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幕末江戸を生きる産婆が奮闘する人気シリーズ最終巻 現代女性にこそ読んで欲しい一冊
古谷ゆう子 古谷ゆう子
幕末江戸を生きる産婆が奮闘する人気シリーズ最終巻 現代女性にこそ読んで欲しい一冊
五十嵐佳子(いがらし・けいこ)/1956年、山形県生まれ。作家、フリーライター。著書にドラマ「ゲゲゲの女房」のノベライズ、小説『桜色の風』『麻と鶴次郎』など(撮影/写真映像部・佐藤創紀)    AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。  12歳で産婆になることを決意した結実と、医師の夫、そして結実を頼ってやってくる若き女性たち。死産や流行病が多かった時代に、生と死に向き合い続けた人々の姿を描く。本作はシリーズ最終巻に当たる『凧あがれ 結実の産婆みならい帖』。著者である五十嵐佳子さんに同書にかける思いを聞いた。 *  *  *  舞台は幕末の江戸。主人公の結実は、産婆として日々お産の現場を駆け巡る。現代を生きる私たちからは一見かけ離れた設定だが、五十嵐佳子さん(67)の新著『凧あがれ』に登場する人物たちには不思議と心寄せずにはいられない。  24歳の結実は数多の出産に立ち会ってきたが、自身に子どもはいない。一方、一つ年上の先輩、すずには二人の子どもがいる。綱渡りの日々を送るすずの仕事をカバーするのも、結実の役目だ。胸の内を素直に明かしにくいが故のぎこちなさ、相手を羨ましく思う気持ち。子育て中の女性が身近にいる人なら誰もが理解できる感情ではないか。  五十嵐さんは言う。 「私自身、二人の子どもを出産しましたが、一人目のときは育休制度もない時代でした。しかも、私は正社員よりも少し立場が弱いフリーのライター。すずの肩身の狭い感じもわかるし、肩代わりをしなければいけない結実の気持ちもわかる。互いに『自分の方が損をしている』と感じてしまうのは、いまも昔も変わらないと思うんです」 「夜遅くまで働けないなんて」と言われたこともあるけれど、「また一緒に仕事をしよう」と声をかけてくれる仲間もいた。そんな女性たちに支えられ、助けられた記憶が登場人物たちのなかに息づく。 『凧あがれ』は、2021年に1作目が発売された“結実の産婆みならい帖”シリーズの4作目にあたる。命と深く関わる仕事であること、その道のスペシャリストであること。「産婆って、いい仕事だな」と感じたことが始まりだった。  物語のなかで、結実はひょんなことから若き日の坂本龍馬と言葉を交わす。そして月日を重ね、一つの時代の終わりを肌で感じるようになる。  五十嵐さんにはかねて「江戸の人たちが明治維新を迎えるところを書いてみたい」という思いがあった。いわゆる“歴史好き”ではなかった。だが、大河ドラマ「花燃ゆ」や「八重の桜」のノベライズを手がけた経験から、自然とその時代に引き寄せられていったという。  20代から50代まではライターを生業とし、その後、「作家」へと基軸を移した。 「仕事をしていて大変なことはたくさんあったけれど、『すべてはこの景色を見るためだったんだ』と、パッと窓が開いた感じがしたんです。それが50代のときでした」  そして、手探りながら小説の世界へと足を踏み入れて10年。物語を紡いでいると、登場人物たちが予想もしていなかった方向へと動き出す場面に遭遇することがある。その瞬間がたまらなく好きだという。長く寄り添ってきた結実に対する思いも、日に日に強くなっているのを感じる。 「結実は、夫と暮らす八丁堀でどんなふうに生きているのだろう。明治維新を経て、結実の夫も断髪したのかな。そんなふうに日々想像していると『書かせてもらって、幸せだな』という気持ちになります」 (ライター・古谷ゆう子) ※AERA 2024年1月29日号
AERA 2024/01/28 06:30
青果市場とそろばん塾で蘇る 父の思いを継いだ日々 平和不動産・土本清幸社長
青果市場とそろばん塾で蘇る 父の思いを継いだ日々 平和不動産・土本清幸社長
青果市場は市内の別の市場と統合し、規模が大きくなっていたが、加盟店は約40に減少。競りもなくなって、少し寂しかったが、どこよりも懐かしい(撮影/狩野喜彦)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年1月29日号では、前号に引き続き平和不動産の土本清幸社長が登場し、「源流」である瀬戸市の旧青果市場(現・総合卸売市場)を訪れた。 *  *  *  瀬戸物の街・愛知県瀬戸市で1959年11月に生まれ、実家は青果商だった。父も母も朝から晩まで店で客の相手をしていて、放っておかれた。一人っ子だが、遊んでもらったことは、ほとんどない。  父は毎朝5時半に小型トラックを運転して青果市場へいき、野菜や果物などを仕入れた。小学校に入ると、夏休みや春休みにはついていき、父が競りで落とした品々をトラックへ運ぶ役をする。一緒に過ごすことができる、数少ない時間だった。 よく似た二つの市場 父子で守り抜いた「取引の公正さ」  就職した東京証券取引所と父たちの青果市場は、いろいろな点で似ていた。青果市場は組合員でなければ取引できなかったし、東証も会員の証券会社しか売買できない。でも、限られた参加者では、取引の拡大に限界がある。青果市場には大手スーパー、東証には銀行や海外の証券会社が参加を望み、どちらも条件付きながら門戸を開けた。  青果市場の組合長も務めた父は、常に「取引の公正さ」を第一に置いた。自分も、東証で1998年の金融危機に際し、株式市場の「取引の公正さ」を守り抜く。それを父がどう受け止めたか聞いたことはないが、その気構えは、東証から平和不動産へ転じた後も崩していない。  企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。  昨年11月、瀬戸市の旧青果市場を、連載の企画で一緒に訪ねた。  土本清幸さんが、ビジネスパーソン人生の『源流』になったという父の言動を、見聞した場所だ。 少年時代、足が速く「品野の韋駄天」と言われた。毎年、運動会が楽しみで、リレーはアンカー。最後に相手を抜き去って優勝、が続いた。いま運動は、40代に始めたテニスだ(撮影/狩野喜彦)    事務所に近い側から入ると、鮮魚類が置いてあり、奥へ進むと野菜と果物の箱があちこちに積んである。ここでかつて、100以上の青果商が参加して、競りがあった。いまは買い手が個別に値段を交渉する相対取引になっている。でも、買い値を競り上げていくときにみなぎった活気は、忘れていない。就活期に東証の立会場の喧騒ぶりをみて「ああ、同じだな」と思ったことも、覚えている。ただ、ここでは「しじょう」でなく、「いちば」と呼んでいた。  金融危機のときの体験は、バブル期の甘い融資が不良債権となって経営が行き詰まった日本長期信用銀行を、一時国有化する直前だ。当時の株式売買は成立した3営業日後に代金が払われ、株券が渡される。「決済」と呼ぶ行為だ。それをきちんとさせる決済管理課長だった。長銀の場合、その決済が終わる前に国有化が決まると、買い注文が成立した投資家が株式の価値がゼロになるとみて、代金を払わない事態が懸念された。 当局との秘密折衝 日曜日の深夜に危機回避へ合意  当時の東証には2千以上の上場企業があり、決済は売買ごとでは膨大な作業になるので、証券会社のなかで同じ銘柄の売り買いを差し引いたうえ、すべての銘柄を合算した差額で決済した。だから、1銘柄でも決済が行われないと、すべてがマヒし債務不履行(デフォルト)を招く。そんなことになれば、日本の市場が世界の信用を失う。考えると、胃がひどく痛んだ。  市場が休みの週末、監督当局の大蔵省と極秘に折衝した。東証の首脳陣も大蔵省の担当課長も、当初はそこまでの危機感はない。でも、理事長に「放っておくと東証発のデフォルトになるので、絶対に阻止します」と言い切り、大蔵省へ直談判にいく。日曜日の深夜、国有化の決定を遅らせて、その間は長銀株の売買を止めて決済を完了させる、と決まる。『源流』から続く「取引の公正さ」を貫く流れが、勢いを増したときだった。  そんな思い出話が終わると、北海道産のダンシャクイモから熊本産のミカンまで、各地の野菜や果物を置いた三つの売り場を、納得し直した表情で巡る。着いたときはまだ暗かった周囲が、明るくなっていた。  父は中学校時代の成績が優秀で、高校進学で担任教諭に名古屋市にある有名校を受験するように勧められた。だが、祖父に「八百屋の息子は八百屋を継ぐのに、学問なんかあると邪魔になる」と言われ、断念して地元の窯業高校へ進む。さらにそこも中退し、家業を継いだ。  父は自分に「跡を継げ」と、一度も言わない。でも、東証で47歳のときに執行役員になるまで、何度も「故郷へ帰って青果商を継ごうかな」と思う。結局は継がなかったが、父が心がけていた思いは受け継いだ。「取引の公正さ」の維持だ。  父は「お前はいい学校へ進めよ」と思っていたようで、小学校2年生の終わりからそろばん塾へ通わされた。週5日、火曜日と日曜日以外、6年生までいった。塾はいまも残り、『源流Again』で訪ねると、週3回になっている。当時の先生の次女で、3学年下だった毛利克代さんが指導していた。 「何事も1番に」と週5日鍛えられ付いた挑戦の精神  ドアを開けると、懐かしい顔が待っていた。「かっちゃん」──思わず、半世紀前の彼女の呼び名が出た。目が、ちょっと潤んでいる。ここで暗算の力がつき、東証から米ボストン大の経営大学院へ留学する際、数学のテストが満点で、英語の点数不足を補ってくれた。  先生は「何ごとも1番でなければダメだ」と言い、教え子を様々なそろばん大会へ出して、優勝を目指させた。期待には応えられなかったが、鍛えられて挑戦する精神が育つ。いま挑戦は、平和不動産や東証がある東京都中央区日本橋兜町の街づくりへ向けられている。  平和不動産は東証や大阪、名古屋、福岡の証券取引所の建物を持ち、「取引所の大家さん」とも呼ばれるが、長くその座に安住していた面もある。その間に、東証の株式売買はすべてコンピュータ化され、立会場が閉鎖された99年4月末以降、働いていた2千人以上が姿を消し、兜町は賑わいを失った。  東証の専務から平和不動産への転身を誘ってくれた前任の社長は、兜町を通る東京メトロ東西線の茅場町駅に地下で直結した複合ビル「KABUTO ONE」の建設を決め、賑わい復活へと動いた。残念ながら病気で社長を退任し、2019年12月にその後任となる。当然、再開発の進路も引き継いだ。  地上15階建ての「KABUTO ONE」は、2021年8月に完成。3階まで吹き抜けにして、金融情報などを発信する電子掲示板を下げた。6階以上のオフィス部分は近隣の日本橋や大手町よりも割安にして、資産運用会社などを誘致する。ほかにも既存のビルを改装し、スタートアップ企業向けに小規模オフィスを増やしている。  渋澤栄一氏が日本初の銀行を設立し、株式取引所設立の発起人に名を連ねた兜町。その起業家精神は、ぜひ継ぎ残したい。父の言動から生まれた『源流』の流れは、兜町が中継地のように、さらに勢いを増している。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年1月29日号
トップの源流
AERA 2024/01/27 20:00
認知症の親にどう接するか? 「身内の介護は優しくできない」を前提に 夜中に「鳩ぽっぽ」を歌う父に…
高口光子 高口光子
認知症の親にどう接するか? 「身内の介護は優しくできない」を前提に 夜中に「鳩ぽっぽ」を歌う父に…
※写真はイメージです(写真/Getty Images)    どんなに親思いの子どもでも、認知症を発症した親の介護の難しさ、大変さは特別です。親に向かって「しっかりしてよ!」とつい声を荒らげてしまったことがある人は多いでしょう。「優しくできなくて当たり前」と、介護アドバイザーの髙口光子さんは言います。では、どのように認知症の親に向き合えばいいのでしょうか。 *  *  * 深い人間関係ゆえに、認知症の親に優しくはできない  認知症を発症した親にどう向き合えばいいか。  結論から言うと、「身内の介護は優しくできない。優しくできなくて当たり前」です。  親子のあいだには、これまでに積み上げた、何十年にも及ぶ深く強い人間関係があります。親はあなたに最も大きく影響を及ぼした人の一人で、あなたの社会性や人間性の一部です。尊敬もし、人生のお手本にもし、年老いてからだが弱ってからは愛情をもって見守ってきた存在です。 高口光子・元気がでる介護研究所代表    そんな親が、とんでもない行動をしているのです。あんなにきれい好きで、家事を完璧にこなして家を守ることを教えてくれたおかあさんが、台所の片づけができず、入浴もせずに何日も同じ洋服でいる。あんなに社会的にも認められ、私たちを立派に育ててくれたおとうさんが、夜中に大声で「鳩ぽっぽ」を歌っているなんて。  子どもであるあなたは驚き、信じられずに怒りすら覚え、「こんなの、おかあさんじゃない、おとうさんのはずがない」と親を否定する気持ちで苦しくなります。 他人の介護は優しくできる  もう一つの事実として、「他人の介護は優しくできる」ということがあります。  他人である私たち介護職とサービスを受ける高齢者には、積み重ねた時間も、深い人間関係もありません。サービス提供を依頼されたそのときが初対面です。出会ったときにはすでに80代、90代。出会ったときにはすでに認知症。目の前にいる、「ご飯を食べてない!」と叫ぶ人を、受け入れ難いほど大きく変わってしまった自分の親とみるか、認知症をもった、とても個性的な行動をとる高齢者とみるか、それは決定的なちがいです。  つまり、他人である私たちは、その特徴的な行動も含めて、いま、目の前のこの人があるがままの本人だととらえて、認知症の高齢者に向き合うことができるということです。子どもであるあなたが感じるような嫌悪感や拒否感、否定の気持ちばかりに追い込まれることなく、介護することができるのです。 何に困っているか、気持ちや考えを整理する  認知症の親の介護が始まると、夜眠れない、食事をきちんととれない、仕事を続けられない、受験期の子どもの世話が十分にできない、家族の時間がもてない、夫婦関係にひびが入る、いっときたりとも息が抜けないなど、困りごとは一つや二つではなく、大波のようにいくつも押し寄せてきます。無理な介護は、あなたの生活のリズムや生活習慣をおびやかします。それはつまり、生活習慣の積み重ねで成り立っている生活を、さらには生活の積み重ねである人生を変えてしまう可能性があるということです。  私は、「大事な親だけれど、もう大切にできない」と感じたら、介護職に頼ってもいい、頼るべきだと思います。我慢して介護を続けることは、親への虐待につながる可能性もあります。疲れ果てたぎりぎりの状態になる前に、私たちに相談してほしいです。  介護職に依頼するときに、何で困っているのか、どの部分を介護職に任せたいか、介護を託すことで何を守りたいのかなど、本当の気持ちを話すと、あなたは自分が整理できて楽になります。 「もうだめ、限界」と思っているとき、あなたの心ではさまざまな感情や考えがうずまいて、混乱している状態です。介護サービスを依頼するために気持ちや感情、思考を整理して、順序をもって説明を組み立てることで、過剰な責任感や使命感、「親を見捨てるのでは」という罪悪感も軽減されるはずです。 認知症でも介護サービスを利用して在宅も可能  親が家で暮らすことを希望すれば、認知症の有無にかかわらず、ヘルパーや訪問看護、デイサービス、ショートステイなどを上手に組み合わせて、可能な限り自宅で生活することができます。あなたが親と同居していて、あなたの生活習慣がおびやかされているのなら、親を家に残してあなたが別居してあげるという選択肢もあり得ます。  いまでも少なくないのが、離れて暮らす子どもが、「何かあってもすぐにかけつけられないし、不安だから」という、自分たちの不安解消目的で、親を施設に入居させるケースです。親が施設入居を望んでいた場合は別ですが、そうでないなら、介護サービスを利用しながら、親も子どもも、これまでと変わらない生活を維持する方向で考えて、まずは実行してほしいと思います。 自分に対して「傾聴・受容・共感」を  では、実際に親のショッキングな行為に出合ったときにはどうしたらいいでしょうか。  認知症の人に対して、「話を聴く(傾聴)、否定しない・受け入れる(受容・共感)、ほめる」ことが基本姿勢だとされています。しかしこれは他人だからできること。子どもであるあなたには難しい相談です。  そこで私は、次のように提案しています。「自分自身に対して(これらの基本姿勢を)やってみましょう」と。  たとえば、トイレの失敗が重なるようになった母親が、汚れた下着をたんすの中にかくすようになり、何度注意しても繰り返しています。今日もまた、汚れた下着を見つけたあなたは、つい「何回言ったらやめてくれるの? ほかのきれいな下着も汚れちゃうじゃない!」と責めてしまいました。  このとき、腹を立ててもかまいませんが、おかあさんに恥をかかせないようにします。汚した下着は黙って洗濯します。まず「私が腹を立てたのはなぜ?」と、自分の気持ちを聴きます。そして「当然だよね、せっかく洗濯してきれいにしているのに、汚れた下着をたんすに入れるなんて」と肯定し、「おかあさんがこんなことするなんて、信じられない。驚くし、怒っちゃう、それでいいんだよ、叱りつけるのを我慢した私はえらい!」と受け入れる・ほめるにつなげます。  これは自分を客観視する方法です。習慣化し、ほかの場面に遭遇したときも、この手順から入る、つまり形から入ることで、自分自身の高ぶった気持ちや嫌悪感などから、距離を置くことができます。そして、腹が立った気持ちは家族やヘルパーなど、話しやすい人に話を聞いてもらうことも大切です。 おびやかされている生活習慣を取り戻す  いま、介護真っ最中の人にはぜひ、身内には優しくなれないということを学びにしてもらいたいと思います。あなたがカリカリしているのは、親を粗末にしているのではなく、あなたの生活習慣や生活をおびやかされているからです。  そのうえで、親に日常的にかかわるなかで、「傾聴・受容・共感・ほめる」を自分自身に対しておこなってください。  そして、介護職と上手に連携して、負担を軽くしてください。そうすることが、認知症の親本人が穏やかに過ごすことにつながり、さらに深刻な「問題行動」を起こさないことにもつながります。 (構成/別所 文)   髙口光子(たかぐちみつこ)元気がでる介護研究所代表 【プロフィル】 高知医療学院卒業。理学療法士として病院勤務ののち、特別養護老人ホームに介護職として勤務。2002年から医療法人財団百葉の会で法人事務局企画教育推進室室長、生活リハビリ推進室室長を務めるとともに、介護アドバイザーとして活動。介護老人保健施設・鶴舞乃城、星のしずくの立ち上げに参加。22年、理想の介護の追求と実現を考える「髙口光子の元気がでる介護研究所」を設立。介護アドバイザー、理学療法士、介護福祉士、介護支援専門員。『介護施設で死ぬということ』『認知症介護びっくり日記』『リーダーのためのケア技術論』『介護の毒(ドク)はコドク(孤独)です。』など著書多数。https://genki-kaigo.net/ (元気がでる介護研究所)
介護認知症
dot. 2024/01/27 16:30
アマゾンCMで話題の女優「瀧内公美」 デビュー半年で初主演も「食べていけなかった」下積み時代に考えていたこと
唐澤俊介 唐澤俊介
アマゾンCMで話題の女優「瀧内公美」 デビュー半年で初主演も「食べていけなかった」下積み時代に考えていたこと
瀧内公美さん(撮影/写真映像部・東川哲也)    昨年、「大奥 Season2 幕末編」(NHK)の阿部正弘役や、アマゾンプライムのCMで話題になった女優の瀧内公美さん(34)。瀧内さんは2012年に芸能活動を本格的に始めてから半年で映画の初主演を務めるなど期待の新人だったが、その後は下積み時代も長く経験した。それは「漠然とした不安」に襲われる日々でもあったという。瀧内さんにこれまでの歩みを聞いた。 *  *  *  アマゾンプライムのCMに出ているキレイなお姉さん、と言えば顔が思い浮かぶ人も多いのではないだろうか。  夜のバスの窓から外の景色を眺める仕事帰りの女性を演じているのが瀧内さんだ。本サイトで昨年12月5日に<アマゾンCMの“仕事帰り女性”が話題 キレイなお姉さん「瀧内公美」の正体>という記事を配信したところ、「あの女優さん、すごく気になっていた」などとSNSでも多くの反響があった。  実際、瀧内さん自身もこのCMの反響の大きさを実感しているという。 「『あのCMいいね』って言っていただけることがすごく多くてうれしかったですね。都内では電車内で流れていることが多いので、知り合いのスタッフさんと撮影現場で会うと、『全然久しぶりな感じがしない。毎日見てるから(笑)』と言われたこともありました。ここまでの反響があると思ったか? どうでしょう、そういうことはわからないんです。でもすてきな絵コンテだったので、とてもいい映像作品ができるだろうなっていう確信はありました」   【こちらも話題】 アマゾンCM女優「瀧内公美」が海外撮影で受けた衝撃 「すごく自由になっていく感覚があった」 https://dot.asahi.com/articles/-/212451 幼少期の瀧内さん(事務所提供)   富山県の田舎町で育った  瀧内さんは、富山県の出身。電車は1時間に1本という田舎町で育った。実家は氷見の漁港の近くで「行商のおばさんが家によく来て、祖父が魚を買っていました」と振り返る。そんな瀧内さんが女優という仕事に興味を持つきっかけは、母親の映画好きにあった。 「父が単身赴任をしていて、母と祖父と3人暮らしだったのですが、週に1回くらいは映画を見に行っていました。田舎で近くに映画館なんてないので、車で20~30分くらいかけてショッピングモールまで行って。なので、映画を見るという行為は、とても特別なことだったんです」  なかでも女優への憧れを強くしたのが、常盤貴子さん主演の映画「赤い月」(2004年公開)だという。 「戦前、戦中の満州に生きる女性の人生を描いた作品なのですが、アヘン中毒になっていく人の姿とか、すごくリアリティーがあって怖かったんです。けど、上映後の舞台あいさつで皆さんが出ていらしたとき、そのすごく晴れやかな感じと映画のスクリーンに映っていた姿との間にあまりにも差がありすぎて、驚いてしまって。当時は中学3年生だったんですけど、役者ってすごいなって思いました」  大学進学を機に、18歳で上京。大学では教員を目指し勉強をしていた。しかし、熱量はあまり高くなかったという。 「子どもが好きだったので、教員になろうっていうくらいの考えでしたね。何となくの目標っていう感じでした」  女優への憧れはありながらも、教員という現実的な道へ進もうとしていた瀧内さん。教育実習で地元に帰ったが、あまりの大変さに「私は教師にはなれない」と心が折れかけていたという。 「実習ノートを書くのに必死だったり、教材研究とか指導案の作成に追われたり。それから、これは時代だと思うのですが、何々先生には何々のお茶を出すっていうのが覚えられなくて落ち込んで。初めて社会に出るので、わからないことだらけで、非常に立ち回りが難しかったですね」   【こちらも話題】 アマゾンCMの“仕事帰り女性”が話題 キレイなお姉さん「瀧内公美」の正体 https://dot.asahi.com/articles/-/207880 ドラマ「リバーサルオーケストラ」のオフショット(事務所提供)   偶然出くわした撮影現場で「女優デビュー」  そんなとき、地元である映画の撮影現場に出くわした。これが瀧内さんの心を「ざわつかせた」。 「実習先から、自転車で帰っているときに、たまたま撮影現場を見かけて。スタッフの方に聞いたら、中学生時代に大好きだった漫画の実写映画を撮っていると言うんです。富山で撮影に遭遇することってまずないですし、しかもそれが自分の好きな漫画の実写っていうのに興奮してしまって。エキストラを募集しているというので、調べてすぐに応募しました」  エキストラに応募をした瀧内さんは、実習が休みの週末に撮影に参加した。これが、瀧内さんの“女優デビュー”となった。 「『就活のシーンなのでスーツを着てきてください』と連絡が来ました。現場に行くと、助監督さんにシーンの説明やどういった面持ちでいればいいのかとか、演出指導を受けるんです。もうそれだけでワクワクしてきて。いざ撮影が始まると、『私、あの漫画の世界の中に入ってる!』ってその感動たるやすごかったです」  撮影に参加した映画は劇場で見たという。 「しっかり映ってましたね(笑)。レールを敷いて数人を順番に撮っていって、最後に主人公で終わるっていうシーンなんですけど、その初めに出ているのが私です。いつか誰か見つけてくれないかな(笑)」  エキストラとして出演した帰りにすぐさまオーディション雑誌を購入し、初めに目に入った事務所に応募した。これを機に本格的に女優の道を歩み始めた瀧内さんだが、なんと、それから半年で映画「グレイトフルデッド」で笹野高史さんとダブル主演を務めることになる。   【こちらも話題】 コロナ禍で「魔女の宅急便」を再び観て「元気もらった」 俳優・瀧内公美が選ぶエネルギーをもらえる映画 https://dot.asahi.com/articles/-/2823 瀧内公美さん(撮影/写真映像部・東川哲也)   演技ができない時期はつらかった  順調な滑り出しに見えるが、俳優の世界はそんなに甘いものではなかったという。 「始めて数年間は女優だけでは食べていけませんでした。5~6年くらい続けてからやっと……という感じです」  それまでは、さまざまなアルバイトを掛け持ちして生計を立てていたという。 「飲食店もやりましたし、ホテルサービス、あとティッシュ配りもやりましたね。3つぐらい掛け持ちして、いろんなバイトを経験しました。突発的にオーディションなどがあるので、そうした条件でも雇ってくれるところを見つけてなんとかやっていました」  そんな当時の心境をこう振り返る。 「大変ではなかったんですけど、演技ができない時期はつらかったですね。『このままどうなっていくんだろう』っていう漠然とした不安が押し寄せてくるときがあって。半年で映画の主演してますよねってよく言われるんですけど、その後、順調にお仕事があったかというと、なかった時期もありましたし。『私、お芝居したくて東京にいるのにな』って……。どうしてできないんだろう、どうやったらできるようになるんだろうって、そういうことを考えてた時期はつらかったですね」  しかし、その後、瀧内さんは順調にキャリアを重ねていく。 ※【後編】<アマゾンCM女優「瀧内公美」が海外撮影で受けた衝撃 「すごく自由になっていく感覚があった」>に続く (AERA dot.編集部・唐澤俊介) ●瀧内公美(たきうち・くみ)/1989年、富山県生まれ。2014年、「グレイトフルデッド」で映画初主演。そのほかに、映画「彼女の人生は間違いじゃない」(17年、日本映画プロフェッショナル大賞新人女優賞ほか)、同「火口のふたり」(19年、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞ほか)、同「由宇子の天秤」(21年、ラス・パルマス国際映画祭最優秀女優賞ほか)、ドラマ「大奥 Season2 幕末編」(NHK、23年)など出演作多数。アマゾンプライムのCMでも話題を集めた。24年は、日本テレビ1月期「新空港占拠」に出演中。また、NHK大河ドラマ「光る君へ」の出演も控えている。
瀧内公美アマゾン女優
dot. 2024/01/27 11:00
あの島耕作が今度は佐賀県の副知事に ビジネスエリートのキャリアはいつまで続くのか宮坂学・東京都副知事と考える花道
渡辺豪 渡辺豪
あの島耕作が今度は佐賀県の副知事に ビジネスエリートのキャリアはいつまで続くのか宮坂学・東京都副知事と考える花道
(写真:佐賀県提供)    あの島耕作が今度は佐賀県の副知事に「就任」した。ビジネスエリートのキャリアはいつまで続くのか。この難題をヤフーの社長、会長を務めた後、東京都副知事に転身した宮坂学さんと考えた。AERA 2024年1月29日号より。 *  *  *  人生100年時代。高齢になっても働き続けなければならないのは自明のムードが漂う。社会とかかわり続けることは幸福感につながるメリットもある半面、「どんな仕事でもいい」という人はそれほど多くないだろう。もちろん、経済的に困窮すれば、そんな悠長なことは言っていられない。だが、トップを経験したビジネスエリートの場合はどうだろう。積み重ねたキャリアにふさわしい人生の花道を探すにせよ、引き際を悟るにせよ、常人とは異なる悩ましさがつきまとうのではないか。  そう考えたのは、連載40年を迎えた弘兼憲史さんの人気漫画「島耕作」シリーズの新展開に接したからだ。昨年11月14日付で島耕作が佐賀県副知事に任命された。これは佐賀県の情報発信プロジェクト「サガプライズ!」の一環で、コミックで連載中の「島耕作」シリーズとは別枠。あくまで「架空の中の架空」の設定にすぎない。それでも島耕作の副知事抜擢(ばってき)には「なるほど」と思わせる妙味があった。作中で76歳に設定されている島耕作の身の振り方としていかにもふさわしいポストのように感じられたからだ。 「佐賀県副知事 島耕作」の執務室。佐賀県の情報発信プロジェクト「サガプライズ!」の一環だ(写真:佐賀県提供) 佐賀県の狙いと効果、様々なオファー舞い込む  同シリーズの原点は1983年発表の読み切り作品「係長 島耕作」。その後、課長、部長、取締役、社長と作中で昇進を重ね、会長、相談役を経て現在は「社外取締役 島耕作」が連載中だ。島耕作の次期ポストをめぐっては、新シリーズの節目ごとに様々な臆測が飛び交い、中には「次は自治会長か」といった声も。  佐賀県広報広聴課の柴田晃典係長は「これほど次期ポストをめぐって世間の注目が集まる人材は他にないと考え、ぜひ副知事として招きたいと思いました」と就任を持ちかけた経緯を振り返る。佐賀県は民間企業からの中途採用者の割合が全国1位。多様な人材を受け入れてきた県にふさわしい「人材」を射止める形になった、と満足げだ。作中の島耕作のどこに魅力を感じたのか。 (写真:佐賀県提供)   「企業のトップに立つまでは出向や地方勤務も経験し、その都度、事業の立て直しを図るなど成果を出してきた点や、経営に携わってからも周囲に愛されながら、いざという時は確信を持って決断していく姿が頼もしく映りました」(柴田さん)  佐賀県の山口祥義知事(58)も島耕作シリーズ全巻を読破するファン。「昭和、平成、令和の時代を人脈とアイデア、そして熱い情熱で乗り越えてこられた知見を活かしていただきたい」とエールを送る。  島耕作副知事の佐賀県での任務はスポーツビジネスと半導体産業の情報発信。既に様々なオファーが舞い込んでいるという。 宮坂学(みやさか・まなぶ)/1967年生まれ、山口県出身。同志社大学卒。97年、設立2年目のヤフーに転職。2012年に44歳で代表取締役社長に抜擢される(撮影/編集部・渡辺豪)    大手企業のトップ経験者が副知事に就くケースは現実にもある。すぐに浮かぶのがヤフーの社長、会長を務めた後、2019年に東京都副知事に転身した宮坂学さん(56)だ。宮坂さんは「副知事 島耕作」をどう受け止めたのか。 「面白い企画、やるなあと思いました」。そして、冗談っぽくこう続けた。「でも、僕の方が(島耕作よりも)先輩だよなって思いました」  たしかに宮坂さんは現在、副知事5年目。その経験からビジネスエリートがキャリアチェンジする際の選択肢の一つとして「公務員」を念頭におくのは十分あり、だと感じているという。 「公務員の仕事の基本はケアだと思っています。対人的なヒアリングを重ねていろんな意味でケアをする。その仕事に、組織人として豊かな人間関係を築いてきた民間経験者が携わることには全く違和感がありません。働く寿命も延びたので、官民二つのキャリアをのぞいてみるのも面白いと思います」  経済合理性がすべて、という価値観が席巻している社会で、パブリックな感覚を養えるのも貴重だ。民間企業も近年はCSR(社会的責任)を重視しているが、公的機関ではそれが本業。都庁では「100%、CSRをやっている感覚」だと話す。 「ヤフー時代は株主や顧客のためという意識で働いていたのが、今は世のため人のため、という粋な仕事ができている。それが一番の醍醐味です」 ワイルドな方を選ぶ「道草は人生を豊かに」  企業ではトップを退任後、社内役員やアドバイザーといったポストに就く人も少なくない。しかし、大きな組織でリーダーシップを発揮できる人は、そのスキルを行政組織でも生かせる、と宮坂さんは唱える。「組織マネジメント」という点に関しては共通する点が多いからだ。転職面談で「どういう仕事ができますか」と問われ、「部長ならできます」と答えるシーンが、世間では中高年の求職者を揶揄する「ネタ」として扱われている。だが、部長職をしっかりこなしてきた自負のある人は「プロの部長だ」と胸を張っていい、と宮坂さんは言う。 (写真:佐賀県提供)   「どこへ行ってもチームを率いることができる人材が組織にいるとすごく重宝します。マネジメントスキルを軽視すべきではないと思います」  宮坂さんには、決断に迷ったら「ワイルドな方を選ぶ」という生き方の指針がある。小池百合子都知事から副知事就任を打診された際も、「ワイルド度」が高いと判断して引き受けた。民と官の両方を経験した「次」は白紙というが、常に心掛けていることがある。できるだけ多種多様な人たちと会い、行ったことのない場所へ出かけ、未知の分野の本を読む習慣だ。 「日常の引力って強烈なので油断すると、自分の慣れ親しんでいる方を選びがちです。同じ人と会い続け、同じ系統の本を読み続けて同じ場所で生き続ける。そうやってずっと同じ流れに身を任せていると、ワイルドな流れに行けなくなってしまいます。僕にとっては道草してキョロキョロするのは人生を豊かにする上で不可欠なんです」  これから先、何となくイメージしているのは、働く時間を徐々に短くしていくことだという。 「急にリタイアすると暇をもて余すのは目に見えています。それを避けるためにも、いま週休2日で働いているのを週休3日、4日……と段階的に仕事を減らすのがいいと考えています」  その一方で、仕事以外に「人生で本当にやりたかったこと」を見つけて注力する。そのために大事なのは「キャリアダウン」だという。 「これからはキャリアアップにかかった時間と同じぐらい、徐々にキャリアダウンしていく必要があると考えています。これは、キャリアダウンの経験がない人ほど難しいはずです。登山部じゃなく下山部。山登りも下山するまでが登山なので、ちゃんと下りきらないといけません」  だが、そのロールモデルが今はない。「前半生、ひたすらキャリアアップに努めてきた島耕作さんにぜひ示してほしい」と話す宮坂さんに、「あなたがロールモデルを」と差し向けると、「いやいや僕は、途中で遭難するかもしれませんから」と笑い飛ばしつつ、「もう下山する準備は万全ですので」とのたまう。スノーボードやサーフィンなどアウトドアスポーツが何より好きという。引き際をよくするコツは、こうした趣味と友人の存在だと考えている。 「仕事がオンリーワンの楽しいことに見えてしまうと手放せなくなります。仕事を相対化できる人は仕事を辞めても別の場所で生きられます」 (写真:佐賀県提供)   自分の人生の社長は自分「株式会社俺」の考え方  宮坂さんは「生涯現役」という言葉も必ずしもポジティブには受け止められないという。 「生涯現役という時、一生プレーヤーとして働くみたいなニュアンスがあるじゃないですか。僕はたぶん向いていないと思います。でも、プライベートも含めた、生きることを楽しみ尽くすことに関しては生涯現役でいたい」  宮坂さんには「株式会社俺」の考え方が根っこにある。自分の人生の社長は自分。その中に「仕事事業部」「アウトドア事業部」「友だち事業部」「家族事業部」……などがある。要は年齢や状況に応じて各事業部のウェートをどう配分していくか。「仕事事業部」一本だと、会社を辞めた瞬間に「株式会社俺」が消滅してしまう。だから、「老害」とささやかれてもポストにしがみついてしまう、というわけだ。  自身にとっての花道とは、と宮坂さんに問うと、「役職に対しては全くこだわりがない」と言う。続けて、こんな意外な答えが返ってきた。 「僕が花道と聞いてイメージするのはお通夜です」  天童荒太さんの著作『悼む人』に触発されたという。「誰に愛され、誰を愛し、どんなことをして人に感謝されたか」という人生のテーマが織り込まれた名著だ。 「お通夜はまさにそれが問われるシーン。だから、人生の花道はお通夜だと思うんです」  宮坂さんは理想の通夜の場面をイラストに描いたことがある。米国へ向かう機内でふと自分のお通夜が思い浮かび、描き始めたら止まらなくなった。場所や出席してほしいメンバー、弁当のメニュー、音楽のプレイリスト……。気づけばノートに10枚ほどつづっていた。それがきっかけで、疎遠になっていた学生時代の友人ともコンタクトを取り始めたという。 「今の交友範囲のままだと、お通夜に来てくれる人が仕事の関係者に偏ってしまうと考えたからです。集まってくれた人に、『あいつはキャリアアップがうまいやつだった』とか言われるのは嫌じゃないですか」  毎年正月、今年はどういう人との時間を多くとるかチューニングし直すという。 「惰性に流されると、仕事のウェートが増すばかりになります。意図的に仕事はここまで、としないと仕事に時間が吸い取られていきます」 島耕作副知事の仕事はスポーツビジネスと半導体産業の情報発信。すでに様々なオファーがきている(写真:佐賀県提供)   「あいついいやつだった」友人がしのんでくれる人生  どういうことなのか。  民間企業は決算という形で短期間ごとに結果が出る。それはやっぱり面白い。一方で、仕事以外の人間関係や趣味の豊かさ、家族との関係を育むには数十年かかる。大事だけど、結果がなかなか出ないことは後回しにされやすい。だから、意図的に時間配分する必要がある。これも主体的に「株式会社俺」を経営していく秘訣の一つだという。  宮坂さんが「花道感がすごい」と感じるのは黒澤明監督の映画「生きる」のお通夜のシーン。主人公の市役所勤務の男性が胃がんであることを知り余命を悟った後、人が変わったように働き、お通夜で地域の人々に感謝される。心を打つ人間賛歌のストーリーだ。宮坂さんがしみじみ語る。 「自分の好きな友人知人がたくさんお通夜に来て、口々に『あいついいやつだったな』としのんでくれる。そう言われながら、棺の中にいるのっていいなと思うんです」 (編集部・渡辺豪) ※AERA 2024年1月29日号より抜粋
宮坂学島耕作東京都副知事佐賀県副知事
AERA 2024/01/25 16:00
父が貫いた青果の公正な取引 金融危機対応の範に 平和不動産・土本清幸社長
父が貫いた青果の公正な取引 金融危機対応の範に 平和不動産・土本清幸社長
大学のゼミの卒論で、東京近郊の都市化の影響を現地調査した。先輩や学友の就職先は不動産会社が多い。いま不動産会社にいて不思議な縁を感じる(撮影/後河大貴)    日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 1月22日号より。 *  *  *  1998年10月23日、バブル期の巨額の融資が焦げ付き、経営が行き詰まった日本長期信用銀行(長銀)は、国会で成立した新法に基づき国に特別公的管理を申請し、一時、国有化された。そこに至る日々、胃に穴が開くような痛みが続く。38歳、東京証券取引所(東証)で決済管理課長をしていたときだ。  長銀の最後の株価は2円。東証の取引の決済は売買が成立した3営業日後で、それが済む前に国有化が判明すると、株式の価値がゼロになったとみた投資家が、買った代金を払わなくなる懸念が強い。証券市場が信頼されるには、代金がきちんと払われて、引き換えに株券が渡されなくてはならない。  代金と株券の交換は、2千以上の銘柄を売買ごとにしていたらたいへんだから、証券会社で同じ銘柄は売買額を相殺したうえで、全銘柄の売買額の差し引き代金を払い、受け取る差額決済だ。普段は粛々と進むが、一つの銘柄でも決済できないと全部が決済できず、日本の証券市場で決済不能(デフォルト)が起きてしまう。戦後、そんな例はなかった。  国有化が決定される6日前、土曜日に東証で緊急招集がかかり、何事かと思っていくと、長銀問題の議論だった。理事長以下の前で「放っておくと、東証初のデフォルトになるので、絶対に阻止します」と明言する。決済を完遂してこそ、公正な取引だ。これは、故郷の愛知県瀬戸市で父たちが運営していた青果市場でも同じ。「取引の公正さ」を追求する父の姿が、土本清幸さんが歩む人生の『源流』となっていた。 深夜に面談へいき危機回避を実らせた監督官庁への訴え  監督官庁だった大蔵省の担当課長へ電話で事情を伝えたが、相手は「長銀の株式だけを除外し、残りを決済してもらえばいいではないか」と言う。理論上は可能でも、膨大な取引数から長銀分を手作業で取り出していたら、数日では不可能だ。押し問答が続いた。  翌日曜日の深夜に大蔵省へいって直接、訴えた。すると「分かった。知恵を出し合おう」と応じてくれた。示された案は、国有化宣言を2日間遅らせて、新たな売買は止め、それ以前の長銀株の売買分の決済を終わらせてから国有化を決める──自分の考えと同じだ。週明けに決済が進み、危機は回避した。2017年6月に平和不動産へ転じるまで35年余りいた東証で、最も強烈な体験だった。 故郷の「いちば」が原風景(写真:本人提供)    1959年11月、瀬戸市品野で生まれる。父は青果店経営の2代目で、母も店へ出ていた。地方の街の店らしく、野菜だけでなく魚も肉もパンも、トイレットペーパーも文房具も売っていた。1階が店で奥に台所、2階が寝室だ。一人っ子で、父母は忙しいのでほったらかしにされ、夕食は店で材料を選んで、自分でつくって食べた。  品野は農村だったが、瀬戸物を焼き続けてきた歴史がある。自宅はその窯に囲まれ、周囲に煙突が林立していた。石炭や木が燃料で、火入れをして焼く日は、煙が立ち上る。小学校の図画の授業で写生があると、煙突を描けば、様になった。  夏休みや春休みは、朝5時半ごろに始まる青果市場へいく父についていき、父が競り落とした品をかごに入れて車へ運ぶ。そこで活気のある競りをみて、印象に残った。これが、就職で東証を選んだ一因となる。  父に、小学校2年生の終わりからそろばん塾へ通わされた。先生は30歳くらいで「何でも1番でなければダメ」が信条。競技会へ出て優勝してくることを奨励した。塾でも競技会をやって、優勝者にはトロフィーとすごい副賞を出すが、2位はノート1冊、3位は鉛筆1本だけ。優勝はできなかったが、厳しさに、挑戦する姿勢が身に付く。 高校を中退して家業を継いだ父は後を継げとは言わず  父は小学校時代から成績がよく、高校へ進むとき、中学校の教諭に有名校を推薦された。でも、祖父に「八百屋の息子は八百屋を継ぐに決まっている。学問なんかあると邪魔になる」と言われて断念し、地元の窯業高校へいった。さらに高校2年生で「やめて店を手伝え」と言われて中退したため、「子どもにはいい学校へ進学してほしい」と思っていたようだ。「店を継げ」と言われたことは、ない。  78年4月に慶大経済学部へ入学。3年生が終わるまで、就職先に東証を考えたことはない。でも、先輩から「民間でも公的な仕事をしているのが面白い」と聞き、見学へいった。  株式の売買を立会場でしていた時代で、2階のテラスからみた光景が、こどものころにみた青果市場に重なった。機械化される前で「場立ち」と呼ぶ証券会社の売買担当者が千人以上いて、手ぶりで売買し、声が飛び交い、すごい熱気。青果市場も野菜ごとに競り落としていくとき、仲買人が声を張り上げた。符丁も似ていて「やっぱり市場は市場だな」と、胸が騒ぐ。  82年4月に入所。証券会社を会員とする組織で、これも青果市場と似ていた。株式市場部へ配属され、黒っぽい紺の上着を着て立会場を担当。3年目に海外の証券制度などを研究する調査部へ移り、6年目に米ボストン大学へ1年間、留学した。  冒頭で触れた決済管理課長の後、理事長秘書だった2001年に東証が株式会社となって社長秘書へ変わり、04年6月から3年間は上場部長。不祥事などで上場廃止になる企業が相次いで、厳しい時期を過ごすが、07年に執行役員となる。 「取引所の大家」で続く市場との縁 次は兜町に賑わいを  専務になっていた2017年6月、平和不動産へ移籍し、取締役専務執行役員に就任。平和不動産は東京、大阪、名古屋、福岡の証券取引所の建物を所有し、「取引所の大家さん」と呼ばれ、市場との縁は続く。本社や東証がある東京・日本橋兜町は、株式の売買がコンピューター化されたときに立会場から人が消え、賑わいが落ちた。平和不動産の前任社長が賑わいを取り戻すことを掲げ、「右腕となってくれ」と入社を誘われた。その社長が病気で倒れ、2019年12月に社長に就任する。  2021年8月、本社から近い東京メトロ東西線の茅場町駅に地下で直結した複合ビル「KABUTO ONE」が完成した。証券会社などとの共同開発で15階建て。入り口の1階から3階まで吹き抜けにして、金融情報などを発信する電子掲示板を下げている。新規に上場する企業のイベントを開くホールの収容数は約500人、6階以上はオフィスで、賃料の割安さで資産運用会社や金融ベンチャーの誘致に力を入れた。  兜町の再開発では、大手町や丸の内、日本橋と比べると少し「はずれ」になるから、同じことをやっても意味がない。「ここにしかない店」「ここでないとできない体験」を優先し、もう20店くらい、戦略的に誘致したレストラン、スイーツの店などが揃った。3年前まで週末は歩く人の姿がまばらだったが、いまや土日のほうが、そういう店にくる人たちで賑わう。  市場とは全く別の活気。『源流』は、思いもしなかった方角へ、流れ始めている。(ジャーナリスト・街風隆雄) ※AERA 2024年1月22日号
トップの源流
AERA 2024/01/20 19:00
専業主婦だった39歳からギャルの聖地を経て社長へ ドムドムフードサービス社長・藤崎忍
専業主婦だった39歳からギャルの聖地を経て社長へ ドムドムフードサービス社長・藤崎忍
ユニークなメニューはSNSでもよく話題になる。キャラクターグッズも大人気だ(撮影/山本倫子)    ドムドムフードサービス代表取締役社長、藤崎忍。1990年代に全国約400店を展開したドムドムハンバーガー。その後、経営不振にあえいだが、今、人気が再燃している。カニ一匹を使った「丸ごと!!カニバーガー」のようなメニュー開発に加え、ぞうのキャラクターの商品化など話題に事欠かない。この成長を牽引したのが、社長の藤崎忍だ。専業主婦から社長になるまでに何があったのか。その人生を追った。 *  *  *  東京・赤羽にあるスーパーマーケット、イオンスタイル赤羽がリニューアルオープンしたのは、昨年7月28日のことだ。1階には、赤と白を基調とした明るい内装のハンバーガーショップが開業した。ドムドムハンバーガー(以下、ドムドム)だ。建て替えにあたって2020年に閉店したときのことを、今も覚えていると藤崎忍(ふじさきしのぶ・57)は語る。 「お客さまに、とにかく惜しんでいただいた閉店だったんです。多くの方に、本当に愛していただけたお店でした。スタッフたちも、最後の営業日には、涙、涙で。つらい閉店でしたね」  だが、ドムドムは再び戻ってきた。開店当日には、藤崎も驚くほどの行列ができる。世代や性別を問わず老若男女が作った列は、二重にしても店舗内に入りきらなくなった。とうとう外まで溢(あふ)れ出て、駐車場の前の道にまで長く伸びたという。だが、記録的な猛暑だったのが昨夏だ。 「本当に心配で、イオンの方に頼んで、外に大きな扇風機を二つ持ってきてもらったんです。どれほど効果があったのかは、わからないのですが」  列が横切る隣の店舗には、藤崎自らお詫(わ)びに行った。迷惑をかけていると頭を下げると、「自分たちのお店もちょうど認知してもらえるので」と言ってもらえた。最も列が長かったとき、ハンバーガーを買うまでに40分はかかったという。結果的に、目標としていた予算の2倍を達成した。 「やはりドムドムには、コアなファンが多いと改めて思いました。本当にありがたいことでした」  アメリカからマクドナルドが日本に上陸したのは、1971年。それよりも1年早い70年に、ドムドムは日本初のハンバーガーチェーンとして誕生した。最盛期の90年代には全国で約400店を展開する人気店になった。ドムドムというと「初めてハンバーガーを食べた」「高校時代、みんなで訪れた懐かしいファストフード店」などと思い出す中高年も多い。だが、2000年代に経営不振に陥り、店舗は急減する。 本社では社員とデスクを向かい合う(撮影/山本倫子)   下町の大家族で育つ 39歳で初めて就職する  2017年、ホテル事業などを手がけるレンブラントホールディングスの傘下となり、現在は27店舗を営業するが、このドムドムが今、大きな人気を博しているのだ。懐かしの世代だけではない。「丸ごと!!カニバーガー」など、大胆でユニークな商品がSNSなどで話題になり、若者たちに大ヒット。マスコットキャラクター「どむぞうくん」を使ったグッズやファッションブランドとのコラボ商品も驚くほど売れているという。21年3月期には、赤字から黒字に転換を果たした。その立役者となったのが、18年から社長を務める藤崎だ。実は39歳まで就職をしたことがなかったという、その驚きの経歴もまた、話題となった。  生まれは東京・墨田区。家業の煎餅店などを営みながら地方議員をしていた祖父、祖母、その娘である母、父、兄2人と妹1人の大家族で育った。都議会議員をしていた父のもとには、多くの支援者がよく駆けつけた。正義感がとても強く、筋の通らないことは決して許さなかった父だった。 「選挙期間になると、近所の人たちが手弁当で応援に来てくださる。私が知る選挙は、この人を政治家にしようという純粋な支持者に支えられ、送り出されていた父の選挙でした」 イベント会場で一緒になった「中津ブルワリー」のビールを(撮影/山本倫子)    人の出入りも多く、家業も忙しかった。人前で挨拶をしたりするのは当たり前。家でもよく手伝った。自然な流れで家事をこなすようになり、そこで得た料理の腕が後に生きることになる。  親の勧めで東京・渋谷にある青山学院に小学校から通った。だが、「絵に描いたような下町育ちだった」という藤崎には、なかなか馴染(なじ)めなかった。本当の意味で心が開けるようになったのは、高校時代にハンドボール部に入ってからだ。部で一緒だった小野雅美(56)は当時をこう語る。 「グラウンドで土まみれ、泥だらけになる毎日でした。練習がないのは、年に数日。およそ青山学院らしくなかったですね(笑)。試合に負けたら、真剣に悔しがる姿が強く印象に残っています」 宮城県のイオンモール新利府 南館で(撮影/山本倫子)   “ギャルの聖地”で店長に 5年で売り上げが2倍  高校を卒業すると付属の短大に進んだ。進学先にこだわりもなく、社会に出てバリバリ働きたいという願望もなかった。共に近くで働く両親を見て育ったこともあり、自営業でお互い助け合い、一緒に家を切り盛りするような結婚ができれば、と思っていた。そして短大に入学してすぐに出会ったのが、後に夫となる藤崎繁武(よしのり)。当時は国会議員秘書で、墨田区議選への出馬を決意、父の事務所に出入りしていた。入学祝いに開いてくれた食事会をきっかけに交際が始まる。両親には内緒だった。短大を卒業した87年、夫は当選。もともとすぐに結婚するつもりで就職活動もせず、当選後に結婚、専業主婦になった。 「父の東京都議会議員選挙も手伝っていましたから、夫の区議選と合わせ、2年に一度は選挙でした。当時は支援者とコミュニケーションを作る機会が多くあり、毎日とても忙しかったんです」  夫は12歳上。精神的にも頼っていた。夫に従って尽くすのが美徳、常に夫を立て、彼のために何かができる自分でありたいと意識していた。ところが、そんな日々が一変する出来事が起こる。  05年、墨田区議会議員を5期務めた夫が都議会議員選挙に挑戦した。政界引退した父の地盤を継いだこともあり、当選は間違いないと思われた。ところが、直前に民主党から新人が出馬、予想外に票を獲得、僅差で落選する。しかも直後、夫は心筋梗塞で倒れ、一時は危篤状態に。一命はとりとめたが、しばらくは安静にして治療に専念することになった。このままでは夫に頼っていた収入が途絶えてしまう。自分が働くしかない、と決意した。 「まずはツテをたどってみようと、まわりの人たちに話をしたんです。すると友人から、母が経営しているお店で働かないか、と誘ってもらえて」  これが、SHIBUYA109のアパレルショップだった。当時、39歳での初めての就職先が“ギャルの聖地”のショップ店長となったのだ。 「実は不動産の資格を取って、父の会社で働く選択肢もあったんです。でも、109はなんだか面白そうだな、と思って」  もともとファッションは好きだった。だが、もう一つ、理由があった。 「世界を大きく変えたかったんです。つらい出来事があったところの近くにいたら、なかなか目線を変えられない。それより、思い切り振り幅があったほうが、気持ちもラクだったんだと思います」  そしてこの初めての就職で、いきなり結果を出す。カジュアルなTシャツなどを売る店だったが、みるみる業績を上げ、1億円だったショップの年商を、5年で2倍の2億円にしたのだ。 アパレルの「niko and ...」のイベントに出店(撮影/山本倫子)   「難しいことはしていないんです。まず初日に感じたのは、『このお店、汚くない?』でした。納品された段ボールが置いたまま、試着室のカーテンは薄汚れた感じ。とにかくお店をきれいにするところから始めたんです」  何より「買う立場」の目線だった。自分だったら、どういう店で買いたいか。就職したことがなかったからこそ、常識にとらわれず、当たり前の発想ができた。他にも仕入れ、ディスプレー、接客など、自分が「こうしたほうが」と思ったことを取り入れると着実に成果が上がった。  さらに、店の若い女性スタッフたちとの交流から、大きな気づきを得る。 「初めて会ったときには、驚きました。髪の毛は白に紫にドレッド。ネイルは奇抜。私の身近には、それまでいなかったタイプでしたから」  スタッフとは毎月1度はみんなで食事をし、プリクラを撮った。いろんな話をすると、年齢だけでなく、経験や認識に大きなギャップがあることを知った。世の中を固定的に見てはいけない、と思った。同時に、世界が大きく広がった。 「しかも派手な見た目に反して、中身は至極真っ当な子ばかりだったんです。仕事はきちんと責任を持ってやる。遅刻もしない」  セール時期には、朝が早めの集合になる。着くと、お店の床に寝ている子がいた。帰って寝ると起きられないから、とお店に泊まったのだという。 「ここまでやるって、すごくないですか。本当に偉いな、と思って。こういう子ばかりでした。今も、彼女たちとは定期的に顔を合わせています」 週末もイベントなどが目白押しで忙しいが、家族が集まる食事会はとても大事にしている。料理は自らが作り、息子や孫、妹家族、叔母たちが集って賑やかな時間を過ごす。兄家族もよくやってくるという(撮影/山本倫子)   居酒屋「そらき」を開店 すぐに予約必須の店に  藤崎は朝8時から夜10時まで、休みなく出勤した。誰かに言われたわけではない。休むのが不安だったのだ。一方で、朝食や弁当づくりなど、夫や家族の世話もしていたため大忙しとなった。現在、墨田区議会議員を務める一人息子の剛暉(こうき・33)は子どもの頃から野球をしていた。中高時代の、こんなエピソードをよく覚えている。 「母も忙しいのでユニフォームは自分で洗濯していたんですが、あるとき、あまりに疲れて干せなかった。それで、母に干しておいてと伝えたんですが、母も疲れて寝落ちしてしまったんです。朝、ユニフォームは濡れたまま。すかさず手渡されたのがハンガーでした。授業中、教室のベランダにユニフォームを干しました(笑)」 39歳まで専業主婦だった。そこから、まったく想像していなかった人生が待ち構えていた。「面白そう、楽しそうと直感で思ったところに飛び込んできました」(撮影/山本倫子)    09年、夫は2度目の都議会議員選挙に挑もうとしていた。ところが直前に脳梗塞に見舞われてしまう。左半身が不自由に。墨田区役所で1千人以上の支援者を招いての決起集会。剛暉の押す車椅子で現れた夫は、出馬断念を報告する。そして藤崎の仕事には、夫の介護が加わった。さらに翌年、思わぬ事態が起こる。109のショップは経営状態が良くなり将来の道筋が見えたので血縁者に継がせたい、と言われてしまったのだ。藤崎は新たな仕事を探さねばならなくなった。  仕事を失った藤崎が真っ先に考えたのは、自分に何ができるのか、だった。浮かんだのは、料理。子どもの頃から数十人分もの料理を作ったりした。好きだったし、得意でもあった。ひとまず飲食のアルバイトをすることにした。 (文中敬称略)(文・上阪徹) ※記事の続きはAERA 2024年1月22日号でご覧いただけます。
現代の肖像
AERA 2024/01/19 18:00
松本人志の活動休止で再評価「ウッチャンナンチャン」の“優しい笑い” 「M-1の審査員もウッチャンにしてほしい」
雛里美和 雛里美和
松本人志の活動休止で再評価「ウッチャンナンチャン」の“優しい笑い” 「M-1の審査員もウッチャンにしてほしい」
ウッチャンナンチャン。内村光良(左)と南原清隆    昨年大みそかの「第74回NHK紅白歌合戦」で歌手別視聴率2位を獲得し、脚光を浴びたポケット・ビスケッツ&ブラック・ビスケッツ。1990年代の人気バラエティー番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」から生まれた音楽ユニットだが、25年ぶりに復活したことでも話題となった。SNSでは千秋やビビアン・スーの変わらぬ歌姫ぶりにも驚きの声が上がったが、実は「ウッチャンナンチャン」のファンにとっても“大事件”だったようだ。 「ウンナンの2人がステージ上で並ぶ姿は非常にレアで、ファンも非常に驚いていました。さらに南原清隆さん(58)は、紅白のリハ中に撮影したと思われる内村光良さん(59)との2ショットをSNSにアップしたんです。それに対して、ネットでは『サービスショットありがとう』『二人がそろった番組をまた見たい』など、コンビでの活躍を熱望する声が相次ぎました」(テレビ情報誌の編集者)  ウンナンは2000年代に入ってからコンビでのレギュラー番組が激減。共演は年に数回の特番のみという状態が続いている。そんなこともあり、不仲説がささやかれたり、コンビは解散状態だと見る向きもいる。実際はどうなのか。 ウッチャンナンチャンと絆が強い出川哲朗(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)   出川哲朗の「還暦祭り」でコンビ芸 「ウンナンはコンビで活動していたころからマネージャーも別なら楽屋も別。映画制作やコント志向が強い内村に対し、南原は狂言や落語といった伝統芸能が好きで、司会業を中心にしています。それぞれ仕事の志向性が全く違うんです。それを踏まえて話し合った結果、現在のような活動形態に落ち着いたという経緯があります。とはいえ、内村が映画『ボクたちの交換日記』を作った際に、『今は一人でやる仕事がほとんどだけど、この先、還暦ぐらいになったらまた二人の番組が始まるかもしれない』と語っていたこともありました。映画学校時代から続く2人の絆は今なお強いと思います。どんなにコンビ仕事が減っても、実際に解散することはないでしょう」(週刊誌の芸能担当記者)  本人や親しい芸人たちが不仲説や解散説を逆手にとってネタにすることもしばしば。また、コンビ仕事を極限まで減らすことによって、コンビで登場した際には「今年最初で最後のコンビ仕事か!?」などと芸能マスコミにも取り上げられ、話題をつくることにも成功している。 「1月14日に開催された、盟友・出川哲郎の『還暦祭り』イベントにはウンナンの2人も出演し、大いに盛り上げました。出川のリクエストで、ウンナンはデビュー当時のショートコントをやって往年のファンも感激していましたね。またテレビでは披露したことのない、CHAGE and ASKAの『YAH YAH YAH』のカラオケ芸を披露し、会場は最大級の盛り上がりとなりました。南原は『20年ぶりくらいにやりました。内村がどうしてもやりたいって言うから』と言うと、出川は『2人が力を合わせてやってくれるのは、ちょっときますね』と感激。久々にウンナンの息の合ったパフォーマンスを見ました」(同) 内村光良   M-1審査委員長も内村に!?  一方、紅白や出川還暦祭りでのコンビ共演が話題になったところに舞い込んだのが、ダウンタウン・松本人志の活動休止というニュースだ。 「松本さんの裁判が年単位になり、活動休止も長期間になるとの予測がされる中、制作サイドは代役探しに奔走しています。そんな中、存在感を増しているのがウンナン、特に内村さんです。最近はダウンタウンとの共演は少ないですが、かつては“盟友”とも言える深い仲でした。2組はブレーク前夜ともいえる1988年から3年間放送されていた『夢で逢えたら』という深夜番組で共演しています。2009年には『ドリームマッチ』で松本さんと内村さんがコントをしたり、互いの番組にゲスト出演したこともありました。芸歴、格ともにダウンタウンの盟友であるウンナンは後任にぴったり。また、戦友のピンチをウンナンが救ったという美談に仕立てることもできる。とくにM-1のような賞レースは、内村を代役にという視聴者からの声も多い」(お笑い業界関係者)  ダウンタウンの後釜としては、安定的な番組回しが信頼できるヒロミや、活動の場をYouTubeに移し気を吐く石橋貴明(とんねるず)など「お笑い第三世代」の名前が挙がるが、やはりウンナンへの期待度は非常に高いという。 「同じ第三世代でも、厳しいツッコミを得意とするダウンタウンや、後輩いじりが武器のとんねるずとは違い、出演者たちをうまくつなぎ、和やかな場を演出するウンナンの“優しい笑い”が再評価されてきています。また、さまぁ~ずやくりぃむしちゅー、有吉弘行など、ウンナンに取り立てられてスターダムに駆け上がった芸人は少なくありません。事務所の別なくさまざまな芸人とからみ、売れっ子を生み出してきた包容力とフックアップ力をもつウンナンは、ハラスメント的なノリを避けたがる業界のトレンドにピッタリです。笑いの実力とともにコンプライアンス的な安心感も備えるウンナンは、ダウンタウン不在をフォローする最右翼と言えるでしょう」(同) コンビは今も良好な関係  お笑い評論家のラリー遠田氏はウンナンについてこう評価する。 「人気のお笑いコンビが長年続いていると、それぞれの適性に合った単独の仕事が増え、コンビとしての仕事が減っていくのは自然なことです。ウンナンの場合、不仲であるという話はうわさレベルでも聞いたことがありません。単にコンビの仕事が少なくなっているだけで、今も良好な関係を保っているのでしょう。出川さんのライブで久しぶりにコンビでパフォーマンスを披露したようですが、今後もお二人が共演するのなら、どんな形でも価値はあるし、ぜひ見てみたいと思う人は多いはず。2人だけでじっくり話をするトーク番組でもいいし、若いころのように全力でコントやロケに挑戦するのも見てみたい。欲を言えば、それぞれが司会者としても活躍されているので、コンビで紅白のような大型特番の司会を務める姿も見てみたいですね」  松本人志が不在となる中、ウンナンはテレビ界の救世主となるのか。 (雛里美和)
松本人志ウッチャンナンチャン内村光良南原清隆
dot. 2024/01/19 11:00
小6でペット殺害し盗みを繰り返したYが本当に欲しかったものとは?「完璧な母」という存在の軽さと重み
山田清機 山田清機
小6でペット殺害し盗みを繰り返したYが本当に欲しかったものとは?「完璧な母」という存在の軽さと重み
 寿町の扇荘新館で暮らすYの生い立ちを聞き、ノンフィクション作家の山田清機氏は「同情したり憐れんだりする以前に圧倒された」という。山田氏が横浜の一等地にあるドヤ街に6年通い、住人たちの話を聞いて書き上げた『寿町のひとびと』が文庫化された。文庫化にあたり、新たに現在の寿町を取材した際に出会ったのが、Yだった。実の父親の顔も名前を知らず、母親に新しい恋人ができるたびに住居を転々としていた小学生のYだったが、3年生の終わり頃、母親の再婚で安定した生活を手に入れる。しかしその生活も、小学生6年生の時に失われようとしていた……。文庫版に追加収録した「寿町ニューウェイブ」からの冒頭を特別公開。その後編をお届けする。 ※【前編】「同情や憐れみよりも『Yのような小学生が存在したという事実』に圧倒された ノンフィクション作家・山田精機が描くドヤ街『寿町』の今」からつづく *  *  *  平穏な日々に亀裂が入るようになったのは、6年生の終わりの頃だった。母親が妹を出産したのだ。妹が生まれると、祖父母も含めた周囲の大人たちの関心が一挙に自分から離れて、妹だけに集中するのがわかった。 「突然、家の中に僕の居場所がなくなってしまいました」  家族に新しいメンバーが加わることで、家族間の力学が変わってしまうことはよくあることだ。下に妹や弟ができて寂しい思いを経験したことのある人も、大勢いるだろう。しかし、Yの場合は父親と血の繫がりがない。妹は血の繫がりがある。児童虐待のニュースに登場する家族にこのパターンが多いのは、血縁の重さの裏返しなのだろうか。  優しかった父親は豹変して、母親との間に諍いが絶えなくなった。 「父はだんだん暴力的になって、夜な夜な母と喧嘩をしていました。喧嘩が始まる度に母から『部屋に戻りなさい』と言われましたが、物を投げる音が毎晩のように響いてきました。一度、喧嘩の最中に父親が自分の部屋に入ってきたことがあって、暴力をふるわれると思いましたが、そのときは母が必死になって止めてくれました」  ある晩の喧嘩の後、母親とふたりで選んだ父の日のプレゼントの箸が、まっぷたつに折れて床に落ちていた。 「それが一番のショックでした」 山田清機『寿町のひとびと』(朝日文庫)>>本の詳細はこちら  母親は、介護の仕事を始めて日中は外に出るようになった。二世帯住宅の中に居場所を失ってしまったYは、中学に進学するとたびたび問題行動を起こすようになった。 「あるとき、飼っていたハムスターを殺してしまったんです。人体実験みたいにして。どうしてそういうことをしたか、よくわかりませんが……」  祖父母の金もたびたび盗んだ。 「ある日、1階の祖父母の部屋に忍び込んで引き出しを開けてみたら、偶然ですが、けっこうな金額が入っていたんです。万札1枚ぐらいならバレないだろうと思って1枚だけ抜き取って、ゲームセンターや映画館に入り浸って使ってしまいました」  父親は夜勤の翌日は日中寝ていたので、寝ている部屋にそっと忍び込んで財布から金を抜き取った。母親の財布からも金を抜いたが、子供らしい浅知恵というべきか、バレないようにとお札の形に切った紙を代わりに入れておいて、むしろ「犯行」を露見させてしまった。 「ある朝、父親にいきなりベッドの布団を引き剝がされて、『いつ部屋に入ったんだ!』と怒鳴られました。心のどこかに気づいてほしいという気持ちがあったのかもしれませんが、(父親にバレてから)ある寒い日にお金をたくさん取って、食糧をたくさん買い込んで、ビルの非常階段の踊り場で夜明かしをしたことがありました。すると、なぜか早朝に目の前を母が通ったんです。パッと目が合ったので、『誰にも相手にされないから、気を引きたくて金を盗んだ』と言ったら、母は怒らずに、『部屋に入りなさい』と言いました」  母親の口を通して、 「Yだけ家を出ていってほしい」  という父親の意向が伝えられたのは、中学1年のときだった。  Yは中学校でも一度、盗みをしていた。教科書を持っていくのを忘れてしまい、クラスメイトの教科書を盗んだのだ。 「忘れ物をすると班で連帯責任を取らされるというルールがあったのですが、周りの人から何か言われるのも嫌だったし、他の人に迷惑をかけるのも嫌だったので、近くにあった女子のロッカーから取ってしまったんです」  修正液で名前を消して自分の名前を書いて使っていた。ところが、自分の部屋から教科書が見つかったので、クラスメイトの教科書と自分の教科書、両方を学校に持っていって盗みがバレてしまったという。 取材時の寿町地図 「お前、なんで同じ教科書を2冊持っているんだ? となってしまったんです」  もっともな疑問だと思うが、そもそも自宅で教科書が見つかったからといってなぜ同じ教科書を2冊学校に持っていく気になったのか、理解できない。持っていけば盗みがバレるに決まっている。 「たまたま2冊持っていってしまっただけで……」  いずれにせよ、この事件によってYはクラスメイトから白い目で見られるようになってしまった。汚名返上のために人のやりたがらない掃除などを志願してやるように心がけたが、中学時代にほとんど友人はできず、成績も低迷した。  そうこうするうちに、父親と母親は離婚することになった。「Yだけ家を出ていってほしい」という父親の提案は、 「この子ひとりでは生活できないから、私がこの子と一緒に家を出る」  と母親が断った。  妹の親権は父親が取り、Yの親権は母親が取った。Yが中学を転校したくないと頑なに主張したため、母親は同じ横須賀市内の、消防士の家から離れたところにあるアパートを借りることにした。Yはそこからバスで中学校に通うことになった。  消防士の家を出る前、Yは実の父親の手がかりが欲しいと思って、母親の部屋を「捜索」したことがあったという。すると、クロゼットの中から意外なものを発見することになった。 「何かを保存しているらしい箱があったので開けてみたら、母の水着姿のブロマイド写真がたくさん出てきたんです。どうやら芸能人みたいなことをやっていたらしいんです。母親はとても綺麗な人で、家事も得意だし料理もうまいし、芯が強くて行動力もある。非の打ちどころのない人間なんです。男性にモテるのも理解できます」  Yは、自分のことを「完璧な母親の影のような存在」だと言う。いつか母親を越えたいと思っているが、どうしても越えられない。母親は高い壁なのだという。 「母親に憧れる気持ちもありますが、母親と一緒にいると自分の存在が霞んでしまう。やっぱり自分は金魚の糞なんです」  そんな「完璧な母親」は、Yが定時制高校に進学すると、再びアパートに男を連れ込むようになった。連れ込むという表現が悪ければ、新しい男と恋に落ちたといえばいいだろうか。 ※最後までお読みいただきありがとうございました。続きは文庫版『寿町のひとびと』でお読みいただけます。 他にも『寿町のひとびと』から下記記事も特別公開中。山田精機氏が書き上げた寿町の現実と、山田氏がすくい上げた寿町のひとびとの「生」を、ぜひ味わってください。 日本3大ドヤ街「寿町」で出会った“ともかくモテる”大久保さんの波乱万丈人生 https://dot.asahi.com/articles/-/80095 6年に及ぶ執念の取材!日本3大ドヤ街「寿町」の知られざる日常と大久保さんとの出会い https://dot.asahi.com/articles/-/80096
朝日新聞出版の本読書書籍山田清機寿町のひとびと
dot. 2024/01/18 16:30
「最近、あぐらがかけなくなった」40~60代女性を悩ます「股関節の痛み」 「ひざの痛み」は50~60代で急増
「最近、あぐらがかけなくなった」40~60代女性を悩ます「股関節の痛み」 「ひざの痛み」は50~60代で急増
 「最近、あぐらがかけなくなった」「少し距離を歩くと足の付け根が痛む」――。変形性股関節症でみられる初期症状です。中高年の股関節の痛みの原因となる代表的な病気といえば変形性股関節症であり、ひざの痛みといえば変形性膝関節症です。これらの病気になりやすい人や気をつけたい症状、治療の進歩などについて解説します。  本記事は、2024年2月下旬に発売予定の『手術数でわかる いい病院2024』で取材した医師の協力のもと作成し、お届けします。 *  *  *  股関節の痛みのおもな原因には、「大腿骨頭壊死(えし)症」「大腿骨寛骨臼(かんこつきゅう)インピンジメント(FAI)」「変形性股関節症」があります。とくに変形性股関節症は最も患者数が多い病気です。  大腿骨頭壊死症は血流不全により大腿骨頭部が壊死する原因不明の病気で、厚生労働省により指定難病と認定されています。壊死の範囲が広く、骨頭の圧潰(あっかい)が生じ、痛みで日常生活が制限される場合には手術が必要になることがあります。  大腿骨寛骨臼インピンジメント(FAI)は生まれつきの股関節の形態異常や加齢、環境変化により、股関節を動かした時に大腿骨と寛骨臼の縁がぶつかり痛みが出る病気です。とくに股関節を大きく動かすスポーツ経験者に発症リスクが高いとされています。進行すると関節軟骨のダメージが進み、変形性股関節症へと進展することがあります。  変形性股関節症は加齢によって関節軟骨がすり減り、変形する病気です。日本人には先天的に寛骨臼の面積が狭い「寛骨臼形成不全」が多く、これによって股関節の一部に負担がかかり、関節軟骨がすり減ることで痛みが生じます。進行すると骨と骨が直接ぶつかり、股関節が変形し、痛みが増します。  変形性股関節症は明らかな原因がなくても、加齢によって股関節の摩耗が進むことで発症することもあります。とくに過去に股関節のケガや病気があれば、変形性股関節症の発症リスクは高まります。患者の約8割は女性で、多くは40~50代で発症しますが、早いと30代から痛みが出はじめます。  変形性股関節症の症状としては、立ち上がりや歩き始めの際に足の付け根が痛んだり、違和感を感じたりするところから始まるとされています。進行していくとどうなるのでしょうか。関西労災病院整形外科部長の安藤渉医師は症状についてこう説明します。 「最初は、股関節が動かしづらい、あぐらがかけないという違和感や、少し距離を歩くと痛む、歩き始めだけ足の付け根が痛むけれど、しばらくすると痛みがなくなる、という感じで始まることが多いです。徐々に階段の上り下りなど、股関節を動かす動作で痛みが生じるようになります。症状が進行すると、常に痛みを感じるようになり、日常生活にも支障をきたすようになります」   人生を謳歌するため、40代で手術選択も  股関節の痛みで病院に行く場合、受診する診療科は整形外科です。病院ではどのように診断されるのでしょうか。 「X線検査によって、関節の隙間の幅を確認すると軟骨のすり減り度合いがわかります。関節の隙間が狭くなっていれば、変形性股関節症と診断できます。関節の変形が少ないのに痛む場合などは、その他の疾患との鑑別のためにMRI検査もおこなうことがあります」(安藤医師)  変形性股関節症の場合、肥満があれば減量によって関節への負担を減らし、その症状に合わせ、痛み止め薬なども使用して痛みを抑えながら、運動療法を積極的におこなう保存療法がおこなわれます。 「痛みのせいであまり動かなくなると、筋力が落ちてさらに痛みが悪化してしまいます。ウォーキングなど、股関節周囲の筋肉を鍛えることが大切ですが、痛みで歩きにくいという場合は、浮力によって、痛みが出にくいプール内を歩くのもおすすめです」(安藤医師)  しばらく保存療法を実施しても痛みが改善せず、変形も進行して、日常生活に支障をきたしている場合には、年齢や活動度なども考慮して手術を検討します。手術には、自分の骨の形を整えることで股関節を温存できる「骨切り術」や、股関節を人工関節に入れ替える「人工股関節置換術」があります。  人工股関節置換術は変形や痛みが強い場合に選択される治療法です。チタンやセラミック、超高分子量ポリエチレンなど、からだに入れても安全な素材の人工関節を使用します。痛みの軽減に非常に効果的で、入院期間も約2~3週間と社会復帰が比較的早いのも特徴です。術後はゴルフやダブルス・テニスなど衝撃の少ないスポーツも可能です。 「人工股関節置換術はかつて、耐久性の観点から高齢者におこなわれる手術でしたが、人工関節の耐久性が向上し、昨今は40代のような若年層でも手術を受ける人が増えています。とくに、『痛みを我慢せず、早めに手術をして、家族・友人との旅行やスポーツなどの活動を謳歌したい』という活動的な女性に多いです」(安藤医師)  30~40代で関節軟骨がまだ残っている場合は骨切り術も可能です。骨切り術は術後の動作制限がなく、自然な動きが可能なため、活動度の高い人には向いています。ただ、骨切り部が骨癒合するまでの時間がかかるので、社会復帰に少し時間がかかります。  人工股関節置換術後のおもな合併症は脱臼や感染です。術後の合併症を防ぎ、正確で安全な手術を実施するため、術者が使用する手術器具と患者の客観的な位置情報をリアルタイム画像で提供するナビゲーションシステムの導入が進んでいます。さらに一部の病院では、術者の手の動きを精密に制御できるロボット支援手術も導入しています。これらは術前計画に沿った、脱臼しにくい角度での人工関節の設置や骨の削りすぎを防ぐのに役立ち、合併症の発生を防ぎます。 ひざの痛みには大腿四頭筋を鍛えることが有効  加齢とともに股関節だけでなく、ひざのトラブルを訴える人も増えていきます。中高年のひざの痛みのおもな原因となる病気は「偽痛風」「特発性膝関節内顆骨壊死」「変形性膝関節症」です。  偽痛風は60歳以上の人に多く、肝臓の代謝機能の低下によりピロリン酸カルシウムが関節周囲で結晶化し、おもにひざに炎症を引き起こします。ひざの痛みや腫れが特徴です。特発性膝関節内顆骨壊死は60歳以上の女性に多く、膝関節の軟骨の下の骨が微小骨折を起こし壊死します。夜間の強い痛みが特徴です。    中高年のひざの痛みの半数以上を占めるのは変形性膝関節症です。膝関節の内部には弾力に富んだ軟骨や半月板、薄く関節包の内側を覆う滑膜があります。軟骨や半月板によって通常は、膝関節を動かしても硬い骨同士がぶつかって傷ついたり、痛みが出たりすることはありません。変形性膝関節症は、加齢とともにこの軟骨や半月板がすり減り、その破片が関節内に散らばり、滑膜炎および関節内部に炎症が起こり、痛みが出てきます。変形性膝関節症の症状や進み方について、香芝旭ケ丘病院副院長の藤井唯誌医師はこう説明します。 「初期には立ったり、歩いたりする動作の動き始めだけ痛み、休むと楽になります。進行すると痛む時間が長くなり、階段の上り下りなどが困難になってきます。最終的には安静時でも痛むようになり、下肢がO脚に変形したり、歩行が困難になったりします」  変形性膝関節症を発症する人の男女比は約1:4で女性の割合が高い病気です。40代から症状が出はじめ、50~60代で急増します。加齢に加えて、肥満や筋力の低下、関節軟骨の代謝異常、O脚やX脚、ひざに負担がかかる仕事やスポーツ、ひざのケガや手術歴などがある場合にも発症リスクは高まります。  変形性膝関節症の診断では、問診や診察、触診で膝関節の圧痛の有無や関節の動きを調べ、腫れや変形を調べます。おもにX線検査で診断ができますが、膝関節の変形が軽度なのに痛みがある場合はMRI検査をおこなうこともあります。  変形性膝関節症の治療はどのようにおこなわれるのでしょうか。肥満の場合はまずは減量し、洋式トイレやイス、ベッドなど和式の生活から脱却し、ひざへの負担を減らします。痛みがあれば、一時的に痛み止めの内服薬や湿布薬の貼付、ヒアルロン酸の注射などで痛みを抑えながら、ひざまわりの筋肉を強化する運動などをおこないます。 「脚上げ体操などでひざ周囲の筋肉、とくに太ももの前にある大腿四頭筋を鍛えることが大切です。筋力がついてくるとひざが安定し、痛みを軽減させる効果が高まります」(藤井医師) ハードな身体活動こなせる人工関節置換術も  これら保存治療をしばらく実施しても、膝関節が変形し、痛みの改善がみられない場合には手術による治療が検討されます。手術方法には、膝関節を人工関節に交換する「人工膝関節置換術」のほか、「関節鏡視下手術」や「高位脛骨骨切り術」などがあります。人工膝関節置換術には膝関節をすべて人工関節に置換する「人工膝関節全置換術(TKA)」と関節の一部だけを人工関節に入れ替える「人工膝関節単顆置換術(UKA)」があります。  なかでもTKAは変形の強いひざでも痛みが治まり、安定して歩けるようになる治療成績のいい手術です。膝関節の手術のなかではもっとも多く実施されています。ただし、ひざを曲げる角度には制限があります。一方でUKAは術後に自然なひざの動きを再現できます。 「UKAは高い技術力が必要となり、手術ができる病院も限られますが、靱帯に損傷がなく、ひざの変形が部分的であれば可能です。50~60代の男性で仕事やスポーツなどで今後もハードな身体活動をこなしたい人には向いています」(藤井医師)  人工膝関節の手術でも、ナビゲーションシステムやロボット支援手術を取り入れる病院が増加しています。術中ナビゲーションは3次元CTによる術前計画どおりの角度で正確に骨を切り、精密に人工関節を設置できるため、術者によらず、平均的で安全な手術が可能です。手術時間の短縮にもつながるとされています。 「ロボット支援手術は骨切り時のブレをロボットが制御してくれるため、精密な手術ができます。膝関節まわりの軟部組織への侵襲もより少なくなるため、術後の炎症や痛みも少なくなります」(藤井医師)  このように、変形性股関節症も変形性膝関節症も長い年月をかけて、少しずつ進行していく病気です。いずれの場合も初期には違和感や一時的な痛み程度だったものが、進行するにつれて痛みが増し、関節の変形が進むと歩くことも困難になっていきます。治療法の選択についても、病気が進行するほど、その選択肢は限られてしまいます。できるだけ痛みを我慢せず、早めの受診を心がけましょう。 (取材・文/石川美香子) 【取材した医師】 関西労災病院 整形外科部長 安藤 渉医師 関西労災病院 整形外科部長 安藤 渉医師 香芝旭ケ丘病院 整形外科 副院長 藤井唯誌医師 香芝旭ケ丘病院 整形外科 副院長 藤井唯誌医師
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dot. 2024/01/18 16:30
松本人志さんの件で考えた 「キモくて怖い」男の“シモ”の連帯を断ち切るには 北原みのり
北原みのり 北原みのり
松本人志さんの件で考えた 「キモくて怖い」男の“シモ”の連帯を断ち切るには 北原みのり
「ダウンタウンDX」千回に際し、記者会見したダウンタウンの松本人志さん(左)と浜田雅功さん(右)(2016年)  松本人志さんの件。  本人のSNS、後輩芸人の発言など、今回の報道を巡る当事者らのさまざまな反応からは、松本さんを頂点とする男性芸人のあいだでは先輩を「接待」する習慣があり、そういう「合コン」のために後輩が女性を集めていたことは事実のようだ。 「接待」は「合コン」という体を取ってはいるが、自分の人脈でどれだけの女性(この場合、女性の価値は若さと容姿)を集められるかが問われるもので、純粋な遊びというよりはやはり、芸能界で生き抜いていくための一種の仕事のように見える。  吉本芸人の博多大吉さんは10年ほど前、バラエティー番組の公開収録イベントでこう語っていた(下積み時代の笑い話として)。 「福岡吉本で僕ら、先輩の接待ばかりやってたんですよ。東京、大阪から先輩芸人が来る度に、おいしいご飯屋さんとか、おいしい飲み屋さん、一席飲みたいという方には女の子もちょっとセッティングして、というのを僕ら15年ほどやってました」  博多大吉さんは、松本さんらが来るときには仲間内から「まぁ、わかってるな、女の子をちゃんと用意するように」と暗黙の了解のように言われたそうだ。 「女の子」は、酒や食べ物と同じように、厳選し、準備し、用意するものなのかもしれない。こうやって後輩芸人が先輩芸人に女性をセッティングしてきた長い歴史の結果が、今回の性被害報道につながっていったのだろう。当事者の男性たちからすれば、「今まで問題にならなかったし、女性たちだって楽しんでいたはずなのに、今になってなんで?」と青天の霹靂かもしれない。  でも、“私たち”は知っている、のだと思う。この国を生きる女ならば、その「合コン」の空気を知っている。男性が“シモ”で連帯するときの羽目の外し方のようなもの、そのなんとも言えないはしゃぎ方が醸し出す威圧的な空気というのを、この国を生きている女であれば。   それをカジュアルに言えば、“キモくて怖い空気”である。  松本さんの60歳の誕生日を祝うスペシャル番組を見た。昨年の9月に放送されたもので、親しい後輩芸人たちが松本さんとのエピソードを語るというものだ。 「2025日本万国博覧会誘致委員会発足式典」で記念写真に納まる(左から)松井一郎・大阪府知事、榊原定征・経団連会長、ダウンタウンの松本人志さん、浜田雅功さん、二階俊博・2025年大阪万国博覧会を実現する国会議員連盟会長(2017年)  松本さんはヘルペスを最近発症したことや、週に3回朝に勃起するという話をしていた。  びっくりした。居酒屋で男性サラリーマン集団が大声で話し顰蹙(ひんしゅく)を買う話題と同レベルである。まだまだ勃起するとか、セックスしているとか、何回しているとか、風俗に行った話とか……。見せられているのは「お笑い」というより、男どうしの密着した”シモ”による連帯である。それを面白いと思える人たちが番組を作って、それを笑える人たちがテレビを見ている。  上沼恵美子さんは、今回の週刊誌報道を受け、松本さんの芸能活動休止を惜しみながらも「(報道が事実だとしたら)私も、一応女やっているんで、吐きそうになった」と話した。元カレが松本さんを性接待していたと報道された鈴木紗理奈さんは、テレビで「キモい」と表現していた。まさに「女やっているんで」わかるキモさである。  男たちが“シモ”で連帯するキモさ。そういうキモさが権力を持っているふうのキモさ。  松本さんの番組では「森三中」も出演していたが、全く存在感がなかった。男性の“シモ”の連帯には女芸人がどんなに媚びても入れないのだ。  ただ、そういう女芸人の惨めさを見せられることも含めて、この現象は「お笑い業界」に限ったことではない。はっきり言って、日本中、隅々どこにでもこの空気はある。ビジネスの世界でも、政治の世界であっても。  特に政治やビジネスの世界など、「いつ暴かれるのではないか」とひやひやしている人は少なくないのではないか。大手銀行が大蔵省の役人を「ノーパンしゃぶしゃぶ」で接待していたことが問題になったのは26年前の話だが、昼間の会議ではなく夜の男たちの性接待込みの密談で決まる風習は、決して今だって廃れているとは言えない。  学生時代の女友だちが、取引先の男性をソープランドに連れていき、終わるのを待合室で待っていたことがあると話してくれたのは、2000年代に入ってからだ。女性議員がゼロの町議会議員の新年会で浴衣姿のコンパニオンがお酌をするのが当たり前だったというのを聞いたのは、平成後期の話。これは1990年代の話だが、地方議員の海外視察の際、空港に現地の女性が一人一人につき、夜の部屋も一緒だったことがあると証言してくれた女性議員がいた。有名ジャーナリストが、「○○議員(←超大物)にソープランドをおごってもらったことがある」と自慢気に話していたのを耳にしたという国会議員もいる。  ちなみに、海外視察時に買春を拒否した議員は、その後、派閥の役職から外されたという。男性の中にも、性接待を好ましく思わない人もいるが、男性の“シモ”連帯に入らない男は男性でも男性社会から排除されるのである。男の“シモ”の連帯はかくも強い。  それでも今回の世間の反応を見ていると、#MeToo以前とは隔世の感がある。女性を叩く声があればすぐに「それはセカンドレイプだ」と慎重な態度を求める声が目立つ。  伊藤詩織さんが性被害を訴えたのは2015年だ。週刊誌が昨年末に報じた松本さんの性加害疑惑の年と同年である。詩織さんが2017年に記者会見を開いたときには、ブラウスのボタンが首まで閉じていなかったことを責める声が湧いたものだが、その年にハリウッドでの#MeTooがはじまり、日本では性被害当事者団体「スプリング」が発足し、2019年には性被害に抗議するフラワーデモがうまれ、2023年には「性的同意」という言葉が入った性犯罪刑法改正がなされた。この数年で、性を巡る言説は大きく変化したのだ。  時代を変えるのは、「この国で女やっている」側の声なのだと思う。つくづく、そう思う。だからこそ、キモい、と感じる感性を封じてはいけない。そして「キモい」と言われることに、男たちは開き直ってはいけない。そして男たちの“シモ”の連帯の歴史を断ち切ってほしい。
dot. 2024/01/18 16:00
NHK紅白歌合戦「けん玉チャレンジ」で唯一“失敗”した男性が初告白 「楽屋で100人以上の前で土下座しました」
上田耕司 上田耕司
NHK紅白歌合戦「けん玉チャレンジ」で唯一“失敗”した男性が初告白 「楽屋で100人以上の前で土下座しました」
取材に応じてくれた「しゅんさん」。普段は広告営業の仕事をするサラリーマンだという(撮影/上田耕司)    昨年大みそかの「第74回NHK紅白歌合戦」で恒例の「けん玉チャレンジ」が行われた。「けん玉チャレンジ」は2017年からスタートし、20年からは3年連続で成功中だった。昨年も、いったんは128人全員が成功したかに見えたが、約50分後、NHKは番組内で「映像を確認したところ残念ながら失敗していました」と説明。世界ギネス記録も取り消しになった。失敗したのは「16番」だった男性。年が明けた今、彼は何を思うのか。AERA dot.の取材に初めて胸中を語った。 *  *  *  都内の喫茶店に現れた「16番」は、ネクタイにスーツ姿のごく普通のサラリーマンだった。名前は「しゅんさん」。年齢は25歳だという。  しゅんさんは紅白の「けん玉チャレンジ」に出場することになった経緯をこう話始めた。 「NHKからオファーがあったのは昨年12月に入ってからです。普段からけん玉を広げる活動に貢献している人を対象に、NHKが選んで声をかけていったようです」  しゅんさんは同年代のDすけさんと一緒にYouTubeチャンネル「もしかめブラザーズ」を2022年10月に開設。けん玉の技を披露する動画などをアップしてきた。 「僕はもともと補欠要員で、誰か欠員が出たときに代わりに出場できるということでの参加でした」  紅白前日の12月30日。リハーサル時に体調不良になった男性が出たことで、しゅんさんに声がかかった。 「30日夜のリハーサル終了後、運営の方から『代わりに参加してください』と言われました。それで、その男性がつける予定だった『16番』を僕が代わりに背負うことになったという経緯です」 【こちらも話題】 歴代ワースト「紅白歌合戦」視聴率31%の衝撃 業界人が番組中に見た「有吉弘行」の“異変” https://dot.asahi.com/articles/-/210724 紅白歌合戦当日のしゅんさん。「16番」のゼッケンが見える(画像=しゅんさん提供)   「なんか、ザワついているな」  歴史にif(もしも)はないと言うが、予定通り、正式メンバーが出場していたら、しゅんさんの出番はなかった。人生、何が起こるかわからない。  当日になって出場を告げられたしゅんさんは何を思ったのか。 「急に言われて、ドキッとはしたんですけど、僕はおととし出場していて、その時は成功したんですよ。だから、落とすかもしれないみたいな不安は全然なかったです。当然、成功するつもりでした」  体調は万全。本番当日の練習にも参加して、あとは本番を待つのみだった。 「けん玉チャレンジ」が行われる三山ひろしの曲「どんこ坂~第7回けん玉世界記録への道~」が始まったのは午後10時過ぎ。「けん玉ヒーローズ」のメンバー128人がステージに上がっていく。10人目までなら1回だけなら失敗してもやり直しがきくというルールで、3番目の「パンサー」尾形貴弘が失敗。最初からやり直す場面があったが、尾形は2度目は成功させた。  NHKホールの大観衆の前でけん玉が始まると、しゅんさんは徐々に緊張を感じるようになった。 「本番の時は、尾形さんが落とした場面は見られなくて、『あれっ、なんかザワついているな』と思っていたら、もう自分の番だみたいな感じで『あ、ヤバイ』と思いました」  しゅんさんの位置は、平場ではなく、階段を数段上がった端っこ。けん玉がやりやすい場所には見えない。 「おととしも階段の位置で成功させた経験があるので、正直、自分の中では問題ありませんでした。運営の方も、事前に『もし不安要素があったら、やりやすい場所の番号と交換します』という対応をしてくれましたが、僕はそれは必要ないという認識でした」 紅白歌合戦で実際に使用されたけん玉(画像=しゅんさん提供)   玉が左側にこぼれ落ちた  けん玉は、階段をジグザグに昇りながら進んで行った。16番のしゅんさんの場所まで、玉がどんどん迫ってくる。 「階段の上ですから、前の方でけん玉をしている人は背中だけが見えて、けん玉をしているところは見えないんです。だから、体の動きから雰囲気で感じ取って、自分が動くという形でした。タイミングが取りづらいなとは感じました。照明もまぶしくて、音も大きくて、緊張で自分の心臓の鼓動が聞こえました。キメなきゃという一心でした」  しかしチャレンジは失敗……その瞬間、玉は左側にこぼれ落ちている。 「会場の雰囲気にのまれて、平衡感覚を失ってしまい、やる前にふらついてしまっていました。玉を上げた時、自分としてはまっすぐのつもりだったんですけど、ちょっとズレていたんですよね。そのまま乗っけようとしたら、玉が皿のふちにカンと当たって、はじいてしまった。頭が真っ白になりました。ワーッどうしようと思ったけれど、こぼれた玉は手で皿に乗せて正面を向きました。それからは落とした実感がどんどん沸いてきて、手が震えてきました」  失敗した時の手順は、事前に運営側から決められていたという。 「あくまで、三山さんのバックダンサーという演出なので、特に成功、失敗で表情を変えてはいけない。もし、失敗してしまったら、手で玉を乗せて、真顔で正面を向いているという演出でした。チーム全体をきれいに見せるための演出なので、僕が失敗しても、その後も続くのは間違いではありませんでした」 しゅんさん(撮影/上田耕司)   相方も一緒に土下座してくれた  最後に、三山が大皿に玉を乗せると、ギネス審判員からいったんは「世界ギネス記録」に認定されたが、審判員がモニターで確認したところ、しゅんさんの失敗が判明。約50分後には番組内で記録が取り消された。  SNS上では「紅白けん玉失敗したよね? 16番の人」などと投稿され、ギネス取り消し後には「けん玉失敗した16番の人、責める人もいるけど何も言えなくなった」「16番の人がいたたまれない」などの投稿などが一斉に上がり、Xでは「けん玉失敗」がトレンド入りした。  終了後、けん玉ヒーローズがガッツポーズをした時にしゅんさんも一緒にガッツポーズをしていた映像が残っている。そのため、「16番は失敗を自覚してるはずなのに、なぜガッツポーズしているのか」という投稿もあった。 「僕はみんなより1秒くらい遅れてガッツポーズをしているんです。あれは成功した時のシチュエーションが決まっていたからです。三山さんが勝どきを上げるので、みんなでエイエイオーと言うことになっていました。その場合は『喜んでください』という指示がありました。失敗した時にはリアクションなしと決まっていたんですが、みなさんはほぼ誰も僕の失敗を気づいていなかったようで、本気で喜んでいました。僕としては、何が何だかわからない状態でした」  会場を引き上げた後、運営側から「モニターでの確認が入るので楽屋の外でこのままお待ちください」と言われ、しゅんさんと相方のDすけさん、それにもう1人の仲間のプレーヤー3人で、楽屋の外で待っていた。すると、失敗のアナウンスがあり、チャレンジ失敗が判明した。 「僕が楽屋に戻ると、100人以上のメンバーが全員座って待っていました。みなさんに謝りたいという気持ちが真っ先に出て、『すいませんでした』とその場でいきなり土下座しました。相方のDすけは自分は成功したのに一緒に土下座してくれた。みんな誰一人、僕を責める人はいなくて、逆に拍手してくれました。『落ち込まないで』『今後も辞めないで続けてほしい』と励まされました。DJ KOOさんはハグをしてくださり、『落ち込まないで次も挑戦してほしい』と言ってお菓子をくれました。本当にみんな温かくて、それで救われたところがありました」 しゅんさん(撮影/上田耕司)   次の紅白でもチャレンジしたい  とはいえ、しゅんさんは年始はかなり落ち込んでいたという。 「1月3日くらいまで、ずっと部屋にいて、布団の中で引きこもっていました。でも『このままではいけない』と思って、家族やいろんな人と話すうちに、気が楽になった。現在は普通に仕事をしています」  周囲からは「謝らなくていい」とさんざん言われた。 「でも、僕は謝らなくてはいけないと思っていて、チーム全員で挑戦しているからこそ、謝罪も必要な工程です。かといって、ずっと暗くしていてはみなさんに悪い印象を与えてしまうし、これからけん玉を始めようとする人がどんどん離れていってしまう。なので、きちんと謝る姿勢は示したうえで、活動を楽しく続けていくのが僕の使命だと思うようになりました」  しゅんさんは「もしかめブラザーズ」を通じて、けん玉を広める活動をしている。東京・足立区の商店街で通行人に声をかけて一緒にけん玉をしたり、やったことがない人にけん玉の魅力を伝えたりしている。 「私はけん玉を始めてからまだ2年ですが、けん玉というツールがあることで、知らない人とでもどんどん仲良くなれるし、日々、新たな発見があります。けん玉は自分一人で完結することもできますが、誰かと一緒に練習することもできます。気軽に始められるし、いろんな人と出会えて、自分の居場所を持てるのはすごくいいところだと思います」  そして、最後にこう締めくくった。 「紅白で落としたという事実とはこの1年間ずっと向き合っていくことになると思います。だからこそ、成功するまでは絶対に辞められない。次に挑戦するまでは、絶対にこの気持ちは変わりません。次の紅白で『けん玉チャレンジ』があるかはわかりませんが、あったらぜひ挑戦したいですね。成功したら気持ちが晴れるだろうし、もしまた失敗しても、僕が前向きにけん玉を楽しんでいる姿をみなさんに見ていただきたいです」  次の紅白では、失敗から這い上がったしゅんさんのガッツポーズを見てみたい。 (AERA dot.編集部・上田耕司)
紅白歌合戦NHKけん玉チャレンジ
dot. 2024/01/18 11:00
性差の基礎研究に挑む薬学者(53)「自分のコアが固まっていった」のは米国から帰国後だった
高橋真理子 高橋真理子
性差の基礎研究に挑む薬学者(53)「自分のコアが固まっていった」のは米国から帰国後だった
  性差薬学者として活躍する黒川洵子さん(53)  男と女は病気になったときに違いがはっきり出ることがあるので、薬は男女の差を理解したうえで処方する必要がある――この考え方を「性差薬学」として日本に広めているのが、静岡県立大学教授の黒川洵子さんだ。  6年間滞在した米国で不整脈にかかわる心臓の分子機構を研究し、それが評価されて東京医科歯科大学の助手になった。そこで長男を出産、大学の女性研究者支援室の活動に受動的に参加するなかで「女性の健康を守る医療を支える基礎研究が足りていない」という課題に気づく。そこから「性差薬学」という新しい分野への挑戦が始まった。(聞き手・構成/科学ジャーナリスト・高橋真理子) 性差は基礎研究でも注目 ――「性差薬学」への注目が高まっているそうですね。  ええ、新薬が市場に出てから撤退するケースについて理由を調べたら、8割が「女性での有害事象の多さ」だったことが大きなきっかけになりました。  新薬の開発には長い年月と多大なマンパワーがかかり、撤退は開発した会社の損害にとどまらず、基礎研究を重ねた科学者や開発を支援した公的機関、そして何より、新しい薬を待ちかねていた患者にとって大きな損失です。思いがけない有害作用を受けてしまった女性たちにも申し訳ないことで、それで開発段階から性差に注目すべきだという考えが広まってきました。さらに、もう一つの背景として個別化医療が注目されてきたことがあります。 ――個別化医療というのは、患者一人一人の体質や病態にあった治療法のことですね。昔はオーダーメイド医療とかテーラーメイド医療とも呼ばれていた。政府も大きな予算をつけて推進してきました。  まず行われたのは、患者や健康な人の遺伝子を調べて、その個人差を医療や予防につなげようという取り組みです。ところが、個人差はたくさんあって、それを調べて病気の診断や予防が前より良くなるかっていうと、劇的には良くならなかった。どうしてか。個人差はお互いに関係していないものがたくさんあって、そういう情報をいくら合わせてもばらつきが増えてしまうんですよ。  そこで、男女で真っ二つに分けて解析すると、性別によるばらつきを減らせて、意味のある情報をとりだしやすくなるのではないか、そして、予測率の高い個別化医療が可能になるのではないか、と考えられ始めたんですね。 ――なるほど。  生殖器以外の臓器について性差を考慮する研究が欧米で本格的に始まったのは1980年代後半です。日本では、1990年代に天野恵子先生が性差医学を紹介され、臨床の現場で「女性外来」をつくるなどの取り組みがなされるようになったんですが、基礎研究の領域では変化があまり起こらなかった。  それが2015年ぐらいから、ようやく基礎研究でも性別を考慮する動きが広まってきて、最近は性差を論じた基礎的な医学論文もたくさん出ています。 ――2015年というと、黒川さんが静岡県立大の教授になるころですね。 心臓の細胞の電気活動を計測する装置に向かう黒川洵子さん=2014年1月、静岡県立大学、黒川洵子さん提供  私は男女差の研究を薬や医療にも生かしたいと教授選で言って、静岡県立大に行きました。心電図には男女差があるということは心電図が生まれたころからわかっていたんです。でも、その原因は説明がつかなかった。そこに一石を投じる発見をしていたので、これを発展させて循環器系の性差を理解したいと熱く語りました。 研究の方向性が決まった  そんなふうに自分のやりたいことがはっきりしてきたのは、東京医科歯科大学で准教授になってからです。それまでは薬学研究者として「言われたことは何でもやります」みたいな感じでした。  当時、出産・育児と研究の両立を支援しようという国の政策があって、医科歯科大が対象校に採択され、女性研究者支援室ができました。子育て中だった私は最初から委員に呼んでいただけた。支援室長に就任されたのが、内科医で特任教授の荒木葉子先生で、学内に保育園も、派遣型病児保育の利用制度も立ち上がって、みるみるうちに環境が良くなりました。うちの息子も学内の保育園に何度かお世話になり、本当に助かった。病児保育制度は使わずじまいでしたが、いざというときに使えるというのは大きな安心感でしたね。  荒木先生は性差医学にご興味をお持ちで、「医学研究にも関連させたいわね」って最初からおっしゃっていて、それで内外の性差医学の専門家をお招きして講演していただくシリーズをやったんです。私は委員として事務局をやりました。はじめは、すごく受動的だったんですが、国際的に著名なベルリン大学の女性教授や、先ほどの話に出た天野恵子先生らをお招きし、直接お話を聞くなかで徐々に自分のコアが固まっていき、研究の方向性が決まりました。 当初は「うさんくさく」感じていた ――そう決意したころ、薬学の世界では性差は注目されていなかった。  そうなんですよ。あのころは、少ない回数の実験の結果を都合良く解釈して、男の人はこう、女の人はこうと決めつけるような話も横行していて、むしろ性差研究は科学的な見方をする人から反発を受けていました。  そもそも、男女の差を科学的に調べるには大人数を集めた研究が必要なんです。人は個人差が大きいので。ましてや薬の効果を調べるとなれば、病気の状態だって個人で全然違うわけじゃないですか。国レベルどころか国際レベルの大型研究が必要なんですよ。でも、その時代、そういうのは行われていなかった。にもかかわらず、話題性があるからと、男女差を決めつけたような情報が拡散していることに対し、私も一科学者として、うさんくさく感じていました。 ――それなのに、なぜ? 道端の草木の葉を見るとどんな虫がいるかわかると説明する、虫好きの黒川洵子さん  自分の研究結果では、明らかに性差があったんですよ。実験には自信があった。そして、臨床の話ともよく合っていました。  実は、私が研究している不整脈領域では、細胞レベルで病気をかなり正確に再現できるんです。化合物をふりかけたり、異常な電気刺激を与えたりして、細胞に不整脈を起こさせる。ノーベル賞の受賞対象になったパッチクランプという方法を使うんですけどね。私、その実験が大好きなんです。やめられない止まらない(笑)状態になって、若いころはよく徹夜しました。  最初に私が使っていたのはマウスの細胞ですが、山中伸弥先生が発見したiPS細胞の技術を使えば、ヒトの心臓での証明もできるかもしれない、これはいけるかもしれないと思いました。  最近は「いいところに目をつけたね」なんて言ってくれる人もいるし、「女の人ならではの研究だね」とも言われます。別にそれでいいと思う。自分が女であることは事実なわけだから。私は授業でも妊娠・出産の体験談をよくするんです。薬学部では体のことを教えるんだから、妊娠・出産の話は経験者の私に任せてって言っています。 草むしりも虫も好き ――生い立ちを聞かせてください。  東京の郊外で生まれました。父は会社員で母は専業主婦、私は一人っ子です。幼いころ、岡山の祖父母の家によく行きました。大きな農家で、私は草むしりが大好きだった。毎日やっていると、違うのが生えてくるのが楽しかった。飽きもせず、隅から隅までむしっていました。虫も好きでした。今も好きです。  小学校は楽しかった。勉強も好きだし、先生も友達も大好きで、学校の先生になりたいと思ったことはあったけれど、運動が苦手だったので小学校の先生は無理だろうと思ってた(笑)。  塾に行くようになって算数の楽しさを知ったのと同時に「上には上がいる」とわかって努力の大切さを知りましたね。それ以来、座右の銘は「勤勉」です。「己を知る」ということも自分に常に言い聞かせています。幸い、中高一貫の私立女子校に受かりました。 ――進路はどんなふうに考えていたんですか?  私はなかなか絞れなくて。中学に入ってからは国語が一番得意になったんです。本もたくさん読んでいたので、周りから見たら私は文系だったんですよ。でも、得意を生かすっていうより、職業をどうするかだからねって思って。 珍しい昆虫を観察するために息子と一緒に行った北海道・利尻島。暇さえあれば、東京・高尾山などの近場から沖縄・石垣島などの離島まで、各地を回って自然観察にいそしんでいる=2020年8月、黒川洵子さん提供 ――職業に就くという意識ははっきりあったんですか?  ありました。将来、結婚して家庭を持つようなことはないだろうと、なぜか思っていて。1人で生きていくためには一生働けるような仕事を持たないといけない。自分の強みって、アイデアをポンポン出したり、周りを巻き込んでそれを一緒にやったりすること。そういうのを生かしていけたらいいなって考えていました。 「あるがままを見る」が原点  そのころ、テレビに何かを開発した若い女の人が出たんですよ。ちょっと記憶が定かでないんですが、キティちゃんだったかなあ。会社員として出した自分のアイデアで世の中の人が喜ぶって、なんて素敵なんだろうって感動したんです。それで、会社に入って自分のアイデアを世の中に出したいと漠然と思うようになった。  東京大学理科Ⅱ類に入って、はじめは有機化学が面白いと思い、薬学部は有機化学が強いと聞いて、理学部とどちらにするか迷ったすえ、薬学部に進学したんですが、入ってみて迷いだした。自分はそれほど有機化学を好きじゃないと気がついたというか。  そんなとき学生実習で心臓の薬理をやったら、心底、面白かったんです。動いている心臓を見ながら、何かぐっとくるものがあった。今思うと、原点は、幼少時の草むしりかもしれない。自然のあるがままを見るということが私の興味の原点だと思います。 ――修士課程はその研究室に?  はい、循環器薬理の研究室です。教授は製薬会社で新薬を開発してから東大に移った長尾拓先生で、「これからは女性の時代だよ」「日本は人口が減っていくんだから、優秀な女性が認められる社会じゃなかったらダメだよ」というようなことをよくおっしゃっていた。それですごく勇気づけられましたね。  修士を出たら就職したいと伝えると、長尾先生は「いや、行かないほうがいいよ」とおっしゃった。「会社の研究所に入ってから女性が博士号を取ると言っても大変だから、博士号は大学で取っちゃったほうがいい」って。それで博士課程に進んだら、その研究室では私が博士に進んだ初めての女性だった。 ――へえ。  博士課程を終えたときも会社に行きたいという思いを捨てられなかったんですが、先生は「何言ってんの。海外に留学して、もっと外の世界を見たほうがいいよ」って。まあ、そのころは半分、アカデミア(学術界)に残って個人研究を進めるのもいいかなと思っていました。後輩に教えるのもすごい楽しかったし、研究も楽しかったので。このときはもう結婚していたんですけど、1人で海外留学することにしました。 ――いつ、どういう方と結婚したんですか?   家族そろっての七五三参り。右端は黒川洵子さんの母=2010年11月、文京区の根津神社、黒川洵子さん提供  博士2年のときに大学の同期と。彼は修士を出て会社に入りました。周りを気にせず、自分がやりたいことをやるというあたりが、気が合ったんですね。私の留学を夫はすごく後押ししてくれた。  留学先は基本的に自分で探しました。私がすごく感動した論文があって、それを書いた米国コロンビア大学の先生に長い手紙を書いたんです。それが正しいやり方なのかよくわからなかったのですが、ポスドク(博士号取得後研究員)として仕事をしたいと伝えました。そうしたら、なぜかコロンビア大の別の先生から「来てほしい」という手紙が来た。  長尾先生に相談したら「それも何かのチャンスだから行ってみたら」と言われ、行くなら日本で奨学金を取っていったほうが自由に研究できるとアドバイスももらった。それで民間財団から取りました。アメリカは実力次第なのですが、私の場合は英語が苦手というハンデがあったから、この奨学金にとても助けられました。  奨学金の申請時期の関係で、コロンビア大に行く前に米国ジョージタウン大学に行って実験技術を学び、その技術をベースにして研究を進めました。ボスはすごく忙しい方で、基本的には自分で自由にやって、運動して心臓の拍動が速くなるときに出るホルモンが心筋に作用して心筋の電気的なリズムも速めるという仕組みを細胞レベルで再現することに成功しました。その論文はサイエンスに載ったし、今も引用されているので、すごく良かった。 ――米国ではずっと一人暮らしですか?  いえ、夫は、私が行ってから4年目に米国勤務の希望が通ってやってきました。日本では子どもがいる女性研究者をほとんど見たことがなかったのに、アメリカには普通にいる。産むならアメリカだよねって言っていたけど、残念ながら、そうはいかなかった。  そのころ、医科歯科大の古川哲史先生から突然メールが来て、最後に「もし日本の方じゃなかったら日本語でメールを書いてごめんなさい」って書いてあった(笑)。サイエンスに出た論文を見て連絡をくれたんですね。最初は笑ってしまったけれど、日本人の名前であっても日本語を話せない方もいらっしゃるから、気遣いですよね。優しい先生だなと思いました。  9.11の同時多発テロが起きてから、米国も住みにくくなったと感じていたところで、お誘いを喜んで受けました。調べてみたら古川先生は重要な論文をたくさん出していて、循環器内科の臨床もされていて、基礎研究もされているすごく立派な先生だった。  日本に帰り、助手に着任してまもなく妊娠がわかったんです。すぐに教授室に飛んで行って「先生どうしよう!」って言ったら、先生もびっくりしながら「いや、おめでとう」っておっしゃってくれた。  古川先生は必要以上にフォローせず、淡々と研究のことについて話す感じで、すごくやりやすく感じました。子どもが0歳のときも米国で学会発表したし、実験をやりに遠くの大学まで出張することもありました。自由にできた一方で、できないときにはいつでも断れる感じでした。こういう雰囲気づくりは、自分が上司になったときにも気をつけようと思っているポイントで、古川先生から多くを学びました。 ――日本には彼も一緒に帰ってきたんですか?  はい、ずっと一緒に住んでいます。帰国したとき、私の父は亡くなっていて、母は東京郊外で一人で暮らしていた。長男が生まれてから、大学から数駅離れたうちまで2時間近くかけてときどき手伝いにきてくれましたけど、やがてそれでは回らなくなり、もっと大学に近いところに母ともども引っ越しました。  母とは同居ではなく近居ですが、子どもの晩ごはんを作ってもらえたりして、本当に助かった。自分たちで何とかしようと頑張りましたが、母の協力なくしてはやりきれなかったと思います。静岡県立大に就職してから、母も一緒に新横浜駅の近くに引っ越しました。 家事はできるほうがやれば良い  母が近くに来る前に、私は切迫早産をやっているんですよ。これは早産しそうという状態で、絶対に安静にしていなければいけない。でも、入院しませんでした。先生に「女の人は家にいるとご主人の朝ごはんとか作らないといけないでしょ」って言われましたが、「あ、私は何もしません。ご心配なく」って。 ――(笑)。それは結婚当初からそうだったんですか?  そうですね。家事は、できるほうがやれば良いというか。ただ私、料理をするのが好きなんですよ。好きだからやっていました。女だからやっているっていう感覚は1ミリもなかったですね。他の人に手作りケーキを振る舞ったりするのも大好きで。その代わり掃除は大嫌い。だから、ルンバです。夫婦そろって嫌いだったので、機械で解決しようって。ルンバはどんどんバージョンアップして、外出先から携帯でピピッてやると勝手に掃除をしてくれます。 性差薬学のこれからについて語る黒川洵子さん(53)   ――ルンバが活躍するには片づけが必要ですよね。  最初からルンバのために家具を買い、ルンバが通れるようにするんです。床に物を置くなんて絶対許されません。うちはルンバファーストです。 ――素晴らしい。  静岡県立大は、キャンパスが広々として綺麗だし、美術館も近くにあって、文化的にも見るべきものが多い。自然もいっぱい、食べ物やお酒もおいしい。自宅から1時間半で着きます。もっと新幹線の便が多ければ最高ですが(笑)。 学生の成長を見られる幸せ  大学からは富士山がどーんと見えます。実験室の面積は医科歯科大のときの2倍ぐらいかな、ラボにいる人数も多いけど。学生も真面目で熱心で、教えがいがある。学生が成長するのを間近で見られるこの環境は、本当に幸せ。彼ら彼女らと良い研究がしたいと、心から思います。個人で研究をするより、ずっと楽しい。 ――これからやりたいことは?  世界に向けて「こんなメカニズムがあるんだったら、男の人と女の人で薬物治療を別々に考えないとまずいよね」っていう説得力のある基礎データを研究室員と一緒に出したいですね。  いま注目してるのは、感染症になったときの症状の出方が男女で違うことです。感染によって体中で炎症反応が起こると、臓器障害が起きて重症化する。性ホルモンが全身の臓器で性別による違いをもたらすことはよく知られていますが、最近は他のメカニズムも複雑に絡みあっていることがわかってきて、私はX染色体の遺伝子に目をつけています。炎症反応をつかさどる遺伝子がとくにX染色体にたくさんあるんですよ。  性差薬学研究は、これまでの平均値でとらえていたライフサイエンスからの脱却とも考えられます。そういう意味では、ライフサイエンスの変革を牽引する分野なんです。 黒川洵子(くろかわ・じゅんこ)/1971年東京生まれ。1993年東京大学薬学部卒、1998年同大学院薬学系研究科生命薬学専攻修了、博士(薬学)。米国ジョージタウン大学、米国コロンビア大学での研究を経て2004年9月~2006年6月東京医科歯科大学難治疾患研究所助手、2006~2016年同助教授・准教授、2016年11月~静岡県立大学薬学部教授。
dot. 2024/01/16 17:00
吉高由里子「光る君へ」視聴率最低スタートでも“余裕”のメッセージを出したワケ
丸山ひろし 丸山ひろし
吉高由里子「光る君へ」視聴率最低スタートでも“余裕”のメッセージを出したワケ
吉高由里子    1月7日よりスタートしたNHK大河ドラマ「光る君へ」で主演を務める俳優の吉高由里子(35)。本作は平安時代中期を舞台に、「源氏物語」を書いた紫式部の人生を描いていくが、初回の平均世帯視聴率は12.7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)と、大河ドラマの初回視聴率としては過去最低となった。  これ対して吉高はは9日、自身のXで即座に反応。「ワースト1位と書かれていたけどワーストだってベストだって1位を取るのは狙っても難しいことだと思うの」とつづり、「面白い番組が沢山ある中、下剋上大河として最後には沢山の人に愛される作品になっていたらいいなと思う今日でした」と“余裕”も感じさせるコメントを出した。  ポジティブな吉高らしいコメントだが、“下剋上大河”という言葉からは、次回以降への自信もうかがえる。実際、SNS上では「光る君へ面白かったけどね」「吉高さんが主演ということで初めて大河の1話目観ました」など、これからに期待する声も少なくない。また、初回は吉高の出演シーンがなかったため、吉高が登場すると視聴率も伸びていくのではという見立てもある。 朝ドラでブレイクする前の吉高由里子。まだ少しギャルっぽい雰囲気も残っている(2012年)   オフの日も役作りに没頭 「吉高は2014年放送の朝ドラ『花子とアン』でもヒロイン役を務めるなど、若いころから主演級の女優として活躍してきました。一方、無邪気さや気さくなイメージもあってか、実力派という印象は薄かったのですが、最近は多彩な演技力が評価されています。昨年放送された『星降る夜に』では、35歳の産婦人科医という役どころで、彼氏と一緒のときはかわいらしく、女医としてはしっかりしていたりと、表情豊かに10歳年下の彼とのラブストーリーを好演。また、21年放送の『最愛』では、殺人事件の重要参考人となった実業家役でしたが、女子高生時代のシーンも本人が違和感なく演じました。天真らんまんな少女からキリっとした大人の女性、また陰のあるミステリアスな雰囲気の女性を演じ分けるその表現力は高く評価されました」(テレビ情報誌の編集者)  吉高はほんわかとした笑顔とは裏腹に、役作りにはストイックに取り組むタイプだ。  例えば、20年公開の主演映画「きみの瞳が問いかけている」では、視力を失ったヒロインという難役に挑戦。その役作りのために、監督と盲学校や視覚障がい者生活支援センターへ取材に行ったり、普段から相手と目を合わせずに会話をする練習を積んでいたとインタビューで明かしていた。さらに、オフの日には白杖をついて歩いたり、目隠しをして料理もしたという(「映画.com」20年10月23日配信)。 ジュエリードレッサー賞の20代部門で受賞した吉高由里子(2014年)   30代になって私生活が落ち着いた  また、今回の大河ドラマ「光る君へ」でも、今まで自身が触れてこなかった書道や琵琶、乗馬、舞などを役作りのために習っていると告白(12月11日の初回試写会)。普段は左利きだが劇中では文字を書くのが右手ということで、筆のシーンの撮影前には30分ぐらい時間をとって、書く練習をしてから本番に入っているとも明かしていた(「ORICON NEWS」1月5日配信)。  プライベートも含めて「30代になって吉高は変わった」と言うのは民放ドラマ制作スタッフだ。 「吉高さんは20代のころは恋多き女性で、ミュージシャンや人気俳優と多くの浮き名を流してきました。酒豪としても有名で、この頃は『お酒を飲むと“二重人格”になる』と共演者から言われていたほど。しかし、近年は昨年6月に一般男性との熱愛が報じられたくらいで、浮いた話やヤンチャ話はほとんどありません。30代になって、かなり落ち着いてきたと思います。その一因として、『花子とアン』が終わった後の26~7歳のころに、約2年間休養したこともあると思います。これをきっかけに仕事のペースをゆるやかにしたことで、公私ともに慌ただしさから解放されたのではないでしょうか。今は一つの作品に集中するというスタンスだからこそ、近年は出演作に外れがないのかもしれません。今は俳優として心技体が充実しており、確かな演技力が発揮できる状態なのだと思います」 「花子とアン」でのロケシーン(2013年)   紫式部はこれまでにない新境地  芸能評論家の三杉武氏は吉高についてこう述べる。 「吉高さんといえば、出演CMなどで見せる明るく人懐っこいイメージが広く浸透していますが、近年は主演ドラマ『最愛』をはじめ、シリアスな演技に注目が集まる機会が増えています。もともと、20代前半の時から主演作以外でもドラマ『ラブシャッフル』や映画『横道世之介』など数多くの作品で存在感を放っていましたし、中でも複雑な内面を抱える殺人者を演じた映画『ユリゴコロ』の熱演は印象深いですね。視力を失ったヒロインに扮した『きみの瞳が問いかけている』でもリアリティーのある演技で作品に厚みを持たせていました。今回の『光る君へ』の紫式部役もこれまでにない新境地となるでしょうし、視聴率はこれからどうなるかまだまだわかりません」  視聴率に対して吉高が“余裕”のメッセージを発したのも、積み上げてきた実績と自信の表れなのかもしれない。 (丸山ひろし)
吉高由里子光る君へ
dot. 2024/01/15 11:00
哲学に命を「救われた」 生きることを諦めそうになった著者が自問の大切さを綴る一冊
千葉望 千葉望
哲学に命を「救われた」 生きることを諦めそうになった著者が自問の大切さを綴る一冊
関野哲也(せきの・てつや)/1977年、静岡県生まれ。フランス・メッス大学哲学科学士・修士課程修了後、リヨン第三大学哲学科博士課程修了。哲学博士。生きる=哲学することという考えを追求する日々。著書に『池田晶子 語りえぬものを語る、その先へ』がある(撮影/写真映像部・松永卓也)    AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。  フランスで哲学の博士号を取り、翻訳や研究に勤しむ著者の関野哲也さんが発症した双極性障害。大事にしていた仕事を辞め、職を転々とする苦しい日々の中で悩み、もがきながらたどり着いたのは、「考えることは、未来の扉をノックすることだ」という発見だった。さまざまな哲学者を紹介しながら自ら問いを立てる大切さを説き、「哲学すること」へと読者を誘う一冊となった『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた 哲学、挫折博士を救う』。関野さんに同書にかける思いを聞いた。 *  *  *  パソコン画面の向こうで関野哲也さん(46)は少し緊張していた。じっくり考えながら質問に答える表情には、真面目な人柄がにじみ出ている。  関野さんは少年時代から憧れていたいとこを追いかけて宗教系の高校から大学へと進み、仏文科で哲学と出合った。その宗教団体から派遣されてフランスへ2度留学。帰国後は職員として勤務し、教義をフランス語に翻訳・通訳することを仕事としていた。 「当時は仕事を終えると寮に帰ってごはんを食べ、夜11時まで勉強。朝は6時に起きて仕事に行く。それを2年間続けましたが、苦労とはまったく思いませんでした」 「この仕事が天職」と思えるほどに充実した日々だったが、32歳で双極性障害を発症。仕事も休みがちで、留学させてくれた宗教団体に申し訳なく、悩みは深まるばかりだった。 「アパートで寝ていても苦しくて、生きている意味がない、死にたいと思うようになるんです。でも哲学の問いから世界を眺めると、解けない謎がたくさん見えてきました」  もちろんその謎は簡単に解けるものではない。たとえば「神とは何か」「私とは何か」「生きるとは何か」「死ぬとは何か」。考え続けるうちに生きる方向に無理やり持って行かれてしまい、死ぬタイミングを逃してしまったという。哲学とは簡単な回答を与えるものではなく、考えれば考えるほど次の問いが生まれてくるからだ。根源的な問いを置いて死ぬわけにはいかない。  だが、日常生活は苦労の連続だった。宗教団体を辞め工場や介護施設に勤務するがうまくいかず、職を転々とする。39歳で哲学博士号を取得し、研究職をめざしたが叶わなかった。苦しみの中で言葉を吐き出したのは「X(旧ツイッター)」である。真摯な書き込みに目をとめた編集者から連絡が入り、執筆を勧められた。 「3カ月は書けずに呻吟しました。それまで論文は書いてきたけれど、論文なら自分を出さなくてもいい。でも本は自分を出さなくてはならず、そこで苦しみました」  関野さんは「X」仲間に相談する。その時返ってきたのは「ローマ帝国時代の哲学者・神学者アウグスティヌスの『告白』みたいなものを書いたらどうですか?」というアドバイスだった。本書の第二章に当たるのがその「告白」である。苦しみに満ちた自分の来し方をさらけ出した文章は迫力があるが、対象を10代に設定していたこともあり、誰が読んでもわかりやすい。 「書き始めたら2カ月で全部書けてしまいました」  さまざまな哲学者や文学者の言葉を読み解きわかりやすく綴った本書は、哲学入門として、また挫折した人間が「哲学する」ことを通じていかに生き直せるかを伝える記録として、胸に迫る。 「哲也」という名前は哲学からつけられたものだという。その名の通り、これからも一生かけてこの人は問いを立て、考え抜いていくのだろう。 (ライター・千葉望) ※AERA 2024年1月15日号
AERA 2024/01/15 10:30
【動画でことわざ】宮藤官九郎「忘れるんですよね」 中村七之助「びっくりです!」 二人が明かした近況とは
熊澤志保 熊澤志保
【動画でことわざ】宮藤官九郎「忘れるんですよね」 中村七之助「びっくりです!」 二人が明かした近況とは
宮藤官九郎(くどう・かんくろう 左):1970年7月19日、宮城県生まれ。2001年、脚本家として映画「GO」で第25回日本アカデミー賞最優秀脚本賞受賞。以降も様々な話題作の脚本・演出等を手掛ける/中村七之助(なかむら・しちのすけ):1983年5月18日、東京都生まれ。十八世中村勘三郎の次男。86年、初お目見得。歌舞伎舞台以外にも映画「真夜中の弥次さん喜多さん」等の映像作品に出演(撮影/写真映像部・高野楓菜)たり    演劇やドラマで旋風を起こしてきた脚本家・宮藤官九郎と、中村屋に生まれ、父の遺志を受け継いだ歌舞伎俳優・中村七之助は、とても気が合う。AERAでは二人のインタビューを刊行、2024年1月15日号に掲載している。取材時、二人は実感した格言やことわざを、動画で明かしてくれた。果たして二人の近況とは――? *    *  *  まず、気さくに話してくれたのは、宮藤さんだ。 【二人の対談はこちら<前編>】 宮藤官九郎、七之助に「現世にいないですよね」 歌舞伎のスピード感に感嘆 https://dot.asahi.com/articles/-/210942 宮藤官九郎: 七之助さんと対談する宮藤官九郎さん。「現世にいないですよね。持っているものが全然違う」(撮影/写真映像部・高野楓菜)   宮藤官九郎です。  ぼくが肝に銘じていることわざはですね、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」です。  なんでかっていうと、忘れるんですよね。自分がなんなのか、というのを。  それで時々、ものすごい横柄な態度をとってしまうことがある、スタバの店員さんとかに。  その時に、「あっ、ヤバい、おれ、『実るほど』だ。頭垂れなきゃ!」って。急に、「あぁすみません!!」ってなることがある。常にそうしてます、うん。よろしくお願いします。実るほど頭垂れてなかったら、言ってください。    実るほど頭を垂れる稲穂かな――。  経験を積み、仕事にも慣れてきたビジネスパーソンも参考になる、さすがの視点ですね。    続いて、朗々とお話してくれたのは七之助さん。 中村七之助さん: 宮藤さんと対談する中村七之助さん。「虫も魚もくさやも演じたことがあります」「宮藤さんの作品には強い歌舞伎味を感じます」(撮影/写真映像部・高野楓菜)  私が最近思う四字熟語は、「一期一会」ですね。  やはり私、舞台人なので、舞台にはその一日一日、違うお客様が来られるので、その人のために努力をしなくちゃいけないな、と改めて、いつもそれを肝に銘じて舞台をつとめています。  プライベートでは、「継続は力なり」という言葉があります。  私、今年(2023年)くらいから、パワーブリーズという呼吸筋トレーニングの器具を買いまして、やっているんですけど、まあ、毎日、朝30回、夜、30分やるんですが、あまり見た目に出てきたりはしないんです。  なんですが、最近、階段とか走っても、息が切れないようになりました。これはびっくりです。  皆さまも「継続は力なり」、何か試してみてください。  中村七之助でした。    せわしない現代社会、平日は忙しくしている社会人が多いのでは。走っても息が切れない、というのは実にうらやましいですね。  2024年は始まったばかり。日常的にできるちょっとしたことを新しく始めてみるのもいいかもしれません。  舞台について、歌舞伎について、フランクに語る二人の言葉からは、新しい発見がいっぱい。二人のトップランナーの情熱を感じる対談でした。 ※AERAオンライン限定記事​​   【二人の対談はこちら<後編>】 中村七之助「宮藤さんには強い歌舞伎味を感じます」 “誰もやっていない”をやり続ける https://dot.asahi.com/articles/-/210995
宮藤官九郎中村七之助
AERA 2024/01/13 10:30
Xのフォロワー数26万超え、駐日ジョージア大使ティムラズ・レジャバはどのようにして大使になったのか
Xのフォロワー数26万超え、駐日ジョージア大使ティムラズ・レジャバはどのようにして大使になったのか
X(旧Twitter)のフォロワー数26.6万人。何度も壁にぶつかり、日本とジョージアの「架け橋」になった(撮影/門間新弥)    今、最も日本で有名な「駐日大使」といえば、ジョージア駐日大使のティムラズ・レジャバの名前が挙がるのではないか。X(旧Twitter)のフォロワー数は26万超え。ジョージアだけでなく、妻が作ったお弁当や親戚の子どもたちまで登場する。レジャバが父の仕事で来日したのは4歳のとき。日本には思い入れも強い。まさにジョージアと日本の架け橋となっている。 *  *  *  戸をあけ放った広間に日が差している。  2023年10月6日、北陸視察中の駐日ジョージア大使、ティムラズ・レジャバ(35)は、福井の名勝、養浩館の茶席に招かれた。正座に慣れない外国人向けの椅子と机が宛(あて)がわれる。和菓子が机に載せられ、畳に座った婦人が、「きんとんです。紅葉で色づく山を表しています。お召し上がりください」と勧めた。  レジャバは深く一礼し、菓子皿を持って腰を浮かすと、そろりと畳に端座して正面に置いた。 「まぁ、座ってくださるんですか。うわー素晴らしいわぁ」と婦人は感激し、空気がなごんだ。 「ジョージアはワイン発祥の地で、『スプラ』という儀式があります。出席者がそれぞれワインで乾杯しながら自分の経験や思い、教訓を語り、詩や音楽、ダンスを披露します。茶道と形は違っても、場を楽しむことでは相通じると思います」  と、レジャバは日本語で語りかけた。相手の心のひだに触れ、フラットな目線で接する。日を置かず、茶席のようすをX(旧Twitter)にあげて礼を述べた。いまや彼のフォロワーは26.6万人。絶大な人気を誇る。  レジャバは、祖国の期待を背負い、「文化」を軸に外交活動を展開している。「文化を通じた交流は末永い。人と人の心をつなぐからです。まずはジョージアの名前を多くの方に知ってもらい、身近に感じてほしいんです」と言う。  大使在任中に47都道府県をすべて回ろうと考えている。10月の富山、石川、福井の3県訪問で、折り返し点に近づいた。  一方で、国際情勢は激しく動いている。  茶会の翌日、中東のパレスチナでイスラム組織ハマスが、イスラエルに奇襲をかけ、多くの人質を取った。イスラエルは「戦争状態」と宣言して、大規模な空爆による報復を始めた。ジョージア政府はテロ行為に断じて反対する。 4歳で両親とともに来日 ハンドボールに夢中になる  それから数日後、レジャバは作家の村上春樹が09年2月にイスラエルで行った「壁と卵」のスピーチの一部をXに引用した。 〈もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます〉と。作家は「壁」を軍事力、それにつぶされる非武装市民を「卵」に喩(たと)えた。レジャバは〈当時はよく意味が理解できませんでしたが、今はなんとなくその言葉がより身の回りのものとして聞こえてくる気がします〉と投稿した。  富山県庁に知事の新田八朗を表敬訪問。3千メートル級の山々がたたえる水による発電に話題が及ぶと、「ジョージアは国内電力の80パーセントが再生可能エネルギーでございます」と説明した(撮影/門間新弥)    文面から繊細な気遣いが伝わってきた。  北陸視察から50日後、東京でレジャバと再会した私は、「壁と卵」を引いた心情について訊(たず)ねた。村上春樹は壁に「システム」の意味も託していましたね、と言うとレジャバの目の光が強まった。 「そうです。システムです。自分は就職活動なんかも苦手で、決められたシステムへの抵抗感があって、空回りしました。卵の話じゃないけど、自分自身の個性や、考えを大切にしてきました。もちろん社会では、システムを通じて表現しなくてはならないことがあります。バランスをとらなくちゃいけない。そこはとても重要です。でも、完全にシステムに取り込まれたら空(むな)しいですよ」  システムという壁は、もの心ついたころから周りにそびえていた。4歳で生物学研究者の両親とともに来日し、広島に住んだ。広島の小学校に入学したが、間もなく、ジョージアに戻る。米国に移って数年過ごし、ふたたび日本に来て、小学校5年に転入した。一家は目まぐるしく転宅した後、茨城県つくば市に腰を落ちつけたのだった。  モダンなビルが並ぶつくば駅前から西へ、幹線道路を2キロほど下ると、畑とロードサイドのラーメン店が目にとまる。その先の狭い脇道を南に折れ、遊歩道に入る。アカマツやクス、銀杏(いちょう)の巨木が連なり、芝生地に日が降り注ぐ。池には水鳥が浮かんでいる。別世界に迷い込んだようだ。高名な建築家がデザインした戸建て住宅と道一つ隔てて古い県営アパートが立っている。ここがレジャバのホームタウン、つくば市松代地区である。  遊歩道の左に転入した市立手代木(てしろぎ)南小学校の校庭が広がる。友だちはレジャバをファーストネームの短縮形で「テムカ」と呼んだ。家族もそう呼ぶので、テムカのほうが本名らしく聞こえる。  中学に上がる春休み、テムカは友人とハンドボールに夢中になった。運動神経はよく、サッカーやバスケットボールも得意だったが、ハンドボールの虜(とりこ)になる。市立手代木中学に入り、仲間とハンドボール部を新設した。「サッカー部に入ってそれなりに終わるより、新しく何かに挑戦したかった」と本人は言う。公立中学で部活を設けるのは、指導体制の問題もあってかなり難しい。PTAに支援されてシステムの壁を一つ乗りこえた。  とはいえ、1年生だけのチームは弱かった。ユニフォームがなく、体操着で試合をする。コテンパンにやられたが、筑波大学のハンドボール部員のコーチングを受け、腕を上げた。他校の上級生が卒業すると、手代木中は強豪にのし上がる。  中3の夏、手代木中は茨城県大会に駒を進めた。県大会の上位2校が関東大会に出場できる。そこで勝てば全国大会への道が開ける。 知らない人でも仲良しに 異端児ともつき合う  関東大会への出場を懸けた大一番、前半を終わって手代木中はライバル校にリードされていた。  後半が始まる前、コーチが不意に訊ねた。 富山の路面電車を楽しむ(撮影/門間新弥)   「テムカ、ジョージアでは挨拶で勝利を誓い合うって、教えてくれたよな。何て言うんだっけ?」 「ガウマルジョス」と答えた。選手とコーチ、顧問の教師、全員が肩に腕を回して円陣を組んだ。 「手代木にガウマル……」とテムカが叫ぶ。 「ジョス、ガウマル……ジョス、ガウマル……ジョス!」と皆が応じる。士気は最高潮に達した。  惜しくも関東大会には出場できなかったが、松代の住民は手代木中の選手を温かく迎えた。テムカの父アレキサンダーは、自著『手中のハンドボール ガウマル……ジョオオオス!』(牧歌舎)に〈そこ(松代)では誰もが私たちの顔なじみで、私たちの周りにはいつも日本人ならではの密やかな優しさと無言の声援があった〉と記している。  テムカはコミュニティーに溶け込んで成長した。  大学時代からの友人、吉川(きっかわ)龍一(35)は、テムカの案内でつくばの夏祭りを楽しんだときの一場面を鮮やかに覚えている。吉川が語る。 「広場や公園に夜店が出て、ふつうの夏祭りでしたが、ショッピングモールの横に階段があって、地元のヤンキーが大勢たむろしていました。テムカは、そこにずかずか入っていって、おまえたちー何してんだよーって延々と話しかけるんです。知らない人でも声をかけて仲良くなる。ああいうノリでやってきたのか、と驚きました」  テムカが誰とでも接したのは、単に外交的な性格だったからでもない。 「小さいころから、どこに行っても僕はよそ者、変わり者でした。そこで内気になるより、自分の特徴を武器にアピールしていろんな人とつながったほうがいい。それに相手を知ることで自分にない視点や経験、感情に触れられます。だからクラスで誰とも喋(しゃべ)らない人や、異端児といわれた人ともつき合ったんです」と当人は述べる。  茨城県立牛久栄進高校に進学し、身長は180センチを優に超え、体重も増えた。コーカソイドらしい、彫りの深い風貌になるにつれ、テムカの胸にもやもやがたまる。友だちも多いし、何不自由なく暮らしているようだったが、自分が何者か、何をしたいのかわからなくなったのだ。疎外感が募った。どこかで背伸びしすぎていたのかもしれない。「アイデンティティーの危機」に直面した。 福井の老舗味噌蔵「米五」で永平寺御用達の秘伝に触れる(撮影/門間新弥)   追いつめられ何とか就職 先が見えジョージアに帰国  高校2年の夏休み、自らの根っこを確かめようと、ジョージアの首都で、生まれ故郷のトビリシに帰った。すると……あまりにも居心地がよかった。人びとのメンタリティーも顔かたちも似ていてバリアーがない。心のなかの欠けていた部分をとり戻したようだった。 和菓子のなかでは「クルミ柚餅子(ゆべし)」が大好物。東北が発祥の地だと聞くが、いまだに「総本山」にたどりつけていない。梅干しも毎日の弁当に欠かせない(撮影/門間新弥)    たとえば、民族衣装の「チョハ」を身につけると、「これは自分の服だ。長い歴史のなかで継承されてきたものだ」と実感できた。チョハは上半身にピタリと張りつき、裾が長い。のちに今上天皇の即位礼正殿の儀に着用して参列し、映画「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士や「風の谷のナウシカ」の衣装に似ていると話題に上る。  テムカは「ここに残りたい」と親を説得し、トビリシのアメリカンスクールに入った。そのまま欧米の大学に進む選択肢もあったが、1年で牛久の高校に復学する。日本への愛着も断ち難かった。  沖縄出身の辻太一(34)がカナダ留学中にテムカと出会ったのは、09年の夏だった。早稲田大学国際教養学部に籍を置くテムカも、1年間の予定でバンクーバーの大学に留学していた。学校は違ったが、故郷が背負う歴史が似ていてウマが合う。  沖縄は戦後27年間、米国に占領統治された。ジョージアも、長くソビエト連邦に組み込まれ、グルジアと呼ばれた。ソ連崩壊後の1991年に独立し、政治や経済が不安定な時代が続いた。ふたりは「平和」や「文学」の話をした。辻は語る。 「彼はよく胸のポケットに芥川龍之介や太宰治の文庫本を入れていました。ジョージア語はもちろん、英語もペラペラですし、言語能力は高い。そんな彼が、日本語には他の言語にはない美しさがあるって言っていました。外国語ならストレートに言うところも日本語は婉曲(えんきょく)に表現する。そこがとってもいいんだよって強調していました」  テムカにとって文学は心の糧だった。 『高野ヤマト バレンタイン号』という冊子のPDFが私の手もとにある。表紙は背中にタトゥーが入った女性の後ろ姿だ。大学時代にテムカがプロデュースした電子書籍版の同人誌である。執筆者は4人。父と息子がカジノで財産を失(な)くす小説をテムカも載せている。制作担当の吉川は語る。 「表紙をデザインしたのはメキシコ人の学生で、執筆者やカバー写真の撮影者もテムカが集めました。誌名は仲のいい『高野君』と『ヤマト君』という友だちの名前をくっつけたんです(笑)。おちゃらけてますが、テムカの実行力は抜群です。常に何か面白いことをやりたがっていましたね」  こうして思う存分個性を発揮したテムカだが、ついに社会のシステムという厚い壁にぶつかる。就職活動だ。これがまったく肌に合わなかった。2、3社トライしたものの、面接で落とされる。先が決まらず、「やばいな、やばいな」と追いつめられたところで、キッコーマンが海外市場の要員を募集しているのを見つけ、入社試験に受かった。テムカは社会人・レジャバの顔を持った。  ところが、会社に入っても「何も分からない、発言できない、つらい」状態が続く。首都圏営業部に配属され、問屋や小売店を回った。  ある日、自宅にいた吉川は「おお、龍一。おまえんちの近所の根岸商店(1924年創業)に来てるぞ」と電話を受けた。出かけていくと酒店の親父さんとレジャバは仲良く話し込んでいた。が、商談を終え、帰っていく後ろ姿は寂しそうだった。 「海外支社に行かせてほしい」とレジャバは上に直訴した。海外営業部に配属されたが、現地駐在員の生活を垣間見て、限界を感じる。先が見え、2015年に会社を辞めた。そのころ、ジョージアは政治が安定し、経済が上向いていた。 「一か八か、ジョージアに帰ろうと決めました。まったくコネクションはないし、ゼロからの再出発です。仕事は定まってなくて、両親はシンガポールに移っていました」とレジャバはふり返る。 起業後に外務省から連絡 臨時代理大使として来日  トビリシに戻って、旅行会社を立ち上げようとしたが、スタッフがそろわず、断念した。収入もなく、途方に暮れていると貿易業者から日本の自動車部品を輸入するのを手伝ってほしい、とオファーが入る。主にタイヤの買い付けに奔走した。  17年、少し余裕ができて「LLC Delivery」を起こす。スーパーの商品をウーバーイーツ方式で宅配する会社だ。ジョージアではEコマースが浸透しておらず、ライバル会社は数百品目を2、3日かけて顧客に届けていた。レジャバは、3千商品を「45分」で届けるしくみを構築する。消費者ニーズをとらえ、業績はぐんぐん伸びた。  このまま青年実業家への道をまっしぐら、と思いきや、予想外の方向から話が舞い込む。相手はジョージア外務省だった。東アジア、とくに日本との外交戦略を強化したい、興味はないかと打診された。こんなチャンスはめったにない。レジャバは、会社を譲渡して国家公務員試験を受け、採用される。本国で参事官に任命された。日本と韓国の担当デスクを務めて制度を頭に叩(たた)き込んだ。  そして、19年8月、臨時代理大使として来日したのである。吉川や辻は「大使」の肩書がついたレジャバを眺めて「天職だ」と喝采を送った。  各国の大使は、キャリアを積んだ外交官と、民間企業やアカデミアから登用された人材に分かれる。レジャバは後者だ。責任の重さに緊張しつつも「日本もジョージアも固有の文化があって共感できるところは多い。でもまだ距離がある。両国の間に立って距離を縮めよう」と心に期した。  外交は、経済などと違って成果が見えにくい。そのなかでXのフォロワーは数字に表れる。レジャバが身の回りの出来事をユーモアを交えて投稿すると、たちまちバズった。娘が通う保育園のスタッフが、日本語を話せない妻のためにイラストと簡単な英文を添えたメモを送ってくれた。それをアップし、「おもいやり」に感謝すると、4.5万の「いいね」がつく。「親戚の少年」シリーズもフォロワーを集めた。ジョージアから来た甥(おい)っ子がドン・キホーテで買ったお菓子を食べ比べ、梅干しを前に渋い顔をする姿は何とも微笑(ほほえ)ましい。ジョージアの知名度は上がった。  ジョージアは古くて新しい国だ。北にロシア、南はトルコとアルメニア、アゼルバイジャンと接し、西に黒海を望む。北海道の8割強の面積に約370万人が暮らす。1人当たりのGDPは6671ドル(22年:国際通貨基金推計値)と日本の約5分の1にとどまる。08年にはロシア軍の爆撃を受け、いまも2カ所の「占領地域」を抱える。  この国は数千年のワイン造りやキリスト教の伝統を保ちながら新しい活力を求めている。レジャバの奮闘で、素顔のジョージアと向き合う人も増えた。共通の友人の紹介で知り合った和菓子メーカー「虎屋」の社長、黒川光晴(38)は、23年9月、ジョージアを訪ねた。その印象をこう語る。 「大きなワイナリーの収穫祭に参加させていただいたのですが、ジョージアの『食』のポテンシャルの高さをひしひしと感じました。家庭でブドウを育て、自家製のグラッパをつくったりしています。食料自給率の低い日本にとっては、今後、大切なパートナーになるのではないでしょうか」  不易流行という言葉がある。不易は変わらない本質、流行は変化する新しさを指す。両方はつながっている。レジャバは不易流行を噛(か)みしめて、今日も妻がこしらえた弁当の写真をXにあげる。 (文中敬称略)(文・山岡淳一郎) ※AERA 2024年1月15日号
現代の肖像
AERA 2024/01/12 18:00
「板谷由夏」がデビュー24年で花開いた理由 業界人が称賛する「ねっとりとした情念」
雛里美和 雛里美和
「板谷由夏」がデビュー24年で花開いた理由 業界人が称賛する「ねっとりとした情念」
板谷由夏(写真:2017 TIFF/アフロ)    1月からスタートした大河ドラマ「光る君へ」で藤原道隆の嫡妻を演じる板谷由夏(48歳)。昨年秋、初主演となったドラマも話題となり、50歳を前ににわかに注目が集まっている。バイプレーヤーとして高い評価を得ていたものの代表作はなかった板谷だが、最近は新たな道を切り開いている。 「板谷さんは俳優業のかたわら、モデルやニュース番組のキャスターなどもこなしてきました。それに加えて、アパレルブランドを経営する実業家の顔、そして二児の母としての顔もあります。俳優としては、アネゴ肌で知性的な年上女性を演じさせたらピカイチ。本人もキャラクターを意識してか、長らくショートカットをトレードマークにしており、女性たちの支持を得ています。スタッフ受けも良く、ドラマの現場では共演者たちとざっくばらんなトークで盛り上げ、ムードメーカーのような存在です。そんな板谷さんのことを以前“女版ムロツヨシ”と呼んでいた関係者もいます」(テレビ情報誌の編集者)  一方で、ここぞというタイミングでの思い切りの良さもある。デビュー作で6度のヌードシーンを演じ切ったことも語り草となっているが、こうした俳優としての胆力は節目節目で彼女の人生を新しい方向に導いてきた。  過去のインタビューでは、40歳という節目を目前に「私は何もゼロから発信することをしたことがない」「自分の人生について考えたとき、女優だけでいいのかと疑問に思った」と、依頼を受けて成立する俳優という仕事に限界を感じ、ファッションブランドを立ち上げたことを明かしている(「ハルメク365」2019年11月7日配信)。 【こちらも話題】 「蒼井優」が朝ドラで“モンスター俳優”の本領発揮 ママになっても変わらない「孤高」の演技力 https://dot.asahi.com/articles/-/203836 吉瀬美智子(左)とは「ママ友」としても交流があるという   超豪華な「ママ友」人脈  そして50代を目前にした板谷は、また大きな一歩を踏み出した。これまでにない泥臭い役に挑戦することが増え、東京・渋谷のホームレス女性殺害事件を題材にした映画「夜明けまでバス停で」では被害に遭ったホームレス女性を熱演。そして、初主演ドラマ「ブラックファミリア」では、娘を殺害されて復讐に燃える母親役に挑戦。家政婦に成りすまして疑惑の家庭に入り込む被害者の母という難役を演じ切った。 「『ブラックファミリア』では、家政婦を演じつつも、復讐相手を陥れるための別人格も演じることが求められました。それについて、板谷さんは『“なりすまし”の上の“なりすまし”という二重構造』に挑戦したとインタビューで語っていました。この作品で、彼女は俳優として別のステージに進んだように思います」(同)  同ドラマは全10話の1週間見逃し配信再生数が、平均100万回を突破という深夜ドラマとしては異例のヒットを記録した。バイプレーヤーとして器用に役をこなすだけでなく、ねっとりとした情念が絡む主演もこなせる俳優であることを証明した。  また、板谷は芸能人の“ママ友”からも一目置かれる存在のようだ。 「芸能界にはいくつものママ友派閥がありますが、板谷が参加していたのは『渋谷会』というサークルで、篠原涼子を中心に、長谷川京子、吉瀬美智子、井川遥などそうそうたるメンバーがそろっています。2023年1月に吉瀬が新年会の様子をインスタにアップして“豪華すぎるメンバー”として話題になったこともありました。バツイチの篠原と長谷川が、アネゴ肌の板谷に公私にわたってさまざまなことを相談しているそうです」(週刊誌の芸能担当編集者) 板谷由夏(写真:CATARINA-VANDEVILLE POOL/Gamma/アフロ)   テレビ・映画の出演本数は120本超  ドラマウォッチャーの中村裕一氏は板谷の魅力についてこう分析する。 「1999年の俳優デビュー以来、テレビ・映画を合わせた出演本数は120本を超えます。近年の活躍ぶりを見ていると、決して単なる“キレイどころ”ではなく、実力も兼ね備えた俳優として着実にキャリアを重ね、確固たるポジションを築き上げています。特に昨年は『ブラックファミリア』で復讐のために生きる母親として狂気を帯びた鬼気迫る表情を見せ、日本映画批評家大賞の主演女優賞を受賞した映画『夜明けまでバス停で』では実際に起きた事件をモチーフにした作品の主人公として繊細さが要求される中、見る人の心に刺さる深みのある演技を披露しました。語学番組の生徒やニュースキャスターの経験も、彼女の中では結果的に演技や表現のプラスになっているはずです。アラフィフの希望の星として今後も大いに期待したいですね」  50代を前にして、主演としても実績を残し、さらなる成長をみせた板谷。今後はどんな難役に挑戦するのか楽しみだ。 (雛里美和)
板谷由夏光る君へ
dot. 2024/01/12 11:00
「睡眠の質」を下げる8つの悪習慣は? 専門医が提案する睡眠の質を高める4つのポイント
「睡眠の質」を下げる8つの悪習慣は? 専門医が提案する睡眠の質を高める4つのポイント
※写真はイメージです(写真/Getty Images)   「眠りたいけれど寝る時間がない」「いつもなんとなく眠い」。「働き世代」の20代から50代は、睡眠時間の不足と昼間の眠気に悩まされがちです。パフォーマンスを維持するには、最低でも6時間以上の睡眠時間を確保して、さらにできるだけ「睡眠の質」を高めることが重要だそう。そのための注意点や改善法について、専門の医師に聞きました。  この記事は、週刊朝日ムック「手術数でわかるいい病院」編集チームが取材する連載企画「名医に聞く 病気の予防と治し方」からお届けします。「睡眠障害」全3回の2回目です。 *   *  * 【第1回の記事はこちら】 【子どもの睡眠不足】不登校や発達障害に似た症状も 医師「9割はスマホやタブレットの長時間利用の影響」 https://dot.asahi.com/articles/-/209427  日本人の睡眠時間は先進国の中でも最低レベルとされ、質・量ともに改善が必要といわれています。なぜ、睡眠不足になってしまうのでしょうか。日本ではまだ数少ない睡眠専門施設である昭和大学病院東病院睡眠医療センター長の安達太郎医師は、働き世代の睡眠不足について、こう説明します。 「この世代での睡眠障害の主訴は“昼間の眠気”です。仕事や家事、プライベートなどに多忙であるがゆえに、睡眠不足になりやすい。睡眠はパフォーマンスを高め、健康を維持するためにも不可欠ですから、十分な睡眠時間の確保が必須です」  とくに、50代の日本人女性は、世界で最も睡眠時間が短いともいわれています。これについて、日本睡眠学会と、2023年に新設の日本睡眠協会、両方の理事長を務める久留米大学学長の内村直尚医師はこう説明します。 「50代の女性は公私ともに多忙で睡眠時間が削られやすく、睡眠不足になりやすい。加えて、閉経後の女性ホルモン低下や更年期障害から不眠傾向が強まりやすく、夜、眠りたくても眠れない人も増えます。女性が社会でもっと活躍していきやすくするためにも、まずは睡眠時間の確保、眠りやすい環境づくりが大前提です」  睡眠不足は昼間の眠気だけでなく、生活習慣病や認知症、がん、うつ病、自殺などのリスク、さらには死亡率も高めるといいます。こうした状況から、国も睡眠の重要性を再認識し、2014年には「健康づくりのための睡眠指針2014」(厚生労働省)を発表しています。 「20〜59歳に適正な睡眠時間は6〜9時間。平均睡眠時間が6時間未満だと、死亡率が高まるというデータもあります。まずは最低でも、6時間以上の睡眠をとるようにしましょう。2週間以上、熟睡感が得られないなら医療機関を受診する目安です」(内村医師) 眠気の原因は「睡眠時無呼吸症候群」かも  この世代の安眠を妨げる大きな原因の一つは、睡眠時に呼吸が止まる「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」です。「30~69歳の日本人の14%に当たる約940万人が中等症以上のSASと推定されています」と安達医師。睡眠中にいびきや無呼吸、呼吸の乱れが生じるSASは睡眠の質を大きく低下させてしまいます。 「SASは太っている人や首が太い男性に多いですが、顎(あご)が小さくてもなりやすく、やせた女性にもみられます。さらに、加齢による舌や顎の筋肉の衰えや骨格、アレルギー性疾患、鼻中隔弯曲症、副鼻腔炎も関係しているとされています」(安達医師)  SASは自覚しにくいため、ベッドパートナーの指摘で気づく場合がほとんどだそうです。自分で確認したい場合は、睡眠の状況や質が記録できる「ポケモンスリープ」などのスマートフォンアプリ、スマートウォッチ、センサーのついた寝具などが活用できます。 「SASで問題となるのは、睡眠の質の低下だけでなく、糖尿病、高血圧、動脈硬化、不整脈、心不全などのリスクも増加させるという点です。SASの治療は生活習慣病予防においてもプラスの影響が大きいので、まずはアプリなどを利用して発見してほしいと思います」(同)  SASの原因が肥満であれば、減量によって症状の改善が見込めます。専用のマウスピースの装着や横向き姿勢での就寝も、気道が確保され、空気の通りが楽になるため、症状緩和に効果が期待できるとされています。 睡眠の質を高めるには「朝」の過ごし方が鍵  多忙な働き世代は、思うように睡眠時間を取れない日も多いのではないでしょうか。限られた時間のなかでは睡眠の「質」を高めることが大切です。 「SASなど疾患の発見・治療をしたうえで、生活習慣、睡眠環境、嗜好品(しこうひん)のとり方を工夫することが、睡眠の質を高めるために重要です」(内村医師)  ポイントは、「朝起きて、太陽の光を浴びる」「起きて2時間以内に朝食をとる」「日中に適度な運動をする」「夜には明るい光を避ける」の四つです。朝の太陽光が大切なのは、人間のからだは朝に太陽光を浴びることで、夜の入眠を促すホルモン「メラトニン」を脳内生成しているためです。朝食を食べ、適度な運動をすることでからだは目覚め、睡眠と覚醒のリズムにメリハリが生まれます。 「そして、夜にはできるだけリラックスするようにしましょう。からだを活動モードにする『交感神経』を刺激してしまうブルーライトなどの明るい光は避け、ストレッチやヨガ、歌詞のない音楽を低音量で流す、アロマをたくなど、自分にあったリラックス法を試すといいでしょう」(安達医師) 「睡眠の質向上」が期待できるという機能性表示食品やサプリメントもありますが、「薬ではなく食品なので、その効果は限定的。あくまで補助的な使用が望ましいです」と安達医師。  人のからだが最も眠りやすい状態は「体温が下がるとき」。夜の入浴にもこつがあります。寝室の環境づくりについても紹介します。 「お風呂に入ることで体温が上がり、その後、下がることで眠りやすくなります。40度の湯に20分入って、その1時間後が眠るのにはちょうどいいタイミングです。寝室の温度は冬で15度、春・秋で20度、夏は25度程度を目安に設定しましょう。湿度は約60%が最適です。真っ暗だったり静かすぎたりすると眠れない人は、照明の明るさを30ルクス程度に落とし、図書館レベルの音量(40デシベル以下)で音楽を流すといいでしょう。音楽はタイマーで数時間後に切れるようにしておきましょう」(内村医師) 睡眠の質を低下させる悪習慣とは  反対に以下の八つの習慣は、睡眠の質を低下させてしまうので、注意が必要です。   【睡眠の質を下げる8つの悪習慣】 ①1時間以上の昼寝 ②午後3時以降の昼寝 ③夕食・晩酌後のウトウト ④就寝前3~4時間以内の激しい運動 ⑤就寝前のカフェインの摂取 ⑥寝酒 ⑦休日の2時間以上の遅寝 ⑧就寝2時間前以内のブルーライト (内村医師監修のもと、編集部作成)   「昼寝はやり方次第で、睡眠の質の向上にも低下にもなります。①②の昼寝はかえって午後の眠気を増やし、さらに夜の睡眠の質を低下させてしまいます。一方で、15~30分の短時間の昼寝は、午後の眠気を軽減し、パフォーマンスを向上させます。横にならず、座って目を閉じるだけでも効果があります」(内村医師)  カフェインは一日400mgまで(コーヒー換算700cc、マグカップで2杯程度)にとどめ、飲むのは夕方までに。アルコールは飲んだ後に眠くなりますが、3時間くらいすると覚醒するため、夜中に目覚めてしまいやすくなります。お酒を飲むのは夕飯の時間までで、就寝前の「寝酒」はNGです。 「睡眠リズムは2時間以上の遅寝でずれて、時差ボケ状態になってしまいます。2時間以上の夜更かしは避け、休日でも同じ時間に起きるようにしましょう」(同)    こうした心がけをしていても、やむを得ない事情で睡眠不足になる日もあるでしょう。「今日一日をなんとか乗り切りたい」とき、夜の睡眠を妨げずに日中の眠気をとる方法はあるのでしょうか。 「1時間ごとにからだを動かして交感神経を刺激しましょう。強い眠気があれば15分程度の短い昼寝をとるとリフレッシュできます。夕方前なら、100~200mg程度のカフェインを摂取するのも目を覚ますには効果的です」(同)  これらは応急処置的な方法です。日常的な昼間の眠気を解消するには、自分の生活習慣を振り返ってみることが大切。悪習慣を避け、よい習慣を身につけて、毎日快眠を目指しましょう。 (文/石川美香子)   久留米大学 学長 内村直尚(うちむら・なおひさ)医師 1982年、久留米大学医学部卒業。86年に久留米大学大学院医学研究科修了(医学博士)後、87年に米国Oregon Health Science Universityへ留学。帰国後、久留米大学医学部神経精神医学講座に入職し、2007年同教授に就任。同大学病院副病院長、同大学高次脳疾患研究所長、同大学医学部長を務め、20年1月から現職。21年から日本睡眠学会理事長。23年から日本睡眠協会理事長。 久留米大学 福岡県久留米市旭町67番地 久留米大学 学長 内村直尚医師 昭和大学病院東病院睡眠医療センター センター長 安達太郎(あだち・たろう)医師   1995年、昭和大学医学部卒。2008年から3年間、メイヨークリニック(米国)に留学。睡眠時無呼吸症候群や睡眠不足と循環器疾患の関連性について研究。11年に昭和大学医学部内科学講座循環器内科学部門に復職し、22年に准教授。18年から現職。認定資格は医学博士、日本内科学会認定総合内科専門医・指導医、日本循環器学会認定循環器専門医、日本睡眠学会総合専門医・指導医、日本老年医学会認定老年病専門医など。 昭和大学東病院 東京都品川区西中延2-14-19 昭和大学病院東病院睡眠医療センター センター長 安達太郎医師  
睡眠睡眠不足名医
dot. 2024/01/10 16:30
【追悼】八代亜紀さん 実は“マドンナ役”の話も? 八代亜紀の「寅さん」秘話
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八代亜紀(やしろ・あき)/熊本県生まれ。1971年にデビュー。80年に「雨の慕情」で第22回日本レコード大賞を受賞。2021年に芸能生活50周年を迎える。画家としても積極的に活動を行い、「八代亜紀絵画展」が東武百貨店船橋店で2月27日(木)~3月3日(火)に開催予定。(撮影/写真部・片山菜緒子) 小泉信一(こいずみ・しんいち)/朝日新聞編集委員。長年「男はつらいよ」の取材を続けており、著書に『朝日新聞版 寅さんの伝言』『ニッポン人脈記 おーい、寅さん』などがある。2019年に出版された「男はつらいよ50周年 わたしの寅さん」(朝日新聞出版刊)を監修。(撮影/写真部・片山菜緒子)  演歌歌手の八代亜紀さんが昨年12月30日に亡くなっていたことが9日、公式サイトで発表された。73歳だった。所属事務所によると、八代さんは、同年9月に膠原病の一種で指定難病である抗 MDA5 抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎を発症し、療養を続けていたという。八代さんを偲び、週刊朝日2020年2月14日号に掲載された対談を再配信する(年齢、肩書等は当時)。 *  *  * 「男はつらいよ」第49作の主題歌を歌い、自他ともに認める大の寅さんファンでもある八代亜紀さん。朝日新聞の小泉信一編集委員が、主題歌レコーディングの秘話、寅さんの魅力、八代家と「くるまや」の不思議なつながりなどを聞いた。 小泉信一:「男はつらいよ」は昨年、公開50年。八代さんのデビューが1971年で、もうすぐ50年。同じような時代を生きてきたのですね。この50年は、どうでしたか。 八代亜紀:デビュー当時はキャンペーン、キャンペーンで全国を回っていました。 小泉:旅から旅ですね。 八代:寅さんじゃないけど、トランクにレコード、譜面、衣装を詰めて、キャバレーに行って歌ったり、レコード店で歌ったり。それでレコード買ってくれた人と握手して、重いトランク持つわ、何人もの人と握手するわで、手の皮が何回も剥けてました。 小泉:へぇー。夜行列車で旅していたら寅さんみたいな人に出会うこともあったんじゃないですか。 八代:そうですね。でも女の人。ダンサーだと言ってました。キャバレーを回っている。それで、汽車の中で着替えて、同じ駅で降りてタクシーでお店に向かった。なんだか、寂しそうでした。 小泉:寅さんの映画にもリリーという旅回りの女性の歌手が出てきましたね。 八代:私の旅にもリリーがいたのね。 小泉:あのリリーは実際にいた人物なんですよ。釧路のキャバレーだったかな、そんな名前の人が本日出演する、と貼り紙があった。それを山田洋次監督が、こういう仕事をする人がいるのかと思い、浅丘ルリ子さんに演じてもらったんです。それで浅丘さんもこの役が気に入ったそうです。 八代:旅回りの歌手だと私と一緒じゃない。 小泉:八代さんにもキャバレー回りの時代があったんですね。 八代:じゃあ、私はリリーみたいなもんですね。地方回りは2年間やりました。レコードを売るために。それまでは銀座のクラブで超モテモテだったのにね。 小泉:銀座から「ドサ回り」。 八代:そうですね。全国いろんなところを回りましたよ。 小泉:リリーがキャバレー回りの歌手として映画の中で「私の生き方はあぶくみたい」と言っているんです。浮かんでは消えるあぶく。何か少し寂しい感じもしますね。それが伝わってくる台詞です。だから、八代さんのそういう経験も踏まえて、山田監督は49作のときに主題歌を歌ってもらおうとなったんじゃないですか。 八代:主題歌をお願いされたときは、本当に嬉しかったですよ。私、寅さんを尊敬していましたから、ああいう情の深い人がいたらいいなあとずっと思っていて、毎年お正月は「男はつらいよ」を観に映画館へ行ってました。 小泉:そうなんですか。毎年。 八代:そう、そういえば私の座長公演には渥美(清)さんは毎年いらしてくださいました。私たちにはおっしゃらずに、ご自分でチケットを買って。 小泉:渥美さんは一般のお客さんと一緒にご覧になるんです。席も後ろのほうに座るんです。そうすると全体の反応がわかるから。どういうところで人は笑い、どこで泣くか、その場の空気を受け止め、勉強していたんですよ。 八代:「今年も渥美さんいらしてますよ」と聞くのですが、こちらからお声をおかけすることはしませんでした。 小泉:毎年いらしたのは八代さんの座長公演が大好きだったんでしょうね。 八代:心の中で「よっ! 亜紀ちゃん!」とかやってくれていたのかな。 小泉:49作で八代さんが歌った主題歌はブルースですね。 八代:そう、八代ブルース。八代節です。あれは男唄。男心を歌うので、男の人になって歌っていました。 小泉:主題歌は歌われましたが、マドンナのお話はなかったのですか。 八代:私がコンサートに、テレビにとスケジュールが合わなくて、実現しなかったんです。 小泉:どこかの回で八代さんをと、山田監督は考えていたんじゃないですかね。演じるならどんなマドンナがいいですか。 八代:うーん、わからないですね。それは監督がお考えになるから。はるみちゃん(都はるみ)は歌手でしたね。 小泉:そうです。「京はるみ」という売れっ子の歌手。 八代:私も歌手かな。 小泉:寅さんファンの八代さんは、どんなところに魅力を感じますか。 八代:寅さんみたいな人、近くにいそうですよね。家族にいたらいつもハラハラしているんです。言ってはいけないことを言って。でもそれを注意するとヘソを曲げて出ていってしまう。 小泉:でも、そういう人がいる家は結構ありましたよね。 八代:昔は大家族だったから、いろんな人がいましたよね。家族だからみんな変な気を使わない。うちにも昔、酔っ払ってクダを巻くおじさんがいました。「おじさん、はいはい」って、うちの母は仕方なく相手していましたけど。父は飲めないのですが、友だちとか、親戚とかいっぱい遊びに来て、初めは「おやっさん、いただきます」と静かなんですが、酔っ払ってくると、ウエーとなってきて、酒癖が悪くなる。そうすると、父が「いい加減にしろ! クダ巻くんなら帰れ!」と。それで喧嘩になるんです。それに知らないおじさんもいつのまにか交じってうちで飲んでいましたよ。 小泉:映画では時々、タコ社長みたいなのが来て、余計なことを言う。タコ社長は親戚でも何でもない、たまたま隣に住んでいる人なのに。 八代:「男はつらいよ」のくるまやでのシーンは私の日常と同じでした。 小泉:山田監督の考えるテーマは「家族」なんです。 八代:知らない人も家族になれるっていいですね。 小泉:お父さんは寅さんみたいな人だったんですよね。 八代:見かけは違いますけど、本当に熱い人でした。姿は高倉健さんみたいで、健さんと寅さんを足した感じです。困っている人がいて、家に連れてきたこともありました。 小泉:「男はつらいよ」にも酒場で飲んでいてお金がない人を助けたら、実はその人は日本画の大家だったという話が。 八代:父が連れてきたのはホームレスの人だった。父が家に連れてきて、母はお風呂を沸かしたり、食事を作ったりしていました。1カ月くらいいたかな。 小泉:1カ月も。それでどうしたんですか。 八代:ある日、プイといなくなったんです。父は「あの人、自分が住みやすいところに帰ったよ」って。 小泉:少女・八代亜紀にとって、その出来事はいい思い出として残っているんですね。寅さんが今の時代にいたらどうでしょうね。 八代:パワハラ、セクハラ、モラハラで訴えられるでしょうね。それで「時代はつらいよ」って嘆くかもしれません。でも、今の時代こそこういう人がいればいいなあと思います。 小泉:50年目の50作「お帰り 寅さん」はこんな時代が求めた作品かもしれないですね。 ※週刊朝日  2020年2月14日号
八代亜紀
週刊朝日 2024/01/09 18:53
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