに従い、落胆や苛立ちを覚えがちです。それは子供を別個の人格として尊重していない、ということではないでしょうか。 5歳までは別段かわいくはない  私に言わせれば、5歳までの子供は、別段かわいくはありません。原始人ならではの「面白さ」は始終感じますが、文明人たる大人と通じ合う部分はわずかです。  そんな子供が、近代人、現代人へと「進化」をとげていくのです。そのさまは一種感動的とさえ言えます。  ですからまずは我慢と根性で、子供を「立派な原始人」に育て上げましょう。  からだの脳という、「生きる力」の基盤を堅固に備えさせ、その後の目覚ましい変化を待ちましょう。我慢と根性の後には、「楽しい子育て」が待っています。 (成田奈緒子/文教大学教育学部 教授、「子育て科学アクシス」代表)
プレジデントオンライン 2024/02/23 17:00
仲里依紗が語る、家族円満のコツ「『お母さんはこうあるべき』の縛りなし。したいことは全部して笑ってすごす」
仲里依紗が語る、家族円満のコツ「『お母さんはこうあるべき』の縛りなし。したいことは全部して笑ってすごす」
  写真:高野楓菜(写真映像部) ヘアメイク:近藤志保(reve) スタイリスト:黒瀬結以  演技派俳優としてはもちろんのこと、「ヤッホみなさんこんにちは~仲里依紗でぇ~す♪」の声とともに、毎回ハイカロリーで展開していくYouTubeが話題の仲里依紗さん。自由奔放、天真爛漫、痛快無比なママライフ、その笑顔と元気の源はどこにあるのでしょう。小学生のママパパに向けた子育て情報誌「AERA with Kids23年冬号」(朝日新聞出版)からご紹介します。 最近、小学生男子にも名前を覚えられてます  YouTubeを始めて3年になります。息子のトカゲくんや2人の妹、ときどき両親、たまにキツネさん、つまり家族総出演の動画です。そんな私のよくわからない生活と騒々しいおしゃべりをみてくれて、「かわいい」とか「元気がでる」とかコメントしてもらえるなんて、ありがたいやら申し訳ないやら……。  チャンネル登録してくれているのは同世代の女性が多いですね。昔っから「ファンです」って言ってくれるのは女性で、男性は1ミリくらい(笑)。あ、最近はママといっしょにみている小学生男子から「仲里依紗だぁ‼」って声をかけられる機会も増えました。でも基本、呼び捨てなんです(笑)。  自宅でもよく撮影します。黄色の壁、カラフルなソファ、ピンクや赤い髪の私。画面全体が色鮮やかなので「目がチカチカしませんか?」って言われるんですが、あれが落ち着くんですよ。しかも実用性が高い。明るい色だらけの部屋なので、黒いリモコンが一瞬で見つかるの! 黒って目立つんですよ~。最近、仕事の関係で髪の毛を黒に染めたので、私も部屋で目立ってます。 「お母さんはこうあるべき」の縛りなし  ママらしくは……ないですね(笑)。「お母さんはこうあるべき」みたいな縛りもないし、マニュアルもない。もともとトリセツ(取扱説明書)は苦手なタイプですし、読むのはイケアのトリセツくらい。あれは絵だけだからね。もし「ママはこうあるべき」っていうトリセツがあるとすれば、私のトリセツのド真ん中には大きな笑顔が描いてあるだけ。「お母さんは笑っています」だけです。お母さんが笑っていないと、家の中が暗くなっちゃいますから。   写真:高野楓菜(写真映像部) ヘアメイク:近藤志保(reve) スタイリスト:黒瀬結以 <衣装協力>ニットトップス、パンツ/共にKIDILL(Sakas PR)  ピアス/Matilda rose/Matilda rose ネックレス/Elpe visible 左手中指リング/masae 左手薬指リング/maaa  右手人さし指リング/Thalatta 右手薬指リング/Amitie CREDIR(以上全てRHODES) その他スタイリスト私物    ドラマの撮影が始まると、家にいる時間がめちゃめちゃ減ります。息子と朝しか会えないなんて普通だし、朝さえ会えないこともある。深夜に帰ってきて、次の日の運動会の弁当を作る日もある。  それでも仕事を辞めようと思ったことはありません。笑顔でいられるのは仕事があるから。私は私の人生を生き、夫も息子もそれぞれの人生を生きる。「子どもがいたからアレもコレもあきらめた」なんて言い訳、子どもに押しつけたくないんです。したいことは全部やる。だから笑っていられるんですよ。もちろん幸せは人それぞれで、私のすぐ下の妹は専業主婦ですけど、いつも笑顔で幸せそう。本人がしたいことができればいい、そういうことです。  ただ、あまりに忙しいのでもうヘトヘトです。だから絶対に必要なのが「自分へのごほうび」。イヤなことがあった日でも「大丈夫、私は週末に〇〇のライブにいくんだから!」って思えば耐えられる。先々の小さな楽しみに支えられて生きています。  まとまった休みには全力でぜいたくします。YouTubeにもあげていますが、息子を連れて海外旅行にも行きますよ。国内旅行も大好きですが、夫も私も芸能人なので声をかけられることもあって、息子はリラックスできないみたい。海外だとそれがないし、英語の勉強にもなるみたいです。小学校で英語をしっかり習っているせいか、税関のところでちゃんと英語で説明していました。「え? なんだ、しゃべれるじゃん!」って感動しました。 写真:高野楓菜(写真映像部) ヘアメイク:近藤志保(reve) スタイリスト:黒瀬結以 <衣装協力>ニットトップス、パンツ/共にKIDILL(Sakas PR)  ピアス/Matilda rose/Matilda rose ネックレス/Elpe visible 左手中指リング/masae 左手薬指リング/maaa  右手人さし指リング/Thalatta 右手薬指リング/Amitie CREDIR(以上全てRHODES) その他スタイリスト私物    息子は年ごろ。反抗期なのか?と感じることもありますが、攻撃的ではないんです。どちらかといえば「無」。テンションがフラットで表情も変わらない。「どうしたの? 怒ってるの?」と聞いても「いや別に。大丈夫だよ」と、ほぼ棒読みの答え。あくまで「無」。今まではいっしょにテンションを上げてくれてたのに……。  寂しいけど、しかたがない。大人になれば「無」ではいられない場面は増えるし、笑いたくなくても笑わなくちゃいけないこともある。家にいるときくらい、自分が一番したい表情でいていいんじゃないかな。だからこそ、たまに笑顔が見られると母は幸せです。 写真:高野楓菜(写真映像部) ヘアメイク:近藤志保(reve) スタイリスト:黒瀬結以 <衣装協力>ニットトップス、パンツ/共にKIDILL(Sakas PR)  ピアス/Matilda rose/Matilda rose ネックレス/Elpe visible 左手中指リング/masae 左手薬指リング/maaa  右手人さし指リング/Thalatta 右手薬指リング/Amitie CREDIR(以上全てRHODES) その他スタイリスト私物   家事は私が中心 宿題は夫が担当です  家事は基本、私の担当。夫は言われないとやらないタイプですが、息子の宿題をみてくれるから助かっています。テストの前には、夫が自分でプリントを作ってコピーして解かせたりするんです。でもね、残念ながら彼の字は汚い。「りいさ」はほぼ「いいさ」に見える(笑)。息子に「問題文が読めない」と文句を言われることもあって、笑ってしまいます。  ゲームはやってますね。でも家族といるときは禁止。私が仕事でいないときは、長時間になるとブチッと切れるアプリで遠隔操作しています。どうしてもやりたいときには、早起きしてやっているみたい。「朝活」ですね(笑)。  最近はずいぶん大人っぽくなりました。ときどき「あぁ、この子は私につきあって喜んでくれてるんだ」って思うこともあります。去年のクリスマスは「ママ! サンタさんきてくれたよ」って喜んでくれましたが、絶対にもう信じていないはずなんです。わかっているけど、喜ばせたい親の気持ちにのっかって喜んでる。私も「どっから入ってきたんだろ。不法侵入じゃない?」と笑い合いました。少しずつですが、大人どうしの関係に近づいているのかな? (取材・文/神 素子) 〇仲 里依紗(なか・りいさ)/1989年長崎県生まれ。2006年アニメ映画「時をかける少女」の主人公の声で話題となり、その後は映画やドラマで活躍。現在は小学生の男の子のママ。20年に開設したYouTube「仲里依紗です。」は登録者数190万人を超える大人気チャンネルに。
仲里依紗子育てAERAwithKids
AERA with Kids+ 2024/02/21 10:30
ポール・マッカートニー、約50年前に行方不明になったベースと再会
ポール・マッカートニー、約50年前に行方不明になったベースと再会
ポール・マッカートニー、約50年前に行方不明になったベースと再会  半世紀前に行方不明になったポール・マッカートニーのベースが見つかり、彼のもとに帰ってきた。この楽器の製造元であるヘフナー社(Hofner)は、1,000万ポンド(約18.9億円)の価値があると推定されているこの特徴的なバイオリン型の1961年製エレクトリック・ベースを、夫婦のジャーナリスト・チームの協力を得て5年にわたって捜索していた。 ヘフナーの重役ニック・ワスと組んでこの楽器を探し出した、ジャーナリストのスコット・ジョーンズが現地時間2024年2月16日に語ったところによると、ビートルマニアが始まるきっかけとなったこの楽器の行方を探す手助けをしてもらいたいと、ポールが同社に依頼していたという。 ワスは、「ポールから、“ねえ、君はヘフナーの人だから、僕のベースを探すのを手伝ってくれないかな?”と言われたんです。それがこの大捜索のきっかけとなりました。ポールがその失われたベースをとても大切に思っていることをその場で目の当たりにし、僕はその謎を解き明かそうと決心しました」と語っている。 ポールは、1961年にザ・ビートルズがドイツのハンブルグに滞在していた時期に、このベースを約30ポンド(約5,600円)で購入した。この楽器はビートルズの最初の2枚のレコードで演奏され、「Love Me Do」、「Twist and Shout」、「She Loves You」といったヒット曲で使われている。 ポールは、「僕は左利きだから、左右対称でダサく見えなかったんだ。そこに興味を持った。そして買ってみたらすぐにその魅力にとりつかれてしまった」と話していたことがある。 このベースはザ・ビートルズが最後のアルバム『レット・イット・ビー』をレコーディングしていた1969年頃に盗まれたと噂されていたが、実際にいつ行方不明になったのかはわかっていなかった。 ワスによるベースの探索にジャーナリストのジョーンズが偶然にも加わったのは、ポールが【グラストンベリー・フェスティバル】のヘッドライナーを務めた2022年だった。ステージの照明が、ある瞬間にポールのベースの日光模様だけを照らしているように見えたため、そのライブを見ていたジョーンズはその楽器が60年代初頭にポールが弾いていたものなのかと、ふと考えた。後にインターネットで検索したところ、オリジナルのベースが行方不明で捜索活動が行われていることを知り、彼は唖然とした。 彼は、「がくぜんとしました。驚きました。僕たちはザ・ビートルズがほぼ何をやったとしても多くの注目を集めるような世界に生きていると思うんです」と語っている。二人ともジャーナリストであり研究者でもあるジョーンズと妻のナオミは、この件をもっと広く伝えるためにワスと連絡を取った。 ザ・フーのローディに関する手がかりを追って行き詰まった後、彼らは2023年9月に<ザ・ロスト・ベース・プロジェクト>を再開し、48時間以内に600通ものメールが殺到した。この中に、「僕たちを今日に導いてくれた小さな宝石の数々」が含まれていたと彼は語っている。 そのうちの1通は、ポールのバンド、ウイングスの仕事をしていたサウンド・エンジニアのイアン・ホーンからのもので、この捜索における最初の大きな突破口となった。そのベースが1972年のある夜、英ロンドンのノッティングヒル地区で彼のバンの荷台から盗まれてしまったことをホーンは伝えてきたのだ。 調査員たちは10月にこの新情報をウェブサイトで発表すると同時にホーンがポールから盗難のことは気にするなと言われ、さらに6年間彼の下で働き続けたことも付け加えた。ホーンは、「でも僕はその罪悪感を生涯背負ってきた」と述べている。 その新情報を公開したあと、父親がベースを盗んだという人物から連絡があり、さらに大きな進展があった。ジョーンズによると、その男はポールの楽器を盗もうとしたわけではなく、自分が持っているものに気づいてパニックになったという。名前は明かされていないが、その泥棒は結局、アドミラル・ブレイク・パブの大家ロン・ゲストに数ポンドとビール数本で売り渡した。 ジョーンズ夫妻がゲストの親族を探し始めていた頃、その知らせはすでにゲストの家族にも届いていた。彼の義理の娘がポールのスタジオに連絡してきたのだ。キャシー・ゲストは、何年も屋根裏部屋にあった古いベースが探しているものに似ていると言った。 この楽器はロン・ゲストから長男に受け継がれたが長男は交通事故で亡くなり、次にその弟のヘイデン・ゲストに受け継がれた。キャシーと結婚していたヘイデンは2020年に亡くなった。楽器は昨年12月にポールに返却され、その後、鑑定に約2か月かかった。 <ザ・ロスト・ベース・プロジェクト>がこのニュースを発表する予定だったが、キャシー・ゲストの息子で21歳の映画学生、ローリー・ゲストがそれより先の2月13日にX(旧Twitter)にベースの写真を投稿し、「僕が受け継いだこのアイテムがポール・マッカートニーに返却された。このニュースをシェアしよう」と綴った。 彼は16日にもメッセージを投稿し、家族には取材依頼が殺到しており、いずれ話をするつもりだと述べた。 この楽器の推定価値は、故カート・コバーンが『MTV アンプラグド』で演奏したギブソンのアコースティック・ギターが600万ドル(約9億円)で落札された事実に基づいている、とジョーンズは言う。しかし、過去半世紀の間それはほとんど価値を持たなかった。 彼は、「泥棒は売ることができなかったのです。明らかに、ゲスト一家も売ろうとはしなかった。緊急事態ですよね、売りに出した途端に誰かが“それ、ポール・マッカートニーのギターだ”と言い出すでしょうから」。 ベースはようやく再びポールが所有することになった。彼の公式サイトには、「ポールは関係者全員に非常に感謝しています」と、感謝のメッセージが掲載されている。
billboardnews 2024/02/19 14:16
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女性は、月経や妊娠出産の不調、婦人系がん、不妊治療、更年期など特有の健康課題を抱えています。仕事のパフォーマンスが落ちてしまい、休職や離職を選ぶ人も少なくありません。その経済損失は年間3.4兆円ともいわれます。10月7日号のAERAでは、女性ホルモンに左右されない人生を送るには、本人や周囲はどうしたらいいのかを考えました。男性もぜひ読んでいただきたい特集です!

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学校現場の大問題

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クレーム対応や夜間見回りなど、雑務で疲弊する先生たち。休職や早期退職も増え、現場は常に綱渡り状態です。一方、PTAは過渡期にあり、従来型の活動を行う”保守派”と改革を推進する”改革派”がぶつかることもあるようです。現場での新たな取り組みを取材しました。AERAとAERA dot.の合同企画。AERAでは9月24日発売号(9月30日号)で特集します。

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働く価値観格差

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職場にはびこる世代間ギャップ。上司世代からすると、なんでもハラスメントになる時代、若手は職場の飲み会なんていやだろうし……と、若者と距離を取りがちですが、実は若手たちは「もっと上司や先輩とコミュニケーションを取りたい」と思っている(!) AERA9月23日号では、コミュニケーション不足が招く誤解の実態と、世代間ギャップを解消するための職場の工夫を取材。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に対する世代間の感じ方の違いも取り上げています。

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