Xのフォロワー数26万超え、駐日ジョージア大使ティムラズ・レジャバはどのようにして大使になったのか
X(旧Twitter)のフォロワー数26.6万人。何度も壁にぶつかり、日本とジョージアの「架け橋」になった(撮影/門間新弥)
今、最も日本で有名な「駐日大使」といえば、ジョージア駐日大使のティムラズ・レジャバの名前が挙がるのではないか。X(旧Twitter)のフォロワー数は26万超え。ジョージアだけでなく、妻が作ったお弁当や親戚の子どもたちまで登場する。レジャバが父の仕事で来日したのは4歳のとき。日本には思い入れも強い。まさにジョージアと日本の架け橋となっている。
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戸をあけ放った広間に日が差している。
2023年10月6日、北陸視察中の駐日ジョージア大使、ティムラズ・レジャバ(35)は、福井の名勝、養浩館の茶席に招かれた。正座に慣れない外国人向けの椅子と机が宛(あて)がわれる。和菓子が机に載せられ、畳に座った婦人が、「きんとんです。紅葉で色づく山を表しています。お召し上がりください」と勧めた。
レジャバは深く一礼し、菓子皿を持って腰を浮かすと、そろりと畳に端座して正面に置いた。
「まぁ、座ってくださるんですか。うわー素晴らしいわぁ」と婦人は感激し、空気がなごんだ。
「ジョージアはワイン発祥の地で、『スプラ』という儀式があります。出席者がそれぞれワインで乾杯しながら自分の経験や思い、教訓を語り、詩や音楽、ダンスを披露します。茶道と形は違っても、場を楽しむことでは相通じると思います」
と、レジャバは日本語で語りかけた。相手の心のひだに触れ、フラットな目線で接する。日を置かず、茶席のようすをX(旧Twitter)にあげて礼を述べた。いまや彼のフォロワーは26.6万人。絶大な人気を誇る。
レジャバは、祖国の期待を背負い、「文化」を軸に外交活動を展開している。「文化を通じた交流は末永い。人と人の心をつなぐからです。まずはジョージアの名前を多くの方に知ってもらい、身近に感じてほしいんです」と言う。
大使在任中に47都道府県をすべて回ろうと考えている。10月の富山、石川、福井の3県訪問で、折り返し点に近づいた。
一方で、国際情勢は激しく動いている。
茶会の翌日、中東のパレスチナでイスラム組織ハマスが、イスラエルに奇襲をかけ、多くの人質を取った。イスラエルは「戦争状態」と宣言して、大規模な空爆による報復を始めた。ジョージア政府はテロ行為に断じて反対する。
4歳で両親とともに来日 ハンドボールに夢中になる
それから数日後、レジャバは作家の村上春樹が09年2月にイスラエルで行った「壁と卵」のスピーチの一部をXに引用した。
〈もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます〉と。作家は「壁」を軍事力、それにつぶされる非武装市民を「卵」に喩(たと)えた。レジャバは〈当時はよく意味が理解できませんでしたが、今はなんとなくその言葉がより身の回りのものとして聞こえてくる気がします〉と投稿した。
富山県庁に知事の新田八朗を表敬訪問。3千メートル級の山々がたたえる水による発電に話題が及ぶと、「ジョージアは国内電力の80パーセントが再生可能エネルギーでございます」と説明した(撮影/門間新弥)
文面から繊細な気遣いが伝わってきた。
北陸視察から50日後、東京でレジャバと再会した私は、「壁と卵」を引いた心情について訊(たず)ねた。村上春樹は壁に「システム」の意味も託していましたね、と言うとレジャバの目の光が強まった。
「そうです。システムです。自分は就職活動なんかも苦手で、決められたシステムへの抵抗感があって、空回りしました。卵の話じゃないけど、自分自身の個性や、考えを大切にしてきました。もちろん社会では、システムを通じて表現しなくてはならないことがあります。バランスをとらなくちゃいけない。そこはとても重要です。でも、完全にシステムに取り込まれたら空(むな)しいですよ」
システムという壁は、もの心ついたころから周りにそびえていた。4歳で生物学研究者の両親とともに来日し、広島に住んだ。広島の小学校に入学したが、間もなく、ジョージアに戻る。米国に移って数年過ごし、ふたたび日本に来て、小学校5年に転入した。一家は目まぐるしく転宅した後、茨城県つくば市に腰を落ちつけたのだった。
モダンなビルが並ぶつくば駅前から西へ、幹線道路を2キロほど下ると、畑とロードサイドのラーメン店が目にとまる。その先の狭い脇道を南に折れ、遊歩道に入る。アカマツやクス、銀杏(いちょう)の巨木が連なり、芝生地に日が降り注ぐ。池には水鳥が浮かんでいる。別世界に迷い込んだようだ。高名な建築家がデザインした戸建て住宅と道一つ隔てて古い県営アパートが立っている。ここがレジャバのホームタウン、つくば市松代地区である。
遊歩道の左に転入した市立手代木(てしろぎ)南小学校の校庭が広がる。友だちはレジャバをファーストネームの短縮形で「テムカ」と呼んだ。家族もそう呼ぶので、テムカのほうが本名らしく聞こえる。
中学に上がる春休み、テムカは友人とハンドボールに夢中になった。運動神経はよく、サッカーやバスケットボールも得意だったが、ハンドボールの虜(とりこ)になる。市立手代木中学に入り、仲間とハンドボール部を新設した。「サッカー部に入ってそれなりに終わるより、新しく何かに挑戦したかった」と本人は言う。公立中学で部活を設けるのは、指導体制の問題もあってかなり難しい。PTAに支援されてシステムの壁を一つ乗りこえた。
とはいえ、1年生だけのチームは弱かった。ユニフォームがなく、体操着で試合をする。コテンパンにやられたが、筑波大学のハンドボール部員のコーチングを受け、腕を上げた。他校の上級生が卒業すると、手代木中は強豪にのし上がる。
中3の夏、手代木中は茨城県大会に駒を進めた。県大会の上位2校が関東大会に出場できる。そこで勝てば全国大会への道が開ける。
知らない人でも仲良しに 異端児ともつき合う
関東大会への出場を懸けた大一番、前半を終わって手代木中はライバル校にリードされていた。
後半が始まる前、コーチが不意に訊ねた。
富山の路面電車を楽しむ(撮影/門間新弥)
「テムカ、ジョージアでは挨拶で勝利を誓い合うって、教えてくれたよな。何て言うんだっけ?」
「ガウマルジョス」と答えた。選手とコーチ、顧問の教師、全員が肩に腕を回して円陣を組んだ。
「手代木にガウマル……」とテムカが叫ぶ。
「ジョス、ガウマル……ジョス、ガウマル……ジョス!」と皆が応じる。士気は最高潮に達した。
惜しくも関東大会には出場できなかったが、松代の住民は手代木中の選手を温かく迎えた。テムカの父アレキサンダーは、自著『手中のハンドボール ガウマル……ジョオオオス!』(牧歌舎)に〈そこ(松代)では誰もが私たちの顔なじみで、私たちの周りにはいつも日本人ならではの密やかな優しさと無言の声援があった〉と記している。
テムカはコミュニティーに溶け込んで成長した。
大学時代からの友人、吉川(きっかわ)龍一(35)は、テムカの案内でつくばの夏祭りを楽しんだときの一場面を鮮やかに覚えている。吉川が語る。
「広場や公園に夜店が出て、ふつうの夏祭りでしたが、ショッピングモールの横に階段があって、地元のヤンキーが大勢たむろしていました。テムカは、そこにずかずか入っていって、おまえたちー何してんだよーって延々と話しかけるんです。知らない人でも声をかけて仲良くなる。ああいうノリでやってきたのか、と驚きました」
テムカが誰とでも接したのは、単に外交的な性格だったからでもない。
「小さいころから、どこに行っても僕はよそ者、変わり者でした。そこで内気になるより、自分の特徴を武器にアピールしていろんな人とつながったほうがいい。それに相手を知ることで自分にない視点や経験、感情に触れられます。だからクラスで誰とも喋(しゃべ)らない人や、異端児といわれた人ともつき合ったんです」と当人は述べる。
茨城県立牛久栄進高校に進学し、身長は180センチを優に超え、体重も増えた。コーカソイドらしい、彫りの深い風貌になるにつれ、テムカの胸にもやもやがたまる。友だちも多いし、何不自由なく暮らしているようだったが、自分が何者か、何をしたいのかわからなくなったのだ。疎外感が募った。どこかで背伸びしすぎていたのかもしれない。「アイデンティティーの危機」に直面した。
福井の老舗味噌蔵「米五」で永平寺御用達の秘伝に触れる(撮影/門間新弥)
追いつめられ何とか就職 先が見えジョージアに帰国
高校2年の夏休み、自らの根っこを確かめようと、ジョージアの首都で、生まれ故郷のトビリシに帰った。すると……あまりにも居心地がよかった。人びとのメンタリティーも顔かたちも似ていてバリアーがない。心のなかの欠けていた部分をとり戻したようだった。
和菓子のなかでは「クルミ柚餅子(ゆべし)」が大好物。東北が発祥の地だと聞くが、いまだに「総本山」にたどりつけていない。梅干しも毎日の弁当に欠かせない(撮影/門間新弥)
たとえば、民族衣装の「チョハ」を身につけると、「これは自分の服だ。長い歴史のなかで継承されてきたものだ」と実感できた。チョハは上半身にピタリと張りつき、裾が長い。のちに今上天皇の即位礼正殿の儀に着用して参列し、映画「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士や「風の谷のナウシカ」の衣装に似ていると話題に上る。
テムカは「ここに残りたい」と親を説得し、トビリシのアメリカンスクールに入った。そのまま欧米の大学に進む選択肢もあったが、1年で牛久の高校に復学する。日本への愛着も断ち難かった。
沖縄出身の辻太一(34)がカナダ留学中にテムカと出会ったのは、09年の夏だった。早稲田大学国際教養学部に籍を置くテムカも、1年間の予定でバンクーバーの大学に留学していた。学校は違ったが、故郷が背負う歴史が似ていてウマが合う。
沖縄は戦後27年間、米国に占領統治された。ジョージアも、長くソビエト連邦に組み込まれ、グルジアと呼ばれた。ソ連崩壊後の1991年に独立し、政治や経済が不安定な時代が続いた。ふたりは「平和」や「文学」の話をした。辻は語る。
「彼はよく胸のポケットに芥川龍之介や太宰治の文庫本を入れていました。ジョージア語はもちろん、英語もペラペラですし、言語能力は高い。そんな彼が、日本語には他の言語にはない美しさがあるって言っていました。外国語ならストレートに言うところも日本語は婉曲(えんきょく)に表現する。そこがとってもいいんだよって強調していました」
テムカにとって文学は心の糧だった。
『高野ヤマト バレンタイン号』という冊子のPDFが私の手もとにある。表紙は背中にタトゥーが入った女性の後ろ姿だ。大学時代にテムカがプロデュースした電子書籍版の同人誌である。執筆者は4人。父と息子がカジノで財産を失(な)くす小説をテムカも載せている。制作担当の吉川は語る。
「表紙をデザインしたのはメキシコ人の学生で、執筆者やカバー写真の撮影者もテムカが集めました。誌名は仲のいい『高野君』と『ヤマト君』という友だちの名前をくっつけたんです(笑)。おちゃらけてますが、テムカの実行力は抜群です。常に何か面白いことをやりたがっていましたね」
こうして思う存分個性を発揮したテムカだが、ついに社会のシステムという厚い壁にぶつかる。就職活動だ。これがまったく肌に合わなかった。2、3社トライしたものの、面接で落とされる。先が決まらず、「やばいな、やばいな」と追いつめられたところで、キッコーマンが海外市場の要員を募集しているのを見つけ、入社試験に受かった。テムカは社会人・レジャバの顔を持った。
ところが、会社に入っても「何も分からない、発言できない、つらい」状態が続く。首都圏営業部に配属され、問屋や小売店を回った。
ある日、自宅にいた吉川は「おお、龍一。おまえんちの近所の根岸商店(1924年創業)に来てるぞ」と電話を受けた。出かけていくと酒店の親父さんとレジャバは仲良く話し込んでいた。が、商談を終え、帰っていく後ろ姿は寂しそうだった。
「海外支社に行かせてほしい」とレジャバは上に直訴した。海外営業部に配属されたが、現地駐在員の生活を垣間見て、限界を感じる。先が見え、2015年に会社を辞めた。そのころ、ジョージアは政治が安定し、経済が上向いていた。
「一か八か、ジョージアに帰ろうと決めました。まったくコネクションはないし、ゼロからの再出発です。仕事は定まってなくて、両親はシンガポールに移っていました」とレジャバはふり返る。
起業後に外務省から連絡 臨時代理大使として来日
トビリシに戻って、旅行会社を立ち上げようとしたが、スタッフがそろわず、断念した。収入もなく、途方に暮れていると貿易業者から日本の自動車部品を輸入するのを手伝ってほしい、とオファーが入る。主にタイヤの買い付けに奔走した。
17年、少し余裕ができて「LLC Delivery」を起こす。スーパーの商品をウーバーイーツ方式で宅配する会社だ。ジョージアではEコマースが浸透しておらず、ライバル会社は数百品目を2、3日かけて顧客に届けていた。レジャバは、3千商品を「45分」で届けるしくみを構築する。消費者ニーズをとらえ、業績はぐんぐん伸びた。
このまま青年実業家への道をまっしぐら、と思いきや、予想外の方向から話が舞い込む。相手はジョージア外務省だった。東アジア、とくに日本との外交戦略を強化したい、興味はないかと打診された。こんなチャンスはめったにない。レジャバは、会社を譲渡して国家公務員試験を受け、採用される。本国で参事官に任命された。日本と韓国の担当デスクを務めて制度を頭に叩(たた)き込んだ。
そして、19年8月、臨時代理大使として来日したのである。吉川や辻は「大使」の肩書がついたレジャバを眺めて「天職だ」と喝采を送った。
各国の大使は、キャリアを積んだ外交官と、民間企業やアカデミアから登用された人材に分かれる。レジャバは後者だ。責任の重さに緊張しつつも「日本もジョージアも固有の文化があって共感できるところは多い。でもまだ距離がある。両国の間に立って距離を縮めよう」と心に期した。
外交は、経済などと違って成果が見えにくい。そのなかでXのフォロワーは数字に表れる。レジャバが身の回りの出来事をユーモアを交えて投稿すると、たちまちバズった。娘が通う保育園のスタッフが、日本語を話せない妻のためにイラストと簡単な英文を添えたメモを送ってくれた。それをアップし、「おもいやり」に感謝すると、4.5万の「いいね」がつく。「親戚の少年」シリーズもフォロワーを集めた。ジョージアから来た甥(おい)っ子がドン・キホーテで買ったお菓子を食べ比べ、梅干しを前に渋い顔をする姿は何とも微笑(ほほえ)ましい。ジョージアの知名度は上がった。
ジョージアは古くて新しい国だ。北にロシア、南はトルコとアルメニア、アゼルバイジャンと接し、西に黒海を望む。北海道の8割強の面積に約370万人が暮らす。1人当たりのGDPは6671ドル(22年:国際通貨基金推計値)と日本の約5分の1にとどまる。08年にはロシア軍の爆撃を受け、いまも2カ所の「占領地域」を抱える。
この国は数千年のワイン造りやキリスト教の伝統を保ちながら新しい活力を求めている。レジャバの奮闘で、素顔のジョージアと向き合う人も増えた。共通の友人の紹介で知り合った和菓子メーカー「虎屋」の社長、黒川光晴(38)は、23年9月、ジョージアを訪ねた。その印象をこう語る。
「大きなワイナリーの収穫祭に参加させていただいたのですが、ジョージアの『食』のポテンシャルの高さをひしひしと感じました。家庭でブドウを育て、自家製のグラッパをつくったりしています。食料自給率の低い日本にとっては、今後、大切なパートナーになるのではないでしょうか」
不易流行という言葉がある。不易は変わらない本質、流行は変化する新しさを指す。両方はつながっている。レジャバは不易流行を噛(か)みしめて、今日も妻がこしらえた弁当の写真をXにあげる。
(文中敬称略)(文・山岡淳一郎)
※AERA 2024年1月15日号
AERA
2024/01/12 18:00